こころのワザ学 ﹃モノ学・感覚価値研究 ﹄第9号刊行に際して 第1部 その五 鎌田 東二 ● 東二 ● 鎌田 安部公房と三島由紀夫を中心に 大西 宏志 ● モノ学・感覚価値研究会アート分科会/京都 大 学こころの 未来研究センター連携研究プロジェクト二〇一四年度活動報告 ポール・ゴーギャン、 フィンセント・ファン・ゴッホ、 ジョルジュ・スーラにおける写真の影響の比較研究 秋丸知貴 ● 第一章 「こころの練り方」探究事始め 第二章 第三章 002 001 018 027 部 第 2 部 第 3 │ 第五回東日本大震災関連プロジェクト こころの再生に向けて 震災後の自然と社会 田中克+草島進一+島薗進+金子昭+大西宏志+鎌田東二 ● 大荒行シンポジウム 田中利典+星野尚文+高木亮英+戸田日晨+倉島哲+鎌田東二ほか ● 身心変容技法の比較宗教学 037 072 9 ─ 鎌 田東二 『モノ学・感覚価値研究』第9号刊行に際して ── 二〇一五年、「モノ学・感覚価値研究会」はこれまでの集大成の展覧会を開催する。 三月七日から十五日まで開催する 「悲とアニマ展」 である。この詳細については、「モ ター連携研究プロジェクト二〇一四年度活動報告」 大西宏志「モノ学・感覚価値研究会アート分科会/京都大学こころの未来研究セン ラにおける写真の影響の比較研究」 秋丸知貴「ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、ジョルジュ・スー ノ学・感覚価値研究会」のHPを参照いただきたい。特筆しておきたいのは、これ 4 日蓮宗遠壽院の百日荒行 戸田日晨師(日蓮宗大荒行堂遠壽院住職・傳師) 羽黒修験道松聖・所司役) 2 羽黒修験道の荒行(峰入り)星野尚文師(本名:文紘、 3 熊野修験:那智四十八滝の荒行(青岸渡寺滝行)高木亮英師(西国三十三所 一番札所那智山青岸渡寺副住職) 1 吉野修験道の荒行(奥駈)田中利典師(大峯金峯山修験本宗宗務総長・金峯 山寺執行長) りである。 また、二〇一四年十一月二十日~二十一日に開催した「身心変容技法研究会」の 総括「大荒行シンポジウム」の全容を掲載した。その主要プログラムは以下のとお の三論文を掲載した。 が「現代京都藝苑実行委員会」の一展覧会で、ほかにも三つの展覧会をほぼ同期に 開催し、全展ともに「京都国際現代芸術祭 PARASOPHIA 」の後援を受けている点 である。その実行委員に本研究会メンバーの大西宏志氏、近藤髙弘氏が就任し、事 務局長を秋丸知貴氏、実行委員長を鎌田が務めている。 ─ さて、本『モノ学・感覚価値研究』第九号は、二〇一一年四月に立ち上げた東日本 大震災にかかわる研究プロジェクト「震災関連プロジェクト こころの再生に 向けて」の第五回目のシンポジウム(二〇一四年七月二十三日開催)を収めた。同 鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授/宗教哲学・民 シンポジウムのテーマは「震災後の自然と社会」であった。プログラムは以下のと おりである。 第一部 趣旨説明 コメント 倉島哲(関西学院大学教授/社会学)+総合討論 司会:鎌田東二 「身心変容技法研究」とは本誌の拙論の言葉を使っていえば、 「こ こ ろ の 練 り 方 」 である。修験道では「こころを練る」ために「からだを練る」。吉野熊野山中への「奥 俗学) 「震災後の自然環境の 中 克( 京 都 大 学 名 誉 教 授 / 森 里 海 連 環 学 ) 基調報告1 田 変化」 る。法華経読誦と水行三昧の百日行を敢行する日蓮宗の荒行も「こころの練り方」 謝辞 本『モノ学・感覚価値研究』第九号は、京都大学こころの未来研究センター上廣こ ころ学研究部門の助成を得て刊行された。上廣倫理財団には心より感謝申し上げたい。 業の一つである。ご一読・ご意見たまわれば幸いである。 本誌『モノ学・感覚価値研究』第九号と姉妹誌『身心変容技法研究』第四号はその作 社 会 の 過 去 現 在 未 来 を 大 き な パ ー ス ペ ク テ ィ ブ で 見 通 す 作 業 が 求 め ら れ て い る。 本年は、戦後七十年、阪神淡路大震災後二十年、オウム真理教事件後二十年とい う節目の年になる。 「心の荒廃」が問題になって久しいが、この節目の年に心と体と としての「からだの練り方」の技法である。 駈け」や羽黒山や月山への「峰入り」や熊野那智飛瀧権現での滝行などがそれであ 「震災 島進一(山形県議会議員・羽黒山伏・元神戸元気村副代表) 基調報告2 草 後の社会と持続可能な未来」 コメント 金子昭(天理大学教授/倫理学) 第二部 報告 島薗進(東京大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所所長) 「原発事 故が問いかけるもの」 総合討論「震災後の自然と社会」 田中克+草島進一+島薗進+大西宏志(京都 造形芸術大学教授/情報デザイン) 司会:鎌田東二 本号では、この震災関連の記録以外に、 鎌田東二「こころの練り方その五~安部公房と三島由紀夫を中心に」 『モノ学・感覚価値研究』第 9 号刊行に際して ● 001 こころのワザ学 「こころの練り方」探究事始め その五 の告白』 、 然 り。 二・二 六 事 件 の 青 年 将 校 や 特 攻 隊 開する。出生時の記憶を持つ主人公を描いた『仮面 うに不自然に生起していかにもドラマティックに展 それに対して、三島由紀夫の世界は「非日常の中 の非日常」である。ありえないことがありえないよ 世界だ。 も起こりそうな非常事態の襲来。それが安部公房の 起して知らず知らず不測の事態に立ち至る。誰にで 安 部 公 房 の 世 界 は「 日 常 の 中 の 非 日 常 」で あ る。 ありえないことがさもありえるかのごとく自然に生 世界を描いた。安部の中には、人間と世界(共同体・ 安部公房は、さりげない危機や危険や破局を、そ してその中で滑稽さと哀しさの混じった人間とその く対照的でそれぞれに独自な演劇世界を披歴した。 もあった。また二人はともに劇作をものし、まった り、近現代の小説世界の枠を大きく広げた思想家で 思想的な小説 作 法 と小説 世界 を展開した作 家であ 中でも、安部公房と三島由紀夫はもっとも観念的で この二人は、戦後、大岡昇平、島尾敏雄、堀田善衛、 井上光晴らとともに 「第二次戦後派作家」 と呼ばれた。 市ヶ谷駐屯地で自決した。 一 九 七 〇 年( 昭 和 四 十 五 )十 一 月 二 十 五 日、 新 宿 区 四谷四丁目)で生まれ、生涯を東京都区内で過ごし、 月十四日に東京市四谷区永住町(現在・東京都新宿区 対 し て、 三 島 由 紀 夫 は、 一 九 二 五 年( 大 正 十 四 )一 一月二十二日、六十八歳で死去した。 九三年(平成五) ことができる複雑系の作家である。それをとりあえ るが、しかしまだまだその思想性を掘り下げてみる とも文芸評論としては論じ尽くされてきたともいえ 作家はともにノーベル文学賞の候補となった。二人 いものを認めたのか。それとも互いの世界に羨望を はなかなかおもしろいものである。互いに自分にな だが、この二人が、不思議なことに互いの存在と 世界を認め合っていたのだから、世の中というもの 常事態”が起こるのだ。 章から始まるのだから。はなから尋常ではない“異 それに対して、三島由紀夫の世界は事の初っ端か ら普通ではない。たとえば『仮面の告白』の冒頭は、 ない、ごく普通の事態から変容していく。 部公房の世界である。が、それは、 「日常」のさりげ 「詩」や「夢」の非現実的・超現実的リアリティが安 フォルメしたり、ありえない回路を作ったりする。 感じていたのか。ともかくも、この同世代の二人の 002 ● 第 1 部 こころのワザ学 第1部 第一章 鎌田 東二 員 の 霊 の 声 を 描 い た『 英 霊 の 聲 』 、 然 り。 二 十 歳 で 社 会・国 家 )に 対 す る 根 深 い 疑 惑 と 疑 義 が あ る。 彼 ず「日本性」と「脱日本・世界性」という両極につな 京都大学こころの未来研究センター教授/ 宗教哲学・民俗学 死んで輪廻転生し続ける主人公を描いた 『豊饒の海』 の描く世界には、多く、無政府状態や異権力(異次 げてみれば、三島由紀夫の対称軸として安部公房を 安部公房と三島由紀夫を中心に 四部作、然り。普通ならありえないことが次々と生 元権力)が発現する。あるモノや事態が、状況とそ 「 脱 日 本・世 界 性 」の 極 に 接 続 し、 次 の よ う に ま と 安部公房と三島由紀夫 起してくるその非日常世界の非日常性。 こにいる人に「刺激」を与え、場とヒトに変容・変身・ 「 私 は、 生 ま れ る 前 の こ と を 覚 え て い る 」と い う 文 で生まれ(本籍は北海道旭川市) 、幼少期を満州国奉 安 部 公 房 は、 一 九 二 四 年( 大 正 十 三 )三 月 七 日 に 東 京 府 北 豊 島 郡 滝 野 川 町( 現 在・東 京 都 北 区 西 ヶ 原 ) 変形・変化を引き起こす。それを初期化したり、デ へん げ 天 市( 現 在・中 華 人 民 共 和 国 瀋 陽 市 )で 過 ご し、 一 九 2 1 1 が、息子安部公房は父の手伝いをしつつそのときの 流行した発疹チフスの治療に当たっていて死亡した 開業医として市民・民間の治療に当たり、戦後すぐ ②戦争体験~父安部浅吉は満州奉天にある満州医 科大学(現在・中国医科大学)の医師を辞めて奉天で おいては類稀なる越境する世界文学である。 深く「人間とは何か? 人間が生きている社会のシ ステムとは何か?」を問いかけている。日本文学に を許さない安部ワールドを構築しながらも常に鋭く ①世界性と普遍性~SF小説とも幻想小説とも観 念小説とも見えるその実験的な小説世界は他の追随 めることができるだろう。 に生まれたのが「明治元勲第一世代」だ。 「 明 治 維 新 」を 実 体 験 し た 世 代 で あ る。 激 動 の 時 代 政 府 軍 側 で あ ろ う が、 十 代 の 終 わ り か 二 十 歳 頃 に まり、勝利した新政府軍側であろうが、敗北した反 津戦争や北越戦争に参戦した最後の世代である。つ 学 初 代 総 長 )ら が そ う で あ る よ う に、 戊 辰 戦 争 や 会 者・東京帝国大学総長・京都帝国大学総長・九州帝国大 に関わった山川健次郎(一八五四─一九三一、物理学 習院院長・乃木神社祭神)や反政府軍の会津藩白虎隊 戦 っ た 乃 木 希 典( 一 八 四 九 ─ 一 九 一 二、 陸 軍 大 将・学 の長府藩(長州藩の支藩)報国隊に加わり戊辰戦争を での間に生まれた人である。この世代は、新政府軍 た最後の世代で、嘉永年間(一八四八─一八五四)ま 代差は大きかった。それは、政権や体制が劇的に転 課題や役割や特色があったといえる。そしてその世 これら「明治元勲第一世代」 「明治元勲第二世代」 「 明 治 元 勲 第 三 世 代 」に は そ れ ぞ れ の 時 代 と 世 代 の 七五)生まれの柳田國男を挙げることができる。 ( 一 八七 一 )生 ま れ の 出 口 王 仁 三 郎、 明 治 八 年( 一 八 生まれの西田幾多郎や鈴木大拙、さらには明治四年 や 夏 目 漱 石 や 正 岡 子 規、 ま た 明 治 三 年( 一 八 七 〇 ) 時 代 最 後 の 慶 應 三 年( 一 八 六 七 )生 ま れ の 南 方 熊 楠 想や文学を展開していった改革者たちである。江戸 (一八六五)以降の生まれで、日本独自の独創的な思 そして「明治元勲第三世代」は、幕末の慶應元年 世代」である。 (本誌第八号)で、安政五年生まれの井上円了 先号 の飛翔~浮遊とその思想性を考察してみたい。 島 由 紀 夫 と 安 部 公 房 を 対 比 し つ つ、 そ の「 こ こ ろ 」 未踏のアナーキーな地点に向かって孤軍奮闘した三 身を寄せながらも、最終的にはそれをも突き抜けて 本稿では、敗戦後の無根拠性とニヒリズムに向き 合い、伝統日本と共産主義という二つの「仮設」に 力・創造力に溢れた作家である。 みとの間に生まれた独創性と豊富なアイデアと想像 ③想像力・創造力~安部公房は真っ当ではあるが 相当ずれたところのある父浅吉とユニークな母より 蘇峰(思想家・国民新聞主宰) 、清沢満之(浄土真宗大 教授) 、岡倉天心(思想家・東京美術学校校長) 、徳富 小説家) 、新渡戸稲造(農学者・教育者・東京帝国大学 内村鑑三(キリスト教思想家) 、森鴎外(陸軍軍医総監・ 講道館創設者・東京高等師範学校校長・旧制五高校長) 、 家・翻 訳 家・早 稲 田 大 学 教 授 ) 、 嘉 納 治 五 郎( 柔 道 家・ 文科大学の初代心理学教授) 、坪内逍遥(小説家・劇作 植村正久(牧師・神学者) 、元良勇次郎(東京帝国大学 教授) 、海老名弾正(牧師・思想家・熊本英学校創立者) 、 帝国大学文科大学学長・日本人初の東京帝国大学の哲学 リ ー ダ ー た ち と い え る。 井 上 哲 次 郎( 哲 学 者・東 京 て い っ た 人 が 多 い。 日 本 の 学 術・思 想 の 勃 興 期 の 学や地球物理学や民権思想やキリスト教神学を担っ 実質的に、日本人として最初期の哲学や薬学や病理 対する「古事」であろうから。 で あ っ た だ ろ う。 『古事記』とは新体制の「新事」に らくそれは『古事記』や『平家物語』の時代からそう 学や芸術や宗教との関係は根深いものがある。おそ 士族の子弟が多かった。近代化から外れたものと文 に関わる者は、旧幕臣を含む敗者や下級士族や没落 て、文化・教育・芸術・宗教(キリスト教などは特に) 表舞台の政治・経済を牽引・運営する。それに対し の苦悩を描いた。薩長など新政府軍側は勝者として に転換する際の敗者が世界と心の裏を覗き込み、そ 文学の道に進んだのである。徳川体制から明治体制 軍( 旧 幕 臣 )の 区 別 で い え ば、 賊 軍 側 に 立 つ も の が (挫折者)であったといえるのではないか。官軍と賊 この明治という日本近代において、誰が、なぜ、 文学を推進したのかを考えると、その多くが敗残者 換する戦争を体験しているかどうかの違いである。 困難と引き揚げ時の混乱を体験している。それは大 (一八五八─一九一九、哲学者・東洋大学創設者)の提 谷派僧侶・宗教哲学者) 、二葉亭四迷(小説家) 、伊藤 たとえば、夏目漱石(一八六七─一九一六)や北村 透谷(一八六八─一八九四)や島崎藤村(一八七二─一 3 変貴重な戦争体験であった。 続く「明治元勲第二世代」は、安政元年(一八五四) から文久年間(一八六一─一八六四)に生まれた人で、 唱した「明治元勲第二世代」論を元に、明治期に活 左千夫(歌人・小説家) 、津田梅子(教育者・津田塾大 九四三) や泉鏡花(一八七三─一九三九)や折口信夫(一 明治と昭和の戦争世代論 動した人々の世代的課題について言及した。まず、 学 創 立 者 )な ど で、 井 上 円 了 は こ の「 明 治 元 勲 第 二 「 明 治 元 勲 第 一 世 代 」と は、 維 新 の 大 業 を 成 し 遂 げ 第一章 「こころの練り方」探究事始め その五 安部公房と三島由紀夫を中心に ● 003 2 生まれ・家庭・家族問題での煩悶(夏目漱石・芥川龍 ろう。家族間の反目や不遇(志賀直哉『和解』など) 、 文学活動との葛藤と確執がはっきりと見て取れるだ てみても、彼らの中に個や家や社会や世界や時代と 七 )や宮沢賢治(一八九六─一九三三)のことを考え 八 八 七 ─ 一 九 五 三 )や 芥 川 龍 之 介( 一 八 九 二 ─ 一 九 二 加藤清(一九二一〈大正十〉─二〇一三) 、司馬遼太郎 期世代:安岡章太郎(一九二〇〈大正九〉─二〇一三) 、 何人かの文学者と思想家を挙げておこう。①大正末 ものがあったといえるだろう。こうした観点から、 戦体験の受け止め方の違いと生き方の違いは大きな 十歳までであった。こうした世代の違いと戦争─敗 ローティーンであった。昭和二ケタ世代はせいぜい 典型的な「昭和第一世代」であったという点である。 ともあれここで問題視しておきたいのは、安部公 房と三島由紀夫が対照的であるとはいえ、まったく れに微妙で決定的な違いがあるとのことである。 大きな違いが生じた。そしてその傷や負目もそれぞ 安部公房の場合 之介・折口信夫・室生犀星・泉鏡花) 、そこにおける葛 らない重要な点は、戊辰戦争や明治維新が国内戦で う指標である。だが、ここで考えておかなければな 世代の年齢差から世代の特質や課題を見て取るとい 争前と戦争後とに大きく区分し、その戦争に関わる 「昭 こうした「明治世代」論を一つの指標として、 和世代」論を考えてみることができる。つまり、戦 見えるのである。 近代における「負の感情」処理のありようが透けて また、文学と宗教との関係。それらの諸問題の中に、 村透谷・有島武郎・芥川龍之介・太宰治・三島由紀夫) 。 藤やコンフリクト。そして、文学者と自殺・自決(北 二─) ・五木寛之(一九三二─) 、③昭和二ケタ世代: (一九三二〈昭和七〉─二〇一三) ・石原慎太郎(一九三 一─一九七一) ・山折哲雄(一九三一─) 、高橋たか子 京(一九三一〈昭和六〉─二〇一一) ・高橋和巳(一九三 ─) 、開高健(一九三〇〈昭和五〉─一九八九) 、小松左 彦(一九二八─一九八七) 、加賀乙彦(一九二九〈昭和四〉 ② 昭 和 ヒ ト ケ タ 世 代:河 合 隼 雄( 一 九 二 八〈 昭 和 三 〉 〇) ・梅原猛(一九二五─) ・海野和三郎(一九二五─) 、 九九三) 、 三 島 由 紀 夫(一九二五〈大正十四〉─一九七 三─一九九六) 、 安 部 公 房( 一 九 二 四〈 大 正 十 三 〉─ 一 (一九二三〈大正十二〉─一九九六) ・遠藤周作(一九二 カ月前の一九四三年十月に、十九歳の安部公房は東 「 或 る 星 の 降 る 夜 」を 見 て み よ う。 こ の 詩 を 書 く 一 戦争前の安部公房は典型的な文学青年であり、詩 人 で あ っ た。 一 九 四 三 年 十 一 月 二 十 六 日 付 け の 詩 (一般には「終戦」という)前の「昭和二ケタ世代」と「戦 「昭和世代」を考えてみると、 その違いを踏まえて、 大きく、 「大正生まれ」と「昭和ヒトケタ世代」と敗戦 という違い。 の戦争には勝者はどこにもおらず、敗者しかいない を体験したという大きな違いである。つまり、昭和 う に 言 っ て い る が、 「我々の世代は一年の違いで大 名 誉 教 授・N P O 法 人 東 京 自 由 大 学 学 長 )が 口 癖 の よ 五)十月二日生まれの天文学者海野和三郎(東京大学 垣間見ることができるだろう。大正十四年(一九二 思いの深さと複雑さを、その後の彼らの活動の中に 争と日本国ないし日本文化に対して持つそれぞれの 昭和二十年の敗戦時に二十歳前後の大学生であっ た遠藤周作や安部公房や三島由紀夫や梅原猛らが戦 大きな愛の中にそつと包んで それは二人が別離と云ふものを 其の上二人は悲しむ事さへしないのです 神様も一緒に あの星達の間から 木の葉の様に落ちて来るのですから 二人はそれを恐れません けれど決して そら 地球も落ちて行く そつと二人に知らせます 誰も知らない広い世界が 二人は空を見上げます 神様も落ちて行くのかしら 星が落ちて行く 静かな友が申します 或る星の降る夜 京帝国大学医学部に入学している。 あ り、 そ こ で は 勝 者 も 敗 者 も 共 に 日 本 人 で あ っ た 三五─) ・寺山修司(一九三五─一九八三)など。 大 江 健 三 郎( 一 九 三 五〈 昭 和 十 〉─ ) ・美 輪 明 宏( 一 九 後世代」の四世代の違いを想定することができる。 生まれの違いで、また文科か理科かの違いで、戦地 ─二〇〇七) ・土 方 巽( 一 九 二 八 ─ 一 九 八 六 ) ・澁 澤 龍 が、昭和の戦争は国外戦、すなわち日中戦争と太平 大正末期生まれの人は、終戦=敗戦の頃、二十歳 前後の大学生などであった。昭和ヒトケタの人は、 に赴いたかどうか、戦死したか生き延びたかという きく異なる」ということだ。確かに、半年や一年の 終 戦 = 敗 戦 時、 ハ イ テ ィ ー ン か ミ ド ル テ ィ ー ン か 人が「無条件降伏(ポツダム宣言受諾) 」という「敗戦」 洋戦争という国外戦であり、日本国家および全日本 3 004 ● 第 1 部 こころのワザ学 例へ昼がやつて来たつて れない。 た時空間、つまり、負け男の聖域であったのかもし ちてしまった世界で生き延びていくための秘められ はた忘却の国々にか 今 いづくにぞ さすらひ行く 或は間隙をもたざる国々にか ないそんな夜」、それは「星」も「神」も「地球」も落 二人はこんなに強いのです ………… おゝされど 神々よ 今一度ふりかへり給へ 何の上にも とどまる事をしないからです 誰も知らないそんな夜を 「 或 る 星 の 降 る 夜 」を 書 い て 一 カ 月 余 り 経 っ た 十 二月十七日付けの友人の高谷治あての書簡には、「神 自分丈の内に保つてゐるからです 恐ろしき反照にこがされたる 今はすでに彼の 最後の別れを告げ給へ 我胸にやすらふ神話に 例へば アポロンの 話」と題する詩がしたためられている。 戦後の乾いた文体で日常の中から非日常的な抽象 化された世界を伐り出すあの安部公房とは思えない ほどのウェットな文体である。安部公房自身が書い する文学」、古林尚との対談)と。 キーの次にリルケが好きだった」 (「共同体幻想を否定 てのリルケに惹かれたんだと思うね。ドストエフス 全部いやだったんだな。だから、負けこんだ男とし しょう。あの時代に、ぼくはもう勝っている人間が ヘ ッ セ に し て も、 や っ ぱ り ど っ か で 勝 っ て い る で きだったのだなあ。リルケのね。カロッサにしても えにしたんだ」 、 「結局、負けきったという状態が好 し、そのヤスパースの延長として、リルケを心の支 い ま し た の で ね、 そ れ で ヤ ス パ ー ス に ひ ど く 傾 倒 への帰属というものを拒否してくれる思考に餓えて 今日常の事より一つの神話が かの神話なりしか 選び出したるが 印象と時代の網もて 彼の奇しき生より 彼の神々の間隙を見つめ給へ 歩み止めて 空間を取除きたる後の影なるか 総ての神話は……あはれ 大いなる黒き天幕にうがちたる穴 天上の星も今こそは 青ざめた日の神よ 数々の人間の しつくいもて ゆはひつけられ に入学するが、その冬に肺浸潤で休学し、奉天の実 飛び級で卒業し、東京の旧制成城高等学校理科乙類 九四〇年(昭和十五) 、旧制奉天第二中学校を四年の 期を奉天市の満鉄周囲の日本人地区で過ごした。一 東京に生まれた安部公房は、一九二五年(大正十 四) 、 一 歳 の と き、 家 族 と と も に 満 州 に 渡 り、 幼 少 だがその「神話」も「神々」も、終わっている。 負け男の聖域の中に「我胸にやすらふ神話」がある。 つ め る。 「 天 使 に さ へ 見 捨 て ら れ し 神 々」を。 だ が、 影」であり、その「影」としての「神々の間隙」を見 現 さ れ る。 「総ての神話」は「空間を取除きたる後の いる。そんな「神話」や「神々」への哀傷と別離が表 ここでも「神話」や「神々」は落ちている。落とさ れている。負けている。隠退している。忘却されて 人の心をあはれみつつも…… そこで「負けこんだ男としてのリルケ」張りの詩 を書くことになるのだが、注意したいのは、ここで 天上に帰らんとする時…… 家に戻って療養に専念する。一九四三年(昭和十八) 胸の中に よみ返へる時を 黙して見つめ給へ されている点である。そしてそれを見ている 「二人」 あえなくも その間隙の情なさよ 同年十月に東京帝国大学医学部医学科に入学する ていることだが、この頃の安部は敗者としてのリル がそれを「恐れる」ことも「悲しむ事」もしないとい もだえて なげく その網の目の大さよ が、文科の学生が学徒出陣する中、大学に無届のま ケに心酔していた。 「あのころ(戦中)のぼくは絶対 う 点。 そ の「 夜 」 、 「 星 」も「 神 」も「 地 球 」も 落 ち て はた小ささよ ま、一九四四年末満州に帰り、開業医となっていた 「星」とともに「神様」も「地球」も「落ちて」いくと つれ いく。だが、 「夜」から「昼」になっても、 「二人はこ あはれ叫びて墜ちぬ 父安部浅吉の手伝いをする。 九月、戦争中のこともあり、繰り上げ卒業により、 んなに強い」という。それは、 「誰も知らないそんな 天使にさへ見捨てられし神々か 6 4 夜を/自分丈の内に保つてゐるから」だ。 「誰も知ら 第一章 「こころの練り方」探究事始め その五 安部公房と三島由紀夫を中心に ● 005 5 僕たちはあなたのまはりで 誇らかな潜入の屍が横たはる あゝ その凱歌の中で 尚も泣く者の在るのは何故なのか 出来得れば 日々に耐え 影の動きに 移ろつて行く時の様でありませう 。同年冬に浅 一九四五年八月十五日、敗戦(終戦) 吉は発疹チフスに感染して死亡する。敗戦後、家を 船で帰国、東京大学に復学する。一九四七年(昭和 せめて限られた樹液の中で 郷愁の為ではない 恐らくは 影に包まれたが故に神々と共に 儚い悔ではなかつたか れだけそのときの経験が過酷であり、傷と思いが深 人間の心には無い混沌と共に去つて行くのであら それとも唯 神々は死んで行くのであらうか お前は悲しい あの手の様に そして無意味だ あの別離の様に 盃に満たされた酒が おゝ 凋落する獣性の化石よ 宇宙の影に融けて行く 拡つて行く影と共に 夕ともなれば せめて一本の 木の様であつて下さい 神よ 規律と混乱を総計する正午の静謐だ 無形が凝縮して作るその紋章は 更に凝集する嵐と共に落下する稲妻だ 最早暗雲を破るものは太陽ではない 恰も朝 消え行く時を泣く涙の中に 無数の太陽が凍り閉される様に その指を健気に飾る か? 彼はそんな「詩」を生涯持ち続けた人だった のではないだろうか? 敗戦一年前の一九四四年六月八日に書いたエッセ イ「詩と詩人(意識と無意識) 」は、第一章として、「一、 真理とは?」「二、主観と客観」「三、再び真理とは?」 「四、人間の在り方」 、第二章として、「一、世界内在」 とある。このエッセイは未完であるが、安部公房に 006 ● 第 1 部 こころのワザ学 失い、奉天市内を転々とする。一九四六年末に引揚 二十二) 、女子美術専門学校(現在・女子美術大学)の 音もなくいとなむ流れでありませう 安部公房にとって「神」あるいは「神々」とは何で 消え去つた己の影に別れを告げ得なかつた 学生・山田真知子と学生結婚。同年、 『無名詩集』を 業したが、医師国家試験を受けず、産科学の単位を 自費出版する。翌一九四八年、東京大学医学部を卒 認定してもらってかろうじて卒業し、作家活動を始 折しも傾いたその手から こぼれ落ちたひと滴の涙こそは か 神々を追ふて消えて行く最後の孤独ではなからう 中で、 「神」は復活したのだろうか? 更にその涙を追ふて消え果てるまで そして己れ自身が 同じく『無名詩集』の中の「嘆き」其の一と題する 詩にこうある。 雪」のようであってほしいと祈られる。安部公房の 「神」は「一本の木」や「果樹園の実り」や「一ひらの あったのだろうか? 戦前の詩の中では「神」も「神 話」も落ちていた。しかし、敗戦後の混乱期の中で、 める。そして、一九五一年(昭和二十六) 、 『壁─S・ カルマ氏の犯罪』で第二十五回芥川賞を受賞する。 この安部公房の生い立ちと経験に、戦争は深い影 を落としている。日本帝国の敗戦と、満州での敗戦 後の生活と引き揚げ。文科の学生たちの学徒動員と 戦死。この時代のことについて安部は詳しく表現す かったということだろう。その中で、 『無名詩集』は うか 苦悩を焼きつくす火は燃えぬだらう そうした安部の戦前・戦後の状況を知る貴重な作品 世界は人間の巨大な手 泥酔の為ではなく訣別の為であつた様に ることはあまりないが、いくつかの発言はある。そ である。 既に宇宙を越えた鉄の手で置き代へられた 果樹園の実りの様であつて下さい 支配よりも創造であり このようなリルケ風の「詩」を書きつける青年の 心。安部公房にとって「詩」とは何だったのだろう 「祈り」と題する次のよ その『無名詩集』の中に、 うな詩がある。 或ひは熱にうなされた額の上で 永遠は大理石と共に 跡もなく消えて行く一ひらの 創造よりも運営である鉄の手に あした 雪の様であつて下さい 8 7 いうことだろう。その 「詩」 が小説になり戯曲になっ とって「詩」とは意識論であり存在論でもあったと 空虚を愛する死人の家。 た。問題はその形式ではなく、意識と存在の原質で 移った「霊媒」になりすまして、その老婆の家の子 どもになろうとするが、良心の呵責と奇妙で不思議 な悪夢にうなされて、不安と後悔の中で失踪して行 方不明となってしまうという筋立てである。 構造を持っているといえる。第一に、自己の存在根 安部公房が旧制成城高校三年生のときの春に書い たこの小説は、その後の安部公房の小説の原型的な 拠、つまり、 「懐かしの我が家」を探し求めるが、そ の安部小説世界に不可欠の欠損・欠落があること。 第三に、行方不明、名前の不確かさという、その後 核に、「詩」 (イメージ、発想、コンセプト)があること。 「 異 物・異 形 」の 実 存 感 覚。 第 二 に、 物 語( 小 説 )の 世 か ら も、 こ の 世 か ら も 排 除 さ れ て し ま う と い う のような安住の場所はこの世のどこにもなく、あの 静かな朝、 低く低く身を起す。 そしてやさしい白い手を、 美しく、そして暖かく、 なごやかにまねき乍ら、 「生」の歌を舞い続ける。 しかし、 それは限り無い愛をはらんで、 「惨酷」 主、 いけにえ やがて嵐はその 犠 に、 恐ろしい栲問、幻影を課する。 我と我が身をさいなみて、 孤独の祭壇にひざまずく、 あった。 「神々」 「神話」とは何だっ 安部公房にとって「神」 たのだろうか? 彼は生涯その問題を「隙間」に隠 し 持 ち 続 け た の で は な い だ ろ う か? 『 無 名 詩 集 』 の「無名」者の「隙間」に。 」よ り 一 年 ほ ど 前 こ の「 詩 と 詩 人( 意 識 と 無 意 識 ) の 一 九 四 三 年 三 月 七 日 ─ 十 六 日 に 書 い た「 題 未 定 」 の 小 説 に は、 「(霊媒の話より) 」と い う カ ッ コ つ き の 副題のような記述がある。そして、その前半部の最 後に、次のような「詩」が挿入されている。 夜、嵐の中を歩み行く人は、 太平洋戦争中に自己と世界のアイデンティティの不 と小説とは截然と区別されるものではなく、すでに ─ 悲しい想出の舞を始める。 確かさに真向かう哲学的な「詩小説」を書き始めて 安部公房は一九五一年(昭和二十六)に第二十五回 芥川賞を受賞した『壁』の中で、 「哲学ってのは一種 生も無く、死も無く、 見捨てられた血の出る様なささやき、 いたのである。 突如としてその後ろに、 巨大な深淵は真っ黒な口を開く。 声も無く、無言も無く、 一刻一刻遠ざかって行く姿「友」 唯静かな朝を待ちこがれる。 愛も無く、憎も無い、 それ等はやがて重り合って、 安部公房は満州という土地、戦争中に青春を送っ たという時代の強い影響を受けているのはもちろん だが、母の影響も強く受けているように思われる。 の詩だよ」と述べているが、安部の中では哲学と詩 巨大なる混沌の中から、 目をむき出し、歯を食いしばり、 そして、忘れられて居た苦悩の死骸が、 やがて暗の中に融け込んで行く。 その歌は始めて生れ出る。 静かなる朝を求めて。 それは始めて嵐の中に息を吹き返えす、 暗、暗、 そして彼は深い深い吐息をつく。 実は、安部公房の母安部よりみは生涯にただ一冊 小説を発表している作家であった。その小説とは、 パー公(十八歳)と曲馬師見習いの青年クマ公(二十 る。 こ の 小 説 は、 前 半 は 曲 馬 団 の 物 真 似 芸 の 少 年 「混沌」 「別離」 「深淵」 「惨酷」 「苦悩」 ここにも、「嵐」 などの語が頻出し、リルケ風の悲愴美が横溢してい 翌年三月七日。出版日は三月二十日。版元は「異端 き上げて、公房出産直後に出版している。出産日は 年(大正十二) 、長男の公房を妊娠している最中に書 である。この処女小説超絶惨酷恋愛小説は一九二三 安 部 ヨ リ ミ の 名 で 刊 行 し た『 ス フ ィ ン ク ス は 笑 ふ 』 其の深淵の中から、 一歳)の物語で、後半はパー公が曲馬団を脱出して、 社」 。できすぎているが、事実である。その半年前 其の日は、 生と愛とからの別離の日、 総てが深淵の中に吸い込まれて行くのを、 やがて聞えて来るものは、 あ る 村 の 老 婆 の 死 の 場 面 に 出 く わ し、 老 婆 が 乗 り 魂のぬけた目で眺めやり、 愛を求める英雄を讃える歌。 恐ろしい嵐の中に歩み入る。 悲痛を喜ぶ蜘蛛の糸。 第一章 「こころの練り方」探究事始め その五 安部公房と三島由紀夫を中心に ● 007 9 『 壁 』の 主 人 公 は、 名 前 を 喪 失 し た そ ん な 奇 妙 な 男 の婦人団体「赤瀾会」のビラを校内に貼ったために ( 現 在・お 茶 の 水 女 子 大 学 )に 進 学 し た が、 社 会 主 義 、北海道旭 安部よりみは一八九九年(明治三十二) 川 近 郊 の 開 拓 村 で 生 ま れ、 東 京 女 子 高 等 師 範 学 校 じるような眼でカルマ氏を見つめる。 『壁』の最後の オン、縞馬、オオカミ、キリン、ラクダが郷愁を感 S・カルマ氏は砂漠を胸に吸い込む。動物園のライ 界の果てとは自分の部屋」にほかならない。その男 を打ち建てた“心”の墓標であったといえる。確か し た『 仮 面 の 告 白 』は「 仮 面 の 告 白 」と い う「 仮 設 」 “自我”も“心”も、 実は、三島由紀夫においても、 「 仮 設 」で あ っ た。 一 九 四 九 年( 昭 和 二 十 四 )に 発 表 の九月一日、関東大震災が起きた。 三島由紀夫の場合 退学となった。一九二三年(大正十二) 、同郷の出の 一 節 は、 「 見 渡 す か ぎ り の 曠 野 で す。 / そ の 中 で ぼ で あ る。 そ の 男 の 奇 怪 な 体 験 世 界 に お い て は、 「世 安 部 浅 吉 と 結 婚 し、 翌 二 四 年 に 安 部 公 房 を 出 産 し に、表面上は一見、主人公も私小説風に心理分析さ しかしそこには「告白」する“内面”も“自我”も ない。あるのは、 「仮設」の「仮面」であり、その「仮 くは静かに果しなく成長してゆく壁なのです」とい 壁よ 面」が繰り出す言葉である。いやむしろ、そのよう た。小説『スフィンクスは笑ふ』は、韜晦した複雑 んでいた。一九二三年九月、関東大震災が起きたが、 私はおまえの偉大ないとなみを頌める な「仮面」以外に真実の“素顔”などというものはな れているように見える。 そのような激動の中で安部公房の母安部よりみはこ 人間を生むために人間から生れ い、 と い う こ と を 三 島 由 紀 夫 は 告 げ よ う と し て い う抒情的で不気味な不合理で閉じられる。 の『 ス フ ィ ン ク ス は 笑 ふ 』を 書 い て い た の で あ る。 人間から生れるために人間を生み る。 な自伝小説のようにも見える。当時、安部浅吉は国 凄絶なる女傑というほかない。一九九〇年(平成二) おまえは自然から人間を解き放った 立栄養研究所に留学中で、東京府下の滝野川区に住 に九十一歳で死去している。 私はおまえを呼ぶ 三島由紀夫はオリジナルとコピーという二元論を 信じない。永遠にコピーの反復でしかないという諦 はとてつもなく複雑に思われるが、彼女はしかしそ これを安部公房出産と同じ月に出した母の精神構造 安子の異様な最期が描かれる破滅的な小説である。 により望まぬ妊娠をして過酷な状況の中で出産する のもつれの中で進行する恋愛と破局と、義兄の強姦 れて「 目 」だけ 残った「 透 明 人 間 」に なってし ま う。 と始まるが、その「ぼく」はある「獣」に「影」をとら 「第二部 バベルの塔の狸」は、 「ぼく そして『壁』 のことをお話しましょう。/ぼくは貧しい詩人です」 ない。 体のみがある。したがってそこには“心”もありえ 「 仮 設 」環 境 で あ る。 ど こ に も 実 体 は な い。 「仮設」 「仮設」人間 そこでは、すべてが「仮設」である。 であり、「仮設」住宅である。また「仮設」生物であり、 で は ないニセモノの 安 永 透 を 主 人 公 と す る 第 四 巻 とする第三巻『暁の寺』を「奇魂」の書、真の転生者 『奔馬』を「荒魂」の書、タイ王室の月光姫を主人公 に在学する右翼少年飯沼勲を主人公とする第二巻 ヒポテーゼ 人間の 仮 設 と 念とニヒリズムがある。それが遺作『豊饒の海』四 この小説『スフィンクスは笑ふ』の主人公は、前 半 は 松 本( 旧 姓 小 野 )道 子 で あ る が、 後 半 は 彼 女 の 親友で恋破れて転変していく渡辺安子となる。この の後一切文筆活動を断ったようである。だが、その この『壁』の主人公たちに“心”とか“自我”とか“内面” 『天人五衰』を「幸魂」の書の表現として構想してい 部作にも顕われている。 母の「断筆」を長男の安部公房が「復筆」した。 とか“主体”という実体性はない。すべてが不確かで 準ないし横糸とし、唯識哲学をそれを串刺しする縦 た という。 神 道 でいう「一霊 四 魂 」を一つの 分 類 基 小説は、複雑な連立方程式のような二重の三角関係 安部公房がこの母の小説をいつ、どのような形で 読んだのかはわからない。だが、その母の破天荒な 輪 郭 線が 曖 昧である。いわゆる「 近 代 的 自 我 」が 成 あらみた ま さきみた ま ジン・ジャン 糸 としよう としたのだろう。すべてを「 識 」の作 用 くしみた ま 男松枝清顕を主人公とす 三島は最初、侯爵家のにぎ長 みた ま る第一巻『春の雪』を「和魂」の書、國學院大學予科 けでも、 「異常事態」の出来である。 『豊饒の海』の主人公はみな二十歳で死 たとえば、 に、次々と「転生」していく。この「転生」の設定だ 想像力と創造力を息子が受け継いだ。 り立たないところに主人公たちは浮遊している。 し、名刺や物が叛乱を起こして、ついに壁となる。 008 ● 第 1 部 こころのワザ学 4 (『壁』) 安部公房にとっては、「哲学」は「一種の詩」 である。そこでは、名前が消え、人称主体が融け出 10 松枝清顕の「和魂」の「心」と飯沼勲の「荒魂」の「肉 の偏愛的範型であったのだろう。いずれにしても、 を理想とし文武両道をモットーとした後半生の三島 島由紀夫にとって、この飯沼勲の雄姿は、日本武尊 の「肉体」を装着した「楯の会」の「会長」である三 闘 派 右 翼 少 年 で あ る。 ボ デ ィ ビ ル に よ っ て「 仮 設 」 な松枝清顕とはまったく対照的なますらおぶりの武 の世界を描く『奔馬』では、主人公の飯沼勲は柔弱 の神髄を存分に描いている。それに対して、 「荒魂」 めぶりとも雅ともいえる風情を湛え、絢爛豪華な美 清顕と綾倉聡子の悲恋は王朝的な物語絵巻のたおや の世界を描いた『春の雪』では、侯爵家の長男松枝 『 奔 馬 』ま で は 成 功 し て い る よ う に 見 え る。 「和魂」 そしてその創作意図は、第一巻『春の雪』と第二巻 る。 『豊饒の海』は確かに見かけ上「豊饒」に見える。 のように実に美しくもはかなく鮮やかに浮かんでく すべてが「仮設」であると考えると、三島由紀夫 の打ち建てるすべての建造物は、炎上する「金閣寺」 はない。 あり、空である。オリジナルに見えるものにも実体 かなく消え、 「天人五衰」のように転変する。無常で 疾 走したとしても、いず れは「 春の雪 」のようには のはない。それはたとえ「 奔 馬 」のように猛々しく れるが、最終実体はない。永遠に不滅などというも には「仮設」の絢爛豪華な建造物は何棟も何層も造 しかしとり あ えず「 仮 設 」することができる。そこ 体 は 最 終 的 に「 仮 設 」の も の と し て 否 定 さ れ る が、 とみる唯識の立場からすれば、 「一霊」などという実 という謎めいた言葉が実現するのを目撃したのだ。 夢を見ていた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」 松枝清顕の友人であった判事の本多繁邦は、三輪 山山中の三光の滝で、清顕が今わの際に言った「今、 語を紡いでみせている。 いが、しかし、次のように三島は夢見と三輪山の物 周到な三島由紀夫が直接この『古事記』の伝承を 『 豊 饒 の 海 』に 引 用 し た り 暗 示 し た り す る こ と は な 上毛野君や下毛野君の祖となる。 豊 城 入 彦 命 は、 東 国( 上 毛 野 = 上 野 国 )を 治 め る 九日に活目入彦五十狭茅尊は日嗣皇子となり、兄の 継がせると言い渡す。こうして、四カ月後の四月十 に縄を張り渡した弟の活目入彦五十狭茅尊に皇位を こ の 二 人 の 夢 見 を 聞 い て、 崇 神 天 皇 は、 東 に 向 かった兄の豊城入彦命は東国を治める者とし、四方 い粟を食べる夢を報告した。 登り、四方に縄を張り渡し、粟を食べる雀を追い払 告した。続いて、活目入彦五十狭茅尊は、三輪山に に向かって八回槍を振り、八回刀を打ち下す夢を報 内容を報告する。豊城入彦命は、三輪山に登って東 神に祈りを捧げて眠り、次の朝、天皇にその夢見の ことにすると言い渡す。二人は沐浴して身を清め、 呼び、二人の夢見の内容を判断して後継者を定める 天皇四十八年一月十日、崇神天皇は第一皇子 崇と神 よ き いり みこと いくめいりひこいさちのみこと の豊城入 彦 命と第三皇子の活目入彦五十狭茅尊を のようなものであった。 によって決めるのだが、その経緯と夢の内容とは次 天皇は後継者となる第十一代天皇を夢見を占うこと な い 神 体 山( 神 奈 備 山 )と さ れ て き た。 第 十 代 崇 神 ころへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。 この庭には何もない。記憶もなければ何もないと れるのだが、その光景は無惨である。 いく。そして最終巻となる第四巻『天人五衰』の結 にその想像力と表現世界は失速して緊張感を失って だが、この右翼少年飯沼勲の肉弾テロリズムと自 死のあと、第三巻以降の戦後社会を描くとき、急速 見に「仮設」の現実をあてがい接続する仕業である。 崇神天皇の夢見の世界とも通じる、 「仮設」の心=夢 一 度 坐 ら れ た あ と 」を 視 る。 こ の 視 力 と 想 像 力 は、 三 島 由 紀 夫 は、 三 輪 山 の 聖 な る 場 の 磐 座 に、 「戦 ひ の あ と 」、 「 信 じ が た い や う な 恐 怖 の あ と 」、 「神が かと思はれた。 は、地上の事物はこんな風に変貌するのではない 恐 怖 の あ と を 思 は せ、 神 が 一 度 坐 ら れ た あ と で りは、戦ひのあと、それよりも信じがたいやうな しのべてゐた。すべてが神の静かな御座といふよ ゐた。別の石は、平坦すぎる斜面をひろびろとさ 石は石と組み打ち、組み打つたまま倒れて裂けて の「転生」の接続の描写はなかなかロマンティック りであることを戦慄とともに確信したのである。こ 子があるのを見て、飯沼勲が松枝清顕の生まれ変わ いる飯沼勲の脇腹に松枝清顕と同じ三つの小さな黒 しもつけののきみ で行われた剣道の奉納神前試合で初めて十九歳の飯 末に、唯識哲学に基づく「無」と「心ごころ」が描か おまし そしてその後に、三輪山山頂の有名な磐座群を次 のように表現する。 かつドラマティックである。 体」とは、天皇=皇統とサムライ=武士道を両極と 本多繁邦は、三輪山山麓に鎮座する大神神社の境内 ひこの する「日本的美的範型」の体現であったといえよう。 沼勲を知り、三輪山山中の三光の滝で滝に打たれて 『 豊 饒 の 海 』全 巻 に 登 場 す る 唯 一 の 登 場 人 物 で あ 12 かみつけののきみ と 「三輪山」 である。 ここで注目したいのが、「夢見」 古来、三輪山は神の山として崇められ、本殿を持た 第一章 「こころの練り方」探究事始め その五 安部公房と三島由紀夫を中心に ● 009 11 リズムとアナーキズムを三島美学のレトルトの中で を見失ってしまうのである。それは唯識哲学とニヒ 「神」も「美」も松枝清顕も飯沼勲も月光姫もすべて す る 主 人 公 の「 審 神 者 」で あ る が、 最 後 の 最 後 に、 り狂言回し役の判事である本多繁邦は、 「輪廻転生」 島 は 思 考 の 頽 廃 と 下 品 と 虚 無 を 感 じ と っ た。 「私は を探り当てずにはいられない“剝ぎ取る”思考に三 あるものをそのまま受け取らず、常に“裏”や“奥底” 義を表明し激しい批判と拒絶を示したのである。形 のような近代的思考の基底にある「思考方法」に疑 実」というものの噓くささと仮構性を見抜いた。そ を見てとったのである。 晶、 「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」 島はこの「形=フォルム」の中に民族の精神性の結 「形」 ( あ る い は「 型 」 )の 文 化 で あ っ た と い え る。 三 考えてみれば、三島由紀夫の讃美した「天皇」も 「 武 士 道 」も 彼 の 死 に ざ ま で あ る 割 腹 自 決 も み な、 ぬ不気味な不健全なもの」とは、「奥底」とか「無意識」 取つたからである」と三島は言う。この「いひしれ くなった英霊の「霊」が天皇に恨みを述べる「聲」を 『 英 霊 の 聲 』は 二・二 六 事 件 の 首 謀 者 や 特 攻 隊 で 亡 て ほ し い 最 大 最 高 の 指 標 で あ っ た。 三 島 由 紀 夫 の わ 変容・消滅させる錬金術のワザである。実際、三島 かつて民俗学を愛したが、徐々にこれから遠ざかつ そのような三島由紀夫にとって、天皇はそのまま 天皇という「仮設」の「形(フォルム) 」でありつづけ 自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かい、楯の会会員とともに とか“内面”を「つかみ出す」思考と意図であり、い 表現した小説である。三島は『英霊の聲』の冒頭で、 に 由紀夫は、この最後の原稿を書き上げた一九七〇年 た。そこにいひしれぬ不気味な不健全なものを嗅ぎ 東部総監室に押し入って自決したのである。 かにもそれらしい“真実”なるものである。 締めて自決したのである。この三島由紀夫の周到さ 作品の完結直後に「七生報国」と染め抜いた鉢巻を 設 」す る た め に「 輪 廻 転 生 」の 思 想 に 依 拠 し、 そ の 通念に抗して、あえて反時代的な悲劇的物語を「仮 二本柱であるキリスト教もプラトン哲学もともに二 隷の思想」として徹底批判した。西洋思想を支えた 想 定 す る 思 想 を「 背 後 世 界 論 」と 呼 び、 そ れ を「 奴 世界の奥や内や裏や背後に天国や霊魂の世界などを 背後世界論批判を想起する。ニーチェは、この現実 『 ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ か く 語 り き 』の 中 の ニ ー チ ェ の り」 と呼ばれるシャーマニスティックな儀礼である。 儀 礼 で、 「霊を以て霊に対する法」 、伝統的に「神懸 の法」の実修を含むシャーマニスティックな修法・ 対して「幽祭」とは「帰神の会」が行っている「帰神 人共食儀礼の直会をする通常の祭りの形態をいう。 司以下参列者が玉串奉奠して拝礼して神事の後で神 かの神前に神饌をお供えして斎主が祝詞を奏上し宮 つ て、 そ の 精 神 集 中 に よ つ て 霊 感 を 得 る も の 」で、 010 ● 第 1 部 こころのワザ学 さ 十一月二十五日の朝、原稿を編集者に手渡した後、 三島由紀夫は『豊饒の海』第一巻『春の雪』の最後 に、この作品は「 『浜松中納言物語』を典拠とした夢 を嗤うことはできない。 元論的な「背後世界論」で、それがルサンチマンに 神道の祭りを 「顕祭」と 「幽祭」に分けて説明する。「顕 祭」とは、賀茂神社の葵祭とか八坂神社の祇園祭と と転生の物語」と注記している。三島由紀夫は生命 わたしたちはこの三島由紀夫の「奥底にあるもの をつかみ出す」思考に対する批判の先行形態として、 『日本文学小史』の中で、民俗 その三島由紀夫が、 学を「奥底にあるものをつかみ出す」学問として徹 満ちた弱者の思想であると拒絶した。 尊重と基本的人権を最優先する現代の人間観や社会 底的に批判したのは実に興味深い。 である。そして三島は「奥底」や「深層」ではなく、 「 い は ゆ る 芸 術 家 の イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン 」な ど は こ メノミコトや神功皇后の「神懸り」は「顕の帰神」で、 「顕 こ の「 帰 神 」の 中 に も さ ら に「 幽 顕 」が あ り、 の 帰 神 」と「 幽 の 帰 神 」の 区 別 が あ る。 ア メ ノ ウ ズ この点ではニーチェ主義者であった三島由紀夫 は、 「私には無意識はない」と豪語し、深層構造を掘 表 面 の「 フ ォ ル ム = 形 」に 執 心 し た。 『文化防衛論』 れ に 含 ま れ る。 そ の「 幽 の 帰 神 」を 行 う の が「 帰 神 奥底にあるものをつかみ出す。 の 中 で 三 島 は、 「 文 化 は、 も の と し て の 帰 結 を 持 つ の会」である。 「幽の帰神」とは、 「本人も気づかぬうちに霊境に入 さういふ思考方法に、われわれ二十世紀の人間 は馴れすぎてゐる。その奥底にあるものとは、唯 にしても、その生きた態様においては、ものではな 神韻縹渺とした石笛の音に導かれながら白皙盲目 の川崎青年が帰神状態に入り、次のような言葉を吐 り下げる営みを同様に「奴隷の思考」と拒絶したの 物弁証法の教へるものでもよい、精神分析学や民 く、又発現以前の無形の国民精神でもなく、一つの 俗学の示唆するものでもよい、何か形のあるもの 形( フ ォ ル ム )で あ り、 国 民 精 神 が 透 か し 見 ら れ る き出す。 は の、形の表面を剝ぎ取つてみなければ納まらぬ。 一種透明な結晶体」であると述べている。 『 仮 面 の 告 白 』の 作 者 で あ る 三 島 由 紀 夫 は、 表 面 の奥底にある「仮設」される「深層」や「真相」や「真 13 からごころ 崩れた。赤誠の士が叛徒となりし日、漢意のナチス か ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。 かぶれの軍閥は、さへぎるもののない戦争への道を 外国の金銭は人らを走らせ 利害は錯綜し、敵味方も相結び、 人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし 琴の絃が絶たれたやうに歌は止んだ」と。 間となりたまひし』とまで歌つたとき、しかし突然 し か し い ひ し れ ぬ 怒 り と 慨 き を 含 ん で 歌 つ た。 『人 「をはりに近づくほど手拍子も勢ひ 三 島 は 記 す。 いはぶえ ね 高く、声は弾んで、石笛の音を圧するほどに朗々と、 こは神としてのみ心ならず、 問い糺す。そしてさらに次のように語る。 「すめろぎ」であり「神」であったのかと霊は激しく けられることもなかった。そのとき天皇はまことに 「 わ れ ら の 釈 明 」の 機 会 は 与 え ら れ な か っ た。 そ の声も意思も「大元帥陛下」に届くことも、聞き届 あま が 天翔けるものは翼を折られ まを かけまくもあやにかしこき ひらいた。/われらは陛下が、われらをかくも憎み すべ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑ふ。 たまうたことを、お咎めする術とてない。/しかし とが すめらみことに伏して奏さく かかる日に、 もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、 石笛を吹いていた審神者の木村先生は川崎君に 懸ってきた霊に対して、 「いかなる神にましますか、 と などてすめろぎは人間となりたまひし 叛逆の徒とは! 叛乱とは! 国体を明らかにせん ための義軍をば、叛乱軍と呼ばせて死なしむる、そ 邪 まなる戦のみ陰にはびこり 答へたまへ」と問い質す。すると霊は、 「われらは裏 の大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか」と。 夫婦同朋も信ずる能はず 人として暴を憎みたまひしなり。 ひ 今、四海必ずしも波穏やかならねど、 げん 日の本のやまとの国は こ ふ く げ きじやう 鼓腹撃 攘 の世をば現じ もと いつはりの人間主義をたつきの糧となし 切られた者たちの霊だ」と答える。そして、霊は、「わ 鳳輦に侍するはことごとく賢者にして 御仁徳の下、平和は世にみちみち 偽善の団欒は世をおほひ れらがその真姿を顕現しようとした国体はすでに踏 道のべにひれ伏す愚かしき者の よこし いん なみ ほほゑ 力は貶せられ、肉は蔑され、 みにじられ、国体なき日本は、かしこに浮標のやう 血の叫びにこもる神への呼びかけは ひ 若人らは咽喉元をしめつけられつつ に心もとなげに浮んでゐる。/あれが見えるか。/ つひに天聴に達することなく、 かうむ なげ 怠惰と麻薬と闘争に 今こそわが本体を明かさう。われらは三十年前に義 陛下は人として見捨てたまへり、 と かつまた望みなき小志の道へ 軍を起し、叛乱の汚名を蒙つて殺された者である」 かの暗澹たる広大なる貧困と とつくに 羊のごとく歩みを揃へ、 と名乗る。参会者の「私」はここに至って初めて、「こ 青年士官らの愚かなる赤心を。 ことごと いと 快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、 の霊がかつて代々木の刑場で処刑された若い将校の わが古き神話のむかしより いくさ 魂は 悉 く腐蝕せられ 霊であることを知つた」のである。 素戔嗚尊は容れられず、 かて 年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、 「叛逆・叛乱の徒」とされた青年 二・二六事件で、 将校たちは「釈明」する機会もなく、 「極刑」に処せ 聖域に馬の生皮を投げ込みしとき すさのをのみこと おもて ひ すめろぎ と あ らみたま お 大地の精の血の叫び声を凝り成したる ほうれん 道徳の名の下に天下にひろげ られた。そのことを霊は次のように恨み、語る。 「軍 神のみ怒りに触れて国を遂はれき。 へん 真実はおほひかくされ、真情は病み、 のわれらの敵はこれに乗じて、たちまち暗黒裁判を このいと醇乎たる荒 魂 より イ 道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく 用意し、われらの釈明はきかれる由なく、はやばや 人として陛下は面をそむけ玉ひぬ。 ブ なべてに痴呆の笑ひは浸潤し と極刑が下された。/かくてわれらは十字架に縛さ などてすめろぎは人間となりたまひし ばく 魂の死は行人の額に透かし見られ、 れ、われらの額と心臓を射ち貫いた銃弾は、叛徒の ぬ (中略) 感情は鈍磨し、鋭角は摩滅し、 はづかしめに汚れてゐた。/このとき大元帥陛下の 15 そのときからすでに天皇は「神」ではなく「人間」 と 烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。 率ゐたまふ皇軍は亡び、このときわが皇国の大義は ひ 血潮はことごとく汚れて平和に澱み 第一章 「こころの練り方」探究事始め その五 安部公房と三島由紀夫を中心に ● 011 14 あり、 「痛切な悲しみに充ちた慟哭の声」であった。 「鬼哭 こ の「 裏 切 ら れ た 霊 」の「 血 の 叫 び 聲 」は、 としか云ひやうのない、はげしい悲しみの叫び」で 女 物、 狂 女 が シ テ ) 、 五 番 目( 切 能、 鬼・天 狗 が シ テ ) 武人がシテ) 、三番目(鬘物、美人がシテ) 、四番目(狂 『英霊の聲』は「修羅物の様式」に則っていると三 島は言う。能は、初番目(神がシテ) 、二番目(修羅物、 ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非 の間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結 害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民と 書には、 「然れども朕は爾等国民と共に在り、常に利 わゆる「人間 宣言 」の中に出てくる言 葉である。詔 スサノヲのように放遂された荒魂は、その恨みのた の五本を上演するのが基本で、 「修羅物」は二番目= 民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき き こく けを語り尽した。二・二六事件の青年将校の「地を 破 の 序 と 位 置 づ け ら れ る。 形 式 全 体 は 複 式 夢 幻 能 運命を有すとの架空なる観念に基くものに非ず」と 和四十一) 『文藝』六月号に発表し、同年六月に単行 きだつた。何と云はうか、人間としての義務におい においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべ 二人目の後ジテとして登場するのは、特攻隊員の 霊 で、 こ の 霊 も 同 様 の 呪 詛 を 発 す る。 「昭和の歴史 の形式である。 であり、到底安部公房には受け容れられない思想で それは、満州で育った安部公房とは対極にある思想 このような激烈な『英霊の聲』を媒介する三島由 紀夫は単純で平板な保守主義者ではない。おそらく 空なる観念」であったと述べられているのである。 あるが、この中に 「天皇を以て現御神」 としたのは 「架 の魂」を失い、 「人間宣言」の詔勅において「国の魂」 ずに、自決し果てた。それはあたかも、 『英霊の聲』 重男の死顔は「何者とも知れぬ」 、 「何者かのあいま 崎重男のようである。霊の「聲」を取り次いだ川崎 012 ● 第 1 部 こころのワザ学 になっていたのだと。 ゆるがすやうな慟哭」は「などてすめろぎは人間と で、二人の死者の霊が怨みを語り尽すという夢幻能 本『 英 霊 の 聲 』 ( 河 出 書 房 新 社 )と し て 刊 行 し た。 こ て、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、 あっただろう。だがここにこそ、三島由紀夫の明晰 どう こく なりたまひし」と昭和天皇の人間宣言を呪詛してや の作品の成立の経緯は同書に収められた「二・二六 陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおい な天皇認識と戦後観が痛切に示されているのであ まないのである。 事件と私」の中で詳しく述べられているが、興味深 て、正に、神であらせられるべきだつた。それを二 る。三島は、天皇が「神」であることによって初め この激烈なる小説を三島由紀夫は一九六六年(昭 いのは、 『英霊の聲』の小説形式と能の様式との関係 度とも陛下は逸したまうた。もつとも神であらせら て「軍の魂」と「国の魂」を失うことなく日本国の伝 が次のように語られている点である。 れるべき時に、人間にましましたのだ」と。 三島由紀夫は一九七〇年十一月二十五日に自衛隊 の市ヶ谷駐屯地東部総監室に乱入して自衛隊員に向 統と矜持を保持することができたと考えている。 を指す。そのとき、天皇は「人間」ではなく「神」で かい、生命より大事な「日本の魂」を守れという演 こ こ に 言 う「 二 度 」と は も ち ろ ん、 二・二 六 事 件 の際と、敗戦後のいわゆる「人間宣言」の際のこと 序の段(ワキ登場) あるべきだったと恨みを述べる。天皇がそのときに 説をぶち、 「檄文」を撒き、ほとんど誰にも理解され 「 英 霊 の 聲 」は 能 の 修 羅 物 の 様 式 を 借 り、 お ほ むね二場六段の構成を持つてゐる。次の如きが、 ― 第一場 破の段(シテ登場・問答) 「人間」であったために、二・二六事件のときに「軍 なかいり 序の段(ワキ待 謡 ) における、二・二六事件の青年将校や特攻隊員たち まちうたい 急の段(上歌などでシテ中入) あげうた 修羅物の典型的形式で、 ― を 失 っ た と 霊 た ち は 嘆 き 悲 し む。 「御聖代が真に血 の「裏切られた霊」たちの「聲」を取り次いだ霊媒川 第二場 破の段(後ジテ登場・クセ・カケリ) にまみれたるは、兄神たち(引用者注―二・二六事件 の青年将校たちを指す)の至誠を見捨てたまうたその いな顔に変容」していたが、介錯によって斬首され のち 急の段(修羅の苦患を訴へて、切) 日にはじまり、御聖代がうつろなる灰に充たされた た 三 島 由 紀 夫 の 死 顔 も「 仮 面 の 告 白 」の よ う に「 何 きり 小説では、木村先生がワキの僧、川崎君がワキ ヅレ、二・二六事件青年将校が前ジテ、特攻隊員 るは、人間宣言を下されし日にはじまつた。すべて 者かのあいまいな顔に変容」していたのである。 く げん が後ジテで、この特攻隊の攻撃がカケリを見せ、 過ぎ来しことを『架空なる観念』と呼びなし玉うた 「 後 ジ テ 」と し て 登 場 す る 二 人 目 の 霊 で あ る 特 攻 日にはじまつた」と。 特 攻 隊員の霊が語るこの「架空なる観 念」とはい そのあと切までが苦患を訴へる急の段に該当する が、地謡が合唱を受け持つ心持になつてをり、い はば典型的なカケリ物である。 16 いかなる強制、いかなる弾圧、 されど、ただ一つ、ただ一つ、 (中略) 神界にありながら安らひはあらず 今もなほうつろなる胸より血潮を流し 祭らるべき社もなく 神のために死したる霊は名を剝脱せられ 陛下がただ人間と仰せ出されしとき だから「英霊」は戦後日本の虚偽体制の中で「怨霊」 りで、それを支える「国体」も信仰実体も消滅した。 として祀られはしたが、しかし「英霊」とは名ばか で あ っ た。 特 攻 隊 の 霊 は 確 か に ひ と た び は「 英 霊 」 三島由紀夫の『英霊の聲』は、鎮魂の芸能である 能がそうであるように、 「怨霊の聲」を取り次ぐ語り といえよう。 保守思想家の中でも群を抜いて特異なものであった の『英霊の聲』の烈しい「人間天皇」批判は同時代の 防 衛 論 』に お け る 三 島 由 紀 夫 の「 文 化 天 皇 」論 と こ 三 島 由 紀 夫 が 考 え て い た こ と を 示 し て い る。 『文化 く聞きたいのだけれども、僕は率直に言って、伝統 は、 「遅すぎはしないかな。 (笑)しかしもう少し詳し この三島由紀夫の「死ぬとき」に「最高理念・秘伝」 を授かるという“異様”な発言に対して、安部公房 三島 をだれかから授かって死ぬだろう。 局、おれが死ぬときはだね、最高理念をね、秘伝 をして、どんなに破廉恥な行動をしてもだね、結 どんなことをやってもだよ、どんなに西洋かぶれ いう観念は、伝統から得るほかないのだよ。僕が 隊員の霊は、その最後の「聲」を次のように語る。 いかなる死の脅迫ありとても、 化するほかないのだ。その「怨霊」の祟りの言挙げ という観念がほとんどないのだよ。観念がだよ。自 と 陛下は人間なりと仰せらるべからざりし。 として『英霊の聲』は記されているのだ。 ご いちにん ひ 世のそしり、人の侮りを受けつつ、 に対する不安感、恐怖感さえあったよ。だけどね、 おぼ のたま はくだつ ただ陛下御一人、神として御身を保たせ玉ひ、 だからこそ三島は執拗に「などてすめろぎは人間 となりたまひし」と呪詛的言挙げを繰り返したのだ。 もう自分に率直になっていい年だと思うよ。 (笑)そ うち 十世紀の文学」と題して『文藝』二月号に発表された。 おそらくこの頃『英霊の聲』を構想していた三島 由紀夫は、「死ぬとき」に授かる「最高理念」や「秘伝」 北海道なんだよ」と訂正している。 公房が「東京だよ。満州で育ったけれどもね。国は いうことと関係があるのではないか」と述べ、安部 三島由紀夫は「それはまた、きみが満州で生れたと ういうわけだろうね」と対している。それに対して、 分のなかにあまりにそれが欠如しているということ 安部 きみ、死ぬときに授かるのか。 そう、死ぬときに授かる。 (笑 ) そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、 それは、日本人にとって、神とは何か、霊魂とは何 こで率直に言うとね、僕にはやはり伝統という観念 と (たとひみ心の裡 深 く 、 さ な り と 思 す と も ) か、祈りとは何か、祭りとは何か、神社とは何かと がない。もう完全にと言っていいくらいないな。ど ひ 祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに 問いかける日本文化論でもあった。 かしこどころ 「二つのドングリ」安部公房と 三島由紀夫 宮中 賢 所 のなほ奥深く 皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、 神のおんために死したる者らの霊を祭りて いつ ただ斎き、ただ祈りてましまさば、 と 何ほどか尊かりしならん。 ひ などてすめろぎは人間となりたまひし。 などてすめろぎは人間となりたまひし かも知れない。しかし日本ほどストイックな伝統 スの時代)の ギ リ シ ャ は 日 本 に 似 て い る と 言 え る のあった花田清輝(一九〇九─一九七四)は武井昭夫 い親密さと相互承認に満ちている。この二人と交流 この二人の対談はおもしろいほど意見は異なり、 擦れ違っているのだが、にもかかわらず、この上な ていた。 を夢見ていた、そこに日本文化の神髄を見ようとし 「聲」は「神のために死したる霊は名を剝脱せられ /祭らるべき社もなく」と語るが、それは「人間宣 観念は、それほどはなかったかも知れないね。そ との対談集『新劇評判記』の中で、二人を評して、「似 三島 そういう点、そのころ(引用者注―ソクラテ その中で、三島由紀夫は次のように語っている。 三島由紀夫が『英霊の聲』を発表した年、一九六 六年二月一日、三島由紀夫と安部公房の対談が「二 18 ………………。 などてすめろぎは人間となりたまひし。 5 れにしても、僕はしかし、自分が非常に自由だと 第一章 「こころの練り方」探究事始め その五 安部公房と三島由紀夫を中心に ● 013 言」によって「英霊」が「英霊」たりえなくなったこ と を 意 味 し、 靖 国 神 社 や 護 国 神 社 と い っ た「 護 国 」 の社も「英霊」が「祭らるべき社」ではなくなったと 19 17 「 僕 は 流 謫 の 身 だ、 君 達 の 問 に 伍 す る 資 格 は な い。 共通する同時代人も珍しい。 得て妙である。これほど違っているのに、これほど てるよ。二つのドングリか」と述べているが、言い クスもイメージだけではワイセツにはならない。そ な」と加えている。安部もこの点については、 「セッ じゃない。言語というのは、非常にワイセツだから だって無 害 なものさ」と返し、それに三島が「 有 害 部が「それはそうさ。言語を媒介しなければ、なん うのは、二人いるのだな」と。 体化された自己なんだよ」 、 「やはり三島由紀夫とい 生き続けている」 、 「 読 者 は 自 己 の 主 体 で、 作 者 は 客 読 者 が、 き み の な か の 対 話 者 に な っ て 生 き て い る。 が前から知っていると言いたいわけだな。だから無 君達の言葉はもう僕には理解出来かねるし、僕の言 であるという認識。そのことを、名うての言葉使い 意 識 と い う も の は、 絶 対 に お れ に は な い の だ と 「 お れ は、 だ け れ ど も だ が、 三 島 は 納 得 し な い。 もう、無意識というのはなるたけ信じないようにし です。ペンを捨てゝ生きると言ふ事は、恐らく僕を であるこの二人の特異な作家は深く自覚していた。 し な い。 そ れ に も 負 け ず、 三 島 は、 「絶対にないの れが言語によってはじめてワイセツになるというこ 無意味な狂人に了らせはしまいかと思ひます」 (一九 この対談の中で興味深い対照は、伝統と無意識に ついての意見の徹底的な相違である。三島は言う。 だから」 と言い張る。すると、安部は、「そんなむちゃ 葉はまた君達には無用のものだ」 (「異端者の告発」初 四六年十二月二十三日付けの成城高校の同級生中埜肇 「おれの言っていることで、どうしても理解しても く ち ゃ な。 こ の 前 の 宇 宙 飛 行 士 の よ う な こ と を 言 ているのだ」、 「 無 意 識 の な か に 精 神 分 析 者 な り、 精 学教授〕宛書簡)とかの言葉は、そのまま三島由紀夫 らえないところはね、やはり伝統の問題だけれども う。 (笑) 」と呆れる。 と は、 非 常 に 大 事 な 問 題 な ん だ 」と 同 意 し て い る。 の言葉であってもおかしくない。もっとも、多くの ね、僕が頂上から頂上へ伝承されるということは、 出 誌『 次 元 』一 九 四 八 年 六 月 号 )と か、 「 詩 人、 若 く は 詩人や作家もそのような感覚を持っていると思われ そういうふうなことを言っているのではないのだ 今になって、この二人の対談を読むと、これほど 対極にある思想家がこれほど親密さの仲にあること 神病医なりが僕のなかに発見するものは、みんな僕 るが、とりわけ『壁』や『箱男』を書いた安部公房に よ。つまり『行為者の伝統』ということを言ってい に 驚 か さ れ る。 と り わ け、 「伝統」を巡る二人の認識 言 語 が「 ば い 菌 」で あ り「 ワ イ セツ 」で あ り「 有 害 」 も『仮面の告白』や『豊饒の海』を書いた三島由紀夫 るのだ。 『行動家の伝統』ということを言っているの と立場の違いは際立っている。三島由紀夫は言う。 作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なもの にも、 「異質の自覚」 「感傷などでなぐさめる術もな だ。個体が行動して行動する。その行動の軌跡は、 題。肉体と観念。 の 特 質 が 露 見 し て い る。 エ ロ チ シ ズ ム と 認 識 の 問 ……」と返している。このやり取りのなかに、二人 こ と ば の 問 題 だ ろ う な。 こ と ば と イ メ ー ジ の 関 係 と い う 断 言 で 始 め、 対 し て 安 部 公 房 は、 「 そ れ と、 対談「二十世紀の文学」の冒頭、三島由紀夫はい きなり、 「性の問題だね、結局、二十世紀の文学は」 にあった。 話しているが、しかし依然としてきみのなかには、 納 得 せ ず、 こ う 反 論 す る。 「 い ま、 小 説 家 の 立 場 で こ の 三 島 の 見 解 に 対 し て、 安 部 は、 三 島 の 言 う 「パッシヴな享受者」としての「読者」という考えに の頂点でもってつながってるというのだ」。 なりは、行動家であって、その個体の行動のあげく れがあるだろう。しかし芸術家なり武道家なりなん であって、パッシヴな享受者は享受者としてその流 ではなくて、僕の考えではだよ、パッシヴな享受者 ということを言っているのだ。読者は行動する人間 一点だけが残る。その最後の一点だけが伝承される 者が読んでも、なんにもわかりはしない。それか ばいいようなものの、先生の戸棚から盗んで入門 が弟子に譲る場合ね、入門者だって秘伝書を読め がいちばんの日本の伝統の特徴だよ。たとえば秘 それはそうだよ。絶対そう思う。日本では、伝 承というものにメトーデが介在しないのだ。それ 三島由紀夫はここぞとばかりに長広舌を振るう。 方法を持たない「伝統」を突き放す。それに対して、 伝というものがあるだろう。お能で、秘伝を先生 する」と。安部公房は「それが伝統か。困ったな」と、 性とことばの関係について、三島は「文明社会の なかのセックスの映像は、たいていセックス的イマ 「日本の伝統は、メトーデが絶対ないことを特色と ……」と言い張る。安部は、 「そんなバカな」と同意 い或るやましさの意識」 「流謫の人間」 (「異端者の告 そのときそのときに消えちゃって、そうして最後の 〔京都大学哲学科出身の哲学者・ヘーゲル学者・筑波大 発」初出誌、同上)という感覚は業と言えるほど強烈 ジネーションは、言語で媒介されるのだから、言語 ら二十年くらいお能を勉強するのだ。そうしてな 0 小説家に転化する以前の読者が住んでいる」、 「その 0 は、ばい菌みたいなものだからな。 (笑) 」といい、安 20 014 ● 第 1 部 こころのワザ学 んとうはしようがないのだね。そうしてメトーデ 伝だから、ほかの人には言えない。言ったってほ を読むとアッとわかるのだね。わかるがそれは秘 ろう。月がどうだとか、日輪がどうだとか。それ 昧模糊としたことを書いてある巻き物をくれるだ て、三十年か四十年か五十年かたって、なんか曖 んだか知らないけれども、一生懸命口移しに覚え そうして僕は死んじゃう。次にあらわれてくるや る。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。 長する。無意識に、しかしたえず訓練して成長す と、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成 生きている。どうやって伝承したらいいかという そうするとだね、僕という人間が生きているの は、なんのためかというと、僕は伝承するために う。 見続けていかなければならないのである。 ( 花 田 清 輝 )の 転 が り 方 が こ の「 二 つ の ド ン グ リ 」 切り裂いて見せる日本と世界の傷痕をわたしたちは なき「訓練」の極北であったといえるかもしれない。 観念」 あるいは 「至上理念」 を摑もうとする 「メトーデ」 三島由紀夫の「切腹」という「形」を取った自決の ありようは、このような意味での「伝承」と「至上の 的 な 思 考 を す る 三 島 由 紀 夫 が、 こ の よ う な「 秘 伝 」 がないところで伝承していくというのが、独特の つは、まだなんにもわからないわけだ。それが訓 この三島の「無メトーデ(無方法)=秘伝」論は大 変おもしろく重要な指摘である。これが、オリジナ ないところで模索して、最後に死ぬ前にパッとつ 懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデが れい狩り」 「幽霊はここにいる」 「友達」 「榎本武揚」 「棒になっ 安部公房は一九七三年(昭和四十八)演劇集団「安部公 房スタジオ」を結成し公演活動を始めた。安部公房には、「ど 注 の「伝統」をつかむための跳躍を試みた。 日本の伝統だよ。 練し、鍛練し、教わる。教わっても、メトーデは ルとコピーの違いがないということにもつながる肝 かむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見 教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一生 心のところだから。この三島の「伝統」論に対して、 ると、結晶体の上の一点から、ずっとつながって いるかも知れないが、しかし絶対流れていない。 安部は「だから日本でスパイ小説が発達しないのだ な。 (笑) 」と ま ぜ っ か え す。 そ れ に 対 し て、 三 島 は 技・演劇論には次のような発言がある。 「行為する、という た男」 「緑色のストッキング」などの戯曲作品がある。その演 らえて、シチュエーションを出す。そうして、だんだん芝居 のは同時に行為されるということ。相互の関係を正確にと 握をさせないことです。新劇の脚本はね、商業演劇なんか に近づいていく」 、 「ひとことでいってしまえば、心理的な把 だ。それは、横にずっと流れていくものは、なん いうのは、ずっと結晶体が並んでいるようなもの デは絶対にないと思う。いわば日本の伝統の形と いうのは、じつは伝という言葉のなかにはメトー だね。日本はそうではない。秘伝だろう。秘伝と ね。だけどそれは、西洋の歴史はメトーデの歴史 マスターピースを作ってマスターになるのだよ よ。メトーデをだんだんマスターから教わって、 ス タ ー に な る ね。 そ れ は メ ト ー デ を 教 わ る の だ 伝承という考えは、西洋でも、つまり鍛冶屋に 弟子が入って、徒弟時代、遍歴時代、それからマ ではない、というのが三島の「伝統」論であり、日 に出来た」と指摘する。それは古代からあったもの そのような「伝統」が日本の「伝統」であるが、三 島 は、 「 結 局、 日 本 の 伝 統 と い う も の の 観 念 は 中 世 というものではない。 残る。だが、それがある方法論に従って伝授される か む 」。 だ が、 そ こ で 終 わ る。 だ か ら、 「 結 晶 体 」は 育 っ て い っ て「 最 高 度 に 達 し た と き 」に 何 か を「 つ 承すべき至上理念」があって、そこに向かって伸び とは異なる。 「個」ではなく、 “道”ともいうべき「伝 主体とか自己実現とか成長という「個人」的な過程 六頁) 。 「いまやベケットはノーベル賞とって古典作家になっ による談話記事」 『安部公房全集』第二十四巻、三八五 三八 タニスラフスキーのシステムのなかには、ニュートラルに似 きいったニュートラルの状態というのは、これなんです。ス ゴドーが書かれた前後というのは、たまたま登場人物は少 ちゃったけれども、ゴドーを書いたのはそんな昔じゃない。 ─ き変えれば、なかなかいいシステムなんです」 ( 「宇佐見宜一 た問題提起がありますよ。あれはあれで、いまの状況にお とりあえず必要な筋肉以外は“抜く”んですね。ぼくが、さっ ますね。だから、どんな動きにも自在に反応できるんです。 リラックスです。ボクサーは相手の動きに神経を集中してい すね」 、 「ある集中に必要な筋肉以外は、ときほぐす。これが 把握することなんです」 、 「心理的なものからの解放、これで のれちゃうんです。要は心理で把握するんじゃなく、生理で うでしょ。あの考え方は、俳優として間違いなんだ。やれば 解しようとする。よく役者が、のれるとか、のれないとかい 素を誘導しているんですね。だから、俳優は心理でもって理 にもないのだ。そうして個体というのは、伝承さ 本文化論である。 とくらべると、まあしっかりしてますよ。心理がいろんな要 れる、至上の観念に到達するための過渡的なもの 真面目に答える。 1 安部公房と同様に、極めて観念的かつ明晰で合理 日 本 の「 伝 統 」に は 方 法 が な い。 方 法 論 が な い。 ただしかし、 「結晶体」だけはある。それは基本的に 22 で あ る と い う ふ う に、 考 え て い い の だ ろ う と 思 第一章 「こころの練り方」探究事始め その五 安部公房と三島由紀夫を中心に ● 015 21 どうも冷温帯そだち、つまり、冬季乾燥寒冷型気候のもと は、少年時代の十七年間を旧満州ですごした。そのせいか、 う書くか」 『安部公房全集』第二十巻、三四五頁) 。 「安部さん 説というふうにいえるだろうと思う」 (大江健三郎「現代をど 安部公房の小説世界やノーベル賞については、次のよう な発言や記事がある。 「安部公房さんの小説はぼくは哲学小 ついて――桐朋学園金曜講座」同上、四九二頁) 。 ど、実際になるととてもつらいことだ」 ( 「演劇の成立基盤に るかどうかということは。これは、口で言うのはやさしいけ いう確信なんだよ。これがあるかどうかだけね、演劇をや いうことは確信だよ。これをおれがつくった、これなんだと それに耐えてやるということね。それに耐えてやり続けると よりも見ている人が少なかったことがある(一同笑) 。でも、 きたときで四人か。木を人間がやるといったら五人だ。それ も見にくる人いないんだよ。あの少ない登場人物、全員出て ないからメンバーも少なくてすんだんだけど、いくらやって た。一億玉砕って言ってるから、もう日本にいても駄目だと かった。それで、それにたのんで馬賊にでもなろうかと思っ の友達の親父が満洲国政府の役人で、馬賊に知りあいが多 てしまったのです。今から考えるとこっけいな話だけど、僕 の年に、ニセの診断書こさえて、休学にしちゃって、家に帰っ じようなものかな。ただ僕は家が満州だったので、終戦の前 学だから、ちょっと違うけど、でも兵隊には行かないから同 ので、終戦のとき、まだ学生だったわけです。 (中略)僕は大 「関 東 安部公房は戦争について次のように語っている。 軍崩壊後……。医学部の学生は学徒動員にとられなかった 〇一二年三月二十三日付) 。 りする試みを続けていることも明らかにした」 (読売新聞二 れている場合、専門家に翻訳を依頼したり、助言を受けた 候補者の小説が、アカデミーの会員内で読めない言語で書か る。私たちは何人かに目をつけている』と述べた。/また、 文学を見るのです』と断ったうえで、 『数多くの優れた人がい あのときずるく立ちまわったな。奉天をひくとき、八路軍に 権力に対しての見方が違う。それにしても、ソ連というのは、 中国人は、ああいう経験を何度も持っているからね、どこか まったく有害無益なシロモノだということを痛切に感じた。 たなあ。この経験は大きかった。だから権力不信というより をたてまえにして、はじめて理想的権力たり得るんだと思っ から権力なんて、まったく市民生活に干渉しないという原則 その完全無警察のときがいちばん平常に暮らせるんだな。だ の交 替 期に完 全な 無 警 察 状 態がくる。何 度 もあったけ ど、 言ってみたくなるんだなあ」 。 「ぼくが権力の持つ秩序という んで、ある意味ではああいう形で、いちばん痛烈な皮肉を 嬉々としている人間のありように、おそろしく絶望を感じる ているときに、絶望を感じるという 悪い癖もある。すべて いということもある。そのくせ、みんながいちばん嬉々とし 対談、 『安部公房全集』第二十三巻三〇 三一頁) 。 「深刻ぎら だ。ソ連軍がとくにひどい事したっていうのは嘘ね。一番残 ものをほとんど信じないのはそのせいだな。ちょうど占領軍 ─ 『安部公房全集』第二十二巻、新潮社、一九九九年、二 九五 二九六頁 『安部公房全集』第一巻、新潮社、一九九七年、七四頁 4 二九六 二九七頁) 。 同体幻想を否定する文学」古林尚との対談、同上、二八五、 酷な仕打ちをしたのは日本人どうし。でも僕は自分の体験 バトン・タッチしないで、サーッと勝手に引いちゃった」 ( 「共 新しい情緒、未知の感性をひき出すために、読者の古い情 を書くのが嫌いでね、書きたいけれどまだ書かないんだ。何 思ってね」 。 「いやソ連がやって来た時は逃げないでずっとい 緒を刺激し、抵抗を起こさせることが作家の義務だ、と安 といったって怖かったのは日本人の強盗だよ。兵隊くずれの でそだてられた気質の持ち主、というような印象を受ける。 部さんは考えているそうだ。なんだか読者の心にアレルギー ね。これが強盗になって日本人を襲うんだ。ソ連軍なんか、 政府状態になるんだから、こりゃ誰だってひどい目に会うん 反応を起こすことが楽しみのような口ぶりである。読者ば ました。満州の奉天です」 。 「ひどい目って、そりゃあなた無 かりではない。湿気の多い温帯モンスーン気候帯に属する文 た」 ( 「無思想の逃亡者と実存的共和国」野坂昭如との対談、 『安部公房全集』第二十二巻、一〇 一一頁) 。 「実際に殺られ ほとんど人殺しはしなかったけど、日本人は日本人を殺し たものでないとわからない。その点、日本人には経験がない 壇でも、常に異端の存在であるゆえんだ」 ( 〈著者訪問〉読売 部公房は受賞寸前だった…ノーベル委員長語る」 「ノーベル でしょう。そのいい例が我々は、東南アジアの人たちの気持 新聞の談話記事、『安部公房全集』第二十一巻、四一八頁) 。 「安 日午前(日本 )が 文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーのノーベル委 合った人たちは、日本人のことを忘れませんよ」 。 「深刻な問 が分っていないことだな。実際に日本の兵隊からひどい目に 員会のペール・ベストベリー委員長( 時間同日夕) 、読売新聞の取材に応じ、1993年に死去し 題だよ。小説にしても、アメリカやヨーロッパにむけてはど た作家・安部公房が同賞の受賞寸前だったことを明らかにし んどん翻訳されてるけど、東南アジアに紹介されるというこ 一つには食いっぱぐれがないということと、徴兵延期の問題 た。/ストックホルム市内の自宅でインタビューに応じたベ があったんですよ。だから僕のクラスに百二十人いたけど、 ストベリー委員長は、安部公房について『急死しなければ、 ほど高い位置まで近づいていなかった。井上靖が、非常に真 アンケートで本当に医学に興味があると答えたのはただの二 う話も聞かない」 。 「僕の時代に医学部に入ったというのは、 剣に討論されていた』などと他の日本人作家についても、過 人ですよ。医者で小説家もいるし道楽しているのが多いで とはないものね。逆にアジアの小説が日本に翻訳されたとい 去の選考の経緯を語った。/近年、受賞の可能性があると しょう。あれは無理ないんだ、もともと嫌いなことをやって かった』と強調した。/さらに、『三島由紀夫は、それ(安部) される村上春樹さんについては、 『生きている作家については るんだから(笑) 」 ( 「作品で予言したチェコ事件」堤清二との ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近 答えられない』と明言を避けた。/アジアでの受賞者が少な 5 同上、二二六頁 『安部公房全集』第一巻、新潮社、一九九七年、八六 八 七頁 6 ─ - 同上、二四〇頁 四〇頁 同上、三九 『安部公房全集』第二巻、新潮社、一九九七年、四三八頁 7 『決定版三島由紀夫全集』第十四巻、新潮社、二〇〇二 年、六四八頁 『決定版三島由紀夫全集』第十三巻、新潮社、二〇〇一 年、四三五頁 ─ 『決定版三島由紀夫全集』第三十五巻、新潮社、二〇〇 三年、五三一頁 『決定版三島由紀夫全集』第二十巻、新潮社、二〇〇二 年、四六九 四七二頁 四九二頁 同上、四九一 『決定版三島由紀夫全集』第三十四巻、新潮社、二〇〇 三年、一一七 一一八頁 ─ ─ いことについては、 『作家がどこの国の出身かは見ない。その - 『決定版三島由紀夫全集』第二十巻、新潮社、二〇〇二 ─ 21 8 11 10 9 12 13 14 16 15 17 78 016 ● 第 1 部 こころのワザ学 ─ 安部さんの作品がそうだ。湿気を締め出した鉱物質のイメー 3 ジがある。近作『燃えつきた地図』もそうである。 (中略)/ 2 年、五一三頁 鎌田東二『霊性の文学誌』作品社、二〇〇五年( 『霊性の文学 九七六年 言霊の力』角川ソフィア文庫、角川学芸出版、二〇一〇年) 鎌田東二「 『英霊の聲』と霊学シャーマニズム」 『 三島 由 紀 夫 花田清輝・武井昭夫『新劇評判記』勁草書房、一九六一年 研究』第八号、鼎書房、二〇〇九年八月 『安部公房全集』第二十巻、新潮社、一九九九年、七七頁 花田清輝・武井昭夫『新劇評判記』勁草書房、一九六一年。 は次のように対話している。 同書の「日本の耽美派 安部公房と三島由紀夫 二つのド ングリ――その相似点と相異点」の中で花田清輝と武井昭夫 武井 そういう芸術綜合化という面でも、安部さんと比 べてみて、ちょうど対極みたいな気がする。 花田 そうそう、対極でしょうねえ。そして、ひどく似 てますね(笑) 。 武井 似てますねえっていうと、ちょっと、あれなんだ けれど……。 花田 似てるよ。二つのドングリか。 (笑)……対極って いうけど、観念的なところも似てるでしょ。 ものが安部さんの中にはあるわけですね。そこに安部さ 武井 しかし、なんというのかなあ、現実を観念化して、 そして、もう一度現実へ働きかけていこうっていうような 識がある……。 んの創造というか、芸術綜合化の働き手としての芸術意 花田 うん。 武井 三島の中にはそういうものがないでしょ。 (中略) 花田 (中略)だから、まあ、三島君なり安部君なりは― ―これは、ならべられると、両方とも、心外だと思うだ もかかわらず、非常に似ていると思いますね、僕は。 (一 ろうけれども――一見、対立的あるいは対蹠的であるに 五九 一六〇頁) 『安部公房全集』第一巻、新潮社、一九九七年、一八八頁 同上、七四 七五頁 同上、七五頁 参考文献 木村陽子『安部公房とはだれか』笠間書院、二〇一三年 安部ねり『安部公房伝』新潮社、二〇一一年 宮西忠正『安部公房・荒野の人』菁青柿堂、二〇〇九年 彩流社、二〇〇五年 コーチ・ジャンルーカ『安部公房スタジオと欧米の実験演劇』 二〇一二年 (初版は 『スフィンクスは笑ふ』 一九二四年、異端社) 安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』講談社文芸文庫、講談社、 - 『安部公房全集』全三十巻、新潮社、一九九七 二〇〇九年 - 山口果林『安部公房とわたし』講談社、二〇一三年 第一章 「こころの練り方」探究事始め その五 安部公房と三島由紀夫を中心に ● 017 - 『決定版三島由紀夫全集』全三十六巻、新潮社、一九七三 一 ─ 徳島新聞 2014 年 12 月 1 日朝刊 19 18 22 21 20 第1部 こころのワザ学 秋丸 知貴 美術史家/ 京都大学こころの未来研究センター共同研究員 南国的な異国情景に当時の観光写真(図 ・図 ・図 )の影響を指摘している。典型例として、 《神秘の 水(パペ・モエ) 》 (一八九一 九三年)(図 ) 、《神秘の水、 八九四年) (図 ) 、 《扇を持つ女》 (一九〇二年) (図 ) 、 等を挙げられる。 ) 《扇を持つ女》 (図 )は、マルケサス諸島ヒ 特 に、 ヴァオアのゴーギャンの画室で撮影された写真(図 とはほとんどなかった。 を追求しているために、写真の普及期に活動した画 見写真の客観的再現性とは異なる独創的な絵画表現 を巧みに膨らませる発想源として用いられていたこ とって写真は、客観的情報に基づきつつ主観的想像 い る 点 に 注 目 し た い。 こ の こ と は、 ゴ ー ギ ャ ン に この作品では、ゴーギャンが自分の線の細い母親 を、まるで体格の良い南国の少女のように美化して 八九〇年) (図 レ・マ ル ロ ー が『 空 想 美 術 館 』 ( 一 九 四 七 年 )で 指 摘 こうした画題上の影響とは別に、ゴーギャンに対 す る 写 真 の 造 形 上 の 影 響 で 注 目 す べ き は、 ア ン ド 看取できる。 に、ゴーギャンの南国風物に対する主観的理想化を )を基に制作されたものであるが、写真では着衣 ところが、実際には彼等は三人とも日常的に写真 に親しんでおり、制作上も写真を摸写した絵画を肯 とを示している。 る 造 形 様 式 の 顕 現 で あ る。 「 こ れ ら の 細 密 画、 フ レ )を挙げられる。 定的に描いている。それどころか、写真による視覚 これに関連して、エリザベス・チャイルズは「帰っ てきた楽園――ゴーギャン、写真、世紀末タヒチ」 家達であるにもかかわらずその影響が注目されるこ の変容こそが、彼等の印象派以後の新しい絵画表現 2 する、写像における被写体の物質的要素の欠落によ の女性が絵画では上半身を裸体に改変されている点 6 018 ● 第 1 部 こころのワザ学 第二章 ポール・ゴーギャン、フィンセント・ ファン・ゴッホ、ジョルジュ・スーラに おける写真の影響の比較研究 る写真の影響を詳細に調査し、それぞれの特徴とそ の共通性について総合的に分析しよう。 3 月と大地(パペ・モエ、パラウ・ヒナ・テファトウ) 》 (一 4 一八三九年にルイ・ジャック・マンデ・ダゲール が発表し、一九世紀後半に普及する写真が、同時代 の印象派の画家達に様々な影響を与えたことには既 ポール・ゴーギャンと写真 8 《 大 き な 木( テ・ラ ア ウ・ラ ヒ ) 》 (一八九一年) (図 5 に数多くの指摘がある。しかし従来、印象派の感化 まず、一八八〇年の第五回から一八八六年の第八 回まで印象派展に絵画を出品したポール・ゴーギャ ンは、写真を絵画制作に多用している。実例として、 6 7 9 を強く受けつつそれ以後の展開を推し進めた、いわ ポスト ゆる後印象派のポール・ゴーギャン( Paul Gauguin : )とフィンセント・ファン・ゴッホ( Vincent 1848 1903 肖像写真(図 )を基に描いた《画家の母の肖像》 (一 3 ─ 7 1 を触発した節さえある。そこで、本稿は実作例や同 ─ スコ画、ステンドグラス、タピスリー、スキタイ族 2 (一九九九年)で、ゴーギャンの代名詞的画題である ─ 時代証言に基づき、改めてこの三人の画家達におけ 1 1 : )や、 新 印 象 派 の ジ ョ ル ジ ュ・ van Gogh 1853 1890 スーラ( Georges Seurat : 1859 1891 )については、一 ─ (左)図 1 撮影者不詳《ポール・ゴーギャンの母》撮影時不詳 写真 (左)図 3 撮影者不詳《滝のサモア人》1888 年 写真 (右)図 2 ポール・ゴーギャン《画家の母の肖像》1890 年 油彩 (中)図 4 ポール・ゴーギャン《神秘の水(パペ・モエ) 》1891-93 年 水彩 (右)図 5 ポール・ゴーギャン《神秘の水、 月と大地(パペ・モエ、 パラウ・ヒナ・テファ トウ) 》1894 年 水彩等 (左)図 8 チャールズ・スピッツ撮影《タヒチ・土着のダンス》1890 年頃 写真 (右)図 9 ポール・ゴーギャン《大きな木(テ・ラアウ・ラヒ) 》1891 年 油彩 (左)図 6 ルイ・グルレ撮影《タホタウア》1901 年 写真 (右)図 7 ポール・ゴーギャン《扇を持つ女》1902 年 油彩 (左)図 10 撮影者不詳《フィンセント・ファン・ゴッホの母》1888 年頃 写真(反転) (右)図 11 フィンセント・ファン・ゴッホ《画家の母の肖像》1888 年 油彩 (左)図 12 撮影者不詳《29 歳頃のジョルジュ・スーラ》1888 年頃 写真 (右)図 13 ジョルジュ・スーラ《自画像》1888 年 油彩 (左)図 14 エティエンヌ=ジュール・マレー 幾何学的クロノフォトグラ (左)図 16 ジョルジュ・スーラ《サーカス》1890 - 91 年 油彩 フィ 1883 年 (右)図 17 エドワード・マイブリッジ『動物の運動』より 1887 年 (右)図 15 ジョルジュ・スーラ《シャユ踊り》1889-90 年 油彩 ● 019 第二章 ポール・ゴーギャン、 フィンセント・ファン・ゴッホ、 ジョルジュ・スーラにおける写真の影響の比較研究 一色調に還元して図像の強調をもたらす。そして、 被写体の輪郭を確定すると共に、被写体の色彩を単 出する。また、白黒写真は、主客の動きを固定して つまり、白黒写真は、被写体を物質的要素の脱落 した表層的イメージに変え、形態上の特徴のみを抽 だろうか? その物体としての質である。これらが 獲得したものは何だろうか? それらが受け入れう る最大の様式的意義である」 。 さえも、写真になった。これらが喪失したものは何 の装飾、細密装飾、ギリシャ壺の素描――また彫刻 は写真でも少しも消え失せないからだ。 その反対だ。なぜなら、彼の作品に存在する魅力 しき素描家であると言われてきた。ご覧の通り、 偉大な彩色家であらゆる色彩に通じているが、悪 するのではないことを証明する。ドラクロワは、 る。このことは、それらの絵画の美点が色彩に存 を見ると、これらの絵画の大体の概要が与えられ やピュヴィス・ド・シャヴァンヌ等の絵画の写真 情感は消え失せる。だから一方では、ドラクロワ てみたまえ。もはや脱色されたものしか残らず、 のみならず、ゴーギャンが日常的に自分の絵画の 写真複製も見慣れていたことは、一八九三年三月三 いだろうか」。 している……。その絵画を、写真に撮ってもらえな は、君がM夫人の美しい肖像画を描いたはずと確信 月付ダニエル・ド・モンフレ宛書簡から解せる。 「私 さらに、ゴーギャンが普段から周囲の画家達の絵 画の写真複製を目にしていたことは、一九〇一年八 ジェロ、ホルバインの絵画の写真」。 ンヌ、ドガ、レンブラント、ラファエロ、ミケラン ゴーギャンはこうした芸術作品の白黒写真複製によ る造形様式の顕現に鋭敏に反応し、その視覚効果を 絵画制作にも応用している。 一日付ダニエル・ド・モンフレ宛書簡から察せられ る。 「 私 は 今 度 の 手 紙 で、 セ リ ュ ジ エ の 友 人 が 写 し た私の《オリーヴ山のキリスト》と木彫の二枚の写 真を受け取った」。 よって初めて表現を得ている。彼の石版画、彼の 吹された彼の詩的激情、彼の情熱的魂は、素描に 利のために働いていたのだ。シェイクスピアに鼓 ドラクロワが戦っているのは……色彩のためだ と思っていた。一方、その反対に、彼は素描の勝 その上で、こうした写真による造形様式の顕現が ゴーギャンの身近な画家達の間では共有的に認識さ あなたに送ります」。 る。 「残念ながら壊れてしまった私の彫像の写真を、 八月頃のエミール・ベルナール宛書簡から判定でき これに加えて、ゴーギャンが周辺の画家達に自分 の彫刻の写真複製を見せていたことは、一八九〇年 れ て い た こ と は、 彼 が 一 八 九 七 年 一 一 月 付 ダ ニ エ ル・ド・モンフレ宛書簡で紹介する、エミール・ベ また、ゴーギャンが日頃から様々な絵画の写真複 製に親しんでいたことは、一九〇三年一月から二月 れば送って欲しい」。 あなたの制作された美しい作品の大体の観念が分 写真になると良く分かります。そうすれば、私は り、 手 本 と し て 私 に 送 っ て 下 さ い。 彫 刻 は 常 に、 あなたの《キリストの磔刑像》は真の天啓であ り、あなたの生涯最高の作品です。私は、大変幸 ルナールの次の言葉から判断できる。 にかけて書かれた「前後録」から分かる。 「私の小屋 福です。もし機会があれば、それを良い写真に撮 には、他では見られない点で奇妙なものが幾つかあ かるでしょう。 ジュアンの難船》の写真を、もしあまり高価でなけ 12 る。日本の版画や、マネ、ピュヴィス・ド・シャヴァ の写真複製に言及している。 「ドラクロワの《ドン・ 実際に、ゴーギャンは一八八五年五月二四日付エ ミール・シュフネッケル宛書簡で、ドラクロワ絵画 7 の顕現について次のように言っている。 この二枚の写真の内、私はキリストの方がより 好きです。確かに、写真ではよく見ることはほと 絵画の写真を見れば、彼の言いたかったことの全 はなく極めて美しくさえ見えます。画面には、隅 から隅まで一つの意志が、一つの想像力に富んだ 様式が息づいており、私は完全に打ちのめされて しまいました。 一つあるいは幾つかの色彩を、写真に撮ってみ たまえ。つまり、それらを白色と黒色に移し換え うに書いている。 (一八九六 九八年) また、ゴーギャンは「偶感抄」 で、白黒写真による造形様式の顕現について次のよ ─ 020 ● 第 1 部 こころのワザ学 9 てが分かる。 さ らに、ゴーギャンは「 偶 感 抄 」で、白 黒 写 真 に よる造形様式の顕現について次のように記している。 10 んどできません。それにもかかわらず、色彩の面 まず、ゴーギャンは一八八九年一一月末のエミー ル・ベルナール宛書簡で、白黒写真による造形様式 6 4 を除いて、キリストの方は私にはただ良いだけで 11 13 8 5 モ ノ ク ロ そして、ゴーギャンが写真撮影を通じて意図的に 自らの絵画に手を加えていたことは、一八九八年七 デュ・オーロンが、三原色に基づく三色のフィルター し、一八六九年にはシャルル・クロスやルイ・デュコ・ いずれにしても、ゴーギャンの日常的な絵画鑑賞 や絵画制作に写真が既に深く関与していたことは事 り単一色調の写像しか現像できなかった。これに対 月付ダニエル・ド・モンフレ宛書簡から判明する。 実である。そして、ゴーギャンが形態や色彩の視覚 あったクロスは、一八七六年に赤色・黄色・青色の の変容が彼の絵画表現に影響を与えた可能性は十分 少なくとも同時代に成立した様々な写真による視覚 ガ 効果に人一倍繊細な感受性を示す画家である以上、 大 き い 作 品 に は、 パ ス テ ル の 部 分 が 幾 つ か あ る。私は写真に撮るためにそれを塗ったのだが、 三原色のフィルターで原色写真を実現し、一八八三 に認識されるべきだろう。 ネ 原色写真を考案する。後に、印象派周辺の詩人でも で撮影した色彩の異なる三枚の陰画を後に合成する 洗えば落ちるだろう。 年 に そ の 紙 地 へ の 定 着 に も 成 功 し て い る。 ま た、 17 に写し出された時の視覚効果を想定して自らの造形 ゴーギャン自身が証言している以上、彼が白黒写真 を 頻 繁 に 鑑 賞 し て い た こ と は 疑 い な い。 そ し て、 これらの記述から、ゴーギャンが白黒写真により 造形様式が顕著になった自他の造形作品の写真複製 なぜならば、ゴーギャンは当時登場したばかりの原 である色彩の単純化に感化を及ぼした蓋然性が高い。 こうした、原色写真における対象の色彩の三つの 単色への分解原理もまた、ゴーギャンの彩色的特徴 ゴーギャンはそれらを実見した可能性がある。 一二枚の現 物とその三色調の陰画を展 示しており、 を基に描いた《画家の母の肖像》 (一八八八年) (図 ) に利用している。その実例として、肖像写真(図 ) フィンセント・ファン・ゴッホも、写真を絵画制作 また、一八八六年に第八回印象派展を鑑賞し、一 八八八年にはゴーギャンと共同生活も行っている フィンセント・ファン・ゴッホと写真 表現を調整していたことも間違いない。 色写真に極めて強い関心を示しているからである。 事実、ゴーギャンは一八九五年五月一三日付「エ コー・ド・パリ」の取材で、原色写真について次の 造形様式の顕現に触発された可能性がある。また、 色彩面でも、白黒写真のある意味で不自然な単一色 ように強調している。 を挙げられる。 このことを支持するように、ジャン・コクトーは 一九五七年のルイ・アラゴンとの対話で、ゴーギャ ローも大差ありません。真実のやがて極まる先を 自 然! 真 実! そ の 点 で は、 レ ン ブ ラ ン ト も、 ラ フ ァ エ ロ も、 ボ ッ テ ィ チ ェ ル リ も、 ブ グ 暗示している。 重要な愛着対象への心情に深く関わっていることを 姿としてはこれを全く好きではない」と言い、同年 分かるし表情も快活だからだ。しかし、僕は真の似 ものすごく喜ばせた。なぜなら、元気なことが良く 注目に値する。このことは、ゴッホにとって写真は、 ンの造形表現と白黒写真の相関性を次のように示唆 は写真によってであったが、写真はそれらを堅固で 彫 り の 深 い も の に し て い た。 ゴ ー ギ ャ ン の 色 彩 に また、ゴーギャンは「偶感抄」 で、原色写真について次のように自問している。 な真実を? 空や、木や、物質的な自然全ての真 実の色をである。 いので、記憶に浮かぶまま色彩の調和の中で一枚描 画を描いている。僕は色の無い写真には我慢できな いている。つまり、僕は自分自身のために母の肖像 一〇月の弟テオ宛書簡で「今、僕はある肖像画を描 21 19 原色写真は、私達に真実を告げるだろう。どん ─ は、例外もあるが幾分単調さがある。ゴーギャンは 白黒写真と相性が良く、その方が彫りが深くなる」 。 けた可能性がある。 ついては、ゴーギャンは これに加えて、色彩面カに ラ ー 当時黎明期にあった「原色写真」にさらに影響を受 16 (一八九六 九八年) し て い る。 「私がゴーギャンの絵画を初めて見たの 制作しなかった正にその稀少な作例である点で特に この作品は、自画像については異常に大量に制作 したゴッホが、結局肉親についてはわずか一枚しか 11 10 2 現に、この《画家の母の肖像》について、ゴッホ は一八八八年の弟テオ宛書簡で「母の写真は、僕を 色が誘発された蓋然性が高い。 調において最も効果を発揮するような反客観的な彩 クロワソニスム 特に、形態面では、ゴーギャンの分割主義の特徴 である輪郭線の強調は、そうした白黒写真における オーロンは、一八七八年の第三回パリ万国博覧会に、 18 ご存知ですか? 色彩を表現できる写真です。そ れは、間もなくでしょう。 15 つまり、それまで写真は、感光媒材上の制約によ 20 第二章 ポール・ゴーギャン、 フィンセント・ファン・ゴッホ、 ジョルジュ・スーラにおける写真の影響の比較研究 ● 021 14 の肖像画を描けるだろうか! 僕は常に、肖像画に も 偉 大 な 革 命 が 起 こ る こ と を 望 ん で い る 」と 語 り、 立たせるからだ。ああ、写真や戯画でどうして真実 いるところだ。なぜなら、白黒写真は僕をとても苛 また、ゴッホは写真と肖像画に関して、続く同年 の弟テオ宛書簡でも「今、僕は母の肖像画を描いて こうとしている」と告げている。 要素とされる素描の情念的強調をも喚起するだろう。 彩色の情念的強調は、さらに西洋では一般に理性的 然な色彩を原色化していくと考えられる。そうした た彩色は、情念が強まれば強まるほど対象本来の自 することには情緒的な必然性がある。また、そうし 愛着の深い肉親である母親の白黒写真に色彩を希求 視していると解釈できる。その意味で、ゴッホが最も 化もまた、同様に写真における対象からの形と色の 来の自然な姿形から逸脱する形態の反客観化・単純 ある。そして、ゴッホの素描的特徴である、対象本 な改変を許容する白黒写真により促された可能性が 化は、逆説的に対象本来の自然な色彩を脱色し随意 そうである以上、彼の彩色的特徴である、対象本 来の自然な色彩から逸脱する色彩の反客観化・単純 な緑一色であり、彼自身が証言するように「記憶に による視覚効果も考慮して絵画を描いている。 これに加えて、驚くべきことに、何とゴッホは単 なる「写真」のみならず、 「写真複製」や「写真製版」 自律により促進された可能性がある。 