1.納得しにくい Bayes 解 観察データから仮説の信頼度を見積もるという問題において,確率の理解を試すための 認知心理学の例題として 3 囚人問題というものがある.これはきわめて特殊な状況下での, 情報の取得/不取得による事後確率の判断を問うものである.もっとありふれた問題として クイズショーの解答者という設定にした 3 ドア問題という形式もある.これらに対する解 答や意見は種々雑多な幾つかに大きく分かれる.正解は Bayes の定理にしたがった推論によ るものとされる.しかしその定理の式の数学的説明や,起こりうる場合を列挙することに よる説明には納得しても,この問題の解としては「受け入れられない」,あるいは「変であ る」,「何か見逃している」という納得出来なさがほとんどの人に残るようである. この現象に対し,認知心理学者たちは問題の状況が日常生活で起きることとあまりに異 なっているので Bayes 解を受け入れられないのであろうと考え,日常生活で起こりうるであ ろう状況に翻案して実験をすると正解率や納得率が上がると報告している.また継起して 起こりうる場合分けをし,それを木の枝のように表したツリーチャートよりも,円グラフ による表示の説明の方が,パラメーターを変えた場合の確率の変化に直感的に対応できる としている. 一方,Bayes の定理は帰納法をめぐった Wien 学団の論理実証主義哲学者たちの議論の中 で,確率的帰納法とか Bayes 主義という仮説の信頼度を観察から修正していくと言う操作の ための主観確率を修正する基本的算法として用いられて来た.また学習過程のモデルでも ある.その後,ケンブリッジ大学のモラル・サイエンス・ファカルティー(グループとし ては Apostles と呼ばれた)の分析哲学者たちによって主観確率の解釈は少しずつ整備され てきた.そこでの論争のなかでも,Bayes の定理に現れる事前確率に対して不充足理由律(特 にどれかの場合が他の場合より起こりうる可能性が高いと言う理由が無ければ確率は同じ とする)を用いる事の是非やパラドックスなどが論じられた.また主観確率に対して必ず 実数値を対応させなければならないのか,またもしそうだとしても,有る個人のその人に とっても具体的な確定数値が意識されているわけでない主観確率の値を,どう他人が客観 的に測定するのかという問題なども論じられた. このようなこともふまえて,新カリキュラムでの科目「情報分析論」で取り上げる意志 決定論での Bayes 推論の提示のために,代表的例題である 3 囚人問題を考察する. 2.で 3 囚人問題等に対して用いられる Bayes の定理について述べた後,3.で 3 囚人問 題を説明する.その後4.で確率を信念の度合いとして理解する,確率の論理解釈と主観 解釈をおさらいし,それらの難点を考察する.5.では確率の謎の大いなるものの一つで ある,不充足理由律を考え,最後に6.で 3 囚人問題について考察する. 2.Bayes 推論と確率的帰納法 Bayes の定理は数学的確率の定義から直ちに示されることで,式で書けば, ( ) p xk a j = ( ) p a j x k p (x k ) (1) ∑ p(a x )p(x ) n j i =1 である.ここに p (⋅) は確率を表し,また p ( i i ) は条件つき確率である. xi は n 通りあるうち の i 番目の仮説である.a j は m 通りあるうちの j 番目のデータが観察されるという事象を表 す.仮説もデータの方も完全事象系を成すとする. 右辺と左辺で条件付き確率の引き数で, 縦棒の左右が入れ替わっていることに注意されたい.所謂「逆確率」,「確率の逆算法」で ある. 左辺は仮説の事後確率,右辺の条件つき確率は仮説の下でそのデータが得られる確率で データの「尤度」と言われる.右辺の仮説の確率は事前確率と呼ばれる.左辺の条件付き 確率は「確証度」とか「信念の度合い」とも言われる. この式は 1763 年にスコットランドの聖職者 Thomas Bayes によって死後出版という形でロ ンドン王立協会紀要に提出されたと言われるが,それ以前にも Jacques Bernoulli(1713)に議 論がある.Bayes 自身はこの式を証明したのではなく一部だけ,すなわち p (a x )p (x ) p (x a ) = (2) p (a ) を示している. (1)式の形は,Pierre-Simmon de Laplace によって 1774 年にフランス科学ア カデミー紀要に発表された.したがって Bayes- Laplace の定理とも言う.その後この式は彼 の有名な『確率の解析的理論』の序文で,後に独立に出版された「確率に関する哲学的試 論」で論じられている.その後フランス革命の啓蒙思想家 Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat de Condorcet 侯爵の教育システム改革の一環の社会数学構想で論じられることになる. (1)式の例としてデータも仮説も 2 通りの場合で書いてみる.2 つの袋に赤玉,白玉が入っ ているとする.目をつぶってどちらかの袋をつかみ,次にその中の玉を 1 つだけ取り出し 色を確かめるとする.数値例として,袋1には 99 個の赤玉と 1 個の白玉が,袋2には 10 個の赤玉と 90 個の白玉が入っているとする.袋を選ぶ確率は 0.5 ずつであるとする.そし てデータとして赤玉が得られたとしよう. ( ) p 袋1 赤 = ( ( ) p 赤 袋1 p (袋1) ) ( ) p 赤 袋1 p (袋1) + p 赤 袋2 p (袋2 ) 0.5 × 0.99 = =0.90825 0.5 × 0.99 + 0.5 × 0.1 (3) の様に計算される.すなわちほとんど赤玉という袋とほとんど白玉という袋があって,そ こで赤玉が出たなら赤玉優勢の袋をつかんでいた可能性が高い.白玉優勢の袋から赤玉が 出てくる確率は低いと言うことである.ツリーチャートを書いてみればこの計算に対して 納得がいくであろう. David Hume の懐疑論によれば,帰納法は帰納法によってしか正当化されない.