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2009. 1.14
National Trust (England) について
辻
宏
Ⅰ エンクロージャー(囲い込み):enclosure
イギリス農業史上、いわゆる開放耕地や荒地・共有地などを私有地として生垣そのほかの垣によって囲
い込んだことをいう。中世以来のマナー(荘園)制度のもとでは、耕地は相互の境界が明確でない(開放耕
地)上、各農民の保有地は相互に複雑に入りまじっており(混淆耕地)、このことの故に共同体による共同作
業が避けられず、農業改良を阻害する要因となっていた。
“囲い込み*”により開放耕地を閉鎖地化する事は、耕地の統合と所有権の一元化を通じて農地および農
業の改良を促進する目的で、主に 15〜16、18〜19 世紀のイギリスで展開された。又、他の諸国にも類似の
現象は認められる。しかし、他方では、家畜の放牧地・燃料採取地などとして、共有地を重要な生活基盤と
してきた貧農にとっては、“囲い込み”は従来の生活の破壊、賃金プロレタリアートへの転落を意味した。
このように、エンクロージャーは、しばしば“農業革命”と同義的に考えられるが、それはエンクロージャ
ーが資本主義的生産関係を作り出すうえで最も重要な要因の一つであったためである。
(注) * 囲い込みの意味は、柵を作り、不要のものを排除するという意味である。
1 次囲い込みは、15〜16C、羊を囲い込み、農民を排除(地主主導)
2 次囲い込みは、18〜19C、大農法で農作物を生産するため、農民を囲い込んで排除(国会主導)
第 1 次エンクロージャー(1470-1530)
15 世紀末以降、イギリスが毛織物輸出国として成長してゆく過程で、商品としての羊毛生産を目的とし、
耕地の牧場への転換がはかられた。領主および富農たちによる暴力的な土地収奪を伴ったこの 16 世紀
の“エンクロージャー”は、牧場化された囲い込み地ではごく僅かな労働力しか必要としなかったこともあっ
て、貧農の離村・浮浪者化を引起こし、深刻な社会問題を生んだ。「羊が人間を食う」と評したトマス・モアを
はじめ、当時のヒューマニストの多くはエンクロージャーを非難し、また議会や絶対王政の当局もしばしば
禁止を試みたが成功せず、1601 年のエリザベス救貧法の発布を余儀なくされるような社会的混乱に陥っ
た。とはいえ、1455 年から 1607 年までをとっても、牧場化を伴ったエンクロージャーが行われたのは、全
耕地の 2%にも達しなかったといわれ、16 世紀の社会問題のことごとくをエンクロージャーの結果とするの
は行き過ぎである。人口が急増し、羊毛より穀物の価格の方が急騰しはじめた 16 世紀後半以降は、穀物
栽培の為のエンクロージャーが多くなった為、離村せざるをえなくなった者も少なくなかったと思われる。
第 2 次エンクロージャー(1760-1830)
イギリスにおける産業革命開始の一つの大きな要因になった訳だが、目的は穀物生産向上にあった。
17、18 世紀を通じて、エンクロージャーはそれなりに進行したが、それが再び猛威をふるうのは、産業革命
が展開される 18 世紀後半である。
この第 2 次エンクロージャーは、
(1)羊毛ではなく、穀物生産を目的としていること
(2)議会法を根拠としていちおう合法的な体裁をとって展開されたこと、が特徴である。
囲い込まれた土地には、“ノーフォーク農法”と呼ばれた、生産性の非常に高い新農法が採用されること
が多く、穀物ばかりか畜産物の大増産にもつながった。“第 2 次エンクロージャー”が“議会制エンクロージ
ャー”の形態をとった事実は、それが中・小農民の没落をひきおこさなかったことを意味するのでない。事
実、すでに衰退過程にあったヨーマンリー*は、この過程で完全に消滅し、大地主とその地主から借りた土
地を経営する農業資本家(ファーマー)と賃金労働に従う農業労働者という三つの階層が成立した。改良の
ための固定資本を地主が、運転資金を資本家が、労働力を労働者が提供するこの“三分割制”は、近代的・
資本主義的なイギリス農業の特徴となった。しかし、他方では、ノーフォーク農法が採用された農地では、
囲い込み前より多くの労働力が需要されたから、これをただちに工場労働力の供給に結びつけるのは正
しくない。1700 年には、イギリスの耕地の過半はなお“開放耕地”であったが、1820 年になると、議会法によ
-1-
って囲い込まれることなく残っている開放耕地が 3%を超えている州は、せいぜい 6 州くらいしかない〉とさ
れたが、共有地や荒地も、ピークの 1761〜1815 年の間におよそ 150 万エーカーが囲い込まれた。
(注) * yeoman:14-15C のイギリスに、封建社会の解体過程の中で出現した富裕な独立自営農民層。余
剰生産物を市場で売却し自己経営の余地を見出しうるようになったもの。その中から農業資本家や毛織物
業を営む産業資本家が成長し、またエンクロージャーにより土地を失って賃金労働者に転落するものも多
く、産業革命と共に資本家と労働者とに分解して姿を消した。
ノーフォーク(Norfolk)農法と農業革命
17 世紀後半から、イングランド東部ノーフォーク州(イギリス南部の東端の海岸沿い)で始まり、普及した
新農法で、冬に家畜用飼料としてカブを栽培する農法。穀物に根菜類や牧草をまじえた耕地を四区に分
けた栽培が実施され、コーク氏によってノーフォーク農法として各地に広められた。
この農法は、中世以来の三圃制に代わる新しい農法で、休耕地に飼料用かぶとクローバーを植えて家
畜の飼料として、土地の無駄をなくすというものであって、現在もヨーロッパでは飼料用としてかぶが多く栽
培されている。また、かぶはやせ地でも育つことから救荒作物として世界各地で作られているが、特にロシ
