柴田バンドの彷徨 - 東京女子医科大学

柴田教授夜話(第 31 回)「柴田バンドの彷徨」2015 年 8 月 18 日 ver1.1
■私が学生だった頃、医学部の最初の 2 年間は教養課程といって医学と完全に
切り離されたカリキュラムが組まれていた。当時、京都府立医科大学の教養課
程は、北野白梅町 (今出川通と西大路の交差点) から南に数百メートルの西京区
大将軍という場所にある校舎 (通称『分校キャンパス』) で行われていた。
■現在、日本の大学教育で軽視されているリベラルアーツに触れる絶好の機会
であった。しかし、学生の多くはこの 2 年間をモラトリアムの期間と捉えてい
た。女子学生がたった一人しか出席していないのに、彼女が全員の『代返』を
やってのけ、講師はそれを咎めることなく何もなかったかのように淡々と講義
を終えて帰ったという逸話が残されている。それはともかく、私の頭に鮮明な
記憶として残っているのは「海外の飛行機事故で多数の死者が出た場合、遺体
の回収に最も執着するのは日本人である」という日本人の精神性にスポットを
当てた社会学系の講義であった。これは、太平洋戦争で戦死した兵士の遺骨収
集活動がいまだに続けられている現状と重なり合う。浪人生活で受験勉強に明
け暮れてきた頭には新鮮な内容だったし、社会に目を向けるよい機会となった。
■私はドイツ語の勉強をサボっていたため本試験を落としていたが、ひとたび
文法の法則性に面白さを見出すと猛勉強の末、高得点で追試験に合格した。ド
イツ語でお世話になった山本尤教授はおおらかな性格もあって学生達に慕われ
ていた。同級生の仲間と一緒に先生のお宅にお邪魔したときの楽しいひととき
は昨日のことのように思い出される。奇しくもこの文章を執筆している最中の 7
月 23 日、京都新聞のネット配信で山本名誉教授の訃報 (享年 84 歳) を知った。
■教養課程の期間は、校舎の目と鼻の先にあり、おばあさんが一人暮らしする
民家の二階に下宿した。私の部屋は四畳半であった。襖を隔てた隣の六畳間に
は 6 歳年上の医師国家試験浪人 (通称『国試浪人』) の男の先輩が暮らしていて、
京都の生活に慣れていない私を気遣ってくれた。彼は硬式テニス部のキャプテ
ンを務めたこともあるバリバリの体育会系キャラで、同部に入るよう強く迫っ
た。受験生活で運動不足に陥っていた私は、身長 173 cm に体重 79 kg と、どう
みても太っていた。私が入部を決意すると、彼は喜々として初心者である私を
早朝のテニスコートに誘い出し、素振り、ストローク、サービスなどを事細か
に手ほどきしてくれた。国試勉強そっちのけで教えてくれるのは有り難かった
が、その熱意を自分の勉強に傾ければいいのにとも思った。放課後のクラブ活
動はランニングとボール拾いの毎日だった。梅雨に入ると京都特有の高温多湿
で風の吹かない気候に悩まされ、夜は汗をびっしょりかいてうなされた。クラ
ブ活動で切磋琢磨しているうち、次第にスリムになってゆく自分を感じた。毎
朝のように鼻血で目が覚めた。これは脂肪組織の減量に伴う血管床の減少に対
し、過剰な血液を体外へ排出しようとする適応現象なのだろうかと自分なりに
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分析を試みた。そして忘れもしない 8 月 1 日、下宿からほど近い浴場の体重計
に乗ったとき、針は 61 kg を指していた。満 4 カ月で−18 kg の減量に成功したの
だ。その後も、夏合宿の『ふりまわし』を経験するなど、体重がリバウンドす
る暇もない生活が続いた。しかし、中高生の頃からロック・ミュージックに慣れ
親しんできた私にとって、ロック喫茶や拾得 (『じっとく』と読む) などの老舗
ライブハウスが林立する京都の街を満喫できていないフラストレーションが次
第に募っていった。入学した年の秋深まる頃、私は硬式テニス部を退部した。
■ブリティッシュ・ロック系の輸入盤レコードを買い漁りに、京都市内に飽きた
