人間化された悪 − カント根源悪説における諸問題

人間化された悪
−
カント根源悪説における諸問題
橋場利幸
カント は『単なる理性の限界内に於ける宗教』1(以下『宗教論』)において 「人間は生来悪である」として
人間に根源悪が存すると断言した。しかし人間に生来的な悪を認めるならば 、自由の入り込む余地はなくなり 、
もはや善悪の道徳的責任を問い得なくなるのではないだろうか 。もし道徳的責任を問い得るとしたならば 、その
場合行為 の善悪の判定基準は何処にあることになるのであろうか。本論ではこれらの 点を論究するために 、まず
簡単に哲学における「悪」の概念史を振り返り、カントの根源悪説を解釈した上で、上記の問題を取り扱うこと
を試みる。
1. 悪の概念史 ─ カントにおける変容
一口に「悪」の問題といっても、人間の道徳的レベルにおける悪の問題もあれば、天災などの自然的な悪もある。
しかし後者のような自然的悪は、近代以降自然科学的な説明がなされるにしたがって、現代の私たちにとってはあ
まり「悪」とは感じられず、むしろ悪と言えば、直ちに前者のような人間的・道徳的レベルで考えられることが多
いのではないだろうか。このような感覚は、必ずしも哲学史の最初からあったわけではなく、たとえば古代のギリ
シャ人においては、悪の問題は、現代のわれわれとは異なるようにとらえられていたようである。歴史の上で「悪」
の問題は、徐々に自然や神の問題を離れて人間の問題として限定され、いわば「悪の人間化」が行われたのである。
カントにおける「根源悪」の問題は、このような変容の過程の中に位置づけられるととらえるのは、カール・レー
ヴィットである2。レーヴィットは、悪の問題を哲学的に問うためには、「神、世界、人間の3つの基本概念」を
取り扱う必要があるという。彼は悪の概念はこれら三者の関係によって規定されてくると指摘している。
本論ではカントにおける根源悪の問題を考察するにあたって、まずこれら三者の関係の変容をギリシャ時代にま
で遡及して歴史的に概観することにする。なぜなら、聖書以前の世界概念によって聖書の創造説の人間理解、世界
理解を純化することによってこそ「ライプニッツ、カント等のキリスト教以後の善悪に関する教説を、コスモスと
いうキリスト教以前の考え方とはっきり対照させて考えることができる」 [LW 58-59] からなのである。
1.1
ギリシャ及びヘレニズムの世界観
ギリシャ人の世界観はどのようなものであったのであろうか。「ギリシャの思想家たちが驚き驚嘆したのは、世
界の現存在 ... という事実ではなく、見事な宇宙的な秩序をもち、混沌たるものではない、という事実であった」
[LW 62] とレーヴィットは分析している。つまりギリシャ人の理解した世界は、端的に言えば「秩序=コスモス」
であった。世界はカオスでもなければ、神に背いた人間の我欲のゆえに堕落し、救済を必要とするようになった無
からの創造物でもない。世界は秩序に支配されている。これはまさに神的なものではないだろうか。秩序に支配さ
れた世界は、そのままで「正しく神的なるもの」である、とギリシャ人は考えたのである [LW 60] 3。
ギリシャ人は、世界を支配する神的秩序を「必然 ananke とか運命 moira」と呼び、「逃れ難き運命あるいは
宿命」と考えた。しかし、それは決して人間の意志に反して人間に定められたものの意味ではないのであって、単
に宇宙論的な最高秩序という意味であった。ギリシャにおいて明示的に「神学」なる術語が用いられていないとし
ても不思議ではない。なぜなら秩序としての世界が神的であるゆえに、古代ギリシャにおいては、宇宙論がそのま
0
ま自然神学的であり、哲学のテーマでもあったのである。ギリシャ人にとって「神的なるものは、世界の外とか世
界を越えた人格的主体ではなく、世界そのものの持つ客語」 [LW 60]であったのである。
ヘレニズム期においてもギリシャ期と同様に「神によって創られたものでも、人間の創ったものでもない永遠の
コスモスという思想」に則った世界観が支配することになる4。ローマ的意味に於ける世界 (mundus) は、自ずか
ら存立、存続するものの神的かつ永遠なる全体というギリシャ的宇宙 (kosmos) と同じものである。しかしながら、
世界の概念は徐々に変化していったようである。すなわちヘレニズムの時代には、多くの人に見える世界から目を
転じて、地下の密議礼拝に魂の救済を求めた結果、「コスモスは愛と崇拝の対象たることをやめた」[LW 63] ので
ある。このようなヘレニズムの世界概念は、キリスト教的世界概念の出現の土台を提供することになる。つまり「古
代後期の世界離反の気分に、初期キリスト教の世界放棄の考えが合流する」[LW 63] ことになるのである。
1.2
キリスト教の成立と聖書による悪の理解
それでは、ギリシャ的世界観とは相違したキリスト教的世界観とはどのようなものであろうか。
創世記によれば、世界とは、世界を超越し世界の外なる神、すなわち超越者である神による一回限りの無常なる
創造物である。キリスト教的世界概念においては、もはや世界をコスモスとしては見ない。ここにおいては、ギリ
シャ人のように見ること、観照すること (theorein) は重要視されない。神の言葉と意志への敬虔なる服従に生き
るものは、世界をそれ自体で充足したような存在としての「コスモス」をそのようなものとしてとらえることはで
きず、世界を「目的にかなった創造物」としてしか見ることができないのである。キリスト教的世界概念にとって、
世界は超越者たる神によって創られた創造物=被造物であってみれば、世界概念は「永遠性」から、時間的・直線
的・目的論的な「歴史性」へという転換を経験することとなり、コスモスとしてのギリシャ的世界概念は、恒常不
滅の世界としての力を奪われ、本性を変えられることになる。またそれと同時に自然のもつ全体性の完全さも欠如
することになる。ギリシャ的世界概念における自然が、自己自らを生み出し他の如何なる制作者をも必要としない
ようなものであったのに対して、キリスト教的世界概念においては「自然の持つ自己運動としての『自己自身から
の存在』という完全性の性格も欠けている」 [LW 64] のである。
このようなギリシャ的世界概念からキリスト教的世界概念への移行は、「自然的な見方」と「信仰による見方」
の対照であると言えるであろう、とレーヴィットは述べている。キリスト教による新たな世界観は、聖アウグステ
ィヌスにおいては次のように表現されることになる。「すべての目に見えるものの中では世界が最大のものであり、
すべての目に見えぬものの中では神が最大のものである。世界があるという事をわれわれは目で見、神が存在する
ということをわれわれは信じる」5。この世界概念においては、ギリシャ時代の自然的コスモスはもはや最大、最
高なるものとは認められず、ただ見えるものの中での最大のものとしか見られなくなり、最高・最善なるものは「見
る能わずして信じるのみの創造神」 [LW 64-65] になるのである。
最善なるものが「自然的コスモス」から「創造神」へと移行すると同時に、「神学的動機による世界の人間化」
[LW 65] が行われる。コスモスとかムンドゥスはすでにアウグスティヌス時代から、とりわけ人間世界と人の住む
大地を意味するものとなり、人間のための世界という「人間学的な世界概念」が開かれてくるのである。そうして
このような「世界の人間化」によって「はじめて悪の問題が原理的かつ普遍的な重みをもつにいたった」[LW 65] と
レーヴィットは見ている。神学的動機による世界の人間化である。
そうすると、悪の問題もキリスト教神学にもとづいて取り扱われることになる。聖書の教え、つまり聖書の創造
史において、神が世界と人間を創造し神はそれを「良し」とされたのであるから、そもそもこの「良し」とされた
1
世界になぜ悪が存在するのかが問題になる。神は悪の原理でもあり得るのか、もしそうでないとすれば、悪はどこ
から生じるのかという問いが生じるのである。この場合、神は悪の原因ではない。神は最高善 (summum bonum)
であるからである。したがって、悪の起源は神の命令に背いて罪に落ちた人間のうちにのみありうることになる。
キリスト教的な世界観は、悪の起源への問いに対して、神に背く人間の意志から悪が生じるのだという解答を用意
する。聖書による悪の解釈においては、悪は神や人間からではなく、もっぱら人間から、しかも人間をも創造した
神との関係において説明されることになるのである。悪は人間と神との関係の中にあり、人間学的神学的に理解さ
れるのである。
このように、キリスト教神学からキリスト教以後の哲学への移行過程において、善と悪は、神と世界への関係を
離れて、もっぱら人間学的にのみ理解されるようになった。すなわち「悪は形而上学的不完全性でも、形而下的悪
でもなく、もっぱら道徳的悪となった」のであり、「悪は人間の、そして善にも悪にも向かいうる人間の道徳性の
特権と見なされるようになる」[LW 58] のである。この悪の人間化/道徳化が後のカントの根源悪説を準備するこ
とになると言えるであろう。
1.3 哲 学 と キ リ ス ト 教 の 関 係
このような世界の人間化、および悪の起源の問題の成立と共に、「ギリシャ的コスモスとは異なった人間世界の
持つ、不完全さと劣悪さに関して神の立場を弁明しようとする試み」[LW 65] である「弁神論(神義論)」が要請
されることとなる。悪の問題は「弁神論」として扱われるのである。
創世記によれば、神は天地、地上の生物、人間を順次創り、各々の創られた日の終わりには、神はその創り給え
るを「良し」とし給えりとある。そうすると、ここから以下のような問いが生じるだろう。神は自らの世界創造を
「良し」としたにもかかわらず、人間世界に依然として悪が存在するのはなぜか。人間の悪への自由は、善なる神
が人間のために創造し、しかも創世記が本来善であったと述べている自然世界の卓越性といかに調和するのか。人
間世界の限りない悪と罪は、明らかに全能なる創造者の知恵と善意に背くものではないだろうか。このような問い
