アメリカ文学における「老人と少年」

~背後に潜む「両親」、そして社会事情~
1
はじめに
夏季休暇も終わりを迎えようとしている頃、青山大学教授・冨山太佳夫による短期集中講義が
行なわれた。貴重な最後の休暇がつぶされるとあって、私は少々苦痛を感じていたのだが、始ま
ってみるとこれが意外と面白かった。『ファンタジー文学とは何か』というテーマで行なわれた
のだが、中でも最も興味を引かれたのが、
「おじいちゃんとおばあちゃん」だ。そこではイギリ
ス文学における老人問題が取り上げられていて、文学の中の老人と少年の関わりから読み取れる
ものがあるというものだった。
「老人と少年」という新たな切り口に感動した私は、これをアメリカ文学においても取り組む
ことはできないだろうかと考えた。現代アメリカ小説の多くは、第一次大戦、大恐慌、第二次大
戦…など世界にも大きな影響を及ぼした社会問題が多くの中心テーマとなっている。例えばそれ
は、アメリカの夢であったり、戦争であったり、人種問題であったりする。
ゆえに、取り上げて「老人と少年」というテーマで書かれている小説は少ない。しかしそうは
いっても、全く「老人と少年」が登場しないというわけではない。社会問題を背景とした小説の
多くには「老人と少年」が登場している。
ということで、今回は敢えてそのような場面にスポットを当て、
「老人と少年」について考え
てみたいと思う。
目次
はじめに
序章
第一章:読書レポート
1.
『おじいさんの思い出』1945?
~「老人と少年」の共通点~
2.
『赤い子馬』1937
3.
『森の景色』1953?
4.
『老人と海』1952 ~嘘ごとも通じる仲~
5.
『セールスマンの死』1949
~未知なる存在の老人と、無力な少年~
~子・親 V.S.祖父~
~両親の子への過度な期待~
第二章:時代背景を通じて
第三章:
「老人と少年」
第四章:レポートを終えて
終章
参考文献
2
序章
「老人と少年」というのは、現代、注目すべきテーマの一つである。なぜなら、日本を含む先
進諸国において、少子高齢化問題というのは我々の社会における最重要課題といってもおかしく
はないからだ。そのような理由から、「老人と少年」をテーマに取り上げることは意義のあるこ
とだと思う。
よって本稿では、モダニズム文学から現代までのアメリカ文学作品を5つ取り上げ、その中に
おける「老人と少年」のコミュニケーションについて考察していくことにする。中でも注目した
いのは、アメリカ文学における老人、そして少年というのはそれぞれ、お互いにとってどのよう
な存在なのかという点である。
ではここで、私の「老人と少年」のテーマに対する仮説を設定しておきたい。時間軸で考える
と、老人と少年の間には、少年の両親の世代が入るので、ある程度の距離があり、遠い存在とい
ってもよい。(図1参照)もちろん生きてきた経験も全く違うだろうし、価値観も違うだろう。話
も合わないことが多いかもしれない。そのようなことを基準にして単純に考えると、彼らがコミ
ュニケーションを図る際に、多少なりとも困難な点が生じると予測できる。
少年
両親
・
ひと世代またぐ
・
60 歳ほどの差がある
老人
しかし私の考えは、
「違うからこそ、近づきたくなるし、一層よい関係が築けるのではないか」
..
.
というものだ。老人には、少年には足りない経験とその経験から養った勘のようなものがある。
.....
...
少年には、老人にはないイノセンスと若者のパワーがある。その双方が双方を引きつけ、プラス
マイナスゼロの調和した状態を保とうとする浸透圧のように、惹かれあうのではないだろうか。
...
また、違うがゆえの共通点もあるのではないかと思う。なんだか一見矛盾した表現だが、惹か
れあうという行為は、やはり完全に違っていては成り立たないはずである。しかし「老人と少年」
のコミュニケーションがうまくいっている場合も必ずある。それは小さな例で例えれば、部活の
1 年生と 2 年生はうまくいかないが、1 年生と 3 年生はうまくいくというようなことだ。よって、
距離があるからこそ生まれる、根本的に共通した何かがあるのではないかと思う。
構成としては、第一章で「老人と少年」をテーマとし、彼らのコミュニケーションを中心に5
つの作品を順番に述べていく。それを踏まえて、第二章では時代背景を通じて、それらの作品を
再び考察する。そして第三章では、
「老人と少年」というテーマでまとめ、第四章ではレポート
を終えての反省を述べることにする。
3
第一章:読書レポート
1.
『おじいさんの思い出』 1945?