帰納にお ける確証や反証の問題はあまりに多くの問題を孕んでいる.Popper, Goodman, Kripke, Hempel をはじめとして色々なパラドックスが提出されている.しかしその様なことを言っ ていては何も始まらない.世界の観察から帰納して,絶対確実というのではないが,「これ これになることがどうも確からしい」と言うことを示していきたい.そこで確率的帰納法 になると言うわけである.世界を次々に観察し,そして(1)式により,仮説の確証度を 修正していくのである.ここで,1 回目の観察に対する事前確率の値としては,特段の理由 がなければ全ての起こりうる分解できない事象に対して等確率を付与する不充足理由律 (Keynes は無差別の原理とよび,物理学では等重率と言われる)が仮定される.もっと言 えば無限回観察が行われるなら等重率でなくても何でも良いのである.もっとも Karl Popper はこの学習過程に対しての難点を証明しているがここでは割愛する. 3.3囚人問題 Bayes の定理を現実問題に適用するときに,事前確率を無視する傾向があると言うことを 認知心理学者が明らかにしている.例で説明しよう. 「ある国の国民がある伝染病に感染している確率は 0.001 であるという.検査によって感 染の場合 0.98 の確率で陽性と出る.しかし非感染の時でも 0.01 の確率で陽性反応が出る. さてあなたは検査の結果陽性であった.あなたが感染している確率はどれだけか.」 検査の精度は高く,間違って陽性と出る確率は 0.01 と少ない.その検査で陽性と出たの だから絶望的だろうというのが多くの場合の感覚ではないであろうか. この問題に Bayes の定理を適用すると感染確率は 0.089 である.あまり心配する数字では ない.検査の精度は高いし,と心配になるのは感染の事前確率が 0.001 と非常に小さいこと を判断に取り入れていないからだとされる. この程度の問題なら「事前確率の無視傾向」と言うことでその点を配慮すればそんなに 不思議ではない.しかし 3 囚人問題は非常に納得困難である. ○3 囚人問題 3 人の囚人 A,B,C がいる.1 人だけ皇帝により恩赦になって後の 2 人は死刑である. 看守は誰が死刑か知っている.A が看守に対して「少なくとも B か C のどちらかは必ず死 刑である.2 人の内どちらが死刑か教えてくれても私に何も情報を提供していない事になる から,どちらが死刑か教えてくれ」 .そこで看守は「B は死刑だ」と教えた.但し看守は嘘 をつかず,また B と C の両方とも死刑の時には確率 1/2 でどちらかの名前を答えることを 前提とする. この状況下で,A は釈放される可能性があるのは自分か C である.看守の言うことを聞 く前には助かる確率は 1/3 であったのに,いまでは 1/2 に増えたと考えた.この推論は正し いか. この問題の Bayes 解による事後確率は(1)式で計算してみると 1/3 で前と変わらない. 事前確率は p ( A) = p (B ) = p (C ) = 1 / 3 である.看守が,誰が死刑になるかのという事実の下で A に ど う 解 答 す る か と い う 条 件 付 き 確 率 ( 以 下 尤 度 と 書 く ) は p (看守 B A) = 1 / 2 , p (看守 B B ) = 0 , p (看守B C ) = 1 などである.ここで英文字は恩赦になる人,その上にバー がついているのはその人が死刑であると言うことを表す.場合分けのツリーを書いてみて も一応論理的には納得できる. 看守が「B は死刑だ」と言う場合の確率 1/6,0,1/3 の 3 つを足し合わせたもの うち,自分が助かる組み合わせである確率値 1/6 がどれだけを占めているかは 3/6 の 1/3 であ る. A の推論による 1/2 と Bayes 解の 1/3 はどう違うのだろうか.1/3 と言う答えは,看守は A にとって分かっていること以上の何も情報を教えてくれたわけではないからという考えに 合うであろう. 一方元々恩赦の確率が等しかった 3 人のうちから,看守の答えにより B というライバル が 1 人減って,いま目の前には 2 人しか残っていない.元々A と C はイーブンだったのだ から,消えてしまった B が恩赦になる確率 1/3 を残った A と C の 2 人で 1/6 ずつ等配分す れば (1/3) + (1/6) = 1/2 であると考えられる. もう少しわかりやすい例はアメリカのショー番組で行われた 3 ドアというゲームである. これは日本でも衛星放送で放映されたことがある.設定は次の通りである.閉まったドア が 3 つ有りその 1 つのドアの向こうにだけ高額賞品がおいてある.出演者は自分が 1 つ選 んだドアの向こうにあるものをもらえる.まず 3 つのうち 1 つのドアを選ぶと,そこで司 会者が選ばれていない残りの 2 つのドアのうちはずれの 1 つを開く. 「あなたが選んだのと 残りのドアのどちらかに賞品があります.ここでドアを替えても良いですよ.」 これは 3 囚人問題と同型で,最初の当たり確率は 1/3 である.司会者(看守)が,出演者 が選ばなかった 2 つのうちはずれの方を空けてみせる.1 つのドアを開いた段階で残り 2 つ のドアのどちらかに賞品が入っているのだから 1/2 であるように思われる.ほとんどの出 演者は自分の選択を変更しないという.(確率が同じなら,途中でぐらついた結果によって 外れて後悔したくないという心理) . ところが Bayes 解では自分が選んだドアは 1/3 で残りのドアが 2/3 になるから変更した方 が得なのである.3 囚人では A は B に成り代わることは出来ない.この点はむしろこの 3 ドア問題の方が分かりにくいかも知れない.3 囚人では看守の言葉を聞いた段階で自分の恩 赦確率を見積もると言うだけであるが,この問題ではとれに対応した司会者の言葉を聞い た段階で選択を変えることが出来るという設定になっている.はじめから 2 ドアしかなか ったとしたのと,3 ドア問題の設定を比較すると,もし繰り返しが許されるなら,3 ドア問 題の方が高期待値の戦略がとれると言うことになる.