マルグリット・ポレートと修道院神学

マルグリット・ポレートと修道院神学
──意志概念を手がかりとして──
村
1
上
寛
はじめに
1310 年,パ リ で 異 端 者 と し て 処 刑 さ れ た マ ル グ リ ッ ト・ポ レ ー ト
(Marguerite Porete, 1310 年没)は,女性の身でありながら高度な神学的
素養を備え,またそれを駆使して著述し活動した希有な女性である1)。
ポレートの唯一の著作である『単純な魂の鏡』(Mirouer des Simples
Ames)2)(以下『鏡』)の思想的源泉の一つがクレルヴォーのベルナール
(Bernard de Clairvaux, 1090-1153)と サ ン= テ ィ エ リ の ギ ョ ー ム
(Guillaume de Saint-Thierry, 1085-1148)に代表されるいわゆる修道院神
学であることはこれまでにも度々指摘されてきたが,その多くが影響関係
を指摘する程度で,その具体的な思想内容についてはこれまで十分に論じ
られてこなかったと言える3)。
そこで本稿では『鏡』における修道院神学からの思想的影響関係につい
て,ベルナールについては自由意志理解を,ギョームについては愛と知に
1) Kurt Ruh は当時の女性神秘家,思想家たちの中で,ポレートほど神と愛が一であ
る こ と を 明 確 に 理 解 し て い た 女 性 が い な い と 指 摘 し て い る。Ruh, Kurt,
”Transzendenzerfahrung im Miroir des simples âmes der Marguerite Porete, in Religiöse
Erfahrung. Historische Modelle in christlicher Tradition, hg. v. W. Haug - D. Mieth,
München: Fink, 1993, p. 201.
2) 『鏡』本文の訳文は以下の Guarnieri 校訂のフランス語版を基本とし,適宜同書対
訳の Verdeyen 校訂のラテン語版及び各国語現代語訳を参照した。Porete, Marguerite, Le
mirouer des simples ames, édité par Romana Guarnieri / Porete, Margaretae, Speculum
simplicium animarum, cura et studio Paul Verdeyen, CCCM 69, Turnhout: Brepols, 1986.
3) 『鏡』に対する修道院神学からの影響関係について,それでもある程度まとまった
考察が行われているものとしては Bérubé によるものや Leicht によるものがあげられる。
Cf. Bérubé, Camille, L’amour de Dieu. Selon Jean Duns Scot, Porete, Eckhart, Benoit de
Canfield et les Capucins (Bibliotheca Seraphico-Capuccina 53), Roma, 1997, pp. 41-53. Leicht,
Irene, Marguerite Porete: eine Frau lebt, schreibt und stirbt für die Freiheit, München: Don
Bosco, 2001, pp. 218-221, 242-246.
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関する理解を手がかりにポレートの意志概念について再検討を試み,その
思想がそのような神学的伝統に根差すものでありながらも,無化や変容と
いった概念によって極めて興味深い独自性を示すものであることについて
明らかにしていきたい。
2
ポレートの意志概念における問題の所在
ポレートが異端者として処刑された理由については,『鏡』そのものの
思想内容よりもむしろ在俗女性たちによる宗教運動であるベギン運動との
関係で,いわば「政治的理由」によって「異端的ベギン」として処刑され
た可能性を指摘する向きもあるが4),いずれにせよ『鏡』が単に神秘的体
験や預言について語っているわけではなく,神学的に厳密さを必要とする
問題領域に踏み込んだ主張を行っていることは確かである5)。
意志に関する議論,主張はその最たるものであると言える。永らく著者
不明の書として受け継がれてきた『鏡』が 1946 年に「再発見」されて以
降6),その意志概念理解及び自由意志についての理解は『鏡』における中
心的な問題の一つとして研究されてきた。というのも,擬人化された抽象
概念による対話によって進められる『鏡』では,魂が完成に至るまでに辿
るとされる七つの段階について順を追ってその内容が示されるわけではな
く,その著作の大部分が第五の段階における,固有の意志が滅却された状
態にある「滅却された魂」(ame adnientie)に関する言及によって占めら
れているからである。滅却された魂とは,意志を持たない,意志が滅却さ
れた魂のことであり,そのような意志の滅却を契機とした神との一及びそ
の状態が如何なるものであるかがその議論の中心となっているのである7)。
これまでの滅却された魂を巡る研究では,魂における意志の滅却及びそ
れに伴う変容とその延長としての神化,神的合一の思想が『鏡』に見出さ
4) Sargent, Michael G., “The Annihilation of Marguerite Porete, ” Viator. Medieval
and Renaissance Studies 28, 1997, p. 267.
