津軽からの「ありがとう」 プロからのメッセージ 桜と城が有名な青森県弘前市の酒蔵で、変わった名前 の酒が造られている。 「刑事(デカ) 」という酒だ。 造るのは弘前城の西、岩木川のほとりに建つ齋藤酒造 店。江戸時代は津軽一円に酒母を売り、明治以降は酒造 店に転じた。蔵の敷地内には、津軽藩 2 代目藩主の命で 造園された庭が広がり、当時からの老松が今も 18 本残 る。だからここの代表銘柄は「松緑」という。 「刑事」は 18 代目蔵元の土居真理社長の強いこだわ りで 6 年前、生まれた。思いが、ラベルの添え書きに端 的に記されている。 《魂の酒/被害者の悲しみに接し/共に涙を流し/ 被害者を励まし慰め/事件解決のために黙々と働く男達 「刑事」/そんな寡黙で勇気ある男達のために/精魂こ めて造らせていただきました。 松緑蔵元 敬白 》 「魂の酒」 きっかけが興味深い。 昔、向かいに住むお年寄りが失踪した。家に大量の血 痕が残り、 事件性が強いとみられた。 齋藤酒造店は連日、 刑事の聞き込みを受けた。 忙しいところごめんなさいね、 と刑事たちは言い、 「どんな些細なことでもいいから教え てほしい」と頭を下げた。 失踪者宅の周囲には刑事が目立たぬよう立ち、通行人 や車を観察していた。毎日 24 時間、刑事はいた。現場 をどんな人が何時ごろ行き交うのか調べ、犯人につなが る端緒を得るための「動態調査」だということを後に知 った。 真冬である。しんしんと雪が降り積もる中を刑事たち はじっと立ち続けている。彼らはやがて、どこからか失 踪者の遺体を捜し出し、容疑者を割り出して逮捕した。 地元の短大から銀行に就職し家業を継いだ土居さん にとって、刑事という人種を目にするのはこれが初めて の経験だったが、 「正直、頭の下がる思いだった」 酒造りの最高責任者である杜氏も蔵にこもり、蔵や醪 (もろみ)の温度、湿度管理などにかかりきりで家に帰 れない日々が続く。 「杜氏は大変」と自負していた土居さ んだが、 「刑事の仕事の厳しさは杜氏の比ではない」と思 った。 2 年後、武富士弘前支店放火殺人事件が起きた。齋藤 酒造店は再び刑事の来訪を受ける。知った顔もいた。犯 人につながる情報を土居さんが持っているわけでない。 何の役にも立てないが、せめてお茶の一杯ぐらい。刑事 は「ありがてじゃぁ」と喜んでくれた。 事件発生から 1 年が経過しようとし、捜査の長期化も 懸念されたころ、 刑事たちは電撃的に容疑者を逮捕した。 容疑者が持参して引火させた新聞紙の印刷ズレを徹底捜 査して印刷機と配達地域を特定し、容疑者の身元を割り 出していった-と聞いた。 「すごい」 。土居さんは驚嘆し、 「刑事」という酒を造りたいと思った。 日本酒の醸造、管理技術は世界でも類を見ないほど複 雑で、高度なものである。今は温湿度や発酵管理など酒 蔵内の一定業務が機械化されたが、齋藤酒造店は機械化 を拒み、すべてを手作業で行う。当然、生産量は増えな い。だが、ここは土居さんの意思が強く反映した企業信 条だ。このあたりの価値観が、靴を磨り減らす刑事たち への共感を呼んだのだろうか。 土居さんが造りたいのは、酔うためだけの酒ではない。 お神酒だ。多くの神社に使ってもらえるよう、齋藤酒造 店は上質な酒造りに人間の手だけで挑み続ける。神に供 えるお神酒にこだわるのは、造り手としてのプライドで ある。そんな彼女に「プロ」を感じさせた刑事たちは胸 を張っていい。 土居さんは「刑事」を、難事件を抱えた警察署や捜査 本部に手紙を添え、陣中見舞いに差し入れている。これ まで青森のほか秋田、千葉、京都、香川、島根などの捜 査本部に送った。 「刑事」を儲けの商品にする気はなく、 卸はしない。通販で細々と売る程度だ。 「刑事さんの苦労に感動し、造りたいから造った。そ れだけなんです」 。 東北人らしく、 彼女の口数は多くない。 酒に同封された手紙が率直な思いを語っている。 《…事件は解決し平和な町で安心して眠れる今日。刑 事さんに感謝をこめて。ありがとうございました》 取り調べ可視化に象徴されるように刑事たちの捜査 環境は厳しくなる一方で、ともすれば元気を失っている 刑事部屋もあろう。そんな彼らに、津軽の女性蔵元の思 いが届いてほしいと思う。 土居さんが感じ取った刑事のイメージを反映してか、 「刑事」はべたべたせず辛口だ。もし仕事に迷っている 刑事がいたら、この辛口の「刑事」を飲んでしゃきっと してほしい。その辛口味からは、お神酒にこだわり続け るプロからの「刑事は強く、優しく、黙々と犯人を捕ま えよ」というメッセージが口中に広がってくる。 (産経新聞編集長 井口文彦)
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