総合政策研究 第18号(2010. 3) 89 本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 平 田 耀 子 Honma Hisao and The Publication of Yoko HIRATA Abstract In this paper, I will deal with Honma Hisao s Eikoku kinsei yuibishugi no kenkyū (A Study of the Aesthetic Movement in Modern England), which was completed in 1934. Honma Hisao was a lecturer at Waseda University at the same time as a successful journalist and literary critic during the Taishō Era. I will review the content and examine the process through which this book was completed. How did Honma take interest in the theme? How long did it take Honma to complete the work? In what order did he write it? In what way was Honma s stay in England in 1928 help complete the book? After discussing these questions, I will consider what caused Honma to turn to Meiji literature after he published the book. Through this process, I hope to clarity the roles of Honma s two masters, Tsubouchi Shōyō and Shimamura Hōgetsu in the writing of A Study of the Aesthetic Movement in Modern England as well as the change of time from late Meiji, to early Shōwa. Key Words Aesthetic Movement, Honma Hisao, Oscar Wilde, Pre-Raphaelite Movement, William Morris 目 次 は じ め に Ⅰ 『英國近世唯美主義の研究』の完成への道程 Ⅱ 『英國近世唯美主義の研究』の内容⑴ Ⅲ 『英國近世唯美主義の研究』の内容⑵ Ⅳ 『英國近世唯美主義の研究』の評価 「おわり」に代えて 年』が発行された.同誌で扱っているのは,平田 禿木(1873-1943),土居光知(1886-1979),矢野 峯人(1893-1988),福原麟太郎(1894-1981),島 田謹二(1901-1993),吉田健一(1912-1977)等 々,日本を代表する12名の英米文学者であり,本 1) 間久雄(1886-1981)の名もそのなかにある .と いうことは,明治文学の研究者であり,オスカー・ ワイルド(Oscar Wilde, 1854-1900),エレン・ケ イ(Ellen Key, 1849-1926),ウィリアム・モリス (William Morris, 1834-1896)等の思想の紹介者で あり,大正後期,ジャーナリスティックな文芸評 はじめに 論家として活躍した本間久雄は英文学者であり, それも,1980年代当時の日本を代表する英文学者 1984年(昭和53年)6月, 「特集=日本の英米文 のひとりであったということである.その彼の学 学研究─現況と課題」をテーマに『別冊 英語青 位論文が,『英國近世唯美主義の研究』であった. 90 『英國近世唯美主義の研究』が出版されたのは くつかの道程があった.つまり,島村抱月によっ 1934年(昭和9年)5月19日のことであった.出 て英国世紀末文化の洗礼を受けた時期,そのなか 版社は東京堂,定価は7円50銭であった.500部限 で特にオスカー・ワイルド,ついでウィリアム・ 定で印刷され,そのうち20部は寄贈分として無番 モリスの思想を翻訳,紹介した時期,彼らの思想 号,残りの480部は番号付きで発売されたものであ を唯美主義というテーマのもとに学問的に位置づ る.総ページ数469ページ,表紙は唯美主義を象徴 けることを試みた時期,イギリス留学, 『英國近世 する孔雀,裏表紙はそれぞれ百合とひまわりを配 唯美主義の研究』執筆の時期である. したものであり,大変豪華な,凝った本であった. 本間のイギリス唯美主義への関心の発端は明ら 装幀を手がけたのは小林古徑であり奇しくも彼が 3) かに卒論の指導教授島村抱月の影響であった . 第21回再興院展に「孔雀」を出品した頃のことで 本間が早稲田大学に入学した時期はほとんど抱月 あった.本間久雄が英文学研究者として自信を持 がヨーロッパ留学から帰国した時期と同時であっ って世に出した書物であった.翌年この書物で本 た.本間がイギリス唯美主義のおよその径路と唯 間は英文学博士の学位を取得したのである.本間 美主義者オスカー・ワイルドについて知ったのは, の著述活動はオスカー・ワイルドの唯美主義思想 のちの「英國の尚美主義」という題で雑誌『明 の紹介から始まったと言ってもよい.爾来25年, 星』,後に『近代文藝之研究』に掲載された島村抱 ある意味でこの書は本間によるイギリス唯美主義 4) 月の講演であったと思われる .その他にも抱月 研究の集大成であり,同時に彼によるイギリス思 5) は, 「繪畫談」 (明治39年4月『新小説』所載) に 想紹介活動の集大成でもあった.だが,この書の おいてヨーロッパにおける日本画,特に浮世絵の 出版後,本間はなぜかイギリス文学から距離を置 影響について触れ,「新装飾美術」(明治39年5月 くようになる. 6) 『新小説』所載) においてアール・ヌヴォーとの 本稿では, 『英國近世唯美主義の研究』作成への 対比においてウィリアム・モリスの装飾美術を, 2) 道程を簡単にたどり,内容を概観する .だが, 「英國最近の繪畫について」(明治39年10月『新小 本間の考証の跡を学問的にたどる,あるいは,こ 7) 説』所載) において「最近物故した画家」のなか の書の研究史上の位置づけを試みることは本稿の からワッツ(George Frederic Watts, 1817-1904) 目的ではない.この書はどのようなプロセスを経 とホィッスラー(James McNeill Whistler, 1834- て完成されたのだろうか.本間の師,坪内逍遙と 1903)を,そして「歐洲近代の繪畫を論ず」 (明治 島村抱月はその作成にどのようにかかわったので 8) 42年1月『早稲田文学』所載) においてもホィッ あろうか.本間が英国唯美主義に興味を抱いた明 スラーについてかなりのスペースを割いており, 治末期,『滞歐印象記』を書いた1929年(昭和4 ホィッスラーと浮世絵との関係にも言及してい 年),そして『英國近世唯美主義の研究』を書いた る.本間は『英國近世唯美主義の研究』で扱って 1934年(昭和9年)の時代思潮の変化は本間の研 いるテーマのなかでオスカー・ワイルド,ヨーロ 究人生にどのような影響を与えたのだろうか.こ 9) ッパにおける浮世絵の影響 ,ウィリアム・モリ の作業を通じて本間の研究人生の上でこの書が果 スの装飾美術,ホィッスラーについては,テーマ たした役割が明らかになるとともに,日本におけ によって程度こそ違え,すでに抱月より教示され るヨーロッパ文化移入状況とその変化の一端が明 ていたと言える.そして,本間がのちに関心を寄 らかになればよいと思う. せる抱月による翻案小説グラント・アレン(Grant Ⅰ 『英國近世唯美主義の研究』の完成へ の道程 『英國近世唯美主義の研究』の完成までには,い Allen, 1848-1899)作の『其の女』が単行本として 出版されたのも1907年(明治40年)のことであっ た. 本間は抱月の死後1919年(大正8年)『抱月全 平田:本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 91 集』の編集者として,欧州留学より帰朝後抱月が 年)と,自著『生活の藝術化(モリス傳)』(東京 著述した美術関係の論文や,講義録を含む第3巻 堂,1925年)を公刊した.このような活動を通し 『美學及歐洲文藝史』と抱月の学者的著述としても て,『英國近世唯美主義の研究』を執筆する頃に っとも纏まった『新美辭學』を含む第4巻『《新美 は,ウィリアム・モリスに関する基礎的研究はで 辭學》及《文學概論》』を担当しこれらの論文の再 き上がっていた. 録に携わった.また片上伸と共同で,第7巻『文 大正末期,モリス研究が一段落した頃,本間は 藝雜纂』,中村吉蔵と共同で第8巻『随筆,日記, 研究の基盤を広げ,ワイルドやモリスを学問的に 書簡』を編集した.この作業を通じてあらためて 位置づける方向に向かった.とはいっても,当時 抱月によってすでに報じられたイギリス人の日本 は研究方法も確立しておらず,この道程は同時に 趣味やラファエル前派運動について再認識するこ 正しい研究方法究明への道程でもあったのだが. とになったのである. 