小説『教育者』の考証

小説『教育者』の考証
広 田 清 一
はじめに
小説『教育者』は主人公坂本龍之輔の教え子である添田知道が、昭和 17 年
(1942)から 18 年にかけて書きおろした単行本をもって世に問われた三部三巻約
1800 枚におよぶ力作である。
この作品は昭和 18 年(1943)4 月に新潮社大衆文芸賞をうけた。第一部「坂本龍之
輔」・第二部「村落校長記」・第三部「荊の門」、総題が「教育者」である。内容は昭和
18 年(1943)3 月 26 日 72 歳で他界した坂本の半生を取材したものである。
今まで幻の本としてなかなか手に入らなかったが、昭和 53 年 4 月玉川大学出版部
より第四部「どぶどろの子ら」もあわせ全巻が復刊された。
発刊当時の広告文にこの本を次のように紹介している。
坂本龍之輔が師範学校を出るとすぐに武州の山奥の習文学校長に任命され単身赴
任する……そこで彼を迎えたものは何か、教育に対する村当局の無理解、父兄の
無関心である。……子どもへの愛と創意工夫で山村に教育の新風が大いに興った。
彼はその後望まれて南村開蒙小学枚に赴任し、後に東京下谷の万年小学校(貧民
学校)の創立に当ったが彼の行くところ必ず風雲が巻き起こり校風は刷新した。
本書は一代の名教育者と謳われた坂本龍之輔の人間と業蹟を描き人々に感激と勇
気を与える書である。
大づかみに言えばだいたいこんなところであるが、中でも万年小学校における貧
民の教育が光っている。
私がこの小説で特に取り上げたのは、主として明治 20 年代から 30 年代のはじめ
にかけての三多摩・相模野を背景とする村落校長時代である。それは坂本龍之輔
が校長として歴任した渋谷小学校(現大和市立渋谷小学校)及び開朦小学校(現町
田市立南第一小学校)が、私にとって身近なものであるからである。すなわち、渋谷
小学校が昭和 43 年に設立七○周年記念行事を行ったとき、集められた坂本に関す
る資料を見て、彼の偉大さに感激したからである。また私は、昭和 46 年新設の大和
市立つきみ野中学校に転任したが、この学校の学区である公所・山谷・宿などがか
つて開朦小学校学区で、坂本の教えを受けた人たちから坂本がこの学校で体当たり
で教育をした情熱を聞かされ、坂本が私にとっていよいよ身近な存在となったからで
ある。なお、これらの人々は現在八○歳を超えた高齢者である。
ある人物の思想や行動を明らかにするための最も確かな方法は、本人から直接聞
くことであるが、小説『教育者』は著者が本人から聞いたことをまとめ、さらに各地域
へ出かけて行って資料を集めたとのことであるから、史実としても確かなものである。
しかし広告文にもあるように「人々に感激と勇気を呼びおこすためのもの」である故
に、多分に粉飾や誇張があることはいうまでもない。
そこで、私は坂本が村落校長時代の教育行政・教育界の動向・地域の教育事情等
を調べ、彼の思想や行動を読みなおして、作品の見えない部分をとらえようと考えた。
これが、これから述べる小説『教育者』の考証の態度である。
ここで取り上げた内容は「飛び級」ほか一九項目に及ぶが、これらのものは教育内
容の国家統制・教育費の町村負担の窮状・教職神聖論の定着・実業教育の振興・学
校と政争などのことで、明治の教育制度の確立までには曲折があったことを知る手
がかりともなると思う。
飛び級
◇ 明治九年村の共和小学校に入学した。これは、日本に学制が布かれた、その最
初の制度の時であった。尋常小学を、上等・下等に分かち、各等八級四年、一学級
が六か月、即ち下等八級に入学、累進して一級に至ると、上等八級に進むのであ
る。
当時は能力次第で、「飛び級」といわれた飛躍進級のことがあった。龍之輔も後に飛
んだが、兄の久之輔は三段飛びをやって郡内の話題になっていた。
(第一部 第一章 もやしの如く ―西秋留村―)
明治 9 年 11 月 18 日県令により示された小学定則「生徒試験法」によると、この試
験は学校のみで行うのではなく、いくつかの学校の生徒を集めて行った。坂本の兄
が「三段飛び」をやって話題になったのもこのためである。
安田新造は「飛び級」について本文と同じようなことを述べている。
其の当時学齢超過の者多数ありしため、一度に自分の級のみでなく、其の上の級
の試験も受けたことがある。私も下等七級・下等六級と下等二級・下等一級の試験
を同時に受けたことがある。而して其の試験は厳格であったため、落第生も少なか
らず……受験生は容易ならぬ苦心をしたものである(1)。
このような制度は、当時学齢超過の者が多かったための一つの措置であると同時
に、秀才児に対する奨励も含まれていた。坂本兄弟は後者に当たる。その後、県か
ら「猥リニ昇級ヲ欲シ、現科業ニ怠ラザル様」との督令がだされている。そしてその具
体的措置として、授業法の中に読物、算術などとならんで「諸科温習」という時間を
設けて「従前学ビシモノヲ挙テ復習セシム」とした。このことにより各級では「飛び級」
よりも理解・習熟がたいせつであるとすることが強調されたのである。
一方教育会でもこの問題を取り上げ、明治 21 年 12 月鎌倉郡教育会において「生
徒冒進の矯正法」という議題が討議された。「冒進」とは「向こう見ずに」進むというこ
とで、「飛び級」のことである。
連合試験
◇ 連合試験には、郡役所から学務係が出張して、その詮衡による管掌教員が二人
試験にあたるのである。各校が勝手にやるのではなく、郡内小学校が悉く揃って総
決算をやるのであるから、これは、各生徒の成績考査であるばかりでなく、同時に、
学校の業績考査ともなるわけである。そのために、結果が思わしくないと、生徒ら自
身よりもその校長が悄然となるというような奇現象もみられたのである。おかしな話
だが、校長が、他郡へ試験問題をぬすみに行ったりするようなことさえあった。校長
のカンニングである。龍之輔はその事を校長から命じられて、はたと弱った。「いやだ
なあ」師命に反くことと、不正への厭悪と、その煩悶の裡に、時が過ぎてくれて辛くも
助かったのだが。
(第一部 第一章 もやしの如く ―西秋留村―)
明治 12 年 9 月に県令野村靖より小学試験法概則が公布された。
それによると、「試験ヲ分ツテ小試験・定期試験・大試験の三種ニ分ツ」とあり、小
試験は自校で行い、定期試験・大試験は学務委員・師範学枚教員が所管して卒業
の認定及び優等賞授与の選考の一助とした。このことは当時の卒業証書には学校
印のほか神奈川県師範学校の押印があったことでもわかる。
明治 15 年 9 月 7 日高座郡長より各町村・学務委員・小学校への令達では「小学校
生徒試験場の位置・日割等のこと」との標題のもとに、その具体的な場所・日割が示
され、それによると、試験組合校五三校・試験場所六か所・日割三三日・受験生徒数
四七四三人.学校数九六となっていて、実に大規模なものである。渋谷村の例をとっ
てみると、明治 18 年 4 月 9 日高座郡長より学務委員あての令達で、高倉村外一〇
か村を対象に長明学校において同年 4 月 29 日より 5 月 2 日まで実施するようにな
っている。本文の連合試験はこのことを指しているので、試験実施期間が異なるた
め、校長のカンニングもあるいは可能であったかも知れない。
さらに、各学校の生徒及び教員の神経を刺激したものに「比較試験制度」があった。
これが制定されたのは、明治 16 年 12 月で、その令達には次のように示されている。
◎各小学校生徒ヲ撰抜シ便宜会合試験シテ其学力ノ優劣ヲ比較スルモノトス。
◎毎試験後受験生徒ノ優劣ヲ製シ管内各小学校へ公告ス。
◎郡区長之二参席スべシ。
この制度は翌 17 年より県下いっせいに実施された。これは明らかに学校の業績考
査で、校長にとってはなかなか手厳しい試練の場であった。この試験制度は 19 年こ
ろが最盛期で、25 年 3 月には廃止されている。なお、公示の方法は奨励の意味もあ
って、校名・生徒氏名・父兄の職業・身分・姓名を連ねてこれを印刷し公示したことも
あった。
現在のテストブームにさらに輪をかけたようなもので、このような制度のもとでは自
ら知識偏重の教育になり、その教授法はあくまで詰め込み教育にならざるを得なか
った。
なお、神奈川県告示・令達等はいずれも『神奈川県教育史』によった。
代用教員時代
龍之輔は明治 15 年共和学校(現秋川市立西秋留小学校)の中等(後の尋常科六
学年)を終ったとき、抜てきされて高等科に学びながら母校の教壇に立った。代用教
員であるが制度的には「村立小学校補助員」である。明治 20 年 5 月の授業生試験
(2)、さらには明治 20 年 10 月師範学校の入学試験を受けるまでの五年間母校にい
た。
この間の教員生活については、先に述べた校長に連合試験のカンニングを命ぜら
れたこと、隣村の下田先生宅まで夜学に通っているうちにリウマチスで寝込んだぐら
いで、教壇生活や地域とのかかわりは記されていない。
西秋留小学校沿革史によると、
……当時茲ニ師タルモノ疋田浩四郎(明治九年三月着任)ヲ始メ白鳥(明治十二年
七月着任)等二、三助手アルノミ、生徒モ又百ヲ出テス、此境遇二於テ尚本校ノタメ
ニ不運ナリシハ職員ノ交換頻繁ナリシコトナリ、即チ疋田氏ノ戸倉学校二転任スル
ヤ永キモノ一年或ハ半年或ハ月余ニシテ教員交換シ人皆教育二意ヲ留メス教師ノ
信用地ニ落テ……
この記録の内容は龍之輔の教員生活の時代である。教育環境が最悪であったこと
は、このほかに学校分離の紛争(明治 13 年)の後遺症が村内にみなぎっていたこと
でもわかる。 一方、教育界における明治の教育史上特筆すべきことが次々とこの
地にも波及してきた。それは、明治 14 年文部卿福岡孝俤によって小学校教員心得
が布達され、教員の政治活動参加が禁止されたこと。明治 15 年の集会条例・箝口
令などの制定である。
三多摩地方を中心とした自由民権運動が最高潮であったのは明治 14 年から翌年
にかけてである。なかでも当時坂本が奉職していた共和学校より西へ六キロにあっ
た五日市勧能学校(現五日市町立第一小学校)は、この地方の民権運動の拠点で
あった。このことについて『新編明治精神史』(3)に次のようなことが記されている。
勧能学校は設立当時教員三∼四名、生徒百名程度の公立小学校であったが、村長
はじめ学務委員など有力者のほとんどが民権家であり、また、二代校長千葉卓三郎
は多摩を風靡した闘士とされていた。そのため「勧能学校ハ全ク浪人、壮士ノ巣窟ト
ナリ、県学務課ヨリ差向ケタル正当ノ教員ハ片端ヨリ追イ出シ、県ニ於テモ止ムヲ得
ス放任スル」という状態であった。
これは五日市を中心とした地域社会全体が、運動の渦中にあったといっても過言
