Wikipedia「西和彦」

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西和彦
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西 和彦(にし かずひこ、1956年(昭和31年)2月10日 - )
は、日本のエンジニア、日本のビジネスマン、日本のクリエ
ーター、日本の教育者。
学校法人須磨学園学園長、尚美学園大学大学院芸術情
報研究科教授、埼玉大学大学院経済科学研究科客員教
授、早稲田大学大学院 国際情報通信研究科客員教授、
デジタルドメイン[3] (http://www.digital-do-main.com/)代
表取締役社長、アカシックライブラリー[4] (http://akasiklibraries.jp/)代表取締役社長。
にし かずひこ
西 和彦
生誕
国籍
出身校
日本
早稲田大学 理工学部機械工学科
工学院大学 大学院情報学専攻
職業
目次
1956年2月10日(57歳)
日本 兵庫県 神戸市
エンジニア、ビジネスマン、クリエーター、教
育者
1 人物
1.1 電気少年として
1.2 エンジニア・経営者として
1.3 プロデューサー・クリエーターとして
1.4 教育者・研究者として
1.5 航空機・船舶・自動車 エンスーとして
2 エピソード
3 主なスピーチ・プレゼンテーション
4 関連書籍・関連記事
5 出典
6 外部リンク
7 脚注
人物
兵庫県神戸市生まれ。須磨学園創立者・西田のぶの孫。
父の西邦大は須磨学園 前理事長。関西大学商学部卒業。万世特攻基地で終戦を迎える。神戸銀行に入
行。退行して須磨学園に奉職。商業科教諭、理事長を務めた。母の西都は西田音吉とのぶの3女。奈良女子
高等師範学校家政科卒業。北海道江差高等女学校奉職。退職して須磨学園に奉職。家庭科教諭、副校長
を務めた。妹の西泰子は須磨学園 現理事長をつとめている。
電気少年として
西のエンジニアとしての原点はその少年時代にある。最年少でアマチュア無線の免許を取り、ゲルマニウム
ラジオに始まり、数々の無線受信機を自作し、海外からの衛星中継を見て、地球の裏側を見ることができるテ
レビ中継に興味を持った。この経験がインターネットの黎明期に、ネットの動画像配信に対する興味となって
いく。また、父の影響で自宅で計算機にふれ、高校時代にコンピューターと出会うと、プログラミングに深く惹
かれ、これを仕事としたいと考えるようになる。電気通信と計算機の両方に早くから触れることによって、西は
後のインターネットとパソコン時代を予測することができたのである。
1961年(昭和36年)兵庫県神戸市の私立育英幼稚園に入園。
1962年(昭和37年)兵庫県神戸市の市立板宿小学校に入学。
1965年(昭和40年)電話級アマチュア無線士の試験に最年少で合格。
1966年(昭和41年)ボーイスカウト日本連盟神戸23団カブスカウト隊に入隊。(昭和46年まで)
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1967年(昭和42年)アマチュア無線局(JH3FTA)開局。50Mhz帯で運用。トリオTR5000と6エレメント八
木アンテナでブラジルと交信成功。
1968年(昭和43年)兵庫県神戸市の市立飛松中学校に入学。
1968年(昭和43年)音楽の授業で「チゴイネルワイゼン」を聴く。帰りにレコード屋によって、そのレコー
ドを買う。家にはプレーヤーがなかったので、作ることにし、プレーヤーを自作。
1968年(昭和43年)放送部に所属し、行事のPAや放送プログラムを制作した。
1969年(昭和44年)HFトランシーバー(真空管式)を自作。
1969年(昭和44年)生徒会会長選挙に立候補し、落選した。生徒会文化部長となり、コンサート、文集
発行などの文化活動を企画する。
1970年(昭和45年)ボーイスカウト日本連盟より菊スカウト章を取得する。
1970年(昭和45年)技術家庭の教諭の指導によりオシロスコープ(真空管式)を自作した。
1971年(昭和46年)兵庫県西宮市の私立甲陽学院高等学校に入学。