~「老人と少年」の共通点~
これは、片田舎に両親と祖父母と住んでいた少年が、学校に通うためにその祖父母を残して町
に引越しをする時の思い出を、少年の視点を中心に描いた作品である。
ここでは、少年からの視点、老人からの視点、そして両親の存在の3つの点から考察したいと
思う。
まず、この少年にとっておじいさんはどういう存在だったのか。少年はおじいさんから読み書
きを教わった。それだけではない。色んなことを話してもらい、最終的には人生において最も大
事なことを教えてくれた。つまりこの少年にとっておじいさんは非常に大切な存在だった。それ
が分る部分を引用する。
僕は彼の秘密のことを考えた――彼が僕に教えてくれたことを、彼が僕に語って
くれたことを。
〔中略〕いかに生き、いかに他人とうまくやり、人生を楽しむかと
いう。それは他人に愛され、他人と愛し合うことに関わっているのだ。(カポーテ
ィ、1988、p.67)
僕は思うけど、おじいさんは僕の小さな世界や、僕の見ることのできる物事の範
囲をはるかに越えた知識と力を有していた。(カポーティ、1988、p.70)
これらのことから、この少年にとって、おじいさんは自分を越えた何かを持って
いるだけではなく、人生において大切なことを教えてくれる貴重な存在だったこ
とが分る。それだけに、この作品では、おじいさんと離れ離れにならなければな
らなかった少年の辛い気持ちが痛いほど伝わってくるのである。
次に、おじいさんにとって少年はどういう存在だったのか。それが分る部分を
引用する。
「お前はもうすぐここを出て行ってしまうんだろう。お前がいなくなると淋しい
よ。お前は新しく知り合った人たちと一緒にやっていくんだろうが、わしのこと
を覚えていてくれよな。
〔中略〕
」それからひどく悲しそうな顔をした。(カポーテ
ィ、1988、p.8)
おじいさんにとっても同様、少年はなくてはならない存在だった。テキストを読んでも、心か
ら少年を愛していたことがよくわかる。
では、何がお互いを大切に想い合っていた 2 人を引き裂くことになったのか。それには少年
の両親の存在が大きく関わっている。まず、両親は「息子には自分のような貧乏暮らしをしてほ
4
しくない、だから立派な教育を受けさせたい」という強い思いがあった。それが引越しをするこ
とになった大きな理由である。
お互いを大事に想い合っている「老人と少年」を引き裂いたのは、そういう両親の教育方針で
ある。しかしこの作品では彼らに対して否定も肯定もしていない。なぜならその両親を強く突き
動かした背景には、高学歴がものをいう「社会」の存在があるからである。よって両親は両親で、
少年の将来のことを真剣に考えて引越しをすることを決意したのだ。彼らは後に家に残されるお
じいさんとおばあさんの今後のことも、考えた上で引越しを決断している。ただ、おじいさんと
少年とを比べると、彼らは後者をとらざるを得なかった。彼らは家庭の中心にいるだけに現実の
厳しさに直面し、今後の子供の将来、そして今生活していくことを第一に考えていたのだ。
このことから、
「老人と少年」の共通点がみえてくる。家庭を切り盛りしている両親に比べて、
養われている側としての「老人と少年」は、ただ現実の流れに身を任せるしかない。引越しのこ
とも本当のところは反対なのだが、あえて口に出して不平を言うこともできない。それは、次の
二つの場面からも読み取ることができる。土曜日の夕食で、おじいさんと父さんが新しく引っ越
...
してくる農夫の話をしているときに、大体は父さんが話し、おじいさんはじっとそこに座ってう
..........
んうんとあいづちを打っていたという場面、そして、引越しをする直前に服をまだ着替えていな
い僕を見て、母親が僕に着替えさせるために僕の両腕を引っ張り、足をあっちこっちにねじって
...
........
いる間、僕はただ無抵抗で窓の外をぼおっと見ていたという場面である。
「老人と少年」は権力
という点で言うと「弱い存在」なのである。
しかし逆を言えば、彼らは両親たちほど現実の荒波に飲み込まれる毎日に追われているわけで
はなかった。ゆえに両親たちのような現実に追われている人を一歩離れて客観的に見つめること
ができた。また彼らはそのゆとりゆえに、人生にとって本当に大事なものをおのずと感じ取るこ
とができたのだ。
つまり、「老人と少年」は、両者とも両親たちに直接意見を述べることはしないが、きちんと
物事を彼らの視点で考えているのである。たとえば、おじいさんは引越しに対して、
「お前の父さんというのは、まったく頑固な男だ。突然わしらを残して行っちま
うなんてな。いけないことだよ。ひどいじゃないか」(カポーティ、1988、p.24)
という風に思っていたし、少年は両親が口論しているとき、それを聞いていることを見つかった
ら怖いから隠れていたが、それでも見えないようにドアの後ろに身を小さくかがめて彼らの話を
しっかりと聴いていた。
そのように、口には出さないがきちんと物事を見極め、かつ悲しみはするがその現実を受け入
れて、その中でできるだけのことはする、という姿勢がこの「老人と少年」の双方に共通する部
分なのではないだろうか。この小説でいえば、おじいさんと少年はあえて引越しについて抵抗は
しない。しかし、それについてはじっくり考え自分なりの考えを持ち、かつ悲しみはするがその
引越しをしなければいけないという現実を受け入れている。そしてその中で、手紙を送り合うこ
5
とで、本当に大切なものは守っていく…という、できるだけのことはしているということである。
その共通点が、お互いにとってお互いがなくてはならない存在にしている大きな要因なのだと
思う。そして我々読者は、無力であるがその健気な「老人と少年」の姿を見て、なんともいえぬ
感動を味わうことができるのである。
2.
