「 大 刀 剣 市 2 0 1 5 」事 前 説 明 会 開 く

(1)
NEWS, TOPICS, INFORMATION, OPINION & EDITORIAL
楽部で開催されます。
出席されていることを確認して
イベント関係について説明され
展や四階会場の銘切り実演など
スの向上に努める
もに、顧客に対応するサービ
社会的地位の向上を図るとと
組合員および業界の経済的・
① 組 合 員 の 経 済 活 動 を 促 進 し、
そもそも当組合が大刀剣市を
開催する意義は、
数えて二十八回を迎えます。
形式で開催しました。あれから
トラブルなどを生じさせないこ
数の大幅増加があっても事故や
昨今の刀剣ブームに伴う入場者
し て い た だ け る 環 境 づ く り や、
ること。さらにご来場者に満足
が一堂に会し、一致団結を期す
功させるべく出店者七十二店舗
事 前 説 明 会 の 趣 旨 と し て は、
まず組合のビッグイベントを成
として開くようになりました。
す。各担当からの報告やお願い
は出店条件の一つになっていま
います。本日の説明会への出席
広報・広告などの準備を進めて
影、 カ タ ロ グ 制 作、 会 場 設 計、
月中旬から商品集荷や写真撮
委員会の各委員は手弁当で、七
度のビッグイベントです。実行
の理解を深めていただく年に一
れの取り扱う刀剣などへの一般
要望に応えるとともに、われわ
動の一つで、国内外の愛好家の
常務理事からは、クレジットと
る旨の説明がありました。服部
伴い、セキュリティーを強化す
で廃止になってしまったことに
は、盗難保険が損保会社の都合
がなされました。持田理事から
文については松本理事より説明
カタログ制作については生野
理事より、出品商品解説の英訳
告等が出席者に閲覧されました。
での広報・広告の報告があり、
広
され、伊波常務理事からは今ま
佐藤理事からは大刀剣市ホー
ムページの進捗状況の報告がな
六六四四
六六三一
七
剣市をぜひ成功に導いていただ
明がなされました。
ローンの取り扱いについての説
十六
二
五四六四
二二一○
一
美術刀剣、小道具、武具類の
売買、加工及び御相談承ります
TEL ○六
大阪市中央区日本橋二
F AX ○ 六
刀剣古美術
三峯美術店
柳 匠 堂
二三
三○六七
金工 刀身彫刻 修理 諸工作一式
TEL
○四九四
F AX
西武秩父駅連絡通路 町久ビル内
埼玉県秩父市野坂町一
町田 久雄
本題に入りました。
②一般の刀剣・刀装具および甲
となど。そのためにも綿密な打
についてご理解いただき、大刀
ました。
冑・武具などに対する関心を
ち合わせをする必要があるから
冒 頭、 深 海 理 事 長 が 挨 拶 し、
「大刀剣市は組合の相互扶助活
高め、美術品としての保存が
です。
「大刀剣市2015」事前説明会開く
「大刀剣市2015」
は、秋深
まる十一月二十日㈮~二十二日
その第一回は「全刀商オーク
ション」と称してオークション
図られるよう、それが心ない
きたい」と述べられました。
二三一九
工房 岡山市北区磨屋町七 二一
TEL
○八六 二二三 二三二九
F AX
岡山市北区平和町二 八
TEL ○八六 二二三
柳村 宗寿
人たちに決して使用されるこ
今回は十月二十三日の組合交
換会終了後、説明会を開催しま
とがないよう啓蒙活動を行う
などについて、出店者から活発
質疑応答に移り、陳列商品を
美 術 倶 楽 部 に 送 る 際 の 方 法 や、
方などの説明
な質問がありました。
次に冥賀副理事長からは、搬
入・搬出に対する注意事項や展
がなされまし
した。初めに小生が出欠の点検
た。嶋田理事
約 一 時 間 で は あ り ま し た が、
内容の充実した事前説明会とな
③新たな愛好者を開拓する
は出店ブー
り、出店者それぞれが大刀剣市
クレジットカードの取り扱い方
スに関する件
を 成 功 さ せ る 決 意 を 胸 に 誓 い、
年間10回位発行予定
赤荻 稔 飯田 慶雄 伊波 賢一 大西 芳生 大平 将広 木村 隆志 嶋田 伸夫 清水 儀孝 生野 正 新堀 賀将 瀬下 明 土子 民夫 綱取 譲一 土肥 富康 服部 暁治 深海 信彦 藤岡 弘之 松本 義行 冥賀 吉也 持田 具宏 第26号編集担当
示スペースの節度ある展示の仕
や、三階重文
また商売繁盛を祈念して終了と
や し ま
26
No.
を行い、七十二店中六十五店が
室での特別企
な り ま し た。( 大 刀 剣 市 実 行 委
員長・清水儀孝)
画「吉田松陰
の時代の刀」
購読料10回 2,000円(郵便切手可)
〒940-0088 新潟県長岡市柏町1-2-16
TEL 0258-33-8510
FAX 0258-33-8511
〒202−0022 西東京市柳沢6−8−10
TEL 042-463-5310
FAX 042-463-7955
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刀装小道具通信販売目録「やしま」
土肥豊久・土肥富康
美術刀剣・刀装小道具商
刀剣・書画・骨董
発 行 人 深 海 信 彦
発 行 所 全国刀剣商業協同組合編集委員会
〒169−0072 東京都新宿区大久保 2 −18−10
新宿スカイプラザ1302
TEL:03
(3205)
0601 FAX:03
(3205)
0089
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2015.11.15
④社会貢献をする
等々であります。
過去十数年の開催では、初日
に関係諸団体をお招きしてオー
プニング・セレモニーを行って
きました。そして、主催者・出
店者の全体顔合わせと留意事項
の伝達は、オープン前二十分程
度 の 朝 礼 で 行 っ て い ま し た が、
前回からは大刀剣市事前説明会
大刀剣市2015商品カタログ
㈰の三日間、新橋の東京美術倶
ほとんどの出店者が集まった大刀剣市事前説明会
第26号
刀 剣 界
平成27年11月15日発行
(隔月刊)
(2)
百二十余年前の輝きが雲次に蘇る
見学に来場された多くの方や同
館の関係者らから、一心不乱に取
り組む日本人の仕事に対する姿勢
に心打たれたとの、共通する感想
国立の人類学・民族学博物館(以
ロシアの古都サンクトペテルブ
ルクに、ロシアで最古と言われる
えており、地にも地沸がわずかに
匂口が深く直刃調の刃文が所々見
二 尺 四 寸 の 腰 反 り 高 い 太 刀 姿 で、
五分ほど磨り上がっているものの
た同人の作になるものです。三寸
字銘があり、備前国宇甘庄に住し
えも頂戴しました。在サンクトペ
イシュン・アンドレイ氏のお力添
ア連邦大使館交流庁の元部長フェ
日刀保小野裕会長からはロシア
支部への推薦状を頂き、在日ロシ
案で「王政復古」となりました。
シアでの事業名は、同館よりの発
の使用が一切禁じられており、ロ
すべての修復作業を十月三日に
終えなくてはならないため、池田
に取りかかりました。
クに到着し、翌二十八日より研磨
りに研師の池田さんがペテルブル
白鞘が完成して塚本さんは二十
七日に帰国の途に就き、入れ替わ
テレビ・新聞などの報道でご覧
になられた通り、台風十八号の影
して厚くお礼申し上げます。
を賜りましたこと、地元の一員と
今 回 の 東 日 本 豪 雨 に 際 し て は、
ご心配を頂き、また多大なご支援
水面積は約四〇万平方キロメート
になった方も多いと思います。浸
なぎ倒していく場面を映像でご覧
まるで津波のような濁流が一帯
を襲い、家々を押し流し、木々を
に見舞われました。
十月一日には天皇・皇后両陛下
が常総市においでになり、被災者
市民に非常に感謝されました。
給、 仮 設 風 呂 の 開 設 に も 当 た り、
ボートで一千二百九十三人を救助
東日本豪雨被災地からの報告と御礼
下、クンストカメラ)があります。
確認できました。太刀拵に入った
をいただきました。
昨年の十二月で開館三百年を迎
え、 こ れ を 記 念 す べ き 事 業 と し
まま百二十年以上経過していたた
ロシアの博物館で池田(研師)塚
・本(鞘師)両氏が修復
て、同博物館が所蔵する太刀の保
テルブルク日本総領事館の後援を
いう強行軍でした。
八時ギリギリまで連日取り組むと
半に仕事を開始し、閉館時間の十
堤防が決壊し、想像を絶する被害
部を流れる鬼怒川では、常総市で
ました。特に栃木県から茨城県西
東北地方に甚大な被害をもたらし
響による記録的な豪雨は、関東・
堤防の決壊場所は私の家から車で
私の住む下妻市も床上浸水な
ど、 か な り の 被 害 を 受 け ま し た。
とほぼ同じだそうです。
ルで、東京で言えば江戸川区全体
おられました。
当たった自衛官・警察官・消防隊
を勇気づけられ、また救援活動に
連日多くの方々が来館する
同博物館ですが、この度の修
始まりました。
がら、塚本さんの白鞘製作が
望で来館者へ作業を公開しな
し、クンストカメラよりの希
二十二日から同館の日本展
示室の隣のホールを会場と
修復してくださってありがとう
シ ア の 博 物 館 の 所 蔵 す る 宝 物 を、
白鞘の製作と研磨の仕事を見て
いた観客の多くの方々からは、ロ
責任者は話していました。
くなるでしょうと、文化財の管理
考えると、今後の貸し出しは難し
修復に関わられた皆さんの努力を
化していたことがあり、この度の