ア、トルコ近郊、インドで盛んに栽培されているようである。
(注) * 農法
二圃制・・・・・・①「冬小麦」→②「休耕」の繰り返し
三圃制・・・・・・①「冬小麦」→②「夏大麦」→③「休耕」
フランドル農法・・・・①「冬小麦」→②「夏大麦」→③「牧草栽培」
ノーフォーク農法・・・①「冬小麦」→②「かぶ」→③「大麦+豆」→④「牧草+クローバー」
囲い込み以前のイギリスにおける農業は他の西欧諸国と同様、開放耕地制、混在地制、三圃制により成
り立っていた。三圃制においては冬期に飼料が不足するため、一年を通じて家畜を飼育することが不可能
であった。そのため、いくつかの家族が集まり犂耕集団を形成し、耕地内を移動しながら共同で犂耕と播
種を行ったが、全耕地での作業終了までに二ヶ月近い時間を要したため、作業時期による収穫の不公平
を避けるべく、土地が入り組み、順番にそれぞれの土地を耕していける混在地制が採られていた。
収穫から次の播種までの期間、耕地は共同の放牧地とされたが、これは農村における共同権として農村
における共同体成員に認められた権利であった。こうした土地の共同利用は慣習に従って規定され、違反
者は厳しく罰せられることもあった。共同利用される土地はお互いの持つ耕地の他に、村落周辺の荒蕪地
も存在した。この荒蕪地において、共同体成員は薪や芝、泥炭などの燃料を無料で手に入れる事が可能
であった。
「三圃制」を行っているころは、農村はコミュニティであり、共同作業があり、共用地が存在していた。土地
は「開放」されており、厳密な境界線も引かれていなかった。
1560 年ごろ、戦禍を逃れてやってきたオランダ移民たちは、ノーフォークに住みついて、カブの栽培を
開始した。カブは荒地でもよく育ち、家畜の飼料になる。家畜の冬場のエサを確保し、肥料としての「糞」も
ゴッソリと集めることができれば、休耕地も不要にできる。
18 世紀になると、このカブを使った「ノーフォーク農法」が農業革命を引き起こす。ノーフォーク農法は、
英語で「Norfolk Four Course System」と呼んでいる。4 つの土地をローテーションで休みなく回す方法で
あり、3 つのローテーションと比べて、1) さらに広い土地、2) 自前持ちの家畜、が必要となる。大規模農業
の到来である。
その結果、「共用地」を廃止して、大規模農法に向くように土地の区画整理と再配分をやろう、ということ
で起こったのが「囲い込み運動」である。コミュニティの崩壊と私有制の加速である。私有地の境界線がわ
かるように「生垣(ヘッジ)」を義務づけたので、今日のイギリスの農村も生垣だらけになっている。
産業革命(英:1760〜 、欧:1830〜 )
生産の仕組みが小規模な手工業から動力と機械を使う大規模な工場制機械工業に変わり、それにつれ
て社会の構造や経済が大きく様変わりするのが産業革命である。
イギリスに最初に産業革命が達成された背景は、
-2-
1:植民地と奴隷制、そして早くから工場制手工業の発達によって資本が蓄積されていた、
2:いち早く市民革命* が達成されていて産業の自由な発展がはかられていた、
3:たくさんの植民地という製品の市場があり、
4:国内に鉄・石炭という資源が豊富であった、
5:囲い込み運動によって土地を失った農民が労働者となった、etc…
(注) * 市民革命:イギリス 清教徒革命(1642-49)、クロムウェルが国王処刑
名誉革命(1688)、権利章典発布
アメリカ 独立戦争(1775)、独立宣言(1776)、Cf. 清教徒(Pilgrim Fathers) 米移住(1620)
フランス フランス革命(1789)、人権宣言
ナポレオン帝位につく(1804)
産業革命はまず、原料の輸入の手軽さと機械化が簡単だった綿工業の分野からスタートする。そこでは
カートライトが発明した力織機や、機械の動力や輸送機関の動力にも応用されたワットの蒸気機関が大活
躍をした。これらの発明で人々の生活が豊かになるように思えたが、実際は子供や女性までが労働者とし
て働かなければ生活していけないほど賃金は安く、しかも 1 日に 18 時間労働という苛酷な条件下で、平均
寿命が 15 歳という有様であった。
こうして、工場を経営する資本家が、労働者を雇い入れて生産を行わせるという資本主義の仕組みが成
立した。資本主義は、都市への人口集中や、婦女子の労働問題・低賃金長時間労働・失業問題などの社
会問題をもたらす元凶となった。
Ⅱ オープン・スペース(共有地、入会地)
共有地(入会地):Commons and Open Spaces
共有地は荘園領主や地主の私有所有地でなく、近隣に住む人々の利用に供されるための共同所有地。
即ち、家畜を放牧し、果実を摘み、薪やわらび、芝、泥炭、石、砂を持ち帰る事の出来る土地。また、近隣
の人々にとってリクレーションの場。従って、共有地は本来自然のままの大地。
産業革命を経て 19C に至ると囲い込みが益々進行。結果、一般大衆は共有地を失い、自らの生活を奪
われる事になった。ナショナル・トラストは村、都市の健康とリクレーションを守ることとなる。
Foot Path
(Cotswolds)
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共有地保存運動(Open Space Movement):
19C 前半において、ロンドンでは産業革命による工業発展と 2 倍以上となった人口爆発の結果、公害、空
気汚染、テムズ河の水質汚濁、伝染病の蔓延など打ち続く社会的危機で町は疲弊した。産業革命後 1 世
紀を経て、自然破壊が進み、特に都市労働者の生活環境は極めて劣悪であった。
英国では産業革命と前後して、上述の「ノーフォーク農法」という農業革命が進行、工業のみならず農業
に於いても資本主義経営が推進された。ここに大農場経営への移行を反映して、18C 後〜19C 前に、囲い
