第二章 寺山修司 2-1- 理論と疑問 寺山が書いた本やテキストの数は厖大で、とてもここでその内容を要約できるものではないが、 寺山の映画作品はそれよりは控えめな数で 21 作である。しかし、内容の力強さ、質、独創性 を考慮したとき、この数字は驚くべきものだと松本俊夫は言う 。第 21 作目は、谷川俊太郎 と協力して作ったビデオ作品で、その最後の部分は寺山の心電図のどこまでも続く一本の直線 で終る。演劇人寺山は、余命いくばくもないことを知り、先人たちのように、いわば「舞台の 上で」死のうとしていた。 寺山が作り出した映像は、いくつもの解釈が可能である。実に多様な意味作用を含んでいるか らで、詳細に分析することは必ずしも可能ではないし、また必要でもない。谷川俊太郎も、 《ビ デオ・レター》の一つで自分に宛てられたいくつかの映像について、萩原朔美から質問を受け たとき、 「深い解釈」を行うことを拒否している 。だからここでも、すべてを分析しないこ と、寺山のイマジネーションの曲がりくねった道の中に見る者を誘い込んだ引喩や引用の全て を理解しようとしないことが、許されるのではないだろうか。 *** 作家であり演劇人でもあった寺山は、何よりもまず詩人であり、21 歳になった時その名を一 躍有名にしたのは、短歌、俳句、散文詩、エッセイの本であった。次いで寺山が制作した映画 は、詩のイメージによるものであり、一見しただけで把握することはできない複雑な世界を反 映している。寺山の詩は、その演劇作品や映画の構想の元となることが多かった。 映画でも演劇でも、寺山はグループでの共同作業をした。友人や協力者、劇団員とアイディア を交換し、刺激を与えあった。寺山はそれぞれの能力を引き出すことに長けていた。ちょうど ジャズのジャム・セッションやジプシーの祭りのように、参加者全員がそれぞれの仕方で全体 の緊張感を支えるのだ。創造形態やスタイルの違いを越えて、言葉に尽くしがたいエネルギー が循環する。寺山は、複数の分野が交わるところで、相互作用や相互干渉を使って創作するの が得意だった。寺山がほとんど一人で制作したのは、《ビデオ・レター》ぐらいだったのでは ないか。カメラが軽いおかげで、文章を書くときのように独りで制作することができたのだ。 ここでは、寺山の作劇法や演出方法の原則的な考え方を検証した後で、映画作品やビデオ作品 のうち、「実験的」と言えるものだけを取り上げてみたいと思う。つまり、1960 年から 1983 年にかけて作られた 16 本の映画と、《ビデオ・レター》である。 *** 寺山は 1935 年 12 月 10 日に生まれた 。寺山の「ぼくの映画史♢♢♢1 歳から現在まで」 を読むと、寺山独特の思考や色彩の自由な結合がよくわかり、どんな注釈も不完全なものでし かありえない寺山のテキストの好例となっている。比較的短いので、ここにその全体を引用す るのがいいだろう。 「一歳ーはじめての映画あけた瞼のあいだからさしこむ剃刀の刃のような光太陽は私を射る最 初の映写機だった 三歳ー押入れの中にとじこもり針であけた穴から覗くカメラ・オプスキューラのエロチシズム 猫目映画「もし世界中の電気が消えたら猫を探せ猫の眼の光でポルノグラフィを映写せよ」 五歳ー陽に透かすてのひらの映像北窓に半日置くとようやく浮かびあがってくる《少年倶楽 部》の附録の日光写真の鞍馬天狗 七歳ーくもり硝子の破片で見る日蝕のジョルジュ・メリエス中古の幻燈機でうつし出された入 江たか子の横顔大東亜戦争の空襲の壁に通り過ぎていった幻の父の停電映画浄仙寺の彼岸のふ すま一面の地獄絵の総天然色拷問阪妻二役の《影法師》の台詞「仙波は俺の兄貴だぜ」 十一歳ーMGM 映画のマークのライオンは三回吠えた美空ひばりの《角兵衛獅子》生まれて父 の名も知らず恋しい母の名も知らぬ樺島勝一高畠華宵伊藤彦造斎藤五百枝伊藤幾久造「一回限 り、さっとひらめくイメージとしてしか過去は捉えられない」ワルター・ベンヤミン青森映画 館のグレタ・ガルボ銭湯のタイル画の富士山虫眼鏡の少年探偵団マレイの写真銃ジョン・フォ ードの《駅馬車》のジョン・キャラダイン氏にあてたファンレター 十五歳ーマイケル・ポウエルエメリック・プレスバーガー 《ホフマン物語》影を売った男松 竹映画《岸壁》東谷暎子が蒐集していた切手二センチ四方の二分映画ブニュエルとダリの《ア ンダルシアの犬》でピアノにはさまれたロバ《T 博士の五千の指》 「あるときは片眼鏡の運転 手」の多羅尾伴内シリーズ眼帯映画ジャック・プレヴェール《天井桟敷の人々》のマルセル・ エラン 市街劇鏡反世界映画ジャン・コクトオの《オルフェ》プラーグの路地から《巨人ゴー レム》イギリスの城から《フランケンシュタイン》まぼろし城から原健作大友柳太朗スペンサ ー・トレイシーの化けそこねたジェキル博士と青森高校物理科太田先生の類似ロートレアモン の《マルドロールの歌》中原淳一透明人間寺町心霊教会マルクス兄弟アルフレッド・ジャリ《ユ ビュ王》ゲイル・ラッセル《奇譚倶楽部》疱瘡皮膚映画《モロッコ》のマレーネ・デートリッ ヒ黒沢明の「映画は顔のうしろに魂を欲する」母物映画小石栄一ジュール・ヴェルヌの《悪魔 の発明》 レニッツァの迷路 影絵芝居《旅路の果て》(・・・)」 この意味とイメージの迷宮は、おそらくはできるかぎり早口で読み上げられるのが相応しく、 熱狂的に映画を語っている。ジョルジュ・サドゥールがその著作の中で書き、ジャン・リュッ ク・ゴダールがいくつかの対談の中で語っているように、実はタイトルを読み上げるだけで十 分なのだ。それだけで、十分雄弁に物語が作り上げられる。寺山の引用は、一つにはその時代 の動きを伝えており、また、その選択を通して、寺山は幻惑を引き起こす装置を用意している のである。それがこのテキストを貫いているイメージの力だ。 2-1-1. 映画論:映像の暴力性 映像の目を眩ませるエネルギーは、寺山の「映画史」の中では注目すべきものとあるが、 「映 画論」では硬化剤としてみなされている。その「映画論」は、寺山がルイス・ブニュエルの映 画の中に見いだした「見ることの暴力性」 の美意識に基づいている。目が切り裂かれる場面 は中産階級が求める夢を打ち砕くことを意図している。男が最後に「失敗だ」と叫び鋭いナイ フで唇を裂く《マルドロールの歌》は、彼が結局、彼の表現の表層しか変えられなかったこと をシュールレアリスト達に明らかにしている。 勿論ブニュエルにとって、幻想的イメージとして映画を作る事とが問題ではなかった。映画作 家は、二台のピアノの間で身動き出来なくされた驢馬やメキシコ時代の売春婦、セブリーヌを 使って「さらけ出されたありのままの姿」で「乖離不能の一つの現実」の様相を描いている 。 もっとも寺山がこの場合に用いている日本語のありのままと言う表現は、両目を引き裂かれた 女が見る事なく見ている男の死体から出て来るままの蟻(ありのまま)を陰喩に含んでイメー ジされていた(?)ようであるが。 「全ての夢は、ブルジョワ的である。 なぜなら、それはあくまでも個人の内面化過程に産物であり、独占的なイメージによって支え られているからである。不可視世界を『見る』ことは、夢ではない。眠っていると落としてし まう世界の実相を、ブニュエルは描こうとしていたのである。『まず、覚めて、その目をあけ て見ろ』と、ブニュエルは作品の中で言いつづける。」 《忘れられた人々》に見られる盲目の老人に石を投げつけることの意味がそにある。何故なら 見ることを拒む偽善者達はその盲目さ故に、社会の内側で生きる権利を得ていて、ブニュエル の映画は、まさにその偽善者達に向けた「報復の寓意」 である。《皆殺しの天使》の映像は、 社会によって監視された「集団の夢」への不信と否定を他の方法で詳細に述べている。問題は 出口のないことではなく、出口の見えないことである。 「その映画作家は『見る』ことの暴力性によって世界とかかわろうとしてきたが、『見る前に 跳ぶ』ものの暴力性が、ブニュエルを乗りこえてしまっていることを否定できないからであ る。」 寺山は映画より演劇活動や著作で有名である。映像の分野で、彼は数本の長編映画を個人的に 撮ったが、それらは最近になりレンタルビデオ屋に置かれている。しかし寺山の実験作品は、 あまり知られていない。それらの作品は 70 年代に多くのフェスティバルで紹介されたが、寺 山の死後 10 年たって、1993 年にイメージフォーラムが、六本のビデオ映画を一箱にセット して発売するまで稀な機会にしか映写されなかった 。 我々が取り組もうとしている寺山の作品は、必ず一つの暴力性を刻みこんでいて、時にはブニ ュエルの暴力性とも似ている。寺山は、芸者や相撲の力士に見られるような型にはまった方法 でなく、より普遍的な水準でシュールレアリスムを乗り越える主題を扱っている。そこには「ス ペイン」の暴力性が感知でき、ブニュエルのように中産階級を非難し、見るか見ることを拒む かがもたらす社会的責任を問題にしている。 寺山の演劇活動は彼の「実験映画」と同じで、相補的な二局面を表現している。一つは局部的 であり、他の一方は全体的である。その作品は、各人が若い頃から何度も繰り返している言い 回しやありふれた態度を時々モチーフとして用い、日本の社会が維持したいと願っている社会 文化の型にはまった考えを攻撃している。(これ程、引用の芸術を発揮した民族が他にいるだ ろうか?)さらに、寺山の戯曲が持つ扇動的な性格は、海外で大きな成功を収めている。シュ ールレアリスム的なコラージュによる寺山の作品は、日本の現代文化の分析を試みる研究者達 の重要な研究対象となっている。研究者達には、国際的になった文化の要素を持ち合わせてい るある種の日本人達の能力、迅速さ(それは暴力性とも言えるだろう)を解明する糸口をそこ に見いだしているようだ。 2-1-2. 