abstracts (Japanese)

Asian Buddhism Kyoto 日本語要旨
2014 年 12 月 12~14 日(京大人文研、龍大大宮学舎)
A-1 アリシア・ターナー「植民地間の連携と協力:東南アジアにおける仏教改革の流れを推し
進めたローカルなネットワーク」
いろいろな「近代仏教」が、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけての数十年間、アジアを縦横に
結んだ思想家、旅行者、改革者、組織者のネットワークの中で発展してきた。そうしたネットワ
ークの中には、明瞭に見えるレベルのものもある。たとえば、仏教雑誌のページに残された、編
集者への手紙、ウ・ダンマローカやダルマパーラなどの旅行記録がそうである。しかし、このよ
うなネットワークは、同様に影響力を持ちながらも、あまりはっきりと記録されていないネット
ワークに下支えされていた。アジア各地を移動する仏教者と思想が、訪問する町ごとに宿泊所を
提供され、議論する機会を与えられたのは、寄進者や団体など、そうしたものを歓迎する人々の
ネットワークがあったからである。それらのネットワークは、宝石、すず、アヘンなどの貿易商
たち、離散した民族、異民族間の婚姻、港町ごとの船乗りたちなどから成る。本発表では、1890
年から 1920 年の東南アジアにおける、さまざまな近代仏教のリーダー達と、彼らの旅行と思想
の受容を可能にした既存の人脈の二つのネットワークを探求する。特に、ペナン、ラングーン、
アキャブ(シットウェ)
、シンガポールといった港町における、タボイ、中国、ビルマの民族的、
貿易上のネットワークに焦点をあてる。
A-2 ナイル・グリーン「1890 年から 1940 年にかけての日本におけるイスラム教ネットワーク
の生成」
1890 年頃から 1940 年頃にかけて、インド、中東、中央アジアのイスラム教徒は、工業化し
つつある東洋(mashriqi)の独立国として、日本に注目していた。イスラム教徒たちは、新た
な産業関係のネットワークを利用して旅をおこなった。旅行者たちは、日本が達成したものを自
国社会に結び付けようとして、日本に同じような疑問を何度となく浴びせかけた。一方、モスク
の建設と宗教書出版によって、日本自身も、まったく前例のないほどのイスラム教の中心地とな
った。この発表では、インド、中東、タタールの文献を利用して、拡大しつつあるイスラム教宗
教者というアクターたちのネットワークにおける日本の位置を評価する。
A-3 ブライアン・ボッキング「帝国のハブにおける仏教スポークスマン:1878 年~1892 年の
ロンドンにおけるチャールズ・フォンデス」
アイルランド生まれのチャールズ・ジェイムズ・ウィリアム・フォンデス(1840-1907)は、
1889 年、大英帝国のまさに中心であるロンドンに、西洋における正式の仏教伝道団体としては
最初のものを結成した。
これはカリフォルニアで日本の仏教伝道が開始されるのに 10 年先立ち、
1908 年アナンダ・メッテイヤ(アラン・ベネット)のラングーンからの帰国に合わせて結成され
た Buddhist Society of Great Britain and Ireland よりも 20 年前のことであった。フォンデス
は、すでに 1863 年から 67 年にかけて日本に生活し、日本語会話も達者であり、日本文化につ
いての権威とも目されていた。1889 年、日本の海外宣教会の協力を得て彼がロンドンで結成し
た Buddhist Propagation Society (BPS)は、彼が日本へ戻る 1892 年末まで 3 年間活動が続いた。
フォンデスは 1893 年来日し、仏教の闘士としてもてはやされたものの、その期間は短く、まも
なく後援者から見放されていった。彼はそのまま日本で暮らし、出家して仏教僧になり、1907
