リレー随筆 これからの私にできること

A net
Vol.11 No.3 2007
これからの私にできること
リレー随筆
桜本 千恵子
町田市民病院麻酔科 部長
Chieko Sakuramoto
プロフィール:1984年:新潟大学医学部卒業、同整形外科入局
1986年:北里大学医学部麻酔科入局
1993年:東芝林間病院麻酔科 医長
2001年:町田市民病院麻酔科 部長
趣味:お酒を飲んで騒ぐこと。英会話教室を地道に続けること
(下手でも気にしない)
。年 1 回
の家族旅行。ジムで走ったり筋トレをすること
(これはかなりストレス発散になる)
。
私は現在48歳である。当院の定年まであと12年ある。
うな気がするが、どちらもやりたいから、かなり頑
これまでの医師生活のちょうど半分が残されている。
張った。自分で選んだ道だから、大変なのは当たり
これからの私に一体、何ができるのか最近真剣に考え
前と思っていた。もちろん、両親と外科医である主人
ている。
の協力と、医局内の理解と援助があったからこそ休む
ことなく継続できた。今振り返ると、辛い記憶は薄れ
私は1984年に新潟大学を卒業し、整形外科に入局し
た。女性でも頑張れば一流の整形外科医になれると信
てしまい、楽しかったこと、良かったことしか思い出
せない。
じていた。1 年目の後半に北里大学で麻酔科の研修を
受けたが、これが私の人生を大きく変えた。聖隷浜松
環境を整えてあげて、女性医師がこなせるであろ
病院で 1 年間の整形外科勤務を終えた後、ずいぶん悩
うと思われる仕事よりほんの少しだけ負荷をかける。
んだが、整形外科をやめて北里大学の麻酔科に 1 年目
そして、「あなたなら大丈夫、期待しているよ」と言っ
として入局させていただいた。
て見守ってあげる。大変そうなら、さりげなく援助す
る。そうするとその人はとても良い仕事をして、どん
麻酔科はいつの時代でも人手不足だった。数件の麻
酔をかけた後に緊急手術が入り、術前訪問を行い、コ
どん伸びていく。これは今の研修医の教育でも同じ
だと思う。
ンサルトを受けたら夜中だったなどということは珍し
くなかった。でもみんな、文句も言わず、黙々とよく
娘が小学生になった時、良い学童保育がなかったの
働いた。それが当たり前と思っていたし、充実してい
で、大学勤務は無理と考え東芝林間病院に初めての常
て楽しかった。麻酔科医になって 1 年目の冬に娘が生
勤麻酔科医として就職した。いわゆる一人医長という
まれたが、その生活はあまり変わらなかった。当直も
立場だった。ここでの生活は、忙しすぎた大学病院で
こなしたので、保育園のお迎えはいつも遅かった。幸
知らない間に自信過剰になっていた自分を見直す時間
い、娘は大きな病気もせず、すくすくと成長した。何
を与えてくれた。私の医師としての基本姿勢はこの 8
より自分も男性の医師と同じに扱われ、期待(?)され
年間で形成されたと思っている。後半の 4 年間は後輩
ていると感じることがやる気を生み出した。
が 1 名加わって仕事の内容が広がり、見よう見まねで
ペインクリニック外来も行った。看護師さん達が非常
最近、ちょっと女性医師の扱いに敏感になりすぎて
にやる気があり、勉強会を開いたり、飲みに行って大
いるのではないかと感じる。いくら待遇を改善しても
騒ぎしたり、本当に楽しい日々を過ごした。今でも、
やらない人はやらないし、逆境の中でもやりたい人は
辛いことがあると、当時の自分を振り返り、我が身を
やると思う。仕事と家庭の両立は確かに大変だったよ
正すようにしている。
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Apgar Memorial Essay
娘が無事に中学受験を終え、少し余裕が出てきた頃、
ターになりたい。緊張性気胸は胸腔ドレーンを 1 本入
北里大学から町田市民病院に麻酔科医を派遣すること
れれば救命できたかもしれない。また、気管挿管でき
になったという噂を聞きつけた。さっそく自分の目で
ずマスク換気もできない時は、外科的気道確保が必要
確かめてみようと思い、地図を見ながら車を走らせて
である。麻酔科医としてはここまでは必須であろう。
病院を見に行った。一目でここで働いてみたいと決心
外傷初期診療を学ぶことができる外傷初期診療
し、外教授に「私では駄目でしょうか?」と、お願いに
(JATEC:japan advanced trauma evaluation)という
伺った。大学病院はいつも人が足りず、ちょうどよい