初期の映画、そして演劇の諸問題へ 寺山の作品は、それ自体で閉じて完成したものとして構想されてはいない。むしろ、数多くの 要素が思いがけない方法で相互に影響を与え合う、実験室での作業なのだ。そもそも天井桟敷 には「演劇実験室」というサブタイトルがついている。寺山の詩の一節や映画の一場面を因果 関係だけで説明しようとするのは、まったく危険である。なぜなら、それは複数の源泉が相互 に影響を与えあって生まれた結果だからである。もし、ある場面を生み出した相互作用の複雑 な現象を解明しようとしたら、寺山の(日常)生活について極めて詳細な調査を行い、数学や 情報学の専門家に確立の計算を依頼しなければならないだろう。 寺山はまた、自分が生きている状況の全体を意識していたので、様々な要素をつなぎ合わせる 方法が、その時点では謎めいて見えることもある。例えば、一つの映像は同じ映画の中の別の 映像と結びついているとはかぎらず、その「説明」は、それ以前またはそれ以後の、別の時期 に作られた詩や映画、または戯曲の中に見いだされることもある。それぞれの作品が直線的な 時間の流れにそって進展しないこともしばしばだが、寺山の作品群全体も、やはり年代順に予 期できる展開を見せはせず、前に進んだり後に戻ったりしている。 「構造主義」の映画作家たちは、ストロボの点滅が、物理的な次元で網膜に残像を残すという 現象に着目した。光が目の中に描く形を脳は記憶して分析するというわけだ。寺山は記憶の中 に宙吊りになったイメージというものに興味を持った。映像の思いがけないコラージュは、一 つの疑いを引き起こし、観客の精神は、突然に知覚の異なった段階に移ることになる。 ドナルド・リチーがかわなかのぶひろや萩原朔美の実験映画に関して、同じ文化環境の中で育 った日本人以外の観客には理解不可能であると評した「詩的な」側面も、おそらくそこにある のだろう。この三人の作家の作業には近似性があり、助け合ったり、メタファーをふんだんに 含んだ作品を一緒に作ったこともあった。寺山は、この論文で取り上げる作家の中でも、最も 多くの意味上の謎をつきつけてくる。まだ登録されてもいなければ分析されたこともない通俗 的な文化からの引用を外延的に多用することがその理由の一つである。 *** 寺山は、1957 年に最初の文学作品集を出版しているが、その時彼はまだわずか 21 歳である。 詩、短歌、俳句、散文詩だけでなくエッセイ(とりわけチェーホフに関するもの)寺山が「ア クション・ポエム」と呼んだものの解説が含まれている。50 年代の終りと 60 年代の始めは、 日米安全保障条約いわゆる安保条約の更新とそれが引き起こす混乱のため政治的にたいへん動 揺した時期である。どの分野の芸術家もそれについて考え、このような状況における自分たち の役割について、時には激しい討論会を開いた。 寺山は、自分たちが取るべき行動について意識的な芸術家に属し、23 歳の時に撮った《猫学》 で日本の初期の実験映画監督の一人となった。だか、後に極めて注目される女優となった芳村 真理と 100 匹もの猫の協力を得て作ったその映画は、「無駄」となってしまった。その先駆け 的性格にも拘わらず、作品に対する的確な解説も評論も一切なかったというのは驚くべきこと である。かわなかのぶひろは、ビルの屋上から猫が 1 匹づづ投げられ、寺山によって冷酷に 映像化されたという噂に疑いを抱いている。寺山が寓意作品《トマトケチャップ皇帝》(1970 年)の中で 500 円の鶏の首を斬ったにせよ、実況中継により映像化された死は、彼の美学に ふさわしくない 。だがそれだけが唯一伝わっていることなのである。その内容がショッキン グなものであるにしても少なくともその時代の政治社会の状況においては是認できるものであ る。 寺山は、《檻囚》となる映像を引き続き撮っているが 、それは時々《檻》という名で目録に 載っている。タイトルは暗い内容を思わせるものだが、非常に悲しい映像というわけではない。 その素材は 1962 年に立木義浩により白黒で撮影されたものである。 岸田理生(時として田中未知)が指摘するように 、その撮影技術はまだ特別に注目されるも のではなかった。さまざまな奇妙な人物が次々に現れる。例えば、ひび割れた柵の向こう側に いる男の片目だけが見えたり、前後に並んで跪く姿勢をとっている二人の軽業師や、顔を包帯 で巻いて道端で新聞を読む「透明人間」、寺山や彼の仲間達の象徴的スタイルとなるであろう 黒いマントを身に着けた「日時計の男」 、時計を持って現れたり空き地の真ん中で盆踊り(8 月中旬の盆を祝う者たちが全員で、同時に同じ動きを、歌い手とお囃子が上にいる櫓の周りで できるような極単純な踊りである)、のような踊りを踊る大山デブ子夫人(嬢?) 、山積み の瓦の間で飛び跳ねる山羊など。それらは、皆次々に現われ繰り返される場面の主役たちであ る。 萩原朔美が 1969 年にこの映画のさまざまな断片を編集し、J.A.シーザーが、そのオルガンの 音色から初期の<ピンク・フロイド>の「サイケデリックな」作品を連想させる音楽をつける まで(監獄を思わせるのは映像よりむしろその音楽である) 、寺山はそれを編集すらせず、し たがって公開もしないで引出しに仕舞い込んでいる。60 年代を通じ寺山は演劇の分野の創作 を優先し、映画監督としての活動を中断することとなる。 *** 歌舞伎を除けば、日本の演劇界を代表する主要なものは<新派>と<新劇>であった。しかし 新派や新劇にしても、もはや実験的実践のリスクを避け、そのため創造性もさほど見られずに 精彩を欠いていた。そこで寺山は精力的に演劇を引き継ぐことを目標とした。 演劇実験室・天井桟敷は 1967 年 1 月に生まれた。横尾忠則、九条映子(後に今日子と改名し た)。そして東由多加とその一座らが創設にあたった。劇団の名はマルセル・カルネの映画か らとって付けられた。天井桟敷の第五回公演《新宿版千一夜物語》では、その映画《天井桟敷 の人々》のシナリオの一部が使われ、幾つかの場面が登場している。しかし、劇団が活動を開 始する最初の演目として選んだのは、 《ノートルダムのせむし男》からタイトルをとった《青 森県のせむし男》である。 *** 寺山の劇団は何よりもまず「文化的攪乱」を目指していた。60 年代には、経済の急成長が見 られ、社会文化の激しい変化を誘発したが、それは民衆にとって必ずしも有益であるとは限ら なかった。学生達の反発は、そのことで度々極めて攻撃的になった。このような高揚に直面し、 演劇の役割が如何にあるべきかを明確にすることは最重要課題の一つであった。 それに加えて、劇団の対策の一つとして分かりやすいスローガンが必要になり新劇界の言葉で ある「演劇の実験室、民衆の見世物小屋」をもじって「見世物の復権」とした。見世物という と、サーカスが思い浮かぶ。怪物や小人までも含む雑多な人種が舞台に飛び出し「目立つこと」 をする。文化に衝撃をもたらす必要があるのだ。 寺山の行動は、1968 年 5 月、パリで学生たちがオデオン劇場に押し入り、それが「革命的」 行動のいわゆる震源地となったことを思い起こさせる。このエピソードは、劇場のような空間 に根本的に異なった利用法と役割を与える可能性を立証している。しかし日本の劇場は、パリ の演劇が抱える非常に特殊な宿命と比べて比較出来るものを何も持たない。寺山によれば、ま ず第一に実現すべきことは劇場に日常的次元を持ち込むことであるという。 映画には、小説やシナリオの映像化の他に、記録映画やニュース映画のようなジャンルもある。 しかし演劇の範疇にはそのようなものはない。「それでも角のタバコ屋の娘が持つ独特の人間 像は、過剰な衣装を身に着けたどんな想像上の人物より味わいがあるものだ」 。だからいつ もプロフェッショナルな俳優を招く必要があるとは言えない、というのも新人や演劇と関係の ない者のほうがより表現力に富む場合があるあるからだ。例えばレストランの若いウエイトレ スは、店のメニューを暗唱するなら確かに他の誰よりも適役であろう。また、トルコ風呂のオ ーナーは雇われている女たちのあらゆる得意技を綴った歌の文句を、他の誰より容易に作る事 ができるはずだ 。もはや劇的な一場面を上演するより、ドラマが何処にでもあることを示す ことが課題である。演劇は煽動的になれるし、またそうなるべきなのである。 ここでいくつか基本的問題点について考えてみなければならない。演劇とは何か。それは現実 の殺人の報道と等しく興味深いものか。それは日常生活より興味深いか。演劇は伝統的に、シ ナリオと劇場の中の舞台の上でそれを暗唱する俳優によって作られている。そこで少なくとも 3 つの要因が問題として提起される。シナリオ、俳優、上演する場所である。 シナリオとは何か。脚本家がそれぞれの場所で欠伸が必要だと書いているとき俳優はその戯曲 を演じる都度毎回欠伸を繰り返す。このような行動を繰り返す劇団を持ち上げる事は、廃れす ぎているとしか言えない形式を繰り返させるだけであろう。課題は作家に思う存分想像力を発 揮させ、それを劇団に忠実に演じさせることにはなく、劇団自身が想像力を表現すべきという ことにある。 劇場とは何か。そこはすべてが許される場所である。子が両親を殺し皆が拍手喝采する事もあ る。佐川一世がオランダ人の女友達を殺し、それをグリンピースといっしよに料理したという ニュースは新聞のトップ記事となり、大きな社会問題を引き起こしたが、時を同じくして、登 場人物がハンバーグに加工されるブロードウエイのミュージカルコメディーが大衆に受けてい たが、社会問題にならなかった 。 演劇の舞台上で起きる事と現実の出来事との性質の違いはあまりにも大きい。寺山の使命は、 その二つの間にある種の均衡を取り戻すことである。