494号 1月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会

した。これも教職員ならび
に同窓各位の積極的な御努
力 ・御支援によるものであ
り、心から感謝致します。
一方、学外に目を転ずれ
ば、政治、経済、社会総て
がなお混迷にあり、新しい
秩序の曙光の 一筋すら見え
入り、診療機能のさらなる ません。今は我々医学を志
最 良 の附 属 病 院 を
めざ し て の正 念 場
病院長 酒 井
紀
二十 一世紀に向か って質
上、保険法紹介率も37%近 向上 ・充実をめざし、四月 迎えたことになります。
くに達し、紹介患者数は私 から専門診療科編成を基本
く、新橋校をはじめ全てが
当時とは比較にならぬほど
学内掲示1月1日付
すべて変化しております。 嘱する。
このような時代 ・文化 ・
第 6回理事 会報告
(歯科)
立医大特定機能病院の中で とした診療部門、中央診療 の高い明るく活動的な最良 立派になりましたし、大学
講師
五百蔵 一男
最も多く、紹介率も東日本 部門の再構築と新たに発足 の附属病院をめざして、医 の機構 ・学生の気質なども 助教授 (但し派遣中)を委
ではト ップグループを常に する診療部科長制度をスタ 師をはじめ全ての医療スタ
ッフが 一体とな って頑張る
は、昨年は皆様の積極的な 維持しております。皆様の ートさせます。従来からの
ご努力によ って多くの病院 ご協力の賜物とこの場をお 講座の壁を撤廃し、真に患 所存です。同窓の諸先生に 科学のうねりの中で、本学
業務の改善の成果が随所に かりしまして厚く御礼申し 者中心の高度の医療を展開 は、何卒絶大なご支援とご が ﹁古き良き伝統を継承﹂
いたします。今年は附属病 指導、ご協力をいただきた し つつ、﹁新しい技術や考
開花し、教職員の意識は大 上げます。
月
111日開催
きく 変わ ってまいりま し
平成
(八
1年
)度の事業計画案
す者に課せられた社会的責
えを積極的に取り入れて行
充実を計 っていきます。
く柔軟な頭﹂と ﹁これから
に ついて検討審議し、承
さて、今年は診療内容の 院にと ってまさに正念場を くお願い申し上げます。
認された。
父兄会長 大 橋
同 窓 会 館の 移 転・撤去
同窓はじめ、諸先生から
や、第三病院裏には弾薬庫 た。大学で過ごした青春の
年のはじめにあたり、本
絶大なるご協力をいただい
の跡を囲む高い土手などが すべては、 つい昨日のこと 学ならびに皆様のますます
ています患者紹介も、年末
残 っていました。授業が始 のように思い出されます。 の発展をお祈り申し上げま
には 医療法紹 介率45%以
新年明けましておめでと ま ってしばらくは、体育の 現在では、国領校だけでな す。
うございます。いよいよ西 時間に校庭をならしたり石
としての高木2号館 (暫定 社会秩序を造り上げる努力
同窓の諸先生、教職員の や手術室がより機能的に大
名N棟)は二月に竣工式を をすべき時であります。
皆様、新年あけましておめ 部分改装され、いよいよ外
た。病院の改築工事も病棟
えるように立派になり、あ の医学を先頭に立 って引 っ
涯教育センター内へ移転
病院改築計画の先行工事 務として、積極的に新しい
の頃より 一段と大きくな っ 張 って行くバイ タリテ ィ
することを承認、ひきつ
同窓の母校愛の結集と大 支援の必要性を生じてきた
二年に竣工し、約三十五年 会及び総会で審議させて頂
学の好意により、昭和三十 ため、本年の同窓会評議員
に亘 って同窓会活動の中心 く予定ですが、本年後半に
とな ってきた同窓会館もH は解体される予定になるか
新 春 に あ た って
たヒ マラヤ杉だけが、当時 ー﹂とを、あわせ持 った医
の面影を留めております。 師を育てていかれることを
こうして慈大新聞で、父 切に望むとともに、父兄と
づき春の評議員会、通常
理事長・
学長 岡 村
時、国領の進学課程は木の 兄会長として新年のご挨拶 して同窓として陰ながら協
もこの視点にた って、次の て順調な歩みを続けてまい
このように本学それ自身 事業を計画すべき段階に来 りました。 一昨年、特定機
た。本年に頂きました賀状 期待される成果を挙げるこ
には、罹災された同窓の先 とと思います。
大学百年記念事業は、大
10月5日(に
土開
)催される
ことを確認した。
第50
(回
3定
)期支部長会議が
ることとな った。
議し、大学2号館十階生
同窓
(会
2館
)移転について審
香も匂う木造校舎で、校庭 をさせて頂くことになろう 力をさせて頂きたいと思 っ
総会にて審議 ・承認され
本格的な活動に入ります。
新年明けましておめでと 研究センターは、今年から 動き出します。
うございます。
川
相 互理解と支援
同窓会長 諸
薫
二十 一世 紀 の 慈 恵 へ の
四月には、急速に発展し
診療面では、病院医師人 は、多くの困難を乗り越え ました。今年はその第 一歩 能病院として新たな出発を
ている科学に対応すべく、 事委員会が具体的な作業に て着実な歩みをして参りま としたいと考えます。
しました附属病院 (
本院)
基礎科学と基礎医学とを統
合した ﹁基礎医科学﹂を軸
とした新カリキ ュラムにな
ります。 一方、このような
科学の進歩で、ややもする
と軽視されがちな 一般教養
第 一期生に当たります。当
今では国領の校舎は見違
適正化の名目でマルメ、包括に 金 ・全 国平 均 二百 二十万四千
政府は国民の保険料はこれ以
よる減点を行い、国民にはマス 円﹂を計上したのにもかかわら 上には増やせないと云う。と云
コミを通じてあたかも順調に施 ず、赤字を出す病院が多くな っ うことは医療費の総枠は現在よ
た。
社を通して四附属病院合同
で、当大学では日本赤十字
見舞いと支援に対するもの
平成七年十二月、兵庫県
これは平成七年 一月十七
より大学へ感謝状が贈られ 日に発生した阪神大震災の
兵 庫 県 よ り感 謝 状
窓会館と大学別館の撤去が 解とご協力を請う。
画である。これに伴い、同 建設のため同窓諸兄のご理
舎を撤去し、その跡地に新 再出 発す ること になる。
病棟 (H2)を建築する計 少々手狭となるが、新病院
転 ・撤去に関する案件は、 カフ ェテリアと多機能を持 月の総会で審議 ・承認され
一月の理事会で慎重審議の った高木2号館 (N棟)完 れば、大学2号館十階生涯
成後、現看護学校、看護宿 教育センター内に移転し、
次第です。大学2号館十階 暦 二〇〇〇年まで、余すと 拾いをしたものです。考え
避けられない。慈恵同窓に
に移転の予定です。
ころ僅かとな って参りまし てみれば、私どもの年代は
と って、歴史ある思い出多
皆様のご健勝を祈念いた
た
。
終
戦
直
後
で
、
小
学
校
で
も
校
昨
年
末
、
大
学
よ
り
提
案
さ
上
承認された。
き建物であるが止むを得な
し、今後益々のご支援のほ
私事になりますが、私は 庭の石拾いがついてまわり れた次期病棟 (H2)建築
大学は現在建築中の看護 い。
どよろしくお願いいたしま 昭和三十五年に慈恵の医学 ました。あれから三十六年 計画に伴 う同窓会 館の移 学校、看護婦宿舎、講堂、
来る四月の評議員会、五
進学課程が再発足した時の になろうとしています。
豪語する政治家あり、素晴らし を設け、人員構成に極めて不利
行しているかの如く見せている たのである。その額は 一九九四 り増加 は有り得ないこと にな
日本の社会保険法は大成功と は中央医療協議会なる戦いの場
の
である。
年度では、全国合計九百十六億 る。ならば、医療の近代化など
既に十数年にわたる減点政策 円と新聞に報道された。今年は はここでおしまいと云うことに
日本 の社 会 保 険法 は不 成 功
したが、意欲的な改善の成 2棟建設のために解体、移 と思います。何卒、ご理解 す。
果が挙り始 めて参 りまし 転し、工事の進捗に即協調、 とご協力を切にお願い致す
た。何とい っても同窓諸先
生 のご理解 とご支援 によ
り、医療法紹介率も45%以
上を保ち続けて、ト ップグ
一方、大学は四月より新
高く評価される所です。
謹んで新年のお慶びを申 ループに属していることは
し上げます。
昨年 一月の 阪神大 震災
い制度であると多くの国民から な立場の診療側に経済的見地か で私的医療機関はリストラを続 昨年より赤字が減少との内容で ならざるを得ない。
支持されている法に、敢えて失 ら医療関係者に無理を強いてい けているが、そのために医療近 はあるが、補助金プラスである
さらに厚生省はこの程、介護
敗などとすれば問題ありと考え る。非生産的な医療に対し、経 代化は大幅に後れることとな っ から大変なことである。今後、 保険制度を検討し、現行の社会
不成功としたものである。
済問題を取入れる理由は、この た。それに引き換え、自治体で 景気の回復がどうなるかにもよ 保険方式を採用しようとしてい
社会経済は毎年生長し、保険 法に不備があるためと云わざる は国民生産の増加に伴う財政増 るが、各自治体にと っては病院 るのである。現行の社会保険方
に多大の災禍を及ぼしまし 総合医科学研究センターも
生方 より復興 の進捗状況
あおりで消えた。しかしながら 者を煙にまいた行為であ った。 機器の拡充などの名目で補助金
し、大学としても厚生省と
のことと存じます。
日本医師会の要請に答え、
で見舞い金三八四万円を送
った。また、多くの医師が
医学の進歩は 留まるところな
本人負担はゼ ロとうた った国 の増額を行い、自他共に許す病 ればならない時に来ている。或 現在の社会保険法を根底から見
く、医療の近代化は国民生活の 民皆保険は、今や受益者負担を 院に生長した。しかし、ここに る自治体病院 の院長は、﹁点数 直し、自治体病院の補助金制度
向上に伴 って進むのである。医 増やし、老人はゼロと喜ばせな 来て、バブルの崩壊や景気の低 改正は何も気にならない、来年 をなくしてからの社会保険方式
支援派遣チームを組織する
などの支援活動を行 った。
ボ ランテ ィア 活動に参 加
ならば、介護保険制度も拍手で
で ﹁高木2号館﹂と命名さ
療費の増加は経済とは異にし医 がら負担を求め、医療機関には 迷で財政事情は悪化し、多額の の補助金の額がどれくらいにな
賛成したいものである。 (R)
同窓の総意の結集によ っ 竣工、多目的、多機能ビル
金が有意義に運営され、今 れました。従 って、H2棟
野前会長の決断が評価され が本年起工、その先行工事
学と生活にある。社会保険法で 保険点数の改正の度に、
合理化、 補助金 ﹁病院 一床あたりの補助 るかが問題だ﹂と。
て設立された同窓会振興基
ます。又本院は特定機能病 として、看護寮解体工事が
収入も増えるとの保険経済神話 を得ず、将来 への見通しが極め 加をもとに、自治体医療機関の の赤字体質の継続は困 った実状 式が失敗しようとしている時期
は、バブルの崩壊に伴う不況の てあまく、経済に弱い医療関係 充実、救急医療協力や最新医療 のようである。地 方自治体にと に何故このような制度を検討し
って重大な問題として考えなけ ようとしているのであろうか。
等、意気溢れたご連絡が多 学の改革が急速に進展しは
く頼もしい限りで、何より じめ た現状 に歩 調を合わ
せ、仮称N棟は本年二月末
は、関西在住の同窓諸先生 カリキ ュラムが施行され、
論説
の 一層の充実がもう 一つの
軸になります。
謹賀新年
克 洋
看護学科は学祖の建学の 予定し、四月の新学期を迎
総ての人間が、人間の尊 でとうございます。本年が 来部門の大改装に着手しま
精神を基に学んだ第 一期生 えます。従 って年内には新 厳をも って生き、地球環境 皆様にと っても良い年であ す。今年の六月頃までには
を三月に送り出します。彼 病院着工が予定されます。 を保全し、また他の生物と りますよう願 ってやみませ 全 ての内 科 ・外科 ・小児
女らの今後の活躍に大きな
以上のように、昨年まで 共生することに、政治、経 ん。
科 ・産婦人科などの外来が
には古 い建物の土 台の跡 とは夢にも思いませんでし ております。
新 年 に あ た って
会 費 年 額6,000円
(購 読 料1,200円
含)
発 行 所 慈 恵 医 大 同窓 会
東 京都港区西 新橋
3-25-8
電 話03(3431)6971
編 集 発 行 人 南雲 今 朝 雄
期待が寄せられています。 に計画して参りました種々 済、社会の仕組みの原点を
附 属病院 も皆様 のご支 見違えるように改装される
昨年発足した総合医科学 の変革が、今年は本格的に 置くべきであります。本学 援、ご協力のお陰で、極め ことと思います。
哲 夫
毎 月1回25日
発行
購 読 料 一 部100円
院として 一昨年来出発しま 開始されます。
謹賀
第494号
昭 和32年9月12日
第 三種 郵便 物 認可
聞
新
大
慈
成8年)1月25日
(1)1996年(平
所: 慈 恵 医 大 高 木2号 館(N棟)地
戸 田 剛太 郎 教 授(内 科1)
2、 鈴 木 荘 一
(病院 実 習 指導 医 ・杏 雲 堂病 院 婦 人科 部 長)
(家庭 医 実 習 指 導 医 ・鈴 木 内 科 医 院)
された諸川同窓会長は、大 乗務員の健康状態を 一般日
学百年事業の 一環であるH 本人 と比較検討 したも の
2棟新築のために、同窓会 で、不慮の事故死を除いて
館 二階集会室で行う最後の は、ストレスが多いと考え
名刺交換会になる可能性が られている航空乗務員の健
重な研究であり、今後の 一
層 の活躍が 期待され てい
る。航空医学と深く関わ っ
てきた本学出身者の研究が
高く評価されていること、
平成七年十二月四日(、
月)一人に伝達された。岡村学
学生通信
年 の は じ め に あ た って
ったりで、主に 一夜づけを
生涯 教育 セ ンタ ーだ よ り
の平成七年も終り、新し
しくお願いします。激動
予定ですが、機能的には がありますので、慈恵発
ターに三つの部署が入る キ ャンパスは敷地に限り
です。そんな関係でセン 考えております。新橋校
明けましておめでとう ースに大学一号館の名誉 異な ったビデオをみるた
ございます。今年もよろ 教授室が必要とな ったの めにイヤフォンの利用も
い希望 の年を 迎えまし
た。看護学校の建物が完 従来通りでサービスは少 展のために、同窓の先生
成し、
いよいよ我々の夢、 しも変わりません。もと 方、御協力を何分よろし
る上に、センター利用者
一月の月例セミナーは
新病棟の建築が始まりま もとスペースに余裕があ くお願いします。
す。
それに伴 って生涯教育 は毎月 二十∼四十名足ら お休みです。二月は麻酔
脳 梗 塞 の治 療 の 現 状
内科2 長谷川 節
神経内科とい ゲン ・アクチベーター)
う分野は﹁内科﹂ をカテーテル法で局所動
という文字が入 注し血栓を溶解すること
っているが、 一 は、出血性梗塞や全身的
般内科とは異質 出血の危険率を上げずに
な分野で、脳血管障害や 梗塞症状を軽症化できる
ことが判明している。さ
パーキンソン病、重症筋
無力症等の中枢神経から らなる安全性と有効性の
末梢神経、骨格筋の疾患 確認を行い、保険適用の
を対象としている。精神 認可が期待される。なお、
慢性期には脳循環、代
れ神経内科医にと って最
う。通常、抗凝固療法は
のため抗 凝固療法 を行
について述べる。
こに脳梗塞の最近の治療
かチク ロピジン (一日 一
(一日四〇∼八〇 mg)
は脳梗塞であるので、こ ①には少量のアスピリン
も接する機会の多い疾患
それはさておき、われわ 謝改善剤投与と再発予防
る方が妥当と思われる。
に﹁
神経 ・筋肉科﹂とす る。
センターも少し変わりま ずですので、利用者のス 科高木教授 ﹁麻酔科領域
(前川喜平)
す。それはセンターのフ ペースは充分に確保され の最近の話題﹂です。奮
って御参加下さい。
ロアに同窓会事務局と、 ております。
また同じ部屋で同時に
神経科や心療内科とは異 当院では放射線科畑講師
なり、誤解されないよう ら に依頼 し治療 してい
名誉教授室が移転してく
てるために同窓会館は壊
る予定です。新病棟を建
生 涯教 育 セ ン タ ー 月 例 セミ ナ ー
(
麻酔科)
講 師 高木康教授
さなければなりません。
また新病棟を建設する前 日時 平成8年2月10日 テーマ ﹁麻酔科領域にお
ける最近の話題﹂
(
土)pm4時
に、事務の建物を壊し、
駐車場を建設しなければ 場所 大学2号館10階
なりません。事務のスペ 参加費 無料
ロンボテストが20%とな
一般に脳梗塞には①動 〇〇 mg)が、②にはト
脈硬化に起因した動脈閉
塞による脳血栓症と、② る程度のワーフ ァリンが
用いられている。また、
テローム物質や心臓の壁 脳梗塞患者におけるわれ
内頚動脈等の動脈由来ア
在血栓が脳内動脈につま われのアンジオテンシン
4年-病院で働く職種 ・
心肺蘇生 (実演)
子の検討では、ACE阻
変換酵素 (ACE)遺伝
も自分自身の中で大切だと
グリセ ロール等の脳浮腫 防に有効である可能性が
急性期の治療はごく軽
る脳塞栓症とがある。
思うことを、ちょっとした
アルコールに対す
受Ⅱ
容体拮抗剤が発症予
課題である。
最後に、脳梗塞は動脈
に発症する場合がほとん
れ、従来、抗血小板剤、 的治療である。
でもなく、結局は ﹁内科﹂
に、ま ったくの白紙からの
抗凝固剤、線溶促進剤な
塞)を来たしやすいとさ
塞部内に出血 (出血性梗 治療を行うことは言うま
系を低下させる治療は梗 糖尿病、高脂血症などの
べきと思われるが、凝固 どであるため、高血圧や
ら局所血流を改善させる
疾患であるので、早期か 硬化をきたしている成人
期からのリ ハビリテーシ
ョンが主体となる虚血性
し、全身管理を行いつつ
症 以外 では入院 管理と 害剤やアンジオテンシン
障害のために簡単にあきら
改善剤の投与と可及的早 考えられ、これが今後の
私は自分の理想や夢をあ 有志発表
よ って、従来より知識量の めないで欲しいと思う。
2年-演劇 ﹁天国から北
多い医師が育 っていくこと
一年は充実した年にしたい
はまず間違いないことだろ きらめないためにも、今年
模擬店 水泳部 ・陸上部 ・
ンブル
へ三キ ロ﹂
3年-リ コーダーアンサ
(学生委員長 山崎弘二)
めぐ み祭 を 終 え て
1年 ・3年有志
出発であ ったが、第 一回で
どは急性期には禁忌とさ
テー マからもわかるよう
終わることなく、看護学科
れていた。しかし近年、
ここで今回 一番学生が考
恒例の学園祭として継続し
去る平成七年十 一月十八 内容は次の通である。
日、十九日 ﹁はじめの 一歩﹂ 講演会 ﹁災害時の医療活動
うが、今年 一年どのような えて欲しいのは、勉強以外
ていきたいと思 っている。
年
1-AIDS
2年-大学紹介
3年-骨粗鬆症の予防と
(組織プラスミノー
目的意識をも って学生生活 の趣味やスポーツや課外活 をテーマに、看護学科学生
について﹂
を満喫すれば良いのであろ 動などの 一人 一人の人間性 会による第 一回"めぐみ祭" 二村浩史助手 (外科2)
を決定する部分、すなわち が開催された。広報部門の 学生発表
今年の三月からいよいよ 個性を発展させるための学 頑張りもあり、地域住民の
うか。
方々にも多数ご来場いただ
盛大な 二日間とな った。
今度の新カリキ ュラムに き、
新カリキ ュラムがスタート 生生活についてである。
し、今までのいきあたりば
(委員長 今村万里子)
超急 性 期 脳梗 塞 にt-PA
一年の計は元旦にありとい
年であ っただろうか。また、 うにな った。
たが、我々学生にと って昨 にまたより継続的な勉強法 優秀な医師にならない為に
年 一九九五年はどのような の改善を余儀なくされるよ
六年の今年にな ってしま っ 用しなくなり、より計画的 た感情の乏しい、いわゆる と思う。
九五年は過ぎ去り、 一九九 中心としていた勉強法が通 うと思うが、人間性の欠け
あ っという間に昨年 一九
る意識調査
出席され、文部大臣に代わ 大変崇高なご意志で我々教 行われましたが、いろいろ
く
、
ご
遺
体
を
通
し
て
ヒ
ト
と
結
ば
れ
式
を
滞
り
な
く終了し
り感謝状を代読され、 一人 育者、関係者 一同大変感謝 な模型でも人体のことが解 してのあり方というものま た。
(
早川敏之)
感謝状を伝達した。
基本的な実習であり、この を申し上げる次第でござい るのですが、やはり模型で で、学生が想いながら解剖
今回は谷壬吉、鈴木美義、 実習のためにご遺体を捧げ ます。最近はたいへん世の やるよりは本当のご遺体で させていただくというとこ
