流罪となって5年、遂に親鸞は赦された。建暦元年(1211)11月17日のことであ る。赦免の知らせが越後に着いた時、親鸞は越後国府を離れて、遥か北方の鳥屋 野に草庵を結んでおり、これを拠点として信濃川、阿賀野川の大河が流れる蒲原 平野の各地で積極的な念仏布教を行っていた。 流罪勅免の使いが越後国府に来ると伝え聞いた親鸞は、鳥屋野を後にして踊 躍国府に向う。しかし、弥彦、柏崎を過ぎ、米山にかかると、折り悪しく雪に見舞わ れた。日本海から吹き付ける雪に足を取られながら、ようやく米山を越え、柿崎に 着いた時には、もうすっかり日も暮れてしまっていた。と、彼方に一軒の家が見え る。親鸞はその家に一夜の宿を請うことにした。しかし、その家の女房は主人の留 守を口実に、親鸞の求めを拒絶した。 「わが身は念仏聖であれば、食べ物、夜具を望むものではない。土間の隅、軒 の下なりともお貸し願いたい。」 親鸞の申し出に、その女房は、 「ならば軒下で一夜を明かすがよかろう。」 と邪険に言い放って戸を閉めてしまった。親鸞は、吹雪に埋もれる軒下で、念仏を 称えながら一夜を明かすことになった。夜更けて帰宅した主人は、軒下から朗々 と聞こえてくる念仏の声に驚いた。女房に問い質したところ、旅の念仏聖の宿を 断ったという。これに対して慳貪な主人も、別に気にする様子もなく床に就いた。 が、念仏の声が体を包むように伝わってくる。主人は次第にその声に魅せられ、 自分の邪悪な心を恥じるようになった。真夜中、主人は飛び起きるや、軒下の親 鸞を招き入れ、非礼を謝ったという。 この主人は井上忠長といい、かつて鎌倉扇ヶ谷に住んでいた武士であるが、没 落して信州に移り、さらにこの柿崎に身を潜め、扇屋と名のっていた。親鸞の念仏 に触れた忠長は、捨てたはずの武士としての殺伐たる邪悪な心を懺悔し、念仏に 託された如来の本願に目覚めたのである。親鸞も忠長夫婦の改心を喜び、「南無 不可思議光如来」の九字名号を与え、 柿崎にしぶしぶ宿をとりにけるに、あるじの心熟柿なりけり と地名の柿崎を織り込んだ歌を詠んだ。忠長は釈善順の法名を賜り、親鸞に従っ て国府へ向うことになった。名号を背に負った善順は、女房を一人残し、親鸞と共 に米山川を渡ったが、この時米山川の向う岸から女房の淋しげな姿を見た親鸞 は、 「柿崎で夫婦もろとも弥陀の本願を弘通し、この地の先達となることこそ仏恩 報謝の道である。」 と諭し、善順を女房の許に帰らせた。名号が再び米山川を渡って戻ったので、こ れを「川越えの名号」という。善順は柿崎で浄福寺の開基となった。 また、これに似た伝説が浄善寺にある。米山川まで見送りした扇屋夫婦は、川 を渡った親鸞に形見を求め、親鸞が筆で空中に名号を書くと、女房の持つ紙にそ の名号が墨跡鮮やかに転写されたというものである。小林一茶も、 柿崎やしぶしぶ鳴くのかんこ鳥 と親鸞を偲ぶ一句を詠んでいる。(武田鏡村)
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