通りや郊外の高層アパートの一室で芝居 を上演すれば、単に劇場で上演するのとは異なった次元に達するであろう。ホールでどんなに 卓越した俳優が斬新な内容の劇を演じようと奮闘しても、胡散臭い現実の場面にその役が設定 されたのと同じ衝撃はまず得られないであろう。 それでは、俳優とは何であろう。天井桟敷では、俳優とは整列して観客の喝采を受けるような ものではない。演劇でもそうだが映画の中で俳優は或る人物に成り代わるためにいる。その人 物は、観客にとって日々の生活の苛立ちの起爆剤であり、例えば高倉健が他のヤクザを真っ二 つに切るのを見て観客はストレスを和らげる。暴力映画は社会に認められたメカニズムであり、 大衆の日常の暴力を節制させることを狙っている。人々がそれぞれ抱える自分の悲劇をその役 に見られるよう、「成り代わった」役者は舞台や画面上で道化師となる。俳優に、演劇の場面 を築く能力を持つ人間としての地位を取り戻すチャンスを与えて、解放する必要がある。役者 に第一に必要なことは、現実感が出るよう鍛練する事である。大部分のロック歌手やその他様々 な歌手たちが目指すように観客の喝采を受ける為に舞台の上で演じるなどは論外である。娯楽 の演劇は、ここでは関係がない。 *** 天井桟敷はこのように、日本に 60 年代の終りまで存在し続けていた演劇の基本概念に疑問を 投げかけることから始まった。寺山は、観客を外部の第三者として放置することをやめようと して、通りで演劇を上演した。観客は、公道に於ける挑発的言動の為警察に勾留されるという 代価を伴ってでも、必然的に「劇」の中に引きずり込まれてしまう。観客と直結した関係を作 って演劇を起こす必要があるのだ。 方法の一つとして、例えば暗闇の中で上演し、演劇の根底にある視覚の問題を問うというもの もある。《盲人書簡》の場合がそうであり、そこでは観客が感じ、触り、そして自ら照明をつ ける事を前提としている。観客が自ら共有する意識をもたない限り、演劇との間にどんな関係 も生まれない。天井桟敷は、ホールでも同じ問題意識で演出を行い、 「観客席」 (1980 年 3 月) の時、座席の間に幕を設けて、舞台やホールの他の場所がある時は見え、又ある時は見えない ようし、見えない場所を観客の想像力に任せるように試みた。 オランダのアルンヘム通りで発表された作品の一つは、言葉によってでなく、簡単で素朴な身 振りによって男と女がコミュニケーションし、出会うというものである。始め男と女は、地面 にチョークで画かれた 1 メートル四方の「舞台」の上にいる。その舞台は毎時間ごとに面積 が 2 倍になり、指数的に増大していく。道行く人や車が場面の中に取り込まれて、街そのも のが少しずつ演劇の舞台となっていく。(車体がダンボールで出来た東ヨーロッパ製の)車が 燃やされたりもする。《一メートル四方一時間国家》は、演劇と現実の境界があいまいになっ た現象を見せている。 他にも様々な出来事があちらこちらで同時に起こる。あらかじめ現地でワークショップを行い、 外国人の俳優を数十人ほど集めて上演の準備をしておいたのだ。その一つに、チェーホフの戯 曲を順序をバラバラにして演じるというのがある。台本は前もって切り分けられてトランプの 上に置かれ、俳優たちに台本の断片がランダムに渡るように配られる。戯曲の元の筋が根本的 に変えられているので、役者たちは劇的要素を維持できるよう、力強く確信を持って自分のパ ートを朗読する。他のある男優は、通りすがりの人に声を掛け、唖然としている相手に向かっ て、自分はその人の息子だと言い、父親失格となじりすぐに家に帰るよう要求する。ある女優 は紙飛行機を折って、飛ばしては、落ちたところでまた新しい紙飛行機を飛ばし、街中を駆け めぐる。またある者は通行人に作動中のビデオカメラを任せる。カメラが置かれている場所に よって行き当たりばったりに撮られた映像は、後に劇に取り入れられる。 この演劇の全体は合わせて約 15 時間となり、《人力飛行機ソロモン》と名づけられた。寺山 はこの作品で狂気と理性の関係を考えようとしている。人に原爆を作り使用するよう仕向ける のは、狂気なのかそれとも理性なのか。何故詩人や酒飲みが狂人と見なされ 15 世紀の日本で 皆殺しにされたのか。「狂人」と「まともな人」とを区別する分類は時代によって変わる。天 井桟敷の行動は、その様な区別に疑問を投げかけている。 2-1-3. 天井桟敷創設期のメンバー、萩原朔美について 当時は、松本の実験記録映画に出てくるようなヒッピーたちの時代であった。ヒッピーたちが たむろしていたのは、サイケデリツクなロツクミュージックの音のマグマの中で人々が体を動 かしている「ディスコ」、また、エレクトリックではなくアコースティックな他の種類のマグ マの中で皆がコーヒーを飲みながら大声でまくしたて、相手を説得しようとしているジャズ喫 茶などであった。覆いかぶさる大音響の陰に隠れて、彼ら眠らない人々は思う存分、ためらう ことなく自分の考えを述べることができたのであろう。本来はジャズのほうが歴史が古いが、 日本ではアメリカのプレスリーや特にイギリスのビートルズのロツクブームの後、ジャズ喫茶 の形でジャズが広まったようだ。 70 年代には萩原朔美は既に実験映画やビデオアートの動向の中で名を知られていた。その頃、 萩原は奇妙(フランス語の奇妙、「ビザール」は新宿にあった有名なシャズ喫茶の名前である) な場所に出入りしていた。他の多くの若者同様、自分に一体何ができるのか自問していた時、 萩原は、既にかなりその名を一般に知られていた寺山が俳優を探しているというのを聞いた。 萩原はそれまで演技をしたことがなく、演劇にも僅かな興味しか持っていなかったが、20 才 にして天井桟敷の初演に参加した。天井桟敷は、 《青森県のせむし男》でほんの短い台詞を言 う「美男」を必要としていたが、俳優が足りなかったため萩原が、身体的な美しさ故でなく、 その若さ故に雇われたのだという 。 後に萩原はあまりにも特殊な劇団に所属していたことによって分類されてしまうことを危惧し、 天井桟敷の企画で成功を修めるのに捧げたのと同じ気力で独立をなし遂げようとしてはいるが、 寺山の教えと思いがけない演劇の体験が若い萩原に大変貴重なものとなったことは明らかであ る。萩原は演劇の体験の後、人間を二つのタイプに分けた。 「抽象を具体化する」 演出家タ イプと、逆に具体的な物を抽象化する(詩人?)タイプである。この観点からみると寺山の台 本は演出家を当惑させるものである。何故なら寺山の台本は、あたかも演出家たちが容易に具 体化できないようもくろんでいるかにみえるからだ。寺山は「演出家」タイプではない。萩原 は、寺山のやり方を「抽象を別の抽象的世界に翻訳する」ようだと捕らえている。つまり「ま ったく別種の文脈から引き出された抽象」 を当て嵌めるということである。同様に寺山の詩 や戯曲の台本は「具体的なものを抽象化した答え」 である。台本よりむしろ、抽象化された 場面設定を寺山は重要視していた。戯曲や詩で本領を発揮する寺山のこの特性は、一般に詳細 な記述の連続で構成されている小説の執筆には当然のことながら適さない。だから寺山は小説 をたった一つ「あゝ、荒野」 しか出版していない。 無駄なリアリズムがないことにより、ある種のダイナミズムが生まれ、戯曲の指示が抽象的で あることにより、演出が陥りやすいわざとらしさという罠を避けることができる。戯曲のエネ ルギーを解放する方法だけが重要なのではなく、自分自身をいかにして解放するかが何にも増 して重要なのである。 萩原が雇われるきっかけとなった《青森県のせむし男》では、寺山が長い間温めていたと思わ れるこの方法論を結晶化することが試みられた。初演は 1967 年 4 月草月ホールで行われ、あ まりにも多くの観客が押しかけたため、数百メートル列を作って待たなければならないほどだ った。寺山は既にメディアを利用できる立場にいて、劇の「アンダーグランド」的な性格をほ のめかした宣伝が効を奏したのだ。人々はアングラという言葉が指し示すものをより近くで観 ようとした。「アングラ」と「見せ物の復権」という言葉を対にしたことが作戦的に成功し、 天井桟敷は「風俗現象」と混同された 。しかし社会現象であるという認識が演劇評論家たち を遠ざけた。寺山は既に数多くの戯曲を発表していたとはいえ、もともと詩人として出発して いる。寺山のように二つの立場を持つことは人を不安にするものだ。 だから外国で知られるようになって からやっと、日本の演劇評論家達は自分の見解を述べる 勇気を持ったのである。確かに寺山の作品の作り方は、必ずしも演劇の古くからのテーマを論 議することをゆるすものではなかった。例えば寺山は、俳優たちの責務を規定しなかったし、 俳優たちが腕を磨くよう望む様子もなかった。逆に寺山は自分の指示が自由に解釈され、時に は「裏切られる」ことを観て喜んだ。 だが寺山の戯曲の構成技術には一つの原点があった。「オレは映画館で育ったから」 。とい うのも寺山の大叔父は青森の映画館歌舞伎座の支配人だった。そして MGM のライオンや駆 け出しの頃の美空ひばりを知る機会を寺山に与えた。その後寺山はラジオドラマの作家として デビューし、音を非常に厳密に規定して挿入することが習慣づけられた。そこで、寺山の戯曲 においては音楽と効果音がしっかりと決定され変えることができなくなつた。このような厳格 さは実は、正確に測定した時間に合わせて書いていく寺山の執筆法が要求したものである。各 場面のコンセプトがいったん決まると、寺山にとって意味内容にぴったりと合う音楽をまずつ けてみる。それから選ばれた音楽の長さを考慮して詳細な執筆がなされた。だから練習の時間 は時計ではなく、寺山が選んだレコードをかけたレコードプレーヤーによつて正確に計られた。 