1972年(昭和47年)夏休みの講習会でコンピューターに出会いプログラミングを始める。
1973年(昭和48年)東京・銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」を展観し、衝撃を受
ける。
1973年(昭和48年)CQ出版社発行の「CQ Ham Radio」の企事「Specialized Communication:ラジオテ
レタイプ、テレビ、地球月地球通信」を読み、衝撃を受ける。
1974年(昭和49年)現役では東京大学理科I類を受験したが失敗。駿台予備校(お茶の水)で浪人。
1974年(昭和49年)銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」に参加し、運営を手伝っ
た。
1975年(昭和50年)早稲田大学理工学部機械工学科へ入学、8年間在学後に退学。
1975年(昭和50年)銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」にコンピュータ制御のシン
セサイザーを出品参加。===
1975年(昭和50年)早稲田理工では、教養課程にもかかわらず機械工学科・ロボット工学の加藤一郎
研究室、電気工学科・電力工学の成田誠之助研究室に出入りした。
1976年(昭和51年)にロボット研究室では、ロボット制御のためのコンピュータに取り組むようにと言う
指導によって、ミニコンピュータ(Panafacom)とハードディスクの接続に取り組んだ。
1977年(昭和52年)に電力研究室では、電力系統表示板を開発し、ミニコンHITAC10-IIに接続し
た[1]。
1977年(昭和52年)に株式会社アスキー出版を創業
設立メンバーは、郡司明郎、塚本慶一郎である。企画部長を経て副社長に就任。コンピューター
総合月刊誌「アスキー」を創刊した。また、米国のコンピューター関連出版物の翻訳出版を数多
く手がけた。アスキーの企業としての枠組みを作ったのは、当時社長であった郡司明郎である。
また、出版社としてのアスキーを作ったのは塚本慶一郎である。塚本はアスキーを辞めて、株式
会社インプレスという出版社を創業し、一部上場会社にまで育て上げた。
エンジニア・経営者として
雑誌「月刊アスキー」の創刊号で西は「コンピューターはメディアになる」と述べている。西のコンピュータメデ
ィア論はコンピューターアート展を主宰していた音楽家端山貢明の影響をうけたものであるという。電気工作
雑誌や、ホビー雑誌と違うモノにしたかったのである。しかし、雑誌の記事で電気会社各社の商品記事を書
きながら、それぞれの商品に不満を感じ、自分の考えるパソコンを作りたいと考えた。
早稲田理工の図書館で見たElectronics誌の記事を読み、マイクロソフトにコンタクトし、ビル・ゲイツに面会す
る。マイクロソフトからBASICインタープリターのカスタム化に応ずるという返事をもらい、TK-80マイコンキット
にBASICインタープリターを搭載するプロジェクトを開始する。これが後になってPC8001をNECとマイクロソフト
で企画・開発することになるベースとなった。
1978年(昭和53年)にアスキーマイクロソフトを設立し、社長に就任。
1979年(昭和54年)にマイクロソフト米国本社・極東担当の副社長。NECパソコン(PC8000、
PC8800)、HITACHIパソコン(BASIC MASTER L3)、OKIパソコン(IF800)などの企画、設計に参画し
た。
1980年(昭和55年)にマイクロソフト米国本社・新技術担当の副社長。
IBMパソコン5510の企画に参画。
Canonのポケットコンピュータを企画・開発。
EPSONのポータブルコンピューターHC-20を企画・開発。
1981年(昭和56年)にマイクロソフト米国本社・ボードメンバー。[2]
1982年(昭和57年)に、TANDY M100、NEC PC8201、OLIVETTI M10のハンドヘルドコンピューターを
企画、設計した。生産は京セラ。
