( 75 ) 肥料科学,第35号,75∼108(2013) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 久馬 一剛* 目 次 1. はじめに 2. 農耕の始まりと定住化:そのインパクト 3. 農業への人屎尿利用の歴史 3.1 中国 3.2 日本 3.3 西欧 3.4 その他の地域 4. 下水道の発達とその功罪 5. おわりに 謝辞 参照文献 * 京都大学・滋賀県立大学名誉教授 Kazutake KYUMA : Utilization of Human Wastes in Agriculture ( 76 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 〇 動物および人間の排泄物には……種子,根,茎,葉等の形で 土地から取り去られたすべての成分が含まれる。 (ユストゥス・フォン・リービッヒ) 〇 科学は長い探求の後,およそ肥料中最も豊かな最も有効なの は人間から出る肥料であることを,今日認めている。 (ヴィクトル・ユーゴー) 〇 人糞は作物豊熟の功を充満せしむること世界第一の肥養とす。 (佐藤信淵) 1. は じ め に 肥料といえば化学肥料しか思い浮かべない人が圧倒的多数を占める時代 になった。しかしちょうど100年前の1913年に工業的アンモニア合成が始ま った時までにある程度広く使われていた化学肥料といえば,1842年にローザ ムステッドのローズ(J. B. Lawes)が動物の骨(後にはリン鉱石)を硫酸で 処理して製造した過リン酸石灰だけであったといってよく,明治になって それが入ってくるまでの1000年にも及ぶ長い時間,わが国で肥料といえば 農家が自給する堆肥,厩肥,草木灰,刈り敷きなどの山野草か緑肥に限ら れ,一般の農家では金肥と呼ばれた干し鰯・鰊などの魚肥,油糟などにはな かなか手が届かなかった。そうした中で広く,貴重な肥料源となっていたの が,下肥とも呼ばれた人糞尿である。明治41年(1908)の統計によると,農 地10アールあたりの下肥の投入量は平均で437.5kg にのぼっており,窒素3 kg,リン酸とカリそれぞれ1kg ほどを人糞尿として投入していたことにな る。当時のコメとコムギの平均収量225kg,115kg をとる上で,下肥の果た していた役割は小さくなかったといえる。このデータを記録した F. H. King (1911)は,日本や中国の4000年にわたる農業の持続性を支えたのは,まさ にこの養分の循環的利用であったとして,東アジア農民たちの営々たる努力 2 農耕の始まりと定住化:そのインパクト ( 77 ) に敬意を表している。 これからの農業でも化学肥料への依存度はますます高くなってゆくと思わ れるが,その将来を考えると,肥料資源,中でもリン酸資源の有限性が大き な影を落としている。アメリカ地質調査所(USGS, 2009)の報告では,現 在の採掘ペースを前提としたときのリン鉱石の余命は90年であるという*。 カリ鉱石やアンモニア合成のための水素やエネルギーについても,現状では リン酸の場合ほど窮迫していないとはいいながら,その資源が有限であるこ とは確かである。この状況を踏まえ,あらためて人類の農業活動における養 分の循環的利用の歴史を振り返るべく,世界の農業における下肥あるいはナ イトソイルの利用について内外の文献を渉猟した。あまり新しい資料の発掘 はできていないが,ここでは既往の文献の記述を整理・総括して参考に供し たい。 * USGS はその後の報告で,現在の技術で採掘できるリン鉱石の埋蔵量の推 計値を,それまでの160億トンから650億トンと4倍に改訂している(USGS, 2013)から,リン鉱石の推定余命が延びることは確実である。 2. 農 耕 の 始 ま り と 定 住 化 : そ の イ ン パ ク ト ベルウッド(P. Bellwood;2005)は,狩猟採集民を背景にもちながら農 業が出現した地域として,考古学データによりながら次の5つを挙げ,それ ぞれの栽培植物や家畜を例示している。 a. 西南アジアの肥沃な三日月地帯(コムギ,オオムギ,エンドウマメ, レンズマメ,ヒツジ,ヤギ,ブタ,ウシ) b. 中国の長江と黄河の中・下流地域(イネ,アワ,多くの根菜・果実 類,ブタ,家禽類) c. ニューギニア島のおそらくは内陸高地(タロイモ,サトウキビ,パン ダナス,バナナ,ただし家畜を伴わない) d. 南北アメリカ大陸の熱帯地方すなわちメキシコ中部のおそらくは一 つ以上の地域,そして南アメリカ大陸北部(トウモロコシ,豆類,カ ( 78 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 ボチャ,マニオク=キャッサバ,多くの果実・根菜類,ただし家畜は すくない) e. アメリカ合衆国のイースタン・ウッドランド(カボチャ,および様々 な種実を利用する植物,ただし家畜を伴わない) そしてこれらのうち,最も古い考古学的テータに裏付けられた西南アジアや 中国における農耕が,およそ1万年前に寒の戻り(ヤンガードリアス期)が 終わった後の,気候の急激な温暖・湿潤化と安定化の中で始まったとしてい る。気候が温暖化し安定化することで,まず野生食料が増加し,狩猟採集民 の定住化が進み人口が増えたと思われる。そしてこの人口増に対応して半栽 培的な農耕が始まり,やがて本格的な農耕社会への移行が起ったと考えられ る。 ここに述べたように,定住化は必ずしも農耕と結びつかないが,農耕は必 然的に定住化を伴う。そして,集約的な食物採集または本格的な農耕がもた らす定住生活は多くの場合急激な人口増加をうながす。とくに定住農耕民で あって,土器などの調理用具が随伴する場合* には,穀類を用いて乳児向け の粥状の食べ物を作ることができるから,より早期に離乳できる。そのため 母親はより頻繁に妊娠でき,また高い受胎能力をもつことになる。 * 西南アジアでの新石器農耕文化は土器の出現以前に始まったが,中国や日本 など東アジアでは土器は更新世末の BC14000年紀に登場し,その使用はす でに BC11000年紀の各地の遺跡で確認されており,農耕の開始より早かっ たとされる(王小慶,2010)。スミス(Philip Smith;1986)は,土器の出 現は定住生活と結び付いており,農耕とは必ずしも結び付かないという。西 南アジアでの土器の出現は BC7000年紀になってからである。 さらに,初期農耕民が住んでいた世界は,より後の時代にくらべ人口過密 には程遠く,熱帯以外では伝染力の強い感染症の脅威にもさらされていなか ったと思われる。なぜなら,歴史上名だたる伝染病の多くが家畜・家禽化さ れた動物に由来すると考えられているが,初期農耕民の世界にはそれらがま だ出現していなかったと思われるからである。こうして,初期農耕民におい 2 農耕の始まりと定住化:そのインパクト ( 79 ) ては出生率が向上しただけでなく,おそらくは乳児死亡率も低下した。この 高い出生率と低い乳児死亡率とが急激な人口増加を引き起こした要因なので ある。 ここに見た農耕の開始・定住化・人口の急激な増加は,さらなる食料の確 保を必要とするため,比較的狭い範囲の土地に対する働きかけを強くし,そ の生産力を低下させる。またそういう土地に対する負荷の増大が,土壌侵食 のような環境悪化を引き起こす危険性も大きい。定住化と人口増加は,さら にもう一つの環境問題をも内包している。それは排泄物の処理にまつわる衛 生問題である。Sedentism challenges hygiene.(定住化はそのこ と自体によって健康を脅かす) (Brown, 2003) その昔,排泄物は定住集落の周辺で処理されていたと思われる。1938年 にスェーデンの Gotland 島で発掘された石器,青銅器,初期鉄器時代の村落 跡で異常に高いリン酸レベルを示す場所が,あるまとまりとして見付かっ た。またその後に南ノルウェイの鉄器時代の農耕跡地の土壌について行われ た分析結果も,意識的な糞尿の施用(manuring)があったことを示すもの と解釈されている。この場合最高リン酸濃度は一つの住居跡のすぐ近くの 小面積で見られており,これはその後歴史時代を通じてみられる糞の堆積場 (dung heap)が,すでにこの時代にもあったことを示すものと考えられて いる(Brown, 2003) 。 このように,定着農業を始めた人々にとって,人口の急増,土地生産力の 低下,糞尿処理にまつわる衛生問題の3つは,避けて通れない1セットの問 題であった。やがて,人々は糞尿が土地の生産力低下に対処するための資材 として有効であることに気付いて,その積極的な利用を始めたと思われる。 