⑮ N o .2 熊本支部報 平成 3 年 3 見 31 詰 多義行 日本 Ul 岳会熊本文芸ち 熊本市二本木 3 了日 3-8 (図上敏行・気付〉 編集 印刷 本田誠也・ JI! 端治文 印刷・上田 熊本市南熊本 5 丁閤 11-10 TEL096-324 … 1200 思輩出韓議熊本支部 呂次 になって ., ・私の海外経山メモ 1 2 …………………… …...・ H ・ H ・ H ・........ ・追 悼…...・ H ・-…………………… ・会務報告 .~· .....…… H ・ H ・--… H ・ H ・-- ・編集雑感 ...・ H ・--…………・・・…・ H ・ H ・-- 1 2 1 5 2 1 8 1 9 2 0 永年会員 iこなって 支部長翼妻子 1989 年の年次晩餐会に出席した時、その年 になられた望月逮3たきんから、 iE 亥 弘のレベルでは入会は重量しいと考えていた。 しかし耐糊さんが f高踏的なところはあるが、 の番ですね J と討われた。永年 真面目で熱心な人なら喜んで迎え入れてくれ に f もう 50年にもなるのか…… j と、入会当 手続きなど解らないまま、西縄さんに紹介司会 時のととを強く患い出したものであった。当 主主騒いする ζ となく護接、申込書を郵送して 崎、弘は朝鮮(現夜の韓盟〉にいて、金属出 しまった。そして 1940年 8 J1 の会報祭器主きに でレーンジャーをしていた。その数年前 im 新入会員として紹介された。 29才の符であっ る j と替われたので、入会を決意した。 、朝鮮山岳会に入会したが、良い先輩遠 fこ D の指導を受けて、それまでの我流の山登りに その後、 tj:1 S!l との戦争により 1943 年 7 月に しい鼠が吹きとまれた。私の後山への傾倒 応召、中悶名地を転々としたが、敗戦で 1946 は…懸強いものとなった。好 B 山道ぞの衛問一 年 1 月、下関港』ζ 復員した。暫くして熊本の さんと知り合ったのも、との墳であった。 し、以来20 数年閥九州 1939 年の冬には、 3 名のバ…ティにより ;:It 毅 燥をまわり歩くとことになった。お 鮮の責主暢遠山北尾根の初縦走 iζ成功した。 ζ の山々を訪れる ζ とが出来たのだが、 のとと与を混縄さんにお知らせしたととろ、ぜ 業務出張の片手間的なものが多かった。 ひ記録を公表するようにと、助設五きれた。そ 会との官僚は、戦中戦後の混乱で途絶え勝ち して日本山岳会 lζ 入会するようす L められた。 であった。下関 K 復員後、本部宛ハガキ 当時、日本山岳会は我が固では最大の組織で 函L たが、数年は空白の時期があったの思い おり、最高レベルの団体だと,怒っていたので 返すと戦後の主主 11J は、屋久島や大崩山、間関 しふる山という特徴ある山の名が古くから同 もひける ζ となどがあげられる。更にとの山 地 lζ 存在していたとと。(3)天孫降臨のあとに 地を日本人として初めて訪ねたのが、日本山 続く「此地は韓国に向ひ・・…j も地形的 iζ 一 岳会の先達、機有恒氏や三図書宗夫氏らであり、 致するとと。(4)降臨の地 f豊葦原の水(瑞) それに続いて我が熊本支部の創設者、北田正 穂の国……」は、そこが稲作地帯である乙と 三氏がある。元来、カナダの山は我々にとっ を示すが、高祖山周辺には、との神話が作ら て縁が漂いといえるのである。 れた当時の我国最大の水田遺跡(菜畑遺跡、 カナディアンロフキーとは、北米大陸の西 板付遺跡)が存在すること。以上がその理由 側に南北 4,500 回 K わたり速なる大ロッキ一 である。おそらく、 ζ の天孫降臨神話は、そ 山脈のうち.北健日度から 55 度位までの約 の当時(多分弥生中期)における筑紫の権力 1,600 回の区聞をいうのであるが、緯度の面 者が自己の支配を正当 イじするための物語であ からいえば千島列島からカムチャッカ半島の ろうと思われる。以前から不思議に思ってい ラインに当り.日本から見れば可店主り高健度 たととだが、古事記 (書紀にも〉の 中には、 にある。そのため 2.000 m足らずの山でも、 あの特徴ある日本の長高峰 、富士山について 氷河を持っているし' 3.側M>m にもなるとヒ の記述が見られない。そのととも古事記の原 マラヤの 5 、 6,000 ml置の景植を備えている。 型が弥生中期の筑紫で作られたととの証拠と 山の殆どが石灰岩質であるため、特有の切り なるのではあるまいか。 立っ た険しい岩峰が多い.海鍍 2.000 m 位ま . での植生は針葉樹で、そ乙は野生動物の天国 カナディアンロッキー でもある。 への誘い ク 7 、シカ、野生のヤギなどの大型獣から マーモット、シ 7 IJ ス u どの,j、きいものまで 工藤文昭 支部設立30 周年記念事業のーっとして、カ 人聞の怖しさを知らずに遊んでいる.乙んな ナディアンロッキーの山 K 登ろうという話が 動物達 lζ会えるのも、ロヲキーでの棄しみの あった。しかし諸般の事情か ら実現には到ら 一つである。私が ζ の砲を訪れたのは、 1979 なかった。と乙ろが今年の新年晩餐会の折に 年 7 月の穂り頃で、それから 3 週間程山に登 との話が再度 持 ち 上っ た。 35 周年の事業とし ったり、七色の神極的な永を這えた湖水めぐ てやろうというのである 。 まだ正式に支部で りをしたり、またレン夕方ーでカナダの大平 話し合われていないこの時 期 K 、私が ζ んな 原を疾駆したりして.自由な一入銀を詰喫し 誘いをするのは、些か軽卒のそしりを免かれ た。旅の主目的は登山であるが、カナデ 4 ア ないが、乙乙ではカナディアンロッキーの紹 ンマッターホルンの異名を色つ 7 ツシニボイ 介というととで、読んでいただきたい。かつ ンは、均整のとれた美しい山で、グレードは て私は、世界 6 大州の山や北極圏の山を訪ね 本家の ?' •:1 ターホルンより上錐である。 夫々の地の自然と人 lζ接してみて、もし支部 かの著名な英国の霊山家、ロングスタップ が海外登山をするなら、カナダの山乙そ最適 氏は、その登頂記IC f&のあらゆる精神力の であろうと推薦したのだった。その理由とし 蓄えを完全に使い果し、元通りに回復するの ては、果しなく広がる深い原始林、蒼い氷河 に 2 年の歳月を要したj と、書いている。 をまとった岩峰群、碧玉のような水を湛えた 私は、岩と氷がミヲタスした 1.200 mの墜 湖、百花線乱のアルパインメドウの美がある。 を 13 時間かけて登り、 7y'1' ナルピークに立 また、隊の構成 lζ 合せて、どのような Jレート つことができた。その後、小さなピークを 3 -4- l e の石鎚山などのまとまった山行以外は、殆ん 国的』ζ 分布しているとはいえ何となく新鮮さ ど日帰り程度のもので、長期休暇はおろか、 を感じる。月光坂の難所を登りながら周囲の たまの休日も休まず K よく働いた会社人間で 山々を見渡すと、あち乙ちにミズナラやブナ あった。今にして我ながら呆れるやら感心す 林の黄葉が視界に入ってくるが、霧のせいで るやらしているが、当時は殆んどの人が乙の ベールをかけたように霞んで見える。装束場 ように働いていたものである。だが、乙れで く施薬小屋〉について小休止すると、傍らの は山岳会員とは名ばかりで、 小さな池塘 iζ 枯れかかったミズ、バショウを見 「験尾 lζ付す」 という言葉通りではなし、かと、今頃になって つけた。しかし何ともみすぼらしくて、春先 自省している。永年会員となり、いただいた きに白い仏炎直に包まれた美しい花が咲くと 銀飾の会員章を老妻 lζ 見せると、 「もう 50 年 は思われない。霧の中、登山道に沿ってチシ ですか、我が家の歴史でもありますね」と言 マザサく根曲り竹〉が延々と続く。そのチシ ってくれた。私達は山岳会入会の翌年に結婚 マザサの中にダケカンパが点在して、東北の した。それからは、応召、転戦、復員、再出 山らしい雰囲気であるが、殆んどが落葉して 発と波乱の多い人生であった。