マン・ウォッチング

マン・ウォッチング
人間の行動学
デズモンド・モリス
「人間とは何か」 これは古くから,繰り返し問い続けられてきた問題である。
しかし,今日ほど人間の本性,人間のあり方が問われている時代はない。
人類の発展と幸福を約束した近代機械文明が,その一面において,
人間性を蝕み,あまつさえ全人類の滅亡をもたらしかねないという危機感が,
世界中にみなぎってきたからである。
この危機を回避するためには,「人間の未知なるもの」の真の姿を,改めて見直す必要がある。
この点に関して,この本の著者デズモンド・モリスのベストセラー
「裸のサル」 は,われわれに強い衝撃を与えた。
モリスは人間を体毛のないサルとして分析することで,
人間性すら,ヒトというユニークな動物の持つ一つの動物性に他ならない,
と主張したからである。
モリスは本著 「マンウォッチング」 において,この見解をさらに前進させる。
「マンウォッチング」とは,われわれが毎日の生活で見慣れているごくありふれた動作を,
偏見のない目で観察することで,
そこから人間行動の真の意味を探り出そうとする新しい試みである。
人間はかくも文明化された社会においてさえ,なおも100 万年前の先祖と同じように,
自分の感情や欲望を無意識のうちに動作に表してしまう。
もちろん,これらの動作は文化によって強い影響を受ける。
しかし,人間の動作の基本には,種としての普遍性が認められるのである。
動作は,また信号の役も果たしている。
人間はコミュニケーションの手段として盛んに言語を用いるが,
動作もジェスチャーとして,知らずして多くの情報を伝達している。
時には,言語よりも動作のほうが,真実を伝えることすらある。
もちろん,意識的なジェスチャーもある。
有名な V サインのように,ある動作がひとつ の国から世界中に広がっていった事例もあるし,
各国の方言ジェスチャーのために,外国からの旅行者が途方に暮れることもある。
われわれは,毎日多くの人間と接する。
夫婦,親子,同僚といった人間関係から逃げ出すことも出来ない。
また,文化の異なる外国人と接する機会も増えてきた。
モリスの「マンウォッチング」は,人間行動の真の理解に役立つとともに,
人間関係を円滑にし,不必要なトラブルを避けることにも役立つものである。
モリスは,本書において,人間行動のあらゆる側面に,新しい驚きをもたらしてくれる。
地位と縄張り, リーダーシップと服従, セックスとタブー, 宗教と儀式-----。
どれも興味ある話題である。
マン・ウォッチャー「人間観察家」は,
バード・ウォッチャー「鳥観察家」が鳥を観察するように,人間を観察する。
しかし,マン・ウォッチャーは人間行動の研究者であって,性的なのぞき屋ではない。
彼にとっては,初老の紳士が友人に手を振る仕草さえも,
若い女性が足を組替える仕草と同じように,きわめて好奇心をそそる。
マン・ウォッチャーは人間の動作を野外観察している。
しかし,彼にとっての野外とは,
停留所・スーパーマーケット・空港・街角・パーティーの席・フットボール競技場
といったあらゆる場所のことであり,
ヒトが行動しているのならば,どこででも,人間について,
つまりは 自分について,何事かを学んでいるのである。
誰もがある程度は,マン・ウォッチャーである。
時にはある姿勢とかジェスチャーが気になって,
どうしてこんなことをするようになったのだろうといぶかるが,
多くの人はそれ以上のことは詮索しない。
また,こんなこともいう。
「奴と一緒だと,どうも不愉快になる。何故だか分らないがとにかく奴のせいだ。」
「昨夜の彼女は,様子が変だったなあ」。
真のマン・ウォッチャーならば,こういった感情が起こる理由や,
現在の仕草で動作をするようになった理由を探りたいと思う。
長時間の野外研究と新方法による人間観察が行われるのはこのためである。
この研究に特殊な技術はいらない。いくつかの単純な概念を理解すればそれで充分である。
それゆえ,本書ではこれらの概念について述べよう。
概念の一つ一つは,
行動の特定の型,あるいは行動が発達し,発生し,あるいは変化する特定の筋道を示している。
これらの概念を知っておけば,行動型をはっきりと認定できるし,
人と会い,人と交際するときにも,相手の動作の裏にある意味を知ることが出来る。
こういった理由で,本書には,動作について,
つまり,動作がジェスチャーになり,ジェスチャーがメッセージを送る仕方について述べてある。
種としての人間は技術的,知的に優れているが,
身体活動という動物の特性までをも失ったわけではない。
それゆえ,マン・ウォッチャーが関心を持つのはこうした身体活動である。
人という動物は,しばしば自分の動作が,多くのことを表していることに気づいていない。
人は言語に重点を置きすぎるので,
動作,姿勢,表情が自分を語っていることを忘れがちなのである。
だが,本書は相手の心の秘密を暴くことで,自分が優位に立とうとするためのものではない。
バード・ウォッチャーが鳥を射落とすために研究をしているのではないように 、
マン・ウォッチャーも,
人間行動について得た優れた知識を不当に利用しようとするものではない。
真の熟練した客観的観察家は,自分の知識を活用して,
ありふれた場面を魅力的な野外観察の場に変えることが出来る。
彼の主な目的は,人間関係を充分に理解することで,
人間行動に関する予測性を高めることである。
しかも,マンウォッチングの場合には,他人への寛容さが増す。
他人の動作の意味を理解することは,その人が抱えている問題を洞察することであり,
行為の裏を知ることによって,
以前には攻撃してしまったことでも,許容できるようになるからである。
特に強調しておきたいのは,
人を動物とみなすことが,決して人への侮辱ではないことである。
なんといっても,われわれは動物なのである。
ホモ・サピエンスは霊長類に属するひとつの種であり,
他のすべての動物と同じように,生物学の法則に支配される生物に他ならない。
人間性は動物性のひとつであって,それ以外の何ものでもない。
たしかに,人という種は特異な動物である。
しかし,他のどの動物も,それぞれの独自性という点においては特異なのである。
進化に関するうぬぼれを捨てさえすれば,科学者としてのマン・ウォッチャーは,
人間行動の研究に多くの新しい洞察をもたらすことが出来るのである。
動作
動物はすべて動作をする。
大部分の動物はそれだけであるが,かなりの動物は,さらに巣,ねぐら,隠れ穴といったもの
--- 組み立てられ,あるいは手の加えられたもの ----を作る。
サルや類人猿の中には,抽象的思考の証拠を示すものさえある。
しかし,なんといっても,“もの”と抽象的思考を,充分に活用してきたのは人間である。
これこそ人類成功物語の秘訣であった。
人は巨大な脳を使って,
複雑な抽象的思考過程 -----言語,哲学,数学----によって行動を内面化させてきた。
また,弱い肉体に鞭打って自分が作ったもの
-----道具,機械,武器,乗り物,道路,芸術品,建築物,村や市-----を地球上にばら撒きながら,
行動をドラマティックに外面化させてきた。
この思考し製作する動物がいるところでは,どこでも機械がうなり,
頭の中では思考が渦巻いている。
製作と抽象的思考が生活を支配しているのである。
それだけに,動作---- 単純で動物的な動作 -----などは人としてふさわしくないものであり,
わずかに太古の名残として残っているにすぎない,と考えられるのである。
しかしそれは間違っている。
人はずっと動作をする生き物であった。
つまりジェスチャー,姿勢,動き,表情を示す霊長類であった。
われわれは今,先史狩猟時代にいるのではないが,
肉体から遊離してプラズマを摂取する巨大な SF 的超頭脳を持っているわけではない。
哲学と工学が,動物的活動に取って代わったのではなく,付け加わっただけなのである。
人は幸福という概念を生み出し,幸福を表す言葉を作った。
しかしこのために,口元を緩めて微笑する動作型までも失ったわけではない。
ボートを持つようになったからといって,泳げなくなったわけではない。
動作への渇望は,相変わらず強く残っている。
抽象的思考と製作で象徴される現代人ですら,なお昔ながらのやり方で,
種々の快楽を手に入れている。
食事をし,セックスをする。パーティーに出て笑い,眉をひそめ,ジェスチャーで表現し,抱擁し合う。
休暇を取ると,自動車に乗って,森や丘や海岸へと出かけていく。
そこでは,歩き,のぼり,泳ぐといった,単純な身体活動をすることで,
動物としての過去の生活を再現することが出来る。
冷静に眺めると,海岸で水しぶきを上げて貝殻を探すために,
何億円もする飛行機で何千マイルも跳んでいく人間という動物には,奇妙なおかしさがある。
また,昼間は巨大なコンピューターを駆使しながら,夜になるとダーツをし,ディスコで踊り,
友人と酒を飲んで笑うといった一日を過ごすのも,奇妙なことである。
しかし,これらはまさに,人間がやっていることであり,
単純な身体動作によって,自分を表現したいという抑えがたい欲求のためなのである。
これらの動作は,どういった形をとり,また,どのようにして各人に備わるのだろうか 。
人間の行動は,ばらばらに起こるものではない。
それは,個々の事象からなるひとつの長い連鎖に他ならない。
食事をする,劇場に行く,風呂に入る,セックスをするというような個々の事象は,
それぞれが特有の規則とリズムを持っている。
われわれは,生まれてから死ぬまでに,このような行動現象を 100 万回以上も行うことだろう。
これらの事象のそれぞれは,さらに無数の個々の動作に分割される。
基本的には,これらの動作は,姿勢---動き----姿勢----動き,といった連鎖である。
これらの姿勢と動きの大部分は,これまでに何千回となく行ってきたので,
無意識のうちに,自発的に,自己分析なしに行われる。
多くの場合それらはあまりにも当然のことなので,
自分がどのようにそれをやったのかが,まったく分らない。
例をあげよう。
指を組み合わせると,一方の親指が他の親指の上に来る。
そしてこの動作には個人ごとに優勢な親指があって,必ず決まった親指が上に来る。
しかし,実際にやってみるまでは,それがどちらの指か,殆どの人にはわからない。
われわれは何年もかかって自分で気づかないうちに,指を組む固定型を作り上げてきたのだ。
組み方を逆にして,優勢な親指を下にすると,指の具合が奇妙で,ぎこちなく感じられるだろう。
これはちょっとした例に過ぎないが,
成人が行うほとんどすべての身体動作には,特徴的な固定型がある。
これらの 「固定動作型」 こそ,
人間に関する野外観察家が着目すべき,行動の基本単位なのである。
彼は固定動作型の形態,それが起こる前後関係,それが運ぶメッセージを観察する。
さらに,それが最初どのようにして獲得されたかを問題にする。
それは,先行経験を必要としない生得的なものなのだろうか 。
成長に応じて,各人が試行錯誤によって発見したものだろうか。
人々が友人を無意識のうちに真似することで,吸収したものなのだろうか 。
それとも,意識的な訓練によって獲得したものなのだろうか 。
つまり,
特殊な分析観察や積極的な教授法に基づいた計画的努力によって,学習したものなのだろうか 。
動作,製作,抽象的思考----これらの例として,
アイス・スケーターのジャンプ,科学機器の配列,数学者が用いる記号をあげよう。
抽象的思考あるいは記号的思考による人間行動の内面化と,
製作----道具の製作と使用による行動の外面化が推進されてきたが,
今日でもなお,人間は活発な身体動作をする生き物なのである。
われわれは,自分の動作の正確な型に気づかないことが多い。
指を組むといつも同じ親指が上に来るのだが,
それが右なのか,左なのかあなたは知っているだろうか 。
多くの人は,実際にやってみるまで,自分の指を組んだ型を自信を持っていうことが出来ない。
母親の乳房に対する赤ん坊の生得的吸乳反応。
他の哺乳類の赤ん坊と同じく,人間の赤ん坊も,学習なしに母親の刺激に反応する。
生まれつき目もみえず,耳も聞こえない子供の表情変化から,
これらの動作が模倣や学習によらないこと,つまり,生得的であることが分る。
世界中の民族は,挨拶をするときに一瞬眉を上げるという動作をする。
完全に証明されたといえないが,この顔面運動は世界中で観察されるから,
生得的であると考えてよいだろう。
生得動作 ----学ぶ必要のない動作
人間が自然から授かったすばらしい贈り物は,環境から学習するという優れた能力である。
それゆえある人たちは,人間はこの学習能力さえあれば,他には何もいらないと考えている。
しかしこれとは 逆に,人間行動には多くの生得型があり,
この事実を充分に評価することで,初めて人間の行動は完全に理解できるという対立意見もある。
人間行動は学習か生得か
人間の脳はあらゆることを学習し,遺伝されたものは何もないという考えが支持されるのは,
世界中のいろいろな社会で,かなり違った行動型が観察されるためである。
これは次のことを意味している。
すなわち,われわれ人間は同じ種に属しているのであるから,
あらゆる場所の人間が一組の固定した遺伝指令に従っているのではなく,
むしろ,それぞれの行動の仕方を学習しているということである。
これに対して,最近言われだしたこと,つまり
「人はかなりの点で既にプログラムされている」
という考えを支持するのは,文化は見かけほどには違っていないという観察事実である。
差異を見つけようと思えば見つかるが,類似点を探そうとすれば,それもたくさん見つかる。
不幸なことに,われわれはもともと差異については目ざといが,類似点は見逃しやすく出来ている。
それは異国を訪ねた旅行者に似ている。
旅行者は出会ったわずかの珍しいものに強い印象を受け,多くの見慣れたものを無視してしまう。
過去の人類学者によってなされた現地調査の多くは,
きわめて起こりやすいこのような偏見に影響されていたといえる。
社会行動における,目だっているがうわべだけの異変が,
基本的差異として誤解されてきたのである。
以上が二つの対立意見であるが,
われわれが生きている間に,非常に多くのことを学習するのは疑いのないことだから,
まず生得的だと主張されている特定の動作を,十分に検討してみなければならない。
では,生得的動作はどのような仕組みで働くのだろうか。
基本的な考えは,ちょうどコンピューターのように,
脳には特定の刺激を特定の反応と結びつけるプログラムが組み込まれているというものである。
刺激入力は,一切の先行経験なしに,反応出力を引き出す。
これは前もって計画されており,刺激がはじめて与えられたときから,うまく作動する。
古くからわかっている例として,
生まれたばかりの赤ん坊が,直ちに母親の乳房を吸うということがある。
新生児の反応の多くはこのタイプの反応である。
赤ん坊にはこれらの反応を学習する時間がないのだから,
このことは明らかに生きることに役立っている。
では,もっと後になって現れ,
学習する時間が十分に与えられている動作についてはどうだろうか。
微笑やしかめ面を考えてみよう。
赤ん坊は母親の真似をしてこれらの反応をするのだろうか 。
それとも,これらの反応も生得的なのだろうか 。
母親を一度も見たことのない子供が,その答えを出してくれる。
生まれつき目が見えず,耳も聞こえない子供を観察すると,
彼らが日常生活の適切な瞬間に,微笑し,しかめ面をすることがわかる。
また彼らは,自分の声が聞こえないのに,叫び声をあげる。
それゆえ,これらの動作も明らかに生得的である。
では,彼らが成人になってからの行動型についてはどうだろうか。
この場合には,
それまでに聾唖者用のサイン言語を使うコミュニケーションを学習していたかもしれないので,
問題を解決する助けにはならない。つまり,彼らは著しく経験をつんでいる。
また,顔の表情を指先で感じ取る学習をしていたかもしれない。
だから,もはや生得動作に有利な証拠を提出してはくれない。
成人のある動作が,生得的であることを証明する唯一の方法は,
それが文化が違うにもかかわらず,すべての人類社会に生じていることを示すことである。
あらゆる民族は,腹を立てると,足を踏み鳴らすだろうか。
ひどく怒ると,歯をむき出すだろうか。友人に出会うと,一瞬眉を上げるだろうか。
この点に答えるために,何人かの勇敢な研究者が,遠隔の種族を求めて地球上を歩き回った。
そして,それまで白人に一度も出会ったことのないアマゾンのインディオですら,
多くの細かい動作を,白人とまったく同じようにすることが確かめられた。
しかし,このことは,これらの動作が生得的であることを,真に証明しているのだろうか 。
遠隔の種族が,挨拶のときに,他の土地の人々と同じように眉毛を上げたからといって,
この反応が誕生前に組み込まれていたと確信できるだろうか。
確信できない,というのが答えである。
特定の動作に関して,
われわれ全員が同じ仕方で行動するように学習しているのかもしれない。
こんなことは,とても有りそうには思えないが,否定も出来ないのだから,
現在のところは結論を出すことは出来ない。
人間の行動を決める遺伝子を,書物のように読み取れる日が来るまでは,
おそらく現代遺伝学がそのような理想的状況になるまでには何年もかかるだろうが,
ある動作が生得的か否かをくどくど述べることはあまり意味がない。
これとは逆に,地球上をくまなく調べまわったあげく,
ある動作が世界中に広がっていないことがわかっても,
対立する学説が有利になるわけでもない。
真に生得的な動作であっても,文化の中に埋没したために,
ある地方でしか意味が通じないという誤った外観を呈することもあるからである。
それゆえ,どちらにしても議論の余地が残ってしまう。
このことを理解するために,修道女と武器の使用という例について考えてみよう。
修道女は性生活のない毎日を送っている。
しかし,ある集団が性行動のない生活を送れるからといって,
世界中の性行動が非生物的であり,文化的に作られたものだ,と主張する人はいないだろう。
逆に,地球上のあらゆる文化が,何らかの武器を持っていることが示されたとしても,
武器の使用が,本来,人類に生得的なものとはいえない。
修道女は生得的な性衝動を上手に抑圧しており,
他方,武器使用者は太古から全世界に広がっているひとつの学習型を利用しているのだ,
といえるからである。
要約すれば,遺伝学が大幅に進歩するまでは,
これこそ人間の生得動作だと確信を持っていえるのは,
新生児や先天盲の子供が経験なしに示す運動だけである。
このような制限のために,この範疇に入る活動はごく少なくなってしまうが,
現在の知識ではそれもやむをえない。
こういうと,人間を動物として研究してきた動物学者が,
遺伝機構によって導かれる人間行動が,
赤ん坊に見られるごくわずかな例しかないと結論しているかのような 印象を与えるかもしれない。
しかしそれは間違っている。
人間は他の動物と同じように,非常に多彩な生得的行動型を受け継いでいるのである。
人類を含めた多くの霊長類を研究してきた人は,誰もがこのことを感じている。
しかし,感触はあくまで確信ではない。
そして,成人の行動型に関しては,そもそも科学的に立証,あるいは反証する方法がないのだから,
現段階でこの問題を徹底的に論議しても殆ど意味がないのである。
政治と生得型
これが大多数の現代動物学者の慎重な見解であるが,
悲しいことに氏か育ちかの論争は,
科学の世界を離れて,政治的な日和見主義の世界へと広がっていってしまった。
その第一の悪用は,人には強力な生得傾向があるという考えを横取りし曲解し,
政治的要求に適した傾向だけを選び出すことで,この考えを歪めてしまったことである。
特に強調されたのは,攻撃性についてである。
そこではこういわれた。
人類がもともと理不尽な攻撃をするという生得衝動を持っているのであれば,
好戦的行動は自然なことであり,容認でき,避けられぬものである。
闘争がプログラムされているのなら,人が戦うのは当然であり,
戦争へも胸を張っていくことが出来る。
しかし,動物の攻撃性とその仕組みを研究した人であれば,この見解の欠陥は直ぐにわかる。
動物は戦うが,戦争には行かない。
動物の戦いは自分を基礎として行われる。
社会的階層の中で優位を占めるためと,自分の縄張りを守るためである。
どちらの場合にも,肉体的闘争は最小限に抑えられ,
争いは殆どディスプレイ,脅し,脅し返しによってなされる。
これには理由がある。噛み合い,引っ掻き合うという肉弾戦をやったのでは,
勝ったほうも負けたほうも,同じように傷ついてしまうからである。
野生の動物ではこんなことは 滅多に起こらない。明らかに別の争い方が行われている。
しかし,極端に動物数が増えた場合には,この有効なシステムも役に立たなくなる。
戦いの回数が増加し,残虐になる。
同じ階層の個体が増加すると,“つつきの順位”を決めるべき個体数が多すぎて,
優位と劣位の個体関係が安定しない。闘争は続き,減ることがない。
縄張りが込み合っている場合には,自分の縄張りにいても,
他の個体の縄張りを侵しているように思われてしまう。そこで戦いが繰り返し起こる。
これは架空の侵入者から縄張りを守ろうとする,くだらない試みである。
話を人間に戻そう。人類も生得的な攻撃衝動を持っているかもしれない。
しかし,明らかに,それによって近代戦争の勃発を説明することは出来ない。
攻撃衝動は,
人が怒ったときに顔を赤くし,こぶしを振り上げ,叫び声を挙げる理由を知るためには役立つだろう。
しかし,独裁的な将軍が,
友好的な隣国に都市爆撃や大侵略を行うことの説明としては使えそうもない。
人間も,霊長類に見られるような,特殊で限られた生得的攻撃衝動を持っているかもしれない。
われわれが,他のすべての哺乳類とは違って,
自分や我が子を攻撃から守る仕組みを遺伝的に持ってないとしたら,
これまた,まったく奇妙なことである。
また,競争社会において,
ある程度の自己主張をする衝動を持っていないと考えるのも,不自然である。
しかし,自己防衛や自己主張は,大量殺人とはまったく別のことである。
20 世紀の暴力の残忍さは,
動物集団が絶望的に密集化した時のみに見られる流血騒ぎに似ている。
人間の極端な暴力も,
おそらくその時代にみなぎっている不自然な条件によって起こされたものであろう。
この影響はどちらかといえば間接的なものである。
例えば,動物の密集化から生じるひとつの結果は,親の養育活動が阻害されるために,
その種にとって正常である愛情と世話を,子供が受けられなくなることである。
同じことは人間集団でも起こる。
ひどい仕打ちを受けて育った子供は,後になって暴力という仕返しをする。
この仕返しは,子供を痛めつけた両親へは向けられない。
彼らは既に年老いていたり,死んでいるからである。そこで,両親に代わる者に向けられる。
しかし,別の人に暴力をふるうことは理不尽だとされるので,人々は彼らに
“動物の残虐性----野獣のように理不尽な残虐性” を持った人間というレッテルを貼る。
だが,この場合,どの野獣がモデルとされているのか,
また何故野獣が理不尽な攻撃をしなければならなかったのかは,決して明らかではない。
しかし,人々が言わんとすることは 明らかである。
乱暴者は,仲間を攻撃し,殺そうとする原始的,生得衝動をもつものとして描かれる。
裁判官は何度となく,殺人犯や強盗犯を“野獣”と呼んできた。
そして,人は生まれつき野蛮であるから,この生得衝動を抑えることで,
初めて有用で,協力的な社会の成員になれるのだという誤った考えが,繰り返し登場した。
皮肉なことに,近代戦争を残虐なものにしている主な生得要因は,
協力 という強力な人間性である。
これは,協力しなければ餓死してしまった大昔の狩猟時代の遺産である。
協力は獲物である大型動物を倒す唯一の方法であった。
それゆえ,現代の独裁者は,この集団への遺伝的忠誠心を煽り立て,
集団を拡大して完全な軍隊を組織すればよい。
独裁者は,もともと協力的な人々を行き過ぎた愛国者に仕立てて,
敵を殺すこと,生まれつきの残虐な行為ではなく,仲間を守る賞賛すべき行為として,
人々に容易に納得させることが出来る。
もしも人間の先祖がこうも強力で生得的な協力性を持っていなかったならば,
現代のように人々を招集し,
これを組織された戦力として戦場へ送り込むことなどは,到底出来ないであろう。
人間は生まれつきの殺人者で,万事順調なときですら,
けんかをしたがるものなのだという考えを否定したのだから,
氏か育ちか論争のほう一方の立場も検討してみる必要がある。
つまり,人間はあらゆることを学習し,遺伝されるものはひとつもないという
反対側の主張にも,危険が隠されているからである。
「人間が行うすべてのことは ,他人から学習したものだ」という考えは,
人間を“生得的殺人者”とした逆の立場の誤りと同じように,やはり政治的に危険である。
全体主義を掲げる独裁者は,社会を自分の思うままの形に作れるという印象をもつことで,
権力への欲望を増加させてしまう。
子供を,国家が望むとおりの絵を描くことのできる真っ白なカンバスだと考えてしまう。
しかも,本当は“国家”を“党首”に置き換えたいのだ。
人間の行動型が,一切の遺伝の影響を受けていないと考えることは,
動物学的にまったく奇妙である。それゆえ,
このような見解を臆面もなく述べた科学者の真の動機は疑われても仕方がないだろう。
もし人間が価値のある生得行動型をまだ大幅に持っていれば
-----それは殆ど確実だと思うが,---独裁者は行き過ぎた社会体制に向けられた抵抗を,遅かれ早かれ見出すことだろう。
独裁者はしばらくの間は過激な主義を振り回すことで大集団を支配できるだろう。
また実際にそうしてきた。しかし,それは長くは続かない。
時がたつと,大衆は急激に,あるいはゆっくりと変化して,
自分たちの動物的遺伝性に適した日常生活形態に戻り始める。
20 世紀にいるわれわれの日常的な人との付き合い方が,
先史時代の人々のそれとまったく違っているとは 思えない。
タイムマシンを使って大昔の穴居時代に戻れるならば,
われわれは疑いもなく現代と同じような笑い声を聞くだろうし,
同じような表情を見ることだろう。
さらには類似のけんか,恋,親の愛情,友好的な協力を目撃することだろう。
人間は,抽象的思考と製作行為においては進歩したのかもしれないが,
衝動や動作に関しては,おそらくまったく変わっていないのである。
穴居時代のわれわれの先祖が,
言語を持たず, 野蛮で,強姦好きで,棍棒を振り回す無骨者 であったという伝説は,
注意深く検討されねばならない。
類人猿と人間の行動を研究すればするほど,
この伝説はますます道徳家の作ったデマのように思えてくる。
人間の友好的で愛に満ちた動作の数々が生得的であるならば,
道徳家はもちろん,それらについて何も自慢することはできない。
もし,それ以外に道徳家が礼賛するものがひとつでもあれば,
それこそ社会のよき行動に対する彼らの功績といってよいであろう。
製作行為と工業技術の進歩とは,まったく別の問題である。
確かに,工業技術は容認できる多くの進歩をもたらした。しかし,それらが自ら作り出した
ストレス,公害,不快さを減少させるために苦闘していることも忘れてはならない。
よく考えてみると,工業技術はたいてい先祖から伝わった動作型のどれかに奉仕している。
例えば,テレビは製作行為の奇跡であるが,われわれはそこに何を見ているのだろうか 。
多くの場合,けんか,恋,親の愛情といった古くから伝わってきた動作型を眺めている。
つまり,われわれは椅子に座ってテレビを見ているときですら,
もちろん自分が演じているわけではないが,やはり動作をする人なのである。
発見動作
---- 自分で発見する動作
動作が,生得的かどうかについては疑問があるにしても,
われわれの身体構造が遺伝されているということは疑う余地がない。
挙手の礼や足げりは学習できるが,腕や足は学習できない。
プロ・ボクサーも慢性虚弱者も,まったく同じ筋肉構造を持っている。
ボクサーの筋肉はよく発達しているが,筋肉構造そのものは元のままである。
環境は,身体障害や手術といった極端な場合を除けば,
人の基本的な解剖学的構造を,生涯にわたって変えることはできない。
そこで,すべての人は基本的に類似した手,腕,足を遺伝されているのだから,
あらゆる文化において,
殆ど同じやり方のジェスチャー,腕組,足組が見られるだろうということが考えられる。
換言すればニューギニアの原住民が,
ドイツの銀行家やチベットの農夫とまったく同じやり方で腕を組んでいるのを見かけたとき,
われわれは真の生得動作ではなく,むしろ(発見動作)を観察していることになる。
原住民,銀行家,農夫は,すべて同じ構造の一対の腕を遺伝されている。
彼らは,出生後のある時期に,個人的な試行錯誤の過程を経て,
自分の腕が胸の前で組めることを発見した。遺伝されたのは腕であって,動作ではない。
しかしながら,一定の腕さえあれば,
すべての人が仲間を真似しなくとも腕を組む動作をするようになる。
この動作は半分だけが生得的である。つまり,直接的な遺伝の指令に基づいた動作ではなく,
身体構造を経由した“遺伝の暗示”による動作なのである。
(発見動作)は,長い成長期間のどこかで,自分の身体を知るにつれて無意識のうちに獲得される。
われわれはその動作が,子供の時の動作に付け加わったことに気づかないし,
多くの場合には,どちらの腕を上に組むか,
腕を会話中にどう動かすかといった動作の正確な仕方にも気づかない。
多くの発見動作は,世界中で観察されるので生得型と間違えられやすい。
このために,生得行動対学習行動に関する多くの不必要な議論が巻き起こったといえる。
同化動作
---- 気づかないうちに仲間から獲得する動作
同化動作とは,無意識のうちに他人からうつされてしまった動作である。
われわれは発見動作と同じように,それらをどうやって,
また,いつからやるようになったのか気づかない。
しかし,同化動作は発見動作とは違って,グループ,文化,国によって異なる傾向がある。
人間は著しく模倣に長けた種である。
それゆえ,正常な人なら,
社会の中の典型的な動作型に同化されずに成長し,生活することは不可能である。
われわれが歩き,立ち,笑い,しかめ面をする仕草は,すべてこのような 影響を受けている。
多くの動作は,既に仲間の行動の中に見慣れているので,
最初は自分でも気づかないうちになされる。
同化の過程はとらえ難く,しかもそれが既に起こっていることが殆どわからないので,
それを自分の行動の中に見出すことは難しい。
しかし,自分が属する社会の中の小グループにおいてそれが生じれば発見は容易である。
例えば,同性愛にふける男性は,グループ特有の動作を示す。しかし,
このグループに属する少年でも,はじめからそういった動作をしていたわけではない。
彼の行動は学校友達と殆ど変わらなかった。
しかし,ひとたび大都会における大人の同性愛のグループに加わると,
たちどころに,特徴のある動作を身につけてしまう。
手首の動作が変わり,歩き方や立ち姿も違ってくる。
首の運動が大げさになって,
頭を普通の位置より後ろのほうへ 動かす回数が増えてくる。
唇を突き出した姿勢をとり,舌の運動がよく見え,また活発になってくる。
同性愛の男性は,わざと女性らしい行動をしていると考えられがちであるが,
正確にはその動作は女性的ではない。
それは女性に同化しているのではなく,同性愛の男性に同化している。
動作は,同性愛グループの中で男から男へと伝わる。
もともとは女性を真似たものだったかもしれないが,
ひとたび同性愛グループの中でそれが確立されると,次第に女性離れを起こし,
また,何度も男から男へと伝わったためにますます変化する。
そしてついには,同性愛者としての特徴を作り出してしまうのである。
多くの場合,これらの動作はきわめて明瞭なので,
本当の女性がこれを正確に真似ると,彼女が女性の動作を真似ているのではなく,
男性の同性愛者の動作を真似ていることがはっきりとわかる。
もちろん,同性愛の男性すべてがこういった大げさな動作をするわけではない。
彼らの多くはこのような仕草をしたいとは 思っていない。
このことを心にとめておけば,同性愛をからかいたいと思うコメディアンは,
手首をくねらせ,頭を後ろに投げかけ,唇を突き出すというまねをするが,
まじめな役者が同性愛に同情した立場で演じる場合には,
こういった要素を除いたり,減らしたりするという事実を理解できる。
同性愛が嫌われるのは,同性愛そのものよりは ,同性愛者の態度のせいであろう。
このことは,われわれがちょっとした型にはまった身振りに対して,
相変わらず強く反応していることを示していて興味深い。
人類だけが,仲間の動作に同化されるわけではない。
サルや類人猿にも,同化が起こることを示す野外研究がいくつかある。
ある集団の動物が,同種の他の集団にはない動作をしていたり,特定の集団内で,
新しいことをした個体から,他のものが同化による学習をしたことがわかっている。
サルでも人間でも,個体の地位は重要である。
それゆえ,集団内で地位が高いものほどよくまねをされる。
人間の社会でも,われわれは敬服する人から多くのことを吸収する。
このことは,密接な個人的接触がある場合に,
いちばん生じやすいが,われわれはマスコミの力によって,
身近にはあえない有名人,国民的英雄,人気のあるアイドルの動作にも同化してしまう。
時代と動作
これに類する最近の例は,若者たちの間に流行している“寝転がり”休息姿勢である。
リラックスしたときにごろりと横になるこの姿勢は,過去 10 年間に非常に広がった。
これは多くの姿勢変化と同じように,衣服の変化に起因している。
男性が普段着としてきちんとプレスしたズボンをはくことは,1960 年代から着実にすたれ始めた。
代わってブルー・ジーンズが流行していった。
ジーンズはもともと激しい乗馬をするアメリカのカウボーイ用に
作られたテント地から生まれたもので,長年にわたり筋肉労働に適するものとされてきた。
ところがその後,高い地位の偶像であったカリフォルニアの男たちが,
ジーンズを正規の普段着として使い始めた。
このことは直ぐにアメリカとヨーロッパの多くの若い男女に受け入られ,
それに伴って,“寝転がり”姿勢が生まれてきたのである。
ジーンズの若者は,いすの代わりに部屋の床に,
さらにはジーンズだからできることだが,
階段や舗装道路といったよごれた所に,直に座ったり,寝転がったりするようになった。
いまや夏のアムステルダム,パリ,ロンドンでは,
座ったり,寝転がっている若者の姿を何百と見ることができるが,
この姿勢は前世代の姿勢とは著しく対照的である。
こういった変化の兆しは,
1960 年代に野外で開かれたポップ・ミュージック・フェスティバルで見られた。
聴衆は一日中地面に座り,いすらしいものはひとつも提供されていなかったのである。
しかし,これはジーンズだけの話ではない。実は服装の問題を超えた話なのである。
大きな哲学変化が生じて,若者の姿勢に影響を及ぼしたのである。
偏見のない,くつろいだ考え方が発達し,
それが精神的緊張と動作における筋緊張の減少という形となって現れたのだろう。
年配者にとっては,この変化に伴う姿勢や動作は,だらしなく思える。
しかし,客観的観察者にとっては,それらもひとつの行動スタイルに過ぎない。
スタイルがなくなったわけではない。この類の変化は,決して目新しいものではない。
年上の世代が,若い世代のマナーの“退廃”に狼狽したことは,何千年にもわたって記録されている。
その不満は,時には若者がハイカラやダンディになりすぎたことであり,時には柔弱になりすぎたり,
荒々しかったり,無愛想になりすぎたりしたことであった。
どの場合にも,姿勢やジェスチャーがいろいろに変化した。
そして新しいスタイルの動作は,急速な同化過程によって野火のごとく広がっていった。
しかし,やがては消え去り他のものにとって代わられた。
モダンな寝転がりスタイルも,既に再び変化をし始めたという兆候がある。
しかし,21 世紀の若者がどのような行動スタイルを熱狂的に模倣し,
それに同化されるかは,まだ誰も予言することができない。
訓練された動作
---- 教わらねばならない動作
訓練された動作は,教授または自己分析による観察と練習によって意識的に習得される。
この類の動作の一方の極には,宙返りや逆立ちといった難しい肉体的技術がある。
熟練した軽業師だけが,長い訓練のあとにこういった技術をマスターできる。
他の極には,ウインク,握手といった単純な動作がある。
ある場合には,これらは同化動作の範疇に入りそうである。
しかし,子供をよく観察すれば,成人ならなんでもない多くの動作でもまずは慎重に,
しかも意識的に学ばねばならないことが直ぐにわかる。
握手は,成人にとってはごくあたりまえの動作であるが,
小さな子供には不愉快で,ぎこちないことであるらしい。
だから,初めは手を出させるためにも,なだめすかせねばならないし,
そこで適切な握手の動作を示ししてやらねばならない。
初めてウインクをマスターしようとしている子供を観察すれば,
単純に思える動作でも,それができることがいかに大変であるかがわかるだろう。
実際,成人になってもウインクのできない人がいるが、できる人にとっては,
何故できないのかさっぱりわからない。指を鳴らす,口笛を吹くといった多くのなんでもない動作も,
この範疇に入るし,もちろん,もっと複雑な業もこれに属する。
混同動作
---- 種々の方法で獲得される動作
われわれの動作は,
遺伝的継承, 自己発見, 社会的同化, 計画的訓練 という四つの方法によって獲得される。
しかし,これら四つのタイプの動作を区別することで,
これらが厳密に区別できるという印象を与えるつもりはない。
成人に見られる多くの動作には,これらの範疇のひとつ 以上のものが影響を与えている。
例をいくつかあげよう。生得動作は,しばしば社会的圧力によって徹底的に変形させられる。
例えば,赤ん坊の泣き声は成人になるにつれて変形し,その地域の文化的影響を受けて,
忍び泣きやむせび泣きから,ヒステリックな金きり声や哀れな叫び声にいたるまで,
いろいろと変化する。
発見動作もかなり同じような影響を受ける。
特に,社会的風習の無意識的模倣によって強く修正させられる。
例えば,足を組んで椅子に座ることは,快く,楽な姿勢として自己発見されるが,
現実にとる姿勢は,いわくいいがたい社会的規範の影響を直ぐ受ける。
子供は,成長するにつれて,
自分と同じ性,年齢,階級,文化に属する人々の足の組み方をまねるようになる。
このことは,本人が殆ど気づかないうちに起こる。
たとえ気づいたとしても,おそらく理由が分析されたり,理解されることはない。
集団の中で,なぜか落ち着けないときがある。
それは多分,他の人たちが自分と違ったやり方の動作,姿勢,ジェスチャー を示しているからである。
そういった違いは,些細なものであっても気づかれ記憶される。
ある集団の人が,他の集団は怠け者だ,女々しい,あるいは粗野だ,などということがある。
その理由を尋ねると,「見ればわかるだろう」と答える。
おそらくその人は,無意識のうちに他の集団の動作を読み違えているのだ。
足を組む例を続けよう。ある報告によれば,
アメリカの男性は,ヨーロッパの男性がいささか女々しいと考えているという。
この反応を分析してみると,ヨーロッパの男性の性行動とは何の関係もなく,
ただ彼らがひざとひざを交差させて足を組むからであることがわかった。
ヨーロッパ人にとっては,それは姿勢とは気づかないほどありふれた姿勢である。
アメリカ人にとっては,それは女々しく思える。
なぜならば ,アメリカの家庭でその姿勢を示すのは,男性ではなく多くは女性だからである。
アメリカの男性は,足を組むときに足首とひざを交差させる。
つまり,一方の足首を他の足のひざの上に載せる。
この観察に対して,ヨーロッパの男性でも,多くの人が足首をひざに乗せるし,
アメリカの男性でも,特に大都会の男性は,ひざとひざを交差させる組形をして座るではないか,
という正しい反論がなされるであろう。確かにそうなのである。しかし,この反論も,
われわれが仲間の行動に対して,
無意識のうちに敏感に反応していることを強調しているにすぎない。
両者の差は程度の問題である。
多くのヨーロッパの男性が,たまたまあるやり方で行動し,多くのアメリカの男性が,
たまたま別のやり方で行動しているだけである。しかし,このわずかの差でも,
ヨーロッパを旅行するアメリカ人には,ヨーロッパの男性がなんとなく女々しいという,
はっきりとした印象を与えてしまうのである。
このような無意識的変容のほかに,多くの意識的な影響がある。
よい例は,昔からの,特にビクトリア時代からの礼儀作法の本に見られる。
そこには,社会的行事における正しい態度や、よいマナーについての厳しい指示が,
若い人に向けて書かれている。
泣くという生得型についても,完全に抑制せよという無慈悲な要求がなされている。
強い情緒はあらわにしてはいけない。 感情は隠さねばならない。 自由に振舞ってはいけない。
ビクトリア時代の若い淑女が,悲劇を見ながら声を殺して泣いていたのは,
無意識のうちに“モデル”を真似ていたり,あるいは意識的に作法を守ることで,
大声で泣きたいという生得衝動を変形させた結果だったのである。
殆どの場合には,その両方が働き,
最終動作は(生得,同化,訓練動作)の三つが混合したものであった。
足を組むことについても,同じことがいえる。
ビクトリア時代の少女は,無粋にも(淑女は決して足を組んではいけない)といわれていた。
20 世紀初頭になると,このルールは緩やかになったが,
それでもなお,公式の場ではできるだけ足を組むべきではないとされていた。
そして,どうしても組みたければ,
ひざとひざではなく,足首と足首を交差させたおとなしい動作型を取るようにといわれた。
20 世紀後半においては,こんなことは,社会行動における文化革命の観点からすれば,
むしろ不適切で,大時代めいている。例えばロンドンのステージで,
全裸の女性が全裸の男性に陰毛をくしけずらせている場面を見れば,
足の組み方の話などは,まったくひいばあさんの時代の話だ,と人は言うかもしれない。
しかし,人間の行動をしっかりと野外観察する人ならば,直ちにこのことを否定するだろう。
このような形式ばったとらえ難い点は,今日もなお多く残っている。
しかも,もっとも自由な考えをする人たちによってもかたくなに守られている。
それは文脈の問題なのである。
ステージで自分の陰毛をくしけずらせていた女優でも,
衣服をつけてテレビスタジオに出れば,礼儀正しい規範に従った標準的な足の組み方をする。
またチャリティショー の女王になれば,直ちに中世風のマナーに戻って,
ひざをかがめた古風なお辞儀をするのである。
動作の起源
文化革命の全体的な叫びに惑わされてはいけない。
古い動作型は滅多には死なない。ある文脈の中から次第に消え去るだけである。
それらは社会的適用範囲を狭めてはいるが,
何とかしてどこかで生き延びようとしているのである。
古い動作型はきわめて執拗である。
だから,われわれが親指を下に向けるときには,
今日でもまるで古代ローマにいるかのように ,架空の剣闘士を殺せというサインを示している。
また,簡略な挨拶をするときには,あたかも,昔の帽子をまだかぶっているかのように ,
架空の帽子を取る動作をする。
われわれは,自分が今やっている多くの動作の昔の意味が,もはやわからなくなっている。
そのようにしなさいと教えられたので,続けているだけのことである。
教師はある動作が礼儀正しいことと,そのやり方や正しい手順は教えてくれるが,
何故そうするのかはいってくれない。尋ねてみても,教師は知らない。
われわれは動作を何から何まで模倣によって獲得し,他人に伝える。
それゆえ,誰も起源を知らないままでいるのである。
このようにして,多くの動作の起源は急速に曖昧になった。
しかし,このことが新しい世代による動作の獲得を妨げてはいない。
動作は直ぐに世代を通過していく。それは,公式的に教えられるからではなく,
他人がやっているのを眺め,知らぬ間に同じことをやってしまうからである。
それゆえ,それらは歴史的に混合された特殊な類の混合動作である。
その動作は,特定のエチケット・ルールに従った訓練動作
(公式的な挨拶の一部として帽子を取ってお辞儀をする中世風の動作) として始まる。
やがて,簡略化によって変容する。
(近代の軍隊の敬礼のように,手を上げてこめかみに触れる)
そして最後には著しく簡略されて,
われわれの同化動作(友人への挨拶のように,手をこめかみの近くまで上げるだけ)
といった一般的レパートリーになる。
それゆえ,これらの動作はどれかひとつのポイントに限られているわけではなく,
歴史的な時間の流れとして眺めれば,混合動作なのである。
ジェスチャー
ジェスチャーとは,見ている人に視覚信号を送り出す,あらゆる動作のことである。
ジェスチャーとなるためには,動作が他人に見られている必要があり,
何らかの情報が伝達されていなければならない。
それには,手招きのように,あるジェスチャーが,
ある信号を送るためにわざわざなされる場合と,
くしゃみのように,まったく偶発的になされる場合とがある。
手招きは,それ以外の存在理由と機能を持っていないので, (一次ジェスチャー) である。
これは初めから終わりまで,ひとつの伝達である。
これとは対照的に,くしゃみは二次あるいは (偶発ジェスチャー) である。
これの一次機能は機械的で,くしゃみをした人の呼吸の問題である。
しかし,その二次的役割は,
仲間にこの人は風邪をひいたかもしれない,というメッセージを送る。
多くの人たちは,“ジェスチャー”という言葉を,手招きのような一次型に限って使いがちである。
しかし,これでは重要なことを見落としてしまう。
ジェスチャーに関して大事なことは,
どのような信号を送っているつもりか ,という送り手の意図ではない。
受け手がどのような信号として受け取っているか,ということである。
他人の動作を見ている人は,
それが意図された一次ジェスチャーであるか,意図されない偶発ジェスチャーであるか,
などは区別しようとはしない。
むしろある場合には,偶発ジェスチャーのほうがジェスチャーだとは思われず,
そのためにそれほど厳しく意味が詮索されないので,
かえってはっきりしたメッセージを伝える。
ジェスチャーという言葉を“観察された動作”という広い意味で使いたいのはこのためである。
偶発ジェスチャーと一次ジェスチャーを区別する簡便法は,
(一人きりのときでもそれをするだろうか ) と考えてみることである。
しなければそれは一次ジェスチャーである。
独り言を盛んに言うといった異常状態でもない限り,
われわれは,一人きりのときに手招き・ウインク・指差しなどはしないものである。
偶発ジェスチャー ---二次メッセージを伝える機械的動作
人間の動作の多くは,
基本的には社会生活とは関係なく,自分の体を守り,快適にし,移動させることに関係している。
いろいろな仕方で身体を掻く,こする,拭くことによって,自身を清潔にし,手入れをする。
せきやあくびをしたり,手足を伸ばす。飲みかつ食う。楽な姿勢をとり,腕や足を組む。
這い,歩き,走る。われわれはこういったことを自分のために行っているのだが,
同時に多くのことを他人に示している。
仲間は友人の“個人的”動作から,さまざまのことを読み取る。
身体を掻いていることから,痒いことを知り,走っていることから遅れそうなことを知る。
それだけではない。動作の仕方から,その人の個性やそのときの気分までわかってしまう。
このように,知らずして伝わってしまう気分信号は,
時には,むしろ隠しておきたい信号である。
だから,自分の“気分放送局”や“個性誇示”に気が付いて,
自ら阻止しようとすることもある。
しかし,気づかないことも多いので,メッセージは公然としかも明瞭に伝わってしまう。
例えばある学生が退屈な講義を聞きながら,頬杖をついていたとしよう。
両手であごを支えるこの動作には,機械的な意味と,ジェスチャー的意味の二つがある。
機械的動作としては,それは単に疲れた頭を支えているのだから,
その学生だけに関する身体動作である。
しかし,同時にジェスチャー的動作としては,それは仲間に対して,
おそらく教師に対しても,彼が退屈していることを示す視覚信号になっている。
この場合,彼のジェスチャーは故意になされたものではない。
おそらく自分でも,信号を発していることに気づいてはいない。
だから詰問されれば,退屈したのではなく,くたびれただけです。というだろう。
しかし,彼が正直者ならば――あるいは無作法者ならば,
講義に興味さえあれば疲れなどは吹っ飛んでしまうこと,また,
本当に魅力的な教師であれば,学生の中に頬杖をつく姿などは見なくてもすむことを認めるだろう。
教室で学生に向かって,「きちんと座っていなさい」と怒る教師は,
実は自分が興味ある講義をやれば,
おのずと得られる,注意を集中した姿勢を要求しているのである。
逆に,学生がきちんと座っているのを見れば,それが本当に授業が面白いからではなく,
仕方なくそうしているだという事実に気づいたとしても,やはり,「まじめにやっている」と感じてしまう。
このことは,ジェスチャー信号の力がいかに強いかを示している。
偶発ジェスチャーの多くは,自分も相手も意識的には気がつかない気分情報を伝える。
あたかもそれは,
人と人とのふれあいという地面の直ぐ下に,地下情報組織が働いているかのようである。
ある動作が行われると,観察されてその意味が読まれるが,声には出されない。
われわれは気分を“感じる”のであって,分析はしない。
しばしば,このタイプの動作は,誰もが理解できる状況を示す信号になる。
例えば,問題が困難なことを示すためには「彼はこの問題で頭を掻くぞ」という。
このことは,困難と頭を掻くという偶発ジェスチャーの関連を,
われわれが理解していることを示している。
しかし,多くの場合には,この種の関連は意識下レベルで起こるので,まったく気づかれない。
もちろん,関連が明白な場合には,状況を操作して,偶発ジェスチャーを計画的に使うことができる。
講義を聞いている学生は,疲れていなくても,教師に嫌がらせをしようと思えば,
うんざりしたことを示すジェスチャーをわざとすればよい。
このメッセージは教師に伝わる。
これは 「様式化された偶発ジェスチャー」 である。
つまり,純粋な信号として,人為的に用いられる機械動作である。
一般の礼儀の多くは,この範疇に入る。
食べたくもなく,また,好きでもない料理でも,
それをうまそうに食べることは,招待者に対する適切な感謝の信号である。
偶発ジェスチャーをこのように使うことは,
すべての子供が,自分の住む社会の行動規範を覚えるにつれて,
学習しなければならないことのひとつである。
表出ジェスチャー
人間と他の動物が共有する生物的ジェスチャー
一次ジェスチャーは,六つの主な範疇に分類される。
そのうちの五つは人間に特有のもので,複雑,高度に進化した脳のおかげである。
残りのひとつは表出ジェスチャーと呼べる範疇に入るもので,
地球上のあらゆる人間が共有し,しかも,他の動物にも見られるタイプのジェスチャーである。
この中には,
日常の他人との付き合いに欠かせない 「顔面表情」 という重要な信号が含まれている。
すべての霊長類は顔に表情がある。
特に高等な種では,顔面筋肉がよく発達しているので,広範囲の微妙な顔信号を出すことができる。
人間ではこのことが最高に発達して,
大部分の非言語的信号は,顔の表情で伝達されるといってもよい。
人間では手も重要である。手は先祖が移動用としての義務を免れたので,
特に会話にあたって,その形や動きを変えることで,
つまり 「手のジェスチャー化」 によって,多くの細かい気分変化を伝達することができる。
ここでいう “ジェスチャー化” という言葉は,ジェスチャーとは区別して,
人と話をする際に話のポイントを強調して,無意識のうちになされる手の動作,と定義したい。
こういった自然なジェスチャーは,普通は自発的できわめて当然のこととされている。
確かに,われわれは,彼が面白い顔をしたとは言えるが,
彼がどのように眉毛を動かしたかは思い出せない。
また,確かに彼は話をしながら手を動かしていたとはいえるが,
指をどんな形にしていたかは覚えていない。
しかし,不注意だったわけではない。それらをすべて眺め,脳は記録した。
ただ,そういった動作を分析する必要はなかったのである。
それは,聞いた言葉を理解するのに,表記はわからなくてもよいのと同じである。
この点で,この動作は,前述の範疇,つまり偶発ジェスチャーに似ている。
しかし,機械的機能がなく,信号機能のみを持っているという点が違っている。
これは,微笑と冷笑,肩すくめと膨れっ面,哄笑とたじろぎ,赤面と蒼白,手振りとて招き,
うなずきとねめつけ,しかめ面とうなり声の世界なのである。
これらのジェスチャーは,
世界中の殆ど全部の人が示すジェスチャーであり,
細かい部分や状況の点では地域による相違があるものの,
基本的にはすべての人間が共有する動作である。
人間には表情をあらわす目的だけに使われる複雑な顔面筋肉がある。
それゆえ,人と話をするときには,遠くではなく近くに立つ。
そして,人と会って説明し,議論し,冗談を言うときには,手を自由にさせて,空中で盛んに動かす。
人間は,尻尾を振ったり,毛を逆立てる能力を失ってしまったが,
その代わりに,驚くほどよく動く顔面筋肉と,くねり,広がる両手を使って,
ずっと多くのことを示しているのである。
表出ジェスチャーも一時的非コミュニケーション動作に基づいているから,
起源においては,偶発ジェスチャーと密接な関係がある。
固くこぶしを握るジェスチャーの起源が,
敵を攻撃しようとする意図運動であるのと同じように,
いらいらした人が示すしかめ面の起源は,
攻撃されることを予期した動物が示す目の防御反応である。
しかし,相違点があっても,これらの事例でも,
一時的身体動作と,その最終結果としての表出ジェスチャーとの間の関連が失われている。
微笑,膨れっ面,たじろぎ,ぽかんと口を開ける,作り笑い等々は,実用面では,
いまや純粋なジェスチャーであり,もっぱら伝達の役目を果たしている。
表出ジェスチャーは世界中で見られるが,文化の影響もかなり受けている。
人間はみな微笑のための筋肉を遺伝されているが,
すべての人が,完全に同じ仕方で, 同じ程度に, 同じ時に,微笑するわけではない。
子供はすべて,よく微笑し,よく笑うように生まれてきているのだが,
ある地域の伝統は,子供が成長するにつれて,感情を隠すように強制する。
この結果,大人になると,殆ど笑わなくなってしまう。
地域によって誇示規範が異なるために,
表出ジェスチャーは,普遍的な行動型が修正されたものではなく,
地域ごとに作られたものであるという,誤った印象を与えやすいのである。
模倣ジェスチャー
― 真似ることで信号を伝えるジェスチャー
模倣ジェスチャーとは,人,物,動作をできる限り,正確に真似るジェスチャーのことである。
ここにおいて,われわれは他の動物と同じ継承物を脱して,
もっぱら人間の領域に入り込むことになる。
模倣ジェスチャーが本質的に目指しているものは,表そうとするもののコピーである。
そこには,様式化された約束はない。
それゆえ,上手な模倣ジェスチャーは,はじめてみる人でも,それが何であるか直ぐにわかる。
事前の知識も,特定の事柄を示すための伝統もいらない。
模倣ジェスチャーには四種類のものがある。
第一は社会的模倣,つまり“適切な顔をする”ことである。
われわれは,誰もがこれをする。パーティーでは,本当は悲しくても笑顔を見せるし,
葬式では,実際の気持ちよりもずっと悲しい顔をしてみせる。
それはそのように 期待されるからである。
われわれは,他人を喜ばせるために模倣ジェスチャーによる嘘をつく。
このことを,心理学者のいう“役割演技”と混同してはいけない。
社会的模倣では,他人だけをだましているのであって,
役割演技では自分をもだましているのである。
第二は演劇的模倣,つまり娯楽のために,あらゆることを模倣する男優と女優の世界である。
これには基本的に二つの技術がある。
ひとつはじっくりと観察した動作を模倣する,計算されたやり方である。
例えば,ある将軍を演じようとする俳優は,将軍が出てくる戦時フィルムを長時間見ることで,
細かい動作まで分析する。そして,動作を意識的に模倣し,最終的な演技に取り入れる。
もうひとつの技術は,描写すべき人物のイメージ化されたムードを強調することである。
それにより,必要な身体動作のスタイルを無意識のうちに生み出す。
俳優は自分の演技を説明する際に二つのいずれかを強調するが,
実際には二つの技術を組み合わせて使っている。
昔は演技が非常に様式化されていた。
しかし,今日では,パントマイム,オペラ,どたばた喜劇を除けば,
異常なほどのリアリズムが幅を利かせているので,正客であり,でしゃばりであるべき観客が,
演技を見せてもらうだけの影の薄い存在になり下がってしまった。
俳優の脱線演技も,観客の参加もなくなった。
そういうことはまったくのハプニングなのだということを信じなければいけない。
換言すれば,演劇的模倣は,
とうとう日常的な社会的模倣と同じくらい現実的になってしまったのである。
この点で,これら二つの模倣活動のタイプは,
次に述べる部分的模倣と呼べる第三のタイプと明らかに対照的である。
部分的模倣とは,鳥とか雨だれのように 人ではないもの,
つまり,われわれが決してなることのできないものの模倣である。
普通は手が使われるが,それだけでもかなりリアルな表現ができる。
鳥は「手」を伸ばしてパタパタ動かせばよいし,雨だれはぽたぽた落ちる様子を線上に示せばよい。
この種類のものでよく使われるのは,手でピストル ,ある種の動物,あるいは動物の足を表したり,
手の動きで物体の輪郭を示すジェスチャーである。
第四の模倣ジェスチャーは,そこに実物がないのに動作が起こるので,
架空的模倣と呼ぶのがふさわしい。
例えば,空腹のときには,架空の食物を口に運ぶ動作をする。
のどが渇くと,見えないコップを手で持ち上げ,見えない水を飲む。
部分的模倣と架空的模倣の重要な点は,社会的模倣や演劇的模倣と同じように,
そこにリアルさが求められていることである。
もともとうまくいかないことがわかっていても,リアルさが追求される。
このために,四つの模倣ジェスチャーは国を超えて理解される。
この点でこれらは以下に述べる,
明らかに文化的制限のある二つのタイプのジェスチャーとは,はっきり違っている。
形式ジェスチャー
――省略または要約された模倣ジェスチャー
形式ジェスチャーは,模倣ジェスチャーを省略または要約したものである。
対象の主な様相のひとつだけを取り上げ,それを模倣することで対象を示そうとする。
したがって,写実への努力はなされていない。
形式ジェスチャーは,ふつうある模倣をすばやく,頻繁に行う必要から,
ジェスチャーにおける一種の速記として生まれてきたものである。
日常会話において“cannot”を”can’t”と縮めるように,
突進してくる猛牛を克明に模倣する代わりに,突き出た牛の角を,
二本の指で示すという省略がなされる。
そのジェスチャーができた頃には,模倣対象の一要素だけを選び出して,
他を除いてしまっても,まだ理解されやすい。しかし,
ひとたび形式化が進んでしまうと,”知らない人”には意味のないものになってしまう。
それゆえ,形式ジェスチャーは適用範囲の狭い地方的伝統になってしまう。
特に模倣対象が複雑で,しかも,いくつかの明白な様相を含んでいる場合には,
いろいろな地方で,違った様相が省略型として選ばれてしまう。
こうなると,各地方ごとに異なった速記型が確立されてしまうので,
それを用いる人の数はますます少なくなり,他の型を理解できなくなる。
地方のジェスチャーは独特のジェスチャーになり,ちょうど各地方に独特の方言があるように,
地方ごとに独特の形式ジェスチャーがあるようになるのである。
例をあげよう。
アメリカ・インディアンは,馬を示すサインとして,2本の指を他の手の指にまたがらせる。
シトー修道会の修道士は,馬のサインとして,頭をやや下げ,額にある架空の毛を引っ張る,
仕草をする。イギリス人は,騎手のように,前かがみの姿勢をとり,架空の手綱を引く。
このイギリス人の型は,架空的模倣ジェスチャーに近いので,
他の二つの集団の人たちによっても理解されるだろう。
しかしアメリカ・インディアンと修道士のジェスチャーは,ひどく形式化されているので,
集団のメンバー以外の人にはわからないであろう。しかし,
非常にはっきりとした特徴をもった対象であれば,形式ジェスチャーによっても,
表されているものが直ぐにわかる。
前に述べた猛牛がこのよい例である。牛は殆どその一対の角によって示され,
二本の角は常に二本の指であらわされる。
事実,もしアメリカ・インディアン,オーストラリアの原住民,インド人の踊り子が出会ったとしても,
彼らはお互いに牛のサインを理解できるだろうし,われわれもそれらのすべてを理解できる。
しかし,彼らのサインが,すべて同じだというのではない。
アメリカ・インディアンの牛のサインはバイソンを示す。
バイソンの角は,飼い牛のように前へ曲がらずに,内側へ曲がっている。
これを反映して,
アメリカ・インディアンのサインは,両手をこめかみへもっていき,そこで人差し指を内側へ曲げる。
オーストラリアの原住民は,両手の人差し指をこめかみから前へ突き出す。
インド人の踊り子も指を前へ突き出すが,片手の人差し指と小指を,腰の高さから突き出す。
このように,各文化には独自の変異がある。しかし,
角は牛の顕著な特徴なので,たとえ地方的な変異があっても,
牛を示す形式ジェスチャーは,大部分の文化において,正しく理解されるのである。
象徴ジェスチャー
――気分と意見を示すジェスチャー
象徴ジェスチャーは,ものや運動とは単純には対応しない抽象的な特性を示すのに用いられる。
これは,模倣ジェスチャーに比べ,ずっとわかりにくい。
例えば,“間抜け”を示すためには,どんなサインを使えばよいのだろうか 。
ある人は,鼻をたらしたばか者を真似た演劇的模倣を,一生懸命にするかもしれない。
しかし,まったくのばか者を真似するこのサインは,
普通の大人がちょっとした間抜けをやったことを示すには適していない。
別の人は,人差し指でこめかみを軽くたたくかもしれない。しかし,
これは頭のよいことを示すときにも使われるので,正確さを欠いている。
こめかみをたたくことは 脳を示しているから,意味をはっきりさせるために,
他の人は,人差し指をこめかみにねじ込む動作をするかもしれない。
これは”ネジが緩んだ”ことを示している。
さらに,人先指をこめかみのところでぐるぐる回す人もあるだろう。
これは脳がくるくる回っていて,弱いということだ。
多くの人は,このようなこめかみに対する人差し指の動作を理解できるが,できない人たちもいる。
その地方に独自の間抜けを示すジェスチャーを持っているからである。
しかし,持ち上げた腕のひじをたたく,半分閉じた目の前で手のひらを上下させる,手を上げて回す,
人差し指を額のところに水平に置く,といった間抜けを示す彼らのジェスチャーは,
われわれには何のことかわからない。さらに,間抜けを示すシグナルは,
国が違うと待った区別のことを意味するので,話はもっと複雑になる。一例をあげよう。
サウジアラビアでは,人差し指の先で下まぶたに触れることが間抜けを示す。
しかし,他の多くの国では,
この動作は,不信,承認,同意,疑惑,懐疑,警戒,秘密,狡猾,危険,有罪を意味する。
これほど意味が混乱する理由は,単純明快である。
そのジェスチャーは目をさすことで,
もっぱら見る器官としての目の象徴的な重要性を強調している。
その動作は,それ以外のことは何も語っていない。それゆえ,メッセージは,
「わかった」 「自分の目が信じられない」 「よく見張ってくれ 」 「気に入ったぞ」といったものになる。
さらには,想像できる限りの,あらゆる種類の視覚シグナルになることができる。
その場合には,特定の文化におけるジェスチャーの象徴化が,
”見る”特性のどういった側面を示しているかを,理解することが大切である。
象徴ジェスチャー を学ぶ
それゆえ,象徴ジェスチャーには,二つの基本問題がある。
ひとつは,同じ意味が異なる動作で示されること,
他は文化が違うと,同じ動作がいくつかの異なる意味を表すことである。
唯一の解決策は,その国の言語を学ぶように,その文化に虚心坦懐に接して,
象徴ジェスチャーを学ぶことである。
この過程の一部として,動作と意味の関係がわかれば話が早い。
しかし,それは必ずしも可能ではない。
ある場合には,とにかくその象徴ジェスチャーがどのようにしてできたのかがわからない。
現在,それはある象徴的特性を示しているから,象徴的だということはわかる。
しかし,そのジェスチャーが,最初どのようにして動作と意味の間に関係を持つに至ったかは,
長い歴史の流れの中で失われてしまっている。
このよい例が,”女房を寝取られた男“を示すイタリアのサインである。
それは,両手の人差し指を左右のこめかみに置くか,片手の人差し指と小指を突き出すかによって,
一対の角を作る。この指が何を意味しているかは明白である。しかし,
それは”雄牛”という単純なメッセージを送っているわけではない。”姦通”を示している。
それゆえ,この動作は象徴ジェスチャーであり,それを説明するために,
雄牛と姦通の関係を見つける必要が生じてくる。
歴史的には,その関係は見失われてしまったようだ 。
そのために,かなり大雑把な推測がいくつかなされてきた。
やっかいなのは“角を示す手“の形が,イタリアでもごく普通の意味を,
つまり雄牛の角という意味を持っていることである。
角を示す手は本質的には防御のジェスチャーである。
想定される危険を避けるために示される。その場合,ジェスチャーを示す人が,
雄牛の強大な力,残忍さ,及び猛々しさから象徴的に身を守ろうとしていることは明白である。
しかし,こう考えると,雄牛の角のジェスチャーが
”あわれな“寝取られ男のサインとしても使われていることが,さらに説明が,困難になってしまう。
この矛盾を説明するためには,出発点として用いられてきた一方のジェスチャーは,
雄牛の力に由来しているが,寝取られた男のサインは,
雄牛がしばしば去勢されたということに由来しているという考え方がある。
牛の家畜化が始まると,雄牛の数は雌牛の数に比べていつも多すぎた。
立派な,去勢されていない雄牛は,一頭で一年に 50 から 100 頭の雌牛に種付けすることができた。
それゆえ,繁殖のためには,健全な雄牛は小数でも足りる。残りの雄牛は,肉牛にするために,
去勢されておとなしく,扱いやすくされていた。つまり,俗っぽくいえば,これらのインポテンツの雄牛は,
少数の性的に活発な雄牛が
「彼らの正当な女房を盗む」のを,むざむざと眺めていなければならない。
こうして 雄牛=寝取られ男 という象徴化がなされたというのである。まったく別の説明もあった。
それによると,寝取られ男は,妻が裏切ったのを知ると,激怒し,嫉妬に狂って,
”気が狂った雄牛”のように,叫び声をあげ突進するからだという。
角が男性の凋落の象徴になったのは,
狩猟の女神ダイアナに由来するという古くからの説明もある。
猟師アクティアンは,水浴中のダイアナの裸身を盗み見た。怒ったダイアナは彼を角のある動物に
変えて,自分の猟犬をけしかけたので,彼はたちどころに殺され,食べられてしまった。
この他に,古代の信心深い夜伽妻に由来するという説もある。
この女房たちは”名誉の角”つまり,力と男らしさの象徴としての角を生やした神々の夜伽をした。
神々は聖なる夜伽妻にいたく満足したので,夜伽をするように女房に命じた夫たちの頭に,
神の角を植え付けてやった。こうして,この名誉の角はあざけりの 角になったというのである。
この説明が不十分であるように,次のような主張のどこか別の場所で,確信をもって,なされている。
すなわち,雄鹿にも角「昔は,枝角もしばしば角と呼ばれた」があり,
大部分の雄は発情期に大きなハーレムを作る小数の強い雄によって雌を奪われてしまうので,
”角のある”鹿の大多数は,不幸な”寝取られ男”ではないか、と。
最後に,牛や鹿とはまったく関係のない一風変わった解釈もある。
それによると,昔のひとがやったこと,つまり去勢した若い雄鶏のけずめを,
とさかを切り取ったあとに移植すると,そこで成長して”角”になるということが,
角と寝取られ男との象徴的関係の起源だという。
この説は,ドイツ語の”寝取られ男”にあたる語「hahnrei」が,
もともとは去勢して太らせた食肉用の雄鶏を意味していることで支持される。
これらの対立意見を読んだあとで,もし読者が,今知ったことが,
すべて”雄鶏と雄牛の物語「まゆつば物語」”という慣用句の語源だということがわかったならば,
それで十分である。
明らかにわれわれは歴史的記録ではなく,豊かな想像の世界に遊んでいる。
しかし,この例を,詳しく述べてみたのは多くの事例において,
象徴ジェスチャーの真実の起源が,いかにわからなくたっているかを示すためである。
同様に混乱した例は他にもたくさんある。しかし,
一般原理を示すためにはこれで十分であろう。もちろん,例外もある。
今日,われわれが当然のこととして行っている象徴ジェスチャーのあるものは
その起源を容易にたどることができる。
”指を交差させる”ジェスチャーは, そのよい例である。
片手の人差し指と中指を使って十字を作る動作は,多くの非キリスト教徒によって
用いられているが,もともとはキリスト教会における恩寵を願うための仕草であった。
初期には,腕全体をまず身体の前で縦に,次に横に動かして,
空中に浮かんだ十字架をたどる明白な十字のサインを描くのがふつうであった。
これは現在でも,ある国では宗教的脈絡なしに,
”幸運を祈る”ための安全祈願の仕草として用いられている。
しかし,もっと日常的な場面では,腕で十字を描く代わりに片手を上げ,
交差した中指と人差し指を見せるという動作が広く行われている。
これはもともと“十字を切る“ことの秘密型で,人にわからないように ,
こっそりと手だけで十字を作ったものである。
今でも,虚言から身を守ろうとするときには,人目をしのんだこのやり方が用いられるが,
”幸運を祈る”サインとして使うときはおおっぴらに示される。
この変化は,指の交差が既に宗教的な色彩を失っているという事実によって容易に説明できる。
象徴的にいえば,指の交差はイエス・キリストの恩寵を求める動作かもしれない。
しかし,実際になされる指の動作は,腕で十字を切る牧師の動作と非常にかけ離れている。
このために,幸運を祈るありふれたものとして,
日常生活の中へたやすく浸透することができたのである。
その証拠としては,多くの人が「指をずっと交差させて置きなさい(幸運を祈る)!」と叫ぶときに,
彼らが,歴史的にいえば,
キリスト教徒の礼拝動作を強いられていることにまったく気づいていないことがあげられる。
専門ジェスチャー
――専門ジェスチャーは,少数の専門家が,
彼らのごく限られた特殊な活動のために発明したものである。――
それは,専門家以外の人にとっては意味がないので,狭い範囲でしか使われず,
したがって,その文化の視覚コミュニケーションの主流においては役立っていない。
今日使われている専門ジェスチャーの好例は,テレビ・スタジオの信号である。
テレビのニュース解説者は,スタジオでは”スタジオ・マネージャー “を見ている。
マネージャー は,コントロール・ルームにいるプログラム・ディレクターとヘッドフォンで直結しており,
ディレクターの指令を,単純な視覚ジェスチャーを使って解説者に伝える。
マネージャー は,解説者が話をはじめる時刻が迫ると,まっすぐに手を上げる。
話しをスタート
させるためには,さっと手を下ろして解説者を指差す。
あと数秒で番組が終わることを知らせるためには,
手をぐるぐる回す。それは時計がどんどん進んでいくようにみえる――「時間が早く過ぎていくぞ」
話しを長引かせ,もっとしゃべらせるためには,両手を胸の前でくっつけてから,ゆっくりと離す。
それは何かを延ばしているようにみえる――「話しを引き延ばせ」
話しを直ちに止めさせるためには,手でのどを切る動作をする。――「話しを止めろ」
これらの信号を決める一定の法則はない。これらはテレビが始まった頃にできたもので,
上に述べた主な信号は,現在もかなりのテレビ局で用いられている。しかし,
各スタジオには独自の信号があって,それぞれの仕事に応じてうまく利用されている。
他の専門ジェスチャーも,仕事の性質上,言葉による伝達が困難な場所で用いられる。
例えば,スキンダイバーはお互いに話せないので,危険を伴う場面に対処するために,
単純な信号を必要とする。特に,危険,寒冷,痙攣,疲労を示すジェスチャーは,不可欠なものである。
はい,いいえ,良,不良,上,下のメッセージは,日常的動作によっても簡単に了解できるので,
特別の専門ジェスチャーは要らない。
しかし,痙攣が起こったことは,どうすれば仲間に伝えられるだろうか 。
それには,片方の手のひらをリズミカルに開いたり,閉じたりすればよい。
単純なジェスチャーであるが,命を救うジェスチャーである。
ある専門分野に属さない人が,そこでの専門ジェスチャーを知らないために,災難に遭うことがある。
何人かの人が,休日に海で舟遊びをしていたが,船が沈没して小さな島にやっと泳ぎ着いたとしよう。
ずぶぬれになり,おびえきった彼らは,これからどうしようかと考えあぐねて,うずくまっている。
すると,ほっとしたことに,小さな釣舟発動機の音を立てながら,彼らのほうにやってくるではないか。
島の近くまできたので,彼らは釣舟に向かって気が狂ったように手を振った。
釣舟に乗っている人たちも手を振ってくれたが,船は止まらずに行ってしまった。
島に残された人たちが海の”専門家”であったならば,
手を振ることは海では単なる挨拶にすぎないことを知っていたはずである。
遭難を知らせるためには,両手を身体の両側に伸ばし,上げ下げしなければならない。
これが,海で通用する”救助を求める”ジェスチャーなのである。
逆にいえば,たとえ難破船の人たちが海の専門家で,正しい遭難信号を送っていたとしても,
救助船に普通の人が乗っていたのでは役に立たない。
彼らは見慣れない動作に当惑し,たぶん信号を無視してしまうだろう。
専門分野に素人が入り込む場合には,いつでもジェスチャーにからむトラブルが起こる。
消防士,クレーンの操縦士,空港滑走路の信号士,賭博場の元締,オークションの立会人,
レストランの支配人などは,それぞれ特有の専門ジェスチャーを使う。
彼らは静粛を必要とする,相手から離れている,聞こえないといった仕事上の理由から,
独自の信号を発達させた。しかし,
他の人たちはこの特殊な分野に入るつもりがなければ,信号を無視することができる。
コード・ジェスチャー
―― 一定の体系に基づいたサイン言語 ――
コード・ジェスチャーは,他のジェスチャーとは違って,体系化された信号である。
信号が,互いに複雑かつ体系的に関連しあっているので,真の言語を形成している。
このジェスチャーはコードの個々の単位が,
他の単位との関連を失うと役に立たなくなるという独特の様相がある。
専門ジェスチャーも,
時には体系的に作られるが,各信号は他ときわめて独立した形で機能できる。
それとは 対照的に,コード・ジェスチャーは,言語の文字や単語のように,
すべての単位が一定の厳格な原理の下に互いに関連している。
その最もよい例は,手の信号による「聾唖者用サイン言語」である。
これには片手によるものと両手によるものがある。
また,腕の信号による「手旗言語」や、競馬の「賭け率言語」がある。
これらは,すべて相当な技術と訓練が必要で,われわれが日常生活で用いているありふれた
ジェスチャーとは,まったく違った世界に属している。
しかし,これらは,人間が視覚的コミュニケーションに対して,
信じられぬほど鋭敏な潜在能力を持っていることを,明白に示している。
つまり,われわれは,毎日の生活で目撃する普通のジェスチャーに対しても,
自分で気づくよりもずっと敏感に反応しているのである。
ジェスチャー 異変 ―― 基本ジェスチャーの個人的,地方的異変――
既に定義したように,ジェスチャーは信号を伝達する。
それゆえ,メッセージを理解するためには,信号が明白に伝わってこなければならない。
つまり,ジェスチャーが曖昧だったり,不鮮明では役に立たない。
きびきびとして,明確で,他の信号と混同されにくくなっていなければならない。
このためには,ジェスチャーが比較的変異の少ない”決まった型”になっている必要がある。
また,その型は毎回同じ速さ,強さ,振幅で,つまり“決まった強さ”で示されねばならない。
それは電話のベルが鳴るのに似ている。
ベルは電話内容の緊急度にかかわりなく一定の間隔,強さ,高さで鳴り続ける。
電話システムは,間違い電話も,生死にかかわる電話も,まったく同じように扱う。
唯一の違いは,かけた人があきらめるまでの,ベルが鳴り続ける長さだけである。
このことは,一見効率が悪いように思える。だから,時に人は,緊急度が増すにつれて,
ベルが大きく鳴ってほしいと考える。しかし,ベルの音が一定であることは,
曖昧さの減少という点で重要である。
電話のベルを,玄関や目覚し時計のベルと間違える人はいない。
ベルが決まった型と強さで鳴ることが,間違いをなくさせているのである。
この過程は,人間のジェスチャーの場合にも当てはまる。
それはベルのように完全に決まった強さで示されるわけではない。しかし,
多くの場合には,同じ強さにすることがかなり可能であるし,そのように行われている。
こうすることで,曖昧さが減少し,メッセージは明白になる。
ジェスチャー のリズム
腹を立てた人が,こぶしを振り回すとき,こぶしが空中で前後に動かされる速さ,強さ,振幅は,
いつもほぼ同じである。また,人が違っても,それらはよく似ている。
ためしにこぶしを振り回すジェスチャーの速度を落とし,力を抜き,振幅を大きくしてみなさい。
その信号が正しく理解されるとは思えない。見ている人は君が腕の体操をやっているのだと誤解
して,威嚇ディスプレイとしてのメッセージは,読み取ってくれないだろう。
われわれのジェスチャーの大部分は,こういった典型的なものになっている。
誰もが同じやり方で手を振り,ほぼ同じ速度で手をたたき,同じ振幅で手招きをし,
同じようなリズムで首を振る。これは意識された過程ではない。
単に文化的基準に合わせているだけである。
われわれは,人に会い,付き合うときに,他人との間に飛び交うたくさんの小さなメッセージの通路を,
無意識のうちにスムーズにさせる。
どういうわけか,自分のジェスチャーを友達のジェスチャーに合わせ,
相手もこちらに合わせようとする。
われわれは,まるで目に見えない文化という指揮者に指揮されているかのように ,
ジェスチャーの強さを同調させ,一緒に演奏してしまう。
人間の行動はみなそうであるが,この一般法則にも例外がある。われわれはロボットではない。
個人の癖 ― 文化的基本型における個人変異 ― がある。
歯並びの特にきれいな人は,大げさに口を開けて笑うし,さして面白くなくても笑う。
歯並びの悪い人は,面白いときにも口を閉じた笑い方をする。
同じ冗談を聞いても,ある人は大声で笑い,ある人はくすくす笑う。これが,
「ジェスチャー変異」であり、これにより一人一人に行動スタイルつまり,身体の個性が生まれる。
われわれのジェスチャーが一般によく似ていることに比べれば,これは小さな変異に過ぎないが,
こういった変異でも,各個人の重要な標識とすることができる。
ジェスチャー変異には,別の型がある。
それは,滅多に使われず,しかも他のどのジェスチャーとも混同されないために,
決まった型を作らずに残っているジェスチャーである。
そのよい例は,イタリアの耳触りである。
このジェスチャーは,イタリア中でいつも同じことを意味する。
つまり,ある男が女々しい,あるいは同性愛らしいことを示す信号である。
これはあまり使われないし,他にこれと間違える耳触りジェスチャーもない。
そのために決まった型ができなかった。
耳を引っ張っても,摘み上げても,はじいても,単に触っただけでも,メッセージは同じである。
見る人が変異に惑わされるようなことはない。動作を正確にさせる圧力もない。
ついでながら,このジェスチャーは,女性がイアリングをしていることに由来している。
架空の耳飾に触ることで,女性的特性を示しているのである。
このような特殊な場合には,ジェスチャー変異による混乱は起こらない。
しかし,他のジェスチャーでは,はるかに複雑なことが生じてくる。
そのよい例が指つぼめ信号である。
この動作は,本来は会話のある部分を強調するためのものである。
五本の指が合わさって上向きの円錐形が作られ,
重要な言葉がいわれるたびに,この手の形で拍子がとられる。
このジェスチャーは,世界中の大部分の国で見られるが,
ある地域では,この基本ジェスチャーに変異が起こって,
それぞれの地方に特有の意味が生じている。
ギリシアとトルコでは、この動作は”善”を意味するが,
スペインでは”多数”を意味する。
マルタ島では強い皮肉を表し,チュニジアでは”慌てないで”という注意を示す。
フランスでは”心配している”ことを表し,
もっともポピュラーに使われるイタリアでは,
ふつう“なんだ、どうしたんだ”という,いらだった疑問を示している。
これらの場合には,その動作も特殊な地方変異を示す。
例えば,マルタ島では,手は一回強く下へ引かれるだけだが,
チュニジアでは,手はきわめてゆっくりと何回も下へ動かされる。
フランスでは,きわめてわずかだが,指が開いたり閉じたりする。
そしてイタリアでは,手は上下に急速に動かされる。
これらの場合,本当は,指をつぼめる原型ジェスチャーから,
まったく違った一群の動作ができたのであるが,
もはや、一つ一つの動作は異なるジェスチャーと考えるべきであろう。
正しくは本当のジェスチャー変異ではなく,
今はもう類縁関係にあるジェスチャー・グループというべきである。
ひとつのジェスチャーは,どれかひとつの文化の中では十分に機能する。
しかし,そこから他の国へ移った人はひどく混乱してしまう。
彼は,外国のジェスチャーを,自国のジェスチャー変異だと誤解してしまうので,
何故それがまったく違った意味になるのか理解できない。
彼は,その変異を個人的あるいは地方的な特異性として読み取り,
今,見ている外国人は,自分が古くから親しんできたジェスチャーを奇妙なやり方で示しているだけ
なのだと思い込んでしまうからである。
こういった二つの文化が盛んに接触しているところでは,混乱しなくなるまで,
互いのジェスチャーを大きく変え始めるだろうということは疑いない。
こうしなければ,誤解が生じてしまう。このことは,ひとつの文化内でも,
何故決まった動作型が発達し,曖昧な信号を送るのをいかに避けるかの重要なことを示している。
特殊な場合を除けば,
ジェスチャー変異はジェスチャーによるコミュニケーション・システムに脅威を与える。
それ故に,曖昧な変異は除かれ,減らされてきた。
かくして,それぞれの文化は,各信号をすべての信号と明確に区別できる。
視覚信号に関する独自のレパートリーを持つにいたった。
人間の旅行好きと現代の流動性のために,われわれが外国に入り込んでいくときにのみ,
この有効なコミュニケーション・システムは壊れ始めるのである。
多義ジェスチャー ―
多くの意味を持ったジェスチャー ――
多義ジェスチャーとは,
時と場所により,まったく違ったいくつかの意味を持つジェスチャーのことである。
アメリカ人は,OK.,立派,完全,偉大を示したいときには,手を上げ親指と人差し指で円を作る。
この円サインは,アメリカ人にとっては,ひとつのメッセージしか伝えない。それゆえ,
それらが他の国ではまったく別の意味を持っていることを知ったならば,驚くに違いない。
例えば,日本では,これはお金を示すジェスチャーであり,
フランスでは,”ゼロ”または“無価値“を意味している。
マルタ島では,”おかま”を表すし,
サルジニア島やギリシアでは,わいせつ,あるいは男性にも女性にも通じるある侮蔑を表している。
こういった違いのために,外国人同士が出会うと,多くの誤解が生じてしまうが,
それにしても,これほどに矛盾するメッセージが生じたこと自体がそもそも不思議である。
その理由を発見するためには,それぞれの場合の基本的象徴を探さなければならない。
完全さを示すアメリカのサインは,精密さを示す手の形に由来している。
われわれは,何かが精密,あるいは正確であることを示したいときには,
親指と人差し指の先できわめて小さいものをはさむ動作をする。
世界中の人が,精密のものついて話すときに,無意識のうちにこれをやる。
指ではさむものは,実在しないから,
その動作をすれば,自動的に親指と人差し指が環または円を作ることになる。
アメリカでは,この無意識的ジェスチャーが増幅されて,意識的サインになった。
正確さを示す表現が発達して,”まったく正しい”あるいは”完全だ”になり,
こうして有名な OK サインが生まれたのである。
日本のお金を示すサインは,起源がまったく違っている。
お金は貨幣を意味し,貨幣は丸い。それゆえ,円を示す手のサインはお金を象徴する。
これは単純である。
フランスの”何もない”あるいは”無価値”を示すサインも,単純な等式に従う。
この場合には,円は貨幣ではなくて無を意味する。無=ゼロ=何もない=無価値となる。
マルタ島,サルジニア島,ギリシアの性的な例は互いに関係があり,基本的象徴も同じである。
この場合には,親指と人差し指が作る輪は身体の穴,それももっぱら肛門を示している。
それゆえ,マルタ島では,このジェスチャーが男性の同性愛を意味する。
サルジニア島とギリシアでは,それはもっと一般的なわいせつを示すコメントであったり,
男性にも女性にも通じる侮蔑のサインであったりする。
この場合にも基本的な意味は肛門であり,2000 年以上も用いられてきたことは 確実である。
体育場の外で水浴びをしている四人の競技者を描いた昔のつぼには,そのうちの一人が,
穴のジェスチャーによって,他の者を侮蔑している様子が示されている。
このように円という単純な手のサインでも,
それぞれの国の起源に応じて,精密さ,貨幣,無,穴を表すことができる。
そして,これらから,完全,お金,無価値,同性愛,わいせつという五つの違った象徴が導かれる。
この状況だけでも十分に複雑であるが,ひとつのメッセージが支配している地域に
他のメッセージが広がり始めると,話しはもっと複雑になる。
アメリカの OK サインは,ヨーロッパに侵入してたいへん一般的になったが,
イギリスでは,もともと円サインがなかったので,アメリカの OK サインは抵抗なく広がった。
今日,今ジェスチャーを他の目的に使うイギリス人はいない。
しかし,フランスではそうはいかなかった。
彼らはすでにゼロのサインを持っていたから,OK ジェスチャーの侵入は問題を引き起こした。
今日,多くのフランス人は,円サインをまだ”ゼロ”信号として用いるが,OK として使う人たちもいる。
”ゼロ”メッセージはフランス南部で勢力を持ち,OK メッセージは北端部で一般的である。
このために厄介なことが起こるが,
ふつう,その混乱はジェスチャーに伴う前後関係を考慮することで避けられる。
相手が幸福そうであれば,サインは,”OK”を意味しているし,そうでなければ,
”ゼロ”を意味している。ところが,円サインが,
ひとつの意味しかもっていないイギリスやアメリカでは,顔の表情は何の助けにもならない。
メッセージがあまりにも明白なので,前後の関係は無視されてしまう。
イギリス人が故意にしかめ面をしながらOK サインを出しても,
OK サインが非常に強力なので,表情は無視されるか,冗談だととられてしまう。
つまり,偽りの悲しみとみなされて,まじめには受け取ってもらえない。
この文脈無視の現象は,あるジェスチャーが,
ひとつの明白で,周知の意味しかもっていないような 場合には,たいてい生じる。
しかし,そのジェスチャーが一つならず意味を持つような地域に入れば,
そのとたんに,文脈がきわめて重要になる。
円サインのように多数の意味を持つ多義ジェスチャーは比較的まれであるが,
基本的なメッセージ以外に別のメッセージを持つサインはたくさんある。
動作に曖昧さが含まれている場合には,多くの国を十分に調べてみれば,
多分その動作には複数の意味を見つけることができるであろう。
例えば,指でこめかみや額に触れる動作は,ふつう,脳のある状態を象徴している。
しかし,意味する状態は場合によって異なる。あるときは”利口”――”良い脳”を意味し,
あるときは,”バカ”――”悪い脳”を意味する。
口に触る動作は,”飢え””乾き””会話””失語”を意味する。
目を指す動作は,”よいと思う”または”ダメだと思う”という意味になる。
基本ジェスチャーは同じなのに,
意味するところは,違った象徴の道筋をたどることで,異なる方向へ広がっていくのである。
同義ジェスチャー
―同じ信号を伝えるジェスチャーー
ひとつのジェスチャーが,いろいろと違った意味をもてるのと同じように,
多くの異なったジェスチャーが同じ意味を持つことがある。
あるメッセージが,著しく異なったいくつかの文化圏においても,
きわめて基本的かつ重要なメッセージである場合には,
型も由来もまるで違ったジェスチャーによって,同じメッセージが伝えられることが多い。
ある街角に二人の若者が立っている。そこを一人の魅力的な娘が通りかかったとしよう。
そのとき,一方の若者は,自分が彼女をどう思ったかを,
簡単なジェスチャーによって仲間に伝えるに違いない。
ひとつの文化圏の中でさえ,それを示すいくつかのジェスチャーがあり,
街角の光景をもっと多くの国々で観察すれば,この信号の数は途方もなく多くなるであろう。
挿絵は,なんて魅力的な娘だろうというメッセージを表す 12 のジェスチャーを示している。
そして,このちょっとした仕草にも,多くの異なる起源があることがわかる。
ジェスチャーの 1∼4 は,娘の特徴を示すジェスチャーである。
1. ほお撫で
片手の人差し指と親指をほお骨の与えイに軽くおき,あごに向けてそっとなでおろす。
このジェスチャーは,きれいな娘のふっくらとした顔の丸みを象徴している。
これは,卵形の顔が女性美の理想とされた古代ギリシアに源を発するといえる。
今日でも,このジェスチャーがもっとも多く使われるのはギリシアであるが,
いまやイタリアとスペインでも見受けられる。
2 .ほお突き
まっすぐに伸ばした人差し指で,ほおの真中を押しながら回す。
これには二つの起源が考えられる。
ひとつは,それが,美味しい食べ物を象徴し,
拡大されて娘が”美味しそう“という意味になったという解釈である。
別の解釈によれば,このジェスチャーは,きれいな娘のえくぼを強調している。
今日,このほお突きジェスチャーはシチリア島とサルジニア島を含むイタリア全土で
用いられているが,他の国ではまず見られない。
3. ブレスト・カーブ
両手で女性の乳房のふくらみを描く。由来は明らかであり,この動作はどの国でも見られる。
4. ウェスト・カーブ
細いウェストと幅広いヒップに力点をおき,女性の腰の線を両手で空中に誇張して描く。
前と同様,この動作の期限も明らかで,特に英語圏ではごく普通に見られる。
5. まぶた触り
人差し指を伸ばして下まぶたに触れ,ちょっと下に引っ張る。
この動作は多くの国々で見られ,いろいろな意味を持つ。
例えば,南アメリカやイタリアの一部では”人目を引く”という信号である。
6. めがねのぞき
両手を丸めて,望遠鏡で見るように娘をのぞく。
これは,その娘がアップにして見るにたえるということの象徴化であろう。
このジェスチャーは,特にブラジルで見られる。
7. 口ひげひねり
親指と人差し指の先をほおのあたりで 合わせ,架空の口ひげの先をひねる。
この象徴化は,男性が女性の美しさに惹かれて前にし進み出るときに,
自分の身だしなみをきちんとすることに由来している。
これは,もともと古代イタリア人のジェスチャーであるが,
長い口ひげがなくなった現代でも残っている。
8. 心臓抑え
右手を延ばして心臓のあたりに置く。
これは,,娘がとてもきれいなので,心臓がどきどきするということの象徴化である。
英語圏では,これは儀式ジェスチャーだとみなされているようだが,
南アメリカのいくつかの国々では,もっと自由に,儀式とは関係なく用いられている。
ジェスチャーの 9 から12 は,男が娘に何をしたいかを示す。
9. 指先キス
閉じた指先にキスをしてから,ひろげて娘に投げかける。
この投げキスの動作は,いうまでもなく挨拶,または賞賛を表す直接行為である。
しかし,娘が見ていないときに,連れの男に向かってなされる信号でもある。
ジェスチャーは娘に向けて行われるが,メッセージは友人に向けられている。
これは,特にフランスで一般的なものだが,,今日他の多くの国々でも見られるジェスチャーである。
10. 空キス
唇をとがらせ,娘に向かってキスの動作をする。
ここでも,これは彼女がとても美しいので,キスをしたいと連れの男に知らせるために行われる。
殆どの場合,娘が彼を見ることができない瞬間になされる。
このジェスチャーは,ヨーロッパ大陸の指先キスの代わりとして英語圏でよく用いられる。
11. ほおつねり
娘にするかのように 自分の頬をつねる。
この動作は,シチリア島で時に良く見られるが,他の国でも行われる。
12.ブレスト・カップ
娘の乳房を持ち上げて,もむように両手を動かす。
そのものずばりのこのジェスチャーは,ヨーロッパでもどこでも,ごく一般的に行われ,
このジェスチャーを使わない人でも容易に理解できる。
女性の美しさを示すジェスチャーは他にもたくさんある。しかし,
ひとつの文化圏の中でも,いくつかの文化圏の間でも,
女性の魅力をあらわそうとする男性の基本的なメッセージが,
非常に多彩な表現型をとっていることを指摘するためには,この 12 の例で十分である。
象徴を生み出す人間の才能は,他の基本的なメッセージについても,
膨大な量の同義ジェスチャーを生み出している。このことを考えると,
人間のジェスチャーに関する総合的な国際辞典を編纂する作業は展望が明るいとはいえない。
これまで,この作業に真剣に取り組んだ人はいないのである。
雑種ジェスチャー ― 二つの親ジェスチャーで作られた信号―
雑種ジェスチャーとは,
本来,由来が異なる二つの別々の親ジェスチャーが合わさってできたものである。
よく知られている威嚇ディスプレイに,平手で空を切る「手刀」ジェスチャーがある。
これはイタリア及び地中海周辺の国々でよく見られる。
その意味は明らかで,「おまえの首をちょん切ってやるぞ」である。
チュニジアでは,
このジェスチャーに親指と人差し指で輪を作る”ゼロ”とか”無価値”を示す
フランス人のサインが付け加わることが多い。
チュニジア人は,人を威嚇するとき,しばしばこれら二つのジェスチャーを合わせて「輪付き手刀」を
作る。親指と人差し指で輪を作り,残りの三本の指をまっすぐに伸ばして,空を何回も切るのである。
これは,”無価値”と”殺す“という二つの親メッセージを合成している。
事実,「おまえは何の価値もないので,明日殺してやる」を意味する。
この種の雑種ジェスチャーは,普通の社会では,殆ど見られない。
視覚信号を送る場合,人々は一時的に一つのことしかしないからである。
ジェスチャーによるコミュニケーションは,
視覚的”単語”を組み合わせて視覚的”文章”にするといった言語ではない。
それ自体で完結している。
もちろん,われわれは次から次へと,いくつかのジェスチャーを続けるし,
ジェスチャーの最中にしかめ面をすることもある。
しかし、それはここでいう二つの別のジェスチャーをあわせて,新しい型にするのとは 違う。
現存する雑種ジェスチャーのわずかの例でも,
その殆どが,同じ意味を持った二つの動作を組み合わせている。
しかし,雑種の形をとることで二倍の強さの信号が作られる。
例えば,侮蔑を示す「前腕勃起」ジェスチャーは,
同様に侮蔑を示す「中指勃起」,またはわいせつな「フィグ・サイン」と一緒になることがある。
通常これは別々になされるが,一緒になると侮蔑の程度がいっそう強まるのである。
アメリカ・インディアンのサイン言語や,聾唖者のサイン言語といった特殊な領域に目を向けると,
しばしばこのタイプの合成が見られる。
例えば,美人を示すインディアンのサインは,片手を鏡のように立てて,それを覗き込み,
同時にもう一方の手のひらを下に向けて胸に接する。
二番目のジェスチャーは“よい”を意味するので,
ふたつをあわせると、よく見える ― 美人 となるのである。
複合ジェスチャー
複合ジェスチャーとは,
別個の要素からできたジェスチャー
少なくともある程度は独立した,多くの別個の要素からできたジェスチャーのことである。
人間のジェスチャーの多くは,一つの要素しか持っていない。
机に向かって忙しく仕事をしている人が,誰かに仕事がはかどっているかと尋ねられたとしよう。
彼は親指を立てたサインでそれに答えるだろう。彼は机から目をそらさず,仕事を中断せずに,
サインを送ることができる。
彼は親指を立てた手を上げただけである。
それ以外の身体部分は何も関与していない。しかし,メッセージは理解される。
これは単純なジェスチャーである。
これと関係はあるが別個の特徴をもった複雑なジェスチャーとは,著しく異なっている。
複合ジェスチャー の良い例は,笑っている人間,言い換えれば,人が笑うときに起こる出来事である。
笑っている人は,最も派手に笑うとき,以下のことを同時に表出させる。
1. アッハッハとかオッホッホとか大声を発し,
2. 口を大きく開け
3. 口の両端を引き
4. 鼻にしわを寄せ
5. 目を瞑り
6. 目じりにしわを寄せ
7. 涙を流し
8. 頭を後ろにそらし
9. 肩を上げ
10.身体をねじり
11.腹を押さえ
12.足を踏み鳴らす。
笑っている人を見れば,いつも,この 12 の尺度で笑いの強度を測ることができる。
最低1点 口を閉じ,身体を動かさずに笑う から
最高12点自分ではどうしようもないほど,転げまわって笑う。
まで,採点することができる。
しかし,最高点と最低点はめったにない。6∼8 点位の中程度の笑いが見られるのがふつうである。
といっても、それがいつも同じ要素からなるとは限らない。
笑い声すらなくてもよい。忍び笑いとか,笑っている人の絵を考えてみよう。
それでも尚,笑いのメッセージは伝わってくる。複合ジェスチャーは3種類の要素からできている。
第一は,本質的要素である。
これは,そのディスプレイが理解されるためには,なくてはならない要素である。
親指を上げるという単純なジェスチャーの場合には,それ自体が本質的要素であって,
他には何もない。しかし,笑いのような複合ジェスチャーでは,本質的要素はまったく必要としない。
各要素は,他の要素が十分にあればなくてもよい。
上にあげた 12 の笑いの信号のどれひとつをとっても,そのメッセージに絶対に必要なものはない。
それぞれが別の特徴で置き換えることができる。
第二は手がかり要素である。
これは不可欠なものではないが,あるディスプレイの最も重要な特徴になる。
そして,他の要素が全然ないときでも,
それ自体でメッセージを伝えることができる,という特質をもっている。
笑い声は,その表現の本質的要素ではないが,視覚的要素がまったくない場合でも,
それ自身で笑いを伝える役割を果たせるので,手がかり要素である。
第三は,強調要素あるいは維持的要素である。
これはそれだけでは働くことができず,他の要素があるときにのみメッセージを伝える。
例えば,人が首を引っ込めたり,頭を後ろに引いただけでは,”笑っている”とは思われない。
笑いの視覚的側面は,殆どがこの種のものであるが,
他の複合ジェスチャーにおいては,必ずしもそうではない。
例えば,”仕方がない”を示すジェスチャーでは,強調要素より手がかり要素のほうが多い。
この仕草には,
1. 肩をちょっとすくめ
2. 手のひらを上に向けてひねり,
3. 頭を一方に傾け,
4. 口をへの字に結び
5. 肩を上げる,がある。
これら五つのうち四つは手がかり要素で,
5 だけが単独で働く。両肩を上げ下げするだけでその意味は完全に理解される。
また,一方の肩をちょっと上げるだけでもそれとわかる。
同じことが手についても言える。片手または両手をちょっとひねって,手のひらを上に向けるだけで,
仕方がないことを表現できる。あるいは,他は動かさずに口をへの字に結ぶことによって,
同じメッセージを伝えることができる。また,眉を上げることでさえ同じことが可能である。
ただ,頭を傾ける要素だけが単独では働かない。
したがって,これは”仕方がない”という複合ジェスチャーの中の唯一の強調要素なのである。
このことは,どの手がかり要素が使われるかによって,
多くの”仕方がない”スタイルがあり得ることを意味する。
このスタイルは,人により,文化圏によって,異なっている。s
地中海周辺を旅して”仕方がない”ジェスチャーをよく観察すると,国ごとに
”仕方がない”の方言があることが直ぐにわかる。
名残ジェスチャー
―生き残ったジェスチャーー
名残ジェスチャーとは,発生したときの状況が既になくなったジェスチャーである。
それは歴史的遺産,すなわち,できてからずっと現代まで生き続けているものか,
私的遺産,つまり幼児のパターンが大人まで持ち越されているものかのどちらかである。
歴史とジェスチャー
ふつう、あるジェスチャーが古い時代から現在まで生き続けるためには,
それなりの理由―‐同じ意味を持つ現代のジェスチャーよりも多少とも有利な点――がある。
そうでなければ,そのジェスチャーは生まれたときの状況と共に既に滅んでいたであろう。
そのよい例が電話のジェスチャーである。
電話がかかってきた。相手は,部屋のずっと向こうにいる人を呼び出してくれといった。
電話を受けた人,その人に向かってジェスチャーをする。
「電話だよ」そのとき,彼はどういうジェスチャーをするだろうか 。
現代の電話は模倣には適当ではない。もちろん、やろうと思えば受話器を耳に当てる仕草はできる。
あるいはできるだけ口を大げさに動かして、声は出さずに「電話」というやり方もある。
しかし、昔、旧式の電話機を使うには、ハンドル をぐるぐる回したので、
これが元になって非常に判りやすい手のジェスチャーが生まれた。
すなわち、片手を耳のそばに持っていき、握った手を小さくぐるぐる回すのである。
このジェスチャーの省略形―ぐるぐる回す+耳は、「誰かが電話機のハンドル をぐるぐる回して、
交換手に君の電話番号を呼ばせている。だから、こちらへきて受話器を耳に当ててくれ 」
という情報を伝えた。
このジェスチャーは、他の動作と混合されることがないので、
電話機の形が変わっても生き残ってきた。
それは、ハンドル つきの電話機がなくなって久しい今日でも、
南ヨーロッパや南アメリカの一部では、いまだに使われている。
起源となった機械とはまったく無関係に、模倣だけが残って代々受け継がれてきた。
これは、歴史的な「名残ジェスチャー」として、ハンドル つき電話器のことなど聞いたこともなく、
ましてやその動作の由来などはまったく知らない人々によって、今でも使われているのである。
同様の「名残ジェスチャー」として、いやな匂いのするものや、不必要なものを示すために、
イギリスで用いられる軽蔑サインがある。これは、
何かを下水に流し込むように、腕を伸ばして、想像上の水洗便所の紐を引っ張る行為である。
水槽が高いところにある旧式の便所は、今では急速に姿を消しつつあり、
それに代わって低水槽型が普及してきている。
この型では、小さなハンドル をひねるか、ボタンを押すかして水を流すようになっている。
しかし、現代の電話機と同様に、ハンドル をひねる、ボタンを押すという手の動作は、
特徴的でも特異的でもない。それらを模倣しても曖昧だし、軽蔑サインとしてはまったく意味がない。
それ故に、この場合にも前時代の技術と、それに伴う動作が「名残ジェスチャー 」という形で現代に
生き続けた。現在、旧式な水洗便所の紐は、まったく姿を消したわけではない。
しかし、それらが完全になくなったとしても、このジェスチャーが生き残っていく可能性は十分にある。
古代に行われたジェスチャーのいくつかは、それらを生み出した状況がなくなってからも、
何世紀にもわたって生き残ってきた。
現代のギリシアで、最高級の軽蔑を示すジェスチャーは、“手型”といわれるもので、
ビザンチン時代にその起源をもつ。
これは、手を広げて侮蔑する相手の顔めがけて、突き出すものである。
これは、ギリシア人以外の人々にはまるで無害だが、
ギリシア人に対してはひどいあざけりの 行為となり、
おおむねドライバー同士の、ののしりあいに使われる。
すなわち、一方が他方に消えうせろといい、
侮蔑されたほうが 身体では仕返しできないような場面に使われるのである。
このジェスチャーの効力を理解するためには、
時計の針を逆に回して、何百年も前の昔の街路に戻らなければならない。
鎖に繋がれた捕虜たちが、人の群がる大通りを歩かされていた。
民衆は彼らを辱めたり、ののしったりすることが出来た。
民衆がよくやったのは、汚物を手にすくい、捕虜の顔になすりつけることであった。
イギリスや他の国々でも、さらし者になった罪人が同じような目にあったのだが、
ギリシアでのみ、このなすりつけ動作が歴史的「名残ジェスチャー」として生き残った。
手型が現在でも【1】きれいな手で、【
2】顔から離れて、【3】実際の“こすりつけ”が最後に行われて以
来何百年も経って、【
4】本来の意味を知らない人々によって、残酷なメッセージを送りつづけている
ことは、「名残ジェスチャー」の強固な持続性を物語っている。
これよりずっと穏やかな「名残ジェスチャー」として、架空の口ひげの先をひねるものがある。
有名な画家サルバドール・ダリを除けば、
今日では、先をとがらしてはねあげた長い口ひげをたくわえた人は殆どいない。