は神学者、例えば聖アウグスティヌスから聖トマス=アクィナスに至る教父や、ルターからバルトに至る神学者達
を悩ますことになる。キリストを信じるものにとっては、「何故神は人間を、意思を悪用し罪を犯すようなものと
して創ったのか」「もしキリストによって人間が救われるとするならば、キリスト教によって世界には悪がなくな
るはずである。然るにキリスト教が存在するにもかかわらず、何故世界には悪が存在するのか」「キリスト教に回
心した人びとの集まりである教会の中に悪が存在するのは何故か」といったことが大きな問題となってくるのであ
る 6。
創造と悪の問題は、神学者だけでなく、哲学者たちにとってもまた問題となる。近世初頭に哲学がスコラ的伝統
から独立したときにも「哲学は依然としてキリスト教の伝統の束縛を脱し得ず、ヘーゲルによる哲学の完成によっ
ても、またその後も、同じ事態は続いた」[LW 67] のであり、人間と神との「悲しむべき背離」[LW 69] を解決する
ために、哲学とキリスト教が関係してきた、とレーヴィットは以下のようにその関係の歴史を総括している。「…
F. ベーコンによれば、ギリシャ哲学の犯した決定的誤謬は、世界を神的なものの似姿と見、人間を『世界の簡潔
なるイメージ』と見たことである。彼によればギリシャ哲学は異教の哲学である。なぜなら聖書によれば『人間だ
けが神の似姿』であるのに、ギリシャ哲学は世界を神的なものの似姿とするからである。デカルトは、大胆にも神
が悪意ある詐欺師であるかどうかを懐疑的に考えたのであるが、その懐疑は最終的には神の証明で終わる。彼の体
系においては、神の確実性なしには世界認識も自己認識も不確実なままに止まる。しかもこの神の証明は、人間を
2
神の似姿としてとらえる聖書の教えを包括している。カントはキリスト教を『単なる理性の限界内』で解釈し、人
間の自由を悪の源泉と規定したが、同時に理性の批判は信仰に座を開けるべしとした。フィヒテは『浄福なる生へ
の志向』において、キリスト教的啓示信仰を哲学的に解釈したという理由で、無神論者と非難された。ヘーゲルの
歴史哲学は、精神である神の歩みを世界史の中で把握する一個の『弁神論』であるが、彼はそこでアリストテレス
のヌースとヨハネ福音書のロゴスを絶対精神の概念において合一させている。シェリングはキリスト教的啓示哲学
を構造し、『人間的自由の本質』において悪の根源について考察した。しかしこれは徹底してキリスト教的制約を
受けたものであった。ニーチェは世界は完全であり、善悪の彼岸にあることをはじめて言う勇気があった。ヤスパ
ースはあえてニーチェの後に、カントに倣って『哲学的信仰』を要請し、世界創造の思想にちなんで、哲学的信仰
が永遠性について熟考せられたものであり、われわれ自身の意識にとって決定的意味を持つものである、と説明し
た。なぜならわれわれの意識は外世界的・超世界的であり、神に代わって今や色あせたといわれる『超越』への超
越であるからである…」 [LW 67]
キリスト教と哲学との関係のうち、「悪」という視点から特にライプニッツの『弁神論』は特徴的である。ライ
プニッツは、世界はわれわれが考え得る可能世界のうちの最善のもの(「最善の世界」)であり、悪が存在するの
は、完全なる神に原因を求めるべきではなく、神に対する人間の受容能力の不完全性(欠如)に求めるべきである
としている。人間に悪と感じられるものが、真に悪であるとは限らない。場合によってはそこに神のはかりがたい
意志があるのかもしれない。むしろ悪の存在は、神による世界の装飾としての積極的意義があるかもしれないので
ある。ライプニッツは、われわれはあまりに人間中心にものを考えるべきではないのだ、と考えるのである [LW
68-78]。このようなライプニッツの考え方は、すでに聖アウグスティヌスが『自由意志論』以来取り組んだ問題で
あり、アウグスティヌスにおいては人間の「自由」と神の「恩寵」の問題として考えられたのであった7。しかし、
ライプニッツ的な悪の問題の解決は、いわば「悪の問題を装飾用のアクセサリーのように考える」ようなものであ
って、当然のことながら多くの問題があることはいうまでもない8。しかし同時に、われわれは人間が有限な存在
者であり有限な知性しか与えられておらず、すべての出来事の意味が十全にわかるわけでもないという点をライプ
ニッツの考え方から学ぶことができるだろう。
2. カントの根源悪説 ─ 人間学的転換と「素質」/「性癖」二元論
悪の問題の取り扱い方はカントにおいて転換を遂げる。悪の起源についてのカントの問い方は、もはやライプニ
ッツのように神中心(宇宙論的・神学的)ではなく、単に人間学的なものとなるのである。なぜならカントにとっ
て本来的な悪とは、形而上的有限性とか自然的災害とかではなく、もっぱら「道徳的」な悪であるからなのである。
したがって、悪の問題はもはや弁神論の中では扱われない。それは「単なる理性の限界内」で取り扱われるのであ
る9。カントにおける悪の問題は、人間の選択の自由にまつわる悪、という人間的レベルにおける悪の問題なので
ある。本章ではカントにおける悪の問題の取り扱いを、「素質」と「性癖」という観点を中心として扱う。その際
これらが具体的に悪へと向かう可能性がどの程度あるのか、もしくはないのか、といったことが関心の中心となろ
う。
2.1 カ ン ト 的 悪 は 人 間 に ま つ わ る 悪 で あ る
人間は「生来」善であるのか、それとも悪であるのか。われわれがこう問う場合、人間に決定論的に備わった要
3
素を思い浮かべがちではないだろうか。それは例えば、何か生得的な遺伝要素や生物学的機構を指す場合もあろう
し、もっと形而上学的要素を指している場合もあろう。しかし、カントが人間の本性に関して「人間は善であるの
か、それとも悪であるのか」と問う場合に問題とされていることは、そのようなものではない。レーヴィットが「カ
ントが人間的本性における根源悪について述べるとき、その意味は動物的類としての人間をいうのではなく、自己
自身を理性と自由でもって悪へも善へも規定し得る、特に人間的なる本性を指している」[LW 80] というように、
カントが扱う悪はあくまで「自由な主体としての人間のあり方」、人間の選択意志にまつわる悪なのである10。わ
れわれは決定論的に本性から善や悪や善悪の混合などなのではなく、自由の中で、道徳的法則とその原則や格率に
拘束されることにより、人間として善や悪に自ら決定しうる存在なのだ、とカントは言うのである。レーヴィット
の言葉を借りれば、いわばカントは楽観論と悲観論の二者択一をさけて、人間に対して善や悪を選択する意志の可
能性を認める「中道派」なのである [LW 82]。カントの扱う悪の問題を考える際には、このことを良く認識しておく
必要があると思われる。
『宗教論』第一編において、カントはそのような人間にまつわる悪を、人間の「素質 (Anlage)」と「性癖 (Hang)」
とを対置して、この枠組みによって人間本性に存する悪を説明しようとしている。「人間本性のうちにある善への
根源的素質について (Von der ursprünglichen Anlage zum Guten in der menschlichen Natur)」[R 43]「人間本性
のうちにある悪への性癖について (Von dem Hange zum Bösen in der menschlichen Natur)」[R 47] というタイ
トルで示されているように、両者は各々「善」と「悪」に対する根拠として説明されている。以下においてはカン
トの「素質」/「性癖」二元論を解釈してゆく。
2.2 素 質 に つ い て
本節ではまず「素質」についてのカント説を概観し、カントが素質の段階として想定した三段階を デニス・サ
ヴェージ11にしたがって時間的・発達的側面から検討する。さらにそれらの各々の段階が悪とどのように関係する
か(あるいはしないのか)を検討することとする。
2.2.1 素質とその諸段階
カントによれば、素質とは「人間本性の可能性に属」し、「根絶することはできない」ような「存在者に必然的
な構成要素」であって、「偶然的 (zufällig)」ではなく「根源的 (ursprünglich)」なものである [R 46]。ただしカ
ントがここで問題とする素質は、人間に備わるあらゆる素質ではなく、「欲求能力と選択意志の使用とに直接関係
のある素質」[R 46] のみである。カントはこの「素質」を「目的との関連において」[R 43]、「動物性」/「人間性」
/「人格性」という「三つの部類に都合よく配分」[R 43] している。以下に各々の素質に関するカントの説明を示
す [R 44-46]。
1
2
3
素質名
内容
動物性
(Tierheit)
人間性
(Menschheit)
人格性
(Persönlichkeit)
・自然的、機械的な自愛で理性を必要としない
・自己保存、種族保存、社会性などの欲求
・他人と比較判断して自身の幸不幸を判断する自愛
・実践的ではあるが、他の動機のために役立つのみ
・「それだけで選択意志の十分 な動機である道徳法則」への尊敬の感受性
(Empfänglichkeit)
・それ自身として実践的な理性(無制約的に法則を与える理性)を根とする
4
fig. 1
各々の素質が「動物」「人間」「人格」と称されていることから判断すると、上記の三つは一種段階的・時間的
なものと想定されているようである。それでは果たしてこれらの三段階を時間的段階だと想定してよいのだろうか。
確かにカントはそのようなものとしては示さなかったが、それにもかかわらずサヴェージは「これらの活動化には
一定の時間系列が存することは明らか」[S 66] であるという。もしこれらを人間の発達段階と想定するならば、こ
れらは下位階層から上位階層(「動物性」→「人間性」→「人格性」)へと向かうにしたがって、必要とされる条
件が増加しているようなものであると考えられる。これは以下のような図で表現されるであろう。
制約の強度
強
素質名
人格性
+
引責能力
人間性
+
理性的
上位段階への
必要条件
動物性
弱
+
生
物
無生物?
