特集 婦人問題から男女共同参画、 そして「女性活躍」社会へ ~「女性が輝く国づくり」をめぐる動向 女同権が明確に規定され、参政権 上に向けて「国際婦人年女性会議 は男性と同じになったものの、日 (第1回世界女性会議) 」を開催し 日本では長らく男性が女性より 本社会にはまだまだ男女差別が た。この会議では、今後10年間 も、社会的、政治的、経済的に優 残っていた。 に取り組むべき指針となる「世界 選挙権は得たものの 依然続く男女差別 遇されてきた歴史を持つ。一夫多 妻が容認され、参政権がなく、賃 金は安く、また教育や職業の制約 もあった。こうした女性差別とも いうべき状況を変えるべく、 「婦 人運動」 「婦人解放運動」とも呼 ばれる社会運動が明治から大正に かけて始まった。 行動計画」が採択された。そして ◆日本国憲法第14条(抜粋) 1 すべて国民は、法の下に平 等であって、人種、信条、性別、 社会的身分又は門地により、 政治的、経済的又は社会的関 係において、差別されない。 「元始、女性は太陽であった」 その後に行われた国連総会におい て、 「世界行動計画」が承認され、 各国が自国の状況に応じた行動目 標を設定し、女性の地位向上を進 め る こ と に な っ た。 あ わ せ て 1976年からの10年間を「国際 婦人年」とすることを宣言した。 この時期の日本は、国連が提唱 という言葉で知られる平塚らいて たとえば、男性は会社で働き、 した「国際婦人年」と採択した「世 うや、戦後まで長らく婦人問題や 女性は家事や子育てを行うという 界行動計画」 に対応する形で、 女性 平和運動に取り組んだ市川房江な 役割分担意識が社会に根強く確立 の地位向上をはじめとする「婦人 どが、 こうした運動の中心人物だ。 され、勤労女性は結婚あるいは妊 問題」 への取り組みを進めている。 この時期の運動は、女性の参政権 娠とともに退社することが当然と ここからその後の男女共同参画社 獲得を中心に、 女性弁護士や集会、 されてきた。そのため、男女は当 会、そして女性活躍社会をめざす 結社を禁じた法律などを改正する 初から採用条件、 勤務体系や賃金、 日本の歩みが始まることになる。 ことが運動の中心だった。 各種制度などが異なっていた(格 世界行動計画に対応することを 第2次世界大戦が終わった昭和 差があった) 。 目的として、政府内に「婦人問題 20(1945) 年 12 月、 占 領 軍 雇用・労働分野だけでなく、日 企画推進本部(本部長:内閣総理 の指令などもあって、衆議院議員 本では歴史的に男性優位社会が続 大臣) 」が設置された。さらに世 選挙法が改正され、女性の選挙権 いてきたこともあって、教育や家 界行動計画に呼応する、日本の と被選挙権(参政権)が初めて認 庭生活など、さまざまな分野で男 10年 間 の 取 り 組 み を ま と め た められた。翌年4月には戦後初の 性が優先・優遇される社会的風土 総選挙が行われ、女性議員39名 や慣習が残っていた。 が誕生。そして女性議員が加わっ た議会において、男女同権を規定 する日本国憲法が可決成立した。 「国内行動計画」を策定した。 さらに国連では5年目にコペン ハーゲンで「国際婦人の10年中 国連の「国際婦人年」が 大きなターニング・ポイントに 間年世界会議」を開催し、5年間 の取り組みを振り返りつつ、後期 日本国憲法第14条では、 「性別 昭和50(1975)年に、国連 に向けた「国連婦人の10年後半 により差別されない」すなわち男 がメキシコシティで女性の地位向 期行動プログラム」を採択。これ 9
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