1925年(大正14年)に本間が研究していたのが, 『英國近世唯美主義の研究』では後半の部分がオ 近世英文学に現れた2種類の人生観上の快楽主義 スカー・ワイルドに当てられているが,オスカー・ 16) の問題であった .第1はウォルター・ペイター ワイルドに関しては,本間自身がその研究者であ (Walter Pater, 1839-1896)やオスカー・ワイルド 10) り ,本間がワイルドの移入に果たした役割も研 17) 等に現れた審美的快楽主義で ,第2はウィリア 11) 究評価されている ,留学する頃には,ワイルド ム・モリスやグラント・アレン等に現れた社会主 に関するかぎり日本における権威であった.留学 義的快楽主義である.これらは所謂世紀末の時代 中本間がもっとも力点を置いたのも,ワイルドに 思潮を背景として生まれてきた.ペイターの快楽 関する資料収集であった.帰国後も1929年(昭和 主義は一種の感覚主義である.感覚に映じた経験, 4年)の『滞歐印象記』出版から1934年(昭和9 所謂経験の成果ではなく,経験そのものを尊重す 年)の『英國近世唯美主義の研究』出版にいたる る.その点で,一種の感覚的経験主義である.オ まで,本間は「オスカア・ワイルド下獄記」,「英 スカー・ワイルドが『ドリアン・グレイの肖像画』 國近代藝術に及ぼせる日本の影響」,「オスカア・ のなかで説いた快楽主義には明らかにペイターの ワイルド傳─大學生活についての斷片」等々,英 影響がある.経験の成果ではなく,経験そのもの 国近代美術に関する,そしてワイルドに関する論 を尊重し,道徳や習慣を斥けて感覚の純粋と鋭敏 12) 文を次々と執筆する .それらには,いずれも留 を求めている.ペイターもワイルドも感覚を尊重 学中の成果が反映されており,その集大成が『英 し,刹那刹那の充実した生活をするために美また 國近世唯美主義の研究』であるといってもよかろ は芸術を求めたので彼らの思想は美的快楽主義と う. いわれる.それに対してモリスの快楽主義は生活 また,大正中期より本間が興味を持ったのがウ 13) ィリアム・モリスであった .モリスの名前は1918 14) 美化論である.モリスは所謂芸術的社会主義の立 場に立ち,日々の労働を快楽あるものとすること 年(大正7年)頃から本間の著述に現れる .1924 によって不断に新しく力強く生きようと主張す 年(大正13年)頃にはこの傾向が加速し,本間は, る.グラント・アレンは自己発展ということが人 ウィリアム・モリスの『変化の兆し』 (Signs of の目的であり,その目的に達することによって人 Change)に含まれている諸論文を訳出し,同年, は自己をより強く,健全に,賢く,良くすると考 15) 「美感の頽廃」を執筆 .翌1925年(大正14年)に える.本間は世紀末についてのホルブルック・ジ はモリスの論文に,アーサー・コムプトン・リケ ャクソン(Holbrook Jackson, 1874-1948)の言葉 ットの著『ウィリアム・モリス研究』(William を挙げている. 「十九世紀末は,一般民衆が『如何 Morris : a study in personality)の一節の大意を添 に生くべきか』の問題を解決するために,率直に えた訳書『吾等如何に生くべきか』 (東京堂,1925 快活に努力した時代であった.そのために,この 92 18) 時代は吾々の興味を牽くのである」 .そして「二 は自らを折檻したり,悔恨に衝かれた活動の甘苦 つの快楽主義がともに,この如何にして生くべき さを味つたりする事の内に一種の際どい喜びを感 かといふ新生活要望の時代を背景として生まれた じてゐた. (中略)彼らは自らからローマ・カトリ ところに今日の吾々に取つての最も大きい興味が 22) ック教徒たらうとした」 と本間は述べている.イ 懸かっている.そしてこの立場から見るときのイ ギリス頽廢派でも,ワイルドや,ビアズリーにも ギリス近代の頽廃派の運動に対しても興味が感じ この傾向が認められる.本間は,頽廃派は頽廃し 19) られる」 と,本間は結論づけている. たものではなく,むしろ宗教的なものに向かう複 本間が「近世英文學上の二つの快樂主義」に続 雑な傾向があったが,1895年のワイルドの逮捕を いて著述した「近世英文學上の頽廢派の運動」は 機として衰退したと結論づけている.この稿のお 1925年(大正14年)2月に発表されたものであ わりに本間はダンディズムについての関心を表明 20) る .1880年代の半ばから1890年代の半ばに起こ しているのだが,ダンディズムに関する稿は見あ った文学運動で,オスカー・ワイルドやオーブリ たらない. ー・ビアズリー(Aubrey Beardsley, 1872-1898) 本間が次に体系的に研究を始めたのは,ラファ やアーネスト・ダウソン(Ernest Dowson, 1867- エル前派についてであった.ワイルド,そしてモ 1900)やアーサー・シモンス(Arthur Symons, リスについて本間はすでに充分な学識を持ってい 1965-1945)等がこの運動の代表である.本間はま たが,英国近世における唯美主義運動に関して論 ず「頽廢」という言葉の意義についてホルブルッ を展開するには,唯美主義の発生についての研究 ク・ジャクソンの著作に述べられているアーサー・ が必要であった.このために執筆したのが1926年 シモンスの説を紹介している.次に浪漫派の運動 (大正15年)に『文学思想研究第3巻』と『文学思 に端を発する頽廃派の径路を述べている.イギリ 想研究第4巻』に発表した「近世英文學上の唯美派 ス頽廃派に直接の影響を与えたのはラファエル前 運動⑴」と「近世英文學上の唯美派運動(承前)」 派 の 絵 画 運 動 と ロ セ ッ テ ィ(Dante Gabriel 23) であった .「近世英文學上の唯美派運動⑴」で Rossetti, 1828-1882)やスウィンバーン(Algernon は,唯美主義の起源としてのラファエル前派とロ Charles Swinburne, 1837-1909)等の詩,ヴェルレ セッティ,「近世英文學上の唯美派運動(承前)」 ーヌ(Paul Verlaine, 1844-1896)やユイスマンス では,ウォルター・ペイターの快楽主義,モリス (J.-K. Huysmans, 1848-1907)のフランスの頽廃派 の社会学的快楽主義,そしてイギリス唯美主義, の詩であると述べ,イギリスの頽廃派は英国内で 特にワイルドへのボードレール等フランス頽廃派 は「一種の精神的異郷人」であり「イギリスの所 の影響について論じている. 『英國近世唯美主義の 産ではなく,コスモポリタン倫敦の所産である」 24) 研究』巻末の「参考書目の事─後記」 に記されて ことを指摘している.その例として,ワイルドの いるように大正年間には多くの研究書がイギリス 『ドリアン・グレイの肖像』へのユイスマンスの 本国で出版され,日本でも入手可能になったこと 『ア・ル・ブール』の影響について論じている.ジ もオスカー・ワイルド,ホィッスラー,ウィリア ャクソンによれば頽廃派の特質は次の4つであ ム・モリスなどの思想や活動を19世紀末の精神運 る.1.妙にひねくれ,凝っていること.2.人 動の一部としてより包括的に捉えることができる 為的であり,技巧的であること.3.主我的であ ようになったゆえんであろう. 21) ること 4.好奇心の旺盛なこと,である .イ このように, 『英國近世唯美主義の研究』の素地 ギリス頽廃派を解説するにジャクソンの言葉を借 は留学前にかなりできていたとはいえ,1年間の りて, 「彼らは物質の壓迫と科學的成果の世紀の末 イギリスおよびヨーロッパ留学がこの書に与えた 葉に生まれ出で,疲れ果てた氣分と絶望とを體現 25) 影響ははかりしれない .本間はラファエル前派 していた. (中略)不神聖な悦びに耽つたと云うて の作品,さらにはそれらに強い影響をおよぼした 93 平田:本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 イタリア初期ルネサンス美術に直に触れ,ワイル るが,『《英國近世唯美主義の研究》追記』という ドを知り世紀末を体験した人々とコミュニケーシ 24ページの冊子を出版し,そのなかで論文本文を ョンを持った.だが,言うまでもなく本間にもっ 補って唯美主義がいかなる社会情勢から生まれた とも益したのはスチュワート・メイソン(Stuart か,この運動が当時の社会に対していかなる意義 Mason, 1872-1927)の収集によるワイルド資料の を持ったかについて簡単に考察している. 必要な部分を入手したこと,そしてワイルドの遺 『英國近世唯美主義の研究』は,前編と後編にわ 児 ヴ ィ ヴ ィ ア ン・ ホ ラ ン ド(Vyvyan Beresford かれており,前編では,唯美主義運動の要素と径 Holland, 1886-1967)の知遇を得,1905年ロスが 路について考察しており,後編では唯美派運動の De Profundis(『獄中記』)という形で発表したワイ 代表者としてオスカー・ワイルドを取り上げ,そ ルドの手記のなかの印刷に付されていない部分を の思想と生活を解説している.前編では,19世紀 26) 手写し発表する許可を得たことであった .この 後半,文学者ばかりでなく,画家,彫刻家その他 ように1909年(明治42年)より開始し,昭和3年 の芸術家の活動を巻き込み,半世紀にもわたって の留学によってクライマックスに達した本間の 展開した唯美派の運動を本間はふたつに力点を置 『英國近世唯美主義の研究』とはどのような内容の いて取り扱っている.