fig. 2
ただしこれらの三段階が段階的なものであるとは言っても、下位の段階は上位の段階へと進む際に単純に切り
捨てられるのではない。サヴェージが言うように「十分に発達した個人においては、われわれの存在のすべての3
つの段階は同時に機能する」[S 66] のである。これをサヴェージは「動物性」/「人間性」/「人格性」の各素質
を、「感覚もしくは感覚的欲求」/「経験的理性」/「道徳的もしくは実践的理性」に各々対比させ、成人におい
ては各々の場合や目的に応じて使い分けられることによって、これらが同時に稼働すると論じている。
「われわれの 感覚と感覚的欲求 は、快楽や苦痛の知覚と感情を受動的に受容する。われわれの経験的理性は、対象や他の
人々を知り、それらをわれわれの計画を達成し快楽への傾向性を満足させるために用いる。そうしてわれわれの道徳的も
しくは実践的理性は、われわれの理性的本性の無制約的法則と一致することを見出して、そのように振る舞う」 [S 66]。
2.2.2 素質の諸段階と時間的発達
サヴェージによれば、「動物性」の段階である第一段階の活動は「誕生と共に、内的及び環境的刺激両方のわれ
われの神経システムへの衝撃によって」[S 66] 始まるとされる。それによれば「幼年期の初期には、われわれは純
粋に快楽/苦痛原則の下で振る舞う」のであり、「われわれは快楽を感じ欲求し、苦痛から逃れようと望む」が、
「未だ外的世界の事物を知るための対象概念を形成していない」 [S 66] のである。
次の第二段階(すわなち「人間性」の段階)の活動化は、「しばしば満三ヶ月頃に始まる」[S 66]。この時期に
は「われわれは、われわれ自身の身体や、他の人間や、世界の対象を知るために必要な基本的概念と原則のいくつ
かのものを発達させはじめ 、理性を、どの行動や対象が快楽をもたらし、どれが苦痛をもたらすかを発見するた
5
めに使用する」[S 66] のである。つまり、第一段階の「動物性」から、第二段階の「人間性」への飛翔には、理性
が必要とされるのである。ただしここでいう理性とは、上述の通り「比較をする自愛」[R 44] であり、『純粋理性
批判』において「悟性」が比量概念であったことととも相関しているのであろうか、「他人との比較においてのみ
自分を幸福であるとか不幸であるとか判断する自愛」[R 44] なのである。サヴェージはこの段階を「感覚的性質と
外的関係を伴った三次元の対象から構成された世界としての、世界の常識的視点の形成の始まり」[S 66] であると
している。この時期のはじめには、「われわれの選択はすべて快楽原則に支配されている」[S 66] のであるが、こ
れをサヴェージはフロイトの術語を用いて「現実原則 (reality principle)(実世界におけるわれわれの行動、対象、
他者の選択を支配する)が快楽原則(われわれの快楽知覚への欲求)に徐々に加えられる」 [S 67] と説明してい
る。これをカントの術語で言い換えれば、「幼い子供は行動と対象の選択においてもっぱら仮言命法によって活動
する」、すなわち「対象を純粋に快楽/幸福への欲求の満足の手段として使用する」ということなのである。要す
るにこの第二段階である「人間性」の段階においては「もし快楽を求め苦痛を避けることを望むならば、行動 X を
行い、人間 Y の助けを得て、対象 Z を避けなければならない、ということを学ぶ」 [S 67] のである。
最後の第三段階、すなわち「人格性」の段階は「だいたい三歳から四歳頃に始まる」12[S 67]。われわれは「人生
のこのレベル、この時期において、われわれの人格性の道徳法則を認識し始め」、「徐々に道徳的行為者としての
われわれの存在の無制約的な定言命法に直面」する。ここにおいて「重大な決定がわれわれに課せられる」[S 67] の
である。この段階では「われわれは事物の目的論的用途という大きな発見」[S 67] を始めるが、それはあらゆるも
のに目的が存することを理解しはじめるということである。とりわけ「われわれ自身の身体と人格が徐々に正しい
機能もしくは目的 ... を持つこと」[S 67] を知るのであり、例えば「目は見るために、耳は聞くために ... 発話は
われわれの思想をコミュニケートするために」[S 67] といったことが分かってくるということである。このような
目的の発見が、仮言命法から定言命法への移行を促すのである。
2.2.3 素質はどのような悪徳へと接木される可能性があるのか
カントによれば、これらの「素質」が「善」であるといわれる理由は、単に道徳法則に矛盾しないという意味に
おける消極的善であるだけではなく、道徳法則の遵守を促すような積極的な善への素質であるからだという [R 46]。
しかしながらこれらすべての「素質」がそのまま善へと結びついているのではない。これらの「素質」には悪徳へ
と向かう可能性が存しているのである。
まず、これらの「素質」がどのような悪徳へと向かう可能性が存するのかを考える。例えば「動物性」の素質に
ついては、カントは「さまざま悪徳が接木される (allerlei Laster gepfropft werden)ことがある ... これらの悪徳
は、自然の粗野の悪徳と呼ぶことができるが、それらが自然の目的に全く違反する場合には、獣的悪徳、すなわち
牛飲馬食、淫蕩、野性的無法 ... などと名付けられる」[R 44] と言っている。また「人間性」の素質は「何人にも
自分に優越することを許さず、他人がそのように努力したがってはいないかという不断の懸念と結びついている」
ゆえに、「次第に他人を越えた優越性を獲得しようとする不当な欲望が発現する」のである。「この欲望、すなわ
ち対抗心と競争心に、われわれが他人と見なすすべての人間に対する内密あるいは公然の敵意という最大の悪徳が
接木されることがある」し、さらには「この悪徳の度が最大の場合、例えば嫉妬、忘恩、他人の不幸を喜ぶ気持ち、
等々の場合には ... それは悪魔的悪徳と名付けられよう」 [R 45] とカントは言う。
これに反して第三の段階である「人格性」の素質は、豊田氏が「カントも特別の素質といっているように、素質
のうちに数えてよいのかという疑問もわく」13と指摘しているように、前の二段階の素質とはいささか事情が異な
6
るようである。「人格性」の素質は「道徳法則に対する尊敬の感受性」すなわち「道徳的感情」[R 45] なのであり、
この感情が選択意志の動機となって自然的素質の目的を形成するのである。この場合の選択意志は「よき性格」[R
45] であるが、カントは、このような選択が可能であるからには「いかなる悪も全く接木されることのできないあ
る素質がわれわれの本性のうちに存しなければならない」[R 46] と考える。つまり「第三の素質のみがそれ自身と
して実践的な、すなわち条件的に法則を与える理性をその根として持つ」[R 46] として、この素質が特別な位置を
占めていることを認めるのである。
2.2.4 素質の諸段階は悪への可能性を持っているのか
それではこれら素質の諸段階は端的に言って善なのか、悪なのか、それともそれら各々への可能態であるのか。
豊田氏が「われわれは素質のうちに悪の根拠を求めることはできない」[T 288] し、人格性という素質は「当然の
こととしていかなる悪ともかかわらない」[T 289] と指摘している通り、カント自身は、「これらすべての[三段
階の]素質は、単に(消極的に)善い(道徳法則に矛盾しない)だけでなく、善への素質(道徳法則の遵守を促す)
でもある」 [R 46] として、上記の素質がすべて善への素質であるとするのである。しかし実際には、先に見たと
おり、最初の二段階には悪へと接木される可能性が存することをカント自身が認めているのである。このような意
見矛盾ともいえるカントの言明を、われわれはどのように解釈すればよいのであろうか。
確かにカントの「素質 (Anlage)」の説明にはどこか曖昧なところがあるようにも感じられる。ある部分では、
「人間のうちにあるこれらすべての素質は ... 善への素質(それらは道徳法則の遵守を促す)でもある」 [R 46] と
して、「素質」が全面的に善への原動力であるような言い方をしている。ところがある部分では、カント自身「こ
れらの素質にはさまざまな悪徳が接木されることがある」[R 44] と言っているように、素質における少なくとも最
初の二段階は悪徳へと「接木」される可能性があることを、われわれは上で確認した。しかしカントはこれら最初
の二段階も含めて「素質」が道徳法則の遵守を促すといっているのである。
上記の矛盾をサヴェージを導きの糸として、以下のように解釈してみたい。サヴェージは第三の段階、すなわち
「人格性」の段階に達する前では、「われわれの選択は道徳的に良かったり悪かったりはしなかった」[S 67] と言
っている。確かに実際には最初の二段階における 選択は「快楽原則とその下位原則、現実原則 の快楽主義
(hedonism) によって統制されていた」[S 67] のではあるが、しかし「これは『純潔の時代 (time of innocence)』、
すなわち道徳外の時代」[S 67] なのである。なぜならその時期においては、われわれには快楽原則以外の選択肢は
存在していなかったからである。つまり「より高次の本性である道徳法則を未だ見出していなかった」[S 67] ので
ある。サヴェージはカントの『教育論』を引用してこれを証拠づける [S 67]。「しかし人間は本性において[すな
わち最初の二段階において]道徳的に良いのであろうか、悪いのであろうか?