らず大阪みなみの怪しげなレコード街まで足を延ばすことも多くなった。必然
的に、東京で暮らす両親から月末に送金されてくる生活費が翌月早々に底を突
いてしまう事態に陥った。生活は明らかに困窮していた。その様子を見かねた
自宅通学の同級生が毎日のように夕食に招いてくれた。彼は老舗の珈琲店『イ
ノダコーヒ』の跡取り息子 (後に小児科医を経て社長となり現在は会長職にあ
る) だった。夕食とはいっても大勢雇っている従業員用の賄い弁当の余りだった。
普段自分がそこらの売店で買うような安っぽい品物とは比較にならないほど栄
養価の高そうなおかずがぎゅうぎゅうに詰められていた。一人っ子の彼は、中
京区の本店向いにある京都町屋建築のワンフロアを自由に使っていた。映画の
撮影や音楽の鑑賞が大好きという多趣味な彼は、本格的な映写プロジェクター
や JBL 社製大型スピーカーを設置した部屋で映像や音響に関する蘊蓄を私に披
露した。私が安価な音響機器でレコードを再生して聴いていた音質とは全く異
なる、臨場感溢れる音の世界を知った。本物を追求する精神は彼の父親から引
き継いだものに違いなかった。鋭い目利きの感性で買い付けた珈琲豆をもとに
1940 年この店を創業したお父様は油彩画を描くのを趣味とした。葉巻の薫りが
立ち込めるアトリエには制作中の作品がゴロゴロと置いてあり、その絵の背景
について直接説明いただいたこともある。趣味のレベルを遥かに通り越した腕
前で、全国レベルの美術展に出品する常連だった。中でも『豆を運ぶロバと男』
は店の象徴として有名である。私はその家にしばしば宿泊するようになった。
朝になると、物腰柔らかな京都弁のお母様がトーストとお店のヒット商品『ア
ラビアの真珠』を用意してくれた。この商品は厚めのカップの底にザラメ状の
砂糖とミルクが忍ばせてあるホットコーヒーで、そのままだと珈琲そのものの
味を楽しめ、かき混ぜるとまろやかな味わいが拡がる仕掛けを施してあった。
彼の御両親は一人息子の親しい友人である私が居候状態を続けているのを寛容
な心で見守ってくれた。一方、東京に住む私の両親は、アパートに電話をかけ
てもさっぱり連絡が取れない息子のことが気がかりだったようだ。そんな親の
心配をよそに、私は学生生活を謳歌し続けていた。親の心子知らずである。
■教養課程修了後の 4 年間は、医学教育に特化した進学過程を『本部キャンパ
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ス』の校舎と病院で過ごした。その敷地は京都御所の東側を南北に走る河原町
通と鴨川の間に挟まれ、南北に細長いことから『鰻の寝床』とも呼ばれていた。
私は件の下宿を引き払い、本部キャンパスの近くに引っ越した。新しい住まい
は、東西に走る今出川通を挟んで御所の北側に位置する同志社女子大学裏手の 3
階建アパートであった。辺りは閑静な住宅地で、隣は日本人として初めてノー
ベル賞を受賞した湯川秀樹博士が幼少の砌に住んでいたと言われる大きな日本
家屋だった。近所には、かつて俳優の田村三兄弟が子供の頃買い物によく訪れ
たという思い出を自慢するおばあさんが小さなパン屋を営んでいた。近所界隈
には、大音響ロック喫茶『ニコニコ亭』、読書し放題軽食屋『ほんやら洞』、満
腹になりたい学生向き『なかじま食堂』、少し気取った『風媒館』などがあった。
■私は 3 回生 (関西では 3 年生のことをそう呼ぶ) になってもまだ遊び足りない
気分を引き摺っていた。アパートに入居した当日、ドアが開け放たれた隣室か
ら流れ続ける大音響に辟易した。早速注意しにその部屋を訪れると、目が据わ
った真剣な表情でスティックを振りかざし、Led Zeppelin のアルバム “Physical
Graffiti” の一曲に合わせてエアドラムに熱中する青年がいた。京都大学工学部の
Tak 君だった。騒がしいぞと雷を落とすつもりが逆に仲良しとなり、毎日のよう
に互いの部屋を行き来するようになった。私は Led Zeppelin と CSN&Y しか知ら
