宮城教 育大 学附 属図書 館 児童 図書 リーフ レッ ト カムパネルラ ♪ ♭ ♯ ♪ ♪ ∼カムパネルラとは∼ 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でジョバンニと旅 をする友人なのは言うまでもありません。絵本 が開く異世界への道案内人としての意味を込め たものです。 ♪ Vol.16 2010 年 5 月号 ■ パ ムケ ロシ リーズ の楽 しみ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・ ・・・ 遠藤 仁 ■ か くれ んぼ 博 ■ 大 好き な絵 本の感 動を 伝え る授 業・・ ・・ ・・・ ・・ ・・ ・・・ 武山 幸 一郎 ■ 「 ごめ んね 」の言 える こと の大 切さを 教え てくれ るこ の一 冊・・ 気田 真 由子 ■ 新 刊紹 介・ ・・・ ・・ ・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・ ・・・ 藤田 博 ■ ・ ・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・ ・・・ 藤田 パムケロシリーズの楽しみ 遠藤 仁 カナダ 在住の 絵本作 家島 田ゆか 氏の 手にな るバム ケロシ リーズ は、犬 のバ ムとか える のケロ が織り なす 愉快な 物語で す。描 き込 まれた 絵と シック な色使 いは大 人をも 魅了し ます 。ちょ っと 値は張 ります が、既 刊六冊が セッ トにな った〈 バムと ケロ のなか また ち〉がお 勧め です。 さて、第 一作 の『バ ムとケ ロのに ちよ うび 』をち ょっとご 紹介 しまし ょう。 雨の日曜日、外で遊べないバムは、仕方なく本を読んで過ごすことにしま した。ところが、ケロがあまりに部屋を汚していたため、まずは掃除から始 めること にし ました 。散 らかっ た部屋 がよう やく きれいに なっ たと思 いきや 、 外から泥だらけのケロが帰ってきて台無しです。ケロを風呂に入れた後、お やつのドーナツを作り、本を探しに屋根裏部屋に上がりますが、無事に本が 読めるようになるまでには、まだまだ波乱が待ち受けています。ストーリー は単純 ですが 、この 絵本 の最大 の面 白さは 、なん といっ ても表 紙や本 文に 描きこ まれ た絵に さまざ まな仕 掛けが 施され ている こと です。 たと えば、 部屋に 飾られ た額の 絵は、 出て くるた びに 微妙に どこか が異な ってい たり、 山のよ うに 盛られ たド ーナツ には、 一つだ け形の 異なる もの が混じ って いたり します 。表紙 では雨 が降っ ていま すが 、さて 裏表 紙はど うでし ょう。 表紙と 裏表紙 の額 の絵は 、ど こか違 ってい ません か? よほど 注意深 く見 ないと 気付 かない 仕掛け もあり 、絵本 を開く たび に新た な発 見があ って驚 かされ ます。 絵本 の絵は 、単に 文章 の理解 を助 ける補 佐役と 思われ がちで すが、 決し てそう では ありま せん。 特に、 このシ リーズ では本 文中 で語ら れる ことの ないサ ブスト ーリー が展開 して おり、 それ を子ど もと同 じ目線 で発見 する楽 しみが あり ます。 絵の 発信す る情報 は、往 々にし て大人 は見 逃しが ちで すが、 なぜか 子ども は目ざ とく見 つけて いる もので す。 無意識 のうち にも、 大人は 、文章 から 得られ る情 報に強 く依存 した言 語生活 に慣ら されて いる のでし ょう 。そう いった 意味で も、セ ンスの よい 絵は、 私た ちに豊 かな癒 しの時 間を与え てく れます 。 本シリー ズの 作家島 田ゆか 氏は 、自 身のH P(http://www.bamkero.com/)を立 ち上げ てい るほか 、版 元 の文溪堂 HP にも「バ ムケロ information」とい う特設ペ ージ が用意 されて います 。双方 とも絵 が 美しく、 バムケロ シリ ーズを 楽しむ ための 情報 があふ れて います。 ※「バ ムと ケロ のにち よう び 」島田 ゆか作 ・絵 /文溪 堂 (初等教 育教 員養成 課程子 ども文 化コ ース) 1 ■ かくれんぼ 藤田 博 かくれんぼの始まりは、じゃんけんでおにを決めること。