5) Ibid., p. 272.
6) Guarnieri, Romana, “Il Movimento del Libero Spirito: Testi e document,” Archivio
Italiano per la storia della pieta 4, 1965, p. 661-663.
7) 例えばツム=ブルン(E. zum Brunn)は『鏡』における「神化」の問題について
論じる中で,
「滅却された魂」の理解を手がかりに「何も意志しないこと」が魂を神の意志
との完全な同一化に導くという思想構造が『鏡』にあることを指摘している。Zum Brunn,
Emilie, “Non willing in Marguerite Poreteʼs “Mirror of Annihilated Souls”,” Bulletin de
l’Institut historique belge de Rome 58, 1988, pp. 13-14.
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れることが主に指摘されてきたが,そこでは神との一という側面が強調さ
れる一方,滅却された魂が持つ積極的な主体性についてほとんど論じられ
てこなかった。そしてそのことはポレートの意志概念,特に自由意志
(franche voulenté / liberum arbitrium)
,意志(voulenté / uolontas)
,そ
して意欲(vouloir / uelle)の用法と理解が適切に為されてこなかったこ
とに起因すると思われる。ハーン・ヨースが『鏡』で用いられている意志
と意欲は同意語であると述べているように8),これまでの研究では意志と
意欲の差異について明確に意識されてこなかったが,以下に検証していく
ように,そこには意識的な使い分けが存在しているのであり,そこに滅却
された魂の積極的な主体性が見出されうるのである。
そのような観点からポレートの意志概念について検討する上で注目した
いのが,ポレートへの思想的影響関係を指摘されるベルナールである9)。
そこでまずはベルナールの自由意志を巡る議論について確認し,その上で
ポレートにおける意志概念との共通点及び差異について検討し,それによ
って「滅却された魂」における意志概念について再検討してみたい。
3
ベルナール「恩寵と自由意志について」における意志概念
ベルナールの自由意志(liberum arbitrium)を巡る議論の内,特にポレ
ートの意志概念との関連で注目したいのが同意(consensus)と協働(cooperatio)を巡る思想であり,より具体的に言えば同意と協働における意
志(uoluntas)と意欲(uelle)に関する理解である。そこでまずはベルナ
ールの自由意志理解について,特に同意と協働に注目しつつ確認しておき
たい。
アウグスティヌス的な思想伝統に基づいて,ベルナールは人間がその原
罪のゆえに恩寵なくして善へと向き直ることが出来ないと理解するが,人
間の救済が全く神の恩寵によるものであることを認めた上で,しかしでは
自由意志の意義とは何なのかと問う。その答えは,自由意志こそ救われる
当のものであるというものである。
8) Hahn-Jooß, Barbara, Ceste Ame est Dieu par condicion d’Amour, Münster:
Aschendorff, 2010, p. 146. そこでは極簡潔に意志と意欲が同意語である旨が述べられている。
9) Guarnieri, “Il Movimento”, p. 358. またライヒトはポレートの「何も意志しないこ
とにおける自由」について論じる中で,その思想のベルナール及びギョームとの親近性を
指摘しているが,やはり意志と意欲の区別に関する言及はない。そこでは,ポレートの特
徴が意志の滅却による神との一であることが指摘され,中心的に検討されている。Leicht,
Marguerite Porete, p. 238f.
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神のみが救いを与え,自由意志のみが救いを受けることが出来る。そ
れゆえ,救いは神のみによって自由意志のみに与えられるものであり,
受け入れる者の同意なしには,また与えるものの恩寵なしにはありえ
ない。そして自由意志は救いを行う恩寵に同意することで,つまり救
われる限りにおいてその恩寵と協働すると言われるのである。すなわ
ち同意することが救われることなのである10)。
このように,救いは恩寵によってのみ与えられるものだが,与えられる
ものであるからには受け取るものが必要である。そして受け入れることは
一つの選択判断であり,同意であり,また人間の側にとって主体的働きで
あるという意味で恩寵との協働である。そしてそれゆえに自由意志のみが
恩寵を受け取ることが出来るのであり,恩寵に同意することが救われるこ
とであるとされるのである。というのも,同意は意志(uoluntas)に属す
るものだからであり,「意志的(uoluntarius)でないものは同意ではな
い11)」からである。人間はまさに自由な能力であるところの意志によって
恩寵に同意することで恩寵と協働し,救われるのである。
ベルナールはこのようにして成立する協働の場において,人間の内に三
つの働きがあることを指摘している。すなわち,「思考すること」(cogitare),
「意欲すること」(uelle)
,「成就すること」(perficere)の三つであ
るが,これらの内人間の功績(meritum)として認められるのは「意欲す
ること」だけであるとされる。というのも,善い思考は人間の側の同意な
しに(sine nobis)自由意志に先行して神によって注ぎ込まれるものであ
り,人間の側の如何なる主体的行為によって生じるものでもないが,善く
意欲することはしかし,神が我々と共に(cum nobis)為す働きだからで
ある。意欲することは意志によって行われるが,先に見たように,意志の
あるところに自由があり,その自由な意志によって善く意欲することはす
なわち主体的に恩寵に同意し,協働することなのである。
このようにして恩寵は自由意志に先行して善い思考を我々の内に生じさ
せ,意志によって善く意欲することで自由意志と共に働き,我々を通じて
(per nos)成就する。そこでは自由意志と恩寵が別々にでもなく,交互に
10)
Bernardus Claraevallensis, De gratia et libero arbitrio 2, Sancti Bernardi Opera,
vol. III: Tractatus et opuscula, ad fidem codicum recensuerunt Leclercq, H. M. Rochais,
Romae: Editiones Cistercienses, 1963, p. 166.
