地球環境と人類の進化を考える - ioj

地球環境と人類の進化を考える
ジャレド・ダイアモンド著『第三のチンパンジー』
副題
人類の進化と将来
ハッパー・ペレニアル発行、初版 1993 年
再版 2006 年
「九曜」訳、寄稿
2009年5月
序
人類は他の動物とは違うように思える。また、解剖学的構造や分子構造の詳細を紐解いてみると、
人類は結構大きい哺乳動物に類する一種であることがわかる。人類はこのように不両立性というよう
な特徴を持つ。それが何処に起因していて、それが何を意味するのかを、未だに我々は理解出来てい
ないようだ。
一方では「動物」と呼び、その区分を定義してその存在を認めながらも、人類と他の多くの動物種
との間を結び付けられない程大きな隔たりが存在する。ムカデ、チンパンジー、二枚貝が、人類の持
つ特徴を全くお互いに分け合ってないというわけではないが、人類だけに制限された特徴を持ってい
ないと考えるほうが妥当だといえる。喋る、書く、複雑な機械を作るなどの所作は、人類に備わって
いる独特の特徴である。人類は、素手でなく道具を用いて住居を作る。多くが衣服を着て、芸術を楽
しみ、宗教を信じる者が多い。人類は地球上の至る所に住み、エネルギーを使い、物を作り出し、深
海や宇宙にまで探検して住もうとし始めている。人類は他方、虐殺をし、拷問しては歓喜し、麻薬に
耽り、地球上に棲む数多くの種を絶滅に追い込むなど抜き出て悪行をしているのも事実であろう。
実際に、また法的意味からみて、人類は動物と見做せなくなる。人類は類人猿から進化したものだ
とダーウィンが1850年に発表したとき、多くの人々がその進化論は実に馬鹿げたものであり、人
類は別途神様によって創られたのだと主張し続けていたことは、そう驚くものではない。大学卒アメ
リカ人の四分の一以上も含む多くの人々は、今日でも未だにそのように信じ続けているのだ。
然し一方で、我々人類は、普通の動物と同じ器官、分子、遺伝子を持った動物であることに間違い
ない。人類が何か特殊な型の動物であるのも、同様にはっきりとしている。外見上人類はチンパンジ
ーとそっくりであって、人類が神の創造物であると信じていた18世紀時代の解剖学者が、両者の類
似性に既に注目していた。衣服を身に着けず、身に付けている全てを外した、一言も喋らせない、唸
らせないようにした、人体を何も変えない状態の標準的な人々をここで想像してみたい。チンパンジ
ーが隣にいる檻の中に、その人を入れたとする。そこで動物園を訪れる衣服を纏った普通に喋る人々
を入れてみよう。檻に入れられた喋らない人々が、毛が殆ど生えていない、上を向いて歩くチンパン
ジーのように見えてくるようになる。宇宙空間から来た動物学者がそれを見たら、ザイールに棲むピ
グミー・チンパンジーや他の熱帯アフリカに住む人々と一緒に第三種のチンパンジーとして直ぐに分
類するであろう。
ここ数年来、分子レベルの遺伝子研究により、人類の遺伝子がチンパンジー遺伝子情報の98%同
じものを持っていると解明されてきている。人類とチンパンジーとの間にある全遺伝子の相違は、赤
眼モズモドキ科と白眼モズモドキ科との密接に関係する鳥類間の相違よりも小さい。従って人類は、
未だに自分と一緒に自分たちの古い生物学的荷物の殆どを運んでいることになる。ダーウィンの時代
から、類人猿と現代人との間で種々進化した中間過程と思われる数多くの化石骨が発見されてきてい
るが、それが、理に適った人間というものの存在を不可能にし、埋もれている証拠を否定している。
馬鹿げているように一度は思えた「人類は類人猿から進化したこと」が、実際に起きたのである。
類人猿と人類との中間にあったと仮想されている多くの動物の化石発見は、それを十分に解決しな
いで、その問題を更に魅力的なものにし続けている。人類が獲得したごく少量の荷物である、人類と
チンパンジーとの遺伝子相違2%は、人類に備わった比類ない特徴と思われる全てを背負っているに
違いない。人類は進化を遂げる過程で、素早く然も最近というよりは寧ろ長い時間を掛けて、少しず
つ変遷をしてきている。人類とは別の大きな哺乳類が地球上に出現した時期は、10万年前という最