ではない。さて、近隣の学校がこのようなとき、代用教員であった坂本がどのような
行動をとったか全くわからないが、彼の権力に対する対抗意識から、民権運動に心
を失われていたかも知れない。
また、小学校教員心得の「……教員タル者ハ常二寛厚ノ量ヲ養ヒ中正ヲ持シ就中
政治及宗教上二渉り執拗矯激ノ言ヲナス等アルヘカラス」の趣旨をふまえて、授業
生試験に合格するためひたむきに研さんを積んでいたかも知れない。
郡長推薦師範生第一号
◇ 龍之輔は兄に連れられて横浜に出た。師範学校の入学試験を受けるためであっ
た。二十年の十月である。彼は郡長選出の受験生であった。彼は郡内切っての優秀
学生であったし、その上疾くに助教をしており、授業生試験にも通っているのであっ
たから、これは寧ろ当然のことであったろう。……何れにせよ、郡長のめがねにかな
ったということは中々に名誉とすべきことであった。
(第一部 第一章 もやしの如く ―野毛坂―)
郡長推薦による師範生の薦挙方法が定まったのは明治 20 年 4 月 1 日である。そ
の 10 月(4)坂本は試験を受けたのだから、その第一号ということになる。
知事より郡長にあてた令達(5)によると、
○郡区長の薦挙ニ係ル本県尋常師範ノ員数ハ毎郡四人乃至八人トス……情況ニヨ
リ増減スルコトアルヘシ。
○郡長ハ……若シ薦挙スべキモノナキトキハ其旨ヲ当庁二開申スヘシ。
また、尋常師範学校卒業生服務規則(明治 19 年)によれば、
○郡区長ノ薦挙二係ル生徒ハ、卒業証書受得ノ日ヨリ五箇年間 其郡区長指定ノ小
学校二奉職スル義務ヲ有ス。
とある。このような師範生の薦挙制度は、如何なる必要から生じたのであろうか。そ
の発想はいうまでもなく、明治 19 年の森有礼文相による師範学校令改正の一面で、
師範学校の卒業生をその郡区長の下へ帰すことによってその治政に協力する人材
を送り出すことであった。「村から出て村に帰る」教師像がここで生まれたことを指摘
しておきたい。
そこで坂本がこの入学試験に臨む態度として、
◇ ……何よりも必死であった。郡長の選出を受けて来たのである。へまなことをや
って、物笑いを買ってはならない。自分のためにも、一家のためにも、そして郡のた
めにも。 (第一部 第一章 もやしの如く ―野毛坂―)
では、何故教員が郡長などの協力者になり得たか、浜田陽太郎は
……学校はいい意味にしろ、悪い意味にしろ、学校が、教育が、村の財産的な、
われわれのもの的な感覚の存在を信じさせた。このような感覚は学校の運動会の行
事、それは子どもを持つ家庭がかゝわることではなく、村の行事であったことは今で
もなおその面影が残っている(6)。
と言っている。学校は村落共同体の中心であり、教員は村落共同体の維持者であり、
それを守る側に位置していた。すなわち、村落共同体という地域社会の存在を前提
として成立した学校像、教師像であった。だから教師は町村長にとって治政の協力
者になり得たのである。まして、当時の師範学校の卒業生は地方のエリートであり、
町村における彼等の存在は大きかった。坂本もその一人であったのである。
さて、この師範生薦挙制度は、十一年後の明治 31 年の師範学校令改正で廃止に
なった。その理由についてはっきりした資料は見あたらないが、次の二つのことが推
測できる。その一つは、教員を志願する郡区の社会的基盤が変わってきたことであ
る。すなわち、今まで師範生に薦挙されたような人材が軍人や官吏に流れ、村の教
師と自負するようなものが少なくなったこと。二つには、この制度の廃止と年を同じく
して郡視学制度ができたことである。視学は郡区長の命を受けて管内の教育事業監
督のため、足しげく各学校を巡視し、治政の強力な協力機関となったのである。
兵式体操
森有礼文相の師範教育のねらいは、順良・信愛・威重を柱とする徳育主義の教育
である。このような精神訓練に重点を置いた教育は、兵式体操と軍隊式寄宿舎教育
である。兵式体操については、
◇ ……兵式体操を以て養成せんとするものは、第一に軍人の至要として講ずる所
の従順の習慣を養い、第二に軍人の各々伍を組み、其一伍には伍長を置き、伍長
は一伍の為に思て心を労し情を厚くし、第三に隊を結びては其一隊の中に司令官あ
りて之を総督し其威儀を保つが如く……
(第一部 第一章 もやしの如く ―明治初期の国民教育―)
◇ ……兵式体操は、毎日最後の一時間がそれに宛てられた。教室ではびくともす
ることのなかった龍之輔が、体操場に出ることはたまらなく厭だった。体操の教師は
陸軍出の藤田信幸であったが……
(第一部 第一章 もやしの如く ―コムパ―)
また軍隊式寄宿舎教育について坂本自身「思い出(7)」として次のように記してい
る。
寄宿舎内は中隊編成とも云う可く什長伍長等の役員名ありき、また歩哨線より連
隊司令部まで駈足で到着するに等しき時間内に暗中正装を整へて武器室前に整列
し終るを期する深夜の非常呼集も数々行はれたりき。
このような学校での硬教育を、彼は意志力で己の弱い肉体を克服したとし、このス
パルタ流の教育を成果として認めている。
そこで、師範学校時代、坂本の兵式体操の指導と寄宿舎の舎監をしていた陸軍少
尉藤田信幸がどのような体育観(8)を持っていたか紹介してみる。
○国民教育の基礎は体育にあり
……先づ国民教育の基礎即ち国民体育なる基礎を固くすることに勉め、以て義勇
公に奉じ得るのは鉄心鉄体を養成せざるべからず。
○現時の状況如何
将来国家の為に多望なる学生にして其面を見れば青白にして幽鬼の如く、其体を
見れば嫋々として処女に似たり、此の如きの優柔の人治に居て社会の繁雑なる劇
務に従事し、万一不幸にして国家緩急あるに遭っては命を擲ち節を尽すの勇気果た
して存するや……
これは明らかに国家、ないし集団への奉公という体育観で、それを代表するのが
兵式体操であり、軍隊式寄宿舎教育である。このように、師範教育にミニタリズムの
筋金を入れた訓練組織や教育方法についての評価はさまざまであるが、兵式体操
の精神面の重視や、寄宿舎生活の拘束性などの悪い面が、師範生の人間像をゆが
めてしまったとするのがその一つの見方である。このことについて野口緩太郎は次
のように述べている。
学科の研究は学期末試験で相当の成績で事足りる。……唯掃除・整頓をよくし、規
則に違反しないで校長や舎監の覚えを目出たくし、上級生の御機嫌を損じないよう
にすれば事足りる。教育者としての覚悟や修業などに関した考え方は殆んど彼等の
胸意に去来することはなかった(9)。
一方では、
◇ この時代の教育、殊に師範教育を目して、コチコチな、劃一的な人間を作り出し
たものとして難ずる論者が多かったが、それはいかなる規格の下にあっても成長す
る、成長し得るところの「個」を没却した、皮相な議論であったともいえよう。
(第一部 第一章 もやしの如く ―明治初期の国民教育―)
として、画一的な兵式体操・軍隊式寄宿舎教育を受けても坂本のような個性的な人
材が輩出する。むしろ、このような教育があってこそ個性豊かな人間性が発揮できる
としている。
教師としての公私の別
教育者として、公私の別を明らかにしなくてはならないのは、今も昔も変わらないこ
とであるが、坂本の場合、習文学校に就任早々この問題に遭遇している。
◇ 万五郎は長男弥一郎を、勝三は同じく勝四郎を特に弟子入りをさせて項きたい。
この山の中では、小学を卒業した後はもうまったく勉学のたよりはない。幸い御来任
を機会に、ぜひとも息子の弟子入りをお願い申したいというのであった。
「折角ですが、それはお断りをいたします」
……それに公務の傍ら弟子を取るというような二股主義は私の執らぬところです。
……当面の仕事に忠実であろうとするところに余暇のあるべき筈はなかったし、何よ
りもそうした内職稼ぎは報酬の二重取りともなるのではないか、受くるべからざるも
の受くるは盗人に等しい所業であると、彼はかたく信じていたのである。
(第一部 第五章 古里村 ―西光寺―)
また、開朦小学校では、配下の教員が月六回原町田の市日に糸を売りに行くため
欠勤したことで、二股稼ぎとして解雇している。
稲垣達朗は坂本のこのような行動を次のように論評している。
公務のまえには、いつも、私情という巨大な怪獣が口を大きく開いて待っている。公
用の一枚の封筒、一通の電話……人間の内奥にそれほど醜悪な蛆虫がうごめいて
いるのである。この蛆虫をどのように退治するか、しかるに、この蛆虫の存在さえ気
付かないほどにこんにちの公務の担い手は無感覚になっている(10)。
とし、坂本はこの蛆虫の旺盛な本能をよく知っているとして、彼の行動を高く評価して
いる。
私は、彼の行動は公務の純粋原理を保存しようとする潔癖性に起因していると思う。
それは、先の弟子をとらなかったこと、家庭訪問に行って履物をぬがなかったこと、
年玉を受けなかったこと。また、開朦小学校では配下の教員が父兄から供応を受け
ていたことを知り、教師の風上にも置けないやからとして厳しく諫めていることなどに
見られる。これは、彼の「受くべからざるものを受くるは盗人に等しい所業である」と
する考え方に立っている。
では、当時教育界は、私宅授業や父兄の供応に対してどのように問題視していた
か、資料を拾ってみる。
県下でこの問題が初めて教育雑誌(11)にでたのは明治 26 年で、
教員の自宅教授は数年以前は独り有名な学校教員の専売なりしが、今各学校皆売
却せざるはなく、最も繁栄なる教師は六・七〇名の花客ありと……此業の教育に及
ぼす利害は不知と雖も、教員の生計を富有ならしむるは喜ぶべきか呵々、
とあり、また、明治 27 年にも同様な趣旨の論説がある。また、同年 7 月横浜市教育
会において「公立小学校教員の自宅教授の可否並に商業を営むの可否(12)」という
問題が討議されている。
明治 28 年 5 月教育知事といわれた中野健明は小学校教員の私宅教授等の取締
まりに関して、市・郡役所に通達(13)し、各市・郡長はその旨を受けて町村役場に同
文を通達している。
小学校教員私宅二於テ教授時間外二其ノ生徒ヲ教授スルトキハ生徒心身ノ発達ヲ
害スルノミナラス徒ラニ教授ノ標準を高メ生徒管理上偏愛ノ嫌疑ヲ受クルニ至り且教
授ノ準備ヲ妨クルコト尠カラサルヘシ又教員小使等二於テ生徒若クハ父兄ノ贈遺ヲ
受クル如キハ是レ亦生徒間ノ感情ヲ害シ一般就学ノ妨ケト為ル等教育上弊害尠カラ
サルニ依り公立学校ハ勿論私立小学校卜雖厚ク注意ヲ加へ厳重ノ取締ヲ為スヘシ
また、公私の別を明らかにせよという趣旨で、斉藤兼吉が「追憶と感想」の中で、
其訓導が使丁に向かって煙草購入をたのまれ彼がこれを断固拒絶した例により、公