年、神戸で亡くなった。本発表では、1878 年以降のロンドンにおけるフォンデスの経歴を探り、
長らく忘れ去られていた Buddhist Propagation Society の結成に焦点を当て、スピリチュアリ
ズム、秘教、神智学、進歩主義そして仏教の、さまざまなネットワークに、フォンデスの仏教伝
道活動を位置づける。
A-4 リチャード・ジャフィ「近代における天竺巡礼の再生」
1868 年、海外旅行が解禁となると間もなく、南アジアや東南アジアは日本人仏教者の探検、
研究、巡礼の目的地として人気を集めるようになった。日本人仏教徒の旅行者にとって、歴史的
仏陀の生まれた土地であるインドは、旅行の目的地として賞賛を集めた。本発表では、日本人仏
教者の巡礼を北畠道龍『天竺行路次所見』
(1886)から村上妙清の旅日記『入竺比丘尼伝』
(1944)
までたどる。後者は、戦前では数少ない女性による旅行記で、大正後期の旅行について詳しい記
録を残している。本発表では、これらの様々なインド旅行記におけるナショナリズムと汎アジア
的仏教の相互作用を描き出し、こうした旅行記が二〇世紀前半においては日本仏教の宗教性を表
現する道具として機能したことを論じる。
A-5 キム・ファンス「双方満足の取引:1940 年ソウル市街における曹渓宗大寺院の建立」
本発表では、植民地時代のソウルにおいて曹渓宗総本山が設立された複雑な過程を検証する。
この新しい寺院は、朝鮮仏教の本部となり、31 の本山寺院を傘下におさめ、仏教の近代性と権
力の象徴であった。実際には 1908 年までに朝鮮仏教の指導者たちは、さまざまな制度を通じて
朝鮮仏教を中央集権化し、植民地支配からの半自治を獲得しようとした。この試みが実現しなか
った理由はいくつかあり、植民地政府が乗り気でなかったこと、あるいは朝鮮仏教者たちが派閥
に分かれたことなどがあげられる。しかし、1930 年代、日本帝国が満州と中国での軍事的領土
拡張に力をそそぎはじめると、植民地政府は朝鮮全土にわたっての動員運動を企図し、効果的な
総動員体制を構築するために仏教指導者たちに接近した。植民地政府は中央集権的な仏教組織を
必要としたが、その機会を利して、朝鮮仏教の指導者たちは、僧侶たちの支持を得て、大本山建
立のために植民地政府のお墨付きを要求した。植民地政府は、これを後援し、その代わりに、朝
鮮仏教組織は積極的に国家の総動員計画に参加していき、双方にとって利益をもたらすこととな
った。本発表は、曹渓宗設立を可能にした国内外の要因を分析し、仏教指導者たちの間で繰り広
げられた議論――総本山の組織面での機能をどうするか、この寺院の象徴的意義がどうやって仏
教伝統の中で正当化されるか、そして植民地政府との関係をどうするかといった議論―をとりあ
げる。そして、植民地空間で建築と制度の形態として、仏教的近代性がどう明示されたかを明ら
かにする。
A-6
ローレンス・コックス「グローバル仏教の発明:変化するレパートリー」
本発表では、
「仏教」は、それがグローバル化していく過程で、実践面ではどういう意味をも
ったかという、過小評価され気味な問題を扱う。世界中に仏教をもたらそうとしたアクターたち
は、複雑な挑戦と直面した。仏教伝統のない社会に生まれた者には、これは切実な問題であった。
急速に近代化しつつある様々なアジア仏教と出会いながらも、仏教制度がどのように機能してき
たかについての実践的な知識はほとんどなく、アジア以外の宗教をモデルとするしかなかった。
この状況で、出家、説教、経典、儀式などについて、要素を選びとり、それらを制度化しようと
する。それらの努力のほとんどは失敗に終った。本発表では、19 世紀末から 20 世紀はじめにか
けてのアジアとヨーロッパにおけるアイルランド人、イギリス人の仏教改宗者や同調者のレンズ
を通じて、ヨーロッパでの仏教の姿を論じる(ヨーロッパでは北米とは社会と宗教の関係も異な
