臨床精神医学研究所年報 - 公益財団法人豊郷病院

vol3豊郷病院年報_表紙.ai 1 14/04/19 10:41
年 報 第
3
巻 2
0
1
2
年
︵
平
成
24
年
度
版
︶
公益財団法人豊郷病院附属
臨床精神医学研究所年報
第3巻
Bulletin Toyosato Institute of Clinical Psychiatry
Vol. 3
2012年(平成24年度版)
2 0 1 2(平成24年度版)
公益財団法人豊郷病院附属
臨床精神医学研究所年報
発 行 公益財団法人 豊郷病院
〒529-1168 滋賀県犬上郡豊郷町八目12
TEL(0749)35-3001 FAX(0749)35-2159
編 集 公益財団法人豊郷病院附属
臨床精神医学研究所 編集委員会
臨床精神医学研究所
印 刷 近江印刷株式会社
滋賀県愛知郡愛荘町川原771-1
TEL(0749)42-8400(代)
公益財団法人豊郷病院附属
vol.3
公益財団法人豊郷病院附属
臨床精神医学研究所
Toyosato Institute of Clinical Psychiatry
目 次
巻頭言
修正型電気治療について(林 拓二)……………………………………………………………………………
1
ごあいさつ(佐藤 公彦) …………………………………………………………………………………………
3
公益財団法人豊郷病院基本理念・精神科沿革……………………………………………………………………
4
原著論文・総説など
1.皮膚寄生虫妄想と心気妄想(田中祐輔、林 拓二)…………………………………………………… 5
2.修正型電気治療の適応疾患について(白井 光)……………………………………………………… 11
3.精神医学と社会神経科学(高橋英彦)…………………………………………………………………… 15
4.自閉症スペクトラム障害における自発的表情模倣の障害
(義村さや香、佐藤 弥、魚野翔太、十一元三) ………………………………………………… 25
講演記録など
5.認知症のきざしに気付く(成田 実)…………………………………………………………………… 29
6.治療と矯正、そして共生−精神医療の基本(林 拓二)……………………………………………… 37
随想など
7.私の研究エピソード(林 拓二)………………………………………………………………………… 49
8.私と国際学会(林 拓二)………………………………………………………………………………… 51
9.札幌トロイカ病院開設 30 周年祝辞(林 拓二) ……………………………………………………… 54
看護研究など
10.自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた
精神科病棟看護師の関わりの一事例(西川由希子)………………………………………………
11.うつ症状のある患者の自立支援の為の対応方法の工夫
−自己の役割を再認識し自立支援施設参加を促して(中村祥子)………………………………
12.患者対応で受けるストレス軽減の効果
−精神科病棟におけるナラティブ・アプローチを用いた
看護師への支援の取り組み(柴田美恵子 仮屋隆史 松井理沙)………………………………
13.私の看護観−看護実践の振り返りから(堀尾素子)……………………………………………………
14.午前中の臥床傾向改善に意欲を持てるようになった事例(岩田夏彦)………………………………
66
70
72
精神鑑定
15.自動車及びブランド焼酎窃盗事件−ヒステリー性健忘および睡眠剤嗜癖(林 拓二)……………
16.自転車損壊事件−遅発性パラフレニー(林 拓二)……………………………………………………
17.信号無視衝突事件−軽症うつ病(林 拓二)……………………………………………………………
18.成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞(林 拓二)………………………………………………
19.成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞および認知症の重畳(林 拓二)………………………
20.成人後見開始の審判−脳血管性認知症(林 拓二)……………………………………………………
77
81
85
90
94
98
55
62
症例報告
21.カタファジー(裂語症)について
−形式性思考障害と言語異常を特徴とする統合失調症圏の精神病(林 拓二)………………… 102
資料
22.内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究−豊郷病院での研究計画書(林 拓二)…………… 110
研究業績(平成 24 年度)
…………………………………………………………………………………………… 120
公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所所員…………………………………………………………… 122
編集後記……………………………………………………………………………………………………………… 123
表紙写真:伊吹山頂お花畑に咲くコオニユリ
巻 頭 言
巻頭言
修正型電気療法について
公益財団法人豊郷病院附属 臨床精神医学研究所
所長 林 拓二
電気けいれん療法は自殺念慮を抱くうつ病や緊張病症状を示す統合失調症などには劇的に奏功する。
このことは、精神医療の現場をよく知る臨床精神科医であるならば誰もがよく知る事実である。しかし、
われわれ精神科医にとって、電気けいれん療法にはこれまで多かれ少なかれ心理的な抵抗があったと言
える。それは、電気けいれん療法が精神病の治療とは言えない目的で使用されたこともある忌まわしい
過去を知っているからであり、また、適応疾患を厳格に守り、治療前飲食の禁止などの準備を怠ること
がなければ極めて安全で有効な治療法であるにもかかわらず、精神科の医師にとっては「手術」に近い
ものであって、有けいれんの身体的治療には独特の緊張感を強いられるものだったからである。
私が大学を卒業して精神科医になったばかりの頃、勤務していた七山病院の医局長の山崎先生に「電
気は嫌いです」と言ったところ、
「林君、精神科の治療は好き嫌いでするものではないんだよ、嫌いであっ
ても、それが患者に効くのであれば、するべきなんだ」と諭されたものである。それ以後、
「電気は嫌
いだが必要に応じて行う」と言う私の態度は一貫している。当時は、新設の精神病院(信じられないこ
とに精神科医のいない病院もあった)も多く、処遇困難として保護室に長期隔離され、終には措置鑑定
が申請されて指定病院である我々の病院に転院してくる患者も少なくなかった。このような患者に電気
けいれん療法を行なうと劇的に改善したため、「やはり、本物の精神科の医者はすごい」と感心された
ものである。
豊郷病院でも 1970 年代、電気けいれん療法は入院・外来を問わずに盛んに行われていたようである。
当時在職していた錦織壮先生は電気けいれん療法の改善に取り組み、記憶障害の少ない方法として劣位
半球だけに電気刺激を与える「一側性」電気けいれん療法を研究していた。私は「精神医学」誌に次々
と投稿される「一側性」電気けいれん療法に関する彼の知見(71 年、73 年、75 年)を興味深く読み、
著者の所属先であった豊郷病院という豊かな田園を想起させる病院名に少なからぬ憧憬を感じていたも
のである。現在、私が豊郷病院に勤めているのも不思議な縁と言うしかない。
現在、電気けいれん療法が再び脚光を浴びる時代となっている。それは、新しい抗精神病薬が次々に
開発されてはいるものの、薬物が奏功しない難治性の症例も数多く見られ、さらに、近年重視される精
神科救急では即効性が求められるものの、薬物による治療効果は限定的であると言わざるを得ないから
である。そこで、従来の電気けいれん療法が若干修正され、麻酔科医の管理下で全身麻酔、筋弛緩剤を
使用する無けいれん電気治療(修正型電気療法:m ECT)となり、精神科医の心理的な負担ははるか
に少なく、さらに安全な治療法として再登場している。治療機器も従来のサイン波型からパルス波型の
通電装置「サイマトロン」(平成 14 年認可)となって、保険診療も認められ精神科特殊治療として一般
に認知されている。
−1−
豊郷病院では、この数十年、電気けいれん療法が実施されることはなかったが、薬物療法のみでは治
療の困難な症例がなお少なからず存在する。修正型電気療法を行なっている施設は、県下では滋賀医大
以外になかったため、豊郷病院でも麻酔科の小島医師の協力を得て手術室との調整を進め、平成 25 年
7 月からサイマトロンによる治療を始めている。修正型電気療法は従来の電気けいれん療法と較べ、安
全性を優先させた結果として効果はやや弱いという印象はあるが、このことは老年期の患者さんにも安
全に治療することが可能となっており、自殺念慮の強い老年期のうつ状態や遅発性の精神疾患に対して
有用な治療法であると言える。
精神医療の現状は、国の財政負担を軽減させる必要もあって入院治療から地域へという大きな流れの
中にある。しかしながら、精神症状の改善がないまま、地域との共生を目指そうとする努力は家族や地
域の受容する範囲を超え、ただ疲労させるだけに終わるかも知れない。我々はなお、「焦らず、慌てず、
諦めず」に、精神疾患の治療に取り組み、現在持てる治療手段を総動員しながら、個々の患者が患う精
神疾患を克服しなければならないと思う。
−2−
ごあいさつ
公益財団法人 豊郷病院
代表理事 名誉院長 佐藤 公彦
豊郷病院の病棟構成は、一般病棟 148 床、亜急性病床8床、回復期リハビリテーション病棟 30 床、
医療型療養病棟 32 床、それに精神一般病床 60 床、精神療養病床 60 床である。ケアーミックス型に精
神病棟が備わる複合病院であるが一つ一つは小さい。医療運営に精通している人はこの配分を見るだけ
で大変ですねという感想を洩らす。地域からの需要を積み重ねていつのまにか出来上がったものではあ
るが、残念ながら医療の効率は劣る。腎透析 16 ベッドも然りである。公益財団法人と名は変えたものの、
公的の補助金はなく、ファンドもない。うちは苦しくとも頑張って自活しているというと、びっくりさ
れることもある。
昨年 5 月にスタートした回復期リハビリテーション病棟は、慣らし運転も終え、順調に軌道を走って
いる。近隣の病院に感謝したい。療養型病棟は少ないベッドをフル活動することで、病院の潤滑油のよ
うな仕事も行っている。全員が一分一秒も無駄なく動いている凄いところだ。さらに精神科が復活をか
けて始動している。H 22 年、精神医学研究所が開設されると、期を待たずして林先生のもとに若い先
生が集まってきだした。研究所紀要の創刊、精神科当直の再開、電気けいれん療法と、林先生の目指さ
れる地域精神医学が地道に進められている。臨床研究と医師確保のニュースタイルと外部から嘱目され
る。精神科救急も再開された。以前のポテンシャルの高い精神科に戻るのも、そう遠くはないようだ。
一般病棟、特に内科系は時候による繁閑がはっきりしている。繁忙期にベッドを効率よく回転させ、患
者さん、医療者側双方が有益になるように配慮しなければならない。閑散期は病院、診療科、あるいは
医師個人の実力の見せ所と覚えておこう。
高度急性期医療と一般急性期医療を区別した医療供給体制の在り方は、これまでのところ「非選択と
過剰集中」となり、患者へのメリットより大規模病院の疲弊と地域一般小病院の経営悪化が凌駕してい
る。結果的に大病院重視政策となっているために、地方の中小病院にはますます医師も看護職も集まら
ず、疎外感、孤独感が拡がりつつある。病院の identity crisis である。病院が直面する課題はまずは医
師確保であるが、DPC と 7:1 看護基準もそろそろ検討する時期であろう。このきつい峠を越えてもく
つろぎと美酒が手に入る保証はないが。
日本は平等で、安価、高品質の医療を提供してきた。国民皆保険・現物給付・良好なアクセス、この 3
本柱を固定するのが診療報酬算定法と混合診療の禁止である。その代償として毎年多額の医療費がつぎ込
まれている。医療介護を含める社会保障費は、毎年 1.2 兆円自然増と予想されている。しかし、私たちの
立場としては、国際的に羨望されている日本の医療制度が維持されるのであれば、余計なジレンマに陥る
必要はないと思う。TPP は医療の仕組みを変えるだろう。小児や将来を背負う若い世代には最高の医療
を受けられる環境が必要だ。大学病院など特定機能病院に、混合診療禁止を一律に求めるほど軽佻浮薄で
はない。しかし、原則として、医療保険加入のモチベーションを殺ぎかねない保険外診療枠の拡大、混合
診療解禁はあってはならない。幸運にもまともな(公務員と民間人に差がないことは特筆)医療制度であ
る。Cool Japan として守っていきたい。
平成 25 年(2013)8 月
−3−
公益財団 法人豊郷病院
基本理念
豊かな郷で心と体の健康を 家族のように
1. 郷土愛と博愛の創立精神に基づき、地域の医療・保健・福祉を支える。
2. 医学の進歩に同調し、わかりやすく信頼される医療を行う。
3. 温もりと心をこめたサービスで、快適な療養環境を築く。
4. 患者さまの権利を尊重し人権をまもる。
5. 職員の労働環境に配慮し、効率よい安定した病院経営を行う。
日本医療機能評価機構認定病院
一般病棟・精神科病棟・長期療養型病棟の複合病院
創立 1925 年(大正 14 年)4 月
精神 科沿革
■ 昭和 32 年(1957) 4 月 1 日 精神科・神経科新設(精神科病床 110 床)
(京都大学名誉教授三浦百重先生指導)
■ 昭和 42 年(1967) 8 月 30 日 精神科病棟増築(精神科病床 209 床)
■ 平成 7 年(1995) 6 月 1 日 老人性認知症疾患センター開設
■ 平成 12 年(2000) 7 月 1 日 精神科デイケア開始
■ 平成 14 年(2002)10 月 1 日 新館5・6階に精神科病棟移動(精神科病床 120 床)
■ 平成 22 年(2010) 4 月 11 日 臨床精神医学研究所設立
−4−
皮膚寄生虫妄想と心気妄想
Delusion of parasitosis and hypochondriacal delusion
田中 祐輔 1,2)、 林 拓二 2)
1)京都大学精神医学教室
2)豊郷病院臨床精神医学研究所
抄録:
皮膚寄生虫妄想は、現実にはムシがいないにもかかわらず、ムシが皮膚に寄生していると確信する妄
想性の病態であり、人格の崩れは認められない。これらは妄想性醜形恐怖や自己臭妄想とともに単一症
状性の心気性精神病としてまとめられることもあるが、DSM- Ⅳではこれらは概ね妄想性障害の下位群
である身体型に含められている。しかし、皮膚寄生虫妄想の好発年齢が初老期から老年期にかけてであ
るのに対し、醜形恐怖などは若年期に発症することが多いことを見れば、これらを疾病学的に同一のも
のであるとみなすことは出来ない。言うまでも無く、DSM- Ⅳなどの操作的診断は症状などを主にした
類型学的分類であって疾病学的な診断ではない。皮膚寄生虫妄想もまた一つの症状群であって疾患とみ
なすことは出来ない。しかし、狭義の(純粋型)皮膚寄生虫妄想は一定のまとまりも持つ病型であり、
臨床症状的には遅発性パラフレニーに近縁のものと考えられる。
Keywords:皮膚寄生虫妄想、遅発性パラフレニー、体感異常型統合失調症、
はじめに
初老期や老年期に主として発症する皮膚寄生虫妄想とよばれる病態がある。ムシが実在しないにもか
かわらず皮膚あるいは腸内に寄生していると確信し、そのムシが這う、刺す、噛むなどの体感異常の他
に、奇妙な視覚性体験やムシの擬人化などを訴えるもので、人格の崩れは認められない。このような寄
生虫の罹患を確信する特異な心気妄想を示す症例は、器質性精神病や症状性精神病に認められることも
あるが、心因性と考えられる感応性精神病や内因性精神病のうつ病や統合失調症でみられることもあり、
ほぼあらゆる精神障害に認められるとされている。しかし、皮膚寄生虫妄想の症例の中には、伝統的な
診断のいずれにも分類し難い症例が多数存在するのも確かである。本稿では、単一症状性心気妄想の中
心的な病型である、皮膚寄生虫妄想の疾病学的な検討を行いたいと思う。
類型学的分類と疾病学的診断
周知のごとく、本症をはじめて記載したのはフランスの皮膚科医である Thibierge(1894)である。
彼はダニの感染を確信しているが、身体には何の所見もない患者を「ダニ恐怖症」として記載した。そ
の 2 年後に、同じ皮膚科医である Perrin(1896)が、
このような患者を「寄生虫恐怖症」と名付けている。
しかし、彼はまもなくこれらが恐怖症ではなく、妄想性の確信であるとしている。その後、スウェーデ
ンの精神科医である Ekbom(1938)が、これらを「初老期皮膚寄生虫妄想」の名称のもとに報告し、
−5−
皮膚寄生虫妄想と心気妄想
この異常な感覚と妄想とが、初老期における脳と内分泌組織の変性に起因していると考えた。今日、英
米圏の文献で広く使用される“Delusion of parasitosis(寄生虫妄想)
”は、Wilson と Miller(1946)が
用いたものであり、これらが統合失調症、更年期うつ病、痴呆、中毒性精神病、さらに重症の神経症に
も認められるとして、これらを特徴的な疾患に基づくものであるとは考えていないようである。近年で
は、Munro(1978)が、この寄生虫妄想例を、妄想性醜形恐怖や自己臭妄想とともに、
「単一症状性心
気性精神病」と呼ぶ新しいカテゴリーの中に分類しているが、操作的診断である DSM- Ⅳによれば、こ
れらのほとんどが妄想性障害の下位群である身体型に含められるようである。
確かに、類型学的な観点から見れば、現実にそのようなものではないにもかかわらず、自己の鼻や眼
などの顔貌や手足や胸などの身体各部位が醜悪であると考えたり、あるいは自己の体臭などによって他
人に不快感を与えたり他人から軽蔑されていると確信する醜形妄想や自己臭妄想と皮膚寄生虫妄想と
は、心気症やセネストパティー様体験とも密接な関連があり、この妄想体験が執拗に訴えられるが一貫
して単一症状性であることから、Munro の述べるごとく、同一のカテゴリーに一括することも可能で
はあろう。しかしながら、皮膚寄生虫妄想が初老期から老年期にかけて好発するのに対し、醜形恐怖な
どが若年期に発症することが多いことを考えれば、これらの3つの類型を1つにまとめることは、類型
学的にはともかくとして、疾病学的にはなお多くの問題を残していると思われる。
類型学的分類として徹底した DSM- Ⅳでは、統合失調症や気分障害、あるいは薬物の乱用や他の身体
疾患の影響がないことが確認され、「奇異でない内容の妄想」、すなわち、追跡、被毒、被感染、心気、
被愛、嫉妬などの現実生活でも情況によって生じ得ると考えられる妄想が少なくとも一カ月持続した時
に、「妄想性障害」という大雑把なカテゴリーを用意されている。この障害の下位群として、特徴的な
妄想症状から色情型、誇大型、嫉妬型、被害型、身体型の 5 類型が取り出されており、多くの皮膚寄生
虫妄想などの心気妄想症例はこのカテゴリーに分類されることとなる。しかしながら、言うまでも無く、
DSM- Ⅳなどの操作的診断は症状などを主にした類型学的分類であって疾病学的な診断ではなく、同じ
カテゴリーに分類されるからと言って疾病学的に同一のものであるとみなすことは出来ないのは当然の
ことであろう。
皮膚寄生虫妄想の疾病学的検討
寄生虫の罹患を主とする妄想は、アルコール禁断後の振戦せん妄や、認知症の際の夜間せん妄、また、
症状性精神病の急性増悪時など、意識障害を来す「身体に基盤を持つ精神病」の部分症状としても出現
する。そしてまた、統合失調症や双極性障害などの内因性精神病においても、幻聴などの異常体験や抑
うつ気分とともにこのような症状が出現することも稀ではない。しかし、単一症状として出現する「純
粋な」症例では、このいずれとも断定できないことが多く、その疾病学的位置づけについては、これま
でにもなお多くの仮説があり、様々な呼称が提示され、議論もなされてきた。
皮膚寄生虫妄想の疾病学的位置づけについては、触覚性の幻覚が注目されて、コカインあるいはア
ンフェタミンの乱用との関連が指摘されたことがある。すなわち、ムシが這い移動するかのような触
覚性幻覚がまず最初に認められ、その後に寄生虫の罹患という異常な確信が生じるとされた。Bers と
Conrad(1954)は、これらの症状群が慢性幻覚症に近く、
「慢性触覚性幻覚症」という名称が適切で、
病因はおそらく不明の器質的なものであろうと考えている。しかし、Fleck(1957)はこれを知覚の妄
−6−
皮膚寄生虫妄想と心気妄想
想的解釈とし、確かに器質性の場合もあるが、多くは内因性精神病と考えられ、挿間性の経過を示す症
例もあると報告している。Schwarz(1959)もまた、これらを「限局性心気症」と診断し、抑うつ病相
の既往と家族負因の存在から、これらは躁うつ病圏に属するとし、うつ病期に異常な皮膚感覚に対して
寄生虫への念慮が生じ、病相後も持続しているものと考えている。しかしながら、Pethö ら(1970)は、
皮膚寄生虫妄想の多くの症例が身体に基盤のある精神病とも内因性精神病とも断定できないとし、これ
らを Ekbom 症候群と呼んでいる。
Maier(1987)は、これらのいずれとも断定できない症例を「純粋皮膚寄生虫妄想」と呼び、その疾
病学的な位置づけを検討している。彼は、これらの患者が示す知覚異常を体感異常として、Huber が
考えるように体感幻覚の前段階と見なしている。さらに、ゴミなどを虫だと主張する奇妙な行動をも妄
想知覚と考えられなくもないとし、これらの体験を統合失調症と同様な情報処理障害と見なし、触覚や
視覚性知覚の解読障害と考えている。そして、彼はこれらの症例を体感異常型分裂病 (Huber) に近縁の、
遅発性統合失調症の一亜型と考えている。
本邦で報告された皮膚寄生虫妄想の 102 例の分析
筆者の一人である林ら 3)は、1996 年までに本邦で報告された 102 例(5 例の自験例を含む)の(広義の)
皮膚寄生虫妄想症(腸内や口腔内の寄生虫妄想をも含め、寄生する「虫」の種類は、害虫に限らず、小
動物のほか、漠然とした表現でもなんらかの生物と考えられるものを含めている)を詳細に分析してそ
の結果を報告した。彼らは、原著者の症例記載に基づきながら、さらに伝統的な精神医学体系の中で再
分類したところ、身体因性精神病が 30 名、内因性精神病が 12 名、感応性精神病が7名となり、残りの
53 名がいずれにも分類出来なかった。身体因性精神病は、言うまでも無く身体に基盤のある精神病で
あって、ここでは腎透析、脳器質性疾患、副甲状腺機能低下症やアルコール症などの明確な基礎疾患が
存在していた。内因性精神病は、寄生虫妄想の発症以前にすでに原病が発症していたと考えられるもの
であり、寄生虫に関連する妄想以外の明確な妄想や幻覚(9 名)
、あるいは抑うつ症状(3 名)が存在し
ていた。感応性精神病は、家族の一人が発症した後、他の成員が全く同じ症状を示すようになったもの
で、いわゆる心因性発症と考えてよいかと思われる。残余の 53 症例が狭義の皮膚寄生虫妄想と考えられ、
我々は、これらを Maier に倣って「純粋」皮膚寄生虫妄想と呼称した。この純粋皮膚寄生虫妄想が疾
病学的にいかなる位置を示すのかを、我々は「内因性」と「身体因性」の皮膚寄生虫妄想症と比較しな
がら検討してみた。
皮膚寄生虫妄想の性差と発症年齢、負因と誘因について
まず、純粋皮膚寄生虫妄想の男女比であるが、女性が男性の約 2 倍である。発症年齢の平均は 61 歳
となっている。少数ながら若年発症も認められるが、それらは自閉的な性格や生活態度から統合失調症
が強く疑われるものであった。多くの症例では、Ekbom が述べたように、50 歳以降の「初老期」に発
症し、50 歳以下の発症は、男性に多く、50 歳を越えると女性の割合が明らかに増加している。これら
の事実は、すでに多くの研究者が指摘しているように、遅発性分裂病の性差と発症年齢に類似している。
家族負因を見ると、親族に精神病、うつ病や自殺などの何らかの負因を有するものが純粋型では
24%にみられたが、自殺(8.9%)とともに精神病(6.7%)が多く、うつ病(2.2%)は少なかった。すな
−7−
皮膚寄生虫妄想と心気妄想
わち、負因が必ずしも躁うつ病圏に多いとは言えなかった。ちなみに、内因性では負因が 36%と多く、
身体因性では 6%と少なかった。また誘因については、純粋型では飼犬にダニを発見したり、カナリア
や十姉妹の異常に気付いてから寄生虫妄想を発展させた例など、飼育動物に起因すると考えられるもの
が約 1 割に見られたほか、皮膚疾患の治療との関連が疑われる症例が約 2 割に見られる。しかし、なん
ら誘因を認めない患者も約 6 割存在する。この傾向は、他の群と比較してもほぼ同じで差はなかった。
生活状況では、一人暮らしをしている患者が約 2 割あり、家族と同居しているものの配偶者を亡くした
り、独身であるものを加えれば半数を超えていた。すなわち、多くの皮膚寄生虫妄想の患者は社会的あ
るいは家庭的な孤立を窺わせる状況にあると言える。しかし、ここでも他の群と比べて大きな差異があ
るものではなかった。
皮膚寄生虫妄想に見られる体感異常
皮膚寄生虫妄想の最も特徴的な訴えは皮膚感覚の異常であるが、刺される感じとか、噛まれる感じが
すると訴えるのみならず、かゆみ、むずがゆさ、ひりひり感などの他に、皮下をゴソゴソ、モゾモゾと
ムシが移動する感じがすると訴え、その異常な知覚の訴えは多様である。それは主として触覚領域の訴
えではあるものの、より広い体感の異常を示している。
林らが以前に報告した症例 1)では、頭がムズムズする感じがするというだけでなく、皮膚をズルズ
ルと虫が這う感じを訴え、皮膚の異常知覚のみならず、不快な気分を伴った移動感覚が認められる。ま
た別の症例では、さらに複雑な精神病理学的な症状が見られる。そこでは、
「ムシが首や胸を締め付け
たり腰骨を引っ張ったりするので、喉が詰まったり腰が痛くなる」とか、
「ムシは人間の言葉が判り、
痛いと言うと足をたたいて喜ぶ」と訴えるなど、ムシを次第に擬人化して語り、ムシによる「作為」の
様相が加わってきている。さらに別の症例でも、
「人間の顔をしたヘビ(ムシと同様な意味で用いられ
ている)もいて、昼間に自分が散歩するとき、ヘビは黒い服装をして自分におじぎしながらついてくる」、
「悪口を言うとヘビが怒って、自分の肩を痛くさせる」とも述べている。ここでもまた、ムシは擬人化
され、その「作為」が感じられるようになっている。
Huber
4)
によれば、体感異常は3つの段階に分類される。第一段階は非特異的な、診断的に中立の身
体異常感覚(心気症)であり、第二段階が狭義の体感異常、そして第三段階が「作為」の色彩を有する
体感異常、すなわち、身体的被影響体験を有する「体感幻覚」である。この体感幻覚は、Schneider の
言う意味での一級症状であり、身体的な基盤が見出されない限り、統合失調症の診断にとって最も価値
の高い症状とされている。そこで、Huber はもっぱら狭義の体感異常をしめすものの、その経過中に
一時的に第3段階の体感異常、すなわち「体感幻覚」を呈する統合失調症の一型を取り出し、それに「体
感異常型」統合失調症の名称を与えている。このような立場に立てば、統合失調症には分類されなかっ
た「純粋型」の場合でも、そこで認められる感覚異常は作為の色彩を示す第3段階の「体感幻覚」と考
えられないこともなく、体感異常型統合失調症とは極めて密接な関係を有すると言ってもよいのかも知
れない。
皮膚寄生虫妄想における妄想知覚体験
さらに、皮膚寄生虫妄想では内因性のみならず純粋型においても、体感異常の他に多くの病的体験が
−8−
皮膚寄生虫妄想と心気妄想
認められる。すなわち、約 2 割の患者が寄生虫に関連する被害妄想を訴えている。すなわち、患者はム
シの存在を、昆虫学者、あるいは兄や同僚によるたくらみの結果だと考える。また、約 1 割に見知らな
い人が咳やくしゃみをしたり、自分が電車に乗ると乗客が鼻を擦ったりするので、おかしいと感じると
述べている。この体験は、何気ない周囲の出来事をすべて自分と関係づけるが、まだはっきりとした意
味づけはなく、Conrad や Huber が記載する妄想知覚の第2段階と考えられる。さらに、約 4 割の症例
が、頭のフケや糸くずを見せてこれが虫であると主張する。このような場合、患者の確信は揺るがず、
いくら説得してもその主張を譲らない。そして、その「証拠品」を持って医療機関での検査を求めるこ
とも少なくない。さらに、本性には極めて奇異な自傷行為がしばしば見られ、約 3 割の患者が爪あるい
は器具を使用して皮膚を掻爬したり、あるいは頭髪をすべて剃り落してしまうなどの行為が見られる。
顔を剃刀で擦ったり、全身をピンなどで引っかいたりして寄生虫を探索し、それと戦い続ける行動を見
ると、事態は通常の了解の範囲をはるかに超えている。このような体験は、自分に虫が寄生していると
の妄想から生じた二次的な錯覚性誤認とも解釈する向きもあるが、錯覚と考えるには確信的な主張に揺
るぎはなく、患者が真剣に訴えれば訴えるほど、診察する医師はただ呆然と患者の顔を見るしかない。
ここでは、正常心理学的な了解の範囲をはるかに超えていて、一次性・原発性のものとして妄想知覚の
文脈の中で捉えるのが適当なのかも知れない。周知の如く、妄想知覚は妄想気分の第1段階から、自己
との関係づけはあるも特定の意味も持たない第 2 段階を経て自己関係づけと特定の意味を持つ妄想知覚
への移行が考えられているが、この第 3 段階が統合失調症に特異な症状、すなわち Schneider の一級症
状と見なされているのである。このように考えると、純粋皮膚寄生虫妄想もまた、身体に基盤のある精
神病、あるいは(身体に基盤があると考えられる)統合失調症と密接に関連し、Huber のいう体感異
常型統合失調症あるいは遅発性パラフレニーなどの統合失調症圏の疾患に近縁のものであろうと推察さ
れる。しかし、皮膚寄生虫妄想の患者の多くは社交的で疎通性は保たれ、人格の崩れはなく、質問には
正確に応答し、知的な水準の低下は窺えない。それ故に、本症が統合失調症に近縁であるとしても、我々
が言うところの「定型分裂病」とは明確に異なることは明らかである。
皮膚寄生虫妄想の生物学的検査所見
林ら 3)の報告では、身体的な側面での差異を検討するため脳波とCTの所見が検討されている。し
かし、これらには記載がない症例が多く、記載があったのは脳波で 102 例中 44 例、CTでは 53 例に
すぎなかった。ここでは、明確な異常所見があれば身体因性に分類されたために、純粋型や内因性に明
確な異常所見はみられず、身体因性において異常脳波が 15%、CTの異常所見が 27%に認められている。
しかし、純粋型の脳波の 47%にθ -burst のほか徐波の混入を示す何らかの所見が見られた。CTでも、
44%に軽度から中等度の脳萎縮所見を中心とする所見を認められている。林ら 2) はCTで第3脳室を指
標にした脳萎縮所見と精神症状との関係を検討し、脳室拡大の指標が大きいほど、体感幻覚や視覚性の
体験が認められる可能性を指摘したが、純粋型でみると、なんらかのCT所見がある群ではムシを見た
という体験が 83%に見られるも、所見のない群では 31%に過ぎず、有意の差が認められている。この
傾向は脳波所見でも認められた。しかし、ゴミをムシと主張したり擬人的に表現することは、CTや脳
波所見の有無に関係はなかった。この所見は、前者が幻覚性の所見であり、後者が妄想性の所見である
ことを示唆しているのかも知れない。この結果は、顕著な脳器質性の所見が見られない「純粋型」の患
−9−
皮膚寄生虫妄想と心気妄想
者においても、脳の機能的・形態学的変化がその症状に少なからず影響している可能性を示唆している。
おわりに
DSM- Ⅳによれば、皮膚寄生虫妄想は概ね妄想性障害の下位群である身体型に含められるが、妄想性
の醜形恐怖や自己臭妄想もまた同じカテゴリーにまとめられるかもしれない。しかし、皮膚寄生虫妄想
の好発年齢が初老期から老年期にかけてであるのに対し、醜形恐怖などは若年期に発症することが多い
ことを見れば、これらを疾病学的に同一のものであるとみなすことは出来ない。すなわち、DSM- Ⅳな
どの操作的診断は症状などを主にした類型学的分類であって疾病学的な診断ではなく、大きな枠の中に、
とりあえず類似した症例を分類したに過ぎない。皮膚寄生虫妄想もまた一つの症状群であって疾患とみ
なすことは出来ないが、伝統的診断ではいずれにも分類し難い「純粋」皮膚寄生虫妄想は、その発症が
初老期で必ずしも慢性に経過しないことから「定型分裂病」とは異なり、非定型精神病に近縁の遅発性
パラフレニーに近いものであろうと考えられる。
参考文献
1) 林 拓二、鬼頭 宏、松岡尚子、須賀英道: 皮膚寄生虫妄想の3例について、その精神病理学的、診断学的検討.
精神医学、37: 3 9 7-4 0 4, 1995.
2) 林 拓二、松岡尚子: 皮膚寄生虫妄想. 老年精神医学雑誌, 7: 1 0 0 5-1 0 1 1, 1 9 9 6.
3) 林 拓二、深津尚史、橋本 良、須賀英道: 皮膚寄生虫妄想(Ekbom症候群)-症例報告と本邦で報告された1 0 2
例の検討- 精神科治療学, 12: 2 6 3-2 7 3, 1997.
4) 林 拓二訳: 精神病とは何か―臨床精神医学の基本構造、G. Huber: Psychiatrie, Systematischer Lehrtext für
Studenten und Ärzte. 新曜社, 東京, 20 0 5.
− 10 −
修正型電気治療の適応疾患について
公益財団法人豊郷病院精神科
白井 隆光
2013(平成 25)年 7 月から豊郷病院においても、修正型電気治療(修正型電気けいれん療法、
modified-electroconvulsive therapy(以下 m-ECT)が導入、施行された。滋賀県下では滋賀医科大学
医学部附属病院に次いで二番目、滋賀県湖北・湖東地域内では唯一、m-ECT 治療を施行している機関
ということになる。かつて豊郷病院は(修正型ではない)電気治療を多く施行していたとの話を聞いて
いる。しかし、ここ十数年は施行されておらず、当時のことを知っている関係者も少なくなっているよ
うである。今回、m-ECT 適応疾患について述べる機会を頂いた為、以下、簡潔にまとめてみることと
する。
m-ECT 適応疾患であるが、一言でいえば、
「気分障害」および「統合失調症」が保険病名的に該当す
る。アメリカ精神医学会(APA)Task force report はじめ米国内でのガイドラインによると、大うつ
病、双極性障害、統合失調症、カタトニア、その他精神病状態を挙げている 1,2)。その中でも、希死念
慮などの病状悪化が著しく早めの回復が必要な場合、過去に m-ECT が著効した場合、他の治療法で難
治な場合や副作用が強い場合などは第一選択とされている 1,2)。但し、上記疾患群の中でも m-ECT 治療
反応性が高いものもあれば、乏しいものもある。m-ECT 治療反応性が高い疾患サブタイプを論じる際、
DSM 診断分類に則るよう努めたが、説明し難い部分もあり、一部同診断に則っていない箇所もある。
予め了解頂きたい。
1)気分障害
気分障害の中でもうつ病に対する m-ECT の有用性は、短期治療では薬物療法に勝るというメタ解析
が報告されている 3,4)。うつ病の中では、特に内因性メランコリー型うつ病に対し治療反応性が高いと
いわれている 5)。また、精神病症状を伴ううつ病での寛解率は精神病症状を伴わないうつ病に比較して
高い 6)。一方、人格障害、特に反社会性、境界性、演技性、自己愛性などクラスター B タイプ人格障害
を伴ううつ病では人格障害を伴わないうつ病と比較して治療反応性が乏しく、1 年以内の再発率も高い
と考えられている 7,8)。重症うつ病ではない場合、神経症的傾向のあるうつ病は再燃しやすいという報
告もある 9)。うつ病相は単極性障害、双極 I 型障害、双極 II 型障害、何れに対しても m-ECT 治療反
応性はあると考えられている 10,11)。但し、双極性障害のうつ病相の場合、躁転のリスクがあるという報
告 10,12)と単極性、双極性含め特に躁転は認めなかったという報告
11)
との両方があるが、躁転のリスク
には注意して進めていく必要はあると考える。一方、躁病や躁うつ混合状態に対する m-ECT 治療の有
効性の報告もある 8)。尚、米国では、1997 年以降多数例を対象とした多施設共同研究 Consortium for
Research in ECT (CORE)study が行われており、知見が集積されている 4)。
− 11 −
修正型電気治療の適応疾患について
2)カタトニア(緊張病)症候群
カタトニア症候群とは無動、無言、昏迷、カタレプシー、命令自動、常同症、反響現象、拒絶性、両
価性などを有する疾患群である 13)。同疾患群もまた、m-ECT が著効する疾患といわれている 5)。そも
そも 1934 年、Meduna は樟脳油(camphor)を注射することによってけいれん治療に反応した患者、
続く 1938 年,Cerletti と Bini は電気治療を初めて施行した患者は、共にカタトニア症候群を呈してい
たと考えられている 13)。カタトニア症候群に対する ECT の効果に関するコントロール試験は報告され
ていない 4,13)が、lorazapam 治療抵抗例に対して、電気治療が有効であること 14)や benzodiazepine や
抗精神病薬よりも電気治療の有効率がはるかに勝ること 15)は示されている 4)。因みに DSM-5 ではカタ
トニアの操作的診断基準を満たす場合、統合失調症、うつ病、その他精神病症状に対してでも横断的に
特定用語(specifier)として付加することとなった
16)
。そのような観点でカタトニア症候群の原因疾患
と電気治療効果との関連について調べている報告はあるも、大きな違いは認められていない 17)。カタ
トニア症候群は過去から学派によりサブタイプが詳しく研究され、類別が各々学派により異なっている
こと 18)を鑑みるに同症候群のサブタイプ類別は複雑であって、将来より詳細な類別ができた場合、同
症候群の m-ECT 治療反応性の高い病態が浮かび上がるかもしれない。
3)統合失調症
前出したカタトニア症候群、攻撃性をともなう場合及び感情症状を伴う場合に m-ECT 治療効果があ
るといわれているのに対し、破瓜型に対する効果は低い 8,19,20)。また、慢性例に対してほとんど効果を
認めない 21)。
4)その他
強迫性障害、精神遅滞の異常行動、てんかん精神病、せん妄、パーキンソン病、悪性症候群、難治性
てんかん、慢性疼痛に対して有効例は報告されているが、一般的な治療としては考えにくい 8)。
最後に m-ECT の適応となる状況及び禁忌について簡単に触れたい。まず、m-ECT の適応となる状
況であるが、薬物治療に先立つ第一治療として m-ECT 使用が考慮される状況と、薬物療法などの他の
標準的治療が実施された後の二次治療として m-ECT 使用が考慮されるものとあり、因みに前者に属す
るものは、①自殺企図の危険がある、拒食・低栄養など身体衰弱あるように迅速で確実に改善が必要な
場合、②高齢者、妊婦など他の治療法の危険性が m-ECT の危険性より高いと判断される場合、③過去
に m-ECT で良好な結果が得られた場合、④患者が希望する場合というのが推奨されている 19)。一方、
m-ECT には絶対的な禁忌は存在しない。しかし、アメリカ精神医学会(APA)のガイドラインによる
と以下の状態は相対的に高い危険が伴うといわれている、① 腫瘍、血腫などの占拠性脳内病変、② 頭蓋内圧亢進を引き起こす状態、③ 最近の心筋梗塞、④ 最近の脳内出血、⑤ 不安定な動脈瘤や血
管奇形、⑥ 褐色細胞腫、⑦ 麻酔による副作用が強いなどである 19)。従って、施行前検査においては、
頭部 MRI、胸腹部 CT、心電図、過去の既往の問診などを十分に行うことが必要である。そしてこれら
の状態の患者に施行を検討する場合は、リスクとベネフィットを十分検討し、リスクに対し、予め薬物
などで抑えることが肝要となってくる。
− 12 −
修正型電気治療の適応疾患について
未だ、豊郷病院における m-ECT 症例数は限られている。しかし、今後、従来の薬物療法、精神療法
で改善できなかった難治性の上記精神疾患を有する患者様に対して m-ECT 治療によって症状の緩和が
図れれば幸いと考える。
m ECT 治療中の麻酔科小島医師と筆者
参考文献
1.