私の区別を明確に認識すること此使丁の如くあれ……苟くも公人たる以上此操守此
見識だにあらば肩書や資格はどうあろうと立派に其職責が果たせます。正何位勲何
等の栄号を担い国民儀表の地位にいて幾度か鉄窓に呻吟し、醜を後世に流すの徒
この使丁に恥づる所なきや(14)。
と世の教員に警告を発している。
では、なぜこのころ教員の間で公私の別を明らかにしようとする気運が高まって来
たのか、一つには、当時都市部を中心に私宅授業、供応などが目にあまるものがあ
ったため、先の中野知事の通達に見られるような強い行政指導があったこと。二つ
には、県教育会が創設期から充実期に入り、会員相互に教育者としての自覚を求め
る運動が展開されたことによるものである。
学校山
◇ (古里村)小丹波には字の共有林があった。二十七町歩の杉山であった。植木・
草刈・毎年五反歩の輪伐・伐り出し道の普請改修、それらの勤労には、小丹波の住
民が各戸一人宛が出勤してあたるというのだ。「なるほど、それで、収益が配当され
るのですね」「いや配分のことはわしもよく知りませんがね」……結局はその会計が
曖昧で、それに村民の不満があったのである。……相手は八人の旦那衆であるから、
結局は誰も泣寝入りにしているというのである。……住民の敵をこのまゝ放っておい
てよいのか。……「共有林を学校の財産とすること。これに依り授業料を廃止して保
護者の負担をなからしめ得ること。高等小学校の併置に進むこと」……すぐさま、小
丹波百八十戸を戸毎勧説に廻りはじめた。
(第一部 第七章 暗い谷間 ―共有林・学校山―)
以上のような経過をたどって覚え書きが交され、「字小丹波の共有林二十七町歩
を習文学校通学区域字小丹波の基本財産に定む」ということになった。これで、村の
旦那衆の管理していた共有林を学校の基本財産の一部とした。いつか、この共有林
を学校山と呼ぶようになったとし、旦那衆の頑迷固陋を打ち破って、この暗い谷間に
明るい時代を導き入れたとして、坂本の業績を高く評価している。
学制発布以来学校財産の蓄積ということは、朝野をあげて叫ばれていたことであ
る。当時三多摩を含めた神奈川県下で、基本財産の蓄積はどのように進められてい
たかを述べてみる。中山毎吉は「小学校の創立と経済事情」で次のように言ってい
る。
凡そ学校を設立し、及之を保護するの費用は小学区に於て其責を受くるを法とすと
規定し、学区に其義務を課し、幾多の方策を示し、土地の事情に即して夫々拈出の
道を講ぜしめられたのである。高座郡海老名村の教育費拈出は次のようであった。
其一は 旧来役山と称した共有地を犠牲として、この売却代をそれに繰入れた事
(由来この共有地の利得は村役人の報酬に充て、村民一般に配当することがなかっ
たので、容易に処分することが出来得たのである。)
其二は 割付寄附金
其三は 無尽講を起し、掛金の幾分収めて順次積立て資本金とする。
畢竟、県下一般に実行された方法も大同小異であったということである。私の郷里な
る一学区(今の海老名村中新田)では、往時より相模川河渡船の利権その他を所有
していたのでそれらの収益の一部を……(15)
坂本の奉職した習文学校の場合は奥多摩の山狭にあったため、山林を除いては
教育基金とするものがなかったので、これに着目したのは当然である。そこで小丹
波の共有林の配当が村民に行きわたっていたら、中山のいうように、共有林をすば
やく学校の基本財産とすることができなかったであろう。そうであったら暗い谷間に
光明を見出したという彼の学校基本財産蓄積の業績をたたえることができなかった
であろう。
一方、県は町村に向けて、学区の教育の振興という名のもとに、学校の基本財産
の増殖を強力に指導している。例えば、郡長より村長にあてた令達(16)の中で、
町村ノ公学費ハ逐年増加シ其負担軽カラサレハ、学校基本財産ヲ蓄積シ利子ヲ以
テ之ヲ補充スルノ必要ハ世説ニ之ヲ熟知スルニ不拘郡内溝村ニ少額ノ設ケアルノ外
アラサルハ頗ル遺感トスル所ナリ……
当時の国の教育政策が、教育を受けることによって、直接利益を被るものが費用
を負担すべきであるという、受益者負担の原則であった。このため、町村や父兄の
負担が大きく、特に町村においては教育費の問題で悩んでいた。坂本もそれぞれの
任地で、教育費の問題で苦労をするのも、このような教育政策のしわ寄せのためで
ある。
その後、学校山と呼ばれた小丹波の共有林は、どうなったのであろうか。坂本が古
里村を去った 20 年後、すなわち明治 43 年 8 月に「部落有財産統一に関する協定書」
ができた。それによると、古里村の小丹波ほか四部落の共有林を村全体の基本財
産とし、その一部を各部落の神杜に譲渡し、また、古い習慣の尊重と村有林保護の
立場から、九九年間低額の地代で、各部落民に地上権を付与した。これによって、
坂本の初志が初めて実現されたわけである。
このような共有林の管理形態がその後長く続いたが、戦後町村合併等による自治
体の改革、社会機構等の推移、地上権譲渡等による権利者の異動などがあったた
め、小丹波では昭和 39 年 4 月に「統一山管理委員会(17)」が発足した。この会の規
則によれば、
明治 43 年 9 月を以て部落共有山に統一された山林を同年 11 月 9 日付で向う 99
ヶ年の租借地として、101 名が地上権を得たのであるが、一部を各部落毎に分割し、
各部落内の権利者に経営を委ねている以外の山林を 101 名が直接共同経営をしこ
れより得る利益金を以て管理運営費及び権利者の日常生活の向上を図り且つ小丹
波地区の公共の用に供して住よい郷土をつくるを目的とす。
このように、小丹波の住民は共有林の恩恵に浴していて、坂本の精神がいまも生
き続けていることは、他に例を見ないことである。
渋谷村の政争
◇ 相模野台地は、北は自由派に強く、南は改進党に利があった。この政治勢力が
渋谷村を真二つにしていた。桜株に寄る自由党、長後に寄る改進党……渋谷村は、
その北と南に尋常小学校があったが、何れも党派の機関学校というべき態を示して
いた。国会・県会の選挙ともなれば、学校は忽ちその運動本部となり、その騒を鎮圧
するため警官が出動し、中野知事が妥協、斡旋に乗りだしたが手を焼いてひき上げ
た。渋谷村はそんな村であった。政争の幾波乱後、南北へ尋常小学校を残し、中央
に高等小学校を建てるということでようやく落ちついた。
(第二部 第一章 相模野台地 ―政争圏―)
政争中、学校建築計画遂行に貢献した山下康哉ほか二名の者(18)に、渋谷村有
志三六五名総代として沢野直正ほか六名のものが、銀盃と感謝状を送っている。
この感謝状の一部を紹介し、著者のいう政争と学校のかかわりを述べてみる。
去る明治十八年学令の改正と共に我が村学区内の尋常小学校に一波乱を生じ、廃
止・分合殆んど一定の方針を失ひ、為に我が村教育上の命運は宛も漂流繋がさる
の船に似たり……此の時に当て政治上の潮流は稍々地方に向けて奔注し来り、彭
湃謗誹意を激して一道の飛沫と為り、不□船的の教育問題は端なく……党派問題
の捲き去る所と為り、名実真相を誤り……嗚呼我が村教育上の命運此に到て不幸
にも亦た危しと謂ふ可きなり、而して此の間貴下及び柴田軍司・山下亀吉の二君は
率先して局面に当り……渋谷村南北部に尋常小学校各一校、中部に高等小学校一
校を新設し工事も亦た将に落成を告け不日開校式をも挙ぐるに到らんとす……就ち
記字を銀盃に刻し以て座右に呈す、
この三人にあてた感謝状の日付は、明治 26 年 12 月 13 日と記されている。これは、
坂本が渋谷高等小学校に赴任するため、学務委員大津金之助を訪ねた一か月前と
いうことになる。
ここでいう、「党派問題の捲き去る所」とは、前出の国会・県会の選挙の混乱を指し
ている。このころの様子を、色川大吉は次のように述べている。
明治 25 年 2 月 15 日の第二回衆議院議員選挙は日本憲政史上最悪の流血の選挙
で、また、同年 2 月には県会議員の選挙で当選者がきまったもののこの選挙が不正
と認定され、明治 25 年 5 月 2 日に再び選挙が行われ猛烈をきわめた。このときは高
座郡から自由党三名、改進党から二名の候補者を立てて、両派とも大量の壮士を
率いてのぞみ銃撃を浴びせあい、血を流すという激突をくり返した(19)。
と、政争のすさまじさを述べている。渋谷村もこの政争に巻き込まれ、その対立から
教育問題も危機にひんしたのである。
また、本文では中野知事の妥協斡旋は、不調に終わったとしているが、先の感謝
状には「……利害を縷述して郡長の取捨を促し、或は得失を詳陳して知事の裁度を
求むること前後十数回抗直未だ曽て撓まず……」として知事の裁量を求めたとして
いる。
この政争のはげしい渋谷村に、明治 26 年 10 月 22 日教育知事といわれた中野健
明が巡視をしている。この時は渋谷村ばかりでなく綾瀬・六会の両村も視察し、宿舎
を大和村下鶴間にしている。このとき高座郡長より渋谷村役場に出された令達は、
次のようである。
中野神奈川県知事殿左ノ日程ヲ以テ其役場並二小学校巡視被致侯間此段申入侯
也。追テ村内ノ実況具二上申侯ハ上下ノ便利ニ付当日ハ可成村会議員ヲシテ役場
ニ出頭セシメラレ度候也。
この巡視において国会・県会議員選挙の後遺症や教育問題は当然役場当局より
説明があり、さらに、知事より何等かの指示があったものと推測される。
凧上げ
坂本は渋谷高等小学校に奉職して当面の問題は、村の政争によってすでに党派
的感情に支配されている児童のしみぬきをすることであった。そこで思いついたのが
凧上げである。
◇ 「おいみんな、凧を揚げようか」
「大きな凧を、みんなで作って揚げるんだよ」
「さあ、先生が、これに絵を描くぞ」
四尺に六尺の、大凧を張りあげた。……総がかりで揚げる騒ぎに、生徒たちはもう
敵も味方もなくなった。揚げるにも総がかりだが、これだけの大きな凧は揚ったら最
後、二人や三人の手に負えるものではない。その協力が生徒たちをぐっと一つに締
めて行ったのである。
(第二部 第二章 黄塵 ―学校日誌―)
ここでは、凧を作るという気楽な遊びで、子どもの対立感情のしみぬきを試みたわ
けである。このことについて、稲垣達朗は、
龍之輔の風土の特殊性をとらえた頭脳の回転は如何にもす早く、時に奇抜である。
この思いつきは単なる思いつきとして散ってしまわない。思いつきの中に見通しを持
った判断が含まれている(20)。
として、彼の発想は自在であると賞賛している。ここでいう遊びは多分に意図的なも
のであるが、遊びとか、課外学習について興味ある論説が当時の教育雑誌(21)に
発表されている。
活発なるは児童の天性なれば体操の外に種々の快活なる遊戯を教えて生徒を導く
