絵画鑑賞の座標

◆ 学校教育教員養成課程 美術教育専修 2年次後期 必修科目
FILE 10 2013.3.
絵画鑑賞の座標
使用したワークシートと資料:授業例1
❸ 外部世界そして自らに向ける画家の眼差し
「絵画論」における実践
1.はじめに
教育学部2年次に置かれた教科専門科目「絵画論」につい
て報告したい。学校教育教員養成課程の美術教育専修および
芸術文化課程の美術・デザイン専攻からなる受講生は、濃淡
の差はあれ高校時代に何らかの美術実技を経験している。ま
た大学入学後は1年次に絵画・彫刻・デザインそれぞれの基
礎実技科目を受講している。しかし絵画や彫刻に関する知識
第8回授業 ❸-ⅰ ワークシート-1 【17世紀の巨匠
の幅は狭く、普段の会話の中で、それらについて友人と話し
感じたこと、調べたこと、思ったことを記す。
/ルーベンス、ベラスケス、レンブラント】
合うといった場面も乏しいように思う。
そのような学生の実態を踏まえた上で、本授業では、様々
な絵画との出会いの機会を設けた。19世紀中葉以降、絵画を
めぐって様々な画家やグループが、異なる主義主張を掲げて
その可能性を探究してきた。そして彼らは彼らが生きている
時代の表現を目指すとともに、絵画の根源を求める激烈な活
動を繰り広げた。本授業を通しその一端に触れることで、学
生には、鑑賞や表現の幅を広げていって欲しいものと思う。
また学生には、時間外に関連する書籍にあたり、美術館に足
❸-ⅰ ワークシート-2 【レンブラントの自画像】
を運ぶなどして、より多くの作品に出会うよう求めた。
れらの自画像からどのようなことが読みとれるか?
レンブラントはなぜ多くの自画像を描いたか? こ
「座標」ということでは、まず、①学部に置かれた絵画実
技科目との関連性が挙げられよう。次いで、②美術史上、同
時代や後世に大きな影響を与えた画家や、その代表作と向き
合う機会を用意した。また、③教室での授業と、美術館で直
に作品を鑑賞することとの差異について自覚を促した。
また授業にあたっては、今年度は試みに、パワーポイント
の使用を避けた。それに代わり、作品図版をカラープリント
したワークシートを用意し、授業時間内にその作品/作者に
ついて、(予備知識の有無にかかわらず)思ったことや感じ
たことを記すよう求めた。ワークシートには授業時間内で対
❸-ⅰで使用した資料-1 美術展のポスター
応できるおよそ二倍の内容を盛りこむことで、自ずと課外学
習に向かう仕掛けを施した。なお、各回のテーマに関連する
インパクトのあるポスターや画集などの資料を用意した。
毎時、90分間の授業時間をおよそ三分割し、授業者による
導入と解説で約30分、関連する資料を参照しつつワークシー
トで投げかけられた問いに答えることで約30分、各自が考え
たことの発表に約30分とした。
❸-ⅰで使用した資料-2 レンブラント《自画像》の精巧な複製
71
Ⅱ
2. 授業の展開ついて
講義科目としての絵画論であっても、その講義の前提とし
使用したワークシートと資料:授業例2
❹ 絵画を問う絵画
て、美術史的水準の作品を実見することは重要である。それ
にあたっては、近隣の美術館との連携を進め、静岡市美術館
にて開催中の『ストラスブール美術館展』、副題『モダンア
ートへの招待』鑑賞を組み込んだ。同展の初日が、「絵画論」
の開始時期に近いことから、授業展開にあたっては「モダン
アート」を突破口に、以下のような内容を盛りこんだ。1)
● 授業内容の説明
❶ 『ストラスブール美術館展』をめぐって
ⅰ 教室で『ストラスブール美術館展』の図版を「鑑賞」
ⅱ 静岡市美術館で『ストラスブール美術館展』を鑑賞
ⅲ 同美術館で鑑賞後のフォーラムと学芸員レクチャー
❷ 前世紀末、美術思潮の転換期から現代アートまで
ⅰ 1900年/転換期の絵画
ⅱ 20世紀前半のモダニスム絵画をいかに捉えるか
第13回授業 ❹-ⅲ ワークシート
【第二次世界大戦後の問題提起/デュビュッフェ】
デュビュッフェは20世紀後半のフランスを代表する
画家であるとともに、「生の芸術(アールブリュ)」
の提唱者であり、「文化的芸術」を告発する活発な言
論活動を繰り広げた。教室には図版・画集・展覧会
カタログを用意した。また別紙として、デュビュッ
フェの言葉を記載した資料を配付し、それらを重ね
合わせて、感じたこと考えたことを記す課題とした。
ⅲ 現代アート鑑賞教材を使って
❸ 外部世界そして自らに向ける画家の眼差し
ⅰ 17世紀の巨匠/ルーベンス、ベラスケス、レンブラント
