ボ タ ボ タ ン - 新潟経済社会リサーチセンター

第3回
ボ タ ン
新潟県立植物園
副園長
倉重 祐二
ていかん
新潟を代表するボタン、長尾次太郎作出の「帝冠」
ね、通信販売のダイレクトメール。しかしてその
元祖は。そう、実は植物なんです。今は見られず
にポイと捨てられてしまいますが、明治40年代に
は全国の種苗商や生産者からカタログが発行さ
れ、中でも「東洋第一の種苗店 資本金七十万円」
とうたった日本種苗株式会社の発行部数は年間
100万部以上、果樹、野菜、花卉、家畜、農機具、
書籍などが販売され、農家でまわし読みされてい
たようです。
通信販売のそもそものおこり
慶応3(1867)年、農学者で津田塾大学の創立
新潟県初の通信販売カタログ︵明治四十一年 長尾草生園︶
毎日とは言わないけれど、年中送られてきます
者津田梅子の父である津田仙が幕府から通詞とし
てアメリカに派遣され、通信販売によって農家に
良質の種苗が行き渡っていることを知った。帰国
後の明治8(1875)年に津田は学農社を興し、翌
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ボタン
年から「農業雑誌」を出版、同年出版の第8号で
根省吾は、趣味で果樹やオモトをつくっていたが、
種苗の通信販売をはじめた。これが日本初の通信
明治20年頃にボタン生産の本場であった大阪府や
販売とされる。
兵庫県から優良品種二百数十種を導入して栽培を
新潟では長尾草生園(新潟市)が明治41(1908)
はじめた。このボタンを小合村や小須戸町の生産
年に通信販売カタログを出版したのを嚆 矢とす
者が譲り受け、本格的な商業生産がはじまった。
る。東京や神奈川、兵庫などの大手種苗会社もこ
関根氏と同様、明治時代にボタンを栽培した人
の前後に相次いでカタログを出版しているのだ
に三島郡大島村(長岡市)の長谷川玄三郎がいる。
が、新潟の通信販売の主力商品、これがボタン
長谷川氏も明治20(1887)年から、東京や大阪、
だったのだ。
兵庫などから苗木を取り寄せ、明治末には百八十
品種、三百株ものボタンを栽培した。これらのボ
タンも、関根氏と同様に秋葉区の栽培農家に渡っ
渡来は奈良時代
たと伝えられる。
「花王」と呼ばれたボタンは、奈良時代に薬木
として中国から渡来したとされる。花が美しいの
で平安時代には寺院や宮廷で観賞されていたが、
繁殖技術の革新
江戸時代に入ると広く栽培されるようになった。
現在生産されるボタンはすべてシャクヤクを台
特に元禄から宝永年間(1688∼1711)には流行を
木として接木でふやされているが、かつてはボタ
来し、ボタンの専門書も発行され、当時を代表す
ンを台木としていた。ボタンは木であるため、タ
る園芸書「花壇地錦抄」には300品種以上のボタ
ネをまいてから台木として使用できるまで長期間
ンが掲載されている。
を要し、最も生産量の多かった農家でもせいぜい
本県でも18世紀半ばには観賞用としてボタンが
年間200本の接木を行う程度だった。
移入されており、江戸末期の文
政の頃(1818∼1830)には新潟
市で商業的な栽培がはじまった
と伝えられる。
もらったボタンで生産が
はじまった
現在に続くボタンの生産が本
県ではじまったのは明治20年頃
小合村(新潟市秋葉区)でのこ
と。実はもらったボタンで本格
的な生産がはじまったのです。
茨曽根村(新潟市南区)の関
小合村のボタン親木圃場。500品種が栽培されたとある(大正7年撮影)
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しかし、明治30年頃に趣味でボタンを栽培して
いた小合村の江川啓作と四柳徳次郎は、日本では
じめてボタンをシャクヤク台木に接ぐことに成功
した。草であるシャクヤクはボタンに比べて短期
間で台木として使用できる大きさに育つため、こ
の技術を商業生産に応用した小合村ではこれまで
の数倍、数十倍の苗木生産が可能となった。この
繁殖技術が、本県を日本最大のボタン産地へと導
「Paeonia Moutan A collection of 50 choice