べし、べースボール・陣取り・旗とり等は愉快なる遊びなれども折々新奇の遊びを工
夫して教授したきものなり、会員諸君願わくは報道の労を惜むなかれ。
この論説には、児童らに自分たちの体の中からわき上って来るものを持たせたい
という、教師の気持があらわれている。なお、この論説は坂本が渋谷高等小学校に
在職中に発表されたものである。風土的特性と党派的感情のしみぬきを合わせた凧
上げも、この論説でいう遊びに当てはまるかも知れない。
渋谷村などでは、大凧は風習として端午の節句を中心として作るものである。坂本
たちが作った凧は、少なくとも冬枯れの時期である。このころの渋谷村などでの子ど
もの遊びは「こままわし」「羽根つき」「なわ跳び」「お手玉」「まりつき」「竹馬」などであ
る。私は凧上げの時期の真偽は別として、生徒の党派的感情を凧に託して解消した
いという願いをここで感じとればよいと思う。
落 第
◇「きよでは毎度御厄介になりますが、先生、どうでしょう、進級は大丈夫でしょうか」
「どうも―駄目ですね」
「先生、どうぞ、きよを無事に進級させて下さいますように」
何やら紙包を畳に押しやるようにして、またお辞儀をした。
「奥さん、それはいけません」、「及第か否かを決めるのは、これは国家の一事務で
す。その標準ははっきりきまっているのです。これを私の気もちで動かすことはでき
ないのですよ」「いけません―詐って、ただ虚飾的に進級させるなどは、国法を蔑ろ
にするものです。」―小感情に負けては大事を誤るのだ―
翌日、きよは登校しなかった。その翌日も姿を見せなかった。学年試験を控えて、東
太郎はきよを東京日本橋の親戚にあずけ、常盤小学校に転学させたのであった。
(第二部 第五章 村の感情 ―落第―)
親の虚栄に対して、坂本が最善を尽した結果の懸命な説明だったが、真意が理解
されないままの幕切れであった。
このような虚栄をはる親、それを法によって説き伏せる教師があるかと思うと、当
時斉藤兼吉の次のような回顧録(22)もある。
高等一年級(今の尋五)担任の学年末に当り其の学級から四・五人の落第生を出し
たことがありましたが、或日悄然たる一児童を併ひ自分の下宿を訪れ保護者は自分
に向かって「豚児こと日頃一方ならぬ御面倒に預かりながら、今回進級の出来なか
ったのは、全く彼の不勉強に依る次第で、家庭における私の責任でもあり……劣等
生に限り一層先生の御心配を煩はす次第で誠に申訳ございません。」
私は当年取って二十五歳僅々四年の駈出しの先生、唖然として返す辞もなく「申訳
御座いません」は却て自分のこと、一般父兄の心事「褒美を貰うは子供の手柄、落
第するのは先生の不行届」はこの保護者のみには通用せぬと、冷汗背に洽く、今更
人をあづかる責任の……
坂本が親の虚栄に対して、「国家の事務」とか「国法」とか「標準」と言っていること
は、どういうことか。このことは「飛び級」の項で既に述べたことであるが、明治初期
から中期にかけて県が国の法令に基づいて定めた、卒業や進級の認定のための試
験制度を指している。この試験制度はあまり厳格すぎるという批判が出て、制度
(23)が改善された。この時期は坂本の習文学校奉職中である。この制度によると、
試験によって卒業や進級の認定は行うものの、教師自身の判断によって、生徒の成
績を評価する道が開かれたこと、さらに従来の成績検定主義から、教授参考資料へ
の転換がみられたのである。しかし、これで落第生がなくなったわけではなく、その
後も各学級一割ぐらいのものが進級や卒業ができなかった。
つぎに、斉藤は当時の「父兄の一般心事」として「落第するのは先生の不行届」と
言っているが、当時の教師の平均的な考え方もこれに近いものであった。すなわち、
「生徒ハ教師ノ鏡ナリ」とか、「教師ハ器ニシテ生徒ハ水ナリ」、「教師ハ生徒ノ路案
内ナリ」の如く白紙的存在の生徒を強く意識していた。
就学督励
坂本の村落校長時代、教育界の一つの課題は不就学児を無くすということであっ
た。「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事」を期した学制施行当時の意
図はなかなか実現されなかった。特に、校長はその直接の責任者として督促巡りを
行ったが、民衆一般の生活や教育観に大きな隔たりがあって、苦労を強いられた。
◇ 学問は手の及ばぬ贅沢品、学校に出すことはただ徒らに金のかかることとのみ
思われていたのである。古里村の学齢者就学率は六〇パーセントにも達していなか
った。これを説いてまわるのが先づ龍之輔の仕事であった。しかし彼は飽くことなくこ
れを続けた。
(第一部 第五章 古里村 ―牝鶏―)
◇ 学期始めに先だって、龍之輔は、理化学器械の披露実験会をやった。……そこ
には村の蒙昧もあったが、村民の彼への信頼を深めたことはまちがいなかったよう
である。……夜は続いて幻燈会をやった。……運動場一っぱいの観衆であった。
……村井に幻燈器を扱わせて、彼は弁士をやった。
(第二部 第五章 村の感情 ―髯―)
◇ 龍之輔は、学用品給与制の案を樹てて、……各委員に、その区域内の学齢に達
する家庭を訪問して、就学の勧誘をさせ……入学者を決定することにしていた。
……彼は大谷戸に出かけて行った。……
「それもです、先生、銭を出さねえで、お貰いで学校へ出したんじゃあ、こりゃ乞食で
す。わしはこんなひでえくらしはしていますが、まだ、乞食と泥棒だけはしたことがね
えのです。一年や二年、役にも立たねえ半ぱ学問のお蔭で乞食をさせたとなっちゃ
あ、先祖にも子孫にも顔向けがならねえことになります。……先生、わしは学問より
人間は根性だと思います。……半ば学問をさせてみたところで糞の役にも立ちはし
ません。」
「ふむ、それだ」龍之輔はうめくようにした。
(第二部 第五章 村の感情 ―乞食学問―)
これをみると、彼が就学督励に情熱を傾けていることがわかる。当時は、不就学
の原因として、次のようなことが言われていた。
(一)貧窮
(二)教育に対する父兄の無理解
(三)家の手不足
(四)世間に対する遠慮
このうち貧窮及び父兄の無理解が主なる原因であったので、その救済策がすなわ
ち就学督励法であった。
◎貧窮について
当時の教育雑誌(24)に貧窮による不就学を次のようにいっている。
貧民ハ授業料ヲ納メスシテ学ニ就カシメ、或ハ書籍ヲ貸与スルノ法略設ケアリト雖日
夜活計二苦ミ子女ヲシテ我職業ノ役使ニ供シ、或ハ小児ノ看護ヲナサシメ、又ハ人
ニ傭役セラルル等ノモノニ至リテハ猶就学ノ途ヲ得ルコト難シ……
坂本の学用品給与制度や古里村での子守をしながら学校に通学させる構想も、こ
のような社会情勢によるものである。
◎教育に対する父兄の無理解
このことは、一般民衆の伝統と生活に根ざす教育観が、学制の規定による小学校
の組織的・系統的なものになじまなかったことに大きな原因がある。前者は、従来の
ようなしつけと実習と模倣を中心とする生活に密着した、体験的・具体的なことを強
調する。坂本が大谷戸の老人を訪ねたとき、その老人が学用品の給与制度を否定
し、「役に立たねえ半ぱ学問」と言ったのも、前者のような考えに立っているからであ
る。
そこで、多くの子どもたちの生活の中で、学校は新しい知識と集団内における規律
を修得する場として、重要な意味を持っていること、つまり、学制の精神による学校
制度を、父兄たちに啓蒙することは、就学督励法で重要なことであった。坂本が理化
器械の披露実験をやったり、幻燈をやったことは、まさにこのことにあたるのである。
当時、教育界ではこのような父兄の啓蒙運動を「通俗教育」と言っていた。これは現
在でいう「社会教育」である。日本近代教育史(25)では、
我が国ではじめて、通俗教育が官制中に登場したのは明治十九年、文部大臣森有
礼が学校令を公布することによって、わが国近代学校教育制度の確立に着手して
からである。なかでも義務教育の普及徹底は当時緊急課題であった。子どもの就学
率の低い原因の一つは父兄の教育・学校に対する無知・無理解によるものとし、父
兄・おとなに教育や学校の意味を理解させることによって、義務教育の普及徹底を
図ろうとして行われたのが通俗教育活動であった。
と言っている。さて、坂本は大谷戸の老人の素朴な人間観からくる人間教育に心を
打たれ、この村での学用品給与・無学費通学の案を思いとどまったが、その後の就
学督励法について、本書ではふれていない。大谷戸の老人のような、人間形成にお
ける人間の意志を何よりも優先する教育観は参考にすべきであるが、あくまでも通
俗教育を活発にして、父兄・村民の啓蒙を行うべきではないかと考える。
教職神聖論
◇ それは、教育会で、小学校教員俸給改正請願の決議をしようという時であった。
彼は立って、一人反対を唱えたのであった。……我々のなすべきことは待遇問題を
云々する前に、先ず使命に精励することである。……その実を挙げるならば、待遇
は自ら高まるに至るであろう。……団結集合、ましてや強訴の要はない筈である。
「教員が教員を辱しめるというのは許せぬ」
「そういう汝がそんなに立派なのか」
「安易な社会的好遇に甘んじて堕落することなく、天職の道を堅実に歩む、その一歩
一歩からはじめて……」
わきかえる席上、それを止めの言葉にして彼は独り退いてきたのであった。(孤立の
栄光。―彼はしみじみそれを思い知ったのである)
(第二部 第十章 聯隊旗 ―教師の精神―)
唐沢富太郎は明治初年から前半期にかけての教師像について、次のように言って
いる。
教師は社会的な尊敬を与えられていたといっても、教師の経済的生活はそれに相応
するほど豊かなものではなかった。「教師は骨と皮にて作り人を教える道具なり」とい
う作文が当時名文といわれたゆえんである。これは教師自身が、教育というものは
銭などに換算できるものじゃあないという神聖な教育観に誇りを抱いていたためであ
る。あえて報酬を要求することがなかった。加ふるに一般世人もまたこうした教師の
態度に不審をいだかなかった。全般的に見るならば、明治初年から前半期にかけて
の教師は士魂を師魂として教育に当り、経済的窮迫には目をつぶり耐え忍ぶをつね
としていた(26)。
坂本の場合は将に士魂=師魂の典型的な教育者であり、現在世間で言われてい
る聖職者の原型を見るようである。このような教職観は、唐沢が述べているように明
治 20 年代前半までの考え方である。
坂本の場合、師魂の考え方は何によって培われたか。その一つは坂本が教壇に
立つときの修養の目標である、小学校教員心得(27)の一節の精神とみることができ
る。すなわち、「鄙吝陋劣ニシテ倫安貧利ヲ事トスル徒ノ敢テ能クスへキ所ニアラサ
レハナリ」である。二つには、坂本の生い立ちとみる。すなわち、父を八王子千人隊