しかし、昔このファッションが、特にヨーロッパの軍隊で広く流行したときには、
口ひげを巧みにちょっとひねることで、つれの女性に自分の恋心を表すことが出来た。
この動作は今日でも多くのヨーロッパの国々で見受けられるが、
先をとがらせた細い口ひげなど何年間も見たことのない町に住む、
きれいにひげをそった男がそれをやるのである。
幼児ジェスチャー
これとはまったく種類の異なった名残ジェスチャーがある。
それは歴史的に昔から続いているのではなく、ある個人の過去から生き残ってきたものである。
この個人的な行動の名残は、殆どが幼少期の動作である。
これらは姿を変えて大人に残っており、
大人の内的気分が急に子供時代の特別な状態になったときに現れる。
災害の犠牲者は愛する人の遺体や、壊れた我家のそばに座り、自分を慰めようとしてむなしく前後
に体を揺すり続ける。身体をリズミカルに前後に揺するときに、両手は自分のひざや胴をしっかりと
抱きしめている。そして涙を流しすすり泣く。
こうした動作のすべては日常の生活では大人には滅多に見られないが、
幼少期にはごくありふれた動作であった。
心細くなっている大人の被災者は、無意識のうちに自分自身を慰めようとして、
かつては安全と安心を意味した幼児の動作型に逆戻りする。
その昔小さな自分の全身を包み、保護してくれた親の両腕はずっと前になくなってしまった。
今やこの苦悶する大人は、心を安らかにしてくれた両親の抱擁の代わりに、
自らの両腕で自分の体を抱きしめ、母親の抱擁のやさしい揺れ動きの代わりに、
自らの孤独な身体を前後に揺り動かさねばならない。
これほど劇的でない例に単純な「頭もたれ」がある。
他人に何か報酬や便宜を与えてもらおうとして、
気に入られたいと思う大人は、しばしば相手を期待に満ちた目で見つめながら、
やわらかく微笑みし、頭を一方の側にちょっともたせかける。
これは女権拡張論者には見られない動作である。
すなわち男心をとろかすために、“小さな女の子”を演じる女性の悩ましい人をおだてる動作である。
彼女は大人であるにもかかわらず、彼の娘の役割を演じている。
それゆえ、頭もたれ動作は名残ジェスチャーである。
すなわちそれは、彼女が幼い子供の頃、安心や休息を求めたとき、
あるいは、身体をくっつけて愛情を示したときに、
両親の身体に頭をもたれかけさせた動作に源を発している。
大人ではこれは形が代わり、もたせかけた頭はもはや相手の体に向かってはいない。
しかし、このもたれかかる動作だけで、十分相手には保護感情が沸き起こる。
何故かはわからないが、連れの男は拒否できなくなってしまう。
頭もたれは、何かをねだろうとする場面に限られるわけではない。
これはまた多くの“魅力的な女性”の写真にも見られる。
その微笑した女性はあたかも「あなたの肩に頭をもたれかけてもいいかしら」といっているように、
頭を一方の側に傾けている。男性の中にもこれまた無意識ではあるが、
非常に共感したり、安心したりしたときに、あたかも
「私は本当は荒っぽい、冷酷な大人ではありません無力なほんの小さい子供にすぎないのです」と
いう気持ちを伝えようとするかのごとく、このジェスチャーをする人がいる。
おそらく、すべての個人的なごりジェスチャーで最も重要なことは、
その起源が、われわれが母親の胸または哺乳瓶からミルクを吸っていた
赤ん坊の頃までさかのぼれることであろう。
われわれは、この新生児期に最初の大いなる安らぎのときを経験する。
そしてこの印象は長く持続し、後年、口唇部を慰めるさまざまな動作として復活する。
大人の生活では、ふつうはこうした動作が著しく変形しているので、
火のついていないパイプをくわえていたり、唇の間で葉巻をつぶしている年配のビジネスマンに、
実はあなたは体のいい赤ん坊のおしゃぶりの 代用品で、
自らを慰めているのだと言っても、なかなか信じてはもらえない。
子供に、 時にはかなりの年長の子供にも、しばしば見られる親指しゃぶりは 、
乳首を吸うことに明らかに関係がある。
親指しゃぶりはその時々の彼らの緊張の高低に対応して増えたり、減ったりする。
しかしいったん大人になると、われわれは子供じみたこと、
あるいは少なくともそれとわかるような事は止めなければならない。
したがって口唇部を慰める動作も形を変えなければならない。
赤ん坊時代に見られた母親の乳首や哺乳瓶吸いは、幼児期の慰めだけの乳首吸いに変わり、
次いで児童期の親指しゃぶりへと変形していく。
さらにこれは思春期になると爪かみとか鉛筆くわえに変わり、
大人になると、ガムをかむ、サングラスのつるをくわえる、タバコや葉巻をくわえる、パイプをくわえると
いうように変わっていく。タバコを吸う活動がもたらす報酬効果を、
ニコチンの楽しみだけで完全に説明することはほとんど不可能である。
それはちょうど、甘いものを飲むということが、
味覚に対する報酬効果だけの問題ではないのと同じである。
われわれが、幼い頃の安らぎを再現するときには、
口唇部への接触や口と舌の吸引運動が決定的に重要なのである。
拒否を示す「頭の横ふり」動作すらその起源は、
われわれのもっとも初期の頃までさかのぼることができる。
満腹になった赤ん坊は、ぐいと頭を横に動かして乳首やスプーンに盛られた食物を拒絶する。
言い換えれば、頭の横ふりは拒絶すなわち食物の拒絶動作として始まる。
大人の否定のサインは、ここから出発したと言える。
ところがわれわれはその由来を気にせずに、しかもそれが個人の
過去の遺物であるなどとはさらに考えずにそれを受け入れているのである。
赤ん坊は頭を横に向けて食物を拒絶するほかに、舌で食物を押し出す。
舌を突き出すことは、もうひとつの非常に基本的な拒絶動作である。
後年大人になると、それには二つの異なる用い方がある。
ひとつは困難な作業や技術に熱中しているとき、
もうひとつは、誰かを故意に侮辱するときである。
無作法に舌を突き出すことは、明らかに幼い頃の拒絶動作と関係があるが、
何かに熱中している時に舌の先端を突き出すことは、一見しただけでは説明がつかない。
しかしこの動作を大人ばかりでなく、保育所の子供、さらにはゴリラをはじめとする類人猿について
注意深く調べてみると、これもまた名残ジェスチャーの枠組みに入ることがわかる。
観察者は保育所の子供たちが、
社会的接触を避けようとするときに、舌を軽く突き出すことに気づいた。
子供たちは何かに熱中していて、急にそれが中断させられそうになると、舌の先端を突き出す。
これは、故意の無作法な舌出しジェスチャーのように、舌を目一杯突き出すのではなく、
唇の間から舌の先端が見える程度の無意識の動作である。
このジェスチャーは実は純粋な熱中のジェスチャーではなくて、
「このままほっといてくれ 」というジェスチャーであることが次第に明らかになった。
このことは子供たちが難しい宿題や面倒な手作業をやっているときに、
何故舌の先を見せるのか、という理由を明らかにする。
いったんこの動作が、社会的拒絶をあらわすジェスチャーだということがわかれば、
それは赤ん坊が乳首を拒絶する動作や、故意に行う侮辱の動作と同じ部類に入ってくる。
類人猿に目を転じると、そこにも同じ法則が当てはまることがわかった。
うるさい人なら舌を突き出すのは、
エロチックな場面では、拒絶どころか、“こっちに来て“の信号として働くではないか、
と反論するかもしれない。しかしこうした性的な舌のジェスチャーをよく調べてみると、
それはやや特殊な種類に属することがわかる。
舌は何かを押しのけてはいない。
それどころか舌は何かを捜し求めるようにまくれ 、そして動いている。
この動作は、赤ん坊の舌が乳首を押し出そうとしているときではなく、
求めているときの動作に関係があるように見える。
これは赤ん坊時代に発する心地よさを求める舌の動作で、
まったく別の種類の名残ジェスチャーなのである。
キスはこの範疇に入る。
昔、離乳食品がまだ作られていなかった頃の社会では、母親は食物を噛み砕き、
それを口移しで赤ん坊に食べさせることで離乳させた。
このために当然お互いにかなり舌を動かし、口を押し付けあうことになった。
このまるで鳥のような世話の仕方は、今日のわれわれには奇異に感じられる。
しかし人という動物種はおそらく100 万年以上にわたってそうしてきた。
今日の大人の性的なキスは、まず確実にこれに由来する名残ジェスチャーである。
ただこの場合には、今日このようにして赤ん坊に食物を与えないのだから、
個人的な名残ではなくて、有史以前からの名残である。
ギリシア人の侮蔑サインのように、代々それが伝わってきたのか、
あるいはわれわれには、その傾向が生得的に備わっているのかわからない。
しかしいずれにしても、現代の恋人たちがディープキスをしている姿を見ると、
あたかも赤ん坊に口移しで食物を与えた大昔に逆戻りしたような思いがする。
その他の多くの大人の動作も、おそらく同様にして過去にさかのぼることができるであろう。
大人の動作に名残の要素を見出すことなどいらぬことだ、という感想を述べる人たちがいる。
しかし実際にはまったく逆である。
われわれが今日現代の大人として、名残ジェスチャーを行うのは、
それが現代の大人としてのわれわれに価値があるからである。
何らかの理由でそのジェスチャーは、尚われわれの日常生活に生き残っている。
その由来を理解することは、われわれに対するその価値を理解するためであって、
それを”子供じみた“とか”古臭い“として葬り去るためではない。
前後に身体を揺すっている被災者が、かつて母親の腕の中で揺すられたときの慰めを
感じたならば、この気持ちによって、ふりかかった災難によりよく対処できるようになるであろう。
舌でお互いの口の中を探りあう若い恋人たちが、昔親にしてもらった口移しの満足を感じれば、
この感情はお互いの信頼を強め、またそれによって、二人の結合を強める助けとなるであろう。
これらは有用な行動型であり、フロイト流にいえば”退行的“ではあるが、
大人の生活において明らかにある機能的役割を持っている。
フロイトの理論がこれに批判的なことが多いのは、精神分析家が極端な形、
すなわち、大人の生活型に代わって子供の生活型に大幅に逆戻りしてしまったような
患者に遭遇するからである。
しかしフロイト派がそうしがちなように、このような名残ジェスチャーのすべてを攻撃することは、
ちょうど頭痛を治すのにアスピリンを飲んではいけない、
なぜなら何人かは重症のうつ病患者だからだといっているようなものである。
マン・ウォッチャーは病院ではなく日常生活で観察を行っているから、
このような誤りを避けるのにより適した位置にいるのである。
方言信号
―国による信号の変遷―
方言信号とは、限られた地理的範囲でしか通じない信号である。
仮に、ノルウェー人、朝鮮人、マサイ人の三人が絶海の孤島に取り残されたとしても、
彼らはお互いに基本的な気分や意向を、動作によって容易に伝え合うことができるだろう。
しかしそこには誤解も起きる。各人は自分の文化から、
他の文化では無意味な一組の特別な方言信号を習得しているに違いないからである。
もし、ノルウェー人が、スウェーデン人やデンマーク人と一緒に難破したのなら、
事態はもっと楽である。
なぜなら、彼らはいわば親戚なので方言ジェスチャーといっても、みな同じようなものだからである。
ジェスチャー の世界地図
ジェスチャーと言語の比較は重要である。というのは、
そうすればジェスチャーの地理学に関して、いかに無知であるかがすぐにわかるからである。
われわれは言語地図に付いては既に多くのことを知っているが、
ジェスチャー地図については殆ど知らない。
どんな国の言葉でも、言語学者のその通用する範囲を聞けば、詳しく正確に教えてくれるだろう。
どんな単語でも彼はどの国からどの国まで広がっているかを示すことができるし、
世界のある地域についてなら、地方独特の方言地図さえ描いてみせる。
しかしジェスチャーの世界地図を誰かに尋ねてみなさい。
あなたはがっかりす るだけだろう。しかしこの作業は着手されてはいる。
今や新しい野外研究が始まっている。
研究はその緒についたばかりだが、ヨーロッパや地中海沿岸における最新の研究は、
人が地方から地方へと旅するときに見出すジェスチャーの変化について
貴重な手がかりを与えてくれる。
たとえば人差し指で鼻の片側を軽くたたくという簡単なジェスチャーがある。
イギリスでは殆どの人がこれを秘密や内緒の合図と受け取る。
そのメッセージは「秘密だよ。しゃべったらダメ」である。
しかしヨーロッパ大陸を横断して中央イタリアまで来ると、このジェスチャーの意味は変わって、
注意信号になる。すなわち「気をつけろ、危ないぞ、彼らは悪賢いぞ」である。
この二つのメッセージには関係がある。
なぜなら、そのどちらも内緒ごとに関係しているからである。
イギリスでは秘密を隠しているのはわれわれであるが、
中央イタリアでは隠しているのは彼らであって、われわれは彼らを警戒しなければならない。
この鼻たたきジェスチャーは、どちらの場合にも隠すことを象徴化しているが、
誰がそうするかで違っているのである。
これはあるジェスチャーが遠く離れた地域で同じ形をしていて、しかも基本的に同じ意味を
持っているのに、二つの地域ではまったく異なるメッセージを持つ例である。
別の例は「まぶた触り」ジェスチャーである。
これは人差し指を下まぶたに当てて下に引っ張り、目を開く動作をする。
イギリスやフランスでは、
これは「馬鹿にするな、何をたくらんでいるか知っているぞ」という意味である。
しかしイタリアではこれは「目を開いておけ、気をつけろ、彼はいかさましだ」に変わる。
言い換えれば注意するという基本的な意味は残されているが、
“私は気をつける”から“君は気をつけろ”へと代わっているのである。
両方の例ともこのジェスチャーを別の意味に理解する人々がいないわけではない。
ジェスチャーの意味の取り方は白か黒かといった具合ではなく、
あるメッセージが他では優勢ではなくなるだけのことである。
このことは、地域的な意味の変化がごくわずかであることを推量させる。
たまたまあるメッセージが、ある地域を境にしてまるで変わってしまうこともあるが、
それにしても程度の問題にすぎない。
ある場合には現代の方言信号地図を、過去の歴史的事象に関係付けることが可能である。
指の背であごの下部を上前方へ払う「あご払い」というジェスチャーがある。
これはフランスと北イタリアでは、共に侮蔑的な動作である。
この意味は、「うせろ、おまえは私をイライラさせる」である。
南イタリアになるとこのメッセージはやはり否定的な意味ではあるが、侮蔑の意味はもたなくなる。
だからそれは「何もない」または「いいえ」あるいは「何もいらない」というだけになる。
この変化は、ローマとナポリの中間で起こることから、この違いが、
古代ギリシアが残した影響によるものではないかという興味ある可能性が生まれてくる。
ギリシアは南イタリアを植民地化して北へ広がったが、ローマとナポリの間でそれが途絶した。
ギリシア人は現在、南イタリア人とまったく同じやり方で「あご払い」をやる。
事実、このジェスチャーの分布は他の 2、3 のジェスチャーと共に
ギリシア文明最盛期の版図と驚くほどよく一致する。
われわれの言語や建物は、依然として古代ギリシアの影響を受け継いでいる。
だから、仮に古代ギリシア人のジェスチャーが同じように強固に保持されているとしても、
さほど驚くにあたらない。
興味深いのは何故これが時代と共に、もっと広がらなかったかということである。
ギリシアの建築様式と哲学は、さらにその影響を広げたのに、
あご払いジェスチャーはそうならなかった。
イギリスを含む多くの国々では、これはまったく行われず、
フランスなどの他の国々では、別の役割を持っているにすぎない。
別の歴史的影響は北アフリカに来るとはっきりする。
チュニジアではあご払いジェスチャーは再び侮蔑的意味を持つ。
すなわちチュニジア人はフランスのほうが地理的に遠いにもかかわらず、
“南イタリア式”ではなくフランス式あご払いをやるのである。
フランスとチュニジアに共通する他のジェスチャーから判断すると、
チュニジアにおけるフランス植民地化の影響は、日常的な身体言語にまで残されているといえる。
現代のチュニジア人はフランスの支配を受けなかった隣国のどれよりも、
ジェスチャーに関してはフランス的なのである。
このことは 他の社会事象と比べると、ジェスチャー が一般にかなり保守的ではないかと思わせる。
人々は、洋服の最新ファッションについてはよくおしゃべりをするが、
“新ジェスチャーの今シーズンのトップモード”などは聞いたことがない。
多くの風俗習慣、子供の遊びや歌などと同じように、
ジェスチャーも文化的な固執性が強いようである。とはいうものの、
時として新しいジェスチャーが、知らず知らずに受けいられて確立されてしまうことがある。
2000 年前、“ジェスチャーの強国”は、疑いもなくギリシアであった。
現在ではそれは「V サイン」や「親指立て」サインをつくったイギリス、
「OKサイン」をつくったアメリカである。
これらのジェスチャーは、ヨーロッパ大陸、および世界の他の国々まで広がっている。
しかしこれらは例外である。
現在、各地方で用いられる独特のサインは、
大部分が何百年も前に作られ、歴史を超えてきたものばかりなのである。
バトン信号
―言葉のリズムを強調する動作―
バトン信号は、話し言葉で表す思考のリズムに調子をつけるものである。
その本質的な役割は、話の強調点をはっきりさせることである。
それは言葉を発することと著しく密着しているので、
われわれは電話で話すときでさえジェスチャーをしてしまう。
バトンとは会話や演説に伴う一群の手の動作をさす。
活発に話をしている人の手は、
じっとしていることが殆どなく、言葉の音楽を指揮するかのように 、ひょいと振られたり、
すばやく動かされたり、上下に振られたりする。自分ではこの動きに半分しか気づかない。
手が動いていることは 知っているが、
自分のバトン信号を性格に記述せよといわれても、まずできない。
“自分の手をあちこち振っている”ことは認めるが、それ以上は言えないだろう。
しかし話しているときのバトン動作を映画で見せてやれば、
自分の手が空中を舞って形を変えるといった、
バレエそのものの動きをしていることを知って驚くだろう。
特に興味をひくのが、手のいろいろな格好である。
もしバトン信号が単に言葉の拍子を取るだけならば、これ以上付け加えることはない。
しかしそれぞれの拍子とりは、特定の手の格好で行われ、
しかもその形は、時により、人により、文化によって異なるのである。
手の拍子は「私が強調したいのは(この)点であり、(この)点であり、また(この)点であります」といい、
同時に手の形は「そして、こういう気持ちで私はこれらの点を強調しているのです。」といっている。
これらの拍子をとる手の格好を細かく分類し、その博物学を研究することは可能である。
以下、いくつかの重要なタイプを上げてみよう。
1. 架空つまみ
人間の手には物を持つ二つの基本動作がある。つまむとつかむである。
つまむためには親指と他の指の指先が用いられ、つかむためには手のひら全体が使われる。
例えば書き物をしたり、針の穴に糸を通すように、小さいものをそっと持って正確に扱うときは、
つまむ動作が起こる。話をしながらバトン信号をするときも、手に何も持っていないのに、
物をつまむ格好をする。言い換えれば、つまむ動作を架空で行うのである。
また非常に正確に表現したいという押さえがたい欲求を持っていることを表している。
彼の手は、今話している点が、いかに微妙であるかを強調しているのである。
この架空つまみには、よく知られた二つの変形がある。「指つぼめ」と「手指輪」である。
前者では指先全部が、口を紐で縛った巾着のように一点に集まる。
後者では、親指と人差し指の先が合わさって輪ができる。
これは架空つまみの中でもっともよく行われるもので、指つぼめよりも筋肉の力が少なくてすむ。
2. 意図つまみ
これは架空の小さなものをそっとつまもうとする意図運動である。
それゆえこの動作では、親指と他の指先が合わさるところまではいかない。
これが「空つまみ」で、話の正確さそのものよりも、正確さを求める気持ちを表している。
このときこの手の格好をする人の側に、問題点や不明確な要素があるのがふつうで 、
彼はあたかも何かを捜し求めているかのようである。
空中で振られるその手は、殆ど答えをつかみかけているのだが、まだ完全ではないといっている。
3. 架空つかみ
われわれは何かをつかまえたり、
ハンマーを握ったりする荒っぽい手仕事をするときには物を強くつかむ。
指は物をしっかりつかんで曲げられる。
これが実際にものがない状況で起こると、その程度が弱ければ軽い手にぎりになり、
程度が強ければ固い握りこぶしになる。
手にぎりの型では、曲げた指は手のひらに軽く触れているにすぎない。
これはどちらかといえば、気の抜けたバトン動作で、正確な思考も熱意もないことを反映している。
握りこぶしは、これとは逆に繊細さにかけているが、断定と思考の力強さを示している。
すべてのバトン動作の中で、握りこぶしは気分を伝えるもっとも明瞭なメッセージである。
それだけにこれは、わざともくろんだ動作として本来とは違う形で使われがちである。
優柔不断で混乱した政治家は、自己の精神力の強さと決断力を聴衆に信じさせようとして、
わざと偽って握りこぶしのバトン動作を使う。
言い換えれば、この動作は、余りにもわかりやすいので、
かえって背後にある気分を正しく反映しないのである。
4. 意図つかみ
聴衆をコントロールし、言葉でその場を掌握しようと努めてはいるが、
まだそうできないでいる話し手は、手で空をつかみかけ、そのまま止まった中途半端な動作をする。
これが「空つかみ」で、手のひらを広げ、指をわずかに曲げた形である。
手で空をつかもうとしているが、途中で止まっている。
5. 架空打撃
手つかむためではなく、無骨な道具としても働く。
取ったり、つまんだり、つかんだりする代わりに、切ったり、突いたり、たたいたりする。
しかしこの場合にも、これらは架空に行われる。つまり固い物体に対してではなく、
空気を切ったり、突いたり、たたいたりするのである。
「手刀」は手のひらをまっすぐ伸ばし、斧のように空中に振り下ろす。
これは自分の考えでその場の混乱を切り開き、望む方向へ話を導くことを望む。
積極的な話し手が用いるバトン動作である。
手刀の特殊形に「手鋏」がある。これは両腕を水平に交差させ、次に両外側へ切り払う動作である。
この手鋏バトンは、話し手の気分に強い否定や拒絶のニュアンスを付け加える。
この手鋏を用いると、話し手はあたかも反対意見を右へ左へ蹴散らして、
敵対する障壁を切り開いて進んでいるかのように 思える。
「手突き」バトンの場合には、指先が聞き手のほうへすばやく突き出される。
これもまた攻撃的であるが、この場合、攻撃はもっと個別的である。
それは一般的な問題ではなくて聞き手に関係している。
「空パンチ」は、バトン動作の中ではもっとも攻撃的で、固く握り締めたこぶしで、空をたたく。
それを行う人の気持ちは明らかである。
このバトンと、架空つかみである「握りこぶし」とはよく似ているが、
その区別は通常さほど難しくはない。握りこぶしは空をつかみ、空パンチは空をたたく。
どちらも攻撃的に振るが、こぶしでたたくという動作をするのは空パンチのほうである。
6. 手伸ばし
架空のものをつかんだり、たたいたりする代わりに、
手を単に体の前に出し、どちらかといえば中立的な格好で、指をそろえて手のひらを伸ばす。
この場合重要の手がかりは 手のひらの向きである。
「乞い手」は乞食が物乞いをするときの手つき。
この時の手のバトンは、聞き手に賛同をお願いしている。
「抑え手」は冷静な人が、相手をなだめる時の手つき。この手のバトンは、
相手の高まる気分を静め、それを弱め、統御するのに躍起になっていることを示す。
「押し手」は、抵抗するものが拒否するときの手つき。手のひらは向こうを向き、
あたかも前から近づくものを押しのけたり、話し手を守るかのようである。
そこに反映される気分は拒否である。
「招き手」は、安らぎを求める者を抱擁するときの手つき。
このバトンは、両手の手のひらを自分に向けて行われるのがふつうである。
まるで、そこにいない友人を抱きかかえているかのように 、手のひらを体の前に置く。
この動作はある考えを受け入れよう、論じられている問題を肯定しよう、
または他人を隠喩的に自分のほうに引き寄せよう、とする気持ちを反映している。
「立て手」は、握手する人が相手に手を差し出すときの手つき。
両手が握手をするように差し出され、そのまま上下に振られるバトン動作である。
これは相手に手をさしのべ、触れようとする熱意の表れである。
そこに込められた気分は、話し手と聞き手のギャップを埋め、自分の考えを何とか言葉で表して、
他人の心に到達しようとする強い願望であるように思われる。
7. 接触意図
指が一杯に広げられ扇形になると、そのバトンは特別な意味を持つ。
この「空接触」の動作は、プロの演舌家に特によく見られる。
話し手は、一本一本の指先が聴衆全員に届くように手を一杯に広げる。
指先で触れることが強調されるので、前に述べたつまみバトンと微妙に関係する動作である。
違いは指つぼめのように 指先が互いに接触するのではなくて 、
聴衆に接触しようとする意図運動だという点にある。
8. 両手にぎり
話し手が、両手を握り合わせると、それもひとつのバトンである。
自分の思考に拍子をつける代わりに、話しつづけながら“自分と手を握る”快感を味わっている。
しかしこの自己愛は、ある点を強調しようとする欲求と衝突することが多く、
握り合った手が連帯の安らぎと拮抗する葛藤が見られることがある。
両手は握ったままだが、話している考えが変わったときに手がギクシャク動く。
無言のままなされるこのバトンは、
人が社会的場面で生じた緊張で不安になり、心細くなってはいるが、にもかかわらず、
仲間に話し掛けたいという強い衝動を持っているときによく見られる。
9. 人差し指のバトン
手のバトンは、ふつう指全部を使うが、一本の指が中心的役割を演じる見慣れたバトン動作がある。
これはまっすぐに伸ばした人差し指によるものである。これにはよく知られた二つの種類がある。
ひとつは「指差し」バトンで、もうひとつは「指立て」バトンである。
前者では、人差し指を聞き手に向かって、または論議の的に向かって突き出す。
的を指差すことは独断的、かつ威嚇的動作である。
したがって、このバトンが規則的に繰り返されると、
聞き手に対する露骨な敵意や支配を意味するようになる。
この人差し指の突きは、現実には空間に向けられているだけであるが、
聞き手にとってはそれが自分の胸に差し込まれているように 感じる。
指立てバトンも、少し違った理由から威圧的、あるいは横柄な感じとして受け取られる。
ここでは人差し指は象徴的な棍棒や杖であって、
いつでもで象徴的な打撃を加えることができるように振り上げられている。
話し手が、このように空中に手を振り上げて拍子を取る動作は、威嚇的である。
なぜなら、それは人という種が原始時代に行っていた手を振り上げて打撃を
加えることに関係するからである。
幼い子供も類人猿も、基本的な攻撃動作として手を振り上げて打つ。
大人も街で暴徒化して暴力行為に夢中になると、決まってこの特有の動作をする。
これは、人という種の生得的行動型の例としてみなしてよいかもしれない。
したがって、人差し指を小型の威嚇道具のように高く振り上げて空を打ち、警告的に使うことは、
それが本物の武器を象徴するに過ぎないといえ、
深々と腰をおろしている平穏な聴衆には、興奮を呼び起こしやすいのである。
10. 頭のバトン
疑いもなく、手は最も重要なバトン器官であるが、体の他の部分も話すときの思考に拍子を
着けるのに使われる。頭は強調を加えたいときに軽く下げることで、補助的役割を果たすこと多い。
「頭下げ」とは、こくりと頭を下げ、次いでややゆっくりと元に戻す動作である。
この頭下げが現れるときには、同時に身体に軽い前傾運動が起きる。
これは多少攻撃的な意味を持つ。
事実、このバトンは、通常力強い攻撃的な演舌のときに行われるので、
頭下げ動作は突進しようとする意図運動なのであろう。
11. 身体のバトン
頭のバトンに似ているが、それが全身でなされるのが、「全身バトン」である。
これは話し手が文字通り話に夢中になっているときに見られる。もっとも劇的なバトン振りである。
音楽のバトンを振るオーケストラの指揮者は、このタイプの拍子取り動作をもっとも誇張して示すが、
聴衆を説得しようとして必死になっている熱狂的な演説者にもこれが見られる。
別の身体のバトンに、歌手の間ではおなじみの「体揺らし」がある。
彼らは歌の文句を強調するときに、まず体を片側に揺らし、
次には反対側に傾ける。したがって、それは必然的に音楽のテンポに合うことになる。
12. 足のバトン
ふつう話すときのバトンには、足は殆ど使われないが、ひとつだけ例外がある。
それは「踏み鳴らし」である。
この足のバトンは、例外なく話し手が殆ど怒り狂っていて、激しさを強調するときに見られる。
言葉である点を強調するごとに、足がドンと踏み鳴らされる。
このためにこの特殊なバトンは、こぶしで机をたたく場合と同じように、
見せるばかりか 聞くこともできる。
さて、以上が主要なバトン信号である。
それぞれその背後にある気分を推察できるが、いつもそうだと決めてかかってはならない。
それは多分そうなのであるが、確かではない。これには訳がある。
すなわち“個人的固執“の要因が加わるからである。
われわれはあるタイプのバトン信号を個人的に好む傾向がある。
そのために歳を取るにつれて、ますます気に入ったものばかりを使いがちである。
われわれのバトン握りのスタイルは、その時々の気分の変化に応じて変わるものである。
しかし正確にではないにせよ、各人の好みの手の格好は、
今簡単に分類した手の格好が示す気分よりも、ずっと広い範囲の気分を表現できるのである。
バトン握り行動に、これ以外の違いがあることも指摘されてきた。
ある国々は他の国々よりもジェスチャーが多いとか、下層階級のほうが上流階級より多くの
ジェスチャーをするとか、無口な人はおしゃべりの 人よりジェスチャーが多いとかいわれている。
国民性の違いは確かにあるようである。
映画のフィルムを調べると、地中海沿岸の国々では、北ヨーロッパの国々よりジェスチャーが
自由になされていることが確かめられた。
この傾向は国民性というよりは、地理的なものであろう。
はっきりしていることは気温の差に関係することである。
しかしそれが何故かは、まだ誰にも説明できない。
階層の違いもあるのだろうが 、これ今はまで誇張されすぎてきた。
ビクトリア朝時代、上量階級は社会的な禁制に反することは、すべて顔をしかめた。
そして腕や手を”話の補助“として生き生きと用いることは、
100 年前にロンドンで出版された「よい社会の習慣」の著者によって”粗野“だとされた。
しかしながらビクトリア朝の演舌家も自分の手のジェスチャーには気づいており、
聴衆に呼びかけるための有効な手振り法を述べた本を買うことも出来た。
だから、正確な状況把握が重要である。ビクトリア朝時代においてさえ、
事情は見かけほどには簡単ではなかったのである。
今日でも前の時代からの言語的影響が残っており、
感情を込めて手振りをするのは、みっともないと教えられた人の数も多い。
しかし今ではもはやひとつの社会集団を他から明確には区別できない。
どんな階層においても、極端に手振りの多い人と少ない人がいる。
バトン信号を読む
発音の明瞭さに関しては、確かな確証は殆どないようである。
発音の不明瞭な人は、手のジェスチャーでそれを補う。
つまり、なかなかつかまらぬ 言葉を手で探ろうとしているのだという考えがある。
このことも本当かどうかは簡単にはわからない。
発音の明瞭な人の何人かは体をさほど動かさないが、盛んに動かす人のほうがずっと多い。
現代最良の話術家の中には、大変手振りの多い人が幾人もいる。
逆に、発音が極めて不明瞭な人の多くは、
非常に無愛想で、彼らの手も言葉同様に表現力に乏しい。
集団間や個人間の差異以外に、同一個人でもその時々によってバトンを振る回数が違う。
バトンは強調と気分の両方に関係するので、
例えば、食料品の注文のように話がどちらかといえば事実を問題とする場合には、
熱狂的に信奉する信念について論じるときほど熱心に手振りを加えない。
同様にある人が皮肉屋でなく情熱家ならば、手振りは多くなる傾向がある。
情熱家は自分の高ぶりを他人と分かち合おうとするし、自分が重要だと思う点は、
ことごとく強調したいという強い欲求を持っている。
他方、皮肉屋のようは 自分の態度にすべて否定的なので、
そのような衝動に駆られることがないのである。
情熱家の行動は別の手がかりを与えてくれる。
彼は聞き手にも自分と同じ情熱を呼び起こそうとして、躍起になってバトンを振る。
彼は聞き手からフィードバックを多く受け取れば取るほど、うまくいったと思うものである。
成功したと思えば思うほど、無意識のうちに自分の話を強調しようとは思わなくなる。
だから、話に対する聞き手の反応は、彼のバトン信号の強さに影響を及ぼす重要な要因である。
全体として共感的で、感情を表に出す聞き手は、話し手の手振りを弱めがちである。
とはいっても、慎重で批判的な聞き手を目の前にすれば、
彼の手は再び盛んに空中を舞うことになろう。彼は相手に打ち勝たねばならず 、
そのために自分の言葉を何回も強調しなければならない。
このことを念頭におくと、大勢の人々に呼びかける演説家が、
私的な会話と比べて、何故あれほど多くの手振りをするのかがすぐにわかる。
同じ人でも一人の友人と話をしているときと、
たくさんの聴衆に呼び勝ている時とでは、後者においてバトン振りが多い。
この理由は、逆説的だが、彼はたくさんの聴衆よりも、
一人の友人からのほうが、より多くのフィードバックを受けているからである。
その友人はいつもうなずき、微笑んでくれるので話し手には自分の言葉が相手に伝わった瞬間が
ことごとくわかる。それゆえ手で強調を加える必要がない。
しかしたくさんの聴衆の一人一人は、
微笑み、うなずくというような一瞬一瞬の共感は示してくれない。
大勢のなかの一人であるということが、話し手との関係を非個人的なものにしてしまう。
彼らは話し手を眺め、最後に拍手で彼を褒め称えるときまでは反応を控えるのである。
話し手にしてみればあたり一面、顔また顔というのは挑戦的である。
彼らは親しい友人のように相づちなどうってくれない。いったい彼らは何を考えているのだろうか 。
自分の考えは伝わったのか。それとも何の感銘も与えていないのか。
無意識のうちに話し手は、
この際唯一の安全策として動作で強調度を高め、反応を確かめようと決心する。
そして私的会話の時の控えめな手振りは、演壇では派手な手振りに一変するのである。
最後に回数の差異だけではなく、「バトンスタイル」にも非常に微妙な差異がある。
しかしこの問題については、これまで殆ど研究がなされておらず 、
またバトン“方言”について詳しく述べるためには、
この後の野外研究によって上げられる成果を待たねばならない。
誘導サイン
―方向を示す動作―
誘導サインとは方向を示す動作である。
これはそれを見る人の注意と実際の運動を誘導する。
一言でいえば、誘導サインは方向指示器である。
これはこれまで学問的には「指示信号」の名で呼ばれてきたが、
この名称はなおさら曖昧なように思われる。
何かを指し示すとき、われわれは、この動作を至極簡単に行うので、
まったくあたりまえのことと思いがちである。
しかし人間以外の動物では何かを指し示すことは余りなく、
誘導サインを広く用いるのは人間独自の性質である。
事実、指し示すことは人という動物の特長であって、人は実にさまざまな方法でそれを行う。
最も簡単な誘導サインは、「身体指示」であり、
これのみが人間が他の動物と共通する指示様式である。
ある動物集団の中の一頭が突然生じた刺激に気づき、
それに向かってすばやく体の向きを変えたとする。この動作は仲間の注意を誘導する。
仲間は自分ではまだその刺激を見つけていなくとも、同じ方向に体の向きを変える。
われわれはこの動物の身体指示を利用することがある。
それはいみじくもポインターと名づけられた猟犬を使うときである。
人間の身体指示は、有名人が出席している会合ではいつでも見られる。
多くの体がその人を囲み、そのほうへ 顔を向けているので、
部屋に入れば有名人がどこにいるのかすぐにわかる。
また街角で人々が内側に顔を向けてからだの輪を創っているのを見ると、
われわれは何が起こっているのかわからなくても、大変好奇心をそそられる。
事故があったとき、人々は人の群れに向かって走るが、
それは内側に向いた身体指示によって誘導される。
その結果、人だかりは 急速に膨れ上がり、最後には大混雑になる。
人間の身体指示は、偶発ジェスチャーにすぎない。それをわざわざ信号として行うことはない。
つまり、同時に行われている他のことから生じる二次的なものなのである。
人という動物種でもっともよく知られた誘導サインは、いうまでもなく、「人差し指の指示」である。
街路で誰かに道を聞かれたとき、われわれは言葉だけ十分に教えてやれるのに、
必ずといっていいほど、補助として人差し指の指示を行う。
その指示が明らかに蛇足である場合でさえ、われわれはついそうしてしまう。
だから、世界中どの国でも見られるのがこの動作である。
指の指示がタブーとされるところでは、代わりに「頭の指示」が用いられる。
すなわち唇を開いたり閉じたり、突き出したりしながら頭を支持する方向にぐいと向けるのである。
頭の指示は中南米、アメリカで、またグルカ人やアメリカ・インディアンによく見かけられる。
頭の指示の別型に、内緒で行われる「目の支持」がある。
例えば、誰かが部屋に入ってきたことを、それが見えないでいるB に、A が知らせたいとしよう。
A はすばやくその方向に目を向け、ほんの一瞬強く見た後に再びBに視線を戻し、
Bがわかったかどうかを確認する。この欠点は、
Bがこのメッセージを受け取るまでAは何回も目の合図を繰り返さなければならないことである。
こては通常の「一べつ動作」をわざと強く行ったものではあるが、
そのやり方には微妙な注意が必要である。というのは、
Aがこの動作を余り大げさにやると、入ってきた人に知られてしまう。
とはいっても、ある程度強くしなければ、Bが見逃してしまうからである。
人差し指と手のひらの指示
人間の最も重要な指示器である手に、話を戻そう。
これにもいくつかの種類がある。
人差し指の指示に加えて、指を揃えた手のひらで指示をする「手のひらの指示」がある。
しかし人差し指の指示と手のひらの指示の違いは微妙である。
AがBに「駅はどこですか」と尋ね、Bが「このずっと先です」と答えたとしよう。
このときBはおそらく人差し指を使って駅の方向を指示するに違いない。
ところが、もしAが「駅にはどう行けばいいのですか」と尋ね、
Bが「ここをずっと歩いていきなさい」と答えた場合には、Bはまず間違いなく、
指を揃えた手のひらで歩いていく方向を指示するだろう。
言い換えれば、指示する手のひらは道順を示す「誘導サイン」であるが、
指示する指は、多くは探している目標の位置を示す。人差し指は目標めがけて放たれる矢である。
この比喩が適切であることは、
多くの部族社会では、目標までの距離が人差し指の角度で示されることでわかるだろう。
「いちばん近い池はどこか」という問いに対して、
それがすぐ近くなら彼らは指を殆ど水平にして指示するが、もし遠ければ幾分上向きにする。
ずっと遠ければ、矢を遠くまで飛ばそうとするときのように人差し指をもっと上向きにするのである。
ギリシアとイタリアの一部では、この象徴化が特殊な形を取ることがある。
つまり、「
人差し指のジャンプ」である。これは人差し指を伸ばして孤を描くように前に
ジャンプさせる動作で、そのジャンプの数は今日から数えて何日後かを表す。
これは空間ではなく、時間の方向を指示する誘導サインである。
これを使えば若い男女は、
人の大勢いる部屋の端と端で、言葉を交わすことなくデートの約束ができる。
そのやり取りは例えば次のようである。
男 いいたい事 明日の午後五時に会わないか?
動作 1 人差し指で女を指し、次に自分を指す「=われわれ」 2 人差し指を一回ジャンプさせる
「=明日」 3 ご本の指を開いてみせる。「=午後五時」
女 いいたい事 ダメ、でもその次の日ならいいわ。
動作 1 頭をのけぞらせる。「=ダメ」 2 人差し指を二回ジャンプさせる。「=明後日」 3 ご本の
指を広げる。「=午後五時」
二本指の指示は人差し指と中指を用いるもので、一般的な誘導サインではないが、
人差し指による目標指示と、手のひらによる道順指示の中間形として用いられる。
最後に親指の指示がある。これには古代の血塗られた歴史がある。
ローマ時代、これは死を意味する誘導サインであった。
剣闘士が格闘場で闘いに敗れると、彼は許されるか、さもなくばその場で勝利者に
殺されるかであった。そのとき、大勢の観客は自分たちの親指で、
その決定に影響を与えることが出来た。
その生か死を決める親指のジェスチャーは、
生を願えば親指を立てて、死を望めば親指を下に向けることだと広く信じられてきた。
しかしこれは古代の書物を誤って解釈したためである。
これらの書物を調べなおしてみると、
“親指を立てる”とは、実際には“親指を隠す”―親指を握りこんでしまうことであり、
一方“親指を下に向ける”とは、実は“親指で下を指す”ことが本当らしい。
聴衆は闘技場の上のほうに座っていたので、
親指で剣闘士を指すとすれば、親指はおのずと下向きになる。だから、
この生と死のジェスチャーは、生を願えば親指を隠し、死を望めば親指で指すことであった。
われわれは今日、親指を立てる、親指を下に向けるという変型を使っているために、
古代のサインに関するこのような解釈は、信じられないであろう。
しかし親指を立てる―p
o
l
i
c
e compresso―という言葉は、
もともと文字通りイタリア語の“親指を握りしめる”という言葉から由来している。
ただ現代では、殆どこれは承認を表す親指のサインとして用いられている。
この古代の動作は、単純な模倣に由来したと思われる。つまり、
手を握り親指を下に向けてつく動作は、敗者を刀で突く動作の真似である。
それは観客が勝者に向かって敗者を殺せとあおる、剣なき突き殺しである。
その反対の信号、つまり敗者の命を助けよ、突き殺すなという信号は観客が親指を
はっきりとにぎり隠した手を前に出した。
おそらくこの古代からの遺産のために、イタリア人は今日でも、イギリス人やフランス人と比べると、
親指を立てるジェスチャーを“OK”“すてき”“よし”といった意味で使うことが極めて少ない。
この点を調べてみると、イギリス人とフランス人の 95%がこのサインをこのように使うと答えたのに
対して、イタリア人ではそれはわずかに 23%であった。
さらに重要なことに、イタリア人の多くはこのサインを“イギリス式のOK”信号だとみなしており、
それを映画やテレビで見たことがあるといっている。
それゆえ、古代ローマの文献の誤訳に端を発したこのよく知られた親指立ての仕草は、
実際にはその発祥の地ではないローマに“帰りつつある”ように見える。
この親指の使用法とはべつに、もっと一般的な方向を示す親指の指示がある。
それはかなりぶっきらぼうな 感じを与える動作、つまり意地の悪いいらだたせるジェスチャーである。
A が忙しい最中に B からあれはどこにあるのかと聞かれたとす る。
A はその方向を親指でつついて示すだろう。この動作はどちらかといえば失礼とみなされる。
その理由を考えてみよう。A はとにかく必要な情報は与えた。B を無視したわけでもない。
それならB は A が親指で示したのを見て何故多少とも侮辱されたと感じたのだろうか 。
これは親指が“粗野な指”とか“力指”とか呼ばれていることに無縁ではない。
われわれは何かを力いっぱい押さえつけるときには、他の指よりは親指を使うし、
きつく物を握るときには親指の強さを残りの四本の指の強さに負けないようにする必要がある。
ある人を支配下に置くことを“親指の下”に置くという。
だからある方向を親指でつつくことは無意識的に身体的強さを示すことになる。
このジェスチャーは背後に潜む力を暗示するので、
下位のものから上位のものに向かって行うことは滅多にない。
故意に無礼な態度を取るのでなければ、
後輩が先輩に対して親指でつついて方向を示すことはまずない。
唯一の例外は、自分の肩越しに方向を示す場合である。
丁寧な人は体を回して人差し指で示すだろうが、
振り返るのが難しい時には、肩越しに親指を使って指示してもよい。
この特殊な例がヒッチハイカーで、彼らは走ってくる自動車のほうを向いて、
親指で背後の道路を肩越しに指し示すのである。
招きの誘導サイン
指示というジェスチャーの他に“招き”と呼ばれる別の範疇に属する誘導サインがある。
この場合には示す方向がたった一つ、すなわち自分自身しかない。
それは“こっちへ来い”の信号で、これにもいくつかの種類がある。
招きの中で、もっとも普通に行われるのが「手招き」である。
これは親指以外の指を一緒に開いたり閉じたりする動作である。
手のひらを上に向けて行う人もいれば、逆に下に向けて行う人もいる。
どちらを行うかはどこの国に住んでいるかによる。
イギリス人やフランス人ならば、
招くときには必ず手のひらを上向きにするが、イタリア人は殆どが手のひらを下向きにする。
これはイタリア人のさようならのときに手を振る動作が、
英仏式の招き動作と非常に似ているためである。
もしイタリア人が英仏式のスタイルで手招きをすれば混乱が生じるであろう。
その他の国では、手のひらを上向きにする手招きが圧倒的に多いが、
下向けにする形は、アジアとアフリカ、そしてスペインと南アメリカの国々に多く見られる。
人差し指招きは手招きほど一般的ではない。
イギリスではこれには軽いからかいやいやみの意味が加わる。
フランスではこの意味は殆ど泣く、イギリスに比べるとほぼ二倍多く使われている。
イタリアではこれは殆ど見られないが、
手のひらを下向けにする人差し指招きはこれよりもさらに少ない。
質問された 300 人のイタリア人のうち、それをするのは 5 人「1.7%」にすぎなかった。
別のまれな例は「二本指招き」である。
イギリス人とフランス人のわずか 8%、イタリア人ではまったく見られない。
この理由はよく知られているわいせつな動作である「二本指勃起」に似ているからであろう。
もっと熱心に招こうとする場合、例えば親が遠くからこの信号を子供に送るようなとき、
腕全部を動かしてメッセージを目立たせることが多い。
「腕招き」はこのジェスチャーの中ではもっともポピュラーで、
「こっちへいらっしゃい」というよりも「こっちへ来い」と、命令している。
遠距離から行う別の招き信号は、「人差し指の上方回転」ジェスチャーである。
人差し指をまっすぐ上に伸ばし、強く回転させる。
これは多くの軍隊でよく見られるが、北アフリカのベドウィン人が使っていると報告されている。
つまりこのジェスチャーはベドウィン人の動作に由来し、軍隊がそれを借りたものらしい。
北アフリカに見られる別の特殊な例として、数を含んだ招きがある。
大勢の人がいて、そのうちの一人だけを呼びたいときには人差し指一本を用いる。
二人を呼びたいときには人差し指と中指を使う。
もし三人ならば、薬指も加えて三本の指を使うのである。
この風変わりな招きは、チュニジアにもあることがわかっているが、
それがその地方の特殊性なのか、より一般性をもつものなのかはまだ不明である。
芝居じみたかなりいやみな“教師風”の「指送り招き」がある。
これは四本の指を一度に曲げるのではなく、
小指から始めて人差し指まで、波の動きのように順順に指を曲げていくものである。
コメディアンの中にはこれを“抑制された激怒”を模倣したサインとして使うものもいる。
もともとそれは通常の手招きでつかむ動作の合成だったのであろう。
最後に「首招き」がある。
これは一般に手がふさがっていて、普通の招き動作ができないときに使われる。
この特殊な例外が気脈を通じた首招きで、
これは「こっちへいらっしゃいよ」という性的な信号である。
首をほんの少し曲げる動作で、ベッドへの誘いを意味している。
しかし現在では、それは本当に性的な状況ではなく、
わざとセクシーに見せるという冗談で用いられることが多い。
指示や招き以外にも一般的な誘導サインとして働く手と腕の動きには、いろいろなものがある。
片手を上げ、手のひらを前方に向けて、押し戻すようにする「手戻し」ジェスチャーは、
仲間をそこから退くように誘導する。
方向を伴った「手ばたき」は、手の動く方向に仲間を誘導する。
また「手上げ」は上を、「手の下突き」は下を示す。
まとめるとこれらの誘導サインの多様性から見て、
人間は動物界の中で最も優れた、そして労をいとわない指示者であるといえる。
われわれはこれらを当たり前のことと思っているが、
いろいろなタイプの方向を示す信号に含まれる微妙な違いを思うと、
ここにもジェスチャーによる複雑なコミュニケーションの世界があり、
人間はそれによって、物、場所、自分の周りの人々の“位置”を、実に正確に表現できるのである。
肯定・否定の信号
―肯定・受諾、否定・拒絶を示す方法―
多くの人々は肯定を表す方法と、否定を表す方法には首の縦振り「うなずき」と
首の横振り「いやいや」しかなく、これらの動作が世界中に分布していると思い込んでいる。
それは殆どあたっているが、完全にそうだというわけではない。
ある地域にはそこでしか肯定や否定として使われない変わった頭の動かし方がある。
そのために旅行者はそれがわかるまでは困った思いをする。
以下、五つの主要な頭の動作をあげる。
1. 首の縦振り
頭が垂直方向に一回、または何回か特に頭を下げるときに上下する。
これはお辞儀をしかけて止めた形で、いわばお辞儀動作の始めの部分である。
お辞儀は服従するときに身をかがめるという世界共通のシステムの一部なので、
首の縦振りが世界中に見られ、それが常に肯定サインであって、
決して否定サインではないとわかってもべつに驚くことではない。
オーストリア原住民も初めて白人とであったとき、
肯定を表すのに首の縦振りをしたことがわかっている。
オーストリアの原住民に加えてアマゾンのインディオ、エスキモー人、フェ−ゴ島人、パプア人、
サモア人、バリ島人、マレー人、日本人、中国人、そして多くのアフリカ原住民も、
肯定の首の縦振りをすることが記録されている。
また、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの白人の殆ど全部がそうで
ある。さらには先天的な盲聾者、口のきけない小頭症の患者もこれをするとの記録さえある。
この驚くべき一覧表は、人という動物にとって肯定のための首の縦振りが、
生得動作であることを強く示唆している。
もしそうならば、肯定のときに別の頭の運動をする人々には特別な説明が要る。
ただその場合その動作は首の縦振りのジェスチャーに取って代わっているのではなく、
これに付け加わっているという可能性がある。
例えば旅行者によると、
スリランカでは首の縦振りの代わりに「首かしげ」が見られるといわれていた。
この地方の人々はある提案に賛成するときには、
頭を上下に振るのではなく、頭を左右に傾けるというのである。
よく調べてみるとこのケースは同意する場合に限って当てはまり、
事実に関する質問にはよく知られている首の縦振りで答えているのがわかった。
だから、肯定の種類によって頭の動作が変わるのである。
殆どの人は、どんな質問に対しても縦振り反応によって肯定信号を出すが、
どういう種類の肯定であるかによって違った反応をする人もいるのである。
首の縦振りには以下のようないくつかの基本的な肯定の種類がある。
確認:「はい、ちゃんと聞いています」
激励:「はい、非常にいいですね」
理解:「はい、あなたのいいたいことはわかります」
同意:「はい、そうおもいます」
事実:「はい、その通りです」
もしどこかの地方でこれらのうちどれかひとつに、縦振り以外の頭の動作がなされると、
異なっているというだけで、通りすがりの旅行者の目をひきやすい。
そこで旅行者は、
肯定の信号体系が全部異なるという不正確な話を持って帰ってしまうのであろう。
2. 首の横振り
頭を同じ強さで水平に左右に振る。これは否定反応のもっとも一般的な形で「私にはできない」「私
はするつもりはない」から、「私は不賛成だ」「私は知らない」までの広い範囲の否定を含む。
それはまた不満や困惑を表しもする。
首の横振りも首の縦振りと同じように、事実、世界中に見られる。
そしてこれもやや異なる否定反応が用いられている地域においてすら、
普通に使われつづけている。
先に触れたようにこれはもともと乳首や哺乳瓶、
あるいは食物を盛ったスプーンを拒絶する赤ん坊の動作に由来すると考えられる。
両親が食物をしつこく与えようとするときに、赤ん坊が示す拒否反応は、
顔を一方の側へ、次に反対側にひねり、欲しくない食べ物から顔をそらすことである。
このように頭を左右に振ることが、大人の首の横振りの出発点とみられ、
それがいつも拒否の信号であるということを説明している。
3. 首ひねり
首をすばやく片側にひねり、元に戻す。
これは首の横振りの半分の動作だが、殆ど首の横振りと同じ意味を持つ。
これはエチオピアの一部などで拒否サインとして使われており、
いっそう明らかに子供が口に押し付けられた食べ物を拒絶する動作と関係がある。
4. 首かしげ
逆さの振り子が円を描くように頭をリズミカルに左右に傾ける。
殆どのヨーロッパ人にとってこの動作は、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」を意味する。
しかし、ブルガリア、ギリシア、ユーゴスラビア、トルコ、イラン、ベンガル地方の一部では、
この頭の振り子運動は、ごく普通の首の縦振りの代わりとして用いられている。
これらの国々ではこれは「かもしれない」ではなくて、肯定を意味する。
そしてこの動作は一般的な首の横振りと非常によく似ているので、多少とも混乱を招く。
首の横振りをするロシアの兵士が、19 世紀にブルガリアを占領したとき、
彼らはこの地方の人々を理解するのに苦労した。
ブルガリア人のはいは、ロシア人のいいえと大変よく似ていたからである。
これを解決するのに、はいを意味する時には首を横にかしげ、
自分たちの否定の首の横振りをつとめてしないようにした。
これで万事うまくいくはずであったが、実はよりいっそう大きな誤解が生じた。
というのは、ブルガリア人はロシア兵が自分たちのやり方に切り替えてくれているのか、
ロシア風のやり方をしているのか、確信が持てなかったからである。
ブルガリア語のなかには、
肯定としての首かしげの由来に、手がかりを与えてくれるいくつかの慣用句がある。
例えば「私はあなたに耳をあげる」とか、「私は全身これ耳である」といった言い方である。
これらの慣用句は、首をかしげる動作が、
仲間に注意を向けて耳を傾ける動作の様式化された形であることを暗示している。
肯定的に関心を示すことが一般的な肯定になるのである。
5. 首もたげ
頭をぐいと後ろにもたげ、ややゆっくりと元に戻す。
これはほぼ首の縦振りの逆で、多くの地域で否定を示す特殊なやり方である。
多くの信号は、対照原理にのっとって働き、これはそのひとつの例である。
この原理はごく簡単にいえば、二つの信号が互いに逆の意味を持つときには、
その基本的動作もまた、形や方向が互いに逆になることである。
例えば優位姿勢では、からだを高くそびえさせるが、服従姿勢では体を低くかがめる。
これと同様に首の横振りが肯定を意味するならば、否定サインはその逆になることが期待される。
下方への縦振り動作の逆として二つのやり方がある。
ひとつは横振り動作、すなわち首の横振りであリ、もうのひとつは上向きの首もたげである。
首もたげは首の横振りに比べて、おそらく不明瞭なためであろうか 、
限られた地域でしか使われていない。
この動作の中心地はギリシアなので、このために時に“ギリシア人の否定”といわれることがある。
しかし多くの地中海沿岸の国々にも広がっていて、今日ギリシアばかりでなく、キプロス、トルコ、
ユーゴスラビア、一部のアラブ諸国、マルタ島、シチリア島、そして南部イタリアでも見ることができる。
この範囲は、あご払い「方言信号として前に述べた」と同様に、
古代ギリシア最盛期の勢力範囲と驚くほどよく似ている。
そしてこれはまさしくギリシアの植民地であったこれらの地域に、
2000 年以上も生き残ってきた古代ギリシア人のジェスチャーである。
この検証のため、特別な研究が中央イタリアで行われた。
その結果、ローマ市民はいまだに、首の横振りで否定を示し、
ナポリ市民は首もたげでそれを示しつづけていることがわかった。
この二つの都市の中間にある町をくつか訪れてみると、きわめてはっきりとした境界線があって、
ナポリ市の北にある最初の山脈と一致することが明らかになった。
この南側では首もたげを、北側では誰もが首の横振りをする。
首もたげに関する限り、ギリシア人はイタリア南部から決して立ち去ってはいないのである。
しかしイタリア南部の大部分の人々は、
必ずしも首もたげをすべての否定表現に使っているわけではない。首の横振りも少しは見られる。
特に、事実関係の否定では首を横に振る。首もたげは感情的な否定の色彩が強い。
「いや、君はそうしてはいけない」とか、「それはよくない、絶対に」とかである。
しかも時には口をとがらし目を吊り上げ、眉をあげ、舌打ちをしてそれを強調する。
距離が少し遠くなると、指の背であごの下を払いのけるあご払いをしてそれを強調したりする。
ややこしいのは世界には首もたげがまったく別の意味を持つ地域があることである。
ニュージーランドのマオリ族、ボルネオのダヤク族、多くのエチオピア人にとっては、
首もたげは否定ではなくて肯定を意味する。
これがかなり世界中に分布した理由はわからない訳ではない。
問題が一瞬の洞察で解けたときに誰でもやる反応に、
いわゆる“ああ”反応がある。これは首をちょっとうしろにもたれさす動作で
「ああ、そうだ。これだ」という驚きに似た喜びの瞬間を表す。
だから、おそらく「ああ、そうだ」は、単純な肯定信号に発展することが可能である。
これは首もたげが個々別々の地域にしか見られず、何故首の縦振りや首の横振りのように
世界中に知れ渡るサインとはならなかったかを、別の角度から説明している。
要するにこの動作にははっきりとした特徴がないのである。
以上五つの主な肯定・否定の信号はすべて首の動きである。
しかし肯定や否定を表すには他の方法もある。
そのひとつが手を使う方法である。親は子供にそれをしてはいけないと警告することがあるが、
そのとき首を横に振らないで人差し指を横に振ることがある。
これは代替信号の例で、“代わりになる”身体の一部を使うのである。
ここでは首の代わりに人差し指が横に振られる。
手はいわば首の動作だけを借り、さらにスピードと意味を強めることができる。
心配し怒っている親は、
首を使うよりはもっと強力で激しく早い横振り信号を、人差し指で子供に送ることができる。
別の種類として、手のひらを横に振ることがある。
これは指と同じ動作であるが、人に向けて手のひらを振る点が違う。
アメリカ・インディアンの手話言語の研究者によれば、
彼らの手の肯定信号は、人差し指を下に向けて上下させることである。
これは別の代替信号で、肯定の時に首を縦に振る代わりに、
手を上下させる“手のお辞儀”あるいは“手のうなずき”である。
インディアンの肯定は、手を持ち上げることだが、
これは前に述べたように代表的な首動き、この場合は上向きの首もたげの模倣である。
凝視行動
―じっと見る目、ちらりと見る目―
人が出会い目が合うと、二人は自分たちが葛藤状態に陥ったことに気づく。
二人はお互いに視線を合わせたいと思うが、同時に目をそらせたいとも思う。
そのために目はあちこちに一連の複雑な動きをしてしまうので、
この「凝視行動」を注意深く研究すれば、二人の関係について極めて多くのことがわかる。
人間の一瞥「ちらり目」に関する法則が、
非常に複雑なわけを理解するためには、次の事を十分知っておく必要がある。
すなわちわれわれが誰かを見たいと思うにはひとつではなくいくつかの理由があること、
さらに誰かから目をそらせたいと思うのにもいくつかの別の理由がある、ということである。
初めてお互いに強く引かれるものを感じた若い恋人たちの場合は、
いくつかの非常に際立った凝視の型が見られる。
もし、彼も彼女も大変恥かしがり屋ならば、お互いに目をそらしている時間はとても長い。
話をする時にも、彼らはほんの一瞬しか目を合わせないし、殆ど下ばかり見つめているか、
お互いに反対のほうを見ているかである。余り熱心に地面を凝視するので、
傍から見るとそこに何か素敵なものが落ちているに違いない、とさえ思える。
彼らの視線はまるで小さなほこりの上に集中してるかのように動かない。
しかし実際は、不安と性的誘引とが葛藤しているために、
目をどこに向けてよいのか、わからなくなっているのである。
付き合いが深くなるにつれて、不安は減り、恋人たちは頻繁に目を合わせるようになる。
しかしそうなってもまだ恥かしさが残っているので、お互いに面と向かって見つめあう代わりに、
典型的な横目使い「羊の目つきとも言われる」が続けられる。
しかしこのような一瞥は以前より増えて、その時間も少し延びる。
もし一方だけが大胆になると、依然として地面の大切なほこりから目を離せないでいる相手に、
うっとりとした熱っぽい視線を向けるようになる。
「彼は彼女から目を離すことが出来なかった」とか「彼は私をじっと見つめつづけた」などは、
この段階の二人の関係を描写するのに用いられる決り文句である。
ついに二人がまさしく親密になり、不安がすべて消え失せてしまうと、
彼らは寄り添って座り、長時間お互いの目を見つめあうようになる。
彼らは穏やかに語り合い、やさしく身体を寄せ合って、滅多に視線をそらせることがない。
それゆえこの長時間凝視は愛のサインと呼ぶことができる。
ここでまったく別の種類の感情的な出来事に目を転じてみよう。
愛情ではなく地位が問題となる場合には、視線はどうなるであろうか。
仮に部下が何かへまをしでかし、上司に呼びつけられて叱責されたとしよう。
部屋に入ると部下は上司の顔をうかがい、気分を示すサインを読み取ろうとするが、
上司は机の向こうに静かに座り、窓の外をじっと見つめている。
彼は部下を一瞥もしないで、そこへかけろといい、窓の外を見つめたままで叱責し始める。
部下の言い訳にいらだった上司は、
突然くるりと向き直り、怖い顔つきで視線をそらさずに、この不運な部下をじっとにらみつける。
上司がそのままじっと見つめるので、部下はもう彼の目を見ていることが出来なくなる。
不安のうちに部下は目をそらし、上司の気分の変化を知ろうとして、ごくたまに視線を戻す。
部下が極端に目をそらすと、上司からは彼の顔が見えなくなってしまう。
文字通り部下は“面目を失う”のだ。
優位者は「私は君から目を離さないぞ」というような文句で威嚇しながら、
まさにそのとおりに 、いまや劣位者になった部下の顔を穴のあくほど見つめる。
しかし優位者がやりすぎると、劣位者の堪忍袋の緒が切れる。
劣位者はがばっと立ち上がり、優位者に向かって叫び始める。
気分が急激に変わり敵意が剥き出しになると、劣位者の凝視行動も一変する。
今や彼もまた敵をしっかりと見つめ、二人はお互いににらみ合う。
自制心を失った劣位者は、机を回って上司に飛びかかり、殴り倒してしまう。
優位者は一転して、身の安全を脅かすパニックと不安に襲われ、
同時に顔の表情にも大きな変化が生じる。
しかし彼は怒っている敵対者を見つめ続ける。
とは言えこの場面では、彼の凝視は攻撃ではなく、不安に満ちたものである。
自分自身を守るためには、攻撃者から一瞬たりとも目を離すことができないのである。
このエスカレート
した情景には、凝視行動の明確な変化がいくつかある。
まず誇張されたわき見には、受動的優位と受動的劣位の両方があることがわかる。
優位者は動作を起こす前には、横柄に劣位者を無視し、
あたかも部下など一瞥する価値もないかのように 窓の外を見つめていた。
劣位者のほうもにらみつけられると落胆して視線をそらし、屈するように目を伏せた。
また敵対者を強く凝視することには、能動的攻撃と、能動的不安の両方があることも示された。
怒っている優位者、乱暴を働く劣位者、そして最後に恐慌をきたした優位者、
そのどの場合にも直接的な威嚇として、あるいは油断なく攻撃のサインを見張る手段として、
敵対する相手を凝視したのである。
上に述べたボルテージの高い愛と憎しみの場面をまとめると、
相手に向ける直接の凝視は、愛、敵意、恐れというきわめて積極的な感情を意味し、
他方、相手から目をそらせることは 、恥じらい、さりげなく示す高慢さ、しおらしい服従を示すといえる。
基本的には凝視には二種類―視線をはずすと向けるーしかないので、
三つの主要な感情―愛、怒り、恐れ、―のうちのどれが生じているかは、
それに伴う顔の表情で伝えられることになる。
ここに描かれたような 強い感情場面では、顔の表情は剥き出しで、間違うことはない。
しかしこのような場面は比較的まれである。
社会的出会いの大部分は、これと比べれば、もっと穏やかで弱いものである。
性的興奮、敵意、恐れが多少あったにせよ、
これらは社会的な礼儀正しさの影に隠されがちである。
パーティー、会合、夕食会、あるいは何か別の集まりで話し相手が飛びきり魅力のある
女性であっても、おそらく男は露骨に好色的な表情を浮かべて、本心がばれるようなことはしない。
その代わり単なる友人程度に見られるような会話をつとめて続けるだろう。
別の男は、招かれた家の主人が殊のほか腹立たしく思えても、敵意の表情を押さえる。
また別の男は、強烈な個性を持つ仲間にひどくおびえても、
顔にはあからさまな不安の表情は浮かべない。
このように穏健な状況のもとでは、さほど強くない感情なら自制することができ、
その際の外部への表出は、殆ど画一的に“うなずきと微笑”になってしまう。
しかし微笑は凝視よりも自分で制御しやすい。
われわれはおしゃべりをし、酒を飲むとき、自分の目の動きが変わることに殆ど気づかない。
しかし実は、仲間との会話の最中に彼を見つめる、または彼から目をそらせる時間は、
わずかに、ほんのわずかに変化するのである。
見つめ、そらせるバランス
美人の同僚がいつになくセクシーだと感じた男は、ほかならぬ 自分の凝視に感情を表してしまう。
すなわち目があうといつもよりちょっとだけ長く彼女の目を見つめる。
退屈で魅力のないホステスとしゃべる羽目に陥った男は、にこやかな微笑を浮かべているものの、
彼女をチラッと一瞥する時間が短くなることで内心を示してしまう。
同様に微笑はしているが、むしろ敵意を持った高慢ちきな客は、
他のホステスに向かって不必要に長い凝視をする傾向がある。
そのような微笑を向けられて内心穏やかでなくなった犠牲者たちは、
目をそらせることがずっと多くなる。
このような場面では、あなたを“長凝視”する客は、
あなたを気に入っているのかあるいは、はっきり嫌っているのかわからない。
これを凝視行動だけから知ろうとしても無理である。
視線方向からわかることは 、
あなたに向ける注意がいつもよりわずかに多いか少ないかだけである。
そのような注意が正確にはどのような性質を持つかは、これとは別の非言語的手がかり、
すなわち礼儀正しい微笑では覆い隠すことができない手がかりに求めなければならない。
しかし直接の凝視のわずかな増加とわずかな減少は、
非常に重要な社交上の手がかりであることには変わりがない。
われわれは仲間とあって話をするときには、いつも無意識のうちにこの手がかりに反応している。
実際、それはきわめて重要なので、人間には特殊な顔面要素である白目が発達している。
すなわち白目はわれわれの一瞥をぐっと目立たせるのに役立っている。
人以外の霊長類には白目がなく、視線の動きは大変わかりにくい。
しかしいうまでもなく、われわれは話をするときに、
目と目を合わせた関係を何時間も続けるわけではない。
事実、視線の交換をこれほどまでに重要なものにし、有効な人間の信号手段にしているのは、
言語能力の進化なのである。
熱心に話し合っている二人の目を観察すると、
視線が非常に特徴的な“ダンス”をしていることがわかる。
話し手はまず相手をちょっと見てから自分の言いたいことをしゃべり始める。
次に思考と言葉に弾みがついてくると、目をそらせてしまう。
話の終わりに近づくと、再び相手に視線を戻して、自分の言ったことの効果を知ろうとする。
彼がこのようにしている間、相手は彼をじっと見ているが、
話し手にまわると、目をそらせて、話の効果を確かめようとするときだけ相手に視線を戻す。
このようにして、話と目ははっきりと予測できるパターンで行きつ戻りつしている。
普通の会話において、二人が相手の注意の変化に気づくのは、
話し手の役を相手に譲り渡すときの、チラッと目が合う瞬間である。
つまり彼は相手の美人の話に答えてしゃべり始め、
ふつうならば目をそらす時点まで来ても、尚彼女を見つめたままでいる。
このため、彼女は不愉快になる。
なぜならば 、彼女は彼と目を合わせたままでいなければならないか、
それとも彼が話をしているのに、目をそらさねばならなくなるからである。
もし、彼が話を続けているうちに目をそらし、
それを彼がずっと見つめていることになれば迷惑なことに、
彼女は“恥かしがり”の範疇に入れられてしまう。
もし彼女が大胆にも彼の目を見つめつづければ、
これまた迷惑な話ではあるが、彼はこれを“恋人の目つき”と解釈してしまう。
殆どの社会的集団には、これ以外にもいろいろな凝視がある。
例えば、大変くどい人がいる。彼は非常に口数が多く、長くしゃべりすぎるので、
自分が言っていることに対する他人の反応を確かめるために、話の終わりまで待てない。
その結果、話の途中から視線を相手に戻してしまうことになる。
次に、目をきょろきょろさせる人がいる。彼は大変神経質なので、
神経質な注意「相手を一瞥する」と神経質な服従「相手から目をそらす」の間を激しく往復する。
彼の視線は頻繁に行きつ戻りつするので、相手はとても不快になる。
さらに熱狂的な“ファン”がいる。尊敬する人に夢中で、自分が話をしているときも、聞いているときも、
一瞬たりともその人から目を離すことがない。
そのためその尊敬された人間は、まるで受動的優位者のように、
目を閉じるか、遠くのほうを見つめていなければならなくなる。
このような特別な場合には、
ふつう社会的出会いの凝視行動に見られる視線の往復のバランスが失われてしまう。
このバランスは相手に対する強い感情的色彩を含まない関心を表し、
それと気づくことなく、しかも大変微妙かつ巧みに関心を表すものである。
われわれは異常にゆがんだ凝視の型に出会ったときにのみ、このことに気づく。
とことが、これをいつでも感じさせる場面がある。
それはたくさんの聴衆を相手に講義をしたり、講演をしたりするときである。
講師は演壇に立つやいなや、四方八方から自分を見つめる視線にさらされる。
話し始めると、彼は否応なしに聴衆の視線の集中砲火を浴びて不安になり、
天井をにらんだり、ノート
を見たりして視線をそらせてしまう。
経験を積んでくると、勇気を出して、
一人を相手に話をするかのように 、聴衆を次々と直接見るようになる。
聴衆にとっては、事実上講師が一対一の話し相手なのだから、これは大切なことである。
これと正反対なのが、テレビのニュース解説者が直面する問題である。
彼にとっては、自分を見つめる目はどこにもない。カメラのレンズだけである。
レンズの背後にはオートキューと呼ばれる自動装置があって、
自分の話すべき言葉がゆっくりと示されている。
これを読むためにはずっとレンズのほうを見つめていなければならない。
しかし家でテレビを見ている側にとっては、解説者の固定した目つきは不自然な感じがする。
この問題は、デスクにメモを何枚か置くことで解決される。
彼は時々これを見ることで、自分の長凝視が与える緊張をやわらげる。
もっと熟練したオートキューの見方は、スタジオに立ち、即席で話している風を装うことである。
彼は同じ理由で時々、カメラからわざと視線をそらす、というテクニックを用いる。
われわれは長い凝視に対して大変敏感なので、子供のにらめっこゲームは、とても難しい。
これはただのゲームに過ぎないと自分に言い聞かせても、
直接目と目をあわせて見つめあうことは深刻な効果をもっている。
程なく、われわれの中で何かがぽきんと折れ、視線をそらさねばならなくなる。
それはちょうどわれわれは凝視によって、
何らかのダメージを受けると思い込んでいるかのようである。
この気持ちが多くの迷信を生んだ。
もっとも有名なのが「悪魔の目」に関する各地に見られる強い信仰である。
挨拶ディスプレイ
―歓迎と送別―
挨拶ディスプレイとは、誰かを良かれと願う、あるいは少なくとも無事であれと願うことの
表現であり、友好的、あるいは敵意のないという気持ちを使える信号である。
それは心が高まった時点、つまり誰かがそこに到着したとき、立ち去ろうとするとき、
あるいはその人の社会的役割が劇的に変化しようとするときに行われる。
われわれはその人が来た時、去る時、そして役割が変わるときに挨拶をし、
歓迎、送別、祝賀の儀式を行う。
二人の友人が久しぶりに再会するときには、いつも特別な歓迎儀式が起こる。
その最初の瞬間、彼らは友好信号を超友好信号にまで高める。
笑顔を見せ、触れ合い、しばしば抱き合ったり、キスしたりする。
一般的には普通よりももっと親しげに、そして大げさに振舞う。
彼らがこうするのは、友情の失われた時間を回復しなければならないからである。
友達同士はいつもお 互いに、ちょっとした友好信号をたくさん交換し合っている。
彼らの関係を保つためにはそれが必要なのだが、
二人が離れ離れになっていた間は、それが出来なかった。
いわばこの信号の借金がたまってしまっていたのである。
これは直ちに返済すべきジェスチャーの借金である。
友情の絆がまだ切れずに、
離れ離れになっていた間もずっと続いていたことの証を示さなければならない。
そこで彼らは大げさな再開の儀式を行い、
一回の儀式だけで、負債のすべてを清算しようとするのである。
この歓迎儀式が終われば、
二人のかつての友情は回復し、昔と同じように好ましい関係を保ちつづけることができる。
同様に、彼らが長時間別れ別れになるときにも、
やはり、別離儀式が行われ、ここでも超友好信号が発せられる。
このときには、その信号はまもなく離れ離れになる二人に、
別離の期間中ずっと効く友情の薬を与える役目をする。
同様に、ある人の社会的役割が大きく変わったとき、
ここでもわれわれは友好的心情を多量に放出する。
というのは、われわれはそれまでの彼に別れを告げると同時に、新しい彼を歓迎するからである。
若い二人が夫になり妻になったとき、彼らが親になったとき、皇太子が王になったとき、
候補者が大統領になったとき、挑戦者がチャンピオンになったとき、われわれはそれを行う。
誰かの身体が現実的に到着したり、出発するとき、そしてまた彼の社会的役割が象徴的に到着
「入社」したり、出発「退職」するときを祝うために、多くの形式的な手続きがある。
われわれは誕生日や記念日を祝い、また洗礼式、成人式、結婚式、戴冠式、開業式、贈呈式、
退役式などの多くの式典を行う。また、新居祝い、歓迎パーティー、送別会、葬儀などを行う。
以上のいずれの場合にもわれわれは本質的には、挨拶ディスプレイをしているのである。
社会のルール
こうした事態が重要なものであればあるほど、手続きは厳格なものになり、制度化される。
しかし日常のもっと控えめな二人だけの私的な儀式にも、はっきりとしたいくつかのルールがある。
何かしらの挨拶を抜きにしては、どんな種類の出会いも始めたり、終えたりすることはできない。
これは手紙を書くときですらそうである。
「親愛なるスミス様」で書き出し、「貴方の忠実なる」で締めくくる。挨拶は止むを得ないルールなので、
たとえ自分とスミス氏との関係が親愛とは程遠いものであっても、
また自分が彼にまるで忠実でなかったとしてもこう書くのである。
同様にわれわれは歓迎すべからず 客に対しても握手を求め、別れに際しては、
たとえ心中彼の後姿に快哉を叫んだとしても、お名残惜しいという。それだからこそ、
本心からの歓迎と送別は、大げさすぎるくらいはっきりと外にあらわさなければならないのである。
あらかじめ計画されたり、約束されたりしている社会的歓迎には、
はっきりとした構造があり、以下四つの段階がある。
迷惑ディスプレイ
自分の友好的心情が強いことを示すために、
われわれは程度こそ違え、何らかの迷惑をこうむっていることを表す。
迎える側にも、迎えられる側にも、これはわざわざ“正装する”ことを意味する。
この場合の正装とは、迎えられる客にとっては、
わざわざ遠方からやってこなければならなかったことであり、
迎える側にとっては、出迎えのために自分の縄張りの中心部を離れて、
わざわざ身体を移動させなければならなかったことを意味する。
歓迎が強ければ強いほど、迷惑も大きくならなければならない。
州知事が重要人物を空港まで出迎えに行く、
兄が外国から帰ってきた妹を空港まで迎えに行くなどは、身体移動の最たるものである。
これを最大として、迎える側の迷惑の度合いが小さくなるにつれて、出向く距離も小さくなる。
彼はせいぜい最寄の駅か、バスの停留所に出向くだけかもしれない。
あるいは運転席に座ったまま、窓越しに客が着いたのを見届けてから、
やっと車を降りるぐらいかもしれない。玄関のベルが鳴るのを待って、
それから玄関ホールまで足を運ぶ程度かもしれない。あるいはまた、
子供や召使を玄関にやって迎え入れ、自分は部屋、
すなわち自分の縄張りの中心部から出ないで客が来るのを待つかもしれない。
客が部屋に入ってきてやっと立ち上がるというのが、最も程度の軽い迷惑ディスプレイである。
それは身体を水平ではなく垂直に移動させたにすぎない。
もし、彼が客が入室して近づいてきても、まだ座っていたら、
あらかじめ計画された社会的歓迎の第一段階をまったく省略したといってよい。
今日では、これが省略されることは滅多になく、
ほとんどの場合、ある程度の迷惑ディスプレイを自発的に行うのがふつうである。
もし、事故や遅刻でこれを省略せざるを得なかったときには、
会った時に何故そうなったかをくどくどと弁解する。
送別のときにも、迷惑ディスプレイはまったく同じ形で繰り返される。
ここでは、「出口はわかるね」が最も軽い表現で、それ以上になると、自分の縄張りから出て、
身体を移動させる度合いが増す。「玄関までお送りしましょう」というのが、
通常の社会的水準である。
それより少し程度が上がると、家の外に出て、客が視界から消え去るまでそこにたって送る。
さらに、駅や空港まで一緒に行って見送るのが、その最高の表現である。
遠方ディスプレイ
歓迎の主たる瞬間は、身体接触がなされるときであるが、
それ以前に相手を見つけた時のディスプレイがある。
二人はお互いに相手を認め合うと、すぐに認知反応によって見つけたことを知らせあう。
玄関で出会うときには、この第二段階は省略されることが多い。
というのは、ドアが開くとすぐに身体接触が可能だからである。
しかしそれ以外の歓迎場面では、遠方ディスプレイが派手に行われる。
これは六個の現覚要素からなる。
1. 笑顔 2.眉毛上げ 3.頭の後ろ倒し 4.片手上げ 5.手振り6.意図抱擁である。
最初の三つは、必ずといってよいほど生じ、そして同時になされる。
認知の瞬間、頭は後ろの倒され、眉毛が弓なりに上がり、笑顔が顔中に溢れる。
頭の後ろ倒しと眉毛上げは、ほんの一瞬である。
これらは驚きの要素であり、笑顔と合わさることで、友人を見つけた“快い驚き”の信号となる。
この基本型は、腕の動きで強められたり弱められたりする。
その最も簡単な動作が、片手上げ、つまり、片方の手を上げることである。、
もっと強い形は、遠方挨拶の典型である手振りである。
さらに強い表現が、意図抱擁である。
このときには、両腕があたかも実際の抱擁を待ちきれないでいるかのように 、
友人のほうへ 伸ばされる。時にはそれに加えて、目立った特長として、
これも抱擁が待ちきれないという投げキスが行われる。
前にも述べたように、送別の別離儀式でも同じ動作が示される。
しかしこのときには意図抱擁は少なく投げキスが多い。
これらの遠方ディスプレイの中で、笑顔、頭の後ろ倒しと眉毛上げは全世界共通で見られる。
これらは白人と出会ったことがない遠隔地の原住民においても観察されている。
片手上げまたは手振りの一種である片腕を上げる挨拶も世界各地で見出される。
腕の動作型は細かい点では文化によって異なるが、
腕の動作を示すことは、人間にとって万国共通のようである。
その動作は意図抱擁のように、
相手に腕を差し出し、触りたいという衝動に由来していると思われる。
片手上げのとき、腕は差し出されるのではなく上にあげられる。
こうすればそれは遠くからでもよく見えるようになるからである。
しかし本質的には、その動作は遠くから友人に触るという動作の様式化された形である。
もっと歴史的に解釈すると、片手を上げて見せるということは、武器を持たないこと示す、
あるいは自分の刀、すなわち忠誠を相手に差し出すという動作にならったものである。
しかしこれは特殊な条件では正しいかもしれないが、余りにも一般化していることを考えると、
この解釈がすべての片手上げに当てはまるわけではない。
手振りには三つの主な種類がある。「縦手振り」「招き手振り」「横手振り」である。
縦手振りでは、手のひらを友人に向けて何回も上下に振る。これは手振りの原始的な型と思われる。
もともと架空のたたき動作、すなわち遠くからこれも友好的な抱擁を予期して行われる、
友人の身体を軽くたたく動作だと思われる。
招き手振りは主にイタリアで見られる。これもひとつのたたき動作であるが、
手のひらを自分のほうに向けて何回も招くように振る。
イタリア人でないとこれは手招きのように見えるが、基本的には架空の抱擁の一種なのである。
横手ぶりは世界中に見られ、友人に手のひらを向けて左右にリズミカルに動かすことである。
これは他の手振りが改良されて出来た型と思われる。
その本質的な改良点は、目立ちやすくしたこと、
および軽くたたく動作であることをはっきりさせたことである。
左右に動かすことで抱擁の意味はなくなっているが、遠くからでもはっきり目立つ点で優れている。
このとき腕を全部振ったリ、さらに両腕まで大きく振ったりしてもっと強調することもできる。
近接ディスプレイ
遠方ディスプレイが終わると、
すぐに両者の距離は縮まり、実際に身体が接触するという重要な一瞬を迎える。
そのもっとも強い型は、腕をお互いに相手の身体に回し、
身体前面と頭をくっつけて完全に抱き合うことである。
このときには、それ以上は無理なほど強く抱きしめたり、
たたいたり、ほおを押し付けたり、キスをしたりする。
次には、すぐ目の前の相手をまじまじと見つめ、ほおをぐっとつまんで、
口にキスをし、髪をなで、笑う。そして涙を流すことさえある。もちろんこの間ずっと笑顔のままである。
この開けっぴろげな表現を最高として、身体接触の強さは徐々に減少していき、
最後は単なる形式的な握手にいたる。
その強さは正確には二人の、1.以前の関係の深さ 2.離れ離れでいた長さ 3.歓迎の場の人目が多
いか少ないか 4.その地方の文化的な表現慣習と伝統 5.離れ離れの間に生じた変化によって決ま
る。
これらの五つの条件の大部分は、きわめて明白であるが、最後の条件には補足が必要である。
友人がある種の重大な感情的経験、例えば、投獄、病気、災難などの苦しい経験あるいは逆に、
受賞、勝利、名誉といった成功の経験を経てきた場合には、
挨拶は普段にも増して激しく、強い抱擁が行われるだろう。というのは、
挨拶ディスプレイは歓迎と同時に祝賀でもあるので、
このために事実上二倍の強さになるからである。
文化が異なると近接歓迎の様式もまた違ってくる。
どんな場合でもこのディスプレイの基本は完全抱擁であるが、
これが簡略化されると、地域によって残る要素が異なるのである。
ある文化圏では、頭と頭をつけるという要素が、鼻をこすり合わせるに変わったり、
頬にキスをするとか、顔を押し付けるに変わっている。
別の文化圏では、お互いに実際には唇をつけないで単にほおへ形だけのキスをする。
また別の地域では、例えばフランスとロシアでは、男同士のキスが見られる。
それ以外の文化圏では、男同士のキスは女々しいと思われるので行われない。
もちろん、これらの文化的差異も興味深いが、
すべてひとつの基本的主題、つまり身体抱擁の変形であるという事実を忘れてはならない。
身体抱擁は人の根源的な全世界共通の接触動作であり、すべての人が、
赤ん坊時代は言うにおよばず、子供の頃からずっとやってきた動作である。
そして現在、われわれが誰かに愛着の気持ちを示そうとするときには、
状況さえ許せばいつでもそれを再現することができる動作なのである。
身づくろいディスプレイ
最初の身体接触に続いて、次にわれわれは歓迎儀式の最終段階へと進む。
それはサルや類人猿の社会的毛づくろいに似ている。
もちろん、われわれはお互いに相手の毛を拾い上げるわけではない。
代わりに“身づくろい的語らい”つまりそれ自身は殆ど意味がないが、
言葉により出会いの喜びを表す無駄話をする。
「ご機嫌いかが」「会えてうれしい」「いい旅でしたか」「お元気そうですね」などである。
それに対して答えが帰ってくることはまずない。
重要なのはお世辞を言い、迎え入れることである。
つまり相手に注意を向け、喜びを表すことである。
言葉の厳密な意味とか、質問の適、不適が問題とされることは殆どない。
時にはこの身づくろいディスプレイの効果は、
服を着せ掛けたり、コートを脱ぐのを手伝うことによって強められ、
もっと一般的にはにぎやかに楽しみを共にすることによって強められる。
時には、さらに客が「贈り物ディスプレイ」をすることがある。
身づくろいディスプレイが終わると、
二人は歓迎用の特別な場所を離れて、昔馴染みの親しい社会的関係を取り戻していく。
挨拶ディスプレイは完結し、その重要な役割を果たしたのである。
「お近づき挨拶」はまた別の形を取る。
われわれが誰かに始めて会うときには、単に古い友人ではないという理由から、
遠方ディスプレイはしない。
しかしちょっとした「近接ディスプレイ」は行う。
それは殆ど握手に限られるが、さらにこの新しい知人に笑顔を見せ、親しげなおしゃべりと、
注意を向けるという身づくろいディスプレイを行う。
事実われわれは、あたかも、彼を、そう親しくないがともかく旧知の友人であるかのように扱う。
こうすることでわれわれは、
彼を自分の生活範囲内に招きいれ、社会的関係を持ち始めるのである。
霊長類の仲間としては、われわれの持つ歓迎と送別の挨拶は、驚くほど豊かである。
人以外の霊長類にも、
簡単な挨拶の儀式があるにはあるが、送別のディスプレイはまったくないようだ。
人の先祖までさかのぼってみると、これが発達した理由がわかる。
殆どの霊長類は、相互にきわめて結びつきの強い群れをつくって動き回っている。
時にはその群れから離れるものもいるので、
群れに戻ったときにはちょっとした歓迎のジェスチャーが行われる。
しかし彼らがある目的を持って、わざわざ群れを離れることは滅多にないので、
送別ディスプレイを行う必要はない。
初期の人類は自分自身を狩猟動物種として確立した。
すなわち、男たちは狩猟担当グループとして特定のときに、特定の目的をもって群れを離れ、
獲物を下げて本拠地に戻ってきた。
したがって、何百万年の間、われわれは労働分担によって群れが分かれるときには、
送別の挨拶ディスプレイを必要とし、
再び帰ってきたときには、歓迎の挨拶ディスプレイを必要としてきた。
さらには、狩猟が成功するか失敗するかが大問題であったことを考えると、
挨拶ディスプレイは会ってもなくてもよいというようなものではなく、
原始部族社会の共同生活にとって絶対欠かせないものであったのだろう。
現在、われわれはまさしく挨拶をする動物となっているが、これは不思議でもなんでもない。
姿勢反響
二人の友人がであって、うちとけた話をしていると、彼らは似た姿勢をとるのがふつうである。
二人が特に親しく、その話題に対して同じ立場を取っているときには、
お互いがコピーだといってもよいほどよく似た姿勢をとるようになる。
これはわざわざ相手を模倣しているのではない。
その二人は知らずして、「姿勢反響」といわれる状態を満喫しているのである。
つまり友情の自然な身体表示のひとつとして、無意識のうちに姿勢を反響させているのである。
これには立派なわけがある。通常友情の真の結びつきは 、
社会的地位が大体同じ人の間でのみ可能である。
社会的地位が同じということの確認は、いろいろな間接的方法で示されるが、
面と向かったときには、同じようなくつろぎや緊張の姿勢をとることによって強化される。
身体はいわばこのような 方法で
「ほら、私は貴方とまったく同じですよ」という無言のメッセージを送っている。
このメッセージは無意識的に送られるが、相手に理解される。
こうして二人はただ一緒にいるだけで、気分がよくなるのだ。
姿勢反響の正確さはまったく驚くほどである。
レストランで話をしている二人の友人は、
共に同じひじでテーブルにもたれかかり、身体を同じ角度に曲げ、同じリズムでうなずく。
肘掛け椅子にも垂れている別の二人の友人は、
両方ともまったく同じように足を組み、一方の腕をももに乗せている。
塀際にたっておしゃべりをしている二人の友人は、同じ傾きで塀にもたれかかり、
二人とも一方の手をポケットに深く突っ込み他の手を腰に当てている。
もっと驚かされるのは話している時に、二人の運動が同時に起こることである。
一方が足組を止めると、相手もすぐそれに合わせる。
一方がちょっと後ろにもたれると、友人もそうする。
一人がタバコに火をつけたり、酒を飲んだりするときには、相手にもそれをすすめる。
相手が断ると失望する。これは友人がタバコを吸ったり、酒を飲むことを本当に望んでいるからでは
なく、二人が同時にそれをしないと、動作の同時性がわずかでも失われてしまうからである。
このような場面では、相手が飲みたくないのが明らかなのに、
一緒に飲むようにすすめるのをよく見かける。
「一人では飲みたくないよ」とか「俺だけがタバコを吸っているのか」という言葉がよく聞かれる。
多くの場合、友人はその気がなくとも、同時性を保つために仲間に従う。
「ここにきて座れよ。なんでそんなところに立っているんだ」
という言葉も姿勢反響の機会を増加させる。別のありふれた誘いである。
友人同士のグループは、お互いの身体姿勢や運動リズムが、
そっくり同じになりやすいように 座るのがふつうである。
このような場合に得られる主観的な感じは“くつろぎ”である。
そのようなくつろぎを壊すのは簡単で、その場にそぐわない姿勢、
つまり堅苦しくて形式ばった、あるいはこちこちで心配そうな姿勢をとればよい。
同様に、メンバーの一人が無気力になって、しらけた姿勢をとると、
一緒に騒いでいた友人たちはすぐに批判的になる。
一緒に楽しもうよと誘い、個人的理由でできないでいると、
「興ざめなヤツだ」とか「せっかくの楽しみを台無しにするヤツだ」とかいう。
その人は、敵意のあることは何もいっていない。直接他人の行為を邪魔することもしていない。
ただ、集団の姿勢反響を壊しただけなのである。
動作をあわせることは 、同じ地位の親しさを意味するので、
優位な人が劣位な人を安心させるためにも用いられる。
患者を治療しているセラピスト「心理治療者」は、病人の身体的表出を真似して、
患者をリラックスさせることができる。
患者が足を組み、床を見つめて前かがみになって、静かにいすに座っているときは、
医者も同じような静かな姿勢で近くに座っていれば、患者とうまく通じ合える。
そうしないで、机の後ろで典型的な優位な姿勢を取ると、患者との触れ合いが難しくなる。
上司と部下が出会うときはいつでも、両者は身体姿勢で互いの関係を示しあう。
それゆえ部下が、そのような場面を身体姿勢を使って操ることは簡単である。
優位な医者がわざわざその高い位置から下りて、患者の身体姿勢を真似るように、
部下は自ら望むなら、上司の身体動作を真似ることで、上司を狼狽させることができる。
いすの端に座って前かがみになる代わりに、
目の前の上司の姿勢を真似て、足を伸ばしてふんぞり返ればよい。
言葉が丁重であっても、そのような行為は強い衝撃を与えることだろう。
しかしその試みは、辞表を出す直前まで早めておくほうが無難である。
時々、ひとつの集団内に二つの違った姿勢反響を見ることがある。
これは通常集団討議の際の“賛否”に関係している。
集団内の三人が他の四人に反対しているとき、それぞれの下位集団のメンバーは、
身体の姿勢や運動を一致させがちである。
しかもこれは、他の集団の姿勢や運動とは違っているのである。
時には、彼らの一人が立場を変えかけていることを言葉でいう前に予測することすらできる。
それは彼の身体が、“反対集団”の姿勢と一致し始めるからである。
また、そのような集団をまとめようとする人は、まるで「私は中立です」といわんばかりに 、
一方の側のメンバーと同じように腕を組み、他方の側のメンバーと同じように足を組んで、
中立の姿勢をとるものである。
友人同士の姿勢
そのような場面におけるかすかな姿勢の変化を
スローモーション・フィルムを用いて記録した最新の研究から、
肉眼では見ることのできないほどの微妙な運動の“細かい同時性”があることがわかった。
頭の瞬間的なかすかな傾きやうなずき、指の緊張、唇の伸び、身体のちょっとした動きなどは、
二人の友人に強い心のつながりがあるときには、すべてきれいに一致する。
このリズムの一致は余りにも微妙なので、
フィルムの詳しい分析でしか明らかに示すことはできない。
にもかかわらず、われわれの脳は、この同時性の持つ一般的なメッセージを理解できるし、
自分の姿勢や身体運動を真似る人に、暖かい愛情を持って適切に応答することができるのである。
うちとけて話をしている人を、スローモーション・フィルムに撮った 8 年間の研究によると、
二人が話をしたり聞くときに示すリズミカルな運動は、
しばしば 48 分の1秒以内で正確に一致して生じることがわかった。
一秒間に48コマで撮影したフィルムをコマごとに分析すると、
話し手と聞き手の両方の小さな突然の運動が、まったく同じコマ内で始まるのが見られる。
話し手が話題を強調しながら、身体をちょっと動かすと、
聞き手の身体の一部分にもこれと一致した小さな運動が生じる。
二人が親密であればあるほどこのリズムはよくかみ合う。
しかし世のような場合、反響は姿勢そのものではなく、リズムの中にある。
二人は必ずしも相手の動作を正確に真似ているのではない。
むしろ、動作の速さを真似しているのである。
例えば、話し手が頭の小さな動きや手の動きで、自分の言葉の“拍子を取る”と
聞き手も体のわずかな揺れで同じリズムを取る。
一般人と精神障害者との会話を同じようにフィルムに撮ったときに、重要なことが発見された。
そこには身体の動きの同時性が殆どなかったのである。
反響が消え、それと同時に気持ちのつながりも消えた。
このような患者と社会的な付き合いをしようとするときに“奇妙”な感じがするのは、
この特殊な性質によるものである。
最近のアメリカの俗語に
“いい感じ”と“悪い感じ”――感じ「vibes」は振動「vibration」を意味する。――の二語がある。
フィーリングが合うか合わないかを表すこの表現は、
日常の付き合いにおける姿勢反響の基本的重要性と、
小さな身体運動の無意識な同時性が、直感的に認識されていることを示している。
結合サイン
結びつきを誇示する信号
結合サインとは、個人的関係が存在することを示す、あらゆる動作のことである。
二人が腕を組んで街路を歩いているとしよう。
その腕を組む動作は、それを見る人にとっては彼らが何らかの点で、
個人的に結びついていることを示すサインになる。
このような結合サインには多くの種類があり、われわれは社会的哺乳類として、
それらのあらゆる微妙な違いに反応している。
個人的なつながりの有無ばかりでなく、そのつながりの性質までをも判断しているのである。
結合サインのもっとも明白な形は、お互いが触れ合うことはなくても、二人が一緒に動き、立ち、
座り、横になるといった単純な身体の接近をすることである。
しかし、街路でお互いに話をしながら一緒にすみへ歩いていく二人は、古い友人なのだろうか 。
それとも、一方が単に時刻や近くの郵便局を尋ねている見知らぬ者同士なのだろうか 。
そのどちらかであるかを確かめるためには、単純な身体接近以上の事を調べてみる必要がある。
結びつきの強弱を読む
われわれが用いる手がかりは 、複雑で微妙である。
例えば、弱々しい老婦人が、若い男に助けられて道路を横断している場合や、
酔っ払いがバーから助けられて出てくる場合を考えてみよう。
そのような場合に、われわれはどのようにしてサインを読み取るのだろうか。
老婦人が助けを頼んでいるのは、
見知らぬ若い男なのか、親しい甥なのかをどのようにして知るのだろうか。
酔っ払いを助けているのが他人なのか、
長年の飲み友達なのかが、どうしてわれわれにはわかるのだろうか 。
そのような場合、ふつうどちらかであるかがすぐにわかるのだが、
どうしてわかるのかといわれると説明に困ってしまう。
本当は、誰もがちょっと見ただけでもわかる熟練した結合サインの読み手なのである。
しかしどうしてわかるのかを知るためには“結びつき”が出来上がるところから考えるのが最もよい。
言葉の定義上、結びつきとは 、お互いが個人的に他者を知ることであるから、
社会的結びつきの最も明白な始まりは、名前を名乗りあうことである。
それに伴って、しばしば握手が見られ、初めの段階では微笑や、
どうぞ、ありがとうという会釈が多く交わされる。そしてお互いかなり丁重である。
ふつうは数回の出会いの後だが、結びつきが強まると、
だんだんとお 互いの身の上話をするようになる。
この言語的なやり取りは、活動を共にしたことの代わりとして働くので、二人の結びつきを強める。
お互いに過去の経験を話すことで、
この新しい二人は、その関係を人為的に過去にまで広げたことになる。
それゆえ、
結びつきの初めの段階には――それが友人であれ、同僚であれ、恋人であれ――
このようないくつかの特異な様相がある。
これらを観察すればその結びつきはまだ浅く、できたてのものだということがかなり確信できる。
結びつきが完成すると、明白な違いが出てくる。
古い友人、長年の恋人や夫婦では、結びつきの形成段階で見られたうきうきした気分が減る。
この特徴をひとつずつ挙げてみる。
1. 個人名を用いることが減る。
ある男は「彼は誰」から始まって「スミスさん」「ジョン」そして多分「ジョニー」に進んだ後、
関係の性質によって、あなた、オヤジ、相棒、兄貴、あるいは単に「おい」というような、
一般的な範疇で呼ばれるようになる。
もちろん、名前が使われることが完全になくなったわけではないが、
その殆どが「ジョンを見かけませんでしたか」のように第三者に対してと、
「ジョン、そこにいるの」のように遠くから呼ぶのに使われる。
2. 握手も減る。
恋人や夫婦の間では、挨拶や別れとしての握手は完全に消えて、
せいぜい冗談やゲームのときだけに使われる。
古い友人では、長く別れていた後の出会いを除けば、だんだんと用いられなくな る。
奇妙なことに、この点については国民性の違いがあり、
特にフランス人は、握手の回数をなかなか減らさない。
3. 長々と話しながら、微笑したり、うなずいたり、巧みなユーモアを続けることは、
社交の場だけに限られるようになる。
古い友情や老夫婦の絆を示すサインは、
二人が陽気なおしゃべりを続ける必要を感じずに、静かに一緒に座っていられることである。
4. 相手への気遣いが消える。
絆が古くなると、長続きのする熱心な注意姿勢は示されなくなる。
初めは相手のことばかり考えているが、やがて、よりリラックスした無造作な態度になる。
5. お互いの身の上話がなくなる。
――相手はそれをすべて以前に聞いてしまったから。
十分に結びついた二人には、絆が出来たばかりの二人に比べると、
しばしば互いに見知らぬ人のように振舞うという、際立った特長が見られる。
公園に三組の男女が座っていたとしよう。
そのうち、お互いに見知らぬ二人と老夫婦の組は、外見上、多くの共通点を持っている。
つまり、彼らは長時間互いを無視して黙って座っている。
第三の組は、明らかに若い恋人たちか、あるいは新しい友人同士である。
というのは、お互いに絶えず気を使っているからである。
彼らがまだセックスのない恋人たちなら、お互いに丁寧であるばかりでなく、
多分、ひっきりなしに会話を続けるだろう。
すでにセックスのある恋人たちなら絆はおそらく強くなっているだろうから、
沈黙のときを楽しむことができるだろう。
しかし、黙っていたとしても、老夫婦のように、相手への関心が言葉と共に消えることはない。
彼らはさまざまな身体動作、特に親密な身体接触でそれを示している。
長い結びつきの間に多くの結合サインが減ってしまうのならば、
古くからの関係はどのようにすれば知ることができるのだろうか。
実は、十分に結合したカップルはあからさまではないものの、
その結合の深さ示す控えめな手がかりを多く送っているのである。
彼らは相手を十分に知りつくしているので、お互いの意図を非常に正確に感じることができる。
彼らは次の動作のために、あからさまなサインを送ったりしない。
その必要がないのだ。
社交的な集まりから帰ろうとしている夫婦は、殆ど目につかない目配せを交わすことで、
帰る時間を合わせられる。
部屋の隅にはなれて座っている二人の古い友人は、お互いに顔を見合わせながら
数分の一秒の微笑を浮かべるだけで、共有する感情を十分に伝えることができる。
街路で、ペアの一方が急に歩く方向を変えても、パートナーが言葉も交わさずについていけるのは、
――まるで魚の群れのようだが――お互いの間に暗黙の了解があるからである。
ここで最初の問題に戻ろう。
老婦人の横断を助けている若い男は、彼女の甥なのか、それとも、あかの他人なのか。
それがどうしてわかるのか。
また、酔っ払いが、古い友人、あるいは見知らぬ人のどちらに助けられているのか。
困っている人に対しては、
知らない人でさえ異常に親切な反応を起こすから、これは難しい例である。
身体の自由のきかない大人は、偽幼児的信号を出して、他人に偽親的反応を引き起こさせる。
だから、老婦人や酔っ払いは、個人的な結合のあるなしにかかわらず、
結合サインのように見える援助者の動作によって助けられる。
違いを知るには、特殊な目立たない手がかりを見つける必要がある。
初めの老婦人の例では、
若い男が他人なら、彼は多分彼女の腕を取りひじの下でその腕を握って支えるだろう。
また、老婦人の身体をかすかに話して道を横断するだろう。
もし、彼女が本当の叔母なら、彼女のほうが彼の腕を取り、
彼のひじの曲がった部分に手を通すだろうし、体を接触させて横断するだろう。
この違いの理由は、この出来事の初めに見られる。
二人があかの他人なら、出会いの初めは特に丁重であり、
老婦人は若い男に助けを求め、それから彼が彼女の腕をとることだろう。
もし、二人の間に古くからの結びつきがあれば、道路の横断はセレモニーなしに始まるだろう。
老婦人は自動的に若い男の腕をとり、
彼らの行動は特に言葉を交換せずに、スムーズに同時に始まるのである。
バーから助け出される酔っ払いの場合にも同じルールが当てはまるが、
ここでは、酔っ払いがぐでんぐでんなので、友人にしがみつくことが出来ず、
したがって友人も支持動作を始められないという問題がある。
こういったへべれけの状態なら、他の手がかりを探さねばならない。
手がかりは 介抱する人たちの支持動作そのものではなく、表情に見られる。
酔っ払いが古い飲み仲間なら、
彼らは笑い、冗談を言い合う。この出来事をお祭り騒ぎのように扱って、
自分たちの制御された行動と、仲間の制御を失った行動のギャップを減らそうとする。
酔っ払いが見知らぬ人なら、顔に殆どユーモアを浮かべず、
こわごわであり、多分あからさまな嫌悪さえ示す。
この違いは、
目撃者のいる中で死体をビルから移すための巧妙な方法を探しているスリラー作家によって、
時々用いられる。
偽りの援助者は、二人で支えている死体のことを笑ったり、冗談を言ったりして、
密接な個人的関係のある酔っ払った友人を眠らせるために家に連れて行くところだという印象を、
第三者に与えることができる。
そのような場合には、他人が援助を申し出る機会を減らすために、
個人的なつながりが強いという印象を示すことが重要である。
密接な結合が真似されると、
第三者は身体の自由のきかない人への社会的責任を余り感じなくなり、
手出しをしようとは思わなくなる。
結合サインの裏表
われわれはこれらのほかにも多くの方法で、周囲の人の結合サインを読み取る。
ここまではわれわれが結合を判断するときに気づく、
多くの側面の一部だけを取り出して述べたにすぎない。
実際にはわれわれはいつもたくさんの個々の手がかりに反応し、
無意識のうちに心の中でそれらのバランスをとることで、正しい答えを出している。
このことは職業上結合サインの細部に著しく敏感になっている人に当てはまる。
多分、二人の関係を最もよく見抜くのはホテルのフロント係であろう。
フロント係は毎日のようにたくさんの出入りするカップルを見て、二人が夫婦であるか、
両方とも結婚しているが夫婦ではないとか、一方は既婚、他方は独身であるとか、
両方とも独身であるが夫婦を装っているとか、あるいは新婚旅行中のカップルであるとかを、
一目で見抜くのである。
これらすべての場合に、男女は正式に結婚したカップルのように振舞うが、
熟練した目には、彼らの結合サインはかえって裏目に出る。
不倫のカップルの最大の誤りは、お互いに感情をあらわにしすぎることである。
