第五福竜丸事件と原水爆禁止運動 元高校社会科教師 枝村 三郎 (レジュメと講演をもとに再構成したものです) おもしろい授業とはどんなものだろうか。落語や漫才風にしたらおもしろくなるのか。 教師自身が教材研究をおもしろがって、自分で副教材を作ったり集めること。講義式ではなく、問いかけ、 仕掛けがあり、調べ学習、グループ学習など授業形態を工夫すること。そして、「テーマ」がはっきりして いることが大切だ。権力者の側に立つのではなく、民衆の立場に立つことで歴史の真実も追求できる。最も 大事なことは「なにを教えたいか」。教師の教育観・価値観が問われるところだ。現代史を教えなければ教 師失格だ。戦争と平和の歴史こそが、民衆の民主主義の歴史である。 第五福竜丸はなぜ核実験場に近づいたのか。危険を知らなかったのか、それとも知っていたのか。 第五福竜丸被曝事件は、米ソ両大国の核軍拡競争により起きた水爆実験の最初の犠牲だ。マグロ漁船第五 福竜丸(焼津・富士水産会社所属、140トン・船長25メートル)は焼津港を出航。漁労長見崎吉男・無 線長久保山愛吉・船長筒井久吉など乗組員23人。1954年3月1日 マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆 実験、午前六時四五分(日本時間三時五○分)に遭遇。太陽の数倍の火球が巨大化し空を真っ赤に染め、1 時間後に白い灰状の粉末が頭髪や襟首・胴巻きに降った。顔が真っ黒になり、髪の毛がごそっと抜けた。漁 労長・無線長がもっとも心配したことは、米軍の攻撃で船が沈められることだった。彼らはよく本を読んで いたので、世界情勢もそしてそれが何であったのかよくわかっていたのだ。 水爆ブラボ-は15メガトン(TNT火薬換算1500万トン)で、広島型原爆一千倍の威力があった。 直径4~5キロの巨大な火球となり、爆発地点に直径約2キロ.深さ80メートルの巨大な穴をつくった。 ロンゲラップ島民64人、アイリングナエ環礁18人、ウトリック島157人など239人が被曝し、後に 46人が犠牲となった。米国はキャッスル・テストとして3月1日から5月14日まで極秘の水爆実験を5 回実施し、総量48メガトンに達し広島型原爆約3000発に相当した。 3月14日、乗組員13人は協立焼津病院に行き、大井俊亮医師の診察を受けた。大井医師は外傷の重症 者と白血球最低者の二人を選び、東京大学医学部付属病院あてに受診依頼。翌15日早朝に増田三次郎と山 本忠司は「診断依頼書」を持参し、「原爆症」と診断された。3月16日『読売新聞』朝刊は、記事「邦人 漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇、23名が原子病」と報道された。 日米両政府が最も問題にしたことは、何だったか。 日米政府間では放射能に被曝した乗組員の治療と、汚染漁船の処置が重要課題となった。漁夫達がスパイ 行為をしていた、という見解まで現れ、公安警察が思想調査までしたという。乗組員たちは、アメリカに連 れて行かれるのではないかと心配した。 広島・長崎の原爆に次ぐ第三の被曝により、焼津や日本国民は大きな衝撃を受けた。薮崎順太郎焼津市議 会副議長は、原爆マグロへの怒り憤りから、3月27日「原子兵器禁止の決議」を求める緊急動議を求め、 焼津市議会は「一、原子力を兵器として使用することの禁止。二、原子力の平和的利用」を議決した。 焼津市民の中からは原水爆禁止運動は起きなかったが、焼津市婦人会総会は、4月25日「原子力の実験 並びに兵器としての使用を禁止すること。原子力は人類の幸福のためにのみ利用すべきであること、右決議 する」と採択し、志太郡吉永村(大井川町)、5月9日、乗組員の山田富久らの同級生が「村民の声」署名 活動を始めた。