の隊士とする、士族出身であるということである。
以上のような考え方に立った坂本の教育会での発言に対して、西多摩の同窓生た
ちは「そ知らぬ顔で彼の説にただうなずき返すばかりであった。……まともに相手に
なってくれないのである」と本文に記しているように、彼の教職神聖論は対立感情を
もって受けとられていた。
では、当時教員の物質的報酬は果たして満足すべき状態にあったのか。このころ
は、日清戦争後のインフレ昂進と生活難の増大の時期であった。したがって、教育
会での教員の物質的独立を目標とした待遇改善運動は、教員の生々しい体験から
生まれたものである。このことについて当時の教育雑誌(28)に次のような記載がみ
られる。
「世人動もすればいう、教員の職たる、天職なれば、心の満足を以て報酬とし、金銭
に心を寄すべからずと、至極結構なる注文なり、されど人は働く前に食わざるべから
ず……然れども精神的報酬遂に貨幣の代用をなさざるを奈何せん。斯るオタメゴカ
シの文句を用ふるは、須らく先づ衣食住の資を供したる後に於てすべきなり。」
この真意は、これまであまりにも精神的独立のみを主張し、物質的独立に対し黙し
て語らない教育界の体質を改善しようということである。しかし、後者の前者に対す
る優先を意味するのではなく、いわばメダルのウラ・オモテのようなものである。一方
で教員自身の学力や品性など、資質の向上を言いながら、他方また、その経済的待
遇の改善の不可欠なることを強調していることが、当時の教育界の大勢であった。
坂本はまた、彼の教職神聖論に真向から対立する別の姿の教師像を二つ挙げて
いる。
一つは、中等科教員免許状を獲得すべく、つまり自分自身の勉強に汲々たるもの
(筆者註 ―文検タイプ教師―)
二つは現状に満足して、ひたすらその位置を守ろうとして、所謂有力者なるものに阿
諛するあまり、幇間的醜態をまで呈して恥じないもの……(筆者註 ―師範タイプ教
師―)
(第二部 第十章 聯隊旗 ―教師の精神―)
前者は、教職にみられる顕著な社会的モビリティであり、いわゆる腰掛教員である。
後者は、師範タイプの教員の短所を挙げたもので、教育界で教職のモビリティが後
退しはじめると、このようなタイプの教師が生まれる可能性がある。坂本の教職神聖
論からすれば、規格から外れた二つのタイプは、優れた教員とは言いがたいのであ
る。しかし、このような批判は坂本ばかりではなく、明治 39 年東北岩手の地で教壇に
立って「最も得意な、愉快な、幸福な時間」を過ごした石川啄木(29)もこれと同じよう
な批判を行っている。
実用の教育
実用の教育について、坂本は実際生活に直ちに必要な知識と考えた。そしてこの
知識を整然たる教育課程のどの辺に折り込むかという面倒な問題を習文学校時代
から考え、開朦小学校で実践した。例えば算術については次のようである。
○ 高等科にあるべき利息算・求積算を尋四に課すこと。
○ 高等四年にあるべき分数・求積・百分算を高等二年に課すこと。
理由としては、高等科に進んでも二年終業で終る者が全科卒業生の約三倍に近
い多数であること。
(第二部 第十章 聯隊旗 ―教師の精神―)
以上のような考えで、これを教授細目に織り込んで授業をやっていた。明治 32 年
府県に視学制度が公布されて間もなく、開朦小学校に視学の巡視があった。このと
き、この教授細目が視学の眼にとまり、「これは、法規抵触だ」と威をもって迫る視学
との意見の対立があった。この教授細目は、教育課程自主編成の走りとして現在も
高く評価している者もある。
神奈川県小学校教則(明治 25 年 3 月 19 日布告)第五条によれば、算術科の目標
は「日常ノ計算ニ習熟セシメ兼ネテ思想ヲ精密ニシ傍ラ生業上有益ナル知識ヲ与フ
ルヲ要旨トス」と述べ、尋常科においては、「……日常ノ事物ニ応用シテ其ノ計算ニ
習熟セシム」としている。また、高等科においては「……応用自在ナラシメ、問題ハ他
ノ科目ニ於テ授ケタル事項ヲ応用シ又ハ土地ノ情況ヲ斟酌シテ日常適切ナルモノヲ
撰フヘシ」としている。坂本はこのような教則の精神に添って教授細目を作ったので
ある。
このような教則での配慮にもかかわらず、学校で授けられた知識が果たして実生
活に役立っているかという疑問は以前からあった。例えば文部書記官巡視報告(明
治 10 年)によれば、「此多費用ヲ出シテ学ヒタル所ノ学問トイフモ左程日用ノ便利ヲ
為スコト能ハサルコトハ人民ニ取リテハ実ニ難儀至極ナルコトト云ウへシ」といって
初等教育を推進する文部官僚までが、以上のような問題を投げかけている。また、
明治 21 年鎌倉郡教育会の討論題として「読書・算術・習字等ノ学科ヲ授クレバ如何
ナル幸福ヲ生スルヤ、若シ之レ等ノ学科ヲ欠クトキハ如何ナル害アルヤ」。下って、
明治 30 年 5 月神奈川県教育会に県知事中野健明より「尋常小学校卒業生の実力
は処生の用に堪え能ふべきや否や各自の意見を問う(30)」という諮問があった。
この諮問に対して、会員から次のような答申(31)があった。
(甲人) 今日の学力にては到底処生の用に適せず。
(乙人) 半数位は容易なる文通・計算はなし得べし。
(丙人) 児童の卒業後の情況による。即ち卒業後父母に代り容易なる計算、往復文
書等を扱ひ居る者は、何とか処生に差支なきに至るも……。
(丁人) 卒業して直ちに処生の用に適するや否やは、年齢未だ少く応用力に乏しき
を以て、明かに知るを得す。
(成人) 容易なる普通の計算及文通は差支なきようなれども、只、年齢少く脳力の
発達充分ならざるを以て応用力に乏し。
(己人) 尋常科を履修する年齢は尚脳力充分ならざるため、文章の類は充分に消
化応用すること能はず。
以上、六人の会員の意見中四人までが、尋常科四年卒業程度では処世の用に役
立つ実力は能力的に無理だとする注目すべき発言をしている。それは児童の発達
論から見た貴重な体験だからである。
さて、坂本が開朦小学校で実践した尋常小学校の段階で、算術科教授細目に示さ
れた「万以下の数の加減乗除、普通の小数」の授業程度を越えた「利息算」「求積
算」は、処世の用・実用の教育という面で肯定できても先の六人の会員の発言から
みてどうであろうか。児童の発達段階からみて無理ではないか。視学の「法規抵触」
の発言も、この辺に関係がありそうである。
一方、実用の教育という思潮の中で、これに批判的な意見もあった。当時の教育
雑誌(32)に一教師が、「算術科教授の心得」として、次のようなことを挙げている。
今日算術を教授するに当り、算術を誤解して、唯日用の計算をなす単なる技術なり
とするが故か、式題若しくは問題を課して其答を求む運算の順序方法の当否は兎も
角其答を得さすれば宜しからんと……、算術教授を全うせんには第一に数理を理解
せしめ、第二に運算の術を教え、傍ら実地の応用を授くべきものならん。
とし、実用的な算術を課すことによって、数理概念の育成を主眼とする、算術科のね
らいを誤まらぬよう提言している。
教
案
坂本は開朦学校着任早々、服務心得と規定を設け、教員に念入りに、しかも逐次
説きすすめた。その中の一つに「教案は前日中に校長席に提出して置くこと、止むを
得ぬ場合は、授業開始十五分までに校長の検閲を経ること、万一欠勤の際は教案
を臨時代理を通じて提出のこと」などの規定が見られる。
当時、教員は毎日教案を作成して校長の検閲を受けることが法で定められていた。
この法に基き、神奈川県では明治 34 年 1 月県令第三号(33)において教員に教授草
案を作ることを命じている。
教員は教授細目ニ基キ各時間教授スヘキ程度二依り教授草案ヲ作ルヘシ、一週間
ノ教授終リテハ其ノ成績ヲ教授週録ニ記載スヘシ、前項ノ書類ハ教授ヲ受ケタル児
童ノ在学年間保存スヘキモノトス、
教授案ハ必要ノ場合ヲ除ク外教授当日以後ノ日程ヲ作成スルヲ得ス、
教授草案ハ毎日放課後翌日分ヲ調製シテ毎週土曜日ニ校長ノ検閲ヲ受クヘシ、但
シ校長事故アルトキハ首席訓導代検スヘシ、
この規定によれば、教案は教授細目・教授週録などにより作成するのであるが、こ
れらは当時小学校において備えなくてはならない帳簿であった。教授細目・教授週
録・教案の作成を小学校に行わせたのは、教育課程の管理体制の確立をねらいと
したもので、特に教案の場合は、次のようなねらいがあった。
一 教授事項の繁簡・難易や教授方法の改善。
二 学事監督官が巡視の際、これによって実践・進度を確認する。すなわち「既
往の経歴」の証左とする。
教授細目・教授週録・教案を作成することは、当時もいろいろ問題があったようで
ある。次に、二・三の資料を用いて述べてみる。
明治 27 年 7 月 3 日大住・淘綾郡役所より大野村役場あてに出された「小学校教授
細目・教授週録の調製完備に関すること」という通達(34)によれば、
小学校ニ於テ教授細目及教授週録ヲ備フルハ、最モ必要ニシテ、一日モ之ナカルヘ
カラス、然ルニ過般当庁吏員ヲシテ巡回セシメタルニ、其村四之宮小学傾ニ於テハ、
僅カニ数教科ノ分ヲ調製アルノミニシテ、完備シ其旨当庁ヘ届出候様該校長へ通達
有之度及照会候也、
と校長の怠慢を戒めている。
また、教授細目や教案が当時の教師たちにどのように受けとめられていたか。教
育雑誌(35)に「教育者の落膽」と題し、次のような記事がある。
余養蚕休暇隣村に遊び某氏は熱心家の聞えある人なり、某氏教授週録・教案など
を出し余に示して曰く、此位詳細ならば知事の御叱りは受けぬか、かやうに記入せ
ば郡長に彼れ是れ言われはせぬかと質問続々たり。余却て問うて曰く、君は何の為
に教授週録を作り、何の為に教案を製す。某氏対して曰く、児童を教育する為なり、
余再び問うて曰く、然らば当時の所謂教授細目等は果たして実際に行はるゝや、某
氏曰く、実際は其通り行はれ難し、余即ち容を改め色を正して曰く、果たして実際に
行はずんば必ず譴責を受けんと、某氏忙然と色を失ふ、
これは当時、主体性を失って、教授細目・教案等に接している教師に対する風刺と
みてよいであろう。
これに対して、坂本の場合は
◇ 龍之輔は、七年間、丹精を凝らした教案を携えて出るべく、委員の諒解を求め、
いまは堆いその教案を、同量の白紙と取りかえて残すこととした。
彼にとっては既に一個の著述となるべき教案の累積は、彼の南村在職の記念であ
るばかりでなく、彼にとってはその総決算であり、同時に将来の基本となるべきもの
であった。
(第二部 第十章 聯隊旗 ―機 縁―)
として、彼の場合は教授に主体的に取り組んだ貴重な実践記録と言ってよいだろう。
これは「教授事項の繁簡、難易や教授方法の改善」を詳細に記した教案であったに
違いない。
訓練簿
