さらなる進化へ 新しくなった研究拠点の全貌

Special Features 2
生命科学分野で最先端の研究を行う ヤクルト中央研究所
さらなる進化へ
新しくなった研究拠点の全貌
文◉大朏博善 text by Hiroyoshi Otsuki
写真◉ヤクルト本社 photographs by Yakult Honsha
ヤクルト本社の研究開発部門の一大拠点である「ヤクルト中央研究所」が新しく生まれ変わった。ヤクルト
の創始者である代田 稔博士は自らの研究者生涯を通して、
「予防医学」
「健腸長寿」
「誰もが手に入れられ
る価格」をヤクルトの 3 大テーマとして示した。その 代田イズム を研究命題として新たなスタートをき
った、中央研究所の姿とその展望に迫った。
東京都をほぼ東西に横断するように走る JR の中央
を持たない円柱状(より正確にいえば卵形の外周を
線。その駅の 1 つである国立駅を出て、春には桜見物
持っている)
ビルというユニークさで、建物の内部に
の名所となる大学通りを通って南西方向に向かうと、
は代田 稔博士とヤクルトの歴史を紹介する代田記念
周囲を緑の木々と清流に囲まれた開けた場所に出る。
館と、座席数 320 席、2 つの外国語の同時通訳設備付
しかも視野の先、長く延びる中央自動車道のはるか向
きの本格的な国際会議場を有している。この研究所に
こうには富士山の姿がくっきりと―そんな自然に
は、関連部署の研究員を含め約 400 名の社員が関わっ
恵まれた土地に、周囲の環境ともマッチして建つ真新
ているとのことだ。
しいビル群、それがリニューアルされたヤクルト本社
の中央研究所である。
同社の広報資料によると、国立市泉に位置している
中央研究所の敷地面積は、およそ 2 万 9000 平方メー
トル。正門正面に建つ 7 階建ての研究管理棟や、
4 つの
研究棟と付帯施設などが立ち並ぶ。
ちなみに、ランドマークでもある研究管理棟は、角
では、もともと歴史あるヤクルト中央研究所が今回、
リニューアルに至ったコンセプトやタイミングは、
いったいどのようなものなのだろうか。
最新鋭の研究機器と最適な研究環境
「一言でいえば
『ハード
(建物・設備)
・ソフト
(研究内
容・組織)の両面において 時代の要請 に応えた』と
いうことです。新研究所の基本構想は、すでにヤクル
ト本社会長・堀 澄也が時代を先取りした形で立案し
た研究所新設計画案
(1979 年)
に沿っています。加えて、
ヤクルト 業 80 周年に合わせて名実ともに研究所を
新生させる、ということも重視しました」
こう話すのは、
中央研究所の石川文保所長
(農学博士、
ヤクルト本社取締役・専務執行役員)
である。
1935 年に 業したヤクルトが、乳酸菌研究の拠点
として京都からこの地に研究拠点を移設したのは1967
年のことだった。その後、研究開発力の強化を目的と
石川文保
(いしかわ・ふみやす)
株式会社ヤクルト本社中央研究所長
(農学博士)
。取締役・専務執行役員でもある。
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して、2006 年から 2010 年にかけて「食品研究棟」
など
を新設。さらに 2012 年からは、4 つの研究棟(研究管
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研究管理棟。研究所全体の統括・管理を担う研究管理お
よび事務部門が使用する建物。
「国際会議場」
「代田記念
館」などの施設も併設し、ユニークなデザインとともに
中央研究所のシンボルタワーとなっている。
国際会議場。収容人数320 席、マイクシステム完備、2 つの外国語の同時通訳設備付き
の本格的な会議場。国内外の研究者・専門家の研究発表の場として、活発な討議を通じ
新たな成果を世界に向けて発信していく。
代田記念館。ヤクルトの創始者である代田 稔
博士が予防医学を志したきっかけ、L . カゼイ・
シロタ株の強化・培養に成功するまでの取り組
み、さらには
「ヤクルト」
の誕生から今日に至る
までの歴史などを展示している。
食品研究棟。有用微生物など機能性食品素材の