込みが盛んに行われた。(ただし、この時期の第 2 次囲い込みは議会が資本主義経営を推進するために
制度化した進歩的方向であった。) やがて、農業保護を目的とした英国の「穀物法」は廃止され(1846)、米、
加、アルゼンチン、豪など当時の低開発地域で新たな農地が耕作され、鉄道、港湾が整備されるにつれ、
安価な食料が英国に押し寄せ、1870 年代から「農業大不況」が始まっていた。貧窮化した地主たちは土地
を手放しつつあった。鉄道建設ブーム、レジャーブームで、ロンドンから遠く離れた保養地、海岸、湖水地
方への鉄道建設計画は跡を断たなかった。オープン・スペースが次々と囲い込まれ共有権者が共有権を
蹂躙され、大衆の歩行権は奪われ、オープン・スペースのもつ自然のままの汚れのない美しさが失われて
いった。 (G.マーフィー「ナショナル・トラストの誕生」)
ロンドン郊外の荘園領主は土地を囲い込み、従来庶民が楽しんできた森や原っぱへの立入りを禁止し、
自由に出入りしてきた市内、近郊の共有地に柵が施された。貧しいものは自然からの恩恵を受ける事が出
来なくなった。レクレーションときれいな空気の為、共有地が必要である事が明らかとなった。共有地保存
運動の狙いは一般大衆の楽しみのための共有地、運動場、公園そして田園地帯を確保する事であった。
このような背景の中で、創設された組織で、最初の且つ最も有力な組織は共有地保存協会であった。
ジョージ・ショウ・ルフェーブルは国会議員、議会建設委員として、ハンプトンコート、キューガーデン、リー
ジェントパークの一部に付き出入り自由とした。併行して、1865 年、共有地保存協会を創設した。以来、主と
して首都の中央及び周辺の共有地に対する鉄道の影響軽減に奔走した。
1880 年代、湖水地方では、牧師 H・ローンズリーが、静かな谷間への鉄道路線の拡張計画に対し反対
運動を始めていた。オープン・スペースを守る運動は、主な商業地域、工業地域を越えて、田園地方のよ
り遠隔の地へ拡がっていった。そしてこの運動はまた、歴史的に由緒ある建物、城、古代遺跡へとつなが
っていった。1877 年古代建築物保存協会が出来、1894 年に National Trust が創設された。
なお、オクタビア・ヒルは 1865 年頃より、London 中心部で、多くの大衆が自由に出入りの出来るオープ
ン・スペースを確保する運動を開始、スラムのそばに子供の遊び場を造り、教区教会の協力を得て「使わ
れない教会墓地」を公園に整備し、一般公開した。後、カール協会(Kyrle Society)が創設され、また他にも
オープン・スペース運動を行う複数の組織ができた。即ち、当時London 中心部で最も多くの大衆の自由な
出入りの出来るオープン・スペースを確保したのであった。
Manor House と Golf Club
(Castle Combe)
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Ⅲ ナショナル・トラスト(The National Trust)
The National Trust
正式には The National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty(歴史的名勝および自然
的景勝地のためのナショナル・トラスト)である。
「無秩序な都市化や野放図な工業化の波によって破壊されるおそれのある貴重な自然や歴史的環境を守
るために、広く国民から寄付金を募って土地や建造物を買い取り、あるいは寄贈を受け、更には所有者と
の間に保存契約を結ぶなどして、保存、管理、公開をする活動をいう」(木原啓吉「ナショナル・トラスト」)。
現在、英国内の自然が昔のように守られているのは、自然と文化遺産を残す運動として創設された環境
保護団体「National Trust」という組織が、市民の手により積極的に環境保護運動を行ってきた為である。
国家的財産である美しい自然風景や重要な文化財、歴史的景観を保全し、後世に伝承して行く事を目的
に、その所有者となって管理を行っている。National とは、 国家の”とか 国立の”という意味ではなく、 国
民の”という意味であり、純然たる民間の非政府団体である。国からの援助に頼らず、所有する歴史的財産
を一般公開して得た入場料や世界中の会員から集めた年会費と有志の寄付を資金として、土地や歴史的
遺産を購入して自然破壊や乱開発から守っている。また数多くのボランティアーによって土地と建物を維
持管理している。
これは、イギリスに特有な制度で、フランスの場合は優れた建造物を保存するための官製の組織があり、イ
ギリスとは対照を為す。
他方、「English Heritage」という組織があるが、これはイングランドの歴史的建造物を保護する目的で英
国政府により設立された組織である。Stonehenge(有史以前の環状巨石群遺跡、イングランド南部、
Salisbury)のような考古学遺跡から、the Iron Bridge(世界最初の鉄橋、イングランド西部、Shropshire)などの
産業遺産に至る広範囲にわたる建造物* を扱い、対象の保護、助言、登録などを目的としている。また、
構築環境 (built environment) の保護を目的とする、公的自然保護機関である「Natural England」などと協
力体制を確立している。
* その他に、Clifford’s Tower (York)、Dover Castle and the Secret Wartime Tunnels (Dover)など。
<English Heritage>
Stone Henge (Salisbury)
Dover Castle and the Secret Wartime Tunnels
(Dover)
National Park について