『赤い子馬』1937
~未知なる存在の老人と、無力な少年~
この作品は、
『贈り物』『大いなる山々』
『約束』
『人々の「かしら」
』の短編四作で構成されて
いて、主人公のジョディの成長を描いている。この四作品のうち、
『大いなる山々』と『人々の
「かしら」』ではそれぞれ老人が登場するので、ここではその二つを取り上げる。ここでは少年
からの視点、両親の存在の2つの点を、話の流れに沿って述べていくことにする。
まず、この少年にとってのおじいさんはどういう存在だったのか。
『大いなる山々』は少年ジ
ョディが「あの山の向こうには何があるの?」ということをしきりに家族に尋ねているところか
らはじまる。そしてそんなときに、山の向こうからジターノという老人がやってくる。老人のこ
とが気になって仕方のない少年は、その晩そおっと彼のいる小屋を覗きに行き、そこでさらに新
....
たに未知なる物・両刃の剣を発見する。土地を離れたことのない少年にとって、老人は神秘に満
....
ちた存在である。
では、両親の老人に対する態度はどうだろう。それは当然、少年とは相反するものだった。特
に父親のカールは老人に「わしは老人の食い物を心配する余裕はないのだ」と言って冷たくあし
らう。それは年をとって役に立たなくなったオールド・イースターという馬と同じ扱いだった。
...
両親はあくまで現実的だ。
少年にとって未知なる物を秘めた老人は、社会では受け入れられていない――ということをこ
のとき少年は知る。かといって、弱い立場にある老人を救ってあげる力は少年にはまだない。そ
れでも少年は老人のうちに秘めたものに惹かれ、朝早くまた小屋を覗きに行く。しかし時はすで
に遅く、老人は老いた馬を連れて去っていってしまっていた。少年はそれを知ったとき、どうし
ようもない悲しみに襲われることになる。この悲しみはきっと、少年が老人の中にある何か大事
なものに気づいているにもかかわらず、それを自分ではどうにもしてあげられないという悔しさ
から来るものではないかと思った。
両親はその「大事な何か」に気づいてもいないし、知ろうともしない。なぜなら現実の世界で
生きていくことだけで精一杯だからだ。それに対し、少年はイノセンスゆえに老人のそれに気づ
き知ろうとするが、残念なことにまだ無力なのだ。現実を受け入れるしかない。そして実際、そ
.....
の老人は少年も両親も知らない「現実の生活に追われた両親たちが失いつつある大切な何か」を
知っているのだと私は思う。なぜなら彼もかつては子供であり、親としての務めを果たさなけれ
.....
ばならない時もあり、そしてそれらを乗り越えた上で今を生きているからだ。それに山の向こう
から来たということは、彼らの知らない何かを知っているという象徴ともいえる。それほど多く
のことを経験し、見てきた老人が、
「わしはここで生まれただ。だからここに居つくがです」と
確固たる意思を持って戻ってきたが、それでも現実の世界には受け入れられず、無抵抗で同類の
6
老いた馬とまた去っていく姿はなんとも悲しいものがある。
このように、ここでも『おじいさんの思い出』と同様に、生活の実権を握っているのは両親で
あり、「老人と少年」はただただ悲しみにくれ、厳しい現実を受け入れるしかないという結末に
なっている。
さて、
『人々の「かしら」
』のほうだが、こちらでも無力な「老人と少年」の存在と実生活が第
一の両親の存在がありありと描かれているので、それについても、話の流れに沿って述べること
にする。
老人の存在として、この話では母方の祖父が登場する。彼はかつて大陸を横断してインディア
ンとも戦ったというのが自慢であるが、くりかえし聞かされる同じ話にいらいらする父親と、う
るさがられていることに気づいた祖父の姿をジョディは目の当たりにする。ジョディは祖父の話
を聴こうともしない両親に対して、批判はしていないが、どちらかというと祖父のほうに気を使
...
い、話をきいてあげようとする。彼には祖父の気持ちが分かるのだ。
現実社会が第一の両親にとっては、大陸横断の話はもうすでに終わってしまったことで、彼ら
....
の今の生活には何の関係もない。だから老人の話は、彼らにとっては聞いても何の価値もないも
のなのである。
しかし、ジョディはうすうす感じ取っていたのだろう。もっと肝心なことは大陸横断の話なの
ではないと。実際、ending で祖父が本当に彼らに伝えたかったことは大陸横断やインディアン
と戦った話ではないことがわかる。彼が伝えたかったのは、西へ西へという気持ちと、その小さ
な歩みの積み重ねが、今の生活をもたらしたということだった。
ジョディには、西へ進む一行のリーダーだった祖父の誇りや、今では西へ進む精神が消えてし
まった、と過ぎし日を思う老いることへの祖父の悲しみを感じ取る心があった。しかし、彼はそ
...........