戦争により歪 いる。徐々に天気が回復して来たが、風が強 められた我が家の半世紀は、このバッジの裏 く雲が低く垂れ込めて寒さも増して来た。道 面史とも言えるのではないか、と思うのであ ぞいにハクサンイチゲが季節外れの花を咲か る。 せている。通常は花期が 6 ~ 8 月なのに 10 月 会員随想 月山の博物ノート 、, に咲くとはどうしたものか、葉は霜のため黄 色く枯れているが、花はまだ白くあざやかであ る。じつは白く見える花弁のようなものはガク 片なので丈夫なのか、ともかく前々から見た いと思っていた花の一つであった。チシマザ 石井久夫 全国集会<90 ’蔵王の集い〉に参加したが、、 サの中 lζ 蓄がついたハクサンシャクナゲや、 赤い実を残したナナカマドがあり、その植生 終了後折角東北まで来たのだからと、本田さ 群が途切れると、ハイマツが出て来た。九州 んと一緒に月山に登ることにした。 10 月 14 日 では見られない自然であり、ナナカマドも丈 夕刻湯殿山参寵所に着いて一泊し、翌日日早 が低い。カジ小屋を過ぎて登りつめると、広 朝、湯殿山神社を経て月山に向った。 い山上台地の中に神仙池がぼんやりと浮んで 晩秋の紅葉をたっぷり楽しめるだろうと、 いる。 階段状の登路の脇 IC 期待を乙めて仙人沢を急ぐ。途中の湿地帯で r室の峰 いくつ崩れ 多くの水生植物を見かけたが、降霜のため既 て 月の山」と芭蕉の句碑があった。登り始 に枯れている。所々に青々とした草むらがあ めて約 3 時間で月山の頂上に着いたが、寒さ り、その中に黄色い花が咲いている。よく見 に震えながら休んでいると、烏の声が段々と るとエゾリュウキンカである。九州の山では 近づいて来た。振り返えると審の中にイワヒ 見られないキンポウゲ科の水辺植物で、九州 パリが15 、 6 羽位、群れて鋒草の実などを啄ば のリュウキンカより葉の鋸歯が鋭くて小さい。 んでいる。始めて実物とど対面で弘の鳥のリ 夏 lζ 黄色の花を咲かせると聞いたが、今の時 ストが一つ増えた。案内書によると月山の頂 期 lζ 花が残っているのは、やはり地球温暖化 上附近は、クロユリやヒナウスユキソウなど のせいか、考えさせられる状況であった。全 高山植物のお花畑があるとのとと、夏期の再 -2- i> して車工葉の出をあとにした。 うに思われるのである。 f 天から人カf下ったJ というのはフィクシ沼ンであるにしても、そ 率繰撃 ういう神話によって「自己の支配を正当化し た権力者がし、た J ととは燦史的事実であろう。 その意味では、 は史実の解明に大きな儲 伎をもっとともあるのではなかろうか。正予て 現在のとところ、クシフルタケを白鳥の喜子穣 天孫緯露の出 と解し、 B,flf ii第平穏{鴇箆ケ丘〉或い EB 上 高千穂〈高千穂;緯〉のいずれかであろう、と 我国の藤史のなかで最も古い出の 4ろは拘だ するのが有力のようである。 - ろうか、おそらくそれは神話に設場ずる f天 乙の考えは、紅戸後 Wl の国学者、本居宣長 孫降臨の山 J であろう。昨秋、佐賀県の天山 によって提示され、以後(特に明治以降〉国 へ主まった帰り、近くの吉野ケ卑遺跡札ムム祢っ 学が権威の座を得でより定説北してゆく。 た 6 掲 JL校の建物や物見橡が復元さ才いきな 宣長が、 がら古代遺跡公鼠といったと ζ ろで、多くの ノレタケ j を鏡、念、 古代交ブァンの見物客で綴っていた。 そを夜り上げて 高野ケ殿遺跡は弥生中、 f筑紫 j と最後の f クシフ r sr匂 j と f高子議j おお j という考えを 採ったのは、降臨したニニギノミコトの直系 模の際議集芸事と巨大な墳丘墓であり、その発 である神武夫畿の策滋発進伝説の残る「日向 箆は中関の史書 f貌志倭人伝j iζ記ちれた倭 閤」 iζ 合わせようとする、いわば彼の皇室中 人の役界、当時の「クニ J の様子を、 心主義的な考え方によるものであろう。 過して我々の闘の前に現してくれたといえる。 しかし室長以前には、むしろ原文通りに ,ととろで弥生時代から古墳時代へかけての 「筑紫 J すなわち福間燥のなかに求める説が る際のよりどとろとなる資料として 有力だったといわれている。と ζ ろで最近、 クシフルタケを字選鶴市の西南部にある高祖 LU . が©る。いうまでもなく 毛H6 討に比定する説がある。原田大六著 f実 重さの命 iとより、稗泊河卒しが議替した 悲した神話 j 、古初武彦事ま f絞まれた神話」 辞を太安万侶が撰録した説話 によれば、 (1 )原文に「筑紫 J 2とあるとと。 からなる。そのうち上巻が神代の物語、 (2 )高祖山近くに「日向 J の地 4ろがある ζ と。 を収めるが、そのなかの天孫降臨の頃に f竺 (3)慶長年間に書かれた泉削長政の霧状 K 、当 紫の臼向の高千穂の久土布流多気 iζ 天降り坐 時、高視山を地元では f くしふる山 j と呼ん しき j 、すなわち天照大神は、 大畠 3主ネ僚に でいた記述がある ζ と。以上の論証を挙げて roo ゆずり j を家諾させたあと、孫のニニギ 高組 tl.Jζ そ嬰題の f天孫嫁践の tl.JJ であると /ミコトを竺〈筑〉紫の Bl荷の高千穂のクシ いう結論に導いている。な :t:s r 高千穂 j は高 フ jレタ い山が速なった〈丁度、稲穂のように)さま らした、とある。 ど そ表す普通名詞であるとする。 15 事記につい とこの山のとことだろうか。神話 iζ登場する山そ て努かれた本は多いが、ぞれらそE 批判的に読 とのクシフルタケとは、いったし 捜すというと、おかしいと思われるかも知れ ないが、 史実か んだうえで、ことでは f d正問 IE しいと、私は考える。 には「その地域で実際に起った じた」という{間前もあるよ 3 ちもは)!京 峰登り 、フィナーレは氷雪の山、アサパスカ であった。との山は四方を氷河で護られてい 19 9 0 年夏の東北路 て、氷雪の壁告が山頂までっき上げている。 カナダでも代表的な美じい山である。私が 松本莞繭 パークワーデン(森林監視官〉に登山崩を出 遠く雪をかぶった山なみを望み、足元には して、単独でアタックするのだと 言 うと、ク 高山植物の花が咲き乱れ、何処からか濠みき レパスが多く危険なので、パートナーを探せ ったホルンの音が流れてくる。のどかな一人 と注意された。全く見ず知らずの者と組んで の山脈。時間の制約もなく、気の向くまま、 登るより、単独の万がむしろ安全だと注意を 足の向くまま、そんな山行きをして見たい。 無視して、夜半 2 崎 、北天 K輝く十字屋に見 本来、山登りとはとんな発想、から始まり、ロ 守られながら 1 人で出発した。しかし途中吹 マンを追いかけてゆくものと思 っていたが 、 雪かれて方位を見失うなど、苦斗の果てに頂 現実の私の登山人生は、人や行事や時聞に追 上に立った。その様子を下からピノキューラ われ、とてもロマンチックな環境とは程遠い ーで確認されていて、下山後叱責されたり 、 ものであった。年聞を通じて印 ~印日 は山 lζ 祝福も受けた日くっきの山であった。 入っているものの、 ‘ 今だかつて自由気ままな コースを選べば 、 快適な氷河の登高が楽し 一人旅は ない。いつも今年乙そはと思 うが実 める山であり、山頂から備隊する周辺の氷河 現できないでいた。そんな折チャンス到来、 ! 群は圧巻である。カナダの山を歩いて既に 10 一人旅とはいかないが、実年男 3 人で東北の 年を過ぎたのに、 f合も昨日のととのよう K印 山をゆっくり歩とう、というととになった。 象は鮮明である。短かい駆貯足のような山脈で メンバーは工藤(会員)、永田、それに私の あったが、カナダに行ってよかったとしみじ 3 人、いずれも高校の教師である。 年令も 40 み思う。純朴で温かい心を持つ人に接し、新 代後半、そろそろ無理がきかない コーナー に しい友をつくる ζ とができた喜びは大きい。 差しかかっている。