ないロック青年だったが、彼はロックンロールからハード・ロックあるいはプロ
グレッシブ・ロック (通称『プログレ』) まで広範囲に亘るロック・ミュージック
に精通していた。意気投合して一緒にプログレ・バンドを組む決断を下すまでに
それほど時間はかからなかった。Tak 君をドラマー、私をベーシストとすること
に異論はなかった。ほどなくして彼は、ボーカリスト志望で京都大学農学部の
Ito 君とギタリスト志望で京都大学工学部の Kas 君を部屋に連れてきた。Ito 君は
ボーカルを任せるのが不安になるほど音痴で内気な青年だった。Kas 君のギター
の腕前はなかかのものだった。この顔ぶれで第一期柴田バンドが結成された。
■我々は直ちに京都大学軽音部に所属する手続きをとった。部室は当時の京都
大学が容認していた治外法権の象徴『西部講堂』に隣接するプレハブの 2 階に
あった。1 階の受付には学生が常駐していて、練習日の予約を管理していた。楽
器を手にして間もない素人集団が手掛けることのできる曲目は限られていた。
プログレは超絶技巧を求める極めてハードルの高い音楽であったため、難易度
の低いロックンロールを練習した。その年の晩秋、我々は京大祭にデビューし
た。学部校舎の講義室を借り切った演奏会場は、しばしの間我々の牙城と化し
た。先輩達の命令には絶対服従であり、夜は楽器や機材の盗難を警戒して下々
の者が徹夜で留守番をした。京都の初冬は夜ともなれば冷え込む。自分のアパ
ートから毛布、炬燵、座布団などを持ち込み、丹前を着込んで暖をとった。こ
れらの生活用品は講義室の床に塗られた油によって、たちどころに黒く汚れて
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しまった。深夜、校舎の外で泥酔した大学生同士の口論や喧嘩が散発した。止
めに入ろうとするのも憚られるほど殺気立った雰囲気に恐れおののき、我々は
留守番部屋に引き返した。寒さを紛らわすため、カップラーメンをすすりなが
ら夜が明けるのを待った。京大祭が終わると先輩の住まいの引っ越しを手伝い、
肉体労働のお駄賃に使い古しのギブソン SG モデル風ギターを貰った。
■我々の悩みは Ito 君の歌唱力に難があることだった。Ito 君には申し訳ないと
思いつつも、Tak 君は演奏したがる若者をターゲットにした音楽雑誌『ロッキン
グ・オン』にボーカリスト募集の広告を出した。すると、大阪でセミプロ活動を
している女性がやってきた。ところが、音合わせを始めた途端、雲行きが怪し
くなり「私こんなド素人らと遊んでいる暇なんかないねん」と呆れた様子で呟
いた。募集広告を読んだ人に過大な期待感を煽る表現があったのだろうか?今
となっては記憶が曖昧で『謳い文句』を思い出せない。すっかり不機嫌になっ
てしまった彼女に労いの気持ちを表そうと、我々は酒好きを自称する彼女をア
パートに招き、以前親戚から貰っていたジョニー・ウォーカー黒ラベルを振る舞
った。彼女は確かに酒豪であった。オンザロックでぐいぐいと飲み続ける彼女
のペースに誰もついていけない。彼女は「あんたら演奏は下手やし酒は弱いし
ホンマどうしようもないな」と捨て台詞を残し、長い髪をなびかせ颯爽と大阪
に帰ってしまった。我々の自尊心は木端微塵に吹き飛んだ。
■落ち込んでいたメンバーの中で、Tak 君は最も早く立ち直り『ロッキン・エフ』
という別の音楽雑誌にキーボード・プレイヤーとギタリストを募集する広告を
出した。すると、ノートルダム女子学院大学の Nis さんが友達の Ton 君を連れて
我々のもとを訪れた。Nis さんはキーボードとボーカルを、Ton 君はギターを希
望した。この出来事をきっかけに Ito 君と Kas 君が脱退の意思を表明した。これ
が第二期柴田バンドの始まりである。Tak 君の部屋か私の部屋が打ち合わせの場
所となり、音楽のことだけでなく、世相や将来について語り合った。しらふの