以下には,内外の資料によりながら,東西にわたって人屎尿の農業利用の記 録を見ることにする。 ( 80 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 3. 農 業 へ の 人 屎 尿 利 用 の 歴 史 3.1 中 国 林蒲田(1996)によれば, 「糞」とはもともと人の生み出す廃物の総称で あり,人畜の糞尿,食物の残滓,草木灰などあらゆるものを含んでいる。そ して「糞田」または「糞壌」は農地に糞を施すの意であり,施肥を指す。中 国における施肥の始まりは極めて古く,殷墟文物の甲骨文にすでに「糞田」 の二字が見えるだけでなく,少なからず糞肥施用の記載があるという。甲骨 文中に屎を指す字があるが,その字を使った「屎有足,乃堅田」という記述 があり,これは糞肥の施用が十分であって,初めて農地の耕起をするという 意味だという。この甲骨文中の「屎」は人の排泄物であると考えられている。 中国で最も早い肥料は「土糞」と緑肥である。土糞の主体は人畜の糞便,泥 土,草木灰などである。甲骨文中に「土糞」を指す字があるが,この字は両 の手で土を持つさまを表しており,殷(商)時代に主として土糞を用いてい たことを示すものと考えられている。緑肥は BC11世紀から BC771の西周に 起源し,詩経に「荼蓼朽止,黍稷茂止」の記述がある。すなわち緑肥が分解 し(て土を豊かにし)なければ,穀物は繁茂しないの意である。この緑肥の ことを後に草糞とも呼んでいる(林蒲田,1996) 。 ここに見るように中国における施肥の歴史は極めて古い。人の屎尿の利用 も,甲骨文中の屎にあたるとされる字が正しく屎であるとすれば,前11世紀 以前に遡るとすることができるかも知れないが,それを明確に支持するその 後の史料は,必ずしも多くない。その理由の一つは,上にも述べたように 「糞」が人畜の糞尿をはじめとする廃物の総称であること,もう一つは古代 の中国では厠が豚小屋と一緒になっていたためである(ブレイ,2007)。実 際,各地の漢墓の発掘に際して陶製の豚小屋の模型が多数出土しているが, 豚小屋が厠と接しているか,厠の下にあるという(林蒲田,1996)。 しかし,林蒲田はこのタイプの厠の存在そのものが,人の糞尿を貯えて肥 料とすることが重視されるようになっていたことを示すものと考えている。 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 81 ) 彼の記述によると,広東省で発掘された前漢中期(西暦紀元前100年頃)以 後の漢墓からは,豚小屋と結びついた厠をもつ陶製家屋が出土するようにな り,後漢ではさらにそれが普遍的に見られるようになるとしており,少なく ともこの地方では,前漢中期以後,人畜の糞便を総合的に管理貯蔵して利用 していたことを窺わせる。また,同じく広州の佛山から出土した陶製の水田 模型に,犂耕中の田の中に堆肥が積まれている例のあることを述べ,人畜糞 由来の堆肥が基肥として使われていたと考えている(林蒲田,1996)。ただ し,ここで「堆肥の堆積」といわれているものは,水田に棲むタニシを模し たものとする説もある(渡部,2008) 。 渡辺(1983)は, 「斉民要術」 (6世紀半ば)にはなかった下肥の利用につ いての記述が, 「陳䕁農書」 (1149)で初めて現れたと書いているが,ブレイ (2007)もやはり「陳䕁農書」に, 「各農家の脇に低い軒と柱で作った風雨を しのぐ肥料小屋『糞屋』を建てる。小屋に深い穴を掘り,穴の壁を磚で覆っ てもれないようにする。そこにごみ屑,灰,篩った籾殻のかす,ふすま,落 ち葉をいれ,穴に溜めて焼き,液肥『糞汁』で濃くする。」という記述のあ ることを述べている。そしてこの液肥「糞汁」が人の屎尿に由来すると考え ている。また彼女は,朱熹(1130―1200)が肥料団子に種子を入れて播種す るように奨めていたが,この団子は荒地から草と根を集め,日に干し,人糞 肥を混ぜて作ったものである,と書いている(ブレイ,2007)。 南方熊楠(1930)は「民俗学誌」に「古い所では礼記月令季夏に,『是月 也,土潤溽暑,大雨時行,可以糞田畴,可以美土彊。』糞は肥料をやるの意 だが,もともと肥料の大部分を糞が占めるから出た詞だ。糞は穢也とあれば 主として人糞の事だ。 」と書いている。 「礼記」は前漢の武帝の時に,周末か ら,秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めた書である。また上の記述に 続いて, 「詩経説約に『麟士魚曰,詩世学袁氏曰,古人祭礼に園蔬を用ひず, 其穢れて褻(なれ)ん事を懼るれば也,故に䊳蘋(水中に自生した草)を采 て䡈とし,藉田にも亦糞を用ひず,唯だ香水燔柴を以て其灰を取り麻豆に雑 えて之を壅(つちか)ふのみ』とあり…」と書いている。 ( 82 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 金城朝永(1931)が,上の南方の論を引用しながら「犯罪科学」に書いた 「屎尿雑記」には,上の「礼記」の同じ文章を引いているほか, 「淮南子」 (註:漢の淮南王劉安が作った書。周末以来の儒家・兵家・法家などの思想 を取り入れた)から, 「辟地墾草糞土」の句を引き,「糞は穢也とあるから主 として人糞の事で,肥料の大部分が糞であった為に出た詞である」と書いて いる。先の南方熊楠にも「糞は穢也」が出てくるが,引用している句とどの ような関係で出てくるのかわからないので,これを人糞とすることにはやや 問題がある。 李家(1989)も「孟子」 , 「淮南子」 , 「礼記」などに,田や草木に「糞」を 撒くなどの記述のあることを述べて,中国では人の屎尿が早くから農地に施 されていたと考えているが,ここでもやはり「糞」の内容が問題となろう。 ここまで,もっぱら古代中国における人屎尿利用の痕跡を拾い集めてきた。 秦漢以後の時代にも,先の陶製家屋模型や水田模型にも見られるように,い ろいろな形での人屎尿の利用はあったと考えられるが,千年以上もの間何故 かこのことについてのはっきりした記述は見られない。ようやく12世紀以後 になって,上述の「陳䕁農書」をはじめ多くの農書に,人糞尿利用を示す 明確な記述が見られるようになり,現代にいたっている。King(1911)は 4000年にわたる中国農業の持続性の一つの大切な要素として人屎尿の利用が あったと考え,その実態を日本における状況をも含めて記録に残した。ちょ うど100年前,工業的窒素固定の始まる前夜のことである。 3.2 日 本 わが国における下肥の農業利用も,それを窺わせる史料は古くから見られ るが,明確な記述はやはりかなり時代を下ってからになるようである。 そもそも,わが国の農業でどんな形であれ施肥が始まったのは何時頃であ っただろうか。土地にゆとりがあり,年々土地を変えて作物を作り,一度使 った土地を休ませることができる状況では,施肥の必要を感ずることはなか ったであろうから,同じ土地を続けて利用し,さらには2毛作で1年に2作 するようになり,地力の減耗が生産の減退を来たすに至って初めて施肥が始 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 83 ) まったとするのが自然であろう。わが国の農業技術史を研究した古島敏雄 (1970)はこの時期を鎌倉・室町時代と考えており,この頃から草肥,厩肥, 草木灰を主とした肥料の利用が一般に行われるようになったとしている。し かし,下に述べる延喜式の記載にもあるように,もっと早くから局所的には 施肥の必要が認められ,実行されていたというのも事実であろう。また,こ の際肥料に当たるものをどう呼んでいたかを知っておく必要がある。古い文 書の中で最も広く使われているのは「糞(こやし)」であり,漢字の由来か らしても,中国における「糞」の用法とあまり隔たりはなかったと思われる。 肥料としての屎尿の利用には,その前提となる溜め込み式,あるいは汲み 取り式の便所の設置が必要であり,それが何時頃から始まったかを見ておか ねばならない。初めて考古学的に溜め込み式便所が確認されたのは,奈良橿 原に造営された藤原京(694-710)の遺跡においてであった(Matsui et al., 2003) 。少し遅れて,8世紀の迎賓館であった福岡太宰府の鴻臚館遺跡でも 同様のものが発掘されている。それまでは自然の水路(河屋) ,掘割や溝に 排泄したものを水で流して処理するタイプのものが多かったようである。 こうして溜め込んだ排泄物を農地に還元・利用した記録の最も古いもの として,延喜式・内膳司(927;延長5年)に「北園にある25種の作物のう ちの16種に糞を施した」とあるものを挙げる場合があるが,ここでも問題は 「糞」の内容である。