浮かぶまま色彩の調和の中で」現実離れした恣意的・ しかし、ここでゴッホに対する写真の影響でより 注目すべきは、 《画家の母の肖像》では背景は不自然 だ」と話している。 抽象的な彩色が施されている問題である。 僕は、白黒写真は欲しくないが肖像画を持ちたいの さらに、ゴッホは写真と肖像画に関して、一八八 五年の弟テオ宛書簡で「僕は、肖像画を描くという この問題に関連して、エドガー・ウィントは『芸 術と狂気』 (一九六三年)で、写真複製について次の 「僕は、父の肖像画のためにまた家に手紙を書こう。 23 この問題を考える際の手掛かりとして、ゴッホは 一八八五年一二月一九日付弟テオ宛書簡で、着色さ よ う に 考 察 し て い る。 「芸術についての私達の視覚 あ の 理 念 を 捨 て た く な い。 そ の た め に 努 め る こ と は、つまり人々に彼等の内には写真屋が写真機で写 が、写真複製によって変容されたことは明らかであ 的 な こ と と し て、 芸 術 家 自 身 の 視 覚 に お い て 絵 画 る。私達の目は、絵画でも彫刻でも、写真機によっ れた写真について次のように評している。 すことは、良いことなのだ」と説き、 「僕はここで沢 こ こ で は、 写 真 屋 が か な り 繁 盛 し て い る よ う だ。彼等の写真館では着色された肖像画を見かけ 的・彫 刻 的 想 像 力 が 写 真 に 積 極 的 に 調 子 を 合 わ せ、 て効果的に捉えられる面に敏感になった。より決定 けに忙しそうだ。しかし、 〔写真は〕常に一様で平凡 るが、これは明らかに写真の表面上に色を塗った 山の写真屋を見かけたが、彼等はどこでも同じでや で、目、鼻、口は――蝋のようにすべすべで冷たい。 0 機械的な写像において初めて完成に達すると思える 0 とが認められる」。 0 ほど写真映えのする作品を生み出すようになったこ 接写生して描いた絵画に基づいて色を塗ればもっ 0 も の だ。 も ち ろ ん、 絵 画 の 何 た る か を 知 る 者 に 持っている。これは、機械には真似できない。写真 と良い着色ができるように思われる。 0 とっては、これは弱く効果もない。ただ、もし直 を見れば見るほど、このことはよく感じられると思 う」と論じている。 また、ウィントは同著で、写真複製について次の ように洞察している。 「こうした仮定に基づけば、色 0 画家の魂から直接もたらされるそれ自身の生命を 常に、生命無きものでしかない。しかし、肖像画は 25 ことが分かる。 そうした「真の似姿」は実現できないと考えている 写像として無機的に定着するだけの白黒写真では、 に描出したものを「肖像画」と捉え、被写体をただ これらの記述から、ゴッホは、共に生きているた めに個性的であるモデルの生命を画家の魂が交感的 なる自由で恣意的な彩色が可能であることに触れて 真に着色される色彩は写生による自然な色彩とは異 ゴッホ自身が意図せず表明しているように、白黒写 べきは、ここでは否定的な評価ではあるけれども、 を増すと言っている後半部分ではない。より着目す この証言で着目すべきは、ゴッホが写生による自 然な色彩で着色すれば無味乾燥な写真がより人間味 ン・ゴッホと同様に極めて複製向きなのである」 。 われるところが著しく少ない。ピカソの絵画は、ファ し彼の絵画は極めて粗悪な製版形式においても損な の要求に適合させているとまでは言わないが、しか ピカソが意識的に自分の配色を粗雑な色彩製版過程 体 となる恐 れが 生じるのは理の当 然である。私 は、 29 事実、ゴッホは一八八四年の弟テオ宛書簡で、自 いる前半部分である。 彩製版が絵画を想起する際に考慮せねばならない媒 28 そして、ゴッホは自他のそうした生命的・情感的要 素を重視するために、感性的要素である色彩を重要 27 022 ● 第 1 部 こころのワザ学 22 し撮ることのできる以上のものが存在することを示 24 26 己紹介のために、挿絵新聞の何社かにそれらを送 風景の連作だ。仕事を得るために、少なくとも自 僕は、写真を一二枚撮るつもりだった――ヘル マンスのために描いた六枚を含む、ブラバントの うか? さらに、写真家はその素描がその用紙に 大き過ぎる場合、その寸法を縮めることはできる 素描は全て白黒で複写することはできないのだろ るのだろうか――普通の紙に描かれた場合でも、 題にしている紙に描かれた素描だけがそれに適す て、次にその写真を亜鉛板へ転写する場合、今話 僕は、ビュオの紙のことで君が送ってくれた注 意書きを読んだ。 〔…〕もし、素描を写真に撮影し はりゴッホ自身がこのように写真複製や写真製版に 特徴には写真製版のみならず銅版や石版等の影響も ねばならない実験」と述べており、ゴッホの画風的 する者が、その過程や白黒の効果を学ぶためにやら したり、石版にしたり、何らかの方法で複写したり も ち ろ ん、 ゴ ッ ホ は 一 八 八 二 年 の 弟 テ オ 宛 書 簡 で、そうした画風的操作を「自分の素描を、銅版に 作の絵画を写真複製した場合の劣化や変調を次のよ るつもりだったのだ。しかし、この計画は諦めた。 のだろうか? ている以上、そうした彼の絵画的特徴である彩色と 複製による自作の色彩と形態の劣化や変調を慨嘆し である。その上で、このようにゴッホが粗末な写真 まず、既に見たように、元々ゴッホの彩色と素描 の情念的強調は、画家の生命的・情感的な昂揚表現 に、自分のいつもの描写手法に即しつつどんな種 可欠であることを理解できる。そこで、僕はすぐ 調子が写真や電気の製版を用いる複写では真に不 あることをすぐに見て取った。そして、僕はその 僕は、ビュオがその紙見本の一枚に走り描きし たものを見た時に、その黒色が非常に深い調子で されるべきだろう。 が彼の絵画表現に影響を与えた可能性は十分に確認 とも同時代に発生した様々な写真による視覚の変容 極度に敏感な感受性を示す画家である以上、少なく ジョルジュ・スーラと写真 類の黒色を用いるべきかを見出そうと試み始めた。 写真製版に関しては、僕はまだその作業してい るところを見たことがない。どのように作業する は前述の粗雑な写真複製画質の場合と同様に、粗悪 していたことも推察される。そうであれば、ここに 時には写真製版に調子を合わせて自らの画風を調節 る黒色の色調を模索している以上、彼は絵画の制作 分かる。また、実際にゴッホ自身が写真製版に適す これらの記述から、ゴッホは、写真製版による図 像の拡縮や色調の効果にも非常に敏感であることが ていると思われる点である。現に、この自画像では、 スーラの絵画制作における写真利用の特徴は、写 真の造形的視覚効果に直接的・間接的に影響を受け いた《自画像》 (一八八八年) (図 )を挙げられる。 し て い る。 そ の 実 例 と し て、 写 真( 図 )を 基 に 描 そして、一八八六年に第八回印象派展に参加した ジョルジュ・スーラもまた、写真を絵画制作に使用 言及している。 か少しは知っているが、説明できるほどではない。 の意図的な増強も推測される。 背景に用いられている点描画法――彼が一八八〇年 3 な写真製版画質による原画の色彩と形態の劣化や変 33 代中頃に創案した、三原色に基づく微小で均一な描 その上で、さらに写真製版についても、ゴッホは 一八七三年七月二〇日付弟テオ宛書簡で次のように いためにより一層自覚的に強化された可能性がある。 素描の情念的強調は、粗雑な写真複製画質に負けな る。そして、ゴッホもまた形態や色彩の視覚効果に いずれにしても、ゴッホの基本的な絵画観や絵画 制作に写真が既に深く関与していたことは事実であ にも不可能なはずである。 製や写真製版の影響が全く無いと断言することは誰 的工夫を明言している以上、彼の絵画表現に写真複 極めて強い関心を示し、現実にそれに対応する絵画 考慮されねばならない。しかし、それでもなお、や 34 うに嘆いている。 なぜなら、写真屋が本来の明暗が出ていない、あ るいは不十分にしか出ていない複製しか作ってく そして、ゴッホは一八八二年の弟テオ宛書簡で、 自分の画風への写真製版の影響を次のように明記し れないからだ。その上、写真屋は一杯修正をして、 しかもそれが拙く、さらに絵画では明るいところ ている。 とても多いのだ。 を暗くしてしまったりその逆だったりすることが 32 調に対抗する、彩色と素描の情念的強調のより一層 31 また、ゴッホは一八八二年の弟テオ宛書簡でも、 写真製版に次のように細かい興味を示している。 13 12 点の集積を網膜上で視覚混合させて明るく豊かな色 第二章 ポール・ゴーギャン、 フィンセント・ファン・ゴッホ、 ジョルジュ・スーラにおける写真の影響の比較研究 ● 023 30 この問題について、オットー・シュテルツァーは 『美術と写真』 ( 一 九 六 六 年 )で、 「ルーペで見た写真 彩表現を行う画法――に写真の影響を指摘できる。 ともその影響の可能性は考慮すべき」である。 真〕とスーラの絵画技法の相似性のために、少なく 四年)で確認するように、やはり「この媒体〔原色写 イネス・ホーマーが『スーラと絵画の科学』 (一九六 く三色と、黒色を刷り重ねて原色を再現する点で、 述の単一色調の網目凸版法を改良し、三原色に基づ 版法」の影響も推察されている。この印刷法は、前 た当時最先端の原色写真製版法である「三色網目凸 や引き伸ばした写真は、最初から点々による構成を 生み出すのは、色調つまり色彩あるいは白黒の階調 常ならば分割する線を追放する。点々による構成が かないとして、 「点々による構成は、均質な画面を通 の木炭素描でも点描画法を用いているのか説明が付 分割のためでしかないならば、なぜスーラが黒一色 また、シュテルツァーは同著で、もしスーラの点 描画法が一般に考えられているようにただ単に色彩 様である」と考察している。 一つの均質な面へと密集する――正に、点描画と同 ギャンが、スーラの新印象派の教義を「全てを原色写真 性は全く皆無ではない(ちなみに、既に当時からゴー の点描画法に、写真の影響が遠く反映している可能 る。その意味で、彼等の光学理論を吸収したスーラ 頭 し、 確 か に 興 味 を 持 っ て い た 」こ と は 事 実 で あ 者達が全員、感光剤や写真光学の特性にある程度没 ルツ、ブリュッケ、ルード、シュヴルール等の科学 えない」のであり、 「スーラに関係のある、ヘルムホ 関心を持つならば、写真には必然的に関与せざるを (一九六八年)で強調するように、 「視覚現象に特別な 視覚効果のみならず、彼が自らに課した幾つかの一 の手順と効果においては、スーラが利用した画法と ランスにおける、より未発達な写真製版の原色印刷 で、 慎 重 な 態 度 を 貫 き つ つ も、 「一八八〇年代のフ 「スーラの『点描』についての新しい光」 (一九七八年) きた労力のいる方法」と述べ、ノーマ・ブロードも 子」を「写真製版の機械的な印刷過程に比較されて 体としての形態を調整し総合するほとんど一様な粒 つも、スーラが用いる「色彩だけの差異を通じて全 実際に、メイヤー・シャピロは「スーラについて の新しい光」 (一九五八年)で、一定の留保を付けつ スーラの点描画法と極めて照応的である。 の柔らかな移行というこの時代を特徴付ける映像的 そのままに処理する」と表現していることも興味深い) 。 少なくとも、アーロン・シャーフが『美術と写真』 特性である。それでもなお、ここに写真の影響など 似が存在する」と推定している。 全くないと言い切れるだろうか?」と主張している。 なお、スーラには、単なる「写真」のみならず、一 八八二年にゲオルク・マイゼンバッハが特許を取っ 示している。十分に離して見ると、これらの点々は 38 もちろん、現在までにスーラが原色写真を研究し ていたことを示す明確な証拠は発見されていない。 た蓋然性は極めて高い。 互いにそうした対象の色彩の純粋還元を議論してい ロスと一八八〇年代に親しく交友しており、二人が 同原理による原色写真の考案者であるシャルル・ク ある。何よりもまず、実際にスーラは、もう一人の 写真の現物とその三色調の陰画を実見した可能性が 事実、スーラもまた、ルイ・デュコ・デュ・オー ロンが一八七八年の第三回パリ万博に出品した原色 代に発明された 「原色写真」 の感化が推理されている。 さらに、素 描 上のみな ら ず 彩 色 上の問 題 として、 スーラの点描画法における色彩の単純化にも、同時 いる。 考えられたのではなかっただろうか?」と推量して ていた当時、人間の目の中でも同じことが生じると 解する。写真機と人間の目の間に対応関係ばかり見 よる複製技術は、映像を点々の集積である網目に分 「新印 事実、シュテルツァーは『美術と写真』で、 象派の直前に成立した網目凸版法という写真製版に る点で、スーラの点描画法と非常に呼応的である。 作り、その網点の大小で写像の色調の濃淡を表現す あるが、平行線スクリーンを二枚交差させて網目を 映も推測されている。この印刷法は、単一色調では た当時最 新の写 真 製版 法である「網目凸版 法」の反 のクロノフォトグラフィ (図 )に繰り返し言及し 動の分析に関してエティエンヌ=ジュール・マレー 円』 (一八八八 八九年)を愛読しており、この本は運 現に、スーラは、一八八六年以降深く親交を結ん だ生理学者で美学者のシャルル・アンリの『色彩の マレーの写真銃に興味を持っていた」。 スーラをほとんどあまり知らなかったが、スーラは たとえば、ジャン・ルノワールは『わが父ルノワー ル』 (一九六二年)で次のように記述している。 「父は 般的な視覚的問題について事実上幾つかの顕著な類 42 術と写真』で、 「 《シャユ踊り》 (一八八九 九〇年) (図 40 39 また、スーラには、単なる白黒写真製版のみなら ず、一八八五年にフレデリック・アイブスが開発し 36 35 しかし、スーラが私生活を明かさない秘密主義者と して有名だったことを措くとしても、ウィリアム・ 14 44 写 真 に よ る 運 動 の 研 究 を 確 信 し て い た。 ス ー ラ は、 これに加えて、スーラは、色彩面だけではなく形 態面でも写真に感化を受けた可能性がある。 43 ─ ている。この事実から、アーロン・シャーフは『美 ─ 41 37 024 ● 第 1 部 こころのワザ学 ラの三人は、日常生活においても絵画制作において る」と特定している。 然であり、意図的に不都合な真実から目を逸らして はない。しかし、そうした写真の影響を全く無視し られていたピュヴィス・ド・シャヴァンヌが来場し 代絵画における抽象主義を推進した点に指摘できる。 それぞれ素描・彩色の反客観化や単純化を促進し、近 だったことだけは間違いない。 異なる媒体独自の表現を追求したという曖昧な解釈 術様式を創造した真の芸術家達として 写真が客観的再現性を達成したから絵画はそれとは 改めて評価すべきことを提案したい。 つつ普遍的な芸術表現を実現した「近代生活の画家」 ― 達として 付記 代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」 『こ ころの未来』第五号、京都大学こころの未来研究センター、 二〇一〇年、一四 一五頁。 ( http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/ ) kokoronomirai/pdf/vol5/Kokoro_no_mirai_5_02_02.pdf 注 ― 邦訳、オットー・シュテルツァー『写真と芸術 接触・ 1966. 影響・成果』福井信雄・池田香代子訳、フィルムアート社、 一九七四年。 ― 年、六七 八六頁。 学の探究』第三八号、哲学若手研究者フォーラム、二〇一一 ヴァルター・ベンヤミンの『アウラ』概念を手掛りに」『哲 もう一人の後印象派の画家ポール・セザンヌと写真の関 係については、次の拙稿を参照。秋丸知貴「抽象絵画と写真 ― 代 表 的 な 文 献 と し て、 Aaron Scharf, Art and Photography, London, 1968; revised edition, London, 1974. 部分訳、アーロン・シャーフ「印象派絵画と写真」菅啓次郎訳、 『ユリイカ 増頁特集:写真 あるいは二十世紀の感受性』 青 土 社、 一 九 八 四 年 四 月 号。 Otto Stelzer, Kunst und : Kontakte, Einflüsse, Wirkungen, München, Photographie 引用は全て、既訳のあるものは参照した上での拙訳である。 ─ )の諸部分は、著しくマレーのクロノフォトグラ もそれぞれ写真と極めて親和的である。また、印象 にも、それぞれ直接的・間接的に写真の様々な感化 フ ィ と そ れ に 基 づ く 図 解 表 に 似 て い る 」と 述 べ、 ラの《シャユ踊り》では、高く振り上げられた脚が を推定できる。 派以後の展開を推し進めた彼等の独創的な絵画表現 扇状に並んでいるが、 〔…〕この着想がどこから来た オットー・シュテルツァーも『美術と写真』で、「スー かは疑いない。足下の床の扇状の三角形も、確かに も ち ろ ん、 絵 画 表 現 の 成 立 に は 多 様 な 原 因 が あ り、写真だけが彼等の絵画的革新の要因だった訳で 実際に、スーラ自身、一八九一年三月のアンデパ ンダン展に、馬が両足を開いて走るという現実には いると批判されざるをえないのではないだろうか? マレーの写真における幾つかの形態要素を想起させ あ り え な い 姿 態 を 描 い た《 サ ー カ ス 》 (一八九〇 九 ― たのを見て、傍にいたポール・シニャックに「彼は、 は、共に対象からの形と色の自律に感化を受け、 私が馬でやっている間違いに気付くだろう」と囁い この観点から、本稿は、ゴーギャン、ファン・ゴッ ホ、スーラを、人類史上画期的な写真による視覚の ― て彼等の芸術的革新を論じることもまた極めて不自 )を出品した時に、疾走する馬の運動分 一年) (図 要約すれば、彼等に対する写真による視覚の変容 の影 響 お そ ら く 単一的 では な く 複 合 的 な 影 響 解写真を多数収録するエドワード・マイブリッジの た と 伝 え ら れ て い る。 こ の こ と か ら、 少 な く と も 変容に鋭敏に反応しつつそこから新しい独創的な芸 『動物の運動』 (一八八七年) (図 )の所有者として知 スーラが写真による運動形態の分析に十分に自覚的 これに関連して、ヴァルター・ベンヤミンは「写 真小史」 (一九三一年)で、 「当然、写真機に語りかけ しい視覚的現実にそれぞれ的確かつ具体的に対応し に留まらずに、同時代の写真がもたらした多様な新 ただ単に る自然は、肉眼に語りかける自然と異なる。異なる ― のは何よりも、人間により意識を織り込まれた空間 の代りに、無意識を織り込まれた空間が立ち現れる ことである」と喝破している。 そして、そうした写真により可視化される、本来 は無意識の領域に属する対象の運動形態を、芸術効 André Malraux, “Les Voix du silence: I. Le Musée imaginaire, ” in Ecrits sur l’ art, I ( Biblioth èque de la Pléiade), in Œuvres complètes, IV, Paris: Gallimard, 2004, p. Elizabeth C. Childs, “ Paradise Redux : Gauguin, Photography, and Fin-de-Siecle Tahiti,” in Dorothy Kosinski (ed.), The Artist and the Camera: Degas to Picasso, Yale University Press, 1999. ─ 邦訳、アンドレ・マルロー『東西美術論(1) 』小松清訳、 238. 新潮社、一九五七年、三六 三七頁。 二四頁。 Paul Gauguin, Lettres de Paul Gauguin à Émile Bernard: 邦訳、ポール・ゴーギャン 1888-1891, Geneve, 1954, p. 89. 『ゴーギャンの手紙』東珠樹訳、美術公論社、一九八八年、一 Paul Gauguin, Oviri: Ecrits d’un sauvage, Paris, 1974, p. 邦訳、ゴーギャン『オヴィリ』岡谷公二訳、みすず書房、 178. 一九八〇年、一八五頁。 連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容 邦訳、同前、一七八頁。 Ibid., p. 171. Paul Gauguin, Correspondance de Paul Gauguin, 邦訳、ゴーギャ documents temoignages, Paris, 1984, p. 104. の図像解釈学的研究」の研究成果と連動する。同研究プロ ジェクトの概要については、次の拙稿を参照。秋丸知貴「近 7 本稿は、筆者が連携研究員として研究代表を務めた二〇 一〇年度〜二〇一一年度京都大学こころの未来研究センター 1 8 果上意識的に用いたり用いなかったりするスーラの 造形表現には、やはり様々な写真による視覚の変容 が遠く反響していると指摘すべきだろう。 ─ 47 2 3 17 以上のように、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、スー 第二章 ポール・ゴーギャン、 フィンセント・ファン・ゴッホ、 ジョルジュ・スーラにおける写真の影響の比較研究 ● 025 49 50 4 45 ─ 16 48 5 6 15 46 全集(4) 』小林秀雄・瀧口修造・富永惣一監修、二見史郎・ 宇佐美英治・島本融・粟津則雄訳、みすず書房、一九七〇年、 ン『ゴーギャンの手紙』二一頁。 一二六〇頁。 邦訳、同前、一二六〇 一二六一頁。 Ibid., pp. 458-459. 邦訳、同前、一二六三 一二六四頁。 Ibid., p. 461. Scharf, Art and Photography, p. 230. 邦訳、シュテ Stelzer, Kunst und Photographie, p. 116. ルツァー『写真と芸術』一三七頁。 John Rewald, Post-Impressionism: from Van Gogh to Gauguin, New York, 1956, p. 422. Wa l t e r B e n ja m i n , “ K l e i ne G e s c h i c h t e d e r (” 1931 ) , in Gesammelte Schriften, II , Photographie Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 頁。 筑摩書房(ちくま学芸文庫) 、一九九五年、五五八 五五九 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」 『ベ 1989, p. 371. ンヤミン・コレクション⑴』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、 ⑴ The Complete Letters o f Vincent van Gogh : with Reproductions of All the Drawings in the Correspondence, 『ボードレー シャルル・ボードレール「現代生活の画家」 ル批評(2) 』阿部良雄訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫) 、一 一九世紀以降、様々な近代技術が視覚を変容させ、そ れが近代絵画の多様な造形的革新に反映したと推定される。 九九九年。 七四頁。 で次のように論述している。 「今ではもう周知の事実である 邦訳、 『ファン・ゴッホ書簡全 Vol. 1, Greenwich, 1958, p. 10. 集(1) 』小林秀雄・瀧口修造・富永惣一監修、二見史郎・宇 邦訳、 『ファン・ゴッホ書簡全集(2) 』 Ibid., pp. 514-515. 小林秀雄・瀧口修造・富永惣一監修、二見史郎・宇佐美英治・ 佐美英治・島本融・粟津則雄訳、みすず書房、一九六九年、 Louis Aragon et Jean Cocteau, Entretiens sur le Musée 邦訳、ジャン・コクトー/ル de Dresde, Paris, 1957, p. 138. イ・アラゴン『美をめぐる対話』辻邦生訳、筑摩書房、一九 が、写真が発明された直後から(あるいは写真が発明される 邦訳、同前、六七三頁。 Ibid., p. 518. 島本融・粟津則雄訳、みすず書房、一九七〇年、六六九頁。 入ってからであり、ゴーギャンが日常的に目にしていた自作 邦訳、同前、六三五頁。 Ibid., p. 486. 邦訳、シュテ Stelzer, Kunst und Photographie, p. 142. ルツァー『写真と芸術』一六六 一六七頁。 邦訳、同前、一六六頁。 Ibid., p. 141. Homer, Seurat and the Science of Painting, p. 292. Mayer Schapiro, “New light on Seurat,” Art News, LVII, No. 2, April, 1958, p. 24. John Rewald, Georges Seurat, Paris, 1948, p. 125. . 訳、シュテ Stelzer, Kunst und Photographie, p.142 邦 ルツァー『写真と芸術』一六七頁。 Loc. cit. Scharf, Art and Photography, p. 362. ─ の写真複製は白黒写真だったと特定できる。 William Innes Homer, Seurat and the Science of Painting, MIT Press, 1964, p. 292. 邦訳、同前、一八一頁。 Ibid., p. 174. Scharf, Art and Photography, p. 362. 邦訳、ゴーギャン『オヴィリ』一 Gauguin, Oviri, p. 139. 四三頁。 The Complete Letters of Vincent van Gogh : with Reproductions of All the Drawings in the Correspondence, 邦訳、 『ファン・ゴッホ書簡 Vol. 3, Greenwich, 1958, p. 46. 全集(5) 』小林秀雄・瀧口修造・富永惣一監修、二見史郎・ 宇佐美英治・島本融・粟津則雄訳、みすず書房、一九七〇年、 邦訳、同前、一五一五頁。 Ibid., p. 69. 邦訳、同前、一五一七頁。 Ibid., p. 71. 一四九二頁。 邦訳、同前、一五一八頁。 Ibid., p. 71. The Complete Letters of Vincent van Gogh : with Reproductions of All the Drawings in the Correspondence, 邦訳、 『ファン・ゴッホ書簡 Vol. 2, Greenwich, 1958, p. 458. 32 35 34 33 41 40 39 38 37 36 : Norma Broude, “New Light on Seurat s ‘Dot’ Its Relation to Photo-Mechanical Color Printing in France in the 1880 s,” Art Bulletin, LVI, No. 4, December 1974, p. 581. 42 邦訳、ジャン・ Jean Renoir, Renoir, Paris, 1962, p. 172. ルノワール『わが父ルノワール』粟津則雄訳、みすず 書房、 43 一九六四年、一六七頁。 44 道 ― 近代技術による視覚の変容』晃洋書房、二〇一三年。 は、次の拙著を参照。秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄 る視覚の変容が後印象派や新印象派に与えた影響について ての考察であるが、同時代に並行して生じた蒸気鉄道によ よる視覚の変容が後印象派や新印象派に与えた影響につい 一九八六年、八〇頁) 。本稿は、そうした一九世紀の写真に ていったのである。 」 (伊藤俊治『生体廃墟論』リブロポート、 ない。 〝ロボットの眼〟はそれほど広範に深く、時代に浸透し れはほとんど〝写真の影〟を宿しているといっても過言では 面々に至るまで、十九世紀から二十世紀にかけての美術の流 ムの環 境と消 費のメカニズムから発生したポップアートの やシュールレアリスム、そして写真が醸成させたグラフィズ 未来派、写真の物質性と引用の理論から引き出されたダダ 写真が定着させた運動と時間の概念をタブローに導入した で夢や象徴や交換の手法を見つけだしたサンボリストたち、 フォーカスの意味を写真で再発見したラファエル前派、写真 眼球を光学装置として自覚した)印象派から始まって、パン・ と自然の光学的特性をそのまま受け入れた(あるいは人間の によって写真的視覚は盛んに巧妙に利用されていたし、写真 プロセスと併行して) 、アングルやドラクロワ、クールベら この問題について、伊藤俊治は『生体廃墟論』 (一九八六年) 50 026 ● 第 1 部 こころのワザ学 46 45 47 邦訳、ゴーギャン『オヴィリ』三 Gauguin, Oviri, p. 313. 三〇頁。 Edger Wind, Art and Anarchy, London, 1963, pp. 76邦訳、エドガー・ウィント『芸術と狂気』高階秀爾訳、岩 77. 波書店、一九六五年、一八八頁。 Paul Gauguin, Lettres de Paul Gauguin à GeorgesDaniel de Monfreid, Paris, 1918, p. 111.邦 訳、 ゴー ギャン 『ゴーギャンの手紙』一九〇頁。 Paul Gauguin, Letters to his Wife and Friends, London, 邦訳、ゴーギャン『ゴーギャンの手紙』三一三頁。 1946, p. 325. 邦訳、 Gauguin, Letters to his Wife and Friends, p. 150. ゴーギャン『ゴーギャンの手紙』一四三頁。 Gauguin, Lettres de Paul Gauguin à Georges-Daniel de 邦訳、ゴーギャン『ゴーギャンの手紙』二 Monfreid, p. 217. 六七頁。 邦訳、同前、二五六頁。 Ibid., pp. 193-194. 邦訳、同前、一八九頁。 Ibid., p. 77. The Complete Letters of Vincent van Gogh, Vol. 2, p. 314. 邦訳、 『ファン・ゴッホ書簡全集(4) 』一〇九八頁。 ─ 九一年、一七七頁。なお、原色写真の一般流通は二〇世紀に 当然、これは浮世絵との複層的な影響関係を否定する ものではない。 ─ 28 27 26 30 29 31 48 49 ─ 9 10 11 12 14 13 15 16 17 19 18 21 20 25 24 23 22 第1部 第三章 こころのワザ学 大西 宏志 本稿は、鎌田東二京都大学こころの未来研究セン ター教授が受け入れ教員となって行われた京都大学 を行った。 勝 町、 七 ヶ 宿 町、 南 相 馬、 奈 良 県 五 條 市 )で 芸 術 実 践 二〇一二年度は、震災直後から約一年半の間に実 施された主要な芸術実践を調査し、被災地など(雄 施されてきた。 ために発言者のチェックを受けることが叶わなかっ に起こしたものである。しかし、私の作業が遅れた な お、 本 稿 に は 私 以 外 の 発 言 も 記 さ れ て い る が、 それらは記録音声などから私が抜粋・編集して文字 として⑹京都で研究会を実施した。 具として活用の試みを行った。また、今年度の総括 して、雄勝の特産品である硯石の粉末の活用を探る 京都造形芸術大学芸術学部教授/ メディアアート・アニメーション こころの未来研究センターの二〇一四年度連携研究 二 〇 一 三 年 度 は、 宮 城 県 石 巻 市 を 活 動 の 拠 点 と し、⑴宮城県石巻市旧雄勝町の予備調査、⑵予備調 た。したがって、これらの発言は必ずしも発言者の モノ学・感覚価値研究会アート分科会 /京都大学こころの未来研究センター 連携研究プロジェクト二〇一四年度 活動報告 プロジェクト「被災地のこころときずなの再生に芸 査を元にした京都での研究会、⑶宮城県石巻市での ために、⑷硯石の粉末の成分分析、⑸日本画の絵の 術実践が果たしうる役割を検証する基盤研究Ⅲ」の 芸術実践とシンポジウム、⑷芸術実践による復興支 はじめに 活動報告である。 センター受入教員 鎌田東二 教授 研究代表者 大西宏志(京都造形芸術大学) 連携研究員 近藤髙弘(造形美術) 援の可能性の検討、⑸芸術実践の記録映像の制作と 承いただければ幸いである。 らかじめお断りしなくてはならない。この点をご了 意図を完全に反映した記述になっていないことをあ 石巻・雄勝の訪問とヒアリング パリ建築 文 ・ 化財博物館での上映等を行った。 3 二〇一四年度は、昨年度の報告を兼ねて石巻・雄 勝を訪問してヒアリング、雄勝の海を活用した観光 港の景観調査、⑵雄勝の観光ホテルの可能性につい 開発の可能性を探るために、⑴旧雄勝町にある浜や 2 て の ヒ ア リ ン グ を 行 い、 ⑶ Google のプロジェクト 「 海 か ら の ス ト リ ー ト ビ ュ ー」に 雄 勝 湾 を 登 録、 そ 六 月 一 三 日、 京 都 か ら 新 幹 線 で 仙 台 ま で 行 き 一 泊。 (二〇一四年六月一三日〜一五日) 1 上林壮一郎(京都造形芸術大学) 共同研究員 秋丸知貴(美学 美 ・ 術史) 原田憲一(NPO京都自然史研究所) ・ 石研究) 須田郡司(写真 巨 岡田修二(成安造形芸術大学) 本プロジェクトは、二〇一二年度から継続的に実 第三章 モノ学・感覚価値研究会アート分科会/京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト 2014 年度活動報告 ● 027 1 へ。南三陸では、防災庁舎、公立志津川病院、南三 島共済会館を訪れ、そのまま雄勝を通過して南三陸 上。女川では、津波で倒壊し撤去が決まっていた江 一四日、JR東北本線・石巻線で石巻へゆき、レ ンタカーを借りて海岸沿いの国道三九八号線を北 注意深く見ながら歩くと、茶碗の破片や壊れた目覚 これに対して、公立志津川病院の瓦礫はきれいに 片付けられ、跡地は盛り土で覆われていた。足下を ムのような存在になってゆくような気がした(図 ) 。 なかった。軽々なことは言えないが、広島の原爆ドー じられた(図 ) 。 憶をとどめようとする工夫が始まっているように感 志津川中学のある高台からは町の全体が見渡せ る。今年は、道路脇のフェンスに震災前に撮られた た(図 ) 。 陸さんさん商店街、志津川中学がある高台などを訪 まし時計などが、半分土に埋もれてまだ残っていた 留めておくシンボルへと変わりつつあるようにも思え 感に直接訴えかけてくる生々しいモノから、記憶を た。震災直後の恐ろしい姿は徐々に薄れてゆき、五 以前より建物から少し離れたところに設けられてい 修学旅行風の生徒の団体など、客層も多様だった。 きたのだろう。自家用車や大型バイクで訪れる客、 さん商店街で買い物をするというツアーが定着して 南三陸さんさん商店街は、相変わらず活気があっ た。ホテル観洋に泊まって防災庁舎を見学し、さん 夕刻、南三陸から再び石巻に戻り、京都造形芸術 大学の卒業生で宮城出身の漫画家・丹野諒祐さんと 恵が求められていると語っていた。 まう要因らしい。Iターン、Jターンを呼び込む知 ホテル以外の仕事がないのも若い人が出て行ってし ま う の が 今 の 課 題 だ 」と 言 っ て い た。 漁 業、 土 木、 再開。彼は大学卒業後、漫画家のうちだしゅんぎく 商店街の横に、南三陸ポータルセンターができてい にしようということだ。観光資源の役割も担ってい た。中には震災記録の展示があった。忘れないよう り継ぐ場所、観光資源、さまざまな願いや想いがこ 検 討している。辛い記 憶、トラウマ、慰 霊の場、語 整うのを待ちきれずに若い人が町から出ていってし 4 た。町は防災庁舎の取り壊しを決めたが県は保存を 2 写真が掛けられていた。町のさまざまなところで記 問した。 ) 。 商店街から少し離れた場所に寿司店がある。昭和 三 〇 年 代 生 ま れ と い う 大 将 は、 「高台移転の造成が 図 3 南三陸町の南三陸ポータルセンター (図 3 防災庁舎は、訪れる度に姿を変えている。昨年よ りも瓦礫の撤去が進み、安全性を考慮してか祭壇も こで交錯している。参拝者や見学者は絶えることが 図 2 南三陸町の公立志津川病院跡地 1 図 1 南三陸町の防災庁舎 028 ● 第 1 部 こころのワザ学 いとのことだった。また、NPOに対する城南信用 うなことが起きていて、若い世代の流出が止まらな 住職に近況をうかがった。ここでも南三陸と同じよ め の 理 事 長 )を 紹 介 す る こ と に し た。 『モノ学 感 ・覚 価 値 研 究 』八 号 と『 い き な り 宮 城 』を 持 参 し、 川 村 川村昭光住職(石巻にある香積寺住職でNPOしらう いとの想いが強い。そこで、昨年度お世話になった の執筆を行っている。彼も、地元の復興に貢献した 現在は地元に戻って高校の美術教師をしながら漫画 城・宮城県人の知らない宮城県』を出版した(図 ) 。 氏の内弟子となって修行を重ね、今年『いきなり宮 見守っていた(図 ) 。千葉宮司に、私たちが考える サークルも、盛り土の下で新しい社殿ができるのを め、昨年夏のアート・セレモニーで作ったストーン て『 モ ノ 学 感 ・ 覚 価 値 研 究 』八 号 を 届 け、 近 況 を う か が っ た。 洪 水 で 流 さ れ た 社 殿 の 復 興 も 進 み は じ 一五日、葉山神社・石神社の千葉秀司宮司を訪ね かった。 に泊めていただき、翌日丹野氏と分かれて雄勝に向 たなフェーズに入ってきている。この日は、香積寺 震災から三年三ヵ月が経ち、さまざまなところで新 金庫のスポンサー事業が終わったとのことだった。 ことにした。 雄勝の海を活用した 観光開発の可能性 (六月一五日〜一六日) 住んでいる人の気質も違うそうである(図 ) 。 合 体 が 雄 勝 で あ る。 浜 ご と に 気 候・風 土 が 異 な り、 浜村と呼ばれており、その名のとおり一五の浜の連 た。 一 九 四 一 年( 昭 和 一 六 )ま で、 雄 勝 地 区 は 十 五 六月一五日から一六日にかけて、旧雄勝町内にあ る一〇カ所の浜と港をまわってパノラマ写真に納め 漁協を介して協力してくれる漁師を紹介してもらう わら釣り船を副業としている漁師もいるとのこと。 が高いのだという。とは言うものの、養殖業のかた とアドヴァイスをいただいた。雄勝の外海は案外波 本格的にやるには安全面に充分配慮する必要がある 遊覧船など海の観光について意見を求めたところ、 6 旧雄勝町にある浜や港の景観調査 2 中でも特筆すべきは分浜地区である。この地区は 震災前から住民間の絆が深く、地区の人たちのため 7 第三章 モノ学・感覚価値研究会アート分科会/京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト 2014 年度活動報告 ● 029 5 図 4 南三陸町の志津川中学の高台から望む町 図5 丹野諒祐『いきなり宮城・宮 城 県 人 の 知らな い 宮 城 県 』 (KADOKAWA/中経出版) 図 6 葉山神社 基礎資料にしたいと考えている(図 ) 。 これらの浜のパノラマ写真は、今年度内に整理を して、気候、景観、生業などの関係を考えるための また、良質の硯石が出る山もある。 には、いち早く地域の人々が集まる施設を作った。 の小さな海水浴場を整備するなどしていた。震災後 図 7 雄勝エリアの浜( 『雄勝町史』より) 今の雄勝は養殖業が主だが、かつては遠洋漁業 の基地でずいぶん栄えたときもあった。それが、一 きのお話からの抜粋である。 雄勝の町や観光の話をうかがった。以下は、そのと 七月一二日、旧ホテル雀島の関係者で、東京で学 生寮などの経営を行っている大西一郎氏を訪問し、 雄勝の観光ホテルの可能性についてヒアリング 8 図 8 浜のパノラマ写真(一部) 030 ● 第 1 部 こころのワザ学 でも漁場の規模によって収益に差がある。ひとこ 漁業が衰退し、今の業態に変化した。同じ養殖業 九七〇年代後半になると二〇〇カイリ規制で遠洋 の機微を理解する豊かな感受性もお持ちであった。 受けた。また、単なるリアリストではなく、人の心 的な観点から雄勝の未来を考えているという印象を して経済についてもよくご存じで、現実的かつ巨視 た(図 ) 。機材の受け取りからバッテリーの充電、 このプロジェクトは、宮城県漁業協同組合雄勝湾 支所長の阿部貴之氏の尽力なくしては成功しなかっ ) 。 jp/2014/06/tohokuseasv.html とで震災被害といっても漁師によって差が大きい。 震災で人口が九〇〇人程度まで減ってしまっ た。浜ごとの個性を活かすというアイデアは口で 言うほど簡単ではない。残った住民が一カ所に集 まって新しい町を作るなど、大胆な発想が必要で ができた。 今回のお話では多くの重要なヒントをいただくこと た。そしてなによりも船を出してくれる漁師を紹介 船への取り付けまで親身になって協力してくださっ してくれたことには感謝に堪えない。その漁師とは 普段はホタテの養殖業を営んでいる青木祐次氏であ る。青木氏は、撮影終盤でエンジントラブルに見舞 た コ ー ス の 九 割 を 航 行 し て く だ さ っ た( 図 のプロジェクト「海からのストリート Google ビュー」に雄勝湾を登録 が、 三 陸 地 方 の 海 イ ン タ ー ネ ッ ト 検 索 の Google の景色を記録・公開する「海からのストリートビュー た、撮影の準備や後片付けなどを、楢舘はるか氏が 九〇年代、世界から物理学者を雄勝に招いてコ ンファレンスを開いたことがあった。このときの した運営は難しいと思う。 く外海の波は穏やかではないので、観光船の安定 ストリートビュー」は、二〇一一年から続く取組 ロジェクト」を行っています。今回の「海からの トビューで撮影、その被災の様子をパノラマ画像 で は、 二 〇 一 一 年 か ら 東 日 本 大 震 災 で Google 地震・津波の大きな被害を受けた地域をストリー 上トレッカー」を使用。今回は、東北地方で地域 ) 。ま われたにもかかわらず、六時間以上かけて、予定し 雄勝のすぐそばには南三陸ホテル観洋などの大 規模な観光ホテルがある。同じようなコンセプト プロジェクト」をスタートさせた。 はないか。 9 で 事 業 を 展 開 し て も 競 争 に な ら な い だ ろ う。 ま ように、目的がはっきりした文化イベントを継続 みの一環として、陸からのストリートビューに加 た、雄勝は天候が安定しておらず、内海はともか 的に行い、雄勝の文化的価値を高めていくことが え、 新 た に 海 側 か ら 三 陸 海 岸 を 撮 影 し ま す。 (中 ら面白い。 の 方 に ス ト リ ー ト ビ ュ ー 撮 影 機 材「 ト レ ッ カ ー」 Google 海からのストリートビューHPより) 号などのリスクを撮影者に負 このプロジェクトに、葉山神社(千葉秀司宮司)と 京 都 造 形 芸 術 大 学( 大 西 )の 連 名 で 申 し 込 み、 採 択 された。大型の台風 わ そ う と す る Google の本音に閉口させられながら も、九月九日に無事に撮影を終え、一〇月二〇日に 全 世 界 に 公 開 さ れ た( http://googlejapan.blogspot. 大学を卒業した後、京都造形芸術大学情報デザイン 手伝ってくれた。彼女は仙台出身で、東北芸術工科 10 図 9 海からのストリートビュー「トレッカー」を取り付ける阿部氏(左)と 筆者 で記録する「東日本大震災デジタルアーカイブプ 必要だろう。アカデミックでユニークな何か、た 略)撮影は、船からの撮影用に新たに開発した「船 また、雄勝に若い人が帰ってきて定着できるよ うに、雄勝石のスレートを使った小さな家を建て を無償で貸し出し、上記のエリアを撮影します。 4 とえばパグウォッシュ会議のようなことができた て 賃 貸 物 件 に す る な ど、 や っ て み た い。 京 都 の ( に根ざした様々な活動をされているコミュニティ ( 株 )庵 が 行 っ て い る 町 家 を ホ テ ル に 再 生 し て 利 用する試みは興味深い。 震災当時、大西氏はワンボックスカーに積めるだ けの物資を積んで東京から雄勝に駆けつけ、被災直 後のもっとも大変な時期に地元の支援に当たった方 である。現在でも東京と雄勝を往き来して、雄勝に 住む知人の支援を行っている。雄勝の歴史や風土そ 第三章 モノ学・感覚価値研究会アート分科会/京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト 2014 年度活動報告 ● 031 11 学科で副手をしている。大学時代に震災を経験した 楢舘氏もまた、被災地の復興のために力を尽くした いと考えている一人である。 当初は、自分たちで船をチャータし雄勝湾の観光 航路を開拓しようと考えていた。しかし、世界的な 認 知 度 を も つ Google ストリートビューという仕組 みとコラボレーションすることで、雄勝の海のすば らしさをより多くの人々に知ってもらえると考え、 こ の プ ロ ジ ェ ク ト に 参 加 し た。 さ ま ざ ま な 困 難 が あったが、多くの人に助けられて無事に公開するこ とができた。ふだんは目にすることのない海からの 風景を見て、改めて自分の町のよさに気付かされた という感想もいただいた。今後、海からのストリー トビュー雄勝湾を有効に活用してゆきたい。 正二)に始まり一九八〇年(昭和五五)まで続いたら うだ。調べてみると、雄勝の巡航船は一九一三年(大 の駅があり、そこまで行くのに巡航船を利用したそ て女川まで巡航船が出ていたという。女川には汽車 得た。昭和の終わりくらいまで雄勝の浜々を経由し また、この度の撮影で何度か雄勝に通うなか、地 元の老人から雄勝の巡航船について話を聞く機会を フェ&ギャラリー「堂島リゾーム」 で販売されている。 て京都の職人が制作し、坪氏・武藤氏が運営するカ めており、近藤研究員が制作した試作品を原型にし これを器の釉薬として活用する取り組みは、すで に近藤髙弘研究員や坪文子氏・武藤さよみ氏らが進 する際にでる削りカスである。 着した。この粉末は、硯石の原石を硯や食器に加工 1970 年(昭和 45 年) 「女川─雄勝(大須・船越・名振)」運航廃止 1980 年(昭和 55 年)5 月 「女川─雄勝(水浜・大浜・立浜)」運航廃止 ルを送付し、塗料や建材などに活用できないか検討 してもらうことにした。池田教授からは、工業製品の 材料として活用するためには、成分分析と放射能分 析を行う必要性があるとアドヴァイスをいただいた。 そこで、原田憲一研究員のコーディネートのもと 山形大学理学部地球環境学教室の中島和夫教授に分 析を依頼し、化学分析(XRF)と鉱物分析(XRD) 、 そ し て 放 射 能 分 析( セ シ ウ ム )を 実 施 し た。 X R F では試料に入っている元素の割合が分かり、XRD では試料中の鉱物の種類とおよその割合が分かると のことである。 以下が中島教授からいただいたメール。 硯石の分析結果が出ました。添付の表の化学分 析シートが化学組成の分析結果です。放射性物質 測定シートにゲルマニウム半導体検出器で測定し た放射能の結果がありますが、検出されていませ ん。 全 く 問 題 あ り ま せ ん。 鉱 物 分 析( X R D )の 結果、含まれるのは石英、黒雲母、緑泥石が大量 にあり、少量の斜長石、という結果でした。専門 的には、きれいな粘板岩という印象です(図 ) 。 032 ● 第 1 部 こころのワザ学 訪問した際に依頼していた硯石の粉末サンプルが到 しい。最初は雄勝の浜々から北上川を上って石巻ま 薬品を扱う 商社に勤めていた私の父の紹介で、常葉 今回は、さらに発展させて塗料や絵の具などに活 用できないか、試してみることにした。そして、化学 「女川─雄勝(大須・船越・名振)」運航開始 で 行 っ て い た が、 一 九 三 九 年( 昭 和 一 四 )に 石 巻 と 女 川 を 結 ぶ 鉄 道 が 完 成 す る と、 先 に 記 し た よ う な 5 「女川─石巻」運航廃止(鉄道石巻線開通) 硯石の粉末の成分分析 大学社会環境学部・池田雅彦教授に硯石粉末サンプ ルートになった。 1939 年(昭和 14 年) 雄勝の特産品である硯石の 粉末の活用を探る 「女川─雄勝(水浜・大浜・立浜)」運航開始 七月下旬、雄勝硯生産販売協同組合から、六月に 11 1913 年(大正2年) 3 図 10 撮影範囲と青木氏 月 日 中島和夫 山形大学理学部地球環境学教室 5 この結果を池田教授に伝え、塗料や建材などへの 利用が可能かどうか改めて調査をお願いした。 か試していただいた(図 ) 。塗りを重ねていくにし たがって硯のような風合いになってゆくのが面白 して使う場合はもっと念入りに粒子を細かくしてお 子の大きな「ダマ」が混ざっているので、絵の具と 日本画の絵の具として活用の試み 日本画家で京都造形芸術大学の松生歩教授に、硯 石の粉末を日本画の絵の具として使えないか試して い。使い心地は良好とのことだが、ところどころ粒 いただいた。ウサギ膠溶液で粉末を溶かし、一回塗 第三章 モノ学・感覚価値研究会アート分科会/京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト 2014 年度活動報告 ● 033 12 く必要があるとのことだった。廃棄物をそのまま利 図 11 鉱物分析(左・中)と、放射性物質測定結果(右上) 、化学分析(右下) り、二回塗り、三回塗りでどのような風合いになる 図 12 日本画絵の具としての利用テスト(左から一回塗り、 二回塗り、 三回塗り) 11 今年度の総括 被災エリアに地域と協働して花を植え、現代アート 向を受けてさらに深めていく時期にきている。しか 034 ● 本豊津氏らが組織し、芸術家の川俣正氏を招聘して 作品を設置する計画だ。川俣氏は、「終わらない彫刻」 というコンセプトを掲げて、地域住民や観光客が協 働して作り続ける彫刻の設定を構想している。完成 ある。そこを「アートサイト」と位 置 づけ 観 光 客 を 研究会 二〇一四年一二月三日、京都大学稲盛財団記念館 大会議室で研究会を実施した。まず、大西研究代表 呼び込む計画とのこと。九月八日、石巻で計画の発 した作品ではなく共に作業することがアートなので が、二〇一四年度の活動報告を行った。 表と地元の意見を聞く勉強会が行われ、そこに近藤 次に、岡田修二研究員から、今年出版した『自然 学 来るべき美学のために』 (ナカニシヤ出版)に関す 智子氏、山本豊津氏らの調査に大西が同行した。 る「 命 の 器 プ ロ ジ ェ ク ト 」を 実 施 し た。 こ の と き、 る報告があった。この本は、大和日英基金からの支 研究員も参加した。翌九日には、川俣正氏、佐久間 香積寺の川村住職の娘さんらが「不忘庵」をたずね 援を得てロンドン大学ゴールドスミスカレッジと成 続いて、近藤髙弘研究員から、二〇一四年度の活 動 報 告 が な さ れ た。 近 藤 研 究 員 は、 今 年 も 宮 城 県 てくれて、石巻の状況について話を聞く機会を得る 安造形芸術大学とが共同で実施した三年間のプロ 七ヶ宿にある工房「不忘庵」で、地元の土を使って こ と が で き た。 「石巻の復興を待つことのできない ジェクトの成果をまとめたものである。日本とロン 地元の人々と共に器を作り、それらを仮設住宅に配 若い人や子育て世代は、仙台や多賀城に移って新し ア ー ト 」や 日 本 の「 も の 派 」な ど 芸 術 の 生 態 学 的 転 ドンで開催した展覧会とシンポジウムの様子が紹介 「命の器」と同じ地元の土を また、近藤研究員は、 換がおきているが、それらは西洋的な文脈のなかで い生活を始めている」とのこと。石巻ほどの規模を 使って作った作品『 Reduction 』 (図 )を、名取市の 閖上海岸に置いてビデオ撮影を行った。ここも津波 生まれてきたもので、自然への眼差しがうまれては されているほか、日英の識者による多数の論考が収 用するという発想だけでは、繊細な品質が求められ に襲われた海岸である。この作品と映像は、パリ日 いるが充分に掘り下げられていない。七〇年代の動 もつ街でも、南三陸や雄勝と同様のことが起きてい る絵の具には利用できないということが分かった。 本文化会館で二〇一五年一月に行う『「うつわ(器) 」 し、西洋をオミットするのではなく、西洋由来の「芸 められている。 しかし、この課題をクリアできれば雄勝ブランドの と「うつし(写) 」』展に出品する予定である。 術」を換骨奪胎し、西洋的文脈から東アジア的文脈 ることに驚かされる。誰のための復興策が必要とさ 絵の具も作ることができるわけである。黒い絵の具 本 研 究 プ ロ ジェク ト と は 直 接 の 関 係 は な い も の の、今後の連携を模索しているプロジェクトに、石 への転換をはかりたい。こうした動きは、日本だけ れているか、改めて考える時期に来ている。 は種類が少なく、また塗ると白っぽくなってしまう 巻をフィールドにした「花とアートで地域再生プロ 岡田研究員は、人間と環境とのかかわりをベース に美意識や価値観を考え直すことが重要だと考えて ものが多いらしく、雄勝石の絵の具がこの分野に参 ジェクト」がある。石巻市出身で東京で空間企画デ い る。 す で に 七 〇 年 代 に 欧 米 で 始 ま っ た「 ラ ン ド テスト的にある程度の量を生産し、画家やイラス トレーターにこの絵の具を使った絵画の制作を依頼 入する余地はある。 し、雄勝や石巻で展覧会を実施するなどしてみても ではなくアジア全域に広がってゆくだろう。自身の 面白いと考えた。 13 第 1 部 こころのワザ学 4 ザイン会社を経営する佐久間智子氏、東京画廊の山 図 13 近藤髙弘『Reduction』 西洋でも気づいている人はいる。アメリカ大陸の先 ンの『センス・オブ・ワンダー』でも語られており、 だ。また、こうした感受性は、レイチェル・カーソ てもよいスピリチュアルなものも含めたエコロジー のづくり” とも重なる。ディープ・エコロジーと言っ 学 で 扱 っ て き た“ も の ” “もののけ” “ものいみ” “も 鎌田 私は、日本人が持っている自然観を“ジャパ ニーズ・センシビリティ”と呼びたい。それはモノ 遍性をもつだろう。 秋丸 西洋の自然観が行き詰まっている。自然に対 する認識をアートのテーマにすることは、今後、普 ようになってきている。 アートの文脈でやっている。こうしたことができる い う 展 覧 会 で は、 宗 教 的 テ ー マ を 博 物 学 で は な く 足立市立美術館が行っている「スサノヲの到来」と な自然観を元にした感受性を感じる。さらに、今、 田研究員の「自然学」というコンセプトにも日本的 ちはうかばれないと考えたと言っていた。また、岡 ル・スタンダードのルールで活動しなければ自分た だった。李禹煥氏のロジックにのっかってグローバ にくかった。伝統や日本的なものを出すのは禁じ手 ミズム的なものを感じていたが、それは当時は言い 元の人たちと問題共有してみては。 先生でも感じ方に温度差がある。そうしたことを地 秋丸 東北にもいろいろな人がいる。利害もまちま ち。思考停止している人もいる。ピンポイントで深 までいいのかと思う。 への向き合い方が、東北の人でもまちまち。このま も猪や鹿を捕らないようにしているそうだ。放射能 東北の木を使うことはできないと言っていた。漁師 の陶芸家と話す機会があった。彼は、もう登り窯で い。この夏に、山形の大石田に住んでいるフランス もう知りたくない見たくないと思っている人も多 とはわからない。だれもが疑心暗鬼になっていて、 近藤 東北の自然を考えるにあたって放射能の問題 は避けられない。除染しているといっても本当のこ 連携しはじめている。東北の自然観を切り口にそこ 住民やヨーロッパのケルトなどの感受性とも共鳴し 大西 このような智恵を東北や被災地で使うことは できないか。今年はできなかったが来年、東北にみ 大 西 「 俯 瞰 的 に 見 て み て は?」と 言 う の は 簡 単 だ が、困難な状況下にある人への説得力はない。万能 念からスタートする西洋的なものではなく、自然が ている。あえて日本的ものを抽出するとすれば、日 んなで集まって何かやりたい。しかし、ここで話し の解決策はもう出せないのでは。西洋近代に対して 今後の活動としては、来年、アートステージ・シン 本の風土との関係の中にあるだろう。震災から四年 たことをそのまま持っていっても伝わらない。 ナチュラルな態度で自然に目を向けてと言っても通 と連携することも可能だろう。 目の来年三月、パラソフィア京都国際現代芸術祭二 鎌田 今年は二回、雄勝に行った。石峰山山頂の石 神社も参拝した。葉山神社の新しい社殿が来年の五 じない。たとえ、それを感覚的に体験できるような ま ず あ り、 そ れ に 寄 り 添 う よ う に し て 創 作 し て い 〇一五に合わせて北野天満宮で実施する「悲とアニ 月に竣工する。その時期に合わせて何かやるのでは ガポールというイベントに絵画作品を出品する。こ マ」展で、ジャパニーズ・センシビリティをクリア ないか。新しい社殿は、法印神楽の拠点になること 展示や展覧会をやっても一過性になりそうだ。石巻 鎌田 東北の人にとって、自然は当たり前すぎてピ ンとこないのでは。そんなものあたりまえと。 なかたちでアウトプットできるだろう。 は も ちろん、地 元のコミュニティの中 心に も なる。 で佐久間氏や山本氏がやろうとしている終わらない る。それが日本の美意識であり感覚価値だと思う。 秋丸 先日、京都造形芸術大学の公開セミナーで、 三潴末雄氏と小崎哲哉氏が対談をしていた。そのと まずはそこでトークなどしてもよい。そしてさらに、 アートやスペインのサグラダ・ファミリア聖堂のよ また、先日、東京画廊が関根伸夫氏の四時間インタ き、三潴氏は古神道に興味を持っていると語ってい 何かそうだよねと共感してもらえるものがあるとよ うな仕掛けが必要なのでは。 うした理念がアジア全域で共有できるようになると た。現代アートの最前線の人でも西洋近代の行き詰 い。法印神楽は地元でうまれたものだが、こちらか ビューをやった。そのなかで、関根氏はつねにアニ まりを感じているのだろう。きっかけとなったのは らも何かを見せることができれば、今後もいっしょ 近藤 アート的なことでやるなら、硯石をテーマに するのはどうだ。和紙が世界遺産になったので、墨 よいと考えている、とのことだった。 二〇一一年の震災だ。この経験が、自分たちの足下 にやってゆこうということにならないだろうか。 最後に自由討議を行った。 にあるものを再評価させている。次の京都市立芸術 さんの硯石の絵の具も色がシルバーに見えて美し と硯というテーマに発展させることもできる。松生 く東北の人に接している鎌田先生や近藤さん、大西 大学の学長になる鷲田清一氏が京都新聞に志村ふく 秋丸 赤坂憲雄先生の東北学、東北芸術工科大学の 三瀬夏之介氏らの「東北画は可能か」という運動が み氏のことを書いていた。志村氏の創作原理は、理 第三章 モノ学・感覚価値研究会アート分科会/京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト 2014 年度活動報告 ● 035 注 ・ 覚価値研究』第 二〇一二年度の活動内容は『モノ学 感 七号参照。 ・ 覚価値研究』第 二〇一三年度の活動内容は『モノ学 感 八号参照。 二〇一四年度の活動スケジュール。 六月一三 一六日 石巻・南三陸・雄勝を訪問。 『モノ学・感 覚価値研究』第八号を届け、二〇一三年度の活動を報告。今 年度の活動打ち合わせ。雄勝硯生産販売協同組合を訪問し、 硯石粉末サンプルの送付を依頼。雄勝の浜や港の写真撮影 を実施。 七月一二日 旧ホテル雀島の関係者から意見をうかがう。 七月末 雄勝硯生産販売協同組合から硯石粉末サンプルが 到着。常葉大学環境防災学部・池田雅彦教授に硯石粉末サ 成分分析および放射能分析の必要性の指摘を受ける。 ンプルを送付し、塗料などに活用できないか相談。その際、 九日本番) 。 九月八日 九日 海からのストリートビュー撮影(八日準備、 いて真剣な討議を行った。 (日本パグウォッシュ会議HPより ) http://www.pugwashjapan.jp/about.html マキペデ ィア( http://makipedia.jp/mediawiki/index. php?title巡 = 航船) 一四年 ― 『 い き な り 宮 城 宮 城 県 人 の 知 ら な い 宮 城 県 』 /中経出版、二〇一四年 KADOKAWA 『 自 然学 来るべき美学のために』ナカニシヤ出版、二〇 二〇一四年 『モノ学・感覚価値研究』第八号、モノ学・感覚価値研究会、 二〇一三年 『モノ学・感覚価値研究』第七号、モノ学・感覚価値研究会、 参考文献 5 036 ● い。岡田さんの作品もモノクロだ。シルバーを白に 見立てれば、白と黒というテーマにもなる。 大西 雄勝をブランディングするために、硯石から 始めてできることを考えるシンポジウム。 近藤 それなら、画家、建築家、プロダクトデザイ ナーも参加できる。流石創造集団・黒崎輝男氏がプ ロデュースした硯もとてもよかった。われわれ以外 でやっている人たちにも声を掛けてあつめる。 秋丸 東北画プロジェクトとのコラボ。東京画廊山 本氏とのコラボもできる。 鎌 田 タ イ ト ル を 考 え た。 「雄勝石から未来を考え る~来たるべき自然力と自然観~」というのはどう だろう。雄勝石を手がかりに未来を考えてゆく。自 然の力をもう一度とらえなおし、観光もそこにつな げる。地元の人も、もう一度自然の力を考える。そ 八月三日 石巻漁協雄勝支所で、支所長の阿部氏、漁師の 青木氏、 Google 関係者と撮影範囲や日程の打ち合わせ。 八月一二日 海からのストリートビュー撮影日だったが、台 風 号の影響で延期。 に考える。五月の遷座祭のあとに、法印神楽保存会 九月八日 石巻で「花とアートで地域再生プロジェクト委員 会」構想発表。 九月九日 川俣正氏、佐久間智子氏、山本豊津氏らの石巻 調査に同行。 一〇月二〇日 海からのストリートビュー全世界公開。 一〇月下旬 原田憲一研究員の紹介で、山形大学理学部 地 ・ 球環境学科中島和夫教授に硯石粉末の成分分析(化学分析 パグウォッシュ会議。一九五七年、世界各国の二二人の 科学者がカナダの漁村パグウォッシュ( Pugwash ) に集まり、 核兵器の危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任につ 一二月三日 京都大学稲盛財団記念館大会議室にて研究会 を実施。 一一月上旬 硯石の成分と放射能の分析が終了。 一一月下旬 日本画家で京都造形芸術大学教授の松生歩氏 に、硯石粉末を絵の具として使ったサンプルの制作を依頼。 依頼。 今年度は、活動が多岐にわたったのと天候の影響 を受けるプロジェクトが主となったため、研究員の まとめ の伊藤さんや千葉宮司に入ってもらおう。 こにある自然を活用しつつ生きていくことを具体的 ─ ─ (XRF) 、鉱物分析(XRD) )と放射能分析(セシウム)を なかった。研究会の討議でアイデアが出たように、 次年度は「雄勝石から未来を考える~来たるべき自 然力と自然観」をテーマにしたトーク&展示を進め てみたい。これまでの活動で知り合った地元の人や 関係者にも参加していただき、個に密着したピンポ イントの視点と課題を俯瞰してみる視点を立体的に 交差させて、停滞あるいは縮小しつつある問題意識 を選択しなおす機会にしたいと思う。 4 第 1 部 こころのワザ学 1 2 3 11 スケジュールを合わせて現地で活動することができ 5 第 部 ― 第五回東日本大震災関連プロジェクト 鎌田 東二 して、今日、コメンテーターとして来てくださっている 方を模索していきたいということで、私が研究代表者と こころの再生に向けて 山形県議会議員・羽黒山伏・元神戸元気村副代表 田中 克 京都大学名誉教授/森里海連環学 草島 進一 島薗 進 東京大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所所長 京都造形芸術大学教授/情報デザイン 金子 昭 天理大学教授/倫理学 大西 宏志 金子昭先生や、 第二部で報告してくださる島薗進先生や、 京都大学こころの未来研究センター教授/宗教哲学・民俗学 鎌田 東二 されてお り ま す「シンポジウムを 開 催 す るに 当 たって」 が、先立ちまして、私から、みなさんのお手元にも配布 その他の先生方とともに連携して研究を進めているの が、この研究会です。 企画をしたか、また、継続して第五回目のシンポジウム をやっているかについて、最初に説明させていただきます。 られている霊的な現象を、宗教民俗学の立場から鈴木岩 初年度は二回、それから基本的に年に二回ずつシンポ ジウムをおこなってきました。そのシンポジウムのテー 弓先生や高橋原先生という東北大学のお二人の先生に マはそこに書いてあるとおりで、昨年は一回でしたが、 対策をどこから、どうしていったらいいのかも見定めら 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起こった直後、 全国民的、あるいは世界的に、この事態にどう立ち向かっ れない状況が、かなりあったと思います。特にその初動 語っていただく「幽霊の語り」をテーマとしました。 震災後、さまざまなかたちで一種の民間伝承のように語 期においては、とまどいや逡巡や、判断がつかないよう う 言 葉がしきりに言われましたけれど、私たちの対 応、 な事態が、いろいろな場面で出てきたと思います。 ていったらいいのかということに対して、 「想定外」とい に書いてある要点をお話ししながら、なぜ、このような 震災後の自然 と社会 第一部 趣旨説明 (ほら貝吹奏) まず、シンポジウ ム を 開 催 す る に あ た っ て 、 東 日 本 大 震災で犠牲になった 方 々 、 ま た 、 い ま も こ こ ろ を 痛 め て 今年度は、三年以上たって、周囲の環境がどう変化し てきているのかをきちんとチェックしたいと考えて「震 みなさん、こんにちは。これより第五回「こころの再 生に向けて」シンポジウムを開催させていただきます。 おられる方々、その 方 々 に も あ わ せ て 黙 禱 を さ さ げ た い そこで、学問を研究する者として、この事態にどう立 ち向かうべきかを考え、三月の翌月の四月、新しい年度 (黙禱) ろの未来研究センターでなければできないような関わり を立ち上げて、 「こころの再生に向けて」という、ここ になった二〇一一年度から緊急にこの研究プロジェクト 行 く 場 合 も あ り ま す が、 北 の ほ う は 青 森 県 の 八 戸 ま で 私は、二〇一一年四月以降、半年に一回定期的に同じ 被災地を巡っていて、福島県から行く場合も宮城県から 災後の自然と社会」というテーマとしました。 と思います。その場 で け っ こ う で す の で 黙 禱 を お 願 い し 黙禱を終わります 。 あ り が と う ご ざ い ま し た 。 ます。 それでは、これよりシンポジウムを開催していきます 震災後の自然と社会 ● 037 2 とができました。 乗せてもらって、清水寺まで行って浪江町を視察するこ 行可能な状態になりました。そこで、私は林住職の車に たまたま納骨があったために、登録している町役場が通 の在り方があるので一概には言えないのですが、 その日、 きことだと思います。 重要な倫理の在り方というか、こころの感受の仕方、こ そして、そういうこころは、これから先も私たちが生 きていく上で、未来の社会をつくっていく上で、非常に ました。 れをどう考えるのか。グサリと突きつけられる思いがし しかし、お墓があるしお寺もあるので、住職としてこ れから先どう維持していくか、またどう維持していくこ はないかという状況の中にあります。 い線量で、到底ここでは数十年以上戻って住めないので 周りの道路が六マイクロシーベルトでした。本当にすご 〇・一とか〇・三マイクロシーベルトですが、そのお寺の 近くにある清水寺のところが本当に高いんですよ。普通 そして、気仙沼のカキ養殖をされている畠山重篤さんた きに「森里海連環学」を中心になって提唱されました。 田中先生は、京都大学大学院農学研究科の教授などを 務 め ら れ た 後、 京 都 大 学 フ ィ ー ル ド 科 学 教 育 研 究 セ ン 地のフィールド研究をもとにお話をしていただきます。 初に震災後の自然や環境がいまどうなっているのかを実 に対する生 そこで、今日、そういう植物、動物、地ま球 さる 態学的な観点から研究をされてきた田中 克 先生に、最 の問題に対する対処の仕方として、いつも念頭に置くべ そのときにこころに残ったのは、浪江町のほうに入っ ていくと、だんだん線量が上がるんですね。私たちは線 とができるのか、どのような形で維持しなければいけな ちといっしょに「森は海の恋人運動」を展開してこられ 量を測りながら行きましたが、まことに残念ながら山の 今年、初めて浪江 町 の 第 一 原 発 か ら 八 キ ロ ぐ ら い の と こ ろ ま で 行 き ま し た。 そ の 経 験 が あ っ た も の で す か ら、 いのか。いろいろ悩ましい問題に取り巻かれています。 ロ近く車で走るわけ で す 。 行っております。そ し て 海 岸 線 を 、 長 い と き に は 一 千 キ 東日本大震災から三 年 ち ょ っ と た っ て 原 発 の 問 題 に 対 し さらわれて、宮司さんご一家が亡くなっています。その 式内社の苕野神社がありましたが、その苕野神社は全部 中克先生が書いていますので、ぜひ読んでいただければ 恋人 みなさんにお配りした『こころの未来』第一一号の最 初の論考、一二ページから一六ページまで、 「森は海の ました。今日の基調講演者に最もふさわしい方です。 近くに供養塔が建っていました。卒塔婆が建てられてい と思います。 くさ の のテーマを環境を中 心 に 据 え た い と 考 え た わ け で す 。 たのですが、そこに本当に、ぐさっと突き刺さる卒塔婆 くさじま 森里海のつながりの思想」と題する論考を田 今回の七回目の追 跡 調 査 で 非 常 に 印 象 に 残 っ た こ と が あります。今回、浪 江 町 に 入 る こ と が で き た の は 、 浪 江 の文字が書かれていたのです。 やがて市会議員になり、三期を務めて、鶴岡市長選に出 されて行ったからで す 。 ま山形県の県議会議員になって活動し、羽黒山で山伏修 活動に入って、三年間、神戸元気村の副代表になって、 たので、その卒塔婆の言葉が非常にこころにしみました。 行を三度勤めた羽黒山伏でもあります。東日本大震災だ 「為大愚国策東電原発事故被災犠牲動物植物之 それは、 霊位三菩提也」というものでした。東京電力の原子力発 防護服を着けて戻る 人 も け っ こ う い ま す 。 もちろん東電に対する批判はありますが、慰霊のここ ろとして、 卒塔婆に、 動物植物に対して慰霊の言葉があっ けではなくて、日本各地の震災や災害と絡めて、どうい 林住職さんは浪江 町 の 清 水 寺 の 住 職 で す か ら 、 も ち ろ んそこは避難地域な の で 今 も 住 む こ と が で き ま せ ん 。 現 そういう状況の中 で 、 納 骨 や 葬 儀 の 問 題 が あ り ま す の で、彼は仮設の寺を 相 馬 の 民 家 に 設 け 、 そ の 民 家 の 中 で たのが一筋の救いでした。この思い。人間だけが生きて う社会の在り方、持続可能な自然と社会の在り方が可能 ボランティア活動に一生懸命立ち働き、その後地元の山 檀家の方々のお世話 を し て い ま す 。 ふ だ ん 二 本 松 や い ろ いると錯覚し、人間が勝手に自然界で大きな、横暴な振 なのかという未来に対するビジョンも含めて話をしても 形県鶴岡市に帰って鶴岡の水問題、環境問題に関わり、 いろなところに分か れ て 住 ん で い る も の で す か ら 、 浪 江 る舞いをしてしまった。その始末がこの結果ですが、そ 電に対して、大きな愚かな国策であったと書いてあって、 町に住んでいた人た ち も 、 ば ら ば ら に 避 難 所 生 活 、 仮 設 れは人間に対する責任ばかりではなく、動物や植物やそ らいます。 そこで亡くなった動物植物の霊を弔う慰霊の言葉があっ 住宅生活をしていま す 。 の他の諸存在、地球全体に対する人類の責任がある。そ たのですけれども、惜しくも敗れ、臥薪嘗胆の末に、い そういう中で、先 祖 代 々 の お 墓 を も つ お 寺 が よ り ど こ ろになり、葬儀が行 わ れ ま す 。 葬 儀 の 内 容 は 、 そ れ ぞ れ 在は昼間の間だけ戻 る こ と は で き ま す が 、 人 に よ っ て は ― 町の真言宗の寺院の 熊 野 山 清 水 寺 林 心 澄 住 職 さ ん に 案 内 その次に、草島進一議員に話をしていただきます。阪 神・淡路大震災のとき、三日間のつもりでボランティア 方向性も見定まらな い 状 況 の 中 で 、 今 回 の シ ン ポ ジ ウ ム ターをつくったときの初代所長として就任され、そのと てこれから先どう考 え て 対 応 し 処 置 し て い く の か 、 そ の 福島第一原発から六キロの 浪江町の海岸線に行くと、 たかおかみのかみ くらおかみのかみ ところに、水の神様である 高 龗 神 や 闇 龗 神 を祀る延喜 鎌田東二氏 038 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて いる活動の状況も踏 ま え て 、 討 論 を し て い き た い と 思 っ 援の活動ができるの か 、 現 在 、 模 索 し な が ら 取 り 組 ん で 最後の総合討論で は 、 京 都 造 形 芸 術 大 学 教 授 の 大 西 宏 志先生に加わっても ら っ て 、 ア ー ト を 通 し て ど う い う 支 何かということにつ い て お 話 し し て い た だ き ま す 。 薗進先生に、原発問 題 が 問 い か け て い る 問 題 は い っ た い 合いながら、 この三年半を過ごしてきたことになります。 関わってきますので、間接的にはこころの再生にも向き とか、子どもたちの将来とか、そのようなことがすべて 当然、人々の価値観だとか、暮らしだとか、未来志向だ 生き物や、 森から海までの調査を現場に密着して行えば、 「こころの再生」ということを私自身が真正面に取り 組んできたわけではないのですが、結局、震災後の海の いただきたいと思います。 た。今日、そのあたりの立場も踏まえて、お話をさせて した。年功序列で私が初代の所長ということになりまし 究所でもない、まったく新しいタイプの研究所ができま ここは名前は「研究所」となっていますが、大学でも ないし、国や地方自治体などのお上に関係するような研 想で行う生まれたての研究所です。 大事な判断基準になれば、この国の未来は開けるのでは その先の世代にとって何が大事かということがいちばん 物事の価値判断が、いまは三年先の経済の成長、いま を生きる自分たちだけの目先のお金に換算できる経済の 肌脱いでもらおうというプロジェクトを構想しています。 替えました。ウナギは現在、時の魚ですから、ちょっと一 てニホンウナギに“語ってもらおう"という作戦に切り ても、いなされるだけですね。ですから、ここは一歩下がっ なかこの国では正論が通じず、ものが動きません。私た そのような中で、行政のみなさんはじめ防潮堤を推進 されようとしている方面の方に問題を指摘しても、なか 認識に至りました。 本周辺全体に、いま共通的に起こっている問題だという と、三陸がいま抱え込もうとしている問題は、まったく 基調報告1 ちのような研究者が真正面に行政のみなさんにぶつかっ このような視点で水辺の自然や人の暮らしに注目して みますと、その前に立ちはだかるのが巨大なコンクリー 然をよみがえらせてくれた。そのような側面があります。 伴いましたが、別の面では、私たちがつぶしてしまった自 の巨大な地震と津波は多くの取り返しのつかない犠牲を それから、気仙沼の舞根湾調査の立ち上げと展開です ね。結局、その中でよみがえる水際、見方によっては、あ ことになりました。そのことを少しお話しします。 国の行く末を考えようという、そんな取り組みに関わる らないのです。 るでしょうが、それがそう簡単にはなかなかひっくり返 ですから、凪の海はいいのですが、ちょっと波浪がたか は七〇センチぐらいの、人がこそっと入れるぐらいの幅 ヤックとはこんな船です。長さは六メートルぐらい、幅 断基準ではそれは無理だろうと思われがちです。シ―カ 成長です。そうではなくて、未来、次の世代、あるいは トの防潮堤。それは自然がよみがえらせてくれた水際ま かつて日本列島に私たちの祖先が大陸や海洋から、い ろいろなルートでたどり着くわけですが、海洋から日本 田中 克 震災後の自然環境の変化 同じであることに気づきました。つまり、そのことは日 ています。じっくり と 本 日 の 問 題 提 起 や 議 論 を 聞 い て い 今日の講演の内容については、一つは、最後に大西先 生がアートのお話をされますが、ひょっとすると、この ないか、それしか道はないだろうということを含めて、 そして、コメンテ ー タ ー と し て 金 子 昭 先 生 に 話 を し て もらい、第二部では 、 今 回 の コ ア メ ン バ ー で あ り ま す 島 ただければと思いま す 。 海遍路というのも、そういう側面が加わっているのかも それでは、田中克 先 生 、 よ ろ し く お 願 い し ま す 。 しれません。つまり、手こぎの人力ボートで被災を受け お話をしたいと思います。 た漁村を回りながら、 そこに暮らしている人々の思いや、 でも瞬時にして、また元に戻してしまうということにな ないでしょうか。そんな船に乗って巡っているような気 みなさん、こんに ち は 。 私は、毎年一つずつ歳をとっていくわけですが、そもの う ね たびに肩書だけは増 え て い き ま す 。 い ち ば ん 下 の 「 舞 根 ります。 持ちにさせられます。 に来た人たちは、きっとこんな手漕ぎの船で来たのでは くなればすぐにひっくり返りそうだと、みなさん思われ 」 。まさに、 「シーカヤックで四国を一周する『海遍路』 これは私にとっては七十の手習いそのもので、普通の判 「海遍路・東北」から三陸の自然環境を見る 森里海研究所」とい う の は 最 新 の 肩 書 の 一 つ で す 。 舞 根 実は、この三年半にわたり、三陸の海で水際の再生を 中心に取り組んでいく中で直面してきた問題が、私自身 震災の傷跡、復興の現実をもう一度見つめ直して、この というのは気仙沼の 端 に あ る 舞 根 湾 。 そ こ に 新 し く で き この三五年間にわたり、有明海の基礎研究と再生に取り それは、陸に住んでいる私たちの価値判断を問い直す 震災後の自然と社会 ● 039 た森と里と海の多様 な つ な が り の 教 育 と 研 究 を 自 由 な 発 組んでいるのですが、有明海が抱え込んでしまった問題 田中克氏 も怖いです。そのようなことを経験することが、いろい ろなことを考える原点の一つだと言えると思います。も 大震災のこのような写真はもうみなさんは見飽きられ たと思いますが、この気仙沼湾の様子を見てください。 津波と火災の三つが一挙に同時的に生じた典型的な被災 040 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて ちろん、事前にあらゆる事故が起こらない対策を取るわ けです。 後ろに乗っているのは日本を代表する海洋冒険家の八 幡暁さんです。この方がすごいです。まだ四〇歳の手前 ですが、大学時代の途中から、ヤス一本で漁師になると 決め、石垣島で実践をして、海とともに生きる先に、こ の国の未来を見定めようとされています。そんな人の技 術的な指導の下に海遍路は動いています。 厳しければ厳しいほど、最終ゴールではみなさん、こん な笑顔です。海遍路代表の高知大学名誉教授の山岡耕作 さん、京都の出身です。この方も六〇歳の手前から、こ ういう冒険的な研究を含めたチャレンジをされています。 彼は海洋冒険家ですが、当人は「人は冒険家と言うけ れども、自分は生き物としての人間が、大量生産、大量 消費の中で生きるすべをどんどん失っていっている。こ の先に生き物としての人間の未来はあるのか、そのこと の人が集中し、人間活動の影響が最も出やすい場所でも 海を歩く。シーカヤックというのは実は海を歩くよう な道具です。見る、実感する、聞く、そして、考える。 を見つめ直そうという、 そんな取り組みをしているだけ」 含めいろいろな人が最終ゴールを喜びあいました。 んな取り組みを探す機会に恵まれました。 と言われます。 海遍路というのは、海辺を順次巡り、いわば水平的に 陸を見る、暮らしを見る、生き方を見る、そういう取り ことにもなります。 私 た ち の 価 値 基 準 は 、 ど う し て も 陸 う思いでの取り組み で す 。 組みです。 こ の 写 真 が 撮 ら れ た の は 魚 市 場 の 屋 上 か ら で す。 一 〇 の 論 理 で す。 で も、 い ま 日 本 が 抱 え 込 ん で い る 問 題 は 、 あります。 この海遍路は、時 間 を か け て 日 本 一 周 を や ろ う と い う 試みなのですが、も ち ろ ん 最 終 航 路 に 私 が 立 ち 会 う こ と メートルを超えるような建物のここまで津波が押し寄 これは海遍路東北のゴールでの集合写真ですが、こち らは、先ほど紹介のありました森は海の恋人運動の畠山 は現実的には不可能 で す が 、 そ の 出 発 点 と し て 、 四 国 を 一方、森は海の恋人、あるいは森里海連環というのは、 この国の在り方を脊梁山脈から三万本以上の川が流れて せ、次の瞬間には、自分が命を落とすかもしれないとい それだけではもう行 き 詰 ま っ て い る の で は な い か と 思 わ 三年かけて一周した 後 、 全 国 を 回 る 海 遍 路 の 出 発 点 に 定 いることに焦点を当て、山から川や地下水を通じて海に う極限状態で撮られた写真だと思います。このような大 れます。海洋国であ り 、 森 と 海 の 大 国 で あ る 日 本 の 将 来 めたのが震災の海で す 。 今 年 の 五 月 一 五 日 に 宮 城 県 名 取 つながる垂直の視点になるわけです。海遍路の水平の視 きな油のタンカーが流れました。気仙沼湾では、地震と 海遍路東北は、こここに示したとおりです。「東北の 海に暮らす人々から学ぶ、未来への知恵」 。 市を出発し、三〇日 に 気 仙 沼 市 舞 根 湾 ま で 巡 り ま し た 。 点と、森は海の恋人や森里海連環の垂直の視点が交差す 重篤さん。それから、NPO法人森は海の恋人を動かし も ち ろ ん、 海 は 多 く の 恵 み を も た ら し て く れ ま す が 、 海には非常に厳しい 面 が あ り ま す 。 こ ん な 海 に 直 面 す る るところが河口域です。 ている三〇代半ばの畠山信さんです。高校生や大学生を わけですね。これが怖いのは、うねりが岩礁にぶち当たっ その先に、ちょっとでもいいから何かの行動に移す。こ て、それからはね返 っ て く る 波 と 、 沖 か ら の 波 が ぶ つ か り合うと、きわめて 不 規 則 な 波 に な り ま す 。 そ れ が と て 地になります。 を考えるなら、もう 一 度 、 海 か ら 陸 の 在 り 方 、 わ れ わ れ 「海遍路」仕掛け人の山岡耕作さん、 八幡暁さんと仲間たち 河口域は海の生き物たちが再生産をする (命をつなぐ) 上で非常に大事な場所なのです。その周辺にはたくさん の暮らし、社会を見 つ め 直 す こ と が 大 事 で は な い か と い シーカヤックで四国を一周する「海遍路」 ——海から陸と人の暮らしや幸せの原点を見つめ直す 会も、そういう柔軟 に 対 応 で き る 仕 組 み を 失 っ て し ま っ にも目先の経済成長 に 目 を 奪 わ れ 、 気 が つ け ば 地 球 も 社 来事にも柔軟に対応 で き る わ け で す 。 と こ ろ が 、 あ ま り 疫システムがしっか り し て い れ ば 、 多 少 の い ろ い ろ な 出 テムを再構築する取 り 組 み で も あ る と 考 え て い ま す 。 免 森里海連環や森は海の恋人運動は、社会も自然の在り 方も含めて、ある面 で は 生 命 系 と し て の 地 球 の 免 疫 シ ス そして、自然を制御し、支配できるという技術過信の 戒め。私自身は、 この三つが最も重要な教訓だと思います。 明を見直すことの重 要 性 。 大量生産、大量消費の物質文明が、地球をどんどんつ ぶしていく、この文 明 の 先 に 何 が あ る の だ ろ う 。 こ の 文 なかったでしょうか 。 私も含めて、いろいろな人が震災直後に強く感じたこ とは、自然への畏敬 の 念 を も う 一 度 取 り 戻 す こ と 、 で は 日に全国から研究者はもちろん、政治に関わる人、行政 開催されました。四月二九日に東北新幹線が開通した翌 「森は海の恋人を この調査のきっかけになったのが、 緊急支援する現地研究会」で、二〇一一年四月三〇日に 年五月の下旬に第一回目の調査を始めました。 をしながら、コンパクトなチームが生まれて、二〇一一 を支援する国際組織シビックフォースなどの機関が協力 NPO法人「森は海の恋人」 、そして、資金面では震災 森は海の恋人運動に思いを寄せる全国の研究者七名と、 研究チームを作って動き出すことにしました。最初は、 このような調査は、既存の研究組織や研究資金に頼っ ていてはすぐには動き出せませんので、ボランティアの 森から海までをつないだ調査ができないかと考えました。 るだけ総合的に、そして、三陸の海の大きな特徴である、 ということですね。なるべく早く、何が起きたかを、でき きない状態が大いに危惧されました。それをどうするか の月に合同調査をおこなっています。 常の仕事などをやりくりしていただきながら隔月、奇数 ので、そう頻繁に集まることはできません。みなさん日 このような背景のもとに、当初は八人の小さな所帯で 動かし始めた調査研究でした。ここに参加いただいた研 たいと思います。 したのが舞根森里海研究所であることを、最後に紹介し う提案をしたのが最初です。それが三年の時を経て実現 めには、近い将来、森里海連環の研究所をつくろうとい その研究集会で、震災からの復興を乗り越えて、持続 可能な社会をここから生み出す一つのモデルをつくるた につながる、という思いで集まった現地研究会でした。 海の恋人」をもう一度元気にすることが東北の震災支援 の先生、大学生、主婦など、実に多様な人々が、 「森は に関わる人、企業の関係者、お医者さん、弁護士、学校 中には東北の出身で、何か復興の支援に関わる調査に 参加したいのだけれども、自分は北海道にいるから、な 究者は、全国からボランティアで集まっていただきます たと言えます。それ を 再 構 築 す る こ と が 持 続 可 能 社 会 へ つながる道ではない か と い う 思 い に い た り ま し た 。 かなかそのような機会に恵まれないとお考えの研究者な 院生も含めると三十数名にのぼり、その中には放射性物 していただく研究者が増えていきました。いまでは大学 気仙沼舞根湾調査の立ち上げと展開 何をなすべきか。 総 論 で は も の は 動 き ま せ ん の で 、 具 体的に何かをモデル 的 に 動 か し た い と 考 え て い ま す 。 そ ど、学会やシンポジウム等を通じて、参加の意思表示を の舞台が気仙沼市の 端 、 唐 桑 半 島 の 付 け 根 に あ る 舞 根 湾 れい じ かったと思います。益田さんが写した水中の生き物たち 益 田 玲 爾 さ ん と い う 方 で す が、 彼 の 貢 献 は 非 常 に 大 き フィールド科学教育研究センターの水産実験所に勤める け て い ま す。 と り わ け、 京 都 府 舞 鶴 市 に あ る 京 都 大 学 こ の 調 査 で は、 支 援 者 か ら 寄 贈 さ れ た 船 外 機 付 き の ボートを、いろいろな分野の研究者が利用して調査を続 次々と起こっているのも現実です。 えってきています。しかし、三年を経ても新たな問題が 後ほど紹介しますけれども、海の中では、われわれが 考 え て い る よ り も 早 く、 生 き 物 た ち は ど ん ど ん よ み が わり、 「気仙沼舞根湾調査」は四年目に入りました。 調査が継続されています。数日前に二〇回目の調査が終 を研究する人まで、いろいろな分野の研究者が集まって 質を扱う専門の分析の技術者や研究者から、森の水文学 トル弱の小さな湾ですが、森は海の恋人の発祥の地です。 みずやま べてのカキ養殖筏や ホ タ テ ガ イ の 養 殖 施 設 は 壊 滅 し 、 ほ その拠点になったカ キ 養 殖 の 水 山 養 殖 場 の 加 工 施 設 、 す とんどすべての船は 流 さ れ ま し た 。 こ の 写 真 は 、 そ の よ うな三陸の漁村の代 表 的 な 場 所 の 光 景 で す 。 震 災 直 後 の 段 階 で は、 何 か を 調 査 を し よ う と し て も、 三 陸 沿 岸 の 試 験 研 究 機 関 は、 国 も 地 方 自 治 体 も 大 学 も、 海や水産に関係する 研 究 機 関 の ほ と ん ど す べ て は 海 辺 に ありますから、津波 に よ っ て 壊 滅 的 被 害 を 受 け 、 機 敏 に 動き出せませんでし た 。 これは日本が抱えた未曾有の経験であり、その「歴史 の証言」をちゃんと記録して世界に発信して、続く世代 に伝える必要のある非常に大事な局面なのに、調査がで 震災後の自然と社会 ● 041 です。入り口から奥 ま で 八 〇 〇 メ ー ト ル 、 幅 二 〇 〇 メ ー 気仙沼舞根湾調査——お金はないが志のあるチーム の様子が、地域の人 々 に 元 気 を 与 え 、 も う 一 度 海 と と も よみがえりつつある海の生き物を、益田さんの水中写真 きていこうという思いが膨らんだきっかけになりました。 素早くよみがえる海の生き物をみて、地元のみなさんは一 人たちは、まだ先の 目 途 が 立 た ず に 茫 然 自 失 的 な 状 態 で 舞根地区では早い時期から、被災を受けた低地には住 めないから、高台にまとまって移住しよう、そこから海 を中心にみなさんに紹介しました。そこで、たくましく したが、子どもたち は 、 も う が れ き の 山 を 遊 び 場 に し て ないという要望書を気仙沼市に早くから出されていまし に生きようという気 持 ち を 新 た に さ れ た の で す 。 飛び回っているのに 驚 き ま し た 。 た。二〇一二年七月に巨大防潮堤計画が表に出て、説明 えっている。もう一度、自分たちもここで、海とともに生 そのような中で調 査 を す る と 、 子 ど も た ち が 生 き 物 が 復活したのを見ようと興味津々の様子で集まってきま 会が各地ではじまりますが、それよりかなり前にそうい 気に元気になられました。海の生き物がちゃんとよみが す。こういう子ども た ち の た め に 何 か で き な い か と い う ど唯一、例外的に、舞根湾には防潮堤ができない、その 地元の子どもたちというのは本当にたくましいです ね。最初に、震災直 後 と 言 っ て も 、 も う 三 週 間 ぐ ら い 時 ような思いも膨らん で い っ た と い う 経 緯 が あ り ま す 。 ような場所にもなりました。 間が経過した四月の 初 め に 、 舞 根 湾 を 訪 れ ま し た が 、 大 益田玲爾さんは面 白 い 研 究 者 で す 。 自 分 は 魚 類 心 理 学 者だと言うわけです か ら 。 魚 の 子 ど も と い う の は 本 当 に 中になってほしいと 思 っ て い ま す 。 教育も社会の動きも ゴ リ ラ の 時 間 " で 動 く よ う な 世 の 京都大学らしいなと 思 い ま す 。 い ず れ に し て も 、 研 究 も 談が実現したら、きっと面白いだろうと期待しています。 する山極先生と、海 の 生 き 物 の 心 理 を 研 究 す る 二 人 の 対 これは本当にうれし い こ と で す ね 。 ゴ リ ラ の 心 理 を 研 究 を解き明かす」とい う 視 点 で 研 究 さ れ て い ま す 。 のプロセスを彼は研 究 し て い ま す 。 そ れ を 「 魚 類 の 心 理 貢献しているのです。 海底では、海を耕してくれるナマコも徐々に増えだし ています。ここにあるのがナマコのうんこです。こんな のキヌバリも研究の対象でありました。 いなハゼです。実は天皇陛下はハゼの研究者ですが、こ 黄色の半透明の肌に黒いストライプのある、非常にきれ その象徴が、キヌバリという、体長は大きくて七、八 センチ、底には着かないでずっと水中生活をする種で、 がえって、その結果ということになります。 ということは、彼らの餌になる小魚がまずいっぱいよみ いろいろな生き物がよみがえってきます。これはヒラ メの一歳魚ですね。魚食性ですから、彼らがよみがえる があふれていました。一五センチを超えていますから、 たのですが、このように、筏のすぐ下にはメバルの大群 そして、三年数カ月をかけて、震災前にはこの海のシ ンボルのような存在であったメバルが戻ってきました。 間に起こりました。 はアカモクという食用にもなる海藻で、大事な海の森も 辺一円に広がりました。この写真の背景にはえているの うに爆発的に増えることがないんですね。これが湾の岸 生後間もなくほとんどが死んでしまいますので、このよ 彼らは大量に卵を産みますから、子どもたちが無数にふ か数カ月後に、 生き残ったキヌバリの親たちが卵を産み、 よみがえる水際環境と生き物たちに学ぶ う要望を出して、気仙沼市もそれを認めました。ほとん を見ながら暮らそう。その風景を壊す防潮堤なんていら 小さな未熟な状態で 生 ま れ て き ま す 。 大 多 数 は 、 ほ か の 生き物に食べられて し ま い ま す が 、 う ま く 環 境 に 適 応 し た数少ない個体が、 環 境 や ほ か の 生 き 物 か ら い ろ い ろ な 益田さんのいちば ん の 貢 献 は 、 二 〇 一 一 年 五 月 に 調 査 をした時点では、地 元 の み な さ ん は ま だ ど う 生 き て い け こちらはホヤ。三陸の名産のホヤも、カキと同じよう に、水中で増える植物プランクトンを餌にしますから、 煮付けにするとちょうど食べごろですね。先日、試しに ことを学びながら、 賢 く な っ て 生 き 残 っ て い き ま す 。 そ が入ってきて、調査 自 身 は 楽 し い で す か ら 、 み ん な 楽 し これも森の恵みで生きる生き物ということになります。 ばよいか分からない 状 態 で し た 。 そ ん な と こ ろ に 調 査 団 簡単な仕掛けで四匹だけ釣り上げましたが、次の調査時 一個体、一個体レベルでは、ずっと前から戻ってきてい 復活しました。こうした変化は震災後七カ月、八カ月の 化します。普通の海では、ほかの生き物に食べられて、 みながら笑顔でやる 。 地 元 の 人 た ち に と っ て は 、 そ う い こうした生き物が、どんどん復活していきました。 ちょうど一〇月か ら 京 都 大 学 の 新 し い 総 長 に 、 ゴ リ ラ の 研 究 で 世 界 的 に 有 名 な 山 極 寿 一 先 生 が 就 任 さ れ ま す。 う光景さえ受け入れられない状況でした。ですから、「あ そのよ う な 雰 囲 気 を 感 知 して、八月のお 盆の直 後に、 かたちで、海の復興にも、ずいぶんいろいろな生き物が いつら、何だ」と思 っ て お ら れ た に 違 い あ り ま せ ん 。 には必ず釣りざおを持って行こうと、そんな楽しみが生 潜水による生き物たちの観察(益田玲爾さん撮影) その象徴が先ほどのキヌバリの稚魚です。二〇一一年 秋の写真ですから、産卵期の六月、七月、震災からわず “ 042 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて 生き物たちが元気に 復 活 し た シ ン ボ ル が こ の メ バ ル の 大 した。この海では、いろいろなことがモデル的に進んで、 畠山重篤さんは、「メバルが群れを成して戻るかどう かが、この海の復興 の シ ン ボ ル だ 」 と よ く 話 さ れ て い ま まれています。 で進んでいます。 観察・研究・教育するモデルにしようと考え、その方向 殖場が買い取って、ここをよみがえる自然を中長期的に PO法人森は海の恋人を含めて、畠山重篤さんの水山養 最大規模のこの湿地だけを何とか守るために、唯一の 手段として、ここを買い取るしかありませんでした。N は湿地はつぶされて土が盛られてしまいました。 はそのような海で獲れたウナギということになります。 すウナギがけっこういるんです。ですから、このウナギ すくなければ海に戻ります。そして、海の河口域で過ご らすというのが定説ですが、川や湖に上っても、棲みや の近くにシラスウナギが来て、川に上って、川や湖で暮 震災後に舞根湾で獲れたウナギです。去年の一〇月に 獲れました。実はウナギというのは、海で生まれて、川 群です。 れを埋め立てて、宅 地 に し 、 農 地 に し た と こ ろ が 、 今 回 七〇年前の状態は 、 湾 の 奥 に 、 こ う い う 湿 地 や 干 潟 が たくさんあって、そ こ で 生 き 物 が 育 ま れ て い ま し た 。 そ けです。ほんの七〇年ぐらい前の状態に戻ったわけです。 はなくて三陸の一円 に 、 こ う い う こ と が 起 こ っ て い る わ す。それにウナギを復活させるプロジェクトを絡めよう 自然再生のモデルにする場にしようと調整が続いていま その後、ここでは国交省、環境省、農水省、気仙沼市、 それから建設事業者、 研究者を含めたチームをつくって、 岸に改善することに同意してくれました。 最終的に気仙沼市もそのことに同意して、湿地に隣接 する西舞根川の三面張りの護岸を、より自然度の高い護 稚貝が発見されました。彼らは、こんなところまで海と この砂利の中に海の生き物がいるのです。その海の生 き物がアサリの稚貝です。二〇一二年一月に、アサリの こかから砂利が流されてきて溜まり場ができます。 ま潮が引いていますから陸上に露出していますが、潮が もう一つのシンボル的な生き物はアサリです。これは 岸壁です。震災前は船着き場にしていたところです。い 湾の奥部には、3 ・ ま で は 農 地 で あ り 、 宅 地 で あ っ たところが、このよ う な 湿 地 に 戻 り ま し た 。 こ こ だ け で の大震災で全部壊滅 し て 、 地 盤 が こ こ で は 七 〇 セ ン チ ほ という取り組みを進めているところです。 して生息場所を広げているのです。そういう、たくまし 満ちてくると全部水に浸かってしまいます。そこに、ど ど沈下をして、海水 が 入 っ て 塩 性 湿 地 に な っ た と い う こ とです。 建って松林がありましたが、全部流れて、ここに干潟的 この写真は、二〇一二年九月のものです。こちら側に 海 と 陸 を 隔 て る 道 路 が あ り ま す。 道 路 の 内 側 に は 家 が い海の生命力を感じる代表的な事例です。 な ん で す ね。 こ の よ う な と こ ろ が ど ん ど ん な く な れ ば 、 いま日本周辺から ニ ホ ン ウ ナ ギ が ど ん ど ん 姿 を 消 し て いますが、こういう 場 所 が ウ ナ ギ の ね ぐ ら で あ り 、 餌 場 ウナギがいなくなる の は 必 然 な ん で す 。 で す か ら 、 こ こ より出したアサリが、大小合わせて一七〇個ぐらいも出 環境が生まれました。この広さ(二〇×三〇センチ)から、 このアサリが、どこから来たか、確かなことは分かり ませんが、二〇一二年五月に、湾奥部で四センチを超え こっているということです。 すでに震災二世を海の中に生みだすような命の循環が起 てきました。 大きなものは三センチを超えていますから、 で「ウナギの里」と い う プ ロ ジ ェ ク ト を 展 開 し 、 こ の よ 舞根湾におけるウナギ復活作戦「ウナギの里づくり」 うな陸と海の境界の よ う な 場 所 が 生 物 多 様 性 の 宝 庫 で あ り、ニホンウナギに と っ て も か け が え の な い 場 所 で あ る ことを実証しようと 考 え て い ま す 。 い ま 示 し た 湿 地 が こ こ に な り ま す。 こ こ の 高 台 で は、 五二世帯のうち四四 世 帯 の 家 屋 が 倒 壊 し 、 最 終 的 に 二 四 世帯が残り、この高 台 が 造 成 さ れ て い ま す 。 るアサリの成貝が生きた状態で獲れました。面白いこと に違いありません。 に、ちょうど真ん中あたりにくっきりと殻の模様の違い が刻まれています。これが3・ だして、子どもたちを残したものと推定されます。その 、海の回復とともに再び食べ 三週 間 絶 食 状 態で 生 き 抜 き ) 災の海を生き抜いて (きちっと殻を閉じて、泥海の中を二、 それを象徴するマークができます。この成貝は何とか震 生き物はきわめて厳しい環境に直面する (ストレスが かかる)と、 骨 と か 鱗 と か 貝 殻 の 殻 な ど の 硬 い 組 織 に、 11 二四世帯の家をつ く る た め に 、 こ れ だ け 膨 大 な 森 を 崩 して、巨大な道路を つ く っ て 、 川 を 三 面 張 り に す る 工 事 が同時進行するわけ で す 。 こ こ は ほ ん の 小 さ な 場 所 で す が、同じことが東北の各地で、もっと巨大な規模で起こっ ているのがいまの現 実 で す 。 これはよみがえっ た 湿 地 の 写 真 で 、 こ れ が ヨ シ 群 落 で す。 こ こ に 一 つ、 二 つ 、 三 つ の 湿 地 帯 が 生 ま れ ま し た 。 残念なことに、この二つの湿地は地主さんの意向もあり、 盛り土をして元に戻 す こ と に な り ま し た 。 す で に こ こ で 震災後の自然と社会 ● 043 11 よみがえる湿地や干潟に現れたアサリ稚貝 大震災の海に生きて子孫を残す 三陸の海に生きる漁師さんには、この震災の海が抱え た問題を乗り越えようとしているたくましさが見られま 森の木も、われわれ人間も、その祖先をたどれば、海 で誕生した生き物です。ですから、われわれの究極のふ われます。 を乗り越えてきた知恵をたくさん持っているからだと思 う長い歴史の中で、今回の震災よりもっと大規模な試練 なぜかといえば、彼らは、もう何百万年、何千万年とい 一方、人間社会の復興はなかなか進まず、いろいろ問 題が山積しています。 素早く進む海の生き物たちの復興。 三千円でも幸せに暮らしていけると。また、何がいちば せ だ 」 と 言 う こ と で す。 毎 月、 稼 げ る お 金 が 二 千 円 や 海遍路代表者の山岡耕作さんがフィリピンの漁村を巡 られて、あらためて知ることになったのは、みんな「幸 ているのです。 彼の息子さん夫婦が家業を継ぎ、震災後に赤ちゃんが 生まれ、このように三世代で浜で仕事を営む幸せを感じ るのでしょうか。 大指という小さな漁村で出会った一人の漁師さんです 子どもたちは速やかに育って、もう次の世代を送り出そ うとしています。そういう生命の循環が、海の中では起 す。これはたまたまシーカヤックで巡り会った宮城県の るさとは海だと言えます。その海を、高度経済成長期以 おお ざし こっているということです。 降、私たちはどれだけおろそかにしてきたことでしょう。 と言われます。 この震災の海辺にもそれがあるんですね。 ん大事かという質問にはみなさん口をそろえて 「家族だ」 が、この何の屈託もない底抜けの笑顔は何を物語ってい 会場には若い方もおられます。われわれの年代は、そ れほど先が長くはありませんので、大きな影響は受けな 未知の自然を大事にしなければならない」というような 源がいっぱいあるに違いない。だから熱帯雨林のような 生物多様性という言葉がいまあちこちで言われます が、それは「熱帯雨林には新薬につながるような遺伝資 はないかと思います。 しなさいというメッセージを私たちに送ってくれたので 一度、先輩生物の生き方、環境への適応の仕方を学び直 私たちホモ・サピエンスという現代人の歴史は、たか だか二〇万年と言われています。