近のようであると、宇宙空間から来た動物学者が我々に言っている。それが特に火を取り扱い、道具
を使いこなすという奇妙な振る舞いをする一組の人類だとしよう。この振る舞いは、地球圏外からの
訪問者に対してビーバーやニワシドリの振る舞いよりも奇妙なものに映らなかったであろう。どうい
うわけか、一人の人間の記憶を測ったときには無限に近い位ながいが、人類が分化していく歴史から
眺めるとちっぽけな断片である1万年前には、人類は独特で且つ壊れ易くするような特質を発揮し始
めていた。
我々を人間とした数少ない鍵を握る構成因子とは何だろうか。人類の独特な特徴が最近に然も少し
ずつ変化し始めて以来、その特徴若しくは最低限でも先任者は、動物の中に既に存在していなければ
ならない。芸術を楽しみ言語を使い、大量虐殺や麻薬の悪習を持つ先任者である動物とは、一体何者
だろうか。
この人類が持つ特徴は、一つの分類上の種として現在の生物学的な成果である。地球上全ての大陸
に生まれつき住んでいる大きな動物は他にはないし、砂漠地帯や北極から熱帯の密林地帯まで全てに
居住している。狂暴な動物というライバルは人類に存在しない。しかし、人類の存続が今や危険に晒
されている、お互いに殺しあう性癖と環境破壊という二つの人類が持っている独特な特徴がある。ラ
イオンや他の多くの動物が自分らの仲間を殺すことや、象などの動物が自然環境を破壊するなどその
二つ性癖を他の種も勿論持ち合わせている。しかしながら、人間の持つこの性癖は、他の動物が持つ
それよりも、人間の持つ技術力や爆発的人口増などからみて最悪なものであろう。
人類がそれを悔い改めない限り、世界の終焉は近いという予言は何も新鮮な印象はない。先ず、核
兵器とは人類を一気に全滅してしまう手段を我々に与えてしまうものであり、以前にはこの手段を持
っていなかったのだ。次に、地球が持つ正味の生産性、つまり太陽光線から捕捉される正味エネルギ
ーの凡そ40%を既に人類は使用している。今や世界の人口は41年毎に倍増しており、世界で限り
ある資源全体の分け前をどうするか、死ぬほど真剣にお互いに戦い始めねばならないし、成長の生物
学的限界にもはや近づいていると認識しなければならない。更に言えば、絶滅しかかっている動物種
が現在の率で進めば、世界に存在する動物種の殆どが次世紀中に絶滅するか、絶滅寸前になってしま
うだろうし、人間の生活の支えそのものが多くの種に頼ることになるのだろう。
このように聞き慣れた、しかも鬱陶しい事実をなぜ復唱しなければならないのだろうか。寧ろ我々
人類が持つ破壊的な性質という動物の原点を追求することが必要なのだ。それらが実際に人類の進化
してきた先祖伝来のものの一部であるとするならば、それらが遺伝学的に固定されてしまい、そこか
ら変更できないと言わざるを得ないように思われてくる。
人類が置かれている状況は、そんなに希望の持てないものではない。殺人をしたいとか性的ライバ
ルになりたいとかの衝動そのものが、我々人間の中に恐らく潜んでいるのだろう。それらの本能を妨
害しようとし、そして殺されるという悲運を無しに済ませようと、多くの人々がそれを上手く出来る
よう人間社会を未だに予防してきてはいない。二つの世界大戦にて失った死者数を考慮したとして、
石器時代の種族社会よりも、工業化された20世紀での激しい死に方で亡くなった人々の方が、少な
くはない。多くの現代人は過去の時代に生きた人々の寿命と比較して長く生きてきている。環境学者
は、発展主義者や破壊主義者との戦いに何時も負けてきてはいない。フェニルケトン尿症(先天性酵素
異常)や若年発病型糖尿病のような遺伝子に関わる疾病は、現在は苦痛を和らげるし、治療も可能にな
っている。
人類が置かれている状況を詳細に述べている目的は、我々が繰り返してきた過ちをしないようにす
るためであり、人間の振る舞いを変えるために過去に得てきた知識と性癖を活用することである。本
書を出版することで、そのことに少しでも役立てればと思う。私には双子の息子がおり、2041年
には今の私の年齢になる。息子が生きる世界について我々は今何を描こうとしているのだろうか。
本書でもって、人類が置かれている窮地を救う特別な解決策を授けようとは思ってもいない。採る