原文に「従左右馬寮,運北園」とあるところから,古 島(1970)は「糞」は厩肥ではないか,と考えるし,宮本常一(1981)も牛 馬の糞であって,人の屎尿ではないとする立場をとっている。これに対し て,楠本正康(1981)は「糞」は人糞である,なぜなら日本語で糞は本来人 糞を意味しており,馬糞なら厩肥というはずであるとする。しかし,当時厩 肥という言葉が使われていたかどうかは定かでない*。Matsui ら(2003)も 人糞説をとるが,これは25種の作物のうち16種にしか糞を施用していないの は,まだこの時期が溜め込み式便所の始まりで,多くは水とともに流してい て量的に制約があったためであろうと推測している。しかし,古島によると, 内膳司の園は奈良,山科等遠隔地にまで散在しており,左右馬寮から糞を運 ( 84 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 べたのが京の北園であって,たまたまそこで栽培されていた16種の主として 蔬菜類に糞が施されたものと考えるべきであろう。 * 林蒲田(1996)によれば,中国の古代には「肥」という字は土地の肥痩を 指す場合にのみ使われ,肥料の意味では使われていない。わが国の農書でも, 古くは中国におけると同じく,土地の肥痩をいうときに「肥」が使われてい る(日本農書全集編集室,2001)。しかし,川崎(1973)によれば,大蔵永 常が「こやし」に「肥培」あるいは「肥し」と当てている例があるというし, 「培養秘録」にも「肥養」,「肥糞」,「糞肥」を「こやし」と読んでいるなど, 18世紀の終わりごろからは, 「肥」は「こえ,こやし」の意味で頻繁に使わ れるようになっていたと思われる。 延喜式と同じ10世紀のこととして,西山(2004)は「都市平安京」の中 で,慶滋保胤(ヨシシゲ,またはカモ,ノヤスタネ)の「池亭記」(天元5 年,982)に, 『「後園」に入り, 「あるいは糞まりあるいは灌ぐ」』とあるの を, 「これは菜園に簡便な貯蔵施設を設置し,そこへ排泄し,肥料へ転用し たと推定される」と書いている。さらに敷延して, 「五位(註:保胤の官 位)クラスの邸宅では,人糞を一時的に貯蔵し,菜園に投下したと想定され る」としている。 金城(1931)は, 「大日本古文書」の8世紀前半,天平神護2年10月21日 付の「越前国司解」足羽郡の条に,「糞置村田弐町捌段壱百五拾五歩云々」 とあって, 「糞置が地名になっている程であるから,この時代には既に糞尿 肥料が一般的なものになっていたと信じても差し支えない様である」として いるが,施肥の慣行があったことは確かであるとしても,糞が人の屎尿であ ったかどうかは確かでないように思われる。 宮本(1981)は「人間の糞尿の利用も六道絵が描かれるようになったころ から,漸次一般に普及していったと思われる」とし,土に穴を掘った便所の 出現を,人糞尿が作物の肥培のために肥(こえ)として用いられるようなっ たことと結び付けて考えている。地獄草紙,餓鬼草子など六道絵が描かれ始 めたのも12世紀後半であり,平安末から鎌倉初期には溜め込み式の便所がか なり広く見られるようになっていたと思われる。 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 85 ) 楠本(1981)も,鎌倉時代になって農業の二毛作化,集約化が進んだこと から,人糞尿が貴重な肥料として扱われるようになり,住居の外側などに大 きな便池を備えた便所を設けるようになったとしている。 渡辺善次郎(1983)は,人の屎尿が農地に施されるようになったのは,推 測しうる史料が出現するようになった鎌倉末期ごろからではなかったかと考 え,中世における主たる肥料は草木灰と刈り敷きであったとしている。彼は, 屎尿利用を推測させる史料として, 「沙石集」(13世紀末。常陸国 田舎の習 いなれは,田に入れんとて子法師糞を馬につけ……),「建武年間記」 (14世 紀半ば 二条河原落首 くそ桶), 「慕帰絵詞」 (14世紀半ば はじめて汲取 り式の便所)などを挙げている。しかし,この最後の汲み取り式便所の出現 年代は,上に述べた松井らの考古学的知見とはかなり大きく隔たっているし, 宮本のいう六道絵の時代からも200年近く遅れている。 黒田日出男(2004)も, 「慕帰絵詞」の汲み取り式便所にふれ,14世紀頃 には絵巻に描かれるほどに便所が普及しつつあったとする。彼はまた,戦国 時代の16世紀前期に制作された戦国時代歴博甲本(町田本)洛中洛外図屏風 の中に,農夫が柄杓で桶から液体をすくいとって田圃に施している図を示 し,この桶が肥桶であってその初見であると強調する。また,この場面から, 16世紀初頭の日本では,人糞尿施肥が普及しはじめていることが確かめられ るとしている。さらに,戦国時代の16世紀後期に制作された歴博乙本(高橋 本)洛中洛外図屏風に小さな公衆便所が描かれていることから,京都などの 都市の発達がこのような施設を必要とするようになり,人々の排便が溜めら れ,肥料として有料で引き取られるようになっていった経過について述べて いる。 このように,いろいろな資料に基づけば,わが国における人の屎尿の農業 利用は,早ければ溜め込み式便所の現れた8世紀ごろ,遅くとも平安末から 鎌倉初期ごろには,かなり広く行われるようになっていたと考えてよさそう である。史料によって慎重に議論を進めている渡辺の場合にも,鎌倉末から 室町には,屎尿の利用を疑う余地のない図柄で示すものとして,15世紀室町 ( 86 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 時代の「泣不動利益縁起」や,上に黒田の述べた1525年の「洛中洛外図」を 挙げている。前者には,屋敷畑の一隅に肥壷らしきものを認めているし,後 者では,稲に液肥を追肥しいている図や,町家の裏庭にある汲取り式便所が 描かれている。 そしてついに,永禄10年(1567)*「清良記巻七―親民鑑月集―」が公刊 されて,屎尿利用についての明確な記述が表れる(楠本,1981)。これは伊 予・宇和島地方の武将土居清良の一代記の第7巻にあたり,家臣松浦宗案 が清良の諮問に応えて書いたものといわれ,わが国でその後続々と著された 農書の嚆矢となったものである。 「百姓の門へさし入りて見るに,牛馬の家 雪隠を奇麗にして糞を貯えて菜園見事に作りおきたるは,外田畑もさこそ と察し,公役貢物未進せざる上の百姓としるべし」といい,上農の条件の一 つに,肥料としての屎尿の蓄えのあることを挙げている。なお,この糞を厩 肥とする考えもあり得るが,同じ「清良記」に伊予南部では刈り敷きを主と し,人糞尿,厩肥を用いているとの記述がある(古島,1975)から人屎尿が 重要であったことは疑いない。その後の多数の農書の中で屎尿の利用につい て記述しているものには,元禄10年(1697)宮崎安貞の「農業全書」 ,元禄 ∼天和年間に書かれた著者不詳の「百姓伝記」,文化14年(1817)佐藤信淵 の「培養秘録」 ,文政9年(1826)大蔵永常による「農稼肥培論」,天保10年 (1839)村松左衛門が残した「村松家訓」などがある。 * 「清良記」全体の成立年代には異説があり,広辞苑は成立年を1629年(寛永 6年)から54年(承応3年)または76年(延宝4年)の間としているし,渡 辺は寛永5年(1628)としている。しかし,この巻七については,その由来 が土居清良19歳の永禄4(1561)年の諮問に対する回答として編まれたもの であることを考えると,第7巻の実際の成立年が永禄10年であるとしてもお かしくはない。 他方,沖縄では昔から人糞肥料が忌避されてきたという。有田,石村 (2001)は,これが台湾やカンボジアなどとも共通しているので,イネの南 伝の傍証となるかも知れないと考えている。しかし,沖縄にはもともと中国 からもたらされたとされる,豚小屋と厠を一緒にしたフールーと呼ばれる構 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 87 ) 造物(豚便所)があり(平川,2000) ,そこから出る排泄物は農地に返され ていたというから,昔の中国と同じく人と動物の屎尿が一緒に管理され利用 されていたと考えるべきであろう。ちなみに台湾でも原住民の家には同様の 構造物があるという。カンボジアにおける人糞忌避の言い伝えは,1295年に 元朝から真臘(アンコール期カンボジア)に派遣された使節団に随行し,同 地に1年間滞在した周達観による見聞録「真臘風土記」の記述に起源をもつ ものと思われる(滝川,2004)*。 * 「田をつちかいおよび野菜をうえるのに,みな人糞を用いない。