東日本大震災は、もう の後の復興の現実に直面させられています。 この子は、夕方になると洗濯物の取り入れをします。 殻に付いた雑物を取って、さらにきれいに仕上げて、発 素晴らしい。 なといっしょに取っているんですね。この笑顔が、また 女の子です。カキの殻に付いた、いろいろな雑物をみん これは別の漁村ですが、 震災前の一三の漁業者のうち、 一家族だけが漁業を続ける漁師の三代目ですね。五歳の こで生きていけるという確信があるということです。 元本を崩さずに、利子だけをいただくようにすれば、こ らだ」と言うのです。 “太平洋銀行"さえあれば、その その確信の源を、この漁師さんも含めて、ほかの漁師 さんも異口同音に、 「ここには“太平洋銀行”があるか けるという確信があるのです。 この漁師さんは、震災でホタテ養殖業の施設をすべて 失い、五千万円を超える借金を抱えました。それでも、 いでしょうが、そのつけをすべて、続く世代に、修復を レベルの問題ではないのではないかと思います。 泡スチロールにパックして、毎日、都会の支援者に送る 息子と孫と暮らせる幸せを支えに、家族で力を合わせて 先ほどの鎌田先生のお話に出てきましたように、生き 物たちの命のつながりを、人間だけではなく、植物も、 わけですが、その宅配便の車が毎日二時半に来ると、そ することなく回してしまうことになりかねません。こう ほかの生き物も、同じように命を失ったことを重く受け の場に行って発泡スチロールの箱を宅配のお兄さんに渡 いう無責任な日本でいいのかなというようなことも含め とめ、そういう目線で物事を考えていくことが今とりわ 頑張れば、負債を何年か後には返して、幸せに生きてい け大事な時代に差しかかっていると思います。生物多様 す役目をこなしています。そのような作業をこの笑顔で て、いろいろなことを考えさせられる東日本大震災とそ 性にも、 そういう視点が必要なのではないかと思います。 044 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて てくれた、この上な く 素 敵 な 女 の 子 で し た 。 自然にこなしている の で す 。 い ろ い ろ な こ と を 考 え さ せ 立ちはだかる巨大防潮堤と水際環境の再生 根付いているのです。 川と海と、その後背の森のつながりを実感する暮らしが うのは、五階建ての建物のほとんど屋上近くの高さに相 五階建てのビルディングですが、一四・七メートルとい “太平洋銀行”のいわ れ と い う こ と に な り ま す 。 自分たちは、ちゃん と 生 き て い け る と い う 確 信 、 こ れ が 豊 か な 海 が あ る の で す。 そ の 仕 組 み さ え 壊 さ な け れ ば、 大規模な空間スケー ル の つ な が り に も 支 え ら れ て 三 陸 の ん南が三陸沿岸域な の で す 。 そ う い う 大 陸 と 海 洋 と い う 。親潮海域のいちば さんを代表とする研究グループにより) ら か に さ れ ま し た ( 北 海 道 大 学 低 温 科 学 研 究 所の 白 岩 孝 行 生物生産を促進し、 世 界 の 三 大 漁 場 に し て い る こ と が 明 て、千島列島の海峡 を 通 っ て 、 北 海 道 道 東 の 親 潮 海 域 の 態の鉄)が河口域にもたらされ、オホーツク海を南下し 最近の研究では、 ユ ー ラ シ ア 大 陸 の 大 河 、 ア ム ー ル 川 流 域 の 森 林 域 や 湿 地 帯 で 生 み 出 さ れ た フ ル ボ 酸 鉄 (溶 存 結し、そこに小さな川や地下水が流れ込んでいます。 の生き物です。三陸リアス式海岸の湾奥では森と海が直 主役です。これらの五種はすべて、森の恵みで育まれる海 ありません。断面が台形の防潮堤の底辺は九〇メートル ここには、宮城県下で最大の高さ一四・七メートルの 巨大防潮堤が建設されます。高さだけが巨大なわけでは のような事態です。 す上でなくてはならない浜辺の裏側で進行するのが、こ りました。そのような、人が海とともに、心豊かに暮ら 干潟的環境にはアサリが、川の中にはシジミがよみがえ です。ここにはハマグリがよみがえり、ちょっと内側の 戻って、人々が海と接する憩いの場の再生を喜んだ場所 こちらは野々下海岸より少し南の小泉海岸。ここでは 一 度 流 れ て し ま っ た 砂 浜 が、 一 年 も し な い う ち に 元 に 反映とも言えます。 てしまったようです。これもまた、今日の日本の現実の ます。所轄する官庁が違うことによって、ここで止まっ て完成しているはずですが、ここで途切れてしまってい まった防潮堤が存在します。計画ではこちらまで延ばし 南 に 位 置 す る 野 々 下 海 岸 に は、 す で に 出 来 上 が っ て し しかしながら、現実は、三陸沿岸ではこんなことが進 行しています。これは小規模なものですが、気仙沼市の トル、幅が九〇メートルを超える防潮堤は浜辺をすべて に航空写真の上に落とし込んだCG図です。一四・七メー 次は私たちの気仙沼舞根湾調査の研究仲間である工学 系の先生が、一四・七メートルの巨大防潮堤の計画どおり います。 これが今復興の名のもとに進行している現実なんです ね。まさに、こころの再生に、もろに関わる問題だと思 いけるでしょうか。 てしまったら、こころ豊かに、穏やかな気持ちで生きて 当します。こんな建物がみなさんの暮らしの周りにでき “太平 洋 銀 行” 。三陸の漁師は、なぜそう言うのでしょ うか。動物ではカキとホタテとホヤの三種類、植物ではコ これは、海遍路東北に参加した鳥取環境大学の学生で す。私たちは、この よ う な こ れ か ら の 時 代 を 担 う 学 生 に にもなります。それが陸と海の境界にあたる砂浜海岸の ンブとワカメ、この五種が三陸の基幹産業である養殖業の 現場の経験をしても ら お う と 思 い 、 お 世 話 に な っ た 漁 師 生き物とのかかわり が 注 目 さ れ て い ま す 。 サ ケ や ウ ナ ギ 込んでいます。ここ で は 、 春 先 に 海 か ら 川 に 上 っ て く る うな問題が、このままでは、将来、全国各地で必ず起こ 想されている東海、東南海、南海地震に備えて、同じよ けの問題ではないと思われます。いずれ訪れることが予 このような、巨大な津波からの被害を物理的に抑え込 もうとする巨大なコンクリートの防潮堤の設置は三陸だ 小泉海岸にできる防潮堤の内側には、舞根湾と同じよ えて、延々と川の両岸に防潮堤ができてしまうのです。 覆い尽くします。それだけではなく、川を遡る津波に備 さんの海の作業をい っ し ょ に 手 伝 い 、 海 に 生 き る 暮 ら し 上に、ドーンと出来上がってしまいます。その工事がす もそうですが、ここ で の 主 役 は ハ ゼ 類 の 一 種 で あ る シ ロ るだろうと、 大いに危惧しています。これは国が抱えた、 でに始まっているのです。 を実感してもらって い る と こ ろ で す 。 ウオという小さな魚です。川で産卵をして、海で育って、 巨大な津波から国民を守る施策であることを都会のみな ここは南三陸町の歌津地区。先ほどの五歳の女の子が 暮らす地区です。こ こ の 浜 に は 伊 里 前 川 と い う 川 が 流 れ 一年後には再び川に 戻 っ て く る こ の 生 き 物 を 大 事 に す る さんに知ってもらおうと、東京でおこなったシンポジウ 震災後の自然と社会 ● 045 習慣が根付いていま す 。 こ こ で は 地 域 の 人 た ち が シ ロ ウ ムの様子です。 まず、一四・七メートルがどれほどの高さか。これは オを共有財産とし、 川 に 石 積 み の わ な を 仕 掛 け 、 遡 上 し てくるシロウオを獲 る ザ ワ 漁 と 呼 ば れ る 漁 法 が 伝 統 的 に 保存されています。地域のいろいろな人が関わりながら、 防潮堤は森と海のつながりを断絶させ、 三陸の未来を閉ざす 意味しています。琵琶湖にも同じ問題があります。琵琶 湖固有種のセタシジミはかつて六千トン獲れていました 型復帰の方針に基づ い て 、 今 後 利 用 さ れ る あ て の な い 場 一九八〇年代に有明海全体で九万トンも獲れていました いました。 その具体的表れの一つがアサリの漁獲量です。 かつては“宝の海”と呼ばれるほどに生き物があふれ た豊饒の海、有明海は今では“瀕死の海”に至ってしま 込まれる悲劇が生まれてしまいました。 の産業です。それが相争わなければならない事態に追い の中で、森に育まれる水に依拠する、いわばきょうだい 態に至っています。農業と漁業というのは自然の仕組み しかも獲れ方が極端に偏り、全体の六割が愛知県の三 河湾で漁獲され、静岡、三重を加えた東海三県で日本全 これはあまり表に出てこないのですが、一九五〇年か ら二〇〇〇年までの半世紀の間に、どれだけの砂が筑後 046 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて が、いまでは二〇〇トンですから、内陸の湖にも日本周 辺の海辺にも、同じことが起こっていると言えます。 有明海を今日のような瀕死の海にしてしまった構造的 な要因はいろいろあります。これが一九九七年に完成し た諫早湾の潮受け堤防です。 ここに水門があるのですが、 二百数十枚の鉄板を落としてここを閉め切った「ギロチ ン」という儀式が記憶に新しいところです。二五〇〇億 円を使って、いったい何が起こったのでしょうか。 この循環を失くした調整池の内部は著しく汚濁して、 農業用水にも使えないほどの状態です。発がん性物質を 生み出すミクロキスチスという赤潮生物が大量に発生 し、大きな問題になっています。干拓によってかけがえ のない干潟を失い、循環を失くした閉鎖系水域の当然の 結末と言えます。 この諫早湾干拓事業では、有明海の命の源であった広 大な干潟がつぶされてしまいました。干潟をつぶして農 地にし、三年前から入った四十数経営体の農業者と、百 年以上の長い歴史の中で先祖代々漁業を続けていた人た ちが、相争わなければならない現実に至っています。こ こを開門すれば海水が入ってくるから農業が成り立たな いという農業者と、水門を開けて循環と干潟の再生が漁 所まで、とにかく元 に 戻 す 事 業 が 進 め ら れ て い ま す 。 そ が、 そ の 後 急 激 に 漁 獲 量 は 減 少 し、 ほ ん の 一 〇 年 か ら 業には不可欠とする漁業者が相争わなければならない事 れがいまの日本の、あまり知られていない動きなのです。 三陸でもこれと同じことが起ころうとしている現実に心 体の八割です。これは、そのほかの四十数都道府県では ら三万トン少しまで減少しています。 の、 こころを分断してしまっているということも含めて、 このような防潮堤がもたらしたものは、単に生態系の 断絶だけではなくて、 土とともに、 海とともに生きる人々 場で表明しているに も か か わ ら ず 、 ス ト ッ プ が か か ら な いのが現実です。 中で、三陸が抱え込 も う と し て い る 問 題 と 、 有 明 海 が 抱 を痛めています。 え込んでしまった問 題 は 、 同 じ だ と い う こ と に 気 付 き 始 川の河川敷から、陸域のインフラ整備のために持ち出さ めるわけです。 ほとんどアサリが獲れなくなってしまったということを このようなことに 、 こ の 間 ず っ と 関 わ り 、 毎 月 、 気 仙 沼と有明海を往復し な が ら い ろ い ろ な 取 り 組 み を 進 め る 日本全体のアサリの漁獲量も、ほぼ同じように、まさ に高度経済成長期のつけが現れる時期に、一六万トンか 一五年の間に、 数千トン以下に激減してしまうわけです。 混迷と瀕死の海「有明海・諫早湾問題」に学ぶ 気仙沼小泉地区に建設予定の巨大防潮堤 CG イメージ図 しかも、昨年一二月中旬の国会で、首相自身が、「巨 大防潮堤計画を見直 す 必 要 が あ る 」 と い う こ と を 公 式 の います。もともと農 地 だ っ た か ら 、 行 政 の 基 本 で あ る 原 それらのよみがえっ た 自 然 は す べ て 埋 め 立 て ら れ て し ま う な 湿 地 が で き、 ア サ リ な ど が よ み が え っ た の で す が 、 負の森里海連環 防潮堤祭 in 気仙沼、in 品川 量の砂の量は、甲子 園 球 場 三 〇 杯 分 以 上 に 相 当 し 、 本 来 私は、この川砂の 取 り 上 げ が 、 有 明 海 を 疲 弊 さ せ た 最 大の原因ではないか と 考 え て い ま す 。 な ぜ な ら 、 こ の 大 いるという問題もあ り ま す 。 止になりましたが、 い ま で も ダ ム に 同 じ よ う に 堆 積 し て た時期になります。 二 一 世 紀 に な っ て 、 川 砂 の 採 取 は 中 上がりの大きいとこ ろ が 、 毎 年 毎 年 、 大 量 に 持 ち 出 さ れ れたかを示した図で す 。 こ れ は 累 積 で す か ら 、 こ の 立 ち ができました。 後川から賄うことになりました。一九八五年にこの大堰 市圏に送り、一五〇万人の人々の飲料水の三分の一を筑 で、筑後川下流域に筑後大堰を造って、導水管で福岡都 とどめは都市の論理 (都合)ですね。福岡都市圏には 大きな河がなく、しばしば渇水に見舞われました。そこ だと思われます。 なるという負のスパイラルが起こってしまったのが現状 貧酸素状態をきたし、さらに底生無脊椎動物がすめなく り、それを微生物が分解するために大量の酸素を消費し、 らうプロジェクトをいま考えています。 すから、これに表舞台に登場していただいて活躍しても 考えて、ニホンウナギはいま脚光を浴びている時の魚で されて、同じように命を失いました。そのようなことも では、どうしたら再生に向かわせるモーメントを生み 出せるかということを考える必要があります。私は魚の られなくなる。そう す る と 、 水 の 中 で 増 え た 植 物 プ ラ ン れらをいただくという仕組みが、博多という大都市圏に 再生産する生き物を漁師さんが獲って、私たち市民がそ 水も、その中に含まれているいろいろな微量元素や栄 養塩類も、海の生き物を養う源なのです。それによって ウナギが絶滅の危機に瀕していると説明します。フィリ 水産庁に代表される国の施策は、天然のシラスウナギ を養殖の種苗として大量に獲ってしまった結果、ニホン にしようと思えば、どうすればいいかという問題です。 く、季節感を味わい、夏を乗り切る、そんなことを大事 研究者です。震災の海では、人間と同じように魚も翻弄 「うなぎの里プロジェクト」の今日的意義 ならその大半は海に 流 れ て 、 干 潟 を 更 新 す る わ け で す 。 みなさんが将来にわたって、自分たちの子どもも含め て、文化としての土用の丑のかば焼きをおいしくいただ クトンの大半は、本 来 干 潟 に 生 息 す る 貝 類 な ど の 多 様 な 住む人々の当面の都合で失われてしまったということに 干潟というのは一 種 の 生 き 物 な ん で す ね 。 そ の 源 を 断 ち切られれば、干潟 に い る 生 き 物 た ち は 、 ど ん ど ん 生 き 底 生 無 脊 椎 動 物 (ベントス)に 食 べ ら れ る わ け で す が、 なります。 ピン東方のマリアナ海域で生まれて、一五〇日前後をか ているのが日本の現状です。 け都会に近いところでは、ほとんど自然海岸がなくなっ かりやすい)つ な が り で す が、 実 は 日 本 の 周 辺、 と り わ その本質は、まさにこれですね。森と海のつながりの 分断そのものなのです、 これらはきわめて見えやすい(わ ニホンウナギは復活するというのが水産庁のストーリー これを、日本が得意な種苗生産技術を開発して人工的 に安くつくれれば、天然のシラスウナギを獲らなくなり、 す。暴力団の資金源にもなるような世界です。 から、この利権をめぐって、いろいろな問題も起こりま では一匹二〇〇円から三〇〇円にもなっています。です すか。場合によってはワンコイン、五〇〇円近い。最近 けて日本の河口域にたどりつき、この透明なウナギの形 有明海も、これら三つは象徴的な出来事ですが、自然 海岸はほとんどありません。もちろん、ここには干拓の です。そのためにそのような技術開発研究にはお金がど これらそれぞれが、有明海を瀕死の海に至らしめた原 因であることには違いありません。筑後大堰の周辺に行 歴史があり、そのこととも関わりがあるのでしょうが、 んどん流れるわけです。しかし、本当にそうだろうかと に変態して、川に上っていきます。河口域で、このシラ この自然海岸の消失がいちばん大きいですね。それはす スウナギを大量に獲るわけです。 ぐには解決できないだけに、 より深刻だということです。 いうのが私の問題提起です。 けば、「これが諸悪の根源だ」 と漁師さんたちが言います。 それを元に戻すには、流域、つまり広い意味での“里” すでに試験レベルでは、ウナギを成魚に育てて、ホル モン処理を行い人為的に催熟させ、卵と精子を得て人工 諫早湾周辺に行けば、諸悪の根源は諫早湾干拓事業だと に住む私たち自身の環境意識が変わらないかぎり、元に 授精を行い、ウナギの子どもを育てる技術が開発されて 今年は少し増えたらしいですが、いまでは高いときに は、質のいいシラスウナギは一匹いくらすると思われま は戻らないのではないかということです。これが有明海 言います。本質は何かというのが根本問題です。 の本質だと思われます。 います。数年前に世界で初めて、シラスウナギに変態を 震災後の自然と社会 ● 047 彼らが少なくなると 、 食 べ ら れ な い ま ま に 、 海 底 に た ま 瀕死の有明海の三大要因とその本質 生みだすという完全 養 殖 技 術 が 完 成 し て い ま す 。 させて、それを育て て 、 さ ら に 成 熟 親 魚 か ら 次 の 世 代 を なるのは、この森里海研究所です。 根拠にして、よみがえった湿地で「ウナギの里プロジェ 環境下で、毎晩ウナギが観察できます。そういうことも 先ほどの湿地のようなところでは、気仙沼市の教育委 員会と連携して、気仙沼の小中学生を受け入れ、よみが んどすべての社会科の教科書に、森は海の恋人運動、森 048 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて クト」を展開しようと準備を進めています。その拠点に ただ、現状では大 量 に は シ ラ ス ウ ナ ギ を 生 産 す る こ と はできません。現在はまだ一万匹ぐらいのオーダーです。 財)日本財団と、地元のNPO法人森は海の恋人の三者 京都大学フィールド科学教育研究センターと、 これは、 そこでの森里海連環学の教育をこの間支援している (公 やはり数百万匹、も っ と 上 の オ ー ダ ー で 、 し か も 安 価 で つ く れ な い こ と に は 解 決 し ま せ ん。 こ れ が 実 現 す れ ば、 による共同運営の研究所で、日本で初めて森から海まで の多様なつながりを解明し、つながりを再生する研究と 教育に取り組んでいます。 建物は、日本財団が震災復興支援として進めてこられ た、漁師さんたちが海辺で働く小屋を再生する番屋プロ ジェクトの一環として出来上がりました。 ここには数十年後には、きっとまた津波が来ますから、 一階部分は、そういう津波が来ても潮が流れるような、 漁師さんたちの作業場や実験場にしています。二階に研 究 室 や 実 験 室、 会 議 室 を 配 置 し て い ま す。 今 年 の 四 月 二四日に竣工し、すでに高校、大学、特に先生方の研修 名産地でしたが、いまはほとんど獲れないと聞きます。 の場として利用がどんどん増えています。 なくなると、ニホン ウ ナ ギ で は 間 に 合 わ な い の で 、 ヨ ー ています。 います。そのような思いで、いろいろな取り組みを進め にどんどん使ってもらえれば、すごくうれしいと思って ています。そのようなかたちで、多様な分野のみなさん めた、 現場から、 文理を融合するような場になればと願っ この研究所は自然科学者の発想でできた研究所ですの で、今日のテーマの「こころの再生」のような問題も含 ながりを勉強しています。 「ポケットセミナー」でここへ来て、森から海までのつ える自然や、海の恵と脅威などを体験する教育プログラ ロッパウナギをフラ ン ス か ら 大 量 に 輸 入 し て 養 殖 を 拡 大 ムが進行しています。京都大学の学生さんも毎年、夏に そのことは、これまで進めてきた国の在り方、開発の 在り方、経済の在り方を根本から見直すことにもつなが が私の結論です。 至っています。 るわけですから、国の施策としては、ここにはなかなか 言及しないのが現実ではないかと思います。 「舞根森里海研究所」に子どもたちの未来を託す これは、激的な写真で、まだ非公開です。ニホンウナ ギです。これはヌマチチブという、ハゼのかなり大きな このように天然のウナギが自然の状態で観察できる場 所はまれなのですが、この舞根湾奥に流れ込む西舞根川 と海のつながりが紹介されています。しかし、子どもた 最後のスライドです。これは気仙沼の小学校五年生の 子どもたちです。なぜ五年生かというと、五年生のほと し ま っ た な ど 環 境 の 問 題 で は な い か と 思 わ れ ま す。 では、夜間の満潮時に真水と塩水が混じったような汽水 個体を後ろからばかっとくわえているところです。 ニューヨークを流れ る ハ ド ソ ン 川 も 、 か つ て は ウ ナ ギ の つまり、アメリカ ウ ナ ギ の 資 源 の 減 少 は 、 シ ラ ス ウ ナ ギの捕獲というより は 、 ウ ナ ギ が す む 場 所 が な く な っ て す。これをどう見る か と い う こ と で す 。 ないと思われます。 そ れ で も 最 も 極 端 に 落 ち 込 ん で い ま 期に大量にアメリカ ウ ナ ギ が 養 殖 の 主 流 に さ れ た こ と は カウナギは、最近で は 使 い 始 め て い る の で す が 、 こ の 時 もともとは、ニホ ン ウ ナ ギ が ウ ナ ギ 養 殖 の 主 流 で し た が、その後、ヨーロ ッ パ ウ ナ ギ が 加 わ り ま し た 。 ア メ リ アメリカウナギで は も っ と 極 端 で す ね 。 一 九 八 〇 年 代 の中ごろから、ほん の 一 〇 年 も し な い う ち に 壊 滅 状 態 に してきましたが、それ自身もいろいろ問題になりました。 結局、うなぎのかば焼きを食べ続けるためには、河口 域や河川や湖の水際環境の再生しかあり得ないというの ニホンウナギがウ ナ ギ 養 殖 の 主 流 で し た が 、 中 国 が こ れに参入してきて大 規 模 に や り 始 め 、 シ ラ ス の 漁 獲 量 が 激に落ち込んでいま す 。 ロッパウナギではも う 少 し 遅 れ て 、 ニ ホ ン ウ ナ ギ よ り 急 そ の 後 ず っ と 落 ち 込 ん で い っ て し ま っ て い ま す。 ヨ ー その一九六〇年の 捕 獲 量 を 一 〇 〇 と し て 指 標 化 し て 見 て み ま す と、 ニ ホ ン ウ ナ ギ は 一 九 七 〇 年 前 後 が 最 大 で 、 まってきて、いろい ろ な 方 法 で 捕 獲 さ れ ま す 。 なウナギです。いず れ の 種 の シ ラ ス ウ ナ ギ も 河 口 域 に 集 ナギ、ニホンウナギ 、 ア メ リ カ ウ ナ ギ の 三 種 が メ ジ ャ ー 世界中に一九種類 の ウ ナ ギ が 生 息 し て い ま す 。 数 の 上 では南半球が多いの で す が 、 北 半 球 で は 、 ヨ ー ロ ッ パ ウ できるというストー リ ー で す 。 天然ウナギを獲らな く な り 、 ニ ホ ン ウ ナ ギ の 絶 滅 は 回 避 ウナギ激減の真の原因は何か(田中秀樹、2010) こに寝転がるような 子 ど も ま で 現 れ ま す 。 こ こ ろ の 解 放 いから、タモを持っ て 魚 を 追 い 回 す 子 だ と か 、 中 に は こ これは総合学習の 中 で ア サ リ を 数 え て い る と こ ろ で す が、それが終わって し ま っ た ら 、 み ん な も う 水 の 掛 け 合 習の場になります。 らの身を守れるかな ど 、 い ろ い ろ な こ と を 学 べ る 総 合 学 ますし、震災の海の 怖 さ や 、 そ れ に 対 し て ど う し た ら 自 するわけですから、 森 と 海 の つ な が り を 学 ぶ こ と が で き な微量元素をもとに し て 増 え る 植 物 プ ラ ン ク ト ン を 餌 に これは、よみがえ っ た 干 潟 と 、 そ こ に 現 れ た ア サ リ で す。アサリも、森か ら も た ら さ れ る 栄 養 塩 類 や 鉄 の よ う と思われます。 ちは頭の中ではそれ は 知 っ て い て も 、 た ぶ ん 実 感 は な い さんたちが生活の中で実感し何世代にも伝え守ってきた とりわけ“太平洋銀行”という、豊かな海が自分たち に何をもたらしてくれるのかという認識と表現は、漁師 鎌田 どうもありがとうございました。たいへん示唆に 富む素晴らしい講演をしていただきました。 これで私のお話を終わらせていただきます。どうもあ りがとうございました。 直面している問題でもあります。 だかたちで、今後の展開ができないかというのが、いま 行政のみなさんはじめ、多様な分野の人たちを巻き込ん 「アサリとウナギと人 (子どもたち)が共存できるよう な水際の再生」を一つのキャッチフレーズにしながら、 には防潮堤ができてしまいます。 もかかわらず、浜という浜のほとんどすべてに、基本的 よろしくお願いします。 阪神・淡路大震災、中越大地震、そして東日本大震災 などに関わってこられた草島進一さんに、そういう事態 いるんですね。 から、本当に七ヶ浜のところなんかも進行してしまって 会挙げてしております。にもかかわらず、もう進行して い」ということをちゃんと告げていこうという動きを学 神戸で第二の人生が始まった 草島 進一 震災後の社会と持続可能な未来 基調報告2 について、これからを含めて、話をしていただきます。 いるものは進行している。僕も半年に一回行っています につながるような場 に も な っ て い ま す 。 認識であり表現だと思います。しかしそれが陸と海との 分断の中で断ち切られて、わずか何百年何十年の間で壊 さ れ、 次 の 世 代 へ 再 生 不 可 能 な か た ち で 切 り 裂 い て し まっている事態になっています。 ご紹介ありがとうございました。山形県議会議員の草 島進一です。どうぞよろしくお願いします。 ライトアップされている羽黒山の五重塔に吉永小百合さ そのいちばん象徴的なイベントが防潮堤の建造です。 底 辺 が 八 〇 メ ー ト ル と か 九 〇 メ ー ト ル で、 高 さ が 一 五 んが訪れているというポスターが全国の駅に貼られてい 今、山形県はJR東日本の「デスティネーションキャ ンペーン」という観光キャンペーンをやっておりまして、 私たちは、田中克先生にも協力いただいて、比較文明 学会と地球システム倫理学会という学会で、この防潮堤 メートル近くと言います。 これは本当に大変な事態です。 の問題について反対声明を出し、今年の三月には特別に るのではないかと思います。私はこの羽黒山がある鶴岡 で、その現場のお話と、私は政治家の端くれでもありま 私は「震災後の社会と持続可能な未来」という重い命 題をいただいたのですが、現場のお話しかできませんの からまいりました。 作成したパンフレットを当該官や諸機関に送りました。 が書きました。そういう中で私もこれはどう考えてもお 「災害と文明――東日本大震災と防潮堤問題を考える」 というパンフレットで、安田喜憲先生などいろいろな方 かしいと反対意見を書きました。 めて、お話をさせていただきたいと思います。 県 議 会 議 員 と い う と、 何 か と 西 の ほ う で 特 に 話 題 に なってしまっているかなとも思うんですけれど、私も政 すので、いま政治が何をしたらいいのかということも含 その中に、田中先生の「巨大コンクリートの壁を沿岸 部に建設するということは、海と陸との境界に巨大な壁 を作るということで、それによって境界域の複雑多様な 務調査費を使わせていただいているのですが、議会事務 生命圏が破壊されてしまう」という見解を紹介し「森里 局がけっこう厳しく、相当いろいろなチェックをしてい ただいているので、 「こんなこともあるのか?」と思っ 海連環学」の提唱者でNPO「森は海の恋人」理事の田 そしてこの問題に対し、各方面から「やっぱりおかし 中先生のことを挙げさせていただきました。 震災後の自然と社会 ● 049 このようなところ が 、 三 陸 沿 岸 に は た く さ ん で き た に 森里海のつながりを研究・教育する拠点「舞根森里海研究所」 たとえば「水が欲しい」と伝えたとします。テレビを見 場はもう次のニーズに進んでいる、みたいなことが数多 にすればボランティアは成立します。そういう特性があ くありました。そこでそういうことを解消しようと思っ ているのが正直なと こ ろ で す 。 ん ど ん や っ て い こ う じ ゃ な い か と。 そ ん な ふ う に プ ロ た方はみなさん、ずっと水が欲しいものだと思って、水 ジェクトをどんどん立ち上げたのが当初の段階でした。 をずっと送り続けるわけです。水が送られたときには現 でぃっしゅぼーや」 と い う 有 機 野 菜 の 宅 配 屋 の 会 社 の 仕 ティアに来たい、何かしたいと思っている人に提供する るんですね。だから、その特性を遺憾なく発揮して、一 事をしておりました 。 神 戸 支 部 の 支 援 に 五 人 の 派 遣 団 を これは「流動する渦のような現象」と外岡さんは、『地 震と社会』という、みすず書房から出ている本に書いて 人でも、三人でも、喜んでくれることを、とにかく、ど 組もうということに な り ま し て 、 私 も 手 を 挙 げ て そ の 一 ようなことをやっていました。 物資を集めてお届けするとか、布団の虫干しとか、いろ を手伝うとか、力仕事があったり、全国からいろいろな いま、東日本大震災の現場でも生じていることなので すが、はじめの炊き出しから始まって、引っ越しの作業 すでに日本海重油災害のときに初めて、行政とボラン ティアのNPO、社会福祉協議会が連携する災害ボラン に続いて中越地震が起きました。 震災は忘れたころにではなくて、忘れないうちに、ど んどんやってきておりまして、二〇〇四年には新潟水害 二〇一一年三月一一日。これは石巻です。当初、名取 市にボランティア団体やNPOが結集しました。名取が 050 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて 阪神・淡路大震災 の と き 、 ま さ に 死 者 六 四 三 四 名 。 も う あ れ か ら 一 九 年 目 で す か。 私 は 当 時、 神 奈 川 の「 ら 人として行ったので す が 、 そ こ で 出 会 っ た の が 災 害 の ボ くれております。被災者の方といっしょに新しい文化を て、このホームページで次々と新しいニーズを、ボラン 」 と。 私 ランティアでした。「ボランティアって何だ 野菜の炊き出しを届けたらどうかということから始 まって、私は三日の つ も り で 千 人 以 上 い る 避 難 所 に 五 人 いろなことをやりましたけれども、途中から、やはりこ 災害ボランティアセンターという文化 で炊き出しを仕掛け る 活 動 に 参 加 し ま し た 。 そ こ で 私 た ティアセンターという文化が、始まっています。 つくる。そんな思いを持ちながら、私は三年間、過ごさ ちが提供する炊き出 し に 、 本 当 に 涙 を た め て 喜 ん で く れ ころのケアの問題だということになりました。 この後の水害や中越地震でも、社会福祉協議会がまず はリーダーになって、NPOがそれに知恵を授けるよう もそれまでは経験が あ り ま せ ん で し た の で 、 と に か く 現 るおじいちゃん、お ば あ ち ゃ ん た ち が 目 の 前 に い た の で そして、二年ぐらい経過するなかで仮設住宅にお住ま いの方が二三三人孤独死を遂げる、こういうニュースが せていただきました。 す。私はぐっときて 、 と て も こ の 三 日 で 帰 る こ と が で き たのが二三日です。 ないと思い、残るこ と に 決 め ま し た 。 結 局 そ れ が 、 一 週 なかたちで、災害ボランティアセンターが立ち上がって 小千谷の体育館の中では二千人雑魚寝状態でした。プラ おります。 流れておりました。私たちがやったのは、こうした一人 たらどんどん押していただくということで、当時だいた イバシーを確保するために、テントを集めたらどうかと 暮らしの方に、 緊急通報用の装置「ベルボックス」を持っ い三百件ぐらいを対象に、サービスを提供したりもして 張集めまして提供しました。実は中越地震のとき、車中 さんを代表とする神 戸 元 気 村 の 副 代 表 に な っ て 、 三 年 間 いました。 泊、 車の中でお休みになる方が多くて、 そこでエコノミー 中越地震のとき、私たちは何をしたかといいますと、 避難所の炊き出しもはじめはやるのですけれど、これは と思っています。ち ょ う ど 三 〇 歳 で し た 。 この震災から二年後には、ナホトカ号の重油災害が福 井でありまして、そのときも代表の山田とともに初期の クラス症候群になって二人が亡くなったんです。その対 ていただいて、 ボランティアが対応する。 何か寂しくなっ このとき、朝日新聞社の『AERA』で、「神戸から 世界が見える」、「ボランティア元年」という言葉を外岡 段階から動きました。 そこでおこなったのが、 ボランティ ちょっと一段落したら石巻に入って、そこからいろいろ ロジェクトはそのときヒットしたプロジェクトです。 いうことで、テントのプロジェクトを行いました。六百 とてもうれしかった こ と を 覚 え て い ま す 。 アの日々の情報を刻々と伝えるインターネットでの発信 策にも有効なのではないかということで、このテントプ 秀俊さんという記者 が 発 表 し て く れ た ん で す ね 。 こ れ は このページには元気村の受付のところが載っていま す。当時、二百名を 超 え る 方 々 が 全 国 か ら い ら っ し ゃ っ でした。 ネットを使われていて、二〇分おきぐらいに、天気がこ な活動をスタートさせました。 うことを次々とやっ て い ま し た 。 私たちの気持ちと し て は 、 震 災 の 現 場 だ か ら こ そ 笑 顔 がつくれる。ゼロか ら 一 を つ く る と い う プ ロ ジ ェ ク ト を うなるとか、いまこれが欲しいとか、これが必要だとい テレビは強く広くニーズを伝えてくれますけれども、 ておこなったことでした。 うことを伝えていました。これはまさに神戸の教訓とし ておりました。 行政がやることは 平 等 の 原 則 を 気 に す る ば か り で 後 手 に回りがちなのです け れ ど 、 目 の 前 に い る 一 人 で も 笑 顔 まず情報共有しましょうということで、行政と社会福 祉協議会のみなさんと災害NGOで、 「毎日午後七時に 次々とやろうじゃな い か と い う よ う な 思 い で 、 当 時 や っ これは、若かりしころの私です。名前がペンネームに なっているんですけど。 当時、 企業の方々はもうインター て、何ができるのか と 。 と に か く 笑 顔 を 一 つ つ く る と い 活動しました。私は 「 神 戸 」 か ら 第 二 の 人 生 が 始 ま っ た 間、一カ月、そしてついに会社を辞めて、山田和尚 (バウ) 場に向かうところか ら 始 ま り ま し た 。 神 戸 の 市 内 に 入 れ !? る。時には連携して プ ロ ジ ェ ク ト を つ く る 、 と い う よ う NGOがそれぞれの持ち味を活かしてやれることをや ミ ー テ ィ ン グ を 始 め ま し た。 行 政 の 最 新 の 情 報 を 基 に、 「 今 回 は 当 初 か ら そ れ を や ろ う よ 」 と い う こ と で、 こ の くりました。 二〇日から毎日ミー テ ィ ン グ を す る 、 こ う い う 文 化 を つ 集まれ」ということ で 集 ま っ て 、 方 策 を も ち よ る 、 三 月 のですけれども、じっくり取り組んでいるところです。 再生しようとしています。あと一年ぐらいかかりそうな 使う雄勝川の雄勝瓦。非常にいい建物で、これを何とか 古民家の再生をしていまして、ここの民家の屋根は硯に もう一つ、人が集うコミュニティーレストランにした いということで、いま雄勝半島の大原浜というところの がら、カーシェアリングのプロジェクトが進んでいます。 体との連携で電源を仮設住宅につけていただいたりしな 自動車も三菱から貸与していただきながら、さらに自治 た。いまも六五台動いています。企業との連携で、電気 けないのではないかと考えています。 にできるか」という新しいテーブルをつくらなければい をなんとか打開するためにも、いかに「地域を持続可能 私は、ダムの問題ですとか、後からいろいろ出てくる 問題に直面する中で、反対、賛成という二項対立の状況 会とはどんな社会なのだろうと思うわけです。 をさせていただいているのですが、では、持続可能な社 ま何ができるのだろうかということを思いながら、政治 ントにしなければいけないのではないかと考えつつ、い こうしたことは、 阪 神 で は 長 田 に 集 ま っ た 団 体 が お こ な っ た と う か が っ て い る の で す が、 当 初 は 難 し か っ た。 な日々が始まりまし た 。 3・ を持続可能社会へのターニングポイントに 「四つのシステム条件」 「 石 巻 の 奇 跡 」 と か、 今 回 の 東 日 本 大 震 災 の 災 害 ボ ラ ン テ ィ ア の 本 が い く つ か 出 た と 思 い ま す が、 こ の ミ ー いという思いと、人 間 関 係 を つ く っ て い っ し ょ に ど こ か めた車をシェアして い た だ く 。 自 治 会 を 立 ち 上 げ て ほ し 設住宅の住民が、人 間 関 係 を つ く り な が ら 、 私 た ち が 集 います。しかしなが ら 私 た ち の カ ー シ ェ ア リ ン グ は 、 仮 間企業がカーシェア リ ン グ を お や り に な っ て い る か と 思 ジェクトの一つは、 カ ー シ ェ ア リ ン グ で す 。 京 都 で も 民 いま私たちはオー プ ン ジ ャ パ ン と い う 団 体 で 、 私 も 幹 事の一人を務めてい る の で す が 、 い ま も 続 い て い る プ ロ 言っているのはどういうことなんだろうと思います。 う す べ て 崩 れ た に も か か わ ら ず、 い ま も ま だ 再 稼 働 と 原発は安いとか、安全だとか、環境に優しいとか……、も 発や被爆したということを忘れてはいけないと思います。 最近、だんだん原発が爆発したなんていう映像がほとん ど流れなくなりましたけれども、私たちは絶対に、この爆 いる状況があります。 ときで一万三千人。いまも五千人以上の方々が避難して もう一つ、三月一一日といえば原発ですね。実は、山 形県は福島からの避難者を最大に受け入れました。多い 議とエコ自治体を巡る視察に参加しました。 に感動して、二〇〇八年にスウェーデンのエコ自治体会 の定義を定めている。そんなことをたまたま知り、それ スウェーデンに、持続可能な社会づくりをコンセプト に運営している自治体があり、NGOが持続可能な社会 へ行く。津波の被害 で 数 多 く の 自 動 車 が 流 さ れ て し ま っ 当時、言われたのは原子力ムラという構造です。政治 と官僚と業界、時には御用学者の方や報道機関までが結 ティングがそのきっ か け を つ く っ た の だ と 思 い ま す 。 たので、車を失って 身 動 き が と れ な い 方 の 足 を 確 保 し よ びついて、市民が何を言っても受け入れないという構造 ですね。原子力ムラということを飯田哲也さんらが明確 に指摘していたのですが、なかなかこの構造は崩れてい ません。私は、こうした構造が社会を持続不可能なほう にもっていっていると思います。 もう一つは、日本社会全体として、最近さらに厳しい データが出てきましたけれども、日本創生会議ですか、 人口が減少する。それも、激的に減少する時代をいま迎 えているので、行政がやること、そして政治の判断は非 常に、これまでとは別な判断をしなければいけないとき 私は、この3・ を持続可能社会へのターニングポイ 震災後の自然と社会 ● 051 11 に来ているのではないかと私は思います。 11 うということを同時 に 満 た す よ う な か た ち で 始 ま り ま し 草島進一氏 スウェーデンで開催されたエコ自治体会議に集まった人々 ニーズを妨げない。 なことをしてはいけないということです。 というのが循環の基盤にあるので、それを破壊するよう 生物の社会が取り囲んでいます。これは地球の地殻です。 定めています。私た ち が 人 間 社 会 を 営 ん で 、 そ の 周 り を このナチュラルス テ ッ プ で は 、 何 が 持 続 不 可 能 で 何 が 持続可能なのか、「四つのシステム条件」というものを くなるという。 世界中に漂う海のプラスチックごみは世界中で問題に プラスチックのごみは、実は重油災害の重油よりも大 変な問題を生じさせています。 アラスカだけではなくて、 大変な問題だと気づかされました。 ラスカのNGOの方々と意見交換をしましたが、実際に 集するプロジェクトがずっと続いています。昨年そのア にダメージを与えかねないと、海岸に漂着したものを収 プラスチックのごみがあって分解しない。野生動物など それには、保護、愛情、理解をする、社会に参加する、 きちんと休息が取れる、創造をはたらかせることができ たさないと豊かな暮らしができない、幸せに暮らせない 衣食住は満たせても、ほかに八つの基本的なニーズを満 提唱している考え方で、私たちの生命が生活するのに、 「基本的なニーズ」には定義があります。これはチリ の経済学者のマンフレッド・マックスニーフという方が 052 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて これは科学であって、政治経済の力ではゆがめられな いということで、このエコ自治体の方々は、これを羅針 盤としてさまざまな施策を展開してきました。 一番目から説明をしていきます。自然界の地殻から掘 り出した物質の濃度が増え続けない。私たちは地殻、地 球から、石油も、重金属も、ウランも、どんどん掘り出 しているわけです。 石油が生成される年月は何年ぐらいかご存じでしょう か。二億年とかそういう期間がかかります。私たちは、 そういう年月よりもはるかにものすごいスピードで、そ れを採り尽くそうとしている。どう考えても枯渇するの ではないかということが言われています。実際、石油は もう五〇年だと言われていますし、ウラニウムも一〇〇 年もつか、八〇年しかもたないかということが言われて いますので、こういうものに頼り続けていると、私たち 二番目。自然界に人間社会のつくり出した物質の濃度 が増え続けない。これはもちろん放射能もプラスチック システム条件の三番目は、自然が物理的な方法で劣化 しない。ちょっと分かりにくい言葉ですが、生物多様性 も農薬もそうですし、遺伝子組み換えの作物も私たちが 薄まっても永遠になくならない。これは物理学の熱力学 物相や道路をアスファルト化することによって生物多様 リカの方がいたり、カナダのウィスラーの市長がいたり。 第二法則です。 この地球全体が機能しなくなるということであります。 映 画 監 督 の 鎌 仲 ひ と み さ ん も い っ し ょ に 参 加 し ま し た。 いま私は、海のごみの調査型のビーチクリーンナップ というのをおこなっているのですけれど、東日本大震災 生き物たちと私たちの暮らしとの間で、資源を採り尽 くすとか、乱獲、乱伐、それからダムで川を分断し、生 で出てしまったあのがれきはアラスカまで届いているん 球の回転』という映 画 に 盛 り 込 ま れ て い ま す 。 人口は、世界中では 増 加 、 日 本 は 減 少 し て い ま す 。 そ し この四つ。一番目 は 、 地 殻 か ら 掘 り 出 し た 物 質 の 濃 度 が増え続けない。二 番 目 は 、 人 間 が つ く り 出 し た 物 質 の る、自由である、アイデンティティを持つ。衣食住とい もう一つ、これは社会的な条件なのですが、人々が満 たそうとする基本的なニーズを妨げない。 性を消滅させることがどれだけ問題なのか。基本的には、 て、行動の範囲がど ん ど ん 狭 く な っ て い く 。 並 行 す る よ ですね。アラスカの人たちが困っているのは、その中に 濃度が増え続けない 。 三 番 目 は 、 自 然 が 物 理 的 な 方 法 で なっています。 ということを提唱しています。 劣化しない。四番目 は 、 人 々 が 満 た そ う と す る 基 本 的 な では、どう考えた ら い い の か 。 私 た ち の 社 会 、 資 源 は どんどん減り続け、需要はどんどん高まっていますよね。 うに何か力をはたら か さ な い と 、 ど ん ど ん 生 き て い け な つくってしまったものですね。これらは拡散して濃度は の社会は持続不可能だということが一番目です。 人間の9つの基本的なニーズ このときのスウェー デ ン の 取 材 が 『 ミ ツ バ チ の 羽 音 と 地 ヘンリク=ロベールとい こ の 人 が、 代 表 の カ ー ル = う方です。そのとき 集 ま っ た の が 、 こ れ ら の 方 で 、 ア フ 4つのシステム条件 とは、確実に私たちが目指すべき社会のビジョンを決め な感じになっていますけれども、バックキャスティング 言っていますから、とにかくもうかる方向なのかみたい も、実は環境あってこそ社会が成り立っていて、その上 れはトリプルボトムラインという言い方もしますけれど 環境、経済、社会が密接に関係し合っている、この関 係がバランスよく保たれている社会が持続可能だと。こ 可能な社会に貢献しないわけです。 とフォアキャスティング的なのではないか。とにかく行 いま、日本国憲法までゆがめられそうなご時世、「憲法」 で保障されているも の が け っ こ う こ こ に は あ る な と 私 は て、これからの投資は、その方向には行っても、間違っ に経済が育めるのだと。こうした関係図があります。 う生命維持とともにこの九つを人間の基本的なニーズ 思いました。私がこのお話をしたときに、「これは日本 ても逆には行かない。揺らぐにせよ、ビジョンを目指し アメリカで自然保護団体の代表者として、ダムの問題 などに初めに取り組んだデビッド・ブラウアーさんとい いま、メタンハイドレートだとか、当面は天然ガスで いいとか、シェールガスなどと言っていますけど、それ 国 憲 法 そ の も の じ ゃ な い か 」 と 言 っ て く れ た 方 が い て、 ていく。これがバックキャスティングです。 う 方 が、「 地 球 を 失 っ た ら、 ど ん な 経 済 も 成 立 し な い 」 だって地殻から掘り出した物質なので、実は全然、持続 そうかもしれないと 私 は 思 っ て い ま す 。 エコ自治体といわれる自治体が持続可能な社会を目指 して日々、奮闘する。その手法は、いままでお話しした という言葉を残していますけれども、まさに、このこと き当たりばったりで、経済のためなのか、何のためなの いま、集団的自衛権など大変なことになっていますけ れども、いくら多数を占めていても、基本的な人権や自 四つの条件、何が持続可能なのか、どういう社会が持続 を私はいましっかりと受け止めるべきなのではないかと かよくわからない。いまはアベノミクスで経済、経済と をかけている、それが立憲主義の私たちの国の存在だと 可能なのかということを踏まえた上で、現状を分析し、 ( Human fundamental needs )と定めています。 思うんですが、それでも実社会ではいろいろなことがゆ 解決策、ビジョンをみんなでつくって、そこを目がけて ことであります。 バックキャスティングさせて、アクションをするという 思います。 由、そういうものがゆがめられないがために憲法で縛り をする社会システムをつくっていく必要がある、という がめられていくので、これは自治体としてこういう機能 ファイアーとして、マトリクスを定めています。 ) (表 ) 15/ 16/ 調査する、研究 成長のための交 する、瞑想する、 流の環境、学校、 実験する、教育 大学、学会、集 する、分析する、 団、コミュニ 熱孝する、解釈 ティ、家族、幼 する、調停する 児期の刺激ある 環境 AFFECTION UNDERSTANDING PARTICIPATIO 35/ 36/ 意義を唱える、 時間やスペース 選択する、違う 利用に関する自 ものになる、危 由 険を冒す、気付 きを発展させる、 立場を明らかに する、服従しな い 33/ 34/ 自律性、自尊心、等しい権利 決断力、情熱、 自己主張するこ と、心を開いて いること、大胆 さ、反抗、寛容 さ FREEDOM 自 由 持続可能な社会に向かっているか 買取価格制度で、いま日本政府ではもうやめようとして IDENTITY アイデンティティ ニーズとサティスファイアーのマトリクス表 に突き進んだ成果です。この「EEG」というのは固定 CREATlON 創 造 31/ 32/ 立場を明らかに 社会的なリズ する、直面する、 ム、日常的な環 自己統合する、 境、自分が属し 決断を下す、自 ている環境、成 分自身を知る、 熟段階 自分を認識する、 自己実現する、 成長する 画しないとできないし、まず大事にしなければいけない IDLENESS 怠 惰 29/ 帰属意識、一貫 性、差別化、自 尊心、自己主張 する のが、四つのシステム条件であります。 これはまさにバックキャスティングで、目指すべき目標 ことです。(マックスニーフは九つのニーズを満たすサティス 14/ 文献、教師、手 法、教育方針、 コミニケーショ ン、手段 これには、投資効果がある程度ないと進めないし、柔 軟なプラットホームがあって、そこにいろいろな方が参 エネルギーのことで言いますと、ドイツはいま、もう 二三% を 再 生 可 能 なエネルギーで 賄っているんで す ね。 13/ 批判的判断力、 受容、好奇心、 驚き、規律、直 感、合理性 PROTECTION 27/ 28/ 働く、発明する、ワークショッ 構築する、設計 プ、文化的グ する、構成する ループ、聴衆の 解釈する いる場、表現の ための場、つか の間の自由、生 産的でフィード バックのある環 境 エネルギー問題 11/ 12/ 愛の営みをす 親密さ、家庭、 る、抱擁する、 一体感のある場 感情表現をす る、分かち合う、 世話をする、は ぐくむ、感謝す る 参 加 10/ 友情、家族、パー トナーシップ、 自然とのかかわ りあい 理 解 9/ 自施主、団結、 尊重、寛容さ、 寛大さ、受容、 情熱、決心、肉 体的な官能、 ユーモアセンス 愛 情 6/ 7/ 8/ 保険制度、貯金、協力する、予防 生活空間、社会 社会保障、医療 する、計画する、環境、住居 制度、権利、家 世話をする、癒 族、仕事 す、助ける もう一つの重要な 考 え 方 と し て 、 バ ッ ク キ ャ ス テ ィ ン グというものがあり ま す 。 日 本 の 社 会 は ど ち ら か と い う SUBSISTENC 21/ 22/ 23/ 24/ 好奇心、受容力、ゲーム、見世物、空想にふける、 プライバシー、 想像力、無謀さ、同好会、パー じっと考える、夢 親密さ、親密な ユーモアセン ティ、心の平和 見る、回顧する、 場、自由時間、 ス、平穏、肉体 思い出す、リラッ 環境、風景 的な官能 クスする、楽しむ、 遊ぶ 1 5/ 世話、適応力、 自律性、均衡、 団結 保 護 1/ 2/ 3/ 4/ 身体的な健康、 食べ物、住まい、食ぺる産み出 生活環境、社会 精神的な健康、 仕事 す、休息する、 環境 心の平穏、ユー 働く モアセンス、適 応力 生 存 震災後の自然と社会 ● 053 25/ 26/ 情熱、決断力、 能力、スキル、 直観、想像力、 方法、仕事 大胆さ、合理性、 自律性 30/ 象徴、言語、宗 教、癖、慣習、 比較対象となる 集団、性別、価 値、規範、歴史 的な記憶、仕事 19/ 20/ 提携する、協力 参加型交流の する、分かち合 場、協同組合、 う、提案する、 同盟、教会、コ 交流する、意義 ミュニティ、隣 を唱える、服従 人、家族 する、合意する、 意見を表明する 17/ 18/ 適応力、受容力、権利、責任、義 団結、意欲、決 務、特権、仕事 断力、献身、尊 重、情熱、ユー モアセンス lNTERACTlNG / 環境 DOING / 行動 HAVING / 所有 表現 BEING / 状態 価値観 いるようなことを聞きますが、こういうもので制度的に ギーの考え方はやはり自立を目指して地域の自給を増や に回せないかなどということが行われています。エネル の再生可能なエネル ギ ー は 実 は 仕 事 を つ く り 出 す 。 そ れ それとともに、緑 の 仕 事 、 雇 用 が 拡 大 し て い る と い う ことなんです。原発 な ど の 大 規 模 集 中 型 よ り も 、 分 散 型 光パネル、それから 可能な社会への道だと思っているのですが、いま政府は 域エネルギー会社や市民発電所が増えていくことが持続 ことでいま立ち上がっているところがあり、こうした地 飯田哲也さんらが中心となってご当地エネルギーの運 動があります。会津電力など、ご当地エネルギーという いかと考えています。 していくということが持続可能に近づいていくのではな がドイツでは常識に な っ て い て 、 ど ん ど ん 進 め る こ と で 暖房したり。これは い ろ い ろ な 施 設 。 あ と は 住 宅 を つ な 一二七もつくろうとしているんですよ。そしていま反対 マークが大き過ぎるかもしれないんですが。まだ新設で 日本のダムは二六〇〇基。地図にするとこういうふう になります。ダムのないところはないですね。ちょっと ただきたいと思います。 る。日常二五万トン持続的に補給される水であると。 、日常五万七千トンぐらいの取水には耐えう 山形大による) 鶴岡の地下水については学術的な調査が昭和五三年から 五五年に行われておりまして(柴崎達雄・東海大、桑原英夫・ まずいな」という感じでした。 数料三千万円は地元 の 地 域 に 入 る と し て も 、 二 億 七 千 万 石油のことで言っ た ら 、 日 本 か ら 四 五 兆 円 で す か 、 石 油のお金が流れてい る わ け で す 。 こ れ は 、 た と え ば 田 舎 らします。 い。スウェーデンの 関 係 者 が 来 る と 、 非 常 に 残 念 だ と 漏 なと思ったのですけ れ ど 、 い ま 一 切 取 り 組 み が 見 ら れ な 実は山形の鶴岡は全国有数の地下水盆の水でした。地 下水一〇〇%の水道水。まさに、これが食の文化を支え 地下水を使っている井戸の水もありますよね。 ダムの問題は二つありまして、一つは水の問題です。 利水ダム。京都の水は琵琶湖でしたっけ。あとは貴重な かダムの問題には光が当たらないという感じがします。 ろな方々が盛り上げてくれたのですけど、いまはなかな れども、このときは、野田 (知佑)さんだとか、いろい いっしょに取り組ませていただいたりしていたのですけ これは長良川の河口堰のカヌーデモです。私も実はこ のあたりにいました。諫早湾の問題も、山下弘文さんと グラフが出ていましたから、私はこれから人口減少にな ました。だからダムが要るのだと。当時、もう人口減少 民は人口が増えますよと。いまは五万トンだけど、八万 これは、いまはなき『読売ウイークリー』に載った記 事です。ここに、こういうダムをつくると、まず鶴岡市 使える。これは適正な規模で使えば持続可能なわけです。 んぼとか山に来る水が涵養してくれますから、持続的に その扇状地があります。 ここは月山がてっぺんとなって、 そこから流れてくるものをくみ上げるのですけれど、田 トン、使う水が必要だということが五〇年代に掲げられ 054 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて バックアップ し な が ら、どん どん 再 生 可 能エネルギ ー、 雇用も増やせるという政策になっているということで 固 定 買 取 制 度 を や め よ う と か、 原 発 再 稼 働 し て ベ ー ス たとえば、バイオマスはこれですね。 photovoltaic は太陽 を進めているわけです。 wind energy す。 ですが、今後いったいどうなるのかと思っています。 もう一つ、今日は田中先生の話を大変興味深く拝聴さ せていただいたのですが、ダムの問題。これは私が取り ダムの問題 ロード電源にしようとか、絶対、考えられないことなん もう一つ、スウェ ー デ ン の エ ネ ル ギ ー 政 策 で 注 目 す べ きなのは、日本でエ ネ ル ギ ー の こ と を お 話 し す る と 電 気 のことに集中しがち な の で す け れ ど 、 実 は 熱 エ ネ ル ギ ー ですね、昔からスウ ェ ー デ ン は 熱 エ ネ ル ギ ー の 脱 化 石 化 バイオマス、チップ、泥炭、いろいろな余剰熱などを使っ 組んでいる大きな政治的テーマであり、お話しさせてい を 狙 っ て い ま し て、 以 前 は 石 油 が 八 六 % だ っ た も の を 、 て熱を供給する仕組 み を つ く っ て い ま す 。 いで地域暖房をする 。 こ れ は 地 球 温 暖 化 に 非 常 に 役 に 立 そして、地域暖房 と い う や り 方 で す 。 こ れ は 要 点 で す けれど、工場とか、処理場とかから出る熱で冷房したり、 つ。これはヨーロッ パ の 常 識 な ん で す ね 。 地下水というのは、石油みたいに取ったらなくなるの ではなくて、上流から流れて還流しているんですね。上 円は流出しているわ け で す ね 。 ていたと思っていますし、僕は小さいときから、この水 流から流れて、時には海の近くまで行くものもあります。 いま、鶴岡の三瀬という地域でやろうとしているのは、 この中の一億円ぐら い は 、 地 域 の ま き を 使 っ て 熱 を 還 流 るんじゃないんですかと追及していたのですけれど、月 の一万人の町で、だ い た い 家 庭 の 灯 油 代 三 億 円 で す 。 手 できないかというこ と 。 ま き を 伐 る 仕 事 、 配 る 仕 事 、 売 を 飲 ん で い ま し た の で、 東 京 へ 行 く と、 「 う わ あ、 水、 ち か すいぼん る仕事、そういうこ と で 仕 事 を つ く っ て 、 一 億 円 を 地 域 東日本大震災で、 ゼ ロ か ら つ く る ま ち づ く り と い う の は絶対あると思った の で 、 こ う い う も の に 取 り 組 む の か 運動に取り組んでいるダムが六八ある。 全国のダム 「小さく産んで大きく育てればいい」という話があり ま し た け れ ど も、 こ の ダ ム の 事 業 は 七 八 〇 億 円 か ら す。鶴岡がとても解 り や す い 実 例 で す 。 もう破綻の危機に直面していると言っていいと思いま 実は全国で同じこ と に な っ て い る と 思 い ま す の で 、 地 下 水 か ら、 ダ ム と 広 域 水 道 に 切 り 替 え た 水 道 事 業 体 は 、 いうことになってい ま す 。 いま、この水のビ ジ ョ ン の 将 来 見 通 し が ど う な っ て い るか。人口が減って い く し 、 水 の 需 要 が ど ん ど ん 減 る と うなんていう方が現 れ た り し て い ま す 。 水道料金が二倍にな っ て 、 い ま 、 ペ ッ ト ボ ト ル の 水 を 買 ム の 水 に 一 〇 〇 % 切 り 替 え ら れ て し ま い ま し た。 結 果、 ダムをつくってし ま っ た の で 、 県 か ら そ の 水 を 鶴 岡 市 は買わざるを得なく な っ て し ま っ た の で す が 、 結 局 、 ダ もし、ダムなどで環境が壊れると、半分の人が来なくな 果、年間二二億円の経済効果。一〇年間で二二〇億円。 アンケート調査に来ていただいたり、釣りに来る人た ちにどのぐらいお金がかかるのかを聞いていただいた結 ていただきました。 先生の研究室に、どのぐらいの経済効果なのかを試算し この価値をいくら伝えてもなかなか伝わらないので、 私は京都大学出身で近畿大学にいらっしゃる有路(昌彦) という、 明治天皇へ献上したアユとして知られています。 然、県内トップであります。ここで採れるアユは松原鮎 東北一と言ってもいい清流ですが、一億三千万円の漁 協の売上があります。二番手は一二〇〇万円なので、断 思います。表面から見てもこんなふうに見える川です。 るのが見えますか。一匹見えるとだんだん見えてくると あたりに、川の絵があります。真ん中あたりで動いてい 七月一日からアユ釣り解禁になりまして、全国から年 間三万人の方々がアユ釣りにいらっしゃいます。この次 提示をしているのですけれども、なかなか聞き入れよう こういう科学的な論証ですとか、いろいろなシンポジ ウムでいろいろな先生方から検証していただいて、県に を出していただいています。 ないかもしれないけれど、いろいろ影響するので、結局、 なのかというと、流水型ダムでも、このあたりは影響が これは、ためるダムの場合、こんなふうに問題が予測 されるということですが、では流水型ダムだったらどう て、その相関関係をいろいろ拾っていただきました。 災研の竹門康弘先生にもこの地域に来ていただきまし すが、本当にダムは環境に影響がないのか。京都大学防 結局、流水型ダムは安いし、早くできると。つまり、 ダムだと五年でできて、河川改修だと七五年かかるとい の意向だけが生きてしまうという構造です。 者の委員が一人もいないので、ダムにするかどうかは県 分議論は尽くしていますと言うんですけれど、河川工学 一六八七億円になり ま し て 、 約 二 倍 に な り ま し た 。 こ う るということで、年間一〇億円の損失になると試算をい としない。ちゃんとした議論のテーブルをつくらないと 山ダムをつくってし ま い ま し た 。 いうものが水道料金 の 高 騰 に 関 わ っ て く る わ け で す 。 ただきました。 まい、二〇倍になっ た り し て い る の で す 。 このダムの目的が、赤倉温泉というところの治水で、 ちょっと水が増えると水害になると県はよく言うのです たりしました。 が生じたらどうするんだということを議会でも働きかけ いろいろな計算のやり方があると思いますけれども、 一つの目安として、この金額を提示し、もしこんな損失 で溺死するということが起きてしまったりしています。 て、高齢の方が自分の家にいながらにして、床上の浸水 まったということで、これはダムが結局破堤してしまっ ムがある川で水害が起きてしまいまして、結局、五十嵐 ダムははたして洪水を防ぐことができるのか。これを 証明したのが二〇〇四年の新潟の水害でした。二つもダ いうのが現状であります。 動物群種とか、魚類に影響するのは明らかだという結論 うようなことを掲げられて、ダム推進となっているので 井戸が二八本あっ た の で す が 、 こ の 赤 い と こ ろ に あ っ た井戸はどんどん埋 め ら れ た と い う こ と に な っ て お り ま 今、こともあろう に 同 じ 水 源 か ら 新 潟 の 企 業 が そ の 水 を 取 水 し て、 ペ ッ ト ボ ト ル の 水 を つ く っ て い る ん で す 。 けれども、 実はここの洪水被害のほとんどは内水被害で、 す。結局、水質のト リ ハ ロ メ タ ン が ど ん ど ん 上 が っ て し の水道から比べると 八 〇 〇 倍 の 値 段 で 同 じ 水 を 買 う と い 川自体が越流、溢水など、あふれてどうこうということ これは水害の現場です。先日の山形の南陽で水害があ りましたけれども、この新潟の水害は、この先の堤防が 型です。最近は金沢の辰巳ダムも同じ構造で、いま全国 「日本一環境にやさしい穴あきダム」だと説明し 県は、 ています。島根県益田川ダム。これが穴あきダムの最新 非常に危ないわけです。堤防が高くあって、十分な強度 です。車は、こんな感じになっている。こういう水害は こにあったお寺はすべて吹き飛ばされているという水害 決壊していますので、鉄砲水が行ってしまいまして、こ いま五十嵐川はどうなっているかといいますと、改修 前には、ここに二百軒、家がありました。これも結局、 がなければ、こういう水害になる。 あきダムについても見直しの検証の機会がありました。 でも、 この見直しもいろいろ大変な問題がありまして、 山形県の場合はその委員に河川工学の先生が一人もいな に三つあるんですけれど、民主党政権になって、この穴 川と刈谷田川という二つの河川で死者が一五人出てし うことになっている の で す 。 は実際ほとんどないことが明らかになっています。 もし鶴岡市民がこれ を 飲 ん で し ま っ た り す る と 、 以 前 の 地下水を使ってい た と き に は 、 こ う し た 砂 利 採 取 も 行 われていなかったのですけれども、いま進行しています。 無秩序な地下水管理 が 大 き な 課 題 で す 。 最上小国川のダム計画 もう一つ。ダムの 問 題 で い ま 喫 緊 の 課 題 と し て 直 面 し ていることをお伝え し た い と 思 い ま す 。 最 上 川 と い う 川 があります。これは ダ ム の な い 川 で 、 特 に ア ユ 釣 り で 有 かったんですね。一応、検討会議や懇談会をやって、十 が貫流する山形県の 最 上 川 の 支 流 に 最 上 小 国 川 と い う 川 名な川です。 震災後の自然と社会 ● 055 はいけないことにし た 。 こ れ は 大 き な 教 訓 で す 。 危 険 な せるということをや り ま し た 。 危 険 な と こ ろ に は 住 ん で ダムが二つもあって も 止 ま ら な い の で 、 二 百 軒 を 移 転 さ を進めております。 訟もしております。ところが県は、どんどん周辺の工事 ました。私たちは議会での活動だけではなくて、住民訴 るには、外国人旅行者だと七人分必要だし、国内旅行者 れは観光庁で出している数字ですけれど、それを確保す 一人当たり一二四万円の年間消費額がなくなります。こ どめる」とか、「備える」ということを付け加えて総合 「 流 す 」 と い う の は、 い ま ま で も 河 道 改 修 な ど で や っ ていたわけですけれども、それに、「ためる」とか、「と ださったと思ってい ま す 。 したわけです。これ は 全 国 に 誇 れ る モ デ ル を つ く っ て く 裕があればダムをや れ ば い い じ ゃ な い か と い う 考 え 方 を やってしまうと、安 全 を す ぐ に 確 保 で き る 。 そ の 上 で 余 こ れ は、 ダ ム で あ れ ば 安 全 を 確 保 す る の に 何 年 も か かってしまう、それ よ り も 、 河 川 改 修 を あ る 程 度 の 規 模 子)さんがおやりになった「流域治水」です。 これを図で説明をしますと、以前はこういう木で組み ました。なぜ、 これを組まなければいけないかというと、 なってしまっている。 木 で 組 ん だ 堰 で、 い ま こ れ が こ う い う コ ン ク リ ー ト に 昔の絵はこういう絵でして、ここに何かもじゃもじゃ したものがある。これは実はお手製の堰だったんです。 の事実が解明されました。 哉)先生など、京都大学の先生方に来ていただいて、こ 分かったんです。先日も、今本 (博健)先生、川那部 (浩 これの上に土砂が堆積しているじゃないかということが いま、その裁判の争点はどういうことになっているか というと、 こういう土砂が堆積しているような温泉街で、 価値を失ってはいけないということです。 最上小国川でも、その清流の価値にもう一回、目を向 けなければいけないのではないか。上にダムをつくって ではないかということを問いかけをしています。 とは何なのかを、もう一回、見直さなければいけないの 対ここに行かなければいけないという必然性が伴う価値 ほかの地域に勝てばいいということではなくて、 要は、 地域の価値をやっぱり残していくべきではないかと。絶 す。では、 いったい何をしたらいいのかということです。 二〇億三千万円消費額が減少するという計算になりま ダ ム を 作 ろ う と し て い る 最 上 町 は、 一 〇 年 間 で 一 千 六 〇 〇 人 人 口 が 減 っ て い る の で す が、 一 〇 年 間 で だと二四人分必要だと。交流人口拡大をして、その地域 治 水 を 実 現 し た。 兵 庫 県 で も 条 例 を つ く っ て お や り に 温泉の旅館にお湯を引っ張るために、堰上げをしなけれ しています。 用規制まで定めてい る 。 知 事 は ま っ と う さ れ た と 評 価 を ころには住まないよ う に し よ う と 。 そ し て 条 例 で 土 地 利 こともいっしょに、 危 険 度 マ ッ プ を 公 開 し て 、 危 険 な と りました。なので、私たちは、これをとっぱらってこう なっている。危険なことになっているということが分か 床止めを打ったりして、結局、この高さがいまの現状に しようがないや」ということで、これに橋を架けたり、 でも、これをコンクリートで県につくらせたために、 土砂がたまっても、 そのままになってしまって、「だから、 砂がどんどん逃げていくということが続いてきた。 られました。 り、中心になった沼沢さんは非常に精神的に動揺を与え れないということをほのめかして、漁協全体に動揺が走 加しないままだと漁業権を与えることができないかもし ときだったのです。年の瀬になってから、ダム協議に参 た。今年の一月一日に漁業権の更新を迎える、そういう 漁協に対して県が、あたかもダムを容認しないと漁業権 の存続を懸けようという観光庁のデータです。 なっていると思いま す 。 ば い け な い と い う こ と だ っ た そ う で、 こ こ に 土 砂 が た 沼沢組合長は、川の力こそ、まさに人を引きつけるも のだということをずっと訴え続けてきた方です。実は、 と こ ろ に 住 ま な い と い う の は、 滋 賀 県 知 事 の 嘉 田 ( 由 紀 (滋賀県では)地先の安全度マップをつくった。地先の 安全度というのは、 川 か ら 来 る 洪 水 も あ る け れ ど 、 実 際 まっても、上から大きい水が来ると、これが壊れて、土 こ れ は 熊 本 県 の 荒 瀬 ダ ム で す。 こ れ は い ま だ い た い 九〇億円ぐらいをか け て 撤 去 を し て い る 最 中 で す 。 撤 去 いうふうにしたらダムは要らないという代替プランを掲 よく調べてみたら、 ここに県がつくった堰がありまして、 は、裏山から来る水 で あ ふ れ る と こ ろ も あ る 。 こ う い う し始めて、どんどん 川 が 再 生 し て い る と 聞 い て い ま す 。 げて、いま運動を展開中です。 こと を ずいぶん 気 に す るよ う に なってお られて、結 局、 を奪いますよというようなことを昨年の末に迫りまし 小 国 川 で す け れ ど も、 い ま 漁 協 が 反 対 を し て い ま す。 ところが、昨年の末 か ら 二 〇 一 二 年 あ た り 、 漁 協 は 絶 対 漁業権は一月一日に更新されたのですけれども、何か 自分の言動一つで漁業権を奪われるのではないかという 実際、この旅館は、もう倒産してしまいました。この 旅館は古くなってしまって、旅館街全部、再投資がなか 了 解 し な い と。 漁 業 権 を 持 つ 漁 協 は 非 常 に 強 い 存 在 で 、 補償交渉に応じなか っ た ら ダ ム は で き な い こ と に な っ て いま組合長が代わって、推進派の自民党県議が動かし ているような組合長が、ダムの容認をするような言動を 今年二月一〇日に、私は一四年間ずっといっしょに活動し ないかということで、いま提案しているところです。こ 重ねています。 てきた、この沼沢さんという方を失ってしまったんです。 れこそ赤倉温泉を持続可能にする道として運動を展開し なかできない状況なので、これは河道改修とともにセッ ております。 トバックさせたりして、再生を図ったほうが断然得では これは私の質問で す け ど 、 漁 業 権 を 持 つ 漁 協 が 反 対 し て い る か ら、 本 来 こ こ に は つ く れ な い の で は な い か と 。 私たちは五月に全国から、有数の河川工学者のみなさ 善)組合長はずっと反対をし続けていました。 山形県の農政部長は「ご理解いただけるように努力する」 これは観光の指数です。定住人口が一人減少すると、 いますので、漁協の交渉というのは非常に強い。沼沢(勝 という答え方をして 、 次 々 と い ろ い ろ な こ と を 進 め て き 056 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて チコピーをつくると 言 っ て 、 こ ん な も の を 提 案 し 、 漁 協 げて、「ダムのない清流、最上小国川」に代わるキャッ 今、県はダムをつくるけれど、「ダムのない川以上の 清流を目指して」と い う 清 流 未 来 振 興 図 と い う も の を 掲 追悼のシンポジウム を 開 催 し ま し た 。 んや魚類の生態学者 の 方 々 に 来 て い た だ い て 沼 沢 組 合 長 造さんの言葉を、もう一回、胸に刻むべきではないかと らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」という田中正 ています。私は、 「真の文明は、山を荒らさず、川を荒 最近、山伏修行もだんだん人気が出てきまして、一週 間の修行、そのほか三日間の体験も、若い人たちが訪れ 打たれている絵であります。 ですけれども、禊ぎと滝行ですね。これは湯殿山の滝に の第二部でも原子力の問題や、総合討論の中で提示して いう問題をどういうふうに考えていったらいいのか。後 ることができないという状況の中に置かれている。こう かって、その中で矛盾を生き切れない。この先、突破す きようとすればするほど、同調圧力やいろんな圧力がか そういう中で小国川の漁協の沼沢組合長が自死すると いう事態が今年の二月にあったわけです。そういう非常 ろん現場では支援活動が引き続いて行われているわけで ご紹介いただきました天理大学の金子と申します。東 日本大震災から、すでに三年以上が経過しました。もち 金子 昭 わけで、四つ目の「基本的なニーズを妨げる」というと すけれども、その動きとは別に、少し落ち着いていろい 水土の思想 コメント では、ここで金子昭先生にショートコメントをしてい ただきます。よろしくお願いします。 いきたいと思います。 に追い込まれて苦しんでいる人たち、未来をよりよく生 に「ダムを容認した ら 、 こ う い う 振 興 策 を や っ て あ げ る 思っています。 いろと分からなくなったときの羅針盤として使っている から大丈夫だ」みた い な 話 を し て 迫 っ て い る と い う 現 状 ということでした。あの場で説明できませんでしたけれ 今日お伝えした四つのシステム条件、あそこに自治体 の方々がいたり政治家の方々がいたのですけれど、いろ 私は、やっぱり子どもたちが泳げる川を大事にしたい。 川で泳いだことがあ る 方 、 手 を 挙 げ て み て く だ さ い 。 お であります。 お、さすがですね。鴨川でも泳げたんですよね、きっと。 「地殻から掘り出した物質が増え続 四つの条件では、 けない」というところに、まず違反をしていますね。ウ ども、では原発は何と何に違反していると思いますか。 ラニウムも枯渇性の資源です。二番目の「化学物質がど 川で泳げる体験って本当にいま少なくなってきていると 思うんです。山形でも、この川ぐらいしか泳ぐ気になら を大人たちから教わっている、そんな川でもあります。 ころは、福島の方々が、いまだに一二万人ふるさとに帰 んどん」というところにも、放射能を吐き出してしまう ないですね。小国川は、さらに子どもたちがアユの友釣り 最後に れない。まさにそれが象徴していると思います。 印象を、このシンポジウムに参加して持ちました。 災の復興の意味合いを込めまして、今年だけ御開扉を九 の蜂子皇子像は扉が閉ざされたままでした。東日本大震 シンポジウムではなかったかと感じたのです。 問題提起ができたのが、今日の「震災後の自然と社会」 というのも、被災地とそうでない地域というのがある わけですけれども、それを二つつなげて、より普遍的な ろなことが考えられるようになったのではないかという 最後になりますけれども、私たちの出羽三山です。い ま開山された蜂子皇子、これが蜂子皇子像が祀られてい 月三〇日までおこなっております。もしご興味のある方 るところなのですが、明治の廃仏毀釈から一四〇年、こ がいらっしゃったら、ぜひいらしてください。 ます。環境というと、どうしても私たちは空間的な身の 私自身は倫理学を専攻しておりますが、ちょうどこの 分野に関わる倫理学として環境倫理学というのがござい それでは、ここまでといたします。ご清聴ありがとう ございました。 のは時間軸なのです。 回りのことをイメージしがちですけれども、実は大事な 鎌田 どうもありがとうございます。草島進一山形県義 会議員から、持続可能な未来社会をつくり上げていく理 では、現状はどうなっているのか。東日本大震災の場 合は防潮堤がつくられていますが、その防潮堤とダムの けない。これが時間軸の問題なんです。次の世代に豊か 世代は自分たちの生き方を反省し、考え直さなければい 田中克先生、草島進一先生のお話に何度も出てきまし たけれども、次の世代のために、私たちいま生きている 状況はまったく同じような構図を持っている。その現状 な自然を残していくのは、現在世代を生きる私たちの課 念と、実際の方法論についても提示してもらいました。 を矛盾として提示してくれました。 震災後の自然と社会 ● 057 これは、私たちの 出 羽 三 山 で あ り ま す 。 水 と 人 と の 関 係で、私はこれは究 極 の 関 係 性 な の で は な い か と 思 う の 湯殿山の滝に打たれる 川如見には、『日本水土考』、『水土解弁』といった著作 ありました。また、 江 戸 中 期 の 天 文 ・ 地 理 学 者 で あ る 西 えたもの」と述べて お り ま す 。 蕃 山 は 自 ら も 林 業 家 で も 日本・唐国・天竺の 水 土 に 従 い 、 時 ・ 所 ・ 位 に 応 じ て 教 熊沢蕃山という江戸時代初期の思想家は、『集義和書』 巻十六「水土解」の中で、「神儒仏三教の主意は格別で、 時期が来たのではな い か と い う 気 が い た し ま す 。 という言葉です。こ の 水 土 の 思 想 を 、 い ま 復 権 す る べ き が、実は近代以前に 、 む し ろ よ く 使 わ れ て い た の が 水 土 土」という言葉があ り 、 こ れ は よ く 使 わ れ ま す 。 と こ ろ す。近代では、和辻哲郎の著作のタイトルにもなった「風 す。水と土、二つ合 わ せ て 「 水 土 」 と い う 言 葉 に な り ま さて、本日のお話 の 中 に は 、 キ ー ワ ー ド が 二 つ あ っ た と思います。一つは 水 で す 。 そ し て 、 そ の 水 が 養 う 土 で 理学では世代間倫理 と 申 し ま す 。 題以外の何ものでも な い 。 こ の よ う な 問 題 提 起 を 環 境 倫 緩やかな回復の過程でもあると思うのです。いま人間の か。カオスからコスモスへと戻る過程は、時間のかかる このように自然というものは、カオスとコスモスを繰 り返していると考えることができるのではないでしょう 元の混沌の状態、 つまりカオスに戻ってしまったわけです。 の秩序、つまりコスモスを形成してきたのです。それが て、人々が田畑を作り、家屋や工場を建てて、人間世界 地に戻った状態でもあったのです。その湿地帯を埋め立 たように、ちょうど七〇年前にそうであったところの湿 天罰でもあり得ない。田中先生がいみじくも言われまし て破滅でも終末でもないと思うのです。まして、これは たしかにそのとおりです。一面の泥海の状況はたしか に一種のカオスの出現でした。しかしながら、これは決し 間にとっては大変な出来事だったわけです。 た生活が破壊され、尊い命が奪われてしまいました。人 被災者の方々にとっては、それまで営々と築き上げてき いています。これはたしかに凄惨な光景でありました。 た地域が泥海のようなありさまだったことが目に焼き付 ようにして現代人の私たちも、大自然の叡智、あるいは 的な社会では祭りを行い、神々に祈ってきました。その を鎮め、 「にぎみたま」になっていただくために、伝統 たま」の姿に変わっていただくことです。 「あらみたま」 します。大切なのは、この「あらみたま」にお鎮まりい ん。これを神道では「あらみたま」という言い方で表現 洪水や津波などは、伝統文化の観点から見ると、荒々 しい姿で現れた大自然の神と言っていいかもしれませ 虚に学ぶということではないでしょうか。 固めることではなくて、むしろ荒ぶる自然の姿からも謙 間がなすべきことは、コンクリートで自然をがちがちに られ、かえって被害を大きくしてしまいます。私たち人 見えるのですけれども、実はかえってもろく、一時的な からです。固定化すると、一見堅固になって丈夫そうに まって、大自然の息の根を止めてしまおうとするものだ は目先の利益のためだけに、すべてを固め固定化してし 造物というのは、まったくいただけないものです。それ 回復力を信頼し、祈りの姿勢で自然に対処していくこと ただき、人間にとって親しみのある、柔らかい「にぎみ 効果しかありません。ダムは決壊し、防潮堤は乗り越え があります。 側に求められていることがあるとすれば、その回復に手 からすれば、私たち一人一人の人生は短く、だからこそ ておりました。水土の回復に、私たちは手を貸しながら、 そもそも日本という国は、水に恵まれた豊かな環境が 草木や稲穂を実らせてくれる「豊葦原瑞穂国」と呼ばれ を貸していくことではないでしょうか。 風土よりも水土。 人 間 の 生 活 ・ 社 会 ・ 思 想 に 影 響 を 与 える自然環境を形容 す る の に 、 水 土 と い う 言 葉 を 用 い る 衝撃も大きかったのです。けれども、子どもの世代、孫 地域社会の復興を果たしていくことが大切です。 ことが、日本ではもともと基本形だったように思います。 の世代、そのまた先の世代につなげていくという、人間 が必要かと存じます。 水というのは、循 環 し て こ そ 意 味 が あ り ま す 。 水 の 循 環というのは、海や 川 、 地 下 水 や 空 気 中 の 水 蒸 気 、 空 の の命のつながりを考えてみると、今までとは違った考え 千年に一度の大津波と言われましたけれども、これも やはり大自然の大きな呼吸の一つです。その悠久の時間 雲や雨など、私たち の 身 の 回 り の 自 然 環 境 の い た る と こ 自然はカオスとコスモスを繰り返す ろに見られます。そして、水の循環はそれだけではなく、 ここで思い出されるのは、ユングと河合隼雄先生です。 スイスのユング研究所では、 「砂遊び療法」というのが 行われているそうです。それはクライエントに砂の上に 方を持つ必要があるのではないかとも思いました。 いろいろな物を配置してもらい、この作業を何度も繰り か。 最 近、 回 復 力 (レジリエンス)と い う 言 葉 を よ く 聞 からも生かされてい る と 言 っ て よ い の で は な い で し ょ う のお話に出てきた、むやみに巨大な防潮堤や、草島先生 こうというものです。そうした観点に立てば、田中先生 景観の持つ特性から生態系や人間との関わりを考えてい ( landscape ecology )と い う 新 し い 最 近、 景 観 生 態 学 学問分野が注目されています。これは文字どおり、自然 していくというものです。 る絵柄ができていく。それとともに人間のこころも回復 ら、こころが落ち着き、整っていくと、しだいに秩序あ リングの手法です。最初は、混沌としたカオスの状態か 返しながらこころの癒やしを進めていくというカウンセ きますが、自然環境、体内環境における水の循環こそが、 のお話に出てきた、漁業をダメにし、水資源を高価なも 「箱庭療法」を これを日本で最初に取り入れられて、 始められたのが河合隼雄先生です。河合先生はユング研 「あらみたま」を鎮め「にぎみたま」に 私たち人間を含めた 命 あ る も の す べ て の 体 内 環 境 の 中 に も水が同じように流 れ て い ま す 。 血 液 や 体 液 と い う か た ちで循環しているの で す 。 そ う い う 水 の 循 環 の 中 で 、 人 命の回復力の決め手 で も あ る と 思 う の で す 。 のにしてしまう無駄なダムのようなコンクリートの大建 間を含めた生きとし 生 け る も の す べ て が 外 側 か ら も 内 側 ところで、水と土を二つ合わせると泥になります。震 災後に映像でも見たりしましたけれども、大津波を受け 058 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて が生えていて、木が あ る 風 景 が 当 た り 前 の 自 然 の 姿 だ か とではないでしょう か 。 日 本 の 自 然 の 風 景 に は 多 く の 木 けど、日本人にとっ て 木 を 使 う と い う の は 当 た り 前 の こ くさん使う人は珍し い で す ね 」 と 言 わ れ た そ う で す 。 だ みたところ、研究所 の 先 生 か ら 「 あ な た み た い に 木 を た 究 所 で 実 際 に「 砂 遊 び 療 法 」( sand play )を お こ な っ て 環境問題を考える場合も、私たち人間がそこに存在し ない環境というのは考えられません。だとすれば、人間 く ま で も 人 間 性 ( humanity )の 立 場 か ら、 学 際 的 に (複 数形なので)取り組むような学問的立場であります。 複数形の形を取って イエンスではないのです。では何かと言うと、人文学は が正しい言い方です。つまり人文学というのは科学、サ とも称されることがあるのですが、実際は人文学のほう 人文学は、よく社会科学とか自然科学と並んで人文科学 世代につないでいくことになります。地域社会の豊かな くっていく。それは同時に、地下水の恵みや清流を次の ギーを活かして、そこでアユ釣りもでき、地元の漁業も きを使って地元にお金を還元していく。コンクリート・ 地域産業を活性化していくために、石油の代わりに、ま 草島先生は、人々の「いのち」と地域の「きずな」と いうことを訴えておられたように思います。 農林水産業・ を私たちは進めていかなければなりません。 社叢というのは神々の森のことです。身近なところで は、鎮守の森がそう で す 。 そ う い っ た 神 々 の 森 を 生 か し ります。 叢文化」という言葉 で 言 わ れ て い る こ と と 重 な っ て ま い それは、もう少し規模を大きくして考えてみると、神 道学者で京都大学名誉教授でもある薗田稔先生が、「社 こころの癒やし、こころの再生に向けた療法だと思います。 えない「つながり」や「めぐり」の大切さを訴えられま ということを提唱されて、 田中先生は、「森里海連環学」 広大な森林と豊かな森の多様なつながりの中で、目に見 わけです。 れば、いったい誰が守るのかということにもなってくる くことなのです。それは私たち人間が努力して守らなけ ただではなかった。こういうものは失って初めて気が付 いま環境破壊が進み、水土の汚染が取り沙汰されてい ます。よく「水と安全はただ」というけれども、決して 題と関連して論じられるのですね。 真美子先生が提唱されていますが、現代は宗教も環境問 す。最後の環境宗教学というのは、兵庫県立大学の岡田 方を取り上げる広義の人文学の範疇に入ってまいりま 環境問題と連動させると、人間が人間らしく生きる生き 経済学、環境宗教学などがそうです。社会学や経済学も 環境哲学、環境倫理学、環境心理学、環境社会学、環境 問、つまり人文学は近年、いろいろと出てきています。 ものではないでしょうか。環境に関する人間の学際的学 私は原子力発電ではないかと思うわけです。そういうと かし、自然の回復力に対する最大・最悪の阻害要因が、 ません。それが巨大防潮堤でありダムでありました。し 本来、自然というものは回復力を持っているのですけ れども、これを逆に人間が阻害してしまっては何もなり いでしょうか。 本日のシンポジウムを通じて学ぶことができたのではな これらの普遍的な問題についての新たな視点の数々を、 の変化に即しながら、 被災地だけの問題にとどまらない、 たちは、東日本大震災後の大きな社会的変動、自然環境 価値ある自然、価値ある社会、価値ある文化を、私たち それが「勝ち組」 (価値組)というわけです。その意味で、 中で勝ち残るというのは、 価値を持ったものなのですね。 て、とても面白い再定義をされました。つまりこの世の 「勝ち組」と「負け組」という、私は好きではない人 間の分け方がありますが、草島先生は「勝ち組」につい うらやましいことです。 す。草島先生のような政治家がおられるところは本当に 水土を次世代に残していくのは私たちの責務でもありま 観光も潤うような代替プランを実行して地域の雇用をつ ダムで川を固めてしまうのではなく、本来の自然エネル らです。 と環境というのはそもそも一体のものとして存立すべき ながら、自然環境と 人 間 社 会 を 調 和 さ せ て い く 郷 土 の 再 した。海遍路のお話、森は海の恋人運動というお話はと ころで、原子力発電についての問題を、このシンポジウ と い い ま す。 こ れ は あ humanities なありようではないでしょうか。それは、まさに日本的な いかにも「風土」的な砂遊び療法に対して、箱庭療法 の世界というのは、木を使う「水土」的な曼荼羅のよう 生を目指すのが「社 叢 文 化 」 の 発 想 で す 。 こ れ は 、 草 島 ても印象深く聞かせていただきました。森が海の恋人な ムの第二部で島薗進先生が取り上げてくださるものと思 被災地にとどまらない普遍的な問題 私 自 身 は 広 い 意 味 で 人 文 学 の 立 場 に 立 っ て お り ま す。 はそれぞれの地域でどう創出していったらいいのか。私 先生が言われた持続可能な社会づくりのモデルとつな らば、逆に海は森の恋人でもあると言ってよいのかもし います。 がってくるものでも あ り ま す 。 れません。そして、海にも実は森があったという話もさ 世界です。この海と森の切っても切れない「きずな」の 中で、人々はその恵みを受けて暮らしています。その恵 みに感謝して、海と森とがともに再生できるような運動 震災後の自然と社会 ● 059 れました。森と海が織りなす世界は、まさに「水土」の 金子昭氏 ゴリラに学び直して、日本がよみがえってくるような、 未来においても維持できるようにしていく。草島さんの 境を保存・保護し、自分たちの環境を破壊することなく、 鎌田 それでは、第二部に入りたいと思います。島薗進 先生に「原発事故が 問 い か け る も の 」 と い う タ イ ト ル で 公共政策の問題であり、どういう生き方をわれわれが選 ということで、 もちろん科学技術の問題であると同時に、 系の学者もいるけれども、文系のほうが数が多いぐらい キリスト教の教会の代表者が三人ぐらい入っている。理 てあるか。この委員会は一五人ぐらいの委員会ですが、 では、ドイツの安全なエネルギーのための共同事業と いう報告書には、どういう意味で倫理ということが書い 共鳴を集めるようになったと私は認識しております。 いますか、そこが決め手になるという考え方が、大いに うことが、社会政策上に、やはり重要な問題であるとい 後、日本でも大きな影響を持っておりまして、倫理とい ことが、その報告書に出ております。このことは、その わけで、医療はそれを断れないためにやってしまう。ど るところに、そういうことをしたいという人が出てくる わけですが、そういう生命科学の発展。これは欲望のあ そういう中で人間は人間を人間でないものにしてしま う。ポストヒューマンというようなことを言う人もいる 問題もある。 療というようなこともあるし、子どもの産み分けという われてきております。その中にはデザイナー・ベイビー ドイツの倫理委員会というのは、原発問題も倫理委員 会なのですが、その前に生命科学の倫理委員会が長く行 でもやりかねないということが懸念されます。 人間は技術的に可能なことを何でもやっていいわけで はない。どうも経済的な利益につながることであれば何 私はそこに宗教を 組 み 込 み た い と 思 い ま す 。 こ の シ ン ポジウムは「こころ の 再 生 に 向 け て 」 で す の で 、 宗 教 と して未来世代のための責任、これがドイツの委員会の基 す。先ほどのお話で聞いてきたように、持続可能性、そ いて鍵となる概念は、持続可能性と責任」ということで ども、 それは生活全体に影響する。そういう考察をする。 いうふうに言っております。科学技術の問題なのだけれ 経済的、個人的、制度的、全体的な考察を必要とすると よって力を得ていく。そのためには、文化的、社会的、 こういうかたちでドイツの倫理委員会は原発脱却を方 向づけた。そして、新しい方向をわれわれは選ぶことに 進 いうファクターは重 要 で す ね 。 草 島 さ ん の お 話 の 中 に も 本的なコンセプトになっております。それはまた人間と 島薗 原発事故が問いかけるもの 出てまいりましたが 、 さ ら に 付 け 加 え て い き た い と 思 い 自然との付き合い方、社会と自然の関係というふうにも ドイツの倫理委員会の報告書 うやってそれを止められるのかという大きな問題です ます。また、それは 金 子 先 生 が お 話 に な っ た 倫 理 と い う が、そういう問題にも通じている。 こととも関わると思 い ま す 。 うゴリラの親分、家 長 が 集 団 の 成 員 の こ と を い か に 思 い ラに倫理性があると い う 話 で し た 。 シ ル バ ー バ ッ グ と い したことがあって、 そ の と き の 山 極 先 生 の お 話 は 、 ゴ リ り育て、受け渡していくという責任を負っているんだと ということで、人間は神から与えられた環境を大事に守 ている。そして、ヨーロッパでは、こういう合意がある の中から引き継ぎながら、自分たちの価値観を育ててき を踏まえて、何がいいかということを、われわれは伝統 そして、それはキリスト教、ヨーロッパ文化と、この 倫理の問題になると、単なる規則ではない。やはり文化 が大きいと思います。 すが、福島はまさにこころの分断を起こしたということ 分断が起きたというふうに田中先生がおっしゃったので したのは、有明海の農民と漁民の対立。ここはこころの なると思います。特に、先ほどやっぱりそうかと思いま こういうことは、私たちは福島事故を経験することに よって、当然そうだということが分かったということに そうしますと、それは宗教とか倫理の次元に入っていく やっているかという お 話 で し た 。 いう宗教伝統を受け継ぐ立場を取っております。 のは当然であるということになるかと思います。 そして山極先生は 、 何 十 年 前 か に 会 っ た ゴ リ ラ と 目 が 合うと、あいつは俺 の こ と を 認 識 し た と お っ し ゃ る 。 こ どうして、そういうことを起こしたかと言うと、要す 言い換えられています。 ころが通じ合う。そ の こ こ ろ の 要 素 が 大 事 だ と 。 そ う い 「エコロジカルな責任」という言葉がありますが、環 山極先生が総長に な ら れ ま し た が 、 た し か こ こ ろ の 未 来研究センターのシ ン ポ ジ ウ ム で 山 極 先 生 と ご い っ し ょ う方が京大の総長に な ら れ た と い う こ と は 、 人 間 が ま た 060 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて お話の中に四つの条件がありましたが、まさにそれに対 そういうことを感じるところでもあります。 応するようなことが倫理的責任であると述べています。 話をしていただきま す 。 よ ろ し く お 願 い し ま す 。 んでいくかという問題である。そういう意識があると思 第二部 原発の問題は倫理問題であるということは、3・ 福 島原発事故が起こって、ドイツがすぐに倫理委員会を立 みなさん、こんに ち は 。 今 日 も 、 お 二 人 の 最 初 の お 話 は大変いい勉強にな り ま し た 。 ま た 、 非 常 に 具 体 的 な お います。 報告 話で、こういうとこ ろ か ら 日 本 は 変 わ っ て い く の か と い ということも入ってきますし、再生医療、人間改造の医 うことを大いに感じ た 次 第 で す 。 ただ、その内容を見ると比較的合理的に書いてありま す。ここに出てくるものでは、 「倫理的な価値評価にお ち上げ、脱原発を決めました。なぜ倫理委員会かという 11 とがいま起こってい る と 思 い ま す 。 ま さ に 原 発 の 中 に 潜 理やりやろうとする と 対 立 が 起 こ っ て く る 。 こ う い う こ るけれども、世話を す る 若 い 人 が 集 ま ら な い 。 そ れ は 無 きたい。残っていく 高 齢 者 の た め に は 世 話 を す る 人 が 要 家 族 の 中 で も 意 見 が 対 立 し て し ま う。 世 代 が 違 う と、 おじいさんたちは残 り た い け ど 、 若 い 世 代 は 外 へ 出 て い 最も大きな被害は分 断 の 被 害 で あ る 。 起こす。風評被害とかいろんな被害があると思いますが、 私も原子力市民委 員 会 と い う と こ ろ に 入 り ま し て 、 被 害の全体像を考える と こ ろ を 担 当 し た の で す が 、 要 す る こういうことが強く 感 じ ら れ た の だ と 思 い ま す 。 て い る。 そ う い う 中 で さ ま ざ ま な 対 立 が 起 こ っ て く る 。 の住みにくいような 環 境 、 住 み 続 け る に し て も 、 外 で 遊 よる健康被害という こ と が 基 礎 に あ る と 思 い ま す が 、 そ るに環境の全体を壊 し た と い う こ と で あ っ て 、 放 射 能 に に出てきております。それは「いのち」と「平和」とい そして、私たちは原子爆弾の被害ということと、おの ずから結び付けられる。そのことも全日本仏教会の声明 ということだと思います。 破壊されてしまったのかという大きな経験を持ってきた が、こういうことが、われわれが原発災害によって何が 配。これはまさに命の未来に対する心配になるわけです つかない中で苦しんでいる。とりわけ子どもに対する心 どういうふうに今後立ち直っていけるのかという展望が そして残っている人も、いつもこころのどこかに放射 能被害のことを置いている。そして、 未来が分からない。 続いていると思います。数万人の人が避難をしている。 をいつも思わざるを得ない状況にある。それはいまでも ――私たちは、生活全体が破壊されている被害者のこと まず最初に述べ訴えていることは――おそらくドイツ の声明ではこういうことは述べられていないわけですが 教の共通基盤の中から出てきた声明と言えると思います。 とはよけておいて、仏教という基盤で、あるいは日本の宗 ら、仏教宗派ごとの異なる教え、信仰の違いみたいなこ すと、いかに犠牲を土台にしているか。これは高橋哲哉 来のさまざまな団体、特に宗教団体の声明を見ておりま ドイツの宣言では、未来の世代への責任ということが 重視されておりました。それに対して日本の原発事故以 あり、そして何よりも未来の世代を犠牲にする。 うかたちで犠牲にしてきたものが過去にあり、同時代に 可能な被害、あらゆる不利益を押し隠している。そうい 費を使って安全神話をばらまく。こういうことで、予測 しかし、手近な利益を供与すること、要するに、補助 金をその地域にばらまく。また、そのために巨大な宣伝 人たちは大変な被害を受ける。 のために健康被害があるけれども、それは見過ごすこと 原発は誰かの犠牲の上に成り立つ。作業員、原発で働 く労働者は、はじめから放射線被ばくを余計にする。そ 本仏教会の声明はなっております。 「誰かの犠牲の上に成 非常に特徴的な言葉としては、 り立つ豊かさを願うものではなく、個人の幸福が倫理の とではないかと思います。 に生活構造全体が壊 さ れ て し ま っ た 。 そ の こ と が 分 断 を 爆を受けた。そして、そこで反省したはずなのですが、 国主義的な方向へ向かった、そういう経験。その中で原 りに軍事力に頼り、軍事的に物事を解決しようとして軍 の人を犠牲にしようとしても、日本ほどやりやすくない おそらく、これはドイツでは、そういうふうに弱い立場 で言っておりますけれど、これが特徴的だと思います。 さんなんかも、沖縄と比べながら犠牲の構図ということ にしている。それから、何か事故などが起これば地域の 福祉と調和する道を選ばなければなりません」と、全日 んでいた問題が、福 島 災 害 に よ っ て 大 き く 露 呈 し て い く う言葉で言える。私たちが第二次世界大戦を経て、あま んだり、環境ととも に 生 き て い く い ろ ん な 活 動 を 奪 わ れ ことだと理解できる と 思 い ま す 。 同じ核の被害を浴びるようになってしまった。 宗教団体の脱原発声明 は伝統仏教のほとんどの団体が加わっているものですか げられます。そして、私たちはいま、先ほどの田中先生 る。 「過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自 うことになります。一人一人が自分の問題として受け取 しかし宗教界の特徴としては、そういうときに自分自 身を見直す。自分自身のこれまでの生き方を顧みるとい という構造があるのではないかと思います。 や草島さんのお話をうかがっても、あらゆるところで巨 然の前で謙虚である生活の実現にむけて」というふうに その背後には、原子力発電のために命を脅かされる人 たちのことを十分に考慮してこなかったということが挙 大なお金を動かして追求されることと、地域の生活で命 言っております。 これはいかにも宗教らしいところです。 これは宗教の立場からはそうだけれど、一般社会にそれ を育む活動の中から考え出されていることのギャップと を求めるのは酷ではないかと言えるかもしれません。経 いうものに直面している。こういうことが、この声明の 利便性の追求ということの中には、大きなお金を動か して、そこから得られる大きな利益。それはたくさんの ですので、一面は好ましいことといいますか、多くの 方が理解しやすいことなのですが、 考えようによっては、 人の利便というふうに見えるのですが、実はそこに破壊 済構造が縮小していくとすれば、そのために経済活動が 中でも注目されていると思います。 性がある。命と平和を脅かす要素が潜んでいるというこ 震災後の自然と社会 ● 061 こ れ は 全 日 本 仏 教 会 の 出 し た 声 明 に も 出 て き ま す。 二〇一一年一二月一日に出ました。全日本仏教会というの 島薗進氏 ことができないでいると思います。そういう点では、い とも挙げられております。 て、われわれは社会の分断を超えていける。こういうこ 再生可能エネルギーという目標を共有することによっ くつかの宣言の中で注目されています。 ま大きな変化が起こっていると言えるのではないかと ここでもキリスト教の基盤から、これを言っているん だということですが、カトリック教会の日本司教会では 努力があり、政治家の方たちの地方での地道な活動もあ 思 っ て お り ま す。 こ れ は 人 格 権 と い う こ と で、 「憲法」 日本の文化に配慮していて、神道や仏教などの諸宗教と 妨げられる人が出て く る と い う こ と が 懸 念 さ れ る 。 