1810 Wordsworth は、「湖水地方は全ての人が権利を有する、一種の国家の財産である」と示唆した。
1951 年 Wordsworth の意図とは若干異なる形で、国立公園が制定され、「湖水地方」もその一に選ばれた。
この National Park は、
① 国家の所有ではなく、そのほぼ全域は私有で、農民、組合、個人財産、保護団体に所属する。
-5-
② 他の諸国に見られるような、全面的に野生の地域ではない。時に、道路、鉄道、村や町を含む。
(備考)
・都留重人:イギリスの National Trust .は単に自然を保存し保護するだけでなく、積極的に自然を育み創
り出す事に関心を寄せてきた。日本では明治以来「自然」と記された「ネーチュア」を、かつては「創造し化
育するもの」という含意をもって、「造化」とよんでいた。
Amenity について
National Trust 運動の根底にあるのは、Amenity の思想であり、それは 18C の後半からイギリスに育って
きた環境の思想である(木原啓吉)。
また、Sir.W.Holford は、「Amenity とは単に一つの特質を言うのではなく、複数の総合的な価値のカタログ
である。それは芸術家が目にし、建築家がデザインする美、歴史が生み出した快い親しみのある風景を含
み、ある状態のもとでは効用、即ち、しかるべきもの(たとえば住居、暖かさ、光、きれいな空気、家の中の
サービスなど)がしかるべきところにあること、即ち全体として快適な状態を言う」と定義している。
まさに、「しかるべきものが、しかるべきところに存在する状態」(The right thing in the right place)を保存し創
造してゆこうとする思想である。
National Trust は、まさにこの Amenity の思想が形成される中で生まれるべくして生まれた運動であった。
National Trust 運動の沿革
England の湖水地方への主要なアクセスである Windermere へは、車両2-3 両の単線のローカル線で、始発
駅の Oxenholm から Kendal を経て約 30 分、20km。開通は 1847 年。湖水地方の美しい自然が上流階級の
人たちの間で話題となり、その美しい風景を広く一般の人々が楽しめるようにという名目で、Kendal と
Windermere 間に鉄道路線敷設計画が進んだ。リゾート客の移動に鉄道が必要だと主張する当時の国の計
画に対して、1844 年、詩人 William Wordsworth は、激しい反対を唱える手紙を Morning Post 誌に投稿
した。彼の尽力により、鉄道は Windermere 湖までつながらず、その手前で停まることになった。
1876 年にも鉄道計画が再び持ち上がったが、この時は、自然保護活動家、Oxford 教授 John Ruskin
(1819-1900) が中心となり、抗議反対運動を繰り広げた結果、工事は中止となった。Ruskin は社会思想家
であると同時に美術評論家でもあり、画家ターナーの擁護者として、湖水地方保護運動を行っていた。
その後、Oxford 大学で Ruskin の教え子であった Canon Hardwick.Rawnsley が自然保護運動に精力
的に関わるようになった。彼は、Windermere‐Bowness‐Ambleside 鉄道計画などに反対し、湖水地方すべ
ての鉄道計画を撤回させる事に成功した。彼の自然保護運動は、後に「National Trust」創設の布石となっ
てゆく。
ナショナル・トラストが設立される約 10 年前、Ruskin の影響を受けた、弁護士の Sir Robert Hunter と社
会活動家の Octavia Hill は London を拠点に自然保護運動を行っていた。
2 人は、「環境を破壊するような問題にいちいち反対するよりも、美しい自然を永久に自分たちのものにし
た方が早い」という考えに行きついた。これは、美しい自然環境が失われる前にその土地をまるごと購入し
て保存しようという考えでもあった。その具体策として、国民から募った寄付金によって土地や建物を購入
し、これを共有財産として残すという方法を考え出し、湖水地方にいた旧知の Canon Rawnsley の同意を得
て一緒に設立計画を進めることとなった。それから約 10 年後の 1895 年、3 人は遂に貴重な歴史遺産と自
然環境を維持する事を目的とした民間団体「National Trust(ナショナル・トラスト)」を設立したのである。
この団体が設立された歴史的背景には、産業革命によるさまざまな環境破壊の影響が大きい。当時、工
業の急速な発展によって英国民は莫大な富を得たが、郊外などで都市の環境は劣悪になり、地方の自然
も次々に破壊されていった。
Beatrics Potter は、さまざまな自然保護運動に関わっていたが、1930 年、ナショナル・トラストに加入。
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Near Sawrey の Hill Top を含め、印税で購入した 16.2k ㎡の土地と 15 の農場、数々のコテージを、死後す
べてナショナル・トラストに譲った。しかして、ナショナル・トラストは湖水地方最大の地主になったといわれ
ている。(Cf. 映画「Miss Potter」)
National Trust 運動の中心人物
Sir Robert Hunter(1844-1913):弁護士、ナショナル・トラストの初代会長
1860 年代熱中していた植物学の知識が、共有地保存協会の重要人物となってから、固有の植物と野
生生物を有する未耕作の土地を緊急に守る必要を認識させ、美しい場所の囲い込みや有害な開発に