第二の誤りはあまりにもさりげなくしすぎることである。
彼らは平凡で無造作な態度を装うことを十分に知ってはいるのだが、
そうすることで真の夫婦に見られるために必要な微妙な同時性を落としてしまう。
この他に、結合サインを偽ろうとする例は多くあり、
こういった偽装のいくつかは、特殊な訓練や熟練を必要とする。
スパイが活動するくらい世界には、そのような隠し事が溢れている。
スパイは人に気づかれずに仲間に会い、情報を交換しなければならないし、
真の結びつきを隠して、他人を装わなければならない。
秘密の仕事をしている警官も、同じように結びつきを隠す専門家でなければならない。
たった一回のジェスチャーのミスで命を落とすことになりかねない。
時にはこの危険が逆に働く。暗黒街のメンバーの立場を、
巧みな結合サインのトリックで故意に失わせることができる。
彼は警官と親しく接しているのを、仲間に見られるだけで終わりである。
暗黒街のメンバーと警官の出会いには、本当は敵意そのものが満ちていたのだが、
警官が故意に彼に微笑したり、ウインクしたり、あるいは何か耳にささやくふりをする。
これが暗黒街の仲間の一人に見られると、
彼は自分が警官と秘密の結びつきはないと仲間に説得するのが困難になる。
そのような場合、ひとつの短い結合サインは、千の言葉に勝るのである。
偽りの結合サインは、秘密組織の常套手段でもある。
一人だと当然疑われるので、
プロの密輸入者は自分を家族という結合サインで飾る。妻やけんかをしている子供たちを連れ、
赤ん坊を胸に抱いて、ヘロインをタルカムパウダーの容器に入れて税関を通る。
この種の極端な結合サインは、現実の生活よりも小説によく見られるが、
それほど劇的でない偽装は、社会的地位を高めようとする善良な市民に日常使われている。
出会ってすぐに有力な友人の名前をぺらぺらと話し、
何気なく、それらの人との親密な結びつきを誇張する人をよく見かける。
善人の仲間であるとみなされることは 、悪人の仲間でないとみなされることもそうだが、
社会的な野心のある人が使う一般的な手段である。
排他的なクラブや団体は、その存在そのものをこれに頼っている。
より家庭的な場では、ありふれた敬称による結合サインがいたるところで働いている。
ミスからミセスになると、彼女はたとえ夫が死んでも、永久的な結合サインを示しつづける。
彼女はこの新しい敬称を、自分が人に紹介され、新しい結合サインが生じる可能性に直面したとき
にはいつでも使うのだが、さらに彼女は象徴的な結合サインである結婚指輪をはめている。
それは夫がいれば行う身体的結合サインの代わりである。
この種のシンボルは、あらゆる社会で見られる。
ある社会では、未婚女性は既婚女性と区別するために、
違った種類の帽子や装飾品を身につける。
他の社会では、未亡人が残りの人生の間、黒衣を着て、いつも死んだ夫との結びつきを誇示する。
最近特にアメリカでは、ある女性たちがこのような 象徴的な結合サインに反対していて、
ミスやミセスの代わりに、ミズという呼び方を主張している。
しかしこの方法は成功していない。
というのは、ミズを自称している女性の殆どすべてが、
ミスか前にミセスであった女性であるために、
ミズは一般に“ミセスではない”ことを示す呼び方になっているからである。
それゆえ、ひとつの呼び方で、未婚と既婚の女性をまとめる目的は達せられていない。
結合サインはやはり残っているのである。
ミズの傾向とは正反対に、
本当は結びつきがないのに結合サインを示す工夫が、一方ではよく見られる。
女性にとって結婚の見込みがなく、独身でいることは社会的に不名誉なので、
真の結びつきがない結合サインですら、結合サインがないよりはましなのである。
ボーイフレンドのいない女性は、二人連れに見せるために、
自分の兄弟を偽のボーイフレンドに仕立てようとさえする。
さらに彼女は幸運な友人に張り合って、単なる見せかけ上の結合サインを示すために、
好きでもないのに公然とした親密さを若者に許す。
彼女は彼と結婚してしまうことすらある。――お金のためでも、安定のためでも、愛のためでもなく、
単に彼女の社会で成功した女性に期待される結合サインを公然と示すためだけにである。
特殊な場合には、結婚という外面的に正常な結合サインが、
秘密の同性愛の隠れ蓑に用いられることさえある。
男女どちらの同性愛も、彼らが異性との公的な結合サインを示してさえいれば、
ある社会的文脈では、たやすく秘密の結合にふけることができる。
便宜的に結婚することは、すぐに考えつく解決策である。
これまでは結合サインを種々タイプのサインに分類しようとはせずに、一般的な言葉で示してきた。
ある状況では殆どすべての動作が結合サインになれるからである
。二人がいっしょにしたり、あるいはしなかったりするすべての事が、
彼らの個人的関係の性質について手がかりを与えてくれる。
それにもかかわらず 、幾分単純化すれば、以下のような役に立つ分類ができる。
間接的結合サイン
二人の結合を示すもの――
「ア」二人が一緒にいる時。飲むグラス、眠るときのベッド、
食事をするときのテーブル、入浴時のタオルなどのように、二人が一緒に使うものがある。
それらは動作の結合サインが見られなくても、二人の結合を反映している。
「イ」二人が一緒にいないとき。婚約指輪、結婚記念写真、二人の住所録の内容、会社のデスクの
上の子供の写真、木に刻まれた“ジョンはメリーを愛す”という文字、本の献辞、船員の腕の刺青な
どは、一方あるいは両方がその場にいないときでも二人の結びつきを示している。
直接的結合サイン
二人の間の結合を示す動作。――
「ア」体の接近と二人の向き、
「イ」共にする表情や身振り、
「ウ」言葉のやり取り、
「エ」身体接触。この最後の範疇、つまり身体接触は最も興味がある。
そこでは種々さまざまなはっきりとした動作が観察可能であり、
それぞれが特定の関係の性質についての情報を与えてくれる。
以下のページでそれらを詳しく述べよう。
身体接触結合サイン
身体接触結合サインは、
二人の結びつきがお互いの身体接触という形であらわれるときには、いつでも示されている。
この場合、われわれは結合というお互いをひきつける過程を見ているわけなのだが、
そのためには人は自分の私的な空間を守ろうとする生得的傾向に打ち勝たねばならない。
“距離を保つこと”と“接触すること”は基本的には矛盾するので、
その結果、親密な接触に多くの種類と程度が生じる。
野外観察から、身体接触の 457 のタイプに名前を付けたが、
そのうちのおおくはまれにしか生じないもので、しかも、あまり重要ではないものであった。
残りのなかにも、医者、牧師、歯医者、理髪師といった人が行う特殊な接触が含まれていた。
さらに、通常は寝室に限られる個人的な接触があるが、
それらは人前でなされる私的な結びつきの指標としては役立たない。
それゆえ、ありふれた社会的親しさを持つ残りのタイプから、14 の主なタイプを取り出すことにした。
われわれが身体接触をするときの結合サインの多くは、これに関係する。
それらは以下のようなものである。
1. 握手
これは、個人的な結びつきがなかったり、弱かったり、あるいは長く別れいた時に見られる。
握手は挨拶なので、結合サインとして興味深いのは、その基本形ではなく、強調のされ 方である。
今の結びつき、あるいは過去の結びつきの強さは、
普通の握手以外の動作を、どのくらいするかによって示される。
強い感情を表現するためには、
握手をする人は、礼儀として期待される以上の事をしなければならない。
握手を強調する最も一般的な仕方は、さらに左手をも使うことである。
右手でする普通の握手のときは、左手は相手の右手を握るか、右腕あるいは右肩に触れる。
動作がさらに強くなると、握手をしている右手は二人の胸の間にはさまれ、
左手は相手の肩に回され、片手で相手を抱く形になる。
時にはほおとほおを押し付けたり、ほおへのキスが付け加えられる。
このパターンが完全に行われるのは、気を使いながら人を迎えるときの抱擁である。
彼らはまるで相手への親しさが急速に強まり、
握手が抱擁にまで膨れ上がったかのような 動作をする。
反対に非常に親しい人が出会ったときには、すぐさま両手を広げて、相手を抱きしめる。
形式的な握手はまったく行われない。も
っと抑制のかかった握手をスローモーションで分析してみると、
抱擁などはしない個人的習慣を持っている二人の場合でも、お互いに身体を傾ける姿勢
――それ以上は進まないが、知らず知らずに出る抱擁をしようとする小さな意図運動――
が見られる。
2. 身体誘導
これは親密な接触による指示である。
身体を軽く押すことで、相手の運動方向を指示する。、
最も一般的な型は、手で背中を穏やかに押すことである。
腕を軽くつかんで前に押したり、遠慮しないで手を引っ張るのも一般的である。
これらは力によってではなく、やさしい接触によってなされる。
これは本質的には親から子に向けられるより積極的な指示のシステムを、
大人向きに和らげたものである。
親は子供をいろいろの方向に導いたり、あるいは押したりしなければならない。
その動作は“私は支配している”という趣を持っているので、
劣位者が優位者に対して、あるいは客が主人に対してこれを用いるのはまれである。
事実、それは他人の縄張りにいるために、
一時的に弱い立場にある客に対して、主人が優位を示す穏やかな方法である。
夫婦の間でも一時的な優位を示す表出がある。
ある場面をリードする動作がそれである。
妻が夫に用いると、周囲の人には母親のような結合サインに見える。
夫が上手に用いると、彼の動作に風格を与える。
下手に用いると、すぐに横柄で尊大ぶって見られる。
3. 軽打
もうひとつの元来は親の動作である軽打は、いわば手だけでなされる小型の抱擁で、
手以外は使われない。挨拶の軽打、慰めの軽打、愛の軽打、親しみを示す軽打がある。
大人がするとその動作は身体による誘導のように、しばしば親がやっているように 見える。
子供なら身体のあらゆる部分を軽打してもよいが、
大人ではその性質が中性的であるためには、手、腕、肩、背中に限られねばならない。
大人の頭、尻、もも、ひざを軽打するのは、
恩着せがましいか、あるいは性的であるのかどちらかである。
興味ある例外は、ゴールを決めた後に、サッカーの選手が行う頭の軽打である。
それ以外で、大人が頭を軽打するのは、
むしろ「なんて利口なんだろう」というからかいであるが、
サッカー選手の動作は、確かに祝福である。
それは学童時代の遺物であるというのが説明になりそうだ。
少年は父親がするのを真似て、お互いに頭を軽打してきた。
サッカー場という特殊な場において、明らかに、この昔のしきたりが残っているのであろう。
4. 腕を組む
結合サインの中で、最も明白で公然と示されるのは腕を組むことであり、
それは基本的には一緒に歩いていることを示す信号である。
このとき、一方のパートナーは、他方に対する中程度の支配を示している。
多くの場合には、女性が支えと保護を求めるかのように、男の曲げた腕に手をかけている。
しかし、この支えと保護は殆ど象徴的である。
この行為は情緒的な結びつきを他人に見せつけているのであって、
強い男が弱い女を助けているのではない。
つまり、これはパートナーのためではなく、他人に見せるためになされている。
年老いた虚弱な人だけが、支えと保護という身体的側面を必要とする。
健康で若いカップルは人のいないところを歩いているときには、殆ど腕を組むことをしない。
彼らが腕を組むのは、教会内の通路を歩くといった公然とした場合とか、
商店街のアーケードを歩くといった私的な場合のように、人のいる場所である。
それは結合サインであり、お互いの所有権を示す信号であるといってよいだろう。
5. 肩を抱く
男は一般に女より背が高いので、この結合サインは男が女に対して示すものである。
それは男性的なものであるが、“兄弟”関係を示すのに男の間でも気軽に用いられる。
それは半抱擁であり、完全な前面抱擁とは違って、
静止した結合サインとしてだけではなく、動く結合サインとしても用いられる。
横に並んで一緒に歩こうとすれば、肩を抱くことは最もやりやすい方法である。
多くの人にはこれが唯一のやり方である。
しかしこうすると、ふつう歩きにくくなるので、
そのわずかな変型として、肩に手を乗せることが時々行われる。
これは一方の男が忙しく説明をしたり、説得をしているときによく見られる。
こうすると、相手の運動を制限し、自分のいった言葉の影響力を知るために、
相手をすぐ近くに留めておくことができる。
6. 完全抱擁
抱きしめられることは子供時代の強い経験であるが、
大人同士の間では、激しく感情が高ぶった瞬間にのみ示される。
若い恋人たちは一緒にいるときには、多かれ少なかれ感情が高ぶっているので、
彼らだけがこのドラマティックな結合サインを何回も繰り返す。
他の大人では、それは人には見せない性的な姿勢であるとか、
あるいは“別離―再会”の結合サインである。
“別離―再会”は断絶と再結合を意味し、別離は物理的にはなれることで、
結合が損なわれそうな状態、再会はその後、結合が再びなされる瞬間である。
特に長い期間別れていた男女は、二人の結びつきを最高に表現しようという強い衝動を感じる。
それはいわば二人の結合が、
離れ離れの間でもずっと損なわれなかったことを示そうとするかのような激しさである。
それはまるで彼らが、
別れていなかったら毎日交わしたであろう接触の総計に匹敵するほどの情熱的な抱擁を、
今しようとしているかのようである。
つまり、同じ男女が再結合するときには、
もう一度強く抱擁して、二人が結ばれたときの儀式の縮小版に相当するものを行うのである。
このルールの例外として、接触型ダンスがある。
これは広場型ディスプレイで、
腕で抱く要素を簡略にした形で、身体前面全体の身体接触を様式化したものである。
ダンス場で踊っているカップルを眺めると、彼らは完全抱擁をしようとしているが、
手がぶつかってできないでいるように 見える。
その結果、固定化された半抱擁は、
比較的知らない人が見ても、無難と思えるほど、本当の抱擁とはっきり違っている。
踊っている人たちは、結合サインの完全な意味を表出することなく、
ダンスの真の意味するものを楽しむことができる。
第二の例外は、サッカー選手の勝利の儀式である。
これは、別離―再会の場面ではないが、確かに強い感動が誇示される場面である。
ゴール成功後に、得点者にかじりついたり、抱き合ったりするこのディスプレイは、
主として自分のクラブのファンに向けられる効果的な言葉である。
腕を組むのと同じように、これは主に観衆に対して行われる動作である。
最後の例外は、普通のパーティーで見られる抱擁である。
この場合は、サッカーの場合と逆である。非常に強い感動はないが、別離―再会の成分がある。
到着したり、帰る客はお互いにあるいは主人に対して、
強い感動を起こすわけではないが、やはり何回も抱擁する。
しかし、そのときの細かな動作を注意深く調べると、見かけほど完全な抱擁ではないことがわかる。
事実、通常それはダンスホールでの接触と同じ程度である。
腕は抱きしめられるというよりも、半抱擁であり、
ほおはキスされるというよりはおざなりに軽く触れられる。
身体前部は殆ど接触をせず、抱擁に時間は非常に短い。
すなわち、パーティーの別れのときの接触は、握手と同じように殆ど公式化されている。
これは情熱的抱擁までは必要としないが、といって単なる手とての接触だけでは十分ではないよう
な結合の瞬間を適切に表しているといえよう。
7. 手をつなぐ
われわれは直立歩行という刺激的な新しい世界に足を踏み入れた幼児期に、
手をつないで歩くという動作を初めて経験する。
ごく初期にはその機能は幼児が転ばないようにするためのものである。
その後、子供がやや大きくなると、それは雑踏を横切るときに子供が離れないようにしておくため、
あるいは交通の激しい車道に走り出すのを止めるために使われる。
彼らがもっと大きくなったときですら、
往来の激しい道を横断するときの特別な保護動作としてこれはまだ残っている。
青年期になると、親と子の動作としてのそれは消え、若い恋人の結合サインとして再び現れてくる。
恋人たちが行う際の特徴は、それが両方からの動作になっていることである。
手をつないでいる大人は、
二人が同じ動作を行うことで、同等にかかわりあっていることを示している。
結合サインとしては、この点がパートナーの一方が優位な支持者の役割をし、
他方が被支持者の役割をする腕を組むことと、本質的に違うところである。
手をつないでいる二人は、そのような地位の問題にはかかわりがない。
彼らはお互いに心を寄せ合う楽しい段階にいる。
優位に立つことには関心がない。手をつなぐことには優位な手はない。
8. 膝を抱く
手を握っているとき、若いカップルは身体を接触させていない。
彼らは身体を離して歩く。
腰を抱く場合には、この問題がなくなり、カップルはお互いの側面を押し付けあう。
これはずっと親密な結合サインであり、腕を腰に回すという動作は、
恋人としての結びつきがより強く、より深いことを明白に示している。
これは歩行を困難にするので、殆ど、愛し合う二人が熱烈な散歩をするときに限られる。
これはまるで二人が歩行と完全抱擁をまったく同時にしたがっているかのようであり、
この二つの矛盾する欲求の妥協として、腰を抱いた散歩がなされるのであろう。
手をつなぐのと同じように、腰を抱くのも、殆どが異性間の結合サインである。
それゆえ肩を抱くこととはひどく対照的である。
片手の接触が友達の肩から恋人の腰へ変わる事は、結合サインの意味の重要な変化を示す。
なぜなら、腰は尻とかももと同じように、
必然的に性的接触部位としての意味を持つ性器に近いからである。
9. キス
唇で相手に触れることは、単一の結合サインではない。
キスされる身体の部位によって、何種類ものサインになる。
人前で見られるキスの中で、最も親密な形のものは、
つまり結合サインとして有効なものは口と口とのキスである。
すでにキスを名残ジェスチャーと考えたときに述べたように、母親が子供のために、
噛んだ食物を口から口へ直接写してやることは 、かつては一般的な習慣であった。
これは種々の部族社会でまだ行われているし、ヨーロッパの農村では今日でも見られる。
幼児は母親が口を差し出すのに反応して、母親の口の中を舌で探す特殊な運動をする。
これは人という種の古い生得的な反応型であるらしい。
そして、これは文明社会では、一般的な育児の要素としてはもはや見られなくなっているが、
若い恋人たちのディープ・キスという形で、大人にそれが見られるのである。
これは親子間の相互作用が、大人同士の親密さとして再現される驚くべき例である。
ひとつには、口と口のキスには性的興奮を高める力があるために、
またひとつには、われわれの文化的な衛生観念のために、
このタイプのキスは一般に、強く結ばれた二人だけに限られる。
キスの性的要素からして、この二人は典型的に異性であることを意味するが、
ある国では、男同士が性的要素はまったくなしに、情熱的に口でキスをするのが見られる。
結びつきが出来始めたばかりの若い恋人たちでも、
いわば恋愛の後の段階のまねをして口のキスをする。
この初めの形では、多くは舌という要素のない省略された接触である。
結びつきの長いカップルは、人前でのキスの強さを再び減少させる傾向があり、
二人でいるとき以外は、短い唇と唇の接触を殆ど挨拶や別れのときだけに限って用いる。
人が見ている場所で、強いキスを長々としている男女は、
疑いもなくペアの形成が十分に進んでいるもののまだ進行中であるといってもよい。
年長の男女が人前でこのようにするのは、長い別れのとき、その後の再会のとき、
あるいは勝利、災害、危機からの逃避といった強い情緒体験を一緒にしたときだけである。
これらは再結合の瞬間であって、
こういったときには口と口の結合サインが恥かしげもなく人前で再現されるのである。
口と口のキスが形を変えると、ほおとほおとのキスになる。
それは口と口のキスの弱い形として生じる。夫婦は時々それを軽い接触として用いるが、
それは親類とか友人間の挨拶や別れのときに最も典型的に見られる。
その信号が穏やかな意味を持つのは、それがほおへのキスというよりも、
むしろ、口へのキスをしないでいるという事実を示しているからである。
その臆病さによって、それが非性的接触として役立つようになり、それゆえ広く使われるのである。
キスが身体のどの高さになされるかによって、段階がつけられるといったキスがある。
それは地位のキスで、親が子供の頭部にするキスのように、頭のてっぺんから始まる。
これは優位のキスであり、大人方の大人にするときは、通常親に似たイメージを伝える。
額へのキスとか鼻の先へのキスというような、身体の先端へのキスについても、同じことが言える。
両者は親らしい、あるいは親に似たキスである。
身体を低くして、手へのキスをすることは、低い地位を反映する。
それは、尊敬、あるいは形式的な服従のキスで、
この服従のメッセージは、キスを行うためにするお辞儀によって強められる。
昔、厳格な社会的様式の一部として、優位な男性が女性の手にキスをするときには、
上位の男性は女性の手を自分の口まで上げることによって、
地位を落とすお辞儀を避け、この問題を解決した。
10. 頭に手を触れる。
相手の頭に手を触れることは、ふつう考えられるよりも親密な動作である。
頭はすべての重要な感覚器官が集まっている最も敏感で最も損傷を受けやすい身体部位である。
また手は、身体部位のうちで相手に最も損傷を与えやすい武器である。
このために、頭に手を触れる結合サインの親密さは、それが含んでいる信頼に基づいている。
相手が近づいてきて、頭に触れるのを許すことは、
触れるものと触れられるものとの間の強い信頼の結びつきを必要とする。
あまり知らない人の腕に触れにいけば、彼はちょっと警戒を示す。
頭に触れにいけばすぐに防衛的になる。
これはわかりきったことだが、このことの背後には、頭部への物理的脅威に対する、
われわれが持つ自分では止められない無意識的な感受性がある。
脅威がどの程度のものなのか、あるいは実際に起こりそうかどうかということは関係がない。
われわれは最も親密で古い友人、あるいは恋人、夫婦、愛する両親に対してのみ、
この部位への自分の手ではない手による侵入を許す。
それゆえ、手でちょっとやさしく頭に触れることは、
その動作の表面的な平凡さから予想されるよりも、ずっと大きくて深い結合サインなのである。
11. 頭に頭を触れる。
二人が頭と頭を合わせて接触させることは、
いわば、急性であるキスを慢性的に行っているようなものである。
これは頭に手を触れる場合のように、古いカップルよりも若い恋人たちに多く見られる。
この結合サインの特色は、それをすると二人が他の活動を出来なくなる点である。
頭を合わせ、ほおとほおをくっつけることにより、彼らは事実上、
「外のことを気にするよりも、お互いに触れていることのほうが 大事なんだ」といっている。
それは彼らが他の世界を締め出していることを示す信号であり、
事実たびたび目を閉じることでこのことが強められている。
これは愛を示すどの結合サインよりも、排他的な動作であり、二人とわれわれをさえぎっている。
12. 愛撫
手で、時には鼻、舌、足のような他の器官で、相手の身体をやさしくたたく、撫でる、
抱きしめる、探ることは殆ど性的な意味を持ち、容易に生理的興奮をもたらすことができる。
人前ではそれは殆ど若い恋人たちの結合サインで、二人の関係は周囲を無視し、
もっぱらあいての身体や反応を探ることに注意を集中する強い段階に達している。
時には例外として、年長の夫婦が社交の場で、穏やかな形で一瞬この動作をするのが見られる。
これはふつう、配偶者の身体のどこかを殆ど上の空で愛撫するという形をとり、
それは他人に二人の結びつきの深さを意識せずに示す信号として働く。
他人が見ることができるのは、氷山の一角に過ぎない。
まれには、他人にわかってもらわなければならない結びつきをわざわざ見せつけるために、
計画的で工夫された信号としてそれが用いられることがある。
13. 抱きかかえ
小さい子供や疲れた子供は、親の膝に座ったり、運ばれたりする。
このパターンは、青年期の陽気な遊びとしてしばしば行われる。
娘は若者の膝に座り、あるいは運ばれる。さらには、それは花嫁が新居の敷居を超えて、
花婿に運ばれる儀式のときにも再び繰り返される。
これ以外に、大人の世界で抱きかかえが見られるのは、
気絶、病気、泥酔などのように身体の自由がきかなくなった場面に見られる。
しかしそれは緊急の場合の動作なので、殆どあるいはまったく二人の結びつきを意味していない。
実際、それはまったく知らない人が行うこともある。
それゆえ、これは幼児に対しての親密さを示すパターンであり、
成人期においては重要な結合サインとしては残っていない。
この理由は十分明らかである。
すなわち、膝の上に乗られたり、運ばねばならない相手の体重が著しく重くなるからである。
14. 攻撃の真似
大人の間には、手でたたく、髪をくしゃくしゃにする、耳をかむ、身体を押す、つかむ、強くにぎる、
ひじで突く等本質的には攻撃であるが、相手を傷つけないように 、
やさしく抑制したやり方でされる動作がある。
われわれはそれらを敵意のある接触とは考えずに、友人の無遠慮さと解釈する。
これらは攻撃のまねをする人が犠牲者と強く結びついていることを示す結合サインなので、
彼または彼女は、誤解されるという心配なでは、少しもすることなく、
こういった偽の敵意活動をすることができる。
つまり、これらは強い親密さの現れであり、また髪をくしゃくしゃにされ、ひじで突かれた友人が、
それを気にしないことをよく知っていることを示している。
時には、それらは他人と親密な接触ができる唯一の方法である。
例えば、父親が青年期の息子に対するのがそれで、
父親はあからさまなやさしい接触が、息子をまごつかせることを知っているのである。
一般的な社会的結合サインの一部を、このように簡単に概観することは、
当然単純すぎることである。
客観的に分析してみるとこういった動作がいかに微妙で多様であるかがわかって驚かされる。
これは、われわれがそのように 愛に満ち、強い結びつきを盛った動物であるからであり、
また複雑な社会生活をしているからである。
われわれの一人一人には、多くのいろいろな関係
―夫婦、両親、友人、隣人、同僚、患者、先生、学生、雇用者、服従者等々―がある。
われわれは、自分が個人的に知っている人たちとの関係ばかりではなく、
彼らの間の関係をも知っている。
また、われわれが人と会い社会的に集まるところでは、
感覚器官は、常に変化しつつあるこれらの結びつきに関する情報を絶えず脳に伝えている。
毎日、われわれは多くの違った結合サインを読み取り、
さらに自分自身のことについて多くのことを、周囲の人に伝えている。
それらはまさに、誰が、誰を、どのぐらい好きかを十二分にわれわれに教えてくれる。
また、それらは自分自身をくもの巣ように複雑な社会生活に適応させるために役立っており、
すでに、適応していることを示す方法である。
自己接触行動
自分を慰める動作
自分自身の体に触れるといつでも自己接触行動となる。
それは他人の身体に触れるときの他者接触とは対照的である。
他人との身体接触は
―それが親しげな軽打であれ、優しい愛撫であれ、敵意のこもった一撃であれ―
われわれが気軽にやれるものではないし、またふつう自分が何をやっているかはっきりわかる。
しかしわれわれが自己接触をするときには、殆どそれに気づいていない。
自分を撫で、つかみ、抱きしめても、
誰の身体的プライバシーを侵しているわけでもないし、そうしているとは殆ど考えてもいない。
しかし自己接触をするやり方が無意識だということは、
それが重要でなかったり、意味がないといっているわけではない。
反対にそれはわれわれの内部の気分について、本当のたくまざる手がかりを与えてくれる。
自己接触の最も一般的な型は、「自己親密」と呼ぶのが最もふさわしい。
それは身体を清潔にする動作や身体を隠す動作とは違って、
大部分が自分自身に向けられた接触動作である。
自己親密は、誰か他人に触れられていることの無意識的な模倣動作であるので、
快さをもたらす運動と定義することができる。
われわれが自己親密を行うときには自分の身体の一部を、
それがまるで慰めてくれる仲間の身体であるかのように用いる。
幼児期には、驚いたり、怪我をしたときに親が抱いてくれたり、やさしく前後に揺すってくれたりした。
親はわれわれを軽くたたき、さすり、愛撫し、
こうして安心感と愛され求められている感じを与えてくれた。
大人になると、われわれはしばしば 不安を感じ、やさしい愛の必要を感じるが、
親の腕はもはやわれわれを守ってはくれない。しかし、自分自身の腕がある。
そこでわれわれは代わりのものとして、自分の腕を用いる。
われわれは、自分の体を抱きしめ、自分を前後に揺すり、自分の手を握る。
われわれにはまるで自分が二人いるかのように振舞う多くのやり方がある。
その大部分は、ちょっとした自己親密
―ほんのつかの間の接触であって、そこにある手がかりはまったく同じである。
つまり、ちょっとした慰めが必要とされる。
最も普通なのは、手で自分の頭部に触れる動作である。
都市の住民は、特に手で頭部に触れることが多い。
彼は一日のうち長時間をデスクやテーブルに向かって、
あるいは同僚と一緒に座って部屋の中にいなければならない。
たびたび、葛藤、不決断、あるいは退屈の状況に追い込まれる。
彼の手が頭部に向かうのはそんなときである。
まるで首が突然弱くなって、仕事ができなくなったかのように 、
手を頭部支持に使ったり、考え深げに顔を撫でたり、指の関節を唇にやさしく押し付けたりする。
支えている手は、幼児が自分の頭を親の身体にもたれかけたときの感じを作り出す。
顔を撫でる手は、親の愛撫という感じを呼び覚ます。
そして押し付けられた唇は、他の型の口の接触と同じように、
母親の乳房の時代「あるいは、この場合には大人の恋人の口」に戻してくれる。
手を頭部へもっていく、多くのそのような動作を研究することによって、
厳しい社会の中で大人が直面する、ささやかな慰めを見つけ出すという問題に対して、
どれが最も有望な解決法であるかを知ることができる。
頻度の順に並べると、最も一般的のものは次の通りである。
1.【あご支え】 2.【下あご支え】 3.【髪さわり】 4.【ほおづえ】 5.【口さわり】 6.【こめかみ支え】
これらの動作はすべて男女両方によって行われるが、髪に触れるのは三対二で女性に多く、
こめかみを支えるのは二対一で男性に多い。
胸の前で防御を作る腕を組む動作にも、自己接触という慰めの要素が含まれており、
まるで半分だけ自分を抱きしめているかのようである。
身体のある部分と他の部分を接触させるあらゆる動作がこの効果をもち、
多少の安心感を与えてくれることができる。
例えば、緊張したとき人は指を組み合わせたり、
一方の手のひらを他方の手のひらで強くにぎったりして、自分の手を自分でつかもうとする。
また、あらゆる形の足の交差も、
一方の足の表面が他方の足に快い圧迫を感じさせる自己親密をもたらす。
一方の足を他方の足にしっかりと絡ませると、この幹事を強めることができるし、
このことは、その人が慰めを必要としている確かなサインになる。
いくつかの理由で、ほぼ完全に女性的だと思われる足の動作がある。
それは足を抱くことや、ももをつかむことである。
足を抱きしめる場合には、両足を膝が胸に触れるまで曲げる。
そして脚の周りを手で囲み、頭を下げて膝に乗せる。
これは多分、自分の身体以外に第二の人を作り出す、最も印象的なやり方である。
折り曲げられた足は、抱き締め、寄りかかり、もたれかかることのできる形になる。
腕、胴、頭のすべてが身体接触の快さを感じる。しかしそれにもかかわらず、
この姿勢は男では殆ど見られない。
無作為標本では、男女比は一対十九であった。
その理由は多分のその姿勢があまりにも自慰的であり、明かに幼児っぽさを示してしまうので、
男はそれを恥かしがって避けるからであろう。
もうひとつ女性的な自己親密は、頭を肩まで下げる姿勢である。
女性は自分の肩をまるで親か恋人の肩であるかのように使う。
これもどちらかというと見え見えなので男はそれをしない。
しかしながら第三の女性的動作は同じようには説明しにくい。
これは手でももをつかむ動作で、無作為標本では、女性のほうに十倍も多く見られる。
手でももをつかんで座ることが、幼児期の慰めを味わっているとはとても思えない。
いくつかの理由で、男性はこの自己接触をも避けている。
この場合には性的な要素がその違いを説明できるものと思われる。
性交のときの愛撫中に、手を女性のももへ動かすのは男性のほうである。
それゆえに、自己親密のときに、この形の身体接触を再現しやすいのは女性なのである。
最後に性的な自己接触の特殊な形、すなわちマスターベーションがある。
この場合には明かにバートナーの代わりに手を用いている。
この事実は、
マスターベーションが明らかに性的な他者接触の当座しのぎの代用品であることを示している。
それゆえそれは相手がいないこと、つまり相手を得られないことを意味するので、
羞恥心と結びつき、不当に非難されるようになった。
相手のいないものには、マスターベーションは性的緊張をやわらげる無害な方法であり、
それに反対する多くの報告が発表されているものの、害は何もない。
それは性交の弱い代用品なので、もちろん公式的には必ずしも非難されてはこなかった。
しかし、他の多くの無責任に作られた理由が何度となく述べられ、自己悪習を繰り返すと、
その代価として、盲目から気が狂うまでのありとあらゆることが起こるとされた。
われわれは今日、これらの狂気を含んだ警告を笑うことができるが、
当時はそれはまじめに考えられ、
あらゆる身体的な自己愛撫の仕草に対する一般的な敵意を反映してきたのである。
大人が自分の身体を愛撫することによって、心を静め、安心感を得ようとすることは、
退行的で未熟であるとして否定されてきた。
しかし否定することによって、大人の緊張した感情や不安が抑えられるわけではない。
また隠された形の自己接触が止むわけでもない。
ほおをつかむことのように 、その自己親密と身体的な慰めの関係が曖昧な場合には、
誰も眉をひそめるようなことはしないし、ひどい不能になるなどともいわない。
だから、ちょっとした自己接触行動は少しも衰えずに続けられ、
男女両方とも大いにそれを行っている。
その起源や機能が明白になりすぎたときにのみ、攻撃を受け、社会的に非難される。
こうして、身体愛という形のちょっとしたやさしさを必要とする世界中の大人は、
自分自身を握り、支え、撫で、抱き締めるということ続け、
それをすることによって、短時間ではあるが、多くの利益を得ているのである。
非言語的漏洩
思わず内心を漏らす手がかり
われわれの社会生活では、本当の感情を隠したいのだがどういうわけか、
これに失敗してしまうことが多い。
子供に死なれた悲しみを隠そうとしている母親は、
まるで本当の表情の上に偽りのお面をかぶったような 顔をするので、
“しっかりした顔をしていた”といわれる。
このようなやり方で人をだませないようなとき、
われわれの本当の感情は、どのようにして人に漏れてしまうのだろうか 。
何が非言語的漏洩のもとになるのだろうか 。
われわれはどうしてその人が嘘をついているとわかるのだろうか 。
子供に死なれた母親の場合には、
嘘を成功させねばならない強い圧力がないので、嘘をつくのに失敗している。
事実、こういったときには嘘をつくことに失敗すると、かえって利益がある。
子供に死なれた母親があまりうまく悲しみを隠すと、感情がないと非難される。
同じように、自分が悲しみを抑えていることを人にわかってもらえないと、
彼女は勇気や自己抑制がないといわれる。
それゆえ彼女のしっかりした顔は、人をだますまねをしているひとつの例であり、
その場合、嘘をつく人は、正体を見破られるほうがうれしいのである。
意識的にせよ無意識的にせよ、
彼女は自分が無理に作っている笑いを、嘘だと読み取って欲しいのだ。
しかし、もし嘘に対する圧力が強ければどうなるだろうか。
殺人罪の裁判で、自分が有罪であることを知っているが、
無罪を強く主張している被告は、嘘を成功させなければならない強い圧力下にいる。
自分の供述で嘘をつき、その言葉に合わせて、
同じくらい説得力のある身体動作をしなければならない。
この被告はどのようにそれをするのだろうか。言葉は支配できても、身体は支配できるのだろうか。
身体のある部分なら他の部分よりもうまく支配できるだろう。
自分の思うままに支配しやすい部分とは、
日常の信号を出す際に、その動作に最もよく気づいている部分である。
彼は自分の微笑やしかめ面は鏡でよく見るので最もよく知っている。
つまり、表情は自己認識のリストのトップにくる。だから最もうまく嘘をつけるのは顔である。
一般的な身体姿勢は、いくつかの重要な手がかりを与えてくれる。
というのは、必ずしも自分の立った姿勢の固さがどのくらいか、あるいは、
どのくらいぐったりしているか、どのくらい用心しているかは、完全には気づいていないからである。
しかし、これらの身体姿勢の価値は、
特殊な状況においては、社会が型にはまった姿勢を求めるために著しく減らされる。
例えば、殺人罪の裁判の被告は、
有罪であれ無罪であれ、こわばって座ったり、立っていることを期待される。
そしてこのことが姿勢信号の弱体化を起こしてしまう。
手の動きや形は、殺人者がそれに気づきにくいし、しかも、
ふつう手の表出を弱める一定の規範もないので、うそを見つけるのに大変役立つ手がかりである。
もちろん、彼が軍事裁判を受けていれば、
彼の手は厳しい軍隊の礼式の規範に従うので、その信号は弱められてしまう。
つまり、市民よりも嘘をつきやすいといえる。
しかし、ふつうは手には動作があるので、これらは嘘を見破る手がかりとしては十分に活用できる。
最後に、下肢の部分は自分では最も気づきにくい身体部分なので特に興味深い。
しかしながら、この部分の動作は、しばしば見えなくなることがある。
したがって実際には、その有用性はかなり限定される。
けれども家具があるので、下肢はかえって人の嘘をすっぱ抜く重要な部分になる。
このことが、面接や商談のときに、人は何故机やテーブルという
身体の下部を隠す物の後ろに座っていると安心できるか、というひとつの理由になる。
この事実は、入社試験の面接のときに利用される。
志願者のいすひとつだけを部屋の中央に置いて
“犠牲者”の身体がすっかり見えるようにしてしまうのである。
まとめると、嘘をつく最もよい方法は、信号を言葉と顔の表情に限ることである。
これを行う最も効果的な手段は、
身体の残りの部分を隠すか、複雑な機械的方法でそこを非常に忙しく動かして、
すべての視覚的な嘘の手がかりを身体の機敏な動きによって消してしまうことである。
つまり、嘘をつかなければならないのなら、電話で、あるいは壁越しにやりなさい。
あるいは、針に糸を通すとき、自動車を駐車場に寄せるときにしなさい。
もし、身体の大部分が相手に見えたり、機械的作業を何もしていないときに、嘘を成功させるのなら、
声や顔だけでなく、身体全体で嘘の動作をしなければならない。
協同の嘘
練習をしていないので、大部分の人にとっては、身体全体で嘘をつくことは難しい。
日常生活では持続的で計画的な嘘をつくようなことは、それこそ滅多にない。
われわれは自分自身に嘘をつくことはあるが、それは別の問題である。
また、無意識に役割的演技を楽しむことはあるが、
これも、故意に他人をだまそうとすることとは全然違うことである。
計画的な嘘を企てても、しばしばそれを実行するのは下手くそであり、
それが発見されずに済むのは見ている仲間がぼんやりしていて見抜けないときだけである。
多くの場合、他人は思っているほどぼんやりはしていないし、嘘は気づかれる。
しかし、そのことを明らかにはしないのである。
われわれの嘘はわかってしまうが 、問題にされずにいる。
問題にされない理由が二つ考えられる。
それは仲間が当惑して嘘をばらせないでいるか、
われわれの動作に混乱させられて、嘘の真の意味を見抜けないでいるかである。
当惑している場合には、仲間は何が起こっているかは完全に知っている。
しかし、せっかく考え出した嘘をだめにするよりは 、
嘘に同調するほうが社交上望ましいと思っている。
これは特に、親しい社交の場で行われる、ちょっとした嘘の場合に当てはまる。
晩餐会でひどくまずい料理なのに、その家の奥さんがお代わりをどうぞと言ったとしよう。
われわれは丁寧な嘘をついて断る。
本当の事を言う代わりに、おなかが一杯ですとか、食事制限中ですとか言う。
女主人はその嘘に気づき、理由を悟ったとしても、
晩餐会に不協和音をたてるような危険を冒すよりも、お代わりをしないで済むようにしてくれる。
嘘を問題にする代わりに、客の嘘に合わせて話題を食事制限の話に変え、
自分の意見を礼儀正しい客のそれにあわせようとするだろう。
両方とも嘘をつき、両方ともそれを知っている。
しかし、二人とも相手を不愉快にさせたくないので、言葉の遊びは成り行きのまま進む。
これは【協同の嘘】であり、多くの社会的結束の中で主要な役割を果たしている。
嘘が問題にされない第二の理由は、嘘を正確に見抜けないからである。
嘘をついている人の動作が紛らわしいので、仲間はそれをどう処理してよいかわからない。
彼らは彼の身体の動作が互いに、あるいは言語信号と一致しないので、
彼が嘘をついていることは 知っている。
しかし、彼が隠そうとしている本当の事を見つけることができないでいる。
そのような人が部屋にいると、そこにいる人に気持ちをだんだんと不愉快にさせる。
もし、仲間が彼の下手な嘘の背後にある本当の事を見つけ出すことが出来さえすれば、
嘘を処理することができる。
しかし、それができないのでどうしようもなくなってしまう。
この当惑した場面のよい例は、個人的な災難にあったばかりの 一人の客が、
社交の場でまったく幸福そうに振舞おうとしている場合である。
本当の感情が彼の内部で波打つと、嘘の行動もしばしば極端から極端へと揺れ動く。
夜会の間中、彼を問題にしたり、社会的破局に陥るのを避けていた仲間は、
彼が帰ったときにほっとため息をつく。
そしてやっとくつろいで、彼の問題を推測することができるのである。
われわれが他人の嘘をあからさまに問題にすることを、躊躇すると言う事実は、
普通の社交上の嘘の性質がそれほどひどくないことを意味している。
われわれは嘘をつく練習を十分にしていないし、嘘をついても厳しくテストされたりはしない。
このことはわれわれの大部分が【漏洩者】として分類されうることを示している。
そして、心の曲がった少数のグループ、
つまり【プロの漏洩者】から、多くのことを学ばねばならないのである。
プロの漏洩者
プロの漏洩者とは、仕事上のことで何度も何度も長期間に渡る嘘、
しかも問題にされやすい嘘をつかねばならない人のことである。
彼らはうまく嘘がつけなかったら、自分が選んだ職業に失敗する運命にある。
その結果として彼らは状況を考えて嘘をついたり、全身で嘘をつくのに熟練している。
これには長年の訓練を必要とするが、ついには最高の域にまで達した人々の中には、
芸術のレベルにまで高められた嘘を見ることができる。
それは単に明白な例である優れた俳優のことを言っているのではない。
ほかにも超うそつきがいる。職業外交官や政治家、弁護士や法律家、
手品師や奇術師、詐欺師や中古車セールスマンがその例である。
これらの人々にとっては、嘘をつくことが生きる道である。
その絶妙の技術は、絶えず磨き上げられ、非常に鮮やかなものになっているので、
われわれの多くは、たいてい喜びを感じながらそれにのせられてしまうほどである。
普通の漏洩者とプロの漏洩者の違いは、ふつうの漏洩者が考えているよりもはるかに大きい。
われわれは【誰でも映画俳優になれる】とか
【外交官はシャンペンとレセプションだけの心地よい生活をしている】
といったことをしばしば聞かされる。
しかし、われわれがそれらの役をやってみれば、すぐに自分が力不足であることに気がつく。
大勢の観客の見守る中を、ステージの端から端まで歩くときの大げさでぎこちない動作を、
友人と街路をぶらつくときの歩き方と比べてみれば、すぐに職業俳優との技術の差がはっきりする。
大勢の観客に見守られると、漏洩者は自分がリラックスしているとは少しも感じられないし、
どんなに努力してもリラックスの信号を身体で表すことができない。
事実、一生懸命やろうとすればするほど事態をいっそう悪くしてしまう。
嘘を見抜くかぎ
自称うそつきから、自称嘘の探知者に話を変えよう。
何が嘘を見抜く手がかりとなるのだろうか。
アメリカの研究者たちの一連の実験がいくつかの答えを出してくれた。
彼らは見習い看護婦たちに、
見た映画について嘘をつくことと、本当の事を言うことの両方を求めた。
若い看護婦たちは、足を切断するという血だらけの手術の場面の映画と、
まったく反対の無害で楽しい場面の映画を見せられた。
幾つかの場面について、
彼女たちは見たものをあるときにはその通りに、あるときは偽って描写するように命じられた。
この間に、隠しカメラで彼女たちのすべての表情や動作が記録された。
こうして本当の事を言ったときと、嘘を言ったときのすべての動作が詳しく分析され、
これらの違いが研究されたのである。
嘘をつく技術は、彼女らの将来の職業にとって重要な資格であると告げられていたので、
看護婦たちは嘘を一生懸命隠そうとした。
看護婦に嘘が必要なのは、不安がっている患者が、自分は快方に向かっているのか、
手術はまったく安全なのか、あるいは自分の病気は何であるか、と何度となく尋ねるからである。
立派な看護婦は説得力のある嘘をつけなければならない。
それゆえ実験は専門的な訓練以上のものであった。
事実、映画報告テストで最もうまく身体で嘘をついたのは、クラスの首席の看護婦であった。
しかしもっともうまく身体で嘘をついた看護婦ですら、完全ではなかった。
実験者は看護婦が本当の事を言っているときと嘘をついているときの
身体動作の主な違いを集めることが出来た。
これらは次のようなものである。
1. 嘘をついているときには単純な手振りの回数が減少した。
普通は言葉で言ったことを強調するために用いられる手の動作が、
統計的に有意に減ったのである。
この理由は、話し言葉の“説明者”の役を演ずる手の動作が、
それだけで独立したジェスチャーではないからである。
われわれは興奮して話をしているときに、自分が手を振っていることは 知っているが、
その手が何をしているかは正確にはわかっていない。
このことはこれらの動作が何かを伝えてしまっているのではないか、という不安を起こさせる。
われわれは無意識に多分、手が自分を裏切るかもしれないこと、
そして自分はそれに気づかないだろうと感じている。
そこでわれわれは自分の手の動きを抑えようとする。
しかしこれをするのは簡単ではない。
われわれは手を隠し、手の上に座り、手をポケットの中に深く押し込む。
【そこでも手はコインを探して、ちりんちりんと音をさせ、なおもわれわれを裏切る】
あるいは一方の手で他方の手をしっかりとつかんだり、両手を握り合わせたりする。
老練な観察者はこれにはだまされない。
彼はこのように手が動かなくなっていれば、何か具合の悪いことがあるのを知っている。
2. 嘘をついているときには、顔への手の自己接触が多くなる。
会話中にわれわれは皆、時々顔に触れるが、
これらの単純な動作の回数は、嘘をついているときには非常に増える。
この状況で嘘をついているときによく使われるのは、
【下あごたたき】【唇押し】【口押え】【鼻触り】【頬こすり】【眉毛引っかき】【耳たぶ引き】【髪触り】
である。
嘘をついている間、これらのどれもが増えるが、髪触りと口押えの二つが特に多くなる。
口押えの理由は理解しやすい。
嘘が話しての口から出ると、このことを不愉快に感じた脳のある部位が、
していることを覆い隠せと言うメッセージを手に伝える。
嘘をついている人は無意識のうちに、
まるで自分を黙らせるかのように、手を口へ持っていこうとする。
しかし、ともかく言葉を口から出し続けなければならない。
それは脳の他の部位が口を隠すことを許さないからである。
嘘の言葉を出し続けなければならない。
その結果として、口を隠すことは中途半端になり、
手で口を隠す動作は単なる部分接触に終わってしまう。
これには幾つかの典型的な形がある。
例えば、指が唇の上に扇形に広がったり、
人差し指が唇上部におかれたり、手が口の脇に置かれたりする。
このような部分的な口隠しをしている人を見かけても、彼らが確実に嘘をついているとはいえない。
それは手が口のほうに動かされていないときよりも、
嘘をついている可能性が強いということを意味しているにすぎない。
口隠しには明らかな弱点がある。つまりそのメッセージが明白すぎるのである。
だから時々子供が不器用にそれを行うと、次のような言葉ですぐに嘘がばれてしまう。
【手のかげでもぐもぐ言うのは止めなさい。おまえは何を隠そうとしているのだ】
もっと上手にごまかして、手を口へ持っていく大人の動作は、このようにすぐにはばれない。
これはごまかしの成分を増すことで行われる。
つまり、他の重要な動作手がかりである鼻触りという成分がここで登場してくる。
何人かの観察者は、鼻に触れることと、嘘とが密接に関係することに気づいていたが、
誰もなぜそうなのかをあえて示さなかった。
二つの答えがあるようだ。
第一は、手は口から出る嘘を隠そうとして上げられた。
それをごまかさなければならないが、それには都合よく鼻が近くにある。と言う答えである。
手はあごにもいけるが、これでは口に届かない。あるいはほおにいけるが、
これでは横にそれてしまう。しかし口のちょうど上に突き出している鼻は理想的な位置にある。
と言うのは、この場合には手を唇の上方にほんの数センチ動かすだけで、
うわべでは鼻に触れているものの、
実際には口のあたりを部分的に蔽い続けていられるからである。
偽装された口隠しとしての鼻触りは、あらゆるうその動作の中でもっともよく使われるが、
それには第二の理由がある。
故意に嘘が使われるとき、もっとも熟練したうそつきでも、かすかに緊張が増す。
これによって僅かな生理的変化が生じ、それらのいくつかが鼻腔内部に影響して、鼻が痒くなる。
これは殆ど感じられないほどの僅かな感覚であるが、
そのために鼻が手を触れる場所になりやすい。
それは必ずしも手の動作を喚起させるものではない。
一度、口押えが始まり、ごまかすことが必要になったときに、
それは手を鼻に向けさせることを助けるのである。
3. 嘘をついているときには、話をしている間に生じる身体の動きの回数が増える。
椅子に座ってもじもじしている子供は、明かにしきりに逃げたがっているし、
どんな親でもこれらの落ち着きのなさの徴候にすぐに気づく。
大人ではそれは減らされ、抑えられるが
―このこともまた非常に明白な落ち着きのなさの徴候なので、徴候が消えたわけではない―
詳しく観察すれば、大人であっても、嘘をついているときには微妙で些細な身体の動きが生じ、
それらは本当の事を言っているときよりも、ずっと多いことがわかる。
もじもじはしていない。その代わりに座っている姿勢を他の姿勢に変えたときに、
身体の休息姿勢に僅かな変化が生じるのである。
これらの控えめな身体の動きは、【別のところにいたかったなあ】といっている。
姿勢の変化は、逃げようとする意図運動が強く抑えられたものである。
4. 嘘をついているときには、看護婦には特有の手の動き、すなわち手すくめが多く生じる。
他の身振りの回数が減ると、これはより一般的となる。
それはまるで言葉で言ったことのすべての責任を、手が否定しているかのようである。
5. 嘘をついているときにも、
看護婦は本当の事を言っているときの表情と殆ど区別のできない表情をする。
これは殆ど区別できないのであって、まったくできないのではない。
というのは、最もよく自分で気がつく顔にさえ、
真実を漏らすちょっとした微妙な表情があるからである。
これらの微妙な表情は非常に小さくて、速い―ほんの数分の一秒なので、
訓練を受けていない観察者には見つけることができない。
しかし彼らでもスローモーションフィルムを用いた特殊な訓練の後では、
面談の際に取った普通の速さの映画でそれを見つけることができる。
だから慣れた訓練者に対しては、顔でさえ嘘をつくことはできないのである。
これらの微妙な表情は、
顔の内的感情をあまりにも素早く表情に表しすぎるために生じるものである。
ある気分変化が表情に出るとき、
それは一組の顔面筋が一秒よりずっと短い時間で交替することで示されると考えられている。
顔に黙りなさいと伝える脳からの反対のメッセージは、
しばしば初めの気分変化のメッセージの速さに追いつけない。
結局、先ず顔面表情が生じ、次にほんの一瞬の後に、反対のメッセージによってそれが消される。
ほんの一瞬だけ顔に表れるのは、小さな、瞬間の表情のヒントである。
そのヒントは殆どの人が見つけることができないほど速く抑えられるが、
嘘をついている間注意深く観察すると、そのヒントを見つけることができる。
それゆえ、それは最良の嘘の手がかりのひとつである。
これらの実験には、重大な批判がひとつある。
アメリカの研究者たちは、実験の範囲内ではうまくいったテストを設定した。
その実験は、人が嘘をつこうとするときに何が起こるかを明示してくれた。
完全な嘘をつこうとしても、身体動作がどのように失敗するかを示している。
その実験によって、われわれは嘘を見破る小さな動作にねらいを定めることが出来た。
しかし、以上の事がこのテストのすべてなので、
これがこの行動変化を起こす唯一の状況なのかどうかがわからない。
人が嘘をつくとき、手を顔へやる動作が増え、身振りが減ることはわかったが、
嘘をつくことはこの効果を生む条件のひとつに過ぎないという可能性を排除していない。
嘘をつくことが原因なのか、あるいは原因の一部に過ぎないのか。
嘘のないうそつき動作
野外研究はそれが原因のほんの一部であることを示しているようだ。
一例を示すと、二人が話をしていて、突然、その一人が他方から激しく侮辱されたとしよう。
その侮辱は予期しないものなので、侮辱された人は、答えられないでいる。
彼は侮辱の言葉が続いている数分間、おしのように黙って座っている。
結局彼は答えるが、冷やかに落ち着いて答える。
この言葉のやり取りの間に、緊張が高まる瞬間、つまり最初の侮辱のときがあり、
まさにそのときに、侮辱された人は手を顔まで動かして、鼻の横に触れる。
それは嘘をついているときに起こる鼻触りの動作である。
しかし、この場合に鼻を触った人は、黙っていたのだから嘘をついてはいない。
第二の例として、一人が他の人を面接しているとしよう。
面接官は簡単な質問をし、率直な答えを得る。
次に、彼は難しい複雑な質問をする。
面接されている人が、答えを始めると、幾分ためらいながら指が上がって鼻を軽くたたき出す。
しかし、彼は嘘をつこうとしているのではない。質問は嘘の答えを必要とするようなものではない。
単に注意深く考えねばならない複雑な質問にすぎない。
これらの二つの例には嘘はない。
だがそのときに生じる動作は、不思議と嘘をついているときに見られる動作を思い出させる。
三つの場面には何が共通しているのだろうか 。
すべてに最初の緊張の瞬間がある。侮辱されて鼻に触れた人は黙ってはいるが、
内心は思いがけないショックに揺れている。
彼の脳は沸き返っているが、概観は落ち着いたままである。
彼の内的行動【思考の活動状態】と外的行動【行動の不活動状態】は互いに相容れない。
同じように突然難しい質問をされた人は、彼の思考と動作の分裂を経験する。
彼は滑らかに直ちに答えようとするが、
彼の脳は複雑な質問に対処しようとして猛烈な勢いで働いている。
またもや、彼の内的思考と外的動作が一致しない。
これらの二つの場面を嘘をついているときと比べると、明かに多くの共通点がある。
故意に嘘をつくことの本質は、
脳内で起こっていることが、外的な言語行動に反映されていないということである。
あることを考えている間に別のことを言っている。それゆえ、
鼻触りが嘘をついている信号であるということは、多分事態を単純化しすぎている。
代わりに言えることは、鼻さわりや 他の似たような動作は、
内的思考と外的動作の間で、分裂が強いられている事実を反映しているということである。
非常に一般的な意味では、これもごまかしということができよう。
故意の嘘は、この一般的な状態の特殊な場合にすぎない。
われわれが心の中で侮辱や難しい問題と戦いながら、平静に見せるためにもがいているとき、
われわれはある意味ではごまかしをしているのだが、それは嘘をついているとはいえない。
換言すれば、口に出して言う嘘よりももっと不正直なことがある。
それゆえ、嘘をテストするといった実験を計画すると、
われわれが見ている行動のより一般的な意味を見逃す危険がある。
このように非言語的漏洩が本当に示すことは、単に嘘をつくことではなく、
緊張の瞬間に、思考と動作が一致しない基本的な一過性の内的・外的葛藤なのである。
しかし、鼻に触る人が嘘をついていると確実にいえないとしても、外に現れず、
われわれの言語的に伝えられない何事かが、彼の脳内で起こっていることは確かである。
彼は言葉の厳密な意味では、嘘をついていないが、確かに何かを隠している。
彼が鼻に触るのは、その事実をわれわれに漏らしているのである。
矛盾信号
相反する二つの信号
嘘をつくとき、行動はしばしば断片的になる。
すべての動作が調和して適合する変わりに、矛盾しあった集合体になってしまう。
非常に単純な例を示そう。
一人の男が親しげに笑っているのに、同時にこぶしをしっかりと握りしめている。
彼の顔は【幸せです】といっているが、手は【怒っている】といっている。
われわれはそのような相反するメッセージにどのように反応したらよいのだろうか 。
彼の動作の一方、あるいは両方を信頼すればいいのか、
それとも両方とも信頼できないのだろうか 。
両立信号と矛盾信号
この問題に答えるためには、両立信号と矛盾信号の違いを明らかにする必要がある。
両方とも葛藤する要素が示されている。
しかし両立信号の場合には、葛藤は混在する気分の結果である。
暴漢がある男の妻を侮辱している場合を例に取ってみよう。
その男は暴漢を本当に怖がっているし、同じように本当に怒ってもいる。
その男は恐怖のために、後退して防御しようとするが、同時に襲いかかりたいとも思っている。
その男の身体は両方の衝動に同時に従い、
その結果、二つの感情が同時に両立する脅しの姿勢をとる。
この両立信号は、攻撃の意図運動と後退の意図運動が混合したものである。
彼は暴漢からじりじりと離れるが、同時に怒りの表情とすぐに攻撃できる腕の状態を示す。
そのとき両方の信号を読み取った暴漢は、それらをはかりにかけなければならない。
両方を本当の事として受け取り、どちらがより強い衝動を表しているかを決めなければならない。
このような場面では、両立信号の二つの葛藤する部分は、
どちらも本物として受け取られ、それぞれに対する反応が生じる。
しかし、男が笑いながら、同時にこぶしを握りしめているような別の例では、
何が生じているのだろう.彼は本当に幸福で、しかも同時に怒っているのだろうか 。
それとも、一方の信号だけが本当で、他方は嘘なのだろうか 。
この場合、男は本当は非常に怒っているのだが、
嘘笑いという身体上の嘘をつくことで事実を隠そうとしている可能性がある。
それゆえこれは、
わざと表出された嘘によって隠されているものの、ひとつの気分に気づく矛盾信号である。
もちろん話を逆にして、
この男が本当は親しいのだが、何らかの理由で敵意のあるふりをしていることもある。
つまり、彼の笑いは気分によって引き起こされ、
握りしめたこぶしはわざと偽って示されているのかもしれない。
二つのどちらかであるかを決めるためには、
われわれは非言語的漏洩の研究で学んだことに戻らねばならない。
矛盾信号の対立する要素が、
やさしいタイプの嘘と難しいタイプの嘘のいずれに属しているかを判定しなければならない。
人は自分のしている特定の動作に気づいていればいるほど、
その動作を使って身体上の嘘をつきやすい。
無意識に行われる動作ほど嘘を示しにくく、信号を出す人の本当の内的気分を表してしまう。
このことを心にとめておけば、違ったタイプの動作の信頼尺度を作ることができる。
これは最も信頼できるものに始まり、
最も信頼できないものに終わるが、それは次のようなものである。
1. 自律神経信号 2.下肢信号 3.体幹信号 4.見分けられない手振り
5.見分けられる手のジェスチャー 6.表情 7.言語
これは単純化された尺度ではあるが、
ある出来事について非常に多くの事を知るまでは、大まかな手引きになる.
例えば、要素 1.3.6.7.からなる矛盾信号を見たときには、
1.3.によって伝えられるメッセージを信じ、6.7.からのメッセージを無視するのがかなり安全である.
七つの範疇は以下のように簡単にまとめられる.
1. 自律神経信号
これは自ら気づいていても、殆ど統制できないもので、最も信頼できる.
意図的に汗をかいたり、頬を青ざめさせることは 殆ど不可能である.
優れた女優だけが注文に応じて泣くことができるが、
それも無理に自分を悲しい気分にさせることで行うのである.
しかしこの最も信頼できる範疇についても、1.2 の例では嘘をつくことができる.
例えば自律神経の乱れによって生じる呼吸の増加は、捏造することができる.
われわれは皆、指示に従って荒い息遣いをし、あえぎ、息を切らせることができる.
しかしそれにもかかわらず 、われわれ通常の嘘をつく方法としては、こんなことはめったにしない.
他の嘘の要素を同時に示しながら、
偽りの速さの呼吸を続けるためには、かなりの集中力を必要とする.
だから呼吸のパターンも本当の気分を知る手がかりとしてかなり信頼できる.
われわれの意識的な制御が及ばない生理的変化から生じる自律信号は、矛盾信号の中にある本
当の要素と嘘の要素を区分しようとするときには、明かに特別の価値を持っている.
しかしあいにく、それらはより強い情緒的場面に限られる.
そうでない場合には、われわれは別の身体動作に目を向けなければならない.
2. 下肢信号
ふつう、お互いに座って話をしているとき、
いとも簡単に、慎重な統制の網をかいくぐるのは、身体の下のほうの部分である。
この主な理由は、われわれの注意が顔に集中されることにあるようだ。
友人の全身を見ることができるときですら、われわれは注意を彼の頭部に集中する。
部位が顔から他の部分へと遠ざかるほど、われわれはそれを重視しなくなる。
足は目から遠く離れている。足の動作に慎重な統制を加える圧力は殆どない。
それゆえ、下肢は本当の気分を知る重要な手ががりになる。
足の手がかりが役に立つ明白な例は、次のような場合である。
一人の男がわれわれの話を根気よくまた明かに熱心に聞いている。
彼は微笑し、適切な間隔でうなづている。ところが彼の足は、
そのたびに上下にリズミカルにパタパタと動いている。
あるアメリカの有名なテレビ司会者は、あまりたびたび、
自分の気分を漏らすこの特殊な動作をするので、
彼の靴の底には“助けて”という言葉が印刷されているに違いない、といわれたほどである。
実際、彼が何度も足をぱたつかせて靴の底を見せると、そのたびに視聴者は“助けて”という
信号を見てしまうので、彼の上体の堂々とした冷静な落ち着きもだいなしになってしまう。
しかし“助けて”という言葉が見えなかったならば、多くの視聴者たちは彼がその司会を
苦しいと感じ、そこから逃げたがっていることは 気づかないであろう。
これ以外にも秘密を漏らしてしまう足の動作がある。
それは、攻撃的な足蹴りの省略形―つま先を空中に小さく突き出す動作である。
それには親しげな上体の動作が伴うかもしれないが、
足が表す敵意のほうが信頼できる要素であり、その人が示す友情は疑ってもよいだろう。
次にくつろいだ顔の信号とは矛盾して示される動作に、緊張してももをきつく握る動作がある。
あるいはソワソワと足を組替えたり、たびたび足を揺することがある。
これは今いる所から逃げたいという衝動を、抑えていることを示している。
最後に、上体の固さと矛盾するエロチックな足の動作がある。
これらのエロチックな足の信号は、足をあらわに見せる姿勢や、片方の脚や自分の手で、
他方の足をこすったり、たたいたりす る自己接触を含んでいる。
仮にこれらが、上体の動作はまったくエロチックでなかったり、
むしろエロチックなものに反発するような若い女性によってなされるような 場合には、
多分、彼女は自分が認める以上に、ずっと性的な感情を抱いているといってよいだろう。
3. 体幹信号
うちとけた場面で、普通に示される身体姿勢は、
全身の一般的な筋緊張を反映するので、本当の気分を示す重要な手がかりである。
興奮した人はいかに一生懸命努力しても、わざと身体を弛緩させることは難しい。
この最後の点については、
先輩のつまらない話を聞かされて、退屈しきっている若者を観察すればすぐにわかる。
その若者は適切な注意深さを示そうとして、
うなづき、眉をひそめ、笑い、つぶやき、時には熱心に前かがみになりさえする。
しかしそうしても、彼の体幹信号は尚彼を裏切ることができる。
そこで彼は十分に用心した姿勢を続けようとして、意識的な統制を身体姿勢にまで広げる。
しかし、やがて身体は、殆ど気づかないうちに退屈したスランプの姿勢に戻り始める。
それが極端になされる前に、彼は自分に何が起こっているかに気づいて、
ぴくっとしながら自分を制御する。
彼がこれをうまく処理できれば、
この動作は同意を示す断続的な動作の一部としてうまく隠すことができる。
つまり、ピクリとするたびに強くうなづけば、それは是認信号の一部のように見える。
先輩が自分の退屈な話に没頭していれば、若者は多分それをうまくやり通せるだろう。
しかし張り詰めた動作が繊細さを欠くと、先輩は何故かわからないままで、
突然不愉快になり「…しかし、どうも話しすぎたようだな・・・・」とつぶやく、そこで、若者は慌てて言
葉でそれを否定し、自分の身体を再び緊張させて、適度に注意深い姿勢をとることになる。
4. 見分けられない手振り
手はそれが見える回数が多いというだけで、足の各部や体幹よりも少し余計に統制を受ける。
話をしているときに手を動かすと、目の前の手の動きを見ることができる。
われわれは手に焦点を合わせているわけではないが、
それを“半分見ている”つまり、半分意識している。
多くの手の動作には、名称をつけにくい 曖昧で漠然とした揺れ動きや傾きがある。
それらは手の最も統制されない要素でもある。
平和共存の必要性について話をしているときに、手を空中に荒々しく突き出す政治家は、
矛盾信号を送っている。その場相、手のほうが声よりも信頼できる要素である。
5. 見分けられる手のジェスチャー
多くの手の動作は、小さな表象の役を果たすはっきりとした単位である。
それらは計画されたジェスチャーで、わざわざ行われる。
勝利の V サインがよい例である。
われわれはそのようなジェスチャーを計画したりはしないが、
それをするときには、その事実を完全に知っている。
こういったジェスチャーはわれわれがそれをするときに
ぼんやりとしか気づいていない普通の身振りとは、著しく違う。
このためにそれらが矛盾信号の一部として現れたときには、信用されないこともある。
本当の事を示しているという保証がないからである。
事実、それらは顔の表情と同じくらい疑わしく、
すでにあげた他の信号に圧倒されて、通常は無視される筈である。
もし敗北した政治家が勝利の V サインを示したならば、それは彼の不屈の闘志を表してはいるもの
の、サインを出しているときの内的な状況は反映していない。
V サインに伴う他の敗北信号が真実を物語るだろう。
つまり、身体の元気のなさが、そのような場合の最もよい手がかりである。
6. 表情
われわれは自分の顔が示しているものをよく知っているので、表情で嘘をつくのはやさしい。
矛盾信号が現れたとき、顔は殆ど助けにならない。
しかしここでさえ、幾つかの手がかりがある。表情は二つの主な範疇に分けられる。
手の動作と同じように、見分けられる表情と見分けられない表情である。
見分けられる表情は、いわば“型にはまった見本”なので、簡単にそれを捏造することができる。
それは、微笑、笑い、しかめ面、ふくれっつらのような 表情がある。それらは名称がついているので、
非常に簡単に操れそうな気がする。「彼を笑ってやりなさい」とか「笑いそうで心配だ」というが、
これはこういう表情についての既成の固定したイメージを心の中に持っていることを示している。
それゆえそれらの表情は気がついたときに根底にある気分ではなく、
慎重な計算によって、簡単に変えられるものである。
われわれが決して見分けられない他の表情は、捏造するのがずっと難しい。
この範疇には、両目をかすかに寄せる、額の皮膚の緊張が増す、唇をちょっと内に向ける、
あるいはあごの筋肉を少し緊張させる、などの表情の変化が入る。
顔は多くの細かな緊張や弛緩が可能だという点で非常に複雑なので、
大きな動作としてはまったく変化がなくとも、根底にある気分を表すことができる。
大笑いしたり強いしかめ面をすると、これらの細かな筋の変化は大部分抑えられるが、
それらがまったく見えなくなることはない。
例えば作り笑いをしても、そのときの本当の気分が悲しみや抑うつ状態であるならば、
多分その笑いは、顔の僅かな見分けられない緊張によって歪められる。
このゆがみには二つのありふれた型がある。最も一般的なのは苦笑である。
幾つかの理由で、悲しみを感じていたり、抑うつ状態になっていると、
歯を見せて笑って見せるのはずっと難しい。
顔全体は眼の部分に愉快そうなしわが寄っていて楽しそうに見えるが、
口元は顔の他の部分と比べて適当な高さに引き上げられるのを拒否している。
もう一方の晴れやかな顔では、このような矛盾する手がかりはない。
また、珍しい例として、口の一方の側が「作り笑いをしろ」という命令に従うのに、
他の側がそれを拒むような場合がある。
これによって口の片側だけのいわゆる歪んだ笑いが生じる。
要約すると、矛盾信号が伝えられるときには、
二つの葛藤するメッセージ農地のいずれかが本当ではないのだが、
そのどちらが嘘の信号なのかは、
信頼尺度を参考にして見分けることができる三つの一般的原理がある。
[1]それが顔から遠ざかれば遠ざかるほど
[2]それを行う人がそれに気づかなければ気がつかないほど
[3]それが普通の人々の間でまだ認められた行動単位になっていないような 、
見分けられない名称のない動作であるほど、動作は本当の気分を反映しやすい。
これを覚えておくと多くの矛盾信号に出会ったときに、本当の意味が比較的簡単にわかる。
顔は笑っているが、固くこわばった身体をした人を見れば、顔ではなく身体を信頼したほうがよい。
顔は怒っているが、手は乞食のように哀願する形をしている人を見たら、手を信頼しよう。
二つの矛盾信号が両方とも頭部から出ているときでも、
どちらが信頼できるかを決めることができる。
例えば恥かしそうに頭を下げているが、
目は下げた位置からあつかましくもこちらを見ているような場合には、目のほうが信頼できる。
なぜならば 、恥かしそうに頭を下げていることは 型にはまった動作であり、
それゆえそれはより打算的に用いられるからである。
この最後の場合は、矛盾信号がどのようにして観察者をいらだたせるかを示すよい例である。
頭と目を下げることは純粋に恥ずかしいという反応であって、べつに不愉快なものではない。
正面からあつかましく人を見ることもそれなりに結構なことである。
しかし両方が同時になされると、頭は恥かしそうだが目はあつかましいので、
観察者にいらだたしさを感じさせる矛盾が生じる。これを見ると不安を感じ、
そのような行動には好ましくない名称を与えてしまう。
われわれはそれを“はにかみ”と呼び、[はにかむのを止めなさい]という。
つまり、魅力的な恥かしがりと魅力のないはにかみとを、言葉の上で微妙に区別するのである。
不足信号
弱く反応するとき
不足信号というのは、普通の強さのレベルに達しない信号の事である。
いろいろの点で、それらは期待される強さを欠いている。
断片的笑いがそのよい例である。
これはチラッと浮かび、すぐに別の無表情な顔に変わり、そして直ちに消えてしまう笑いである。
これとは対照的に、典型的な笑いの場合には十分な強さとなり、
消えるまでにはもう少し時間がかかる。
二人の友人が道であったような場合には、
すでにすれ違ってしまった後までも、両方が笑っていることがある。
しかし、断片笑いは彼の顔がもはや注意されなくなった瞬間に、稲妻のような速さで消えてしまう。
そのような笑いはしばしば一秒以下しか続かず、まだ他人の視線が向けられているのに急に
消えてしまうので、相手から故意に侮辱したと思われがちである。
普通より短い数分の1秒の一瞥も、別の不足信号の例である。
目での接触が減ると、われわれはすぐに不愉快になる。
仲間がそれを続けると、しばしば無意識のうちに自分がだまされているという感情を持ち始める。
不足信号が現れるのは、
それをする人の本当の気分が彼の社会的ディスプレイを妨げているからである。
彼は現在感じていない内的感情の外的サインを真似しようとするが、
この“真似”を完全にすることができない。
これができないのはー 話を《断片的笑い》に戻すが ー
自分が本当に笑いたい気分のときには、
自分の笑いの強さと内的気分の強さの正確な関係を考えたり、
それを意識する必要がないからである。
それゆえ、彼が作り笑いをするときには、
幾つかの細かな点で下手くそに真似た信号を出しがちである。
この欠点はものによって異なる。
断片的笑いは、欠点のある笑いのひとつに過ぎない。
《凍りついた笑い》というのもあるが、これはまったく違った点が不足している。
断片的笑いの場合には、笑いの強さは正確だが、長さが間違っている。
凍りついた笑いの場合には、長さは正しいが強さが不足する。
換言すれば、そういった人はわざと作り笑いをするときに、
その動作を複合信号として行うことができない。
それを直すためには、笑いの要素のすべてを適度に真似しなければならない。
このことは、彼が唇を広げ、口元を上げ、顔の残りの部分を調節するというすべての事を、
お互いに正確な強さで、またその強さに応じた正確な長さで、
しなければならないことを意味している。
また、笑いは強さに適した早さで顔に現れ、消えなければならない。
そんなやっかいなことをと思うかもしれないが、笑いというものは、もともと複雑なものなのである。
不思議なのは、われわれが作り笑いという不足信号を時々見かけるということではない。
むしろ、人々がそんなにたびたび、完全な作り笑いをできるということである。
クローズ・アップ・レンズの出現によって、俳優の職業上の顔はすっかり変わってしまったが、
これよりもずっと前から、俳優はこの問題をよく知っていた。
舞台俳優はいつも動作や表情を、オーバーに誇張することを余儀なくされてきた。
ヒーローがヒロインに笑いかけたり、悪人にしかめ面をするとき、
たとえ彼が笑いかけている相手の顔が 15 センチしか離れていなくとも、
特等席に座っているひいき客に、その顔をわかってもらわなければならない。
約 30 センチの大きさしかない信号を、30 メートル以上も離れたところに伝えねばならない、
という不自然な課題を与えられたならば、
信号をむやみやたらに強調する以外にやりようがないではないか。
同じことは初期の映画にも言えたが、クローズ・アップ・レンズの出現によって、映画やテレビの俳優
は、雄大なやり方を忘れ、身振りや表情をそっくり真似することに集中しなければならなくなった。
これは特殊な技術やまったく新しい種類の俳優を必要とした。というのは、
わざとらしいオーバーな振る舞いを避けると動作が間が抜けて、
表情不足になる危険があるからである。
今日では、下手な映画俳優に両方の誤りが見られる。
彼らは動作を強調しすぎたり、たびたび不足信号を示したりしてしまう。
後者の場合に、彼らは通常主な信号はそれでよいのだが、補助的動作を控えめにしすぎる。
例えば顔は正しく動いているが、何気ない手の動作が不足している。
もっと上手な俳優は、必要な心の枠組みに自身を“溶け込ませ”そして彼らの顔を、
また、手も、ごく自然に身体の他の部分に、溶け込ませることのよって、
ムードを作り上げる才能をもっているようだ。
映画の演技という問題に出合うことのない人にとっては、
このような特殊な問題は怒りようもないが、礼儀正しさを求められ、
本当の感情を抑えねばならない社交の場においては、一般的な問題に対処しなければならない。
しかし、ほんの一瞬だがわれわれは皆、
カメラの前に立つ現代の俳優が直面する大きな問題を経験することができる。
それは家族のスナップ写真をとるときである。
撮影者はピントをあわせ始める。
われわれは作り笑いをし、できるだけそれを続けようとするが、
すべての家族アルバムが証明するように、それはやさしいことではない。
優れた写真家は、シャッターを押す直前に笑わせる。
だから、彼が写した笑いと普通の家族写真とでは著しい違いがある。
それゆえ、不足信号が存在する大きな理由は、
われわれが自分の多くのジェスチャーや表情に、微妙な複雑さがあることに気づいていないために、
不適当な気分のときには、それらのすべてを完全には真似することができないからである。
別の要因としてわれわれの本当の気分によって生じる反対方向への内的圧力がある。
よくあるように、反対の気分、例えば幸せそうにしているが、実際は悲しいという状態でいると、
身体動作のあらゆる“幸せだという傾向”が、内的気分のために反対方向に向けられ、
まねをした動作は期待されるレベルに達していない。
期待されるレベルについて述べると、特定の動作には、
一般に受けいられる形についての暗黙の了解がある。
つまり、笑っているのを見たとき、われわれ H 皆本物の笑いを知っているという仮定がある。
生まれつき盲人の人の研究から、笑いが生得的な反応であることが明らかであるが、
盲人と話をした人なら誰でも、盲人の笑いが少し異なっていることに気づく。
盲人の笑いは普通の笑いの微妙なニュアンスを欠いている。
人間は大まかな動作を遺伝的に受け継ぎ、社会的経験によってそれを洗練し続けているらしい。
われわれはこれを無意識に行っている。
それゆえ、作り笑いをしようとすると、不足という問題が生じる。
しかし、この洗練される過程は、その地域のディスプレイ規範の違いによって文化ごとに異なる。
われわれが旅行したり、文化の違う人々と交流したりするときに、
このことがディスプレイ規範によって地域ごとに生じる主な違いのひとつは、
ある特定の動作がどのくらい弱められているかである。
ある文化では、本当は幸せでも控えめな笑いをするのが普通である。
そのような不可解な“文化圏から来た人に出会うとわれわれは実際には、
本物の弱められたディスプレイを見ているのに、嘘を表す不足信号を見ているのだと思ってしまう。
この種の問題は、われわれが外国人と交流をする場合に、、
言語上の障害のほかに、意識されない混乱を引き起こす。
このことは、一生の大半を自分の社会的グループの中だけで過ごし、
短い休暇を取って外国に出かけた人に当てはまる。
そのような人が外国人と話をしているときの顔を観察すれば、奇妙な現象に気づくだろう。
彼らは、本国における微妙な対人関係のニュアンスが、底では失われていることに気づき、
そっけないが効果的なやり方で、偶然の、そして意図しない不測信号を出す危険を避けている。
彼らは何事をも誇張しすぎる。より大きな声で話し、いっそううるさく笑うだけでなく、
さらに強く微笑み、より力強くうなずき、一般に親しそうなジェスチャーをオーバーに演じる。
彼らはその地方の非言語的方言を学ぶ余裕がないので、
直感的にこれが正しく振舞う最も安全な方法であると感じている。
しかし視覚的信号を誇張しすぎることは 、それを控えめにすることと同じように、
明かに不自然である。それゆえ、不足信号からコインの裏側、つまり、《
過剰信号》へと話を移そう。
過剰信号
反応しすぎる時
過剰信号は、ある動作がその状況では強すぎる場合に、いつでも見られる。
ほどよい冗談に対して、あまりにも大声であまりにも長く笑いすぎる人は、すぐに疑われる。
われわれはその人が本当は面白くないのに、
その事実を隠したくてオーバーに反応していると、直感的に感じる。
あるいは多分、彼の心がどこか別のところにあり、冗談をちゃんと聞いていなかったので、
用心のためにオーバーに笑っていると感じる。
あるいは多分、彼が冗談を理解できず、それを隠そうとしていると感じる。
本当のことはわからないが、彼の反応が不適切なので、確かに反応をごまかしていると思う。
不足信号と同様に過剰信号も、
その人が自分の偽りの反応の適切な強さがわからないでいることを表している。
不足信号に二つの理由、
つまり本当の反応の適切な強さがわからないことと、
隠された内的気分を抑えていることがあった。
過剰信号でも最初の理由はこれと同じであるが、二番目の理由はない。
われわれが動作をしすぎるときには、
本当の反応を完全に真似できないかもしれないが、内的気分によって弱められてはいない。
反対にわれわれは内的気分と十分に戦っているのだ。
それはまるで
「私は笑うことで、悲しくないというふりをしています。けれども、
私の悲しみがにじみ出て、笑いを弱めるのがわかっているので、
この切ない悲しみに負けないように大声で笑っているのです」と、
独り言を言っているようなものなのである。
不運にも、この補償過程は、どれもあまりにも簡単に過度の補償になってしまうので、
嘘の手がかりはすべての人に気づかれてしまう。
この失敗の理由は偽りの笑いをする人が、バランスを取ることができないからである。
彼は次のように無意識のうちに独り言を言う。
この冗談は「強さ4 の笑い」に値するが、私は今「強さ3 の悲しみ」に耐えている。
このバランスを取るためには私は「強さ7 の笑い」をしなければならない。
こうするとつりあいが取れる。
理論的にはそのとおりなのだが、実際には、このようにして違った気分と動作をつりあわせることは
非常に難しく、詐欺師はしばしばやりすぎてしまう。
シェイクスピアは、「あの婦人はあまり誓い過ぎるようですね」【
(ハムレット)題三章第二場】
と書いた時、この現象に気づいていた。
はっきりとした過剰信号の例が、
性的、それどころか反性的信号に反抗しすぎる女性の行動に見られる。
最もはっきりした例は、椅子に座っているときに、スカート
が少しもずり下がっていないに、
何度となくそれを引っ張って下げようとする仕草である。
別の例は、足をしっかりと組んでぴったりと重ねたり、あるいは
まるで太ももでクルミを割ろうとしているかのように、足をしっかりと締め付けている少女である。
このような場合に、少女の動作の強さは、彼女のスカート
をじっと見つめてもいないし、
腕で彼女の股を無理に離そうともしていない男性の前では、明かに誇張しすぎている。
そのような動作は、
性的ディスプレイとしては、強さの点で、足を広げて股をさらすことと変わりがない。
帰って彼女の性への偏見を確実に目立たせる。
それらは殆どの反性的信号と同様に非性的信号としてはまったく失敗である。
不足信号の場合と同様、過剰信号の場合も違った文化圏から来た人が会った時には、
誤解の危険がある。
しかしたとえ大きすぎる声で笑ったり、背中を強くたたきすぎたり、
長く握手しすぎる人に出会ったとしても、それは単にわれわれが
その人に特有の文化的背景の規範を目撃しているにすぎない。
すなわち、そこではディスプレイの規範がわれわれの文化ほどには、
これらの特異な動作を弱めてはいないのである。
そのような場合には誤解が起こるかもしれないが、それらは予想されるほど一般的ではない。
これはわれわれがすぐに、
人間の行動の完全なパターンの真偽を微妙なところで感じることができるからである。
われわれはそのような手がかりを矛盾信号がないものとして使い、
彼の動作に嘘はないと正確に判断する。
そうだとしてもわれわれはまだ完全に彼に安心していない。彼を信頼するだろうが、
穏やかな社会関係の中では、彼の強い信号にすぐに十分に適応するのは難しいと感じる。
彼を乱暴だと思うが、
彼のほうでも、疑いもなく、われわれが冷たく、おとなしいと、友人に言っていることだろう。
文化圏相互に生じる問題について、
感情を表すタイプと、控えめなタイプの両方について弁護してきた。
感情を表す文化圏の人は、見た目には静かな文化圏の人を、
あまりにも反応がなく、ディスプレイが弱いので嘘をつきやすいといって非難する。
情緒を表さないので、情緒の有無を簡単に隠すことができると悪く言う。
控えめな文化圏の人は、相手の燃えるようなジェスチャー が、些細なことにも強い情緒を示しすぎる
ので、本当にそうなのか、そうでないのかわからないといって反撃する。
一定の期間、両方の文化圏に住んだことのある人なら、
これらの見方がどちらも誤りであることがわかるだろう。
おのおのの文化圏の視覚的表現には、中程度から強烈なものにいたる完全に明確な範囲があり、
自分を自分が住んでいる文化圏の特定の波長に合わせることは 、単なる学習の例にすぎない。
一度、この学習をするとー それは外国語の学習ほどやさしくはないが ー
嘘をついている瞬間を見つけ出すことができるし、
非言語的漏洩、矛盾信号、不足信号、過剰信号の例を見分けることもできる。
たとえ、異なるジェスチャー型が互いに不可解であったり、そこに混乱があったとしても
“嘘がばれる”基本的原理は本質的にはすべての文化圏で同じなのである。
地位ディスプレイ
社会的秩序を示す方法
地位ディスプレイとは優位の程度を顕示することである。
原始社会では、単なる力の顕示によって優位を占めることが出来た。
つまり、集団の中で最も腕力のあるものが序列の最上位に立ち、最も弱いものが最下位になった。
現代の人間社会では、家系や政治力や創造力がそれに取って代わった。
すなわち、最高位の継承者や実力者や文化人が、最も腕力のあるものに取って代わったのである。
これらは今日見ることのできる高い地位の三つのタイプであり、
それぞれその優位を誇示する独特の方法をもっている。
隆々たる筋肉を誇示する代わりに、
継承者は先祖を、実力者は影響力を、文化人は業績を誇示する。
腕力ではなく、財力が最大の地位ディスプレイといわれることがあるが、厳密にはそうではない。
貧乏貴族、薄給の政治家、不遇な天才はその家系、権力、創造力のゆえに尊敬される。
しかし、これに富が加われば高い地位を獲得するための“闘争”で明らかに有利になれるだろう。
人は金によって一時的には羨望の的にもなれるが、その栄光ははかない。
このために地位ディスプレイはますます巧妙になってきた。
その昔、王様は、人目をひく衣装、宝石、宮殿、饗宴によって、意のままに優位を誇示できた。
これが出来たのは反対者を封じ込めるために地下牢、拷問、衛兵を使ったからである。
つまり腕力を振るうことから一段しか離れていなかった。
今から数百年前に家臣は集団を作って王様を倒す方法を発見し始め、
多数の力を持って古い型の専制君主を根底から打ち破った。
それ以来新しい型の優位者は、高い地位を得るために権謀術数を使わざるを得なくなった。
この点で、現代の地位ディスプレイを調べてみるのは大変魅力がある。
上位者のディスプレイ
現代は継承者にとっては権力のない華燭を意味し、
実力者にとっては華燭のない権力を意味している。
現在残っている王室は、なお昔日の礼装と儀式を誇示し、
この味気ない現代社会の中で、彩りと盛観を呈しているが、現実に支配権を振るうことはない。
一方、政治家は大きな権力を行使するが、華燭に見られないように 気を配っている。
言い換えれば、高い地位のディスプレイが相手を威嚇するだけのものならば、
今尚それは派手に行われなければならないが、
真の力に裏打ちされているならば、むしろ上手に隠したほうがよいのである。
このような無言の地位ディスプレイは幾つかの形を取る。
ひとつは自分自身はディスプレイをしないということである。
大統領とか国家元首は、地味な装いで黒塗りの乗り物で旅行をする。
決して黄金の冠をつけたり、金色の馬車に乗ったりしない。
微笑し、握手をするだけで、尊大な風習や片足を後ろへ引いたお辞儀を要求したりしない。
その代わりに、顧問、ボディーガードといった強い印象を与える人々を周囲に配している。
そして、警察が彼の通行を円滑にし、随行者は彼を妨害から守る。
王様や大統領よりもやや序列が下がると、別の形の無言のディスプレイがある。
それは“最新流行の事物(In-thing
)”を作り出すということである。
これは高い地位の人がもっぱら行う、
あるいは持っているという理由だけで、高い地位を誇示することになる行為や対象である。
それは費用がかかろうとかかるまいと、常に流行の最先端をいくものである。
例えば最新流行の飲み物、レストラン、乗り物、行楽地、服装がこれにあたる。
”in”というのは“仲間内”という意味で、高地位者という選ばれた人々だけが、仲間内なのである。
このようなディスプレイの仕方は毛並みのよい人たち、
例えば財閥の後継者、富豪の子弟、社交界の名士に特に好んで用いられる。
彼らはジェット機で世界を股にかけて遊びまわれるほどの金持ち連中であるが、
王族の場合と同様に真の権力はない。単に社交的優雅さがあるだけである。
しかし、王族とは違って、こういったプレイボーイやプレイガールは、公式的儀式を避けている。
つまり、彼らの世界の本質はその排他性にある。
― 外界を排除し、地位ディスプレイを自分たちの行為の範囲に限っている。
行き過ぎが合っても、それは仲間内の事なので表には出さない。
その限られた社会の中ではお互いに分かり合えるので、
それらのディスプレイは存在し続けているし、これで十分である。
もちろん、このディスプレイがより多くに人に及ぶならば、気分はよいだろうが 、それは危険である。
というのは、それが人々の嫉妬をかい、
ひいては新たな形でギロチンを動かすことにもなりかねないからである。
しかし、もともと嫉妬心の穏やかな表れ方は模倣をすることなのだから、話はやっかいである。
外部の者たちは仲間内のまねをしようとする。
例えば、二人の高地位者が改造して薄暗くなったスローターハウスに座って、アントラーフィズを
飲み、スーダン製の首飾りの民芸品をつけ、黒いボイラー服を身にまとっている。
まさしく仲間内にしかこの新しいファッションはわからない。
ところがそばに座ったゴシップ記者がそれを事細かに記事にするので、あっという間に
秘密が外部に漏れて、その場所は模倣者で一杯になってしまう。
仲間内の連中は他へ移動するが、そこでも同じことが起こる。
彼らが評判になるのを避けている、と考えるのは素朴すぎるようだ。それは的外れである。
実際、彼らがやっていることは 評判になることを避けているのだというショーなのであって、
完全に評判になるのを避けているのではない。
だから、彼らは自分たちの気に入った溜まり場が有名になり、自分たちのファッションが
安っぽい模造品によって破壊されてしまったことに対して、文句を言える立場にいられる。
こうして彼らにはそうなりたがっているようには見えないのに、
一時的な流行のリーダーとなるチャンスが与えられる。
だから、彼らは社会的序列の下位者の目前で、
ずうずうしくも地位ディスプレイをしているのに、責められることもない。
継承者から実力者へ目を転じると、そこでも同じようなやり方が使われていることがわかる。
そこでは、限定的ディスプレイが強調されている。
大統領や首相よりも下のレベルの実力者は、
将軍、実業家、長官、実力のある行政官、組合の幹部、資本家である。
これこそ真に隠れた権力をもった一団である。
目立たないが、巨大な影響力をもった彼らは、地位ディスプレイを直接の部下に向ける。
そして、オフィスの中では、さまざまな方法で注意深く、巧妙に権力を振るう。
このディスプレイの多くは、外界に対しては無意味であろうが、関係者には十分通じる。
二三の例をあげてみよう。
ひとつは靴のディスプレイである。高い地位の実力者の靴をぴかぴかに磨かれ、
専門家の目にかかると最高級の品であることが一目瞭然である。
彼らはあらゆる霊長類と同じように、見事に手入れの行き届いた身づくろいをし、
下位のものなら見過ごしてしまうような、細かな点にまで注意を払っている。
第二に、電話のディスプレイがある。
職場の交換台を通さない秘密ナンバーの直通電話も含めて、
必要以上の数の電話を机に置いている。
しかも、電話のダイヤルには決して触れない。
直接自分でダイヤルを回すほうが時間の節約になるのに、人にやらせる。
あらゆる機会、たとえ電話でも、それを動かすのは“肉体労働“であり、下位者のすることである。
それゆえ、両方とも秘書が電話に出ているときは、
どちらの実力者が先に電話に出るかが問題となる。
高地位者は先に相手を電話に出させ、自分の秘書と話をさせ、
自分は相手の秘書に話さないようにする。
電話のディスプレイは最近は自動車電話にまで広がった。
実力者は自動車に乗っている最中に電話をかけることで、忙しさを誇示するのである。
これには特別なアンテナが必要である。
それゆえ実力者のクルマから突き出たこのアンテナは、新たなディスプレイとなる。
アメリカでは電話のない自動車につける飾りアンテナを売って、
大もうけをした会社があるほどである。
このような(優位の擬態)が広がると、
実力者は次々に新しい地位ディスプレイの形を採用せざるを得ない。
同じような傾向が、自動車そのものの選択についても生じ、
模倣者が増えてくれば、新たなモデルへと穏やかではあるが止むことのない変化が起こる。
書類鞄のディスプレイもある。
地位の低い行政官は、細目について処理する必要があるので
(細目に注意を払わないということが、高い地位のディスプレイとなる)
書類の詰まった大きな鞄を持ち歩かなければならない。
序列が上になれば、重要書類だけ持ち歩いていることを誇示するために鞄は薄くなる。
最高位者はなにも携行しない。
実力者の優位な世界では、高地位者が職業上のどんな物品であろうと、
持ち歩くことはまったくタブーである。
実業界のかばん持ちは、昔の槍持ちと同じである。
彼らは実力者を守っているのであって、実力者そのものではない。
オフィスのいすについても、地位ディスプレイが盛んである。
訪問者に高価でゆったりとしたいすを与えるという口実で、
高位者は訪問者が床近くまで深々と沈むような低いやわらかいソファーをすすめる。
こうすると両者が座っているときに、
高位者は訪問者よりも文字通り高く位置し、見下ろすことになる。
この現代の実力者は、古代の支配者が平伏を要求したのと同じ事を行っている。
安楽を与えることに名を借りて、低い姿勢を求めているのである。
このようなさまざまな方法で、現代のトップ実力者は、自分の地位を誇示する。
地位闘争の場にいない人にとっては、その微妙な点はわからないが、
ビジネスの世界でも、それらには国により、会社により、多くの違いが見られる。
地位ディスプレイは、現代文化の影響によって大っぴらには行われなくなり、
ますます局所化、特殊化してきた。
高い地位の多くの特徴は、最も地位の高い人がトップレベルの要素として、
何を選ぶかに基づいて、まったく任意に決められる。
しかし、それにもかかわらず 、この入り組んだ優位信号のすべてに通じる一般原理がある。
ひとつは時間であり、もうひとつは奉仕である。
そこではいつも時間が足りないのと同時に、必要以上の奉仕がある。
トップの人は、いつも信じられないほど忙しそうに見せなければならない。
劣位のものは原則として待たされ、実力者の日程が詰まっているために、会見も厳しく短縮される。
トップの人は職務から離れると、ぶらぶらして時を過ごせるが、
一度職場に戻ると、時間に追われてすごさねばならない。
これがうまくできないと、彼の個人的能力は人から要求されるもの以下とみなされる。
これと同様の事が、多くの継承者、
つまり絶え間ない”社会の話題“をかきたてている社交界の名士にも当てはまる。
彼らの人格には、華々しさが強く求められている。
奉仕のほうが真の優位をより生き生きと表している。
召使はいつでも重要な存在であったが、現代では、そもそも、召使の数が減ってきたので、
高い地位の趣を醸し出す、非常に価値のあるものとなっている。
お抱え運転手つきの自動車は、真の力と権威を確実に示している。
最近、ロンドンの上流階級の間に、心中穏やかならぬ騒ぎがあった。
高い地位の男性の中に、
公害反対の意思表示として、勇敢にも市中を自転車で走り回るものが出たからである。
これは賞賛に値するものであるが、自転車の使用が新たな地位ディスプレイとなるという考えには、
他の高い地位の男性はついていけず、あざ笑った。
しぶしぶ、政府の場に引っ張り出されたある地位の高い男性は、
歩いて会合に行き来することを主張した。
市中にあって交通混雑の中を徐行するよりも、歩くほうがしばしば速いことがはっきりしているにも
かかわらず、この行為は、時として他の高い地位の者に懐疑と敵意を引き起こした。
彼らが反対したのは、地位に関して他の歩行者と区別がつかなくなるからであり、
お抱え運転手の後ろに座ってクルマのドアを開け閉めさせるという
奉仕ディスプレイが失われるからであった。
初めに高い地位を三つに分類した。
それは、継承者、実力者、文化人である。
文化人に着いては特殊なケースなのでこれまで触れてこなかった。
彼らの地位ディスプレイはその業績である。
作曲家は音楽で、科学者は発見で、彫刻家は彫像で、建築家は建物で誇示する。
彼らは行動の仕方ではなく、作った物の質で順位付けられる。
普通、継承者と実力者は何も作らない。
彼らが死ねば公私にわたる活動も一緒に死んでしまうが、
創造的文化人は生き続け、その偉大な業績によって忘れられることはない。
このことは、他の優位ディスプレイとめったにぶつからないので、
地位のあらわし方において極めて有利である。
事実、通常の地位ディスプレイに対する無関心が、そのまま地位ディスプレイになる。
風変わりな衣服や行動は、彼らにとって日常的であり、
地位闘争の渦中にいる市民にはわからない社会的自由を満喫している。
業績が彼らを物語るのである。
下位者のディスプレイ
最後に社会階層の下位の人々ではどうだろうか。
彼らのすべてが、社会的序列の最下位にいるわけではない。
そのなかにも多くの特徴的な方法で示される地位の相違がある。
第一に模倣者がいる。
すでに触れたが、優位の擬態に専念する人のことである。
下手なやり方で、高い地位の人の活動を真似る。
例えば高価な絵を買う余裕のない者は、その模造品を買って壁にかける。
本真珠を買えないものは、模造真珠を妻に買い与える。
その人に家は、偽の骨董品、模造皮革、木製に見せかけたプラスチック家具で一杯である。
本物の質素な手工芸品の代わりにまがい物を好む。
第二は自慢家である。
少年の典型的な地位ディスプレイは、うるさいほどの自慢である。
「僕は君よりうまく出来たよ」「いや、僕のほうだよ」しかしこれはまもなく、大人になれば消える。
大人になっても残っている場合、それはもっと巧妙になっている。
有名人をまるで友人であるかのように口にしたり、話を何気なく自慢できる方向に向ける。
もちろん、高い地位の人々もこのようなことをしないわけではないが、
普通は他人が自慢してくれるように上手に仕向ける。
こうしてまた、追従者と呼ばれる別の範疇に入る人に、社会的な活躍の場が与えられる。
優位者は、自分を褒め称えるお付きの追従者 2.3 人抱えたがる。
追従者はこの点をうまく利用して、低位から中位まで自らの地位を高めることができる。
次におどけ者がいる。
これは仲間を楽しませることによって、自らの地位を僅かでも高めようとしている。
低い地位のもうひとつのタイプである。
彼は人を楽しませることによって、自分を必要な人間にする。
本当の尊敬を得ることはできない。
そのユーモアと人柄で他人の関心を引く。
五番目は饒舌家である。
話を決して止めないことによって、あらゆる社会的会合出で、
ことさら注目を集めようとする人である。
最後に議論家がいる。
彼は論戦の機会を見つけようとして、会場をうろついている。
社交の円滑な流れを混乱させることによって、自分に注意を向けさせ、
そのことで自らの立場を僅かに高める。
われわれは皆このようなタイプの人を知っており、毎日出会っているが、
これ以外の普通には見られない形の地位ディスプレイに一度もであったことがなければ、
それは幸運である。
非常手段に訴えて、原始の腕力に戻って自己の個人的優位を誇示する人、
つまり、新原始人がいる。
例えば、強盗、強姦者、殺し屋がそうである。
金のために強盗をしたり、性欲のために強姦をするのではなく、
たとえ一瞬であっても、力づくで他人より優位に立つというスリルを感じたい人である。
その優位は最も野蛮な手段で手に入れられるものであるということも、
彼らにその非行を思いとどまらせることがない。
通常、彼らにはそれしか方法がないのである。
強姦の場合、優位を誇示できない欲求不満が、最もありふれた動機となっている。
性に飢えた人は、止むを得なければ売春婦を見つけて欲求を満たすことができる。
この場合には事件は生じない。
強姦者がやりたいことは、性欲の解消ではない。
むしろ生贄を卑劣な方法で完全に征服することであり、女性を辱め、地位を落とすことである。
これが完全に得られさえすれば、強姦者は一時的な地位の向上を経験する。
これは性による地位である。
このような活動パターンは、決して人だけに見られるものではない。
他の多くの霊長類でも優位ディスプレイの方法として、性が用いられる。
これは人以外の霊長類では高度に様式化されている。
上に乗ったほうが、2.3 回申し訳程度に腰を前後に動かし、挿入はしない。
実際、強姦サルあるいは強姦類人猿は、オスであったり、メスであったりするし、
強姦されたほうもそうである。
大事なのは上になったほうが 優位で、下になったほうが 劣位であるということだけである。
人という種では悲しいことに、この様式化がなされていない。
サルや類人猿では決まりきっているジェスチャー が、人では外傷を追わせる荒々しい暴行となる。
日常生活の地位ディスプレイが、腕力を離れ、会話と視覚的儀式という節度ある、
すばらしく複雑化した世界の中でなされているのは、大多数の人にとっては幸運なことである。
縄張り行動
限られた領域の防衛
縄張りとは防衛された空間の事である。最も広く考えると、人の縄張りには三種類のものがある。
部族、家族、個人の縄張りである。
われわれが“所有権の認められた”空間を守るために身体を張って戦うことは、
まれでしかないが、追い詰められればそれをやる。
敵が国境を超えたとき、ギャングがライバルの縄張りに手を出したとき、人が果樹園の柵を超えて侵
入したとき、強盗が家に押し入ったとき、人が列に割り込んだとき、ドライバーが他人の駐車場を占拠
したときにはこれらの侵入者は例外なく、頑強な、場合によっては猛烈な力づくの抵抗を受ける。
侵入者のほうが合法的であっても、
侵入された者が縄張りを守ろうとする気持ちは非常に強いので、
普段平和に暮らしている市民でさえ、あらゆる自制を捨て去ってしまうほどである。
たとえ、公共の福祉のためであっても、人々を家から立ち退かせるためには、
中世の要塞攻略を思い出させるような包囲作戦を取らねばならなくなる。
このような騒動がめったに起こらないという事実は、
“縄張り信号”が抗争を防止するシステムとして、うまく役立っていることを物語っている。
“すべての財産は盗まれる”と、皮肉ぽくいわれることがあるが、実際は反対である。
所有地のような財産は、所有空間であることがディスプレイされているので、
戦いを生じさせるよりも、むしろ減少させるのに役立つ、特殊な配分システムである。
人は強調的な動物であるが、また競争的な動物でもある。
したがって混乱を避けようとすれば、
何らかの方法で、優位競争を秩序のあるものにしなければならない。
縄張りを持つ権利の確立は、そのひとつの方法である。
それによって優位は地理的な問題に限定される。
A という人は、A 自身の縄張り内では優位であり、B は、B 自身の縄張り内では優位である。
言い換えれば、優位が空間的に分配されるので、誰でも何らかの優位を持つことになる。
中立的な場所で A とB が出会ったときには、A が力が弱く、頭もよくないので、
B より劣位に合ったとしても、彼自身の私的な根拠地に戻れば、
すぐに完全に優位な役割を取り戻すことができる。
たとえどんな粗末なところでも、自分の縄張りほどよい場所はない。
もちろん自分の根拠地に著しく優位な人が入り込んでくれば、われわれは脅威を感じる。
しかし、優位者もそこに侵入することは危険である。
相手の抵抗しようとする衝動は非常に高まり、いつもの卑屈さがなくなることがわかるので、
優位者も二の足を踏むであろう。所有する縄張りの中心部にまで侵入すれば、象徴的であれ、
現実的であれ、もはや戦いは避けられなくなり、両者とも被害をこうむることになる。
縄張りを役立たせるためには、そこが縄張りだということをはっきりと知らせる必要がある。
犬がマーキングによって、自分の土地にある木に匂いをつけるように 、
人という動物も自分の根拠地のいたるところで象徴的にマーキングをする。
ただし、人は視覚が特に発達した動物なので、主として視覚信号を用いる。
その方法はどうなっているのだろうか 。
以下、部族、家族、個人の三つのレベルに分けて眺めてみよう。
1. 部族の縄張り
人間は比較的少人数の集団、おそらく100 人以下の集団で生活する部族動物として進化した。
そして何百万年もの間、そのようにして生きてきた。
それは、人の基本的な社会単位であり、その中では各自が互いによく知り合っていた。
本来、部族の縄張りは周りに広い狩猟場がある根拠地であった。
どんな隣接部族でも、この社会空間に侵入してくれば撃退された。
これら原始部族が農業を営む大部族へ、最終的には工業国家へと発展するにつれて、