んな祖父を救う具体的な何かをしてあげられるわけではなかった。けれど、ジョディはできるだ
けのことはしようという思いがあった。私は、少年のそういう優しい想いのエッセンスが、最後
に祖父に作ってあげたレモネードいっぱいに詰まっている気がしてならない。
3.
『老人と海』1952 ~嘘ごとも通じる仲~
この作品は、主に「老人」からの視点で描かれているが、作者の「老人と少年」に対する意図
としては、前半の 1.『おじいさんの思い出』や 2.『赤い子馬』と似ているところがある。それ
では、ここでも少年からの視点、老人からの視点、そして 2 人の関係の3つの点から考察した
いと思う。
まず、この少年にとっておじいさんはどういう存在だったのか。では参考になる文章をいかに
いくつか引用する。
1. これまで老人は少年に魚を取るすべを教えてきた。そして少年は老人を慕って
いた。(ヘミングウェイ、1966、p.6)
7
2.「うまい漁師はたくさんいるよ、えらい漁師だっていくらかいるよ、でも、お爺
さんだけは特別だ。」(ヘミングウェイ、1966、p.19)
3. 「おとっつぁんだよ、いけないっていったのは。ぼくは子供だ。いうことをき
かなくちゃならないんだ」(ヘミングウェイ、1966、p.6)
4.「また一緒に行きたいなあ。(…だけど実際無理だろうなあ)」(ヘミングウェイ、
1966、p.6)
5. 「ぼく、したいんだよ。一緒に出かけられないんだもの、何か役に立ちたいん
だ。
」(ヘミングウェイ、1966、p.8)
1. 2.からも明らかなように、少年にとって老人は漁師として、男として、そして人生の師匠と
して尊敬すべき特別な存在であった。しかし 3.4.からは他作品と同様に、親の言うことには逆ら
えないという現実が存在し、そしてそれを受け入れなければならないと自覚していることが伺え
る。そのような中でも、なにかおじいさんのためにできることをしようという優しい少年の想い
が 5.のセリフにはにじみ出ている。
では次に、おじいさんにとって少年はどういう存在だったのだろうか。それが分る部分を引用
する。
1. あの子が俺を生かしてくれているんだ、(ヘミングウェイ、1966、p.97)
2.「すまないな」と老人は言った。〔中略〕いつのまにか自分は人に気兼ねするよ
うになったと思う。(ヘミングウェイ、1966、p.9)
3.大声でひとり言をいうようになったのは、あの少年が彼から去り、ひとりになっ
てしまってからだろう。(ヘミングウェイ、1966、p.34)
4.「あの子がいたらなあ。(…だけど実際無理だろうなあ)」(ヘミングウェイ、1966、
p.41)
※魚との格闘の間に計 9 回も出てきたセリフ
老人にとっても同様、少年の存在は常に彼の心を大きく占めているものだった。それは、1.
からよくわかる。その一方で老人ももう少年と一緒に入られないという現実的を知っていて、い
つまでも彼に頼っていることを申し訳なく思っている。(2.参照)にもかかわらず、今でも少年
の存在は老人にとって必要不可欠なもので、その空白を 3.のように独り言を言うことで、埋め
8
合わせしようとしているのである。それでも結果的には少年と同様に、現実をただ受け入れるし
かないのである。それは「仮定法過去」の「~だったらなあ。
(…だけど無理だろうなあ)」とい
う文から読み取ることができる。(4.参照)
では、そんな 2 人の関係とはどういうものだったのだろうか。それは、例えて言うならば、
老人にとっての少年の存在は、
『ハックルベリーフィンの冒険』で言う、ハックにとってのジム、
もしくは川のような存在だったのではないだろうか。ハックは現実社会に飲まれては、またジム
のいる川に戻る。つまり「癒しの存在」である。老人も海の荒波に飲まれては、また少年の元に
戻るのである。それがなければ到底生きてはいけない。それで 1.のようなセリフが述べられるの
ではないだろうか。
そのことを踏まえて考えれば、二人の関係についてさらに深いところまで理解することができ
る。テキストの前半には、老人と少年が作りごとをして会話している場面がある。本当は投網や
混ぜ御飯などないのに、いかにもあるかのように会話しているのである。普通に考えると「ちょ
っとこの 2 人おかしい…」とも取れなくもないが、癒しの場であるということは、そういう嘘
ごとも通じ合える仲ということではないか。
つまりこういうことだ。
「老人と少年」には共通点がある。納得できない現実社会があるが、
かといってそれを変えられるだけの力も権力もないという共通点だ。嘘ごとをするということは、
ある意味で、それを理解しあえるもの同士で理想の世界を作り上げるということだ。そんなこと
ができる相手なんて早々いるものではないが、ここの「老人と少年」はそれができるのである。
普段は、私たち読者は、一般的な視点、要はこの小説に登場するその他大勢の「漁師たち」の
視点からものを見ている。そんな私たちにとって、このような些細な「老人と少年」の美しい姿
にスポットを当ててみることは、とても大事なことである。映画の『陽のあたる教室(1996/04、
米)
』ではないが、この小説にはどこか、そういう一見スポットが当たっていないかのように見
....