そろっ て宮城県蔵王山地 それに観光地できえ、手っかずの自然の姿が でのインターハイに参加したが、その帰りに 残り、野生の動物たちも人聞を警戒する様子 ゆっくり 3 人旅を楽しもうという乙とにな っ もなく、すべて自然があるがままに存在して た。工藤先生のパジエロで俳聖 ・ 芭蕉「奥の いる。今で ζ そ世界各地の秘境を訪ねて、多 細道 J の東北路をなぞるととにした。先ず、 くの人達が出樹け るのだが、 当時日本の海外 「閑かさや岩にしみいる蝉の声J の山寺 、 「雲 登山はヒマラヤか欧州アルプス Iζ偏 っ ていた の峰いくつ崩れて月の山」の月山、最上川を ように思う e、 下り潤回から象潟 lと至り「南 lζ 鳥海、天をさ 私もヒマラヤやアルプスの後 iζ カナダを訪 さへ……J と記された鳥海山 lと登った。残雪 ねたのだが、アルプスの箱庭的な美しさに比 が意外に少ない斜面にチンクツレマ、クロユリ、 べ、カナダの山はスケールが大きく、原始の サクラ 草などを見て心が和む。旅程は 1 日 1 自然があり登山の感動も大きかった。機会を 山、毎日温泉泊りとしたが、さらに東北三 大 見つけてもう一度でかけたいと思う。 祭の見物を入れるととも忘れなかった。 7 月 29 日に熊本 を立ち、北睡道を北上して東北路 IC 入ったが、快晴の蔵王・熊野岳から 下って 山形の花笠おどり、秋田の竿灯、またソバの ルーツを採るため新潟県の十日町を訪ねるな -5- ど、ま乙とに多彩かつ悠々とした、実年男 3 そ うだ 」と、慣 れ ない英語とポーズで説明す 人旅であった。山に憧れ、自然 lζ親しみ、ロ るが、雪の体験と知識が少な い彼は「だい じ マンを追い求めて 25年が過ぎた 。若い 頃は岩 ようぷ、がまん、がまん」と繰り返すのみで 登りに情熱をかたむけ、冬山の厳しさに身を あった。多様に変化する自 然の 中で、安全性 投じ、がむしゃらに登り続けてきたが、いま の限界を越えているか否かを明確に認識する はそろそろ、それをまとめる年令になってき ととには個人差がある。それは各人が持って たように思う。原点にかえって、視野の広い いる勘というか、防衛本能というのか、その 山登りをしたいものである。 人の直感に頼る しかないのではないか。 「だ い じ ょうぶ、がまん、がまん」と言われて、 直感と実行動の狭間 私は何も言い返せなかった。 直感はあ く まで も直感であり、それを感じてい ない相手を説 今野善郎 得するのはむずかしい。 乙の直感から適切な状況判断へ、乙の判断 その 時、不吉な予 感が確かに忍にあった。 テントの外 に出て右足を持ち上げた瞬間、 「ズシン」という鈍く低い音とともに両足を / か ら 実行力へと移行させると乙ろ の力乙そ、 登山で最も大切なものなのではないかと思う。 す く われて前に倒れた。表層雪崩だ っ た。何 また、 ζ の力は経験から育つものであると を考える間もなく、ただ雪崩に押し流されて 思う。もし私 iζ 乙のカがあったなら、 例え 2 いた。その時、同僚のトムが残 っていたオレ 人の聞に認識の ずれがあったとしても 、 それ ンジ色のテントも、すぐ績を同じ早さで流さ を飛び越えて相手の首綬っとを押えてでも、 れているのが見えた。 19初年 9 月 21 日の朝 8 強引に安全地帯 lζ 逃げ ζ む乙とが出来たはず 崎、 日本山岳会学 生部インド ・プ リ グパント だ 。 しかし私の経験不足は、 峰( 6 , 7 7 7m )登山隊の、第 1 キャンプ う直感と、 (5 . 4 5 0m )の事故 であ っ た。乙 の時、 トー マス・ルゴー( 25 才)は、テントに入ったま 「危険だ j とい 「危険だからすぐ逃げる J という 実行動を起こさせる、心理契機との間隙を埋 める ζ とが出来なか っ た。 ま約 500 Ill墜落して死亡し、私は絶壁の端羽 河上洋子の近況報告 cmのと乙ろに引っ掛かり気を失って止ま っ て いた 。事故 の直接の原 因 は、一晩で lm以上 河上 という 豪雪 であ っ た。前日の夕刻にはシ ュ ー 洋子 ズで登 っ た C I なのに、目が覚めてみたら何 毎日毎日、ひたすら歩いております。地図 と胸まで埋まる程 で あった。自然の力に全く で探したお宅を一軒一軒、選挙で最も有効と ねじ伏せられた思いであった 。 し か し、乙の される「あいさ つ」活動 です。支持者カ ー ド 雪崩事故は私に適切な状況判断力と 実行力が を寄せて下さ っ ただけで、一面識もない方が あれば避け ら れた事故だ っ た 。なぜなら、早 大部分。ただ怠を支持して下さるというだ け 朝 5 時に起きてテントの外 1ζ 出た時、 「雪崩 のど縁です。相手の方にと っ ては、不意に時 が起きる」との 直感があっ た。だから事故発 聞かまわずの訪問者はど迷惑でしょ うが 、今 生 の 8 時までの 3 時間、安全 地帯nc 退避する はそんな 乙 と 言って おれない心情で、 す 。そ れ 乙とは十分に出来たのだっ た 。雪国の 山形に にしても 熊本の道路 、特 lζ生活道路の悪 さ 理 生まれ育ち 、日 本の多くの冬 山 を経験 してい 不尽さは、全 く想像以上です。 つ いお隣の家 る私は、ト ム に「アパラン シュ (雪崩)が出 なのに、そのお宅 の玄関に立つためには、 一 -6- . たん大通りに出て、人一人横 K なって通らね ばならない小径を、ぐるりと廻ったと ζ ろ、 初めての北アルプス など言うのはザラです。車で走れば不意に路 幅が半分になったり、行き止りの袋小路にな 贋永峻一 ったり、よくまあ皆さん、頭痛も起きず、迷 昭和34 年10 月、東京(奥多摩 )国体登山 iζ う乙ともなく住みつづけられると思います。 参加しての帰途、私にと っ て初めての北アル (私の所だって同じ事情ですが-…)それか プスへ足をのばした 。熊本 R cC の 中島さん らもう一つ。日本人の「住」感覚がかくも変 を リ ーダーに、 4 人のメンバーで新宿よ り夜 化したのか、と思うのも再々です 。 7 イタウ 行列車に乗る。 150% 近い乗車率で乗り込む ンとか、ニュータウンとか、とも角、山を削 のがやっと、総本 IL着くまで立ったままの状 りまたは広い畑の真ん中に、突如、北欧風の 態であった。早朝 6 時iζ 大町着、駅近く の 古 屋並みや、南仏の町を恩わせる白く明るい集 原和美氏(当時、大町保健所長)宅 iζ 荷を置 落が出現するのです。どとの家も門扉がぴっ き、食糧など若干の買物をする。クロヨンダ たりと閉ざされ、玄関ではインターホンをピン ム工事中 で、一般の車の乗 り入れ は出来な い ポンと押します。 「何方、何のど用 J ときび と の 乙とであったが、中島リーダー(九 電勤 しく誰何され、場句「うちは聞に合ってます」。 務)は東電事務所へ交渉に行き、扇沢まで歩 豪華な高層 7 ンションでは、暗号の様 IC 部屋 かず IC 入れるととになりひと先ず安心する。 番号を押さないと、ドアが聞きません。団地 小雨降る大町を後 lζ 扇沢へむかう。寵川沿い の家々の門には、申し合せたように「猛犬注 にさむざむとしたカラマツ林をいくつか過ぎ 意」 の貼り紙です。 防犯上は完備でしょうが て行くと、突然、山中 に 大集落が現われる。 何となく社会との接点をみんな断ち切って、 ダム建設作業員の宿舎群であった。全国から 家族だ けで向き 合っ ている織な、ある種 の寂 人が集まり厳冬期も 工事 が続 けられる の であ しさを感じます 。 昔のように、どともかしと ろう 。 も開けっ放し、行き来自由であ っ た町の暮し 扇 沢へ着いて 宿舎でお 茶をいただき、 古 原 を、ふとなつかしむのは老化現象なのでしょ のばあさま差入れのオニギ リ をほ おばる 。 そ うか。お昼は大方のお宅が留守です。ま乙と ぼ降る雨の中を 大沢 小屋へ 向け て出発。身の 白く明るくハイカラな「住宅J のために、皆 丈程もある大きなタイヤを つ けた 20 トン ダ ン さんいじらしくも働いているのだなあ、と、 プが地響きをたてて通る。間もなく右手に ト 我身に重 ねて思い ます。