ⅱ 18世紀の巨匠/ゴヤ
ⅲ 20世紀の画家/女性の視点で/フリーダ・カーロ
❹ 絵画を問う絵画
ⅰ 19世紀フランス/アカデミスムへの反乱
ⅱ セザンヌは何を描いたか2)
ⅲ 第二次世界大戦後の問題提起/デュビュッフェ
❺ 日本の絵画
ⅰ 第二次世界大戦後の問題提起/岡本太郎
ⅱ 日本絵画の高峰:雪舟、等伯、宗達、蕭白
❹-ⅲで使用した資料「デュビュッフェのリトグラフ」
絵と並置するように、でたらめなスペルで文字?が
書かれている。フランス滞在経験の長い本学部の非
常勤講師(絵画担当)、村松昌三氏に文字の解読を依
頼した。でたらめなスペルの「音」を手がかりに、
単語を推察したとのこと。「フランス語の表記を否定
していて、話し言葉をアンフォルメルな文字で表記
している意図を感じる。また文体も il ya を繰り返
していて、同じ言い回しを重ねることを最も嫌うフ
ランス人の文体に反逆しているように感じる。文体
3.
『ストラスブール美術館展』をめぐって
(1) 展覧会の特色
全体は幼児が使うような簡単な話言葉」とのコメン
トをいただいた。
今年度授業の起点となった『ストラスブール美術館展』は、
副題に『モダンアートへの招待』とあるように、19世紀末か
ら20世紀末にいたる主要な美術(絵画)の動向に目配りした
企画展であった。また同展では、ストラスブールにゆかりの
深い画家を重視していることが窺われ、地方都市に立地する
美術館の使命や特色を考える上でも興味深い展覧会であっ
た。美術史関係の書物にその名が記される画家と、日本では
無名といってよいようなローカルな画家とが並置されている
ことにも興味をそそられた。ピカソなどのビッグネームはと
72
❹-ⅲ で使用した掲示物 1991年のカレンダー
もかく、大半の学生にとってはどちらも初見であり、展示さ
❶
『ストラスブール美術館展』をめぐって
れたほぼ全ての作品を先入観抜きで同列に鑑賞できる貴重な
機会となったからである。また今回展示された「モダンアー
ト」は、およそ全てがヨーロッパの画家の作である。第二次
世界大戦後、世界のアートシーンで圧倒的な存在感を示した
アメリカ現代アートのほぼ完全な欠落に、「フランス」もし
くは「ヨーロッパ」に焦点を結ぼうとする企画者側の意図を
かいま見ることができた。またもう一つの特色として、ダダ
とシュルレアリスム運動に関係する作品の充実が目をひい
た。
(2) 教室における図版「鑑賞」
美術館訪問に先立って、教室で『ストラスブール美術館展』
のカタログ図版の「鑑賞」を行った。カタログの背を裁断機
で取り除き、各ページをシートに分解し、教室の壁に「展示」
して鑑賞した。そこでのポイントは、美術史的な知識の有無
❶ 『ストラスブール美術館展』リーフレット
展覧会の顔に、シニャック作品を掲げたところが新
鮮。作品は、洗浄を終えたばかりとのことで、瑞々
しい色彩を取り戻していた。
にかかわらず、それらの作品から何を感じて何を思ったかと
いうことである。特に、「名前のみ知っていた画家」や「名
前も作品も知らなかった画家」に注目するよう促した。予備
知識のないことが、作品鑑賞にどのように作用するか体感し
て欲しいからである。また近現代の芸術家が、既成概念に挑
み自らの信念を貫いたとすれば、彼・彼女たちは、同時代の
人々に何を訴えようとしたのか、想像力をめぐらせて話合う
こととした。
(3) 美術館における展覧会鑑賞
❶-ⅰ 教室の壁にカタログ図版をシートに分解して
「展示」。19世紀末ラファエル前派のロセッティから、
20世紀末の現代作品までの「鑑賞」。
静岡市美術館との連携による鑑賞授業については、2年前
の『FILE 8』にて報告した。その際は「美術科教科内容指導
論Ⅰ」における実践ということで、事後のフォーラムでは、
小中学校および高等学校での鑑賞授業実施を想定してディス
カッションとシミュレーションを行った。
今回は教科専門科目の「絵画論」授業ということで、展示
されたモダンアートの作品群を熟視し、個々の作品のクオリ
ティを体感することに主眼をおいた。その上で、呼び覚まさ
れた感覚や、浮かび上がった言葉や疑問を友人と語り合うこ
とで、自他の感じ方の違いや異なる見方を知るなどの発見を
❶-ⅰ
教室の壁に展示した画家を一覧表に列挙。作者と作
品が結びつき、実作品や画集等で見たことがある画
家に「○」。名前のみ知っている画家は「△」。これ
期待した。その意味で、美術館の開館時間の1時間前に入館
まで知らなかった画家には「× 」をつける。上記の