varieties」
(輸出用につくられた代表的ボタン50品
種の見本図集)横浜植株式会社発行(大正4年)に掲
載された田中新左衛門作出の「御所桜」
(右側)
いたのだ。
品種改良
内初の植物通信販売用カタログが発行された。そ
もう一つ新潟がボタン産地として名声を博した
の巻頭には、長尾氏作出の「宝冠」など5品種と
理由に、明治からはじまった品種改良が挙げら
小須戸町の渡辺要吉が作出した「姫御前」を含め
れる。
た112品種ものボタンが掲載されている。花市場
江戸末期、嘉永元年に生を受けた新潟市の田中
や苗を売る花屋がなかった時代、通信販売によっ
新左衛門は、ボタンの新品種の作出に取り組み、
て新潟のボタンは全国に広まっていった。
明治末から新品種を発表しはじめ、未発表を含め
さて、大正8(1919)年のカタログではボタン
数百ものボタンを作出したことから牡丹翁と呼ば
は280品種と倍増し、大正11(1922)年には385品
れ た。 代 表 的 な 品 種 に は「 五 大 洲 」、「 玉 簾 」、
種となっている。また、このうちの80品種が県内
「九十九獅子」などがあり、これらは現在でも栽
育成品種であることは特筆すべきことであろう。
培されている。
もう一人、小合村の長尾次太郎は、明治30年以
前からボタンの新品種の育成に力を注ぎ、「太陽」
販路を広げる
や「帝冠」など新潟ボタンの半数ともいわれる60
量産されるようになったボタンの販路をさらに
もの品種を発表している。
拡大するために、大正9(1920)年に小合園芸組
合が設立され、翌年秋に千数百株の新潟ボタンが
はじめてアメリカに輸出された。昭和3(1928)
通信販売で売りさばく
年には新潟県花卉球根協会によって東京三越本店
繁殖方法の革新と新品種の作出の効果が相まっ
で「新潟特産牡丹陳列会」が行われ、さらに海外
て、県内のボタン苗は昭和2(1927)年に40万本、
宣伝の手はじめとして昭和9(1934)年に満州国
同4(1929)年には55万本、そして同7(1932)
大連市の喜久屋デパートにおいて宣伝会が開催さ
年には87万5千本と増産を続け、新潟県は全国一
れた。このように日本から海外へと新潟のボタン
の生産地としてその名を馳せた。
はさらに販路を拡大していった。
明治41(1908)年、新潟市の長尾草生園から県
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いる。
ボタン生産が新潟の園芸にもたらしたもの
さて、ボタン生産が新潟の園芸にもたらしたも
戦時中には他の園芸植物と同様にボタン生産も
のは、増殖から販売までの近代的な生産体制と新
壊滅的な打撃を受けたが、戦後は順調に生産が回
品種による新潟ブランドの確立であろうと思う。
復した。昭和30年頃に新津市の江川一栄によって
しかしながら、昭和40年頃に新潟のボタン生産量
「越の茜」や「栄冠」などの新品種が作出され、
は日本一の座を島根県に譲り、また貴重な新潟ボ
五泉市の樋口宥 源 はシャクヤクとボタンを交配
タンも失われてしまったものも多いのが現状で
し、黄花ボタンを同37(1962)年に初開花させて
ある。
よ
も ざくら
長尾次太郎が明治41年に発表した「四方桜」
倉 重 祐 二 (くらしげ
はつがらす
長尾次太郎作出の「初烏」は黒に最も近い花色
ゆうじ)
新潟県立植物園副園長。専門はツツジ属の栽培保全や系統進化、園芸文化史。著書に『よくわかる栽培12か月 シャクナゲ』
『よくわかる土・
肥料・鉢』
(以上NHK出版)、『増補原色日本産ツツジ・シャクナゲ大図譜』(改訂増補、誠文堂新光社)など。
「みんなの趣味の園芸」に面白くてためになるブログ「植物園日記」(http://www.shuminoengei.jp/?id=3078または「みんなの趣味
の園芸 新潟県立植物園」で検索)を執筆中。
ツイッターをはじめました。http://twitter.com/tutuji_kanemaru
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