◇ 明治二十三年に地方学事通則が発表されて小学校令に改正の点が出来た。
……この改正小学校令の実施方取調委員会が西多摩郡役所に置かれることになっ
た。……習文の坂本龍之輔がその委員に選ばれた。……他の四委員は、何れも郡
下では大校長であり、三多摩教育会の幹部でもあった。……たまたまその会で学校
に備えおかねばならぬ帳簿の検討がなされた。(傍点筆者)……学籍薄教案簿をは
じめ、三十種に垂(なんなん)とする精密な帳簿案も出た。それはどうしても実際に即
したものと思えなかった。……彼が用意して行ったものは、甲羅に似せて穴をほった
簡潔な処理法であった。しかし要は洩らさぬ、令に照らして欠くるところのないつもり
のものであったにも拘らず、四人の冷笑を買うばかりであった。
(第一部 第五章 古里村 ―山村地区―)
当時、学校に備えなければならない帳博は、本文のように数多くあったが、最も問
題があったのは、後述するように訓練簿(訓練誌)であった。坂本が提出した簡潔な
処理法による帳簿の中に先ず訓練簿があったに間違いない。
明治 25 年 3 月に示された神奈川県小学校則によれば、「小学校教員ハ訓練上ノ
参考ニ供スルタメ便宜ノ表簿ヲ調整シ各児童ノ心性・行動・言語・習慣・偏癖等ヲ記
載シ且訓練ニヨリ矯正改正シタル状況ヲ記入スヘシ」となっている。そして、「便宜ノ
表簿」の如くその形式は一定ではなかった。したがって、当時教育界で、訓練簿の形
式が論議を呼んでいた。例えば、須田辰次郎(坂本が師範学校在学当時の校長)が
「巡回中の所感(36)」と題して、次のようなことを言っている。
巡回中訓練簿の記注方に就きては何れの学校も困難を極むるを認めたり、其用紙
に記入せしものを見るに、或は聖人賢者と称するも差支えなきが如きものあり、或は
桀紂の暴と雖も之に過ぐることなかるべしと思わるるが如き児童ありて実に其方法
に迷うものの如し、想うに簡短なる評語を以て心性・行為・言語・其の他の事を品評
せんと試むればこそ斯くも困難を感ずることなからん、故に今仮りに左の如き罫紙を
用いて其記入の一例を示せば……
として、極めて簡潔に記入できる形式を示している。また、「教育管見(37)」と題して、
ある会員が
生徒訓練簿を製するは容易の業にあらず、十分相互に協議して其記載の方法を定
め置かざるべからず、簡単なる言語を以て生徒の行為等を記すは望ましからず。
また、中村才輔は「児童訓練簿(38)」と題し、横浜市大岡小学投で実践しているこ
とを発表している。それによれば、
……我が校に於て考案成り現今実行するものにして、是れより隔靴掻痒の感なき能
はずとするも……
と述べて会員の批判を求めている。
以上のような論説は、坂本が実施方取調委員会で、簡潔な処理法による帳簿を披
露したころと同じころのものであることに注目したい。
その後、村上郡長が前触れもなく書記を連れて巡視にやって来た。胸毛をのぞか
せている郡長がまっ先に声をかけた。
◇ 「それに先刻表簿を見せられた時は驚いたな。細々と、しかも一目瞭然に記載さ
れているのを見てあっと思った……君の言った通り、支度ばかりが過ぎていたのだ。
こんなことは言って貰っては困るが、福生では記載どころか帳簿さえまだ整っていな
かった。いや、恐れ入った」
仕事を認められれば龍之輔もうれしかった。
(第一部 第六章 人生の達人 ―村上可計―)
村長 真室平九郎
坂本は渋谷村における闘いを、ここに移し、続けるのだという悲壮な覚悟で、明治
27 年 10 月 22 日(本文は 9 月 16 日)内争にわき返っている南村(現町田市)に赴任
した。
この村の内争というのは、渋谷村と違って、自由党派と学校派との争いである。学
校派というのは政党色のない旦那衆の集まりで、政党派からはむしろ軽べつの称で
あったようだ。坂本の通算七年間に及ぶ開朦小学校の生活は、この内争の中で終
始したといっても過言ではない。それは、政党派の当面の盟主である村長真室平九
郎(本名細野喜代四郎)と、学校派の協力を得て学校事業を行う坂本とが何かにつ
けて対立したからである。
対立の原因は坂本の「学校事業は村の共通経済に依るべし」という方針に対し、
村長は「経費節減民力休養」という当時の政党の主張をそのままこの村に持ち込ん
で、「時代の踊りを踊っている」として彼を憤慨させた。そこで、村長細野では彼の考
え方を入れてくれないので、細野の同志で前村長の杉村理久太(本名松村育太郎)
に協力を求めたが不成功に終わった。たまたま、村長の細野の下で収入役をしてい
た中里真七が死亡し、村役場の収支の経理に不明瞭の点があると指摘され、結局
村長細野は辞任した。
そこで学校派から村長が出て村政をあずかるようになると、坂本はこれ等の人々
の協力を得て、校舎の増築・設備の充実等を村の共通財産で行うべく計画した。豪
胆無類の彼は政党派の妨害を受けながら遂にこれを成し遂げた。その後、仲裁者を
得て両派の仲直りができ、村乱に終止符が打たれた。
以上が板本の南村における村政とのかかわりあいの大要である。
そこで、坂本が政党の傀儡だとし、ことごとに対立した村長真室平九郎こと細野喜
代四郎とは如何なる人物であったか。彼はこの地方の自由民権家としても、また村
政の担い手としても、村史の一頁を飾る人であると今でも高く評価されている。
彼は大正 4 年に「東京府南多摩郡南村誌」を自らの手で編集している。それによる
と、荒廃していた開朦学校を明治 19 年彼が戸長になるに及んで二・三の人の協力を
得、私財を投げうって明治 20 年 10 月に間口一〇間・奥行五間の校舎を建て、同時
に尋常・高等両科を併置したと記している。
また、「教育費区経済と村経済の衡突」という項には、彼の学校事業に対する抱負
が受け入れられなくて、村長を辞任した経過が述べられている。すなわち
本村教育費は従来区経済なりしかど時の村長細野喜代四郎惟ひらく、抑々教育費
なるものは一面には学校の統一上よりするも又一面費目の性質上よりするも村経済
ならざるべからず。
としている。これは明治 22 年に市町村制が実施されたにもかかわらず、依然として
戸長制度の弊風が残存し、戸長の管区から教育費を出費していたが思うようになら
なかったからである。さらに、この間の事情を同誌では次のように記している。
……仮令ば教員等の俸給の受授さえ定かならずして甲村の戸長へ請求すれば曰く
学費未納にして支給し難し、乙村戸長亦然り、丙村も亦斯の如きの状態にて諸事万
端俚語に所謂突掛物なる故、教員の居るものなく、従って生徒の昇校者も絶え終ひ
には閉校否廃校同様の醜状に陥り……
と述べ、教育費は村の共通経済にしなくてはならない理由を述べている。
細野の考えていたことは、経費節減民力休養ではなく「教育費税率均一案」で、こ
れは坂本のいう「学校事業は村の共通財産によるべし」と同じで、この点では意見の
対立はなかったはずである。しかし、この提案が政党派か学校派かにより村会で賛
成・反対があったものと思われる。
また細野は、村長辞任の理由は、村会で彼の提案が入れられなかったためと、南
村誌で述べていて、役場の経理の不明朗についてはふれていない。ただ細野の辞
任で問題が解決したのではなく、同誌によれば、
抑々此教育費問題が動機となり其根帯なき枝葉を生じ一時は南風荒んで枝葉を鳴
らし雲起り、雷吼えたりしが所謂雨降って地囲まるとかや。
と述べ、細野自身も村の内争に心を痛めていたことを認めている。
また、細野は坂本を同誌で「明治三十年前後は校長坂本龍之輔新進熱烈最も努
力す、故に他村よりの通学生も此時代を以て最高とす……」と述べ、青年教師の意
気を推奨している。このとき坂本は二七歳、細野は四二歳であった。
校舎増築の経過
開朦小学校はもともと、鶴間・小川・金森三区の負担による設立であった。坂本は
その増築を一般村費でするということは、百年の大計をたてることであるとし、不合
理・不合法の区負担学校経済を村経済の正常なものとする前提であるとした。この
ことは村長細野も同じ考えであったことは既に述べた。
坂本のこのような考えに対し、学校派が優柔不断であったのを彼はふがいなく思っ
た。そこで村の共通経済による増築の件が決まらぬ限り、帰校しないと強い決意で
村を出た。学務委員はこれに驚き慌てて「増築案賛成即時実現を期す」という決議を
し、これを村会に回した。二回も村会が流会し、三回目に学校派の村長井上亀吉の
裁断でこれが可決された。そこで直ちに工事が実行に移され、木の香も新しい校舎
で、明治 29 年 3 月卒業式を行った。これで村の共通経済により増築ができ、南村粛
清の第一歩が確立した。これが本文に示された増築の経過である。
この増築問題について、次の二つの疑問点がある。
一 町田市立南第一小学校(開朦小学校が前身)の沿革史によると、増築完成は
やはり明治 29 年 3 月である。しかし、この当時の村長は井上市松で、彼は細野に次
ぐ政党派の人物である。したがって、坂本や学校派の擁立した村長井上亀吉の時代
ではない。
二 増築が村の共通経済によって行われたとしているが、南村誌によれば、村長
細野が村会に提出した教育費問題はまだ解決していない。すなわち、「教育費村均
一経済に引直し訴願」が山下林蔵外四名の有志総代により郡長あて提出され、これ
に対する裁決が、明治 31 年 12 月 22 日である。なお、この裁決に不服であったので、
有志総代は「村税賦課」を明治 29 年度まで引き直すよう府知事・内務大臣に陳情し
ている。
教育費を村の共通経済にするために、内務大臣にまで陳情し、裁決を求めなけれ
ばならなかったことから、当時如何にこの村がこの問題で対立が深かったかがうか
がわれる。このことは、先に細野が「其根帯なき枝葉を生じ一時南風荒んで……」と
南村誌に記していることを裏付けるものである。
また、本文によれば坂本が開朦小学校に在職中に、校舎の増築はこれ以前にも
実現をみている。それは、明治 28 年 1 月坂本が学務委員を帯同して参観旅行に行
き、他校の例にならって事務室を増築したことであり、これは全く参観旅行の成果で
あると高く評価している。
しかし、この事務室の増築は、実は彼が赴任する前に完成している。細野の南村
誌によれば、
明治二十年十月校堂新築且つ位置も確定せし為学区内の人心も翻然し将に時勢
の進運の然らしむる所と共に父兄等の教育思想も年に月に発達し来り当局者有志
としては佐藤喜一……等を初め父兄等も亦尽力したるを以て二十二・三年の交に至
りては小規模ながら事務室も一棟増築したり。
と記されている。明治 22・23 年というと、坂本は師範学校在学中ということになる。な
お、村誌中の佐藤喜一は学務委員として坂本に終始協力した一人で、参観旅行にも