11) Ibid., p. 167.
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でもなく,「全てが恩寵によって完遂されるように,全てが自由意志の内
において完遂される」のである12)。
以上のようなベルナールの議論を踏まえた上で,以下にポレートの意志
概念について検討し,その思想的影響関係の有無について検討してみたい。
4 『鏡』103 章における自由意志理解
ポレートの意志(voulenté)と意欲(vouloir)に関する理解は,自由意
志(franche voulenté)理解と密接な関係を持つ。そこでまずはポレート
の自由意志理解から確認していきたい。
『鏡』では,章題で用いられている一カ所を除けば「自由意志」という
単語が現れるのは全部で十四カ所である。
『鏡』のラテン語版写本ではそ
の多くが libera uoluntas と訳されているが,その内の三カ所だけが liberum arbitrium と訳されており13),このことはラテン語版訳者がそれらの
箇所に選択及び判断(arbitrium)としての意志概念と,神学的背景を踏
まえた自由意志概念を読み込んだことを示していると言えるだろう。
その内の一カ所である 103 章では,箴言 24 章 16 節における「神に従う
人は七度倒れても起き上がる」という記述を念頭に「義なる人は一日に七
度転落する」と言われており14),このことからポレートは「義なる人は一
日に七度転落する以上,彼は七度引き上げられたはずなのです15)」という
結論へと導くのだが,その過程で自由意志について次のように語っている。
このことから,もし私たちの意志に対して一日に七度も罪を犯さなけ
ればならないとすれば,私たちは自由意志を持っていなかったように
思われるのです。そうではないのですから,とこの魂は言う,神よ感
12) Ibid., p. 200.
13) 該当箇所は以下の通り。Porete, Le mirouer, chap. 91, ligne 18, chap. 103, ligne 15,
chap. 118, ligne 97.
14) Colledge はこの箇所が当時広く流布していた,詩編 119 章 164 節における「日に
七たび,わたしはあなたを賛美します」との混同の結果であることを指摘している。
Margaret Porette; translated from the French with an introductory interpretative essay by
Edmund Colledge, J. C. Marler, and Judith Grant, The mirror of simple souls, Indiana:
University of Notre Dame Press, 1999, p. 126. なお chëoir を「倒れる」ではなく「転落」と
したのは,
『鏡』105 章における「義なる人は非常に高いところから非常に低いところへ転
落する」
(le juste chet de si hault si bas)という表現を踏まえたことによる。Cf. Porete, Le
mirouer, chap. 105, ligne 14.
15) Ibid., ligne 18.
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謝します16)。
このように,ここでは罪を犯すことも,犯さないことも自由に選ぶこと
が出来るという意味での選択可能性が自由意志の要件として語られてい
る17)。その上で直後の箇所では,「というのも,[もし自由意志を持ってい
ないとすればそれは,]私[魂]の意志(voulenté)が意欲しないなら罪
を犯すことが出来ないということにすぎないのですから18)」と語られてい
るのだが,これはつまり自由意志があるなら意志の行使がありうること,
そして罪に関わる選択可能性が意志の行為であることを示している。さら
に,続く箇所では同意が意志によるものであること,そして意志の行使が
自由と密接な結びつきを持っていることが示されている。
そしてもし私[魂]がそれ[罪を犯すこと]を意欲するなら,どうし
て神がそれを許さないでしょうか。もし神がそれを許さないなら,神
の力が私から自由を取り去ることでしょう。しかし神の善は,神の力
が私から何かを奪い去ることを許すことが出来ないのです。これは,
もし私の意志が同意することを意欲しなければ,如何なる力も私から
私の意欲を取り去ることがないということを意味しています。今や神
の善が,純粋な善によって,私に善による自由意志を与えたのです19)。
この箇所での同意は assentir であるが,同章の別の箇所にある「その
意志(voulenté)の同意(consentement)によって20)」という記述や,
105 章の「一切の過ちを拒むことによって自由であり続けるその意志のた
めに21)」といった記述が示すように,同意が意志によるものであること,
16) Ibid., chap. 103, ligne 9.