縄張り防衛システムはますます複雑なものになっていった。
古代の狩猟部族の小さな根拠地は大きな首都に、原始的な出陣の化粧は、
専門化した軍隊の軍旗、勲章、軍服、記章に、戦いの歌は国歌、行進曲、集合ラッパになった。
縄張りの境界線は決まった国境になって、いつも油断なくパトロールされ、
防衛施設―堡塁、見張り台、検問所、巨大な壁、現代では税関―によって、はっきりと示されている。
今日、各国は縄張りの象徴としては最高位である国旗を掲揚する。
しかし、愛国心は十分ではない。
各国民の中に、原始時代から受け継がれてきた狩猟家としての心は、
国家という互いにまったく知らない者同士の、巨大な集団の一員でいることでは満足しない。
共通の縄張りの防衛を、他の全メンバーと共に分かち合っているのだ、と感じようとしても、
その規模が非人間的になりすぎている。
五千万人以上からなる部族に属しているのだ、という感じをもつのは難しい。
その結果、原始のパターンに近い、個人的に知り合える小さな下位集団を形成する。
例えば、地域クラブ、十代の遊び仲間、組合、専門家協会、スポーツ協会、政党、学生交友会、閥、
抗議団体などである。実際、こういった集団のどれにも属していない人は珍しい。
そして、部族的な忠誠と友情の精神を身につける。
通常、これらの集団は (縄張り信号) 例えば、バッジ、制服、本部、旗、スローガンなど
集団の同一性を示すあらゆるディスプレイとなるものを作る。
そこでは、部族的な縄張り意識に基づいて、活動がなされている。
そして、大戦争が勃発したときだけ、国家というより高次の集団に力点が移るのである。
現代における、このような擬似部族組織は、それ自身の特殊な根拠地をそれぞれ形成している。
極端な場合にはメンバー以外は誰も入れない。
そうでない場合には、メンバー以外の人は権利を制限され、
特別の規則を守った上で、ビジターとしてやっと入れてもらえる。
多くの場合、それは小国家に似て独自の旗、紋章があり、国境警備がなされる。
会員制クラブには、独自の税関がある。
すなわち、門番がいてバスポート(会員証)をチェックし、非会員が素通りできないようにしている。
さらに内閣やクラブ評議会には、しばしば、部族の長老が特別にディスプレイされており、
前任者の写真や肖像画が壁にかけられている。
このような特殊化した縄張りの中心部にいると、外界に対する防衛を分かち合っているという感覚、
言い換えれば、縄張りの安全性と重要性を強く感じる。
クラブでのおしゃべりの 多くはまじめなものでも、冗談でも、クラブの外、
つまり防衛されている門の外にある“別世界”のあらゆるものをこき下ろしがちである。
強力な階級システムを持っている社会組織、
例えば、軍隊や大きな会社では、公的階層と抵触するような暗黙の縄張り規則がたくさんある。
将校や経営者のような高い地位の人は、理屈の上では、序列の低い人々が占めている領域へ、
どこでも自由に入り込むことはできるが、この権限は著しく制限されている。
将校は公式視察でもない限り、軍曹の会食やかまぼこ兵舎へ入ることはめったにない。
彼らは優位であるがゆえに、そこにはいる権限は持ってはいるが、
そこを異質の縄張りとみなしている。
企業においては、組合がその本来の機能を超えて行う要求の一部は、組合の役員、本部、会議に
加えて、組合員労働者のために、ある意味の縄張り権限を認めよということである。
軍隊組織および企業は、それぞれ、あたかも相争う二つの部族からなっているように 見える。
すなわち将校対他の階級、経営者対労働者である。
おのおの同じ組織内に特別な根拠地を持っているので、
表面上は単一の社会階層を構成しているところでも、縄張り防衛パターンが見られる。
経営者側と組合の交渉は、会議室のテーブルという中立の土俵場で戦われる部族闘争なので、
賃金や労働条件の問題の解決と同じぐらい、縄張りディスプレイにも関心がもたれている。
事実、一方があまりにも早く譲歩して、相手の要求をのんだりすると、
勝った方はなんだかだまされたような 気がして、裏があるかもしれないという強い疑惑を抱く。
そこで欠けていたものは、長時間にわたる両者の儀式であって、
実はそれが彼らの集団の縄張りを確認させるものなのである。
同様に、スポーツファンや十代の遊び仲間が示す敵意のディスプレイの多くは、
元来敵対するファンクラブや集団に対して、自分たちの集団のイメージを誇示することにある。
したがって、相手の本部を攻撃したり、相手を追い払ったり、
相手を服従させたりすることはめったにない。
敵対する縄張りの境界で乱闘するだけで十分である。これはサッカーの試合のときによくわかる。
そこではファンクラブの本部は一時的にスタンドの一角へ移り、
敵対するファンの集団が境界で小競り合いを起こす。
新聞にはそのようなときにおきた 2.3 の事件や怪我が大きく載る。
しかし、そこでディスプレイを行っているファン全体に比べれば、
そのようなひどい事件は、集団全体がしている行動のほんの一部でしかないことがはっきりする。
実際に殴ったり、蹴ったりする代わりに
無数の時の声、戦いの踊り、応援歌の合唱やジェスチャーが行われている。
2. 家族の縄張り
家族は本来繁殖単位であるから、家族の縄張りは繁殖地である。
この空間の中心には、巣、つまり寝室がある。
そこで横になっていると、縄張りの安心感を最も味わうことができる。
普通の家では寝室は二階に在る。二階は安全な巣になるはずである。
なぜなら、そこには直接外界と接することが多い表玄関からずっと離れているからである。
他人が入れるのでやや私的ではない応接室は、第二の防衛線となる。
建物の外にはたいてい、古代の採食地の象徴的な名残にあたる庭がある。
象徴化はしばしばそこにある動植物にまでおよんで、
それらはもはや食料としてではなく、単なる飾りの花やペットとなっている。
しかし、真の縄張り空間と同様、庭にははっきりとしたディスプレイの境界線、
すなわち垣根、壁、柵がある。これはしばしば名ばかりの障壁でしかないが、
家族という私的世界を、外の公的世界から区別する縄張りの境界線である。
訪問者あるいは侵入者は、そこを横切ると、直ちに不利な立場に置かれる。
つまり、彼が境界線を越えると、彼の優位はわずかではあるが確実に弱まる。
彼は他の場所でなら当然と考えられる単純なことでも、
許可をもらわねばならないと感じる場所に入っているのである。
縄張りの所有者は、指一本動かさずに自らの優位を示せる。
これは自分の家族の縄張りにつけた、無数の小さな所有権の“印”によってなされる。
それは部屋の中や壁にかけられた
“所有”物である調度品、例えば、家具、置物、またその色や柄である。
これはすべて所有者が選んだものであり、
この特定の根拠地を彼らにとってユニークなものにしているのである。
このように生き生きとした縄張りを示す生活単位が、
画一化されてしまったことは 、現代建築の悲劇のひとつである。
家庭について最も重要な点のひとつは、一般的な面では他の家庭と似ているが、
細部については多くの相違があって、それがそれぞれの独特な家庭を作るのだということである。
不幸にして、同一規格の一戸建て住宅やアパートを建てるほうが安く住むので、
家族の生活単位はすべて似たものになっている。
しかし、この傾向に反抗しようとする縄張り衝動があるので、
家の所有者は大量生産された財産に可能な限り印をつけようと努力する。
彼らはユニークで他とは違った家庭環境を作り出そうとして、
庭の設計、玄関のドアの色、カーテンの柄、壁紙などあらゆる装飾品で印をつける。
この巣づくりを完成して初めて、真の“くつろぎ”と安全を感じるのである。
彼らが一家そろって外出するときにも、こうした行動を小規模に再現する。
例えば、海へ日帰り旅行をする時には、
自動車に私有物を積み込むので、自動車が一時的な移動性の縄張りになる。
海岸につくと、敷物、タオル、カゴなどの私有物を目印にして小さな縄張りを作り、
海岸を散策した後でそこに帰ってくる。
みんなが一度にそこを離れて泳ぎにいっても、それは縄張りとして特長的な性質を失わないので、
後からきた他の家族はそれに気づいて、自分たちの根拠地を、遠慮して離れたとことに設定する。
海岸全体がこのような印のつけられた空間で埋め尽くされてしまうと、
後から来た者のために、根拠地間の距離はどうしても狭められてしまう。
すでにある縄張りの間に割り込まざるを得なくなった人は、
侵入したという感じを一時的に持つであろうし、すでにいる所有者のほうも、
たとえ直接迷惑をこうむることはないにしても、やはり侵害されるという感じをもってしまう。
同じような縄張りの光景は、公園や野原、川岸などそれぞれの家族が
ひとつの単位をなして集まるところならどこででも観られる。
しかし、空間を取り合うことが、軽い敵対感情を生み出すとすれば、空間を分配し、
そこに優位を限定する縄張りシステムがなければもっとひどい混乱が起こるに違いない。
3. 個人空間
ある人が待合室に入って、一列に並んだいすの一番端に座ったとすれば、
次に入ってくる人が、どこに座るかは見当がつく。
最初に入ってきた人の隣に座ることは先ずないし、ずっと離れた一方の端に座ることもないだろう。
この二つの点の中間あたりに座る。
その次に入ってくる人は、残っている間隔の広いほうを選んで、ほぼその中間に座るだろう。
結局こうして一番後からくる人はすでに座っている人のすぐ隣のいすを選ばざるを得なくなる。
これと同じような情景は、映画館、公衆便所、飛行機、列車、バスの中でも観察される。
このことはすべての人が、どこに行くときでも、
(個人空間)と呼ばれる、携帯式縄張りを持ち歩いているという事実を示している。
われわれは他人がこの空間に入り込むと、脅威を感じるし、
逆にこの空間から離れすぎていると、拒絶されていると感じる。
その結果、一連の微妙な空間調整が行われる。
この調整は普通極めて無意識のうちに行われて、可能な限り、最善の妥協点が見出される。
極度に混雑してくると、それに応じて個人空間を縮めるように調整することさえできる。
エレベーター 、ラッシュ時の電車、満員の部屋などにすし詰めにされたときには、
身体と身体が接触するのも仕方がないとあきらめてしまう。
しかしこのようにして、個人空間を放棄するときには、われわれはある特殊なテクニックを使う。
ようするに、他人の身体を“非人間的なもの”とみなしてしまうのである。
お互いにわざと相手を無視する。
できるなら、相手の顔を見ないようにし、自分の顔からもすべての表情を消し去り、無表情にする。
天井を見上げたり、うつむいて床を見たりするが、身体の動きは最小にする。
缶詰のいわしのように 詰め込まれたとき、われわれは出来るだけ社会的信号を出さないようにして、
じっと押し黙ったまま立っているのである。
混雑がそれほどひどくなくても、
人が大勢いるときには、社会的相互作用をなるべく少なくしようとする。
子供たちが集団で遊んでいるのを注意深く観察すると、
集団密度が高い場合には、より多くの接触の機会があるはずだが、
実際には、彼らの間の社会的相互作用はむしろ少ないことがわかった。
同時に、密度の高い集団では、
遊びに最中に攻撃的および破壊的行動の現れる頻度が高いこともわかった。
個人空間の余地、つまり、ひじを動かせるだけの余地は、
人という動物にとって生きるための必要品であり、
もしそれが侵されると必ず深刻なトラブルが生じる。
もちろんわれわれは誰でも、群集の中にいると興奮を覚えるし、このことを無視することはできない。
しかし、あまりにも人が多すぎる“観衆”の中にいることは、それだけで十分愉快であるが、
ラッシュ時の雑踏の真っ只中ではあまり面白くない。
群集と観衆の違いは、観衆がすべて同じ方向に目を向けて、
遠くから興味ある場面に集中しているという点にある。
劇場において、
前の席に座った人や、横の席に割り込んできた人に対して敵意を起こすことは良心が許さない。
共用の肘掛は穏やかではあるが、明かに縄張り争いの生じる境界領域となる。
しかし、ショーが始まればこのような 個人空間の侵害は忘れられ、
観衆の注意は、混雑していたこの小さな空間の向こうに集中する。
いまや一人一人の観衆は、窮屈なところに隣り合わせた人と空間的に結びついてるのではなく、
ステージの俳優と空間的に結びついていると感じる。
そして、俳優とこの距離は、非常に重要である。
対照的に、ラッシュ時の混雑の中では、
押し合いへしあいの群集は、いつも、隣の人と先を争っている。
この場合、離れたところにいる俳優と空間的関係を持つというような逃避は出来ず、
周りの人の身体を押しのけることしかできない。
混雑常態で多くの時間を過ごさなければならない人は、だんだんと調整がうまくなるが、
それでも個人空間の侵入に対して完全な免疫を持つことは、誰一人としてできない。
なぜなら、その侵入は強い敵意、あるいは同じくらい強い愛情と、絶えず結びついているからである。
われわれは子供の頃は、ずっと人に抱かれて愛されもし、傷つけられもする。
ところがわれわれが大人になると、
個人空間二侵入してくる人は、事実上、人間の相互作用のいっぱいにみなぎった
これらの二領域の一方にまで踏み込んでくる恐れがある。
たとえ、彼の動機が敵意や性欲のためではないことがはっきりしていても、
われわれは彼の接近しすぎに対する反応を抑えにくい。
どのくらい近づけば、密着と感じるかは、不幸にして国によって違っている。
自分自身の空間反応を調べるのは非常に簡単である。
道路かどこか広広とした空間で、誰かと話しているときに、
自分の腕を伸ばして、腕のどの部分が相手の身体に最も近いかを見ればよい。
西欧出身の人ならば、大体指先のあたりに相手の身体がくることがわかる。
言い換えれば、腕を伸ばしたとき、ちょうど指先が相手の肩に触れる。
東欧出身の人ならば、手首の距離に自分が立っていることがわかる。
地中海の出身ならば、相手にもっと近づいて少なくともひじの距離より近くにいることがわかる。
文化の異なるこのような人々が、出会って話をするときには、トラブルが起こる。
例えば、イギリスの外交官が、イタリアあるいはアラブの外交官と、大使館で出会ったとしよう。
彼らは親しげに話し始めるが、まもなく指先の距離の人は気詰まりを感じ始める。
彼は理由がよくわからずに相手から静かに後退し始める。
相手は再びじりじりと進んでくる。
二人はこのようにしてそれぞれ自分に適した個人空間の関係を作ろうとする。
しかし、それは不可能である。
地中海出身の外交官が、自分にとって快適な空間へ距離を縮めようとするたびに、
イギリスの外交官は脅威を感じる。
そして、イギリス人が後ずさりするたびに、地中海出身の外交官は拒絶されていると感じる。
この事態を調整しようとして、話し合っている二人は、しばしばゆっくりと部屋の中を移動する。
こうして、多くの大使館レセプションでは、西欧の指先の距離の人が、
熱心なひじの距離に人に壁に押し付けられている光景があちこちで見られる。
このような相違が十分理解され、許容されるまでは、身体の縄張りの僅かな違いは、
外交の調和およびその他の国家間の問題を、微妙に妨げる不和の要因として、
働き続けることだろう。
会話をしているときですら、距離の問題が起こるのだから、
人々が共通の空間で自分の仕事をしなければならない場合には、
明かにもっと大きな困難が持ち上がってくる。
他人との密接な接近は、
個人の身体の縄張りの目に見えない境界を圧迫するので、自分の仕事への集中を難しくする。
同僚、学習室で勉強している学生、窮屈な船の後半部にいる水夫、
混み合った職場の事務員は皆この問題に直面している。
彼らは“繭で包む“ことによってそれを解決する。
彼らはいろんなやり方でそこにいる他人から自分を隔絶させる。
最善の繭は、もちろん小さな個室―例えば、私室、私的オフィス、書斎、仕事部屋―であり、
それは近くにいる他の縄張りの所有者の存在を、物理的にぼやかす。
これは自分の仕事をするのに理想的な事態であるが、空間を共有せざるを得ない者は、
こんな贅沢はできないので、包むことは象徴的にならざるを得ない。
ある場合には、小さな物理的障壁、たとえばついたてや仕切りを立てて、
目に見えない個人空間の境界に実質を与える。
それができないときには、他の手段を探さねばならない。その一つは好みのものを持つことである。
空間を共有する者は、それぞれ特定のいす、机、部屋に対して好みのものを持ち、
固定するまでそれを繰り返し示しつづける。
他の人はそれを尊重するようになり、軋轢が減ってくる。
このシステムはしばしばこれは私の机で、あれはあなたの机というように、
公的に行われることがある。そうでない場合でも、すぐに好みの場所ができる。
例えば、スミス教授は図書館で好みのいすを持っている。それは公式的には彼のものではないが、
それを彼がいつも使うので、他の人は遠慮して使わなくなる。
食堂あるいは会議室のテーブルの席は、殆ど特定の人の個人的所有物になる。
家庭でも父親は新聞を読み、テレビを見るための好みのいすを持っている。
もうひとつの方法は、遮蔽姿勢である。
他の馬に過敏に反応したり、騒々しいレースのコースに気が散る馬は、
両目の外側に遮蔽版をつける。
これとちょうど同じように、
公共の場で一人で勉強している人は、手を盾にして遮蔽版の代わりにする。
すなわち、テーブルにひじをついて、両側の光景から目をさえぎるように両手をついたてにして座る。
身体の縄張りを強力にする第二の方法は、個人的目的を使うことである。
本、書類、その他の私有物を好みの場所にばら撒いておく。
すると、そこが仲間の目には私有された場所と映る。
個人の所有物を置いておくことは、電車や列車などでよく見られる巧妙な手段である。
旅行者はこのことで自分の席が空いていない、という印象を人に与えようとする。
たいていの場合、注意深く配置された個人的目印は、
縄張りの所有者がいなくても、有効な縄張りディスプレイとして働く。
図書館の実験で明らかとなったことであるが、ある座席のテーブルの上に雑誌を積んでおくと、
平均 77 分間その場所をうまく占有できた。
それに加えてスポーツジャケットをいすにかけておくと、占有効果は二時間以上になった。
このようにしてわれわれは、あからさまな敵意を最小限にとどめて、
侵入者を締め出しながら個人空間の防衛を強化する。
すべての縄張り行動は、こぶしを使わずに、信号で空間を防衛することを目的としており、
部族、家族、個人という三つのどのレベルでも、それが空間配分の大変有効な体系となっている。
それがいつで有効だと思えないのは、
新聞やニュース放送が必ず例外を誇張して、信号がうまくいかずに戦争が勃発したり、ギャングが
抗争したり、隣り合った家族が反目したり、同僚が衝突したりした事件を詳述するためである。
しかし、このような失敗した縄張り信号のほかに、無数の成功例がある。
それらはニュースに取り上げられないにしても、
人間社会、つまり著しく縄張り的な動物社会の最も顕著な特徴を示しているのである。
障壁信号
社会から身を守る動作
人はある種の物理的障壁の陰に隠れると安心する。
社会的事態が何らかの脅威を与えると、
人はすぐにそのような バリケードを作ろうとする衝動に駆られる。
例えば、見知らぬ人に出会った幼い子は、母親の身体の後ろに隠れて、
その人が次に何をするだろうかと覗き見をする。
母親がいないときは、いすとかがっしりとした家具がその代わりとなる。
その人がおいでおいでをすれば、覗き見をした顔まで隠してしまう。
この明白な恐怖の信号があるにもかかわらず、
その人が無神経にどんどん近づいていくと、子供は金切り声を上げるか、逃げ出すしかない。
このパターンは、子供が成長するにつれて次第に減少する。
それは十代の少女では、急に大人にからかわれてどぎまぎしたときに、
くすくす笑いながら手や紙で顔を隠すという動作として残っている。
しかし、大人になるまでには、子供じみた隠れる動作はまったく消えてしまう。
これは青年期には恥じらいに代わり、やがては勇敢に一歩を踏み出して、
来客、主人、仲間、親類、同僚、依頼人、友人と会うようにある。
しかし、このような社交の場では、われわれは再びおびえた幼児のように隠れたくなることがある。
人との出会いが、軽い脅威を与えるからである。
言い換えれば、恐怖は尚存在する。しかし、その表出は抑えられる。
大人としての役割は、退却したり隠れたりしようとするあらゆる原始的衝動を統制し、
抑圧しなければならない。
その場がより公式的で、そこにより優位な、あるいは親密でない社交仲間がいるほど、
出会いの瞬間は不安なものとなる。
このような状況にいる人々を観察すると、
幼児が“母親のスカート
の後ろに隠れる”のと同じことを今も、
尚多くのちょっとした方法で行っていることがわかる。
それは動作なのであるが、あまりはっきりとした運動や姿勢にはなっていない。
大人の生活の障壁信号は、こういったものである。
もっともよく知られている障壁信号の形は、身体交差である。
これは両手あるいは両腕を身体の前面で触れ合わせて、
胴体を横切る一時的な棒を形作るものである。
それは自動車の前面にあるバンパーやフェンダーとかなり似ている。
これは他人から見を守るための物理的行為、
例えば、群がる群集を押しのけて通るために、身体の前で腕を水平に上げるような行為とは違う。
それは普通、例えば、神経質な客が優位な主人に近づいていくときのように、
かなり離れたところでなされる。この動作は無意識になされるので、
直後にすぐ用件に取り掛かれば、そのジェスチャーを行ったことは思い出せないであろう。
それは原始的な防御あるいは隠蔽の動作としてなされると、あまりにも見え透いているので、
いつも何らかの方法でカモフラージュされている。
そのやり方は人によって違うが、いかに幾つかの例を上げてみよう。
ある祝典に招かれた貴賓が、公用車から降りてくる。
彼は歓迎委員に会って握手をする前に、
祝典の行われる建物の正面玄関の広広とした空間を、一人で横切っていかなければならない。
多くの群集が彼の到着を見に集まっており、報道カメラマンのフラッシュもたかれている。
経験豊かな名士でも、これはやや落ち着かない瞬間である。
彼が感じている軽い恐怖は、ちょうど歓迎空間の半ばまで進んだときに表れる。
歩きながら、彼の右手は身体の前面を横切って伸び、左手のカフスボタンに最後の手入れを行う。
さらに数歩進んで、立ち止まると、やっと握手の放列の最初の人に手を差し出せる距離になる。
同じような場面で、貴賓が女性であったら、どうなるだろうか。
まさに男性がカフスをいじったのと同じところで、彼女は右手を身体の前面の反対側に伸ばし、
左手の前腕に下げているハンドバッグの位置をちょっと直す。
この点については、幾つかの変形がある。
男性の場合、カフスの代わりにボタンや腕時計のバンドに手をやるかもしれない。
女性の場合、ありもしない袖の皺を伸ばしたり、
左手に持った襟巻きやコートの位置を替えるかもしれない。
しかし、どの場合にもひとつの基本的な特徴がある。
すなわち、神経が最高に緊張しているときに、身体交差が生じる。
そこでは、一方の腕が身体の前面を横切って他方の腕に触れ、
自分と歓迎委員の間に一瞬の障壁を作る。時として、障壁は不完全である。
片腕を身体の前でぶらぶらさせるだけで、実際にはもう一方の腕に触れないことがある。
その代わりに、その手で軽く身体の反対側の服装を整える。
もっとカモフラージュが強い場合には、片手が上げられてからだの前で交差はするが、
そして軽くたたいたり、振れたりする動作は生じるのだが、
手が身体の反対側まで伸ばされることはない。
それほど偽装されていない身体交差は、あまり経験のない人に見られる。
レストランに入ってきた人は、
広い空間を横切って歩くとき、まるで手を洗うように両手をこすり合わせる。
さもなければ、身体の前で両手をしっかりと握って進む。
以上の例は、人が他人の前に進んでいくという、歓迎事態での障壁信号である。
面白いことに、実地観察によると、
歓迎者と被歓迎者の両方がそのような動作をするということは殆どない。
地位に関係なく、身体交差動作をするのは殆どが新たに来た者のほうである。
というのは、歓迎者の縄張りに侵入しているのは彼だからである。
歓迎者は自分の地盤にいる。そうでないとしても、
先にそこに行って、少なくともその場所に対して一時的な縄張りの権利を持っている。
このことは挨拶の瞬間に、歓迎者に対して議論の余地のない優位を与える。
歓迎者が新たにきた者より極めて下位の場合や、
その人にひどく悩まされている場合にのみ、歓迎者のほうが身体交差の役割を演じることになる。
もし、そうであれば、その場に新たに到着した者は、入ってくるときに身体交差をしなくてよくなる。
このような観察から、われわれは障壁信号の隠された言語を知ると共に、信号の発信と受信が共に
無意識になされていても、実際にはメッセージが相手に伝わることがわかる。
メッセージは「私は神経質ですが、後は引きません」といっている。
すなわち、これは相手に僅かながら優位で、安楽な感じを自動的に与える服従行為となる。
挨拶がすんで人々が立ち話を始めると、事態は違ってくる。
ある人が、周りの話し声がうるさいので、その話をもっとよく聞き取ろうとして、
相手の間近まで接近する。すると、迫られたほうは 、ちょうど、
到着した名士が歓迎委員に向かって歩くときと同じ種類の威圧感を、抱くだろう。
しかし、迫られた人がここで必要とするのは、単なるカフスいじりよりも、もっと長く続く動作である。
相手が身体をこちらに押し付けてくる間、ずっとボタンをもてあそんでいることはできない。
そこでもっと複雑な姿勢が必要になる。
この事態で好んで用いられる身体交差は、胸の前で両腕を組み合わせる腕組みである。
この姿勢は、完全な正面の、障壁信号で、しかも変に思われずに長時間続けることができる。
それは無意識に「これ以上近づくな」というメッセージを送っており、
人が大勢集まったところではよく用いられる。
これはまたポスター画家によって“通行禁止”を示す意図的なジェスチャーとして使われているし、
出入り口を守っているボディーガードもかなり公式的に用いている。
腕組みは何かに腰掛けていて、相手が近づきすぎるような 事態でも用いられる。
その際、相手から離れるように足を組むと、それはもっと強調される。
その他にも、しっかりと握り合わせた手を股に押し付け、
あたかも性器を守るかのように、両足の間できつく締め付けるやり方もある。
この特殊な形をした障壁のメッセージは、たとえ両者が意識しなくとも十分に明らかである。
しかし、座っている人が用いる主たる障壁信号は、どこにでもある道具、つまり机である。
多くの実業家は、机がないと裸にされているように 感じるので、
まるで巨大な木製の貞操帯をつけているかのように 、毎日喜々として机の後ろに隠れている。
机を前にして座っていると、彼は向かい側にいる訪問者から、完全に防御されていると感じる。
それは物理的にも心理的にも最上の障壁であり、そのがっちりとした腕に抱かれている限り、
いつも安堵できるのである。
防御行動
危険に対する反応
他のあらゆる種と同じように、人という動物も危険に脅かされると、自分自身を防御しようとする。
しかし、人の身体は極めて傷つけられやすく、生得的な“保護器官”をほとんどもっていない。
こういった保護器官に最も近いのは、脳を包み込んでいる硬い骨と目の周りにある五つの骨の
突起―眉毛の隆起部に二つ、ほお骨が二つ、それに鼻骨―である。
これによって、衝撃による頭部の損傷は弱められるし、攻撃が加えられた後でも、
はっきりと状況を把握し、思考するだけの余裕が生まれる。
典型的な防御動作
この骨による防衛システムは、
すべての人が共通に持っている多くの防御動作によって支えられている。
健康な人ならば誰でも、生後四ヶ月をすぎれば、
危険が突発的に切迫すると、特徴的な“驚愕型”を示す。
これは一瞬の反応で、普通この反応を知るためには、
写真を取られようとしている人の真後ろで、予告なしでピストル を発射すればよい。
そして、その瞬間に、カメラのシャッターを押せば、
人という種の驚愕姿勢をフィルムに記録することができる。その姿勢は必ず決まっている。
すなわち、目を閉じ、口を大きく開け、頭と首を前に突き出し、眉を上げて前にすくめ、腕を曲げ、
こぶしを握りしめ、上半身を前傾させ、腹を縮め、膝を僅かに曲げる。
この防御型は、明かに防御的うずくまり動作の第一段階であり、身体は小さく縮み始め、
予期される衝撃に対して緊張し、目は即座に防御され、肩や腕は頭を防御しようと準備している。
暴動事態、すなわち堅い物が飛んでくるような事態では、この驚愕型がさらに拡大される。
頭がもっと下げられ、顔を守るために腕が素早く上げられる。
例えばボクシングのように形式化された事態においても、防御しているボクサーは、
皆同じような姿勢をとる。
彼もまた、強烈なパンチから自分を守るときには、頭を最優先に守るのである。
事態が異なれば優先権も変わってくる。
サッカーの選手は、フリーキックからゴールを守るための壁を作るとき、
キッカーの前に一列に並ぶので、高速度で飛んでくるボールに直撃されやすい。
彼らの両手は顔を覆う代わりに、性器の前でしっかりと握られる。
彼らはボールが飛んでくる方向を確認して、ボールが高ければヘディングのために顔を
素早く低くすることができるので、防御のための手の位置を、
身体を急激に動かしても防御しにくい領域に変えているのである。
身体をよじるのは、頭を下げるよりも僅かに時間がかかるので、フリーキックの場合には、
股の部分が最も傷つけられやすい領域となる。
にもかかわらず、キックの瞬間を撮った写真を見ると、手の位置は変わっているものの、
前と同じように肩を僅かにうつむけ、緊張した表情を伴った典型的な驚愕型が現れている。
熟練したヘディング力を持ちながらも、
サッカー選手はほんの一瞬だが、古典的な防御反応に立ち戻るのである。
野蛮な身体攻撃を受けた瞬間には、人は普通声も立てずにいるが、逃走、パニックのときや、
攻撃が一時的に中断した際には、別の防御反応、つまり悲鳴をあげることがしばしば起こる。
これはわれわれ人が、
類人猿やサルばかりでなく、多くの哺乳類と共に共有している危急を告げる叫びである。
その信号は他の者に救助に来てくれ、あるいはおまえも自分を守れ、
と警報を発しているわけで、多分、動物界で最も普遍的な信号であろう。
種による特徴はなく、どんな動物が発していても、我々自身その意味を知ることができる。
もちろん、キーキーと聞こえたり、キャーキャーと聞こえたり、場合によって違いはあるが、
痛みと恐怖のメッセージを混同することはない。
人という種では悲鳴の高さだけでなく、頻度にも性差があるようである。
成人男性は、強い痛みのときに悲鳴をあげるが、
パニックや恐怖の瞬間にはあまり悲鳴をあげない。
子供や成人女性は両方の事態で悲鳴をあげる。
この違いは、回転コーヒーカップやジェットコースターのある遊園地に行けばすぐにわかる。
これらの安全だが怖い乗り物を楽しんでいる女性の甲高い悲鳴は、
絶えず聞こえてくるが、男性のやや低い悲鳴などは聞こえてこない。
心の内奥にある恐怖
一番強い恐怖の種類をあげ、それを起こすものの具体名をあげなさいといわれたとき、
人々の答えは現代社会に生活しているわりには、奇妙にも非現実的である。
現代の真の殺人者と思われる疾走する自動車、爆弾、弾丸、ナイフ、公害、都会の過密ストレスを
あげる代わりに、ずるずる、にょろにょろ這う動物、有害な動物や昆虫、雷鳴と稲光、
閉所や高所のような古めかしい恐怖をあげる傾向がある。
これは人が文明の持つ現代的危険を恐れていない、ということを意味しているのではない。
むしろ、怖いものは何かと尋ねられたときに、人は一目瞭然のものは無視して、
心の奥底に今でも残っている不可解なパニック、不安、不快を探り出してくることを意味している。
そこで人々が見出すものは、恐怖映画の素材、
つまり、現代社会の中で深刻な脅威となることはまれだが、
人間の頭の中に今でもこびりついているイメージである。
最大の恐怖は、蛇への恐怖である。
このことは実際に危険な蛇がいる国だけではなく、イギリスのように一年間田舎を旅しても、
蛇にかまれて死ぬ確率が約五億分の1のようなところでもそうである。
アメリカでは猛毒を持ったガラガラヘビがいるが、
それでもかまれて死ぬ確率は600万分の1である。
しかし、これらの国でさえ恐怖のリストのトップに上ってくるのはいつも蛇である。
そして、蛇が嫌われるのは短い頭のせいではなく、非常に長い首のせいである。
人々に恐怖を起こさせるのに蛇に匹敵するものはない。
事実、その恐怖反応は非常に強く、イギリスではテレビを見ている人の19%が
番組中に蛇が出てくるとテレビを消すか、画面から目をそらすと認めているほどである。
われわれの先祖が、樹上から平原に降り立ったとき、
蛇を避けることは、防御反応として彼らに大きな利益をもたらした。
現代人へと進化してきた数百万年の間でも、それはずっと有利なことだったし、
蛇嫌いは実際、初期の人類成功物語の中では、死活の問題であったのだろう。
しかし現代社会の中で、これほどまでに強い形で残っていることを考えると、
それは単に死活の問題であったばかりでなく、
人という種の生得的特質にまでなっているように 思われる。
これについては何の証拠もないが、事実は強くこれを示唆している。
人間の幼児は二歳では蛇に恐怖を示さないが、三歳までには何らかの警戒を示すようになり、
四歳になるとすでに強い恐怖心が出来上がっている。
これは四歳から十四歳までの成長過程の中で、六歳のときにピークに達し、
その後はだんだんと弱まっていく。
少女のほうが少年よりもやや強く反応する傾向があるが、どの年齢でも性差は殆どない。
思春期でも反応に性差による著しい変化は認められない。
フロイト学派は、蛇を男根の象徴とみなしているが、この説明は前述の事実にそぐわない。
むしろ、次のような説明のほうが合うようである。
蛇に対する恐怖の曲線は、原始社会の子供が危険にさらされる度合いと非常によく一致している。
すなわち、ごく幼い子供は、母親に注意深く守られている一方、
大きくなれば自分で注意するようになるだろう。
しかし、その中間の子供、つまり、現代でも尚蛇に対して最も強い恐怖心を示す年頃の子供は、
あちらこちらを頻繁に歩き回るので、最大の危険にさらされるからであろう。
蛇以外でひどく嫌われている動物として、
蜘蛛やネズミ、および家の中に入り込んで這い回る小さな害虫がいる。
われわれは実際に小さな動物が肌に触ると、
手で素早く打ち払うという特徴的な防御反応を即座に起こす。
それはちょうど、ハエを追い払う有蹄類の尾の反応と同じくらい自動的である。
その反応は非常に強く、ある人にとってはとても抑えられないことなので、
走行中の自動車にジガバチやミツバチが飛び込んでくると、
運転手に容易ならざる危険をもたらすほどである。そのような虫はこちらから攻撃して、
怒らせない限り、指したりしないと教えられていても、
しばしば虫への反応を抑えることが出来ず、刺されまいとして乱暴に打ち払ったりするので、
車が衝突して生命を危険にさらすことになりかねない。
これも先祖から受け継いだ反応なのであろう。
われわれは昆虫の習性についてかなりよく知っているのだが、この反応をとめることができない。
今日のわれわれの反応のうち、
どれが古代の外敵 ― かつて、われわれの先祖に忍び寄ったに違いない
大きな動物 ―への原始的恐怖に由来しているのかを確かめるのは難しい。
ライオン、トラ、ワニは子供が嫌う動物のリストの中で、かなり高い地位にあるが、
決して蛇や蜘蛛ほど強烈な感情を起こさせることはない。
おそらくこれは猛獣のほうがはっきりとした敵であったので、
いろいろの仕方で対処できたからであろう。
一方、部族の居留地の中にまで這ってきたり、叢から突然現れたりする有毒な蛇や蜘蛛は、
突然の身震いやパニックのような防御反応を、最も起こさせる動物であった。
そして、この反応は今尚現代人の心の中に残っているのである。
恐怖信仰とお守り
人間にしか見られない防御反応として、迷信がある。
人間は盾から防弾チョッキへ、鎧から放射能退避所へというように、
現実的で申し分のない身体防御の技術を熱心に改良してきたが、一方では、
奇妙で魔術的な自己防衛の行為を発明することに、絶えず没頭してきた。
このような迷信的風習はどの時代でも、どの文化でも見られる。
その数はそれだけで百科事典が編纂されるほど多種多様である。
それらはひとつの基本的な点、すなわち、敵意に満ちた不可思議な世界において、
その行為を行う人の不安を、僅かではあるが弱めることができる。という点を除けば、
まったく意味がなく無益なものである。
ここでそれらの目録を作る必要はない。それらはすべてそれを行えば、
将来不運にならないと仮定されている行為である。
行為と結果の間には、まったく論理的なつながりがないという事実を示したとしても、
迷信を止めさせることはできない。
彼らは用意周到に“万一の場合に備えて”その行為をすることによって自らを守りつづける。
それを人に始めさせるのは簡単である。
噴水の中にコインを投げ入れると、幸運が訪れるとか、バースデーケーキのローソクを一息で消すと、
胸に秘めた願い事が実現するとか言えば、人は喜んでそれをする。
たとえ、ご利益がなくとも、それは社交の場においての、
みんなで分かち合える魅力的な方法であり、その場を盛り上げるのである。
迷信的風習の驚くべき特徴は、
最も論理的で冷静で現実的で非ロマンティックな現代の都会人の間でさえも、
それが著しく長く生き残っていることである。
今日殆どどこにでも、些細な防御型が残っている。
例えば、誰かのために“指を交差させる”
【キリストの十字架をかたどった初期のキリスト教徒の行為】
自慢した後で、“木に触る”
【雷神と和解するために神聖なカシノ木に触れる】
誰かがくしゃみをしたとき【神の祝福あれ】という
【精神の一部が、突然の発散で失われるかもしれないので】
幸運がくるように鉄に触る
【鉄はかつて超自然の力を持った魔法の金属と考えらていたので】
複雑化した文明を持った現代を旅しても、そのような風習をたくさん見つけることができる。
各地域には、特に好んで用いられる風習が一つや二つはある。
この行為を行う人は、殆どその元の意味に気づかない。
彼らは笑いながら自分はなんて馬鹿なんだろうといいつつも、決して止めようとはしない。
防御行動の特別な範疇のひとつに、お守り、護符、魔よけ、マスコットなどを身につけることがある。
何世紀にもわたって、さまざまな国の人々が携行あるいは着用してきた、
文字通り何百という異なった“幸運の象徴”がある。
そして、その風習は現代の科学時代においても至るところに生き続けている。
前と同じように、人々は笑って“まったくナンセンスである”ことを認めつつも尚それを着用する。
マン・ウォッチャーにとって興味深い特別なタイプのお守りは“凍結ジェスチャー”である。
これは特定のサインを示す手の形をした幸運のお守りである。
これをつけるとお 守りの所有者は、いわばいつでも、防御ジェスチャーをしていることになる。
実際の手の動作の代わりに、彫刻された手のお守りが、
災いを防ぐ幸運の願いをし続けてくれるので、そのお守りは永久の防御となるのであろう。
ヨーロッパ大陸をくまなく旅すると、今日のヨーロッパではこのような 凍結ジェスチャーが、
少なくとも 10 種類ほど売られている。
その防御には幾つかの異なったやり方がある。
あるものは単に勝利のための V サイン、親指を上げるサイン、
丸いOKサインのようなほほえましい楽観的なジェスチャーである。
他のものは中指と小指を突き出した角のある手、
あるいは手のひらを突き出すギリシアの手型ジェスチャーのように、
想像上の“悪魔”を直接脅かすものである。
こうして“悪魔の目”をそらせようと試みる特別な範疇が生まれる。
悪魔の目を信じる根拠は、不運をもたらす一瞥を持った人がいるということである。
これに対する防御は、こちらがその視線を避けるか、逆に悪魔が睨まないようにすることである。
もしも、悪魔の目がこちらの目を覗き込むのを阻止できれば、こちらは安全であり、
そのジェスチャーは悪魔の目を捉えるほど大胆なおも森として着用されることになる。
陰茎の挿入を表すサインのような、わいせつなジェスチャーを身につけると、
悪魔の目は必ずそのわいせつなほうにひきつけられて、注意をそらし、
その結果こちらの目を直視することはないだろう。
さもなければ、目そのものをお守りとしてつけることができる。
この目が悪魔の目との睨み合いに勝ってくれるだろう。
悪魔の目を信じることは、
地中海諸国ではまだ根強く残っており、教育のある人でさえ本気で信じている。
普通、それは素朴な偶然から始まる。
ある人がある家を訪問して帰った直後に、
その家族あるいはその家で飼っている動物が死んだとしよう。
また、別の災難が襲いかかったとしよう。
その家の人は、おそらく彼が悪魔の目をもっていたのだろうと考え始める。
後日、再び彼が訪ねてきて、又もや悲劇が生じたとすると、その考えは確固としたものになる。
彼が三度目の訪問をしようとすれば、その家族はどんなことをしてでも、彼を避けようとするだろう。
どうしても彼と顔を合わせなければならないなら、
お守りやその他の幸運の飾りをつけて特に用心をするだろう。
ある国の漁師は、船首に一組の模造の目をつけて、
悪魔の目によるあらゆる危害から船を防御している。
こうしておけば、敵の目をそらす準備が常に整っていることになる。
この風習は古代エジプト時代に始まり、今尚多くの国に残っている。
ある地方では、
屋根に一対の角 ―未知の敵に対する永久的挑戦を意味する角つきジェスチャー ―
をつけることで悪魔から家を防御している。
このような防御活動は、潜在的危険およびある種の不特定な攻撃と結びついた、
人間の強迫観念を反映している。
現代社会は、警察、法廷、保険会社、警備保障会社などの専門的な防御者を設けて、
われわれに安眠をもたらしている。
しかも、科学の進歩は身の回りの世界について、われわれにより多くの理解を与え、
たわいもない恐怖信仰の多くを払拭している。
しかし、こういった事実にもかかわらず、
われわれは今尚突発的で不可解な危険の可能性に対して、動物的な用心を持ち続けている。
そして、こういった用心と共にわれわれは非常に多くの防御行動型を保持しているのである。
服従行動
攻撃者をなだめる方法
人は攻撃の脅威にさらされると、次の五つの行動のどれかをとる。
すなわち、戦う、逃げる、隠れる、助けを求める、攻撃者をなだめようとするこの五つである。
攻撃者が強すぎて立ち向かえず、
逃げ隠れする場所がなく、助けにくる人がいない場合では、なだめることが唯一の解決策である。
服従行動が生じるのはそのようなときである。
人という動物の受動的服従は、他の哺乳類と殆ど同じである。
極端な場合、それは、すくむ、うずくまる、平伏する、すすり泣くという形をとり、
身体の最も傷つけられやすい部分を防御しようとする。
このディスプレイに加えて、人間だけに見られる特異的な要素は、
言葉によって慈悲を請うことである。
このような極限に追いつめられ、進退窮まった犠牲者は、哀れなありさまを呈する。
したがって、この哀れさが動物的生存という点では、まさに服従ディスプレイとして働くのである。
そのディスプレイが成功するためには、
攻撃する価値がない無能な者として自分を表さなければならない。
このディスプレイの意味は、いわば次のようなことである。
「私はもうあなたに攻撃され終わった状態なのです。もうそうなっているのに、
これ以上痛めつける必要はないでしょう」
それは、即座の敗北の光景を示しているので、
実際の敗北による身体の損傷を避けることができる。
それが成功するためには、人という種が持っている威嚇信号とは、
正反対の信号を提示しなければならない。
威嚇者は相手に対して
身構え、身体を緊張させ、胸を大きく広げ、睨みつけ、こぶしを作り、低い声で唸るだろう。
これとは逆に、服従者は肩を丸め、ひるんだ顔つきをし、手のひらを開き、
高い哀れな声を出しながら、できるだけ身体を小さく弱々しく見せようとする。
こうして彼はすべての攻撃信号を消して、
何度も何度も、自分が刃向かうつもりのないことをわからせようとする。
服従の最も重要なポイントは、自分を小さく見せることである。
これは二つの方法でなされる。
身体を縮めて丸くすることと、攻撃者より姿勢を低くすることである。
その二つの要素は、極端な場合には、
すすり泣きながら地面に座り込んで、身体を硬いまりのようにしている屈服者に見られる。
一方、それほどドラマチックではない形が、道を歩いている多くの人の姿に見られる。
万年敗者、社会的落伍者、気分のふさいだ劣位者は、
猫背で、肩を丸め、首をうなだれたスランプ姿勢で歩く。
身体を低めたり、縮めることは、服従状態と同じように、急性的ではなく、慢性的なものである。
スランプに陥った人の上役である自制心のある権力者は、彼らを身体攻撃などで脅したりはしない。
こぶしを上げるというような唐突で乱暴な仕方で、決着をつけようとはしない。
優勢とは、穏やかでかなり持続的な出来事であるから、
その結果、服従姿勢も穏やかで、かなり持続的なものになる。
言葉自体が、象徴的な背の高・低【大・小】と深い関係を持っている。
われわれは「彼は実業界で大物だ」とか、「
彼といると大きな気持ちにさせられる」とか、
「彼はその分野では大きな名声をあげている」
あるいは「彼は愚かな小人である」とか、「彼は雑魚だ」という。
どの場合でも、われわれは実際の背の高さについていっているのではなく、
優位あるいは劣位を象徴しているのである。
背が低いことを負け犬と関連させてしまうこの考えは、
非常に根の深いものなので、実際、背の高さは成功のチャンスに影響する。
例えば、最近の調査では、平均すると、司教は牧師よりも、総合大学の学長は短期大学の学長よりも、
支配人は店員よりも、背が高いことが明かにされた。
さらに、強い野望に燃えた背の低い人は、トップに立とうと努力するとき、猛烈に自己主張をする。
これは自分の低い体格を補償しようとする欲求を示している。
背の高いトップの人は、リラックスする余裕があるが、
背の低い暴君は常に自分の地位を保とうとして、ずっと緊張していなければならない。
163 センチのナポレオンは、この古典的な例である。
しかし、ナポレオンのような人はめったにいないので、平均的な人々が人より抜きん出たいと思えば、
頭を高くするのが最善だという考え方は相変わらず残っている。
背が低いと直立していても、服従の印象を与えてしまうほどなのだから、
ましてや身体を意識的に低くするという行為をすれば、一時的な服従の気分を送ることができる
打ち負かされた人が他に選択の余地がなくて、
受動的に身を縮めたような場合、もし優位者が瞬間的に自分の優位を緩めようと思えば、
身体を低くするという様式化された短いジェスチャーで、それを示すことができる。
これは随意的なすなわち能動的な服従行動であり、
今日でさえ、さまざまな社会的状況において重要な役割を演じている。
それはかつてはもっと広範に行われていたものなのだが、
ますます平等になってきた現代の社会風土の中でさえ、
社会の片隅のあちこちで尚生き続けている。
その最も穏やかな形は、気に入られたがっている劣位者が、
高い地位の相手に話しかけるとき、身体を僅かに前傾させる姿である。
お客様に喜んでいただくことを心がけております、という種類の広告には、
読者に向かって笑顔で身体を前傾させているセールスマンがしばしばのっている。
彼はお辞儀のようなはっきりとした行為をしているのではないが、
その前傾姿勢はやがて彼がそうすることを暗示している。
店にいるセールスマンは、現代ではしばしば気難しく直立しているが、
ごく最近までは大切な顧客に挨拶をし、出口へ案内し、
別れを告げるときには、にこやかにお辞儀を繰り返した。
昔風の店では、年配の店員がこの長い伝統を今尚守っている。
完全なお辞儀は今日かなり公式的な場面に限られる。
お辞儀をする人は身体を腰から曲げ、頭を胴体より僅かに低くする。
この優位な人に対してディスプレイはきちんと行われるが、相手は同じ行為をもっと軽く返す。
お辞儀という儀礼は文化の違いによって、その崩壊の程度も異なっている。
現代までもっともよく残っているのは、日本とドイツであり、その反対はアメリカである。
多くの日本人やドイツ人は、普通の社交上の紹介の一部として、今でもお辞儀をするが、
アメリカ人はあざけりの 行為として以外には、殆どお辞儀をしない。
その他の文化では、社交上の挨拶の場において、ごく軽く頭を下げるが、
完全なお辞儀は式典で重要人物に挨拶するような特別な場合に限られる。
殆どすべての文化において、
お辞儀が完全な強さで残っているのは、劇場やコンサートホールの中でしかない。
そこでは、出演者が聴衆の賞賛にこたえて伝統的に身体を低くする。
今でも帽子をかぶっている地方では、帽子を撮ることはお辞儀をしなくても、
背の高さを低くする方法なので、名ばかりの服従方法になっている。
昔は撮った帽子が床につくほど深々とお辞儀をした。
しかし、今日のジェスチャーは、それが残っているところでも、
帽子のふちに手をやるといった形ばかりの印の場合が多い。
今でも王室が元首である国では、現代風ではあるが、
昔の名残をとどめたさまざまなお辞儀の形を観察することができる。
地方の高官は、王室の貴人に対して、腰を深々と追ってお辞儀をする傾向があるが、
宮廷に関係の深い人の動作は違っている。
おそらくそのような人は、頻繁にお辞儀をするので、
頭だけ下げるというようにお辞儀を簡略化したのだろう。
しかし、国王への従順を示す場合には、早い激しい動きで頭をさっと下げて元に戻す。
それは国王への親密と服従を同時に誇示するお辞儀である。
王族に拝謁した女性は一般風習として、今尚膝を曲げて身体を下げるが、
この身体を低くする姿勢は、お辞儀のようになかなかうまくいかないので、
それ以外のあまり公式的でない場面ではめったに使われない。
胴体をまっすぐにしたまま、ひざを曲げて身体を下げるという現代の女性の挨拶は、
興味ある長い歴史をもっている。
身体は片足を僅かに後ろへ引きながら両膝を曲げることで低くなる。
それはひざまずこうとする意図運動である。
昔は皇帝の前では、完全にひざまずくのが普通であり、
人は優位な人の前で両膝を地面につけて頭を下げた。
中世になってこれが変化し、肩膝だけを地面につけるという、
それほど極端でない形に変わってきた。
そして次には、完全にひざまずくのは神に対しては適切であるが、
所詮は神になれない支配者に対しては、
そのような極端に身体を低める動作をすべきではない、とはっきり教えられた。
シェイクスピアの時代になると、この傾向がさらに進んで、肩膝を地面につける動作は、
すでに多くの場で現代の膝を曲げて身体を下げる動作に変わってしまった。
男女いずれも肩膝を地面につける動作の象徴として、現代の動作を用いた。
この段階では性差は殆どなかった。
男性も女性も両膝を曲げると同時に頭を下げたのである。
17 世紀までに性による違いが現れ、
男性はこのディスプレイの中の頭を下げる要素を止めるか減らすかした。
女性のディスプレイの中で、普通身体をわずかに傾けて目を落とすのは、
頭を下げることの名残である。
今日劇場では、女優が男優と並んで男性型のお辞儀をするという例外がしばしば見られるが、
上述の性差はずっと残っている。
こうして、古代から現代にいたるまでの服従ジェスチャーについて、一般的にいえることは 、
極端に身体を低くする行為がだんだんなくなると同時に、
一貫して卑屈さが減少してきたことである。
神のみがその古代の地位を維持し、この傾向に挑んでいるようだ。
境界で礼拝する者は、今でも両膝を地に付けるが、過去の栄光が衰えた支配者は、
簡単な儀礼を受けることで満足しなければならない。
これに対する少数の例外のひとつに、ナイトの位を受ける儀式があり、
君主は今でもかた膝を地に付けて頭を下げる動作を受ける。
しかし、この場合でも、ひざまずく動作は、右ひざの下に膝つき台をおくことで簡略化され、
右ひざが完全に地面につくことはない。
公式の場で本当に平伏している服従ジェスチャーを見るためには、
ずっと昔にさかのぼらなければならない。
もっと古い時代にまでさかのぼれば、
完全に両膝を地面につける動作でさえ、かなり無作法に見え始める。
全権を握った皇帝と皇子は、自分たちに近づこうとする者にしばしば完全な平伏を求め、
彼らからそれを受けた。
古代王国では、このような卑下した行為は、
奴隷から主人へ、捕虜から征服者へ、家来から君主へなされた。
彼らは身体を伸ばし、顔をうつむけ、地面にはいつくばった。
これは最も極端な低い姿勢で、この以上のものは埋葬のときにしか見られない。
専制権力の低下と共に、平伏はあまり行われなくなってきたが、
両膝およびかた膝をつく動作の場合と同様に、2.3の特殊な例、
例えばカソリックの神父の僧職受任式の中に僅かに残っている。
東洋には、叩頭礼という半平伏の動作があった。
それは地面にはいつくばって平伏するのではなく、
先ず両膝をついて、顔が地面につくまで身体を曲げる動作である。
これも祈りの姿勢として残っているが、
両膝を地面につける動作と同じように、今日では他では見られない。
額手礼は叩頭礼の省略形のように見える。
それはちょうど両膝を地面につける動作が、
現代では頭をちょっと下げるという象徴的ジェスチャーになっているのと同じである。
額手礼では片手を先ず胸に当てて、次に口、そして額へつける。この三段階の接触の後、
僅かにお辞儀をする。
この接触は地面にまで身体をつけることを象徴しているので、
額手礼は結局次のようなことを意味している。
「私はあなたのために、自分の身体のこれらの部分を地面につけるつもりです。」
軽いお辞儀は、そうする意図を示しているのである。
今日ではアラビア人は握手をするようになっているが、
額手礼がまったく消えてしまったわけではない。
しかし、かなり省略されるようになり、手を胸に素早く触れるだけのこともあり、
またあるときは、ちょっと唇に触れるだけだったりする。
額手礼はあらゆる服従ジェスチャーと同じように、
現代風の態度と対人関係によって、徐々に崩れてきている。
接触の特殊化した形であるキスにも、同様の運命が降りかかった。
古代には、同じ地位の人は対等に ― すなわち唇であれ、ほおであれ、ともかく顔にキスしたが、
劣位の人は、優位の人に対するそのような 自由は決して与えられなかった。
キスする者の階級が下がるほど、キスする部分も下がらなければならなかった。
一番下の階級では“土にキスする”ことを要求された。
言い換えれば、威厳のある人の足の近くの地面にキスしなければならなかった。
その足にキスをするとさえ許されなかった。
キスする者の地位が上がるにつれて、キスする場所も上になった。
それは足から衣服の裾、膝、最終的には手へと進んだ。
例えば、司教は昔、ローマ法王のひざにキスすることを許されていたが、
もっと下位の人々は、
そうする代わりに法王の右足の靴に縫い付けられた十字架にキスしなければならなかった。
手にキスすることは、服従的キスとしては、それほど極端ではないので、
今日までもっともよく残っている。
国によっては、挨拶の儀式として男性が女性の手にキスすることは、今尚普通の事である。
しかし、これさえも若い女性が経済的平等を得るための戦いによって、
逆に社交の場での優越性を徐々に失うにつれて、若い男性の間では消えつつある。
ローマ法王への平伏のスケールも、1.2段小さくなった。
個人的にも謁見できる人々は、いまや法王の手の指輪にキスすることを許されている。
しかし、このとき彼らは身体を下げて完全に両膝をつけなければならない。
これは、今日ローマ法王と神に対してだけなされる公式的儀礼である。
服従を意味する低い姿勢を全般的に眺めたとき、見落とせないひとつの矛盾がある。
伝統的に、低い階級の者は高い階級の人に会うとき、
何らかの方法で身体を低くしなければならない。
しかし、階級の低い者が座っている部屋に、
階級の高い人が入ると、階級の低い者は立ち上がらなければならない。
どんな場合でも低い姿勢をとることをめったにやらない国々では、
訪問者に挨拶するために立ち上がることは、今尚広く行われている儀礼である。
人は劣位であればあるほど立っている相手の前で座っていにくくなる。
立ち上がる行為は、背の高さを減らすよりむしろ増やすので、
服従性=背が低いことという一般的傾向に矛盾するように思われる。
これは二つの異なる体系が同時に働いていることで説明される。
第一の体系によれば、二人が出会うとき、劣位者は身体を低くしなければならない。
第二の体系によれば、集団の誰かがくつろごうとするとき、それは優位者でなければならない。
劣位者は、優位者がすでにくつろいでいて、しかも、そうするように誘われない限り、
くつろいではならない。
立っているよりも座っているほうがくつろげるので、座っていることのほうが優位な好意である。
主人は座り、召使はたって主人の要求を聞く。
しかし、座ることは身体を低くするので、この二つの体系は、身体姿勢に関して明かに衝突する。
このような理由で、相手をなだめようとする人は、
奴隷のような服従方法で身体を低くする場合には、くつろいでもいないし、
座ってもいないということをはっきりと示す極めて特殊な姿勢、
つまり、ひざまずく、お辞儀をする、叩頭礼をする、ひざを曲げて身体を下げるといった
姿勢をとらねばならない。
それゆえ、身体を服従的に下げる姿勢の本質は、
その姿勢が不快さ、あるいは無能さを意味するということである。
優位な人は、自分を快適にすることによって、
地位を低下させることなくクッションに見を沈めることができる。
さらに、優位な人が低い姿勢をとらずに、
同時に快適さをもえられるひとつの方法が、古代に考案された。
それは王座である。
高い台の上の特別な席に座ることによって、座るという点で優位であると同時に、
劣位者よりも優位に高いところにいられる。
いうまでもなく、これは全世界の帝王、支配者、君主の好む姿勢となった。
地位の信号化という点で、そのアピールは非常に基本的なので、
王座は、高い地位の誇示を必要とした、あらゆる文化圏において考案されてきた。
服従行動のこの一般的原理を頭に入れておけば、
事態を故意に操作して、うまく相手をなだめることができる。
例えば、自動車を運転している人は、制限速度オーバーで警官に止められると、
たいてい運転席に座ったままで、警官と議論し、言い訳をし、自分の誤りを認めようとしない。
これはよくあることだが、その反応は、本来負けを知らない敵対者の取る反応なので、
逆に警官を硬化させる。
スピード違反がはっきりしているのならば、警官のほうが議論の余地なく優位な立場になるので、
彼をなだめて罰金を取られないようにするためには、完全な服従立場に甘んじることしかない。
すなわち、ドライバーは次のようにする必要がある。
[1]自動車から降りる
― 自動車はドライバーの個人的縄張りなので、彼の地位を高めすぎてしまう。
[2]自分のほうから警官に近づく
―警官は歩かされるほど迷惑に思い、敵意を持つようになる。
「3」不安そうな表情でうつむきかげんになって、力の抜けた気落ちした姿勢をとる。
―これは劣位の信号を伝える。
「4」言語的な服従手段をとる。例えば、自分のひどいばかさ加減に基づく誤りであることを
全面的に認め、それと同時に自己攻撃的な冗談を言いつつ、警官に直接お世辞を言う。
―これはドライバーの精神的地位を下げ、警官のそれを上げる。
ドライバーがこれらの方法をすべて同時に取ると、
警官は敵意を持ちつづけて罰金を課すことが極めて難しくなるかもしれない。
ドライバーが、自動車の中に座る優位姿勢をすて、自分の縄張りから離れ、
立っても身体を低くし、お世辞、冗談、自己批判という言語的服従を加えれば、
自分から“敵”としてのあらゆる性質を剥ぎ取り、攻撃的でないように見せることができるのである。
この種の服従ディスプレイを故意に用いることは、ドライバーと警官だけでなく、
親子、隣人、友人、恋人、親類間のいさかいにおいても不思議なほど効き目がある。
全面的服従に直面すると、驚くほど敵意が消滅する。
しかし、そこにはひとつだけひっかかる点がある。
すなわち、多くの人々にとっては、このような問題を解決するために、
自ら意識的に策略的な劣位のディスプレイを装うことは、あまりにも不快な体験となるからである。
へつらった仕方で行動すると、どうしても内的卑屈感をもたざるを得なくなる。
この感情はすぐに回復するのだが、一時的であれ、その過程は苦痛なので、
多くのドライバーは話をもつれさせて罰金を払うほうを選んでしまう。
人間行動の全体を眺めたとき、服従行動の最も奇妙な形は、おそらく催眠下の人間の反応である。
催眠術者は人を“眠り”に誘うといわれるが、彼がやっているのは、
実は、心の深層部にある自己従属メカニズムの引き金を引いてやることなのである。
彼は言語と視覚に訴えた一連の横柄なやり方で、これを達成する。
恥かしがったり、謙遜したり、躊躇したりする催眠術者などは決していない。
最初から、鋭く、命令的で、力強く、その場を全面的にコントロールしていなければならない。
彼は完全な服従を要求する。
すなわち、「私の声を聞きなさい」「
…・・・をあなたは感じます」という。
「どうぞ聞いてください」とか、「……をあなたは感じるかもしれません」とは決して言わない。
いかなる疑い、論争もはさむ余地はなく、ただ厳しい指示があるだけである。
とにかく、これらのやり方は全面的な服従事態を生み出し、被験者に古代奴隷時代以後、
見られなかったような 仕方で、行動を命じることができる。
これはもっと弱い形をとって、現代社会の高い階級の人々の成功の秘密となっている。
将軍、マフィアのゴッドファーザー、偉大な俳優、軍の司令官、政治的圧制者は
皆、特殊な脅迫感を発している。
それが、われわれの基本的な服従メカニズムに入り込んで、
軽い催眠状態に似た状態を生み出すのである。
これに対して、われわれのもっている最大の武器は、不遜と不敬である。
この特性を失えば、
その文化はたちどころに服従行動に洗い流されてしまう危険に陥ってしまうであろう。
宗教的ディスプレイ
想像上の神を慰める動作
宗教的ディスプレイは、宗教信仰とは別物で、
神と呼ばれる優位な個体へ向けてなされる服従動作の事である。
その動作自身は、ひざまずく、お辞儀をする、叩頭礼をする、額手礼をする、平伏する、
といったさまざまな形をした低い姿勢を含んでいる。
さらに神を称える歌唱、へりくだりや生贄の儀式、
神への供物提供や忠誠を示す象徴ジェスチャーも含んでいる。
これらの動作のもつ機能は、
超優位者をなだめることであり、それによって恩寵を得たり、罰を避けたりすることである。
この動作自身は決して珍しいものではない。
動物界を通じて、劣位者は同じような方法で、最も力の強い仲間に服従する。
しかし、今日人間の服従行動を見ると、
それは奇妙なことに人間ではない優位な対象に向けられている。
そして、その優位な対象は想像の産物と人工物であり、
聖なる人、すなわち聖職者と呼ばれる代理者がすべてを扱っている。
このような媒介者には、神の力の一部が乗り移るので、
彼らは社会的影響力のある尊敬される地位を獲得する。
それゆえ、聖職者にとっては、
崇拝者が超優位な対象に対して永遠に従順であることが、きわめて重要になる。
以下、それを達成するための幾つかの方法について述べよう。
1. 対立する神を崇拝する者に、社会的な排斥がなされるように仕向ける。
この圧力には、不賛成という弱い立場のものから、
軽蔑と怒り、さらにはしばしば迫害という厳しい段階の者までがある。
聖職者が社会的寛容を説こうと説くまいと、実際には、多くの宗教は寛容ではなかった。
これは宗教が文化隔離機構の一部として演じる役割の一部である。
つまり各地方ごとに、ある神像に対する忠誠心は、
異なる神を信じる人々からの社会的分離を共用する。
それはセクトを形成し、セクト的暴力を培養する。
2. 非服従者には神のたたりがある、という有力な証拠をしばしば作り上げる。
昔は洪水、病気、飢饉、火事といったあらゆる自然の災害が、
非服従行動を罰する神の怒りの印だとされた。
聖職者は、迷信の元になる偶然の一致をうまく利用して、
崇拝者の被暗示性に働きかけるのである。
3. 聖職者に従う者は報われ、従わない者は苦しみを受けるという来世を作り上げる。
来世についての信仰は、確かに何千年前からあった。
古代の埋葬では、死者が来世への旅で使う“埋葬品”が一緒に埋められた。
この風習は石器時代にまでさかのぼることができ、殆ど形を買えずに何千年も続いている。
他の点では知性のある人々が、多くの異なる文化で、
また多くの時代に、このような圧力や恐怖に屈してきたことは驚くべきことである。
このためには神の代理者に有利な要因が幾つか働いているに違いない。
先ず第一の、そしておそらく最も重要な要因は、
われわれの祖先が時間という感覚を獲得したことである。
人間以外の動物は、現在について、つまり伝達の瞬間に存在している時間に関する情報は
伝達できるが、未来について考えることはできない。
人は、自分自身の死をあらかじめ考えることができる。
そして、その考えに耐えられない。
あらゆる動物は、死の恐怖から自分を守るために必死になる。
敵に直面すれば、逃げる、隠れる、戦う、あるいは死んだふりをする、
悪臭のある分泌液を発散する、などの防御機構を用いる。
多くの自己防衛機構もあるが、それらは皆、直接の危険に対する反応として生じる。
人は将来の死を思うとき、考えることで死を間近に迫ったものとする。
彼の防御は、死を否定することである。
人は自分の身体が死んで朽ちることは否定できない。
その証拠はあまりにもはっきりしている。
そこで、不滅の霊魂
―彼の肉体が彼以上に彼である霊魂―を発明することで、この問題を解決した。
この霊魂が来世で生き続けられれば、人間は生命への威嚇攻撃から自分をうまく守れる。
これによって、神の代理者はひとつの強力な支持を受けることになる。
代理者に必要なことは、信者に絶えず死を思い出させ、来世それ自体は代理者が指示している
特定の神の個人的管理のもとにあることを、納得させるだけである。
彼は、崇拝者の自己防御衝動に任せればよい。
第二に、聖なる者は、人間の幼態成熟によって助けられる。
幼態成熟とは、子供の形態のままで成体になるような動物種に見られる、生物学的状況をいう。
言い換えれば、成体が次第に幼生化することである。
それはピーターパン症候群 ―決して成長しないで、子供のまま生殖を始める種のケースである。
多くの点で、人は幼態成熟の類人猿である。
成人は成体の類人猿よりも子供の類人猿に似ている。
成人は、子供の類人猿がもつ好奇心を抱き、遊び好きである。
類人猿は成熟すると、この幼児的遊び好きの性質を失うが、人間は決して失わない。
同様に、イヌはまさに幼態成熟のオオカミである。
人間は遊び好きの“親友”を好むので、ますます幼児的なイヌを作り出している。
十分成長した家畜化されたイヌは、
若いオオカミの子と同じように、主人と一緒に飛び跳ねたり、遊んだりする。
しかし、オオカミの子は成長すると遊びを止める。
若いイヌも成長するが、人間と同様、その行動は幼児的なままである。 ―決して遊びを止めない。
これはイヌが人間に対して、あたかも本当の親であるかのように反応することを意味している。
イヌの所有者は、イヌに対して、優位な父親的あるいは母親的特長を持つようになる。
イヌは交尾して繁殖するが、幼態成熟なので、
ずっと親の優位性に対して反応し、主人に従うことになる。
このことがイヌを完全なペットにする。
言い換えれば、イヌにとっては人間は神である。
幼態成熟の類人猿としての人間の進化は、イヌと同じ立場に人間を置いている。
人間は性的に成熟しても尚、親 ― スーパー親、
すなわち人間がイヌに対するのと同様、人間に対して強い印象を与えるものを必要とする。
その答えは神、つまり、母性神の形をとった女性のスーパー親、
父性神の形をとった男性の神、あるいは神の一族を創造することである。
真の親と同様、神々は人間を守り、人間に罰を与え、そして人間から忠誠を受ける。
人間の実の親が、
何故自分自身でこの役割を演じられないのか、という疑問が浮かぶのは当然である。
その答えは、生物学的に言えば、親が本当の親でありつづけるには、
その子より背が高くならなければならないということである。
親は、子供から身体的に見上げられなければならない。
親は、優れた生物学的防衛力を持っていなければならない。
子供が成長し、親と同じ大きさになって、親と同じように子を産むようになると、
真の親のイメージは失われる。
しかし、神と神格は巨大である。彼らは親と同じように高いところにいる。
― われわれは天国にいる神を見上げなければならない。
彼らは、よき親の理想像のように、全能である。
われわれはどんなに年をとろうとも、
なお彼らを【聖なる母よ】とか【われらが父よ】と呼び、
子供のように、彼ら「あるいはしばしば同様の呼び方を求める代理者」を信頼する。
第三に、聖なる人は、人間の高度に進化した協調性によって助けられている。
われわれの古代の先祖は、狩猟者になったとき、以前にもまして大きな相互の協調を強いられた。
リーダーは仲間の単なる消極的服従ではなく、積極的協調に頼らねばならなかった。
万一仲間が好き勝手に行動したならば、
リーダーあるいは部族への盲目的信頼と絶対的忠誠が失われる危険があった。
狩猟集団に不可欠な知的協調は、同じくらい必要な集団の団結心にも容易に影響した。
リーダーはどのようにして盲目的信頼と絶対的知性を得ることが出来たのであろうか 。
その答えは、スーパー・リーダーとしての神像の助けを借りることであった。
そうすることによって、集団のメンバーに自由に知的協調をさせる一方で、
盲目的信頼を獲得し、共通の目的に向かって集団を団結させることが出来た。
以上は、
聖なる人が神像と宗教行動を推進していくうえで助けとなる、三つの主要因である。
すなわち、それは人間の持っている
死の脅威からの自己防衛欲求、
スーパー親を求める欲求、
スーパー・リーダーを求める欲求である。
あの世での死後の生命を与えてくれる神、
年齢に関係なく自分の”子供“を防衛する神、
大儀と社会的に統一された目的への献身を
提供する神は、人という動物に力強い反応を引き起こさせる。
聖職者と聖なる人に課せられた仕事のひとつは、強い印象を与える儀式を行うことである。
殆どすべての宗教は、特定の神の崇拝者が、
複雑な集団活動に没頭できるような式典を有している。
これは神の力のデモンストレーションとして必要であり
― 神は、一時に多くの人々から優位に立って服従行動を受けることができる。 ―
さらに共通の信仰に関して社会的結合を強める方法でもある。
神はスーパー親であり、スーパー・リーダーであるので、
崇拝者に”会う”ための大きな家を必ず持っていなければならない。
宇宙船に乗ってやってきた、人間の事を知らない来訪者は、
多くの村、町、市に他の家より大きな家が一つか二つあることにすぐ気づくだろう。
これらの大きな建物は、他の家の上にそびえているので、
きっと集団の他のものに比べて、数倍もある巨人の住みかに違いない、
これらは神の家、すなわち、寺、教会およびそれらの総本山であるが、
外見上、巨人のための建物に見える。
宇宙からの来訪者は、よく調べてみると、これらの巨人が家にいないので驚くだろう。
崇拝者は、引きも切らずに訪れて、その前でお辞儀をするが、巨人はどこにも見えない。
ただ鐘の音に似た巨人の叫び声だけが、大地を伝わって聞こえてくる。
人間は実に創造力豊かな動物である。
利他的行動
自己犠牲で他人を助ける方法
利他主義とは、私心のない行為をすることである。
この行為は、行動型として二つの特性をもっていなければならない。
先ず、他人に利益を与えなければならないし、
第二に自分が損害をこうむっても、それを実行しなければならない。
それは単に援助という問題ではなく、自身の犠牲を払っても助けるということである。
この単純な定義には、難しい生物学的問題が隠されている。
もし、他人を助けるために私自身が損害を受ければ、
その人の子孫「あるいは生まれうる子孫」は、私の子孫よりも前途が有望になる。
時がずっと経てば、利他的な私の子孫は死滅し、利他的でないその人の系統は生き残るだろう。
従って進化論的にいえば、利他主義は生存には適していないようである。
人間は、進化史の中で生存競争に勝ちをおさめてきた動物なので、
遺伝的には真の利他主義であるようには作られていない。
人間は、最も自己犠牲的で博愛的であるようなときでさえ、
他のすべての動物と同様に、動作の点ではまったく利己的であったに違いない。
利他的な利己主義
これは生物学的、進化論的議論であって、ここまでは完全に納得できるが、
人類が示す多くの“立派な瞬間”を、説明してはいないように 思える。
燃えている家の中に、幼い娘、旧友、まったく知らない人、あるいは悲鳴をあげている子猫でさえ
目に入れば、人は考えもせず、向こう見ずに建物の中に飛び込むかもしれない。
必死に生命を救おうと試みるうちに、ひどい火傷を負うかもしれない。
このような行為をどうして利己的ということが出来ようか。
実際には、それは利己的といえるのだが、それには“自己”という語の特別な定義が必要となる。
あなたは自己について考えるとき、
おそらく現在そこにある完全な形をした生きている肉体を考えるだろう。
しかし、生物学的には、あなたは自身を
遺伝子のための一時的な住家、一時的に自由に使える入れものと考えたほうが正しい。
あなたの遺伝子 ― 親から受け継ぎ、あなたの子へ受け渡す遺伝形質は、
ある意味で不滅である。
われわれの肉体は、世代から世代へ遺伝子を移送するために用いられる運搬車でしかない。
進化の基本単位は遺伝子であって、われわれではない。
われわれは自分が生きている短い期間、
遺伝子をできるだけ破壊から守ろうとする保護者でしかない。
宗教は、人間が死後、肉体から離れて天国 「場合によっては地獄」へ 浮遊する
不滅の霊魂を持っているとみなすが、
もっと有用なイメージは、男性の不滅の霊魂を精子の形で、
また女性の不滅の霊魂を卵子の形で思い浮かべることであり、
さらにそれらが死の瞬間ではなく、
生殖過程を通じて身体から離れるものとして考えられることである。
この考えに完全に従えば、当然、来世が存在するが、
それはある神秘的な“別世界”にあるのではなくて 、
まさに保育室や遊び場という天国「あるいは地獄」の中に存在するのである。
そこでは、われわれの遺伝子が、
子供と呼ばれる出来立ての新鮮な入れ物に再び住み込んでおり、
タイムトンネルを通る不死の旅を続けている。
従って、遺伝的にいえば、子供は我々自身である。
実際は、親は子供と遺伝子の半分を共有するので、われわれの半身である。
こうして、われわれの献身的で、
外見上は利己的とは思えない親らしい世話も、実は遺伝的な自己保全に他ならない。
火事の中から自分の幼い娘を助けるために生命を賭す人は、
実は新しい身体容器の中の自分の遺伝子を助けているのである。
自分の遺伝子を助けているので、その行為は、
生物学的には利他的というよりはむしろ利己的というべきである。
しかし、自分の娘ではなく、旧友を助けようとして火の中に飛び込んだ人を考えてみよう。
これがどうして利己的になるのだろうか 。
その答えは人類の古い歴史の中にある。
百万年以上もの間、人間は純然たる部族生物であって、みんながみんなを知っており、
すべての人が遺伝的に血縁関係にある小集団で生活をしていた。
ある程度の異系交配はあったかもしれないが、
あなた自身の部族は、全員、かなり弱いとしても、ある種の血縁関係にあったはずである。
それゆえ、同じ部族の成員が関係している限り、ある程度の利他主義は適切であるといえよう。
こうして、自分自身の遺伝子のコピーを助けていることになる。
もちろん、これは計算された過程ではない。
それは無意識に働き“愛”と呼ぶ情緒に基づいている。
自分の子供に対して“利己的でなく”振舞うときにしたがっているもの、
それは子供への愛に他ならない。
友人を助けに行くときに感じるもの、それは友人への愛である。
これらは生得的傾向なので、助けを求める声に接すると、
自分がこのような深部に根ざした衝動に、何の疑いもなく、何も考えずに従うのを感じる。
このような愛の行為を利己的ではなく非利己的だと考えるのは、
自身を“遺伝子機械”としてではなく、人間としてみるからに他ならない。
そこまではそれでよいが、
まったくの見知らぬ人を助けるために、火の中に飛び込む人はいったいどうなのだろうか 。
見ず知らずの人は、おそらく助けに行く人とは遺伝的には血縁関係がないから、
この行為は確かに真の非利己性、つまり、利他主義といえるだろうか。
答えはイエスであるが、単に偶然でしかない。
その偶然は過去 2000∼3000 の間の人間集団の急速な成長によってもたらされた。
それ以前は数百万年の間、人間は部族生活をしていたので、
仲間を助けようとする生得衝動は、たとえ薄い関係であろうとも、
遺伝子を分け合った血縁者を助けることを意味していた。
しかし都会化が進むにつれて、人間は巨大化した社会の中に急速に身を置くようになり、
周囲には見知らぬ人が満ち溢れた。
しかし、この驚くほど新しい状況に適応するために、遺伝的組成を変化させる時間もなかった。
こうして、人間の利他主義は、新たな仲間となった市民全体にまで拡大せざるを得なくなった。
たとえ、彼らの多くが遺伝的に血縁関係が殆どなかったとしても。
政治家はこの古くからの衝動を十分に利用して、
愛国心と呼ばれる国家レベルのものにまで拡大した。
その結果、人々はあたかも国が自分の古代部族か、
家族であるかのように、お国のために出かけて行って死んだのである。
小さな子猫を助けるために火の中に飛び込む人は、特殊なケースである。
動物は多くの人々にとって子供の代用であり、
子猫を助ける人は、自分の象徴的な子供を助ける人と解釈できる。
象徴化、すなわち、あるものを他のものと隠喩的等価物とみなす過程は、
人という動物に見られる強い傾向で、
救助が人間環境を越えてまで拡大していくことをよく説明している。
特にそれは、主義主張のために死を選ぶという現象を説明する。
これはいつでも利他的行動の究極の形を示しているが、
一つ一つの主義主張を注意深く調べてみると、ある基本的象徴化が働いていることがわかる。
キリストに生涯をささげた修道女はキリストの“花嫁”であり、
すべてのは人を神の“子”とみなすことで、人類全体は彼女の“家族集団”に入る事になる。
従って、彼女は他の人が自分の家族に対するのと同じぐらい現実的で
ある象徴的家族に対して、利他主義になれる。
このようにして、人間の見かけ上、利他的に見える行動を、
生物学的基礎から説明することができる。
これは決してそのような活動を軽視しようとしているのではない。
単に、別のもっとありふれた説明をする必要がないことを指摘しようとしたのである。
例えば、人は基本的には邪悪であり、
親切な行為は、多くは道徳家、哲学者、聖職者の教えの結果生じたものである、
すなわち、何もせずに放っておけば、人はますます野蛮で暴力的で残忍になるだろうと
しばしば主張されている。
ここにはトリックがある。
つまり、上記の見解を受け入れれば、社会の善良な特質のすべてが、
今述べた偉大な教師の輝かしい業績のおかげだということになる。
生物学的にいえば、その真相はかなり異なっている。
利己性は、私的なものというよりは 遺伝的なものであるから、われわれは自分の血縁者、
ひいては部族全体を助けようとする生得的傾向をもっている。
部族は国家へと膨れ上がったので、われわれの援助はますます広がってきている。
しかも、実物の代わりとなる象徴的代用物を受け入れる傾向によって、さらに助長されている。
要するにこれは、われわれが現代も、
著しい生まれつきの援助性を持った動物であることを意味している。
もしこの援助性が壊れるとすれば、
その原因はおそらく人間の“野蛮な性質”が再び自己主張をするためではなく、
今日の張り詰めた過密社会の中でしばしば生じる、耐えがたい緊張のためであろう。
それだからといって、人間は天使のような援助性を持っている、と誇張していうのも問題であろう。
人間は非常に競争的でもある。
しかし、正常な状況下では、これらの対立する傾向は互いに平衡しあっており、
このバランスは【取引行動】という形で、人間の交際の多くを説明する。
これは「あなたが私の背中を掻いてくれれば、私はあなたの背中を掻いてあげよう」
という型の行動である。
われわれは互いに取引をする。
その行為は相手を助けるが、同時に自分も助けるので、利他的ではない。
この協力行動は、おそらく日々の社会的関係の最も顕著な特徴である。
それは通貨貿易の基本であり、
そのような活動がもっと無慈悲なものにならないわけを説明している。
万一、競争的要素が助け合いという基本的衝動によって、和らげなかったならば、
商慣習は急速に今以上に野蛮で動物的なものになっているだろう。
この相互協力行動がさらに拡張された場合の意義は、次の句の中に具体的に表されている。
「情けは人のためならず」である。
この情けは、そのお返しがいつあるのか、誰によってなされるのか、不確実な協力である。
しかし、私は今あなたを助ける。
多くに人に毎日そうする。
そのうち、私も助けを必要とすることがあるだろう。
そのとき“長期取引”の一部として、彼らは私にお返しをしてくれるだろう。
私は自分の売った恩がなんであったか、誰に対してだったかはチェックしない。
実際、最終的に私を助けてくれる人は、私が助けた人々の一人ではないかもしれない。
しかし、社会的恩義の全ネットワークが、社会の中に張り巡らされているし、
今日のわれわれの種においては、労働と技術という体系が社会の全員に利益を与えている。
これは“相互利他主義“と呼ばれている。
しかし遅かれ早かれ何らかの方法で自分の救助行動が報われるのだから、
これも真の利他主義ではない。
利他的行動といわれる行動の隠された動機が、このような後の報酬の期待であることが多い。
多くの国は”社会に奉仕した”市民に賞を手渡すが、
これらの奉仕はしばしば賞に値するという期待の下に意図的に行われている。
他の多くの“善行”も、後の社会的【あるいは天国での】報酬を念頭において行われる。
これはもちろん必ずしも、“その行為”を貶めているのではなく、
そこに含まれている動機を説明しているだけである。
以下の表に、競争と援助およびその中間のものの関係をまとめる。
Ⅰ .自己主張行動
自分を助ける
相手に害を与える
Ⅱ .自己満足行動
自分を助ける
相手には効果がない
Ⅲ .共同行動
自分を助ける
相手を助ける
取引、貿易、物々交換、商談
Ⅳ .親切行動
自分には効果がない
相手を助ける
親切、寛大
Ⅴ .利他的行動
自分に害を与える
相手を助ける
心からの献身.博愛.自己犠牲.愛国心
穏やかな競争から犯罪行為まで
個人的、非社会的快楽
闘争行動
人間の戦いの生物学
闘争は威嚇ディスプレイの失敗を意味する。
威嚇信号で争いが収集できないと、極端な手段が必要となるかもしれないし、
争いが本格的な身体攻撃へと発展するかもしれない。
これは人間社会では極めてまれなことである。
これに異議を唱える向きもいないわけではないが、人間社会では力に訴えることは少ない。
それには正当な生物学的理由がある。
人が他人に身体攻撃を加えるときは、いつでも両方とも傷つく危険がある。
たとえ攻撃者がどんなに優位であろうとも、無傷で逃げられる保証はない。
たとえ相手が弱くとも、死に物狂いに逆上して、
野性的防御行動に出るかもしれないし、このためにひどい怪我をするかもしれない。
このような理由から、普通の社会生活では、威嚇のほうが闘争よりずっと常識的な行為である。
事実、素手の殴り合いはごくまれなので、それをはっきりと観察するのが難しい。
多くの人はアクション映画やテレビで描かれる、様式的な殴り合いしか知らない。
しかし、現実の殴り合いと比較すると、映画のヒーローと悪漢がかわるがわるに
ノックダウンされる男っぽい殴り合いは、バレエの踊りに他ならない。
ちょうどバレエが身体の普通の運動を誇張するように、それは実際の殴り合いの動きよりも
ゆっくりと行われ、戦いをより視覚的に印象付けるために、特殊な方法で誇張されている。
本当の喧嘩では、戦いが一度起こると、あらゆることがもっと素早く行われる。
攻撃者は突然殴る、蹴るの素早い連続行動に出る。
各動作の後には、報復を受けないように素早く別の動作が行われる。
相手は三つの方法のひとつで反応する。
射程外に逃れようと飛び下がるか、できるだけ身体を防御するか、
攻撃者に抱きついて攻撃を取っ組み合いに変えようとするかである。
相手が身を引くか、逃げるか、防御するかすれば、
攻撃は速やかに停止され、攻撃の目的は数秒で完全に達成される。
もしも相手がこれに対して、報復しようとすれば、
腕による殴り合いとレスリングの押さえ込みに加えて、しばしば地面の上で髪を引っ張ったり、
蹴飛ばしたり、時には噛み付いたりする見苦しい取っ組み合いがしばらく続く。
映画の様式化した喧嘩では、しばしばヒーローは、
相手のあごに一発対パンチを食らわせて攻撃を開始する。
これは大きく腕を振ることになるので、すぐには二発目のパンチを繰り出せない。
それはあらゆる点からみて、人間の攻撃行動としてはばかげている。
腕を大きく振ることは、相手に十分すぎるほど警戒を与えるから、
振り上げたこぶしがうまく相手にあたる前に、相手は回避動作をしてしまう。
一方、パンチのリーチと力は攻撃者をアンバランスにし、隙を与えてしまう。
パンチの後の一呼吸は致命的である。攻撃の緩慢な動きによって、大きな損害をこうむるだろう。
映画の喧嘩は、戦っている二人が多かれ少なかれ交互に殴り合いを続け、
全体の経過は実際の県下に比べて非常に緩慢である。
実生活の中で路上や飲み屋で争いが起こると、
喧嘩している人の周りに、しばしば見物人が集まる。
見物人はその動作を見物することと、現場から退散することとの間で、強い葛藤状態に陥る。
その結果、戦っている二人が見物人の囲みを破るたびに、
群集はあっちこっちへと周期的に波打つ。
見物人の一角が前へ出てくると、撹乱された魚群のように、他の一角が引っ込む。
戦いが一段落すると、群衆は新しい役割を演じる。
すなわち、一時的に離れた両者のために、対決をさえぎるついたての役をする。
これは交戦を止めさせようとする誰かによって素早く行われる。
見物人の仲裁が比較的少ないと、それを物語るように素手の殴り合いが、
再びかなりのスピードで短時間続く。
その殴り合いを見物人が止めさせるべきだったというような 非難は、普通誰も言わない。
ごく幼い子供の闘争行動は、似たようなパターンを示す。
子供部屋でのいさかいは、殆ど持ち物についてである。一人の子が他の子の物を取ろうとする。
素早い攻撃があって、終わると、一人は者を手にし、一人は顔を真っ赤にしてなきわめく。
攻撃は、押す、蹴る、噛む、髪を引っ張ることだが、
最もよく行われる動作は、腕を振り上げてぶつことである。
つまり、握り締めたこぶしの手のひらの側で相手の身体をぶつ。
その動作は先ず、腕をひじのところで鋭角に曲げ、頭上に垂直に持ち上げる。
そして、その位置から相手の一番近いからだの部分へ、渾身の力をこめて激しく打ち下ろされる。
このようなぶつ動作は、どこの子にも典型的に見られるようで、
われわれの種にとって生得的な攻撃パターンであるといえよう。
興味深いのは、長じて、もっと特殊化した別の攻撃型を身に付けた後でも、
腕を振り上げて殴る動作が、“非公式”の闘争状態の中に残っている。
例えば、暴動の写真には、攻撃の最も顕著な様式として、
この種の殴打場面がたいてい写っている。
もちろん大人では、杖や棒を握ることで、損傷効果をぐんと高める。
暴徒と警官は、同じやり方で、すなわち、
相手の頭上に一撃を加えるように武器を持ち上げて打ち合う。
これは攻撃運動という点で、まさに“原始への逆戻り”の例のように見える。
というのは、上から打ち下ろす代わりに、
前面から殴打するといった重症を負わせるような一撃が、他にもたくさんあるからである。
鋭い武器を相手の顔、胴、性器へ突き刺せば、
頭蓋骨に直接向けた鈍い一撃よりも、確実に大きな損傷を与えることができるだろう。
にもかかわらず、このような文化的に獲得された、
より“有効な”攻撃法は、上述の非公式的暴動の状況では、おかしなことに使われないのである。
武器に言及すれば、まったく人間独特のしかも
われわれの種に重要な問題をもたらす闘争行動の領域に立ち入ることになる。
人間の身体には、
鋭い爪や牙、角、毒腺、がっしりしたあごのような、とりわけ野生動物のもつ武器がない。
他の多くの動物は、そのような武器を持っている。
しかし、人という種は、それとは 対照的に裸の肉体と肉体の戦いにおいては、
多くの努力を払わねば、相手に致命傷を与えることができない弱々しい動物である。
しかし、人間という動物の、古代の武器を持たない戦闘と現代の武器を持った戦闘を比べると、
人間の潜在的殺傷能力は、明らかにずっと昔から他のすべての種に勝っていたのである。
武器を発明することが、われわれの闘争活動に幾つかの決定的な大激変をもたらした。
1. われわれは自らの攻撃動作の傷害力を、一貫して増大させてきた。
武器を持たない攻撃に、刃先の丸い道具、次に鋭い道具、さらに爆発物を加えることによって、
われわれは何世紀にも渡って、攻撃を潜在的に、より致死性の高いものにしてきた。
他の動物のように相手を押さえつける代わりに、相手を破壊するのである。
2. こういった新しい武器という人工物のおかげで、
われわれは敵意のある相手に対して一方的に勝利を収められるようになった。
もはや、敵対する二人が同等の武力を持っているという保証はどこにもない。
2頭のトラが戦ったとしよう。
トラは、裸の人間にはない鋭い短刀のような爪を持っているが、
すべてのトラがこの武器を持っているので、
戦っている両者の間には抑制的なバランスが生まれる。
しかし、武器を携行した人間の場合には、二人が戦うと簡単に一方的な事態が生じてしまう。
すなわち、優れた武器を持ったものは、
相手の報復を恐れて、抑制のない野蛮な攻撃に出てしまうからである。
3. 人工的武器の性能がよくなるにつれて、
相手に損傷を与えるための労力は、ますます少なくてすむようになってきた。
武器のない戦闘では、筋肉を使った暴力が必要であったが、現代の武器所持者は、
相手の身体に弾丸を打ち込むために、人差し指を僅かに曲げるだけで事足りる。
そのような行為には体力の消耗はないし、相手の身体に密着してあちこち触れることもない。
厳密にいえば、鉄砲で人を殺すことは暴力的行為でさえない。
もちろん、その結果は暴力的であるが、
その動作は、コーヒー ・カップをちょっと摘み上げるのと同じくらい優美なものである。
労力を必要としないために、このような行為は非常にたやすいものになり、
攻撃が生じる機会を増すことになる。
4. われわれは武器の射的距離を一貫して改善してきた。
この進歩は、物で打つ代わりに、物を投げるということで始まった。
やがて矢が発明され、その鋭利な先端が、ずっと遠くにいる敵に届くようになった。
火薬の出現によって、事態はさらに進んだ。
相手の細かな部分が見分けられないほどの距離からでも、
殺すための弾丸を発射できるようになった。
これは非個人的要素を付け加え、戦う者の間での、
なだめ信号の伝達を不可能にしてしまった。
こうして動物に普通見られる、
つかみ合い事態での抑制は、人間では著しく減少してしまったのである。
5. われわれは一人の人間ではなく、
多くの人々を瞬時に破滅させうるところまで、遠隔武器の威力を増大させた。
空中から落とそうと、時限装置をつけておこうと、
爆弾の使用、および化学兵器の導入は、
非個性化した抑制のない闘争の極限状況を作り出した。
攻撃者の動作は、今やまったく非暴力的となり、普通はボタンを押すという、
引き金を引くことよりももっと優美な動作だけで、これまた離れたところから、
普通の動物の能力の限界を完全に超えたスピードで行われる。
以上の五つの要因は、共に人間の闘争行動を、
暴力的な打倒のパターンからデリケート
に遂行された破壊へ、
また一人の敵を打ち負かして優位にたつことから、
目に見えない人間の大集団を何ということもなく崩壊させることへと変えた。
しかし、幸運なことに、武器に対する人類進歩の最も新しい局面は、
ついにそれ自身の新たな抑制を生み出した。
核兵器の出現によって、攻撃者が自分自身の安全性について恐れを知る段階へと、
人類は再び戻ってきた。
というのは、このような兵器の威力は、優美なボタン押し屋も、他の人々と一緒に、
地球全体に広がる大量殺戮の中で煙と消えてしまうほど、強力であるからである。
言い換えれば、このような爆弾の破壊力は、世界を事実上縮小させ、
国家間の争いを白兵戦のレベルにまで低下させるほど強大である。
こうして再び、攻撃衝動は武器を使用しない戦争の場合と同じように、
攻撃者に大きな恐れを直ちに喚起させることになる。
しかし、悲しいかな、人間の闘争史における子の新たな転換は、
核戦争の可能性を完全に無くしたのではなく、単にその確率を低めたにすぎない。
これまで、常に集団間に生じる傷害の複雑な要因となってきた人間行為の特徴のひとつは、
人間の怒りではなく、逆説的にいえば、人間の大いなる友好性であった。
集団へのこのような 意味での忠誠心は、敵に向けての攻撃ではなく、
仲間を守るための攻撃を繰り返し引き起こしてきた。
限定された個人的戦闘を集団闘争へ、
さらに集団闘争を軍事的盲目的愛国心に変えたのは、この協力精神であった。
組織化された攻撃は、個人に基づいては遂行することができない。
それは、目的への規律と、忠節に対する反応を必要とする。
これらは、人間の闘争とは本来関係のない特徴である。
それらは元々男性の協力的狩猟集団から成長してきた。
そこでは生存は“仲間”への忠誠心に依存していた。
やがて文明が発達し、技術が進歩すると、
それらは新しい軍事的背景の中でますます利用されるようになってきたのである。
現代の人間の状況が、典型的に示している、攻撃遠隔性と集団協力性の組み合わせは、
自らの目的のために、われわれを戦わせようとする無慈悲なリーダーからの圧力を、
われわれが常に受けやすいことを意味している。
彼らは、素手で殺せとか、そのためにはあらゆる協同をせよとか、
攻撃するときには相手の表情が読み取れるほど近くに行ってからにせよ、
とわれわれに求めはしないだろう。
しかし、助けに行かなければ、
窮地に追い込まれた戦友を支援するために、敵を殺せ、と彼らは決まってわれわれに言う。
何度も何度も十分に議論を尽くしても、結局、悲劇的なことに、きっと前と同じ結果になるであろう。
それに対する唯一の防御は、
殺すようにいわれた特定の人々に、われわれは何らかの個人的な恨みがあるのかどうか 、
そして支援するようにいわれた“集団”が、本当に自分たちの部族の出身なのかどうか 、
すなわち、それが結局われわれの新たな、
いわゆる人工的な“国家”集団にすぎないのではないかということを、自問自答してみることである。
闘争という問題を、
その本来の姿である個人的ないさかいの手段の極端な形として考え直すことによってのみ、
われわれは、戦場における人間の無統制な野蛮さが、
動物に見られる節度ある戦闘へと変わる希望をもてるのである。
勝利のディスプレイ 勝者の祝いと敗者の反応
勝利の瞬間に続いて、
しばしば直ちに勝利のディスプレイを行いたいという感情が沸き起こってくる。
これには喜んで飛び跳ねるという個人的なものから、大規模な公の祝賀会に至るまで、
いろいろなものがあるが、そのディスプレイの根底には、勝利者の優越感の急激な増大がある。
彼は勝つ前には、勝てるかどうか心配でたまらなかった。
しかし、勝った今は征服者であり、その地位は急激に上昇した。
一般に上位者の姿勢は下位者の姿勢よりも高く上向きで、大きいものなので、
勝利の瞬間に殆どすべての勝利者が、何らかの方法で自分の背を高く見せることで、
その気持ちを表現するのは、驚くべきことではない。
興奮して上下に飛び跳ねる素朴な“喜びのジャンプ”や、
もっと控えめに頭を高く上げることなどは、みな自分を大きく見せる方法である。
多くの場合、両手が頭上にあげられ精一杯に伸ばされる。
勝利のディスプレイの様相は、何に勝ったかによって異なる。
競技に勝ったチームの小さな子供たちは、かなり興奮した様子で叫んだり大声をあげて跳び回る。
子供が大きくなるにつれ、そのようなまったく抑制されていないディスプレイは減り、
もっと抑制された穏やかな形で示されるようになる。
大人では表出されるディスプレイの強さは、場合に応じて異なってくる。
ボクサーやレスラーは、
勝利試合の後では、握った両手を頭上に上げる古典的な姿勢を、伝統的に示す。
時にはこれが、グローブをはめた片手を上げるという形に省略される。
またあるタイプの試合では、
審判員が勝者の手を撮って持ち上げ、勝利者を認定するという仕方もある。
政治家も、おそらくタイトル を所有しているボクサーの力強さに見合うものを身に付けようとしてか、
選挙の夜は、当選した瞬間に、握った両手を上げる格好をする。
また彼らは両手を広げてあげるもっと一般的な万歳の動作、つまり手を開き、
指は堅く伸ばしたままで、両腕を僅かに広げて空に高く上げる動作をすることもある。
さらにこれの変形として、指で勝利の V サインを作っていることもある。
今日見られる最も派手な勝利のディスプレイは、
サッカーの選手が勝ったときに示すディスプレイであろう。
しかし昔からずっとこうだったわけではない。
例えば何年か前のイギリスのサッカー試合では、非常に大事な得点をあげた選手は、
背中を軽くたたかれ、喜びの言葉をちょっとかけられただけであった。
けれども、次第に国際試合が盛んになって、地中海地方の大げさな身振りのチームが北ヨーロッパ
を訪れるようになってからは、得点した瞬間に、爆発的な反応を示すことが広がった。
ボールがゴールに入るといなや、得点者自身が両腕を大きく広げて、仲間に駆け寄って行く。
両腕を上げる角度はその時々で異なるが、それは仲間を抱きしめたい気持ちと、
身体を高くして天にも上りたい気持ちとの葛藤のためであろう。
この混ざり合った気分のために、得点者の腕は仲間たちに向けて前に出されたり、
垂直にあげられたり、時には半ば前に出し、半ばあげるという中途半端な動作になったりする。
顔をゆがめ、口を大きく開けて、または少なくとも顔を崩して笑いながら走っているが、
時には宙に飛び上がり、上に上げた右手のこぶしを振り下ろすこともある。
この動作は、喧嘩の際に、こぶしで相手を激しく攻撃するときの、
敵意に満ちて腕を振り上げて打ち下ろす動作に類似している。
ここではそれが架空に行われており、相手チームの頭を象徴的に殴りつけていることになる。
全身でディスプレイを行いながら走っているサッカーの得点者には、
チームのメンバーがわっと押し寄せてくる。
彼に飛びついたり、抱きついたり、キスをしたり、抱きしめたり、髪を撫でたり、
頭や肩をたたいたりして、押し合いへし合いの群れが彼を取り巻いてできる。
しまいには、腕ばかりでなく、足にまで抱きつくものも出てくる。
足は身体についていて離れないから、彼は祝福する人たちによって運ばれてしまうこともある。
2. 3年前の一時期は、このような祝福ディスプレイがあまり大げさになって、
得点前よりも、得点後に怪我の危険性の大きいことさえあった。
だんだん大げさなことは 行われなくなったが、ヨーロッパのプロの試合では、
まだこれと同じようなことが、どこでも観察できる。
全体のパターンは、幾つかの明白な要素を含んでいる。
飛び跳ねたり、腕を上げたりして、自分の身体を大きく見せようとすること。
ゴール付近から素早く駆け戻る大きな全身運動の盛り上がり。
腕を振り上げて打ち下ろす征服者の象徴的な強打。
仲間との愛情を示す接触動作などである。
最後の要素は、北ヨーロッパでは男性同士の抱擁や頭への接触が、
身体的な親密さが強いことを示すものなので、特に興味深い。
日常のくつろいだ社交場面では、
そのような接触が二人の成人男子の間でなされると、軟弱であるとみなされてしまう。
完全な抱擁は、どうしても同性愛の動作と結び付けられてしまうからである。
しかしここでは、得点した後の非常に興奮した瞬間に行われているし、
その場面は荒々しく、紛れもなく力強く男性的なものなので、
サッカーの選手は通常の社会的抑制から開放され、
自分の愛情を、勝利を共にした仲間に向けて表現することができる。
そして、たとえ仲間が彼に、実際に長いキスをすることが時々あっても、
その動作はまったく健全な男性のものであって、誤解されるようなことはない。
多くのスポーツでは、
勝利者を胴上げしたり、車などに乗せてパレードをすることが慣例となっている。
自動車レースでは、勝利者は自分の車に乗って栄誉の一周を行い、時には勝利を決めたゴール
を通過するときに、自分の勝利の瞬間を示したチェッカーフラッグを振り回したりする。
優勝者は表彰式のときに栄誉の一周を行うが、
彼らはファンの喝采を得るために、カップを高く掲げている。
自分では気づいてはいないだろうが、現代のスポーツマンは、
古代ローマの勝利者が行ったことを簡略化して行っているのである。
古代ローマでは、戦争に勝った将軍と兵士は凱旋門をくぐってローマに入り、将軍は月桂樹で
飾られた四頭立ての戦車に乗り、奴隷に黄金の冠を頭上に持たせて街中をパレードした。
将軍は身には神の衣装をまとい、犠牲者の血を思い起こさせるように顔を朱で赤くして、
ローマ帝国で最高の地位ディスプレイを行った。
そのような勝利の誇示はまれであり、少なくとも 5000 人の敵を殺す野戦で勝つこと、さらに戦争の
勝利と征服した異国を加えることで、ローマ帝国の領土を拡大することが必要であった。
ローマ帝国における勝利のディスプレイをするための形式的な手続きは、
以上のようなものであった。
そのため、即時性はまったく失われてしまい、感動も薄くなっていた。
そして、時には準備に時間がかかりすぎて、
戦勝者は街に入る前に、数ヶ月も門の外で忍耐強く待たねばならなかった。
一例をあげれば、勝利を収めたある将軍は、三年も待たされたという。
これは、3 秒の間があっても長いと思われるほど即時的で、
喜びに溢れたサッカー場での祝福と比べると、なんという違いであろうか。
しかし今日でもこれに匹敵するものとして、試合終了後の勝利パレードや、
世界的あるいは全国的優勝をした選手またはチームの出身地での帰還祝賀会がある。
サッカーの試合で優勝カップを獲得したチームが、
出身地でオープンカーのパレードを行うのは、その一例といえる。
そして、ローマの亡霊がなおもふらついているのは、
自動車レースのチャンピオンが月桂樹の環を首にかけてもらう例で、
これもよく知られているものである。
新しい勝利のディスプレイの仕方が、最近自動車のレースの世界で盛んになってきた。
勝利者が台に登って、まず賞をもらい、続いてシャンペンの瓶をもらう。
すると彼はそれを激しく振ってから栓を開け、群がる人々の上に振りかけるのである。
これは親指で瓶の口を押さえ、指を僅かにずらすだけでよい。
瓶の内部の圧力は次第に高まってくる。すると、シャンペンは長い白い泡となって噴出し、
下から見上げている人々の頭上に降りかかるが、
これは陰茎からの射精を驚くほどよく象徴している。
というわけで、それはちょうど、
そのときに上位になった男性の支配的精力を巧みに示しているといえよう。
これと表裏をなす位置にあるのが、敗北の姿勢である。
敗れたスポーツ選手の多くは、自分の失意をできるだけ隠そうとするし、
勝利者を称えて微笑もうとさえするので、敗北の姿勢はあまり明白には示されない。
しかしそうした努力をするのは、試合の終了時のみである。
試合の途中で、相手に得点された瞬間には、そんな甘ったれた様子は見られない。
相手チームの選手が得点したとき、サッカーの選手の姿勢は、
率直に自分を物語っていて、隠そうとするどころではない。
普通は頭を下げて、多くは芝生を見つめていたりする。
顔の表情は沈んで硬く、手はよく腰におかれている。
両手を腰に当て、ひじを張ったこの姿勢は、
憤怒したときや一般的にイライラしているときの特徴で、
そうした状況においてよく見られるものである。
遮断
視覚信号を阻止する動作
社会的行動は、出力と入力の問題といえる。
われわれは自分の動作によって信号を送り、他人の動作からメッセージを受け取る。
すべてがうまくいっているときには、出力と入力の間の均衡は保たれているが、
その平衡状態が破れるときがある。
社会的接触が十分でなく孤独を感じると、より探索的となり自分の出力を増して修正しようとする。
また逆に、社会的入力が大すぎて苦痛を感じると、
ストレスに陥り、何らかの方法で過剰な刺激を減らそうとする。
この削減過程は【遮断】と呼ばれ、幾つかの形がある。
最も原始的な解決方法は、社会的場面から遠ざかってしまうことであり、
再び喧騒の中に戻る元気が回復するまで、過剰な刺激を避けることである。
実際にそれを行うひとつの方法として、
病気になって寝込んでしまい、プライバシーを得ることがある。
もうひとつは、いわゆる“神経衰弱”になることである。
三番目には、“鎮静剤”と呼ばれる薬を使用することであり、
四番目は、酒に酔ったり、他の薬物を飲んだりして、入力を混沌とさせてしまうことである。
そして、最後は思索にふけることで、自分自身の思考の中に埋没して、
しばらくの間、外界の事は成り行きに任せてしまう。
しかし以上の方法は、
われわれが日常の社会的場面で用いられる遮断の方法よりも、はるかに過度である。
われわれも時にはこれらの方法のどれかを用いたくなるが、
それは極端な場面に対する思い切った解決法である。
僅かなストレスは日常多いものだが、そんなときにはもっと穏やかなちょっとした動作で対処する。
その中でもっともよく用いられしかも目立つのが、目をちょっと閉じることである。
入ってくる視覚イメージにちょっとシャッターを下ろす。
騒々しいパーティーの席上で質問を受け、客を思い出せない男は、