被 災 三 日 目 の 時 点 で 死 者 二 人、
行方不明二十二人、電気・水道は
すべて停止、鉄道・道路も完全に
破壊され、ライフラインは完全に
古銭 切· 手 刀· 剣 売
買 評
価鑑定
㈱城南堂古美術店
代表
〒153 005 1
東京都目黒区上目黒四 三一 一○
TEL ○三 三七一○ 六七七六
○九○ 三二○八 九六一二
F AX ○ 三 三 七 一 ○ 六 七 七 七
田中 勝憲
派 遣 さ れ、 ヘ リ で 七 百 二 十 三 人、
七千五百三十二人の隊員が現地に
は装備も優れ、経験もあり、延べ
活動に当たりました。特に自衛隊
救 援・ 復 旧 活 動 も 同 時 に 始 ま
り、警察・消防・自衛隊が必死の
ストップしてしまいました。
員らにねぎらいのお言葉をかけて
賜り、開会式には山村総領事と中
したそうです。また、飲料水の供
存と修復がこの度行われました。
さんは特別に入館許可を得て九時
ら贈られたもので、帰国後、モス
め、 深 い 朽 ち 込 み は な い も の の、
村副領事両名のご出席とご祝辞を
被災後約一カ月の現時点で鉄
道・幹線道路がまだ復旧せず、農
刀身全体を薄錆が覆っています。
十分ぐらいの所で、下妻市の一部
復事業でさらに多くが入館し
と、 感 謝 の 言 葉 が 寄 せ ら れ て お
濁流に浸水した常総市街地
9月1日 銀座刀剣倶楽部会場にて『刀剣界』第25号編集委員会
を開催(再校)
。出席者、深海理事長・冥賀副理事長・清水専
務理事・伊波常務理事・服部常務理事・赤荻理事・生野理事・
綱取理事・松本理事・持田理事・飯田慶雄氏・大平将広氏・木
村隆志氏・土肥富康氏・土子民夫氏
4日 同美印刷にて大刀剣市カタログ編集委員会を開催(初校)
。
出席者、冥賀副理事長・清水専務理事・服部常務理事・生野理
事・綱取理事・松本理事・持田理事・大平氏・齋藤隆久氏・冥
賀亮典氏・土子氏
8日 銀座長州屋にて『刀剣界』第25号編集委員会を開催(念校)
。
出席者、深海理事長・生野理事・土子氏
8日 組合事務所にて伊波常務理事・嶋田理事が産経新聞社産経
事業推進室松本氏と打ち合わせ。例年通り大刀剣市カタログ・
チケット10セットの読者プレゼントを決める
11日 同美印刷にて大刀剣市カタログ編集委員会を開催(再校)
。
出席者、冥賀副理事長・清水専務理事・服部常務理事・生野理
事・綱取理事・持田理事・土子氏
14日 アオバ企画高橋氏の提案により
『読売新聞』
広告掲載時に大
刀剣市カタログ・チケット24セットの読者プレゼントを決める
17日 東京美術倶楽部にて組合交換会を開催。参加49名、出来高
13,061,000円
17日 東京美術倶楽部にて『刀剣界』第26号編集委員会を開催(企
画)
。出席者、深海理事長・冥賀副理事長・清水専務理事・伊
波常務理事・服部常務理事・赤荻理事・嶋田理事・生野理事・
綱取理事・松本理事・持田理事・大西芳生氏・大平氏・木村氏・
土肥氏・土子氏
24日 同美印刷にて大刀剣市カタログ編集委員会を開催(色校)
。
出席者、清水専務理事・生野理事・持田理事・土子氏
30日 同美印刷にて大刀剣市カタログ編集委員会を開催(色校)
。
出席者、清水専務理事・生野理事・土子氏
10月9日 大阪府立中之島図書館へ『刀剣界』第20~25号を寄贈
15日 大刀剣市カタログ入荷
20日 大刀剣市事前説明会に向けての打ち合わせ。出席者、深海
理事長・清水専務理事・伊波常務理事・嶋田理事・生野理事・
持田理事
23日 東京美術倶楽部にて組合交換会を開催。参加67名、出来高
11,116,900円
23日 東京美術倶楽部にて大刀剣市出店者事前説明会を開催
23日 東京美術倶楽部にて理事会を開催。出席者、深海理事長・
猿田副理事長・冥賀副理事長・清水専務理事・伊波常務理事・
服部常務理事・赤荻理事・飯田理事・佐藤理事・嶋田理事・生
野理事・瀬下理事・綱取理事・土肥理事・松本理事・持田理事・
吉井理事・大平監事・木村監事
23日 東京美術倶楽部にて『刀剣界』第26号編集委員会を開催(初
校)
。出席者、深海理事長・冥賀副理事長・清水専務理事・伊
波常務理事・服部常務理事・赤荻理事・嶋田理事・生野理事・
綱取理事・松本理事・持田理事・大西芳生氏・大平氏・土子氏
27日 新宿警察署古物講習会に組合より生野理事が参加
29日 日刀保小野会長・柴原専務理事・福本常務理事・志塚常務理
事・田野辺道宏氏・小林暉昌氏と当組合深海理事長・冥賀副理事
長・清水専務理事・伊波常務理事・嶋田理事が意見交換会を開催
裏には、精密な丸に三葉葵紋が施
されています。太刀表に雲次と二
たため、安全性を考え、太刀
組 合 こ よ み (平成27年9~10月)
この太刀は、一八九一年にニコ
ライ二世が訪日した際に日本側か
頂 き ま し た。 ま た、 大 変 多 く の
商工被害は百二十億円超になると
ロ シ ア の 文 化 財 法 に の っ と り、
この度の修復には多くの時間とさ
言われています。被災した方々の
クワの美術館に寄贈され、その後
に も 水 が 押 し 寄 せ、 浸 水 し ま し
板目に杢が交じり、地沸が微塵
につき、地景が細かく入り、乱れ
た。最も被害の大きかった常総市
九月二十二日から十月三日まで
の期間、白鞘製作と研磨がクンス
映り立ち、直刃調に互の目・小互
そして約束の十月三日、ニコラ
イ二世が日本から贈られた当時の
ま ざ ま な 手 続 き を 要 し ま し た が、
ト カ メ ラ 館 内 に て 行 わ れ ま し た。
の目が交じり、足・葉が満遍なく
輝きを取り戻し、太刀・雲次はク
日本美術刀剣保存協会ロシア支部
担当されたのは、白鞘が福島県の
入 り、 部 分 的 に 逆 が か っ て い ま
方々より賜りましたご支援、誠に
現在のクンストカメラに移動し長
鞘師・塚本剛之さん、研磨が
す。刃縁には元から先まで小沸が
ありがとうございました。
らく同館が所蔵してきました。
神奈川県の研師・池田長正さ
事な雲次でした。研ぎ終えた池田
復興も緒に就いたばかりというの
んです。
さ ん は、
「 大 変 働 き の 多 い 刀 で、
は す ぐ 隣 な の で 知 り 合 い も 多 く、
サンクトペテルブルクまで
は、成田から直行便でモスク
時間を忘れて楽しく仕事ができま
ンストカメラに引き渡されました。
の協力により実現にこぎ着けるこ
ワに向かい、モスクワにてト
した」と述べられ、遠く離れた地
が実情です。
ランジットし、目的地に向か
で責任ある仕事を見事に果たした
そのほとんどが大きな被害を受け
とができました。
います。約十五時間かかる長
満足感を胸に、帰国されました。
ており、他人事とは思えません。
同館の発表によると、徳川家に
伝来したらしく、付随する鎺の表
旅となり、日本との時差六時
引き続きのご支援をお願い申し
(赤荻 稔)
上げます。 修 復 事 業 と は い え、 研 磨・ 修
復・保存などの言葉とその同義語
間を考えると、当日ホテルに
を管理する担当学芸員と警備
り、開館三百年にふさわしい記念
(嶋田伸夫)
事業は滞りなく終了しました。
員の二名が絶えず会場に詰め
された中で行われました。
ており、十分な安全確保がな
修復を終えた雲次の太刀と付属の太刀拵
均一に深くつき、刃中の変化も見
入るのは夜中の二時ごろです。
数年前、この太刀を他の美術館
に貸し出した際、地刃の状態が変
鞘師の塚本剛之さん
研師の池田長正さん
第26号
刀 剣 界
平成27年11月15日発行
(隔月刊)
(3)
こ ろ、「 中 国 人 に は 刀 剣 を 購 入 す
ら」と、やんわり断ろうとしたと
お客さまもそんなに多くはないか
国には持ち帰れないし、中国人の
店 主 は、「 爆 買 い 現 象 は 量 販 店
やデパートでのことで、刀剣は中
を申し入れてきたという。
日本の文化」について取材・撮影
その国営テレビ局が総勢十名で
わ が 国 に や っ て 来 て、「 爆 買 い と
されているとのことである。
収入の面でもかなりの競争にさら
レビ局が創設され、視聴率や広告
立っている。昨今では地方にもテ
的なドラマとバラエティから成り
っているが、放送の大部分は自主
党からの指示に基づいて報道を行
テレビ」は、ニュースは中国共産
央 電 視 台 」、 日 本 語 名「 中 国 中 央
の話を聞いた。正式には「中国中
つい先日、十一月四日に中国国
営テレビ局の取材を受けた刀剣店
いない。
のことについては何も書かれては
いと予想されるが、残念ながら刀
ではネットなどでのヒット数も多
も短編であることによって、現在
外国人には取っ付きやすく、しか
士を端的にタイトルとしたことで
で、菊という天皇と、刀という武
をある意味皮相的に著したもの
日本人特有の精神構造と行動様式
本 文 化 固 有 の 価 値 と し て 分 析 し、
たもので、恩や義理、恥などを日
略のために日本文化の解明を試み
のCIA)から依頼されて対日戦
史が、アメリカの戦時情報局(後
『菊と刀』は昭和十九年に日本
に来たこともないベネディクト女
るのである」と。
日本文化の神髄に迫ろうとしてい
「『菊と刀』を熟読し、日本および
し て き た の だ 」 と 披 瀝 し、 何 と
め、「 実 は 自 分 た ち も 事 前 に 勉 強
ら相手側も徐々に本音を漏らし始
役の前後である」と答えたころか
ったが、彼は即座に「われわれは