第1には,唯美派の運動を 本だったのであろうか. Ⅱ 『英國近世唯美主義の研究』の内容⑴ 一個の社会的現象として観察すること,そしてそ のためには,唯美派発生の動機とその発展の径路 とを社会的背景を考慮した上で解明することを心 本間は「序」において,イギリスにおける唯美 懸けている.第2には,本間は唯美主義運動の中 主義運動は, 「単なる文学上,芸術上の運動ではな 心要素を中世趣味,生活美化,異国趣味の3点に く,広く人生観上の或いは実際生活上の運動であ 絞り,それぞれの要素を代表する人物としてロセ り,文学者,画家,彫刻家,芸術家全体の協力運 ッティ,ウィリアム・モリス,ホィッスラーにつ 27) 動」 であったと述べている.そして本間の研究 いて論じており,これら3要素が作用しあって全 は, 「唯美派発生の動機と,その発展の径路を明ら 体としてのこの運動を形成するに至る経緯を説明 かにし,且つその社会的背景を審らかにしようと している.さらに,この運動の重要な要素となっ 28) する」 ものであった.さらに,イギリス唯美主義 ている「日本的なもの」の解明を試みている. 運動にみられる「日本的なもの」を検討し解説を 加えようというものであった.つまり,その意味 1.唯美派運動の起源について で,この書の研究対象は広範であり,裾野の広い 本間は,第1章では,唯美主義に傾倒した一群 知識と教養を必要とし,比較文化的な視座も含ん の芸術家たちを総じて唯美派と呼び,まず,その でいた.資料的に言っても,特にオスカー・ワイ 29) 派の運動の起源について論じている .唯美派と ルドについては,ワイルド研究家のスチュワート・ いうのは,雑誌『パンチ』 (Punch)の画家デュ・ メイソンによる稀少な収集した参考資料とワイル モーリエ(George Du Maurier, 1834-1896)が1870 ド獄中手記の全部を駆使したユニークな論文であ 年から1880年代の初めにかけて った. 葉である.デュ・モーリエの『パンチ』,1881年に ただし,当時の慣例に従って脚注はなく,その 初演されたバーナンド(F.C.Burnand,1836-1917) 代わりに適宜「附記」を挿入して本文を補足する の喜劇『連隊長』 (The Colonel)や,ギルバート・ 弄的に用いた言 形をとっている.また,巻末には「参考書目の事」 アンド・サリバン(W.S. Gilbert, 1836-1911 ; A.S. という一項を加え,論文作成の使用した書物につ Sullivan, 1842-1900)のオペラ『ペイシェンス,ま いての文献紹介を行っている. 『英國近世唯美主義 たはバンソーンの花嫁』(Patience, or Bunthorne’s の研究』出版以後に,出版ディテールは不明であ Bride)など,唯美派を揶揄した作品が大人気を博 94 し,それによって唯美派の活動がさらに注目を浴 自然の真実を発見したと感じた.当時のイギリス びた.それ故,唯美派の人々は,唯美派を の絵画はラファエル以前にもどらなければならぬ 弄, 揶揄する人々によって有名になったと言ってもよ と主張したので,ラファエル前派と呼ばれた. い. ラファエル前派の運動に対して批判的であるも 「 唯 美 派 」 と い う 言 葉 は ハ ミ ル ト ン(Walter の も 多 い な か で ラ ス キ ン(John Ruskin, 1819- Hamilton, 1844-1899)によればギリシア語源であ 1900)はラファエル前派に対する好意的批評を行 り,長い間詩および芸術に現れた美の問題につい い , それをきっかけにラファエル前派は世間的に て考察する学問を表す言葉としてドイツの美学者 認められた.本間はさらに,ラファエル前派は自 によって学問的に用いられた.唯美派というのは, 然,すなわち描かれた対象に忠実であると言いな 自然および芸術のなかに美を見いだし,美を鑑賞 がら自然そのものを彼らの理想に従って選択した するのに誇りを持つものである.彼らは単独の芸 と述べる.言ってみればラファエル前派は「その 術分野にではなく,諸芸術の相関関係のもとでな 思想と感情に於てはどこ にが美であるか考え,それによって大衆の趣味を 趣味的であり,その技巧に於ては,どこ 向上させようとした.彼らの「美」の規範を承認 30) 的である」 .彼らの運動はわずか数年間しか続か しないものを Philistines(俗物)と呼んだ.唯美 なかったが,その精神の影響は19世紀末までおよ 派の第1の使命は美の愛好を説くであり,第2の ぶこととなった. 使命は学説を実生活に応用するであった.それ故, ラファエル前派の中心人物ダンテ・ガブリエル・ 唯美派は文芸上の運動であると同時に一種の社会 ロセッティについては,彼は技巧的にはミレーや 運動であったと述べている. ハントにおとるが唯美主義の中心要素「中世趣味 唯美派運動の開始は1848年のロセッティ等によ を基礎とした神秘的浪漫的な詩人的情趣や思想に るラファエル前派の結成とされている.その運動 31) 於ては,遥かに二人を凌駕していた.」 ラファエ は,ロセッティ,スウィンバーン,ウィリアム・ ル前派の仲間たちミレーやハントが自然への忠実 モリス,ウォルター・ペイター,ホイッスラーを →細密描写に向かったのに対し,ロセッティは「事 経てオスカー・ワイルドにいたり,さらにワイル 象の内面に沈潜して幻の世界,夢の世界を洞察し ドと同時期にはビアズリー等が活躍したと述べて 32) ようとした.」 のである. いる. ロセッティの文学的活動として本間は,ラファ も浪漫的であり,中世 も寫實 エル前派の機関紙として1850年に公刊された『芽 2.唯美派の径路及び要素について 本間は唯美派の中心要素,中世趣味,生活美化, 生え』 (The Germ)の第2号に載せられた長詩「昇 天聖女」 (The Blessed Damozel)に注目している. 異国趣味をそれぞれロセッティ,ウィリアム・モ 「昇天聖女」に関してウィリアム・モリスやウォル リス,ホィッスラーを取り上げて詳述している. ター・ペイターの批評を紹介し,本間も彼らと同 ⅰ.ダンテ・ガブリエル・ロセッティ 調し, 「ロセッティが霊肉の二元を一元にしようと ロセッティについて論じる前に,本間はまずラ したことは,──肉を霊化し,霊を肉化しようと ファエル前派について紹介している.ラファエル し」,「その霊肉一如觀──肉の霊化の一面を色濃 前派とは,当初はホールマン・ハント(William く浮き出させてゐるものこそ,作者その人の持っ Holman Hunt, 1827-1910),ジョン・エヴェレッ 33) てゐる中世主義的神秘觀に他ならない.」 と述べ ト・ミレイ(John Everett Millais, 1829-1896)と, ている.また,本間はラフカデオ・ハーン(Lafcadio ロセッティ等によって行われた芸術上の革新運動 Hearn, 1856-1904)の『ロセッティ研究』 (Studies であった.彼らはピサのカンポ・サントのゴッゾ in Rosetti)を参照して,ダンテのビアトリスと「昇 ーリ(Benozzo Gozzoli, 1421-1497)の壁画を見て 天聖女」の関連, 「昇天聖女」の根底にある中世キ 平田:本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 95 リスト教的世界観,ロセッティの中世趣味の表れ Co.)(のちにモリス商会)を設立した.彼は中世 としての霊肉一如観について論じている. のギルド制度とこの制度のもとで生み出される工 ⅱ.ウィリアム・モリス 芸品の意義と価値について信念を持っていたの 近世唯美主義の先駆としてのロセッティの特徴 で,1881年にはサリー州の広々としたマートン・ である中世趣味の継承者ウィリアム・モリスにつ アビイ(Merton Abbey )に工場を建設し, 『有用 いて重要な点は, 「ラファエル前派から繼承した中 な仕事と無用の労苦』(Useful Work versus Useless 世趣味を,その藝術の上に一 具體化したこと」 Toil)のなかで,近代の工場とは違って自然に満 そして「その藝術を實際の生活に應用して,生活 ちた中世的雰囲気のなかで営まれるファクトリ 美化の実現を期し,そのために一 組織的な團體 ー・システムについて述べている.モリスは芸術 34) 運動を起した」 という点である.モリスはロセッ 家としての商売人であることによって社会改造を ティと知り合い,ラファエル前派の絵画運動や彼 試み実現したのであった.1911年公刊のアーサー・ の詩からも大きな影響を受けた.だが,ロセッテ コンプトン・リケット(Arthur Compton-Rickett, ィから受け継いだ中世趣味をモリスは工芸美術や 1869-1937)による『ヰリアム・モリス傳』によれ 35) 日常生活まで広げた . ば, 社 会 改 革 者 に は, デ ィ ッ ケ ン ズ(Charles モリスにとって中世芸術は,制作者にとっても Dickens, 1812-1870)を典型とする人道的改革家, 使用者にとっても隣人同士の必要を充たすためと シドニー・ウェッブ(Sidney Webb, 1859-1947) いう共同の目的を基盤としていた.しかし近代の を代表とする理知的改革家,モリスを代表とする 商業主義は工芸美術の匠から自己の必要品を造る 審美的改革者の3種類ある.