自分の記憶を追うかのように、堅く目を閉じる。
騒ぎ立てる子供たちに取り囲まれた母親は、
手で耳をふさいで「お母さんは自分の言うことも聞こえないわ」と叫ぶ。
せりふを覚えようとしている俳優はてで目を覆い、それに集中できるようにする。
これらは明白で、かつ紛れもない遮断の例であり、すぐにそれとわかる。
しかし、いっそう興味深い別の範疇がある。
それには四つの無意識の動作が含まれており、いずれも本人は殆ど気がつかない、
ちょっとした遮断である。
最初は【逃避する目】で、これは話をしている人が、かなり長い間相手を見ないことである。
相手と目を合わせることに耐えられず、相手の傍らや、地面にある架空の物体をじっと見つめる。
二番目は【きょろきょろする目】で、あちこちをさっと見ることを繰り返す。
話をしている最中に、その動作が何度も行われる。
三番目は【ぱちぱちする目】で、これは相手に顔を向け、
目をあわせてはいるが、まぶたを痙攣させるように、上下にぱちぱちとさせる。
それはあたかも、同時に目を開けて閉じるという困難なことを成功させようと、
無駄な試みをしているかのように 見える。
四番目は【ゆっくりまばたく目】で、これは三番目と同様に顔はまっすぐ相手に向けられているが、
瞬間的になされる筈のまばたきのたびに、目を瞑ってしまい、
再び目を開けるまでに数秒もかかるのである。
これら四つの遮断は、いずれも相手をかなり当惑させ、何故だかわからぬままに、
われわれは次第にイライラしてくる。
そのわけは、彼が何かの理由でわれわれから抜けたがっていることを、直感的に知るからである。
彼はわれわれを恐れているか、嫌っているか、
あるいは退屈してどこかにいってしまいたいかのいずれかなのだが、
行動はそれとは 正反対に友好的で、
あたかも一緒にいることを喜んでいるかのように 振舞いつづける。
彼は遮断の信号を無意識のうちに送っているが、
われわれもまた同様に、それを受け取っていることを意識していない。
表面には現れない非言語的コミュニケーションがその場で行われていて、
それが言葉にならないイライラを引き起こしているのである。
そのような時、われわれを悩ますのは相手の矛盾である。
もし、彼が少し静かにしていたいということを正直に認めれば、われわれも同情できる。
また逆に、自分自身の中に引っ込んでしまわずに、
ストレスや緊張することを覚悟して心から付き合ってくれれば、われわれもまたうれしい。
しかしわれわれに注意を向けているように装いながら、ちょっとした遮断の動作を行って、
よそへ行ってしまいたいという信号を無意識に出されると、
それへの反応として、われわれは無意識にいらだたしさを感じずに入られない。
このような遮断動作は、社会的接触一般に対するもので、
われわれだけに向けられたものではない。
それゆえ、上に述べたことは 、ある点では不公平ともいえる。
仕事や家庭の過度のストレスのために、社交性という点ではまるで夢遊状態にいる人は、
どんなに楽しくわくわくさせられる話の場であっても、適切な関心を払いながら、
その新しい会話に溶け込むことはできないであろう。
彼らの【逃避する目】、【
きょろきょろする目】、【
ぱちぱちする目】、【
ゆっくりまばたく目】は、
殆ど避けられない“痙攣”となっている。
これは他人にとってはいらだたしいものだが、本人にとっては、
ほんの一瞬でも、栄光と孤独を守るプライバシーがあることを示している。
一瞬、一瞬の遮断は、ある意味では、
社会的責任という重圧からの、瞬間的、象徴的な逃避ともいえる。
それはほんの一瞬ではあるが、感覚入力を減らして、
われわれすべてにとって重要な入力―出力のバランスを、正常に保ってくれるのである。
自律神経信号
身体的ストレスによる動作や変化
ある動作をしようとするとき、われわれの身体には、多くの基本的な変化が起こる。
これから活動を始めようとすると、
身体の機械はギアを入れ、これから負担せねばならない要求の増加に対応しようとする。
また、緊張を解いてもよくなると、人間エンジンもギアをはずして停止する。
これらの変化を統制するのが、自律神経系の役目である。
自律神経系は、さらに二つの拮抗する系に分けられる。
活動性を高める交感神経系と、活動性を低める副交感神経系、つまり、駆り立て役と静め役である。
通常の適度の身体活動においては、この二つの系は互いにバランスを保っている。
交感系が【働きつづけろ、もっと続けろ】というのに対して、
副交感神経系【くつろげ、もっと力を抜け】といっている。
どちらのメッセージも、互いに他をしのぐほど強くないので、
この適度の状態では、人という動物は快適に動く。
これがわれわれの一般的な状態であるが、
何か激しい攻撃活動をしなければならなくなったときには、交感神経系の働きが優位となって、
血液中にアドレナリンが放出され、くつろげという副交感神経系の働きを一時的にしのぐようになる。
一度そうなると、一連の変化が生じる。
先ず循環系が大きな影響を受け、心臓は早く強く打ち始め、
血液を皮下や内臓部から筋肉や脳へ送るように、血管が膨張する。
消化系の働きは低下し、唾液の分泌も減る。直腸や膀胱はすぐには空にならない。
肝臓に蓄積された炭水化物は血液中に放出されて、血糖値を上げる。
呼吸は速く深くなり、汗の出る量が増す。
これらの変化は、すべて活動が増大することに対する身体の準備といえる。
倦怠は追いやられ、われわれは急激に覚醒状態になって、動作に備える。
― 血液が送られてきた脳は素早い判断ができるし、筋肉は激しい運動の準備をしている。
大きく波打つ肺は酸素の取入れを増し、汗で湿った皮膚は熱を放散しやすくしている。
これらの変化の基本的機能が、
視覚信号を出すことではないのは明らかであるが、そうならざるを得ない。
われわれには他人がアドレナリン分泌状態になっていることが、なんとなくわかってしまう。
彼の身体的覚醒が、実際に力強い活動に発展していけば、自律神経信号はあまり重要ではない。
その後の活動が、われわれの知りたいことを語ってくれるからである。
しかしその活動が妨害されることがある。
アドレナリンが分泌され、身体は動作への準備が出来ているが、
実際には何の動作も起こらないことがある。
そのようなときに自律神経信号は多くの事を明らかにしてくれる。
そのような状態は、葛藤場面にいる人によく見られる。
何かに非常にびっくりしたのだが、逃げ出せないときや、
何かに怒っているが、抑制が強すぎて攻撃できないときなどがそうである。
このようなときに人々は、身体はかっかしているのだが、
何の動作もすることが出来ずにじっと座っている。
自分が直面している葛藤のために、
イライラした本当の気持ちを隠して、落ち着いた振りをしようとするが、それはやさしいことではない。
例として、テレビ番組でこれからインタビューされようとしている、ゲストのことを考えてみよう。
出演を前にして彼は、自分を批判的な目で見ようとしている、
何百万人という人に脅威を抱かずにはいられない。
そして恐怖が喚起され、身体は自動的に逃げ出す準備をしてしまう。
ゲスト席につき、これから質問が始まるというときにも、
生理的には身体はまだ逃げ出そうと構えている。
彼は最大限の努力をして、落ち着き、リラックスしているように見せようとする。
しかしその努力にもかかわらず、自律神経系の手がかりはまだ残っている。
抑制するのが最も難しいのは呼吸数である。
たとえ彼がプロの俳優であって、身体的動作を制御することが非常に上手であっても、
なお知らずに知らずのうちに彼の胸部の動きは普段より大きく、速くなっている。
彼がいすに気楽にもたれているように 見せようとしても、この胸のあえぎは、
身体姿勢から得られる手がかりとは一致しないので、奇妙な感じを与える。
ただ何枚も厚着をすれば、これを隠すことができる。
さらに、循環系の変化によって、皮膚の血液が少なくなるために、
顔色が青ざめるが、これはスタジオ用のメーキャップで隠すことができる。
また唾液分泌の低下のために口が乾くので、
話すときに舌や唇を細かく動かして、湿り気を与えようとする。
筋肉中の血液が増加して、
力強い運動をする準備がなされているが、これは抑制された形で現れてくる。
身体を緊張させたまま腕や足を小刻みに震わせたり、ぎゅっとくっつけ合わせたりする。
堅く手を組み合わせているのは、両手に力がみなぎって、互いに他方の手をしっかりつかんでいる
からであり、足を組んでいるのも、片方の足で他方をしっかりと押さえつけようとしているからである。
あるいは子の両方を同時にやっているかもしれない。
また放熱のシステムが働き続けるので、普段より汗が多く出る。
このために少し震えたりするが、これはいわゆる“冷や汗をかく”状態といえよう。
幸いにも、テレビの熱いライトがこれと逆に作用して、汗をかく言い訳を与えてくれる。
このような苦境に陥っている人が、身体の準備した激しい活動を実際に表出しさえすれば、
すべての生理的準備は役に立つ。
ところがそうはいかずに、準備が過剰に蓄積されてしまうこともある。
すると、自律神経系はこの不均衡な状態を解決するために、これと反対に働く系、
つまり、副交感神経系をも戦いに駆り立てる。
こうして両方の系が十分に活動を始めると、自律神経系の振り子はあちこちに大きく揺れ始める。
もし、フル回転によるエネルギーだけを放出できるならば、
副交感神経系は身体をゆっくりと平衡状態にもどすことができるが、
実際はそうはいかず、その代わりに、血迷った引き金があっちこっちに引かれるので、
その結果、生理的には大混乱の状態となる。
交感神経系の活動が優位のときでも、その間に副交感神経系の活動が入り込む。
極端な場合には、その結果は劇的でさえある。
例えば、車を運転している男が、道路に飛び出してきた子供を見て急ブレーキを踏み、
車が横滑りをして壁にぶつかったとしよう。
クルマから出てきた彼は、青ざめた顔をしていることだろう。
それはパニックの瞬間に、血液中にアドレナリンが放出されたからである。
しかし、ドライバーとしては、何の身体的活動もしていない。
今や、クルマから降り立った彼には、副交感神経系の反作用が働き、
それまで緊張していた腸は突然排便活動を始め、
高アドレナリン状態で抑えられていた膀胱活動は突如として開放され、尿が放出される。
循環系は再び皮膚や内臓に血液を送り始めるので、顔は赤らみ、皮膚がほてり、吐き気さえ感じる。
同時に、脳から血液が急速になくなるので、ふらふらすることもある。
呼吸のリズムも乱れ、あえいだり、ため息をついたり、咳き込んだりする。
時として、身体のある一部では交感神経系が興奮しているのに、他の部分では副交感神経系が
興奮しているというように、正反対の症状が、同時に起こっているのを見ることもある。
正常なときには、そのようなことは考えられないのだが、
強い緊張と葛藤の下に置かれたときには、二つの競合する系が調和を失ってしまい、
身体は非常に不快な状態になる。
それほど緊張の激しくない場面でも、もっと穏やかではあるが、同様の矛盾が見られる。
もう一度テレビのゲストの例に戻るとしよう。
もし彼が神経が苛立ったままで不当に長い時間待たされると、スタジオに入る前に、
副交感神経系からの反作用に出会うだろう。
副交感神経系は「動作が始まるのをもうさんざん待った。だが何も怒らないのだから、
もう身体を元の均衡の取れた状態に戻すとしよう」とささやく。
しかし、動作をするための系も依然として働いているので、ここでまた衝突が起きる。
今やゲストは、青ざめて震えている代わりに、顔が赤くほてってくるのを感じるだろう。
口はからからではなく、唾液で一杯となる。そして突然トイレに行きたくなる。
またいくらか気が遠くなるような気分もする。
これらの症状は、事故を起こしたドライバーの場合ほど強くは現れないが、
長く待たされて緊張が持続しすぎると、多少は起こってくる。
闘争の場面でも、これとまったく同様の変化が見られる。
恐怖と攻撃とが互いに阻止しあって、興奮した人が、攻撃することも逃げることもできないでいると、
彼の威嚇ディスプレイには、上で述べたような自律神経信号の多くが加わってくる。
この場合、特に威嚇している人の顔色に注目したい。
もし彼の顔色が青白かったら、赤くなっているときよりも危険である。
というのは、青白くなるのは活動系の作用の一部であり、
それは彼が今にも飛かかってくるか、
逃げ出してしまうかのどちらかであることを示しているからである。
したがって、頑健を蒼白にして、しかも威嚇的に近づいてくる人は、本当に攻撃してくると思ってよい。
しかし、顔が真っ赤だったら、彼はすでに副交感神経系の反作用の段階にいるのであって、
もはや本当に“攻撃の準備が整った”状態にいるとはいえない。
われわれが赤い顔の男のほうを“怒っている”ので危険だといっているのは興味深い。
自律神経系の振り子は再び活動のほうへ 振れていくので、
赤い顔の人でも、確かに侮ってはいけないが、赤いことは、彼の内部の闘争の結果として、
今後も悪態をついたり、わめいたりという形で爆発はするかもしれないが、
それは警告に過ぎず、実際には“弱いイヌほどよく吼える”ということを示している、
イヌの例がここではぴったりする。
イヌにかまれた人なら誰でも認めることだが、
激しく吠え立てるイヌは、唸っている犬ほどひどくは 噛み付かない。
それと同じで、顔を真っ赤にして、棒を振り上げてわめいている人は、
実際には攻撃してこないものなのである。
自律神経信号として、もうひとつ述べておきたい信号がある。
それは人という動物にとっては取るに足りない信号であるが、とにかくひとつの信号ではある。
哺乳類の体内にアドレナリンが放出されると、それは体毛をピンと立たせる効果をもつ。
これは放熱作用の一部で、皮膚の表面をより多く外気に触れさせるものである。
多くの動物種においては、これは立毛ディスプレイとなり、
馬はたてがみ、鳥はとさかや冠毛を立てる。
人間の皮膚には殆ど体毛がないので、これはディスプレイの役をなさないが、
強いショックを経験したときには、われわれの短い体毛でも同じようにピンと立つ。
この反応をわれわれは、背筋がぞくぞくしたというように、
皮膚を撫でられた感じとして受け止めている。
それはこの反応が他の人に送る信号ではなくて、
自分の身体に重大な変化が起こっていることを自分自身に伝える信号として
働いているからである。
瞳孔信号
瞳孔の大きさは気分の変化を示す
人の顔をじっと眺めれば、いくつもの顔の部分、すなわち、額の線、目の大きさ、唇のカーブ、
あごの張り方などが、表情に関係していることに気づく。
それらの要素がまとまって、全体の顔の表情となり、そこから、
われわれは相手の気分を読み取ろうとする。
しかし、実際にはうれしくなくても“うれしそうな顔”をしたり、
悲しくなくてもわざわざ“悲しそうな顔”ができることも知っている。
つまり顔は嘘をつける。
そして時には、あまりにもうそが上手なので、
顔からは相手の本当の気持ちが読み取れないこともある。
しかし顔の信号の中にも、容易に嘘をつくことのできないひとつの信号がある。
それは小さな信号であり、かなり微妙な信号なのだが、真実を語るので特に興味を引く。
それは瞳孔からの信号であって、瞳孔の大きさが問題なのである。
人間の瞳孔は、有色の虹彩の中央にある黒い点のように見える。
それは眼への光の入口であって、明るさに応じて大きさが変わることは誰でも知っている。
明るい日光の下ではピンの頭、つまり直径2ミリほどの大きさであるが、
暗くなるにつれて大きくなり、日光の下のときの四倍ほどまでに拡大する。
だが、瞳孔に影響を与えるのは光だけではない。
感情の変化によっても、瞳孔は影響を受けている。
そして明るさが一定のときでも、感情の変化によって瞳孔の大きさが顕著に変わるので、
瞳孔の大きさの変化は、気分を表す信号として役に立つ。
われわれは何か興奮させられるものを見たときには、
それがうれしい期待でも、恐怖でも、瞳孔はそのときの明るさによる大きさよりも拡大する。
また、あまり好ましくないものを見たときには、いつもより収縮する。
これらの変化は、通常われわれが気づかぬうちに起こり、
殆どコントロールできないものなので、真の感情を知るための貴重な手引きになる。
とはいうものの、瞳孔信号は無意識のうちに出されるばかりでなく、無意識に受け止められている。
二人の友は、お互いに瞳孔を拡大させていれば快い興奮を覚えるが、
収縮させていると沈んだ気分になる。
しかし、それらの気分を互いに交わしている瞳孔信号と結びつけることはまずないだろう。
それは作法に従ってポーズをとっている表情の下で、“ひそかに”取り交わされるサインなのである。
この思いがけない瞳孔信号が、
どのように働いているかを調べる研究が、最近 15 年間に数多くなされてきた。
実験室の基礎テストでは、人々に興奮を催す写真を見せ、
同時に、精密な装置で瞳孔の変化を記録した。
このときに被験者の目に入る光の量はまったく変化しないように特に注意が払われ、
瞳孔のすべての拡大や収縮が、呈示された写真から受ける
感情の作用だけによるとはっきり言えるようにした。
初期の実験では、人間の赤ん坊の写真を、独身の男性および女性、
既婚だが子供のない男性および女性、子供のいる男性および女性に見せた。
女性は、独身、既婚にかかわらず、また子供のあるなしにかかわらず、
赤ん坊の写真を見ると瞳孔を大きく拡大させた。
これに対して、男性は独身者と子供のない既婚者は瞳孔を収縮させ、
子供のある者のみが強い拡大を示した。
換言すれば、子供のない男性が他人の赤ん坊をあやすのは、
単に礼儀のためだけであるが、女性は心底からそうしているのだ。
男性は実際に自分の子を持つまでは、
他人の子に対し、本当にかわいいという感情で接することはないのだろう。
女性はそれと異なり、結婚する以前から、母親的に反応する準備が出来ているようだ。
性的反応もこれと同様にテストされた。
ヌードの男性または女性の写真が男女両性に示された。
その結果、ホモの人は総じて同性の裸の写真に正の瞳孔反応、
つまり、瞳孔の拡大を示したの対し、普通の人は異性の写真に強く反応していた。
この性反応テストで示された一つの興味深い点は、男性と同様に女性も、
衣服を着ている写真よりもヌードのほうに対して、ずっと興奮したことである。
もちろん男性はこのことを隠したりしないし、
若者が自分の部屋の壁にセミヌードの女性の写真を飾っておくのは、ごくあたりまえとされている。
しかし、若い女性の部屋にセミヌードの男性写真が飾られているのはごくまれであろう。
その結果、女性は男性とは違って、
異性のヌードにはそれほど興奮しないという神話が作り上げられた。
しかし、無意識の瞳孔反応は決してそうではないことを語ってくれる。
もうひとつの“欺瞞”は、自由主義だと自認する人が、
黒人男性が白人女性とキスをしている写真を見せられたときに、明らかとなった。
人種差別問題に関して質問されたときには、
すべての人が人種差別撤廃に賛成していたにもかかわらず、
瞳孔反応ではきれいに二つのグループに分かれた。
すなわち、瞳孔反応が言葉で述べた信条と一致していた“真の”自由主義者のグループと、
人種の平等を唱えた言葉に反し、黒人が白人にキスする写真を見て、
瞳孔が収縮した“お題目だけの”または偽りの自由主義者のグループである。
また別の実験では、あらかじめ被験者に好きな食べ物を聞いておき、
その食べ物の写真を出したときの瞳孔反応が調べられた。
このテストでは、殆どの人が言語報告と、瞳孔反応の完全な一致を示した。
しかし、一致度の低い人も2.3人いた。
これは実験の性質がまったく無害であることを考えると、意外なことである。
好きな食べ物に関して嘘をつく人とは、どんな人なのだろうか 。
その理由はさらに質問を続けることで明らかになった。
食べ物について嘘をついた人の殆どすべてが、厳格な食事制限を受けている人であり、
現在禁止されている食べ物をひそかに欲しくて仕方がない
「ある場合には自分自身でもそれに気づかない」人なのであった。
彼らが理性で答えた好みは、もはや無意識の好みと一致してなかったのであろう。
同じような不一致は、一連の女性写真を被験者に呈示したときにも見られた。
写真のなかには
魅力的なセミヌードの美人の写真と、ホイッスラー作の【母の像】の絵が混ざっている。
いうもでもなく、口頭による意見表明では、ホイッスラーの描く老母の絵への評価は高いのだが、
瞳孔の拡大、収縮を分析してみると、それへの嗜好度は劇的に低下していた。
これらの実験は興味深いものではあるが、
精密な機械を用いて瞳孔サイズの変化を測定した実験室の報告にすぎない。
したがって、これらの瞳孔反応を【瞳孔信号】と呼ぶ以前に、
われわれは日常の社交的場面で、自分の目だけを使って、
これらの感情的な瞳孔反応を実際に探知することができるのか、を確かめる必要がある。
これを例証するには、
大勢の人々に魅力的な女性のポスターを二枚提示するという簡単な方法がある。
その二枚のポスターは殆ど同じだが、
一方は普通の瞳孔サイズの女性であるのに、
もう一方の女性は、ひとみの黒い部分が人工的に描き足されて大きくなっている
という点だけが違っている。
人々にはその違いを教えないで、二枚のうちの好きなほうを選ばせてみる。
“A”の女性といわれたときに、手を上げる人はほんの2.3人だが、
”B”の女性【瞳が大きくかかれているほう】といわれたときにはたくさんの人の手が上がる。
人々はこの結果を知ると、何故殆ど全部の人が同じほうを選んだのかわからないので、
笑いだすのが普通である。何かトリックが使われたなとは 思うのだが、それが何かはわからない。
彼らは“明かに
”自分たちを見て興奮したと思われる女性
【なぜなら彼女は瞳孔を拡大しているのだから】を選んだのである。
彼女は“自分の見たものに興奮した”ので
瞳孔を拡大させ、それがまた彼女をより魅力的にしていたといえよう。
このことが、若い恋人同士が互いにじっと見つめあったまま、
長時間を過ごすひとつの理由といえよう。
彼らは無意識のうちに相手の瞳孔の大きさを調べているのである。
彼女が情緒的に興奮して瞳を拡大させれば、そのことがまた彼氏の瞳を拡大させることになる。
そしてその逆もまた成り立つ。
ある実験では“ドン・ファン”すなわち女たらしの男で、セックスで女性を我が物にしては、
次々に相手を替えていき、
どの女性とも長続きにする愛情を育てることのない者を自称する男たちの、
瞳孔反応を調べてみた。
彼らはテストのときに魅力的な女性の写真を見せられても、正常な瞳孔反応を示さなかった。
そして、瞳孔を拡大させている女性よりも収縮させている女性に、より大きな瞳孔反応を示した。
換言すれば、彼らは情の深そうな女性よりも、薄情に見える女性のほうを好んだわけで、
あまり彼に打ち込んできて、
そのドン・ファン的な生活を乱してしまうような女性には、用心深くなっているのである。
上に述べたすべての例では、被験者はそれが自分のものであれ、相手のものであれ、
瞳孔反応にはまったく気づいていなかったので、
これらは人間の生得的な基本的反応を扱っていたといってよい。
この考え方は、実際の眼ではなく、
右のような図式的な眼点を用いたテストの結果でも支持されている。
紙に円を描いて、その内側に点を打ったものを人々見せ、
それを見るときの瞳孔反応を測定してみた。
すると、点を打った円がひとつあるいは三つ描かれた図は、
二つの図ほど効果的な信号ではないことがわかった。
また円の数が二つのときには、内側の点の大きさを増すと被験者の反応も大きくなるが、
円の数がひとつあるいは三つの図では、
内側の点を“大きく”しても、そのような反応の増大は見られなかった。
内側に点を打った二つの円は明かに、人という動物にとって特別な意味を持っている。
そしてそれに対する反応は自分ではコントロールがきかず、
学習が可能か不可能化というものでもなく、まったく無意識に行われるものである。
したがって、赤ん坊が一般に大人より大きな瞳をしているのは、それほど驚くべきことではない。
というのは、赤ん坊は人に気に入られそうなことはなんでも見につけておき、
両親から可愛がってもらい、世話をしてもらう可能性を、最大限にしなければならないからである。
そこで赤ん坊の出す生得的信号は、
どれも逆らい難いほどかわいらしく、明かに、自らの生存の機会を増大させている。
そして大きな瞳もそのような信号のひとつといえる。
最後に、瞳孔信号という問題への厳密な研究がなされるようになったのは、
最近の約20年間の事なのだが、この信号はもっと古い時代にも意識的に操作されていた、
ということを述べておきたい。
もう何百年も前に、イタリアのコールガールは瞳孔を拡大させるために、
有毒なイヌホウズキから作った薬を目薬として用いていた。
そうすると美しくなるといわれたので、
この薬は“ベラドンナ”【イタリア語で「美しい女」の意】と呼ばれていた。
もっと最近の例では、革命前の中国での翡翠商人の話がある。
彼らは翡翠を買い入れる際にわざわざ濃い色眼鏡をかけて、
非常に立派な翡翠を見せられたときに興奮して、瞳孔が拡大してしまうのを隠していたという。
それ以前は、その翡翠がどれだけ興味を引き、高く売れそうかを示す信号として、
翡翠商人の瞳孔が売り手に意識的に観察されてしまったという。
しかし、これらは珍しい例であり、
世の中の殆どの人々は、そのような故意の操作なではすることなく、
瞳孔を拡大させたり、それに反応したりしてきたのである。
意図運動
意図を知らせる信号
われわれは何か動作をしようとするとき、しばしばちょっとした予備的な運動を行う。
それらの動きはこれから何を行おうとしているのかを明らかにする手がかりであり、
意図運動と呼ばれる。
われわれが新しい活動を迷わずに開始できる状態なら、それがなんであっても、
ためらうことないので、“最初”の動きが、その行動の全パターンにまでよどみなく展開される。
しかし何かの理由でためらいが生じると、行われるのはその最初のちょっとした動作だけになる。
われわれはその動作を始めてはやめ、また始めてはやめてしまう。
つまりそこには二重の手がかりがある。
ある行為を行わせようとしているものと、やめさせようとしているものとである。
日常場面でのありふれた意図運動として、“いすのひじにぎり”がある。
主人と客が話をして時を過ごし、やがて主人は別の約束があって、
出かけねばならない時間になったとする。
主人の出かけねばという気持ちは、客に失礼をしたくないという気持ちによって抑えられる。
もし主人が客の気持ちなど気にしなかったら、そこで無造作にいすから立ち上がり、
出かけねばならないことを告げるであろう。
彼の身体はそうすることを欲しているが、礼儀正しくありたいという気持ちが、
彼の身体をいすに縛り付け、立ち上がらせてくれない。
“いすのひじにぎり”という意図運動が生じるのはこのようなときである。
主人は客と話を続け、客の話に耳を傾けてはいるが、身体は前かがみとなり、
立ち上がろうとするかのようにいすのひじをつかんでいる。
これは立ち上がるときに行う最初の動作であり、もしそこで彼がためらわなかったら、
それはほんの一瞬しか続かない。
つまり、身体を前に出し、いすを押して立ち上がり、すぐに直立する。
しかしここではそうではなく、ひじにぎりはもっと長く続く。
彼は“立つ準備”姿勢をとり、それを保っている。
それはあたかも彼の身体が準備動作のままで凍り付いてしまったかのようである。
主人がこのような意図運動をずっと行うのは、客にわかってもらおうとして
故意にすることもあるが、自分でも気づかずにしていることもある。
客が話し好きの人ならば、主人の身体姿勢の変わったことに気づかないが、
気づいても無視してしまうだろう。
しかし敏感な客ならば、すぐに反応するのが普通である。
客のほうも無意識に反応する場合もあるが、
明かにサインを読み取って、長居をしすぎたことを悟る場合もある。
実際、日常生活の多くの場面では、そうとは気づかずに、
意図運動をよく用い、またそれに反応している。
混雑した街を歩いているときはいつも、周りの歩行者の意図運動に反応して、
疲労や時間の浪費となる衝突や、ぶつかる寸前で立ち止まる動作を避けている。
時として、この働きがうまくいかないことがあるが、
それは近づいてくる人の意図を読み間違えたような場合である。
二人が狭い場所ですれ違おうとした場合を考えてみれば、すぐにわかる。
一方が左によけ、もう一方が右によけると、二人は鉢合わせとなり、止まらざるを得ない。
そこで二人とも同時に誤りに気づき、素早く修正して反対側に動くので、そこでまた鉢合わせとなる。
ここで彼らは互いにわびをいい、止まって一方を通そうとする。
ところが、また両方が止まるので、互いに相手が通るのを待つようになる。
この段階までくると、単純なすれ違い動作が
「どうぞ、お先に」、「いえ、そちらこそ」という言語を加えた状況になる。
こういうことは誰もが、廊下やドアの前、路上で経験することだが、
それがごくまれにしかないことを考えると、
いつもは非常によく他人の意図運動を読み取っていることがわかる。
意図運動には微妙なものと、あからさまなものとがある。
退屈な話を我慢して聞いている人は、
仕方なく上着のボタンをはめたり、組んでいた足をほどいたりする。
立ち話の場合には、顔は話し手のほうに向けたまま、少し後ずさりをしたり、
身体を横に向けたりして、次第に離れ始める。
微妙な手がかりは 気づかれないかもしれないが、あからさまな手がかりは 見逃されようがない。
つまらない話に自分だけが夢中になっている人でも、
相手が自分の話に頷き、微笑はしていながら、退却し始めているのを読み間違えることはない。
しかし哀れなことに、彼らは自分が他人をうんざりさせることに気づいているので、
しばしば、意図行動に対抗する方法を身につけている。
彼らは話している最中、哀れな相手の腕をつかまえたり、腕や肩の上に自分の手を置いたりする。
ある人を“ボタンホールする【人を引き止めて長話をする】”という言葉の語源は
“ボタンホールドする【ボタンをつかんでおく】”であり、
昔は会話をしているとき、実際にボタンをつかんで相手を離さないでおくことがよく行われた。
こうすれば、逃げ出そうとする微妙な意図運動を妨げることはできないにしても、
故意に離れようとするような、あからさまな運動を妨げることができる。
これに逆らうには死に物狂いの方法が必要で、
1808年の昔に、チャールズ・ラムは、コールリッジにまる一日ボタンホールドされたので、
ついにボタンを切り取って逃げ出したという、面白い話がある。
退却の意図運動とは正反対に位置付けられるものに、人が怒ったときに示す威嚇の動作がある。
攻撃の微妙な意図運動としては、こぶしを握る、指の間接の血が引くほど堅く物を握る、などがある。
また、あからさまなものには、口を開けて唸る、腕を振り上げるなどが含まれる
唸ることは興味深いことである。なぜならば、それは敵と争うときの最も古くからの方法である、
噛み付くことの意図運動だと思われるからである。
子供はまだ非常に小さい頃は、噛むことを攻撃動作として用いる。
それゆえ、幼稚園では時々相手をひどく噛んで傷を負わせる子供がいるので、
目を光らせていなければならない。
しかし大人になると、取っ組み合いの喧嘩をするときには、歯よりも手を使う。
彼らはあごを大きく開け、口を開け歯を見せてうなるという原始的な意図運動のみにとどまる。
これには僅かな性差があるようだ。女性は男性よりも腕や手の力がずっと弱いので、
うなるという意図運動の段階にとどまらず、血を見るほど相手に噛み付いてしまうことがある。
最近の訴訟に、隣人との争いで手におえなくなった女性が、
相手の耳に噛み付いて告訴された、という例があった。
こぶしを握って腕を振り上げることは、上から殴るときの典型的な意図運動である。
これほど極端な形ではなく、腕をちょっと上に動かすだけというものがあるが、
これはさらに典型的なこぶしを作ること、あるいは腕を振り上げることへと発展できる。
後者は共産主義者の敬礼の方法として形式化されているが、
それは、共産主義運動の推進力となった革命における攻撃を象徴している。
つまり、この場合には意図運動が固定化した一つの表象になり、
ジェスチャーを示すこと事態が目的となっている。
それが行われても実際に殴る行為は行われないが、
過去の歴史ではそうであったこと、およびこれからもそうなる可能性のあることを、
一般的な意思として表現しているのである。
ボクシングにおける最も重要な意図運動は、実際の攻撃開始運動ではなくて、
みせかけの運動、つまりフェイントである。
ボクサーは、自分がちょっとこぶしを動かしたり、身体を傾けたりすると相手が警戒し、
それらを最も微妙な攻撃の意図運動のサインとして読み取ってくれるのをよく知っているので、
みせかけの意図運動をおとりとして盛んに用いる。
ボクシングの試合において、ボクサーの動きを一つ一つ記録し、
そこから実際のヒット数と意図運動としてのヒット数の比を出すことができる。
一般にはボクサーの体重が重くなるにつれ、意図運動の値が大きくなる。
ヘビー級のタイトル 戦では、実際のヒット数より意図運動のほうがはるかに多い試合がいくつもあり、
そこではフェイントと、またそれに対するフェイントが主となっている。
陸上競技のトラックでは、フェイントではないが、レースのスタート
時に、
走者が用意の姿勢のまま動かない意図運動の連結が見られる。
レースが短距離であるほどスタート
の意図姿勢は重要である。
100メートルレースでは、スタート
時の意図運動、
つまりピストル の合図に対する飛び出しの準備状態のいかんが、
勝者と敗者を分けるすべてとなる。
そこで強度の緊張から、ピストル がなっても意図運動のままでいて、
スタート
に失敗する走者がある。
意図運動のなかには、開始される動作がひとつだけではなく、
二つあるという特殊な範疇に入るものがある。
それは同時に二つのことをする衝動にかられるときである。
身体はまずひとつの衝動に従うが、次にはもうひとつの衝動に従ってしまい、それが繰り返される。
人は左と右の両方に行きたくても、同時に両方へはいけないので、やむなく右往左往する。
このような交替性意図運動、または両立動作は特有のリズムで展開され、
演説や講演の場でもっともよく観察される。
演者は壇上に立って話をしようと思うが、大瀬の聴衆から逃げ出したくもある。
というのは、大勢の聴衆というものは、どんなに友好的であっても、
壇上に一人で立つ身にとっては威嚇的だからである。
そこで彼はじっと立って話をすることが出来ずに、あちこちに動き始める。
僅かに身体を傾けるだけのこともあるが、
ひどい場合には実際に身体を左右にねじってしまうこともある。
回転いすに腰をかけて話をしている人が、
自分では気づかずに、いすをリズミカルに左右に回転させるので、
聴衆をイライラさせるようなこともある。
こういったことがあるので、あるテレビ・スタジオのインタビュー番組に用いる回転いすは、
出演者があちこちに回転運動をすることができないように 、軸を固定してしまってあるという。
退屈な会議のときは話し手が行うさまざまな交替制意図運動によって、
彼らを分類することで時間をつぶすことができる。
身体を前後に揺らす人、左右に揺らす人、上下に動かす人、首を振る人、回転運動の人、
足踏みをする人、そして極端な場合にはあちこち歩き回る人がある。
歩き回るタイプでは、壇上を一方の端までまっすぐに歩き、
そこで折り返して今度は反対の端まで行くという人がある。
ある教授は講義をするときいつも、大きな教室の壁まで歩いて行き、
そこで紐を解いて窓を開け、次に戻って反対側の壁まで行って、
そこでも紐を解いて窓を開けるという過程を、何度も繰り返していた。
この動作をゆっくり繰り返すなかで、講義は決して中断されなかったが、
その歩き回るリズムは、明らかに動物の求愛のダンスを思い出させるものであった。
多くの動物は交尾をしようとするとき、最初は性的衝動が逃避の衝動と拮抗するために、
まず左へ行き、次には右へと、かなりの時間ダンスをする。
これと同様に例の教授は、講義をしなければならないという気持ちと、
大勢の学生の前から逃げ出したい【彼の場合はおそらく窓から】という欲求との葛藤を、
歩き回ることで表現していたのだろう。
これは極端な例かもしれないが、
講義の最中に意図運動を全然示さないという先生のほうが例外的であろう。
殆どいつもその人特有の運動リズムがあって、ストップウォッチで計っているかのように 、
正確な個人的速さで運動を行っている。
ある先生はそのような 規則的な運動をしながら、
たまたま動物のリズミカルなディスプレイについて話しをしていた。
そして霊長類、つまりサル、類人猿、人は、他の動物に比べて、
これらのリズミカルな運動を示すことが少ない、というところにくると、
彼自身の型にはまった身体を上下させるリズムをぴたりと止め、一時的に抑制してしまった。
それはあたかも、自分の話したいことを強調しているかのようであった。
この観察は、われわれがある動作をしたことに【気づかなかった】というのは、
かなり単純化しすぎた表現であることを示している。
つまり、われわれは自分のしていることに意識的には気づいていないかもしれないが、
無意識には非常によく知っているのである。
そしてその無意識に気づいていることが、ちょっとした規則的な逃避運動を強めているのだろう。
それはあたかも、身体が【心配するな、その気になればいつでも逃げ出せるんだ】
と、ささやいているかのようである。
規則的に動いていることで逃げ出せる可能性を常に感じ、安堵感を得ている。
このような形の動作を、ことさら際立たせている人間の動作領域がある。
それはダンスである。
ダンスの大部分は、基本的には長く続いたさまざまな意図運動である。
別の言い方をすれば、ダンスはどこへも行くことのない移動運動である。
われわれはフロア−に出て、あちこちに動きこそすれ、
音楽がやんだときには依然として元の場所にいる。
ターンをしたり、横に動いたり、身体を前に傾けたり、前後に動かしたり、くるくる回ったりはするが、
それを客観的に眺めると、踊り手は、小さな鳥かごの中の小鳥が、
止まり木の上をあちこちぴょんぴょんと飛び回ってはいるが、
決してカゴから飛び出すことはできないでいるのによく似ている。
その違いは、われわれは自分の意志でそうしているというだけである。
ダンスをするのは楽しいし、また見ているだけでも楽しい。
交替性意図運動のリズムそのものが目的となっているからである。
世界中の民族舞踊の様式を分析する研究【踊りの振り付けによって、地域分類を行う科学】
によると、それぞれの地域の文化と、一般的な仕方で関連している基本的な身体の動かし方が、
非常に多くあることが明らかにとなった。
踊りはそもそも日頃よく行う活動を抽象化して、繰り返すことから成り立っている。
その要素は、狩猟や食物採取、家事や農作業における種々の雑用から取られている。
求愛や結婚、その他、数多くの社会的営みも、踊りの動作の源になっている。
それらを様式化して、音楽に合わせた儀式の一部として行えば、
集団全体が同時に興奮できる、という報酬がある。
つまり、全員が踊りの動作を、同時に同じ速さで行うことは、
自分たちの生活パターンについて全員が共通して持っている感情を、より強めることになる。
みんなが一緒に飛び跳ねたり、身体をねじったりすれば“一体感”を味わうことができる。
そのときの報酬は、全身運動によって肉体的に表現される帰属感にあるといえよう。
このような満足感を味わうためには、踊りの運動は手が込んでいすぎてはいけないし、
長くて複雑な身振りも避けられねばならない。
所作が芸術的な域まで高められている専門家の踊りは、もちろん別である。
民族舞踊や素人の踊りでは、日常生活の中から選んだリズミカルな動作を簡単に繰り返し、
しかも、人々が一緒に筋肉運動をしたという経験を共有できるものが必要である。
そのためには、最も簡単で、規則的に繰り返すことのできる運動を要素として用いることであり、
それには普通意図運動が適している。
時には狩猟、闘争、求愛、その他の一連の行動の最終のある段階が現れるが、
大部分はその行動を始めようとする開始時の動作である。
出陣の踊りでは、兵士はあたかも戦闘に突入するときのように、きびきびと飛び跳ねる。
愛を告げるダンスでは、若い二人は互いに近づき、次には離れ、そしてまた近寄る。
舞踏会では男性が女性をフロア−までリードするが、
それはまるで彼女をどこかへ連れて行こうとしているかのようである。
彼らが互いに抱き合うようにするのは、
二人の親密さがさらに先の段階まで行くという約束なのだが、決してそこまではいかない。
その代わり、彼は彼女を再びフロア−に連れ戻し、それが繰り返される。
ディスコでは、若いカップルは互いに顔を見合わせてセックスの意図運動をしたり、
一ヶ所にとどまったままで移動運動の動作
【それはパートナーから離れ、またそこに戻ってくるという要素を含む】を
誇張するが、フロア−を踊りまわったりはしない。
これらの踊りの運動が、様式化した意図運動の域を脱すると、踊りの場は、
踊り手ではなくて行為者、つまり
日々の仕事や求愛やセックスや闘争を音楽に合わせて実際に行う人たちで満たされてしまう。
そしてそのディスプレイは、さまざまな連鎖の特定の動作に支配され、
連帯的な性質やリズム性が失われてしまう。
踊りをリズミカルな運動にし、
その動作をそれが元にしている行動の複雑なうねりの中に巻き込まれるのを妨げているのは、
意図運動が比較的一般的で、単純であるからである。
動作が開始されるときに行われる用意ができたという運動は、
典型的には回転する、かがむ、伸びる、ジャンプする、身体をねじる、身体を突き出す、
あちこちに数歩歩くなどである。
これらの動作は、たやすく繰り返すことのできる動作であり、
未開民族から大都市の住人までを含む、
世界中の素人が行いうる踊りの基本的な型となっている。
転位活動
緊張したときに生じる代理動作
転位活動とは、内的葛藤や欲求不満に陥ったときに生じる、
一見不適切に見えるちょっとした運動のことである。
重要な面接を控えて神経質になっている少女は、
ブレスレットの留め金を何度もかけたりはずしたりする。留め金が壊れているわけではない。
かえって壊れていなかった留め金が、彼女がいじっているうちに壊れてしまうことさえある。
したがって、彼女の動作を身づくろいということはできない。
彼女がしているのは、緩んだ留め金を直すためでも、ブレスレットを腕につけるためでもない。
少女は転位活動を行っているのである。
特徴的なことは、おそらく自分が何をしているかを、気づいていないことであろう。
気づいているのは、自分は面接を受けたいと思うが、同時に恐ろしくも在るので、
そこから逃げ出して二度と戻ってきたくない、ということである。
このような内的葛藤から、彼女は、じっといすにかけて呼ばれるのを待つことができないでいる。
そして、非常に興奮しているのに、
当面は何もすることがなく、自分の興奮を主要な動作に転換することができない。
すなわち、
呼ばれるまでは面接室に入ることができないし、出口から逃げ出してしまうわけにもいかない。
この基本的な二つの葛藤の解決法の間で板ばさみになった少女は、
不適切でつまらない動作から成り立つ行動を行う。
活動へのエンジンはかかりすぎているので、何もしないでいるよりは 、たとえ、
どんな動作であっても、それがいかに無意味であっても、していたほうがよいのである。
少女を見ている秘書には、このサインの意味、
つまりブレスレットをかちゃかちゃさせているのは神経質になっているからだ、
ということがすぐにわかる。
秘書は、この種のソワソワした活動が、内的葛藤を示すことを直感的に知っている。
換言すれば、転位活動は、
ソワソワしている人の抑えかねる衝動を、他人にわからせてしまう重要な社会的信号になる。
しかしあまり明白でない転位活動もある。
例えば、スチュワーデスは乗客の隠れた緊張のサインを見つけ出す特殊な訓練を受けている。
非常に明白なサインもあるが、
乗客は自分が飛行機に乗ったことで緊張していることを認めたがらないので、サインを偽装する。
自分のソワソワした状態を、無意識のうちにあまり不自然でないようにみせかける。
何度も搭乗券を調べたり、パスポートを出し入れしたり、手荷物を改めたり、
サイフがあるのを確かめたり、物を落として拾ったりというようなことをして、
概して、最後の点検を行っているのだという印象を与える。
実際には点検は空港ビルで済んでいるのだから、
経験を積んだスチュワーデスには、そのような“転位活動をする“乗客は非常に緊張していて、
できればその場から逃げ出したくあるということがわかる。
駅と空港で観察を行った結果、転位活動は空港のほうで十倍も多く見られることが明らかとなった。
列車の乗客で転位活動を示したのは 8%であったが、
大西洋を横断するジャンボジェット機の搭乗カウンターでは、この数が 80%にまで上昇した。
ここでは誰もがやる搭乗券の点検は別として、顔を撫でたり、頭を掻いたり、耳を引っ張ったり、
何かをいじったり、ということが盛んに行われていた。
このようなつまらない動作が、何を表すかをよく知っている人でも、
それをまったく抑制するのは困難なようである。
出発ロビーのずっと隅のほうに”旅なれた乗客“が一見したところくつろいで座っている。
しかしよく見ると、彼は不必要に灰を落とすという奇妙な方法で、タバコを吸っている。
それはあまり目立たないので、
彼の巧みに作り上げた、くつろぎのイメージを傷つけることは 殆どない。
しかし、彼はタバコの先が少しも灰になっていないのに、ひっきりなしに灰を落としている。
その活動は本来の目的としては意味がないが、転位活動としては意味をもつ。
テーブルの上の灰皿も、喫煙という転位の型について語ってくれる。
殆ど吸われていないタバコが強くもみ消されている、二つに折られたマッチが山になっている、
灰の中に模様が描かれている、などである。
また、タバコを吸うというそのこと自体が、多くの人々にとって転位活動となる。
彼らの喫煙量は、ニコチンの必要度によって増減するのではなく、
その日の緊張の程度によって変わる。
彼らはストレス喫煙者であって、ニコチン喫煙者ではない。
そして、タバコの果たすこの役割にこそ、
絶え間のない緊張と圧力の連続である社会における価値があるといえよう。
喫煙は単に煙を吸い込むだけのものではない。
タバコとライターを見つける、箱からタバコを取り出す、タバコに火をつける、ライターの火を消し、
ライターとタバコの箱をしまう、灰皿を使いやすい場所に移動させる、
服をはらってありもしない灰を落とす、そして考え深げに煙を吐き出すといった、動作がなされる。
葉巻やパイプになると、つまらないことだが、もっと多くの没頭できる動作が加わってくる。
喫煙者が非喫煙者よりも得をするのは、ストレスの瞬間である。
つまり、せかせか、ソワソワしているのは内的葛藤のためではなく、
ニコチンを楽しむため、つまり喜びのサインなのだという印象を与えられることであろう。
人の転位活動のこの側面―内心の情緒的混乱を隠すために、
無意識にある動作を選んで行うことは、いくつもの社会的習慣にさえなっている。
われわれは社交的なことに加わっているときはいつも、ある程度の葛藤状態にあるといってよい。
人と出会っているときは、主人であれ客であれ、
われわれは自分自身に幾分かの不安を感じながら、社会的行為を行っている。
それゆえ、社交の場が、転位活動の挿入によって成り立っていても、少しも不思議ではない。
主人は部屋を横切りながら手をこする【転位的手洗い】、
客の一人はドレスを直す【転位的身づくろい】
女主人は雑誌を片づける【転位的整理】
別の客はひげを撫でる【これも転位的身づくろい】
主人が飲み物を用意し、客はそれを飲む【転位的飲酒】
女主人がつまみを配り、客がそれを食べる【転位的摂食】などである。
これらの動作のどれもが、本来の機能を充足させていないことが特徴的である。
手がきれいで乾いているのに、転位的手洗いをする。
ドレスに皺一つないのに転位的身づくろいをする。
雑誌はきちんと整理されているのに転位的整理をする。
ひげが伸びていないのに転位的身づくろいをする。
喉は渇いていないし、空腹でもないのに、転位的飲酒や転位的摂食をする。
しかしこれらの動作をすることは人々に仕事を与え、
他人と会うときに最初に感じる緊張感を和らげてくれる。
多くの人には、それぞれの癖ともいうべき転位的習慣があり、
内的葛藤が生じたときはいつも決まった転位活動の型を示す。
大事な試合の前に、盛んにガムを噛むスポーツ選手、会議で難しい質問に答える前に、
ちょっと眼鏡をはずして柄を口にくわえたり、ハンカチで拭いたりする重役、
髪の毛を束ねてもてあそぶ女優、爪を噛む少年、
手の指先を丹念に調べるテレビのインタビューアー、メモを机上に一直線に並べる講演者、
紙にいたずら書きをする司会者、上着を軽くたたいてありもしない糸くずを払い落とす先生、
いつも時計のネジを巻いている医者などである。
このようなつまらない動作をまったく行わず、
どんな社会的場面でも冷静に落ち着いていて、一時的な意味のある動作しか行わない人は、
社会的な支配者か、孤立した人かのどちらかであろう。
彼らは葛藤などは超越しているか、まったく縁がない人々である。
そういった人は専制君主、将軍、聖人、仙人、奇人、または精神病者のいずれかであって、
多くの人々の典型といえるような人ではない。
われわれは日常生活を続けるなかで、遅かれ早かれ、そわそわしたいという欲求、
すなわち、通常の機能的な意味合いから転位し、
本来とは極めて異なった行動の連鎖の中に混じっている、
小さなつまらない行為を行いたいという欲求に負けてしまうように出来ている。
そのことが自分が互いに矛盾する行動の間で窮地に陥ってしまうことを、防いでいるのである。
人という動物がこの点において例外的なのではない。
他の多くの動物も、葛藤状態に置かれたときには、特徴のある転位活動を示す。
人と他の動物との主な違いは、
他の動物はわれわれのようには学習された行動型を用いることはないし、
たいした個体差もないということである。
もしある動物種の一匹が特定の転位活動を行ったとすると、その種の動物のすべてが
同じような葛藤場面において同一の運動をすると予測しても、殆ど間違いではないのである。
人ではそのような 予測は通用しないのだが、かなり広く用いられているものが一つや二つはある。
退屈したり欲求不満に陥ったときに、転位的にあくびをするのは、人類に普遍的なことのようである。
これは程度の軽い転位的睡眠ともいえる。
戦場で戦う兵士は、戦闘開始の命令を受けた瞬間に、
逆らい難い眠気に襲われるという興味深い報告がある。
これは兵士が仮病を装ったり、本当に疲労したりしているわけではない。
いったん攻撃を開始すれば、即座に完全に目覚めた状態になる。
しかし、攻撃を開始する直前に、急激な強い眠気を感じるのである。
これはある種の鳥が、威嚇したり、攻撃をしたりという敵対関係の真っ最中に、
頭をちょっと羽根の中に突っ込む動作をするのと、共通するパターンである。
人間の軽度の転位的睡眠は、
どの場合に労働力が有効に生かされていないかを、明らかにしてくれるだろう。
欲求不満に陥ったり、葛藤状態にいる人は、
どうにもならないほどの疲労を感じ、本来の仕事が出来なくなる。
このことが何かにもう飽き飽きしたときに、それを”疲れた”と表現する所以である。
そして、この仕組みをよりよく理解することは、労働生産の経済性との関係で有用なことであろう。
異指向活動
局外者に向けられる動作
異指向活動とは、ある行動型が最初に意図した人とは違う人にむけて示されるものである。
その最も顕著な例は、異指向攻撃である。
今、A が B をひどく怒らせ、B は A を攻撃したいと思うが、
自分の地位が優位にあることを考えて、ためらったとしよう。
すると、B はその怒りを A ほどおびえてはいない、他の誰かに向ける可能性が強い。
そうしたからといって、B の最初の問題は何ら解決しないが、
少なくとも鬱積した欲求不満を解消する手段にはなる。
しかしこの解消法の値段は高いものとなり、人間社会全体を見わたしたときには、
社会的損害や破壊を増加させていることがわかる。
残念ながら、異指向攻撃は広く生じる現象である。
実際、おそらくそれは、攻撃的な事柄の大部分を説明できるだろう。
その理由も非常にはっきりしている。
人は自分が報復されることはないという自信のあるときにのみ、敵意を何度も明らかにする。
社長が副社長を侮辱するのは、副社長が反抗することができないのを知っているからである。
副社長は引き下がるが、怒りは内攻されて、それを自分の秘書に向ける。
秘書はそのときはじっと口を閉じているが、後でそれを給仕に向ける。
給仕はこの集団で最も低い地位にいるために、それを向けるべき人がいない。
そこで、異指向攻撃を表現するのによく用いられる典型的な、文字通りの事をする。
つまり、【
・…そこで、給仕はネコを蹴飛ばした】
このようなタイプの古くからあるもうひとつの例は、
うだつの上がらない敵意を抱いた夫と、彼に脅かされ、殴りつけられている妻である。
仕事の上で侮辱を受け、憤怒のうめきをもらしながら帰宅した夫は、
その怒りを無防備の妻や、もっと弱い子供に向けて爆発させる。
妻や子供を殴るのは実は、多くの動物虐待と同じで、単純な異指向攻撃なのである。
攻撃は水と同じように低きに流れて社会の優劣順位の低いところに溜まっていく。
異指向攻撃でより害の少ないものは、怒りを無生物に向けることである。
腹を立てた重役はこぶしで机をたたく。
ひどく怒った妻は花瓶を壁に投げつける。
小さな子供は華奢なおもちゃを踏みつける。
これらの行為により、抑えきれなくなった敵意は、はけ口を見つけるが、
その過程で生物が犠牲になることはない。
ある工場ではわざわざ“怒りの部屋”をつくり、そこには特に壊してもよい適当な偶像をおいて、
従業員の欲求不満を解消させる安全弁の役目をさせているそうである。
街頭や公園での暴動、強姦、強盗などの社会的暴力行為の多くも、
これと同じようなメカニズムで発生するといってもほぼ間違いではない。
そのような事件が報告されるときには、いつも表面的な原因が述べられる。
暴動には政治に対する抗議が、強姦には性欲が、強盗には物欲がというように述べられる。
しかし、その表面の下にはもっと根強い原因、
日常生活において攻撃者にのしかかっている我慢できない欲求不満を、
転換させたいという欲求が潜んでいる。
異指向の過程には、それが表出されるまでに、かなりの年月がかかる場合もある。
これは精神分析学が得意とする領域であるが、
成人となってからの暴力の原因をたどっていくと、
子供の頃受けた苦痛や冷酷な仕打ちが浮かんでくる。
われわれは時には一生の間、ずっと恨みを抱きつづける動物種なのかもしれない。
このために異なる方向に向けられたある種の敵対行為は、
しばしば非常にわかりにくいものになるのである。
攻撃だけが異方向への経路を通る行動なのではない。
親の愛も男女の愛も、同じようにルートが変更させられる。
愛するものが死んでしまったり、遠くに離れているときには、われわれは代わるものを求め、
愛するようになるが、それは失ったものと似ているからであって、
そのもの自体への愛からではない。
それはもとのものと同じではないので、
その結果は、絶望的とまではいかなくても、不満足となる場合が多い。
母親から自立していないために、若い妻に母親を求める夫は、そのよい例であろう。
また自分の引き取った子に、実子同様の親孝行を期待している里親も、もうひとつの例といえよう。
人間の行為のなかで、方向を変えることはひとつの有力なやり方である。
それは閉じ込められていた衝動を引き出し、はけ口を提供する。
しかし、元々不完全なメカニズムなので、常に危険と失望を伴っている。
そのことを証明する物質的、感情的傷跡は、この世の中にたくさんころがっている。
再動機づけ動作
新しい気分を作り出す動作
再動機づけ動作とは、
好ましくない気分を抑えるために、それと競い合う気分を盛りたてる方法である。
換言すれば、A が、今していることを止めさせたいと思うとき、
A が何か別のことをしたくなるように仕向ければ、目的を達成できる。
A に生じた新しい反応は、以前の A の気分を押しのけてしまう。
A は再動機づけられたのである。
どの母親も、小さな子が陥っている好ましくない状況を変える最もよい方法は、
子供の興味を何か別のもの
― 今、行っている活動とはできるだけ違ったものに向けることだ、
ということに遅かれ早かれ気づく。
この方法は子供の喧嘩、恐怖、かんしゃく、葛藤などを落ち着かせるために、
何か直接的な方法をとるよりも、ずっと効果がある。
好ましくない気分を、命令や威嚇、依頼、説得などで変えようとする試みは、
しばしば失敗するが、再動機づけ動作を用いればすぐに成功する。
再動機づけとは 、集中原理に従って作用する。
この原理は、強い活動は相互に抑制しあうというもので、
もし、われわれがある活動にひどく集中していると、
次第に周囲の他の活動が気にならなくなることである。
われわれの周囲には種々の刺激があり、それぞれが注意をひきつけるが、
集中力はそのなかのひとつのものに専心させ、
他のすべてのものは目にも耳にも入らないようにさせる。
脳は選択的に働いて、他のすべてのものを無視させてしまう。
散らかり放題の仕事場に住みながら、どしどし製作する芸術家が言うように、
「もし毎日、自分のすべきことをすべてやっていたら、何も造ることができない」のである。
相手の気持ちを再動機づけしようとする人が利用するのは、
この集中力レベルを変化させることである。
彼は周囲にある新しい要素の刺激レベルを高めてやり、
それがすでに注意が集中されているものの
中心部にまで侵入するようにしてやらなければならない。
そうすると元の気分は、新しいパターンに置き換えられる。
子供に手をやいている親は、
面白そうな新しいおもちゃを示したり、別の遊びを提案したりすることでこれを行う。
その誘惑が非常に強いと、それまでやっていたことが一掃され、
同時にそれと関連していた怒りや驚き、苦痛、争いなどもなくなってしまう。
普通子供が新しい遊びに示す興味は非常に大きいので、
これを行うことはさほど難しいことではない。
大人では気分を変えるのは容易ではないが、幾つかの方法では、
かなりの成功率で再動機づけが可能で、それらは社会行動の特殊なパターンとなっている。
大人が用いる最もポピュラーな方法は、幼児の振りをする再動機づけである。
これは女性が男性に向けてよく用いるものであるが、
彼をだます手段のひとつとして、まるで一人では何もできない、小さな女の子のように振舞う。
このような接し方をされた男性は、
いやでもやさしい保護的な感情をかきたてられ、成熟している筈の自制心を失ってしまう。
成人の女性であっても、少女信号を送ることで、相手の父親的反応を刺激することができる。
日常会話のなかで「私の可愛い赤ちゃん」とか「甘いパパ」という再動機づけの言葉が盛んに
使われるが、それは決して文字通りに親子関係を意味するものではない。
仲のよい成人男女の間で交わされているそのような 言葉には、特有のジェスチャーが伴う。
幼児に見せかける女性は、口をとがらせたり、目を大きく見開いたり、
その他の子供っぽい姿勢をしてみせる。
それはすべて少女らしさを真似ているのであるが、大人の行動パターンとしても成り立っている。
中でもよく用いられる動作は、頭を横にこくりと傾けるものである。
これは子供が安心しているときに、頭を親の身体にもたれかけさせるのを様式化したものである。
この変形といえる成人の頭もたれは、自分を守って欲しいという要求を無意識のうちに伝えている。
相手の女性がそのディスプレイをするのを見た男性は、
急に何故だかわからないが、父親的な愛情でいっぱいになる。
それほど頻繁ではないが、成人男性がそのような子供っぽいパターンを示すことがある。
特定の男性からそのような振る舞いを受けた女性は、
彼が“小さな迷える少年”のように思えてしまう。
一部の男性は、自分が性感を覚える女性に、
保護的な母性衝動を起こす手段として、この少年のような振舞いをするという。
若い恋人間でも、これと同様のことが相互に行われる。
彼らは幼いしゃべり方をし、ぴったり寄り添って、優しく撫でたり、さすったりしあう。
彼らはまるでつがいの小鳥のように、食べ物を一口ずつ食べあう求愛の食事にふけったり、
人間に特有の求愛の贈り物、チョコレート
の箱を交換したりする。
このように、幼い者への世話を交互にすることが、
心の奥底に潜んでいる恐怖や不安を軽減して、男女の結びつきをスムースに進行させる。
このような偽幼児、偽親とはべつに、
偽の性的ディスプレイが、再動機づけに用いられる場合がある。
そのわかりやすい例は、若い秘書への古くからの忠告である。
つまり、「タイプに誤りが多かったときほど、胸を前に突き出せ」という文句である。
これは戯画的な言葉であるが、男性の攻撃を和らげる手段として、
性的信号が広く用いられていることをうまく表現している。
軽蔑信号
不敬と侮りを表す方法
人が他人を軽蔑する方法は、多種多様である。
そのうちのみだらなものになると、どの動物も人間にはかなわない。
人の心を傷つける信号の種類や数は膨大であって、改めて口にするまでもないほどである。
殆どすべての動作が、適切な状況から外れて、
不適切なときや誤った場所で行われると、軽蔑信号になる。
しかし、ここで特に軽蔑信号として取り上げるものは、多少異なっている。
それらは状況と関係なく、常に軽蔑的な動作であり、初めから不作法で、相手を嘲り、拒絶し、威嚇し、
からかい、ひやかし、恥をかかせるために行われる。またこれらには、軽い拒否から
残忍な脅迫に至るものまでの、強度の違いもある。さらにそれらは、地域による差異がある。
例えば、あざ笑いや顔をしかめて突き出す動作のように、
世界中のどこでもすぐに理解されるものがある。
しかし、その地方についての特別の知識がなければ、
それを理解する糸口すらつかめないものもある。
例えば、左手の五本の指先を合わせて輪を作り、右手の人差し指を伸ばして次々に
左手の指に触れるジェスチャーを、あなたはどう理解するだろうか。
同時に行われる動作が極めて不愉快なものなら、
そのジェスチャーが何か侮辱的な意味をもつと推測できるが、
サウジアラビア出身の人でなければ、その正確な意味はわからないだろう。
彼らならば、そのメッセージが「おまえは売春婦の子だ」ということを知っているので、
非常な侮辱を受ける。
文章で、それが象徴する手がかりを示すと、「おまえには五人の父親がいる」となり、
左手の五本の指は、その五人の男ということになる。
この種の地域的サインは、局外者にはまったく意味がないので、そこに住んでいる人は、
そうとは気づかれずに外国人を侮辱することができる。
また、逆に知らない国を旅行している人は、そのつもりではないのに無礼なジェスチャーを行い、
その地方の人々を不本意にも、軽蔑してしまうことがある。
したがって種々の軽蔑信号を知ることは、二重の有用性がある。
それらの働きを理解するためには、幾つかの基本的な範疇に分類することが役立つであろう。
1. 無関心信号
もし社交界で誰かを侮辱しようと思ったなら、まず最初にやることは 相手を無視することであり、
それがうまくいかなければ笑い者にし、両方とも失敗したら攻撃せよ、といわれている。
これは単純化しすぎた表現であるが、
最も穏やかで控えめな軽蔑が、無関心を装うことであるのは間違いない。
これは相手が期待する友好的反応を減らす、会話中にあまりうなずいたり、微笑したりしない、
オーバーに目をそらす、故意に、そして明らかに顔をそむける、などによって行うことができる。
19世紀には、社交界の貴族趣味が最高潮に達したが、無関心による軽蔑としての
【知らぬ振り】は、この時代に正式なジェスチャーとしての地位を確立した。
これは社会的に下位にいる人々とであったときに行われ、
彼らに気づいたことは 知らせながらも、わざと顔をそむけて無視するというやり方をとる。
人に会っても知らぬ振りをするとか、握手のために差し出された手を無視することは、
今日でも無関心を極端に誇張する場合には行われるが、
かつての社交の場での定着した役割はずっと以前に失われている。
それだけに、それが用いられると、与える打撃は痛烈となる。
現代の半貴族趣味な文化では、友好的な集まりならば、
いつでもみんなに関心を示すことが期待されていて、もしそうしないと、
笑みを絶やしたことですら、敏感な仲間に軽蔑信号を送ったことになってしまう。
2. 退屈信号
無関心が打撃力を失うと、もっと強い反応として、あからさまな退屈のディスプレイがなされる。
ここで好んで用いられる信号は、嘲りのあくびである。
その他にも、大きなため息をつく、大げさにぽかんとした表情をする、何度も腕時計を見る、
などがこれに含まれる。
最後の時計を見る動作は、軽蔑を意図していない場合には、困ったことがある。
ある人が厳密にタイム・スケジュールがあり、
それまでに後どれくらいの時間があるかを知りたくてたまらなかったとしても、
時計を見ることが退屈の軽蔑動作になってしまう場合には、うっかりそれができない。このために、
腕を振ってひそかに時計を盗み見るという、巧妙なテクニックが用いられることになる。
3. ソワソワ信号
今いる場面から逃げ出したいという衝動を示す、ちょっとした動きもよく使われる。
これは弦楽器でもかき鳴らすように指を動かす、足でトントン拍子をとる、手でピシャピシャたたく、
などの移動“ミニチュア”動作というような形をとる。
その様子は、あたかも身体の一部が逃げ出すためのリズムを打っているかのようである。
楽器を鳴らすように動かされる指は、ひとつの場所をパタパタと小刻みにかけている足である。
足で拍子を取るのは逃げ出すための意図運動だけが繰り返されているといえよう。
これらの信号を見れば、指を動かしたり、足で拍子をとっている人が、
どこかへ行きたくてしようがないだということがすぐにわかる。
まだ測定されたことはないが、
これらのソワソワしたリズムの速度は、急いで歩く速さや走る速さとほぼ同じであろう。
4. 優越信号
多くの人は、他人を軽蔑しようとすると、
自分を尊大に、または“上位に”見せるちょっとした動作を行う。
その最もあからさまな例は、目を半ば閉じて頭を後方へそらすものである。
この動作は、“人を見下す”、“頭が高い”、“そっくりかえる”
などという、よく使われる表現の元になっている。
これらは基本的な上位信号のひとつが誇張されたものといえる。
普通の地位ディスプレイでは、優位な人ほど頭を高く上げ、下位の人ほど頭を下げる。
頭の高低の差異は、普段はほんの僅かであり、
あまり僅かなので、われわれは殆どそれを意識していない。
しかし無意識には、ほんの少しの“頭の高さ”の違いにも、非常によく反応している。
背を丸めて部屋に入ってきた男が人々の尊敬を得るためには、
背を正して入ってきた男よりも、ずっと多く働かねばならないだろう。
彼はそのことを意識していないし、人々もまたそうであろう。
しかし、それにもかかわらず 、その場にはそうした感情が流れている。
他人を軽蔑するとき、人は普段の地位にかかわりなく、
“頭を上げた”姿勢をとり、時にはそっくり返ることもある。
下位の者がこのような誇張しすぎた上位動作を行うのは、矛盾しているように思えるが、
そもそも彼が他人を軽蔑しようとした瞬間に、
自分の正常の地位役割からはみ出しているものである。
立腹、もしくは激怒した瞬間、彼は日頃の抑制を失い、
暴言を吐くと共に、頭をそらして不慣れな誇張された上位ディスプレイを行う。
彼がかっとなったのはほんの一瞬なのだが、一時的にコントロールを失ったことは明らかである。
小さな子供、ティーンエイジャー、生徒、平社員、召使といった、
普段は多くの場面で自分の優位感情を抑制していなければならない者が、
我慢の限界に達して、軽蔑の言葉を吐きながら、突然上位ディスプレイを示すことがある。
彼らは頭を高くして怒鳴り散らすが、日頃の穏やかな態度と、
この超優越的なディスプレイとがあまりにも対照的なので、相手は笑い出したくなる。
しかし彼らにとっては、それは超優位の瞬間であり、
その間は自分の上位ディスプレイがまったく正当だと感じている。
これはひとつの重要な社会原理を示している。
われわれが平静で自制心を保っていられるときは、長期的展望から見た対人関係が保てるが、
情緒的に混乱して感情的なときには、近視眼的な見方になってしまう。
冷静でいられる人は、相手がたしなみを忘れて自分を軽蔑しだしたときでも、
相手の以前の行動と現在の自制心を失った行動との対比を見定めて、
軽蔑動作と対比の両方に反応するだろう。
爆発的な軽蔑を示した者は、そのときは怒りしか感じていない。
しかし後で落ち着いて、再び長期展望ができるようになると、
自分でもその対比に気づいて“取り乱した”ことをわびることがよくある。
人々の中には、一時的に上位を示すのではなく、
頻繁に上位ディスプレイを示すので、それが身についてしまっている人がある。
彼らは孤立しているか、皮肉屋か、風刺屋か、人を馬鹿にする性格の持主であり、
常に人を軽蔑したあざ笑いや、“嫌なにおいがする”という表情をしている。
殆どの企業や専門家グループには、
オフィスのどこかにこのような性格の人が一人か二人はいるものである。
彼らはどんな質問に対しても、それが礼儀正しくなされたか、
不作法になされたかには関係なく、決まって軽蔑的な暴言を吐く。
そして自分のいないところでは笑われ、恐れられ、嫌われながら、他人との付き合いの中で、
他の人たちのように、くつろいで友好的な関係を結ぶことをあきらめ、
かたくなに傲慢であり、皮肉屋であることを通すほうを選ぶ。
彼らはあまりいつも上位信号を示すので、その影響力は殆ど失われている。
「彼のことは気にするな。あれが癖なんだ」というのが、そのような人々に対する人物評だが、
その人を気にしないでいるのは難しい。
というのは、誰でも軽蔑されるのは不快な経験だからである。
5. 歪んだお世辞信号
軽蔑はしばしば歪められたお世辞の形をとる。
こうして、友好的反応が、故意に、不快なものに変えられる。
よく見られる二つの例は、【
硬い笑い】と【引きつり笑い】である。
両方とも微笑動作の歪んだもので、幾つかの笑いの要素のうちで、
ある要素だけが生じ、他の要素が欠けている。
堅い笑いでは、唇の中心部は強くすぼめられているが、
口の両端は普通に笑うときのようになっている。
引きつり笑いでは、口の一端だけを残して、正常な笑いの他の要素がすべて欠けている。
この種の歪んだお世辞は、報酬を与えるようでありながら、最後にそれを取り上げてしまうので、
特に不愉快な軽蔑である。
それは微笑しているようでありながら、実際にはそうではないお世辞である。
このタイプの軽蔑には、大きな地域差がある。
ひとつのよい例は、
アラビアやスペイン語圏で嘲りの動作としてよく使われている“親指の爪による拍手”である。
これは拍手する人が、手をたたく代わりに、親指の爪同士をたたき合わせるものである。
これとはべつに、イギリスや他の国々では超低速の拍手が用いられる。
しかし地域特有のジェスチャーにはよくあることだが、
同じ動作が他の地域では別の意味合いを持つことがある。
例えば、パナマでは親指の爪の拍手は、単に静かな拍手の形であって、
風刺や嘲りは含まれていない。
またソ連では、ゆっくりしたリズムの拍手は非常な賛辞である。
6. 見せかけの不快信号
軽蔑する人は、自分の不快の程度を示すために、誇張した苦痛のサインを用いる。
メロドラマ風にこぶしで自分の頭をたたいたり、あえいだり、手で顔を覆ったり、
または顔をゆがめたりして、自分の苦痛を一時的に表現する。
つまり、自分の被害を強調する動作を、わざわざオーバーにして見せる。
より巧妙な形として、このタイプの信号は、殉教者の苦痛の表現となり、
“ずっと悩まされている”
親や先生が、自分の子供や生徒に向けて軽蔑の表現をするのに、好んで用いる。
彼らは、自分の苦痛を誇張することで、
示唆的に、苦痛をもたらした愚かさの程度を増幅させている。
7. 拒否信号
無関心とののしりの中間に、単なる軽い拒否のジェスチャーによる中程度の軽蔑の領域がある。
暴力の警告は含まれず、真の威嚇もない。
単に「出て行け」というサイン、すなわち、「消えうせろ」というメッセージがあるだけである。
【親指の突き出し】が最もポピュラーな方法のひとつであるが、相手に触れないで、手で押したり、
払いのけたり、たたいたり、殴ったりするジェスチャーもよく使われる。
その中で最も軽蔑的な方法は【虫払い】
つまり相手が不快な害虫であるかのように手で払いのける動作であろう。
舌を出すのは拒否信号の特別な型で、これはすでに述べたように、
乳児がミルクを拒否するとき、乳房や哺乳瓶を拒絶する方法に由来している。
幼いときの口の運動が、もっと大きくなった子供や大人にも、
拒絶の方法として残っているわけなのだが、
彼らはその由来には気づいていないし、単に不作法と考えているだけである。
8. 嘲り信号
人の場合、他人を笑うことが軽蔑を表す重要な型のひとつとなっている。
その理由を理解するには、子供が初めて声を出して笑うときの様子を眺めてみればよい。
子供は、始めは母親がくすぐったり、あやして空中に高く持ち上げてやるなど、
適度な方法でびっくりさせたときに笑う。
そのとき、子供は母親から二つの信号、つまり「変わったことが起こりますよ」と、
「だけどお母さんがしてあげるのだから大丈夫ですよ」という二つの信号を受け取る。
子供は知らない人にくすぐられたり、高く上げられたりすると泣いてしまうが、母親だと笑う。
したがって、笑いは実は一種の安全だという叫びである。
われわれ大人も、警戒プラス安全という経験を他人と共有すると、一緒に笑いこける。
しかし直接誰かを笑うときは、二種の軽蔑を投げかけている。
その笑いは「おまえは知らないやつだから警戒すべきだ。
しかし、安全らしいので、重視する必要はない」と語っている。
このあざ笑い型の軽蔑は、ある意味では、純然たる威嚇よりも悪い。
威嚇動作は敵意を示し、身体攻撃が行われる危険の可能性を示唆するが、
それらは少なくとも相手に、戦う価値があるという面目を施す。
それに引き替え、あざ笑いは、敵意は誇示するが、同時に取るに足ら無い者としてしまっている。
あからさまなあざ笑いが、相手からの攻撃をすぐに引き起こすのはこのためである。
あざ笑っている人を攻撃することにより、黙らせることは出来なくても、
少なくとも、そのあざ笑いを威嚇に転換させることはできる。
そうすれば、自分の地位を、相手としては不足はないというところまではあげることができる。
幾つかの手の込んだ嘲りの型が、よく行われる。
手で口を覆っていても、笑っていることをわざと隠さないで、
普通は犠牲者にはわからないようにして行われる筈のウインクを、
わざわざあからさまに仲間に行うこともよく行われる。
9. 象徴的軽蔑
軽蔑のメッセージを伝える象徴的ジェスチャーは、無限にある。
そしてそれは予想されるように、文化圏から文化圏へとさまざまに変化し、
多くはその“土地”をはなれると意味がなくなる。
英語を話す国の人々が、外国旅行をしたときに悩まされる例として次のようなものがある。
南米のある国では、片手をあごのすぐ下で椀状にすることが、愚かだという信号になる。
そのわけはそれがこぶを意味しており、こぶ自体が愚かなことのシンボルとなっているからである。
スペインの一部では、頭を傾けて片手で支えることが、未熟さを示す信号になる。
これは軽蔑される人が、まだ母親に頼っている赤ん坊だということを意味している。
アラブの子供たちの間では、
両手の小指を絡ませて急に引き離すことが重大な軽蔑を表し、絶交だという意味になる。
ジプシーは、手で架空の柔らかい物体を握りつぶすことで、
“軟弱な”振舞いをするヤツだ、という軽蔑を相手に投げつける。
ヨーロッパの幾つかの国では、軽蔑するときに男がよく使う象徴的ジェスチャーに、
手のひらを上にした片手を胸の前に保つものがある。
これは軽蔑する相手の退屈な話を聞いているうちに、
ひげがこんなに伸びてしまった、ということを意味する。
ユダヤ人の軽蔑の方法のひとつには、
片手の手のひらを上に向け、他方の手の人差し指でそれを示すものがある。
その意味は、相手の話が肝心なところにくるまでに、“手の上で草が大きくなる”ということである。
オーストリアでは、ありもしないあごひげを撫でるサインが、“陳腐だ”ということを意味する。
フランスでは、架空の笛を吹く動作が、
おまえの話は取りとめがなく、もう飽き飽きしたということを示唆する。
これの変化した形として、もっとよく用いられるのは、
“おしゃべり”を示すジェスチャーで、手をパクパクさせて、おしゃべりな 口を真似るものである。
水平にした手で喉元や頭の先を軽くたたいて、
”おまえの話には食傷した“とやるサインも、よく用いられる象徴的ジェスチャーである。
これは「ここまでいっぱいで、もう食べられない」という食物の拒否信号に基づいている。
”いっぱいだ“が”食傷した“になり、食物の拒否としてではなく、
相手の話しを拒む意味のシンボルとして広がった。
軽蔑される人が、気が狂っていると思われるほど愚かであることを示唆する
”気違い“ジェスチャーもたくさんある。
それらは通常”頭がおかしい“”頭が変だ“という形のシンボルをとり、
こめかみを軽くたたいたり、そこに人差し指をねじ込むようにしたりする。
これらの動作には地域的な混乱があるようだ。
オランダでは、こめかみをたたくことは 馬鹿ではなく頭のよいことを意味し、
マヌケというジェスチャーは額の中央をたたく。
象徴的軽蔑の地域差については、本が一冊書けるぐらいだが、
ここで述べておくべきもうひとつの重要な範疇は、動物を真似る軽蔑である。
真似される動物は、それがよくない評判を持ち、一般に愚かだとか、不器用だとか、攻撃的だとか、
怠け者だとか、汚い、なんとなくばかばかしい、不快だ、などとみなされているものなら何でもよい。
愚かなロバはよくモデルにされ、その長い耳が、”ロバ“を真似た軽蔑の基本となっている。
イタリアではこれに三つの種類があるが、
両手を耳につけてパタパタさせる動作だけが広く用いられている。
そして多くの国の子が、必ずしもロバのまねをしていることには気づかずに、よくこれを行っている。
今日では、この動作は欧米諸国のみではなく、アラブ諸国にまで広がっている。
動物のサインの中で最もポピュラーで、広く用いられているのは、
”とさか振り“”親指の鼻当て“”鼻伸ばし“などと呼ばれる”とさか“を示すジェスチャーであろう。
親指を鼻先に置き、他の 4 指を垂直にパタパタさせる子のジェスチャーが、
闘争中の雄鶏が敵意を示して振り立てているとさかを象徴していることはすぐわかる。
しかしその他にこれはグロテスクな長い鼻の偶像を真似る古くからの風習に関係がある、
という説明もある。
これほどではないが、よく知られている動物のサインに、スペインの”シラミ“ジェスチャーがある。
これはいもしないシラミを親指の爪の間でつぶすものである。
また、インドのパンジャブ地方の”蛇の舌“サインもよく知られているが、
これは人差し指を伸ばして、蛇の舌のように前後に速く動かすものである。
10. 汚物信号
約200に及ぶ世界の民族文化を調べて、
世界中で共通に認められる身体美の要素を明らかにしようとする試みが行われた。
その結果、万国共通に認められた身体的魅力の側面は、
清潔さと病気をしていないということだけであった。
不潔なことは醜さを意味するから、汚物と関連したジェスチャーは、
確実に軽蔑信号の候補になるだろう。
事実、それは世界中至るところで証明された。
その多くは人間の排泄物、痰、鼻汁、尿、便などと関連していたが、
まれには動物の糞の場合もあった。
シリアでは、右手の人差し指と親指で鼻の穴をほじることは“地獄へ行け”ということを意味する。
リビアにも同様のジェスチャーがあるが、
ここではその後に、中指をピンと伸ばすことが付け加えられている。
ジプシーの間では、絶交するときの最後の軽蔑は、
衣服から架空の汚物を払い落として床につばを吐くことである。
つばを吐くこと自体は、多くの国で軽蔑のために用いられているが、
それが誇張された偽の嘔吐も、広範に用いられている。
アメリカには、深い堆肥の中にそっと足を踏み込むように、ズボンの裾をあげるとか、
架空の馬糞をシャベルですくって肩越しに投げ捨てる、というこっけいな軽蔑もある。
イギリスでは、排便に関連したポピュラーな軽蔑として、
片手で鼻をつまみながら、もう一方の手で架空の水洗トイレの鎖を引くものがある。
これを簡略化して、悪臭をかがないように 鼻をつまむことは 、強い軽蔑として広く認められている。
イタリアでは“つばを投げつける”ジェスチャーは、威嚇的な軽蔑である。
手で口から唾液を”引き出し“て、相手に投げつける。
これらの汚物信号の多くは、その基本的性質のゆえに、それを使用しない人や、
以前に一度もそれに出くわしたことのない人でも、すぐに理解できる。
しかし、初めて出くわした外国人を悩ますひとつの例外がある。
それは名残信号としてすでに述べたギリシアの手型ジェスチャーである。
それは、あっちへいけと示しているように見えるので、
表面的には何の害もないジェスチャーに思われる。
しかし、ギリシア人がギリシア人に対してするときには、
無力な罪人の顔に汚物を投げつけた古代の風習にまでさかのぼる、残酷で軽蔑的な意味になる。
今日ではその名残として、軽蔑の程度が異なるものが幾つかある。
最も程度の軽いものは手の半分だけ、つまり人差し指と中指を突き出す「地獄の途中までいけ」、
標準型は、片手を突き出す「地獄までいけ」、
もっと強度な型は両手を突き出す「二度地獄へいけ」である。
さらにいすにかけた姿勢からは、多少ともふざけた方法として、
片足または両足を一緒に突き出すこともある。「三度、あるいは四度地獄へいけ」
ギリシアでは、この手型ジェスチャーによる軽蔑が非常に重要なので、
これに似た手を使う他の動作は避けねばならない。
しかしこの事実は、友好的な断り方として【手戻し】動作を用いる国からの旅行者には、
必ずしも理解できるものではない。
旅行者は相手の反応の厳しさに驚き、不可解の念にかられてしまう。
以上のようなものが、人が他人を軽蔑するときのさまざまな方法である。
しかし、その中の二つの特殊なもの【威嚇信号】と【わいせつ信号】については述べなかった。
威嚇信号は一次的機能が違うために、特殊な範疇を作れるからである。
それはジェスチャーを行う人が身体的攻撃を行う可能性を、視覚的に警告している。
これに対し、真の軽蔑ジェスチャーは、身体的攻撃を視覚的に代行するものである。
しかし実際には大部分の威嚇の場合にも、その後に何も続かないことが多いので、
身体的攻撃を代行するものといえる。
このために、威嚇と普通の軽蔑は非常に密着したものになっている。
わいせつ信号はまた別の点で違っている。
わいせつとは 、今日では、性的な卑属さを指している。
しかしこれも異なった二つの範疇に分けられる。
わいせつ的感想とわいせつ的軽蔑とである。
前者では、わいせつなジェスチャーが性的魅力への賛辞や、性交への誘いとして用いられ、
軽蔑するというもとの目的は失われている。
後者では、性的ジェスチャーが、軽蔑される人に対して、特殊な軽蔑として露骨に行われる。
このように、わいせつ信号は、露骨な軽蔑と比軽蔑の両者を含むので、
それぞれを後に詳しく述べてみたい。
威嚇信号
殴らずに脅す試み
威嚇信号とは、攻撃したいという気持ちを相手に知らせる警告である。
その動作が最後まで行われれば、実際の攻撃となるが、そういうことはなく、
害のない視覚的ディスプレイのままでとどまっている。
動作がそこで止まるためには、主として三つの方法がある。
第一に、攻撃の意図運動、つまり開始はされるが、完了しない攻撃方法がある。
この最もありふれた例は、腕を振り上げる威嚇動作である。
怒った男はあたかも敵を打ちのめすかのように 、
威嚇的に腕を振り上げるが、その動作は空中で止まってしまう。
また、手を横にさっと動かして、相手の顔に平手打ちをくわせようとするが、
実際には殴らずに、横まで持っていった手を、そこで下ろしてしまうこともある。
もっと大げさな攻撃の意図運動は、引っ掻き姿勢である。
両手を胸まであげ、指先を曲げて大きく突き出し、相手を爪で引っ掻こうとする。
足も動員される場合があり、片足を後方へ引いて、相手を蹴り上げようとする。
これらの運動は、いずれも明らかにそれを行う人の敵意を伝える信号であり、
世界中のどこでもすぐに理解される。
これらと同じくらい明確なものとして、
攻撃的《架空ジェスチャー》、つまりその動作は完了するが、敵との身体的接触はないものがある。
よく知られ、そして広く使われるこぶしを振り回す運動はこれにあたる。
ここでは殴ろうとする意図運動が、空中で数回パンチを加えるというところまで進展している。
しかしそれは“敵”からかなり離れて行われ、また非常に様式化されているので、
このこぶしによる架空パンチは、単に腕を前後に動かすだけで、
現実の戦いにおける本当のパンチとはまったく違ったものである。
とは言え、それは決して間違って理解されることはない。
他の架空ジェスチャーとしては、イタリアの手刀がある。
これは斧で敵の頭をたたききるように、平手を相手に向けて何回も打ち下ろすものである。
また、敵の首をねじる幾つかのジェスチャーもこれに含まれるが、
いずれも非常に様式化されているので、今では、敵の喉を実際に締め付けているというよりは 、
むしろ、ぬれたタオルを絞っていると表現したほうがよい。
またこれも敵の身体ではなく、空中で行われるのだが、架空的首締めのディスプレイがある。
力をこめた手を架空の喉の周りにおいて、架空の敵を徐々に締め付けていく。
幾つかの国では、最もポピュラーな架空攻撃ジェスチャーとして、
フォーク状にした指を敵の目の前に向けて突き出すものがある。
これは人差し指と中指を伸ばし、ぐっと前に突き出すものだが、
そうすることで理論的には、敵の両目に二本の指が突き立つことになる。
架空攻撃の特殊な例として、人差し指を上にあげて振り下ろすものがある。
このディスプレイでは、指が棍棒に見立てられ、象徴的な方法で敵の頭を打っている。
攻撃運動を止めることになる三番目の範疇は、非常に多彩な《異指向ジェスチャー》である。
ここでは実際に攻撃がなされ、接触するところまでいくのだが、触れるのは敵の身体ではない。
その代わりに攻撃は別のもの、
多くの場合には威嚇しているその人自身の身体に向けて行われる。
「おまえを絞め殺すぞ」という威嚇は、自分自身の喉をつかんで行われる。
あるいは自分自身の手をたたいたり、指の関節を噛んだり、
人差し指で自分の喉を切る動作をしたりする。
ここでも地域的な差異がある。
スペインでは、異指向すりつぶし運動、つまり片手のこぶしで、
もう一方の手のひらの”敵”をすりつぶすことが好んで用いられる。
イタリアでは、架空の指噛み動作が行われる。
これは親指の爪を上の前歯に引っ掛けてから、敵に向けて力いっぱい投げつける形をとる。
東ヨーロッパやアラブ諸国の幾つかでは、
人差し指で自分の鼻を平らにすりつぶすジェスチャーが用いられる。
サウジアラビアでは、あたかも“敵”を小さく噛み砕いてしまうかのように、
頭を激しく左右に振りながら自分の唇を噛む、という残酷な表現のジェスチャーが行われる。
さらに、嘲りの色彩を含んだ異指向ジェスチャーがある。
それは威嚇する人が、
片手の手のひらでもう一方の手の甲をぴしゃりとたたくもので、
相手がせいぜい小さな子供くらいでしかないという意味の
「腕白小僧め、だめだぞ」という信号になる。
これらの威嚇ジェスチャーの多くには、
それぞれ特徴的な顔の表情や、緊張した身体、激しい呼吸などが伴う。
顔の表情は、攻撃的な衝動と退却の衝動との間のバランスの変化と共に変化する。
威嚇者は自分が傷つくことへの恐れと、相手に傷を負わせたいという衝動の両方を感じる。
そして、一方の気持ちが優勢になり始めると、顔の表情も僅かに変化し始める。
攻撃の衝動が退却の衝動よりも強まって、敵意が極めて強くなった男は、
口を堅く閉じ、頭を前方に突き出し、顔をしかめ、顔色は青ざめている。
もし彼が敵に脅威を感じ始めると、顔つきも変わってくる。
前よりも歯を見せて唸り、首はずっと後方へ引かれ、目は大きく開かれ、顔色も赤らみはじめる。
哺乳類に共通の威嚇ディスプレイは、
毛を逆立てることであるが、これは人では殆ど失われてしまっている。
他の哺乳類は、敵対場面では、全身の毛を逆立てたり、とさかやたてがみを振り立てたりする。
これは外見的には、彼らを急に大きく威嚇的にする。
人間も胸を張ったり、身長をできるだけ高く見せることはできるが、
体毛がないので、これ以上もっと大きく印象的に見せる方法がない
。実は、人間の威嚇ジェスチャーの中にも考えようによっては、
”逆毛立て”と呼べるものがたった一つだけあるのだが、かなり特殊なものといえよう。
それはフランスのジェスチャーで”あごひげ”の名で知られているものである。
片方の手の甲をあごの下につけ、敵に対して指をパタパタさせる。
これはひとつの軽蔑法で、きれいにひげをそった男がこれを行ったのでは、
その由来を知る手がかりは 得られないが、あごひげがある男性が行えば、
それがひげを外側へ振り出す動作の様式化したものであることがすぐに理解できる。
こうして、あごひげは敵に向かって逆立てられ、ぐいと突き出される。
人では、あごひげは男性の際立った性的信号なので、
それをライバルに向けて逆立てることは、「男として勝負をつけようぜ 」という宣言をすることになる。
他の国々で見かける興奮したあごだし動作は、おそらくこのディスプレイの遺物であろう。
そのとき、男は舌で「ちぇっ」と音を出しながら、いらだたしそうにあごを上向きに突き出している。
他の多くの動物に比べて
人が基本的な身体的威嚇ディスプレイを備えていないことは 明らかである。
鳥類、爬虫類、魚類、哺乳類の多くは、敵意のディスプレイのパターンとして、
非常に印象的に震える、ぴくっと動く、羽根を揺らす、這いつくばる、
ひれやえらやとさかを逆立てる、劇的に色を変える、などを行う。
人類は身体的ディスプレイこそできないが、
さまざまな文化的創造物を用いてその埋め合わせをしている。
敵を威嚇するのに言語で激しく攻撃したり、身体に色を塗って出陣の踊りをしたり、
華やかなユニフォームを着たり、太鼓をたたいたり、歌を歌ったり、足を踏み鳴らして踊ったり、
武器を振り回したりする。
国家レベルの威嚇ディスプレイは、軍隊のパレードというような複雑なものにまでなっている。
民間のレベルでは、旗やスローガンを揚げ、バッジをつけ、シュプレヒコールをあげるデモ行進や、
サッカーのファンが、手をたたき、歓声をあげ、チームの旗を振ったりして、
リズミカルに陽気に騒ぐといった方法で表現される。
この最後のタイプのディスプレイは、しばしば無秩序な暴力的行動といわれてきた。
しかし、最近サッカーファンや他の類似した集団の攻撃的行動を細かく調べた結果、
実際の喧嘩の量は、それに参加した人の数や、ディスプレイに費やされた時間に比べて、
非常に少ないことが明らかになった。
他の動物と同様に、人も実際の傷害行為よりも、
威嚇したり、虚勢を張ったりすることのほうがはるかに多いのである。
歴史の本や新聞は、
悲劇的な例外を一般的法則であるかのように書きたてて、事実をゆがめている。
暴力が非常に多いという今日の一般的感情に反して、日常生活を中心に考えると、
われわれは実際には驚くほど平和な種であるといえる。
それを確かめるには、自分の生涯の内で、これまでに何回、怒りにまかせて流血騒ぎを起こしたか、
何回人を殴ったか、何回他人に噛み付いたり、引っ掻いたり、足蹴にしたか、
ということを自らに問い掛けてみるだけでよい。
そして、自分が怒った回数や、議論や論争や口論をした回数と比べてみると、
われわれもまた、他の動物と同じように、戦うことが必要になったときには、
実際に攻撃することよりも、威嚇することのほうが多いということがわかるであろう。
わいせつ信号
性的軽蔑のシンボル
わいせつ信号とは、それを見る人を軽蔑する性的動作の事である。
時とところにより異なってはいるものの、
性的なタブーはどの文化にもあり、一般により”露骨”であるとみなされる性的動作ほど、
公然と行うことが禁止されている。
恋人たちが互いに手を取り合う初めの段階から、
オーガスムの絶頂で終わる男女の交わりの経過を考えてみると、
性交のクライマックスに近い動作ほど、わいせつなジェスチャーの元になりやすい。
わいせつははっきり区別できる二つの場面で観察される。
”下品ななれなれしさ”と”故意の意地悪さ“である。
前者の場合は、男が女に対し、またはその逆に、
あからさまなセックスのジェスチャーをすることである。
そして、それがわいせつになるのは、そのサインがたとえ二人の間だけでなされたとしても、
二人の関係がそれを受けいられるほど、親密ではない場合である。
時にはそれが人前でなされるので、さらに受け入れがたくなり、
悪意はなくとも、メッセージは侮辱的なものとなる。
バーで働いている女性に、明白な性的ジェスチャーを示す客がそのよい例である。
彼女の特殊な社会的役割のゆえに、
男は彼女の胸のふくらみに対して、手を使った率直で直接的な表現をしてしまう。
その動作は直接的には軽蔑ではない。
事実それは賛辞であっても、彼女がそれで気を悪くしたら、
そのジェスチャーは直ちにわいせつなものに変わってしまう。
賛辞がわいせつになってしまうもっとよい例は、それが”第三者”に対してなされる場合である。
こちらに近づいてくる女性を見ている二人の男の一方が、
手の動きで、あの女とセックスをしたいという信号を、もう一方の男に送ったとする。
彼のジェスチャーは、その女がセクシーであることに対する賛辞なのだが、
それが彼女に見られてしまい、しかも、それが自分の気持ちをまったく無視して行われているので、
彼女が不愉快に感じたら、これもまたわいせつなジェスチャーとなる。
これらのわいせつな表現は、故意の性的軽蔑とはまったく異なっている。
後者では、傲慢なあざ笑いや明白な怒りが直接相手に向けられる。
その場合の目的は、
最も汚らしく、最もタブーとされているサインを、象徴化した攻撃手段にすることである。
攻撃する人は、相手を殴る代わりに性的ジェスチャーを示す。
露骨なわいせつな表現が相手に非常な打撃を与えることは明白なので、
その理由は追求してみる価値がある。
つばを吐く、糞を投げつけるという汚物信号が、何故軽蔑的なのかは明白だが、
性行為もまた、”不潔な言葉””不潔なジェスチャー”の源泉となっているのは何故だろうか。
セックスは不潔ではないのに、何故、どこでもこのように間違って使われているのだろうか 。
卑猥語を公の言葉に翻訳しようとすると、何と奇妙な言い方が使われているかがよくわかる。
われわれは翻訳すれば、「あなたは馬鹿な陰茎」「
おまえは馬鹿な膣」「性交をやめろ」
となる軽蔑語を叫ぶ。
これらの言葉は、卑猥語ではよく耳にする悪態なのだが、
このように翻訳すると、まったく奇妙に聞こえる。
その説明となるのが、人間に最も近いサルや類人猿を含めた多くの動物種で、
性的動作が威嚇の方法として用いられることである。
雄サルは、自分の優位を示す方法として、下位のサルにしばしばマウンティングをする。
相手の上に乗ると、数回腰を突き出す動作を示し、下りてしまう。
交接は行われず、一連の動作が行われるだけである。
人の男性がわいせつなジェスチャーをするのも、これと同じことの変型にすぎない。
雄サルが下位のサルにマウンティングするのは、
「優位の雄だけが雌にマウンティングできるのだから、
お前にマウンティングをすることは【お前の性にはかかわりなく】俺のほうが優位なのだ」
ということを示している。
これと同様に、男性の勃起や交接動作が男性優位の象徴となり、
まったくセックスとは関係のない場面でも、優位ジェスチャーとして用いられたのだろう。
そして、それは男性優位を示すだけではなく、
男女どちらにおいても、優位を象徴するものとなっている。
つまり、人では女性も男性も、
男性に対して陰茎ジェスチャーを示し、
「あなたなんか怖くないわ、私のほうが上なんだから」といっている。
このように性的軽蔑は、われわれが動物から受け継いだもののひとつであるが、
そのことは 多くのジェスチャーが本来生得的であるという意味にはならない。
根底にあるメカニズムが、われわれと他の霊長類では同じというだけである。
わいせつなジェスチャーはそれ自体変化に富んだもので、
さらにそれが行われるさまざまな人間文化の伝統の影響を強く受けてきた。
それらは男性の陰茎サイン、女性の陰部サイン、交接サイン、マスターベーション・サイン、
愛撫サインの五つの主要な範疇に分けられる。
五つのわいせつサイン
陰茎サインは、最も単純でよく用いられるもので、陰茎の勃起を何らかの形で象徴している。
多くの国々で、この象徴が身体の多くの部分を用いて、さまざまな方法で行われている。
象徴された陰茎は舌であったり、中指であったり、人差し指と中指であったり、
親指やこぶしや腕であったりする。
陰茎ジェスチャーの最も古いものは、中指勃起であるらしい。
これはローマ人が中指を恥知らずの指、またはわいせつな指と呼んだことから知ることができる。
以来 2000 年にわたって、わいせつさを勃起で表現することが、ずっと用いられてきた。
現在では二種の明確な型がある。
その中でもっともよく用いられるのは、
手のひらを上に向けて、中指を除く他の指を折り曲げる方法である。
こうした手をさっと上方へ上げるか、軽蔑する人に向かって突き出す。
アラビアではこれがしばしば 逆になる。
手のひらを下に向け、中指を除く他の指をまっすぐに伸ばし、
まるで下にいる人を突き刺すように動かす。
もっと印象的な陰茎は、前腕全体を用いるものである。
こぶしを握って陰茎の亀頭を象徴し、これを上方へぐいと突き出す。
この前腕勃起は、今日では、フランス、イタリア、スペイン、ギリシアで非常によく用いられ、
これらの国々では、
男性が他の男性に対して威嚇的に軽蔑するときに用いるのは殆どこのジェスチャーだけである。
イギリスでも、これはよく知られているが、直接的な軽蔑としてよりも、セックスについての感想、
すなわち、セックスへの賛辞の粗野な形として用いられることが多い。
フランス人は、自分が不愉快に思った人に直接これを行い”地獄へいけ”というメッセージにする。
これに対してイギリス人は魅力的な女性に気づいたときに、友人の男性に向かって行う。
それは女性のいる方向に向けて行われるが、彼女自身には向けられない。
おそらく彼女はそれを見ていないだろう。
そのメッセージは「私は彼女にこれ【勃起】をしてみたい」ということになる。
これは、
ひとつのジェスチャーが動作では同じ象徴化【前腕=陰茎】に基づいているにもかかわらず 、
二つの国で、明らかに異なった意味を持っている例といえる。
比較的珍しいものに、【
親指勃起】がある。
これはイタリアのサルジニア島南部とかギリシアの北部など、
限られた地域では知られているが、他の多くの地方全然知られていない。
これがわいせつサインとしてあまり用いられない理由の一つに、
殆ど同じジェスチャーであの有名な【親指立て】が、”首尾は上々”という意味で、
ずっと使われてきたことがあげられる。
親指立ての発祥地はイギリスらしいが、現在では非常に多くの地域で用いられ、
わいせつな親指勃起と共存するところでは、明らかに混乱が生じている。
ヒッチハイクでサルジニアを旅行している他国からの旅行者は、
道路の脇で親指上げという普通のジェスチャーをすれば、直ちに困難にぶつかってしまう。
彼らが通り過ぎる運転手に出しているのは、「乗せてくれ」という信号なのだが、
その地方の表現方法では、わいせつな親指勃起になっている。
彼らは手を振るというサルジニアのヒッチハイク・サインに切り替えない限り、
長い道を歩き続けなければならない。
紛らわしいサインのひとつに、二本指の V サインの示し方がある。
これは第二次世界大戦中に、チャーチル首相が用いたことで、多くの国々では、
【勝利のサイン】として、または最近では、平和のサインとして用いている。
そして学生や、反逆者や、政治家や、スポーツマンや、大統領にまで用いられていて、
国際的にはその用い方に混乱を感じる人は殆どいないだろう。
しかし、イギリスでは、明らかに異なった二つの形がある。
手のひらを外側に向けるのと、自分自身に向けるのとである。
イギリス人ならば誰でも、手のひらを外側に向けた V サインだけが、
勝利または平和を意味することを知っている。
また、手のひらを内側に向けたサインの意味も、非常によく知られており、
それは手で表現できる最もわいせつなサインなのである。
イギリス人が外国に旅行していて、例えばイタリアで運転手を軽蔑しようとするとき、
このジェスチャーを示してもまったく効果がないので、当惑することがある。
時には、この下品な悪態を向けられた相手が、
にっこり笑って手を振りながら通り過ぎていくことすらある。
イタリアには手のひらの向け方の違いというような、二つのサインの微妙な違いなどはないから、
イタリア人が見たのは、人差し指と中指で作られた V 字型だけであり、
それは彼らには勝利の意味しかない。
イギリス人の用いる最もみだらなジェスチャーには、
何故そんなに紛らわしい由来があるのかは興味深い問題である。
彼らはそれが陰茎であるらしいと気づいてはいるが、
それ以上は、二本の指が V 字型に広げられていることの理由などまったくわからない。
カンガルーと違って、イギリス人の陰茎の先端は分れていないので、
そのジェスチャーの正しい由来を知ることは難しい。
その答えには、以下四つの可能性がある。
第一は、それを中指勃起が誇張されたものとみなすことである。
第二次世界大戦以前には、
イギリスでは明らかに中指勃起の変型である【二本指勃起】が行われていた。
それは人差し指と中指を使っているが、V 字型には開かれていない。
この軽蔑信号は、今日でも用いられているものの、
多くは軽蔑の V サインに取って代わられているので、
このことから後者は象徴された陰茎をさらに拡大したものと考えられるのである。
第二に、軽蔑の V サインは雑種ジェスチャーかもしれない。
つまり、中指勃起を元にして、そこにフォーク状の指を相手の目に突っ込む、
目のえぐりだしジェスチャーが結びついたという可能性がある。
第三は、軽蔑の V サインは、チャーチルの勝利の V サインを故意にゆがめたものであり、
手のひらの向きが反対なのは、勝利の逆、つまりOK の反対が KO になるように、
敗北を意味し、それを軽蔑すべき相手に向けるのだという考え方である。
しかし、1913 年の昔に、すでに軽蔑の V サインが使われていたことを示す古い写真がある。
第四は、多分この可能性が最も強いのだが、
軽蔑の V サインは、アラブ諸国やその他の国々で用いられているわいせつジェスチャー
【指を開いて自分の鼻を上に押し上げる】が、簡略化されたものだという考えである。
ここで象徴されているのは交接であり、鼻は陰茎を、二本の開いた指は女性の陰部を表している。
このジェスチャーを少し簡単にして、
鼻には触れないで、完全な軽蔑の V 動作だけが残されたというのである。
この簡略化したわいせつジェスチャーが、イギリス軍によって海外からイギリスにもたらされ、
それがどんどん真似されていくうちに、元の意味と形がわからなくなったのではないだろうか 。
手と腕のほかに、陰茎ディスプレイができるもうひとつの器官は舌である。
舌を出すのは一般に無作法とされているが、
幾つかの文化圏では、舌を動かすことは 明らかに陰茎ジェスチャーとなる。
あるラテン系の国々では、開いた口からはっきりと舌を出し入れする動作が行われ、
その意味はとりわけエロチックであるとされている。
また、レバノンでは別の動かし方があり、
男から女への軽蔑的な誘いとして、舌が左右に動かされる。
女性性器のわいせつサインは、陰茎ジェスチャーほど一般的ではないが、たくさんある。
地中海沿岸地域では、多くの人が”つぶれ円“ジェスチャーを用いるが、
それは OK サインを平たくつぶした形に似ている。
つまり、親指と人差し指で円を作るのだが、
膣を示すこのサインでは、OK サインのように丸い円を作るのではなく、
女性性器の外形を想像させるように、平たくつぶれた円が作られる。
コロンビアでも、同じような形を作って女性性器を意味させるが、
つぶれ円の形は両手を身体の前であわせて作る。
交接ジェスチャーには、陰茎の挿入を誇張したものと、腰の動きを表すものの二種類がある。
古くからある【フィグ・サイン】は、陰茎の挿入を表している。
”男性”である親指が”女性”である他の指の間に差し込まれる。
つまり、手を握り、人差し指と中指の間から親指の先を出して、
陰唇を通って挿入された陰茎に見立てる。
このジェスチャーは、古代ローマでもよく用いられる魔よけ法であった。
現在では、”幸運のお守り”という形で世界中に広まっている。
フィグ形をした小さな手の彫刻は、
ロンドンからリオデジャネイロに至る各地の骨董品店で売られており、
他の多く場合がそうであるように、人々は本当の意味を知らずにそれを身に付けている。
それがお守りの役割をするのは奇妙なことである。
わいせつな交接ジェスチャーが、何故幸運を表すようになったのだろうか 。
その答えとしては、それが”気をそらせるディスプレイ”であることがあげられよう。
地中海地方の多くの人々には、悪魔の目に対する根強い信仰があり、
それに正面からじっと見られると、不幸になるとされている。
そして、誰が悪魔の目にとらえられるかは、いつも定かではないので、
何かお守りを身に付けているほうが 賢明なのである。
フィグ・サインのように、相手をどきりとさせるジェスチャーは、
悪魔の目の注意を引くことは確かなので、そのお守りを身に付けていると、
まっすぐ見つめられるのを避けることができる。
この信仰は、シチリア島の一部では今日でも根強く残っているが、
他の地方では手によるフィグ・サインの動作が、依然として直接的に性的メッセージを伝えている。