ジュリアス・シーザーがそれぞれの戯曲の作曲を手がけるようになってから、レコードプーレ ーヤーがカセツトデッキに代わったのである。 「世界は素材である。生い立ちも、未来も光も音も他人の話し声もみんな素材なのである。そ れ以外に意味がない。他人の作品も寺山さんにとっては素材だ。使えるところは自分流に変形 させ曲解し解釈の網をかけアレンジする。ライブハウスで生を聴き、それにインボルブされる。 その忘我の時間は無駄なのだ。」 《青森県のせむし男》の数々の公演で成功した後、萩原は引き続き舞台に関わりつづけること を決める。ただし俳優としてでなく、解説の「執筆者」となり、ジャーナリストたちが記事を 書く手掛かりを与えている。その後萩原は時折り舞監(舞台監督の略)となったり、実験映画 の技術部門の一員となったりした。1974 年まで寺山のごく近くにいた萩原は(後で言及する が萩原は「少年のための映画入門」の撮影で、技術的ミスを犯し、それがきっかけで寺山との 共同作業を暫くの間中断することとなった。)、1981 年及び 1984 年に天井桟敷の二つの創作 劇に新たに参加することとなる。 2-2- 映画制作 2-2-1. 実験映画:第一期 萩原は寺山に、初期の映画の基となった考え方について、いくつか質問していた。《檻囚》を 撮ってから《トマトケチャップ皇帝》や《ジャンケン戦争》を作り始めるまでに、十年の歳月 が流れている。この三作には、後に続く作品群同様、劇的な場面は全く見られない。俳優もイ メージとしてのみ存在し、生身の人間として登場しているのではない。ヒロインはいない。な ぜなら「映画というものがマドンナだから」 。寺山は、「全体がひとつの比喩として読み取 れるよう」、頭に浮かぶイメージを映像化していく。しかし、イメージを映像に翻訳すること が重要なので、映像があまりにも「リアル」だと、記号化が困難になってしまう。《檻囚》に 現われる風景は、その点あまりにも生々しい日常を引きずっているように見えるかもしれない。 8 年後、寺山は撮影済みのコア巻の入ったダンボール箱を萩原に渡し、編集するように言う。 萩原は切り刻むことはせず、ただつなぎ合わせるに止め、抽象的な「映像詩」を作り上げる。 この映画の中には、後に演劇の分野で見られることになる展開の萌芽がある。60 年代の終わ りに天井桟敷の役者たちによって演じられることになる人物たちが、《檻囚》の中に既に登場 しているのだ。 《トマトケチャップ皇帝》は、大人に対する子どもたちの反逆の物語である。基になったのは、 おそらく宿題をやらないといって息子を叱った父親が、刺し殺されたという三面記事であろう。 寺山は、このような現象が全国的規模で広がることを想像した。子どもたちが「大人狩り」を 始め、権力を奪取し、大人社会への帰属を拒否する。 「子供による子供のための子供の空想のユートピア、つまりはエロス社会をつくる試み。それ は大人たちがつくった「国家」という概念に代るに足る幻想の共同体にんりうるか?少なくと も玩具箱の中のヒットラーユーゲントくらいになるのではないか。」 最初のシーンでは、シーザーによるシタールの即興演奏をバックに、女の子が男の子のお尻を 投げ遣りに鞭打っている。裸の女と子どもがベッドの上で抱き合っていると、突然登場した武 装した少年二人に銃殺される。ドイツ語の文章がスクリーンに現われ、新しい法律を伝える。 その時、玉音放送が聞こえ、大人たちが松明の明かりの中を行進していく。建物には「大人の 価値感を否定するため」 、白や黒のバッテンが書かれ、老人と子どものサンバ(歌っている のは左卜全)をバックに、子どもたちが大人を駆り立て、虐殺する。その間、一見反逆する子 どもの一人と見まごう、髪にチックをつけた小人が鶏の首をはね、尼の服を着た少女が見守る 中、首の無い鶏が最後の数歩を駆ける。 トマトケチャップ皇帝は、日本最後の皇帝である明治天皇 のような衣装をまとって部屋に入 ってくると、三人の裸の女たちに服を脱がせられる。女たちは、ルネッサンス期のようなブロ ンドのかつらをつけ、厚化粧している。子どもたちはまだ生殖機能を持っていないため、彼ら のエロスはいまだ「ピュアな」「遊戯」である。裸体が絡み合う場面も、大人が言う意味での エロチックなものとはなっていない。このエロティスムは目的を持たないからである。そして 裸の死体が一つ混じって修羅場が演じられ、最後に三人の男の子が付け髭を交換し、1964 年 の東京オリンピック開催のファンファーレが鳴り響く。より強く、より執拗に、象徴が象徴を 倍加する 。道徳や制度は、ここでは陰欝なものとして描かれている。 *** 《ジャンケン戦争》は、タイトル・シークエンスに現われる(フランス語の)タイトルが指し 示す通り、もともとは前作《トマトケチャップ皇帝》の一部を成すものであった。独立した作 品となったのは、その後である。映画に登場するのは、二人の将軍だけ(将軍の一人が皇帝に なっているバージョンもある)で、サミュエル・ベケットの戯曲から出てきたような人物であ る。ズボンははかず、古い綱を持ち、ジャンケンの結果によって、代わる代わる「インプロビ ゼーション」で相手を罰する。ジャンケンによる戦争は延々と繰り返され、あらゆる不条理な 罰を受けた後で、立ち上がることを強いられる二人の人物の姿は風刺に満ちている。罰のひと つは、例えば、撮影場所となった古い工場の床を埋め尽くしている屑を、負けた方のパンツい っぱいに詰め込むというものであったり、また、古タイヤを頭にかぶせるというものもある。 「この映画は、因果律による反復ではなく、ジャンケンという遊戯によって、一つの状況が永 久反復してゆくこと企図した作品である。」 したがって戦争は進展せず、二人の登場人物は、疲れたような様子を見せて戦いを終える。戦 いの本当の進展は、むしろ音楽を通して感じ取られるようになっている。まずワーグナーの《ワ ルキューレの騎行》が二人に言い知れぬエネルギーを吹き込み、次に断続的な小鳥の囀りが、 否応なく観客の視点を変える。そこにヒットラーの演説の録音が重ねられ、荒れ果てた風景に 悪夢のような世界をもたらす。それから、豚の鳴声が聞こえ、全てがすっかり滑稽になってし まう。また鳥の囀り、そしてピアノの三重奏、最後にあっけなく映画の終わりを告げるタンク の音。 寺山の短篇はその後、徐々に「メタメディア」 とも言うべき、映画のシステムそのものを問 題に付すものとなっていく。映像はそのため、生々しい現実感をできるだけ消そうと、フィル ターをかけたり、変換を行ったりしている。変換にはテレシネというテクニックを使っている。 これは、フィルムとビデオの相互入れ替えを可能にしたもので、フィルムが持つ映像の鮮明さ とビデオが持つ操作の容易さを併せたものである。寺山はこうして、自分の脳裏に浮かぶイメ ージを、より正確に映像化できるようになっていく。 2-2-2. 長編映画 1960 年に《乾いた湖》で寺山の脚本によるシリーズを始めた篠田正浩、また《母たち》 (1967 年)で共に仕事をした松本俊夫、 《初恋・地獄篇》(1968 年)の羽仁進、そして《サード》 (1978 年)の東陽一らは皆、寺山の脚本家としての才能を称賛している。 ところで、寺山が監督した長編映画は、その劇的で完結した性質のため、他の「実験的」と言 われる映画ほど興味をそそられるものではないが、ここで簡単に触れておきたい。35 ミリの 長編 6 作は、その性格によって二つに分類することができる。一つは、《書を捨てよ町へ出よ う》(1971 年、138 分)、《田園に死す》(1974 年、102 分)、そして<人力飛行機プロ>が< ATG>(Art Theater Guild)の協力を得て制作した《草迷宮》(泉鏡花の原作による)である。 《草迷宮》は 1979 年に作られた 40 分の作品で、他の中編の作品と併せて、オムニバス形式 で上映されることになっていた。もう一つは、70 年代の末に作られた作品群である。東映制 作の《ボクサー》(1977 年、94 分)、フランスの映画制作会社アルゴ社と<人力飛行機社>が 共同制作した《上海異人娼館》、そして<ATG>、<劇団ひまわり>、<人力飛行機社>の三 社が共同制作した《さらば方舟》(1981 年、130 分)である。 この分類は、着想や映像の独創性に基づいている。短い実験映画では、イメージや表現がより 自由であるのに対して、大きな予算をとって作られた長編 6 作は、そのような映画の特徴で ある限界に阻まれ、寺山の演劇、映画活動全体にいつもなら見られる信条を反映してはいない。 それでも一つ目の分類に入れた作品には、寺山独特のテーマや演出、美術、撮影技法がかなり 顕著に見られるのに対して、後の三作では、それも極めて希薄である。 *** 『書を捨てよ町へ出よう』は、1967 年にまず文学作品として出版され 、次いで天井桟敷の 舞台にのせられ、その後映画化された。寺山は当時、オブジェとしての本を考えていた。寺山 は当初、内容から印刷文字まで、その本を構成する全ての要素を自分で考案し、デザインを考 えていた。後には粟津潔 や横尾忠則、宇野亜喜良、小竹信節など、その道の専門家に任せる ようになった。本を作る材料を正確に規定するのは、寺山にとって、本を「教師として君臨す る」 ものと見做すことへの拒否の姿勢であった。タイトルの《書を捨てよ町へ出よう》は、 アンドレ・ジッドの『地の糧』から借りたものである 。寺山は町を読むことができるような 本を作りたいと願っていた。あるいは、いまや巨大な書物としてに読まれるために開いている 町を、より良く読み取るために、印刷された素材をというものを放棄することさえ考えていた。 このような読書は、幻想対現実という二元性をも思い起させる。しかもそれは、単なる仮定や 告発ではなく、ある確信をもって探査されたものである。