探索および有効性を評価し、乳酸菌を利用した
発酵技術など生物工学的技術を用いた応用研究
を行う。
医薬品・化粧品研究棟。がん領域に特化した、
他社にはない医薬品の開発研究や、有用微生物
を利用したヤクルト独自の機能性化粧品の開発
研究を行う。また、分析センターを併設してい
る。
品質・技術開発棟。食品素材研
究に関わる技術開発のためのプ
ラント室を備えるとともに、関
連会社であるヤクルト薬品工業
株式会社の本社機能と品質管理
機能を持っている。
基礎研究棟。腸内フローラと健康との関わりや、
「健腸
長寿」の概念を科学的に立証する研究を行う。さらに、
プロバイオティクス製品のもととなる種菌を製造・育種
する機能も持っている。
理棟、基礎研究棟、医薬品・化粧品研究棟、品質・技
「皆さんも感じておられるでしょうが、近年の 腸内
術開発棟)
の新設工事と、最新鋭の研究機器・設備の
フローラ研究 の高まりには、大変めざましいものが
充実や研究環境の整備を行ってきた。そして、 業80
あります。申すまでもなく、この分野の研究に関して
年目を迎えた 2015 年の翌年、2016 年 4 月 15 日に新し
パイオニアの立場にあるのがヤクルトですから、単に
い中央研究所として完成をみたのであった。
ブームに追随していくのではなく、その高まりを先導
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YIF-SCAN® は、ヤクルトが独自に開発した腸内フローラ自動解析システムで、細菌が持つ特徴的な遺伝子配列を解析する技術の応用によって腸内
(手前)
、2 号機
(正面左奥)
。別施設で 3 号機も稼働。
細菌を選択的に定量することができる。写真は、YIF-SCAN® の 1 号機
していく研究所として貢献していく必要があります。
イブラリーを守らねばなりません。
そうしたことから、ポスト 業 80 周年にあたり建物
それだけではありません。ヤクルトという企業が持
や設備を一新するとともに、研究体制や研究テーマに
つ部門の 1 つとして、L . カゼイ・シロタ株をはじめ
関しても、一度リセットするくらいのつもりで再構築
とする飲料製造用の種菌を管理し、国内外の生産工場
することになったわけです」
へ種菌を供給するのも、この研究所の重要な役割とな
新築する建物の構造に関しては 免震構造 にこだ
っています。つまり、ヤクルト製品の品質を常に保つ
わった。いつ襲われるか知れない大規模な地震から所
ためにも、研究所の施設は災害に強くなければならな
員や設備を守るため、建造物を耐震力のある構造とす
い。そのような理由からも、
中央研究所の建物は免震・
るのは今や常識ともいえるが、ヤクルトの研究所とし
耐震構造となっているのです」
てはさらなる理由があるという。
「乳酸菌研究の拠点としてスタートして、長年にわ
部署の研究内容や目標をより明確に
たって微生物を扱ってきた研究所ですから、所有して
では、このような中央研究所の建物の内部では、ど
いる生きた微生物の種類と数
(つまりライブラリー)
は
のような研究が行われているのだろう。それは、これ
膨大なものとなっています。これらは一朝一夕に構築
までの研究体制をどのように引き継ぎ、あるいは進化
できるものではなく、まさに研究所の貴重な財産なの
させたのだろうか。
です。ヤクルト独自の研究開発を支え、今後も研究成
果を出し続けるためには、何がなんでもこの微生物ラ
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石川所長によると、組織面での大きな変化の 1 つは、
部門制であった各種の研究組織がそれぞれ機能別ジャ
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生命科学分野で最先端の研究を行う ヤクルト中央研究所
微生物研究所では、生体内でのプロバイオティクスの働きを微生物側
から探究するとともに、プロバイオティクスと腸内細菌との協調関係
を最新技術によって解析する。写真は多重染色 FISH 法による細菌観
察像。