そして、ギリシアやトルコでは、これは性的軽蔑のひとつであり、
チュニジアやオランダでは、主として性に関する所見、または誘いとなっている。
フィグ・サイン以外にの交接信号は、その殆どが腰を動かす要素を含んでいる。
これには多くの種類があり、片手で行うものと両手を用いるものがある。
こぶしを握った手や、曲げた手を前後に激しく動かしたり、片手をチューブのように丸め、
その中にもう一方の手の指を出し入れしたり、
片手でもう一方の手のひらを何度も音を立ててたたく、などである。
もっと直接的な表現としては、腰そのものを前へ突き出すものもある。
同性愛への軽蔑は、男の弱々しさを暗示するのが普通で、
よく知られる手首をだらりとさせてパタパタさせるディスプレイや、
チョコチョコ歩き、腰をひねることなどがある。
もっと形式化したものとしては、小指の先をちょっとなめて、眉を描くものがある。
これはレバノンでよく用いられる軽蔑法だが、よそでもすぐ理解される。
その他に、右手の人差し指で鼻の頭を軽くこするシリアで見られるものや、
両手を重ねて、両親指を鳥の羽根のように動かすコロンビアで行われていたものなどがある。
またイタリアの一部では、非常にみだらなものとして、手でチューブ状の輪を作り、
それを水平に前後に動かすものがあり、これは男色を示唆するサインである。
これと同じジェスチャーを垂直に行うと、
マスターベーションを示唆する軽蔑法として広く用いられているものとなり、
この軽蔑を向けられた人は、性的欲求をうまく満たしていないという意味になる。
最後に愛撫信号がある。これは手を椀状にして、その中で架空の乳房や睾丸をつかんだり、
握ったり、撫でたり、もんだりするジェスチャーである。
これらの動作は、用いられる状況によって意味合いが著しく違ってくる。
他の敵対行動と一緒に用いられると、軽蔑の度合いは強められたり、拡大されたりする。
友人の間でふざけて使われると親密さを粗野に示すことになったり、
異性の友人に対して同じ感情を抱いたことの表現となる。
つまり、これらは二人の親密さを強めたり、保ったりするのに役立つ。
わいせつなジェスチャーは攻撃的だ、という議論を読んだ人がいるだろう。
攻撃性はわいせつジェスチャー自体の主要な目的でもあるので、
このことはべつに驚くべきことではないが、
ここで記憶にとどめておくべき重要なひとつの事実がある。
それは、どんなにみだらなわいせつジェスチャーでも、
流血沙汰を起こすことは無いということである。
時には報復行為を招くことはあるが、わいせつジェスチャーは、本質的に攻撃の代替物、
つまり、身体的な攻撃に取って代わった儀式的真似事なのである。
これまでは、このような意味の社会的価値が、過小評価されてきたのではないだろうか 。
タブー・ゾーン
触れてはならない身体部位
タブー・ゾーンとは、他人が触れてはいけない身体部位のことである。
われわれにはそれぞれ、身体のプライバシーについての意識があるが、
この強さは個人、文化、人間関係によって異なっている。
とりわけ、触れられる身体部位によって、その強さはさまざまである。
もし、友達が手という”人前に出せる部位”に触れるのなら、何も問題はないが、
性器のような”プライベート
な部位”に触れたりすると、
結果は、当惑から怒りまでを含んだものとなるだろう。
愛し合う二人か赤ん坊を扱う親だけが、まったく自由に相手の身体に触れることができるが、
その他の人には身体接触のタブーに関する段階がある。
最近アメリカの大学卒業生の【タブー・ゾーン】について、慎重な研究がなされた。
体表面が 12 の部位に分けられ、それらの部位が
[1]母親、[2]父親、[3]同性の友人、[4]異性の友人によって、どの程度触れられるかを尋ねた。
接触タブーは、頻繁に触れられる、普通に触れられる、まれにしか触れられない、
まったく触れられない、という四段階に分けられた。
予想されたように、性的特徴に一番近い部位が、一般に最も強いタブーを示し、
そこから離れるほどタブーは弱くなった。
しかしそれにもかかわらず、人間関係のタイプによって、多くのはっきりした差が見られた。
それは
[1]母親は髪や腕については、、娘に対するほど、息子には触れない。
[2]母親は胸については、息子に対するほど、娘には触れない。
[3]父親は髪、顔、肩については、娘に対するほど、息子には触れない。
[4]女性同士の友人では、互いに男性同士の友人に比べて、肩、胸、足には触れない。
[5]男性同士の友人では、女性同士の友人に比べて、互いに髪、首、前腕には触れない。
[6]女性は男性ほど、異性の膝頭には触れない。
[7]男性は女性ほど、異性の胸や腰には触れない。というものである。
このような差異から明らかになることは 、
各々の関係には、独自の“可”と“不可”の部位があるということである。
幾つか性差が見られるのはべつに驚くにはあたらない。
例えば、女性の胸への大きなタブーは、
乳房への明白なタブーと結びついているが、その他を期待したほどではなかった。
男性は、両親や他の男性の友人に髪を触られると、女性が感じるほどにはうれしくない。
この違いは、時に顔、首、肩、腕にまで及んでいる。
ガールフレンド以外の人に上半身を愛撫されるのを、男性が強く拒否するのは、
性成熟よりずっと以前の子供時代に、その源がある。
男の子は、母親がぼさぼさの髪を解かしたり、乱れた襟を直してやろうとすると、
「うるさいなあ、お母さん」などと文句を言う。
少女はこういった世話を殆ど嫌がらない。
この背後にある理由は、おそらく、
少女の髪や服装の装飾的特性に対する西欧諸国民の態度に、何らかの関係があるのだろう。
こぎれいに手入れをすることは 、
子供が性成熟に達する前でさえも、すでに男らしくないという意味をもっており、
このために男性のタブーになるのであろう。
この研究の中で、むしろ奇妙とさえ思えるひとつの結果は、
男性の腰は、女性の腰がボーイフレンドにとってタブーであるほどには、
ガールフレンドにとっては、タブー・ゾーンではないという発見である。
腰は性器部位と結びついているから、両性のタブーの差はないだろうと予想された。
しかしこの差は、若い恋人たちを実地に観察すればすぐに説明できる。
若い男性と女性が、互いに腕を回して歩いたり立っている際には、
通常背丈の違いによって男性は女性の背に腕を回し、一方女性は男性の腰を抱くことになる。
こうすると、女性の手はわざわざ男性の腰のあたりを手探りしなくても、
ごく自然に彼の腰におかれるようになる。
したがって、この腰の感触は、そんなに強い性的な意味をもたないので、
男性の腰は全体的に、女性の腰よりも触れられやすくなるのだろう。
もちろん、アメリカの大学で行われたこの研究が、必ずしも細かな点まで、
他の国や別の人間関係に当てはまるわけではないが、その一般的な原理は重要である。
われわれはそうと気づかなくても、近縁者や友人との間に特定の身体タブー関係を持っており、
人に出会うときにはいつも、このような接触信号を読み取っている。
もし既定のタブーのひとつが破られると、われわれは何かが場違いであることにすぐに気づき、
人間関係の変化にもっと注意深くなり始める。
必然的に変化していく親子関係においては、これは特に重要である。
子供が成長するにつれて、出生時には可能であった全身への接触はだんだん少なくなっていく。
あるときは、制限し始めるのは親のほうである。
成長するにつれて、子供は詮索好きになり、遅かれ早かれ親の胸や性器を無邪気に調べては、
親から「そこは触るんじゃありません」といわれる。
また、独立心が育ってきたことを示す「放してよ」という反応を示して、
子供が親の抱擁から逃れる場合のように、子供の側からタブーをつくり始める場合もある。
こうして接触タブーは次第に強くなり、思春期にはついには大人のパターンに固まる。
ある文化では、この接触減少の過程が、他の文化ほど著しくはない。
例えば、南ヨーロッパでは、北ヨーロッパと比べて、接触への拒否が全体として少ないし、
ひとつの文化の中でも、他の家族に比べて身体タブーに厳しい家族もある。
時々、ひとつの特定の文化が、ある特定の身体部位、つまり、
他の文化では無害だと考えられている部位について、かなり特殊なタブーをもっていることがある。
例えば、日本では娘のうなじは、乳房と同じくらい強いタブー・ゾーンであり、
タイでは、娘の頭のてっぺんに触れては鳴らない。
しかし、両者では、その理由が完全に違っている。
日本では、うなじはエロチックな意味でのタブーなのであり、
タイの場合には、宗教的な信条にかかわりがあるからである。
一般に部族社会は都市文化よりも身体接触について、ずっと自由である。
大都市や町で多くのことが禁止されるのは、
人口が多く、見知らぬ人同士が横行している環境のためである。
さらに人口が増加すると、身体のプライバシーを含むすべてのプライバシーは、
ますます注意深く守られるようになるだろうし、
今後タブー・ゾーンの現象が、弱くなるとは思われない。
時たま、こういった状況に対して、つかの間の反抗が起こる。
1960年代にアメリカでは多くの集団療法が流行したが、
その方法には、集団による身体接触のさまざまな儀式が導入されていた。
彼らのいう“集団手探り”は、人には身体接触への基本的な欲求があることを示し、
同時に、社会全般にわたって強力な拘束が人々に押し付けられていることを反映している。
しかし、多大の関心を引いたにもかかわらず、
その運動は、もはやかつての勢いを失ったように思われるし、西洋社会全体としては、
依然として身体のプライバシーと接触タブーという一般的なムードが、残されているのである。
過剰露出信号
エチケットという障壁を突き破ること
われわれのあらゆる動作には、それがどのくらい私的か公的かに対応した【露出尺度】がある。
われわれはしばしば 私的と公的とを単純な二者択一の言葉として対立させるが、
現実には、この二者の間に、“社会的露出”の全段階が存在している。
この露出尺度の一方の端には、排便のような、まったく私的で個人的な行為があり、
もう一方の端には、歩行のような、まったく公的な行為がある。
しかし、それらの間には、露出の制限を受ける多くの中間的行為がある。
このような部分的に公的な行為は、普通今いる社交場面での親密さの程度と微妙に対応している。
一般に一緒にいる人を知れば知るほど、その人の面前で示す動作は多くなってくるが、
それほど親しくない仲間といるときには、用心深くなり、幾つかの行為をしなくなる。
周りが全部知らない人ばかりだと、さらに自己抑制を強める。
ますます自分の動作を押さえつけ、ついには堅苦しく儀礼的になってしまうのである。
ビクトリア朝時代は、行動表出への規制が、ますます強まる風潮にあった。
際限なく規則が作られ、これこれの行動は“人前”では避けるべきだとされた。
これと対照的に、20世紀は形式ばらない時代となった。
多くの動作が私的∼公的尺度の上をゆっくり動き始め、
その範囲があからさまな露出までも含むようになった。
そこで露出方向へと動いた行為を【過剰露出信号】と呼ぼう。
それは、それ自体では異常ではないが、
普通よりも幾分公的な場でなされたために、注意を引いてしまう信号のことである。
過剰露出には、無知、故意、偶然の三つの基本的なタイプがある。
誰でも時には、これらの過剰露出を行ってしまい、種々の社会的“失態”を体験する。
それは何らかの理由で、私的なことを公的な場で、“行き過ぎ”てしまったような場合である。
このような最悪の瞬間を思い出すと、何年経っても顔が赤らむものである。
過剰露出
最初の無知タイプは、
明らかに行為に関する正確な習慣を知らない不慣れな状況にいるときに起こる。
人前でげっぷをしても許される国から来た人や、大っぴらにげっぷをしてもかまわない階級の人が、
食事の後でげっぷをすると、それが禁じられている人々はギョッとする。
しかしもし人々がそれに対して目で、あるいは言葉で反応しなかったならば、
過剰露出をした人はそのことに気づかない。
平穏な社会では、このような無知による過剰露出はまれである。
これは厳しい作法の規範があることの利点である。
しかし、今日のような急激に変化する社会では、
特定の状況に関する慣習は、ますますはっきりしなくなっている。
これは、われわれが慣習に従わなくなっているということを意味するのではなく、
【本当に慣習に従わないのは、狂人だけである】
むしろ、従来の慣習を守っていたのでは、
もはや社会の絶えざる変化についていくことができないということを意味している。
よく知らない婦人に、男性が対応する場合には、
その女性が女性解放主義者なのか、伝統主義者なのか、必ずしもはっきりしない。
もし彼が開放主義者のためにドアを開けてやったり、
伝統主義者より先に出てしまったりすれば、両方の場合に誤りを犯したことにある。
同様に自分が今何人もの男と寝るような女性と会っているのか、
あるいは昔風の貞淑な女性に会っているのか、見極めることもできない。
もし彼が最初のタイプの女性に対して上品に振舞い、
二番目のタイプの婦人に対してずうずうしく迫れば、又もや彼は誤りを犯すことになる。
われわれが“懇親の夕べ”に招かれたとしても、紹介される際に、
誰が誰に紹介するのか、誰と握手するのか、頬にキスをするのか、しないのか、
それをするとしても片方の頬にするのか両方なのか、
などについて確信がもてなければ、困惑してしまう。
また席を決める際、誰が誰の横に座るのかがわからなくても困るし、
会話の最中にも、何がタブーで何がタブーでないのか、言葉の抑圧という点で、
どの程度の行儀作法が期待されているのか、よくわからないこともある。
また最後に、同時に帰るべきなのか、もう少しいてくださいという主催者の礼儀正しい要請に、
どのくらい従ったらよいのかも明らかでない。
つまり、われわれは堅苦しい露出不足と下品な露出過剰の間の、
社交的綱渡りの夕べに直面しているわけである。
それはまるで社会が、まだビクトリア朝時代のコルセットを着けているのに、
ブラジャーは焼き捨ててしまったかのようである。
われわれは過去の遺物などは投げ捨ててしまいたいと考える。
確かに幾つかの重要な点では、それをやってのけたのだが、
社交的振舞いの細部においては、まだ過去のエチケットの亡霊につきまとわれているし、
おそらくこれからもずっとそうであろう。
このことを強調するために、上記の話は多分誇張されすぎたかもしれない。
というのは、われわれは皆、すぐに殆ど瞬時に、社交的ムードに適応してしまうからである。
われわれは時たま“失策”を犯すだけで、社交上の最大難問ですら首尾よく切り抜けられるし、
他人と差し向かいでやり取りしていると、無数のちょっとした社交的手がかりがあるので、
無知のために起こしてしまう過剰露出を極めて少なくすることができる。
また、遠く離れた土地のまったく知らない未知の社会的環境に置かれたとしても、
われわれはそこに“所属していない”ものとして扱われ、
悪意のない過剰露出は“奇妙な外国のもの”として大目に見てもらえる。
二番目の過剰露出の範疇、つまり故意によるものは、比較的まれである。
例えば、家が火事になり、助かるためには裸で飛び出さねばならないとしよう。
そこでその人は、故意に過剰露出という避けがたい行為をした。
確かにその人は、人前で裸になるという私的行為をしたわけだが、
これは極限状況であるがゆえに許される。
もし別の人が、誰もいないときに裸になって海で泳ぎ、戻ってみたら服が盗まれていたという場合は、
その人の釈明が認められさえすれば、やむなく裸体を人前にさらしたことは許されるだろう。
しかしこの状況は火事の場合よりはやっかいである。
というのは、最初の行為が、火事の場合とは違って、
強いられたものではなく自発的なものだったからである。
しかしもし人が突然衣服を脱ぎ捨てて、
混み合っているとおりを走ったならば、猥褻行為のかどで逮捕されるだろう。
一時よく見かけた“ストリーキング”という現象は、
故意の過剰露出信号としての価値しかもっていない風変わりな例である。
これはひどく象徴的な行動であり、
私的な行為をますます人前で見せるようになった社会全体の傾向を、
ひとつの単純な行為の中に具体化したものといえる。
この現象の最も驚くべき側面は、
警官が困惑して、むしろ渋々と逮捕したということではなく、
一般の人々がそれをほぼ完全に容認して、不法行為というよりは、
むしろ娯楽のひとつとして扱ったことである。
少なくともこの点では、動作の自由化は小さな前進をしているようだ。
人前でのストリーキングは、映画や劇場で起こっている同様の変化を反映しているのである。
そこでは、年々ますます多くの裸体やあからさまな性行為が、公然と演じられている。
しかし、過剰露出の進み方は遅々としている。
常にまだわれわれは象徴的にいえば、
コルセットを残したままでブラジャーを脱ぎ捨てているような状況に直面している。
この最もよい例は、最近の映画の中で、有名な男優が主演女優とセックスをするために
あからさまに腰を動かしているのに、ズボンを脱がないでいたことである。
過剰露出の第三の型は、偶然によるものである。
簡単な例が、これと他の二つの型の違いをはっきりさせてくれる。
つまり、げっぷについてのタブーを知らないために、げっぷをした人は、無知による過剰露出、
わざわざ無礼なげっぷをした人は、故意の過剰露出、
思わずげっぷをした人は、偶然による過剰露出をしたことになる。
この第三の型には、
しばしば実際にはそうでないのに、自分は今一人だと考える人の行為が含まれる。
この一風変わった例として、ドライバーが自動車の中で鼻をほじくることがある。
耳掃除やその他の身づくろいと同様に、鼻をほじくる動作は、普通はむしろ、
あらわにしない動作であり、許されるのは私室で一人になったときだけである。
ドライバーもこれを知ってはいるが、いろいろな理由で自動車は象徴的な“私室”になっている。
車は非常に個人的な縄張りであるため、ドライバーはこれを動く私室として扱おうとする。
そのために、自分の独居を妨げる同乗者さえいなければ、
本当は素通しの窓を通して歩行者や他のドライバーから見られているのに、
あたかも完全に遮断されたところに座っているかのように 振舞ってしまう。
鼻をほじくることばかりか、他の“私的”な動作をしているのも観察される。
時には、交通渋滞した車に座っているドライバーが、頭を左右に振り、黙って口をもぐもぐさせ、
手で車をたたき、まるで発狂したかのように見えることがある。
これは見かけほどではなく、単にカーラジオで音楽を聴いているにすぎない。
この場合にも、ドライバーはちょっとした縄張りの壁で、外界から遮断されているので、
自分が一人であるかのよう感じ、そのために、自分を抑制していないのである。
公共の場所で、偶然身体がぶつかり合うのも、第三の過剰露出の例である。
われわれはこれを避けるために非常な努力をして、各人が混雑した場所を極めて上手に歩く。
しかしそれにもかかわらず、時たまぶつかることがある。
そうなると、お詫びを口にするが、それは互いに迷惑をこうむったからだけではなく、
偶然に過剰露出をしてしまったからである。
望ましいとされる以上に、他人と接近しすぎたのであるから、
その点をはっきりとさせなければならないのである。
異性と身体がぶつかると、このお詫びはもう少し強くなる。
というのは、私的で性的な身体接触をにおわすようなことは 、なるべく排除したいと思うからである。
しかし、性に飢えている男は、この状況を逆に利用することがある。
つまり彼らは込み合った場所で婦人を押し、故意の性的接触を、
偶然の過剰露出に見せかけるのである。
過剰露出信号の話を終わらせる前に、述べておかねばならない例外が幾つかある。
私的∼公的という単純な尺度は、しばしば特殊な状況によって歪められる。
ごく普通の私的動作であっても、前後関係によってある場合には露出できるが、
他の場合にはそれができないことがある。
また、それをする人によって規制が異なることがある。
例えば、道端で放尿する人は、大人よりも子供のほうが露出過剰にならないし、
子供だったら何も言われずに人前で気ままに振舞える。これと似た行為はたくさんある。
例えば、騒々しい遊びやかんしゃくを起こすことは、小さい子なら、人前でも自分の家でも同じように
やってのけられるが、大人はそれを自分の家庭の中だけに限る傾向がある。
子供が人前で、このように振舞っているのを見ている人は、その子供は自分の動作の露出尺度を
まだ学習していないのだと考えるので、このような行為にも耐えることができる。
子供が大きくなるにつれて、人前での抑制されない露出過剰は、
その正反対、つまり恥かしがりと呼ばれる露出不足へと変わってしまう。
そして時が経ち、経験を積むことによって、初めて正しいバランスに達するのである。
大人の露出過剰に関して、特別なひとつの範疇がある。
それは病気や怪我をした場合であって、そこでは大人があたかも子供のように扱われる。
患者や病人は、動作を極端に露出することが許される。
最も親密な身体的動作が、見知らぬ人々の面前でなされる。
あまりにも病気が重くて、露出過剰など気にならない人や、
退行して完全に偽の幼児になりきっている人もいるが、
中には、露出過剰の動作を示して文化的規範を破ることを、
すでに悲惨な状況下にいながらも、心の負担に感じる人もいる。
病気の身にさらに侮辱をくわえる方法として、典型的な病院の病室設計は特賞に値する。
児童や病人のほかに、露出過剰が許されているほうひとつの重要な範疇に奇人がある。
仮にある特定個人が、相続財産か才能によって社会的に非常に高い地位を得ているとすると、
その人は公的な生活に私的な気まぐれを持ち込むことが、
譴責されることなく、ある程度は許される。
彼が抑制されていない私的な行為を人前で楽しんでも、その振舞いは、無礼ではなく風変わりで
あるというレッテルを貼って、特別な範疇に入れてしまえば、それは社会の脅威ではなくなる。
特殊なケースとして分離することで、それは“心配のない”ものとなる。
そうなると、彼は文化的規範から外れて、過剰に露出することを許されるだけでなく、
その過剰があたりまえのことになってしまうので、
人々は公的な場面でも過剰に露出するだろうと、期待する。
もしそうしないとかえってだまされたと感じてしまう。
われわれの多くは、抑制の効かない衝動を感じるのはごくまれなので、こんな風にうまくはできない。
奇人であるとは、常時そうあるべき社会的役割なのである。
言い換えると、常に無作法であれば、その無作法さが多めに見てもらえ、
いつも性的に下品であれば、その下品さが許されるだけなのである。
このような特別の人に対しては、われわれがあたかも通常の露出度評定尺度について、
基本的な修正を行い、適度に調整された寛容さで反応するかのようである。
例えば、酒好きの詩人、ハリウッドの乱暴者、無分別な天才、評判の浮気女、無礼な喜劇俳優、年寄り
の好色家、ヒステリーの女優、うっかり者の教授、うすのろの貴族、喧嘩騒ぎを起こす歌手などは、
すぐそれとわかるこの特殊な範疇に入る奇人であり、彼らの露出過剰はゴシップ欄を飾り、
他の人なら怒りの原因となるようなことでも、われわれの興味をそそることになる。
われわれは時たま、こういったわがままな名士が、腕白な子供のように振舞うことを話題にし、
彼らの露出過剰動作を上手に“へこませ”る方法を取りざたする。
このような名士たちは、普通の人間ならできないようなことを、公衆の面前で行うことによって、
理解できるが不道徳極まりない、親しみやすいが極端この上ない見世物を提供してくれる。
われわれは見な、公的な場面で自己を開放したいときがあるが、それを恐れてもいる。
そこで名士がそれをいわば自分に代わってやってくれることになる。
代理人によって露出過剰動作を楽しむのである。
さらに、われわれは当然彼らの動作の自由をうらやむ。
このために彼らは不安定な人生を送ることになる。
つまりちょっとでも、彼らがわれわれを退屈させ始めると、われわれは彼らに背を向けるからである。
彼らの人前での悪ふざけと喧嘩好きは、突然人を楽しませなくなり、
その代わりに不祥事とスキャンダルの原因となる。
一夜にして、彼らの露出過剰のライセンスは、取り消されてしまうのである。
これまで述べてきたことが、つまりは 過剰露出信号なのである。
人間行動の野外観察者にとって、これらは貴重な手がかりを与えてくれる。
露出過剰によって、その人がある社会場面における
公的∼私的動作尺度にどの程度うまく適合できなかったかがわかる。
基本原理を強調するには、むしろ極端な例を選ぶことが必要とされているが、
現実には、露出過剰には非常に微妙な段階があるのであって、
荒っぽく白か黒かと決めてしまえるものではない。
人前での自己抑制は、程度の問題であることが多く、野外観察者が日常活動の種々の露出尺度に
いったん敏感になると、誰かがちょっとでもその尺度からはみ出せば、たちどころに看破できる。
それは特定の行為の速さや強さのちょっとした相違にすぎない。
例えば大部分の人は、人前で食事をするときには、摂食動作がゆっくりとなる。
皿から口へ食物を運ぶのが注意深くなり、食物を口へ入れる量も少なく、あまり急いでは噛まない。
レストランで客の様子を見ると、
彼らの“食事への抑圧”の程度に応じて、彼らを格付けすることができる。
客の殆どは文化の規範に自分を合わせ、一人で食べるときの勢いを適度に抑えているが、
それに当てはまらない人も少しはいる。このような例外には二種類のグループがある。
人前でもがつがつ食べる人か、人前ではゆっくり少しずつ食べる人である。
がつがつ食べる人は極端な上流階級か、極端な下層階級に見られるが、中流階級にはいない。
つまり、
百万長者やヨーロッパ貴族階級の中のある人たちと、浮浪者や未熟労働者がこれにあたる。
一方、気取って少しずつ食べる人は、不慣れな場所にいるので露出を抑制している人々である。
彼らは自分が属さない階級の人たちがいつもやってくるような レストランにいるか、
あるいは外食するのになれていないのである。
われわれは誰もが露出過剰に気づいているのだが、
その概念を切り離して分析することで初めて、それは文化の段階として、
より明確により速やかに理解できるようになる。
腕白な子供に向かっていう「おうちに帰るまで待ちなさい」という言葉や、
大事な客がパーティーから帰ってくれたときに「さあ、これで髪をおろせるわ」という言葉は、
こういった状況を示すもので、重要な社会的パターンの一部分になっている。
着衣信号
ディスプレイ、保護、慎み深さとしての着衣
衣服を着れば必ず社会的信号を伝えることになる。
あらゆる服装がそれを着ている人のことを、しばしば非常に細かい点まで教えてくれる。
自分は着衣に関心がなく、できるだけ無頓着に着ているのだ、と強調するような人々でさえ
自分が生活している文化に対する自分の社会的役割や態度について、
かなりはっきりとした見解を伝えているのである。
大部分の人にとっては、着衣信号は毎日たった一度の行為、
つまり、毎朝行う着るという行為の結果である。
社会的地位の上層と下層とでは、この活動の頻度が、一日一度ではなくなる。
金持ちの名士は当然一日に数度、服を着替えるし、
貧しい浮浪者は昼間着ていたのと同じ服装で寝る。
この両極端の間の人は、普通特殊な衣類を身に付けるときだけ、一日一度の規則を破る。
服の汚れる人は仕事着を着るし、スポーツマンは活発に動ける服を着る。
特別な儀式―結婚式、葬式、園遊会、舞踏会、祭り、クラブの会合、正式の晩餐会― に
参加する人は、それに合った服装に着替える。
こう追求していくと、着るという行為は一日一回以上になるが、
それは、殆どいつも“日常”の衣類から、“特別”な着衣への変化である。
日常の決まりとして、モーニングドレスからアフタヌーンドレスへ、また、イブニングドレスへという
変化が要求された古いパターンは、今では実質的になくなっている。
着るという行動に関する現代の傾向は、通常、世間一般に見られる略式化増大のひとつの
現われと考えられているが、これは人を誤解させるものである。
現実には格式ばったものがなくなったのではなく、
単に古い習慣的なものが、新しいものへと変化したにすぎない。
昨今の若者によるジーンズの着用は、その形式的なことにおいては、
一昔前のシルクハットの着用と同じなのである。
今、若者はどんなものを着ようと自由である。
かつては服装のエチケットに関して、窒息させられそうな 規則が社会生活を支配していたが、
現代の若者はそういう規則から、やっと免れたと感じているかもしれない。
けれども彼らが好んできているものは、
先輩たちの当時の服装と同じく、現代のユニフォームなのである。
昨日書かれた規則は捨て去られるだろうが、これは、
今日のまだ成文化されていない規則によって、急速に置き換えられるだけなのである。
このような規則を理解するためには、
人間行動の一様式としての着衣の起源を振り返ってみなければならない。
基本的には、衣類には三つの機能がある。保護、慎み深さ、ディスプレイの三つである。
保護というのは、もちろん衣類の実用的な機能であり、非社会的、個人的である。
原始人は温暖な気候の中で進化したから、体温調節システムが有効に働いた。
37℃という一定の体温は、裸の皮膚表面とあいまって、人工的な働きがなくても十分に働いた。
原始人は衣類の着脱と同じ効果をもつ幾つかの重要な生理的メカニズムに助けられていた。
例えば、皮膚の血管を広げたり収縮させたりして、体表面の血流を変えることが出来た。
皮膚を通る最大血流量は、最小レベルの約 20 倍にもなる。
このような方法で体表面に熱い血液を押し出すのは、
大体、プルオーバーのような毛織物の服を脱ぐのに匹敵する。
熱い肌から熱を放出することは、体表面の殆ど全部から、
たくさんの汗をかくという人間の能力によって、さらに促進される。
原始時代の狩猟家は激しい身体活動をしたので、体内の代謝過程による急激な熱量の増加は、
安静時の五倍ぐらいになったに違いない。
彼らの剥き出しの皮膚表面は、
このような条件下で体温を調節するのに重要な補助となったに違いない。
つまり、広い面積から発汗放熱、すなわち蒸発による熱の放出を行えたからである。
人体は、一時間以上にわたって、1L までの連続的発汗が可能であり、
短時間ではこの四倍まで出せる。
この可変的な熱生産と熱放散のおかげで、衣類を着けていない人間の身体は、たとえ身体活動が
変化しても、また気候に僅かな変動があっても、人類の生存に不可欠な一定の体温を維持できた。
今もそれができるのである。
しかし、人類が地球上を探検し、燃えるように熱い砂漠や、氷に閉ざされた極地にまでいき始めると、
生まれつきの身体組織では、その要求に対処することができなくなった。
そして皮膚表面からの熱の損失を減らしたり、強い直射日光から皮膚を守るために、
保護用の衣類が欠くことのできないものとなった。
時代が進むにつれ、人間の活動はますます複雑なものになったので、
さらにいろいろな形態の保護が必要となった。
皮膚をいためるとがった物、強い光、鋭利な武器による攻撃、酸素の欠乏、
過度の放射線などに対する保護である。
分厚い靴と物々しい手袋から、かぶと、鎧にいたるまで、深海用の潜水服から、宇宙服に至るまで、
ゴーグルやサングラスなどの眼鏡から、シュノーケルや溶接用マスクに至るまで、胸当てズボンから
防弾チョッキに至るまで、各々の新たな要求が、新しい形の保護衣類を作り出したのである。
まったくの初めから、このようなさまざまな種類の保護衣類は、問題を起こした。
それは筋肉活動の能率を減少させただけでなく、特殊な健康上の危険を持ち込んだ。
保護衣類は皮膚の風通しを悪くし、皮膚表面の汗の蒸発を妨げた。
また、いろいろな寄生虫に、かっこうの休息所や隠れ場所を提供した。
原始時代に裸でいるときには、人間の皮膚はこのような問題に苦しめられることはなく、
皮膚にいる何百万という微生物は平衡状態を保っていた。
しかし風通しが悪くなり、汗でべとつき、寄生虫に悩まされて、
体表面はあらゆる種類の病気にすぐかかるようになってしまった。
悪くすると伝染病になり、よくても不快な体臭が残った。
それでも人間は、保護衣類を捨て去ることができなかったので、
香料と衛生学といった対抗手段を発展させざるを得なかった。
匂いを隠すために香料が広く使用され、体臭を除くために身体と衣類が洗われた。
しかし今日では、衛生学が入浴を重視したおかげで、現代人は裸の状態にならなくても、
原始人のような比較的健康な皮膚の状態を取り戻している。
もし衣類が単に身体を楽にさせ、保護するだけのものならば、
現代の化学技術のおかげで、われわれは衣類をまったく捨て去ることができる。
家には空気調節、セントラルヒーティング、カーテン類が備わり、保護上の問題を気にすることなしに、
裸で酒を飲み、食事をし、楽しみ、くつろぐことができる。
われわれがそうしないという事実は、
着衣には第二の基本的機能、つまり慎み深さの機能があるからである。
この役割では、衣類は隠す物として働いている。
衣服は身体的信号の幾つかを消すために着られるのである。
原始人は直立して後ろ足で歩くようになると、同種の成員に近づくときには、
否応なしに性的ディスプレイを行うことになってしまった。他の霊長類にはこの問題は生じない。
他の霊長類は四本の足で近づくし、性器をディスプレイしたければ、
プレゼンテーションという特殊な姿勢をとらざるを得ない。
“完全に前向き”の人間の身体は、何らかの方法で性的な部分を隠さねば、
接近の際の性的色彩を減らすことができないのである。
したがって、すべての衣類のうちで、
下帯が文化的に最も行き渡っているということは、べつに驚くべきことではない。
服を脱がねばならないあらゆる社会的状況において、下帯は衣類の最後の砦である。
着衣の慎み深さの役目をさらに支持する要因には、人口の劇的な増加がある。
小さな部族単位で住んでいた頃から何百万年もたって、
今人類は都市の群集の中で、
比較的、あるいはまったくあかの他人に取り囲まれて動き回っている。
このような状況では、直接的な性的ディスプレイは抑えられねばならない。
身体信号は消されねばならない。
たとえ熱帯地方であっても、このことは性的部位を越えた広い身体範囲に及んでいるが、
その理由は誰でもすぐにわかる。
人間の身体は性別信号のかたまりであり、肉体のあらゆる曲線、つまり、ふくらみと輪郭が、
関心のある人々の目には、基本的な信号を伝えるからである。
女性の乳房、しり、腰、太もも、胴、細い首、丸みのある手足、そして男性の腰、体毛、広い肩、
腕や足の筋肉、このような視覚的要素はすべて、異性を潜在的に刺激する。
もしこのようなメッセージを減らすとすれば、何か覆うもので隠さねばならない。
時期や時代に応じて、慎み深さという社会的基準は変化してきたが、
基本的な原理は同じままである。
社会の要求が性に対して厳しくなればなるほど、衣類は身体全体を覆うようになる。
極端な例は、ベールで覆われたアラブ諸国の女たちであった。
この国々では、頭や顔全体を含めた身体全体が衣類で覆われるだけでなく、
身体の形も衣服の厚さのために隠されていた。
厚いベールのちょっとした隙間からのぞいたのでは、その女性が情熱的な美人なのか、
ぞっとするような老婆なのかわからない。真実を知っているのは彼女の夫だけである。
というのは、どんなときでも、彼女があらわな服装をして、
人前に姿をあらわすことは 、絶対にないからである。
今日ではほんの一世紀前に、西洋文明が慎み深さを求めて、極端に走ったとは信じがたい。
例えば、イギリスでは”脚”という言葉をしゃべることすら、わいせつであると考えられ、
グランドピアノの脚は、人前のリサイタルの時には覆われねばならなかった。
昔、海水浴をする人が、かさばった水着に着替えるために使った更衣車には、
カーテンで仕切られた階段が必要とされた。
その結果、車の中の人は、海岸にいる人に見られることなく、水の中にはいることができた。
このような極端な慎み深さが減るにつれて、身体のある部位は
”隠蔽すべき場所”からだんだん除かれていき、
今ではすべての範囲にわたる露出度を定めることが可能となっている。
興業会を例に取ると、ハリウッド映画では、1930 年代まではむき出しのへそを隠す必要があり、
むき出しの女性の乳首は、1960 年代までは新聞に載らなかった。
その後、陰毛がスクリーンに出始めたが、もしそれが公共の場所だと、
その人は今でも起訴を免れない。
トップレスの水着は、南フランスでの警官との最初の小競り合いの後、
今では必ずある程度は見られるようになった。それゆえ、われわれは公共の場においても、
少なくともある社会状況のもとでは、再びイチジクの葉や下帯の時代へと戻ったのである。
別の場面では、厳格さの点では、いまだにビクトリア朝風の規則が見られ、
高級レストランでは、ネクタイを締めないむき出しの首を、他の食事客の視線にさらせば、
金持ちや有力者でさえも追い出されてしまう。
このネクタイの規則を例にして、次に着衣の第三の基本的要因、すなわち、ディスプレイに進もう。
レストランでネクタイを締めない客を排除するのは、客が喉仏を人目にさらしているからではなく、
社会的ラベルをつけようとしていないからである。
ネクタイは他の多くのアクセサリー と同じように、
保護や慎み深さに役立つものとしては重要ではない。
その代わり、それは文化的なバッジとして働き、着用者を特定の社会的範疇にはめ込むのである。
これが保護と慎み深さの役割に先立つ、衣類の最も古い使用法であり、
今日でもまだ非常に重要な意味を持っている。
二流の SF 作家が好んで描く、未来からきた宇宙飛行士の機能一点張りの上着などは、
全裸に戻ることと同じぐらいありそうにもないことである。
人は一そろいのアクセサリー を取り外すと、すぐにまた別のアクセサリー をつける。
このような状態は、人間が社会的な存在である限りずっと続くであろう。
視覚的ディスプレイとして、衣類はそれだけで非常に優れた手段なので、
これからも単なるわびしい保護的な覆いになることはない。
過去には、着衣のディスプレイがしばしばその機能を情け容赦なく示したことがある。
例えば、14 世紀のイギリスではそれはスタイルとか好みの問題ではなく、法律の問題であった。
つまり、その時代の議会では、各社会階層に許す服装の様式に関して、
厳格な規則を作ることに多くの時間を費やしていた。
もし下層階級の誰かが、上の階級の人だけに認められている衣類を着ると、
その人は罰金を課せられたり、違反した衣服を没収されたりした。
法律の適用は幾分困難であったようだが、それは服装によって、
自分たちの高い地位をディスプレイしたいという階級の強い願望だったので、
君主が代わるごとに、次第に大きな制約と高い罰金とが導入されていった。
その詳細は、今世紀から見ると信じ難いほどである。
エドワード四世統治下で発令された衣類改革法の抜粋は、典型的なものである。
すなわち、「卿より下のナイトは、起立したときに陰部と臀部を覆えないような丈の短いガウン、
ジャケット、外套を着てはいけない。罰金は 20 シリングである。
・…卿より下のナイトは…2 インチ以上先のとがった靴やブーツを履いてはいけない。
罰金は 40 ペンスである。・・・・」
イギリスだけが、このような制限下にあったわけではない。
ルネサンス時代のドイツでは、自分の身分より上の服を着た婦人は、
罰として重い木の首かせをはめられたし、アメリカでは、初期のニューイングランドで、
夫が 1000 ドル相当の財産を持っていなければ、妻は絹のスカーフを身に着けることを禁じている。
以上は、過去において服装ディスプレイに対して膨大な制限をめぐらした、
多くの規則の中の一例である。
これらは、衣類と社会的地位が密接に結びついている、ということだけではなく、
多くの人が地位の高い人の服を着ることで、自分の地位を高めようとし、
その結果、”自分の地位以上の“【着衣信号】を伝えると、
罰せられねばならなかった事実をも示している。
今日では、普段着にこのような法律はなく、
人前での”わいせつな露出”の禁止だけが規則として残っている。
しかしどんな軍隊でも、陸軍少佐が大佐の制服を着ることには、いまだに反対があるし、
今後も特定の”公職の服装”は、今まで同様厳しく管理されて残るだろう。
公職のない人にとっては、着衣に関する法律が衰えると、
服飾の混乱をきたすと思われるだろうが 、これは全く事実と違っている。
どんな服でも自由に着るというようにはならず、社会全体が規制をしてしまう。
まず、法律はエチケットという規則に置き換えられた。
エチケットも法律のように事細かに書かれていたが、それが要求したのは、
国の法律に対する服従ではなく、むしろ趣味のよさに対する服従なのであった。
それ以後、厳しい階級構造の崩壊と共に、エチケットの本は歴史の中に消えていき、
規則も表面的には見られなくなった。
それらはまだ生き残ってはいるのだが、不文律となり、語られることも殆どなくなった。
今日では、この規則は下層階級でこまごまと複雑に入り組んで残っており、
以前のシステムとは完全に逆になっていることが多い。
例えば、最近あるイギリスの伯爵が、社会的地位を保持していることで、
何か利点があるかと尋ねられたときに、
「たった一つだけ、つまり、召使ほどきちんとした格好をしなくてもよいことだ」と答えている。
これは中世の彼の先祖から見れば、まったくの気違い沙汰だろうが、
最近の男性の着衣信号に突如としておこった大きな傾向が、この答えに要約されている。
この傾向は世界中を吹き荒れ、今やノルウェー の建築家やポルトガルの学校の先生ばかりでなく、
日本の銀行家やソ連の政治家もこれと同じ傾向にある。
男性の新しい傾向は、
彼らが高い地位を示す衣類の、新たな源泉を求めているということで説明できる。
もしどんな人でも華やかな絹やサテン地を買い、
ディスプレイをしている雄クジャクのように身を飾ることができれば、
このような行き過ぎは明らかに無意味になってしまう。
そして、一般庶民や高い地位を望む人々ですら、着想を別のところに変えるに違いない。
事実、彼らが求めたところは、18 世紀ではスポーツの分野であった。
その当時、地位の高い男性は、地位の高いスポーツを楽しんだ。イギリス紳士は狩猟に没頭し、
その場合には目立つモードを取り入れていた。
彼らは馬に乗りやすいように 、前が割れて後ろに燕尾のついたコートを着た。
大きく、つばの垂れ下がる帽子は、
つぶれたヘルメットのような形をした堅いシルクハットに置き換えられた。
この狩猟用のいでたちが、いったん当時の地位の高い人々のスポーツウェアとして確率されると、
これはレジャーや働く必要のないことと同義になった。
それは大胆な普段着として、当時の”若き血潮”にアピールし、
猟の分野から一般の社会的用途にまで広がった。
それは次第に受けいられてその冒険的な趣を失い、19 世紀半ばまでには、
”シルクハットと燕尾服“を少し変型した服装が、普通の普段着になった。
この服装がありふれたものになると、高い地位としての特性が失われてしまったので、
さらに”前衛的”な服装として、新たなスポーツの分野が取り入られねばならなかった。
今度は、それは射撃、釣、ゴルフへと変わった。これらはすべて金のかかるレジャーで、
新しい服装のアイデアに対する申し分のない源となった。
丈夫な射撃用ツイード服は、ほんのちょっと変わっただけでチェックの背広となり、
ビリコックハットは山高帽となった。
スポーツ用のもっとソフトな帽子は、中折れ帽になった。
最初のうちは、背広はまだ大胆で非常に略式だと考えられていたが、
明らかにその地位を失い始めていたとはいえ、正式の場合には、燕尾服だけが許されていた。
派手なチェックをやめ、色と柄をずっと地味にしたために、
背広はすぐさま燕尾服を昼間の社交的な催しから締め出してしまった。
結局燕尾服は、”昼間の礼装モーニング”として、
結婚式や他のこれに属する儀式という形式ばった場合の服へ、
また、”夜会服”として、特別な夜のために時代遅れの黒白姿へと退却した。
無常にも背広は、このようなとりでからからも燕尾服を追い立て、
現在ではそれを、高級レストランのボーイ長の服装という遺物的地位に落としてしまった。
それに代わって、いたるところにタキシードが進出した。
これは背広を新たに時代遅れの黒と白の取り合わせへと変形したものである。
背広がこの神聖な地位に到達するや否や、
それを新しくより大胆なスポーツウェアに置き換えることが必要となり始めた。
そのスポーツウェアとは、クロスカントリーで馬に駆け足をさせるときに、
地位の高い人が来た乗馬用ジャケットのことであり、“スポーツジャケット”として知られる、
日常のカジュアルウェアへとなっていった。そしてすぐに、長い社会的道筋をのぼり、
会議室や重役室にまで達したのである。
今はまだ、自己の地位を堅く守っている背広と闘争中であるが、どちらを選ぼうとも、
現代のビジネスマンは例外なく、以前にスポーツウェアであったものを着ているのだといえる。
近年になってひとつの新しい傾向が現れた。
ますます平等主義へと向かっている社会では、
“特権階級”の人々に対する嫌悪が増大したので、地位の高い男性は、非常に微妙なやり方で、
自分の着衣ディスプレイをすることが必要になってきた。
地元のバーへ飲みに出たとき、金持ちのヨットマンのまねをして、
ぴかぴかに光る真鍮のボタンがついたスマートなヨット用ブレザーを着ていた男性は、
今度は非常に困ってしまった。地位の高いスポーツへ入り込むことはもうできなくなった。
その代わりに必要となり始めたのは、たとえ金持ちだろうと有名だろうと、
心底は“貧しい者”なのだということを表明するために、
明らかに地位の低い職業から服を借りてくることである。
貧しい者症候群の最も初期の徴候は、地中海での休暇中のファッションから生じた。
そこでは、地方の漁師のラフなシャツやセーターが、
すぐに金持ちの青年の普段着へ吸収されていき、
それ以来、これはカジュアルな衣類として殆ど全世界に広まった。
このときからノーネクタイが多くのレストランの入口で問題を起こすようになったのである。
アメリカ西部の貧しいカウボーイが着るデニムジャケットとジーンズが採用されたのは、
もっと重要であり、
それは今日まだ何百種類もの変形を生じながら広がりつつあるひとつの傾向である。
もちろんこの最近の傾向にはひとつのトリックがある。
というのは、地位の高い男性がこのような新しい服装をするときには、
貧しいためにそれを着ている地位の低い男性の本当の仕事着と、
何らかの方法で区別されねばならないからである。
着衣信号は、「
自分は貧しい者に見せているが、本当は違うのだ」
というひねくれたメッセージを伝えねばならない。
そのためには幾つかの方法がある。
第一は、本当に貧しい者なら、“一番いい服”を着たがるような社会状況においても、
セーターやデニムを着ることである。
第二は、表面的な貧しさはなくさずに、きれいに仕立てて、
スタイルをよくした“貧しい”衣類を着ることである。
第三は、もっぱら現代のマスメディアに属することで、以前にはなかったことだが、
有名な顔と対比させることである。
金持ちで有名で、決まってその顔が新聞、雑誌、テレビ、映画に出る人なら、
最もきらびやかな場所においても、”貧しい者“のみすぼらしい服を着ることができる。
そのとき、彼は自分の有名な顔と色あせたデニムの対比によって、
富を志向する文化に対し、厳しい攻撃をしている。
もし彼がぴかぴかのロールスロイスから降りるところを写真に撮られても、
そのときしわくちゃになった貧しい者の服を着ていれば、彼はその対比ゆえに許されるに違いない。
これは着衣信号という複雑な世界で見られる、たくさんの入り組んだ流れのたった一例に過ぎない。
何十年にもわたってずっと続いているものもあれば、
短期間、つまり、1 シーズンか2シーズンしか残らないものもある。
必ずしもそのすべてが、容易に説明されるわけではない。
最も不可解なことのひとつは、
女性のスカート
丈と好景気・不景気との間には、かなりはっきりとした相関が見られる。
皮相的には、好景気になると布をたっぷり使うロングスカート
が、
不景気になると布をあまり使わない短いスカート
が流行すると、予想されるかもしれない。
しかし事実を分析してみると、まったくその逆であることがわかる。
株式相場が上がるとスカート
丈も上がり、下がるとスカート
丈も下がる。
今までにこの関係を変化させようという試みが何度となくなされたが、みなうまくいかなかった。
1960 年代の好景気に、ファッション会社は、
当時流行していた”ミニ“の 2 倍の長さもあろうかという”ミディ“スカート
を取り入れることで、
スカート
製造に使われる布の量を、2 倍にふやそうと躍起になった。
しかし、ミディスカート
計画は高価な失敗に帰し、スカート
はミクロ程度にまで短くなり、
ピーク時にはホットパンツ丈煮までなった。
長いスカート
丈の流行は、1970 年代の景気後退期に見られただけである。
同じことは、第一次と第二次世界大戦の間の時期についてもいえる。
すなわち、1920 年代の好景気には短いフラッパースカート
が流行し、
その後、1940 年代と第二次世界大戦の間では、防衛のために国民生産率がピークに達し、
再びスカート
丈は短くなった。
しかし、戦時中の耐乏生活のあおりを受けて、
1940 年代のニュールック・スタイルでは、また丈が長くなった。
経済的に豊かな 1960 年代には次第に丈が短くなり、
この好景気の絶頂では、スカート
はその全歴史を通じて最も短かった。
1960 年代の終わりごろに、デザイナーは、すでに股の装飾可能性について語っていたが、
1970 年代初頭の経済の崩壊によって、
男性はこの非常に極端な女性ファッションの楽しみを奪われてしまった。
今、1970 年代の終わりにあたって、ミニスカート
の再導入が早くも語られているが、
それがうまくいくかどうかは、ファッション会社の企画よりも、国際政治の成功や失敗次第である。
何故、女性は経済状態がよくなると、脚をたくさん露出させるのだろうか 。
それは理解しがたいことだが、
財政的に保証されていると思うと、女性は男性に対する大胆な誘惑を感じるのだろうか。
おそらく、経済の一般的な活発さが、女性に身体的活発さを感じさせる。
つまり、スカート
が短いほど便利であるため、スカート
丈を短くするのであろうか 。
ひょっとしたら、今後のスカート
丈の変動が、明快な説明を与えてくれるかもしれない。
ファッションの傾向はすぐに世界中へ広がるので、
もっと短期間の変化が、さまざまな方法で生じている。
この多くは”目新しい変化“以外の何ものでもなく、それを着る人が、
他人に、最新のものであると知らせたい欲求に基づいている。
最新モードのディスプレイは、当人の流行意識だけではなく、
定期的に新しい衣類に金を払える能力をも示しており、
それゆえに、特別な地位を示す価値をもっている。
この種のさほど重要ではない新しい傾向は、前シーズンのファッションを少し変えたり、
逆にしたりするもので、はっきりとわかることが多い。
例えば、男性の襟幅は、頭版の裾幅、ネクタイ幅、シャツカラーの高さ、靴底の高さがそれぞれ広く、
高くなったように、ここ数年の間に広くなってきている。
このようなさまざまな変化を測定することによって、着衣信号の変化をグラフに描くことができる。
これによって、最初はある要素が、次には別の要素が変化して、
その結果絶えず変化する服装ディスプレイ体系が生み出される方法を、
示すことができるに違いない。
われわれは始終無意識のうちに、このような図を描いており、
あらゆる出会いの中で仲間の衣類が伝えてくれる多くの信号を、気づかないうちに読み取っている。
こうして着衣は、ジェスチャー、表情、姿勢と同様、人間の身体言語の一部となっているのである。
身体装飾
社会的な装飾
衣類を着るということは、人という種が自己を飾るたくさんの方法のうちのひとつにすぎない。
人はさらに、皮膚を傷つけ、穴を開け、髪を刈り込み、首に香水をつけ、爪を塗り、
顔に白粉をつけ、歯をやすりでこする。
これらの身体装飾には一生残るものもあるし、数時間しか持たないものもある。
しかしこれらはすべて、人の重要なディスプレイとして機能し、
装飾された身体がもつ社会的地位、攻撃性、集団への忠誠、しゃれっ気などの属性を示している。
メーキャップ、身につける宝石、マニキュア、かつらとヘアスタイル、香水などの多くの
一時的装飾は、服装の延長でしかない。
それらは衣類のように意のままにつけたり取ったりできるし、また、つけている人に、
いかなる持続的な社会的保障も与えることはない。
また、それらは繰り返し使われるが、気分や状況によって取り替えられてしまう。
あるいは流行が変われば捨てられてしまう。
永続的な装飾は、身体損傷も含んで、
集団への忠誠が非常に重要とされる固定した社会でよく見られるものである。
これは絶対に取り外せないバッジであり、死ぬまで、その所有者を他の集団と区別する。
これはしばしば特殊な儀式である部族の加入式で行われ、
加入者はその過程で非常な痛みを感じる。この痛みは、痛みを分け合った人々に、
自分をさらにしっかりと結びつける肉体的恐怖であり、絆を結ぶ儀式の重要な部分である。
その集団に属する資格を獲得するには、
耐え難いほどの厳しい試練を経なければならないので、それはその後もずっと、
自分の人生の中の何か極めて重要なことだと感じられる。
その経験が非常に強いため、
自分とまだそれを分け合っていない者との間の隔たりは大きくなるのである。
損傷はしばしば、性器部分に対して、思春期の頃に与えられる。
子供は生まれて初めて、苦痛から逃れようとしても両親に頼ることができず、
両親から離れて、部族“クラブ”という社会集団に入る。
また両親が自ら子供に与える損傷もある。
それは子供が自分の身に何が起こっているのかわからない頃に行われる。
この場合、子供は成長するにつれて、
その特殊な身体特性が、自分とそれをもたない他部族とを、
違う種にさせている生物学的特長であるかのように考えるようになる。
身体各部の装飾
このような、一時的または永続的な装飾を研究する最もよい方法は、
身体各部をよく観察して、そこがどんな注目を浴びるかを調べることである。
まず髪についていえば、そこには明らかに非常に多くの装飾可能性があるが、
何をしようと髪は生え変わってしまうので、常に一時的装飾にすぎない。
人の頭髪で不思議なことは、それが非常に長いということである。
そのままにしておけば、男女とも邪魔になるほど伸びるから、
原始時代の先祖ですら、何らかの注意を払ったに違いない。
男性のあごひげも切らずにおくと非常に長くなり、背丈よりも伸びたという事例もある。
― 実際長すぎたために、その人はある日、長いあごひげにつまずいて死んでしまった。
先史時代の狩猟者が、これほど長い体毛で何をしていたかは謎であるが、
それが特に社会的身づくろいを増大させる刺激として有用だった、と考えれば理解できる。
サルや類人猿は、互いの身づくろいに多くの時間を費やし、
この動作は彼らの間の友好的関係を強める。もし原始人が、
定期的に髪を切る必要があったとすれば、多分それは友好的な身づくろい儀式を増大させ、
社会的関係をよくする助けと成ったと考えられる。
もともとの価値が何であろうと、人類の頭髪は何世紀にもわたって、
きわめて重要な装飾器官であり、しばしば男女が異なる髪型をすることで、
さらに性別信号としても使われた。
それは年齢や地位の印として、何百というスタイルで装われ、さらに念入りにするために、
蝋、軟膏、かつらが使われた。人工的な髪を用いることは、少なくとも 5000 年昔にさかのぼる。
古代エジプト人は普通頭をそり、儀式の際には特別なかつらをかぶった。
彼らは人毛や植物繊維を使い、みつろうでそれを固めた。
またかつらはローマの婦人の間でもポピュラーで、そのかつらは 被征服民の髪で作られた。
ローマの売春婦は黄色に染められたかつらの色で、それとわかった。
ローマの男性は現代のようにハゲを隠すためにだけかつらを使い、
そのことは 秘密にしようとしていた。
初期のキリスト教は、かつらの人工性と虚栄を嫌い、
司教は異教徒の髪で作られたかつらに触って祝福を与えることを拒否した。
女信者の自然の頭髪ですら、誘惑的で呪わしいものとみなされ、
また中世では、婦人はきっちりとした頭巾の下に、髪を隠すよう要求された。
エリザベス朝になって、かつらと精巧な髪型が完全に返り咲いた。
エリザベス女王が自分の薄い髪をふさふさしたかつらで隠したので、
それにあやかろうとした夫人たちがすぐにそのまねをして、
かつらは再び高い地位のディスプレイとなった。
同じ頃フランスでは、ヘンリー 三世が危険な薬品で髪を染めたところ、
毛が抜け落ちてしまったので、
内側に髪の房を縫いとじてあるベルベットの帽子をかぶらざるを得なくなった。
ここでも宮廷の人々はそれを真似て、
17 世紀までにはヨーロッパのどこでも、大きな装飾的なかつらが見られるようになった。
ルイ14 世は、32 歳ではげてしまい、立派な黒いかつらで伝統を保ちつづけた。
それは毎朝閉じられたカーテンを通して手渡され、夜も同じようにカーテンの外へ手渡された。
このために、王のハゲ頭を一目でさえも見た人はいなかった。
キリスト教会では今でも、このような外見を装飾するものについては、意見が深刻に分かれており、
かつらをかぶっていない聖職者が、
同僚のハイカラなかつらを払い落とそうとする醜い光景が礼拝堂で生じた。
18 世紀にヨーロッパのかつらはますます精巧になり、
この時期に、110 種以上もの男性用かつらがあったことが記録されている。
最も大きかったのは、極端なマカロニ型のかつらであった。
これは馬の毛を中に詰めたもので、約 45 センチもの高さになった。
かつらは高価だったので、金持ちだけしか本当の大きなかつらをかぶることができなかった。
それを作るには、数人分の本物の髪が必要で、そのため、
”大きなかつら”という語は重要人物に対して使われた。
18 世紀のかつらは、明らかに偽物とわかるものであったので、
頭を掻いたり、洗ったりするために、また友人とくつろいでいるときの快適さのために、
しばしば人前ではずされた。
古代エジプトでそうであったように、かつらの下の男性の頭は、
そられたり、短く刈られたりしていた。
その時代には、かつらを着用すると幾つかの利点があった。
衛生学は発達しておらず、かつらを洗うためにはずすことは 、清潔さを保つのに役立った。
またかつらはそのときの気分や場合に応じて変えることができ、
持ち主が家を離れなくても美容師のところへ送ることができた。
さらにかつらをかぶると顔が十分に隠れたので、お忍びで外出することもできた。
しかしつまるところ、かつらはファッションと社会的地位のディスプレイであった。
18 世紀後半になると、女性のかつらは、男性のかつらよりも著しく贅沢になり、
極端な場合には約 75 センチもの高さに達したので、馬車の座席を低くしたり、
出入り口を高くする必要があった。
フランスは名案を生む中心地であり、そこでは流行の先端を行く女性は、
一日の半分をかつらの毛を逆立てることに費やし、殆ど一週間というものはかぶりっぱなしなので、
眠るときにはベッドに特殊なかつら支えが必要だった。
本物の髪はかつらの中にすき込まれ、
髪の寄生虫やたくさんのピンによる引っ掻き傷のために、深刻な問題が生じた。
ギロチンが落ちて、フランス革命が終わると、かつらによるファッションは廃れていき、
再びこのような極端な例が見られることはなかった。
同じ頃北アメリカでは、清教徒の牧師の怒りや、かつら税の導入にもかかわらず、
かつらは何年にも渡って栄えたが、アメリカが独立を勝ち取ると、フランス同様廃れていった。
こうして精巧で古いヨーロッパのヘアスタイルは、どこでも速やかに消えていき、
新たな単純なヘアスタイルが現れ始めた。
ビクトリア朝時代を通じて、かつらの役割は目立たないものになっていった。
つまり髪の不足を補うためだけに使われ、”見えないヘアカバー”と遠まわしに呼ばれた。
ヘアスタイルは男女ともずっと控えめで、ファッションの些細な変化以外、
近年まで殆ど表立った変化はなかった。
1950 年代に、アメリカで人造毛髪が考案され、安くて非常に効果的なかつらが作れるようになった。
1960 年代までには、新たなかつらブームが訪れ、ヨーロッパやアメリカの流行を意識する
女性の約三分の1が、簡便なかつらを使用していると推定された。
豊かで活発な 60 年代の楽しみのためのかつらは 、さまざまなサイズ、形、色のものが出回り、
偽の髪として秘密に使われるのではなく、再びかつらとして公然とかぶられるようになった。
現代の男性はいまだにそうなってはいない。
その代わりに、ますます自然に見えるかつらを作る方向へと向かっている。
この傾向の極致は、毛髪移植手術が考案されたことである。
それは頭の一部から髪と皮膚を切り取って頭頂のハゲに移植するものである。
1970 年にアメリカの芸能人がこの種の植毛に一万二千ドル支払ったと評判になった。
この値段は、マリー・アントワネットが、約 90 センチの高さの見事な宮廷用かつらを作らせて以来、
【身体装飾】の中で最も高価なものである。
1960 年代が終わりに近づくと、明らかにそれとわかるかつらは再び衰退していき、
女性はもっと自然なヘアスタイルへと戻っていった。
しかしそれらが装飾的でけばけばしいかつらの最後であるかどうかは疑わしい。
自然の髪の信号が広まるに連れて、それらはきっとまもなく現れるだろう。
かつらには他の多くの身体装飾を上回るひとつの大きな利点、つまり、目立つということがある。
今日では身体の殆どが衣類で覆われているので、
装飾品をつけられる主たる部分は頭と手である。
それゆえ、人工の髪はその利用可能な部分として分け前をたくさんもらえるのである。
次に考察する部分は顔である。
顔については髪同様その装飾の形やスタイルが何世紀にもわたって際限なく変わってきた。
古代の化粧箱を見ると、
古代エジプト人が、顔のメーキャップに細かな注意を払っていたことがよくわかる。
また、古代の壁画は、驚くほどはっきりとその努力の結果を示している。
メーキャップとは、人間の顔に何かをすることである。
それは顔を変え、日差しから顔を守り、より若く健康的に見せ、
特定の社会的範疇に所属するものとして分類したりする。
また、攻撃性や性別をも知らせてくれる。
髪の装飾と同じく、あらゆるメーキャップが不自然なものとして撥ね付けられた時代もあるし、
逆にメーキャップしないでいると、見苦しい露出に等しいと考えられた時代もある。
部族社会ではメーキャップが共同体の中で、
個人の地位を確立する上に重要な役割を演じており、
当人にひとつの文化的”バッジ“を与えるものである。
それはメーキャップした人を、想像上の悪魔から守る保護的なものとも考えられているが、
現実的には同じことである。というのも、
それが与えられる真の保護は、集団構成員の保護だからである。
古代社会ではメーキャップの基礎をなす動機は保護であって、
それは悪魔からの保護ではなく、太陽からの保護であった。
サン・ローションを塗って日光浴をする現代人のように、
古代エジプト人は皮膚をいためる太陽光線から、自分の顔を守った。
彼らの有名なメーキャップの原料のひとつは、珪酸水素銅であり、
これは強い日光のために起こる化膿の即効治療薬であった。
しかし化粧品への興味は純粋な保護以上のものとなり、細部まで非常に装飾的になっていった。
例えば、クレオパトラは、まゆに黒い方鉛鉱を使い、
上まぶたを深い青に、下まぶたを明るい緑に縫った。
上流のエジプト女性は、多くの時間を化粧室で費やし、特殊なひじ用クッションを使用したが、
これは精巧なアイラインを引くときに、丸く動かす腕を安定させるためであった。
化粧箱にはアイペンシルの筒、シャドー・パウダーの容器、着色された軟膏の瓶、
化粧用瓶、混合用の青銅の皿が入っていた。
メーキャップには装飾的であるのと同時に防腐的なものもあり、
強い匂いのつけられたものもあった。
卵白の顔マスクのように、皺を隠すために使われたものもあった。
赤みがかった黄土色は、頬に健康的な色を使われるのに使われ、洋紅色は唇につけられた。
口紅は現代の発明品と考えられることが多いが、
実際には少なく見積もっても5000 年の昔からあったのである。
したがって顔の装飾については、新しいことは殆どない。
何世紀にもわたって生じたことは、種々の文化が古代の人々や部族の人々の化粧活動を、
いろんな程度で是認したり否認したり、つまり、強調したり制限したりしたことである。
古代ギリシアのような入念な化粧が、
ひとつの特殊階級である高級売春宿【男女にかかわらず】に限定されたときもあれば、
王族から下へと広がったときもある。
後世になると、悲惨なことにメーキャップの薬品はますます危険になり、
よくなる筈だった顔がだめになることも多かった。
そしてこのために荒れた顔を隠そうとする、気違いじみた試みがなされるようになった。
病気も滑らかな肌を荒し、しみや傷は顔料の厚い層で幾重にも覆われた。
17 世紀には、”おしゃれ用付けぼくろ”が大流行した。
これは小さなつけぼくろで、ちょっとした傷やほくろを隠すのに使われた。
まもなくこれは独自の意味を持つようになり、特殊な顔信号となった。
ロンドンでは政治的な記章として使われ、右派のホイッグ党員は右の頬に、
左派のトーリー党員は左の頬にほくろをつけた。
簡単な黒いほくろから、すぐに三日月や星型のような代わった形が現れた。
そして、ルイ15 世の宮廷では、装飾される顔の部分に意味がこめられ始めた。
つまり、目の淵は情熱を、ほおの真中は快活さを、鼻は生意気さを、額は威厳を、
というように顔中に意味をつけた。
現代では、二つの大きな変化が見られる。
第一は、進歩した医学的治療が病気による皮膚の損傷を減少させたことであり、
第二には、科学に進歩が現代の化粧品を安全なものにし、有益にさえしたことである。
その結果、20 世紀のメーキャップは、薄くなり、危険ではなくなった。
それは塗り固められた顔から陰のある顔へ、皮膚の塗装から皮膚の手入れへと変わっていった。
まゆ、目、唇などは昔のように変えたり、誇張したりするが、滑らかな皮膚表面に対しては、
今では昔とは完全に違う方法をとっている。
昔は口紅は縫っても塗らなくてもよかったが、顔には殆どいつも白粉をつけたり、白く塗ったりした。
これは地位が高いという信号であり、地位の低い女性だけが外で働かねばならず 、
日焼けで頬をいためたという事実に基づいている。
地位の高い女性は、日差しから保護されていたので、
極度に白い顔は、高い地位としての価値を高めた。
また、口紅をつければ、それは健康であることを示した。
しかし現代女性では状況は完全に逆転している。
今日のようにもっぱら工業化した世界では、
日光にあたれる長い休暇を取れることが重要なディスプレイとなっている。
長期間日光浴ができることが、地位の高さを示すので、
本物でも人為的なものでも、新たな顔のバッジとなり、
化粧も白から褐色へと変化するようになった。
近年になって行われるようになった、顔に施すもうひとつの工夫は、
美顔整形手術という極端な現象である。
これには年齢による顔の皺を隠すために、
皮膚の一部を切って、残りの部分を引き伸ばすということも含まれている。
顔の皺を取り、鼻梁を治すことは、今日でもまだ極端なことと考えられているが、
別の現代的進歩である美顔用の歯科医術は、コンタクトレンズ同様今では広く受けいられている。
【バイオニックマン「改造人間」】は所詮現実逃避の空想の産物であるが、
バイオニックフェイスは、われわれの中に殆どいきわたっているのである。
顔を若く健康に見せること以外に、また、だからこそ訴えるものがだが、
丁寧なメーキャップができることは、次に三つのことを意味する。
時間、道具、サービスである。
時間は金を、道具も金を意味し、細かなサービスが必要とされるところでは、
値段はなおのこと高くなる。
したがってこの三つを計算すれば、メーキャップ=豊かさ=地位という式が成り立つ。
これに基づけば、メーキャップは”私は日焼けするほど金持ちだ”という顔の信号であるし、
今後もそうであろう。
またこれに基づけば、メーキャップが入念なほど、ますます望ましいことになる。
言い換えると、女性が恥知らずにも、わざとらしく念入りにメーキャップした顔を見せれば、
彼女は威嚇ディスプレイをしているわけである。
激動の 1960 年代に西欧諸国におけるこのディスプレイは、
部族社会の戦士にも匹敵するほど狂気じみた装飾になっていった。
しかし、1970 年代の抑制されたますます平等主義へと向かう社会的風潮の中では
このような公然としたディスプレイは減退してきた。
今やその場所には、何か捉えにくいものが存在している。
メーキャップは消滅してはいない。
ただ、裕福さそのものに対する遠まわしな態度を反映して、メーキャップも遠まわしになっている。
裕福さと高い地位は、相変わらず求められてはいるが、
それを求めているのだと他人に悟られてはいけないのである。
現代は偽ピュ−リタニズムの時代であり、これが顔のディスプレイに及ぼす効果は、
歴史を振り返ってみれば、期待通りのものが見出せる。
過去において、けばけばしいメーキャップを抑制したものは、
古代ギリシア人の清潔さ、キリスト教教会のピュ−リタニズム、ビクトリア朝の上品さであった。
これらに時期には、巷の売春婦だけが、化粧品を塗った。
今やわれわれはこういった状況に戻ろうとしており
、
女性の顔は再び生き生きとして、無邪気に見えなければならない。
しかし以前と違うのは、女性が進歩したあらゆる化粧品を使って、
自分の顔を実際よりも生き生きと、
そして自然が与えてくれたよりも、なお自然に見せることができることである。
熟練者が観察すれば、装飾信号はそこにあるのだが、けばけばしくはない。
高価な仕立ての,色あせたデニムのように,顔では巧みにそれを否定しながら,
同時に,無頓着に見えるよう気をつけている、という二つのメッセージを伝えている。
顔から下にいって,一般的に身体の皮膚を眺めると,特殊な場合だけ皮膚を露出させ,
それ以外は身体全体を衣類で覆うという文化には,明らかに不利な点がある。
半裸の部族社会では,ボディー・ペインティングや入れ墨が広く見られ,
多くの場合,それは芸術作品である。
おそらく人類にとっては芸術の原型となるものであろう。
皮膚装飾の第三の型は,瘢痕形成というひどく荒々しい段階であり,体表面に切り込んだ傷口に
木炭その他の物質をすり込むことで,盛り上がった傷跡のパターンを形成する。
薄肉彫りは,色のついた入れ墨のパターンと同じように,永続的な装飾バッジである。
現代の着衣においても,これら三種の工夫は,ある方法で残っている。
ボディー・ペインティングは,1960 年代にちょっとカムバックした。
入れ墨は完全に消えてしまったわけではなく,海軍のドッグや
船員の行き着け場所の近くに引っ込んでしまっただけである。
瘢痕形成は殆どなくなり,
最後に見られたのは,ドイツにおける故意に加えられた決闘の傷跡であった。
多少とも皮膚の永続的変形を伴う入れ墨や傷跡は,本質的には忠誠心というバッジであり,
船員の好むデザインの多くは,男女の絆【ハートと矢】や
文化的な絆【国旗や国家の象徴物】のシンボルである。
入れ墨は時々特にその永続性ゆえに,もっと広い立場から使用されるべきだといわれてきた。
そして十九世紀には,結婚の義務の一部として,
左の薬指へ色のついた指輪の入れ墨をさせようという提案が本気でなされた。
これは疑いを知らない女性を食い物にしようとして,自分の結婚指輪をはずすような 男たちや、
不道徳な重婚者を懲らしめるためである。
妻が死ねば入れ墨で星をひとつ 加え,離婚すれば棒一本,再婚すれば二つ目の指輪を加える。
こうすれば結婚歴をごまかすことはできなくなる。
今世紀初頭に,アメリカの夫たちは,ニュージーランド原住民の習慣に習って,
妻に入れ墨を行い,他の男に自分の妻が結婚していること,
そしてうるさく話し掛けるべきでないことを,はっきりわからせてやろうと主張した。
これにもかかわらず,永続的な身体損傷の中でいまだに広く残っているのは,
水夫の入れ墨は別として,イヤリングをはめるために耳に穴を開けることと,
割礼式で包皮を切除することだけである。
唇に物を詰め,歯にやすりをかけ,耳を引き伸ばし,女性性器の一部を除去するなどの
部族的な損傷は,現代世界では行われていない。
実際,割礼だけが非常に過酷な唯一の原始的な損傷であり,
身体への暴行を憎む現代の傾向に抵抗して存続している。
しかし,それも幼児期ではなくて思春期に行われていれば,手術を受けるものが暴れて,
きっととっくの昔になくなっていたことだろう。
しかし赤ん坊の抗議は簡単に無視され,誤った衛生思想のおかげで,
男の子の性器変形は相変わらず続いている。
昔あった幼児への暴力形態のうちで,今は消えてしまったものに,
頭を押しつぶすという奇妙だが,一般に蔓延したやり方がある。
誕生時には人間の頭蓋骨は柔らかなので,たやすく変形できる。
アフリカ,南北アメリカ,ヨーロッパでは昔はもっぱら頭蓋骨の型取りが行われ,
望ましい形を作るために,さまざまな堅い拘束材料や圧迫版などが用いられた。
最も一般的だった頭のスタイルは,額を平らにし,頭頂を先細りに尖らせるものであった。
この形が好まれたのは,多くの身体装飾と同様に,それが高い地位に結びついているからである。
その理由は先のとがった頭の人は,頭で荷物を運ぶことができないので,
一生卑しい仕事をする必要がないことを誇示できるからである。
ヨーロッパでは異なる動機が見られる。
何人かの古代エジプト人のような頭蓋骨の後ろが膨らんだ頭が好まれ,
これは出生後すぐに,母親が子供の頭をしっかりとしばることで,容易に得られた。
この行為はフランスの田舎では,19 世紀になるまで残っていたが,
これは骨の形が知能に影響するという,骨相学の教えのためであった。
現代では頭は圧迫されることなく,この特殊な身体変形は足に向けられている。
つまり,20 世紀の靴屋が,人間の骨を押しつぶす役を引き受けた。
これは男性よりも女性に当てはまるのだが,現代の女性にとって幸運なことに,
昔に中国で見られた纏足という極端なことはもうなされていない。
高い地位の女性の纏足は,歩行を困難にし,不可能にもした。
― これまた卑しい仕事をする能力がないことをディスプレイするための変形であった。
現代の西洋女性が履いている,優雅に先のとがった靴も,きつい肉体労働には向かないが,
それによる足の変形はあまりひどくはない。
もちろん,人という動物が自己の身体を装飾し,
そのディスプレイとしての性質を強めるためには,他の方法もたくさんある。
乳首に紅やリングをつける,男性が模造の胸毛をつける,女性の陰毛をハート型に刈る,
などという風変わりであるがあまり見られていないやり方もあれば,
ネックレス,ブレスレット,指輪,マニキュアといったありふれて一般的なものもある。
まとめてみれば,それらは要するに広範囲にわたる”凍結“ジェスチャーであり,
それを作り出した動作に比べて,永続し非常に有効なディスプレイなのである。
振り上げたこぶしが与える視覚的衝撃は,腕が動いている間しか続かないが,
あらゆる,身体装飾が与える視覚的衝撃は,ずっと後まで続く。
装飾する動作の労力に比べて,
出来上がったディスプレイ衝撃の極めて大きいことが,人類がこの惑星を歩き回る限り,
身体装飾は存在しつづけるであろうという確信を与えてくれるのである。
性別信号
男らしさ,女らしさの信号
性別信号とは,その人が男性か女性かを確認するのに役立つ手がかりの事である。
さらにそれは,性別がすでにわかっている場合でも,男らしさや女らしさを強調するのに役立つ。
出生時に,人間の赤ん坊の持つ唯一の明白な性別信号は,性器の形である。
陰茎は男の子を,膣は女の子を意味するが,素人にわかるのはそれだけである。
もちろん他に性差もあるにはあるが,ふつうは観察できないので,それは性別信号にならない。
性別信号となるには,性差が目で見られねばならない。
新生児がいったん服を着させられると,事実上性別はなくなり,多くは単に”赤ちゃん”と呼ばれる。
人為的に性別信号【男の子には青,女の子にはピンク】をつけたり,
性別に結びついた名前を付けることもできるが,母親にとっては,赤ん坊は赤ん坊であり,
性別に関係なく同じように取り扱う。
子供が成長するにつれて,この事情は急速に変わっていく。
性別信号の多くは,思春期の開始を待たねばならないが,
それ以前に性別信号となるものが,他にもたくさんある。
その大部分は,子供が生活している社会によって課せられるものである。
男の子と女の子とは別々の衣類,髪形,おもちゃ,装飾品が与えられ,
別々の遊戯やスポーツが教えられる。
子供たちはまだ性的には成熟していないが,非常にはっきりした性的役割を与えられる。
社会は将来のために準備を与え,
生殖活動に必要となるずっと以前に,子供たちに性別の意識をもたせる。
この傾向は両性間の”性的ギャップ“を広げる効果をもっており,
その結果,大人になると,男の子は生殖だけではなく社会的にも男性になり,
女の子も生殖のみならず社会的にも女性になるのである。
この男女間の差を誇張すると,最近は激しい攻撃を受けるようになり,
今日ではそれとまったく逆に,差を誇張すべきではないと考えている人々がいる。
そういう人々は性的ギャップは人類の遠い過去のものであり,
現代ではもはやふさわしくないと主張している。
性別信号と狩猟,生殖
この主張が正しいのは,ある範囲までである。
その理由を理解するには,われわれの先祖が
原始的な狩猟者として進化してきた長い期間について,しばらく考えねばならない。
百万年以上もかかって,人類は典型的な霊長類の摂食様式から,
両性間の労働の分離を必要とするシステムへと変わっていった。
殆どの霊長類は,雄,雌,子供が一団となって歩き回り,採食場から採食場へと移動し,
果物,ナッツ,イチゴ類を見つけては,それを食べている。
われわれの先祖がこの生活様式を捨て去り,狩猟者の集団になったときに,
その社会体制すべてが変わらざるを得なかった。
狩猟にはもろもろの激しい身体運動が含まれているので,
その集団の女性たち― 殆どいつも妊娠しているか,子供を育てるかしていた―
は,後に残されねばならなかった。
このことは,その集団が移動することを止め,
狩猟の後に男性が戻れるような,固定した根拠地を設けねばならないことを意味した。
女性はこの根拠地の近くで野菜を採ってくるというように,あまり体力を使わずに食料を集めていた。
しかし,子供を産み育てるという重荷のために,
女性は男性のような狩猟の専門家にはなれなかった。
このように労働システムが分離した結果,
男性の身体はさらに特殊化して,走り,跳び,投げる機械となったのに対し,
女性の身体は改良された繁殖機械となった。
結局,性別信号のあるものは,男性の狩猟傾向から由来し,
あるものは女性の繁殖のための特殊化から生じている。
男性の狩猟によって生じた特徴には次のようなものがある。
1. 男性の身体は女性より背が高く,体重もある。骨格は大きく,筋肉が発達している。
【男性は女性よりも強く,重い荷物を運べる】
2. 男性は体格的に見て,女性よりも足が長く,足の裏も大きい。
【男性は女性よりも速く,確かな足取りで走れる】
3. 男性は女性よりは広い肩と長い腕を持っており,前腕は上腕に比べて長い。
【男性は女性よりも正確にねらいを定め,上手に武器を投げることができる】
4. 男性は女性よりも太い指と,強い親指のある大きな手をもっている。
【男性は女性よりもしっかり武器をつかむことができる】
5. 男性は女性よりも大きな肺と心臓を収めた,大きな胸を持っている。この特徴から,
男性は深い呼吸反応が可能で,そのためスタミナがあり,肉体疲労からの回復が早い。
【男性は女性よりも強く長く呼吸できるし,長距離の追跡もできる】
6. 男性は女性よりも強くごつごつした頑丈な頭蓋骨を持ち,あごは分厚く頑強である。
【男性は女性よりも肉体的ダメージに対してよく保護されている】
これらを総合すると,このような特徴は,
現代の陸上競技会で,何故男女の種目が分けられねばならないかを説明してくれる。
全世界から最も優れた女子選手を選んでも,
最も優れた男子選手の走行スピード,跳躍距離にはかなわない。
けれども,一般集団の中では,ある程度の重なりがあり,
男女各 100 人ずつからなる無差別抽出群から,最も強い人間を 100 人選んだとすると,
その内訳は,男性 93 人に対し女性 7 人という割合になるだろう。
言い換えると,男女 100 人のうち最も弱い 7 人の男性は,
女性 100 人のうちの最も強い 7 人の女性にかなわないということである。
したがって身体に限っても,男女の集団間を画すはっきりとした一線はない。
身体的差異は,強さに関する程度の問題だけである。
この比較的小さな差は,極めて初期の段階から,
男性は武器使用者であり,獲物を狩り,捕食者から身を守り,ライバルの男を攻撃する場合には,
見事に発達した筋力よりも,頭脳と武器を頼みにしていたという事実に基づいている。
男性は優れた競技者とならねばならなかったが,体重が重くなる必要はなかった。
しかし男性の体格が女性とひどく異なってはいないにしても,
男女の違いが十分にわかる特徴があり,性別信号という印象的な装いの源になっている。
そのいくつは,純粋に解剖学的なもの,つまり,広い肩とがっしりした手であり,
あるものは種々の解剖学的差異から生じる行動的なもの,例えば,投げる動作とか歩幅である。
女性に目を転じると,子供を産み授乳するという,
特殊化された役割から生じる,幾つかの重要な性別信号が見られる。
女性の骨盤は男性よりも広く,やや後退している。
ウエストはすらりとし,股は肉太である。
へそは深く,腹部は長く,乳房はふくらんでいる。
胎児を運び,分娩し,授乳するのに役立つこの特殊化によって,
女性の輪郭は独特の変化をしている。
前から見ると胸は男性よりも狭いが,横から見ると突き出した乳房のために,
少し離れたところから見ても厚く見える。
胴も,細いウエストと骨盤を覆っている大きなヒップのために,はっきりとした砂時計の形をしている。
股の付け根は広くはなれているので,
女性では股の隙間が大きく,膝のあたりでぴったりしているので,しばしばX脚のように見える。
骨盤は後退しているので,女性の臀部は男性よりふくらんでいる。
また肉付きがよく,幅が広いので,よく目立つ。
女性が歩いたり,特に走るときには,子供を産むための解剖学的特長のせいで特別な走り方を示す。
股が内側に曲がっているために,足は半円回転をする。
臀部はますます揺すられ,身体も男性と比べて驚くほど対照的な方法で,揺れ動く傾向にある。
さらに,足が短いために,歩幅が狭くなり,走る動作も一般に男性よりもずっと無器用になる。
この最後の点は,誇張されていると思うかもしれないが,
そう思うのは,走っている女性についてのわれわれの経験が,
殆ど女子運動選手や若い女性を観察しているからである。
成功をおさめた女子選手は,むしろたまたま男っぽい体格を持っていたからであり,
少女については,まだ女性的プロポーションが十分に発達していないからである。
その代わりに,競争している母親たちを無差別にそのまま観察してみれば,
歩き方の性差はすぐに明らかになるだろう。
バスをつかまえようとして走っている中年女性は,中年男性よりも走るのが苦手である。
その走り方は女子陸上選手とは驚くほど異なっている。
大きいヒップの中年女性は足の運動だけが苦手なわけではない。
重くて揺れる乳房も,急速で活発な動作を妨げる。
対照的に,女子の運動選手の身体は,長い手足,小さなヒップ,平らな胸という傾向がある。
しばしば見落とされるひとつの小さな性別信号は,腕を上げることに関係している。
女性の肩は狭いので,男性と比べると,上腕が通常体側近くに保たれている。
逆に胸の広い男性は,腕が体側から離れて垂れ下がっている。
これは特に重量挙げやボディービルをやっている男性で著しく,
彼らの腕は上体ががっしりした胴の両脇に離れて下がっている。
典型的な女性は,ひじを身体の近くに寄せる傾向がある。
この特徴はしばしば男優が女性やホモを演じる際に誇張して真似られる。
この上腕が接近していることは,ヒップが下へ広がっていることと合わさって,
物を運ぶのをいっそう困難にしている。
女性のこの解剖学的特長は,上腕と前腕間の角度が,男性よりも6度以上大きくなっていることで,
その埋め合わせをしている。
このことは女性の上腕をそのままにしておき,
前腕を身体からできるだけ横に曲げるテストをすることでわかる。
もし男性が上腕を脇に寄せ,
前腕をできるだけ横に広げれば,彼は女々しいという性別信号を伝えていることになる。
この腕の姿勢の差は,些細なものであるが,男女とも仲間を見る場合に,
このことを無意識に反応していることがわかる。
性別信号の多くは,このように意識下で作用しているが,
それでもなお,出会う人に対する行動を決定する際には,重要なのである。
性別信号のディスプレイ
その他にも非常にはっきりしたもので,男らしさ,女らしさの信号として発展してきたものがある。
それは上で述べた男性の狩猟や女性の生殖上の特殊化とは結びついてはいない。
それらは純然たるディスプレイとしての特徴をもっている。
それには以下のものが含まれる。
男性:太く低い声,はっきりわかる喉仏,あごひげ,口ひげ,ぼさぼさのまゆ,毛だらけの鼻腔と耳,
一般的に毛深い体表面,この例外は頭頂で生涯の後半ではげることが多い。
女性:球形に突き出した乳房,肉感的な唇,すべすべして敏感な肌,
丸っこい膝と肩,臀部の上の大きく広いくぼみ,身体中にある大量の脂肪。
又男女間には古くから匂いの違いがあり,われわれは今なおそれに対して反応しているが
,他の霊長類とは異なり,比較的小さな役割しか演じていない。
このような匂いは,特にわきの下や股の皮膚にある特殊な分泌腺で作られる。
この部位の体毛は,匂いを保ち,強める,匂いのわなとして働く。
イブニングドレスを着たり,海岸で腕をむき出しにする婦人たちは,腋毛をそっている。
このこと本来の女性として匂いを減少させることになるのだが,
普通その動機は違った風に表現される。
つまり毛はいい匂いのするものとしてよりも,”見苦しいもの“だとみなされているからである。
嗅覚的な性別信号を減らそうと,すべての試みがこのような 隠蔽的なものだというわけではない。
身体の防臭剤は,紺にと多くの人々に使われている。このやり方には危険が伴う。
本来の代謝を化学的に妨げることは,皮膚にとって必ずしもよいことではない。
しかし何故この傾向が発展したかには十分な理由がある。一言でいえば,その答えは衣類である。
衣類の着用によって,皮膚からのむっとする汗やその他の分泌物は,そこにたまりやすくなる。
そして匂いは急速に悪臭となり,性的魅力を失う。
空気や太陽にさらされると,皮膚の匂いやサイクルもかなり違ってくるのだが,
これはもう過去のものであり,現代の男性,
そして女性ができるのは,
ただ繰り返し洗うことによって自然の状態に近づけようとすることだけである。
皮膚の専門家はこれだけで充分であり,
化学的な防臭は不必要,かつ皮膚に害になることだと感じている。
害になるかどうかは別として,それは確かに最も古い性別信号のひとつをなくしてしまうものである。
女性がしきりに匂いの脱性別化を図る一方で,
男性も毎朝熱心に顔の性別信号である口ひげやあごひげをそる。
確かに口ひげやあごひげを生やした男性は,今日数多く見られるが,
男性が顔をあたる習慣には,長く古い歴史があり,
それは歴史上のさまざま時期に現れ,広く行き渡っている。
それはたとえ,必ずしもあらゆる文化に存在しているわけではないにしても,
局地的に流行した気まぐれ以上のものである。
この特異な形態の脱性別化が,これほどまでに一般化した理由は,殆ど検討されていない。
普通は飲食時の清潔のため,あるいはひげをそる時間があることを示す地位のシンボルとして,
また,隣の毛深い部族の人々と区別する特徴として,
あるいは単に気まぐれな流行としてその理由が述べられる。
このような説明にはどれにも幾ばくかの真実が含まれてはいるが,
なお表面的なものにすぎない。そこにはより基本的な理由が二つある。
ひとつは視覚的,毛ひとつは触覚的である。
きれいにそってある男性の顔の利点は,顔の表情のより微妙なニュアンスを伝えられることである。
人という種では,口の動きとそのときの形が極端に複雑であり,口の部位からの視覚信号は,
口の周りや上にかかったひげをそることによって強められる。
触覚的利点は,性交時の皮膚と皮膚の接触という,エロチックな価値に関係している。
男性が相手の皮膚に顔を押し付けるとき,ひげをきれいにそっていれば,
触覚信号をより敏感に受け取ることができる。
しかしこれらの利点は,古代の男性の性別信号を喪失させることになるので,
毛深さ∼無毛という振り子は,文化や時代によって揺れつづけている。
さらに毛そのものについても,一般に男性の体表面が女性よりも毛深いのは,
奇妙なことだといわれている。
男性が狩猟行動による過熱を防ぐために,
改良された冷却システムの一部として厚い毛皮を失ったのであれば,
男は両性のうち毛の少ないほうの人間になったはずである。
これに対する答えは,人の毛がいったん減少して,
肌が機能的に充分に露出した状態になってしまえば,冷却に関する限り,
それ以上は体表面に毛がいくらか残っていようが,いまいが,殆ど差がないというものである。
僅かに毛深い男性の身体は,過熱に関して女性よりも損だというわけではない。
次には,女性の過度の無毛性が温度調節と結びついていないとすれば,
何故女性の無毛化はさらに進んだのだろうか 。ということを説明せねばならない。
この答えは,ひげをそった男性の顔と同様,触覚的なものである。
すなわち性交時の身体接触において,皮膚の感受性が増すということである。
ある専門家は,女性の性感帯について,女性のデリケート
でむき出しの皮膚は,
性感帯を持っていない,つまり,すべてが性感帯そのものであり,体表面全体が極めて敏感なので,
あらゆる部位への穏やかな接触が,潜在的な性経験になる,とまで述べている。
このことは,婦人たちが特にビロード,毛皮,絹,
その他の柔らかな織物への接触を何故楽しむかという理由になる。
このことが女性の体毛が極めて少ないということの起源を,説明しているかはどうかはさておき,
滑らかで無毛の皮膚が,人という種における女性の強力な性別信号になっており,
口ひげがちょっと生えていたり,手足が毛深かったりする婦人は,
男性的だとみなされるのは事実である。ひそかに脱毛することが非常に多いのは,このためで,
もっぱら見苦しい体毛の除去を扱って,繁盛している病院もあるほどである。
男性の頭頂では,薄くなりついにはハゲになってしまう髪の毛を,
入念に補充するという逆の過程が行われている。
ハゲは二重の信号を伝えている。男性であることと,歳をとっていることである。
入れ毛,かつら,植毛は男性の信号ではなく,むしろ年齢の信号に関係している。
頭髪を補充するにつれて,男性としての性別信号がなくなることは,
はげ頭が加齢ディスプレイとして作用することを考えれば,さして重要ではないのである。
加齢と結びついた範疇に入る,男性の他の性別信号は,太鼓腹が進むことである。
原始的な部族民なら,これを狩猟の成功を誇るバッジとするだろうが,
現代の男性にとっては,はげと同様,明らかに若さの喪失を意味する。
若い男性は殆ど皆,平らで脂肪の少ない腹を持っており,
太鼓腹は人生の後期に目立つようになるので,それは再び年取った男性の性別信号になり,
それゆえ避けられねばならなくなる。
したがって男性用食事,運動,時には男性用コルセットする存在するのは,
太った中年の外形を治そうとするからである。
太鼓腹がもっぱら男性の性別信号であるという観察事実は,女性の体脂肪の分布が,
男性と異なるという事実を反映している。女性は男性よりも体脂肪が多いばかりでなく,
その分布も異なる。
この多い脂肪層が,外見上の性別信号となっている部位は,肩と膝,乳房と臀部,股である。
大きく丸みを帯びた臀部は,
古来の性別信号であり,他の霊長類の性的隆起と同じ意味をもっていたのであろう。
サルや類人猿では,
このような雌の性的隆起は,性周期に応じて大きさが増減し,排卵時に最大となる。
人の女性にはこのような 変化は見られず,
臀部は生殖可能な期間中ずっと突き出したままであって,
いつでも性的に反応できるようになっている。
丸みを帯びた半球型の乳房や,程度は劣るが,肩や膝の丸みも,
女性に臀部の丸い両半球にそっくりである。
筋肉の滑らかな両半球が,人という主に置ける女性の性別信号の手がかりであることは,
ほぼ確かであろう。そしてこの基本的な形に対する男性の反応が
生得的反応となっていることを,信じさせる理由も数多い。
もちろんこれを立証する手段はないが,こういった類の事は,
いわば遺伝子によってコントロールされた【生命保険】のようなもので,
それを放棄することは,われわれの種にとってむしろ軽率なことであるといえよう。
幾つかの民族では,臀部の信号は,西欧よりずっと極端になっている。
アフリカのブッシュマンとホッテントットには,脂肪臀症として知られている状態がある。
臀部は大きな脂肪質の隆起となっていて,普通の女性の数倍もある。
面白いことに有史以前の芸術家の手で彫られた小さな立像も,この状態を示していることが多く,
この状態は,古代においては,アフリカ同様,ヨーロッパやアジアにも存在していたに違いない。
初期の女性にとって,脂肪臀症はまれな状態というよりは,むしろ典型的なものであったのだろうし,
現代のホッテントットとブッシュマンの女性たちは,
単に数千年前に見られた女性の原型の最後の遺物なのであろう。
女性の両半球に対して,
現代の男性が強い反応を示すのは,おそらくこの古代の状態のためであろう。
その時代には,女性は臀部からこのような強力な性別信号を伝えていたに違いない。
さてこれまで述べてきたことは ,人類に備わった生き物としての性別信号である。
つまり,その狩猟,生殖,純粋なディスプレイという諸特徴である。
これらに加えて,外見からわかる基本的な性器の相違,すなわち,
男性の陰茎と睾丸,女性の外陰部
【この違いは衣類を着ていても股のふくらみの有無でわかる】もあり,
明らかに相手の性別を知るためには広範囲な手がかりがある。
しかしこれらの手がかりも,
人為的に増幅され,文化的に発明された手がかりに比べれば,はるかに不十分なのである。
上に述べた生まれつき備わった性別信号の殆どすべてのものは,
いろいろな文化の中で,人工的に誇張された形で見出すことができる。
男性の背が高いことは,高いかぶりものをかぶることでしばしば増幅される。
男性の広い肩は,パッドの入ったジャケットや肩章のついた上着を着ることで,さらに広く見せられる。
女性の細いウエストは,きっちりしたコルセットでさらに誇張される。
女性の突き出した乳房は,ブラジャーカップやパッドで,そのふくらみがさらに強調される。
女性はまた,ヒップや大きい臀部に,パッドや腰当をさらにつける。
大きく肉付きのよい唇は,口紅で誇張される。
小さな足は,ぴっちりした靴を履いたり,
東洋では,残酷で苦痛の多い纏足によって,さらに小さく見えるようになされる。
滑らかな皮膚は,白粉や他の化粧品でさらに滑らかにされる。
こういったリストはもっと長くすることができる。
両性間の基礎的な解剖学的差異と,殆どあるいは,
まったく関係のない,純粋に文化的な発明を加えると,このリストはさらに長くなる。
考案された性別信号は,非常に多種多様で短命なことが多いため,
世代が変わると,時には季節が代わっても変化してしまう。
さらに国によって,あるいは地域によっても変化することがある。
しかしその最も興味ある特徴は,誰もが信号を出しているということである。
それはまるで,あらゆる人間が,
生まれつき備わった極めて適切な性別信号を持っているにもかかわらず,
自分の性別を相手に気づかせたいという,耐えざる欲求を感じているかのようである。
考案された信号のうち,明白な例として,短い髪対長い髪,スカート対ズボン,ハンドバッグ対ポケット,
メーキャップの有無,シガレット対パイプがある。
以上はまったく便宜的なもので,使われるときと場所によっては,
元来,男性的または女性的と考えられるが,地域的な流行以外には,
これらを必然的にどちらかの性に結びつけるものは何もない。
髪の毛は男女とも長い。
これはわれわれと他の霊長類を区別する,種としての信号であるがそれだけの事である。
ここには生物学的レベルでの男女差はない。
短い髪が男性と結び付けられるようになった唯一の理由は,
軍隊における長年の寄生虫退治のためである。
いろいろな文化や時代を広く眺めてみると,
スカート
はしばしば男性の服装であり,ズボンは女性の衣装であった。
同様に,他の考案された信号も,時代や場所によってさまざまであり,逆の役割すら示すこともある。
今まで,明白な例を選んできたが,もし見知らぬ文化圏へ行けば,
何気なく訪れた人にとっては無意味としか思えないような信号が,多くの地域で考案されている。
そして,間違いを犯しやすい。
熱帯のある国では,自分をあおぐ扇の形が,性別信号となっている。
四角の扇は男性,丸い扇は女性である。
自分の性別と違う形の扇を使えば,男性がスカート
をはいたり,
女性がパイプをふかすのと同じように,こっけいだと思われるのである。
文化人類学者は,訪れたあらゆる部族において,
男女の習慣の,こういったこまごまとした相違に出会っている。
明らかに便宜的と思われる相違にも,生物学的な理由があることがある。
好奇心をそそられるのは,何故男性はジャケットのボタンを,左を上にしてはめ,
女性は右を上にしてはめるのだろうかという古くからの疑問である。
この行動はいろいろな国で行われ,通常は単に伝統のせいにされている。
しかし本当の理由は,男性が衣類の重ね合わせに,右手を押し込むことができるために,
左を上にすることを好むからであろう。
これはポケットのない時代に始まり,おそらく武器を持つ利き手を暖め,
いざというときの用意をする方法だったのであろう。
そしてそれが,今日まで存続したのであろう。
これと対照的に,女性は右よりも左の胸に赤ん坊を抱く傾向が多かったので,
赤ん坊を自分の衣服の長い右側にくるみ込むことを,好んだのだろう。
これは,赤ん坊が眠ったり乳を飲んだりする際に,右側の長いひだで,子供をくるめることを意味する。
それが時代遅れになっても,そのパターンは,その後ずっと存在したと考えられる。
行動が衣服に影響を与えるとすれば,衣服も行動に影響を与えることができるだろう。
もし何かの流行のために服装に違いが生じると,たとえ,それを意識していなくても,
きている人の姿勢や動作にも,ちょっとした変化が生じることだろう。
現代女性が,手首をくねくねさせることは,その適切な例である。
手首の力を抜いた運動は,極めて典型的な女らしさなので,男性が女々しい振りをするときに,
よく使われる。しかしこの動作の起源は,古い衣装を着たことない人にはわからないだろう。
史実に忠実にという理由で,初期のぴっちりした袖のついた重い服を着せられて,
演技をしている女優は,身振りをするときのうでの運動が,非常に妨げられるので,
手首で身振りをするのが自分でわかると報告している。
彼女たちは意味もなく,手首の動作にアクセントをつけ始める。
そしてこれは身振りのスタイルへと発展し,ジャケットのボタンつけと同様に,
発生源である衣類がなくなった後でも生き残ったのである。
またスカート
の着用が,座る姿勢に影響していることも明らかである。
足を開いた座り方は,足首と膝の交差と同様に,はっきりとした理由で,典型的に男性のものである。
現代の女性はズボンをはいているときでも,下着が露出する危険はないのに,
男性ほどはこの姿勢をとらない。
それはまるでズボンをはいた足が,まだ幻のスカート
をはいているかのようであり,
われわれの文化からスカート
が完全に消え去ってしまっても,
堅固なスカート
姿勢は長く残ることだろう。
女性らしく足をぴったりと重ね合わせたスタイルで,足を組むという姿勢も,性別信号を伝える。
女性は腰をかけるとこのようにして片方の足を他方に巻きつける。
これは男性なら絶対しない姿勢である。この姿勢での重要な要因は,
交差した一方の足が,重ねられた足に触れることである。
これはおそらく,衣類に影響された差ではなく,むしろ男女間の足の構造によるものであろう。
足を重ねることは性別信号の一例であり,いったんそこに注意が向けられれば、
すぐに女性的だとわかることである。
しかしそれにもかかわらず,男女が互いに相手を見る際には,
性別信号は無意識に作用しているのである。
このような信号は,科学的な観察者が,
日常の仕事をしている人々の姿勢や運動を分析し始めるまでは、注目されることがなかった。
今や、ますます多くの信号が脚光を浴びるようになり,たくさんの細かな行動方法を使って
男性は自分の男らしさを、女性は女らしさを合図していることが明らかとなっている。
例えば、人々がショッピングセンターの混み合った通路を、
どのような方法ですれ違っているのかについての最近の研究によると、
男女が互いに相手を押し分けて通り過ぎなければならないときには、
違う行動をとることが明らかになった。
隠しカメラで見てみると、通常女性は、男性を押し分けて通るときには、
身体を男性と反対のほうへねじる。
一方、男性は女性のそばを無理に通るときには、身体を女性のほうへねじる。
その理由は明らかであり、女性は自分の乳房を保護しているか、
あるいは少なくとも乳房が偶然に男性に触れる場合でも、
乳房が男性の身体になるべく密着しないようにしている。
このような差異がある理由を理解することはたやすいが、観察研究が行われるまでは、
誰一人として、こういった差があることすら気づかなかったことは 重要である。
差があるという事実は、明らかに男女の買い物客の目によって記録されている。
彼らは混雑した中を通る際に、無意識のうちには、性別信号を記録していた。
けれども、信号の出し方を分析するために立ち止まったりは 決してしなかったのである。
同様に殆どの人は、女性のほうが男性より、手で髪に触るのに時間を多くかけるとか、
頻繁に手を握りしめる姿勢をとるとか、男性のほうが胸のところで腕組みをしがちだとか、
横に並んで歩いたり立ったりするときに、肩を抱きがちだという事実には気づかない。
このようなそしてもっと多くの細かな差異は、現代の観察研究から明らかになり始めており、
人間の性別、そしてそれゆえの性別信号の真の複雑さも、少しずつ明らかにされてきている。
この傾向は、男女の基本的な生殖にかかわる差以外は、
すべて取り除きたいと考える”単性”哲学を、無意味にしてしまう。
自分のしていることに気づいていないのに、それをやめるのは困難である。
もちろんわざとらしい、乱暴な男らしさや、作り笑いをした女らしさという装いや動作は、
その多くを減らすことができるし、実際、一掃されてきている。
現代の男性は、獲物を狩ることをやめ、現代の女性は、生殖という重荷を徹底的に減少させた。
世界は人口過密になり、都市化され、
もともと、男女を狩猟者と生殖者へと分離させた圧力はなくなってしまった。
この新しい状況に順応するためには、社会的な適応がなされねばならない。
しかし、人類進化の百万年以上にわたって遺伝されてきた特質を、
一夜にしてすっかり取り除くことはできない。
現代の男性は、もはやカモシカを追いかけ、殺すことはないだろうが 、
都会の仕事の中で、象徴的な獲物を狩っており、
現代の女性も、まだ深く根をおろした母性的衝動に、服従させられている。
人為的に作られた性別信号は、いろいろ出ては消えていくだろうが、
人類の遺伝的な継承に由来している信号は、明らかに社会の発展に頑強に抵抗することだろう。
確かに、それらの信号も変化するだろうが、その過程が遺伝的な実在となるには、
又何百万年かの進化を要するということも、強固な事実である。
その間も、性別ギャップは小さくなるとはいえ、多くの魅惑的な複雑さを保持しつづけるであろう。
そして、われわれの日常生活に深く浸透し、強い影響を与えることであろう。
身体的自己擬態
解剖学的に自己を模倣する
身体的自己擬態は、人間の身体の一部が、他の部位のコピーとして働くときに生じる。
サルや霊長類の雌が、雄に対して性的ディスプレイをする時には、
臀部をできるだけ目立つように雄に示すということをする。
ゲラダヒヒという種では、雌が胸部に目立った臀部信号のコピーをもっている。
臀部にはピンクがかった赤い皮膚からなる鮮やかな色の性器部位があり、
まわりは 白い乳状突起で縁取られ、中央には真っ赤な陰門がある。
これはゲラダヒヒの雌の一時的性的信号である。
“さかり”がついて排卵するときには、その色の強度が増大する。
ところが胸にもこれと同じような、
ピンクがかった赤いむき出しの皮膚があり、これも白い乳状突起で囲まれている。
中央には陰門そっくりのものがある。これは鮮やかな赤色の乳首で、
通常の位置ではなく胸の中央近くに寄っており、赤い一対の陰唇に良く似ている。
この胸のディスプレイは、臀部にある性器の赤い色の変化と同調して、強度が増減し、
色が鮮やかになったり、鈍くなったりする。ゲラダヒヒの雌は多くの時間を地面に座ってすごす。
そのため、正面から近づく雄は、この自己擬態のおかげで、
どの雌が性交可能な状態であるかを、雌の胸部を見ただけで、すぐに知ることができる。
女性の性器模倣
同様の進化の過程が、人間の女性の場合にも起きているようだ。
もし女性ができるだけはっきりと男性に臀部を示したら、
見えるのは一対のピンク色をした陰唇と、その回りにある、
二個のふくらんだ肉付きのよい半球型の臀部である。
女性が臀部を突き出す行為は、いまだに、性交を誘う信号として、時たま見られるが、
通常はむしろわざとらしくふざけるときに限られる。
そして、性的に積極的な大人の女性は、男性に自分の前面を見せることのほうが普通である。
事実、出会っている間に見えるのは、人間の身体の腹側だけである。
人間独自の直立姿勢のために、腹側がわれわれの前面になり、