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1983年(昭和58年)にMSXホームコンピューターを企画、設計した。
1984年(昭和59年)にIBM互換ノートパソコンを企画、設計し、パソコンは鳥取三洋電機で製造し、米
国ゼニス・データー・システム社に輸出された。
1985年(昭和60年)マイクロソフトとアスキー・マイクロソフトとの代理店契約はマイクロソフトの株式公
開の機会に解消された。西とビル・ゲイツとの事業に対する方針が衝突したことが背景にあると言われ
ている。ゲイツとは、パルム・スプリングスのPCフォーラムで再会し、和解した。続いて日本マイクロソフ
トのWINDOWS3.1の発表会でメッセージを述べた。ゲイツにはシアトルの自邸の新築披露と40歳の誕
生日、ハワイのラナイ島での結婚式と披露宴、50歳の誕生日などに招待されているという。
1986年(昭和61年)日本に帰国して、窓際の副社長として資料室担当になり、出版社アスキーの情報
インフラとしてのアスキーライブラリーを構築した。この経験が、後に電子出版に参入する基盤になって
いる。
1987年(昭和62年)にアスキーの社長に就任。マイクロソフトビジネスを失ったアスキーを再建。
1989年9月21日に株式を公開。当時、上場企業の社長としては国内最年少。
パソコン関連からゲーム関連、インターネット関連、映画製作配給関連、米国ベンチャー投資関連に事業を
展開した。[3]
この間に、アスキーはバブルを体験し、145億円のスイスフラン無担保転換社債を転換前に、米
国のベンチャー投資に固定化させ、株価低迷のための転換社債繰り上げ償還の借り換えのた
めの協調融資に、日本興業銀行の指導によりリストラを行い、再び活性化した[4]。
再び活性化した社内から、経費節減などの経営努力に反発したグループが、脱社して別会社を
設立するなどのトラブルがあり、銀行団は社長専任体制から集団指導体制に切り替えようとし
た。それを受け、アスキーはこの後、カンパニー制を導入して、システムカンパニーは西が、出
版、ゲーム、研究所には外部から迎えた幹部をあてたが、これがうまく機能せず、出版カンパニ
ーが週刊誌の失敗と在庫増で40億円、ゲームカンパニーがゲームの仕掛かり増で60億円、合
計100億円の資金の固定化を起こした[5]。
1997年(平成9年)CSK,SEGAを対象に第三者新株増資を行い、約100億円調達し、CSKグループ企業
となる。
その後、CSKの幹部はアスキーを支配し、大幅な赤字を計上させ、アスキーは債務超過に陥り、
西和彦は責任をとって社長を辞任した[6]。
1998年(平成10年)アスキー取締役(教育事業担当)。
2000年(平成12年)アスキー取締役副会長。
その後、西はアスキーにおいて教育事業を立ち上げ、売り上げ50億円・黒字を達成し、復権す
る。
2001年(平成13年)アスキー特別顧問。
CSKグループ企業の創業者 大川功の死去に伴い、アスキーのすべての役職から退任[7]。CSK
はアスキーの過半数の株式を投資ファンドに売却し、アスキーの経営から撤退した。
2002年(平成14年)にコンサルティング会社、「ITNY and Partners」を池田信夫、田中良拓、山田肇ら
と共に設立し、マネージングディレクターに就任。現任。
ITNYでは、パソコンを並列接続したスーパーコンピューター、携帯会社に対する政策コンサルテ
ィング、デジタルマルチメディア放送、デジタル放送タワーの設計などのプロジェクトに関わった。
2005年(平成17年)にハイエンドオーディオ開発会社「デジタルドメイン」を設立し、社長。[8]現任。
2007年(平成19年)にデジタルドメインでは、
静電誘導トランジスターアンプの開発
東北大学名誉教授の西沢潤一博士が発明した静電誘導トランジスターの特許を譲り受
け、オリジナルの第2世代SITを製造し、アンプB-1aとしてまとめ上げている。静電誘導トラ
ンジスタは、ゲルマニウム、バイポーラー、電界効果トランジスタに続く究極のトランジスタ
と言われている。出力段のインピーダンスが極端に低く、アンプに好ましい性質を持って
いる。
マルチビットDACの開発