のも多く、保証も必要となってく
い知識が必要で、しかも高価なも
資格や免許証はあるであろう。深
要ないとすれば、売る側には必ず
日本人・外国人を問わず許可が必
「 買 う 側 に は 何 の 資 格 も 不 要 で、
話はこのまま噛み合わず平行
線 を た ど っ た が、 最 後 の 質 問 は、
用の長物と化していることであろ
れば、争いがなくなればまさに無
器としてだけに使われたものであ
れており、あなたの国のように武
でも美術品としてその価値が保た
なった明治から百五十年後の今日
え続けたものである。戦いのなく
研磨し、外装を製作して大切に伝
考えて魂を入れて鍛錬し、これを
もので、刀鍛冶も持ち手のことを
や精神的な支えとして帯びていた
ためだけではなく、身を守るため
のであるが、日本人は刀を攻撃の
刀に似た薙刀も大身槍も存在した
拵製作に携わる職人の参考になる
分に楽しめるわけですが、実際に
一般の方が美術館で鑑賞するな
ら、各時代の優れた拵であれば十
指・短刀の拵、合わせて十二振。
拵 」 を は じ め、 太 刀・ 打 刀・ 脇
や、火車切広光の付「黒漆小サ刀
漆 太 刀 拵 」( 刀 身 は 豊 後 国 行 平 )
三十五腰の一つである「秋草文黒
渡邉妙子館長のご厚意により用
意していただいた拵は、上杉景勝
した。参加者は二十一名でした。
装技術保存会の研修会を開催しま
去る九月八日、静岡県三島市の
佐野美術館において、美術刀剣外
す。普段、それぞれの職人は、多
作り上げていく総合工芸の世界で
相互に協力し合って一つの作品に
柄巻師・白銀師など専門の職人が
本来、日本刀製作の工程は、刀
匠・研師のほかに、鞘師・塗師・
が初めてとのことでした。
るものの、拵だけの鑑賞会は今回
館長のおっしゃるには、刀剣類
の鑑賞機会は当美術館で数多くあ
られた高山一之氏より辞任の申し
ました。その際、長く会長を務め
事業・会計報告等議案が可決され
温泉ホテル「天坊」にて開催され、
なお、美術刀剣外装技術保存会
の平成二十七年度総会が伊豆長岡
した。
晴れやかに佐野美術館を後にしま
職員の方にお礼を申し上げ、心中
うが、わが国ではそこが異なるの
角的な面からそれを検証・考察す
に会し、具体的な拵を前にして多
業をしています。その職人が一堂
くの場合、独り黙々と仕事場で作
会 長 宮島宏
副会長 中田育男・遠山康男
常務理事 岡部久男
(会計兼任)宮下武
理 事 川之辺朝章・剣持直利
監 査 菅原静雄・森雅晴
なお、勇退された高山前会長に
は相談役をお引き受け願い、今後
ので、報告します。
か新役員が次の通り決まりました
出があり、審議した結果、会長ほ
の機会を与えてくださった館長と
です」と。
今回は拵の扱いに慣れている専
門の職人たちだということで、ル
もご指導いただくことになりまし
るであろう」と。この質問には参
ーペを使って細部まで見ることや、
た。
る機会というのは、そうあること
ではありません。
それ故に、参加した職人はこの
好機を最大限に生かそうと、気に
なる拵の前に急ぎました。
(装剣金工・木下宗憲)
金具類を外して鑑賞することなど
をお許しい
ただきまし
た。 そ れ に
よって新た
な発見があ
り、 そ の 拵
を製作した
職 人 が、 ど
こにこだわ
ったかとい
うことまで
感じ取るこ
www.premi.co.jp
手職人にとっては、ベテランから
拵 製 作 の 知 識・ 技 術 だ け で な く、
る許可証がないから買えないの
『菊と刀』を予備知識としてイン
タビューを受けていたのではたま
国の認可の刀剣組合に加入してお
朴な疑問が多くの人の意見を代弁
とができま
した。
そしても
う 一 つ、 若
http://www.taibundo.com
にはその前段階である青龍刀形の
刀は存在しないではないか」と。
職人としての心構えまでも学べる
か 」 と か、「 日 本 国 が 出 さ な い の
らないと思っていたところ、さら
り、公安委員会から許可も得てい
絶好の機会となりました。予定し
か、 中 国 側 が 拒 否 す る の か 」 と
に驚くべき質問を浴びせられたと
る」と答えたという。
めには欠くべからざる事業ではな
美術刀剣外装技術保存会
研 修 会・総 会 を 開 催
か、全く会話が成り立たない初期
いう。曰く、
「日本人は今でも切腹
し か し、 そ う は 言 っ た も の の、
刀を販売する資格などという認定
かろうか。外国人でなくとも、刀
閉口した店主は、それについて
こ う 答 え た と い う。「 わ が 国 に も
段階ではあった。
しているのか」と。もう、話にな
は業界にはなく、現在は国家資格
深海 信彦
し か し 相 手 側 は 真 剣 で、「 日 本
の伝統文化の象徴でもある日本刀
らないのでここはひとつ、相手方
以外に数え切れないほどの民間資
剣等の売り手の資格を問う時代は
風向計
の魅力を伝えないことには帰れな
にも有利な話をして刀の話を終わ
格なるものが設けられている中
間違いなくやってくるはず。
ていた二時間がきわめて短く感じ
い」と粘られ、しかも取材する担
らせようと試み、
「現存している優
で、このようなごく一般的な問い
ものとなると、そればかりでは物
当者は下請けの制作会社ADでは
れた文化遺産である日本刀も、起
かけに明確に答えられるべく、業
中国国営テレビの取材を受けた
刀剣店主の話を聞き、あちらでオ
相手を倒すためだけが目的の青龍
なく、テレビ局の五十歳代のディ
源をさかのぼれば唐の国から伝わ
ンエアされるか否かより、その素
られるほどの白熱ぶりでした。
レクターであるということなので
ったもので、平安時代後期に至っ
界も何らかの策を講じる必要があ
しているのではなかろうかと、あ
足りません。今回ご用意いただい
時間を限って応じたという。最初
て様式的発展を遂げ、ここに見る
ろうかと切実に感じたという。
らためて認識させてくれたことの
た拵は、職人にとってまさにベス
はありきたりの鑑賞の要点や歴史
ような姿になったのだ」と中国を
わが組合も現在、まず組合員を
対象に刀剣鑑定・査定・評価等の
ほうが価値があったと内心ほくそ
当日は台風の影響で、三島市も
あいにくの悪天候だったのですが、
に つ い て で あ っ た が、「 最 も 優 れ
持ち上げようとした。ディレクタ
資格を認定する事業の検討に入っ
トチョイスとも言えるラインナッ
た刀はいつの時代のものである
ー 氏 は、「 そ れ は 違 う、 わ が 国 に
ている。多くの困難を乗り越えな
研修に参加した職人は、良き勉強
か」との質問に対して、その店主
古 く か ら あ る 武 器 と し て の 刀 と、
ひ れき
が「フビライが治める元の国の軍
今見せてもらった刀とでは全くス
笑むのである。
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タイルが異なる。その証拠に日本
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代表者 髙 島 吉 童
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其之十六
四年と一二八一年の文永・弘安の
渡邉館長と外装会会員(佐野美術館にて)
拵について意見交換する研修会風景
第26号
刀 剣 界
平成27年11月15日発行
(隔月刊)
(4)
日 本 刀 との出 会い
ヒューズ ロ・バート(慶長堂)
い日本刀の講習は、たくさんの徳
った具合。大変価値あるありがた
る日本酒とともに夜が明けるとい
晩の刀鑑賞と、絶え間なく注がれ
このようなケースはまれだった
らしく困惑している状況の中、二
と相談を始めた。
受付にいた警察官は、別の警察官
ここに来たことを告げた。すると
警察署に行き、日本刀を買うため
から購入した古刀法光であった。
有できないという法律は存在して
した。事実、日本刀を外国人が所
という情報は間違っていると指摘
激的な道場であった。
ある橋本先生が道場に誘ってくれ
利酒によってはるか彼方へと、私
に行く必要があるとアドバイスを
た。 私 た ち は 喜 ん で 道 場 に 入 門
の記憶から遠ざかっていってしま
受けた。そこで通訳の方とともに
し、早速、袴と模擬刀を購入した
造所からわずか数百メールの近さ。
一九八二年、新潟市にある富山
スポーツセンターの道場で、いつ
のである。
階から私服警官が呼ばれ、彼らは
出会いの翌年からの四年間は、毎
もの通りのJKA空手の練習を終
ったことは言うまでもない。
は、外国
道場の先輩である Tom
人が日本刀を買うことができない
え、 へ と へ と に 疲 れ 切 っ た こ ろ、
居合道入門から数カ月たった
ころ、道場の
私は年配の居合道家たちが袴に着
先輩たちが真
福井県福井市
やす つぐ
およそ百名の刀工が知られていま
勝山 捷容︵白銀師︶
越前の生んだ名工を顕彰する
戦国大名たちが鎬を削り、天下
持つことは不可能であると告げら
の後、外国人が日本刀(真剣)を
あった。約二時間に及ぶ質問攻め
で、尋問に使われるような部屋で
言った。その会議室は簡素な部屋
私に会議室に一緒に行くようにと
その後、ついに私自身が事業を
立ち上げ、海外へ流出してしまっ
の長いお付き合いが始まった。
興氏との出会いがあり、齋藤家と