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therapy. Recommendations for treatment, training, and privileging. 2nd ed. APA, Washington DC, 20 0 1
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3.
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4.
本橋伸高: 電気けいれん治療のゆくえ. 精神経誌 11 4: 1 2 0 8-1 2 1 5, 2 0 1 2
5.
Fink M: Electroconvulsive therapy. A guide for professionals and their patients. Oxford University Press, 2 0 0 9
(鈴木 一正, 上田 諭, 松木 秀幸, 松木 麻妃 訳.電気けいれん療法―医師と患者のためのガイド. 新興医学出版社 東
京 20 1 0)
6.
Petrides G, Fink M, Husain MM, Knapp RG, Rush AJ, Mueller M, Rummans TA, O'Connor KM, Rasmussen
KG Jr, Bernstein HJ, Biggs M, Bailine SH, Kellner CH: ECT remission rates in psychotic versus non-psychotic
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7.
Sareen J, Enns MW, Guertin JE: The impact of clinically diagnosed personality disorders on acute and one-year
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8.
本橋伸高: ECT マニュアル―科学的精神医学をめざして.医学書院,東京, 20 0 0
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修正型電気治療の適応疾患について
9.
Rasmussen KG, Snyder KA, Knapp RG, Mueller M, Yim E, Husain MM, Rummans TA, Sampson SM, O'Connor
MK, Bernstein HJ, Kellner CH: Relationship between somatization and remission with ECT. Psychiat Res. 1 2 9:
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1 0. Medda P, Perugi G, Zanello S, Ciuffa M, Cassano GB: Response to ECT in bipolar I, bipolar II and unipolar
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11. Bailine S, Fink M, Knapp R, Petrides G, Husain MM, Rasmussen K, Sampson S, Mueller M, McClintock SM,
Tobias KG, Kellner CH: Electroconvulsive therapy is equally effective in unipolar and bipolar depression. Acta
Psychiatr Scand. 12 1: 4 3 1-4 3 6, 2010
12. 武井 史朗, 和田 健, 福本 拓治, 佐々木 高伸, 矢野 智宣, 吉村 靖司, 日域 広昭: 気分障害患者における修正型電気け
いれん療法による躁転. 精神科治療学 23: 139 5-1 3 9 8, 2 0 0 8
13. 大久保善朗: カタトニア(緊張病)症候群の診断と治療 精神経誌 1 1 2: 3 9 6-4 0 1, 2 0 1 0
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16. Tandon R, Heckers S, Bustillo J, Barch DM, Gaebel W, Gur RE, Malaspina D, Owen MJ, Schultz S, Tsuang M,
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1 7. Rohland, BM, Carroll, BT, Jacoby, RG: ECT in the treatment of the catatonic syndrome. J Affect Disord, 2 9:
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18. 林 拓二:ウェルニッケ ‐ クライスト ‐ レオンハルト学派の緊張病と非定型精神病. 臨床精神医学38: 775-782,
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19. 本橋伸高: 電気けいれん療法(ECT)推奨事項(改訂版). 精神経誌 1 1 5: 5 8 6-6 0 0, 2 0 1 3
20. Pompili M, Lester D, Dominici G, Longo L, Marconi G, Forte A, Serafini G, Amore M, Girardi P: Indications for
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21. Fink M, Sackeim HA: Convulsive therapy in schizophrenia?. Schizophr Bull. 2 2: 2 7-3 9, 1 9 9 6
− 14 −
精神医学と社会神経科学
Psychiatry and social neuroscience
高橋英彦 1,2
1)京都大学大学院 医学研究科脳病態生理学講座 精神医学教室
2) 豊郷病院 精神科
抄録:情動、意思決定、意志、意識といったこれまで人文社会の学問で扱ってきた領域が、非侵襲的脳
イメージングや認知パラダイムの進歩により、神経科学の重要なテーマになり、社会行動を理解しよう
とする社会神経科学が急速に興隆してきた。初期のテーマは情動であったが、これらの知見を基に意思
決定を扱う神経経済学に発展し、最近は工学、情報学などの研究者と伴に脳の計算理論に基づき、意思
決定や意識の神経科学を推進している。精神・神経疾患を対象とした社会神経科学も行われ、病態理
解に寄与している。本稿では、私達の初期の社会神経科学的研究のなかで社会的情動に関する機能的
MRI(fMRI) 研究を紹介した。既存の概念や方法にとらわれず、異分野との学際的研究を進めていくこ
とが、精神・神経疾患の克服の為に重要と考えられる。
キーワード:社会神経科学、情動、意思決定、fMRI
はじめに
人間の精神活動は、知・情・意とも呼ばれる。知とは読み・書き・そろばんのような伝統的にはどち
らかというと臨床神経学や神経心理学が扱ってきたテーマである。一方、情(情動・感情)や意(意志、
意思決定、意識)といった主観的体験を扱うのが主として精神医学といえる。狭義の精神疾患の他、脳
外科や神経内科との境界領域である脳損傷、神経変性疾患、てんかんなどの診療に従事し、知、つまり
読み・書き・そろばんや記憶や言語機能には目立った異常が認められないが、なんとなく社会生活がう
まく行かず、社会復帰が困難な症例を何例も診てきた。この“なんとなく“をきちっと評価して何が起
こっているのか理解して社会復帰につなげられないものかと感じるようになった。このなんとなくが、
まさに情(情動・感情)や意(意志、意思決定、意識)であると考えるようになり、このようなテーマ
の神経科学理解を深めたいと考え、脳画像研究 (fMRI) の手法を利用しながら研究を開始した。今でこそ、
このようなテーマの神経科学的研究を社会神経科学あるいは社会脳研究と呼ばれているが、私が研究を
始めた当時は、このようなテーマを研究している身近な先生もあまり居なかった。
人間が社会的存在である以上、神経科学の究極の目的が人間の理解だとすれば、人間を対象にした神
経科学はもちろん、人間を対象にしない脳神経科学も程度の差はあれ、すべて“社会”神経科学であり、
わざわざ、
“社会”“とか”“social”とか頭につける必要はないようにも思える。ましてや、精神医学は、
定義上、社会生活に支障をきたす状態を疾患あるいは病的状態として加療の対象としているわけであり、
全ての疾患や病態が社会認知や社会的行動の障害を伴っていると言っても過言ではない。このため、精
神医学に関連する神経科学研究は、それ自体が社会神経科学や社会脳研究であるともいえる。とはいえ、
社会的行動の神経基盤を理解しようとする社会神経科学、社会脳研究として急速に興隆してきたのには、
2000 年代に入り、非侵襲的脳情報の計測技術 ( 特に機能的 MRI(fMRI)) や認知・心理パラダイムの進歩
− 15 −
精神医学と社会神経科学
により、情動、意思決定、道徳性、意識といった心理学、経済学、哲学、法学などの人文社会の学問で
扱ってきた領域が、脳神経科学と融合してきた背景があるように思われる。
2000 年代前半は、心理学者、認知科学者を中心に情動をテーマにした fMRI 研究が興隆した。その後、
2002 年に行動経済学、実験経済学への貢献で、Kahneman と Smith がノーベル経済学賞を受賞したこ
ともあり、2000 年代後半には、意思決定の中枢過程を探る神経科学 (fMRI) と経済学が融合した神経経
済学が急速に発展した。神経経済学の発展と並行し、工学、コンピュータサイエンス、情報学などの分
野の研究者が、脳の計算理論に基づき、特に意思決定のメカニズムを理解しようとする計算論的神経科
学も発展してきた。
こ の よ う な 流 れ を 受 け て、2006 年 に Social Neuroscience と Social Cognitive and Affective
Neuroscience と い う 2 誌 も 刊 行 さ れ、Society for Social Neuroscience と Social and Affective
Neuroscience Society というそれぞれの関連学会も設立された。これらの雑誌の編集委員もヒトを対象
とした脳科学者だけでなく、動物を用いる研究者、心理学者、経済学者、哲学者、工学者、臨床医な
ど多岐にわたり、学際的な研究が推進され、掲載される論文も多岐にわたっている。2012 年に Social
1)
Cognitive and Affective Neuroscience の 編 集 長 の Lieberman
が A geographical history of social
cognitive neuroscience という社会神経科学の歴史を振り返った総説を書いている。やや偏った面があ
るという感を禁じ得ないが、それでもイタリアにおける Rizzolatti らのミラーニューロンの発見以外は
すべて、アメリカとイギリスの研究しか紹介されていない。他の学問領域でも同じような傾向はあるの
かもしれないが、社会神経科学は文字通り社会や文化にも影響されるため、この分野の発展のためには、
日本を含めてアメリカとイギリス以外の国からの情報発信を行っていく必要がある。
2008 年に発表された神経経済学者らによる総説においても、2008 年からの次の 5 年間はそれまでの
fMRI による神経経済学が神経伝達物質の研究や臨床精神医学と融合していくのではないかと示してい
る。ちょうど、折しもその総説の著者らとそのような方向性を議論していただけに勇気づけられた覚え
があり、現在、意思決定の神経科学を臨床精神医学や精神神経薬理学に応用する研究を進めている。本
稿では私達の初期の社会神経科学的研究である社会的な情動に関する fMRI 研究について紹介する。現
在、取り組んでいる意思決定に関する臨床精神医学的研究の成果は、また機会があれば報告させていた
だきたい。
社会的情動の fMRI 研究
1990 年代後半より情動における扁桃体の役割に関する研究
2)
や、喜怒哀楽といった基本的情動に関
する表情認知の研究が盛んになされた。精神神経疾患においては喜怒哀楽といった基本情動の障害も広
く知られるところであり、これらの研究を受けて、2000 年代前半は精神疾患へ応用した臨床研究も報
告されるようになった 3)。しかし、精神疾患のなかには、これらの基本的情動もさることながら、より
社会的で複雑な情動の障害と考えられる病態も少なくない。例えば、罪責感や羞恥心を適切に認知、理
解出来ないと、社会のルール、モラル、エチケットを無視した反社会的な行動につながる。反対に、こ
れらの情動が不適切に過剰な状態はうつ状態に認められる(罪責妄想・微小妄想)。自尊心やプライド
が正しく機能しないと、誇大的になったり、自己愛傾向が強まり、逆に過度に自尊心が低い状態はうつ
状態とも考えられる。このように日常の精神科臨床でしばしば遭遇する症状や病態に関連するいくつか
の社会的情動の脳内課程に関する fMRI 研究を紹介したい。
− 16 −
精神医学と社会神経科学
羞恥心と罪責感に関する脳活動
4)
罪責感や羞恥心はモラル情動とも呼ばれる 。社会のルール・規範や社会通念から逸脱した際に生じ
る情動であり、モラルや対人的なマナー・エチケット、身だしなみなどを維持し、さらに促進・向上さ
せるはたらきがある。したがってこれらの情動の障害は精神・神経疾患に認められる反社会的な行動や
モラルを欠いた行動につながる。また、心理学ではこれらの情動は self-conscious emotions とも呼ばれ
る。適切な訳語が存在しないので、英語の表記を使用したが、self-conscious emotions とは、他人の自
己に対する評価や意見を意識し、それを気にしたり、心配する時に生じる情動である 4, 5)。他人が自己
のことを怒っているのではないか、迷惑に思っているのではないか、馬鹿馬鹿しく思っているのではな
いかといった自己に対する否定的な評価をともなうのが恥や罪の意識であり、罪責感(guilt)や羞恥心
(embarrassment)は negative self-conscious emotions と呼ばれる。一方、他人が自分のことを誉めて
くれているのではないか、尊敬してくれているのではないか、高評価をしてくれているのではないかと
いう自己に対する肯定的な意見を意識するのがプライド自尊心やプライド (pride) であり、positive selfconscious emotion である。言い換えれば、これらの情動を適切に抱くには、
“心の理論”の能力、つま
り、相手の立場に立って相手の気持ちを推察したり、理解する能力が不可欠であるといえる。
私達は、健常者を対象に fMRI を用いて、罪責感や羞恥心を感じる文章を読んでいる際の脳活動を
測定した。その結果、ニュートラルな文章に比べて罪責感や羞恥心の文章を読んでいる際に共通して
medial prefrontal cortex(MPFC) と posterior superior temporal sulcus(pSTS) により強い賦活を認めた。
羞恥心の文章では加えて temporal pole や orbitofrontal cortex の賦活を認めた(図 1)6)。MPFC と
7)
pSTS それに temporal pole はいわゆる心の理論の能力に重要な役割を担う脳部位である 。特に pSTS
は他人の意図を読み取るのに重要な部位であり、MPFC はそれらの情報をもとに自己を省みる能力に
関与している
8, 9)
。さらにこれらの脳部位はモラル認知にも深く関わっている 10, 11)。私達の結果は罪責
感や羞恥心は self-conscious emotions であるという心理学の概念を世界で初めて脳レベルで示したもの
と言える。罪責感は良心の呵責という言葉があるように、周りに誰もおらず一人でいる場合でも感じる
ことはある。しかし、羞恥心は穴があったら入りたいという言葉があるように常に他人の前で生じ、よ
り対人関係や状況に依存する複雑な情動といえる。そのためより多くの情報を処理し統合するために
罪責感と比べて広範な脳賦活が認められたと考えられる。前頭側頭型認知症
12)
、反社会性人格障害 13),
アスペルガー症候群 14)など多くの精神・神経疾患で、MPFC や STS の器質的あるいは機能的障害が繰
り返し報告され、心の理論の障害やモラルや社会通念に反した行動異常との関連が指摘されている。最
近では前頭側頭型認知症や前頭葉損傷において self-conscious emotions の障害が報告されてきており 15)
16)
、私達の結果を間接的に支持している。
− 17 −
精神医学と社会神経科学
図 1 罪責感と羞恥心に関連する脳活動:ニュートラル文章に比べて罪責感と羞恥心の文章を読んで
いるときにより強く賦活された脳部位。罪責感と羞恥心に共通して、MPFC と pSTS の賦活を認めた。
羞恥心条件では加えて STS の前方や temporal pole や orbitofrontal cortex の賦活を認めた。
誇り(プライド)に関する脳活動
前章で触れたようにプライドは他人が自己を高く評価していると意識することから生じる情動である
ため positive self-conscious emotions と呼ばれる 17)。プライドは通常、何か好ましいことを達成したと
きに生じると同時に、社会や個人の向上につながる努力、人助けなどの社会的な行動を促すため、や
はりモラル情動のひとつとよばれることもある 17)。他人からの評価に値する達成を伴わず、ひとりよ
がりで傲慢な形の pride は自己愛性人格障害に認められ、肥大化した自尊心やプライドや躁状態に認め
られる。また、反対に過度に自尊心が低いのはうつ状態に認められ、通常の精神科診療で日常的に遭
遇する病態ともプライドは関係する。そこで私達は、positive self-conscious emotions であるプライド
と positive basic emotion である喜び (joy) に関連する脳活動を比較するため健常者を対象に fMRI を用
いて、これらの情動を感じる文章を読んでいる際の脳活動を測定した
18)
。ニュートラルな文章に比べ
て joy 文章では、ドーパミン投射が豊富で報酬系の一部である腹側線条体により強い賦活を認めた。こ
れは joy 文章がお金や食べ物、異性といった報酬や快楽的な内容であったためと思われる。一方、プラ
イドの文章を読んでいる際はニュートラルな文章に比べて pSTS と temporal pole により強い賦活を認
めた。pSTS と temporal pole は心の理論に関係が強い場所であり、プライドも self-conscious emotions
であるという概念を部分的に支持する所見と考えられた。心の理論に関係が深いもう一つの部位であ
る MPFC の賦活も予想されたが、fMRI の結果は群解析でも個人の解析でも同部位の賦活は認められな
かった。この MPFC が賦活されなかった結果の解釈としてはいくつか考えられるが、ひとつには人間
は通常、好ましい結果の責任は自己に帰属させようとし、望ましくない悪い結果の責任は外部に求めよ
うとする self-positivity bias があげられる 19)。このバイアスは無意識のうちにはたらくことが私達の研
究を含め多くの研究で報告されている 20, 21)。MPFC は意識的に自己を省みる際に活動することが知ら
れている
22)
。悪い結果が起こった際に生じる negative self-conscious emotions の罪責感や羞恥心の場
合は、自己を省みてやはり望ましくない結果の責任は自分の不適切な行為にあると認識することで生じ
るが、プライドの場合は自己を十分に意識的に省みなくても、好ましい結果の責任は自分にあると自動
的にとらえてしまうため MPFC の活動は不可欠ではないと考えられた。
− 18 −
精神医学と社会神経科学
妬みと嫉妬
まず、本稿で使用する妬み (envy) と嫉妬 (jealousy) という用語の定義をしておきたい。両者は日常的
には区別なく使用されているが、これは英語圏でも同様である。しかし、心理学の分野では両者は異な
る情動として扱われることがある。両方の日本語の単語が英語の単語と対応しているわけではないが、
本稿では便宜上、妬みは envy に相当し、嫉妬は jealousy に相当するものとする。両者の違いを簡潔に
説明すれば、妬みは登場人物が二人ないしは二つの集団で成立するのに対し、嫉妬は三人の人物を要す
るということになる。嫉妬には男女間の嫉妬や兄弟間の嫉妬がある。男女間の嫉妬は説明するまでもな
く、男女のカップルと恋敵の別の男性(女性)が必要となる。兄弟間の嫉妬とは、発達心理学で扱われ
るテーマである。母親に二人目の子供が生まれたとき、母親はより手のかかる下の子に注意が向く。上
の子は下の子に母親を独り占めされたと嫉妬を感じ、母親の気を引こうと赤ちゃんがえりしたりする。
この場合も三人の人物が登場する。嫉妬は重要な人間関係が第三者によって脅かされる恐怖と定義でき
る。嫉妬自体、正常な心の反応であるが、これが病的な状態になると病的嫉妬と呼ばれる精神科で遭遇
する状態となる。病的嫉妬は妄想を伴うタイプや、パートナーの不貞を疑い執拗に確認する強迫が目立
つタイプがある。嫉妬妄想はアルコール依存や認知症などで見かける。ちなみに、20 世紀初頭にアル
ツハイマー博士によって世界で最初に報告されたアルツハイマー病患者アウグステ・データー(女性)
の初期の訴えは嫉妬妄想であった。強迫が目立つタイプはストーカー行為や監禁、暴力などに発展し、
司法精神医学で時々問題になる。私達の嫉妬に関する fMRI 研究 23)紙面の都合上、割愛し、本稿では
妬みに関する脳画像研究を紹介することにする。
妬みに関する脳活動
妬みは洋の東西を問わず、悪い情動で慎むべきものとされ、私達も妬むな、嫉むなと教わる。妬みは
他人が自己より優れた物や特性を有している場合に、苦痛、劣等感、敵対心を伴う感情である。ただ、
他人が自己より優れたものを有しているだけでは不十分であり、その比較の対象の物や特性が自己と関
連性が高いか否かが妬みの強さを決定する 24)。例えば、自分が西洋のブランド好きで、知人が高級ブ
ランドのバッグやドレスを何着も持っていたら知人のことを妬ましく思うかもしれないが、ブランドに
関心のない人間にとっては、それほど妬みは生じない。
この点を踏まえて、私達は、妬みの脳内基盤を検討するために大学生を対象に次のような実験を行っ
た 25)。被験者にははじめに被験者本人が主人公であるシナリオを読んでもらった。主人公は大学生 4
年生で就職を考えている。本発表の中では説明のために、被験者と主人公は男性とする(女性の被験者
には主人公が女性で性別を入れ替えたシナリオを用意した)
。就職には学業成績やクラブ活動の成績が
重視されるが、主人公はいずれも平均的である。その他に経済状況や異性からの人気など平均的な物や
特性を有している。シナリオには被験者本人以外に、3 人の登場人物が登場する。男子学生 A は被験
者より優れたな物や特性(学業成績、所有する自動車、異性からの人気など)を多く所有している。か
つ自己との関連性が高く、被験者と同性で、進路や人生の目標や趣味が共通である。女子学生 B も被
験者より優れたな物や特性を所有しているが、学生 A と異なり自己との関連性が低く、被験者と異性で、
進路や人生の目標や趣味は全く異なる。女子学生 C は被験者と同様に平均的な物や特性を所有していて、
かつ異性で自己との関連はやはり低い。実験 1 では 3 人の学生のプロフィールを提示した時の脳活動を
− 19 −
精神医学と社会神経科学
機能的 MRI(fMRI) で検討した。私たちの予想通り、被験者の妬みの強さは学生 A に対して最も高く、
学生 B がその次に続き、学生 C に対してはほとんど妬みに感情は抱かなかった。それに対応するように、
学生 C と比べて、学生 A,B に対して背側前部帯状回がより強く賦活し(図 2)、かつ学生 A に対する背
側前部帯状回の活動は学生 B に対するものより強かった。個人内で妬みを強く感じた時に背側前部帯
状回の活動が高いことを意味する。また、個人間の検討では妬みの強い被験者ほど、背側前部帯状回の
活動が高いという相関関係も観察された。
他人の不幸は蜜の味
他人に不幸が起こると通常、私達は同情したり、心配したりする。しかし、妬みの対象の他人に不幸
が起こると、その不幸を喜ぶといった非道徳な感情を抱くことがある。そこで、実験 1 に引き続き、
被験者は実験 2 に参加し、その中で、実験 1 で最も妬ましい学生 A と最も妬ましくない学生 C に不幸
(自動車にトラブルが発生する、おいしい物を食べたが食中毒になったなど)が起こった時の脳活動を
fMRI にて計測した 25)。その結果、学生 A に起こった不幸に関しては、うれしい気持ちが報告されたの
に対して、学生 C に起こった不幸にはうれしい気持ちは報告されなかった。それに対応するように学
生 A に起こった不幸に対して線条体の賦活(図 3)を認めたが、学生 C に起こった不幸に対してはそ
のような賦活は認めなかった。また、不幸に対するうれしさの強い被験者ほど、線条体の賦活が高いと
いう相関関係も見出された。さらに実験 1 で妬みに関連した背側前部帯状回の賦活が高い人ほど、他人
の不幸が起きた時の腹側線条体の賦活が高いという相関関係も認められた。
妬みは心の痛みを伴う感情であるが、身体の痛みに関係する背側前部帯状回が心の痛みの妬みにも関
与していることは興味深い。妬みの対象の人物に不幸が起こると、その人物の優位性が失われ、自己の
− 20 −
精神医学と社会神経科学
相対的な劣等感が軽減され、心の痛みが緩和され、心地よい気持ちがもたらされる。線条体は報酬系の
一部であり、物質的な報酬を期待したり、得たときに反応することはわかっていたが、妬んだ他人に不
幸が起こると他人の不幸は蜜の味といわれるように、あたかも蜜の味を楽しんでいるような反応が確認
され、物質的な喜びと社会的な喜びの脳内過程も共通する面が多いことが分かってきている 26)。
妬みの構造
妬みは洋の東西を問わず悪い情動で慎むべきものとされるが、それは妬みが他人の不幸を望んだり、
喜んだり、さらには実際に悪意を持って他人に不幸をもたらそうとする動機となり、迷惑行為、犯罪行
為といった非道徳で非生産的な行動に結びつくためとも考えられる。しかし、本当に人間にとって害ば
かりで、不必要な情動や脳機能であれば、人間の長い進化の中で淘汰されてきても不思議ではない。こ
うした情動は人間にとって何か有益な面があるからこそ備わっているのではないかと考えられないだろ
うか。妬みという心の痛みを軽減するには妬みの対象となる他人の自分に対する優位性が失われれば良
い。そのために質の高い物や特性を得ようと自分が向上するための努力をすることに結び付く。同時に、
妬みの構造を考えるとたとえ、相手が優れた物を有していても、それが自分に関連しなければ強い妬み
は抱かない。狭い視野や目先の事象にとらわれ、相手の優れた面と同じ土俵や分野で比較するのではな
く、広い視野でその妬みの対象の人物にはない良さを自分に見出そうとして、自分の新たな可能性を模
索することにつながる。前者の痛みの解消法は垂直方向に建設的で、後者の解消法は水平方向に建設的
といえる。破壊的な方法を採用せず、垂直的にあるいは水平的に建設的な解消法に導くのが、精神療法
における言葉による働きかけとも言える。
児童期、思春期に、健全なこれらの社会的な情動が芽生え、経験していくことは心身の発達において
不可欠である。Freud や Klein も明示的に妬みや嫉妬を考察している。われわれの心理発達や精神病理
にこうした情動が深くかかわっていると考えるのは、精神分析に造詣が深い専門家でなくても、モダン
な精神療法家や生物学的研究に携わる者の間でも受け入れ難いものではないと推察する。嫉妬に関して
は、嫉妬妄想、病的嫉妬(Othello syndrome)といった病態と直接的に関わるのに対して、妬みに関し
ては、特異的な障害を挙げることは難しいかもしれない。しかし、例えば、摂食障害では自分と他人と
の体型の比較を行い、それに対する劣等感を抱くことが認められる。脳画像研究で、若い女性に自身の
体型スリムな女性の体型を比較したときに感じるネガティブな感情には背側前部帯状回が関わっている
という研究 27)もあり、妬みの構造を理解しておくことは、精神科臨床の上でも損はないと考えられる。
おわりに
精神疾患はバイオマーカーがないと言われて久しい。また、症候を共通するものを集めた症候群に
過ぎないので、その異種性の問題も繰り返し指摘されている。実際に GWAS のような研究手法の発展
で、わかってきたのは統合失調症や自閉症などの多数の候補遺伝子の個々の寄与度は低いことである。
ICD-10 や DSM- Ⅳといった操作的診断は生物学的知見に裏打ちされたものではなく、人為的なカテゴ
リー分類に過ぎにないという問題もある。私達もこのような診断基準に基づき、統合失調症等の脳画像
研究 28-30)を進めてきたが、やはり脳画像研究単独では十分なバイオマーカーが提供出来る訳ではなかっ
た。
今後、既存の診断基準にとらわれず、精神症候の発生メカニズムを理解し、脳あるいは行動のフェノ
− 21 −
精神医学と社会神経科学
タイプを記述、確立していくことが精神疾患の生物学的研究や創薬にも重要になってくると考えられる。
その為に二つの方向性を考えている。一つは、脳の計算理論に基づき、意思決定や行動のフェノタイプ
を定量的に記述することである。つまり計算論的神経科学を精神医学に応用し、認知、行動のプロセス
のフェノタイプを記述し、認知、行動異常のメカニズムを理解し、その上で効果的な介入法を探るとい
う計算論的精神医学の確立である。これはどちらかというと理論や仮説に基づく研究の進め方である。
他方は、昨今、ビッグデータの時代となり、工学、情報学、統計学な手法を組み合わせ大量のデータか
らパターン認識する解析方法も進歩している。従来の疾患概念では見出せないようなバイオマーカーを
探索していく研究の進め方である。精神疾患の創薬も期待されていたようには進んでいない。上記の方
法で、よりエンドポイントを絞り込むことによって効率的な創薬も可能になるかもしれない。
また、かつては精神医学において生物学的アプローチと心理学的アプローチが二律背反のように考え
られていた。しかし、いわゆる心理社会的な介入が脳に影響を及ぼすことも私達の研究も含めて繰り返
し報告されている 29)。本稿でお示ししたように人文社会的なテーマも生物学(神経科学)的にアプロー
チも可能になってきており、生物学的あるいは心理学的と分けること自体がナンセンスになりつつある。
司法精神医学あるいは精神鑑定の中で責任能力は精神障害という生物学的要素と弁識能力および制御能
力という心理学的要素の両者によって判定されるというのが常套句である。弁識能力および制御能力は、
道徳性、共感性、意思決定、意志といった問題とも言える。現在の制度の運用ではこれらは心理学的要
素とされている訳であるが、本稿で一部紹介したようにこれらの問題も生物学的にアプローチが可能な
時代になってきている 31)。まだ、生物学的知見の精度の問題、これまでの司法制度との整合性など抱
える問題が多く直ちに、生物学的知見が、司法制度の運用に影響を与えるとは考えていない。しかし、
脳情報の解読や操作技術の進歩は日進月歩であり、私達もところも含めニューロモジュレーションによ
る新たな精神・神経疾患の治療法開発が検討されている 32)。情動や意思決定に関する脳内の個人情報
を解読したり、制御することへの倫理的視点からの議論の重要性も増していくであろう。このようにデ
リケートな問題が伴うことを念頭に置きつつ、新しい技術や解析法あるいは他分野の知恵を借り、精神
疾患のより良い診断・治療に結びつけて行きたい。
文献
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精神医学と社会神経科学
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精神医学と社会神経科学
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− 24 −
自閉症スペクトラム障害における
自発的表情模倣の障害
義村さや香 1、佐藤 弥 2、魚野翔太 1、十一元三 1
1. 京都大学大学院医学研究科、2. 京都大学白眉プロジェクト
1.はじめに
自閉症スペクトラム障害(autism spectrum disorders; ASD)とは、対人相互反応の質的な障害およ
び限定された反復的で常同的な行動・興味・活動を中心的特徴とする症候群である。ASD の診断基準 1)
には、対人相互反応を調整するために非言語的コミュニケーション行動を用いることが困難であるとい
う項目が存在する。
ASD 者では、その診断基準と一致して、自発的な表情模倣(本稿では facial mimicry と称する)の
障害が現実場面での観察
2)
や筋電図研究
3), 4)
により報告されてきた。facial mimicry とは、観察した
表情に一致した表情を観察者が自動的に示す現象
応を円滑にする機能を持つ
6)
5)
であり、ラポールや共感の形成などの対人相互反
とされている。これらの先行研究の中でも筋電図研究
3), 4)
は、純粋な表
情刺激のみを呈示するという手法により、ASD の facial mimicry が減少していることを確認した。
しかし、筋電図研究では、他者にとって観察可能な facial mimicry を調べているかどうかは不明であっ
た。筋電図は微細な筋肉の動きも拾うので、facial mimicry としてカウントされた微細な変化は他者に
は認識されない
7)
可能性が残るからである。facial mimicry の重要な機能の1つが対人相互反応を円滑
にすることであるのを考慮すると、他者から観察可能な facial mimicry を調べる必要がある。
また、動的・静的といった表情呈示条件の違いが facial mimicry に影響をもたらす可能性がある。定
型発達者では、動的表情が静的表情より facial mimicry を促進させたり
を高める
10)
8), 9)
、いくつかの脳領域で活動
ことが報告されている。それとは対照的に、ASD 者では、顔刺激の静的呈示よりも動的呈
示のほうが定型発達者と異なる行動パターンを引き出しやすい
と静的表情との活動の差が定型発達者より小さい
13)
11), 12)
、複数の脳領域における動的表情
といったことが報告されている。これらの報告を
考慮すると、ASD 者は静的表情よりも動的表情に対して、より強く facial mimicry の障害を示すかも
しれない。これまでの ASD における facial mimicry 研究では主に静的呈示条件が用いられてきたが、
静的表情呈示より動的表情呈示の方が、ASD の facial mimicry の障害を明確にするかもしれないと我々
は考えた。
本研究では、ASD 群および年齢、性別、知的水準をマッチさせたコントロール群において、動的 /
静的表情に対する他者から観察可能な facial mimicry について調べた。我々は、特に動的表情に対して、
ASD 者が他者から観察可能な facial mimicry の減少を示すと仮説を立てた。
2.方法
参加者
参加者は、ASD 成人 15 人および、年齢・性別・知的水準を統制した定型発達の成人 15 人である。
詳細は表1に記載した。
− 25 −
自閉症スペクトラム障害における自発的表情模倣の障害
表1.
ASD 群
コントロール群
年齢(± SD)
26.20 ± 6.89
24.13 ± 4.00
VIQ(± SD)
112.71 ± 18.28
121.07 ± 10.00
PIQ(± SD)
110.14 ± 16.82
116.57 ± 11.27
男性:女性
9:6
12:3
刺激
用いた刺激は、男女各4人の怒りおよび幸福表情である。怒り表情、幸福表情はそれぞれ Facial
14)
Action Coding System(FACS)
の AU4(眉下げ)、AU12(口角上げ)を含んでいた。これらの表
情は動画あるいは静止画として提示された。
手順
被験者へ、刺激表情を動画・静止画として各 16 回 1520m 秒間ずつ呈示した。その時の被験者の表情
反応をビデオ録画し、表情筋反応について AU4 と AU12 の有無を評価した。
解析
まず、各個人について呈示刺激の種類ごとに AU4 および AU12 の平均出現率を算出した。次に、算
出した平均出現率について、被験者間因子を群(ASD 群 / コントロール群)
、被験者内因子を刺激呈示
条件(動画 / 静止画)および刺激表情(怒り / 幸福)として、3要因の反復測定分散分析を行った。
3.結果
AU4 出現率(図 1)
3 要因の分散分析の結果、2次の交互作用が有意であった(F(1, 28)=5.298, p<.05)。また、刺激表
情の主効果が有意であった(F(1, 28)=9.378, p<.005)
。下位検定では、動画条件の幸福表情で群間差
が有意であった(F(1, 112)=4.579, p<.05)。これは、AU12 反応が、ASD 群よりもコントロール群で
多く出現することを示す。その他の条件では、群間差はなかった。
図 1. 表情刺激呈示時の AU4 出現率
AU12 出現率(図 2)
3 要因の分散分析の結果、2次の交互作用が有意であった(F(1, 28)=5.298, p<.05)。また、刺激表
情の主効果が有意であった(F(1, 28)=9.378, p<.005)
。下位検定では、動画条件の幸福表情で群間差
− 26 −
自閉症スペクトラム障害における自発的表情模倣の障害
が有意であった(F(1, 112)=4.579, p<.05)。これは、AU12 反応が、ASD 群よりもコントロール群で
多く出現することを示す。その他の条件では、群間差はなかった。
図 2. 表情刺激呈示時の AU12 出現率
4.考察
コントロール群は、静的表情より動的表情が呈示された時に、刺激と一致した表情反応を多く示した。
先行研究
8), 9)
と一致して、定型発達者では動的表情に対する facial mimicry が自動的に起こることが
示された。
より重要なことに、刺激表情が呈示された時に、ASD 群はコントロール群と比べ、刺激に一致した
他者に観察可能な表情反応が減少していた。この結果は、facial mimicry の減少という意味で先の筋電
3), 4)
図研究
の結果に一致する。しかし、先行の筋電図研究は他者から観察可能な表情反応を直接計測
したものではなかった。したがって、この研究は我々が知る限り、ASD における他者から観察可能な
表情反応の障害を示した初めての研究である。
今回の結果はまた、特に動的表情に対する facial mimicry 出現率が ASD 群で低くなることを示した。
この結果は、顔刺激の動的呈示が静的呈示よりも ASD 者の非定型的な行動パターンを引き出しやすい
ことを示した研究
11), 12)
ことを報告した研究
13)
や、動的表情に対して下前頭回などの領域で ASD 者の脳活動が減少している
の結果と一致する。これらのデータは、他者から観察可能な facial mimicry の
減少を含む ASD の対人相互反応の障害が、動的表情に対してより明らかになりやすいことを示唆する。
今回の研究結果は、臨床的示唆を持つ。定型発達者において facial mimicry はラポールや共感の形
成を容易にする機能を持つ。facial mimicry のこのような機能は他者から観察可能なものであるときに
より促進されると考えられる。ASD 者では動的表情に対する他者から観察可能な facial mimicry が減
少していたことから、現実世界では定型発達者と比較して ASD 者の対人相互反応では facial mimicry
が機能的な役割を果たしていないと考えられる。さらに、ASD 者が他者とのラポールや共感の形成が
困難
1)
なこととあわせて考えると、facial mimicry の障害は,非言語コミュニケーション行動以外の
ASD の対人相互反応の障害にも影響を及ぼしている可能性もあるだろう。
5.結論
本研究は、ASD が動的表情に対する overt な facial mimicry の障害を持つことを示した。
− 27 −
自閉症スペクトラム障害における自発的表情模倣の障害
6.謝辞
実験にご協力いただいた参加者の方に心から感謝申し上げます。
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3)McIntosh DN, Reichmann-Decker A, Winkielman P, et al: When the social mirror breaks: deficits in automatic,
but not voluntary, mimicry of emotional facial expressions in autism: Dev Sci 20 0 6; 9: 2 9 5-3 0 2.