おにになって百数える、振り向くと誰もいない、別世 界に入り込んだような気分を味わうそこに、かくれんぼの魅力はあると言えます。 五味太郎作・絵『かくれんぼ かくれんぼ』(偕成社)の始まりは、ねずみのかくれんぼ です。ねずみは、干し草の陰に隠れます。干し草と思ったものは、隠れているきつねでした。 「きみも かくれんぼ してるの?ぼくも かくれんぼ してるんだ。」そのきつねが、こ の木の陰にと思って隠れたものは、隠れているかばでした。 「きみたちも かくれんぼかい? ぼくも かくれんぼ してるんだ。」そのかばが、この岩の陰にと思って隠れたものは、隠 れているぞうでした。「みんな かくれんぼ しているの?わたしも かくれんぼ してい るの。」ぞうが、この山の陰にと思ったものはおにだったのです。 おにがおに役のおにに見つかり、どいてしまったことで、ぞうが見つかり、ぞうがどいて しまったことで、かばが見つかり、 ・・・ねずみが見つかってしまいます。いつの間にか、おにが、ぞうが、かばが、 きつねが、ねずみが、それぞれにかくれんぼをしていたのです。その後、今度は一緒になってかくれんぼをしたに 違いないと思われるのは、遊びとしてのかくれんぼが、大きさの違いも、強さの違いもない、水平の世界をつくり 出すものだからです。 末吉暁子作・林 明子絵『もりのかくれんぼう』(偕成社)は、角を曲がり、いつもと は違う道を行く兄、その後を追いかけるけいこに始まります。けいこが生垣の向こう側に 出ると、「みたこともない おおきな もりの いりぐちに たってい」るのです。木の 枝を思わせる男の子、 「もりのかくれんぼ」が、 「もりの なかまたちと、かくれんぼしな いかい」と誘います。おにになったくまに見つからないよう、息を殺してじっとしていま す。いつまでも見つかりたくない、それでいて早く見つかればいい、かくれんぼ特有のそ の気持ちを味わうけいこの耳に、 「こんな ところで なに やってだよ、おまえ」 、兄の 声が聞こえてきます。 森でのかくれんぼは夢だったのでしょうか。けいこの手には木の枝が握られています。ということは、まちがい なく森に入ったということ、ただしそれは、 「かくれんぼが したくて たまらなかったのに」とのけいこの思いが 見せた夢と考えられるのです。生垣をくぐる時、スカートが小枝にひっかかってしまったことが思い出されます。 小枝をつかんだその時、夢の世界に入った、小枝が「もりのかくれんぼ」になったのかもしれません。「この だん ちが できる まえは、でっかい もりだったんだよ」、兄のこのことばには、かくれんぼとは、場所の移動を伴わ ないタイムスリップであることが示されているのです。 マリー・ホール・エッツ文・絵・まさきるりこ訳『もりのなか』 (福音館書店)の「ぼ く」は、「かみの ぼうしを かぶり、あたらしい らっぱを もって、もりへ、さん ぽにでかけま」す。紙のかぶとをかぶり、らっぱを吹き鳴らすのは、非日常世界に入る ための合図。そうして入っていくのが森であるのは、森が特別な空間の象徴であること を考えれば必然的と言えます。森の中では、ライオンが、ぞうが、くまが、カンガルー が、こうのとりが、 「ぼく」の後についてきます。 「ぎょうれつだ!ぎょうれつだ!」と 叫んで、さるが加わります。最後はうさぎです。うさぎが列の後ろにつかず、「ぼく」のすぐ後を行進していくのは 何故でしょうか。その問い掛けへの答えは、 「はんかちおとし」や「ろんどんばしおちた」では一緒に遊んでいたう さぎが、かくれんぼをしているときには、 「かくれないで、じっと すわっていました」が教えてくれています。狡 猾とされ、覚めているとされるうさぎは、夢の世界と現実世界の境目に立つ、それ故に隠れることがないのです。 ライオンも、ぞうも、くまも、・・・そしてうさぎもいなくなり、代わりに父が姿を見せます。父の登場が「ぼく」 の夢の終わりを告げているのです。 森とかくれんぼ、夢とかくれんぼは深くつながっています。 『もりのかくれんぼう』と同じ、森の中、夢の中での かくれんぼになっていることからもそれがわかります。最初に夢、夢の中に森、その森の中でのかくれんぼ。とす れば、かくれんぼの終わりは、森から出ること、森から出ることは夢から覚めることになるのです。 ※「かくれんぼ かくれんぼ」五味太郎作・絵/偕成社 ※「もりのかくれんぼう」末吉暁子作・林 明子絵/偕成社 ※「もりのなか」マリー・ホール・エッツ文・絵・まさきるりこ訳/福音館書店 (英語教育講座) 2 ■ 大好きな絵本の感動を伝える授業 武山 幸一郎 学生時代、大人になって初めて買った絵本が佐野洋子作・絵『100万回生きたねこ』でした。 