基盤研究所では、腸内フローラと宿主の健康との関係を解明する。最
新の遺伝子解析や腸内細菌分離技術などの方法を用いて、腸内細菌の
種類や構成が疾病とどう関わるのかなど、予防医学的見地から研究を
行う。
分析試験研究所は研究開発を支える技術を開発・保有するとともに、
高い分析技術によって安全・安心で高品質な商品を保証。測定技術を
通じて環境を守る役割も負う。写真はフーリエ変換核磁気共鳴装置。
安全性研究所では、食品・医薬品・化粧品すべての素材・製品の安全
性を評価。また、新たな安全性評価法の開発・導入にも積極的に取り
組み、より高いレベルでの安全性の評価をめざす。写真は走査型電子
顕微鏡。
ンル別の研究所として独立したこと。中央研究所とい
ら支える」
のが基盤研究所で、
「微生物の生理機能を解
う名の 大屋根 の下に 7 研究所・1 室・1 センター・1
明しその利点を最大限に活かすとともに、有用な微生
部、
つまり
「基盤研究所」
「微生物研究所」
「食品研究所」
物の収集と供給を行う」
のが微生物研究所である。と
「医薬品研究所」
「化粧品研究所」
「安全性研究所」
「分
もに、 腸内フローラ研究・プロバイオティクス研究
析試験研究所」
「信頼性保証室」
そして研究全般を運営
のパイオニア としてのヤクルトの研究を基礎から支
する
「研究管理センター」
と事務・施設全般を運営する
えつつ、維持・発展させる目的を持っているのだが、
「事務部」
の管理部門を設置した。
微生物研究所が微生物そのものの特性探究に重きを置
部門別研究体制から研究所体制に変えた理由の 1 つ
くのに対して、基盤研究所では特に腸内細菌叢とヒト
には、部署ごとの研究内容や目標をより明確にしたい
との相互作用の研究にフォーカスした研究を主テーマ
との意思があった。実際、それぞれの研究所には独自
とする。
の研究コンセプトがあって、ヤクルトのパンフレット
「 なぜ、L . カゼイ・シロタ株という乳酸菌を飲む必
的にいえば次のようになる。
要があるのか について科学的根拠を明らかにすると
主に基礎研究分野を担っているのが、基盤研究所と
同時に、シロタ株の潜在能力を見つけて商品展開に必
微生物研究所という 2 つの研究所。
「 健腸長寿 の科
要な技術を探る、という具体的な目的も持っている研
学的根拠を立証し、ヤクルト独自の研究開発を根底か
究所です」
(石川所長)
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グローブボックスによる嫌気性菌の培養。
腸内フローラには極めて多種類の嫌気性菌
が存在する。培養が難しい微生物の単離努
力によって築きあげた膨大な微生物ライブ
ラリーがヤクルト独自の開発研究を支える。
食品研究所では、健康と QOL 向上に役立つ食品素材の探究を行って
いる。有望な微生物や食品素材は、製品の最終形態を含めて対人試
験による有効性の検証が進められる。写真はジャーファーメンター
による微生物培養試験。
ヤクルトの原点は
「代田イズム」
そして素材の開発研究などの応用研究分野を担って
といった製品の領域に関連する研究・開発を多く手が
けている。そして当然、その製品開発には絶対の安全
性が求められる。この問題・課題に関しては研究開発
いるのは、食品研究所、医薬品研究所、化粧品研究所
を担当する研究所が当事者としての責任を負うのだが、
という 3 つの研究所。食品研究所では主に「健康や
その安全性を改めて客観的立場からチェックすること
QOL(生活の質)向上に寄与する新たな機能性食品を研
で安全性は高まる。同時に、安全・安心な品質を技術
究開発する」
、医薬品研究所では主に
「独自のがん研究
的に支えるには、高い分析技術が欠かせない。そして
における実績を背景に高付加価値医薬品を 出する」
、
さらに、安全・安心をうたう各種データそのものの信
化粧品研究所では主に
「乳酸菌発酵技術を活かした
『内
頼性を保証することによって、社会から製品に対する
外美容』
(体の内側と外側の両面から健康的な美しさ
納得を獲得できる ―こうした考え方が形となった
をつくる)
を追究する」
、をそれぞれ研究コンセプトと