原田明信、横山秀雄、木下 られました。その感謝状の 中が進みまして、上野の科 解 っていただく。ここに単 ろで学問となります。改め
隆治の故人の御遺族八名が 文面にもありますように、 学博物館で人体の世界展が に形として学ぶだけではな て感謝申し上げます。
﹂と
に、文部大臣から贈られる 医師として患者さんを診る
者が献 体を成就 された際 剖があります。これは将来
(
栗原敏) 岡村哲夫学長は、献体登録 な授業として、ご遺体の解
『問 わ れ る 慈 恵 医 大 の 医 師 像 』 を テ ー マ に 、 学 外
の 第 一 線 で 活 躍 され 、 ま た 教 育 に 造 詣 の 深 い 先 生 方
に 講 演 を お願 い した 。 医 学 ・医療 の 急 激 な 改 変 の 中 、
本 学 に お い て も 教 育 ・研 究 ・診 療 面 に お け る 改 革 が
進 行 中 で あ る 。 そ して 、 真 の6年 一 貫 教 育 カ リキ ュ
ラ ムの 設定 、講 座 と診療 科 の分 離 、系統 別診 療 科体
制 の 発 足 、 自 己 評 価 の 推 進 な ど が 行 わ れ ん と して い
る 。 この よ うな 事 態 を ふ ま え て 、 こ れ か ら の 慈 恵 医
大 が 目 指 す べ き 究 極 の 医 師 像 を 探 りた い 。 同 窓 の 先
生 方 を は じめ 、教 職 員 の 積 極 的 参 加 を 切 望 す る 。な お 、
新 築 に な った 会 場 の 素 晴 ら しい 設 備 を ご 覧 戴 き た い 。
成 医会運営 委員長 藍 沢茂雄
診療メモ
新年名刺交換会開催
同 窓会 長よ り 感 慨深 い挨 拶
一月六 日(午
土後
) 四時よ に続き、近々竣工予定の高 強 い旨を感慨 深く語ら れ 康状態は特別悪くないとい
次いで名取名誉学長が同 文は米国東海岸往復飛行が
うものであり、大越君の論
共催の新年名刺交換会が、 着手されている大学改革の
窓各位の健康を祝して乾杯 免疫機能に及ぼす影響を詳
(研修 病 院 指 導 医 ・虎 ノ 門 病 院 教 育 部 長)
村学長、諸川同窓会長以下
総合 討論
約六十名の出席で、本郷理
場
下 講堂
時: 平 成8年2月29日(木)午
加地君の受賞論文は航空
4、 村 勢 敏 郎
事の司会進行にて会が始め
られた。
医学会 研究奨 励賞 を受 賞
大越裕文君 (
昭56)は、 研究者の研究を活性化する 並びに、このような分野の
匡
杉下
者:1、
演
∼5時
後3時
日
喜び の大越 裕文君
の受賞は 一昨年の加地正伸 ある。
(大学 派 遣 病 院指 導 医 ・
富 士 中 央病 院 院 長)
君 (昭54)に続いて本学二
人目の受賞である。この研
究奨励賞は、同学会が若手
第 一二 四 一回 成 医 会 例 会 は左 記 の 通
り開 催 さ れ ま す が 、 会 場 は新 築 の 高 木
3、 結 城 研 司
二号 館 (N棟 ) 地 下 講 堂 で す の で 、 同
窓 各 位 多 数 の参 加 を お 願 いし ま す 。
第1241回成医会例会のお知らせ
第21回 感 謝状 伝 達 式 行 わ る
人体解剖は医学の
環境医学会で同学会の研究 境医学を包含して更に飛躍 れを越えたプ ロジ ェクト研 慈恵医大高木会館五階学長 長は、﹁
奨励賞を受賞した。大越君 することを願 ってのことで 究が必要であることを強調 室において、第 二十 一回感 教育を行うに当たり、医学
したい。
謝状伝達式が挙行された。 歯学の教育の最初の基本的
平成七年十 一月十六日、名 目的で設けたもので、宇宙 研究には、 一研究室、ある
古屋で開催された日本宇宙 医学が近縁の航空医学や環 いは 一講座単位でなく、そ
あち こちで和 やか に歓談
科)
健 二 教 授(眼
司 会 者: 北 原
田容 章(本 学6年 生)
指 定 発 言:北
岡村学長は、新年の賀詞
大 越裕 文 君 日本 宇 宙航 空 環 境
こなわれた。昨年末以降の れ、なお 一層の理解と協力 の音頭をとり、全員で杯を 細に検討したものである。
上げ、和やかな交換風景の 両君の仕事は 一般人も関心
晴天、乾燥の天候の中、岡 を要請された。
続いて、昨年五月に就任 輪が、所狭しと広が った。 が高い航空医学に関する貴
同窓会館二階集会室にてお 進行状 況に ついて説明さ
り、恒例の同窓会 ・父兄会 木二号館の紹介と、大胆に た。
成8年)1月25日(2)
1996年(平
聞
新
大
慈
第三 種 郵便 物 認 可
第494号
新
青砥病院 開院式
根本 泰昌
を決定した。院長選挙は中 発表の場も持つことを約し
央講堂で教職員全員の投票 た。この 二年後 ﹁墨東会﹂
くられ、今の成医会青戸支
でされ、古閑義之助教授が とよぶ研究と親睦の会がつ
選ばれた。
病院は八月九月と大学か
青戸病院辞令簿には、古 部の基とな っている。
閑教授は六月三十日教授委
嘱、七月 一日病院長に委嘱 ら派遣科を増し、九月末に
今年は青戸病院開院の五 苦しい欲求とがこれに応え された。この日は山田欽、 は医師十六名、看護婦十 一
十年にあたる。開院式まで て、翌年三月に ﹁
東京慈恵 鈴木泰雄、金子活二の三医 名、事務員十五名と教職員
に至る先輩のご苦労を述べ 会医科大学協議員会﹂が発 師と事務長や看護婦長など も 充実し総 合病院 となれ
十 二月、高木喜寛学長は大 ら選ばれた四十七名の議員
学の運営を民主的にするよ からなる。この会は理想に
GHQの医学教育機関の拡 幹部など百五十名を招待し
の懇親会をもち、院長は(一同
)窓、医師、会社や町会の
足した。母体は教授から用 二十七名が青砥勤務を命ぜ た。そこで大学は病院開院
てみよう。
式を十月十九日に行うこと
敗戦の年、昭和二十年の 務員に至る各職制十四層か られている。
七月二十七日区医師会と にし、江東から千葉に及ぶ
う、学内に呼びかけられた。 走りすぎて、学長や理事を
フ ・プールのため、(地
三域
) 一年目に大学総合病院が開
張の要請、(大
二学
)のスタ ッ た。戦災で焼失した葛飾に
軍の弾圧から開放された教 選定や解任する規定を つく
職員の明るい希望と戦後の ったり、労組的主導を握ろ
伝染病者収容のため、(四)結 設したのは疾病の保障と区
核患者の入院収容の為によ 民の心の安定を支えたこと
り、病院を総合病院化する であろう。
今 でも開院 式の語 り草
ついで八月に江東地域の は、あの食糧難の時代に甘
(閻魔様は五回目)で七回 は不殺生戒、不偸盗戒、不
に守ることはなかなか難し
何回か僧侶が訪れてお経を い。人は生まれてから死ぬ
閻魔様は地獄の裁判官で あげているのをしばしば見 ま で厳密に検 証して みれ
であ った。
苦しみを与えられている絵 のが習わしである。その間
で地獄に落ちた人達が、罪 ある。 一般には死後四十九 普通の人間は俗物であるか
の軽重に応じていろいろな 日の間は仏様は自宅にいる ら、このような戒律を完全
はだいぶ古ぼけて色腿せて 行われる。天国行きか地獄 邪婬戒、不妄語戒および不
はいたが、生前悪業を積ん 行きかは審判の結果次第で 飲酒戒という教えがある。
たのは閻魔様だ った。それ
学付属青砥病院﹂と名称を 長は江東の中心たる青戸に カツのご馳走である。
改め、専任院長をおくこと 同窓会支部を設立し、研究
(昭19 ・大学参与)
され、五月の第十四回協議 同窓 へ病院披露案内状を送 い甘いサ ッカリンの汁粉と
員会で ﹁東京慈恵会医科大 り三十八名が集ま った。院 病院飼育の豚の大きなトン
を総合病院とする案が討議
協議員会で、中川堤療養所 必要があると説明した。
陥 ったので、四月の第十回
戦後は大学も財政危機に
物資不足にあえぐ従業員の うともしたもの。
閻 魔 大 王
神谷 正見
嘆かわしいことだ。仏教で
(昭35 ・評議員)
が利用されていたとすれば 魔様の審判は如何に。
るための手段として、宗教 なり下が ったのである。閻
る。自己の欲望を満足させ ないが、教団は犯罪集団に
救済 のため にある筈 であ しま ったのかは明らかでは
る。仏の教えは人々の魂の たのか結果的にそうな って
に対する裁判が花盛りであ いう文字を戒律から削除し
なかで、私の目を引きつけ 置きに七人の裁判官が交代 の人間界では某カルト教団 い。独自の解釈で ﹁不﹂と
な文化財が所狭しと陳列し 九日の間に生前の行いの審 響があるのかも知れない。 もより厳格にこの戒律を追
てあ った。拝観者の流れの 判を受ける。審判は 一週間
今、仏教でいう ﹁六道﹂ 求すべきであらねばならな
ビ臭い部屋のなかに、貴重 もしているから、死後四十 腕も多少なりとも審判に影 来出家者は、我々凡夫より
供をして、円覚寺まで拝観 獄行きである。普通の人間 ﹁地獄﹂行きか ﹁
極楽﹂行 なかでこの戒律をば破戒し
に行 ってきた。薄暗くてカ は生前よいことも悪いこと きかのキ ップは、弁護人の ながら生きているのだ。本
昨年、久しぶりに家内の御 人は、これまた無条件に地 選弁護人とも言うべきか。 会では、人々は許容範囲の
間、虫干しを兼ねて文化財 送 った人は無条件に天国へ 審判をうけている死者 への なしに生きてはいけないで
の 一般公開を行 っている。 行くが、極悪の行いをした 弁護でもしているいわば私 あろう。だが現実の人間社
文 化の日を はさん で三日 ある。生前極善 の生活を かける。この僧侶の役は、 ば、この五つの戒律を破戒
鎌倉の円覚寺では、毎年
炉辺談話
利勇
浅井
紀雄
書初めの文句の字かと笑 臥床。四十八時間後の翌日、 ンセチアの真紅、緑と次々
最近、写真屋からの現像、
われるかもしれない。
保護ガ ーゼの交 換とな っ に眼に入る。入院の前日に 焼付けがどうもボケている
白内障の手術をすること た。この瞬間の驚き、体験 部屋にいけてくれた、大学 ので、現像液が悪いのかも
病院婦長さんからの作り花 しれないと別のお店に変え
滅とのことで、前日入院と 手なデ ッサンもここ 二∼三
籠の小枝のピンクの小鳥の てみようかと真剣に考えて
可愛らしさ (入院の日が仏 いた。さらに思えば私の下
にな った。この半年の間に をお伝えしたい。
聞 ・辞書が読みにくい。風 白く、明るく光 っている。
の配慮)。
医師 ・看護婦の白衣が真
口紅の赤さ、驚きである。
急に視力が落ちてきた。新
景が黄 ・グレイの ハケでな
年旅行に出ても書かなか っ
でたようで、カブ ッタ写真 通称ノレンといわれる薄い
ガーゼの眼被いを軽くつま
﹁認識、認知﹂というこ た。色が判らなくな ったの
との大切なこと、端末から であ ったのか、色なしの鉛
を見るようにな った。
の伝達が問題で、誤 ったも 筆絵が二∼三年続いてやめ
のが後頭葉の視中枢の経路 てしま っていた。
み上げてみる。視界、千葉
十 二月の中旬、諸検査の
の山並みまで見える。
あと手術とな った。朝九時 市内のビルが見える。筑波
より 一番の手術。眼科の教
見たものはアメリカ ・テキ る。眼科の先生には笑われ
自然の美しさの再認識の
サス ・レンズを通してであ るかもしれないが。 感謝。
等に入り込んで来るので、
色の美しさ、形がは っきり
まである。挿入レンズはナ 色 彩 (
赤 ・黄 ・緑)、多彩
ンバー三二七六七二 ・〇 一 な劇画に感動する。自然の
る。
テレビで三国志の人形劇
二のアメリカ ・テキサス産
しているのだ。窓側のポイ
館で開催された。私はその は、いずれも新鮮でみずみ
中の ﹁解剖学の歴史﹂を見 ずしく、とうてい遺体とは
授の執刀で始ま った。約 一
である。術後四時間、安静
ベルグ大学のグンター ・フ
ォン ・ハーゲンス博士によ
あらためてこの大切さを知 時が来たのだ。近代化した
った。これからは私の眼で 眼科の手 術のおか げであ
プラステイネーション標
って 一九七七年に開発され
時間。今は健眼は開いたま を見る。こんなにきれいな
本というのは、人体組織の
るために同館を訪れた。展 信じ難い。然もそれらの遺
示品は結構満足するものが 体は、すべて生前からの意
入してプラステイネーシ ョ あ ったが、入場券に印刷さ 志に基づく献体によ って提
ンによる標本制作を行 って れている ﹁現代の解体新書 供されたものであるとの断
いる施設は世界各国で認め プラステイネーシ ョン日本 り書きが書いてある。我々
られ、三十二ケ国、二四〇 初公開﹂の文字が気にな っ が病理標本室で見なれた解
(昭12 ・千葉支部長)
水分を取り除き、樹脂を浸
た。彼の開発した樹脂を購
で簡単に触 れるこ とがで
透させて作る。誰でも素手
き、無臭で、空気中で半永
久的に保存できる。
プラステイネーション標
どうしても 一生でなくてよ い ってよい。それは今から
シ ョンは現代の解剖学に 一
六日まで国立科学博物館、 た。
多数の部屋に展示されて 新機軸を打ち建てることは
日本解剖学会、読売新聞社
主催による ﹁特別展 人体 いる最新技術によるプラス 闇違いないであろう。
の世界﹂が上野の科学博物 テイネーシ ョン人体標 本 (昭17 ・神奈川県連会長)
た。プラステイネーシ ョン 剖標本とはま ったく異質の
本は大きく分けて二種類あ ケ所に上るといわれる。
昨年三月には、近代解剖 という語は言葉としては知 ものである。﹃解体新書﹄
る。解剖した標本を形その
ままに仕上げる﹁実形標本﹂ 教育記念切手が発行され、 っていたが、実物を見たの が発刊当時の解剖学を 一新
九月十 一日から十 一月二十 は今 回がは じめて であ っ した様に、プラステイネー
と、薄いスライスにして透
明な樹脂に埋め込む ﹁切片
標本﹂である。
プラステイネーシ ョンの
技術は、ドイツの ハイデル
昭和 二十五年卒の私共は きは夏休暇は三ケ月だ った
昨年卒後四十五年を経て参 と記憶している。貧のどん いから手伝 うよう要 請さ 考えると、所謂28%の税制
りました。これまでがあ っ 底での勉学は、今の学生に れ、やむなく昔取 った杵柄 だ ったからだろうと思う。
その後、昭和三十年代後
ないうちに母病気のため残 半から医師会の役員にな っ
と言う間に譬えられる位、 話しても通じないし想像も を始めたところ、 一年もし
スピードの早い世の中だ っ 出来ないだろう。
翌年、まだまだ廃墟でひど
ら深夜まで雨でも雪でも村 なか ったのだろうかと、今
それからが大変、早朝か 向いている時間がどうして
たと申し上げたいのです。
二十五年に卒業するや、 念ながら退官し、近くの個 たのがき っかけで、ずるず
昭和二十 一年即ち敗戦の 家庭の経済事情でインター 人病院に勤務する中、村に ると医療の外に、種々の役
ンもほどほどで、近くにあ 一人しか開業医が居らず、 職に追われ、 一瀉千里のた
めてバラエティーに富んで 本人診療所に、内科小外科
隊入間基地)の中にある日
るままにスタートした。
医療費は念頭になか ったと
った。今では考えられない を待たずを実感している今
光景だ。正に医は仁として 日この頃です。
飛であ った。食糧事情が悪 たら今度は、今の自衛隊が
く、教授が講義に来られず、 保安隊と云 った頃で、陸士
(昭25 ・埼玉支部長)
休講もままあり、 一年のと 同期生から医官不足だから
組と云われ、服装が又々突 療に立 った。二年ほど経 っ 中をかけ廻り、無我夢中だ 不思議でならない。歳月人
ら集 ったクラスは出身が極
何とか早く開業をといわれ とえ通り、夢中で年月を過
ごしてしま った。後をふり
おり、俗称軍人組とか復員 医として勤務し、第 一線医
い東京新橋に、全国各地か る米空軍基地 (現航空自衛
光男
大滝
荻野
『明 る い 朝 』『色 彩 が あ ざ や か 』
『
対 象 物 が は っ き り』
プ ラス テ イ ネ ー シ ョン
あ っ と い う 間45年
第494号
第 三 種郵 便物 認 可
聞
新
大
慈
成8年)1月25日
(3)1996年(平
頌春
村
哲
夫
理事 長 ・学 長 (
昭 30)
岡
問
石
問
川
間
理
事
岩
事
事
理
(
大 14) 理
川
大
治
事
霜
事
保
(
昭5)
雄
事
原
理
本
田
畑
田
礼
晴
(
昭 30 )
正
(昭3
)6
元
良
(
昭 34)
忠
郎
(
昭 37)
次
(
昭 37)
信
(
昭30)
元
(
昭30)
栄太郎
貞 夫
夫
(昭 27)
可
事
益 子
(昭 4
5)
博
鈴
木
森 田
事
泰
雄
(
昭19)
一
(
昭 37 )
松 井 道 彦
理
理
理 事 ・父 兄 会 常 任 幹 事
(
昭 45)
郷
理事 ・父 兄 会副 会 長 (昭 45)
林
理 事
那
(
昭6) 理 事
繁
(昭 27 )
俊
(昭16後 )
正
(
昭10)
滋
(昭 20 )
(
昭 27)
薫
(昭 28 )
雄
(
昭35) 監 事
盛
須
坪 田 修 三
理
(
昭 3) 理
曾根 田 義 男
顧 問 名 誉会長 (
昭 2)
顧
顧
柿 本
顧 問
村
南 雲 今朝 雄
問
八
問
本
問
家
三 浦 長 英
問
本
顧 問
顧
顧
顧
顧
長
川
今 野 享 彦
会
諸
副会 長
辺
小 田 泰 治
副会長
渡
開 業 医 から 大 学 病 院 へ
値 は 6 ・27% であ
雑
私は第 一外科から第三病 剤療法 一六九名で平均H-bAic
院外科に移り小児外科を専
攻している際、昭和四十六 る。
大学病院の外来診療は、
年に父親 (昭9)が脳卒中 予防医学の立場から臓器障
で倒れ、以来それをき っか 害の程度を把握して治療計
煮
鴇田 重樹
正月でもパンとトーストを
った鯛のうえに盛 ってくれ そう思 っている。 一時、子
た。つまり、おまけ。甘酒 供が餅を嫌うようにな って
横町という場所である。
そういえば、人形町通り 食べたがるというので、漫
の向こう側にある玉秀も親 画サザエさんでも取り上げ
ころが私を含めてそのあた 食べようと思えばいつでも
倉田 達明
けに動脈硬化について学ん 画をたてる。治療開始後安
﹁暑い夏がくーるよー﹂ れは雑煮に止めをさす。子
というCMがあ った。所ジ 供の頃から餅が好きだ った
ョージとナントカという女 ので、正月になれば雑煮が
りで生まれ育 った人たちは 手にはいるんで、だからな
子どんぶり発祥の店という ていたようだけれど、私は
肩書きが付いて、これまた これが不思議でならなか っ
優とが自転車に エア コンを 喰えるというのとダブ ッて
できた。現在無床診療所で 定したならば、開業医に紹
の内容である。これだけの が持たれてきたので、少し てはエコーからトレ ッドミ いけばよい。これが病診連
た。そしてその言葉通りに は甘栗なんぞ買 ったりした すね。そんなに有名になる を作 ってもいいはずで、や
暑い夏が来た。昨年の夏は らしい。あれは割合高いの 以前は特に行こうとは思わ ったところでパトカーが飛
本当に暑か った。東京地方 でそんな時でないと買えな なか ったし、有名にな って んでくるわけでもないし、
に匹敵するという発表があ
やら羊鯛羹焼 きに化け た て並んでみようなんて考え り上げられることもないの
のせて街を走る画面であ っ 楽しか った。小遣いのほう 誰も食べたことが無いんで んなら夏の暑い盛りに雑煮
テレビに毎回出てくるんで た。お餅なんて物は、なに
営業中行列が絶えない。と しろ飽食の時代なんだから
医療設備、医療スタ ッフが 私なりの意見を書くことに ルまで使用し、腎に関して 携の始まりである。
ここで神奈川県下K大学
も機能及び形態学的に検索
いれば当然であろう。更に、 した。
高血圧患者で例えてみる している。中でも頸動脈 エ 病院の例をあげてみると、
研究設備についても、外部
無 コーについては、動脈硬化 患者は八十三才 ・男性、大
から見ても同様なことがい と、早期からの合併症 (
巣の退縮、増大も観察でき 腸癌による完全腸閉塞を紹
高度先進医療における大 この日常診療から、現在の はあるが、軽症脳卒中の診 介する。そして定期的に病
学病院は、確かに高度医療 大学病院の診療体制に疑問 断にMRIを、心臓に関し 態に応じて経過観察をして
える。我々開業医は、 一般 症候)対策として、各臓器
る有力な検査法として用い 介したところ、高カ ロリー の平均気温は ニューデリー いからであ った。あとは芋 からは大行列に恐れをなし テレビのワイドショーで取
十分な状態で日夜多科診療 物療法を施行するのが理想
ずに臓器選択性の降圧剤を る。糖尿病患者に対しては 研究者を越えた臨床医であ 人の殆ど全部が経験したこ ゅうテレビで写されるんで は子供の取り分になること から懐かしさも加わ ってう