同行している。
実業教育
坂本は、開朦小学校をあくまで質実を旨とする農村の模範学校にするため、神社
や寺院のあき地を借りて生徒の農業実習をさせ、収穫物の収益を、学校財産の蓄
積に充てたいという案を学務委員会にはかった。そして、最初に計画したのが桑園
の造成で、その意図は次のようなことであった。
◇「この辺の桑の栽培が、どうも私には解せないのですがね。ああいう無茶な枝の
のばし方は、私の郷里ではやりませんよ。あれでは葉の質と量を損ねると思うのだ
が」
「虫害がひどいので、ああするよりしょうがないんですよ」
「学校で一つ実験したいな。万一失敗しても、教育上の所得には大きいと思うが――
それにつけても実験用の畑がほしい。」
(第二部 第九章 痩せた土 ―原始の営み―)
念願の学校桑園がいよいよ実現されることになった。それは学務委員の骨折りで、
三反三畝の畑地を借りることになったからである。入札の学校糞尿料を桑苗買入れ
の資金に充てた。植込みや管理は生徒にさせた。桑園を丹精した結果、艶々と豊か
な桑の葉が繁った。しきりに農家の人々が見に来た。生徒が得意にこれまでの方法
と経過を説明するので、それは、坂本にとって会心の眺めであった。
以上が、坂本の実業教育に関する一断面である。
当時南村は養蚕が盛んで、桑畑も多かった。細野喜代四郎は南村誌にこの情景を、
次のように表現している。
村の北、村の南方緑と化す
豊桑繁雑逸人稀なり
唯彩日暮水田の側、老少相携え月を踏んで帰る
当時の教授要領(39)によると、
高等小学校ノ教科ニ農業を加フルトキハ、地理・理科等ノ教授二連絡シテ……栽培、
養蚕等ニ関シ土地ノ情況ニ緊切ニシテ児童ノ理会シ易キ事業ヲ授ケ便宜之ヲ実習
セシメ農業ノ趣味ヲ長ジ……
となっている。このことから、坂本が桑園の経営を思いたったのは、村の実情にマッ
チした考え方である。
しかし、桑園の栽培が村への啓蒙的な発想であることは、前述の教授要項、また
はこれを受けて、学校農園をあえて「農業練習場」とよぶ精神からすると、実業補習
学校以上の内容ではないかと考える。また、桑園の実習をどのような教科課程に位
置づけたかも疑問がある。彼の場合は、専ら体操の時間を繰り上げて午後苗の植
付作業を行ったり、また、管理も体操の時間を利用した。これは正式な教科課程に
組み込まれた特設の農業科ではなかった。したがって、彼の試みは、当時の初等実
業教育振興の風潮に刺激された、一つの試みとするのが妥当であろう。
実業教育は制度としては明治 26 年、井上毅文相のとき定められたが、実態は低調
であった。
これに対して、行政当局は実業教育を振興させるための方策を検討し始めた。す
なわち、明治 33 年県より「実業教育を発達せしむる手段方法如何(40)」という諮問
が各郡市の教育会に出された。また明治 36 年高座郡教育会が「県が農業科加設を
奨励されたるを以て会員が指導者を招聘して講習会を開催した(41)」ことなどがあ
る。
このような、県や教育会の努力の結果、渋谷小学校などでは、ようやく明治 37 年 4
月 1 日より高等科に農業科が特設されている。ちなみに、坂本は明治 33 年 9 月に
南村を去っている。このことから、先に挙げたような問題点があるものの、彼はこの
地域の実業教育の先駆者であるとも言える。
当時の初等実業教育ブームの中で、これに批判的な考え方も当時の教育会には
あった。すなわち、ある会員は「精神教育と実業教育(42)」と題して、次のように述べ
ている。
近頃実業教育の忽せにすべからざることの一度有力者の唇頭を破りしより、甲乙相
伝へて都鄙に喧しく、今更ら悟る所ありしものの如く彼れも実業、是れも実業と噪ぎ
立て、実業教育にあらずんば殆んど教育というべからざるものの如く思うもの多し、
……試みに見よ彼の学校参観者の多数を、彼等の学校に来るや器械・標本・手工
場・農業園の如き、形を具へたるものにのみ眼を止め、其多寡、広狭を以て其学校
の良否を判定し批評し、而して精神教育の如何に行はるゝかは毫も問はざるにあら
ずや……要するに予は絶対に実業教育を軽蔑するにあらず……極端より極端に走
るべからずというにあり。
ここで言う「精神教育」とは、農業科に関しては「農業に関する趣味を助長し、勤労
愛好の精神を養う」ということであると思う。
坂本が南村で考えていた、桑園経営の実践、有畜農業の奨励、女子勤労の新生
面の開拓、次男・三男対策等の発想は、実業教育の振興・村の産業発展を意図した
面で高い評価ができる。しかし、前出のような実業教育に対する見方もあることを見
逃してはならない。
村の雇人
坂本は増築工事がはかばかしくいかないある日、教室で「……この村の大人たち
は莫迦だ、お前たちの親はみんな莫迦だ」と言って、増築工事を実行に移さない大
人たちを誹謗した。
◇ 細野惣太郎がすっと立った。
「先生、自慢高慢莫迦の内といいます、そんなら、そういう先生も、莫迦です」
龍之輔はたじろいだ。
「――惣太郎、それはちがう。先生は何も自分一人が悧巧だといって力むのではな
い。……」
「先生、そんなことを言ったって先生は村の雇人じゃないか。村から月給をもらって食
っていて、偉さうなことが言えるもんか」
「そんなことを、誰に教えられたか、聞きかじったのか、そんなことを言うお前が、そ
れこそ莫迦だぞ。……」
龍之輔は昂奮していた。子供たちを相手にまくし立てているのであったが、しかしそ
れは、見えぬ敵への挑戦であった。
(第二部 第七章 教師の妻 ―村の雇人―)
一生徒である細野惣太郎の言ったこの言葉は、当時村人が学校の教師に対しても
っていた共通認識であり、信頼する生徒の口から、このような言葉がでたのは、ショ
ックだったに違いない。
教師は村の雇人だという風潮は、この村に限ったことではない。そして、この考え
方が教権を確立していく上に、如何に障害があったか、二・三の例によって述べてみ
る。
斉藤兼吉(教師 明治 19 年卒)は「給料と戸長(43)」との標題で、
明治二十一年俸給令発布以前の事、月俸十二円首席訓導在任中、年一回の慰安
旅行の件につき戸長某と意見の衝突を来した時、翌日になりて次の如き書簡を接手
いたしました。
「前略本日以後貴殿の月給を金九円に減額致侯条左様御承知相成度云々。」
国民教育者の地位待遇此の如き時代もありました。現在の先生方は喫驚せられて
腰でも抜かさぬよう祈り上げます。
また、ある教育雑誌(44)には、教員は村の雇人であるという風潮を次のように述
べている。
現今田舎の有様を見るに、町村自治とか口にする所謂生意気なる町村には、教員
俸給を町村より支弁するを以て教員は町村の雇人と見倣されおるが如し、故に教員
は町村長及人民の鼻息を窺ふて事をなす、之に反すれば人民輿論などと唱へ良教
員を放逐する等往々耳にせり……この故に学校当局としても郷土教育を超越した心
にもない外交辞令に社会感情の融和を図らなければならないし……教育の本質か
ら遠ざかって行くのがむしろ普通である。
このような状態の教育界では、役場と学校は「相親しむこと父子兄弟の如く職員と
村長と相共に一致して学校事業を振興すること大いに必要なり、諸君以て如何とす
(45)」のような消極論が風靡するようになる。
教師が村の雇人であるという風潮に対して、坂本のとった態度はどうであったか。
惣太郎との問答の中から、さらに彼の考え方を追ってみる。
◇ 「だがよく聴け、村は月給を払ってはおらんぞ。先生は、満足に月給を受けとった
ことは、唯の一遍もないのだ」
「先生はみんなの親なのだ。本気になって教えるぞ。月給なんか問題ではない」
「先生がもし飢えるようなことがあったら……腹が減った、飯だ飯だ、と命令するぞ」
(第二部 第七章 教師の妻 ―村の雇人―)
彼はこのように、村の雇人として自ら卑下している様子は見られず、ここでも「月給
をもらうから教えるというのではない」「俸給を得んがため教壇に立って、徒らに時の
経過を待つにすぎないことは、教員の精神何処にありや」などという、教職神聖論が
顔を出している。
壮士の威迫
坂本の渋谷村・南村の在職当時は、政争渦中に身を投じた壮士たちが、まだ村々
に横行していた。学校経営者として、彼はいくたびか壮士の威迫を受けた。
渋谷村では南部(改進党)の壮士、北部(自由党)の壮士が入れ替わり訪れ、彼が
いずれに加担するのか真意を確かめるため彼を威迫した。これに対して彼は「教育
の方針は、表面的な政治の動向によって動くものではない」として、彼らを退けた。
南村では小学校解体問題で、これに反対の立場をとる坂本に、辞職を迫る小川壮
士の妨害があった。これに対し坂本は、開朦小学校を解体することは、村の教育の
後退であり、禍根を後世に残すと断固退けた。また、鶴間壮士によって焼き討ちされ
た高下家の子弟を通学させることについて、学務委員から鶴間壮士を向こうにまわ
すことになるので……一人の生徒のために校長職を失いかねないと自重が求めら
れた。これに対し坂本は「学校は政争に超然たるべく」として断固通学を許可した。
また、新役場(学務委員派)が発足してから二年目に、南村の一部落に赤痢が流
行し、その対策のため多額の村費を支出したが、その使途に不正があると、小川壮
士によってそのことが村内に流布された。そこで、帳簿検査を許す、許さないで、小
川壮士が役場を包囲して対立した。たまたま、役湯に近い学校も壮士によって包囲
された。これに対し坂本は「学校は神聖な場所だ、何人たりとも入れることはならん、
一歩たりとも踏み込めば自衛権をふるうぞ。」として、自ら村田銃を持ち職員を督励
して学校警備に当たり事なきを得た。
その後、坂本は騒動を起こした小川壮士の処置が手ぬるいと警察署に異議を申し
立てた。それは「義憤の底に教育者としての本来の思いが根据っていたからに他な
らない。」と本文に記している。
以上が渋谷村及び南村での壮士の威迫のあらましである。
では、坂本が渋谷村及び南村で威迫を受けた壮士とは一体何か。南村誌は、
抑々明治維新以来時勢の進運に伴い青年子弟が学術・弁論の研究に武術腕力の
練磨に励精努力し、一朝事あれば、出で政争渦中に投じ遂鹿場中に奔馳し、……或
時は党の闘士となり活動奮躍し来るものなり。
と述べている。これらの壮士は、ふだんは農耕など家事に従事し、有事の際はすべ
てを投げうって結集するという組織であった。渋谷・鶴間・小川の各壮士は、三多摩
壮士団の一組織である。これらの壮士団について色川大吉(46)は、
当初は専制政府打倒・吏党撲滅・民権伸長のための実力者であった組織がいつの
間にか、政党政治を叫ぶ民衆の中に撲りこむような役割に変わり民衆から嫌悪され
る反社会的な寄生虫的存在に堕落していった過程でもある。