そ こ こういうふうなド イ ツ の 倫 理 委 員 会 の 声 明 、 日 本 の 宗 教団体が出した声明 、 そ し て 倫 理 の 問 題 が 原 発 問 題 の 一 第一三条、第二五条を判決は挙げております。 共有できるものがあるのだという、文化や宗教の違いを また、原発というのは分断を生じさせるような特徴を 持っているわけですが、ドイツの宣言のように、脱原発 つの判断の根拠にな る 。 た と え ば 、 大 飯 原 発 の 差 し 止 め そして、これは中嶌哲演さんですが、原子力市民委員 会が『原発ゼロ社会への道』というのを今年の四月に出 前提にしながら、それをどうやって超えていくかという る。そして、 それに文系の学者も協力しているけれども、 訴訟の判決が今年の 五 月 に 出 ま し た け れ ど も 、 こ の 判 決 しておりますけれども、その中でも倫理的観点を重視し なかなか精神文化的な次元まで、自信を持って議論する 文の中には、たしか に そ う い う ふ う に 書 い て あ り ま す 。 ております。そこにも言及をされております。 が、この声明文のよ う な 言 い 方 の 中 に は 反 論 の 余 地 が あ これまでの日本の 原 発 訴 訟 は 、 だ い た い 推 進 側 に 立 っ た 判 決 が 出 て き た わ け で す が、 こ こ で 大 き な 転 換 が 起 るのではないかと思 い ま す 。 こった。そして、そ れ は 倫 理 性 と い う こ と を 一 つ の 大 き い ま 仏 教 の お 話 を 中 心 に し て ま い り ま し た が、 カ ト リック司教団からも、そういう声明が出ております。こ して長年この問題に 取 り 組 ん で き て 、 こ の 訴 訟 も 代 表 に ものがにじみ出てく る よ う な 方 で い ら っ し ゃ い ま す 。 そ あり、お目にかかる と 、 そ の お 人 柄 に ま こ と に 仏 教 的 な そして、大飯原発 差 し 止 め 訴 訟 の 原 告 団 の 代 表 は 中 嶌 哲演住職であります 。 小 浜 の 地 元 の 由 緒 あ る お 寺 の 方 で この最初のところで、カトリック教会は二〇一一年、 福島原発事故が起こる前には、やっぱり原発はやめるべ ております。 おります。他のキリスト教会も、その前後の時期に出し れは二〇一一年一一月ですので、仏教会に先立って出て 修道士の生活にそれがよく表れているわけですが、こう うことをキリスト教の側でも、特にカトリックの場合は ここには清貧という言葉が出てきます。先ほど小欲知 足という仏教の用語が出ておりましたが、 「清貧」とい 問題意識も表れております。 な問題にしている。 なって担われた。で す の で 、 判 決 の 中 に そ う い う 要 素 が きだとまでは言えなかったと反省しております。これは その中で、あえて集合体として意思表示をするという ことは、大きな努力をされて、中で討議をしながら、そ と、すぐに実現できるものではないというところがある ことが入ってくると思うのですが、それは時間軸で言う いしない、エネルギーをそもそも過度に使わないという 済発展って、やっぱり大事じゃないですか」という反論 こまでやっていったということだと思います。キリスト と思います。そのへんのところは、宗教界の文書では、 プロテスタントの教会も同様です。いまだにカトリック これは先ほど言いましたように、ドイツの倫理報告書 ではあまり出ていません。このことを強調すると、「経 いうことを言っております。 入ってくるというの は 、 裁 判 官 の 方 の 見 識 と い う こ と も 教会は、カトリックにしろプロテスタントにしろ、この あるけれども、その 訴 訟 の 構 造 か ら も 来 て い る の で は な 演さんの文章を引い て お り ま す 。 中 嶌 さ ん は 、 倫 理 的 責 三年間でそこが変わったと思います。どちらも主流派と あまり配慮がされていないところがあります。 を招くところです。広い合意を得ていくには、このよう 任の問題を「自利利 他 円 満 ― 小 欲 知 足 」 の 仏 教 精 神 に 照 いいますか、多数派として、原発は人類の福祉に合わな な表現は少し先送りしたほうがよいのかもしれない。 らしつつ、というふ う に 言 っ て お り ま す 。 い、あるいは原理的に容認できないという立場をとって これに、ちょっと私なりの意見を書いておりますが、 清貧の生活に甘んじることを選ぶということは、多くの 教会にしろ、プロテスタント教会にしろ、全日本仏教会 この仏教の伝統を 現 在 の 環 境 問 題 に 、 ど う い う ふ う に 適応していくかとい う 努 力 。 逆 に 言 う と 、 日 本 の 宗 教 に 人の納得を得られるだろうか。 これは宗教の宣言として、 にしろ、原発推進でいいんだという立場の方はもちろん は そ う い う 努 力 が ま だ 足 り な か っ た。 ド イ ツ の 場 合 は、 いる。そして、それは福島事故が大きな転換になってい けれど、公共空間に対してということになると、やや弱 いかと思います。 環境問題にしろ生命 科 学 の 問 題 に し ろ 、 キ リ ス ト 教 会 の ると言えると思います。 いところがあるかもしれないと思っております。 長期的な目標として、持続可能な生き方の中には、わ れわれは浪費しない、自然環境をはく奪しない、無駄遣 中でそういう議論が 進 ん で お り 、 そ れ が 政 治 に も 反 映 す ここでも将来世代への責任ということが、カトリック 教会の宣言では大いに強調されております。と同時に、 おられるわけですね。 る。精神文化的、あ る い は 倫 理 的 な 次 元 に つ い て の 議 論 安全神話というふうな、要するに原発には大きな虚偽が ここでは、「憲法」の中にある人格権を尊ぶというこ とが根本的なことと し て 提 示 さ れ て お り ま す 。 ま た 、 福 が、宗教的な文化を 基 盤 に し 、 学 会 で も 十 分 に 行 わ れ て いま述べてきたのは宣言文の話ですが、私が思います 島の経験も大きな理 由 に 出 て お り ま す 。 こ こ に は 中 嶌 哲 いて、それが裁判や 政 策 に も 反 映 す る と い う こ と で す 。 含まれているということですね。これも宗教界によるい 教団の内部の人に向けては、それでいいのかもしれない 日本の場合は、今 日 の お 話 の よ う に 科 学 者 の 方 た ち の 062 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて そういうふうなやり 方 で で き る こ と を 評 価 す る の で す 。 な 予 算 を 使 う と い う こ と に 執 着 し て い る。 し た が っ て、 や県というのはすべ て の こ と を 大 き な 単 位 で 考 え 、 巨 大 と切り離せない。先 ほ ど も ち ょ っ と 申 し ま し た が 、 政 府 やはり宗教が地域社 会 に 根 を 下 ろ し て い る 。 地 域 の 環 境 ことを非常に複雑な気持ちで見ておりました。やっぱり の若い三〇代ぐらいの僧侶の方が、こういう活動をする こういうお寺ですけれども、このお堂の中で計画を練 り、準備をしていました。若い僧侶です。私たちは、こ でおりました。 に基づいて地域の方とともに、こういう問題に取り組ん 通称「つるりん」和尚と言っておりますが、鶴林とい うのが本当の名前です。この方は、まったく自分の信念 お金を投げ込んで。しかし一度事故が起これば、そこの すから、そこで分断を起こす。そこへ巨大なさまざまな い蜜を置いて賛成派を増やす。反対派が必ず出るわけで 域だというと、そこを狙って原発をつくる。そして、甘 す。三つに要約できる。まず第一に、地域への押し付け まとまった議論をしているのは物理学者の池内了先生で そして、「被害や多大なリスクを特定の人たちに及ぼ す」 。これは、その犠牲ということです。これについて、 かくりん 一方、市町村とか 地 域 の 人 た ち は 、 身 の 回 り の 自 分 の 経 験 か ら 何 が 大 事 か と い う こ と が 見 え て い る。 そ こ の 心配でしょう。これから子どもができる人もいる。 の に、 今 回、 原 発 と 宗 教 の 関 わ り で 注 目 す べ き こ と は 、 ギャップがあると思 う の で す 。 宗 教 は ど っ ち に 近 い か と にまで被害が及ぶということです。 地域全体、そして今度分かったことは、かなり広い地域 です。特定地域の人、ここは限界集落的な産業のない地 言うと、明らかに地 域 社 会 の ほ う に 近 い 。 そういうわけですから、私たちもシニアボランティア というのを、ぜひやるべきだと考えましたけれども、な のかしら。どこかで捨てられちゃうんじゃないかと。そ 複雑な気持ちになる。このお土産を持っていってくれる 鶴林和尚は、こういうことを当時言っておりました。 二〇一二年の初めごろですが、お土産を渡そうとすると ほとんど想像を絶していることではないかと思います。 ていただいて、 これを何十年も続けていくということは、 と。今後、日々数千人、六千人でしょうか、の方にやっ れているのは、おそらく労働者は足りなくなるでしょう る人たち、非常に多くの方たち。そして、いまも恐れら かなかうまくいきませんでした。 んなことで苦しんでいる中で、地域の人とともに活動し たとえば、仏教の お 寺 の 住 職 た ち は 地 域 を 離 れ た ら 存 在 基 盤 が な く な っ て し ま い ま す。 で す か ら「 原 発 反 対 」 てきた僧侶の方がいらっしゃる。僧侶だけではないです 健康被害が出てくることも予測されます。 その中から、 その健康被害も、下請けが非常に複雑なので、 本当にフォ 第二に、関与する労働者です。原発、あるいはウラン の加工、再処理などに関わる人たち、今回は除染に関わ ね。牧師さんがいるし、いろんな方が、そういう地道な と言うとしても去る わ け に は い か な い 。 と い う ふ う な 非 そういう中で、残 る 人 た ち と と も に 常 に こ の 問 題 に 取 り組んでいる。その 代 表 が 福 島 市 の 常 圓 寺 の 阿 部 光 裕 和 活動をしてこられたということがあったと思います。 原発災害と宗教者の活動 常につらい立場にあ る と 思 い ま す 。 尚です。この方は、 い ま は 除 染 と 言 え ば 大 々 的 に 政 府 が ローできるかどうかもよく分からないという状況になっ 私もいっしょに参 加 さ せ て い た だ き ま し た 。 そ こ の 横 は 通 学 路 に な っ て い る わ け で す。 通 学 路 は 一 年、 二 年、 供して、除染を責任 を 持 っ て や ら れ た 方 で す 。 そして、除染で出 た 線 量 の 高 い 土 な ど は 、 自 分 の 境 内 の土地にため込む。 郊 外 な の で 土 地 、 山 林 を 少 し も っ て と取り組みます。 るととんでもないことが起こる。 「死の文化」というこ かみ少年だと言って叱られる。しかし、いざ起こってみ ことは想像するしかない。そういうことを言うと、おお これは高木仁三郎が前から言っていたことですけれど も、破滅的なことが起こる。そこに何が起こるかという が起これば破滅的な結果になります。 うになったと思います。一つは、とにかくこういう事故 こういうところから、いま私たちは原発の非倫理性と いうことについて、ある程度のまとまった意見を持つよ そがどんどん出される。御用学者という人たちは、集団 それから、私が強調したいことですが、社会に分裂を もたらし、金と力による腐敗と信頼喪失をもたらす。産 は犠牲ということになります。 生のまとめはこの三点で、要するに、押し付け、あるい これはとんでもないことだと言わざるをえない。池内先 ですよね。むしろ、マイナスの要素ばかりを背負い、被 本当に未来の人たちは、まったく原発から利益を得ない そして第三に、未来の世代のこと。これは本当にわれ われが何千年、 何万年まで考えなければならないことで、 てしまっているわけです。 三年たっても、まだ 一 年 に 二 〇 ミ リ シ ー ベ ル ト と い う と とが起こってしまう。 で、ある種の信念のもとに特殊な考え方を客観的なもの 原発の非倫理性についてのまとめ おこなっております が 、 最 初 の 半 年 、 一 年 ほ ど は 除 染 を ほとんどしていない で す ね 。 に も か か わ ら ず 、 そ の 環 境 ころがあちこちにあ る 。 そ う い う と こ ろ の 除 染 は し ょ っ いまわれわれは、むしろ「分断の文化」と言った方が いいと思いますが。しかも、決して外すことができない で子どもたちは生活 し て い る 。 い く ら お 役 所 に 頼 ん で も ちゅうやっていなけ れ ば い け な い の で す 。 そ う い う こ と 将来への不安ですよね。何が起こるか。そして見通しの やってくれないとい う こ と で 、 除 染 を 自 分 た ち で や ろ う をずっとやっている 。 そ れ を 手 伝 う の は 、 常 圓 寺 は 曹 洞 として言い続けているのです。放射能の問題などで私は 官財学報ですね。学界や報道界も含めて、ごまかしやう 害を防ぐために膨大な努力を今後強いられるわけです。 宗のお寺ですが、曹 洞 宗 の 若 い 僧 侶 で あ っ た り 、 地 域 の なさの中で苦しんでいるということです。 いらっしゃるのです ね 。 そ う い う ふ う に 自 分 の 土 地 を 提 方たちです。こんな 活 動 を し て い た 方 も お ら れ ま す 。 震災後の自然と社会 ● 063 そういうふうに考え て お り ま す 。 してきたのかということを、もう一回捉え返すところへ の福島を通して、日本の近代化の中で私たちは何を見逃 れているわけです。 菩薩、そしてすべての人を軽んじない菩薩とイメージさ ていくかということが、常不軽菩薩、常に軽んじられる こういうふうに、私たちは何か大いなるおごりに気付 きながら、現代文明、そして私たちが戦争から原爆、核 来ているのだと思います。 自然災害をどう受け止めるか? そういうことで、 利 益 を そ こ か ら 受 け る 人 に は よ い こ と に 見 え る け れ ど も、 そ う で は な い 人 が 必 ず 出 て く る。 そういう対立構造が 大 き な 特 徴 だ ろ う と 思 い ま す 。 そ れ は社会の信頼の基礎 、 基 盤 を 壊 し て い る 。 学 界 も 、 い ま いません。大新聞は 政 府 側 や 業 界 側 に 立 つ 。 そ れ に 対 し きたこととも通じ合うと思うのです。ここに引いている きくないと思いますけれども、津波の被害の中で感じて 最後に、いま原発について述べてきたことは、先ほど の三陸海岸のお話 ここは原発の被害はそれほど大 ではないかと思います。 をつくるということも、同じ問題として受け止めるべき なくて、津波とも重なっている。当然、この巨大な堤防 ことを考える手がかりを得ている。それは原発だけでは 開発に通じるような中で、何を踏み誤ってきたかという て、地方新聞はだい た い 批 判 的 で す ね 。 こ ん な こ と が 起 のは、金光教の東京の教会の方が何を感じたかというこ ─ こってしまって、社会が分裂してしまうということです。 とを二〇一一年の段階で述べた『金光新聞』の記事です。 の政府や役人も業界 も 、 地 域 の 人 た ち は あ ま り 信 用 し て ドイツは、おそら く そ う い う 点 が 少 な か っ た と 思 い ま す。 そ れ で も ド イ ツ は 原 発 か ら 脱 出 す る こ と に よ っ て 、 二〇一一年から、こういうふうなシンポジウムがあち こちで行われてまいりましたが、宗教界もそういうこと います。 ず注目しています。 非 常 に 重 要 な 観 点 で は あ る よ う に 思 こっと体を震わせたら大津波となった。 い勝手のいいように改造してきた。ところが地球がひょ みの中に住まわせてもらっているのに、自然を人間の使 これは地球のくしゃみとか、 あるお母さんが子どもに、 おならみたいなものだよと説明していました。天地の恵 求めているし、宗教側もそれに応じようとしているのだ から、社会で起こっていることを倫理の問題として、精 教はもっぱら個人のこころの中のことであるということ 会で起こることは無関係であるとは言わないまでも、宗 を強く意識するようになって、個人のこころのことと社 そういう分裂の構造 を 克 服 し て い け る と い う こ と に 、 ま こういうのは先ほ ど 申 し ま し た が 、 と き ど き 言 わ れ ま すが、 「命より金なん だ ね 」 と 言 う と 、 「ああそうですね」 これは、神という観念を使わずに、私たちの宗教の教 えがこうだからということは言わずに、しかし何か大事 と思います。以上で私のお話を終わらせていただきます。 いたと思います。日 本 人 は 何 か 大 い に 間 違 っ た 。 戦 争 の 村上春樹が二〇一 一 年 六 月 に カ タ ル ー ニ ャ で お こ な っ たスピーチは、だい た い そ う い う 問 題 を 早 く に 指 摘 し て いかと思います。 実際には、その計 算 す ら ま っ た く 怪 し い わ け で す け れ ど、そういうふうに 数 字 に す る と 、 ご ま か せ て し ま う も ていいことになるわ け で す 。 利益。そのためには 、 小 さ な 被 害 と 見 え る も の は 無 視 し はしっくりくるものであろうと思います。 る。こういう見方です。こちらの方が、日本の宗教観に けれども。そのことを見直すということを学ぶべきであ 間に責任がある。私たちも、その一部であると思います それは、罰と違うというのは、被害を被った人に責任 があるわけではない。社会全体を狂わせているもの、人 儒教の中にもあると思います。 言葉があるのですが、法に背いたことをするということ 天罰論というのがありましたら、これは大いに間違っ ていると思うのです。しかし、仏教では「正法」という ボランティアとして現場に駆けつける方や、ご自身の専 大西 震災が起きたとき、多くの芸術家やデザイナーが 自分たちに何ができるのだろうと考えました。そして、 うなことについてもうかがえればと思います。 支援のかたちを模索しておられるのですが、そういうふ それでは大西宏志先生、よろしくお願いします。大西 先生は、宮城県の特に石巻市雄勝町で、アートを通じた 鎌田 どうもありがとうございました。 神文化の問題として捉え返すということ。これを社会も 存在している命の在 り 方 。 そ の 中 に は 環 境 が あ り 、 共 同 なことを言っていると思います。 と分かる人がいる。 つ ま り 、 地 域 社 会 の 中 で 支 え 合 っ て 体があり、一人一人 の 命 が あ る わ け で す 。 そ れ と 、 巨 大 後に私たちは、「過ちは繰り返しませんから」と言った それはまた、震災後に「雨ニモマケズ」がたびたび引 かれましたが、 『法華経』の中の常不軽菩薩が「でくの 門的な技能を使って、たとえば仮設住宅をつくるとか現 な利益構造によって 、 コ ン ピ ュ ー タ で 計 算 し て 出 て く る のだけれども、その 誓 い を わ れ わ れ は 軽 ん じ て し ま っ た ぼう」であるわけです。これをモデルにして、宮澤賢治 地が必要としている道具をつくって届ける方など、そう 雄勝でのアートを通じた支援のかたち んじゃないだろうか 。 な ぜ だ ろ う か 。 そ れ は 効 率 と い う が手帳に書き留めていたものが死後に見つけられたので 総合討論 ことだ。そういうふ う に 村 上 氏 は 言 っ て お り ま す 。 す。その中で問題になっているのは「慢」ということで いう活動をする方がたくさん現れました。 が自然をも狂わせるという観点があるんですね。これは 経 済 発 展 と い う こ と に 私 た ち は 力 点 を 置 い た た め に、 戦争のときに経験し た 大 事 な 何 か を ま だ 十 分 に わ れ わ れ あります。増上慢の慢であります。それをいかに克服し のがある。こんなこ と が 起 こ っ て い る と い う こ と で は な は捉えられていなか っ た の で は な い か と 思 い ま す 。 今 回 064 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて もいました。私も奈 良 で 行 わ れ た 芸 術 祭 に 震 災 を テ ー マ 被災地を取材して震 災 を テ ー マ に し た 作 品 を 制 作 す る 方 に 届 け る プ ロ ジ ェ ク ト で す。 そ の 他 の 研 究 メ ン バ ー は、 で地元の方と地元の 土 を 使 っ て 食 器 を つ く り 、 仮 設 住 宅 上げて活動されてい ま す 。 こ れ は 宮 城 県 七 ヶ 宿 町 の 工 房 なんですけれども、「命のウツワプロジェクト」を立ち 参加してくださった 近 藤 髙 弘 さ ん も わ れ わ れ の メ ン バ ー 術実践を調査して報 告 し て く れ て い ま す 。 同 じ く 、 今 日 知貴さんが、震災か ら お よ そ 一 年 半 の 期 間 に 行 わ れ た 芸 す。今日、会場にも 来 て く れ て い る 研 究 メ ン バ ー の 秋 丸 お手元に『こころの未来』一一号があると思いますが、 その五六ページに二〇一二年度の活動報告が出ていま 検証する基盤研究」 を ス タ ー ト さ せ た の で す 。 のこころときずなの 再 生 に 芸 術 実 践 が 果 た し う る 役 割 を の価値が結集して一つの大きな力にはまだなっていない 雄勝は、そうした特別な、先ほどの勝ち組の「勝ち」 ではない方の「価値」があるエリアなのですが、それら ぞ知るお神楽です。 化財にもなっていて、全国に多くのファンを持つ知る人 ちが引き継いで今に伝えています。国の重要無形民俗文 治の廃仏毀釈の影響を受けてからは地元の保存会の人た 「雄勝法印神楽」と呼 もう一つ有名なのはお神楽で、 ばれています。もともとは山伏が演じていたものを、明 た時期もありました。 硯石とも呼ばれ、硯の全国シェアが、ほぼ一〇〇%だっ お習字の時間に使われていた硯も雄勝石です。雄勝石は り使われなくなってしまいましたが、小学校や中学校の 薄くスライスされた雄勝石です。そのほか、いまはあま ましたが、あの東京駅の屋根をふいているスレートが、 られた古い駅舎がリニューアルオープンして話題になり 雄勝の特産というのがいくつかありまして、一つは雄 勝石が有名です。二〇一二年、東京駅の明治時代に建て ような状態になってしまっています。 を 世 界 に 発 信 し よ う と 計 画 し て い ま す。 ス ト リ ー ト ていて、そことのコラボレーションで雄勝の海からの風景 最近の話ですと、インターネット検索のグーグルが「海 からのストリートビュー」というプロジェクトを立ち上げ しはじめています。 路を復活させて、お祭りというかアートと伝統文化 伝 ・ 統産業をドッキングさせたイベントができないか、検討 ができるのは、かなり後のことでした。こうした海の航 した。そして、それらを海上交通がつないでいた。道路 いて、リアス式海岸の浜ごとに固有の文化というか、神 その一つが、海の遊覧観光を復活できないかというも のです。もともと雄勝という場所は十五浜村と呼ばれて いうことで、やっています。 したイベントやツーリズムを作れないか探ってみようと ますが、アートと地元の伝統文化・伝統産業の力を活用 になりました。キーワードは「祭り」です。今風に言う 二〇一三年度は、小さな価値を集結させた大きな力に するべく、イベントを実施しました。鎌田先生を中心に な 疑 似 体 験 を 提 供 す る サ ー ビ ス で す。 そ の ス ト リ ー ト つなぎ合わせて、あたかも実際にそこに行ったかのよう 真を特殊な機材を使って撮影し、それをコンピュータで 社や神楽や掟があり、十五の浜の連合体のようなもので 「海からのストリートビュー」 と、イベントのコーディネートということになると思い 年度)は、こうしたかたちで、芸術家個人として何がで にした作品を出品するなどしました。初年度 (二〇一二 という面もあります。 そうした中、私も 自 分 に 何 が で き る か 考 え ま し た 。 そ して、こころの未来 研 究 セ ン タ ー と の 連 携 研 究 「 被 災 地 きるかという切り口 で 活 動 し て ま い り ま し た 。 セ ・ レモニーと、石巻の香積寺の川村昭光住 職を中心にしたフード ビューというのは何かと言いますと、風景や町並みの写 町です。平成の大合 併 ま で は 雄 勝 町 と し て 独 立 し た 地 方 したアート そ し て、 昨 年 度 (二〇一三年 度)は、 フ ィ ー ル ド を 定 めて活動することに な り ま し た 。 そ れ が 宮 城 県 の 旧 雄 勝 自治体だったのですが、平成一七年 (二〇〇五) 、周りの 小さな町といっしょ に 石 巻 市 に 吸 収 合 併 さ れ て 、 い ま は した。私は震災後に 初 め て 訪 れ た の で す が 、 最 初 に 行 っ のですが、沿岸部の ほ と ん ど の 建 物 が 流 さ れ て し ま い ま 三陸海岸特有の細かいリアス式の海岸なものですか ら、もろに津波の被 害 を 受 け ま し た 。 と て も 小 さ な 町 な 石巻市になっている と こ ろ で す 。 祈りをささげ、復興祈願を行いました。これらの記録は 下りた後は、洪水で流された社殿の跡地に硯石を埋めて 名の有志で山を登りご神体に硯石を奉納しました。麓に てお祀りする神社ですが、鎌田先生や近藤さんなど約十 山のてっぺんにある高さ七メートルの巨石をご神体とし アート セ ・ レモニーでは、雄勝の再生を祈念して、雄勝 いその じん じゃ 石 を 地 元 の「 石 神 社 」 に 奉 納 し ま し た。 石 神 社 は 石 峰 ビューにして世界に発信していくことで、雄勝の海の観 海からのストリートビューを知ったときに、私たちと 同じようなことを考えているなと思いました。そして、 ていて、復興の過程を残してゆこうとしています。 ています。 そして、 震災直後にもストリートビューを作っ グーグルというのは面白い会社で、震災の前のまだ建 物が残っていたときに作ったストリートビューも保存し ビューを今度は海から見た風景でやろうというのです。 たときには、ちょっ と 不 謹 慎 な の で す け れ ど 、 な ん と 見 『モノ学 感 ・ 覚価値研究』第八号に掲載されています。 そして、 この研究プロジェクトは今年も続いています。 今年は、昨年の活動やシンポジウムで明らかになってき イ ・ ベントとシンポジウムです。 晴らしのいい場所だ ろ う と 思 っ た ぐ ら い に 何 も な く な っ た課題、つまり、いろいろな価値あるものを結び付けて 雄勝という地名は残 っ て い ま す が 、 行 政 の 単 位 と し て は 住宅や漁業施設など が た く さ ん 建 っ て い て 、 ど こ か ら で グーグルの募集に、葉山神社・石神社の千葉秀司宮司 光につなげられるのではないかと考えたのです。 思いますが、海から見た美しい三陸の風景をストリート 先ほどの田中先生のシーカヤックともつながってくると もすぐに海が見える よ う な 場 所 で は な か っ た こ と が 分 か 大きな力にするために何ができるかを、試してみること ていました。しかし 、 震 災 前 の 写 真 を 見 る と 、 そ こ に は りました。それが今 は 、 ず い ぶ ん 内 陸 か ら も 海 が 見 え る 震災後の自然と社会 ● 065 性があります。 海の風景が、世界中 の 人 に 見 て も ら え る よ う に な る 可 能 いくと、グーグルと の コ ラ ボ レ ー シ ョ ン で 雄 勝 の 美 し い あったと思うのです。 も、既存の学問の在り方に対する根本的な問いかけでも が私たちに問いかけたものはいろいろあるのですけれど 、それ 私たちが看板に掲げています「森里海連環学」 は学問であり、哲学であり、実学である。東日本大震災 思っています。 役割がある。森が健全であり、腐葉土がしっかりたまっ 本当に長期にわたって考えないとできない。新しい森の ほとんどが森ですから、 それを除染しようと思っても、 除染のしようがない。 どうするか。 これは一〇〇年かかっ が暮らしている。 い濃度が岩手県にまで広がっている。そこに子どもたち す。そうすると濃度が高ければ立ち入り禁止になるわけ でつながる。「森は海の恋人」 のモデルの森にも、実はホッ ざっと駆け足で活 動 内 容 を ご 報 告 さ せ て い た だ き ま し たが、今日はこうい う 観 点 で お 話 に 参 加 で き た ら い い な 既存の学問を乗り越えて、新しい学問というかたちで 提起した「森里海連環学」というものが、この震災の問 ておれば、その中に放射性物質をきちっと捕まえてくれ いうことは、まさにそのことだという思いを、今日いろ と思っております。 ど う ぞ よ ろ し く お 願 い い た し ま す 。 題に正面から向き合って、それを乗り越えて持続可能社 とともに応募してみ た と こ ろ 、 グ ー グ ル か ら い っ し ょ に 鎌田 どうもありがとうございました。 会につながるようなことに貢献できなかったら、もうこ て、雨が降っても流れない。 トスポットがいっぱいあるのです。それは室内実験で、 大 西 さ ん も 私 た ち の 仲 間 で、 こ こ ろ の 未 来 研 究 セ ン ターで継続的に連携研究プロジェクトをやっていたの んな学問は要らないという、歴史のごみ箱に捨てられる ほとんどの放射性物質は、セシウム137の場合は土壌 が吸着していますから、遊離のかたちで流れることはほと 私たち研究者が放射性物質を扱って、たとえば床に落と で、 い っ し ょ に な っ て い ろ ん な こ と を 仕 掛 け て い っ て 、 運命だということも含めて取り組んできました。 育成できれば、森がちゃんと長い間捕まえてくれる。 んどないのです。土壌が流れなければ、つまり健全な森が んな先生方の話を聞いて、いっそう確信を持つに至りま 現状を打破していくための突破口を開いていきたいと 森川海の連環学ではなくて、森里海の連環学というと ころが単なる自然科学ではない。里に住む人々のこころ した。そのことは本当に私自身にとってもありがたいと 思っております。 の問題が、結局は森と海のつながりを再生することにも やってみたいという 返 事 が 来 て い ま す 。 ま だ こ れ か ら 話 いま大西さんが示してくれたことは、「モノ学・感覚 価 値 研 究 会 」 と い う 科 研 研 究 会 と し て や っ て き ま し た。 を詰めていかなけれ ば な り ま せ ん が 、 う ま く 話 が 進 ん で 大西さんやアーティ ス ト の 人 た ち で す 。 そ の メ ン バ ー と なるし、より大事なもの、私たちが大量生産、大量消費 ト瓦にもなる雄勝石が出ます。それは硯や瓦になります。 その葉山神社が、 い ま 日 本 財 団 の 寄 付 金 を も ら っ て 改 修をしています。こ の 巨 大 な 自 然 の 磐 座 の 近 辺 に ス レ ー 神社で、延喜式内社 の 石 神 社 の 里 宮 で す 。 というのは裏の石峰 山 に 大 き な 石 の 御 神 体 を 持 っ て い る 衆の方々と連携のあ り よ う を 探 っ て き ま し た 。 葉 山 神 社 考えると、やっぱり自然を大事にする、自然を取り戻す こに、これからの進むべき未来がある。そんな視点から 立ち止まって、失ったものをもう一度見つめ直そう。そ なものをいっぱい失ってきているわけです。いまは一度 これまでは何かを得よう、便利なものを得よう、効率 を得ようという視点だけできた反対側では、とても大事 の中で失ってきたものを再生することにもなる。 い。このことを世界はどう見るかですね。日本はちゃん 広域的に、中長期的に起こる出来事を、誰もいま調べな 日本は残念ながら研究機関、行政がすべて縦割りです から、部署ごとに森から海までつなぐ。しかも、それが 把握するのか。 ていくわけですから、このことを誰がいったいきちっと そのことも含めて、森から――地下水を通じてはあま りないですが――もちろん川を通じて河口域に流れる。 て、ようやく一〇分の一に減るようなレベルですから、 です。平方メートル当たり四万ベクレルと。それより高 石巻市雄勝町の葉山 神 社 の 千 葉 秀 司 宮 司 や 雄 勝 法 印 神 楽 それをうまく使って も う 一 回 土 地 の 産 業 や 文 化 的 価 値 を というのは、本当に大切なことだと思います。 とそのことに対処しなければ、日本はそんなに無責任な それは必然的に生物物理プロセスを経て世界の海に流れ 発信していけないか と い う こ と を や っ て 、 昨 年 八 月 、 石 巻市の仮設住宅で、 お 寺 の 住 職 さ ん や 神 主 さ ん た ち に 集 国かと言われる。その負の遺産は次世代に残ります。 逆に、ここで本当にそのことをちゃんと私たちが現実 を踏まえて対処できて、世界がこれから参考にできるよ 次世代へ送り届ける大事なこと うなきっちりしたデータを出せれば、さすがは日本だと それでは次に田中 克 先 生 お 願 い し ま す 。 今日は原発の放射能の問題の話はできなかったのです が、この間、三陸の気仙沼で、宮城の北ですから福島か いうことになる。もう日本はお金で生きていく時代では まってもらってシン ポ ジ ウ ム を 行 い ま し た 。 らは遠いのですけれども、実は原発物質は直近の原発か ない。そのことは震災でより表に出たわけです。何が残 らきわめて高濃度の放射性物質が流れているだけではな せるか。豊かな自然をもう一度取り戻す。そして、日本 失ったものをもう一度見つめ直そう くて、震災、爆発直後に高濃度の放射性物質が、関東北 の責任ある知恵を世界に発信する。これが次世代へ送り 部から東北の太平洋側の森一円に広まってしまった。 たとえば岩手県の南の一関は、気仙沼と大川という川 田中 できるだけ現場主義ということで、フィールドに 出る機会が多いので す け れ ど も 、 そ う い う 中 で こ こ ろ の 再生という問題を真正面に考えたことはそんなにはな かったのですが、実 は 、 い ろ ん な 地 域 の 問 題 に 関 わ る と 066 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて 大西宏志氏を交えた総合討論 みなさんがおっしゃったように「分断」 キーワードは、 です。分断の対極にあるのは命です。命というのは、あ と思います。 されてしまってきています。そんな矛盾も抱えているか で示してしまったために、地道な活動や突破口が覆い隠 届けるいちばん大事なことだと思います。 らゆるつながりの集約されたものですから、命を大事に しかし、もう一方は、二〇二〇年に東京オリンピック を誘致しようという、はっきり言うと大うそを国際社会 する社会をつくり出すというのが、持続可能社会への道 そういう中で政治的に突破口を見出していこうとし て、困難を承知で取り組んでいる草島進一さん、最後の に、もう一回再発見しながらやっていこうとする。それ そういうある意味では必死の覚悟でありながら、しか し同時に楽しみながらというか、子どもたちといっしょ き継ぐ責任みたいなものが失われてしまう。 自分たちの学問的なアイデンティティや、将来世代へ引 こが正念場で、次へつなげることができなければ、もう 水を差して現実に戻していかなければいけない。最近、 にはあえて水を差していかなければいけないわけです。 法が」みたいな話になったりするのですけれども、そこ 政治の大多数を占める方々は、一つの空気をつくりだ しているのだと思うんです。その空気に押されて、「あ、 躍しているNGOの仲間です。ありがとうございます。 神 戸 か ら 仲 間 が 今 日 来 て く れ て、 吉 椿 ( 雅 道 )君 を ちょっとご紹介します。彼も当初から、いま海外でも活 草島 今日は大変素晴らしい先生方と同席することがで きまして、本当に光栄です。ありがとうございました。 いまをターニングポイントに と思います。 発言になりますので、思いのたけを語っていただければ だろう。そんな思いを、あらためてみなさんのお話を聞 いて確認させていただきました。 お寺と神社がつながれば 鎌田 ありがとうございます。 いま中長期的なビジョンに対して、学問に関わってい る者は何ができるのかということの提示がありました。 い ち ば ん 最 後 が「 孫 の 世 代 が 幸 せ で あ り ま す よ う に 」 。 その一枚前が、いま実際に学者として取り組まれてきた 以降、次の展開でした。こ は研究所が一つの可能性というか、希望だと思います。 『「空気」の研究』をあらためて拝読させていただいて、 先生の森里海連環の、3・ 僕 は 非 常 に こ の 写 真 で う れ し か っ た と い う か、 面 白 かったというか、偶然この写真になったのでしょうが、 持続可能な道というのは、「京のアジェンダ 」の方々 もお越しいただいていますが、アジェンダ もそうです そういうところが、もう一回きちっと思想的にも自覚 的につながることができたならば、 お寺と神社が、 きちっ の命の拠点であったと思うのです。 して守り伝えてきたようなもので、一つのコミュニティ さに森里海連環を、先人の伝えみたいなものを、伝承と んかは、思想としてはよく分からなかったけれども、ま ら、やっぱり先ほども申し上げましたとおり、これをター を破壊するようなことを起こしてしまったわけですか 経済を追い求めていた時期はいいと思うのです。人口 がどんどん増えている時代。ただ、いまそのために地域 てきてしまっている。 日本という国はその常識をまったく踏まえず、突っ走っ というのは、国際的な常識になっていると思うんです。 し、もう相当前に持続可能な社会はこういう社会ですよ そんなふうに思っているのです。 原発もやっぱり必要」なんていう話になってみたり、「憲 神主さんが右下のところにいますよね。お祓いか何かの と思想的にも文化的にも歴史的にもつながることができ ニングポイントにしなくて、いつをターニングポイント にするのか。 れば、いっそうこの森里海連環学は強靱なものになって、 後、神主さんが残っています。つまり神主さんの文化な 21 21 日本の歴史の中にはっきりとビルトインされていくので はないかなと思います。 震災後の自然と社会 ● 067 11 彼 が 神 戸 か ら 車 で 京 都 に 立 ち 寄 っ て、 一 九 九 八 年 一 月 験を生かしていくことができるかという展開のときに、 らどういうふうに自分が地元で、いままでやってきた経 非常に近いという感じがしました。これは震災以後、経 角度から取り組んでいるのだけれども、目指すところは いただいたと同時に、響き合うものを感じました。違う 験したことです。いままで知らなかった分野の方と、い ドイツは日本に学 ん で 完 全 に 切 り 替 え た わ け で す 。 こ れ以上また同じこと を 繰 り 返 す の か と あ ら た め て 思 い ま だったと思うのですが、私たちは出会ったんです。 可能かどうかという こ と を し っ か り と 判 断 基 準 に す る 政 政治が必要なのでは な い か と 、 あ ら た め て 思 い ま す 。 のはこういう社会な ん だ と い う こ と を 、 し っ か り と 示 す はこういうことで、 こ れ か ら 目 指 さ な け れ ば い け な い も うのか、 悔しい思いを何度も数えながらやってきました。 めにはどうすればいいのか。本当にほぞをかむ思いとい 同じような視線で月山ダムを見学に行ったり、 だから、 こんなことおかしいよねと言いながら、これをなくすた の出会いであり同志です。 ミーティングが開かれ、それに草島さんが参加してから 弘さんが紹介してくれた鳥居本という店で、その最初の 催しを行いました。京都の祇園の、アート仲間の近藤髙 東京の日仏会館でその上映会がありまして、私もシン ポジストで出ていましたが、そこにフランス大使館の原 たのです (『ディソナンス(不協和音) 』 、 『がんばろう!』 )。 るんです。それで、フランスでとてもいい映画が作られ できなくなるか。つまり、ぎりぎりのところでやってい んですね。福島のことを研究している社会学や経済学を んだろう。原発で言うと、フランスは、またがちがちな それにしても日本の社会はひどいと感じます。たとえ ばドイツに比べて、日本はどうしてこうなってしまった すようなことを言うんですね。しかし、われわれが、そ 能被害ということが分かってしまったので、ヨーロッパ がかかっている。 だけど、崩れないはずがないのです。そんなうそがい つまでも続くことはないので、地道に活動し、説得力が ある議論をしていくことで崩すことができる。ですので、 希望を失わないでやっていきたいと思います。 そして、ときどきこころのゆとりとともに戦うという 068 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて すし、今日お話しし た ナ チ ュ ラ ル ス テ ッ プ も 、 も う 二 〇 年ぐらい前の話です 。 実 は 、 ス ウ ェ ー デ ン で は 、 あ の コ ですので、希望があると思います。 治のグループがあっ て い い と 思 っ て い ま す 。 そ れ で 前 進 その中で草島さんは頑張って、地元の鶴岡の市会議員の 子力専門官がいた。映画の後で、発言を求めて立って脅 ろんなかたちで出会って、なるほどということが多い。 ンセプトを国民全員 に 、 全 世 帯 に 配 っ た そ う で す 。 な の 私たちは「花は流れてどこどこ行くの」という歌をつ くった喜納昌吉の呼び掛けで「神戸からの祈り」という する。それをやって い き た い と 、 あ ら た め て 思 い ま す 。 ときにはトップ当選をした。しかし市長選では負けて、 でもう一回、アジェ ン ダ を 含 め 持 続 可 能 社 会 と い う の それと、科学と政 治 で す ね 。 科 学 の 扱 い 方 が や っ ぱ り おかしい。科学的真 実 を ね じ 曲 げ て 堂 々 と や っ て き て い でもいま県議会のほうで頑張ってくれている。 やっているフランス人の学者がいて、彼らはいつ研究が る政治がある。これ は 非 常 に 恥 ず か し い こ と だ と 思 い ま んなことはないですよと言うと、答えられないのです。 結び付けながら、これを日本でどうやっていけるのか。 の御用学者はフランス以外はあまりいないわけです。 つまり、日本だけじゃなくて、あちこちである。だから 僕がもう一つ草島さんを偉いと思っているのは、地元 の羽黒修験道という山伏修行もいっしょになってやって の日 本の 文 化 価 値 という ものをつないでいく。そ して、 正さなければいけな い 。 いきながら、そこにある問題を地元の中に還元していく そういう中で国際的な原発推進勢力が日本にものすご く期待をかけて、日本の学者に放射能は安全ですという だけ研究費を注ぐみ た い な こ と が 、 い ま 平 気 で 行 わ れ て まさに3・ をタ ー ニ ン グ ポ イ ン ト に 、 本 当 に 田 中 先 生がおっしゃってお ら れ た よ う に 、 森 里 海 連 環 あ っ て こ というか、きちんとつないでいこうとしている点です。 宣伝を、それも広島や長崎の学者にやらせた。そういう 連携して抵抗していく必要があります。 その日本だと思いま す し 、 こ の 水 が あ っ て こ そ の 日 本 だ こういう政治家が出てくることは本当に希望だなと思っ 構造があるわけです。そういうものをいま崩すのに時間 それをスウェーデンやいろんなところから見てきたナチュ と思います。これ以 上 日 本 の 価 値 が 下 が る よ う な こ と は ているので、ぜひこれからもいっしょに頑張ってやって ラルステップなどの新しい生き方や社会づくりや政策と してはいけないと、 あ ら た め て 思 い ま す 。 いきましょう。 いると思いますし、 そ う い っ た こ と も 含 め て 政 治 が 襟 を なので、まだまだ 少 数 勢 力 も い い と こ ろ な の で す け れ ど、あらためて、こ れ を 問 い か け 、 グ ル ー プ 、 仲 間 を つ 希望を失わないでやっていく 島薗 今日は本当にこころ強いことで、たくさん教えて 言うと、チェルノブイリのときにヨーロッパはもう放射 くっていきたいと考 え て お り ま す 。 ど う ぞ よ ろ し く お 願 そして、それをいろんな側面から、いろんなところか らもサポートしてくれるのが島薗先生の研究とか議論で 鎌田 力強いご発言、ありがとうございます。 実は阪神・淡路大 震 災 の 三 年 間 の 神 戸 元 気 村 の ボ ラ ン ティア活動を終えて 、 い ま ま さ に 鶴 岡 に 戻 っ て 、 こ れ か もあると思うので、島薗先生、お願いします。 いします。ありがと う ご ざ い ま し た 。 もうこれは国際的な話だと思います。なぜ日本が放射 能の問題で御用学者があんなに偉そうにしているのかと 方がいらっしゃる。 で も 、 政 治 家 は 都 合 の い い と こ ろ に 私はそれを判断基 準 と し た 政 治 が 絶 対 な い と い け な い と思っています。も う 右 で も 左 で も 何 で も な く て 、 持 続 す。本当に現場に即 し て い ろ ん な 研 究 を さ れ て い る 先 生 本 当 に 孤 立 無 援 で 頑 張 って き た 彼 の よ う な 意 見 は、 二十年、三十年、四十年先、あるいは、五百年、千年前 21 日本の文化価値をつなぐ 11 いたと思います。 ます。そういう点で も 、 と て も い い 機 会 を 今 日 は い た だ あって、特に芸術的 な 面 と い う の は 非 常 に 重 要 だ と 思 い ことですね。今日の お 話 は み ん な そ う い う 遊 び の 側 面 が なっているようです。しかし、そういう中で、震災のこ は も う 過 去 の も の と し て 前 に 行 こ う よ、 と い う 空 気 に 関西だからということではなくて、日本中が震災のこと かなと思っていたのですが、今日お話を聞くと、どうも あります。被災地から遠く離れた関西に住んでいるから 喩の力が分断を乗り越えていく原動力になってくれるか できる。それは比喩のようなものかもしれませんが、比 を、芸術の文脈の中に入れるとくっつけてしまうことが があると思います。常識的にはくっつかないようなもの 特徴の一つに、関係ないものをくっつける力というもの いかなければいけな い と 思 い ま す 。 ちんと身につけつつ 、 い っ し ょ に な っ て 学 び 、 判 断 し て た。そのためにも、 わ れ わ れ は 科 学 技 術 リ テ ラ シ ー を き ことをちゃんと見極 め て い く と い う こ と が 指 摘 さ れ ま し 後も続いていくこと が 可 能 な の か 、 不 可 能 な の か と い う たいどういうデータ や 科 学 的 真 実 に 基 づ い て 、 そ れ が 今 のか。その責任を放 棄 し な が ら 進 め て き た も の が 、 い っ 働なんていうことを 言 い な が ら も 何 を つ く り 上 げ て き た どんどん自分たちの う そ に う そ を 重 ね て き て 、 産 官 学 協 鎌田 ありがとうございます。いま最後に、学者が果た すべきポジションというのか、御用学者みたいなものが、 ません。アート イ ・ ベントで活性化などと軽々しく言え ない現実があります。 があるということが分かってきました。一筋縄ではゆき 元の人と仲よくなってくると、さまざまなレベルで分断 もう一つ、先ほど雄勝の話をさせていただいたとき、 前向きないい話ばかりご紹介したのですが、だんだん地 になることが少なくないので響きました。 と自分を比べて、自分はどこにいるのかなという気持ち 同じような空気になってきているように思います。周囲 たぶん、私たちがいる大学も含めて、いろいろな職場が 決しなきゃダメだというほうが優先されている。これは んなことよりも、もっと目先の、特に経済的な問題を解 震災の話がだんだんとできにくい空気になっている。そ まうという人たちがいる。 そこに分断が生まれています。 とを忘れられないとか、そこにどうしてもこだわってし 方ではかえって問題が悪化することもあると思います。 うがいいという価値観が染み付いていますが、そのやり て二年目には……というような合理的な考え方をしたほ 到達するためにはこういう計画で、一年目はこれをやっ あと、おせっかいの力と連携して、だらだらする力も 必要ではないでしょうか。まずゴールを定めて、そこに かなと思いました。 じゃないかみたいな。押し掛け女房的なものも必要なの ないけれど、おせっかいしている間に何かがくっつくん アートとは直接関係ないのですが、おせっ もう一つは、 かいの力というか、向こうは必要としていないかもしれ れないということを思いました。 んでくっつけてしまう力を、もっとうまく使えるかもし アートやデザインが持っている、関係ないものを巻き込 もしれません。具体的なアイデアはまだないのですが、 広い意味で遊びも必要 そういう中で、先 ほ ど 島 薗 先 生 が 言 わ れ た 遊 び と い う か、 い い 意 味 で、 広 い 意 味 で 遊 び が 必 要 だ と 思 い ま す 。 かなということを、みなさんのお話を聞きながら思った だらだらでも、無理せず続けていくという、だらだら 力とおせっかい力が、この分断を乗り越える力になるの 子どもたちは、がれ き の 山 の 中 で も 遊 ん で い る と 田 中 先 そういう中で、今日すごくこころ強いと思ったのが草 島先生の活動です。雄勝や石巻に通ってみて、さまざま 次第です。 生は言われます。そ う い う い ろ ん な も の を 活 用 し て い く 知恵と力というよう な も の を 、 わ れ わ れ は 将 来 世 代 に も なレベルの分断を乗り越えるのは、やはり本当の意味で とがあって、政府を 含 め て 健 康 問 題 に つ い て は 、 ち ょ っ です。そのために復興が遅れていて、合併してしまった リアに責任を持てる政治家がいなくなってしまったそう これは地元の方からの受け売りですが、雄勝が平成の 大合併で石巻市になってしまったために、雄勝というエ の政治しかないと思うようになりました。 と無視していたり、 そ う い う も の を 表 に 出 さ な い よ う な ことがとても残念だとおっしゃる方もいます。 質疑応答 期待し、きちんと残 さ な け れ ば い け な い 。 動きもある。こうい う こ と は さ ま ざ ま な 点 で 、 学 者 と し しかし福島の周辺では、甲状腺とか血液検査をすると、 白血球のある部分が 異 常 に 数 値 が 高 ま っ て い る と い う こ てもきちんと問題に す べ き と こ ろ は 問 題 に し て い く と い 鎌田 最後に、ちょっとヒントになることを提案してい ただいてありがとうございます。 それではフロアの方から、二名の方に感想なりコメン トなりをしていただきます。まずNGOの吉椿さん、お もし、そこに真に雄勝のことを考えて、さまざまな分 断を乗り越えていくリーダーシップを持った政治家が現 願いします。 援助市民センターという国内外の被災地支援をやってい 吉椿 ご紹介にあずかりました吉椿といいます。神戸の 阪神・淡路大震災をきっかけにできたCODE海外災害 れれば、いろいろなことがもう少しスムーズに進むのに また今日は、あらためてアートやデザインに何ができ るのかを考える機会にもなりました。芸術が持っている ントをいただけました。 なということを感じていたので、草島先生の活動からヒ う姿勢が、今後もますます必要ではないかなと思います。 では、最後に大西 先 生 に も う 一 度 戻 し て 、 フ ロ ア の 方 からも意見を聞きた い と 思 い ま す 。 分断とくっつける力 大西 今日、先生方のお話を聞いて、いちばんこころに 残った言葉は「分断 」 と い う 言 葉 で し た 。 こ れ は 実 感 が 震災後の自然と社会 ● 069 した。ありがとうご ざ い ま す 。 ますNGOです。今 日 お 話 を 聞 い て 非 常 に 参 考 に な り ま と思います。 かなというヒントが、今日お話を聞いて感じられたかな 話しいただきました。それを地道にでもやっていけない 携することがなかなかすぐには難しいなということをお ます。日本がようやくこういうふうになった。これを聞 それを受けて立つ人たちがいまいるんじゃないかと思い くる。動いていたらお分かりだと思いますが、世界中に 僕は実際にブラジルまで行って、いろんな世界の人た ちと出会う機会を持てました。 ちょうど二〇一二年に 「リ の二〇年間の僕らの 活 動 を 振 り 返 り な が ら 、 は た し て こ 政治が国民の意見を 聞 か な い と い う 状 況 が あ る 中 で 、 こ それに関して、も ち ろ ん 原 発 の こ と も そ う で す け れ ど も、あれだけの国民 運 動 的 な も の が あ っ て も 、 な か な か きたのかということをすごく思うわけです。 たしてこの二〇年間、僕らNGOはいったい何をやって ために山を切り崩しているんですね。それを見ると、は なんかの復興を見ると、ご存じのように巨大な防潮堤の ら、そういったものができないかということを、今日お この震災の復興もそうですけれども、市民の中から、 そして大学とか、いろんな機関の支援なども結集しなが くるものだなということをしみじみと感じました。 そこで、本当にこういった活動が市民から湧き上がって いっしょに行って、 リオの本会議場でアピールしました。 日本の外務省は一切原発のことを口にしなかったので す け れ ど も、 日 本 か ら た く さ ん の N G O の メ ン バ ー が を持って、いろんな海外の方から聞かれもしました。 それが震災の直後だったので、原発のことにかなり関心 響き合って、共鳴しながら、その先へ進んでいく。 う精神というものに、これから先も、いろんなところが で、やろうというのと、うけたもうというので、一つの ですよ。分かりました。承りましたと。この二つの授受 きましょう。そうすると必ず「うけたもう~」と言うん 目指そうとするときに「おたち~」と言うんですよ。行 いまの発言を聞いて、羽黒修験のスピリットを感じま したね。どういうことかというと、羽黒修験道は、いざ 鎌田 ありがとうございます。 「フィールドの知」を練り直す めて思いました。ちょっとやりましょう。 いて、それをいま言わせないといけないのかなとあらた やはり僕たちは二〇年前の阪神・淡路大震災をきっか けに、そのときに大きな災害を受けて、当然自然と人間 オ+ のことを考えようということから始まっています。一七 年たって東日本大震災が起きて、いま三年たって、特に 」という地球サミットから二〇年たって起きて、 僕らは岩手県に関わっているのですけれども、陸前高田 れからどんな指針で や っ て い け ば い い の か な と す ご く 感 話を聞いてあらためて感じた次第です。ありがとうござ そういうときに僕はつくづく思うんですけど、京都大 学は日本の中でまだまだ底力を出し切っていない。東京 鎌田 次に、京アジェンダ 事務局の石崎さん、お願い します。 だければと思います 。 た と い う と こ ろ が あ っ て、 や っ ぱ り 時 間 の 中 で 積 み 重 それは宗教でも、阪神・淡路大震災のころから動き始 めて、東日本大震災の後に支援活動がいろいろと花開い うに私には見えるんです。 がいるのですが、いかにも力任せで知恵がないというふ て、それをつぶそうとすることを一生懸命やっている人 ている人はとても面白そうだし元気がある。それに対し 島薗 一言申しますと、創意ある活動があちこちで行わ れ、それが横に連携しているんですね。そっちは、やっ 鎌田 ありがとうございます。もし島薗さんからご発言 がありましたら。 からね。 る私は、比叡山のサルとかと、よく友達になっています す。比叡山に行ってバク転を三回するのが生きがいであ もう一つは、京都大学ではゴリラ研究の専門家が総長 に就任しました。これは僕も大変期待しているところで うことが一つです。 これから先、日本社会を変えていくためにも重要だとい 都の持っている底力をもっともっと発揮していくのが、 が密集しているのは京都だと思うんですね。だから、京 日本の中で、人口密度とかエリアからすると、最も大学 た違うんだから。京都が持っている底力を、京都大学と ますか、きっかけみ た い な も の が あ れ ば 、 ご 意 見 を い た みやこ 企業、いろんなパートナーシップでやろうと言っている中 鎌田 草島さん、何かありましたら。 ていますが、そういうふうに感じられます。 そこで問題は、田中先生もそうですけれども、フィー ルドを研究してきた人の底力をもっと発揮しなければい か、造形大学も、精華大学も、市立芸術大学もあります。 で、うちの団体もすべてを巻き込んでいっていない。 草島 やっぱり動けば変わる。行動ですかね、という感 じがしています。本当に行動のネットワークを日本でつ ばんばん出るけど、やっぱりデータのつくり方が甘かっ けない。実験室の研究、STAP細胞も含めて、お金が 以前、田中先生に も ご あ い さ つ さ せ て い た だ い た の で すが、大学とか自治 体 と か 市 民 と い う の は い っ し ょ に 連 21 くっていこうという 国 連 の 会 議 な の で す け ど 、 そ れ を 京 21 大学と違うんだから。大阪大学とも、九州大学とも、ま 石崎 アジェンダ と い う 地 球 サ ミ ッ ト が 一 九 九 二 年 に リ オ デ ジ ャ ネ イ ロ で あ り ま し て、 持 続 可 能 な 社 会 を つ なって変わっていく。そういうことがじわじわと起こっ きずなというか、その世界が出来上がっていく。こうい じるんですね。 いました。 都市でやっていこう と し て い ま す 。 ていくんじゃないかと、どうも希望に寄った言い方をし かなか変わっていか な い 。 こ の 現 実 に 何 か 切 り 口 と い い かなか持続可能な社会の実現が困難であり、各市民、行政、 ントだと思うのです け れ ど も 、 こ の 三 年 間 を 見 て も 、 な それで島薗先生に 原 発 に つ い て お 尋 ね し ま す 。 草 島 さ んもおっしゃったよ う に 、 こ れ は 本 当 に タ ー ニ ン グ ポ イ 20 地域ごとにローカルアジェンダ というものを推進す るということで、京都市でやっているのですけれども、な 21 070 ● 第 2 部 第五回東日本大震災関連シンポジウム−こころの再生に向けて たり、うそがあった り 、 変 な 不 正 が あ っ た り す る こ と は けっこうある。実験 室 と い う の は 捏 造 が 可 能 で す 。 だけど、フィール ド っ て 捏 造 で き な い 。 自 然 の ほ う が 圧倒的に大きいので 、 現 場 か ら 受 け 取 る 。 こ ち ら の ほ う がいかに小さいかと い う こ と を 常 に 自 覚 さ せ ら れ る 。 こ の小ささの自覚とい う の は 謙 虚 に な ら ざ る を 得 な い わ け ですね、フィールドに出たら。そういうフィールドの持っ ている学問的な力というものを、もっと見直してほしい。 京大にはもともとフィールド研究の長い伝統がある。 今西錦司さんとか梅棹忠夫さんとか、いろんな人がいる わけですから、そういう「フィールドの知」をもう一回 練り直すということが必要じゃないかと思うんです。 そして、それはい ろ ん な も の を つ な い で い く こ と が で きる。そういうつな ぎ の 中 で 、 生 存 し て い く 上 で 本 当 に 価 値 あ る も の、 意 味 あ る も の は 何 か と い う 問 い か け は 、 や っ ぱ り 現 場 の 中 で し か 出 て こ な い。 そ う い う 意 味 で、 最 後 の 草 島 さ ん の「 行 動 し ま し ょ う 」 と い う こ と に 、 フィールドに出てい る 人 間 に と っ て は 、 そ れ に 対 し て パ ンとリアクションが で き る と 思 う ん で す 。 そ こ か ら 動 き 始 め れ ば、 文 系 の 人 も、 実 験 室 の 人 も、 やっぱり動き始め、 家 庭 の 人 も 動 く 。 そ れ か ら 子 ど も た ちはフィールドの人 で す ね 。 真 っ 先 に 、 が れ き で あ ろ う が何であろうがいっ し ょ に な っ て 、 水 の 中 に ぽ ん と 飛 び 込んでいく。そういうこころを持っているわけですから、 そういう柔らかいこ こ ろ を 結 び 付 け て い く こ と が で き た ならば、未来はまだまだ捨てたものじゃないと思います。 そういう未来を、 わ れ わ れ が 力 強 く 創 造 し て い く た め にも、最初にも、ほ ら 貝 を 吹 き ま し た け ど 、 最 後 も ほ ら 貝で締めたく思いま す 。 最 初 の は 鎮 魂 的 な 意 味 合 い が あ りましたが、最後の ほ ら 貝 は 、 み な さ ん も っ と 行 動 し て 元気になっていきま し ょ う と い う 思 い を 込 め て 、 ほ ら を 震災後の自然と社会 ● 071 吹いて結びとしたい と 思 い ま す 。 (ほら貝吹奏) どうもありがとう ご ざ い ま し た 。 徳島新聞 2015 年2月2日朝刊 第3部 身心変容技法の比較宗教学 大荒行シンポジウム/ 「大荒行」身心変容技法研究会 大峯金峯山修験本宗宗務総長・金峯山寺執行長 田中 利典 羽黒修験道松聖・所司役 星野 尚文 西国三十三所一番札所那智山青岸渡寺副住職 高木 亮英 日蓮宗大荒行堂遠壽院住職・傳師 戸田 日晨 広島大学大学院総合科学研究科教授/比較宗教学・仏教研究/僧侶 倉島 哲 関西学院大学社会学部教授/社会学・身体論 町田 宗鳳 京都大学こころの未来研究センター研究員/文化人類学 小西 賢吾 京都府立医科大学大学院教授/宗教哲学・祈り研究 棚次 正和 筑波大学大学院哲学・思想専攻教授/宗教学・神道行法研究 奥井 遼 京都大学こころの未来研究センター上廣こころ学研究部門特定研究員 津城 寛文 京都大学こころの未来研究センターワザ学共同研究員/文化人類学 アルタンジョラー 京都大学大学院人間・環境学研究科教授/美学・まぶさび瞑想 篠原 資明 高野山大学文学部教授/スピリチュアルケア学・仏教瞑想研究 井上ウィマラ 東京大学大学院人文社会系研究科教授/宗教学・キリスト教神秘主義研究 永沢 哲 京都文教大学総合社会学部准教授/宗教学・チベット仏教学 鶴岡 賀雄 京都大学こころの未来研究センター教授/宗教哲学・民俗学、司会 鎌田 東二 他 072 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 第一日目 大荒行シンポジウム れを概念図にしたものが図1です。 そのなかで重要なものの一つに、身体技法、修行、変 性意識状態、神秘体験、宗教体験の問題があります。そ 度から研究をしてまいりました。 や未来性を「身心変容技法研究会」では、さまざまな角 まな儀式、灌頂などの伝統的な宗教儀礼もあります。 そこには、祈りや、祭りや、イニシエーションのさまざ に 言 う と 市 杵 島 姫 で す が、 仏 教 的 に 言 う と サ ラ ス ヴ ァ 私は中世に「吉野熊野中宮」と呼ばれた天河大辨財天 社によくおまいりします。その天河大辨財天社は神道的 に見えて、本当に素晴らしい大護摩だったと思います。 させていただきました。そのときに、北斗七星がきれい 魂慰霊と復興祈願祭を行われました。それは鎮魂供養の 二番手でお話ししていただく星野尚文師は、東日本大 震災があった後、相馬市の中村神社で柴燈護摩の百日鎮 今日は最初に、田中利典師に、大峯、吉野の修験の世 界をお話ししていただきますが、大峯山上ヶ岳の覗き行 きるのか。そういうことを研究課題としてきました。 ら比叡山がきれいに 見 え ま す 。 比 叡 山 は 、 神 さ ま で 言 え ております。稲盛財 団 記 念 館 三 階 大 会 議 室 の こ の 会 場 か で大切にしていくという講を組織して活動してきまし 私たちは、一九九七年に天河護摩壇野焼講を結成し、 護摩野焼の中で焼き物を焼いて奉納し、それを生活の中 の宿・節分祭・立春祭で共に儀式を行ってまいりました。 ういうものの起源や諸相や構造や本質や意義や、応用性 ば大山咋神で、また仏さまで言えば薬師如来や釈迦如来、 お祭りでした。そこで私も星野先達と共に祈りをささげ などは、その修験の代表的な修行の一つであります。 「身心変容技法」の全体を捉えた概念図で、一つの見 取り図として作成しました。生存を基盤にしながら人類 ティー、弁財天です。 また、瞑想や、芸術的な歌や合唱や舞踊などもありま す。最近ではさまざまなセラピーやケアがあります。そ 日 時: 十一月二十日(木)一三時~ 十七時三十分 於 :京都大学稲盛財団記念館三階大会議室 がどういう「身心変容技法」を開発してきたのか。そし (石笛 ほら貝吹奏) 1 企 画趣旨説明 てそれが社会の中でどのように役立っているのか。乱世 二〇〇九年以来、その弁財天に星野尚文師が羽黒の修 験者たちと一緒に来てくれて、毎年二月二、三、四日の鬼 鎌田 東二 における身心の再生、世直しや心直しがどうやったらで 鎌田 皆さま、こんにちは。私は毎朝、比叡山に向かっ て 祝 詞 を 上 げ、『 般 若 心 経 』 を 唱 え、 各 種 真 言 を 唱 え、 観音菩薩や地蔵菩薩 や 普 賢 菩 薩 な ど 、 さ ま ざ ま な 仏 菩 薩 た。 その講も十七年以上の歴史を持つことになりました。 そしてほら貝や石笛 や 笛 、 太 鼓 も 含 め て 二 十 種 類 演 奏 し が山王曼荼羅として 描 か れ て お り ま す 。 天河神社のさらに南のほうに行きますと熊野三山で、 三番手にお話をしていただく高木亮英師は一番南の方 なりました。 鳥居も大量の土砂に埋まってしまうという大変な事態に れがぶつかって、逆流してしまいました。そして神社の 河大辨財天社の周囲の山が三ヶ所深層崩壊したために流 熊野川の上流にあたる天河は、二〇一一年九月四日に ものすごい水没状態になりました。なぜならば、その天 をしていただきます。 山に四十八滝あるのですが、そこでの滝行についてお話 の、熊野那智山青岸渡寺の副住職をされています。那智 日 本 に、 千 日 回 峰 行 と い う 大 荒 行 が 生 ま れ ま し た が 、 それは比叡山延暦寺 の 天 台 修 験 の 行 で あ り ま す 。 い ま 私 は、東山三十六峰に 向 か っ て 石 笛 と ほ ら 貝 を 奉 奏 し ま し た が、 一 番 北 に 比 叡 山 、 一 番 南 に お 稲 荷 さ ん が あ っ て 、 この東山というもの が 非 常 に 重 要 な 神 仏 の 在 地 に な っ て いるわけです。聖地 、 霊 場 で あ り ま す 。 そ の 麓 に あ る 京 都 大 学 こ こ ろ の 未 来 研 究 セ ン タ ー で、 私たちは「身心変容 技 法 研 究 会 」 と い う 研 究 会 を 行 っ て きました。「身心変容技法」というのは、体と心の状態を、 当事者にとってより よ い と 考 え ら れ る 理 想 的 な 状 態 、 こ れは解脱でも悟りで も な ん で も い い の で す が 、 そ う い う 二〇一四年九月二十七日に御嶽山が大噴火しました。 こういう状況のなかで私たちは、修行や荒行がどういう 意味を持つのかを、この身心変容技法研究会を通して研 究していきたいと思っています。 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 073 ある理想的な状態に 切 り 替 え て 、 変 容 し 、 転 換 さ せ て い くワザです。 古来、宗教、芸術 、 芸 能 、 武 道 、 ス ポ ー ツ 、 教 育 、 さ ま ざ ま な 領 域 で、 そ う い う ワ ザ が 開 発 さ れ て き ま し た 。 図1 小西賢吾・鎌田東二・鶴岡賀雄・津城寛文他作成 験 道の奥 駆 けや 峰 入 り、滝 行 」 。このように、最 初の時 しワザとして、 『 身 心変 容 技 法 』に着 目する。神 秘 思 想 と決意して三十年過ごしてまいりました。 結ぶという「縁」です。そんな「縁の行者」になりたい いました。でも私の「えんの行者」の「えん」は諸縁を すが、私は山の中に 友 達 が い っ ぱ い お り ま す 。 た と え ば も一人、信者も一人 と い う 、 た っ た 一 人 の 一 人 修 験 道 で おります。「東山修験道研究所」は、所長は一人、所員 覚とか背中の感覚が 変 化 し て き た こ と を つ ぶ さ に 感 じ て やり始めました。そ れ を 通 し て 自 分 の な か の 足 の 裏 の 感 そのなかで私自身は、二〇〇七年に「東山修験道ほ研ぎ究 ょう 所」をつくって八年になりますが、東山修験道の歩行を 研究していこうと考 え て お り ま す 。 敗とか、問題点があるのか。 側面はないのか。あるとしたら、どういう危険とか、失 意味があると思います。それとともに、修行に伴う負の この修行には、こういう効果や効能やご利益がある。 これは本当に、何千年も続いている修行には、そういう えて話していただければと考えております。 けれども、そこで起こってくるさまざまな問題点も踏ま 今回、開催に先立ちまして、講師の先生方には各五十 分の講演をしていただきます。それぞれの立場から「荒 ところで、実際に行じなければ通じないわけであります。 「大荒行シンポジウム」と、大変な表題がついており ます。修験にしろ、行にしろ、実際のところは「行じて しくお願いをいたします。 ご紹介いただきました田中でございます。トップバッ ターということで、いささか緊張しておりますが、よろ 田中 利典 なんぼ」というところがありますから、ここで説明した 祐さんとが出会いました。本日は、また歴史的な出会い 生から届きました。聞いていたのと違うなと思いながら、 一昨日、ほとんどこのパワーポイントをつくり終わっ た後で、大荒行シンポジウムの趣旨というのが、鎌田先 ところはわからない世界ですから、今日は概観だけお話 で、吉野の山伏、羽黒の山伏、熊野の山伏、法華の、山 そのへんのところは、いずれにしても、行というのは行 074 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 における観想、仏教における止観や禅や密教の瞑想、修 今日は、その修験者のさまざまな先生方の縁が結ばれ ることを本当に心からうれしく思っています。この貴重 点で「修験道」や「滝行」を課題として入れ、その修行 や文化が持つ意味を研究したいと科研申請したのです。 願いします。 ではまず、トップバッターとして金峯山修験本宗の田 中利典師に、最初の発表をしていただきます。田中利典 な機会を生かしていきたいと思いますので、よろしくお 「合気道や気功や太極拳などの各種武道・芸 続いて、 道等々、さまざまな『身心変容技法』の諸相 (特色)と ルド研究・実験研究・臨床研究の手法により総合的に解 師はつい最近、『修験道入門』という本を集英社新書か 構 造 ( 文 法 )と 可 能 性 ( 応用 性 )を、 文 献 研 究・ フ ィ ー ら出して、「体を使って心をおさめる」という非常に分 かりやすい名文句の題目を付けられています。 明し、現代を生きる個人が自分に合ったワザを見出し、 ていくことに資する研究成果を社会発信する」と書き継 では、よろしくお願いいたします。 活力を掘り起こしながらリアルな社会的現実を生き抜い ぎました。そう課題設定を目的として科研申請して認め 私はこう名付けています、「森の妖怪くん」と。比叡山 ここは学術研究の場でありますので、よい面と、悪い 面と言ったら語弊がありますが、負の側面というものも 講演はもう三百回以上していますので、 しゃ ただ私も、 べらないわけではありません。ただ行じなければ本当の られてこの「身心変容技法研究会」が始まったのです。 のいつも行くところ に 私 の 観 音 霊 場 西 国 三 十 三 カ 所 と も あわせて研究して、科研という公共的な学術研究に資し で、自然とか、修行 が 持 つ 意 味 と そ の 現 代 性 ・ 未 来 性 を 言える聖地霊場があ り ま す 。 そ こ で 「 森 の 魚 君 」 や 「 森 ていきたいと思います。 2 吉 野修験道の荒行(奥駈) の妖怪君」や「森の モ ア イ 君 」 に 挨 拶 し ま す 。 比 叡 山 山 をするようなことになるわけであります。 冒 頭 で 私 は こ ん な ふ う に 書 き ま し た。 「 二 十 世 紀 末、 この科研「身心変容技法の比較宗教学 心と体とモ ノをつなぐワザの総合的研究」の申請書をつくるときに、 でないものですから、ここだけ「里伏」との、歴史的な 行の世界」をその特徴とともに語っていただくわけです 頂に行く勅使道であ っ た 雲 母 坂 と い う 道 元 や 親 鸞 も 通 っ 二〇〇九年には、吉野山伏と羽黒山伏との歴史的な出 会いがありました。星野さんと天河の宮司の柿坂神酒乃 二十一世紀は『心の世紀』になると期待された。だが現 出会いとなると思っております。 じなければ分からない世界がありますので、明日のやり 荒廃』が社会問題となっている。このような時代状況下、 実には、未来社会へのグランドデザインは描けず、 『心の とりの中で深めることとして、今日は私が用意してきた 『心の荒廃』から抜け出ていくための宗教的リソースない 一九八五年七月に、私は天河大辨財天社の例祭のとき に役行者に倣って、私も「えんの行者」になりたいと思 ― た道があり、そこに 彼 ら が 待 っ て く れ て い る の で す 。 オウム真理教事件 後 の さ ま ざ ま な 状 況 の な か で 、 あ る いは二十一世紀になってからの我々の文化状況のなか 鎌田東二氏 私は話が上手でな い 分 、 パ ワ ー ポ イ ン ト で ご ま か し な がらやるのですが。 行 の 世 界 で す か ら 、 口 で 言 っ て も 分 いたします。 ものを全部しゃべる こ と に い た し ま す 。 よ ろ し く お 願 い 多いのです。そこで、吉野大峯を考えるに際して、地域 それぞれのお山にそれぞれの修行が成り立ちますが、 吉野大峯で成立したことがよそに伝播した部分が極めて 大峯山は山上ヶ岳 きたと言えるのではないかと私は思っています。 は、日本の一つの基本形、スタンダードをつくり上げて と思います。その基本として、吉野大峯で育まれた修行 験というのは日本の行を考えるときの一つの基本になる ら九月二十三日まで。一年間百四十数日しか開いていない。 お山であります。山が開いているのは、現在は五月三日か 山上と山下に本堂を持っていたというお話をしました が、山上というのは今も女の人が登れない、女人禁制の 般をして、 大峯山と呼ばれることになったのであります。 金峯山寺は役行者の蔵王権現感得をもって始まりとす るのですけれども、この役行者が修行して、蔵王権現を 説をされております。 山下、山の麓の吉野山にも山下の本堂をお祀りしたと伝 ないとはいえ、少し 絵 で 見 な が ら 分 か っ て い た だ こ う と 日、この後おでまし い た だ く 高 木 先 生 は 、 奥 駈 に 行 っ て いしか行っていない の で 、 半 分 し か 参 加 し て い な い 。 今 峯山寺に入寺して今 年 で 三 十 四 年 、 そ の 間 に 十 七 回 く ら ユネスコの世界文化遺産に登録をされました。 吉野大峯、 (地図の画像)これが紀伊半島であります。平成十六年 に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、この地域一帯が の総称をもって大峯とする。 大峯山といいますが、大峯山には二通りの捉え方があ ります。一つは、広義には吉野から熊野に至る大峯山脈 という山なのです。 山は紀伊半島にはないわけであります。あれは山上ヶ岳 狭義の意味では役行者が祈りだした山上ヶ岳を大峯山 といいます。ただ、もう一回言いますが、大峯山という るところとして、吉野に山下の本堂を営んだのです。 いつでも誰でもお参りできるところではないので、山の麓 いうことで、こうい う も の を 使 う わ け で す 。 こ ち ら の 画 いる回数はずっと多 い 方 で す 。 い ず れ に し ろ 、 私 は そ ん 熊野、高野という、紀伊半島全体に広がる異なる霊場が、 祈りだした聖地中の聖地としての金峯山山上ヶ岳が、一 面を中心に見ていた だ く と よ ろ し い で す 。 的なことを最初にお話をします。 からないところがあ る わ け で あ り 、 体 験 し な い と 分 か ら 私の担当は、吉野 大 峯 の 修 験 道 。 吉 野 大 峯 に か け て 行 われている修験とい う こ と で あ り ま す 。 私 は 五 歳 か ら 大 な大行者ではありま せ ん の で 、 は じ め に お 断 り を し て お 三つの参詣道によって結ばれている。 その宗教的世界観、 るとして世界遺産に登録をされたのです。この紀伊半島 文化観、宗教観も含めて、日本の特異な文化の象徴であ たところから尾根が始まって、下千本、中千本、上千本、 にお祀りしたのが山下の本堂。いつでも誰でもお参りでき きます。ただ、この 大 峯 の 世 界 を 皆 さ ん に 知 っ て い た だ 峯に登り、もう五十 四 年 登 っ て い ま す 。 奥 駈 修 行 は 、 金 く機会になればと思 い ま す 。 そうすると、吉野山とは何かということになります。 これは大峯七十五靡修行の第一の行場・柳の渡しを渡っ 修験と行 奥千本、青根ヶ峯に続く約八キロに及ぶ尾根状の一帯の 代は、日蓮宗である と か 、 禅 宗 で あ る と か 、 そ れ ぞ れ 宗 修験の世界そのもの で は な い か と 思 い ま す 。 も ち ろ ん 現 何かを目指して行が あ る わ け で す か ら 、 そ れ は す な わ ち ま す。 修 行 に よ っ て 悟 り を 得 る と か 、 法 力 を 得 る と か 、 ることによって験力 を 得 る 、 験 を 得 る と い う こ と で あ り 行得験、あるいは実 修 実 験 の こ と を い い ま す 。 自 ら 行 ず ものと非常に近いも の が あ り ま す 。 修 験 と い う の は 、 修 とも根本道場とされる場所であります。 によって蔵王権現を感得された、 修験道のなかでも、 もっ 山上ヶ岳という山であります。この山上ヶ岳は、役行者 ところで地図上には、紀伊半島に大峯山という名称を 持った山はありません。みなが言う大峯山とはすなわち 山というのが正しいわけです。 山上ヶ岳といいますが、この大峯山系全体をもって大峯 ると、狭義の意味での金峯山山上ヶ岳、一般には大峯山 吉野から熊野に至るこの大峯山脈全体を、本来的には 大峯山と呼ぶわけであります。大峯山というとややもす 柳の渡しから、山上を越えて化粧の宿までが金峯山。金 下蔵王堂。 この尾根道一帯に吉野川を渡った六田の渡し、 ます。山下に、山下蔵王堂とあります。山上蔵王堂と山 この画像が明治まで山上、山下の本堂を持っていたこ ろの全山古図でありますが、山上に、山上蔵王堂とあり が蔵王権現を祈りだした聖地であります。 呼ぶ。その金峯山の一番高いところが山上ヶ岳。役行者 この吉野山から山上ヶ岳を越えて、 金峯山というのは、 け わい 小篠の宿のちょっと手前にある化粧の宿までを金峯山と 地域を総称して吉野山と呼びます。 全体を南に貫く道が大峯奥駈道であります。 派にカテゴリー化さ れ て い ま す け れ ど も 、 昔 の 修 行 者 た ここを中心にいろんな修験の修行、信仰が始まっていた 行というのはいろ ん な か た ち が あ る の で す が 、 行 を 考 えたときに、修験道 そ の も の の 成 り 立 ち が 「 行 」 と い う ちというのは、自分 の 居 所 は 何 々 寺 と い う 僧 籍 は あ っ て 役行者はいまから千三百年昔に熊野から吉野に入り、 この大峯山上において一千日の修行をされて、金剛蔵王 権現という修験独特のご本尊を祈りだした。 今日は五十分しか時間がありませんので、少々急いで おります。 と知っていただきたいと思います。 。 峯山全図ということになります。これを念頭に置いて、 も、あまり何宗だと か と い う 意 識 は な か っ た の で は な い てきたのではないか 。 この祈りだした蔵王権現さまを、自分が修行していた 山上にお祀りした。これが山上本堂で、役行者はさらに か。行は、それぞれの師匠の指導による道筋に応じてやっ 修 験 と い う 言 葉 の 概 念 規 定 は 難 し い の で す が、 行 に よって何かを得ると い う 行 為 自 体 を 修 験 と 言 う な ら 、 修 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 075 仰、あるいは役行者が導いた修行のかたちは全国に伝播 岳の発掘調査がありましたが、このときに橿原考古学研 もちろん、学問的には、役行者が山上ヶ岳を開創した というのはまだ明らかにされておりません。 先年、山上ヶ していったのです。 えながら返事をする。これは、山上ヶ岳表の行場であり 究所の菅谷文則さんによって、奈良時代のさまざまな土 その途 中にはたくさんの行 場があり ました。 「 西の覗 き」といって、ロープ一本でつるされて、岩場から懺悔 ます。あるいは「鐘掛」という岩をロッククライミング 器が山上ヶ岳の山頂から発掘されました。しかしまだ役 あ か が、吉野の回峰行というのは、それがベースになってい 076 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 の行をする。 「親孝行するか」と先達に言われて、皆、震 とかいう行場があります。裏行場に行くと「蟻の戸渡り」 結果がありました。あるいは、役行者によって祈り出さ 行者の時代には五十年届かなかったという考古学調査の していく、そういう表の行場。 「お亀石」とか、「油こぼし」 「胎内くぐり」 「平等岩」 、さまざまな行場があります。 しかし、役行者が蔵王権現を感得し、山上を開き、あ そこに奥駈修行を中心とする修行場をつくったという信 れたといわれる蔵王権現も、奈良時代に蔵王権現信仰の 仰が、その後の修験の信仰をかたどり、そしてそのかた 痕跡を見るのはなかなか難しいところもあります。 すが、行が続いているところでは同じような名前の行場 どられた信仰が全国に伝播していったという信仰上の事 これら行場は、全国の修験の行場に伝播して、同じ名 前の行場がそれぞれ営まれています。明治に修験は廃絶 がたくさんあります。それらの始まりは、吉野大峯の行 がかたちづくられる道筋をつけたというのは間違いがな して、いま全国の行場もずいぶんかたちを変えてしまい 場がスタンダードとされているのです。 かろうと思います。 ました。名前さえ残っていないところもたくさんありま 信仰も、修験信仰は吉野大峯を中心に全国に伝わった ことが、蔵王権現の信仰で見てとることができます。山 大峯修行とは 形に蔵王というお山がありますが、あそこはもともと刈 この山上ヶ岳へ登るのは、吉野の山下本堂から山上本 堂へというルートが正規なものでした。その道には四つ 実からすると、そのことによってさまざまな修行の形態 一つは、この役行 者 が 蔵 王 権 現 を 祈 り だ し た 聖 地 中 の 聖地と言われる山上 ヶ 岳 へ 登 拝 す る 。 一 般 に い ま は 山 上 田嶺という山で、刈田嶺神社で別当寺として蔵王権現を お迎えして蔵王堂を建立してから蔵王信仰が広まって、 の門があり、そこをくぐります。吉野の下千本の入り口 に「発心門」という重要文化財の門がありますが、これ あの連峰全体が蔵王と呼ばれるようになった。 が一の鳥居。秘歌に曰く「吉野なる 銅の鳥居に 手を 金峯神社という吉野の地主神の社が奥千本にありま す。この手前に「修行門」という門があります。ここが 役行者が蔵王権現を祈りだしたときに、ヤマザクラの 木に刻んで蔵王権現をお祀りしたことから、吉野ではヤ 二の門、二の鳥居。そして、ずーっと登り切った山上ヶ マザクラは蔵王権現のご神木として大切にしてまいりま あります。山形の花笠音頭というのがありますが、山形 うな風習もあり、必 ず 男 の 子 は 行 か な い と い け な い よ う の花笠音頭の花も実はヤマザクラ。蔵王権現信仰が山形 岳本堂の手前に「等覚門」という門があり、山上ヶ岳の なことで行ったわけ で あ り ま す 。 女 人 禁 制 で あ り ま す か をして蔵王にならしめたわけであります。 これら四つの門を通って修行をしていく。 かけて 弥陀の浄土に 入るぞ嬉しき」と。新客はここ で秘歌を詠んで、いよいよお山に入っていく。 う大峯山の信仰があ り ま し た 。 金峰山という山も全国にあります。特に有名な、山梨 県と長野県の間にある金峰山。これはもともと蔵王権現 した。今、吉野というとサクラの名所ですが、吉野のサ この山上へ参るの も 、 も と も と は 吉 野 山 を へ て 山 上 と 山下の蔵王堂に参る と い う の が 基 本 形 で あ り ま し た 。 山 を勧請してこう呼ばれるようになった。熊本にも金峰山 いま、その山上と山下を行き来する百日回峰行、千日 回峰行という修行も行われております。これは一人で行 クラは蔵王権現にお供えをされたご神木のヤマザクラで 験道が廃絶して、一 時 金 峯 山 寺 が 廃 寺 に な っ た あ と 復 帰 という名山がありますが、これももともと飽田山に蔵王 上と山下の諸仏に閼伽水をお供えする行があったのです う修行であります。もともと吉野には閼伽行という、山 ら、男の子しか行け な い と い う こ と が 前 提 で 、 遠 州 あ た しますが、今の山上 の 本 堂 は 大 峯 山 寺 と い う 別 の お 寺 に 権現を勧請して、山の名前も金峰山となる。金峯山から 本堂のほんの手前には「妙覚門」という門があります。 なりました。両方と も 蔵 王 権 現 さ ん を 祀 る 、 信 仰 的 に は 蔵王権現を勧請したから金峰山なのです。このように、 下には吉野山の蔵王 堂 が あ り ま す 。 山 上 で は 、 明 治 に 修 変 わ っ て い な い の で す け れ ど も、 い ま は 別 々 の お 寺 に 上参りであります。 吉野大峯で起こった、役行者が祈りだした蔵王権現の信 なった。とはいえ、 こ の 山 上 と 山 下 を お 参 り す る の が 山 りまでそういう風習 ・ 言 い 伝 え が 広 が っ て い た 。 そ う い 関西では戦前、いや、私が生まれたときくらいまでは、 「山上さんへ登らんことには男の子になれん」というふ の講社がこぞって登 っ て い く 。 大峯修行とはなん ぞ や と い う こ と に な り ま す が 、 大 峯 修行には、二つあり ま す 。 参りとか、行者参り と い い ま す 。 大 阪 、 堺 等 の た く さ ん 田中利典氏 も、お堂が社になり祠になり、祠が石になり、岩になり。 ただ歩くだけでは な い わ け で あ り 、 初 め 、 吉 野 を 出 る ときは蔵王堂という大きなお堂から出発しますけれど ろんな拝所で勤行を し な が ら 歩 い て い く 。 十カ所から二十カ所 の 拝 所 、 七 十 五 靡 と い い ま す が 、 い ら、懐中電灯で足元 を 照 ら し な が ら 歩 き 出 し ま す 。 一 日 時頃に起こされ、四 時 に 出 立 を し ま す 。 ま だ 暗 い で す か に某番組で同行取材 を し た と き の 映 像 で す 。 我 々 は 朝 三 (映像上映) います。 り修行といいます。 ち ょ っ と 映 像 を 見 て い た だ こ う と 思 もう一つの大峯修 行 と は 、 先 ほ ど 申 し 上 げ ま し た 吉 野 から熊野にかけての 大 峯 奥 駈 道 を 通 る 修 行 。 こ れ を 奥 通 いきます。 こちらの方が近世以 降 は た く さ ん 通 ら れ る よ う に な っ て な り ま す。 こ れ は 正 味 六 キ ロ く ら い の コ ー ス で す の で 、 もうちょっと近い天 川 村 の 洞 川 地 区 か ら 登 る 道 が 盛 ん に は持っていました。 かったけれども、閼 伽 行 な ど の 、 古 い か た ち で 吉 野 自 体 だ山上と山下を行き 来 す る 行 と い う の は 、 回 峰 行 で は な して出てきたという 、 戦 後 の 新 し い も の で あ り ま す 。 た ますが、さらにやは り 比 叡 山 で 確 立 さ れ る 回 峰 行 を 意 識 がインドの古い考え方で、日本にも入ってきましたが、 に地獄から人、天までの六道を我々は輪廻するというの 界からできていると説きます。この十の世界の中で、特 それから「十界修行」 。仏教でこの世界は、 地獄、 餓鬼、 畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏と、十の世 験する。そういう行場であります。 胎内から出た、生まれ変わったということを擬似的に体 というのは、あそこをくぐることによって、お母さんの て出てくる。先ほど映像でご覧いただいた 「胎内くぐり」 修験の修行はいろいろな意味を持たすわけでありま す。まず 「擬死再生」 。一度死んで山に入り、 生まれ変わっ る。この吉野と熊野を結ぶ修行を奥駈修行といいます。 生や三井寺さんのように順峯をやっておられる寺院もあ 峯の方が極めて少ないことになっておりますが、高木先 お入りになっている。逆峯の方が全体の七割以上で、順 もともと熊野修験である聖護院さんでさえ、今は逆峯で ただ、近世以降は順峯の修行はだんだん減って、この 京大の近くに聖護院という修験の本山がございますが、 だいたい吉野から出立するので逆峯で行く。 なりますから、順峯で毎年おいでになります。我々は、 今日は高木先生がおいでになっていますが、高木先生 は那智修験で那智を拠点に、すなわち熊野からお入りに 野に行くのを逆の峯、逆峯修行といいます。 が順の峯、順峯修行といいます。それから、吉野から熊 役行者はこの奥駈修行を開いたときに、熊野から吉野 に入ったという伝説があります。それで熊野から入るの 修行ともいい、奥駈というようになるわけであります。 いうので奥通りという名前が生まれた。だから、奥通り 行者還岳、講婆世宿等々を通って、弥山というところに この吉野から山上ヶ岳の行程を第一日目として歩くの が奥駈修行。二日目は、山上ヶ岳を出て、途中、普賢岳、 足かけ九年ほどかけて、毎日日参をする。 いるのが夏だけでありますから、山があいている期間に 吉野は、千日回峰というのもあります。過去二人が行 じましたけれども、これは毎日行って帰ってくるという なります。 てくる。これを五十日繰り返して、吉野の百日回峰行と 朝、吉野を出て、山上にお参りして、その後吉野に帰っ 日は隔夜。 この奥駈の一日の行程を行くわけであります。 れを隔夜行といいますが、吉野の百日回峰は最初の五十 百日回峰行は、最初の五十日は吉野を出発して山上に 着いて泊まる。二日目に山上から吉野に下りてくる。こ 峰行というのは、この行程を一日で行ってしまいます。 らいの行程を一日十一時間、十二時間で歩く。先ほどの回 我々はいまは八日ほどかけて行っております。吉野に 集 合 し、そして 結 団 式 をして、駆 け 入 り 護 摩 をたいて、 行の特徴の一つであろうと思います。 ろ山の中を十日ほどかけて歩く中の、さまざまな経験を いまの金峯山修験、あるいは多くの吉野大峯の修行に は、この十界修行の儀礼が廃れていますが、いずれにし を聞く。縁覚界とは沈思黙考。菩薩界とは奉仕。仏の世 見えたときの喜びの世界である。声聞界とは喜んで教え 吉野から熊野にか け て 、 毎 年 夏 に な る と 修 験 の 多 く の 寺院が行います「大 峯 奥 駈 修 行 」 の 、 こ れ は 平 成 十 一 年 なびき 日参を千日にわたり続けるわけであります。山が開いて 回峰行は五十日終わりますと次は日参行と言いまして、 だいたい第一日目は吉野から山上ヶ岳まで、二十四キロく 通じて十の世界を体験的に知っていくというのが奥駈修 界、仏界とは感謝、祈願。 自然の中にあるもの そ の も の に 神 、 仏 が お ら れ る こ と を この十の世界を体験的に、奥駈修行では行うとします。 近世以降、吉野山 か ら 山 上 ヶ 岳 は だ い た い 二 十 四 キ ロ あるのですが、ずいぶん歩く人の数が減り、廃れてきて、 前提に、祈りをささ げ な が ら 修 行 を し て い く 。 峯はこの十界修行は概念的になっています。地獄界とい あとで、羽黒の大阿闍梨さんがお話しになりますが、 羽黒ではこの十界修行が儀礼として残っていますが、大 一日十一時間、十二時間かけながら歩いていく。 投宿します。 これもだいたい二十二キロくらいの行程を、 われる掛け声を掛け な が ら 歩 い て 行 く 。 こ の 吉 野 と 熊 野 うのは、あらゆる苦しみに耐える。餓鬼界とは、足るを ただ歩くだけではなくて、「さんげ、さんげ、六根清浄」 と唱える。登り道に か か る と こ の 掛 け 念 仏 、 山 念 仏 と 言 をつなぐ七十五の靡 、 役 行 者 の 教 え に 草 木 も 靡 く と い う 霊地、修行の行場を靡として巡っていくわけであります。 懺悔と反省の世界である。天上界とは、眺望がきれいに 羅界とは、精進潔斎をする、精進をする。人間界とは、 知ることを覚える。畜生界とは、労働の苦に耐える。修 この前鬼山で前半の行が終了する。 のは泊まりの宿の関係で難しいので、 前鬼山に下ります。 まま南奥駈に入るのですが、この道を大きな団体で行く 三日目は弥山から八経ヶ岳、釈迦ヶ岳、深仙宿、太古 の辻に行く。この太古の辻というところで、本当はその ので靡といわれる、 役 行 者 ゆ か り の 、 あ る い は 修 験 道 の 先ほど言いました 大 峯 修 行 と い う の は 、 山 上 ヶ 岳 を 中 心としたものですが 、 近 世 以 降 は こ の 山 上 の 奥 に 入 る と 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 077 向から行仙ヶ岳の小 屋 ま で 登 り 、 こ こ で 太 古 の 辻 か ら つ 四日目は、早朝に 前 鬼 山 の 裏 行 場 を 終 え た 後 、 浦 向 と いうところに移動し 、 一 日 休 憩 と な り ま す 。 五 日 目 は 浦 二十一世紀の宗教には大変必要なのではないか。 う に 信 者 も 行 じ る よ う な、 参 加 型 で あ る と い う こ と が 信者さんがお参りするのではなくて、お坊さんと同じよ 石鎚権現、羽黒は羽黒権現、白山は白山権現、どのお山 ます。本来、吉野は吉野権現、熊野は熊野権現、石鎚は て、多くの修験の山が修験信仰を解体されることになり 上葛川からもう一 度 奥 駈 道 に 戻 っ て 、 六 日 目 は 玉 置 山 の玉置神社に至る。 七 日 目 は 玉 置 山 か ら 大 黒 岳 、 吹 越 な と行じて上葛川へ下 り ま す 。 総合的、融合的でないといけない。 ないか。そして総合的である。つまり排他的でなくて、 か。それから心と体に関わる宗教でないとまずいのでは 践するようなかたちの宗教でないとまずいのではない それから実践的であること。お念仏を唱えるとか、学 問をするとかいう宗教ではなくて、自らが自分の体で実 ります。羽黒は正善院を中心に一部は残りましたが、や これはなかなか難しいところなんですね。英彦山も、 もうお寺は残っていません。英彦山神宮という神社であ くの山の修験信仰を解体されて神社化します。 たが、明治に神さまと仏さまを分けることによって、多 にも神さまと仏さまが融合したかたちの信仰がありまし どを越えて、熊野本 宮 大 社 に 至 り ま す 。 奥 駈 道 は こ の 本 ちらが大きいという構造となっている。 ながっている奥駈道 に 復 帰 し 、 笠 捨 山 、 槍 ヶ 岳 、 地 蔵 岳 宮で終わりなのです が 、 あ と は バ ス を 使 っ て 熊 野 三 山 を この五つの条件に、実は大峯の修行というのは、全部関 わっているわけであります。我々は自然を道場に修行致 はり羽黒修験は、出羽三山神社を中心とする神社で、そ 巡っていく。こうい う 行 程 を 我 々 は 行 じ て お り ま す 。 になります。天台宗のお坊さんもおいでになる。浄土宗 我々の修行は、専門の山伏も、一般の方も、一緒に参 加しております。奥駈には、真言宗のお坊さんもおいで 白山は白山権現。石鎚は石鎚権現。どことも修験のか たちをなくすなかで、それぞれのお山の事情なりに、現 仏さまの融合したかたちの信仰がありました。 権現さまでなくて、浅間大菩薩という、やはり神さまと 富士山は富士講というのが江戸期にたくさんありまし たが、ほとんど廃絶する憂き目に遭いました。富士山は 入峯行では一日目の 行 程 を 百 二 十 名 ほ ど の 団 体 で 行 じ て のお坊さんもおいでになる。神主さんもおいでになって 代の信仰に至っています。 します。まさに直に自然と関わっているわけであります。 います。金峯山寺の 末 寺 の 東 南 院 は 、 い ま 申 し 上 げ ま し います。教派神道の行者さんもおいでになっている。と 駆 け 入 り 護 摩 を 始 ま り に、 山 上 の 行 場 等 々 を 行 じ て、 熊野本宮大社へ至る 。 金 峯 山 寺 で は こ の 前 半 行 程 だ け 行 た 毎 年 吉 野 か ら 熊 野 ま で の 行 程 を 行 じ て い る。 そ れ が もに行じている。サラリーマン、大工さん、学校の先生、 じるのを六月の中旬 か 下 旬 。 そ れ か ら 七 月 八 日 の 、 蓮 華 我々の大峯修行であ り ま す 。 私の友人で、鎌田 先 生 と も 友 人 で あ る 正 木 晃 さ ん と い う仏教学者がおいで に な り ま す 。 こ の 正 木 先 生 と 、 正 木 あるような気がしま す 。 ざっと述べました 奥 駈 の 修 行 で す が 、 修 行 を す る 現 代 的意義を象徴するも の が 、 大 峯 の 修 行 の 中 に は た く さ ん のかというご喚問が あ り ま し た 。 いう効果・効能があ る の か 。 そ し て ど う い う 弊 害 が あ る の趣旨の中で、いろ ん な 修 行 を す る こ と に よ っ て 、 ど う このパワーポイン ト を つ く り 終 え た あ と に 、 鎌 田 先 生 からシンポジウムの 趣 旨 を お 聞 か せ い た だ き ま し た 。 そ うに排他的でない。総合的である。 すし、東南院も女性の参加を招いております。そんなふ 院さんも女性は山上ヶ岳を避けて連れて行っておられま 修行に女の人を連れて行っている団体はあります。聖護 山上ヶ岳山頂一帯だけが女の人は登れないだけで、奥駈 という方がありますが、 決してそんなことはありません。 そして今申し上げましたように排他的でない。山上ヶ 岳が女人禁制なので、ときどき修験道は女人禁制なのか では、心と体に両方関わっている。 それから山を歩くわけでありますから、極めて実践的 である。それと実践を通じて心を高めていくという意味 いずれにしても役行者以来の信仰ですが、昔の人が修 行をしているわけではなくて、現代人が修行をしている ジがあるのですが、そのへんは鎌田先生たちとかなりの 人が一緒になって修行をする、そういうかたちのイメー 吹いて、山伏の格好をして真俗一貫、お坊さんと在俗の ジが全然ない。こちらは修験というと、やはりほら貝を ちで残っているので、修験というと神道だというイメー いて、神社化していない。もともとのかたちに近いかた それは、関東がそうなのかなと気づくのです。関西は 醍醐寺とか聖護院とか金峯山寺とか、修験の寺が残って メージが強いと言うんですね。 達なんですが、東京の先生方は、修験と言うと神道のイ 修行の意義と弊害 先 生 の 師 匠 で あ る 山 折 哲 雄 先 生 た ち で、 十 年 ほ ど 前 に、 もう一つ、参加型であるということ、あるいは排他的 でないということに関わるのですが、吉野の修験は在家 ということに、たくさんの意味を見るわけであります。 この間、鎌田先生としゃべっていて気が付いたことが あるのですが、私は宗教人類学者の植島啓司先生とも友 二十一世紀に対応で き る 宗 教 の 要 諦 と は な ん ぞ や と い う 仏教を面目としております。在家にあって行じていると いろんな方が一緒に参加している。 お話をされたことがあるそうです。そこでの結論として、 いうこと。そういう世界を大事にしております。 修験というのは、役行者以来連綿として続いてきたと は言いますけれども、明治の神仏分離、修験廃止によっ なんべんも言いますが、修験というのは実際に修行を しなければ分からないわけですから、なかなか伝えにく 違いがあるのかなと思います。 二十一世紀の宗教に は 五 つ の 要 諦 が あ る と さ れ ま し た 。 一つ目は、自然と 関 わ っ て い る 宗 教 で な い と 二 十 一 世 紀はまずいのではな い か 。 次に参加型である こ と 。 お 坊 さ ん が 前 に い て 、 後 ろ で 078 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 になっていただけた の で は な い か と 思 い ま す 。 はい、ありがとうございました。なんとなく実際に行っ ていなくても、写真 を み て い る と 歩 い て い る よ う な 気 分 (映像上映) さんという写真家の 方 の 映 像 で す 。 大峯奥駈修行を同行 取 材 し て 撮 っ て い た だ い た 六 田 知 弘 い。いまからちょっ と 写 真 を 見 て い た だ き ま す 。 こ れ は いております。 のところを戒めるなかで、奥駈の修行を体験していただ か畏敬の念を忘れた姿を見る気がします。私たちもそこ うなのでしょう。極めて現代的な、自然に対する畏怖と 分たちの論理を持ち込むような行為があるというのはど 山に対する敬虔な思いを持つとともに、山の論理に添 う、山の神、仏さまにあわせるということを忘れて、自 出来事だったからということであります。 お聞きしました。なぜなら、あれは山の閉まったあとの 修験道入 こ の 五 月 に『 体 を 使 っ て 心 を お さ め る 門』という本を集英社新書より出しました。今日は持っ りました。 私は話が上手ではないのですが、必ず時間どおりに終 わるということを信条にしておりまして、あと一分とな ちが戒められることの一つであります。 には至らなくて危ういことになる。修行するなかで私た ときどき傲慢行者になってしまう人もありますし、衆 生の力を忘れる人もあるけれども、それでは本当の成就 就ができるという。 たという意味では、 そ ん な に 危 険 な と こ ろ は な い の で す たちがいろんな講を 作 っ て 、 一 般 の 人 を 山 に 連 れ て 行 っ ね。先ほど言いまし た 山 上 参 り と い う の は 、 里 山 伏 の 人 山伏修行というのは 、 も と も と 山 伏 が 行 じ て き た ん で す ただ、危険性につ い て も 語 り な さ い と い う こ と も あ り ましたので、あえて 、 危 険 性 や 失 敗 を 言 い ま す と 、 こ の らいでは説明がつか な い 世 界 と い え ま す 。 