べき解決策は既に大雑把な概要でわかっているはずである。それは、世界の人口増加を止めることで
あり、原子力兵器を制限し若しくは廃絶することであり、国際的な議論をして平和的な解決策を探し
出し、地球への人類が為す影響を少なくすることであり、生物種や地球上に棲む生き物を保護するこ
となどである。このような政策が今現在、幾つかは実施されている。我々はこれらを首尾一貫して今
実行することが必要なのだ。それらが本質的なことだと我々全員が確信すれば、それらを明日から実
行し始めても十分間に合うことを既に我々は知っているのだ。
それよりも何が欠けているかを考えると、政策の意思が必要とされているのだ。一つの種としての
人類が辿った歴史を追跡し、意思を心に抱けるよう本書を通じて捜したい。人類が抱えている問題は、
我々動物の祖先に遡って追跡できるほど深い根を張っている。その問題は、長い年月を掛けて人類の
力と数を増やしながら育ってきたものであり、今も途方もなく加速してきている。我々が現状の近視
眼的に経験した必然的な結果を、自分よりも自己破壊という面で少ない効能を持っていたにも拘らず、
自分たちの基礎資源を破壊して自分自身を破壊してきた多くの過去の人間社会を丁度検証すれば、
我々は納得できる。種としての人類の歴史を研究すれば、そこで得られる教訓が同じものであり、ま
た明白なものであり、その正当性が証明されるであろう。
大きなキャンバスでもこのようにはみ出る位の内容があるので、私はその幾つかを選択することに
したい。絶対的にも重要な特に好きな幾つかの主題が省略されている場合、そして、むやみに詳細に
追求した他の主題を、読者は見出すことになるかも知れない。そこで読者が感ずかない内に、誤って
導かれないよう、私自身特に興味があるものは何か、そしてそれは何ゆえにそうなったのかを読者に
分かるように最初に示したい。
私の父親は物理学者で、母親は語学に長けた音楽家であった。子供の頃に将来は何になりたいのか
を訊ねられると、いつも父親のような博士になりたいと答えていた。大学の最終学年まで、医学に関
係する研究をしたいと徐々に目標が変わっていった。そして、ロサンジェルスにあるカルフォニア医
学校の大学で、教鞭をとり研究活動を現在している、生理学の教育を受けた。
しかし7歳の頃、鳥類観察にも興味を抱き始めるようになり、将来は言語や歴史分野を詮索できる
学校に行きたいと考えていた。Ph.D.の学位を修得した後に、以降の人生を単に専門的に興味ある生
理学に身を置くことを想像すると、それが段々と重苦しいものに見え始めてきた。そのときに、幸運
にも素晴らしい催事と人々の集まりが、私にニューギニアの高地で夏を過ごす機会を与えてくれたの
である。その旅行の目的は、表向き、ニューギニアに棲む鳥類の巣作りの調査であった。それは、自
分が密林の中にある一つの巣の在り処でさえ見つけることが出来ないと思ったのに、数週間の内に惨
めに計画倒れしたプロジェクトであった。でも、旅行の真の目的は、完璧に果たすことができた。つ
まり、最も野生状態が維持されている世界の一部分であるところを探検し、鳥類観察したいという私
の喉の渇きを潤してくれたのである。そのときに、ニワシドリや楽園の鳥類を含めて、ニューギニア
の「架空の鳥」を見たものが、この私に、鳥類生態学、進化論、生物地理学という、並行して第二の
専門性を引き伸ばす結果を齎してくれた。それ以来、私は鳥類の研究をするために、数多くニューギ
ニアや太平洋上の島々を訪れるようになった。
でも、愛する鳥類の日増しに破壊が進むニューギニアを真ん中に据えた研究は、生物学的環境保護
をせずには、しにくいことが分かってきた。そこで政府のコンサルタントとして実務をこなしながら、
自分の学究的研究活動とを結びつけ始めた。その研究テーマは、私が知っている動物の分布を、国立
公園システムの設計や、提案した国立公園の調査をするのに応用したものである。ニューギニアでは、
20マイルも離れたと使う言葉が夫々違っており、その各地で学んだ鳥類の呼び名が、自分で聞き取
ったニューギニアに棲息する鳥類の百科事典的知識の鍵となるので、もしも私が若き時代に言語学に
興味を持っていなかったら、研究することが実に困難であっただろう。その鳥類の殆どを、全ての最