える人間にも、実はスポットは一人ひとりに当たるのだよ、という希望がかすかに読み取れる気
がした。
4.
『森の景色』1947-1964?
~子・親 V.S.祖父~
この作品には、自分の血統に固執する老人とその孫娘が出てくる。上記の 3 作品とは逆に、
ここではこの老人の悪に傾く様がありありとグロテスクに描かれている。そこで、今回も少女か
らの視点、老人からの視点、そして「この悲劇を生んだ要因」の 3 つの点から考察したいと思
う。
まず、少女は老人をどう思っていたのだろうか。初めのほうでは、彼女はおとなしく老人の行
く先々について行き、彼と同じものをみてくつろいでいた。しかし次第に彼女の老人に対する態
度は変わっていく。特に彼が芝生の土地を売ることになったのを大きなきっかけとして、物語の
中盤では少女は大声ではっきりと、
「あたしはメアリ・フォーチュン・ピッツ。
」と中立の立場で
あることを述べ、最後のほうでは一語一語に力を込めて、
「あたしはまじりっけなしのピッツだ
からね。
」と、自分は明らかに「フォーチュン」ではないことを主張するのだった。
9
では、老人からの少女への思いはどういうものだったのか。これは話の展開と共に変化してい
る。初めのほうは、自分の血統「フォーチュン」に固執している老人は、自分と似ている孫娘を
溺愛し、自分の価値観を植えつけようと全勢力を捧げて教育していた。しかし話が進むにつれ、
彼女は彼の大嫌いな娘婿「ピッツ」の血を示し始める。そしてしだいに、彼は彼女のことが小悪
魔のように思えてくるのだ。
ここでの悲劇の発端は、老人の側に、
「少女を自分の思い通りにしよう」とする思いしかなか
った点にある。そこに少しでも孫娘に対する本物の愛情があれば、少女が繰り返し主張した、
「芝
生のこと。父ちゃんがあそこで子牛を飼っている。森がもう見られなくなる。」という言葉の意
味が理解できたことであろう。しかし彼はあくまでも自分の価値観を変えようとはしなかった。
少女が両親と老人の板ばさみになっている気持ちを理解しようとはしなかった。ピッツのピの字
も受け入れようとはしなかった。彼は彼女を異常なほど可愛がってはいたが、それは愛する孫娘
としてではなく、ただの操り人形としてであった。ピッツを思い知らしめるための小道具の一つ
.......
として――。老人にとってピッツは排除すべき存在だったからだ。
しかし、世間から排除されていたのは老人のほうだったのかもしれない。本文中には「ピッツ
は老人の支配下にある」とあるが、それはあくまで老人の視点から見たものだ。その証拠にピッ
ツがメアリをむち打ちに森に出かけたときも、老人は百フィートばかり離れた丸石の陰に隠れて
観ていただけだし、老人がピッツにあの子を打つなら出て行けと言った時も、「俺を追い出すな
ら、あの子も追い出すことになる。追い出したらいい。あの子に鞭をくれるのは俺の勝手だ。
」
とピッツに言いくるめられている。
このようにこの短編では、「老人」
、そして「孫娘とその両親」との距離がかなり開いていた。
孫娘は初め、老人に愛着を示していたが、老人があまりにも素直でないので離れていってしまっ
た。そしてこの小説の結末は、そんな老人が起こした、取り返しのつかない哀れな悲劇となって
しまったのだろう。
少女 両親
5.
『セールスマンの死』1949
祖父
~両親の子への過度な期待~
1~4 までは、作品中の「老人と少年」が関わりのある部分を取り上げてきた。その過程で、
「両
親」の存在が「老人と少年」に大きく関わっていることが分ってきた。よってここでは、この当
時の「両親」の存在が中心的に書かれた作品を取り上げることにする。その中でも特に、
「両親
が彼らの子供をどのように考えているのか」について考えてみたいと思う。なぜなら、そうする
ことによって、
「老人と少年」の関係が「両親と子」の関係の影響を受ける原因を探ることがで
きると考えたからである。ということで、ここでは両親からの視点、子供からの視点の 2 点か
ら考察することにする。
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まず、ここで登場する親子の「両親」、特に父親の方は、2 人の息子たちに対してどのような
思いを抱いていたのだろうか。それが分る箇所を引用する。
1.
ウィリィ:一生に一度でいいから、倒れる前に、全額を払いきって、堂々と自
分のものとして使ってみたいもんだ。(アーサー・ミラー、1970、p.229)
2.