緯で、私が永遠に尊敬する齋藤光
することとなった。このような経
ビジネス英文の作成のお手伝いを
そ の 後、 盛 光 堂 の 齋 藤 氏 か ら、
毎週土曜日のアルバイトを頼まれ、
前とほぼ並んで、全国で六番目で
江戸・大坂・京に次ぎ、美濃・肥
この数は、当時の大都市であった
に よ れ ば、 そ の 数 は 二 百 名 余 り。
した。
『日本刀銘鑑』
(石井昌国編)
この時代に越前では、城下町福
井を中心に多くの刀工が活躍しま
とされる「新刀期」に当たります。
でとは異なる大きな変化があった
産体制、製作技法などに、それま
した戦国時代後半以降は、刀の世
刀 工 と し て の 技 量 は も ち ろ ん、
多くの鍛冶をまとめて大量の刀剣
う人物です。
て、越前と江戸を行き来したとい
また刀に葵紋を刻むことを許され
一 字 を 賜 っ て「 康 継 」 を 名 乗 り、
川家康にも召し出されて双方に仕
井藩主・結城秀康に仕え、また徳
初代康継は、初め「肥後大掾下
坂」と銘を切りましたが、初代福
す。
す が、 そ の 代 表 的 存 在 が 康 継 で
れた。こうして、私の日本刀が欲
た日本刀を故郷である日本に帰国
の需要にも応えるという、経営的
る。しかし日本語を理解できない
旺盛な眼差しで様子を見守ってい
ると、他のメンバーたちも好奇心
口の日本語で何やら話しかけ始め
私たちのところにやって来て、早
彼らの練習も終わりにさしかか
るころ、一人の指導者らしき人が
合道グループに遭遇した。
私と空手仲間であるカナダの友
人は、翌週の空手練習後も同じ居
もので、強い衝撃を受けた。
て私の人生の中で見たこともない
ど、私の人生において強烈な意味
では言い表すことができないほ
剣に出会ったということは、言葉
いうほど、刀剣に魅了された。刀
いうより、刀が私の心を捉えたと
うで、私が刀を手に持っていると
持ちはまるで催眠術にかかったよ
したとき、気
て、備前丁子
真剣を手にし
は大きく変わ
に、私の人生
するのであった。
が欲しい」という私の夢を再確認
た。 お 店 に 伺 う た び に、
「日本刀
一族であることが一年後にわかっ
り、大西氏は有名な刀剣美術商の
勤務先である新潟総合学園近く
に、 大 西 氏 が 営 む 古 美 術 店 が あ
自源流には、有名な刀鍛冶の吉原
を紹介された。そのころの天眞正
ル地下にあり、そこで河端照孝氏
た。その道場は、虎ノ門NCRビ
て、彼の通っている道場に誘われ
は、熱心に居合道に打ち込んでい
全国刀剣商業協同組合の皆さま
には大変お世話になり、何年にも
を持っている。
る役割に貢献していることに誇り
力ながらも、日本刀の魅力を伝え
固たる地位を築き上げている。微
ったようです。越前下坂派として
をも傘下に収めて大きな集団とな
市)ほかから移ってきた刀工たち
移住、同様に美濃国関(岐阜県関
下の名刀も多くが焼け身となりま
「鯰尾藤四郎」
「獅子貞宗」ほか天
秀吉が収集した「海老名宗近」や
慶長二十年(一六一五)
、大坂夏
の陣で大阪城が焼けたとき、豊臣
を近くで鑑賞
った。初めて
私 た ち に、 突 然 大 笑 い を し た の
合いをもたらした。
新潟での生活も四年目。私の腕
前も三段となり、真剣を買うには
東京へ引っ越した。
備期間を含めると約十年を要した
山田さん、稲留さんともに研究
熱 心 で、 舟 山 堂 で は 今 も 年 六 回、
いで、奮闘しておられます。
本刀の魅力は世界各国で認めら
職場で知り合い、後に高野山の
僧侶となった同僚の Tom Dreitlein れ、世界水準の美術品としての確
十五年に現在の神田に店を構えま
が挙げられます。これは、証書の
『日本刀重要美術品全集』の出版
たが、名刀の特徴を
写しを多く作りまし
は、 こ れ ら の 名 刀 の
遂げました。また彼
仰せ付けられ、成し
いう大役を家康より
むべく再刃を行うと
らに再び命を吹き込
したが、康継はこれ
な手腕にも優れた人だったのでは
だ。彼は全く英語ができず、私た
十分な貯金も貯まったころ、大学
わたりご支援を受けていることに
界でも、原料である鉄の流通や生
しい、自分の刀を持ちたいという
させるべく、アメリカでの日本刀
す。
ないかと考えられます。
Tom 統一に向かって社会が大きく変革
替え、鞄から刀を取り出す姿に心
夢は、二人の強面の警察官によっ
探しが始まった。
越前の刀工の中でも、大きな勢
しもさか
力となったのが下坂派で、近江国
ちの恥ずかしいほど低い日本語能
後 に、 橋 本 先 生 に は 弟 が お り、
お二方とも研師であることがわか
国家氏や、盛光堂の齋藤大輔氏な
それから一年もたたないうち
に、 東 京 外 語 専 門 学 校 に 転 職 し、
力では、何が起こっているか見当
の理事でもある私の上司に相談す
した。地下一階のこぢんまりした
品を扱い、お客さまも目の肥えた
解 説 を し て く だ さ い ま す。 毎 回、
お店ですが、古名刀や刀装具の名
音読みで通り、
「ヤマキンさん」で
方が多いようです。
に活用され
(藤岡弘之)
お気軽に舟山堂と神田刀剣会へ
のお越しをと、店主は申していま
す。 ■舟山堂=〒101 0
- 047 東京
都千代田区内神田二 四- 一
-三 石垣
☎〇三 五-二九七 八-一四四
ビル
下坂(現在の滋賀県長浜市)より
もつかなかった。
った。弟さんのお住まいは亀田村
大変感謝しています。
稲留 修一 さん
遺志を継いで頑張る二代目店主
親しまれていました。
神田刀剣会と称する研究会を開催
昭和五十四年に稲留さんが入社
し、営業を担当されました。稲留
んは四年前
に亡くなら
れ ま し た。
その後を稲
留さんが継
楽しんでおられます。
二十数名の参加者が和やかに刀を
残念なが
ら、 山 田 さ
ています。
紛失の多い重要美術品の刀剣にと
今回は、神田に店を構える舟山
どう いなどめ
堂と稲留修一さんをご紹介します。
さんの生まれは鹿児島県で、芯が
しゅうざん
開店は昭和五十一年で、九段下
の 徳 海 屋 ビ ル 一 階 に あ り ま し た。
強く、まさに薩摩隼人そのもので
しています。講師は広井雄一先生
当時の店名は正見堂と言い、山田
す。目利きでもあり、山田さんの
で、時代や流派ごとに懇切丁寧な
均さんが社長でした。刀剣柴田の
片腕になっていました。
って貴重な情報源であり、画期的
大番頭として長く、刀剣柴田の歴
な書籍でした。業界では今も大い
史を見てきた方です。刀剣商らし
平成六年、正見堂は舟山堂に社
名を改めました。山田さんの故郷
舟山堂の一大事業と言えば、準
からぬ学者肌で、店にいるときは
である伊豆の舟山に由来するもの
せいけんどう
本を読んでいるか、タバコをくゆ
ふなやま
らしている姿しか見た記憶があり
で す。 同 八 年、 飯 田 橋 に 移 転 し、
を顕彰しています。
前が生んだこの名工
仕と供養を行い、越
日に、墓所の清掃奉
日である毎年九月九
井支部では、彼の命
公益財団法人日本
美術刀剣保存協会福
価を受けています。
品は、現在も高い評
創意を盛り込んだ作
捉えながらも自らの
初代康継の墓碑
刀 剣 商 リ レ ー 訪 問
ど魅力的な人々がおり、とても刺
えるようになり、家康の「康」の
て閉ざされたのである。
私が日本刀に出会ったころとは
驚くほど状況が変化し、今や、日
いなかった。私の念願の刀は、
を奪われた。
5回
ると、刀剣を買うには新潟警察署
剣を見せて
くれたのを機
第1
で、あの有名な「越乃寒梅」の醸
居合を披露するヒューズ・ロバートさん
こ の 何 と も 滑 稽 な 出 会 い の 後、
夢想神伝流居合道指導者の一人で
広い道場の端から見た、彼らの
大変興味深い一連の動作は、かつ
随想
ません。本名は「ひとし」ですが、
B1
稲留修一さん
第26号
刀 剣 界
平成27年11月15日発行
(隔月刊)
(5)
宝七件、重要文化財十九件をはじ
を収める美術館です。刀剣類は国
品、いわゆる大名道具一万件余り
義直(家康九男)より代々の遺愛
徳川美術館は徳川家康の遺品を
中心に、尾張徳川家の初代・徳川
一振を主として駿府御分物帳とと
徳川美術館の刀剣は駿府御分物
で、尾張家に分与されたもの四百
ます。
尾張家本・水戸家本が残されてい
は、 分 与 を 受 け た 遺 産 の 目 録 で、
た。「 駿 府 御 分 物 帳 」( 元 和 二 年 )
川頼房(水戸家)に分与されまし
できる貴重な資料でもあります。
が行われていたのかを知ることが
ています。往時、どのような研磨
た差し込み研ぎの状態で保存され
年以上前の江戸時代以前に行われ
ています。すべての刀剣が、二百
徳川美術館の蔵刀は質量だけで
なく、その保存状態も非常に優れ
在は皇室の御物となっています。
張徳川家から朝廷に献上され、現
振 」 は 文 久 三 年( 一 八 六 三 )、 尾
りです。このうち、名物「一期一
す。主要なものは、別表にある通
小さいほど重要性が高くなりま
字、兵庫守家、鳥養国俊、一文字
ほかにも多くの名刀がありまし
た が、 津 田 遠 江 長 光、 南 泉 一 文
ました。
黒蠟色塗鞘合口拵も展示されてい
という後藤祐乗作の目貫の付いた
ると、竜が瞬きするように見える
筋・砂流しや湯走りといった働き
物吉貞宗は細かな沸が厚くつ
き、匂深く明るく冴え、刃中の金
長義の代表作と言われています。