彼はそのどちらでもない、なぜな
ら彼は本性的に道徳的存在ではないからである。彼は彼の理性が義務を法の観念を発達させた時にのみ、道徳的存
在となるのである」 14
つまり最初の二段階については善悪を言うことができないのである。しかしながら、最後の「人格性」の段階は、
もはや「純潔の時代」ではない。これは自身で善悪を選択する目的発見の時期である。つまり「われわれは自身の
意識的意志の一般格率として、快楽原則の仮言命法を採用するのか、あるいは新しく見出された望ましい一定の行
動、すなわち純粋にそれ自身が目的であるところの、徳もしくは義務の行動の原則に従うのか?」[S 68] という問
いを決定する時期なのである。
7
「もしもわれわれが 第二の選択肢を選ぶならば、たとえ常に感覚的欲求の誘惑に直面させられるにしても、われわれは無
制約的義務と徳の道を選ぶことになる 。もし最初の選択肢を選ぶならば、われわれは 道徳的悪の道を選ぶことになるが、
それは実際のところ新しく見出された形式的本性 を何ら尊敬しないということを、われわれが 宣言するからである 」[S 68]
これらから考えると、結局のところ、「素質」は善なのか悪なのか。カント自身が「素質は ... 善への素質(そ
れらは道徳法則の遵守を促す)でもある」 [R 46] と断っているように、素質自身が積極的に悪であるとは言えま
い。素質が悪へと「接木」されるとしても、それはあくまで可能性としての悪へと止まるのである。しかしたとえ
可能性に過ぎないとしても、上記の通り、素質は悪へと接木される可能性は存するのである。では素質は結果的に
悪となるのだろうか。おそらくここでは二通りの読み替えが必要となるであろう。つまり、道徳的責任をとり得る
段階に達しているか否かによって、素質が結果的に悪となるのか否かが異なってくるのである。サヴェージの段階
説を採るなら、素質のうち、最初の二段階はたとえ悪徳へと接木されたとしても、それは「純潔の時代」であるゆ
えに「道徳的に」は悪とはいえまい。ところがこれら三段階が同時に存すると考えられる既に成長した成人の場合
には、もし最初の二段階において悪が接木された場合には道徳的にも悪となるのである。成人においても前段階へ
と逆行可能であることは、フロイトが「退行」として示したことであった。メルロ=ポンティの言葉を借りれば「野
生の思考」というものが成人にも存するのである。いずれにせよ、「人格性」の段階に達する以前では、道徳的に
悪とは言えず、素質の第三の段階である「人格性」へと達した場合には、道徳的責任をとりうるゆえに、道徳的な
断罪の対象となるのである。つまり、素質が悪であるか善であるかは、どの段階で悪へと「接木」されるかによる
のである。
すべての段階の素質が消極的に善であることは、確かに上のように考えられよう。しかしカントはそれのみなら
ず、すべての素質が積極的に「道徳法則の遵守を促す」 [R 46] ような善であるとしているのである。これはどう
いう意味であろうか。確かに動物性と人間性の素質は、悪用ないし濫用されればさまざまな悪徳 (Laster) のもと
になるのであるが、悪徳自身は「素質を根としてそこから生じるのではない」[T 289] のである。豊田氏が「これ
らの素質は人間が人間であるためにどうしても必要なものなのである」[T 289] と指摘するように、素質は「人間
という存在が可能なために必要不可欠な意味を担っている」[T 289] のであり、この素質がなければ、人間は人間
であることは不可能なのである。例えば「動物性」の欲求は「自己保存」「種族保存」「社会性」などへと向かう
素質であるが、この基礎段階なしでは、より高次の「人格性」の段階へと進むことは不可能であるし、したがって
善へ向かうこともできなくなる。カントが「素質が ... 存在者の可能性に必然的に属している場合は、それらは根
源的である」[R 46] と言う通り、素質につけられている「根源的」(ursprünglich) という形容詞はこのような土台
としての根源性を意味しているのである。結局、悪へと接木される可能性すら存する「動物性」と「人間性」も含
めた素質が善へと積極的に道徳法則の遵守を促す、という意味は、それらが善へと向かう可能性への必須の基礎を
提供するという意味に解釈されよう。
2.3 性 癖 に つ い て
2.3.1 性癖とは何か
次にカントは「性癖 (Hang)」 について述べる。ここも「素質」の場合と同様に、「本来の悪 .. . すなわち道徳
的な悪」[R 47] と関連した「性癖」のみが問題にされる。カントは「性癖」を「人間性一般にとって偶然的である
限りの傾向性(習慣的欲望)を可能にする主観的根拠」[R 47] と定義する。ここでいわれる「偶然的」は、先に素
8
質についていわれた「根源的」と対を為しているのである15。カントがここで「偶然的」という術語を使用した理
由は、豊田氏の言うように、単に「性癖」が人間性一般にとって必然的ではないということを意味するだけではな
く、「性癖」が「自由にもとづくものであることを示している」[T 289] ということを含意しているのである。わ
れわれは「人間に悪へと向かう性癖があれば必ず現実的に悪へと向かう」とカントが言っているのではないことに
注意しなければならない。つまり、ここでいわれる「性癖」とは単なる「素因 (Prädisposition)」[R 47]、つまり内
的動因 (drive) に過ぎないのであって、外的な誘因 (incentive) による触発がない限り、必ずしも発現されるとは
限らないのである16。カントがこのように「性癖」を人間にとって決定的なものとしなかった理由は、「悪」に対
する「自由」の余地を残さんが為ではなかったかと思われる。若干議論を先取りしてしまえば、「性癖によって向
かってしまうような根源悪といえども、人間の自由によって選択されるものである」ということと密接に関係して
いることを示しているのである。
2.3.2 性癖の諸段階
ここでもカントは「素質」の場合と同様に、「性癖」を「三つの異なった段階」[R 48] に分析している。その各々
は以下の通りである。
1
2
3
性癖名
内容
脆弱性
(Gebrechlichkeit)
不純性
(Unlauterkeit)
性悪性
(Böseartigkeit)
道徳律に従って格率を形成しようとしながらも、志操堅固 でないために、感覚的・
経験的な動機を優先させてしまうこと
道徳律の動機のみによって 格率を形成できず、道徳律以外の感覚的・経験的動機
を混合してしまうこと
動機づけに於ける道徳的秩序を転倒させ、道徳律より感覚的 ・経験的動機を優先
させて格率を形成すること 。心情の倒錯。これは自由な選択意志にもとづいて行わ
れる。
fig. 3
これらの「性癖」は「もっとも善き(行為に関して)人間にさえも配せられている」ので「悪への性癖が人間に
あって普遍的」で「人間本性と織り合わされている」[R 49] とカントは言っているが、ここでとりわけ問題となる
のは、第三番目に挙げられた「性悪性」であろう。確かにカントにとって人間の悪とは、「道徳法則を自ら意識し
ながらもなお道徳法則からのその時々の違反を自らの格率のうちに採用している」[R 52] ことであり、この意味で
はすべての性癖が悪に該当するのであるが、カントは後の部分で「人間が(もっとも善き人間でも)悪であるのは、
ただ彼が動機を自らの格率に採用する際に、その動機の道徳的秩序を転倒することにのみよる」[R 57-8] と動機の
転倒による悪を「根源悪」としてとりわけ強調するからである17。カントにおける根源悪の問題を考える際にキー・
コンセプトとなるのは、「性悪性 (Böseartigkeit)」になるようである 18。