り、アジアからの伝道者がほぼ不在であった)
。さらに、これらのさまざまな仏教の源、組織化
の技術や、仏教活動のレパートリー、聴衆、政治、民族性、植民地主義に関連する仏教定義など
を究明する。
B-1
ジャスティン・リツィンガー「原始仏教とその不満:セイロンでの中国人交換留学僧の純
粋な仏法探査」
民国時代の中国仏教で注目すべきは、その能力に比して希望の高かったことである。壮大な計
画をきりなく作り出しながらも、実行の手段がなく、野心的な組織は紙の上の存在でしかなかっ
た。ホームズ・ウェルチがその運動を、後世に続く意義のほとんどない失敗同然と見なしたのも
不思議ではない。最近の研究は、この評価に疑問を投げかけてきたとはいえ、設定した目標から
判断すれば、仏教者の着手した運動の多くが失敗に帰したことは確かである。これらの失敗の中
でも、若い僧侶をセイロン留学に派遣するという計画はとりわけ反響が大きかった。セイロンの
純粋な原始仏教を取り戻すという任務を負い、この計画に参加した僧侶たちは、セイロンを仏教
の過去がいまだに生き続けている仏法の楽園と称賛した。しかし彼らが実家にあてた手紙からは、
恨みと幻滅がうかがえる。結局、再生された中国の新たなサンガのためのモデル僧侶となるはず
の若者たちは、帰国後、還俗していった。当時の水準からしても、この事件は悲惨な結果と見え
た。私たちはこの結果から、ユートピア主義、トランスローカルなネットワーク、新たな「仏教」
理解の構築といった、当時の視点を知ることができよう。
B-2
長谷川琢哉「ハーバート・スペンサーと明治の仏教哲学」
明治 10 年代、東京大学を中心に仏教的な哲学理論が形成された。それは「真如」という概念
を唯一の「実在」として規定する形而上学であり、時に「現象即実在論」と呼ばれるものである。
「現象即実在論」は成立と同時に普及して近代仏教の理論的支えとなり、またそのアイデアは京
都学派へと受け継がれ、以後の<日本哲学>の方向性を決定した。さらには、その最大の普及者
である井上円了の著作の翻訳を通して、中国・朝鮮仏教の近代化にも影響を与えている。いずれ
の場面においても、
「現象即実在論」は<西洋>に対抗しうる<東洋>の高度な哲学理論とみな
され、その意味で東アジア全体のナショナリズムとも深く結びつけられてきた。しかしその一方
で、この哲学理論の成立背景を探ることで、また別の側面が見えてくる。とりわけ本発表が注目
するのは、ハーバート・スペンサーの影響である。スペンサーは宇宙全体を進化するひとつの活
動体とみなし、その根底に不可知の「実在」を見出したが、「現象即実在論」の初期の理論家た
ちは、まさしくスペンサー的「実在」に「真如」を重ね合わせた。それにより仏教哲学はある種
の一元論、汎神論、生命哲学として描き出されることになった。本発表では、こうした経緯を特
に井上円了の著作を検討することによって明らかにし、仏教哲学を当時の世界的な汎神論的傾向
のもとに位置づけ、再評価することを試みたい。そしてその作業を通じて、<東洋>と<西洋>
のよりグローバルな相互関係・相互関心を描き出すことが本発表の最終的なねらいである。
B-3
岩田真美「高輪仏教大学における国際ネットワーク―万国仏教青年連合会の活動―」
高輪仏教大学とは、1902(明治 35)年に、東京の高輪に開設された浄土真宗本願寺派(西本
願寺)の高等教育機関である。高輪仏教大学の教員には、同派の普通教校の出身者で、学生有志
らと「反省会」を組織した高楠順次郎や櫻井義肇らがいた。彼らが学んだ普通教校は、普通教育
を取り入れた僧俗共学の学校であり、とくに英語教育に力を入れていた。その進歩的・国際的な
学風を受け継いだ高輪仏教大学では、高楠や櫻井らが中心となって「万国仏教青年連合会」とい
う国際的な仏教青年会が組織された。同会の発足は、1902 年 5 月、高輪仏教大学にアナガーリ
