創業期の横浜正金銀行 -貿易業務と経営管理体制の構築- 白鳥 圭志 (東北学院大学経済学部) Jun 2007 No.49 1 創業期の横浜正金銀行 ―貿易金融業務と経営管理体制の構築― 白鳥圭志 はじめに 激しいインフレの収束が課題となっていた 1880 年になると、正貨の吸収と生糸などの主 要物品の直輸出奨励を通じた貿易の振興を目的に、輸出商と政府が主要な担い手になる形 で外為専門銀行として横浜正金銀行が設立された 1 。本稿の課題は、日清戦争の勝利により 獲得した賠償金を背景として金本位制が確立する以前の時期における 2 、横浜正金銀行の経 営実態について検討を加えて、その特徴と歴史的意義を明らかにすることを課題とする。 本稿の課題をより具体的に示すために、当該期の同行についての研究状況を検討する。 この時期の横浜正金銀行については、創業の経緯や経営状況についての計数分析、あるい は大蔵省による保護・育成の重要性を指摘した上で、産業金融政策、為替政策との関連を 追及した研究が存在する 3 。このような研究動向を踏まえて、 「内部の経営事情」についての 検討の手薄さを指摘し、この問題の検討に着手したのは葭原達之氏であった 4 。氏は明治 16 年(1883 年)の不良債権処理や、政府の干渉による日本銀行出身の園田頭取の就任(1890 年 3 月)と綱紀粛正、銀貨圏・金貨圏といったブロック別の外為所有バランスの調整策で ある「連合的営業法」の導入過程について検討を加えた。このように、葭原氏の研究は横 浜正金銀行の内部に立ち入って検討を進めた点において先駆的なものである。しかしなが ら、氏の研究では園田頭取就任以降、とりわけ「連合的営業法」の導入と展開過程に重点 ※本稿は、2005~2007 年度文部科学省科学研究費補助金若手研究(B)による研究成果の 一部である。 1 古沢紘造「横浜正金銀行設立構想に関する小論」 、 『富士論叢』第 16 巻 2 号、1971 年; 「第 三章 横浜正金銀行の設立と性格」 、『横浜市史』第 3 巻下、同市、494~571 頁など。 2 本稿ではここに記した理由から、検討時期をこのように限定する。平智之「第一次大戦前 の国際金本位制下における横浜正金銀行(上下)」 、 『金融経済』第 208 号、第 209 号、1984 年を参照。 3 主要なもののみを示せば、創業に関する注 1 の論文のほか、政策との関連については、水 沼知一「明治前期横浜正金銀行の外国為替金融」、『土地制度史学』第 15 号、1962 年;山 口和雄編『日本産業金融史研究 製糸金融編』 『同 紡績金融編』東京大学出版会、1966 年、1970 年;「第三節 横浜正金銀行の輸出荷為替制度」、 『横浜市史』第 3 巻上、同市、 665~688 頁;伊牟田敏充「明治前期における貿易金融政策」、安藤良雄編『日本経済政策 史論』上巻、東京大学出版会、1973 年;古沢「横浜正金銀行条例の制定と為替政策」 、渋谷 龍一編『明治期 日本特殊金融立法史』早稲田大学出版部、1977 年;同「明治 20 年代の 横浜正金銀行」、『駒澤大学経済学論集』第 5 巻 2 号、1973 年などが挙げられる。 4 葭原「横浜正金銀行における『連合的営業法』の創設と展開」 『経営史学』第 13 巻 3 号、 1979 年。なお、戦前期における横浜正金銀行の貿易金融を概観したものとして、石井寛治 「横浜正金銀行の貿易金融」、同『近代日本金融史序説』東京大学出版会、1999 年、第 4 章を挙げておく。 2 が置かれており、それ以前の時期についての検討は 83 年の不良債権処理原資の構成につい ての検討に止まっている。創業期にあたる 1880 年代における経営内部事情、とりわけ経営 立ち上げの時期に際して、同行を保護・育成した大蔵省との関係やその実態、あるいは 83 年の不良債権処理に象徴される経営悪化の要因とその再発防止への対応を、経営内部に立 ち入る形で検討するという課題については取り組まれていない。また、「連合的営業法」そ れ自体の検討についても、その導入の要因、とりわけ当時の政府・横浜正金銀行・日本銀 行の関係を巡る導入の要因が不明確であるほか、その意義と限界も明らかではない。これ らの諸点の検討なくしては、「連合的営業法」の導入に代表される園田頭取時代の諸改革の 歴史的意義もまた充分な理解ができないように思われる。 このほか、この時期における産業金融の実態についても殆ど不明瞭なままである。前者 については、 「近代製糸業」が確立へと向かう 1890 年代以降の分析が中心である 5 。後者に ついては直輸出向けの資金供給の効率性が指摘されているが、その具体的内実に関しては 概観されているに過ぎない 6 。 以上のような、先行研究が抱える問題点を踏まえて、本稿では既存の史料のほかに、最 近、刊行された横浜正金銀行の内部史料を用いて 7 、上記の問題に取り組みたい。 Ⅰ.横浜正金銀行の株主構成と企業統治 ここでは先行研究に依拠する形で創業期の横浜正金銀行の株主構成と企業統治の特徴を 示す 8 。創業時における同行の資本金 300 万円中、銀貨手形が 240 万円、銀貨が 60 万円を 占めていた。このうち政府は 100 万円を出資した。残り 200 万円が民間出資であった。そ の構成を見ると東京・横浜を中心とする貿易関係商人や銀行家が殆どすべてを占めていた。 政府出資がかなり巨額になった理由であるが、動向株主総代から提出された史料には「如 此(外国為替商権を回復するという―引用者)大事業ハ到底特別ニ官ノ保護ヲ得テ内外人 ノ信憑ヲ鞏クスルニ非サレバ竟ニ其結果ヲ得難キハ当今ノ事態人情ニ於テ実ニ難免情勢ニ 有之」とある 9 。このような要求を政府も受け入れている。外国為替商権の回復には、 「内外 人」から厚い信頼を確保する必要性があり、そのためにも政府が後ろ盾となり銀行の信用 を支える必要性があるということが、巨額の政府出資が必要であると判断された理由であ った。 その結果、上記の史料にもあるように、大蔵省の所有株式分のみであるが、「一箇年ノ純 注 2 の諸研究のほか、中林真幸「横浜正金銀行の製糸金融」横浜近代史研究会・横浜開港 資料館編『横浜の近代 都市の形成と展開』日本経済評論社、1997 年も参照。 6 古沢「横浜正金銀行条例の制定と為替政策」 。 7 武田晴人編『横浜正金銀行マイクロ・フィルム版』第 1 集、丸善、2004 年。 8 以下、株主構成と企業統治上の特質は『横浜市史』第 3 巻下、512~523 頁。 9 横浜正金銀行株主総代小泉信吉、 中村道太「第三号 横浜正金銀行資本金御差加願」 、1880 年 1 月、 『横浜正金銀行史 附録甲之一』同行、1920 年(日本経済評論社復刻版、1976 年)、 11~12 頁。以下、引用は復刻版による。 5 3 益金六分以上ニ至トキハ右御差加金ニ対スル六分以上ノ純益金丈ハ即チ当銀行ノ別途積立 金ト」する要求が出された。史料中に「愈々以テ銀行ノ基本ヲ固クシ随テ内外人ノ信憑ヲ 厚クシ官ノ特別ナル庇保ニ負カサル様仕候」とあるように、内部留保を厚くすることで「内 外人ノ信憑」を確保し、これによって信用確保の面でできる限り政府への依存度を低める ことがこのような措置が求められた要因であった。この意味で、この措置は単なる政府に よる経営の規制策には止まらない 10 。これらの諸要求を政府も受け入れているから、このよ うな主張が認められたと判断してよかろう。さらに、巨額の政府出資に伴い、政府は同行 に対して管理官を派遣することになった。先行研究によれば民間大株主たちが作成した「申 合規則」では取締役会や役員集会への参加と重要事項について指示を出す権限、帳簿など の検閲権、日計表の検査権限が規定されており、これに符号する形で「横浜正金銀行管理 官心得」が制定されたことが論じられている。その上で、これらを根拠にして管理官に絶 大な権限が付与されたことが指摘されている。しかしながら、権限の絶大さが、即、管理 官による効果的な統治が実現することを意味するものではない。「管理官心得」中には「銀 .......... 行営業ノ実況ハ管理官常ニ大蔵卿ニ具状スルハ勿論重要ノ事件ニ付銀行重役ノ申告ヲ得テ 管理官之ヲ可決シ及ヒ指揮スル際既定営業科目ニ照シテ疑ハシキモノ及ヒ将来ノ営業ニ大 関係アルト認ムルモノノ如キハ特ニ大蔵卿の裁可ヲ請フヘシ」(傍点―引用者)とある。傍 点部分に見られるように、重要事件に関する情報については「銀行重役」からの報告に依 存することになっており、これに基づき経営状況の適切性について判断することになって いた。この意味で、「銀行重役」から適切な報告が得られるか、どうかが管理官を通じた大 蔵省による同行の統治の鍵になる。この点は先行研究では看過されているが、後論との関 係で特に注意されたい。関連して定款第 43 条では「当銀行ノ計算簿記方法ハ都テ大蔵省ニ 於テ制定セラレタル様式ニ従テ詳明正確ニ之ヲ取扱フヘシ」と規定されていた。同様の規 定は「申合規則」第 17 条では「本行諸帳簿ノ記入方ハ本行定款第四十三条ニ準拠シ総テ大 蔵省ニ於テ制定セラレル様式ニ照準スヘシ」にもある 11 。事務処理方法も大蔵省の意向に強 く影響されていた。 このほか、持株数 30 株以上の所持者から取締役 5 人を選挙すること、うち 2 人を検査役 とすること、取締役中より頭取を選挙することが規定された。ただし、この点についても 大蔵省側による強い制限が加えられていた。具体的には、 「別段規定」として、取締役、頭 取の選任に関して「大蔵卿ノ考案ニ依リテハ其頭取支配人ヲ改選セシメ又ハ特ニ之ヲ選定 セラルルコトアルヘシ」との規定にあるように、場合によっては大蔵省が役員人事に介入 することが認められていた。この点でも、大株主による経営支配には制約があったことに は留意すべきであろう。 このように定款などの諸規定では大蔵省の管理が強く打ち出されていた。しかしながら、 管理官による監督の基礎とする銀行経営に関わる情報は、基本的に重役陣に依存していた。 10 11 『横浜市史』第 3 巻上、520~521 頁の議論ではこの点が看過されている。 『横浜正金銀行史 附録甲巻之一』 、29・40 頁。 4 この意味で管理官による監督が十全の効果を発揮する条件は必ずしも整ってなかったので ある。 Ⅱ.創業当初の業務展開と明治 16 年の経営整理 (1)資金供給量の推移と店舗網の形成 ここでは支店網の整備と資金供給量の推移について概観する。まず、前者である。同行 は早くも 1880 年の段階で「大坂神戸其他上海香港等江モ支店ヲ設置シ其事業ヲ拡張可仕ハ 勿論ノ儀ニ御座候」12 として、大阪、神戸といった国内枢要の地と上海・香港といった東ア ジアの金融センターに支店を設置したい旨を政府に上申している。 「英仏其他海外諸国ニ於 テ可然銀行ト営業上取引ノ約条取結度右両条共特別之御詮議ヲ以テ御許可被成下候様仕度 此段奉願候也」13 として、海外での取引網の拡大許可についても申請を出している。