ほっとした時は 、も ンネ ル の入口が現われる。 工事の 喧騒 をあ と う老後、乙の素適な家の石段の昇降がシンド に、静ま り かえった 針ノ木谷に 入る 。時期外 クなりましょうね、と独り言。地方の身近な れのためか、他 Iζ 人影はない 。 主はいよいよ 政治に、乙んな実感がもっと生かされなけれ 低 く谷の林を濡らす。大沢小屋 Iζ 着くあた り ばと、真面自に思います。阿蘇の山なみ Iζ 雪 から深いガスの中を歩 く。キスリングザ ッ ク が光ります。山行も当 分あきらめ て いますが の荷 は 40kg近いが、 夢にまで見た北アルプス それだけに 一層 、山が 恋 しい日々。しかし、 に来て、荷は重いが気分は 壮快だ。小屋を過 山行のおかげでまだまだ足腰は達者ですから ぎて間もなく、 10 月中旬の 雪 (東大山岳部員 高層 7 ンションも平気です。 4 人が滝谷で凍死) が残 る 谷道 に入り、 ガ レ 場を登る乙と 1 時間では じめて雪渓を 見 る 。 広い雪渓 を注意しなが ら登 るが、 高度を増す -7- につれ傾斜も急になる。狭いゴルジュを過ぎ 1 ヶ月程して今度はスイスから絵ノ、 ガキが届 ると上部は大きく広がり、乙乙で一息入れる。 いた。その聞にスペインの山 10峰、スイスの また急に狭くなるあたりから谷は南へ向いて 山 4 鋒、計 14峰の登頂に成功されたとの報せ、 針ノ木峠も近い。そう思った崎、中島リーダ 喜寿をとえられた先生の壮挙には唯々驚嘆の ーから声がかかる、 「演永/歩き方がおかし 外はない。その先生から春の頃、 9 月の連休 い J 。峠まであと 300 皿、私 lζ 自覚症状はな 』ζ 由布院の別荘へお誘いを受けていた。由布 いのだが、荷を置くためピッケルで足場を掘 岳にー諸に登りましょう、という乙とだった ふと我にかえる。荷の が、その期待感 とともに果して僕達の足で先 半分を 3 人 iζ 分担してもらい、やっと腰を上 るが、掘れない、? 生のペース についてゆけるかな……との不安 げる。タ揚が落ちクラストした雪渓にアイゼ 感が交錯して、心の片璃を占 め続 けていた。 ンをきしませて最後の登り。 風が強く頬を打 待ちかねていたその日、ぜひ共同行したいと つ、吹きさらしのザラ場、峠 iζ 出たのだ。雲 いう友人の K 先生と早朝に出発 。水分峠で脇 海の彼方』ζ槍、穂高、裏銀座の山々などがず 坂先生と合流し、ど先導を受けて眼前に由布 らりと眼前に並ぶ。思わず快哉の声が出そう 岳の秀麗を 望む 、見晴らしのよい別荘の「想 になるが、私の荷まで加えて重荷に鴨ぐ先輩 山荘 J IC到着 b 暫く小雨のやむの を待って東 達iζ 申し訳がない、と声をのむ。峠の小屋に 登 山口か ら由布岳を目指し た 。先生 はに乙や 着 いてテント設営、夕食の準備にかかったが かに、 睡眠不足 のためテントの中に倒れ込むように しょう」と先頭に立たれた。 山麓は 一面に穏 して眼る。翌朝、拭ったような快晴/針ノ木 をのばしたススキの原、そ乙かし乙』ζ可憐な 「今日はゆっくり したペースで登りま 岳山頂の 2m もある大ケルンが印象的。まば ハギの花がほ 乙ろびはじめ、初秋の 薫り満ち ゆいばかりの新雪に北アルプス金山を見渡す 溢れる中を歩き出す。深い雑木林の中、ジグ 乙とができて、 苦 しくも楽しい山行であった。 ザク、、につけら れた山小径。合野越の 峠 tζ 出る 次に針ノ木谷を訪れたのは 3 年後の夏、白馬 と展望が開け、再びジグザグの登路を 1 時間 岳から縦走の折、針ノ木谷』ζ 下ってテントを 余、体中汗ばみ些か口渇を覚える頃にも、先 張った。その後は毎年 5 月 iζ扇沢から針ノ木 生は如何にも涼しげで黙々と登り続けてい ら 大雪渓に入り、スパリ岳、針ノ木岳と廻って れる 。 7 合目から傾斜も 増し、露岩の聞を縫 大沢小屋へ’下るコ ー スを歩いた 。長野県の任 うル ー ト に なっても、先生の歩調は変る乙と 地から熊本へ帰 ったいまは、なかなか行けな がない。私も家内も ついてゆくのが精一杯の い乙ともあり、なつかしくも楽しい思い出と 始末である。日頃スポーツできたえているは なった。 ずの K 先生も 遅れ気味となり、脇坂先生の体 力 iζ 感嘆する乙としきりであった。鞍部につ 脇坂順一先生との由布岳行 いて雨 κ見舞われ昼食となったが、先生はカ 神谷平吉 食事で、 2 度びっくりさせられた。支部では ロリーメイトとポカリスェットという簡単な 昨年の夏、スペインから一通の絵ハガ、 キが 先生と海外の山 K 同行された本固さんを始め 届いた。差出人は私が尊敬してやまない久留 お付合いのある方もおいでにな るけ れど、ほ 米の脇坂順一先生。スペインの山に挑むべく んのひとときの山行とはいえ、僕達にとって 同 国 を訪れ、 先ず テ ネリフェ 島 の テ ー デ ィ峰 はかけがえのない貴重 な 2 日 間であ った 。先 (3 . 7 1 8m) Iζ 無事登頂された由。それから 生の山に対するひたむきな情熱と、敢然たる -8- . 実行力、常に溌刺と希望溢れる 生 き方… … ま つ乙とが出 来 ました 。 さに先生にとって77才は末だ青春なのである 。 その昔、何だか赤茶けた山という印象だけ その夜、山荘では芳醇なドイツワインのグラ が残っ て い ましたが、いま山頂 から 馬の背や スを傾け、先生ど自慢 の スキヤキをいただき 鉄山 の方 を眺めながら、当 時のこ とをなつか ながら、ヨーデルやモーツアルトの甘美な調 し く 思い 起す ことができま し た 。帰路は 薬 師 ぺに酔い、 また海外の山行の お話 iζ 夜更ける 岳へ ま わり 、 ゴン ドラリ フト で奥岳温泉へ下 のを忘れた。今後は先生を目標に、その万分 り、岳温泉へ の 長い道のり を夕陽 を背 lζ 、満 のーでもと願う最近で あ る。 ち足 り た心で歩 き続けま し た 。 冬山に魅せられて 安達太良山再訪 神谷文子 加藤稜子 昨年夏、久しぶりに主人と 2 人で私の郷里 昨年の八 ヶ岳についで、今年も 冬の中央ア 福島県の白伺を訪れま し た。その機会に安達 ルプス の山 lζ 登ることができ た。メ ンバーは 太良 山 に主主ろうと思い 立 ちました 。 と申しま 6 名 、二度 目とあって少し は 余裕の あ る冬 山 すのも、乙 の山 に は 私 が 18才の頃 、 ナースと 行 で あった。千畳敷 カー ルの 登 り では 、 昨年 して東京大学へ勉強 K 行く時 、郷里の友人達 2 月の 雪崩事故の 乙とが頭をよぎり 、上方を と送別登山として登 っ たととがあり、是非も 時身見上げながら一歩一歩足 を進めた。 う一度とし、う気持があ っ たのです。東麓の岳 静隠な飽 く までも清らかな との 白銀の世界の 温泉も見違える 程立派になり、東京の奥座敷 ど乙にそんな恐ろしい乙とが起きるのかと、 とい っ た 感 じ で した 。 ここ か ら、さ ら に 奥岳 ビギ ナ ー の私には信じ られない気持だっ た。 温泉まで タクシ ーで行きましたが、乙 ζ も ま 木曽駒ヶ 岳 ( 2 , 9 5 6m ) 山頂 か らの 3 60 度 た様変りしていて、薬 師岳までひっきりな し の 展望は圧巻。 さすが中央ア ルプ スの盟主と にゴ ン ドラが上下して い ます。私達はと の ル 納得。 紺碧の空の彼方 lζ 白 銀の 峰 の 連なり 。 ートを敬遠して、幾分昔 ながらの静かな雰 囲 ど っ し り と 貫禄 のある御岳、 乗鞍 を始め遠 く 気を残す 、勢至平へ向かいました 。 山路 の傍 白山、 深 い刻み の ある 穂高速 峰 、 南アルプス ら に、紫 色のギボ ウ シ の花が咲 き 乱れ て 、思 連 山の 上に頭一つ高 い 富士山、 八ヶ岳からの わず心がは ずみます。深い雑木林 に は、 九州 それと は違 っ て 一寸異綴 な感じの 富士 である。 