先に見たように、「性悪性」という語によってカントが意味しようとしたことは、人間には「道徳法則から発す
る動機を、他の(非道徳的な)動機よりも軽視するという格率に向かう選択意志の性癖」[R 49] があるということ
であり、その結果「自由な選択意志の動機に関してその道徳的秩序を転倒する」[R 49] という「人間の心情の倒錯
(Verkehrtheit)」[R 49] が起こるということである。 このような「性悪性」という性癖による「心情の倒錯」が「人
間は生来悪である」という命題に関連してくるのである。この「性癖」と「根源悪」との関連に関しては以下で検
討する。
9
2.4 性 癖 と 人 間 の 根 源 悪 。 根 源 悪 の 根 拠
本節では上記の「性癖」が格率形成の際の動機の倒錯によって「根源悪」を形成してゆくことを示す。
カントによれば、人間が悪であるということは「道徳法則を自ら意識しながらも、なお道徳法則からのその時々
の違反を自らの格率のうちに採用している」[R 52] ということである。つまり人間が悪であるということは、何ら
かの決定的生得因などによって無意識的に悪を行ったり、道徳的意識に到達する以前段階である「純潔の時代」に
悪を為したりすることではなく、道徳を理解できる段階へと到達し、かつ道徳法則を意識している19にもかかわら
ず、道徳法則以外の動機をもとにして格率を形成してしまうことである、とカントは言っているのである。このよ
うな非道徳的な格率形成が、上で見たような「脆弱性」「不純性」「性悪性」といった人間に存する「性癖」によ
って起こってくる、とカントは考えるのである。
それではこのような悪の根拠は何処にあるのであろうか。カントは以下のように悪の根拠は「感性」のうちにも
「理性」のうちにも求めることはできない、とする。
(1) 人間の感性と感性から発する傾向性のうちには根拠はない
悪への「性癖」には責任を負わねばならないが、天賦のものである「傾向性」には責任を負う必要がない
(2) 道徳的に立法する理性の腐敗のうちには根拠はない
道徳法則なしに自由に行動することは、法則を一切持たず作用する原因を考えるようなものであり、自己矛盾である
つまり「人間のうちにある道徳的悪の根拠を挙げるには、感性はあまりにもその含むところが少ない ... しかし
道徳法則から放免されたいわば邪意ある理性(端的に悪しき意志)はこれに反してその含むところが多すぎる」ゆ
えに、「この両者はいずれも人間に適用されることはできない」 [R 56] のである。
それでは悪の根拠は何処にあるのだろうか。
確かに現実問題として人間のうちに悪が現存することは、カントが「経験によって知られるような人間のあり方
からすると、人間はそのようにしか判定されえない」[R 52] とか、「法則に対する人間の選択意志の反抗という経
験的証拠」[R 56] によって立証することができる、と言っているように経験的・帰納的にならば証拠づけることは
できるだろう。しかしこのことは、悪への性癖の現実存在を示してはいても、その根拠まで立証するには至らない。
カント自身言うとおり「この証拠はわれわれにこの性癖の独自の性質やこの反抗の根拠を教えはしない」[R 56] の
である。むしろこの悪の根拠は「自由な選択意志」と「動機としての道徳法則」との関係にかかわる [R 56] ので
ある。
カントは悪の根拠を、人間の内的動機のうちに求めるのである。カントによれば、人間が善であるか悪であるか
の差異は、その人間が格率の内に採用する動機の差異、すなわち動機を与えるものが「道徳法則」か「感官刺激」
かという差異にあるのではない [R 57]。その人間が善であるか、悪であるかは、「道徳法則」と「感官刺激」のど
ちらを重視するか(「いずれを他方の条件とするかという従属関係」 [R 57] )というところにある。
「ある人間が(もっとも善き人間でも)悪であるのは、ただ彼が動機を自らの格率に採用する際に、その動機の道徳的秩
序を転倒することにのみよるのである。転倒するとは ... 道徳法則 こそが自愛を満足させる最高条件として選択意志 の普
遍的格率 に唯一の動機として採用さるべきであるのに、自愛の動機とその傾向性とを道徳法則遵守 の条件とする、という
ことである」[R 58]
10
つまり、人間が生来悪であるとはいっても、その悪性の根拠は「悪意」や「自己愛の感性的衝動」に求められる
のではなく、あくまで「格率の転倒」に求められるのである。むしろ逆に、「悪意」や「自己愛」は道徳的秩序の
転倒の結果として生じるものなのである。
「人間本性の悪性は、それゆえ 、厳密な語義での悪意、すなわち悪を悪として自らの格率のうちに 動機として採用する心
術(格率の主観的原理)であるところの悪意と呼ぶよりは(このような心術は悪魔的 であるから)、むしろ心情の倒錯と
名づけられるべきであって、この心情は今や結果に関して悪しき心情とも呼ばれる」[R 59]
善悪判断の基準は、格率の内容(感性的動機を優先するか、道徳律への尊敬を動機とするか)にあるのではなく、
形式(どちらの動機を優先するか)にある。「道徳法則を条件として自愛の法則を採用する」ならば「善」であり、
「自愛の法則(動機)を条件として道徳法則を採用する」ならば「悪」なのである。
α)善
β)悪(動機の転倒)
自愛の法則
道徳法則
自愛の法則
道徳法則
この傾向がある=根源悪
fig. 4
それではこのような悪の根拠として想定されている格率倒錯の原因は何処にあるのだろうか。カントは「悪がま
さしくわれわれ自身の所行であるにもかかわらず、なぜ ... 最高格率を腐敗させたかについては、われわれの本性
に属する根本性質についてと同様に ... 原因を示すことができない」[R 51] とする不可知論の立場をとっているよ
うである。カントにおいては、悪への性癖が一種の限界概念として捉えられているのである。これはカントの「物
自体」という概念と同様、要請された概念なのか否かはさらに論じられる必要があるだろうが、ここではこの問題
は取り上げることができない。
3. カントの根源悪説における諸問題
本章では『宗教論』におけるいくつかの問題点について検討する。第一には「人間が悪への自然的性癖を持つと
するなら、それは人間の行為の自由を否定し、決定論に陥るのではないか」という問題であり、第二には「心情の
倒錯による内的格率形成に悪を認める場合、他者が外的に善悪を判定する基準は何処にあるのか」というものであ
11
る。なお、最後にはいくつか論じ残した問題点についても簡単に展望することにする。
3.1 「 悪 」 と 「 自 由 」 の 相 克 と い う 問 題
カントの言う悪とは選択の自由にまつわる悪であった。われわれは本来、道徳法則を条件として自愛の法則を採
用しなければならないのに、逆に自愛の法則を条件として道徳法則を採用してしまうような「格率の転倒」を、選
択の自由にもとづいて行ってしまうような存在なのである。これがカントの指摘した「人間は根本的に悪である」
ということであった。しかしそれならば、いくらわれわれに選択の自由が許されていると言ってみたところで、最
終的には人間は悪を選ぶことになってしまい、何ら人間のうちに決定論的悪を想定する場合と相違ないのではない
だろうか。つまりわれわれには結局「自由」などないのではないだろうか。また、このように考えるならば、われ
われが悪い行為をするのは、人間に悪の原理が内在している以上仕方がないという口実をつくることになるのでは
ないだろうか。これは以下のような「本性的悪」と「自由」との関係についての疑問である。
・人間本性に存する「悪」は、人間の行為の自由を否定するのではないだろうか?
・行為が行為者の意志とは無関係に悪へと決定され、行為の責任を帰することが出来なくなるのではないだろうか?