に、 沸 の よ く つ い た 豪 壮 な 刀 で、
よくわかりました。大互の目乱れ
徳川美術館
めとして、質量ともに優れた作品
も に、 藩 政 時 代 に 将 軍 家 や 紀 伊
鮫皮八幡宮建立の動機
柄巻きを始めて三十年、腕は一向に上がらないが、鮫皮
への思慕はますます深くなるばかりでした。
まとまった存在であり、大変に貴
宝庫・コレクションとして唯一の
で徳川美術館の収蔵品は大名家の
散逸してしまいましたが、その中
て多くの大名家の道具はほとんど
です。明治維新、先の大戦を通じ
家・紀伊家・水戸家)筆頭の雄藩
八一八~)ごろなどの各時代にあ
延 享 二 年( 一 七 四 五 )・ 文 政( 一
物元帳」が慶安四年(一六五一)
・
藩政時代には尾張徳川家の蔵刀
を管理する刀剣台帳である「御腰
料的価値も誇っています。
とともに他に類を見ない優れた資
まま保存されており、美術的価値
に用いられたもの以外は、当時の
刀剣男士(キャラクター)の鯰尾
『刀剣乱舞
現在、大人気のオンラインゲーム
で、 多 く の 来 館 者 が あ り ま し た。
示されるのは約十年ぶりのこと
名刀がこれほどの規模で一堂に展
学に訪問しました。徳川美術館の
徳川家康―天下人の遺産―」を見
年 記 念 夏 季 特 別 展「 没 後 四 百 年
された当時のままの状態を保って
がほとんどついておらずに、製作
慶長新刀にもかかわらず、茎に錆
状態が良いために、約四百年前の
あったものが尾張家に分与された
この刀は越前康継が主家である
徳川家の注文により鍛え、駿府に
りました。
が、そのときに驚愕した記憶が蘇
また、越前康継(慶長十九年紀)
の刀は、十年前にも拝見しました
み研ぎで映えていました。
市川隆太さん。あれから一年、同
昨年七月二十四日、一人の新聞
記者が五十四歳で亡くなっていた。
に良い鍛えの地鉄だった
粟田口物に特有する余程
綺 麗 な 地 鉄 な の は、 元 来、
か か わ ら ず、 こ れ ほ ど に
ば不可能でしょう。久しぶりに拝
これには、約四百年にわたり入
念なお手入れがなされていなけれ
難いことです。
を経ており、通常の感覚では信じ
出版された。
なまず
の で し ょ う。 黒 蠟 色 塗 脇
見しましたが、やはり以前と変わ
やまんばきり
今回、ふるさとに帰り、恵那秋水会を
開店しましたが、道祖神の板屋根は落ち
て 半 壊 状 態 で あ り ま し た の で、 今 年 七
ひわ だ ぶき
月、念願の鮫皮大神さまの八幡宮として
改築し、屋根は檜皮葺に新装しました。
当社は、奈良朝以来今日まで千三百年
にわたり、その特性を生かして刀剣外装
平成九年、木曾谷口に家を建てた際、邸内に神様を祀ろ
うと思い立ったが、鮫皮八幡宮にすべきか中山道道祖神に
するか迷い、そのときは道祖神の方がなじみがあろうと決
の材料として貢献された幾百万頭の鮫た
重と言えます。
ったようで、こちらも同様に資料
る本作長義が展示されるというこ
藤四郎、山姥切国広の本歌とされ
います。約百五十年前の保存状態
僚たちが編纂した遺稿集『番犬の
津川市上金一二四八 二
- 恵 那 秋 水 会 ☎〇五七三 六
-五 四-六一八 ご参拝の節
は事前のご連絡をお願いします。
■ 連 絡 先 =〒 5 0 8 0
- 001 岐阜県中
(松
ている「鮫皮」としました。
原正勝)
なお、鮫皮に供されるのはエイ科に属
するものですが、古来より使い慣らされ
全国にこれに類した神社は聞きません
ので、皆さまにお知らせする次第です。
げ、末永く英姿を伝えるものであります。
偲び、鎮魂の微衷をもって感謝の誠を捧
彼 ら の 功 績 は 誠 に 多 大 で あ り な が ら、
一声も発せず黙々と挺身されたご遺徳を
慰霊する、再発見の聖地です。
ち( 学 名 ト リ ゴ ン セ
・フェイン)を祀り
めました。
「駿府御分物」と呼ばれるもの
が あ り ま す。 こ れ は 家 康 の 遺 産
性が高いと言えます。
ともあり、女性の方も多く見られ
の良い新々刀の中には、まれに錆
流儀』
(明石書店、税別二千円)が
などの華やかな丁子乱れが差し込
で、元和二年(一六一六)四月十
尾張徳川家の蔵刀には特徴的な
蔵番が付いており、孔子が提唱し
ました。
の 浅 い も の が 見 受 け ら れ ま す が、
コレクションの質量も
保存状態もひときわ優れる
が所蔵されています。
家・水戸家といった大名間の贈答
が見事でした。じっと見詰めてい
尾張徳川家は総石高六十一万九
千 五 百 石 を 領 し、 御 三 家( 尾 張
筆者は、八月一日から九月十三
日まで開催されていた開館八十周
七日、七十五歳で家康が没したと
た儒教における五常「仁義礼智信」
この康継は優にその倍以上の年月
指 拵 が 付 い て お り、 再 刃
らない良い状態で展示されてお
のだと思われます。あまりに保存
き、駿府城に備蓄されていた莫大
の 一 字 と 数 字 が 記 さ れ て い ま す。
鯰尾藤四郎は一見すると、本当
に再刃なのかと思うくらいに綺麗
』に登場する
-ONLINEお
な金銀財宝・諸道具類の一部は将
な 地 鉄 を し て い ま す。 再 刃 に も
後も大切に保存されてい
り、あらためて尾張徳川家の御腰
物方と、それを受け継がれた徳川
たことが感じられました。
部で司法担当として金丸信脱税事
て中日新聞社に転じた。東京社会
に入社。日本経済新聞社出向を経
市川さんは鎌倉市出身。早稲田
大学政経学部卒業後、テレビ東京
てくれたのも市川記者だった。
権派の喜田村洋一弁護士を紹介し
れた日刀保職員三名に腕っこき人
くかかわっていたし、不当解雇さ
の文部科学委員会での質問にも深
(土 子民夫)
しめたいものである。
びつつ、番犬の残した言葉をかみ
きな臭い政情が漂う今、故人を偲
し く 番 犬 の 流 儀 が 伝 わ っ て く る。
無論、書名は本人の命名ではな
いが、収録された記事からはまさ
を願い続けた人だった。
川さんは自ら良き番犬であること
「 国 民 の 番 犬 」 で あ る と し て、 市
そが権力を監視し、危険を伝える
グ」と呼ぶことがあるが、記者こ
代表
紀伊国屋
刀剣・宝飾品・高級腕時計・ダイヤ
件などの大型経済事件を追及する
一方、人権を脅かす悪法に立ちは
だ か っ た。「 こ ち ら 特 報 部 」 時 代
には反共謀罪キャンペーンを主導
し、平成十八年の日本ジャーナリ
〒3 7 2 0 8 1 2
群馬県伊勢崎市連取町一八三六 一
TEL ○二七○ 二六 七七七八
F AX ○ 二 七 ○ 二 六 八 八 七 八
松浦 孝子
ズム会議(JCJ)大賞を受賞し
ている。その後、川崎支局長から
北陸本社報道部長として、特定秘
名古屋市東区徳川町一〇一七 ☎〇
忠実に写していることが
大磨上にした本歌の姿を
っ た の で は な く、 南 北 朝
京 新 聞( 中 日 新 聞 )
』 の「 こ ち ら
したことがあったが、あの折『東
の指導が入り、斯界が大いに紛糾
平成十八年、財団法人日本美術
刀剣保存協会の刀剣審査に文化庁
美術館の皆様に思わず頭が下がる
(冥 賀亮典)
思いがいたしました。
鮫皮八幡宮(模写/筆者)
時代の三尺に近い太刀を
広 は、 単 に 同 寸 の 刀 を 作
姥切国広を作った堀川国
本作長義は大磨上になっ
ており、この写しである山
恵那山
特報部」に刀剣業界問題を一手に
密保護法や集団的自衛権の行使容
五二 九-三五 六
-二六二
http://www.tokugawa-art- 書いていたのが、市川さんだ。保 認に警鐘を鳴らし続けた。
museum.jp/outline/index.html 坂 展 人 衆 院 議 員( 現 世 田 谷 区 長 ) 欧米では記者を「ウオッチドッ
■徳川美術館=〒461 0
- 023
高さ 210㎝
横幅 90㎝
奥行 70㎝
檜皮葺
御祭神 鮫皮大神
刀剣業界問題を追及した記者の「番犬魂」が遺稿集に
軍家・徳川秀忠が相続しましたが、
表し、仁義礼智信の順序と数字が
「仁一ノ十二」「仁二ノ八」などと
徳川美術館の外観
大 半 は 御 三 家 の 徳 川 義 直( 尾 張
前山
8
家)
・徳川頼宣(のち紀伊家)・徳
来国俊
(国宝)
池田正宗
(重文)
一期一振
光忠
(国宝)
国宗
(国宝)
正恒
(国宝)
津田遠江長光
(国宝)
南泉一文字
(重文)
本作長義(以下58字略)
(重文)
鯰尾藤四郎
無銘藤四郎
物吉貞宗
(重文)
不動正宗
(重文)
包丁藤四郎
(重美)
後藤藤四郎
(国宝)
太刀
刀
太刀
太刀
太刀
太刀
太刀
刀
刀
脇指
短刀
脇指
短刀
短刀
短刀
「仁壱ノ壱 (仁1-1)」
「仁壱ノ拾参 (仁1-13)」
「仁一ノ二十六
(仁1-26)」
(仁1-29)」
「仁一ノ二十九
「仁壱ノ四捨 (仁1-40)」
「仁一ノ四十七
(仁1-47)」
「仁一ノ六十壱
(仁1-60)」
(仁1-65)」
「仁一ノ六十五
(仁1-79)」
「仁壱ノ七捨九
「仁弐ノ四 (仁2-4)」
「仁弐ノ捨弐 (仁2-12)」
「仁二ノ二十 (仁2-20)」
(仁2-21)」
「仁弐ノ弐捨壱
(仁2-26)」
「仁二ノ弐捨六
「仁二ノ参捨七
(仁2-37)」
第26号
刀 剣 界
平成27年11月15日発行
(隔月刊)
『刀剣界』は隔月で発行しています。現在、キャンペーン中につき、ご希望の方に1年間無料でお送りしています。組合員・賛助会員以外の方で継続購読を希望される方は、