つまり,モリスは美 ことが隣人の必要品を造ることであるという自覚 による社会的環境の改造を試みたという点で審美 を奪った.商業主義は工芸美術の匠を意志のない 37) 的改革家と言うことができる . 機械と変形し,近隣の購買者を市場の奴隷と変え ⅲ.ジェームス・マクニール・ホイッスラー た.そのため,現在の制作組織のもとではとうて 唯美派の特徴のひとつ異国趣味の代表ジェーム い理想的な優秀な作品を見ることができないとい ス・マクニール・ホイッスラーはアイルランド系 う現実に直面して,モリスは中世ギルドの組織に アメリカ人でウエスト・ポイント陸軍士官学校で 帰ろうと考えた.彼にとって中世主義は趣味の問 教育を受けたが,画業で身をたてることを決意し 36) 題ではなく思想であり,信念であった . てフランス,のちにイギリスにわたる.彼とロセ モリスが中世主義的芸術観を保持し,それを実 ッティと交友関係を結び,ふたりは日本の芸術に 際に実現しようとした目的は,日常生活を美化す 38) 対して共鳴した . るためであった.民衆が日常生活で使用する工芸 浮世絵をめぐるホイッスラーとロセッティとの 品を芸術的に価値あるものとし,それらを使用す かかわりの背景としては浮世絵のヨーロッパへの ることによって使用者の生活が芸術的に豊かにな 伝播の問題があり,本間は浮世絵がパリでブラッ り,また芸術的に価値ある工芸品を制作すること クモン(Felix Henri Braquemond, 1833-1914)に は,制作者に悦びを与える.美は一般民衆にとっ 39) よって発見された経緯を物語っている .ホィッ て生活上の重大な要素であった.「有用とも思わ スラーはパリで浮世絵の発見者ブラックモンとの ず,また美しいとも信じないものは,何物でも家 交際があったことから,おそらくパリで浮世絵を に置くべきでない.」 という言葉はもっともよくモ 知ったものと思われる.イギリスでの日本流行の リスの思想を表している. 端緒も丁度1862年のロンドン万博の頃であり,フ この目的のためにモリスは,芸術家の協力が大 ランスで浮世絵が注目されたのとほぼ同時期であ 切であると考え,モリス・マーシャル・アンド・ った.ロセッティとホィッスラーは日本芸術愛好 フォークナー商会(Morris, Marshall, Faulkner & という点では一致していたが,ロセッティが物語, 96 題目画を好んだのに対してホィッスラーは絵画の していた.このオペラが大当たりした理由は,こ 美は物語にあるのではなく,色彩そのものの階和 のオペラでは, 「俗物」の世界が勝利を占め,得意 調整にあると考えた. 満面であった唯美主義者が敗北するという結末が ホィッスラーの日本趣味は, 『磁器の国の姫君』, 世間に受け入れられたからである. 『黄金の屏風』 ,『露台』,『バタシー・ブリッジ』 唯美派の詩人についていえば,彼らは第1に「肉 (Battersea Bridge)に表れている.ホィッスラー 派の詩人」と呼ばれている.彼らの詩は, 「情慾の には,日本絵画に傾倒した時期があった.広重の 感 覺 的, 暗 示 的 な 描 寫 」 (sensually-suggestive 影響については,これを模倣ではなく広重から暗 descriptions of passions)「 誇 張 的 な 隠 喩 」 示を受けたという説,あるいは広重の影響を否定 (hyperbolical metaphor)や, 「怪奇な古詩の脚韻 40) している研究者もいる .日本の影響がみられる と語句」(old odd ballad rhymes & phrases)を用 ホィッスラーの一連の作品についてのラスキンと 45) 「すべて強烈な,緊張 いている .第2に彼らは, ホィッスラーの訴訟事件について述べており,こ した,誇張的なものを偏愛」し,言語的にも「誇 のような事件も日本芸術についてのイギリスの社 46) 張的暗喩」を頻繁に使用する .彼らは,百合の 会の関心を抱かせる役に立ったと述べている. 花,孔雀の羽根,向日葵の花を象徴として使用し, 上述のように中世趣味や異国趣味が交錯して新 さらに,異国趣味,特に日本趣味を好んだ.当時 しい社会的雰囲気を醸し出したのがいわゆる唯美 正統的なイギリス人にとっては必ずしも健全な趣 派礼讃であり,この典型がオスカー・ワイルドで 味ではなく,むしろ異国的な悪趣味として排斥さ 41) あったと本間は論じている . れたが,唯美派は日本趣味を好み日常生活におい ても取り入れようとしていた. 3.唯美派の様相 以上唯美派は多方面の様相を持っている.しか 本間は『英國近世唯美主義の研究』の後半のオ し,彼らは「理想的なもの,情熱的なもの,及び スカー・ワイルド理解の前提としてまずいわゆる 美しいものゝ眞の愛好家」 (true lovers of the ideal, エスセティック・カルト(Aesthetic cult)の様相 the passionate, & the beautiful)の評価を高めるた について論じている.前述のようにオペラ『ペイ 47) めに助け合ってきたということができる .オス シェンス』や『パンチ』誌に現れている Aesthetic カー・ワイルドが活躍を始めた頃は,丁度唯美派 cult に対する の運動が注目を集めた頃であった.ワイルドもま 笑が,かえって唯美派の人気を り,一種の流行となった. 『パンチ』に描かれた唯 た,唯美的は服装をしてロンドンの盛り場を歩き 美主義者の姿は,いずれも「女性的な性格で,中 その服装と奇智頓才は衆目をそばだてた.また, 世的な服装を喜び,伊達者で,気どり屋で,気障 『ペイシェンス』の大成功にともなって唯美主義 で,様子ぶり屋で,すべて誇張的物言ひをして, が,音楽その他の分野にも浸透していった.そし 42) 百合の花と向日葵とを熱狂的に熱愛する人物」 て『ペイシェンス』の評判に促されたアメリカで である.そして『ペイシェンス』の主人公バンソ の上演の際にワイルドも1881年から1882年にかけ ーンやグロヴナーは, 『パンチ』の唯美主義者を写 48) て米国とカナダで講演するために渡米した . し取ったものといわれている. 本間は数ページを費やしてオペラの『ペイシェ 43) ンス』の内容を絵入りで紹介している .このオ Ⅲ 『英國近世唯美主義の研究』の内容⑵ 1.オスカー・ワイルド伝 ペラの風刺の対象となった唯美派は「世間の一般 『英國近世唯美主義の研究』の後半はオスカー・ 44) から不健全な,寧ろ怪奇な一流行」 とみなされて ワイルドに当てられている.第4章は,オスカー・ いた.だが,唯美主義者は自分たちがこだわる芸 ワイルドの伝記を取り扱っており,誕生から1895 術の世界以外の世界を「俗物」の世界として侮 年下獄事件が起こるまでについて著述してい 平田:本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 49) 97 る .1854年アイルランドのダブリン生まれ,サ 決定的な意味を持つのだが,本間はあえてこの事 ーの称号を持つ当地の名士であった父と女流作家 件に言及していない. であった母との間に生まれた.ダブリンのトリニ ティ・コレッジを優秀な成績で卒業,1874年,オ 2.唯美主義芸術観 クスフォードのモードリン・コレッジに入学.ラ ⅰ.ワイルド初期芸術観 50) スキンの講義には特に興味をおぼえた .オクス 本間は次にワイルドの芸術論について,便宜上 フォード大学生活中もっとも大きな影響を与えた これを前期と後期に分けて考察している.前期と ものは,ウォルター・ペイターとダブリンのトリ は1882年,アメリカでの講演と帰国後にロイヤル・ ニティ・コレッジのジョン・マハッフィ教授(John アカデミーのクラブで行われた4本の講演に現れ Mahaffy, 1839-1919)と同道したギリシア遍歴で ている芸術観であり,後期とは,1891年の論文集 あった.ワイルドはこの旅行の途中に立ち寄った 『意向集』 (Intentions)に収められた論文のうちで ラヴェンナについて書いた長詩「ラヴェンナ」 『架空の頽廃』 (The Decay of Lying, 1889), 『ペン, (Ravenna)でニューディゲイト賞を獲得した. ワイルドは1879年にロンドン進出し,いわゆる 鉛筆,及び毒薬』 (Pen, Pencil & Poison, 1889), 『芸 術家としての批評家』 (The Critic as Artist, 1890), 審美的服装をしてロンドンの目抜き通りを練り歩 『社会主義の下に於ける人間の霊魂』(The Soul of いた.ワイルドは服装のみならずその機知を発揮 Man under Socialism)に現れている芸術観であ して社交界の人気者になろうとしたものと思われ る.前期の特徴はウォルター・ペイターの影響に る.そのような行為が売名行為としてかえって人 加えてラファエル前派とモリスの影響が強く見ら 51) 々の反感を買ったこともあった .だが,ワイル れる点であり,後期1880年代末から1890年初期の ド自身,審美的服装の根拠として,建築家のゴド 特徴はペイターの影響にワイルド独自の見解が強 ウィンによる理想的な服装の意匠を参照している く打ち出されたものである.いずれにせよ,ワイ し,自分自身でも服装に関する理論をいくつかの ルドの芸術観,人生観を考える際ペイターとモリ 52) 文章に展開している .こうした行動には彼なり 53) スが重要なので,本間はまず彼らの思想を紹介す 『ワイルド傳』の の理由があったと思われるし , 55) る . 