対して闘った。共有地保存協会(Commons Preservation Society)の顧問弁護士として数々の訴訟を勝訴
に導いた。中でも、London 北東Essex 州の、もと王室の所有地であった行楽地、Epping Forest 6000 エーカ
ーを Enclosure(囲い込み)から開放するという業績を挙げた。
Miss Octavia Hill(1838-1912):住宅改良運動などの社会事業家で婦人運動家。
劣悪な住宅の改良運動の先駆者。産業革命と貿易により、世界に先駆けて盛況を迎えたイギリスであ
るが、一方で、農村から都市への人口移動が始まり、その為 London、Manchester など各地の都市は富め
る者と惨めな生活環境に苦しむ人々との間の分化が進んだ。「貧しい人々の住宅の居間にきれいな大
気をもたらそう」と主張し、都市の貧しい人々の健康とレクレーションのために広い空間の必要を説き、オ
ープン・スペースの保存、確保の為に闘った。即ち、「喪に服する為の墓地や墓石の代わりに、大衆の
休養や笑いさんざめく為に大衆に公開される美しい庭園を確保」する為に闘った。オクタビア・ヒルは、
Florence Nightingale(1820-1910) と並び 19C イギリスの社会改良運動に尽くした女性として知られる。
「ナイチンゲールは病人の看護に一生を捧げたのに対し、オクタビア・ヒルは人々が病人そのものにな
らないようにするために献身的に活動した。」
Canon Hardwicke Drummond Rawnsley(1851-1920):湖水地方の教区牧師(Canon)。
牧師ハードウィック・ロ−ンズリーはイングランド北西部湖水地方 Keswick の町の近くで教区牧師をつ
とめながら自然保護運動にたずさわり、もちまえの行動力と雄弁をもって自然破壊の危機を訴えていた。
(やがてナショナル・トラストとして知られるようになったこの地方に対して、世界中の人々が親愛の情を
抱くあらゆるものを守るために立ち上がった。)
National Trust の歴史
1884:サー・ロバート・.ハンター−イギリスのオープンスペース保護の為の団体創設を表明
全国社会科学振興協会の集会で「共有地保存協会の運動には限界がある。それは協会に土地
を獲得する力がないからである。今や、国民の利益のために土地と建物を買い取り所有する組織
が必要である事を痛感する」と述べる。
1885:ハンター、オクタビア・ヒル、ローンズリー−「ナショナル・トラスト」の名称を話題
オクタビア・ヒル「この新しい組織にはトラストという名を付けましょう。カンパニーより慈善的性格を
強調できるから。」
1893:ジョン・ラスキン加入
1895:「ナショナル・トラスト」−会社法(Companies Act) に基づく非営利の法人として商務省登録
1907:第1次「ナショナル・トラスト法」議会通過(トラストの財産が、議会の明白な意思なしには譲渡不可)
1937:「ナショナル・トラスト法」に、「Covenant 保存誓約」制度導入(後述)。
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法律による支援
ナショナル・トラストが社会的に機能し、発展してきた根源的基盤は、法的に保証された数々の特権にあ
る。国がナショナル・トラストに対して行う経済的援助は限られた分野である。その特権は、
1.National Trust Act,1907)の制定:
ナショナルトラストの目的が「美しい、あるいは歴史的に重要な土地や建物を国民の利益のために永久
に保存する」(第4 条)と明記され、ナショナル・トラストは一定目的の財産管理という信託の要素を持つ特殊
法人として活動する事を法的に認められ、その社会的存在が大きく認められた。
また、ナショナル・トラストの最高意思決定機関である評議会(Council)は保存の対象になる所有の資産
について「国民の利益のために(for the benefit of the nation)」「譲渡不能(inalienable)」と宣言する権利を
もち、この宣言を受けた資産は以後売却されず、抵当の対象にもなり得ず、また議会の特別の議決のない
限り、強制収用されることもない。寄贈者は将来にわたって安心してその財産をナショナル・トラストに寄贈、
遺贈することが出来るようになった。更に、保有財産の管理と保護のための規則制定権と保有財産に対す
る入場料の徴収権をナショナル・トラストに対して付与している。
2.保存のためにナショナル・トラストに寄贈、遺贈された資産に対する非課税:
相続税(後、資産移転税)の非課税と同時に、寄贈者の子孫がナショナル・トラストのテナントとして代々
そこに住み続けることが出来るようにした。但し、一定部分を公開する事が義務付けられる。現在では、寄
贈される建物の内部の動産にまで非課税の範囲は拡張されている。
3.ナショナル・トラストの目的:
保護の対象を建築的、美術的にすぐれた建築物やその周辺の環境とあわせて、建築物の内部の家具
や絵画の保存、及び資産の公衆への公開を明示した。即ち、建築物に付属する土地、農耕地、森林とそ
の組織まで譲り受け、経営を引継ぐ方式を確立した。結果、資産の保存費用を生み出すための「基本財
産」を持つことを認められたのである。
4.「保存誓約(Covenant)」の制度:
貴重な土地や建物の所有者とナショナル・トラストとの間で、保存誓約を取り交わす事が出来る。所有者
が、その土地を宅地用に開発しない、樹木を切らない、建物の外観を変更しないといった誓約を取り交わ
した資産には、相続税の減額が認められる。
カントリーハウス(領主館)保存計画−Country House Scheme:
18C ともなると英国では封建的領主制も崩れ、いわゆる 3 分割性(地主、借地農、農業労働者)を代表する
資本制的農業生産様式が成立していた。それに、東インドや西インド植民地貿易に従事していた商人で