が許されたことは幸いであった。そのことによって、ギャラ
ルレアリスムに対する知識は全く欠落している。
学生は、これでも比較的「○」が多い。ダダ、シュ
リー内で、心おきなく友人と語り合い鑑賞することができた
しかし現段階での知識不足は問題ではない。授業で
からである。
心が呼び覚まされることこそ重要。
提示され、初めて出会う絵画を起点にして知的好奇
73
4.前世紀末、美術思潮の転換期から現代アートまで
❷ 前世紀末、美術思潮の転換期から現代アートまで
(1) 1900年/転換期の絵画
19世紀中葉から徐々に空洞化したアカデミーの規範は、
20世紀の幕開けに続いて押しよせたアヴァンギャルドの大波
によって解体を迫られた。まさに1900年(前後)は、美術
における一大転換期であった。画壇では依然としてブーグロ
ーなどアカデミー派が権威を保ち、その規範に沿った大作が
高い評価を得ていた。しかしその一方で、晩年を迎えたセザ
ンヌは前人未踏の領域に歩を進め、19歳のピカソは青の時代
第5回授業 ❷-ⅰ 【モダンアートの誕生】
に突入しつつあった。また、無名のマティスがセザンヌの
1900年を前後して新旧の絵画観が激しく交錯した。
《三人の浴女》を購入し、色彩と形態の冒険に舵をきったの
描を導入した《光につつまれた時》(左下)と、ゴ
は1899年のことであった。彫刻分野では1898年に、ロダン
の《接吻》が制作されていた。その他、アンリ・ルソー、ア
アカデミーの規範による《楽しい遊び》(左上)、点
ーギャン(右上)やセザンヌ(右下)の《水浴者た
ち》であり、それらはほぼ同時期に描かれた。
ンソール、ムンク、クリムト、レーピンなど多士済々で、そ
の頃、絵画の可能性はあらゆる方向に開かれていた。
また、1900年のパリ万博国際展に黒田清輝の《智・感・
情》が出品されたことも一つの同時代性である。
第5回授業 ❷-ⅰ「1900年/転換期の絵画」では、『1900
Art at the CROSSROADS』展のカタログ 3)から4点の「水
浴図」を取りあげ、鑑賞することとした。1点目は、フラン
スのサロンで当時高い評価を受けていたポール・シャバスの
《楽しい遊び》で、1900年のパリ万博国際展で金賞を獲得
した作品である。2点目は、シニャックとも交遊のあった点
描派の画家、ベルギー人のヴァン・リッセルバージによる
《光につつまれた時》である。3点目は、ゴーギャンがタヒ
第6回授業 ❷-ⅱ ワークシート
【20世紀前半のモダニスム絵画をいかに捉えるか】
マティスの《生きる喜び》、ピカソの《アヴィニョ
ンの娘たち》、デュシャンの《泉》、モンドリアン
の《コンポジション》、ダリの《内乱の予感》につ
いて考える。
チで描いた《水浴者たち》。4点目は、セザンヌによる《水
浴者たち》である。学生への問いかけは、それら作品に対す
る単なる感想ではなく、彼らが「絵画の可能性をどのように
考えていたか」とした。
(2) 現代アート鑑賞教材を使って
『ストラスブール美術館展』鑑賞の翌週、❷-ⅰで、上述
のように「1900年/転換期の絵画」を実施した。次いで❷ⅱでは、「20世紀前半のモダニスム絵画をいかに捉えるか」
と題して、発表当時、人々に大きな衝撃を与えた画期的な問
第7回授業 ❷-ⅲ ワークシート
【現代アート鑑賞教材を使って】
テートモダンの鑑賞教材にそって、現代アートにつ
いて語り合う。ここでは、ブランクーシの《魚》、
題作を取りあげ、それら作品がなぜ次代に大きな影響を与え
ジャン・アルプの《森の中で失われるべき彫刻》、
たのか考えることとした。さらに、❷-ⅲにおいて、テート
ューム氏》、ウォーホルの《マリリン・ディプティ
モダンの鑑賞教材『teachers' kit』
ついて語り合った。
4)
を用い、現代アートに
デュビュッフェの《皺だらけのズボンをはいたプリ
ック》、マリオ・メルツの《私たちは家の内部を歩
き回ることができるのか、あるいは、私たちの周り
を家が回るのか》、シンディ・シャーマンの《無
題》の6点を取りあげ、鑑賞/解釈を促した。
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『teachers' kit』は、テートモダンの膨大な数の収蔵作品
❷-ⅲ テートモダンによる『teacher's kit』から
から24点が鑑賞用教材として抽出され、A4判のカードとし
て仕立てられたものである。そこには、1916年に描かれた
モネの《睡蓮》など20世紀初頭に描かれた作品も含まれる