著者シェラードは,アイルランド出身で故国から ワイルドはオクスフォード在学中ペイターを熟 わずかな収入しかないワイルドのロンドンの社交 読し,その唯美思想に共鳴し,それを実現しよう 54) 界における立場には理解を示している . とした.その意味でペイターはワイルドとその唯 1881年,ワイルドは詩集の刊行に成功,『パン 美主義思想に関係が深かった.ペイターの思想は チ』その他の書評での評判は芳しくなかったが, 生涯を通じて変化するのだが,最初は快楽主義を 商業的には大成功であった.1882年アメリカでの 唱えた.そしてワイルドはこの快楽主義の影響を 講演の申込を受け渡米した.ワイルドの渡米はア 受けた.ペイターの快楽主義はその著『文藝復興』 メリカでセンセーションを呼び,ニューヨーク, の「序文」と「結論」においてよく表されている. その他で講演を行った.帰国後1884年結婚,1885 本間の解説するところによると「各個人は出來る 年には長男シリル,1886年には次男ヴィヴィアン だけ感覚を鋭敏にして,外界及び内界の刹那々々 が誕生した.結婚後の数年次々と論文を発表,1890 に起伏する刺戟,即ち刹那の印象を出來るだけ多 年彼唯一の小説『ドリアン・グレイの肖像』,1892 く受け入れることによつて,刹那々々の充實した 年『ウィンダミア婦人の扇』,続けて数本の戯曲. 56) 生活を送るべきである」 というのである.そして 裕福で人気ある作家になった.しかし1895年,彼 「刹那刹那の印象を,それの消え去らぬうちに,い の下獄事件が起こり,彼は不名誉のどん底に落ち かに強く感受し,いかに妥當に,それを理解する た.言うまでもなくこの事件はワイルドの生涯に かが重大な問題である.彼れにとつては,刹那の 98 經驗の結果に,生活の,目的があるのではなくて, 加えて彼独特なものとなっている.本間はワイル 刹那々々の經驗そのものが,取りも直さず生活の ド後期の芸術観は『架空の頽廃』にもっともよく 57) 目的そのものである」 .本間が結論づけるところ 表現されていると考え,この書を中心にワイルド によれば, 「ペイタアの快楽主義は明かに一種の感 の芸術観を抽出している.彼の芸術観はおよそ3 覚主義である.……そしてこの感覚に映じた経験 点に要約することができる.これらはワイルド自 そのもの──ペイタアの所謂経験の成果ではなく 身「新美学の教義」 (The Doctrines of the New 経験そのものを尊重して,そこに生命の焦点を置 62) Aesthetics)と呼んでいるものである .第1の教 58) こうとする……」 .さらに推論すると,ペイター 義は,ワイルドの言葉を借りると「藝術はそれ自 の快楽主義は,当然芸術至上の思想を醸し出す. らの外何物をも表現しない. (Art never expresses ペイターは芸術に生きることはもっとも深く人生 63) anything but itself.)」 というのである.ここから を享楽するゆえんであると考えた.ペイターは美 2つの視点が導き出される.つまり,フランスの を関知するためには, 「対象をそのありのままの状 頽廃派の文人,テオフィル・ゴーティエ(Théophile 態に於て見ること」,つまり,「実際のありのまま Gautier, 1811-1872)やシャルル・ボードレール の印象を知るといふこと」 ,「それを心ゆくまで明 (Charles Baudelaire, 1821-1867)の影響を受けた, かに識別し,會得すること」が必要であると考え 芸術は道徳,宗教その他から独立していて, 「一切 59) る .本間によれば,ペイターの芸術至上主義, 世間の外的關係から離脱して,それ自らの目的を 「藝術そのもの,美そのものに対する態度」は,近 持っている」という視点,それゆえ, 「藝術は〈時〉 60) 世英文学史上画期的なものであった . 64) と〈所〉とを超越してゐる」という視点である . ペイターと同様ワイルドに強い影響を与えたの 第2の教義は, 「一切の悪藝術は, 『人生』と『自 がウィリアム・モリスであった.モリスは1870年 然』とに歸り,それらを理想に高めるところから 代,工芸美術家としての立場から『工藝美術論』 65) 來る.」というのである .ワイルドは芸術と人生 (The Lesser Arts),1779年の『民衆藝術論』(The をはっきりと分け,芸術の世界と現実の世界や実 Art of the People),1880年の『生活の美』 (The Art 際の人生はまったく異なったものであると考え of the People),『生活の美』(The Beauty of Life), る.時代の風潮は写実主義であったが,ワイルド 『文明に於ける建築の前途』 (The Prospects of はそれに反対して, 「〈架空〉,つまり,美しい,虚 Architecture in Civilization)などに独自の芸術論を 偽の事柄を語ることである誇張の一形式たる文 展開している.本間はワイルドの初期の論文中に 學」が衰退し,写実主義が力を得ていることに反 「労働者への価値」とか労働者が美しい事物を造る 66) 発している .ワイルドの第3の教義は「人生は, ことに感じる快楽,工芸美術では,その制作者に 藝術が人生を模倣するよりいっそう多く,藝術を 快楽を与え,その使用者に快楽を与えることが重 模倣する」,そして同様に,「『自然』もまた『藝 要という思想,有用と美とは一致するという思想, 67) 術』を模倣する」 という思想をいくつかの例をあ 社会や人生を美化することによって改造しようと げて解説している. いう意識等々,モリスの思想の片々がうかがわれ これらの芸術観の根底となる基本的思想は,美 ることを指摘している.このように,初期のワイ 至上,芸術至上主義である. 『藝術』至上思想の理 ルドの芸術観はペイターから出発しているのであ 論的根拠は,本間が要約するところによると,人 るが,モリス的な社会改造意識がきわめて強いも 生は限られているが,芸術の世界は無限であると 61) のであった . いう信念であり,個性の発揮が個人の生の目的で ⅱ.ワイルドの「新美学」 あり,これを可能にする唯一の道が芸術であると ワイルド後期の芸術観はペイターから出発して 68) いう思想である .第1の点については,ワイル いるのではあるが,それにワイルド独自の解釈を ドは,人生は行為の世界,すなわち限定された世 平田:本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 界であるのに対して芸術の世界は観照の世界であ 99 3.唯美主義と日本 り,したがってより高次にあると考えた.第2の 次に本間はワイルドは特にその初期の著作のな 点についてワイルドは,我々が自身の個性を発揮 かでいくたびか日本の芸術について触れてお するところ,すなわち個人主義を実現するところ 73) り ,その芸術論の基礎の一部として日本の芸術 69) に我々の生活の価値がある ,そして芸術は完全 が取り入れられていると論じている.芸術は人生 な真の人格,つまり徹底的個人主義を実現し得る そのものの写生ではなく,作者がその独自の個性 70) 唯一の道であると考えた . を通して人生を眺め,選択し,人生を改造し,従 ここには2つの傾向──現実を遊離しようとす 来にない新しい人生を創造するものである.そし る傾向と,現実をよりよくしようとする傾向があ て,芸術の極致が写実でなく創造であることを例 る.つまりペイター的傾向とモリス的傾向である. 証するために,ワイルドは日本の浮世絵を引き合 この2つの傾向はペイターとモリスを同時に生ん いに出している.本間は,ワイルドが日本に旅行 だ時代の悩みでもあった.この時代はホルブルッ することを考えたこと,遺児ヴィヴィアン・ホラ ク・ジャクソンの『一八九〇年代』によれば,生 ンドによれば,日本の芸術品を好んだこと,そし 気はつらつとして, 「新」という形容詞が流行した てバーン・ジョーンズ(Edward Burne-Jones, 1833- 時代であった.また1880年代には社会改造意識も 1898)やホィッスラー,特に後者の日本趣味の影 強烈であり, 「社会民主党」の成立,シドニー・ウ 響を受けたことを述べている.本間はさらに,ホ ェッブ(Sidney Webb, 1859-1947)やバーナード・ ィッスラーに次いで日本版画,特に歌麿の影響を ショー(Bernard Shaw, 1856-1950)のフェビアン 受け,有名な『サロメ』 (Salome)の挿絵を創作 協会の設立にみられるように貧困や労働方や不健 したオーブリー・ビアズリーについて論じている. 康や数々の社会悪を根絶しようという社会的雰囲 あらゆる方面で従来の生活にあきたりないで「如 気が強かった. 「この時代は一般民衆が『いかに生 何に生くべきか」の問題に直面し,なにか新しい くべきか』の問題を解決するために,知力的に, 変わった生活様式や趣味の世界を求めわびていた 想像的に,精神的に,率直に活動した時代であっ 時代であったので,若い人はホィッスラーやワイ 71) た」 .本間の説くところによれば,イギリス唯美 74) ルドなどの日本愛好の趣味に迎合した .日本の 主義は「いかに生くべきか」に悩み苦しんだ結果 芸術,浮世絵,種々の工芸品や装飾美術はワイル 考え出された新しい芸術論であり,新しい生活様 ドの芸術観に1つの基礎を与え,かつそれを立証 式であった.