その後、 許可を得て 1880 年 4 月に大阪出張所、同年 7 月に神戸支店、 1881 年 11 月にロンドン、1882 年 5 月にフランス・リヨン、同年 6 月にオーストラリア・メルボルンとシドニーに店舗を 開設した 14 。オーストラリアの店舗は比較的早期に閉鎖される。それゆえ、本節の分析期間 中は、欧米にのみ出張所・支店を置いていることになる。なお、国内店舗と海外店舗の為 替関係については、後に検討することにする。 次に表 1 には創業期の横浜正金銀行の主要勘定を示した。さしあたり、ここで問題にし たいのは、民間向けの貸出である。 「人民へ貸」の総額は 1880 年下期の 2,866 千円から不 良債権処理を含む経営改革が行なわれる 1883 年上期には 6718 千円へと 2.3 倍へと増加す る。この時期、 「人民へ貸」のうち、大きな比重を占めるのは貸付金である。80 年下期に構 成比 43.1%だったものが、不良債権処理を中心とする大規模な経営改革が実施される 83 年 下期には 23.7%にまで低下するものの、約 1/4 を占めている。次いで金額が目立つのは海 外直輸荷為替貸である。構成比は 81 年上 22.9%、83 年上期 15.3%を占めている。82 年下 期、83 年上期になると新たに出てくる外国為替金の比重も高く、それぞれ 27.5%と 30.8% を占めている。海外直輸荷為替金とも併せれば、両者でほぼ「人民へ貸」の 45%ほどを占 める。これに輸出品の内国荷為替資金である内地荷為替資金貸(内地荷為替元貸出金)を も加えれば、 「人民へ貸」の過半を占める。当然のことながら、横浜正金銀行は、貿易資金 関係を中心に供給量を順調に伸ばしていった。これに対して、政府向け貸出は金札引換公 債証書の引き受けがほぼ全額であった。次に同じ時期の負債を検討する。まず、 「人民ヨリ 借」欄中の諸預金であるが、「人民へ貸」総額の伸びに対して、かなり緩慢な増加しか示し ていない。これを補ったのがその大部分を預金が占める「政府ヨリ借」であった。特に殆 12 「同年同月二十八日再願 資本月賦入金順序ノ件ニ付願」 、『明治十三年 諸願伺届書留 類綴』に合綴。 13 「明治十三年一月二十一日出願 資本月賦繰入金順序並ニ海外ノ銀行ト取引ノ約條取結 之件ニ付願」 、『明治十三年諸願伺書留綴』 14 『横浜正金銀行史』 (同行、1920 年。ただし、本稿では復刻版、日本経済評論社、1976 年を用いた)第 1 章。 5 どの時期で政府預金は人民預金の 2 倍以上を占めている。通説的に指摘されることである が、政府からの資金供給が同行の資金繰りの重要な柱になっていたことが確認される。 このような政府への資金依存とこれをもたらす要因になった背景である。ここでは、三 つの文書を挙げておく。 【史料①】 「物産輸出ノ利便ヲ謀リ其隆盛ヲ助クルハ実ニ当行ノ一要務ト云フヘシ方今銀貨 日ニ勝貴シ貿易上近頃ノ形成ヲ以テ前途ノ景況ヲ推測スルニ内国ノ取引商人ハ一時休業ノ 姿ナルヲ以テ随テ外国人ノ我輸出品ヲ買フノ気配モ亦自カラ衰替スルニ至ベシ然ルニ内国 ノ生産者ハ例年ノ比較ニ因リテ茶生糸等ノ製造ヲナシ各地ヨリ輸送スルヲ以テ其物品ハ自 然港内ニ輻輳シ其販売モ亦阻滞スベキハ必然ノ勢ナルベシ加之外国商人ハ其虚ニ乗シ飽マ テ其物品ヲ排斥シ価格極メテ低下スルニ非サレハ敢テ購求セサルニ至ラン如此ナル寸ハ内 国ノ物品乍ラ其声価ヲ失シ随テ生産者ノ気英ヲ挫シキ稍ク衰兆ヲ現出スルニ至ハ頻年貿易 ハ経歴ニ徴シ明証スルニ足ルヘシ」 15 【史料②】 「目今茶生糸等海外輸出之時季ニ臨ミ居候処直ニ之ヲ海外ニ輸出致候者ハ為替取 組ニ不便有之又価格之一時下落ニ逢ヒ之ヲ堪フル能ハズ荷物ヲ抵当トシ外人ヨリ借入金等 致候荷主モ不由相聞誠ニ遺憾之至ト奉存候付右救治之為メ凡ソ紙幣壱百万円ヲ限リ御下付 被成下候様願候」 16 。 史料①②は創業直後のものである。前者は救済資金の供給願いである。同史料の記載内 容の概要は次のとおりである。銀貨の騰貴ならびに将来の騰貴継続期待を背景に外国商人 には買い控えを、所持する銀貨量の乏しい内国取引商は休業状態になった。そのために、 茶や生糸などの売れ行きが鈍化したために、荷物が港内に「輻輳」して滞貨が生じた。こ のような事情を背景に、横浜正金銀行には関係者の資金繰り確保のための救済資金の供給 が必要となった。後者は、輸出為替取組みの繁忙期に入ったために需給がタイト化したこ とと価格下落を背景に、資金繰りが付かなくなった業者への資金供給の必要性が生じたこ とが記されている。さらに、デフレの本格化に伴い不良債権問題が深刻化した 1882 年の史 料(文書③④)には、次のような記載がある。 【文書③】 「近来ハ海外ニ於テモ雑貨商業甚タ不景気ニテ何分売捌キ方不行届去リトテ荷主 ニ於テ余ノ金員ヲ以テ返納方取計有様ノ資力モ無御座依テ不得止證書面ニ拠リ売却セシメ ントスルトキハ勢ヒ棄売ヲナスヨリ外無之若シ然ルトキハ本邦ノ雑貨全体ノ価格ニモ差響 キ其害少小ナラサル」 17 。 15 16 17 「同十八日出願 紙幣御貸下願」、1880 年 5 月 21 日。 史料名無し。明治 13 年 7 月 19 日、大蔵卿佐野常民代理大蔵少輔吉原重俊宛文章。 「第八十五号」、『明治十五年 諸願伺届書類留記』に合綴。 6 【文書④】「内地荷為替貸金ノ義ニ付テハ本年三月十七日ヲ以テ延期ノ儀上願仕候」(中略) 「地方一般ノ商況非常ノ困難ヲ極メテ又如何トモ致シ方無是有様ニ御座候」(中略)「就中 生糸商業ハ一層ノ困難(以下、マイクロ撮影の問題の関係上、解読不能)地方銀行ハ三四 月ヨリ漸次金融ノ渋滞ヲ来シ終ニ今日ニ至リ其極ニ達シタリ」 18 。 これらの史料は、大蔵大臣宛の貸出金の回収延期願いである。その概要は次のとおりで ある。国内市場におけるデフレの深刻さに加えて、雑貨類については海外市場における不 景気も手伝って金融難が生じた。このような状況の中で無理な資金回収をした場合、産業 への打撃が懸念されることが記されている。 このように、デフレを背景に資金の固定化が進んでいた。さらに関連して、取引網の形 成についてみる。表 2 は輸出為替資金供給先などを示す。ここから、従来、指摘されてい た取引先としての地方国立銀行・資金供給目的としての直輸出の奨励のほか、抵当品が生 糸、製茶、雑貨、とりわけ生糸が大半を占めること、これらの流通経路が殆ど地方産地→ 貿易商会であり、分散化していなかったこと、極度額、ひいては資金供給量が金融機関の 規模に応じていたことなどが分かる。特に、取引銀行は複数あるものの、流通経路が貿易 商会に集約されることを考慮した場合、充分な貸出先の分散が図られていたとは言い難い。 この意味で貸出リスクの管理が不十分であった。さらに、関連して、この事実は、「甲第十 四号 第一条 貸付高ハ悉ク銀貨ヲ以急速返金致サセ候義ト可相心得(略)/第二条 逐 次銀貨景況ニ応シ猶可及指揮事」19 という、供給した為替資金を回収の際に銀貨での返金を させることを通じて、正貨吸収=紙幣整理に結びつけるという政府の方針が非現実的であ ったことをも意味する。 表 3 には不良債権の内訳を示した。ここでは、単純に各項目の数値を示したのみである 先行研究よりも踏み込んだ形で検討する。まず、銀貨貸出と紙幣貸出を比較する。銀貨は 抵当実価、優良貸出である甲貸付金比率が高い。これに対して、紙幣貸出は抵当実価、甲 貸付金比率が低い。次に内国荷為替と外国荷為替を比較する。両者ともに不活動+損失見 込み=貸出金合計額となることに注意されたい。これを前提にして検討すると、外国荷為 替は抵当見積価格=不活動になっている。これに対して、内国荷為替は抵当見積価格<不 活動額であり、損失見込み額の比率も高い。ここから内国荷為替と外国荷為替の担保政策 の違いが反映していることが確認される。この問題については次節で立ち入った考察をす る。それゆえ、ここでは問題の指摘のみにとどめる。いずれにせよ、不良債権といっても、 銀貨・紙幣別の抵当政策、内国荷為替と外国荷為替の担保政策の違いが不良資産形成に影 響したことだけは確認されよう。なお、これらの不良債権であるが、これをその取引先が 判明する内国為替についてのみではあるものの示す(表 4)。本表によれば、取引先銀行の 18 19 「第九十三号」、『明治十五年 諸願伺届書類留記』に合綴。 『明治十二年 御指令伺願書綴』に合綴。 7 大半が生糸や製茶に関連する銀行であることが判明する。ここから、主要輸出先であるこ れら商品の輸出関連で不良資産が発生していたことが確認される。 このように当該期の横浜正金銀行は、店舗網を拡充し、海外の銀行とのコルレス関係な どを整備した。同時に輸出品荷為替も含む貿易関係資金の供給を中心に業容を拡大した。 しかし、貸出の内実は健全なものではなかったのである。 (2)不良資産の発生と対応―経営統治の改革― このような不良資産発生を背景にして、横浜正金銀行は不良債権処理を柱とする経営改 革に取り組む。まず、最初に取り組まれた改革は、1882 年 1 月 8 日の臨時株主総会で決定 されたように 20 、管理官を廃止して大蔵卿が任命する取締役 3 名(民間選任取締役は 6 名) を新たに送り込むことであった。このような改革が行なわれた背景として、次の史料の記 述が注目される。 「常ニ管理官ヲ該銀行ニ派出シテ其営業ヲ監督セシメ候処爾来営業上種々 不都合之趣キ有之哉ニ相聞ヘ拙官当職ニ就キシヨリ以来専ラ其ノ当否ヲ探求候ヘ共業務錯 雑シテ事実ノ如何ハ何分知悉致シ難ク管理官アリト雖モ外面ニ顕彰スル所ノ事実ヲ管理ス ルノミニシテ其内部ニ迄関渉不致候間其実務ハ是亦詳解シ能ハサル有様ニ付往々隔靴ノ歎 .............................. ナキヲ得ス」(中略)「又該銀行ノ定款ヲ改正シ従前ノ管理官ヲ廃止シ時ニ等省ヨリ取締役 ........................................ 三名ヲ選任シ専ラ業務ヲ検査セシメ候得共初任頭取中村道太ハ其間ヲ修飾シ充分ノ調査モ ... 難行届」21 。本史料に見られるように、管理官は内部の事情に疎いために、経営の監督が充 分に行き届かないことが問題視された。それゆえ、大蔵省による統治を強化するために、 このような改革が行なわれた。とりわけ、傍点部分に見られるように、民間出身の頭取が 正確な経営情報を提供しない中では、管理官はおろか、大蔵省選任の取締役による経営監 督にも限界があった。 このような不十分さを克服するために、松方正義は根本的な経営改革を行なうべく、役 員の選任を行い、紆余曲折を経て、最終的に外為業務の経験がある第百国立銀行頭取原六 郎に同行の改革を委ねた 22 。銀行経営の経験者を登用した点で、この改革はそれまでの商人 や資産家出身の経営者を排除し、専門能力のある経営者を抜擢したと言ってよい。頭取就 任後、原は、表 3 に見られる不良債権 107 万円を償却するために、①資本金と積立金・別 段積立金を通貨に改め、②所有する金札引換証書をより利回りの高い金録公債証書と交換 し、銀貨資本金と紙幣資本金の差額 54 万円と諸積立金 13 万円をもって償却原資に充当し、 残額を 5 年賦で回収することであった。