その上 3 囚人問題は単一事象の確率 という確率の哲学での大問題も絡んでいる. Bayes 解も含めて,回答者がどの様な思考のもとにそれぞれの確率評価を出すのかを探る ために,尤度や事前確率の値を変えた変形 3 囚人問題が考案されている. 例えば事前確率として A,B,C にたいしてそれぞれ 1/4,1/4,1/2 の恩赦確率を与えると すれば,同じ状況で Bayes 解は 1/5 と算出される.これはもとの問題よりももっと理解 しにくい.元々恩赦になる確率は 1/4 であったのに,看守の言葉を聞いたら 1/5 に減っ てしまうと言うのである. もとの 3 囚人問題では Bayes 解を納得する理由として,「看守は何も新しいことを教えて くれたわけでないから確率は変わらない」と考えるとすれば一応確率の値は出て来たが, その理由ではこの変形された問題の説明は出来ないことになる.その理由なら事後確率は 1/4 でなければならない. また看守の言葉の後で残った A と C は事前確率が 1/4,1/2 であるから消滅した B の 恩赦確率 1/4 をその事前確率の数値で比例配分しても なるから 1/3 (1/4)+(1/4)・(1/3) = 1/3 と も答えの候補である.助かる候補者が脱落したのだからその権利は他に廻 って増加すると言う考えである. Bayes 解はこれに真っ向から逆らっている.しかし上の助かる権利という観点でなく処刑 される潜在性という逆の観点に立てばそう不思議ではなくなる.結果として死刑になった のは元々何分の一かでは既に死刑の候補者であったはずである.死にそうもない自分にと っての強敵が死んだと言うのなら,残るは弱い相手で自分は助かる方向になるだろう.し かし処刑される確率が高い弱い競争相手が死ぬのでは強い相手が残って返って元々潜在的 に持っていた自分の生存確率が減っても妥当であるかも知れないと考えられるだろう.自 分の助かる事前確率には強い相手と弱い相手が両方共存している言うことによる効果が自 動的に含まれていたと考えるべきなのである. ところで実験によれば先ず大体 1/2 ,1/3, 1/4, 1/5 が主な解答であるが 1/5 は ほとんどいないという. ツリーチャートは算術的で感覚的納得には不向きなので幾何学的な図を書くことがよく 行われる.ルーレット表現と呼ばれる.これによれば,看守の答えが「B は死刑だ」となる のが半分と 1/4 の合わせて 5/8 ,一方そのうち A が助かるのは右上の 1/8 の部分だけで あるから,1/5 という Bayes 解が直ちに納得される.この図は,尤度を変える問題でも活 躍する.例えば看守は誰かをひいきする傾向があるという設定もあり得る.このような尤 度の違いも図中の比率で表現される. 3 囚人問題の設定で一番現実離れしていて,またよく分からないのは,看守が複数の選択 肢を持つとき確率的に答えると言うことである.問題の設定は単一事象を扱っている.従 って論理解釈か主観解釈で扱われるべき問題であると考えられる.それなのにこの尤度は 傾向性解釈で扱ったほうが適切なのではないかと思われる. 認知心理学としては問題の提示の仕方を変えたり,尤度の値を変化させたりして色々な 主観定理を探る実証研究が成されることになる. 例えば,テニストーナメントの問題に置き換えれば上で考察したような,強敵,弱敵の どちらが消えるかなどと言う理解がしやすいであろうと思われる.また夕食問題と言って 次のような問題設定の仕方がある. 「夕食のおかずはイカ,マグロ,サンマのどれか 1 品で ある.それぞれ 1/4 1/4 1/2 の確率である.イカは 1/2 の確率で焼き 1/2 で生のまま 出す.マグロは必ず生で出す.サンマは必ず焼く.さて帰宅時駅から見ると遠く我が家か ら焼く煙が見えた.おかずがイカである確率はいくらか. 」こうするとかなり正答率が上が るそうである. このような研究を通して「主観定理」と言われる思考の傾向を調べるのである.例えば, i)選択肢の数が n あれば 1 / n の確率になる.ii)ある選択肢が消滅したとき残りの選択肢の 事後確率はそれぞれの事前確率の比に等しい.iii)複数の選択肢からある選択肢が消滅する とき,消去される選択肢が分かっても残りの選択肢には影響しない.などである.このよ うな主観定理はアリストテレスの運動学のようなものであるが,アリストテレス流でうま く理解できる局面が身の回りの物体の運動では多いと言えるし,現代でもアメリカなどで はアリストテレス自然学で自然を見ている人は多いのである. 4.確率の主観説 , Keynes の論理解釈と Ramsey-de Finetti の主観解釈そして間主 観解釈 よく「確率はヤヌスの双面を持つ」と言うが,確率概念は 2 つの側面を持っている.統 計的側面と信念の度合いあるいは確証度という側面である.確率の古典的あるいは素朴解 釈ではほとんど意識しないでこの両面を変幻自在に使い分けている.しかし,確率の解釈 を真剣に考えるようになってくると種々の困難が出てくる.このことは 20 世紀初頭の四半 世紀に Wien の Wien 学団の論理実証主義者たちと,ケンブリッジ大学のモラル・サイエン ス・クラブの分析哲学者たちによって議論され英米哲学の大きな分野となっている. 統計的側面は確率の客観解釈で取り扱われる.それは John Venn(1866)に始まり,Hans Reichenbach と Richard von Mises(1928)により整備された頻度解釈,そして波動関数の Born 解釈にとって好都合である Karl Popper による傾向性解釈が主な 2 つである. 一方,確信度のようなものを取り扱うのは, John Maynard Keynes の論理解釈(1921. ただし脱稿は 1904)であり,またその批判として登場した Frank Plumpton Ramsey の主観解 釈(1922,1926)である.Ramsey は夭折し,その後は,主観解釈の独立な発見者である Bruno de Finetti(1934)によって論ぜられた.主観解釈は Bayes 主義の基本である.また論理解釈 の方は Rudorff Carnap により帰納論理学として更に議論された. 