ワイルドは『ドリアン・グレイの肖 する資料となり,広重や北斎はホィッスラーに大 像』で美至上主義者の現実遊離的な,人為的な官 きな影響を与え,歌麿はビアズリーを生んだと言 能追求の生活を描くことによって,当時の物質的 ってもよい.本間はこのことから日本の芸術がイ な粗野な俗物主義に反抗して美しい美的生活を創 ギリスの唯美派運動の革新的要素の1つとして重 造しようとした.この著作の意図はワイルドの言 要な位置を持っていることを指摘している. 葉を借りれば, 「吾々の唯美主義運動は教養の少な 72) い,無味乾燥な現代の社会に対する反動」 であっ 4.唯美主義の衰退 た.本間の論じるところによれば,この作は一面 ⅰ.ワイルド下獄誌 において,一種の社会改造意識を基調とした社会 イギリス唯美主義運動に対する日本美術の影響 批評でもあり,文明批評でもある.そして,ワイ について論じたのち,本間は唯美主義の衰退と題 ルドの芸術論についても同じことがいえる.そし して,ワイルドの晩年について記述している.1880 てそこに芸術論としての唯美主義の文化史的意義 年代の終わりから1990年代の始めにかけてはオス があると本間は結論している. カー・ワイルドの全盛期であった.論文,小説, 劇作でも成功を収めイギリスでもっとも人気のあ 100 る劇作家となったが,この全盛期は同時に衰退期 理的影響について『ディ・プロファンディス』を であり,唯美主義の凋落期でもあった.そして下 通じて考察している.『ディ・プロファンディス』 獄事件によって彼の名声は失われ,唯美主義も顧 はワイルドが服役中,出獄を6ヶ月後にひかえ特 みられなくなったのである.ワイルドの下獄事件 別に許可されて,監獄用の便せんにダグラス とは,次のようなものである.1895年,ワイルド あてて書きつづった手紙である.それを親友ロバ はクイーンズベリ侯爵を相手取り,誹謗の訴えを ート・ロス(Robert Baldwin Ross, 1869-1918)に 起こした.裁判が行われ,原告のワイルドが敗訴 手渡し,ロスが編集して1905年に出版したもので した.それから3日目,彼は猥褻罪として起訴さ ある. 『ディ・プロファンディス』という命名もロ れ,有罪となり2年間の牢獄生活を送った,とい スによるものである.出版の理由はワイルド再認 うのである.ワイルドの死後5年たって『ディ・ 識を促すためと,ワイルドの負債の返却と遺児の プロファンディス』 (獄中記) (De Profundis)が出 養育の費用をまかなうためであった.ただし,ワ 版され,それ以来ワイルド再評価の機運が高まっ イルドの手紙の約3分の1は,私的なことがらな た.ワイルドをよく知っていた人々による伝記も ので削除されている.ロスはこの手紙を大英博物 いくつか出版されたが,この辺の事情については 館に委託し,1960年までは公開禁止とした.しか 75) に 一様に詳しく物語るのを避けていた . し1913年にアーサー・ランソム(Arthur Ransome, この点を明らかにするには同時代の新聞・雑誌 1884-1967)の『ワイルド研究』(Oscar Wilde : A 類を検証しなければならず研究は困難を極めてい Critical Study)の出版に際して彼の記述の真偽を た.しかし本間は,イギリス滞在中『ワイルド書 めぐっていわゆるランソム事件が起こり,裁判の 目史』 (Bibliography of Oscar Wilde)1914年版の著 さいにワイルドの手紙を公開せざるを得なくなっ 者スチュワート・メイソンが収集したワイルド関 た.彼は公開禁止の部分を15部印刷し,関係者に 76) 係資料を購入することができたので .それを参 くばった.その1部をワイルドの次男ヴィヴィア 照してこの章を執筆しているものと思われる.つ ン・ホランドが所有し,本間はホランドの許可を まり,オスカー・ワイルドとクイーンズベリ侯爵 77) 得てその内容を写し取ったのである . の三男アルフレッド・ダグラス (Lord Alfred ダグラス との心的径路を経てワイルドが達し Douglas, 1870-1945)との間には男色関係があり, た思想は,ロスが当初出版した手記に表現されて そのことが衆目を集めたこと,それに対してクイ いるように「人間の感得し得る最高の情緒」であ ーンズベリ侯爵が立腹し,ワイルドと侯爵が直接 る悲哀の哲理であり,悲哀の具現化としてのキリ 対面し,非難,侮辱の応酬となったこと,結局ワ スト観であった.悲哀の意味を感受し会得する心 イルドは猥褻罪に問われ2年間の苦役の判決が与 状態は「謙虚な心」である.ワイルドのキリスト えられたことなどである.さらに本間は,クイー 78) 観もその悲哀観と関係がある .ワイルドが忍従 ンズベリ侯爵とダグラス との間には憎悪関係が と謙虚の心境に達したのは,禁止本のなかに表現 あったこと,ワイルドが当時のジャーナリズムの された痛恨,懊悩を通してであり,忍従と謙虚の 憎まれ役であったことに言及し,ワイルド裁判に 心境のなかでダグラスに対する彼の感情がいっそ ついても,ワイルド逮捕のタイミング,ワイルド 79) う強く表現されている . の相手のダグラス は一切無関係とされたこと, 『獄中記』に対する批評はだいたい2種類に分か 刑罰の性質等々を考慮に入れ,クイーンズベリ侯 れる.第1はワイルドが唯美主義生活を否定して 爵と体制側の姿勢がワイルドに不利に働いた事情 新しい生活を希求した一種の懺悔と解釈したもの について述べている. であり,第2は,この手記のワイルドは従来の嫌 ⅱ.『ディ・プロファンディス』考 忌すべきワイルドと少しも変わっていない,とい 本間は最後に,下獄がワイルドにもたらした心 80) うものである .これらに対して本間の説は,獄 平田:本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 101 中手記は,従前の生活に対する悔悟ではなくて, って歩くルンペンに他ならなかった. 寧ろ是認であり,懺悔ではなくて寧ろ主張であり, だが,広義には唯美主義は,ある時期の彼らの 霊魂の誕生ではなくて, 「霊魂の拡充」であるとい ある側面を定義する思想であり,彼らの生き方を うのである.ワイルドの所謂新生活は全く前生活 つなぐ紐帯であり,さらに彼らを大陸の文人たち の継続である.いままで楯の反面しか見ていなか とつなぐ紐帯でもあった.彼らは社会のメインス った彼は牢獄を通して始めて両面を見た.しかし トリームに乗らない,はみ出し者的な側面を持っ 彼は従来見ていた楯の半分の生活を否定している ていた.社会のメインストリームに乗らず,その わけではない.獄中手記は従来の唯美生活に対す 外にいて,メインな行き方に対するアンチテーゼ る世の非難に対する新しい一種の挑戦とも考えら を突きつける存在であった.思えば,1909年(明 81) れる . 治42年)本間が最初にオスカー・ワイルドの唯美 ワイルドは,ペイターによる「経験の成果では 主義思想に注目したとき,彼の嗅覚を刺激したの なく,経験そのものが目的である」という唯美主 は,この点であったと思われる.それは,無意識 義的人生観上の教義をそのまま実行に移したので に明治という重い時代に対するアンチテーゼを, 82) ある .唯美主義を芸術上または社会上の1つの 自然主義という灰色の世界に対するアンチテーゼ 運動として見る場合には,ワイルドの下獄を境に を求める若者にアピールし,米沢という時代のメ 表面的には,後を絶ったとは言わないまでも甚だ インストリームに乗ったことのない土地からやっ しく衰退した.しかし,少なくともその人生観上 てきた若者に自らの立ち位置を自覚させる役割を の指導原理として唯美主義は下獄後におけるワイ 果たしたのかもしれない. ルドにおいてその神髄に徹した一個の代表者を見 Ⅳ 『英國近世唯美主義の研究』の評価 いだした. 「ワイルドはもっとも徹底した意味にお いて,唯美主義の究竟境を一身に具現した一代の 『英國近世唯美主義の研究』出版後間もなくいろ 使徒であり,同時, (中略)に近世文化の象徴的人 いろな書評がでる.そのいくつかを挙げてみる. 83) 物の第1であった」と本間は結論づけている . ⅲ.唯美主義者とは 「英文学専攻の本間久雄君は,オスカア・ワイ 以上『英國近世唯美主義の研究』の内容を章ご ルドの研究者としては恐らく日本に於ける第一 とにたどってみた.ここに扱われている唯美主義 人者であらう,此書はヴィクトリア時代に於け の代表者たちは,ほとんどすべて唯美主義者以外 る唯美派の起源に の顔を持っていた.たとえば商売人として成功し 尋ね,ロセッティ,モリス,ホイツスラア等に たウィリアム・モリスのテキスタイルや壁紙は今 及び,此處にワイルドに居たるの序幕を了り. でも人気がある.そして,社会主義者として積極 進んで本書の眼目たる後編に入りて,ワイルド 的にデモに参加し,各地でプロパガンダ講演を行 に就て,其の英國留学中に討捜し得たる資料と, ったモリスの名は社会主義の歴史にも残ってい 爾後の研究とによりて,大いに其の蘊蓄を発揮 る.また,ジェームズ・マクニール・ホィッスラ した.」(徳富蘇峰) ーの代表作『母親の肖像』からは唯美主義の特徴 の1つとされている異国趣味はほとんどうかがわ 「本間氏のこの著は,世にも稀なる精根を以 れない.そして,下獄以前,社交界の人々を風刺 て,唯美主義,殊にワイルドに關するそれの, と機知とユーモアたっぷりに描いて名声を博し, 現地にいての蒐集の餘に成ったものである.自 現在にいたるもその作品がウエスト・エンドの劇 分はこの週末東京堂畫廓に催されたその展覧會 場を満杯にする劇作家オスカー・ワイルドは,下 を見て驚嘆した.