ウィリィ:デーヴ老人は、〔中略〕電話機を取り上げると、バイヤーを呼び出
すんですよ、八十四歳で、室から一歩も動かずに、生計を立てているわけですよ。
それを見たとき、動かされましたね、物を売るって言うことは男の一生にとって、
こんなにも素晴らしいものになるんだと悟ったわけです。
〔中略〕ああいう死に方
こそセールスマンの死というやつでしょうな。(アーサー・ミラー、1970、p.242)
3.
ベン:子供たちのしつけは満点だ。飛びきりの、男らしい青年たちだ。
ウィリィ:そういわれると嬉しい。時々しつけようがよくないんじゃないかと思
ったりすることがあるもんでね。どう教育したら本当ですかしら。(アーサー・ミ
ラー、1970、p.201)
4.
ウィリィ:息子が投げ出したのは、わたしのせいとでもいうのかね。
〔中略〕(ア
ーサー・ミラー、1970、p.259)
5.
ウィリイ:一週七十ドルで、一生隠居さしてくれようっていうのかい。女と遊
んで、自動車を持って、自分のアパートに住んで、その上一生隠居さしてやろう、
か!よしてくれよ、今日は俺はヤンカースの町を通り抜け、できなかった。お前
たちはどこで、どうしようっていうんだ。(アーサー・ミラー、1970、p.186)
6.
ハワード:息子たちは何をしているんだい。
ウィリィ:やつらは、凄い取引の最中なんでしてね。(アーサー・ミラー、1970、
p.244)
7 .
リンダ:お父さんは確かに全生涯を、あなた方の為に注ぎ込んだんです。そ
れだのに、あなた方は、お父さんに背いてしまいしまいました。 (アーサー・ミラ
ー、1970、p.213)
まずいえる明らかなことは、父親であるウィリィは、子供たちの教育に全精力を注いできたと
いうことだ。その動機としては、自分が今でも様々な支払いに苦労しているし、理想のセールス
マンの死を迎えられないようだということをうすうす悟っていたからだということが挙げられ
11
る。そのことは 1、2 から読み取ることができる。しかしその教育までも、現に息子の生活を見
てみると、うまくいっていないのだ。それらことから、彼は「私は教育すら間違っていたのだろ
うか」という不安を持つと同時に、幻覚をみるほどに精神的におかしくなってしまう。そのこと
は 3、4 から伺える。そして 5 のように、息子たちに対して怒りをぶつけることにもなる。しか
しその一方では、6 のように友人に対して、自分の息子のことをよく言うことで、見栄を張って
しまう自分もいる。つまり、父親にとって息子たちは、自分の夢を託した存在であったにもかか
わらず、それまで裏切られてしまった――ということなのだろう。それは 7 のリンダのセリフに
よく表れている。
では息子たちは父親をどうみていたのか。その部分を引用する。
1.ハッピー:
(親父は僕らに、)成功してもらいたい、だけの話さ。
〔中略〕実はね、
どうも、何か、おかしいんだよ。ブツブツ独り言を言ったりして。(アーサー・ミ
ラー、1970、p.158)
2.ビフ:一体どうする気なんだ!三十四だぜ俺は。もう将来の安定をつけなけり
ゃ、そうだろう。
〔中略〕で、ここにこうして来るにはきたが、どうすればいいの
かまるで分らずにいるのさ。(アーサー・ミラー、1970、p.159)
1、2 からも分るように、彼らは父親が自分たちに期待を抱いていることは十分承知だし、そ
のせいでおかしくなり始めていることも分っている。そして父親に心配をかけないためにも、ど
うにか事態を改善したいと思っている。が、しかし、現実には何をどうしたらよいのかわからな
いのである。
さて、両親からの視点、子供からの視点、それぞれから見てみたが、どちらも悪気は全くない
ように思える。どちらも心の奥底ではお互いを想い合っているし、どうにかよくなろうという気
持ちも十分伺える。しかし、結末は悲劇的な「セールスマンの死」で終わるのである。
ここまできて言えることは、当時の社会の状況がこの悲劇の発端になっているということであ
る。社会がこれほど苦しくなければ、父親のウィリィもこれほど息子たちに熱い期待をかけるこ
ともなかったろう。ということは、息子たちも親からの期待に応えようというプレッシャーを感
じずに済んだはずである。つまり、当然のことといえば当然のことなのだが、当時の社会不況が
この作品には深く深く根付いているということが言えるのである。
第二章:時代背景を通じて
これらの 5 つの作品を通してみて、最初に気がついたことは、作品の背後に「現実的な両親」
の存在があったことである。そしてそれをさらに探っていくと、当時の社会と深い関わりがある
ことが分ってきた。つまり 1~5 の作品は全て 1930 年以降に書かれたものであり、あの「暗黒
の木曜日」とも言われた大恐慌を経ているのだ。
12
『赤い子馬』について言えば、これは全体的に愛情豊かな作品になってはいるが、一方でこの
30 年代の社会抗議が描かれているといえなくもない。他の作品にも多少違いはあるにしても、
同様のことが言えると思う。20C 前半には、アメリカの社会や生活環境が大きく変化している。
それと同時に、アメリカンドリームを果たせなかった「両親の後悔の念」というものが生まれて
..