では数少ないカラマ ツ などが交じっていて、 乙のすば ら しい景観を、 ζ の 時聞に私たちは 2 , 9 3 1m ) 久 し振りで郷里の山を歩く 感慨があ り ま し た。 占有した のだ。 宝剣岳 ( 勢至平は、広 く聞 けた 草原 で、カ ラ マ ツ や ダ い 岩稜の山。夏道を避けて、 堅雪が つ ま った ケ カンパ の林 lζ 囲ま れ 、所々 に う っ すら と 赤 急峻 な 岩溝 を直登す る。 4 人でアンザ イ レン みを 帯びた ナ ナ カマ ドも 交 じり、何 より も 無 してアタッ ク する。 ピリ ッとし た 緊張感の な はきびし 数ともいえる赤トンボ が澄んだ青空 iζ 乱舞し かに広吉 リ ー ダ ーの大声 の 指示 が とぶ 。一歩 て、早や初秋の訪れを恩 わ せました。乙 の 草 一歩確実に足を確保/ 原を過ぎて 暫く 行くと 、次第に植生も少 な く 蹴 り 込む/ な り 、 やがて赤茶 け た山肌を あ ら わに します。 く な/ ザイルは飽 く までも補助 、 自分の 力で 蜂の 辻のピ ー クで一休み した後 、凡そ40年ぶ 登れ/ ピッ ケ ルをし っ か り打ち込め 、 尻を りで再 び安達太良 山( 1 , 699m ) の 山頂 iζ立 つ くな/ -9- アイゼ ンを しっか り 安全な所から 動け と い うまで動 ノ、 イ、 ハ イと返 事 は す る も のの と にかく必死である。下りはまた一段と緊張感 言 えな L 、。乙れからも、時間と体力 が許す限 が増す。後向きから前向きに足を踏みかえた り、登り続けたいと願っている 。 途端、左足が流れて民もちをつきツルリと滑 りそうになった時は、本当 lとヒヤッとした。 登山靴と焼酎 昨年についでの冬山もまた天候に恵まれ、あ 広吉 ち ζ ちの山での遭難の報せが信じられないほ 功 ど、美しく穏やかな山を満喫できた。今回も がむしゃらに馨った東京時代 K 別れを告げ、 お世話いただいたリーダーの広吉さんに心よ 未知の熊本市に移り住んだのが昭和 52年であ り謝意を表したい。 るから、早 く も 10 余年が過ぎようとしている。 あの頃は、排他性が強い熊本県人気質にあ 私の好きな山 っ て、小さな山の世界でも無視され、よ く陰 口を叩かれたものであった 。 そんな中で暇を 吉田恒子 見つけては阿蘇高岳の北面や根子岳の岩場に 美しい高山の花を見たいと、登ったのが 5 よく通ったものである。ミヤマキリシ 7 のピ 年前のこと。高山植物の宝庫といわれている ンクの花を眼下 lζ見て、鷲ケ蜂北壁勾坂ルー 白鳥岳は、期待 lζ 背かず色とりどりの花を咲 トの登筆、震氷 t乙薄化粧した綾子岳の岩稜を かせ、楽しませてくれた。また、 雪解けの傍 績に見て、アイゼンのツア・y ケを現ませた北 らに、可憐な新芽が顔を出し、生命力の逗し 稜ルート。そしてプライダルベールのように さを見るようで感激した。日本三大雪渓の一 輝ゃく氷 iに無心 K パイルを振った松ケ尾谷 つ、白馬大雪渓の登りでは、前日の台風の余 やツペツキ谷の登撃など、谷川岳や棒高の岩 波もあり悪戦苦斗であった。しかし一夜明け 場に比べるとスケールは小さいものの、生活 ると、 雲一つない 快晴。 どこまでも広い紺碧 の拠点を乙の地 K 置いた私 K とっては新たな の空の下、北アルプス 3,000 メートル級の山 感激との出合いであった。昭和 12年 11月 14 日、 々が打続く 360 度の大パノラマに、時の経つ 鷲ケ峰北壁に散った五高山岳部・勾坂正道氏 のも忘れ見とれてしまった。白馬岳山頂から の遭難の資料を紐解いてみると、 三国境を折返えし、杓子、白馬鑓と縦走した だ、日によって大きくも見えれば小さくも見 が、 ζ の稜線沿 い K 沢山の高 山植物があり、 え る。 一本のセクリタスに心 と 体を つなぎあ その都度、足を止めて覗き込み、また雷鳥 と った三部員、わけでも勾坂リーダーの目 K 、 の出会いもあり、大いに高山の自然を湛能す 乙の日の北壁がどう写った乙とか……〈中略 る。 3 日目の夜は、日本で最も高い所にある >……、垂直の散歩’は天候と、自分のコン 鑓温泉に泊り、星空を眺めての入浴。どれも ディ シ ョ ンが そろっただけでは 成り 立たない。 「山は奇妙 乙れも初体験。天候に恵まれた ζ とで感激を 舞台 への知識と慣れ が加わってはじめて‘散 倍加した。乙の時以来、あの楽しさが忘れら 歩’とな る 。 乙の時分の北壁はゲレンデでは れず、夏 tとなると日本アルプスへと足を運ん なかった。北壁の登肇そのものが誇らしげに でいる。ことには、九州の山とは違う高峻山 報告される開拓時代であった。開拓者に必要 岳の美しさがある。高山の花も豊富であるが なのは勇気であり、準備期闘であった。予定 残雪の白と、草木の緑とのコントラストが、 を突然変え た時は、とっさに‘準備’が入 り まぶしい程 K美 しぐ、自然の大きさに気持ま こむスキはない。悲劇が間 もなく生 れた 。午 でが広がるようであった。乙の 景観が何とも 後 O 時25分頃のことである。岩壁を 1 時間近 -10- . . く小刻みにはいまわったあと、下降がはじま 岩登りには必ず焼酎がお伴で、しかも徹夜で った。降りは登りよりもむずかしい。ホ ー ル 呑んで登肇に向かうととに意義を見出してい ドは文字どおり手さぐり、足さぐりだ。最初 た時代であった。山への心意気が具象化する に右足がスリップした。小さな滑落。つぎの とき、その心象風景は大崩連山の中に抱かれ、 瞬間左足のすぐ下にあ っ たハーケンがすっぽ 冬の北アルプスの山々は半生の糧となり、阿 り抜けた。登りにも降りにもテストした古い 蘇の鷲ケ峰は山と人生との接点であ っ た。私 ハーケンだ。今度は大きな滑落。しかしそれ が生涯の生活の場を九州の熊本に求めた時、 でもせいぜい数メートルですむはずだった。 そ乙に阿蘇の 山 々があり、その 山麓からの新 ザイルがピンと彊って、命を支えてくれるに たな出発は、ヨーロッパ量産高峰モンプラン 違いなかった。が現実はあまりにも大きく食 山頂からのスキー滑降、そしてオートルート い違い過ぎていた。 22才の若いリーダーは、 1801慣の走破で-あり、またカラヨルム のパシ 250m も下の谷間、赤ガレ本谷から東墜に向 ーラ蜂の試登と、ネパールヒマラヤ ・ ロプチ かう墜に吸われて消えていった」。 ェピーク の ラ イトエクスペディションであっ 折元秀穂著「阿蘇の岩場」より抜粋。北 た。山とともに歩む人生を決めた時、傍らに 稜ルートは、北壁のコンタクトラインを直登 は阿蘇・鷲ケ蜂があり、熊本の社会人山岳会 せず、東側にトラパースして短い垂直部分を の人々から「もぐり」と蔑視されながらも、 乗越して行〈。乙の窓から見る綾子岳の眺め 学生達と真撃に山と対座し、山靴に注いだ焼 が好きでよく通ったものである。推察の域を 酎を酌み交わしている 、 忘れ得ぬ風景があっ 脱せぬ乙とだが、 ζ のコンタクトラインから た。熊本の山を語る時、阿蘇高岳北面の岩場 直登し更に北援側へ出て行乙うとして勾坂氏 を避けるととが出 来ないように、私の人生と は非業の墜死を遂げたのであろう。時 は流 れ 山との接点 として、 鷲ケ峰の岩場を、根子岳 て五高から熊大となり 、 山岳部も現代 iζ伝統 の岩稜を避けて語ることは出来ない。蔑視が を繋 いで行くが、伝統 iζ育まれた血気盛んな 畏敬』ζ塗 り か えら れた時、 思いいずる乙とは 乙の山岳部員と 、共に登拳した阿蘇の岩場は 湿った皮靴 と汗と足の香 りの漂う焼酎の味で 数々の思い出を残してくれた。幾多 の登懇の あ り、 ナイ フ リッジを走りまわったととであ 歴史を見守り、或いは 若 い命を呑み込んでき り 、ま た賢官ケ峰北墜に絡まる哀史 lζ縁どられ た北畿の下で、現役の彼等と焼酎を酌み交わ 輝やかしい登肇史を綴ってきた熊大山岳部員 し、夜が明けるまで騒いだりした。わけても との出会 いであった。 