禁止本として大英博物館に秘 獄後晩年を過ごしたパリでは他人に飲み代をたか 藏されてゐる「デ・プロフアンデイス」の謄寫 り,ラファエル前派の跡を 84) 102 本をはじめとし,かの地好事の士の丹精になっ 読者は,この間の事情については白紙状態であっ た切拔帖,稀覯の珍書,小册子,芝居の番組, た.その事件の詳細は今日ではすでによく知られ ポスタアの末に至るまで,所狹きまでに塲内を たものとなっているが,当時本間による新しい資 埋めてゐるのを見て,この著が決して一朝一夕 料を用いたオスカー・ワイルド下獄記は日本人の に成ったものでないとの感を深くしたのである. 読者にとって始めて明らかになったことがらであ わが浮世繪がウイツスラア,ビアヅレエに與 った. へた暗示,影響についてまた,ラフアエル前派 本間は『ディ・プロファンディス』(『獄中記』) の諸畫家,ワイルド自身が如何にこの極東の藝 の最初の翻訳者であったわけだが,本間の時代が 術に關心をもつてゐたかについて,も文獻に徴 手にすることができたのは,いうまでもなく1905 し,作物につき,氏は實に前人未到の精緻の檢 年に出版されたロバート・ロスによる縮小版であ 討を示してゐる. 「唯美主義の研究」はこの點に った.ほとんどの登場人物が存命中であった当時, おいて,正に歐洲における最初の完全な浮世繪 彼らを傷つけないようにと配慮されたものである 85) 版畫史とも見られ得るのである.」 (平田禿木) から,人物関係がわからないように固有名詞をの ぞき,抽象的な読み物に編集されたものであった. 「(前略)本當に本書に價値を與へる點は,同 未公開の部分は私的な部分であり,ワイルドとダ 誌の昔から愛好されてゐたと聞くところの「わ グラス がオスカア・ワイルド」の研究である.この點 や苦しみがよく表現されている.1通の文さえく こそは同誌がオリヂナル點な研究であり, (中 れない「友人」に対する恨み辛み,牢獄のなかで 略)正に世界的なものである.(後略) 初めて体験した苦痛や屈辱,裁判の不公平や獄中 英國における十九世紀末期の新しい美術運動 の不正,はたまた囚人同士の思いやり,そして獄 は特に日本の文化に非常に關係がある.卽ち日 中で知った母スペランザと妻コンスタンスの死, 本美術(特に浮世繪とか,その他の工藝美術) こよなく愛する息子たちとの永遠の別れ,獄舎の が如何にこの新しい美術運動に影響を與へてゐ なかで初めて知った人生の悲哀や謙譲の心,こん るかは周知の事實ではあるが,日頃日本美術に な雑多な内容が,あるいは生々しい感情の表出と 興味をもってゐられると聞く本著者が,その事 して,あるいは深く沈潜し浄化され思想の形で表 實を此英國の美術史の發展要素として詳細に説 現されている.出版された部分を日向とすれば陰 明してゐる點も本書の特色の一つである.」(西 影の部分であり,二面を合わせてみなければ『デ 86) 脇順三郎) との関係を含んでおり,ワイルドの悩み ィ・プロファンディス』を理解することはできな い.それ故,ワイルドを研究するためにはもっと 『英國近世唯美主義の研究』のなかでもっとも評 も貴重な資料であったわけである. 価されたのは,また,スチュワート・メイソンの 一方,留学の成果は本間が「世紀末」の体現者 蒐集によるワイルドに関する資料を得ることによ であり生き証人であったイギリスの文人たちとの ってワイルド下獄事件の顚末が明らかになったこ 談話を通して当時の雰囲気や,彼らが一時傾倒し と,De Profundis の未出版部分を使用し,その結 た日本趣味の実態について,知見を得たことにも 果,ワイルドについてより深みのある分析が可能 現れている.イギリス人の日本に対する興味は予 になったことであった.こうしてみると,やはり 想以上であり,ロセッティやワイルドなどもその 『英國近世唯美主義の研究』の執筆には1928年のイ 移入に関与したことがわかった.イギリスに来て ギリス留学が非常に重要な役割を果たしたことが 初めてわかったこうした事実をもとに,本間は『英 わかる.事件の顚末を同時代人として見聞してい 國近世唯美主義の研究』の「ジェームズ・ホィッ たイギリスの読者と違って,本間を含めて日本の スラーの項や「唯美主義と日本」の項を書いたの 平田:本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 103 だし,抱月にとってのイギリスは本間にとっての である. 「おわり」に代えて イギリスとは異なっていた.20世紀初頭抱月が英 国に求めたものは,何よりも最先端の思潮であり, 1936年(昭和11年)4月7日,本間久雄は『英 日本の将来の指標であった.1928年のイギリスは 國近世唯美主義の研究』によって博士号を獲得し かつて20代の本間が抱月を通じてあこがれ,新し た.論文審査には五十嵐力と吉江喬松があたった. い知識や思想を吸収しようとした世紀末文化の余 当時の博士号は学者が一生かけて追求した研究の 韻漂うイギリスではなかった.第一次世界大戦の 集大成であった.本間久雄,当時49歳,たしかに のち,戦勝国であっても戦渦に巻き込まれ疲弊し 島村抱月の指導によりワイルドとトルストイを扱 たイギリスに代わって新しい文化や流行のリーダ った「近代批評上の二問題」というタイトルで卒 ーとなったのはアメリカであった.20代の本間が 87) 業論文を書いて以来 ,ワイルドは本間の研究の 抱月を通じてあこがれ,インスピレーションを得 主要テーマであり続けた.しかし,時折出版に付 た世紀末イギリス文化は,もはや歴史のひとこま された本間の随筆や論攷の再録本以外,新しい研 になり,研究の対象となっていたのである.本間 究として英文学関係の著述は彼の書誌録から影を が訪れた英国はもはや世界の最先端の思潮を提供 ひそめる.そして『英國近世唯美主義の研究』の する場ではなかった.イギリスもアメリカ文化の 出版の翌年早くも『明治文學史 上巻』が出版さ 流入を拒み得なかったのである.日本も新しいも れる.博士号取得以前の1935年7月には『明治文 のを求める若者はイギリスではなくあるいはアメ 學史 上巻』の出版,1937年10月には早くも『明 リカに,あるいはロシアにその範を求めるように 治文學史 下巻』が出版される.本間久雄の著述 なった.そして,本間にインスピレーションを与 リストには,明治文学関係,歌舞伎,そして日本 えた抱月は, 『英國近世唯美主義の研究』が完成さ 画関係の記事や論攷が増える.たしかに本間久雄 れた時点ですでに亡き人であった. 文献録を見るとこの書の出版以後英文学に関する 明治文学への傾斜は,抱月亡き後『早稲田文学』 記事は少なくなる.本間の場合,その研究歴を見 の編集その他であらたに緊密な交流関係を構築し ると,他分野にわたっており,しかも同時期に一 た坪内逍遙の影響であったと思われる.抱月亡き 分野に重点を置きつつ他の分野の研究発表を行っ 後本間が『早稲田文学』編集上のアドヴァイスを 88) ていることも珍しくないので 一概には言えない 求めたのは,まず相馬御風であり,次に坪内逍遙 が,1928年のイギリス留学の直接の成果であった であった.1920年2月より坪内逍遙の「五十年前 『英國近世唯美主義の研究』の完成は,「明治文学 に觀た歌舞伎の追憶」の『早稲田文学』紙上連載 者」本間久雄への転換点とは言わないまでも, 「英 をきっかけに本間は逍遙と近しく接触するように 文学者」本間久雄が,明治文学への傾斜を強める なった.編集上のアドヴァイスだけでなく,逍遙 きっかけとなった. の学問研究に対する態度や方法論に啓発されたこ 本間が研究テーマが明治文学に傾斜していった とは充分に考えられる.本間は,関東大震災以後, 理由は『英國近世唯美主義の研究』がこれまでの 明治の文物の喪失を危惧した逍遙の唱道に感化さ 研究の集大成であったという以外,いくつか考え れたのであろうか, 『早稲田文学』に大正14年3月 られる.まず,本間とその師,島村抱月と坪内逍 より昭和2年6月にわたり全7巻の「明治文學號」 遙との関係であろう.『英國近世唯美主義の研究』 を編集した.本間自身の研究テーマも英国唯美主 は,早稲田大学文学科に入学以来島村抱月に師事 義から明治文学に傾斜したのも無理はなかろう. し,卒論を書いて以来,著述業に携わる者として さらに,大正後期から昭和初期にかけての世相 さまざまな文筆活動を行いながら研究を続け,博 や文壇の風潮も,本間を英国唯美主義研究から明 士請求論文の形にまとめ上げたものであった.た 治文学研究に向かわせる要因となったかもしれな 104 い.本間は明治末年自然主義の評論家として文壇 にデビューしたが,大正期に入っても,美術雑誌 の様相を兼ね備え,個々の文人の自由な個性を生 かした『白樺』的なあり方,耽美主義や理想主義 の文学,果ては農民文学にも共感を抱いた.しか 12) (本間 1930a : 87-104,1930b : 471-480,1930c, 1930d : 3-26,1931a,1931c : 201-230,1934b : 275-289) 13) 本 間 に よ る モ リ ス 研 究 に つ い て は( 平 田 . 2009b : 115-146) 14) (本間 1918a : 21─23,本間1918b : 7-14)本間 し,昭和期のプロレタリア文学には本間の文学的 による他のモリス関係の論文については,(平田 指向とは相容れないものがあったものと思われ 2008b)参照のこと. る.