としとか悪霊退治とか、そういうことを普段からやって ただ、私どもの奥駈に来ている行者さんは、逆に言う とそういう専門家の人たちで、町にあっては憑きもの落 がおいでになって、そういう場面もさまざま見ました。 信仰者ばかりでした。沖縄のユタの人とか、いろんな人 たような気がします。私が行きだしたころは、いわゆる とになる例はたくさんあります。実は昔のほうが多かっ 歩いて、心身脱落するところまでいくから、おかしなこ あと、やはり山に行くと、危険性という意味では、霊 的にいろいろ障りを受けやすい人が出る。一日十時間も の世界を星野尚文師に話していただければと思います。 向する一つの有力な拠点である出羽三山、羽黒の修験道 ンダードとして開陳されたわけですので、次にそれに対 できました。まず吉野大峯の修験道の世界が一つのスタ ちょうどお時間がまいりました。ご清聴ありがとうご ざいました。 買い求めいただければと思います。 より一円安い、七九九円で売っておりますので、ぜひお てきておりませんが、ラーメン屋さんのチャーシュー麺 ― 効能というのは、 今 言 い ま し た よ う に 、 現 代 社 会 が 忘 れていたものがこの 世 界 の 中 に は ま だ た く さ ん 用 意 さ れ が、その奥へ行く、 奥 通 り 修 行 と な る と 、 や は り 山 伏 だ いる人が多いですから、山の中でそういうことが起こっ では星野さん、よろしくお願いします。 ていること。これは 体 験 し て い た だ か な け れ ば 、 映 像 ぐ けが行くのが基本で 、 一 般 の 人 を ぞ ろ ぞ ろ 連 れ て 行 く よ ても、あまり動じない。普段の日常の延長でお加持をす うまくいくためには三つの力が大事であるということを ただ、だからこそ大事なことがあります。これは密教 でとても大事にすることでありますが、いろんな修行が 羽黒修験の星野でございます。私は常々、山伏という のは半聖半俗というふうなことだと思っています。半分 星野 尚文 3 羽 黒修験道の荒行(峰入り) 鎌田 どうもありがとうございます。非常にコンパクト でクリアで、大変面白くお話を伺わせていただくことが うなことではなかっ た わ け で あ り ま す 。 るということが行われるわけであります。 山というのはお滝場と一緒で、そういう霊的な不具合 なことが常に背中合わせにあるということ。経験がある ところが、最近は 一 般 の 人 も 参 加 し て い た だ く よ う に な り ま し た。 そ の こ と に よ っ て 極 め て 危 う い こ と が 起 ターに旅行に連れて 行 っ て も ら う よ う な 気 持 ち で 修 行 に 人と一緒に行くというか、優れた先達と一緒にそういう こってきた。今はこ ん な 社 会 で す か ら 、 ツ ア ー コ ン ダ ク 来るようなことにな っ た 。 富 士 登 山 に 行 く よ う な 気 持 ち 経験をする、そういう危険が起こったときに助けてもら て起こってくるので 、 そ れ に ど う 向 き 合 い な が ら 歩 い て 知っておくこと。画面は『三力偈』という偈文ですけれ は世俗で、半分は聖なる世界。そんな関係から、今日は うということも必ず付いて回るということです。 で来るような人が現 実 に は あ り ま す 。 いくかということが 大 事 。 つ ま り 自 分 た ち 都 会 の 論 理 を ども、まず 「以我功徳力」 。行者の行力は当然必要である。 山の修行というの は 、 自 分 た ち の 勝 手 で 行 く よ う な わ けではありません。 い ろ ん な こ と が 自 然 の 都 合 に 合 わ せ そのまま持ち込んで 通 用 す る 世 界 で は な い ん で す け れ ど しかしながら、 それだけでは駄目である。神仏の加持力、 出羽三山神社の山伏 も、どうもそういう こ と が 理 解 さ れ に く い 。 そ う い う 現 の二つだけでも伴わないものがあって、 「衆生法界力」 。 「如来加持力」といいます。神仏のお力がいる。でもこ た。非常に、先生方には失礼しています。 私は遊び人スタイルで、ジーパン姿でやってまいりまし さんりき げ 代の一般の人に、広 く 開 放 さ れ た ゆ え の 、 修 行 の 難 し さ があるのかなと思い ま す 。 そんなことで、まず最初に私の身分からお話しさせて いろんな周りの力が全部取りそろって、行というのは成 この間御嶽山で噴 火 が 起 こ り 、 た く さ ん の 方 が 亡 く な りました。ただあの と き 御 嶽 行 者 は 亡 く な っ て い な い と 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 079 いただきたいと思い ま す 。 出 羽 三 山 は 、 先 ほ ど 田 中 先 生 がおっしゃられてい ま し た と お り 、 全 国 ど こ も 明 治 の 神 山麓の手向地域という、我々の地域でございますが、 その地域において近世までは三百三十六軒ほどの宿坊が 秋峰、冬峰、これらを通して峰入りという言い方をして 出羽三山、羽黒山では、峰入りと言いますと我々は普 通、四季の峰と言いますか、四季を通じた、春峰、夏峰、 そういう意味からいくと、全国的に落ち込んでいる状 況のなかで、出羽三山であらためてこれからお山に来る は、宿坊自体が三十軒になっています。 りで百弱ですね。そして戦前まで六十数戸。そして現在 秋峰の行 山も明治以降、出羽 三 山 神 社 と 、 そ れ か ら お 寺 系 で は 荒 おります。現在残っているのは、秋峰と冬峰の二つだけ ございました。それが神さまの山になって、明治の終わ 沢寺さんが、いまで も 修 験 道 の ス タ イ ル を 残 し て や っ て でございますけれども、近世まではしっかりと、春峰、 仏の分離、あるいは 修 験 道 の 廃 止 等 々 の な か で 、 出 羽 三 おるところでござい ま す 。 冬峰を通し、そしてなおかつ、私がやっている三日間の 人たちを呼び込んでいくということをしていくには、お と核となるものを将来に向けても守ってやっていくこと 山の核となる修行というものを、秋峰を通し、あるいは をさせていただきたいと思います。 が、これから必要なのではなかろうかなと考えていると 夏峰なる峰入りもされておりました。今日は時間がござ 羽黒山伏で特徴的な言葉がございます。それは「うけ たもう」という言葉でございます。 「うけたもう」とい いませんので、いまやっている秋峰と冬峰を中心にお話 伝道している山伏で ご ざ い ま す 。 う言葉は、すべてを受け入れるという非常に広い世界を ころでございます。 いただいて、出羽三 山 神 社 を 中 心 と し た 出 羽 三 山 信 仰 を また出羽三山神社 の 五 名 の 責 任 役 員 理 事 の 一 人 で も あ ります。私は特に大 聖 坊 と い う 名 前 の 下 で 、 山 伏 修 行 も つくっていくという意味で、拒むものはない。修行中に 具体的に秋の峰入りのお話に入っていきます。修行の 話になりますと、先ほどの金峯山寺の田中先生の話との いまして、大 私は出羽三山神社、神社系の山伏でごはざ ふり 聖坊という宿坊で、 神 社 と の 関 係 で は 祝 部 と い う 辞 令 を やらせていただいて お る と こ ろ で ご ざ い ま す 。 しても、何でも言われたことにはすべて「うけたもう」 。 仏習合の山と言って も い い の で は な か ろ う か な と 、 私 な をしているというこ と か ら す れ ば 、 今 で も 出 羽 三 山 は 神 このように神社も寺 も 同 じ 羽 黒 山 の 山 で 同 じ 時 期 に 修 行 日ずらして、八月二十六日から九月一日になっています。 月二十四日から、八 月 三 十 一 日 ま で 。 神 社 系 の 秋 峰 は 一 修行をする時期も荒 沢 寺 は 「 笈 か ら が き 」 も 入 れ る と 八 んなりに、しっかり と 現 在 ま で 守 っ て や っ て お る 。 そ の いるわけでございますけれども、そういう意味からいく れはやはり、出羽三山神社が、明治以降お山を管理して の秋の峰入りの修行をやっておるわけでございます。こ その峰入りの中で秋の峰入りでございますが、先ほど も申し上げましたように、お寺さん系と神社系と、二つ だいたところでございます。 言葉だなと思いましたので、まず最初に紹介させていた ていくという意味で、修験道においては非常に象徴的な 「うけたもう」 という言葉で返します。広い人間をつくっ 「うけたもう」という言葉がある関係から、 そういう、 地元、山麓では日常の言葉の中でも、何かを言われれば いうことからくる、 いわゆる曼荼羅の世界と言いますか。 宇宙を大日如来として、なおかつ人間が小宇宙であると こういう「擬死再生」 、あるいは「即身即仏」のテー マのもとというのは、 密教における宇宙観と言いますか、 うかと思います。 である大日如来になるというのが、秋峰のテーマになろ 行に入るという出世の行という捉え方になろうかと思い 山伏としての立身出世の峰。そしてなおかつ、世を出て ございます。それから、 「山伏出世の峰」と言いまして、 の峰入りというのは、 「擬死再生」の胎内修行が一つで ダブりがいろいろ出てきますがご容赦ください。まず秋 修行をいろいろなところでやっていくことで、しっかり いまでも出羽三山 は 神 社 系 の 秋 の 峰 、 お 寺 系 の 秋 の 峰 をしっかり残して現 在 ま で 続 い て ご ざ い ま す 。 明 治 以 降 りに解釈をしている と こ ろ で ご ざ い ま す 。 と、神社で峰入り、修験道ということは、先ほど田中先 りますので、そのへんのところも話をさせていただければ 秋峰や冬峰という修行もやってきたというところに、出 彼が強引にお寺を神社に変えながら、 いまでもなおかつ、 けれども、逆に出羽三山は明治のあの時点で、あえて、 国から来た初代宮司、西川須賀雄という国学者ですが、 修行の場であるということです。両界曼荼羅の修行の場 なって両界曼荼羅という。そしてその両界曼荼羅自体が ども、こういう曼荼羅の金剛界、胎蔵界の二つが一つに で、永遠の悟りという解釈をされるかなと思いますけれ をしているわけでございます。胎蔵界は理徳ということ 秋峰を、神社は神社 な り に 、 あ る い は お 寺 さ ん は お 寺 さ ですから今日は峰 入 り と い う こ と で 、 秋 の 峰 入 り と 冬 の峰入りの百日修行 を 中 心 に し て 、 お 話 を 申 し 上 げ た い 生も言われておりましたが、割合なじまないものもあろ 曼荼羅の世界にしても、金剛界曼荼羅というのは簡単 に言えば知徳、いわゆる知恵のはたらきという言われ方 ありがたいと思います。明日も一時間ほどありますので、 羽三山を、ほかの神社にはない、いま現在のお山にして ます。それに「即身即仏」 。最終的には修験道のご本尊 と思います。 うかなと思います。 そちらの方はその中心になろうかと思いますが。今日は おるということで理解することができるのかなと、私は という世界に入って来られる場をつくらせていただいてお 私 は 個 人 的 に 大 聖 坊 で三日 間の山 伏 修 行 な る もの も やっております。そのなかで、一つ誰でも気楽にこの山伏 ということでお話をさせていただきたいと思います。 は山岳であり、山岳が道場ということですね。山岳、い 五十分の時間をいただきましたので、出羽三山の峰入り 思っています。 080 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 り人間も自然の一部 で あ っ た と い う 思 想 が 、 自 然 と い う あり、仏であるとい う 、 そ う い う こ と か ら 言 う と 、 や は 日本人の自然観、 こ の 自 然 が 神 で あ る と い う 発 想 、 そ れから、草木国土悉 皆 成 仏 と 言 い ま す か 、 い わ ゆ る 神 で わゆる自然が道場である。 ものなのかなというところに、自分なりに到達したよう 羅というのは、人間も自然だということから理解できる いう気づきをしました。そのときに初めて、ああ、曼荼 体的にも精神的にもパワーアップするものがあるんだと そう感じたときに、ああ、自分自身も自然なんだ。自 分自身も自然だから、滝行が終わった後、ものすごく肉 う、この意識が生まれてきました。 いくに伴って、その道場の場所が変わっていったという た。こうして笈の中に入っている命がどんどん成長して が、月山の大満原という、二合目に昔は道場がありまし の峰入りをしている道場です。それから三の宿というの 現在羽黒山にある吹越の籠堂という、神社系の山伏の秋 んです。一の宿では当峰大先達のところ。二の宿は、今 です。昔、修業期間の長かった頃は、この一の宿、二の じ ねん し ぜん になった。そうする と 、 そ の ネ イ チ ャ ー と い う 言 葉 に は た。ネイチャーに変わることによって、自然という言葉 それから、お寺さん系の秋峰と神社系の峰入りとある ものですから、なかなか我々が秋の峰入りのお話をする 十日。今現在は七日と、 いろいろ変わってきております。 代では十五日。近世の終わりころで十二日。大正時代で 秋の峰入りも、始まったころは七十五日だったのです が、時代とともに、一五〇〇年代は三十日。一六〇〇年 新しい命が出生する、出生するというのが、秋峰の修行 うことは、産湯を使うという意味をもたらして、初めて そしてその参道を下りてきて、最後、場柴燈。火をた いて、その火を飛び越えるのです。火を飛び越えるとい けの山伏が山を下りてくるときは、産道となります。 石段で登っていくわけですが、普段は参道ですが、行明 そしてそれらの三の宿が終わって行が明けますと。羽 黒山に行った方はお分かりかと思いますが、羽黒山には ことです。 宿、三の宿と行が進むにつれて、行堂が変わっていった 言葉で置き換えられ る か と 思 い ま す 。 近 世 ま で は 、 い わ な気がしています。 この一の宿が過去であり、諸仏の世界。二の宿が、現 世で衆生界です。そして三の宿が未来の修行ということ じ ねん ゆる自然という言葉でなくて、自然という言葉の名のも そういう意味では、この秋の峰入りというのは、密教 で言う曼荼羅思想そのものが、人間は自然だからという で、悟りの世界に向かうという言い方をされております。 じ ねん とで、自然の中には人間もはいっていた。 ところからしっかり派生していて理解できるものなのか し ぜん 近世までの自 然思 想 、 人 間 も 自 然 の 一 部 で あ っ た と い う時代だったからこ そ 、 曼 荼 羅 と い う こ と が 修 行 の な か なと、私なりに解釈をしているところでございます。 じ ねん でしっかりと体で学 ぶ こ と が で き た の で は な か ろ う か 。 人間は含まれていな い 。 ときに、最大公約数的なかたちでしかお話ができない。 し ぜん それで、人間が自 然 か ら 切 り 離 さ れ た も の に な っ た が 故に、我々が曼荼羅 と い う 言 葉 は 知 識 で は 理 解 で き る け 両方を立ててお話をしなければいけない。そういう状況 の儀式の流れになるわけです。 治にな っ て 、 日 本 が 世 界 に 開 い て 、 そ の と ところがじ明 ねん きにこの自然という言葉がネイチャーに変わってしまっ れども、自らの体で は 、 曼 荼 羅 と い う も の を な か な か 理 があるものですから、このへんはあっさりと話をさせて 容は地獄界から仏界までですが、ただそれぞれの十界修 うぶみち 解し得ない。 いただきたいと思います。 「擬死再生」 。生まれ変わるという まず儀式としては、 行でございますので、まず最初に「笈からがき」という で なり ところが当時は、人間も自然の一部だったから、修行を することによってしっかりと、この曼荼羅の世界というも その修行内容につきましては、これも田中先生の十界 修行とダブりが出てきますけれども、この十界修行の内 うに私は思っているんですが、そうすると、私自身も日々 行の内容が、その山、山で、違ってきていますね。 のを自らの体で体得できた。そういうものだったというふ のがあります。これは修行に入る前の日に、修行者全員 りです。 まして、これは羽黒修行の中で一番つらい修行です。 この自然の中で修行するのが日常になっていますけれど そして翌日、行に入る日に、 「梵天投げ」というのが 行われます。伊邪那岐、伊邪那美の命のお堂に男根であ いま神社系の山伏ですと、だいたい参加者が百七十名 くらい。それからお寺系ですと、六十、七十名くらいな 先ほど大峰山の十界修行を見せていただいたのです が、若干捉え方で違ってくる面があるのかなと思いまし る梵天を投げ込むことによって、そこで相和合し、新し で『般若心経』をあげてお葬式をあげるというのが始ま ね。ところが歩き始 め て 三 十 分 も す る と 、 自 分 の 体 と 山 い生命が誕生するわけですね。 も、その自分自身も自然の一部だという感覚になる。 の体がなじんでいく 。 そ れ は 、 要 は 自 分 の エ ネ ル ギ ー と に真っ赤に燃えた炭が入っているわけです。 私 も よ く 滝 行 を や る ん で す が、 滝 に 入 っ て い る と き、 前は滝でエネルギー を い た だ い て い る と い う 感 じ で い ま 秋の峰の修行でございます。 界修行という修行を通じて、どんどん成長していく姿が そうすると、これは本当に大変なことになる。やはり その火鉢に薬味としてトウガラシ、 米ヌカとドクダミ、 この三つをその炭にくべるのです。 のですが、こういうお堂に火鉢をいっぱい置いて、そこ た。羽黒修験の一つ目の地獄界は「南蛮いぶし」と言い 山のエネルギーが混 ざ る と い う こ と で は な い で し ょ う か そしてそれが、秋の峰のときは笈が子宮になりますの で、笈の中にその新しい命が入って、その新しい命が十 したけれども、数年 前 か ら 滝 行 を や っ て い る と き に 、 滝 その過程において、一の宿、二の宿、三の宿とあるの たとえば、山に入 っ て 修 行 を す る 。 そ う す る と 、 誰 で も山を歩いていると 最 初 の 二 十 分 、 三 十 分 は つ ら い で す ね。分かりやすく言 え ば 。 のエネルギーと私の エ ネ ル ギ ー が 混 ざ っ て い る ん だ と い 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 081 すかね。お産のときに、ああ、もう子どもをつくりたく ら強いて言えば、女の人のお産みたいなものではないで いただきました。 も今六十八歳ですが、六十歳の年に、この行をやらせて は戻れない。人生で最後の修行が冬峰修行なんです。私 籠行だけですね。先ほど言った興屋聖に入っている五穀 人がそれぞれのうちで結界をつくって、そこで五十日間、 くいかと思いますが、興屋聖という、ワラでこのくらい 百日間、どういう修行をするかと言いますと。私は映 像を使わないものですから、皆さん、なかなか分かりに いい行をしているなという実感で、山を下りてきたので わっていましたね。話し方まで変わってきている。ああ、 い だ 山 に 上 が っ て 行 見 舞 し て き ま し た が、 顔 つ き が 変 建 物 の 一 室 に、 二 人 が 同 じ 部 屋 に の苫屋がつくられ、その中に五穀を入れるんです。 いまは、稲籾と豆、麦それからゴマとキビと、この五 穀 を 入 れ て、 百 日 間。 現 在 は 九 月 二 十 四 日 か ら 十 二 月 私の場合、特別何の変化もなかったです。 最初の五十日は自宅参籠で、朝夕みそぎをして、ひた すら朝夕勤行するわけです。五十日の自宅参籠のとき、 の二十四日から十二月三十一日に変わりました。 に興屋聖を鎮座させて、そこの前で、同じ部屋で、二人 082 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 な い と。 と こ ろ が、 ま た つ く っ ち ゃ う。 「南蛮いぶし」 聖」と言うのですが、 。それを二人でやるんですね、こ いまは最初の五十日は「自宅参籠」といって、自分の 家の一室を結界にして行を行います。行をやる人を「松 それから餓鬼界は「断食」になります。畜生界は「水 断ち」ですね。それから修羅界が「天狗相撲」になるん の行は。 というのは、私が表現すると、そんな感じかと思います。 です。人界というのは「懺悔」ですね。それから天界は ですから二人の行の「験競」ですね。これは二人だか らという意味があります。後から言いますけれども。二 そして、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界ということで、 最後には大日如来になりますよというような行がある。 げんくらべ 歓喜行で、 「鳴子」が天界に入りますね。 これが秋峰の修行になります。 を、毎朝夕みそぎをして、お祈りします。だいたい一時 そして、自宅の五十日参籠が終わると、羽黒山の山頂 に 行 っ て、 華 蔵 院 と い う いまは斎館という名前に 間くらいですかね。それを五十日間自宅でやります。 次は、冬峰の行になるのですけれども、歴史的に冬峰 の行の日数は同じなのですが、時期が違ってきます。中 こもって、 寝泊まりも一緒にして、 十一月十三日から籠っ なっていますが 冬峰の行 世の『拾塊集』に冬峰の行が出てくるのです。ですから て、五十日目が十二月三十一日で満願の日になり、松例 ― くそのとおりですね 。 開祖蜂子皇子からということになります。 『拾塊集』のと たぶん中世以前からやっておった。我々の伝記によれば、 祭が行われるのです。 修験道とは何ですか と 言 わ れ る と 、 修 験 道 と は そ こ に 身 先ほど田中先生も お っ し ゃ っ て い ま し た け れ ど も 、 や ら な い と 分 か ら な い ん で す。 で す か ら、「 南 蛮 い ぶ し 」 明治以降はツツガムシというものに変わってきています。 きは、鬼というものが出てくるのですけれども、それが を置いて初めて分か る 学 問 だ よ と 言 う の で す が 、 ま っ た がどれだけつらいで す か と よ く 聞 か れ る ん で す が 、 こ れ に地獄界、地獄を見 る 苦 し み で す よ 。 た ぶ ん 大 峰 山 の 地 獄界は、西の覗きになるんでしょうかね。うちのほうは、 この「南蛮いぶし」 な ん で す 。 三十一日までです。昭和になったとき、ひところは、十 秋峰修行は大勢でやります。多いときは行堂が百七十 名でいっぱいになるのですけれども、ところが冬峰の百 で勤行を始めるわけです。 すけれども。 だからやれるところ か ら や っ て い た だ き た い の で す が 。 月二十四日から一月三十一日までの時代もあったのです ところが羽黒山の山上で、二人が五十日間同じ部屋で 寝泊まりして、そこで一緒に食べて、お祈りするときは、 いなもみ うちの地獄界は「南蛮いぶし」 。今の三つの薬味をいれ ます。その煙が大変で、お堂の中で空気を吸えないんで が、出稼ぎなどがあったりして、また最初の日程の九月 日行は、地元の山伏、山麓の手向の山伏の中から選ばれ お山へ行ってからも、十一月十三日ですから、羽黒山 は、今年はまだ雪がないのですが、かなりの寒さです。 今でだいたい四度、五度くらいです。それがだんだん寒 お寺の斎館の神前のはじとはじに床の間があって、そこ て、だいたい六十歳以上ですね、羽黒山伏では最後の行 いこと。空気という の は こ ん な に お い し い も の か と い う くらい、この「南蛮 い ぶ し 」 は 地 獄 を 見 る 行 で す 。 なんです。 ね、これが。「南蛮いぶし」はそういうものかな。だか ですから、この冬峰の行をやったら、もう秋峰の行に だけど、私もいろんな行をやっていて、「南蛮いぶし」 が一番嫌いなのです が 、 だ け ど ま た や り た く な る ん だ よ だから、それが終 わ っ て 「 床 ゆ る ぎ 」 と 声 が か か っ て 初めて外へ出られる の で す が 、 外 へ 出 る と 空 気 の お い し すよ。 ところがその煙の中で勤行をあげなければいけない。 そ れ ぞ れ の 修 行 の 話 が ど ん ど ん 出 て く る わ け で す が、 これはやらないと分からないですよ、はっきり言ってね。 ― はやれば分かるよと 。 そ う い う こ と な の で 、 こ れ は 本 当 今年も二人、冬峰に入っています。十三日を過ぎてい ますので、ちょうど山に上がって一週間ですか。このあ 修験道はそこに身を置かないと分からない。だから私も、 星野尚文氏 その興屋聖の中に自 分 の 姿 が す っ と 出 て く る の で す 。 こ そうしてやってい っ て 、 ち ょ う ど 十 一 月 の 末 く ら い で し ょ う か。 興 屋 聖 の 中 に 五 穀 が 入 っ て い る わ け で す が 、 返ってきた勤行が、 二 人 の 間 で 起 こ っ て く る の で す 。 行をしていると、自 分 に 返 っ て く る 。 そ う す る と 、 こ の 分に返ってくる。そ し て 、 も う 一 人 の 松 聖 も ご 神 体 に 勤 かって勤行する、ご 神 体 に 祈 り を す る と 、 そ の 祈 り が 自 うに勤行をあげてい く わ け で す 、 一 時 間 ね 。 ご 神 体 に 向 そのきつくなるの が 、 ど ん ど ん 体 に 変 化 を 及 ぼ し て く るのですかね。なお か つ 二 人 が 同 じ よ う に し て 、 同 じ よ はりきつくなってき ま す 。 のですが、十一月の 今 ご ろ に な る と 、 朝 夕 の み そ ぎ は や 自宅参籠のときは、 み そ ぎ も さ し て き つ い 感 じ は し な い く な っ て、 雪 が 降 っ て と な っ て い く わ け で す け れ ど も 。 人とも言葉が出てこないという。 は、蜂子皇子が我々を拝ませなかったのかな。二人が二 行ったら、そこではすっと蜂子皇子と出たんです。あれ の 道 を 行 け ば 阿 古 谷 へ 行 け る ね と。 そ し て 阿 古 谷 ま で これは、今日は帰ろうと。戻って崖を登ったら、本当 の道に出たんです、導かれるように。そして、ああ、こ いんです、二人とも。 いくのですが、そのとき蜂子皇子という言葉が出てこな 神文」というのがあって神さまの名前を言って、拝んで す。普通は、我々がお祈りするときに唱える「あやにの としたのですが、なかなか最初の言葉が出てこないんで そこにも滝があったものだから、それでは時間も時間 だし、この滝を阿古谷として拝んでいこうよと、拝もう 違って、別の沢に下りてしまった。 道 が 分 か ら な い ん で す ね。 そ う し て ち ょ っ と 方 角 を 間 へ行こうとしたのですが、雪が降っているものだから、 自身も、冬峰を通してしっかり守ってきた。 れている。そこの農業を我々の先輩たち、あるいは我々 金峰山。そしてそれらに囲まれた空間が庄内平野と言わ 山。金峯山寺の金峰山もうちの方にあるのですが、その すけれども、北に鳥海山、南に月山、そして西には金峰 なるほど、我々が庄内というものを見たときに、皆さ んも鶴岡、酒田においでになった方は分かるかと思いま の冬峰の修行なんですね。 がりをしっかり羽黒修験はやってきたということが、こ りと農業を守ってきた。そういう修験道と農業とのつな 業を、そういうかたちで修行することによって、しっか はないだろうかと思うのです。羽黒修験はその大地の農 ですから、この庄内というのはなるほど、北は鳥海山、 南は月山、その大地に広がる。そういう大地、山、海と 峰の終局なんですね。 いう行だそうです、 昔 か ら 。 そ う す る と 、 穀 霊 を 出 現 さ が終わったあとから、修行中のことを整理してみるとそ 稲籾に稲魂を引き出したのかなという感じですね。修行 だから勤行をやっているときに、興屋聖の中に出た自 分の姿、その姿なんですよ。そうすると、ああ、完全に りませんが、 百日行をしている松聖が毎日勤行をあげて、 一円に「羽黒山、松の勧進」と言って、今は稲籾ではあ そして、今百日の行が始まって、今年もやっているわ けですが。羽黒修験の山伏たちは、この十一日から庄内 つながったところは、日本には、私は庄内しかないので れがまたすっと消え た り 。 せる。そこの穀霊と 自 分 と つ な が っ て く る 。 だ か ら 自 分 お祈りをしているお札を一軒一軒回って、初穂をいただ 百日の行というの は 、 興 屋 聖 に 入 っ て い る 稲 籾 か ら は 稲魂を、ほかの穀物 か ら は 穀 霊 を 引 き 出 し て い く 、 そ う の姿がすっと興屋聖 の 中 に 見 え 隠 れ し て い る 。 う思います。 のがずっと作用して、ふわっ、ふわっと出てくるのでしょ 向こうは先途の松聖、私は位上の松聖というのですが、 先途と位上同士が行 っ た り 返 っ た り し て い る 。 そ う い う そして、向こうは向 こ う で ご 神 体 か ら 返 っ て く る 。 体 に 向 か っ て 勤 行 を あ げ る、 そ れ が 自 分 に 返 っ て く る。 して今度春峰で一俵の稲籾にそれを入れて、一週間勤行 春峰というのは、座主会という修行であって、それは 冬の峰百日行をして稲魂の付いた稲籾を穀母にして、そ いまはやっていないんですが。 四季の峰の春峰が一月三日から始まるんです、一週間。 十二月三十一日に修行が終わるのですが、先ほど言った 出す。そして、その稲魂のついた稲籾を穀母とします。 この百日行というのは、昔から言われているのは、稲 籾から稲魂を引き出す。それから穀物からは穀霊を引き ですけれども、明治になってからは、その鬼がツツガム に模したものをつくって、それを最後に退治していくの 百日の修行の最終日が、松例祭というお祭りになりま す。その松例祭も、最初に話したわらでつくった麤乱鬼 おるところでございます。 れが、私は羽黒修験の特徴ではないだろうかなと思って 関係が、しっかりと地域の中で出来上がっておった。こ そういうお互い稲魂の付いた稲籾を持って行き、そし て今年とれたお米を初穂としてお山に上げてくるという いてお山に持ってくるという。 うかね。これは、ど う 整 理 し よ う も な い で す ね 、 私 は 。 します。春峰というのは、お山にいる先達寺三人と別当 自 宅 参 籠 の と き は、 そ れ が 起 こ ら な か っ た ん で す ね。 ところが二人で行を や っ て 、 勤 行 を や っ て い る と 、 ご 神 朝夕の勤行ですから、我々は日中は時間があるんです。 そうすると、我々は ど う し て も 自 然 の 中 へ 入 っ て 行 き た シに変わった。 う地名のあるところは、皆、修験道の起こった地域では え いんですね、籠行と は い え 。 本 来 そ う い う 行 で は な い の それを羽黒山伏が庄内一円の家々に配って回るのです。 でやるのですが、そこで今度、 一俵の稲籾に稲魂を付けて、 そして庄内の農家は、その稲魂の付いた稲籾を自分の うちの稲籾に入れてお祈りし、そして自分のうちの稲籾 ないでしょうか。 す ですが。そうすると 、 ち ょ う ど 十 一 月 の 末 く ら い の こ ろ 開 祖 蜂 子 皇 子 の 入 っ た 阿 古 谷 と い う 滝 が あ る ん で す。 羽黒山にいれば、そ こ へ 行 っ て お 祈 り を し て 来 よ う よ と に、稲魂を付けたものを田んぼに植えたというのが、冬 ざ に、羽黒山に五十セ ン チ く ら い 雪 が 積 も っ た ん で す 。 だから、修験道の地域というのは、昔はみんな鬼伝説 がある。だから、鬼伝説のあるところ、あるいは鬼とい なって、我々は二人 で こ の 雪 を 踏 み し め て 、 そ の 阿 古 谷 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 083 お祈りをする。最後、夜は「南蛮いぶし」でいじめる。 れからの生き方そのものに影響を与える。そのものに気 のときはうちにあるお酒が二升入る大盃で、みんなで飲 行の最後に、初めて精進料理で直会をやるのですが、そ て、自分がどう感じるかが大事なんですね。三日間の修 を、私はこれからどんどん進めていくことが大事なのか という言葉になっていくのか。そういうことを学ぶ機会 が積み重なっていいものになっていく。あるいは、悟り だから、たかだか三日間の修行ですけれども、それぞ れの人がいろんな気付きをしていきますね。その気付き 付いていくというのかな。 ですね。鬼が最後に は 守 り 神 さ ま に な っ て い く 。 皆 さ ん み回しをして、修行を喜び合うのですが、そのとき初め なと思っています。 そういう修行に、言葉は要りませんね。それぞれ参加 した人たちが、三日間そこに身を置いて同じことをやっ の家々にある鬼瓦と い う の が 、 し っ か り と 家 を 守 っ て く て、一人一人に感想を言ってもらうんです。現在ですと これの特徴として 、 修 験 道 と い う の は ど ん ど ん 転 換 し ていくわけです。鬼 は ダ ー テ ィ ー な も の と し て あ る わ け れるものとしてある わ け で す か ら 。 だいたい三十人くらい来ます。そうすると三十人が一人 ですけれども、いつ ま で も ダ ー テ ィ ー な も の で は な い の 年の火を起こしていくという流れのお祭りになるのです。 そ うい う 鬼 が、いま はツツ ガムシ とい う 虫 に なって、 そしてツツガムシを最後は焼いて退治して、今度新しい ですからいまは、羽黒にとどまっていないで、外に出 て修行もやらせるようにしています。今年は淡路島で修 行をさせてもらいましたし、来年からは新潟の妙高山で 修行をすることにしています。 一人、答えが違うんですね。普段、我々は小さいときか るわけです。ところが三日間、こちらは何の説明もしな ら常にテストで答えを一つ出そうとして頑張ってきてい い。次に何があるかも。ただ一言、これから月山抖擻に そういうことを通して、いまでも秋峰では「死と再生」、 あるいは冬峰の行で は 農 業 を し っ か り と 守 っ て き た 。 い までも守っていく。 農 業 と の つ な が り を し っ か り 持 っ て ところが我々がこ れ か ら 、 羽 黒 の 修 験 道 な り 、 あ る い は出羽三山そのもの を ど う 多 く の 方 々 に 展 開 し て い く か 黙々とやって、私語、無駄話はさせません。どこから来 のを用意していく。ですから三日間、本当に同じことを とも、私からは一切言わない。参加者同士で、必要なも そして、どう準備するか、自分で考えさせなくてはい けない。あれを持ちなさい、これを持ちなさいというこ 行く、これだけ。 いければいいなと思います。 をしていくということをいろんな全国のところでやって 人たちと、その山に入って修行をして、しっかりお祈り が、ああ、この山で修行をしたいなと思えば、その山の いがないのではないかと思うものです。しっかりと自分 と そう いる。そういう行と し て あ る わ け で す 。 いま、日本のいろんな、近世までの素晴らしい修験の 山が、 ものすごく勢いのない山になってきているんです。 というときに、いつ ま で も 秋 峰 、 冬 峰 だ け の 行 だ と 、 ど た人かも当然言わせない。最後にそれぞれが感想を言う どちらかと言うと緩やかなつながり方と言いますか、 拘束しないでというか。そういうふうな、これからの新 そこには、やはり祈りが足りないから、山に入っても勢 うしても限られた人 し か 修 行 で き な い わ け で す ね 。 と、全員答えが違う。 三日間の修行 ですから、これから必要なのは、いかに多くの人たち にこの修行の場に入ってもらうか。 あるいは一日でもいい、 二日でもいい、三日でもいい。修行のもたらすいろんな しい修験道というか、 「修験道みたいな」、 「山伏みたい 食と人をつなぐ人。もっと緩やかに言えば、人と人をつ な」、そんなものをやっていければと思います。 をやる。そうすると、三十人がみんな感想が違います。 なぐ人であり、あるいは人と地域をつなぐ人。そういう 私は、これが修行のよさじゃないかと思います。普段 は答えを出そう、答えを出そう。学校へ行って答えを出 だから、皆さんそうでしょう。三十人が、みんな答え が違うじゃないですか。そういうことなんじゃないか。 ことが、これからの山伏には求められているのではない そう。会社に入っても答えを出しなさいと言われる。と 何で答えを合わせないといけないの。今大事なのは、そ 知恵とか効果とか、そういうものをどんどんやっていく れば、なかなかそこまでは踏み出せないかもしれません。 れぞれが自分の感じたことを、そのまま生きていくとい ことで、緩やかなかたちで日本のあちこちにそういう場 私、大聖坊なんかは 、 割 合 気 楽 に 三 日 間 の 修 行 を 呼 び 掛 だろうかなと思っているところでございます。 ですから、私は今、山伏とは何ですかと言われれば、 山伏というのは半聖半俗で、なおかつ神や仏と、人をつ けて、やらせてもら っ て 、 も う 十 五 年 か ら 二 十 年 近 く な うこと。それが足りないのではないでしょうか。 いよいよ時間も来たようでございますので、一応これ で終わりたいと思います。ありがとうございました。 ころが、自然の中で三日間、答えを出す必要がないこと るのですが。 常にマニュアルがなければやっていけない。すべてが マニュアルの時代です。山伏修行というのはそういうも 鎌田 どうもありがとうございました。わがこころの未 来研究センターの奥井遼研究員も羽黒修験道を一回経験 が起きていくことが、私は大事なのかなと思っています。 そして、私は修行に入ったら一言もしゃべらないんです、 説明もしないし。要は、いかに三日間山を歩くか。私の のではなくて、自然から学ぶ、それだけです。 し、私は毎年三年連続で松例祭を見学に行きました。星 なぐ人。それから、自然と人をつなぐ人。命の源である 修行は滝行も入れています。山を歩く、山を走る、そし 私は一宿坊のおや じ だ か ら 、 逆 に こ う い う こ と が で き るのでしょうけれど も 、 出 羽 三 山 神 社 や 正 善 院 さ ん に な て川をはだしで歩く。滝に打たれる。そして夜は勤行を そして、自ら自然の一部であるということを、いかに 感じ取っていくか。そうすることによって自分自身のこ やる。山々を歩いているときは、自然そのものを勤行する、 084 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 野さん、今年もまた行きますのでよろしくお願いします。 す。 中 に は 見 ら れ た 方 も お あ り か と 思 い ま す け れ ど、 ただいて、それからお話しさせていただきたいと思いま ジみたいにこすっていただいて、いま申したように、だ 水から上がれるような状態です。それから体をマッサー ませんから、周りの者に肩を貸していただいて、やっと たものですから、免疫性があるのかどうかしりませんけ まして、特に私どもは、先ほどの田中先生のお話にもご 私どもの熊野修験と申しますのは、ここにも書いていま すように、熊野信仰によって立つところの修験道でござい 熊野信仰とは ていただきました。 それから次の滝に行きます。命懸けの行であるわけで ございますね。そういうことで、行の一端をご紹介させ 動くには、だいたい五十分近くかかります。 ちょっと放映させていただきます。 いま見ていただきましたように、だいたい一月六日、 小寒から大寒にかけまして、那智の四十八滝を巡る那智 去年は風邪をひいて 大 変 な 状 態 だ っ た ん で す け れ ど 、 今 四十八滝回峰と申すわけであります。 年はばっちり行きた い と 思 い ま す 。 ります。その上流に は 四 十 八 滝 が あ り 、 実 際 そ の 中 の 二 いたい五十分近くつかっていますと、また元に戻り手が の滝と三の先の二つ の 滝 に 入 っ て 滝 に 打 た れ た こ と が あ 皆さん関心があるかと思いますけど、どのくらい水に 入っているかと申しますと、だいたい五十分近く入って (動画上映) りますが、非常に美 し く ま た 雄 渾 な 滝 で し た 。 そ の 世 界 いるわけです。私は小さいときから那智のお山で生まれ では、続きまして 、 熊 野 修 験 道 の 世 界 を 語 っ て い た だ きます。那智は一三 三 メ ー ト ル の 大 滝 が ご 神 体 と し て あ について高木亮英氏 に お 話 し い た だ き ま す 。 よ ろ し く お れど、そのくらいつかっております。 三井寺、聖護院の配下の山伏で以前はあったわけです。 いう順峰を行っている、天台系の、特に本山派と呼ばれる 生身の人間ですから、最初はどうしても冷たいという 感じがございます。それから、だんだん痛くなってきま 等を唱えていくわけです。 描かれた図が現在、国の重要文化財として残っているわ は熊野十二社権現と、大滝、そして円珍さまのご尊像が 行されたといわれてございまして、この近くの聖護院に その起こりと申しますのは、三井寺の開祖であります 智証大師円珍という方が熊野に来られて、熊野を中心と ざいましたように、熊野から大峯、吉野に向けて歩くと 私どもの仲間に消防の救急救命士という男がございま して、彼からは二十分ぐらいが限度だろうと言われてい 育って、また、那智の滝水をいただきながら大きくなっ 願いいたします。 4 熊 野修験:那智四十八滝の 荒行(青岸渡寺滝行) まして、それが、いったん滝の中に入りますと、われを す。それをも通り過ぎますと、体の中を水が流れるがご 高木 亮英 とく、無心と申しますか、無感覚ですから、一心に不動 けでございます。 忘れて、お不動さんのご真言、または読経、他のご真言 ただいまご紹介い た だ き ま し た 、 那 智 山 青 岸 渡 寺 の 高 木でございます。京 大 医 学 部 の 近 く と い う か 、 病 院 近 く 明王のご真言を唱え、不動明王に守られているというこ 実は先生には恐縮 な ん で す け れ ど も 、 昨 晩 九 時 前 ご ろ でしたか、お電話を い た だ き ま し て 、 レ ジ ュ メ を つ く れ ことに恐縮ではあり ま す 。 なってくる。そんなような状況です。 ます。人が死んで二日三日たつと、血液の関係で紫色に り過ぎますと、死人と申しまして、血液が紫がかってき それから肌の色も、私は色白ですから最初は白いです けれども、だんだんピンク色になってきます。それを通 います。しかし、明治二十二年以前は大斎原、音無川と 二 十 二 年 (一八八九)ま で 鎮 座 さ れ て い た と こ ろ が、 同 特に本宮、皆さん行かれた方も多々あるかと思われま おおゆのはら すけれども、大斎原と申しまして、熊野川の中州に明治 ございます。 那智と、この三つのお山を中心とした信仰であるわけで してご修行なされて、特に那智山大滝を中心としてご修 に 行 き ま す と 熊 野 町 と い う と こ ろ が ご ざ い ま す け れ ど、 とでございます。 那智四十八滝回峰 その本家本元からや っ て き た も の で ご ざ い ま す 。 熊野信仰とは何ぞやと申しますと、申すまでもなく、 熊野三山に対する信仰で、ご承知のように、本宮、新宮、 とかいうことで。本 来 九 時 前 ご ろ で す と 寝 て い る と き で そして、水の中から上がりますと震えが来ます。生死 の境で命懸けです。だいたい五十分近くつかっています 岩田川の中州に鎮座していたのが熊野本宮大社でござい そして、私は学者 、 先 生 で は ご ざ い ま せ ん の で 、 お 手 元にあるぴんぴらぴ ん の レ ジ ュ メ し か ご ざ い ま せ ん 。 ま ございまして。 ますので、 非常にひもがたくさん付いています。皆さん、 と、私どもは鈴懸と申しまして、山伏の装束を着けてい 寒いときは手がかじかむと申しますけれども、膠着しま 阿弥陀如来と申されます。 ます。ご承知のように主神は家津美御子大神、本地仏は 年の大洪水によりまして、現在では高台、中腹に移って 私どもは普段朝四 時 前 ご ろ に 起 き ま し て 、 那 智 山 西 国 三十三所の第一番の お 寺 で ご ざ い ま す の で 、 朝 の 五 時 か して、もう手が動きません。 その下流、熊野川を下ると新宮というところがござい 水から上がるときも、一人では立ち上がることはでき すずかけ ら勤行がございまし て 、 夜 は 早 う ご ざ い ま し て 、 十 分 な ものが準備できなか っ た こ と を お わ び 申 し 上 げ ま す 。 今回、那智の四十 八 滝 の 荒 行 と 申 し ま す と お こ が ま し いんですけれども、 行 の 一 端 を ま ず ビ ジ ュ ア ル に 見 て い 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 085 ますけれども、そこに速玉大社があるわけでございます。 形態をとっていたと思われますけれども、那智も、そう のご神徳、仏のご利益がいただけるということで、多く 当二世安楽」と申されまして、現在、未来にかけて神仏 もう一つは開放性と申しますが、どういうことかと申 しますと、昔はそういう聖地・霊場は女人禁制と申され 熊野修験と書かれていますけれども、これは狭義の熊 野修験であるわけですけれども、 熊野三山にはそれぞれ、 の方々、貴族、武士、庶民の方々がお参りされたわけで まして、女性は登拝することができなかったわけですけ 山伏、修験者があったわけでございます。本宮には証誠 いう典型的な神仏習合、神仏合体の聖地、霊場であるわ いまの所に降りてこ ら れ て 、 新 宮 と い う 地 名 が 付 け ら れ れども、この熊野におきまして熊野の信仰というのは、 殿と申しまして、主神をお祀りしたお社がございます。 けでございます。 たと言われてござい ま す 。 主 神 は 速 玉 大 神 、 ご 本 地 仏 は たわけでございます。 「浄不浄を嫌わず」と申しまして、誰でもお参りができ その前に山伏が集う所を長床と申しまして、いまでも福 その新宮と申します の は 、 山 の 中 腹 に ゴ ト ビ キ 岩 と い う 薬師如来といわれて ご ざ い ま す 。 ご 承 知 の よ う に、 熊 野 御 幸 と 申 し ま し て、 延 喜 七 年 巨岩を祀った神倉神 社 と い う と こ ろ が ご ざ い ま す 。 そ こ そして、私どものおります那智。那智と申しますのは、 那智の大滝を中心として開かれた所でございまして、私 (九〇七) 宇多上皇から始まりまして、 弘安四年(一二八一) 、 野にお参りなされたという記録が残ってございます。 亀山上皇に至るまで、約百数回にわたり法皇・上皇が熊 すけれども、証誠殿、長床に集う山伏ということで、本 島県の喜多方に国の重要文化財の長床というのがありま 熊野修験 ございます。 どものお寺を開かれた裸形上人という方は那智の大滝で されて現在の地に祀ったのが、そもそも那智山青岸渡寺 が本来の社であった わ け で す け れ ど も 、 い つ か の 時 代 に ご修行、水の行をなされて、そのとき観音さまを感得な の始まりといわれてございます。現在では西国三十三所 先ほど名前が出ました熊野町というのは、昔熊野に参 ることができなかった方々のために、熊野神社といって わけでございます。 ませんけれども、も と も と 本 宮 、 新 宮 に も お 寺 が あ っ た 昔は熊野三山それ ぞ れ に お 寺 、 神 社 が あ っ た わ け で す けれども、明治初年 の 神 仏 分 離 、 廃 仏 毀 釈 に よ っ て 壊 さ います。典型的な神仏習合を表しているわけでございます。 ご承知のように、お隣に熊野那智大社がございます。軒 が接して、お宮の軒とお寺の軒が一直線につながってござ うにして昔から熊野は、いまでもそうですけれども、非 また、一般庶民の人々も多くの方々が熊野に参詣する 様子は「蟻の熊野詣」などと呼ばれました。そういうふ 武家も熊野に非常に厚い信仰を寄せておりました。 国時代にいたっては豊臣とか徳川、今川とか、そういう そして、承久の乱を境として貴族政権が終わるわけで すけれども、それ以降は平家、源氏とか北条、足利、戦 して勧請されたわけでございます。 新那智山といわれている所があります。そういうふうに 山のほう、日赤の裏側にも、 「今熊野」と申されまして、 神社を山伏が勧請して、京都にも熊野神社をはじめ、東 れる方は百万人とも二百万人ともいわれてございます。 した。その機縁と申しますのは、現在も年間、熊野に訪 和 六 十 三 年 (一九八八)に、 山 伏 を 復 興・ 再 興 い た し ま (一八七二)の「修験道廃止令」ということで、熊野の山 れ ど も、 明 治 初 年 の 神 仏 分 離、 廃 仏 毀 釈、 明 治 五 年 そして那智には、那智の大滝を中心とした那智滝衆、 または那智滝籠衆と呼ばれる修験者があったわけですけ 倉聖という山伏があったわけでございます。 祭りであります。その新宮には神倉さんを中心とした神 「お燈まつり」という祭りが行われます。それも山伏の 新宮では、先ほど申しました神倉さんを中心として、 皆さんご承知かと思いますけれども、二月六日に火祭り 宮の山伏を長床衆と呼んだわけでございます。 の第一番の観音礼所として続いているわけでございます。 わけでございます。そういうところから、 熊野の信仰によっ 常に開放的な所でございまして、多くの方々がお参りさ 特に那智の主神の夫須美大神と申されますのは、千手 観音菩薩、観音さまがご本地仏としてお祀りされていた れたわけでございま し て 、 現 在 本 宮 と 新 宮 に は 残 っ て い て立つところの修験が熊野修験というわけでございます。 れたという特徴がございます。 熊 野 信 仰 の 特 色 と し て、 修 験 道 も そ う で す け れ ど も、 日本古来の神道とか 仏 教 、 陰 陽 道 、 宿 曜 道 と か 、 い ろ ん うのが記録にも残っ て い る わ け で ご ざ い ま す 。 ういう所に熊野信仰 を 広 め 、 熊 野 の 修 験 に 関 わ っ た と い 野の信仰のご利益をいただいたわけでございます。 は、その三千余の地方地方のお社にお参りなされて、熊 て、先ほど申しました、直接熊野にお参りできない方々 地に三千余の末社と申しまして、お社を勧請いたしまし 広域性というのはどういうことかと申しますと、熊野 の神、仏を、昔熊野で修行なされた山伏の方々が全国各 たわけなんですね。 まで行きまして、多くの人々を熊野に誘引・案内してき 験者が全国に散らばって、北は青森、南は鹿児島の果て しまして、先達、この熊野の山々、大滝で修行された修 のそういう人々が参詣なされておるのも、昔、山伏と申 伏は壊滅、途絶えていくわけですけれども、私どもは昭 先ほど星野先生の お 話 に も ご ざ い ま し た け れ ど も 、 熊 野修験というのは、 全 国 に 熊 野 の 山 伏 、 修 験 者 が 出 向 い 近年は世界遺産十周年ということで、日本の方々、ま た外国の方々もたくさん来られています。こんにち多く な宗教が融合され、 複 合 さ れ て 形 成 さ れ て い る の が 大 き そういう人々のおかげ、ご恩と申しますか、それでい までは私どももお寺に座っておれば全国各地から多くの て、羽黒山とか、日 光 、 四 国 の 石 鎚 山 、 九 州 の 彦 山 、 そ な特色でございます 。 熊野の信仰のご利益と申しますのはどういうことかと 申しますと、ひとたび熊野にお参りなされますと、 「現 特に山岳宗教、山 岳 聖 地 、 霊 場 と い う の は 、 そ う い う 086 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 対して復興したいと い う 思 い が 私 ど も に は 宿 題 か と 思 わ 出てまいりました。 そ れ は 父 親 の 熊 野 の 修 験 者 の ご 恩 に か、結袈裟、頭襟、 引 敷 と か 、 修 験 の 道 具 、 法 具 が 一 式 た。遺品を整理して お り ま す と 、 タ ン ス の 中 か ら 鈴 懸 と 個人的に申します と 、 先 代 の 住 職 、 私 ど も の 父 親 で す けれども、そういう も の を 復 興 、 再 興 し た い と 願 っ て い もは再び熊野修験を 立 ち 上 げ た わ け で ご ざ い ま す 。 感謝と申しますか、 そ う い う 意 味 で 昭 和 六 十 三 年 に 私 ど であるわけでござい ま す ね 。 そ う い う ご 恩 に 対 す る 報 恩 紀伊半島の最南端 、 一 番 南 の 端 で ご ざ い ま す 。 そ こ に 道迷うことなくして 熊 野 に 来 ら れ た の も 、 山 伏 の お か げ た多くの方々が熊野 に お 参 り で き た わ け で ご ざ い ま す 。 伏のおかげで、こん に ち も 熊 野 信 仰 は 全 国 に 広 ま り 、 ま 人々を道案内してき た わ け な ん で す ね 。 そ う い う 先 人 山 なされた修験者、山 伏 が 全 国 各 地 に 散 ら ば っ て 、 多 く の 方々が来てくれます 。 で す け れ ど も 、 昔 、 熊 野 で ご 修 行 回峰行、滝を巡る行をしたわけでございます。 比叡山の回峰行にちなんだわけではないですけれども、 わけです。そして、 翌年の平成四年から那智四十八滝は、 と符合して、これは何番の滝というのを確定していった 大きな木とか大きな岩が非常に残されていまして、それ わけですけれども、なかなか絵巻には、場所のポイント、 たまたま寺に「那智四十八滝絵図」という絵巻がござ いまして、それを写真に撮って、現場へ行って照合した 来しながら四十八の滝を確定したわけです。 んですけれども、約八十日かけて、お寺と山、滝を行き ろごろしていまして、どこに滝があるか分からなかった 滝のごとく見えますし、逆に日照りになりますと石がご どういうことかと申しますと、雨が降ればすべての川が 一 ( 九九二)ですけれども、実際は平成三年、四十八の 滝を探り当てて確認するのが非常に困難を極めました。 この那智四十八回峰を始めたのは平成四年 な行をしながら回るわけですけれども、非常に大変です。 から二十日、小寒から大寒にかけまして、先ほどのよう を巡っていくわけでございます。 で終わるわけです。そういう読経をしながら四十八の滝 僧正、神変大菩薩、そういうご法号を唱えて、「本覚讃」 伝教大師、弘法大師、智証大師、また、叡豪僧正、範俊 また、那智七先徳と申されまして、熊野の那智でご修 行なされた先徳、裸形上人をはじめ、一説によりますと とお唱えいたします。 お唱えいたしまして、そして、ご宝号と申しまして「南 お唱えしまして、また「三部総呪」 「諸天総呪」とかを この熊野十二社権現、熊野の神さまは十二あると申さ れまして、神仏習合時代のそれぞれの本地仏のご真言を そして、 「懺悔文」を唱えます。 ず、九字を切って、 「護身法」を結び、拍掌弾指をして、 那智四十八回峰、滝行と申しますのは、いま申しまし た小寒から大寒にかけまして行うわけですけれども、ま れども、時間の都合で割愛させていただきます。 ば滝を個々に説明させていただければよろしいんですけ 最初は一週間ぐらいかかりました。だんだん慣れてき ますと、三日か四日ぐらいで行けるようになって、現在 補陀洛渡海 ふ だ らく と かい 無熊野十二社大権現」とか、また「那智満山護法善神」 れまして、そういうことで立ち上げたわけでございます。 そういうふうにして始めた中で、那智四十八滝回峰荒行、 先ほどDVDで見ていただいたように、那智には那智四十八 滝と申しまして、四十八のお滝があるわけなんですね。 道なき道をまいります。その滝自体が、修験道でもそ うですけれども、山が神であり仏であるということで、 陀洛渡海記』という短編小説を書き表していただいたお 山寺というお寺がございます。以前、井上靖先生が『補 陀洛渡海」と書かれています。皆さん方も 最後に「補 ご承知かもしれませんけれども、この那智の下に補陀洛 特に四十八と申しますのは、それぞれそこに名前を挙げ も続けているわけです。 西の谷、東の谷、新客谷という四つの谷がございまして、 皆さん方、那智の大滝はほとんどの方が見られておら れると思いますけれども、那智のお山、その奥に、本谷、 そこに四十八のお滝が点在しております。それを一月六日 かげで、非常に高名というか、世間に知れわたって有名 さまの浄土を補陀洛浄土と申しまして、特に南方におわ になったお寺です。 しますということで、そこの歴代のご住職は、幾ばくか させていただいたんですけれども、 「二十八宿」と申し お寺へ参りますと必ず、内陣と申しまして奥まったと ころがございます。そこにご本尊なんかがご安置されて の食料と水を積みまして、小さな小舟で南方を目指して まして、星から取った名前、そして仏、神から取った名 いるわけですけれども、この四十八番目の内陣の滝とい 前二十と合わせて四十八になるわけです。 うのは、那智の滝衆、山伏にとっても「所在明かさず」 保七年 (一七二二) 、だいたい八五四年にわたりまして補 船 出 し た と い わ れ て ご ざ い ま す。 最 初 は 貞 観 十 年 陀洛渡海が行われたという所でございます。 ( 八六八 ) 、慶竜上人から始まりまして、江戸の中期、享 目の滝だけは分からない、目に見ることのできない滝で と申しまして、古来からその場所が分からない、秘密の あるわけでございます。 最初は補陀洛渡海と申しますのは、生身のお上人さま 滝、または、心の心中の滝とも申されまして、四十八番 そして滝を巡っているわけでございます。時間があれ 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 087 補陀洛渡海というのはどういうことかと申しますと、 熊野那智は本州の最南端であるわけでございます。観音 高木亮英氏 最 後 は 補 陀 洛 渡 海 と い う の も 形 骸 化 し て い き ま し て、 補陀洛山寺の、お亡 く な り に な ら れ た ご 住 職 を 小 さ な 小 も同行されたといわ れ て い ま す 。 ろんな思いを寄せて 、 い ま で い う 信 者 さ ん 、 そ う い う 方 上人さんに付き従っ て 、 在 家 の 方 で す が 、 和 尚 さ ん に い たといわれてござい ま し て 、 後 に 同 行 と 申 し ま し て 、 お を小さな小舟に乗せ て 、 海 の 南 方 か な た に 船 出 し て い っ がればということでお参りさせていただきました。 の修験者の心が世界中に行きわたって、世界平和につな も碑伝を納めてまいりました。そういうふうにして熊野 リカのロッキー、南米のブラジルのお山、そういう所に して、そこへも碑伝を納めたり、オーストラリア、アメ また、この前も私どもはスペインのサンチャゴという ところへ行ってまいりました。熊野古道が友好姉妹道で はヨーロッパアルプスにも行きました。 山、天台山、五台山、韓国のお山、そしてヨーロッパで ら、ここで閉じさせていただきます。どうもご清聴あり で、拙いお話ではございますが、時間が来たようですか 源にして人間の再生につながっていければということ 明日もお話があるかと思いますけれども、これからは そういう自然に慣れ親しんで、また、自然から得る力を うのが成立されるわけでございます。 そういうふうにして、やはり山というのは心身ともに 人間を浄化するところであり、そこで修行することが修 験、また、そういう集団で行くことによって修験道とい 舟に乗せて船出させたということが記されてございま がとうございました。 いるわけでございま す 。 現 在 で は 、 こ う い う 世 界 的 な こ そういうことで、 私 ど も は 昭 和 六 十 三 年 に 熊 野 修 験 と いうのを立ち上げて 、 復 興 い た し ま し て 、 現 在 も 行 っ て 熊野の那智滝衆、 那 智 四 十 八 滝 回 峰 衆 が 補 陀 洛 渡 海 を なされた。これは修 験 の 究 極 の 世 界 か と 思 わ れ ま す 。 上人となられて船出 し た と い わ れ て ご ざ い ま す 。 れども、熊野の山伏 、 特 に 那 智 の 滝 衆 が 補 陀 洛 山 寺 の お すべてがすべて修行 者 で あ っ た か は 定 か で は な い で す け ですから、そうい う 観 音 の 浄 土 、 補 陀 洛 浄 土 を 目 指 し て行ったのも熊野の修験者、山伏であるかと思われます。 うことが記録によっ て わ か る わ け で ご ざ い ま す 。 そういう厳しい行が 行 わ れ た の が 補 陀 洛 渡 海 で あ る と い 海 の 藻 く ず と な っ て 死 ぬ 運 命 に 至 る わ け で す け れ ど も、 ご住職となられて、 実 際 問 題 と し て は 、 物 理 的 に 申 せ ば す。特に那智滝修行 千 日 行 者 と い う 方 々 が 補 陀 洛 山 寺 の 熊野は山深い所で ご ざ い ま す け れ ど も 、 海 が 迫 っ て ご ざいまして、山の修 験 と 海 の 修 験 が 連 結 さ れ て ご ざ い ま れてございます。 ございます。 を歩くことによって、そういういろんな力を得るわけで 山へ入れば、六波羅密の行がございます。菩薩の行、 布施、自戒、忍辱、禅定、精進、智慧と申しまして、山 義ではないかと思われます。 そういうことで人々をお救いするというのが修験道の本 とによって得たいろんな力を人々に分け与える。また、 やはり修験道というのは、修行得験、山で修行をするこ を求めて修行するわけです。 先ほどもありましたように、 「上求菩提・下化衆生」 そういうことで、荒行を通して、 と書かれていますけれども、修験、修行というのは悟り と思います。 に対する感謝の念と畏敬を忘れては絶対駄目ではないか 鎌田先生が御嶽山のことに触れて『朝日新聞』 この前、 に投稿していましたけれども、日本人は、そういう自然 みに対する感謝と畏敬の念がございます。 命の母ともいわれています、水に対する感謝、自然の恵 それはなぜかと申しますと、そこには生命を育む水、生 そういうことで、まとめといたしまして、やはり那智 は那智大滝を中心として開かれたところでございます。 だきます。よろしくお願いいたします。 について、その荒行の傳師の戸田日晨師に発表していた それでは次は日蓮宗遠壽院の百日荒行という伝統的な行 せんけれども、それを明日につなげていきたいと思います。 た総合討論に入ります。今日の総合討論は長くはできま わかりませんが、法華宗、日蓮宗の独自の百日間の籠も 態について語っていただきました。 む海の修験道の世界、この三つの最も伝統のある修験世 ていま、熊野の山だけではなくて、海の補陀洛渡海も含 大峯修験道の世界、羽黒出羽三山の修験道の世界、そし れぞれとても伝統と由緒のある修験世界を、まずは吉野 上求菩提・下化衆生 す。そういう歴史の 変 遷 が あ る わ け で す け れ ど も 、 補 陀 洛渡海上人というの は 、 実 は 那 智 の 滝 衆 、 那 智 で 滝 修 行 された方が補陀洛山 寺 の ご 住 職 と な り 、 小 舟 に 乗 せ ら れ とを申しては何なの で す け れ ど も 、 ア フ リ カ の タ ン ザ ニ 鎌田 ありがとうございました。私たちは今日一日丸ご と修験道みたいな、本当にガチンコ修験道というか、そ アのキリマンジャロ (五八九五メートル)の頂上にも、碑 個人的なことを申しますと、山へ参りますと六根清浄 ですけれども、やはり六根、五感というのは非常に研ぎ て、海のかなたに送 ら れ た 、 流 さ れ た と い う こ と が 記 さ 伝と申しまして、天 下 泰 平 、 世 界 平 和 を 願 っ て 、 木 札 を 澄まされていきます。ほんとうに山に行くと、 水の匂い、 戸田 日晨 ご紹介をいただきました、千葉中山の日蓮宗の荒行堂 日蓮宗の荒行の歴史 5 日 蓮宗遠壽院の百日荒行 りの修行というのがあるので、それを聞いてコメント、ま ここで十分間休憩しました後、いままでは山の修験道が 中心ですが、今度は里の中で、修験道と言えるかどうか 界の特徴や本質、そこにおける行のさまざまな独自の形 納めました。 音に対する感覚も敏感になります。 木の匂い、そういうものに対する感覚が鋭くなります。 また、ネパールのカラパタール (五五四五メートル)と いう所へも行きまし た し 、 イ ン ド の 霊 鷲 山 、 中 国 の 普 陀 088 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 す。これを読んでい た だ け る と 、 ち ょ っ と 小 難 し い 面 も もう少し加持祈禱の 内 容 的 な も の ま で 入 っ て き て お り ま の 日 蓮 宗 の 荒 行 の 歴 史 で す と か、 行 の 内 容、 そ れ か ら、 修法というのは加持祈禱のことでもありますけれど も、日蓮宗のという か 、 遠 壽 院 を 中 心 と し て 見 た 視 点 で 出しました。 分なりに日蓮宗の修 法 に つ い て 小 著 と し て ま と め た 本 を ですから、インタビ ュ ー 形 式 だ っ た ん で す け れ ど も 、 自 て、そんなかたちで 進 め た い と 思 い ま す 。 しするぐらいしかできないんじゃないかなと思いまし いて、それから、実 際 の 行 の 現 場 と し て の 在 り 方 を お 話 短めに進めていきた い と 思 い ま す 。 私はいろいろ器具 を 操 作 し て 話 を す る こ と は ほ と ん ど ないもので、時間ば か り か か っ て し ま う の で 、 な る べ く います。お願いしま す 。 遠壽院の住職で荒行 堂 の 傳 師 を し て お り ま す 戸 田 で ご ざ 開宗祖師として登場されて今日まで至っている。その他 ですから、いろいろな流れがあったのだと思いますけ れど、その後、ご存じのように、日蓮聖人が鎌倉仏教の 目が彫られているそうです。 ただけなんですけれど、石に南無妙法蓮華経というお題 天社の奥之院の社のご本尊の所は、私は宮司さんに聞い 高野などにも出向いたりしているわけです。天河大辨財 ちらを修行遍歴したときに、比叡山の回峰行、それから、 伝わっているので、当然日蓮聖人は比叡山を中心に、こ また、その前はいまの天台回峰行の根本道場のある明 王堂がある無動寺谷にもいらっしゃったという話も少し て運営・管理している場所がございます。 蓮聖人がおったということで、日蓮宗が比叡山に任され 比叡山では三塔のうちの横川の定光院というところに日 ただ、このへんのところの宗祖日蓮聖人の動きは、あ まり深く研究はされていないようでございますが、主に 高野を回られて游学されたと伝わっているわけです。 く。そして比叡山を中心に京畿というんでしょうか、 奈良、 の慣例でございますよね。勉学のできる僧侶は比叡山へ行 十二年間、こちらの京都へ来て、主として比叡山で、当時 葉県南部、安房の清澄寺という所で出家されて、その後 人が若いころ、十二年間といわれておりますけれども、千 るわけです。 剱という法具を持ちまして祈禱加持をしていくことにな 禱修法の奥義を伝授し伝えていくということに非常に強 我々の場合は百日の荒行をするという、一つの加行で すけれども、それと同時に、祈禱の相伝という、加持祈 何流派にも荒行の祈禱流派が出来上がってくるわけです。 を使っていますけれども に百日加行をし それに対応するかたちとしてといいますか、自然発生的 いろいろなものが合体されて日本の自然豊かな所での宗 は、仏教を中心として陰陽道、道教、神道、古神道行法、 しいのではないかと思っているわけです。修験道の中に ですから、いみじくも法華修験道というものを印刷に 入れておりますけれども、私もそういう位置付けでよろ 形づくっていったらいいかという動きだと思うわけです。 ですね。それを日蓮宗の法華信仰の立場から、どのように 回のテーマになっているところの日本独特な宗教観の流れ して、つまり、日本古来の神道も含めた修験道という、今 日蓮宗の百日の荒行に関しては、日蓮聖人の教学的な ところとは違う流れから発生しているということがありま 皆 さ ん に 配 っ て い た だ い た か と 思 う ん で す け れ ど も、 たまたま今年は私の 師 匠 で あ る 父 の 十 三 回 忌 だ っ た も の 何の話をしましょ う か ね と 思 っ て ま い っ た ん で す け れ ど、最初は日蓮宗の 荒 行 の 歴 史 の 話 を 少 し さ せ て い た だ ありますけれども、 だ い た い 大 ま か な こ と は ご 理 解 い た 日蓮宗の祈禱の流派は、江戸期に全盛となりまして、 この京都にも唯観流という流儀ができたり、山梨県にあ その中で、特に江戸期には 荒行のことは「加行」ということば ― その中でいろいろと、先ほどからお話が出ているよう に、地獄界から仏界までの十界ごとに、十日ごとを当て いてあるわけで、百日というのは一つの単位ですね。 よねと。神道の行法にも百日参籠というのが何百年と続 ですから、先ほども羽黒山の星野さんとも話していた んですけれども、百日という行の単位は昔からあります ことで行われました。その場合、 海の中での水垢離ですね。 ら託されていたこともありまして、成就するようにという をしたと。それは「帝都弘通」ということを日蓮聖人か それから日蓮聖人の弟子、孫弟子の方々も、たとえば 日像上人という方が鎌倉の由比ヶ浜で百日の水垢離の行 鎌田 それはかつお節というんです (笑) 。 戸田 かつお節というんだ。 と、さっき思ったんですけど。 山伏ではなくてね。海伏というのもいるのではないかな また、私は中山というところなんですけれど、里伏と 呼ばれたのは生まれて初めてなので、いい名称だなと。 と思います。 周りが山ですので、いまの回峰行的な行が中心であった 場合は、どちらかというと、参籠お籠り行というよりは、 る総本山の身延山にも祈禱の荒行の流儀ができ、そこの いものがありまして、百日荒行を終えた人たちは皆、木 ― 教 修 行が発 達してきたわけですので、日 蓮 宗 としても、 だけるのではないか な と 思 う わ け で す 。 いろいろな門流があるわけでございますけれど。 たりとか、そういう行法も伝わっていると思いますけれ 中山というところは里でありますが、一応山でもある んですよね。小山があるところなんですけれども、そう ども、そういう流れがあるなと。 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 089 百日荒行ということですけれども、日蓮宗では、もち ろん宗祖の日蓮聖人を開祖としておりますので、日蓮聖 戸田日晨氏 後で水行肝文という の を 聞 い て い た だ き ま す 。 水行法が考えられて き た と い う 流 れ が あ り ま す 。 そ れ は いうところでの行。 た だ 滝 が ご ざ い ま せ ん の で 、 独 特 な がございました。 して、発表させてもらったんですけれど、そういうこと たときに、遠壽院に伝わる護符の話をしてくれとなりま 来の行だなと。大道場をつくり出すと、百人、百五十人、 が来ておりますけれども、少人数でする行というのが本 を今日もたらしていると思います。今年も八人の修行僧 動きの中、修験道も 本 当 に 大 変 な 思 い を さ れ 、 我 々 日 蓮 そして例によって 、 明 治 維 新 に な り ま し て 廃 仏 毀 釈 が あり、寺院ならびに 修 験 道 の 加 持 祈 禱 を 廃 絶 せ よ と い う 場の中は、おそらく軍隊式の団体指導のようなかたちが そうですね。日蓮宗の荒行、禅宗の僧堂も含め、修行道 それから、明治になりますと、日本も富国強兵、国民 皆兵で、軍国思想というものが出てきます。学校教育も う流れがあるわけです。 なりがちかなという面も見受けられるわけです。そうい しても集団管理の思想が出てきて、ちょっとこちこちに 二百人というかたちになってまいります。すると、どう 宗のほうも、ほとん ど す べ て の 加 持 祈 禱 の 流 儀 は 廃 止 に 加行堂清規 明治以降まん延していったのではないかと、私なんかは 推察しているんですね。 なってしまったわけ で す ね 。 身 延 も 廃 止 に な る 。 中山にも遠壽院の ほ か に 、 も う 一 寺 あ っ た ん で す け れ ど、それも別の案件 で 廃 絶 さ せ ら れ ま す 。 結 局 、 明 治 に これを飲んだところ 、 ま っ た く 異 常 を 来 た さ な か っ た の という、これは加行僧がつくる大事な薬符なんですけど、 んがみんな並んでい る と こ ろ で 毒 を 飲 み 、 そ の 後 で 護 符 時の遠壽院住職が千 葉 県 庁 ま で 出 向 い て い っ て 、 役 人 さ そういう流れの中 で 遠 壽 院 の 加 持 祈 禱 も 廃 止 し ろ と い う命令が千葉県令、 い ま の 県 知 事 か ら 出 た と き に も 、 当 中心となり加行の次 第 を 決 め た わ け で す 。 行ができたわけです 。 そ れ は 、 そ の と き の 遠 壽 院 住 職 が つ ま り、 明 治 八 年 (一八七五)か ら 初 め て 年 度 制 の 百 日 き に な っ て き ま す の で、 年 度 制 の 百 日 加 行 に な り ま す。 から国家管理の宗教 団 体 と の 関 係 を 明 確 に せ よ と い う 動 そして、それまで は 百 日 の 荒 行 と い う の は 、 入 行 者 一 人一人が自分の意思 で 入 行 日 を 遠 壽 院 伝 師 と 相 談 し て 決 流だけのです。 ところでやられていますけれども。 開設された身延山さんの大道場はなくなり、いまは別の て一緒に大人数の大道場をつくろうよと。今日では戦後 の流れが起きると、では、別のところにみんなで集まっ した。それから何十年かたつと、またそういう宗内政治 いな、そういう場所が脱走者を中心に身延山に作られま 宗派の制度で公認されれば自分たちでできるんだ」みた その中で、昭和二十二年に修行僧の脱走事件が起き、 別の所に大きな修行道場をつくり、要するに「俺たちは した時代となりました。 太平洋戦争の敗戦ということで、まったく価値観が逆転 遠壽院が七十五年間、明治以降唯一残った日蓮宗の荒 行堂として続いたんですが、そういう流れの中、アジア に漏れず、ずっとそういうことが起きてきている。 が指摘されるようになってきています。日蓮宗もご多分 報道機関からは、修行道場の抱えているいろいろな問題 磨以テ上求下化ノ法器タランコトヲ期スヘシ 住シ、朝艱、暮辛、晝餧、夜凍ノ清苦ヲ忍受シ身心錬 いのではないかと思うので、読ませていただきます。 しているかということはこれを読むのが一番わかりやす 現行でも、一応これに準じておりますので、ちょっと 面倒くさいというか、長くなりますけれど、どんな行を 規定されておったわけであります。 のもありまして、より詳しく、細かに修行道場の内容を 「 禅 苑 清 規 」 と か が あ る わ け で す。 い ま の 清 規 は 昭 和 者に渡して読ませるわけです。 規」というのは修行僧に対する規則、決まりごとです。 行というのは荒行の行法全体のことですけれども、 「清 のお手元に「加行堂清規」というのがございますか。加 しん ぎ あまりそういう話ばかりしていてもしようがないの で、私も何を話していいか分からなかったので、皆さん で、では遠壽院は日 蓮 宗 な の で 、 日 蓮 宗 の 加 持 祈 禱 は 廃 想像していただければありがたいのですが、そんな中 で遠壽院という道場の伝統を守ることが、いかに大変な それが近年いろいろなかたちで問題が噴出していると いうか、まだ一般紙には少ないですけれど、宗教関係の 絶しないで続けなさ い と い う お 触 れ が 出 た と い う 有 名 な ことなのかということがあるわけでございます。一つの 一、在行中ハ総テ伝師ノ命ニ服従スヘシ なって日蓮宗の祈禱 流 派 と し て 残 っ た の は 中 山 の 遠 壽 院 話が伝わっています 。 宗派の中の一寺院でございますからね。 一、在行者ハ互ニ相敬重シ、漫リニ親疎差別ノ邪念 けれど、遠壽院の住 職 だ か ら こ そ そ う い う こ と を 特 に 主 ス 一、在行者ハ日課ノ読経並ニ水行等怠ルコトヲ許サ ヲ起スコト勿レ 一、在行中ハ白木綿単衣及如法衣着用タルヘシ 「加行堂清規。凡ソ加行堂ニ入リタル者ハ信念堅固ニ 十五、十六年ごろにつくられたものです。それ以前のも これは荒行堂に限らず、禅宗の僧堂、町田先生が何十 年雲水のつわものでいらっしゃった禅堂でも、もちろん これが述べられておりまして、これはみんな修行に来る それで日蓮宗の百 日 の 加 持 祈 禱 が 存 続 す る こ と が で き たということは、多 く の 宗 門 人 も 知 ら な い 人 が 多 い で す ですから、そのような流れの中、やはり公認というこ とをお坊さまたちは大事にする傾向がありますので、遠 めていればよかった ん で す け れ ど も 、 明 治 に な り ま し て 張しておきたいので す 。 らざるを得ない状況がずっと続いてきた。 それはそれで、いまとなってみると、非常に良い結果 壽院は伝統がありながらも、宗門公認ではない立場を取 その護符に関して は 、 鎌 田 東 二 先 生 と 偶 然 何 年 ぶ り か で パ リ で ば っ た り 出 会 っ た ん で す が、 コ レ ー ジ ュ・ ド・ フランスで日本のお 札 に 関 す る 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム が あ っ 090 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 一、 在 行 者 ハ 読 経 肝 文 ノ 外 ス ヘ テ 寂 黙 ヲ 守 リ 戯 語 、 雑談等ハ勿 論 高 声 ヲ 発 ス ル コ ト 勿 レ 一、在行者ハ寮 ノ 出 入 ニ ハ 必 ス 脚 下 ヲ 顕 照 シ 乱 足 又 ハ騒歩スル コ ト 勿 レ 一、在行者ハ寮 ノ 出 入 ニ ハ 必 ス 又 手 シ テ 進 止 須 ク 静 粛如法タル ヘ シ 一、在行者ハ各 寮 交 々 ミ タ リ ニ 往 来 ス ヘ カ ラ ス 」 一 応、 五 回 目 の 行 、 五 行 と い う 区 切 り が あ り ま し て 、 四回目は四行、三回 目 は 三 行 、 二 回 目 は 再 行 、 初 め て の 方は初行ですね。そういう行ごとの区分があるわけです。 得ス」 「 一、 在 行 者 ハ 法 喜 堂 ノ 外 他 ニ 於 テ 食 事 ヲ ナ ス コ ト ヲ 一、在行者ニシテ世人ト面会スル時ハ威儀ヲ乱スコ トナク又五分時ヲ超ユルコトヲ得ス 一、在行者ニ万一疾病等ノ事故アルトキハ伝師ニ申 出テ其ノ指揮ヲ受クヘシ 一、水行時間左ノ如シ 午前三時、六時、九時、正 午、午後三時、六時、十一時ノ七度ニシテ濫リ ニ増減スルコトヲ許サス 一、入湯度数及時間ハ左ノ如シ 毎週一度、午前十 時ヨリ午後四時迄トス 但入浴時間ハ十分時以 内ナルヘシ 又浴場ニテハ水行雑談等堅ク禁制 タルヘシ 一、加行堂ニハ伝師副伝師及当院事務員ノ外濫リニ 五時三十分に夕食ですね。同じようなお粥を中心にい ただきます。 六時に水行。 七時に夕課というのは、夕勤ですね。夜のお勤め。 十一時に水行。 十一時三十分に就寝ということです。 これ以外の時間は読経堂というところに菰ござを敷き まして、そこに座り、ずっと読経を続けるわけです。 そうかと思うだけですけれども、 単に字面だけみれば、 実際行をするとなるとけっこう大変です。これを百日続 けていくとなると、どうなんだと。 いま八名の行僧が来ていますけれども、私もどうも歳 のせいか、 午前一時半とか二時前に起きてしまいまして、 三時に荒行堂へ行けばいいんですけれども、その間しよ 出入ヲ許サス 意外と朝、深夜ですけれども、そういう誰も起きてい ない時間というのははかどるなと思います。九時過ぎる うがないんで、自分でお茶を入れて飲んで、ちょっと書 一、事務員ノ執務時間ハ午前八時ヨリ午後四時迄ト 至修法者ノ体面ヲ汚瀆シタルモノハ直ニ退堂ヲ き物が残っているのをやったりしています。 命スルコトアルヘシ ス 但シ臨時急務ノ場合ハ此ノ限リニ非ス 一、在行者ニシテ清規ヲ乱シ又ハ他ニ錬行ヲ妨ケ乃 法喜堂というのは 、 い わ ゆ る 食 堂 で ご ざ い ま す 。 食 堂 で修行僧が交代で食 事 の 当 番 を し 、 自 分 た ち で 食 事 を つ と人々が動きだすので、その世界からは遠ざかり、表の 動きに合わせているようなところがあります。 しかも遠壽院の住職ですから、外用もいろいろある。 ただ朝は少し留守居というか、補佐役の者にしっかりと これが修行僧の大まかな百日行の決まり事です。 次に「荒行堂日課」というのがあります。荒行僧は一 日をどんな時間割で過ごしているのかというものですね。 いました。 だと思うんですけれども、いまはじいさんになってしま 一日七回やる「水行肝文」というのをかけていただき ます。これは十四、十五年前に私が入れた入行志願者の 遠壽院加行所伝師部」 冀クハ在行ノ清侶威儀整齋ニシテ細行ヲ愼ミ以テ大 徳ヲ成スヘシ。至嘱 くります。 「一、在行者ハ法 喜 堂 並 ニ 浴 場 ノ 箴 規 ヲ 遵 守 ス ヘ シ 一、在行者ハ飲 酒 喫 煙 ス ル コ ト ヲ 得 ス 一、在行者ハ五 辛 葷 腥 等 ノ 不 浄 食 ヲ 許 サ ス 「初」と書いているのが、午前二時五十分振鈴、起床 ですね。堂内で鈴を鳴らして、駈けるようにして同行僧 (CDを流す) 見ていてもらうわけです。 を起こす。 一、在行者ニシ テ 貴 金 属 又 ハ 金 銭 等 万 一 紛 失 セ シ 場 求ノ取次等 ヲ ナ ス コ ト ヲ 許 サ ス 一、在行者ニシ テ 他 ヨ リ 商 人 ヲ 呼 ヒ 入 レ 直 接 物 品 購 炊事雑役ノ者ト雖モ水行ヲ怠ルコトヲ得ス) ヲ旨トシ仏祖ニ給仕スルノ念ニ住スヘシ (但シ それで午前三時が水行。後で水行の肝文をかけていた だきます。 一、在行者ハ毎 日 交 代 ニ 法 喜 堂 ノ 勤 労 ニ 服 シ 、 清 潔 合アリ共他 ニ 累 ヲ 及 ホ ス コ ト ヲ 得 ス 」 四時に朝課、朝のお勤めですね。 五時三十分に粥座ですから、お粥の朝食。あとはみそ 汁と梅干し、それから、食材があるときは納豆ですとか、 自分で桶を持っ 滝行や、池や川での水行ではないので、 て、その桶で水行するわけです。水をたくさんためた水 水を汲んだ桶を「盆のくぼ」に当てると、水が飛び散り 盤の中の水を自分で桶で汲み、こうして両手で反動で、 六時に水行、九時に水行、正午に水行、午後三時水行。 豆腐、厚揚げとか。野菜等の食材があるときは、それを 炒めたり、煮たりとかいうこともしています。 です。 いまのが水行肝文ということで、この肝文というお経 を唱えて水行という行をするわけです。これは一日七回 練習用の水行肝文で、声がもっと今よりしっかりした声 いまの時代ですから、いろいろ何か品物を取り寄せる ことが必要なときが あ る わ け な の で 、 そ う い う 取 り 決 め があるということな ん で す 。 「一、在行者ハ濫リニ世人ニ面会スルコトヲ得ス 但法楽加持又ハ伝 師 ノ 許 可 ヲ 得 タ ル 時 ハ 此 限 リ ニ 非 ス 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 091 ますよね。それを一回につき七杯から十五杯、「澡欲塵 大仰に、あまりにも表向きだけすごいだろうというのを 迫力をもって『法華経』中の「陀羅尼品」が唱えられます。 の音の凄まじさはすごい。木剱を使ったときの読経のど た倉島哲さんにコメントしていただきます。よろしくお 行はそんなふうにやりかねないところがあります。オウム のサティアンはそういうことになってしまいましたね。 願いします。 やり出しますとあぶないですね。密閉された部屋の中の まったくそれと関係ないのかといったら、よほど関係 あるわけでして、伝統教団でやっている伝統的な行場で 穢 著新浄衣 内外倶浄 安処法座」と唱えながらかぶ るのを続けるわけで す 。 すから、そういう増長慢心といいますか、 「俺は何回行 さ て、 こ こ で 身 心 変 容 技 法 研 究 会 を 代 表 し て コ メ ン テーターとして、関西学院大学で社会学を講じていて、 ではないか。盆のく ぼ と い う の は 、 背 骨 の 首 の 付 け 根 の 哲 二年間続けて吉野の金峯山寺のミニ修験行を体験してき 出っ張りのところで す よ ね 。 気 の 流 れ な ん か で も 、 い ろ に来たんだ。何十回目だ。何千日の行をしたんだ」と足 倉島 見ていると、どうもえてして多いんですよね、その手 の傾向の人が。ですから、うちの行僧に関しては、そう 関西学院大学社会学部の倉島哲と申します。すばらし い四人の方のお話の後で、つまらない蛇足を付けてしま 6 コ メント とか遠壽院の伝統を保った行僧として満行していっても 同じ水行でも、滝 行 と か 池 川 水 行 と は 異 な り 、 自 分 の 身体動作を用いて行 を す る と い う の が 、 我 々 の 行 の 特 徴 いろといわれている 場 所 で す 。 はないかなと思います。 でいく。 らいたいなと。それがひいては日蓮宗にとって、いまは し算して、どうだみたいにやるのが、私は一番怖いので ですから、僕らの 荒 行 と い う の は 、 い ま の 水 行 肝 文 に 代表されるように読経を徹底してやっているわけなの 行を始めると、最初のうちは声が出ないんです。「はあ」 みたいな声で、喉が 切 れ て 血 た ん が 出 た り す る こ と が あ わないかと心配ですが、 十五分ほどお付き合いください。 で、『法華経』というお経を何十巻、何百巻と読み込ん ります。そういう段 階 を 過 ぎ て い く と 声 が 落 ち 着 い て く 遠壽院の立場は微妙に難しい面があるかもしれませんけ 私は鎌田先生の身心変容技法の科学研究費の研究会に 参加させていただいて四年目になります。研究の一環と 私の体験修行 るというか、自分の 行 者 と し て の 声 道 が 鍛 え ら れ る と い れど、長い目でみればいいことになると思い、日々行中 は過ごしているわけでございます。 野の金峯山寺の修験道体験修行にのべ五回参加させてい 寮といって、行僧の 世 話 を し た り 、 外 部 と の 取 り 継 ぎ 役 私たちは電話等はいいよと言っています。ただし、知客 き っ ち り や る と 本 当 に 大 変 な ん で す が、 現 代 に 即 し て、 それから、問題というのは、いま読み上げた「加行堂 清規」という厳格な も の が あ る ん で す け れ ど も 、 こ れ を を共にするわけなので、そういう大変さももちろんある。 何人もの人とやったりするので、その中には人間綾模様 があり、いろんな生まれ育ちで来た人たちと一緒に行生活 うような感じでしょ う か ね 。 そして、静の中にも 動 が あ り 、 動 の 中 に も 静 が あ る と い け れ ど も、 一 つ の 集 中 し た 流 れ の 中 に 自 分 の 身 を 置 き 、 ので、そこから見え て く る も の は 千 差 万 別 だ と 思 い ま す るべきものは音ですね。声とか音とかの問題は遠壽院の 対照的なところがありますが、遠壽院で鍛えられるおそ 自然の中に分け入って行をやる世界と、一つの修行所 に入って百日間もそこにこもってやるのとは、まったく きり変わっています。 ラというのか、気というのか、があっと出て、声がまるっ だけですから、よれよれの状態になっていますが、オー なるとひげがぼうぼうになっていて、おそらく服も白衣 入行のときから卒行というのか出行というのか、最後に 子は知っています。 もの凄い迫力がだんだん出てきます。 そこで、行僧たちの読経の凄まじさや行中の御祈禱の様 私は戸田日晨師の遠壽院へは四十~五十回ぐらいは 行っていると思います。 お寺に泊まったこともあります。 鎌田 どうもありがとうございます。 というのは、修行をして最初に言われることは、とに かく周りに合わせなさいということだったからです。周 うど逆のことが行われているという印象を受けました。 て、 私が体験修行に参加させていただいた限りでは、 ちょ 越的で絶対的な決まりごとの世界に足を踏み入れること す。一般的に宗教的な修行というと、世俗を離れて、超 いちばんの発見は、修験道の修行というものが、修行 についての世間一般のイメージとは違うということで はわからないことを発見することができました。 に自分の身体で体験してみることで、本を読んだだけで 四人の皆さんがお話しされたような、ものすごい荒行 と比べれば取るに足らない修行ですが、それでも、実際 して、ここ二年の間に、田中利典先生がお話しされた吉 そんなことでよろしいでしょうか。とりとめのない話 でしたが、どうもありがとうございました。 いうのに毒されている部分も多少ありますけれども、何 うか、そういうかた ち で 声 を 鍛 え て 腹 か ら 声 を 出 す 。 そして、読経三昧 、 水 行 三 昧 で す か ら 、 あ と は 食 事 を つくったりする以外何も余計なことをやる必要はない をする僧の詰める事 務 所 の 電 話 を 使 い な さ い と ね 。 自 坊 行において決定的に重要であると思います。 し、外部情報のよう な も の は 一 切 耳 に し な い よ う に す る など外部と連絡を取 っ た り す る の も 今 の 時 代 は や む を え 囲のみんなのことを考えて、自分勝手なことは絶対にし である、というイメージがあると思います。それに対し る修行ではなくて、日帰りか一泊二日の修行です。 ただきました。これは、大峰奥駆のような何日にもわた ないことです。そん な と き は あ り ま す か ら 。 読経の声もそうですが、木剱を使って御祈禱するとき し か ただ、いま読んだ清規の内容とだんだん離れていって、 092 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 なければならない。 ア レ ル ギ ー が あ っ て も 食 べ な さ い と かも、好き嫌いせず に 出 さ れ た も の を 全 部 き れ い に 食 べ 周 囲 に 合 わ せ る の は 食 べ る 速 さ だ け で は あ り ま せ ん。 正しい姿勢で、しゃ べ ら な い で 食 べ な け れ ば な ら ず 、 し り遅く食べ終わるこ と で す 。 食べてはならず、な か で も 絶 対 に い け な い の は 、 先 輩 よ ですが、修験道でも 同 じ で し た 。 周 囲 を 無 視 し て 勝 手 に ご 飯 を 食 べ る と き も 勝 手 な 速 さ で 食 べ て は い け な い。 こうした生活の規律 で 有 名 な の は 禅 宗 の 僧 堂 だ と 思 う の 周りの人に合わせて 歩 き な さ い と い う わ け で す 。 できなくなり、後ろ の 人 に 非 常 に 迷 惑 が か か る 。 だ か ら い。前の人と間隔が 空 い て し ま う と 、 全 体 の 意 思 疎 通 が 人に置いていかれな い よ う に 付 い て い か な く て は い け な もちろん、長く歩いていれば体力的にきつくなり、し んどくなります。し か し 、 無 理 し て で も 、 と に か く 前 の ない。速すぎてはい け な い し 、 遅 す ぎ て は い け な い 。 も、前の人と後ろの 人 の 間 隔 は 常 に 一 定 で な く て は い け たとえば、修験道 で は 抖 擻 と い っ て 、 列 を な し て 歩 く ことが修行の重要な 要 素 に な っ て い ま す が 、 そ の と き に てはいけないという こ と を 徹 底 的 に 言 わ れ ま し た 。 を「 ボ ジ ソ ウ カ 」 と 読 む の で は な く、 「ボージソウカ」 の 方 の テ ン ポ が 違 い ま し た。 た と え ば、 「菩提薩婆訶」 ださい」と。さらに、私が知っている読み方とは、最後 るでしょうが、ここでは金峯山寺の読み方にならってく の点を注意されるわけです。 「それぞれの家に宗派はあ 最後の「ツ」をしっかり発音する。勤行のさいには、こ す が、 金 峯 山 寺 の 場 合 は、 「 カ ン ジ ザ イ ボ ー サ ツ 」 と、 在菩薩」を「カンジザイボーサー」と読むそうです。で て読み方が違います。たとえば、真言系の宗派は「観自 真言を唱えることです。ただ、「般若心経」も宗派によっ 山道に点在する祠や石碑の前で、 「般若心経」と様々な 山寺蔵王堂と目的地の山上蔵王堂、そして、両者を結ぶ 勤行をあげることができます。これは、出発地点の金峰 修験道の話に戻りますが、周囲に合わせることに焦点 が当てられる活動として、抖擻・食事・入浴のほかに、 抱える問題だと思います。 たことではなく、あらゆる宗教における修行が潜在的に 思います。 しかし、 これは日蓮宗の大荒行や修験道に限っ 隊式の集団規律の行き過ぎには気を付ける必要があると こうして見ると、新客は、軍隊の初年兵のようなもの だと言えなくもありません。戸田先生が指摘された、軍 ありません。 ないように、とにかくざばっと入って、さっと出るしか ので長湯をするわけにはいきません。周りに迷惑をかけ ます。新客は最初に入りますが、先輩たちが控えている 参加者、その次は三回目、と続いて、最後に先達が入り うとする努力、このように周囲の人々に支えられた努力 開きすぎないようにする努力、先達の掛け念仏に応えよ 一人ではおそらくできないはずです。前の人との間隔が 人が、一日に十キロもの山道を早足で歩き通すことは、 もちろん、世俗と同じだから悪いなどというつもりは 毛頭ありません。現実に、日頃それほど運動していない れた形で、修行の規範になっている。 た世俗の生活規範が、そのまま、あるいはむしろ純化さ はきちんと相応のお返しをすることなどですが、こうし 惑にならぬよう配慮すること、人様にいただいたものに 囲と比べてあまり変わったことをしないこと、周囲の迷 のは、絶対的基準に照らして正しいかどうかよりも、周 範に近いのではないでしょうか。日々の暮らしで大切な な存在が定めた聖なる規範というよりも、世俗の生活規 けです。ところで、こうした振る舞いの規範は、超越的 は、という身体の構えができるからだと思います。 てくれているんだから、こちらも一所懸命に応えなくて な声を出すことによって、不思議と力が出てくるのです。 と、確かに元気が出ます。先達の呼び掛けに応じて大き と唱えるわけです。このように声を出しながら山に登る に応えて、声を合わせて大声で「懺悔懴悔、六根清浄」 と大声で声をかけます。修行者たちは、先達の呼び掛け トソウ までは言わないけれ ど も 、 よ ほ ど の こ と が な い 限 り 全 部 と最初の音をちょっと伸ばします。このような細かな違 があってこそできることです。 というか、世の中の付き合いの原理です。相手がこれだけ ると思います。極端な言い方をすれば、世間のしがらみ さて、いくつもの事例を挙げて、周囲に合わせること が入山修行においていかに大切であるかを述べてきたわ 垂直軸と水平軸 おそらく無意識のレベルで、先達が一所懸命に声をかけ 食べることを求めら れ る 。 いに気づき、自分の声を周囲に調和させることが求めら それでは、このように周囲に合わせることにどのよう な効果があるのでしょうか。端的に言えば、自分一人で のことをしてくれたから、お返しに同じだけ返さなくては ゴンギョウ お風呂に入るときも同じです。順番が決められていて、 初参加の人つまり新 客 か ら 先 に 入 り ま す 。 次 に 二 回 目 の れるわけです。 はできないことができるようになることが最大の意義だ をお返しする。これと同じ原理が、山の修行という意外 と考える。三千円のお歳暮をいただいたら、三千円のもの と思います。 これがいちばんよくわかるのは、「掛け念仏」 をするときです。登り坂がとりわけ厳しくなってきたと な場所で見られたことが私にとっての発見でした。 きや、危険な箇所を通るとき、先達がまず、 「懺悔懴悔、 六 根 清 浄 ( さ ー ん げ さ ん げ、ろっこー ん しょー う じょ う ) 」 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 093 けれども、こうした行動原理は、超越的な原則に則っ たものというよりも、世俗の原理に近いということは言え 倉島哲氏 係と、垂直軸の関係、つまり、自然の息吹を感じたり、 としますから、これは非常に危険なことが生まれます。 は自分たちが持っている原理をそのまま山に持ち込もう 険を伴うわけであります。ややもすると、いまの人たち ですから、山の修行をするときは、やっぱり山の原理 に自分たちが合わせるということが、まず心構えとして 神仏を見たり、身体の深いところの変化に気付いたりす ということです。修験道は水平軸と垂直軸の両方の要素 欠かせないわけで、自分たちの勝手でいくんなら、山伏 る、この二つの軸の関係はどうなっているんだろうか、 が含まれていると思うのですが、二つの軸の関係はどの どもが責任を持って山の修行をしてもらう以上は、山の もちろん、これだ け が 修 行 で は な い こ と は 承 知 し て い ます。人と人との関 係 だ け で は な く て 、 自 然 と の 関 係 も の中に入ると五感が 研 ぎ 澄 ま さ れ る と い う こ と も も ち ろ ように説明できるのか、 この点に非常に興味があります。 原理に合わせるということを、まず前提としているわけ 重要なはずです。高 木 先 生 が お っ し ゃ っ た よ う に 、 自 然 んあります。 もしよろしければ、田中先生、星野先生、高木先生、 戸田先生それぞれに、このことについてのお考えを伺え 修行ではなく、よそで勝手に行ってもらったらいい。私 ればと思います。私からのコメントは以上です。 さらに、私はその レ ベ ル ま で 達 し て い な い か ら 分 か り ませんが、超越的な も の と の 関 係 も 重 要 な は ず で す 。 た とえば、蔵王権現や大日如来を見る経験がそれでしょう。 であります。そのためには、自分たちが持っている原理 でないものにまず染まるということが大事であります。 体験修行は実は私がつくったシステムです。このシス テムをなぜつくったかというと、蓮華入峰とか、奥駈入 峰とか、正式な入峰をしたときに、 今までなら連れていっ てはいけないような一般の人を連れていくようになっ 行されたそうです。 そ の と き 、 背 骨 に 非 常 に 精 妙 な 波 動 成就したのち、奥駈 道 の 途 中 に あ る 笙 の 窟 に こ も っ て 修 お話を伺ったのは 、 山 上 蔵 王 堂 の 勤 行 を 終 え 、 昼 食 も 終えて一息ついてい る と き で す 。 大 先 達 は 、 千 日 回 峰 を リードしてくださっ て い た の で す 。 就された方ですが、 こ の と き は 大 先 達 と し て 体 験 修 行 を れぞれの修行者の世界を聞いて、自分たちの行の世界が それぞれの修行の立場からお答えいただくところから 始めたいと思います。まずそれに答えていただいて、そ きが生まれてくるのかという質問がありました。 な超越的な世界との間で、どういうせめぎ合い、結びつ 社会的というか、世俗的な原理の世界と、非常に宗教的 ているのか、関係し合っているのか。ある意味で非常に 鎌田 いま、倉島さんの方から、水平軸と垂直軸という 二つの軸が、それぞれの周辺の世界の中でどうつながっ るなという話になるわけでね。 う私は歩けませんから帰ります」という人は初めから来 ですから、ばかみたいなやつが少し、まともになるよ うな、訓練としての体験修行が必要になってくる。 「も いなやつが、いっぱい来ますからね。 現代人を連れて行くのは問題がある。本当に、ばかみた そうすると、山伏の修行というものをよく理解してお かないと危険を伴うわけであり、まして自我が増大した て、どんどん自分たちの勝手な気持ちで来る人が増えて を感じられた。「精気のレベル」の波動とおっしゃって どういう特徴を持っているかとか、ほかの行が持ってい 山の原理に従う 総合討論 星野先生が説明して く だ さ っ た よ う な 、 藁 で 作 っ た 興 屋 聖と穀霊にまつわる 神 秘 体 験 も あ り 得 る と 思 い ま す 。 自身の身体との関係 もうひとつ、自分 自 身 の 身 体 と の 関 係 も 修 行 に お い て とても重要です。私 は 、 二 度 目 の 泊 ま り の 修 行 に 参 加 し たさい、金峯山寺副 住 職 の 柳 澤 眞 悟 先 生 に と て も 興 味 深 いました。それ以来 、 山 を 歩 く と き に も 、 勤 行 の と き に る面白さ、豊かさ、問題点などに対する気付きがありま 風呂の時間を合わす、食べる時間を合わす。これは軍隊 田中 失礼します。いまの質問を聞いていて、少し誤解 されているかなと思い当たりました。 歩く速度を合わす、 れができなかったので、たぶん叱られた。 何で怒るかというと、怒ることによって、まあ、彼の 場合は心構えができていたんですが、かたちとして、そ ら。自分たちが自分たちのルールのままで歩くのなら自 怒るんです。 とは異質なものだと 思 い ま す 。 人 間 ど う し の 関 係 を 水 平 的 で は あ り ま す が、 「お歳暮をもらっていくら返すか」 まず自分たちが持っている原理をいったん捨てて、山 の修行に入るというのは最低限の参加のルールですか が、彼曰く「坊さんになってから、こんなに怒られたこ くるわけですよね。 も、絶えず背骨の波 動 が 感 じ ら れ る よ う に な っ た と い う うちは極めて、よく怒る修行だと思います。 蓮華入 峰に東京の有名なお寺の偉い人がおいでになったのです いお話を伺いました 。 柳 澤 先 生 は 千 日 回 峰 の 大 荒 行 を 成 ことです。このよう な 身 体 の 奥 深 く の 気 付 き は 、 周 囲 と したらお話ししていただければと思います。 いわや の関係ではなく、自 分 自 身 の 身 体 と の 関 係 に 由 来 す る は とはないです、というぐらい怒られた」と。それぐらい しょう ずです。 まずは倉島さんの質問に対してお答えいただきます。 田中さんの方からお願いします。 軸とすると、人と自 然 、 人 と 神 仏 、 あ る い は 人 と 身 体 の という話と同じ、 というようなお話がありましたが、 まっ これまで述べてき た 、 自 然 と の 関 係 、 超 越 的 な 神 仏 と の関係、あるいは自 分 の 身 体 と の 関 係 は 、 人 と 人 の 関 係 関係は、垂直軸の関 係 と 言 え る の で は な い で し ょ う か 。 たく違います。 講演のときも申し上げましたけれども、山の修行は危 私の関心は、水平 軸 の 関 係 、 つ ま り 、 勤 行 の 声 も 、 歩 くペースも、食事も 風 呂 も 全 部 周 り に 合 わ せ な さ い 、 呼 ばれたらすぐ「はい 」 と 返 事 を し な さ い 、 こ う い っ た 関 094 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 待を持ってこなかっ た 人 に さ え 、 そ の 行 を 通 じ て な に か て何か、その行を通 じ て 感 じ ら れ る も の が あ る 。 何 も 期 です。 田中 ほんとですよ。大嫌い。私は修行以外で山に行っ たことがない。ハイ キ ン グ と か で は 山 に 行 か な い 人 な ん 決められた山の原理 に 従 っ た ル ー ル で 歩 く 中 で 、 縦 軸 と 倉島先生に理解して い た だ き た い と 思 い ま す 。 そ う い う わけで、お中元とか お 歳 暮 と は ず い ぶ ん 違 う と い う の は うことを身に染ませ る た め に 、 い ろ い ろ や か ま し く 言 う 足の裏から山の力、 自 然 の 力 を 感 じ て い た だ く 。 そ う い まあわらじという時代ではないので、せめて地下足袋で、 ります。 