というのも、寺山は、この二つを隔 てる境界線を消そうとしていたからである。 映画《田園に死す》のベースとなったテキストは、《書を捨てよ町へ出よう》より前に書かれ たもので、1963 年に出版された短歌集である 。この映画は、私たちがなれ親しんでいる現 実世界と幻想の世界との交流という、寺山の得意技を最も明確に示す作品の一つであり、 「日 常が非日常に変貌し、非日常が日常に通低する位相こそ、寺山修司の世界」 を見せている。 これらの映画が、商業映画であることによる制約にもかかわらず、寺山の想像力の豊かさを伝 える傑作となりえたのに対して、東映制作による《ボクサー》(1977 年、94 分)と《上海異 人娼館》は、その逆の例である。 《ボクサー》は、実際寺山らしからぬ作品だ。単純極まりな い筋をもとにした映画である。引退したボクサーが、若い運動選手に自分の希望のすべてを託 す。若いボクサーは、決勝戦で対戦相手と共に倒れるが、最後に相手より前に立ち上がる。ボ クシングの熱狂的なファンであった寺山の考えは、映画を一つのリングとして捉えることであ った。しかし、東映が制作にあたったのは偶然ではなかった。興行的な成功の代価は、夢を否 定することであり、想像力の自由な飛翔を放棄することではなかったか。 《上海異人娼館》(35 ミリヴィスタ、88 分)は、ポーリーヌ・レアージュの作品『Histoire d'O』 がもとになっており、1980 年に<人力飛行機社>とフランスのアルゴ社との共同制作で作ら れた。名優クラウス・キンスキーや伝説的な山口小夜子の出演にもかかわらず、「失敗作」 に終わったのは、日本人スタッフとフランス人スタッフの連携がうまくいかなかったからでは ないかと松本は指摘している。協力者に自分のエネルギーを伝えるのが得意だった寺山も、こ のときはコミュニケーションの問題に足を取られたのだろうか。 2-2-3. 「さえぎられた映画」及び「拡張映画」 1974 年に寺山は物語集を一冊、評論集を四冊、エッセー集を二冊、詩集を一冊出版している。 天井桟敷は、ヨーロッパの様々なフェスティバルで上演した《盲人書簡》を、この年の 7 月 に法政大学ホールで発表した。映画の方では、名作《田園に死す》の他に 3 編の短篇映画が 作られた。 「さえぎられた映画」の背景にある考え方が、この年に作られた全ての映画のコンセプトとな っているため、この映画の基本概念をまず見ておこう。寺山は、映画というシステムの本質的 な要素、その可能性と限界を定義し直す必要を感じていた。後に飯村はよりミニマルな方法で 再定義を行うことになるが。《さえぎられた映画》は、観客に自ら状況を構築するよう促す寺 山の一連の作業の一部を成すものである。この「映画」は、したがって「複製化された物件」 としてではなく「反復不能の事件」として捉えることができるだろう。これは、寺山が映画と いう分野で追求し続けることになるテーマで、80 年代初めにビデオを制作するようになると、 より明確に表現されるようになる。 寺山はまず映写機とスクリーンを隔てる距離に注目した。この二つは常に入念に維持され、映 画館の空気以外の何も、この二つの要素をさえぎることはない。まず初めに、この二つの間に 「表現過程」として何かを滑り込ませ、間隔を意識させることが考えられた。この行為は、す でに寺山の若い頃の俳句、 「眼帯に死蝶かくして山河越ゆ」に簡潔に言い表わされていた。ス クリーンに現われるのは、子ども時代のメタファーである。眼帯をした少年が、若く好ましい 母を秘かに覗き見る。欲望が死んだ蝶の形を取り、徐々に眼帯からはみだして少年の視界をさ えぎる。 映写機が今まで通りに映像を投影するのに対して、映写機とスクリーンの間に直接視界をさえ ぎるものが挟み込まれ、「時間が経過する」ことを意識させる。スクリーンに投影されている のは思い出であり、再生産された過去である。投影される映像をさえぎる行為は、「もう一つ の映画」と定義される新しい次元であり、これに対してスクリーン上の映画は、「映画の中の 映画」と呼ぶことができるだろう。 片目の眼帯の構造は、隠された目が架空の映像を見つめ、もう一方の目が現実の世界との接触 を保っているとも解釈できる。寺山はまた、映画館のスクリーンそのものが、巨大な「眼帯」 であると主張する。したがって、観客は映写機としての目と、スクリーンとしての眼帯の間に サンドイッチになっていることになる。さらに、この映画のさえぎる行為は、映画の解体と考 えることもできる。フィルムや映写機のレンズに直接手を加えると、さえぎることの意味が変 わってしまうから、映画館の空間自体、つまり映写機とスクリーンの間の隔たりに介入するこ とが重要である。「さえぎる」ことは、さらに、映写空間を開くことでもある。このように考 えていくと、映像を光や他の方法で見えなくする等の実験を行うためにも、映画館の建築構造 を変える必要があるという所にまで行き着く。 寺山と天井桟敷はこの種の実験を演劇で行った。「見えない演劇」(世界中の電気が消えたら猫 の目の光で映画を映すという、前に触れた詩句に基づいている)がそれで、ここで天井桟敷が 提案する世界は、肉眼には見えないものである。「暗黒論」とは、「暗闇は何かを隠すために存 在しているのではなく、まさに暗闇自体を見せるために存在するのだ」 ということを意味す る。観客はそれぞれ三本づつマッチを渡され、劇場の中で起こっていることを見たくなったら、 マッチをつけてもいいことになっている。 飯村隆彦が後に光の中でフィルムのインスタレーションを行った時に述べたように、映画の場 合は、暗闇によって投影されている映像が見え、光によって消されるが、これは私たちの日常 の経験とは逆である。日常生活では、見るために光が必要である。寺山はここで「真昼の映画」、 つまり「見えない映画」を想定している。ここでは観客が窓や光源を遮って少し会場を暗くし、 映像を見やすくすることによって、映画に参加するということも考えられるのではないか。 *** この主張を具体化している映画が 4 本ある。《ローラ》(1974 年、16 ミリ、12 分)、《蝶服記》 (1974 年、16 ミリ、12 分)、《少年のための映画入門》(1974 年、16 ミリ、3 分)、そして 《審判》(1975 年、16 ミリ、20 分)である。 《ローラ》は、映画を見ている現実の観客と、スクリーンに現われるフィクションの世界の光 の人物とのコミュニケーションを実現しようとしたものである。スクリーンの世界は、これま で禁じられた世界であり、観客の世界との違いは無条件に受け入れられていた。《ローラ》で は、今後は二つの世界のコミュニケーションが可能であり、好きなように出たり入ったりでき ることを示している。ハンフリー・ボガードももはや近寄ることのできない銀幕の人ではない。 観客は物理的にスクリーンの中に入っていくことができるのである。 この映画では、スクリーンを縦に帯状に切っておかなければならない。寺山はユーモアをこめ てこのスクリーンを「きしめん」と名付けた。タイトル・シークエンスが終わると、黒いガー ターをはいた三人の女優が登場する。一人はテーブルの上に座り、他の二人はテーブルに寄り 掛かっている。三人はきしめん状のスクリーンの中でおしゃべりをし、スクリーンから見える 観客たちの態度について批判する。彼女たちはチューインガムをかみながら、今しも観客の一 人に目をつけ、彼は上映の度に来ていて、あやしげに体を揺すっているという。「やめなさい よ一人でヤルのはさ。そこは客席よ、こっちへいらっしゃいよ。もったいないじゃないのさ。 体にもよくないし、だいたい、前の席のお客さんにかかったらいい迷惑よ、・・・」観客は立ち 上がり、きしめんの幕を通って映画の中に入る。するとすぐに三人の女につかまえられ、無理 矢理服を脱がされ、お尻を叩かれたあげく、客席に戻される。今度は逆方向にスクリーンを通 り、腕にズボンと上着と靴下を抱え、男にありがちな当惑し切った様子で逃げていく。 寺山が述べているように、24 時間続くウォーホルの《エンパイアー》は、「目の経験を意識化 する知性の作業でしかない」 。スクリーンの二次元性を問題にするとともに出入り自由であ ることを証明する寺山の姿勢は、ホログラフィーへの関心に通じる。現実と虚構の関係は、ほ とんどスクリーンの布と同じくらい張り詰めたものとなる。客席の真ん中に「スパイ」がいる ことによって、観客の安全はさらに脅かされる。このスパイはいつスクリーンに飛び込むべき か確実に知っており、彼の行為によってスクリーンは揺れ、映像が乱れるのだ。これも「一つ の「冒険」なのではないだろうか?」 。 *** 《蝶服記》は、「さえぎられた映画」の導入となっている詩句に直接関わる映画である。タイ トル自体、同音意義語を思えば、寺山が追求している様々な次元の「重複」を表現している。 もっとも使われている漢字は「蝶」と「服」であり、詩句と同じように蝶が私たちを包み、視 界をさえぎることを意味している。 不気味な人物やグロテスクな人物が映し出されている映像は、カラーフィルターで脱色が施さ れていて、映写機とスクリーンの間に何かが通って「さえぎられる」ことになっている。その 上、画面は男や女や大きな蝶の黒い影によって映写前にすでにさえぎられてもいる。影は家具 を運んでいたり、服を脱いでいたりする。影は多かれ少なかれ私たちの注意を引き付け、映画 の内部に異なった時間世界を導入している。こうしてスクリーンは複数の時間に分解され、観 客自身が再構成しなければならないものとなる。 *** 《青少年のための映画入門》は、<第 1 回百フィート・フィルム・フェスティバル>のため に作られた。100 フィートは 8 ミリ映画の標準の長さで、時間にすると 3 分である。