論理解釈とは次のようなものである.確率とはある事象が起こると言うこと,あるいは その命題に対する確信度である.また命題の論理関係も確率で表される.たとえば恒真命 題 □ は, p (□) = 1 であり,恒偽命題 φ は p (φ ) = 0 と言うことで表現される.命題の包 含関係は, A ⇒ B と言う論理関係を条件つき確率を用いて, p (B A) = 1 と表せばよい.完 全な包含関係になっていない場合は部分的信念の度合いを表すことになる.すなわち 0 ≤ p (B A) ≤ 1 である. 信念の度合いを表すと言っても,0 と 1(あるいはそれらの極近い)数値以外の場合 は,他の確率の値とどう比較するのか疑問になるであろう.つまり数値として比較できる のかという疑問である. 直接比較できるような実数値でパラメトライズされた1つの事象系列の中では比較が出 来そうである.つまり全順序集合になっている.それをどう [0 , 1 ] と言う実数の区間に写像 するのかである.広義の単調増加であればよいのであるから色々な関数形があり得る.し かし事象 Ai と A j で i, j の関係と p( Ai ), p( A j ) との関係の間の写像をどう与えれば整合的 かなど疑問が沢山ある.頻度解釈ではないのであるから実験から決めろとはいかないので ある. ここで,仮説の確証度,あるいは部分的信念の度合いを帰納的に Bayes の定理で更新して いくのが妥当であると言うことになる.しかし最初の事前確率はどうするのか.それは不 充足理由律で決めるのであるが,(Keynes は「無差別の原理」という用語を用いる.)これ が論理解釈にとって問題なのである. 考えている世界の命題の中には,確率が比較できないと考えられるものもあるであろう. 「ナポレオンは赤い外套を着ている」と「私の鼻は詰まっている」のどちらの確率が高い かは判定できない.主観確率なのであるからどんな値でも,確率算を充たすようにすれば どうでも良いのかというとそうではない.論理解釈は広義の主観確率ではあって確率は頻 度でなく信念を表すのだが, 「合理的な万人に一致して認められる信念の割合」なのである. Keynes は比較できない命題を示すようなダイアグラムを書いている.すなわち命題束が 半順序集合であって Boole 束になっていない場合である.古典力学から量子力学に移行する と Boole 論理が,不確定性関係のために分配律の成立しない直相補モジュラー論理に移行し た結果も半順序集合であった. Keynes は確率が半順序であっても良いばかりでなく,全順序として比較できる場合でも, それが定量的でない場合があっても良いと認め,自らの部分的信念の度合いである確率は, 非数値的なものである場合があるとした. 単一事象につてはどうであろうか.これは主観確率であるから元々問題ない. Keynes の論理解釈を批判して Ramsey は主観解釈を提唱した.主観解釈では,確率は「合 理的である万人に」認められるものでなく,(確率算は成立するような程度に合理的な)あ る特定の個人の持つ主観的信念の度合いであるとした.つまり他人の内面にある信念の度 合いを論理的に推し量ることは出来ないし,合意に達することも出来ないという批判であ る.それぞれの人の確率があるというわけである. 主観解釈では信念の度合いは「その人に賭を持ちかける」という行為で「受け入れる掛 け率」という形で測定できる,というのが基本的な考え方である.定量的な効用の理論の 走りであり,von Neumann と Morgenstern に始まるゲームの理論やその後の意志決定論につ ながるものである.このことは de Finetti そして Ramsey も哲学,数学のみならず経済学に 貢献した人であるし,Keynes は哲学者としてよりむしろ経済学者として有名であることか らも納得されよう. たとえば Alice が Bob の事象 E が生起すると言うことについての信念の度合いを測定する には次のようにすればよい. Alice は Bob に対して賭率 q を言うように要請する.Bob の回答の後,Alice は掛け金 S を 決定する.もし事象 E が生起したら Bob は Alice が決めた掛け金 S に対して, qS を Alice に支払う.逆に事象 E が生起しなかったら掛け S は Bob が Alice からもらえる. その人にとっての公平な掛け率がその人の信念の度合いであるが,ここで重要なことは, 掛け金 S は,Bob が比率 q を決めた後で,正負のいずれにでも Alice の意志で決められる という約束である.このときこの q が,測定された Bob の事象 E が生起するという信念の 度合いである. この定義によれば Bob は自分の信念の度合い q を偽るのは合理的ではない.もしはじめ から S が正であったとしたら,Bob は q を小さく言って qS なる Alice へ払う額を小さくし た方がいい.生起しなければ S だけ受け取れる.逆にはじめから S が負であるのなら,Bob は q を出来るだけ大きく言えばよい.そうすれば大きい q S だけ Alice からもらえるし,も し E が生起しなかった場合 S だけを Alice に支払う事になる. S の正負が分かっていない なら正直に言うしかない. 実際に原理的あるいは定義より必ず起こる事象□の場合を考えよう.Bob が q > 1 と言っ たとすると,Alice は S > 0 を選べば,本当に必ず起こることだったとしたら必ず Alice は qS を受け取り,支払うことは起こらなく必ず勝てる.もし Bob が q < 1 と言ったら Alice は S < 0 とすれば必勝である.従って q = 1 と言うのが最適である.このとき Alice には必勝 法はない.ここでもし Bob が,その事象が必ず起こるとは思わずに違う値を言って損をする のは Alice と Bob の情報差で仕方がない.一般の事象 E の時には 0 ≤ q ≤ 1 とならざるを得な いのも同様にして示される等々である. 上のような議論はダッチ・ブックが得られてはいけないと言うことを用いている.