その不潔な のを嫌うのである。…唐人が彼に行ってもみなこれと中国の糞壅のことにつ いて言及しない。見下げられるのを恐れる」 (和田久徳訳注;滝川,2004よ り引用) 。筆者がカンボジアを訪ねた機会にこのことについて現地の農業研 究者に尋ねたところ,あまり積極的に利用されていなかったのは確かである ように思われた。すなわち,1970年代のポル・ポト政権時代に,中国になら って下肥の農業利用が奨励され,ある程度の普及をみたが,政権崩壊後には また利用されなくなった,という。 ここで,少し外国人の目に映った昔の日本の様子を見ておこう。ポルトガ ルのイエズス会宣教師として畿内や九州で布教し,長崎で歿したルイス・フ ロイス(1532―1597)の「ヨーロッパ文化と日本文化」(天正13年;1585) には次のような見聞が書かれている。「われわれは糞尿を取り去る人に金を 払う。日本ではそれを買い,米と金を支払う。」すでに清良記とほぼ同じ時 代に,都会では人の屎尿が有価物になっていたのである。 「ヨーロッパでは 馬の糞を菜園に投じ,人糞を塵芥捨場に投ずる。日本では馬糞を塵芥捨場に, 人糞を菜園に投ずる。 」この「馬糞を塵芥捨場に」という記述に首を傾げる 向きもあると思われるが,岩波文庫,1991年刊の「岡田章雄訳注:ヨーロッ パ文化と日本文化」には「馬糞は肥料として利用されなかったようである」 として, 「和漢三才図会」 (巻第35農具類)の糞(こえ)の項には『大抵用人 屎尿為良』とある,との注が付されている。「和漢三才図会」は1712年と少 し時代がずれているが,馬糞よりも人の屎尿が肥料としての価値が高いとさ れていたのは事実であろう。 ( 88 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 江戸初期に日本を訪ねた外国人が記録したところを拾い上げると,慶長14 (1609)年フィリピン総督ドン・ロドリゴは江戸を見て,「日本の都市は広く て大きく,清潔で秩序も整っている。欧州の都市とは比較にならない」とし ている(楠本,1981)が,これには人の屎尿をはじめ,あらゆる廃棄物を丹 念に拾い集めて田畑に入れていた農民たちの働きが大きく寄与していたもの と思われる。また,元禄4―5年(1691―92)「ケンプェル江戸参府紀行」 にも,道中での下肥等の利用についての見聞が記されている(渡辺,1983))。 また江戸末期になると,プロイセンのオイレンブルク(Eulenburg)使節 団の一員として1860―61年にかけて来日したリービッヒの弟子の一人マロン (H. Maron)が,その報告書に次のように書いている(マロン , 1986)。「日 本における唯一の肥料製造者は人間なのであって,その貯蔵,調製,施用に 細心の注意が払われる」とし,農家における厠の様子から,肥だめでの腐熟 化プロセスまで詳細に描写する。さらに都市と農村の間での肥料と生産物の やりとりを観察し,「朝早く,何千のはしけ舟が,価値ある物質に満ちた桶 を満載して都市の水路を行き交い,国土の隅々まで恵みを分配する」と描写 した上で,「われわれの前には自然力の完結した循環が成り立っているので あって,連鎖のどの環も脱け落ちることなく,次々と手を取り合っているの だ」と強い感銘を吐露している。 それとは対照的なのが,当時のわが国の肥料事情をドイツ語で記した長 井新吉の表現である(久馬,2011) 。長井は1886年にドイツ Halle 大学から 日本人として農学分野における最初の学位を得た* が,その学位論文の中 に「日本ではずっと昔から家畜が少なかったために,農民は取り去られた 植物養分を土壌に返すのに,主として人間の排泄物に頼らざるを得なかっ た。…私はここで,審美的な感情を傷つける危険を冒してでも,われわれの 肥料調製法のすべてを記さなければならない。これを記すにあたって,私は Liebig が『化学書簡』で述べた『本来 Mist(糞尿)の概念には不愉快な意 味はない』という言葉をよりどころにしている」と慎重な前置きをした上で, その収集から野壷での腐熟を経て施用までの説明を試みている。しかし,こ 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 89 ) こに述べたマロンと長井の言説は,次節に述べるように,当時のドイツでも かなり広く下肥が使われていたことを知らなかったことによるものと思われ る。 * 同じ年に,後に北海道帝国大学初代総長となった佐藤昌介もアメリカのジ ョンズ・ホプキンス大学から農政経済分野の論文によって Ph. D. を得てい る。日本の学位制度によって最初の農学博士8人が生まれたのは13年後の明 治32(1899)年3月のことである。 上に紹介したマロンの感懐は,当時のヨーロッパにおける農業の先行き に対する不安感を背景としている。グアノやチリ硝石など農業の外からの 肥料資材が輸入されるようになっていたとはいいながら,それらの資源量 の有限性もすでに見えており,将来へ向かって農業の持続的な発展をどうし て担保するかに不安を抱く識者も少なくなかった(後述のリービッヒ,マル クス,ユーゴら参照) 。新大陸アメリカにおいても,開拓可能な土地の有限 性が見えてくる一方で,既に開かれた農地の荒廃がはなはだしく,農業の将 来を楽観することを許さない状況にあった。先にも触れた明治42年(1909) の King の中国,日本歴訪の旅は,こういう状況から脱け出すための方策を, 稠密な人口を持続的に養ってきた東アジア諸国の農業の中に学ぼうとする思 いから出ていた。すでに述べたように,King は人の屎尿をはじめとする廃 物の徹底した循環的利用に持続性の鍵があると考えていたが,彼の来日前 年の1908年にわが国で農地に施用された屎尿の量は10アール当たり437.5kg, その他の廃物や山野草などを含めると農地に入る肥料成分の総量は,10アー ル当たり窒素(N)6.4kg,リン (P)1.5kg,カリ(K)4.2kg にのぼっていた。 キングはこれを小麦なら10アールあたり200から250kg をとるに十分な量と 評価している(King, 1911) 。 3.3 西 欧 わが国では,アジアの水田農耕民だけが古来人の屎尿を肥料として使って きたと考える向きがあるが,それは正しくない。安田(1953)が「ド・カン ドル(de Candolle)* も,はっきり,ヨーロッパの農民は大昔から,家畜の ( 90 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 糞尿だけでなく,人間さまの大小便をも,盛んに肥料に使っていたと述べて いる」と書いているが,以下に見るように,ヨーロッパでも人の屎尿利用に ついては多くの記録がある。 * 「栽培植物の起源」を書いた Alphonse De Candolle(1806-1893)であると 思われる。 考古学的な記録としては,先に Brown から引いた,スェーデン Gotland 島の石器時代から鉄器時代にまたがる遺跡や,南ノルウェイの鉄器時代の農 地跡におけるリン酸分析結果があり,先史時代からなんらかの人屎尿の利用 があった可能性が示唆されている。Brown はまた, 「前史時代から歴史時代 にかけて,人の排泄物を町から農地へ返そうとする真摯な取り組みがあった のは確かだが,どれほどの割合で返されたかを定量化することはできない」 とも言っており,人の屎尿の利用が古い歴史をもつことに疑いをさしはさま ない。 アメリカの都市研究家で,文明批評家でもあったマンフォード(Mumford, 1969)の「歴史の都市・明日の都市」によると,アリストファネス(BC445 ―365年頃)の喜劇「平和」から,少なくともいくつかの家に私用の便所が あったこと,農家の庭には糞積み場のあったことがわかるという。その二つ がつながりを持っていたのかどうかは書いてないが,農業の中で糞が使われ ていたらしいことは推察できる。この糞が人の屎尿であったとすれば,ヨー ロッパにおける最も古い記録となるだろう。 渡辺(1883)によれば,モンタネッリの「ローマの歴史」には「獣屎以外 の肥料を知らず」とあって人屎尿の利用には触れていないが,ウェルギリウ ス「農耕詩」には「輪作すれば土壌の負担は軽くなる。ただ,渇いた土に下 肥をやり,疲れた畑に汚い灰を,ばらまくことを厭うなかれ」とあり,下肥 が使われていたことがうかがわれる。またヴァロは「召使の糞を堆肥に加え よ」と勧めていたという(ブレイ,2007) 。 