成功した人々は、英本国に帰り、ロンドン近郊や地方に大きな土地を求めて邸宅を建て、そこに住んだ。こ
れが「カントリーハウス」である。1930 年代、所得税、財産税、相続税の負担から、イングランド各地でカント
リーハウスが売却され、歴史的建造物が解体され、家具、美術品が散逸する事態が続発した。
1940 年、カントリーハウス保存計画が認められた。所有者は、保存費用を生み出す基本財産を付してカ
ントリーハウスをナショナル・トラストに寄贈すれば、相続税などを免れ、さらに寄贈者とその子孫は引き続
きその一角に住むことが認められる。その代わり居住者は資産の本来の状態が保たれるようにナショナル・
トラストの監督を受け、1 年の一定期間家屋を公開する義務を負う。家屋が荒廃する事のないためにも人が
住み続ける必要があり、そこに住み続けた寄贈者とその家族は、見学者に説明できる学芸員(Curator)とし
て、まさに最適である。寄贈者の側にも将来にわたって生活の基盤が保証される利点がある。
また、カントリーハウスには広大な庭園や農場が付属している。農業経営が行われ、農業労働者はトラスト
の従業員になり、農作業を続ける。
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ナショナル・トラストの運営の基本条件は、① その資産が国民的重要性を持っていること、② 歴史的、
美術的にすぐれている事、③ それ自体が、十分な維持管理費を生み出す能力を持っていること、であ
る。
National Trust の現状
2007 年現在、ナショナル・トラスト(England、Wales、Northern Ireland)は、会員350 万人以上、所有面積 約
253 千 ha(2530k㎡、東京都の面積の 1.2 倍)の土地と、707 マイル(1138km)の海岸線*、公開物件約 300 を保
有し運営する、英国(除、Scotland)における民間最大の土地所有組織(約 2.1%)であり、最大規模の環境保
護団体となっている。
*Enterprise Neptune、因みに、England, Wales,North Ireland の海岸線 3,000 マイル
保存対象の資産は、景観や自然だけでなく、先史時代からローマ時代にかけての遺跡や古城、教会、
修道院、カントリーハウス、森林、農地、牧場、運河、産業記念物*、呼称、庭園**、著名人***の邸宅など、
200 以上の建物と 160 の庭園などが含まれる。また村落を 40 も管理しており、住民はその中でテナントとし
て暮らしている。
*Industrial Monument
**Gardens Scheme
***W.Churchill, G..B.Shaw, T.Hardy, B.Potter
トラストの会員たちは都市住民の多くにオープン・スペースへ自由に出入りする事を保証すると共に、共
有財産の主要部分を健全に守っている。
「ナショナル・トラスト」の会員には、この運動に共鳴した人、誰でもがなれる。
現在の会員数(英国)は、264 万人以上に達しているが、これは英国民の
全人口(約 6 千万人)の 4%強に当たる。
<National Trust>
National Trust のロゴと会員証 (写真)
National Trust の具体例
Stratford-upon-Avon Canal(Warwickshire):
Birmingham 近くの Kingswood Junction から Royal Shakespeare Theater の庭園までの 13mile、
36 水門と 20 の橋を有する 1816 年完成の運河。1 世代の間打ち捨てられていたが、浚渫機で浚い、4
年以上かけて修復、1964 年往来のため再開。以来、トラストは自由保有権を獲得。
Lacock Village(Wiltshire):写真
14-18C,毛織物取引で潤った。Half-timber 様式の漆喰と煉瓦の壁、近くのコーシャム石を使った石積
みの壁。村ごと保存。. Lacock Abbey (13C 女子修道院、1480 年 St.Cyriac’s
Lacock 建立、現在に至る。1539 Henry 年Ⅷ一時閉鎖。 映画 Harry Potter )
Lacock Village
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Avebury Stone Circles(Wiltshire):古代記念物(古代ローマ砦)
England 最大の Salisbury の Stone Henge(環状列石)と同時代、BC1800 年。
遺跡の全体規模で England 最大。 また、前期青銅器時代としても欧州最大。
Cf. Stone Henge 自体は English Heritage が管理。
S.H.を囲む 1450 エーカーを N.T.が管理。
Stourhead Manor House(Stourton):写真
18C に館。18C 英国「風景式庭園」設計の最高峰。
1765 年庭園内に The Temple of Apollo 建設。
Stourhead Manor House
Stourhead Manor House
Dyrham Park(Gloustershire):写真
17C バロック様式のカントリーハウス、1.1km2。
建築家・風景式造園家 W.タルマンによる。
(Cf. 映画 “The Remains of the Days(Kazuo Ishiguro)”)
Dyrham Park
Windermere(Cumbria):写真
中世、森林のカシ、トネリコ、ハシバミ、ハンノキなどの薪炭林で木炭を作り、鉄の溶解に使用、森林外
側は広々とした羊牧場。