この点について、例えば豊田氏は「人間は生来 (von Natur) 悪であるというテーゼ ... が彼の理論的前提であ
る自由の行使と矛盾なく両立しうるのかどうかは問題」であるし、「善でも悪でも自由に選びうるという前提を崩
さないで、しかも人間は生来悪であるという命題を主張することにはどう考えても無理がある ... それをカントは
敢えてなそうとするのである」[T 288-289] と指摘している。『宗教論』発表当時、「人間は生来悪である」とい
うテーゼが、狭い哲学の領域を越えて各方面にさまざまな波紋をなげかけないではすまなかったという事情もおそ
らくこのあたりにあるのだろう。科学技術の発展に裏付けられた理性への信頼をその特色とする啓蒙の 18 世紀に
おいて、カントの「人間は根本的に悪」という断言に対して、彼の信奉者たちの間には戸惑いが大きく、失望の色
は隠せなかった。例えばゲーテは「全人生をかけてあらゆる偏見のしみから自らの哲学的マントを清めてきたカン
トは、今や軽率にもそれを再び根源悪という恥ずべき汚点で汚してしまった」と評しているし、シラーも「悪への
性癖」という考え方を腹立たしいものと言ったと伝えられる。彼らの反発の理由は、宗教的理由(根本悪説がキリ
スト教の原罪説をどうしても想起させてしまう)だけではなく、啓蒙の時代における人間理性への信頼に対してカ
ントが「離反」したと感じたことにも原因があるようである。ルードウィッヒ・アルムブルスター先生が指摘され
るように、「もし人間が根源的に悪いものであり、人間のあるがままの自然の姿は善ではなくて悪なのだとすれば、
啓蒙のプログラムそのものが考え直されねばならない」[A 359] といったことになってしまうからである。
実はカント自身も、常識で考えるならば「人間本性のうちにある根本悪」という表現が「本性と自由の矛盾」と
いう上述のような誤解を招いてしまうことを認めている。
「本性という表現が、(通常そうであるように )自由から発言する行為の根拠とは反対のものを意味するとすれば、それは
道徳的に善いとか悪いとかいう術語とまったく矛盾することになろう」[R 36]
しかしながらカントは「本性的悪」は「自由」とは矛盾せず、たとえ人間本性のうちに悪が存していようとも、
やはり人間は自由なのだという(「道徳的悪は自由から発現すべきものである」[R 50])。これは一体どういうこ
12
とであろうか。以下にカントの主張を見てみることにする。
カントは、「道徳的に悪である(引責可能である)」ということは「われわれ自身の行為 (Tat) であるところ
のもの以外ではない」としている [R 50]。つまりある人を悪であるというからには、その人が何らかの行為を既に
事実として行っていなければならないということである。しかし一方では「性癖」は行為以前のものであったので
はないか。カントが「人が性癖という概念で理解するのは、あらゆる行為に先立つところの、したがってそれ自身
はいまだ行為ではないところの、選択意志の主観的規定根拠である」[R 50] と言うとおり、「性癖」は行為以前の
ものであって、このような行為以前の「性癖」によって行為するならば、その行為に対して道徳的善悪を問いえな
いのではないだろうか。カントは「悪への性癖」と言うが、「悪への性癖」なる表現には矛盾が存するのではない
か。ここには「行為以前」のものである「性癖」を「行為以降」の「悪」としてしまう時間的矛盾が発生するので
はないか。カント自身も以下のように問うている。
「そこでもしこの行為という表現が、双方ともに 自由の概念と両立しうる二つの異なった意義で理解されることができな
いとすれば、悪への単なる性癖という概念のうちには矛盾が存することになろう」[R 50]
ではカントはこれに対して如何なる回答を用意するのか。彼はこの難問を「行為」の解釈を二通りのレベルへと
分節することで切り抜ける。つまり
α)「行為 1」: 「最高格率を選択意志によって採用する場合」の意味での行為
β)「行為 2」: 「行為そのものを格率にしたがって行う場合」の意味での行為
という異なるレベルである。
「悪への性癖」は「行為 1」(これは本源的罪 peccatum originarium である、とカントは言う)であり、この
場合の「行為」は最高格率を選択すると言う意味での「行為」である。これは「叡知的行為であって、一切の時間
制約を受けず単に理性によって認識される」[R 51] ゆえに、無時間的であり、時間/空間的な「行為2」に先だっ
ている。ここにおいては選択の自由が存する。しかし「悪への性癖」によって倒錯した格率を形成されるゆえに、
現実的な「行為2」としては、「自由」ではない。しかし格率自身を叡知的レベルで選択する場合には、われわれ
はあくまで「自由」なのだ、というのがカントの説明である。
α) こちらのレベルで見れば性癖と悪は矛盾しない
最高格率を採用する行為
性癖にもとづき格率を選択
影
叡知的・無時間的
響
時間/空間的行為
可感的・経験的・時間的
格率にもとづく行為
13
β)こちらのレベルで見れば性癖と悪は矛盾する
fig. 5
一見行為以前のものである「性癖」と矛盾するかのように思われた行為以後の「悪」は、「可感的であり経験的
であって、時間のうちに与えられる(現象的事実 factum phaenomenon)」[R 51] 行為ととったために生じた矛
盾であった。ギルバート・ライルの『心の概念』での術語を用いるならば「カテゴリーミステイク」の結果生じた
矛盾であるとでも言えようか。しかしながらこのような説明で「人間は自由である」といわれてみたところで、何
か「二枚舌」によってうまく言いくるめられたような不誠実さを感じてしまうのではないだろうか。
例えば、非時間的な「最上格率の選択」というカントのこのような説明に関して、豊田氏はカントに「時間的な
発想」と「非時間的な発想」の混同があると指摘している。「この『最上格率』という考え方がそもそも問題なの
である。『絶対的自発性 (die absolute Spontaneität) 』としての意志の自由は、言うまでもなく時間的な因果系
列に属する働きではない。そのような時間の秩序に属さない働きに『最上の根拠』『最初の根拠』『唯一のもの』
といったことを考えることが果たして妥当であろうか。というのもそれによっていつの間にか時間的な発想に陥っ
てしまっているのではないかという危惧が否めないからである。したがって問題は現象としての行為の根底に可想
的働きを想定することそのもののうちにあるのではなく、仮想的な行為と経験される行為との関係を時間的因果的
に考えてしまうところにある ... カント自身(最初の根拠が)『時間のうちにおいて得られたものではない』と断
っているが、それがいつの間にか時間的説明のようになってしまっているところに問題がある。」[T 290-291]
カントは、人間が現実に行っているさまざまな悪を考えて「人間は根本的に悪である」と考えざるを得ないが(カ
ントは『宗教論』において、世界中で行われている人間のさまざまな悪に満ちた行為を、これでもかと言わんばか
りに列挙している)、しかし人間の自由を何とか擁護したかったという意図は十分理解できる。しかしながら「性
癖」/「悪」にまつわる自由概念の説明は、いささか牽強附会の感なきにしもあらずである。アルムブルスター先
生が指摘されるように[A362]、カントの根源悪説は、人間が有限な人間理性の中で考える(哲学)ときに突き当た
る限界を示しており、そこに宗教への出会いの展望を開くものという見方もできるであろう。
3.2 現 実 的 行 為 の 善 悪 の 判 定 基 準 の 問 題 ─ 行 動 主 義 的 判 定 基 準 の 不 十 分 性
人間には道徳法則以外の動機によって自らの行動基準となる格率を採用する傾向があり、これがカントが「根本
悪」と呼んだものであったことを、われわれは上で確認した。これはいわば内面的、内観的な「悪」であった。そ
れでは人間の行動が善であるか悪であるかはどのように判定すればよいのであろうか。われわれは一見道徳的と見
える行為でも、その実非道徳的な動機から発せられる行為が現実的に沢山存することをいやと言うほど知っている。
例えば電車中で体の不自由な方やお年寄りに席を譲った場合でも、それが「世間の目」という動機によって為され
る場合もあろう。また、善行を施すことで優越感を覚える満足のために、他人に善をなす場合もあるであろう。た
とえ外面的には全く同一の行動であっても、必ずしも善とは言えないことがある。ある場合には、確かに善行は道
徳的動機から採用されたのかもしれないし、別の場合には自愛にもとづいてそうされたのかもしれない。しかしわ
れわれははたして自己の行為がどちらにもとづいて行われたのかを、いつもつねに明確に意識レベルにまで引き上
げて行動しているのだろうか。咄嗟の行為や緊急の救命行為などの時はどうなのだろうか。
先に見たように、カントにしたがって考えるならば、われわれが現実的行為の善悪を判断する際には、「道徳的
秩序が転倒されていないか否か」にもとづいて考える必要があることになる。カントが問題とするのは、道徳的動
機と非道徳的動機のどちらを重視して行動したかということであった。われわれが先にカントの「性癖」論におい
14
て見たように、非道徳的動機が混じっていたり(不純性 Unlauterkeit)、感覚的動機を優先させたり(脆弱性
Gebrechlichkeit)することによって、本来の道徳的秩序を転倒させる(性悪性 Böseartigkeit)ならば、たとえ外
面的・行動主義的判定基準では理に適った行為であっても、それは「単なる偶然にすぎない」[R 50]のであって、
やはりその行為は「悪」なのである。カントはこのことを「経験的性格は善であるにしても、叡知的性格はやはり
悪なのである」[R 58] と言っている。また別の場所では、倒錯した格率の選択を第一の行為、現実的行為の選択を
第二の行為として、「たとえ第二の罪責(法則そのもののうちには存しない動機から生ずる)がしばしば回避され
るにしても、第一の罪責は何処までも残る」[R 51] といっている。カントにしたがえば、表面に現れた行動の適法
性も、いわば叡知レベルで見た格率の採用まで考慮しない限り、その行動を善と言うことはできないのである。言
語学者チョムスキーの思考枠を用いれば「表層構造」(shallow structure) と「深層構造」(deep structure) との区