使用しているのが現況であ どうであろうか、 一言 つけ って欲しい。このような大 とのない暑さだ った事にな 大繁盛し、何時通 っても行 をし っているんだ。
まく感じるのだろう。イン
わが家の雑煮は関東風で スタントラーメンだ って久
る。後遺症が残る程の臓器 加えさせて頂く。私の施設 学病院の体制にはしたくな る。そのCMの二番は ﹁寒 列が出来ている。ここはし
障害が発症してから、対策 におけるNIDDM患者は いものである。(昭43神奈 い冬がくーるよー﹂とな っ っぽにまであんこが入 って 長方形の切り餅に醤油味の しぶりに食べると結構うま
現在二三七名、このうち薬 川湘南学術連絡委員)
的薬剤を使用している。
ている。暑い夏はいつの間 いるというのを戦前から売 すまし汁。
必ず里芋が入る。 いから。正月なんだからヤ
ッパリ楽しい話をしようと
に過ぎ去り寒い冬になり、 り物にしていた。子供が買 これに青のりと唐からしを
いに行くと、更にあんこを かける。この簡単な料理が 思 って。(昭28 ・神奈川湘
性 のgende
がr
ある。性 えられるというので、この のである。これが花嫁の条 そして正月にな った。
正月の思い出となるとこ 一さらいグイ ッと焼き上が うまくてうまくて。今でも 北学術連絡委員)
差 別は社会 的性差 別をい 紙を壁の隙間に入れる女性 件の 一つにさ えな ってい
達で溢れていた。ゆ ったり る。結婚しても感じない女
う。
茶の味を研究している先
彼は発想の転換として、 今まで斬新的な機器を多く 販売機に収められるにちが
帰りにイスラエルによ っ とお祈りするスペースなど 性を相手に、男性はどう感
輩がいる。学者でなく勉強 旨味を引き出す物質を完全 発明し、特許も多く全国で いない。
た。テレアヴ ィブにある中 ま ったくない。聞くところ じているのであろうか。
に排除した茶を飲んでみた 使われているが、今回は茶
彼は云う、今まで捨てら
が、これが結構飲める。実 の旨味を取り除く製法機器 れていた物、捨てられた技
は旨味を引き出す物質は、 に取り組 んでい るのであ 術に真 の旨味が発 見され
学でのみ物を考えるが、現
不安定で茶製造過程でどう る。なぜこのような発想が る、科学者はその時々の科
にでもな ってしまう代物だ 生まれたのか、それは紅茶
福地 益人
お 茶 の味 から
中に不釣合の花があるなら
ど美しい。これが彼が製茶
日本茶ドリンク缶詰が自動 (昭27 ・静岡学術連絡委員)
時の日か彼の製作による製 今でも忘れられない味だそ
茶機で作られた茶の、旨い うな。
まない葉との由であり、何 で湯に入れ飲んだもので、
物らしく、旨味をあまり含 た野茶を焚火で乾かし揉ん
は今までは捨てられていた 仕事の後、草むらで採取し
とても飲める代物ではない
彼は実は茶の製造機器を 器の研究がなされ完成は間 機を作 っての感想である。
製作している社長さんで、 近だ。勿論、茶の種類も考
彼は云う、今まで最も旨
慮されていて、その茶の葉 か ったお茶は、彼の父と山
旨味を押さえて製造する機
製造過程に工夫を凝らし、 も無い方が全体としてよほ
にな ったという。今、茶の ば、花そのものは美しくて
い。なぜか、が逆転の発想
き出す物質は解明されてい そうな。紅茶、中国茶の場 などは缶詰にしても飲める 場では科学に拘らず事実実
が 日本茶の缶 詰は旨く な 践により答えを出す、緑の
嘆きの壁にしろ、電車に 家の事業家である。彼によ
近東 一の小児病院見学と、 によると、女性が側にいる
宗教の原点であるイエルサ と気が散 って熱心にお祈り しろ、クリトリス切除にし れば、茶の成分をク ロマト
レムをこの目で確かめたか する邪魔になるからだそう ろ歴史 の社会的 背景の上 グラフでしらべると多様な
ったからである。嘆きの壁 である。
で、なんらかの理由があ っ 物質の混成であり、それら
の物質の中で茶の旨味を引
振り返 って我々医師の社
であ の方がスペースが広くゆ っ であろうが、明るくゆ った 分に都合の悪いことは言わ
った。講演の中で性差別を たりとしている。女性の方 りとした感じを受ける。子 ない。
強調していた。性には生物 は願い事を書いた紙を壁の どもを連れても安心して電
会はどうであろうか。女医
(昭34 ・小児科学教授)
の記事が掲載されていた。 題を考える時がきているの
これは女性が淫乱にならな ではないか。
に世界女性会議で訴えられ あろうか。女医が増加して
た中近東の少女の性器切除 いる現在、そろそろこの問
帰国したら、ある週刊誌 さんとの闇に差別はないで
学的性のSexと、社会的 隙間に入れると願い事が叶 車に乗 っている。
中近東 の男女平等
前川 喜平
いために、少女の時代にク
リトリスを切除してしまう
という。
式の基調講演は、世界産婦 を震わせて 一心に祈 ってい 性の車両は暗くなんとなく るものもあれば、反発され て、この物質が多ければ旨 合でもそうだが、日本茶で
てg
いh
るt
ものt
もo
ある。
人 科学会会長M.Fath−
る。
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e性の
ri
H人
e間
aは
ltく
h、少なければ旨くないそ も製法は必ずしも統 一され
壁は男女別々である。男性 車両は、服装の色にもよる 非常に身勝手なもので、自 うな。しかし、この旨味を ているわけではなく、千種
引き出す物質だけを取り出 類以上あ って各地各様、茶
し飲んでみると、まずくて の味が異なる。
アレキサンドリアの電車 てなされたことであろう。
会が今年九月にエジプトの の前で黒い帽子を被り、例
カイ ロで開催された。開会 の服装をしたユダヤ人が身 の車両は男女別である。男 社会的に受け入れられてい
第 二十 一回国際小児科学
炉辺談話
をしている臨床医である。 であろう。しかし大学病院 に基づいて臓器選択性に降 四十日が経過、精神状態が り、正しく熱帯並であ った。 (喰うことばかりだな)。 なくな った。芋羊羹は姉の に、正月にならないとなん
おかしくな ってや っと手術 気象庁の観測が始ま って以
鯛焼きといえば私が買い お使い でよく買い にい っ となく食べにくい。雑煮を
でさえ、脳 ・心 ・腎 ・大血 圧剤を使用する。
管などの合併症による臓器
大学での診療については とな った。術後、敗血症で 来百数年で 一番暑か ったと に行 っていた鯛焼き屋は、 た。子供にはおまけをつけ 食べるためには、ヤ ッパリ
大学の医師は、 なると、現在生活している 今や下町ブームでし ょっち てくれるんですね。おまけ 一年待たなければならない
障害の程度を、各々検索せ どうであろうか、疑問が残 亡くな った。
ている。これらの検査結果 輸液をしながら検査検査で
に医療器械もスタ ッフも不 別に病態を把握した上で薬
成8年)1月25日(4)
1996年(平
聞
新
大
慈
第 三 種郵 便 物認 可
第494号
監 事
南
吉
和
(
昭27)
頌春
雲
評 議 員 (議 長 ) (昭 28 )
坂 詰 正 巳
評議員
(
昭 29)
章
(
副議 長)
(
昭3
5)
岩 沢
評議員
立
立
一
武
(
昭 26)
益
男
三
(
昭26)
慶
(
昭 25 専 )
修
(昭 27 )
評議 員
(
昭 35)
神 谷 正 見
評 議 員 ・世 田 谷 支 部 長
(
昭 26 )
亀 井 邦 倫
木
直
純
評議員 ・杉並支部長 (
昭26)
鈴
評議員 ・
岩手支部長 (
昭25)
鈴 木 鍾 美
評議員・
中央支部長 (昭 28 )
子
(
昭 29 )
純
(
昭 48)
高 橋 千 晃
評議員
井
野
評議員
山
評議 員
(昭 24 専 )
(
昭 48
一
(
昭 30)
(
昭 39)
一
(
昭 37 )
(
昭23)
修
(昭 19)
爾
一
(昭17
寿
知
千代 田支部 長
山
(昭 31 )
杉) 本
横
田
山 崎 望 人
評議員
村 岡 伸
評議 員
三 木 信 男
評議員
巖
(昭 27専 )
中 林 繁 司
評議員
富 田 利 夫
評議員
富
市
一
(
昭 33)
敬
(
昭 24)
評 議 員 ・神 奈 川 横 浜
支部 長
(
昭 30 )
原
河 村 眞 人
評議 員
北
評議 員
北 村 洋
浜
(
昭33) 評 議 員
国府 田 守 雄
(昭 30 )
(昭 25専 )
(
昭 32 )
(
昭 29 )
(
昭 50 )
松) 尾 敏
評議員
評議員
鈴 木
豊
須 田 健 夫
評議 員
須 田 富 士雄
評議員
猿 谷 文 男
評議 員
斎 藤 昭 三郎
評議員
小 林 重 高
評議員
小 寺 八 郎
評議員 ・
兵庫支部長 (
昭23)
(昭 41) 評議員
信
(
昭 32)
赤 司 俊 雄
評議 員
足
評議員
足
評 議員
石 井 嘉 男
野
川
評議 員 ・
愛 媛支 部長
(
昭 19)
石
評議員
宇
評議員
大井田
評議員
(
昭18)
小 沢 禎 治
評議員
稔
(
昭 26)
小田原 利 光
評議員
小 田原
慈 哲 会 の 想 い出
石塚 忠雄
浩
歩二分)に所長としての勤 見ると、その変化 (
①人口 に)
﹄と明言頂くと、ハ ッ
び上が ってきたのではない
後A ・シ ョーペン ハウ エル だろうか。
ろいは目映いですが。
唖然とします。自然のう つ わ っており、"
麦屋笠踊り"
は帯刀します。例年九月 二
後更に減少の見込みの寒村
五十年の平和と繁栄が続 十三日∼二十六日のお祭り
いていますが、世紀末を目 で堪能できます。ともに神
はササブネ (笹舟、御存知
ココは (
どうな っていくだ かな幽玄的世界が現出し、
のSTAYもお薦めかと思
ろう?)、とよけいなこと お薦めです。また、数日間
(=
浦島太郎!)で地元を
(昭55 ・富山)
で、﹃医学はサイ エンス (で 界的観光地")
あることを 忘れな いよう
平成七年NHK大河ドラ の政治は成立たなか ったの 一橋家から将軍を出す為、 った。以後家斉の意のまま
治察の弟定国、定信を他家 政治が行われ、家斉は次第
さて吉宗のあとをついだ に養子 に行かせた のであ に政治にうみ、豪奢な浪費
をゆずり、次男宗武に田安 家重は生来虚弱、暗愚言語 る。特に幕命により定信が 生活に溺れてい った。家斉
家、三男宗尹に 一橋家、後 も不明瞭で側用人の大岡忠 白河の松平家に十七才で養 の最大の仕事は側室の生ん
た。吉宗は長男家重に将軍
マで徳川吉 宗が放 映され である。
名、二階は歯科、自宅から
薬剤師兼事務兼他 一、計三 た。 二十五年間のブランク
療所﹂(医師(私
一、
)
看護婦 一、 い ﹁陸の孤島﹂になりまし 講 義のビ デオテー プの中 もれし越中五箇山、今は世
地に戻 っています。新築再 舗装 一車線の難路を 一時間
学生時代に講議を受けた います。(羽田から富山空
雪 に埋
開の ﹁平村国民健康保険診 半要しました。冬季は雪深 先生の、中央講堂での最終 港経由で二時間。"
平成七年四月より、本籍 のでした。夏季は町まで未 を思います。
ですか?)で庄川を下 った
二十五年前、高校進学時 前にして、世界は、東京は、 社境内が会場で、きらびや
は論の外でした。
では、開業か勤務かの選択
村民が約 一、六〇〇人、今
がクリアできたわけです。 降らなか った-温暖化)に きりこ﹂は田楽の流れが伝
でしたので、このたびそれ 少と降雨-冬に雨は決して た。民謡の "宝庫"で、﹁こ
た時からの私の 一つの目標 の変貌! (冬季の降雪の減 の世界遺産登録を受けまし
許されて慈恵大学に入学し 冬季も交通確保)、③気候 造り集落が、国連ユネスコ
出身地での医療従事は、 線化、峠の長大トンネルで
師になります。
の割で講義をされた。その
その証拠として、オスロ
腹痛も他人には分らない。 る。この言葉を都合のよい
病勢の増悪に自らの死期を 様に利用するにはいささか
悟 ったおばあさんは、迷う 気がひけるが、臨床の面白
事なく十数年間通いなれた さは単に症候論ばかりでは
小院 への道を選び、死ぬ時 なく、患者の ﹁人生﹂にふ
位は自由にさせてとばかり れる事に もあると 私は思
に薄目をあけて私が首をか う。 (昭29 ・岡山支部長)
高田渙
とろうとしていた。八十三 もない所より、私としては は駄目な様な気がする。ど し得たのかもしれない等と 後の将軍はすべて妾腹であ
才、芸者置屋のおかみさん 今 一つ確診し得ないままに うしても先生の所に行く﹂ 内心忸怩たるものがあ った る。つまり大奥を無視して
である。この患者、前夜来 治療を引き受けた恰好にな と い って出 て来たの です 私であ ったが、この 一言で
の腹痛と下痢を訴えて午前 った。しかし不幸な事に患 よ。心臓が苦しいと云 った 心のしこりは忽ちのうちに
十時頃家人に付添われて来 者の容態はその後悪化の 一 ら又病院 へ送られて管を入 氷解した。のみならず今は
橋本
院、﹁先生、も う楽 にして 途を辿り、午後 一時半、結 れられる (PTCAの事) 亡きおばあさんに奇妙な友
頂戴﹂と云い乍らそのまま 局心筋梗塞が主病という事 からお腹が痛いとい って居 情さえ感じたのである。
﹁病気を診ずして病人を
入院とな ったものである。 で殆ど意識、呼吸がないま たらしい。矢張り腹痛では
TIA、心筋梗塞の既往あ まに某病院のC ・C ・Uに なか ったのである。下痢も 診よ﹂とは学祖の教えであ
臨 床 雑 感
昨年十二月、当地の合掌
務です。御高齢で引退の御 の半減 ・高齢者のみの世帯 と致します。医学は博物学
夫妻の他は村内唯 一人の医 が約四割!、②道路状況の の類かと最近疑 っていたか
大変化 (国道の舗装と二車 らです。
の﹃意志と表象とし ての世
界﹄、カントの ﹃純粋理性 の高校で哲学の教師をして
批判﹄
﹃実践理性批判﹄、フィ いた無名のヨースタイン ・
ス テの ﹃ドイ ツ 国 民に 告 ゴルデルという人物が﹃ソ
ぐ﹄、西田幾多郎の﹃善の研 フ ィーの世界﹄という本を
慈哲会という会を知 って え、私共の人生目標は脆く 究﹄などの哲学書を漁 って、 出版したところ、これが全
いる同窓の人は殆どいない も崩れ去り、価値観の転倒、 わからないながらも回し読 世界で爆発的な超ベストセ
と思う。それは大学から正 愛国心の消滅など、まだ硝 みしていたのである。この ラーとな っている。日本で
規の部活動として公認され 煙の後も累々しく、これか 勉強会は医学とは全く関係 も発売後三週間足らずで十
たものではなく、あくまで らどうや って生きてい った のないもののようであ った 五万部を突破している。こ
も哲学の同好者十数名が集 らよいかということを考え が、私の生涯にと ってどれ の本は十四才のソフィーと
って形成された会であり、 始めた頃であ った。そして ほど有益であ ったか、測り いう少女のもとに舞い込ん
だ 一通の手紙 "あなたはだ
一∼二年で自然と消滅して 次第 に人間の本 質とは何 知れないものがある。
そして漸く現在の偏差値 れ"という問いをき っかけ
か、人間にと って最も尊い
い ったからである。
昭和二十年八月敗戦を迎 ものは何か、ということを 教育や暗記教育とは正反対 に、彼女が哲学の歴史を学
考えるような雰囲気が自然 の、対話によ って思考を練 びながら疑問を解決してい
と同窓の間に沸き起こ って っていく手法、知恵を愛し く、哲学フ ァンタジーの世
人間を深い思索の世界に導 界である。
きたのである。
私は五十年前に母校の片
このような環境のもとで いてくれる学問、つまりフ
我々からお願いして、当時 ィロソフ ィーというものを 隅で慈哲会をも ったことを
母校の生物学の教授であ っ 現代の人々は次第に求め始 望外の幸いと思い懐かしん
でいる。これからの医師に
た井上清恒先生にお話を聞 めてきたのではないか。
良作
港支部長
(昭 14 ) 荒 川 支 部 長
(
昭 16後 )
近 藤 市 雄
(
昭 21)
黄
足立支 部長
鈴 木
渋 谷支部 長 (
昭 24専 )
漢
清
(昭 29)
男
高 田
田
龍
鈴 木 重 弘
蓮
江戸川支部長
本
(
昭 29)
(
昭 24)
爾
岡
葛 飾 支部 長
新宿 支部長
誠
(
昭 14)
深 沢 甲子雄
田
文京支部長
柴
(昭 25 )
(
昭 22 )
山 手 慎 吾
台 東浅草 支部 長 (
昭 20 ) 武 蔵 野 支 部 長
大 澤 光太 郎
調布支 部長
北 多摩支 部長 (
昭 25 )
薄 井 敏 夫
(昭 27)
村
裕
(昭25)
廣 野 恵 三
田
(
昭 31)
晋
山 形荘内 支部長 (
昭26
)
上 野
福島 支 部 長
(昭 27 )
中 山 元 二
茨城支 部長
(昭 2
7)
弘
(
昭 35)
青 木 力 雄
栃木 支部長
添 田
群馬支 部長
利
男
勇
(昭 12 )
光
(
昭 25)
針 谷 嘉 夫
野
埼 玉支 部 長
荻
井
千葉支 部長
浅
神奈 川 県支 部 連 合会
会長
(昭17)
大 滝 紀 雄
(昭 19 )
善 二郎
神奈 川鎌倉 支部 長
松 田 文 太郎
(昭協後)
西多摩 支部長 (
昭 26 専 ) 神奈 川川崎 支部 長
淳
北海道 支部長 (
昭 25 専 )
進 藤
(
昭 13 )
雄
南多摩支部長
一郎
裕
(
昭 29)
義
(
昭 19)
国
昭
忠 行
台東 下 谷支 部 長 (
昭 24)
森
村
江東 支 部 長
吉
安
品 川 支部 長
中
大 田支 部 長
田
目黒支部長
安
地令 (
江戸大阪十里四方を
井口
神奈 川逗葉支 部長
(
昭 25専 )
神奈 川横須賀 三浦支部 長
(昭 1
4)
笈 川 芳太郎
へ昭 19)
大 久保 正 道
嘉
神奈川 湘南支 部長
(
昭 35)
男
裕
(昭 24専 )
鍋 島 秀 郎
佐 藤
青森支部長
茂
之
(昭22)
浩
宮 城支部長
村
豊 島練馬 支部長 (昭2
)6
郷
(
昭 38 )
小 池 裕 司
秋 田支部 長
東海林 博
真 島 良 秋
浩
松 澤 信 五
神奈 川湘北 支部 長
(
昭 23 )
郎
山形内陸支部長 (
昭26)
三
(
昭 20)
(昭 24)
本
北支部長
今
井
久志本
板橋支部長
忽 滑谷 禮 二
中
中野支部長
青 柳
知なし﹂と評されたように る。
が、その継嗣問題は日本の
このあと幕政を掌握した 鎖国から開国に向う時期で
一大政変に発展し、紀州か
いた。これは家斉の父 一橋 大奥、 一橋治済、家斉の反 務めた徳川家達公である。
治済が田沼意次とはかり、 感をかい、ついに退場とな
(
昭21 ・足立支部長)
跡継ぎがなく絶家とな って 奢侈のしめつけがきびしく 人東京慈恵会医院の会長を
であるが、宗武の子治察に 又朱子学を奨励した。反面、 と徳川宗家を つぎ、社団法
に入ることになる。田安家 借金の棒引﹂帰農令等を出 である。田安家五代慶頼の
は 一橋家より家格が上なの し、生活の安定政策をとり 第三子幼名亀之助はこのあ
治は持 った才能をのばすこ は白河藩の危機を救い名君 る。家茂はもと 一橋の出で
となく、長男家基とも死別 といわれていたが、老中と ある。最後の慶喜は水戸斉
し、 一橋家から家斉が養子 なり棄損令 ﹁旗本御家人の 昭の七男で、 一橋家の養子
賂でおこなわれた。結局家 いた松平定信である。定信 ら家茂を 迎える ことにな
治となり、政治はすべて賄 のは田安家から養子に出て
意次、その子意知の独裁政
意次は更に老中となり、
﹁将 が、綱紀の腐敗、営利的施 老中を退くことになる。次
軍は小児 同様に仕 立て申 策の行き過ぎ、又天災、大 の家定は三十才にして幼児
し、政治の筋は夢にも御存
等も飢
あ饉
り田沼は失脚す のようであ ったといわれる
直轄にする)が反対されて
改革政策が行われたが、上
り。来院時意識は清明であ 救急入院をお願いしたので しげるのを見上げていたに に家重の弟重好に清水家を 光のみが家重の言語を解し 子に出されたのは治察の死 だ多数 の子女を大 名に入
るが顔面蒼白、血圧1/
280
2、 あ った。十分後、病院到着 違いないのである。この最 おこさせ、尾張、紀伊、水 たという。忠光は老中と協 ぬ数 ヵ月前であ った。田安 嗣、興入れさせることだ っ
脈拍88/分、整、白血球数 と同時に息を引き取 ったと 重症の病人を、しかも確診 戸の御三家に代り将軍の跡 力し、独裁型とならず幕制 家は治察の死後十四年た っ た。
、9心5電0図0V3 のSTが軽 の連絡があ った。
てから家斉の弟斉匡がつい
し得ないままに小院に収容 継ぎにそなえた。この田安、
家斉の死後、家慶の時に
機
関
は
順
調
に
確
立
し