が、その多くは1960年代以降のアグレッシブな現代美術と
なっている。またカードの表側は作品のみが印刷され(右上
参照)、裏面には、①作者の思想を端的に示す作者自身の言
葉、②作者名とその生没年、③作品名と制作年、④材料とサ
イズ、⑤作者や作品の背景、⑥話合うために、⑦関連事項、
⑧キーワード、⑨美術館内の展示場所、が記載されている。
(右中参照)
モダンアートの系譜において、デュシャンの《泉》(前ペ
ージ ❷-ⅱワークシートに掲載)のような概念的ないし批評
的な作品は、わが国の美術教育の現場で取りあげられること
『teacher's kit』の一例(カードの表側)
《無題》シンディ・シャーマン, 1982
は皆無に近いだろう。しかし、欧米では、現代アートの役割
とは「疑問符の提示」であり「非日常と出会う場の保障」で
あるという。そして、芸術家には、「高度情報化」と言われ
る今日の社会において、なお未解決なことや分からないこと
が存在することを、インパクトのある形態・状態で示すこと
が期待されている。したがって現代アートの鑑賞とは、感性
だけを問うものではない。感性ということでは、視覚に加え
触覚や聴覚なども巻き込みつつ、そのような感性と思考力と
の連動こそ求められている。
授業では『teachers' kit』から6点を抽出し、黒板に掲示
するとともに、裏面にある「話合うために(For discussion)」
を日本語に訳して示した。学生は、作品から呼び起こされた
上のカードの裏面
感情や言葉と向き合うことで、それぞれの読解を試みるとと
作者名(生年)、作品名、制作年、素材、サイズ、作
もに、他者とその思いを語り合った。
キーワードが簡潔に記されている。
者の言葉、作品の背景、話合うために、関連事項、
様々な問題をはらみ、表現形態においてもインスタレーシ
ョンや映像やパフォーマンスなど多岐にわたる現代アートの
鑑賞には、その作品にアクセスする適切な質問を用意するこ
とが効果的である。また現代作品の鑑賞とは、作家から鑑賞
者に何かが伝えられるというだけの一方通行のものではな
い。『teachers' kit』で示されたテートモダンのスタンスは、
鑑賞者一人ひとりの、性差、人種、社会階級、年齢、宗教な
どによって、ものの見方が異ることを前提としている。その
上で人は、そこで示される「非日常」に共感や違和感、また
それらが交じり合う複雑な感情を覚える。眼前に提示された
作品と、それを見ることによって生じた感覚や感情を手がか
りに、鑑賞者は芸術家の意図に思いをはせ、あるいは自らの
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内面と対話し、また友人など第三者と互いの思いを語り合う
❺ 日本の絵画
だろう。そのような作品との接し方こそ現代アート鑑賞の術
といえよう。
5.おわりに
紙幅の関係で、半数に満たない授業回の、それも概要の記
述に止めた。静岡市美術館で開催された企画展に合わせ今年
度は「モダンアート」を導入としたが、それは必ずしも固定
したものではない。ただ、絵画の多元性を示すためには、近
現代についての踏み込みは欠かせない。それは、ギリシャ、
ローマ、またラファエロなどのイタリア・ルネサンス美術を
至高の「古典」とした、アカデミーの規範の解体と連動する
からである。
またそれは、「日本」をどのように授業に組み込むか、と
いう問題とも関わる。私たちは、日本の絵画/美術/文化を
語る際に「伝統的」なものに着目しがちであり、またその重
要性は強調されてしかるべきであるが、一方で、日本近代・
現代についても再評価し、語り継ぐ努力が必要である。本授
業を締めくくるにあたって、最後の2回を「日本の絵画」と
第14回授業 ❺-ⅰ
ワークシート-1(上)、ワークシート-2(下)
【第二次世界大戦後の問題提起/岡本太郎】
学生の多くが岡本太郎を《太陽の塔》の作者として
知っている。ただ、《太陽の塔》に内部があること
した。第14回 ❺-ⅰではその前の週に取りあげたデュビュッ
や、岡本の初期作品、また芸術論や文明論など、多
フェとの同時代性を踏まえつつ、岡本太郎をとりあげ、彼の
年行方不明だった巨大壁画《明日の神話》再生プロ
文明論的な発言とも重ね合わせて提示した。授業最終回であ
る第15回 ❺-ⅱでは、一挙に過去に遡り、室町時代から江戸
時代にかけての「日本絵画の高峰」の一端を示した。(右下
くの者は知らないままである。岡本については、長
ジェクトの劇的な成功や、近年多くの関連書籍が出