て歩く以上は、我々 の ル ー ル に 従 っ て い た だ く こ と に な 分たちで勝手に歩け ば い い わ け で ね 、 た だ し 、 山 伏 と し んでいくことが必要だと思います。 ころを切り分けたり明確にしながら考えていく、取り組 そのへんのことを自覚しながら、しかし、修行をしな いとつかめないものは絶対にあるので、そのあたりのと し穴があると思うんですね。 このあたりと、やっぱり修行者が陥りやすい陥穽、落と として捉えてきたのは、 「魔境」と禅では言われてきた、 最後におっしゃられた魔が入る間、このへんが非常に 重要な修行の問題点として私たちが身心変容技法の問題 鎌田 ありがとうございます。非常に明確に、水平軸と 垂直軸のことを語っていただいたと思います。 思います。以上です。 人によって大きい小さいはあっても、それなりに得ら れるものがあるのが山の修行のすごさではないかと私は ことです。 す。それは自分の宗教的体験の世界に置いておけばいい り縦なるものを宣伝するのはどうなのかなと思っていま 置いておいたらいいことだと思うわけです。私は、あま もしそういうものがあったとしても、経験したことを 軽々しく人に言うべきものでもなく、自分の中にそっと といけません。 に魔が入りこむ間があるわけです。そこは気を付けない いけないような気持ちになるのも人間で、そこのところ であって、ただ、修行をすると、そういうものがないと 思いました。 という天台の本覚思想とも通ずるところかもしれないと 「うけたもう精神」があらゆるものの根本だというの は、天台回峰行者も、一木一草に至るまで仏を見いだす 鎌田 ありがとうございます。 いうことにしております。 は、羽黒方式の修行にしっかりなじませてやっていると お寺さん、あるいは神社の秋の峰入りそのものについて そうしますと、女の人の修行については、お寺さんの 方で受け入れていますので、そういう人たちはお寺さん あります。 るのですが、へたをすると三分の二が女性という場合も 特に最近はうちの三日間の修行は、女の人がものすご く多くなっています。だいたい三十五人を限度にしてい て、どちらかの峰入りに入ることにしています。 の峰入りもあるし、 お寺系の峰入りもあるし、 本人に添っ 峰入りしたいという人があれば、羽黒の場合は、神社系 行をさせて、その三日間の修行をした結果、自分はまた りたくて入ってきている人たちは最初の段階ではないわ 秋の峰入りの行法はそういうかたちですが、ただ、私 がやっている三日間の修行というのは、丸きり山伏にな しております。 いうのは個人の問題 だ と 思 い ま す 。 修験の修行を私が 素 晴 ら し い と 思 う の は 、 私 は 山 が 大 嫌いなので、山伏で な か っ た ら 、 山 な ん か へ は 行 か な い わけですけれども… … 。 鎌田 ほんとですか。 修験の修行の何が い い か と い う と 、 大 き な 気 持 ち で 来 た人にも、小さな気 持 ち で 来 た 人 に も 、 そ れ ぞ れ に 応 じ では、続いて高木さん、よろしくお願いします。 高木 いま田中先生のお話にもありましたように、山界 の行に参加された方は千差万別、人それぞれ、百人あれ の方の修行に入ってもらうということで、あくまでも、 けなので、まず山伏になる入り口のところで三日間の修 しら感じてもらえる も の が あ る 。 います。よろしくお願いします。 星野さんの次の話は、いまの話につながります。特に 「うけたもう精神」の重要性がここで関わってくると思 我々が最低限守っ て ほ し い の は 、 先 達 の 言 う こ と を 聞 くことと、地下足袋で歩くということ。登山靴ではなく、 それが、人によっ て は 縦 軸 と し て 、 神 を 見 た と か 、 聖 なる気持ちになった と か 、 そ う い う こ と が あ る か も し れ ば百人様の山からの何かがあると思います。 星野 私の話の中で冒頭に、羽黒修験の場合は、 「うけ たもう」という、すべて、どんな人でも受け入れて、受 概に、縦軸、横軸というような区別にはちょっと理解が 私どもから申しましたら、霊験があるかと思います。一 も登りましたが、やっぱりお山それぞれの独特な雰囲気、 縦軸、横軸 ないし、そんなとこ ろ ま で い か な く て も 、 と て も 清 浄 に していただいた程度 の こ と か も し れ な い け れ ど も 、 そ う いう、それなりのも の が あ る と い う の が 山 の 修 行 の す ご け入れはしながらも、なおかつ、羽黒修験なりの十界修 また、先ほど申されましたが、縦軸、これは自慢話で はないのですけれども、私どもも百以上、また外国の山 行を秋の峰入りではやりますよということです。 さだなと思います。 ただ、いちばん危険なのは、「私は百日歩いて、千日 歩いて、人の気配が分かるようになった」とか、「神の を、まず修行に入る前に誓約書的なかたちで取るように そういう意味では、田中先生がおっしゃった、羽黒修 験の秋の峰入りの方式に則ったかたちで修行すること ければという思いであります。 の山を通して、また山の経験を通して感じ取っていただ 足りないのですけれども、人それぞれ、それように、そ 存 在 が 分 か る よ う に な っ た 」 と か 言 い 出 す と、 そ れ は ちょっと心配なこと で 、 病 気 に な っ た ん じ ゃ な い か な と 思いますね。 人間というものに は 誰 だ っ て そ う い う こ と は あ る わ け 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 095 鎌田 ありがとうございます。 新客に掛け念仏のやり方を教えてくれるのですが、その 「こちらがこれほど大きな声を出しているんだから、皆 顕著になってきますと、 「右を見て、左を見て式」の日 いろいろな種類の行があるでしょうけれども、 だけど、 私は、これをこれだけやったということも大事ですが、 れたことが印象に残っています。 とき、とにかくでかい声を出せと言われます。新客はみ 知らないよりはずっといいのですけれども、やはり人生 少々理屈っぽく言えば、こうした関係は互酬性と言う ことができます。互酬性にもとづく行為である点で、掛 な恥ずかしがって大声を出さないからです。このとき、 上の体験をどれだけ、 いいかたちで積んできたのかなと。 け念仏とお歳暮、お中元の交換は非常に似ています。 本人は、とかく、そういう近代合理主義的な発想の修行 お願いします。 学問ができる、できないとか、知識がある、ないという の流れできたんじゃないかなと思うわけです。 戸田 私どもは里伏ということですけど、本当に里芋が うまいところなんですよ。キヌカツギ (衣被ぎ)という ことと、また違うんですよね。 実 は お 寺 の 場 合 は 山 号 が あ り ま す か ら、 い か に 里 に あっても、それは一つの山だと言われましたので、「里・ サトイモがあるので す が 、 ふ か し た の を 塩 に つ け て 食 べ とはいえ、それだけではなくて、山の自然に相対する ことの危険ゆえに、規律を強制せざるをえないというこ 行というものは、その人をいいかたちでつくり上げて いくものだと思うし、バランスがあり深みと幅のある人 か、琴線が、心のひだの中にどれだけあるのかなと。 ます。ご自身は、 「修験道みたいなもの」と謙遜されて 星野先生の、女性を含めていろいろな人に修験道を経 験してもらうための実践は、とても新しい動きだと思い とも、田中先生のおっしゃるとおりだと思いました。 さんも負けないぐらい大きな声を出してほしい」と言わ ると、とてもうまい の で 、 食 べ に き て も ら い た い な と 思 そういう、人には言うこともない、いろいろな体験と いうのは人間にはあるわけで、そういうあや模様という 山 伏 」 で は な く て、 あ く ま で 「 山 ・ 山 伏 」 の 戸 田 さ ん 、 います。 格形成、人間形成ができていないと、やはり機械的な、 いましたが。 縦 軸、 横 軸 の 話 で す け れ ど も 、 私 ら の ほ う の 荒 行 は 、 鬼子母神という法華 経 の 行 者 擁 護 の 尊 神 の 御 前 で 百 日 間 その前に、自分の身も心も懺悔するという言い方があ るんですけど、何か経力、行力によって力をつけ、パワー ちょっと冷たい認識、行動をする人間になっていってし 歴史的に見ると、いま女人禁制を守っている山として 有名なのは金峯山だけですけれども、江戸時代までは、 の行をしていくわけ で す 。 を蓄えるというのとは、ちょっと違うんですね。そういう まうのではないか。行の利点、危険性を含めた話になっ 鎌田 ありがとうございました。 明治になると、女人禁制がどんどん緩やかになって、 女性が登れる山が増えてゆきます。そういう全体的な流 富士山を含めてとても多くの山が女人禁制でした。 れのなかで、現代の普通の人々に応えるような新しいか たちの修験道を模索されていることがよく分かりまし これが人間の危うい と こ ろ で 難 し い な と 思 う わ け で す 。 自 分 が 意 識 し て い な く て も、 実 際 は し て し ま っ て い た。 約束事というのは 、 破 る か ら お 約 束 事 と お っ し ゃ る わ けで、規則ができれば破りたくなる、破る人も出てくる。 難しかったりする場 合 も あ り ま す 。 から怒るんだというのは非常によく分かりました。その ら、そのためのトレーニングとして体験修行がある、だ 入峰や奥駈入峰修行に参加されたら大変なことになるか うしても必要になる。そういう規律がない状態で、蓮華 りです。おっしゃるとおり、山は危険だから、規律がど まずは、田中先生のお答えについてですが、お歳暮、 お中元という喩えが俗っぽいというのは確かにそのとお 倉島 皆さん、それぞれ非常に示唆に富んだお答えをあ りがとうございます。 られないというのは、おそらくそのとおりだと思います。 すみません、勝手にぱんぱんと概念で分けてしまうのは 学者の悪い癖ですね。でも、本当は、そんなに単純に分け しまうのは、よく分からないとおっしゃいました。 のが違うから、一概に縦軸、横軸と、はっきりと分けて た。ありがとうございます。 ですから、行その も の は 、 江 戸 時 代 は 特 に 、 一 人 二 人 が中山へ来て、行場 で 伝 師 か ら 要 所 、 要 点 の 指 導 を 受 け 学生のときに好きでいろいろな山に登っていました。 山岳部の本格的な登山ではないですが、やはり山によっ リコメント では、倉島さん、四名の方のお答えを聞いたので、そ れを受けて、再コメントをお願いします。 たかもしれませんが、そう感じました。 面も大事ですが、 懺悔行が根底にあって成り立つものです。 やっぱり最初に、 ま ず 本 当 に 自 分 の 本 心 か ら 、 額 づ く ぐ ら い 懺 悔 と い う の か な、「 さ ん げ 」 と 言 い ま す け ど、 そういう心境が得られるか、得られないのかというのが、 すごく大事なことで す 。 そのために、さっきの行堂の清規があるわけです。「そ ういう境地をくぐるために、これをやっていきなさいよ」 ながら自分の行をし て い た わ け で 、 そ こ で は 世 間 か ら 離 とおりだと思います。 多くの滝がありますが、水は山の息吹を大きく特徴づけ と示されたわけだけ れ ど も 、 な か な か 、 こ れ を 守 る の が れて、自分からおこ も り 行 を す る の で 、 本 当 に 神 仏 と の お歳暮、お中元についてですが、このような喩えを用 いた理由は、私が掛け念仏を最初に教えてもらったとき て雰囲気が違うのは感じました。たとえば武奈ヶ岳には 高木先生は、山にはそれぞれ独自の息吹があって、そ れぞれに感じるものが違う、登る人によっても感じるも 感応というのか、そ う い う こ と が 当 た り 前 の よ う な 状 況 るものだと思います。 それが、明治以降 、 団 体 的 な 動 き や 集 団 管 理 の 動 き が だったと思うんです 。 の経験が基礎になっています。入山に先立って、先達が 096 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 戸田先生にはとて も 重 要 な 問 題 を 提 起 し て い た だ き ま した。つまり、宗教 的 な 修 行 に 、 軍 隊 式 の 規 律 の 強 制 は 避けられないのか、 と い う 問 題 で す 。 田 中 先 生 の お 話 に 世の宿なんていうのは、だいたい一日十一時間ぐらい歩 いた後で、さらに一時間急坂を上るんです。 田中 先頭が登り切ると、この最後の「六根清浄」が聞 こえて到着したとわかる。全員がそこへ行くまで、みん なこれを唱え続ける。 ものだけを残すには 、 ど う す れ ば い い の か 。 こ れ は 非 常 的修行に必要な規律 の 強 制 と を し っ か り 区 別 し て 、 よ い するのか。規律を口 実 に し た 新 兵 い じ め と 、 本 当 の 宗 教 を明治以降の悪しき 軍 隊 的 な 規 律 訓 練 と ど う や っ て 区 別 これは、宗教性の 本 質 に 関 わ る 規 律 で 、 不 可 避 的 に 強 制されねばならない も の か も し れ ま せ ん 。 し か し 、 こ れ どんな宗教的な修行 に も や は り あ る よ う な 気 が し ま す 。 様性にもかかわらず、一律の決まりを課すという一面は、 人もいれば、弱い人 も い る 。 男 も 女 も い る 。 こ う し た 多 な人がいる。背の高 い 人 も い れ ば 、 低 い 人 も い る 。 強 い を課されるところの 人 々 に 目 を 向 け れ ば 、 現 に い ろ い ろ 六根清浄は眼、耳、鼻、舌、身、意、……人間は六根 から、いろいろなものを知覚し、体得していきますから、 すが、仏教では「さんげ」です。 んげ」とは「懺悔」です。キリスト教では「ざんげ」で ではともかく一回、一緒にやりましょう。立っていた だけますか。いまから山の風景が画面に出てきます。 「さ ですから。 もし先達がお返しでやれって言ったとしたら、その先 達は落第です。そんなことで歩いているわけではないん 誤解です。 レベルのものでは全然ないのでね。それは、ものすごい が見ているから、そのお返しで上げているとか、そんな 上げているから、そのお返しで上げているとか、みんな そういうふうに一生懸命、掛け念仏する中で、やっと 山伏修行になるというか。そういうものなので、先達が 所に身を置いてそこで得られるものを自分で獲得する。 よって得られる験がいったい何であるかについてはいろ 修験道の世界は理論からでは分からないと、星野さん が 何 度 も 繰 り 返 し 強 調 さ れ ま し た が、 そ う い う 修 行 に 水平軸と垂直軸の問題 せん、時間を取りました。 してもらって、分かってもらえればと思います。すみま ではないということを、ここで皆さんに、ちょっと体験 んです。決して、 「お中元のお返し」でやっているわけ うぐらいのことをしながらも、これをやると元気になる これは、元気になるんです。もうまる一日、十時間も 十一時間も歩いて、こんなこと、やってられへんなと思 に大きな問題です。 その一つ一つを山の法体に清めていただく。 この掛け念仏は先頭が着くまで声がかかるのですか ら、一時間ずっーと上げるわけです。 戸田先生がこの問 題 に 真 摯 に 取 り 組 ま れ て い る こ と が よく分かり、非常に た め に な り ま し た 。 あ り が と う ご ざ ありましたように、 山 は 危 険 だ か ら 規 律 は ど う し て も 必 いました。 そういう気持ちで、いま、まさに、山に登っているよ うな雰囲気になりますからやりましょう。 要である、という筋 道 は も っ と も で す 。 け れ ど も 、 規 律 掛け念仏の体験 鎌田 前の方、暗くして。 学的には出ていますね。 ションはあるかもしれませんが、ここで、はっきりと教 水平軸と垂直軸の問題は、図式的に言うと大変明確な 図式になりますし、さまざまなタイプというか、 バリエー 思うんですね。 るので、そういう見方は当然生まれてくるものだと私は ながる超越的なものとのつなぎ目に関心を持って見てい そのときに、倉島さんは社会学者なので、社会学者と いうのは、社会というか、人間世界の世俗のところとつ いろなバリエーションがあるでしょうけれども、その場 鎌田 ありがとうございました。体験学習できて大変よ かったと思います。 田中 ちょっといいですか。 田 中 前 の 映 像 を 見 な が ら、 自 分 が 山 の 中 で 山 坂 道 を 登っている気持ちで上げてください。やりますよ。 さんげ、さんげ~。 鎌田 どうぞ。 田中 あのね、たぶ ん 倉 島 さ ん は ま っ た く の 誤 解 を さ れ ているように思いま す 。 会場 さんげ、さんげ~。 六根清浄~。 それは、熊野修験の高木亮英師が、このレジュメの最後 で「上求菩薩、下化衆生」と記しているところです。 「上 田中 会場 六根清浄~。 田中 私が言うと、そのあと、みんなで次第を取るんで すね。よろしいですか。こういうところでするのは私も ことです。それがなかったら修行はしないと思うんですね。 先ほどの講演会で や ろ う と 思 っ た け ど 時 間 が な か っ た のでやらなかったの で す が 、 掛 け 念 仏 を い ま 、 み ん な で 恥ずかしいんですから……。山と違いますからね。でも、 やりましょう、ここ で 。 本当は山の中でや る ん で す が 、 掛 け 念 仏 は 先 達 が 「 私 がこれだけ声を出しているから、あなた方も出しなさい」 一生懸命やりましょう。さんげ、さんげ~。 次に遠壽院の「加行堂清規」を見ていただけるでしょ きるのか。それが「下化衆生」のベクトルです。 求菩薩」とは、仏に向かってのベクトル、垂直軸を立てる というわけではない ん で す 。 会場 さんげ、さんげ~。 田中 六根清浄~。 会場 六根清浄~。(会場一体となって繰り返す) だけども、それで得られた験力や悟りをこの世俗の世 界、人々の世界にどうやって持って入っていくことがで これは下り坂ではやらないんです。上り坂で必ずやる。 この掛け念仏を一生 懸 命 や る 中 で 、 本 当 に そ の 行 に 自 分 が入っていけるんで す よ 。 ものすごく、しん ど い で す よ 。 た と え ば 、 弥 山 の 講 婆 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 097 うか。遠壽院の加行 堂 清 規 の 二 行 目 に 「 心 身 錬 磨 以 て 上 日光修験。修験霊場をいままでいろいろ回ってきました。 れから先の世に合ったような、世のため、人のためにや 道という、明治五年に途絶えたものを復興する、そうい 気だったので、 「軽いハイキング程度で大丈夫だよ」な いなコースだったのに、引率講師の鎌田先生がすごく元 大結集いたしまして、各宗派の修験を乗り越えて、田中 四、五日前に吉野の修験道大結 集 架燈大護摩供に参加 させていただいて、 それはどういうことかと申しますと、 れるような修験を目指していければいいと思います。 う精神、心持ちを通して、いまの平成の世に、また、こ 甲州金峰山などは、二六〇〇メートルクラスの山で、 午後から登ったら絶対、上で泊まって帰ってもいいぐら これは「上求菩薩 、 下 化 衆 生 」 の 省 略 形 な の で 、 要 す るに熊野修験においても法華修験においても「上求菩薩、 んて言うので、行ったら大変なコースだったということ 鎌田 山梨県の金峰山でしたね。 心というものを人々に知っていただき、知らしめていた これからの修験道の在り方を田中先生は示されたわけ ですけれども、そういう修験道の心意気、また修験道の 利典先生が、まとめあげて行われたわけです。 面白さというか、豊 か さ み た い な も の を 、 ど う 評 価 で き のかということと、他宗の持っている、よさというのか、 それでは次に、他宗、他派の修行の世界を見たときに、 自分の世界、自分た ち の 修 行 の 世 界 が 、 ど う 見 え て く る ことを田中利典師が 言 わ れ た と 思 い ま す 。 界に入っていけない 。 こ こ が 極 め て 重 要 だ と い う よ う な だけだ」で通していくと怖いことになりかねないものだ れば、出来上がってこない。ただ「昔から伝わっている やはり、いろいろなものを見て、体験して、勉強しなけ 取り入れたり、自分たちをよりよくしていくためには、 ころを見て、若いときから体験して、よいものを見たり、 僕も若いときは、比叡山の回峰行者の阿闍梨さんに付 いて回らせてもらったこともありますし、いろいろなと す。そういうところを研修で巡ったりしています。 意を尽くせませんですけれども。 ございます。 ますか、穏やかな世になっていただければと思うわけで これからも修験という高い立場から、皆さんのために していただければ、そのことによって、世が静謐と申し ただける。 らしめていただいて、そういう人々の心の安穏を得てい だき、また、世のため人のために、鎌田先生が言われた 修験道の豊かさ り、素晴らしいものがこんにち開花されて、いま皆さん 高木 お話を承りまして、やはり、それぞれの修験の立 場、そこには、いま言われたように、歴史なり伝統があ 鎌田 ありがとうございます。次に、高木亮英師、お願 いします。 と両方あっての修行ですよね。 かね。というのは、修験道には山岳抖藪行と、こもり行 いまでも言いますが 、 修 験 と い う こ と を 、 な か な か 表 に んじゃ、げんざ)と か 言 っ て い た ん で す け れ ど、 験 者 は 思いますので、私どもには、そういうことを十二分にで また、羽黒山には羽黒山、また吉野金峰山には金峰山 の、それぞれの伝統、歴史に根差してやっておられると ということに根差してやっているわけです。 滝行という、 私どもの生まれ育っ 私どもには熊野修験、 た、また見て、産湯を使ってきた等の那智四十八滝回峰 います。 ら燃える、そういう状態になるんですよね。 こもり行のよさとは、こもり行が終わった後、穏やか な中にも内面がものすごく、私の言葉で言うと、めらめ 百日行とか、 『般若心経』の、いわゆる、こもり行をやって。 それを一巻ずつ読み上げさせてもらったんです。そして、 一万三千巻の写経を全部二十四時間通して、こもり行で、 確かに法華修験のほうをやって、そういう点からいき ますと、僕らの遠壽 院 も 荒 行 の 門 人 会 が あ り ま し て 、 一 098 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 求下化の法器たらん こ と を 期 す べ し 」 と あ り ま す 。 下化衆生」が明記さ れ て い ま す 。 こ れ は 仏 教 の 一 つ の 黄 もありました。 戸田 蟻の門渡りみたいなところがある。今日、来てい る名古屋の矢島上人なんかも、ジャケットと革の短靴で だいけっ じゅう 金律というか、基本 の 基 本 だ と 思 い ま す 。 来ちゃったもんだから、大変な思いをしていたと思いま そ う い う ふ う に し て 法 器 に な っ て い っ て、 世 の た め、 人 の た め、 い ろ い ろ な 意 味 で の 衆 生 救 済 に 立 ち 働 い て 、 構えで、その場合の い ち ば ん 基 礎 に な る と こ ろ で 「 さ ん るか、感じられるか 。 そ の へ ん の と こ ろ の お 話 を い た だ と思います。だから勉強になります。他宗の行を見させ 鎌田 ありがとうございます。続いて、星野さん、お願 いします。 菩薩行をしていく。 そ れ が 水 平 軸 に 立 ち 向 か っ て い く 心 げ、さんげ、六根清 浄 」 と い う 心 が な い と 「 上 求 」 の 世 ければと思います。 てもらいました。 戸田 私たちの日蓮宗の荒行も、かつてはよく修験部門 と公にいわれていた ん で す け ど 、 い つ の こ ろ か ら か 「 修 私自身も、こもり行、百日修行、それから、3・ で 亡くなった人たちのご祈願のために一万巻の写経を、日本 ように、上求菩提、下化衆生の精神、菩薩の心を世に知 今度は逆に戸田さ ん か ら 言 っ て い た だ き た い と 思 い ま す。 法道」という言い方 が 多 く な っ て き ま し た 。 そ れ は 加 持 方に、下化衆生と申しましょうか、与えておられると思 星野 私は山伏だから言うのも何ですけれども、やはり 修験道の修行がいちばん素晴らしいんじゃないでしょう 祈禱をしますから、修法道で間違いないんです。験者(げ 年に一回、研修の旅 行 な ん か を し ま す 。 きるかどうか、 ちょっと疑問な点もあるのですけれども、 「ここをうま ところが、こもり行だけやっていくと、 や 世 界 か ら 集 め て、 そ れ を、 我 々羽 黒 山 伏 で 最 終 的 に だいたい修験霊場巡りということで、吉野熊野には二 回ほど行きましたけれども、出羽三山、羽黒修験、それ いま星野先生も言われたように、やはり、これから修験 出さなくなってきま し た ね 、 宗 門 で 。 から戸隠、秩父などの修験、いろいろなところがあります。 11 わけですね。そうす る と 、 こ も っ た 状 態 で の 、 い わ ゆ る ところが、こもり行だけではなくて、修験道の場合は、 しっかりと自然と向 き 合 っ て 、 自 然 の 中 で 抖 藪 行 を や る とにつながる可能性 が あ る ん で す よ ね 。 く使えばマインドコ ン ト ロ ー ル で き る ん だ ね 」 と い う こ ……。 行を続けられると補陀落を渡海しちゃうんちゃうかなと 今日、話を聞いていて心配したのは、いずれこのまま修 行っておられますし、極めておられると思うんですが、 かない人で、それに比べて高木先輩はもう世界中の山も ですが、神道修験って、じゃあ、何をしているのかという のもあるべきで、縦軸と横軸の関係もそこに生まれるの 上求菩薩、下化衆生というのは、大乗仏教で一般化さ れた修行徳目ですから、これに応じて修験の修行という のは、そのへんがどうなのかなと思っています。 意味も含めて、鎌田先生にお聞きできればと思います。 のが私の中では常に疑問として残っているのです。締める 鎌田 でも、してほしいですね。そういう人も出てほし いな。まあ、冗談ですよ。 神と仏が共にある日本文化 鎌田 いま、田中利典さんが、三人のそれぞれの修験の 世界について一つ一つていねいに、的確にコメントをし 山を歩くのは、やはり自然に常に間近に接しますから、 その感じ方は皆それ ぞ れ 違 う の で 、 厳 し く 行 じ て い る と ていくのかなという の に 非 常 に 興 味 が あ り ま す 。 けですから、そんな 中 で 、 ど う 、 み ん な が 自 制 し て や っ まして、朝の三時か ら 十 一 時 ま で 体 を く た く た に す る わ う け れ ど、 や は り 百 日 、 集 団 で 暮 ら す こ と の し ん ど さ 。 閉ざされた空間で 、 ま あ 、 水 行 と い う 体 を 使 う と い う 部分があるので、あ る 程 度 の 消 化 は で き て い る ん で し ょ こう厳しいな、百日 は 長 い な と 思 い ま す 。 田中 戸田先生にお聞きしたいんですが、さっきも聞い たのですけれども、百日間、集団でこもるというのはけっ 鎌田 ありがとうございます。では、最後に田中さん、 お願いします。 だろうかなと思って お り ま す 。 そ う い う こ と か ら い く と、 ほ か の 修 行 と い う よ り も、 やはり修験道の修行 は 人 間 に い ち ば ん 合 っ た 行 で は な い が成り立つのではな い か と 思 い ま す 。 修行徳目。だから、 これは冒頭に申し上げましたように、 教が旨で、上求菩薩、下化衆生なんですね。菩薩世界の 提で、黄金律ですが、修験道は菩薩の宗教、優婆塞の宗 上求菩薩、下化衆生というのは、分かりやすくていい ですね。大乗仏教は、みんな上求菩薩、下化衆生が大前 ろに違いを大変感じましたね。 て分かりやすいものが初めから発達してこなかったとこ すが、南蛮いぶしとか相撲のような、明らかに儀礼とし なかった、 「床堅」とかいって座禅法などがあったので に興味があります。吉野は、それを儀礼として残してこ の一つ一つが儀礼として残っているというところに非常 いうと、南蛮いぶしとか相撲とかという儀礼。十界修行 星野先生の羽黒修験は十界修行。吉野の十界修行は現 実には儀礼として残っていないので、やはり羽黒修験と られるところを前から尊敬申し上げております。 人の人を連れていくという、本当に下化衆生に徹してお 場の方ですけれども、自分でわざわざ始めて、いまは百 でも、いたって普通の、本当にお人柄のよい、人徳の あるお坊さんで、何も修験をしなくてもいいようなお立 『古事記』の中に「草木語問う」という言葉がよく出 てきます。草木が言葉をしゃべっている。その草木、言 とんど同じだと思っています。 そこで、神道の修験道とはいったい何かという問題で すが、神道の修験道ははっきり言って天台本覚思想とほ れが自然の中に溶けいっていくことだと思います。 れをどういうふうにして浄化し解消していけるのか。そ ム真理教のサティアンに近いものを生み出す要素要因に エラルキーみたいなものですね。それが麻原彰晃のオウ が「権力」となったときに起こってくる一種間違ったヒ 慢というのか、権力みたいなものが、あるいは「験力」 いちばん問題になってくるのは、その閉鎖的な中での、 起こってくる問題点は、里の行というか、こもりの行で そして、それぞれの行の世界を大事にしていただきな がら、そこで学び得るものはいったい何なのか。そこで す催しで、先ほど大結集とおっしゃいましたが、我々に 身心変容技法研究会にとっても、一つの大きな節目を成 今日四名の方々を招いて、こういうかたちで大荒行シ ンポジウムができたということは、私にとっても、この てくださいました。私に関しても、神道と修験との関係 はいえ、歩いている と き は 個 別 に 、 み ん な が 自 然 と 向 き 仏教修験なんですよ。 葉 を し ゃ べ っ て い る も の が、 『 古 今 和 歌 集 』 に な る と、 田中 本当に。普通の人はしないと思います。どっか、 おかしいんちゃうかなと思うくらいです。 鎌田 大変ですよね、本当に。 田中 最終的に、そっちを目指されるのかなという気が しましたけれども。四十八滝修行は大変だと思います。 気持ちのめらめら感 が 、 自 然 と 向 き 合 っ て 修 行 す る こ と によって、すっと滑 ら か に な る と い い ま す か 、 す べ て が 見えてくるような、 そ う な っ て い く ん で す ね 。 ですから、実際に 私 は 修 験 道 を 通 し て 、 こ も り 行 な り 抖藪行なり、そうい う も の を し っ か り や っ て い く と 、 頭 で知識が入っていな く と も 、 知 識 と い う の は 、 た だ 、 単 合いますから、どこ か で 救 い の よ う な も の は あ る の で す 仏教修験には、そういう、上求菩薩、下化衆生を中心 として構成する教義や骨格があるのですけれど、神道修 な る 知 識 に す ぎ な い わ け で す か ら、 修 験 道 と い う の は、 が、こもって百日、 水 行 す る と い う こ と に つ い て は 、 す 験というのは私は知らないのです。教理原則って、神道 紀貫之が仮名序で言いましたように、 「生きとし生ける なる。このへんが非常に問題のところかと思います。そ とっても一つの、これは大結集であります。 は、どうなのかという質問をしてくれました。 ごく違う世界が広が っ て い る よ う な 気 が 非 常 に し ま す 。 にはあまり聞かないですから、神道における修験という 体で学んで、その知 識 を 知 恵 に 変 え て い く と い う 方 程 式 それから、高木先生は私の大学の先輩なんですけども、 山が好きな方なので す 。 私 は 修 行 以 外 で は 本 当 に 山 に 行 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 099 けれど、神道の中にそういう心がやっぱりあるわけです。 組みとしては、 「上求菩薩下化衆生」は仏教的な用語です な心が、すでにある。それが教学的な外装というか、枠 て、そこに神を見いだしているので、修験道の中に神道的 神 道の修 験 道 というのは、別に 修 験 と言 わな くても、 自然の中に溶けいっていく心というものを一つの本質にし とし生けるものは歌 を 詠 ん で い る の だ と い う わ け で す 。 ものいづれか歌を詠 ま ざ り け る 」 と な る 。 あ ら ゆ る 生 き 終わりたく思います。石笛とほら貝の奉奏をもって感謝 と仏教という、神仏相和すことで始めて、相和すことで なものですから、石笛は神道、ほら貝はどちらかという では、最後に今日の四人の先生方、また代表して来ら れた皆さまに感謝の気持ちをもちまして、私は神仏習合 ようにしていきたいと思います。 しをして、その報告文集に全部収めて、今後活用できる 『身心変容技法研究』という、我々 そして、これを、 が出している報告の研究誌がありますので、テープ起こ それを総括するようなまとめもしていきたいと思います。 の 修 験の世 界 に 対 して、一時 間 かけて 議 論 をしていき、 その出来事というのは、ある種、中国で言うと文化大 革命のようなものです。六世紀の半ばに仏教が日本に正 道廃止令」ということで修験信仰が禁止をされます。 仏 判 然 令 」 で す。 そ し て 明 治 五 年 (一八七二)に「 修 験 年 (一八六八)に、 明 治 政 府 と い う の が で き る か で き な 修験というのは、皆さんご存じのように明治の神仏分 離によって神さまと仏さまが分けられました。明治の初 お話でしたので、大峯に関するアウトラインだけのお話 だくと考えますけれども。昨日は限られた時間の中での (石笛、ほら貝吹奏) の気持ちとともに終了したいと思います。 の争いに代表されるように、崇仏派と排仏派の間で争い いたんでしょうけれども。そして、当初蘇我氏と物部氏 式に伝わった。もう少し前から民間では仏教が行われて はありましたが、以後、基本的に日本では神と仏は仲良 くやってまいりました。 あたしくにのかみ だいたい、日本人にとって神と仏を分けるというカル チャーがあったかどうか。『日本書紀』等に書いてあり 新しい国から来た神というような受け入れ方をしたので ますように、最初に来た仏教の仏さまを 蕃 神と呼んだ。 昨日言い足りなかったことがあったらお話ししていただ 鎌田 それでは、昨日のシンポジウムに引き続いて今日 のファーストセッションを行います。冒頭田中さんに、 験道という信仰が生まれてきて、日本古来の山岳信仰、 起こるわけであります。その神仏習合のうえに、実は修 受けられた。そういう土壌の中で神仏習合ということが から来た仏さまも、自分たちにとっては同種の神として 日 時:十一月二十一日(金)十時〜十六時三十分 第二日目 どうもありがとうございました。 いかのうちに、 いちばん最初に近いかたちで出たのが 「神 をさせていただきました。 たとえば、誠 。ま た 『 古 事 記 』 の 中 の 言 葉 を 使 っ て 言 えば、「修理固成」という言葉が出てきます。自然の生 まこと 成力に関しては「産 巣 日 」 と い う 言 葉 に な る 。 「修理固成」というのは「つくり、固め、成せ」という こと。この「つくり、固め、成せ」とは、この世界をつ くり、固め、成していくというのが「下化衆生」に当た ります。人々の生きるこの世界をどれだけ豊かにしてい くことができるのかということなので、神道は一面、修 験道を潜在化している、内在させていると考えています。 そういう意味で、神仏霊場が伊勢神宮から始まって比 叡 山 に 結 ば れ て い く こ と を、 田 中 さ ん な ん か も 一 緒 に なってそれをつくり 上 げ て く れ た わ け で す が 、 神 と 仏 が していけるような日本の文化の型をこれから貴重な財 いて、そして二人のコメンテーター、町田さんと小西君 民俗宗教といわれるようになると思うのです。 す。日本人にとっては、もともとあった神さまも、外来 産、文化遺産として 、 文 化 の 実 際 の 力 あ る 、 活 力 あ る も に十分ぐらいずつコメントをしてもらって、議論してい 共にあって、それぞ れ の 持 っ て い る 特 色 を 失 わ ず に 共 働 のとして、見いだし て い っ て 実 践 し て い く こ と が で き た きたいと思いますので、よろしくお願いします。 て、関東に行くと植島啓司さんも鎌田東二さんも修験は 昨日、最後に鎌田先生と私の間でお話をさせていただ いた、私は修験というのは仏教だというイメージがあっ てきたのだと思います。 起こる。そういう基調の中で修験道という信仰が生まれ をするようになって、神と仏は山で出会う。神仏習合が た神道の世界があり、仏教が入ってきて山に入って修行 ます。山は、もともとあがめるだけで中には入らなかっ 私は、いわば神道を母に、仏教を父に、その夫婦から 生まれた子どものような存在が、修験であると思ってい らと思います。 田中 おはようございます。いま急に言われたので何も 思い付くことがないです。もうちょっと前に言っていた 神仏習合のうえに生まれた修験道 田中 利典 1 吉 野修験道の荒行の検討 私は毎日比叡山に向かって拝んでいますが、比叡山は やっぱり神であり仏 な ん で す よ 。 本 当 に そ の と お り だ と 思います。ですから 、 神 道 と か 仏 教 と か い う 区 別 は 私 の 中では、ない。 修験道というのも 、 神 と か 仏 と か 、 神 道 と か 仏 教 と か と言わなくても、一つのものを神仏が丸ごと、我々にメッ セージを放ってくれ て い る 、 そ う い う 世 界 で は な い か と 理解しております。 大学の先生方を招いて、じっくりと、それぞれ一つ一つ では、今日はこのへんで終わります。あしたのことも ありますので。あしたは、それぞれ、コメンテーターの 10 0 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 神道でしょうという 。 そ う い う 極 め て 違 う 価 値 観 が 、 修 験に対してあったというのをお話ししたと思うんです が、これはやはり神道家のほうから修験を見てきた人と、 私 は お 坊 さ ん で す か ら、 仏 教 の 側 か ら 修 験 を 見 て き た、 その違いであって、 同 じ も の を そ の そ れ ぞ れ の 違 い か ら コメント 1 修行の覚悟 町田 宗鳳 かんながら よ。 この人は酒を断って惟神の道に入ったわけですよね。 そこにすごい覚悟があると思いますよ。あのままいって いたら、アルコール中毒になっていたかもしれません。 鎌田 覚悟なんか、ないです、ないです。 自我意識の壁を破るというのは大変なことですよ、こ れは。マッハの音速で壁を破るようなものですからね。 町田 自堕落の世界でおぼれておったと思うんだけど、 酒を断つという覚悟で惟神になったわけですよね。 私のコメントをさせていただきます。 それには単純行為の反復というのが必要です。単純行 為を一定時間継続して反復する。それが歩くという行為 町田 広島大学の町田宗鳳です。昨日の田中先生のご発 表、そしてほかの方々のご発表を聞かせていただいて、 修行というのは、その形式にかかわらず、それが座禅 であろうが荒行であろうが修験道であろうが、全部私は を一定時間、それが百日間だとか十日間だとか決まった時 だったり、何かを唱えるという行為だったり、単純なこと 見ているだけだなと い う こ と を つ く づ く 感 じ た ん で す 。 簡単に言えば古い自我を捨てること、古い想念を捨てる それでもあえて言 う と 、 神 道 に は も と も と 修 験 的 な も のがあったけれども 、 仏 教 が 入 っ て き て 、 日 本 人 は そ の れたとするなら、極 め て 修 験 と い う の は 仏 教 的 な 要 素 が こと、そこに修行のエッセンスがあると思っています。 仏教を蕃神として受 け 入 れ る な か で 、 山 で の 修 行 が 生 ま 基盤にある。 たそういう経緯で生 ま れ て き た と い う 気 を 極 め て 持 ち ま 本覚思想です。そう い う よ う な 捉 え 方 の 中 で 、 修 行 も ま で、大乗仏教教理の 中 で 非 常 に 日 本 ナ イ ズ さ れ た 思 想 が え神仏に見えてくる、そういう瞬間があると思います。 けてきて、昨日田中さんがおっしゃったように石ころでさ 思うんですね。古い自分を捨て続けると透明な境地が開 に「サヨナラ」と言えるか、そこに修行の覚悟があると 「サヨナラだけが人生だ」というエッセイをいま書いて いるところなんですが、どれだけ古い自分に、昨日の自分 みんな意識変容体験を味わうと思いますよ。 たった二、三分だけども、あれを一時間ぐらいやったら 昨日、田中先生がここの会場で「懺悔、懺悔、六根清 浄」とやってくださったけど、すごく気持ちがよかった。 いうことをちょっと 感 じ な が ら 昨 日 は 聞 か せ て い た だ き たとえば比叡山の 回 峰 行 を い ま 荒 行 と 言 い ま す が 、 あ れを荒行と言いだし た の は 最 近 な の で は な い か な 。 そ う ら荒行と言ったんで し ょ う か ね 。 ご修行のことを荒行 と 言 う の で 、 他 の 修 行 は そ れ 以 前 か 言うようになりまし た け れ ど も 、 荒 行 っ て 日 蓮 宗 の あ の いかと思っています 。 い ま は 何 で も 苦 行 の こ と を 荒 行 と を荒行というので、 ほ か は 荒 行 と 言 わ な か っ た の で は な じゃないか。荒行と い う の は 、 本 当 は 日 蓮 宗 の 行 の こ と 修行するには集中力が必要。意識をぐっと凝縮させて いかなきゃいかんのですよね。それには何かを断つ必要 んじゃないかなと思います。 同じものだけれども。そこに修行の喜びというのがある から、見えてくる風景がまったく変わってくるわけです。 戻ってくるんだけれども、古い自我を捨てているものだ 自 然 の 風 景 が 描 か れ て い る だ け で す ね。 元 の と こ ろ に 禅の「十牛図」でも、第九図というのは、牛が完全に 消えて、 九相の次に出てくるのが「返本還元」といって、 と思うんです。 は擬死再生の儀礼などで表現しておられるんじゃないか あるいは、星野さんがおっしゃったように一切を受け たもう世界がおのずから開けてくる、それを羽黒修験で を魔が入ると表現されたわけです。 膨張が、真剣にやればやるほど起きやすいですね。それ とをしている、俺は特殊な体験を持った、そういう自我 昨日も何度も指摘があったことですが、修行上の危険 性というのはあるわけですね。それを単純に言えば、修 常に大事だと思っています。 ばれていく。ですから私は、修行の環境というものが非 のがあると思います。行者の男性性と自然の母性性が結 に包まれてやらないと、同じ意識変容体験でも危険なも それをどこでやるか。環境がすごく大事なんですね。 私の場合は臨済宗の僧堂に二十年もおったわけですけれ 宗を含めてすべての宗教にありますから、よほど修行者 日蓮聖人が四個格言で、真言亡国・禅天魔・念仏無間・ 律国賊とおっしゃったけれども、こういう危険性は日蓮 行者の自我膨張です。インフレーション。俺は特別なこ ど、街の中は理想的じゃないです。やはり大自然の母性 いう反復行為が、私はキーになっていると思います。 ました。 があります。普段の生活とリズムを変えて何かを断つ必 間を続けないと、自我意識の壁を破れないと思います。 した。 戸田さんがおっしゃった荒行でも、水行と題目を百日 間黙々と、黙々とじゃないけれど、続けるという、そう その思想が神道か ら は ど う な ん で す か と い う と 、 そ れ は本覚思想ですとお っ し ゃ っ た 。 本 覚 思 想 は 仏 教 の 思 想 それからもう一点 だ け 。 今 回 の 大 荒 行 シ ン ポ ジ ウ ム で す が、 荒 行 と い う 言 葉 が ど う も 独 り 歩 き を し て い る ん 急に振られたので 、 こ れ ぐ ら い の こ と し か 思 い 付 き ま せん。 要。それは睡眠を断つのか、穀物を断つのか、水を断つ たとえば、鎌田さんはかつて大酒呑みだったわけです とによって意識がぐっと凝縮してくるんです。 のか、いろいろ断ち物がありますけども、何かを断つこ 鎌田 今日はまだじっくりと議論していく用意がありま すので、後でも受け答えをしていただきたいと思います。 それでは町田宗鳳さ ん か ら お 願 い し ま す 。 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 101 は証発心が大事、本 当 に 懺 悔 の 気 持 ち で 入 っ て い か な い と、どうしても自我 膨 張 に 飲 み 込 ま れ る と こ ろ が あ る と 思います。 そういう特殊な体 験 、 荒 行 で あ っ た り 、 修 験 道 で あ っ たり、座禅であった り 。 念 仏 は 別 時 念 仏 と い う の が あ り ますけれども、それ を か り そ め に 第 一 次 の 修 行 と 呼 ぶ と すると、むしろそっちは簡単なんですよ。第二次の修行、 こちらが難しい。修 行 が 終 わ っ て か ら も 修 行 で す よ ね 。 第一次の修行は意 識 変 容 体 験 な ん で す よ 。 こ れ は 素 直 にマニュアルに従っ て 、 意 識 集 中 し て 継 続 す れ ば 、 ほ ぼ やはり日本人のイメージとして、自然、山というのは母 そして具体的に二点お伺いしたいことがあります。一 点目が、先ほどの町田先生のコメントでもありましたが、 この山の母性というのと、蔵王権現という男性性とい うのが、どこで切り替わったのか、もしくは行者さんの 印象を受ける神さまなのです。 る蔵王権現というのは男性の象徴のような非常に強大な は女性だという話も聞きますが、それに対して、いわゆ 性だということがあると思います。よく山の神というの 鎌田 大変重要なことを言ってくれました。私も後でコ メントをしたいと思います。 小西 賢吾 では、小西研究員の方からお願いします。 コメント 2 母性と男性性 中ではそれは何か整合性があって捉えられているのか、 ていく必要があるわ け で す 。 こ れ は 生 涯 を 懸 け て や ら な 若手のコメンテーターを加えていただいた理由というの を言えばよいのかという感じもいたします。私を含めた ご発表の先生方、 コメンテー この度のシンポジウムは、 ターの先生方が、そうそうたる行者そろいで、若造が何 んて嫌いなんですということをおっしゃっていたので。 答えますけれども、先生も昨日、私も修験以外では山な ぜ山に登るんだと言われれば、そこに山にあるからだと とをお伺いしたいと思います。というのも、登山家はな もう一つは、もっと素朴な質問なんですが、実は先生が、 山とのご縁というのをどういうふうにお考えかというこ その辺りをお伺いしたいというのが一点です。 きゃいかん。私だっ て 、 僧 堂 に い た 二 十 年 よ り も 、 そ こ は、やっぱり率直な質問、コメントというのを期待され 小西 ありがとうございます。京都大学こころの未来研 究センター研究員の小西賢吾と申します。 から出てからの修行 の ほ う が 、 は る か に 難 し い し 、 は る ている面もあると思いますので、私も素直に思ったこと 誰でも体験できるん だ け れ ど も 、 第 二 次 の 人 格 変 容 体 験 かに長いし、深いで す よ 。 をいくつかお伺いしたいと思います。 というのはなかなか 難 し い 。 現 実 を 道 場 と し て 魂 を 磨 い たまたま昨日、講 談 社 か ら 『 森 女 と 一 休 』 と い う 小 説 を出したんですけれ ど も 、 ぜ ひ 今 日 帰 り 際 に 本 屋 で 買 っ 山が大好きで入られる方もいますし、山が大嫌いで入 られる方もいらっしゃると思いますが、それでも、縁と これはもう棺桶に収 ま る ま で 続 く わ け で す か ら 、 こ っ ち ピ ー ク に 達 す る。 ピ ー ク か ら 下 り て く る 向 下 程 の 修 行 、 が、向上の方は若い と き に 体 力 に 任 せ て 集 中 し て や る と これは後半の、それ は 禅 の 方 で 向 上 と 向 下 と い う ん で す ですから、この修行というものには二つの側面がある。 一 つ は 意 識 変 容 体 験 で あ り、 も う 一 つ は 人 格 変 容 体 験。 中で描いているわけ で す 。 で一休はすごく苦労 し た ん で す よ 。 そ れ を 私 は こ の 本 の ります。聖胎長養と い う 、 行 が 終 わ っ て か ら の 行 、 こ こ わってから、娑婆社 会 に 出 て 聖 胎 長 養 と い う こ と が 始 ま 座禅して悟るとい う の は 、 見 性 体 験 を 持 つ の は 、 そ れ ほど難しくないんで す よ 、 集 中 す れ ば 。 だ け ど そ れ が 終 いるんです。 生きる根本的なところをコントロールすることで、自我 息を整えるということが、山を歩き回る上でも、修行 にすごく深く関わっている。それは、息という、人間が いるというような体験をしたことがあります。 次に口だけが動いていって、最後はもう息だけが残って に、唱えるべきものの意味がだんだん脱落していって、 チベットのお寺で、あるマントラを何千回と唱えたとき まさに、昨日田中先生が実演してくださった、掛け念 仏の反復です。私は、つたない経験からですけれども、 変興味を持っております。 ることで気持ちが変容していくというような過程に、大 的な興奮といった場の中で、何か決まったことを反復す らのフィールドでも、宗教的な実践や修行、祭りの集団 私は文化人類学専攻で、チベットのお寺の研究と、日 本の秋田県、角館のお祭りの研究をしてきました。どち 鎌田 では、二人のコメントに対してまずお答えいただ きます。よろしくお願いします。 簡単ですが、まず問題提起ということでお願いいたし ます。 のあたりを少しお伺いできればと思います。 とはまた違うかたちがあるような気もいたしまして、そ の近代的、合理的な人間関係とか、日々の仕事との関係 一つ想像しますのは、山とのそういう不思議な縁とか、 修行を通じて表れてくる関係というのは、日常生活の中 いうかたちでご縁を築いてこられたのかということを含 う現象があるような気がいたしまして。先生が山とどう いうものに魅了されて巻き込まれてしまう。何かそうい れて、からめ取られてしまうような性質もあって、山と いうのは、嫌がっていたとしても、なぜかそこにとらわ てください。一休も そ の 第 二 次 の 修 行 で す ご く 苦 労 し て のほうがはるかに難 し く て 大 変 だ と 思 い ま す 。 なところにつながっているのではないかという印象を、 めて、お伺いしたいと思います。 言いたいことはい っ ぱ い あ る ん で す け れ ど も 、 ま た 後 でじっくりいろいろ 議 論 さ せ て い た だ き ま す 。 あ り が と まず受けました。 を捨てる、もしくは大自然に溶け込んでいくというよう うございました。 10 2 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 ら。対して、神道にしろ、修験にしろ、これはローカリ もうちょっと難しい言い方があるとするなら、仏教と いうのはグローバルな宗教なんですね、世界宗教ですか 生まれてきた。 の日本という風土の中で新しいかたちで日本の大地から て出てくるのは神さまですから、その外来のものが、こ 分の子どもも救えないのに、何が祈禱師や」と言ってな 放したらしいんですね。そのとき、母は父に対して、 「自 ろに、ひどい肺炎になるんです。医者がもう駄目だと手 後年、寺を建てます。新寺なので、父が建てた寺で私 は二代目なんですね。で、父が祈禱師になってしばらく 禱師専職になるんですね。 田中 利典 ズム、ローカルな宗教なんです。グローバルとローカル じったそうなのです。私が十五歳か二十歳ぐらいになっ リコメント が、そこで出合うみたいな感じで生まれてきたのが蔵王 てから聞いた話なのですが。 がしますし、他も割合、女性性を感じさせるものが多い。 り大日如来の変化身 で す け れ ど も 女 性 性 を 持 っ て い る 気 な、ほかの、たとえ ば 富 士 山 は 浅 間 大 菩 薩 と い う 、 や は 性的な姿であるけれども、その肌の色で母性性が現れて ると、仏の慈悲ですから母性を感じるわけです。姿は男 色が青黒である。この青黒色は仏の慈悲を表す。そうす だ単に怖いだけではなくて、姿形は怖いけれどもお肌の ただ、大変怖いお姿なんですが、それは役行者が願っ たのがそういう姿であったからということなのです。た からですからね。ですから自分がつくった縁ではなくて、 行ったわけです。この話を聞くのもずいぶん後になって れていかれるんです。私自身は全然意味が分からなくて 助かりまして、約束どおり、五歳のときに山上ヶ岳に連 から、助けてくれ」とお願いをした。そのおかげで私は それで、父は大峯山上ヶ岳の役行者さま、蔵王権現さ まに願をかけて、 「この子が五歳になったら連れていく して、結婚して私ができた。その私が一歳半か二歳のこ 田中 町田先生のほうは、基本的に、いまこれを答えな さいというのはなか っ た の で 、 小 西 先 生 の 話 を 先 に さ せ 権現。 両面性をもつ蔵王権現 ていただきます。 ではなぜ吉野が男性 性 な の か と い う の は 、 私 も 急 に は 思 いる。 確かに、日本人に と っ て 山 は 母 性 性 と い う か 、 女 神 の いますところですが 、 吉 野 は 蔵 王 権 現 と い う 大 変 男 性 的 い付かないんですが … … 。 とするのです。金剛界と胎蔵界を統べるという意味では、 は信仰的に「金剛胎 蔵 大 如 来 」 と い う 別 称 を 持 っ て い る している、これが荒魂。素戔嗚尊のようなもの。 えば天照大神。それに対して、命の状態がバランスを崩 日本人にとって聖なるものというのは荒魂と和魂。命 の状態、エネルギーの状態が整っているのが和魂。たと 「山へは行くな」 と。 二人とも山伏になっているんですよ。 うちの弟も、いま吉野の東南院というところの住職を しているのですが、 彼もおやじからよく聞かされたのは、 天、 い ろ ん な 仏 さ ま 、 菩 薩 さ ま が い ら っ し ゃ い ま す が 、 講演会でお話しす る ん で す が 、 日 本 人 が よ く 知 っ て い る大日如来、阿弥陀 如 来 、 観 世 音 菩 薩 、 不 動 明 王 、 大 黒 王権現である。 と、極めて母性性もそこに秘めている。そういう姿が蔵 だけはなくて、肌の色とか生まれ上のいきさつを考える ルチャーは私にはないので、山は嫌いなんです。 るし、 石鎚も登るし、 大峯も行くのです。でも遊びでいっ 私は山は大嫌いですが、修行としてなら、富士山にも登 どういうことかというと、山へは遊びに行くなという こと。山というのは修行に行くところである。ですから、 その二人に父は「山へは行くな」と言ってきた。 親からいただいた縁で山に行くようになったのです。 その女性性も、実は胎蔵世界が女性性であるとするなら、 だから蔵王権現というのは、いわゆる両面性をあの姿 の中に持っているという信仰を生んでいきます。男性性 蔵王権現は、金剛蔵王権現というのが正式な名称です。 あまり世間には出回 っ て い な い お 名 前 な ん で す が 、 我 々 両方を兼ね備えてい る 。 これは基本的に全部 外 国 人 な ん で す ね 。 い わ ゆ る 外 来 の この世の中は男と女で出来あがっているわけですか ら、その両面性を持っているところに、連関性の高い、 ところが蔵王権現 と い う の は 、 信 仰 的 伝 説 で す が 、 役 行者が山上ヶ岳で一 千 日 の 修 行 を さ れ て 、 修 験 独 特 の ご としての蔵王権現があるのではないかと、このように私 全国の修験道のセンターとしての役割を担うべき、主尊 うんですが、私にとっては基本的に山は修行に行くとい 何でかというと、修行をしなければいけないから山は 嫌い。本当は楽しんで山を歩くのがあってもいいとは思 たことは一度もない。いまだに山に遊びに行くというカ もの。 本尊をお祈りになっ た 。 ま ず 最 初 に お 釈 迦 さ ま 、 観 音 さ は考えます。 めながら山伏の師匠のところへ出入りするようになっ 二つ目の、私と山とのご縁ということですが、私の父 は国鉄に勤めていました。山伏道が好きで、国鉄につと 鎌田 大変面白いというか、ご縁を含めてですけれど、 答えられたと思います。 那智四十八滝修験は自己犠牲の行為 ざっとこんなところです。 うことで、こんな山嫌いな山伏ができてしまいました。 ま、そして弥勒さま 、 次 々 と 仏 さ ま が 出 ら れ た 。 あ る い は、別には地蔵さま 、 弁 天 さ ま と い う 説 も 行 わ れ て い る で、いずれの仏も 大 変 お 優 し い の で 、 役 行 者 は さ ら に 悪魔降伏の姿を念じ ら れ た 。 そ う す る と 、 こ の 釈 迦 、 観 山とのご縁 音、弥勒が金剛蔵王 権 現 と い う 悪 魔 降 伏 の た い へ ん 恐 ろ て、それが高じて、国鉄を辞めて山伏専職というか、祈 のですが、吉野は釈 迦 、 観 音 、 弥 勒 と い い ま す 。 しい姿に変化して、大峯の岩を割って出てきた。岩を割っ 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 103 お願いします。それ で ご 自 由 に 議 論 し て い た だ き ま す 。 それでは二人に簡 単 に コ メ ン ト の お 返 し に 対 し て 、 町 田さんの場合は、それを踏まえてのことになりますけど、 きな岩。なぜかと思っていたら、岩が大変強い気を発し 修験道は巨岩がないところに発生していないんです。大 力』という本がございますけれども、 私の一つの発見は、 そのとおりだと思います。 二次の人格変容というが難しいということですが、私も 一次の意識変容と第二次の人格変容というお話。その第 町田 小西さんが蔵王権現を見て男性性を感じられると おっしゃったけど、 田 中 さ ん が お っ し ゃ っ た よ う に 両 性 れはもうあちこちで私は確認しています。 が、いちばん分かりやすくて強いのは巨岩なんです。こ すよ。何が大変だと言うと、千日歩いているときは確か 千日回峰行者さまって比叡山が有名ですが、金峯山に もいるんですね。あれってほんとに大変だなと思うんで ている。樹木も、山そのものも、川も気を発しています だ と 思 い ま す よ。 私 は む し ろ 強 い 母 性 を 感 じ る ぐ ら い 、 にみんな立派なんです。でも終われば普通の人に戻るん 女性性を感じる。 ですよ、基本的には。 だけど、どうしても世間のみなさんは、千日も歩いて きた人だから、すごい立派な人だと思うわけですよね。 常に悟った阿闍梨さんでないといけない。 うつらいんじゃないかなと思います。もとに戻っても、 「阿闍梨さん、阿闍梨さん」と言ってね。これはけっこ 結果を出さなきゃ飯が食っていけなかったわけですね。 もともと山伏さんというのは、人里に下りて病気治し とか、子授けとか、あるいは商売繁盛の加持祈禱をして、 じゃないかと思います。 ですから修験者というのは、山をよじ登りながら、そ の岩の気をいただいて霊験というものを発揮してくるん 女の人も怒ったら 怖 い か ら ね 。 赤 く な っ た り 青 く な っ たりね、怖いですか ら 。 蔵 王 権 現 が 単 純 に 男 性 性 を 表 し て い る と は 思 わ な い の で、 私 は む し ろ 女 性 性 を 感 じ る。 ですから、必死の思いで岩にしがみ付いて、危険を顧み それがちょうど男性 と 女 性 が 結 ば れ た お 姿 が 、 あ の よ う になっておられるん じ ゃ な い か な と 。 悪いですが、阿闍梨さんもいろいろで、それでも世間 は、千日も歩いたから、もう悟っていると思う。確かに、 歩いているときは悟った状態があったかもしれないし、 ず修行されたと思うんですよ。 お堂入りが終わったときは本当に悟りを得ることもある 昨日、高木さんが 那 智 の 四 十 八 滝 を 修 験 さ れ て 、 全 部 の滝じゃないらしい で す が 、 そ れ な り の 水 量 が あ る と こ 二年後には大学を辞めて比叡山に行に入ります。 私も、 一年半後には行に入って、その後ハワイに移住する予定 かもしれないけど、元に戻れば普通の人になるのではな ろ に 五 十 分 ず つ つ か っ て い く と お っ し ゃ っ た わ け で す。 これは恐ろしい。 でおるんですけれども、ハワイの山で修験道を開きたい て く れ な い。 生 涯 看 板 を 背 負 っ て い く っ て し ん ど い ん いでしょうかね。でも、世間がなかなか普通の人に戻し なと、いま思いました。 難しい人格変容 私たちも行ったことがあるけれども、あそこはね、行っ ちゃ駄目ですよ。世界一のパワースポットだと思います。 世界中の聖地を巡っ て い ま す が 、 あ れ ほ ど 霊 験 あ ら た か んはたくさんおられるので、私がそんな心配をするのも な場所はないです。 田中 蔵王権現の怒りなんですが、我々は蔵王権現の怒 りとともに蔵王権現の母性をこのように説明していま 失礼だと思いますが……。 じゃないかなと思うわけです。もちろん立派な阿闍梨さ 一の滝の裏の方の 、 あ の 幾 つ か の 滝 は 素 晴 ら し い 。 私 は何度か行っている ん で す け れ ど も 、 そ の 水 は 夏 で も 身 母性を恕という。恕の心。恕とはお互いを許し合い慈し す。怒りは怒である、それに対して蔵王権現の奥にある 逆に魔境というか、増上慢になる種をまいてしまうよう ど を切るような冷たさ で す 。 そ こ に 大 寒 の と き に 毎 日 五 十 む、そういうふうに権現さまの中には二面性があるとい じょ 分、 そ れ ぞ れ の 滝 に お つ か り に な る と い う の は 、 こ れ 、 ただ人格変容というのは極めて難しくて、どうしても 私は「千日やった」とか、 「毎日歩いた」ということで、 うことを説明しています。 思います。 人間業じゃないと思 い ま す よ 。 「こらっ」と怒っているわけですが、 怒りというのは、 その怒っているのは単なるけんかの怒りではなくて、母 ます。ただ両面性があるけれども、どっちかというと町 見る人によって怖く見える人もあるし、母に出会った ような優しさを感じる人もあるというふうな言い方をし とをいいます。 うのは極めてハレの時間を持つということ。我々日本人 で、山から下りるときにどの修行でも必ず一つのこと をします。それは精進落としです。つまり行に入るとい も、ある程度の擬死再生、蘇生感って持つんですね。 千日行者さまとは比べようがありませんが、私どもは 奥駈修行とか、一日の蓮華入峯修行とか、一日十時間以 なところがありますから、この戒めがなかなか難しいと 赤黒ですよ。そして チ ア ノ ー ゼ 現 象 が 起 き て 青 く な る と が子を導くために怒るような怒りであるというようなこ くるんじゃないかな と 。 だ か ら 権 現 さ ま の あ の 赤 か ら 青 田先生がおっしゃったように、母性が勝っていると見た 昨日おっしゃっていたのは、自分は肌の色が白いから、 入ったときは白いけれども、だんだん赤くなってくると。 おっしゃって。 への変化、それを行 者 さ ん が 体 現 し て お ら れ る よ う な 気 方が信仰上はいいという気はいたします。 上歩いて、苦行の中で人格変容までいかなかったとして がして、いま聞かせ て も ら っ て す ご く 不 思 議 な 気 が し た は日常をケと考えます。毎日変わらない日常を生きてい それと、何年も前 に 出 し た 講 談 社 選 書 メ チ エ 『 山 の 霊 も う あ れ は 一 種 の 自 己 犠 牲 の 行 為 だ と 思 う ん だ け ど、 そこまでされて慈悲 の 心 、 利 他 の 気 持 ち と い う の が 出 て んです。 それから、いちばん最初に町田先生がおっしゃった第 10 4 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 るとケが付く。ケが 付 い て き て 、 気 が 枯 れ て き て 、 汚 れ 進落としをするようにしています。 てくる。まさに、岩を割って突き破ってくるようなもの かが融合して、そこからばんと新しいものが生み出され が出現してくるのではないかという印象がありました。 鎌田 ありがとうございます。小西君の方から何か。 り騒いだりして精進 落 と し を す る ん で す 。 その時間をいったん リ セ ッ ト す る た め に 、 お 酒 を 飲 ん だ ことなんです。聖な る ハ レ だ っ て 危 な い ん で す 。 そ れ で ては、やくざ映画を 見 た 後 の お っ さ ん に 出 会 っ た よ う な よい時間を過ごすわ け で す が 、 そ う で な い 人 た ち に と っ のときに行に入って い る 人 間 に と っ て は 、 そ れ は 極 め て それをいったん元 に 戻 さ な い と い け な い 。 そ の た め に 精進落としをする。 ハ レ も 実 は 聖 な る 汚 れ な ん で す 。 そ じゃ、われっ!」と い う 話 に な る わ け で あ り ま す 。 なる。そして映画館 を 出 て 、 誰 か に 肩 が 当 た る と 「 な ん 映画館を出ると、自 分 も や く ざ に な っ た よ う な 気 持 ち に 倉健さんの『網走番外地』や『仁義なき戦い』を見た後、 そして修行によっ て 清 め ら れ て 、 そ の 気 に な っ て し ま うんですね。ところ が 、 た と え ば 、 こ の 間 亡 く な っ た 高 代では、極めてハレ な 時 間 を 過 ご す わ け で す 。 ハレなのかケなのか 分 か ら な い よ う な 生 活 を し て い る 現 は、まさにハレ。ものが豊かになりすぎて、昔のように、 そのハレとケを行 き 来 し て き た の が 日 本 の 文 化 の 一 つ の特徴なのですが、 現 代 人 に と っ て 山 伏 の 修 行 と い う の ハレをすると気が元 に 戻 る か ら 、 元 気 に な る 。 ちょうど仏教と神道、修験の関係のように、山によっ てもいろいろあるので、仏教に征服されてしまった山も く深く結び付いている。 視するんですね。それがローカルな宗教空間とものすご というのも、やっぱりチベットの人びとは日常的に山 に巡礼に行きますし、しかもその山の神さまをすごく重 の修験道だなという思いを強くしました。 今日お話を伺って、やっぱりボン教というのはチベット 仏教が伝わる前からあったといわれる宗教なのですが。 私が専門で研究しているのがボン教という、チベットに あと、仏教がグローバルで修験がローカルだというこ とをおっしゃったのも、大変共感を覚えたお話でした。 なという感じがいたしました。 こを体得していくことも、また修行の大きな過程なのか 悲の怒りというようなものが隠されているというか、そ 怖さ、しかもそれがよい方向につながっていくような慈 やっぱりそこは、確かに女の人を怒らせると怖いとい うのはあるかもしれませんが、そういう根源的な本当の していて、よく見ると女性だということがあります。 したものが多く見られます。一見すると怖い顔や外見を 教を研究していますが、チベットの女神には、怖い姿を 蔵王権現の女性性というのは、確かにいまお話を聞い て大変納得するところがありました。私もチベットの宗 小西 ありがとうございます。 ねてしまう自我肥大のようなものを自分の生活に戻して の神秘体験を、役行者が蔵王権現を祈り出したことに重 とっての意味合いを、先ほどのコメントの中に出てきた ん で す け れ ど、 そ の 自 受 法 楽 と い う 言 葉 の 田 中 先 生 に 井上 田中先生に二点お伺いさせてください。昨日のお 話の中で、 「自受法楽」という言葉を一回おっしゃった 鎌田 では、自由に議論していきたいと思います。 を受けました。ありがとうございました。 場合は、その核として山が現れてきたのかなという印象 係を築いていくものではないかと感じます。田中先生の ような、そういう人生を左右する清濁併せ飲むような関 て、どこかから降ってくるようなものがあったりして、 い状況になったときに、自分一人で打開するのではなく うだけではないと思います。生死の境、のっぴきならな しますけれど、それによって単に人生が幸福になるとい ローカルな宗教空間 てくる。汚れると気が衰えて、ついには病気になる。で、 どうするかというと 、 ハ レ を 行 う 。 ハ レ と は 何 か と い う 中にはこういうこ と を 言 っ た 人 が あ り ま す 。 せ っ か く 清らかな時間を過ご し た の に 、 何 で そ れ を 落 と し て 帰 る あれば、まだまだもともとの土着の神が残っている山も そ し て 縁 に つ い て も、 個 人 的 な お 話 を お 聞 か せ く だ さってありがとうございます。 本当に不思議なのは、 我々 としてもなお自分が 経 験 し た と こ ろ は 必 ず 残 り ま す 。 け くるという部分と絡めて、その微妙な関係と自受法楽と と、 非 日 常 で 聖 な る も の に 触 れ る 。 こ れ を ハ レ と い う 。 れども、そのままを 持 っ て 帰 っ て は い け な い 。 聖 な る ハ あります。 いうことについて、どういうふうにつなげて感じられて 一次修行、二次修行のような、あるいは山に入ったとき 「自受法楽」の世界 自由討論 そこで何かがつながるとまた次のステップに進んでいく は縁という言葉を、仏縁とか、地縁とか、血縁とかと申 レを落とさなければ い け な い 、 と い う よ う な こ と を い う いるかを伺いたい、これが第一点です。 んだと。でも落とさ な き ゃ 、 帰 っ ち ゃ い か ん の で す 。 落 んですね。 チベットも山深い地域ですから、そういう山に対する 気持ちは無視することができません。仏教というのはユ ニバーサルな 教 義 が ある 程 度 あるか もしれないけ れど、 んです。前鬼まで下りて、その後天河神社 (天河大辯財天 二 点 目 は、 私 も 高 野 山 に お ら れ る 先 達 さ ん に 連 れ て いっていただいて、吉野から前鬼まで歩いたことがある なかなかちょっと ぐ ら い の 修 行 で 第 二 次 的 な 人 格 変 容 まで行かない。ただ 、 身 心 変 容 を す る こ と は 大 事 で 、 そ なリアリティーをもつ。そこに巨石があるとか、滝があ それがその土地に受け入れられたときに、もっと圧倒的 社)に伺う機会があったので、柿坂宮司さんにその話を れはハレの行為であ る 。 だ か ら と い っ て 、 そ れ を そ の ま るとか、そういう自然のエネルギーに出会ったときに何 ま人間は持ち込むこ と が 難 し い か ら 、 い っ た ん リ セ ッ ト するということも大 事 。 う ち は 必 ず 厳 し い 修 行 の 後 は 精 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 105 当たってゴトビキ岩 、 大 き な 岩 で す よ ね 。 の斎場御嶽のところ に 巨 岩 が あ っ て 、 そ れ か ら 和 歌 山 に そ れ で 私 は ち ょ っ と ぴ ん と 来 た こ と が あ っ た ん で す。 黒潮に乗っていろい ろ な 文 化 が 流 れ て き た と き に 、 沖 縄 道なんだということをおっしゃっておられたんですね。 関係があるとのことでした。それは神さまが通ってきた して、前鬼と天河の話を聞かせていただいたら、裏表の てきている。 らも文化が入ってくる。 いや、 北方からも実は文化が入っ 化は入ってくるんですが、中国、朝鮮半島を経て大陸か と南方系の文化になった。確かに南方、黒潮に乗って文 日本はただ、けったいな国で、もうちょっと北に寄る と北方系の文化になっていって、もうちょっと南に寄る かもしれません。 いうルートのほうが文化の伝承としては確かにそうなの 田中 どうなんでしょうね。指導者が立派であればそう いうことが行えるでしょうし、私みたいに同じくらいの システムというか制度はあるのでしょうか。 修験の中でも、そうしたものをチェックして導くような いうのに出合わせていただいたのかなと思ったのです。 いまから考えると、キリスト教文化の中の、そうした 体験をチェックしてくれる裏のシステムがあって、そう いるんです。 ですけど、なぜか知らないけどそれだけはずっと持って いう営みとして、大 峯 の 奥 駈 と か 修 験 を 考 え る こ と は 可 日本の文化ができてきたので、そんなものの中で生まれ 日本列島の中では、北方系の文化、南方系の文化、大 陸からの文化、いろんなものが重層的な重なりになって うなことは難しいのかなと思います。 レベルで歩いていると、そこまで相手に印可を下ろすよ そ う し た 流 れ に 乗 っ て 上 陸 し て く る 神 さ ま と い う か、 文化の流れ、移動の 中 で 起 こ っ た こ と を 再 現 し て い く と 能かどうか。 と捉えずに、北から南に行くのもありだなと思う。そう か、こいつは逸脱したんじゃないかとか、見ていてやっ はちょっとおかしいからもうやめさせたほうがいいと 戸田先生にお聞きしたいのですが、閉鎖された空間の 中で百日やるわけじゃないですか。そうすると、こいつ てきたとするなら、南方から来た文化だけが日本の文化 いうものとして奥駈の順逆を考えると面白いなと、いま その二点について 伺 い た い と 思 い ま す 。 田中 自受法楽、ある種の宗教体験とか仏さまの冥加に 出遇ったことを自分 が 感 じ て 、 そ れ を ど う 発 揮 す る か と ぱり分かるものですかね。 お話を聞いていて思いました。 で、私がこうあった か ら 、 私 は こ ん な す ご い 人 だ と い う 楽と呼んでいる。自 分 の 体 験 は 自 分 で 活 か す こ と が 大 事 あるいは経験がある ん で す ね 。 そ れ を 私 は い わ ば 自 受 法 るのかなと思った次第です。 かいると言われたんです。だからそういうつながりがあ で、宮司さんに話したら、そういうことを言う人は何人 井上 以前新宮の熊野速玉大社をお参りしたときに、玉 垣の雰囲気が沖縄の玉陵の雰囲気にそっくりだったの 表に出さないような弱い面、強い面、それが出やすいの くるとか。要するに自分の本来持っているような、普段 かしくなる方になりがちというんですかね。それから暴 いろんなおかしくなり方があって、たとえば高学歴の 修行者のような人は、ちょっと茫然自失状態のようなお 指導者の問題 いうことになると、 難 し い で す ね 。 経 験 と い う の は 自 分 がするものであり、 そ れ ぞ れ に 違 う わ け で す 。 ことを言うのは自受 法 楽 で も 何 で も な い 、 と い う こ と で それからもう一つ、一つ目の自受法楽の話なんですけれ ども、私もキリスト教文化の中で、モントリオールのテ は荒行堂のようなところだと思いますけど。全体として 戸田 いま田中先生がおっしゃった、閉鎖空間の荒行堂 みたいなところでおかしくなる人はいるんじゃないか、 たぶん使ったと思い ま す 。 ものが見えたことがありました。紹介してくれた神父さ ラピスト修道院で瞑想しているときにビジョンみたいな 人に施すという心根に乏しい人は、行はしないほうがい さっきのケとハレ で 言 う と 、 ハ レ の 時 間 を 過 ご し た と きに、あ、ハレがあったなって自覚があるような時間帯、 体験すれば何かを 得 ま す か ら 、 そ の 得 た こ と で 利 他 行 に入るようなきっか け に な る こ と は 非 常 に 大 事 な こ と な いと思います。 い た ら い い こ と で、 人 に 喧 伝 す る よ う な も の で は な い 、 のを一つ持って帰っていいわよ」と言ってくださいまし その会話が終わった後で、 「私の机の上にある好きなも 、 そのシスターに話したら、「どんな気持ちだったの?」 「いまはどんな感じ?」というような質問がありました。 ろがあって、そこから任命されて行中だけ来るのが実態 この指導者は、日蓮宗のお役所である宗務院というとこ 百五十人、二百人で過ごすところが実際ありまして。そ おっしゃられたように、指導者の問題、これが本当に 大 変 な こ と で あ り ま す。 大 道 場 が、 日 蓮 宗 の 中 に も 力性がもともと中にあったような者は、それが表に出て おかしくなっちゃうというか、 そういう傾向もあります。 んです。得なければ な か な か そ っ ち の 方 に 向 か な い こ と あるシスターにちょっと話してごらんと言われました。 んにそのことを話したら、セミナリーに連れていかれて、 もあります。 というのが私の思い な ん で す 。 聞 か れ た こ と と ち ょ っ と た。ただそれだけだったんですけど。 するにその修行者の少し上の段階というか、年功者が指 だ け ど そ れ が 自 分 の 宣 伝 に な る よ う な こ と に な る と、 魔境が待っている。 自 受 法 楽 の 世 界 は 自 分 で 大 事 に し て 違うかもしれないん で す け れ ど も 。 私はそのときにいただいた、マリアさまが幼子を抱い ているこれくらいの木のカードみたいなものなんですけ 導者になって来るというかたちなんです。 なんですね。自坊といって自分のお寺が別にあって。要 に行くのを逆峯とす る 。 修 験 で は そ う 言 う ん で す が 、 現 れども、ずっと持ち歩いています。私は仏像は嫌いなん それから黒潮の問 題 は 、 ど う な ん で し ょ う ね 。 役 行 者 が熊野から吉野に行 っ た の を 順 峯 と す る 。 吉 野 か ら 熊 野 実をいうと、黒潮で 考 え て い く と 熊 野 か ら 吉 野 に 入 る と 10 6 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 田中先生も金峯山寺 と か 、 こ ち ら の 羽 黒 の 星 野 先 生 も そ 私は遠壽院住職と い う 立 場 で 通 年 、 行 中 で あ ろ う と な かろうと、遠壽院の行の在り方を考える立場なんですが、 ルールみたいなものです。 て帰る前に一回落として持って帰るというのが、うちの ら、自分で行じてもらって自分で持って帰る。ただ、 持っ キリスト教の教会でのお話のようなかたちで、大峯で もあるかというと、基本的に私にはありません。ですか に向かって唱えるのであって、人に向かって、ほら、俺 人に向かって唱えるのではない。あえて言うなら、神仏 もちろん、田中先生のポイントも私なりに理解してい るつもりです。 掛け念仏というのは修行の本質であって、 な方便です。 う、本当に外から来 る 修 行 者 が 理 解 で き な い よ う な と こ も頑張るからおまえもやれというのは、本来の姿ではな いというご指摘は、おっしゃるとおりだと思います。 この問題はまだ顕在 化 し て い な い だ け で 、 宗 派 を 問 わ ず に新聞沙汰になった、修行僧のそういう問題が出ている。 して表に出ました。 臨 済 宗 の 向 嶽 寺 の 僧 堂 で も 何 年 か 前 も、その修行僧の暴 行 事 件 が 、 こ れ は 完 全 に 傷 害 事 件 と 洞宗で東北の大寺であるところの水沢の奥の正法寺で ですから、去年な ど は 全 国 紙 の 『 朝 日 新 聞 』 に 、 宗 門 行堂内の不祥事が修 行 道 場 の 問 題 と し て 出 ま し た し 、 曹 修行中に出たときに 、 ち ゃ ん と 対 処 で き な い で す よ ね 。 そうしますと、個 々 人 の 修 行 者 が 内 面 で 持 っ て い た マ イナス面、特に暴行 性 の あ る よ う な 性 質 、 そ う い う の が 以上の発想が出てこ な い わ け で す 。 を出しているんだから、皆さんも恥ずかしがらずに声を かというと、私だって恥ずかしいのを我慢して大きな声 んですから」とおっしゃいました。それはどういう意味 つまり、こういうことです。田中先生は、掛け念仏を 皆さんに体験してもらうときに、 「私だって恥ずかしい はないかと思いいたりました。 て解釈するのが、落としどころとしていちばんいいので 私をリードしてくれた先達の言葉は、ある種の方便とし どのように整理できるのか、と一晩考えました。結局、 さて、これをどうやって解釈したものか、自分のなかで 五回参加した体験修行のうち四回をリードしてくれた 先達が、とんでもなく間違ったことを言っているとのご 倉島 すみません、昨日のお話の続きで申し訳ないので すが、とても大事なことだと思うので。 しいところに導く手だてとしての方便で、方便が先にあ 田中 方便は方便なんです。もちろん方便であるという のは正しい考え方です。でも、方便は方便であって、正 田中 私はそれは間違っていると思うね。 倉島 そうですか。 があるのではないでしょうか。 行者に対する効果として、やはり互酬的な関係性の形成 神仏に向かって、 山に向かっ だから掛け念仏の本来は、 て、あるいは自分のために言っているのかもしれないけ 修行を進める場合も、あるいはあるのかもしれない。 行者の心の動きを先取りして、それを活用するかたちで このような、修行者の側の心の反応があるということ は事実で、彼らをリードする先達の中にも、そういう修 はないでしょうか。 持ちにならない方がおかしいと思います。先達の懸命な けれども、修行者の側に目を向ければ、先達があんな に頑張っているんだから僕も頑張らなくちゃ、という気 実際は相当生じてい る こ と と 思 い ま す 。 に、会場の皆さんは田中先生の言葉をこのように解釈し 鎌田 ほかにはいかがでしょうか。 方便は方便 ろまで目を光らせて 、 な お か つ 研 究 し た り し な が ら 過 ご していると思うんで す よ 。 ですから、いまの そ の 大 道 場 の よ う な と こ ろ に な り ま すと、どちらかとい う と 学 校 管 理 教 育 に 似 た よ う な 面 も ですからそこでの 話 は 分 か り ま す け れ ど 、 修 行 者 が ど うかというのは、指 導 者 が 本 当 に い ち ば ん 縁 の 下 の 力 持 て、先生の呼び掛けに応えて大きな声を出しました。 めることが真理でありますから、その方便だけを持って あって、何かあった 場 合 、 責 任 の 所 在 は ど こ に あ る の か ちのような根性でい て く れ れ ば い い ん だ け れ ど 、 自 分 が きて、 それはお歳暮やお中元と一緒だと言ってしまうと、 道場を宗門では教育 機 関 と し て 位 置 づ け て い ま す 。 そ れ というのが最終的に は 問 題 に な っ て く る 。 実 際 に そ の 大 何千日やったんだ、 ど う だ っ た ん だ と い う 、 そ の 看 板 を 訴えて、 恥ずかしさを乗り越えることを求めているんです。 「私だって恥ずかしいんで これが私のいう互酬性です。 すから」という言葉は、会場の皆さんの互酬性の感覚に 出してください、という意味だと思います。そして実際 実は、昨日の講演の後、田中先生とこうしたことをお 話ししました。すると、田中先生は、 「いや、僕は本当 それは違うという話です。 るわけではないんですよ。先にあるものをちゃんと見極 れども、その副次的な効果というか、それがもたらす修 掛け声を耳にしたら、普通はそういう気持ちになるので 出したがるような人 た ち ば か り が 増 え て く る と 、 つ い て 指摘に、 正直なところ少なからぬショックを受けました。 くる人たちも、そう い う 意 識 で 行 に 臨 む よ う に な っ て し まう。いま本当に問 題 が 起 き て い る と 思 い ま す 。 として言った。でもあくまでも方便であって、 「私が言 方便は方便なのです。山念仏も私は決して恥ずかしく ないけれど、 「私も恥ずかしいんでみんな唱えましょう」 うから、あなたも言いなさい」とかいうのも、方便とし と言うと、みんな大きな声を出しますから、それは方便 いんです」とおっしゃったのだとすれば、この言葉はな は恥ずかしくないんですよ」とおっしゃいました。ここ おさら方便であることになります。もちろん、悪い意味 からは私の解釈ですが、恥ずかしくないのに「恥ずかし らやれているので、 普 通 の 人 の 状 態 で は や り き れ な い の てはあるかもしれないけれど、そんなことで山念仏を上 田中 なかなか難し い で す ね 。 い ま お 聞 き し て い て 、 日 蓮宗の荒行はちょっ と お か し い く ら い じ ゃ な い と で き な でしょう。けれど、 そ の お か し く な る 程 度 っ て た ぶ ん い ではなく、会場の皆さんに声を出してもらうために必要 いと思ったりしまし た 。 だ い た い 、 ち ょ っ と お か し い か ろいろあるのでしょ う ね 。 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 107 鎌田 苦修練行ね。 すね。方便として先 達 が そ う い う 言 い 方 を し た の も あ り 過ごしてもらっては 、 そ れ は 違 う と 私 は 言 う 以 外 な い で 倉島先生のお考えと は 違 う 部 分 が 本 質 だ と い う こ と を 見 は 社 会 性 を 持 ち ま す よ ね。 だ け ど 掛 け 念 仏 に つ い て は、 修行も人間がやるわ け で す か ら 、 人 間 が 集 ま れ ば 、 そ れ 倉島 そうですね、本来は。 田中 だからね。そ こ の と こ ろ に あ ん ま り こ だ わ り 過 ぎ ると具合が悪い。修 行 も 人 間 の 社 会 の こ と で す 。 ど ん な 倉島 なるほど。宗教者としてはやっぱり垂直的な、神 さま、仏さまへの関係性がとにかく本義である、一番で わり過ぎておられるような気が、極めて私はしますね。 倉島さんは社会学の先生ですから社会学で読み取ろう として、宗教の本質から少しずれたところのものにこだ す。そんなことで入っているわけではない。 修行があるとするなら、そんな修行は間違いだと思いま す。相互に気を遣い合うことを経験するために山に入る なったら、その修行はやっぱりおかしな修行だと思いま なんですよね、行を加える。だから正式には、遠壽院の は荒行というのは使ってないんですよ。あくまでも加行 ということについて、少し教えていただきたい。 方でいままでしてきたのが、マスコミが、そういうもの 有名詞で、苦修練行とか苦行とか、そういうふうな言い とがありますけどね。本当は荒行というのは日蓮宗の固 ないでしょうか。私も荒行特集とかいうテレビに出たこ げているわけではな い こ と を わ か っ て い た だ き た い 。 でしょうけど。 あるということですね。 田中 荒行というのは日蓮宗の行が非常に一般に有名に なってから、苦行全部を荒行っていうようになったでは 倉島 はい。 田中 いや、神さま、仏さまというより、懺悔ですよ、 懺悔。それが大事であって、人とうまいことやるために 田中 修行するときに一つの決めごととして、そういう ことは生まれる。全体でやるんだから。でも、配慮を目 田中 だけど、方便は方便であってというのは、ここで ははっきりしておか な い と い け な い と 思 い ま す 。 団体修行しているわけではないので。それが目的になっ 指して修行しているわけではないですよ。それが目的と 倉島 方便ということはよく分かりました。ありがとう ございました。 ているとしたら、それは修行の意味からずいぶん逸脱し たものになると思いますよ。 鎌田 よろしいでしょうか。私もいろいろと質問やコメ ントをたくさんしたいところはあるんですが……。 も断食をして、不動明王への祈りと一体化をやり遂げる そういう中でかなり追い詰めていくということが見ら れる行の典型の一つが千日回峰行だと思います。九日間 心変容技法の両極があるわけですね。 のかというようなことはちょっと時間をかけて調べてみ のようないろいろなメディアでどういうふうに使われた の段階でどういうふうに使われて一般に膾炙して、いま 鎌田 分かりました。そのへんのことは、私が荒行シン ポジウムの企画者であり責任者ですので、責任を持って 場では荒行堂という看板を出してしているわけです。 戸田 そうですね。日蓮宗では正式に荒行という名称は ないんです。加行とか加行所なんですけれど、実際の現 田中 日蓮宗の固有名詞でもなかったんですね。 かりやすいかたちで表現したんじゃないかなと思います。 ど、そういう行の表向きの形態だけを見て、一般的に分 てそうなったのかは、いまはちょっと分かりませんけれ 鎌田 近代ですか、それじゃ。 戸田 おそらく近代だと思いますね、そういうのを通常 化して使うようになったのは。そのへんの流れはどうし 田中 荒行って誰がいつから使いだしたんですか。 荒行堂も加行所と言うんです。 戸田 すぐ私も忘れちゃうんですが、それにちょっとだ けこだわりますけど。日蓮宗も江戸時代、明治時代まで をひっくるめて荒行と言うようになったのではないか、 田中 方便は全然オーケーです。 倉島 言われた方も、方便として言われたと分かってい なきゃいけませんね 。 倉島 はい。もう一点だけ、すみませんがよろしいでしょ うか。人と人の関係 と い う と 、 仏 教 で は 慈 悲 の 心 が 大 切 田中 荒行だけコメントしていただければ……。 「荒行」という言葉 だと言われます。慈 悲 は 、 お 互 い に 対 す る 配 慮 に 通 ず る 田中 社会性を持っているから、方便が生まれるわけで すよね。 ものがあるのではな い で し ょ う か 。 鎌田 荒行についてですが、身心変容技法には、非常に ソフトなかたちで出てくる身心変容技法と、ハードなと ですが、心の動きと し て 通 底 す る も の が あ る の で は な い ます (一一五-一一六頁、一三一頁、一四〇頁【付記】参照) 。 いうか肉体をかなり限界にまで追い詰めてやってくる身 でしょうか。だとす れ ば 、 修 験 道 の 修 行 に 見 ら れ る 、 先 とか。そういうものがある。 なかったと思います。 ところは、これからは分かりませんよ、でもいままでは 田中 少なくとも、修験道場で荒行道場と書いていると ころは基本的にありませんし、荒行として募集している 調べます。まずそれを調べて、日蓮宗の中でどの人がど 達の新客に対する配 慮 だ と か 、 あ る い は 修 行 者 同 士 の お 田中 配慮というの は 違 う と 思 い ま す よ 。 倉 島 そ う で す か。 私 な り に あ え て 区 別 す る と す れ ば 、 配慮は相互的なもの で あ る の に 対 し て 、 慈 悲 は ど ち ら か 互いに対する配慮と い う の は 、 修 行 の 一 環 と し て カ ウ ン 田中 いや、そうではなくて、 「荒行」という言葉って、 先に言いましたように、もともと日蓮宗の修行を荒行と と い え ば 普 遍 的 で あ る と 言 う こ と は で き る と 思 い ま す。 トしてよろしいでし ょ う か 。 言って、ほかは昔は言わなかったはずなのでは……。 修 行 の 一 環 と し て そ れ を や っ て い る と い う の は、 ちょっと違うと思い ま す ね 。 鎌田 そのへんについてはよく調べてお答えしますね。 篠原 鎌田さん。苦修練行と言うんですね、天台宗は。 田中 倉島 違うんですか。 10 8 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 鎌田 私は戸田日晨さんと大学生のときの同級生ですか ら、「荒行」の概念と実態を共有してきました。そこで 荒行というイメージ が 経 験 的 に あ り ま す 。 最後に言っておき た い こ と は 、 僕 は 一 九 八 四 年 四 月 四 日 に 天 河 大 辨 財 天 社 に 行 っ た こ と が き っ か け に な っ て、 こういう世界をもっ と ト ー タ ル に 捉 え よ う と い う こ と に なったんです。まさに天河との出合いが縁になりました。 2 羽 黒修験道の荒行の検討 今度は神さまの出羽三山神社が管理することになったも のですから、そこで出羽三山神社としてもいままでの秋 の峰を、いわゆる神道的に踏襲をしてきた。それから天 台系の秋の峰は、正善院さんがそのままのスタイルで秋 の峰を踏襲してきた。 河ではそういうふう に 言 っ て お り ま す 。 番目に感応してきた の が 蔵 王 権 現 だ と の こ と で し た 。 天 だと。二番目に感応 し て き た の が お 地 蔵 さ ん 。 そ し て 三 うちの場合は、秋の峰入、たかだか一週間の修行です。 断食なり、あるいは断水なり、水は使わないし、それか て追いつめていくというふうな感覚はあまりないですね。 たとき、それはまた日常である。ですから特段修行をし そういうことからいくと、修行しているときは、それ はそれで私は日常なんですね。 修行が終わって世俗に戻っ ように山伏というのは半聖半俗だなと思っています。 星野 おはようございます。先ほどから荒行、荒行とい う話で続いていますけれど、私の場合は、昨日も話した 違うんですよ。神社だと五万円で入峰できますが、お寺 入るかお寺に入るか。それは割合、入るにしても金額が いまは全国から、 ですから、あとは入る人たちが あるいは外国人まで入ってきますけれども 神社に じ内容になっています。 中に取り入れてやっているというような違いで、ほぼ同 お経ではなくて、特別に祝詞をつくって、それを勤行の 星野 文尚 ですから、いま現在も羽黒山御山では、お寺系の秋の 峰と神社系の秋の峰があります。これは当然お寺系の秋 の峰の方が、天台系のそのままのかたちで現在も修行を 水源の土地の、弁財 天 と い う か 水 の 神 さ ま が 一 番 根 源 の ら寝る時間も一日三、四時間ぐらい。だけどそういう行 さんだとで初めて入峰の時は十三万円ぐらいかかるんで 山伏は半聖半俗 神さまだと私は思っ て い る か ら で す 。 をやっていても、最初のうちはちょっときついなと思い す、維持費等でね。だから、単純に考えれば五万円のほ していますので、基本的には従来のものを踏襲している その水の神さまが 役 行 者 に 最 初 に サ ー ッ と 入 っ て き た というのは、私の中 で は 神 道 の ほ う か ら 、 修 験 道 も 含 め ますが、おのずと体がなじんでいって、それが特別苦し う が 安 い か ら 神 社 の ほ う に 入 る。 だ か ら 神 社 の ほ う は ― 六十、 七十人ぐらいということですね。 で二人がそれぞれ自らの興屋聖に向かってお祈りしてい ましたね。なるほど二人でやることによって、同じ場所 ただ、冬の峰入りの場合は二人でやる行という、行比 べというんですかね。そのへんがものすごく影響してき れ」と熱心にやっていたものだから、ついお寺さんで入 て、修行中いつも行堂の周りで「入れてくれ、入れてく 開いたのは戦後すぐですね。すごく熱心な信者さんがい 一生懸命入ってきます。お寺さんの方は秋の峰を女性に そういうこともそうなんですが、最近の状況として、 昨日も申し上げましたように、女の人たちがいま修行に ― 神社系のものは、お寺さんでやっている十界修行の内 容はそのまま踏襲するけども、勤行とかそういうときは のはお寺系のものですね。 て日本の宗教を考え て い る の で 、 弁 財 天 、 水 の 神 さ ま が いとも思わないし、それが修行なんだねと思うわけです そのときに天河の 宮 司 さ ん か ら 聞 い た の は 、 役 行 者 が 修行したときにいち ば ん 最 初 に 感 応 し て き た の が 弁 財 天 役行者に入ってきた と い う の は 非 常 に 納 得 す る も の が あ から、そうこうしているうちに一週間なんてあっという 百 七 十 人 ほ ど に な る け れ ど も、 お 寺 さ ん の ほ う は そのとき私は非常 に 納 得 す る も の が あ り ま し た 。 な ぜ 納得したかというと 、 近 畿 山 中 は ブ ナ 林 帯 で 、 そ の 中 の りました。 間に終わっちゃう。 たというのが天河の 宮 司 か ら 聞 い た 話 で す 。 るわけです。それがいまになって思うと、何か異常な感 れたという経過があって、特別意味はないですね。 野生性を忘れた女性たち それはかなり理にかなっているプロセスだと思いまし た。役行者の感応の 過 程 と し て さ ま ざ ま な 伝 承 が い ろ ん 覚になってくる。それが何か憑依したかのような状態に 三度三度精進料理を食べているんです。 百日行をやるときも、ただしっかり朝夕みそぎをして お祈りをするというふうなことで、食べることもすべて そして次に、お地蔵さん。お地蔵さんはしかし、荒い 厳しい修行に耐えることができないということで捨てた。 それが「捨て地蔵」として吉野郡川上村に残っている。 そして最後、三番目に蔵王権現が現れて、祈りの中か ら現れてきたときに 、 そ の 蔵 王 権 現 こ そ が こ の 厳 し い 修 な神社とか場所で出 て き た わ け で す 。 そ こ の と こ ろ を も なっていくということだなと思います。 行の本尊としてふさ わ し い と い う の で 、 蔵 王 権 現 に な っ う少しそのバリエー シ ョ ン を 仔 細 に 検 討 し て い く と 、 土 (一九九三)だったんですね。そうすると、神社では何と 神 社 の ほ う で は、 開 山 し て 千 四 百 年 が 平 成 五 年 秋の峰入りそのものも、うちの場合は、なかなか皆さ んから理解しにくいかと思いますが、明治の神仏分離、 か千四百年記念に御山で何か取り組みをしたいというこ 地に由来する伝承形 態 が な ぜ そ う い う 伝 承 に な っ て い っ たかという意味論も は っ き り し て き て 非 常 に 面 白 い と 思 いました。 廃仏毀釈で、いままで天台系の修験であった羽黒山が、 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 109 なってから百四十年たっていますよ、いまね。つまり、 と こ ろ が、 近 代 に な っ て か ら、 明 治 五 年 (一八 七二) ですか、完全太陽暦になったのは。そうすると太陽暦に なりに気付いていたから、いや、特別問題ないよ、来な か」ということだったんです。私はそういうことを自分 で、三泊四日の修行 を や っ て い ま す 。 すかということで、 平 成 五 年 か ら 神 子 修 行 と い う 名 の 下 始めてきて百四十年もたった。 性が保たれていたのが、太陽暦になることによって崩れ 期で一年のサイクルがぴったり自分と合っていて、野生 日本女性の人たちは、そういう意味では本来二十八日周 んです。その直会の場になったら、そのたまたま月のも 二升も入るぐらいの大杯で回し飲みさせて、そして帰す が世俗に戻るときに、そのまま戻られると困るから、私 そ し て 三 日 間 の 修 行 が 終 わ っ て、 先 ほ ど 田 中 さ ん も 言っていましたが、修行して聖なる世界に入っている人 さいよと来させたんです。 るんです。そういうときって修行に行っていいものです 以上になってきたも の で す か ら 、 や は り そ う い う 人 た ち それと、私自身も 宿 坊 の 一 お や じ で す が 、 よ く 修 行 っ て厳しいですかとい う 言 い 方 を さ れ る も の で す か ら 、 そ そうすると、本来女性が持っているすばらしい野生性 を、いまの人たちは忘れているんじゃないのかなと。それ のになったという女の子が私のところに来て、 「実は先 とで、熱心に講でお 参 り に 来 る 人 た ち が 、 女 の 人 が 半 分 からの希望もあって 、 何 と か 女 の 人 の 修 行 も で き な い で 分からないんだから と い う 気 持 ち も あ っ て 、 長 い 期 間 だ 置かれると、無意識のうちに体から呼び戻っているんじゃ が三日なり、一週間なり、完全に野生そのものの状態で んだり、それはすべ て 野 生 そ の も の な ん で す よ 、 や っ て そしてよく考えて み ま す と 、 山 伏 修 行 と い う の は 山 を 駆けずり回ったり、 川 を は だ し で 歩 い た り 、 滝 に ぶ っ 込 て何なんだろうと、 常 々 思 っ て い た ん で す 。 すが。女性はみんな生き生きしている。この生き生き感っ るんですよ。男の人 た ち は 割 合 や つ れ た 感 じ も あ る ん で と、修行が終わると 女 の 人 た ち が み ん な 生 き 生 き し て い それにも最近はもの す ご く 女 の 人 が 入 っ て き て い る 。 を対象として、二泊三日の大聖坊の修行も始めたんです。 あるいは関西でも話す機会があったりですが、そのとき ろんなところから呼ばれて、東京にも出てきて話したり、 なということを、私はここ二、 三年気付き始めて、いまい そうだとすれば、いまどんどん女の人たちを修行に入 れて、その本質的な野生性を取り戻すことが大事なのか いる状態になっているんじゃないのか。 さみたいな、そういう本質的な野生性そのものを忘れて した、男社会と似たことをやることによって何か女の強 ところが、いまの女の人たちは、その意味では太陽暦 になって野生性を忘れている、はっきり言って。勘違い する必要がなかったのかなという論理も成り立ちますよ。 そういう意味では、女人禁制ということは、女の人た ちを修行させないということじゃなくて、女性は修行を ないのかなというのが、私の気付いたところなんですね。 い方は「中から熱くなってきました」。私は男だからそ うわけです。それでどうだったと言ったら、その子の言 人が、 「実は先達、私も今回の修行で来たんです」と言 とがあったんだよと言ったら、その女の子たちの中の一 あったんです。そして、私が、実はな、七月にこんなこ そしてその年の九月、やはりうちの大聖坊の修行のと きに、三日間の修行が終わって直会のときに、女の子た 言ったの。いいかいと言ったら、 「いいです」って。 たの言ったことを、私、これから使わせてもらうよ」と の女の人が実際に言ったことをそのまましゃべっていま これがエネルギーに変わりました」と言うんですよ。そ 達、来てよかった」と言うわけですね。どうだったと聞 も修行が終わると精進落とし、精進料理を食べさせて、 となかなか修行に来 る 人 も 大 変 な の で 、 気 楽 に 、 修 行 が いることがね。そう す る と 、 野 生 と い う 言 葉 を ず っ と 描 に必ず女性と修行というテーマでいまの話をするんです。 んなの話を聞いたっ て 分 か ら な い よ 。 修 行 は や ら な き ゃ 気になると、あるい は 修 行 を や っ て み た い と い う 人 た ち いていくと、これは も し か し て 、 女 の 人 と い う の は 本 来 ねと私は取りました。 す。それで、 「あ、そうか、分かった。