、
家
重
老中水野忠邦による厳しい
ハイテクが発達すればす 求められるものは ﹁哲学す
くようにな った。
先生は﹃正
法眼蔵﹄という禅宗の書物 るほど、その対極にある哲 る心﹂ではないだろうか。
(昭24年専 ・目黒区)
を紹介され、月 一回か二回 学が貴重なものとして浮か
故 郷 のニシキ
徳 川御 三 卿 につ い て
度に上昇、前壁梗塞が強く
この事があ って二、三日、 した事が果してよか ったの 一橋、清水各家を御三卿と の時代が幕府の年貢収納高 でいる。田沼の政治は当時
の商業高利貸資本の力を率
疑われる所見であ った。し ほろ苦い気持でいた私の所 かどうか、心電図の示す所 称する。家光以後将軍の正 の最高を示している。
家重の子家治の時代に入 直に認め、幕府自体が商人
或る初夏の日の午後、小 かし胸痛、呼吸困難はなく に家人が現れて日く、おば に従 って直ちに冠動脈の処 室はほとんど京都の皇族、
院で 一人の老女が息を引き 主訴につながる腹部の所見 あさんは家を出る時 ﹁今度 置をしていれば或いは救命 公家の娘であるが、これ以 り、側近は田沼意次となる。 化する大胆な試みであ った
炉辺談話
中嶋
第494号
第三 種郵 便 物 認可
聞
新
大
慈
成8年)1月25日
(5)1996年(平
災 害 時 の看 護 活 動
看護婦達だけにスポ ット
たのであろう。頭がさがる 忘れることはない。
思いだ。
当日深夜勤務か当直だ っ を当てているが、若い学校
れぞれに考え行動したので
た看護婦、自宅で被災した 出の人から婦長クラス迄そ
ナースたちはそれぞれ行動
を起こせた人、そうではな あ った。読んで頂けば分る
いような惨状のなかで、看 よびインタビ ューの形でま うにしていただろう。さら
かつて経験したことのな 病院の看護婦たちの手記お た。私自身だ ったらどのよ
のであ った。電気ガス水道
亡くすなどの痛手を負 った
れ、外傷し、身内や肉親を
岡部 紀正
護職としてその時どんな思 とめられ、医学書院からA に少し時を置くが、刮目に
などの生活手段が断たれ、
い人が いたことが わか っ のだが、自らも家を失い壊
いであ ったか、どのように 5版 二八八ページで平成七 値するのは看護職の自負に
仕事を全うできたか、につ 年七月に刊行された。
し、不幸にも亡くなられた
立ち戻 って献身的に働くの 平常と は違う患者 が殺到
にも仕事を遂行した看護婦
に困難な状況の中で、果敢
人達も搬送されてきた非常
婦たち﹂では語られ、述べ 見たこともない病態が出現 団の団長として十三名と共
達に拍手喝釆を贈りたい。
いて赤裸々に本音と真実が
平時と異な った最悪な環 である。
﹁阪神 ・淡路震災下の看護 境下で、災害直後は通常は
私は神奈川県からの医療
するわけで、四肢断裂や内 に最大の災害地長田区に派
本書は神戸市および近郊
られる。
だけ美しい歌を唄うと言う
私は去る十月十日に ﹁ヤ に残 るのは赤 羽教授 であ 程 ﹁白鳥の歌﹂の賞賛を受
マハホール﹂で管弦楽を指 る。三階の衛生学の教室の ける (
白鳥は死ぬ前に 一度
揮した。演奏は日本医芸管 窓から突然顔を出した教授
弦楽団で、曲目はモーツ ァ は﹁下手なペ ットを吹くな﹂ 西洋の諺語から)だけの音
ルト作曲交響曲第三十九番 と屡々注意 された 事もあ 質であ った。 一番苦労した
変ホ長調であ った。団員は る。教授はあらゆる楽器に 所は強弱を つけることであ
各医大卒のO ・Bとその家 精通され、日本医芸ではメ った。団員の先生方は皆忙
族で、本学卒の団員も三人 ンネル ・コールの指揮を、 しいので、練習は五回で、
是非仲間に入りたいと言う
を含めての合唱の指揮をさ す。本学出身者で、来年は
おり皆楽しく練習に参加し そして慈恵洋楽部のO ・B 日 曜日の午 後 二∼五時 で
学生時代を彷彿させた。
当時の洋楽部は小林武光 れていたのを思い出す。
さて、私の指揮した管弦 先生方も二、三人いる。頼
た。彼は日本音楽学校の教 楽は先ず先ずの出来であ っ もしい限りですが、どうか
氏 が管弦楽 の指揮を され
授をされ、先輩には峯岸、 たようで、特に第三楽章の 今後とも限りない愛情を音
浅見兄弟、高田、大和田、 メヌェットのクラのソ ロは 楽に傾けて頂きたいものと
大野、黒川、福井、二瓶 (略 本学出身の飯塚氏の得も言 祈 っております。
敬称)等がおり、特に記憶 われぬ甘美な音質で、成る
い。はや、震災後 一年を迎
炉辺談話らしからぬ夏の ってますが、そんな勝ち負 ライトイ エローの 体を持 ードリーム号﹂が添い寝を
えるが、切に災害のないこ 海とヨットのお話をしまし け等はどうでもよくなる程 ち、葉山沖、長井沖の人気 しています。
(昭14 ・港支部長)
ースたちの姿はこうごうし ては腕を振るうことなく空
とを祈 ってナースたちには
ぜ ひとも お読み頂 きた
臓発裂など重態で、ベテラ 遣され、 一六〇余名が避難
ン外科医でも 一筋縄ではい されている公民館で 一週間
で震災にあ った公的私的な
いものがある。患者さんや しく帰 ったのであ った。直
仕事上の自信にもつながる
高橋憲太郎
き合いです。その道楽娘は せに外洋にも出たがります
性が踊 ったが、よく腰もの た。水 へ浸してから数分で
頌春
神奈川西湘支部 長
山
田
(
昭22) 鳥 取支部長
桑
島根支部長
村
雄
(昭 19)
岩
晋
鹿児島 支部長
小 田原
地
沖縄 支部長
幸
二
(
昭 19)
得
二
(
昭 30)
昭
洋
二
慎
文京学術 連絡委員 (
昭 20 )
松 井 元 司
新宿学術連絡委員 (
昭2
6)
弘 重
渋谷学術連絡委員 (
昭24)
堀
港学術連絡委 員 (昭33 )
前 田 立 雄
へ昭22) 中 央学 術連絡 委員 (昭 27)
司
(昭2)
9
中
岡山支 部長
男
(昭 26)
浩
児
(昭37)
玉
山 口支 部 長
(昭18 )
山 田 正 克
徳島支部長
正
茂
台東浅 草学術 連絡 委員
(
昭 25専 )
友 成
藤
(
昭 22)
田
香川支部長
大 橋 政 明
台東下谷学術連絡委員
(
昭45)
(昭2
3)
武
(
昭 37)
内 藤 裕 郎
川
高知支 部長
篤
礼 子
青 木 茂 正
目 黒学術 連絡 委員 (
昭26)
鏑 木 公 夫
大田学 術連 絡委 員 (
昭 43)
上 竹 将 夫
品 川学術 連絡委 員 (
昭37)
篠 宮 昌 衛
江東学術連絡委員 (
昭27)
森
伊 藤
一 秀
(
昭 20)
一
墨田 学術連 絡委 員 (
昭 31)
宇 都宮
佐賀 支部 長
東
(
昭 32 )
(
昭 22 )
一
(
昭 55 )
近 藤 宏
宮崎 支部長
永 田 忠 寿
熊本支部 長
寺 井 大 八
長崎支 部長
英
(昭 21)
白
章
(
昭 19)
一郎
彦
(昭19 ) 福 岡支部長
冬
秋
生
(昭20)
雅
(昭19)
橋 本
勝
(昭 39 )
一 朗
(
昭 23 )
広島支部長
治
和
(昭33)
宮 崎 茂 夫
子
新潟支部長
金
水
富山支部 長
清
石 川支 部 長
岡
福井 支部 長
(
昭 26)
安 川 繁 次
山梨 支部長
丸 山
本
峰岡支部 長
柳
(
昭28)
千
(
昭 13)
辺 寿 太郎
愛知支部長
河
本
三重支部長
平
大阪支部 長
高 橋 浩 昭
京 滋奈支 部長 (
昭 24 )
谷
人
長 田 保 明
長野支部長
小
したら五十人集ま った。輪
びて踊りも揃 っていた。合 食べられ る餅は良 か った
て ﹁青い山脈﹂﹁上を向い の子供は ﹁
早く帰るから賞
て歩こう﹂を唱 ったが、男 品を先にくれ﹂とか、﹁賞
松
私に遠慮もなくよく金を使 が、父親はダメダメと云い れます。素晴らしい明日の
い、心配をかけ本当の﹁グー ながら城ケ島から又マイホ くるのを期待しながら。⋮
一緒にいる時は、嫌なこと
岐 阜支 部長
福寿会と名付け、会員は お年には見えなか った。
民謡では ﹁会津盤梯山﹂ 投げ、グランドゴルフ、宝
カラオケ、ダンスをやり、
探し、防災餅の試食を行 っ
他の日には有志で ﹁ちぎり
唱では男六人女十五人が出 が、浸け過ぎると固い。今
人芸能大会が、近くの文化
老人クラブの予算では気
てくれ﹂と云 ってくる。
声のみ女声のみの部分を つ 品が気に入らないから換え
けて変化を つけた。
五日には小学生との交流
揃いのアロハで、腰を大き で ﹁
ゲームをや って賞品を に入る様な賞品はないらし
く振 って踊 ったのはとても 貰おう﹂のビラと掲示を出 い。 (昭13 ・墨田支部長)
花環をつけた八人の美女が
フラダンスには頭と首に
会館で行われて出演した。
この十 一月二日に墨田老
絵俳画﹂をや っている。
生トピ ックスを私が話し、 を揃いの浴衣で十二人の女
百八名、月 一回集まり、衛
(昭24専 ・渋谷支部長)
お休みに入ります。お隣り す。
走るその姿は、何とも云え 命洗 ってあげます。す っき 好きな先生方に是非ヨ ット
ず美しい娘だなあとほれぼ りお化粧をして船台の上で をおすすめしたいと思いま
顔で白波をけたて妊娠十ケ ず、馬鹿な父親はその手下 は忘れストレス等きれいに
月の大きな帆をはらませて 共と 一緒に石けんで 一生懸 とり除いてくれます。海の
あの青い広い海で我がもの お風呂に入れなければなら
ダラベー﹂です。でも彼女 ームにつれもどします。ハ とまあこんなお話しです。
はすてられません。だ って ーバーに帰 ったら、今度は
海のどまん中でヨットと
い気分で時の過ぎるのを忘
いや娘 ﹁べべ号﹂とのおつ 娘です。そして小振りなく 遅くまでお酒をのみほろよ
くに小さな マンシ ョンの部 思う様に動いてくれません ながら ﹁君といつまでも﹂
屋をもち、友人を通じて始 が、気がむくと強い風も波 ﹁お嫁においで﹂﹁愛しき
ま ったのがこの道楽息子、 もけちらして進むオテンバ 日々﹂﹁心凍らせて﹂を歌い、
約二十年前、葉山海岸近 ています。時にダダをこね 月影で二人は波の音をきき
満天ふる星、晃々と照る
家族にと ってはおそらく後 後の現場では壮絶な闘いが
し将来の糧として活用され
下 町 の老 人 ク ラ ブ
者になる位愛想をふりまい
光が射していただろう。そ 繰広げられていたことは想
ンの面から証明するのに三
私はヨットが好きです。
れは使命感ばかりではなく 像に難くない。様々なドラ
マがあ ったことを伺 った。
ることを望みたい。
(昭41 ・外科1助教授)
責任感、自負心をも鼓舞し
の熱気さえ感じられる。し 大人の帯状疱疹にゾビラ ッ
い"昭和十 一年五月三日の ものは免疫学であるという れた時代と根本的に変わり
医療費抑制政策のもと薬
自然荘日記に、三十八歳の 人もいる。 一九九五年の免 はない。金製剤が汎用され 十七年の歳月を要したこと
若さで西丸和義先生が喝破 疫学会の分厚い学術集会記 るようにな って三十四年が になる。
されている。後に先生は世 録を見たら、学会年齢二十 経ち、現在DMARDs
と
界の脈管生理学者となられ 五年と新しく、古い学会に して六種類があり、唯 一R 業界に支配され、"
薬師と
(昭22 ・目黒区)
も、免疫力が備わ っている。 法を改善するのも医師とし
水痘ウイルスが原因でおこ ての急務である事を痛感す
点s
に立 って、
法を守るのも、
を与えD
なM
くA
てRD
様のよう で、人 間の手 で 人を診よ"という慈恵の原
巧無比の人間は、千手観音 には、"病気を診ずして病
点がある。神様が創 った精 ない医師の品位を保つため
た。私は、"医の心"を皆々 みるいわゆる封建的権威者 Aに有効として使われてい 患者 "という江戸時代から
様の御協力を得て編集する もいないそうで、若き学徒 るが、副作用と遅効性の欠 の図式の反省と、保険医で
医 原 病 病 気 を つく る 医 師
飯塚 恒治
る帯状疱疹は自然治癒し、 る。
娘べべはす っきりとした には大きなヨット ﹁ミスタ
うょ
。かねがね慈大ヨット れするからです。
ていたのである。老いて再 ない。分子生物学、遺伝子
を服用D
せM
ずA
、RDs
び座右の書として自戒して 工学、免疫学の進歩と臨床 生理的治癒機轉を妨げなけ
面との間にギ ャップがある れば85%寛解 ・治癒するこ
近年の科学の進歩には目 のは、近代科学が興 った十 とを、本年の成医会で報告
いる。
悪戦苦闘している中に忘れ と ってもそれほど役に立た 多 因子疾患 である RAも
たが、低医療経済の世界に けで、治療面ではRA 一つ ポスター展示し報告した。
に何度も行 って、先生の学 歩したけれども、検査法と テル注射 (CIT)で治癒
問の話に若き血潮を燃やし かテクノロジーが進んだだ することを昨年の成医会で
であ った。学生時代自然荘 かし、免疫学がこれだけ進 クスも軟膏もいらず、カク
羽目にな って再発見したの
かないのに立ち向か ったナ の診療をした。外科医とし
黄
鈴木
重弘
鈴木
と であ る場合が 多いら し の世界で最も進歩を遂げた 化学を医学に貪欲に取り入 生の日記を、免疫グ ロブリ 部の弱さには全く残念に思
を轉
妨げないようにするこ を見張るものがあり、医学 七世紀に、イアト ロ物理 ・ した。先見の明ある西丸先
"治療とは生理的治癒機
炉辺談話
管 弦 楽 を指 揮 して
海 と ヨ ッ ト
成8年)1月25日(6)
1996年(平
聞
新
大
慈
第 三 種郵 便 物認 可
第494号
第494号
赤羽 紀武
た。前者はディズニーのア 物語﹂その他いろいろ見て いな い部分 に不満があ っ
ニメをミ ュージカル化した きた。その過程を振り返る た。
その点昨春再見した﹁
キ
ャッツ﹂は、いわゆる有名
もので日本初公演、視覚的 と、まずは有名な俳優に歌
海外で学会があると夜は より数段完成度が上 ってい
にも面白くてマイク音響に を唱わせ、歌手に芝居させ 俳優はもう出ていないが、
少し不満はあるが、商業的 ることでミ ュージカルが作 浜畑賢吉や川崎麻世などを
には成功しそうな舞台に思 られてきている。
使 っていた初演スタート時
えた。後者は日本再演で、
これは 一九八七年初演以来 も っぱら劇場などに足を運 た。最初に書いたように、
ロンドンで好評続演されて ぶので、いくつか彼我を見 踊り と歌の基 礎を身に つ
いる演目である。この二つ 較べることにな ったが、こ け、しかも違 った役柄で味
を観て日本の俳優の歌や踊 れまで日本の舞台には不満 を出す俳優達が育 ってきた
海外の観客には年配の男
り のレベルが 格段と進 歩 を感じる点が多か った。問 のである。
し、ミ ュージカルとしての 題はまず歌の質である。た
質が向上したのを強く感じ とえば ﹁レ ・ミゼラブル﹂ 女が多く、 一夜をエンジ ョ
この手のものが好きな私
た。
のジャンバルジ ャンとそれ イしている感じが如何にも
を追い詰めるジ ャベール警 良い。私にも理屈なしでゆ
ったりと華やかさと音を浴
イ ン タ ー ネ ッ トに つ い て
大橋 克洋
森繁 ﹁屋根の上のヴ ァイオ 照の妙が出なか った。﹁
美 知 った私の恥ずかしい経験
忠芳
今泉
リ ン弾き﹂、上月晃の ﹁風 女と野獣﹂でも中年 ・老人 からも、今後どんどん日本
と共に去りぬ﹂、初演 ﹁
キ ャ 役の新劇系のベテラン俳優 語で良いミ ュージカルが観
ッツ
られるのは大歓迎である。
が
、
芝
居
は
い
い
が
歌
唱
力
が
﹂
、
最
近
の
﹁
レ
・
ミ
ゼ
ラブル﹂﹁
ウ エストサイド 低くミ ュージカルにな って
(昭37 ・外科1 ・講師)
となり、男子は全て軍隊に る兵学校生徒は、母校の中 政治に関わらず、決定され
徴用される羽目に陥 って、 学を半ば公式に訪問PRし た事は意見具申は許されな
多彩 な病 像
以前 ﹁慈大にもインター ードであ った。普段電子メ 情報をいながらにして手に
ネ ットを﹂と書いたが、そ ールでデ ィスカ ッシ ョンし 入れられることは、逆にこ
ている仲間は初対面でも大 の様に人が動き、コミ ュニ
の後もインターネ ットに繋
学や 一部の開業医は、どん 実り多い学会であ った。今
は鎖国状態で、どんどん情
経路からはずれたところ
がる医科大学が増加しつつ 変親密感があり、学会の質 ケーシ ョンを更に強めるこ
ある。ここに接続された大 疑応答など和やかで楽しく とに繋がるのである。
どんディスカ ッシ ョンや情 回の学会では若手医師を中
報交換を行 っている。研究 心とした ﹁電子カルテ研究 報から取り残される。イン
にも臨床にも、これからは 会﹂の仲間が、事前に電子 ターネ ット接続は、ある程
必須である。パソ コン通信 メールで提案して懇親の呑 度知識 のある人 間がいれ
ターネ ット接続を心待ちに
の 一人として、慈恵のイン
る五十名以上の参加者で、 かるものではない。卒業生
よりず っと能率的で使いや み会を開いた。予想を上回 ば、べらぼうにコストのか
すく幅が広い。
この十 一月、
名古屋の﹁医 学会の正式懇親会は途中か
療情報連合大会﹂の演題は ら若手が大量に消えてしま
正に ﹁インターネ ット﹂と い、呑み会の主催者が慌て するものである。
﹁電子カルテ﹂のオンパレ る現象もあ った。世界中の
(昭4
1 ・父兄会会長)
は病院の外来では、小児科 皮癌)(肺癌組織よりEB
EBウイルス急性感染症 では、原発性肺癌 (
扁平上
これらの他に筆者の観察
続いて ﹁胸部X線陰影﹂
ことが発見された。
の症例が入院してきた。喀
(小児)と耳鼻科、内科 (青 ウイルスDNA検出)
、食
性肺癌の数例に ついてEB う。青年では扁桃炎 (耳鼻
中、EBウイルスDNAが
がみられた。そこで、原発 けてみることができると思 た。その他、肺結核の経過
体が測定され、抗体の上昇 症候群)、川崎病などに分 も軽快し退院の運びとな っ
偶々 一緒にEBウイルス抗 炎型、発疹型 (Gianot高
t熱
iの症例は発熱も結核
た。こ の症例 に つい ても 発熱型、リンパ節炎型、肝 になる。
診 でクラ スVが検出 され 現れ方は多彩で、小児では 維症、橋本病も加わること
も陰性であ った。喀痰細胞 年)に散見される。病状の 道癌、食道潰瘍の他に肺線
の痰
ガフキーは何回行 って
た。
り、江利チエミと高島忠夫 いたが、日本版の滝田栄と 良くても英語では細かい ニ にも全く反応しない。止む られた。ウイルス混合感染 にもEBウイルスの関与が い)、胃体上部癌、シーグ
での最初の本格的ミ ュージ 鹿賀丈史では二人ともバリ ュアンスが楽しめないし、 を得ずソル ・コーテフ1㎎
00を疑 ってウイルス抗体を測 疑われ、果たしてそれら(食 レン症候群などが知られて
カル ﹁マイ フ ェアレデ ィ トンテノールの似たような 日本版を観て、 ロンドンで
定し てみ た。 EB ・V C 道癌、食道潰瘍)にEBウ いる (アフリカのバーキ ッ
。
A ・19Mの 上昇が みられ イルス抗体が上昇している ト ・リンパ腫は小児)
潤したものであることがわ て、ホジキン病、リンパ腫、
愛二
山口
は年に 一回、上下級
タ イ よ り
校出来た。所謂、職業軍人 から聖壇へ﹂を拝読した。 約で 一服出来る、”Cruis-ing"
であるが、日本古来の美し 3S3Cは新屋牧師が時折
い葉隠武士道を重んじ、二 教会員に話されている兵学 生共になり、分隊毎に瀬戸
十年後には外国人とも対等 校生活の 一面を表す句です 内海に碇泊し団欒する。
(
昭25 ・大田区)
”SILENTNAVY"
に交流出来る現実的には衣 が、是非、信仰生活にも活
七十有余年の海軍の伝統
食住が極めて優遇される海 かして貰いたいと承わ って は全く失わ れ誠に悲 しい
軍兵学校は、広島県江田島 いる。
が、素晴らしか った兵学校
にあ った。三年間の教育は、 第 一旬”SMART"
は 生活を僅かでも偲べて大変
英国ボートマス兵学校に学 目先が利いて几帳面負けじ 感謝しております。
は
ぶ極めて エリート紳士的教 魂船乗りを表わし、第 二旬
育である。夏休暇で帰省す
久慈 直志
国ではなくなりました。し
て、もはや無償援助の対象
30度以上、タイ人は今はク おめでとう。
ールシーズンというが、此
プーケ ットやコ ・サムイ
かし、タイやも っと低い所
語の語彙には最近までなか しい途上国に出かけていま の変わ った老同窓生から。
ったのだから。
す。タイは 一人当り国民総 (昭28 ・産婦人科客員教授)
の雪という単語すら、タイ 夫々の援助計画に従 って貧 なのだと信じている、 一人
ス マス ・ツリーに付きもの カ ・南アメリカ ・アジアに 本のために絶対に必要な事
ンケンには暖炉はありませ 日本人が訪れますが、同じ 得の 国々に援 助を行 うの