ダッ チ・ブックとは汚い賭のことをいい,胴元がどんな場合でも必ず勝つような賭のことであ る.主観解釈では,同じ事象に対して信念の度合いは個人個人で異なっていて良いのだが, 最低限確率算を満たす,すなわち確率の公理系を満たすと言う程度には合理的判断が出来 る個人の信念の度合いであるとする.従って胴元に必勝法があるのは合理的でない.これ を整合性の要請という. たとえばある人が,コインが偏っていて表が出る割合が 2 / 5 であると思っているとしよ う.その人が合理的ならその補事象である裏が出る割合は(どちらでもない場合は排除す ることにして) 1 − 2 / 5 = 3 / 5 である.所がこれを 2 / 5 と思っていたとする.胴元は①表な ら 300 円あげる.表が出なければ 200 円下さい,②表が出なければ 300 円あげる.表が出 れば 200 円下さい,と言う 2 つの賭けを同時にその人に呑ませることが出来る.①は表が 2 / 5 と言う信念により,また②は裏が 2 / 5 と言う信念により受け入れられる.この賭でどの様な 結果になろうとも毎回 100 円胴元に巻き上げられる.このようなことをダッチ・ブックと いう. このようなダッチブックを受け入れてしまわない程度には合理的な人の信念の度合いに 対して,Ramsey-de Finetti の定理はそれが確率の公理系を満たすことを示している.これ は論理解釈に対する大きな進歩と言える. また de Finetti は,事前確率としての個人個人の信念の度合いがはじめは違っていても, Bayes 主義で修正していくと無限の系列の後に観察頻度の割合に収束すると言うことも示 している.これは客観確率との橋渡しをするものと言えよう. なおその後,間主観解釈と言うのも現れた.これは次のような状況を考慮したものであ る.「クイズ番組で,たとえば美人度に各出場者が点を付けるとする.集計された全出場者 の採点値の平均値に一番近い採点をした出場者が賞金を受け取ることが出来る. 」こうする と,出場者は自分の信念だけでなく他の出場者はどう考えるかを問題にしなければならな い.さらに他の人もみんなはどう考えるかの推測でその採点値を変えてくるだろう等とよ り複雑な推論をしなければならない. 5.不充足理由律 さて,論理解釈では事前確率を与えるために Bernoulli のころから言われている不充足理 由律を用いなくてはならない.Keynes は無差別の原理と呼ぶ.内容は,特に選好する理由 がない場合には,それ以上分解の出来ない原子的事象には等確率を付与すると言うだけの ことである.主観解釈のほうでは個人の信念の度合いは合理的なら何でもよいのであるが, Bayes-Laplace の定理で確証系列を更新していくと言う場合ではなく,主観解釈の利点でも ある単一事象の確率の場合にはやはり不充足理由律を用いることになる. 所で,どういう事象あるいは命題がその世界で原子的かと言うことは明確に答えられな いことが多い.どういう特徴に注目して命題を分解していくのか,はたしてその命題が本 当に原子的であるかどうかである.そのことをあからさまにするために不充足理由律のパ ラドックスというのがいくつもある.誰でもすぐに思いつくであろうが,ここでは 2 例挙 げる.最初の例はパラドックスではなく困難はどこから来るかを浮き彫りにしている.そ の次の例は本当に困難なものである. 半径 1 の円とその弦を考える.この弦が,円に内接する正三角形の一辺より長い確率を 求めよ.適当に書かれた弦とそれに直交する半径の交わる点を X とする.円の中心を O と すると, OX < 1 / 2 のとき正三角形の一辺より長くなることがわかる.長さ1の半径上の どの点も特にどれがどれかより選好される理由がないとすると,長さ 1 の区間に一様分布 すると言うことになって,上記の確立は 1/ 2 となる. 次に円に円周上の点 Y で接する直線を考えてみる.Y を中心に角度で考える.点 Y を通る 直径を挟んで対称に 2 本の弦を引く.それら 2 本と円のつくる Y 以外の交点が 2 つある.そ れを結んだ弦は,もとの 2 つの弦が成す角度が π / 3 のとき問題の正三角形の一辺の長さに なる.さて,もとの 2 つの弦が成す角度 θ は 0 ≤ θ ≤ π の範囲を取り得る.この角度という 変数に対して不充足理由律を適用すれば,問題の確率は 1 / 3 である. 最後に半径 1 の円の中に半径 1/2 の同心円を書いてみる.適当に書いた弦は,その中点が 内部の円の中にあればその長さは正三角形の一辺より長い.そこでこの中点が外の円内に 入っている条件の下で,内部の円に入っている確率は面積に一様に中点が分布すると考え ると円の面積比になり,問題の確率は 1 / 4 である. 1 / 3 1/ 4 このように不充足理由律の適用の仕方の違いで 1 / 2 と言う数値が出てしまっ た.が,これは表面的にはあまり困難ではない.互いに変数変換で結びついている変数の うちどれに対して一様分布を与えるかの違いである.最も「自然」な変数に対して不充足 理由律を適用する,と言うことになる.しかしなにが自然かはどうして分かるのであろう か.ア・プリオリ確率等と言うがア・プリオリとは論理的に決定できるのだろうか. すぐ思いつく例は古典統計力学のMaxwell-Boltzmann統計と量子統計力学のBose-Einstein 統計である.個々の粒子を区別するのと同一粒子は全て区別がつかないとするのでは場合 の数が違って統計が異なる.朝永13)は粒子に区別がないことを,電光掲示板の光点が粒子 だと思えばよい.2 個の粒子が接近して同一地点を占め,また離れていく時,離れていく2 つのうちどちらが接近してきたときのどちらだったかは言えなくなるという描像で説明し た.このBoltzmann統計とBose統計のどちらがア・プリオリに受け入れられるかは言えない であろう.これは世界の観察によって判定された.さらには,同一状態には 2 個しか入れ ないというFermi-Dirac統計に従う粒子も発見された.純粋に統計理論としては同一状態に 3 個以上の有限個入れるパラ統計も考えられ,現実世界に対応物が探されたが今のところ存 在しないようである. このようにア・プリオリと言っていたものもパラダイムシフトによって変わるのである. 