「一、被災者と家族の方々を激励したい。三、原子力の平和利用を世界の世論に訴えたい」 と。 焼津の高校生達が漁民調査を始め、女生徒13人がサークル「おりづる会」を組織した。8月の夏休み中 に焼津漁師の婦人100人の生活調査を行い、 『焼津における漁師の婦人の生活』を発表した。10月には、 「久保山さんの死と焼津の市民」を発表し、船元・船子による封建制と貧困、貧困のねたみなどを指摘した。 大場悦郎は、平和教育・組合運動の一環として、焼津中学生の乗組員慰問運動を始め、「焼津中学新聞」 を刊行した。 9月23日、東京第一病院で久保山愛吉(40歳)さんが、急性放射能症で死亡。水爆実験の最初の犠牲 者だった。政府は故久保山愛吉氏に500万円と患者一人50万円を慰謝料として支出、米国は弔慰金とし て100万円を出した。 それに対して、高校生が調査したところ、当然だという声30%に混じって、 「運がよかった」 「不公平だ」 「うちの亭主も…」という声も寄せられたと言う。うらやみとねたみのなかで、地元にいずらくなっていっ た。 第五福竜丸以外にもたくさんの漁船、乗組員が被曝した。第11日光丸(用宗港所属168トン、乗組員 26人)は3月16日東京築地港て放射線を検出。第一繁伍丸(焼津港所属130トン、乗組員25人)は 3月24日焼津港に入港、船体に放射線検出。第二吉祥丸(焼津港所属155トン、乗組員29人)3月2 7日水爆ロメオの実験を目撃した。 水爆実験によりマーシャル諸島海域と海洋・大気・雨水などが放射能で汚染されて、北半球の北赤道海流 から黒潮(日本海流)・北太平洋海流により海洋汚染が拡大した。大型回遊魚のマグロ・カジキ・シイラ・ サワラ・カツオなどが、汚染海域を回遊し食物連鎖で放射能を蓄積した。 その時の調査記録が見つからなかったが、焼津漁業資料館に風呂敷に包まれていることを発見した。 (1)1954年主要8漁港・放射能汚染漁獲物の廃棄漁船数 港 隻 東京 三崎 清水 109 151 33 焼津 大阪 和歌山 108 168 67 高知 71 鹿児島 計 108 815 (2)焼津港入港の汚染漁獲物廃棄漁船の月別数.県別数(枝村三郎作成) 月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 隻 6 26 4 三重 愛知 大阪 4 3 1 1 県別 静岡 和歌山 船数 42 26 3 3 5 徳島 7 10月 11月 12月 14 16 37 高知 18 鹿児島 6 他 計 113 計 4 113 静岡県隻数42のうち 焼津27 清水5 御前崎6 田子2 不明2 しかし、11月15日、米原子力委員会生物医学部のボス博士らが漁船検査中止を求め、原爆被害対策協 議会食品衛生部会が12月28日、「汚染魚筋肉中の放射能が微弱である」と発表。閣議は同月28日「放 射能検査の中止」を決定し、厚生省が検査を31日中止した。 1955年1月4日、鳩山内閣は初閣議で「ビキニ被災事件の補償問題の解決に関する件」を決定し、日 米政府間で「交換公文」を交わした。内容は「アメリカ政府は日本国国民の損害の補償のため、法律上の責 任の問題と関係なく慰謝料として200万ドルを支払う。原子核実験より生じた日本国及び国民の一切の損 害に関する請求の最終的解決として受諾する」とした。4月28日閣議決定により、ビキニ被災事件に伴う 慰謝料の配分を決定した。 (1)被災事件慰謝料の配分内容 総計(約)7億2000万円 1、治療費(主に第五福竜丸乗組員) 2547万円 2、慰謝料(主に第五福竜丸乗組員) 5426万円 3、漁獲物廃棄による損害 7929万円 4、危険区域設定による漁船の損害 5116万円 5、魚価低落による鮪生産者の損害 4億5420万円 6、水産流通業者に対する見舞金 4100万円 (2)静岡県関係漁船の慰謝料配分一覧表(第五福竜丸を除外、 『ビキニの実相I全国の放射能マグロ廃棄船一覧』より作成) 配分区分 A(迂回航行損) B(魚価下落損) 隻数 慰謝料 204 1101万円 137 6506万円 C(漁獲廃棄損 )計 36 204 197万円 7804万円 第五福竜丸事件が、原水爆禁止運動の起点になったのはなぜか。個人が始めたのか政党が始めたのか労働 組合・平和団体が始めたのか。それは個人が始めたからだ。 被曝した広島市民の原水禁運動も、占領下では平和運動が弾圧されていた。しかし、1954年、原水爆 禁止広島市民大会が、5月15日開かれる。原水爆禁止署名運動を県民運動にする提案があり、原水爆禁止 広島県民運動連絡本部を7月発足させて、8月末県民200万の内100万人が署名した。原爆水爆禁止広 島平和大会は8月6日に開かれて2万人が参加し、9月連絡本部を原水爆禁止広島協議会に改組し、「来年 原爆10周年に世界大会を広島で開催」を提起した。 東京杉並では、5月9日、原水爆禁止署名運動杉並協議会議を市民が結成し、「全日本国民の署名運動で 水爆禁止を全世界に訴えましょう」と訴え、「原水爆そのほか一切の原子兵器の製造・貯蔵・使用・実験の 禁止を全世界に訴えましょう」と呼びかけた。 全国でも7月まで37都府県議会と128市議会が「原水爆禁止」を決議した。静岡県議会でも3月18 日、 「放射能実験にともなう被害対策に関する意見書」を決議し、衆議院は4月1日全会一致で、 「原子力国 際管理に関する議決」をした。参議院は4月5日、「原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議案」 を可決した。どれにも「原子力の平和利用」を認めるような文言は入れていない。 世界にも原水爆禁止運動のうねりが広がり、6月19日、スウェーデンのストックホルムで世界平和集会 が開かれた。国会議員で自由党の西村直己・宇都宮徳馬、改進党の中曽根康弘、左・右社会党の水谷長三郎・ 浅沼稲次郎・松前重義・成田知巳、労農党の黒田寿男・久保田豊、共産党の川上貫一・須藤五郎。文化人で は、三笠宮崇仁・大内兵衛・山田耕筰・吉野源三郎・壷井繁治・中野重治・平塚らいてふなどが賛同者とし て名を連ねた。 原水爆禁止世界大会日本準備会は、婦人・平和・宗教・青年・社会・文化団体・労働組合など96団体が 加盟し、8月6日、広島の10回目の原爆記念日、中島平和公園慰霊碑前で広島市民や国内外代表者3万人 が参加し、午前8時慰霊式と平和祈念式典が行われた。 第一回原水爆禁止世界大会は広島市公会堂で開かれて、静岡県代表33人など全国から5000人が参加 し、米国・ソ連・朝鮮・インドなど8ヵ国21人が出席した。安井郁事務総長が一般報告、原爆被害者代表 で広島の高橋昭博と長崎の山口みさ子、第五福竜丸被災家族久保山すずが「原水爆禁止」を強く訴えた。 それ以来、すずさんは3.1ビキニデーには必ず参加していた。なぜかと問うと、「わたしは久保山愛吉 の喪主ですから」と答えていたという。 「原水爆禁止・原子戦争反対」署名の8月4日における全国集計は、3183万7876人(内ウィーン・ アピール署名143万2896人)。静岡県でも28万5366筆が集まった。9月19日、原水爆禁止日 本協議会(日本原水協)が発足した。 こうやって歴史をひもといていくと、平和運動などの国民運動は政党でも組合でもない、まず個人が始め ていることがわかる。自分自身の生き方として、運動をつくり、参加していくことが大切だと思う。
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