ん。サンタクロースとクリ 日本の多数の若者がアフリ は、将来の、いや現在の日
処イサーン (
東北部)の コ 等のタイ行楽地には沢山の
は太陽の ﹁圧力﹂を感ずる 衛生プロジ ェクトから新年 上 ・IMR二〇以下とな っ
切るようにな っても、日中 端であるタイ家族計画母子 え、出生時平均寿命七十以
(昭34 ・杉並区)
れ、軍の学校は平時では考 (西荻窪曙教会主任 ・日本 (フランス語)軍隊内にあ 棟を担当していた時、この の症例は、食道癌が肺に浸 EBウイルス関連疾患とし
えられぬ大 量の生 徒を募 聖書神学校元校長)の表題 る 売店、酒 保と も云う”Club"
朝夕は気温20度を偶には
ジ ャイカの海外援助の一 生 産は 二〇 〇〇ドル を越
集、普通の学業成績でも入 3S ・3Cと伝記 ﹁死の海
休 日民家と の契
、 隅々血中から検出された症
積極的に卒業後は将校の資 的であ った。
はない、言い訳けをしない、 を隔日使 用する ことにし ウイルス抗体をみると、腺 科を受診することが多い)
伝染性単核症、 例があ った。この症例と高
中学 (五年制)時代、私 格が与えられる軍隊の学校
ふとしたことで敗戦五十 第 三 句 の”STEADY"た。ステロイドの入 った日 癌では上昇せず扁平上皮癌 リンパ節炎、
達の国は石油が不足、経済 を選ぶ者もいた。
年目、七年先輩である兵学 は屈せず立ち直りし っかり のみ、 一時的に解熱した。 で上昇していることがわか 急性肝炎 (内科)としてみ 熱の症例は、その二年後胃
った。結核病棟のクラスV られる。中年以後発症する 癌を発症した。
一 麦
3S・3C・
国が戦争に突入するにつ 校出身の牧師新屋徳治さん する、3Cは”Cantin
富e
士”
市立中央病院で結核病
進学を望むに当り、徴兵延 たが、その凛々しい短劔姿 がら納得し従う、マインド
期の特典のある理科系を選 は多くの 男子中学生 は勿 コントロールではない、言
ぶ青年が多か った。然し、 論、女子にと っても憧れの 葉が多い事は海軍の本質で
イル ス
EBウ
ー﹂、ミ ュージカルもどき? 音域で唱うので音楽的な対 筋を間違 って観ていたのを
か った。そこで食道の疾患 上咽頭 癌 (
中 国南部 に多
四十度Cを超す高熱が持 症例が入 ってきた。両肺上
ふ たたび
ジカル ﹁美女と野獣﹂﹁オ ノケン ・三木のり平らの東
と同様に主人公はテノール びるミ ュージカル見物は楽
年末に劇団四季のミ ュー は、古くはアチ ャラカの エ 視が、あちら版ではオペラ
私 的 日本 ミ ュ ー ジ カル 考
政策が逼迫、戦時色が濃厚
炉辺談話
ペラ座の怪人﹂の 二つを観 宝 ミ ュージ カルか ら始ま で敵役はバリトンにな って しみだ。いくらあちら版が 続し、解熱剤にも抗生物質 野に広汎な結核性陰影がみ
第 三種 郵 便物 認 可
聞
新
大
慈
成8年)1月25日
(7)1996年(平
頌春
毅
明 一郎
庄 三郎
儀 一郎
明
宣
昇
野
昭
邦
林
輝
夫
埼玉学術連 絡委員(昭27 )
小
実
千葉 学術連絡委員 (
昭 24)
田那村
田 中 穂 積
神奈川川崎学術連絡委員
(
昭31)
今 井 健 郎
(
昭 48)
神奈川横浜 学術連絡委員
北海 道学術連絡 委員
(
昭 28)
田 辺 裕 文
野
恒
治
浜 田 雅 之
信 明
(
昭 45 )
神奈川横須賀三浦学術連絡委員
南
(
昭 43)
倉 田 達 明
鴇 田 重 樹
神奈 川湘 北学 術連絡 委員
(
昭28)
杉田 多喜男
神奈川西湘学術連絡委員
(
昭31)
雄
山 形内 陸 学術 連絡 委 員
(
昭 42 )
英
鈴 木 善 郎
倉
伊 藤 義 彦
入
新潟学術連絡委員 (昭39)
健
大 平 征 二
高 橋
一 朗
高 橋 謙太郎
茨城 学術連 絡委 員(
昭4
4) 石川 学 術連 絡 委 員 (
昭 39)
三 瓶
福島 学 術連 絡 委 員 (
昭 35) 富 山 学術 連 絡 委 員(昭 37 )
長 島 義 弘
山 形荘 内学術 連絡委 員
(
昭 47)
秋 田 学 術 連 絡 委員 (日
刀口4
6)
松 田 直 樹
宮城 学術連 絡委員 (
昭42) 神奈川湘南学術連絡委員
菅
岩手学術連絡委員 (昭40)
斎 藤 文 彦
青 森学 術 連絡 委 員 (
昭 40 ) 神奈 川鎌倉 学術連絡 委員
(
昭40)
佐 々木 徳 綱
西多摩 学術連絡委員
(昭 42 )
平
世田谷 学術連 絡委 員
南多摩学術連絡委 員
(
昭42)
(
昭 33)
小板橋
進
杉 並学術 連絡委 員 (
昭35)
宮 本
弘
中野学 術連 絡委 員 (
昭 23)
須 藤
昭
豊 島練 馬学術 連絡 委員
(
昭 33)
近 藤
田
板橋 学術連絡委員
(昭25専 )
島
北 学術連絡 委員 (
昭 29)
岸 田 博 公
木
荒川学術連絡委員(
昭 20)
鈴
清
足立 学術連 絡委 員
(
昭 24)
伊 藤
井
葛 飾学術連絡委貝
(昭 25専 )
本
田
江戸 川学術連絡委員
(昭26専 )
岸
武蔵 野学 術連絡 委員
(昭25専)
有 松 久 雄
村
高
島
正
敏
(昭37
)
田 中 広 昌
島 田 和 哉
群馬学術連絡委 員(
昭 29)山 梨 学 術 連 絡 委 員 (昭 38)
中 山 信 彦
昭4
7) 福井 学術連 絡委 員
調布学術連絡委員(昭3
)3栃 木学術連絡 委員 (
中
悟
北 多摩 学術連 絡委 員
(
昭 25専)
伊 藤
イ モ ガ イ 毒 研究 者 は
イ モガ イ にも 愛 情 を
吉葉 繁雄
共通する業績を挙げたグル 直すこ とを了 承したとこ
ープが日本の大企業の研究 ろ、途中校正もなく、送付
所にあ った。そのうちのA された紙面を見ると、主要
B両氏の訪問を受け、C氏 器官である歯舌嚢を消し去
ったため、管状器官の分岐
し、A氏には殻を壊さぬ採 部に空洞があるような不自
とは本学内の研究会で面談
毒法を手解きし、C氏には 然な図にな ったほか、﹁吉
私から除去したら私の価 官はその研究者に提供し、 報文の挿図に使えるように 葉教授提供﹂とある以上訂
捕食形式 ・毒性の相違、刺
イモガイ類である。貝殻収 無駄にせぬよう、愛着をも 毒の度に叩き割るのか、殻 ようにK記者宛手紙を書い
集、分類、種による食性 ・ って扱 っている。
を標本用 にと貰い に来た たが何の返事もない。毒し
イモガイの毒は、フグの し、C氏は科学月刊誌 への か知らないC氏を ﹁イモガ
値が激減するほど私の主要 採毒後の毒球は自分で賞味 魚食種の捕食場面のスライ 正すべき点が五カ処も見つ
部を占めるのが、刺毒巻貝 するなど、イモガイの死を ドを進呈した。しかし、採 か ったので、今後使用せぬ
成8年)1月25日(8)
迷惑を顧みない態度には怒
(12 ・8)、ドイ ツ、フラ 租税と合わせると現在のス か2%
.6
(医療材料を含め)
ンス (共に11%台)に比し ウ ェーデン (
77 ・8%)と に過ぎず、﹁
薬価が見直さ
著しく低い。このことは日 同じ負担を強いられるであ れた﹂とは到底思えない(肝
ては ﹁儲か ったら利益を吸
薬の再算定ルールについ
本の医療の質が低い、医療 ろうという。以上の情勢を 心のとこ ろが先送 りされ
技術が評価されていない、 考えると、医療費の総枠は た)。
マンパワーが 不足であ る 今後とも抑えられこそすれ
等々、議論を生んでいる。 増える見込みはない。
一方この医療費を含む年
来る四月の診療報酬引き い上げるというのでは、企
上げ は、日 医の 要求4 ・ 業は働く意欲が無くなる﹂、
金やその他の社会保障給付
たな財源は全く無く、薬価 意欲が無くなる﹂という。
費の総額がGDPに占める 3
6%に対し3 ・4%で決着 また薬や材料の包括化につ
割合を見ると、これもまた が ついたようであるが、新 いても ﹁その分野での開発
現在の日本では約14%に過
ぎない。スウ ェーデンは既 や医療材料の引き下げ、老 それでは我々の技術料の方
に46 ・5%、フランス34 ・ 人外来医療費の定額性、門 は 一体どう なるの であろ
1% (過日これを改革せん 前薬局調剤費の見直しなど う。医は仁術とただ働きを
強制され、更に技術の分野
のでは?。しかし、イモガ
た。B氏もD氏も栄転した
ターに、検臭器など特定器 れ、捕食の際に毒銛として ガイが左巻に刷り上が った 大学 へ教 授とし て転出し
いう。この額は医療費が初 になるのであろうか。特定 た医療材料も五∼六倍は高 ダミーに関係企業へとその
〇〇〇億の見込みであると 頃、この数字は 一体どの様 兆円もの節約にな る)。ま 年先の医療費は医療機関を
であり、七年度は二六兆七 を迎える二〇二〇∼二五年 並みの価格になれば四 ・五 た診療体系、十年先、二十
四年度が二三兆五〇〇〇億 四人に 一人の超高齢化社会 五∼三倍も高い (もし外国 優先評価されるこの矛盾し
である。六十五歳以上の老 せて頂いたように、日本の あろうか。技術は統制経済、
日本の国民医療費は平成 人が現在の八人に 一人から 薬価は欧米に比較して 一・ 物は自由経済、物ばかりが
昨年の炉辺談話でも書か での開発の必要はないので
とする政府案にゼネストが が財源のようである。
させる。イモガイ毒の化学 産動物毒の利用に関する記 イ毒を研究するのなら、単
れて射込まれ、獲物を麻痺
に毒の材料とは見ず、生物
起こ った)、英国22 ・1%
構造と薬理作用ではフィリ 事を書くことにな った大新
めて十兆円を超した昭和五 療養費を増やしに増やして い。薬価については中医協 利益は凡て流れ去 ってしま
そのC氏を取材して、海
働く歯 (歯舌歯)に充填さ のには落胆した。
ピン大学の研究者達が先駆 聞社の科学部記者K氏が、 としての特性も知 って貰い
内総生産GDP)の6%台 度にはなるであろうという 直しが論議された。しかし、 (昭 34 ・形成外科客員教授
る。映画全盛時代は過ぎた これで日本はす っかり骨抜 タして有能な部下を見殺し
がそれはテレビ ・ビデオ へ きにな ったが、生来の勤勉 にするとはなんたる失態。
この悪循環を打ち切るに
と姿を変えて現在に及び、 が経済大国 へと進展させる
マッカーサー元帥がトウ 精悍な闘争心をスポーツに 事にな った。かくして日本 は内閣の大改造しか道はな
炉辺談話
ところが、拙劣な外交で
) は 破 綻 し、 教 育
平成八年こそは政治のな
グ レ イ トバ リア リ ー フ
そして戦後復興の要として
3S政策を打ち出したので 工中絶から産児制限を助長
して少
なx 日本は今、米国から見捨て (Educa)
tは
i崩o壊n
し、
ある。3 Sと はScleen
S産
p少
o子
r化
tの
s源
'流Sとe
iは
on
であり、実 り、女性の社会進出と相俟 られようとしている。それ 国民感情 (Emot)
はこれは大和魂の懐柔策だ ってこれに拍車をかける様 は折角手にした平和を失う 不安定とな っているからで
ったという。完全に虚脱状 な結婚したがらない症候群 ことである。 一方、対内的 ある。3Sの次は3Eが平
へと進展してい った。米国 には地震 ・サリン ・銃 ・オ 和日本再建の要となるので
応 で安全日本 の神話が 崩
れ、これに追い打ちをかけ んたるかを弁えた有能な人
るように自慢の経済にも陰 材 の輩出を 乞い願 うと共
りが見え始めたのである。 に、今度は自力で3E政策
対外的には不必要な謝罪に を推進し、日本再建初動の
便乗されて韓国には貢君扱 年としたいものである。
いされ、内政干渉にオタオ (昭23 ・中野学術連絡委員)
正直
平井
態にあ った国民にこの政策
弘
は麻薬の様な効果を発揮す 占領政策の大成功である。 ウムへのこれまた劣悪な対 はないか。
政 権 交 代 、3 E 政 策
のす す め
須藤
八重 山の
てGHQに颯爽と現れた。 サ ッカーの今日的隆盛とな なパートナーシ ップを確立 進を提言したい。政治が貧 然の歓迎者であ った。
った。フリーセ ックスは人 する。
困なる故 に経済 (Econ-omy
・東京厚生年金病院)
長野 学術連 絡委 員(
昭2
6)
伊 原 重 雄
一彦
下
徹
石 氏 道 夫
徳島学術連絡委 員(
昭 32) 父 兄会常 任幹 事 (昭 49)
木
今
川
省
山 崎 洋 次
岐 阜学術 連絡 委員
香川学術連絡委 員(
昭 35) 父 兄会 常 任 幹 事 (昭 47)
(
昭 27 )
加 納
地
益
人
周
仁
三
隆
一
美 昌
吉 彦
赤 司 俊 二
松 平 敬 充
丸 岡 和 也
太 田 正 治
橋 本晏
理
(
昭 12)
草 間 泰 成
父兄 会 常任 幹 事 (
昭 42)
大 浦 正 則
父 兄会常 任幹事
石 山 隆 三
父 兄 会 常 任 幹 事 (昭 42 )
研 介
松本 頼 明
長崎学術連絡委員 (
昭 52)
森
佐賀 学術連 絡委 員 (
昭 23)
福岡学 術連絡委 員(
昭 37) 父 兄 会常 任 幹 事 (昭 37)
谷
高知学術 連絡委 員(
昭 46) 父兄 会 常任 幹 事 (昭 38)
丹
岡静
学術連絡委員
昭 31) 父 兄会 常 任 幹 事 (昭 42)
(
昭 27) 愛 媛学術連絡 委員(
福
知
愛知 学術 連絡委 員 (
昭28)
須
寛
三重 学術 連絡委 員 (
昭23)
永 井
隆
京滋 奈学 術連 絡委員
(昭46)
大 前
谷
大阪学術連絡委員 (昭37)
大
崎
兵庫学術連絡委 員(昭 37) 熊本 学術連 絡委員 (昭51)
鶴
高 岡
東
洋
真
鹿児島 学術連絡委 貝
(
昭 23)
御 手洗
藤
正
樹
(昭38)
木 村 宣 夫
父兄会 監事
近
和歌山 学術連絡委員
大分学術 連絡 委員(昭 23) 父兄会常任幹事 (昭38)
(昭26 )
福 田 雅 由
鳥 取学術連絡委員
(昭 24専 )
尚
(
昭34
)
良
父兄会 監事
岸
島根学術連絡委 貝(昭41 ) 沖縄学術連絡委員 (
昭 31)
三
靖
晃
小 澤
村
事 務 局 一同
編 集 局 一同
山 崎 弘 二
学生 会委員 長
大 城 正 義
木
(
昭 41)
大 橋 克 洋
岡山 学術連 絡委員 (
昭 52) 父 兄 会 会 長
景 山 浩 次
健
(
昭 46 )
広島学術連絡委員 (
昭2
7)
名 越 温 古
篠 原
父兄会 副会 長
に光と影とを色彩にした情 ングローブの林越しにみる つ学び取らなか った為に、
景は、まさにプラドの明る 重い水面には、クロコダイ 生温い湯にど っぷり漬かっ
大 谷 俊 彦
と現れても不自然ではない かも知れません⋮⋮こんな
い 一室を想い起こさせるに ルが大口を開いてポ ッカリ てそれ以上の域を出ないの
島の北側のパンナ岳を中 ような気分にもな った。ゆ ことを八重山の島々の上を
十分でした。
父 兄 会 副 会 長 (昭 48 )
心に広がる森林公園は、ヘ るやかな山肌の緑のカーペ 飛びながら深く感じ入るの
ゴやヒメツルアダンなど二 ットの勾配に遠く点在する でした。(
昭27 ・聖 マリア
〇〇〇種以上の熱帯 ・亜熱 牛の姿は牧歌的で、インタ ンナ医大名誉教授)
宇都宮 陽 一
山 口学術連 絡委 員 (
昭 45)
をしてうならせ、静寂の中 ヒルギを中心に群生するマ を見つめ、厳しさから何 一
が困難である﹂と岡本太郎 でした。吹通川や宮良川の か。自然の持つ優しさのみ
をも ってしても、その表現 気分を満喫させてくれるの ないの ではない でし ょう
れる川平 (
カピラ)湾 一帯 ルーやイエローの魚が行き は自然の中から本当に学ぶ
は、﹁いかなる画人の詩情 来し、恰ももぐりの達人の べきことを最後まで気づか
中に息づいているようであ ーブルサンゴ、ソフトボー ことにあることをしみじみ
った。黒真珠の養殖で知ら ラムやウミキノ コの間をブ と感じ入るのでした。人々
切にする人々の心が生活の ードの底から覗く海にはテ するのではなく、自立する
モ ロコシのパイプをくわえ 求めた結果が野球であり、 は米国の庇護の下で従属的 い。ここに、3E政策の推 スの赤とが調和して快い自 も、古い文化と歴史とを大
ップを下りながら熱風を頬 石垣に囲まれた赤瓦の家や が、穏やかな海底に輝く珊 のグレイトバリアリーフを
にうけた。日本最南端の街 緑濃いフクギに囲まれた家 瑚礁と絶妙の コントラスト さえ彷彿とさせた。
は明るく、ゴールデンガジ
の
屋
根
に
、
も
っ
こ
り
と
座
る
旅をして感ずるのは、大
を
画いていた。御神崎の沖
ュマロの萠黄とハイビスカ
シ
ー
サ
ー
の
た
た
ず
ま
い
か
ら
合
はダイビングの名スポ ッ 自然から学び取らなければ
トとして知られ、グラスボ ならないのは、そこに逃避
命名法を提唱している。 一 図を推めたら、複雑過ぎる いたいものだ。
晩秋の 一日、眼下にエメ
島の周囲は約 一四〇㎞、 帯の植物が群生し、頂きに ーラーケンのカウベルを想
方、それに斬り込むように、 という。多少省略して描き
(
昭30 ・環境保健医学教授) ラルドグリーンの海に囲ま 那覇の南西約四三〇㎞の東 近い展望台からの竹富島、 起させ、沖合に白波のライ
れた石垣島を尋ねた。タラ シナ海に浮かぶこの島は、 西表島を望む八重山の島々 ンを描く珊瑚礁はケアンズ
部位を明らかにし、分類と 日新聞社)に載せた私の原 持 って校正や点検をして貰
十三年以来、国民所得 (
国 医療費を抑えても、55%程 でも取り上げられ、その見 うのではないだろうか。
的で、最猛毒種アンボイナ イモガイの毒器官の構造図 たい。図などを借りる場合
ガイから幾種ものペプチド を借りたいというので、﹁
動 は記者任せにせず、自分で
中村 純次
に抑え られ ており、米国 のが厚生省の試算である。 今回の薬価の引き下げは僅
高 齢 化 社 会 と国 民 医療 費
毒を分離し、構造式と標的 物達の地球 (第64号)
﹂(
朝 申し入れ、最後まで責任を
ずに肉を抜く方法を工夫 ・ プチド∼蛋白の混合物が粗 員を寄越すし、その写真が りを覚えた。
熟練し、殻は同好のコレク 毒と して毒管 内に貯え ら 裏焼きにされて右巻のイモ
A氏もC氏も別々の国立
から、採毒の際は殻を壊さ 種により様々で、種々のペ じスライドを借りに出版社
症例の実態調査など各分野 毒が各種に共通なテトロド 執筆に捕食シーンを載せた イ専門家C教授﹂とは科学
での交際も自負もある。だ トキシンなのとは異なり、 いからと、進呈したのと同 記者として不見識で、私の
1996年(平
聞
新
大
慈
第三 種 郵便 物 認可
第494号
和幸
です。このようにまじめで 矛盾が最も悲劇的な形で現
、
ル
二
ニ
一
良寛は詠む。
暴れ川とな った。
玉川沿いを遡り、玉川宿の
永夜いくたびか驚く枕上
豪農の 館とし て名高 い 古刹 ﹁玉泉寺﹂を訪問した。
﹁渡辺邸
の夢
﹂は、昭和四十八 御住職がわざわざ米沢から
江聲あやま って雨聲の看 年夏の出水で大きな被害を 出向いて下さ ったが、ふだ
玉川駅とはどこであろう
をなす
﹁宿玉川駅﹂という良寛
の詩がある。
か。山形県西置賜郡小国町
受けた。その渡辺家の 一員 んは無住の曹洞宗寺院であ
の玉川であるという。東京
誠実な医師が、医療費削減 われたこの事件。今後は絶
であることを銘記し御 一読
良寛会の有志十数名が語り 雨と紛らう激しい川音のた である渡辺俊男先生 (本学 る。
高血圧症・
狭心症治療剤(持続性Ca拮 抗薬)
という行政のどす黒い意図 対におきてはならない事件
の標的とされてしま ったの
川腰君、あなたの死は多
です。富山県厚生部が実施 をお薦めします。
した保険医個別指導の際、
(昭27 ・埼玉)
コニール錠
あ る同窓 の死
影嶋
私たちは赤芝発電所から
〔
資料請求先〕
製造発売元
下流にダムが作られた玉
合 って出かけたのである。 め、何遍も眼がさめたとい 昭和十六年前期卒、惜春別
紅葉がも っとも美しい季 うのだ。飯豊山に源する玉 離之詩の作詞者)は、東京 川の水は、目が覚めるよう
この旅に同道のうえ渡辺邸 たして、ゆ ったり流れてい
節に丁度、米坂線の線路工 川は、昔から水量に豊んだ 良寛会のメンバーであり、 な紅葉の峡谷をゆたかに満
玉川は荒川 へ流れ入り、 の案内をもして下さ った。 た。清流ほとばしるたぎち
事が重なりあ った。 一行は 急流だ ったのである。
羽前椿駅で振替えバスに乗
海 へ落ちる。荒川は時には
現在では関川村 ・小国町 の江聲に聞き入ることは、
せられ、宇津峠 ・片洞門な 小国町から隣村の新潟県関
どの難所を越えるあいだ、 川村へ、さらに荒川町と神 ともに立派なダムが出来て もはや 無理の ようであ っ