コースがこれにぴったりだ。気管挿管実習にきている
年格好の人が他にいなかったせいか、すぐに希望を聞
救急救命士さんからは、病院前救護を知ってもらいた
き入れていただいた。病院の規模は 2 倍以上、ずっと
いから外傷病院前救護(JP T EC:japan prehospital
離れていた心臓血管外科・脳神経外科・産婦人科もあ
trauma evaluation and care)を受講したらと勧められ
る、緊急手術が多くて忙しそう、給料はずいぶん減っ
る。というわけで、私は逸る気持ちでコースを受講し、
てしまうなど冷静に考えると無謀な行為だったが、私
週末をつぶしてタスクとして何回もコースに参加し、
は新しいことに挑戦してみたかった。
ようやく 4 つのインストラクターになることができ
た。歳をとると記憶力がどんどん低下し、コースを受
強力な仲間(現在、済生会中央病院麻酔科の星野真
講しただけではすぐに忘れてしまうので、指導させて
里子先生)とともに、北里大学からの初めての派遣と
いただくことが自分のためにもなる。これからも、週
いう立場で町田市民病院に就職した。他科は全て他大
末早起きして、せっせとコースに出ようと思っている。
学からの派遣である。いくつか他科とのトラブルはあ
ったと思うが、とにかく合併症のない質の高い麻酔を
当院は新病棟を建設中であり、2008年 4 月にオープ
提供することだけを考えた。緊急手術にはすみやかに
ンの予定である。周産期センター、緩和ケア病棟もで
対応した。その年の忘年会で、私が尊敬する副院長先
きるらしい。麻酔科の仕事は増えることはあっても減
生から「やっといい麻酔科の先生が来てくれて、本当
ることはなさそうである。町田市の方針としては、人
に良かった。辞めないでくださいよ」と言われ、涙が
口40万人都市の唯一の公的基幹病院として救急をさら
出るほど嬉しかったことをよく覚えている。
に充実して欲しいという。難しい問題だと思うが、麻
酔科も手術室の外に出て外科系救急初療に参加し、二
ところが、赴任後 2 年目の11月に足元をすくわれる
次救急病院としての責任を果たすよう努力していきた
ような事故が起こった。麻酔導入中に緊張性気胸が
い。救急をやるには各科の協力体制が必要であり、1
おこったが診断がつかず、患者様を失ってしまった。
人が頑張ってもダメだ。麻酔科医はコーディネーター
(詳細はかなり複雑であったが・・・)なぜか警察が介
としての才能があるから、各科のまとめ役としては最
入し、業務上過失致死罪の容疑者として何回も警察で
適かもしれない。あまりやる気のない年配の先生方の
取り調べを受けた。ようやく 4 年間かかって、不起訴
お尻をたたいても無駄なので、元気なやる気のある若
というかたちで解決した。この経験は私を危機管理と
い研修医達を味方につけよう。ACLSやJATECのよう
いう麻酔科の原点に引き戻してくれた。自分の無力さ
なシミュレーション教育をもっと勉強して彼らにハイ
を大いに反省した。当時、『ガイドライン2000』に基づ
テク教育を行い、一緒に救急をやる仲間を増やそう。
いた一次救命処置(BLS:basic life support)や二次救
麻酔科医長である丸山美由紀先生も整形外科の経験者
命処置(ACLS:advanced cardiovascular life support)
であり、私の我が儘を聞いて、最大限の協力をしてく
のコースが開催され始めていたが、私は今更受講しな
れる。幸い、娘も大学生になり手元を離れたので、私
くても蘇生くらいできると思っていた。でも、この 1 例
には有り余る自由な時間がある。子供が小さいうちは
だけは全く診断もつかず、どうすることもできなかった。
やりたいことの半分もできなくて焦ったり、イライラ
わ
まま
していた。でも、今は焦ることはない。主人はとても
警察で「あんたはこの患者さんに、どうやって償う
理解があり、私がやりたいことをどんどんやればいい
つもりなんだ?」と何度も聞かれ、真剣に考えた。ま
よと言ってくれる。私に残された時間はあと12年もあ
ず、自分が正確な心肺蘇生法を習得し、次は他の人を
る。町田市の市民が誰でもいつでも安心して受診でき
教育していかなければならない。そのためには、早く
る外科系救急外来を、近い将来開くことができるかも
プロバイダーコースを受講し、できればインストラク
しれない。それが私の夢である。
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