ときもあれば深酒することもあった。Nis さんが飲みすぎて体調を崩し、長時間
に亘ってトイレに籠ったこともあった。アパートは次第にメンバーの溜まり場
と化した。しかし、抜きん出た才能をもつカリスマが不在である状況は我々に
とって頭の痛い問題だった。レパートリーは相変わらずロックンロールだった。
ある時、北白川にあるライブハウスで演奏する機会に恵まれた。前述した珈琲
店の息子が 8 ミリムービー撮影に駆けつけてくれた。聴くに堪えない我々の演
奏を、友人達がお酒を煽って我慢しながら聴いてくれているのが見て取れた。
ライブハウスに出演した直後から、Nis さんと Ton 君は忽然と姿を消した。暫く
すると彼女と連絡がつき、再び顔を出すようになった。彼女は大学生活が忙し
くなっていたようである。一方、Ton 君とはその後も音信不通だった。
■4 回生になったあるとき、京都産業大学の Kos 君が我々の前に現れた。彼は
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Tak 君が音楽雑誌『プレイヤー』に出した広告 “Fripp 募集” (あとで種明かし) に
応募してきたのである。彼はロック・ギター演奏に関して素晴らしい腕前をもっ
ていた。Kos 君の登場により活気を帯びてきた我々は、少しずつ各自の演奏技術
とアンサンブル能力を向上させ、憧れのプログレ・ロックグループ UK の新曲
“Danger Money” に挑むようになった。そして、Kos 君は我々の演奏をカセット
デッキで録音したデモテープを京都産業大学の大学祭企画『アン・ルイス LIVE』
の前座募集に応募した。すると驚いたことに合格通知が送られてきた。我々は
小躍りし、一生懸命練習に励んだ。Nis さんはキーボードのみならずボーカルも
引き受けてくれた。この第三期柴田バンドは『エレクトリック・コアラ』の名で
前座ステージに立った。他にも、大学生によるいくつかの素人バンドが前座を
務めた。MC (A Master of Ceremony) は半被をまとった京産大落ち研の男子学生
だった。MC は開口一番、Nis さんにマイクを向けて、
「エレクトリック・コアラ
ゆう名前は日本語で『電動熊』の意味でっしゃろ?」と質問した。聞く人が聞
けば分かるこの下品な突っ込みに Nis さんは顔を赤らめてうつむいてしまった。
お蔭で白けたムードが立ち込め始め、機先をそがれかけたが、我々はアイコン
タクトで気持ちを一つにし、合図とともに演奏を開始した。練習のときと同様、
堂々としたパフォーマンスを繰り広げた。しかし、メンバーの意気込みとは裏
腹に、聴衆の反応はいま一つだった。無理もなかった。彼らはアン・ルイスの LIVE
を楽しみに来ているのであって、プログレを聴くのが目的ではなかったのであ
る。拍手はパラパラとしか聞こえなかったが、Tak 君、Kos 君、Nis さんそして
私の 4 人は胸を張ってステージを降りた。こうして京産大ライブは終わった。
■当時、アン・ルイスは大阪を活動拠点とするロック・ボーカリスト桑名正博の
配偶者だった。そして、桑名正博の妹である桑名晴子も兄と同じ道を歩み始め
たばかりであった。同年、私は京都府立医科大学の大学祭『トリアス祭』の実
行委員として、大学の先輩と一緒に桑名晴子のプロモーション事務所を訪れ、
トリアス祭のメイン・イベントへ出演要請する交渉に臨み、開催当日は楽屋裏で
彼女にお茶汲みする役を買って出た。この一連のエピソードを思い出すたび、
勝手ながら桑名一族と私との不思議な縁を感じるのである。
■あるとき、Tak 君は京都大学理学部の Oka 君を私に引きあわせた。Oka 君はシ
ンセサイザーを自在に操るキーボードプレイヤーで、プログレをこよなく愛し
ていた。我々がハマっていた共通のプログレ・バンドは King Crimson と UK だっ
た。King Crimson は 1968 年、アバンギャルドなカリスマ・ジャズロック・ギタリ