山々の極彩色を満喫するこ 林村の美田を灌漑して日本 治水 ・発電は万全という。 た。
とが出来た。
息奄々"の友も多い。併し に参拝し、拍手を打つと出 アゴ湾が望まれ、真珠養殖 十七回以上)に賞品が贈ら
ィズ ニーランドには及ばぬ ラス会で、復員後の伊勢神
みなさま明けましておめ
業
生
(
殆
ど
軍
医
で
戦
線
へ
)
人
の
わ
れ
わ
れ
に
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日
本
の
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でとうございます。
宮参拝という区切りでもあ
は
も
は
や
生
存
者
が
半
数
と
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伊
勢
神
宮
に
参
拝
し
た
。
よ
うに思えた。
われわれ "十二月会"は り、それも体力が劣え "
気
蒼鬱
たる天然林の中の内宮
宿舎の観光ホテルよりは った。そして多数出席 (二
われわれのクラスはよきラ 征した国家 への忠誠心が甦 の本場だそうだがその夕陽 れ、私ももら った 一人であ
イター (佐藤英夫君)らを り、崇高な気分になり、日 の眺望は素晴らしいもので る。クラス会でい つも感じ
えて、比較的まとま ったク 本人の血がたぎり深い感動 あ った。夜の集いには皆う ることは、最も親しい集ま
ちとけて唄が出たが、思い りであ り (親 ・兄弟 より
続いて深い森の天然林を 出の歌が原語 (英語、フラ も)、真の情報がえられ、
ラスと思われる。終戦後復 に つつまれた。
員し、昭和三十 一年 (一九
五六年)に卒業二十周年の 越えて志摩半島根元部に平 ンス語、 ロシア語)と国際 縁談などまで語られる。
〈薬価基準収載〉
皆 様 の た め に格 別 の 空 間 を ご 用 意 い た します。
暴言を吐く 一人の技官によ くのことを私たちに教えて
昨年秋に ﹁開業医はなぜ 業生 (昭60)だ ったという り、理不尽な指導を受けた くれました。私たちはあな
川腰君の御冥福を祈ると
めくく っています。
ていくでしょうと本書は締
けられるように、戦い続け
でも安心して医療を受け続
に、すべての国民がいつま
のいく医療 ができ るよう
自殺したか﹂(
矢吹紀人著 ・ ことです。慈恵卒業後、北 の です。﹁こんな使い方を たが大切にしようとしたも
あけび書房)を読む機会が 陸地 区の各病 院勤務を 終 してもら ったら、私の金が のを決して忘れはしないで
え、富山県で病院院長とし いくらあ っても足りない⋮ しょう。そして、私たちは
すべての医師が本当に納得
あ った。
本書には医療従事者のみ て地域医療に専念しておら 近いうちに、また監査しま
ならず、医療を受ける患者 れました。吹雪の中も往診 すよ⋮医業を続けられんよ
さんを含めた多くの人々の を拒むことなく、病気を診 うになるかもしれんなあ﹂
行政側にと って指導を行
熱 い思いが描 かれ ていま ずして病人を診、赤ひげの
す。残念なことに、亡くな 先生にも似て、無医村の医 なう意味は、指導本来の懇
られた川腰君は慈恵医大卒 療に尽くしていたのであり 切丁寧に懇談することでは
ます。当然のように患者の なく、隠された狙いとして、
ためによい医療を提供しよ 指導を受けることで医師が
うとして献身的に医療に打 できるだけ医療を萎縮する 共に、残された御家族が強
ちこんだ結果、多くの患者 よう仕向けることにあると く生きていくことを願 って
を診療して平均からみれば 本書では本質を鋭く ついて 止みません。
います。医療費削減政策の
(昭59 ・鎌倉市)
多額の診療報酬をあげたの
な相手とも協力しようとい 患後 の五年生存 率は平均 が繰返されていたが、昨年
う共 生感覚が 広がると い 60% 以上 にな ってきてお はそこに少し変化が見られ
り、患者はがんであ っても た。最近ではがんの告知や
クラ ス会をや ったのを機
的歌唱会とな った。
因みに平成三年には卒後
成
六
年
に
開
設
さ
れ
た
ス
ペ
イ
ン村 (一一三ヘクタール)
またも う 一つの思い 出 五十年のクラス会に、母校
たちが二度と戦争の犠牲に
なることのないようにとの
援助する小さな環がつくら
ご 婚 礼 か らパ ー ティ、同 窓 会 、そ して ご 会 食 まで
に、以来殆ど毎年開催し、
おり、催し広場には コロン で最新のリ ハビリ施設を見 克己君も)が参加した。母
このごろはツアーを組込ん を訪れた。ここにはスペイ は、河野稔君 (院長は河野 (阿部正和学長当時)招待
米国より藤森
で (海外も三回)三十回に ンの娘さんが多く来演して 稔彦氏)がもつ富田浜病院 で四十 一名 (
及んでいる。
一の伝統であり、私立最古
さて昨年のクラスツアー ブス、ドンキホーテ及びサ 学し、 つづいて "松阪肉" 校招待のクラス会は全国唯
は十四名で (
家族十 二名)、 ンチ ョパンサ像が立 ってい をご馳走になり、名にしお
秋の陽の射す小川のほと
その名の如く第 一回 "早産 十月八日から十日にかけて た。カルメンホールでの踊 う美味を味わ ったことであ の医科大学の面目躍如たる
ものがある。
医"である。あれから五十 名古屋にはじまり、戦後五 りが次々と興行されて若い る。
四年が過ぎ、一三二人の卒 十年を記念し、全て復員軍 人々であふれていたが、デ
今回は卒後三十回目のク
(昭16後 ・同窓会顧問)
昨年九月の半ば過ぎ、プ 無差別に抹殺されたのだそ
ラハ市内での五日間の学会 うである。百七十七人の男 りの道で、立ち止ま って祈
が終わ った日の午後、花束 たちがここで殺されたと書 る 一人の老婦人とすれ違 っ 祈りをこめて彫り続けた像
は亡くな ったとのこと、こ
こにもう 一つの広島 ・長崎
リ エ・ウヒチローヴ ァさん
所はリ デ ィツ ェの村はず る。女たちと百人近くの子 幼い子どもから十七 ・八の
れ。青い花の秋草が風にゆ どもたちは強制収容所に運 少年少女までの三十八人の
れて、ゆるやかな起伏の草 ばれて、大部分はガス室に 等身大の像の前で、同行し
(日本でも秋田県在住の 二
を見たとの思いが強い。
を携えてバスを降り立 った かれた石塀だけが残 ってい た以外、人の気配もない。 の完成を見ないで夫人のマ
原に小川が流れる静かな佇 送り込まれたとのことであ たチ ェコ科学アカデミーの
人の主婦が中心にな って、
まいの中に、僅かに往時が る。戦後五十年を経て、当 ウルバンスキー博士ともど
偲ばれる教会の土台が遺 っ 時の子どもたちの像を彫り も声もなく立ち尽くしてし
れて活動していることをつ
チ ェコモニュメント建立を
ていた。プラハ郊外のリデ 続けてきた彫刻家夫妻の手 ま った。
ィツ ェと言う村は、第 二次 になるブ ロンズ像 の 一部
プラハにもどり、夜に入
ってから市外の住宅街に彫
世界大戦の最中に地下活動 が、この地に建てられて除
に対する報復措置として、 幕されたのは、昨年の夏前 刻家 ハンプル氏のアトリエ け加えておく)
ナチによ って 一村まるごと だ ったとのことである。
を訪ねた。世界中の子ども
(特 ・化学教授)
として 思 い 出 して い た だ け るよ うな … 。私 た ち は、
う。
昨年の日本癌学会で、初 昔に比べたら長生きできる 終末期の緩和医療の方法も
めて ﹁がんと共生﹂という 時代にな った事は確かだ。 進ん できているので、﹁が
言葉がでてきたのでこれを つまり ﹁がんと共生﹂して んと共生﹂ということはが
中心に考えてみた。過去十 いることになる。昨年の日 んで死ぬことを医学、医療
年で、がんは遺伝子の異常 本癌学会で、特に私が注目 の敗北と考えず、苦痛が少
による病気だということが したいのは ﹁
がんの撲滅を なく充実した生活が保証さ
ようやく分 ってきた。また 考えずに共生することも﹂ れるなら、がんで死ぬこと
世紀末になると今までは 人は初めからがん遺伝子と との意見が出たことだ。パ があ ってもいいと考えるよ
全く予期しないことが起こ 抑制遺伝 子を共有 してい ネルディスカ ッシ ョン ﹁こ うにな ったからだ。今まで
るという。昨年は阪神大震 る。平たく云えば、人は誰 れからの癌研究﹂で小林博 ひたすらにがん撲滅を目指
災に始まり、地下鉄サリン でもがんの ﹁もと﹂と共生 北大名誉教授は、﹁がんを してきた日本のがん研究や
事件等人々の不安をかきた していることになる。何ら 憎むべき敵として撲滅を企 医療のあり方を見直す新し
てる ようなこ とが多か っ かの原因で抑制遺伝子が傷 てるのは、人間のおごりで い流れが、基礎医学の世界
た。歴史学者の木村尚 三郎 つけられた 時に、臨床がん はないか﹂と問題を提起し に始ま ったことは注目に値
氏の意見によると、人は未 として発育することも次第 た。癌研の北川知行所長は する。同時にこの様な研究
﹁がん撲滅というスローガ に支えられた治療成績の向
来に対する不安が強いと 一 に解明されつつある。
代になると思うし、政府の
発見、早期手術、抗がん剤、 必要な時がくるかも知れま
昭30 ・評議員)
放射線治療と毎年同じ言葉 せん。 (
今まで我々が考えていた ﹁がん撲滅十ケ年計画﹂は、
がんの治療といえば、早期 その言葉とともに見直しが
だ。
人では生きていけないとい
今日では治療法の進歩と ンとの決別が必要として﹂ 上から ﹁がんと共生﹂の考
う気持が強まる。そして嫌 早期発見の成果で、がん罹 ﹁天寿がん﹂の例をあげた。 えも出てきたと思う。
﹁天寿がん
ここで私は二十 一世紀は
﹂は超高齢者が
安 らか に死ぬがん の異名 確実に ﹁がんと共生﹂の時
信男
21 世 紀 は
﹁が ん と 共 生 ﹂の 時 代
三木
禁忌(次の 患者には投与 しないこと)
1)心 原性 ショックの患者[症 状か悪 化するおそれ かある。]
2)妊 婦又 は妊 娠している可能性 のあ る婦人[動 物実 験に
て胎仔毒 性、妊 娠末期 の 投与 による妊娠 期間 ・分娩 時
間の 延長か報 告されている。]
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五十嵐
正俊
八家
満智子
戸澤
炉辺談話
江 聲 雨 聲
〝クラス会〟考
リデ ィ ツ ェ
第494号
第 三 種郵 便物 認 可
聞
新
大
慈
成8年)1月25日
(9)1996年(平
に、雄然と緑の木を示す松
波と、眼前の冬の枯山の中
うではないか。この峠の風
後るるを知る (論語)とい
歳寒くして松柏の凋むに
赤松休本のもとで医術を修 城県北茨城市)に上陸した の東十キ ロの岩代から北 へ 業を続けた。
玄安の抱いた西洋医学 へ
と退却したとすると、正に
どなくして戊辰戦役が起こ であ った。彼の隊はすぐに 九死に 一生を得たことにな の憧れは、造次と糺の二人
る。何れにせよ、歴史上の の息子が慈恵に学んだこと
この時点で敗走する玄安を により実現されたともいえ
お い しい料 理 とゆ きとどい たサ ー ビス で 皆 様 をお 待 ちい た して お ります 。
業し、角田に帰郷した。ほ のは七月九日の夜明け過ぎ
北東十四キ ロの小名浜 (
福
慶応四年 (一八六八) 一 島県いわき市)に出発を命
る。
Yamanouchi
しかし彼方に幾重も続く山 みる。
の輝きを見ると、この風景
月三日鳥羽 ・伏見の戦いの ぜられ、鮫川を渡 って、夕 含む仙台藩兵を追うような る。造次が入学してから糺
後、四月十 一日江戸城明け 刻、小名浜についた。つい かたちで、兼寛の隊が進軍 が卒業するまでに二十年余
渡しとなるも、会津藩抗戦。 で彼の隊は、平城を落城さ してい ったことになろう。 り、この間ず っと慈恵の校
新政府軍の攻撃に対して、 せた後、好間川沿いを北上 この後、兼寛は西に進軍し 長は兼寛先生がしていた。
仙台藩を盟主とした奥羽列 し、小野新町からは磐城街 会津城を終に落城させる。 また兼寛は当時の医界で有
角田に命からがら帰り着 名だ ったわけだから、彼が
ご宿 泊 ・ご会 食 ・ご宴 会 ・出 張 宴 会 ・ご婚 礼 に是 非 ご利 用 下 さい。
峠 の こ ころ 模 様
町田 豊平
の力に得難い喜びが湧いて 景に人間の生き方を重ねて
みる。名利に淡々とした顔
くる。
﹁脚力尽くる時、山更に でありながら、貧慾な策を
賢者 のふるま いをしなが
ら、社会規範に疎く頑固な
藩同盟が抗戦した。この時、 道を進軍した。白河口から
大槻玄安は仙台藩兵の 一隊 同盟軍を追撃する新政府軍 いた玄安は、明治新政府の 薩摩藩士だ ったことも何れ
に隊 付の医者 とし て従軍 主力に合流し、 一丸とな っ 時代を迎え、西洋医学への かの時点で玄安にも伝わ っ
し、奥州街道沿いの岩代、 て会津攻めを企てていたた 向学心止まず、再び、東京 たと想像するのが自然のよ
矢吹、白河方面に転戦した。 めである。七月二十七日、 に遊学を決意した。かつて、 うに思える。しかし、賊軍
五月 一日に白河は新政府軍 三春 (郡山の北東十キ ロ) 角田藩医として従軍した思 とな った自分達を追うよう
の手に落ちたことと、墓碑 で前日この地を落として占 い出深き合戦の地を通り、 に上陸してきた官軍の 一隊
銘の ﹁得 一生於九死﹂の記 領した白河口からの新政府 錦村 (福島県いわき市)の に兼寛が従軍していたこと
日には二本松 への総攻撃が た。折から、この地で流疫 か ったのでは ないだろ う
わが曾祖父玄安は、仙台 に新政府軍の追撃を受けつ 行われ、二本松城は落城し が蔓延していた。医者とし か。
少なくとも、我が家の伝
藩傘下、角田藩の藩主石川 つ奥州街道を北 へと退却し た。おそらく、この時点で て見過ごすに忍びず、治療
一隊は白河の戦いを皮切り
述から推定すると、玄安の 軍主力と合流した。二月九 鮫川 の辺り にさしかか っ は、おそらく終生知り得な
国光に仕えた藩医で、旧姓 て、福島方面に脱出したよ 玄安達仙台藩兵は、新政府 に専心した。そのままこの 聞に、それは伝えられてい
に再現しようという独自の ートホールで聴いているよ の歌手がいるように思える
うな錯覚に陥り、部屋の広 ような臨場感があ ったのは
このシステムをすべて購
さを全く感じなくな ってし 驚きであ った。
まうのである。巨大な コン
デンサー型 ヘッドフ ォンの 入するには数百万円以上費
テムの音は、今までのイメ による数値の単位で、四ビ 中にいるようでもあ った。 用がかかるうえ最大限に機
ージを 一変するものであ っ ット差とは二の四乗すなわ
私も以前コンデンサー型 能を発揮するには接続 コー
た。
ちその情報量は十六倍とい のスピーカーで聴いたこと ドから電源にいたるまで細
がある。その時の印象は、 心の注意が必要である事は
私も技術的な事は分から 非常 に繊細 で器楽 ・室内 言うまでもない。
参考の ために 紹介す る う計算になる。
と、マークレヴ ィンソンの
るアンプの為かオーケスト この点を徹底的に追及して
プリアンプに 一チャンネル ないが、これは 一種のコン 楽 ・声楽には良いが、オー
オーデ ィオ ・マニアにと
七〇㎏もある巨大な日本ビ ピ ューター ・ソフトを組み
って大変魅力的 であるが、
ケ
ス
ト
ラ
で
は
力
強
さ
に
物
足
クター製のパワーアンプ 一 込 んだような ものだそ う りなさを感じた。
T氏は大変凝り性で、この
台 ・クウ ォードの コンデン だ。このシステムを使用す
今回の装置では、駆動す システムを組立てる時には
サー型 スピーカーESL-6
る3
とP
聴r
感上
o明らかに音は滑
い。(昭45 ・同窓会理事)
Tel.(03)3211-5211
村のはずれで老婆に教え もれ、まぶしいほどの明る 好し﹂という言葉を想う。 弄する人、物わかりがよく
無我夢中で馳け回 っている
この季節では、山に踏み ときは、本当の人生のすば
られた道を半刻も歩くと、 さである。
倒木と落葉でほとんど閉ざ
つ。己にも課したい言葉で
えてくる、という意味だ。 と器量に乏しい人物が目立
された峠 への小径に出た。 入る人もほとんどいないら らしさはわかりにくい。人 人、口では高尚な話や道徳
山はすでに冬の気配、木 しく、この峠道の岩は苔む 生に限りあることを知ると を説きながら目上の人に媚
の葉をさくさくと踏む足元 し、枯葉を敷いた道で踏み 一層人生のすばらしさが見 びる人、とかく最近は気骨
から、湿 った冷気が体に浸 迷わんばかりである。時折
みてくる。その昔、森々と り驚くような枯葉しぐれの 努力したあとに、しばし立
寒風をさけ、杉の老大樹 かない峠をかけ下る。足を
して闇のように茂 っていた 中を、足元を確かめながら 止 って己を もう 一度 見直 ある。
というこの峠道も、いまは ひたすら気力で歩む。背負 し、人間の妙味を知るのが、 短かくな った日脚に追わ
った荷が重くなり、肌に冷 人生の達人であろう。
れるように、 一鳥の声も聞
冬木立の梢を透して陽光が
たい汗を覚える頃、ようや
思う。先日まで紅で染ま っ う風に耐えて、し っかり伸
ていた落葉樹の木の葉はす びき った小さな勁草が大き
(
昭48 ・父兄会副会長)
軍主力と兼寛達援軍との挾 地を離れられず、明治三年 ない。
一方、
高木兼寛が平潟(茨 撃から辛くも逃れ、二本松 篠原家の婿養子となり、医
れた。
私は、以前オーデ ィオ ・ 録音を聞き、とても新鮮で るも のを最大 限に利用し 定員 一名)であ った。しか の再生音はか つて聞いたこ
臨場感あふれる音に驚かさ て、可能な限り原音に忠実 し目を閉じていると コンサ とのない、眼前に ﹃
実物大﹄
時江戸に遊学し、眼科医 ・
(昭31 ・慈大名誉教授) は大槻であ った。十七才の うである。
でに枯れ落ち、その中で常 く揺れていた。
く山深い峠の地蔵尊の前に の下で、再び眼下の風情を 滑らせた路傍には、地を匍
立つ。
不意に峠の屋根を吹き抜
ける冴えた風は、厳しく冬
木をゆすり、
身震いがする。 緑樹の松の木の姿が目に滲
な猫がつきあたりの暗闇に 然に寂しげで、いつも柵の 物音にきづいて目をあける
駆け抜けて行く。初めての 隅でポツンとしている。大 と目の前のネズミと視線が
猫である。夜、医局の廊下 きなお尻の割に小さな顔は 合い、あちらも相当び っく システムのグレードア ップ
でよく出合う猫はもう少し いかにも小心者で私の家で りして走り去 ったという。 に熱中 してい た時期があ
医局の海渡 ・清水にひどく
更に注目すべき らかに、自然となる。SN ラのティンパ ニーの音もか いる。私にはとても真似が
ものはこのシステムの要で 比の大幅な向上は勿論であ なりパワフルであ った。 コ 出来ないレベルである。
あるDAコンバーター (デ るが、予想をはるかに上回 ンデンサー型は大きな 一枚
しかし、このような再生
ジタル ・アナ ログ信号変換 る音質であ った。
の振動板を使用しており、 音が得ら れると いう事実
機でレコードのピ ックア ッ
しかし私が最初に驚いた 大きな入力に対しては構造 を、オーディオに興味のあ
プに相当する心臓部)であ のはその試聴室の広さで、 上無 理がある はずであ る る方に是非とも知 って欲し
特に声楽を中心にした曲
る。その内容は通常の十六
と
て
も
オ
ー
デ
ィ
オ
・
ル
ー
ム
が
、
原
音
に
か
な
り
肉
薄
す
る
いし、資金と時間に余裕の
ビ ットの信号を 二〇ビ ット と呼ぶにはあまりにも狭い 再生音であ った。
ある方は挑戦してみて下さ
に置き換え、記録されてい 部屋 (三畳程の広さで自称
山 之内 製 薬株 式会 社 学 術 情 報部
薬価収載
〔資料 請 求 先〕
また は富 永 、森 まで お気 軽 にご 用 命 くだ さい。
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●用法・用量、使用上の注意等詳細は、製品添付文書をご参照ください。
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い っぱいに豪華宴の後が確
やけに暗い看護婦の電話の い雰囲気を持 った歩き方が
20
㎝ぐらいはあり、突然い り去 ったので、隠れた部屋
声でICUに呼ばれて、モ 好きだ。
つの間にか窓ガラスに へば の隅に大きなブルーチーズ
天気の良い日はやはり森 りついていて私が机に目を を 一塊ドーンと置いてや っ
たら、朝には小さな歯形で
ットから転がり出る。真夜 田療法室で飼 っているウサ 落としもう 一度みると位置