くる。つまり彼らは、成功の夢への挫折を経験していたのだ。その想いがいつしか、
「現実的」
な態度になり、子供への「過度の期待」に繋がっていったのではないだろうか。このことは『セ
ールスマンの死』にも上手く描かれている。
このようなことから、
「父と子」というテーマはアメリカでは大きくテーマのひとつに上げら
れると思う。そしてさらに、そのような「両親と子」の関係が、この「老人と少年」の関係を作
り出す一要因になっていた、と考えられるのである。それについての詳細は、次の第三章で述べ
ることする。
また、この 5 作品に登場するいわゆる「老人」と言われる登場人物が、あまり世間ではよい
見方をされていなかったというのも、時代背景に関係しているのではないかと思う。というのも、
新井正一郎(注1)によると、この 1930 年というのは、高齢化真っ盛りであるからである。具体
的に述べれば、1900 年にはアメリカの平均寿命は 45 歳だったのに対し、1950 年には 70 歳近
くなっているという。また、アメリカの人口は 2 倍になったが、60 歳以上の数は 4 倍の全人口
の 8%まで増えていったそうである。このようなことからも、高齢化という当時の社会状況が、
この「老人と少年」の関係に、少なからずの影響を与えていたと考えられる。
(注1) 新井正一郎『文学の中のアメリカ生活誌(32)』
第三章:「老人と少年」
以上、第一章~第二章を踏まえて、
「老人と少年」についての考えをまとめてみたいと思う。
まず、私が作品を読む前に立てた目的は、「老人と少年」のコミュニケーションについて考察
していくことであった。そして仮説としては、
「老人と少年」は「違うからこそ、近づきたくな
るし、一層よい関係が築けるのではないか」というものであった。一言で結論を述べると、それ
は「
『老人と少年』という特別な関係が作用してよい関係が築ける場合もあるが、一部例外もあ
る」ということになる。しかし最も大事なことは、その理由である。
「よい関係が築ける」事に対する理由としては、1.
『おじいさんの思い出』で、
「老人と少年」
.....
...
は、両親に比べて無力であるという共通点を挙げた。それに続いて、そのような共通点がありな
.....
がらも、お互いにないものを持っているということで、お互いに惹かれあうことも述べた。そし
......
て 2.『赤い子馬』では、特に少年にとっての老人は、未知なる存在であることを裏付けた。さ
らに、3.
『老人と海』では、共通点があり、お互いが惹かれあうからこそ、
「嘘ごとも通じる」
ほどの信頼関係を持った仲になっている「老人と少年」のことを述べた。
しかし、いつもがいつも「老人と少年」の関係がうまくいくとは限らない。そこで、その例外
として、4.
『森の景色』では、
「老人と少年」の距離がありすぎたために悲劇を生んだ例を挙げ
た。
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しかし、この 1~4 の作品にはひとつの共通点があった。
「老人と少年」が、よい関係が築ける・
築けないに関わらず、これら 4 作品には「両親」の存在が大きく関わっており、彼らが何かし
らの形で「老人と少年」の中に立ち入っていたのである。そこで最後に、その「両親」の世代が
中心に描かれている作品、5.『セールスマンの死』を取り上げた。そこには、社会の不況に大
きな被害を受けた父親の苦悩が描かれると共に、そのことが、彼の子供たちに対する「過度の期
待」に繋がっていたことが読み取れる文章が描かれていた。
こうして、5 作品全てに目を通したときに初めて、全ての作品が 1930 年代以降の作品であり、
1929 年に起こった大不況の影響を、少なからず受けていることが分ってきた。つまり、流れを
図に示すと以下のようになる。
1929 年
大恐慌が起こる
↓
世間一般の生活が苦しくなる
↓
家族を養っていく「両親(特に父親)
」の世代が一番苦労する
↓
「両親(特に父親)」は今の生活で精一杯になり、現実的になる
↓
↓
アメリカンドリームの果たせ
両親は、役に立たない老人に気を配っている余裕はな
なかった「両親」の想いが残る
い
↓
↓
両親は、子供には同じ思いをさ
子供は、そんな風に両親から阻害された老人と、現実
せたくないと思う
的な両親とを客観的に見る
↓
↓
子供に過度の期待を寄せる
子供は、頭では現実社会に苦労する両親のことを理解
しながらも、心ではどこか、
「本当に大切なものはお金
や身分などではない」という同じ価値観をも持った老
人に惹かれる。
このように、1930 年代の社会事情が、
「両親と子」などの様々な影響もあいまって、最終的に
は本稿のテーマである「老人と少年」のコミュニケーションに大きく影響していたことがわかっ
た。以上が、「老人と少年」の結論である。
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第四章:レポートを終えて
反省は主に五つである。まず一つ目は、テーマ設定についてである。「老人と少年」というテ