換言すれば、 「松方氏の財政策が遠からずその功を 20 「第二十三号 明治十五年一月八日株主臨時総会決議録」 、『横浜正金銀行史 附録甲之 一』、133~135 頁。 21 「第三十三号ノ四 横浜正金銀行ノ営業景況太政官へ内申」 、『横浜正金銀行史 附録甲 之一』、171~172 頁。 22 以下の二つの引用も含めて、 『原六郎翁伝』中巻、1937 年、14~26 頁。なお、原頭取を 専門経営者と評価すべきであるかどうか微妙ではあるが、ほぼ専門経営者に準ずる存在と して扱っても良かろう。 8 奏して紙幣の価が回復し、銀貨の価との間に差異の無くなることを見込んで、銀資本金並 に銀積立金を湯治の銀相場一円三十余銭で売却し、其差益を以て欠損の大部分を補填しよ うとするものであった」 。ここまでは既に究明されている事実である 23 。さらに、このよう な方針を実行する前提として、 「当時市価の額面以下に下落していた正金株を一株百九円八 十銭の割合で六千四百十四株だけ大蔵省に買取ってもら」い、大株主としての大蔵省の発 言力を強化してもらった。このような大株主として大蔵省の発言力を背景に、原頭取は 1883 年 4 月 25 日株主臨時総会で本方針を可決させた 24 。 以上、民間出身の経営者が正確な経営情報を提供しない中では、従来の管理官、あるい は官撰取締役制度では、充分な経営の監視ができる状況ではなかった。大蔵省による管理 が効力を発揮し、経営改革が実行されるには大蔵省による株式の所有強化を通じた、原頭 取の方針の貫徹のための条件整備が必要だったのである。 (3)不良資産の発生と対応―輸出資金取引制度の改革― もっとも、大蔵省主導の改革はこれのみには止まらない。まず、原が頭取に就任する約 一年前に荷為替に関する貸出リスク管理体制を強化する措置を採った。関連史料には次の ような記述がある。 「前述ノ通リ当省ヨリハ巨額ノ株金ヲ差加へ又外国為替金ヲ預ヶ入候儀 ニ付其業務宜キヲ失シ万一破店等有之候様ニテハ独リ当省ノ損失ヲ受クヘキノミナラス一 般経済ノ上ニモ影響ヲ与ヘ殊ニ外国荷為替ノ如キ貿易ノ消長ニ関シ最モ緊急ノ業務ニ付差 . 置難キ次第ト存候間十五年二月裁可ヲ経外国為替金取扱規定ヲ改定シ専ラ堅固ノ方法(①為 替荷物ノ船積証及ヒ保険状ハ横浜正金銀行ヨリ領事ヘ送達シ為替金ト引換ニ非ラサレハ抵 当荷物ヲ引渡ササルノ類)ヲ施行候ニ付改定以前ニ取組タル外国荷為替(②旧法ニテハ為替 金支払前荷物ハ荷主へ放任シ又ハ荷物ノ検査ノ不十分ナルアリ又ハ其貸先ヲ特ニ当省ヨリ 指名セシモノアリ)及ヒ内国荷為替金(③此為替ハ現在荷物ヲ抵当トスルニ非ス豫メ各地銀 行へ配賦シテ荷主ニ貸サシメタルモノナリ且銀行ヨリ抵当ヲ取リタルモノアリ又取ラサル モノアリ)ニハ取立方頗ル困難ナルモノアリ其損失見込七拾余万円アリト雖モ規定改定以 後ノ為替金ニハ不能金決シテ無之」 25 (①~③と下線は筆者)。外国為替金については、従 来、為替金を渡す前に抵当荷物を引き渡し、荷主に荷物を放任し、荷物の検査も不十分だ ったものを(下線②)、為替金と引換えに領事を介して抵当荷物を引き渡す方法に改めた(下 線①) 26 。さらに、「外国為換金取扱規程」第 3 条第 1 項では「為替券には、渡した紙幣の 金額、受け取るべき金額、および両者の交換の際の為替相場、為替料等を規定し」、返納の 注 3 の諸研究を見よ。 「第三十三号ノ二 明治十六年四月二十五日株主臨時総会ニ於ケル原会長演説」 、「第三 十三号ノ三 株主臨時総会決議承認願」、『横浜正金銀行史 附録甲之一』、167~170 頁。 25 「第三十三号ノ四 横浜正金銀行ノ営業景況太政官へ内申」 、171~172 頁。 26 すぐ後の投機抑制についての制度についての議論と引用も含めて、 『横浜市史』第 3 巻下、 548 頁も指摘している。 23 24 9 際の相場変動を利用した投機的行動を抑制する措置をとった 27 。もっとも、荷為替取引にあ たり仕切り書・船積証・為替券を領事ないし大蔵省の指定人に発送し(第 3 条第 3 項)、実 際の入金と荷物引渡しの際には「駐外日本領事へ訓條(荷為替券や抵当物の管理を領事が 行い、荷為替金未納の際には荷物を領事が管理することを規定―引用者 28 )ノ趣旨ニ従ヒ銀 行ヨリ派出ノ役員之ヲ執行スヘシ」 (同第 5 項)との規定、あるいは荷為替資金を受領後、 外国銀行に預け入れ、その経営状況を監視し当該預金の管理を厳重に行なうようにとの規 程 29 に見られるように、抵当荷物の管理や荷為替代金の授受、資金受領後の管理を領事館に 依存していた。つまり、貸出リスクの管理を自立的に行なう体制ではなかった。この意味 で、このような制度の中に金融機関としての横浜正金銀行の限界が確認される。 内国荷為替については、荷物を抵当に取らず、各地銀行に配賦して貸付を行い、抵当設 定の如何も各地銀行により区々だった制度が(下線③)、史料が作成された 1882 年 5 月 16 日時点まで継続していた 30 。なお、制度改正に取組んだ外国荷為替金と、放漫な貸出方法が 継続している内国為替については不良債権が発生しているが、制度改正後、外国荷為替金 については不良債権が発生していないとの記載がある 31 。このような貸出制度の改善の如何 が、上述した内国為替金と外国為替金との間の不良資産比率のあり方の相違に繋がったと 言えよう。このほか内国荷為替について多額の不良資産が発生したという事実に関連して、 各地の銀行に資金を配賦の上で貸出を実施していたことを想起した場合、この事実は地方 の国立銀行を通じたスクリーニングやモニタリングによる貸出リスク管理が殆ど機能して いなかったことを示す。ただし、後述のように、各地の国立銀行は不良債権の処理負担に は責任を負っていた。この意味で、一定程度ではあるが、横浜正金銀行は各地の国立銀行 の負担の下で、貸出リスクの回避が可能になった点には留意する必要がある。 このほか、制度改革が遅れていた内国荷為替金の取引方法であるが、確認できる限り、 1883 年 6 月に作成された「製糸直輸内地ニ於テ為換取組方手続」 32 から、改善が図られた ことが確認される。具体的な内容は次のとおりである。まず、「第五 各地ニ於テ生糸為換 ノ申込ヲ受クルトキハ先ツ生糸鑑定方ヲシテ其生糸ノ検査ヲ遂ケ且ツ之カ価格ヲ定メシム ヘシ」とある。その際、 「第四」において主任 1 人につき「各地ニ於テ其事ニ熟練ニシテ且 ツ信用アルモノ」とされる生糸鑑定方 1 名をつけることが規定されている。つまり、専門 職による生糸の品質鑑定(荷物検査)を行なうことが義務付けられた。次に、「第六」とし て「為換金ハ生糸時価ノ八割ヨリ超過スヘカラス」として、担保掛目の上限が明確化され 27 以下、「外国為換金取扱規程」は『横浜正金銀行史 附録 甲巻之一』、140~144 頁。 「第二十六号 外国為換取扱ニ付駐外領事へ訓條」、1882 年 3 月 17 日、『横浜正金銀行 史 附録 甲巻之一』、144~149 頁。 29 「駐外領事大蔵省ニ関スル公務取扱規程」 、 『横浜正金銀行史 附録 甲巻之一』、147 頁。 30 この点は、制度変化前の貸出規定からも確認される( 「甲号雛形」、 『明治十四年 諸願伺 届書綴』に合綴中、国立銀行に依存した貸出を規定した第 7 条、荷主による荷為替物品売 却後における正貨を用いた荷為替代金の納入を規定した第 6 条といった条項を参照)。 31 同上、172 頁。 32 以下、 『横浜正金銀行史 甲巻之一』、186~188 頁。 28 10 た。そして、これら諸規定は、以前とは異なり、資金供給の如何を各地銀行に委ねるので はなく、横浜正金銀行自身が審査・決定するように制度が変わったことを意味する。この 意味で貸出資金管理の厳格化は製糸資金のみには止まらなかった。 さらに、上記の掛け目の記述のほか「第八 出張員ニ於テ為換ヲ取組ムニ当リテハ必ス 証書及荷物ト引換ニ金員ヲ交付スヘシ而シテ其荷物ハ直ニ本店ニ輸送シ且之ト同時ニ為換 証及ヒ明細ナル報知状ヲ送付スヘシ」 「第十二 出張員ヨリ輸送スル所ノ荷物本港へ到達ノ 上ハ検査ヲ経テ後之ヲ本行ノ倉庫へ引取ルヘシ若シ此場合ニ於テ荷物ノ損傷不足等アルト キハ直ニ本行ヨリ運輸会社ニ掛合之カ弁償ヲナサシムヘシ」との規定にもあるように、荷 為替取組にあたり確実に抵当を確保し、現地と本店倉庫で二重に荷物検査を実施し、厳重 な管理をすることが規定された。このほか、「第九 為換物品輸送ニ付テハ各地ノ運輸会社 ト約定ヲ結ヒ且此会社ニ十分ナル損害保険ノコトヲ受負ハシムルヘシ」として、運輸会社 の責任で損害保険を結ばせることを規定し、運送上のリスクを運輸会社に負わせることを 明確にした。この意味でも抵当品の管理は厳格であった。その上、「第十三」では、為替期 日に荷受人に通知し、為替金を仮渡して、金に振り替えさせて、証書等の引き換えおよび 決算を行なうことが規定されている。金への振替に見られるように正貨吸収が目的であっ たこと、ならびに荷物は荷主からの代金入金との引き換えで引き渡すことが制度化された ことが確認される。 内国荷為替に関する制度改革はこのようなものであった。外国荷為替制度の改革とは異 なり、貸出リスクの管理を自立的に行なっている点では両者には相違があった。とりわけ、 同行が外為専門銀行であることを考慮した場合、その業務の中核である外国為替金供給に 関する貸出リスク管理面で自立的なリスク管理体制を構築できなかった点は、外為銀行と しては重大な限界であったと言える 33 。この点は強調しておく必要がある。もっとも、これ 以後、後述する 1890 年恐慌による不良債権の発生を見るまでは、『諸願伺届書類留記』を 見る限りでは、基本的には制度不備に基づく外国為替金、内国荷為替金に関する深刻な不 良債権の発生を報告する記述は見られない。ここから、ここでの制度改革が、一定程度、 効果を持ったと見てよかろう。このように、原頭取就任前後に時期を通じて、外国為替金、 内国荷為替金の供給手続きは、貸出リスク管理を厳重化する方向で改正された。この結果、 一時期を除いて、滞貸金や期限過貸付金は構成比を低下させる(表 1)。このような制度改 正を通じて、はじめて横浜正金銀行の製糸資金供給は効率性を高めることができたのであ る。 Ⅲ.明治 16 年の経営整理以後の経営動向 (1)概観:主要勘定の動向 その後、横浜正金銀行の業容は拡大の一途を辿る。資金調達面では、「人民ヨリ借」は逐 次増加し、1888 年下期には「政府ヨリ借」を上回るようになった。資金供給面も同じく基 33 この点は、『横浜市史』第 3 巻下などの先行研究では把握されていない。 11 本的には増加を辿るが、貸出金の比重が低下する一方で、他方では外国為替金(→再割引 代金取立手形)が絶対額、比重ともに増加する(表 1)。もっとも、海外における同行の信 用力を支えるために、政府に海外為替手形の買上げを請願していることに見られるように、 未だ特に海外における信用力確保のためには政府からの資金供給に依存せざるを得なかっ たことには留意すべであろう 34 。 (2)海外店舗の展開と外国為替取引の実態 このような外為資金供給を中心とする経営拡大は、海外における店舗展開および業務の 拡大を伴っていた。このような為替関係を 1882 年と 1884 年の為替関係を示した表 5 によ って検討する。これによれば、ニューヨーク、ロンドンの両出張所と国内との間の為替関 係が前者の受取超過である。これは輸入超過に基づくものであろう。これに対して、リヨ ン出張所は大幅な送金超過(片為替)であった。原史料によれば、これはフランス向けの 生糸輸出に基づくものであった。その規模は 82 年に比較して 84 年のほうが大きくなって いる。次に、各出張所・国内店舗間の為替関係を見ると、基本的に両年ともに各出張所⇔ 国内店舗(特に本店)というものあった。つまり、出張所間の為替関係は殆ど見られない。 ここから、この時期には出張所間の為替関係を通じたポジションの調整が実施されていな かったことが強く推定される。 それでは、受取・送金のアンバランスはどのように調整されたのであろうか。この点に ついて、大幅な片為替が発生しポジション調整に特に困難が生じていたと推定されるリヨ ン出張所を中心に検討する。この面での対応も基本的には大蔵省へ依存していた。1885 年 の史料には、 「当行里昴出張所ノ儀ハ日ニ追テ業務繁盛ニ相成随テ当地ヨリ里昴へ向クル電 ........... 信並通常為替又里昴ヨリ当地へ向クル逆為替ノ依頼有之候處右ハ何レモ当地本店ニ於テ金 ............. 員ヲ受取ルヘキモノニ御座候付テハ右両地間ノ順逆両為替トモ総テ当地ニ於テ代リ金御本 省へ上納可仕候間一ヵ年法貨百万法以内ニ限リ同地当行出張員へ御預ヶ入被成下度且ツ当 ................... 地ヨリ臨時電信為替並為替等取組ミ候ニ付テハ右仕払ヒ金ハ予メ出張員手元へ御預ヶ入不 ............................ 被下置候テハ仕払ヒノ際外人ヘ対シ信用ヲ欠キ候懸念モ御座候ニ付差向キ法貨弐拾万法丈 同地出張員へ御下渡シ置キ被成下候」との記載がある 35 。 この史料は、原頭取より大蔵省宛に出された、リヨン出張所の資金ポジション維持のた めの資金の借入金願いである。最初の傍点部分に見られるように、リヨン出張所と本店と の間で取引される為替の決済(為替代金の支払い)は、すべて横浜本店で行なわれる。そ れゆえ、リヨン出張所は生糸輸出関係を中心とするのであろう「業務繁盛」を理由に、資 金繰り確保に苦労していた。この問題への対応の必要性が、大蔵省に資金借入依頼を出し 「海外為替手形御買上取扱方ニ付願」、1884 年 5 月 16 日、 『明治十六年 諸願伺届書留』 に合綴。 35 横浜正金銀行頭取原六郎「里昴出張員へ為替仕払金御預ヶ入之儀ニ付願」 、1885 年 1 月 29 日、『明治十八年 諸願伺届書留』に合綴。 34 12 た理由であった。とりわけ、二番目の傍点部分に見られるように、大蔵省からの資金借入 れが実現しない場合、本店からの送金為替が、為替の取組時点から資金としてリヨン出張 所の手元に入るまでの間にタイム・ラグが生じるため、その支払いに窮する恐れがあった。 それゆえに、取引先である「外人」への信用が低下する危険性があった。これに加えて、 アメリカ向け生糸の輸出量に凌駕されたとは言うものの、この時期に至ってもフランスは 日本にとって生糸の重要な輸出先であった 36 。この点を踏まえた場合、リヨン出張所の活動 を支えることは、当時の日本経済にとっても極めて重要であったと考えられる。このよう な意味で、外国に所在する支店であるリヨン出張所の営業活動の継続性を担保する上で、 大蔵省への資金借入れ許可の確保は死活的であったといえよう。 この依頼は 1885 年 2 月 21 日付けで大蔵省より許可される。その際、①順為替は大蔵省 の資金繰りによって許可の如何が決められるので国債局に申し出ること、②電信為替は 20 万フランをリヨン領事館からリヨン出張所に貸し出すので抵当を入れること、③これの為 替は 84 年 11 月 17 日の相場で決済すること、④逆為替は一箇年 5 万円を上限に領事館が出 張員より買い入れる形で供給することが定められた 37 。このように、基本的には領事館が窓 口となりリヨン出張所の資金繰りが確保されることになった。さらに、1886 年 3 月 15 日 にはニューヨーク、リヨン出張所について、国内から両地宛の官金の現送や為替の取扱を 全額請け負わせてもらいたい旨の請願が出されている。これについても、同 27 日付けに許 可が下りている 38 。 次に、このような資金繰り確保策が採られた背景である。大蔵省が横浜正金銀行宛に出 した質問に対して出した回答書(85 年 3 月 14 日付け)によれば 39 、今後、海外店舗におい ても外国銀行と取引関係を結び、その地の通貨建ての為替手形を振り出すつもりであるこ とが述べられていた。この記述から、海外店舗は外国銀行との間に資金ポジションを調節 し得る取引を行なえるような、十分な取引網や取引関係を形成していなかったことが確認 される。これ以後、横浜正金銀行リヨン出張所は、フランス国内所在銀行との取引関係の 充実を図る(87 年 4 月時点で 4 行、さらに 7 月にはドイツ銀行とも取引) 40 。しかし、こ れらは「先日来御許可ヲ得独国伯林ドウィッチ、バンク(ドイツ語筆記体表記は略―引用 者)並仏国巴里ソサイテイ、ド、テポーエ、ド、コムト、クーラン銀行(フランス語筆記 体表記は略―同)ト本行ノ間ニと理非キ相開キ候ニ付テハ従来御省ヨリ巴里並伯林ト我公 使館ヘ御委託相成居候官金ハ悉皆当銀行へ御預ヶ入被成下度然ルトキハ巴里ノ分ハソサイ テイ、ド、テポーエ、ド、コムト、クーラン銀行伯林ノ方ハドウィッチ、バンクへ預ヶ入 中林真幸『近代資本主義の組織』東京大学出版会、2003 年、付表 4-1(470~471 頁) 。 「第二百九十九号」、1885 年 2 月 21 日、注 35 史料に合綴。 38 横浜正金銀行頭取代理「米国紐育並仏国里昴ヨリ本邦及英国竜動ヘノ現送金並ニ為換御 用取扱方ノ儀ニ付願」、1886 年 3 月 15 日、『明治十九年 諸願伺届書留』に合綴。 39 「外国売金為換取組方出願ニ対シ御尋問ノ御答」 、注 35 史料に合綴。 40 「里昴出張所御預ヶ入金預ヶ先銀行ノ儀ニ付伺」 、大蔵大臣宛、1887 年 4 月 23 日、『明 治二十年 諸願伺届書留』に合綴。 36 37 13 方取計御入用ノ節ハ何時ニテモ同行ヨリ直チニ仕払ハセ候様可仕候間此団御聞済被成下度 奉願候也」41 という史料に見られるように、官金取扱の増額を重要な目的としていた。この 時期、同行は、ロンドン支店、ニューヨーク・リヨン両出張所における「内外人」からの 荷為替・逆為替(海外→日本国内という資金の流れ)の取組が激増していた。それゆえ、 「如 何セン資本不十分ニテ未タ依頼者ノ意ヲ満タス能ハス遺憾不少」という状況にあり、資金 繰り確保のために官金預け入れ額の増額を要請していた 42 。もっとも、85 年 6 月 2 日付け で、同行は大蔵卿宛に文書を提出し、外国銀行とコルレス関係を結ぶことで「連合」シテ 為替業務を行いたいので、これを禁じている銀行条例第 82 条の適応対象から除外して欲し い旨の要望を提出している 43 。つまり、外国銀行とのコルレス関係の形成を通じて、可能な 限り自立的に為替ポジションの調節を行なうべく努力もしていた。しかしながら、上記の 諸事実は、資金需要に応じるための資金を、自らの信用力に基づき海外の市場から調達す ること、ないしは外国銀行とのコルレス関係を通じて為替ポジションの自立的な調整を行 なうことが困難であったことを示す。これが海外店舗における為替ポジションの調整を大 蔵省に依存せざるを得なかった理由であった。 このような状況が生じた理由は不明であるが、未だ信用力が十分でなかったことが推測 される。このような議論には十分な根拠はないが、例えば、1888 年 1 月に出納局宛に出さ れたベルリン領事館によるドイツ銀行経由の日本国内宛の逆為替手形の取組についての史 料には、 「独逸銀行トノ約定ハ単ニ当行ヨリ振向ケ候為換ノ仕払ヲナスニ止リ未タ先方ヨリ 当行ヘ向クル逆為替取組方等ニ付テハ約束調整ヒ居不申候ニ付可相成ハ同地逆為替ハ里昴 出張所ヲ経テ御取組相成候様仕度候へ共御都合上不得止儀ニ候ハハ其分ニ限リ里昴出張所 ニ於テ中次キヲ為シ独逸銀行ニ於テ直接ニ逆為替取組マセ候様可仕候」44 とある。本史料は、 ドイツ銀行と横浜正金銀行(海外支店)との間には、ドイツ銀行から見て決済リスクが皆 無に等しい資金振替取引のみが行なわれていることが示されている。この事実は、決済リ スクの存在する逆為替取引については、里昴支店が仲立ちに入る資金決済をすることで、 事実上、決済リスクをすべて横浜正金銀行が負担するという、殆ど資金振替取引と同様な 取引を強いられていたことを意味している。換言すれば、この事実は、横浜正金銀行の信 用力の低さと取引関係の片務性を示している。このような信用力の低さを前提とすれば、 為替ポジションの調節を可能にするような、外国銀行との双務的な取引関係の構築(とり わけ、上記の片為替解消を可能にする、日本国内→海外店舗・海外所在銀行あるいは海外 所在銀行→海外店舗という資金の流れをもつ取引の構築)は困難であったと言わざるを得 ない。 以上、この時期の海外支店の取引量は増加の一途を辿る。このような中で、とりわけリ 「外国ニ於テ官金御預ヶ入之儀願」 、大蔵大臣宛、1887 年 7 月 11 月、注 40 史料に合綴。 年 8 月 1 日、注 40 史料に合綴。 43 「銀行条例第八十二条之儀ニ付願」 、1885 年 6 月 2 日、注 35 史料に合綴。 44 文書名なし、1888 年 1 月 25 日、大蔵省出納局宛文書、 『明治二十一年 諸願伺届書留』 に合綴。 41 42 「海外為替資金御預ヶ入之儀ニ付願」 、大蔵大臣宛、1887 14 ヨン出張所が顕著であるが、貿易取引関係を背景とする片為替を要因とする為替ポジショ ンの偏りという事態が生じた。しかしながら、横浜正金銀行の低い信用力ゆえに、この問 題を解消するために必要とされる、外国銀行との間での双務的な取引関係を構築すること は不可能であった。そのため、ポジション調節を図る上で、大蔵省への資金依存が必然化 した。このような資金供給の如何は、資金需給が逼迫する中での官金引き上げが問題化し ていることが記されている文書 45 、あるいは抵当品不足のため上納高の半減を懇願する文書 46 が示すように、横浜正金銀行海外店舗の活動にとって死活的問題であった。 (3)内国荷為替取引 この時期における内国荷為替金に関する課題は、明治 16 年の不良債権処理の際に、年賦 回収とされた輸出生糸向けを中心とする国内における荷為替貸出の回収であった 47 。