飯村は フィルム・アンデパンダンというフェスティバルを組織するとき、後に同じような制約を課す ことになる。1974 年にイメージ・フォーラムで開かれた百フィート・フェスティバルには、 多くの映画作家やビデオ作家が独創的な作品を送った。 寺山はまさに独創性において群を抜いていた。上映時間以外にどんな制約もないことを確かめ た上で、1 本ではなく 3 本の作品をイメージ・フォーラムに送り付けたのである。3 本の映画 は横に並べられた 3 つのスクリーンに同時に映写されるようになっていた。したがって、上 映時間が与えられた時間を越えることはない。映像はまず白黒で撮影され、後で着色が施され た。右側のものはピンク色で、記憶の連なりを構成したものであり、写真を使っている。最初 の場面では、空を飛ぶ複葉機の写真に学生服を着た寺山の写真と美空ひばりのプロマイドがコ ラージュされている。その他、軍艦を描いた絵、中学校の卒業写真、卒業証書、父母と一緒の 幼い寺山などが現われ、最後は母親の若い頃の写真と青森市の地図で終わる。中央には室内で 撮影されたブルーの映画が映し出される。萩原朔美はこのときカメラマンを務めており、モー ターの無い古い手巻きのボレックス 16 ミリを使っていた。このフィルムのために、寺山は俳 優たちに、同性愛の男たちのプライベート・パーティーを演じてほしいと頼んだ。撮影場所と して、安藤糠平の六本木のマンションが選ばれた。俳優の一人は、フィルムの最後でズボンを 下ろし、カメラの前に置いたガラス板の上に放尿する。効果は間違いなかった。最高の「カメ ラ入門」となるはずだった。しかし萩原は、濃厚なラブシーンの場面で、シーンの生々しさに 圧倒されたのだろうか、基本的な撮影ミスを犯してしまった。フェードアウトした次のシーン で、フェーダーを下ろしたままにしていたらしく、その場面はフィルムに記録されていなかっ たのだ。この大失敗が原因だったのか、萩原は以降二度とカメラを任されなかった。この映画 が萩原が参加した最後の映画となった。 左側は、グリーンである。観客はあたかも鍵穴を通して見ているかのような印象を受ける。装 置も撮影の角度もまったく変化しない。左では正装した男が「快楽機械」をこいでいる。右に は大時計があり、中から女が一人出てきて、最後に白い丸テーブルの上に坐る。 三つの映像の動きはそれぞれ異なっている。赤いものは、不動の映像を用いながら、カメラが フィックスだったり前後に機械的に動いたり(ズーム)パンになったりする。青の部分には少 し物語性があり、人物は伝統的な写真の方法で切り取られている。緑の部分は、フィックスだ けである。したがって、同時に様々な撮影技術を目にすることになる。撮影技術の違いは、も ちろん映像の内容に適したものだ。もっとも、撮影技術と編集技術の違いに合わせて、内容が 作られたということも考えられる。 この三つのフィルムを同時に見ると、まず三つの色が光の構成要素(赤、緑、青)であり、観 客の想像力の中で「四つ目の」光を生まれさせるということに気づく。したがって、三つのフ ィルムは一つのもののそれぞれ別々な要素だととらえることもできるかもしれない。たとえば、 過去はピンク、現在は青、未来は緑といった具合に。しかしこの説は、映像の内容を見ると疑 わしくなる。三つのフィルムは、一つのものの相互依存的な三つの視点、つまり一つの全体の 三つの部分というよりは、それぞれ独立した三つの世界が相互に補いあって新しい宇宙を作り 出していると見えるからだ。三つのスクリーンを同時に見ることが確かに必要である。なぜな ら、そのことによって特別な視覚体験が実現できるからである。たった一つのスクリーンの表 面に視線を集中させているのとは根本的に性質が違う。視線と注意力の分裂が新しい視線と新 しい注意力を生むのである。 *** 《審判》(1975 年、16 ミリ、20 分)は、《疱瘡譚》(1975 年、この作品については後で取り 上げる)ですでに実験されたアイディアを追求したもので、穴を穿たれたイメージが現われる。 いくつかのシーンでは、登場人物たちに釘を打ち付ける手の映像が重ねられている。それはあ たかも、蝶の標本を留めるか、蝋人形に針を刺しているかのように見える。釘はこうしてシン ボルとなる。ありとあらゆる大きさの釘が現われ、様々なメタファーを呼び起こす。桁外れに 大きい「お化け煙突」は、釘となって家を刺し貫く。観客も本物の釘をスクリーンに打つよう 促される。最後の場面には何も映っていない。音楽だけが数分間続き、観客は白い画面の上に 映画の俳優たちが見せた様々な行為を思い出す。 *** 寺山の「拡張映画」 の制作は、残念ながらここで終わった。演劇の分野では、天井桟敷にお いて複数の舞台や観客参加という実験が続けられたとはいえ、映画の分野でも寺山がこの種の 実験を続けていたらと思わずにいられない。その後作られた映画にも、特に《マルドロールの 歌》には、拡張映画的な考え方が感じられはする。ビデオによる編集や重複によって、元々異 なる時空間に属する様々に自立した要素が、時に同時に同じ枠の中に現われるのだ。しかし、 それも抽象的なレベルでの話だ。物理的に分裂が行われているわけではないから、例えば《青 少年のために映画入門》とは逆のプロセスを取らなければならない。つまり、観る者のイマジ ネーションの中で一つの空間の中のイメージを分散させなければならない。「拡張映画」のお もしろさとは、想像されるべきものの一部をすでに実現しているということであり、したがっ て想像力を他の目的に使うことができるということである。特別な身体の振る舞いを要請され ることもある。作品が一度で与えられはしないということ、つまり、観客が席を立つとき、作 品から様々に異なった要素を汲み取らなければならないということによって、映像だけが重要 なのではないということを意識に昇らせることができる。知覚の時空間に関わる機能の性質を 明らかにすることで、イマジネーションの形成の特別なプロセスが生まれるのである。 2-2-4. 第三期:1976 年−1980 年 《迷宮譚》(1975 年、16 ミリ、15 分)は縦框のついたドアを背負う男の道行きで、町、野 原、海辺が舞台となっている。ドアの向こうは非現実世界だったり日常世界だったりする。映 画の中の人物たちはドアの向こう側に行ったり、逆に向こう側からこちら側に来たりする。映 画とはドアである。スクリーンは単なる長方形ではなくて、一つの出入り口である。この映画 は、三つの理論の実現であった。「映写機論」、「映写機とスクリーンの距離論」、「映されるス クリーン論」である。「映写行為が成り立つ」という原則に基づいて、この映画は作られた。 撮影されたのは、しかしながらスクリーンではなく、ドアであった 。何よりも注目に値する のは、このドアがスクリーンの空間を三次元空間に変容させていることである。この映画は、 スクリーンのこちら側とあちら側に人が出入り可能であるという点で、「さえぎられた映画」 のもう一つのバージョンと捉えることもできる。《ローラ》では、ユーモアとともに文字通り スクリーンを出たり入ったりしたわけだが、《迷宮譚》では、スクリーンを切り刻むことなく、 観客のイマジネーションに頼ったのである。 *** もう一つの物語、《疱瘡譚》は、中近東の笛の音で始まる。これは 13 のエピソードからなる 一種の寓話で、最初のシーンは顔に包帯を巻いている男のアップである。その画面を蝸牛がゆ っくりとはい回っている。次は、傷ついたレコードのタンゴの調べにのって、タキシード姿の 男が二人、玉突きをしている。包帯をした男の顔の上に二本の釘を打つ手。中国の笛をバック に病院の傾いたベッドの上で、二人の女が歯を磨いている。扉から体を引き離そうとして必死 で悶え苦しむ男。カメラが後に引くと、これら全てのシーンが行われていたのは浜辺だったこ とがわかり、波が寄せては返している。日傘をさした女が浜辺を歩き、扉を通り抜けていく。 あぐらをかいてトランス状態に陥っている女の映像の上に般若経が書かれる。カメラが迷宮の ような廊下を通ってロープを追っていくと、その端には縛られてころがされている看護婦姿の 女がいる。《ローラ》の三人の女が折畳み自転車をかけた黄色い壁の前で雌鶏を抱いている。 男の顔から包帯を取ると、まだ釘の跡があり、また、《疱瘡譚》というタイトルがなぜ選ばれ たかも明確にされる。最後に、玉突き台に坐った男が髪を切られ、その映像に火がつく。 寺山がここで使ったビデオ技術は、二つの映像を重ねるクロマ・キーというもので、異なった 映像を同じ色の画面に挿入することができる。こうして、超現実的なシーンに、《蝶服記》の 時と同じように、異なった次元が持ち込まれる。画面を横切る蝸牛、釘を打つ手、画面を真っ 二つに切る鋸、般若経を書き込む筆、または一枚の紙がしわくちゃになり、一本のロープが画 面に張られ、火が画面を燃やす。フィルムの表面は、こうして手を触れられたわけである。こ こでは、物理的なスクリーンが問題とされたのではなく、イメージが愛撫され、あるいは引き 裂かれ、あるいは鋸で切られ、または消されたり縄をかけられたりした。 *** 《マルドロールの歌》は、 《疱瘡譚》と同じ笛の音で始まる。鈴木昭男 が担当したエレクト ロニックなサウンド・トラックは、やはりエレクトロニックなビデオ技術と呼応している。映 画として上映するために後に 16 ミリで再撮影されたが、これは《消しゴム》と同じく完全に ビデオによって構想された作品であり、テレビで観るとより真価がわかる部分もある。 ロートレアモンと寺山。重なりあい補いあう苦悩の世界。映像自体は比較的暗い構成となって いるが、内容は寺山の一連の映画のうちで、最も複雑なものの一つである。上映時間も比較的 長い。30 分という時間があれば、様々な事件を入れこむことができる。