カ・ダルマパーラが演説に訪れたのを機に発表された。会長には島地黙雷、役員には高輪仏教大
学の教員らが就任している。特別会員にはダルマパーラをはじめ、井上円了、村上専精、南条文
雄、渡辺海旭、ポール・ケーラス、アナンダ・メッテイヤなど、著名な仏教者らが名を連ねた。
また万国仏教青年連合会は国内外の 12 の仏教青年会と連合し、オーストラリア、香港や広東、
ペナンにも支部が設立された。さらに高輪仏教大学では、キリスト教の内村鑑三、インド人の宗
教者プラン・シンやスワミ・ラム、アイルランド人の僧侶ダンマローカらを招いて宗教間対話を
おこなうなど、いわばミニチュア版の万国宗教会議も行っている。本発表では、高輪仏教大学に
おける万国仏教青年連合会の活動を中心に、明治仏教のグローバルネットワークについて検討し
てみたい。
B-4 岡本佳子「まぼろしの東洋宗教会議―岡倉覚三・織田得能が描いた 20 世紀初頭アジアの宗
教交流―」
本発表では、20 世紀初頭に発案されながらも実現しなかった、日本における東洋宗教会議の
企画をとりあげる。1902 年、美術史家岡倉覚三(1863-1913)と仏教僧の織田得能(1860-1911)は、
近代ヒンドゥー教の指導者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)に会うべくベンガルを
訪問し、彼を日本に招待しようと働きかけた。ヴィヴェーカーナンダ招聘の提案は、インド、中
国、日本の宗教者たちを集めて「般若波羅蜜多会」と題した国際宗教会議を日本で開催する企画
へと発展した。彼らの発案を受けてインド側の実行委員となったのは、ベンガル神智学協会の幹
部を含むカルカッタの名士たちであった。インドでは会議の噂がベンガル以外の地域へも広がり、
多くの人々の関心を集めた。こうした反響の背景には、1893 年のシカゴ万国宗教会議を契機と
したヴィヴェーカーナンダの国際的成功のインパクトがあった。不確かな情報を頼りに来日して
しまうインド人僧侶すらいたほどである。ヴィヴェーカーナンダに感銘を受けた岡倉と織田は、
この会議において、ヒンドゥー教との親近性を追究することで大乗仏教の存在意義を発信しよう
と考えていた。だが、近代アジアの宗教交流の先駆けとなるはずであったこの会議は、ついに開
催の日を迎えることはなかった。本発表では、この会議企画の影響と、直接、間接に関わったア
ジアの宗教者たちの国際的人脈を明らかにし、20 世紀転換期の日本仏教をとりまいていた状況
の一断面をとらえることを目標とする。
C-1
クリスチアーネ・バンゼ「近代仏教と社会事業:赤松連城の慈善概念」
本発表では、本願寺派僧侶、赤松連城(1841-1919)の思想、とりわけ慈善概念を考察する
ことで、仏教社会事業という近代的現象に焦点をあてる。赤松は 1872 年にはじめてヨーロッパ
に派遣された仏教徒の一人であり、イギリスにほぼ 2 年間滞在したが、その間に社会事業につ
いて深く影響をうけたといわれる。彼はまた 1901 年に結成され、今なお存続する大日本仏教慈
善会の創立者の一人であった。この事業に乗り出したということは、彼が思想だけにとどまって
いなかったことを示している。本発表では赤松の慈善概念を素描し、また歴史的文脈に置いたう
えで、彼の思想の源となった可能性のある英語圏の思想、そして赤松がそれをどう利用したかを
論じたい。
C-2
大來尚順「高木顕明:帝国主義の時代に生きた仏教者の一例」
廃仏毀釈を皮切りに帝国主義が色濃くなった明治の時代に生きた浄土真宗大谷派の僧侶 高木
顕明(1864-1914)の生涯は、その時代に生きた他の僧侶と比べて異色に見える。当時、真宗教
団は明治政府と密接な関係を保ち、日本の帝国主義の形成に加担する状況下、高木はこの風潮に
乗ることはなかった。高木は、自身の時代に生じた人権の侵害や主戦論を唱える帝国主義などの