4)Beall PM, Moody EJ, McIntosh DN, et al: Rapid facial reactions to emotional facial expressions in typically
developing children and children with autism spectrum disorder: J Exp Child Psychol 20 0 8; 1 0 1: 2 0 6-2 2 3.
5)Hess U, Blairy S: Facial mimicry and emotional contagion to dynamic emotional facial expressions and their
influence on decoding accuracy: Int J Psychophysiol 2 0 0 1; 4 0: 1 2 9-1 4 1.
6)Lakin JL, Jefferis VE, Cheng CM, et al: The chameleon effect as social glue: Evidence for the evolutionary
significance of nonconscious mimicry: J Nonverbal Behav 2 0 0 3; 2 7: 1 4 5-1 6 2.
7)Cacioppo JT, Petty RE, Losch ME, et al: Electromyographic activity over facial muscle regions can differentiate
the valence and intensity of affective reactions: J Pers Soc Psychol 1 9 8 6; 5 0: 2 6 0-2 6 8.
8)Weyers P, Mühlberger A, Hefele C, et al: Electromyographic responses to static and dynamic avatar emotional
facial expressions: Physiopsychology 20 0 6; 4 3: 4 5 0-4 5 3.
9)Sato W, Yoshikawa S: Spontaneous facial mimicry in response to dynamic facial expressions: Cognition 2 0 0 7;
104: 1-18.
10) Kilts CD, Egan G, Gideon DA, et al: Dissociable neural pathways are involved in the recognition of emotion in
static and dynamic facial expressions: Neuroimage 20 0 3; 1 8: 1 5 6-1 6 8.
1 1)Pelphrey KA, Morris JP, McCarthy G, et al: Perception of dynamic changes in facial affect and identity in
autism; Soc Cogn Affect Neurosci 2 0 0 7; 2: 1 4 0-1 4 9.
1 2)Uono S, Sato W, Toichi M: Dynamic fearful gaze does not enhance attention orienting in individuals with
Asperger’s disorder: Brain Cogn 20 0 9; 7 1: 2 2 9-2 3 3.
1 3)SatoW, Toichi M, Uono S, et al: Impaired social brain network for processing dynamic facial expressions in
autism spectrum disorders; BMC Neurosci 20 1 2; doi: 1 0.1 1 8 6/1 4 7 1-2 2 0 2-1 3-9 9.
14)Ekman P, Friesen WV: Facial Action Coding System. Consulting Psychologists Press, Palo Alto, 1 9 7 8.
− 28 −
認知症のきざしに気付く
公益財団法人豊郷病院認知症疾患医療センター
成田 実
1.はじめに
高齢になるに従い、認知症の方の割合が増えてきます。 65 歳∼ 69 歳では 1-2%の方が認知症に罹患
する程度ですが、85 歳以上の方に至っては 4 人に 1 人は認知症に罹患しているといわれています。こ
の事からは「高齢者を診たら認知症を念頭に考えよう。」と言っても過言ではないと思われます。
一方で、認知症対応の現状については現在も根本的な治療法の確立には至っていません。 薬物療法
は「認知症の進行を遅らせる」目的に限定されてはいますが、重症化まで 10 年から 15 年の経過となり
ました。この事は「介護の必要な期間は長くなった」とも言えます。
このような認知症診療の中で新しく見えてきた事柄があります。治療をはじめる時期です。
「認知症
と診断されてから治療の開始でよいのか? 」という課題です。もう一つは、認知症の人への長期の気
配り(対応)も“治療”として位置づけられていますが、精神と行動の障害(BPSD の症状)と呼ばれ
る症状の多くは、認知症診断の前からの課題として、蓄積されている可能性があるという点です。
このようなことから「認知症の気づき」をテーマとしました。
2.認知症の診断基準
認知症の診断基準としては次のようなものがありますのでごく簡単に提示します。
以下の項目がそろえば認知症とされます。
◆複数の認知機能領域のうち 1 つ以上の領域において機能が病前より低下している。
複雑な注意機能・遂行機能、
学習と記憶、
言語、
視空間知覚能力、
社会的認知能力
◆認知機能障害は、機能的に自立した生活を妨げるほど重篤である。
お金の管理、服薬管理、日常生活動作で多少なりとも手助けが必要。
以下略
3.認知症の人のハンディキャップ
前のスライドの基準で診断された日常生活障害による認知症の人の不自由さを① 中核症状としての
認知機能障害による知的機能障害、② 身体機能の低下による身体障害、③ 精神と行動の障害(BPSD
− 29 −
認知症のきざしに気付く
の症状)としての精神障害という様に、分けて考えてみる事ができるようです。全ての障害を併せ持つ
認知症の人のハンディキャップの大きさが感じられます。病気による問題と共にその生活にしづらさと
しての障害の支援のあり方について考えていくと、広い意味で「障害がある人に優しい社会基盤、社会
生活」や、「一般の障害のある人との付き合う方法」を考えていくことにもつながるのではないでしょ
うか。
4.次に認知症治療の基本的な考え方を提示します
この図にある通り、認知症の治療の考え方は、認知症の方の障害に対しての援助をも“治療”と位置
づけられ広く支持されているものです。この図にある通り、薬物療法と非薬物療法、そして適切なケア
という 3 つのアプローチの組み合わせにより最適な中核症状に対しての治療が成り立つと考えられま
す。この図は、認知症の治療経過の中のある横断面を示したもので、実際にはさらに時間の軸が加わり
ます。認知症の重症度によって、その初期から最重度に至る経過の中で三者の内容と比重には違いがあ
ります。
この図については一言追加しておきたい点があります。
“治療”という表現が一般の身体疾患に対し
ての“治療“の範囲と若干違うところです。認知症の人の生活の全てを含み”治療“として表現されて
いますが、前のスライドで示したとおり”障害“に対しての社会的支援も含まれています。”多職種チー
ム による認知症治療“であり、「医師に聞けば全てわかる、医師に聞かないとわからない」ものではな
いことを押さえておきたいと思います。
普段の生活の中での何気ないやり取りも“治療”に含まれます。
4.「認知機能の低下はいつから?」
「認知機能の低下はいつから?」という事で、模式図を元に説明をしたいと思います。
認知症の原因となる脳細胞の変化は認知症と診断される以前から引き起こされているものと考えられ
ています。その変化が一定量を超えたところで症状が出現し、その内容が認知症の診断基準に当てはまっ
たところで認知症と診断されます。認知症の早期発見、早期治療 という考えのもと、多くの方が早い
時期から診断を受け治療に入ることができるようになりました。しかし、診断基準に当てはまった時に
はすでに一定の変化が起こっているとも取ることができます。認知症の診断基準に当てはまらない時期
からでも「治療」をはじめるという考え方が出てくることは当然のことと思います。
− 30 −
認知症のきざしに気付く
認知症の診断基準には当てはまらないけれども物忘れだけがある時期について次のスライドで提示し
ます。
5.認知症診断の課題
いつから、治療を受けたらよいのか? という標題です。
アルツハイマー型認知症に対しての治療薬は早期の方が治療効果が期待できることから、早期発見、
早期治療 が勧められています。認知症の診断を受ける前の段階は軽度認知障害(MCI)と呼ばれます。
ここにあるように「記銘力障害があるが、日常生活には支障ない」時期を言います。数年後に50%の
確率で認知症に進行すると考えられていますが、進行するものとしないものの違いについては、まだ確
立されたものはありません。従ってこの時期から、抗認知症薬を服用するかどうかについては種々の意
見がありまだ定まったところはありませんが注意する必要のある時期ではあります。
次に、認知症の初期の症状を考えていきたいと思います。
6.認知症の主要症状
認知症の症状としては、認知症の中核症状で現れる認知機能障害 と認知症の人の生活の中で現れる
周辺症状(BPSD)に別けて考える事ができます。
7.四つの主要認知症の中核症状の特徴
認知症の原因疾患によりその中核症状も違いがあることを知っておくことは必要な事ですが、今回、
詳細は割愛します。今までの認知症治療についてはアルツハイマー型認知症を念頭に置いて説明されて
− 31 −
認知症のきざしに気付く
いますが、今後はここに挙げた認知症の理解と対応も知ることが、充実した認知症介護には必要です。
●アルツハイマー型認知症 : 50∼60%、認知障害
記銘力障害、失見当識、判断力の障害、など…
●レビー小体型認知症 : 認知障害と歩行障害を伴う型
幻覚症状を伴うことが多い。
良い日(時)と悪い日(時)の変動が大きい。
●前頭側頭型認知症 : 物忘れはない。我が道を行く型
自分の思うとおりに行動を起こしてしまう。
自分本意となり、集団活動に向かない。
●脳血管性認知症 : 20∼30%、脳梗塞の後遺症
身体障害(歩行障害、嚥下障害)を伴う
8.認知症の初期症状として知られている記銘力障害
ここでは記憶するということに必要な能力と記憶の過程を説明します。
記憶するには、記憶すべき内容を覚える記銘と覚えた内容を忘れないでいる保持、保持した内容を思
い出す想起という段階があります。
記録されている記憶の分類として、最近の記憶として近時記憶、自分の過去の体験の記憶となる遠隔
記憶に分けることができます。遠隔記憶には過去の体験の記憶となる顕在記憶知識としての意味記憶、
個人的体験の記憶としてのエピソード記憶に分類されます。また身につけた技能や習慣等も記憶にあた
ります。
また、あまり話題にされないのですが、重要なものとして“作業記憶”という働きがあります。“作
業記憶”とは、日常のいろいろなことを実行していく為に一時的に記憶していくという働きを持ち、前
頭葉に存在すると考えられています。
日常の行為を行うための流れを記憶する“作業記憶”は ①状況に応じた情報を選ぶ、②現在ある情
報の保持とその情報の操作や③目的に向けて新たに必要な情報をまとめ上げていくという働きがありま
す。また、①外からの情報のどれかに注意を向けて②記憶するものとして選別する。 ③何か処理する
ときに、一時的に過程を覚える、④外界からの記憶を、貯蔵された情報と照合する、⑤判断する。 といっ
た働きも担っています。日常生活をこなす為に必要な情報を並べあげて選ぶという重要な働きをしてい
ます。
計画に沿った事柄を実行するときに必要な能力で、遂行機能を担います。
記 憶 し て い く た め に は そ の 出 来 事 に 注 目 で き る と い う 認 知 機 能 の 働 き も 欠 か せ ま せ ん。
ふ り か か る 情 報 の 中 か ら 自 分 の 必 要 な 事 象 に 意 識 を 向 け る“ 注 意 ” と い う 働 き が あ り ま す
雑多な騒音の中から特定の情報に注目して、なおかつ注目し続けるというものです。
例えば料理をするときに、いくつかの処理を並行して進めなければならないときには、それぞれに“注
意”をはらう必要があり、それぞれがどこまで進行の経過を、個々に“一時的に記憶して、次の手順を
選ぶ”という複雑な操作をしているはずです。
認知症の方では、作業記憶の能力が低下することで、できることが限定され、中途半端で終わってし
− 32 −
認知症のきざしに気付く
まう事が起こります。
それでは、このような能力の低下はどういうときに気付かれるのでしょうか。
9. 認知症の気づきについてのある時期の模式図
認知症の方の能力低下は、人前でがんばっているときには目立ちません。普段の何気ないときの失敗
として気付かれるのが始まりです。初め、同居者以外は気付かないことが多いようです。症状が進むと、
がんばってもうまくいかない場面が増すので気付かれることが多くなります。早く気付くことで、その
後の課題を軽減することができる可能性があります。
10.認知症の始まりではどこがうまくいかなくなるのか、またうまくいかないところが増し
ていくとどのような心情になるか
多くの場合、物忘れが始まりの症状です。その時、本人は「うまくいかない」事を密かに感じ生きづ
らさに悩むようになるはずです。そういう状況を周囲も、
「何か変である」と感じるでしょう。もちろ
ん認知症とは言えないごく軽い状態です。けれども、本人の不自由さに気付いて注意をはらうことは、
認知症に進行するしないにかかわらず、
「認知症かもしれない」と注意して関わることは必要と思います。
ここでは、始まりの症状をいくつかの例を含めて説明します。
11.発症初期に多くの人が自覚する記銘力障害、健忘症状
物忘れがあることを自覚した、あるいは指摘された時、気をつけて何とかなればよいのですが、要領
の悪さなども含めて、出来にくくなっていることを指摘される場面が増えるはずです。気をつけて欲し
− 33 −
認知症のきざしに気付く
いという気持ちをこめて伝えているはずですが、本人の受け止め方によって、その後の行動の取り方が
変わるでしょう。「楽しくないので参加しない」 「順序立てて考えられない」
「心配」
「失敗したら恥ずかしい」とひきこもる。あるいは「間違わない
ように!」と必死になるということがあるかもしれません。
そのような本人の、体験と心情を元にした行動に周囲の人は出会うことになります。 12.発症初期に周囲が気付く症状
◆健忘症状、行為の支障がある。 ­同じ事を何度も聞く。置き忘れ。料理が簡単になる。
­何事にも興味がなくなる 。趣味をしなくなる。買い物に行かなくなる。
­集会に参加しなくなる 。要領が悪くなる
最初はたまの出来事であるが,徐々に頻度が増してきます。下のようなことが起こってきます。
「い
くつかを同時にやろうとするが,結局どれもできない」など を本人や周囲が体験する、あるいは体験
の中で交わす会話の中で本人の不安が出てくる可能性があります。
12.「私は認知症?」という、標題のスライドです。
次に挙げている項目は、家族会の方が「認知症になったときに心配となること」のアンケートで上位
になったものを出しています。ここでお伝えしたいことは、認知症で心配になることは健常者の我々と
認知症の始まりの本人では同じものです。その時にはこのアンケートと同じ内容で悩む状況になる方が
多くおられるはずです。
①病気になることで、自分らしさが失われる
②病気になることで、他人に迷惑をかける
③仲間はずれにされる。
④変に見られる。
⑤社会からのつながりが薄れる。 など、
13.形にならないものを意識するのが苦手
認知症の人の症状として、物事の把握する能力については認知症により、形にならないものを意識す
るのが苦手になります。例えば①相手の気持ちを察知することができない②会話の言葉の背景にある感
情や考えを読み取ることができない点があり、結局周りの物事を正確に受け止められないということに
なります。
この為に、その場に応じた適切な行動が起こせなくなるという、日常生活の障害が生まれてきます。
この時、本人がその体験を個人によりの受け止め方は違い、対処の仕方、本人の言動に本人の生き方が
影響します。介護の個別性の部分です。
− 34 −
認知症のきざしに気付く
14.認知症の人は不安定な状況におかれている
出来事や周囲との関係づくりがうまくいかないとうつ状態、あるいは妄想を抱くことがあります。初
期の認知症の 30-40%の方にうつ症状が現れるという報告があります。
うつ症状に至るストレスとしては、出来ないことを自覚、指摘される、自分の生活状況を不安に感じ
るといったことです。こういう場面で何に不自由するか? ということを事前に気付き、早期に関わり・
適切な関係を保つと日常生活の本人の負担を軽くできます。妄想といった症状を起こしにくくしてその
後の介護を易しくなるようです。
15.本来の認知症の治療・介護について
認知症の方への接し方には二つの視点があると考えています。一つは治療という視点で病気と向き合
い克服するという考え方で、内服薬の服用やリハビリテーションを行うというものです。もう一つは「認
知症と共に生きる人の障害」を緩和するように寄り添う考え方で介護の視点です。病気と共に生きる本
人が、自分らしく過ごせる居心地の良い介護環境、孤独感がなく他の人とのつながりを保てて安心感の
ある毎日を送るように援助します。
16.個人の個性に配慮する介護は強い個性の人ではむずかしいことです
気むずかしい認知症の人の介護は、個人の考え方、生活の仕方に配慮し、焦らず急がず考えていきま
しょう。 危なくない範囲で見守る。一人でがんばらない、やたらと、止めに入らない。タイミングを
見計らうといった工夫の積み重ねになります。
介護の合間には、腹が立つ場面もあると思いますが、「わかり合えていない」と、ひと工夫し、ダメ
元で手を変え品を変えいろいろと試していきます。時間的な余裕が必要なところです。
17.認知症は誰もがかかります
認知症は誰もがかかります。早期発見・早期治療の考えで本人が認知症に早く気付いて生活する事が
出来る、あるいは介護者が気付き援助するという心構えが出来ていると困ったことが起こっても納得や
割り切りによりが早く切り替えできるようになります。
− 35 −
認知症のきざしに気付く
認知症になったときの介護者としての気配りはここに挙げるような内容になります。
一.自分らしく生きていく事を尊重する。
二.迷惑と思わせない、思わない
三.仲間はずれにしない。
四.変な目で見ない。
五.社会につなぐ。 18.まとめ
このような状況を形作るために望まれることとしては、家族の生活だけではなく、一人住まいの方を
含めて地域で顔の見える関係を保つことが必要となります。
常に声を掛け合う事の出来る関係づくりや、自らが出て行くことが出来ない人には、意識的に一対一
で声をかける事も必要になります。見知っていると、能力低下の自覚に配慮するということも可能とな
るはずです。認知症は誰もがかかる可能性があります。嫌なものですから「自分や身内は病気にならない」
と、「他人の出来事」と考えたい気持ちがあります。治療法が確立するまで「認知症にならない」とい
う発想も必要ですが、一方で認知症になったら助けてもらいやすい模範的な認知症患者になるというつ
もりで自宅だけではなく、地域でも工夫をしていただきたいと思います。
(本稿は 2013 年 3 月 9 日開催の豊郷病院セミナーでの講演記録である)
− 36 −
治療と矯正、そして共生
−精神医療の基本−
京都大学名誉教授
公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所
林 拓二
私は精神科医としての前半を私立の精神病院(七山病院と新阿武山病院)で過ごし、後半は名古屋と
京都の大学病院で働き、定年後は再び精神科医としてこの豊郷病院で働いておりますが、今日は精神医
学・医療の現状および未来について私の考えることをまとめましたので、お聞きいただければと思って
おります。
今日の話は次の三つのフレーズにまとめられます。
1) 病気の人には「治療」を試みる
2) 変わっている人には「矯正(訓練、SST や認知行動療法など)」を試みる。
3) 治療や矯正が不可能な場合や、あるいは認知症の人とは「共生」を考える
ここで問題になるのは、病気なのか、あるいは変わっているに過ぎないのかという判断です。これは
思ったよりも難しく、これを区別し、診断することが精神科医の最も大事な仕事であると言ってよいか
と思います。
わかり易い例として、精神薄弱(最近では精神発達遅滞、あるいは知的障害ともいわれていますが)
の場合を例に説明したいと思います。
− 37 −
治療と矯正、そして共生
これは、私の恩師でもある大阪医大の満田先生が翻訳した本の表紙ですが、著者のホルスト・ガイヤー
氏は満田先生がドイツに留学中の同僚で、主として精神薄弱を研究していた精神科のお医者さんです。
彼は自分の専門的知識に基づき、
「馬鹿について」考察し、ここにその蘊蓄を披露しております。その
内容は、「馬鹿には 3 種類あって、知能の低い馬鹿、知能が普通の馬鹿、それに知能の高すぎる馬鹿が
ある」ということであり、かいつまんで言えば、人間はみんな馬鹿であるということです。すなわち、
知能の高低に関わらず人間は歴史上様々な愚行を繰り返してきた愛すべき存在であって、必ずしも、知
能の低いことが人間としての価値が低いということではないということです。
しかし、知能が低いことは、社会生活上のマイナス要因であることは確かです。
そもそも、精神薄弱は主として知能テストにより判断し、IQ がおおむね 70 以下の場合をこのように
呼んでいます。しかし、IQ が 70 と IQ が 71 の人との差を考えると、ここには本質的な差異はなく、あ
るのは連続的な偏り、すなわち量的な差異でしかないと言えます。
私が最初に勤めた病院の医局長をしていた山崎先生は、大阪医大の満田先生の弟子筋にあたる人で、
患者さんの話をしているときに、しばしば「彼はミンデルだから、なかなか難しいね」と言い、勤務し
ている職員についても、「彼はミンデルだからね」とよく口にされていました。ドイツ語のミンデルと
いう意味は単に「足らん」と言うことですが、精神医学用語としては「精薄」と同義になるかと思いま
す。我々若い医者は、
「山崎先生は、ひょっとしたら、我々をミンデルと思っているのかな」と話し合っ
たものでした。確かに、
「あんたたちは学校では秀才だったかも知れんが、社会的には白痴同然だね」
とも言われたことがあり、彼にかかれば、ほとんどすべての者がミンデル、すなわち少し「足らん」と
いうことのようでした。考えてみれば、すべての面で足りている人は、世の中には誰も居ないのかも知
れません。私などは算数が得意ですから、このような能力だけからいえばミンデルと言われることはな
− 38 −
治療と矯正、そして共生
いのですが、人見知りして、話をするのが苦手で、人とつきあうことが下手ですので、コミュニケーショ
ン能力だけを取り上げれば白痴と言われても文句は言えません。最近では、
「広汎性発達障害」という
概念が一般的に使用されていますが、私も同類かあるいはその中に含まれるのかも知れません。
私の大学時代は、学園闘争の真っただ中だったものですから授業というものはほとんど受けたことが
ありませんでした。そこで、山崎先生の勧めもあって、精神病院に勤めるかたわら、大阪医大に週に 2
日通って勉強させてもらいました。そして、満田教授の病棟回診について廻り、外来診察を見学しまし
た。また、満田先生の授業がある時には聴講させてもらったのですが、
「精神薄弱について」と言う講
義が一番新鮮に感じ、いまでも忘れません。この講義を聞いた時には、これは精神薄弱だけの話ではな
く、精神医学一般の基本的な構造であろうと考え、まさに「目から鱗」の感がしました。
すなわち、精神発達遅滞は、原因別に分類すると概ね2種類に大きく分けられるということです。1
つは、正常の知能から連続的に移行するもので、特発性要因によるものとされ、性格などと同様、様々
な要因が重なって生じるものです。2つ目は、出生前後の感染、中毒、外傷、発生異常、先天代謝異常、
染色体異常などによるものであり、病理的要因によるものとされています。他には、野生のままに成育
した子供が報告されているように、社会での知的な教育がなく育った場合ですが、知的なレベルは低い
ものの適切な教育によって回復が可能なものであり、
これを心理・社会的要因によるものとされています。
精神薄弱についてのこのような記述は、精神医学の教科書ではかならず触れられていてとりわけ新奇
なものではありません。しかし、これは精神医学一般に当てはまるのではないかと気付いた次第です。
すなわち、表面に表れている現象(精神発達遅滞)は同じように見えても、そのような状態は正常から
− 39 −
治療と矯正、そして共生
の偏りと考えられるものと脳の疾患の結果と考えられるものに分けられるということです。これは、精
神医学のみならず、高血圧や糖尿病などの生活習慣病にも考え得る医学の基本であろうと思いますが、
このことに注目する人はほとんどいないのではないかと思います。
このスライドは、これまでに述べたことをまとめたものです。
一般の人たちに IQ 検査を施行すると 100 を中心にした正規分布となり、IQ が 70 以下の人を精神発
達遅滞と呼んでいます。これらは正常から連続的に移行して正常との間に本質的な区別はないのですが、
左側に少し黒く塗った部分は「疾患の結果」として生じたものであり、
「正常からの偏倚」とは質的に
異なるものと言えます。
このような患者さんに対し、我々はどのようなことが出来るのでしょうか?
私が大阪の精神病院に勤めていた時のことです。IQ は 50 前後と考えられる男性が、隣の奥さんを叩
いたとのことで、警察に連れられて入院しました。院長から頼まれて、私が主治医になったのですが、
その男は仕事に就かず自宅でぶらぶらしており、隣の奥さんとはいつも仲が悪く、時々叩いていたとの
ことです。明確な被害妄想はなく、幻覚もありません。ただ単に精神薄弱者による問題行動と考えられ
ました。さて、どうしたものかと考えていると、以前にずいぶんと世話になった精神科の先輩から電話
があり、「林君が主治医になったということを聞いたので電話したのですが、彼に叩かれているのは私
の家内なんです。社会防衛論に与するわけではないのですが、出来るだけ長く病院に入れておいて貰え
ないでしょうか」と言うことでした。さらに「自分が叩かれるのなら我慢もできるが、家内が叩かれて
いるので困っている。彼を捕まえて警察に連れて行ったこともあるが、一向に変わらない」とも言って
いました。
− 40 −
治療と矯正、そして共生
私は「さてさて困ったな」と思いながら、とりあえず 1 ヶ月ほど様子を見ていました。しかし、患者
は病棟では何ら問題行動はないので、先輩に電話で了承を取ったうえで、退院してもらいました。
その後、間もなくして、その精神科の先生からは転居の通知が届きました。
豊郷病院でも、精神科外来で「酒飲むな、パチンコするな、母親を叩くな」とだけ言い続けている患
者がいます。注意しても全く聞いてくれず、林先生はいややといって、最近は滋賀医大の精神科に「ア
ルコール中毒」ということで入院したようです。このような患者さんを治療することは不可能と言って
よく、出来るのは「矯正」、あるいは「共生」と言うことになりますが、現在の「ゆるい社会」では「教
育」や「矯正」は極めて難しく、「共生」も現実には大変困難な作業であると言わざるを得ません。
精神発達遅滞に続いて、近年、何かと話題になることの多い「発達障害」について考えてみたいと思
います。
そもそも、発達障害とはどのようなものなのでしょうか?