版されるなど、再評価が著しい。学生には、川崎市
の岡本太郎美術館と、東京青山の岡本太郎記念館を
訪ね、その活動の一端に触れるよう促した。
参照)そのことで、日本美術における大和絵と漢画、両系統
の振幅と融合からくるダイナミズムを示したかったからであ
る。「日本絵画の高峰」は、まさに絵画が多元的であること
を顕示する世界の「古典」といえよう。ここに挙げた作品の
全ては国内にある。その実見を、在学中もしくは卒業後の課
題として授業を終えた。
第15回授業 ❺-ⅱ 配付資料
【日本絵画の高峰:雪舟、等伯、宗達、蕭白】
註
1) ここで示した授業展開は、当初学生に示したシラバスとは異なり、授業
進行するなかで修正を加えたものである。
2) 『セザンヌは何を描いたか』は、吉田秀和がセザンヌを論じた著作の題
名である。(白水社、1988)この回の導入は吉田にならい、ルノアー
ルとセザンヌの比較を糸口にセザンヌ作品への注目を促した。
3) 2000年、ロンドンのRoyal Academy of Artsで開催された“Art at the
Crossroads”展の図録。出版社は Harry N. Abrams。
4) teachers' kit, TATE MODERN, Simon Wilson, Tate Gallery, 2000
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学生に最高峰の絵画、その水準を示したいと思った。
他の選択肢もあるだろうが、これらもまた驚嘆すべ
き傑作であり、室町時代から江戸時代に至る日本絵
画の振幅とダイナミズムを直感することができたの
ではないか。
左上は雪舟による国宝《慧可断臂図》、右上は室町
時代作者不詳の重要文化財《日月山水図屏風》、中
は長谷川等伯による国宝《松林図屏風》、下左は俵
屋宗達による国宝《風神雷神図屏風》、下右は曾我
蕭白の重要文化財《唐獅子図》である。
■全学共通教育 1,2年次後期 選択科目
FILE 1 2004.3.
異文化理解の視座 -Ⅰ
‐ア ジ ア の 現 代 美 術 と の 出 会 い か ら ‐
「芸術論」における実践‐Ⅰ
1.はじめに
国際化はすでに身近なものとなった。そして私たちは
しばしば、またさまざまな場面で、異なる価値観や互い
の思いこみに出会うこととなる。それを異文化との摩擦
と捉えることもできようが、それを糧とし認識を深め、
また新たな事態に対処しうる心の柔軟性をはぐくまねば
ならないだろう。
その一つの試みとして、共通教育科目「芸術論」の一
環として、アジアの現代美術作品の鑑賞、すなわち提示
された作例から意味を読みとったり、異なる美意識に触
れる授業を行っている。
美術作品を鑑賞することは、単に新たな知識を獲得す
ることにとどまらず、感性をも動員しての、対象への主
体的なアプローチを励ますものでなければならない。そ
の意味で、アジアの国々の現代作品は、それを生みだし
たそれぞれの文化、社会、歴史的背景への関心をいやが
うえにもかき立て、日本との関係に思いを至らせ、また
情報化社会における情報の偏りや欠落といった問題にも
《FADED GLORY》ノエル・エル・ファロル, 1990
※ガラスにエッチングであたかも透明人間のように
二人の男性像が描かれている。その体には、植民地
化以前の固有の文化である刺青が施されている。
銀色のスチールのがっしりしたフレームの上部には、
木で作った卵が取りつけられている。
照明をあてるはずである。
ところで、芸術に対する政府の助成が最も手厚い国は
カナダで次はオーストラリアという話を聞いたことがあ
る。そしてその理由の一つが、異なる価値観や慣習が混
在する移民国家において、人々の異質な表現活動を奨励
することで、民族間の摩擦が軽減するということだった。
去る1月31日に東京にて、カナダの劇作家、レックス・
デヴェル氏の講演に接し、「文化の役割は他者の重要性
を認めることである」との発言が耳に響き、先の「理由」
と符合した。
しかしそれは私たちにとって決して人ごとではないだ
ろう。日本にとってそのことは「近くて遠い」アジアと
の関係に置き換えることが出来るように思う。この授業
はそのような問題意識とも重ねられている。
提示される作例は、1989年10月から1年半、教員研修
留学生として静岡大学大学院に在籍したフィリピン人留
学生、ノエル・エル・ファロル氏によるものである。同
氏は現在、フィリピン大学で教鞭をとると共に、芸術家
《FADED GLORY》(部分),1990