スト Robert Fripp が、ベーシストの Greg Lake、サクソフォンやフルートなどの
管楽器の他キーボードも手掛けるマルチ・プレイヤーの Ian McDonald、ドラマー
の Michael Giles、作詞家で詩人の Pete Sinfield らとともにロンドンで結成したプ
ログレ・バンドである。King Crimson は 1969 年にリリースした “In the Court of
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Crimson King” を皮切りに、“In the Wake of Poseidon (1970)”、“Lizard (1970)”、
“Islands (1972)”、“Larks’ Tongues in Aspic=太陽と戦慄 (1973)”、“Starless and Bible
Black (1974)” と、世界的にインパクトのあるスタジオ録音アルバムを次々に発
表し続けたが、“Red (1974)” を最後に活動休止状態にあった。強烈なリーダーシ
ップとワンマン振りを発揮する Robert Fripp の前に、他のメンバー達は自己主張
するすべをもてなかったのであろうか?アルバムをリリースする度にメンバー
の変更が繰り返された挙句、“Red” 発表時には、Robert Fripp (ギタリスト)、John
Wetton (ベーシスト&ボーカリスト) および Bill Bruford (ドラマー) の 3 人しか
残っていなかった。このレコード・ジャケットはレッド・ゾーンを示す車の速度
メーターをあしらっており、当時 King Crimson が追い込まれていた危機的状況
を象徴していた。かくして King Crimson は解散した。UK は 1977 年、John Wetton
(ベーシスト&ボーカリスト)、Bill Bruford (ドラマー)、Eddie Jobson (1972 年にデ
ビューし、Curved Air、Roxy Music、Frank Zappa and Mother of Invention などを渡
り歩いて UK に合流したキーボード・プレイヤーかつエレキ・バイオリニスト)、
Allan Holdsworth (超絶技巧の持ち主として誉れ高いブリティッシュ・ジャズロッ
ク・フュージョン・シーンのレジェンド的ギタリスト) の 4 人で結成された。1978
年にファースト・アルバム “UK (憂国の四士)” をリリースした直後、メンバー間
に露見した音楽性の違いからバンドは分裂した。Bill と Allan は UK を脱退して
別のバンド Bruford を結成した。John と Eddie は Frank Zappa and Mother of
Invention から Terry Bozzio (ドラマー) を引き抜いて UK を存続させた。1979 年
にセカンド・アルバム “Danger Money” をリリースするとともに日本公演を果た
した。私は 3 回生の時、友人と一緒に大阪フェスティバルホールでのライブに
出かけた。John が『君たち最高だよ!』と聴衆に語りかけたつもりが、
『キミタ
チサイゴダヨ!』と発音してしまったのが妙におかしかった。誰かが意図的に
間違った発音を彼に吹き込んだのか?それとも日本語の発音が単に下手糞なだ
けだったのか?それはともかく、本当に観たかったファースト・アルバム発表時
の 4 人とはメンバーが異なっていたので、この公演を心から楽しむ気にはなれ
なかった。1981 年になると、Robert Fripp は新生 King Crimson 結成を発表した。
Robert Fripp (ギタリスト)、Adrian Belew (ギタリスト&ボーカリスト)、Tony Levin
(ベーシスト) および Bill Bruford (ドラマー) からなる新生 Crimson は、アルバム