古典,量子問わず統計力学では Γ 空間などの状態を指定する位相空間において等重率と呼ぶ 不充足理由律が適用されるが,それはそこから演繹された理論が今のところ世界を説明し ているからである. その時代,ア・プリオリには Galilei 変換不変が正しかったろうし,Euclid 幾何学で空間 は記述されただろう.しかし第 2 次科学革命により,光速度不変の原理を公理とすれば, Lorenz 変換不変で現実世界の説明が出来ることがわかった.局所実在論はア・プリオリに 妥当だと思っていたら,量子力学では,と言うより現実世界はそうなっていない.どうい う変数が自然かは結局帰納的に決めるしかない. Keynes は,無差別の原理は有限個の原子的命題の時のみ妥当で,連続パラメーターで表 される命題群には適用すべきでないと考えた.しかしそうすると事前確率を決める方法は なくなってしまう.改良案も提出されているが満足のいくものではない.主観解釈でも, 単一事象についてではやはり帰納法的に決めるわけにはいかない. もっと困る例を挙げよう.「ワインと水を混ぜる.その比率は一方が他方の 3 倍より大き くはないとする.ワインの量割る水の量を R と書くと,1 / 3 ≤ R ≤ 3 である.不充足理由律を 実数のこの区間 [1 / 3 , 3] に適用する.すると p (R ≤ 2 ) = 2 − 1/ 3 5 である.一方水の量割 = 3 − 1/ 3 8 るワインの量 R ′ = 1 / R の観点では,やはり 1 / 3 ≤ R ′ ≤ 3 である.これに不充足理由律を適用 する.ワイン濃度が水の 2 倍という事象を R ′ の観点で見たら R ′ ≤ 1 / 2 である.故に p (R ′ ≥ 1 / 2 ) = 3 − 1 / 2 15 となる.しかしこの 2 種類の確率は同じものである.」逆数という = 3 − 1 / 3 16 世界に変数変換してそこで不充足理由律を使ったと言うことである.しかしこの例だと, 円と内接正三角形の例の時とは違って R と R ′ は全く対称的かつ対等な変数である.どちら が自然と言う違いは全くない.ワインと水のどちらを先に言っても良いのだから困難極ま った.一般に不充足理由律はア・プリオリな原理として機能しないであろう. 6.3 囚人問題の Bayes 説明の納得について さて,3 囚人問題の Bayes 解の納得のしにくさはどこにあるのだろうか.心理学者によれ ば,まず問題の提示の仕方,すなわち題材効果.次に主観定理の問題等が挙げられている. ここでは不充足理由律との関係それとルーレット表現による説明について考えてみよう. この問題は神の視点でもない限り,単一事象の確率を問題にしていると思われ.従って 頻度解釈はとり得ない.傾向性解釈は単一事象の確率を取り扱えるが実験装置や状況の持 つ傾向性と言う解釈ではこの問題を直接には取り扱えないし,問題文からして囚人 A の心 の内の死刑になると言う可能性に対する信念の度合いを問題にしているのは明らかである. よって,論理解釈か主観解釈で考えるべきである.しかし,主観解釈で囚人 A が帰納的に 自分の生存確率を更新していくという構造の問題ではないと考えられる.だが学習や帰納 系列は議論の外であるとしたのでは,主観解釈では確率算を満たすぐらいに合理的なら何 でも良いことになってしまう.したがって今日ではあまり用いられなくなっているものの 論理解釈に準じて考えてみる. ・看守の回答の尤度について 事前確率は,問題文に 1/3 ずつであるとか,1/4 1/4 1/2 の割合であるとか天下り的に 与えられているので,この局面では解答者が不充足理由律を用いると言うことはない.現 実の問題では,皇帝がサイコロを振って恩赦を決めると宣言でもしない限りこの設定は不 自然かも知れない.しかしそう言うことは無いとは言えないが. ここでもっと不自然なのは,看守の発言に対して付与された確率である.B,C の両方とも 死刑の時,確率 1/2 で名前を教えると言うことは,普通の人間にはできない.物理的な装 置でも使用しない限り実行不可能であろう.もし B も C も死刑の場合その様な装置に頼る とするのなら,装置に頼らないで A に回答すると残った一人が恩赦であるとばれてしまい A も死刑と分かってしまうから,その場合でも装置を使うふりをしなくてはならないかも知 れない.更に A はその裏を読もうとするかも知れない.これは看守が A に情報を与えない ようにするための努力である. この看守の答えかたの尤度を変えると,事後確率が変わってしまうことは Fig.2 からも明 らかである.問題の設定の 1/2 1/2 の割合で答えると言う数字自体根拠は何かと問われる べきである.特に事前確率が A,B,C それぞれ 1/4 1/4 1/2 と変形された問題では,B と C は対称ではない.このときに尤度の方だけ B と C で 1/2 1/2 と対称なのは不自然である. この比率を,恩赦の事前確率が低く死刑になる可能性が高かった B の名前を死刑であると 言う比率が高い方が自然であると考えて,事前確率の比, (1 / 4) /(1 / 2) = 1 / 2 が尤度の逆 比になるようにしてみよう.B と答える確率を 2/3,C と答える確率を 1/3 と変えてみれば よい,こうすると Bayes の定理より,事後確率は事前確率と変わらないと言うことになる. この事前確率の比に逆比例して,と言うもっともらしい尤度は Bayes の定理によれば結果 的に事後確率を変化させず, 「看守の言ったことは合理的な A の信念の度合いを変化させな かった.従って看守のこの答え方の方略は情報を漏らしていない」と言うことになってい る.そうであるとすると尤度のどの変数に対して不充足理由律を適用するのかという事に 根拠が見いだせないという問題に対して,これは答えを与えるかも知れない.事前確率の 逆比という適用の仕方は,そうとると Bayes の定理で与えられる事後確率が変化しない様に なっているからであると出来る.