歴史的に見れば、発達障害は 1943 年にカナーが 11 例の症例報告をおこない、それまで「白痴」
、「痴
呆」、あるいは「精神薄弱」と考えられてきた患者を、精神薄弱でも分裂病でもないとして、新しく「自
閉症」と言う名称を使用したことに始まります。その後も、早期幼児自閉症、児童期分裂病、幼時精神病、
非定型児童などの用語が使用され、その位置づけは研究者の間でも一致することがありませんでした。
しかし、1967 年にラターが、「対人相互関係の形成の異常あるいは困難」、「反響言語や代名詞の逆用の
ような言語の異常を含む言語の発達障害」、それに「強迫的な常同的行動」の 3 つの症状を取り出して、
自閉症は分裂病ではなく発達障害であると主張しました。この概念がアメリカ精神医学会による DSMIII(1980)や WHO の ICD-10(1992)に引き継がれております。
しかし、日常的に使用されるまでになった現在でも、
「発達障害」という言葉の内容は研究者間でも
なお混乱していると言わざるを得ません。
− 41 −
治療と矯正、そして共生
「広汎性発達障害」や「特異的発達障害」という用語は、1980 年に発表された DSM の第 3 版(DSM-III)
で初めて使用されました。しかし、1987 年の改訂版(DSM-III-R)になると「発達障害」が、広汎性発
達障害や特異的発達障害(学習障害、言語と会話の障害、運動能力障害)
、それに精神遅滞の上位概念
として登場しています。さらに、1994 年の第 4 版(DSM-IV)になると「発達障害」から精神遅滞を除
くなど、「発達障害」の内容は版を重ねるごとに変化し、その位置づけも変わってきております。
最新版である DSM-IV を見ますと、通常、幼児期、小児期または青年期に初めて診断される障害の
項目に、精神発達遅滞や学習障害、運動能力障害、コミュニケーション障害などの特異的な発達障害と
ともに、
「広汎性発達障害」が取り上げられています。しかし、精神発達遅滞には II 軸にコードされる
と書かれていますが、広汎性発達障害などには II 軸へのコードは記載されておりません。
このことには、少し説明がいるように思います。アメリカの診断基準である DSM-III では精神状態
を 5 つの面から評価しようとしており、わかり易く言えば、I 軸で臨床疾患を、II 軸で性格特徴などを、
III 軸で身体疾患を、IV 軸で心理的側面を、V 軸で社会生活状況を評価して、個別の患者の全体を見よ
うとしております。すなわち、II 軸は人格障害などの「障害ではあるが疾患ではないもの」を評価しよ
うとしていると考えられます。この意味で、精神発達遅滞が II 軸で評価されることは極めて当然であ
ろうと思われますが、私は広汎性発達障害などの発達障害もまた II 軸で評価するべきであろうと考え
ています。事実、DSM-III-R では、精神発達遅滞と並び、広汎性発達障害や特異的な発達障害のすべて
を「発達障害」の中に一括し、II 軸で評価しておりました。
広汎性発達障害は、DSM-IV の下位分類を見ますと、自閉性障害、レット障害、小児期崩壊性障害、
アスペルガー障害、特定不能の広汎性発達障害を含んでいます。私はここに発達障害概念の問題点があ
るように思います。すなわち、レット障害は女子にのみ発症する進行性の脳障害であり、小児期崩壊性
障害はけいれん発作や脳波異常や CT 異常を示すことが多く、脳の機能障害である可能性が高いもので
− 42 −
治療と矯正、そして共生
あって、後で述べるような、アスペルガー障害などの特異な性格の偏倚かとも考えられるものとは趣を
異にしていると考えられます。この点で、広汎性発達障害は、症状や状態像の類似した障害を雑多に寄
せ集めただけにすぎず、一つのグループにまとめること自体が極めて問題の多いものと感じざるを得ま
せん。
私は子供の症例をあまり見ていないので、「発達障害」については全く専門外と言っていいのですが、
大学の精神科外来で、「ネットで調べたら、自分はアスペルガーだと思うので診断してほしい」という
大学院の学生さんを少なからず診たことがあります。彼らは、アイ・コンタクトが無い、仲間を作れな
い、楽しみを共有できない、こだわりがあって興味のあることにだけ熱中するなどと訴えます。私はま
ず「診断をつけて貰ってどうするの?」と尋ね、
「何も病気だと診断してもらう必要はないんじゃないの」
と話をし、「あなたは若いし、興味のあることを思いっきりやってみたらいいのではないか」と言って
おきます。そして、
「アスペルガーの診断に当てはまるのは、私も含めて我々の同僚にはたくさんいるよ。
それぞれのお医者さんの個性を考えながら、どのような仕事が向いているのかを考えるのも、教授の仕
事なんだよ。あなたのところの教授も、いろいろと考えてくれているはずだよ」と言って帰しておりま
した。
ここに、DSM-IV によるアスペルガー障害の診断基準をあげておきました。「対人的相互作用の質的
な障害」、「行動、興味および活動の、限定され反復的で常同的な様式」、「社会的、職業的、または他の
重要な領域における機能の臨床的に著しい障害」、そして、「特定の広汎性発達障害または精神分裂病の
基準を満たさない」などが挙げられています。
このスライドは、アスペルガー障害の診断基準の A と B の詳細な項目をあげております。診断基準
の A は、少なくとも2つの対人的相互作用の質的な障害があること、と記載してあり、診断基準の B は、
− 43 −
治療と矯正、そして共生
「行動、興味および活動の、限定され、反復的で常同的な様式が少なくとも1つの項目があること」と
されています。これを見ていますと、多かれ少なかれ、このような傾向はだれにでも認められ、とりわ
け日本人には多いように思われますので、自分がアスペルガー障害であると確信する人は極めて多いの
ではないかと思われます。すなわち、この診断基準に則れば、あるかないかと言う判断ではなく、どの
程度なのかを判断することとなり、70 以下ならば精神遅滞と言うというようなカット・オフ・ポイン
トを決めなければいけないようなものなのでしょう。
広汎性発達障害は、これまでに述べてきたように、一つの疾患として一括されるとは思われません。
アスペルガー障害は正常からの偏りと考えてよく、レット障害や小児期崩壊性障害は脳の疾患であり、
疾患の結果によって生じた「変わった行動様式」であろうと考えられます。このことは、精神発達遅滞
で見たものと類似しており、広汎性発達障害は「特発性の要因」によるものと「病理的な要因」による
ものの 2 つに分類され得ると言って良いのかも知れません。
このように、「発達障害」という名称で原因の異なるグループを一つにまとめたことが現在の混乱を
招いていると言えるかと思います。診断は病因によって行われるべきことは言うまでも無いことですが、
臨床的には病因が不明であるにしても、アスペルガー障害などの広汎性発達障害は、人格障害や精神遅
滞と同様に、II 軸にコードするべきであると考えられます。
これまで、精神発達遅滞と広汎性発達障害について述べてきましたが、正常からの偏りと考えられる
症例は、人格障害と類似した概念であって疾患ではありません。そこでは、社会でどのように折り合い
をつけて生きていけるようになるかを考えていくことが大事であり、医学的な意味での治療ではなく、
社会での問題行動を無くすための矯正であったり、矯正が出来ない場合は、そのような存在を認め合い
ながら、共に生きていく「共生」が必要となってきます。時には、薬物が医学的な手段として役に立つ
こともありますが、精神遅滞と発達障害そのものを治癒させるものではありません。
精神発達遅滞と広汎性発達障害の一部には、疾患による結果と考えられる者もいます。基本的には、
疾患の場合は治療が試みられなければなりませんが、脳に器質的な変化が生じている場合には、現在も
なお治療は不可能と言ってよく、将来もなお、たとえ再生医療が進むとしても、治療は限定的にならざ
るを得ないと思われます。
このことは、老年痴呆、いわゆる認知症にも言えることかと思います。
老年痴呆については、脳の研究が画像研究をはじめ飛躍的に進んだこともあり、診断もかなり明確な
ものとなっていますが、代表的な認知症であるアルツハイマー型痴呆についてはなお、疾患による結果
のみではなく、正常からの偏りと考えられる症例も多いのではないかと思われます。
− 44 −
治療と矯正、そして共生
治療について言えば、現在行われている、痴呆の進行を遅らせるとされる薬の治療も、その効果のほ
どは約 1 年程度にすぎないと言われており、痴呆の進行を止めてしまう薬は現在存在せず、ましてや痴
呆を改善する薬はありません。20 年ほど前から脚光を浴びて盛んにその効果が宣伝されていたアミロ
イド抗体療法も、残念ながら、大規模な追跡試験の結果、最近になって効果がなかったと報告されてい
ます。ここで、iPS 細胞による治療が登場するのでしょうか?もしそうなるとしても、技術的な問題は
もとより、倫理的な面での問題が大きく立ちふさがることと思われます。
痴呆症状が出現した際には、基本的には治療よりも共生(共に生きること)を目指すことが必要とな
ります。この点で、我々医師がかかわり得る部分は少ないと言わざるを得ないのが現状ですが、不眠、
幻覚、妄想、せん妄状態などでは、病状を少しでも改善させる手立てはあります。そして、我々は、介
護、福祉など幅広い医療関係者とともに、現在ある手段を総動員し、個々の症例における最善の方策を
考えていくべきであろうと思います。
「疾患による結果」か「正常からの偏り」か、と考えていると、生活習慣病の代表的な疾患と考えら
れている高血圧症についても、精神科と同じような問題があるように思われます。
このスライドは、青森県総合健診センターの資料なのですが、一般成人4万8千人の最高血圧の分布
を示しています。これを見ると、素朴に考えて高血圧と言う疾患は多くはなく、かなりの部分は正常か
らの偏りと考えていいのではないかと思ってしまいます。
− 45 −
治療と矯正、そして共生
最後に、私が考える精神医学の基本的な立場を説明させていただこうと思います。というのは、最近
の精神医学はアメリカの精神医学会による DSM の影響が強く、伝統的精神医学の考えが忘れられてい
るように感じられるからです。
私が精神医学の基本と考える伝統的な立場とは、ハイデルベルグ大学の教授であったクルト・シュナ
イダーの考えであり、臨床に携わる精神科医であるならば、誰もが直感的に納得できるものと考えてい
ます。しかし、これらはなお、今後証明していかなければならない仮説にすぎないことは確かであろう
と思われます。
シュナイダーは、本人が苦しむ神経症や社会が苦しまされる性格異常は、多かれ少なかれ「正常から
偏っている」に過ぎないものであって、分裂病や循環病などの「内因性」精神病群、さらに「身体に基
盤のある」精神病群との間には、質的に異なった差があり、明確に区別すべきであると主張します。そ
して、「内因性」精神病には生物学的な所見が確認されてはいないものの、将来、必ず見出されるに違
いないと考えていました。残念ながら、精神医学は今なお「身体に基盤のある精神病」を除いて、統合
失調症や循環病 ( 躁うつ病 ) に明確な生物学的所見を見出せず、近年の目覚しいテクノロジーの発展に
よって、画像研究などの生物学的研究は格段に進歩したにもかかわらず、統合失調症と躁うつ病とが異
なる疾患であるとする証拠はありません。そこで、現在もなおこれらの疾病の間にあるのは、
「鑑別診
断学ではなく、鑑別類型学である」
、すなわち、統合失調症と躁うつ病とを分類するのは、ただ単に症
状で分けているだけで、病気の原因で区別しているのではないと言います。この点で、現在もなお、シュ
ナイダーの時代と大きく変わってはいないと言ってよさそうです。
しかしながら、私もまたシュナイダーと同じく、臨床の現場での経験から、「精神病」にはなんらか
の生物学的な所見があるに違いないと確信しております。慢性の精神病患者に見られるそのような確信
は、「施設化」の影響であるとする意見もありましたが、私は、そのすべてが、患者を取り巻く環境に
− 46 −
治療と矯正、そして共生
起因すると考えることは出来ませんでした。近年、盛んに行われている社会復帰活動の限界を見まして
も、患者個人の、おそらくは脳の研究が必要であろうと考えるのは、臨床精神医学をなりわいとするも
のの共通な認識であろうかと思います。
このスライドは、私なりに、シュナイダーの精神医学体系を図にしたものです。
発達障害などの新しい概念は、一部に脳の器質性疾患が含まれますが、性格の異常や精神遅滞と同じ
ような位置にあり、正常からの偏りと考えてよいかと思われます。もちろん、個々の症例について「正
常からの偏りなのか、それとも疾患による結果なのか」を厳密に考慮するべきものと考えられます。こ
の点から、私は発達障害や精神遅滞を、このスライドで「身体に基盤のある精神病」の近辺に配置して
おきました。
私はしばしば、このシュナイダーの精神医学体系を俗な日本語で表現するとすれば、
「変わっている」、
「狂っている」、そして「壊れている」の 3 分体系である、と考えております。そして、内因性精神病に
は治療が試みられるべきであり、人格障害や発達障害、そして精神遅滞には矯正、あるいは共生を考え、
身体に基盤のある精神病には医学的な治療を試み、痴呆を呈した場合には共生を探っていくべきであろ
うと考えております。
最後に、本日の講演のまとめをしておきます。
1 つには、精神医学の基本は、「疾患による結果」と「正常からの偏り」を区別することである。こ
れは精神科医の最も重要な仕事でありますが、また難しい課題でもあります。
2 つ目には、病気、すなわち疾患による結果と考えられる者には、
「治療」が試みられるべきである。
正常からの偏り、すなわち「変わっている」人には治療と言うより「矯正」が必要な場合がある。
3 つ目には、矯正が困難であったり、痴呆症(認知症)、あるいは脳が様々な原因で損傷された人とは、
助け合いながら「共に生活する」ことを考えるべきである。
− 47 −
治療と矯正、そして共生
(本稿は、平成 24 年 12 月 3 日に「レインボウとよさと」で行われた精神医学講義の原稿である)
− 48 −
私の研究エピソード
生物学的所見から精神病の分類を考える
林 拓二
京都大学名誉教授
私は大学を卒業してすぐに精神病院に勤務し、間もなく大阪医大の精神科教室に出入りさせてもらう
ようになった。そこでは、満田先生のもとで助教授をしていた越賀一雄先生(精神病理学)から症例報
告がいかに重要であるかを教わり、珍しい症例があれば必ずまとめておくように心掛けた。一例の詳し
い報告は、将来、類似の症例が蓄積されることによって、症例を具体的に見ることが出来ない研究報告
よりもはるかに重要な意味を持つことがある。私が副甲状腺機能低下症、ハンチントン舞踏病、さらに
はウイルソン病などの症例を詳細に報告したのも、一臨床医の義務として、誰かが後でまとめられるよ
うにしておくことが重要であると考えていたからである。
越賀先生からは「満田先生が言っている非定型精神病は、最後には分裂病になるのですよ。林先生、
一緒に、非定型精神病はないという研究をしませんか」と誘われたことがある。当時もなお現在と同じ
く、精神病理学者は単一精神病概念に親近感を抱く傾向があり、一般の臨床精神科医は、意識するかし
ないかは別として、精神疾患の異種性を考える傾向にあったと言える。しかし、躁うつ病にしろ非定型
精神病にしろ、経過をみれば定型分裂病と類似の欠陥状態に陥る症例が稀ならず見られることは臨床家
の多くが認めるところであろう。しかし、満田先生は非定型精神病の経過が必ずしも良いとは言えない
と述べてはいるが、その欠陥状態はてんかんにおける本態変化(Wesensänderung)に類似し、定型分
裂病とは明らかに異なるとしている。私もこれまで、画像所見をはじめとする様々な生物学的データに
基づいて定型分裂病と非定型精神病との差異を明らかにし、満田の見解を支持してきたが、現在もなお
この問題の決着を図るために、滋賀県の農村地帯をフィールドとして精神疾患の経過研究を行っている。
私は大阪医大での勉強会やドイツ留学に関して、福田哲雄(生物学的精神医学世界連合名誉理事長)
先生に随分とお世話になったが、愛知医大に就職してからも、毎年何回かは京都・先斗町のおでん屋(山
とみ)で会い、おでんをつつきながら精神医学の現状について話し合い、大学での今後の研究について
相談していた。そして、しばしば名古屋行き最終の新幹線で帰ったものである。当時、CT がようやく
一般的となり、精神医学領域でも多施設共同研究が行われていたが、精神疾患の異種性を念頭に置いた
研究はなかった。そこで、私は第 10 回生物学的精神医学会(S63 年:京都府立医大)で「精神分裂病
と非定型精神病の頭部CT研究」と題する発表を行った。この研究は、当時、精神分裂病には発症時よ
りすでに脳の萎縮が認められるとされていたのに対し、定型分裂病と非定型精神病とに類別した時、非
定型精神病の脳所見が進行性である可能性を指摘しておいたものである。多少のインパクトがあるもの
と期待したが、当時は DSM 診断が全盛であり、三重大学の鳩谷先生以外に興味を示してくれる人はい
なかった。ただ、我々の研究の弱点として臨床的な診断が主観的であるとの批判を承知していたために、
これに対して如何に答えるべきかが私の最大の課題であった。この点について福田先生と話をした時、
「満田門下がこれまで行ってきた非定型精神病の研究はまず臨床的な診断から始めたが、その逆はまだ
− 49 −
私の研究エピソード
行われていない」と話された。その時「なるほど、逆ならば診断の問題はなくなる」と合点がいき、靄
のかかった如くすっきりとしなかった我々の研究にも薄日がさした感じがした。この夜は、ことのほか
気持ちよく酔い、先斗町の狭い路地を歩きながら、多変量解析の応用可能性について思い巡らしたこと
を今でもはっきりと思い出す。
第 12 回日本生物学的精神医学会が大津で開催された時、私は充分な準備の上で「非定型精神病の
CT 研究−多変量解析による検討−」と題した発表を行なった。この研究は、CT のデータのみに基づ
いてクラスター分析を行ない、症例を機械的に分類した時にどのようなグループにどのような臨床診断
の症例が含まれるのかを見たものである。すなわち、クラスター分析では5つのグループが得られ、定
型分裂病と非定型精神病とが確かに異なった分布を示しており、我々の臨床診断は生物学的データに
よってもその妥当性が裏付けられたと言える。残念ながら、この時も、私の発表に関心を示してくれた
人はさほど多くはなかった。しかし、この CT 研究に続いて行った MRI や SPECT、あるいは P300 や
探索眼球運動を用いた研究によって、精神分裂病が一つの疾病とは考えられず、いくつかのグループに
分けられること、すなわち、分裂病性精神病の研究には非定型精神病(群)を類別していくことが最も
重要であることは理解されるようになったかと思われる。このことから、私自身、この CT 研究が分裂
病性精神病の研究の上で最も重要な研究の一つであろうと自負している。
(本稿の一部を割愛した原稿が、
日本生物学的精神医学会誌< 23: 295, 2012 >に掲載されたものである)
− 50 −
私と国際学会
「枯れ木も山の賑わい」から
京都大学名誉教授
林 拓二
私は元来人見知りする性質であり、人前で喋るのが苦手なために、学会への出席は極力避けていた。
私が国内・外を問わず学会というものに初めて参加したのは、精神科医になって 5 年後の 1975 年、オー
ストリアのグラーツで開催された日独墺精神病理学会である。大阪医大の満田久敏先生と東京女子医大
の千谷七郎先生が日本代表として出席するので、大阪医大に出入りしながら精神病院に勤務していた私
も、気楽にヨーロッパ旅行が出来ると踏んで参加してみた。満田先生の専門は言うまでも無く臨床遺伝
学であり、精神病理学の日本代表と言うのは聊か奇異に感じる向きもあるかと思われるが、満田の臨床
遺伝学は入念な臨床記載に基づく立派な精神病理学であると説明されると率直に首肯される方も多いで
あろう。この会は、ドイツ側代表のパウライコフ先生が来日した折、日本での精神症状の記載がほとん
どドイツ語であることに感激し、満田先生を誘ってドイツ語圏の精神病理学会を企画したと伝えられて
いる。なおオーストリー側代表はワルヒャー先生であった。
会議はすべてドイツ語で、耳から入る音は全く理解できなかった。しかし、スライドを読むことは出
来るので、発表内容の概略は理解でき、藤縄昭先生や木村敏先生ら新進気鋭の先生方の発表・討論は思
いのほか面白かった。
日独墺精神病理学会(グラーツ、1975)で講演する満田教授
日本からは多くの精神科医が参加していたが、親しい知人はほとんどいなかったこともあり会場に顔
を出すことが多かった。そこで、満田先生から「林君はよく会場で見かけるね」と訊かれたので、「枯
れ木も山の賑わいですから」と答えておいた。しかし、そのうちに枯れ木ではなく、自分の研究をあの
演壇で発表したいなと考えたものである。満田先生からはドイツに留学中の高名な先生を紹介していた
− 51 −
私と国際学会
だき、著作で名前を知るだけの先生にもお会いし、自分もミーハーだなと思いながらも世界が広がった
感じがして嬉しかった。30 歳を迎える前の懐かしい経験である。
その後、私は 40 歳を前にドイツに留学して、帰国後は大学(愛知医大)に籍を置いたために学会に
参加する機会も多くなった。しかし、1980 年の DSM-III の登場以降、私がメジャーな雑誌に論文を投
稿しても、「日本のローカルな診断で研究するのではなく、グローバル・スタンダードで書き直されて
はいかがでしょうか」と慇懃に却下される時代となっていた。もともと学会嫌いだった上に、DSM が造っ
た大きな流れに逆らう研究を続けたことから、グラーツの時とは違って気楽に学会に参加することは出
来なかった。
このような経緯もあって、私が参加する学会は満田先生や福田先生がその設立に関わった生物学的
精神医学世界大会と、ウェルニッケ−クライスト−レオンハルト(WKL)学会などに限られていた。
WKL 学会は、非系統性分裂病や類循環性精神病など、定型分裂病と躁うつ病との間に第 3 の疾患群が
存在することを主張し、満田とは学問的に近いレオンハルトを記念して弟子たちが設立したものである。
生物学的精神医学会は、福田哲雄先生が会長を務めた第 5 回大会(1991:フィレンチェ)に続き、第
6 回大会(1997:ニース)と第 7 回大会(2001:ベルリン)に参加して演題を発表した。ニースの大会
では、DSM 一辺倒の反省も感じられるようになり、私の発表に興味を持った人がいたようで、会場か
ら質問されたり、演壇を降りた後も見知らぬ外人から握手を求められ、もっと話をしようと誘われた。
さらに、三重大学の鳩谷龍先生からは「今日は、林君の発表が一番よかった」と、身内とは言え最大級
のお褒めをいただいた。英語での質疑応答を思い返すと冷や汗ものではあるが、研究の内容が評価され
たことは間違いなく、ただただ嬉しかった。研究は辛く苦しいものではあるが、辛抱の先には希望もあ
ることを実感し、その後の数日間は高揚した気分で過ごしたものである。
第 6 回生物学的精神医学世界大会(ニース、1997)で発表する筆者
WKL 学会はこじんまりした仲間内の研究会のようなものであって、私にとって一番気楽に参加でき
る学会だった。第 3 回のブダペスト大会(1995)には、Soziodemographische Untersuchungen über
− 52 −
私と国際学会
atypische Psychosen bzw. zykloide Psychosen mittels ICD-10 Kriterien と題する発表を行ない、第 4
回のゲッチンゲン大会(1998)では、Magnetic resonance imaging findings in typical schizophrenia
and atypical psychoses という演題で発表した。第 4 回大会では発表内容に若干の自信もあり、何らか
の賞が貰えるのではないかと思ってフランクフルトまでの飛行機の中で受賞式の際の挨拶文を考えてい
たものである。実際、500 マルクの賞金と賞状をもらったが、授賞式は遅刻したために用意していた挨
拶は出来なかった。と言うより、気恥かしさもあってか無意識的に遅れたと言って良いのかも知れない。
ただ、知らない外人に取り囲まれ、おめでとう、おめでとうと言われて酒を注がれた時は率直に言って
嬉しかった。
私はこれまで、DSM などの操作的診断ではほとんど無視されてきた非定型精神病について研究し、
内因性精神病の分類について自分の思うところを臨床のデータで証明しようとしてきた。そして、一流
ではなくとも採択してくれる雑誌に投稿し、いつかは、誰かが評価してくれるだろうと密かに期待して
きた。しかし、一人でも多くの精神科医に自分の研究を理解してもらいたいと願う気持ちがあったのは
確かで、機会を見ながら内外の学会で発表した。会場での反応に一喜一憂したのも、学問に携わる研究
者としての性(さが)なのであろう。外国語は書けるがさほど喋れないにもかかわらず、それでも参加
してきた理由を聞かれれば、国際学会にはそれなりの魔力があるからと答えるしかない。
(本稿は、日本生物学的精神医学会誌< 23: 225-226, 2012 >に掲載された原稿に基づくものである)
− 53 −
札幌トロイカ病院開設30周年
祝辞
京都大学名誉教授
公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所
林 拓二
札幌トロイカ病院の開設 30 周年、まことにおめでとうございます。
有田先生とは昭和 45 年に京都大学を卒業した同期であり、学生時代が政治の季節であったことから、
我々は医学・医療の改革にも強い関心を抱き、卒業後は同じ精神科医としての臨床を始めました。私自
身は民間の精神病院で患者さんの処遇の改善に取り組み、毎日の臨床に追われていたのですが、精神医
療よりも精神医学に、すなわち精神病の原因を明らかにしたいと考え、どちらかと言えば生物学的な研
究を志向するようになりました。一方、有田先生はどちらかと言えば心理・社会的な方面に興味を持た
れたようで、精神分析から司法精神医学へと関心を進め、司法と精神医療の谷間にあって、処遇が難し
く陽が当らない患者さんのための施設という、新しいコンセプトの精神科病院を創ろうとされたと思い
ます。
札幌トロイカ病院が開設された昭和 58 年といえば、私は民間精神病院での 10 数年の臨床に区切りを
つけ、ドイツに留学して精神医学を学びなおそうとしていました。丁度その頃に、有田先生はオランダ
への留学を終え、八王子医療刑務所勤務を経て、自らの理想を実践できる場所として北海道歌志内の女
子少年院を経て札幌の地に精神科病院を開設しておられます。当時は、急造された民間精神科病院の不
祥事が相次ぎ、精神医療に対する風当たりが強く、精神科病院の新設は難しい時代であったのではない
でしょうか。有田先生もまたひとかたならぬ御苦労があったかと思われます。その頃、人員・設備を充
実させてモデル病院と自負する公立精神科病院に比べ、人材・設備の面で充分とは言えない民間病院が
治療困難例、処遇困難例の多くを引き受けておりました。近年、司法関連の病棟が公的病院に併設され
ましたので、事情は多少変わったかと思いますが、有田先生は、このような患者さんの治療や矯正に進
んで取り組み、患者さんのために、様々な困難を克服しながら頑張ってこられたことと思われます。時
おり、有田先生から病院のお話を聞くことがありましたが、常に「トロイカ」と精神医療の理想を熱く、
熱く語り続け、その様子は学生時代を思い起こすほどに若々しく、われわれ同期の精神科医としては羨
ましく、また頼もしくも感じておりました。
平成 15 年 9 月に札幌で開催された日精協精神医学会で講演した折に、私は再度トロイカ病院を見学
させていただきました。有田先生がこの 30 年間、院長・理事長として北の大地に創り上げた存在感の
あるユニークな病院は、今では急性期の治療病棟の他に、介護老人保健施設やグループホームなど、時
代の要請を受けた施設が併設されております。日本が超高齢社会を迎えるにあたり、精神医療に求めら
れる役割はますます多様になると思われますが、これらの課題にトロイカ病院が今後どのように取り組
んでいくのか、今後の展開を期待したいと思っております。
札幌トロイカ病院のますますの御発展を祈り、有田先生ほか職員の皆様のご健康をお祈りいたします。
(本稿は、医療法人共栄会 30 周年記念誌「森の始まり」に掲載されたものである)
− 54 −
自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた
精神科病棟看護師の関わりの一事例
−プロセスレコードを用いた振り返り−
公益財団法人豊郷病院 3-6 病棟
西川由希子
Key word:関わり、患者 ‐ 看護師関係、精神科看護
はじめに
神郡
1)
は、「精神看護学が、その期待される効果を十分に果たすためには、豊富な臨床経験に裏付け
された精神疾患や精神疾患患者の看護についての理解をもち、それらを基礎に、人々の心の問題を広く
理解できるようにならなければならない」と述べている。経験の浅い看護師は、必要な情報を“効率よ
く”“的確に”得るためのスキルを獲得できていないが為に、ともすれば患者の「あれも聞いて欲しい、
これも聞いて欲しい」という欲求に巻き込まれ、距離感に困難を感じてしまうことがある。あるいは逆
に、「この人には話しても仕方ない」「この人とは話したくない」と拒絶されることも起こり得る。関わ
りの中で、相手の感情に巻き込まれない事が大切であるが、十分な知識や臨床経験ではなく実体験を基
に患者の話を聞く事で、知らず知らずの内に相手の感情に同情してしまう恐れがある。臨床経験の浅い
現段階で私に出来る事とは何であるのかを考えた。その結果、患者にとって話しかけやすい雰囲気を作
り、情報を得て、その情報を他のスタッフと共有することで患者に必要なケアの糸口を見出していける
のではないかと考え実践してきた。
患者−看護師関係という専門職として、関わることができていたのか、できていないとすれば自分の
関わり方の問題点がどこにあるのかを振り返り、ケースに取り上げた。
自己を客観的に見つめ自分の傾向を知って、今後の関わり方への課題を明らかにすることを目的とす
る。
Ⅰ.事例紹介
患者:A 氏(40 代女性)、うつ病、自殺念慮があり、入院後も対人関係や家族関係が原因で自傷を繰
り返す。看護師に対しても「あの人は怖い」「あの人は聞いてくれる」と区別している。
期間:入院時(2011 年 8 月)∼ 2012 年 4 月
Ⅱ.倫理的配慮
ケーススタディを行うにあたり、A 氏の家族に趣旨と目的を説明し、書面にて同意を得た。また院
内倫理委員会の了承を得て、A 氏の精神状態と気質を考慮し、家族の了解のもと、本人には伝えない
こととする。
− 55 −
自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた精神科病棟看護師の関わりの一事例
Ⅲ.看護の実際
1.方法
プロセスレコードを用いて、上手くいった関わり、上手くいかなかったと感じた関わりを取り上げ
involvement(かかわり)概念の構成要素に沿って考察する。
2.看護における「involvement(かかわり)」の 4 つの視点(構成要素)
1)経験の共有:時間や場、行動を共有すること、また、患者との相互関係により患者の過去、現在
の経験を感情、認知レベルで共有し、患者を知ること。
2)感情の投資:患者に対して看護師の感情や関心を向けること。
3)絆の形成:患者とのつながりを深めていくこと。つながりが深まるにつれて双方を身近に感じ、
信頼感が深まる。その看護師が身近に感じる感覚は、その患者との関係性やイメージの仕方により、
友人であったり、家族のメンバーであったりするなど異なる。
4)境界の調整:看護師が患者との対応の中で、患者と共有する互いのプライバシーの境界を調整し、
患者だけでなく家族や医療チームに対しても専門的技術を提供して、職業的境界の範囲を意識的無
意識的に取り決め、その責任を負うこと。
3.実施、結果および考察
1)場面1 入院より 3 か月後
A 氏が他の患者の相談に乗っている。しかし、A 氏は他の患者の訴えに対処しきれなくなり、
看護師を呼びに来る。私がその患者に対応し、その間 A 氏は少し離れたところでその様子を見
守っている。対応のあと、私は A 氏の所へ戻る。
場面 1 では、自分が聞いた悩みを自分で対処しきれなかったことに対し、離れて見ていた事か
ら、A 氏は自分が取った対応の顛末が気がかりであったと考えられる。看護師を呼びに来ると
いう行動をとれた事を評価し、A 氏の心身の状況を確認した①。その結果、A 氏自身が抱える
悩みが表出できていない側面が見えた⑤。相談したいという思いを持ちながらも、相談をする手
段や相手がわからないという事が考えられる。
対象者の言動
私の考えた事
私の言動
①「ありがとう。どうしたらい
いか困って来てくれたのですね。
よく A さんは色んな人の相談に
乗っているけど、しんどくはな
いですか?」
②「みんなが喋ってくるから聞く
けど…私は人には相談しない。」
③ A さんの思いを話せる人は居
ないのかな?」
⑤「相談しても意味が無いから。」 ⑥なるほど。それでよく A さん
は抱え込んで自傷してしまうの
か。
− 56 −
④「なんで?」
⑦「聞くばかりだと、しんどくな
るでしょ?疲れない?」
自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた精神科病棟看護師の関わりの一事例
対象者の言動
私の考えた事
私の言動
⑧「西川さんもしんどいんや…
私の話ばっかり聞いて」
うつむく
⑨あ…。悪い風に思わせてしまっ
た。けれど、立場を変えて考える
ことができているんだな。
⑩笑顔で
「話を聞く事は私達の仕事です
からね。大事な話はみんな聞き
ますよ。」
⑪「いつも聞いてもらってばっか
りや。」
⑫まあね。私も確かに聞いても
らってばかりだと申し訳なくな
る時があるな。
⑭「うん、苦しくなる。しょっちゅ
う。ありがとう、また話してもい
いの?」
⑮看護師であっても、他の人でも
自分と同じ思いはあるという事少
しは伝わったかな
⑯「また明日も私、来ています
からね。私でなくても勿論他の
看護師でも、困った時は相談し
てくださいね。」
⑰「うん…はい。ありがとう」自
室へ戻る
⑱対処できなかった事を自責しな
いかな?
⑲「私でお役に立てる事があれ
ばいつでもどうぞ。」
⑬ A 氏と向き合う
「私も自分が困った時はそれを聞
いてもらえそうな人に相談する
し、話を聞いてもらいますよ。
一人でいっぱいため込んでしま
うと苦しくなってしまうんです
よね。A さんにもそんな経験あ
りますよね?」
この場面以前からずっと持っているかもしれない A 氏の抱えている思いを推測し、関心を向けた行
動がとれた⑦。ありのままの看護師の関心を向けることで、相手も素直な感情を出すことができている。
→感情の投資
それに対し、A 氏は、自責の念を抱いている⑧が看護師としての境界、責任や役割の意味合いを伝
えることにより、言葉に出して良いことをメッセージしている。⑩→境界の調整
更に、A 氏だけではない、私自身が実際に感じた事のある経験を伝えることによって、A 氏自身の
心境とのズレが無いかを確認している。また A 氏が自分の話を聞いてもらう事への自責の念の軽減を
図っている⑬。→経験の共有
限られた時間の中での関わりややり取りの後、時間を置いた時に相手の言動が気になり、不安や怒り
や疑問が沸く事はしばしばみられる。また、次々に様々な感情や思いが沸き起こり、自分の中でまとま
らない段階で話すことで、不安が増す場合もある。そういった事から、次も話す機会があるという意味
で、私はよく「明日も来ます」と伝える。自分の思いを表出しても良いというメッセージを繰り返し伝
えていくことでの信頼関係作りを図っている⑯⑲。→絆の形成
2)場面2 入院から8か月後
いじめにより不登校だった娘の卒業式間近。今まで卒業式には行きたくないと言っていた A 氏の突
然の心境の変化に戸惑った場面。この場面の 1 時間後、A 氏は自傷行為に至る。
対象者の言動
私の考えた事
私の言動
①「娘の卒業式に行こうと思う」
②なんで突然そんな事を。今まで
絶対に行かないと言っていたのに
③「あら?今まで行きたくないっ
て言っていたのに?」
④「うん。」
⑤あら…
⑥「家の人は?」
− 57 −
自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた精神科病棟看護師の関わりの一事例
対象者の言動
私の考えた事
私の言動
⑦「みんな反対してる。」
⑧なぜ反対したのかな
⑨「なんでそう言われたのかな?」
⑩「虐められた子の親に復讐する
ねん。」
⑪それが目的で…
⑫「それはダメだな。そんな事を
して誰かが喜ぶのかな?」
⑬「私らはずっと苦しんできたん
や!」
⑭前から何度もそれが引っかかっ
ているとは聞いていたけど
⑮「そうね。苦しかったのよね。
でも、それをやってしまったらま
た嫌な思いを思い出すのでは?」
⑯「私は許せないんや!」
⑰衝動的な感じだな
⑱「そっか。みんなの卒業式です
よ。嫌な事があったけど、最後
くらいいい顔で卒業させてあげよ
う。」
⑲「娘は行かへんって。」
⑳やっぱり…
「そうなんだ。それなら娘さんの
思いを尊重してあげましょうよ。」
「はい、わかりました」
「そろそろご飯の時間ですよ。
」
場面 2 では、思いの変化に対して、今までの A 氏の発言が私の思い違いであったのかを確認した①。
家族の意見も A 氏は聞いていることから、
突然の思いつきでは無かったことが窺われる④。しかし私は、
以前の A 氏の発言にとらわれ、一時の感情に巻き込まれている。
A 氏の発言に対して、何とか思いとどまらせようと一方的に自分の意見ばかりを伝えている。娘と
の結びつきが強い A 氏にとって、娘を第一に考えれば、A 氏が思いとどまるだろうとの考えで、私か
ら会話を終了させている。また、私は食事の時間が気がかりで、A 氏が問題にしている本質を捉える
ことができていない。A 氏の感情的な緊張の包含をし、患者を知ることができていない→経験の共有
ができていない。あるいは、A 氏との、この場面においての関わりで、自分の都合による会話への専
念ができていない事が問題である。→感情の投資ができていない。食事の後で話す機会の約束を取り付
ける事は可能であったと言える。
3)場面 3 入院から 9 か月後
関わりすぎと指摘を受け、A 氏との関わりを意図的に少なくしていた。私になら話しても大丈夫だ
と感じ、A 氏が入院以来築いてきた私との信頼関係が、関わりが減った事で崩れてしまったと A 氏は
感じている。ただし、距離を作るのではなく、A 氏に接する機会がある場面では、必ず調子を聞く事や、
良くなった点を評価するような声掛けは欠かさないようにしていた。また、A 氏も病棟内に密接に話
せる話し相手ができ、頓服薬の使用頻度や病棟看護師への訴えも少なくなってきていた。
検温の際に A 氏の部屋を訪れ、A 氏と向き合ってしゃがみ、「おはよう」と声掛けをするが、A 氏が
突然怒り出した場面。
場面 3 では、自傷他害の危険性があった為、A 氏の身の安全を確認している。気が立っている状態
の患者に対して冷静に対応することは看護師として適切であった。全面的に A 氏の感情を受け止めよ
うとしての行動をとっている。→経験の共有
信頼関係が崩れてしまったと A 氏は感じている。それに対して、言語的な部分だけでない、非言語
的な部分でも看護師としての観察や関わりをしていることを私は伝えている。壁と表現していることか
− 58 −
自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた精神科病棟看護師の関わりの一事例
対象者の言動
私の考えた事
私の言動
①カーテンにスリッパを投げつ
け、暴れる
「もう看護師なんか誰も信用せえ
へんわ。もう誰にも喋らへん!」
②あら。また自制できなくなっ
てしまった?
③周りを見渡し、危険物が無いか、
対応できなくなった場合すぐに他
のスタッフの所へ行ける状況であ
るかを確認。
A 氏を抱き寄せる。静かに声を
かける。「何があった?」
④「あんたや。喋ってくれるっ
て言ったのに全然喋ってくれへ
ん。西川さんは壁を作ったんや。
何にも知らんやろ!」
⑤私に対して怒っているのか…
⑥「わかった。私が許せないの
ね。私に喋らなくてもいい。でも、
私は A さんの様子をいつも見て
いますよ。話せる人ができたな、
人と話している時に笑顔になっ
ているなとか、ご飯を今日はい
つもより多く食べているな、最
近はヤケになって自分を傷つけ
ていないな、とか」
⑦「え…。」驚いて茫然としてい
る。全く予想していなかった様
子。
⑧信頼関係が壊れたとカルテに書
いてあったな。
⑩座り込み無言になる
⑪関わりって難しいな
⑨手を A さんから離し、少し離
れる。
「私を嫌だと思っても構わないで
すよ。ただ、他の看護師まで嫌
いにならないで。話せると思う
人には何でも相談して下さい。
私は離れてできる A さんに必要
な事をしますから。」
⑫「では。」退室する。
ら、どこか私への話しかけづらさを A 氏が感じ取っていたと考えられる。ただし、頓服薬の希望や、
A 氏が病棟で過ごす上で必要最低限な要求は私へもできていた。自分が特別視されているような居心
地の良い患者−看護師関係は、患者の退院を目的とした関わりにおいては不適切であり、生活力を取り
戻すことを支援することも必要と言える。→境界の調整
Ⅳ.考察
牧野ら2)は、「看護師は、感情を自覚することと合わせて援助に対する最終的な関心の方向性が患者
や家族、看護師自身、チームなど、どこへ向いているかを自覚することも重要である。援助したいとい
う思いが強くても、それが患者のニーズに合わない場合や、看護師の行うことができない場合もあるた
め、『感情の投資』については、看護師自身の感情や関心の方向性と同様、患者のニーズと看護師がそ
のニーズにどれだけこたえることができるかを自覚することも重要である。
」と述べている。自傷や自
暴自棄になる A 氏に、私が(看護師が)関わった場合に、何を目的として声掛けをするのか、どこを
最終目標とするのかを常に意識しておくことが重要である。つまり、患者の本質や性格を治療すること
はできない。しかし、A 氏がその時々の段階で何を必要としているのか、家族がどうなることを求め
ているのか、看護師が医師の方針のもと、どう A 氏の思いをどこまで受容するのかを調整することは
できる。
入院してまだ時期の浅い頃には、A 氏は対人関係の調整がうまくいかない事が多かった。その時期
には、自傷行為に至らないように留める事が優先され、私は A 氏との信頼関係を作る為に患者のニー
ズにより多く応えるよう努めた。
場面 1 において自傷行為に至らなかった理由としては involvement 概念の 4 つの構成要素を活用でき
− 59 −
自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた精神科病棟看護師の関わりの一事例
ていた事が考えられる。場面 2 においては、A 氏がその時求めている本質を見抜けなかった事、A 氏
が納得できるまでのプロセスを踏むことができなかった為に、患者と看護師との間ですれ違いが起きた。
その結果として自傷行為に至ったと考えられる。場面 3 では、目標が退院へと近づいてきた時期でもあ
り、看護師や医療者依存ではなく、A 氏自身が個々の問題をどのように対処していけるかを見出せる
よう関わる時期であった。意図的に距離を取っていた事で A 氏自身の不満が表出した場面ではあるが、
患者自身の、退院したいという欲求と病院に安心感を求める、相反するニーズを調整し、受け止める事
ができたと言える。やはり、そこには、以前からの絆の形成があり、経験の共有ができたからだと考え
られる。
Ⅴ.結論
患者との関わりにおいて、看護師は、何を目的としていくのか、何を目標としているのかを常に意識
しておくことが重要である。
行き過ぎと感じられる関わりは、患者にとっても看護師にとってもマイナスの要素があり、退院を延
ばす結果にもなり得る。
看護師自身が気持ちの余裕をもって患者と関わることで、患者がその思いを表出できる関係づくりが
でき、必要な援助が見出せ、チームで取り組む方向性が見つけられる。
相手の感情に巻き込まれ同情してしまうことなく、一定の距離を保ちながら共感できる関係を持つこ
とが大切である。
おわりに
後日、A 氏より、「もう喋らへんって言ったのに、なんで喋ってくれるの?」と質問された。それに
対して私は、
「相手が拒まない限りは。私にも、もう喋らないって言って後悔した経験がありますから。」
と返答した。
患者主体の受容的な関わりは大切にしていきたい。そのためにも双方に負担の無い関わり方が今後の
課題である。また、患者個々の性質や病態に合わせた距離の取り方も学んでいきたい。
文献
1) 神郡博他:新体系看護学第32巻精神看護学①精神看護概論・精神保健,メジカルフレンド社,p.9,20 0 6
2) 牧野耕次他:看護におけるinvolvement概念の構成要素に関する文献研究,人間看護学研究3号,p.10 7
3) 古山祐可他:精神科看護師における上手くいかなかったという思いのある事例解釈の変化 看護における「かか
わり(involvement)」を学習して,人間看護学研究9号,
4) 木田孝太郎:心をみまもる人のために ‐ 精神の看護学,学習研究社,19 9 6
5) 渡辺雅幸:専門家がやさしく語る初めての精神医学,中山書店,2 0 0 7
6) 川野雅資:実践に生かす看護コミュニケーション,学習研究社,20 0 3
7) 日本精神科看護技術協会:精神科ビギナーズ・テキスト ‐ すぐに役立つ基礎知識と実践ガイド,精神看護出版,
2005
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自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた精神科病棟看護師の関わりの一事例
(本稿は、豊郷病院ケース・スタディ発表会< 2012.6.19 >での講演原稿である)
精神科急性期(3-6)病棟ナース・ステーションにて
− 61 −
うつ症状のある患者の自立支援の為の
対応方法の工夫
−自己の役割を再認識し自立支援施設参加を促して−
公益財団法人豊郷病院 3-6 病棟
中村祥子
Ⅰ.はじめに
うつ病の特徴として、憂うつ感、悲壮感、孤立感などの抑うつ感情に加えて、気力の低下、注意集中
力の低下、判断力の低下あるいは睡眠障害、食欲の低下などがあげられる。患者自身は自分を責めたり、
悲観的になって自殺念慮を抱いたりしやすい。発病のきっかけとして生活の大きな変化(退職)
、責任
の急増(職場での昇進・出産)や、仕事を無事終えてほっとしたとき、あるいは慣れた環境から新規の
環境への移転などがある。
現在抑うつ状態で入院中の A 氏も気力・食欲の低下や憂うつ感などの症状を主訴に入院し、加療の
結果、現状は安定している。
壮年期のA氏には妻と子供が 2 人いる。自分が家族を養っていかなければならないという思いが強く、
病気と向き合いながら家庭での役割を果たすべきと自立支援施設での作業に参加していた。しかし、病
状が安定したことで障がい者年金の等級がさがり、経済的な不安が出現し自立支援施設での作業を休む
ようになった。
そのようなA氏に対し、自身が自己の役割を再認識して自立支援施設の作業に参加できるようになっ
て欲しいと思い、A氏の個別性に応じた対応を工夫した。その結果、自己の役割を再認識し自立支援施
設への通所を再開できたのでその経過を若干の考察を加え報告する。
Ⅱ.目的
行った対応がA氏の個別性に応じた効果的な関わりだったのか検証する。
Ⅲ.方法
1.患者紹介
氏名・年齢・性別:A氏 50 代 男性 診断名:抑うつ状態家族構成:妻と子供 2 人と 4 人暮らし性格:気まじめで神経質・現病歴:平成 2
年頃から気分低下があり、不安な気持ちを持つ自分が情けなく思い、一家を養っていけるのか心配にな
り通院治療を行うが状態が落ち着かないため入退院を繰りかえす。
2.入院中の経過
平成 22 年 8 月に食事が食べられなくなり、自床に引きこもるようになった為、再入院となる。食事
を摂ることができず食べるという動作が負担になっていたが、加療により食事が摂れるようになったこ
とをきっかけに今後の就労や在宅生活における生活リズムと体力作りの為、自立支援施設の作業に参加
− 62 −
うつ症状のある患者の自立支援の為の対応方法の工夫
するようになった。
3.期間
1 月下旬∼ 3 月初旬
Ⅳ.倫理的配慮
A氏に口頭と文面で以下の 4 項目を説明し、同意と署名を得た。
研究の趣旨、私の看護を深める為に行うこと
事例紹介は氏名をふせて実名のイニシャルを使わないことで、個人が特定できないよう配慮します。
また研究記録は研究の発表後、消去・抹消すること。
この研究への参加・協力を同意した場合でも、いつでも途中でやめることができること、また取りや
めることによって、不利益を被ることは一切ないこと。
Ⅴ.看護の実際
1.分析
「うつ病患者に対しては、安易な励ましは、かえって自信を失わせ、孤立感を強め苦痛を与えるので
避ける必要がある。また患者の訴えを根気強く聞き、患者のつらい気持ちを受け入れて、感情表現を支
えることが重要となる。¹⁾」と外口氏が述べている。現在 A 氏の症状は落ち着いていたが、障がい者
年金の等級がさがったことで自殺念慮を表現したり、
抑うつ気分、
睡眠障害などがみられる可能性がある。
患者が自分の存在価値を認識できるような声かけや対応が必要であると考える。
2.看護上の問題
# 1 役割意識の低下、経済的不安からの抑うつ状態に関連した自己尊重の混乱
3.看護目標
⑴自分の役割が再認識できる。
⑵自立支援施設の作業に参加できるようになる。
4.看護計画
O-T:表情・言動
②活動状況・行動意欲・行動パターン・一日の過ごし方
③通所前後の表情や言動
T-P:
朝の挨拶を必ず行う
②外出時には「いってらっしゃい、帰りを待っています。
」・「おかえりなさい、困ったことはありま
せんでしたか?」など声かけを行う。
③ A 氏が冷静な判断が出来るまでは看護師が外出や外泊を止める。
5.実践・結果
自立支援施設での作業を休むようになった A 氏は日中、自室で過ごすことが多くなった。表情も冴
えず「自分は生きていても必要ない人間。家族に迷惑をかけているだけで今後うまくやっていけるのだ
ろうか」
「もう、こんなこと続けられない。退院したい」と話すようになったが、食事や入浴などの日
− 63 −
うつ症状のある患者の自立支援の為の対応方法の工夫
常生活動作は行えていた。そのような発言から私たちは現実を知った事による焦燥から退院要求・願望
が強まったと考え、正しい判断に欠け、離院リスクが高いと判断し、外泊・通所の一時中止を提案した。
それと同時にこれからA氏に対し、どのような関わり方をしていけばいいのかを考える為、自立支援施
設の担当者とのカンファレンスで討議した。
A氏が現実を受け入れられ、正しい判断ができるまではA氏を見守り、また自立支援施設への通所は
A 氏にとって今後の就労や生活リズムと体力作りであり退院の為の手段であることを改めて説明した。
それと同時に入院中である為、「離院をしないこと」をA氏と約束した。休養が必要な場合は休むこと
を看護師に伝えるということもあわせて話をした。
その結果、2 週間後、A氏の中で少しずつ現実を受け入れられるようになり、表情も穏やかになって
いった。そして通所再開まで、病棟内の喫茶作業を手伝うようになった。
「マイナスばかりに考えてい
ても仕方がない。」「前向きに頑張りたい。」という発言が聞かれるようになり、自立支援施設への参加
が 2 月下旬頃から再開となった。その頃の A 氏は、表情は穏やかで「自分にできることを頑張らないと。」
と話をするようになり、生き生きしている姿がみられ、病院と自宅・通所を繰り返しながら、自分の役
割を再認識することができた。
Ⅵ.考察
「障がい者の就労は社会参加の一形態であり、障がい者が自分のもっている能力を発揮し、生活リズ
ムをつくり、役割を担うことによって自己役割をたかめる手段である。また働く場面は、自分ができる
こと、苦手なこと、生活上の課題などがあらわれやすいために、現実の自分に向き合い、取り組んでい
く機会にもなる。そのための現実的な準備として、体力作りや生活リズムの調整や就労に向かう心がま
えなどを獲得しなければならない。²⁾」と外口氏が述べている。
A 氏にとって必要な関わり方、A氏は気持ちの整理に時間を要するということがわかりその間、A
氏を見守り毎日声掛けを行うというA氏に応じた対応をスタッフ全員が共有し、統一した関わりを行う
ことで A 氏が自分の役割を再認識することができたと考える。
また、自立支援施設への通所の必要性を改めて説明することで、自己の役割の再認識につながったの
ではないかと考える。
「精神看護として患者のあらわすさまざまな行動を適切に判断し、それぞれの患者の状態に応じて、
患者を支持していくことが求められる。
しかし、病棟の秩序を著しく乱したり、他の患者に迷惑をかけたり、極端な行動化があらわれた場合
には、治療者と話し合い、患者に対する接し方を考え、医療スタッフは一貫した態度で患者に接するこ
とが大切になる。³⁾」と田中氏が述べているように今回、A 氏は、現実を知ったことで自分自身を不安
や不快感からまもり、現実に適応しようとするメカニズム、防御機制をはたらかせたのではないか。
その結果、A 氏の自己効力感が向上し、現実を受け入れられたことで自己の役割の再認識ができた
のではないかと考える。
− 64 −
うつ症状のある患者の自立支援の為の対応方法の工夫
Ⅶ.おわりに
今回のケースを振り返り、精神科において大切である個別性のある看護というのが改めて重要である
とわかった。同じ病名でも患者の生活背景や年齢や性別、性格で関わり方が変わるということ。いかに
自分が患者と信頼関係を築くことができるかが大切になってくると思った。
また、得た情報は自分だけのものにせず、スタッフが共有することで一貫した看護ができ、その結果
が病状安定につながるのだと感じた。
これからも精神科で働く上でとても大切なことを学ぶことができた。
引用参考文献
外口玉子:系統看護学講座 精神看護学(2)
,医学書院,P1 2 6,2 0 0 8.