“Discipline” をリリースした。新時代を感じさせる新鮮なサウンドで世界中の
Crimson ファンを魅了したことは言うまでもない。しかし、常にメンバー・チェ
ンジし続ける Fripp の思考と行動についていくのは大変なことだと思った。その
頃、私は既に 5 回生に進級しており、臨床実習の真只中にあった。
■卒業が近づいた Nis さんは顔を出さなくなっていた。このため、我々はプログ
レの大好きな Ito 君にボーカリストとして再加入することを願い出た。幸いなこ
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とに、彼は嫌な顔一つせず快諾してくれた。学年が進むにつれ医学の勉強が加
速度的に忙しくなる私は、ロック・バンド生活に終止符を打つべき時が近づいて
いるのを悟っていた。他のメンバーには大変申し訳なかったが、柴田バンドの
ラスト・ライブの企画を申し出た。ずっと一緒に過ごした仲だったから、名残惜
しさが交錯する複雑な心中だったろうに、協力を惜しまなかった彼らに対し、
私は感謝の気持ちで一杯だった。演奏会場は深泥池 (みどろがいけ) 近くのライ
ブ・ハウス『異魔人 (いまじん)』と決まった。Tak 君 (ドラマー)、Kos 君 (ギタ
リスト)、Oka 君 (キーボード・プレイヤー)、Ito 君 (ボーカリスト) および私 (ベ
ーシスト) で構成された第四期柴田バンドの名称は、新生 Crimson のアルバム名
に因んで『ディシプリン柴田と風快珍バンド』と決めた。名付け親は Tak 君だ
った。Discipline とは『鍛練』とか『修養』を意味する英語の名詞である。演目
は [1] Frame by Frame (from “Discipline”) → [2] In the Dead of Night (From “UK”)
→ [3] Red (from “Red”) → [4] Talking Drum (From “Larks’ Tongues in Aspic”) →
[5] Larks’ Tongues in Aspic Part 2 (from “Larks’ Tongues in Aspic”) とした。我々の能
力の限界に挑戦する渾身の選曲であった。楽譜などなかった時代ゆえ、全て『耳
コピー』し、バンドスコアは私が書いた。プログレの曲は大作が多いため、通
しで 1 時間半くらいかかる分量だった。ラスト・ライブに向けて我々は貸しスタ
ジオで猛練習を開始した。夜明け前に練習から帰宅することも珍しくなかった。
■ライブ当日がやってきた。会場は、京都府立医科大学の同級生や京都大学関
係者で一杯になった。その中に、私の彼女 (現妻) やその友人らの顔もあった。
■1 曲目の “Frame by Frame” は、Kos 君が奏でる 7/8 拍子 Em コードの機械仕掛
けが如き均一刻み 16 分音符ギター・アルペジオで始まる。これに Tony Levin の
命が吹きこまれた私のベースが続き、Tak 君のドラムスが入ったところで Ito 君
のくねくねとしたボーカルが会場を物悲しい雰囲気に包んでいく。Adrian Belew
の発声法に通じるところはあるものの、ここはあくまで Ito ワールドだ。最後は
出だしと同じギター・アルペジオが繰り返され、突然終焉を迎える。会場が静寂
を取戻すと、聴衆は一様に狐につままれたような表情を隠さなかった。
■2 曲目の “In the Dead of Night” は、Kos 君のギターと私のベースによる 7/8 拍
子 F 音の不均一刻み 16 分音符ユニゾン・リフで始まる。そして、Oka 君による
壮大な Em コードのシンセサイザー和音が響き渡ると、Ito 君のボーカル・メロデ
ィーが絡みだす。モノフォニック・シンセサイザーにギター用エフェクターを接
続してメロトロンみたいな分厚い音を出すという Oka 君の創意工夫パフォーマ