それじゃ、あん ちが三、四人、私のところに来て、いろんな修行の話が の 満 ち 欠 け の 二 十 八 日 周 期 と い う の は、 こ れ は 女 性 と で一年間のサイクル が あ り ま し た よ ね 。 そ う す る と 、 月 まではいわゆる太陰 太 陽 暦 で 、 月 の 満 ち 欠 け の 関 係 の 中 関係があるのかなと 思 っ た ん で す よ 。 と い う の は 、 近 世 そうすると、なぜ 女 の 人 た ち は こ う し て 修 行 を す る と 生き生きしているの か 。 そ う 思 っ た と き に 、 は っ と 暦 の に電話が来たんです。その電話でこう言ったんです。 「実 それを裏付ける話もどんどん出てくるわけです。昨年 の七月、うちの大聖坊に修行に来る女の人から一週間前 いではないんじゃないのかなと思っています。 す。ですから、私がそういうことに気付いたことは間違 に二十五人ぐらい女の人が修行に来ているという状況で 修行に来ているんですよね。今年なんか三十五人の定員 題ですよ。 行をして気付いた。だから修験道というのはやらなきゃ 民俗学的な言い方があったわけだけれど、私は実際に修 そういうことからいうと、いままでの女人禁制という 論理、女性の血を意識して入れないという、いままでの れは分からないですけれど、エネルギーに変わったんだ ぴったり合うわけで す 。 で す か ら 、 近 世 ま で は こ の 月 の うちに入ってくる女の人たちの修行の状況を見ている いたら、「最初の日はつらかったけれど、二日目からは 野生性が強いものだ ろ う な と 私 は 思 っ た ん で す よ ね 。 お そうすると、腑に落ちたという感覚でおられる人もか なり出てきて、そういう人たちがけっこううちにもいま ここ四、五年、神子修行に入る女性なり、あるいはお 寺さんの修行に入る 女 の 人 た ち な り 、 あ る い は 大 聖 坊 の 産の行為なんていうのは、もう野生そのものですからね。 満ち欠けの一年のサ イ ク ル だ っ た か ら 、 女 の 人 た ち の 野 は先達、ちょうど修行に入るころに、私は月のものが来 ですから、女性と修行の問題も、私はいままでの言い 方と真逆なかたちで、いまどこに行っても話しさせても 分からない。テーブルで議論したって、解決できない問 生性は近世まで保た れ て い た ん じ ゃ な か ろ う か な と 。 110 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 ですから今日のテ ー マ は 、 女 性 と 修 行 と い う テ ー マ で 話させてもらえれば あ り が た い で す 。 らっているんです。 だとおっしゃいましたね。これは、山伏というものの性 修行をしている日も日常だし、日常に戻ってからも日常 そういうお話を受けて先ほど星野先生は、山伏という のは半聖半俗であると。半分聖で半分俗人であるので、 しゃっておりました。 星野 その中に五穀が入っているんです。 ですね。 屋聖は五穀がご神体なんでしょうか。小屋を模したもの るんだろうと思うんですけれども。先生のご体験で、興 か、稲霊とか穀霊というものと人間の魂というものが、 こく れい 鎌田 いまのお話はあとの総合的な議論の中で明らかに するとして、まずは 昨 日 の 発 表 を 中 心 に し な が ら 、 コ メ 格を見事に言い表した言葉ではないかなと思います。 いな だま ン テ ー タ ー 二 人 の 方 を お 願 い し て い る の で、 棚 次 さ ん、 棚次 そうですね。ですから、五穀と特に稲霊とか穀霊 と人の魂とのつながりについて、もう少し教示いただき どこかで根底でつながっている、そういう基本認識があ 奥井さん、お願いし ま す 。 つまり山伏というのはつなぎ役をするんだろうと思い ますね。何をつなぐかというと、一つは自然と人間、自 たいと思うんです。よろしくお願いします。 り も 神 さ ま と か 仏 さ ま と 人 ( あ るい は 自 分 )を つ な ぐ。 星野 尚文 山伏はいろんな山伏がございますね。本格的な山伏も いれば、里伏といいますか里山伏もいれば、かつぶしも 星野 一点目の秋の峰と冬の峰、それと春、夏ね、これ は混ざり合ってないです。秋の峰は従来の秋の峰そのま リコメント い る か も し れ ま せ ん け ど も ( 笑) 、いろんな山伏がいる。 ま、冬の峰も従来のものそのままです。ただ、夏の峰と 棚次 正和 分をつなぐ。それからもう一つは人と人をつなぐ。何よ コメント 1 つなぎ役としては少なくともこの三重の仕方で、 神さま、 仏さまとのつなぎ、自然とのつなぎ、他者とのつなぎと、 棚次 ありがとうございます。星野先生とは、実は十三 年前に筑波大学で教 え て い る と き に 宗 教 学 の 実 習 が ご ざ でも山伏の基本的なスタンスというのはつなぎ役だと思 三重のつなぎがあるかと思うのです。 いまして、四日間ほ ど お 世 話 に な り ま し た 。 大 聖 坊 と い うんですよね。それを星野先生は見事に、さらっとおっ つなぎ役をする山伏 う宿坊に泊めていた だ き ま し て 、 そ こ を 拠 点 に し て 出 羽 穀霊と自分の魂が混ざり合う 三山神社とか、月山 と か 、 湯 殿 山 を 巡 り ま し た 。 いうのは、いま現在は夏山で講の人たちが来る、それが 夏峰のうちに入ります。 ます。修行に関しま し て は 先 ほ ど 町 田 先 生 も 言 わ れ ま し さて、いま星野先 生 が お 話 し さ れ ま し た が 、 修 行 と 女 性というようなこと が 一 つ の 大 き な テ ー マ だ ろ う と 思 い の峰入りは春の峰入りの要素をも含んでいると、そんな 収したということでしょうか。あるいは逆に言うと、冬 れは秋の峰入りが、ひょっとすれば夏の峰入りの分も吸 の二つになっているということをおっしゃいました。そ 一つは、この峰入りというのが、春、夏、秋、冬と本 来ならば四季に応じて四回あった。それがいまは秋と冬 棚次 それは星野先生が出てくる。 うな説明なのかな。現実にすっと出てくるんですよ。 そうすると、私が勤行をしていて、興屋聖の中の穀霊 と自分の魂が混ざり合うというかたちが現れたというふ と先途の二人で行に入るわけ。 十一月の十三日から山に上がるんです。そこから、位上 それから、冬の峰の穀霊と人間の魂と、これは混ざる ということかな。これは自宅参籠が終わってお山参籠が たけど、何で修行を す る か と い う と 、 古 い 自 分 、 自 我 を ふうに理解してよろしいのでしょうかというのが一つの 羽黒修験に関しては、幾つかお尋ねしたいことがござ います。二つほどお尋ねしたいと思っています。 しゃったんだろうなと思います。 大変充実した実習 で し て 、 あ と で 学 生 諸 君 に 聞 い て み ると、いままでやっ た 実 習 の 中 で 一 番 よ か っ た と 喜 ん で おりました。その節 は お 世 話 に な り ま し た 。 あ り が と う 捨 て る。 そ の た め に は 何 か を 断 た な い と い け な い と か 、 問いでございます。 ございます。 そんなお話をされて い ま し た 。 星野 私が興屋聖の中に。だからそれは穀霊と私の魂が 混ざり合ったものが、視覚的に見えてきたのかなという 一次の修行で身心変 容 す る 、 意 識 が 変 容 す る と い う こ と 分の姿が現れたというような、一種の不可思議な現象に とでございますけど、そのお話の中で、興屋聖の中に自 もう一つですけど、冬の峰入りについて、位上と先途 ですかね、お二人の聖が二人で行をするというようなこ だったです。 言 い 方 し か ち ょ っ と で き な い ん で す ね。 そ う い う 現 象 その修行のお話に 関 し ま し て 、 第 一 次 の 修 行 と 第 二 次 の修行という言葉を 町 田 先 生 は お っ し ゃ い ま し た ね 。 第 で、これは考え方に よ り ま す け ど 比 較 的 簡 単 か も し れ な の中でどう生きるか と い う 、 現 実 の 世 界 そ の も の が 実 は 悟後の修行といいま す か ね 、 こ の 現 実 の 世 界 に 戻 っ て そ 要するに、冬の峰入りというのは五穀豊穣といいます でしょうか。 ついてお話をされましたけど、それはどういうことなん うかは別ですね。 れていて、先途が同じようにそういうふうに見えたかど こう や ひじり いと。むしろ難しい の は 第 二 次 の 修 行 で あ っ て 、 い わ ば 棚次 まあ、一種の神秘体験ですから。それはちょっと 個性的なというか、星野さんとか、ほかの位上が経験さ 修 行 の 道 場 な ん だ と い う ふ う な、 そ ん な こ と を お っ 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 111 ということを考えたいと思って研究しています。 わからないとおっしゃることがすごくよく分かると同時 お寺の側の修行に行きました。星野先生がやらなければ る方が、より高みを目指すために一人の世界に入ってい 思っていました。けれども、非常に長年修行を重ねてい 本当の意味で悟りを得るというふうな境地に行く場 合、どこかで孤独の中で山に入るとか、孤独の中で何か 鎌田 星野さんの固 有 の 体 験 と い う こ と で す ね 。 棚 次 私 も そ こ に す ご く 興 味 を 持 っ た ん で す け れ ど も。 自分の姿がそこに映 し 出 さ れ た こ と が 、 懺 悔 に つ な が っ くのではなくて、むしろ私のような素人まで受け入れる 星野 それはなかったです。 ていくのか、あるい は こ れ で い い ん だ と い う 自 己 肯 定 に に、やったからといって分かるものでもないという……。 そういうふうに思いました。 うことでしたね。 はありました。実際 ね 。 そ れ が 何 か 具 体 的 に 現 れ た と い 自分との一体感がそ う し て い く の か な と い う 意 識 は 頭 で そうすると、自分の気持ちのうえで意識的に、やっぱ り勤行をやっている 中 で 、 そ の 稲 籾 と か 、 ほ か の 穀 物 と いうのが、冬の峰の 昔 か ら の 内 容 な ん で す よ ね 。 霊を引き出して、そ れ を 農 家 に 配 っ て 田 ん ぼ に 植 え る と 星野 本来穀物にも霊力はあるだろうと。だから稲籾か らは稲霊というもの が あ る だ ろ う と 。 だ か ら 稲 籾 か ら 稲 した。 日如来とかいうことになってくるのかなと思ったりしま ちょっとしてきて、それのもう少し洗練されたものが大 ん で す け れ ど も、 歩 か さ れ て い る と い う ふ う な 感 覚 が 山という大きなものにどっぷりとつかって、歩いている も、山を歩いているときに体はへろへろなんですけれど、 入って実際、私も大日如来とまではいかないですけれど 献を読んだときの納得の仕方と同じです。しかし、山に だというふうな説明を聞くとしますが、それはある種文 て、たとえば山で起きた体験が大日如来との一体化なん わかるという意味が狭いと。つまり言葉をラベリングし ンクしているのかなということを考えたりもしました。 な、そのロジックも不思議というか面白いというか、そ その意味で、聖なる世界を追求した孤独な修行者のそ の先にあるものが、我々普通の一般の幸せだというふう 何百日の修行の果てに土中入定をすると。 たりする、 そのある種の不幸な出来事を解消したいから、 ていたと聞きました。それは飢饉があったり病気があっ かというと、衆生の幸せを願ってということを動機とし んですけれども、そのお坊さんがなぜ即身成仏を遂げた 実際それは近代に入ってから、明治においても即身成 仏を遂げたお坊さんはいらっしゃったというお話を伺う 当の意味で一体化するというふうな。 どうしても、面白いというか、腑に落ちないというか、 ような集団において修行をするという、そのシステムが を追求するという態度が必要なんじゃないかなと僕は つながっていったの か 、 そ こ を お 伺 い し た い で す 。 星野 一回ぐらいではね。 奥井 ことに気付きました。はい、一回ぐらいではとい うことなんですけど。 二年前の二〇一二年八月、九月に、出羽三山に行きま して、出羽三山 神 社 と正 善 院 荒 沢 寺 と二つあるう ちの、 星野 懺悔という意識はなくて、やっぱり我々の百日行、 こもり行というのは 、 穀 霊 を 引 き 出 す と い う 修 行 だ と い もう少しそれを考えると、羽黒修験の、ある種の極北 が即身成仏ですよね。土中入定して、生きながら山に本 うことは意識的にあ る わ け で す よ 。 あのときのことを考えていて、いまでも分からないま まなんですけれども、たぶんこうだろうなと思うのが、 鎌田 自分が見える感覚というか、自分の中の穀霊が現 れてくる。 そういう意味での体験的に分かるというふうな仕方 は、概念による理解の仕方とはおそらく決定的に違うも 棚次 引き出すってどういうふうな。 鎌田 穀霊、霊力を。 星野 いや、だから こ の 興 屋 聖 の 中 に す っ と 自 分 が 見 え 隠れしてくるんです よ 。 のがあります。体験的に何かを得つつも、言葉にして反 というのが実感です。その意味では大学の知とか学校教 芻したかたちで分かるというところまでまだ至ってない んをお伺いできればと思います。 達になろうというふうなことに至るのかという、そのへ それは私なりの推測なので、答えはまだ分からないん ですけど、何でみんなでやるのかな。先達はどうして先 のアンチテーゼというものを突き付けられた思いがいた 基本になっているので、みんなでやることによっての菩 星野 修験道にはいろんな修行の仕方があるよね。だか らすべてはやっぱり菩薩行、自利利他、そういうことが 星野 尚文 う こ と な ん で す。 荒 沢 寺 の と こ ろ に 参 加 し た と き も、 リコメント 育がつくろうとしてきた知というものに対する、ある種 ういう話と、みんなでやるということとが、どこかでリ 鎌田 では次に奥井さん、コメントをお願いします。 コメント 2 奥井 遼 しました。 五十人、六十ぐらいでしたし、毎年それぐらい、もしく なぜ修験道はみんなでやるのか 奥井 こころの未来研究センター研究員の奥井です。 私は教育学を専攻 し て い ま す 。 教 育 学 と い う と 学 校 教 育の研究をしている 人 が 多 い ん で す け れ ど も 、 僕 の 場 合 薩行、それと一人で土中入定しての菩薩行、それはいろ お聞きしたいことはすごくたくさんあるんですけれど も、一点これだけはお聞きしたいと思っていることがあ は伝統芸能のお稽古 と か 、 こ う い っ た 修 行 だ と か 、 近 代 はもっと多い人数でやっている。 ります。それは何で修験道はみんなでやるんだろうとい がつくり上げてきた 教 育 と は 異 な る か た ち で の 人 間 形 成 11 2 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 の場合は多くの人で や る こ と に よ っ て 菩 薩 行 を し て い く んな修行の仕方とし て あ る わ け で す よ 。 だ か ら 、 秋 の 峰 星野 二十四が熊野。 ですから、祭りが終わって一月一日の元旦の日には、 神事で使った綱をもらった「綱延」という役の若者は、 なっている。 その国分神事が正月午前零時から行われる。 鎌田 九ヶ国を英彦山が治める。 つまり分割されていて、 羽黒がいちばん多く、次に熊野、そして九州の英彦山と 鎌田 イニシエーションですね。 た」というんです。 たけれども、この歳夜の綱をもらって一丁前になりまし 親類縁者を呼んで祝言振る舞いですよ。そのときに述べ ただ、冬の峰は二 人 で や る 修 行 。 こ れ は 羽 黒 修 験 独 特 のものだと思うね、 こ れ は 羽 黒 修 験 の 、 庄 内 地 域 の 人 た その国分神事のいちばん重要な所司役を、星野さんが雪 けど、たった一人で 修 行 を し て い た か も 疑 問 で す ね 。 お まず修験道の成り 立 ち と い う こ と か ら 考 え る と 、 最 初 から集団で修行をし て い た か ど う か は 疑 問 で す よ ね 。 だ 鎌田 いまのやりとりでちょっとコメントをしておきた いと思います。 なと思いますね。 たり。昔の人たちっ て 非 常 に 素 晴 ら し い 構 成 を し て い る やっているのと同時に、村の人たちの組織が協力し合っ 協力し、また張り合いながら、その二つが、行者が行を それから先途を支えるその村の組織、この二つが非常に そればかりでなくて、頭屋というのか、位上を支える グループ、町内会のグループ、昔で言えば村のグループ、 いる。 行と農業を守護するものが非常にうまく組み合わされて ということと、もう一つ「験競べ」という、修験的な修 それを見ていて思ったんですが、位上と先途に分かれ て二人で組んで百日間こもりをしながら稲霊を引き出す て正しいやり方を要求されるというのがありました。 練と言うと語弊がありますけども、すべての所作におい たとえば僕も実際に行ったときに初入峰、初めての人 だからということで、すごく細かい規律訓練を、規律訓 こを考えたいなと思っている部分があります。 点 が あ る と 思 う の は、 倉 島 さ ん も ず っ と こ だ わ っ て い 行においても菩薩を目指すというところとやっぱり共通 奥井 冬の松例祭のことはすごく面白いんですけども、 村の共同体と一緒にやるということも、みんなでやる修 る若者の口上は、「私もかかあをもらってまだ半人前だっ ちとの関わりの菩薩 行 で す よ ね 。 庄 内 の 農 業 を し っ か り の中の庭上で行っているわけです。 ということで、土中入定の場合は一人で菩薩行をすると。 鎌田 二十四ヶ国熊野が治める。残る九ヶ国。 星野 九つが英彦山。 守っていく、そうい う こ と で つ な が る 菩 薩 行 だ か ら ね 。 星野 そう。それが儀式なんです。それぐらい地域の中 で重視されている。 釈迦さんも最初は行 者 仲 間 み た い な と こ ろ が あ っ て 、 そ ている、この構造は本当に独自でよくできていると思い だから、菩薩行の 仕 方 と し て は 、 一 人 で や る 行 で あ っ たり、二人でやる行であったり、多くの人でやる行であっ こから離れて独自の 修 行 を さ れ た と 思 う ん で す ね 。 ました。 ど、そういうふうな 中 か ら 独 創 的 な 思 想 と か 体 験 を し て と思います。 トされている。このへんが羽黒の冬の峰の重要な特徴だ 星野さんは「半聖半俗」と言われましたが、村の共同 体の部分がしっかり裏付けされていて、きちんとサポー ているかもしれないという話も聞きました。 とが、五体投地というかなり苦痛を伴う行に多少影響し らっしゃる社会性というか水平軸のところなんです。そ そういう意味で修 験 者 も 、 役 行 者 と い え ど も 、 最 初 は 何らかの修行者群み た い な も の が あ っ た の で は な い か と 特に今年の初入峰は態度がなってないなとか、去年は もっとぴりっとしていたとか、聞くんですよね。そのこ いくためには、やっ ぱ り 一 人 に な る と い う 契 機 は 絶 対 必 思うんですね。修行 者 仲 間 と い う か 同 士 み た い な 。 だ け 要だと思うので、一 人 で や る 修 行 も か な り や っ た と 思 う あんまり山で起きたことをしゃべると、おととし目の 病気になって一時目が見えなくなったことがあって、今 かあんという鐘の音が鳴るたびに、五体投地を繰り返 すんですけれど、文言を唱えながら。そのかあんがいつ 年はもしかしたら今後目が見えなくなるかもしれないん 星野 いま鎌田さんが言いましたけれども、冬の峰の百 日目が松例祭という、 十二月三十一日のお祭りなんです。 終わるかは分からないんですね。かあんがひたすら続い 松例祭はイニシエーション それは、二十代から四十過ぎ、五十近くまでの人たちを て、先達をちらっと見ながら、早く終わらないかなとか んです。 星野 そうですね。 鎌 田 やっぱり両方あったと思う。修行者仲間、サンガ 的な修行と、それから独自のその修行、そうして独自の 若者衆と言うんですけれども、その若者衆も村を挙げて すよ。だから結婚してもまだ半人前で、松例祭でその神 いて、すべての全体の動きに遅れを出したから、長くや としては、初入峰の働きがスムーズさ、円滑さを欠いて 思うんですけれども、もう延々と容赦なく続く。通常の です。 ものを生みだしていったと思います。ですから両方あると 上、下に分かれてこのお祭りに参加するんです。 修行の一部ではありますが、そのときはそれは一応方便 事に使った引き綱という綱をもらって初めて一人前の男 るんだみたいなふうに聞きました。 しも いうのは、修行のあり方としては考えられると思います。 大松明引きという神事があり、大松明引きに使ったこ の綱をいただかないと村では一丁前の男に扱わないんで として扱われるんですね。 かみ それから、いろん な 修 験 道 が あ る 。 羽 黒 の 場 合 だ と 修 験世界を三つに分け ま す ね 。 そ れ を 星 野 さ ん が 所 司 役 で やっている国分神事 と い う の が あ っ て 、 六 十 六 カ 国 の 国 の三十三ヶ国の半分 が 羽 黒 で し た ね 。 星野 そうです。 鎌田 そして二十四が…。 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 11 3 やっぱりそれは水 平 軸 の 論 理 で 動 い て い た と 思 う ん で す。ただ、そこをど う 解 釈 す る か な ん で す け れ ど 。 あ え があったような記憶があるんです。 そのときに二つの村がそれぞれ違う神木を持ってい て、どちらが先にその神社の扉を破るか、そういうこと いうことと結び付いているのかどうなのかということ を、もう一つ伺いたいんですが。 星野 松例祭での若者たちの動きというのは、修験道と は特別関係なくて、村の氏子の人たちの奉仕です。 永沢 ああ、そうですか。 星野 ええ。この話をするとまた長くなるんだけど、そ れはあくまでも修験道というスタイルじゃなくて、地元 の氏子の若者たちが奉仕として、冬の峰というのは位上 と先途の二人の松聖の「験競」だから、その位上方の若 者たちと先途方の若者たちが、松聖の命を受けて、そう いう神事をいろいろやっているだけですね。 永沢 分かりました。ありがとうございました。 篠原 京都大学の篠原と申します。私は修行とは無縁な 軟弱な人間で、何でここにいるのか分からないんですけど。 代受苦思想 永沢 子どもたちがお酒を飲みながら朝準備したのを、 ちょっと覚えていたんですけど。 先ほど奥井さんが言われたことで、ちょっと食い違い があったような気が、あるいは触れられなかったような 気がすることがあったのでお伺いしたんですけど。奥井 さんがさっき即身成仏と言われて、そういう人が明治に なってもいると言われたんだけど、あれはミイラ仏のこ ことがあって、それが先ほどの行比べと似たような感じ 奥井 そう、即身仏。 とですか。 があるということが一つ。 そうすると、そういうときに二つのグループの対立と 協力というか、そういうことがあるんじゃないかという 星野 二十歳以上だからね。 永沢 ああ、そうですか。 星野 子どもじゃない、大人ですけどね。 永沢 大人でしたか、そうでしたか。 鎌田 かなり裸になっていますよ。 星野 上の方は裸にさらしを巻くだけでね。 星野 その場面ですね。ふんどし一つにはならないです けどね。 星野 うん、松例祭の大松明引きというね。 永沢 大松明引きか。失礼いたしました。 星野 十二月。それはあれじゃない、松例祭の……。 永沢 あ、松例祭ですね。 ことと冬の峰というのは何か関係があるんでしょうか。 それが結局、その次の年の実りがどうかに関係すると いう話をそのときに聞かされたんですけれど、そういう て全体の行動を乱す よ う な 素 人 を 受 け 入 れ る と い う シ ス テムを採っているか ぎ り 、 お そ ら く 必 ず 全 体 の 動 き が 遅 れたりということは 出 て く る と 思 う ん で す 。 そういうものを含 め て 修 行 な ん だ と い う こ と に な る と すると、それはそれ で す ご く 奥 が 深 い な と い う 気 も い た します。そういう素 人 の 動 き に よ る ノ イ ズ み た い な も の が、修行にとってあ る 種 欠 か せ な い も の な の か 、 そ れ と も本当にノイズとし て 必 要 な い も の な の か 、 そ の へ ん の 実感をお聞かせいた だ け れ ば と 思 い ま す 。 星野 秋の峰のこの五体投地は、懺悔だよね。 奥井 そうですか。 星野 うん。十界行の五番目の人界行にこの懺悔という のはあるわけ。修行 の 中 に ね 。 だ か ら そ れ は 当 然 、 初 入 峰だからいじめたと か い う こ と じ ゃ な く て 、 懺 悔 と い う 五体投地の修行です 。 鎌田 よろしいでし ょ う か 。 で は 、 永 沢 さ ん 。 自由討論 松例祭の若者たちは氏子としての奉仕 篠原 即身仏ってミイラ仏で、ここで言われている即身 成仏は違いますね。 いにかけての男の子 た ち が 、 夜 中 に ふ ん ど し 一 丁 で 雪 の そのときに、さっ き イ ニ シ エ ー シ ョ ン の こ と が お 話 に 出たんですけれども 、 十 代 の 前 半 ぐ ら い か ら 二 十 歳 ぐ ら ですけれども。 だったものですから 、 十 一 月 末 か 十 二 月 だ っ た と 思 う ん 単に霜月祭りというかお祭りをいろいろ見ていた時期 チ ベ ッ ト 仏 教 が 専 門 な ん で す け れ ど、 学 生 の こ ろ に ちょっと出羽の方に 行 っ た こ と が あ り ま す 。 そ の と き は 中に入っていくための一つのプロセスになっているん れないという感覚とかがあって、それがやっぱり社会の よね。だから、そういうことを通過しないと大人にはな とか注意力がないと途中で事故を起こしちゃうわけです 一つは駆け上っているときはかなり危険があるわけ で、それにちゃんとしたペースで上がっていくだけの力 きり示されていくということがありました。 ここでは一種の年齢による階梯というものが非常にはっ 飯のときだったと思うんですけど。そのときに、やはり 奥井 あると思いますね。 ものはあるのかなとちょっと思ったんですけど。 あるんですけど。修験道の中にもそういう滅罪供養的な いうか。それを目撃してびっくりして、そういう報告が よね。たとえば、キリスト教徒が近世初期に日本にやっ 星野 違います。 篠原 ちょっとそれを確認したかったのと、僕も詳しく は知らないんですけど、滅罪供養という言葉があります それから終わった後にちょっと場所を移して、年配の 方から順番に並んで座るということがあったので、朝ご 中で足踏みをしてい る 。 そ れ で 上 が っ て い っ て 、 あ と 明 鎌田 それは代受苦思想というのがあるので、その代受 苦の思想は修験道に非常につながっています。たとえば 永沢 京都文教大学、永沢と申します。 け 方 に な る と、 神 社 に 向 か っ て 参 道 の 階 段 を ず っ と 上 じゃないか。それが、修験道におけるいろいろな規律と てきて、衆生の罪を一身に背負って、自分の体を焼くと がっていく。 11 4 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 熊野の場合だと阿弥陀浄土ですから、阿弥陀浄土の中で か。それが星野さんの言われる菩薩行の一つの発現だと 何どき、どういうふうに一般化していったのかは、荒行 ませんが。「遠壽院荒行堂」の名称の呼ばれ方が、いつ という言葉が社会に流通する際に重要な契機だったかも 思います。 完全に代受苦思想に基づいてそういう行が行われている。 しれないと思います。 その遠壽院の荒行について昨日話し足りなかったこと を コ メ ン ト し て い た だ い て、 続 い て 二 人 の コ メ ン テ ー ターにお願いいたします。 にやりませんか? を生かしたやり方だ な と 僕 は 感 心 し て い ま す 。 い っ し ょ 滅するやり方があっ て 。 こ れ は 極 め て 日 本 の 風 土 の 特 色 あって、その中に、 「苦行・荒行」という項目が数行あ う項目が宮家準先生の執筆で三ページにわたって書いて 宗教についていちばん詳しくしっかりしている『宗教 学辞典』(東京大学出版会)も調べてみました。修行とい それが古代からあったわけではありません。 われています。それはもちろん現代の使われ方なので、 験者たちが荒行する、と一般の辞書的な用法としては使 と書いてありました。だいたいにおいて、お坊さんや修 「荒行」について昼休みの間に三種類の辞典を調べま し た ら、 辞 典 類 で は、 「僧や修験者たちの厳しい修行」 た。 鎌 田 そ れ で は 午 後 の セ ッ シ ョ ン を 始 め た い と 思 い ま す。午前中のセッションも非常に豊かなものがありまし する場所だということで、明治時代から使われていた、 けれど、中山荒行堂というのは荒行するお堂だと、荒行 で、荒行という行そのものを指したものではないのです それから幕末期の古文書ですけれども、万延、慶応の ころの文書には、中山荒行堂という言葉も出てきますの 前田家の、そのときの藩主が揮毫した額なのです。 間ですから二百年ぐらい前になるのですか、越中富山の くと「荒行堂」という扁額があり、これは江戸期文化年 には「加行所」となっているのですけれども、お堂に行 期文政年間に建てられた丸柱の石柱がありまして、そこ 戸田 日晨 戸田 よろしくお願いします。荒行という言葉ですけれ ども、私もうっかりしていて、先ほど金峯山寺の田中総 長 さ ん が、 日 蓮 宗 が 元 で は な い か と ず っ と 強 調 さ れ て ころ。川の横に自ら を 自 死 状 態 に 置 く こ と で 、 今 後 洪 水 りました。ここでは「苦行」と「荒行」はひとくくりに 遠壽院に関しては。 「荒行」について 3 日蓮宗の荒行の検討 人々の苦しみを持って死んでいく。昨日の補陀落渡海も 羽黒の土中入定も、もちろん民衆の苦しみを背負って の代受苦思想が背景 に あ っ て 生 ま れ て く る の で 、 滅 罪 供 養の一つの日本的な ス タ イ ル で す 。 一つ僕が面白いと思うのは、前に論文に書いたことが あるんですが、海に 入 っ て 他 界 に 行 く と い う 海 中 他 界 観 と結び付くような滅 罪 供 養 の 代 受 苦 の あ り 方 、 こ れ は 補 陀落渡海。それから 山 の 中 の 懐 に 帰 っ て い く と い う 滅 罪 が起こらないように と い う 願 い も 込 め て い た と い う 話 を なっていますが、「苦行」の場合は「厳しい修行」を言う。 だから中山の荒行堂ということでずっと通っていたの だなということを思い出したものですから、お話しさせ おっしゃっていましたけれども、確かにそれはあるので 聞いたことがあるん で す け ど 。 それが荒々しい形態を伴うと「荒行」という、 と一応「苦 鎌田 そうです。真言修験者。 篠原 亡くなるときに確か川の土手に自ら埋もれて、一 種の即身仏になったといわれていますよね。その場合は、 たぶんお母さんが洪 水 で 亡 く な っ た ん で す か ね 、 小 さ い 明治以降のことだと言ったのですけれども、自分のと ころの遠壽院のことを思い出すと、参道の入り口に江戸 しょうが。 その場合、さっきの懺悔の話もそうですけど、やっぱ り自然の力をもらうことで、すごい力をもらってという、 行」と「荒行」をひとくくりのカテゴリーにしながらも てもらいました。 供養の土中入定のや り 方 、 こ の 二 つ の か な り 激 し い 身 を そういう力。 区別しているのが宮家さんの説明でした。 篠原 ついでといったらなんですけど、円空さんという 木彫仏で有名な、あ の 方 も い わ ば 修 験 者 で す ね 。 たとえば、奥井さ ん が ち ょ っ と で き が 悪 い と い う こ と でいじめられたと言 わ れ て い た の は 、 い じ め と い う よ り 養、あるいは洪水を 防 ぐ よ う な 即 身 仏 と い う 行 い に も 通 ら自然から力をいた だ く と い う こ と が 、 そ う い う 滅 罪 供 いということかなと も 、 ふ と 思 っ た ん で す け ど ね 。 だ か 戸田 ああ、そうですか。 ですが。 なります。まあその荒行の張本人は日蓮宗かもしれない ですので、一般的に我々はいまや「荒行」という言葉 をふつうに使いながらやりとりをしているということに のですが、瞑想法として 「止観」 というのがあります。「止」 鎌田 ありがとうございます。 じたのかなと思った ん で す け ど 。 鎌田 張本人というのは言い方がよくないですが、使い 方が一般化していく一番の発信源は「荒行堂」だったか と「観」 、つまり静止状態にし、なるべく凝縮した状態 は、やっぱり自然に 申 し 訳 な い こ と を し た か ら 謝 り な さ 鎌田 そういう要素 、 イ ン タ ー フ ェ ー ス と い う か 、 贈 与 に対するお返し、報 恩 感 謝 的 な お 返 し で す ね 、 そ れ は 行 もしれません。その言い方が正式名称がどうかは分かり の著書『日蓮宗の修法について』でも、ちょっと書いた 戸田 それから百日の日蓮宗の荒行ということを専門で 研究している方もいらっしゃると思うのですけれど、私 「声道」 「念道」 「霊道」 者の中にはかなりそれぞれあったんじゃないでしょう 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 11 5 お話は、垂直に他界を目指す方向と、水平に社会を目指 ます。大乗仏教に「上求」 「下化」の両面があるという 会/他界」というキーワードを愛用しています。体験は ということが、一つ論理として成り立つのではないかと 道です。それから「念道」を開発していく。全部道です 考えております。 の心がけとしても不可欠である、ということを、戸田先 をつくり、そして内 面 を 観 じ て い く と い う こ と で す 。 うと座禅のように静 か に 座 る 。 内 面 は い ろ い ろ と 変 化 が なかなか実際の行の現場で、そういう論をはるという わけにはいかないので、やるのは修行者本人です。ただ 生はじめ皆さんが強調されたと思います。 内証に属するもので、 外からあれこれ言うものではない、 あ る で し ょ う け れ ど、 そ れ と は 違 う、 静 と 動 と 言 え ば、 指導する伝師という立場で、公の場所で話すときは、そ 二つめは、行というのは自力の側面が強いとしても、 たとえば戸田先生が指導しておられる荒行堂には、鬼子 というお話は、垂直あるいは他界に関するものかと思い どちらかと言えば動のように見えるのですが、読経三昧、 ういう論が成り立つのではないかなということで、いま 調されています。このような、人間より上に位置する神 けれど。それから「霊道」というのでしょうか、もう少 水行三昧というよう に 、 一 点 に 集 中 す る 行 為 の 繰 り 返 し お話ししたわけです。よろしくお願いします。 仏の世界とのつながりが非常に大事であって、そこを外 し広がりのある目の見えない何か。これを感応していく の行なわけです。 鎌田 ありがとうございます。声の問題は極めて重要な 問題だと思いますので、質問者の方からも後で議論にな 我々の荒行という の は 、 昨 日 説 明 し た よ う に 、 一 日 七 度の水行をし、読経 も 力 強 く 読 経 三 昧 し 、 ど ち ら か と い 激しい水行の中に も 観 念 が ず っ と 集 中 さ れ る 。 読 経 三 昧も読経だけに徹底 し て い く 。 題 目 も そ う で す 、 題 目 を ると思います。 弥陀仏」が合ってい る な と 、 確 か に そ ん な 気 も す る の で す。 の関心は、だいたい三つぐらいの話題にまとまりそうで い ろ い ろ ほ か の 先 生 方 の お 話 も 聞 き な が ら、 メ モ を 取っておりました。散らばったメモを仕分けすると、私 させていただきます。 あります。そのような立場から戸田先生へのコメントを 関わり、それ特有のいろんな問題があります。 す。そのうちの「他界的宗教」には、行とか瞑想とかが 水平・垂直ということに関して、私はむしろ宗教の社 会的な側面と他界的な側面というふうに考えておりま について、お聞きしたいと思います。 なり得るか、どういう問題を起こし得るか、ということ 垂直的他界的な価値規範 (仏法などの宗教的真理)と、水 それら相互の軋轢や葛藤の関係について、です。つまり、 のですが、言葉足らずで誤解を招くことがあります)の問題、 一つめについてお伺いしたいのは、垂直/水平、他界 /社会の、それぞれの価値規範 (敢えて「法」と言いたい お答えをいただき、議論が深まればと思います。 たいと思いますので、それぞれについて、戸田先生から 少しずつ関連していて、別問題ではありませんが、そ れぞれ三つについてコメントと質問のようなことを述べ り、それらへの現場での対応の必要が指摘されました。 三つめは、これも昨日からところどころに出てきた話 題で、行を実践する中で、事故や事件が起こる場合があ ますので、共感いたしました。 すと、修行において不都合が起こりやすい、というお話 母神というご本尊が祀られていて、ご本尊への信仰が強 す方向と、どちらも重要だということですが、それが行 態から観の内面を変 化 し て い く と い う か 、 見 て い く と い 唱える。そこに一つ の 静 止 し た 状 態 が あ る 。 そ う い う 状 うのも、荒行の修行 法 の 一 つ の 手 段 と 言 い ま す か 、 一 つ を伺って、私も個人的に同様なことをいつも思っており 津城 寛文 では、津城さんのコメントをもらいます。よろしくお 願いします。 三つの質問 コメント 1 の方法として構築さ れ て い る の だ な と 思 う わ け で す 。 それは止観という こ と に な っ て し ま う と 、 瞑 想 法 う ん ぬんという話になっ て し ま う の で 、 も っ と 広 が り は 大 き なものですから、念 気 と 言 い ま す か 、 そ ん な 話 に も な っ てくるのですが、目 に 見 え な い も の を 感 じ て い く ア ン テ ナを、どうやって自 分 で 、 変 な ふ う に 曲 が ら な い よ う に して、つくっていく か と い う こ と が あ る と 思 う の で す 。 だから、先ほど隣 の 先 生 か ら も 「 さ す が に 行 で 声 を 鍛 えているから、大き な い い 声 で す ね 」 と 言 わ れ た の で す 鎌田 でも歌手ですね。歌い手でありますから。 津城 はい。行を論じるには声量が小さいのですが、今 日は力が入るよう頑張ります。 さ い 声 で は な く て、「 自 我 得 佛 来 」(大きな太い声で)と 津城 ありがとうございます。私も篠原先生と同じく、 修行とはいちばん遠い軟弱な人間ですが、行には憧れが が、声というのはや っ ぱ り 大 事 な も の で 、 ぼ そ ぼ そ と 小 始まると声が生きて く る 。 す。日蓮聖人の題目 は 朝 日 の 信 仰 で も あ り ま す か ら 。 だ まず一つめは、昨日から所々で出ております「水平/ 垂直」という話題です。これは私も前からよく使ってい 鎌田 確かに。 から声を出して鍛え て い く 。 る一対のキーワードで、学会でいうと、トランスパーソ 戸田 それで、「朝題目夕念仏」と昔から言われていて、 朝日が昇るときには 題 目 「 南 無 妙 法 蓮 華 経 」 が 似 合 っ て そうすると、私の方もいま考えている念と言いますか、 念が集中されてきて 、 そ れ が 開 発 さ れ て い く 。 そ れ か ら 他方、 行や瞑想も人間がこの地上で行うことですので、 平的社会的な価値規範 (世俗法)とは、どういう関係に 念と霊というのをす ご く 混 同 し て 、 な か な か 分 か り に く ナル学会などでよく使われています。私はむしろ、 「社 いるなと。夕日が沈 む と き に は 「 南 無 阿 弥 陀 仏 、 南 無 阿 いものだと思うのですけれども、「声道」を鍛える声の 11 6 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 なレベルで法の衝突 と い う こ と に つ い て 、 戸 田 先 生 の お 実際の行の中から 、 そ の 指 導 の 中 か ら 、 あ る い は 日 蓮 宗というレベルで、 あ る い は 個 人 の レ ベ ル で 、 さ ま ざ ま 話もありました。 宗教法が世俗法の中 に 取 り 込 ま れ て い る こ と だ と い う お 宗教法人法も国家の法体系の中に入っています。これは、 イスラム圏では異 な る か も し れ ま せ ん が 、 現 代 日 本 で は 世 俗 法 が 優 位 で、 先 ほ ど ち ょ っ と 雑 談 で 出 た よ う に 、 私たち皆が自覚して い る こ と で す 。 た い と い う よ う な )が、 い つ も せ め ぎ あ っ て い る の は、 (権力を得たいというような)と他界的な価値観 (法を悟り いところがあります が 、 個 人 の 中 で も 、 世 俗 的 な 価 値 観 す。さらにミクロに み る と 、 個 人 の 内 面 に は 踏 み 込 め な らに小さな衝突が、 個 人 間 に も あ り 、 集 団 間 に も あ り ま 位の場合があります が 、 も っ と ミ ク ロ に み て い く と 、 さ 衝突になります。そ こ に は 、 仏 法 優 位 の 場 合 と 、 王 法 優 価値規範 (法)の衝突は、仏教でいえば、仏法と王法の のレベルで起こっていると思います。最も大きな枠では、 います。 事情が出てきて、私 は そ れ を 「 社 会 的 宗 教 」 と ま と め て 人間関係とか組織と か 制 度 と か 建 物 と か 、 そ う い う 周 辺 の対立が、際立ってくると思います。その点について、 ち込まれたりすると、宗教的価値基準と世俗的価値基準 対応が求められると思いますが、それが世俗の法廷に持 世俗的な合法的な対応だけではなく、プラスアルファの な修行の場でも起こったとして、 価値基準が異なるので、 学校や職場、相撲部屋のイジメのようなことが、宗教的 法」ではなく、宗門の法、内規によるということでした。 う基準となる「法」は、国家や世俗の「刑法」とか「商 れども、何か事件が起こった場合、そこで処分などを行 います。話せないこともずいぶんあるかと思うのですけ うようなことも、インタビュー記事その他でも書かれて 三つめは、行の内部や周辺で、いろいろ事件があった こと、人事に関連する懲罰的なものがあったりするとい ます。 か、実感的なお考えがあればお教えいただきたいと思い の事情なのか、そのようなご本尊との関係について、何 のも、もやはり縁なのか、選びなのか、あるいは向こう 話がありました。どういう力や流れにつながるかという つ一つ退けて、最後に蔵王権現を祈り出した、というお ご本尊は鬼子母神であったり釈迦如来であったりする 他に、昨日伺った役行者のお話では、出てきた神仏を一 とき、そこに縁が作用する。 るかとか、あるいはどの師匠について修行をするという とえば、どの山で修行をするかとか、どのお寺で修行す でも、非常に重要なのではないかと思っております。た ですから日蓮聖人以前からある東大寺などの既存の戒 壇 の ほ か に、 そ う い う 王 権 を 基 と し た 国 を、 『法華経』 なってくる面があるのです。 と、かなりエキセントリックな現代宗教の派生のように 心とした国をかたちづくっていく。それが何百年もたつ ので、 「王仏冥合」という言い方があり、 『法華経』を中 ありまして、王法は国の法ですよね。仏は仏法の法です 仏法と世法というか王法ですよね。それとの関連とい うことで言えば、 「王仏冥合」という日蓮聖人の思想が うこと」というふうにお尋ねいただければと思います。 ら答えます。答えてないものがありましたら、 「こうい 問があったと思うので、まず最初の一つを思い出しなが 津城先生の、いまのお話の流れの中で、たくさんのご質 戸田 行の現場にいますと、なかなか論理的に何かを考 えるということから遠ざかってしまうことがあります。 鎌田 非常に重要な三点についての質問に答えてもらっ てから、アルタンジョラーさんに続けましょう。 とりあえず以上です。 ま私も考えているところです。 そのようなさまざまな宗教的な法のレベルを、他のレ ベルとどう棲み分け、どう調停するかということを、い ただくことがあれば、お伺いをしたいと思います。 非常に難しいと思うのですが、これについて補足してい があります。名人芸、 達人芸に属するそのような判断は、 ないレベルで、師匠が弟子に証明を与えることの難しさ の信仰は、一種の宗 教 的 な 背 後 関 係 、 宗 教 縁 へ の 信 頼 だ て、そこで事件が起こると、どの基準を優先するのか、 宗門の法があり、それぞれの個々のお寺のしきたりが あり、個々の行にも段取りがあり、 個々の師弟関係があっ 修験ということに関して言えば、田中先生、星野先生 のほうがより詳しいわけですけれども、おそらく明治の きて、日蓮聖人の存在があるわけですけれども。 を基に安んずるがために戒壇をつくるという発想も出て 社会的な側面と他 界 的 な 側 面 は 、 往 々 に し て 衝 突 し ま すが、それらの衝突 は 、 さ ら に 細 か く 見 る と 、 さ ま ざ ま 考えをお聞きしたい と 思 い ま す 。 支障のない範囲で補足していだければと思います。 と思いますけれど、 自 力 の 修 行 に お い て も 、 縁 の あ る 霊 現場では迷うことがあると思います。 権力とは別の世界 二つめについて、 自 力 の 修 行 に お い て も 、 他 力 的 な 側 面が不可欠であると い う こ と に つ い て 、 ご 本 尊 へ の 信 仰 的な流れのような話 が さ ま ざ ま な と こ ろ で 出 て い る と 思 を中心に、補足して い た だ け れ ば と 思 い ま す 。 神 や 仏 へ いました。地縁とか 血 縁 の よ う に 生 ま れ つ く 場 合 と 、 願 もともとちょっと世法というか、一般世間法からはアウ 廃仏毀釈、特に修験道、それから寺院における加持祈禱 トロー的というか、独特な道をつくってきて、その流れ が廃絶を強く言われたわけです。修験集団というのは、 うなレベルと、指導者による立ち入った確認というレベ また、行の本当の目的が分かってないと、数とか日数 によって自分の位を決めるような力学というか、一つの ルでは、 別の基準が働きます。 「内証」 というような言葉、 基準があったりする。機械的に、数や日数でさばけるよ でしょうか。一種の契約のようにも見える場合でも、やっ で一大勢力と言いますか、表には出ないけれど、隠然た 掛けのように選択す る 場 合 の 他 に 、 信 仰 者 や 修 行 者 が 自 ぱり縁がないと契約の場にも行かないとすれば、「選び」 「印可」という言葉も出ましたが、そういう成文化でき 覚しないレベルで、 法 縁 の よ う な も の が あ る の で は な い とか「召命」とか「 縁 」 の よ う な こ と が 、 信 仰 で も 修 行 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 11 7 なく、修験の回峰の 道 と い う の は 全 国 に 張 り 巡 ら さ れ て て非常に憤怒な相なわけですよね。とても怖い形相で私 母神像というのも思い浮かべていただくと、鬼形といっ も、男性性と女性性も実はあるのだということで、鬼子 ころから、すべての体液が噴き出すようなぐらいなこと 私も体験がありますけれども、本当にご本尊の前で単に だからやはりいまここで思うのは、素直な気持ちで本 当に申し訳ないというか、自分の過去を思ったときに、 わけです。 です。 あったわけで、そう い う と こ ろ か ら 、 た と え ば 日 蓮 聖 人 たち行者に相対してくれている。 になるわけなんです。もちろんのた打ち回るような状況 るものがあった。 そこまでいくのが大変なわけですけれども、その過程 で、先ほどお話に出てきた修行中の暴行問題ですとか、 も蒙古襲来のころの 情 報 を か な り 取 っ て い た と い う こ と お姿は合掌している形で、その合掌というのは修行し ている私たちに対して合掌してくれているわけで。おま です。 修行者同士の葛藤とか、いろいろなものが派生している もあるわけです。 えたちの持つ、その聖胎というか聖なる仏性というもの 戸田 それに関連してというか、ずっと話が広がってし まうかもしれませんけれど、さっきのお不動さんにして ですからある意味 で 、 表 向 き の 権 力 と は 違 う 別 世 界 を 一 つ か た ち づ く っ て い た と い う 面 も あ る と 思 う の で す。 に対して合掌しているのだという意味だと思うのです。 一つのことで言え ば 、 一 般 の 街 道 と い う の が あ り ま す ね。東海道とか東山 道 と か 、 そ う い う 表 向 き の 街 道 で は その別世界というの は 、 い ろ い ろ 表 に は 出 せ な い こ と と は別のかたちを、法 華 修 験 と い う か た ち で や っ て き た と ものだけで人の集ま り 、 僧 伽 、 教 団 を や っ て い く 方 針 と す。日蓮宗は荒行に お い て も そ う い う も の を 、 教 義 的 な もなく、女性でもないしという、その鬼子母神像に対し かたちであるというふうに考えられます。だから男性で も陰と陽、どちらが優劣ではないです。そういう一つの 修行人もそうですね。実は男性性、女性性というより も、陰陽合体というか陰陽の止揚統一と捉えると、男女 えることが中心にあるべきです。かたちだけならどんな いう涙とは全然違う。だからそういう懺悔行を根本に据 うそをごまかすために、よく泣く人がいますよね。そう んなさい、申し訳ありませんでした」と言って泣いたり、 のた打ち回るのだけれども、そこで一つの清浄感とい うか、そういうものに包まれる。人に怒られて、 「ごめ 涙を流すなんてものではないのです。毛穴やいろんなと か、いろいろなもの を 吸 収 し な が ら 行 と い う か た ち で 消 いう面があると思い ま す 。 て拝むわけです。 あるいは向こうからの選びとか、こちらから行く場合と、 ご本尊とか守護神 と か 、 あ る い は 師 匠 と か 組 織 と か い うものとの縁、法縁というのですか血縁というのですか、 こは、私も非常に大 事 な と こ ろ だ と 思 い ま す 。 いうことを戸田先生 も 書 い て お ら れ る と こ ろ が あ り 、 こ たが、その場合、本 尊 へ の 信 仰 が な い と 非 常 に 危 険 だ と 上慢になったり、イ ン フ レ ー シ ョ ン と い う 言 葉 も 出 ま し ども、修行する場合 に 、 自 力 的 な 行 者 さ ん は 得 て し て 増 津城 ご本尊の問題です。守り本尊というか、荒行堂の 場合には鬼子母神を ご 本 尊 と し て 祀 っ て お ら れ ま す け れ そういう意味での聖胎だと思うのです。それがだんだん 「聖胎長養」という一休禅師のお言葉が出てきましたが、 懺悔することによって、聖胎をどう取るかですけれど も、先ほどのお話の中には、町田先生のご本のところに もと言っていいかもしれません。 それは懺悔ですよね。 「理」と「事」ですから、身も心 胎自生」と読むのですけれども、理懺、事悔ですから、 と。左側がその結果どうなるかというと、 「理懺事悔聖 凡骨ですから、 寒中に寒水をかぶり白粥だけをすすり、 生身の体はまさにかれなんとす。死に至るような状況だ 行者のそのものの荒行の在り方を述べているわけです。 のかというと、右側が「寒水自粥凡骨将死」で、これは に彫った漢詩が掛かっているのです。これはどういうも をしているところのお堂の両脇に、聯と言いまして、木 とです。 何かあるような気がするんです。信仰の形骸化というこ ちが整え合っていればお互いに満足しているという面も 堂も含めて、表向きのかたちを一つお見せすると、かた いかみたいなところがあり、既成仏教教団やうちの荒行 そのあたりが話が飛んでしまいますけれども、どうも近 相対して唱えられるかどうかということもありますし、 ですから、儀式化してくると、そういうお唱えごとも 口ではいくらでも唱えられますから、本当にお気持ちで もお出ましください、よろしくお願いしますという心から をお呼びします。そのときにかたちだけやるのか、それと いまして、釈迦牟尼仏とか鬼子母神とか、先師のお名前 します。祈願というのは、神仏に対してお勧請すると言 たとえばいま、私が気を付けているというか、修行僧 と一緒に朝のお勤めなどをするときに、祈願とか回向とか 化していく、そうい う 立 場 の 修 験 道 で も あ る と 思 う の で あと何でしたっけ 。 向こうから、イエス が 弟 子 を 「 私 が 選 ん だ 」 と い う よ う 初めてあったのかなかったのか分からないような、でも れん やっぱり師匠も、 器 に 合 う も の を 選 ぶ と い う よ う な と ころがあると思うの で す け れ ど も 、 選 び 選 ば れ る と い う 曇っていて見えなかったようなものが、だんだんと表に 行でも取れると思うので。 懺悔行を根本に据える 皆 さ ん の お 手 許 の 私 の 本『 日 蓮 宗 の 修 法 に つ い て 』 三九ページを開いていただくと、こういう荒行堂の修行 関係で、行をする人 と 、 選 ぶ 、 選 ば れ る 縁 の 関 係 み た い 鎌田 では、アルタンジョラーさん、お願いします。 代感覚というのは、かたちが整っていればいいのではな 真剣な気持ちでやるのか、また全然違うわけですよね。 なものについて、実 際 に 指 導 し て お ら れ て 、 そ の 実 感 と 出て来て自分の五体で感じる。 な言い方をしていま す 。 いうか、エピソード み た い な も の が あ れ ば お 聞 き し た い 11 8 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 の修行という修行す る 場 所 ・ 道 場 に つ い て の 話 題 が あ り 昨日からの先生方 の ご 討 論 の 中 に 、 修 験 道 の よ う な 自 然の中での修行と「 百 日 荒 行 」 の よ う な 閉 鎖 的 な 空 間 で 今日は、津城先生 の 問 題 提 起 に 補 足 す る と い う か た ち でいくつかの点を確 認 さ せ て い た だ き た い と 思 い ま す 。 がいたします。 生」の解説からその 理 由 が な ん と な く わ か っ た よ う な 気 ほどの戸田伝師の「 寒 水 自 粥 凡 骨 将 死 、 理 懺 事 悔 聖 胎 自 かのようで、なぜな の か と 疑 問 に 思 っ て い ま し た が 、 先 へ見送るだけなのに ま る で 遠 い 世 界 へ と 送 り 出 し て い る た り す る 場 面 が 感 動 的 で し た。 塀 の 向 こ う の「 荒 行 堂 」 が行僧たちと一体と な っ て 太 鼓 を た た い た り お 経 を 唱 え 「 荒 行 堂 」 に 入 る と き に、 お 見 送 り の 家 族 や 参 加 者 た ち くありました。とく に 、 行 僧 た ち が 様 々 な 儀 式 を 終 え て 実は、十一月一日 に 遠 壽 院 の 「 百 日 荒 行 」 の 入 行 会 に 観察者として参加さ せ て い た だ き 、 印 象 に 残 る も の が 多 お話を伺い荒行への 関 心 が 深 ま り ま し た 。 を生み出したのかと 疑 問 に 思 っ て い ま し た が 、 先 生 方 の 荒神橋の近くで「 荒 行 シ ン ポ ジ ウ ム 」 が 開 催 さ れ る と はとても面白いことです。なぜ穏やかな日本人が「荒行」 ます。 アルタンジョラー アルタンジョラーと申します。モン ゴル・シャーマニズ ム を 中 心 に 調 査 ・ 研 究 を 行 っ て お り て修行をするのは何だろうといろいろと考えていたと ちょっと話が飛ぶようですけれども、私は若いときは 頭がすごくシンプル過ぎるところがあって、坊さんとし 出しながらのお話でした。 る。それが逆に一つの自然な観念になるというのを例に ルタンジョラーさんのところの習慣として、子どもを縛 戸田 いまのご質問は、山林原野というのですか、深山 幽谷を抖擻するのと、おこもりをするということと、ア しょうか。これが一つめの質問です。 いる戸田伝師は、この問題についてどのようにお考えで が、実際に閉鎖的な空間の中で「百日荒行」を行われて 中での修行が必要とされるということもあるそうです また、方法論からみれば、修行過程のある段階では自 然の中での修行が必要とされ、またある段階では部屋の 慮すべき点ではないでしょうか。 にあたり、そのような様々な習慣による身体的特徴も考 はあると思います。よって、修行者が場所・道場を選ぶ 域の習慣などがその人の身体に影響を及ぼすということ 的な見解はよくわかりませんが、しかし生まれ育った地 も明確な身心面での異常は見当たらないようです。科学 る子どもとベッドの上で自由自在に寝る子どものどちら に寝かせる人います。揺りかごの中で束縛されながら寝 揺りかごが子どもに与える影響を懸念し子どもをベッド に入れて紐で固く縛るという子守の習慣がありますが、 もう一つ考えられることがあります。内モンゴルのあ る地方では、生後一カ月の子どもを木製の揺りかごの中 いでしょうか。 精神状態のタイプに合った場所を選ぶことが大事ではな を感じるという人もいます。要するに、修行者が自分の 感じるという人もいれば、暗い場所、狭い場所で解放感 しょうか。たとえば、明るい場所、広い場所で解放感を あとは、おこもりというのは、やはり民俗学の方から 言えば、擬死再生の儀式というのか、いったん死の世界 なっています。 できました。それがいまでも私の僧としての心の支えに でもコインですから、一泊の旅館代にも実はならない のですけれども、でもそのときにお布施の重みというの いっぱいになっていくわけです。 入 れ た の を 入 れ て く だ さ る。 そ の う ち 頭 陀 袋 が 重 み で 頭陀袋という布袋を提げているのですけれども、そこ へおひねりと言って、十円とか二十円とかひねって紙に 来る気配を感じるわけ。 歩いて行くうちに後ろから戸が開いて、人がぱたぱたと んばん」と聞こえて。でも「しいん」としている。でも それから越後の方の海沿いの寒村なんかに行ったとき は、 しいんとしている村があるわけです。太鼓だけが 「ば う悩みを抱えて一人旅をしているような。 り。けっこう女の人の悩みごとは多かったです。そうい うしたんですかと聞くと、恋愛問題の悩みを聞かされた 時には畑の中なんかに行くと、女の人が泣いていて、ど 戸田 行明けの癒しは温泉がいちばんです。お寺に泊め ていただいたり、木賃宿みたいなところに泊まったり、 鎌田 温泉にもよく行ったね。 ことをやりながら過ごしていたころがありました。 から池上というところがあるのですけれども、そういう から佐渡のほうまで歩いていって、身延山というところ 日蓮宗ですので日蓮聖人が歩かれた道とか、鎌倉のほう できませんでしたけれども、太鼓をたたいて南無妙法蓮 もう一つは「行雲流水」があり、行く雲のごとく流る る水のごとしで、全国どこでも行き、旅をする。十分は うのがその代表だと。 そこに安住して護持する、護るということ。住持職とい アルタンジョラー ました。 き、人間だから当たり前なのですけれども、動くか静止 コメント 2 開放的な自然を道 場 に し て も 、 あ る い は 閉 鎖 的 な 部 屋 を 道 場 に し て も、 修 行 ( 修 験・荒 行など)に は 場 所 は 必 しているかのどちらかなので、坊さんの在り方として、 二つあると思ったわけです。 修行する場所 要な条件であります が 、 し か し 私 は 個 人 的 に 、 ど の よ う 問題であると思いま す 。 修 行 者 の 精 神 状 態 を 大 ま か 、 自 まさに先ほどからずっと話が出ているように、垢がた うにも言われております。 へ入り、生へ向かってまた新たな命をいただくというふ ですかね、喜捨をする人たちの気持ちは身に沁みて体験 華経を唱え、天台笠をかぶり、僧衣を着て手甲脚絆で、 な場所を選ぶかは修 行 者 の 心 ・ 精 神 状 態 と も 深 く 関 わ る 然の中での修行に適 す る 状 態 と 部 屋 の 中 で の 修 行 に 適 す 一つが「住持」ということです。一つのお寺ならお寺 をお守りするという立場、 これは安住護持ということで、 る状態の二つのタイプに分けることが可能ではないで 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 11 9 まるという言い方を 我 々 は し て い る 。 本 当 に 毎 日 生 き て それは、ただかたちだけやっていては駄目ということ で、そこから本題に入るのですけれど、この本には霊気 いうものに対応して祈禱をするわけです。 るとかないとか、怖いとか怖くないとかという話になり 死後の問題、あの世の有無の問題に関しては、オカルト 来たりするわけなん で す 。 垢を落とさなければ な と い う と き に 、 入 行 と い う 機 会 が いるうちにいろんな も の が た ま っ て き て 、 も う そ ろ そ ろ と考えながらやって い か な け れ ば な ら な い 。 そ う や っ て ありますし、最近は死後の世界とかいろいろと言われて そういう気とか念気とか霊気というものは、もっと関 連づけていくと、人間の生と死ということにも関連して ないことになってしまうのです。 的に何か説明しようとすると、どうしてもわけが分から すし、いろいろなものがありますけれども、これも論理 一つのものですよね。気の流れとかいう言い方もありま 論というかたちでちょっと述べましたが、目に見えない ここから来ているお力を我々はいただいて、生命として 歴史上出現されたお釈迦さまは確かにあるのだけれ ど、その仏陀の生命というのは無始無終で来ているのだ。 は無始無終ということなんです。 る こ と が 必 要 な わ け で す。 『 法 華 経 』 と い う お 経 に は、 に、目に見えない大きな存在の中で命というものを捉え そこと、その修行している内証の問題がどういうふう に関わっているかと言うと、先ほどから言っているよう がちだと思うのです。 的な表現になってしまうか、あとは科学合理の判断であ いればいろんなこと を し な け れ ば な ら な い し 、 い ろ ん な けれど、そういう行 の 場 で も あ る 。 いるのですけれど、僕ももうテレビを見なくなってから 画策をしなければな ら な い と き も あ る し 、 あ あ だ こ う だ それからオリジナ ル と い う か 、 修 験 道 の 流 れ は 本 当 に 深山幽谷を抖擻する わ け で 、 私 の と こ ろ の 荒 行 堂 は お こ 存在させていただいているのだという教えなんです。 いただきたいと思い ま す 。 ご 自 身 の 修 行 感 覚 も 含 め て 具 験にもとづき、「加持祈禱」についてのお考えを教えて 象を受けました。そ こ で 、 戸 田 伝 師 の 修 行 現 場 で の 実 体 祈禱」も重要な技法 、 キ ー ワ ー ド と な っ て い る よ う な 印 いますが、いただい た 資 料 を 拝 読 し た と こ ろ で は 「 加 持 行の実態をどのように内証化していくかは、「百日荒 行」も含めて修行実 践 に お け る 一 つ の 問 題 点 で あ る と 思 ア ル タ ン ジ ョ ラ ー あ り が と う ご ざ い ま す。 も う 一 つ、 質問させていただき た い と 思 い ま す 。 が言いたかったのかというと、死は怖くないのだという えるのだろうということまでは分かっているとして。何 かったことは、死の直前では夢のような状態で最期を迎 あの人が、臨死体験から死後の世界というのを、確か アメリカや海外の脳科学の先端のそういう研究の結果分 いるのでしょうけれど。 いたみたいで、いろんな知識を網羅して頭の中に入って でありますよね。 「知の巨人」という言われ方をされて めて「知の巨人」とか「知の殿堂」という言い方が現代 死体験のことをいろいろとやられていて、立花さんも含 立花隆さんという、 ロッ 最近ちょっと何かで見たのは、 キード事件を世に知らしめたことで有名だった方が、臨 聞いています。 して、何百年来そういうものを意識しながら来ている流 だから、今の話は、これから研究されていく分野だと 思うのですけれども、僕らの方としては、当然のことと 若い研究者の人たちだったと思う。 れに踊らされてしまったのが、あのオウム事件のときの すごい行者のようなパフォーマンスでもできますし、そ ですから、かたちだけになりがちだというが、加持祈 禱というのはどうしてもかたちがありますから、それを いるかどうかということがすごく大事なわけなんです。 を通して久遠の霊気というものを謙虚に受け止められて のですから、それを行ずるものが、どれだけ自分の心身 あり、行者がそれに対して修行するという構図があるも 根底にあって、鬼子母神というお像としての形が実際に 久遠実成の釈迦牟尼佛という存在が説かれており、それ もり堂なので、そう い う 修 験 と は ま っ た く 相 反 す る よ う 十年ぐらい経ちますが、新聞だけはちょっと見ますけれ それは真言で言えば大日如来の存在と重なるでしょう し、そういう無限の力というのですか、原初的な流れ、 体的にお願いいたし ま す 。 考えて、夢みたいなものだと思えばいいのかと、そう思 ことをどこかで書いていらっしゃったんです。つまり頭で それで百日間の行 を し て 、 実 際 に は 、 そ れ で す べ て が 解消されるかという と 、 本 当 は そ ん な こ と は な い の で す ですけれども、同じ よ う な 側 面 が お 互 い に あ る の で は な ども、そういう死後とかあの世関連の番組もあるように 戸 田 私 の 本 に は 木 剱 と い う こ と は 出 て い ま す け れ ど、 木剱自体の写真を載 せ る の を 怠 っ て し ま っ た の で 出 て い れがあるので、行の内面的な話をすれば、そういう、サ くると思う。つまり前世・今生・来世とかいう言い方が いかなと思います。 ないのですけれども 、 い わ ゆ る 剣 形 の 祈 禱 す る と き の 法 えば合理的に怖くないのだと言えるというわけですね。 修験道でも真言の 方 で も 「 九 字 」 と い う の は 大 事 な 数 字なんです。祈禱法 具 は 我 々 祈 禱 業 者 に と っ て は と て も で、あるとかないとかやりながら生きていっていいのか らいいとか悪いとか判断して、自分の狭い頭の中の範囲 ムシンググレートというんですか、そういうものが根底 それをどう感じるかということがある。そういうものが 具がございまして、 そ こ に い ろ ん な 諸 仏 諸 天 が 書 か れ て にあり、そのお力をいただいて生かされている。ですか 加持祈禱をどう捉えるか いて、現代では数珠と合わせて音を打ち鳴らしながら「九 あともう一つの流れとして、東大の医学部の責任ある 立場の人が、江原啓之さんと……。 なというのがあるわけなんです。ちょっとわけの分から 字」というのを切る わ け で す 。 鎌田 矢作直樹東大医学部教授が。 戸田 死後の世界があるのだということで、対談みたい なことをされていていますね。 つまりどちらかというと、 大事なもので、その 木 剱 を 通 し て 、 願 い ご と と か 、 そ う 120 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 のずと違うと思うん で す ね 。 けとかにどういうふ う に 生 か し て い く か と い う 立 場 は お 体感したものを核に し な が ら 、 そ れ を 生 の 活 力 と か 人 助 のと、行者のように 現 場 で そ の 場 で 体 感 し な が ら 、 そ の う役割であり仕事で あ り 、 そ う い う 意 識 が 非 常 に 強 い も で一点問題を捉えて 、 そ れ で 解 決 し よ う と す る 。 そ う い 鎌田 非常によく分かります。立花隆さん、ジャーナリ ストにせよ、知識人 に せ よ 、 学 者 に せ よ 、 知 的 な レ ベ ル ない話になってしま い ま し た 。 す み ま せ ん 。 も (笑い) 。 いなという気持ちもずいぶんあったりするのですけれど るときに当たって、この人には満行の許証を渡したくな 戸田 僕らのは百日と決まっているのです。確かにあま り口に出して言ったことは今までありませんが、満行す なのでしょうか。 て、じゃあ百二十日にしようとか、そういうことは可能 るいは百日の前に九十日とかの時点でチェックがあっ 今後そういうふうに、同じお堂の中に違った信仰を持 つ人たちが居合せたり、違った行法をやったりとか、あ いうふうなかたちだったようです。 思うのです。 のかという、我々なりに何か想像する手掛かりになると 読むと、やっぱり行者の達成度というのはどの程度のも だけ残っていた、というのを拝見して、こういうものを 津城 聖者伝というか、行者伝のような。たとえば、お 祈りに行ってオオカミに噛まれて、帰ってくるから噛む 戸田 聖者伝。 うか。 のを個々の信者さんも持てるのではないかと思うのです なと言って、それで帰ってきてオオカミに噛ませたら牙 が、行に関して、そういう読みやすい本はあるのでしょ この研究会は、そ の 両 方 を が ち っ と 組 み 合 わ せ る と い うところに、一つの 企 画 意 図 が あ っ て 、 こ の 研 究 仲 間 も 我々の研究会の特色 で あ り 、 強 み で あ る と 思 う の で す 。 くさん現れてくればいいのになという人もいるし、その それは、いま先生がおっしゃるように、こういう人がた 目が立たなくなってしまうのでやっていますけれども、 まあ一応卒業したということを渡さないと、その人も 困ってしまうし、出迎えに来る檀家さんや家族の人に面 は何かあるのでしょうか。 津城 霊験譚みたいなものです。ただし、行者や達人を 主人公とするもので、そういうまとまったものというの 戸田 霊験譚みたいな。 いくらかなりと行 に 関 心 を 持 っ て き た 、 ま た 自 分 な り に実践もしてきた、 そ う い う 人 が こ こ に 関 わ っ て 参 画 し 戸田 まとまったものというと『法華験記』 。そういう ものが昔からありますし、特に行者の霊験譚というよう 町田さんをはじめ、修行した人たちがいるということが、 て、研究と修行との 関 係 と か 、 身 心 変 容 の 問 題 を 考 え よ 逆もあるわけです。 なかったのでとか。それは、いまとなったら「ええっ」 な、昨日お話ししたように、毒を飲んで、異常をきたさ うとしている。単に 知 的 に 関 心 を 持 っ て そ れ を 理 論 化 し ようというわけでは あ り ま せ ん 。 聖者伝・霊験譚の必要性 という話ですよね。「本当かよ」みたいな。でも、それ 井上 確認したいと言いますか、仏陀の時代は遊行が基 本だったみたいなのですけれども、雨季がありますので、 ました。 ずっと出てきて、宗教的境地のようなものを想像してい 津城 私は禅語録が好きで、若いころよく読んでいまし た。思想や議論というより、禅僧のコントみたいなのが 教化した」という有名な霊験譚が伝わっています。 遠壽院流荒行開祖の遠壽院日久上人については、 「狼を 仏陀の時代 雨季はいろんな種が 芽 を 出 す 季 節 だ か ら 、 そ の と き に は 鎌田 我々で探せばいいのでしょうけれど、そういうも のをまとめて出してもらうとありがたいですね。行自体 はそういうものなのだということなんですよ。ちなみに 歩 き 回 っ て 命 を 殺 し て し ま わ な い よ う に と い う こ と で、 戸田 何を読んでいた? 鎌田 では、津城さん、最後に質問をお願いします。 三カ月間は安居、ワ ッ サ 、 日 本 の 仏 教 で は 安 居 と 言 わ れ 津城 『趙州録』とか、 とくに『盤珪禅師語録』は面白かっ た で す。 「趙州無字」という公案にもなったりしていま す。師匠はグループ の 中 で そ れ ぞ れ に 合 っ た 瞑 想 法 を 指 定住をしながら師 弟 関 係 の 中 で 、 そ れ ぞ れ に 合 っ た 瞑 想法を集団の中でバラバラにやっていたみたいなので ドは私のような素人の信仰者には一つの基準になりま 倣いて』という本も同じ種類の本で、ああいうエピソー 遍上人語録』もそんなところがあります。 『キリストに ないので、弟子が伝記のハイライトシーンを書いて、 『一 すけれど、どれもエピソードが主で、経典や著作物では こともありまして、 本当に幸福感に満ち溢れるというか、 あと、ちょっとだけすみません。自分の体験としては、 行中の臨死体験と言ってしまいますけれども、そういう 験譚もいくつかあります。 戸 田 私 も そ の へ ん が あ ま り 詳 し く な い の で す け れ ど も、探せばあると思いますね。祈禱による日蓮聖人の霊 ね。ああいうものはとてもいいなと思うのです。 も日蓮聖人のものを選んで編集したと書いていますよ ますけれども、定住をしたわけです。おこもりですよね。 導していたようなの で す 。 す。日蓮聖人のエピソードにも、私も断片的に見聞きし そ う い う 状 態 で 過 ご し た こ と が あ り ま す。 だ か ら 私 に 経典を読みますと 、 三 カ 月 た っ た 時 点 で 、 た と え ば 仏 陀がいた場合には、 あ る い は 訪 問 し た 場 合 に は 、 そ の と て、心の糧としているところがあります。 きの状態を確認して、「君たちはあと一カ月やった方が いいよ」ということ で 、 九 十 日 が 三 カ 月 か ら 四 カ 月 に 延 なんです。仏教では「生死の一大事」という言い方もあ とって、あの世のこととか、前世というのは大事なこと びるということもあったようなのです。それが終わると、 修験道でも日蓮宗の荒行でも、ああいう教祖を中心に した聖者伝みたいものがあると、評価の基準みたいなも ちりぢりになって、 あ る い は グ ル ー プ の ま ま 遊 行 す る と 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 121 ります。 そういう、念道と声道との関係が目に見えない世界と 通じていく霊道と関係してくるという、このあたりが行 るようになりました。 海以上の教育力、教化力、感化力があったと痛切に感じ の日本宗教史を貫いていく基をつくったという点で、空 におけるいちばん根本的な問題の一つだと思います。そ 荒 行 は 水 ば か り か ぶ っ て、「 カ ッ パ と ど う ち が う ん だ 」 ルとどう違うんだ」 と 言 っ た 人 も い る わ け で す 。 僕 ら の 修験道というのは山を歩き回るので、「じゃあ、山のサ 重要性。無意識化するまで身体化していくということの 一千回同じことをやる。この反復の持っている力とその もう一つ、反復の重要性。遠壽院の行も百日間ほぼ同 じことをやるわけですよね。その同じことを百回やる、 れを一つ確認しておきたい。 団の中でどういうふうに位置づけされ、どういうふうに まり天台宗の行者の世界の人間観とか、行者が天台宗集 うなっているのだろうとよくわからなくなりました。つ たってのやりとりの中で、いささか天台宗はいったいど それから、田中先 生 や 星 野 先 生 に 怒 ら れ て し ま う か も しれませんけれども 、 僕 も 含 め て で す け れ ど 。 た と え ば なんて言われたこともある (笑) 。 重要性。 そこで天台宗に関しては、僕は非常に好印象を持って い た の で す が、 今 回 の 千 日 回 峰 行 者 を お 迎 え す る に あ そのへんは、だか ら 自 分 で 進 ん で や っ て い る こ と な ん で、やりたいからや っ て い る と い う の と も ま た 違 う の で があるかがよく見えなくなったのです。 す。 人の身体化に降りていっているか。このあたりの問題だ そこまで鬼子母神に対する信仰とか修行が徹底してその いなかったら、絶対に臨機応変に活用なんかできない。 帰ってからが大変だというふうなことを言われました たらすごいすっきりするのになと思った。行者も日常に 先ほど倉島さんの言った水平軸の複雑さに翻弄された 感じがします。水平軸は本当に難しい。垂直軸だけだっ 処遇され、どういうふうにメディアとか対社会的な関係 聖胎をどうやってつくるかといったときに、懺悔や祈 りが日常のその人の身体性にまで降りてきてつくられて すよ。お役目というか、そういうことでやっているので、 行の世界というの は 、 こ こ で も 本 当 に 話 し た い の で す けれども、なかなか ま た 言 え な い よ う な こ と も い ろ い ろ と思います。 そこがおサルさんやカッパと違うところだと思うので ございまして。いずれは公表したいこともあるのですが、 今回私は天台千日回峰行者を大荒行シンポジウムにお 呼びしたいと思い、真剣にあの手この手で交渉しました ておきたいと思います。 私は学問も一つの菩薩行だと思っているので、そういう とか、人々の助けとか菩薩というふうになったときに、 事後の第二義的な修行。この事後の第二義的な修行が、 我々の研究会にも深く関わっているので、つまりこうい 比べると劣ると思っていました。でも私は、単体だけで 拠が間違ってるよ」とかとはっきりと言ってほしい。そ そしてそういうふうな中から、 「おまえたち、それは ちょっと考え方が違うよ、間違っているよ」とか、 「根 菩薩行的な精神に千日回峰行者もどこの行者も協力的に う修行がどういうふうに社会に役立つことができるのか が、残念ながら結果駄目で来ていただけませんでした。 なってほしいわけです。これは希望、期待です。 比較していました。 空海と最澄の仕事だけで比較すると、 ようにつながるかと い う 点 で す 。 念 道 は 心 の 在 り 方 と 関 与をしてきたかをトータルに考えると、確かに文化財は が何をいまの宗教史に、あるいは日本文化にいかなる寄 しかし、比叡山のいまのたたずまい、高野山のいまの たたずまい、そして比叡山が何を生み出したか。高野山 とは、本当にうれしく、ありがたく思っています。 きます。だから星野さんとか田中さんとが来てくれたこ そういう相互作用が、率直にやりとりできる関係性が やっぱり透明性と創造性が高いし、総合的で深化してい た。それまでは空海が優れていると思い、最澄は空海に 僕は京都に住んで十二年近くになりますが、この十年 で比叡山に対する見方ががらりと百八十度変わりまし ね。町田さんもその点を指摘した。 そんなところでお茶 を 濁 さ せ て い た だ け れ ば な と い う ふ そういう点で、非常に重要な問題点を戸田さんや町田 さんが指摘してくれたので、その点も、もう一度確認し うに思います。あり が と う ご ざ い ま し た 。 4 天 台 修 験 道の 荒 行 発題:鎌田 東二 (千日回峰行と十二年籠山行) 学問も一つの菩薩行 したら我々の方も考え直すきっかけが生まれ、学問が深 わります。というの は 、 心 の 中 で ど う い う ふ う な も の を 高野山に多いけれども、人材という点では高野山はどれ こういうやりとりの中から、 我々が学びを深めて、 誤っ ているものは誤っているものとして気付いていくという 化していく。 やっぱり空海が優れていると私はいまでも思います。 イメージとか、集中 す る か 。 こ れ は 瞑 想 に も 関 わ っ て き ほどの優れた人材を輩出したかというと、比叡山に劣る 鎌田 戸田日晨さんの言われた中で最も重要な身心変容 技法と関わるところ は 、 一 つ は 声 道 と 念 道 と 霊 道 が ど の ます。 のではないかと思います。 プロセスが大事です。それこそ懺悔の精神がここで確認 その心の状態が声 道 に な る と 身 体 に な る の で 、 声 は 非 常に身体性を持って 、 心 と 身 体 と の 間 の 微 妙 な つ な ぎ を できるということです。 している。元気な人 は 声 に 出 ま す が 、 元 気 が な く な る と そういう意味で、最澄の教育力というのか、彼の『山 家学生式』の「願」 、願い、祈り、志、発心は、その後 声に力がない。そし て そ れ は 呼 吸 に 深 く 関 わ る 。 122 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 常に荒行的なものが 、 回 峰 行 と し て あ る と 思 い ま す 。 の護摩符の大御祈禱 が あ る 。 そ う い う こ と も 含 め て 、 非 という修法の実践。 ま た 終 わ っ た あ と の 行 堂 に 、 十 万 枚 近づく過程関門を潜 り 抜 け な が ら 護 摩 を 焚 き 続 け て い く とと、それから、九 日 間 の 断 食 、 断 水 、 断 眠 と い う 死 に だと僕は思っていま す が 、 そ の 節 目 で 休 め な い と い う こ た。その一つに、千 日 回 峰 行 そ の も の は 実 に 悦 楽 的 快 楽 くて、千日回峰行が 、 私 の 中 で の 大 荒 行 の イ メ ー ジ で し そういう意味で、 今 回 大 荒 行 シ ン ポ ジ ウ ム を す る と き の私の大荒行の一番 の イ メ ー ジ は 、 遠 壽 院 の 荒 行 で は な に思います。 すよね。ここまでや る と い う の は 、 僕 は 大 荒 行 だ と 本 当 ぬという覚悟でやる ん で す か ら 、 そ れ は も う 決 死 の 行 で いうのも、途中で修 行 を や め た と き に は 自 分 を 刺 し て 死 日回峰行はやっぱり 荒 行 と 言 う し か な い と 思 い ま す 。 と の中で一つのスタン ダ ー ド に な っ て い き ま し た 。 そ の 千 次に私にとっての 修 験 道 に つ い て お 話 し ま す 。 私 は 比 叡山の麓に住んでい ま す 。 こ の 十 数 年 で 千 日 回 峰 行 が 私 舞って阿古父尉と呼ばれる能面を奉納している。それが あり、世阿弥の長男の元雅がそこで「唐船」という能を こは、南朝の拠点でもあった。また能の発生に関わりが 河というところはなかなか奥が深いと思った。加えてそ そのときに先ほど言ったように、腑に落ちるものがあ りました。三島由紀夫の『霊界通信』から始まって、天 した。こういうふうな伝承を三十年前に聞いたわけです。 それをもってこの男性的な厳しい修行の修験道の本尊と 目に非 常にたく ましく 荒々しい姿の蔵 王 権 現 が現 れて、 うので捨てて、それが川上村の捨て地蔵になった。三番 蔵さんも優しいので、厳しい修行にはふさわしくないとい りしたという。そして次にお地蔵さんが現れていてお地 神さまだからここにはふさわしくないとして天河にお祀 天河の伝承では、役行者が最初に修行したときに、山 上ヶ岳で感応してきたのが弁財天だった。けれども女の 天社の奥宮が鎮座しているからです。 度も昇ることになりました。なぜならそこに天河大辨財 靡き中の第五十四番目の一八九五メートルある弥山に何 野中宮と呼ばれ、修験道においても奥駈道の大峰七十五 なことになりました。そしてその途中で、天河が吉野熊 それで行って、そこから縁というしかないというか、 三十年、こんにちに至るまで毎年何回も行くというふう 河のことを知りませんでした。 したいと思います。 で修行をどう捉えているかを、まず皆さんと一緒に確認 思いますので、現在の比叡山延暦寺が、ホームページ上 そして今回の比叡山の天台の修行についてですが、天 台の修行はもう一つのスタンダードを日本でつくったと 天台修験道 ました。 の世界を知っていくプロセスでよく理解するようになり ある。だから行の側面だけではないということも、修験 験道というのは本当に奥が深く広がりを持って多層性が さまざまな活動を持っているので、修験者というか、修 船技術がありますし、忍者のような側面、スパイ、工作、 今回は修験道の行の面だけに注目しましたけれども、 修験道は一大総合文化です。金属技術がありますし、造 つ丸薬は絶対できませんね。ご祈禱力だけではないです たとえば先ほどの丸薬をつくる中にも、草木とか岩の ことが本当に分かっていなかったら、ああいう機能を持 たりしています。 態学的な身体智」と呼んだり、 「生態智」と省略してみ そういうことを実践している体系が修験道だと思いま す。その修験道の蓄積してきた自然智の文化を私は「生 会にどう生かすか。 修験道は一大総合文化 六年目の百日は一 日 に 六 十 キ ロ 歩 き 、 最 終 年 の 七 年 目 の 二 百 日 の 内、 初 め の 百 日 は 比 叡 山 山 中 を 歩 い て か ら 、 この前重要文化財に指定されました。そういう能の生成 ね。フィジカルな知識というものがやっぱり必要です。 また京都を大回りし 、 八 十 四 キ ロ を 歩 く 。 そ の と き 御 所 「総論」 「千日回峰行」 「十二年籠山行」 「四種三昧」 「在 家の修行」の四項に分かれて、ホームページに掲載され 「総論 天台宗は法華一乗の思想ですべての仏教を包含 しているので、その修行の種類は多様です。天台の教え もとまさ に土足で上がってご 祈 禱 す る と い い ま す 。 そ う い う 千 日 期初期にも関わってくるわけです。 す。天河大辨財天社の柿坂神酒之祐宮司自身が護摩を焚 に基づく止観をはじめ、伝教大師の心を受け継ぐ十二年 を記します。 籠山行、密教の修法、峰々を巡る回峰行、阿弥陀仏を念 ているので、それをそのまま読みます。 きますので、神と仏の両方を共にやることが、私の中で ずる常行三昧など、仏教の様々な修行が行なわれていま こ ぶ じょう 回峰行のような荒行 を 含 め て 、 今 回 大 荒 行 と い う も の を そこで、修験道におのずと触れていって、門前の小僧 経文を読むみたいに、私は天河で修験道を学んだわけで その修験道と私の 一 番 の 出 会 い は 、 天 河 大 辨 財 天 社 で す。一九八四年四月 四 日 に 初 め て 天 河 大 辨 財 天 社 に 詣 で は当たり前です。 す。ここでは、代表的な修行と、在家の方の修行ガイド あ 私は企画したわけで す 。 たのです。詣でた理 由 は 、 三 島 由 紀 夫 の 『 霊 界 通 信 』 を そこで修験道を、日本列島の風土の中で発達した自然 として現れ出る神仏への讃仰と、身心対話によって深い ようと修行する日本独自のユニークな習合宗教文化と捉 一、千日回峰行 わ で、「宮司さん、あなたはどういう根拠で、どういう基 天河神社の柿坂神坂之祐宮司が審神者したと聞いたの 叡智、つまり即身成仏と力、法力、験力、霊力を獲得し 会いでした。ですか ら こ の と き 、 天 河 が 弁 財 天 の 神 社 で え、そこで、自然智、身体智の探求をする。自然智、自 相応和尚により開創された回峰行は、文字どおり、比 に 準で審神者したので す か ? 」 と 、 三 島 由 紀 夫 の 『 霊 界 通 あるとか、神仏習合の霊地であるとか、「吉野熊野中宮」 然力の獲得が行を通して達成される。それを水平軸の社 さ 信』を審神者するの を 聞 き に い く と い う の が 天 河 と の 出 とか、一切そういう 知 識 は な か っ た ん で す 。 ま っ た く 天 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 123 うに大師の御廟である浄土院で生身の大師に仕えて奉仕 に行くもの、念仏の方に行くもの、ここから分かれてい じ しん 叡山の峰々をぬうよ う に 巡 っ て 礼 拝 す る 修 行 で す 。 ぼ さつ たと言えますので、天台は日本の仏教の母と言えると思 ぎょう 侍真の職"を勤めるようになったのは、元禄年間 じょう ふ する からです。 います。 この行は法華経中の常不 軽 菩薩の精神を具現化したも のともいわれます。常不軽菩薩は、出会う人々すべての仏 ときは自ら生命を断 つ と い う 厳 し さ を 示 す 死 装 束 と も い 生身の不動明王の表 現 と も 、 ま た 、 行 が 半 ば で 挫 折 す る をはき、腰には死出紐と降魔の剣をもつ姿をしています。 回峰行者は、頭に は 未 開 の 蓮 華 を か た ど っ た 桧 笠 を い ただき、生死を離れ た 白 装 束 を ま と い 、 八 葉 蓮 華 の 草 鞋 川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝するものです。 伝教大師に食事を献ずるなどの日課のほか、 籠山僧は、 坐禅や勉学、境内や道場内の清掃に明け暮れ、うつろい 「ここで初めて籠山比丘となり、一二年間の山修山学 に入ります。 本ですね。籠山行よりもこちらの方が基本になります。 れ、 そ の 後 戒 壇 院 に て 戒 を 受 け ま す 」 。これが基本の基 この行は、仏が現れるなどの好相を感得するまで続けら これ 現 行 の 籠 山 行 に 入 る た め に は、 ま ず 好 相 行 は町田さんの『法然の涙』の中でもよく描かれていまし それから、明王院。明王院というのは、千日回峰行の 創始者とされる相応和尚が三の滝で滝に打たれておりま この天台回峰行に関わる拠点の赤山禅院は京都大回り のときに必ず立ち寄る非常に不思議な赤山明神という神 るのではないか。これは私の感想です。 た大荒行シンポジウムも、また在家の研修的修行と言え 四、在家の修行 われます。 激しい世間の流れから離れて、一日一日を生きるのであ のお不動さんが眼前に見えたので、その生身のお不動さ ― 千日回峰行は七年 間 か け て 行 な わ れ ま す 。 一 年 目 か ら 三年目までは、一日 に 三 〇 キ ロ の 行 程 を 毎 年 一 〇 〇 日 間 ります」 んにぱっと抱きついて、 気が付いたらそれは流木だった。 こう そう 行じます。定められ た 礼 拝 の 場 所 は 二 六 〇 箇 所 以 上 も あ これが、各宗の法然さんとかいろんな法華とかに分か れていく基本になった四種の行、四種三昧です。 性を礼拝されました。回峰行はこの精神を受け継ぎ、山 ります。四年目と五 年 目 は 、 同 じ く 三 〇 キ ロ を そ れ ぞ れ 「三、四種三昧 のが明王院です。ですからもちろん本尊は不動明王です。 ― ― し しゅざんまい 堂寺谷の二つのお堂は本当に素晴らしいお堂だと思いま その流木からお不動さんの像をつくりあげて本尊とした した。その滝で相応上人が滝行をしているときに、生身 に重要な役割を果たしている。 国から伝来して祀った。仏教なのに、神社。これが非常 さまを祀る神社であり、お寺です。道教的な神さまを中 坐禅、写経、作務や、諸師の研修プログラム。このよ うな在家の修行という観点から見ると、私たちの企画し 二〇〇日。ここまでの七〇〇日を満じて、九日間の断食・ 基本的な修行 四種三昧は、比叡山で最も歴史まのか古しいか、 ん です。中国の天台大師による『摩訶止観』に基づく修行 無堂寺谷には、弁天堂と明王院があります。、弁財天 のお堂と修行者の拠点の明王堂があるのですが、この無 と い う 礼 拝 行 を 行 な わ な け れ ば な り ま せ ん。 つづけます。 で、常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧 ― 私 六 年 目 は、 こ れ ま で の 行 程 に 京 都 の 赤 山 禅 院 の家のすぐそばですが へ の 往 復 が 加 わ り、 一 日 約 の四種です。 たね 六〇キロの行程を一 〇 〇 日 。 七 年 目 は 二 〇 〇 日 を 巡 り ま す。とてもよくできています。陰の弁天堂と陽の明王堂。 断水・不眠・不臥の 堂 入 り " に 入 り 、 不 動 真 言 を 唱 え す。前半の一〇〇日 間 は 京 都 大 廻 り " と 呼 ば れ 、 比 叡 常坐三昧は、静寂な堂内に一人で入堂し、坐禅に没頭 します。 二度の食事と用便以外はもっぱら坐り続けます。 手前で抑える。この 思 想 と 同 じ も の が 、 一 千 日 完 全 に は のが最後だそうで、 八 は 完 全 数 で 成 満 す る の で そ の 一 歩 一千日完全にはやら な い の で す ね 。 遠 壽 院 で も 七 回 や る ちょっとコメント し て お く と 、 本 当 は 九 百 七 十 五 日 を 行じて、後の二十五日は生涯かけて修行するとされます。 とからこの名があります。 の読誦からなり、歩いたり坐ったりしながら行をするこ 半行半坐三昧には、方等三昧と法華三昧があり、比叡 山では法華三昧が行なわれています。五体投地や法華経 て歩を休めることはできますが、決して坐臥しません。 りに歩いたり、天井からつり下げられた麻紐につかまっ 伊崎寺は本当に美しいところでした。その突端に「棹 飛堂」があり、琵琶湖の中にぐうんと竿が突き出ている められてないという伝統がありました。 幡からちょっと行った岬の突端にあります。これらのお それからもう一つは、もう少し後になってできた伊崎 寺です。これは琵琶湖の中にあります。琵琶湖の近江八 この二つは天台の基を成す重要な行場だと思います。 や ら な い で、 後 の 二 十 五 日 は も う ず っ と 永 遠 に 残 り もこの行場に来たとも言われていて、伊崎寺はイノシシ 常行三昧は、念仏をとなえながら、本尊阿弥陀仏の周 囲をまわり続けます。堂内の柱間にしつらえた横木を頼 二十五日として、第 二 義 の 修 行 を ず っ と 平 時 の 中 で 死 ぬ が役行者を導いたと説明されています。 これが基本になって、座禅の方に行くもの、題目の方 「毎年八月一日の千日会に行われる棹飛びは、水面か んです。そこで八月一日に棹飛びが行われます。役行者 寺住職は千日回峰を達成した行満大阿闍梨でなければ務 までやり続けるのだ と 聞 き ま し た 。 質に通じなければならず、必ずしも容易とはいえません」 次のこれが重要な ん で す が 、 「二、十二年籠山行 ろうざん 籠山行は伝教大師の時代より始まりますが、現在のよ 124 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 „ 非行非坐三昧は、毎日の生活そのものが修行となりま す。期間や行法が定まっていないので、かたちを超えた本 おり比叡山山中三〇 キ ロ を め ぐ り 満 行 と な る も の で す 」 八四キロにもおよび ま す 。 最 後 の 一 〇 〇 日 間 は 、 も と ど 山山中の他、赤山禅 院 か ら 京 都 市 内 を 巡 礼 し 、 全 行 程 は „ „ れ、伊崎寺の代名詞 と も い え ま す 。 人々から親しまれて い る の は も ち ろ ん 、 全 国 的 に も 知 ら と 飛 び 降 り る 雄 壮 な 行 事 で す。 長 き に わ た っ て 地 域 の ら数メートルの高さ に 突 き 出 し た 棹 の 突 端 か ら 琵 琶 湖 へ 成仏」に昇華させた天台本覚思想に通じるもので、人間 喜式祝詞にある「草木言語ふ」世界観と「草木国土悉皆 それは人間だけが特別ではない、みんないのちあるも のは同じだ、同じ価値と意味と力があるという存在論の づきたいという気持ちが私の修験道です。 カッパになりたいんです。できるだけサルやカッパに近 してもらっています。その第一編が一の滝で、全部、滝 て、 『滝の書』というのですが、いま二冊、逆方向に回 ぱっと思い当たっ 昨日、高木先生のお話を伺っていて、 たのですけれども、十年ほど前に出した詩集がありまし トしようかと思って頭を抱えていたんですね。 「僕同様」とおっしゃっていただきましたけど、いちば と無縁な軟弱人であります。先ほど津城さんは謙遜して んの軟弱人でありまして、滝の荒行についてどうコメン 伝 承 で は 一 〇 〇 〇 年 近 く 続 い て き た と い わ れ て お り、 文献的にも一六世紀 に は す で に 行 わ れ て い た こ と が 確 認 の詩編、最後の滝が内陣の滝です。全二十四編なのです 負っています。棹というのはいわば『人生』、行者は多 求める修行の姿です 。 行 者 は 人 々 の さ ま ざ ま な 願 い を 背 無一物で、何も持たないで、本当は裸で行きたいわけで 近づいていくことが決定的に重要なのです。したがって 的な欲望や野心やはからいを捨てるという点で、動物に 東山修験道では、野生動物は縄文モードを目覚めさせ ると考え、本当に動物の心に近づいていくことが、人間 れたのです、大阪だったんですけどね。もう一回来たら 篠原 四十八編書くつもりだったんですけど、ちょうど その年に阪神・淡路大震災が起こって、うちもだいぶ揺 けどね。 く の 願 い を 背 負 い な が ら 先 ま で 歩 き、 自 分 の 身 よ り も 死 ぬ か も 分 か ら ん と い う の で、 適 当 に 決 着 を つ け て 実現です。それはまた、 『古事記』や『日本書紀』や延 されています。 が小さい、いと小さきものに大切なものがあるという存 ― 在感覚の練磨です。 ― 行者が棹の 先 端 ま で 歩 き 湖 に 飛 び 込 む と い う の 一人の しゃしん は、『捨身の行』 西の覗きみたいなものですね 人 々 の 願 い の た め に わ が 身 を 捨 て て そ こ か ら 飛 び 込 み、 す。 つまり報恩や他者救 済 の た め 、 自 ら を 犠 牲 に し て 仏 道 を そしてまた陸に帰る = 生 ま れ 変 わ り ま す 。 こ の 行 は 『 再 まといますけれども、本当は裸で行きたいんですね。そ 私としては、ふんどしを付けたりとか、いろいろ装備を として、せっかくお昼休みに慌ててその詩集を二冊だけ ど、どうもそうはいかなくなったみたいで。それはそれ 高木さんについてのコメントを求められれば、自分の 詩の話をすればいいかと思って安心していたのですけれ 二十四編だけにしたんです。 鎌田 ほう、面白いですね。 生』の意味合いも持 っ て い る の で す 。 だけど裸では痛い。靴を履かないと傷ついて行けませ んので、そういう軟弱な人間に生まれたものですから、 同じような『再生 』 の 考 え 方 は 比 叡 山 の 回 峰 行 に も あ ります。比叡山の東塔は現在、西塔は過去、横川は未来、 れが私の東山修験道の世界です。 ― 再 び 山 へ 戻 る = 再 生 す る の で す。 そ う し た 行 者 取りに行ったので、何のために取りに行ったのか分から ないので、一応お話ししておきます。 篠原 篠原です。申し訳ないんですけど、僕はすっかり 勘違いしていました。昨日の高木さんの滝行についてコ ね。だから、神と仏の関係というものに対して、さらに までかと思うぐらい西洋化して過ごしているわけですよ 篠原 資明 では、もっと広い意味でお話しすればいいのですかね。 皆さんのお話をうかがって一番気になったのは、自分の 立場からですけど、私は特に西洋哲学を勉強してきまし たので、特に気になって仕方がないかもしれませんけど、 メントを求められているものと思いまして。 やはり明治維新後、我々は、もう知らないうちに、ここ 自然の山、川、海、 湖 、 そ の 中 で 神 仏 を 生 み 出 す と い う 一つ一神教の神と日本的な神仏との関係をどうしても気 那智の滝と「まぶさび」 コメント 1 神仏習合です ― ね そして坂本の日吉大社をお参りして の『 行 』 と し て の 意 味 合 い も 『 棹 飛 び 』 に は あ り ま す 」 と説明されています 。 そういう比叡山に 面 し て い る か 、 比 叡 山 か 琵 琶 湖 に 面 しているということ も 非 常 に 重 要 で す 。 回 峰 行 者 に と っ てはこの琵琶湖を含 む 風 物 景 観 の 中 に 、 神 が い る 、 仏 が いる。そのことをつ ぶ さ に 体 感 し て い く の で す 。 熊 野 奥 ことをこのように形 態 化 し て い っ た 非 常 に 優 れ た 大 荒 行 鎌田 いいですよ。それでもいいですよ。 駆も、出羽三山の山 岳 抖 擻 も 同 じ で あ る よ う に 、 こ こ の だと私は思っており ま す 。 そういう中で、十 二 年 い る 間 に 私 自 身 が 東 山 修 験 道 と いう自らの修験道を 作 り ま し た 。 本 当 は 裸 で 行 き た い ん おそれ多いことはおそれ多いです。 礼しました。 でも鎌田さんは滝行を経験されているので、 自分の理解で間違っているかもしれませんけれども、や 空海さんが真言仏教か即身成仏というときには、これは 仏教の本を、かなり手当たり次第に読んできたのです。 僕は修行はしていないのですけど、空海さんとの不思 議な出会いがありましたので、 空海の本とかを含め密教、 にせざるを得ないんですよ。 東山修験道 篠原 本人さんがいらっしゃったら、ちょっとおそれ多 くて何も聞けないのですが、でも、鎌田さんだったら聞 ですけれど、すぐ捕 ま る の で そ れ は で き ず に い ま す 。 私 実は、さっきも申し上げたのですけれど、私めは修行 けるかなと思って、気楽な気持ちで来たんですけど。失 は先ほどの戸田さんと違って、サルになりたいんですよ。 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 125 お寺は動きませんし 、 仏 像 は 持 っ て い け る と し て も 、 背 かですから。ところ が 仏 像 と か お 寺 と い う も の は 、 特 に ことではなくて、言 葉 と い う の は や っ ぱ り い ち ば ん 軽 や サンスクリットで 仏 教 を 学 ば な い と い け な い と か 、 空 海さんはそういうこ と も 言 わ れ た の で す け ど 、 そ う い う います。 所はローマのパンテオンなんですけどね。パンテオンと それで、いろんなところで、ちょっとしんどくなった ら。まあ、どこでもできますから、特に僕の特権的な場 分の真言にしたのです。 「まぶしさのさびしさにふりそそぐ」という一行詩を自 のではないかということで、自分で「まぶさび」という 後で思うようになったのですけれど、太陽の光と水と の結婚のかたち。俗な言い方をすると結婚ですね。柔ら れは現代に通じているのではないかなと思って。 うんですけどね。トインビーさんは全然違う発想で、こ ンと呼ぶとか、そういうのを普通はポストモダンだとい が失墜したとか、合理主義的な建築とはまったく違う、 うのは、一九八〇年前後から始まる大きな物語への信頼 代をポストモダンと呼んでいる。俗にポストモダンとい けで、その真言の中 に 多 く の 教 え が 凝 縮 さ れ て い る わ け だったのではないか 。 そ れ は 、 ご く 短 い 真 言 を 唱 え る だ のですけれども。心の中でやっただけですけれども。 を落とすのではないかなと思って、実際はやらなかった ると、観光客がいっぱいいますから、また日本人の評判 上にぽっかり開いているということで、 だから大空が、 そこでしゃがんで「まぶさび行」と言っているものをや みたいなのをこしらえて、それを自分の信仰にしていた 何人か例を挙げると、エリック・サティ ( Erik Alfred )という有名な作曲家がいますね。