と述べている。したがって、坂本を威迫した渋谷・小川の壮士、また、高下家の焼き
討ちに関した鶴間壮士の行動が事実とすれば、以上のような批判は免れまい。
ただ、渋谷・鶴間の壮士はさておき、赤痢対策に伴う不正支出の問題から、新役場
(学務委員派)と小川壮士の衡突は、本文といささか事情が異なるようである。南村
誌によれば、
……また、明治三十一年某部落内に伝染病発生し頗る猖獗を極めたるため経費六
百円を要したり、然る処従来類例なき費目なるにも拘らず、当時の理事者(注 いわ
ゆる新役場)は之を村税として原案を提出し、村会これを可決したるに、一方此必須
村税ならざるべからざる教育費を区税として徴集したるは不均一も甚だしく……
とあり、赤痢対策費を村税で出しながら、教育費を村税でまかなわない不合理を指
摘しており、本文と論争の観点が違っている。
また、伝染病対策費について、同誌では「尤も当時は何れも尚無経験故強ち此弊
なきにしもあらず」として、村費乱費の恐れもないでもないとしているが、これが小川
壮士と新役場派の衡突の原因となってはいない。
小川壮士の結成は明治 23 年で、この生みの親は細野喜代四郎であり、坂本が南
村にいた頃も、細野は壮士の指導者であった。それ故「村長 真室平九郎」の項で述
べたように、細野と坂本及び新役場の対立を、赤痢対策費の不正を素材として、統
治者意識の強い細野に対立する、坂本の教育者としての信念を描いたものと考え
る。
あとがき
私は坂本が村落校長時代精魂を傾けて教育にあたった習文・渋谷・開朦の各学校
のあと、及び彼の出生地を訪ねてみた。
この三地区のうち、最も小説の情景を留めているのは、習文学校のあった地域で
ある。立川から青梅線で約一時間、多摩川の渓流に沿って上流に進むと古里駅が
ある。この駅の周辺は小丹波といい、小説の舞台である。ここに習文学校のあった
西光寺や、八人の旦那衆の家、また、彼が児童と協力して作った通学路の跡など、
本文にある情景がほぼそろっていて、明治に立ち帰った感じがする。西光寺はつい
最近までは当時のままで、坂本が起居した部屋も残っていたが、現在は取り壊され
て別の場所に移っている。習文学校は後に古里小学校と改められ、数年前三階の
鉄筋校舎が完成した。旦那衆の家のうち川本老人(本名沢本宇兵衛)の家には由緒
ある長屋門があり、この小説とは関係はないが、建築雑誌等にも紹介されている。
渋谷村の場合は、学校の近くに高等小学校があったことから、高等町という地名が
残り、学校の跡地には渋谷文化会館ができ、大和市南部の行政・文化の中心となっ
ている。また、坂本が最初に訪れた学務委員の大津金之助の家も下和田小学校前
にある。
南村には、現在の町田市立南第一小学校の校門近くに当時の校舎があったが、
古の面影はない。ただ、学校の近くにあって坂本に協力を措しまなかった石川屋(五
郎左衛門)は、昔と同じ場所で雑貨店を営んでいる。また、坂本の食事等の日常生
活の世話をした原の寿司屋も、商売はやっていないが残っている。旧小川部落のつ
くし野団地の入口には、細野喜代四郎の家もある。
坂本の生地である西多摩郡西秋留村は、現在秋川市となっている。彼が晩年を送
った中村家跡は、八王子サマーランドより秋川を渡った対岸にある。ここには、彼の
銅像と頌徳碑が建てられていて、ここからわずかのところに彼の墓地がある。
注
(1)『神奈川県教育会五十年史 下巻』
(2)授業生試験 准教員の資格を取得するための試験で年齢は一四歳以上の者が
対象、免許状は五年を期限とす。
(3)色川大吉著 中央公論社 昭和 48 年
(4)この当時の師範学校は、軍隊と同じく 12 月 1 日に入学し、卒業は 11 月 30 日で
あった。
(5)郡区長薦挙尋常師範学校生徒薦挙方法制度
明治 20 年 4 月 1 日 神奈川県令 沖 守固
(6)教育展望―地域の中の学校―昭和 49 年
(7)母校創立六十年史稿を要められしに就て(思い出)
坂本改 中村籠之助 昭和 10 年 10 月
(8)「小学児童の体育について」
神奈川県友松会通信 第四(明治 26 年 11 月発行)
(9)『明治百年の教育』 唐沢富太郎 日経新書
(10)雑誌「えんぴつ」(昭和 40 年 8 月号)大日本図書 KK
(11)神奈川県友松会通信 第四(明治 26 年 11 月発行)
(12)(14)『神奈川県教育会五十年史 上・下巻』
(13)「小学校教員の私宅教授等の取締りに関すること」
(15)『神奈川県教育会五十年史 下巻』
(16)高座郡長より相原村長に(明治 27 年 9 月 30 日)
(17)小丹波統一山に関する資料
小丹波統一山管理委員会(昭和 44 年 5 月)
(18)山下康哉(二代村長 明治 23 年 3 月∼24 年 4 月)
柴田軍司(三代村長 明治 24 年 5 月∼24 年 10 月)
山下亀吉(六代村長 明治 31 年 6 月∼42 年 12 月)
(19)『新編明治精神史』 色川大吉 中央公論社
(20)雑誌「えんぴつ」昭和 40 年 8 月号 大日本図書 KK
(21)神奈川県友松会通信 第五 明治 27 年 7 月発行
(22)『神奈川県教育会五十年史 下巻』
(23)神奈川県小学校教則 明治 25 年 3 月 19 日
試業ノ目的及方法
小学校二於テ児童ノ学業ヲ試験スルハ専ラ学業ノ進歩習熟ノ度ヲ検定シテ
教授上ノ参考二供シ又ハ卒業ヲ認定スルヲ目的トスル
(24)教育雑誌 第二五号 付録 文部省刊行
「子どもの生活と教育の歴史」―江藤恭二―の文中より
(25)『日本近代教育史 第七巻』 社会教育 国立教育研究所
(26)『明治百年の教育』 日経新書
(27)明治 14 年 文部卿福岡孝弟により発令
(28)「教育界」 創刊号 明治 34 年 11 月
(29)林中書 盛岡中学校 校友会誌
(30)(31)『神奈川県教育会五十年史 下巻』
(32)神奈川県友松会通信 第二 明治 24 年 6 月
(33)小学校令及同施行規則実施ニ関スル規程
(34)「小学校教授細目等の調製・完備に関すること」
(35)神奈川県友松会通信 第五号 明治 27 年 7 月
(36)(37)(38)神奈川県友松会通信 第四 明治 26 年 11 月
(39)神奈川県小学校教則 明治 25 年
(40)(41)『神奈川県教育会五十年史 下巻』
(42)神奈川県友松会通信 第四 明治 27 年 7 月
(43)『神奈川県教育会五十年史 下巻』
(44)神奈川県友松会通信第六 明治 28 年 3 月
(45) 同
第七 同 29 年 4 月
(46)『新編明治精神史』 色川大吉 中央公論社
坂本龍之輔年譜 (出生より開朦小学校まで)
年代(年齢)
本人の動向( )内は月
明治三(1)
坂本吾之輔三男として西秋留村に生れる
県・国の動向( )内は月
四
学制発布(七)
六
五日市勧能学舎設立(十一)
九(7)
共和学校に入学、習文学校開校
十二
小学校試験概則制定(九)
民選学務委員設置(九)
十三(11)
父、秋川洪水のため死亡(51 歳)
十四
十五(13)
集会条令制度公布(七)
小学校教員心得公布(七)
共和学校の助教となる(弁当料 50 銭)
帝国教育会設立(九)
十六
小学校生徒比較試験制度制定(七)
十七
武相困民党蜂起、県下各地で貧民
騒動起る
十八
森有礼文部大臣となる(十二)
十九
自由民権運動一段落す
小学校令・師範学校令公布(四)
二十(18)
小学校授業生免許取得(五)
神奈川県教育会発足(一)
神奈川師範学校に入学(十)
郡長推挙による師範生の募集開始
開朦小学校、現在の南第一小学校(町田
教科書用図書検定規則制定(五)
市)の校地に新校舎完成(十)
二十一
古里村発足(二)
市町村制公布(二)
県議会内に紛争起る(二)
二十二
南村村長に井上光治就任(七)
森有礼死す(二)
大日本帝国憲法発布(二)
二十三(21)
開朦小学校事務室一棟増築
地方学事通則公布(十)
郡視学制度公布(十)
教育勅語発布(十)
友松会通信第一号発刊(十)
二十四(22)
二十五(23)
開朦小学校新校舎落成式挙行(九)
各学校教育勅語奉読式を挙行(一)
箱根ヶ崎村組合内訓導に任命(十一)
新聞・雑誌の検閲はじまる(五)
古里村習文学校訓導兼校長に任命(十
児童の学業試業の目的が示される
二)
(十一)
新年の挨拶のため帰郷す(一)
流 血選挙で三 多摩壮 士活躍 する
南村村長松村育太郎就任(四)
(二)
学校林問題で学友三人と八王子で会談す 県小学校教則制定、市町村立○○
る(八)
小学校と称す
師範生の日原鍾乳洞の探検に同行(十
神奈川師範学校鎌倉に移転す(三)
二十六(24)
二十七(25)
一)
教員の政論禁止の布告(十二)
病気のため一カ月の休暇許可(六)
多摩三郡東京府に編入される(四)
町田村立日新小学校訓導に就任(十一)
教育会での政論集会の禁止(十一)
県知事中野健明渋谷村等を視察(十)
実業補習学校規定制定(十一)
渋谷村の大津金之助を訪問(一)
反政府論で諸新開発行停止になる
渋谷村立高等小学校開校(一)
(六)
渋谷村立高等小学校訓導兼校長に就任
実業教育国庫補助法成立(六)
(一)
清国に対する宣戦詔勅下る(八)
細野喜代四郎南村村長に就任
開朦尋常高等小学校訓導兼校長に就任
二十八(26)
(十)学務委員と参観旅行を行う
小学校教員の私宅授業取締通達
村長細野喜代四郎村会に教育費均一案を
(五)
提出したが否決される
日清講和条約調印(四)
南村収入役中里真七死亡
二十九(27)
細野喜代四郎村長を辞任(三)
開朦小学校校舎増築完成(三)
県教育会で「教授細目」の問題提案
南村村長井上市松就任(五)
される(九)
高下家鶴間壮士の焼討を受ける(十二)
三十(28)
学務委員派村長 佐藤亀吉就任(四)
県知事「卒業生の実力が処世の用
新築された校舎で二十九年度卒業式を挙
に立つか」を 県校長会に諮問(五)
行
国で地方視学官を置く(五)
陸軍大演習が南村を中心として行われる
(十一)
三十一(29)
学校桑園が造成される(五)
県知事中野健明死す(五)
南村村内に赤痢が発生する
郡視学職務規定制定(八)
小川壮士役場を包囲する(十二)
教育費村内均一経済引直し訴願を郡長に
提出(十二)
三十二(30)
初めて南村に有給村長誕生(村長木目田
学校参観規定令達
宗助)(三)
府視学開朦小学校を視察
実業学校令公布
府県に視学制度発足(六)
三十三(31)
南村村長市川四郎助就任(四)
各郡に郡視学を置く
渋谷小学校で農業科を加設する(四)
県知事「実業教育を発達せしむる手
南村において坂本の送別会(九)
段方法」を県校長会に諮問