のが、安全性研究所と分析試験研究所そして信頼性保
している。
証室というわけである。
また、今回のリニューアルにあたって中央研究所が、
こうしてみると、基礎研究から応用研究へ、そして
その重要性を改めて強調した形になったのが 安全・
応用研究から生まれる素材・製品の品質チェック、さ
安心のための追求 の施設として設置した、安全性研
らに研究・開発結果の信頼性向上のためのチェック体
究所と分析試験研究所そして信頼性保証室である。
制と、企業研究所として フルセット体制 を持つ研
前述のようにヤクルトでは、食品・医薬品・化粧品
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究所であることが分かる。
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生命科学分野で最先端の研究を行う ヤクルト中央研究所
化粧品研究所では、皮膚科学と微生物学を基盤にエビデンスに基づいた
新規化粧品の開発・研究を行っている。また、化粧品素材の乳化系への
配合等の技術的研究にも取り組んでいる。写真は、皮膚計測風景。
がん領域での医薬品の研究のきっかけは乳酸菌に抗がん活性があるのが
見出されたこと。これをもとに、医薬品研究所では副作用の少ない新た
な抗がん剤の創製を重要な研究課題としている。写真はクリーンルーム
を用いた創薬研究の様子。
それにしても、
いやそれだけに、
それぞれの研究テー
ることで、科学性を有した製品を通じ QOL の向上に寄
マをどのように設定しているのだろうか。特に、近年
与し続ける―こうしたコンセプトに適う研究テー
の 腸内フローラブーム といわれる状況下では、腸
マを、積極的かつユニークに進めたいと考えているの
内細菌研究のパイオニアとされるヤクルトとして手を
です」
つけるべき研究課題の特定が、かえって難しいとも思
われるのだが。
研究員のモチベーションアップ効果
「確かに研究テーマの枠という点では、ないに等しい
腸内フローラ研究が多方面で盛んになった最大の理
かもしれません」
とまでいうのは石川所長だ。逆にい
由に、 マイクロビオーム という言葉に代表される、
えば、研究テーマを最初から狭く絞り込むことはした
遺伝子 DNA レベルでの解析技術が自在化したという
くない。フローラの研究領域が拡大深化している今だ
背景がある。つまり、生きた微生物そのままを研究対
からこそ、それぞれの研究所の間の 風通し もよく
象とするのではなく、細菌叢全体を 遺伝子の集合体
しジャンルを越えたところで、新たな課題を 出し魅
と捉えることで、有用物質・原因物質や機能などの探
力的な価値を 造していく。それが今回のリニューア
索を行おうとの動きが活発化しているのだ。
ルによって推し進めたいことでもあったと述べる。
「それを踏まえても、最終的にはフローラを構成する
「どんな場合でも私たちが常に考えていくべきは、ヤ
生き物 としての菌の実体解明に行き着くべきだ、
クルトの原点である『代田イズム』
なのです。代田 稔
というのがヤクルト中央研究所の考え方なのです。微
が唱えた、予防医学・健腸長寿・誰もが手に入れられ
生物を扱ってきた歴史には絶対の自信がありますし、
る価格という考えは、いつの時代になっても これで
リニューアルによって さらにトップ をめざすこと
じゅうぶん果たせた とはいえない大きな課題となっ
ができると思っています」
ています。つまり代田イズムはヤクルト全体に与えら
れた 命題 なのです。
われわれ研究者としては、 健腸長寿 の科学的メ
カニズムをより明確にすることで、食品だけでなく医
薬品や化粧品でも 予防医学 に貢献する道を探る。
併せて微生物とヒトとのインタラクション研究を深め
そして石川所長は、最後に、こう付け加えた。
「じつは、現時点で最も目立つ リニューアル効果 、
それは研究員のモチベーションが極めてアップしたこ
となのですよ」
それでこそ、今後への期待も大いに高まるというも
のだろう。
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