前面は最もたやすく利用できるディスプレイ部位となっている。
したがって、女性の身体の前面に、性器の機能を見つけても、べつにそれは驚くべきことではない。
ピンク色をした陰唇は、めくれたピンク色の唇によって、
また丸い臀部は、丸い乳房によって模倣されている。
人類の肉付きの良い唇は、幼児期の哺乳に必要であると論議されているが
、他の霊長類はめくれた唇を持っていなくても、有功に哺乳する。
人の唇を並外れたものにし、永続的に目立たせているのは、
このめくれ 、すなわち唇がめくれて外に出ているためである。
また、われわれの唇は、キスのための器官として進化した。といわれているが、
類人猿は永続的にめくれた唇を持たなくても上手にキスできる。
だから、人の唇の特殊なデザインは、触覚よりも視覚信号なのであろう。
性的に興奮すると、唇は陰唇のように赤く膨れ上がること、
また陰唇のように、中心の穴を囲んでいるということは、記録に値する。
男性も目立った唇を持っているという事実には、反対する必要はない。
男性にも乳房がある。しかしこのことは乳首が本来女性のものではない、
などということを意味するわけではない。このような議論にもかかわらず、
女性のピンクの唇を、陰唇の進化した機能として受け入れるのが困難だとしても、
唇は文化的にはしばしば、そう考えられてきたことは 否定できない。
唇は何千年もの間、口紅で人工的に赤く塗られてきており、
大きく開けた唇のかっこうを、映画や広告で故意に使用しているのは、
”性器のこだま“としてのその役割を、暗示的に強調しているからである。
唇を湿らせたり、光る口紅をつけることは 、性器を滑らかにするという特別なヒントを与えてくれる。
また、陰茎に似たものが唇の間を通らんばかりに 描いてあるデザインは、
しばしば商業広告で使われている。
唇から乳房に目を転じると、人間の乳房の半球状の形は、
授乳装置と母乳タンクという役割として重要であると論じられてきた。
これは一般に受け入れられた考え方であるが、擁護するのは難しい。
他の霊長類は丸みを帯びた乳房を持っていないが、それでも極めて効率よく授乳する。
さらにそれら霊長類の胸部は、授乳している時期に母乳でふくらむだけである。
人の女性は、子に授乳をしているかどうかにかかわらず、
性成熟に達すると、大きく突き出した乳房を持つようになる。
したがって、乳房の形は性成熟と一致しているのであって、
母親としての子への授乳とは一致していない。
それゆえ、その形は本来的には親としての信号ではなく、性的信号なのである。
どちらかといえば、赤ん坊にとって丸い形は問題があり、
乳首の短い乳房よりも、乳首の長い哺乳瓶のほうが飲みやすいこともわかっている。
女性の乳房の形が、臀部信号の擬態として進化しているという説に対しては、
乳房が臀部の丸みを反映しているとするには、あまりにも垂れ下がりすぎているという批判がある。
この批判は、性的信号化のピークを過ぎた乳房の観察に基づくものである。
人の女性は 13 歳で性的に成熟するが、複雑な現代社会では長期にわたる教育が必要なので、
かなりの年齢まで、女性の性的魅力はできる限り軽視される。
乳房の形が最も引き締まった丸い形になるのは、性成熟初期の十代の間であり、
これは生物学的に言うと、女性の性的ディスプレイが最も活気づいた時期である。
現代社会では、二十代、三十代、それ以上のやや年をとった女性が、
人工的な手段を使って、
堅く引き締まって丸みを帯びた乳房に見せかけることが普通になっている。
これには乳房を持ち上げる種々の衣類を着たり、特殊な場合にはシリコンを注入することすらある。
現代のブラジャーは、乳房を持ち上げるだけでなく、それを支え、
若々しい乳房の形と堅さを回復させている。このように改良しなくても、大人の乳房は、
前面からの信号として伝達される性的魅力という点では、まだ充分に丸い臀部に似ている。
擬態というものは、それがうまく働くためには、それほどそっくりでなくとも良い。
臀部の本質的な特徴は、滑らかな丸みであり、他のどんな身体部位でも、
この特定の視覚的特性をもってさえすれば、性的ディスプレイの器官になれる。
非常に高齢の女性を除けば、乳房はたとえ垂れ下がっていても、
この特性をもっており、それゆえ成人女性の滑らかで丸みを帯びた肩や膝も、そうである。
肩はその半球型がいっそう目立つように、肩のない衣類を着たり、肩を上げたエロチックな姿勢で、
その場合には多くはほおが丸みを帯びた肉体に、優しく押し付けられるのだが、
特にその擬態が強められる。
丸みを帯びた膝も、同じような刺激的な方法で露出されたり、示されたりする。
そして、広告関係の写真家は、こういった多くの身体模倣を開発することにかけては、
熟練者となっている。最近ピンナップ写真は、新種の性器模倣を強調している。
腹部を伸ばすある姿勢をとることで、
モデルはへその形を、丸い穴から垂直な割れ目へと変えることができる。
こうしてモデルは、意識的にも無意識的にも、身体擬態という意味で、
へそをいっそう”性器的”に見せている。
このことは、へそが性器模倣として、その特殊な形を進化させてきたことを意味するのではなく、
単にピンナップ写真を、よりセックスアピールするものにしようとして、写真家とモデルが、
へその形を本来の形よりも、
ずっと垂直な陰唇の割れ目に似させようというアイデアに、
ともかく到達したということを意味している。
美術史全体から無差別に 200 人の女性のヌードをとってみると、
92%が丸いへそで、縦長のへそはたった 8%であることが明らかとなった。
同様に、現代のピンナップや女優の写真を分析すると、54%が丸く、46%が縦長へと変化しており、
縦長の”性器模倣”をしたへそは、約六倍に増加している。
その他の人為的な性器模倣は、エロチックな衣服に見られ、
そのデザインの細部に性器的要素が盛り込まれている。
男性の性器模倣
話を女性から男性の性器模倣へと転じると、あまりはっきりとした議論ではなくなるが、
さまざまな時代に、詩人や科学者によって、多くの示唆がなされている。
この場合、自己擬態の主な要素は鼻であると考えられている。
これはマンドリル のような種では極めて明白であり、確かに鼻は進化した性器模倣であるといえる。
雄のマンドリル の顔には、長くて赤い鼻があり、頬は膨らんで青く、あごひげは黄色がかっていて、
雄の赤い陰茎、青い陰嚢、黄色い陰毛といった性器の色と著しく似通っている。
人間の男性の顔も、ある程度性器をコピーしているが、
これが進化の結果なのか、単なる象徴的思考の産物なのかは明らかではない。
確かに芸術家たちは、多くの場合にそのような等式をたて、
つきだした肉付きのよい鼻を、男性の陰茎の擬態と見なしている。
男性の顔の要素の多くは、これにしたがって解釈されてきた。
盛り上がった鼻の先端は陰茎の亀頭と見なされ、そこのくぼみは尿道口の擬態と見なされた。
鼻の両側の丸い突出部である鼻翼は、陰嚢の擬態と結びつき、
鼻孔の広がりは男根脅迫と考えられる。
女性や子供の鼻が小さく、大人の男性の方がふくらんでいることは、
この考えをさらに指示するものとして引用される。
また、男性の眉からあごひげにかけての顔の毛は、頭髪に比べて毛深く、荒く、
しかも渦巻いて針金のようであり、感触は陰毛にずっと近い。
まるで、男性の顔は性器の擬態として、毛深い陰部を設定しようとしているかのようである。
さらに縦に割れたあごも、陰嚢の擬態であると考えられている。
進化の過程で、男性の顔は、自己擬態の部位として、この方向にある程度の変容を始め、
相手と対面しているときに、男根脅迫ディスプレイができるようになった。
男根脅迫は霊長類ではごくふつうにみられるし、われわれの近縁種についてみても、
この考えはそんなに風変わりなものではない。しかし進化論的論証が排除されてしまえば、
女性の性器模倣のように、その擬態が文化的に用いられているという証拠はない。
男性の性器模倣を用いた、これとは別の文化的手段としては、
陰茎の擬態として舌を突き出すこと、さらに男根脅迫ジェスチャーや侮辱の際に、
勃起した陰茎の代わりに指や握り拳を使うことが含まれる。
男性の衣服もまた一役を演じ、陰部覆いと下げ革袋は、
それぞれ勃起した陰茎と陰毛を擬態している。
幼児模倣
自己擬態の第三の主要な範疇は、幼児模倣である。
大人の女性の顔は、大人の男性に比べて子供っぽい。
そしてこのことは、女性に対する男性の保護者的感情を刺激する進化的手段である、
といわれてきた。
同じく男性のひげそりは、それの他の機能とは別に、
もっぱら男性的な信号を消してしまう文化的な試みだ、と考えられる。
きれいにひげを剃った男性は、ある意味で偽幼児的である。
思春期に近づいている少年は、男性的なあごひげが生えてくるのを熱心に待つが、
生えるとすぐにそれをそり、もう一度むき出しの顔に戻ってしまう。
男性のはげも、熱心に論争されている問題である。
この遺伝的に制御された男性のディスプレイを説明するためには、
全く反対の二つの観点が唱えられている。
その一つは、はげを幼児擬態の一つのケースと考えるものである。
人間の赤ん坊の額は大きく、はげているように 見える。
それ故、年寄りの半球状をした大きな頭部は、年をとった弱者に対して、
親の世話や保護という感情を引き起こさせる信号と考えられている。
今日、はげた男性の多くが、“初老”と分類され、
偽親的同情を必要とされることをいやだと感じているのは、
原始時代と比較して、現代では寿命が非常に延びたためであろう。
しかしながら、この論点に対して、年寄りでも、
あごひげは失わないという事実が示されるに違いない。
あごひげはもっとも強い男性的毛信号であるから、
はげになるときにはまず最初になくなるはずである。
しかし、それは最後まで頑強に残り、初老の男性の、
赤ん坊のようにドーム状をした額を無意味なものにしてしまう。
ひげのないチャーチル風の頭は、きわめて赤ん坊じみており、
温かい保護者的感情を引き起こすとしても、これをはげ発生の進化的説明と考えるのは難しい
もう一方の観点は、さらに納得しにくいものである。
これは赤い皮膚を紅潮されるというディスプレイを通して、
はげ頭が成熟雄の怒りと優位性を、いっそう誇示するのだというものである。
怒った雄が頭部にむき出しの皮膚を露出すればするほど、
すさまじい血の赤らみが、敵に大きな衝撃を与えるという。しかしこの解釈も、鵜呑みにしにくい 。
なぜならば 、大人の男性がもっとも威嚇ディスプレイを必要とするのは、
その活動がピークに達する、髪の毛がふさふさした成人初期だからである。
それ故、男性のはげが、単なる性別信号以上の生存価値を持つかどうかという問題は、
さしあたってはっきりしないままである。
人間の自己擬態を示唆する別の例は、
男女の乳首の周りの皮膚にある着色部分【褐色やピンク】に関するものである。
この部分、つまり、乳輪が十分に説明されたことは 、今までに一度もなかった。
少し離れたところから人間の身体を巨大な動物の顔として眺めると、
乳輪は明らかに目玉模様に見える。
目玉模様は、ガや他の動物の多くで使われる手段で、有効に働いている。
腹を空かした捕食者が、水分の多い小さい食物に出会い、まさに攻撃しようとすると、
ガは羽をぱっと開いて巨大な一対の目玉模様をひらめかせ、殺戮者を脅かして追い払う。
このように大きな目は捕食者に衝撃を与える。
というのも、これがちっぽけなガよりも100倍も大きい動物であることを暗示するからである。
少し離れたところからみると、まっすぐ立った人間の身体は、ある意味で巨大に顔に類似している。
人間以外のものとしての目で見ると、
乳首の部分である“目玉模様”によって、われわれの身体は、
鼻【実はへそ】と口【実際は性器】を持った巨大な顔に変わって見られがちである。
この奇妙な模倣は、少なくとも一人の一流シュールレアリストによって開発され、
驚くべき効果を示しているが、それを人類だけに特有の、
乳輪が進化せねばならなかった理由の説明とするには困難がある。
乳輪は単に乳首を誇張するものであり、
サイズをきわめて大きく見せる“虚偽の乳首”として作用していると思われる。
しかし、大人の男女がなぜこのような 方法で、
乳首を大きく見せる必要があるのかという疑問は、残されたままである。
性信号
人の求愛行動
性信号は、相手を見つける、相手を選ぶ、相手を興奮させる、相手との絆を形成する、
という四つの点で、重要な役割を果たしている。
第一は、相手を見つけるということである。
性的に成熟すると、ある特別な社会的活動が急に増加してくる。
ダンスとかパーティーのような公式的な会合に加えて、
十代の男性と女性は、両親の監督を逃れて外出し、
“うろつこう”とする強い衝動を持ち始める。
昔ある時期には、経済上および身分上の理由で、
相手の選択が当事者の意のままにならなかったところでは、
この衝動を制限し統制するために、付き添いの婦人をつけることが必要であった。
たいていの現代社会では、若い未婚の男女が巡り会うために、非公式なチャンスがある。
それは“広場ディスプレイ”という形をとる。
それはディスプレイとぶらぶら歩きからなる“ねり歩き”である。
若い娘たちは、多くは足を組んで、どこへ行く当てもなく歩き回るが、
通り過ぎる自分たちを座って見つめていたり、
離れて後をつけてくる若者たちには気づかぬ振りをする。
娘たちはくすくす笑ったり、顔を隠したり、ささやきあったり、ジョークをいったりという、
はにかみのディスプレイをする。
若者たちはしばしば 野卑な姿勢をとる。興味のない振りをし、何かにもたれ、
霊長類の股間ディスプレイのように股を開いたり、かわるがわる攻撃的な、
時には軽蔑したような大声を上げたりする。
またはっきりと、男は男同士、女は女同士で固まっている。
ある個人が同性集団を脱して、異性間の壁を越えるには、かなりの努力を必要とする。
相手の選択は、日常生活の中で行われるが、
通常、実際の接触は後になって第三者が存在しない、抑制のとれた雰囲気の中で行われる。
ダンスのような公共的な場は、
異性のメンバーとの接触を可能にさせる社会的な口実が得られるので、
この過程をスピードアップさせる。
それにもかかわらず 、十代の若者たちが集まるほとんどのダンスフロアーでは、
将来のパートナーを遠くからじっと見つめる、同性だけの固まりがあちこちにできる。
多くの若者たちにとって、相手を見つけるという問題は、現代の共学制度、
あるいは職場に両性が混じり合っているということによって、解決されている。
このような場面におかれた男女が、互いに社会的に知り合わないということはない。
それにもかかわらず 、ダンスとかパーティーなどの社会的な会合は、以前にもまして人気がある。
それらは相変わらず、個人がいろいろな人と出会うチャンスを与え、
相手を選び出すことのできる範囲を広げているのである。
相手を選ぶことは、多くの要因に依存している。
さまざまな性信号が有力な役割を果たすので、身体的魅力は明らかに重要であるが、
行動もまた大きな意味を持っている。
自分が相手に引きつけられたことを表す、多くの小さなサインがある。
明らかなものもあれば、そうでないものもあるが、すべて有効である。
親しさのジェスチャーは、次のような動作を含んでいる。
相手の目をふつうより少し長く見つめる。相手の身体に手をかけるなどの、
ちょっとした接触動作を行う。相手の方にちょっと近寄る。口を開けてふつうより頻繁に微笑し、
相手の身体のさまざまな部位を次々と見つめる。同意するときに強くうなずく
。
開けっぴろげな姿勢で【すなわち、身体防御の信号あるいは障壁信号なしに】、
相手と向かって座る。話を補うために、ふつうよりも頻繁に手を動かす。
目を大きく開き、眉を高く上げ、相手をちらちら見ながら、
ふつうより頻繁に相手の反応をチェックする。ふつうより頻繁に舌で唇をしめらせる。
これらのサインによって、パートナーは意識的にあるいは無意識的に、
相手が自分を好きだということを認知する。
さらに言葉のやりとりに、特別の様相が現れてくる。
特に二人の共通の態度、あるいは好き嫌いを知るために、情報が交換される。
相手の身体的魅力が強い場合には、話を合わせようとして、しばしば自分の好み、
あるいは態度を故意に抑制することがある。何か聞かれると、すぐに相づちが打たれ、
それが偽りであっても、親密性を促すことになる。しかし、あまりにそのような嘘が多すぎると、
結局は二人の間の身体的魅力も半減してしまう。相手選びのこの過程は、
ダンスの身体的運動のように、性的興奮をもたらすディスプレイによって特に促進される。
ダンスにおいては、身をくねらせた動作が、
相手の性信号および個人的な特性を強調するからである。
性的な意図運動や性行為の擬態動作もまた、ダンスに現れており、
やがて来るべき行動型を暗示している。
ダンスの動作には、多くのフォークダンスのように、パートナーが次々に変わるものから、
舞踏会のダンスのような、様式化された抱擁、そして最近のゴーゴーダンスのような、
腰の前後運動をまねた動作に至るまで、さまざまなものがある。
女性はこのゴーゴーダンスのパートナーとしては、割りが悪い。
というのは、性交の最中に激しく身体的運動を行うのは、通常は男性だからである。
ゴーゴーガールは、腰で男性の性交中の運動をまねることによって、
つまり、男性のように腰を前後に揺することによって、この難点を解決している。
女性のベリーダンスの起源は、やや異なっている。
ベリーダンスはほとんど身体を動かさない主人に奉仕した、
ハーレムの女性の動作に起源を発している。
つまり、男性側がほとんど腰を前後に動かさなくても、
オーガスムをもたらせるようにと考え出された腰の回転が、洗練されて発達したものである。
これによって、ベリーダンスは、女性のダンスのすべての様式のうちで、
もっともエロチックなディスプレイとして、際だった利点を持っている。
ひとたび男女の間に絆が形成され出すと、身体的な親密性が徐々にエスカレート
し始める。
売春のような特別な場合をのぞけば、
男女が出会いから性交へと、直線的に進むようなことはまずない。
親密性の階段を一段ずつ上ることによって、
二人はどの段階でも求愛を放棄する機会を持つのである。
それ故、両者の絆形成がうまく進まないときには、
子供のできる段階よりもずっと前に、別れることができる。
しかし現代では、避妊技術の発達によって、このことはあまり問題にならなくなった。
その結果、多くの求愛行為は、以前には何週間、あるいは何ヶ月もかかったものだが、
何分かで済んでしまうようになった。しかし、このピルの時代においても、ほとんどに人々は、
依然として性行為の最終段階へ軽率に突き進むことには、躊躇している。
準備段階は注意深い判断の時間を与えてくれるものであるが、
一度両者がオーガスムのような大きな情動経験を共有してしまうと、
そのような注意深い判断は困難となるからである。
この強力な瞬間は、たとえ彼らがまだ性的準備段階にいて、
互いの性格を探るための十分な時間を持っていない状態であっても、
似合いでないもの同士の間でさえ、非常に強い“絆”を形成してしまうものである。
性行動と絆の形成
親密度の高まり【一連の性行動】は、時と場所によって異なるが、
典型的には、次のようになっている。
【1】目を身体に:見る段階。【2】目と目:互いに見つめ合う段階―相手の目をとらえる。【3】声と声:
はなす段階―私的な情報と態度のやりとり。【4】手と手:最初の接触段階―屡々、“相手を支えて
やる”“身体を守ってやる”“方角を教えてやる”といった、何気ない動作から始まる。相手がコートを
脱いだり着たりする際に手を貸してやり、そのとき少し長すぎる時間をかける。また、通りを横断した
り、出入り口を通る際に、相手の手を取ってやる。【5】腕を肩へ:やや親密な身体的接触−これも
相手を導くという名目で行われる。【6】腕を腰へ:より親密な動作−男性の手が女性の性器に近づ
く。【7】口と口:キス−初めて強い興奮を起こさせる親密な動作。キスが長い場合には、女性では性
器の分泌、男性では陰茎の勃起を引き起こす。【8】手を頭や顔へ:キスに愛撫が加えられる−手
で相手の顔や髪を探る。【9】手を身体へ:手で相手の身体表面を探り、撫でたり、軽くたたいたりす
る。この段階がすぎると、求愛行動は性交前段階に達し、興奮が強いと、性交が怒る可能性が高ま
る。【10】口を胸へ:まったく二人だけの状況においては、ここで着衣が取り除かれ、口で相手の身
体表面を探り始める。−この段階で念入りな抱擁がなされる。特に、唇で女性の乳房が探られる。
ここにおいて、男性と女性の性器は完全に興奮し、結合の準備は完了する。【11】手を性器へ:とう
とう手は性器に伸び、探ったり、刺激を加えたりする。【12】性器と性器:性器が結合し、男性による
リズミカルな腰の前後運動が、オーガスムに達するまで行われる。
当然、性行動のこうした順序はかなり多様である。準備段階は、短くなったり、脱落したりする。
特に二人が互いによく知っていたり、以前に何度も性交があった場合にはそうである。
人工的な潤滑剤を用いれば、女性が興奮するのを待つ必要すらない。
また、社会的慣習によって、この順序が変化する場合もある。
おやすみなさいの儀礼的なキスは、一連の性行動にかなり先立って、親密性をもたらす。
それはダンスの申し込みを受けることによって、
求愛の初期段階なのに、腰の抱擁が行えるのと、まさに同じである。
禁欲的な男女の間では、興奮を高める準備があまりなされることなく、
最終的な性器間の結合が行われることがある。
極端な場合には、準備的なことがまったくなされず、
二人の性的相互作用が、子をもうける最低限必要な動作しか含まないこともある。
一方、二人が性的に抑制されていない場合には、性行為は非常に入念なものとなる。
性交の体位や、流れをさまざまに変えてみるといった、
多様な性的探求とともに、
口で性器を刺激すると言うことが興奮を高める動作のリストに加えられる。
こうした念入りな行為は不自然であり、
基本的に子をもうける目的を越えた性行動は間違っているという議論がなされている。
この考えによれば、人為的な避妊はよくない。
なぜならば 、避妊すれば、受胎の可能性のない性的活動ができるからである。
しかしながらこの考え方は、われわれ人という特殊な種にとっては、
間違っているばかりか 、危険ですらある。
というのは、それは性信号の四番目の主要な機能、すなわち、
絆の形成ということを見過ごしているからである。
それぞれの性的な準備行為は、相手を見つけ、選び、興奮させ、男性と女性の興奮を一致させ、
その結果として、オーガスムのクライマックスを共有させることを助けている。
そればかりでなく、こうした準備行為は、愛の絆、
すなわち二人を家族単位の両親としてずっと一緒にさせておく絆を、
固める助けとなっているのである。
人の親の苦労は大変なものであり、子は際限のない要求を突きつける。
同じような問題を持つ他の種と同様に、人という動物も男性と女性のパートナーが、
一組の親として活動するという互助の制度を持っている。
協力することによって、父親と母親は、
二人の性的活動によって作り出した子を育て上げることができる。
母親だけが残されると、その苦労は耐えられないものとなる。
時間をかけた性愛行動がもたらす性的報酬が、この重要な愛の絆を維持しているのである。
これに対して禁欲主義者たちは、性的興奮という後押しがなくても、純然たる生殖行為だけで、
“愛”は存在できるはずだ、と答えている。
しかしながら、生物学的な証拠によれば、それは明らかに間違っている。
霊長類の他の種では、排卵時に短い性的興奮の期間があるだけである。
雌が発情期に入り排卵する頃には、すべての身体的様相が変化する。
性器付近は膨張して赤みを帯び、群れの雄を引きつけるようになり、雄に惹かれるようになる。
他の時期には、排卵がなく、それ故妊娠もしないが、
雌は性的な関心を抱かないか関心をひくことをやめるのである。
すなわち、サルや類人猿は受胎可能なときにのみ性的活動を行い、
そうでないときにはそれをしないのである。
単純化しすぎるかもしれないが、本質的にはこれが人を除く霊長類の状況である。
人の世界に目を移すと、すべての性的状況は異なったものになる。
今や女性は、受胎可能かどうかにかかわらず、
月経周期のすべてに通じて性的魅力を備えている。
実際、今性交している相手が、妊娠可能な状態にあるのかどうかを、
男性が簡単に知ることはできない。
月経日を注意深く記録したり、体温の特徴的変化を見つけるために、
継続的に体温計をチェックした場合にのみ、
男性は自分の射精が子をもうけるのに役立つことを確信できる。
言葉を換えると、
われわれの種は原始的な霊長類が持っていた性的活動と排卵の間の関連を失ったのである。
人の女性の性的反応は、いつも興奮しうる状態にあり、いつも身体的刺激を放出している。
その身体的信号、ふくらんだお尻と胸は、月経周期とともに劇的な変化を示したりはしない。
それらは、長年にわたる性成熟期間を通じて変化せず、
女性は妊娠期や授乳期においてさえ性行為をする。出産時の前後だけに、
性的反応のない短い期間があるだけである。更年期を過ぎても性的活動が可能である。
明らかに、人の性的活動の主な機能の一つは、配偶者間の絆を強めることであり、
彼らの自発的な性的表出を低下させるいかなる道徳的規範も、
確かに家族生活の幸福にとって妨げとなっている。
特に悪名高いのは、女性のオーガスムにつきまとっている愚かな考えである。
女性のオーガスムは、生殖がうまくいくことには、まったく必要がないという理由から、
しばしば快楽の追求にふけることにすぎないと見なされている。
しかし実際には、これは人に特有の最も重要な進化的発達の所産である。
つまり、抑制のない関係においては、
オーガスムが絆の形成および維持という愛の過程を強力に支えるための、
パートナー相互の報酬になっているのである。
サルの雌は、オーガスムをもたらすような大きな性的興奮を経験することはないが、
人の女性と違って、永続的なつがいの絆をも形成しない。
さらにサルの雌は、長時間の身体的接触からなる念入りな性交前の準備段階にふけることもない。
つまり、人という種がすべての霊長類の中でもっとも性的であるという論評は、
現代人の性生活の様式について言っているのではなく、
人という動物の基本的な生物学的特性について述べられているものなのである。
もしわれわれが、他の霊長類よりも性的親密性を好むとすれば、
われわれの性的動作それ自体の起源は、どこにあるのだろうか 。
成人の性的な身体接触の大部分は、
幼児期での両親との親密な接触に由来しているというのが、その答えである。
その時期に、われわれは何年にもわたって、抱きしめられたり、撫でられたり、キスをされたり、
軽くたたかれたり、あるいは自分のほうからすることで、愛の絆を確立してきたのである。
成長するにつれて、われわれはこのパターンをあまり表さなくなる。
入学すると、両親の親密性から逃れたいと思うようになり、徐々に彼らに反抗するようになる。
その後、幼児期の身体的絆から逃れ、あらゆる点で親から独り立ちするようになると、
われわれは初めて自分の性成熟に到達するようになる。
そして性成熟に達するや、今度は再び身体的親密性という愛の世界へ引き戻されるのだが、
今度の相手は将来の配偶者である。今や幼児的親密性は減少することはなく、
逆にかつての接触と抱擁のすべてが再び出現する。
それらは急速に増大し、ついには恋人の腕の中で再び裸となり、
母親の胸の中で裸の赤ん坊でいたとき以来の、身体的親密性を味わうようになるのである。
この過程は、幼児期性欲というフロイト派の概念によって、まったく逆に考えられてきた。
フロイト派は、幼児期の多量の身体接触を、成人期性欲の初期の発現であると見なすのであるが、
実際には、成人の身体的接触が幼児期のパターンをとっているのである。
母親と赤ん坊の間には、その緊密な身体的関わり合いによって、
基本的な絆が生まれ、その方式が若い恋人の間で再び働くようになる。
若い恋人たちは、愛と保護を意味する接触を互いに与えあっている。
これとまったく逆の説明が、莫大な害をもたらしてきた。
多くの親は子供を抱擁するたびに罪悪感を持ち、身体的な愛の表現を抑制してきたのである。
もし親がこうした抑制を子供に教えてきたならば、その子供たちは成人になったとき、
念入りな身体的接触が
彼らの性的関係において重要であることに気づくのに、時間がかかるであろう。
愛することを知っている子供は、愛することを知っている大人になり、
愛することを知っている大人は、
素直な性の表出を中心とした、安定した家族の一員となるのである。
親信号
父母の愛情のメッセージ
極端に不運な赤ん坊を除けば、すべての親信号は、世話と保護を意味している。
母親の胎内ほど、確実に保護されるところはない。
そして、妊娠後期の段階で、胎児は接触と音に敏感になる。
まだ、見るものも、味わうものも、においをかぐものもないが、
胎児は子宮壁の居心地のよい抱擁と、母親の身体の温かさを感じ取ることはできるし、
毎分72回で鳴り響く心拍のリズムを聴くこともできる。
これらは、人という生命体がこの世に関して最初に受ける印象であり、
それだけに永続的な影響を与える。たとえ、母親が出産直後の赤ん坊をかわいがらなくとも、
少なくともこれら三種の親信号は子供に与えられる。
それ故、すべての子供にとって、温かさ、抱擁、そして心拍音という信号は、
いつも心地よさと安らぎを意味しているのである。
赤ん坊は生まれるときに、これらの非常に大切な信号を、突然失うという経験をする。
典型的な分娩の際には、赤ん坊は明るい光の下に放り出され、
医療器具の金属的な音におそわれる。そして急激な寒さと、体表の接触がなくなったことを感じ、
時には最初の呼吸のために逆さにつるされ、たたかれることさえある。
こうした取り扱いに対する、
赤ん坊の最初の信号が、パニックに襲われたなき叫びだ、ということに気づく人はあまりいない。
いくつかの不可解な理由によって、赤ん坊のこのような悲痛のサインは、
それを聞く人たちの顔に誇らしげな笑みをもたらす、
正常の分娩手続きという仮装をしてはいるが、
ある意味では、このような行動は、原始的な成人儀式に匹敵するものである。
暖かく柔らかい肌着に心地よく包まれ、母親の腕の仲で、その心臓のそばに置かれたときに、
赤ん坊はやっと子宮の安らぎの信号を取り戻す。
再びぬくもりと抱擁の心地よさを肌で感じ、懐かしい心拍のリズムを聴くことができるのである。
しかし、赤ん坊が苦悩と苦痛の瞬間を経験しながら、
このような状態を待たなければならないという必要はない。
フランスで最近開発された分娩技術を用いれば、これまでよりずっと“親らしい”出産が可能となる。
赤ん坊が産道からでてくると、部屋の照明が暗くされ、音はできるだけ小さくされる。
さらに赤ん坊の躰が、母親との接触を奪われることもない。
赤ん坊の躰は、暖かい母親の皮膚に触れたまま、医者の手により優しく持ち上げられ、
母親の腹部におかれる。分娩が正常であれば、
赤ん坊は自分自身で呼吸を始めるまで、そこに置かれる。
次に赤ん坊は、待ち望む母親の腕へそっと移される。
母親はまだぬれている赤ん坊を心臓に当てて抱くことができる。
力強い筋肉の収縮により子宮から排出されたショックが回復するまで、
赤ん坊は暖かく包まれ、しばらくそこでじっとしていられる。
その後に、ようやく、他のさまざまな処置がなされるのである。
この方法はきわめて注目すべきものである。
というのは、赤ん坊は泣き叫びもしないし、もがきもしないからである。
無理に呼吸を強いられることはないし、
出産のショックがまだ続いている間は、躰を洗われることもない。
へその緒がその機能を停止する前に、早まって切断されることもない。
出産後の穏やかなひととき、赤ん坊は心地よい接触を母親から受ける。
この重要な瞬間にも親信号は失われていない。
このようにして生まれてくるのが、幸福かどうかは別として、赤ん坊はすぐに安心して眠ってしまい、
目覚めたときには、何週間にもわたる母親の抱擁が期待できるのである。
抱き方が上手な母親もいれば、そうでない母親もいる。
上手な母親は落ち着いていて、ぎくしゃくした神経質な動きをせず、
直感的に身体表面でできるだけ赤ん坊に接触する。
下手な母親は赤ん坊を支えるだけで、うまく抱きかかえることができない。
母親は抱擁に加えて、しばしば規則的に赤ん坊を揺する動作をしたり、優しくささやいたり、
ハミングをしたりする。これらの優しい音は赤ん坊を落ち着かせる。
そして、揺することはもう一つの特徴的な子宮信号、心拍リズムを思い起こさせる。
一見したところ、左右に揺する動作は、母親が歩くときに身体を左右に揺する動作を、
再現しているのだろうと思うかもしれない、しかし、速さが違う。
揺する動作は、平均的な歩行ペースよりも遅い。普通の母親は無意識のうちに、
心拍にきわめて似た速さで揺するのである。
さまざまな速さで、揺れるようにセットされた実験用ゆりかごを用いると、
極端に遅かったり速かったりした場合には、鎮静効果がなくなることがわかる。
しかし、毎分60∼70回の揺れだと、赤ん坊への鎮静効果はより大きく、泣き声も減少する。
人の毎分72回の心拍は、音ばかりでなくその振動によっても、効果を発揮するようである。
しかし、心拍音も重要である。
赤ん坊を抱いている母親を観察したところ、80%が無意識のうちに左腕で、
つまり心臓のそばに子供を抱いていることが明らかになった。
これは右利きのせいではない。左利きの母親でも、同じ行動を示す。
左利きの母親のみを観察しても、数値は依然高く78%である。
美術史上あらゆる時期の聖母マリアとその子キリストの絵を見ても、
80%のマリアが左腕にキリストを抱いているという数値がでている。
調べた466の絵の内373がそうであった。
録音された母親の心拍音が、安らぎをもたらす子守歌として、
効果的かどうかを調べるために、病院の育児室の赤ん坊がテストされた。結果は劇的であった。
泣き声は通常の半分に低下した。
16∼37ヶ月齢の年長の幼児にも、心拍音が有効かどうかを調べるために、同様の観察がなされた。
種々の条件の音のもとで、どのくらいの時間で眠りにつくかが観察された。
平均時間は次のようになった。
無音46分、毎分72回のメトロノーム音49分、レコードの子守歌49分、
ところが心拍音のレコードは23分であった。
心拍音は明らかに沈静信号として特別な性質を持っている。
メトロノームがあまり効果的でなかったことは 、やや驚きではあるが、
おそらく重要なのはその速さとともに、心拍のどきんどきんと響く特性なのかもしれない。
このことから、大人になってから、ポピュラー音楽のベースドラムの調子のよい響きが、
われわれに心地よさを与えることが説明されよう。
安らぎを与えてくれるポピュラー音楽は、心拍音の速さほどのややゆったりとしたものである。
そして、われわれが音楽の拍子似合わせて身体を揺するといったり、ハートという言葉が
ロマンチックな歌の歌詞に、非常に頻繁に現れることも、あながち偶然ではない。
音楽が心拍の速さを超えると、もはやそれは安らぎではなく、興奮をもたらすようになり、
ほおを寄せ合う恋人たちの音楽ではなくなる。
後になって、新しい形で再び現れるもう一つの親信号があるが、
時にはこれは肉体的不調を引き起こす源になる。
その元の形は、乳房での吸乳反応である。食事時になると、
母親は赤ん坊の口の中に温かく甘いものを押し込む。
乳首「あるいは乳頭」と母乳は、赤ん坊にとって親による世話の強力な信号となる。
成長するにつれて、われわれは小さな安らぎが必要となったときはいつも、
知らない内にこうした信号をもたらす動作をすることによって、安らぎを得ることができる。
その動作とは、口の中に温かいもの「たばこ、パイプの柄、葉巻」を入れることであったり、
甘いもの「キャンディ、チョコレート
、甘い飲み物、砂糖菓子」を味わうことであったりする。
皮肉にも、こうした特別の安らぎを与えてくれるものを過剰にとる人々は、
結局、真っ黒な肺や肥満に悩まされている。
母親は幼児期において、揺すったり、食べ物を与えたり、抱いたり、暖めたりしてくれることのほかに、
もっと別の親らしい親密性をも与えてくれる。
抱きしめたり、なで回したり、洗ったり、拭いたり、軽くたたいたりもしてくれる。
これらのことをしながら、母親はしばしば優しく笑いかけてくれる。
人生の最初の五ヶ月間、われわれはこれらのことを誰がしてくれるかは、ほとんど気にかけない。
しかし、すぐにそれがわかってくる。
生後一年もすると、健康な赤ん坊はすべて、自分の母親を認知し、
単なる優しい微笑としてではなく、母親の優しい微笑として見るようになる。
これ以降、愛着という強い結合が、あらゆる愛情表現によって発達し、強まる。
そして、幼児期の後半になると、母親という存在は、困ったときに走って帰る安全な場所、
周囲の世界の探索に出発し、
戻ってくる安全な場所、保護と心地よさと援助がある安全な場所となるのである。
年月が経つと、子供は自分が男であるか女であるかを知るが、
さらに自分には二人の親があり、一方が同性で他方が異性であることも知る。
そして無意識のうちに、次第に同性の親を模倣し始める。両親からたやすく学習し、
多くのことを模倣するが、同性の親をまねることがますます多くなる。
この段階で子供に複写される親信号は、
単に技能や手先の器用さ、声の調子、歩き方、座り方や動きばかりでなく、
もっと奥深い類似性、すなわち情緒的バランスやリズム、熱狂したり悲観したりする度合い、
動機付けやエネルギーの方向といったものまで含まれる。
特に愛情を欠いた親に苦しめられていない限り、ほとんどの子供は、
青年期に達する頃には、すでに気味の悪いほど両親に似ている。
何年もの間進行していた、無意識の複写という吸収によく似た過程によって、
両親の多くの特別な性質が、彼らに授けられたのである。
表面的には多くの相違があるかもしれないし、
青年期にはこれらの差異が“第二次反抗”によって、しばしば誇張される。
これは“巣立ち”のメカニズムであり、若い成人にとって非常に大切なものなので、
自分たちは前の世代、特に両親とはまったく違うのだという感情を、抱くようになる。
本当はそうではない。というのは、
前述したすべての親信号は、深いところで刻印づけられており、
発達しつつある脳の中に、しっかりと定着しているからである。
遅かれ早かれ、それらは様々な形で、再び表面に現れてくる。
結局の所は、子供たちが親になる頃には、
自分の子供に接する態度の中に、親信号は自然に現れてくるのである。
幼児信号
親を引きつける信号
親が世話と保護の信号を子供に与えるように、
子供も親の愛情と注意を引き起こそうとする信号を持っている。
幼児の体型そのものが、強力な刺激として働き、親の愛情を触発する。
特に顔の配置が重要である。
成人と比べて、幼児の平たい顔は両耳の間が広く、中央線のややしたに大きな目があり、
瞳が大きく、額は広くて丸みを帯びている。
さらに、小さくて低い鼻、なめらかで弾力のある皮膚、丸くてふっくらしたほお、
そして小さくて引っ込んだあごがある。
頭部は身体に比べて大きく、身体は全体に丸みを帯びている。
手足は胴体に比べて短く、すべての身体動作がぎこちない。
これらの幼児信号は、子供が小さいことともに、
母親「あるいは父親」としての反応を多量に引き起こす。
それは信号を出している幼児に対して微笑みかけ、
接触し、あやし、抱きしめ、そして世話をしたいという、強い衝動が生じるからである。
実際、こうした親としての反応は、
同様の特徴を持った対象なら、それが人でなくとも触発されるほど強いものである。
大きな目、平たい顔、丸みを帯びた体型などの幼児的特徴を備えたペット動物、
人形、おもちゃ、操り人形、漫画の登場人物は人を引きつける。
漫画家やおもちゃを作る人たちは、
これらの特徴を誇張することで、超幼児的イメージを作り上げている。
また、たまたま普通よりも顔が広くて平たく、大きい目を持った大人は、
しばしばこの無意識反応の恩恵を受けている。
われわれが“ネコ”のような女性よりも、“子ネコ”のような女性を好む理由はここにある。
また、女性がその成人としての魅力のほかに、しばしば化粧品で皮膚をなめらかにしたり、
大きな目をしたあどけない顔つきをしたり、あるいは唇やほおを強調するのも、
こういう理由が含まれている。
人の体型は重要な視覚的サインであるが、それだけでは十分ではない。
魅力を強め、親をして確実に子供の世話に専念させるためには、
そのほかの幼児信号が加えられねばならない。
そのビッグスリー は、泣き、微笑、笑いであり、この順序で出現してくる。
泣くことは出生児に始まり、五週目頃には微笑が、そして4∼5ヶ月頃には笑いが現れる。
泣くことは、他の多くの動物と同様、苦痛を受けたり、不安にかられたときに生じるものであるが、
微笑と笑いは人独特の信号である。
もう一つの相違は、泣くことが、
親の世話によってやむのに対して、微笑と笑いは、親の世話によって生じることである。
泣くことによって親をとらえ、微笑と笑いによって親を引きつけておくのである。
泣いている間、筋肉はきわめて緊張し、皮膚は赤らみを帯び、
涙が流れ、口が開かれ、唇が引きつり、強い呼気を伴う激しい息づかいが認められる。
幼児は手足をばたつかせ、年長の子供は親の所へ走っていってしがみつく。
これらの外観は、典型的には高い調子のきーきーという発声を伴い、
激しい笑いの際に見られる外観と、きわめて類似している。
それは押さえることができないような笑いの発作に襲われたときに、
「涙が出るほどおかしかった」というような場合である。この類似は偶然ではない。
その二種の動作には異なった主観的感情が伴うにもかかわらず、
実際には、互いにきわめてよく似ているように見える。
笑いという反応は、二次的信号として、泣くという反応から派生してきたもののようである。
笑いは、子供が自分の母親を認知できるようになる頃に現れる。
誰かが言ったように
「賢い子供は父親を知っているが、笑う子供は母親を知っている」
これがその動作の起源に関する鍵である。
それ以前の段階では、
幼児はぶつぶつ言ったり、喉をぐっぐっと鳴らしたり、あるいは泣くこともあるが、笑うことはない。
満足しているときに喉を鳴らし、不満の時に泣く、
しかし、母親を自分を保護してくれる人だと認めるようになると、
ある特殊な葛藤を経験できるようになる。
もし母親が彼らを驚かすようなこと、つまり、くすぐったり、ふざけて空中に放りあげたりすると、
幼児は二重のメッセージを受け取る。
彼らはいわば次のような独り言を言うことになる。
「ああ、びっくりした。けれど驚かしたのはママだ。心配することはないや」
危険ではあるが、安心だという矛盾する感情が、部分的には驚かされたことによる泣き、
そして部分的には満足したことによる喉鳴らし、という反応を作り上げる。
その結果が笑いなのである。
顔の表情は泣きに似ているが、それほど激しいものではない。
音声はリズミカルであるが、高い調子は失われている。このような段階に達すると、
幼児は「ああよかった、危ないと思ったのが嘘だったんだもの」
という信号を、笑いで送ることができるようになる。
こうして、母親は幼児と新しい方法で遊ぶことができる。
きわめて穏やかな方法、すなわち、赤ん坊を落とすような振りをしたり、
いないないばあをしたり、おかしな顔をすることによって、こうした行動を助長し始める。
そうすれば、幼児は母親に捕まえられるという“安全なショック”を笑うことができるし、
かくれんぼによって、突然見つけられるといった、おかしさを楽しむこともできる。
よくあることだが、もし親があまりに遠くへ行ってしまって、子供を驚かしすぎると、
安心感と不安感のバランスが、泣く方向に傾き、幼児は急に泣き出してしまう。
このような、笑いと泣くことの狭い境界線は、
成長するにつれて広くなり、一方の状態から他の状態に素早く切り替わらなくなる。
しかし、その元になっている関係はまだ存在している。これが、ほとんどのユーモアの基礎である。
われわれがジョークを見たり聞いたりして笑うとき、その最も重要な要素は、
奇妙なことやショッキングなことが生じたり、異常なこと、
つまり、少々驚くようなことが存在することである。
しかし、それは深刻には受け取られず、それ故、
ちょうど子供が子供が母親から走って離れていくときに笑うように、われわれも笑う。
言葉を換えていえば、笑いは、危険な目にあったが、
それを逃れたと言うことの表出なので、われわれをよい気分にさせるのである。
微笑は、笑いの弱い表出であると考えたくなるが、これは誤りである。
微笑は、笑いよりも早く発達する。
それは別の重要な幼児信号なのである。
幼いサルや類人猿は、人の子供に比べてきわめて有利である。
彼らは母親の体毛にしがみつくことができる。
サルは、親との緊密な接触を約束するこうした身体的方法を持っている。
人の赤ん坊は、持続的に何時間も母親に掴まっていることはできないし、
掴まるような体毛を、母親は持っていない。
そこで、子供は母親を自分のそばにいさせる信号に、頼らねばならなくなる。
適度の泣き叫びは、母親の注意をひくが、母親がやってきてからは、
母親を近くに引きつけておく何かほかのことが必要である。それが親しみ深い微笑なのである。
元々微笑はなだめのジェスチャーである。
敵意の表情は唇を前方に突き出すのに対し、驚きの表情は唇を後方へ引っ込める。
微笑しているときには、口が後方へ引かれている。
初めは、これは恐怖の単純なサインであった。
しかし、恐怖心を抱いているということは、攻撃的でないことを意味し、
攻撃的でないということは、親しみを抱いているということを意味している。
こうして、臆病による微笑は、“親しみの微笑”へと進化してきたのである。
進化の過程で、それはやや変形し、口の端は後方へ引っ込むとともに上方にあがった。
この唇の上方へのカーブによって、人という種は、独特の親しみの信号を作り上げたのである。
微笑している顔は、最初、母親を赤ん坊に引きつけておくように 働き、
次に、年長になると、非常にさまざまな場面で、友好的な感情の信号を送ることになる。
同情するとき、挨拶の時、わびをいうとき、そして感謝するときに、われわれは微笑を送る。
明らかにこれは、人のジェスチャーのレパートリーの中で、
最も重要な社会的結合の信号となっている。
微笑と笑いはともに、少しの恐怖と正の誘引の混じり合ったものから派生してきたので、
同じ社会状況の中では、しばしば同時に生じる。
しかし、それらは別々に生じる場合もあり、そのときには明白に区別できる。
これは、挨拶の際に明らかであり、その信号がいかに強くなっても、笑いに移行することはない。
その代わり、挨拶の微笑は、
その強さが増すにつれて、歯を見せた微笑、喜びに満ちた微笑になる。
それに対して、ジョークが飛び交うような場面では、
親しみの微笑は強さが増すと、素早く大笑いに移行する。
幼児は成長するにつれて、そのレパートリーに敵意の信号を加え始める。
これらは、単純な拒絶の動作、
すなわちそっぽを向く、手足をばたつかせる、ものを押しのけたり、投げ捨てる、
さらに、裂くような不規則な金切り声とともに怒りを込めて泣き叫ぶといった動作から始まる。
まもなく、たたいたり、かみついたり、ひっかいたり、吐いたりする反応を伴うかんしゃくが現れる。
そして、方向の定まった威嚇の信号が現れるようになる。
唇を結んで、にらみつけるようになる。
唇は一直線に閉じられ、口の端は後方ではなく、前方に突き出される。
眉はしかめられ、目は敵に固定され、拳が固く握られる。
幼い子供は、強固な自己主張の段階に入ったのである。
これによって、幼児と親の間には新しい関係が作られる。
すなわち、親はもはや全面的に世話をしたり保護をしたりすることはできない。
今や、しつけという要素が介入し始める。
そこにおいて、自己主張を示す幼児信号は、
制御や制限という親の抵抗や努力に直面することになる。
まもなく、人に特有の言語能力が発達するにつれ、事態は再び変化する。
二歳になると、普通の子供は、すでにほぼ300の言葉を発している。
三歳ではその三倍になり、四歳までには1600の言葉を操れるようになる。
五歳では、子供は2000以上の言葉を持つ。
それらは驚くべき速さで学習され、それによって、
ますます複雑になっていく親や仲間との関係にうまく対処できるようになるのである。
しかし、この比類のないコミュニケーション体系の獲得にもかかわらず、
古い視覚的信号はなお存続し、大きな役割を果たし続ける。
言葉を話せる子供は、自分の気持ちを自由に表現することができるにもかかわらず、
なおも泣き、微笑し、笑う。
言葉の習得によって、人とのつき合いにまったく新しい次元が加わるのだが
それが元の表現方法に取って代わることはないのである。
動物との接触
人食い動物からペットまで
人間は、他の種の動物をさまざまな側面から見てきた。
それらを敵として、食べ物として、害獣として、パートナーとして、さらにペットとしてみてきた。
動物を経済的に利用し、科学的に研究して、審美的に鑑賞し、象徴的に誇張してきた。
とりわけ、彼らと生活空間を競い、支配し、そしてあまりにもしばしば絶滅させてきた。
太古から、人間はいくつかの種を殺し屋としておそれてきた。
ライオン、トラ、ヒョウ、オオカミ、ワニ、巨大な蛇、鮫といった動物を、
人肉に飢えている野蛮な人食いと考えてきた。
また、毒蜘蛛、サソリ、刺す昆虫などを、攻撃的な有毒動物に仕立て上げてきた。
すべての場合に、人の恐怖が実際の危険を倍加している。
人食いと思われていた動物が、人間をそのメニューの主食としていたことはない。
只非常にまれな特別な状況の下で、
味のよい、簡単に食べられる補助食として、人肉に目を向けたのである。
人食いと見なされてきた大型のネコ科の動物は、
たいてい傷を負っていたり、病気であったりしたために、そうなったのである。
傷を負ったヒョウは、逃げ足の速い、いつもの獲物を捕らえることができないので、
原住民の村の付近をうろつくようになる。
そしてたまには、人間の犠牲者を捕らえることに成功するかもしれない。
一度こうしたことが起こると、その噂はあっという間に広がり、
すぐさま、すべてのヒョウはどこにいても人食いヒョウと見なされ、攻撃を受けるようになる。
オオカミはさらに不当にも、血に飢えた、人間の敵と宣言されてしまった。
そして、絶え間なく、オオカミについて身の毛もよだつような物語が伝えられてきた。
しかし、そのような話が確認されることは滅多になかった。
そうした言い伝えが多い北アメリカのある地方で、
人が理由なく襲われたというケースが立証された場合に、100ドルの賞金がかけられたが、
14年経ってもその報酬を要求したものはいなかった。
伝説は事実をぼかしてきた。
そして今や、オオカミはほとんど絶滅してしまったのである。
同じように、毒を持った動物は大きな恐怖の的であり、いつも人を攻撃すると考えられてきた。
ここでもフィクションが事実を覆い隠している。
どんな毒蛇も攻撃することなく自分を防御するだけである。
毒蛇は、獲物を捕らえ、丸ごと飲み込むために、その毒液を必要としている。
毒蛇は、小さな人間の赤ん坊であっても、それを丸ごと飲み込めるほどには大きくないので、
人間を攻撃することは貴重な毒液の浪費である。それは自分を守るための最後の手段なのである。
それにもかかわらず 、蛇はすべての動物の中でもっともにくまれるようになってしまった。
見つかれば、その場で殺されてしまう。
人間の食べ物になる種も、また迫害を受けてきたが、その場合にはかなり状況が異なっている。
捕らえられ、絶滅させられたのではなく、家畜動物として変形させられた。
一万年もかかった狩猟から牧畜への大きな転換とともに、
重要な獲物である動物は、人間の統御の下に置かれ、放牧され、囲いに入れられ、
そして人間の意のままに殺されてきた。
また、選択育種が彼らを次第に変化させた。
食用動物として手に入れやすいというばかりでなく、
効率のよい肉として、優れた貯えとなったのである。
こうして、人間のメニューから多くの動物種が急激に姿を消していった。
大昔、狩人たちは見つけた動物は何でも殺し、
非常にさまざまな動物を食料としていたのに、
農耕民とその今日に至る子孫は、
“獲物”を比較的少数の山羊、羊、豚、牛、兎、鶏、鵞鳥、家鴨といった動物に限ってしまった。
キジ、ホロホロチョウ、ウズラ、シチメンチョウ、コイなどが若干加わって、
今日のような家畜化された動物ができあがったのである。
数え切れないほどの動物が、人間の厳密な統御の下にその短い生涯を送っている。
一方、彼らの野生の先祖はほとんどが、激減したり、あるいは完全に消滅してしまった。
害獣「ネズミなど」たちは、もっと生き長らえてきたが、これらも確実に減少の一途をたどっている。
害鳥獣や寄生虫は、しつこく反撃を続けているが、
害鳥獣の駆除、衛生、医療の進歩によって徐々に敗北しつつある。
害鳥獣のみが、野生保護という現代の潮流から恩恵を受けていない集団である。
パートナーとなる動物「すなわち共生動物」たちは、当然もっとうまく生き抜いている。
彼らはいくつかの範疇に分けられるが、その中でももっとも古いものは、狩猟のパートナーである。
イヌ、チーター 、ハヤブサ、鵜、などはすべて、大昔から狩猟の仲間として用いられてきた。
これらの中で、イヌだけが完全に家畜化され、いくつかの特別な目的で選択的に育種されてきた。
あるものは家畜をかり集めるために【牧羊犬】、あるものはにおいの追跡【猟犬】、
獲物の追跡【グレーハウンド】、獲物の発見と指示【セッターとポインター】、
獲物の発見と運搬【レトリーバー】、害獣の駆除【テリア】、
あるいは護衛【マスチフ】などの用途に合わせて改良されてきた。
ほかのいかなる共生動物も、これほど広範に用いられたことはない。
あるものは人の身体を温めるために、高い皮膚温度をもつように品種改良された。
これはメキシカンへアレスドッグで、寒い夜などに使う湯たんぽの変わりとして、
新世界のインディアンによって改良されたものである。
さらに、地雷探知および薬物探知犬、雪中救助犬、警察犬、盲導犬などがある。
科学技術がこれほど進歩したにもかかわらず、イヌはいまだに人間の最良の友人なのである。
第二の共生動物の範疇には、害鳥獣を殺す動物が入る。
農耕が始まった頃から、人間は蓄えた食料をかすめ取る齧歯類に悩まされてきた。
ネコ、白いたち、マングースなどが、ネズミ取り用に奨励され、
特にネコと白いたちは完全に家畜化されてきた。
彼らは今でも農場で活躍しているが、イヌほど利用されなかった。
そして今では、現代的な猫いらずに急速に取って代わられようとしている。
第三の範疇にはいるのは、運搬用の動物である。
馬、野生ロバ、ロバ、水牛、やく、トナカイ、らくだ、ラマ、そしてゾウなどは、
長い間、人間の労役を肩代わりさせられてきた。
野生ロバはアジア産であるが、こうした目的で利用された最初の動物であり、
約4000年前の古代メソポタミアで用いられていた。
しかし、これはもっと扱いやすい馬に取って代わられ、
馬が最も重要な運搬用の動物種となってきたのである。
第四には、生産動物がいる。
生命を犠牲にすることなしに、彼ら自身の一部を与えてくれる動物である。
われわれは牛や山羊からミルクを、羊やアルパカから体毛を、鶏や家鴨から卵を、
ミツバチから蜂蜜を、カイコからは絹をとっている。
最後に特殊な場合だが、メッセージを運ぶ動物、伝書鳩がいる。
この鳥の類い希なる帰巣性は、何千年の間利用されてきたが、戦争中には特に重要であったので、
それに対抗するものとしてハヤブサが育成されたほどであった。
どの場合においても、動物たちが与えてくれるさまざまなサービスの返礼として、
人間は、動物に食べ物を与え、世話をし、保護をしている。
動物はわれわれのライバルではなくなり、
他の非常に多くの種のように、個体数が次第に減少することもなかった。
このことは動物の個体数が劇的に増加したことを意味しているが、
動物はそれだけの大きな犠牲を払ったのである。
動物が支払ったものは、進化の“自由”である。
というのは、ほとんどの場合、動物はその遺伝的独立を失い、
今や気まぐれな育種の支配下に置かれているからである。
動物はわれわれのパートナーかもしれないが、われわれはいまだにその上位にいるのである。
これらは、人という種が行っている動物との接触のうちの経済的な面である。
都市の住民の大多数にとっては、
そういう経済的な面は関係がないことのように思えるだろうが、関わりは続いているのである。
都会の人々は、毎日数え切れないほどの動物を食べ、そして身につけているのは、実際の感触、
つまり飼育したり、殺したりすることは、農民や屠殺人といった専門家の手にゆだねられている。
一般の人々は、今や大昔のような「動物との接触」には関心を持っていない。
科学的あるいは審美的な側面からの接近の仕方をとっている。
動物とのこうした関わり合いは、
人間の強い探索衝動、すなわち周囲の世界を探索し、研究しようとする衝動の産物である。
書物、映画、そしてテレビによって、人は動物学の世界に引き込まれる。
そして、野生動物に関する番組を見て、
その生き方を知ったり、動物の絵図を眺め、その美しさ驚嘆する。
あるいは、シュノーケルをもって海中に潜ったり、バード・ウォッチングに行ったり、
あるいはカメラをもってサファリ・ハンティングに出かける。また、動物園や猟場に出かけたりする。
こうして、相変わらず、人間が狩人や原始的な農耕民だった頃に、
毎日関わり合い、生活の糧としていた動物の世界への興味を示し続けている。
さらに、人間は動物を象徴として用いている。
ここでわれわれは、動物の偶像、神、イメージ、象徴といった魅惑的で複雑な世界、
そして、ますます盛んになりつつあるペットの飼育という世界に入り込むことになる。
ここでは、動物はそのもの自身であることは許されず、
人間のある概念を代表するもの、あるいは人間関係に取って代わるものとなる。
これは、動物に対する擬人的接近である。
これは、動物に関する真実を曖昧にし、ゆがめるという理由で、科学者から強く批判されている。
確かに、科学者としてはこれは正当な意見である。
というのは、動物の生活を研究する上で、可能な限り客観的であろうとするからである。
しかし、人は象徴化を行う動物であって、
動物のイメージを象徴的にとらえたり、人間自身の風刺画とするのを妨げることはできない。
もし、ある種がどう猛に見えたら戦争のシンボルとなり、
また、かわいらしく見えたら子供のシンボルになる。
その種が本当にどう猛なのか、あるいは本質的に可愛いのかということは問題ではない。
実際にはまったく逆かもしれないが、象徴化の過程はこれを無視している。
ハイエナと白頭ワシがよい例である。
ハイエナは卑しい仕事に携わっているという理由で、
醜い、掃除専門の臆病者、下劣にぎゃあぎゃあ叫ぶ悪者、ぞっとする笑い屋の代名詞となった。
逆に白頭ワシは、大胆に空から急降下して敵を殺す、勇敢で威厳のある勇士として賛美されている。
人をハイエナと呼ぶことは侮辱していることになり、
白頭ワシはアメリカ合衆国の誇り高き象徴「国鳥」として、最高位に君臨している。
実際には、科学的研究によると、
ハイエナは著しく大胆な狩人であり、白頭ワシは一般に略奪者、腐肉食者であることがわかった。
これらの事実の発見によっても、彼らの象徴的役割が弱まることはなかった。
ただ、18世紀頃、
アメリカ合衆国の象徴を白頭ワシからガラガラヘビに変えようという試みがなされたことがある。
ガラガラヘビは、いつも敵に対して寛容な警告を発し、決して戦いを仕掛けたりはしない。
しかし、挑発されると勇敢に自分を守る。
そこで、アメリカの象徴にぴったりであるということが
「噂によると、ベンジャミン・フランクリンによって」指摘された。
科学的に見るとこれは正しいのだが、蛇は象徴的にはそうならない運命にある。
擬人的には、白頭ワシは威厳のある生物であり、蛇は身分の低い、下劣な生物である。
そして、象徴の世界では、誤った信念のほうが、科学的事実よりも重要なのである。
このような主観的な動物への“愛”と“憎悪”が、どのようにして掲載されたかを分析するために、
最近イギリスの4歳から14歳の8万人の子供たちについて、詳細な調査が行われた。
彼らはもっとも好きな動物と嫌いな動物の名前を述べるように要求された。
結果は、図に示すとおり、興味深いものであった。
好まれている動物のベストテンは、すべて人に似た特徴を持っている。
これらの動物は、明らかにその経済的あるいは審美的価値によってではなく、
子供たちに人を思い起こさせるものから選ばれているのである。
彼らはすべて、羽や鱗ではなく体毛をもっているし、体が丸みを帯びており、顔が平たく表情があり、
背が高かったり、あるいは座ったり、後ろ足で立ち上がることによって、
何らかの形で直立の姿勢をとる。
さらに、彼らはたいていものを扱うのがうまい。
――霊長類は手で、パンダは前足で、ゾウは鼻で。鳥はベストテンに入っていないが、
もっとも好まれるのはペンギンとオウムであった。
両者とも直立姿勢をとり、オウムは人の声をまねる能力は言うに及ばず、
くちばしで小さなものを拾い上げて口に放り込むことができるし、さらに平たい顔をしている。
肉食動物ではたった二種がかろうじてベストテンに入った。ライオンとイヌである。
この理由は明らかに、ライオン型の大型のネコ科の動物とは異なり、
たてがみによって平たく見える顔をもっているからである。
雄のライオンがこれを欠いていたなら、この種がこれほど好かれたかどうか 疑問である。
そうなると、顔がとがってしまい、人に似たところがなくなるからである。
もちろん、イヌは残忍な野犬としてではなく、親しみやすいペットとして扱われている。
ほとんどの子供にとって、イヌは殺し屋ではなく保護者であり、この点で得をしている。
イヌはまた、
人間が何世紀にもわたって加えてきた選択育種による極端なゆがみによって、得をしている。
顔は人為的に平たくされ、体毛が伸ばされた。四本の足が短くなり、
このためにぎこちなく子供っぽくなった。
幼いイヌの行動型が成犬になっても残るように選択され、
いつまでも子犬のように遊び好きになった。
大きさが変えられ、非常に毛のふさふさした牧羊犬や、
絹のような体毛をもったペキニーズのように、さらにかわいらしくなった。
実際には、イヌはペットという衣をまとったオオカミである。
憎むべき敵が信頼の置ける友人となったのである。
座ることを覚え、平たい顔をもち、触れると柔らかく、なめらかで丸みを帯び、顔には表情があり、
遊び好きになっている。
直立姿勢はとれないが、訓練によってお座りやちんちんができるようになる。
その人気は安定しており、ずるがしこかった先祖はかすんでしまっている。
好きな動物が、子供の年齢とともに、どう変化するかを眺めてみると、おもしろいことがわかってくる。
小さな動物は年長の子供に好まれ、大きな動物は年少の子供に好まれる。
小さなブッシュベビーの人気は四歳の4.5%から十四才の11%に上昇し、イヌは同様に0.5%か
ら6.5%に上昇する。逆にゾウとシマウマは年齢が増すとともに人気が下がる。ゾウは15%から
3%に、シマウマは10%から1%になる。
言い換えると、小さな子供は、大きな象徴動物、おそらく親の代理となるものを求めており、
年長の子供は小さな象徴動物、おそらく子供の代理になるものを求めている。
ブッシュベビーという名前はこの場合にぴったりである。
つまり、動物が好まれるためには、単に人間に似ているだけでは不十分であり、
特定の人間を表していなければならないのである。
こうしてペットを飼うということは、
本質的には、擬似的な母親になることであり、動物が子供の変わりになっていると考えられる。
それは親が本当の子供もつには小さすぎたり、何らかの理由で成人になっても親になれなかったり、
あるいは自分の子供たちがいなくなっているような 場合である。
こうした条件の下で、ペットの飼育熱はもっとも強くなる。
年長の子供が、小さい動物を好むという一般法則の興味深い例外は、ウマである。
この動物が好まれるピークは、思春期の少し前にある。
この数字を男女別にしてみると、
ウマ好きの曲線は、別のこと、すなわち少女が少年の三倍もウマ好きであることを示している。
このウマに対する反応の性的側面について、いろいろと推測してみるのは興味深い。
騎手の足を開いた姿勢、馬体のリズミカルな動きは、疑いもなく性的要素を秘めており、
これがウマの大きさや力強さと結びついて、思春期に達しようとする少女たちに力強く、
しかし、無意識にアピールしているのである。
好きな動物から嫌いな動物に目を向けると、
われわれはまったく異なった様相を見いだすことになる。
ここでは、他を寄せ付けないほど嫌われている動物がいる。蛇である。
これはすべての調査対象の27%に達する。
言い換えれば、イギリスでは、田舎で蛇にかまれることは 、雷に打たれるよりもずっとまれで
あるにもかかわらず、子供たちの四分の一がどんな動物よりも蛇を嫌うのである。
嫌われる動物のベストテンは、すべてが一つの特別な特徴を持っている。
つまり危険であったり、あるいはそう信じられているものである。
彼らのほとんどは、ライオンとゴリラを除けば、人間に似ていることはない。
ライオンは好まれる動物と嫌われる動物の両方のベストテンにはいる唯一の動物であるが、
これは威厳があり、平たい顔をもっている反面、残忍な殺し屋でもあるからである。
ゴリラは非常に人間に似てはいるが、その顔の造作から、いつも怒って恐ろしげに見える。
実際の生活では、彼は紳士的な巨人であり、優れた野外研究によって、
この点が実証されたにもかかわらず、ゴリラは子供たちを脅かし続けている。
そんなことはないと思うなら、パーティー・ゲームで怪獣をまねれば、
子供たちを怖がらせることができることを思い起こしてほしい。
ゴリラが実際、野生状態でははにかみ屋で、引っ込み思案な生き物であることを知っていても、
運悪くも、敵意に満ちているように 見える外観から受ける衝撃は、決して減ることがないのである。
象徴的には、ゴリラは“毛深い怪獣”の役割を演じ続けねばならない。
子供がもっとも嫌う二つの動物、蛇と蜘蛛は、
しばしば「細長くて汚らしい」また「毛深くて這い回る」と形容される。
ここでも神話が科学を支配している。
蛇はなめらかで、乾いていて、清潔であり、蜘蛛の“毛“というのは長い足である。
確かに蜘蛛は短い体毛をもっているが、子供がいやがる”毛“は、細長いよく動く足のことである。
蛇や蜘蛛が無毒か有毒かということは問題ではない。
どちらでも同じように嫌われるのであって、その反応に合理的な要素が入り込む余地はない。
蛇がもっとも嫌われるのは六歳頃で、性差はほとんどない。
そして蛇がその昔、陰茎のシンボルとして果たした役割から考えられるような、
思春期における顕著な変化は見られない。
むしろ、蛇に対する子供の反応は、ほとんど生得的なもののようである。
これは蛇に対する類人猿の観察によっても指示されている。
チンパンジーもオランウータンも、幼児期に蛇に対する経験がなくても、
ある条件の下では本物であれおもちゃの蛇であれ、パニックを伴った反応を示すのである。
蜘蛛に関しては、驚くべき性差が存在する。
思春期の少女は少年に比べて、
その嫌悪の程度が高くなり、十四才までにはそれは二倍にも達する。
思春期前にはこの差が見られないことから、この反応には何か性的なものが示唆される。
これを理解するのは難しいが、蜘蛛の”毛“が関係しているのかもしれない。
思春期には、少年も少女も、体毛が生え始める。
少女にとって成人の男性は、成人の女性よりずっと毛深く見えるので、
おそらく体毛は、思春期の女性にとって密かなおそれを抱かせるものとなり、
蜘蛛はこの感情を具体化する動物となるのかもしれない。
こうしたすべての様々な形の動物との接触は、
「動物に対する反応性の七つの年齢段階」と呼びうるような、単純な図式にまとめられる。
1. 幼児期 完全に親に依存しており、
親の代理と見なしうる大きな動物に対してもっとも強い反応を示す。
2. 幼児−親期 親と対抗し始め、自分自身が“幼い親”となる。
小さな動物を好み、ペットの飼育を楽しむ。
3. 客観的前成人期 探索的な興味が象徴的な興味に取って代わり、
昆虫採集、顕微鏡、そして水槽に目を向けるようになる。
4. 若成人期 動物への関心がもっとも弱まる時期で、人間関係にもっとも注意が集中される。
5. 成人−親期 親になるとわれわれの世界にペットが帰ってくる。
この場合は子供たちのためのペットである。
6. 親期以後 子供たちを失い、動物をその代理としてかわいがるようになる。
ペット飼育の第三期である。
7. 老齢期 自信の衰退に直面する。その結果、生きるために努力をしている動物に、
より強い関心を抱くようになる。この年齢が保護と保守に熱心になる。
もちろんこれは方向が大きく変わるのではなく、単に強調点が移るにすぎない。
また、個人差も大きい。
しかし、ここで述べた七つの年齢段階は、
人の他種に対する多様で複雑な関わり合いに含まれる様々な感情を、いくらかは説明している。
その関わり合いの広さは、特にペット飼育に関する限り、まさに驚くべきものである。
アメリカ合衆国では、毎年様々なペットのために50億ドル以上が費やされている。
イギリスでは1億ポンド、西ドイツでは6億マルクである。
フランスでは、何年か前であるが、この数字は1億2500万フランであった。
今では数倍に達しているに違いない。ネコとイヌがこれらのほとんどを占めている。
アメリカでは約1億匹おり、一時間に一万匹という驚く割合で生まれている。
イヌだけを見ると、この数字はフランスで1600万匹、西ドイツ800万匹、イギリス500万匹となる。
ネコはそれ以上であろう。ペットは明らかに現代人の基本的欲求を満たしている。
そして、その欲求は基本的には愛の接触のようである。子供の代理であれ、友達の代理であれ、
ペットの飼い主にとって重要なことは、ペットに触れることである。
ペットは見るものでも、研究するものでも、離れて賛美するものでもない。
愛撫したり、抱きしめたり、かわいがったりするものである。
それによって飼い主は、何らかの理由で失った親密性を取り戻しているのである。
飼い主が様々な種類のペットと接触している多数の写真を分析してみると、
50%以上が幼児を抱くように腕の中に抱えている。
11%はペットを軽くたたいており、7%が半ば抱くように片手で抱えている。
そして5%はペットとキスをしている。
キスという動作は、婦人とセキセイインコから、少女とクジラに至るまで広く見られる。
このようにペットを抱くことができなくても、たいてい何らかの方法で身体的な接触がなされている。
こうした動物との接触への情熱は、人間への愛情が誤った方向に向けられているから、
不幸な傾向であるといわれてきた。
ある人々はこれを“ペティシズム”と名付けているが、こうした傾向は人間に対する愛の倒錯であり、
われわれ自身の種のメンバーを無視することになると見なされている。
しかし、こうした見解はほとんど支持されていない。
没個性とストレスに満ち、ますます荒涼としていくコンクリート
と鉄の世界に住む多くの人々にとって
は、動物との接触によって得られる愛の関係は、計り知れない価値を持っている。
子供や友人をもたない多くの人々は、象徴的であれ、擬人的であれ、非科学的であれ、
ロマンチックであれ、さらに非合理的であれ、心の支えとなる絆を、
こうした関係から見いだしているのかもしれないのである。
遊びのパターン
遊びの信号、規則、おもしろさ
遊びは非生産的な活動である。
それは環境のもつ可能性と遊び手の能力をテストする一つの方法である。
重要なのは、遊びと特殊な訓練とを区別することである。
子供を水に入れて、水泳を教えたり、自分で習わせたりすることはできるが、これは遊びではない。
波間で水をかけあう水遊びは、特定の目的で行われるものではない。そのことだけが目的である。
しかしこうした水遊びをすればするほど、子供は水に親しむようになる。
こうしていつの間にか、液体の性質や自分の身体能力について知るようになる。
遊びによって、ある特定の技能を直接高めるのではなく、
むしろ、水についての一般的な経験を獲得するのである。
これは人のような日和見主義の動物にとっては重要なことである。
人はすべての日和見主義者と同じように、
一つの大きな策略によってではなく、多くの小さな策略を用いて生きている。
人は一つの生息場所にとどまることがないし、一つの生活様式に頑固に従うこともない。
どこへでも行くし、何でもする。そして、環境が投げかけるいかなる問題をも解決してしまう。
これは人類が成功してきた秘訣であり、
これを可能にするためには、できる限り広い先行経験によって支えられなければならない。
人の子供にとって、過保護で狭苦しく、日活動的な生活は、一つの災難である。
実際に大人になってうまくやっていくためには、子供の時代に超活動的であらねばならない。
これを促進するのが、子供の生まれつきの遊び好きであり、
普通の状態ならば確実にそうなるはずである。
「遊びのパターン」は、多くの特徴的な性質を持っている。
通常それらは特別の“遊びの信号”を伴うが、
それは「本気じゃないんだ、僕はただふざけて遊んでいるだけなんだよ」と伝えている。
頻繁に見られる遊びの信号は、微笑、笑い、ふざけた金切り声を含んでいる。
これらは“メタ信号“と呼ばれるものであり、次章で詳しく述べる。
さらに遊びは、通常動作の誇張という要素を含んでいる。
遊びに興じている集団は、仲間の間でのやりとりを大げさに行う。
一つ一つの動作を必要以上に目立たせる。
一人だけで遊んでいるときにも、同じような誇張がなされる。
人形をベッドに寝かしつけている小さな女の子は、
必要以上に一つ一つの動作を大げさに行い、劇的なものにしている。
これらの一連の行動が、まじめで機能的な目的を持っている場合には、
一つ一つの行為がその目的に従うものである。
それらはより効果的になり、ショー的要素は少なくなる。
しかし遊びの本質は、それが活動のための活動であるということなので、一つ一つの動作は
それ自体独立することができるし、それ故、運動を気まぐれに誇張することができる。
”目的“への指向性を欠いているもう一つの結果は「遊びのパターン」が、夢と同じように、
バラバラな順序で生じることである。
繰り返しがあり、順序は変化する。「もう一度一から」「それをもう一度」というわけである。
けんか遊びでは、これの特別なケース、すなわち「役割逆転」が見られる。
攻撃者が突然攻撃されたり、追跡者が突然逃げ回る。
こうした気まぐれな変化は、素早く生じ、遊びの格闘や遊びの追跡に、
実際のものとはまったく異なった特性を与えている。
遊びの格闘者の本当の気分は、攻撃でも恐怖でもなく、単なる遊び好きなのである。
本当の敵意や服従が、存在する場合には
”格闘者“はそれほど自由に、役割を逆転することができない。
元の気分に閉じこめられてしまい、
役割が移動するためには、劇的で、しかも長いとっくみあいが必要となる。
遊びの顕著な特徴の一つは、優位の関係が一時的になくなってしまうことである。
幼い息子と遊んでいる優位な父親は、いつもの権威の役割をまったく捨て去って、しばらくは 服従
者となり、小さな”遊びのライバル“に飛び乗られたり、ぺちゃんこにされたり、踏みにじられたりする。
これと同様に、弱い者と遊ぶ強い者、弟遊ぶ兄は”ライバル“の間に自然に存在する不均衡を
壊すために、自分でハンディキャップを負い、持続的で洗練された遊びができるようにする。
「遊びのパターン」を強める一つの方法は、特別の遊び道具を用いることである。
おもちゃであれ、スポーツ用具であれ、遊び道具は「報酬倍増」の原理に基づいて作用する。
わかりやすくいうと、
風船を軽く打てば、たいがいの同じ大きさの物体よりも遠くへ飛ぶということである。
仕事量の割に結果が大きいのである。
これは、ローラースケート
、アイススケート
、トランポリン、ブランコ、手まり、ビーチボール、
フリスビーといった、様々なおもちゃがアピールする理由であり、
すべて費やされる努力に比べて、はるかに大きな運動量をもたらす。
どの場合にも、遊び道具がもつ特別な性質によって、報酬が倍増されている。
子供たちが車輪のついたおもちゃを喜ぶのはこのためである。
ちょっと押しただけで大きな動きが生じ、こうして、おもちゃの自動車は長い旅に出ていく。
また、水しぶきを上げることが好まれるのも、同じ理由からである。
腕を少し振っただけで、水しぶきが小さな滝のように空中に広がる。
堅い物体に向けて、同じように腕を振っても、ちっともおもしろくない。
地面の上でジャンプすることも楽しいが、
トランポリンやスプリングのきいたマットの上で弾むのは、もっとおもしろい。
これが、「遊びのパターン」の誇張過程のもう一つの側面なのである。
ゲームや機械のおもちゃでは、「報酬倍増」の原理はしばしば象徴的に働く。
わかりやすい例は、ピンボールマシーンの得点方式である。
ボールがターゲットにあたると、100点とか1000点とかが記録される。
これが「一発やった」という気分を与えてくれる。
最新型のピンボールマシーンでは、
これがさらに強調され、一回のゲームで、何十万点もとることができる。
同様に、テーブルゲームでも、勝敗によって莫大な金額のおもちゃの紙幣が行き交う。
数分のうちに、何百万ポンドのやりとりが行われるのである。
探索行動と遊び行動を、明白に区別することが重要である。
その二つは関係はあるが、同じではない。
おもちゃがいっぱい詰まった、見知らぬ部屋に入った子供たちの集団を想像してみよう。
すべてが目新しい。そこで、次の遊びの段階を通過することになる。
1. 子供は未知のものを、慣れるまでよく調べる。これは、遊びの真の探索的段階であり、好奇心
に支配されている。動作はかなり混沌としており、バラバラである。あるものを調べている間にも、
ほかのおもしろいものに気をとられたりする。何回もいじったり試したりするが、リズムを欠いて
おり組織的でない。人という動物が持つ強力な新しい物好きの衝動、つまり、新奇なものを調
べてみようという衝動が、子供を駆り立てている。
2. 子供は、慣れたものをリズミカルに繰り返す。これが遊びのゲームの段階である。新奇なものの
探索を終え、子供は活動に骨格を与え始める。公式的にあるいは非公式的にルールが発見さ
れ、混沌から系統だった動作のパターンが生じてくる。
3. 子供は繰り返しのパターンを変化させる。まもなく、繰り返しによって飽きが生じ、基本的なパタ
ーンは、バリエーションを持つようになる。空き箱はいろいろ調べられた後で、想像上の海を航
海する船になったり、不思議の国を横断する車になったりする。その後、それはウマや幌馬車、
あるいは寝台になるかもしれない。しかし、一連の想像上のバリエーションにおいても、その元
にある“入れ物”というテーマは続いている。
4. 子供はこうしたバリエーションの中から、もっとも満足のいくものを選び、他を捨てることで、それ
を発達させる。ある遊び方が特におもしろいと、それが増幅され強化される。子供はその後、機
会があれば、同じことを繰り返すようになり、一度試みられた他のバリエーションは捨てられる。
こうして、何世紀の続くような子供のゲームもいくつかあるが、数分しか持たないのである。
5. 子供はあるバリエーションと他のバリエーションを組み合わせたり、組み替えたりする。ある遊び
から得たアイデアは、別の遊びに持ち込まれ、より新しいものが作られる。
6. 子供は遊びの最中に、突然大きな変更を行う。何の前触れもなく、そのゲームは新鮮さを失っ
てしまう。少し前までは何もかも忘れて熱中していたものでも、今やすべてのバリエーションを
含めて、まったく興味が持てなくなる。子供に高価なおもちゃを買ってやった親なら誰でも、こ
のことを充分すぎるほどよく知っている。親は子供の身勝手さを嘆くが、それは遊びの基本的
な性質をよく理解していないからである。遊びが経験を深める過程ならば、興味が頻繁に変化
するのはやむを得ない。こうした変更は“気まぐれ”や“落ち着きがない”のではなく、生き生きと
した探索過程の一部なのである。常に新奇な刺激を求めるので、それを満足させるためには
大きな変更が必要になる。
これら六つの遊びの性質は、社会的であれ、個人的であれ、あるいは身体的遊びであれ、
まねごと遊びであれ、どんなタイプの遊びにも当てはまる。
遊びのタイプ自体に目を向けると、人という動物には、驚くほど多様な活動があることがわかる。
子猫は、遊び好きかもしれないが、その遊びのタイプはきわめて限られている。
人の子供はそうした限界は持たないが、
それでも、すぐに夢中になってしまうお 気に入りの遊びの様式がある。
もっとも一般的に見られるのは【移動遊び】である。その主な要素は大きな身体的動作である。
これには、走ったり、追跡したり、はね回ったり、ジャンプしたり、飛び降りたり、
よじ登ったりする動作が含まれる。
木登りは、世界中の子供たちに非常に人気があるので、
太古の先祖の行動型を再現しているのだという特殊な遊びの理論まで飛び出すほどである。
つまり、木に登るという強い衝動は、
われわれの太古の樹上生活が、一時的によみがえったのだと見なされる。
この考えは魅力的であるが、
子供たちが行う種々雑多な移動遊びのパターンに目を向ければ、これは受け入れがたい。
われわれの先祖とは何の関係もない活動が、多すぎるのである。
移動遊びの特別なものに【目眩遊び】がある。
これは一種のスリルを求める遊びであり、子供はその極限まで身体を動かす。
一時的なバランスの喪失と目眩感とともに、スリルを味わうことができる。
身体のコントロールは失われるが、基本的には安全である。
これには、くるくる回り、ごろごろ転がり、横とんぼ返り、逆立ちといったアクロバットが含まれる。
遊び場や遊園地には、様々な方法で目眩を増大させる特別な道具がそろっている。
滑り台、ブランコ、回転木馬、ローラーコースター、回転車、回転ドラム、空中の乗り物などである。
どれをとっても、身体が激しい動きに投げ込まれ、
実際にけがをしないで済む限界点を経験することによって、興奮させられるのである。
もっとエネルギッシュなのが【格闘遊び】である。
これは、環境とではなく身体と身体の取っ組み合いである。
遊びの格闘は、あらゆる種の動物で、特別な方法で行われるが、われわれの種も例外ではない。
それには次のような動作が含まれる。
「押さえつけ。地べたに投げつけ、その上に乗って押さえつける」「組み打ち。胴を締める、首を締
める、腕をねじ上げる、足を引っ張る、つまずかせる、タックルする、蹴る、押したりひいたりする」
「乗りかかり。何人か積み重なった上に乗りかかる」「追跡。威嚇ディスプレイ、走る、いないいない
ばあ、急に飛びかかる、隠れる、倒れる、盗みのまね 、捕まえる」「投げ合い。ねらう、ひょいと頭を
下げる、掴む」「水遊び。はねかける、吹きかける、沈める、飛び込む、水の中を歩く、ジャンプする」
遊びの格闘者たちを観察してみると、
取っ組み合いのほうが、殴り合いなどよりもずっと多いことがわかる。
上に述べた取っ組み合いのパターンは、
世界的に見られるが、拳を用いた遊びの格闘は、地域が限られている。
しかも、顔を殴ることはほとんどないし、パンチはすぐに引っ込められてしまう。
そこで、一撃は空を切ったり、相手の身体にあたっても、そんなに強いものではない。
それに対して、
腕を使った取っ組み合いはきわめて激しいものであるが、けがをさせることはほとんどない。
広い意味の「愛情遊び。性的な狭い意味でなく」は、母親と子供の間に広く見られる。
キスをしたり、優しくかじったり、鼻をこすりつけたり、抱きしめたり、揺すったり、
くすぐったりする動作である。
これは小さな子供たちの間でも見られるが、
成長するに連れて減少していき、十代後半の求愛の時期まで現れない。
象徴的な愛情遊びは、
すべての思春期の子供と人形「あるいは柔らかいおもちゃ」との間に見られる。
「機械遊び」は、ものを壊す試みから始まり、次第に組み立てる方向へ移行していく。
模型を組み立てたり、物を作ったりすることになる。
「想像遊び」は、子供時代の後半になってやっと現れるが、時がたつに連れて重要性を増してくる。
それは、言葉当て遊びから、カウボーイ・インディアンごっこまで、
また、着せ替え遊びから、夢のような空想にまで及ぶ。
ここで重要なのは動作自体ではなく、大人の役割を演じることである。
「頭脳遊び」は、早くから着実に増加する。
これはパズル、盤を使うゲーム、ジグソー、クロスワードパズル、
そして、チェスとトランプの世界である。
「創造遊び」もまた、早くから始まる。
それは、最初はなぐり描きやぱたぱたたたきであるが、
しまいには絵画や音楽あるいは他の芸術形式となる。
以上のリストは、けっして完全なものではない。人間の遊びは、非常に多様で根強い。
本質的には、すべての行動形式が、遊びの変化したものと解釈できるほどである。
しかしここに示したタイプは、
主な分野の遊びのすべてを含んでおり、子供を夢中にさせるものである。
どの場合にも、遊びは特定の訓練ではなく、
一般的な“知識の習得”に関係することを、もう一度繰り返し述べておこう。
われわれの種では、他の種と比べて、大人になってうまくやっていくためには、
子供時代のこの知識の習得が、基本的に重要なのである。
次のような古いことわざがある。
−「子供は、若いからこそ遊んでもよいものだ」
これは、人という動物にとって、遊びという行動がいかに重要であるかをよく表している。
われわれは、しばしば“遊び”という行動を、“まじめな”行動と対比させるが、
遊びはすべての活動の中で、もっともまじめな活動と見なした方がよいであろう。
メタ信号
信号の性質を示す信号
【メタ信号】とは、信号についての信号である。
それは、今、行われているすべての動作の意味を変えてしまう信号である。
例を挙げよう。二人の男が取っ組み合いをしているとする。
われわれは彼らが本気なのか遊びなのか、一目で見分けることができる。
この判断は、二種のメタ信号を読みとることでなされる。
まず、彼らが微笑したり、笑ったりしているかをチェックする。
もしそうしていれば、その格闘は偽の取っ組み合いだといえる。
顔に浮かんでいる楽しげな表情がメタ信号として働き、
他のすべての表面的には攻撃的な動作が、敵意の表れではなく、遊びなのだと理解される。
格闘の間に微笑が見られないならば、彼らは真剣なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
時々、遊びの格闘人物は、偽の野蛮な表情をし、微笑を抑制する。
本当の気分がどうなのかを確かめるためには、
第二のメタ信号、つまり、動作の経済性の有無をチェックしなければならない。
本気の格闘の時には、でたらめで誇張された動作などに、余計なエネルギーは費やされない。
筋肉の連続的な動きは、最高の効率を目指して調節される。
これに対して、遊びの格闘では、動作はわざと非経済的で芝居がかってくる。
動物も取っ組み合いをするときに、同様のメタ信号を用いる。
三つの例を挙げてみよう。
チンパンジーは、偽の格闘を行うときに、
特別な遊びの表情、口唇をひいて歯をむき出しにした表情を見せる。
アナグマは、偽の取っ組み合いをする前にわずかに頭を振り上げる。
そして、ジャイアントパンダは、遊びの組み打ちを誘うときには、転がったり、でんぐり返ったりする。
こうした場合には、すべて経済性が欠如している。
このことは、メタ信号の起源の古さを暗示していると思われる。
比較的新しいのは、ウィンクなどの、人のメタ信号である。
奴をいじめようと、共犯者に対してウィンクをするとき、
それは、犠牲者にではなく共犯者にだけ伝わる選択的なメタ信号として働く。
ウィンクが通じると、それに続くからかい動作の意味は、
それにかかわっている立場が違う二人にとっては、まったく異なったものになる。
共犯者はそれらを偽りのものと解釈し、犠牲者は本当のものと解釈するのである。
意図的でないメタ信号もある。
怒っている男は、礼儀正しくしようと思っても、青ざめた顔とかぎこちない身体動作といった、
怒りのメタ信号を思わず発してしまうので、その信号一つだけで、
みんながずっと楽しんできた雰囲気をぶちこわしてしまう。
一般的な身体姿勢、つまり、挙動は、
人のすべてのメタ信号のうちで、もっとも広範かつ共通に見られるものである。
相手との交渉の際に人がとる姿勢は、
彼が伝えている他の信号全体の、基本的な読み方を与えてくれる。
ちょうど、優位のサルが示す歩幅の広い歩き方が、
他のすべての動作を仲間たちに印象づけるのと同じように、
人の威張った歩き方、あるいは動作の活発さは、
彼の他の社会的活動が持つメッセージを強めることができる。
“筋力の精神力”とでもいえるものを欠いている人は、
他の人ならうまくやっていく交渉に失敗してしまう。
その後で次のようにこぼす。すべきことはみんなやったし、
ライバルより知識も経験も豊富なのに、どうして失敗したかわからない、と。
そのような人に、ある意味では、軽快な歩き方やステップは、
10年間の技術教育に値するのだということを信じさせるのは困難である。
メタ信号はそれほど強力なのである。
他の動物とは異なり、人はこの問題を克服する一つの手段を持っている。
つまり、社会のバッジをつけたり、制服を着たりすることである。
本質的には、すべての衣類が、メタ信号として働き、来ている人の動作を変えるものだが、
強い権威を持っている制服には特別な力がある。
ごく普通の若い男に、警察官の制服を着せるだけで、
たちまち、その男のすべての動作は、より威圧的で、より権力をかさに着たものとなるのである。
まったく異なったメタ信号に、注視の方向がある。
見知らぬ二人が荒々しくののしりあっているのを目撃すると、
われわれの好奇心は目覚めるが、個人的なおそれを感じることはない。
攻撃的な言葉を耳にし、攻撃的な動作を見るけれども、
ののしりあっている二人の注視の方向で、それらが自分に向けられていないことがわかる。
彼らは互いに見合っているので、敵意の信号がどこに向けられているかがわかるのである。
当たり前のことかもしれないが、大勢の人が住んでいるこの世界では、
メタ信号は、われわれの動作を限定するきわめて重要な手段である。
もし、こうして自分の活動を方向付け、限定することができなかったならば、
混雑した部屋で社交的なやりとりは耐え難いものとなろう。
注視のメタ信号はこう伝えている。
「これから行う私のすべての動作は、君だけに向けられる。他の人はこれらを無視してもよろしい」
熟達した講演者は、この種のメタ信号を用いている。
彼は話しながら聴衆をゆっくりと眺め回して、
その一人一人に、特別注意が払われているという気持ちを起こさせるのである。
ある意味では、すべてのエンターテイメントの世界は、ノンストップのメタ信号を送り続けている。
それは演劇の世界であったり、映画のスクリーンであったり、テレビの画面であったりする。
舞台やスクリーンで見た殺人や窃盗は、遊びの犯罪だということを知っているから、
われわれはそれらをエンターテイメントとして楽しむことができる。
俳優は邪悪な行為をできるだけリアルに行うが、
俳優がいくらそのようにしても、われわれは
「ナイフがぐさりと突き刺さり、驚きで息が止まりそうになったときですらも」
心の隅には、舞台の端っこにいるというメタ信号を持ち続けているのである。
きわめてまれであるが、このルールが破られると、驚くべき事態が生じる。
たとえば、ある演劇の上演で、ドラマチックな出来事が、
舞台上ではなく観客の中の舞台で起こるようにした。
実際に、自分自身がそうした出来事に引き込まれていることを知ったとき、
何人かの観客が受けたショックは、強烈なものであった。
ラジオの有名な例に、【火星からの侵入】がある。
これは、想像上の出来事がドキュメンタリー風のリアリズムで放送されたために、
多くの人々が深刻なパニック状態に陥った例である。
ラジオは他のメディアのような視覚的メタ信号を欠いているので、ごまかしがずっと簡単なのである。
真実の言葉は、しばしば冗談半分に話される、といわれる。
これについては、遊びのメタ信号に関連させて、論評をくわえる必要がある。
つまり、メタ信号はしばしば表面的な装飾に過ぎない、ということも本当である。
メタ信号の微笑は、格闘が遊びなのだということを伝えているかもしれないが、
遊びの格闘自体が、元気良さを示しているのではなく、
真実を隠し、抑制した敵意を示しているのかもしれない。
冗談が飛び交う家庭は、攻撃者が内心の敵意を外に出しているのかもしれない。
しかし、それでもメタ信号は、
信号についての信号としての特別な機能を十分に持っているのである。
超正常刺激
強力な刺激の創造
超正常刺激は、対応する自然界の刺激を超える刺激である。
自然界では、すべての動物は妥協の産物である。単純な例を挙げてみよう。
ある動物が敵から隠れるためにカモフラージュされていると、
配偶者に対するディスプレイも目立たないものになってしまう。
逆に配偶者を引きつけるために、けばけばしい色彩が施されていると、
敵から隠れるには目立ちすぎてしまう。バランスがとられねばならない。
ほとんどの種では、この妥協のために、ある側面が目立つ程度には限界がある。
特定の側面を人工的に誇張させた模型動物を使った実験によって、自然を改良できること、
つまり、ある側面をより刺激的、かつ効果的にすることができることがわかってきた。
野生の動物はこうした余裕を持たないが、人は持っている。
人は自分自身の身体的特徴を、
多くの方法で改良し、人為的に周囲の世界を超正常化することができる。
背を高くしようと思えば、ハイヒールを履けばよいし、
皮膚をなめらかにしたかったら、化粧品を使えばよい。
他人を驚かせたかったら、強い攻撃の表情をした野蛮なマスクをつければよいのである。
人間の超正常刺激
性的ディスプレイ、敵意のディスプレイ、地位のディスプレイをより有効にするための手段として、
身体的信号を増幅させる方法は、無限にある。
しかし同時に、人間は自分の身体だけでなく、周囲の環境要素までをも超正常化しようとしてきた。
人間は明るい花が好きなので、自然に見られるどの花よりも明るく華やかな花を作り、
よい味の食べ物を好むので、料理を工夫して、さらに風味豊かな味にする。
ゆったり横になる柔らかいベッドが好きなので、極端に柔らかい枕とマットレスを作り上げる。
また人間は、ぱっと目立つ動物を好むので、
家畜やペットの自然な体毛パターンを遺伝的に改良し、
真っ白、真っ黒、ぶちと行った野生状態ではとうてい生き残れないほど印象的な系列を作り出す。
どんなスーパーマーケットでも、
ちょっとぶらつけば、数え切れないほど様々な超正常化商品に出会う。
超正常な微笑を約束する歯磨き、超正常な清潔さを約束する石けん、
超正常な小麦色の肌を約束する日焼けオイル、
超正常なしっとりとした髪を約束するシャンプーなどである。
現代の薬局も、同じような品々であふれている。
超正常な睡眠を引き起こす睡眠薬、超正常な活力をもたらす強壮剤、
そして、超正常な排便を促す通じ薬などである。
よりよいものを望むところに、よりよいものがもたらされる。
時には、そうした要求が偽りの場合もあるが、
自然の機能を改良しようという衝動が、人々を駆り立てている。
記録に残されている催淫剤は900種類以上もあり、
そのすべてが性的エネルギーを高めると考えられていた。
しかし、そのほとんどは少しの効果もない。
にもかかわらず、需要が大きいので、世界中で売られ続けている。
多くの場合、超正常刺激は中身よりも包装に見られる。
多くの商品広告会社は、もっぱら商品の視覚的魅力を増すことに力を注いでいる。
多くの製品は、中身がほとんど同じようなものなので、
その商品を競争相手よりも刺激的に見せることに、専門的な注意が払われる。
品物の形、手触り、模様、色彩が主な関心事となってくる。
もしある包装が人目をひくなら、次の包装はさらに目立たねばならない。
もし、ある洗剤の漂白力が強いなら、次の洗剤はもっと強力でなければならない。
すべての超正常刺激の本質的な特性は、
それが前面に押し出されており、しかも明白でなくてはならないことである。
すなわち、ある要素、つまり、ある特定の場面で最も重要と考えられる要素は、
誇張されねばならないが、他の要素は、そうであってはならない。
あまり多くの細かな点を、まったく同時に超正常化すると、混乱を招くことになる。
解決策は【刺激の極端化】である。
いくつかの要素を大きくし、他の要素を小さくするのである。
この二重の過程によって、ある特定の側面を印象深くすることができる。
関係のない側面は、除去したり、弱めたりする。
その結果、強調された要素が、より際だって見えることになる。
これがいわゆる脚色という過程の本質であり、書物、映画、そして演劇といった、
ほとんどのエンターテイメントの基礎となっている。
日常の動作は、実生活では間延びしているので、印象が弱い。
そこで脚色家は重要な瞬間をうまく引き延ばして、残りを短くするという技法を用いる。
しかし、これも度が過ぎると、誇張は見え透いたものとなり、強い印象を与えなくなる。
われわれはメロドラマ的なフィクションを拒否する。しかし、うまく超正常化されると、
ほんの短時間で、日常生活のすべてを忘れてしまうほどの情緒的反応を体験することになる。
しかしながら、オペラやバレエ、そして漫画映画などの分野においては、
われわれはこのルールを無視し、人為的な誇張の限界へと意図的に突き進むことを楽しむ。
超正常化の過程をわざわざ隠そうとはせず、明らかにそれを特別の約束事としている。
それは子供のおもちゃ、人形、あるいは操り人形にもいえることで、
刺激の極端化は現代の流行となっている。
これはほとんど、幼い子供のおもちゃに限って適用されることには理由がある。
年長の子供は、理性の年代に達するに連れ、教育の科学的姿勢にあわせて、
より本物のおもちゃを望むようになるからである。
同じような傾向は、子供が成長するに連れて、その絵の中に見いだされる。
幼い子供が描いた人物画は、
原始文化、部族文化の美術品と同じように、超正常な要素にあふれている。
身体で一番重要な部位は頭なので、頭が通常より大きく描かれる。
目も重要なものなので、描かれたり、刻まれた顔には、大きな目が目立つことになる。
子供が大人に近づくに連れて、
ようやくこうした誇張はなくなり始め、自然のプロポーションに近いものになる。
しかし、大人の美術の分野でも、
芸術家の目標が外的世界をできるだけ正確に再現することだったのは、
絵画や彫刻の歴史でも数少なかった。
絵画においては、人はかなりの程度までリアリティーの要求から解き放されている。
人物が走っているなら、不当に長い足をくわえることができるし、
セックスの最中であれば、巨大で異常に長い陰茎を誇示させることもできる。
人を脅しているなら、口を大きく開けて、とてつもなく大きな毒牙をつけることもできる。
直接、実際の人体に人為的な誇張をくわえることは、
体重や動きやすさを考えると、最後には限界がある。
しかし、描かれた人物にはそうした配慮がいらないし、
超正常化しようとする要素を100倍にもすることができる。
風刺漫画の分野は、もっぱら刺激の極端化を行っている。
一人一人の人間の顔を典型的な顔から若干ゆがんだものと見なして、
どの部分が少しばかり長いのか、広いのか、大きいのか、あるいは平たいのかをチェックする。
そうして風刺漫画家は、これらの自然な印象をやや強め、
同時に弱い部分をさらに弱めることによって、その人物像の印象を強めることができる。
その作品の質は、結局、どれほど極端にこの過程を用いるかではなく、
ある顔にくわえた様々な誇張の中に、いかにうまく調和を見いだせるかにかかっている。
これは、幼い子供や原始の芸術家の作品に見られるものと、根本的には同じ過程であるが、
風刺漫画家は一般的な人間の特徴にではなく、個人差に関心があるのである。
超正常刺激は、自然には存在しないようなものにまで、広げて定義することができる。
二つの対照的な例を挙げてみよう。
女性の足は、性的に成熟するにつれてのびるので、長い足がセクシーだと見なされる。
そこでピンナップを描く画家は、作品の中で女性の足の長さを誇張することになる。
実際に測ってみると、下にしたモデルの1.5倍にもなっていることがわかる。
これは、端的な自然の改良で、ある生物学的側面を拡大したものである。
ところで人が作りだした物、たとえば自動車を考えてみよう。ここには自然の出発点は何もない。
にもかかわらず、自動車会社のショールームには紛れもなく、毎年、超正常車が飾られている。
自動車デザイナーは、ピンナップ画家と同じように、自分の製品を眺める人々に、
超正常な反応を引き起こす仕事に携わっている。
しかし、車のような人造物にとって何が正常なのであろうか 。
自然の車というものは存在しないし、超正常車と見なすための生物学的基準もない。
しかし、人の作った物には、通常、一般的な形があり、
それと比べてどれほど修正がなされているかは測定できる。
自動車の歴史のどの段階においても、一般的な、それ故に正常な形の自動車は存在した。
基準ラインは、女性の足と同様、固定的なものではない。シーズンごとに変化していく。
新しい改良が加えられるたびに、正常さの標準はすっかり変えられねばならない。
それ故、自然のものの超正常化の場合より、
事態はずっと流動的なものとなるが、原理はまったく同じなのである。
世界中のどこででも、こういった超正常化傾向が生じつつある。
われわれは、環境のほとんどすべての側面を、絶えず誇張し続けている。
しばしば、特定の側面を刺激的なものにしすぎて、刺激の消化不良を起こしている。
内心では、香辛料を入れすぎたカレーのような生活から、
素朴であっさりとした食べ物の生活へ逃げたいと熱望している。
しかし、われわれ人間は、人以外の種であれば、
その活動を制限するような生存のための妥協によっては規制されないので、
初めは異様な行き過ぎが大変刺激的だが、ついには魅力を失い、
別のものへと変更されねばならないのを何度となく眺めてきた。
一連の超正常化を終えると、われわれはまた別の超正常化にとりかかる。
改良のための新しい要素を選び出し、それがまた古くさくなるまでかかわるのである。
別の言葉で言えば、われわれは手を変え品を変え、同じことを繰り返しているのである。
これがいわゆる流行の基盤となっているのである。
審美的行動
美しいものへの反応
審美的行動とは、美の追究である。これはいうのはたやすいが、説明するのは難しい。
美しさというものは、特に生物学的にみた場合、とらえどころのないものだからである。
美しさは、食事、セックス、育児などのような、
人という動物の基本的な生存パターンのどれとも、明らかな関係を持たないが、
それでも無視できないものである。
というのは、人々の時間の過ごし方を調査してみると、
美しさへの反応に多くの時間をかけているからである。
人々は画廊で絵画の前に立ったり、静かに音楽に耳を傾けたり、彫刻や花を見つめたり、
景観の中をさまよったり、ワインを味わったりする。
そうした反応は、美しさへの反応としかいいようがない。
どの場合にも、人の感覚器官は印象を脳に伝えている。
明らかに、その印象を受けることだけが反応の目的になっている。
玄人のワイン愛好家は、ワインを味わってから吐き出しさえする。
それはあたかも、自分がいやしたいものは美しさへの欲求であって、
渇きではないことを強調するかのようである。
実質的には、すべての人間の文化は、それを何らかの方法で美的に表現しており、
美しさへの反応を経験したいという欲求は、世界中の何処でも重要性を持っている。
しかし、絶対というものがないことも真実である。
すなわち、すべての場所で、、すべての人々によって美しいと見なされるものは、何もないのである。
美の対象として崇拝されるものもすべて、人や場所が違えば、醜いものと見なされる。
この事実は、大部分の美学論を無意味にするので、多くの人は、これを受け入れがたく感じる。
一般に、ある特定の形式の美には、何らかの本質的価値、すなわち、
誰にもその美しさが認められるに違いない何らかの普遍的妥当性があるのだ、と考えられている。
しかし、真実を言えば、美というものは、
見る人の心の中にあるのであって、それ以外の何処にあるのでもない。
もしそうなら、美の生物学に関して何がいえるのだろうか 。
それぞれの人が、何が魅力的で何が醜いかについて自分自身の考えを持っており、
そうした考えが場所や時間で変わるなら、人という種の美しさへの反応は、
個人的好みの問題であるということ以外に、何がいえるのだろうか 。
どの場合にも、基本的な規則が働いているように思えるというのが、その答えである。
こうした規則は、美の対象の正確な性質を明らかにはしないが、
われわれが美しいものに対する反応を、最初どのようにしてもつようになったか、
そしてその反応が、今日どのように支配され、影響されているのかを説明してくれる。
とりあえず、人の作り上げた工芸品は無視して、自然物に対する反応に限ってみよう。
最初にいえることは 、美の対象はここの現象ではなく、一つのまとまりをなしているということである。
それらは分類可能である。花、蝶、鳥、岩、木、雲などはすべて、
非常に魅力的だと思う環境の要素であるが、多くの様々な形、色、大きさを呈する。
どんなものでも、われわれは心の目で、以前に出会った同種のすべてのものを見ている。
新しい花をみるとき、以前に出会ったすべての花に関する背景的知識と比べながら、
それをみているのである。
脳は、これらすべての情報を、“花”というラベルの付いた特別のファイルに貯蔵してあるので、
目が新しい花を捕らえた途端、その視覚的刺激は、貯蔵されていたすべてのデータと照合される。
実際みたものは、この複雑な比較がなされた後で、やっと花になるのである。
言い換えると、人間の脳はすばらしい分類機械として働いている。風景の中を歩くときも、
新しい経験を取り込み、それを古い経験と比べるのに忙しい。
脳は見えるものすべてを分類している。この過程の生存価値は明らかである。
大昔の先祖は、他のほ乳類と同様、取り囲む世界を詳しく知る必要があった。
たとえば、サルはすみかとする森に繁っている、多くの様々な草木を知らねばならないし、
どれがいつ頃熟した果実をつけるのか、どれが毒なのか、