当該貸 付金は銀紙の価値格差が解消し 48 、企業勃興へと向かう状況の形成が明確化した 1887 年ま で残額が生じていた(表 1)。 このような年賦回収という方針を定めた理由であるが、一例を挙げれば、84 年 3 月の大 蔵卿宛の史料には「信州松代第六十三国立銀行へ対スル荷為換元金貸及前貸金之儀ハ追々 返入相成現今ノ残高壱万九千三拾五円ニ御座候處該地方ハ連年生糸商業ノ不景気殊ニ現今 ニ至リ該業ニ従事スルモノ一層ノ困迫ヲ極メ到底此際一時ニ取立方不行届又銀行ニ於テモ 金融梗塞ノ折柄之ヲ償還ノ力無之ニ付当年十二月廿五日迄返納延期ヲ乞ヒ度旨ヲ以テ別紙 之通依頼書差出ニ付尚ホ篤ト実情取調候處全ク申出ノ如ク相違無御座候ニ依頼書ノ通リ本 年十二月廿五日迄延期ノ儀猶予致シ度奉存候」49 との記載がある。本史料から、デフレに伴 う地域経済の困窮への配慮から、申請者である第六十三国立銀行の申出の内容を調査の上 で、返済の延期許可を求めていることが確認される。これに対して、4 月 4 日付けで大蔵卿 より「願之趣難聞届候事」という指示が出された。しかしながら、5 月 7 日付けの頭取名の 文書で景況悪化を理由に、再度、回収延期許可を請願した 50 。本文書に対する回答は見出す ことはできないが、7 月 4 日になると横浜正金銀行側は第六十三国立銀行を含む 13 行 593,372 円の貸出について、第二十四国立銀行、第百八国立銀行については「処分」(最終 処理の意味か)をした上で、それ以外については国債局宛に回収延期を求める請願を出し た 51 。大蔵省の厳しい姿勢を前に、一部、最終処理すべきものは最終処理した上で、回収延 期を請願したと判断される。 「海外支店出張所御預ヶ入レ金抵当品之儀ニ付願」、宛先、日付不明、注 42 文書に合綴。 「海外支店出張所御預ヶ入金抵当品之儀ニ付願」、大蔵大臣宛、1988 年 5 月 31 日、注 42 文書に合綴。 47 『諸願伺届書留』各年に合綴の史料による。 48 伊牟田敏充『明治期株式会社分析序説』法政大学出版局、30 頁。 49 横浜正金銀行頭取原六郎発、 大蔵卿松方正義宛文書、1884 年 3 月 28 日、 『明治十六年 諸 願伺届書留』に合綴。 50 「荷為換元金荷為換前金貸並ニ旧法海外荷為替損失金之儀ニ付請願」 、注 49 史料に合綴。 51 タイトル無し。注 49 史料に合綴。 45 46 15 その結果であるが、年賦返済が計上されているところから、少なくとも部分的には許可 を得ることができたものと判断してよかろう。もっとも、岐阜第十六国立銀行と生糸改良 社から提出された返済延期願いを踏まえて、横浜正金銀行が大蔵卿宛に提出した回収延期 願いについては、公債が担保に取られ、横浜正金銀行側が「危険ノ憂モ無之」としたにも かかわらず、大蔵卿は「伺之趣難聞届候事」と回答した 52 。史料から判断の基準は判然とは しないが、恐らくは生糸生産の効率化を志向して、大蔵省は借手の選別を実施したと推測 される。また、岐阜第十六国立銀行の事例から、公債担保の貸出でさえ、事実上、最終処 理の実施を指示しているところから、その選別がかなり厳格であったことが窺える 53 。なお、 史料の提示は省略するが、同様のことは海外荷為替資金にも言える 54 。 ところで、貸出金の増大に見られるように、この時期には新規の取引拡大も見られた。 それでは、どのようなものが新たな借り手に生り得たのであろうか。福島生糸改良社との 為替取組を事例にこの点について検討する 55 。同社は、福島県下伊達郡が「全郡一致団結シ」 て「生糸ノ改良シ且ツ海外直輸出ヲ謀ル」ことを目的に設立された。横浜正金銀行の出張 員の調査によれば、「同地方ノ生糸ヲ改良シ海外ノ信用ヲ厚クセントノ意ニ外ナラス」、全 郡団結しており、「県庁ニ於テモ特別ノ御奨励有之」ということだったという。本史料に見 られるように、地域社会が一致団結して重要な輸出品である生糸の品質改良に取り組み、 かつ、県庁も含めて直輸出を通じて正貨獲得に資するという目的の元に取り組んでいると いう状況であった。換言すれば、行政も含む地域社会が一致団結して、国家的目的の実現 のために行動していたとも言える。このような要求は、当然ながら、大蔵省から許可を得 ている。この点を踏まえたとき、大蔵省による融資許可の条件は相当程度ハードルの高い ものだったと言えよう。さらに、この間、取引先の選別も図られた。具体的には 1887 年時 点における輸出関係為替の取引先金融機関の減少である(表 6)。これによれば、取引先数 は 13 にまで減少している。1880 年の取引先数は 20 であったから(表 2)、かなりの減少 であったと言ってよい。松方デフレを経て取引先の選別が図られたのである。 以上、大蔵省は、おそらくは松方のデフレ政策に呼応してのことであろう、年賦返済に ついても容易には認めない姿勢を示した。このほか、国内における荷為替取引についても、 前述した 1883 年の制度改正に加えて、新規の取引についても直輸出を目的に行政も含む地 「岐阜第十六国立銀行へ貸出金ノ儀ニ付伺」、1884 年 12 月 7 日、『明治十七年 諸願伺 届書留』に合綴。 53 史料の提示は省略するが、このほかにも、生糸直輸出商人阿部彦太郎、小林吟次郎など への貸出に対する年賦回収についての許可願いについても、大蔵卿はこれを拒絶し為替荷 物の売却と未納額部分についての抵当物の提出を要求している。その結果、横浜正金銀行 も大蔵卿の指示に従っている(「阿部彦太郎小林吟次郎等海外為替金返納方ニ付伺」、1885 年 7 月 31 日; 「阿部彦太郎小林吟次郎等海外為替金返納方ニ付再伺」、1885 年 10 月 10 日、 『明治十八年 諸願伺届書留』に合綴。 54 例えば、 「日本商会年賦金中米金切換方及日本商会貿易商会年賦金変の追約定ノ儀ニ付 伺」、1885 年 11 月 27 日、注 53 史料に合綴。 55 「福島生糸改良社為換取組方之儀ニ付伺」 、1884 年 7 月 10 日、注 52 史料に合綴。 52 16 域社会が一体となって品質改善に取り組むという、かなり厳しい条件が整った場合にこれ を容認するという姿勢を示した。この意味で、一層の取引の効率化が進められたのである。 Ⅳ.明治 23 年恐慌による不良債権の発生と「連合的営業法」の形成 (1)御用為替の廃止と為替差損の負担を巡る日本銀行と大蔵省の議論 1889 年に松方正義大蔵卿と富田鉄之助日本銀行総裁との間で、横浜正金銀行への御用外 国為替供給の廃止と日銀からの資金供給の開始に伴い、外為業務を日本銀行が担当するか、 あるいは従来どおり横浜正金銀行に委ねるかという論点を巡って、激しい論争が行なわれ たことは、既に明らかにされている 56 。また、そこでの議論の帰結としての日本銀行と横浜 正金銀行との間の協調関係の形成を前提として、「『連合的営業法』創設という形での営業 方針の決定」が「企図」されたことも指摘されている 57 。ここでは、これらの議論を踏まえ て、外国為替業務の分担を巡る松方・富田論争が、如何なる意味で横浜正金銀行の外為業 務のあり方にとって変化を加えるものであったのか、という点を明らかにする。 松方と富田の議論の相違は概ね次のように整理できよう。松方は外為業務という特殊な 業務は、これまで経験を積んできた横浜正金銀行に委ねるべきであるとした。これに対し て、富田は日本銀行が外為業務のために横浜正金銀行に巨額な資金供給をするのは危険で あり、日本銀行が直接にこれを行なった方がよいというものであった。それでは、日本銀 行はどのような問題に疑念をもって、このような主張をしたのであろうか。日本銀行は「正 金銀行へ巨額ノ資本ヲ投シテ銀貨買収ヲ計ラシムルモノハ同行ニ取テハ不利ナリ又日本銀 行ニ取テモ不利ナリ」と論じた 58 。その根拠は「外国為替ナルモノハ極メテ薄利ノ業」であ ることであった。つまり、輸出振興のためには、日本銀行が海外為替手形の売買に金融上 の配慮をする必要がある。 「外国貿易ノ権衡我レニ不利ナルトキハ日本仕払商業手形ハタト イ買手ニ益アルモ買入レヲ為サス外国仕払商業手形ハ高値ノ割ヲ以テモ之ヲ買入デンコト .......................... ヲ勉メル可ラス又日本銀行ノ準備消長ニ対シテモ手形ノ売買ヲ制限スル場合」 (傍点は引用 者)もある。これらのことを実行するには、利益を度外視して奨励策を取るしかない。こ のような重大な業務を日本銀行としては他の銀行会社には任せられない。さらに「唯巨額 ノ資ヲ(横浜正金銀行に―引用者)託シ拱手シテ其処置ヲ望カ如キハ弊害ヲ醸出スルノ媒 介タルヤ疑ヲ入サル所」という部分に見られるように、上記のような意味においてかなり のリスクを伴う重要業務であるにもかかわらず、巨額の資金を他の銀行に預けて運用させ . て、十分な資金の管理ができるのかという強い疑念を持っていた。特に、別の文書で、「外 ........................ 国為替事務カ兌換券準備ニ緊密ナル関係ヲ有スルコト及ヒ日本銀行ハ之ヲ他ニ一任シテ其 為スニ任セ袖手傍観スヘラカラサル事ハ本月十二日奉呈シタル書中(上記の引用文書のこ 以下での論争内容の整理も含め『横浜市史』第 4 巻下、682~694 頁。 葭原「横浜正金銀行における『連合的営業法』の創設と展開」、50 頁。 58 以下、引用等も含めて、特に断らない限り、日本銀行総裁富田鉄之助「第八十一号ノ四 乙号 奉答卑見」、大蔵卿松方正義宛、1889 年 7 月 22 日、『横浜正金銀行史 附録 甲巻 之一』、427~431 頁。 56 57 17 と―引用者)ニ之ヲ具申セリ」59 と論じている。この史料、ならびに上記引用文の傍点部分 から、日本銀行の兌換制度維持の観点を重視して、富田は上記のような議論をしたと判断 される。 しかしながら、既に松方は、民間出資者や民間出身取締役の経営妨害行動を阻止するた めに、大蔵省への取締役の改選命令権限の付与、監理官による経営全般に対する監視、大 蔵省の方針に反する経営方針の採用の禁止などを規定した 1887 年の横浜正金銀行条例を制 定しており 60 、横浜正金銀行を完全に「政府ノ機関」化していた 61 。それゆえ、松方には、 横浜正金銀行の廃止と日本銀行への統合を要求した冨田の主張を受け入れる余地はなかっ た。その結果、富田の主張は基本的に退けられ、1889 年 10 月 12 日付けで「日本銀行ニ於 テ横浜正金銀行ノ所有スル外国為替手形ノ再割引ヲ為シ又横浜正金銀行ヲシテ海外ヨリ銀 塊若クハ墨銀ヲ輸入セシムルニ付両銀行ノ間ニ締結スル約定」が結ばれた 62 。同文書第 6 条 では「本条約ニヨリ日本銀行ニ於テ再割引ヲナシタル為替手形ハ不渡リ又ハ其他如何様ノ 損失ヲ生スルモ其損失ハ総テ横浜正金銀行ノ負担タルヘキモノトス」との条項が入れられ た。つまり、為替取引に伴う損失は、全額、横浜正金銀行の負担とされた。このことは、 横浜正金銀行に損失の極小化を図り、日本銀行からの借入金を確実に返済する誘引を与え る。これを日本銀行側から見れば、横浜正金銀行からの資金回収を確実なものにすること で、兌換制維持のために市場に滞留する資金の極小化を図ることを意味する。