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また、英国dcs社のDACに続く最高級のDACと言われている、米国MSBテクノロジー社の
マルチビットDAコンバーターモジュールを内蔵したDACを開発し、D1a、D1bとしてまとめあ
げた。スーパーオーディオCDのデーターをDSPで計算し、PCM信号に変換してアナログ化
するシステムを構築した。
同軸スピーカーの開発
1945年に米国RCA研究所でオルソン博士が開発された放送局向けスピーカーLC1Aの改
良に取り組んでいる。
アナログ録音・再生システムの開発
独国ノイマン社のレコードのカッティング装置、米ウエスタンエレクトリック社の再生装置
の歴史的解析、改良研究に取り組んでいる。
4K、6K、8K テレビシステムの研究
一貫した開発テーマは、コンピューターと共存する次世代オーディオ・ビデオシステムの開発である。
プロデューサー・クリエーターとして
アート 制作・コレクション
高校時代より写真の現像・引き延ばしの技法を習得し、写真作品を製作している。高校時代より
シルクスクリーン印刷による版画の技法を習得し、シルクスクリーン作品を製作した。この経験
はプリント基板の制作や半導体のエッチングに対する感覚として、受け継がれている。
マルク・シャガールのリトグラフ作品を1000点以上収集した。このコレクションは高知県立美術館
に収納されている。
企業人の茶人、益田孝、松永安左エ門、松下幸之助にあこがれ、茶道裏千家に入門した。同時
に茶道具の収集を行ったが、アスキーの経営危機に際して売却した。一部はCSKによってクリ
スティーズでオークションされた。価値のある美術品を売却した後に残った美術参考資料を中心
に研究に方向性を変更し、趣味として続いているという。
米国メトロポリタン美術館の客員委員に選ばれ、主に現代美術とインターーネットと美術館運営
についての提案をルアーズ館長、ホーキンズ副館長に続けた。これによってメトは世界で一番
進んだWEBサイトを運営してきた。
映画 製作・配給
ベム・ベンダースの「夢の果てまで」、エド・ブラナー「ヘンリー5世」、エドワード・プレスマン「ホミ
サイド」に製作出資した。1990年(平成2年)ジョン・アブネット監督「フライド・グリーン・トマト」をエ
クゼクティブプロヂューサーとして製作した。カンヌ映画祭ににおいて、フランス「ル・モンド」紙の
主催する「映画の未来」でプレゼンテーションした。
クラシック 製作・録音
1999年(平成11年)ザルツブルグ音楽祭の後援で21世紀のための合唱付き交響曲「平和のシ
ンフォニー」を製作した。シンフォニーの作曲はフリップ・グラスに委嘱し、ザルツブルグ音楽祭で
世界初演された。
コンサートと企画を20回以上行ってきた。また、コンサートを録音している。CDを出版した。
出版
2010年(平成21年)に「アゴラブックス:現アカシックライブラリー」を池田信夫と共に設立。
2011年(平成22年)に電子出版開発会社「アカシックライブラリー」社長。現任。
電子出版会社のアカシックライブラリーでは、電子出版のシステムを出版社や個人に提供
し、また、独自のタイトルの出版や古今の名著を再版する活動を行っている。メディア・エ
ンジニアリングの活動以外では、歴史の研究を行っており、日本古代史、日本戦国史、フ
ランス革命史をテーマとする。ナポレオンについての著作あり。
教育者・研究者として
1990年(平成2年)に東京工業大学非常勤講師。
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企業で行ってきたマルチメディア関連の研究開発を系統的に整理し「マルチメディア概論」として
講義を始めた。この経験が博士論文執筆に役に立った。10年間勤める。
1993年(平成5年)国際大学 GLOCOM研究所 特別研究員。
日本興業銀行 中山素平特別顧問の紹介で国際大学グローコムに公文俊平所長を訪ね、村上
泰亮前所長の時代とは違った新しい研究軸としてのインターネットの総合的な研究を提案した。