お名前・送付先・電話・メールアドレス
(あれば)
を書面でお知らせください。また、お知り合いで刀剣に興味のある方がいましたら、教えてあげてください。
(事務局)
(6)
信長像の既成概念に挑戦する
旅すること、
刀を作ること
もいいもんだよ、と言い、個展の
るまでの経歴は本人の記す通り。同
学教育学部を卒業。その後刀匠にな
門、十七年、文化庁より作刀承認を受
十二年、宮入小左衛門行平刀匠に入
図録を手渡してくれました。その
図録の最後のページに「ものを作
変 天 々 目 」「『 四 国 国 分 』 朱 印 状 」
と 光 秀、 光 秀 と 利 三、 利 三 と 元
政策が転換したこと、また、信長
長男の私は、物心つくころには
周囲の環境や声などから、当然刀
緒に育ちました。
鞴の音、鉄の沸く独特の匂いと一
代々続く刀鍛冶の家系に生まれ
た 私 は、 幼 い こ ろ か ら 炭 の 粉 や、
をようやく起こしてまた次の町へ
な安宿で目を覚まし、けだるい体
を背負い、外国をフラフラしてい
し、汚い格好をして、重いザック
した。実際は、濃くない髭を生や
の真似事のようなことをしていま
来上がったものは誰のせいにもで
作刀のさまざまな工程はすべて
自分の手で究めていくわけで、出
それから十五年が経ち、年齢は
四十を過ぎました。
とにしたのです。
うな気がして、宮入の門を叩くこ
節に目の前の霧が静かに晴れたよ
る」と書かれていました。その一
一席、新作日本刀刀職技術展覧会で
会主催お守り刀展では第三回展特賞
努力賞・新人賞を受賞。全日本刀匠
け、同年新作刀展覧会に初出品して
「 本 能 寺 で お じ ゃ り ま す る 」「 凶
親をつなぐラインがあったと同時
鍛冶になるもんだ、と思っていま
……そんな日々でした。
ることと、旅することは同じであ
変 目 撃 三 匹 の 蛙 」「 斎 藤 利 三 切 腹
に、利三と家康、家康からのライ
した。しかし、いわゆる跡継ぎと
出来上がったものからは自分の負
『織田信長 四四三年目の真実』
この二冊の本を取り上げたの
は、共に織田信長の決断のより
命 令 」「 混 濁 本 能 寺 」「 本 城 惣 右
ンが利三の娘、徳川家光の乳母と
言われる少なくない人がそうであ
しかし、そのときはそのときで
精いっぱいであったし、次の町に
の面ばかりが目に付きますが、中
河内 一平 ︵刀匠︶
ど こ ろ で あ っ た「 知 識・ 理 論 」
衛門覚書」
「光秀霊面会」
「光秀裁
して有名な春日局にまで延びてい
るように、反発と好奇心から興味
行けば何か新しい自分に出会える
に は「 一 平 君 ら し い い い 刀 だ ね 」
を 共 有 し て、
「信長はこう考え
判」
「本能寺三途の河」
「逆転本能
ることなどがわかる。家康は光秀
は外へ外へと向かっていきまし
かもしれないという、根拠のない
明智憲三郎 一二〇〇円(税別)
幻冬舎
たはずだ」と推理する、つまり
寺の変」となっていて、いずれも
家臣やその子孫にまで、驚くほど
た。今振り返れば、稚拙な考えの
と言ってくださる方も……。少し
偉大な師匠と川崎晶平という実力派
し て 楽 な 道 を 選 ん だ と は 思 え な い。
でいる姿はまさに真剣そのもの。決
信条は違うようで、仕事に打ち込ん
一見、営業職や学校の先生の方が
向いているようも見えるが、本人の
何人もの弟弟子の面倒を見てきた。
たちにも兄のように慕われる存在で、
気配りのできる人だ。宮入家の子供
素 敵 な 奥 様 に 恵 ま れ、 二 児 の 父
親。童顔で明朗快活、周りに対する
会理事、同信越・北陸地方支部長。
数々の賞歴を有す。現在、全日本刀匠
展金賞一席、第六回展金賞一席など
は第一回作刀の部金賞六席、第三回
信長の頭脳の中身「信長脳」を
面白いのだが、読者の興味を引く
厚い待遇を与えているのである。
思いが私を突き動かしていたのか
黒鉄ヒロシ 一三〇〇円(税別)
PHP
「歴史捜査」する過程で成り立
「四国」の一節を取り上げてみた
自分に恥ずかしい思いをするばか
のそういう喜びが、また次の作刀
るだけでした。南京虫がいるよう
っているからである。
い。
もしれません。
の兄弟子の下、これまでの賞歴は当
りですが、大学を卒業するころに
き な い し、 言 い 訳 も で き ま せ ん。
『織田信長 四四三年目の真
実』では、「大うつけの正体」
「勝
そして、信長より切腹命令が出
るも、信長側近の取りなしにより
利を創り出した信長脳(桶狭間
へと向かわせてくれるのかもしれ
は「自分探しの旅」と称し、放浪
東京で形ばかりの会社勤めを
助かった斎藤利三は、本能寺の変
然 と 思 わ れ る だ ろ う。 そ し て 最 近
『 本 能 寺 の 変 の 変 』 で は、
「
『四
国国分』朱印状」
「本能寺でおじ
の戦い)
」
「 苛 烈・ 残 虐 の 真 相 」
は、弟弟子も頭角を現している。
の後、捕縛され、謀反随一、すな
ません。だからこそ、作刀を通じ
わち変の首謀者として「車さた」
、
て自分と向き合い、未知の領域に
ゃりまする」
「斎藤利三切腹命令」
し、 お 金 を 貯 め て は
の項で書かれているのだが、岡山
旅 に 出 て い た 私 は、
の神話を暴く」
「天下統一の先
「天下統一への道」
「本能寺の変
人柄が良く、真面目な性格から交
友関係も広く、周りの期待の大きさ
つまり両手・両足を引きちぎられ
徐々に歩み寄り、成長したいと考
県・林原美術館での長曾我部元親
その後弟子入りする
に求めたもの」
「なぜ本能寺で
えています。
昭和四十八年、河内國平刀匠の長
男として奈良県に生まれる。三人の
弟がいる。平成七年、京都の仏教大
ますか 。
」乗員に一言を残し、
母機を離れていくのである。
回想のシーンに、昭和初期に流
行した「私の青空」が流れる。
♪夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れてたどるは わが家の細道
時代は移り、今。キンケイギク
の咲き乱れる公園に、家族連れや
た ら 生 き て は 戻 れ ぬ“ 人 間 爆 弾 ”
プロペラも車輪もなく、一度乗っ
る さ れ て 目 標 付 近 で 分 離 さ れ る。
時が訪れる。神「之池基地の近くに、
撃にもさらされる。少年に突撃の
一人と倒れていく。やがて艦砲射
る。機内は地獄と化し、一人また
緒形直人・林家三平・橋本一郎・
監督は「天心」で高い評価を得
た松村克弥、出演は大和田健介・
ことを忘れてはならないだろう。
サクラ花」の公式サイトは、
「
http://www.sakurabana-movie.jp/
(T)
☎〇八〇 九-九七八 九-五二五
県埴科郡坂城町坂城六六二二 一
-
(研師・阿部一紀)
■連絡先=〒389 0
- 601 長野
を期待しています。
分に身に付いているのだから旅の目
は本人も感じているはず。技術は十
こ と に な る、 宮 入 小
的は自分で明確にし、自分で確信し
る残酷な刑罰を受けている。
てほしいと思う。ますますのご活躍
や明智光秀重臣斎藤利三の書状の
左衛門行平の個展に
終着駅はまだ見えませんが「も
の作りの旅」を続けていきたいと
討たれたか」と目次が並ぶ。
招かれました。幼い
ごう の いけ
神之池基地(神栖市・鹿嶋市)を
飛び立った海軍一式陸攻機の機内
を 舞 台 に 展 開 す る。 乗 員 は 八 人。
■一筆啓上
思います。
発見によって、信長の対長曾我部
終戦から七十年の秋、あの時代
を振り返る好個の映画が完成した。
生還かなわぬ小型特攻機をめぐる人間模様
家族で旅行に行くの
り 際、 ふ と 宮 入 が、
がら近況を話した帰
た宮入と作品を見な
ころから交流のあっ
『本能寺の変の変』では、
「曜
性が裏付けられたことに気づいて
『 元 親 記 』 を 読 み 直 し、 利 三 が 明
・ ・ ・ ・ ・
智謀反の戦いを差し急いだ」と書
か れ て い て、
「利三が明智謀反の
戦いを企てた」とは書かれていな
い。既に別の理由で光秀は謀反を
企てていて、それを知っている利
三は「その実行を急がせたという
ことである」
。
おう か
最後の桜花。ただ一人の特攻要員
こういった問題意識は両書に共
通するが、結論が違ったりする面
桜花とは、終戦間際の昭和二十
年、九州沖や沖縄方面の航空戦に
は、まだ十七歳の少年である。
考えていただきたい。四作すべて
である。十次に及ぶ出撃で、特攻
母が大好きだったキンケイギクの
若者たちの楽しげな姿が広がる。
をお読みいただければ、何となく
戦死五十五名、母機搭乗員の戦死
擁するのは、激戦の沖縄に向かう
投入された特攻兵器である。機首
戦 場 ま で わ ず か と な っ た と き、
突如、敵機グラマンの猛攻を受け
サ「クラ花―桜花最期の特攻―」。
ほかに、この欄で以前紹介した
明智憲三郎著『本能寺の変 四四一
部に大型爆弾を搭載し、母機に吊
白さが随所にある。
年目の真実』と黒鉄ヒロシ著『新
戦国時代の歴史的背景や、戦国武
三百六十五名と記録されている。
平和と繁栄を謳歌する時代のは
ざまに、狂気と惨劇が重ねられた
将のカルチャーといったものが理
信
・ 長 公 記 』 を 併 せ て、 四 部 作 と
解できたという気分にはなれるこ
磯山さやか・渡辺裕之ら。
(持田具宏)