さらに、第 12 条では「横浜正金銀行ハ日本銀行ヨリ預リタル取立為換手形及取立タル金銭ノ出納ニ付 別ニ帳簿ヲ設置シ其出納ヲ明了ニ登記スヘシ」という条項が、第 13 条では「日本銀行ハ此 約條ノ業務ニ関スル横浜正金銀行ノ帳簿並ニ其預ケタル手形及金員ヲ検査スルノ権アルモ ノトス」という条項が盛り込まれた。これらは日本銀行による当該資金の管理を厳格化す ることは言うまでもない。このような取引制度が形成されたのは、兌換制維持に強く拘る 日本銀行の意向と判断してよかろう。 以上、外為業務の分担を巡る松方と富田との間の論争は、基本的に松方の主張に沿う方 向で決着がつくことになった。しかし、富田が兌換制の維持確保の観点を強く打ち出し、 松方の議論に対して強く抵抗した結果、横浜正金銀行と日本銀行との間で取り結ばれた取 引条項は、兌換制維持を強く求める日本銀行の主張が強く反映することになったのである。 その結果、外為業務の分担を確保こそはしたものの、横浜正金銀行は不渡りや為替差損の 発生を極小化する努力を払う重い義務を負うことになった。 日本銀行総裁富田鉄之助「第八十一号ノ五 丙号 為替方法案」、大蔵卿松方正義宛、1889 年 2 月 22 日、『横浜正金銀行史 附録 甲巻之一』、432 頁。 60 同条例についての詳細は『横浜市史』第 4 巻下、第 3 章第 1 節を参照。 61 日本銀行富田鉄之助ほか「第七十五号之一」 、1888 年 9 月 20 日、『横浜正金銀行史 附 録 甲巻之一』、398~400 頁。 62 以下、日本銀行総裁富田鉄之助、横浜正金銀行頭取原六郎ほか「第八十二号」 、 『横浜正 金銀行史 附録 甲巻之一』、438~444 頁。 59 18 (2)明治 23 年の為替差損発生問題と「連合的営業法」の導入 外為業務の分担を巡る松方と富田の論争が決着して、すぐにこの問題に関係する重要事 態が生じた。アメリカの銀貨買入法の改正問題である。この結果、当時、銀本位制をとっ ていたわが国の通貨である円為替のレートは 4 月 13 日から同 15 日までの 3 日間に対ポン ドで 3 シリング 2 ポンドから 3 シリング 10 ポンド、対ドルでは 77 ドルから 93 ドルへと . 急騰した。このように「銀貨暴騰シ金価急下スルニ当テハ(横浜正金銀行は―引用者)咄 .... 嗟ノ間ニ非常ノ損失ヲ蒙リ実ニ云フヘカラサル苦境ニ陥ルノ恐レ」すらあったという 63 。し かし、法改正が挫折したために事なきを得た。このような問題が発生した理由を説明する 部分には、同行の為替関係が「兎角輸出為替ノ一方ニ傾キ常ニ金貨手形ノ買持高多キ有様 ナリシモ一昨年下半季迄ハ金価月ニ年ニ騰貴スルノ時運ニ際会シタルヲ以テ毎歳多少為替 売買ノ差益ヲ収ムルヲ得タリ」という記載がある。本史料から、金価格が上昇する中で収 益が上がっていたこともあり、為替リスクを考えずに「金貨手形ノ買持高」を多くもって いたところ、上記の銀貨買入法の改正問題により先の引用文の傍点部分にもあるように、 事態が急変する中で為替差損の発生を回避する措置を採ることができなかったことが確認 される。仮に法改正の実現により損失が発生した場合、その額は邦貨換算で 150 万円にも 達することになったという 64 。当時の資本金額は 450 万円であるから、この損失は資本金 の 1/3 を毀損することを意味する。このような状況であるがゆえに、一時は、松方蔵相と 「東西の財界有力者」は横浜正金銀行の救済の「密議をこらした」ほどであったという。 このような状況であったから、急激な為替変動に伴い差損が発生した場合、横浜正金銀行 それ自体の存立が疑わしくなるほどであるから、いわんや日本銀行からの巨額の借入金返 済が極めて困難になる。そうであれば、前述のような、横浜正金銀行への巨額の供給資金 の焦付きに伴い兌換制維持が困難になるという、日本銀行の懸念は現実のものに成り得る。 1889 年のアメリカの銀貨買入法の改正問題は、前述の富田の主張が現実性を帯びたもので あることを示したと言える。 このような事態は横浜正金銀行に為替差損の発生リスクを回避する対策を要求した。現 ......................... に、「即ち御用荷為替金廃止以来、為替売買の損益は正金銀行自ら負担しなければならなく ... なつたが、先頃からの銀価の変動では少なからぬ打撃を受け」(中略)「非常の苦痛を経験 したので将来再びかやうな苦境に陥らぬやうに講究して得た予防策がこの為替出合法(「連 合的営業法」―引用者)である」 (傍点は引用者)との議論にもあるように 65 、前述の御用 荷為替廃止に伴い締結された、日本銀行との取引条件によって為替差損負担が横浜正金銀 行の責任になったことを踏まえて制度改正が考えられていた。ここから、日本銀行との取 引関係が少なからず、横浜正金銀行の対応に影響を与えたことが確認される。その結果、 63 以下、特に断らない限り、横浜正金銀行「第八十六号ノ一 明治二十四年六月二十九日 常会議決」、 『横浜正金銀行史 附録 甲巻之一』、474~475 頁。 64 すぐ後の横浜正金銀行の救済問題も含めて、 『原六郎翁伝』中巻、156 頁。 65 『原六郎翁伝』中巻、158 頁。 19 為替差損への対応として、横浜正金銀行は 1891 年に「連合的営業法」を導入することにな る。このことを示すのが、先の金貨買持高についての議論が記された史料である。同史料 には、先の引用文を受けて、「本行ノ為ニ永遠ノ計ヲ立ツレハ此際変則ヲ去テ正法ニ就キ以 テ危険ノ患ヲ除クヲ最モ必要トスル」した上で、「鋭意計画ヲ尽クシタ」上で「変則」であ る店舗毎に為替出合付けるのではなく、次に示す「連合的営業法」を導入することを決定 したとある 66 。「連合的営業法」とは「龍動支店為替資金ヲ除クノ外ハ常ニ内外相応シテ為 替ノ出合ヲ求メ金貨モ銀貨モ共ニ買越売越為サルルノ方法ヲ立ツル事」(中略)「本邦外国 貿易ノ実況ヲ見ルニ大体米国ト仏国トニ売リテ英国ヨリ買フモノナレハ米仏両出張所ニ於 テハ専ラ本邦輸出為替ノ取立ヲナシテ其代金ヲ龍動支店へ回送シ龍動支店ハ是ヲ以テ輸入 .................. 為替ヲ取組ミ以テ為替ノ出合ヲ付ケサルヘカラス故ニ各店相連合調和シテ運動スルニ非サ ............................ ルヨリハ到底為替ノ完結ヲ望ヘカラサルコト論ヲ俟タサルナリ」(中略)「本店ヲ以テ東洋 各店即チ各銀貨国ノ統括店ト定メ又龍動支店ヲ以テ欧米各店ノ統括店即チ各貨国ノ本部ト 定メ爾余ノ各店其銀貨国ニアルモノハ本店ニ隷シ其金貨国ニアルモノハ龍動支店ニ属シ単 ニ金貨店及ヒ銀貨店二箇ノ名称ノ下ニ双方相対立シ連合一致ノ運動ヲ為サシムル事」とい う内容を持っていた。さらに、貿易促進のほか、為替出合の調整をも目的にして、上海(1893 年 5 月)、ボンベイ(94 年 12 月)の両出張所が設置された 67 。現に、明治 20 年代になると、 特に欧州の統括店・連合店間で為替関係が密になっていた(表 7)。本営業法はこのような 関係を反映していたと判断される。 つまり、貿易関係に照応した為替取引のやり取りを踏まえて、銀貨圏にある店舗は本店 の、金貨圏にある店舗はロンドン支店の統括をそれぞれ受ける。その上で、双方間で金貨・ 銀貨のやり取りを行うことで為替の出合いを付ける。その際、上記の統括店に属する各店 舗の為替のやり取りを「連合調和」し、それぞれの中で「為替ノ完結」を図る。この意味 で、「連合的営業法」は単なる為替差損発生の問題への対応には止まらない。銀貨圏、金貨 圏の諸店舗における為替取引を組織化することで、資金利用の効率化を図ることをも目的 としていた。また、各店舗間の為替バランスの調整を自立的に行なおうとした点で、前述 のような、それまでの大蔵省への依存からの脱却を図っていたとも言える。日清戦争以前 の横浜正金銀行は十分な預金量を確保しておらず、資金ポジションの維持に苦労していた から 68 、このような効率化措置は本問題への対応であったと見られる。また、前述の富田の 議論で指摘されていた為替取引の「薄利」問題(取引の非効率性))への対応をも包含して 66 葭原「横浜正金銀行における『連合的営業法』の創設と展開」では、ここまで記したこ とが看過されている。なお、次に示す「連合的営業法」の説明の殆どは葭原論文のそれ(50 ~52 頁)と重複する。このほか、この営業法に照応する現実の為替取引を通じた主要店舗 の関係性も同論文で分析されている。それゆえ、この点は同論文に譲る。ただし、店舗間 の為替取引の組織化による資金利用、ひいては経営の効率化を図る意図をも包含したこと は、同論文では看過されている。 67 葭原「横浜正金銀行における『連合的営業法』の創設と展開」 、51 頁。 68 平「第一次大戦前の金本位制下における横浜正金銀行」 。 20 いたと言えよう。もちろん、為替差損の発生を回避することで、日本銀行からの借入金の 焦付きを予防することも考慮されていた。この意味では、兌換制維持という日本銀行の主 張にも沿う内容になっていたことは言うまでもない。 (3)「連合的営業法」の限界 しかしながら、この営業法に何らの問題がなかったわけではない。 「為換営業方針改正ニ 付支店支配人及出張所主任ノ心得」 69 からは幾つかの制度的な限界を見出すことができる。 「第二」では各統括店の下でそれ以外の店舗が行動することを規定した上で、「各自所在地 ノ金融商況諸相場其他営業上緊要ノ事件ヲ其統括店へ報告シ併セテ之ヲ本店ヘモ報告スヘ シ但シ銀塊相場為替相場等ノ如キ従来里昴及ヒ紐育ヨリ電信ヲ以テ本店ヘ報告シタルモノ ハ都テ龍動支店ヘ電報シ同支店ハ直ニ之ヲ本店ヘ電報スルモノトス」ことを規定している。 本条項は連合店が金融など各地の経済状況を統括店に報告の上で指揮を受けることを規定 している。このことは、電報を用いたやり取りが想定されることを想起した場合、連合店 が統括店に情報を送り、かつ、情報を受けた統括店が情勢分析の上で指示を出すまでタイ ム・ラグが生じることを意味する 70 。同様の問題は「第四 本店ニ於テ正銀回収ヲ要スルト キハ必ス之ヲ龍動支店ヘ注文スヘシ同支店ハ桑港紐育及ヒ龍動ノ相場ヲ比較シ且ツ各地金 繰ノ模様ヲ考査シ利便多キ所ニ於テ買入ヲナシ其結果ヲ本店ヘ電報スルモノトス」との条 項の中にも見られる。正銀回収の際に本店がロンドン支店へ注文することを規定した条項 である。これもロンドン支店によるニューヨーク、サンフランシスコの相場の調査の上で、 買入を実施することを述べており、タイム・ラグを巡る同様の問題の存在を示す。 このようなタイム・ラグの存在は、為替の急騰が生じた時に問題として顕在化するのは 容易に想定しうる。これへの対応として最後の注意書き部分に「其細目ニ於テ事ノ急ナル モノハ臨機適宜ノ処分ヲ為シ其至急ヲ要セサルモノハ各店相協議シテ処理ノ方法ヲ立ツル 等実際ニ当テ時々ノ手段ヲ取捨スルハ之ヲ各店ノ長ニ任セサルヘカラザルモノ多カラン」 という説明を付け加えている。