言葉は語られないで、 書かれる。寺山がビデオを使ったのには理由がある。本のように自分の部屋で読まれる映画(「読 書映画」もしくは「読む映像」)を作りたかったからで、テレビというフォーマットにぴった りなのである。 寺山は、クロマ・キーのテクニックをさらに発展させることに関連して、 「書きこむ映画」に ついても語っている。(一つの色、普通は青を、クロマ・キーという映像処理機で透明にし、 「挿 入」を透かして見せるのである)大抵の場面には、三つの映像が重ねられている。一人か二人 の人物、絵画的「舞台装置」、そして画面の上に直接、日本版の《マルドロールの歌》の一節 を書いたり妨害したりする、一本の羽ペン。 印刷された文字の後の映像には、たくさんの動物たちが現われる。蝸牛、亀、オウム、トカゲ などが裸の、時に縛られた肉体の上を走り回る。長いパイプをくわえた陽気なローエングリン が小人をしたがえて何度も登場する。血塗れにされた赤い文字の原書の《マルドロールの歌》 が、紐でくくられて水に漬けられたり燃やされたりする。 寺山は、少年時代から当時まで最も強く影響を受けた書物の、様々なフレーズを分析、という よりメスで解剖することによって、「新しいロートレアモンのための「手術台」」を作ろうとし た。この映画は、実際には、読まれたものと書かれたものとの間にあるということができるだ ろう。 *** 《二頭女−影の映画》(1977 年、16 ミリ、15 分)は、一人の人物とその影との奇妙な関係を 描いたものである。この映画の中では、影は必ずしもその実体の動きを追わない。フランスの 有名な漫画と同じように、時には影が動かないでその場に残ったりする。また、実体とされて いるものから独立して動いたりする。これは現実とフィクションの、存在と幻の意味を直接に 問う、新たなメタファーであるといえるだろう。そして、「オリジナルのコピーとして、影や ファンタズムを高いところから階級的に見下ろす、西洋のプラトン主義に基づいた合理中心的 な概念」 に反対するものである。 これは、寺山の作品の中心となるテーマの延長となる問題意識である。寺山は常に故郷や母か ら別れ、自由になることを歌い続けてきた。そして、絶えず実体とその付属物というメタファ ーと作り出してきた。寺山の作品全体を支えるこの考察は、寺山の芸術論のベースともなって いるのではないか。 *** 寺山は美そのものには大した興味を見せず、思いがけない仕方で新しい意味を浮上させるもの に関心を示した。寺山は言語へのアプローチを映像にも重ね合わせた。映像はそれだけで一つ の意味を持っているが、組み合わせると他の意味が生まれる。重要なのはこの意味の混合を起 こすことで、手段は何でもよかった。寺山は、キッチュなもの、つまり大衆文化と結びついた 悪趣味なものへの偏愛をしばしば口にしている。太った女(大山デブ子) 、怪物、変質者、娼 婦、そしてサーカスから出てきたような人物たち、かつら、シルクハット、無用な機械、 「ア ール・ヌーボー」の装飾、さらに、 《田園に死す》で使われた恐山のような象徴的な風景など。 しかし、寺山が使い、磨き上げたこれらの表徴のほとんどは、一つだけでは意味をなさず、組 合せで生きてくるものだ。谷川が寺山のメタファーを読み込むことを避けていたのを思い出そ う。なぜなら、寺山のメタファーは、あまりにも浅薄な注釈をブロックするための殻でもあっ たのだから。 この表徴の武器のもう一つの機能は、シナリオの線的な発展を全てブロックすることである。 過剰な表徴の重みにたえかねて、物語の糸が擦り切れてしまうのである。といっても、寺山は 物語が嫌いだったのではない。寺山は最も優秀な脚本家の一人であり、篠田や東に長編のため のシナリオを依頼されると、その能力を遺憾なく発揮した。しかしその時でも、寺山は、ある 別の方向に、気づかれにくい形ではあるが故意に向かうのであった。寺山が書く物語は、噛み 砕いたわかりやすいものではない。観るものがそれぞれ自分でなんとか作り出さなければなら ないものである。寺山の作品は、どんな解釈も予め押しつけることのない断片で構成されてお り、「ランダム・アクセス」が可能である。「50 パーセントの自由」を観客に与えるのだ。 寺山の作品は、「コード化されておらず、体験するしかない事件を生むための装置」である 。 日常の恣意的で人工的な構造とその自動性が明らかになり、もはや自然なものと考えることが できなくなる。したがって、日常的な要素が日常的でないかのような様相を見せることになる。 言い換えると、様々な事件が、それまで無視されていた物にエネルギーを取り戻すのだ。それ らを関係づけ、どのように重ね合わせるか計算することによって、新しい視点が生まれる。 映画の進行が線的ではないことによって、観客は日常との関係をつくることができる。観客は、 《審判》のラストでそうであったように、もはや映画の中のフィクションのシーンと現実を区 別することができない。「問題は、スクリーンまでの距離だ。観客はスクリーンの中に撮影さ れ、ラストではみんな、スクリーンの中に入っていることになる」 。映画が日常の中に溶け 込んでしまう。そして、もはやいつ映画が終わったのか決めることもできない。なぜなら、寺 山の映画は終わるようには作られていない。逆に、宙吊に留まり、観客自身にどんな世界に進 んでいきたいのか決めさせるのである。 2-3- ビデオによる言語:映像と言葉 2-3-1. 《ビデオ・レター》制作の前提 ビデオ・アートが始まると、メディア自体によるメディア批判がブームになった。初期のヨー ロッパやアメリカのアーティストたちは、おそらく経済的な理由から、ビデオの個人的世界へ の可能性を追求することがなかった。彼らの実験は、ほとんどマス・メディアやテクノロジー の方向転換に限られていた。しかし中谷芙二子はいち早く、個人的なレベルにおけるビデオ使 用の可能性を確かめていた。殊に、グループ、<ビデオひろば>の時代に小林はくどうや山口 勝弘と行った実験に顕著に見られる。 ビデオカメラが小型になったこと、様々な年令層の人々がビデオの使い方を早く覚えたことで、 日本では、この新しいテクノロジーは個人的なコミュニケーションの媒体となった。そのこと は、80 年代に JVC が主催したビデオ・フィルムのフェスティバルでも証明された。ビデオカ メラは、今日普通のカメラと同じ感覚で使われるほど俗化し、使用も容易であり、自分の日常 生活を見せたり、手紙のようにコミュニケーションの手段として使われるようになった。遠く 離れた家族や友人たちは、今ではビデオを撮ってお互いに郵便で送りあう。ビデオ電話の普及 が待たれるところだ。 《ビデオ・レター》は、初め「ビデオによる往復書簡」と名付けられ 、日本で大変人気のあ る二人の詩人、寺山修司と谷川俊太郎の間に交わされた。この作品は、日本のビデオ・アート に新しい一つのジャンルを作り出しただけでなく、ビデオ・アートを越えて、日本文化の一側 面を結晶化しており、国際的な評価を得た。この作品は 16 の手紙からなる 72 分の作品で、 海外で何度となく上映された。特に、80 年代に国際交流基金の出資で開かれ、1990 年に中村 敬治、森下明彦、森岡祥倫によって構成された日本のビデオ・アートのプログラムで大きく取 り上げられた。バーバラ・ロンドン、レイモン・ベルール 、ドミニク・ノゲズらがこの作品 について熱をこめて語っている。寺山修司はまた、1986 年にジェノヴァで行われた<未来の 日本の前衛>展でもスペシャル・プログラムの対象となっている 。新しいテクノロジーで連 歌を書く二人の詩人は、「新しい日常生活の道具である《ビデオ・レター》の水準を、俳句や 散文の構造と同じくらい洗練されたものに高めた」 。 *** 映像による文通は、異なった形を取り、異なった規則に従いながら、続々と後に続いた。かわ なかと萩原は自分たちの《映像書簡》を制作した。山田勇夫と山崎公男は《往復》を作った。 黒川芳信と木部与巴仁は小林はくどうの方法に倣って、《ビデオ・キャッチボール》を行った。 中谷芙二子は、毎年日本大学のビデオの授業で訓練のために《ビデオ・レター》を作らせる。 山本圭吾は、同じ実験をパーソナル・コンピューターのネットワークを通して行った。パーソ ナル・コンピューターは、今では静止映像だけでなく動く映像を地球の向こう側まで送ること ができる。したがって、《ビデオ・レター》はいまや、このジャンルの中の古典となっている と言えよう。 *** イメージ・フォーラムのディレクターの一人である富山加津江が、二人の詩人にビデオによる 往復書簡の提案をした。寺山は世界的に知られた映像作家であり、その作品はヨーロッパ、ア メリカ、中国などで上映され、国際的な賞も得ていた。一方谷川は、映像に関しては僅かな経 験しかなかった。谷川は実験映画の先駆者の一人であり、1960 年には武満徹とともに《バツ》 を作っていたが、その後は映像から離れていた。しかし、ビデオは技術的に映画とは異なるた め、全く違った態度で臨むことになる(物書きである谷川は、カメラ万年筆説を思い出す)。 そして、撮影したテープはすぐに見られるため、画面に現われたものを直ちに対象化すること ができる。谷川は、例えば自分の顔をテレビ画面で見ても、物として距離をもってながめるこ とになり、その映像のアイデンティティーとしての意味を深く考える緊張はないという。 初めの手紙(Vol.1)は谷川からのもので、寺山はそれに応えるとき(Vol.2)谷川からのレタ ーと自分が作ったものとをつなぎあわせ、相手が続けて見られるようにして送り返した。そこ で谷川も同じように 1 通目からのものを全てつないだ上で、寺山に新しいレターを送った。 この方法は 14 通目まで続いた。