つまり情報を与えないと言う一種の最大エントロピー法 が,充足理由律を適用する変数の根拠を与えうる. 問題文の都合(3.で記述したように事前確率同様に尤度自身を指定するかそれとも尤度を どう考えるかを被験者に考えさせるかによって違う)で,看守が事前確率を知っているか どうかが言及されていないが,もし知っていたとするのなら上記の自然な尤度を用いた議 論より A が死刑になる確率は,看守の言葉を聞く前の事前確率と変わらず 1/4 と言うのが まず心理的に合理的である. 一方,看守も各囚人の死刑になる確率は知らされておらず,結果の誰が死刑になるかと 言う事だけを知らされていたのだとすると,上の議論は使えないから尤度に対して不充足 理由律を用いる.この用い方も一意ではない.その結果不自然な適用であるが,問題文の 等確率と言うことになったのであろう. 先の事前確率の逆比,というのも一種の不充足理由律であると言えるし,こうして5. で述べたように尤度に対する不充足理由律の適用は明確な処理方法が分かっていないとい う問題になってしまう.どの適用の仕方も根拠があまり無い事になるのだが,強引に看守 にとって区別はないとして不充足理由律を適用すると,はじめの問題文の様に A と B は条 件が違うのに等確率で A か B の名前を言うと言う不自然な状況を強要する事になる. ただ,囚人 A に情報を与えないと言うのが原理になる可能性を持っているとは言えるで あろう.自然界の対象をデータ解析するときに最大エントロピー法が威力を発揮する事と も関連していると考えられる.勿論エントロピーそのものが不充足理由律に立脚している のだが,3 囚人問題での囚人に情報を渡さないと言う原理のような何かが働いていると考え られる.その様なことこそ研究されるべき事であろう. ・事前確率について 順番が逆になったがそもそもの事前確率の方もはじめの形の 3 囚人問題では多分不充足 理由律を想定して 3 囚人等確率という問題にしたのであろう.この場合,我々は直ちに不 充足理由律の適用は根拠があるのかと問題に出来る.しかし事前確率を等確率から変化さ せた,変形された問題の方では意味合いが違ってくる.そちらでは認知の過程を研究する ために,パラメーターの値を変えたのである.前に見た尤度の数値を変えたときは,心理 的に不充足理由律をどの変数に対して一様に適用するのかを探るという目的であったと言 い得たであろう.しかし事前確率を変えるのは,Bayes の定理の適用結果である事後確率を 結果的に変えることであり,被験者の主観定理に関する推論過程を探るための手段として 用いたと言えよう.我々はここで主観定理を問題にしているのではない. まず原型の 3 囚人問題を論じよう. 上で尤度について看守は与えられた確率を実現するために物理的機械に頼らねばならな いであろうと述べたが,事前確率の皇帝の恩赦の決断についてもそうである.そうすると 機械で確率的にするなら機械の波動関数を論じるようなものであるから,単一事象の確率 であっても論理解釈と言うより傾向性解釈の領域になってくる.となると,不充足理由律 を考えるより,背景知識の問題になって来るであろう. ・背景知識による参照類 事前確率の決定に不充足理由律の使用を放棄すると,できるだけ多くの背景知識を集め て事前確率を決める事になる.統計的データによって,その相対頻度で,ある事象の確率 を決めようとしたとしよう.これは頻度解釈ではなく傾向性解釈と考えれば,一応単一事 象の議論をするときの前提の数値として使える.あるいは de Finetti の定理により Bayes 学 習していった極限と思っても良いだろう.しかし以下の問題が出てくる. 背景知識の使用例として,生存確率を考えて見る.ある特定の個人が来年の誕生日まで 生きる確率を考える.統計データに照らして見るのであるが,その人の年齢,性別,人種, 職業などで分類した統計を見る事になる.詳しく特定しようとして,その人はたばこを 1 日 1 箱吸う,であるとか,週に 2 回スイミングをしているであるとかという参照類を狭め てく.生命保険の掛け金を計算するとか,競馬でどの馬に賭けるかもこの様な作業であろ う. 最も狭い参照類が要求されるわけであるが,38 才男性でたばこを 2 箱吸う人という類の データと,38 才男性で週 2 回スイミングをする人という類のデータしかなく,38 才男性で たばこを 2 箱吸って週 2 回スイミングをする人という類のデータは得られなかったとした ら,最も狭い類が複数有ると言うことになってどちらを選んだらいいかという問題が出て くる.それに応じて事前確率値も違ってくる.背景知識の問題として,Keynes は「私を知 らない人にとっては,私が切手を貼らずに手紙を郵便局へ持って行く確率は郵便局の統計 から導き出されるかも知れないが,私にとっては郵便局の統計はほとんど全く問題外であ る」と言う.夫にとって,自殺願望のある妻が来年の誕生日まで生きる確率はかなり低い であろうが,それを知らない保険会社の見積もりでは妻が生き延びる確率を夫よりは大き く評価しているであろう.対象に対する背景知識の量で傾向性の数値は全く違ってしまう. 背景知識は,その人が知っていてもその問題に関連して忘れていた,思いつかなかった, 意識に登ってこなかったと言う事もあろう.そうすると,論理解釈や主観解釈では意識に 登るか登らないかで信念の度合いが違ってくる.このことも「確率」や頻度という用語で はなく信念の度合いと言う用語なら奇異ではない. ・題材効果について 心理学者の実験によれば,題材効果として頻度解釈ができるような繰り返し起こるとい う題材に翻案すると正答率が上がるという.3 囚人問題を翻案した同型問題と言っても,そ れは数学的に同型と言うのに過ぎない.一番大きな問題は,その題材が単一事象として取 り扱うべき題材なのか,それとも繰り返し実験できる題材なのかである.これは両方とも あり得る.であるから翻案した,繰り返し実験できるような題材にして正答率が劇的に上 がると言っても,それは元の問題とは全く別の話なのである.あくまでも一回性の範囲で しか翻案してはいけない.尤もどういうのが一回性なのかという線引き問題は重大な問題 として残る. 