も興味ある種にかけ離れているホモサピエンスの進化と絶滅の可能性を理解しようとしなければ、鳥
類種の進化と絶滅について研究することは難しい。ずば抜けた人間の多様性に関心を持つ場合に、特
にニューギニアのことを無視することも又出来ない。
今まで書いてきたことは、本書で強調したい人類の特殊な側面に私がどう興味を抱いてきたかであ
る。人類学者や考古学者によって書かれた数多くの優れた書物が、道具や骨の点から人類の進化につ
いて議論を既に展開しているので、本書では、そのことに関しては簡単に要約する。しかし他の書物
では、私の関心がある、人間のライフサイクル、人間の地理学、人間の環境に及ぼす影響、動物とし
ての人間についてあまり論じていない。これらの主題は、道具や骨といったもっと伝統的な主題より
も人類の進化に関して中心に座っているものである。
ニューギニアから引き出される多くの事例であると最初に思うことが適切であると私は信じてい
る。ニューギニアが仮に熱帯の太平洋世界の特別な一部分に位置している一つの島であるとしても、
現代人のランダムな横断面としては殆ど何も供給できない。しかしニューギニアにある天然港は、貴
方がその地域から最初に想像よりももっと大きな人間性のある一面を持っている。世界には凡そ3千
種類もの言語が存在するが、約千種類が、ニューギニアの中で喋られている。現在の世界に生き残っ
ている文化の多様性の殆どが、ニューギニアに詰まっている。ニューギニア山岳地帯の奥地に住む多
くの高地人は、ごく最近まで石器時代の農園を営み、低地に住む集団は遊牧する狩猟民族や何か素朴
な農業をする漁師であった。地方の他人恐怖症は極端であり、それに相当するものとして文化的な多
様性があり、ある種族が守備範囲の外側へ出かけることは、自殺するのと同然であった。私と一緒に
働いてくれたニューギニア人の多くが、子供の頃は石器を日常用い、他人恐怖症であった狩猟の名手
であった。したがって、ニューギニアは、人間の世界が昔そのようであったが、今日置き忘れてきて
しまってきている、非常に良いモデルとなる。
我々の波を打つ筋書きは、五部に分けて構成している。先ず第一部は、数百年前から始まり、1万
年前の農業が丁度始まった時期の前までを追いかけたい。ここの二章で、骨、道具、遺伝子の証拠に
ついて取り扱う。考古学上や生化学上の記録として保存されている証拠であり、人類がどう変化を遂
げてきたかの直接の情報を提供してくれる。化石として出土した骨や道具は、人類が変化を遂げた時
を更に丁度推定できるような年代を定めることが度々できることがある。人類の持つ遺伝子の98%
がチンパンジーと同じであるとの結論の根拠を検証したい。更に、残りの2%の相違で人類が前方へ
大きく飛躍できたのは何かを解きほぐしたい。
第二部では、第一部で論及した人類の骨格となる変化の結果である言語や芸術の発達に関して本質
的なものを取上げている。人類は、離乳後の子供が自分で食べ物を探す代わりに、親が子供を養育す
るということ、殆どの成人男女が対になって結びつくこと、大多数の父親が母親と同様に子供の世話
をすること、多くの人々が孫と暮らせるまで長寿であること、女性は閉経を経験することを述べてい
る。我々にとっては、これら人類の特性は標準的なものだが、人類に最も近い親類のような動物にと
って、それらは信じられないものである。それらは人類の先祖代々の条件から大きく変化を遂げて構
成している。ただそれらは化石としては残らないので、何時変化したのかを知る術を持っていない。
そのような理由のために、それらは、人類の脳の大きさや骨盤の変化というよりも、人類古生物学の
書物に書かれているそっけない取り扱いを受けいれるのである。しかしそれらが実は、人類の比類な
き文化の発達に重要なことであり、注目に値する長所でもあるのだ。
第一部と第二部において、人類が文化的な活動をどう栄えさせて来たか、生物学という土台で概観
したが、第三部では、人類を他の動物から区別できると考えられる文化的特性について考察を進める。
それらは人類が誇りにしているものであり、人類の繁栄に太鼓判を押すような「言語」、
「芸術」、
「技
術」、