17) 但し,カンタベリーのアンセルムスが,罪を犯すことが出来るという選択可能性
を自由意志と捉えることを明確に否定しているように,ポレートの自由意志理解がスコラ
学的な自由意志理解と大きく異なることは指摘しておく必要があるだろう。アンセルムス
は,罪を犯さないことを望みまたそうすることが出来る意志こそが自由意志であることを
主 張 し て い る。Cf. Anselmus Cantuariensis, De Libertate Arbitrii 1, Sancti Anselmi
Cantuariensis archiepiscopi opera omnia t. 1, ad fidem codicum recensuit Franciscus
Salesius Schmitt, Stuttgart: F. Frommann, 1968, pp. 207-209.
18) Porete, Le mirouer, chap. 103, ligne 13.
19) Ibid., ligne 15.
20) Ibid., chap. 103, ligne 6.
21) Ibid., chap. 105, ligne 13.
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そして意志の同意と自由に密接な関係があることをポレートが意識してい
たことは疑いない。
この引用箇所でもう一つ注目しておきたいことは,「意志(voulenté)
が同意することを意欲しなければ,如何なる力も私から私の意欲(vouloir)を取り去ることがない」と言われているように,意志と意欲が明確
に区別されていることである。意欲が同意するのではなく,意志が同意す
るのである。つまり,ある何らかの同意においてその能作主体は意志であ
るが,その主体による選択判断のみでは同意は成立せず,そこには同意と
いう一つの行為を成立せしめる働きが存在するのであり,それが意欲と呼
ばれているのである。敷衍して言うならば,意志は個々の選択判断及び同
意を可能にするある種の能力,原因であり,意欲とはそのような意志の個
別具体的な働きとしての様相,或いは何らかの対象への動的な持続性であ
ると言えるだろう。では,取り去られうるものが意志ではなく意欲である
とされていることは何を意味しているのだろうか。
5
神と魂の意志と意欲
『鏡』における「滅却された魂」に関する議論は,このような意志と意
欲に関する区別を念頭において進める必要がある。というのも,そこでは
そのような魂が自分自身の意志なしに意欲を持つ事態が語られているから
である。しかし意欲が意志を原因とするその具体的働きであるなら,意志
なしに意欲を持つとはどのような事態が想定されているというのだろうか。
それは,次の引用箇所が示すように,神にも意志と意欲があり22),しかも
神の意志がそのような魂の内で働くようになるということについて理解す
ることで明らかになるだろう。
というのも,この魂が同意のもとで意欲する一切のことは,魂が意欲
することを神が意欲するということなのですから。そして魂は神の意
志を実現するためにそれを意欲しているのであって,魂自身の意志の
ために[意欲しているの]ではありません。魂が自分からそれを意欲
することはありえません。むしろそれは魂の内でそのことを意欲する
神の意欲なのです。それゆえ,魂が意欲すべき一切のことを魂に意欲
22) 129 章には「神的意志の神的意欲」
(le divine vouloir de la divine voulenté)とい
う表現も見られる。Ibid., chap. 129, ligne 7.
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させる神の意志を除いて,この魂が全く意志を持たないことは明白で
す23)。
このように,
「滅却された魂」は神の意志を持つことを意欲することに
よって「神的意欲」(le divine vouloir)を持つのだが,それは魂自身の意
志の働きによって達成される事態ではない。
そのような魂が持つ意欲は,神の意志による意欲なのである。
すなわち,滅却された魂では,自分自身に固有の意志が滅却されること
で自分自身の意志に由来する意欲は存在しなくなるが,意志において無で
あることによって神の意志と一であり,神と一である意志による意欲を持
つのである。そしてそのときそのような魂は,自分自身の意志なしに,つ
まり自分自身の意志を根拠とせずに,魂の内で魂に意欲させる神の意志に
よる,働きとしての神の意欲を同時に自分の意欲として働くようになるの
である。
しかし同引用箇所が示す意志と意欲に関するこのようなポレートの理解
は,
「同意のもとで」(en consentement)と言われており,しかも同意が
意志によるものだと考えられていたことと矛盾しないのだろうか。この問
題は,同意が魂自身の意志(voulenté)によるものであると同時に,自由
意志(franche voulenté)によるものであることを理解すれば明らかにな
るだろう。
104 章では,自由意志が与えられたのだから一切が与えられたのだとい
う魂の主張に続いて,次のように言われている。
丁度神が私[魂]の利益のために,その神的善による神的意志によっ
て私にそれ[神の一切]を与えるように,神の善と神の一なる意志の
ために,私は何も惜しむことなしに,脱ぎ去って,神に私の意志を自
由に与えたのです24)。
このように自由意志を与えられた魂は,意志において神と一であるため
に,その自由意志をいわば神にそのまま投げ返すのである。というのも,
自由意志はその選択可能性において自由なのであって,実際に意志によっ
23) Ibid., chap. 11, ligne 161.