ローマでは前6世紀に大下水溝(Cloaka Maxima)が建設されているが, マンフォード(1969)によると,これはティベール(Tiber)川が湾曲して 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 91 ) パラティヌスの丘の麓に入り込んだフォールム・ロマーヌムあたりが湿地で あったのを排水するために造られたもので,はじめは開渠式の下水溝であっ たが,後に BC5世紀から3世紀にかけてアーチで覆い,ほぼ有蓋式の下水 道にしたものであるという。 マンフォードは,ローマの「住民大衆は昼間,近くの公衆便所を安い料金 で使えて助かったが,家の汚水は,密集した長屋の階段室の下の,ふたつき の汚物溜めの中に溜めておいた。そこから汚物はこやし百姓や清掃人夫の手 で周期的に運び出された。 (尿は特別の容器に集められ,漂白工が仕上げの とき用いた。 )この糞尿による耕作は,周辺の農場に価値ある窒素肥料を補 給できるという利点をもっていた」と書いている。 Brown(2003)は,ローマの下水が,公衆便所や上流家庭の1階(ground floor)から屎尿を市域の外へ運び,そのままティベール川へ放流するため のものであったとしている。また,マンフォードの記述を引きながら,当時, 「一般の人(多層階の借家に住む)は,昼間ならお金を払って公衆便所を使 うか,排泄物を階下まで運んで,階段スペースの底にある貯留槽に捨てるか, おまる(chamber pot)の内容物を窓から投げ捨てるかのいずれかであった が,階段スペースの底にある貯留槽は汲み取り農家(dung farmers)やそ れを商う業者によって汲み取られて農地へ施された。農地の範囲については 町に近いところに限られ,やがてそこは排泄物であふれたと思われる」と書 いている。 このローマの大下水溝について,後にヴィクトル・ユーゴー(1987)は次 のように書いている。 「リービッヒは言う, 『ローマの下水道はローマの農夫 の繁栄をことごとく吸いつくした。』ローマの田舎がローマの下水道によっ て衰微させられた時,ローマはまったくイタリーを疲弊さしてしまった。そ してイタリーを下水道のうちに投じ去った時,さらにシシリーを投じ去り, 次にはサルヂニアを投じ去り,次にはアフリカを投じ去ってしまった。ロー マの下水道は世界をのみこんだのである」と。 Bracken(2003)の書くところでは,古代ローマ人は排泄物を農業に利用 ( 92 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 したが,これは古代ギリシア人の慣行を採用したものだという。また彼は, ローマ時代には原則として人屎尿は農業に利用されていたから,排水として 出てくるものは家庭や浴場からの雑排水だけであり,これは農業用の潅漑水 として使われた,とも書いている。 李家(1989)は, 「プリニウスの博物誌」訳本第17巻に「ポー川の北の農 民は下肥より灰がよいといい,厩肥を焼いた。下肥にも幾種類かあるが,そ の使用はホメロスの時代に遡っている。ホメロスの詩にある老国王が自分で 下肥を施し,それはギリシア,イタリアにひろまった」と書いているが,典 拠は示されていない。 11世紀から13世紀にかけて,ヨーロッパのいたるところで,耕作に適した 土地の大拡張と都市糞尿を近隣の農地に組織的に用いるなど,より適切な耕 作法が土地に適用されるようになり,産業復活を下支えした。たとえばフ ランドルで最初の干拓地が開かれたのは1150年であり,ミラノで最初の農業 潅漑が行われたのは1178年であった(マンフォード,1969) 。ミラノの近く にあったシトー修道会の修道院では,1150年ごろから都市の塵芥や下水を彼 らの農地に使い始めている(History of Technology, Vol. II, 1956;Bracken, 2003より引用)。Lindemans もすでに中世に下肥が肥料として使用されてい たと述べているが,他の箇所では,1574年の借地契約が下肥利用の最も早い 記録の一つであるとも書いている。 (スリッヘル・ヴァン・バート,1969) 中世フランドルの農民たちは「下肥や都市のごみを購入し始めていた」 (スリッヘル・ヴァン・バート,1969)し,中世フィレンツェでは,都市商 人による近郊農地の所有とその賃貸関係を通じて,近郊からは野菜・果実な どが市内に持ち込まれ,市内からは羊毛屑・塵芥・屎尿などの肥料が搬出さ れていた(マンフォード,1969) 。 ロッシェル(W. G. F. Roscher;1953)は彼の「農業経営方式論」 (1888) の中で「1350年ごろ書き上げられたといわれる『デカメロン』第8夜第9話 の舞台では,フィレンツェ近郊の農民が畑を肥やすためにつくっていた下肥 の溜穴が重要な役割を果たしている。このトスカナ地方だけでなく,ロンバ 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 93 ) ルディや,ロマーニャなど,富裕で人口稠密な地方では,やはり下肥を主要 肥料にしていた」,また「すべての人口多くかつ家畜に乏しい地方の主要な 肥料は人屎尿である。ニッザでは驢の背にそれを運び,また往来する人々ら に対して厠を公開する。 」と書いている。Brown(2003)が,イタリアの農 業は manure の不足に悩んでおり,「町の近くの小農は便所の汲み取りに雇 われているものから荷車いっぱいの人糞尿を買っていたが,この種のことは 19世紀半ば,あるいはそれより後までヨーロッパ全体でかなり普通に行われ ていた」と書いているのは,ヨーロッパの全体的な状況を窺う上で重要であ る。 中世においては,都市近郊の百姓や市場向け菜園栽培者らは,人屎尿を組 織的に集めて施肥をすることで,都市は清潔になり農地はうるおった。事実, 都市が大きければ大きいほど,都市の外の土地は肥えており,菜園栽培者に も儲けになったという(マンフォード,1969)。こういう状況の中,「夜分9 時まで(すなわち就寝前には)肥桶を運搬してはならない」という法令が出 されたのは16世紀のロンドンであった。ゴング・ベルを鳴らしながら汲取り にやってくる近郊の農民たちは「ゴング・ファーマー」と呼ばれていた(マ ンフォード,1969) 。 椎名(1976)によると,16世紀イギリスのタッサーの農書(Thomas Tusser ; A Five Hundreth Good Pointes of Husbandrie, 1557; 後 に Five Hundred Points of Good Husbandry)には, 「便所を掃除し…夜中にその荷を運んで 菜園に溝を掘って埋めなさい。そうすれば,いろいろの作物が非常によく 育つでしょう」という箇所があるし,そのほかにも人糞を意味する“mens dung”とか“night soil” ,あるいは単に“soil”という言葉もいろいろな文 献に出てくるという。椎名はまた,16,17世紀イギリスの「改良農業」を特 徴付けたのは,垂れ流しの下水―後には水洗便所の下水―を牧草地内に縦横 に張り巡らせた溝に導く牧草地潅漑であったとしている。 滝川(2004)によると,イギリスではローレンス(E. Laurence;1731) が,人間の排泄物は「熱く乾いた焼地」でとくに推奨され,大きな改良がも ( 94 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 たらされると書いているというし,ミンゲイ(G. E. Mingay;1977)は「農 業革命期経済史史料集」の中で,当時農家が自家補給用として町のごみとと もに屋外便所や糞つぼの中味を広く利用した事実を述べている。ケント州で は,人糞尿は草地で広く利用され,1830年ごろには荷車で運んだ90 ブッシ ェルをロンドンでは15シリングで購入できたし,エセックスの農民もテムズ 河や運河を利用して,エーカー当たり(撒布料も含め)2ポンド13シリング から3ポンド3シリングで購入できたとされている。 三好(1975)の「ドイツ農書の研究」によると,ドイツにおける先進地 域ニーダーライン(現在のオランダ)で1570年に成立した「ヘレスバッハ農 書」には,すでに肥料として人屎尿が挙げられていたという(渡辺,1983)。 オランダでもすでに中世に,農民は下肥や都会のごみを購入しはじめてい た。 「公衆の下肥と都市の塵芥の価値」は,フロニンゲンの長官によって認 められており,彼は Sappemeer,Foxhol および Pekel 地方の泥炭開墾地の 居住民に対して,泥炭を都市の塵芥と混ぜて肥料としてすき込むように強制 したが,これらの法令は,1628年,1636年,および1651年の日付をもってい た(スリッヘル・ヴァン・バート,1969) 。 