また、湖水に浮かぶ 1859 年製蒸気船ゴンドラ号(Steam Yacht Gondola)も NT が所有。
Windermere
Derwent Water(Cumbria):
19C 文学者の 巡礼の地 、T.Gray、S.Cleridge、Wordsworth 等。
Luskin は 畏怖を覚えるほどの激しい歓喜を味わった と表現。
Bridge House(Ambleside):写真
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17C、庭園の休憩所
Bridge House
Hill Top(Cumbria):写真
Beatrics Potterが所有していた、湖水地方Near Sawreyの農場、コッテージ。ここを舞台に Peter Rabbit
の絵本シリーズが書かれた。Hill Top と共に、彼女が印税で取得した湖水地方の土地 16km2 や農場は
死後 NT へ遺贈されたものである。
Hill Top
Hawks Head Court House(Cumbria):
Hawkshead 領地がファーネス村の僧院に所属していた 15C、教区裁判はこの家の会場で開かれた。
Langdale Valleys(Cumbria):
湖水地方中央山岳地帯
Wordsworth House:
イギリス及び各国のナショナル・トラスト
イギリスにはナショナル・トラストは、イングランド、ウェールズ、北アイルランドを対象とするナショナル・ト
ラストと、独立性の強いスコットランドを対象とするスコットランド・ナショナル・トラスト(1931 年設立)の二つの
組織がある。
またこのナショナル・トラスト運動は、オーストラリア(1945 年、自然遺産、歴史遺産の保存と公開)、アメリカ
(1949 年、歴史的建造物の保存)、ニュ−ジランド(1954 年、歴史遺産の保護)、日本にも影響を及ぼした。
日本における展開
・1964 年に古都鎌倉の歴史的景観を損なう乱開発から守るために、作家の大佛次郎が立ち上がり、鎌倉市
民と共にナショナル・トラスト運動を展開したのが始まり。財団法人鎌倉風致保存会が結成され、建設予定地
の一部(1.5ha)を買い取り、開発を中止させた。「これは過去に対する郷愁や未練によるものではない。
将来の日本人の美意識と品位のためである。」(大仏次郎)
・1968 年に英国のナショナル・トラストに倣って、運輸省(現国交省)の主管のもと観光資源保護財団(現財団法人
「日本ナショナルトラスト」)が設立された。
・1983 年にナショナル・トラスト運動を全国的に連絡・協力する組織として、「ナショナル・トラストを進める全国の会」(任
意団体)が結成された。
・1992 年にはこの会の設立趣旨・事業活動などを継承し、日本のナショナル・トラスト運動の普及啓発団体として、
環境庁(現環境省)の主管のもと社団法人「日本ナショナル・トラスト協会」が設立された。
・現在全国各地に 55 の団体が活動している。
<自然環境保護>
・知床半島(北海道斜里町):1977 年〜原生林の復元を目指す「知床国立公園内 100 平方メートル運動」
−「知床で夢を買いませんか」(1 口 100 ㎡:8000 円募金運動、斜里町藤谷豊氏)
1990 年全国 35 千人、472ha の 90%取得。
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・釧路湿原(北海道釧路市)
・トトロの森:狭山丘陵(埼玉県所沢市)
・柿田川(静岡県清水町)
・天神崎(和歌山県田辺市):1977 年〜天神崎の自然環境保護の土地買い取り運動
−1989 年全国 40 千人、土地 4ha 取得。
1986 年(財)「天神崎の自然を大切にする会」(1987 年自然環境保全法人第 1 号指定)
<歴史的環境保存>
・妻籠宿(長野県木曾郡南木曾町)
(備考)
基地問題と農民−入会権問題
富士山の東麓地帯には、陸上自衛隊富士学校などの軍事施設がある。 約 9,000ha におよぶ富士演習
場はそのひとつで、陸上自衛隊富士学校の管理下におかれ、自衛隊およびアメリカ軍の訓練場となって
いる。 これとは別に、御殿場市滝ケ原には、アメリカ第 3 海兵隊管理部隊が常駐している面積 117.7ha の
地域がある。これらの軍事施設は、山梨県の北富士演習場や静岡県の沼津市今沢基地と一連の関係にお
かれており、米日両軍の極東戦略上重要な役割をはたす軍事基地となっている。
静岡県には、このほかに航空自衛隊浜松南・北基地、静浜基地および御前崎分屯地などがある。 日米
安全保障条約および地位協定のもとで、静岡県も日本全国の軍事基地網のなかに包み込まれている。
東富士演習場は、日清戦争直後旧陸軍の実弾射撃場として使用されて以来、長い歴史をもっている。
その間、演習場付近の農民は、数多くの悲惨な体験をした。
敗戦によって演習場は旧陸軍の手から地元に返還されたが、それも僅かな期間でアメリカ占領軍に接
収され、平和条約発効後もアメリカ軍が管理を続け、返還されたのはようやく昭和 43 年(1968 年)であった。
25 年(1950 年)以降は演習場も拡大され、総面積 12,558ha となった。 全接収地の 61%は個人有および町
村有地で、39%の国有地もこれまで賃借による耕作権採草地下草払下契約による採草権などによって、民
有地同様に農民が利用していた土地であった。
農地を接収されて営農が成り立たなくなった人びとは、米軍労務者に転業を余儀なくされた。 また、森
林や採草地帯を接収された結果、町村では、基本財源が失われ、赤字財政に見舞われ、薪炭製造原料や
堆肥原料を奪われた製炭業者や農家は、大きな損害をうけた。 地域によっては、灌漑用水や飲用水を軍
事施設に引水され、生活と営農基盤を破壊されたところもある。
東富士地域農民再建連盟