24) Ibid., chap. 104, ligne 15.
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93
て何らかの個別的な事物を選択し意図することは意志において神と一であ
ることを妨げるとポレートは考えるからである。それゆえにそのような魂
は,自分自身の意志によって何らかの個別的な選択や判断に同意するので
はなく,自分自身の意志なしに,しかしむしろそのことによって全面的に
開かれている自由意志において神の意志に完全に同意することで意志にお
いて神と一であり,一なる意欲を働くのであり,真に自由なのである。す
なわち,滅却された魂はそのとき,先に見たように,罪を犯さないことを
選ぶことが出来るという選択可能性としての自由意志を越えて,常にその
都度なされる主体的な行為であるところの意志の同意による,あらゆる選
択可能性への全面的な開けという純粋な自由意志を持つのであり,その固
有性に基づく個別的意志なしに,神の意志による意欲をしかし主体的な自
己の意欲として働くのである。
以上のようなポレートの自由意志理解をベルナールとの関係についてま
とめるなら次のようになるだろう。
意志のあるところに選択可能性としての自由を見出し,そのような自由
と自分自身の意志の放棄を根拠とした神の意志への全面的な同意によって,
一なる意志において一なる意欲を働くというポレートの意志理解は,意志
と同意における自由の理解,そして意欲における協働とも言える思想など,
ベルナールの自由意志理解と少なからぬ親近性があると思われる。しかし
ベルナールにおいて自由な意志の同意によって善く意欲することが人間の
功績であり協働であると言われるのに対して,ポレートの場合,自由意志
の同意に基づく意欲における主体的な協働が成立しているにせよ,自分自
身の意志の滅却が前提になっている点において,協働における人間の功績
を認めるベルナールとは根本的に異なると言えるだろう。
意志における一の思想に関してはしかし,サン=ティエリのギョームの
思想とより密接な関係があると思われることから,以上のような意志理解
を踏まえた上でその思想的関連について検討してみたい。
6
ギョームにおける愛,知
『鏡』において,意志における一の思想はつまり愛の内における一であ
り,神の内における一である25)。そのような意志と愛を巡るポレートの思
25) 意志と愛,そして聖霊を巡る関係は 115 章に詳しい。「聖霊の愛が魂の内に流れ
込み」
,そのとき魂の内には「一つの意志,一つの愛,一つの働き」があり,魂自身の働き
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想は,はじめに述べたように,サン=ティエリのギョームの思想による影
響のもとに成立していると考えられる26)。それゆえ,まずはギョームの
「霊の一致」
(unitas spiritus)及び「愛の知」(intellectus amoris)につい
て確認した上で,前章までの意志概念理解を踏まえつつポレートの「愛の
変容」(muance dʼamour),「愛の知」(LʼEntendement dʼAmour)につい
て検討し,両者の思想の親近性とポレートの独自性について明らかにして
いきたい。
ギョームは人間の理想的完成として「霊の一致」を説くが,それは如何
なるものだろうか。それは,人間が原罪によって損なわれた神の似姿を取
り戻すことで完全に神を眼差し,そのことによって真に神と似たものとな
ることであるとされる27)。このような一致は一方でまた意志によるもので
あり,愛によるものであり,つまりは聖霊によってもたらされる,聖霊そ
れ自身である28)。というのも,人間はその意志によって神へと向かい,つ
まり神を愛するのだが,そのような善き意志は神によって注ぎ込まれた聖
霊自身に他ならないからである。
このように,父と子の愛,一致,意志と言われるあなたの聖霊自身が
その恩寵によって私たちの内に住み,神の慈愛を私たちに勧め,この
慈愛によって神自身を私たちと親しくさせ,私たちに吹き込まれた善
き意志によって私たちを神に一致させるのです29)。
このように聖霊は人間の内へと注ぎ込み,人間の霊を自分自身に一致さ
せ,人間をして神を愛するものとせしめ,人間の内で一なる霊として聖霊
である自分自身を愛するとされているのだが,このような一連の働きを人
間の側から見たならそこには一つの疑問が生じる。被造物である人間がそ
なしに「神的意志が行使される」のである。Cf. ibid., chap. 115.