社会問題、政治問題に親鸞思想を基盤として解決に取り組んだ。高木には主に三つの宗教活動が
ある。それは、部落解放運動、廃娼運動、非戦運動である。高木のこれらの活動の形成には、親
鸞思想でも重要視される仏教を通した自己内省(凡夫としての自覚)があった。しかし、社会情
勢の潮流とは異なる高木の姿勢は誤解され社会に受容されることはなかった。その結果として、
高木は逮捕され僧籍を剥奪されることになるが、それでも主戦論に抵抗し人間の尊厳性のために
生き抜いた。この論文では、高木の生涯の要約と親鸞思想を基盤とした社会活動を紹介し、社会
騒乱の中で生きた一人の僧侶の姿を描く。
C-3
近藤俊太郎「近代日本におけるマルクス主義と仏教――反宗教運動をめぐって」
1930 年代前半の日本では、ソビエトからの理論輸入を契機として、マルクス主義者による反
宗教運動が活発化した。1931 年に結成された反宗教闘争同盟準備会(のち日本戦闘的無神論者
同盟)、日本反宗教同盟などはいずれも短命ではあったけれども、これらの反宗教運動が日本の
宗教界に提起した問題は軽視しえない。反宗教運動の活動は、短期間であったものの、宗教界に
大きな衝撃を与えた。それは、1927 年の金融恐慌や 1929 年の世界恐慌によって経済的打撃を
受けていた日本社会では、寺院の社会的・経済的優位性に対する不満が広汎に存していたからで
ある。反宗教運動は、こうした背景のもとで反寺院・反教団運動としての性格を濃厚に持ちつつ
展開していった。反宗教運動による経済的搾取の実態暴露や「宗教=アヘン」論にもとづくイデ
オロギー批判といった攻勢を受けて、宗教界(特に仏教界)からは様々な反論がなされた。仏教
界の対応には、たとえば自己弁明的な護教論から反宗教運動側の理論的硬直性に対する批判、さ
らにはマルクス主義の積極的受容を媒介した仏教社会主義の構築など、実に多岐にわたっている。
本報告では、反宗教運動による宗教批判と、それへの仏教側からの反論に注目し、そこで交わさ
れた論争から浮き彫りとなる両者の仏教理解について考えてみたい。
C-4
アリス・フリーマン「ベトナム戦争時期(1963-1976)の日米関係における禅仏教」
1945 年以降アメリカにおける禅の人気は、日米の文化関係における重要な成功となった。し
かし、ベトナム戦争中、日米関係は外交、民間の両面において緊張した。本発表では、禅へのベ
トナム戦争の衝撃をとりあげ、仏教において発生した緊張と発展は、しばしば日米関係における
主流と矛盾していたことを論じる。この時期、アメリカの禅は勢いを増し、次第に日本から独立
していった。1966 年に禅と日本文化の表看板であった鈴木大拙が亡くなった後、ベトナムのエ
ンゲージ仏教の禅匠であるティック・ナット・ハンが西洋では新たな禅の顔となった。これには
理由があった。合衆国政府は日本がベトナムに軍隊を派遣しないことを批判し、日本の民間人は
アメリカの軍国主義を非難したが、日本の禅匠にはベトナム戦争を支持しただけでなく、第二次
大戦中は熱心な軍国主義者だった者がおり、西洋の禅の実践者の中には、それを疑問視するもの
もいた。禅は外交の領域に入ってきた宗教と国家は公式には分離されているにもかかわらず、日
米両国政府は、日本僧侶を使ってベトナムの政治に介入しようとしたが、こうした国家による活
動は失敗に終わった。最終的に残ったものは、国家を越えた平和主義的「エンゲージ」仏教であ
り、それは今でもアジアと西洋で活発な活動が続いている。
D-1
碧海寿広「近代仏教と読書文化―暁烏敏の場合―」
近代を対象とする日本宗教史研究の分野において、近年、読書行為や読者ネットワークの展開
という観点から特定の宗教運動や思想について再検討する研究が増えてきている。本発表ではこ
うした研究動向をふまえながら、特に明治時代における仏教の変容と読書文化との関係について
考察する。事例としては、真宗大谷派の改革的な僧侶、暁烏敏を取り上げる。暁烏は、彼の師で