東富士山麓のアメリカ陸軍は、33 年(1958 年)までに全面的に撤退し、キャンプも同年中に日本に返還さ
れた。 しかし東富士演習場はアメリカ陸軍からアメリカ海兵隊に管理が移されただけで、日本の手には戻
らなかった。 また防衛庁は東富士演習場を自衛隊が使用することを希望し、陸上自衛隊富士学校を設立
し、地域住民の了解のないままに同演習場を使用して演習をはじめた。 このため陸上自衛隊と地元農民
との間に紛争が発生した。
占領時代の末ごろから地元地民の間に損害補償を要求する声が高まったが、平和条約発効のころから
いろいろな農民組織が誕生した。 やがて 33 年には、これまでの諸組織を統合して東富士地域農民再建
連盟(再建連盟)が結成され、御殿場市長勝又春一が初代委員長となった。再建連盟は、富士山東側岳麓
のほば全農民をその傘下におさめ、基地周辺農民の各種の運動に指導的な役割をはたした。
再建連盟成立の直前、地元農民は東京地裁に自衛隊不法立入禁止訴訟をおこしていたが、再建連盟
が成立してからはこの訴訟を引きついで推進した。訴松は、演習場内国有地の入会慣行の確認を求める
訴えでもあった。
原告側は、自衛隊の演習場使用はなんら正当な権限がないことを主張するだけでなく、自衛隊そのものが
日本国憲法第九条に違反することを主張した。
裁判が進行するにしたがって、国側の敗訴のみとおしが濃厚になった。 34 年(1959 年)6 月、政府は演
習場が返還されるまでの間自衛隊の演習場の無断使用を行わず、地元農民の窮状を打開するために救
済策を講ずること、さらに演習場返還後の演習場使用については地元と国とで協定をむすぶこと、などを
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約束したため再建連盟は訴訟を取り下げた。 同時に、再建連盟は国との間に東富士演習場使用協定、
入会関係の 4 協定および水利協定などの付属協定をむすび、再建連盟は陸上自衛隊の演習場使用を認
めることになった。
東富士演習場使用協定は、全文 35 条と付則・別表とからなっている。 その有効期間は 10 ヵ年であるが、
土地使用の原則・演習計画・立入日数・条件・生業行為・施設の保護管理・賃貸借料・損失補償・損害賠償な
どが規定され、直接の当事者間の問題だけでなく、商工三原則など細かい配慮もされた。
なお演習計画のなかでは、自衛隊が持ち込みまたは使用する兵器として、核兵器・毒ガス・爆弾は禁じら
れ、それ以外の許可兵器は別表で具体的に規定されている。
また、アメリカ軍が演習場を使用する場合にも、自衛隊と同様の制限が加えられる。入会 4 協定は、国有
地の入会権を政府に確認させたものであり、その意義は大きい。 だが、政府はこの協定の実行に熱意は
なく、時にはこれに違反した。34 年 12 月のエリコン事件は、防衛庁が使用協定の兵器制限に違反してスイ
ス・エリコン社製のミサイルを演習場に極秘にもちこみ試射したことが発覚した事件である。
演習を中止して防衛庁が地元に陳謝したが、それはかりでなく、政府が約束した民生安定事業も、ほと
んど実現されなかった。 このような政府の態度を不満とした再建連盟は、演習場内民有地の賃貸契約期
限の更新時期を利用して演習場使用禁止通告をおこない、演習場に立ち入って生産活動を開始したり、
アメリカ第 3 海兵隊の実弾射撃演習の開始当日、約 2000 人の農民が.演習場立入りを強硬して演習を中
止させるなど、さまざまな抵抗を行なった。 政府と地元農民とのこの紛争は、斉藤寿夫静岡県知事の和解
案に基づいて、演習場を自衛隊が使用し、またアメリカ軍も随時使用することを地元農民が認める代りに、
政府は民生安定方策として国有地払下げ・水田造成・畜産振興事業などを実施することを閣議了解事項と
して決定することでひとまず落着した。
演習場返還とその後
沖縄に根拠地をもつ”なぐりこみ部隊”とよばれるアメリカ第 3 海兵隊は、いつ、いかなるところへも出撃
する役割をもつ部隊である。 かれらは沖縄ではできない長い射程距離の実弾射撃訓練を、どうしても東
富士演習場で行う必要があった。
昭和40 年(1965 年)、アメリカが公然と北ベトナム爆撃を開始してベトナム戦争が激化すると、アジアの緊
張が高まり、第3海兵隊が使用する東富士演習場はいっそう必要性をました。 そのため、東富士演習場の
返還は、政府の返還実現の約束にもかかわらず、つぎつぎと引きのばされた。
再建連盟は、約束不履行にたまりかね、43 年4 月にはアメリカ軍と自衛隊の演習阻止の実力闘争を行い、
一時は完全に演習を阻止したこともあった。 こうした闘争も反映し、43 年 7 月の日米合同委員会で、東富
士演習場を日本に返還することが合意に達し、同年演習場の返還が行われたが、この結果、演習場は自
衛隊の管理下におかれたが、なお 117.7 ヘクタールの土地はアメリカ軍の管理下にあり、第 3 海兵隊管理
部隊が常駐することとなった。 アメリカ軍が必要に応じて東富士演習場を随時使用できることもこれまでと
かわらない。(ホームページ「東富士演習場の歴史と反対運動」より)
参考文献
〇「イギリス産業革命の研究」 (小松芳喬、岩波、1961)
「歴史的環境−保存と再生−」 (木原啓吉、岩波新書、1982)
「ナショナル・トラスト−その歴史と現状」 (Robin Fedden/四元忠博、時潮社、1984)
「The National Trust−市民が守る英国の環境と文化−」(写真集) (木原啓吉、駸々堂出版、1991)
〇「ナショナル・トラストの誕生(Founders of the National Trust)」 (Graham Murphy/四元忠博、緑風出版、
1992)
〇「ナショナル・トラスト」 (木原啓吉、三省堂、1998)
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