26) Guarnieri, “Il Movimento”, p. 358 及び註 3 を参照。
27) Cf. Guillelmus a Sancto Theodorico, Epistola ad fratres de monte dei 262, Guillelmi
a Sancto Theodorico Opera omnia pars 3, Opuscula adversus Petrum Abaelardum et de fide,
cura et studio Pauli Verdeyen, CCCM88, Turnhout: Brepls, 2007, p. 282.
28) Cf. Guillelmus, Aenigma fidei 7, Guillelmi a Sancto Theodorico Opera omnia pars
5, Opuscula adversus Petrum Abaelardum et de fide, cura et studio Pauli Verdeyen,
CCCM89A, Turnhout: Brepls, 2007, p. 132.
29) Guillelmus, De contemplando deo 11, Opera omnia pars 3, p. 160. 人間へと注ぎ込む
ものが神の愛であり,愛である神であり,つまり聖霊であることについては以下の箇所を
参照。Guillelmus, Ep. Frat. 170, Opera omnia pars 3, p. 263.
マルグリット・ポレートと修道院神学
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の限られた能力において,そのような一性について把握し語ることがどう
して出来るだろうか。
「いかなる魂,いかなる霊のどんな感覚もあなた[神]を把握すること
は出来ない」が,
「あなたを全体として愛するものの愛は,あなたがそう
である限りのあなたを全体として把握する30)」と言われていることがその
答えであり,そのような認識,知としての愛こそが「愛の知」と呼ばれる
ものである31)。すなわち,知は対象との一致であるという基本的理解に基
づいて,「聖霊にとって父と子とを知り,把握することが父と子であるそ
の存在であることに他ならないのと同じように32)」人間がその似姿に基づ
いて神を知り,愛することで神と似たものとなることは神と一つの霊にな
ることに他ならないとされており,このような聖霊を中心に据えた愛と知
を巡る思想こそが「愛は知それ自身である」(Amor ipse intellectus est33))
と言われるその内実なのである。
7 『鏡』21 章における愛,意志,神
『鏡』において,ギョームの「霊の一致」との思想的親近性が最も顕著
に示されているとされているのが 21 章における次のような記述である34)。
私は神なのです,と愛は言う,それというのも愛は神であり,神は愛
だからです。そしてこの魂はその愛の身分のゆえに神なのであり,そ
して私[愛]は神的本性を通じて神なのです。そしてこの魂は愛の正
義のゆえに神なのです。それゆえこの私の素晴らしい恋人は私によっ
て教えられ,彼女自身[魂]なしに私によって変容させられたのです。
それというのも彼女[魂]は私の内へと変容させられたのであり,そ
して,と愛は言う,私の糧がこの結果を引き入れたのです35)。
前章では,一定の完成の段階に至った魂が同意によって神と意志におい
て一であるという思想が『鏡』に見られることを確認したが,ここでは,
30)
31)
Monastic
32)
33)
34)
35)
Guillelmus, De contemplando deo 17, Opera omnia pars 3, p. 165.
ギョームにおける「愛の知」については以下を参 照。Booke, Odo, Studies in
Theology, Michigan: Cistercian Publications, 1980, pp. 27-30.
Guillelmus, De contemplando deo 17, Opera omnia pars 3, p. 165.
Guillelmus, Ep. Frat. 173, Opera omnia pars 3, p. 263.
Hahn-Jooß, Ceste Ame est Dieu, p. 267.
Porete, Le mirouer, chap. 21, ligne 44.