種を蒔きました。見に行ってくれ
映画は六月二十二日、茨城県・
とだろう。
戦友の死に弔意を捧げる乗員たち
『本能寺の変の変』 20
そ し て『 織 田 信 長 四 四 三 年 目
の真実』では、
「
『元親記』の信憑
BOOK REVIEW
第26号
刀 剣 界
平成27年11月15日発行
(隔月刊)
(7)
というものである。しかし、自らの
磯田道史 五九〇円+税 文春文庫
という生き方に迫る。
資産だけでは高が知れている。ひ
そかに同志を募り、た
「 とえ孫子の
代になろうとも」
と、成就を誓う。
中でも穀田屋十三郎と同志たち
の行為は、これほどの庶民が実在
したのかと心を動かされる。
そ れ が か な う な ら、 家 屋 敷 も
「
要らぬ、身を売ってもよい」と集
はく せき
分野の論客たちと激論を闘わせ
まったのは九人。一千両(現在の
ちよう
る…。白皙の歴史家であり、饒
田勝吉さんから手紙を受け取っ
東日本大震災の少し前、磯田先
たい わ
生は宮城県黒川郡大和町吉岡の吉
みち ふみ
舌のMCとしても面目躍如の磯
利息で貧しい故郷を救おうとし
本書が取り上げたのは、三人
の江戸人。藩に貸し付ける金の
ったので紹介しておきたい。
域は江戸時代を通じて人口も減ら
無私の志のおかげで、私たちの地
話が伝わっている。この人たちの
語れない、本当に立派な人たちの
実は、ここ吉岡宿には涙なくして
記覚』編纂に取り組んでいた。磯
んは生涯をかけて史料集の『国恩
この史実は『国恩記』なる文書
に詳細が記録されており、吉田さ
繁栄に結ばれたという。
っていた通り、その後の吉岡宿の
た。 私
「は東北に住む老人である。
た商人・穀田屋十三郎。清貧を
ず、 今 に 至 っ て い る。 磯 田 先 生、
田先生は古文書を読みながら、涙
本人』が、このほど文庫に加わ
貫き庶民とともに生きた天才儒
どうかこの話を本に書いて、後世
が止まらなかったと書いている。
とう り
者・中根東里。絶世の美女に生
に伝えてくださらないか」
。
もあって、年配の方を中心に賑わ
常設展示観覧料が無料ということ
日の敬老の日で、六十五歳以上は
催された。行ったのは九月二十一
「 徳 川 の 城 ― 天 守 と 御 殿 ―」 が 開
八月二十一日から九月二十七日
まで、江戸東京博物館にて特別展
たり、工事に関わった大名の数二
は、家康・秀忠・家光と三代にわ
普請で作られたが、江戸城の工事
の城は、諸大名に分担させる天下
江戸城・大阪城・名古屋城・駿
府城・二条城をはじめとする徳川
圧巻であった。
い 数 の 図 面・ 絵 図 が 一 堂 に 会 し、
る本丸御殿図を筆頭に、ものすご
たという。
で、江戸の町のどこからでも見え
が、 木 造 の 建 造 物 で は 世 界 最 大
永天守の立面図も展示されていた
建て直されている。この家光の寛
のを破却し、さらに大きなものに
十年余りの間に、先代の建てたも
天守、家光の寛永天守とわずか三
江 戸 城 の 天 守 は 面 白 い こ と に、
家康の慶長天守から、秀忠の元和
めるのが主目的であった。
作ったのは、徳川の権勢を知らし
江戸城をはじめ各地にこの天守を
であった。家康から家光にかけて
りも、その威厳を示すためのもの
のだが、その目的は軍事的な面よ
で会場を後にしました。
た姿を見て、少し物悲しい気持ち
が、荒れ果てて草ボウボウとなっ
展示の最後は明治四年に撮影さ
れた江戸城の写真十四枚であった
た。
華やかさを実感することができ
放映されており、そのスケールと
して作成した3D映像が大画面で
豪華な障壁画で飾られていたわけ
る。この本丸御殿の各部屋が絢爛
てられていたというから驚きであ
とてつもない広さの大御殿が建
一万一三七〇坪、部屋数八百もの
将 軍 私 邸 の「 大 奥 」 と 合 わ せ て、
イベント・リポート
っていた。
百五十を数え、実に五十年の歳月
6
・m×5 1・m、畳十一畳分もあ
圧倒される世界最大の木造建造物
江戸東京博物館特別展「徳川の城―天守と御殿―」
展示物は、縄張り図・天守・御
殿 の 平 面 図・ 立 面 図 が 大 半 を 占
天守は織田信長が生み出したも
(木村隆志)
だが、NHKが五年の歳月を費や
め、それに江戸城・大阪城などの
を費やし、やっと完成している。
挨拶から競りに入っ
江 戸 城 の 本 丸 に は、 公 務 用 の
「 表 向 」、 将 軍 公 邸 の「 中 奥 向 」、
屛風絵と篤姫・和宮の調度品が往
時の様子を伝えていた。大きさ3
新橋刀剣会熱海大会で上々の出来高
新橋刀剣会の前身である築地会
は大変歴史と格式のある会であっ
アオバ企画㈱
埋蔵文化財調査と東日本大震災の復興支援
特別文化財講演会「古代における日本最大の製鉄遺跡群」
た。昼食の石亭特製
から始まり、生ぶ荷
た。午前の成り行き
ま れ な が ら あ え て 辛 苦 を 選 び、
新橋刀剣会が発足してから丸三
年が過ぎ、熱海大会も今年で二度
に胸をなで下ろしたことであろう。
庵で陶器を作り続けた大田垣蓮
もあって会場は大い
吉田さんは既に病床にあり、穀
田屋十三郎らの伝記を喜んで読ん
に盛り上がりを見せ
吉岡宿は出羽街道と松島道の分
岐する交通の要所で、仙台藩の直
そして十月十五日、第二回新橋
刀剣会熱海大会が、既に定宿とな
月。磯田先生は史料を通して出
ったあたみ石亭で開催された。
い。今のままではいけないと憂え
に転じ、じわじわと上がってきて
(土子民夫)
爽やかな秋晴れに恵まれた十月
十六日、全国美術刀剣会
(全刀会)
いる感があります。
の準大会が東京港区白金台の八芳
目の開催となった。
カ レ ー は、 刀 剣 会 の
でいたが、生前、磯田先生との面
大会でしか味わうこ
轄 領 で は な か っ た も の の、 重 い
新堀氏曰く、「みんなで仲良く、
ワイワイ楽しくできたら最高じゃ
会った無数の日本人からあえて
な い!」
。氏の人柄がよく表れて
との出来ない名物料
会はかなわなかった。
たが、三年前に一度、度重なる事
理 で あ る。 差 し 入 れ
課 役 の た め に 次 第 に 住 戸 は 減 り、
先々が危ぶまれ
故により存続の危機を迎えた。会
おり、そんな誠実な人柄に惹かれ
の絶品卵との相性は
その背景には会長・役員をはじめ
磯 田 先 生 は「
『無私の日本人』
は書こうと思ってできた本ではな
て役員はじめ皆で会を盛り上げて
会員の方々の並々ならぬ努力と協
ていた。
の立て直しのために新堀孝道氏が
いるのではないだろうか。新橋刀
素晴らしく、これも熱海大会の一
る人の心が、私に自然に書かせた
会長に就任し、会の名称も新たに
つの楽しみとなっている。
穀田屋は住民
の貧困を救うた
再スタートを切ったことは皆さん
剣会の大会のために、一年間かけ
景気が上向いてきたとは言って
も な か な か 商 売 で の 実 感 は 薄 い。
本である」とも記している。
て貯めた生ぶ荷をまとめて出す出
午後も生ぶ荷の成り行きから始
まり、重要刀剣や夢のある名品の
めに、一つの策
の記憶にもまだ新しいのではない
品者などもおり、他の会とはまた
入札もあり、盛り上がりを見せた
を考える。まと
だろうか。
一 味 違 う 良 い 雰 囲 気 で あ る の も、
彼 ら を 選 び、 共 通 す る「 無 私 」
約三億円)は八年で捻出でき、願
田道史先生が著した『無私の日
アム 英
「雄たちの選択」では異
『武士の家計簿』で彗星のご
とく登場し、NHKBSプレミ
『無私の日本人』 憂える心が書かせた江戸庶民の純情
ブック・レビュー
上昇気配を感じた全刀会大会
の運営に充てる
こ の 実 話 は 来 夏、
「 殿、 利 息 で
ござる!」のタイトルで映画化さ
氏の人柄のなせる技であろう。
こんな時代だからこその結束の強
まった金子を藩
膨大なマイナスを背負ってのス
タートは並大抵のことではなかっ
会は、締めてみれば一億円という
さを、まざまざと感じた大会であ
園白鳳館において開催されました。
(大西芳生)
持つ福島県の古代製鉄遺跡群など
を紹介するもの。
第一部では、東京都埋蔵文化財
センターの及川良彦氏が「東京都
財の保護のための発掘調査が行わ
と福島県の連携について―福島県
日本刀は今後も、国内のみなら
ず世界から注目される美術品とし
れているが、東京都埋蔵文化財セ
一
ンターは平成二十五年から公益財
に出向して考えたこと」を話され
九月二日、江戸東京博物館にお
いて「古代における日本最大の製
団法人福島県文化振興財団に職員
A遺跡。津波で浸水した沿岸地域
た。支援調査地は南相馬市天化沢
鉄遺跡群」と題し、公益財団法人
を派遣するなど、発掘調査の支援
てますます高く評価されていくに
東京都スポーツ文化事業団の主催
を 行 っ て き た。 今 回 の 講 演 会 は、
違いありません。
する特別文化財講演会が開催され
さすがに五十一年の歴史を持つ
由緒ある全刀会です。伊波賢一理
た。 東 日 本 大 震 災 の 被 災 地 で は、
その報告を兼ね、国内最大規模を
では、かさ上げによって被災農地
てん が さわ
復旧・復興事業と併せて埋蔵文化
事長による開会の挨拶の後、全国
〒 13 0 0 0 1 2
墨田区大平四 一九 二 一三○八
TEL ○三 三六二二 二二三一
F AX ○ 三 三 六 二 二 二 二 五 一
メール [email protected]