インターネットブラウザーがパソコンで動き、情報の流通が社会と世界を変えると予測した。
NTTの経営形態について、戦後禁止された「持株会社」を復活して、NTTを分割して、経営の最
適化と、国際競争力を持つ企業群に再編するべきという論陣を張った。西はNTTをさらに強くす
ることが日本の国益に叶うと発言している。
公文と西は共著で記事[9]を書き、ISDNの次はADSLでODNを中核とする情報通信基盤の構築
促進こそ、今日の情報通信政策の中心課題である。ソフトバンクBBがADSLを始めるはるか前
である。しかし、西にはNTTに対抗してADLSのインターネットサービスを展開する事業観は無か
った。
また、率先して企業スポンサーからの寄付集めに奔走し、IECP(産学協働プログラム)を立ち上げた。
1999年(平成11年)に工学院大学大学院情報学専攻にて学位 博士(情報学)[5] (http://akasiklibraries.jp/modules/booklist/bookinfo.php?id=2)を取得。
1999年(平成11年)国際連合大学 高等研究所 副所長、併任教授。
UNU/IASにおいては主に「UNL計画」を立案、推進し、同時にインターネットによる国家の覇権
について研究した。
Universal Networking Language計画
インターネット時代に大きく問題になるのは、ネットワークやパソコンの所有ではなく、インターネ
ットに蓄積される知識が書かれている言語が何であるかが重要であると指摘し、国際的な知識
の共有のために、WEBの言語を機械翻訳するプロジェクト「UNL」を高等研究所所長のタシシオ・
デラセンタとUNL部長の内田裕士と共に推進した。このプロジェクトは後にUNDL財団(スイス。ジ
ュネーブ)に引き継がれている。
2000年(平成12年)米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授(平成16年まで)
​ ITにおいては4つのプロジェクト(100ドルパソコン計画、WEB機械翻訳計画、インターネットで
M
のマイクロペイメント計画、アドホック結合をしたルーターのフェイズアレーによるVSAT計画)を発
案・推進した[10]が、100ドルパソコンの設計方針の違いで退任した。西の考えていたアーキテク
チュアはFPGAを用いたもので、1チップMSXなどで実証実用化された。
2000年(平成12年)尚美学園大学教授。現任。尚美学園短期大学が4年制の尚美学園大学への改組
にあたり、準備委員を務めた。メディア総論、メディアと社会、起業論、デジタルビデオ総論、イベントプ
ロジェクト特論などを大学と大学院で教えている。
宮城大学客員教授、工学院大学客員教授、青山学院大学客員教授、作新学院大学客員教授などを務め
た。 米国のMITメディアラボの自由な研究環境に触れ、日本では工学院大学の最年少の評議員に推され、
大学経営に触れた。公立会津大学の教員の推薦により、学長選挙に立候補した。一次投票では最高点をと
ったが、過半数に達せず、決選投票で現職の学長に敗れた。それがきっかけで新しい大学の設立を考える
ようになり、工学院大学の評議員を辞任し、秋葉未来大学(仮称)という名前の工科大学の設立を計ったが、
リーマンショックで計画は停止した。
2001年(平成13年)須磨学園高等学校 校長。
理事長 西泰子が打ち出した職業女子校から進学男女共学校に転換する方針の下、須磨学園
高等学校の運営に参画し,西泰子と共に大幅な改革を行った。
2002年(平成14年)に学校法人須磨学園 学園長。現任。
男女共学の中学校・高校一貫教育を行うために須磨学園中学校を設置・開校し、「受験」、「教
養」、「総合」を追求する独自の6年間の一貫教育を展開している。[11]
航空機・船舶・自動車 エンスーとして
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航空機
1962年(昭和37年)加古川の河川敷で父邦大の膝の上に乗せて貰って、生まれて初めてグライダー
に乗る。いつかは自分で空を飛ぶと心に決める。