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一定の完成の段階にある魂が愛へと変容させられることによって,つまり
魂が愛となり,神が愛であるために,その魂が神であると言われているが,
このことは当然魂が神自身になることを意味してはいない。端的に愛が神
であると言われるのに対して,魂が神であると言われる場合には「愛の身
分のゆえに」
(par condicion dʼamour),「愛の正義のゆえに」(par droicture dʼamour)と言われているように,魂は愛であるというその条件によ
ってのみ神と言われるのである。魂が愛であるとは,愛が魂を愛それ自身
へと変容させたと述べられているように,つまり愛がいわば魂の内に注ぎ
込むことによって魂を変容させることである。そして別の箇所で述べられ
ているように愛は聖霊であり神の意志であることから36),つまりこのよう
な愛の変容は愛へと変容した魂が神の意志において,善き意志である聖霊
の働きにおいて一であることを示しているのである。
このように神の意志としての聖霊が自らを魂に注ぎ込み,一をもたらす
構造は先に確認したギョームの霊の一致の思想と通じるものであり,霊の
一致が聖霊それ自身であると言われていることにも通じるものであると言
えるだろう37)。しかしこのようなギョームの言う霊の一致と,ポレートの
愛の変容による神的一を巡る思想との間に根本的な相違があることもまた
確かである。
第一にポレートはそのような一の根拠を,ギョームのように人間が神の
似姿を持つものであることに由来させてはいない。ポレートが神との一を
生ぜしめる根拠としているのは魂の無性である。真に存在するものは神の
みであり,魂はその存在の起源を神に持つという点において神に由来する
ものではあるが,それ自身に存在の起源を持つものではない38)。魂はいわ
ば能動的に自らを整えることで愛と一になるのではなく,また魂の何らか
の固有性が恩寵によって愛へと変容させられるのでもなく,無なるものと
しての本来的在り方を取り戻すことによって,魂の内で魂自身が一切働く
ことなく,神の意志としての愛が働くようになる状態において愛との一を,
すなわち「愛の変容」を達成するのである39)。
36) 『鏡』の 115 章では「記憶は父の力を」
,「知性は子の知恵を」,「意志は聖霊の善」
を持つと語られた上で,「この存在[神]は聖霊自身であり,父と子の愛なのです」と語ら
れている。Cf. ibid., chap. 115, ligne 12.
37) Cf. Guillelmus, Ep. Frat. 263, Opera omnia pars 3, p. 282.
38) 神のみが存在し,また善であり,それに対して魂は存在を持たず,悪であるとい
う議論については以下の箇所を参照。Cf. Porete, Le mirouer, cap. 118, linea 190.
39) 『鏡』における愛の変容については別稿にて詳しく論じる予定である。他に愛の
マルグリット・ポレートと修道院神学
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霊の一致に関するギョームとポレートの思想的相違として重要な第二の
点は,ギョームが神との一について,それが三位一体における聖霊との霊
における一であることを強調するのに対して,ポレートは聖霊の役割を明
確に強調せず,むしろ神との一であることを明言している点である。聖霊
が神の意志であり愛であることをポレートが理解しているということは先
に述べたが,先に引用した 21 章のように,ポレートはまた神を単純に愛
と呼んでいる。このことは,ポレートが特に働きの主体としての神を愛と
呼ぶ場合には「至純の愛」(fine amour)という表現を用いていることを
理解する必要があるだろう40)。すなわち,魂が愛でありつまり神であると
される主張について,それは文字通り魂が働きの主体としての神になるこ
とではなく,働きとしての愛における,意志における一が主張されている
のだと解釈出来るのである。
ポレートは愛についておよそ以上のような思想を持っているが,では愛
と知の関係についてはどのように考えているのだろうか。ギョームのよう
に,神へと向かう愛をある種の知であると考えているのだろうか。
8
ポレートにおける「愛の知」
ライヒト(I. Leicht)は『鏡』における LʼEntendement dʼAmour とギ
ョームの intellectus amoris との相関性を指摘し,ポレートが intellectus
amoris の思想内容を知っていたこと,しかし愛がポレートの場合には単
に認識,知としてではなく,「認識の母,神的光の母」であると言われて
いるように,認識,知がそれに根拠をもつものとして,いわば愛がそれら
より優位にあることを主張している41)。両者の「愛の知」が密接な関係に
あることは確かだと思われるが,しかし 56 章では愛が認識との関係にお
いて次のように言われていることを確認しておく必要があるだろう。
変容について集中的に扱った研究としては以下があげられる。Mommaers, Paul, “La transformation dʼamour selon Marguerite Porete”, Ons Geestelijk Erf 65, 1991, pp. 89-106.
40) 『鏡』の 133 章では「至純の愛が一つの愛と一つの意欲を持たせた」と語られて
おり,先にみたように神が意志であり愛であると考えられていたことを考慮するなら,こ
の一節における至純の愛は働きではなく,働きを為す神自身であると考えるべきである。
Cf. Porete, Le mirouer, chap. 133, ligne 29. なお至純の愛はトルバドゥールにおける重要な用
語,概念の一つだが,ポレートがそれをどのように受容し,展開したのかについてはより
詳細な研究が必要であり,別の機会に改めたい。
41) Leicht, Marguerite Porete, p. 244.