としても同国の内外で精力的な活動を展開している。
77
Ⅱ
2.準備
(1) 私が保管するノエル・エル・ファロル氏の作品の中か
ら、同氏が本学在学中に制作した作品、《バーニン
グ・ハート》と《FADED GLORY》を用意する。そ
れらはいずれもインパクトのある造形で、明確な図像
をもっている。すなわち前者においてはハートの形態、
後者においては人物のシルエットといったものであ
る。同時にそこに使われた型板ガラスやベニヤ板など
は日常的なありふれた素材で、その意味でも近づきや
すい作品である。
(2) 作家の考えを記した資料を二種用意する。同氏の制作
についての信条を記したものと、《バーニング・ハー
ト》の制作意図について説明したものである。
(3) 同氏の作品を理解する上で必要な資料、例えば、植民
地化以前の習俗について、また、同国の多様な美術の
現況に関わるものなど。また関連として、他の東南ア
《バーニング・ハート》ノエル・エル・ファロル, 1990
ジアの現代美術についても資料を用意する。
3.授業の導入
本授業は共通教育科目であるので美術と疎遠な学生が
多いのは否めない。それでも濃淡の差はあれ、美術に対
する漠とした関心を持ち、それを享受する糸口を求めて
いるともいえよう。いずれにしても現代作品を初めて目
にする学生に対し、実作を提示するわけであるが、それ
をあらかじめ「本物」とか「名作」といった言葉で覆っ
てしまうのではなく、作品との率直な対話を促したい。
もしかりにそれらの作品が、感興を呼び起こさないので
あれば、先ずはその受けとめ方を認めたい。しかし、次
いでその作品に関する作者の言葉や他者の感想に触れる
などして、再度作品に接することで自分なりの糸口を発
見し、徐々に見方を開いてゆくことが大切であると思う。
さて、美術作品を鑑賞する上で、事前にどの程度の情
報を提供すべきだろうか。それは鑑賞の目的によって異
なるが、ここでは、必要最小限、すなわち作者名、国籍、
作品名のみとした。解らないという抵抗もまた現代美術
に触れる醍醐味であり、そのことによって感性を開き、
想像力を活性化して欲しいと願うからである。
そこでとりあえず、30分程度の時間を区切り、自由に
鑑賞を行い第一印象をまとめ、数人に発表してもらった。
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この《バーニング・ハート》という作品は、そ
の名のとおり、ハートが燃えている作品なのだ
が、ハートが串刺しになっていることから、恋
愛についての作品であると思われる。また、額
に入っているので、その感情を表に出せずにい
るというのが現れている。
しかし、その額が燃え始めているので、もうす
ぐ崩れるということだろう。おそらく、作者が
好きな人に何も伝えられず、気持ちばかりが先
走りしていたものを、もうすぐ伝えようとして
いるときの作品だろう。この予想が合っている
のかどうかわからないが、作品から、情熱や怒
りのような強い気持ちを感じる。また、色が暗
いので、なにか吐き出せないものがあるのだろ
う。全体から少し辛さのようなものを感じる。
感想1(農学部人間環境科学科1年/男子)
展開1
前頁右側に作品を見ての第一印象を紹介した。この学
生は、ハートを「恋愛」の表現と捉え、また「情熱や怒
りのような強い気持ち」を感じている。制作者の意図は
とりあえず措いて、作品から発せられる得体の知れない
意味感を自分の言葉にしている。そのことによって、作
者や作品と回路が開かれる。通常の鑑賞では、解説者の
話を聞くことに終始したり、逆に気ままに鑑賞して済ま
せてしまいがちであるが、ここでは、さらに作者の記し
た二つの文章を用意し、自分の抱いた感想にそれらの文
章を重ねあわせ、作品とのより深い対話に導きたい。
作者コメント-a:フィリピン固有の問題への言及も含め
て、芸術家としての基本的な姿勢に関わるもの。
作者コメント-b:《バーニング・ハート》について。
これは、私がノエル氏に《バーニング・ハート》の制
作意図についてEメールで発した質問への返信である。
内容は、作品が、フィリピン人のキリスト教への篤い
信仰心をテーマとし、作品を鑑賞する行為そのものが、
それを見る人の熱情や神の愛への献身が試されている
といったものである。
※作者自らによる自作解説は、作品を理解する上で大
切であるが、作品とは作者自身も気づかぬ意味の次元
を持つこともあり、別の角度からのアプローチをあら
かじめ排除してはならない。またこのような短いコメ