エリック・ Leslie Satie ちろん諸教混交、シンクレティズムですけれども。 なことをやる人がぽつぽつと出てきたのではないか。も 飾り立てたラスベガスのまちのような建築をポストモダ ポストモダンの特徴というのは諸教混淆だと。つまり、 いろんな宗教が入り乱れてごっちゃになる、そういう時 以後とね。 負っていくのも大変 で す よ ね 。 せ い ぜ い 持 仏 と し て 持 ち いうのはラファエロの墓があるところですけれども、天 ですね。これは『十 住 心 論 』 と か で 空 海 が 書 い て い る こ 日本の特定の土地に関係付けられない行というものを 自分では求めてきたつもりです。だから、今回の荒行と とか、挙げだしたらきりがないのですけどね。 はり真言というもの が と て も 大 事 で は な か っ た か な と 思 歩ける小さいものは あ る の か も し れ ま せ ん け れ ど も 。 井がぽこっと抜けているのです。 とですけれども。 いうのは皆さん、やはり土地とか山とか滝とかに結び付 で も サ テ ィ の 曲、 音 楽 に 詳 し い 人 だ っ た ら ご 存 じ で しょうけど、非常に軽やかなのです。ニーチェがショパ かい言い方をすると結び付きが、滝を通して感得できる 僕は、空海さんは い ろ い ろ 修 行 し た り 大 変 な 旅 を し た りしている中で、い つ 死 ん で も い い と い う よ う な 何 も の 「たった一人の宗教」 ちょうど十九世紀の末ぐらいに、 と私は呼んでいるのですけど、たった一人の宗教みたい これを西洋と出会った後で我々が実践しようとした ら、どうすればいい か と い う と 、 僕 も ヨ ー ロ ッ パ 等 い ろ いたかたちでやられているので、私のような軟弱人間が ンの音楽について 「そこでは神々が背中を伸ばす」 と言っ かを求めたのではな い か な と 思 う ん で す よ 。 そ れ が 真 言 いろ旅をしましたけ れ ど も 、 い つ 死 ん で も い い と 言 え る 言うようなことではないですけど。正反対だな、困った 気がよかったので虹 が 架 か っ て い た の で す 。 中 国 語 で 虹 モダンなんていうことを、戦後すぐのころに言っておら 書いた人ですけれども。このトインビーさんが、ポスト すね。かつてよく読まれた『歴史の研究』という大著を 篠原 いやいや。ということを二点ほど、何の足しにも ならないコメントですけど、思ったことを少しお話しし 篠原 それぞれ自然を友達として。 鎌田 でも、役に立たないからね。 鎌田 もうからないから。 思うんですね。 鎌田さんの東山修験道というのも全然いやらしくない のは、やはりあまり信者さんを増やそうとしていないと 悟りに取り入れたいなと思っているんですよ。 ある種、たった一人の宗教から始めると、そういう軽 やかな境地になれるのかなというので、これこそ自分の りとしすぎるような音楽を書いた。 パも背中を伸ばすというような、軽やかで、気がゆった てのけましたけれども、まさにそれ以上の、サルもカッ サティが自分の小さな部屋に何とも言いようのない神殿 ような境地は何かと い う こ と を 考 え て 、 や っ ぱ り 大 日 如 なと思ったのです。それが考えた一つです。 鎌田 信者も一人。 篠原 あ、信者がいる。 鎌田 教祖と信者が一人。 れて、たった一人の。所長も一人、所員も一人という。 これはまだ考えをつめていないのですけど、 もう一つ、 たまたま鎌田さんが、よく東山修験道ということを言わ 「たった一人の宗教」 来の境地ですよね。 大日如来というの は 宇 宙 と 一 体 化 で き る 。 普 通 に 言 え ばそうですけれども 、 宇 宙 が 自 分 の 中 に 入 り 込 ん で い る と納得できる状態が 、 僕 は 即 身 成 仏 だ と 思 う の で す 。 言 い換えると、大日如 来 と 一 体 化 し て い る と 。 そういう境地を味 わ お う と す る と 、 や は り 太 陽 と 縁 を 結ぶといいますか、 そ れ が ど こ で も で き る 。 太 陽 は ど こ でもありますから。 空 海 さ ん が 大 日 如 来 と 言 っ た こ と の 一つには、やはり太 陽 信 仰 が 間 違 い な く あ る は ず で す 。 しかも、ちょっと 滝 の 話 に 戻 り ま す け れ ど も 、 僕 が 滝 に目覚めたのは那智 の 滝 な ん で す ね 。 そ れ は ど う し て か の泉と書いて「虹泉」というのは、滝のことなんですね。 篠原 ほんのつい最近考えだしたのですけれども、トイ ンビー ( Arnold Joseph Toynbee )という歴史学者がいま つまり、天気がいい と き に は 虹 が 泉 の よ う に 吹 き 上 が っ れて、日付もはっきり決めているんですよ、一八七五年 というと、神々しい 風 景 な の は も ち ろ ん で す け れ ど 、 天 ている。それにすご く 感 動 し ま し た 。 126 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 たというだけです。 失 礼 し ま し た 。 鎌田 非常にいいコメントをありがとうございました。 井上ウィマラ では、井上ウィマ ラ さ ん 、 お 願 い し ま す 。 コメント 2 も、魂は月山に帰るわけだから、死への恐怖はない。だ 魂と肉体を持っている。だから、肉体は土に帰るけれど 星野 人間も自然だから人間も神さまになれる。出羽三 山の場合は、亡くなったら月山に収まるという。人間は きました。 代が続いていたわけですね。それが、がらっと変わって した。つい最近までは、乳幼児の死亡率が一番だった時 を祝う意味も分からないぐらい安全に育つようになりま けっこうな未熟児であっても生まれてきますし、七五三 から、それは言葉を変えれば、いつ死んでもいいという 葬式、法事も、非常に忙しいので簡潔にするようにな る。そうした時代の変遷に合わせて修験の意味というの きに、 どんな理論を持ち出せばいいのかと考えたのです。 も再構築する必要があるかなと思ったわけです。そのと ことにはつながるだろうと思います。 井上 ありがとうございます。 死後のことが気になりだして、 終末期におきましても、 おっしゃったような世界観が持てると死に直面しやすく ていた自然から、明 治 維 新 に 自 分 を 排 除 し た 自 然 に な っ のお話では、自然と い う 話 が あ り ま し た 。 自 分 が 含 ま れ 井上 まず篠原先生のお話の中で、いつ死んでもいいと いうようなことがあ り ま し た け れ ど も 、 昨 日 の 星 野 先 生 午前中の星野先生の中で野性の話、女性の話があった のですけれども、僕がもうちょっと違う視点で昨日から いくのかなということがあると思うんですね。 鍛えてきた日本の文化を、どういうふうにつくり直して じることだと思います。いつ死んでもいいということを れて、旋回するときに仮死状態を体験して、それからま した状態から、狭い産道を通りますので、ぎゅっと絞ら にもなりうると言っています。生まれることの中で仮死 は、オットー・ランク ( Otto Rank )はバース・トラウマ 修験の背景には「うぶや」 「もがり」があった? た。たぶんその自分は自然を支配して死ぬことがないし、 考えていたのは、 修験が生まれてきた背景には「うぶや」 た、ふわっと出てくるというのです。 なるという話もあります。これはお迎え現象の話にも通 死ぬということを受 け 入 れ ら れ な い 自 分 な ん だ ろ う な と と「もがり」という習俗があったのではないかというこ 参道というのは、参る道であると同時に、私たちが生 まれて出てくる産道であって、産道通過の体験というの 思ったんですね。で す の で 、 そ こ ら へ ん を 星 野 さ ん と 確 とです。 中からいろんなもの が 噴 き 出 す よ う な 恐 怖 の 体 験 で も あ に気付くのは、戸田 さ ん が お っ し ゃ っ た よ う に 本 当 に 体 実際に呼吸を見る 修 行 の 中 で も 、 次 の 一 息 が 本 当 に 出 てくるかどうか分か ら な い と い う 、 そ の 当 た り 前 の 真 実 らないということは 。 ペインにもなりうる こ と だ と 思 い ま す 。 い つ 死 ぬ か 分 か 錯覚していくことで あ り 、 す ご く つ ら い ス ピ リ チ ュ ア ル 分は死なないという ナ ル シ ス テ ィ ッ ク な 思 い 込 み か ら 脱 いうことは、スピリ チ ュ ア ル ケ ア の 視 点 か ら 言 う と 、 自 なるのかなというこ と で す 。 人 間 も 自 然 の 一 部 で あ る と 話を聞いたことがあるんです。遺体の前で一晩中歌わな 島唄ができた琉球の文化の中では、毎晩毎晩仲間がそ こに集って歌う。それが島唄の強さを鍛えてきたという での間、遺体のところに通うわけですね。 わって腐敗が始まるまで、そこで一つの諦めができるま それから、もがりというのは、誰かが死んだ後で、七 日間ぐらいは生き返ることはないかどうか、肌の色が変 かなという解釈です。 修験というかたちで山に入って死を懸けた修行をするの 行をする必要はないけど、 男連中はそれができないので、 う命がけの修行をしているので、べつにお山に行って修 が混じることですから男性は入れません。女性はそうい そうした習俗の中では妊娠、出産、肥立ちの間は女性 だけのコミュニティーの中で協力してなされており、血 儀礼をすることで、実際の夫婦生活がどう変わってくる いな、葬式と和合に関する儀式がありますね。そうした もうひとつ、星野さんにお聞きしたいと思ったのです おい けれども、儀礼の中で、たとえば笈縅とか梵天投じみた たりもしています。 究会の大切なテーマになりうるのではないのかなと思っ いうふうにつなぎ合わせていくのかというのも、この研 ですから、そうした産道通過体験に関する知識を、死 と再生に関する宗教学・民俗学的な一連の観察と、どう 取れるかもしれないという時代に来ているんですね。 し分かってきているし、退行催眠の中で、それの論拠が いうことを言っています。私たちは、そういうことも少 て、思い出すことでセラピューティックな効果もあると 道通過体験は後の性格形成にもいろんな影響を与えてい 状態を体験するらしいのです。子宮の中でのリラックス 認したいと思いまし た 。 )は、それをい スタニスラフ・グロフ ( Stanislav Grof ろんな変性意識状態の中で思い出したりすると、その産 るんですね。 ければいけない。一人で歌えて本当の唄者になる。 篠原先生がおっし ゃ っ た よ う な 、 い つ 死 ん で も い い み たいな感覚というの が 、 修 験 の 中 で ど う い う 位 置 付 け に でも、そこを通り 過 ぎ な け れ ば 、 自 ら の 死 に 向 か い 合 うことができません し 、 終 末 期 の 人 た ち の 葛 藤 に 寄 り 添 か。女性を、奥さんを大切にするようになるとか、その からがき うこともできない。 こ れ は キ ュ ー ブ ラ ー ・ ロ ス が 繰 り 返 そうした「うぶや」や「もがり」の文化があって修験 が出てきたような気がするのです。でも、いま私たちは へんのことはいかがでしょう。 のでしょうか。そこらへんとは全然関係ないんでしょう ちょっと、星野さん 、 も し 教 え て い た だ け れ ば あ り が た それを失っています。子どもを産み育てる周産期では、 し 言 っ て い る こ と な の で す け れ ど も、 そ こ ら へ ん を いです。 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 127 修験と和合 んを大事にするか、お母ちゃんの言うことをよく聞くか 聞くかと訊ねられる。 結婚している人だったら、 お母ちゃ くときに不動明王の真言を唱えて、親の言うことをよく ないほどに精神的な落ち込みが多いですよ、いま。 ければいけなくて、みんな落ち込んでいる。いままでに まの世の中で、その発想というのは、常に答えを出さな 私の場合は、羽黒 修 験 が ど う い う 捉 え 方 を し て き て い る か と い う 知 識 よ り も、 実 際 に 私 自 身 が 修 行 を 通 し て、 すね。 いうような捉え方をした方が分かりいいのかなと思いま それは肉体の和合というよりも、意味的には魂の和合と いう捉え方をしてい ま す ね 。 のは、葬式までして 擬 死 体 験 し て ま で 命 を 大 事 に す る と 的な要素が強いなとは思ったのですけれども。 見ると現代的なシェアリングだとかファシリテーション その直会のときのみんなの言葉の引き出し方が、私から でいいというお話をしておられて、 すごく印象的でした。 昨日の直会の話が今日も出ましたけれども、二升入れ てお杯を回すと。そのときに言われたことで、十人十色 井上 ありがとうございます。 山伏修行は生き方を学ぶ場 めて、変わるきっかけにはなると僕は思っています。 どう考えるかによって、日常の夫婦関係、親子関係も含 なので、そのときに誓った言葉をその体験者が、どう 自分の中に受け止めて、精進落としをした後も、それを ですから、伝承的にそういう教え方があったかという ことよりも、いまこれから生きていく上でそういうこと することによって、これからの生き方を学ぶ場だよとい いま山伏修行は昔からの伝承的なことをずっとやって いるわけだけれども、私は誰でも自然の中に入って修行 帰るわけですよ。 答えはいっぱいあるんだよ。そうしてみんなが納得して ているとか、違うよとは言えないのです。いま生きてい ですから、三十人修行すれば三十人がいろんな感じ方 を言います。それがあなたの答え。だから、 それは間違っ んです。 それがあなたの答えだよということを修行で教えている そこで三日間修行して、 それぞれ一人一人が感じたこと、 これはそういう実態ではどうしようもないなというこ とで、私は修行を通して自然から学ぶやり方を通して、 いまのような考え方 に な っ て い る の で 、 特 に 山 は 胎 内 で これは伝統的に十人十色でいいとか、そういうふうに 伝えられてきたものなのでしょうか。それとも、星野さ とかという、非常に世俗的なことが問われますよね。 あるという言い方を さ れ て い ま す よ ね 。 んがいろんなお出会いの中で、そういうふうに思うよう 星野 うちのほうの「秋の峰入り」という修行の基本は、 言葉を換えれば、「いのちとこころ」という言葉に置き 私は修行が終わる と 、 も の す ご く 海 に 入 り た く な る ん ですよ、ここ数年。 修 行 が 終 わ っ て 、 い わ ゆ る 日 本 海 の が、あなたたち、大事だよというのを、山伏修行を通し 換えられると思うん で す ね 。 そ の 秋 の 峰 入 り 修 行 と い う 岩場で、人が誰もい な い よ う な と こ ろ で 、 海 に す っ ぽ ん になり工夫されているのでしょうか。 いのでは ないでしょう か。で す か ら、和 合 と 言って も、 ですから精神性の、何と言いますか、人間にはやはり 肉体と魂とがありますが、主に魂の部分の再生の方が強 ぽんで入るのですけ れ ど 、 そ の 状 態 と い う の は 、 お 母 さ して位置付けると、 も の す ご く よ く わ か る 。 山 は 母 、 海 胎内だなと。山が胎 内 と い う の は 、 い わ ゆ る 魂 の 胎 内 と のです。三日間一切説明もしないし、何の修行をやると でやっているのです。だから、私は何も言葉を出さない のではなくて、修行して自然から学びなさいという発想 たとえば私が三日間の修行をやり始めたのは、やっぱ り生き方の問題として、修行をして誰から学ぶかという これからの山伏修行の在り方として展開していこうとい やります。ということで、いま言ったようなことが私の は淡路島の諭鶴羽山でやったり、来年は新潟の妙高山で ば、どこの山でも私は修行しますよということで、今年 これから私の修行をどんどんやっていくのですが、日 本全国の山で、そういうネットワークがある人さえいれ て教えている。 うような設定で山伏修行をやっているのです。 く上でそういうことが大事なんじゃないのと。だから、 んのおなかの中にい る よ う な 感 じ な ん で す よ 。 星野 伝承的なというということは、あまり私は関係な いんですよ。修行のやらせ方も。 も母と言ったときに 、 山 も 海 も 胎 内 と い う 位 置 付 け 方 を うことなのです。 私の場合はすべて 体 験 の 中 で い ろ ん な 物 事 を 話 し て い るものですから、海 と い う の は 、 そ う し て い く と 肉 体 の すると、なるほど海 は 肉 体 の 胎 内 で あ り 、 山 は 魂 の 胎 内 いうことも言わないし、ただ私と同じようなことを三日 ト で 一 つ の 答 え を 出 す た め に、 丸 を い か に も ら う か で ですかね。そういうふうに聞こえました。 井上 まさにスピリチュアルケアですね、今で言う。自 分を信じて生きていっていいんだよ、みたいな感じなん 鬼が守護神に変わる やってきているわけだから、そうしていると常に一つの だけど、それがいま精神を病ませているんですね。い 答えを出さなければならないという感覚があるのです。 次の点は、永沢先生と星野先生の話題に通じることな のですけれども、鬼が守護神に変わるということがご報 なぜそうするかというと、いまは何でも答えをすぐ出 そうとするじゃないですか。我々は小さいときからテス 間やらせているのです。 だなというふうに、 私 自 身 は 理 解 し て い ま す 。 井上 そういうふうに魂として理解することで、実際の お母さんとの記憶と か 、 娘 さ ん の 、 奥 さ ん と の 関 係 が 変 わるみたいないこと は 関 係 な い 。 星野 いや、関係な い で す 。 井上 関係ないですか。 鎌田 大峯修験では西の覗きを僕も二回体験しましたけ ど、そこでは必ず戒 律 と い う か 、 戒 め が あ り ま す ね 。 覗 128 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 それから、永沢先 生 に 後 で お 伺 い し た い の で す け れ ど も、一人になるとい う こ と と 群 れ で い る と い う こ と に 関 どちらかからお話が 伺 え れ ば い い か な と 思 い ま す 。 じようなことがある と 思 い ま す 。 そ れ に つ い て 、 お 二 方 告にあったと思うの で す け れ ど も 、 チ ベ ッ ト 密 教 に も 同 毎晩のように自分の子どもたちに食べさせるのだと。 ために村へ行っては村人の子どもたちをさらってきて、 人とも言われる子どもがいて、その子どもたちを育てる 教の守護神となる前は、本当の鬼女で邪神というか、千 神では鬼という字が最初に来ている。ご存じのように仏 まうんですよ、傾向としては。データとかそういうもの 対象にしている人自身が人というものを見なくなってし も、それが独り歩きしてしまうと、今度は修行者を研究 戸田 そういうことなので、あるのですけれども、逆に 学術研究的なところだけで収まったらいいですけれど の中を歩く。でも歩 き な が ら 、 そ れ ぞ れ 自 分 一 人 に な っ 能なのではないかと 思 い ま す 。 み ん な に 支 え ら れ て 自 然 た。それで隠すわけです。 ばんかわいがっていた末の子どもをさらってきてしまっ 村人たちは本当に地獄の苦しみの中でお釈迦さまに相 談に行き話をしたところ、お釈迦さまは鬼子母神がいち ところを、どの程度そういうことをやられる人がわきま だから、そこのところの見極めがとても大事だと私は 思うので、人の問題になってくるのですけれど、そこの が独り歩きするというか。 てもいます。他人と 一 緒 に い な け れ ば 一 人 に な れ な い と して、私たちの研究 会 で は 社 会 脳 と い う ア プ ロ ー チ が 可 い う 人 間 の パ ラ ド ッ ク ス が あ る と 思 う の で す け れ ど も、 鬼子母神は自分の家に帰ってきて、一人から千人まで ずっと数えるのですけれども、最後のいちばんかわいい を苦しめていたか」と諭して初めて鬼子母神は懺悔をし そうすると、お釈迦さまはさらってきた子どもを出し て、「おまえが自分の子どもがかわいいように、村人の 永沢 哲 永沢 非常に濃密な二日間だったなと。まだ終わってい ませんけれども、そういうふうに感じています。 土地神や聖霊の供養 コメント 3 鎌田 では永沢さん、お願いします。 えているのかなというのを、いつも考えるわけです。 社会脳の視点から見 る と ど う か と い う こ と で す 。 ところへ行き「大変なんです」という話をした。 どうなんだろうかと い う こ と を 感 じ ま し た 。 て、これからは子どもを守る、そして行ずる人を守る神 子がいないので今度は狂乱してしまって、お釈迦さまの それから、荒行に関しての話の中で、仏教で苦行 (アー タバ)といいますけれども、アータバというのは熱を起 それから最後に、 戸 田 さ ん 、 荒 行 日 記 と か 、 荒 行 に 入 る前後のインタビュ ー を さ せ て い た だ い て 、 継 続 的 な 調 こすという、タバス (熱)と関係します。そこらへんは 査をするというよう な こ と は 可 能 な の で し ょ う か 。 以 上 になるという誓いを立てて仏教の守護神になったといわ が修験道にもあるの で は な い の か な と い う の が 私 の 考 え 最後には鬼は守り神 さ ま に な っ て い く 。 そ う い う 考 え 方 ら、 鬼 と い う の も 極 め て ダ ー テ ィ ー な も の だ け れ ど も 、 星野 日本の神さまにしても仏さまにしても、どんどん 転換していくという 日 本 独 特 の 発 想 が あ る の か な 。 だ か なる。この点につい て 。 が、その鬼の問題と 、 鬼 が 人 々 を 守 っ て い く と い う 力 に でしょうけれども。 たとえば修行者の瞑想状態の脳波を、 それから、荒行前後の修行者のありようを調査できな いかということで、もちろんそれはできないことはない ているわけです。 陰陽と捉え、そして合体したものだというふうにも捉え れども、我々の方では、鬼というのは、甲乙というのを れは漢字の語呂合わせのように見えるかもしれませんけ わせると、ちょうど「鬼」という字の形になります。こ ですけれど、 「甲」という字と「乙」という字を組み合 それが一つ鬼子母神の話となり、鬼という字は漢字で 思い浮かべていただくと甲乙という不二一体の感覚なん あるわけですね。そういうときには来ますと。 峰行者の方に来ていただいて講演をしていただくことが いです。それはどういうことかと言いますと、大学で回 これは今回については直接私は分かりませんけれど も、本日、比叡山の回峰行者の方たちがいらっしゃらな 要だと強く感じているということがあります。 方との関係をつくっていくかということが、決定的に重 でどういうふうなかたちで新しく研究協力してくださる 験を推奨する側にも立っているわけですけれども、そこ になっているし、一方では、そういう企画を立てて、実 れているわけですね。 子どもたちを毎晩さらってきたことは、どれだけみんな です。 方なんです。 電極を付けてα波、β波の統計を取り、修行の前と後と いま最後に戸田さんがおっしゃったことは大変重要な ことだと思っていて、私は瞑想の脳科学的研究の被験者 だから、松例祭の と き に ソ ラ ン キ と い う ふ う な も の を つくるんですよ。そ れ を 最 終 的 に は 焼 い て 退 治 し て い く いうのを研究発表の資料にされている方もいらっしゃる 鎌田 では、星野さん。鬼の問題。鬼が守護神になる、 ソランキとツツガム シ に な っ て い く と い う 説 が あ り ま す のだけれども、その 鬼 は 最 終 的 に は 守 神 さ ま に な っ て い す。 の鬼瓦につながって い る の か な と い う こ と で 話 し た ん で 鎌田 あります。 るのではないでしょうかね。 ようです。実際、人体科学会なんかもそういう部門があ いていると。 ある時点から決まっているとおっしゃるのです、話を聞 かったというのは、どうもポリシーがはっきりあるみた きますよという教え が あ る も の だ か ら 、 そ の 発 想 が 屋 根 だけど、こういう学問的な研究対象として、あるいは そういう場には行くことはしないということは、どうも 戸田 鬼ということ で は 鬼 子 母 神 が そ う で す ね 。 鬼 子 母 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 129 実際には、不動寺 に お け る 堂 入 り の 前 後 で 脳 波 が ど う なっているかとか、 瞳 孔 が ど う な っ て い る か と い う 研 究 性をも占有してしまっている。 教に関する修行に限定したい。なお、職業的な技術を身 のことをいう。一般には宗教、武術、技術、芸術、道徳 研究もかなりあった わ け で す け れ ど も 、 ど う も そ こ ら へ だから、それを浄化するためには、反対の方向で贈与 がされなくてはいけない。そのために、供物を観想の中 とか敵意を生み出しているんだという考え方なのです。 ように握ってしまっている。それが、自然の精霊の怒り 位置付けているのは、この例である。 行とされる。禅宗で掃除や生産活動などの作務を修行に 広義には行動を通して心を鍛える営みを指し、 修行は、 日常茶飯の行いも心を鍛える意図で行われるときには修 ことが多い。 に付けるための訓練の場合には、 『修業』の字を当てる など各分野で用いられる言葉であるが、本項では主に宗 それから財宝、富についての由来というのは、大地で あるにもかかわらず、それをあたかも自分たちのものの んに問題があった可能性があるかなという感じを私は で甘露に変えたりして、贈与が行われるわけです。それ は、かなり昔にされ て い ま す 。 そ れ か ら 、 中 に 入 っ て の 持っています。 によって、土地神あるいは精霊の心がちょっとほっとし 教行動が向けられる対象に即して、対向的儀礼 (祈りな ウィマラさんから お 話 を 引 き 継 い で 、 鬼 と い う こ と で チベットの場合で言 い ま す と 、 い ろ ん な 護 法 尊 と い う の 、 対 自 的 儀 礼 ( 苦 行、試 練 な ど )に 分 け た 場 合 に は、 ど) は由来をたどってい く と 大 き く 二 つ あ り ま す 。 一 つ の パ これは、実は昨日、吉野の話を聞いていて懐かしく思 い出したのですけれども、私も天河でやったことがあり 後者に充当し得るものである」 しかし狭義には精神を鍛え、宗教的理想を宗教体験の 上に実現するために営まれる行動体系を修行と呼んでい まして、玉置神社でもやったことがあるのです。これは たあとで、これからブッダになりましょうという言葉を もう一つは土地神 で あ っ た け れ ど も 、 仏 教 が 入 っ て く る と き に、 こ れ が 妨 害 し よ う と し た 。 そ う い う と き に 、 チベット人のお坊さんと一緒に招かれてやりに行ったこ 唱えます。そういう修行というか、儀式があるのです。 それを呪力をもって 抑 え て 、 そ れ で 約 束 さ せ て 護 法 尊 に その次が、苦行と荒行についての記述の部分です。 ターンは、インドか ら ず っ と 護 法 尊 だ っ た 、 ブ ッ ダ の 教 な っ た と い う の が た く さ ん あ る。 た と え ば カ ン チ ェ ン とがあって、チベットのサンには、もしかすると日本の 「 修 行 に 類 似 の 言 葉 と し て、 苦 行・ 荒 行 な ど が あ る。 苦行は、とくに肉体にきびしい苦痛をあたえ、それに耐 えを守る、そういう 神 々 だ っ た と い う わ け で す 。 ジ ュ ン ガ と い う ヒ マ ラ ヤ の 山 に 住 ん で い る 女 神 と か は、 中にある自然観に深く通じるものがあるのかなとちょっ と思いました。 る。この場合には、修行は宗教儀礼の一種で、儀礼を宗 そういうパターンの 一 つ に な る わ け で す 。 るものをいう。一方、荒行は修行の荒々しい様子をさし が あ る。 究 極 的 目 英 語 に は 類 似 の 言 葉 に asceticism 的のための身体の訓練および肉体の否定の意味を持つ概 ていった言葉である。いずれにしても、観察者が修行を えることによって宗教上理想とされた体験を得ようとす 「孤独と群れ」ということについては、ちょっと後で お話しすればいいかと思うので、よろしいですか。 みた際の評価を含む語で、述語としては適切ではない。 もう一つ、これは 修 験 道 と 似 た よ う な 修 行 と し て 柴 燈 護摩がチベットにあ り ま す 。 チ ベ ッ ト 語 で 「 サ ン 」 と い 鎌田 ありがとうございます。それでは、ひとまず四番 目のセッション、これは私が発題者になって総合討論的 はないかといわれて い る わ け で す 。 戸 外 で 、 柴 燈 護 摩 と うのですけれども、 こ れ は も と も と ボ ン 教 か ら 出 た の で 同じように壇を組みまして、基本はヒノキなのですけど、 なことも含めて議論していくというセッションでした。 念で、一般に『禁欲』と訳されている。ただし、この英 語は、この後は供養に充当している」 『修行』に充当し得る適切な英語 一方、岸本英夫は「 は な い が、 special exercise が、 こ れ に 比 較 的 近 い と し ている。ここでは禁欲との混乱を避ける意味からも、後 そこに先ほど申しました宮家準さんが「修行」という項 鎌田 今配布しているものは一九七三年に東京大学出版 会から出た『宗教学辞典』のコピーです。それは日本の というのでまとめられている。 「 修 行 の 構 造 」 と い う の が あ り、 最 後 は「 修 行 の 心 理 」 こういう定義の下に「諸宗教の修行」というのがずっ とその後にあり、「修行の種類」 がその後の項としてあり、 者の訳を援用しておきたい」というのが、最初の修行の 供養の対象になる。 を書いております。重要なので、あらためて見ていきた 「修行」について 総合討論 それ以外にいい香り の す る 樹 木 、 花 と か 、 刺 激 臭 が 出 な いような供物で、毒 に な る も の や 動 物 の 肉 に 由 来 す る も のは一切排除します 。 そ う い う も の を お 供 物 に し て 火 を たくのです。 そ の と き に、 そ こ か ら 出 て く る よ い 香 り の す る 煙 に よって供養する。供養する対象というのは、仏法僧とか、 あるいは一般の護法 善 神 も あ る の で す け れ ど も 、 そ れ 以 どういうことかと い う と 、 人 間 が 存 在 し て い る こ と に よって、自然からの 負 債 を ど ん ど ん つ く っ て い る と 考 え いと思います。 外に、土地に住んで い る 土 地 神 と い う も の が 、 や っ ぱ り ているわけです。ま ず 、 肉 を 食 べ た り 、 あ る い は 農 業 を 日本の宗教学では岸本英夫さんの『修行論』というの 定義の部分です。 やることによっても 自 然 を つ く り 変 え て 、 負 債 を つ く っ 「定義:修行は理想達成のために行われる心身の訓練 宗教学にとって一つの重要な成果であったと思います。 ている。それから、 家 を 建 て る こ と に よ っ て 、 そ の 土 地 130 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 そ れ を、 あ る 限 界 を 超 え て や っ て い く こ と に よ っ て 、 通常よりもさらに特 定 の ポ ジ テ ィ ヴ な 状 態 が 強 化 さ れ る ある程度分かってい る わ け で す ね 。 い い 精 神 の 状 態 に な る よ う に な っ て い る と い う こ と が、 そ れ は 特 定 の 神 経 物 質 が 増 え た り、 分 泌 が 変 わ っ て、 また脳内の栄養になるような物質がどんどん作られた ている。 きたり、全体に気持 ち よ く な る こ と が 起 こ る よ う に な っ りましたけど、ある 程 度 歩 き 始 め る と 体 が ぽ か ぽ か し て い歩いていると、昨 日 の 星 野 さ ん か ら の お 話 の 中 に も あ キロぐらいは歩いて い た と い う こ と が あ っ て 、 そ れ ぐ ら 狩猟採集時代は、人 類 は だ い た い 一 日 に 八 キ ロ か ら 二 十 では永沢さん、よ ろ し く お 願 い し ま す 。 そ れ で 最 後 は 総合討論にしたいと 思 い ま す 。 に次に展開していけ れ ば と 考 え て い ま す 。 つのベースラインを 自 分 た ち が 形 成 し て き て 、 そ れ を 基 まなそういうことを 踏 ま え た 研 究 を し て い く 上 で も 、 一 その中で、身心変 容 技 法 研 究 会 を 始 め て 四 年 目 に な る わけですが、この研 究 会 の 成 果 も か な り 実 り あ る も の が ています。 て、こんにちの身心変容技法を含めて、現在の研究に至っ 第三段階として、儀 礼 研 究 と か い ろ ん な 研 究 が 進 ん で き 究 と し て は 一 つ の ベ ー ス に な っ て い て、 そ の 第 二 段 階、 山岳宗教のこともさ れ た の で 、 そ の 修 行 が 宗 教 学 的 な 研 が、ヨーガ・スート ラ と か 、 神 秘 主 義 と か 、 い ろ い ろ な ているのではないか。それは人類にとって非常に古い体 きったり、乗り越えたりということができるようになっ と想像されるわけです。それによって初めて、山を登り ムを変えたり、いろんなことをやっているんじゃないか 先達になっている人は、それを感じ取っていろいろリズ 儀礼というのは、そういう側面があるわけで、ちょっ とつらくなってきて、もう歩けなくなっているときに、 というか、シナジーがあるわけですね。 ですけれども、やっぱり共鳴してエネルギーを増幅する れは昨日の掛け念仏のときに、やっていると分かるわけ それを考えていくと、一つの集団で歩いてくるときに は、どうしてもリズムが大事になってくるわけです。こ ともあるかもしれない。 したらその前があって、反対側から見ることが必要なこ つまり、僕らが知っているものは、いろんな伝承や時 間が乗っかった後になっているわけだけれども、もしか 姿を見ながら、ちょっと思ったんですね。 るいは二の滝のときでしたか、水に入っていらっしゃる うかということを、昨日、那智の滝の絵を見ながら、あ そういうものが日本にも、たとえば修験道といわれる ようになる前、仏教とか道教が入る前になかったのだろ 的な説明とつながって行われてきた。 人間はどういうふうに生きていったらいいかという神話 その解釈についても幾つか違うレベルのものがあっ て、宇宙がどういうふうに出来上がったかとか、そこで ぐに消されてしまう。 けですね。これはつくって、儀礼が終わると、その後す ていて、そこに行くと砂曼荼羅みたいなものをつくるわ 聖地となる特定の場所というのは、もちろんお堂も何 もないわけですけれども、やっぱりいろんな印で分かっ 立っている。 と か 規 律 が あ っ て、 歩 く こ と が 宗 教 的 儀 礼 と し て 成 り ていく。そのときに、歩行そのものに、ある種のリズム いか。そういうことを少し申し上げたかった。 とが、元気が出るということにつながっていくのではな 使いやすくることなのだろうと思うのです。そういうこ いうことは、それまでうまく使えなかったエネルギーが ミトコンドリアというのはエネルギーをつくりだす働 きを持っているわけですけれども、これが活性化すると いうことが、最近の研究で分かっている。 いうと、細胞の中のミトコンドリアの活性化が起こると 吸とかをやっていることによって何が起こってくるかと もう一つ、呼吸のことなのですけど、歩きながら六根 清浄をずっと唱えている。そうすると、たとえば腹式呼 ます。 かのシステムが変わっているんじゃないかと、僕は思い そういうことの後に、好相行でヴィジョンが生じるこ ともあり得るわけですけれども、そこで脳内伝達物質と くということがあるわけです。 が起こってくる。それと並行して、心と体が変わってい ろんなことがはっきりして、自分を明け渡すということ 動けなくなってしまうとか。そういう体験を通じて、い やっていると、これが出てくるというか、これ以上、 五体投地ができないとか。先ほど戸田先生がおっしゃっ 体の中に緊張のパターンがあって、それは抑え込んで いる感情とか記憶と結び付いているわけです。 うのです。 けです。これにもやっぱり意味があるのではないかと思 が出た時点で本格的に修行ができるようになっているわ 天台の場合には好相行があって、本尊のヴィジョンの印 時間ぐらいかかります。ずっと五体投地をやり続けます 始める前に、一日四、五千回ぐらいはやるんですね。十 の話がたくさん出ています。チベットでは本格的修行を 歩行、 五体投地、 呼吸 永沢 一つは、さっきの井上先生が話されたポイントと 関係するのですけれども、歩くということについてです。 り、神経伝達物質が バ ラ ン ス よ く な っ て き て 、 ち ょ う ど すけれども、行をしているときに、つまり女性が修験の れは星野さんと戸田さんに質問させていただきたいので これに関連してなのですけど、今日は朝から五体投地 験を、かたちを変えてやっているのではないかというこ とを思うんですね。 ていたように、ただ懺悔するしかないとか、そこでもう けれども、天台の場合にも、これと同じ修行をやります。 というか、そういう 働 き が 、 い ろ い ろ な 修 行 の 中 に あ る あったのではないか と 思 い ま す し 、 こ れ か ら 先 の さ ま ざ 歩行、あるいは走る と い う こ と の 意 味 で は な い か と 思 う それが、もう一つ、ウィマラさんがおっしゃった熱と いうことにつながるのではないかと思うんですけど。こ のです。 アボリジニでは「ソングライン」といわれるものがあっ て、あちこちの聖地 に 当 た る と こ ろ を グ ル ー プ で 移 動 し 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 131 修行をしたときに、 中 で 熱 が 出 て く る と い う 体 験 が あ る 僕らのほうの流れの話ですと、男は陽で、女性は陰だ と。どちらが優劣ではないですよ。女性というのは陰な はなくてですね。 うな心持ちで唱える。 けです。思えないし。だから、それを経て、終わりまし いくとか、そういう こ と の 土 台 に な っ て い る 可 能 性 が あ は人間が生きている と か 、 自 分 が 命 を こ れ か ら つ な い で があるんじゃないか な と い う こ と を 思 い ま す 。 熱 の 体 験 ですけれども、それ を つ く り 変 え て い く た め の 何 か 秘 密 最近の女性は、や っ ぱ り 子 宮 が 冷 え て い る と か 、 そ う いうことをセラピー を や っ て い る 人 が よ く 言 う わ け な の 星野先生の羽黒山では滝行というのがもちろんあるで しょうけれども、我々のほうはそんなに長時間水をかぶ と。 体するのは、ちょっと遠慮したほうがいいのではないか るわけですよ、火とは反対に。だから陰に対して陰を合 ので、水というのも陰陽に分ければ陰の部類に入ってく ただ、繰り返し繰り返しといっても、それぞれの繰り 返しの中に、こういう心持ちで繰り返すというのがある はないですよ。 いになってしまうわけです。運動部の合宿が悪いわけで それが大事なことなのであって、ただ唱えていればい いというふうになってしまいますと、運動部の合宿みた たら寂静感というか、そういう感じで仏と一体になるよ ということを伺いた い と 思 い ま す 。 る。そういうことに つ い て 伺 い た い で す 。 し繰り返しなのだけれども、ある段階に来れば、こうい んだよということです。ただオウムの繰り返しみたいに うものを提示して、こういうやり方でやったほうがいい しているのではないですね。指導者というのは、繰り返 うお話でしたけれども。行のかたちによって違うのでは る余裕がないのです。ですから、女性がこれからそっち ないかということを思いましたね。 側の行で、いろいろといい影響が出るのではないかとい のではないかとか、 そ の 後 に 体 が 変 わ る の で は な い か と 数が多ければ多いほど、マス的な動きになってしまう。 戸田さんに伺いたいのは、やはり熱なのですけれども、 ずっと水をかぶって い る と 、 や っ ぱ り 熱 が 出 や す く な る いうことを感じるん で す ね 。 そ う い う こ と に つ い て 少 し それから、水行による効能というか、効果ですけれど も、これも昨日お聞きいただいたように水行肝文という だ、最近になって特 に 女 の 人 、 そ う い う 話 が も の す ご く だから、そういう こ と か ら い く と 、 普 段 大 事 に し て い ない。私も男だから あ ま り 分 か ら な い ん だ け れ ど も 。 た いるものとか、月の も の の と き に 当 て る も の と か ね 。 り子宮を冷やしてい る ね 」 と い う 言 い 方 で す ね 。 は い て そうすると、だいたい女の人たちが言うのは、「やっぱ れ ど も、 こ の 話 を け っ こ う 女 の 人 た ち に す る ん で す よ 。 そして、 水行が終わりました。また唱えます。最後に、 罪障消滅といって、 自分のことは最後に唱えるんですね。 もらう。 く。煩悩の固まりが五体としますと、それを清浄にして そして、実際に五体に水をかけるときには、本当の水 行そのものです。これは煩悩を滅する思いで水をいただ いを込める。 名前を挙げるので、自分の行が成就するように祈願の思 神仏を勧請といって、釈迦牟尼仏とか、守護神とか、お 水行肝文というのは、お経と同じことですけれども、 どういう心持ちでそれを唱えるかと言いますと、最初に いんですね。 ころに行って、ばしゃばしゃと、ただかぶるわけではな では大事なことであって、いろいろな効能があるのです。 いお粥食なので、 「粥の十徳」といって昔から修行道場 実際には、行僧自身は、心肺機能が丈夫になってきま すから、風邪をひかなくなりますよね。食事も重湯に近 みだと思うのです。 ね。もっと広がりのあるものと対応していくという仕組 それによって、さっき鎌田先生が言った声道、大きな 声をできるだけ出し、念道、いろいろなポイントがある んですよね。そういうことを繰り返していく。 ところで、ものすごいエネルギーの変化が起きると思う 坎水逆流で、下丹田の下の方で還流して背中から陽気に また、五体に対する影響ということも、盆のくぼとい うところに寒水を当てていくわけなので、気は背面から よとか示すのが指導者の立場なので、それがないと、人 伺わせていただけれ ば と 思 い ま す 。 多いです、私と。 「沙門それがし罪障消滅」と。ですから、そこで仏我一 のを唱えて初めて水をかぶるので、水がたまっていると だから、熱くなる と い う こ と は や っ ぱ り エ ネ ル ギ ー 化 したというふうな捉 え 方 で 私 は 解 釈 し た し 、 本 人 も そ う そういうことで、心肺機能が丈夫になる。風邪もひか なくなる。病気がちだった人も、薬箱を常時持っている 鎌田 では、星野さん。 いう言い方だったの で す 。 だ か ら 、 ど ん ど ん 子 宮 の 熱 く 如というか、仏のような、仏の大きなものと自分が一体 水行の効能 なる修行の在り方を私は考えていきたいと思っていま 化する心持ちで唱える。 そういうものに煩わされなくなってくる。 糖尿系の人なんかは、だいたい糖尿の症状がなくなっ ていくのです。言われることがあるんです。「伝師さん、 ような人も、何となく体が丈夫になっていくというか、 でしょうから、そこを開いていく。それから霊道ですか なって上がってくる。そして、それを水を当てるという す。 だから、最初は祈願ですから、ちょっと力強く唱え、 水行の所作の最中は水行そのものですから、煩悩の固ま 星野 女の人が月のものがあったときに修行した。その ときのその子の言葉 そ の ま ま を 私 は 言 っ て い る の で す け 鎌田 それは至急に必要です。では、戸田さんの方から お願いします。 ときに、うちの家族はどうしているかなとか思わないわ りなので。まさか寒中に水をばしゃばしゃかぶっている 戸田 僕も女性の生理的なことまで問うとなったら、聞 いていて何だろうな と 思 う の で す け れ ど も 。 変 な 意 味 で 132 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 ね。 なのだから」と諭し た り し ま す が 、 そ こ が 難 し い の で す も君、ここは療養所 じ ゃ な い ん だ か ら 。 行 を す る と こ ろ 私、糖尿持ちだったんだけど、よくなりました」と。「で が道彦 (先達の神道的言い方)になってやっていく。 があってはいけないので、僕を含めて、あと二人の先達 が見守っている。初心者がけっこういますので何かこと 滝場に行って、僕が先達の一人なので、ほら貝を一人 一人吹きながら、その滝に入っていって、それをみんな 体を動かすことをやりまして、滝場に行きます。 でも、そのやり変えも危険は伴う。伝統も危険を伴う ので、どちらもリスクがある。そのリスクをちゃんと踏 るけど、半分はやり変えてもいいと思っています。 守るのがいいのかどうかについては、私は半分は肯定す なってくると思いますので、伝統的なかたちをそのまま そのやり方に関しては、伝統的ないろんなやり方を踏 ま え な が ら も、 ア レ ン ジ し て い く と い う こ と も 必 要 に お医者さんに言わ せ る と 、 絶 対 荒 行 堂 み た い な と こ ろ で、そうして食事を す れ ば 、 み ん な よ く な る の に と 言 う の中に、どういうふ う に し た ら い い か た ち で 提 供 し て い というわけにもいか な い の で 、 そ の あ た り が 、 現 代 の 世 しない、水もかぶら な い 、 食 事 だ け 、 お 粥 だ け 提 供 す る ます。 そぎ作法でやっていって、感想をずっと集計してきてい ないとどこへ行くか分からないので、伝統的な神道のみ いわゆる宗教としてやっているというよりも、自然体 験的な側面が強いのですが、伝統的な方法論にのっとら きちっと伝わらないと、なかなかいい効果も出てこない ということが、よく自分でも試され、そしてその意味も ういう意識で、どういうふうなかたちでアレンジしたか まえているのは指導者群の問題で、そういう人たちがど んだけれども。でも 、 畳 の 上 に ご ろ ご ろ さ れ て 、 読 経 も けるのかなと、いま 少 し 考 え て い る と こ ろ で す 。 うになって、十七年 に な り ま す 。 年 に 二 回 や っ て き ま し すが、滝行を奥湯河 原 の 白 雲 の 滝 と い う と こ ろ で や る よ それで十七年ぐらい前からNPO法人東京自由大学 で、集団で、だいた い 十 五 人 前 後 、 多 く て 二 十 人 な の で ろんなところで滝行 を 一 人 で や っ て き ま し た 。 る滝です。そこで滝 に 打 た れ た の が 最 初 で 、 そ の 後 、 い なる行場が、この湯 殿 山 の 御 神 体 の 真 下 に 流 れ 落 ち て く 僕は一九八〇年ごろに最初に滝行したのが湯殿山の大 滝でした。あそこは 本 当 に 素 晴 ら し い 滝 で す 。 即 身 仏 に 題です。 日本的身 体技法の形 成 と 特 色 に つ い て の 一 考 察 」 と い う と い う 題 で 論 文 を 書 き ま し た。 正 式 に は、 「滝行~その ている研究誌の第五号、いま八号なので三年前に「滝行」 鎌田 私の方から、ちょっとコメントしたいと思います。 『 モ ノ 学・ 感 覚 価 値 研 究 会 』 と い う 、 毎 年 一 冊 ず つ 出 し 男性もそうだと思います。本来の状態に立ち返るため にも、何かもう一つの操作というか、プロセスが必要だ。 ていっている。 なっていない。だから、女性の修行が必要な時代になっ 修行とかは必要ないと思うけど、でも、そういう状態に そうしたときに本当にリセットできるためにはどうし たらいいのか。もともと出産とかをしていると、本当に が、どこかにあるように思うのです。 間違った方向へ解放してしまっているというような感覚 ていないというのか、 かなり強い抑圧を持っているとか、 が言われたように、女性で自分たちがまだ十分に開花し 希望者が多いということの意味ですね。それは星野さん そういう中で、一度その論文の中でもだいたい全体を 総括していったのですが、言えることは、現代は女性の いと思っています。 得るので、そのへん慎重に気を付けてやらないといけな の体調によっては、状態を悪化させるということもあり すけどね。だから、そういうのが一つある。 見え隠れするところがあるものですから、なかなか「う て、一つのミニ集団みたいなのをつくりたいというのが うから、そういう方々をリードする立場にご自分がなっ 目で、行も行うでしょうし、覚えるものも覚えるでしょ いていると、本当に女性の精神性や身体性までおもんば におっしゃる方がいるのですけれども、どうもお話を聞 冬の間の坊さんの百日の期間が終わったら、別の期間 が空いているので、その施設を使ったら、みたいに簡単 んですよね。 のようなものを養成したらどうかという意見も最近多い 戸田 いまの女性のことですけれども、荒行でも、いま のような時代ですから、女性に開放して、我々のはご祈 鎌田 はい、どうぞ。 戸田 すみません。ちょっとだけいいですか。関連した ことを。 と思っています。 女性も修行が必要な時代 すると、多くの人が「リフレッシュする」とまず間違 いなく言うわけです。本当にまれに「頭痛がする」とい た。 そういうプロセスを滝行は一つのやり方として持ってい うことがありますが、非常にまれです。でも、そのとき そのときは女性が 非 常 に 多 い の で す が 、 女 性 と 一 緒 に 教派神道の神道大成 教 の 天 照 山 神 社 に 行 っ て 、 そ こ で 正 る。自然の中に入るというようなこともその重要な一つ もそういう体験をもう一回やるということには現代的な の方法であると思います。そういう意味で、女性も男性 ければいけない。常に何か必ず答えなければいけない。 話がいろいろ出ているように、何かすぐに答えを出さな 私が思う範囲ですけれども、現代というのは、前々から 星野先生なんかのお話でも、女性が生理的にもいろい ろ苦しんでいるのではないかというのも、おそらくまだ ん」とは私は言っていないのですけれども。話は聞きま かってどうのというよりは、女性というのは非常に真面 禱というのをしますので、木剱を使って。女性祈禱行者 式参拝をして、大祓 の 言 葉 を 唱 え た り 、 奉 納 の 音 霊 演 奏 十何人いたら十何人 、 一 人 一 人 が 正 式 参 拝 を し ま す 。 そ 意味があると思います。 ボディワーク を し た り し た 後、 み ん な で 一 人 ず つ 正 式 参 拝 を し ま す 。 の 後、 川 面 凡 児 式 の 滝 行 作 法 鳥 ( 船作法 が ) あ る の で、 それを皆さんに教え て 一 緒 に や っ て 、 そ の 後 、 新 体 道 の 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 133 うなったらどうする ん だ と か 、 そ う い う 否 定 的 な 対 話 が かとか、このまま行 っ た ら こ う な っ て 、 あ あ な っ て 、 こ 失敗したらどうする か と か 、 こ の ま ま で は 駄 目 じ ゃ な い な の が ず っ と 続 い て い て、 そ こ か ら 出 て く る の は 結 局、 答えたり、答えなけ れ ば い け な い か ら 答 え て い る み た い て駄目なんだよ。せいぜいやったって、初めての子だと だから、いま滝行も修行のときは必ずやらせるのだけ れども、調子に乗って長くやる子もいる。そういうのは だけれども。 星野 ええ。もう震えが来て、どうしようもない状況に なる。あ、これ死ぬのかな、みたいなところまで行くん 鎌田 来ますね。 よ。 けだ。そうすると、かなり後からあおりが来るわけです と思っています。 だから私は、やっぱり女性の野性という素晴らしいエ ネルギーを大いに活用していくことが大事なんだろうな との接点みたいな気がしてならないのですけどね。 いうのは、山伏の野性性というか、それと女性の野性性 い集まるんですよ。なぜ女の人が七割ぐらい集まるかと でも、答えなけれ ば い け な か っ た り 、 答 え た り す る と ころで、何かが人を 豊 か に し て い る の か と い う と 、 た だ 男女の仲でも多いの で は な い か と 思 う の で す 。 十分そこらで終わるから。 町田 いろいろと貴重なお話を聞かせていただきました けれども、実は、そこにおられる松嶋健さんから『プシ セラピー的なものが必要な時代 鎌田 はい、ありがとうございます。 特にまだまだ実質 的 に 男 性 社 会 で す か ら 、 男 性 の 側 か ら 女 性 に 対 し て、 常 に 否 定 的 と い う か 、 「チャレンジし コナウティカ―イタリア精神医療の人類学』という立派 そういう状況があ る の で 難 し い 問 題 で は あ り ま す け れ ども、でも一方、一 人 一 人 が 考 え て 、 そ う い う 世 の 中 の ら、塀をつくって閉じこもって苦行しなければならない。 命力が男性より強い し 立 派 な の で 、 男 は 弱 っ ち い で す か だから、昨日お話 し し た よ う に 、 何 で 男 だ け で 行 場 に こもってやるのかと 言 っ た ら 、 は る か に 女 性 の ほ う が 生 いう状況がいまある の で は な い か な と 。 はやはり萎縮という か 、 閉 ざ し て し ま う と い う か 、 そ う る。それも修行ですね。そういう指導の仕方というのは んな場合場合を見ながら、無理をやらせるときはやらせ 死にはしない、十分ぐらいやったってね。だから、いろ 行。だから、あえて止めないで、やらせますけれども、 そのまま入れておきます。出てきて、そうだね、少し たってからなんだよ、震えが来るのは。そういうのも修 乗って入っているわけ。 なってくるのよ。その気持ちいい快感が、ずっと調子に になるんだよね。ところが、そのうちずっと気持ちよく 星野 雪解け水で勢いも強いし。だから、そこに十分ぐ らい、だいたい最初に入ったときは、 「ああ」と真っ白 鎌田 だって雪解け水だものね。 だから禅行で行って坐禅をくんで悟りを開くというの が一つのストーリーだけれども、本当にやったら狂う人 思うんです。 ますます自分のまともじゃないところに肉薄していくと で、 ものすごく苦しんでいる。そういう人が行に入ると、 いうものがないとね。あるいは、まともじゃないところ が起きるだけですから、本当に懺悔したい気持ち、そう ている人が修行に入っても、さっきのインフレーション 自分のまともじゃないところに気付いた人しか私は修 行に入らない方がいいと思うんです。俺はまともと思っ いて見れば誰一人いないという、これは素晴らしい。 まともでないことは遠目で分かるんですけれども、近づ い 』」 と。 至 言 で す よ ね。 鎌 田 さ ん は 近 づ か な く て も、 な本をいただいたんですけれども、すごく面白い本です つくり方、接し方を し て い く よ う に な れ ば 何 か 変 わ る の 必要だと思います。 もいっぱいいるわけ。まともじゃないところに肉薄して 普通は、だいたいうちのほうの湯殿山の滝でやると、 まず入ってすぐ出てくるぐらいですよ。 放っておくの。 自分で覚えなければ駄目。 途中で止めたっ て ク リ ア し な け れ ば い け な い ん だ 」 み た い な も の と か、 「もしこうして、こう な っ て い っ た ら ど う な る の 」 と か 、 ではないかなと思っ て い る の で す 。 あと女の人が、やはり月のものが来ているときに、 「先 達、滝行はやめます」と言う。ところが、滝場には行く いきますからね。 「 ど う な ん だ!」 と い う の ば か り 言 わ れ て い る と 、 女 性 鎌田 ありがとうご ざ い ま す 。 で は 、 星 野 さ ん 。 星野 やっぱり女の人たちは毎月の生理が煩わしいと 思っているんだね。 本 来 で あ れ ば 、 そ れ が 女 の 人 に と っ わけですよ。すると、みんな滝行をやっているのを見て がしますね。 持っている野性を呼び戻しているのではないかという気 だから、私はよく山伏修行というのは、特に、行とい うのは野性そのものだから、その野性が、女の人の本来 を捨てる、そこからすごく解放されるものが出てくると 琵琶湖へ飛び降りるというのは、すごくシンボリックな から、五体投地とか、覗きとか、先ほどの竿の先端から まともじゃない自分を突き放す。さっき私が言った、 古い自分を捨てるということなんですが、突き放す。だ 意味があって、古い自分を捨てる、まともじゃない自分 いま、たとえば東京あたりで山伏が来てお話しします よというイベントをやると、だいたい女の人が七割ぐら ある。それは『近づいて見れば誰一人まともな人はいな が、そのはじめに松嶋さんが「イタリアではモットーが 煩わしい感覚が体を 冷 や し て い く 元 に な っ て い る の で は いると、 「私もやります」と言います、だいたい。 てのいちばんのエネルギーだよ。そのエネルギーなのに、 ないのかなと思いま す ね 。 それから、滝行の こ と な の だ け れ ど も 、 高 木 さ ん が 寒 中に五十分ほど滝行するというのは、もう死に三昧だよ、 はっきり言って。 鎌田 本当ですね。 星 野 我 々 も 夏 場 に、 昔 は 三 十 分 ぐ ら い は や り ま し た。 百人ぐらいの人と滝 を や る と き は 十 人 ぐ ら い ず つ と 、 全 員とやってあげるか ら 、 だ い た い 三 十 分 ぐ ら い に な る わ 134 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 と向いていないんじ ゃ な い か と 私 は 思 っ て い る ん で す け 取り戻す方法として 、 女 性 は 冷 え が 来 る か ら 水 は ち ょ っ たら、たくさんの人 が 泣 い た ん で す よ 。 だ か ら 、 野 性 を すごく若い白人の 女 性 た ち も 、 ハ リ ウ ッ ド の 近 く だ か らいっぱい来たんだけど、火をたきながら「ああ」とやっ したんですね。 う禅」をやったんで す け れ ど も 、 ほ と ん ど の 人 が 泣 き 出 たきながら「あ・り ・ が ・ と ・ う 」 と 唱 え る 「 あ り が と がとうというのをゆ っ く り 唱 え ま し ょ う と 言 っ て 、 炎 を 皆さんアメリカ人だ か ら お 経 を 唱 え ら れ な い ん で 、 あ り こ の 前、 ロ サ ン ゼ ル ス の サ ン タ モ ニ カ で 思 い 立 っ て 、 私は護摩をたいたんですよ、柴燈護摩を。素人のくせに。 すよね。 りますけれども、護 摩 を 見 て い る と 野 性 が 回 復 し て き ま がすごくいいと思う ん で す よ 。 皆 さ ん 護 摩 を お た き に な 出ましたけれども、 や は り 人 間 の 野 性 を 取 り 戻 す に は 炎 今回のシンポジウ ム で あ ま り 話 題 に 上 が ら な か っ た の が「炎」だと思うん だ け ど 、 水 の 話 は ず い ぶ ん た く さ ん 思うんですよね。 ね。 ロッパに行っても教会は、ほとんどがらんどうですから ピー的なものが、すごく必要な時代だと思います。ヨー バ ラ ン ス を 保 ち な が ら う ま く 進 化 し て い く、 特 に セ ラ 伝統というか、前衛的なものが対立するのではなしに、 りますけれども、これからの行法というのは、伝統と非 私がいまさら臨済宗の修行をできるか、やるかといっ ても、全然やりたくないし。私は私の前衛的な方法でや なように思うんですよ。 とか、「ありがとう護摩」をたく、行のバランスが必要 んだけれど、その一方で、私みたいに「ありがとう禅」 のをお守りになって、すごく貴重なことをしておられる だから女人禁制は駄目だとか言っていないですよ。だ けど、今回のパネリストは非常に伝統的な修験というも ないほうがいいように思うんですよ。 たセラピー的な要素をもっと強めて、あまり閉鎖的にし 私たちを解放するような、さっき鎌田さんがおっしゃっ そういう近代知でがんじがらめになった、頭でっかちの ど出てきていない。だから、これからの行というのは、 もりなんですけどね。 で自分としては、伝統的な行法に火と水ということがあ うな気持ちは重々承知していますので、何らかのかたち それをかれこれ十年近く続けているんですけれども、 そういうところで、火の素晴らしさ、火の解放されるよ 自分の願いごとを木に書き、くべているんですよね。 りまして、そこで火を燃やして、集まってきた人たちが いうか、井桁に木を切り出して、かなり大きいのをつく そのときは、日蓮宗なので『法華経』を読誦して、南 無妙法蓮華経というお題目なんですけれども、護摩壇と いって。 やってくれないかということで、夏至のときに出向いて 関 係 が で き て か ら は、 儀 式 と し て 山 の 神 を 拝 む こ と を 踊って、那須の山の神さまを拝んで修行する。ちょっと ヒッピーの人たちが集まっていたんですね。ナナオサ カキさんとか、そういう人たちも来たらしい。それで最 合うということ、そして火山である那須の茶臼岳を拝む。 いうのをやっていて、昔から続いていた山のごみを拾い しては、栃木県の那須で、六月の夏至のときに夏至祭と こ こ で あ な た は 生 ま れ た ん で す と 言 わ れ て い た か ら、 瞑想中に、その病院 を 思 い 出 し て 、 お 母 さ ん が 赤 ち ゃ ん 院を思い出して。 唱えているうちに、 な ぜ か 自 分 が 生 ま れ た ふ る さ と の 産 母親が死ぬまで大嫌 い だ っ た と 。 だ け ど 、 あ り が と う と 性でしたけれども、 自 分 は 母 親 が 大 嫌 い だ っ た 、 ず っ と 二週間ほど前にパ リ で 、 こ の 「 あ り が と う 禅 」 を や っ ているときに、すご い 告 白 が あ り ま し て 、 フ ラ ン ス 人 女 いうものを、遠慮せずに日本からもっと発信したらいい うニーズがあるんだから、ニーズに応える新しい行法と いうのは、日常的に抗うつ剤を飲んでおられる。そうい みんなカウンセラーに行って抗うつ剤をもらう。すご く飲んでいる人が多いですよね。ヨーロッパとか北欧と ども、精神的にニーズがある。 生が二人ですよ。もう本当に宗教離れが起きているけれ はセミナリーが三百人いたというんだけど、いまは神学 それから、大神神社も水の神社ですが、正月に、饒道 祭という火で浄め、若水を汲む祭りがありますし、お水 ろまで行って、火と水を結婚させる。 私は那智のこととかを言いましたけれども、那智には 火祭りがあるんですよ。わざわざたいまつをお滝のとこ だというのは間違いない。 鎌田 いまのにちょっと付け加えますと、火と水の関係 ですけれども、やはりバランスなので、陰陽両方が必要 りましょうし、そういう動きも自分なりにはしているつ 初、 み ん な で イ ン デ ィ ア ン の 踊 り み た い に 火 の 周 り を ど、炎はいいと思っ て い る ん で す ね 。 この前、ブルージュというベルギーの町へ行ったら、 ヨーロッパで最もカトリック的な町といわれて、十年前 の自分を抱いてくれ て い る イ メ ー ジ が 浮 か ん で き た と 言 取りも水の祭りですが、そのときに松明で行僧がばあっ と清めていく。 のではないかなという感想を持っています。 戸田 町田先生のお話は、確かに本当に分かるんです。 遠壽院の荒行堂では、確かに伝統的なものをキープしな などは、それがご神体、秘神にまでなっている。 水の聖地に必ずその対局にある火の問題を置いて、天河 それから、鞍馬は貴船神社、水の神のところですが、 その水の神のすぐそばで火祭りを行う。 こういうふうに、 がらやっているわけですけれども。私もちょっとほかの というのは、水の神さまですから弁財天を祀るのは当 水と火の和合 う ん で す。 地 蔵 観 音 み た い に 自 分 を 抱 い て く れ て い る 。 そ の 瞬 間 に 母 を 許 し て、 母 を 大 好 き に な れ た と お っ しゃったんです。こ っ ち は 聞 い て い て 、 す ご く 感 動 し た 近代人というのは 、 男 性 も 女 性 も 、 本 来 持 っ て い る 野 性 性 と か 母 性 と か、 そ う い う も の を ず い ぶ ん 忘 れ て し 所で動いた方がいいなというのがありまして、護摩に関 んです。 まっている。忘却し て し ま っ て い る 。 持 っ て い る ん だ け 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 135 その秘神は「日輪天 照 弁 財 天 」 と い う 弁 財 天 で 、 非 常 に 然 で す が、 六 十 年 に 一 回 だ け 秘 神 の ご 開 帳 が あ り ま す 。 古 い 自 分 を 手 放 す と い う こ と を、 も う ち ょ っ と セ ラ ピー的に広げてお話ししていただいて、それが修験の中 こともあるんですね。 鎌田さんは一人で東山回峰行をやっているわけだけれ ども、あれをもっと一般の人も一緒に参加できるように か っ て い て、 そ う な っ て い る の だ と 思 い ま す 。 だ か ら 、 要であるかというこ と を み ん な 、 行 者 の 世 界 ま で よ く 分 そういう弁財天に な っ て い る と い う こ と は 、 火 と 水 の 和合、金剛界と胎蔵 界 の 両 方 を 総 合 す る こ と が い か に 重 天照」なんですよ。 あったりするわけですが、日常的な自我意識を手放す瞬 町田 昨日からさまざまなかたちで意識変容体験を教え ていただきました。それが滝行であったり、山林ト走で がします。 セラピー的にお話ししていただければいいかなという気 につながっていくのかということを、宗教的、あるいは に込められている死と再生というテーマにどういうふう りを聞いているから、母音で「あーりーがーとーうー」 フランス語なんかをいつもしゃべっている人は子音ばか 今回はベルギーで言われて、はっと気付いたんだけど、 それはみんなのオリジナリティーで、自分の得意分野 でやったらいいと思うんですけれども、私は「ありがと うちに「即の体験」が起きるように思うんですよ。 よ。下手な説教をしなくても、一緒に黙々と歩いている してあげたら、すごく解放される人が多いと思うんです そこのところを両方 う ま く 使 う と い う こ と は 、 い ろ ん な 間を私は「即の体験」と呼んでいるんです。煩悩即菩提 特殊で貴重なものです。水で、日なんですよね。「日輪 社会的ニーズがある 中 で も 、 特 に 注 意 し な が ら 進 め て い の幼少期のトラウマ 的 な も の が 、 あ る 程 度 ク リ ア に な っ 思うんですよ。 いくことが手放すた め に 必 要 だ と い う こ と で は な い か と 不安が出てきて、そ う し た 不 安 や 悲 し む こ と を 完 了 し て います。たぶん古い 自 分 を 手 放 す た め に は 、 い ろ い ろ な 中で、予期悲嘆 ( Preparatory grief )ということを言って ブラー・ロスが死を 受 容 す る 五 段 階 の 中 の 抑 う つ 段 階 の ルケアとか、看取りの場面にいて思いますことは、キュー んだろうと思うんで す け れ ど も 、 た と え ば ス ピ リ チ ュ ア それから、町田先 生 は 昨 日 か ら 、 古 い 自 分 を 手 放 す と いうことを繰り返し て お っ し ゃ っ て い て 、 そ こ は 重 な る ともある」。 は、修行の体系の中 に 死 と 再 生 の モ チ ー フ が 見 ら れ る こ ますけれど、「未開宗教や民族宗教の修行などの場合に 井 上 鎌 田 先 生 が 紹 介 し て く だ さ っ た コ ピ ー の 三 六 〇 ページの右側真ん中 ぐ ら い に 、 エ リ ア ー デ の 引 用 が あ り そういうものをつくっていく責任が、何らかのかたちで 「 即 の 体 験 」 を 持 て る よ う な シ ス テ ム、 方 法 論、 舞 台、 に宗教的でもない、 特に強い意志力を持っていない人も、 私は町で修行した人間なので、特に山岳修験に憧れが あるんですが、この日本の美しい自然の舞台の中で、特 思うんですよ。 ちやすい環境、舞台を設定していくことがすごく大事と ふっと起きるかもしれない。そういう「即の体験」を持 れんし、私の場合は「ありがとう」を唱えているときに それは歩いているときにふっと起きるかもしれんし、 冷たい滝つぼにつかっているときにふっと起きるかもし かでないと、なかなか古い殻は捨てられませんよね。 うつつの、そういう一種の幽体離脱みたいな体験がどこ いいんですが、寝ているような、起きているような、夢 だから、それを何でやるかということですよね。それ をトランスと言ってもいいし、意識変容体験と言っても られないと思います。 うな無重力状態にならないと、なかなか古いエゴは捨て 当に数秒でもいいんですよ。どこかで大気圏を離れるよ それは日常的な意識をちょっと離れないと、あまり特 殊な神秘的な体験である必要はないんですけれども、本 かでなければいけないんですよね。 とか、色即是空、空即是色の即ですが、即の体験がどこ るほうは、赤ちゃんや子どもが何かに熱中してしまうと られている必要があるということです。でも見守ってい これは精神分析の考え方ですけれども、私たちが一人 になる能力を身につけるためには、母親的な存在に見守 できるようになるんですね。 ます。あるいは、お母さんに見守られて遊んで熱中して からずに、すやすやと眠ってしまうイメージかなと思い んに抱っこされて、抱っこされていることも忘れて、分 井上 町田先生はそういうことをおっしゃったんですけ れども、もうちょっと具体的に私は、赤ちゃんがお母さ ちで提供する責任があるのではないかなと私は考えてい なので、それをうまく現代人が入っていけるようなかた やっていきますけれども、皆さんそれぞれ体験をお持ち 験をされるという発見があったので、それを私はずっと の母音が倍音を出して、それが大脳生理学的に脳波も変 今回のヨーロッパ旅行ですごく学びになったんだけれ ども、それは私なりに発見した瞑想法で、 「ありがとう」 皆さんはまた一段と深い体験を持たれたんです。 じゃあ、静かにやりましょうといって、 「あーりーがー とやると、強烈に聞こえますと言われて、すみません、 う」の母音がすごく倍音効果を出すというのを発見して。 く必要があるんだと 思 い ま す ね 。 て、手放せる自分に な れ た と 思 う ん で す ね 。 宗教に関わっている私たちにあるんではないかなと思い 「即の体験」 だから、セラピー的な要素を入れていくということを、 もうちょっと具体的 に 、 古 い 自 分 を 手 放 す た め に は 、 悲 寂しいので、つい手を入れてしまう。つい介入過剰になっ いるときに初めて赤ちゃんや子どもは一人でいることが ます。 えるし、脳内物質も変わるし、一時間でここまで深い体 とーうー」と穏やかに、ゆっくり唱えるようにしたら、 しめる、泣ける、声 が 出 せ る 、 そ う い う 何 か の 環 境 の 中 ます。 昨日一休さんの本 を 回 し て い た だ い て 、 森 女 で し た っ け、その女性との関 係 の 中 で 何 か が 満 た さ れ た か ら 、 彼 で何かが満たされて 整 わ な い と 自 分 を 手 放 せ な い と い う 136 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 分の寂しさを見つめながら見守ることが必要になります。 てしまうものですけれども、見守るほうは、そこで、自 態に、かなり確実に持ってゆくことができます。 り返しているのではない状態、いわば、本当の修行の状 介入します。そうすることで、ただ同じものをずっと繰 のところもあるけれども、冬の行はお二人でやられてい 無責任なようですけれども、行の世界もセンスが必要 な場合がありまして、かつては我々の荒行も、星野先生 るような理論付けを し て 話 し て い く と 、 ヨ ー ロ ッ パ の 人 身体の反動を付けて水をかけるという具体的な身体技法 もちろん水行の場合は、先ほどおっしゃられたように、 けれども、もっと宗教的な修行、心の内面にかかわる 修行については、 ことはそう簡単ではないと思うのです。 い う 状 況 で の 行 で、 本 来 は 集 団 で や る と い う こ と は な 日蓮宗門の中の勉学がひととおり、もう教授クラスに なったような方が選ばれて、その年に一人、二人来ると わけです。 ると。我々の所も十人、十五人なんていうのはなかった たちにも、いろいろ 通 じ る と こ ろ が 多 く な る の で は な い としての側面があると思います。けれども、目には見え だから、即ということを、もうちょっと、抱っことか、 見守りの環境として 説 明 し て 、 そ れ を セ ラ ピ ー に も 通 じ かと思いました。 まっています。たと え ば 、 体 の 使 い 方 、 丹 田 の 意 識 の 持 私は太極拳の研究 を し て い ま し て 、 太 極 拳 の 場 合 は 型 を 教 え る と き、 か な り の 程 度 ま で 具 体 的 な 方 法 論 が 決 いました。 数をやれというので は な い 本 当 の 修 行 に な る と お っ し ゃ とで、運動部の合宿 み た い に た だ た だ 頑 張 れ 、 と に か く イスができなくては い け な い 。 こ う し た 条 件 が そ ろ う こ いい、ああした方が い い よ と い う よ う に 、 適 切 な ア ド バ れに加えて、指導す る 側 も 、 も う ち ょ っ と こ う し た 方 が 心の琴線の準備がで き て い る 必 要 が あ る と い う こ と 。 そ た。ひとつは、一人 一 人 の 修 行 者 に 、 打 て ば 響 く よ う な いて、戸田先生は大 事 な こ と を た く さ ん お っ し ゃ い ま し それでは、どうし た ら 機 械 的 な 水 の ぶ っ か け の 繰 り 返 しになってしまうの を 防 げ る の で し ょ う か 。 こ の 点 に つ とおりだと思うんで す 。 いというものではな い と お っ し ゃ い ま し た 。 本 当 に そ の 的にざっぱんざっぱ ん 、 と に か く 水 さ え ぶ っ か け れ ば い 倉島 昨日の話とつながるんですけれども、戸田先生は 運動部の合宿みたい に な っ て は い け な い 、 つ ま り 、 機 械 踞自体ができないという人がいま多いんですよね。相撲 それで、片手の合掌をしているんですけれども、この蹲 すとんと落として、 自分の体重を安定させるようにする。 姿勢を取るわけですよ。かかとを上げたところにお尻を 行のとき、最初に肝文を唱えるときは、いわゆる蹲踞の それこそ指導をする立場としたら、数限りない細かい ことはいっぱいあるわけです。というのは、たとえば水 をしようとなってから役に立ってはいるんです。 のこととかを勉強しますよね。それは自分が行法の指導 すけれども、その流れで、気の流れのこととか、上丹田 戸田 具体例は特にないんです。私も太極拳は若いとき にけっこうやっていて、一応有段者にはなっているんで れば非常にありがたいです。 事例や象徴的な事例を、二、三だけでも教えていただけ で機械的な反復にならずにすんだ、など、特に印象深い 全部の場合を取り上げることはもちろん無理だと思い ますが、たとえば、この修行者にこんな指導をしたこと されるのでしょうか。 に、具体的にどのようなやり方で修行のプロセスに介入 て見た場合、先生が適切なタイミングで指導されるとき にくい内面的な要素を含めて、日蓮宗の荒行を全体とし この道を行きなさいと言ったら、逆に理解できない状況 行センスそのものが、ABCD、一人ずつ全然違うわ けですから、これが絶対正しい、これがオリジナルで、 ことですね。 とは思うんですけれども、抱えている問題であるという ましたけれども、そういうところまでいかなければいい 会的な、昔、ワンゲルのしごき事件とか、いろいろあり そこの難しさが、とても現代であるという意味で、表 現は悪かったかもしれませんけれども、運動部的、体育 ち一人一人を見る必要があるわけです。 ものだというのを自分で持ちながら入行、修行する人た そこで指導する立場としては困るんですけれども、生 徒に対する先生ではないわけですから、本来はこういう これがまん延していくわけです。 部的な行け行けどんどんの修行、上意下達、先輩後輩、 うなってきますと、話は戻りますが、体育会系的、運動 もそうですよね。集団管理をして生徒を集めている。そ ところが、明治になってから集団行動社会になりまし たから、そうすると、十人、二十人、三十人。学校教育 ら出せるものをお持ちである人たちの集まりだった。 ても、自然にセンスとして、指導を受けなくても自分か かったわけですから、そこには、一つの行の世界に入っ 行の世界もセンスが必要 ち方、重心移動の仕 方 と か 、 そ れ ぞ れ に 具 体 的 な 指 導 の の四股を取るような動作ですけどね。 鎌田 いいお話をありがとうございました。最後にまだ 発言していない人がメンバーの中にもいますので、せっ 西洋近代の宗教性にない行法や技法の現代的意義づけ にいってしまうことがあるわけですよ。だから難しさが ノウハウがあります 。 いっぱいあるということなんです。 とをやるんで、だからそこのことに関しては、こういう だから、現代はからだ自体が、生活習慣もあるかもし れませんけれど、変化してきているんで、まずそういう 指導がある、こういう指導があるというのは切りがない だから、先生は適 切 な タ イ ミ ン グ で 、 適 切 な や り 方 で 練習の段階をワンス テ ッ プ ず つ 上 げ て や る わ け で す 。 最 もう少し練習が進む と 、 今 度 は 重 心 の 位 置 に 注 意 す る よ からだの保ち方のところ、細かいところからいろんなこ うに教える。さらに 進 む と 、 指 先 の 細 か い 形 を 教 え る と んです。 初は、手足の大まかな位置を教えるだけで良いけれども、 いうふうに、かなり 具 体 的 に 目 に 見 え る か た ち で 先 生 が 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 137 檜垣さん、そして先 ほ ど 話 に 出 た 松 嶋 さ ん 、 こ の 三 人 に かく来てくれた鶴岡 さ ん や パ リ か ら わ ざ わ ざ 来 て く れ た る 近 代 批 判 で は 済 ま な い か ら で す。 身 心 変 容 技 法 を め 義づけようとしているところだと思います。もう、単な の宗教性の中には見出されない行法や技法を現代的に意 けれども、第二次の修行といいましょうか、そこがやは どう行われるのかを見るのももちろん興味深いことです 次、第二次というのでしょうか、意識の覚醒というのが り私にとっていちばん興味深い点で、日常の中の即とい は少しでも発言して ほ し い と 思 い ま す の で 、 一 人 ず つ お うような体験ですよね。そこによりよく向かえるような このような深い宗教修行を実践していらっしゃる方の 体験と、本当に知的な探究をしている人たちの研究が出 ぐっていろんなアイデアや試みがこうして出てきて、町 と思うけれども大胆な接合の試みとか、さまざまな場面 会える場があることは、すごく貴重だと私は思っており 田さんの前衛的な活動とか、 鎌田さんの新しい試みとか、 での探求をいろんなかたちで続けていくことは、ですか ます。このような場に入れていただきましたことを心か 願いします。 鶴岡 鶴岡でございます。私は何かの行をやった経験は まったくないのです が 、 お 話 を 伺 い な が ら 、 な に か い い ら大きな意味がある。そうした冒険と伝統のうまい接合 ら感謝しております。どうもありがとうございました。 研究ができたらいいなと思いました。 質問ができないか考 え て お り ま し た 。 し か し ち ょ っ と 無 を考えないと、これから生きていく伝統としてはそれこ いろいろな瞑想体験と自然科学の言語との、困難はある 理でした。みなさん の お 話 が あ ま り に 豊 か す ぎ る 、 と い そ駄目だと思います。今日はこのことをあらためて感じ では鶴岡さんから 。 うのが本音です。で す の で 、 お 話 や 質 疑 を 伺 い な が ら あ ローカルな知は普遍化できるか 松嶋 松嶋と申します。私は文化人類学をやっています が、最近はイタリアをフィールドとして、精神医療に関 逆に、そうだったか ら こ そ 、 西 欧 は 近 代 的 な キ リ ス ト 教 それがなぜなのか、 こ れ も 問 題 だ と 思 っ て い ま す 。 で も 域 と し て 自 立 さ せ ら れ て い な か っ た と も 感 じ て い ま す。 かしそもそも最初か ら 、 身 体 行 法 と い っ た こ と は 問 題 領 近代になってどんど ん 見 失 わ れ て い っ た よ う で す が 、 し 行法とか、身心変容 と い っ た こ と が ら へ の 思 索 や 探 求 が ひとつ言うとすれ ば 、 私 が と く に 勉 強 し て い る ス ペ イ ン、フランスなど西 ヨ ー ロ ッ パ の キ リ ス ト 教 で は 、 身 体 す。なぜなのかよく 分 か ら な い の で す が 。 ぜなのか。これを考 え る こ と は 意 味 が あ る と 思 っ て い ま に生きていない、と い う か 、 ほ ぼ 絶 え て し ま っ た の は な 私の主たる研究対 象 は 、 ま だ 衰 え て い な い こ ろ の 宗 教 思想や実践なのです が 、 で は 、 そ れ が 現 在 は じ ゅ う ぶ ん い先細りで、この傾向はくつがえらないように見えます。 中で培われてきた身体的な感覚にしっかり根付いた宗教 ではないでしょうか。ですから、やはり東洋的な伝統の ゆる「霊的なもの」を混同してしまう危険性もあったの のでしょうか、そのように暴走した知性の現象と、いわ どうして弱くなってしまったのかという一つの理由の 中には、やはり身体的なものと切り離された知性という があるのではないのかなと思っております。 度絶えたように見えて、再生に向かっていくような動き いのですが、今、生と死の狭間というのでしょうか、一 私はキリスト教の神秘的な伝統に関して、先ほどお話 にあったように絶えてしまったという感覚は持っていな 点を入れるようになりました。 の後に日本の宗教との対話をテーマとして、比較的な視 で、文学や思想をやらせていただいていたのですが、そ ではヨーロッパにおけるキリスト教の伝統というところ 檜垣 昨日、今日と本当に大変貴重な学びをさせていた だきまして感謝しております。私の専門は、博士論文ま うのは、まさにこの私の身体をもってある場所に具体的 れるわけです。ただ、身体を使った技法や身体的知とい 新たに、よそから三日間だけというようなかたちで来ら 現在では、まさにそこが違う。みんな農業をやってい るわけではないし、同じ共同体にいるわけでもない人が、 思います。 と意味を持つ、そういう循環があるというお話だったと うかたちで修行を行う、そして修行の結果がまた俗の世 その共同体と結びついたかたちで修験者が半聖半俗とい 結びついているということでした。 ある共同体があって、 昨日のお話でとりわけ印象に残ったのは、羽黒修験の 星野さんの、修験者の修行が最終的に庄内平野の農業と と思います。 ということの意義に関連して、最後に一つお聞きしたい で、宗教的な修行を実践されている皆さんのお話を聞く 二日間のお話にはいろいろなテーマが入っていたと思 いますが、特に身心変容技法についての研究会という場 東洋的伝統の中で培われてきた身体感覚 鎌田 ありがとうございます。では、檜垣さん。 ました。 らためて感じたこと を 少 し 述 べ さ せ て い た だ き ま す 。 私はおもに西洋の キ リ ス ト 教 の 思 想 伝 統 を 勉 強 し て い るのですが、その伝 統 が 現 在 の 欧 米 、 と く に ヨ ー ロ ッ パ ではかなり衰退して い る こ と は 、 町 田 先 生 が お っ し ゃ っ たように、確かだと思います。教会に行く人はずっと減っ を 作 っ て い け た し、 そ れ に よ っ て 近 代 社 会 を 産 ん だ し 、 性 と い う も の が、 も の す ご く 対 話 の 中 で 大 き な 要 素 に にいるという、その経験から立ち上がってくるものであ わる実践について研究しております。 ある意味で自然科学 を 産 ん だ 。 つ ま り 現 代 社 会 を 産 ん で なってくるのではないかなということをあらためて思い ている。修道院の伝 統 は い ま も 生 き て い ま す が 、 だ い た いるとも思います。 ました。 ると同時に、そこでの生活や共同体と結びついた、あく 界に戻されてきて共同体の中の生業と結びついてちゃん 我々のこの科研で 考 え よ う と し て い る こ と の 意 義 が 結 局どこにあるかというと、「だから西洋的な考え方では それから、町田先生がお話しになられた、修行の第一 駄目なんだ」といっ た 言 い 方 で は な い 仕 方 で 、 西 洋 近 代 138 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 代社会や自然科学の よ う な あ る 程 度 普 遍 的 な も の が 生 み リスト教でそうした ロ ー カ ル な 部 分 を 切 り 離 す こ と で 近 岡先生のご指摘にあ り ま し た よ う に 、 西 ヨ ー ロ ッ パ の キ までローカルな知で あ る と 思 い ま す 。 だ か ら 、 先 ほ ど 鶴 させていきたいと思っています。 国のいろんな勢いのない修験道の山で、どんどん修行を ところが、その修験道で勢いがあった山がみんな勢い をなくしている。つまり祈りが足りないと。だから、全 の山の思想というのは修験道がつくってきたわけです。 拝む、行をする道場の位置、配置、修行する人の動線な 場の配置なども、いまはなかなかそういうところまで思 が出る方向に向かって出てくるんですけれども、修行道 の西北の方へ向かっていき、満行のときは巽のお日さま ギーをいただいて出てくるんだなというような思いなん 役に立てるのではないかなと思います。 ども考えられてできているので、そういうことも現代の いがいかなくて、簡単に建ててしまうんですけれども、 たつみ です。それにはまず、もう少しお堂に入行するときは乾 いぬい 出され、それがグロ ー バ ル 化 し て い く と い う の と は 、 や それで、何が目的か。それは日本人にとっての山の思 想を学ぶということです。 普遍的というか、どこでも共通にできること。鎌田先生 鎌田 戸田さん、お願いします。 戸田 答えになっているかどうか分かりませんけれど、 はり根本的に異なる 性 格 を 持 っ て い る と 思 う ん で す 。 それを今、グローバル化とは違うかもしれないですが 普遍化して、生活を共有しないような人にもできるだけ 多く経験してもらっていこうというときに、何かとても 重要なものが落ちるのではないか。あるいは逆に、先ほ 後に、おそらく今の問いとも絡んでくると思うのですが、 いったい何なのかと い う こ と を お 聞 き し た い 。 そ し て 最 どうか、そしてもし あ る と す る な ら 、 そ の エ ッ セ ン ス は こからはある程度共 有 し て い け る と い う も の が あ る の か それは戸田先生の『法華経』の修行においても同様で、 この場所で、この身 体 で し か で き な い の だ け れ ど も 、 こ いうものがあるのかどうかということをお聞きしたい。 がるというか、いいみたいです。そういう専門の人たち り返し繰り返しというのを向こうの人は非常にありがた あと、もちろん「南無妙法蓮華経」の唱題行も行いま す。水をかぶるというのはなかなかできない。ただ、繰 えが早くて、じょうずに唱えるんですよね。 まして、ローマ字で書いてあったりするので、すごく覚 れは日本人よりも向こうの人の方が覚えやすい面があり センテンスのお経の中の「陀羅尼」の部分があって、そ 時々要請されて、日本仏教荒行のレクチャーをしに行き マラヤなどで行われてきた行とには大きな共通点がある はり日本で行われてきた行と、チベットやブータン、ヒ 特に掘り下げた分析というものはできないのですが、や 私はチベットとかブータンが専門ですので、永沢先生 がおっしゃったことと非常にパラレルなところも多く、 学 者 の 先 生 方 と の 対 話 が 実 現 し、 大 変 素 晴 ら し い 会 に も、今回こうやって行者の方々、実践家の方々と、宗教 熊谷 こころの未来研究センターの熊谷です。昨日は後 半の終わりごろからしか参加できなかったのですけれど それから、そういう表向きの理屈だけではなくて、や はり行をするというのは、本来の自分を知るということ そもそも修行をやる 目 的 と い う の は 何 か 、 そ れ を 本 当 に の集まりでしょうから、そうなのかもしれませんが、エ ように感じました。 に尽きるのではないかなと思うわけです。 一言でお聞きしたい と 思 い ま す 。 キスはわりと共通していて、どこでもできるのではない これは奥井さんが先ほど指摘されていたことと同じな のですが、概念的なものと、概念を超越した体験、すな も知っているドイツのキームゼー、総合身体行と言うと 先ほど町田先生か ら 、 セ ラ ピ ー の 側 面 を 強 め た 方 が い いのではないかとい う 提 案 が あ り ま し た が 、 戸 田 先 生 の かなと思っているんです。 わち言語を超越したものとに分けられるという意味で 分かりやすいかもしれませんが、島の中に建っているカ お話の中に、ここは 療 養 所 で は な く て 行 を や る 場 所 な ん なぜ行をやるのかというのは、おこがましいようです けれども、 「生死の一大事」という生死観が仏教の根底 は、日本とヒマラヤの宗教実践には、似たようなところ 潟や淡路島でやるといったときに、それは出羽三山です だからという印象的 な 言 葉 が あ り ま し た 。 そ こ に は ど う にあるからです。我々が死ぬということは、何しろ確実 どの町田先生の問題提起とも関係しますが、たとえば新 しても、セラピー的 な 部 分 だ け を 取 り 出 す わ け に は い か な大事なことなんですけれども、なかなか普段これは感 があるなという感想を持ち得ました。 鎌田 ありがとうございます。熊谷さん、メンバーの一 人ですので、最後にお願いします。 ない信仰の問題が本 質 的 に 絡 ん で く る で し ょ う 。 そ こ で じることができないんですが、行も僕らの世界だと、ま そのように一度言語を超えた体験をされた方が用いら れる言語は、私のように文献のみを用いて研究をしてい トリックの修道院を会場に、インターナショナルスクー 身心変容技法と信仰 の 関 係 と い う 問 い も 念 頭 に お き つ つ ず最初に剃髪して、死に装束を着て、荒行初めというの る研究者の用いる言語とは、まったく別種のものである ルが開かれ、世界中に伝わる身体技法を学び合う。私も 最後に、こうした行 を 行 う 目 的 に つ い て 、 短 い 言 葉 で 結 で、そのときは本当に死の世界みたいな雰囲気なんです れだけは場所が違ってもエッセンスとして普遍化できると 構ですので、お聞き で き れ ば と 思 い ま す 。 よ。棺おけの中にいるような感じ。 るのとはいろいろと違うと想像するのですが、しかし、こ 星野 日本のいろんなところで修行するというのは、修 験 道 の 山 で す る と い う 意 味 で す。 や は り 日 本 の 場 合 は、 ということを実感できた、ということが私にとっていち なったのではないかと思っております。 日本の行とチベット・ブータンの行の共通点 しっかりと日本人に と っ て 山 の 思 想 と い う の は こ こ ろ を 百日たって満行というときには、本当に新たなエネル ます。まず唱えるというのが私らの行であるので、短い テーマにした日本人 の 精 神 性 を 育 ん で き た わ け だ し 、 そ 大荒行シンポジウム/「大荒行」身心変容技法研究会 ● 139 がとうございました 。 ばんの収穫となり、 大 変 貴 重 な 機 会 と な り ま し た 。 あ り その卜部とか忌部といった古代祭祀一族が、それぞれ の 新 し い 技 法 を 持 ち 込 み な が ら、 や が て 仏 教 や 道 教 が く下地になっていると思うんですね。 の専門者集団がいて、その卜部たちが修験者になってい 巻の三七六頁の見出しには「文覚荒行」と出てくる。 かはわからない。小学館『新編日本古典文学全集』第四十五 それ以前の口承伝承段階から「荒行」と使われていたかどう 田中利典師より「荒行」についての質問があり、いろいろ と文献を探っているうちに 『平家物語』 巻五に 「荒行」 と 「荒聖」 「荒行」 「荒聖」 「荒法師」について 付記 修験道は宝の山 入ってきたときに修験道と合流していく。そういう卜部 行」とその節の見出しに出てくるので、最初期の写本段階や るネットワークが非常に重要な修験道の下地を成してき の語があるのに気づいた。ただし「荒行」については「文覚荒 いままでこういう 研 究 会 が な か っ た と は 思 い ま せ ん け れど、これだけそれ ぞ れ の 立 場 を 極 め な が ら 、 現 代 の 課 たと思います。 鎌田 ありがとうございました。 題に立ち向かってき て い る 人 た ち が 一 堂 に 会 し て 、 二 日 一族の働き、役割、占いをやってきた人たちの持ってい 間にわたり、和やか で は あ り ま す が 、 真 剣 勝 負 で 話 し 合 修験道はいろんな要素を組み込みながら、総合化して いる一つの一大曼荼羅のような世界です。そこを解きほ うという機会は本当 に こ れ か ら 先 も 必 要 だ し 、 貴 重 な 出 捉えるのか」と言わ れ ま し た が 、 こ れ は 、 こ れ か ら 現 在 で生まれてきている の で 、 そ の 問 題 を 問 う た め に 、 ど う それぞれの宗教的伝 統 と い う の は 、 そ う い う 人 類 史 の 中 からの人類史の大きな流れの中で、とても重要な問題で、 最後に私が一言だ け 答 え て お き た い の は 、 永 沢 さ ん が 「 修 験 道 は 以 前 か ら あ っ た は ず だ。 そ れ は 狩 猟 採 集 時 代 の学術的なものの責務だと思うんですね。それが行者の だから私は、昨日倉島さんが言っていた、水平軸と垂 直軸を分けて、きちんと整理してみるというのも、一つ するというか、見るべきところを見なければいけない。 独自のものが持つ宝物の山をきちんと学術的にも区分け みれば、そこは宝物の山なんですよね。修験という日本 くときに、なぜ修験道を取り上げたかと言うと、言って れている。ここにある「あらひじり」は、漢字で書けば「荒聖」 の庭に無理やり押し入って勧進帳を読み上げる場面が描か 二十一日間の大荒 行を済ませ、その後那 智に「千日」籠り、 れが「文覚荒行」であり「霊験」である。文覚は冬の那智で、 をする。そのとき、不動明王と八大童子が文覚を助ける。そ その『平家物語』には、文覚は旧暦十二月十日過ぎ(今の 一月中旬)に熊野那智で雪の中、氷柱が張る中で厳しい滝行 も未来のことを考え て い く 上 で 絶 対 に 必 要 な プ ロ セ ス だ 世界観と感覚とは違っていたとしても、そういう試論を ぐしていきながら私たちは身体技法の問題を研究してい と思うんですね。 違っていると思う、 捉え方がちょっと違うよと考え直す。 会いと試みになった と 思 い ま す 。 昨日、日本の神道 的 修 験 と い う の が 成 り 立 つ の か と い う疑問が投げかけら れ ま し た が 、 私 は そ の と き に 、 神 道 それでいいんですが、 そういうものを切磋琢磨していく、 ズム的なものなので、アニミズム、シャーマニズム、トー は、草木国土悉皆成 仏 に な っ て い く の は 、 や は り ア ニ ミ 価できるのが学術のいいところだと思うんですね。 次の段階へ進化していけばいいんです。それを公平に評 学術は失敗を恐れてはいけない。間違った説であって もかまわない。かまわないというのは、それを踏まえて 練り上げていくという過程がやはり学術としてとても大 テミズムが修験道の 中 に 生 き て い る と 思 う ん で す ね 。 そ 行の世界だったら、もっと違う評価がある。間違った ら、もう本当にアウトだ、死ぬこともある。そういう違 今日は最後までお付き合いいただきました星野さんと 戸田さんには心からお礼申し上げます。本当にありがと 田東二記) に平安末から鎌倉時代初期には成立していたと思われる。(鎌 たので、 「荒聖=荒法師=荒行者」というイメージ連環はすで で、類語として「荒法師」などもすでに中世には使われてい 「文覚は天 続く『平家物語』巻五「勧進帳」のくだりには、 性不敵第一のあらひじりなり」とあって、後白河院の住まい のこる所なく、おこなひまはッて」回国修行する。 白山、富士の嵩、伊豆、信濃戸隠、出羽羽黒、すべて日本国 だけ さらにそこから、「大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峰山、 の中に潜在的に修験 的 な も の が あ る と 答 え ま し た 。 事だと思います。 我々は投げかけて、刺激を与えて、間違っているなら間 永沢さんの今日の 問 い に 対 し て 一 言 答 え て お き た い の は、シャーマニズム の 問 題 が 決 定 的 に 大 き く 、 シ ャ ー マ れを生かしていく前にあった土着の民間信仰であると ニズム的なものが修 験 道 に ど う 入 っ て い る の か 、 あ る い か、思想体系である と か 、 文 化 と い う も の を ど う い う ふ いも踏まえて、これからもいろんなかたちで協働的に次 うございました。これで終了します。ありがとうござい の段階を考えていきたいと思います。 うにちゃんと評価し て い く こ と が で き る か 。 化です。東北のイタ コ を 含 む 、 拝 み 屋 さ ん の 文 化 、 こ れ そのときの手掛か り の 一 つ は 卑 弥 呼 で す 。 一 つ は 、 や はり奄美、沖縄にい ま 残 っ て い る シ ャ ー マ ニ ズ ム 的 な 文 が一つであると同時 に 、 も う 一 つ は 卜 部 の 文 化 。 昔 各 地 ました。 うら べ に卜部という祭祀者 が い た ん で す よ 。 占 い を す る 者 た ち 140 ● 第 3 部 心身変容技法の比較宗教学 「モノ学・感覚価値研究会」とは? 表紙作品 撮影:鎌田東二 ◆「「モノ学」もついに新しい段階に突入した。三月七日から十四日まで 編集後記 「モノ学・感覚価値研究会」は、二〇〇六年四月二一日付けで、日本学術振興会科学 研究費補助金交付に採択された「モノ学の構築―もののあはれから貫流する日本文明 北野天満宮で行なう「悲とアニマ展」が新段階の表出である。近藤髙弘氏 四号に掲載しきれなかった「大荒行シンポジウム」を掲載した。読み返す も次なる展開に驀進中だ。本号では姉妹誌である『身心変容技法研究』第 のモノ的創造力と感覚価値を検証する」を研究し、 「モノ」と「感覚価値」をあらゆる 角度と発想から考察し、表現してゆく“アヴァンギャルドな研究会”です。 と、よくもまあこんなシンポジウム・研究集会ができたものだと我ながら 感心する。時の流れ、諸縁の結ぼれによるものだろう。次回で第十号にな る。この十号を節目として、さらなる創造と「楽しい世直し・心直し」に この研究会では、 1.日本人が「モノ」をどのように捉え、 「モノ」と心と体と命及び自然との関係をどう 見てきたかを検証すると同時に、 「カワイイ・カッコイイ・ワクワク・ドキドキ・こわ 邁進したい。 (鎌田東二) ◆ 二 〇 〇 七 年 に 創 刊 号 が 刊 行 さ れ た 本 誌、 三 号 か 四 号 く ら い ま で か な と (原 章) どんな旅をするのか。ご同乗のみなさん、もう降りられませんよ。 いなくそのくらいのスケールであるようだ。緑の旗を掲げた船はこれから 千年単位で考えなければならないのかもしれない。鎌田御大の射程は間違 目的は「世直し・心直し」だから、十年単位、百年単位、ひょっとすると 思っていたら、九号まできてしまった。まさに「持続する志」。なにしろ い・すてき・おもしろい・たのしい」などの快美を表わす感覚価値形成のメカニズム を分析します。 2. 「モノ」が単なる「物」ではなく、ある霊性を帯びた「いのち」を持った存在である という「モノ」の見方の中に、 「モノ」と人間、自然と人間、道具や文明と人間との新し い関係の構築可能性があると考えます。 3.二一世紀文明の創造には新しい人間認識と身体論と感覚論が必要であり、感覚基盤 の深化と再編集なしに創造力の賦活と拡充はないでしょう。それゆえ、 「モノ」の再布 置化と人間の感覚能力の可能性と再編成を探ることは極めて重要な二一世紀的課題と ― ― http//homepage2.nifty.com/mono-gaku/ 本誌の一部または全部を無断で複写、転載することを禁じます。 なるはずです。 平成二七年三月三一日 京都大学こころの未来研究センター モノ学・感覚価値研究会 ― 〒 京都市左京区吉田下阿達町46 電話 075 753 9670(代) 組 版 マル工房 大西昇子 印 刷 株式会社 NPC コーポレーション 編 集 編集工房レイヴン 原 章 デザイン 鷺草デザイン事務所 尾崎閑也 発 行日 発 行 9 4.人間の幸福と平和に結びつく「モノ」認識と「感覚価値」のありようを探りながら、 認識における「世直し」と「心直し」をしていくのが本研究の大きな目的となります。 5.また、 「モノ」と「感覚価値」を新しい表現に結びつけ、大胆な表現に取り組んでい きます。 を : http://mono-gaku.la.coocan.jp/ (世話人:近藤髙弘・大西宏志)が モノ学・感覚価値研究会の中に「アート分科会」 あり、現在も活動しています。 「 モ ノ 学・感 覚 価 値 研 究 会 」の H P 詳 し く は、 ご参照ください。 6 0 6 8 5 0 1
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