この点に関連して、規定「第六」では各統括店が週 1 回連 合店の為替ポジションの調査と出合の調整をすることが定められている。このような頻度 で各連合の為替ポジションの調整が行なわれることを考慮したとき、急激な為替変動への 対応はこの注意書にもあるように、各店舗が独自の判断で行なう以外に方法はない。しか .......... し、このことは、急激な為替変動に対して、迅速かつ組織的な対応を行なうことが困難で あることを意味する。このように「連合的営業法」は平素の為替ポジションの調整を行な うという意味では差損発生リスクを回避する点では有効性を持っていた。しかし、急激な 相場変動に十分対応しうる制度的内容を持ち得なかったのである。この点で限界を抱えて 69 『横浜正金銀行史 附録 甲巻之一』、478~481 頁。 藤井信幸『テレコムの経済史』勁草書房、1998 年、211 頁によれば、1884 年当時の実 態であるが、三菱における東京本社→函館の電信を利用した連絡には、少なく見ても 3 日 かかっているという。この事実から見ても、このような議論は妥当性をもつと言えよう。 70 21 いたことには注意が必要である。このような限界の存在があったがゆえに、日清戦争後、 清国からの賠償金の獲得により金本位制に移行した後、金銀の為替リスクが低下したこと を背景に、再度、「分立的営業法」を導入する要因になったと推測される 71 。 おわりに 横浜正金銀行は商権の回復を目的に、政府と貿易商を中心とする民間の双方の出資によ り 1880 年に設立された。創業直後の同行は、監理官を通じた大蔵省による経営監視制度が 設けられており、一見、大蔵省の支配力が強いかのような統治制度を採っていた。しかし、 当初、頭取を含む主要経営陣を占めていた貿易商を中心とする民間経営者は、管理官に正 確な経営情報を開示しなかった。それゆえ、管理官制度では、民間出身の経営者の機会主 義的行動を抑止することはできなかった。さらに、貿易荷為替の取引制度も不備が多く、 融資先は多いものの、貿易商会を中心とする特定の取引先に集中しがちであった。これら のことが相俟って、創業直後には多額の不良債権を抱え込むことになった。 この問題への対応として、大蔵省は第百国立銀行頭取として、外為取引を含めて専門能 力をもつ原六郎を頭取に抜擢して、発行株式を買い占めることで原頭取の方針が貫徹する 条件を整えるなどして、これらの問題の改善を図った。その内容は、不良資産の償却に止 まらない。不良債権の発生の重要要因のひとつであった、輸出荷為替資金供給制度の厳格 化をも包含していた。さらに、原頭取による改革後の不良債権の回収や取引先の拡張に際 しても、大蔵省は厳格な姿勢を示すことで横浜正金銀行の経営効率化を強く促した。その 結果、滞貸金や延滞貸金の減少や取引先の集約化に見られるように、横浜正金銀行の経営、 ひいては貿易金融は効率化することになった。研究史上、製糸金融を中心に、明治 20 年代 以降、横浜正金銀行を含む効率的な資金供給制度が、製糸業など諸産業の発展を促進した ことが指摘されているが、その歴史的前提として、このような資金供給制度の中核を成し た横浜正金銀行の貸出リスク管理制度の厳格化や大蔵省の統治姿勢があったことには留意 すべきであろう。ただし、このように経営効率化への改革が進められたものの、為替バラ ンスの調整も含む資金供給については、依然として大蔵省からの支援に依存していた。自 立的な為替バランスの調整ができなかったという点では外為専門銀行としては重大な限界 が残っていた。 なお、明治 20 年の横浜正金銀行条例の制定も、政府の監督能力を増強している。この点 では、この改革の延長線上にあると言える。さらに、原頭取の登用も、彼自身が登用した 園田孝吉をはじめ 72 、彼以降の頭取が専門経営者的なものであることを考慮したとき、専門 経営者化への重要な転機であったと言える。これらの点を踏まえた時、1883 年の改革から 71 葭原達之「横浜正金銀行における『分立的営業法』の成立とその意義」、 『工藤良平教授 定年退官記念論文集』弘前大学、1986 年、所収。なお、このような「連合的営業法」の限 界と「分立的営業法」の導入との関係については、別稿にて詳論する予定である。 72 『原六郎翁伝』中巻、152 頁。 22 1887 年の横浜正金銀行条例の制定に至る諸改革は、経営効率化を重要目的とする大蔵官僚 による支配力強化とともに、大蔵省主導による外為専門銀行としての専門経営者支配の確 立と、貸出リスク管理体制を中心とする管理体制の近代官僚制化を推し進めるものであっ たと評価できる。先行研究ではこのような評価が欠けている 73 。特に強調しておきたい。 次に、松方・富田論争と「連合的営業法」の導入についてである。両者の論争、ならび に 1890 年の為替差損問題を受けて導入された「連合的営業法」は、横浜正金銀行からの供 給資金の焦げ付き、ひいては横浜正金銀行に多額の資金を供給しているが故に、兌換制維 持への影響を恐れる日本銀行の意向にも配慮した営業法であった。本営業法は各店舗間の 資金バランスの自立的調整、資金の効率的利用を進めた点で、大蔵省や日本銀行への依存 度を極小化する内容をもっていた。この意味で、1883 年の改革において残された限界の克 服を図るものであった。ただし、緊急時において為替差損発生回避のための統括店・連合 店間の組織的行動が困難であるという意味で、為替の急変動への対応策としては限界が残 っていた。 このような一定程度ではあるが経営効率化を推進する制度改革を前提にして、金本位制 以降後、中国大陸での預金確保を背景に資金量が増大する中で 74 、日本銀行の金兌換にも配 慮する形で、政府・日本銀行に対する依存度を低めつつ、横浜正金銀行は効率的な貿易金 融を推進していったと思われる。この点についての実証的検討は今後の課題である。 注 3 の諸研究。とりわけ、政府や日本銀行の保護や介入に着目して、明治 20 年代の横浜 正金銀行における田口卯吉らの自由主義の影響の限界の大きさを強調する古沢「明治 20 年 代の横浜正金銀行」とは、明治 10 年代から明治 20 年代前半における同行についての評価 が大きく異なることには留意されたい。 74 平「第一次大戦前の金本位制下における横浜正金銀行」 。 73 23 表1 主要勘定の推移 資本金 営業期 資本金 諸積立 金 政府ヨリ借 総額 内預金 1880下 3,000 0 2,590 1,984 1881上 3,000 23 2,544 2,108 1881下 3,000 49 3,994 1,096 1882上 3,000 80 3,156 624 1882下 3,000 112 2,957 1,703 1883上 3,000 2 5,078 5,078 1883下 3,000 2,969 11,977 11,977 1884上 3,000 1 11,643 10,085 1884下 3,000 84 16,825 15,267 1885上 3,000 60 16,929 16,879 1885下 3,000 621 15,516 14,012 1886上 3,000 901 13,390 13,390 1886下 3,000 1,141 16,696 16,696 1887上 3,750 2,100 11,871 10,450 1887下 4,500 3,358 10,891 10,981 1888上 4,500 3,505 7,513 7,513 1888下 4,500 3,921 2,373 13,675 1889上 4,500 3,908 8,646 8,646 1889下 4,500 3,906 5,291 5,291 1890上 4,500 3,949 2,332 2,332 1890下 4,500 3,768 539 539 1891上 4,500 3,729 1,266 1,266 1891下 4,500 3,953 483 483 1892上 4,500 3,587 1,355 1,355 1892下 4,500 3,552 407 407 1893上 4,500 3,759 1,433 1,433 1893下 4,500 3,815 384 384 1894上 4,500 3,960 1,924 1,924 1894下 4,500 4,055 434 434 出典:『半季実際報告表』各期より作成。 人民ヨリ借 総額 諸預金 借入金 662 1,082 787 858 964 1,240 1,767 2,973 4,010 3,532 1,049 831 788 1,223 3,674 1,616 7,012 7,749 14,904 12,417 16,005 17,877 19,198 19,148 18,396 16,419 24,426 28,298 26,686 662 1,082 787 857 893 1,240 1,767 2,971 4,009 3,532 1,046 831 776 1,217 3,666 1,612 5,096 1,657 1,851 3,814 4,192 5,658 5,050 8,546 2,334 2,818 7,188 7,600 10,567 人民へ貸 政府ヘ貸 当座借 再割引手 用金 形 71 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 200 3,300 2,032 1,432 300 517 10,668 704 2,689 3,131 1,586 1,498 3,513 2,214 (単位:千円) 5,064 2,083 2,171 2,705 2,244 1,498 2,451 1,230 907 7,810 5,645 8,984 5,604 8,161 4,909 9,809 8,315 12,394 13,053 9,045 総額 1,656 1,430 1,033 1,033 1,033 1,164 2,321 8,188 1,895 2,868 3,351 2,930 2,492 2,090 1,502 1,483 2,373 2,044 1,889 1,915 2,030 4,180 4,249 6,446 6,921 5,884 5,459 4,996 5,028 24 総額 2,866 3,510 5,508 4,641 4,662 6,718 8,912 8,188 14,271 12,869 12,883 12,311 17,802 1,223 14,126 9,177 23,874 18,609 23,944 18,628 19,484 19,589 20,184 16,887 18,070 20,313 25,948 28,882 27,265 貸付金 1,238 1,187 1,188 1,099 1,594 1,593 1,935 3,008 3,675 4,075 2,018 1,336 1,443 1,282 2,816 2,479 2,614 