物語は、 「100万年も す。りっぱな のねこが しなない ねこがいました。100万回も とらねこでした。100万人の しんだ とき 人が、そのねこを なきました。ねこは、1回も しんで、100万回も かわいがり、100万人の 生きたので 人が、そ なきませんでした。」という文章から始まります。 ねこは、ある時は「王様のねこ」、またある時は、 「船乗りのねこ」、 「サーカス の手品使いのねこ」といろいろな人に飼われながら生きていきます。ねこを飼っ た人たちは自分なりのかわいがり方でねこをそばにおいておきます。しかし、ね こはある日、死んでしまいます。戦争で飛んできた矢に当たったり、船から落ち ておぼれたり、手品師に間違えてまっぷたつにされたりしてしまいます。どの飼 い主も死んだねこを抱いて大声で泣きました。それだけ、ねこのことを大事な存 在に考えていたのです。しかし、ねこはまた生き返ります。そして別の飼い主の ねこになります。ねこは死ぬことなど平気でした。 ねこは、ある時「のらねこ」になりました。自分自身で考えて、自分の人生を生き始めるのです。そんな 中で一匹のきれいな白いねこに出会います。ねこは、白いねこの気を引くためにいろいろな自慢を始めます。 白いねこは、「そう。」と言ったきりで関心を示しません。ねこは、「そばに いても いいかい。」と問いか けます。白いねこは「ええ。」と答えます。ねこは初めて自分から誰かを好きになったのです。ねこにはたく さんの子猫ができました。大切に思う存在、自分よりも大事なものが増えていきます。子どもが大きくなり、 幸せにくらしていたある日、白いねこが静かに死んでしまいます。ねこは100万回泣き続け、そして死ん でしまうのです。物語は「ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。」という文章で終わります。 私が大好きなこの物語を、4年生の道徳の授業で実践した教師がいます。物語を子どもたちに読み聞かせ た後に、挿絵を使って順に振り返らせ、そのときのねこの気持ちを考えさせます。そして、このような問い を子どもたちに投げかけます。 「ねこは、幸せだったのだろうか。」 子どもたちの意見は、二つに分かれます。 「白いねこが死んだから、ねこは幸せではないと思う。」 「100 万回も泣き続けるくらい悲しかったので、ねこは幸せではないと思う。」という意見です。もう一つは、「白 いねこや子ねこと暮らせて幸せだったと思う。」という意見です。二つの意見の対立が生まれ、子どもたちは、 どちらかの意見の側に立ち、自分の考えを話し始めます。 話し合いが進むにつれて子どもたちは、「ねこはもう、けっして生きかえりませんでした。」という最後の 文章に着目し始めます。そして、「なぜ、ねこはもう生きかえらなかったのか。」という理由を考え始めるの です。「今までのねこは、飼われているだけで、自分で生きていなかった。」「ただ生きているだけだった。」 「白ねこと出会って、初めて自分よりも大事なものができた。」「ねこは、一生懸命に生きたから、もう生き かえらなかったと思う。」「ねこは幸せに生きたから、もう生きかえらなかったと思う。」 最後の感想では、ねこの今までの人生を振り返り、幸せだったと考える子どもが増えてきます。もちろん、 幸せではなかったと考える子どももいます。それはそれでよい考えだと思います。大事なのは、ねこの気持 ちになり考えることだからです。子どもたちが、白ねこを愛したねこ、自分よりも大切な存在に出会ったね この気持ちをしっかりと受け止められた授業であったと思います。 自分の大好きな物語で行われた授業を参観し、絵本を手に取ったころの感動を子どもたちに素直に伝えら れるすばらしさを感じました。自分自身が感じた感動を伝えることも、教師の大事な役割です。私自身も、 大好きな絵本を使った道徳の授業を考え、実践したいと思います。その時のために、たくさんの絵本と出会 うことが大切ですね。 ※「100万回生きたねこ」佐野洋子作・絵/講談社 (附属小学校教諭) 3 ■ 「ごめんね」の言えることの大切さを教えてくれるこの一冊 内田麟太郎・作/降矢なな・絵『ごめんねともだち』 (偕成社) 気田 真由子 「 『また、また、かっちゃった』キツネは わらいが とまりません。 