シュヴェルツ(J. N. H von Schwerz)は19世紀初頭のフランドル地方に ついて, 「職人の小僧,否さらに,上等の着物を着た婦人までもが,躊躇す ることなく馬屎を集め,これを売却する。また少女達は羊の群の後を追って 落ちた屎を集め,これを計り売りする。人屎尿は,その一部を外国から購入 さえしているのであるが,大きな売買では,その種類によって数等に区別さ れている。都会ではこの物品の売却は僕碑によってなされ,そのためしばし ば多くの不正が行われ易い」と書いている(ロッシェル,1953)。 1800年に行われたオランダでの調査によれば,アウテルーアムステルとそ の周辺では, “Steigeraarde”が肥料として使用されていた。これは石くず をアムステルダム運河の浚渫泥,あるいは下肥と混ぜた土であったらしい (スリッヘル・ヴァン・バート,1969) 。 フォン・グローナー(S. von Grouner)が1826―27年に著した「ネーデル 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 95 ) ランド旅行記」には「デンデルモンデ近傍の聖アマンドとバースローデの間 のスヘルデ川沿いに,肥料の大きな倉庫があり,オランダ諸都市から下肥 が艀(はしけ)で輸送されてくる」 (スリッヘル・ヴァン・バート,1969) という記述が見られるし,「オランダやストラスブルクでは「屎尿商」 (Dreckhandel)が一般的存在であった」という状況になる(ロッシェル, 1953) 。 19世紀初頭,植物栄養における腐植説の唱道者として著名な二人の研究 者,イギリスのデイヴィ(Humphry Davy)とドイツのテーア(Albrecht Thaer)が,いずれもその代表的な著書の中で,人屎尿の肥料としての効 用を述べていたことが知られている。三俣(2009)によれば,デイヴィは, 1793年にイングランドに設立された私的法人組織である農業会議(Board of Agriculture)で1802年から10年にわたって毎年行った講義を1813年に Elements of Agricultural Chemistry(農芸化学要論)としてまとめ,1815 年に公刊しているが,その中に「ナイトソイルは非常に強力な肥料としてよ く知られている……発酵したものでも新鮮なものでも,それは植物の食べ物 を数多く提供する」と書かれているという。また熊澤(2008)は,テーアが その著書「合理的農業の原理」の中で,家畜糞だけでなく人間の排泄物につ いてもその肥料としての重要性を認識していたとし,「人間の排泄物は周知 の肥効の高い肥料であり,家畜の排泄物を基本にそれを混ぜて使えば注目す べき効果を発揮する。その場合でも人間の摂取する食料で動物性のものが多 いか植物性のものが多いかによって,その排泄物は違ったものになってくる ことはあり得る」と述べたと紹介している。またテーアは東アジアにおける 人糞尿の利用を知っていて,「中国や日本でも人糞は同様に高く評価されて いて,そのためこれは日本式肥料とも呼ばれてきた」とも書いているという。 渡辺(1983)によると,1826年に出版されたチューネンの孤立国は ハン ブルク近郊における体験から生み出された農業立地論であり,チューネン圏 の中心になる第一圏=自由式経営圏はまさに都市屎尿の供給圏に他ならない という。都市にもっとも近接している第一圏では,他の圏のように農場の輪 ( 96 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 作体系の中で肥料を自給することなく,すべての肥料を都市から購入するこ とができる。このように,渡辺はチューネン圏理論の背景にはハンブルク近 郊農村の屎尿利用があったとしている。滝川(2004)もチューネンの第一圏 では「肥料を無限に買うことができるから地力は高められ,作物は休閑耕に よる土地の注意深い耕耘なしにもその可能収穫量の極大に近づくことができ る」というチューネンの言葉を引いている。ただし,滝川はチューネンの自 営したテロー農場はロストック* 近傍にあったから, 「孤立国」の記述はエ ルベ河以東の東プロシアについてのものであるとしている。 * ロストックはハンブルクの東北東150km 余にあたる。 こうして,都市と農村との分離が進み,その中で肥料としての屎尿の価値 が一般に認められるようになった19世紀産業革命期の大都市周辺では,水洗 便所の下水から肥料としての乾燥糞を作る工場が多数できていた。ロンド ンでは屎尿を生石灰と混ぜ,固形にしたものが desiccated night soil の名称 で売られ,フランスでも粉末状にした乾燥屎が Poudrette の名で商品化され るまでになった(Loudon, 1871) 。この後者に関連して,Bracken(2007) は,T. Charles Lienur による真空トイレット(今日の航空機の便所と同じ 方式)が,19世紀末から20世紀始めのアムステルダムでかなり広く普及して いたとし,この排水が通常の水洗便所に比して水量が少なく乾燥させやすい ため Poudrette の製造に広く用いられたと書いている。1871―73年に明治新 政府が派遣した岩倉使節団の報告の中に, 「欧州の民は,糞培を牧畜に資り, 之を堆糞にて用ふるのみなりしに,農業の進歩にて,人糞人尿を用ふること, 近年各国にて行はるるに至れり」とあるのは,これらの屎尿肥料のことをい っているのであろうか。ただし,これらの肥料は20世紀になって安価な化学 肥料が出回るようになると急速にその価値を失っていった。 明治の終わりにドイツに留学した麻生慶次郎(1912)は「独逸における 肥料界の趨勢」なる一文を「通俗土壌肥料新報」に寄せ,その中で人糞尿 の利用について述べている。当時のドイツでは,貯留してそのまま利用す るか,それを回収して Poudrette にする Abfuhrsystem と,下水に流す方式 3 農業への人屎尿利用の歴史 ( 97 ) Kanalisationsystem があったという。 坂井(1986)は西ドイツ南西部,フランスやスイスに近いバーデン・ヴュ ルテンベルク地方の古い大学町チュービンゲン(Tübingen)の近世農村に ついて行った研究の中で, 「農家にとって糞尿は貴重な肥料であった」 , 「農 民は自分の家のものばかりでなく,町の中の住宅へも人糞尿を汲みにいって いた」と書いている。またチュービンゲン市の1852年の新聞に載った,トイ レから糞尿が盗まれたという記事を引用し,汲み取りに来る農民が金を払 っていたという文献は見当たらないものの,人糞尿が盗むに足る貴重品であ ったことを裏付けている。彼はさらに「この町に化学肥料が入ってきたのは 1840年のことであった。しかしそれは高価であったためにわかには広まらず, ドイツ全体でも1900年当時まで,人糞尿の使用は普通のことであった。1950 年になっても,まだ人糞尿はかなりの農家で使われていた」と述べている。 ただ坂井の記述にある,最初の化学肥料の導入が1840年であったというのは 明らかに早過ぎ,グアノかチリ硝石のことではないかと思われる。 上に見てきたように,西欧においても広く人屎尿の農業的利用があったこ とは確かであるが,それが菜園や果樹園など園芸の中での利用にとどまって いた点を,中国や日本における利用とは異なると指摘するのは椎名(1976) である。彼によると,畜力による耕耘・整地,および条播ではなく散播とい う播種方法が行われていた広い農地では,人糞尿は基本的には肥料として利 用されなかったとする。しかし,最近の三俣(2009)の報告によれば,イギ リスでの糞尿利用は園芸だけでなく,小麦や大麦などの栽培にも及んでいた ことが明らかとなっている。これは上に述べたデイヴィの講義が行われるよ り前に,農業会議が出した1795年の報告書の中で, 「あらゆる排泄物は上質 の肥料である」 , 「小麦あるいは大麦の肥料として効果を最大限に発揮する」 などと書かれていることから知ることができる(Somerville, 1795)。 3.4 そ の 他 の 地 域 古代アラブの文化の中でも,人屎尿の収集と農業への利用が何世紀にも わたって続いていたことが知られている。12―13世紀に南スペインに住んで ( 98 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 いた Ibn al-Awam は,人の屎尿を混ぜて堆肥を作る方法について述べ,そ うして作った堆肥が植物の病気を治す効用を有するとしている(Bracken, 2007) 。 メキシコとペルーのアステカ(Aztec)文化とインカ(Inca)文化の両方 で,農業に利用するため人屎尿を集めていたことが知られている。