1977年(昭和52年)早稲田では体育会航空部に所属し、グライダー(JA2149)とモーターグライダー
(JA2123)に乗っていた。
1979年(昭和54年)マイクロソフトのあるシアトルとシリコンバレーのあるサンフランシスコと東京を日本
航空やユナイティド航空の飛行機で毎週往復していた。
1989年(平成1年)長年の夢であったヘリコプター(350B2)を購入し、GPS表示機、自動操縦、水上着
水フロート、燃料タンク増漕など、その機体には大きめの航法システムは安全装置を企画設計し、フラ
ンスのエアロスパシアル社で立ち会い実装した。ヘリコプターは後にオーストラリアに売却した。
1990年(平成2年)NASA放出品の中古ジェット練習機T-38を購入し、日本に輸入しようと試みるが、
運輸省の許可が下りずに断念。
2005年(平成17年)DC-10の操縦を習い、羽田のシミュレーターで羽田空港離陸着陸、レインボーブリ
ッジくぐりの慣熟訓練を行った。
2008年(平成21年)米国のAIR FORCE ONE、NEACAPなどの研究を行い、「政府専用機のあるべき
姿」についての提案をまとめた。
2010年(平成22年)マイクロソフト時代の同僚であったバーン・レイバーンが創立したEclipse Aviation
の超小型プライベートジェットの販売を日本代理店として企画した。その後、Eclipseのオーナーが代わ
り、西は航空機輸入事業から撤退した。
船舶
2002年(平成14年)しまなみクルーズに乗船したときに、船の操縦をさせて貰って、クルージングにはまった。
一級・特殊小型船舶操縦免許をとり、ボートに乗るようになる。瀬戸内海をクルーズしていた。ヘリコプターと
同じようにGPS、魚群探知機、自動操縦、近海用安全装置、燃料タンク増漕、エンジンチューンアップなど、そ
の船体には大きめの航法システムを搭載したクルーザーを設計。この船舶は後に安全性が評価され事業用
に売却された。
自動車
最初に操縦した乗り物は自動車ではなく、キャタピラーで動くブルドーザーであった。須磨学園板宿キャンパ
スの整地の見学のときに、建設機械にのせてもらった。また、敷地内で自動車の運転を始めた。早稲田の機
械工学の影響で、自動車の本質=エンジンの性能と考えている。また、イタリアのデザイン会社ピニンファリ
ーナとのコラボレーションの経験から、車のデザインについても、独自の視点がある。未来の車はライトがボ
ディと一体化し昼間にライトは見えないというものである。
WEBメディア対談:
対談:西和彦×田中栄(前編)――「だから日本車は買わない」
対談:西和彦×田中栄(後編)――「クルマはサービス業になる」 [6]
(http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20080620/153550/)
日経BPのシンポジウム: [12]、基調セッション「『セクシー』で『クレイジー』なクルマとは」において、西自ら
の自動車観を語っている。
過去に乗った車は、ビルゲイツに結婚祝いとして貰ったFORDのフリーモント、事故で3日目につぶしたFORD
のマスタング。分解、組み立てしたエンジンはFerarri、Porsche、Bentley、RR、Jaguar・Daimlerなどである。
アスキー時代の社用車は取引銀行の関係で日産のグロリア、シーマであった。気に入っていたが、新しい日
産になってから止めた。 現在乗っている車は12気筒5300ccのダイムラーW6と、6気筒1990ccのBMW320iで
ある。
日経BPのクライアントのために「電気自動車への移行の近未来」というコンサルティングを行った。
エピソード
スティーブ・バルマーのスカウト話が無線で丸漏れ
ビル・ゲイツと共にカリブ海のヨットからハーバードに無線中継電話をかけ、バルマーをマイクロ
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ソフトにスカウトし、給料の交渉をしたが、周りのヨットにすべて聞かれていた模様である。電話
気分で、人に聞かれていないと思って自慢話をしたことが恥ずかしいと西は述べている。