」キツネとオオカミの競い合い、キツネは5回も連続 して勝っているのです。我慢できなくなったオオカミは、キツネに向かって、 「そうだ、おまえが ズルしたからに ちがい ない!」と言ってキツネの座っていたイスをけとばし、家から追い出します。 「いしも ながされている どしゃぶりなの に・・・」です。 キツネが出て行った後、オオカミはしょげ込んでしまいます。 「お、おれの いいすぎだった。あ いつは いんちきなんか ぜったい していない」それはオオカミが、誰れよりよく知っていたこ となのです。負けて悔しくて、気がついたら叫んでしまっていたのです。 次の日、オオカミは散歩に出かけます。キツネに会えたら、 「ごめんな」って謝るつもりだったの です。けれど、いざキツネに会うと、言えません。キツネもオオカミに声をかけたかったのに、つ いそっぽを向いてしまいます。また次の日も、二人は原っぱで。 「ごめん」の一言が言えないのです。 三日目。二人は、いつも一緒に遊んでいる大きな木を背にうつむいています。オオカミはさびし くて爪を噛みます。 ( 「ごめん」も いえないなんて。わるいのは おれなのに。 )こらえ切れなくな ったキツネは、涙をこぼします。 (いやだよ、いやだよ。オオカミさんと これっきりに なるなんて・・・・)涙がアリの 上に落ちます。アリはずぶぬれです。キツネはあわててアリにあやまります。 「ごめんなさい」 それを聞いたオオカミが、木の向こうから飛び出します。 「ごめんは こっちだ。おまえは ちっとも ちっとも わるく ないぞ!」キツネをぎゅっと抱きしめたオオカミは、何度もほおずりしたのです。 「ごめん」の一言が言えないもどかしさ、誰もが経験したことがあるに違いありません。なかなか言い出せないその一言は、 ほんの小さなきっかけでぽつりとこぼれ出るものです。教師という職業を目指して前に進んでいる今、この本を読んで、子ど もたちに「ごめん」を言うことの大切さを教えられる教師になりたいと思いました。 (英語コミュニケーションコース4年) ■ 新刊紹介 フランシス・ホジソン・バーネット作/中村妙子訳『消えた王子(上・下) 』 (岩波少年文庫) サマヴィアという小さな国、国を二分しての確執がつづく中、 「サマヴィアの希望の星」王子イヴォールが姿を消します。 以来500年、王子が帰還する「その日」をひたすら待ちつづけるのです。国を逃れて地下に潜み、待ちつづける人も、そし て王子その人も、何代にも渡って代替わりしているのは言うまでもありません。それだけ、 「その日」に懸ける思いは厚く、 重く積み重なっていることになります。 マルコの目の前にいる父ロリスタン、その父が王子であるのは読者には最初からわかっています。 ロリスタンがいつ王子であるのを明かすのか、待つのは読者も同じということです。バーネットのよ く知られた作品二つ、 『小公子』のセドリック、 『小公女』のセーラの待つことが想起されます。わか っている答えが実現される、 「その時」を待つのです。 『秘密の花園』も同じです。 「秘密の花園」は、 メアリによって開かれる、 「その時」を待っているのです。 物語前半は「ゲーム」です。マルコの友人、台車で動き回る不自由な体のラットが指揮する、軍事 訓練という名のゲームが、物語後半の旅に生きてきます。 「昼間見たものをどれだけ記憶して正確に表 現できるか、夜、父親にためしてもらう」 、マルコが発明したゲームもあります。ゲームを通して培っ たものが、マルコとラットの長い旅に生きるのです。積み上げられた待つ思いが、満を持してはき出 されるのです。 二人は「合図の伝達者」としての旅に出ます。王子が帰還する「その日」がやって来たことを伝える暗号、 「ランプがとも った」を知らせて歩くのです。その中の一人、高い山の頂近くに住む老女に伝えたときのこと、 「つぎの瞬間、彼女は深く腰 をかがめた。信仰のあつい農民が祭壇の前でひざを折るようにうやうやしく。 」この後も次々とランプをともして歩きます。 知らせの届くのを待ちつづけながら死んだ人、数え切れないそうした人の無念の思いに灯をともして歩くのです。長い旅を終 え、戻ってきたマルコを最後に待っているのは父との再会です。 「なんということだろう。国王の目、それは別れて以来、マ ルコがふたたび見つめたいと切にあこがれてきた、なつかしい父親の目だったのだ。 」 (藤田 博) 発行:宮城教育大学附属図書館 4
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