ンスは Eddie Jobson のようだ。Ito 君の声質は軟らかく John のような野太さとは
対照的だ。中間奏を彩る Kos 君のギター・ソロは Allan Holdsworth を彷彿とさせ
る滑らかな速弾きである。Tak 君が Bill Bruford ばりのタイミングを意図的に外
すスネアで合いの手を入れる。サウンドは次第に重厚感を増し、クライマック
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スを迎えるとスピードダウンし、各パートは同じリズムを刻んで終わる。
■3 曲目の “Red” は、5/8 拍子 2 小節と 6/8 拍子 1 小節から始まる 8 ビートを基
調としたホ短調のインストゥルメンタル曲である。各パートが一糸乱れぬリズ
ムを刻む。中間部はベースとストリングス音のシンセサイザーが重々しいユニ
ゾンでメロディーを展開し、独特の雰囲気を醸し出す。そして再び 5/8 拍子 2 小
節と 6/8 拍子 1 小節が登場すると、徐々にペースダウンしてフェイドアウトする。
■静寂が戻ると、Tak 君が細小音量で 16 (シックスティーン) の太鼓を刻み始め、
次第に音量を増してゆく。4 曲目の “Talking Drum” の始まりである。ジャング
ルの中を獲物に向かって忍び寄る蛇が如くフロアタムをボンゴのように叩く
Tak 君のパフォーマンスを眺めていると、まるでそこに稀代のパーカッショニス
ト Jamie Muir がいるかのようだ。それを追いかけるように私の John Wetton ベー
スと Oka 君の David Cross ヴァイオリン音シンセサイザーが加わり、音量を徐々
に増していく。激しいビートがクライマックスに達すると、突然リズムは停止
し、首を締め上げられた鳥の悲鳴のようなキーボードの不協和音が数秒間持続
したかと思うと、全ての楽器音がパタリと消えて曲は終わりを迎える。
■するとすかさず、ディストーションのかかった 5/8 拍子のギター・リフが始ま
る。トリを飾る 5 曲目 “Larks’ Tongues in Aspic Part 2” である。続いてベースと
ドラムスが同じリズムを刻みだす。1 拍毎にスネア、タムタム、シンバルなどを
叩き分ける Tak 君のパフォーマンスはさながら八面六臂である。その後、ドラ
ムスが一歩引き、曲はストリングス音が揺蕩う (たゆたう) 優雅でエロティック
な世界に入っていく。仏映画の名作『エマニエル夫人』の R-18 指定場面に使わ
れている BGM がこの部分の盗作であるとして、Robert Fripp が映画会社を相手
どり訴訟を起こしたのは有名な話である。これを挟んで、ギターとベースとド
ラムスのみからなる激しいビートが再開する。当初、ギターとベースは『ダダ
ッタダッタダッタダッタダッタ』の 8/8 拍子 16 分音符 16 刻み (変則シックステ
ィーン) リズムを刻むが、次第にそれと入れ替わるように『ターラターラタラタ
ーラターラタラ』という変則シックスティーンのギター音が前面に出てくる。
そして Tak 君のスネアを合図に全員が 16 分音符のリズムを限りなく連打した挙
句、持続する大音響がエンディングを飾る。音量が次第に小さくなるとともに
メンバーは客席に向かって一礼した。拍手が沸き起こった。感動の表れだった
のか、はたまた漸く終わったかという反応だったのか、メンバーには判らない。
はっきり覚えているのは、メンバー全員がぐっしょり汗をかき、体から湯気が
立ち昇っていたことだ。達成感を胸に、重い機材を担いで我々は会場を去った。
ラスト・ライブは終わった。目の前に、医師国家試験へ向けて猛勉強の毎日が待
ち受けている。もう一生彼らと行動を共にすることもないだろうと思った。
■あれから 34 年の歳月を経た今年、私は Oka 君&Tak 君との再会を果たした。
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