ビル・ゲイツ、ポール・アレンと西和彦の肝試し
須磨学園の飛び込みプールで肝試しをした。ビルゲイツは10メートルのジャンプ台から足から飛
び込み、ポールアレンは3メートルの飛び込み板から足から飛び込み、西は1.5メートルの飛び
込み板からしか飛べなかった。しかし、考えて、頭からダイブした。当時から、ビルにはリーダー
としてのカリスマがあった。[13]
技術開発三度目の正直
富士通の社長・会長であった山本卓真の自宅を訪問したときに、MS-DOSは3回書き直さない
と本物にならないと、ゼロ戦を設計した堀越二郎氏のエピソードを交えて諭された。これが、その
後のMS-DOS、WINDOWS(2回失敗)の開発を推進する力になった。カッパブックスの「零戦」を
贈られた。西のエンジニアとしての信条になっているという。
お腹が引っかかって、飛び降りれず
アスキーのリストラ時に取引銀行が来訪し、融資を引き上げると通告され、衝動的に南青山のビ
ルのトイレの窓から飛び降りようとした。しかし、窓が小さすぎて上半身だけしか出ず、小用に来
た銀行の人に見つかり、助けられた。そのせいか、その日の融資引き上げの話は中断した。
一番安かった4000ドルの誕生日プレゼント
ビルゲイツの40歳の誕生日が開かれ、40組が招待された。西は白い鳩を40羽、箱に入れて持
参し、ビルゲイツに箱をあけてもらった。鳩は眠っており、最初はとばなっかった。ゲイツは1羽づ
つ箱から取り出し、空に放した。他の出席者から「最も安くて楽しいプレゼントである」と言われ
た。
BLOGのハシリ
アスキーが社運をかけた、「2代目週刊アスキー」の表3対向ページに、自らのプライバシーを綴
った「デジタル日記」を連載した。個人ブログのハシリである。後に、週刊アスキーが30万部を達
成したときに伏字を全て実名にした「西和彦のデジタル日記」をパーティの引き出物として、限定
出版した。
2ch
西和彦についての掲示板が立てられ、有ること無いことを書かれ、対抗して、せっせと書き込ん
だ。そして、「2chは便所の落書き」と表現した。
1ch
あまりに2chで勝手にいろいろ書かれるので、対抗するために1chという掲示板を立ち上げた。
運営会社に資金を提供し、スペックを2chのソフトを作ったあめぞうと共にプロデュースした。1ch
は真面目に運営したので、段々と廃れていった。世間では大きな失敗と言われているが、西は
2chに対する自前の対抗手段と考えていたので、2chがシンガポールに移転し、広告のために
ネット記事をコピーするようになってから、2chは「便所の落書き」から「切り抜き掲示板サイト」
になって、1chの役目は終わった。
WikiPedia
書かれた記事が事実と違うと書き直しを重ねるうちにいやになり、記事を全部削除した。編集人
がノートに理由のないことを色々書くので、対立したが、保護されて落ち着いている。Wikipedia
のことを「ネットの肥溜め」と表現した。嫌な表現でも、役に立つこともあるからである。
脳科学者と元MS副社長のニコ生大ゲンカ
ニコ生の【ジョブズ追悼番組】において、茂木がWINDOWSの悪口を言い、それに西は切れた。プ
ロディユーサーの亀やんが「もっと」というカンぺを入れたため、西はサービス精神でさらにエス
カレートし、口論は5分ぐらい続いた。番組終了時に互いに謝り、次の日にはFACEBOOKで友達
になっている。これが切っ掛けになりニコ生のアゴラチャンネルにたびたび出演するようになる。
中山素平に諭された勲章のたぐいは辞退せよのこと
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日本興業銀行に中山素平を訪ねたときに、中山さんに「なぜ勲章をお受けにならないのですか」
と聞いたら、中山は「勲章は大臣や役人や軍人が国から貰うもので、実業人はお客さまから貰
うものだと思っている。」と言われ、「君もそうだろう」と諭された。これは西の人生の大きな指針
になった。
主なスピーチ・プレゼンテーション
情報
TED KOBE
WEF
ISOC
映画
カンヌ映画祭
日米関係
日米協会
外国特派員協会
国際関係
ローマクラブ
平和の未来