ペルーで は,その高い肥料価値を認識しており,屎尿を貯蔵し,乾燥・粉末化してト ウモロコシを栽培するときに用いた(Bracken, 2007)。 安田(1953)によると,「メキシコのマヤ族やアステカ族の女たちが,野 生のトウモロコシを栽培種に変えて,これを主食にするまでにこぎつけたの は,何よりも,人糞肥料,潅漑排水,段々畑のおかげであった。大げさに 言うと,人糞肥料がマヤ文化の物質的土台であった」とされている。李家 (1989)も「メキシコやペルーでは,大小便は肥料で,トウモロコシの母と いった」と書いているが,出典は明らかでない。 南方熊楠(1930)の書いたものに, 「17世紀にペルシャへ往た人が書いた は,この国の土乾きまた痩せかつ硝石を含む,故に農家の心配一方ならず, 多くの肥料を要す,随って糞を用いるに人と畜生を別たず,殊に人糞を重ん ずるより,糞を汲んで賃を取るどころか,汲ませやった家僕が汲み手よりボ ロイ肥代を貰うとある。印度では,ファルラクハバッドの土人は久しく人糞 を肥料としトウモロコシ,ジャガイモと煙草の収穫他に3倍す。ヂナプール で不浄を農事に用いた人は其の同姓より5ルピーの罰金を課せられた由。」 とある。 *ファルラクハバッド(Farrakhabad)はインド,タジマハルで有名なアグ ラに近いガンジス右岸の町;ヂナプール(Dinapur)はインド,ビハール州, ガンジス河岸の町) 有機農業の始祖とされる Albert Howard(1940)は, 「農業聖典」の中で インド農村の慣行について述べているが,村人たちが排泄に使う場所を集落 の中で一定期間ごとに移しながら,順次農地に転換することによって土壌の 肥沃度を維持していることに注目している。 4 下水道の発達とその功罪 ( 99 ) 4. 下 水 道 の 発 達 と そ の 功 罪 西欧における人屎尿の農業利用が19世紀半ばでほとんど終わりをつげたの は,大きな都市の発達によって,屎尿を周辺の農地で処理することができな くなり,そのことが都市の衛生環境を悪化させ,農地以外での汚物処理を図 らざるを得なくしたためであると思われる。西欧の中世都市の衛生状況をう かがわせる記述を拾ってみると,例えばケンブリッジでは,糞の塊を公道に かためておいてもよく,それを2,3週間毎に車で運んだという。ケンブリ ッジの議会が,1388年イギリス最初の都市衛生法を通過させたことも,決し て偶然ではない。同じ1388年にイギリス議会は汚物と塵芥を開渠,河川,渓 流に投入することを禁じる法案を通過させている(マンフォード,1969)。 坂井(1986)によると,ミュンヘンの町では,1370年に「糞尿を家の戸口, あるいは道路に棄てた者は,その昼夜を問わず罰金刑に処す」という条例が 出されている。さらにこの町では,「町の中で自分の家の戸口,または道路 に棄てられた糞尿・汚物を,その日のうちに取り片付けぬ者は罰金刑に処 す」として,自分の家の前の道路は自分で清掃すべきことを義務付けている。 公共の場(教会,市場,道路)に巨大な汚物の山ができる状態であったた め,パリ市が公費で清掃を始めたのが1609年である。それまでは商人たちが 金を出し合って市場の清掃を清掃業者のギルドに依頼し,道路の糞尿は道端 の軒下に豚小屋を作って豚に食べさせていた。同様の処理は他所でも行われ ていたらしく,ベルリンで豚便所が禁止されたのは1641年であったとされる (有田・石村,2001) 。 また,14世紀パリでは, 「水にご注意(Gare l eau)」と3度叫べば窓から 何を投げ捨ててもよいとされていたが,それは1395年に禁止された(有田・ 石村,2001) 。しかし,17世紀のイングランドで Elizabeth Pepys の書いた 日記には,1661年2月,彼女が公衆浴場へ行ったあと歩いて帰る道で,予 告なしに頭から a pot of turds を浴びせられる災難に会い,その夜,彼女 はご主人と町の中で出会ういやなことや危ないこと,飛んでくる turd だけ ( 100 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 でなく,街角に高く積み上げられた ordure についても話し合ったとある (Brown, 2003) 。ちなみに turd も ordure も filth, faeces や nightsoil と同義 である。スコットランドの Edinburgh では18世紀末まで窓から汚物を投げ 捨てていたという(李家,1989) 。 こういう状況の中で,都市の下水処理場と浄水場の最初のものが,1543 年シレジアのブンツラウ市(現ポーランド領ボレラスヴィエツ)に造られ ているし,イギリスでは1596年に水洗便所が発明されている(マンフォード, 1969) 。17世紀には各地でいろいろな水洗便所が出現したが,汚水を処理す る施設がないまま,河川に放流されたため都市は糞尿洪水となり,17世紀ロ ンドンではテムズ川が黄色になっただけでなく,腸チフス,ペストなどが流 行し,1665 年にはロンドンの大悪疫(London plague)を引き起こすにいた っている。テムズ川の黄害は,1858―59年夏の大悪臭(Big Stink ; Brown, 2003)として,国会を休止に追い込むほどのひどさであったらしい(有田・ 石村,2001) 。ロンドンでは1843年の首都建造物法により,各戸の排水管を 下水管に接続することを義務化,さらに1848年に公衆衛生法が施行され,家 屋の新改築に際し屋内トイレを設置することを義務化した。しかし当時の下 水施設は汚水を河に放流するだけであって,河川の汚染を深刻化した。よ うやく1859∼1865年になって本格的な大下水道(遮集放流式)が建設された (前田,2003) 。 Brown(2003)はハンブルク が完全な下水道システムを造った恐らく最 初の都市であろう(1843年ごろ)としているが,それは川の水で定期的に流 されるようになっていたという。メルシェ(Mercier, 1989)が「18世紀パ リ生活史」 (1781―88)に書いているテュルゴー下水道は,18世紀のパリの 街をほぼ半周していた大下水道であるが,テュルゴー(1690―1751)がパリ 市長時代にセーヌ川右岸の排水のために建設した開渠であった。もともとは, 台所や便所からの排水を流すことは禁止されていたが,そういう規制は守ら れることなく,メルシェも「汲み取り人はまた,糞便を市外に運んでいく面 倒を省くために,明けがた近くになると,それを下水や溝に流す」と書いて 4 下水道の発達とその功罪 ( 101 ) いる。後にパリ市当局が,下水道用地を売りに出すために蓋をし,その上に 家が建てられるようになってからは,悪臭の発生源になったという。 パリの下水道についてはヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」第5 部第2編にくわしい。それによると,パリには中世から下水道があったらし いが,16世紀半ばに最初の測量が試みられて失敗したまま,ナポレオン時代 の1805年に詳しい調査が行われるまでは放置されていた。そのため下水の流 れが滞り,何度も氾濫を起こしたようであるが,1802年の大氾濫では,当時 のパリの広い範囲が汚水に浸かったという。その後の整備で,ユーゴーの時 代(1862)までに,パリの下水道の総延長は226.6km に達していた。 熊澤(1990)によって,その後のパリ下水道計画の実施経過を見てみる と,19世紀半ばに始まった計画の当初には,それまで近くのセーヌ川に放出 していた下水を市の外部にまで持ち出し,市内のセーヌ川の汚染を防ぐだけ のものであった。そのためパリからクリシー(Clichy)まで4本の幹線が造 られたが,その結果クリシー近くのセーヌ川の汚染が激しくなり,放流前に 下水処理をする必要のあることが認識された。下水処理の基本理念はユーゴ ーの言葉にある「下水道の洗滌」,すなわち「汚穢を土地に返すこと,汚穢 を土地に送り肥料を田野に送ること」に求められ,パリ市は市内の下水道 内を流水で洗い,それを土壌処理する方向に進んだ。19世紀末になり,適当 に透過性のある土壌で下水を処理する方法が決定され,1895―1905年の間に, この計画に従いアシェール(Acheres)(セーヌ川が蛇行して流れているパ リ市北西20km),カリエル(Carrières) ,トリル(Triel),ミリ―ピエルレ (Méry-Pierrelaye)等の下水圃場が段階的に設置され,クリシーからの下水 が下水道管により供給された。1894年に施行された法律によりすべての排水 を下水道システムに接続することが義務付けられたが,1910年における下水 圃場の使用面積は5000ha に及び,当時のパリ市の下水全部を土壌処理する ことができたという。 