外口玉子:系統看護学講座 精神看護学(1)
,医学書院,P2 7 9,2 0 0 8.
田中美恵子:系統看護学講座 臨床看護総論,医学書院,P3 2 3,2 0 0 7.
長田久雄:看護学生のための心理学,医学書院,2 0 0 6.
長谷川浩:系統看護学講座 人間関係論,医学書院,2 0 0 7.
吉田佳郎ほか:精神科看護の知識と実際,メディカ出版,20 0 9.
(本稿は、豊郷病院ケース・スタディ発表会< 2012.6.19 >での講演原稿である)
精神科急性期(3-6)病棟ナース・ステーションにて
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患者対応で受けるストレス軽減の効果
−精神科病棟におけるナラティブ・アプローチを用いた看護師への支援の取り組み−
公益財団法人豊郷病院
柴田美恵子 仮屋隆史 松井理沙
Key Word
患者対応ストレス ナラティブ・アプローチ 精神科病棟看護師 はじめに
精神科病棟では、看護師は患者の生活に最も身近に関わっている為、時には患者から暴言、暴力、妄
想の対象となり、看護師が患者に対して陰性感情や恐怖感を抱くことも多い。特に精神科の経験の浅い
看護師の中には、自分の対応を責め自信をなくし、ひいては看護能力や資質にまで否定的になることも
あると考える。
このようなストレス体験 ( 本研究ではストレスとは「自分自身で解消されない辛さ」と定義した ) を
受けた時、自分自身で処理することができない複雑な感情が生まれることがある。他者からの支援があ
ることによって、その複雑な感情が解消され、逆に支援がないことで、いつまでも解消されない実態が
あると考えられる。
ナラティブ・アプローチにより看護師が患者対応で受けるストレス軽減効果をさぐることができ、ひ
いては、職務として看護師が患者に対して看護業務が日常的にスムーズに行え、患者のケアに役立つの
ではと考え、今回この研究テーマを設定しナラティブ・アプロ―チを試みることとした。
Ⅰ.研究方法
1.期間:平成 20XX 年 8 月∼ 10 月の間全4回
2.対象者:精神科看護の経験が 10 年未満程度で同意を得た看護師7名 ( ファシリテータ1名を含む )
3.場所:病院内会議室
4.方法:患者対応ストレスについて参加者グループで1時間程度語り合う。( 以後、ナラティブの
会とする )
5. 分析方法:ファシリテーターを除く 6 名で 4 回分の POMS 評価の平均値をナラティブ前後で比較
し統計処理は Excel でt検定を行った。
6. 倫理的配慮:研究の趣旨やナラティブの内容を記載した用紙を用いて研究の目的と方法、参加す
ることで業務上の不利益がないこと、研究以外に使用しないこと、本人及び患者、患者家族のプ
ライバシーを保護すること、等を研究対象者に説明して研究参加のお願い同意書に記入を依頼す
る。また、ナラティブの内容をレコーダーで記録することの同意を得て、同意書と同様に保管し
研究終了後は破棄することを文書にて伝え同意を得る。研究結果を発表する際には個人が特定で
きないよう配慮する。
− 66 −
患者対応で受けるストレス軽減の効果
Ⅱ.結果
ナラティブの会1回目は患者対応ストレスについてどんな時に感じたか過去のネガティブな看護経験
を語った。2回目は1回目と同じ過去のネガティブな看護経験を語ることが多かった。前回では語り切
れなかった事柄や、思い出したことを全員が話せた。3回目はどんな場面で、どんな患者に対してスト
レスが多いか語り合った。患者から暴言暴力を受けた時に周りのフォローがなかった時、患者が妄想を
訴えてくる時に対処できなかった時などがあった。一通り話が出たころから「悩みが共有できた。」「助
け合う必要性がわかった。」「横の繋がりができた。」などの発言があった。4回目は3回分のナラティ
ブの会を行った感想を語った。「先輩の過去のことが聞けて、それでも頑張っているのを見て私も頑張
らないと、とプラスに考えることができた。」「みんなの話を聞けて不安を解消して共感もできた。」「自
分のストレスの解消方法の改善、反省の気づきがあった。」「ナラティブの間は話を聞いてもらえ、うな
ずかれるだけで嫌な事が忘れられ楽しかった。」「最初は同じ病棟で話せるのか不安もあったが、始まっ
たら同じ基盤で理解してもらえてモチベーションが上がった。」など前向きな気持ちに変化していった。
POMS の尺度を全4回をまとめた評価は図1のような結果となった。
「緊張 - 不安」に一番有意差が見られたことから、気の張り詰め、落ち着きなさ、不安定な感情が低
下したと評価できた。次に有意差があったのは「混乱」であり当惑の改善や思考の低下の向上、心の中
の乱れに整理ができていた。「疲労」では意欲や活力の向上があった。このことは、疲労に伴う倦怠感、
眠気、怒りっぽさなども軽減されたと判断できた。次に「怒り - 敵意」でも有意差があり、不機嫌さ、
イライラが募っている状態が抑制されたという効果があった。「抑うつ - 落ち込み」は、有意傾向があ
ると判断された。自信喪失傾向を伴った抑うつ状態を表していることから、気持ちの落ち込みを和らげ
る効果があったと判断できる。
図 1. ナラティブ実施後のストレス軽減の効果
Ⅲ.考察
1回目では、過去のネガティブな自分を語ることで心の中の当惑や乱れに整理ができ、それが自信回
復に繋がり意欲の向上があったと考えられる。2回目では、前回語れなかったことや、思い出したこと
を語ったことで、心の中の乱れを全員が整理できたと考えられる。3回目では、悩みを共有することで
横の繋がりいわゆる信頼関係が構築でき、それがイライラや不安定な気持ちを落ち着きに導いたと考え
− 67 −
患者対応で受けるストレス軽減の効果
られる。このことは POMS の3回目だけの結果でも初めて「緊張 - 不安」に有意差が見られたことか
らも推察できる。
4回目の感想では、イライラや気持ちの落ち込みが解消し、不安定な感情が落ち着いたところで信頼
関係もでき、自分自身に新たな気づきがあったことがうかがえる。それは POMS の結果から6項目の
うち4項目において有意差がみられ1項目は有意傾向を示したことからも、過去の患者対応ストレスに
ついて自分自身振り返ることができ、過去の記憶の中に変化があり前向きに考えることができるように
なったと考えられる。
大久保
1)
は「ナラティブの対話を通して他者の経験の意味を意識化することで気づきがもたらせる。
それを、他者 / 自己へとリフレクションすることで思い込みから開放され実践に変化が起こる。」と述
べている。今回4回実施したが、回を重ねるごとに、経験が共有できたことで信頼関係が生まれ、助け
合う必要性に気づいたと考えられる。お互いに振り返ることで不安な気持ちが解消され自信回復へと導
かれたと考えられる。
精神科看護は患者と看護師の人間関係を主体に展開される看護である為、専門的な視点がわかりにく
く、患者対応ストレスを受け易いと思われる。今回4回の「ナラティブの会」を実施したことで、ナラ
ティブ・アプローチは患者対応ストレスの軽減に効果があり、看護師への支援の取り組みになることが
わかった。
Ⅳ . 結論
1.「ナラティブの会」で自由に感情を吐き出し、患者対応ストレスを受けた過去のネガティブな自
分を語ることで心の中の当惑や乱れに整理が出来、それが、気持ちの変化につながり意欲の向上につな
がったと考えられる。ナラティブは患者対応ストレスの軽減の効果を図れることがわかった。
引用・参考文献
1)野口裕二:ナラティブ・アプローチ、勁草書房、20 0 9年4月1 0日第1版第1刷 P1 1 4 1 0行
2)横山和仁、下光輝一、野々村 忍編集:診断・指導に活かすPOMS事例集、金子書房、2 0 0 2年1月18日初版
第1刷発行
(本稿は、豊郷病院看護研究発表会< 2012.12.1 >での講演原稿である)
− 68 −
患者対応で受けるストレス軽減の効果
精神科急性期病棟での作業療法士によるレクレーション活動
− 69 −
私の看護観−看護実践の振り返りから−
公益財団法人豊郷病院 3-5 病棟
堀尾素子
私は、18 年間近く精神科病棟に勤務している。新人看護師で配属された閉鎖病棟での勤務は、多様
な精神症状の中に患者の辛さがみられた。急性期の精神症状の激しさに自分の感情が引きこまれて、
「し
んどいな」と負担に感じる時期があった。その時、上司に「デパートで、美しいものに囲まれて働きたい」
と話したことがある。すると、
『悩みや苦しみ、病気になることが現実であり、人間の本質だ』と言われた。
まだ新人看護師の私には十分な理解はできなかったが、その時から覚悟を決めて、患者に向きあい続け
る精神科で働いている。
精神科疾患を抱える患者の多くは、症状により意欲が低下して入院生活が「安住の地」と感じがちで
ある。そして、地域社会に帰ることから遠ざかる傾向にある。私はその現状を見て、患者の人生を時間
軸で捉えていかないと病院で一生が終ると考えた。患者が入院によって本来の所属の場を失わないよう
に、患者と家族との接点を作ることを意識した。
特に印象に残るエピソードは、統合失調症で幻覚妄想が顕著な、50 歳代の男性患者の事例である。
症状の激しさから外出も出来ず、長期入院を余儀なくされていた。高齢の母親に執拗に電話を掛け、幻
覚妄想内容を一方的に訴えていた。そこで私は、患者の気持ちを代弁するために母親に電話をかけて、
衣替えや病棟行事など理由をつけては面会を依頼した。母親が家族に遠慮をして、病院までの送迎を頼
めないことを知っていたので、看護師からの要請であれば、母が家人に協力を求めやすいだろうと考え
た。私の作戦は成功して、月に 1 ∼2回は来院をされた。面会時は親子の会話を仲介するために私も同
席した。その時、母が「本当はこの子に面倒を見てほしかった。4人兄弟の中でこの子が一番やさしい
子だった。何でこんな病気になったんやろう。
」と話された。私は、長期入院によって喪失した親子の
時間の意味について考え始めた。例え入院中であっても母の手料理を食べる機会を作ろうと考え、母親
に病棟の調理室で散らし寿司を作ってもらい、息子と食事をされた。それは単なる食事ではなく会話が
成立しにくい患者にとって、母の愛情メッセージであった。以後、母親は手料理を届けに面会に来られ
た。本来あるべき日常生活と親子関係に、少し近づいた出来事であった。私は看護者の働きかけで、過
ぎ去った時間を埋めることが出来ると学んだ。
私は精神科看護の実践に、アブラハム・マズローの欲求の階層構造を意識している。マズローは「人
間は自己実現に向かって絶えず成長する生き物である」
1)
とし、基本的欲求の5段階の階層を示した。
この基本的欲求の階層は、私が看護をするうえで何を優先するかについて示唆を与えてくれている。上
記の事例の場合は、「所属と愛の欲求」の階層を満たしたと考えている。また、ヴァージニア・ヘンダー
ソンの著書『看護の基本となるもの』
2)
も私の考え方のエッセンスとなっている。ヘンダーソンは、
人間は 24 時間、14 の基本的欲求の中から足りないあるいは欠けている基本的欲求を充足しながら生活
している存在であるとしている。そのニーズの充足を手助けすることが、看護師が行うべき基本的看護
− 70 −
私の看護観−看護実践の振り返りから−
ケアだと述べている。私は、10項目目に論じられている「患者が他人に意思伝達ができ、自分の欲求
や気持ちを表現できるように援助すること」を実践してきたと、本事例を通して考えている。私は、患
者が母親を求める気持ちを代弁し、面会で親子の時間を作った。精神症状による会話の困難性が障害に
ならないよう、患者の意思伝達を援助することで、母親の本心が引き出せたと考える。このプロセスか
ら、患者の気持ちに気付けば共感するだけでなく、行動レベルで看護実践することが大切だと学んだ。
長期入院生活は、社会や家族との関係が断ち切れて孤立的になる。そして、本人の努力だけでは解決し
ない苦しみや悲しみも伴う。しかし私は、患者や家族が「大切にされている」と実感できる環境調整を
心掛けている。また、家族が「病気を抱えているが、かけがいのない存在なのだ」と患者を受容できる
時間を作ることで、家族関係が再構築できるように援助を行ないたいと考えている。
精神科においても、長期入院患者の社会参加が促進されている。しかし、看護師は患者の意思決定を
支援し、決して一方的な退院支援を行うべきではない。患者が退院をイメージできるような生活力がつ
けられるように、焦らず、あきらめず寄り添って行きたい。管理者として、「人間の本質に向き合う」
という私の看護観を看護実践の中で示していきたい。疾患を捉えるだけでなく、病を体験した当事者の
ありように近づいて、心の本質に寄り添える病棟づくりを目指したい。
引用・参考文献
1)和田秀樹著:痛快!心理学.集英社、200 0.
2)ヴァージニア・ヘンダーソン著、湯槙ます、小玉香津子訳:看護の基本となるもの.日本看護協会出版会、19 9 5.
精神科療養(3-5)病棟ナース・ステーションにて
− 71 −
午前中の臥床傾向改善に
意欲を持てるようになった事例
公益財団法人豊郷病院リハビリテーション科
岩田夏彦
1.はじめに
当院は精神科の一般病棟と療養病棟を有する総合病院である。筆者(以下、OTR)が担当している
療養病棟では長期入院されている方が大半を占める。
今回、統合失調症の事例を担当し、退院を目標に午前中の臥床傾向の改善に取り組んだ。OTR が作
業を提案し同意してもらうという形で設定をした。しかしすぐに立ち行かなくなり、事例自身が設定し
た作業に変更したところ、意欲が高まり、午前中の臥床傾向が少しずつ改善してきたので報告する。な
お、発表について事例の同意をいただいている。
2.事例紹介
50 歳代前半の男性。1 人息子で、かわいがられて育つ。小学校では自分で勉強や洗濯、弁当作りなど
していた。高校は普通科に入りたかったが、家庭の都合で工業高校に入学。サッカー部に所属し、友人
もいた。高校卒業後、家族や周りの勧めで工場に就職。20 歳くらいからよく物がなくなると訴え、不
眠で遅刻が増えて出勤できなくなった。県外の病院に通院したが、幻聴が出現し、近所の車を傷付け、
当院に 2 年間入院。退院後は工場や作業所、アルバイトなど転々とする。不仲となった父親を突き飛ば
し大腿骨骨折を負わせる。のちに父親は死去。また、陽性症状が強く、車で事故を起こしても示談に応
じず、銭湯では男性を殴り、X 年に医療保護入院。
X+5 年に OT 処方が出され、X + 11 年に OTR が担当となった。X+13 年自宅への退院を関係機関
と試みたが、母親の認知症が進み施設に入所となったことと、自宅の老朽化により退院は中断となった。
X+14 年のカンファレンスでグループホームへの退院が目標となった。グループホームを利用するた
めに作業所へ通うことが必要になるので、
午前中の臥床・睡眠のパターンを改善しなくてはならなかった。
3.作業療法評価
朝食には起きるが、そのあとからほぼ毎日臥床、睡眠している。臥床のみのこともある。昼前には起
きて昼食をとる。新聞、散歩、売店での買い物、地域活動支援センターのサロンに週 3 回行くなどして
いる。入眠は午後 10 時や 11 時ごろが多い。日常生活活動は自立。時々微かな空笑があり、日常的な会
話はできるが、返答は短文である。抽象的な話になると眼球を上転させながら黙ってしまう。頼まれた
ことはあまり断らないが、新しいことや慣れないことは甘えるように「できひんできひん」と強調する。
理由は黙って答えられないことが多い。話せても「こわい」
「えらい」が多く、思いや考えを的確に言
語化することが苦手である。また、対人場面では緊張しやすく、愛想笑いをし、相手に配慮している様
子が感じ取れる。他者とのトラブルはないが、特に仲の良い他患はいないようである。看護の喫茶グルー
− 72 −
午前中の臥床傾向改善に意欲を持てるようになった事例
プに所属し、ウェイターを週 1 回している。
作業療法(以下、OT)では午後からのプログラムに参加しやすいようで、音楽や体操に最後まで在
席している。集団には受け身である。OTR には以前の退院支援での関わりがあり「くん」付けで呼ぶ。
事例本人も退院の希望があるが、理由としては「採血がいやだから」と言うものである。退院後は就
職したいと言ったり、逆にしたくないと言ったり、一人暮らしをすると言ったりしている。
4.介入の基本方針
午前中の臥床・睡眠傾向を改善していくことが退院につながること、退院したい気持ちをスタッフも
応援していることを知ってもらう。また、午前中にすることがないという環境を考慮し、午前中に取り
組める作業を設定して習慣づける。心理的なサポートとして、新しいことや慣れないことに不安感が強
くなるので、安心感の持てる関係作りに努め、「起きられないなら起きられなくてもいいです」という
ゆとりのある声かけをする。そして正のフィードバックを中心にして意欲を引き出す。言語化のサポー
トとして visual analog scale(VAS)やクローズドクエスチョンなどで感想や負担感を評価し、共有する。
5.作業療法実施計画
これまで参加してきたプログラムに呼び掛けながら、X+14 年から以下のプログラムを行った。
1)面談
第 1 期∼第 5 期まで通して実施した。朝起きることや作業についての振り返りと頻度を増やす提案を
行った。第 3 期の面談では退院までのおおよその過程を書いた紙(週 1 回起きる→週 2 回起きる→週 3
回起きる→スタッフと会議を開く→グループホームや作業所を見学に行ったり体験したりする→退院)
をもとに見通しを共有した。不眠が増え始めた第 4 期では睡眠や心理状況を確認した。
2)キャップ数え
作業所での活動を想定して OTR と看護師とであらかじめ話し合っておき、OTR から本人に提案した。
朝に OTR より声をかけ、OT 室でペットボトルのキャップを 100 個数えて袋詰めする。1 回につき 10
分とし、タイマーを見える場所に置く。10 分間でできたところまででよいこととした。しかし、うま
くいかず第 1 期のみの実施となった。
3)テレビの時代劇を見る
興味チェックリストをもとに本人が決めた。第 2 期では週 1 回
(火)
、第 3 期と第 4 期は週 2 回
(月・火)、
第 5 期は週 2 回(月・金)の頻度で朝に OTR が声をかけ、デイルームで時代劇を見る。途中退室も許
可した。第 5 期では本人の提案により 10 分遅く声かけをした。また、1 ヶ月間で何回起きられたかを
知るために、OTR の提案で事例のカレンダーに起きられたら「起きた !」というサインをさせてもらう
ことにした。サインは声かけの日でない時でも起きていたらサインをすることとした。
6.介入経過
第 1 期(2 週)
: 面談ではグループホームで生活し、作業所に通う目標を共有できた。しかし、キャッ
プ数えに対しては関心乏しく消極的だった。OTR と看護師が「支える、応援する」と伝えると了承し
た。キャップ数えは計 4 回実施。1 回目はなかなか起きられなかったが離床してキャップを数えられた。
− 73 −
午前中の臥床傾向改善に意欲を持てるようになった事例
2 回目もなかなか起きられなかったが数えられた。しかし感想は無言。3 回目では何とか起きられたが
キャップは数えられず、自ら「終わりましょ」と中断。その日の午後に禁煙中だったが喫煙した。4 回
目は全く起きられなかった。
第 2 期(2 ヶ月)
:面談では、キャップ数えは難しくはなく、つまらなくもない。起床の大切さもわかっ
ている。しかし、起床の易しさは 10 点であり、強く難しいと思っていることがわかった。興味チェッ
クリストをしてもらい、テレビを見ることに変更してからは、声かけ 8 回のうち 7 回、声かけの日以外
でも 5 回起きられた。テレビの途中で OTR が席を外すと自室へ戻り、その理由を OTR がいなかった
からと話す。また、「眼鏡買いたい、一緒に来てや」と話すこともある。
第 3 期(2 ヶ月)
:振り返りの面談では、朝起きることの易しさは 20 点であり、少し改善されていた。
週 2 回とすることを OTR より提案すると相変わらず消極的だが、起きられなくてもよいことを保障す
ると了承し、声かけ 15 回のうち 13 回、声かけの日以外では 3 回起きられた。「週 1 回でいい」と話す
こともある。不眠の日で OTR が声かけをしないでいると時間通りに起きてくるということもあった。
退院までの計画表を見せると「退院できるんですか ?!」と驚いている。
第 4 期(2 ヶ月)
:順調に起きられるようになっているので週 3 回を提案したが、本人は週 1 回を強
く希望するため、週 2 回で維持することとなった。声かけ 13 回のうち 9 回、声かけの日以外で 3 回起
きられた。しかし、なかなか起きられないことや、テレビを見てすぐにベッドで寝ていることも増えた。
呼びかけたが起きず、看護の服薬の声かけには応じるものの OTR を無視するように再びベッドに戻る
こともあった。
「退院のために起きませんか?」と声かけると「退院なんかできひん」と話す。OTR も
イライラした気持ちになり、起きられなくてもよいというゆとりを持てなくなりつつあった。不眠が増
えていることの面談では、心理面で焦り 50 点、不安 50 点であった。
第 5 期(1 ヶ月半)
:月・火は大変であると話し合い、本人が希望した月・金で行った。OTR は「起
きられないなら起きられなくてもいいです」という言葉を再度使うことを意識したが、8 回のうち 6 回、
声かけの日以外では 4 回起きられた。不眠の頻度も第 4 期と比べて減少した。声かけに行くと「10 分
後に来て」との提案もあった。途中からカレンダーにサインをするようになり、朝食後に臥床せず、
OTR を待つようになっていることもある。また、サインをする際に笑顔が見られる。起床の易しさは
最初 10 点としたが、15 点に修正された。
7.結果
午前中の臥床傾向を改善するために OTR が提案したキャップ数えではすぐに修正が必要な状況に
なった。しかし第 2 期から興味チェックリストをもとに本人が選択した「テレビを見る」という作業で
実施したところ、意欲が高まり、OTR に信頼を寄せるようになった。第 4 期では不眠が増えたが、第
5 期に工夫を加え、介入前は毎日臥床していたのが、現在では週に 2・3 回は起きられるようになって
いる。
8.考察
カナダ作業療法士協会は「作業療法の基本的役割は、作業をするために必要なすべてをそろえ作業を
できるようにすること、すなわち作業の可能化であると言える。
(中略)作業の可能化とは、与えられ
− 74 −
午前中の臥床傾向改善に意欲を持てるようになった事例
た環境の中でクライエントが有用で意味あるとみなす作業をクライエント自身が選択し、生活に合わせ
1)
て作業を構造化し、実際に行うということをクライエントともに行うこと(協業)をいう。」 としている。
こうした作業の可能化がうまくいかなかったのが、最初に提案したキャップ数えだった。本人の働き
たいという意志や、グループホームに退院して作業所で働くという共有された目標に照らし合わせて設
定したつもりだったが、本人にとっては朝の起床とキャップ数えという新たな負担が 2 つも同時に設定
されたことになり、ハードルが高すぎたのだと思われる。また、本人が選択した作業でないことからも、
主体を置き去りにしてしまったと感じる。
反対に、テレビを見る作業を選んだのは本人である。その時代劇は家でよく見ていたという。この事
例にとってなじみ深いものであり、受け身で手軽に、楽しめるものであった。また、第 5 期で曜日を本
人が月・金に決めたこと、本人が時間を調整したことは、テレビを見る作業を自ら構造化したと言える。
起床という目的に向けて意味を持てる作業を本人が選択し構造化したことが、起床できるようになって
いった重要なポイントであったと考える。
また、この事例は生活歴からも、大切な選択をする時に周囲に気を使い、自分の意見を主張する経験
が少なかったと思われる。このことから新たなことに取り組む時に周囲の意向と、自信のなさの間で不
安や緊張感を抱いてきたのではないだろうか。以前から関係性を持てていた OTR には、気兼ねなく自
信のなさを表明し、頻度を増やす提案にも自己防衛的で消極的だったと考える。このような特徴を有す
る事例であるので、OTR は起きられなかった場合に備え、安心の保障を常にする必要があった。
第 4 期ではなかなか起きられない事例に対して焦燥感を抱いてしまい、そのことが態度や言い方など
に影響してさらに起床を阻害した可能性がある。長年受け身だった入院生活から退院に向けた主体的な
取り組みを期待されていること、毎日午前中臥床していたのを少しずつ(最終的には大きく)変化させ
ることなど、OTR とのこの取り組みは本人にとって大きな出来事だったはずである。このことから今
後もこの事例が抱きやすい不安や緊張感に寄り添い共有しながら、退院を目指し OT を進めていきたい。
参考文献
1)カナダ作業療法士協会(吉川ひろみ監訳)
:作業療法の視点―作業ができるようになること.