10 余年の熊本での歳月 コップが無いからと、登山靴 lζ ー升瓶の焼酎 の涜れは、山を私の人生の中枢に鋸えたが、 をついでまわし飲みした乙となどは忘れ難い その原点は「登山靴と焼酎」であったと 言 っ 思い出である。これは根子岳東麓の鍋ノ平で ても、決して過言ではないだろう。 のことであ り 、ほとんど一睡もしないまま、 朝がくれば転げ回りなが ら焼酎で濡 れた靴を 履いて山口谷に入り、犬返滝でトッペをまき 散らして D ガリーから 4 峰に上がった。ロ ー ソク岩は流石に巻いたが、両側がすっぽりと 切れ落ちた通称ノ、ーモニカと呼ばれるナイ フ リ ッ ジは、奇声をあげながら走り渡 っ た 。天 狗の大下りをコe ジゴジ登って天狗岩の直上へ。 -1 1- 荒尾岳| 天草の遠見山〈岳〉考 天草下島の牛深市にある遠見山と遠見岳に 富岡 通詞島| ついて、その名称由来を調べて見ました。 (コンサイス日本山名辞典)には、遠見に関 高浜 袋| 苓北町 フじ 長田光義 天草町 五和町 一江 I 342 I " 3 50 I- I II 5 4 5 . 1 1 - I II 6 長崎県 して「遠見岳、遠見山など、九州とその近く の島々の海岸部にある見晴しのよい山に多い 蜂火山| 口之津町 7 |大矢野町 8 湯 名。江戸時代 lζ 、渡来する外国船を見張るた 島 湯島 長崎県 I めの遠見番所が置かれたのに由来する…… J と解説しています。乙れには遠見に関連する 1 1 ’ 9 16 山が集録してあり、いずれも九州南西部と |. 東部の海岸或いは島にあります。乙の内 2 山 が天草のものです。天草における乙の名称の お乙りは、天草・島原の乱後 lと徳川幕府の命 私の海外登山メモ lとより代官として着任した鈴木重成が、寛永 熊本支部設立以来誕年目を迎えるが、まだ 18年 (1641) に、遠見番所を富岡、大江崎、 支部として海外に登山隊を送った ζ とはない。 魚貫崎の 3 ケ所に設置して、密貿易、外国船 支部会員としては、 1鎖聾年チョモランマ/ の取締り、難破船の救助に当らせました。 享保 2 年 (1717 )には、銀杏山と荒尾岳 lと サカツレマタ三国友好登山lil 区、馬場博行氏が も遠見番所が置かれ、外国船の出没がはげし 北側隊員として参加した. ζ れは西沢前支部 くなった享保 2 年 (1717 )には、燥火場が各 長の尽力に負うと ζ ろが大きい。 ζ の外 1980 所に設けられ、長崎奉行所まで連絡するとい 年には今野善郎氏が、日本山岳会学生部のメ う仕組みになっていました。乙の内の銀杏山 ンバーとして、インド・プリグパント登山隊 と出崎山が、後 iと遠見山と遠見岳と呼ばれる に参加している.また個人的には、多くの人 ようになり、燥火場も保存されています。 達が海外登山の笹噴を有している。 乙れら個人の体暑を共有する ζ とはできな いが、支部を構成するメンバーの、登山行為 遠見燥火場一覧表 名称 | 所在地 君津引す 1:: 古城山|苓北町 (白岩崎)| 西平山天草町 I2 8 6 .2 1 出崎山牛深市 223目7 (遠見岳) 魚貫崎 銀杏山牛深市 (遠見山) 一部とする ζ とを主主審し画いたい。今回でそ のすべてを恒星する ζ とはできないが、遂次 だしていただく ζ と K したい。 富岡 大江崎 の一つの側面として、支吉区のライプラリーの /I 本図 I / ' : , . 1 9 8 7 1 ,,1,,12 享保 2 1 7 . 2 2年 I 牛深町 ( 1 7 1 7 ) 書量也 ケニア【東ア 7 I} カ} ケニア山{ポイントレナナ} 4鵠5m L 桑原信夫、.坂順一、外13名。 " I1 -12- マツキンダーズキ+ンプより全員登頂。 . 1 9 8 7 . 8 パプアニューギニア ム 花嗣岩盤の台地 で、たい へん 展望がよい。 高 4.509m ウィルヘルム山 L 桑原信夫.原田俊行.外 4 名。 度の影響 も あ り 、 ゆっ く り登ったが 、来てよ ケクeル かったと満足 した。 タグル、ピワンディ湖より全員登頂。 」 : : . i . 1鋭B-1 工藤文昭 メキシヨ ポポカテペルト山 5 , 4 5 2m ム し桑原信夫、浅野清彦、内田嘉弘、外 7 名 。 トラ 7 倉ス小屋より 4 名が登頂 。 本 田ほ か 6 名給不調のため到達 5,000m で引返す。 . 」 : . i . l!随時 5 . 165m 4 , 807m マ ッタ ーホ ル ン 4 , 4 7 7m メンヒ 4 , 099m 共に 登頂、 ほ かに ベル ニナ山群 の 山 3 座に ドワパヤジヲド、エリ村 B C より本因ほか 8 名が壷頂。 も登る 。 6 1972-12~ 1973 . 1 才、パ ール コe ー キ ョ ーカ ン 5 ,483m 台湾 玉山主伺7 皿 L本国益也、池崎浩一 、 藤本 多加志、 卜レ ッ キ ング解禁後最初の隊 。 L芳 野満彦 外 3 名.西尾根経由排雲山荘 よ り登頂 。 ターン プヒ 7 ール、 ゴジュンパ氷河探査 と 南健医も登る。 ゴーキヨ・ ピ ーク の 登頂 。 」 : : . i . 19田8 大鎗鰻山 . モンー プ ラン 隊 に 同行 し、現地では単 独行動。ガイド と L桑原信夫、浅野清彦、原因 俊行、外 11 名。 」 : : . i . E鏑B.ll ヨー ロ ッパアル プス 全 国 高体連登山 部ヨ ーロ ッ パアル プス 遠征 トルコ 7 ララヲト山 1 97 1 -7 ~ 8 中国・四川省 ム 5 . 025m 1973.12 ~ 1974-1 ネ パー ル 5 , 845m チ ュ ク ンーリ L 轟轟修、本四誠也 、 原因 俊行 、 外10名。 妻、 典子 と 2 人 、 シェルパ、ポ ー タ ー 4 人 成事、臥老、白峰、老牛園子 ( BC )よ り を同行し てイム ジ ャコーラ IC 入 る 。 幻 の湖 全員霊頂。 を 探査、 チュク ン に登頂 する。 ム 」 : . i . 1 9 0 0 . 4 キナパル 1975-12 ~ 1976-1 東アフリカ ケニ ア山 5 , 1 9 9m 7 レーシア ( ボ ルネオ) キ リマンジャロ 5 . 895m 4 . 1 0 1m 東アフリ カ登 頂隊、 L. 芳野満彦、 ケニ ア 山 和仁古昇 初めて見るボルネオ(マレーシアーサパ州) はマ ッ キ ンダ ー ズ キ ャンプ よ り 5, 000 m 地 は、平野留からキナパル 山麓の 標高 1 ,000 点で吹雪 の た め退却 。 キ リ 7 ンジ ャロは高 mバークヘヲドク ォ ー タ ま での 問、 ジャン 度順化 よ くキボ峰に登頂 。 グルが切り聞かれ て荒涼と した感じであっ 6 1 97 7 . 7~8 ]A C 東京 を主体としたグリ ー ンランド遠 た.バータヘッド クォ ータ( 国立公園管理 事事所〉の周辺は、環境がよ く整備 されて 征隊 K 参加 、 東海岸の 町ア ン マ サ リ ッ ク を キスゲ江どの花が咲き乱れ、美しい 眺めで あった.ジ+ングルの中を登 る 道も 、よ く グリーンランド ベ ー ス 10.k 海を北上し、 無名峰 5 座 lζ 登る。 ム 1978-12 ~ 1979-1 オ セ ア ニア 手入れされていて歩き 易 L 'o 道の辺 に ウツ クック 山 (ニュージーランド) 3 . 7 6 4m ボカズラや、キナパルザルサムな どの珍花 コ シウス コ山(オ ース 卜 ラリ ア) 223 0m を多〈見るととができた。山頂部 は広大な ニュー ジ ー ラン ド人のパ ー卜 ナ ー と 2 人 、 -1 3- プラトー小屋からりンダ氷河を経て登頂。 東海山岳会ヨーロッパアルプス登山隊 往復に 26 時聞を要した。コシュウスコ山は し伊藤正俊、他 7 名 オーストラリヤの最高峰だが、観光地化し ていて頂上直下まで車で行ける。 1 9 7 9 -7 ~ 8 ム 阿南議志 カナディアンロッキー ア γ シニボイン山 3 . 618m アサパスカ山 3 . 4 9 1m カスケード山 2 . 9 9 8m 1 9 8 6 . 