「農業」などを、先ず心に留めて置きたい。それなのに、他の動物と区別される人類の持つ文化
的特性に、毒性ある化学物質の乱用といった、記録に残る罰点もまたあるのである。比類ない人類に
とってどれに太鼓判を押せるかどうかを議論する時に、それらの特性が、動物の先駆者である人類を
非常に大きく進歩させたかを、少なくとも気づく必要がある。ただこのような人類の特性が花を開い
て以来、進化という大きな本の尺度で見れば、動物の先駆者になったのはごく最近のことだ。それら
の先駆者とは果たして何なのだろうか。その繁栄とは、地球上に人類が住みついてから必然のことだ
ったのだろうか。多くの惑星の宇宙に、例えば、人類のように進歩した創造主が住んでいると当然疑
いたくなるのでは。
化学の弊害の他に人類が持っている凶悪な特性には、人類を衰亡に導くに違いない二つの重大なも
のが含まれる。第四部では、この二つの中の一つ、異民族嫌悪(他人恐怖症)で他の人間集団を殺戮
するという性癖について考える。人類以外の多くの種でも見られるように、競い合っている個人と集
団との間の争いが、殺し合いでもって恐らく決着をつけるという特性を、直系動物先駆者の人類が持
っている。人類は殺す威力を増すために、技術的な腕前を単に上げてきたように思いたくなる位だ。
政治状況が進歩する以前に、人間の状況をもっと文化的に同質なものにし始めようと特色付ける、異
民族嫌悪(他人恐怖症)と孤立(極端な孤独症)について、第四部で考察したい。良く知っている二
回の歴史的な戦争つまり人間集団間の争いの結果に、技術、文化、地理学が影響にどれほど及ぼして
いるのかを見たい。その世界規模で行なわれた異民族嫌悪の大量殺戮の歴史(ヒットラーのユダヤ人
排斥)について概観しよう。これは実に辛い主題ではあるが、ここでは、とりわけ、過去に起こした
過ちを更に危険な規模で繰り返す人類は、歴史的観点から自分たちで、その非難を甘んじて受けよう。
人類の生存を現在脅しているもう一つの凶悪な特性とは、自分たちの環境を破壊する勢いを増して
いることである。この行為もまた直系動物先駆者の人類がしている。捕食者(他の動物を殺して食べ
る動物)や寄生生物によって、また自分たちの仲間内で、生存数制御が効かなくなるなどの幾つかの
理由で動物個体数は、自分たちの種の源が大打撃を受けるまで増殖するし、また時折、絶滅の危機に
瀕することもある。そのような危機が、実は人類に対して特別な力を及ぼしている。なぜならば、我々
への前触れが今は無視できるほどであり、我々に影響を及ぼす棲息物が居ないし、個々の動物を殺し、
棲息物を破壊する我々の力は、前代未聞だからだ。
産業革命までこの現象が現われなかったというルソーの空想文学作品を、不幸なことに多くの人々
が未だに忘れないでいる。我々がかっては如何に独善的であって、我々が今や邪になってしまったか
を除いて、我々は過去のことから何も学ぶものはないと知るべきであろう。第四部のように第五部で
強調したいことは、我々が現在置かれている状況とは、危機の程度を除けば、新規なものではないと
認識すべきであると。地球環境の管理を誤って来ている間に、人間社会そのものを管理しようとする
試みが何度も既に為されてきたし、その結果は、そこから学んで我々の前に出されているのだ。
本書は結びで、人類が動物であった状態からどう繁栄することが出来たのかを考察している。また、
我々人類が破滅を齎す手段を悪用し、それを加速してきたかについても追求している。その危機がま
だ遠く離れていると考えた場合については何も書いておらず、また我々に運命付けられていると考え
た場合についても触れていない。私が本書で概観して発信したメッセージの、我々が記録を追跡し、
その苦境を暴いたことで落胆された読者よ、我々が過去から学ぶことが出来るやり方と希望の持てる
サインがあることを知って欲しい。
第一部;三種類のチンパンジー物語
第一章の付図;霊長類の系図
第一部;進化の一大飛躍
第二章の付図;人類の系図
第一部;進化の一大飛躍
第二章の付図;人類のアフリカから他の大陸などへの広がり
第四部;馬とヒッタイトと歴史
第十五章の付表;インドヨーロッパ語族 対 非インドヨーロッパ語族の語句比較