分を行った上で、前者のみならず後者をも射程に入れて善悪を判断せねばならない、ということになるであろうか。
もしわれわれが「道徳的命令を意志に取り入れるとしても、その命令の遵守を自己愛の下位に置くならば、その行
為はたとえ外面的には道徳的法則にかなっていようとも、やはり道徳的悪」[LW 84] なのである。結局のところ、
ある行為が道徳的であるか否かは、行動主義的観点では把握不可能なのである。カントにしたがえば、われわれは
ある行動が道徳的であるか否かを判断する場合には、行為者の「内面的」な意識構造を問題にしなければならない
ことになる。行為者がその意識レベルにおいて「道徳的命令」と「感性的衝動(自己愛)」を秤にかけ、前者にも
とづいて行動したときにのみその行為は道徳的行為であり、逆に後者の「感性的衝動」に基づいて行動した場合は
道徳的でない。われわれが道徳的命令に対する尊敬と感性的衝動との秩序順位を取り違えるような場合が「道徳的
秩序の転倒」すわわち「悪」なのであり、これがカントが人間に宿ると指摘した根源悪なのであった。
このようにカントは行為に於ける内的動機を重視して、外的な判定基準のみでは不十分であるとするのであるが、
それでは内的な道徳的善悪の判断基準は何処に求められるのであろうか。カントはそれを、「字句通りの道徳法則
を遵守(法則の文字 Buchstabe を遵守している)」と「精神にしたがった道徳法則を遵奉」という差分に求めて
いる 20。
「行儀のよい 人間と道徳的に善い人間との間には、行為と法則との一致に関して、いかなる 差異もない (少なくともない
としてかまわない )。ただその行為が、前者においては ... 決して法則を所有していないのに 対し、後者にあっては 法則
をいかなる時にも唯一最高 の動機として所有する、という差異がある。前者に関しては、彼は法則を字句通りに(つまり
法則の命ずる行為に関して)遵守すると言えるが 、後者に関しては 、彼は法則を精神にしたがって (道徳法則 の精神は、
この法則だけが動機として十分であるという 点にある)遵奉すると 言えよう ... もし選択意志 を合法則的 な行為へと規定
するのに 、法則そのものとは別の動機(例えば名誉欲とか、自愛一般とか、さらには 同情といった 類の情け深い本能にし
ても)が必要であるならば 、この行為が法則と一致するのは単なる偶然に過ぎないからであって、それというのも、これ
ら他の動機が行為をして法則に違反せしめる 事も同じくあり得ようからである。それゆえその善悪によって人格の全道徳
的価値が評価さるべき格率が所詮反法則的なのであって 、人間はその行為が純粋に善である場合にもなお悪なのである」
[R 49-50]
しかしながら、ある人間がどのような動機でその格率を採用したのか、すなわち、果たして「字句通りの道徳法
則を遵守したのか」、それとも「精神にしたがった道徳法則を遵奉したのか」ということは、当人以外の他者はも
とより、しばしば行動している当の本人にも知ることは難しいのではないだろうか。日常的には、自らがどのよう
な格率(ルール)に則って行動しているかは明示的に意識されていない場合が大多数であろう。われわれは散歩中
15
に次の一歩を踏み出すときに「次はこちらの足をこのぐらいの距離で前に出して…」などといちいち意識して歩い
ているわけではない。われわれにはいわば意識レベルには上らないような、一種の「身体知」のような習慣化され
た行動様式があるのであり、道徳的な行為がこのような身体知レベルにまで落とし込まれたような人間に対して、
カントはその人間の行為は道徳法則の尊敬にもとづかないゆえに善ではないと判定するのであろうか。
実は人間の知識がしばしば明示的な意識レベルには上らずに身体化されている、という点に関しては、1980 年
代から盛んとなった、工学における人工知能(Artificial Intelligence) 研究の試みの一つである「エキスパートシス
テム」(ES)とよばれるソフトウェア構築の際に明らかになってきたことである。ES とはある特定分野の人間の専
門家(例えば医者や法律家やパイロットのフライトスケジュールのスケジューラなど)に代わって、コンピュータ
ソフトウェアがアドバイスや推論を行うものである。現在最も利用されている ES は、おそらくインターネットや
携帯電話上の鉄道経路探索システムであろう。
ES は一般に「推論エンジン」(inference engine) と「知識ベース」(knowledge base) と呼ばれる部分から成立
しているが、後者の知識によって、前者の推論機構が解(適切な答え)を導出してゆくのである。この「知識ベー
ス」はソフトウェアの設計者が、インタビューによってある専門家の知識をコンピュータ上にルールの形で移植し
てゆく(これを知識獲得と呼ぶ)のであるが、一般に専門家は自らの知識を明示的な言語へと表現することが難し
いし、
逆に ES設計者にとって最大の難関は、どのように専門家から明示的な知識を引き出すかという点にあった。
この時明確となったことは、いかに人間が明示的ではないルールに従って行動しているかということであった。専
門家自身にとっても、実際に自らがどのようなルールにのっとって園判断を行っているのかが、明確に言語化でき
ないことが多いのである。いわゆる「カン」や「コツ」が専門家の知識に大きな比重を占めているのである。ジョ
ン・サールが指摘するように、ちょうどうまくスキーをすべる規則は言語化できないが、身体的にはそれが染み付
いて上手にスキーが滑れる場合のように、われわれの知識は非言語的(言語以前的)な「背景」(Background)知
識に取り囲まれているのであり、マイケル・ポラニーの表現を使えば、一種の「暗黙知」(tacit knowledge) のよ
うなものに支えられているのである 21。
このように、われわれの意思決定の動機がしばしば明示的な言語化を拒むものであってみれば、カント自身も「人
間の格率を通じて道徳的秩序に反した動機の転倒が為された場合でも、その行為が、なおあたかも真正な根本法則
から発したかのように、合法則的になることも十分にありうる」[R 58] と言うとおり、ある行動が道徳的であるか
否かを決定するための基準 (criterion) を見極めることはきわめて難しい問題でとなるであろう。道徳的判断基準
を人間の内的動機に求めてゆくならば、「他者の心」という問題に端を発して、この問題は人間の社会性の問題へ
と発展していくように思われる。カントはこれに対してどのような回答を用意するのであろうか。
3.3 そ の 他 の 問 題
まだまだ論じ残した問題は多い。例えば以下のような点が考えられる。
・カントは感性的動機に基づいた格率を選択することを「悪」というが、果たして感性的動機に基づいた格率が全
面的に悪なのであろうか。コンラート・ローレンツが動物行動学で「いわゆる悪」の有用性を説いた22ように、わ
れわれにとっても感性的諸動機に基づく行為も善である可能性もあるかもしれない。これは「感性的衝動(自己
愛)」と「道徳的命令」を明確に二分化できるかどうか、つまり「厳格主義」が妥当なのか否かという問題ともな
るであろう(カント自身は all or nothing の厳格主義を断固としてとるべきことを『宗教論』冒頭で述べている)。
16
・カントは人間が動機の倒錯を行ってしまう傾向があり、これから人間は生来悪であるとしたが、ではわれわれは
悪のまま止まってよいのか。われわれが善へと向かうにはどうすればよいか。彼は『宗教論』の後半で、われわれ
は、「悪への自然的性癖」(ein naturlicher menschlich Wesen) が「自然的」に人間本性に存するが故に、これが
「人間の力によっては根絶することができない」としている。人間は漸近的に善へと向かう(漸次的改革 Reform)
のではなく、「心情の革命 Revolution」という「一種の生まれ変わり」によるほかなく、このことがいかにして
可能かは「全くわれわれの理解を超えている」という。このようなカントの考えが、果たしてどの程度まで宗教と
接触するのか。果たしてこれは「回心」であるのか。このことは「理神論」の枠内のみで(単なる理性の限界内で)
万人に納得させられる説明を提供することができるのか否か。
これらの諸点については、別の機会に論じたい。
1
Kant, I, Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft, Herausgegeben von Karl Vorlaender
(Philosophische Bibliothek Band 45.) , 7. Auflage, 1961. 飯島宗享、宇都宮芳明訳『宗教論』(カント全集第 9 巻)理
想社、1974.以下“R”と略。
2
Löwith, K., “Die beste aller Welten und das radikal Böse im Menschen” (1959/69), in Wissen, Glaube und
Skepsis: Zur Kritik von Religion und Theologie (Sämtliche Schriften 3), Stuttgart, 1985. 『最善の世界と人間の根源
悪』佐藤明雄訳、未来社、1990.以下“LW”と略。
3
彼らが世界が秩序に支配されていると考えていたことを示す例として、彼らが世界のあらゆる「秩序にしたがって
(kata kosmon)」いるもの対して「コスモス」という術語を当てたことでわかる。例えば「庭園の人工的構図、一切の装
飾物、優れた小説の筋書き、法秩序、軍隊秩序、良き躾を受けた人間の内面的精神状態」などに「コスモス」が適用され
る。 プラトンは「自分の身体の自制や躾ある振る舞いを kosmion とか kosmiotes と呼んだ」のである。[LW 59]
4
レーヴィットによれば、起源1世紀ごろのローマ将軍であり自然研究者であったプリニウスは、世界は「神聖にして永
遠、量り得べからざるのものであり ... 全体そのものである ... 世界は ... 外に現れたもの、内に隠されたものの一切を
包括し、事物の本性の働きであり、同時に事物そのものの本性でもある」と考えたという。[LW 62-63]
5
Aurelius Augustinus : De Civitate Dei, XI, 4. 『神の国』(三)、岩波書店、p. 15.