5 ム 6 1 9 8 7 1 1 ネパールヒ 7 ラヤ 5 , 6 3 8m ナンガ ゾン ・ピーク ム ターホルンと呼ばれる山だが、ス イ ス の 本 家より技術的には困難な山 。 1 70 番 目のサ 19朗 . 4 玉山 ム 台湾 3. 997 m 1 9 8 81 1 韓国 ・忠清南道 ケリヨングサン(渓諸山) ミッターとなる。 南米・アルゼンチ ン 雪山 アコンカグア学術登山隊(し原 真 ) Iζ 参 ム 加、 B C から フリーで単独登 山 を許さ れ、 入山後 8 日 自に北壁か ら登頂 lζ 成功 。 3,884 m 1989-10 、 韓国・江原道 今野善郎 ム 1978冬北極点 日本 大学北極点遠征隊 L . 塚原道夫 日 本人初到 達で あるが、 私は極点を 踏んで 1 9 8 91 1 韓国・済州 島 1 . 9 5 0m ム 6 , 7 7 7ID ム 1IC. て雪崩事 故 のため敗退する。 ヒマール・チュリ 7 , 893ID 日 本大学ヒマールー チ ュリ登山隊 L - 橋本健、天候不良のため期限切れ 、到 達 7,600 ID で敗退す る 。 長田光義 19郎 7 ~ 8 5 . 680m 3.997 1 9 9 09 ヨーロッパアルプ ス 4 , 8 0 7ID 7 ッターホ ル ン (へルンリ 稜) 4 , 4 7 7m エギーユ・ド・ラ ンデッ クス南東陵 2 ,595ID 1 9 9 0 -1 0 m ヨーロッパアル プ ス(フラン ス ) 4 , 8 0 7m 韓国・小白山脈 チ リサ ン (智異 山) 」 : : : , 1981 秋ネノ f ールヒマラヤ モ ン プラン 4 , 9 8 5m キりマ ン ジャロ モン プ ラ ン 日本山岳会学生部 ブ リグバン ト登山隊 L -塚原道夫西稜ル ー ト C ケニア、タンザニア、 ケニア(ポイントレナナ) 玉山 ブ リグノ f ント ム 19 叩.2 ! : : . 1 9 9 0. 5 台湾 し、 Tよし、。 」 : : : , 1 9 8 0 -9 インド・ ガ ロゴドリ 1 , 7 0 8m ソルアク サン(雪岳山〉 6 ハンラサ ン (漢山) ム 828m 1 9 8 9 4 台湾 ム 6 , 9 5 9m アコンカグア 1 , 9 5 0m ハンラサン(漢山) 単独、アッシニポインはカナディア ン マッ 」 : : : , 1980-12 ~ 1981-1 事奪回・済州島 -14- 1 , 915m I t 支部役員 ・ 支 部長 奥野正亥 ・副支部長 本田誠也 .常務 委員 回上敏行 ・委員 松本莞爾菊池更生 川端浩文 和仁古昇 ・監 事 馬場猛 ・顧問 西沢健 一 -16- 聞きした。ながいお付合いだった私にとって 追 玉名さんについて書きたい ζ とはそれ ζ そ山 悼 ほどもある 。今更ながら惜別 の情を禁じ得な 玉名金助氏 0899-19叩} いが、謹んでど冥福をお祈 り申し 上げたい。 宮崎豊喜 内田英夫氏 (1913-1990) 予て熊本厚生病院で療養中だった玉名さん 西沢健一 が亡くなられた。昨年 11 月 6 日の ζ とである。 享年92才という高齢であったが、 12年ものな 日本山岳会には昭和 53年 5 月 lζ 入会された がい斗病生活を通じて、最後まで意識は明噺 が、支部行事への参加は、病気で倒れられる で、再起への気迫を持ち続けられた。その ζ 昭和54 年 6 月までの 1 年余であり、乙の年の とは、昨年正月にいただいた賀状に「9'l才で 6 月 14 日、脳内出血により熊本厚生病院に入 新春を迎えました。車椅子にたよっておりま 院され、 以来11 年に及ぶ斗病生活が始った。 すが、もう一度自力で歩けるようになりたい 不自由な体 iζ鞭打ってリハビリに励み、一 ので、リハビリ体操の訓練にはげんでおりま 時は車精子で屋外へ散歩ができるまで快 方に すJ と、あ っ たことでも解る。 向われたが、 精神カの強さだけでは病魔に勝 玉名さんは、昭和31 年支部設立時からの会 てず、日夜寝食を忘れ看病に専念 されていた 員であったが、当然の ζ とながら登山との出 晴子夫人の努カも空しく、遂 iζ 昨年 10月 7 日 会いは遥かに古い。昭和 8 年、飯星良弼先生 静かに往生を遂 げられた。享年 78 才であった。 により創立された熊本アルコウ会に、翌 9 年 心からど冥 福をお祈り申し上 げる。か ように 6 月に入会、会員番号78番は最古参会員の一 ながい聞の病院生活で 、支部の皆 さん の中に 人であった。私もその後に入会したが、当時 は内田さんをど存じない方も あると思 うので 玉名さんは熊本市の長崎次郎書店運動具部に 弘の知る範囲でプロフィルの一端をど紹介し おられたので、アルコウ会の連絡事務所でも たい。若い頃の内田さんは溌刺としたスポー あり、飯星先生の文字通り手足となって会員 ツ 7 ンであられた。昭和 11 年東北地方冷害の の連絡や勧誘に奔走されていた。仕事柄、他 際、請われて青森県庁の栄養担当として赴任 のスポーツ団体との接触も多く、体協設立に された。その時代 iζ八甲田山など東北の山を も参画し、後には評議員もされている。戦後 歩き、或いはスキーに興じ青春を謡歌された 暫 くし て独立し、タナマ運動用品店を経営さ という。その後、昭和 14年 に熊本県庁に移ら れたが、持前の閤達さで飾り気のない人柄を れて、戦後の乙とになるが、私は熊本県庁山 馨って、人の出入りが多かった。アルコウ会 岳会の例会で何度か山にどー諸 するようにな から県岳連理事となり、暫くは岳連事務所も っ た。昭和39年頃から 46 、 47年 頃に かけて の ζζ に置かれた。い ま還暦前後の中 高年にな ととである。阿蘇 、九重方面 が多く、特に印 った、当時の県内の山岳会員達は、玉名さん 象に残っているのは昭和40年の正月、久住山 の名前をもじって「タマキンさん」の愛称で lζ登った時 のと と、 12名の一行の中 iと交じ り 呼んで集まっていたも の である 。 仕事の 合い 内田さんは元気に、筋湯から山頂を越えて赤 聞をみて、九州の山だけで iはく、北アルプス 川谷へ 雪の 中を歩かれた。内田さんにもう 一 や尾顧K も足をのばされているが、晩年スイ つ健康につながる側面がある。戦後の食糧難 ス iζ遊び、アルプスを眺めて感激した話もお 時代 K 、県民の体位向上を目指して県衛生部 -17- は、栄養を柱とした諸政策を押しすすめた。 費年額 2,000 円) 栄養担当の内田さんは 、 その陣頭 iζ 立 っ て県 出席者奥野、本田、田上、川 端 春季例会計画。 (4 名 ) 内 を 隈なく廻り、指導啓蒙に奔走された 。 そ の功績は挙げるに畷がない。葬儀の際、斯界 。 の代表の方々がかわるがわる功績を讃える弔 日時 詞を述べられたことが物語っ ている。自然を 場 所熊本市内坪井ホルン山小屋 愛し健康に留意されていた内田さんが、乙ん 内 容 夏季例会〈山の映画とビールの夕べ〉 なに早く逝かれたこと が残念でならない 。 8 月 25 日午後 6 時45分 神谷会員のビデオ作品「秋の白髪岳、 早春の仰烏帽子山、夏山涼域J を上 映 、広永会員の パネ ル写真「山の花 j ..0恥 2コE 。 務 報 展示、新入会員紹介(深堀弘泰氏) aュ Eヨ ゲ ス ト Iζ 古原和 美氏(長野県在住の 会員、元熊本岳連理事長)を迎えて 支部委員会 日時 4 月 14 日午後 7 時 歓談した。 出席者奥野、西沢、宮崎(豊)、石井、本問、 場所熊本市内坪井ホルン山小屋 議 題 出席者 支部総会の議案検討 田上、大木野夫妻、 門脇 、中村(恵 〉 奥野、本田、田 上 、 Jll 端、馬場(猛 〉 樋口 、広永、神谷夫妻、加藤、 吉 田 西沢 藤本 、池崎、 宮崎 (守 )、 出来回 、 深 (6 名) 堀 、古原 。 平成 2 年度支部通常総会 日時 5 月 13 日午前 11 時 場 所 熊本市大江町 。 