谷川は、毎回作品、つまり「手紙」をその全体として、撮影 した順番通りに見ることが必要で、それによって思考の糸を理解し、先を続けることができた のだと説明している。しかし谷川からの 15 通目の手紙には、返事は作られなかった。寺山は 癌で若すぎる死を迎えたのである。 寺山がどのように《ビデオ・レター》を紹介しているか見てみよう。 「ビデオができてから、時計について考えることが多くなった。だが、同時に神秘主義の神話 も、よみがえってきつつあるように思われる。 カール・フォクトは、「手の運動は、時計の構造と同じである」と言ったが、それに対して、 脳を解剖し、それをヴィデオに録画して、「脳の構造と、時計の仕組みは無関係である」とい うことを立証しようとする、学者たちも現われたのだ。 どんな精巧なヴィデオ・カメラも、脳の「細胞」を映すことはできても、解剖によって「思想」 を映しだすことはできない。心的過程はヴィデオに録画できないではありませんか、とうそぶ く学者たちも、少なくないのである。 そこで私はヴィデオを一度、止めてみることにした。一枚の写真と、そのなかに封じこめられ た時間を凝視するためにである。(中略) 記憶の編集、時間の組み替えは、まず一枚の写真によって可能である。そして写真の静止した 時間を、少しづつ、まわしてゆく。ヴィデオは、時間を記録するのではなく、時間をつくりだ すメディアなのだ。ヴィデオ・テープは物件ではなく、事件である。」 時間はビデオ作家が好むテーマだが、ナルシスティックな側面もビデオにはあると寺山は指摘 する。《ビデオ・レター》の目的の一つは、このような独白的な側面を避けることであった。 30 年来の友人同志である二人の詩人は、二重の興味をもってこの往復書簡を発見していくこ とになる。一つは、費用も少なく、フィルム現像のために時間を取ることもないビデオという メディアは寺山にとって、特別なアプローチを可能にしたため、興味があった 。寺山は、 《ビ デオ・レター》はノーカットでは撮影できないこともあり、時に編集が必要だったが、ここで 使用されているベータマックスはきれいに編集できないこともあり、時々カットとカットの間 に黒味が入ってしまったりしたと語っている 。そしてもう一つは、二人が前にしたことのな い対話をすることへの期待である。前に何かの雑誌に一回だけ「往復書簡」が掲載されたこと はあるが、継続した形では初めてだと谷川は語っている 。 レイモン・ベルールは、この作品が提示している主要な問題とは、作者たちのアイデンティテ ィー探しだという 。この「私は誰?」は、寺山の死に際して書かれた 1983 年 9 月の雑誌『イ メージ・フォーラム』掲載の記事に続く。ここでは 16 にわたるレターのモノローグとダイア ローグの内容も紹介された 。この作品はまた、他の性質も持っている。一つは「往復書簡で は普通自明のこととされていること、つまり文通者のアイデンティティーに疑問がさしはさま れている」ことである 。映像は断片しか見せない。 「断片化は、その全体の中で表象に触れる。そして映像の中を貫いているもの、特に映像を可 視なものとしている視点に対して、常時不確実性を持ち込んでいる。」 二番目の性質は、この一番目から派生したものである。「アイデンティティーの混乱は、主格 のアイデンティティーの無さに関する本質的でしつこく、しかもとても単純な疑問を提示す る」 。三つ目は、意味と無意味をめぐる二人の討論から生ずる共通の探求であり、四つ目は 「表現媒体の間にも同じ融合(もしくは混乱)を引き起こすことであり、これは映像の形態の 間に、また陳述者と陳述者の間に生まれるものである」 。 「手作りで作られた表徴の宇宙(中略)。このビデオ作品は文学作品や絵画に非常に近い。ど ちらも同じくらい言語と映像の間に交流がある。そして、表徴の全体的な断片化、分散、混乱 によって、二重の効果が生まれている。分断と再統合である。壊され、砕かれ、混ぜ合わされ た表徴は、その連続性を失い、融合を強める。そこでは全てが通過と仲介を経て、絶えず溶け 合っている」 それに対して、中谷芙二子は寺山と谷川の言葉を引用しながら、次のように解釈している。 「谷川は《ビデオ・レター》は「生理的に受けられる」のが面白いとし、寺山は「映像が生理 的に反応するのを警戒した」という。間があればこそ個が生き、生きるからこそ間が生じると いうディナミズムは、ここでも有効に働いているように思う。」 中谷の《ビデオ・レター》へのアプローチは「アイデンティティの曖昧さ」よりも、逆にアイ デンティティの強調、または生への躍動感を明らかにしているものである。 2-3-2. アイデンティティーに関する問い:円環の完了 《ビデオ・レター》を作った時、寺山は自分が病気で、おそらくは助からないということを知 っていた。だから、最後の作品となることを意識していたにちがいない。谷川ももちろん友人 の健康状態を知っていた。この共犯性が、谷川に途切れていたこともある友情を深めようと思 わせた原因の一つだろう。谷川はこの往復書簡を個人的なレベルで続けようとしていた。アイ ディアが生まれたときは、公開は考えられていなかった。谷川は、映像によって、言葉の魔術 師である彼にも伝えきれないメッセージを伝えようとしていたのである。 初めの手紙は、こうして「格好」に対する疑いを洩らす 。この点、撮影方法と内容の違いは、 驚くべきである。寺山が(みんなが唖然としたことに)、常に隠してきた日常を映し、 「フィク ションというフィルター」 も使っていないのに対して、谷川の映像はもっとずっと抽象的で、 言葉に代わるものとして使われている。 寺山の実験映画の映像は、しばしば非現実的なものだったが、ビデオを手に取ったとたんに、 日常という新しい次元が現われたのである。しかし、この現象は両刃の刃のようんところがあ る。日常の品々は、カメラで切り取られたとたんに、日常性を失ってしまうからだ。この問題 は、特に谷川が身の周りの物を名指す時に明確になる。「これは私のシャツです(中略)これ は私の靴下です(中略)これは私の左足です(中略)」と断定していくにもかかわらず、反対 に疑わしく見えてくる。その意味を考えた挙げ句、寺山は「私」と「シャツ」とを切り離し、 投げてよこす。「わたくしというのはいったい何か(中略)身辺雑記的なことと、非常に非現 実的なことが入りまじってくる」 「私」という問題は、アイデンティティーの問題と切り離 すことはできない。しかし問題の解決は与えられていない。この往復書簡のもう一つの焦点は、 人は自分を認知してくれる他人が必要だということである。 「他人は自分の鏡であり、他人は 自分の証明書であるわけだから、他人との関係をうまくつくりあげていくことが大事なんじゃ ないでしょうか。」 寺山と谷川が相互に交わす問いは、意味に関するものであれ、アイデンティティーに関するも のであれ、本当に相手に尋ねているようには見えない。むしろ自立していて、自問自答してい るようであり、しかし同時に新しいメッセージの介入を受け入れるものである」 このような 可能性は、森岡によれば、「特権的で宇宙的な存在」に基づく西洋的な超越論ではなく、「相対 的なたくさんの要素の調和としての超越論であり、複数性を体現するもの」であるという 。 寺山は、例えば自分が苦しんでいる肝炎の証拠である特別なシミのある裸の背中や、毎日飲ま なければならない種類の異なる大量の薬を映したりしている。寺山はこうして自分自身の監督 になったのである。それまで使っていた 16 ミリや 35 ミリのフィルムと違って、誰もかわり にカメラを扱ってくれる人はいない。寺山は、自分自身より深い何かを探求していた。そして それは、他人には任せられないデリカシーを要求するものだったのだろう。 自分が求めているものを明確にするために、状態を正常化しようとしていた寺山は、例えば母 との関係において自分をとらえようともした。母は何度となく寺山の作品の中で殺された後で、 肉体をもって蘇ったかのようである。それまで意識的に否定し、抹消し、フィクションに変容 していたものが、少しづつ現実に戻されていった。 自分のアイデンティティーを定義するというよりは疑問に付すこのビデオ作品は、寺山の遺書 だったのではないか。言葉だけではなく、言葉と同じくらい意味を喚起する映像の助けもかり て。内容は明らかに言葉から意味へ、そして「私は誰でしょう」へと移っていく。寺山はこう して、回帰でもある大いなる出発の準備をしていたように見える。 *** 寺山の作品の主なテーマの一つが、フィクションであることはすでに見てきた通りだ。その説 明の一つとして考えられるのは、寺山自身が「私」を持っていないと考えていたのではないか といことである。寺山の「私」は現実ではなく、現実の生を持っていなかった。それはフィク ションなしには存在できなかった。寺山は、「私」について考え始めた時、病気でじきに奪わ れてしまう自分の体について考えた。寺山は自分自身の死を演出しようとしたのだろうか。自 分の死をフィクションに変えようとしたのだろうか。それとも誰か他の人、この場合は谷川に、 代わりに引き受けてもらおうことに成功したのだろうか。 16 番目のレターは、谷川によって作られた。谷川は寺山の第一句集、『空には本』 の中から 『森番』を読む。映像は、まず寺山の心臓が止まった時の心電図を映し出し、ついで 5 月の 明るい空になる。小川の岸辺で木の葉が風にはためいている。今度は寺山がまだ 21 歳の時に 初めて出版した作品集『われに五月を』のコピー紙が貼られている。その中の詩、『五月』は 次のように始まり、終わる。 「夏休みよ さようなら 僕の少年よ さようなら(略) 二十歳 僕は五月に誕生した」
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