p35,医歯薬出版,2008
(本稿は、第 9 回滋賀県作業療法学会<草津市立サンサンホール 2012.11.11 >で発表された講演原稿
である)
− 75 −
午前中の臥床傾向改善に意欲を持てるようになった事例
作業療法士による慢性期患者への取り組み
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精神衛生診断書:
自動車及びブランド焼酎窃盗事件
−ヒステリー性健忘および睡眠剤嗜癖
平成 24 年 11 月 7 日
医師 林 拓二
受診者氏名 ○本 ○雄 男
昭和○○年○月○日生(37 歳)
受診者は、平成 24 年 10 月 18 日未明に○○県○○市○○町で発生した窃盗
(自動車盗)の被疑者であり、
同日午前○時○分頃に同市内○○町○○大橋上の縁石に乗り上げて停止している盗難車の運転席にいた
ため警察官により任意同行を求められ、同日○○警察署内で逮捕されたものである。私は、○○地検○
○支部の求めにより、平成 24 年 11 月 6 日午前 10 時 30 分から午前 11 時 30 分までの約 1 時間、同支部
庁舎内で被疑者を診察した。その結果を以下に報告する。
1 現在の状況
(1) 身体:被疑者は中肉中背、血色は良い。C 型肝炎、坐骨神経痛、ヘルニアに罹患していると訴
えているが、外見からは貧血・黄疸などは認めない。なお、血液検査は○○赤十字病院で行っ
ており、近日結果が判明するとのことである。なお、念のために CT など頭部の画像検査をし
ておく必要があるかと思われる。と言うのは、被疑者はこれまでに平成 24 年 9 月 15 日と 10
月 15 日の 2 回、交通事故をおこしており、9 月 15 日の事故では自車を防護壁に衝突させ、頭部、
顔面、胸部などを強打して○○赤十字病院に救急搬送されているからである。10 月 15 日の事
故は追突事故であり自車を修理に出しているが被疑者に外傷は無かった、と言う。しかし、被
疑者が窃盗事件で逮捕されたあと、この日から記憶がないと主張していることは、事故による
心理的な影響も検討する必要があるかもしれない。
(2) 知能:意識は清明であり、見当識の障害は無い。改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)
の課題を質問したところ、ほとんどの課題は問題なく正解した。しかし、今日が何年の何月か
は答えられたが何日の何曜日かは「わからない」との返答であった。数字の逆唱は3桁が不正
解であったが 4 桁は正解であった。3 つの単語の記憶に関する質問では、
「憶えていない」と
即答し、ヒントを出してもやはり「憶えていない」と即座に返答する。もう少し考えるように
促すも返答は同じであった。結局、HDS-R の評点は 30 点満点で 24 点と低い値であったが、
何日の何曜日かという質問は勾留されている状況から正解することは難しいと考えられ、3 桁
の逆唱が出来ずに 4 桁が簡単に出来たことは単純なミスであったと言ってもよいのかも知れな
い。ただ、記憶の課題に対してあまりにも簡単に「憶えていない」と即答していることが、か
− 77 −
精神衛生診断書:自動車及びブランド焼酎窃盗事件−ヒステリー性健忘および睡眠剤嗜癖
えって不自然に感じられる。自動車窃盗事件の容疑事実についても、
「憶えていない」と即座
に答えているが、その他の質問には迅速・正確に返答していることからも、その不自然さは否
めない。
被疑者は、○○市○○中学校を卒業したが成績は「下の下」であったと答えている。しかし、
通常の知能検査(鈴木ビネー式など)は施行しなかったものの、診察内容から、知的レベルは
正常の範囲内と考えてよいだろう。なぜなら、被疑者は中学時の 14 歳頃からすでに、覚せい
剤を使用するなど勉学する情況にはなかったからである。
(3) 性格:HDS-R の記憶課題であまりにも簡単に「憶えていない」と答えるために、
「性格は短気
な方かね、もっと粘って思い出してよ」と促したが、返答は変わらなかった。逮捕されて以降
の捜査資料などから、被疑者は短期で怒りっぽく、自分勝手で自己中心的な性格であったので
はないかと考えられたが、診察場面では、そのような印象は認められなかった。同居する○田
○子氏の調書にも、最近性格が急に変ったという記載はなく、事故の後怒りっぽくなったとい
う報告も無いために、本人の言う「憶えていない」と言う健忘症状が器質性と判断される可能
性は少ないと言えよう。
(4) 精神障害の有無:診察時、被疑者は「体調があまり良くはない」とは言いながらも、質問に対
し穏やかに返答し、気分は安定していた。睡眠は問題なく、午後 9 時から朝の 7 時まで充分に
眠っている。
ただ、被疑者は 10 月 15 日から 10 月 31 日までの間の記憶がないと言う。さらに 11 月に入っ
てからも、昨日何をしたのか全く憶えていないと答える。精神医学的には、一定の期間の追想
の欠如を健忘と言うが、それは意識障害の後に認められることが多く、頭部外傷などの器質性
精神病、
アルコール離脱せん妄時などの症状性精神病、
それにてんかんやヒステリーに見られる。
以前にシンナーや覚醒剤依存の既往があるために、被疑者はまず逮捕時に覚醒剤の検査が行
われているが陰性であった。そこで、健忘の原因として疑われるのは、大量の睡眠剤とアルコー
ルによる離脱せん妄である。不眠のために睡眠剤を常用するようになったのは近年のことであ
るが、次第に服薬する量が増え、本人が複数の医療機関で処方をされていた薬物は、精神科医
が処方する薬物の数倍量となっていた。自宅ではさらに不法な手段で入手したと考えられる薬
物が大量に発見されている。すなわち、鎮痛剤(ロキソニンなど)や抗けいれん剤(デパケン
R)の他に、デパス(0.5)が 916 錠、ハルシオン(0.25)が 60 錠、マイスリー(5)が 50 錠、
セルシン(2)が 43 錠など、ベンゾジアゼピン系の精神科薬物である。被疑者は1日にこれら
を 20 錠から 40 錠、平均して 30 錠くらいを服用していたと述べており、本件自動車窃盗事件
の当日はビールとともに 20 錠程度を使用したと陳述する。ベンゾジアゼピン系の精神科薬物
は比較的安全なものとして内科などでも使用されてはいるが、このように大量の摂取が続けら
れた後に急激な中断が余儀なくされれば、確実に離脱症状(いわゆる禁断症状)が出現する。
教科書的に言えば、離脱症状は薬物使用の中断後 3 乃至 7 日くらいに始まり、全身倦怠感や、
頭重感・頭痛、嘔気・嘔吐から、さらに不安・焦燥、不機嫌、易刺激性が見られ、そのうちに
− 78 −
精神衛生診断書:自動車及びブランド焼酎窃盗事件−ヒステリー性健忘および睡眠剤嗜癖
意識障害や幻覚を伴うせん妄状態が見られる。
被疑者は 10 月 18 日に逮捕されたが、10 月 25 日頃から幻覚・幻聴が見られたと言い、10 月
26 日の捜査報告では「防災無線の音が聞こえる」とか「昨日○○港で働いていた時の職場の
人と話をした」などと言い「今日は仕事に行けないと言っておいた」などと話をし、幻聴の存
在が疑われている。翌日の 10 月 27 日の捜査報告書によると「○子が日本刀で切られた」とか「顔
がぐちゃぐちゃだった」と言い、携帯電話を使うような仕草で「また会いに行きますわ、はい、
わかりました」と喋る。また、興奮して腰縄と手錠に結束されているパイプ椅子を持ち上げた
り、机を蹴飛ばしたりし、時に両手で交互にロープを引っ張るかのような仕草をしながら「網
で魚を取っていたのですよ」とか「漁師もしていたんで、今日は魚少ないですわ」と意味不明
な発言があったと記載されている。これらは明らかに「せん妄状態」と考えられ、以前に行っ
た作業を再現する「職業せん妄」と呼称される状態である。
この状態は、10 月 29 日に○○赤十字病院精神科でロヒプノール、ベンザリン、レンドルミ
ン、ハルシオンなどの睡眠剤を中心に合計で 10 錠近くを処方された後、徐々に軽快している。
すなわち、薬物による離脱せん妄が、薬物を再投与されることによって改善したと考えられる。
そこで、被疑者は薬をたくさん出してもらって良くなってきたと言い、記憶がないのは 10 月
31 日までと供述するのであろう。
ここで問題となるのは、離脱後せん妄は 10 月 25 日頃から 10 月 31 日頃までと考えると、そ
の間は意識障害があり被疑者は自分の行動を覚えていないとしても、10 月 15 日から記憶がな
いと供述する被疑者の訴えを如何に解釈するかである。この件については事項に述べる。
2 犯行時の精神状況
被疑者は 10 月 15 日から 10 月 31 日までの記憶がないと主張している。しかし、睡眠剤の依存によっ
て、服薬後寝るまでの出来事を覚えていないとか夜中に起きた時の出来事を覚えていないなど、短期間
の記憶が欠損することはあり得るものの、丸一日、あるいは数日間の記憶が無くなることはあり得ない。
もしあったとすれば、同居する○子氏が被疑者の行動の異常に気付くはずであり、○子氏からはそのよ
うな情報が得られて無いことから、10 月 15 日から本件で逮捕されてせん妄状態となるまでの期間の記
憶がないと言う被疑者の主張は理解することは困難である。そこでは意図的な虚言か、あるいは無意識
的な健忘、すなわちヒステリーに過ぎないのかのいずれかであろう。想い出したくないことを、想い出
せないのは日常生活でもしばしば認められる。10 月 15 日は被疑者が○○市内で前に止まっている 2 台
の自動車に追突する事故を起こした日であり、その前日は被疑者の誕生日で、同居している○子氏と将
来のことを話しあったとのことである。被疑者は○子氏と結婚して入籍することを希望し、○子氏は被
疑者の素行を心配して渋っているというのが現状であり、被疑者と○子氏の思いは互いにすれ違ってい
るように思われる。あくまでも推測の域を出ないが、この日の話によって、表面上は穏やかな結論が得
られたとしても、互いに底流にある深刻な問題を認識した可能性は排除できない。その後も、○子に警
察へ通報されたことも知らずに、逮捕された時に○子氏を全面的に信頼して作り上げたストーリーが、
○子氏によって否定される事態となり、ストーリーを次々に変えざるを得なくなったときに、知らない
とか思い出せないと答える以外になく、想い出せないのは 10 月 15 日からと言わざるを得なくなったの
− 79 −
精神衛生診断書:自動車及びブランド焼酎窃盗事件−ヒステリー性健忘および睡眠剤嗜癖
かも知れない。
3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係(責任能力)
睡眠剤とアルコールへの依存があるものの、意識障害は存在しない。犯行は睡眠剤の大量服用とアル
コールの摂取のもとで、多少酩酊して状態で行われたと考えられる。それは高価なブランド物の焼酎だ
けを狙った犯行ではなく、ティッシュペーパーなど、とりあえずあるものすべてを持ち去ったかのごと
き犯行形態であり、盗難車内で任意同行を求められた被疑者が V サインをしている写真をみると、や
や多幸的とも言える昂揚した表情であり、薬物などによる酩酊状態と考えられなくもないからである。
しかし、責任能力はあると考えられる。
4 今後の処置に関する意見
(1) 正式鑑定の要否
器質性健忘の除外には、平成 24 年 9 月 15 日の交通事故による脳への障害の有無を検討して
おく必要があろう。そこで、CT、EEG などの検査が必要であるかもしれない。しかし、犯行
時の精神状態についての判断が変わるとは思われず、正式鑑定は要しない。
(2) 精神障害者等通報の要否
自傷他害の恐れはなく、通報を要しない。しかし、現在もなお薬物依存が存在し通常よりも
多い精神科薬物が処方されていることから、徐々に減薬しながら薬物依存からの脱却を図らな
ければならない。
(3) その他
なし
5 備考
なし
以上
− 80 −
精神衛生診断書:
自転車損壊事件−遅発性パラフレニー
平成 24 年 8 月 8 日
医師 林 拓二
被疑者氏名: ○村 ○雄 男
昭和○○年○月○日生(61 歳)
被疑者は、平成 24 年 7 月 22 日午前○時○分頃、○○県○○市○○町 250 番地所在の○○方敷地内に
おいて、○林○夫所有(長女使用)の自転車を地面に叩きつけるなどして、同車の後輪泥除け等を凹損
させ、もって他人の器物を損壊したものである
私は、○○地検○○支部の求めにより、平成 24 年 8 月 6 日午後 15 時から午後 16 時 30 分までの間、
○○地方検察庁○○支部庁舎内で被疑者を診察した。その結果を以下に報告する。
1 現在の状況
(1)身体:
被疑者は身長 162cm で体重 58kg の中肉中背、顔貌はやや浅黒く、貧血・黄疸などの身体疾患
の兆候は認めない。生来、左の腎臓が悪かったとのことで、50 歳過ぎに水腎症の診断で左腎の
摘出術を受けている。現在、リュウーマチ等で○○市立病院に通院加療中とのことであるも、畑
仕事など日常の生活に支障はない。なお、酒やタバコは嗜まないとのことである。
(2)知能:
被疑者は、昭和○○年に県立○○高校○○科を卒業して○○会社に就職した後、○○精工、○
○鉄工、○○金属など数か所の地元企業に勤めているが、退職理由は遠隔地への転勤、給料の不
満などであり、勤務上の問題ではなかった。昭和○○年からは○○工業に勤め、平成○○年に定
年で退職している。
診察では、医師の質問に適切に応答しており、意識清明で見当識に障害はなく、記憶力、認知
機能に問題はなかった。ちなみに、診察時に改訂長谷川式簡易知能評価スケールに基づく質問を
したところ、結果は 30 点満点のうち 28 点であった。
(2)性格:
本人は、自らを評して「長所は堅実なこと、短所は短気で気に食わないとすぐに怒ること」と
述べている。しかし、会社でのトラブルはなく、会社を辞めた後もすぐに次の会社に転職してい
ることを見れば、元来「短気」とは言い難いように思われる。怒りっぽく、腹を立てやすいとの
評価は、14-5 年前に被害妄想および幻聴が見られるようになって以降、特定の近隣住民とのトラ
ブルが頻発するようになってからの情況によるものであろう。
診察時の印象としては、控えめで消極的、自らの生活スタイルを固守して他人からの干渉は
− 81 −
精神衛生診断書:自転車損壊事件−遅発性パラフレニー
好まないシゾイド(分裂病質)的性格傾向と見受けられる。近隣住民の陳述によると、本人は昔
から人付き合いが苦手で変わり者扱いされていたようであるが、経済的には何ら問題ないにも関
わらず独身を通している理由を聞くと、
「生活には困らない」という他に多くを語ることはなかっ
た。
(4)精神障害の有無:
被疑者は、精神科医の診断を受けたことはこれまでにない。しかし、近隣住民および他家に養
子となり近所に住む実兄の陳述は、一致して、本人が 5 年ほど前から精神的な変調をきたしてい
ると述べている。とりわけ、春先や夏ころに、家の前で北を向いて聞き取れない早口の声で喚く
ことが多いと言う。それ故、被疑者が精神障害に罹患している可能性は高い。
被疑者は、昔から人付き合いが苦手で、変わり者というシゾイド性格ではあるが、40 代後半
まで会社の仕事上で問題があったとの情報はなく、この性格傾向を統合失調症の前駆期と考える
ことは出来ない。しかし、本人の陳述によれば、14-5 年前(本人:47 歳頃)に明確な幻覚の出
現が見られている。すなわち、
「カレー好きやろ」
、「ピザがそこにあるやろ」と言う女のひとの
声が聞こえたとのことである。この声は夜も昼も関係なく聞こえ、本件被害者である○林○夫氏
の妻の○子氏の声に似ていると言うよりそっくりであり、○子氏に以外には考えられないと言う。
○林○夫氏の家の中で話す○子氏の声が自宅にいる被疑者に聞こえるはずがないと指摘しても、
「高い音の声だから聞こえる」と主張し、その確信が揺らぐことはない。
幻聴が初めて出現した 14-5 年前、被疑者は母親と住んでいたが、母親や本人が注文していな
いにもかかわらず、カレーやピザが届くことがあり、本人が受け取りを拒否したり、実兄が引き
取ることもあったようである(実兄の供述調書)。母親が死んだ後もなおカレーやピザが届き、
店に問い合わせると電話での注文は女の声だったと言うことで、被疑者は○子氏が嫌がらせの犯
人であると強く疑ったようである。そして、この事件の後、○子氏に怒鳴ったり、襟を引っ張る
などの暴力行為が見られるようになっている(平成 8 年夏:○子氏の陳述)。
この事件は、実兄も確認しているように、現実に起こった出来事であり、被疑者の精神病の発
症に重要な契機になっていると考えられる。この事件に関しては、注文者が誰であったかは警察
が調べれば容易に判明するのであろうが、現在のところ、鑑定者のもとに資料は送られてきてい
ない。
このカレー・ピザ事件とともに、精神病発症の伏線と考えられるのは、被疑者の姉の存在であ
る。被疑者の姉である○村○み氏は、詳細不明の精神病に罹患しており、被疑者が発症した頃、
本件被害者とは別の隣家の窓ガラスを割ったり、家に勝手に入ったりして○○赤十字病院精神科
に入院しており、被疑者は近所の人たちから腫れ物に触るかのように対処され、常に被害的にな
り易い環境で生活していたと考えられる。
このような状況を考えると、シゾイドの性格傾向の者が、近隣住民による嫌がらせから反応的
に精神症状を呈するに至ったと考えられないことも無い。しかし、その後の経過をみると、持続
的に存在する被害関係妄想と、季節的に変動する(夏場に増悪し、冬場に軽快する)傾向のある
幻声が見られ、被疑者が妄想を主とし、発症が若干遅い統合失調症性(分裂病性)精神病、すな
わち「遅発性パラフレニー」に罹患していると考えるのが自然であろう。
− 82 −
精神衛生診断書:自転車損壊事件−遅発性パラフレニー
診察時における被疑者の陳述は、7 月 26 日の○○警察署における供述調書と変わることなく、
ピザ・カレー事件の後から○子氏の声が頻繁に聞こえるようになり、5 年ほど前から○林の子供
が勝手に家に入る、○林の子供が家に入って盗みよる、鍬やスコップが盗まれたと言うようにな
る。また、昨年には買ってきたハムが盗まれ、○子氏の声で「賞味してやる」と聞こえたので、
ハムを返せと○林宅に文句を言いに行ったが相手にされず、洗濯物の T シャツを盗って帰って
いる。この時は警察に通報されてシャツは返したが、その後も○林宅への嫌がらせを繰り返し、
玄関に石を投げ込んだり、自動車のワイパーを壊している。診察時には、これらの事実を一つ一
つ確認したが、詳細に記憶しており、当然の仕返しと考えているようであった。
幻聴は昨年の 9 月頃から聞こえてはこないと言うものの、○林○子氏への被害妄想は確固とし
て崩れることはない。このように、被疑者は虚言により罪を免れようとしているとは考えられず、
また覚醒剤などの使用歴等もない
2 本件犯行時の精神状況
(1)本件犯行時の精神状態:
被疑者は、当日の朝、自宅内の畑でイチゴの手入れをしようと鍬や鎌、スコップを取りに行っ
たところ、鍬と鎌がなくなっていることに気づき、あちこち探したにもかかわらず見つけられず、
また○林氏の子供たちが悪さをしたと確信し、今日と言う今日は許せないと腹を立て、○林宅の
勝手口を開けて「鍬と鎌を返せ」と怒鳴り、誰も相手をしてくれないので、堤宅に停めてあった
自転車を踏みつけて壊したところ、家人の「何している」との声がしたので、家に戻って畑仕事
をして汗を拭っていたら警察が来たと言う。
手袋などは用意せず、計画的な犯行ではない。目撃され易い朝の時間帯である。逃走などを考
えてはおらず、悪いことをしたという反省には乏しい、当然の仕返しと思っている。
去年、○子さんの声で「あっこに行って来い、あっこはいい、行って来い」と聞こえた。それ
で、子供が家に入り物を盗んでいくと思っていた。警察を呼んで調べてもらったが犯人は分から
なかった。それで、犯行当日に鉢植えのスモモの木になっていた青い実がなくなっていた。それ
で、周りを見ても落ちていない。そこで盗まれたと思った。確証はないが間違いないと確信して
いる。しかし、○林○子氏の子供に違いないと思った。以前も、鍬と鎌がなくなった。それは子
供がとったと思った。家に入られ、盗まれることが多いのでイライラしていた。カッとして○林
氏宅に行き、自転車を壊した。
(2) 本件犯行時の自己の行動の是非善悪を判断し、それに従って行動する能力の有無:
被疑者は妄想に従って行動しており、確証はないものの○林氏の子供たちによる嫌がらせであ
ると確信しており、病識は無い。従って、自己の行動の是非善悪を判断し、それに従って行動す
る能力は著しく障害されていたと判断される。
3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係
本件は、明らかな幻聴や妄想に支配された被疑者が、被害妄想の対象者に行った仕返しであり、本人
− 83 −
精神衛生診断書:自転車損壊事件−遅発性パラフレニー
が精神疾患に罹患していなければ生じることのなかったものである。
4 今後の処置に関する意見、その他参考事項
(1) 本鑑定の要否
被疑者の示す精神障害と本件犯罪との関係は明らかである。いかなる精神科医が鑑定を行なっ
ても結果に大きな差異を認めず、本鑑定の必要性を認めない。
(2) 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第 25 条による通報の要否
被疑者は自傷他害の恐れはないものの、遅発性パラフレニーに罹患した精神障害者であり、幻
聴は否定するものの被害妄想は確固として存在し、妄想対象に対する嫌がらせを継続する可能性
は高い。病識が無いために、精神科病棟での入院治療を要すると判断される。
(3) その他 なし
5 備考 なし
以上
− 84 −
精神衛生診断書:
信号無視衝突事件−軽症うつ病
平成 24 年 7 月 19 日
医師 林 拓二
被疑者氏名 ○井 ○雄 男
昭和○○年○月○日生(68 歳)
被疑者は、平成 24 年 7 月 5 日午後 2 時 10 分ころ、普通乗用車を運転し、○○県○○市○○町○○
161 番地2先国道8号の信号機により交通整理の行われている交差点を○○市○○町方面から○○市○
○町方面に向かい直進するに当たり、対面信号機の信号が赤色の停止信号を表示していたのであるから、
これに従って進行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り、推定時速 60 キロメートルで
同交差点に進入した過失により、右方道路から青信号に従って交差点に進入した○削○夫(83 歳)運
転の普通貨物自動車を認め急制動の処置を講じる間もなく、同車左後部に自車前部を衝突させ、その衝
撃により、同車の助手席に同乗の○削○子(82 歳)に加療約 2 週間を要する前胸部打撲を負わせた。
その後も、前記のとおり○削○子に前記の傷を負わせる交通事故を起こしたにもかかわらず、ただち
に車両の運転を中止して同人を救護する等必要な処置を講ぜず、かつ、その事故発生の日時場所等法令
の定める必要な事項を直ちに最寄りの警察署の警察官に報告しなかったものである。
私は、○○地検○○支部の求めにより、平成 24 年 7 月 19 日午前 11 時から午後 12 時 10 分までの間、
○○地方検察庁○○支部庁舎内で被疑者を診察した。その結果を以下に報告する。
1 現在の状況
(1) 身体:
被疑者は中肉中背、やや浅黒い顔貌であり、貧血・黄疸などの身体疾患の兆候は認めず、質問
に対して少し聞き取り辛い表情を浮かべるも、とりわけ大きな声で喋らずとも会話は可能であっ
た。少し耳が遠くなったとのことである。
被疑者は、逮捕・勾留されて以降、時々 2~3 秒の間、回転性のめまいがして、立ち上がること
が出来ないことがあると言う。10 年前にも同様な症状があり、家から 20 分くらいの距離にある
○○市内の○○系病院の内科で診てもらったところ、三半規管がおかしいと言われて約 1 週間入
院して治癒、その後、同症状の出現することは無かったと言う。他の身体的症状は認めず、頭痛、
歩行時のふらつきも認めない。これまでに医療機関において血液検査等の異常を指摘されたこと
はない。タバコは嗜まず、酒は発泡酒を 350ml、夕食後に毎日奥さんと一緒に飲んでいると言う。
(2) 知能:
被疑者は、県立○○高校普通科を卒業し、○○会社に就職して定年まで勤めている。診察時で
は、医師の質問に適切に応答し、知的レベルに問題は無いと推測される。ちなみに、診察時に改
− 85 −
信号無視衝突事件−軽症うつ病
訂長谷川式簡易知能評価スケールに基づく質問をしたところ、結果は 30 点満点のうち 27 点であ
り、知的レベルの低下も認められなかった。減点は野菜の名前を 10 個挙げる課題であり、回答
を容易に諦めてしまったためと考えられる。
(3) 性格:
被疑者の妻である○井○子氏の供述調書によれば、被疑者は昔から短期で怒りっぽく、自分勝
手で自己中心的な性格であったと言い、最近になり性格が急に変ったということは無いと記載さ
れている。
診察時には、被疑者は初めて逮捕・勾留され、自らが引き起こした事件の重大さに気付いて後
悔しているようであり、妻が語る「短期で怒りっぽい」性格を窺うことは出来なかった。しかし、
被疑者が、夫婦仲は必ずしも良いとは言えず、妻に温泉に行こうと誘うも孫の世話が大事と断ら
れ、旅館では夕食がまずいと腹を立て、イライラして宿泊をキャンセル、夜中に自宅に帰ろうと
して車で富山に向かって道に迷ったとの陳述は、妻の言う「短期で怒りっぽい」性格と符合する
事実であろう。
また、信号無視で事故を起こしたまま逃げ去った今回の事件において、逮捕されたときに無言
であったり、事件の記憶がないと供述したこと、さらにすべて記憶していると話した後に、精神
科の通院歴を語り、事件は躁状態であったから起こったと述べ、その後の供述では、躁状態であ
るならば事故の責任は軽減されると思ったと話をするなど、調書における供述に意図的な否認や
虚偽、あるいは弁解が多いことは自己保身と考えるしかなく、妻の言う「自分勝手で自己中心的」
な性格を示しているのかもしれない。
(4) 精神障害の有無:
診察時、質問に対して被疑者は淡々と答えるも笑顔を見せることはなく、気分は沈みがちでや
や抑うつ的と感じられた。しかし、勾留期間が 2 週間を越えようとする現在、妻や娘、それに警
察官である娘の夫に迷惑をかけるかもしれないとの不安が強まり十分な睡眠もとれず、自らの罪
を後悔し反省しているという状況を考えれば、この抑うつ気分は正常心理学的に充分了解可能な
反応と考えてよいであろう。
ただ、問題となるのは、今回の事件により逮捕勾留されて以降、2 週間のうち 2 回のせん妄状
態と考えられる異常な言動が見られていることである。すなわち、7 月 9 日には不眠のために睡
眠導入剤(マイスリー 5mg を 2 錠)を服用しているが、留置場内で「部屋から出してくれ」
、
「会
社に行って魚釣りする」、「子供にサッカーを教える」などの意味不明な言葉を発し、枕を抱えて
室内をうろついたり、枕を雑巾代わりにして壁を拭くなどし、また、蒲団を畳んだり敷いたりを
繰り返して一睡もしなかったと報告されている。翌日には前夜のことを覚えていないと言い、翌
日に診察したセ○ロ○病院の松○俊○医師はせん妄が疑われるとして、原因として睡眠剤の影響、
認知症、身体疾患、環境の変化を挙げている。
今回の診察においてこの点を訊いたが、以前に○島医院(内科)と○田医院(神経科)から貰っ
た睡眠剤(いずれもマイスリー 5mg)を、計 3 錠(合計 15mg)服用したことがあり、その時に
天井から黒い液体のような物が流れおちてくるような幻覚があったと言う。医師からは「この薬
は 2 錠まではいいが、それ以上は服用するな」と言われていたことを思い出し、以後は 2 錠まで
− 86 −
信号無視衝突事件−軽症うつ病
にしていたとのことであった。このようなエピソードから、被疑者はこの薬剤に対して容易に副
作用を生じやすいと言えるかも知れない。
マイスリーについては、個人差があるも、まれに異常行動が見られることがあり、夢遊病のご
とく睡眠中に起きあがって車を運転したり、夜中に過食したり、電話をかけたりすることが報告
されており、いずれも翌朝には全く記憶がないことが知られている。
そこで、被疑者には認知症の疑いは無く、せん妄を生じるような重篤な身体疾患も見られない
ことから、被疑者の異常行動の原因として、拘禁状況という極めてストレスの多い環境の要因に
加え、睡眠剤(マイスリー)による異常行動を起こし易い体質的要因の影響を考えることは可能
であろう。
なお、被疑者は平成 17 年 9 月(64 歳)頃から、全身に虫が這ったり、水が流れる感覚がして
眠れないと訴え、平成 17 年 11 月 19 日に精神科の福○医院を初診し、身体表現性障害および軽
度の抑うつ状態と判断され、抗うつ剤を中心に処方されている。
「全身に虫が這ったり、水が流
れる感覚」という訴えは、精神医学的にはセネストパティー(体感症)と呼ばれており、老年期
精神病として見られる皮膚寄生虫妄想症や体感症性統合失調症との異同を検討しておく必要があ
ろう。しかし、現在このような症状は見られず、これまでも虫が見える(幻視)ことは無く、何
となく「虫」と言う表現をしたというだけで、「虫」が存在するとの確信は無く、「皮膚寄生虫妄
想症」とは全く異なる。さらに、これまでにも統合失調症に特徴的な「作為的な体験」は認めら
れず、統合失調症とは考えられない。
福○医師の調書によれば、これらの症状がその後、断続的に8回繰り返されており、初回の「軽
度の抑うつ」という状態像は「軽症うつ病」と考えて良いのかも知れない。パキシルなどの抗う
つ剤が、それぞれの病相にある程度奏功したと考えられることも、このような判断を補強する所
見とみなされ得る。
今回の犯罪事実との関連で問題となるのは、躁状態が存在したか否かである。躁状態は、被疑
者のみがその存在を主張しているものの、妻の○子氏も主治医である福○医師も躁状態と認識し
ていない。この点について、被疑者に質問したが、普通は無口であるが時に妻からもよく喋るな
と言われることがあると言うことであるが、買い物が多くなったり他の人に迷惑をかけたりする
ような行動をしたことは無いと言う。それ故、被疑者の述べる躁状態は、幾分テンションが上がっ
た感じとか、少し昂揚した気分といった、本人だけが感じる正常範囲内の気分の変化と考えてよ
いであろう。
2 本件犯行時の精神状況
(1) 本件犯行時の精神状態:
被疑者が逮捕された 7 月 5 日の○○警察署の調書では、
「赤信号を無視して交差点に入り、右
側から走ってきた車と衝突し」、
「警察に届けず、ひき逃げに間違いないです」と陳述していたが、
7 月 6 日の○○警察署での供述によると、
「缶ビールを飲んでからパトカーに止められるまでの
間の記憶があいまい」と答え、「はっきりした記憶がない」のは、酒が原因である可能性を示唆
しているが、血中からアルコールは検出されなかった。翌日の○○検察庁○○支部による弁解録
− 87 −
信号無視衝突事件−軽症うつ病
取書でも「事故は覚えていない」と言い、その理由として疲れていたこと、自宅に帰ろうとした
が道に迷ってしまったことを挙げている。
7 月 8 日の供述調書で「警察にはどうせわかるから話すことにしました」と言い、
「本当は事
故のことをよく記憶しています」と述べて「記憶がないと言えば警察は、許してくれるだろうと
思った」と弁解している。そして、職業や通院歴、旅行先の温泉名などについて虚偽の陳述をし
たと語り、今回の事故の前に○○県で缶ビールを飲んで信号無視による衝突事故を起こし、逃げ
ている途中に○○県で同様な事故を起こしたことを供述している。このように、勾留の日時が経
つにつれ、事故の際に記憶がなかったと言うのは虚偽であることの他、都合の悪い事実を否認あ
るいは虚偽の発言をしたことを明らかにするようになっている。7 月 10 日になると、事故を起
こしたのは躁状態だったからであると述べ、躁状態では交通ルールを全くと言っていいくらい守
らず、赤信号でも車がいなければ信号を無視すると言い、今回の衝突事件の場合も、
「交差点手
前でブレーキをかけて減速し、左右を見た。左から車が来て自分の方に曲がるように見えた。ぶ
つかると思ってブレーキをかけたが、スピードが出ていたので間に合わずに衝突した」と詳細に
語っている。さらに、
「衝突の衝撃がひどかったので相手の車の人は怪我をしていると思った、
しかし、点数が引かれるのが嫌だったことと、福井での事故がばれるのが怖かったので逃げた」
とのことである。
その後も、以前の虚偽の陳述を随時訂正しながら、7 月 12 日には、躁状態で事故を起こした
と言ったが、病気で事故を起こしたとすると罪が軽減されると考えたからであると述べるように
なっている。そして、7 月 15 日になると、
「いくら嘘をついて作り話をしても警察が調べればす
ぐにわかってしまうので、これからは正直に話します」と言い、
「妻や娘、それに警察官である
娘の夫にひき逃げのことが知られるのが嫌で、正直に話が出来なかった」と述べている。
このように、被疑者が逮捕された当初の供述には事実と異なる内容が多かったが、勾留が 2 週
間を経た現在、被疑者の語る内容の信用性は高いと言える。診察において再度事故について聴取
したが、衝突した車が右側から来たか、左側から来たかよくわからなかったが、後でよく考えて
みると、「右側から来た車とぶつから、その車が左から来た車とぶつかった」と当時の状況を説
明し、本件事件が発生した時に意識障害など精神的に異常な状態が存在したとは考えられず、事
件を否認あるいは虚偽の発言で罪の軽減を図ろうとしたこともまた、本件犯罪の発生時にも善悪
の判断が充分に保たれていたことを示している。
(2) 本件犯行時の自己の行動の是非善悪を判断し、それに従って行動する能力の有無:
勾留されてより 2 週間後を経過した 7 月 19 日の診察時には、被疑者は 7 月 15 日の○○警察署
での供述と同じ内容の陳述を行なっており、以前のごとき虚偽の発言はなく信用し得るものと考
えられた。すなわち、今回の事故に至る端緒となった○○温泉の食事のまずさを腹立たしげに語
り、そのあと宿泊をキャンセルして夜中に車を走らせ、自宅に帰ろうとして道に迷ったと言う。
そして、夜中の脱輪事故で JAF を呼ぶと言う思いもかけない事態に陥って憔悴、ともかく自宅
のある○○に早く帰ろうと急いでいたと言い、ほぼ一晩やみくもに車を走らせたうえで、○○県
での信号無視衝突事故をおこし、直前にビールを飲んだことから飲酒運転で警察に捕まることを
恐れて逃走、その後、○○県で第 2 の信号無視衝突事件を引き起こし、さらに混乱して逃走を続
− 88 −
信号無視衝突事件−軽症うつ病
けたと言う。ただ、道に迷ったとしても、夜が明けてから何時間も自宅と逆の方向に走り続けた
ことについては私には理解し難いことであるが、○○・○○・○○県の地理に不案内であること、
カーナビが装着されてはいても取り扱いを知らないこと、方向音痴であることを挙げられれば、
そのようなこともあり得るのかも知れない。
被疑者の陳述を聞く限り、○○温泉の旅館を出てから信号無視で事故を起こし、その後も逃走を続け
た経過は正常心理学的に了解可能であって、薬物などによる意識障害は認められず、躁状態によって自
らの行動を制御する能力が失われていたとも考えられずも、本件犯罪が精神障害と関係するものではな
い。また、被疑者が逮捕後も意図的に嘘をつき罪を免れようとしていたことを見れば、被疑者は信号無
視やひき逃げが悪いことと理解しており、物事の是非善悪を判断する能力およびそれに従って自らの行
動を制御する能力は障害されていなかったと判断してよいと思われる。
3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係
本件犯罪発生時において、被疑者が軽症うつ病に罹患していたとしても、不眠を訴える程度の極めて
軽症あるいは寛解状態と考えられ、本件犯罪と精神障害との関係を考慮する必要を認めない。ただ、被
疑者が主張し、罪の軽減を期待するする躁状態がもし存在するとすれば、本件犯罪との関係を考慮しな
ければならないが、既に述べたように、被疑者の述べる躁状態は、あるとしても正常範囲内の気分の波
と考えられ、本件犯罪との関係は認め難い。
4 今後の処置に関する意見、その他参考事項
(1) 本鑑定の要否
被疑者の示す精神障害と本件犯罪との関係は認め難く、本鑑定を行なう必要を認めない。ただ、
現在、本人が訴えるめまいなどの症状、あるいは勾留時のせん妄状態の確認には、一般献血、検
尿、CT、EEG などの検査が必要であるかもしれない。
(2) 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第 25 条による通報の要否
現在の抑うつ状態と一過性のせん妄状態は、その主な原因が勾留によるものと考えられ、自傷
他害の恐れはないために通報を要しない。
(3) その他 なし
5 備考 なし
以上
− 89 −
精神鑑定書:
成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞
1.事件の表示:○○家庭裁判所○○支部
平成 24 年 ( 家 ) 第○○○○号 後見開始の審判 申し立て事件
2.本人:氏名 ○下 ○雄 男
昭和○○年○月○日生(73 歳)
住所 ○○県○○郡○○町○○
3.鑑定事項および鑑定主文:
鑑定事項
①精神上の障害の有無、内容および障害の程度
②自己の財産を管理・処分する能力
③回復の可能性
鑑定主文
①精神発達遅滞があり、その程度は中等度である。
②自己の財産を管理・処分するには常に援助が必要である。
③回復の可能性はほとんどないと言える。
4.鑑定経過:
受命日 平成 24 年 5 月 14 日
作成日 平成 24 年7月 20 日 所要日数約 2 ヶ月
実施日 平成 24 年7月 13 日 15 時 30 分より 16 時 30 分まで豊郷病院精神科外来で本人を問診し、
付き添いの○村○介氏(社会保健福祉士)から本人の生活状況を聴取する。さらに 7 月
20 日 14 時にも、電話で○泉○子氏(○○の家)より本人の生活状況を再度聴取し確認した。
参考資料
豊郷病院精神科外来診療録(平成 23 年 12 月5日の診療記録、および同年 12 月 8 日施行
の心理テスト所見を含む)。
5.家族歴等:
父親(○太郎)は昭和 54 年に死亡、母親(○○エ)は平成 10 年に死亡している。本人は 7 人兄弟の
次男であるが、兄は平成 10 年に死亡し、姉、妹 2 人、弟 2 人が生存するが、現在音信不通となっている。
− 90 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞
6.既往症及び現在歴等:
学歴・婚姻歴・職歴等
生来知的発達の遅れがあり、小・中学校は特殊学級で学ぶ。○○市立○○中学校を卒業後、○○
市内にある○○の子会社などに勤務したことがあるも詳細は不明である。結婚歴はない。
既往症
特記するものはない。
現病歴
本人は、長弟の○下○廣氏宅で生活し、金銭の管理などはすべて○廣氏が行っていた。しかし、
○廣氏の妻に暴力をふるうなどがあって居場所を失い、平成 7 年(本人 57 歳)頃から、○○県○
○郡○○町の、いわゆる「○○村」に入村した。その後、平成 10 年に○泉○郎夫妻と同居するよ
うになり、平成 12 年に○泉夫妻が○○町に転居するに伴って本人も○○町に転居している。○泉
氏宅は「○○の家」と称され、平成 17 年頃からグループホーム、その後は障害者自立支援法によ
り「グループホーム」と「ケアホーム」を併設していたが、平成 23 年 4 月からは自立支援法の適
用を辞退し、「ファミリーホーム」として運営されている。そこで、本人は○泉氏夫妻と賄いつき
の貸室契約を締結(ただし、本人の能力の問題もあり正式な契約書を交わしてはいない)するかた
ちで、○泉夫妻と同居し、○泉夫妻が事実上の金銭管理および身上監護を行っている。
その他 特別な事項はない。
7.生活の状況及び現在の心身の状態:
日常生活の状況
平成 23 年 12 月 8 日に施行された WAIS-III では、IQ が 53 との結果であり、中等度精神発達遅滞と
判定される。本人は、○泉氏宅で起居し、送迎のバスに乗り作業所に通う。作業は単純な農作業である
が、決まったスケジュールを辛うじてこなせる程度で、指示に従って動くことは難しく、新しい作業を
始めるには準備に相当の時間を要する。日常生活では強迫的な行動が特徴的で、ほとんどすべての行動
は自分なりのやり方が決まっており、食事は毎回準備して食べ終わるのに 1 時間 30 分ぐらいかかり、
着換えにも相当の時間を要する。風呂は決まった曜日以外は入らず、3∼4時間くらい入っていること