中の木造の医局棟の廊下に ギが、私の部屋のそばの駐 が変 っている。何とか動く
責められる事とな った。第
ソモソと医局のソフ ァーベ
は大量 の枯葉が寒 風に舞 車場に大きな柵に入れられ ところを見ようとしばらく
い、突然黒くてやけに大柄 て現れる。 一羽だけで不自 じ っと見ていると微動だに
しない。そんなことをくり
三病院の衛生委員長を務め
認された。が、私はあとで
かえして夏の終わりになる
病 院 の小 さ な
といつのまにか現れなくな
都内の大学病院での本当
いた小動物にネズミ夫婦が の話である。
いる。教室の仲間が夜中に (昭47 ・脳神経外科助教授)
今年から医局内に棲みつ
るのである。
る資格は私にはないのかも
しれない。
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1996年(平
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くわ し くは 、
円通寺に話を戻そう。眼
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パーム ・スプリングスと
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ったと報じていた。
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東 京 慈 恵会 医科 大 学 関 係 者 の 皆 様 に は、
屋のわずらわしさはなく、
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手入れされた生け垣にそ っ 刈り込みの規模を小さくし
て、打ち水で清められた飛 た様なものと聞いている。
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がてどこからともなくお坊 がてどこからともなく老僧
名越
さんが現れる。﹁ごゆるり のつぶやくような語りが聞
じられないことが多く、や 野の空間を消している。や
今年は十月に癌学会と臨 皇だが、自らの子供の中か
と﹂の声を背中でうけ、暗 こえてくる。聴くでもなし
ろうとする意図が窺える。 ン現 (四十八才)
、ブ ッシ ュ 太平洋から吹く風の通り道
お電 話 下 さ い。
愛宕山東急イン
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床血液学会が前後して京都 ら四人も天皇にさせている
い廊下を 進むと庭 が開け に耳を傾けていると、この
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ンドのリンクスの原点に帰 が、新聞によるとクリント のを見る。ティハチ ャ峠が
ゴルフはミ ッションヒル
世界各地から訪れる 一大リ
ゾート地である。
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﹁枯 山水 に借 景の庭﹂な ともいえない贅沢な気分で
り!と思わ ずため 息が で 心が満たされている。
る。比叡山が頂から斜面を
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交通の便が余り良くないの 政治的失意を、風雅な生活 るのは、愛想がないほど殆 実と空白の世界をゆき つも
で、人によ っては嫌う場合 によ って慰めようと考えて ど人がいないことである。 どり つ、時間が過ぎる。ふ
かな楽しみである円通寺が 幡枝の三つの山荘である。
もあるが、私にと っては秘 造られたのが長谷、岩倉、
院離宮を完成させ、これら
近くにあるのであまり気に その後十五年をかけて修学
ならない。
ン等スタープレーヤーの獲 にも左にも寄りすぎては駄 光景は壮観である。石油や
幸いにもこの寺は国際会 けて、パーム ・スプリング ズなどをラウンドした。何 行われ、 ニクラウス、トレ の慈善試合でお手合せをし ある。およそ五千基の三枚
スでのゴルフツアーに参加 れもグリーン周りの池にパ ビノ、プレイヤー、ワトソ た。クリントンさんが ﹁右 羽根の白い風車が風に舞う
皇となり禅院の開創を長年 べて排除して意外な近さに の距離にあり、どんな大き した。 ロスから車で二時間 ームトリーの影が映り コー
の念願とし、輪王寺宮門跡 そびえている。よほどの独 な学会が開かれても混むこ 程で、不毛の砂漠のなかに スに付設した コンドミ ニア 得賞金額がクラブハウスの 目だ。政治はゴルフ﹂と舌 原子力 が豊かな アメリ カ
(昭25専 ・北海道支部長)
医療の原点ということに 調査など学究的な分野に専 よいと思います。(病気で て言います。医療は医師免 指名とすべきです。(
その
ードさんの第 一打はギ ャラ
タートした。ところがフォ にも熱心である。
スが現われる。周囲の山々 根と遠く雪を頂く灰色の岩 興味深く眺めた。
の融雪が作る無尽蔵の地下 肌の山々とのコントラスト
パーム ・スプリングスを
一六七八年幡枝の山荘に文 な庭は出来ないだろう。私 ぶらぶらと疲れた頭を休め
英尼公を開基として迎え、 は修学院離宮には足を踏み るにはち ょうど良い距離に
ついて、 一言申し述べたい 念するべきと考えるからで もない老人が毎日来院しま 許証を持 った医師の仕事で 道のスペシ ャリストを持 っ
や幕府要職の斡旋を得て、 占欲が強くないとこのよう とはない。天気のよい日、 文字通り株櫚と泉のオアシ ムの白い壁、レンガ色の屋 食堂の天井に貼 ってあり、 戦で機先を制して仲よくス は、クリーンな エネルギー
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庭が鞍馬、貴船を独占する 都周辺の開発によ って、秘
を賜 った寺である。
案内にしたが って、路地 かの如くに造られていると かな楽しみであるこの比叡
いうことからも、後水尾天 山を間近にいただく借景が
と思います。医療はそもそ す。日本の医療は、日本医 す。)厚生官僚がデスクワー すから行政はあまり余計な てきて任期は四年とする。)
も医師免許証を持 つものが 師会主導の医療である本来 クではじき出して老人の 一 ことをすべきではないので 法律、経済、人権、経営の
を進むと山門の前の小さな
省の官僚方が、あれこれ口 す。そうすれば医師会の中 ておいて次回二〇六〇円程 時期と考えます。実際厚生 の日医代議員会に於いて、
空間が広がる。しかしここ 皇という人はよほどの審美 失われることがないことを
(昭46 ・父兄会副会長)
行う行為であります。厚生 の姿に 戻るべき と考えま 部負担を、 一〇 一〇円とし す。今や、医の原点に戻る 有力者を理事とする。四月
は人 一倍強か ったのだろう。
には京都の多くの寺にみら 家で、かつ独占欲にかけて 望んで止まない。
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考えます。何故ならば、厚 ペシ ャリストを入れて日本 しいですが、最初に 一五〇
て、デスクワークで現在使 四年間とする議案を提出し
そこで四十五吋を使いたけ を四十五におさえることが 大井杯で証明された。その
を出すのは望ましくないと に経済、人権、経営等のス 度としようと考えているら 省は財政の事ばかりを考え 日医会員全員投票で任期は
れば全重量が三〇〇g以下 出来た。今年はこれを 一軍 時米寿の大井実名誉教授を
世界的に流行する病気等の 事の問題点を指摘したいと 考えのようですが、人間は イズの問題にしても患者の しない。お互いに医師とい
存じます。厚生省は ﹁カゼ﹂ 一人、 一人個人差がありま 前に出て、深々と頭を下げ う忙しくて気の抜けない職
業務である引揚者の援護、
生省は内務省の 一部機関で の医療の舵取りを立派に行 〇円としておけば改正はし 用していない少数点のつい て可決する様にしたらどう
あ った訳ですから、本来の えると存じます。
なくてすむでしょう。
た 一銭以下の点数を つけま でし ょうか。選挙は選挙公
ここで厚生省の現在の仕
次は丸目方式医療にする す。又、厚生省の官僚は エ 報のみとして全国遊説など
の物を選ぶ必要があると思 にするからまた八〇台を出 筆頭にSヤードが六本も並
った。それはすでに十五種 せると信じている。
んだのであるが、優勝した
日本の古刀には細身、小 人の佩刀は九品目のどれか
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塗り薬﹂﹁
頭痛﹂など軽い ら、計算通りに決して行き 知 っていて便用した教授も げないようにする。できれ
病気の薬代は、全額患者負 ません。このように、医療 同様)研修医を義務づけて ば四月以前に日医の臨時総
担 にしようと しており ま の現場を混乱させている実 給料のない医者でもなけれ 会を開 催して議 案を決定
す。本人、家族は健保も国 態は大変憂えるべきことで ば学生でもない中途半端な し、会長の立候補者を決め
保も含めて二割負担には賛 はないでしょうか。残念な 身分保証のない者に、患者 て四月からは新会長のもの
以上私案を日医の各代議
ところで日本医師会は、 員の先生方にお願いいたし
ですから)
成です。十年前に私は拙著 がら、今の日医は官僚の言 をどんどんと診療させたた に空白の時間を作らず執行
﹁町医者
﹂の中で述べまし うとおりに代行していると め起きたことではないでし が行えればも っとも幸甚で
学 園粉争の発端 す。
た通り、医療費の請求用紙 い っても過言ではありませ ょうか。(
厚生省は完全看護の老人
は 一種類になり、現在のよ ん。
うな十二、三種類の色紙遊
びはなくなります。老人は 病院、ホスピス病院等を国 会 長 の選 出 を 会 員 全 員
ことを祈る次第です。(昭
ましたが、是非実現できる
2
5専・
北多摩学術連絡委員)
(A ・B)とも葉書による
一割負担として、支払いの 家財源で作 って本来の厚生
できない人は生保とすれば 行政にもどりなさい!重ね 選出として後の役員は会長
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成8年)1月25日
(11)1996年(平
年月のすぎ去るのは早い 十四年間で会員が十六名減
月二日聖マリアンナ医科大
思いを馳せる真摯かつ率直
の現況を案じ将来の展望に
が、飾らぬお人柄と、大学
なお言葉に、我々は親しみ
学の名誉教授であ った三好
されたとの報告があり、 一
を感じると同時に、改めて
邦達君が、下咽頭癌で逝去
同で三好君のご冥福を祈 っ
れた。続いて、大野典也、
身の引き締まる思いに駆ら
作山攜子、川村忠夫、北島
武之の四人の教授がそれぞ
れ現状と抱負を語 った。
宴 たけな わとな るに及
び、処々の話の輪が出来、
学長のまわりでは遠慮のな
い要望や質問が飛び出して
も学長はにこやかに応じて
下さり、 一方、各地から駆
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のかたわら心体不自由児た
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船で世界の海をクルージン
一つの海事関係の会社社長
グしているK君や日本で唯
昭和四十年卒業生の、卒 ットに溢れた軽妙な司会の を兼務しているKさんの話
後三十周年同級会が、平成 もと、爆笑のうちにも和や などに興ずるうち、秋の夜
去る十 一月十二日(、
日午
) 四回国際心臓研究学会世界 小泉、小林、阪本、佐藤、 七年十月十四日、東京大手 かに進められた。三十周年 長も瞬く間に過ぎ去 った。
奥田、小田、川崎、黒坂、
宮、及川、太田(、
幸荻
)原、
当日の出席者は浅沼、 一
会をお開きとした。
閉会の挨拶で本年のクラス
会までみんな元気でという
た。服部君の来年のクラス
二時間半 がすぎ てしま っ
いるうち、いつしか予定の
グループを作 って談笑して
いしい料理を賞味しながら
アル コールと文化会館のお
況をしゃべ ってもら った。
出席してくれた前澤君に現
れ、六年ぶりに杖をついて
血 で倒れ られ元気 になら
られた。宴の半ばで、脳出
阪本君の乾杯の音頭で始め
宴は久方ぶりで出席した
た。
もので、慈心会々員も卒業 少し、現在は五十六名であ
授 (八十六才)による頭と
庶務報告後に、南名誉教
してから四十四∼五年を経 る。
過し、平均年令も六十九才
弱とな った。
この二年間は常任幹事の 身体の健康法のお話しが講
都合 (
内視鏡下鼻内手術の 義調となり、約二十分間、
この会に夫人達の参加が
執筆)により会を開けなか 全員老令化現象に備えて謹
ったが、平成七年十 一月十 聴した。
八日(に
土、
)中央区かきがら
町のロイヤルパークホテル 多くなり、女性の慈心会の
趣 きを呈 してきた が、永
恩師の南名誉教授をお迎 井 ・浜野両君の司会で、女
に集ま った。
えし、会員 二十五名 (越田 性をふくめ全員が感想、近
君が急用で欠)、夫人達十 況、医政などについて発言
一名の計三十六名の出席で し、和気あいあいのうちに
あ った。卒後二十年ではじ 二時間半をすごした。その
めて級会を開催してから二 中で、高野君が昭和 二十三
年に旧満州のチ ャムス医大
より引揚げ、会場近くの親
戚に下宿していた懐古談に
しんみりとしたり、中條君
が徳川時代より有名な産婦
人科の中條流の祖先が、桓
でさかのぼることを説明し
武天皇の子の葛城親王にま
元朴
)、前澤、増山、
定年退職された奥田千秋君 古川(、
て、級友にたい へん感銘を 後四時半から六本木の国際 大会で、永野允君がチ ェコ 宿谷、鈴木(、
敬種
)瀬、鴇田、 町のパレスホテルにて開催 記念の大学寄付金目録が学
最後は濱田雅之君の、青
与えた。
文化会館にて、卒業四十二 科学アカデミーから表彰さ 永野、西沢、
長谷川(、
忠
服)
部、 された。当日は来賓として 長に贈呈され、記念撮影の 春 への回顧の思いをこめた
れたこと、獨協医科大学を 菱川、藤井、藤原、古川(、
建)
岡村学長がご臨席下さり、 後、学長のご挨拶をいただ エールに先導されて学生歌
四十七名が 二年ぶりに再会 いた。我々の多くは、当夜 を斉唱し、二年後の再開を
終わり に明年 からは 東 年目の昭 二八会クラス会が
月チ ェコのプラハでの第十 報告された。計報として八
報告で始められた。今年七 校の校長に就任したことが 三十 二名。
篤八
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君のユーモアとウイ
(黒坂公生記) 村輻
去る十二月十六日 (
土)
その ﹁聖しこの夜﹂に客
に と び い り の ハプ ニ ン グ
第 三病 院 ロ ビ ー コン サ ー ト
会は黒坂幹事の庶務会計 が、九月から獨協中学 ・高 宮川(、
昌富
)川(、
忠山
)口(の
満)した。
が学長と親しく接しさせて 約して散会した。
総会および懇親会は、木 いただく初の機会であ った
(野原誠記)
京 ・横浜など首都圏で毎年 開かれた。
慈心会を開くようにするこ
(足川力雄記)
ととして会を閉じた。
ここ数年間、全国の大学 本来、別であるべき事象が は診療、研究、教育はまさ 全国でのランキング (一流 が、人間性に優れ、識見に 年、八年とするという議論 ているのか、あるいはいず
医学部、医科大学において 混 同され てはいないか﹂、 に三位 一体の関係であり、 欧文雑誌 への論文投稿)は 秀でた人格こそ、現代の医 が起こらないのは何故であ れでも ない独特 の道な の
﹁専門教育 (課程)の細分 これを分けて考える発想に 残念ながら下位に低迷して 療の世界に求められる人材 ろうか?すでに、ヨー ロッ か、し っかりとした目標 ・
夫人もい っしょに色紙にサイン
四十年会・卒後30周年同級会開催
慈恵においては、特に病
カリキ ュラムの改 訂を進 とい った点である。
め、本年度からは新しい体
制に移行するとのことであ 院の機構改革と合わせてカ
﹁カ リ キ ュ ラ ム ﹂を 考 え る
ー 外 か ら 母 校 を 眺 め た と き︱
時間を削 ってという安易な 直接 つながり、わが国にお たせいか、満員の盛況で、
ハプニングであ った。
また、
方向 へ行かないことを切に ける医学部 ・医科大学のリ 音楽部有志による演奏に加 音楽部の管トレーナーの先
願う次第である。
ーダーグループに追い つく えて、看護学科有志のコー 生が音大の仲間の方を率い
全国の大学医学部 ・医科 ことが出来るか (あえてこ ラスもあ った。
ての出演で、プ ロのアンサ
ンブルを聴 かせて 下さ っ
史
大学は、二十 一世紀に向け のように表現する)否か、
澤
た。最後のクリスマスメド
(
昭59) 小
て"
大学院大学化"を目指 深い意味 をも つものと思
リ キ ュラ ム改訂作業 が進
る。
先日、ある学会の折、親 み、例えば診療グループと
しい若手の基礎医学研究者 教育 ・研究グループの分離
て、研究面におけるい っそ に目を向けた時、教養科目 だろう。
レーは大編成で盛り上が っ
数人と、各大学におけるカ 方式 (
当然、両者の深い交
一
リキ ュラム改訂作業が盛ん 化と範囲拡大による教養教 は正直なところ、疑問、不 いる。頑張 ってほしいもの であり、これらの基礎構築 パのいくつかの国において 視点をも って厳しい時代に の夕刻、第三病院の ロビー 席から突然見事なソプラノ
時間 安を感じざるを得ない。あ である。
に教養教育の担う役割の大 は医学教育年数の延長が行 対処してほしいと思う。こ で、今や恒例とな ったクリ がとびいりしたのは、ご入
に行われている。慈大新聞 育 (課程)の弱小化 (
一方、教育カリキ ュラム きい点は反論の余地はない われ ているのが 現状 であ のカリキ ュラム改訂がおそ スマスコンサートが開かれ 院中のプリ マドンナ東敦子
によると、母校、慈恵でも 削減)は本当によいのか﹂ わせて、基礎 ・臨床を通じ
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ム改訂と医学部 ・医科大学 あるいは医学教育を考える 誌 への報告でも明らかなよ 部 ・医科大学で教養教育の 育六年間という設定に無理 ると言われている。
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[デ ス ク 判]
〈1月号〉Vol.8No11996
総合診療 誌
妊 婦 の診 察 時 の 注意 点 〔
妊 婦 に よ くみる 問 題 への
対 応 〕上 気 道 炎 腹 痛,下 痢,便 秘 不 眠 糖 尿
病 喘 息 甲 状腺 機 能亢 進症 て ん か ん 腎 臓病
肝臓 病 〔GrandRounds〕
妊 娠 と 急性 腹 症
■ 臨 床 医 が 日 常 遭 遇 す る 疾 患 を 網 羅 し,日 本 の 保 険 診 療
に沿 っ た 現 時 点 に お け る 最 新 ・最 高 の 治 療 法 を 収 録 し
た治療年鑑
■ 正 常CT解
剖 と 肺 ・肝 の 区 域 図,基 準 値 一 覧,急 性 中
毒,漢 方 製 剤,抗 生 物 質,抗 癌 剤,皮 膚 外 用 薬,薬 物
の 副 作 用 と相 互 作 用,治 療 薬 使 用 の 手 引 を収 録
■ 事 典 と して も 使 え る よ う,疾 病 の 概 念,診 断 の ポ イ ン
トまで を記 載
■各系統疾患 における最近の動向を解説
■ 各 疾 患 こ と に病 態,病 期,重 症 度 に応 じ た具 体 的 な 治
療 方 針,処 方 例 を 呈 示
特集 妊婦 が一般外来 に
来 たとき
JIM
■938専 門医が960疾 患項 目の治療の実 際 を紹 介
■各項 目はすべて新執 筆者 によ り全面新 訂
■増加 する新薬 に対 応/誌 面を刷新
監 修=日 野原重明 阿部正和
総編集=稲 垣義明 多賀 須幸男
尾 形悦郎
私 はこう治 療 して い る
今日の治療指針1996
研修医・臨床医のための外来診療ガイド−月刊「ジム」
日常の診療に役立つ定評ある最新治療年鑑−新刊
成8年)1月25日(12)
1996年(平
聞
新
大
慈
第 三 種郵 便 物 認可
第494号
み、後は東名を 一路、午後
高橋、宇佐美、大和夫妻、
野君の徹底した指導と、ご 急須 (三代清水醉月、洋氏
小沢陸男君に決定した。宴
会幹事を協議し、群馬県の
藍沢(、
靖
木)