ーマに絞ったところから作品探しに大変苦労した。いくら現代アメリカ小説といえども、今ほど
「老人問題」、
「少子化問題」自体が大きく取り上げられていたわけではないので、その作品の主
題になっていることはほとんどない。よって、テーマに沿った作品をあらすじから探すときに、
脇役でしか登場しない「老人」や「少年」は省かれてかかれていないことが多い。その点は非常
に苦労した。
その一方で、いったん作品を見つけてしまうと、大きなテーマとして書かれていない分、
「老
人と少年」の関わりのある場面というのは一部に限られてくる。よって、狭い範囲しかない分、
底だけを中心に深く読み込む時間がとれたことは好都合だった。
二つ目は、
「老人」や「少年」の定義についてである。一口に「老人」
、「少年」といっても、
年齢も違うし、双方の関係も違う。その辺りをどう定めるかに迷ったが、あまり定義づけていて
は、ただでさえこのテーマに当てはまる作品も少ないので、結局のところ曖昧にしたままにして
しまった。総合的に見ると、
「祖父」と「孫」の関係が一番多くなったように思う。また「老人」
についてはおおよそ 60 歳以上の主に男性、
「少年」
(若者)については主に 10 代でこちらも男
性が主だった。しかし少女も出てきたので、「少年」というよりは「若者」とした方がよかった
かもしれない。
三つ目は、作品選びである。作品を選ぶ当初は、
「老人と少年」のテーマばかりにこだわって、
文学史のことをあまり念頭においていなかった。それがいけなかった。読んだ後で気づいてみる
と、いくら現代アメリカ小説といっても幅広く、1920 年代、30 年代、40 年代、50 年代…と作
品の幅が多岐に渡っていた。そのうちのひとつの年代に絞っていたならば、その時代に起きた社
会現象がそれらの作品の共通点ということになるのだが、今回はそういうわけにも行かず、こじ
付けで書いてしまった点があるのは反省すべきところである。
四つ目は、歴史的背景についてである。私はアメリカ文学については、情けないことにあまり
知識を持っていなかった。よって、かなり狭い知識の中で自分なりの見解を出さざるを得なかっ
た。それが悔やまれてならない。いくつかアメリカ文学史の本を当たっては見たが、読めば読む
ほど、知れば知るほど、読まなければならない文献は増えるし、知らなければならない知識も増
えていった。
「無知の知」である。そのことを自覚しつつも、レポートを仕上げなければならな
いというのは、なんとも苦痛だった。
最後の五つ目は、レポート作成時の 5 つの作品を述べる順序である。理想としては、初めに
立てた自分の仮説を、5 つの作品を述べていきながら、次第に順序立てて論じていけることが望
ましい。なぜならいくら 5 つの作品の感想を述べるといっても、テーマは一つだからである。
しかしながら、どの順序で論じていけば、一番ロジカルになるかということを考慮しながらレポ
ートを作成するのはなかなか難しかった。
以上、かなり反省はあるが、その分次回のレポートに生かしていこうと思う。
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終章
今回のレポート作成は、いろんな意味でとても勉強になった。来年度から始まるゼミでは、私
はイギリス文学を専攻することになっている。ゆえにアメリカ文学は今ほど読める機会はなくな
ってしまうのかもしれない。そう思うと非常に残念だが、しかしいずれにしても、今この時期に、
多少苦労して 5 冊も読めたことは、私にとってかなりプラスになったと思う。
また、始めは、ちょっとした思い付きから取り組んだテーマであったが、進めていくにつれて、
最終的には大きな社会背景まで到達することが出来た。アメリカの足跡を辿るように歩んでいる
日本にとって、彼らの「老人と少年」における考え方を知ることは、今後の日本における「老人
と少年」を考える上でなんらかの助けになるだろうと思う。今回の取り組みを、この場で終わら
せるのではなく、必ず今後につなげていけるようにこれからも努力していきたいと思う。
参考文献
・ トルーマン・カポーティ(村上春樹:訳)『おじいさんの思い出』
、文藝春秋、1988
・ ジョン・スタインベック(石川信夫:訳)「赤い子馬」、
『現代アメリカ文学選集 5』
、荒地出版
社、1968
・ フラナリー・オコナー(横山貞子:訳)「森の景色」、
『善人はなかなかいない』
、筑摩書房、1998
・ ヘミングウェイ(福田恒存:訳)『老人と海』、1966
・ アーサー・ミラー (菅原卓:訳)『セールスマンの死』
、早川書房、1970
・ 菅英志『アメリカ文学ガイド』
、三秀舎、1996
・ マルカム・ブラッドベリ『現代アメリカ小説Ⅱ』
、銀月堂、2001
・ (注1) 新井正一郎『文学の中のアメリカ生活誌(32)』
http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/41/no41arai.html
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