そしてどれにとげが多いのかを知る必要がある。生き残るために、
サルは優れた植物学者にならねばならなかった。
原始時代の人は、観察の熟練者となって、
すべての植物や動物の形、色、パターン、運動、音、においを素早く知らねばならなかった。
これを可能にするただ一つの方法は、生活の中で出会ったすべてのものを分類するという、
強力な衝動を発達させることであった。
私はこれを分類衝動【文字通りには、分類好き】と呼んでいるが、
その重要性から、それ自身独立したものとして発達してきたのだと考えたい。
それは、食事、セックス、睡眠といった欲求と同じくらい、基本的で特異なものとなった。
われわれの先祖は、元々、食べ物を見つける活動の一部として、イチゴやカモシカを
分類していたのだろうが 、徐々に空腹と関係がなくとも、分類のための分類を行うようになった。
こうした発達の生存価値は充分明らかである。
もし、幼い子供の時から心の奥の何処かに、
すべての環境要素を整理し、体系化する強い衝動があるならば、
緊急事態が発生したときに、適切な要素が心の全面に浮かび上がり、その知識はすぐに役に立つ。
学校の生徒は、あまり役に立つように思えない多くの情報を、
無理に記憶させられると、しばしば文句を言う。
しかし、彼らが石器時代の子供であったら、
こうしたより大きな影響力を持つ課題を、まず学習したであろう。
教室のような抽象的な世界では、植物学はかけ離れたものであり、
地質学は退屈であり、昆虫学は無意味なものかもしれない。
しかし、こうした苦情はあっても、分類衝動はすこぶる強いので、
教室のような浮世離れした純粋な雰囲気の中でも、
子供たちはめったに直接でくわさないような主題について、非常に多くの事実を覚えることができる。
この驚くべき能力は、分類好きがより大きな意味を持つような状況に入り込んだときに、
さらに活発なものとなる。
学校では見た目にはぱっとしない子供に、
最近のサッカーの試合、スコア、チームのメンバー、あるいはチームの特色などを聞いてみなさい。
もしその子が大ファンならば、頭の中に注意深く分類されている驚くほど多くの事実を、
とうとうと話し始めることだろう。
また、ある少女に、
最近発表されたレコード、歌、過去二.三年の歌手や演奏家の名前などを聞いてみなさい。
そうした趣味をもっていたら、彼女は、名前や日付、タイトル を立て板に水といった調子で
しゃべり出すはずである。その過程は驚くほど幼い頃に始まる。
たとえば、車名当てゲームをしてみなさい。
四歳ぐらいの子供でも、すぐに100種類以上の自動車を見分けられるようになる。
このように人という動物は、情報を分類する名人であって、現実の環境の中で出くわすものならば、
ほとんどどんな情報でも分類できるのである。
美に対する反応の根底にあるものは、この分類好きの衝動である。
珍しい小鳥のさえずりを初めて聞いたり、それまで見たことのない庭園を歩くとき、
さえずりや 花壇に対する反応は、非常に心地よいものであり、
「なんて美しいのだろう」という言葉を漏らす。
心地よさの源は、そのさえずり、あるいは庭園であると思われるが、そうではない。
それは、特定の範疇において、以前経験したすべての事柄をチェックしたことで生じる、
新しい経験なのである。
新しいさえずりは 、以前聞いたすべてのさえずりと、
庭園は以前見たすべての庭園と、即座に比較される。
美しさが発見されても、それは比較されたものであって、固有のものではない。
絶対的ではなく、相対的である。
しかし、もし美しさが、分類可能な関係の問題であるなら、醜さもそうである。
そうであれば、さらにその二者の差異を定義しなければならない。
その答えは、周囲の世界を分類するとき、“分類”をどのように作り上げているかにある。
一つの分類または範疇とみなされるものは、
ある一組の対象が、同じではないが類似点のある共通の特性を持っているからである。
共有する特性に基づいて、一まとめにするということが、心の中で行う整理の仕方である。
分類図式の中で、より多くの特性を共有するほど、より近くに並べる。
これはたいてい無意識の過程であり、自分でもそれをしているのを知らないことさえある。
しかし、それにもかかわらず 、それはきわめて重要である。
この過程によって、さえずり、あるいは花壇とは何かについて、一組の規則が確立されることになる。
われわれは、新しいさえずり、あるいは新しい庭園に出会ったとき、
それらがあらかじめ作り上げた規則に、どのように当てはまるかを、無意識に分析している。
もし小鳥のさえずりというものを、高さが変化する長い一連の清らかな歌声であると定義してあれば、
新しい歌がこれらの特性において優れているとき、それを美しいとみなすだろう。
しかし、荒っぽく小間切れに繰り返されるようなものであれば、
それをへたくそで不快な歌だというであろう。
また、花壇とは、清らかで鮮やか色合いの花がたくさん咲き乱れる多種多様の色である、
と決めてあれば、この価値尺度によって、
どんな新しい庭園に出くわしても、それをたやすく測定することができるのである。
それとは 逆に、より穏やかで繊細な小鳥のさえずり、
あるいはより控えめで落ち着いた色合いの花壇を好んでいたらどうであろうか 。
価値尺度は異なったものとなり、初めて聞くさえずり、
あるいは初めて見る庭園に対する反応は、異なったものとなるであろう。
それらを、威圧的でけばけばしいものと感じるかもしれない。
これらのことから、美しさというものの独断性が明らかになったことであろう。
それは、さえずり遊び、あるいは花遊びの規則を確立した先行経験に、
まったく依存しているのである。
しかし、もしわれわれすべてが同じ世界で生きてきたとしたら、
そうした差異はいかにして生じうるのだろうか。
その答えは“刺激般化”と呼ばれる過程にある。例を挙げよう。
小さな男の子が犬にかみつかれたとする。その子はすべてのイヌが嫌いになるだろう。
その一匹のイヌに対するその子の恐怖は、その系統のすべてのイヌに広がり、
さらに他の系統のイヌすべてを含むところまで般化するであろう。
すべてのイヌは、以前は様々な魅力と美しさを備えた対象として、
注意深く分類されていたのだが、突然、すべてが不快で、野蛮で、いやな感じのものになる。
その子には、もはや美しいイヌといったものはまったく存在し得ない。
この刺激般の過程は、本質的にはあらゆる場合に、すべての範疇に当てはまる。
もし、ある娘が、バラの庭園で残忍な暴行を受けたならば、
バラは一夜にして醜いものとなってしまう。
ほかの娘が、バラの庭園で恋をしたら、逆の過程が働くであろう。ほかにもこうした多くの影響がある。
もし、自分が軽蔑している人が、小鳥のさえずりに 熱中していると、
甘いさえずりが 、いらいらするような不協和音に感じられる。
尊敬する人が豚が好きならば、ぶーぶーと醜い豚に美しさを見いだすかもしれない。
かつては安価で、
陳腐だったものが、高価でめったに見られないものになると、すぐにその美しさが感じられる。
そして、何故以前はそれに気づかなかったのかと、いぶかしく思うことになる。
しかし、上で述べたことが、かなり明白であったにしても、
美しいものは本質的に存在するという根強い考え方が、
強くはびこっていることは 、覚えておかなければならない。
これが強く感じられるのは、“女性の美しさの世界”つまり、
女性の形体の世界、美人コンテストと芸術家の理想的モデルの世界である。
何世紀にもわたって、男性は、完全な女性についてこまごまと論争をしてきたが、
問題を解決した者はまだかつて一人もいない。
美しい女性は、時代が変わるに連れ、
あるいは若い女性を眺める人が、ある社会から別の社会へと移動するたびに、
その形を変え続けている。
どの場合にも、固定的な理想像が頑なに守られている。
ある文化では、やせて柳のようになよなよしていることが必須である。
さらに他の文化では、砂時計のような細い腰をもっていなければならない。
顔については、地域や歴史上の時期が異なれば、“美しさの規範”は異なったものとなり、
好みは非常に多様となる。
まっすぐ突き出た鼻と小さな獅子鼻、青い瞳と黒い瞳、肉付きのよい唇と、小さくて形のよい唇。
それぞれがはやりの時期をもっていたのである。
こうした多様性によって、ミス・ワールド・コンテストや、ミス・ユニバース・コンテストのように、
文化を超えた美の女王を見つけだそうという試みがなされるときには、異常な事態が生じる。
これらのコンテストでは、美しさの理想像が明らかに異なっている文化圏から参加者を募る。
そして、彼女らを、あたかも単一社会からの代表者のように判定する。
世界的に見ると、そのようなコンテストの結果はナンセンスであり、
参加しているすべての非西欧文化を軽蔑することになる。
西欧出身ではない女性は、その出身地の真の美しさではなく、流行の西欧的理想像に
どれほど類似しているかを元にして、それぞれの地域の審査員によって選ばれねばならない。
もし、黒人女性が選ばれたとしても、
それは彼女が白人の体型をした黒人であったからであり、また東洋の女性が選ばれたとしても、
それはプロポーションが異様に白人的であったからである。
突き出た尻、長くのびたクリトリス、あるいは異様に大きな唇が、
その地方の美人としてもっとも重んじられる文化から来た女性は、応募する必要がない。
彼女らは準決勝にすら進出できないであろう。
最近のミス・ワールド・コンテスト出場者について必ず発表されるただ一つの尺度は、
いわゆる“プロポーション”のサイズ、つまり、バスト、ウエスト、ヒップの測定値である。
1970年代の典型的なコンテストでのその平均値は、89−61−89センチであった。
これらの数値を、過去の実際の女性のものと比較することはできない。
残存している太古の女性の彫像が、その時代の理想像を代表していると仮定すれば、
いくつかの驚くほどの違いが現れてくる。
すべての“美の女王”のうちでもっとも古いものはビレンドルフのビーナスであり、
それは中部ヨーロッパから出土した小さな石像である。
彼女が紀元前二万年のミス古代石器時代であり、今生存していたなら、
そのプロポーションは244−226−244になる。
紀元前2000年に戻って、ミス・インダス川流域は114−91−160であり、
青銅器時代後半の紀元前1500年のミス・キプロスは109−107−112と推定される。
さらに、紀元前100年のミス・アムラシュは、
97−112−198と驚くようなプロポーションをもっていたが、
同時代のほんの少し離れたミス・シリアは、
ほとんど現代と変わらない79−66−91だったようである。
空間を移動するか、時間を移動するかにかかわらず 、
女性の身体的理想像は明らかにきわめて多様であり、
本質的に完全な女性の美しさを発見するという希望は、まったく捨てねばならない。
もちろん、これは、人には基本的な女性信号が存在していないということを意味してはいないし、
男性がそうした信号に対して、生得的反応を欠いているということも意味していない。
性信号や性的な誘惑信号は、他のすべての種と同様、人にも存在している。
しかし、そのような性的な身体信号は、すべての女性に備わっているのであって、
個人がその地方の規範によって、どれほど醜いとか美しいとか判断されることとは無関係である。
醜い女性でも、女としての完全な解剖学的特徴を備え、十分な生殖器官を所有し、
すばらしい友人になり得るし、魅惑的な性格を持ち得る。
それなのに、男性は彼女を見た目に魅力的でないと感じ、結婚する気になれなくなる。
これはサルには理解しがたいことだろう。
雄のサルは、同種の雌の相対的な美しさなどは考慮しない。
雄のサルにとっては雌は雌である。醜い雌というものはいない。
しかし、人の男性は、女性を異性のメンバーとして、かつ美的に評定された個人としてみている。
男性のきわめて発達した分類衝動は、興味を持つほとんどすべての領域に浸透し、
それらを広範囲に際限なく分類し、階層分けする。
そして、人の女性に対する反応も、例外ではないのである。
その結果、たとえば、鼻の高さ、ほおの丸みなどの微妙な差が、誘引か反発かを決定している。
女性の顔の作りや胸の大きさが、生涯の配偶者としての特性に、
実際何の影響も及ぼさないことは 明らかである。
しかし、これらの微妙な点は、人の美的評価に関する重要な要素であり、
配偶者の選択においてもある役割を果たしている。
このように、強力な審美的傾向が、
性的な場にまで入り込むために、社会的に奇妙なことが多く起こっている。
この尺度の一方の端には、
整形手術、美容文化そして化粧品というような繁栄している産業が存在し、
それらの産業がその地方の視覚的魅力を強調している。
その結果、実際には料理が下手で、母親としても役に立たず、自己中心的な女性が、
最高の配偶者として自分を売り込むことができるのである。
尺度のもう一方の端には、わびしい独身女性の会がある。
これは、料理が上手で、最高の母親となり、またすばらしい伴侶になれるのに、
単に顔がのっぺりしていたり、容姿が不格好なために、
独身でわびしく暮らしている多くの孤独で拒絶された女性たちを慰めている。
こうした傾向が続くとしたら、結局は、美しいものどうし、醜いもの同士が結婚し、
その子供は超美しさ、超醜さをもつことになり、
“美しい人”と“醜い人”の間の溝はますます広がることになるであろう。
いくつかの要因が、こうした事態の発生を妨げているが、
そのうちで大きなものは“金持ちの醜い人々”が
“貧しく美しい人々”にしばしば好かれるという事実である。
また、多くの人々は、配偶者選択に際し、
最後の決断の瞬間がやってくると、美しさによる衝動的な評価に従わない。
その代わり、たとえいつも、人の身体の審美的魅力に対して賛辞を送るとしても、
より適切な根拠に基づいて、相手を選ぶ。
そのような人々は、結婚後にも、映画スターやピンナップ、
あるいは道で出会った人々を評価するときに、面食い遊びを続けるかもしれない。
しかし、それを自分の空想の世界へ追いやってしまい、
審美的な要素が入り込んで実生活を圧倒してしまうことはない。
作られた美学という問題に目を向けると、通常、芸術と呼ばれている分野に入り込むことになる。
芸術とは、人造の美しさと定義できるだろう。
そして、それには主な二つの形式がある。
【演じる芸術】と【作る芸術】である。
演じる芸術は審美的な集まりを開いてくれるし、作る芸術は審美的な対象をもたらしてくれる。
どの場合でも、美しさの感覚は、自然の対象の場合と同様、基本的には、
あるテーマについて微妙な比較、分類を行うことで生じる。
もちろん、自然の美しさについては、そのテーマ破綻に周囲の世界から選ばれた。
ところが、芸術の分野では、われわれ自身がテーマを創造するのである。
ここで、バリエーションを楽しむことのできるテーマに、
いかに到達するのかという新しい問題が生じてくる。
たとえば、野生の動物や花の美しさを楽しもうとするときには、いかなる創造性も含まれていない。
それらは存在しており、進化が創造的な仕事を行ってくれている。
しかし、音楽を作曲したり、絵を描こうとするときには、作り上げようとするその作品に、
われわれ自身の進化的な力を加えねばならない。
真っ白なキャンバスに向かっている画家、
あるいは沈黙しているピアノの前に座っている作曲家に、すべての責任がかかっている。
芸術家は何もないところから、あるいはむしろすべてがあるところから出発する。
芸術作品に取りかかる時の最初の選択は、理論的にはまったく自由である。
どんな形を描いてもいいし、どんな調べを弾いてもかまわない。
自然の美しさに対する個人の反応と比べると、
これは芸術家に対し、特に課せられたチャレンジである。それにどう対処するのだろうか 。
芸術家はすぐに、かなり限定された形式を自分自身に課す。
一言でいえば、形式を作る。いかなる形式でもよい。
ただ複雑なバリエーションを含んでいなければならない。
自然から、たとえば一本の木からその形式をコピーするかもしれないし、
小鳥のさえずりから、調べの音階をこっそり盗んでくるかもしれない。
何らかの地質構造から幾何学的パターンをもらってきて、出発点とするかもしれない。
ひとたび自然からもぎ取ってきた形式について実験を始めたならば、
そのテーマを次々と変えていき、ついには、
自分が用いるテーマを、ほとんど抽象的なものにまで変化させることができる。
音楽に関しては、この過程は遠い昔から行われてきた。そ
れに比べて、絵画や彫刻をより抽象化するという可能性が試みられたのは、つい最近のことである。
自然物を模倣するという段階に止まろうが、まったく新しい抽象的な作品を創造しようが、
芸術家の作品の評価は、最終的には絶対的な評価によるのではなく、
用いたテーマを、いかに巧妙に変化させたかという点にかかっている。
美の本質は、可能なバリエーションの中の、もっともきざで、不格好なものをいかに避けているか、
そしてテーマを実際には壊さずに、その大胆で、微妙で、楽しく、かつ驚くような多様性を、
いかに引き出しているかに依存しているのであろう。
これが創造された美の真の本質であって、
人という動物が最高の技術を駆使して行う遊びなのである。
左利き対右利き
身体の一方の側への偏り
ほとんどの人間行動は、非対称的である。
左右の利きは、ある動作が身体の一方の側をより多く必要とする際に、必ず見られる。
手を握ったり、ウインクをしたり、手をたたいたり、拳を振り回したり、眉を上げたり、
望遠鏡に片目を当てたり、腕を組んだり、足を組んだりするたびに、
われわれはどうしてもどちらか一方の側を、他方よりも使ってしまう。
こういった動作では、身体の両側をそれぞれ違って動かさねばならないので、
普通、即時的で無意識の、しかも明確な決定が要求される。
つまり、このときためらったり、もたもたしたりすると動作はうまくいかない。
この問題は幼児期の初期に始まり、一風変わった一連の複雑な段階をたどる。
12週齢の赤ん坊は、普通両手を同等に使うが、16週齢までに物に触ろうとする際に、
左手を好んで使うようになる。24週齢迄に再びこれが変わり、元の両側使用に戻る。
そして28週齢でまた一側性になるのだが、今度はそれが右手に移っている。
32週齢でまた両側性になる。36週齢に達するとさらにまた変化して、
この際には大部分が左手を多く使っている。40∼44週齢の間に再び右手が優勢となる。
48週齢で何人かの幼児はまた左手に戻り、52∼56週齢の間に再び右手が優勢となる。
この振り子は、まだ往復運動をやめない。80週齢で再び混乱が生じ、
右手はその優勢を失って、両側的な動作に戻る。
二歳になると、また右手が優勢になるが、2.2/1∼3.2/1 歳の間に両側的な動きが再び現れる。
安定は少なくとも四歳前後で始まり、次第にその強度を増していく。
そして八歳になると遂に、永久状態に固定し、片方の手が他方よりも極度の優勢になるのである。
この長い一連の動作のもっとも著しい特徴は、その終局的な結果として、
人類の集団が強く右利きに偏っていることである。
10人中、およそ9人の学童が生まれつきの右利きで、左利きは一人である。
何故、この興味深い比率が、
われわれの種に典型的なものであるかについて、これまでに満足な説明はなされていない。
このことは、人間のちょっとした神秘の一つとして残されている。この比率は中途半端な比率である。
50対50や100対0なら話はわかるが、
大多数である右利きに加わることを拒絶する一割の人間が、どうしても世界中に存在する。
そのことから、不可避的に、大多数派は不幸な少数派を繰り返し抑圧してきた。
今日では世界の各地に、二億の左利きの人がいるのだが、
左利きの人は、厳しさこそ違え、あざけられ、罰せられ、虐待されてきた。
過去の多くの文化では、教師や両親が左利きの子供を矯正するように奨励してきたし、
いくつかの文化では今日でもまだそうである。
多くの国の教育界の啓発的な権威者は、現在ではこの方針を捨て去り、
子供がその生得的な傾向に従うことを受け入れている。
しかし、それでもなお、左利きの人は一風変わっているとみなされ、
right
という語の二つの意味「右、正しい」において、まったくright
ではないのである。
多くの言語は、左利きを意味する言葉に、侮蔑的な内容を含んでいる。
英語のs
i
n
i
s
t
e
r
「不吉な」はラテン語の左利きからきているし、
フランス語のgaucheは、左を意味するだけでなく、無様、不器用をも意味している。
また、イタリア語で左を意味するmancino
は、ひねくれたとか不具の、などをも意味しているし、
ポルトガル語のcanhotoは、弱いとか有害を、スペイン語のzurdoは、azurdos
に由来するが、
それはうまくいってないことを意味しているのである。
聖書によれば、神は右利きで、悪魔は左利きであることが明らかである。
右側に座ることを許されるのは羊であり、山羊は左側に座らねばならない。
左は呪われ、永遠の業火へと追放される側なのである。
ヒンズー教、仏教そして回教でも、右手は清浄で、左手は不浄とされている。
そして今日のイギリスの法廷でも、宣誓の際「聖書を右手にもって」と命ぜられる。
もっと世俗的な段階でも、多くの日用品が、
はさみやミシンから皮剥き器や万年筆のペン先に至るまで、
もっぱら右利き用にデザインされている。
テーブルでも、ワイングラスは常に右に置かれ、ワインも右からつがれる。
われわれはみんな右手で握手するし、軍隊に入れば、右手で敬礼をする。
数多くの左利きの人は、社会的協調のために、
この右利きの専制を受け入れるより他に仕方がない。
左利きのことを書いている何人かの「多分右利きの」著者は、
少数派左利きグループを、単に奇妙であるばかりでなく、ひどく反抗的だと考えている。
注意深い児童研究所の結果が、左利きの子供は利き手を指摘されるまでは、
それと気づかずにきわめて自然に利き手を発達させていることを、
明らかに示しているにもかかわらず、
これらの権威者は声を大にして、左利きの人は
「頑固で、強情で、横柄で、あからさまに反抗的で、片意地な内向的人間」
だと公言してはばからないのである。
しかし、このことは、左利きの人が左手を使いたいという衝動を抑えられ、
不本意ながらあきらめていることを考えれば、おそらく説明がつくだろう。
左利きと右利きに関する一般的な討議には、いつも粗雑で単純化しすぎた見解がついて回る。
それは、左利きと右利きを、字を書く行為と同義に扱うという単純化である。
身体の片側で行われる日常的な動作が数多くあるにもかかわらず、
“右利き”という言葉は、まさに右手でペンや鉛筆をもつことと同義語になっている。
この短絡を除くために、45にわたる、身体の異なった側での動作についての研究が行われた。
10人について、45の運動をしているところの写真を撮り、
総合的な左あるいは右への偏りを見いだすために、左/右の得点が計算された。
その答えは、簡単にいえば、
45の動作のすべてを、身体の同一の側で行った人はいなかったということである。
最も多く右側を使った人でも、45のうち40の動作が右に偏っていたに過ぎず、
最も多く左を使った人でも、32が左に偏っていただけであった。
それにもかかわらず、すべての被験者が、どちらか一方へのはっきりとした偏りを示し、
50対50という左右均衡の人はいなかった。
もっともそれに近かったのは、左側の得点が15,右側が30という一人の女性であった。
それ故、その女性でさえ、一方の側への偏りが2対1で存在するのである。
そこでは、3種類の基本的な動作がテストされている。
第一は、手招き、字を書く、かゆいところを掻くといった、様々な片手の運動である。
10人中9人が右への強い偏りを示し、残りの一人は左に対して同様な強い偏りを示した。
第二は、頭を片側に傾ける、ヒップの片側を突き出すといった、様々な手以外の動作である。
この場合にも、まったく違った身体器官が用いられるにもかかわらず、
上と同じ9人が右への偏りを示し、一人が左への偏りを示した。
第三は、拳で手のひらを打つ、針に糸を通すといって両手を使った動作である。
これらの場合には、身体の両側が使われるが、片方の手が能動的かつ優勢であり、
他方は受動的で、普通多少とも静止している。
腕組みをして座っているような静止した姿勢においても、
能動的に支えている手と、受動的に支えられている手を区別することができる。
こういった両手を用いた動作では、被験者の左あるいは右への偏りはあまり明らかではなく、
実際二人の右利きの被験者は左側が優勢であった。
この種の詳細なテストを行うと、われわれ各人がある運動を固定する方法は、
けっして単純ではないことがわかる。
人々が二つのまったく異なったグループに属すると考えるのは、明らかに安易すぎる。
右利きの人でもみんな、左利きの動作をするのであり、またその逆も言える。
そして、多くの動作はきわめて自動的なので、
どのようにして自分のからでを動かしているのかを、はっきりと知っている人はほとんどいない。
自分がどれくらい左より、あるいは右よりなのかを知るために、
自分で簡単なテストをしてみることは 価値がある。
ペンをもつ手がどちらであるかは、もちろんわかっているのだろうが 、
身体全体にまで範囲を広げた場合に、この偏りはどうなっているだろうか 。
あなたの目は左利きだろうか、右利きだろうか。あなたの耳はどうだろう。
拍手をする際にたたくのはどちらの手だろうか。
ここに、あなた自身で行える簡単な10のテストをあげておく。
①背中の真ん中がかゆいとする。そこを掻くのにどちらの手を使うか。②手を組み合わせるとき、ど
ちらの手の親指が上に来るか。③拍手をしようとして手をたたき始める場合、どちらの手が上にな
るか。④あなたの正面に友人がいたとして、さてどちらの目でウインクをするだろう。⑤腕を後ろ
に組む場合、どちらの手で他方の手を握るか。⑥あなたの前にいる人が、何かをいっているのだ
が、それが聞き取れなかったら、どちらの耳に手を当ててよく聞こうとするか。⑦片手の人差し指
で、他方の手の指を三つまで数える場合、あなたはどちらの手の人差し指を使うか。⑧首を傾げ
る場合、どちらの方のほうに傾けるか。⑨腕を組むとき、どちらの前腕が上になるか。⑩両目で遠
くの小さなものを見つめ、その視線上に人差し指を差し出す。そして片目を閉じてみる。次に閉
じる目を変える。
指が対象物への視線上にそのまま残って見えるのは、どちらの目を開けているときだろうか。
「利き目でない方の目が開けられていて、利き目を閉じている場合には、
指は対象物の片側へ動くように見える」
あなたが日頃自分は右利きだ、あるいは左利きだと公言してきたとしても、
自分の身体が完全にそちら側へ偏っていないことが、多分もうおわかりになったことであろう。
あなたが右利きだとしても、多分10回とも「右だ」と答えることはできなかったことだろう。
もしあなたが親あるいは教師だとしたら、左利きの子供を非難したい誘惑にかられても、
それをぐっと我慢することには、それだけの価値があるのである。
「そのような非難は、今日ではありそうもないと、あなたは主張するかもしれないが、
最近の報告によると、東側の多くの共産諸国での学童は、その自然な傾向は無視され、
右手で書くことを今なお強いられている」
移動運動
身体移動の20の基本方式
人間は、移動に対する強い衝動に駆られて、
驚くほど様々な移動運動の人工的補助手段を考えだした。
それは大型動物や地上の乗り物から、船舶や飛行機にまでわたっている。
これらの進歩のために、現代人は、身体を動かすことが先祖より幾分少なくなっているが、
身体の移動様式が、まったく変わってしまったわけではない。
ただ、これらの進歩が加わっただけなのである。
つまり、人工的な技術は、すべて長距離に関するもので、短距離移動に目を向ければ、
今もなお、人という種に典型的な身体移動は、残らず観察することができる。
地域的、個人的なばらつきはあるが、全体として人間を眺めてみると、
野外の人間観察者は、人工的手段を用いないで、
身体をA∼Bへ移動させる20の基本様式を見いだすことができる。
1. 這いずり
これは人のもっとも原始的な移動様式で、幼い赤ん坊のように身体を動かすことである。つまり、爬
虫類のように腹部を地面につけたままで、手足を動かして身体を移動させる。成人は、このような骨
の折れる方法はほとんど用いないが、ただ、地面に伏せたまま、前進を余儀なくされる場合は別で、
兵士はうまく敵に忍び寄るために、これを訓練させられる。子供は隠れんぼの際にこれを用い、ま
た、博物学者は神経質な動物に気づかれないように 、そっと近寄るためにこれを使う。負傷者は地
面を這いずって安全な場所にたどり着くだろうし、洞窟探険家や技術者は、狭い通路を移動する
際に、この姿勢を強いられるだろう。しかし、これらの特殊な場合をのぞけば、這いずりは本質的に
は、われわれが子供部屋に置き去りにしてきた幼児型である。
2. 這い這い
這いずりから一段階上のものが、四肢で身体を支えて動く這い這いである。これもまた、主として幼
児に見られるが、普通10ヶ月齢までは出現しない。これは大部分のほ乳類で典型的に見られる四
肢移動の様式でもある。しかし、われわれはたいへん長い足をもっているので、手と足を使った四
つんばいは非常に困難で、その代わりにほとんど手と膝を用いる。幼児が一歳に達する頃、這い
這いは高スピードで動く目覚ましい新形態になり、それによって周囲の魅惑的な世界の探索を増
大させていく。生後2年目に入り、直立運動ができるようになると、這い這いの重要性は減る。這い
這いは、成人の生活ではごくまれな場合、つまり、床に散らばったものを拾い上げるときとか、ウマ
になって子供を乗せてやるときとか、低い障害物の下をくぐるときにしか再現されない。
3. よちよち歩き
よちよち歩きは、不安定で緩慢な直立移動と定義できる。人間の幼児は一歳になると、親の手で支
えられて、よちよち歩きができるようになる。一歳を過ぎると足は急速に強くなり、15ヶ月齢までには、
直立し、人の助けなしで、短時間よちよち歩きができるようになる。その後、この不安的な、危なっか
しい移動の形態は、成人の足が、外傷、病弱、酩酊などによって、幼児のように 頼りなくなったとき
以外には見られない。
4. 歩行
これは人間の身体移動の王座である。この動作を、われわれは当然のことと考えているが、機械の
動きとして分析してみると、非常に複雑な過程であることがわかる。実際、それは非常に複雑なの
で、その作動方式の細かい点について、また、足をうまく踏み出す仕組みについて、今日でもなお、
筋肉の専門家の間で論議が絶えないほどである。人間の歩行は、動物界において唯一のものであ
る。無数のほ乳類は、それぞれ四肢を用いて、まったく同じような駆け方をするし、カンガルーやワ
ラビーのように、後肢で飛ぶ動物もたくさんいる。また熊や類人猿のように、わずかの間ならよろよろ
と垂直の姿勢で立ち上がるが、すぐに普通の四肢による楽な姿勢に戻ってしまう動物も、非常に多
い。長時間歩けるのは人だけであるが、この2足歩行は、人間の正常、かつ基本的な足取りなので
ある。平均スピードで歩くとき、大部分の人は毎秒2歩の割合で進む。あまり運動をしない都会人で
さえ、特に支障もなく、数キロまではこの割合を維持し、時速約5キロで歩く。運動選手は、もちろん
これを長い距離にわたって維持できる。現在のノンストップ歩行の記録は、時速4キロで、480キロ
以上である。休息をとりながら歩いた場合には、もっとすばらしい結果がある。それはアジア横断の
記録で、約一万キロ、238日間にも及んだ。休息時間をも含めての平均速度は、時速約2キロであ
った。これらは、わざわざ計画された記録であるが、それでも、人工的旅行手段が用いられるはる
か以前においても、地球上をあまねく移動することが、人類にとって割合に容易であったことを、明
確に示している。専門的な話はさておき、人間の歩行の本質的要素は以下のようなものである。一
歩を踏み出すとき、足はかかとから先に地面に置かれる。そして、他方の足が持ち上げられ、前に
出されると、支えている足では前方に体重が移動し、親指の付け根にあるふくらみに圧力がかかる。
そこで、かかとは 地面を離れ、支えている足は、つま先で地面を押し出す最期の一瞬を迎える。し
かし、これは他方の足が地面に接するまでは起こらない。それ故、歩行の過程においては、どの一
瞬をとってみても、少なくとも一方の足が、常に地面に接している。歩行者はけっして地面を離れな
い。このことが、歩行と走行の本質的な違いである。
5. ぶらぶら歩き
歩行は普通、身体移動の一つの型としてまとめられ、走行と対照される。しかし、街を歩いている人
を注意深く観察すると、歩行にもいくつかの違った型のあることがわかる。そして、それらは互いに
連続したものとしてスムーズに類別されるものではなく、明らかにそれぞれ独特の典型的な強度が
ある。ぶらぶら歩きは、緩慢な歩行の特殊な形態であり、通常、毎秒一歩の割合である。その際、
何処かへ行きたいという気持ちは明らかになく、単に歩いているだけである。ぶらぶら歩きは、それ
自体が目的なのである。社交的な場での散歩、たとえば、園遊会とか晴天の午後の公園では、
人々は逍遙し、遊歩し、気取って歩く。これはせかせかした歩行とは対照的であり、しばしば休んで
はあたりを眺め、話し合う。また、この歩行には、相手と腕を組んだり、手を取り合ったり、肩に腕を
回したり、腰に腕を回すなど、しばしば同伴者との身体的接触が伴う。ぶらぶら歩きは、それ以外に
も、考え込んでいったりきたりする人や、本を読みながら歩く人の歩調でもある。
6. 引きずり歩き
これは老人や衰弱した人の、足を引きずるような歩き方である。ここでは運動の速度が著しく低下し、
地面に沿った用心深いすり足となる。かかとからつま先への動作はなく、足は地面に対して平らな
ままで、まっすぐといっていいほど上には上げられない。前方への運動は、非常に小さい歩幅の、
すり足で行われる。このことが、この骨の折れる移動に典型的な、地面を引きずるような印象を与え
るのである。この前進は、カタツムリの歩みである。しかし、引きずり歩きでも、結局は目的地に達す
ることができるし、この方法で何とか動くことができる。
7. せかせか歩き
これと反対の局にせかせかある気がある。これは急いで何処かへ行きたいが、走るほどでもない場
合の歩き方である。混雑した街路で、せかせか歩いている人は、普通の歩行者と容易に見分けが
つく。彼は単に他の人よりも少しだけ速く歩いているのではない。走らない程度で、できるだけ速く
歩いているのである。人は急いで歩いているとき、主観的には毎秒の歩数が増し、より高速になっ
ていると感じるが、普通そうではない。実際には、彼は依然として通常の歩行者同様、毎秒2歩の
標準で歩いている。その場合、歩幅が大きくなっているのである。つまり、足は大股で、より速く動い
ているが、歩数は同じままである。街路での典型的な光景は、ぶらぶら歩き、普通の歩き、引きずり
歩き、せかせか歩きをしている人々が、たいへん器用に、ほとんどぶつかることもなく、お互いに、
間に入ったり出たりして、縫うように自分の道を歩いている光景である。そうするのは簡単であるよう
に思えるが、そこには非常に鋭敏で複雑な手足の運動や、視覚的にチェックする動作が含まれて
いる。このような群衆の中を移動するときに働く無意識の一連の作用の一つは、目について人々を、
どれかの範疇に自動的に分類することである。われわれは無意識のうちに、それぞれの歩いている
人に、ぶらぶら歩き、引きずり歩き、普通の歩き、せかせか歩きという名を与えており、また無意識
に自分自身の動きと比較して、彼らが次にどのように動くかということを計算している。このようにし
て、ぶつかることを予想し、より効果的にそれを避けることができるのである。もし人々が街を歩くと
きに、こういった特徴的で識別可能な歩きぶりを利用していないとしたら、一体何を使っているのだ
ろうか。それを発見するのはたいへん困難である。
8. 走行
歩行から走行に移ると、人間の移動運動の別の主要な分類に入ることになる。ここでは、人は地上
を離れることになり、一歩の足の動きも変化する。一瞬たりとも両足が同時に地面につくことはない。
逆に、両足とも地面を離れている瞬間があり、走者は空中を飛んでいる。これは歩幅がかなり大きく
なったためである。一秒間の歩数はせかせか歩きよりも増えていなくても、一歩でカバーする距離
は多き奇なる。足は地面に接する際、歩行のようには身体の前には来ず、直接身体の下に来る。こ
れは走者を前方に、より力強く押し出す助けとなっている。足が地面に触れる方法もまた異なって
いる。歩行のように 、まずかかとで地面に触れ、それがつま先に移るのとは違って、足はほぼ平らな
ままで地面を強くたたく。これは少なくとも中程度のスピードの走行の場合である。普通の人にとっ
て走行は、たとえそれが中程度のスピードであっても、長くは続けられない。すぐに疲労し、呼吸が
苦しくなる。訓練を摘んだ運動選手では事情が異なり、時速8キロ以上のノンストップ走行で、190
キロ以上に及ぶ距離が記録されている。
9. ジョギング
ジョギングはゆったりとした緩慢な走行であり、せかせか歩きのペーストあまり変わらない。しかし、
体を鍛えるためには、より完全な形であり、一方では急速な歩行の際の強い緊張を避け、他方では、
完全な走行による動悸の昂進のような消耗からも免れることができる。
10.疾走
これは高速の走行である。足の裏ではなく、つま先で地面をける。その際、かかとはほとんど地面に
接しない。歩数は顕著に増加し、鍛え上げた運動選手は毎秒4∼5歩で走る。100ヤード「91.4メ
ートル」の短距離では、世界チャンピオンは時速35キロ以上のスピードを維持する。普通の人は、
バスや電車を捕まえるために疾走するような短いダッシュ以外は、ほとんどこの移動の形態は用い
ない。
11.つま先立ち歩き
つま先立ち歩きは、緩慢な歩行と疾走の雑種である。スピードと足の運びは緩慢な歩行の形態をと
り、一方の足が地面を離れる前に、他方の足が地面に接する。しかし、足の形は疾走のそれで、親
指の付け根部分とつま先のみが地面に接触する。地面と接する部分が少ないために、この前進様
式は普通の走行よりも音を立てず、何も知らない獲物にそっと忍び寄る際や、眠っている人を起こ
さないようにするときに用いられる。
12.行進
これは軍隊で見られる歩行で、歩幅は大きくなり、歩調は両腕を強くふることによってバランスがとら
れる。これは長距離の行程にたいへん有効な歩行形式である。クロス・カントリーのハイカーは、
時々無意識に半行進的な歩調をとっており
、それが長距離走行でスピードを維持する助けとなっ
ていることがわかる。
13.上げ足歩調
いくつかの軍隊では、有効性よりもショーのために、行進の際まっすぐに伸ばした足を前方にけり
出す、一風変わった歩調が採用されてきた。18世紀の終わりに「ガチョウ歩調」と命名されたこの歩
行は、第二次世界大戦のナチの行進で、その顕著な役割を演じたのが最後であった。
14.ジャンプ
いろいろな自然の障害物を飛び越す動作は、われわれの先祖にとって、敵の動物から逃げる際、
あるいは獲物を追跡する際に、明らかに重要であった。ジャンプは立ったままの、あるいは助走を
つけた跳躍によってなされる。郊外の散歩で、多くの学童が小川を飛び越える際に、この移動形態
が用いられるが、その極端なものは陸上競技の走り高跳びと、走り幅跳びに見られる。走り高跳び
では、7.5フィート「2.3メートル」以上、走り幅跳びでは約30フィート「8.9メートル」が記録されて
いる。
15.ホップ
カンガルーの前進様式である反復ホップは、人間の行動ではほとんど見られない。しかし、片足に
よるホップは、一方の足にけがをした人が、時々有効に用いるし、石蹴り遊びのような子供のゲーム
にも見られる。
16.すきっぷ
スキップによる前進は、交互にホップすることでなされる。これもまた、移動の形態としてはまれであ
り、大部分が子供のゲームや単純なダンスに限られている。
17.よじ登り、
地表面に沿った移動ではなく、上下に移動しなければならなくなっても、人という動物は、かなり軽
快なよじ登り動作を行うことができる。両手を掴んだり、引っ張ったり、あるいは身体を支えるのに用
い、両足を足場に、上がったり、下がったりする。人の身体が、小さい霊長類と比較して、大型で重
いことは、人間が樹上ではあまり活動的でないことを意味している。しかし、登山家はこの不利と勇
敢に戦い、かつては木に登ったわれわれの先祖が、現在でも完全にいなくなったわけではないこと
を明示してくれる。そして、驚くべきことは、学童の遊びに、木登りが繰り返し登場していることであ
る。
18.ぶら下がり
われわれの昔の先祖は、樹上生活をやめて地上に住むようになる前には、ほぼ確実に両腕を使っ
て移動している。両腕を頭の上に伸ばして、交互に枝を掴み、動きに連れて身体を左右に揺らして
前進したのである。休み時間などに運動場の器具によじ登っている子供に、今でもこの移動方法を
見ることができる。
19.アクロバット
訓練を摘んだ軽業師は、横トンボ、前転、後転、逆立ち歩きで前進するといった、特殊な移動技術
を発達させている。しかし、これらは極度に職業的な行為として見受けられるのであって、まれな移
動形態である。これらは日常生活には何ら貢献していないが、それでも、人の体型で可能な、非常
に様々な移動技術を知らせてくれる。
20.泳ぎ
人という動物は、印象的な移動技術を、水中においても発達させることが可能であるが、これにつ
いては、次の章で詳しく検討しよう。
これら20の身体移動の形態を見ると、人間は複雑な動きをするが、主要な移動形態は歩行である
ことが明らかである。人はまさに、“闊歩するサル”といえよう。そのほとんどすべての主要な動作に
は、何らかの段階で歩行が関与している。輸送の分野における驚くべき進歩にもかかわらず、いま
だに靴の需要がなくなる兆しはない。たとえ、来るべき世紀に小型の反重力装置が発達し、人間が
好きなところへ苦もなく浮動することが可能になったとしても、歩行は、限定された活動としてではあ
っても、生き残るであろう。というのは、歩行の動作は、健康保持としての役割はさておき、真に重
要な移動形態であり、周囲をチェックし、評価するシステムの、総合的部分として働いているからで
ある。歩くということは、外界の細部を銘記するための、理想的な方法なのである。われわれは自然
の歩調で歩きながら外界を取り入れる。そして、外界を感じ、それに反応する。風景の中を歩くとい
うことは、そこを探索していることである。乗り物を使って自然の中をドライブするのは、単にそこを
横切っているに過ぎない。20世紀の人間が身体的移動を保持し、また完全に受動的な輸送方式
に自己を任せきらないでいるのは、おそらく他のいかなる理由にもまして、このことによるのである。
水中運動
人間の先祖は水に住んでいたか
人という動物にとって、水が非常に重要であることは疑う余地がない。
喉が渇くと多量の水を飲むし、身体が汚れると水で洗う。
暑いときには水にはいるし、ふざけて水をはねかけて遊んだりもする。
また、空腹になると水中で獲物を探すし、猛獣に襲われて水の中に逃げ込むことさえある。
人は、その近縁種である類人猿とは違って、泳ぎや潜りが得意である。
休息なしに何キロも泳ぐことができるし、
「川での遠泳記録は464キロであり、海でのそれは145キロである」
素潜りでもたいへんな深さまで潜ることができる。
「記録は84.6メートルである」
スキン・ダイバーは数分間水に潜ることが可能で
「記録は6.5分」その間に様々な食べ物を探し、採集することができる。
ハーディーの【人間水生説】
人間は明らかに水に慣れ親しんでいる。
そして、人間には、現在よりももっと水に親しんでいた過去のあることが、最近示唆されている。
ハーディーの人間水生説で知られるこの見解は、われわれは太古において、
より密接に見ずと関連した時期を通過しており、そのこと型の近縁種とは、
かなり異なった多くの解剖学的形態を形成する原因になっている、というものである。
オーソドックスな見解では、人間は果実をあさる森の住民から、
直接、平野の狩猟者へと進化したと考えられている。
しかし、ハーディー説では、水生の段階がこの二つの時期の間にあるとしており、
また、いかにしてこの困難な移動を達成しかについての説明もなされている。
最近の野外観察から、
森に生息する類人猿が、時々、原野で小動物を殺し、その肉を食べることが知られている。
森林生活者であったわれわれの先祖もまた、
主食である果実やナッツにくわえ、時々、肉の補給を望んだことであろう。
この欲望は、海岸線をちょっと注意深く探すことで容易に満たされたであろう。
海岸や川岸は、探索好きの学童なら誰でも知っているように、
小動物の宝庫であり、それらを比較的簡単に捕まえることができる。
水生説では、初期の人間がこのことに励まされ、
ますます水の中に入ったりもぐったりすることに夢中になり、
やがて、水際に部族集団となって住むうちに、
徐々にこの新しい生活形態に適応していったと考えている。
この時期は非常に長いもので、約1000万年も続いた第三鮮新世の暑熱期に起こり、
今から200万年前に終わったと考えられている。
その長い年月の間に、人間の身体は水の生活に適応し始め、かなりの変化を被った。
その後に、人間は平野に戻り始め、狩猟の形態を発達させていった、と考えられているのである。
水中で発達した捕食行動の進歩は、
この最後の平野への移行において、大きな利益を人間にもたらした。
また、大きな陸生動物を捕らえるのに適する身体をも、もたらしたのである。
この時点で、草原の大型哺乳類を追いつめて殺す、狩猟者の協力的結束が発生したと考えられて
おり、そこから先は、人類進化についての、よりオーソドックスな歴史と同様のものとなっている。
ハーディー説に反対する人たちは、この水生中間期、
つまり、人という種が途中で水生生活を経験したと推測する直接的な証拠がないことをあげ、
その必要性を認めていない。
反論によると、森林生活から平野での狩猟生活への変化は、
何ら特別な介在条件を必要としないのである。
彼らの描いているのは、腐肉をあさり、卵を盗み、小さな動物を殺す段階から、
徐々に大きな獲物を攻撃する段階を経て、最後に著しく協力的な、
大がかりな狩猟の段階に達するという移行過程である。
これに対しハーディー説では、海岸や川岸はすっかり変化してしまったので、
今日、直接的な証拠を見いだすことが、非常に困難であることを指摘している。
それ故、その欠落を、それほど重大に考える必要はないとし、
さらに、非常に説得力のある間接的証拠が存在することをあげている。
しかし、問題はまだ未解決のままである。
人間は疑いもなく水を愛する動物であるが、
また他方では、空を飛ぶことや、地下を掘り進むことに非常に多くの時間を費やしている。
このことは、人間が進化の過程において、飛行や穴掘りの段階を通過したことを、
必ずしも意味するものではなく、単に、人間が極限に対して創意工夫に富み、
探索的であることを示しているに過ぎない。
しかし、果たして現代人の水への執着は、単なる環境探索の一つに過ぎないのだろうか 。
それとも、そこにはもっと深い意味があるのだろうか 。
現在の時点では、確かな解答は得られていないので、
以下に水生説が述べる主要な点を示してみる。
そこから、読者各位は自らの結論を出していただきたい。
特に批判が向けられている点については、公平を期するためにも、批判をも付け加えておく。
1. 水面下の泳ぎに関し、人間に匹敵するような陸生哺乳類はほとんどいない。多くの哺乳類は、
犬かきで進むことはできるが、少なくとも半水生的な種をのぞけば、ほとんどが水面下を効果的
に移動することはできない。しかし、人間は優美に身体をくねらせて、水中のかいめんや真珠
を探すことができる。
2. 人間の赤ん坊は、生後数週間で泳ぐことができる。たとえプールに落ちても、この時期の赤ん
坊はあわてふためいたりしない。水面にうつぶせに入れられると、もがくこともせず、反射的な
遊泳運動を起こして、実際に前進する。また、水中に沈められると、息を止めるといった呼吸の
コントロールも行う。類人猿の子で同様のテストを行ったところ、このような反応は起こらず、水
の中から素早く取り上げてやらねばならなかった。人間のこの顕著な能力は、すぐに消失する。
四ヶ月齢までに、赤ん坊はこの自動的な遊泳反応を失ってしまう。水の中に入れられると、くる
りと仰向けになり、助けを求めて大人の手を掴む。しかしながら、2.3年のうちに、幼児は再び
水に入るのを嫌がらなくなり、四歳までには急速な学習の後に、たいへん効果的に、しかもか
なりの距離を、潜水も含めて、泳ぐことができるようになる。水を怖がるのは、海岸で過ごす休暇
が短くて、泳ぎの経験が少ない子供だけである。海辺に住んでいる子供は、みんな五歳までに
は上手に泳ぎ、潜ることができるようになる。水面下1∼2メートル のところから小さなものをとっ
てくることもできる。普通この段階では親の訓練が必要だが、幼児の水泳能力は、人間の知能
や好奇心だけから期待される水準を、はるかにしのいでいる。
3. 霊長類の中で、人間だけが裸の皮膚をもっている。体毛の欠落は、たとえばイルカ、クジラ、ジ
ュゴン、マナティーなどのような多くの水生哺乳類の、またカバのような半水生種の特徴である。
これには、たとえばビーバー、アザラシ、アシカ、カワウソなどの他の水生哺乳類は毛を失って
いない、という反論がある。しかし、これらの哺乳類は元々寒いところに住む動物であり、陸に
上がるときに、寒さから身を守るために毛皮が必要であることが指摘されよう。暑いところで暮ら
していた初期の人間にとっては、暖をとることよりも、水の抵抗を少なくすることの方が、より重大
だったのであろう。頭髪が残っているのは、太陽光線から身を守るためだと解釈される。
4. 人間の体毛の痕跡、つまり、皮膚に残っている毛の方向は、類人猿の毛並みとは異なっている。
人間のそれは前へ泳いでいくときに、身体を通過する水の流れの方向と一致している。このこ
とは、人間の体毛が失われる以前に、すでに、水中を滑らかに進むのに都合のよい変化が生
じていたことを意味している。そしてこれは、人間が流線型になっていく中間段階だと考えられ
る。
5. 人間の体型そのものも、他の霊長類と比較すると、改善された流線型になっている。チンパン
ジーと比べて、人間の裸の身体は、うまくデザインされたボートのような滑らかな曲線を描いて
いる。
6. すべての霊長類の中で、人間だけが皮膚の下に脂肪層をもっている。この皮下脂肪は、水生
哺乳類に典型的に見られるが、陸生哺乳類にはそれがない。脂肪層の機能は、水中で体温を
保つことである。水生動物にとってそれは通常の毛皮の役割を果たしており、運動を妨げずに
体温低下を防ぐのに役立っている。これについての、別の説明は次のようなものである。人間
は狩猟者となったときに、獲物を追い回すことによって、身体が過熱状態になった。従って、過
熱を冷やしながら、しかも休息時、特に夜間の寒さを防ぐシステムが必要となった。体毛を失い、
代わりに脂肪層と多数の汗腺を得ることによって、獲物の追跡中は身体を冷却し、安静時には
暖かくしていることができたのである。つまり、この方式は、水生的な要因なしで発達したことに
なる。しかし他方、それは水生的な要因のために発達したともいえる。還元すると、流線化の過
程は適切な体温調節システムを人間に付与し、それが陸上の狩猟者になった後にも役立って
いる、ともいえるからである。
7. 人間は直立姿勢をとる。水生説ではこれを、食べ物を探しに、より深みに入っていったことの副
産物として、自然に発達したものと考える。水の支えは、四肢歩行から直立歩行への困難な移
行を成し遂げるのに、大きな助けになったであろう。言い換えれば、人間は走れるようになる前
に、まず苦心して歩いたのである。
8. 人間は非常に敏感な手を持っているが、それは磯や海底を探索し、食べ物を手に入れるのに
うまく適している。人間の幅広い爪は類人猿のそれよりも早くのびるので、水中の小石や砂をか
くのに、あるいは貝殻をこじ開けるのに適している。水生説ではこの摂食行動が、人間を道具
の使用へと導いたと考えている。道具を使用する数少ない哺乳類の一つであるラッコは、ウニ
を砕く際に石を用いる。そしてこれは、人間が道具使用と、その後の道具制作の長い歴史にお
いて、最初に用いた方法を想像させる。
以上の八つが、元々のハーディーの人間水生説で述べられた点であり、
今のところ、これらをくつがえすほどの詳細な検証はなされていない。
さらに、他の著者たちが、時には想像をたくましくして、追加した点がいくつかあるので、
それらを以下に示しておく。
9. 人間は言葉を話す動物である。そして、話すとは基本的には“誇張された呼吸”である。潜水
は呼吸のコントロールを意味し、呼吸のコントロールは、一群の間欠音の発声を容易にする。さ
らに、水中で獲物を狩ることは 、より一層の協力と、ジェスチャーにあまり頼らない信号体系を
必要とした。手は泳ぐことに忙しく、方向を指し示すことはできなかった。水中で起こった刺激
的なニュースをもって水面に浮上したとき、音声手がかりを使いたくなるのは自然である。この
ようにして、水生期は、その後に話し言葉となった音声信号の、より複雑なシステムを発達させ
るのに役立ったのであろう。
10.
人間の手には、わずかであるが水かきがある。人間の手は類人猿と比較して幅が広い。
また親指と人差し指の間に、特徴的に水かき状の皮膚がある。これは泳ぐときに手で、水を押
しやる面積を増すのに少しは役立っている。しかし、それがあまり発達していないのは、ものを
扱う活動と相容れなくなるからであろう。人間の足にも水かきの名残が見られる。1000人の学
童を調査したところ、男子の9%と女子の6.6%に、第2指と第3指の間に水かきがあり、数例
ではすべての指の間にそれがあった。もしかすると、これらの皮膚のひだに、かつては今日より
も顕著であった人間の特徴の名残を見ているのかもしれない。
11.
人間は“潜水反射“を示す。この反射は、他の水生種が水中で呼吸をコントロールするた
めに、役立つことが知られている。たとえば、アザラシが潜る際には、必要酸素量を一時的に
下げるために、いくつかの身体過程が緩慢になる。特に心拍数が減少し、【心臓縮小として知
られるメカニズム】これによって酸素消費量が減り、長時間、水中にいることが可能になる。人
間にもこのメカニズムがあることは、人間も過去において、少なくとも半水生的であったと考えな
ければ説明困難である。
12.
人間の鼻は突き出すことで保護されている。多くの他の霊長類とは異なり、人間の鼻は
顔から突きだしている。鼻孔は顔と90度の角度をなしていて、前面ではなく下方に開いている。
泳ぐ際に、これは明らかに鼻孔からの水の流入を減少させる。しかしこの考え方に対する反論
として、他の水生哺乳類では、鼻孔を開閉することでもっと効果的にこの問題を解決している、
という事実があげられよう。水生人間が、水中生活への順応として鼻の形態を改善してきたとし
ても、あまりうまくいかなかったことは確かである。
13.
人間だけが、涙を流してなく霊長類である。塩分を含んだ多量の涙は、過剰塩分の処理
メカニズムとして、海洋動物の間で広く見受けられる。水生説では今のところこれを、人類が水
生的な過去を経験したという考えを支持する別の要因だとしている。これに反論するには、わ
れわれはこのために涙を流すのではないという事実を、あげなければならない。われわれは情
緒的に混乱させられたときに、多量の涙を流すのであって、海で泳いでいて偶発的に海水を
飲み込んだときに、泣くのではない。
14.
性交経験のない人間の女性には処女膜がある。水生説ではこれを、砂の侵入によって、
膣内が傷つけられることを防ぐものだと考える。鼻についての議論と同じように、これはあまり効
果のある解決策ではない。性交経験のある女性では、処女膜は役立たなくなるわけだし、経験
のない女性の場合も、処女膜はむしろ害になる。つまり、処女膜は膣口を完全にふさいではい
ないので、実際に膣内に入った砂は、そこに残りやすくなるからである。
15.
人という種は、突き出た肉質の臀部をもっている。水生説は、これが砂や岩のある海岸で、
性器をけがから守るのに役立つと考える。さらにそれは心地よいクッションにもなる。しかし、こ
れは海岸でそうなら、海岸以外の場所で座るときにも同様に役立つはずであり、水生の生活ス
タイルに有利な議論とはならない。
水生説を支持するその他の考えは、あまりにも突飛で、考慮するには値しないし、
すばらしい推測であるこの説を、むしろ害するものである。
本来のハーディー説に対する反論は、この説がより注目されるにつれ、数多く出てくるであろう。
しかし、この説に寄せられている支持のすべてを説明し尽くすことは、今のところ困難である。
差し引きすれば、結局われわれの種は一時的に、水を愛する時期を通過し、
その間の多くの時間を、水中での漁に費やしたように思える。
望まれるのは、将来、化石収集家がこの問題を解く証拠を発掘してくれることである。
われわれは、第三鮮新世の暑熱期の主要な部分における人間の進化について、
実質上何も知ってはいない。
もっとも新しい発見をもってしても、550万年前から1100万年前までの間では、
人間の歴史に関して一片の化石的証拠もない500万年以上のギャップがある。
これまでこの期間には、いかなる類人動物の骨も発見されていない。
この期間の前後には数多く見出されているのに、この期間には皆無なのである。
もし、水生人間がいたとすれば、彼らが暖かい太古の水中で楽しげにはね回っていたのは、
まさにこの期間であろう。
上に上げてきたように 、示唆に富んだ多くの特徴が存在し、
そこから彼らがしていたであろうことを想像することができる。
今われわれに必要なのは、この説に決着をつける確固たる証拠なのである。
摂食行動
飲食の形態
元々、人間は果実をあさる霊長類で、その後、狩猟者へと変わっていった。
人間の今日の摂食行動は、この二重の性格を反映している。
多くの点で、人間は今なお無害な草食動物だが、
他の点では、獲物を殺して食べる肉食動物である。
人類の摂食の歴史が始まった頃、われわれの古い先祖は、今日のサルや類人猿のように、
ナッツやブドウや他の果実を求めて森林を歩き回っていた。
彼らは食べ物の色彩、手触り、形、味の違いに非常に敏感であった。
また、食べ物を見つけ、手にしても、それを食べられるようにするまでには、
しばしば特別な手順を必要とした。
しかし、部族の構成員はそれらをすべて自分一人で行っており、
食物の分配や協同作業は見られなかった。
採食場から採食場への移動は、集団が一緒になって行ったのであろうが 、
摂食ということになると、それは個人の問題であった。
森林から平野へと移行し、狩猟の生活様式を取り入れたことが、
摂食の形態をすっかり変えてしまった。
成人男性は狩猟者となり、固定した根拠地から出かけて、殺した獲物をもって帰るようになった。
女、子供や老人は、もっぱら根拠地の近くで食べ物を採集し、霊長類の古いやり方で木の根、
スグリの実やブドウ、ナッツをあさり続けていた。
摂食のこの新しい形態は、それまでの歴史にいくつかの主要な社会的変化をもたらした。
その中で重要なことは、協同作業であった。
男の狩猟者は、大きな獲物を殺すために、またそれを家に運ぶために、協力しなければならず 、
従って、その獲物も分配しなければならなかった。
男と女の労働が分化したことも、また同じように、
肉と野菜を互いに分かち合わなければならなくなったことを意味している。
狩猟者としての人間は、しばしば野蛮な屠殺者として描かれるが、
厳密には、これは獲物の側から見たことである。人
間の共同体そのものの中では、
狩猟への変化は、およそ、蛮行とは対照的な、相互扶助と友好的協力への変化を意味していた。
そのことは 、摂食が個人的な活動というより、
社会的な出来事となったことをも意味しているのである。
これらの古い起源は、現代の食事の習慣に、どのように反映しているのだろうか 。
われわれは今なお、肉プラス野菜の混合食パターンにしたがっている。
これは依然として世界中で典型的な人間用のメニューとなっている。
一万年前に、農耕が食物を得る主要な方法になったという事実も、
動植物性の食物に対する二重の関心を変化させはしなかった。
しかしながら、農耕が始まった結果、食料生産はますます専門化する方向に変わり始めた。
みんなが食べ物を見つける仕事をしていたのが、農民だけの仕事に変わった。
他の人々は、別のことに専念できるようになり、今日では、巨大な都市共同体のおかげで、
食べ物を得る仕事は、食料品店で買うといった、危険を伴わない活動になっている。
こういった状況は、現代の食事をする人から、古代のいくつかの行動型を奪い取ってしまった。
失われたものは、狩猟の興奮、すなわち、追跡のスリル、罠の巧妙さ、作戦計画、屠殺の絶頂感、
危険と不確実性、男だけの狩猟集団の連帯感といったものである。
現代の女性は、八百屋に食物採集に行き、その際に、肉屋にも立ち寄る。
古代の女性とは異なり、現代の女性は豆ばかりか、ベーコンをも家に持ち帰るのである。
この結果、現代の男性は狩りをしない狩猟者となり、
この問題を、象徴化された狩猟に専念することで解決している。
多くの男性にとって、権謀術数を伴う“労働”が、狩猟の役割を果たしている。
商業キャンペーンを計画し、都市の中で獲物をしとめる。【大もうけをする】
また、古代の狩猟集団に取って代わる男だけの委員会の一員となったり、
投機をしたりするのである。
男性は実業界という象徴の中で、チャンスを掴み、絶頂感を求めて働き、
狩猟に見られた古代の興奮を、再び味わっている。
労働場面にこの性質が欠如していれば、男性は他の手段にうったえることができる。
男だけのクラブに加入したり、ギャンブルをしたり、スポーツに熱中することができる。
これらの活動は少なくとも、ある失われた狩猟パターンに取って代わるものである。
クラブは男に連帯感を与え、ギャンブルには危険と絶頂感が伴い、
スポーツによって全狩猟パターンのほぼ完全な行動連鎖を楽しむことができる。
現代の男性似非狩猟者は、食卓の前に座ると、出された獲物が、
自分が捕まえて殺したものではないにもかかわらず、代理行為によって、
その“狩猟の時間”を埋める。男の狩猟の役割は、名残のパターンとして存在している。
男はテーブルの上座につく。
肉【男の食べ物】を切り分けるのは男であり、
野菜【女の食べ物】を回すのは妻である。
レストランでも、ウエイターを呼んで料理を注文し、ワインを試し飲みするのは男である。
食事時間も、何らかの形で古代の狩猟の影響を受けている。
木の実をあさっていたといわれるわれわれの先祖は、
他の“草食”霊長類と同じように、休みなしにつまみ食いをしていたに違いない。
彼らにとって摂食とは、きちんと着席して大量の食事をするといったものではなく、
ところかまわず少量の食べ物を食べ続けることであった。
しかし、人類が狩猟者となると、この絶え間なくとり続ける軽食は大饗宴に変わった。
ライオンのように、初期の狩猟者は、大食、休息、大食、休息といった、
まとめて食事をする時間と食べ物をとらない長い休息時間を交互にとるようになった。
狩猟から農耕に移り、食物貯蔵が発達すると、ひっきりなしのつまみ食いが再び可能になった。
しかし、長期にわたった狩猟生活が名残をとどめ、
肉食の“大量の食事”という摂食形態は決してなくならなかったのである。
現代人にとっては、これは平均して一日三度の食事、
つまり、朝食、昼食、夕食をとることを意味している。
この習慣に従う必要性は何らないにもかかわらず、それをやめることに、われわれは抵抗を覚える。
われわれはその代わりに、胃の負担がはるかに軽くてすむ規則正しいバランスのとれた軽食を、
一時間おきにとることも可能なだけの技術を持っている。しかし、そうはしない。
それは食事の“狩猟者の饗宴”的性格を奪ってしまうからである。
特に狩猟生活におけるもっとも本質的な形態、すなわち食料分配の行為を奪ってしまう。
食事は社会的事象である。
われわれは一人で食事をすることを、できる限り避けようとする。
一人でする食事は、妙に惨めで、わびしい性格を帯びている。
また、減量の最良の方法は、会食を避けることだとよく言われる。
現代の食事に見られる食物分配の本質は、何故非常に多くの社交上のもてなしが、
昼食会や夕食会の形で行われるかという理由になるのである。
これらの会食は、今日の食物分配の儀式であり、過去の狩猟生活からの主要な名残を示している。
不意の来客のような思いがけない社会的接触の場でさえ、
「何か差し上げましょうか、お飲物は」といった形の食物提供が含まれている。
飲み物も、結局は液体の食べ物であり、飲み物分配の儀式も、
公式の食物パーティーと同じくらい基本的なものなのである。
ある面では、われわれは今でも、果実をあさっていた太古の時代に立ち戻る。
しばしば間食をする。
コーヒー やお茶の時間をとって、ビスケット、リンゴ、キャンディ、ケーキなどを口にする。
これらを売っている店はたくさんあり、それら、すべてには、甘さという一つの共通性がある。
野外の果物や野いちごが人を引きつける本質的な特性は、
それが熟し、ますます甘くなる過程にある。
これが果実をあさる霊長類を引きつけているのであって、われわれが今もなお、
昔の木の実に代わるものを求めるのも、このためである。
われわれは、狩猟者の大量の食事の席に着く時にだけ、
食べ物の目標を甘いものから肉に切り替える。
昼食や夕食では、肉から始まって甘いもので終わる一連の食事がとられる。
われわれは、主料理は、狩猟者の勝ち取った食べ物、
つまり、食物分配を行う社会的食物にするが、“甘い物好き”を満足させるものを味わって、
食事を終えるのが好きである。
簡単な食事は一般的に甘いものになりがちで、肉のメインコースは省かれる。
たいていの朝食や午後のお茶は、これである。
たとえば、イギリスのように、きちんとした朝食をするところでは、
食事は甘いもの「オートミールかコーンフレーク」から始まり、
肉「薫製ニシンかベーコン付き卵」に移り、
再び甘いもの「マーマレードかジャムつきのトースト」で終わる。
これは、昼食や夕食と同じパターンに従っているが、最初に甘いものを取る点が異なっている。
眠りから覚め、新たな一日の活動を始めるにあたり、
現代人は狩猟時代の食事をする人の役割に、直ちに身を投じることはできないらしい。
現代人は、まずちょっとした甘いもので食事を始めねばならない。
そして多くの場合、朝食はそれだけで終わるのだが、
イギリスのような朝食では、それに肉−甘いものという標準コースが続くのである。
朝食で甘いものが優勢であることは、朝食がもっとも社会性のない食事であること、
つまり、ほとんど会話を伴わず、しかも食物配分と関係のない食事だという事実と関係がある。
朝食パーティーなどは、昼食会や夕食会に比べれば、ほとんど行われてこなかった。
朝食には、また単調性という別の特性もあるように思える。
普通、昼食や夕食のメニューは、できるだけ変えようとするが、朝食ではほとんど同じものを食べる。
これは、新たに始まる一日がまったく未知であるために、
朝はわれわれがもっとも不安定な状態にあるからである。
目覚めると、われわれはまず見慣れたものを見ることによって、安心感を得ようとする。
そしてこの安心感は、変化のない朝食のメニューによって得られるのである。
初期の農耕共同体にとって、一年のうちもっとも大きな食物分配の行事は、
長い冬の期間が半ばを過ぎた頃に行われた。
蓄えられていた食物を特別な祝祭のために放出するのは、この時期であった。
それは収穫と貯蔵の終わった後だったので、
大がかりな食べ物の贈り物の交換と新年を予告する饗宴ができたのである。
このクリスマスの季節のお祭りの間に、昔の農民たちは、お互いに食べ物を贈りあった。
また、クリスマスプレゼントをする現代の習慣には、古代のこの風習が受け継がれているが、
それはちょうど現代のクリスマス・ディナーにも、古代の異教徒の饗宴が引き継がれているのと
同様である。さらに過去の名残は、
青色の食べ物を食べることや、青色の飲み物を飲むことに対する不思議な嫌悪である。
実物写真入りの料理の本のどのページを開いてみても、
数多くの赤、黄、緑、茶、橙色は目に付くが、青色は見られない。
まれには例外もあるが、それが真の青であることはほとんどない。
ブルーチーズは黄が勝っているし、ブルーベリーはほとんど黒である。
これはわれわれが青い色を使わないからではない。
ケーキ屋には時々青いアイスで包まれた菓子が並べられている。しかし、何らかの理由で、
われわれは飲食に関してはこの色を用いない。
また食料品の包装にも、青いものはめったに使われない。
薬局や金物屋では、洗剤や石けんのように、青い色で包装されたものが時々見られるが、
飲食物は頑なにアンチ・ブルーの態度を保っている。
青のタブーは、原始時代の食事習慣にまでさかのぼっているように 思われる。
自然食はナッツや種子「茶色や黄色」果実や根「橙、赤、白」、葉っぱや若枝「緑」などであり、
狩猟が加わった場合でも、それには白色の魚や家禽、また赤や茶色の種々の肉であった。
青いものはなかった。そして昔の食物に青色がなかったことは 、
ほとんど自由に食べ物を着色できる今日においてすら、なお存続しているのである。
古代の他の名残として、
人がいるところで食事をする場合には、“壁を背にする”という奇妙なことがある。
レストランにきた人を観察すると、彼らは最短コースをとって、壁際の席へ行くことがわかる。
自ら進んで、中央の開かれた空間に置かれたテーブルを選ぶ人はいない。
中央の席は、壁際の席がすべてふさがっている場合にだけ、用いられる。
これは、食べることに夢中になっている間に起こる、
不意の攻撃を避ける、古代の摂食習慣にまでさかのぼることができる。
こうすることによって、防御を固めることが容易になり、周囲の空間に常に目を配ることが可能になる。
最良のもっともよく防御に役立つ視野を得るためには、壁を背にしなければならないのである。
そして、多くのレストランが、
中央にあるテーブルの周囲に、小さな衝立をめぐらすのはこのためである。
すべてのテーブルが仕切られると、そこで食事をする人は安心感を覚える。
うまく仕切られたレストランでは、ほとんど100%壁を背にする設備が整っている。
それは結果として、ウエイターによる料理のサービスを非常にやりにくくしているのだが、
古代の恐怖に取り憑かれて食事をしている現代の人にとっては、
たいへん魅力的な作りになっている。
“料理が運び込まれた”瞬間ほど、人々の視線が鋭く料理に集中するときはない。
料理が置かれると、食事をする人の目は、眼前の料理をもったさらに釘付けになる。
その一瞬、人々はすっかり注意を一点に集中するので、
敵を暗殺するのであれば、これほど適した瞬間はない。
どんなに会話に集中していても、皿が置かれた瞬間には、人の目は湯気の立った皿に固定される。
それはあたかも、人の生存そのものが、
ちょうどこの瞬間に、それを見ることにかかっているかのようである。
食事をする現代人を観察してみると、皿に注がれる視線は、
ネコがネズミをねらっている視線とかなり似ていることがわかる。
この反応の中に、獲物をねらった古代の狩猟者の幻を見ることができる。
公の場で食事をすることには、一種の緊張が伴うので、
レストランは、食事をする人のムード作りとして、主に二つの傾向を取り入れている。
高級レストランは、その高い値段に見合うだけの、緊張をほぐす工夫をしなければならない。
この種のレストランは、そのために、衝立やカーテンを用いて間仕切りをする。
また照明を薄暗くし、しばしば赤橙色の光を当て、暑い絨毯と柔らかいカーテンで音を遮断し、
店の色には、くすんだあるいはパステル調の柔らかい色を用いる。
そして、ウエイターが急がなくてもよいように、従業員を多くして人の動きを抑え、
また、しばしば、火が見えるようにすることで居心地の良さと暖かさの感じを出している。
このようにして、高級レストランは客をくつろがせ、落ち着いた雰囲気を感じさせている。
客は長い時間をかけてゆっくりと食事をすることができるが、
最後に多額の代金を要求されるのは覚悟していなければならない。
これに対し、安いレストランでは、できるだけ食事をするスペースを狭くし、
造作をこらないようにするといった、対照的な工夫がなされている。
これは、客に早く食事を終えさせるためである。
このようにして、安い値段は客の速い回転でバランスを保っている。
客を早く席から立たせるために、強い裸照明や、けばけばしい色が使われ、
金属製の盆ががちゃがちゃという音をたて、テーブルの表面は硬く、テーブル掛けもない。
客はあたふたとした食事が終わると否や立ち上がり、次の客、次のもうけのために席を譲る。
人という動物は、果実をあさる霊長類から肉食者となったので、
歯についていくつかの問題点をもつようになった。
人は本質的には依然として雑食動物なので、
かなり一般的な目的にかなう歯並びを保っていることが、重要であった。
それ故、殺したばかりの 獲物の固い肉は、頭痛の種であった。
人はこの悩みを二つの主な方法、つまり刃物類と料理方法によって解決したのである。
刃物類は、
獲物の皮をはいだり肉をそぐための簡単な道具として、数十万年前から使用され始めた。
最終的には石は銅に、銅は青銅に、青銅は鉄に、鉄は鋼鉄に取って代わられた
【この連鎖のハイレベルのところに銀と金が入り込んでいる】
初期の金属製のナイフはほとんど常には先が尖っており、
食物を切り、突き刺して口に運ぶ、という二重の機能を持っていた。
不幸なことに、ナイフはこのために危険な武器ともなり、
1699年にフランスのルイ15世は暗殺を恐れて、先端の尖ったテーブルナイフの製作を禁止した。
そして、この製作禁止はそれ以来、自発的な形で今日まで存続している。
刃先の丸くなったナイフは、必然的に、もう一つの刃物類であるフォークの普及を促した。
フォークは、原始的な片手のスタイルが、両手での道具使用へと徐々に移っていくことで、
ゆっくりと食卓状での地位を固めていった。
すでに、古代のナイフは右手にもつ習慣が確立していたので、
フォークは左手で扱われなければならなかった。
いくつかの地域、たとえばアメリカでは、これに対する抵抗がある。
これらの地域でも、ナイフでものを切るときには、左手にフォークをもつが、
切り終えるやいなや、ナイフを置き、ご苦労にもフォークを左手から右手に持ち替え、
食物を突き刺し、口に運ぶ。
ナイフの正当な地位を脅かそうとするこの果敢な試みは、
多くの文化では、面倒すぎると思われており、
ほとんどの地域では、左手にフォーク、右手にナイフといった両手使いが存続している。
しかし、大きな例外が東洋にあり、そこでは箸が優位を占めている。
この理由は、東洋では、比較的自由に食卓から好きなものをとって食べるので、
食事をする人は一方の手に椀を持たねばならず 、
従ってその中身は片手でつっつかなければならないからである。
箸は両手によるナイフとフォークの組み合わせよりも、能率的でないが、
片手での食事においては、他のどんなものよりも効果的なので、今日までよく存続している。
しかし、西洋風の食事が徐々に東洋にも入っているので、箸の使用は少しずつすたれていく。
ナイフとフォークは、スプーン、氷ばさみ、その他の様々な食器とともに、
金属製の“超歯”として現代の食卓に並べられ、
食べ物をかみ切る、噛む、すりつぶすという人間の能力を助ける。
それらは、われわれのあごに別の歯を付け加えなくても、
進化の教科書に見られるあらゆる種類の歯を人間に与えてくれる。
この過程を助け、促すのが料理の役目である。
火の使用は、それ以前でも温泉の湯で食べ物を煮たのであろうが 、きわめて変化に富んだ、
食べ物を軟らかくして、われわれの特殊化していない歯に課せられる負担を軽くしてくれる、
古くからの方法である。
われわれは植物質および動物質の食べ物に対して、
焼く、ゆでる、蒸し焼きにする、あぶる、煮るといった手を加える。そうすることによって、
食物が柔らかくなるだけでなく、風味が増し、寄生虫も死ぬ。
そしておそらく、熱することでわれわれは、殺したての獲物の体温や、
われわれの最初の、そしてもっとも心地よい食料である、
母乳の人肌のぬくもりの記憶を、呼び起こすのである。
食物貯蔵を発展させて、われわれは、
薫製、漬け物、干物、塩漬け、瓶詰め、缶詰、冷蔵、そして最近では、
冷凍や冷凍乾燥を発達させてきた。
刃物類と料理法および食物貯蔵技術によって、人間は、超摂食動物、超貯蔵動物になった。
われわれは一人あたり一年に約一トンの食物を食べており、
平均的には、一生で60トン以上の食物を食べることになる。
この活動中の過程を観察することは、古代の習慣と現代の技術の魅惑的な結合、
つまり、原始的な摂食パターンと技術的な発明との完全な融合物を観察することなのである。
スポーツ行動
現代の狩猟儀式
スポーツ活動は、本質的には狩猟行動の形を変えたものである。
生物学的に見れば、現代のサッカー選手は、姿を変えた狩猟者の群れとみなすことができる。
殺傷力のある武器は、無害なボールとなり、獲物はゴールに変わった。
そしてねらいが正確で、得点できたときには、
獲物を殺した狩猟者が味わう勝利の喜びを得るのである。
どのようにしてこの変形が起こったのかを理解するために、
ここでもまた簡単に、われわれの先祖を振り返ってみる必要がある。
彼らは協力しあう狩猟者として、進化するのに、100万年以上もかかっている。
生存は狩猟での成功にかかっていた。
この圧力によって、身体をも含めた全生活様式は、根本的に変化していった。
そして、追跡し、走り、跳びはね、ねらいを定め、ものを投げ、獲物を殺す人となった。
その際、彼らは熟練した男性集団の攻撃者として、協力しあったのである。
そして、今から1万年ほど前、この非常に長い狩猟形成期の後に、
われわれの先祖は農耕者になった。
そして、それまでの狩猟生活に不可欠であった優れた知能は、
獲物を囲い、管理し、家畜化すると行った新しい方向に使用されるようになった。
狩猟は突然廃棄され、食物は必要の時に、田畑から入手できるようになった。
しかし、狩猟技術と狩猟への衝動は残存しており、新しいはけ口が必要となった。
そして、スポーツのための狩猟が、生きるための狩猟に取って代わった。
この新しい行動は、本来の狩猟行動をすべて含んではいたが、
その目的はもはや飢餓をいやすためのものではなかった。
獲物の追跡それ自体が、目的とみなされるようになったのである。
この傾向が、必然的に行き着く先は、獲物を決して食べることがなく
、単にその頭部の剥製を自宅の壁にかける猛獣狩りのハンターや、わざわざ狐を飼育して放ち、
それを狩る狐狩りのハンターであった。
数世紀の間、スポーツ界では、この種の血を流すスポーツが主流を占め、
今日たいへん人気のある血を流さぬスポーツは、二流の低い役割しか与えられていなかった。
辞書にかかれたスポーツの古い定義を見ると、
【野生動物を、捕獲あるいは屠殺使用と努力することによって得られる娯楽】となっている。
しかし、文明化が進むにつれてスポーツ人口が増加し、ほんの一部の金持ちとか権力者以外は、
獲物を狩る完全なパターンを娯楽として楽しむことができなくなった。
普通の人々にとって、狩猟に向けられた古代の衝動は、満たされなくなった。
そのために、古代ローマでは、狩猟を都市の中に持ち込み、巨大な闘技場でそれを行わせた。
そこでは、数千の人々が目の前で、獲物の屠殺を観戦することができた。
この方法は、今日でも、闘牛の形でスペインにおいて存続している。
他の方法は、一連の狩猟行動を別の行動パターンに変形させることである。
これらの新しい行動は、外見上は狩猟のようには見えない。
しかし、その奥には、狩猟のすべての基本的要素が含まれていた。
この変形を解くカギは、もはや獲物を食べる必要がなくなったという事実にある。
そうであれば、動物を実際に殺す必要はない。
象徴化された屠殺だけで十分であり、それでも追跡のスリルは維持され得る。
古代ギリシアの解決策では、これが、運動競技、すなわち追跡【トラック競技】、ジャンプ,
投てき【円盤や槍】を含む陸上競技であった。
競技者は、狩猟場面で典型的に見られる、活発な肉体活動を経験した。
そして、彼らが示した行動パターンは、古代の狩猟行動のすべての要素であったが、
そこでの勝利は、実際の屠殺から“競技に勝つ”という象徴的な屠殺へと変形してきたのである。
また、世界の他の地域では、球技が細々と始まりかけていた。
古代ペルシアではポロ、古代エジプトではボウリングとホッケー、
古代中国ではサッカーの原型が見られた。
そこで持続され、
増幅されている太古の狩猟行動の要素は、狩猟者が獲物をねらうという重要な動作であった。
ルールはどうであれ、的をねらうという肉体的活動が、これらの競技の本質をなしていた。
このことは何にもまして、現代のスポーツ界でも優位を占めている。つまり、
今日では的をねらうスポーツのほうが、他の型のスポーツ全部をあわせたよりも、
はるかに数が多い。現在では、フィールド・スポーツとは、
競争して的をねらう行動だと定義してもよいくらいである。
血を流さぬスポーツには、二つの基本的に違った的をねらう種類がある。
それは、ターゲット【標的】、スキトル 【木製のピン】、ホール【穴】のように無防備な対照をねらうもの
と、ゴールやウィケット【門柱】のように防備された対象をねらうものとである。
これらの動作を、狩猟パターンの変形だと考えれば、防備された対象が、
実際の獲物に一層近いことは明らかであり、それ故、これらは太古の活動の、
より優れた代理行動となっている。
実際の獲物は、急激な運動、逃走、攻撃、その他のあらゆる手段によって、
懸命に自己を防衛しようとする。
従って、現代のすべてのフィールド・スポーツのうちで、
人気のあるスポーツが、防備された対象を、
攻撃しなくてはならないスポーツであるということは、驚くにあたらない。
このように考えると、サッカーというゲームは交互な狩猟であることがわかる。
“一群の狩猟者”である両チームの選手は、
“武器“であるボールで“獲物“である防備されたゴールをねらって得点しようとする。
防備されたゴールは、開かれたゴールよりも予測が困難なので、
狩猟はより興奮をもたらすものになる。
単に観戦することだけで満足する大観衆を集めることができるのは、この種のスポーツである。
ゴールが防備されていないような 、もう一方の基本的なスポーツは、あまり客を呼ばないが、
技術と正確さが要求されるので、的をねらう者自身は、強い満足感を覚えることができる。
前者のタイプには、サッカーのほかに、クリケット、バドミントン、バスケットボール、ホッケー、
ハーリング「アイルランド式ホッケー」、アイスホッケー、ネットボール、「バスケット似たチーム球技」、
ポロ、「馬に乗って行う球技」、水球、テニス、卓球、バレーボール、
ラクロス、「ホッケーに似たスティック競技」などが含まれる。
後者のタイプの例としては、木球、ゴルフ、アーチェリー 、ダーツ、
スキトル 、「ボウリングに似た標的球技」、ボウリング、輪投げ、ビリヤードなどがある。
すべてこれらのスポーツは、何らかの対象をねらうという人間の衝動によって支配されている。
驚くべきことだが、スポーツのこういった側面は、しばしば見過ごされている。
その代わりに、競争という要素が強調され、普通それをもって全体を説明している。
確かに競争はスポーツにおいて、一つのはけ口となっており、それは疑う余地がない。
しかし、ケーキ作りのコンクールや生け花でも、競争は同様にはけ口となり得るのだが、
これらの活動はスポーツとは呼ばれない。
われわれは数多くの形態をもった競争に夢中になるが、
その中でスポーツだけが、
追跡、走行、ジャンプ、投てき、獲物の対するねらい、屠殺といった特性を備えている。
このことは、変形された狩猟ということによってしか説明できないのである。
現代人にとって、スポーツはレクリエーションの主要な形態となっている。
世界中で、人の多く住んでいる場所のほとんどに、スポーツセンターやスタジアムがある。
そして数百万の人々が、新聞やテレビを通じて、スポーツ活動の細部にまで目を注いでいる。
今日のこの著しい関心は、これまでのどの時代よりも大きなものであり、その理由は容易にわかる。
産業革命の結果、人口が膨張し、成人男子の大部分は、狩猟の伝統から遠くかけ離れてしまった。
大量生産と工業化により、労働は退屈で、単調で、意外性のない、反復的なものとなっていった。
古代の狩猟パターンの本質は、危険と興奮を伴う多くの肉体的行為を含むものであった。
そこには、構成員が集結し、戦略や計画を練り、技術と勇敢さをもって、
最終的には勝利の大きな絶頂感を得るといった長い一連の行為が含まれていた。
これは、サッカー選手のようなスポーツマンの活動とはよく一致しているが、
工場労働者やオフィスの事務員の生活様式とはひどくかけ離れている。
19世紀の男性は、変化のない日常の仕事に閉じこめられ、
狩猟者としての新しい段階の欲求不満を経験した。
その結果、案の定、組織化されたスポーツに対する爆発的な興味が生じたのである。
今日、もっとも人気のあるスポーツのほとんどすべてが、19世紀に考案されたか、
あるいは、この時代に少なくとも形式が整えられた。
それらには以下のようなものがある。
1820年 スカッシュ【イギリス】1823年 ラグビー・ユニオン【イギリス】1839年 野球【アメリカ】184
6年 アソシエーション・フットボール【イギリス】1858年 オーストラリアン・フットボール【オーストラリ
ア】1859年 バレーボール【アメリカ】1860年代 ローンテニス【イギリス】1870年代 水球【イギリ
ス】1874年 アメリカン・フットボール【アメリカ】1879年 アイス・ホッケー【カナダ】1891年 バスケ
ットボール【アメリカ】1895年 ラグビーリーグ【イギリス】1895年 ボウリング【アメリカ】1899年 卓
球【イギリス】
これらのゲームのいくつかは、以前にあったものが、
きちんとしたルールや規則によって現代的な形に変えられたものであり、
その他のゲームは、この時点で考案されたものである。
19世紀の間中、非常に多くの人々がこれらのゲームを行い、あるいは観戦した。
これらのゲームには、肉体の行使が含まれるので、レクリエーションと考えられた。
しかし、そこで助けを求めていたのは、肉体ばかりでなく、狩猟者の精神だったのである。
似非狩猟が人気を得たのは、
その大部分が、スポーツ活動によって生じる一連の興奮のせいであった。
スポーツは単なる肉体運動ではなく、
太古の狩猟者が行った、追跡し、ねらいを定める運動なのである。
驚いたことに、20世紀になってからは新しいタイプのスポーツは生まれていない。
しかし、既存のスポーツは、普及速度が増し、工業化の伝播とともに全世界に広まっていった。
現在では、日常の労働が退屈で、
多様性や意外性に欠けると感じる人々が以前よりもはるかに多くなっている。
そういった人々にとっては、スポーツをする機会は、直接的な喜びを与えてくれる。
現代社会で成功している男性には、このタイプのはけ口はあまり必要ではない。
というのは、このような男性の労働様式は、太古の狩猟パターンによく類似しているからである。
彼の労働は、アイデアの狩猟に関係している。
つまり、問題の解決を追跡し、契約を取り付け、自分の組織のねらうものについて語る。
彼の生活様式は、相次ぐ一連の似非狩猟による興奮に満ちている。
その変形された狩猟に欠けているものは、実際の肉体の行使だけである。
追跡し、ねらい、殺す動作はすべて抽象化されており、
その結果、彼の肉体はしばしばその罰を受けることになる。
スポーツの堕落した形態として、特に述べておかねばならないのが、戦争である。
武器がまだ稚拙であった昔は、血を流すスポーツの一形態であるという点では、
戦争も他のスポーツも同じであった。
実際の食料として獲物を狩ることが、もはや関心事でなくなったとすれば、
代理となる獲物は、広い範囲の中から選べることになる。
狩猟に必要な挑戦の犠牲となるのは、
何でもよいのであって、人間だけが除外される理由はなかった。
初期の戦争は、総力戦ではなく、スポーツの試合のように、
厳密なルールに基づいて行われるきわめて限定された事象であった。
戦死としての男の狩猟者は、元々実際の狩猟に用いていたのと同じ種類の武器で戦った。
そして、人食い人種の戦士のような特殊な場合には、
獲物を殺して食べるという、類似性までが見受けられた。
また、いくつかの戦争では、クリケットと同様、雨天中止だったことも知られている。
他のスポーツと同じように、グループ間の競争が含まれていたことはもちろんであるが、
これをもって、すべてを説明することはできない。
数多くの“理由なき戦い“の例が見られ、そういう戦いは戦士たちからは、
戦いを期待する抑えがたい衝動をもっているかのような 印象を、表面的に与える。
このことから、幾人かの権威者は、人間は同胞を殺す生得的な衝動を持っている、
という不幸な結論を引き出してきた。
しかしながら、これらの戦争をしているグループを、
野蛮な殺人者としてではなく、スポーツマンと同じように、
代理の獲物を追跡している形を変えた狩猟者としてみるならば、
その行動は直ちに理解しやすくなる。
悲しいことに、戦争はスポーツの形態から急速に離れ、流血の殺戮へと拡大していった。
これには二つの理由がある。
その一つは、技術が進化して、
武器を用いるのに勇敢さや肉体的な野戦技術が、もはや不必要となってしまったことである。
もう一つの理由は、人口の増加により、深刻な過密状態が生じたことである。
このため、膨大な社会的圧力と、これまでには想像もできなかった競争の必要性が生まれた。
古代にはスポーツであった戦いという狩猟は、
現代の総力戦という制御不可能な蛮行へと、爆発的に発展してしまったのである。
今後、このことから学ぶべき教訓は、戦争勃発の機会を減らすためには、
人口過密やそれによって生じる社会的ストレスの問題を解決するだけでは、
十分ではないだろうということである。
さらに、工業化以後の人間の労働に関する生活様式を再検討し、
彼らを狩猟者の状態に、近づけ得るかどうかを、考えてみることが必要であろう。
労働が単なる繰り返しで、変化、興奮、絶頂感を欠いたものであれば、
現代人の心の奥底に潜んでいる太古の狩猟者は、危険な不満を抱き続けるであろう。
土曜の午後のサッカーは、それの解消に役立つが、決して十分なものではない。
もしわれわれが、暴動、暴力、総力戦による破壊的な道を避けようとするならば、
将来の労働方式を考える際には、
労働者をある種の一連の似非狩猟に関与させることが大切であるように思える。
最後に、常道をはずれた形態のスポーツが、もう一つある。
それは人殺しのスポーツではなく、“女殺しのスポーツ“である。
昔の辞書でスポーツの別の定義を見ると、“恋の戯れ“となっている。
女性を追いかけることは 、しばしば狩猟にたとえられてきたのである。
人という種の一連の通常の求愛行動には、多くの象徴的な追跡の特徴が見られる。
それは象徴的な屠殺である性交のクライマックスで終結する。
本当の性的関係では、このクライマックスは、夫婦の絆の発達を予告している。
つまり、真の性的関係とは、われわれの種の場合、長期間にわたって両親としての、
重責を負わされる厳しい繁殖サイクルの間中、配偶者の間に、
愛着の深い絆ができることなのである。
しかし、ガールハントに見られるように、女性への愛よりは、
手に入れた女性の数を誇るような男性は、追跡中に通常のつがい形成の影響に屈服し、
スポーツとして始めたことを、意に反して真の求愛に変えねばならなくなることもある。
しかし、悲しいことに、そういう男性は一方的な絆を作ったあげくに 、
“親としての一連の行動“を始めねばならないときに、何の心の痛みも感ぜずに、
彼女を捨て去るかもしれない。
スポーツとして女性を追い求めることは、戦争と同じように、社会的に危険な結果をもたらしている。
太古の狩猟に代わるものを求めることには、多くの危険が伴う。
まずい選び方をしたり、上手な遊び方をしないような社会は、危険を覚悟でそうしていることになる。
人類のスポーツ行動の本質は、明らかに、過去におけるよりも大きく、注目をするに値する。
休息行動
くつろぎの形態
われわれは、一日のうちの多くの時間を、社会的な場面に縛り付けられている。
時に応じて、社会的役割が変化し、子供に対しての親であったり、妻に対しての夫、
セールスマンに対しての顧客、医者に対しての患者、雇い主に対しての労働者、
群衆に対しての演奏者、看守に対しての囚人であったりする。
われわれは、同僚、友人、仕事仲間、競争相手、親類、配偶者とつき合うのに忙しい。
こういった場面のすべてにおいて、社会にかかわることの興奮は、
それに伴うストレスと緊張をもたらす。
時々、このような努力から身をひく必要があり、そのために休息行動はいくつかの形をとる。
完全な休息としては、ストレスを与えている社会的場面から、
全面的に身をひくことが必要であるが、ちょっとした休息なら、その場でもとることができる。
疲労している人は、自動的にうなずき、微笑しながらも、心は上の空で、放心することができる。
外見上、依然として社会的なつき合いを続けているが、
疲れている人の頭脳は惰性で進んでいるだけで、ギアは入っていない。
少したつとその人は、議論の重要な点を聞き漏らしていないことを願いながら、
活動を再開し、元の精神的戦いに立ち戻る。
疲れている人は、くつろぎ姿勢をとることもできる。
これもまた、社会的場面から離れることなく行うことができる。
ここで問題となるのは、くつろいだ姿勢をとればとるほど、
相手を侮辱しているととられる危険性も大きくなる点である。
もし相手が礼儀正しいことを期待しているのであれば、緊張した姿勢をとり続けなければならない。
くつろぎ姿勢は、その人が相手よりもたいへん優位にある者で、
そこにいる人がどう思おうと、気にしなくてもよいような場合や、非常に親しい友人や親類などと、
たいへんうち解けた場面にいる場合なら、やってもかまわない。
実際、親しい友人の間で、十分にくつろいだ姿勢をとることは、友情の肯定的なサイン、
つまり、彼らの関係は、緊張した注意を必要とせず、
きちんとした儀礼的動作に頼らずとも存続し得ることを示す信号として用いられる。
くつろぎ姿勢にも、たいへん幅がある。
立ったままで、身体を壁などの面にもたせかける【寄りかかり】、両手をポケットに入れたり、手頃な
平面に前腕を載せる【腕支え】、さらに、硬い面に頭をもたせかける、あるいは手とか腕とか前腕に
よる【頭支え】などがある。座ることは、それ自体が重要なくつろぎの姿勢である。これを強めて【ぐっ
たりと座る】と、頭、腕、手首、肩、足の力が抜けて、普段の張りつめた緊張を解きほぐすことができ
る。この姿勢がさらに進むと、【手足を伸ばす】ことになる。ここでの動作の本質は、手足を伸ばして、
何かの上で休ませることにある。この姿勢からは、自ずと、うつぶせ、仰向け、横向きといった【寝転
がり】動作が生じる。
ここにおいて、われわれは2.3の社会的場面以外では、極端すぎるくつろぎの段階に達した。
友達同士なら、家具に足を載せておしゃべりをしてもよいかもしれない。
しかし、寝転がるとなると、つき合いから身をひくという新しい段階にはいる。
ピクニックのような戸外の場合にのみ、
つき合いを続けながら完全に寝転がった姿勢が、社会的に許される。
そしてそのような 場合でさえ、身体が完全に地面に着かないように、
多少なりともひじをついて、身体の一部を浮かせているのが普通である。
これらすべてのくつろぎの姿勢の基本は、そうすることによって、
垂直姿勢を維持する作業から解放されることにある。
人間の垂直姿勢は、生活様式の非常に重要な部分を占めているのだが、
近縁の四肢動物の姿勢よりも、ずっと負担のかかるものである。
われわれは、垂直姿勢をとることが多いので、
【直立】という実は困難な作業を、きわめて当然のことと考えがちである。
実際それには、絶えず平衡を保つ巧みな技が必要であり、
この“立っている義務“から少しでも逃れる動作は、すべて貴重な休息の源になる。
これまでにあげてきた一般的な例とは別に、特殊なくつろぎの姿勢が数多くある。
それには次のようなものがある。
アフリカのある種族に見られる、コウノトリのような【片足立ち】姿勢、
またマットに沈められたボクサーが、回復を待つときにとる【片膝つき】、
ゴールに飛び込んだ運動選手が、消耗して膝を折る【両膝つき】、
さらにすっかり消耗した場合に、両手まで投げ出してしまう【四つん這い休息】などである。
かなり一般的なものとして、尻を沈め、折り曲げた足の裏側でそれを支える【正座】がある。
これに関連したものとしては、ごく普通の【しゃがみ】があり、
この場合には、膝は地面から離れ、上体は主に足によって支えられ、腿はふくらはぎに接している。
これには、べた足でしゃがむものと、つま先でしゃがむものの2種類がある。
べた足でしゃがむものは、ある種族では普通に見られるが、片足での直立と同様に、
多くの人にとっては、これを真の休息の姿勢として持続することは困難である。
この種の動作がさらに進んだものに【腰降ろし】があり、
この場合には、尻が地面に接して上体を支える部分となるが、足は曲げられたままである。
これはさらに、学童のグループが床に座る際に、よくするような完全な【あぐら】や、
ヨガの行者に見られる【結跏趺坐】になる。
また、あまり複雑でない変形としては、公園や海岸でしばしば見受けられる単純な【横座り】がある。
ヨガの、頭で立つような、また地方的に発達した奇型を別にすれば、
これらが、人という種のくつろぎ姿勢である。
これらの姿勢は、その場の状況によって、ちょっとの間だけ、あるいは数時間持続される。
また、これらは緊張とつき合いを強いられる社会的場面の中で起こることもあるし、
厳しい活動中におかれた
公認の“休養時間“や“休み時間“といった社会的場面以外のところで起こることもある。
社会的な流れの中で起こる別のタイプの
【休息行動】が、“居眠り“、“うたた寝“、あるいは“まどろみ“である。
たとえば、午後の家族の団らん中に、おじいさんが眠り込んだとしても、
家族はおじいさんがまだ活発に自分たちと話し合っているかのように 団らんを続ける。
家族はおじいさんにも話を向け、寝室へ連れて行こうとはしない。
つまり、団らんという社会的状況から彼を除外しようとはしない。
講義中、あるいは映画館で居眠りをしている人も、いびきをかくとか、
見過ごせないほど他人のじゃまになることがなければ、同様に扱われる。
居眠りがさらに進むと、完全な睡眠のパターンとなり、
これは社会的場面から完全に身をひく形態である。
しかし、睡眠以外にも、われわれがとり得る多くの休息行動型がある。
それらはある程度、変化が休息になるということに基づいているが、
その際、変化した状態が重要である。
これを満たすものが“現状破り“であり、
それには、コーヒー 休みや、お茶の時間といった短いものから、
昼食時間、夜間の外出、週末の休み、祭日、長い休暇まである。
これらすべての場合において、われわれは普段の社会的役割から逃避して、
しばらくの間、酒を飲む人、食べる人、旅行をする人といった、
まったく新しい仮面を付けることができる。
こういった新しい活動は、比較的エネルギーを要しても、われわれに休息を与えてくれる。
しかし、これらが休息となることの本質は、それを自分の意志で行うところにある。
自分のしたいことをするのであって、他人から強制されてはならない。
どの場合においても、われわれは販売人ではなく、購買者であらねばならない。
社会生活における重要な労働時間は、根本的には、
自分自身あるいは自分のサービスや製品を、売り込むことにあてられている。
これらから離れての休息とは、立場を購買者の側に切り替えることである。
しかも、それはいわゆる”必要性“と結びついた購買であってはならない。
その購買には、バーで酒を飲むにしろ、休日にホテルに訪れるにしろ、
必ず、ちょっとした贅沢と遊びの雰囲気がなければならない。
これらの現状破りは、
価値あるものであるが、完全な”役割からの解放“をわれわれに与えてはくれない。
休日でも、多くの時間は、仕事の計画や組織化に対する準備や責任のためにつぶされてしまう。
その結果、思いがけずいらいらすることになる。というのは、
休日とはまさにそういう計画や組織化から、逃避するためのものだからである。
唯一の全面的な逃避は、長時間の夜間睡眠によってのみ与えられる。
この夜間の解放なしに生きていこうとすれば、肉体も精神も、たちまちひどい衰弱をきたしてしまう。
これは、睡眠が身体の休息よりも、むしろ脳の休息にとって重要だからである。
マッサージや長時間横になっていることで、筋肉の疲労は和らげることはできるが、
それによって精神的バッテリー が再充電されることはほとんどない。
一日のうちに得た新しいアイデア、思考、経験は非常に雑多なものであり、
この新しい入力をメモリー・バンクに整理するためには、数時間の睡眠が必要である。
そしてそれは、単なる整理というだけでなく、
われわれを悩ましている葛藤を解決しようとする際に生じてくる、様々な矛盾を分類し、
”心のオフィス“を整頓することである。
夢を見るとは、まさにこのようなことをしているのである。
それらが”整理“するのに時間がかかり、やっかいなものであれば、
夢も長く反復的なものとなる。
強烈な新しい経験は、一夜のうちに数回の生き生きとした夢を引き起こす。
夢の話としてわれわれが後で思い出すのは、氷山の一角に過ぎない。
眠っている人についての最近の研究によって、
目覚めたときに夢を覚えているかどうか 、
あるいはまったく夢を見なかったと感じるかどうかには関係なく、
われわれは、毎夜数回繰り返し、活発に夢を見ていることが明らかとなった。
赤ん坊は成人よりも長く眠り、中年の人は老人よりも長時間の睡眠をとる。
これにはもっともなわけがある。
幼児は、理解せねばならないまったく新しい世界に直面している。
幼児の脳への入力は多量であり、
すべての新しい情報を整理するためには、それに見合った長い夢の時間が必要なのである。
これに対して、老人は、自分なりの世界がほぼ出来上がっていて、
新しい情報はあまり多くないので、少ない睡眠時間で十分である。
生後三日間は、赤ん坊の平均睡眠時間は24時間中16.6時間であり、
多い場合は23時間、少ない場合でも10.5時間は眠る。
成人の場合は、平均7時間20分である。
老人の場合はわずか6時間で、それに昼間のうたた寝があれば十分である。
新生児は日中、夜間を問わず、短い集中的な睡眠をとる。
しかし六ヶ月齢までには、日中の睡眠は減少してうたた寝となり、
夜間の睡眠は増加して連続した長い睡眠となる。
このころには、総睡眠時間が14時間ぐらいになり、その後どんどん短くなっていく。
日中のうたた寝も、午前と午後の二回に減る。
二歳のうちに午前中のうたた寝はなくなり、平均睡眠時間は13時間になる。
五歳までに日中のうたた寝は見られなくなり、夜間の睡眠時間が12時間ぐらいになる。
これは13歳まで徐々に減少し、重大の普通の睡眠時間は9時間である。
そして最終的には、完全な成人のパターンである7.5時間まで減少する。
成人は、典型的な夜間の睡眠中に、身体の姿勢を40∼70回変える。
眠っている人を連続写真でとると、その姿勢が変化するので、
動揺して少しも休息していないように 見える。
しかし、熟睡している人でも姿勢はこのように自然に変化するものであり、、
これは手足やその他の身体部位が凝り固まるのを防いでいるのである。
夢睡眠
典型的な夜間の睡眠中にはまた、4∼5回の“夢を見る時間”がある。
それはまず眠りに落ちてから90分後に起こり、引き続き60∼90分間隔で起こる。
それら全部をあわせると約1.5時間になる。
これら一連の特殊な夢睡眠の間には、いくつかの矛盾したことが起こる。
ある面では、あたかも目覚めているかのように眼球が急速に動く。
覚醒波と類似した脳波が生じる。
また、何らかの情動的経験に対応しようとしているかのように、
心拍と血圧が不規則となり、動作に備えるかのように酸素消費量も増える。
これらとまったく逆の変化も起こる。
筋緊張は通常の睡眠中よりも弱くなるし、起こそうとしてもなかなか起きない。
こういった理由から、この特殊な状態は【逆説睡眠】と呼ばれてきた。
身体は、覚醒からはひどく離れているが、同時に動作に対するギアは入っている。
もちろん、ギアの入った動作は、夢の中で重要な働きをしているのであり、
眠っている人がこの特殊な睡眠状態の時に起こされると、
自分の夢を生き生きと思い出すことができる。
しかし、この特殊な夢睡眠が終わったわずか数分後に起こすと、
もう夢の物語はぼんやりとした要素しか思い出せない。
そして10分以上後に起こされたのでは、
普通何も覚えておらず、まったく夢を見なかったと報告する。
このことは、われわれは皆一晩に4∼5回夢を見ているのに、
何故夢をまったく見なかったという人がいるのか、ということを説明している。
彼らは夢を見ていない通常の睡眠期に、目を覚ましたのである。
われわれが自然に目覚めるのは、普通こういった場合である。
しかし、まだ疲れがとれていないというのに、早朝の電話や目覚まし時計で起こされると、
夢を中断させられることがあるので、そのときには夢の話を思い出すことができる。
夢は、昔から考えられてきたような 、一瞬のうちに見るものではない。
睡眠実験の被験者は、夢睡眠の開始期に起こされると、
短い夢しか報告しないが、もっと後に起こされると、より長い夢を思い出す。
それ故、毎晩あわせて1.5時間の逆説睡眠の間に、
われわれは実際に1.5時間の夢を見ていると考えてもよいだろう。
このことは、老年に達するまでに、
平均的な人で、総計2万5000時間の夢を見ることを意味している。
こうすることによってのみ、
人は頭の中のコンピューターの優れた作業秩序を保つことができ、
昼間の複雑な出来事にうまく対処できるのである。