6
山田晶「創造と悪」『アウグスティヌス講話』所収、新地書房、1986.同「罪と悪」「悪の存在」『アウグスティヌ
スの根本問題』所収, 創文社, 1977, pp.117-118.
7
この点に関しては、山田晶「創造と悪」(上掲書)を参照。山田先生は、アウグスティヌスの「なぜ膳なる世界にあく
が存在するのか」という問題意識を、道元の「山川草木悉皆成仏といわれながらなぜ悪が存在するのか」という問題意識
と比較しながら考察されている。山田先生は、この世界がすでに神によって善なるものとして「創造されてしまった」の
ではなく、今現在も神によって「創造されつつある」いわば現在進行形の解釈をすることによって、悪の存在の意味を認
めることを指摘されている。そうして私たちはこの悪をなくすように、神の創造の業を手伝うように招かれているのであ
る。
8
このような考え方のみでは、たとえば 20 世紀の気の遠くなるような悪の問題(アウシュビッツや広島・長崎の問題な
ど)に対しては「野蛮である」ともいえるであろう。神義論的な問題に関しては、現代的な問題も視野に入れた Davis,
Stephen T.、本多峰子訳『神は悪の問題に答えられるか―神義論をめぐる五つの答え』、2002.が詳しい。
9
このようなカントの問い方に対して、レーヴィットは「その問いは一切を包括する世界秩序の卓越性とか欠如性を本質
17
的に忘却したもの」[LW 81] であると評している。また西田はカントのような「単なる理性の限界内」では、宗教を論
じることはできないと批判している。西田によれば、カントは道徳については「此の如き明晰なる意識を有つて」いたに
もかかわらず、宗教に関しては「唯道徳的意識の上から宗教を見て居た」のである。なぜなら「カントに於ては、宗教は
道徳の補助的機関として、その意義を有する」のみであるからである。西田は、「私は、カントに於て、宗教的意識その
ものの独自性を見出すことはできない。カントはさう云ふものを意識してゐたとは考へられない。単なる理性 blosse
Vernunft の中には、宗教は入つてこないのである。宗教を論ずるものは、少くとも自己の心霊上の事実として宗教的意
識を有つものでなければならない。然らざれば、自分では宗教を論じて居る積りでいても、実は他のものを論じてゐるの
かもしれない」と評している(西田幾太郎「場所的論理と宗教的世界観」、『西田幾太郎全集』第 11 巻、p.373.)。
アルムブルスター, L.「カントにおける『根源悪』」、『現代思想』vol. 22-04 所収、青土社、1994、p.360.
10
11
Savage, D., "Kant’s Rejection of Divine Revelation and His Theory of Radical Evil ", in: Philip J. Rossi and
Michel Wreen (ed.), Kant's Philosophy of Religion Reconsidered, Indiana U. P., Bloomington and Indianapolis, 1991.
以下“S”と略。
12 メルロ=ポンティ(M. Merleau-Ponty, Les relations avec autrui chez l’enfant, in: Les cours de Sorbonne, Centre
de documentation universitaire, 1962. 「幼児の対人関係」、『眼と精神』所収、みすず書房、1966、p.189)によれば、
幼児は三歳頃になると、自他未分(ここでいう「他」は状況も含んだ再広義での「他」である)の「癒合的社会性」の段
階を越えて、経験を再構成できるような主観へと分化し、自他の間に「生きられる隔たり」を作り上げるという。その端
的な例が「遠近法」の取得である。ただし前段階は全く切り捨てられるのではなく、「遠くへと押しやられる」だけであ
るという。道徳法則の認識が可能となる「人格性の段階」と、自他の分化の時期がほぼ同じであることは重要なことであ
ると思われる。
13豊田剛「カント哲学に於ける『悪』の問題」、浜田義文編『カント読本』所収、法政大学出版、1989、p.289.以下“T”
と略。
14
サヴェージはまた『教育論』の以下の記述を参照するように指示している。「われわれはしばしば(まだ道徳的理
性の年齢に達していないような)子供に対してしばしばこのように言う:『まぁ、恥ずかしい (Fie, for shame!)、そん
なことしてはいけませんよ』などなど。しかしながらこのような表現は、このような教育の初期段階では役に立たないの
である。なぜなら子供はいまだ恥ずかしいとか上品だとか言った感覚を持っていないからである。彼は(このような初期
段階では)何ら恥じ入ることもないし、また恥じ入るべきでもないのである」
15
素質に関する説明において、カントは「根源的」と「偶然的」を以下のように説明している。「これらの素質がこう
した存在者の可能性に必然的に属している場合には、それらは根源的であるし、その存在者がそれら素質を書いてもそれ
自身として可能であるならば、それらは偶然的である」[R 46]。「根源的」/「偶然的」という対概念は、ほぼ「必然的」
/「偶然的」という区分に対応しているようである。
16
カントはアルコールを全く知らない未開人の場合でも、アルコールに対する「性癖」は持っているのであり、一度ア
ルコールを飲めばその素因が発現するだろうと言う [R 47-48]。
17
豊田氏はカントの挙げた性癖のうちでは「第三番目の性癖が本来問題の中心であって、それに比べると前二者は相対
的に罪の軽いものである」[T 290] と言っている。また氷見氏(氷見潔「カントの宗教論」、大峯顕編:叢書ドイツ観念
論との対話第 5 巻『神と無』所収、ミネルヴァ書房、1994、p.46)も「決定的な重要性を持っているのは、第三番目に
挙げられた『性悪性』のみ」としている。
18
氷見氏(上掲書)によれば、他の二つである『脆弱性』と『不純性』とは、すでに『実践理性批判』でも、人間が感
性的・経験的存在者であることに由来する不可避的制限として捉えられ、実践的自由を実現せず自然法則的因果性の中に
落ち込む人間行為の非自由性と捉えられていたのに比べて、第三の「性悪性」は新しい自由の概念を示しているという。
18
19
カントにとっては道徳法則が人間である限り誰にとっても意識されることは疑い得ぬ事実であった。「人間は(もっ
とも邪悪な人間においてすら)たとえどのような格率においてであれ、道徳法則をいわば反逆的な仕方で(服従拒否を宣
言して)放棄することはない。道徳法則は、むしろ人間の道徳的素質によって、抗しがたく彼に肉薄してくる」[R 57]
この「文字」と「精神」という対比概念は、バウムガルテンの「法則の文字 littera legis」と「法則の精神 anima legis」
20
に由来するものであり、カントにおいては「文字」とは適法性が意味されると中島は指摘している[N 136]。もちろんこ
こには、聖書の「文字は殺し、霊は生かす」(コリント人への第二の手紙 3:6)が踏まえられているのだろうと思われる。
21
M. Polanyi, The Tacit Dimension, Routledge, London, 1966. J.R. Searle, Intentionality, Cambridge, 1983. J.R.
Searle, The Rediscovery of Mind, MIT, 1992. J.R. Searle, The Construction of Social Reality, Free Press, 1995.
22
撃
ローレンツは動物の同種族間の「攻撃」が、ある環境に於ける有限的な食料という観点から見て有用であることを『攻
悪の自然史』で示した(コンラ−ト・ロ−レンツ、『攻撃
悪の自然誌』日高敏隆訳、みすず書房、1985)。彼に
よれば魚(彼は熱帯魚の観察からこれを発見したという)が相互に攻撃を行うのは、餌場を同種族どうしで奪い合わない
ためであり、異種族のものは食料が異なるため、このような攻撃は観察されないという。これは実際に攻撃されない場合
には、「儀式化」されることになる。例えば人間の場合、インディアンが攻撃のかわりに相互に煙草を吸ったり、握手と
いう儀式を行ったりしている、という。
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