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中世思想研究 54 号
そして確かに,認識の娘である愛にではなく,認識の女主人である愛
に[尋ねるべきでしょう]
。というのも,彼女[認識の娘である愛]
はこのこと[完全な愛の存在]について何も知らないのですから。し
かしむしろ最善のためには,認識の母であり神的光の母である愛にそ
のことを尋ねるべきなのです。というのも,彼女[認識の母である
愛]は,この魂が留まり住むその全ての内で最も優れたる者であるゆ
えに,全てを知っているのですから42)。
ここで愛は認識との関係において,「認識の娘」と「認識の母」という
二つの側面から語られている。そして「認識の娘」とはすなわち認識によ
って生じる愛であり,被造的事物に対する個別的な意志であり,愛である
が,それが「何も知らない」と言われているのに対して,「認識の母」,つ
まり認識を生ぜしめるより根源的な意志の源泉としての愛が「全てを知っ
ている」と言われているのである。
認識を巡るこのような対比は,端的に言って被造物の知と神の知との対
比である。被造物である人間はその被造性に基づいて認識する限り決して
神を認識出来ない。それゆえに『鏡』では人間の能力である理性とその認
識が愚かなものであるとされるのだが,滅却された魂はまた,「この知の
ために全てを知っており,しかし何も知りません43)」とも言われる。この
魂は完全にただ神の意志だけを意志しているために何も知らないと言われ
るのだが,では「この知」とは何のことであり,「全てを知っている」と
はどのような根拠に基づいて何を知っていると言われているのだろうか。
それは,前節で確認したように,そのような魂が愛に変容しており,愛
の理解するところは神であるそれ自身を理解することに他ならないという
ことを意味している。12 章では理性の知が否定された上で,愛の知につ
いて次のように述べられている。
というのも,あなた[理性]の知(Entendement)はあまりにも低
いものであり,そのためにあなたは,私たち[魂]が話している存在
について良く理解しようと意欲するものが理解すべきほど高く理解す
ることが出来ないのですから。しかし滅却された魂の内に留まり,存
42) Porete, Le mirouer, chap. 56, ligne 29.
43) Ibid., chap. 16, ligne 7.
マルグリット・ポレートと修道院神学
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在しており,自由である神的愛の知は,それ[滅却された魂の存在]
をただちに理解します。というのも,それ[神的愛の知]はまさにそ
れ自身なのですから44)。
ポレートはこのように理性による知では愛の知に至り得ないことを述べ
た上で,52 章では,魂がそのような愛の段階にあることが神的認識を手
に入れることによるのでもなく,愛の知を手に入れることによるのでもな
いことを強調している。というのも,「如何なる知も,どれほど照らされ
ているとしても,神的愛の横溢を手に入れることは決して出来ない」から
である45)。このような強調は,愛の変容における神との一が魂の知的活動
や能力によって達成されるものではなく,愛に変容した魂が愛自身となる
ことで結果として愛の知を持ち,愛の知それ自身であることを示すもので
ある。ポレートにとって愛の知とはつまり真の知であり,知的活動の源泉
であり,完全な知の働きなのである。
以上のことからポレートの知と愛を巡る思想が,愛を真の知と見なす点
においてギョームの思想と強い近親性を持っていることは疑いない。しか
しギョームにおいては聖霊が人間の内に注ぎ入り,人間をして神を愛する
ものとせしめ,神を愛するというそのことにおいて把握としての知を見出
すのに対して,ポレートにおいては魂自身の意志が滅却され無になること
で愛そのものに変容し,愛が神自身であるために一切の知があるとされる
ように,両者の思想構造に大きな差異があることもまた確かである。簡潔
に言えば,ギョームの愛,知が人間の側からの働きでもあるのに対して,
ポレートのそれはあくまで魂の内で魂の働きなしに働く神の働きなのであ
る。
結
語
ポレートの思想,特にその意志概念が本当にベルナール及びギョームか
らの思想的影響を受けたものであるのか,また受けているとすればそれは
どの程度であり,違いがあるとすればそれは何なのかについてこれまで考
察してきた。結果として,本稿で取り上げた自由意志,意志,愛,知とい
った概念に関するポレートの理解はやはりベルナールやギョームの思想に
44) Ibid., chap. 12, ligne 30.
45) Cf. ibid., chap. 52, ligne 6.
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その思想的源泉を持つものであったが,『鏡』では無化と変容というテー
マのもと,それらの概念が独自に解釈され,展開されていた。そして無化
とは意志の滅却によるものであり,変容とは愛への変容であるために,つ
まり愛が聖霊であり神の意志であるために,意志における一であった。つ
まり,ポレートにおける修道院神学の受容は,その意志概念理解による再
解釈を経て受容されたものであり,今後は「滅却された魂」についてもそ
のような意志概念理解を踏まえた上で研究していく必要があると言えるだ
ろう。