ある清沢満之に導かれながら、真宗を近代化するための運動に取り組んだ。そして、その明治後
期における代表的な成果が、雑誌『精神界』の発行と、そこで彼が提示した新しいタイプの仏教
思想であった。彼の示した仏教思想は、しばしば既成教団との対立や社会との軋轢を引き起こす
ものであった。そうしたコンフリクトが生じてくる原因としては、明治の青年知識人としての彼
が当時の読書文化に深く参入したことで得てきた経験の影響が大きかった。
D-2
エリック・シッケタンツ「境野黄洋の仏教史学とその知的背景」
19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、日本では近代西洋の方法論に基づく学術的仏教研究が成
立した。この成立に尽力した中心人物は境野黄洋(1871-1933)である。仏教学者であり、仏
教活動家、そして中国仏教史の先駆的研究で知られている。アカデミーにおける仏教研究を確立
した村上専精の弟子であり、最初の仏教史雑誌『仏教史林』の発行と、その歴史研究プロジェク
トに深く関わった。さらに境野は、既存の日本仏教を批判し、改革を呼びかけた新仏教運動の有
力なメンバーであった。しかし、中国仏教史研究の確立者という事実にもかかわらず、研究され
ていない人物である。本発表では、境野が歴史研究を進めた 1890 年から 1910 年にかけての時
代をとりあげ、彼の仏教論とその知的な基礎を考究する。境野の歴史研究と、思想の関係を考察
し、彼の国別仏教論、その枠組みにおける中国仏教史、そして「中国仏教」の概念化への影響に
ついて注目したい。
D-3
グレゴリー・アダム・スコット「決してビジネスではない:1920 年代における仏典印刷
と中国仏教印刷文化の商業化」
居士出版者、揚文会(Yang Wenhui)の先駆的、革新的な努力に導かれて、中国仏教の経典
出版は 20 世紀初頭に大きく拡大した。出版者は、伝統に従えば、寄付をうけて木版を彫らせ、
仏典を印刷し、しばしば無料で配布した。その代わりに、寄付者はそこから生じる宗教的な功徳
をえることになる。しかし、1910 年代終わりまでに、いくつもの仏典出版社が出現し、商業界
で実務経験がある居士がその経営にあたった。これらの出版者は、資本主義的な商業企業で訓練
を受けており、宗教出版の範囲を広げるためにそれらの方法を活用しようとしたが、功徳を施す
という点では何ら妥協するところはなかった。1920 年代に経典印刷に導入された商業主義的な
側面とは、かなり拡充された書籍目録、定期刊行物への広告、値段の価値、有限会社、株式会社
の設立もあった。本発表では、商業的形態を仏典出版に応用する際、出版者たちがどのように商
業と宗教の対立しあう価値観を調停しようとし、一方で資本蓄積、他方で功徳という緊張関係が
近代中国の仏教文化でいかに大きな衝撃を与えたかを論じる。発表者は、初期民国期における印
刷文化の新たな形態が近代中国のより広い変化の触媒となったという博士論文を執筆中であり、
本発表は博士論文の一部をなすものである。
D-4
ユーリ・カプラン「説教師から教師へ:曹渓宗の新たな居士仏教徒教育制度」
本発表では、フィールドワークに基づき、ここ 20 年間の間に韓国曹渓宗を大きく変えつつあ
る居士仏教者の新教育制度を論じる。すでに全国で 50 万人以上の居士仏教者と 500 の僧院がか
かわっており、この新制度は曹渓宗の伝道計画の目玉でもあり、現代韓国における居士仏教者の
活動を変容させてきた。この制度は、指定された寺院での基礎的仏教コースを受講してから正式
な居士として登録証が与えられるという、前例をみない登録制度に基づいている。その成績に基
づいて階級分けされ、最終的には年に一回の居士伝道者試験が行われる。本発表では、これらの
居士仏教者コースの教室での調査データ、学生とその動機についての調査結果を紹介するだけで