哲学・創造性
NOBELS
CREATIVITY SWISS
関連書籍・関連記事
田原総一朗『マイコン・ウオーズ』 文藝春秋、1981年
富田倫生『パソコン創世記』 旺文社文庫、1985年
那野比古『アスキー新人類企業の誕生』 文藝春秋、1988年
ビル・ゲイツ『ビル・ゲイツ 未来を語る』 西和彦訳、アスキー、1995年
滝田誠一郎『電脳のサムライたち − 西和彦とその時代 −』 実業之日本社、1997年
関口和一『パソコン革命の旗手たち』 日本経済新聞社、2000年
西和彦『ベンチャーの父 大川功』 アゴラ出版局、2011年
須磨学園記念誌編集委員会『須磨学園90周年の歩み』須磨学園、2012年
ポール・アレン『ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト アイデア・マンの軌跡と夢』夏目大 訳、講談社、
2013年
朝日新聞記事『パソコン戦国物語』1997年9月13日 P.5
日経産業新聞記事『ゲイツと僕とPC革命』2013年1月16,21,23,28,30日,2月4,5,6,9,18,19日
藤原 洋『デジタル情報革命の潮流の中で[7] (http://newsbiz.yahoo.co.jp/series?name=【連載】デジ
タル情報革命の潮流の中で)第8回「ベンチャービジネスの元祖アスキーで起こったこと学んだこと」』、
VentureNow、2013年4月15日
産経新聞Web記事『あのアスキー西和彦は今』2013年5月29日
出典
1. ^ 立花隆+立花ゼミ『二十歳のころ』(新潮文庫)のpp.449-457に、20歳前後の本人についてのインタービュー
記録が収録されている。
2. ^ この経緯は田原総一朗の『マイコン・ウオーズ』に詳しく書かれている。
3. ^ この経緯は那野比古(井上一郎)の『アスキー新人類企業の誕生』に詳しく書かれている。
4. ^ このアスキーの復活物語の一部は、滝田誠一郎によって「実業の日本」に連載され、『電脳のサムライたち
− 西和彦とその時代 −』にまとめられた。
5. ^ ここのところは藤原洋の記事に詳しい。
6. ^ ここの部分については、日経BP社のBizTech No004pp178~185 記事「アスキー経営の誤算」に詳しく書か
ja.wikipedia.org/wiki/西和彦
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13/11/24
西和彦 - Wikipedia
れている。
7. ^ ここの部分については、西の著作「ベンチャーの父 大川功」に詳しく書かれている。
8. ^ 「無線と実験」2008年5月号に特別インタービュー「SITアンプと最新デジタル技術でオーディオの新たな標準
を目指す」という記事があり、当時の商品群が取り上げられている。
9. ^ 『中央公論』(95年12月号)で「いま何が問題なのか」
10. ^ [1] (http://dn.media.mit.edu/Universal_Knowledge0724.ppt)
11. ^ この経緯は須磨学園記念誌編集委員会『須磨学園90周年の歩み』須磨学園、2012年[2]
(http://www.suma.ac.jp/info/comment_121107.html)に詳しく書かれている。
12. ^ 自動車技術展示会「AT International」(日経BP社主催,幕張メッセ)2008年7月25日
13. ^ ポール・アレンの書いた『ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト アイデア・マンの軌跡と夢』夏目大 訳、講談社、
2013年のなかにプールでとったビルゲイツとポールアレンと西和彦の写真がある。
外部リンク
個人サイト (http://www.nishi.org/)
西和彦 (https://www.facebook.com/kazuhiko.nishi) - Facebook
脚注
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