作者コメント-a
植民地があって初めて「Ethnic: 民族的な」芸
術と「Folk: 民俗的な」芸術という表現が各々
意味のある用語となります。すなわち「Ethnic」
という言葉は、植民地化に抵抗してきた少数民
族の芸術のことを指しており、彼らは独自の文
化的、芸術的な伝統を守り通してきたのです。
また「Folk」という言葉は、キリスト教化され
た地方の村落、おもに植民地化の影響を受けた
地域の芸術のことを指しています。
これらに対して。「Popular: 大衆的な」芸術と
は都市特有の現象です。…中略…フィリピン人
にとって大衆的な芸術であると考えられている
ものには、制作者の個性を主張しない物品や製
品がよく見受けられます。というのは、それら
が無名の一般大衆のために作られた、商業ベー
スのものや日用品としての位置づけのためで
す。それゆえに一種のキッチュ性をもたらして
いるのです。
私が追求しようと思っているものは、こうした
キッチュ性との融合の中に見られるものなので
す。
ントでは尽くせぬニュアンスも大切で、その点でも、
作者の言葉の解釈にふくらみを持たせるべきである。
作者コメント-b
展開2
次に、残された時間でスライドを使い、ノエル・エ
ル・ファロル氏の他の作品や、フィリピンの他の現代ア
ート作品を紹介しその多様性を示すとともに、少数民族
の工芸や習俗なども紹介し、文化的な重層性について考
える契機とする。さらに他のアジアの国々の作品を紹介
するなどし、「現代」の「アジア」の「美術」が無視し
えぬ活力を持っていることを示す。
79
おわりに
結びに代えて、期末に提出された《バーニング・ハー
ト》の感想を紹介したい。これは、15回の授業の中で特
に印象に残った内容についてレポートを課したものであ
る。
講義で最も印象に残っていることは、ノエル・エル・ファロルの《バー
ニング・ハート》を見たときだ。あの強く燃え上がった炎の赤は今でも
目の裏に強く焼きついている。だから僕は、あの《バーニング・ハー
ト》を中心に近代アートについて考えて見ようかと思う。
僕は一つ、今とっても悔いていることがある。それは《バーニング・ハ
ート》の感想を書いたときに、作品をとても悪く書いた覚えがあるとい
うことだ。「どこか幼稚に見える」だとか、「この手の作品はよく分から
ない」だとか書いていたと思う。あの時、僕は教室の一番後ろに座って
いた。だから、しっかりと作品を鑑賞していなかった。遠くで見ている
と、赤い中にハートがあって燃えている、くらいにしか見えなかったの
だ。先生に、「ハートに矢が射さっている」などと言われても、「へー」
と思うくらいしかできなかった。だから、「幼稚」だとしか書けなかっ
たのだ。
その講義も終わり、前まで行ってその作品を間近で見た。その時、僕は
はっとし、なんて自分は愚かなことを書いたんだと恥じた。まず、その
色使いに感動した。優れた芸術作品はまるでそれ自体が光を発っている
かのように見えるというが、まさにそう見えたのだ。それだけでなく、
作品が、その厚みよりもずっと奥行きがあるように見え、ずっしりと重
い物を眺めているように感じた。少し前まで感じていた「幼稚」さなど
というのもはとっくに吹き飛び、それと逆に、大人が僕をあざ笑ってい
るかのように、目の前に壁がそびえ立っているかのようだった。 …中
略…
近代アートは、一見とっつきにくい印象があるが、それは変化を阻むか
たい心がそうさせる。芸術作品に触れることによって、頭の中を一度か
き混ぜ合わせ、自分というものを見つめ直すことができる。 …中略…
もともと僕は近代的音楽作品は非常に好きだ。なんというか、一筋縄で
はいかないところがいい。ノエル・エル・ファロルを知ったことによっ
て、美術・音楽共に、もっと近代作品にたくさん触れてみたいと思うよ
うになった。
《バーニング・ハート》(部分)
「つき射さった矢を持つハートは、神への献身、また信仰
と愛への揺るぎない熱情の象徴です。」
(作者コメント-b)
感想2(教育学部音楽教育専修1年/男子)
《バーニング・ハート》(部分)
「赤い色の歪んだガラスを使うというアイデアは、錯
視的な効果のためで、それは充分な信仰心を持ち身
を捧げている者は、ガラスの背後のハートをくっき
りと見て取ることが出来るというものです」
(作者コメント-b)
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■全学共通教育 1,2年次後期 選択科目
FILE 5 2008.3.