N TT 熊本会館 9 月 15 目、 16 日 場所静岡県三島市 議題 役員改選(奥野支部長、本田副支部 長再選) 自然保霞全国集会〈静岡〉 日時 議題事業計画、予算 、 支部規約一部 改正。 (22名) 「箱根の里 J 分科会による討議及び各支部(地域) の自 然保護情報交換 。 支部報 2 号の発行と予算 出 席者 措置(支部費 の徴 収) 田上常務委員 (75 名) 出席者奥野 、西 沢、宮崎(豊)、 馬場 (猛〉 、 石井 、 本田、 田上、 和仁古 、 大木 野 。 夫妻 、菊池、 中 村(恵)、河上、樋口 全国支蔀懇議会〈銅’麓王の集L 、〉 日時 IO月 13 目、 14 日 場所山形市蔵王温泉蔵王アストリア・ (14 名) ホテル 内容全国支部事務担当 者 会議 、山 形支部 。 平成 2 年度日本山岳会通常総会 日時 5 月 16 日午後 4 時30 分 場所東京都千代田 区平河町 出席者奥野、本国 40周年記念祝宴及び懇談会。 全共連ピル 14 目 、蔵王最高峰の熊野岳 (1,841 m) (213 名) 登山。 出席者石井、本田 。 (170 名) 支都委員会 日時 6 月 12 日午後 7 時 場所熊本市 内坪井ホ ルン 山 小屋 。 秋季例会〈石堂山〉 臼時 IO月 27 日 、 28 日 議題 場所宮崎県西米良 村村所 総会付託事項、 支部規約改正(支部 「富士屋 j . n6 内 容 27 日午後 6 時富士屋集合、懇親会。 (7 松本、西沢 名) 28 日午前 8 時出発.石堂山 (1,547m) に登る。な主主奥野支部長ほか 3 名は 。 天包山( l.189 皿〉に登った。 日時 参加者奥野、西沢、石井、本田、国土、 1 月 12 日午後 6 時30分 場所熊本市内坪井ホルン山小屋 和仁古、大木野夫妻、川端、河上 神谷夫妻、藤本、池崎 新年晩餐会 内 容永年会員に なられた奥野支部長の 祝 (14 名) 賀も兼ねて盛大に開催された。 出席者奥野、西沢、馬場夫妻、宮崎(豊)、 。 石井、本田、田上、工藤、松本、 第 6 回宮崎ウエストン祭〈三秀台〉 日時 11 月 3 日午前 9 時 大木野夫妻、門脇、川端、河上、 場所宮崎県高千穂町五ケ所高原三秀台 樋口夫妻、馬場(博)、広永、矢毛石、 内 藤本、池崎、出来回 容 ウエストン師の祖母登山 100 周年 lζ (25 名 ) あたり、宮崎支部と高千穂町共催に より盛大 IC 実施された。本部及び九 £』 Z実 州各支部からも多数参加あり。 出席者奥野、本田 。 員 j自 息 平成 2 年秋、支部は相次いで 2 人の会員 を失った。内田英夫さん( 8412 )と、玉名 。 金助さん(4425 )である。 玉名 さんは支部 東九州支部 30 周年記念 90 ・由布岳の集い 日時 11 月 3 目、 4 日 設立時からの会員であり、また熊本アルコ 場所大分県湯布院町湯布院ハイツ ウ会の 長老で、 県岳連理事、 県体協評議員 内 11 月 3 目、山田 会長の記念講演及び も され た ζ とがあり、 県内 スポーツ界で顔 懇親会。 11 月 4 日、東登山口より由 が広かった。内田さんは栄養部門の専門家 容 布岳( 1 , 584m) IC 登山する 。 として 、 乙ち らも普 く県内 iζ 足跡を残さ れ 出席者奥野、馬場夫妻、本田、田上 ている。 玉名 さん 92才、内田さん 77 才とど 高齢ではあったが、夫々の貴重な経験 IC 基 。 づくど助言を期待していたのに残念な乙と 日本山岳会平成 2 年度晩餐会 日時 12 月 1 日 である。謹んでお二人のど冥福をお祈り申 場所東京都品川新高輪プリンスホテル し 上げる。 内容皇太子殿下をお 迎えして盛大 lζ開催。 なお、新永年会員として奥野支部長 。 はじ め 6 名が紹介された 。 出席者奥野、西沢、川端 昨年夏 、松本莞爾さんから の便り 、 夏は ま た山ばかりで、 (622 名) 7 月 29 日から 宮城県 のインターハイで蔵王に出掛け、そのあと 鳥海山、月山を登 っ て来 ま した 。 。 生と 同行です) 支包委員会 日時 場 12 月 9 日午後 5 時 所熊本市内坪井 「今 (工藤先 8 月 11 日 lζ 帰熊 し、 13 日か ら高校の 屋久島合宿、 18 日 lζ 帰って国体九 ホル ン山小屋 州 ブロック出席の ため宮崎 へ…… J とあ る。 議題支部報第 2 号の編集、平成 3 年度事 松本さんは東海大第 2 高校の先生、県岳連 の事務局長でもあり 、岳務? 多忙である。 業計画、役員改選 など 。 出席者奥野、本問、国土、和仁古、 Jil端、 文中にあった工藤文昭さんからも同様な便 -1 9- りが寄せられたが、支部には乙のお二人の いつも千代子夫人とー諸に参加される。そ ほかにも高校の先生が多い。石井久夫さん、 の感化をうけてか、その後ど夫妻での参加 川端浩文さん、贋永峻ーさんである。みな が増えた 。即 ち、樋口格・洋子夫妻、大木 夫々に専門の分野を持ち、支部の運営に寄 野徳敏・マツ子夫妻、神 谷平吉 ・文子夫妻 与していただいている。 などであるが、小所帯の支部にと って は有 難い傾 向である。その功労者、馬場夫妻の 。 和仁古昇さんからの今年の賀状 K 、 f昨 昨年の軌跡は、 3 月北海道佐幌スキ一、 7 年は69 回、山に登りました。一番大きな山 月八ヶ岳南部、それに 9 月と 12月に 2 回続 行は東南アジアの長高峰キナパル山で-した。 けてトルコのツアー。湾岸情勢緊迫の煽り また、新しく登った山は 21 山でした……」 をうけて東部には行けず、西海岸を廻った とあ った 。 前年よ りやや少いが、昨年後半 が、それでもカイセリでエルジェス( 3 . 9 1 6 には体調を崩された乙ともあり、また長年 m )やハ ツサ ン( 3 , 2 6 8m)を 鮮明 に眺め にわたる奥さんの看病の合い聞を縫っての る乙とができたと、喜んで いた。 年明けて 2 月には八方尾根スキー行、ゆっくり楽し 山行であり、敬服の外はない。 んできたとのこと。 。 (本田記) 河上洋子さんは熊本市議会議員。今年は 2 期自になるた め、 4 月の改選期を控えて 編集雑感 運動最繁期。それでも秋季例会の石堂山や 新年晩餐会には、何をおいても参加された。 会えば、 「山』ζ行きたい……」と乙ぼすこ としきり。 支部績をつくるのが、これ程たいへんなこ とであるとは知らなか っ た。当然、私の非才 によるものではあるが、第 1 号で懲りずに第 。 馬場博行さんは、昨年 5 月に自転車で、 2 号も引受付てしまった。支部総会で支部報 四国一周 6501佃を走破したが、今冬はさら 継続が承認され、その予算措置として支部規 に「韓国縦断往復 1,150 M 自転車冒険旅行 約を一部改正して、支部費をい ただく ことに と 雪岳 山登山」と銘打って、 12 月 下旬に熊 なった。還元金だけでは鮪いきれなし、からで 本を出発、寒風吹荒ぶ緯国東海岸の道を走 あるが、 それにしても交流の核にしようとの、 り風雪の雪岳 山 iζ登頂 し 、 半月の予定を数 会員の皆さんの熱意がなければできない乙と 日早めて帰ってきた 。 既 l乙不惑を越えたと である。編集方針にはっきりしたものがなく はいえ、より大きな目標へ向けて不断のト 今回も総花的に原稿を集めたため 「文集 」の レーニング。タクラマカン砂漠横断とムズ ようなものになってしまった 。しか し、支忽 ターグ峰登頂、チベッ ト縦断自転車旅行 、 会員のあり の ままの現在がでている こ と で、 アンナプルナ 4 蜂とヒムルンヒマールの単 よしとするか。次回からは記録K 重点を置き 独リターンマッチと計画のストックは多い 九州の山の紹介、熊本の登山史メモなども収 が、夢の実現 lζ 向けてがんばってほしい。 録したいと考えている。 (本田記) 。 大牟田市在住の馬場猛さんは、昭和34 年入会の古い会員 。当時は福岡に支部がな かったので熊本支部に入ったが、例会には -20- .
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