がある。仕事のない時はほとんど自室で過ごし、他者との交流はほとんどない。
これまで自分で金銭を管理したことがなく、買い物も自分でしようとしない。お金があれば物が買え
るということは分かっているようであるが、お金に興味・関心を示さない。中卒後に○○の子会社に勤
めて多少の給料を貰ったことがあるも自分で使うことはなく、周囲の者や同僚が費消するに任せていた
ようである。その後、金銭管理は弟の○廣氏が行っていたが、○泉氏と同居するようになった平成 10
年以降、金銭の管理、預金通帳の管理は同居する○泉氏夫妻が行い、買い物も○泉氏の妻である○子氏
が常に代行している。
この間、弟の○廣氏が本人の通帳を持ち出したことがあり、○泉夫妻によれば、通帳が返された時に
は預金のほとんどが引き出されていたとのことである。
− 91 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞
身体の状態
①理学的検査
福祉法人「○○の家」での健康診断(H23.6.21)によると、心電図検査で左脚前枝ブロックが
認められるが、治療の要なく経過観察中である。
②臨床検査 ( 尿、血液など )
上記の健康診断(H23.6.21)で軽度の貧血が認められるも、治療の要なく経過観察中である。
③その他
難聴があり、コミュニケーションに支障あり。
精神の状態
①意識/疎通性
意識は清明である。難聴のために理解に時間がかかるが、質問を真剣に聴き取り、返答しよう
との努力は見られる。しかし言葉数は少なく、複雑または抽象的な内容の会話は困難である。
②記憶力
関心・興味を示す範囲は狭く、その範囲内で必要な記憶は保持される。兄弟の名前、生死の別、
生活歴、現在の生活状況での単純な質問には概ね答え得る。
③見当識
見当識に障害はない。
④計算力
一桁の足し算、引き算などの簡単な計算は出来るが、それ以上の複雑な計算は難しく、日常生
活に必要な計算となると相当困難である。
⑤理解・判断力
簡単な単語や絵の理解は可能であるが、日常の単語や文章の理解などやや複雑なものになると
理解・判断することは困難である。
⑥知能検査、心理学的検査
平成 23 年 12 月 8 日に、豊郷病院精神科外来心理室において WAIS-III テストを施行した。
その結果は、言語性 IQ = 56、動作性 IQ = 57、全検査 IQ = 53 であった。また、言語理解=
54、知覚統合= 50、作動記憶= 50、処理速度= 57 と言う結果が得られた。これらの結果は、被
験者の知的能力が特に低い水準(中等度精神発達遅滞)にあることを示している。
すなわち、言語理解では、簡単な単語や絵の理解は可能であるも、日常で用いる単語全般や文
章の理解は困難である、言語の表出も単語が中心であった。知覚統合の所見は、
「積み木」のよ
うに簡単な視覚情報に対し模倣を行うことは可能であるも、視覚的な情報全般の処理や推理、複
数の情報を 1 つにまとめることの論理的思考の難しさを示している。作動記憶については、日常
生活で必要な語句や基礎的な算数知識は有しているが、その基礎的な知識を活用する能力や、情
報の処理・操作中における記憶能力が低いことを示唆している。処理速度では、情報処理のスピー
ドが遅いことが示されているが、
「符号」や「記号」はともに問題の理解自体は出来ており、単
− 92 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞
純な作業であれば、時間をかけて正答を導くことが可能であることを示している。
8.説明:
本人は現在、○泉氏夫妻と同居し、○泉氏夫妻の援助のもとに、単純な農作業に従事し、決められた
枠の中での比較的安定した日常生活を送っている。精神発達遅滞は中等度であり、一見したところ、生
活能力もそれなりに保持されているように見える。しかし、これまでも、自立した生活を送った経験は
ほとんどなく、自己の金銭あるいは財産などという経済的な感覚は乏しく、自己の財産を管理・処分す
るには常に援助が必要である。
将来、買物などの訓練によって、金銭の管理などは多少出来るようになるにしても、現在 73 歳の年
齢を考えれば、改善の可能性はほとんどないと言えよう。
以上のとおり鑑定する
住所: 滋賀県犬上郡豊郷町八目 21 所属・診療科: 豊郷病院・精神科 氏名: 林 拓二 − 93 −
精神鑑定書:
成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞および
認知症の重畳
1.事件の表示:○○家庭裁判所○○支部
平成 23 年 ( 家 ) 第○○○○号 後見開始の審判 申し立て事件
2.本人:氏名 ○巳○子 女
昭和○○年○月○日生 (66 歳 )
住所 ○○県○○市○○町○○
3.鑑定事項および鑑定主文:
鑑定事項
①精神上の障害の有無、内容および障害の程度
②自己の財産を管理・処分する能力
③回復の可能性
鑑定主文
①精神発達遅滞のほかに認知症の重畳も疑われ、精神の状態は比較的重いと言える。
②自己の財産を管理・処分することはできない。
③回復の可能性は極めて低い。
4.鑑定経過:
受命日 平成 24 年 5 月 14 日
作成日 平成 24 年 5 月 31 日 所要日数 18 日
実施日 平成 24 年 5 月 22 日 11 時より 11 時 30 分:豊郷病院精神科外来で問診
平成 24 年 5 月 29 日 13 時より 14 時 30 分:豊郷病院精神科外来で問診、
および、心理テスト、脳波検査、頭部 CT 検査を行なう
参考資料
豊郷病院精神科外来診療録
5.家族歴等:
父親は、本人が 24 歳時の昭和 48 年にガンで死亡する。母親は、長らく本人との二人暮らしであった
が認知症となり、右大腿骨骨折のために平成 22 年 12 月より入院、平成 23 年 10 月末に死亡する。兄弟
はない。
− 94 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞および認知症の重畳
6.既往症及び現在歴等:
学歴・婚姻歴・職歴等
○○町で出生、中学の成績は中の下であったと言う。中学を卒業後、○○縫製所や○○紡績、そして
○○コンクリートなどに就職するも、短期間で退職する。その後は、自宅で母と一緒にミシン仕事をし
ていた。昭和 52 年に結婚して婿養子をもらうが、
昭和 59 年に離婚する。子供はいない。離婚後は、
食事、
洗濯などの家事や金銭管理などはほとんど母が行ない、これまで、自立した生活はほとんどしていない。
既往症
昭和 53 年に椎間板ヘルニアを患ったことがある。
現病歴
昭和 63 年 9 月に、不正出血で○○市民病院婦人科に通院する。8 カ月程度でいったん軽快したが、
平成元年、腹痛や下肢全体の痛みが出現し、寝たり起きたりの生活を送るようになり、同婦人科を受診
するも異常なかった。平成 2 年 2 月に○○病院婦人科を受診、子宮内膜症を指摘されるも、疾患に対す
る痛みの訴えが不釣り合いに大きいとのことで、4 月 21 日に豊郷病院精神科を紹介され受診した。「皆
からいろいろ言われるで、カーと来て下腹全体が痛いのよ」と言う。精神発達遅滞の患者の精神的反応
によるヒステリー症状と考えられた。平成 8 年 9 月に肺梗塞で国立○○病院に入院して治療を行うが、
その後もなお、体中の腫れ、痛みなどを訴え、様々な薬剤を使用されるも著明な効果を得られず、平成
10 年から 12 年まで○○クリニック(精神科)に通院する。平成 12 年 1 月からは再び豊郷病院精神科
に通院、以後も全身の腫れや痺れ、痛みを多弁、声高に訴えていた。その後、自転車をふらつきながら
運転し、しばしば転倒してあざや擦過傷がみられた。そのたびに、色々な病院や診療科を受診し、多く
の種類の薬剤を服用していたため、精神科では精神発達遅滞および疼痛性障害と診断されて治療がおこ
なわれていた。しかし、薬物には強いこだわりがあり、自分で「これは要る、これは要らない」と医師
に要求することも多かった。
平成 16 年頃から、しばしば近所のスーパーや呉服店で品物やお金を盗り、警察に通報された。その
たびに「盗んだことは確か、もう、しません」と謝っていたが、平成 17 年4月には窃盗罪で懲役1年2ヶ
月(執行猶予3年)、平成 19 年1月にも窃盗罪(賽銭盗)で懲役8ヶ月(執行猶予4年)の刑を受け、
平成 23 年4月まで保護観察となっていた。
なお、平成 16 年 6 月 25 日から同年 7 月 1 日まで豊郷病院精神科に入院しているが、これは、母親が
白内障の手術のために入院したため、患者の独居が困難であることから、母親の入院期間のみ精神科病
棟へ入院したものである。
母親と二人で暮らしている間も、母親が認知症となったために、ヘルパーがほぼ全面的な介護をして
いた。母親が死亡した後、持っているお金はすぐに使ってしまう傾向があり、金銭の管理は困難であっ
た。そこで、洗濯物や布団などを干すこと以外、家事はほとんどヘルパーが行い、朝・タの調理や入浴
介助を行なっている。
平成 19 年 7 月頃より作業所に通所、月、火、木、金の週 4 回作業に参加し、「パンのひもを切ったり
して忙しい」と言うが、理解が悪く、指示に従わない時があり、舌足らずの発音でべらべら喋り、他者
の発言に割り込むことが多いと職員から報告されている。また、身体的な愁訴が多く、衝動的に怒るこ
とが少なからずみられた。そして、平成 21 年 8 月頃には、
「チョットコットン」や「カナン、チョット」
などの意味不明な言葉を、しばしば口癖のように反復発語するとカルテに記載されている。また、確認
行動が見られ、食器や自分の行動を確認しながら、
「…したな」「…したな」 と独り言をいうことも多い。
作業所は楽しいと言うが、疲れるとイライラすると言い、帰宅後にしばしば興奮してヘルパーに当た
− 95 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞および認知症の重畳
り散らすことが多かった。「あほたれ、ばかたれ」とヘルパーを罵倒し、「お風呂入らへん」と言って入
浴や服薬を拒否する。そして、
「エプロン洗ろて、服脱がして、お茶わかして、髪とかして」
、「タオル
干したか。あっちへ行け」と大声で叫び、命令し、時にはヘルパーを叩くこともあった。しかし、翌日
には落ち着いており、前日のことは覚えていると言う。また、食欲が亢進して体重の増加が見られた。
そこで、
「盗癖」
、[易怒傾向]など行動の制御困難、反復言語様の発語、食欲亢進などから、初老期
発症のなんらかの認知症が疑われ、平成 21 年 10 月 16 日に長谷川式簡易知能評価を行なったところ 17
点と低い値が得られた。同日に施行されたコース立方体組み合わせテストでは、IQ が 39 と計算され、
中等度の下位のレベルの精神発達遅滞の上に前頭側頭型認知症(非アルツハイマー型認知症)などが重
畳する可能性が疑われた。
その他 特記すべき事項なし
7.生活の状況及び現在の心身の状態:
日常生活の状況
平成 24 年 5 月の鑑定時、作業所には週 4 日参加し、簡単な作業が辛うじて行える程度ではあるも、
機嫌良く過ごし、最近は問題行動を認めない。
「忙しい、目まわしとる」、「呆けとる暇ないわ」と舌足
らずの喋り方で、診察中も「会社に行かんといかん」と早く終わって帰ろうとする。
「チョットコットン」と言う言葉は、
「センドしたら(疲れたら)出てくる」口癖みたいなものと言い、
なぜ言うのかと聞くも「わからん」との返答である。家のことは「できる範囲は自分でしい」、「人任せ
にせんとき」と言われ、
「人に怒っても仕方ない」、
「あきらめて自分でしとるわ」と言う。家事は、ヘルパー
がほぼ全面的に介助しているが、このところ精神的に落ち着き、ヘルパーを叩くことはないとのことで
ある。
自分が興味を示していること以外、周囲への関心は乏しい。週に二千円を所持し、必要最小限の買い
物をしているが、誰のお金なのかの理解は充分とは言えない。質問すると、「知らん」とか「わからん」
と言い、「○さんから貰ろとる」と答える。物にこだわることはなく、作業所での作業に参加する現在
の生活に満足しているようである。
身体の状態
①理学的検査
特記すべきことなし
②臨床検査 ( 尿、血液など )
血液・尿の所見は正常で、肝機能や腎機能の障害はない。
③その他
EEG は正常範囲(H24.5.29)であり、頭部 CT 所見に脳室拡大や皮質の委縮は認められない (H24.5.29)。
精神の状態
①意識/疎通性
意識は清明。指示には従うが、わがままで思い込むと柔軟な対応ができない。
②記憶力
自己の年齢は正解する。記銘力障害は顕著ではない。
− 96 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞および認知症の重畳
③見当識
生年月日、年齢、病院名は正しく即答する。面接時の日時と曜日は正解するが、年と月には関
心が無いようである。すぐに「わからへん」と言う。
④計算力
簡単な一桁の足し算と引き算はできるが、その他は全くできない。
⑤理解・判断力
今回の鑑定について説明するも、十分な理解ができているとは言い難い。財産に関心がなく、
「○
さんから貰ろとる2千円で充分」と言う。簡単な買い物はできるが、自己の財産の管理などはで
きない。
⑥知能検査、心理学的検査
平成 23 年 11 月 1 日に、再度、コース立方体組み合わせテストを行なったが、IQ は 39 と変わ
らなかった。「中等度の下域」の精神発達遅滞と判断される。認知症のテストとして、平成 24 年
5 月 29 日に、長谷川式簡易知能評価テストを再度施行したところ、平成 21 年の 17 点より高い
20 点の得点が得られた。意欲・集中力の乏しさから、「忘れた、わからん」とあっさり答える傾
向があるも、前回よりもテストに集中した結果と言えるかもしれない。長谷川式簡易知能評価ス
ケールでは 20 点以下を痴呆と判断しているが、元来の精神発達遅滞もあり、この検査のみから
認知症が重なっていると判断することはできない。
8.説明:
本人は元来精神発達遅滞であり、炊事や洗濯などの家事はもとより、金銭管理などはほとんど母が行
ない、自立した生活をしたことはなかった。最近の 2 回の知能テストも IQ は 38 と低値であり、精神
発達遅滞の診断に間違いはない。
平成 2 年より全身の腫れや痺れ、痛みを訴えて豊郷病院精神科に通院しているが、これらの疼痛を主
とする身体症状は、精神発達遅滞を基盤に反応的に生じたヒステリー症状と考えられる。ただ、平成
16 年頃(58 歳頃)から見られた盗癖や易怒傾向、反復言語、食欲異常などが、特定不能の認知症の初
期症状である可能性も考えられなくもない。医学的には、CT などの他に、未施行の MRI や SPECT な
どの画像検査を詳細に検討する必要もあるが、診断の確定にはなお長期の経過観察が必要である、ただ、
現在のところ、易怒傾向や衝動行為はみられず、盗癖や反復言語様の発言も無くなり、前頭側頭型認知
症の発症の可能性を否定することはできないにしろ、その可能性は少ないと考えられる。
いずれにしても、生来の精神発達遅滞が存在し、そのために判断力・理解力や計算能力が低く、集中
力・持続力に欠けており、合理的な判断ができないと考えられ、自己の財産を処分・管理する能力はな
いと判断してよい。また、その回復を期待することもできないと言える。
以上のとおり鑑定する
住所: 滋賀県犬上郡豊郷町八目 21
所属・診療科: 豊郷病院・精神科
氏名: 林 拓二 − 97 −
精神鑑定書:
成人後見開始の審判−脳血管性認知症
1.事件の表示:○○家庭裁判所○○支部
平成 24 年(家)第○○○○号 後見開始の審判申し立て事件
2.本人:氏名 ○永 ○子 女
昭和○○年○月○日生(76 歳)
住所 ○○県○○市○○町○○
3.鑑定事項および鑑定主文:
鑑定事項
①精神上の障害の有無、内容および障害の程度
②自己の財産を管理・処分する能力
③回復の可能性
鑑定主文
①脳血管性認知症に罹患しており、その程度は重い。
②自己の財産を管理・処分することはできない。
③回復の可能性はない。
4.鑑定経過:
受命日 平成 24 年 6 月 6 日
作成日 平成 24 年 7 月 2 日 所要日数 27 日
実施日 平成 24 年 6 月 19 日 14 時より 15 時まで、豊郷病院精神科外来で問診および心理テスト
を施行し、神経学的検査ならびに血液一般検査を行なった。また、付き添いの○○第一
○○園職員:○福○夫氏より、本人の生活状況を聴取した。
参考資料 豊郷病院精神科外来診療録(平成 23 年 7 月 14 日施行の頭部 CT および心理テストを含む)
5.家族歴等:
両親および親族に関しては詳細を聴取することが出来なかった。
6.既往症及び現病歴等:
− 98 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−脳血管性認知症
学歴・婚姻歴・職歴等
本人が述べるところによれば、○○市にて出生、中学卒業後、縫製の仕事に就き、27 歳で結婚して 2
児を得たとのことである。豊郷病院の診療録によれば、主人は本人が 52 歳時に死亡している。長男は
現在 49 歳で独身、金銭の無心に時折り現れるが、次男は結婚しており(子供はない)、本人を見舞うこ
とはほとんどない。
既往症
平成 4 年に脳出血(右視床出血)を生じ、左上下肢不全麻痺を残す。顔面神経の麻痺も見られ構語障
害が認められる。そこで、発語は不明瞭で聴きとり難く、他人とのコミュニケーションに支障を生じて
いる。
平成 9 年頃に左大腿骨頚部骨折で○○市立病院に入院したことがある。豊郷病院の診療録によれば、
その頃に認知症状が認められ、アルツハイマー性認知症が疑われたとの記載がある。また、腰椎圧迫骨
折や肩関節脱臼の既往もある。
現病歴
平成 4 年の脳出血以降、左上下肢不全麻痺のために自立した生活が困難となり、在宅でのヘルパーに
よる介護やショートステイを利用しながら、長男と 2 人で暮らしていた。しかし、平成 20 年 3 月に自
宅を立ち退かざるを得なくなり、平成 20 年 4 月 4 日に○○第一○○園に入所することとなった。入所時、
構語障害もあってあまり喋らず、自らの意思は基本的な要求のみに限られていた。話す内容は聞き取り
難いが、時間をかければ可能である。気分に軽い波があり、気分が落ち込んでいる時には、日常のケア
も拒むことがあった。平成 20 年 4 月の入所時、長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)を施行して
いるが、30 点満点のうち 24 点と比較的良い値を示し(20 点以下が認知症の疑い)
、脳出血の後遺症と
して麻痺などの神経症状はあるも、認知症の程度は重くなかったと考えられた。しかし、その後の経過
を見ると、家族構成や家族の誕生日は覚えており場所の理解は出来るものの、日付が分からず、施設で
の日常の日課の細かいことが分からなくなり、認知症の程度は次第に重くなった。そして、平成 23 年
7 月 14 日に施行された HDS-R テストでは 16 点と低い値を示し、認知症の進行が窺われた。
その他 特記すべき事項なし
7.生活の状況及び現在の心身の状態:
日常生活の状況
○○第一○○園で、ほぼ全面的な介護の中で日常生活を送っている。
日常の簡単な意思決定は可能であるが、意欲に乏しく、介護者に自分の希望を伝えることは少ない。
ジュースを好んで希望する程度で、買物で他の物を希望することはほとんどない。嚥下機能が悪くなり、
食べ物を口内に溜めこむことが多く、時にむせたり、食べこぼしたりする。お菓子などを希望して買う
ことも無い。
夜間に「あそこに人がいた」などの幻視様の訴えが見られたこともある。
− 99 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−脳血管性認知症
身体の状態
①理学的検査
平成 4 年の視床出血の後、上下肢の麻痺、構語障害が残り、歩行は困難で、介助により車椅子
を用いて移動している。
EKG:心肥大所見あり。
②臨床検査 ( 尿、血液など )
血液検査はおおむね正常所見で、肝臓や腎臓に異常はない。
③その他
発語が不明瞭で聞き取りづらい。
平成 23 年 7 月 14 日の頭部 CT では、両測大脳基底核から放線冠にかけて低吸収域が見られ、
右側視床や橋部にも低吸収域を認められる。梗塞後の変化やラクナ梗塞が疑われる。新しい出血
性病巣や、腫瘍などの占拠性病変は認めなかった。また、脳室・脳溝の拡大や前頭葉の委縮など
も認められる。
平成 24 年 5 月 25 日に○○記念クリニックで施行された腹部 CT 検査では、膵頭部に腫瘍を疑う
陰影が認められ、腫瘍マーカーである CA19-9 の値が 493 も高く、膵臓癌が疑われている。
精神の状態
①意識/疎通性
意識は清明であり、質問の意味は理解している。そして、質問に答えようと努力するが、発語
が不明瞭で聞き取り難いため、聞き返さざるを得ず、コミュニケーションはとり難い。
②記憶力
自分の生年月日や家族についての知識は保たれているが、物品の記銘や想起、数字の逆唱など
の課題はかなり困難である。
③見当識
年月日など時間の見当識が悪いが、自分がどこにいるかは理解している。
④計算力
簡単な計算は出来ない。
⑤理解・判断力
介護者の日常的な指示は理解し、簡単な質問には辛うじて答えることができるものの、何かを
自分から要求することはなく、介護者の指示を拒否することも無い。それ故に、自分で買い物を
することはなく、自己の財産を管理することも出来ない。
⑥知能検査、心理学的検査
長谷川式簡易知能評価スケールの得点は平成 23 年 7 月 14 日では 16 点であったが、一年後の
平成 24 年 6 月 19 日のテストでは 8 点とさらに低値を示していた。得点が低値であったのは、簡
単な計算が出来ず、記銘力の障害が顕著に認められたためである。知っている野菜の名前をでき
るだけ多く言ってくださいと言う課題では、3 種類の野菜名が挙げられるだけであった。
なお、MMSE(ミニメンタルステート)テストは平成 23 年 7 月 14 日に施行したが、麻痺が
あるために口頭命令、書字、図形模写は実施せず、25 点満点のうち 15 点であった。平成 24 年 6
− 100 −
精神鑑定書:成人後見開始の審判−脳血管性認知症
月 19 日には、
長谷川式簡易知能評価のあとでかなり疲れがあると思われたために施行しなかった。
8.説明:
本人の現在の状態は、身体的には脳出血の後遺症として左上下肢における不全麻痺による歩行困難と
構語障害による他者とのコミュニケーションの障害であり、精神的には認知症の進行による精神機能全
体の低下である。
平成 4 年の脳出血後、麻痺によって生活機能が大きく低下したものの、認知症の顕著な進行はなかっ
た。平成 9 年頃にアルツハイマー性認知症を指摘されたことがあるも、○○園に入所した際の長谷川式
簡易知能評価は 24 点となお正常範囲内にとどまっており、認知症はさほど進行してはいなかったと判
断される。
しかし、平成 24 年の現在、長谷川式簡易知能評価は 10 点前後に低下し、CT 検査では脳室・脳溝の
拡大や大脳皮質の委縮が見られ、とりわけ、右視床の陳旧性所見とともに、左右両側の大脳基底核から
放線冠にかけて梗塞性の変化や小梗塞巣の多発が認められている。このことから、本人は比較的高度の
認知症に罹患していると判断される。
認知症はアルツハイマー型と脳血管型の 2 型とその混合型とに分類される。本例は平成 4 年の脳出血
の後に小梗塞が広範囲に多発した結果として、多発梗塞性(脳血管性)認知症を来たしたと考えてよい
であろう。ただ、大脳皮質の広範な委縮からアルツハイマー性認知症の合併を否定することは出来ず、
医学的な観点からは、さらに詳細な画像検査(MRI など)が必要となるが、本鑑定の目的にその必要
がなく施行しなかった。
以上のとおり鑑定する
住所: 滋賀県犬上郡豊郷町八目 21
所属・診療科: 豊郷病院・精神科
氏名: 林 拓二 − 101 −
カタファジー(裂語症)について
−形式性思考障害と言語異常を特徴とする統合失調症圏の精神病−
公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所
林 拓二
1.はじめに
連合弛緩 (assoziative Auflockerung) から支離滅裂 (Zerfahrenheit)、そして言語のサラダ (Wortsalat)
とも表現される言語の完全な崩壊にまで至る思考形式の障害は、統合失調症の重要な精神病理学的症状
であり、それが存在する場合には統合失調症圏の精神病と考えられてきた。クレぺリンは「精神医学教
科書」において、早発性痴呆の精神症状や類型、経過や転帰を詳細に記載しているが、その第 8 版は西
丸の見事な訳業により「精神分裂病」としてみすず書房から出版
1)
されている。そこでは、談話や書字
における支離滅裂、言語脱線や言語新作の豊富な資料が提示され、詳細な説明が加えられている。そして、
早発性痴呆の臨床類型についても、思考障害や言語表現の障害によって特徴づけられる特異な一群が取
り上げられて「言語錯乱 (Sprachverwirrtheit)」と呼称されている。クレぺリンはこの病型をブロイラー
にならって分裂言語症 ( シゾファジー:Schizophasie) とも呼んでいるが、破瓜、緊張、妄想型などの主
要な類型とは別に付け加えられるべき類型であるとする。そして、これらは様々な疾患の終末期に見ら
れる可能性もあるが、「早発性痴呆によく似ているが本体が同じではない、何か特殊の疾患が問題にな
るかもしれないという可能性も顧慮しないわけにはいくまい」と述べている。クライストもまたシゾファ
ジーとの呼称を使用し、流暢・多弁であるが錯誤が多く意味不明な言葉を羅列する感覚失語との関連を
指摘していた。しかし、シゾファジーがそれまで多弁な興奮性の病像だけを表現していたのに対し、レ
オンハルトはこれらの特徴として興奮と制止の両極性を取り上げて、「Kataphasie: カタファジー」とい
2)
う新しい用語を選択するようになった 。そして、このカタファジーは彼の言う系統性分裂病とは異な
るとして、周期性・両極性を特徴とする非系統性分裂病(感情負荷パラフレニー、カタファジー、周期
性緊張病が含まれる)と呼び、むしろ類循環性精神病(不安−恍惚性精神病、興奮−制止性錯乱精神病、
多動−無動性運動精神病が含まれる)に類似しているとしている。しかしながら、類循環性精神病が常
に予後良好であるのに対し、非系統性分裂病は通常、シュープ様(階段状に悪化)に経過し、様々な重
症度の欠陥状態を示すことから、非系統性分裂病は類循環性精神病の「悪性の親戚」であると考えている。
近年、アメリカ精神医学会が作成した DSM-IV では、統合失調症の特徴的な症状として幻覚や妄想
に続いて、頻繁な脱線または滅裂を示す「解体した会話」が取り上げられ、このような思考形式の障害
を「解体」の概念で表しているようである。そして、DSM-IV の臨床類型においても、解体した会話や
解体した行動を特徴とする「解体型」統合失調症が、伝統的に統合失調症の基本形とされてきた「破瓜
型」統合失調症に入れ替わって登場している。これらを見れば、DSM-IV による「解体型」統合失調症
は、疑うことなく統合失調症圏の中心に位置しているように見える。しかしながら、国際基準である
ICD-10 では、思春期発症の情意鈍麻を中心症状とする伝統的な「破瓜型」統合失調症が存続しており、
そこでは、思考の解体、会話の一貫性の欠如、まとまりのなさという症状の記載があるものの、カタファ
− 102 −
カタファジー(裂語症)について
ジーのごとき思考形式の顕著な障害を示す症例を「破瓜型」とみなすことは出来ず、これらの症例が所
属すべき統合失調症圏の下位群についての明確な規定は存在しない。
DSM 世代と言われる多くの精神科医は、疑うことなくこのような患者を統合失調症と診断する。し
かし、症例を詳細に観察し、統合失調症とされる類型の中に特殊な「疾患」を見出そうと考えるレオン
ハルトらの立場(我々も同じ立場であるが)に立てば、これらの症例を統合失調症という原野の中にた
だ放置しておくのではなく、症例を詳しく観察して所属するべき位置を明確にしたいと思うであろう。
私は最近、カタファジーと思われる思考形式の顕著な症例を経験したので、やや詳しく記載してその分
類と診断について検討したいと思う。なお、症例の記載に際し、匿名性を考慮して若干の改変を行って
いるが、症状と経過に関する基本的な部分は変更していない。
2.症例報告:○畑○次 3 7歳男性
昭和 50 年生まれ、同胞 3 人の次男である。家族には精神病負因が多く認められる。父方叔母は 19 歳
時に発症、拒食により入院1年後に死亡しているが、外国での発病であり症状などの詳細は不明である。
父親は 21 歳時に発症、突然行方不明となる。また、げらげら笑いだしたり、急に窓ガラスを割ったり、
家具をひっくり返したりしたため、非定型精神病として精神科病院に9回以上入院している。母親は
19 歳時に発症し不眠、食欲不振、希死念慮がありうつ病として初回入院、その後たびたび急性の困惑・
昏迷状態を繰り返して 6 回以上入院している。母親もまた非定型精神病と考えられている。兄は軽度の
精神発達遅滞ではあるが社会生活上の問題はない。弟は心気的な訴えがあり精神科クリニックに通院す
るも幻覚妄想は認められず、社会生活に問題なく神経症とされている。なお両親は精神科病院に入院中
に知り合って結婚している。
患者は、幼少時よりやんちゃであった。中学 1 年時にけいれん発作が見られる。中学校の成績は中位
であったが、2学期頃より次第に下がってくる。10 月頃より抑うつ気分とともに「誰かに悪口を言わ
れる」と言って自宅に閉居するようになった。その年の 11 月(13 歳)に精神科を初めて受診し、抑う
つ状態と診断されて抗うつ薬を投与される。脳波検査では 3-5Hz の棘徐波結合がみられたために、非定
型精神病も疑われている。その後一時軽快したが、翌年 1 月半ばから緘黙状態となる。1 月末には家人
に無断で外出し「風上に行こうと思った」と言って上半身裸で帰宅したことがある。この頃、雪の夜に
窓を開けて「大物が来る」などと言い、幻聴があるのではないかと疑われている。2 月半ばになると昏
迷状態となる。気分の日内変動があるためにうつ病圏の疾患とも考えられたが、やはり分裂病性の昏迷
であろうと判断されている。緘黙時には質問にうなづいたりあるいは首を振って答える。その後、
「自
分のすることを批判する幻聴がある、男の声か女の声かはわからん」とも言うようになる。まもなく、
中学を中退して自宅で過ごす。
14 歳時の 12 月、幻覚や妄想を伴う精神運動性興奮が見られガラスをバットで割って○○日赤病院に
入院する。以後抑うつ状態では自殺企図もあり、計4回(14 歳、16 歳、17 歳、18 歳)
、それぞれ半年
から 1 年半の期間の入院歴がある。入院時はリチウムやカルバマゼピンが投与されて気分の変動は改善
され、共同作業所に通所をはじめている。
19 歳時の 7 月より○○病院精神科に通院したが、幻聴は持続し、午前中は寝ていることが多く、夜
間は眠らずにウロウロして過ごす。20 歳時の 10 月、あまり喋らず、家事の手伝いもしない。母親につ
− 103 −
カタファジー(裂語症)について
いて作業所に行くがあまり動かず、体重は 20kg 増えて 100kg にもなっている。20 歳時の 12 月、ぞん
ざいな喋り方になる。21 歳時の 2 月、衝動的にベニヤ板を蹴り破り、幻聴の存在が疑われた。その後、
幻聴が見られるものの問題行動はなかった。しかし、22 歳時の 7 月頃から幻聴が増悪、10 月頃には気
分が高揚して大声で喋り続け、談話は滅裂に傾く。作業所に通所するも易怒的で仕事にならなくなった
ため、12 月から 4 ヶ月間、○○病院に入院する。退院後、幻聴はあるも気分は安定して自宅で生活する。
カルテには、23 歳時の 9 月、落ち着いている、24 歳時の 3 月、活気は無い、24 歳時の 8 月、自閉的、
などの記載がみられる。26 歳時の 1 月頃から、独語が多く幻聴が見られるほか、「連合弛緩」との表現
がカルテに目立つようになる。
28 歳時の 1 月、朝起き出したがウロウロしていて反応が鈍い、呼んでも返事をしないため、CT や
MRI、さらに脳波検査を行うが問題はなかった。
30 歳時の 6 月、無為・自閉傾向、緘黙傾向を認める。32 歳時の 6 月下旬から独語があり、飲水が頻
回となる。7 月下旬に父親が無理やり仕事に連れだしたところ、38 度台の発熱がみられ、動かなくなる。
そこで、○○日赤病院を受診して日射病にともなう筋挫滅症候群と判断されて内科に入院する。身体拘
束の上点滴をするも、滅裂な独語があり奇声をあげるため、精神科に転棟して隔離拘束する。その後、
高 CPK 血症は改善する。滅裂言動も軽減、会話内容も幾分了解可能となり、ある程度疎通性もとれて
くる。多動傾向はあるも逸脱行為が無くなったため、入院約 3 ヵ月後に退院した。
33 歳時の 2 月、家族で香港・マカオに旅行するが、帰宅中に京都駅でいなくなり、滋賀県高島市内
で警察に保護される。5 月には自宅で失火、ぼやになったため、翌日に警官および保健所職員に連れら
れて○○病院精神科を受診し、多弁、多動、話の内容が支離滅裂で理解出来なかったため、同病院に入
院した。なお、母親も前日に昏迷状態となり、同病院の精神科病棟に入院している。
入院時、多弁、多動、支離滅裂な言動あり、単語は理解できるものが混ざっているものの、言葉と言
葉のつながりがわからぬ。文法も崩れている。他の患者に喋りかけるが会話にならない。他の患者も本
人を無視、相手にしないことからトラブルに発展することはない。主治医が呼びかけると振り向くので、
言葉は理解している。年齢を尋ねると、数字が 32,34、などと出てくるものの意味不明な発言が多く、
返答なのかどうかわからない。生年月日は「昭和 33 年 3 月 31 日・・・・」とでたらめな応答かとも思
われる。
6 月、口数が少なくなって、低い声で喋る。質問にだけ答えるように指示すると、姓名、年齢、生年
月日、母親がいるところ、父親の仕事、兄弟の仕事について適切に答える。しかし、長く喋ると滅裂と
なり、理解困難な内容となる。
7 月末、心理テストでコース立方体組み合わせテストを行う。ルールに対する理解はよく、IQ は 61
で軽度精神発達遅滞と判断される。バウムテストでは、2 枚描写するがいずれも「木」とは思われない
現実離れした奇妙な文様を描く。
− 104 −
カタファジー(裂語症)について
一枚目の描画に「どんな木か」と質問すると、
「地図か樹木か、山林の奥地、ブッシュ大統領、敵がいる、
恐竜見つけた、キャットタワー、変形している、こっちが表でこっちが裏」などと答える。生年月日と
氏名を書くように指示すると、氏名のほかに、
「昭和 50 年」、「Heinzn −ヘイサェイー」、「平成元年」
、
「明治天皇家」と書いている。2 枚目の描画への質問で「どんな木か」と尋ねると、
「大林、洞窟がある、
滋賀県にも洞窟がある」と答え、描画の中の「この丸は何か」と問うと、「信号、奥地にこんなん書い
てる、入っちゃいけませんと書いてある」と返答する。
翌年 1 月の診察では、以下のごとき応答が見られる。なお「・・・」には、理解できない単語・内容
で埋められている。
(今日は何月何日?)「今日は、わからん、時計持ってない」
(入院してどの位になる?)「入院して何年もかかる、長浜もいく、書類も残っている、痩せましたと、
力が出んの、・・・、我慢、視力、知力はあっても学力が落ちる、漢字が覚えていないと、読めないか
らいかん、字も読めんと怒られる、だから学校を・・・、4 年で学校、普通科を卒業・・・」
(入院して1年になるかな)「もう1年たつ、通院して印鑑は、賢二・・・、知力をあげ過ぎ、知力を
あげなさい・・・、本棚に・・・、推理を少し、犯人やったらあかんで・・・、メンバーが・・・、チー
ムリーダーが・・・、家族がある・・・」
(何歳になったかね)「33 歳になりました」
(お母さんはどこにいるの?)「母はもうすぐ退院、しかし、僕が残る、ケンちゃんは残る、ケンちゃ
んはリーダー、ここのリーダー、どうしても・・・、皮膚科でした、皮膚科に行きなさいと、治ってな
いな、もうちょっと治ってないで、身体を見てもらいなさいと・・・」
(兄弟は何人だった?)「京都の大津やったら・・・」
− 105 −
カタファジー(裂語症)について
入院治療により、次第に了解可能な部分が増えてはきたものの、基本的には滅裂というほかない。し
かし、父親と一緒に外出して自宅での農作業は可能となったため、入院約 1 年後の 34 歳時の 6 月に退
院した。
退院後は通院を続けるもなお多弁、支離滅裂で理解できない発言が多い。しかし、患者自身の名前や
生年月日を聞くと速やかに正答し、父親の名前など身内に関する質問にも正答する。そして、診察時間
が来るまで待合室で静かに待機することが出来るようになる。その後、一方的に喋るものの、次第に理
解できる内容が多くなる。自宅では、父親の代わりに村の当番として夜回りもするようになった。11
月の外来では、
(体重は?)との質問に、
「測ってないわ」と即答し、
(家で何している?)と訊くと「タ
バコ、はい、すみません」と答える。
(食事は?)と問うと、
「しっかり食べてます」と答え、
(夜寝て
いるか?)との質問には、
「はい、よく寝ています」と返答している。このように、一応の会話は成立
するようになった。(猿も木から落ちる、犬も歩けば棒に当たる)という意味について尋ねると、「知っ
ているよ」と答える。しかし、その内容については理解できない滅裂な内容となる。
35 歳時の 9 月、口数が少なくなり、最小限の返答しかしない。37 歳の 7 月、簡単な質問には正答し、
「有難うございます」とていねいに挨拶する。ただ、長く喋る内容を理解するのはなお困難である。
3.考察
私が精神科医として初めて受け持った患者の中に、病棟生活に何ら問題なく過ごしているものの、質
問すると全く理解できない言語を喋る 50 歳くらいのおばさんがいた。戦後の焼け野原で保護されたら
しく、氏名、年齢を尋ねても返答があるものの何を言っているのか理解できず、親族もわからないこと
から止むを得ず「○○花子」と命名されていた。彼女が喋る言葉を聞いていると、これは日本語ではな
いのではないかと疑ったりしたが、もちろん、私の知る欧米の言語や中国・朝鮮の言語とは明らかに異
なる。時々、日本語の単語が出没するので、やはり日本語を喋る日本人なのだなと安堵したりした。も
ちろん病歴も不明で、幻覚や妄想の存在を聞き取ることは出来なかったが、これがいわゆる「欠陥分裂
病」で、分裂病の「終末像」の一型かと、駆け出しの精神科医としては率直に納得していたものである。
その後、私は脳梗塞後に感覚失語を来たし、重篤な了解と復唱の障害がみられるものの、流暢・多弁
に喋りまわり、錯語などから全く意味のわからない言葉を羅列するジャルゴン失語の症例を経験したこ
とがある。この時、失語症という疾病を知らなければ統合失調症と診断しかねない重篤な思考障害に驚
いたものである。この時以降、顕著な思考障害を示すこのような症例では、脳の器質的・機能的障害の
可能性を充分に検討し、けいれん発作の有無を聴取し、脳波や CT などの機能的検査や画像検査は必ず
施行するようになった。
このような体験もあって、私は「支離滅裂」あるいは「言葉のサラダ」などの顕著な思考障害を示す
症例に関心を示してきた。しかし、そのような症例はさほど多くなく、私がこれまでに関係してきた精
神病院では、慢性の精神病者の中の 100 人に一人くらいの割合であったように思われる。このことは、
統合失調症、中でも「破瓜型」統合失調症(DSM では「解体型」)が、終末期に必ずしもこのような思
考障害に陥るとは言えないことを示している。
クレぺリンは、このような症例が「早発性痴呆とは異なった、何か特殊な疾患である」可能性に言及
したが、レオンハルトは系統性分裂病とは異なる非系統性分裂病の一型として、カタファジーという名
− 106 −
カタファジー(裂語症)について
称を提示し、それぞれが独立した疾患であると主張している。
近年、レオンハルトの孫弟子にあたるシュテーバーら
3)
が、カタファジーについて、
「ネルフェン・
アルツト」誌(1998)に発表してその特徴をまとめている。そこで、その記載をここにほぼ忠実に訳し
ておこう。
「カタファジーの中心症状は、言語領域が強く関与する思考形式の障害である。幻覚と思考内容の障
害は存在するものの、支配的な症状ではない。思考障害は論理的脱線、錯論理的思考によって特徴づけ