日常生活に近い題材かどうかはここでは論じない. ・ルーレット表現について ルーレット表現は,この 3 囚人問題や Bayes 推論について深く考えた人には効果が大きい が,そうでない人にはツリーチャートの方がわかりやすいであろう.しかし算術的表現と も言えるツリーチャートは直感的でない.一番直感的に納得できる方法はルーレット表現 の様な幾何学的方法であろう. ルーレット表現では当然の事ながら円環部や扇形の面積に比例した確率を付与すること になる.つまり面積に対する不充足理由律である.この場合は円の中心を原点とした角度 と言う変数に対する不充足理由律と言っても良い.これが認められるかどうかという議論 は成立しない.もともと 3 囚人問題での不充足理由律や背景知識による傾向性を翻訳して いるだけであるから何もここでの問題はない. しかしその確率すなわち角度を実験で検証することは出来ない.観点によって色々な結 論になると言う点では相対論の幾つものパラドックスに似ているとも言える.しかし相対 論ではそれが如何に落とし穴に満ちたものであろうとも論理的に演繹することによって判 断できる可能性があるし,分からなくても実験が出来る.単一事象では実験が出来ない. ・経緯に依存する単一事象につての信念の度合い 統計学の本によく引用される例でブラウン氏の子供などと呼ばれる問題がある. 「ブラウ ン氏には子供が 2 人ある.子供が男か女かは等確率であるとする.彼の子供のうち一人は 男である.もう一人も男である確率は?」と言う問題である.答えは 1/3 で Boltzmann 統計 通りである.すなわち 男男 男女 女男 女女 のうち一人が男である組み合わせは 3 通りあって,もう一人も男の組み合わせは 1 通りであるから不充足理由律により 1/3 であ る. しかし問題文を「今日ブラウン氏にあったら 1 人の男の子を連れていて息子のジョンで すと紹介された.彼のもう一人の子供が男である確率は」となると答えは 1/2 が正解であ る.組み合わせは前と同じであるが 男男 のときは連れて歩く子供は必ず男になる,そ の組み合わせのとき私が子供を連れたブラウン氏と会ってその子が男の子であるのは尤度 1 である.男女の時には男,女に対し尤度 1/2 ずつ.女男でも同じである.女女では尤度ゼ ロである.すると事前確率は 4 通りの組み合わせに対し不充足理由律によって 1/4 ずつを 付与するとブラウン氏の男の子と会う確率は Bayes の定理により 1/2 となる.ただし2人の 子供のどちらをつれて歩くかはやはり不充足理由律で等確率と仮定している. 深く考えずに単純に一人の子供が男でも何であってももう一人の子供の性別は独立だか らとしても 1/2 という答えは同じになるがこのやり方は間違いであろう. この例題は去年出版された統計学の本で取り扱われていて 1/3 を正解としてそれに基づ き現実の統計データを検定していた.その本では注記で 1/2 とも考えられると曖昧に逃げ ていた.この場合は全数調査をしたデータが先にあるのだから 1/3 が正解であろう. この非常に簡単な設定で起こる困難が 3 囚人問題での一番の困難であると思う.目の前 にある状況に対して不充足理由律使うか,それとも経緯を考慮して場合を考えそれに対し て不充足理由律を使うかである.Bayes 解は勿論経緯を考えているわけである. 3 つのドア問題では非常にその不思議さが浮き彫りになっている.賞品の代わりに皇帝の 恩赦状がどれか一つのドアに入っているとしたらどうであろうか.単一事象の設定である. 司会者の「残った 2 つのドアのどちらかに恩赦状が入っています」という説明にあなたは どう反応するであろうか. 設定が非常に曖昧なのはブラウン氏の例題の方かも知れない.男の子がいることを知る 経緯というのが現実にははっきりしないことが多いであろう.男の子がこの世に生を受け る経緯についてもはっきりと特定できるものでない.その時には尤度が決められず判断は 出来かねることになるがそれ以前に目の前の事象に色々な経緯の違いがあるなどと思いも しない事の方が多いであろう.ブラウン氏のこれまでの人生の経緯や,学生時代噂のあっ た流産しなかったかもしれない若き日のブラウン氏の子供など言い始めたらきりがない. こう考えてくると主観確率は違って当然だが,不充足理由律の使用が一意的に出来ない 場合,単一事象については信念の度合いはほとんど無力なのであろうか. 数学的形式が同じだから同型問題などと言って色々な比較をするのは,主観定理などの 事柄ではなく確率の謎自体に興味があるものにとってはあまり利口なやり方ではない.そ もそもその題材の違いが哲学的問題を生じさせているのである. 量子力学の観測問題に関しては,20 世紀末より約 20 年,量子暗号や量子コンピュータの 研究が本格化し,量子力学が物性論や素粒子論の研究者でない出自の人たちによって,そ れ自体を議論するというのでなく道具として使い倒されている.このおかげで観測問題も 理解が深まっていくことが大いに期待できる状況である. 不充足理由律や単一事象の確率についても同様のことを期待すべきであろう.既に統計 力学,量子統計力学などでは不充足理由律は大成功を収めている.さらなる科学での実践 を積み重ねる過程で謎に対する理解は深まっていくであろう.そしてその実践の場は,い ままでの物理科学のみならず,社会科学と特に人文学での,特には哲学的謎を意識しない 科学的実践の中に求められるべきである. 経済物理学という分野が立ち上がってからもう10年になる.経済物理学は統計力学の 方法や知見を経済学に応用するというのではなく,統計力学の根本にある発想法で経済現 象を研究しようとするものである.元来マクロな物事を統計的に見ようとする発想法は, フランス革命の啓蒙思想家 de Condorcet の社会数学や,Quetelet の社会物理学に始まる. 社会物理学に触発されて,電磁気学にエポニムされている James Clark Maxwell は気体分子 運動論を完成させて統計力学の創始者の一人となったのであった.今再び統計力学はその 胚胎の地に戻ろうとしているのかもしれない.
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