内、瓦崎、木村(、
裕)
伊藤、河野、足立、池田、
いた。
残りを惜しみつつ帰途につ
その 他 、
東 京 慈 恵 会 医 科 大 学 関 係 者 の皆 様 には
の富田浜病院 (河野稔彦院 完備されていた。これも河 け、又当地名産の萬古焼の
長)の見学であ った。
たので山の歌を披露してく
会はオークラ別館十二階チ
ェルシー ・メイフエアに移
柏瀬、篠崎、土谷、遠藤(、
美)
プ レゼ ント(ペア)
散 した 。
夫人。
経営の行き詰ま った病院 長男の絶えざる努力による 作)をお土産に戴き、 一同
(大和正夫記) を譲りうけてから、地区最 ものと思われる。
感激のうちに夫々帰路につ
参 加 者は 安西 、土岐 、本 吉見夫妻、大平夫人、富井
多 、伊 丹、小 山 、久津 見、
松 本、大 下、柴 田、曽我部 、
最近、韓国に於いても約
四〇〇〇人規模の光カード
の実験が始ま った。北京の
協和医科大学の人工透析は
平成七年十 一月十日、医 光カードの話を今回の座長 平成七年十月から、患者の
︵昭28︶一宮勝也
第88回台湾医学総会に出席して
桑名の名店柿安で、とろ いた。出席者は殆どが同伴
大の病院にまで立ち直され
は今まで最も出席が多く、 た由であるが、特に人間ド けるような最高の松阪牛の で総勢二十八名であ った。
ックの施設は眼を見張る程 網焼とすき焼のご招待をう
(佐藤英夫記)
会を盛り立てて頂いた五人
(八家、阿部、平岡、松田、
佐藤)に、ステンドガラス
皿 (期界の第 一人者、菅原
亘作)が贈られた。
翌日バスは伊勢湾を走る
高速道路で伊勢外宮に参拝
後、賢島近くのスペイン村 学総会の分科会医療光カー の張錦文先生にした時点で 管理を光カードで実施して
を訪れた。当村は眺望の良 ド研討会に招待され、﹁光 は、台湾では誰も ﹁光﹂の 居る。光カードの普及を目
めて思った次第である。
さ、施設の豪華さに於いて カードの意義と問題点に就 ﹁ひ﹂の字も知らなか った 的 に活動 して参 った我々
はなかなか のもの であ っ いて﹂講演した。日本から 事を 思うと感無 量であ っ も、大いに頑張りたいと改
現今の中国は改革開放路 是非御 一報いただけないで
た。二日目の宿、志摩観光 は北海道赤十字血液センタ た。
ホテルの夕食は有名な高橋 ーの関口定美所長、東海大
シ ェフによるフルコースに 学の大櫛陽 一教授が講演さ
舌鼓を打ち夜景を楽しんだ。 れた。台湾からは六演題が 線をひたすら走 っています しようか。今までに五十三
三日目、早朝出発したバ 発表され、行政の戸政司の が、経済的に遅れ医療設備 医療施設より寄贈いただき
スでは、例年のように各人 簡太郎氏は光カードとIC が充実しておりません。
ました。解体 ・梱包 ・運送
の近況、人生観、闘病哲学 の結合した ハイブリ ットカ
つきましては同窓の諸兄 費は当センターにて負担い
五年前に、台湾で国民皆 T .MRI ・レントゲン撮
03-53F8A8X-8919
℡03- 5388-8918
が語られ感銘深きものがあ ードについて検討されて居 の関連医療機関で不用にな たします。
った、或は 廃棄さ れる C
った。今回最後の圧巻は、 た。
日中医学交流センター
河野君(
北品川病院理事長)
の関連病院である、四日市 保健が実施されると聞き、 影機などございましたら、
平成七年十 一月十八日(土を
)う った。食足りて年輪を
れた。次いで、例によ って
告、 一段落したところで、
旧山岳部員五名が揃 ってい
午後五時半、卒後三十八年 経た風ぼうで各自近況を報
の三二会を 二十 二名が参集
足立信 一君司会のもと、
例のごとく、山口冨成君の
し開催された。
BGMに﹁
慈恵の歌﹂のテー
を組み ﹁曙満ちくる﹂を歌
プが流れる中に始ま った。
我々は十四名の物故者を出
し、現在六十七名である。
い、二次会は新館十 一階ス
カンツォーネ他の独唱とな
った。最後は輪にな って肩
一分間の黙祷の後、形成外
ターライトラウンジであ っ
卒業時八 十 一名 であ った
科教授児島忠雄君の大学現
し、乾杯の音頭はち ょうど
望月、真坂、小沢、寺井、
況報告、平成八年度の三二 た。来年の再会を期し、名
来日していたテキサス大学
(橋本敏雄記)
●結 婚 記 念 日に、レストランプル ニエの お食 事 券
士屋ホテルには正午過ぎに 場 ICで夕 食の弁当 を積
到着した。
前庭の鮮やかな紅葉と本 六時半頃無事東京駅前に帰
館のレト ロ調の重厚な外観 着、来年の再開を約して解
は、バスの疲れを忘れさせ
ニングルームは 一般客と同
てくれた。案内されたダイ
濃 尾平野 にまたが る木 開かれた。先日亡くなられ
かわいくもあり哀れであ っ しい同窓でいついつまでも
で、末永く付合いの継続を
た。時の流れで仕方がない 親 が同窓 であ ったよ しみ
が、慈台会の凋落は心痛の
戦後五十年、私共の年頃
いたり で、壊 滅間近 を知 切望する次第である。
る。
教授の萩野信義夫妻に御願
山口、橋本、
萩野夫妻であ っ
た。
出席者は藍沢(、
茂児
)島、
いした。
記念写真撮影後、立食パ
ーティーの料理に舌づ つみ
各 種 ご優 待 をご用 意 しております。
昭十四会箱根に遊ぶ
会 員 、家 族 と 遺 族 十 六 名 参 加
平 成七年 十 一月十五 日 り、高層建築も林立、ほん
(
水)午前九時半、東京駅 の瞥見ではあるが、湾岸開 席であ ったが、自宅から直
八重洲北 口に会員、家族と 発の進展が感じられた。バ 行して来た曽我部、本多両
で少憩後、横浜ベイブリ ッ 少し贅沢な昼食会が、和や
遺族計十六名が皆笑顔で集 スは大黒パーキングエリア 君を加えて、総員十八名の
合した。
その後ホテルの好意で、
さ っそく駅前待機のデラ ジ、横浜ICを経て東名高 かな雰囲気の中で約二時間
ックスバスで、レインボー 速、小田原厚木道路を 一路 続いた。
ブリ ッジを経由して湾岸道 箱根 へ向か った。当日は快
路に入 った。この間車窓の 晴に恵まれたので、西 へ行 開店時間前のバーの 一角に
左には、最近開通した無人 くほど、冠雪した見事な富 席を作 ってもらい、先ず吉
運転の ﹃ゆりかもめ﹄が走 士山の眺めを満喫した。富 見君が全員の集合写真を撮
り、各自の近況報告後、今
後の会の運営について話合
った。結局もう互いに八十
を越す年だから、来年から
旅行は止めようと云うこと
にな った。そして話は健康
維持のことから、最近の伊
丹君の著書 ﹃整形外科医が
処方 した予防 と治療の体
操﹄に及んだ時、伊丹君か
ら寄贈の申出があ ったが、
これを辞退して各自毎の注
文購入に決ま った。
再びバスで小涌谷から元
箱根に向かう間、車窓から 曽、長良、揖斐川の満々た た級友、大方政孝、遠藤香
見事な紅葉を鑑賞した。次 る河 口に挾まれ、伊勢湾を 苗両君のご冥福を祈 って黙
いで湘西道路に入り、右手 一眸の下に眺める長島温泉 祷を捧げ、例によ って松田
金
岱
に駒 ヶ岳、大涌谷の噴煙を の偉容を 誇る花水 木旅館 文太郎君の名口調、新幹事
望み、乙女峠を越え、御殿 で、十月八日、十 二月会が 近藤市雄君の挨拶と、今回
(
昭22) 黄
慈 恵 医 大 台 湾 同 窓 会 に 出席 し て
絶えて久しか った "
慈台
母校 の 一層の発展 を祈
り、台湾 へのより 一層の関
礼 予 約 係
■見 や す い2色 刷 り。使 い やす い コン パ ク ト版 。
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引
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治療薬マニュアル1996
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を収 録 。
■重 要 疾 患の 『
処 方 例』を巻 末付 録 に。
本
会"が、新会長廖應隆 (昭
2
0 ・台湾医学院名誉教授)
幹事楊東傑 (昭21 ・前馬階
病院副院長)両君の尽力で、
う。
患 って、体と言語の不自由 年先輩 (昭4)の九十五才、 さいわい、同窓諸兄は厳 の台湾留学生は全日本には
から中断となり、約十年開 黄主仁先輩 (
昭17)の九十 しい渡世で洗練された勇士 たくさんいるが、この年頃
催されないままにな ってい 才で健談、杖も不要の健脚 だけあ って、第二代の造り でいまだに同窓会の集いを
た。
は羨望の的だ った。最年少 も精功で素晴らしく、多数 耳にしたのは慈大以外には
集ま ったものは正会員九 で七十を遥かにこえ、さな の人材を輩出して世界各地 ない。慈大のよき伝統と克
平成七年十 一月十日台北の 名、準会員 (慈大で学位を がら老人の集いで、 一言も で活躍している。黄金江君
黄伯超(
昭 なく初めから慎しんで坐 っ は医学と物理学で二人のア
凱悦ホテルで再会された。 と った学外医師)
心を切望する。
処方に/看護に/説明に/添付文書情報をいつも手元に!
東京會舘
■1995年12月 まで の 新 規薬 価 収 載分 まで の主 要 薬
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■本書 の特 色
込)〒400
価4,944円(税
●B6頁1,376定
今 まで の 中で最 も出席 が 多 く二泊 三 日で楽 しむ
苦、勤学の慈大精神であろ
黄金江前会長 (昭12 ・元慈 34 ・台湾大学医学部々長) ているもの、何かを喋りた メリカの終身教授、黄主仁
恵医大小児科助教授 ・元台 外三名。その他黄金江夫人、 が っているが意志が通ぜず 君は医学で二人の教授等、
北医学院学長)が脳梗塞を 息子さんで、最年長は張暮 聴手を困らしているもの、 恐れ入 ったもので、皆頼も
卒 業38年 目の 三 二 会 を 開 催
●特 製 ウェディ
ングケーキご寄 贈
添付文書が大きく変わっています!
新時 代の”くすり”
の
データブック
毎年全面改訂
監 修=織 田 敏 次 ・高 久 史 麿
編 集=菊 池 方 利 ・北 原 光 夫
関
顕 ・松 枝 啓
レ トロ調 の 重 厚 な ホ テ ル に て 記 念 撮 影
催
伊 勢 路 で 十 二 月 会(昭16後)開
第494号
第 三 種郵 便物 認 可
聞
新
大
慈
成8年)1月25日
(13)1996年(平
昭
平成七年十月二十 一日、 つたいへん感銘深い講演で
慈大同窓会愛知支部総会が あ った。
少々無理があ ったと反省し 日迄の御努力に報いる為に
六〇㎞もあり、道路事情等 になる時勢ではあるが、北
昭24)前支部長の今
からみて週日の夜の開催は 山宏 (
北、県南両地区の距離は約 もすれば地方のあり方が気
山県 の地域特 性とし て県 画すること等があ った。と
十 一名とな っているが、岡
も良き支部である様に、全
中島 博次 (昭 31 ・東京 )
佐藤 二郎 (
昭 25専 ・東 京)
森文 雄 (昭21 専 ・広島 )
窪田 逸郎 (昭 22 ・静岡 )
関正弘 (昭8 ・新潟 )
佐藤 保信 (
昭 17 ・
神奈 川)
立枝 勝美 (
昭 16前 ・茨 城)
三瓶 信夫 (昭 17 ・東京 )
物 故 者 御 氏 名
ともあれ恒例の行事の後 員で支え合いたいと心を新
は大先輩の赤木雅夫 (昭16 たにした。
ている。
当日の出席者は写真前列
栗栖 良穂 (昭 24 ・東京 )
紀平 泰男 (昭 27 ・三重 )
前田 義徳 (昭 23 ・埼玉 )
大川 清 (昭6 ・東 京)
南雲今朝雄
諸川
薫
小田 泰治
岩田 正晴
坪田 修 二
益子
博
戸澤満智子
南雲 吉和
福地 益人
米本 恭三
渡辺禮次郎
有広 忠雅
川田 忠良
岩澤
章
渡辺 盛雄
大畑
元
貞夫
道彦
純子
健夫
和彦
弘二
赤羽 紀武
森田
一
岡部 紀正
衛藤 義勝
高橋紀久雄
原
松井
富井
須田
落合
山崎
慈恵俳壇
ご用 命 をお 待 ち申 しあ げてお ります。
東 京 慈 恵 会 医 科 大 学担 当
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京 都 新 宿 区 歌 舞 伎 町2-16-9TEL.(03)3205-8611(大
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京、東 関東 、近 畿、神 奈川 、東北 、東 海、北海 道、中国 、九州、北関 東
代 表)
催した。同窓会名簿によれ 年に亘り大変お世話にな っ
ば岡山支部在籍の会員は三 ている川 崎医大斎 藤泰 一
後)
、鴨井昭夫 (昭17)、杉
戸栗 栄三 (昭19 ・神奈 川)
(昭30)教授の謝恩会を計
生正直 (
昭21)先輩のお話 左より橋本浩 (
昭29)、杉
しなどお聞きしながら楽し 生正直、赤木雅夫、鴨井昭
柳田 昌彦 (昭16前 ・埼 玉)
野村胤 慈 (昭2
2・三 重)
い 一刻を過ごした。当日の 夫、
後列左より景山浩次(
昭
沢田 幸矣 (昭 26 ・
北海 道)
冨樫 外喜 雄(準 昭32 石川)
あと、最長老の花岡信男先
輩の音頭で乾杯した。大野
教授から母校の現況をお話
しいただき、新しい改革な
どについても言及され、母
校の更なる発展に 一同意を
強くした。歓談にうつり、
先輩後輩たがいに親睦を深
め、秋の夜長を時間の経つ
のも忘れ、貴重な 一時を過
る
ごした。最後に副支部長の
岩国 村井 一露
半田君の閉会の辞があ って 初凪の浦曲に蜑等火を焚け
九時にお開きとな った。
出席者は忽滑谷、村上、 山の旭が殺到し来る干布団
半田、久保田、赤司、近藤、 逢曳を許し鳴き去る浜千鳥
大木、鈴木、長村、野木村、
蠣かな
斉藤、奥山、黒坂、亀田、
岡山 藤本剛平
花岡、中川、鈴木、関口、 父の齢をこえて今年の酢牡
幸であ った。
(幸総男記) 冠に田鳧の威儀や大旦
ご婚 礼 、ご宴 会 、 ご宿 泊 、ご会 食 、出 張 宴 会 の
事 の熱誠あふ れるリー ド
で、第 一学生歌を斉唱し散
会した。
出席者は加藤敏夫 (昭16
前)原田遼 二 (昭19)飯田
昌春 (昭23)山田広道 ・岡
本厳(昭24)藤本和男(
昭25)
河辺寿太郎 ・須知仁(
昭28)
(昭33)近藤正人 (昭34)
宍戸量 一 (昭30)市川博之
満田健 一郎 ・佐藤椙子 (昭
41)曽爾彊 (昭46)竹内義
則(昭47)田中誠 ・伊東央 ・
吉村倫子 (昭48)川瀬治通
話題としては支部会員関連 52)
、平塚仁 (昭39)、杉山
、佐藤義弘(昭45)
、
の冠婚葬祭は勿論のこと、 守(昭50)
(
橋本浩記)
平素から会員同志の情報交 笠井裕 (昭57)。
換を密にすること、また長
﹁悪性腫瘍の遺伝子治療に
見をよせていただきま
した。御一読いただけ
国 、 新 潟 、 川 崎 、 甲府 、 沖 縄
営 業 所:四
(昭49)岩田忠俊 ・加藤文
明 ・藤原誠治 (昭52)加藤
享嗣 (昭53)南波史子 ・加
去る十 一月十五日(、
木岡
) において、九名の会員の出
飯住英幸 (昭63)奈良支部
(
昭51)布施隆治 (
昭54)
(宍戸旦
呈 記) 山駅前﹁ホテルグランビア﹂ 席のもと岡山支部総会を開
藤京子 (昭62)
京滋奈支部総会開催
−寒川正明 (昭16前)京都
支部-尾野成治 (昭22)高
支部長交代の議事が上程 橋浩昭 (昭24)南雲吉和 (
昭
平成七年十 一月十 一日、 演を受けた。
京都の新都ホテルに於いて
名鉄グランドホテルで開催
懇親会は佐藤椙子理事の 総会を開催した。京大、府 され、次期支部長に高橋浩 27)三浦宏之 (昭44)大前
された。飯田昌春監事の開 司会で、テーブル料理を楽 立医大へ勤務の先生など若 昭君 (昭24)が、また学術 隆 (昭46)津端次郎 (昭51)
会の辞に始まり、伊東央理 しみながら行われた。話題 い先生方の出席が多く、従 連絡委員に大前隆君(昭46) 桝田出 (昭55)小澤 一史 (
昭
事の司会で河辺寿太郎支部 は出席者を増やすにはどう 来の総会とは雰囲気が 一変 が全員 一致で推挙 ・承認さ 59)石川匡洋 (平元)地域
長の挨拶があり、先年度物 したらよいかという問題に した。昭16後卒の寒川正明 れた。
外-梅垣健三 (昭21)浅生
当日の出席者は滋賀支部 幸郎 (昭23)。以上夫人を
ジ ックの音が聞こえ、ネオ イドにより理論、治療、機
ンと共に秋の夜をあたため 械等の御教示をうけ、数々
の質問もあり有意義な勉強
そんな渋谷駅前摩天楼で 会であ った。恒例の懇親会
てくれる。
十 一月十六日、渋谷支部総 にうつり、おいしい中華料
平成七年十月七日(午
土後
)
間に物故された二名の方々 先生方も感動をうけた様子 れた。
かれ、新しい研究のあらま の御発展となることを
に黙祷をささげ、その後支 であ った。九時半まで宴は
初めにこの 一年間に逝去 しをよく御教示された。普 編集委員 一同、御祈念
し上げております。
本
設 計 ・施 工
空 気調和 設備工 事
給排 水衛 生設備 工事
電 気設備 工事
その他環 境技術
大成設備株式会社
卓
員
委
編
部長会議報告、会計報告を 続き、記念撮影後散会をし された松尾龍三君、横山寿 段の我々の診療のはるか先 申し上げます。
ればと思います。
すませ、形成外科児島忠雄 た。出席者は内村、村上、 郎君、安井輝雄君に黙祷を に明るい未来があり、 一同 ★新春第一号には、岡
★本年も同窓各位の貴
教授による学術講演を拝聴 鈴木(、
重中
)村、 一宮、児島、 ささげた。本年度の新入会 深い感銘をうけた。更なる 村学長、
諸川同窓会長、
重な御意見また御経験
した。
鈴木(、
振久
)保、菊池、横山、 員は長村好章君 (昭44)で 発展を祈念してやまない。 酒井病院長、大橋父兄
など、数の御投稿を編
つづ いて懇 親会にう つ 会長より年頭の御挨拶をい 集委員 一同心よりお待ち申
あ った。続いて本学微生物
空 気 ・水 ・光 の快適環境をクリエイト
ダイヤルイン(03
)3224-6600
同
春
一
頒
集
めか、やや出席率が悪か っ に雑談の中、耳鼻科内村(昭 五時より、池袋のホテル ・ むけて﹂と題する講演を拝 ★新年明けましておめでと ★恒例の炉辺談話には、四
たが、支部旗をかかげ総会
メト ロポリタンに於いて豊 聴した。先生は最先端の学 うございます。本年も同窓
十
名
の方々より、多種多様
12
)
先
輩
の
戦
時
中
、
特
に
ソ
を開催した。先ずこの 一年 連抑留時の苦労話に、若い 島 ・練馬支部総会が開催さ 問をわかりやすく明快に説 の先生方にはますます
な興味深いお話、御意
会が開かれた。平日夜のた 理で美酒をくみ交した。特
大野典也教授 よ り最先端 の講演 を拝聴
岡 山支部 総 会 を開催 す
(鈴木(記
重)
) 学第1の大 野典也教 授の り、忽滑谷支部長の挨拶の ただきました。
この分野は特に著しい進 塩崎、河野、真鍋。
〒105東 京都 港区虎 ノ門2-10-4℡(03)3582-Ol11
故会員竹内恒正、
落合英樹、 集中、全員から建設的な案 先輩をはじめ出席者総数 二
児島忠雄教授 による学術講演
山本芳忠、林春雄、志水圭 が発言され、和気あいあい 十 一名。同窓会本部より派 -光吉長典 (昭19)・夫人、 含め二十 一名の出席であ っ
二君への黙祷の後、田中誠 のうちに時間が経 つのを忘 遣の渡辺豊客員教授から、 仁木偉瑳夫 (昭22)・夫人、 た。
会計理事の会計報告、平成 れる程であ った。伊東央理 ﹁内視鏡による手術﹂の講 樋口富彦 (
昭41)山岡 一衛 (仁木偉瑳夫 ・高橋浩昭記)
七年四月八日日本医学会総
会の際に慈大同窓会を開い
たことなどが報告され、又
来年度は総会を三河で行う
ことが岡本厳監事から提案
された。
続 いて講 演会が 行われ
た。司会は須知仁学術担当
理事、演者は柏病院総合内
科渡辺禮次郎教授で、演題
は ﹁脳血管障害の病態の変
貌﹂であ った。多数のスラ
イドを使用され、CT ・M
RI等の最近の進歩した画
像診断をわかり易く説明さ
れた。とくに脳梗塞の診断、
治療について詳しく述べら
渋谷支部総会 を開催
あち こち で話 声笑 声で 一杯
クラ
ー
オ
ル
テ
ホ
愛知支部総会 を盛大 に開催す
れ、我々にと って有意義か だ。多くの若者達が往来し、 だ。 どこ かで ロ ックミ ュー 歩発達を示し、数々のスラ
夕方の渋谷はたのしい街
編集局 だよ り
辻
国内セールス課
豊島・練馬支部総会を開催す
成8年)1月25日(14)
1996年(平
聞
新
大
慈
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