なく、現代韓国における居士仏教の実践と仏教伝道の性格について、より広い理論的な結論を引
き出したい。これらの新しい制度や宗門認定の教科書などによって、居士仏教の活動が次第に韓
国仏教の正統な居士仏教活動に収斂しつつあることを論じる。そして、この居士仏教のもたらす
ものが何かを論じたい。
E-1
ライアン・ワルド「菅舜英論:さまざまなつながりをもつ男」
近代日本の思想史研究では、日本仏教の近代性に焦点があてられ、それに関連して、新宗教の
勃興、キリスト教の再来、西洋哲学の吸収と変容、マルクス主義、超国家主義などがとりあげら
れる。しかし、論者の知る限りでは、これらの運動がすべてひとりの人物に結びつく例はめった
に見ない。従来研究されてこなかったが、西本願寺僧侶、菅舜英(1872―1956)は、これらの
運動すべてに関係した人物である。真宗寺院に生まれながら、最初の記事は「真宗撲滅論」であ
り、上京してからは井上円了の哲学館に学び、ギリシャ正教に興味を持ち、そしてさらにややこ
しいことに、友人から「南無妙法蓮華経」の功徳を学んでから真宗のルーツに戻った。満州とウ
ラジオストックで過ごしたあと、菅は親鸞とマルクスの知的な共通性を主張した。西本願寺は異
安心の廉で僧籍を剥奪した。短期間大本教に入った後は、悪名高い共産主義から転向した超国家
主義者、赤松克麿の協力者となる。本発表では、菅の生涯と著作を調べることによって、
「転向」
の問題を再度取り上げ、近代仏教で最も魅力的な人物の一人を紹介したい。
E-2 クリントン・ゴダール「仏教、戦争、技術:石原莞爾と東亜連盟運動」
予言者的な思想家で軍事戦略家であった石原莞爾(1889-1949)に率いられた東亜連盟運動
は、20 世紀日本と東アジアの汎アジア主義運動、日蓮主義運動の中でも最大級のものであった。
連盟運動は、1930 年代から始まり、戦中から戦後までその活動は続いた。石原莞爾の生涯と思
想、1931 年の満州事変における彼の役割、そして日蓮主義的終末論と融合した、石原自身の「最
終戦争」とその後に来る統一と平和の世界についての予言、これらは歴史家の興味をひいてきた
が、しかし東亜連盟運動の発展と運動はあまり注目されなかった。本発表では、東亜連盟の中国
大陸での戦争への反対、未来へのビジョンと地方改良運動、その宗教的ビジョンの実現における
科学技術の役割といった、知られざる側面をとりあげ、この運動の役割と活動を再考してみたい。
E-3
ルーク・ヒスロップ「法衣の敵意」
スリランカにおける、僧侶主導の過激派組織 Bodhu Bala Sensa(仏教徒実力行使団)の勃興
は、近年、メディアの注目を集めてきた。BBS は、人目をひく抗議行動や集会を行ってきてお
り、さらにキリスト教徒、イスラム教徒の家や店舗だけでなく崇拝施設への襲撃も先導している。
群衆を率いる仏教僧侶は、激しい演説で人種的憎悪を掻き立て、その結果、最近ではイスラム教
地域への攻撃も起こり、4 名のイスラム教徒が殺されている。BBS の主たる攻撃目標は、スリ
ランカの少数派であるイスラム教徒に向けられてきた。この右翼シンハラ仏教徒集団の出現から
はじめて、本発表では、戦後スリランカの公的な政治行動を社会現象として論じる。そのような
仏教者の攻撃的な表現が、どうして戦後スリランカで、そんなに人々を引きつけたのか。BBS
などの右翼仏教集団は、スリランカの植民地独立後の不安定な時代に生まれた社会的、政治的環
境がある形でつながったことで生じたとみることはできよう。しかし、社会的政治的使命を一点
に集中させることは、植民地化以前、あるいは植民地統治時代、そして植民地独立後のスリラン
カを通じて、さまざまな方法でカリスマ的僧侶のなしてきたことである。本発表では、ダンブッ
ラにおける 2 年間の民族誌的調査をもとに、仏教僧たちが行った政治的パフォーマンスについ
て論究する。