られ、主として興奮型の急性シュープでは、「言葉のサラダ」と言えるほど乱雑に語句が入り混じる散
乱が特徴的である。言語面では、錯文法性や失文法性の表現、言葉の歪曲(改変)、文脈にふさわしい
意味内容が表現出来ない言葉の言い間違い、さらに、まれならずナンセンスな言語新作が見られる。経
過は、ほとんどシュープ性に進展し、通常、情動面での軽い平板さとむしろ爽快さを伴った、穏やかで
愛想の良い欠陥状態が見られる。
カタファジーは通常、興奮型あるいは制止型の形で出現するが、制止型では寡言、さらには緘黙状態
となり、思考障害はとりわけ行動面での空虚な表情を伴う困惑や、しばしば呆然として対面の人を凝視
することが特徴的となる。この思考形式の障害は、基本的に薬物によって影響されることはない。一方、
思考内容の障害と幻覚とは、しばしば薬物によって改善が認められる」
私はここに提示した症例は、13 歳時に抑うつ状態で発症し、昏迷・緘黙状態から多弁・多動、支離
滅裂な顕著な思考形式の障害を示す男性患者である。現在、発症から 24 年が経過しているが、精神的
に落ち着き、奇異な振る舞いや行動はなく、愛嬌のある児戯的爽快さが見られ、単純な受け応えはでき
るものの、複雑な内容になると返答にまとまりがなくなり滅裂傾向を示す。これらは、シュテーバーら
が記載する上記のカタファジーと多くの点で類似している。すなわち、中心的な症状は支離滅裂から「言
葉のサラダ」に至る重篤な思考形式の障害であって、幻覚や妄想などの思考内容の障害はあっても支配
的な症状ではない。そして、多弁・多動の興奮期と抑うつ・昏迷・緘黙を示す制止期が見られ、典型的
とはいえないものの両極性の疾患と考えてよい。そして、幻覚や妄想は消失しても、思考形式の障害に
大きな改善は見られず、薬物はさほどの効果を示さないように見える。
ただ、本例に特異的なのはけいれん発作の既往であり、脳波上 3-5H zの棘徐波結合が見られたこと
は注目すべきであろう。当然ながら、けいれん発作があれば「てんかん」と診断されるものではない。「て
んかん」の定義によれば、けいれんなどの発作症状が慢性に繰り返される脳障害を言い、その発作は突
発性脳律動異常によるもので、既知の疾患が原因となっているものではないとされている。本例ではこ
れまで中学 1 年時にけいれん発作が 1 回だけ認められ、脳波上に棘徐波結合が見られたが、それ以降の
脳波検査で異常波は見られていない。そこで、本症例の精神症状や特異な思考障害をてんかん性精神病
の一症状と考えられないこともないが、精神症状とてんかんとを直接関係づけるよりも、本症の病態発
生の基盤としててんかん性の素因を考慮するべきであろう。発症時の病歴記載を見ると、当時の主治医
もまたてんかんと密接な関連性を考える「非定型精神病」の可能性に言及している。
私は現在、カタファジーと考えてよいと思われる症例を、本例を含めて 3 例診ているが、いずれの症
例にもけいれん発作の既往が認められている。本例の他の二人は水分摂取の過多による水中毒に起因す
ると考えられるが、けいれん閾値が低いというてんかん性素因がなんらかの形で本症の病態に関与して
いるのかも知れない。ただ、レオンハルトの症例にはてんかんに関する記載は見られない。
− 107 −
カタファジー(裂語症)について
レオンハルトはカタファジーが男性に著しく多いとし、私の診ている 3 例もまた全員が男性である。
このことになんらかの理由があるのかどうか興味のあるところではあるが、レオンハルトは男性患者の
親族に多くの女性患者を見いだし、男性患者の方が重篤な経過を示すために入院患者では男性が多いと
結論している。
カタファジーの家族負因については若干の言及が必要であろう。レオンハルトは系統性分裂病に家族
負因が少ないのに対し、カタファジーのような非系統性分裂病は家族負因が多いと言う。このことが、
系統性分裂病と非系統性分裂病との間にある明確な疾病学的な差異であるとしている。われわれもまた、
非定型精神病の調査研究
4)
において定型分裂病に家族負因は少なく、非定型精神病に家族負因が多い
という結果を得ていて、レオンハルトの系統性分裂病はわれわれの非定型精神病とほぼ一致することか
ら、レオンハルトの見解とわれわれの見解に大きな相違はないと言える。ただ、非系統性分裂病を 3 つ
の疾患に細分するレオンハルトの主張は、家族内に認められる精神病の病像にかなりの幅があることを
見ても、なお多くの検討が必要であろうと思われる。すなわち、本例においては、父と母の病像に若干
の差異はあるものの、いずれも非定型精神病(DSM などでは統合失調症と診断されるが)と言ってよい。
ただ、父母ともカタファジーの病像を示すことはなく、あえて分類するとすれば、父親は「感情負荷パ
ラフレニー」、母親は「多動−無動性運動精神病」と判断されようか。すなわち、父親は非系統性分裂
病であって、母親は類循環性精神病とされる。このことから、母親はともかくとして、父親と息子が同
じ疾患(非系統性分裂病)で考えるとしても、その病像はいささか異なっており、カタファジーから感
情負荷パラフレニーに至る病像の変化を、スペクトルとして考えるべきなのかもしれない。
シュテーバーらによる症例報告では、カタファジーの患者に脳画像や機能的検査を行なっても本質的
な異常が確認できなかったと言う。それ故に、これらは本来の意味での脳器質性精神病とは明らかに異
なるとされている。しかしながら、このような重篤な思考形式の障害を中心症状とする症例は、ジャル
ゴン失語の際の滅裂言語に類似していることから、病態発生的に共通の基盤がある可能性は否定できず、
脳の器質的な変化を疑って脳の CT や MRI 検査を行なう必要はあろう。確かに、われわれの症例では、
言語の了解は保たれており、主治医の呼びかけには速やかに反応するため、症状的にもジャルゴン失語
との明らかに異なるものではあり、MRI などの脳画像検査に異常な所見は見いだせなかった。
しかしながら、カタファジーは他の統合失調症圏の病型と較べて、はるかに生物学的所見が見出され
る可能性は高いと考えられるために、今後は SPECT やf MRI などの機能的脳画像検査を用いた研究
を行うことにより、何らかの所見が見いだされるかも知れない。その際、出来る限り均質で多数の症例
を選択する必要があり、一つの施設だけではなく地域全体から症例を集め、統合失調症圏の他の病型と
比較・検討する必要があろう。
4.最後に
現在、DSM などの操作的診断基準によって、病因を異にする多くの症例が「統合失調症」という同
一の診断名のもとにまとめられ、あたかもそれが同一の疾患の如く考えられている。そこでは、共通の
病因を探ろうとする努力は当然のこととして空しい成果しか得られないであろう。私は統合失調症圏の
精神病をさらに細分し、少なくとも定型分裂病と非定型精神病とに分けてそれぞれの病因を探求するべ
きであると考えているが、レオンハルト学派の如く、系統性分裂病と非系統性分裂病に加えて類循環性
− 108 −
カタファジー(裂語症)について
精神病の 3 群に分類した上で、それぞれを更に 3 つの類型に分けようとする試みも、臨床的にはなお多
くの問題があるにしても、意義あるものと考えている。中でも、カタファジーのような特異な症状を有
する症例は、他の統合失調症圏の精神病とは異なるものとして個別に研究すべき対象であろう。個々の
症例を詳細に観察し、その経過と転帰を検討するという息の長い研究成果の上に、出来る限り均質な症
例を選択した上で生物学的研究を行なうことこそが、今なお成果の乏しい内因性精神病の研究に必要と
されるものであろう。
参考文献
1)西丸四方・西丸甫夫:精神医学1・精神分裂病(E. Kraepelin: Psychiatrie)
.みすず書房、東京、19 8 6
2)福田哲雄・岩波 明・林 拓二監訳: 内因性精神病の分類(K. Leonhard: Classification of endogenous psychoses
and their differentiated etiology). 医学書院, 東京, 2 0 0 2
3)Pfuhlmann,B; Franzek,E; Stöber,G: Die Kataphasie: eine durch formale Denkstörungen und sprachliche
Auffälligkeitengekennzeichnete Psychose des schizophrenen Formenkreises. Nervenarzt. 6 9: 2 5 7-6 3, 1 9 9 8
4) 林拓二(編)
:非定型精神病―内因性精神病の分類と診断を考える、新興医学出版社、東京、20 0 8
− 109 −
内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究
疫学研究(疫学研究に関する倫理指針該当研究)実施申請書
平成 25 年 2 月 1 日提出
豊郷病院長殿
実施責任者 氏名 林 拓二
所属 公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所
職名 所長
研究計画概要
課題名 内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究
研究の種類 新規データを採取する疫学的観察研究
研究実施場所 豊郷病院
研究の場と形態 豊郷病院内のみで行われる
申請書の開示 可
研究内容の概要(200 字以内)
内因性精神病はこれまで統合失調症と躁うつ病とに二分されてきたが、症状と経過の多様性から
そのどちらにも分類し難い症例も多い。そこで、満田は臨床遺伝学的研究によって第3の疾患群と
しての非定型精神病を仮定し、我々もまた画像研究などによって彼の見解を支持してきた。本研究
は、40 年以上の経過が追える症例の臨床診断の変遷とその最終病像を調査して、内因性精神病の
診断と分類について再検討するものである。
− 110 −
観察研究
「内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究」
研究実施計画書
平成 25 年 1 月 4 日
研究代表者:林 拓二
(公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所)
1.研究の目的・意義
内因性精神病は今なお原因の不明な疾病であり、クレペリン以来、症状と経過に基づいて統合失調症
(精神分裂病)と躁うつ病とが区分されているものの、躁うつ病症状と統合失調症症状とが同時に見ら
れたり、病初の躁うつ病像が次第に幻覚妄想状態に移行する例も多く、躁うつ病かそれとも統合失調症
か、いずれとも判断し難い症例も少なくない。満田は臨床遺伝学的な研究に基づき、統合失調症と躁う
つ病との中間に第3の疾患を仮定して「非定型精神病」を取り出し、その疾病学的独立性を主張してい
る 6)。我々もまた、これまで CT や SPECT、さらには MRI などの画像研究や P300 や探索眼球運動な
どの精神生理学的研究に基づき、満田による非定型精神病が分裂病の定型群とは異なる疾患である可能
性を示唆してきた 4,5)が、さらに多くの研究が必要であることは言うまでも無い。
そこで、統合失調症や躁うつ病などの診断で 40 年以上の長期経過を追跡し得る内因性精神病の症例
を調査し、その症状の変遷を辿りながら、最終段階に見られる疾患の本質的特徴を検討する。これらの
研究によって、統合失調症が必ずしも欠陥状態に移行するものではなく、また躁うつ病が必ずしも予後
良好とはいえないことが明らかとなり、内因性精神病を統合失調症と躁うつ病とに二分する診断体系の
問題点が浮かび上がるであろう。そして、第3の疾病として非定型精神病群を仮定する我々の立場の是
非が明らかになり得ると考える。
言うまでも無く、内因性精神病の研究は常に疾病学を念頭に置いて行なう必要があり、DSM のよう
な主として臨床症状による類型学的分類にとどまる限り、精神医学における新しい展開は期待できない。
疾患の本質的特徴は、疾病の経過における時々の病像の如き変化しやすいものに表わされるのではなく、
長期の疾病経過パターンや疾病の転帰において明確となるに違いない。今回の研究において、我々が長
期経過と転帰を取り上げたのはこのような理由による。
2.研究の背景・根拠
内因性精神病の経過についてまず言及しておかねばならないのは、クレペリンが内因性精神病を統合
失調症と躁うつ病とに二分し、統合失調症の予後は不良であり、躁うつ病の予後は良好であるとしたこ
とである。しかしながら、この原則を厳格に守ろうとすればするほど、どちらにも分類し難い症例が多
1)
くなることは、クレペリン自身も認めざるを得なかった。躁うつ病に関して、近年行われたアングスト
の長期研究(1980)では、単極性のうつ病の 41%、躁うつ病の 36%に完全寛解を認めているにすぎず、
病相後に倦怠感、無力感、集中力の減退などが持続し、人格水準の低下を認める症例もまれではなく、
− 111 −
観察研究「内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究」
躁うつ病の予後が必ずしも良いとは言えないことを示している。
統合失調症に関する経過研究はこれまで少なからぬ報告があり、チューリッヒ、ローザンヌ、そして
ボンで行われたものが代表的なものである。
ブロイラー(M.Bleuler)によるチューリッヒでの研究 2)は最も有名で、1940 年に調査した 316 名の
資料と、1967 年に調査した 208 名(平均追跡期間:23 年)の患者の長期経過観察を比較している。こ
こで彼は、統合失調症の経過を単純経過型と波状経過型とに分け、1940 年には、前者で急性あるいは
慢性に経過して荒廃あるいは欠陥に陥る症例が全体の 1/4、波状経過で荒廃に至るもの、欠陥に陥るも
の、治癒するものがそれぞれ 1/4 ずつ見られたが、1967 年には単純経過型で荒廃に陥るものが減少し
て慢性に経過して欠陥状態になるものが増加し、波状経過型においても荒廃あるいは欠陥に陥る症例が
若干減少し、治癒するものが全体の 1/3 ほどに増加している。この間の精神医療状況は薬物療法の導入
があり、このことが長期経過に影響を及ぼしていると考えられるが、統合失調症の 25-35%が薬物療法
以前においても予後良好であったことは留意すべきことであろう。
チオンピらによるローザンヌでの研究 3)(平均追跡期間は 37 年:1976 )や、フーバーによるボン大
学での 502 名の研究 7)(平均追跡期間は 22.4 年:1979)もほぼ同様な結果を示している。ボン研究では、
約 1/3 が単純 - 直線状 - 進行性に経過し、より強度の欠陥状態に至る。そして、約 2/3 が波状に経過し
て寛解する(22%)か、シュープ状に悪化して、たいていは軽い欠陥に陥る(43%)。しかし、州立精
神病院(Wiesloch)の資料では、2/3 が単純 - 直線状 - 進行性に経過し、
1/3 が初期に寛解しながらシュー
プ状に悪化し、その後単純 - 進行性に「欠陥」状態に陥っている。これは、調査する対象選択の問題が
重要であることを示し、このような研究では、調査施設の差異、調査機関、調査する研究グループとそ
の使用する診断基準について充分な検討が必要なことを示している。ともあれ、いずれの研究において
も、統合失調症が予後良好群と予後不良群の2群に分けられることは明白であり、統合失調症の予後良
好群を躁うつ病に近いと考えることも出来ようが、我々のように、これらを第3の精神病として非定型
精神病を仮定することも可能であろう。
内因性精神病の転帰については、幻覚妄想状態の持続のほかに、いわゆる陰性症状が主となる「人格
水準の低下」や「エネルギーポテンシャルの減衰」を示す「荒廃」あるいは「欠陥状態」という記載
が用いられてきた。「欠陥」に関する精神病理学的研究とその背景をなすと考えられる生物学的研究に
ついては、フーバー
7)
が精緻な研究をおこなっているが、我々は神経心理学的テストバッテリーであ
る統合失調症認知機能簡易評価尺度(BACS)や認知症のスクリーニングテストである時計描画テスト
(CDT-CLOX 法)を用いるとともに、すでに外来あるいは入院時に撮像した脳画像(CT、MRI)所見
をあわせて評価しながら再検討する予定である。
我々はこれまで、予備的な研究として、平成 22 年に「内因性精神病の長期経過について」と題して
40 年以上の罹病期間を有する 102 症例を検討し、平成 23 年には「感情病圏疾患の診断と長期経過につ
いて」と題して罹病期間が 35 年以上の 235 例を資料とした調査結果を近畿精神神経学会などで発表し
ている。そして、定型分裂病群が感情病群と比べて遺伝負因に乏しく脳血管性障害の既往が少ないこと
などから、疾患学的に異なる可能性を示唆したが、非定型精神病群についてはなお多くの症例で、今後
さらに詳細な調査研究が必要であることを指摘しておいた。
− 112 −
観察研究「内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究」
3.研究対象
財団法人豊郷病院は大正 15 年に伊藤長兵衛によって開院した総合病院であるが、精神科は昭和 32 年
に定床 110 として発足し、昭和 48 年に定床を 215 と増やしながら、滋賀県湖東地域における中核的施
設としての役割を果たしてきた。この間、京都大学精神科教授三浦百重の指導のもと、医長として摂津
愛親、医員として藤縄昭、西山昭夫、山本陽一郎など京都大学精神病理グループが診療に携わり、カル
テはシュナイダーを主にする伝統的精神医学に則って詳細かつ厳密に記載され、その内容には異なる学
派によって生じるような相違は認められない。これまで、外来および入院患者の総数は 6500 名に及ぶが、
その診療記録はすべて保存されている。我々はこれらのカルテをすべて調査し、幻覚や妄想、あるいは
奇異な行動異常や感情障害を呈し、経過中に何らかの内因性精神病とされる診断がなされた症例を取り
出し、40 年以上の経過が追える症例を研究対象とする。なお、症例の出身地域を滋賀県湖東地域に限
定し、
他地区から転入してきた患者は、
さらなる詳細な調査が困難と考えられるために対象から除外する。
4.観察・検査項目と方法
上記の如く、40 年以上の罹病期間を有する内因性精神病の症例について、年齢、性別、教育歴、結
婚歴、家族負因、発症から現在に至る病像と診断名の変遷を調査し、CT あるいは MRI による脳の器
質性所見の有無、脳血管障害既往の有無、認知症状の有無および程度、死亡者の場合は死因の確認をお
こなう。そして、検査が可能な患者であれば、統合失調症認知機能簡易評価尺度(BACS)と時計描画
テスト(CDT-CLOX 法)をおこない、内因性精神病の最終的な転帰としての終末病像を神経心理学的
テストによって確認する。そして、認知機能の低下があるとすれば、統合失調症や躁うつ病、あるいは
非定型精神病などの間でどのような差異が示されるかを検討する。
5.症例数と研究期間
本研究の対象症例は上記に該当する患者のすべてであり、現在、調査を継続中であるために正確な数
字は不明であるものの、300 名を超える数になると思われる。調査は平成 25-27 年度の 3 年間を予定し、
平成 28 年 3 月末日に終える予定である。
6.評価項目
観察・検査項目に述べたところと同じである。
7.統計学的考察
統計的解析は、コンピュータ統計解析ソフト SPSS 11.0J for Windows を用いて行う。
8.データ収集・管理方法
研究データの取得は公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所内で行われる。データは、臨床精
神医学研究所内のコンピュータ内のパスワードで処理されたエクセルデータで保存し厳重に管理する。
データを保存するコンピュータはインターネットに接続せず、外部との交流は遮断されている。データ
を他の記憶媒体にコピーして、他のコンピュータで利用することは厳禁し、データが研究所外に持ち出
− 113 −
観察研究「内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究」
されることはない。
9.倫理的事項
神経心理テストなどは、被験者の自発的な同意を求めて実施する。参加した被験者のプライバシーは
保護され、研究結果を発表する際にも個人が特定できる形では行わない。これらのことは同意を得る段
階で被験者に十分説明する。
10.研究費用および補償
研究費用は発生しない
11.研究実施計画書の改訂
研究実施計画書の改訂が必要となれば、速やかに検討して再度倫理委員会に提出する。
12.研究の終了と早期中止
研究が終了した時、および早期に中止した時は、速やかに倫理委員会に報告する。
13.研究に関する資料等の利用と保存
特記事項なし
14.研究成果の帰属と結果の公表
本研究で得られた成果は、学会及び学術雑誌に順次公表する予定である。
15.研究組織
研究責任者:林 拓二(臨床精神医学研究所所長、京都大学名誉教授)
研究分担者:成田 実(豊郷病院医師)、世一市郎(世一クリニック院長)、
中江尊保(豊郷病院医師)、上原美奈子(京都大学精神科医師)、
義村さや香(京都大学精神科研修員)、田中祐輔(京都大学精神科研修員)、
白井隆光(京都大学精神科医員)、木津賢太(豊郷病院臨床心理士)、
大屋藍子(同志社大学大学院)
16.文献
1.
Angst, J.: Verlauf unipolar depressiver, bipolar manisch-depressiver und schizoaffektiver Erkrankungen und
Psychosen. Ergebnisse einer prospektiven Studie. Fortschr. Neurol. Psychiat. 48: 3(19 8 0)
2.
Bleuler, E.: Lehrbuch der Psychiatrie. 1 4. Aufl. Umgearb. von M. Bleuler. Springer, Berlin-Heidelberg-New York
1979
3.
Ciompi, L., C. Müller: Lebensweg und Alter der Schizophrenen. Eine katamnestische Langzeitstudie bis ins
Senium. Monographien aus dem Gesamtgebiete der Psychiatrie. Bd.1 2. Springer, Berlin-Heidelberg-NewYork
− 114 −
観察研究「内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究」
(1976)
4.
Hayashi T. (ed.) Neurobiology of Atypical Psychoses. Kyoto University Press, Kyoto, 20 0 9
5.
林拓二(編)
:非定型精神病―内因性精神病の分類と診断を考える、新興医学出版社、東京、20 0 8
6.
林 拓二、中江尊保:非定型精神病の概念.Schizophrenia Frontier、12: 2 0 5-2 0 9, 2 0 1 2
7.
Huber, G.: Psychiatrie. Systematischer Lehrtext für Studenten und Ärzte. 3. Aufl. Schattauer, Stuttgart-New
York, 19 8 1(林拓二訳、精神病とは何か−臨床精神医学の基本構造、新曜社、東京、2 0 0 5)
− 115 −
研究に被験者として参加される方への説明文
研究の目的
最近、精神疾患における脳の機能を調べる方法が、いろいろと開発されてきております。CT などは
放射線を用いて脳の構造を調べる方法ですが、心理学的テストによっても脳の機能がどの程度保持され
ているかを見る検査法があります。今回の研究で行う検査は、知能テストや認知症のテストでよく使わ
れる心理テストに似ていて、アメリカで新しく作られ使用されている検査法です。非常に簡単なもので
すが、少し時間がかかります。ただ身体に害はなく、脳の機能がどの程度保たれているかを見出す方法
として有益であると考えられています。
有益性について
本研究に参加される方に、直接的な有益性はありません。しかし、この研究から得られたデータを調
べることによって、精神疾患の細かな分類が可能となり、タイプ別にそれぞれ有効な治療法が見つかる
可能性があります。
確認事項
(1)この研究への参加はあくまで本人の自由意思によるものです。この説明文を読まれた後、参加
を断られたり、また参加された場合でも途中で中止されることになんら問題はなく、またそれにより不
利益を受けることもありません。
(2)この研究に参加されたことで知り得た個人情報は秘密にし、他人に知らせることはありません。
またこの研究成果を発表する場合にも個人を特定できるような内容は公表しません。
(3)検査の内容や結果について、不明な点や詳しく知りたいことがあれば、担当の医師からいつで
も説明を受けることができます。
(4)説明を受けられた後、になっていただける方には、最後の頁にある同意書に確認の署名をお願
いします。この同意書は我々が被験者の方に検査の内容を十分に説明し、同意をいただいた上で検査を
するという手続きを確実に行うためのものです。署名によって被験者の方がなんら拘束を受けるもので
はありませんので、ご協力をお願いします。
検査の実際
臨床心理士によっていくつかの質問をし、簡単な作業をしてもらいます。検査による危険性は全くあ
りません。
署名のお願い
この研究に被験者として参加していただける方は、同意書に署名をお願いします。
− 116 −
同 意 書
豊郷病院病院長殿
私は、統合失調症認知機能簡易評価尺度(BACS)や時計描画テスト(CDT-CLOX 法)によって、
精神疾患の診断に役立てようとする研究について、別紙の説明書を読み、下記の点を確認した上で、参
加することに同意します。
1.研究の目的:心理テストによって精神疾患の診断に役立てる。
2.研究の方法:質問に答え、簡単な作業能力を調べる。
3.危険性:全くない。
4.本検査の開始前・開始後に関わらず、本検査の同意をいつでも撤回でき、また撤回しても何ら不
利益を受けません。
5.プライバシーは最大限に尊重される。データはグループとして統計処理され、個人名が出ること
はありません。
被験者氏名 生年月日 大・昭・平 年 月 日
同意日: 平成 年 月 日
本人署名又は記名・捺印: 住所 氏名 本検査に関する説明をおこない、自由意思による同意が得られたことを確認します。
施 設 名: 説明者氏名:
本同意書は、本人と研究担当者が一部ずつ保管する。
− 117 −
別紙様式1
審査申請書
平成 25 年 2 月 1 日
公益財団法人豊郷病院
医療倫理委員会委員長殿
申請者
所属:公益財団法人豊郷病院
附属臨床精神医学研究所
職名:所長
氏名:林 拓二
受付番号: 所属長の印 1.審査対象:実施計画
2.課題名:内因性精神病の長期経過と転帰に関する研究
3.主任研究者:林 拓二(臨床精神医学研究所・所長)
4.分担研究者:成田 実(豊郷病院医師)、世一市郎(世一クリニック院長)、
中江尊保(豊郷病院医師)、上原美奈子(京都大学精神科医師)
義村さや香(京都大学精神科研修員)田中祐輔(京都大学精神科研修員)
白井隆光(京都大学精神科医員)、木津賢太(豊郷病院臨床心理士)
大屋藍子(同志社大学大学院)
5.研究等の概要:
内因性精神病はこれまで統合失調症と躁うつ病とに二分されてきたが、症状と経過の多様性からその
どちらにも分類し難い症例も多い。そこで、満田は臨床遺伝学的研究によって第3の疾患群としての非
定型精神病を仮定し、我々もまた画像研究などによって彼の見解を支持してきた。本研究は、40 年以
上の経過が追える症例の臨床診断の変遷とその最終病像を調査して、内因性精神病の診断と分類につい
て再検討するものである。
6.研究等の実施計画:
(1) 対象:幻覚・妄想あるいは奇異な行動異常を示したり、あるいは躁うつ症状を示す内因性精神
病の患者で、40 年以上の経過を追うことのできる者
(2) 使用する医薬品、医療材料:統合失調症認知機能簡易評価尺度(BACS)と時計描画テスト
(CDT-CLOX 法)の検査用具一切は、アメリカより既に購入しており、検査方法に関しては分
担研究者の木津賢太と大屋藍子が習熟している。
(3) 術式の保険適用の有無:保険適用はない
− 118 −
(4) 実施方法および実施場所:BACS 検査は、簡単な神経心理テストであるが、多少時間がかかる(約
一時間)。実施場所は、豊郷病院外来および病棟である。実施予定数は約 300 例、平成 25 年か
ら 27 年度にかけて実施する予定である。
(5) その他参考事項:なし
7.公表予定の手段等:学会および学術雑誌に公表
8.研究等における医学倫理的配慮について
(1) 研究等の対象となる個人の人権の擁護:神経心理テストなどは、被験者の自発的な同意を求め
て実施する。参加した被験者のプライバシーは保護され、研究結果を発表する際にも個人が特
定できる形では行わない。これらのことは同意を得る段階で被験者に十分説明する。なお、研
究データは、臨床精神医学研究所内のコンピュータ内のパスワードで処理されたエクセルデー
タで保存し厳重に管理する。データを保存するコンピュータはインターネットに接続せず、外
部との交流は遮断されている。データを他の記憶媒体にコピーして、他のコンピュータで利用
することは厳禁し、データが研究所外に持ち出されることはない。
(2) 研究等の対象となる者に理解を求め同意を得る方法:被験者として参加される方への説明文と
同意書を用意し、充分な説明をおこない了承された者にのみ、同意書への署名をしてもらう(説
明文および同意書は別紙に記載)。
(3) 研究等によって生じる個人への不利益および危険性と医学上の貢献度の予測:本研究の参加者
の直接的な有益性はない。しかし、この研究から得られたデータを調べることによって、精神
疾患の細かな分類が可能となり、タイプ別にそれぞれ有効な治療法が見つかる可能性がある。
(4) その他:疫学研究実施申請書を別紙にて
− 119 −
研究業績
平成 24(2012)年度研究業績
原著論文等
1.
林 拓二:「枯れ木も山の賑わい」から.日本生物学的精神医学会誌、23: 225-226, 2012
2.
林 拓二:生物学的所見から精神病の分類を考える.日本生物学的精神医学会誌、23: 295, 2012
3.
林 拓二:臨床が第一.豊郷精神医学研究所年報、第 2 報、1-2, 2012
4.
林 拓二:フーバー教授のこと.豊郷精神医学研究所年報、第 2 報、94-95, 2012
5.
田中祐輔、林 拓二:皮膚寄生虫妄想と心気妄想.臨床精神医学、42: 69-74, 2013
6.
林 拓二:札幌トロイカ病院開設 30 周年祝辞.医療法人共栄会 30 周年記念誌「森の始まり」、
2013
7.
堀尾素子、角間広美、力石 泉:退院支援の仕組みづくりと実践事例.Nursing today 28: 8286, 2013
学会発表など
1.
成田 実:BPSD 症状に対しての薬物療法.彦根薬剤師会講演会、2012.4.19 彦根
2.
西川由希子:自傷行為のある患者との距離感に困難を感じた精神科病棟看護師の関わりの一事例.
豊郷病院ケース・スタディ発表会、2012.6.19 豊郷
3.
中村祥子:うつ症状のある患者の自立支援の為の対応方法の工夫.豊郷病院ケース・スタディ発
表会、2012.6.19 豊郷
4.
成田 実:認知症について.武田薬品講演会、2012.6.27 大津
5.
成田 実:BPSD を理解する−情報のまとめ方.東近江ケアネットワーク、2012.6.28 東近江
6.
成田 実:チームで認知症をみる.近江八幡医師会講演会、2012.7.7 近江八幡
7.
Yoshimura, S., Sato, W., Uono, S., Toici, M. Facial mimicry in autism spectrum disorders. The
20th World congress of International Association for Child and Adolescent Psychiatry and
Allied Professions. 2012.07. 21-25、Paris.
8.
林 拓二:精神医療の現在と今後を考える.香川ジプレキサ研究会、ホテルクレメント高松、
2012.8.4 高松
9.
成田 実:BPSD 症状に対しての薬物療法.認知症研究会、2012.8.9 長浜
10. 成田 実:認知症について.小野薬品研究会、2012.8.22 大津
11. 成田 実:認知症患者さんとのかかわりについて.出前講座、2012.10.4. 豊郷
12. 成田 実:認知症をチームで診る.南丹市ケアネットワーク、2012.10.20 京都・南丹
13. 林 拓二:非定型精神病こそが精神病研究の突破口となり得る.Lecture on Psychiatry、ホテル
グランヴィア大阪、2012.10.31 大阪
14. 義村さや香、佐藤弥、魚野翔太、十一元三:自閉症スペクトラム障害における facial mimicry と
− 120 −
意図的表情模倣 . 日本児童青年精神医学会第 53 回大会 . 2012.10.31、東京 .
15. 岩田夏彦:午前中の臥床傾向改善に意欲を持てるようになった事例、第 9 回滋賀県作業療法学会、
草津市立サンサンホール、2012.11.11 草津
16. 柴田美恵子 仮屋隆史 松井理沙:患者対応で受けるストレス軽減の効果.豊郷病院看護研究発
表会、2012.12.1 豊郷
17. 義村さや香:「いま、学校に求められること」−発達的視点から不登校を考える− . 野洲市教師
育成塾、2012.12.04、近江八幡
18. 林 拓二:治療と矯正、そして共生.精神医学講義、レインボウとよさと、2012.12.8 豊郷
19. 義村さや香:広汎性発達障害(2)成人で未診断のケース . 2012 年度明治安田こころの健康財団
集中講座「広汎性発達障害の支援と医療の実際問題」、2013.1.26、大阪
20. 成田 実:認知症の気付きから治療・予防のお話.出前講座、2013.2.23 多賀
21. 白井隆光、上野幸枝、八田真菜美、諏訪太朗、村井俊哉:Clozapine によって症状の改善が得ら
れたが、好中球減少をはじめとする副作用に種々の対応を要した治療抵抗性統合失調症の一例.
第 112 回近畿精神神経学会、和歌山医大臨床講堂、2013.2.16 和歌山
22. 成田 実:感情が不安定な認知症患者のつきあい方.湖東ケアネットワーク、2013.3.7 彦根
23. 成田 実:認知症のきざしに気付く.豊郷病院セミナー、2013.3.9. 豊郷
24. 林 拓二:非定型精神病こそが精神病研究の突破口となり得る.香川精神科救急治療講演会、高
松国際ホテル、2013.3.21 高松
著書
1.
高橋英彦: 他人の不幸は蜜の味:妬みと他人の不幸を喜ぶ気持ちの脳内メカニズム.社会脳科学
の展望:脳から社会をみる 社会脳シリーズ 1.苧阪直行 新曜社 , 東京 , 133-144 頁 , 2012
2.
義村さや香、十一元三:特定不能の広汎性発達障害 . 現代児童青年精神医学、永井書店、大阪、
2012
精神鑑定
1. 林 拓二:自動車及びブランド焼酎窃盗事件−ヒステリー性健忘および睡眠剤嗜癖 2012
2. 林 拓二:自転車損壊事件−遅発性パラフレニー 2012
3. 林 拓二:信号無視衝突事件−軽症うつ病 2012
4. 林 拓二:成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞 2012
5. 林 拓二:成人後見開始の審判−中等度精神発達遅滞および認知症の重畳 2012
6. 林 拓二:成人後見開始の審判−脳血管性認知症 2012
− 121 −
公益財団法 人豊郷病院附属
臨床精神医 学研究所 所員
(平成 25 年 3 月 1 日現在)
所長 林 拓二(京都大学名誉教授)
顧問 山田尚登(滋賀医科大学精神科教授)
顧問 村井俊哉(京都大学精神医学教授)
所員 成田 実
所員 中江尊保
所員 世一市郎
所員 上原美奈子
所員 高橋英彦
所員 義村さや香
所員 田中祐輔
所員 白井隆光
所員 木村千江
所員 堀尾素子
所員 石田正樹
所員 木津賢太
所員 菅原幸一
秘書 森 香織
− 122 −
編集後記
ここに豊郷臨床精神医学研究所年報第 3 号をお届けいたします。
今年もまた、各職域の皆さんから多くの原稿をいただき、とりわけ作業療法士や各病棟の
看護職員の臨床現場からの実践報告は貴重なものであってここに掲載させていただきまし
た。また、締め切り直前での依頼にもかかわらず高橋・義村の両先生からはご自身の研究を
含めた総説を投稿していただきました。有難うございました。
臨床精神医学研究所のモットーは「焦らず、慌てず、諦めず」であり、着実に歩めば必ず
成果が出ると確信しております。研究所が発足した時には常勤医師が 2 名に過ぎなかった豊
郷病院精神科医局にも若い先生が多く集まるようになり、現在では常勤医師が 5 名、非常勤
医師が 4 名となって将来が非常に楽しみになっています。そして、昨年からの懸案であった
修正型電気療法の導入も、若い先生を中心にして今年 7 月から実施しております。今後、本
年報にもこれらの臨床成果が次々に発表されるものと期待しております。
最後になりましたが、本誌の出版にはパストラールとよさと副施設長の種村氏に大変お世
話になりました。ここに厚くお礼を申し上げます。
(H25.8.15 編集委員 林拓二・中江尊保・森香織)
伊吹山山頂にて
− 123 −
vol3豊郷病院年報_表紙.ai 2 14/04/19 10:41
グループ
施設
至彦根・米原
至多賀
至米原
認知症疾患医療センター
県道
至彦根
内科、循環器科、消化器科、心療内科、呼吸器科、
呼 吸 器 外 科、外 科、肛 門 科、泌 尿 器 科、皮 膚 科、
脳神経外科、
整形外科、
婦人科、
耳鼻咽喉科、
眼科、
小 児 科、精 神 科、神 経 科、歯 科、歯 科口腔 外 科、
リハビリテーション科、
放射線科
TEL 0749(35)3001 FAX 0749(35)2159
芹川
介護老人保健施設
犬上川
居宅介護支援センター
荒神山
尼子
尼子駅
河瀬駅
レインボウひこね
JR 東 海 道 新 幹 線
河瀬高校
平和堂
団地
団地
関西
アーバン銀行
ヘルパーステーション
出町
野口
居宅介護支援センター
安食西 四十九院
三ツ池
名神高速道路
石畑
JR 琵 琶 湖 線
訪問看護ステーション
コンビニ
豊郷
小学校
豊郷町
役場
豊郷病院
豊郷駅
高野瀬
訪問看護ステーション
八町 雨降野
宇曽
川
愛荘町役場
秦荘庁舎
国 道 307 号 線
訪問看護ステーション
吉田
近江鉄道
石橋
安孫子
肥田
沢
中
山
道
国道8号線
N
稲枝駅
訪問看護ステーション
長野
訪問リハビリテーション
至京都・大阪
至草津
彦根市デイサービスセンター
彦根市地域包括支援センター
彦根市グループホーム
■電車利用の場合
JR河瀬駅または稲枝駅から車で10分
JR彦根駅から車で20分
近江鉄道 豊郷駅から徒歩1分
甲良町デイサービスセンター
甲良町グループホーム
■電車利用の場合
名神彦根I.Cから20分
国道8号線 高野瀬交差点を東へ5分
至東近江市 至大津
交通
アクセス
vol3豊郷病院年報_表紙.ai 1 14/04/19 10:41
年 報 第
3
巻 2
0
1
2
年
︵
平
成
24
年
度
版
︶
公益財団法人豊郷病院附属
臨床精神医学研究所年報
第3巻
Bulletin Toyosato Institute of Clinical Psychiatry
Vol. 3
2012年(平成24年度版)
2 0 1 2(平成24年度版)
公益財団法人豊郷病院附属
臨床精神医学研究所年報
発 行 公益財団法人 豊郷病院
〒529-1168 滋賀県犬上郡豊郷町八目12
TEL(0749)35-3001 FAX(0749)35-2159
編 集 公益財団法人豊郷病院附属
臨床精神医学研究所 編集委員会
臨床精神医学研究所
印 刷 近江印刷株式会社
滋賀県愛知郡愛荘町川原771-1
TEL(0749)42-8400(代)
公益財団法人豊郷病院附属
vol.3
公益財団法人豊郷病院附属
臨床精神医学研究所
Toyosato Institute of Clinical Psychiatry