から訪れた会員と招待者が持ち寄
正)
今年の全刀会大会は、まさに刀
剣業界の将来の発展を予感させる
(生野
大会であったと思います。
った名品・優品・珍品の数々が紹
高橋
力があることは明白である。
たが、会長はじめ役員の方々の努
出来高を叩き出した。これは昨年
った。
れる。監督は中村義洋、出演は阿
力もあり、昨年は第一回大会を開
会場の大広間は、開始時刻より
だいぶ前に荷物で足の踏み場がな
を 大 き く ク リ ア し た 数 字 で あ り、
に貸し付け、毎
催するまでになった。一時は会の
い ほ ど と な り、 朝 十 時、 会 長 の
部サダヲ・瑛太・妻夫木聡ら。
刀剣ブームの影響も相まって強
い買いの気配が続く刀剣市場、長
行く末を案じた会員たちも、大い
年の利息を宿場
らく低迷状態にあった相場も上昇
新橋刀剣会熱海大会の交換会風景
介され、活気あふれる大変にぎや
かな大会となりました。
←次ページに続く
第26号
刀 剣 界
平成27年11月15日発行
(隔月刊)
(8)
刀 剣 界
平成27年11月15日発行
(隔月刊)
■鉢形城歴史館
催 事 情 報
〒369-1224 埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2 ☎048-586-0315
http://www.town.yorii.saitama.jp/site/rekishikan/
秋季企画展「第58回埼玉県名刀展」
■京都国立博物館
〒605-0931 京都市東山区茶屋町527 ☎075-525-2473
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index.html
特集陳列「刀剣を楽しむ ─名物刀を中心に─」
この特集陳列では、後鳥羽上皇が
自ら手がけたとされる太刀「菊御
作」
、斬りつけた真似をするだけで
相手の骨が砕けるという伝説を持つ
「薙刀直し刀(名物骨喰藤四郎)
」
(重
文、豊国神社蔵)をはじめ、桶狭間
の戦いでの織田信長の戦利品である
「刀(名物義元左文字)
」
(重文、建
勲神社蔵)
、坂本龍馬所用の「刀 銘
吉行」
(京都国立博物館蔵)など、
ドラマティックな歴史を持つ名刀の
数々をご紹介します。作品に秘めら
れた歴史と併せて、奥深い刀剣の美
の世界をお楽しみください。
第26号
主な展示作品:
重文 太刀 菊御作
重文 刀 金象嵌銘 永禄三年五
月十九日義元討捕刻彼所持刀/織
田尾張守信長(名物義元左文字)
重文 薙刀直し刀 無銘(名物骨
喰藤四郎)
重文 短刀 銘 吉光(名物秋田
藤四郎)
重美 短刀 無銘
(名物上部當麻)
刀 銘 吉行(坂本龍馬所用)
刀 銘 長曽祢虎徹入道興里
会期:12月15日㈫~2月21日㈰
鉢形城歴史館の秋季企画展は、埼
玉県刀剣保存協議会との共催により
「第58回埼玉県名刀展」を開催しま
す。わが国古来の伝統工芸品である
日本刀を、この機会にどうぞご鑑賞
ください。
期間中、各種のイベント開催を予
定しています。
なお、後期は「埼玉の郷土刀」と
題し、埼玉県にゆかりのある刀匠た
ちの作品を中心に展示します。幕末
から明治にかけて、用土村(現在の
寄居町用土)で工房を構え造刀した
震鱗子景一や月心斉宗一の作品も注
目です。
「刀 銘 藤枝太郎英義/安政五午
年同年於伝馬丁 山田源蔵大々土壇
払/」ほか12点。このほか、古金工
鐔11点を展示します。
会期:11月10日㈫~11月29日㈰
■高知県立坂本龍馬記念館
■丸亀市立資料館
〒781-0262 高知市浦戸城山830 ☎088-841-0001
http://www.ryoma-kinenkan.jp/
〒763-0025 香川県丸亀市一番丁城内 ☎0877-22-5366
http://www.city.marugame.lg.jp/institution/culture/shiryo.html
龍馬生誕180年記念企画展 龍馬の良き理解者「坂本家・家族の絆」展
丸亀市合併10周年記念「京極家の家宝展」
龍馬はこの土佐に生まれ、この地
を、家族を、友人・仲間を愛して、
なお脱藩した。そして、異郷にある
龍馬を勇気づけ、励まし続けたのが
家族である。異端児とも言える龍馬
を大らかに、時には叱咤しながら信
頼し続けた坂本家とは、家族たちと
はどんな人たちか。生誕180年の年
に、龍馬と家族の絆を見つめ直して
いく。
この度、坂本家(郷士家、札幌市)
より一括寄贈寄託いただいた資料や、
120年ぶりに里帰りする北海道・浦
臼町所蔵の龍馬書簡なども紹介する。
この中には、龍馬が特に愛したと
される長船勝光・宗光合作(永正2
年紀)の脇指や、北辰一刀流から与
えられた免許皆伝書なども含まれる。
会期:10月3日㈯~1月22日㈮
京極家は江戸時代に約210年間に
わたり、西讃岐一帯の丸亀藩を治め
た大名です。名門の武家にふさわし
く、京極家は刀剣・茶道具・書画・
茶道具・書画・調度品、佐々木家ゆ
かりの古文書や遺物などの由緒ある
大名道具を所持しています。今回の
展覧会では、将軍の上覧に入れた伝
統ある京極家の家宝の数々を紹介し
ます。昨年その存在が確認され、丸
亀市が購入し、本年度修復を終えた
新収蔵資料で初公開となる「二尊
旗」
、
重要美術品の刀
「ニッカリ青江」
も展示されますので、ぜひご来館く
ださい。
会期:10月10日㈯~11月29日㈰
ち、発掘調査が実施された。
いるが、そのための土取りに先立
などの再生を図る工事が行われて
実験」を紹介され
製鉄炉の復元操業
で検出された古代
解説で「福島県内
し た ほ か、 映 像 と
群」について講演
の古代の製鉄遺跡
題」と「福島県内
文化財の現状と課
県内における埋蔵
田秀享氏が「福島
財団調査課長・吉
第二部は、現地
の福島県文化振興
示されたと思う。
の支援のあり方が
おられたが、文化財という一面で
支援と相互交流が必要だと述べて
受 け 入 れ 側 に 疲 労 の 色 が 濃 く、
及川氏は継続的かつ長期にわたる
が密集していたという。
方には大変好評であった。
平日とあって江戸博のホールに
は空席が目立ったが、受講された
ある。
かに大きかったかが偲ばれるので
う。当時、南東北で鉄の需要がい
前半(九世紀前半)にかけてとい
時代(七世紀後半)から平安時代
どの鍛造製品である。時代は飛鳥
鋳 造 製 品 や 武 器・ 武 具・ 農 具 な
鉄の用途として想定されるの
は、 鍋・ 釜・ 鉄 仏・ 仏 具 な ど の
発掘されている。
百二十三基・木炭窯百五十二基が
製鉄炉二十三基・木炭窯百三十五
る。例えば、新地町武井地区では
その数、残滓量の多さに驚かされ
でも福島県浜通地方の遺跡群は
ト」と紹介したことがあるが、中
当地と新潟県柏崎市、北九州の三
10月10日、丸亀城の敷地にある市立資料館で始まった「京極家の家宝展」
。
早朝から多くの若い女性が詰めかけ、開館前に長蛇の列ができた。お目当ては
「ニッカリ青江」
。同資料館には、公開を発表した約3カ月前から問い合わせが
相次いだといい、全国から訪れたファンが前泊して、ニッカリ青江との対面を
心待ちしていた。
その原因を作ったのは、オンラインゲーム 「刀剣乱舞―ONLINE―」 だ。その
中でニッカリは、緑色の髪で右目を隠した見目麗しい長身のイケメン男子に擬
人化されている。登場するキャラクターの中でも上位の人気だ。
館内は女性たちの熱気にあふれ、撮影自由とあって、本物とキャラクターの
パネルの間をスマホ片手に往ったり来たり。初日の入館者数は1,889人と、これ
までの企画展の約6倍に上ったという。
丸亀市では美男子キャラのポストカード(250円)と2種類のクリアファイ
ル(各400円)をそれぞれ1万枚と各3,000枚を用意し、
観光案内所で販売したが、
これにも女子が殺到。市では急きょ、追加生産を決めた。
略称「とうらぶ」とコラボする刀剣展は全国でいずれも記録的な成功を収め
(T)
〒135-0045 東京都江東区古石場2-13-2 ☎03-5620-0224
http://www.kcf.or.jp/furuishiba/
講座「日本刀
神の宿りし美術工芸品」
江戸東京博物館ホールでの講演
かなさわ
ぶ
い
基、南相馬市金沢地区では製鉄炉
(土子民夫)
印刷/株式会社日刊企画
時間:木曜19~20時半
受講料:6,700円(全5回分)
教材費:300円
カリキュラム:
11月19日 日本刀その美しさと魅
力―刀匠とともに―
12月17日 日本刀の源流―たたら
製鉄―
1月17日 刀剣博物館展示見学会
2月25日 日本刀研磨の技の実演
3月17日 華やかなりし刀装具―
日本刀装飾の世界―
日本古来の鍛冶製法で作り上げら
れる日本刀。その製作工程は長い歴
史にのっとった神事とも言うべき厳
かな作業です。
信仰の対象や権威の象徴としての
側面と、機能美を追求した刀身から
放たれる美しさの魅力をわかりやす
くお話ししていただきます。
講師:
黒滝哲哉(刀剣博物館学芸員)
上畠宗泰(刀匠)
臼木良彦(研師)
本 紙 で か つ て、
■江東区古石場文化センター
ているが、ここを女性が訪れる現象は、
“巡礼”と呼ばれている。
地 域 を「 古 代 の 三 大 コ ン ビ ナ ー
遺跡は平安時代と奈良・平安時
代が主体で、製鉄遺跡や炭焼き窯
た。
話題の刀剣女子が突如、丸亀市に現れて、市民を驚かせている。