さらに,主として社会主義的思想や文学に対 15) (本間 1924 : 2-18) して向けられており,大正末期からじわりと感じ 16) (本間 1925a : 20-25) られるようになった政府による言論統制や弾圧も 本間をより体制順応的な明治文学の研究に向かわ せた要因であったかもしれない.満州事変以後, 17) 本間のウォルター・ペイターへの興味について は,(本間 1965 : 253-266). 18) (本間 1925b : 24-25) 19) (本間 1925b : 25) 日本が全体主義国家への道を歩むなかで,個人主 20) (本間 1925b : 2-15)「近世英文學上の二つの 義やデカダン色の強い,しかも「敵国」イギリス 快樂主義」と「近世英文學上の頽廢派の運動」は の唯美主義思想の研究はあまり歓迎されない分野 であったに違いない.事実,本間も昭和10年代の ある日,特高の訪問を受けることになったのであ る.1928年の留学の結果花開いた本間による日欧 (本間 1925c)に所収されている. 21) (本間 1925c : 118) 22) (本間 1925c : 123-124) 23) これらはのちに「英國唯美主義派の径路⑴∼⑸ として(本間 1925c))に収められている. 比較文化に関する論攷もまた『英國近世唯美主義 24) (本間 1934c : 445-459) の研究』出版後は姿を消す.こうした論攷がふた 25) 本間久雄の留学とその成果については,(平田 たび姿を現すようになったのは第二次大戦終戦以 後であった. 2008a : 23-40)参照. 26) (平田 2008a : 34-35) 27) (本間 1934c : 序1) 28) (本間 1934c : 序2) 1) (野中 1984 : 10-11) 29) 唯美派の起源については, (本間1934c : 5-11). 2) 本稿を作成するにあたって固有名詞,引用部分 30) (本間 1934c : 21) に関しては漢字,カタカナともに原文通りとした 31) (本間 1934c : 27) が,その他の部分に関しては漢字カタカナ表記と 32) (本間 1934c : 30) もに現行の用法に準じた. 33) (本間 1934c : 43) 3) 島村抱月の影響については(平田 2009c)参 照. 34) (本間 1934c : 65) 35) (本間 1934c : 67-75) 4) (島村 1907 : 1-7, 島村瀧太郎 1909 : 518-594) 36) (本間 1934c : 76-81) 5) (島村 1919 : 228-232) 37) (本間 1934c : 91-92) 6) (島村 1919 : 233-237) 38) (本間 1934c : 96-98) 7) (島村 1919 : 221-227) 39) (本間 1934c : 99) 8) (島村 1919 : 184-216) 40) 「夜を描いた最初の画家」広重の模倣ではなくペ 9) (島村 1919 : 228-232) ンネルいわく広重の暗示を受けたとしているが, 10) (本間 1934a : 107-111) ストレンジは広重の影響を否定している(本間 11) (井村 1969 : 39-60 ; 平井 1980 : 142-143 ; 1934c : 121-122). 佐々木 1999 : 133-141,佐々木 2001 : 87-96, 41) (本間 1934c : 130) 佐々木 http:www.ne.jp/asahi/econ/wild/page161. 42) (本間 1934c : 139) html, 佐々木 http:www.ne.jp/asahi/econ/wild/ 43) (本間 1934c : 134-145) page161.html#taisyo;Hirata 2009a:241-266) 44) (本間 1934c : 145) 平田:本間久雄:『英國近世唯美主義の研究』の出版とその前後 105 45) (本間 1934c : 148) 71) (本間 1934c : 297) 46) (本間 1934c : 150) 72) (本間 1934c : 300) 47) (本間 1934c : 154-155) 73) 最初のものは1882年のアメリカ講演の草稿であ 48) (本間 1934c : 165) る『英國文藝復興』である.彼は西洋のジョルジ 49) (本間 1934c : 169-224) オーネやティティアンの作品と対比するものとし 50) ワイルドに対するラスキンの影響については, て,東洋のそれ,日本のそれをあげている.ワイ 研究者の間で一致を見ず,クック(E.T.Cook)は ルドは日本の芸術の価値を認め,これに照らして その著 Studies in Ruskin のなかでラスキンの影響 西洋の芸術を批判している.第2の文献もアメリ を重視しているが,『ワイルド傳』の著者ロバー カ旅行中のもので, 『藝術及び手工藝家』で,アメ ト・シェラードは,ワイルドに対するラスキンの リカの工芸家に対して手工芸の意義と価値を説い 影響はさほど強調すべきでないと考えている.本 ているが,そのなかで,世界中のもっとも良い装 間自身はラスキンの影響はかなり大きなものがあ 飾美術の見本として日本のそれをあげている.第 ったに違いないと考えている (本間 1934c : 172) . 3の文献は1888年,彼の主宰した『婦人世界』に 51) 本間は,特にマックス・ノルダウ(Max Nordau) 載せた「魅惑的な書物」で扱った書評である.ル の『堕落時代』 (Degeneration)の「デカダン主義 フェビュール著の『刺繍およびレース』の書評で の誇大妄想狂,技巧的なものゝ愛好,自然に對す 日本を含む東洋の西洋の刺繍におよぼした影響に る嫌惡,活動や運動のあらゆる形式に對する憎惡, ついて述べている.第4の文献は,1888年「ペル・ 人間に對する自我狂的侮蔑,藝術の重大性の誇張 メル・ガゼット」所載,ウォルター・クレイン ──英國における「唯美派」のかう云ふ主張の代 (Walter Crane, 1845-1915)の講演『芸術及び手芸 表はオスカア・ワイルドである」という説を紹介 協会』主催の講演会での講演を批評したものであ している(本間 1934c : 193). る.ワイルドは,クレインが日本の芸術を低く評 52) (本間 1934c : 200) 価していることを批判している.第5の文献は, 53) この理由についてラ・ブーシェールによる雑誌 翌1889年『婦人世界』所載のさまざまな新刊書に 『真理』 (Truth)の記事からいくつかの説を本間は ついて書いた批評のなかでも日本の芸術を礼讃し 紹介している.ワイルドは詩集を出すためには有 ている箇所がある(本間 1934c : 304-312). 名にならなければならず,そのために目立たなけ 74) (本間 1934c : 323) ればならない,と考えたからだということである 75) (本間 1934c : 331-332) (本間 1934c : 191-193). 54) (本間 1934c : 196-197) (Sherard 1928 : 167 & 172) 76) (本間 1929 : 110-114) 77) (本間 1934c : 376) 78) (本間 1934c : 408) 55) (本間 1934c : 226-227) 79) (本間 1934c : 413) 56) (本間 1934c : 229) 80) (本間 1934c : 416-417) 57) (本間 1934c : 229-230) 81) (本間 1934c : 5-11, 417-421) 58) (本間 1934c : 232) 82) (本間 1934c : 422) 59) (本間 1934c : 236) 83) (本間 1934c : 443) 60) (本間 1934c : 237) 84) 『東京堂月報』1934年11月15日号広告.『東京日 61) (本間 1934c : 242-248) 日新聞』1934年6月23日より転載. 62) (本間 1934c : 250) 85) (平田禿木 1934) 63) (本間 1934c : 250-251) 86) (西脇 1934) 64) (本間 1934c : 254-255) 87) (本間 1973 : 182-183) 65) (本間 1934c : 257) 88) 1932年(昭和7年)後半,本間はすでにラジオ 66) (本間 1934c : 268) 放送で「家庭大學講座『明治文學』」を担当してい 67) (本間 1934c : 271-272) る.1934年(昭和9年)『英國近世唯美主義の研 68) (本間 1934c : 286-287) 究』,そしてそれと前後して『イギリス文學史(十 69) (本間 1934c : 291) 九世紀 上) 』, 『イギリス文學史(十九世紀 下)』 70) (本間 1934c : 294) が刊行されているが,その2ヶ月後『明治文學史 106 上』が刊行されている. 本間久雄(1918a)「民衆藝術の問題」『早稲田文學』 151 : 21-23. 参考文献 Hirata, Yoko (2009a). 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[付記]本稿は平成20-21年度科学研究費補助金,基盤 研究(C)による研究成果の一部である.
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