都市が消費する莫大な量の食料に含まれる大量の養分を,下水を通じて海 に投棄することに,当時の識者たちの一部から強い批判がまきおこった。植 ( 102 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 物の無機栄養説を提唱し,養分の補償が地力 Bodenkraft 保全に必須である と考えていたリービッヒは,当然のことながら,下水化(canalisation)を 批判してロンドン市長に警告の手紙を出したほどである。彼は,ロンドン の水洗便所や下水等が日ごとに海に流す肥料分は,内輪に見積もっても厩 肥2650トン,グアノ653トンに相当し,イギリス(ブリテン)全土では年間 200万ツェントネル(約9万トン)の窒素が失われ,グアノの輸入,その他 肥料の購入をもってしてもその1/3も補充されない状態であるとした。(椎名, 1976) リービッヒ学説に賛同していたマルクス(1861)も,資本論の第3巻(向 坂訳,1987)に次のように書いてロンドンの下水道を厳しく批判している。 「消費上の廃物は,人間の自然的排泄物,ぼろの形態における衣類の残片等 である。消費上の廃物は,農業にとってもっとも重要である。その使用に関 しては,資本主義経済にあっては,莫大な浪費が行われる。例えば,ロンド ンでは450万人の糞尿の処置について,資本主義経済は,巨費をもって,こ れをテムズ河の汚毒化のために用いる以上の良策を知らないのである」と。 ユーゴー(1987)はパリの下水を次のように強く批判した。「科学は長い 探求の後,およそ肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料である ことを今日認めている。恥ずかしいことであるが,われわれヨーロッパ人よ りも先にシナ人はそれを知っていた。…統計によれば,フランス一国のみに て毎年約5億フランの金を,各河口から大西洋に注ぎ込んでいるという。見 よ,5億の金があれば歳費の1/4を払い得るではないか。…下水の一流しは 千フランを無駄にしている。そこから二つの結果が生ずる,すなわち痩瘠し た土地と有毒な水と。飢餓は田地から来り,疾病は川から来る」と。 こうした批判にもかかわらず,渡辺(1982)がいうように,「下水道の完 備が近代都市の指標となった。あらゆる屎尿と汚物が下水道を通して河川に, 海に流し去られた。ロンドン,リバプール,ブリストル,ミュンヘン,ドレ スデン,ミラノ,ローマ,ウィーン,ブダペスト,ニューヨーク,シカゴな ど欧米の大都市はみなその方式を採用した」のである。 4 下水道の発達とその功罪 ( 103 ) しかしながら,こうした下水道による放流方式は必ずしも順調には機能し なかった。先にパリについて述べたが,ロンドンなどでもしばしば汚水が逆 流して街頭に溢れ出た。やがて河流放棄は中止され,化学沈殿法が採用され る。それは下水を沈殿させ,汚泥だけを廃棄する方法である。ロンドンでは 3000トンの船3艘を用いてこの汚泥を海に投じた。マンチェスターも同様に 海上投棄し,バーミンガムでは地中に埋めた(渡辺,1982)。 これらの方法は衛生的にも経済的にも問題が多く,20世紀に入る頃から欧 米諸都市でさまざまな屎尿肥料化の試みが始められた。その一つは上でパリ について述べたように,屎尿を他の雑排水と一緒に下水に流し,それを郊外 の農地に導いて潅漑し肥料として利用する方法である。パリをはじめ,ベル リン,ブレーメン,ブルンスウィック,ラグビー,リーミントン,ブラック バーン,ロスアンゼルス,コロラドスプリングスなどでこの方法がとられた (渡辺,1982) 。 屎尿を一般下水と分離して流し,それを加工して乾燥屎,または硫安など を作るもう一つの方法は,ベルギー,オランダなどで多く用いられた。アム ステルダム,ブリュッセルなどでは屎尿を他の都市廃棄物と混合して乾燥屎 (Poudrette)を作っていた。スウェーデンのエレブロ市では各戸に円筒形の 鉄製容器を貸し,満杯になると市営の肥料工場に送り,乾燥屎が製造され, 容器は洗浄後にまた各戸に配布されていた(渡辺,1982)。 東京でも,下水道完備以前のこととして,1982年3月までは江東区の砂町 屎尿処理場で100万人分の屎尿を処理して有機肥料を生産していたが,主と してコストの観点から,同年4月にこの処理場を廃止し,当時はまだ規制さ れていなかった海上への投棄を選ぶことになった。ここで造られていた屎尿 肥料には根強い需要があったと見え,その生産継続を高知県下約2000戸の園 芸農家などが要望したという(渡辺,1982) 。今から僅か30年前のことであ る。 ( 104 ) 農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用 5. お わ り に 上に述べてきたように,世界の農業における人糞尿利用の長い歴史は,ヨ ーロッパでは都市化が急速に進んだ19世紀半ばでほぼ終わりを告げ,下水道 の整備によって土壌養分の多くが循環的利用経路から外れて,一方向的に河 川を経て海へ失われるようになった。他方東アジアでは,19世紀半ばにおい ても100万都市の江戸においてすら,下肥のほぼ完全なリサイクルが行われ ていた。その伝統は,化学肥料が普及した20世紀半ばを過ぎてもなおかなり の程度維持されていたが,引き続く経済の高度成長による都市の膨張と下水 道整備の進展につれ,また化学肥料のさらなる発達に伴って急速に消滅せざ るを得なかった。他の東アジア諸国でも状況は似ており,わが国に少し遅れ ながら同様な経過をたどっていると思われる。 人糞尿の直接的な利用が実質的に不可能となった今,環境問題や資源問題 ヘの対応としての下水汚泥の利用が,現代における養分循環の課題となって いる。病原生物や重金属などへの配慮から,アメリカでは下水汚泥のうち一 定の土地施用基準を満足するものをバイオソリッド biosolid と呼んで差別化 をはかり,その利用を容易にする道を開こうとしている。さらにもう一歩 遡って,排泄時に屎と尿とを分離することで,処理と養分再利用の簡便化を はかるエコロジカル・サニテーション(Ecological Sanitation)(Esrey, S. A. et al., 1998)などの考え方もある。しかしこれまでのところ,大都市におけ る屎尿処理と養分再循環を効率的に両立させるようなシステムはまだできあ がっていない。そのために本稿では,農業における下肥あるいはナイトソイ ル利用の歴史的経過を見るにとどめ,現下の問題を向後の課題として残さざ るを得なかった。 謝辞 本稿を草する過程で多くの方々から資料の所在などについてご教示を得た。 あつくお礼を申し上げたい。中でも熊澤喜久雄先生からはご自身の論文の別 参照文献 ( 105 ) 刷りをお送りいただくなどのご支援をいただいたし,本稿のご閲読をもたま わった。高遠宏氏には各種の資料のご提供をいただき,原稿についても有益 なご示唆をいただいた。心より感謝申し上げたい。 参照文献 麻生慶次郎 1912.独逸における肥料界の趨勢。通俗土壌肥料新報,40:1-4. 有田正光・石村多門 2001.ウンコに学べ。ちくま新書。 ベルウッド(P. Bellwood;長田俊樹,佐藤洋一郎監訳)2008.農耕起源の人類 史。京都大学学術出版会。 Bracken, P., Wachtler, A., Panesar, A. R., and Lange, J. 2007. The road not taken‒how traditional excreta and greywater management may point the way to a sustainable future. Water Sci. & Tech. : Water Supply,7⑴: 219-227. ブレイ(F. Bray;古川久雄訳)2007.中国農業史。京都大学学術出版会。 Brown, A. D. 2003. Feed or Feedback―Agriculture, Population Dynamics and the State of the Planet. International Books, Utrecht. Davy, H. 1815. Elements of Agricultural Chemistry in a Course of Lectures for the Board of Agriculture.(三俣,2009より引用) ド・カンドル(A. 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