2,474 2,896 2,003 2,600 1,158 2,688 1,359 2,875 1,729 4,799 2,974 3,589 期限過 滞貸 貸付金 金 120 252 155 154 131 125 121 25 21 33 17 129 119 127 127 30 30 350 0 0 0 55 58 51 3 2 0 0 192 191 192 192 192 27 215 121 383 67 84 63 76 69 海外直 輸荷為 替貸 海外荷 為替資 金貸 976 804 2,232 1,543 804 1,032 978 - 日本銀 再割引 外国為 内外荷為 行勘定 代金取 替金 替年賦貸 立手形 407 664 469 1,283 2,075 3,931 2,109 5,998 5,356 6,389 7,178 10,883 6,768 5,412 2,983 4,241 1,455 - 2,644 3,053 2,527 2,210 3,126 1,733 3,550 1,068 3,343 2,459 1,640 1,551 1,540 1477 1,464 1,302 1,352 1,363 - 629 1,489 3,097 1,629 731 3,374 7,640 5,390 8,983 8,653 8,322 - 表2 借主名 貿易商会 第三十三国立銀行 海外輸出荷為替金の取引先、金額など (単位:万円) 申込 極度金 比率 貨物 金額 見込額 30 30 100.0% 生糸、製茶、雑貨 30 20 66.7% 上州地方生糸 荷受人 米国、英国同社出張員 横浜佐藤組支店、米国代理人 横浜貿易会社支店、佐藤組支店、 第一国立銀行 30 20 66.7% 生糸、製茶、雑貨 米国佐藤組支店 第八国立銀行 30 10 33.3% 上信地方生糸、慰斗糸、雑貨横浜貿易商会支店 第七十四国立銀行 20 5 25.0% 生糸、製茶 米国仏国起立商会社支店 三井物産会社 20 25 125.0% 生糸、製茶、雑貨 米国 第十六国立銀行 20 25 125.0% 生糸 横浜貿易商会 ■■銀行 20 5 25.0% 駿達製茶、生糸 横浜貿易商会支店、丸屋介商店 第六国立銀行 20 5 25.0% 生糸、製茶、漆器 横浜貿易商会支店 大倉組 15 10 66.7% 生糸、製茶、雑貨 米国 第十九国立銀行 10 5 50.0% 生糸、 横浜貿易商会支店 第十四国立銀行 10 5 50.0% 生糸 横浜貿易商会支店 第廿四国立銀行 8 5 62.5% 生糸 横浜貿易商会支店 第七十七国立銀行 5 5 100.0% 生糸 横浜貿易商会支店 第六十三国立銀行 5 5 100.0% 生糸 横浜貿易商会支店 第四十四国立銀行 20 5 25.0% 北海道物産 佐藤組 30 30 100.0% 生糸、製茶、雑貨 米国紐育出張所 第十国立銀行 8 5 62.5% 生糸 横浜貿易商会 丸屋銀行 5 3 60.0% 山形地方生糸 横浜貿易商会 第七国立銀行 10 5 50.0% 生糸 横浜貿易商会 出所:横浜正金銀行頭取中村道太発管理長大蔵少輔吉原重俊宛文書、1880年10月27日、『明治十三年 諸願伺届 書綴』に合綴。 注)■はマイクロ・フィルムの撮影状況の関係上、解読不能な文字。 25 表3 横浜正金銀行の貸出資産の内容 (単位:千円) 資本運用の部 抵当実価 不活動 乙貸付金 損失見込 甲貸付金 左計 種類 金額 ㌫ 金額 ㌫ 金額 ㌫ 金額 ㌫ 金額 ㌫ 金額 銀貨 267 22.3% 439 36.6% 390 32.5% 369 30.8% 830 69.2% 1,199 紙幣 70 7.9% 296 33.2% 546 61.3% 49 5.5% 842 94.5% 891 計 337 16.1% 735 35.2% 937 44.8% 418 20.0% 1,673 80.0% 2,091 内国荷為替金運用の部 損失見込み 抵当見積価格 不活動 貸出金 科目 内国荷為替 201 32.5% 285 46.1% 332 53.7% 618 100.0% 外国荷為替 634 58.9% 634 58.9% 442 41.0% 1,077 100.0% 計 836 49.3% 920 54.3% 774 45.7% 1,695 100.0% 出所:『横浜市史』第3巻下、第113表を修正。 1)修正にあたり、原史料である『横浜正金銀行史 甲巻之一』171~175頁を参照した。 2)「甲貸付金」とは全額回収可能な貸付金、「乙貸付金」とは不良債権を包含した貸付金。 26 表4 銀行名 期限切れ製糸関係資金 (単位:円) 82年3月7 同年3月末 同4月末返 日付け残 返金予定額 金予定額 高 松代第六十三銀行 30,035 15,000 15,035 三春第九十三銀行 22,500 漸次入金6月までに返済。 豊橋第八銀行 61,500 4月30日より5月30日まで皆済 東京菱川銀行 5,000 4月中に返済。 福島第六銀行 77,800 漸次入金6月までに皆済。 東京第九十五銀行 85,120 漸次入金来7月迄に皆済。 上田第十九銀行 15,385 漸次入金来4月迄に皆済。 仙台第七十七銀行 5,500 来4月中に皆済。 松本第十四銀行 39,367 漸次入金来5月31日までに皆済 福島第百七銀行 15,100 漸次入金来4月迄に皆済。 東京第百銀行 50,682 漸次入金来7月迄に皆済。 名古屋第十一銀行 3,950 漸次入金本月中に皆済。 須賀川第百八銀行 45,400 漸次入金来6月迄に皆済。 飯山第二十四銀行 34,588 漸次入金来6月迄に皆済。 掛川 掛川銀行 20,000 漸次入金来5月迄に皆済。 飯田第百十七銀行 13,250 漸次入金来5月迄に皆済。 沼津第五十四銀行 10,850 来4月30日迄に皆済。 大聖寺第八十四銀行 12,761 漸次入金来6月迄に皆済。 岐阜第十六銀行 6,000 来る7月迄に皆済。 東京第三十三銀行 257,740 是は出願中に付き期限未定。 合計 812,529 現貸出高 956,478 構成比 85.0% 出所:1882年3月17日 横浜正金銀行中村道太発 大蔵卿 松方正義宛文書(『明治15年 諸願伺書類留記』に合綴)。 注1)荷為替資金中、着荷のものは除外した。 2)円未満切捨て。 27 表5-1 明治15年上下 割引手形+代金取立手形 (単位:千円) 本店 神戸 ニューヨーク ロンドン リヨン 当所 他所 当所 他所 当所 他所 当所 他所 当所 他所 本店 471 0 0 133 0 85 4 96 0 488 神戸支店 0 152 152 0 0 0 0 0 0 246 ニューヨーク 0 2 0 0 2 0 0 0 0 0 ロンドン 0 4 0 0 0 0 0 0 0 4 リヨン 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 合計 471 158 152 133 2 85 4 96 0 738 注)明治15年上下には為替金額、荷為替という項目はない。 表5-2 向/受 明治17年為替関係 表5-3 本店 ニュー 本店 神戸 ヨーク ロンドン リヨン 売 0 0 294 849 22 本店 買 0 0 110 190 613 売 0 0 0 0 0 神戸支店 買 0 0 0 0 0 売 313 0 0 0 0 ニューヨーク 買 0 0 0 0 0 売 702 0 0 0 0 ロンドン 買 0 0 0 0 0 売 17 0 0 0 0 リヨン 買 0 0 0 0 0 売 0 0 0 0 0 その他 買 0 0 0 0 0 売 1,032 0 294 849 0 合計 買 0 0 110 190 613 注)売為替は各店舗より他店舗へ向けた送金額を 買為替は同様に荷為替を分類した。 28 明治17年割引手形+代金取立 (単位:千円 神戸 ニューヨーク ロンドン リヨン 当所 他所 当所 他所 当所 他所 当所 他所 当所 他所 934 0 129 272 0 3 0 15 0 10 357 126 377 0 0 0 0 0 0 0 ニューヨーク 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ロンドン 15 0 0 0 0 0 0 0 0 0 リヨン 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 その他 98 64 2 0 0 0 0 0 0 0 合計 1,417 190 508 272 0 3 0 15 0 10 出所:表5-1~3まですべて『半期考課状』より作成。 本店 神戸支店 表6 明治20年他所外国為替 仮渡金利子の構成 融資先 受取利子 融資先 第六十三国立銀行 3,801 富岡製糸所 第十六国立銀行 652 若尾逸平 第七十七国立銀行 1,266 小野光景 第十九国立銀行 4,140 鳴門組 第一国立銀行 288 第四十六国立銀行 第十四国立銀行 355 第三十六国立銀行 岐阜生糸改良会社 100 出所:『明治二十年 諸願伺書届留綴』より作成。 29 (単位:円) 受取利子 367 2,299 799 1,114 128 306 表7 向/受 売 買 売 神戸支店 買 ニューヨー 売 ク 買 売 ロンドン 買 売 リヨン 買 売 合計 買 店舗間為替関係 横浜 横浜本店 向/受 26 270 74 2,236 20 44 120 2,550 1885年 ニュー 神戸 ロンドン ヨーク 181 0 8 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 181 0 0 8 0 1889年 (単位:千円) ニュー 香港 神戸 ロンドン ヨーク リヨン 売 15,251 784 2,018 130 横浜本店 買 8,608 3,765 9,691 71 売 416 112 67 5 神戸支店 買 1,215 174 41 3 ニューヨー 売 314 19 0 0 0 0 ク 買 202 45 0 0 33 0 売 59 1 0 1 40 0 ロンドン 買 5,527 2,848 0 0 152 0 売 142 0 1,014 127 0 0 リヨン 買 510 22 281 232 0 0 売 353 4 0 0 0 0 香港 買 52 2 0 0 0 0 売 868 24 16,681 1,024 2,125 135 合計 買 6,291 2,917 10,104 4,171 9,917 74 出典:「半季報告」各期、『横浜正金銀行史 資料 第2巻之(一)』 (日本経済評論社復刻版、1976年)。 注1)国内店舗間の為替関係は除外してある。 2)売為替、買為替は石井「横浜正金銀行の貿易金融」表4-5に準 じている。ただし、これに買為替については他所取立手形を加えて ある。 横浜 30
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