絵画を観る。展覧会で、暮らしの中で。
‐「日曜美術館展」、「ゴッホ展」他‐
「芸術論」における実践‐Ⅱ
1.授業内容について
すでに筆者は、平成15年度のFILEにて「異文化理解へ
の視座」と題して、「芸術論」の授業報告を行った。今
回は、与えられた3回の講義で、絵の見方、また生活と
アートの関係に話題をしぼり授業を展開した。
2.展覧会の選び方、絵の見方
「本物の美術作品」とは何だろう。例えば、ピカソの
描いた絵、しかし人にあまり知られていない絵がここに
あるとする。そしてそこにサインがなく、描いた画家が
分からない場合、人はそれをどのように見るのだろう。
「百聞は一見にしかず」というが、美術の鑑賞とは、「百
聞あっての一見」なのだろうか。
一方で、論じられることの多い「巨匠」作品であって
K.N. 理学部地球科学科 2年
今回、絵画分野の講義を受け、芸術作品の多様性を
知った。……略……先生に授業の中で見せていただ
いた、動物の頭骨を模した作品は、とても私の興味
を引くものであり、一種の「こういった見方もある
のか」といった感動を呼び起こされた。そこには生
物の造る固有の法則性と、人が組み込んだ意思とが
絶妙なバランスを持って存在していた。
私は生物とその形状について特別の関心を持ってい
る。生物の形状は、驚くべき複雑なものから、これ
でいいのかと思うような単純なものまである。しか
し、そこにはほぼ同様の決まりから創発された、
種々の法則によって形づくられるといった共通点が
ある。私はこのことに先人達が“wonder”と表現し
た、どうしようもない感動と興奮を覚える。
先生に見せていただいた作品には、私のこうした感
情に触れる部分があり、今後の勉強の励みになると
ともに、芸術といったものへの興味を私にもたせて
くれた。
も、ただそのことで頭を垂れる必要はない。またその評
価も、時代が移り、新たな照明があてられることで揺れ
動く。加えて絵を見る十人十色のコンテクストがあるわ
けで、一点の名画あるいは問題作は必然的に「百聞」を
呼び起こす性質を持っている。
卵と鶏の話めいてきたが、絵に接し、「百聞を求めた
くなるような一見」を経験することが、まれにある。そ
してそれはたいていの場合、予期しない出会い、あるい
は気づきからもたらされる。「巨匠の作品は良い作品」
という思いこみをそぎ落とし、自分のアンテナの感度を
高めたいものである。
いずれにしても「本物」とは、作者が誰かという問題
だけでなく、作品と他者との関係の質でもある。その意
味で、展覧会が画家や作品の従来の評価を覆すような問
題提起をしている場合は、知的・感性的に刺激的なもの
が多く、まずは一見の価値ありといえるだろう。
ところで、本講義で扱った「日曜美術館展」は、会場
内にビデオが設置され、展示された作品や画家に縁のあ
る、あるいは魅せられた人々の言葉が紹介されていた。
それはまさに「本物」の「関係」のドキュメントに他な
らない。しかしそのこともまた、番組として編集され展
示されることによって、情報ないし記号と化している。
それは大学の講義も同じで、学生諸君にあってはそれら
を参照しつつ自前の見方を広げ、できれば、見たことの
ないタイプのアートに接していただきたいものである。
《遺跡・断片》 ノエル・エル・ファロル,2005
絵画ではないが、講義の中で「暮らしとアート」の実例
として紹介した現代アート作品。
T.M. 農学部環境森林科学科 1年
授業のはじめの雑談のようなときに先生が言った
「作品の良さが分からないのは、その作品に力がない
のかもしれない。または、会うタイミングが悪いの
かもしれない」ということについて考える。タイミ
ングという考え方が芸術論の授業らしいと思った。
タイミングが違えば答えも違う。つまり、答えは一
つではない。間違いはいつだれが見ても間違い、正
解はいつだれが見ても正解、そんな受験勉強を少し
前までずっとやってきたので、この言葉は新鮮だっ
た。この言葉は、物を見る時は、その物も大切だけ
れど、その評価には自分の状態も関わることも忘れ
てはいけないということも言っているのだと思う。
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Ⅱ