禅の修行の道程と三昧の深まり - 禅フロンティア 日本文化研修道場

「禅の修行の道程と三昧の深まり」
葆光庵
丸川春潭
1. 緒言
本当の宗教には必ずしっかりした三昧の行がその基盤にあります。三昧は本当の宗教の
根幹であります。人間形成を進める原動力は三昧の行にあります。この三昧について禅の
修行の道程ごとに掘り下げ味わってみたいと思います。
2. 見性入理(禅の開悟)と三昧
入門して最初に師家からいただく公案の代表的なものが、
「父母未生以前における本来の
面目」「隻手音声」「趙州無字」であります。
公案と言いますのは、相対的思索では絶対に判らないもので、絶対の境地に到らないと
見えないものであります。
絶対の境地というものは相対的には判らないものですが、この絶対の境地に到り、絶対
の境地を体得するには、三昧になればいいのです。そういう意味では難しいものではなく、
また身近に入って行けるものであります。
見性して道号を頂いた者は、間違いなくこの三昧になって「父母未生以前における本来
の面目」と一体になったから「本来の面目」を悟ることが出来たのであり、三昧になって
隻手になり切れたから「微妙な声」を聞くことが出来たのであり、三昧になって趙州の無
字になり切ったから仏性というものがしっかり掴めたのであります。
「父母未生以前の自分」「隻手の声」「無字」は、時間空間を越えた絶対の切り口の発見
であります。これはお釈迦様の悟りである「天地と我と同根、万物と我と一体」
「山川草木
悉皆成仏」を、お釈迦様と同じように徹見することで、本格の人間形成の最初の階梯を登
ることになるのであります。
しかし、これらは頭の素天辺から足のつま先までの全身全霊で三昧になって到達した絶
対の境地でありますが、見性し道号を頂いてしばらくして陥りやすい落とし穴があるので
す。それは、師家に呈して許された見解を、言語(文字)として記憶して、この公案の見
解を記憶している言語(文字)によって思い出して、見性の端的と思い違いをする人が時々
居るのであります。
見性・悟りは絶対の境地であり、決して相対的に思索したり言葉的に表現したり左脳で
記憶することはできないものであります。それらは全て、許された見解(見性の境地)と
は全く異なるものであります。
この落とし穴に落ち込んで悩んでいる若い修行者が時々おりますし、見性し道号を頂い
てからしばらくして道場から足が遠ざかっている者の大部分は、この落とし穴から抜け出
られない方々であると云って過言ではないと思います。即ち、初関の則を許されたその絶
対の境地に再び三昧になって到ることができず、左脳の記憶(知識)を頼って参禅弁道を
しても到底進めるものではなく、公案に詰まってしまうことになるのです。始末が悪いの
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は、未だ初関が許されていないときは、遮二無二 恥も外聞もなく打ち込んでやったのが、
一応許されて見性し道号を貰ったというプライドもあり、そこへ腰を下ろして、本格の三
昧にひたむきに成りきる骨折りをしないのであります。そうすると道場から遠ざかるのは
時間の問題と云うことになるのです。このパターンにはまりこんでいる人は結構居ると思
います。だから初関を許された当座が最も修行の大切な時期で、頭の記憶で思い出すので
はなく、再び「一念不生」の三昧に浸り込んで、見性の端的の境地を足の踵に刷り込むよ
うに坐り込まなければならないのです。数息観でも経行でも大展礼拝の繰り返しでも何で
も良いから、三昧に徹底的に浸り込むことが、この落とし穴に落ち込まない方法であり、
落とし穴から這い出る唯一の方法であります。
3. 見性悟道と三昧
見性入理は、平等と差別の片方の、平等の切り口をしっかりつかむということではあり
ますが、これだけでは真理の把握からみると偏った見地ということになります。
世界宗教の創始者達(老子、孔子、釈迦牟尼、キリスト、ムハンマド)が、稀代の才能
に加えて、大変な苦労をして掴んだ不生不滅の絶対の切り口と同じものを、見性によって
掴んだのですから、凄いことではあるのですが、これで人間形成が完成したとは云えない
のであります。
見性入理の段階のままを一枚悟りといい、全き人間形成から見れば、まだ欠陥を持った
ままの段階であるということになります。誰でも例外なしに一度はこの道を通らなければ
ならないのですが、ここで修行を中断してしまうと片端ものになって終うのです。
悟後の修行・人間形成の階梯は、祖師方の研鑽と工夫によって確立しており、その道が
明確に残されております。これは見性入理に対して見性悟道の段階といいます。これがあ
るのが禅による人間形成の特徴であり、これは人類の最大の文化であり、あらゆる世界宗
教の中でも冠絶しているといわれる由縁であります。
そして悟後の修行(見性した後の修行)に200則の大部分が用意されているのです。
この悟後の修行の位置づけは、最初の見性入理の階梯の悟りの臭みを抜いてゆく修行であ
ります。また最初の階梯での絶対の切り口の発見(平等の切り口)に加えて、差別の妙所
をあきらめる修行であります。
就中 見性悟道の中核が「五蘊皆空」の一段であります。これは瓦筌集200則の背骨
に当たる山脈であり、人間形成という観点であれば、この一則あれば十分であると極言し
てもいいくらいなものであります。
色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五蘊を日常において空ずるということができれば、人
間形成はほぼ完成したと云えるというものであります。
この五蘊を日常において空ずる道力をつけ、差別の妙所を見極める道眼が磨かれると風
大級、空大級の境涯に進んだということになり、また社会において職場において、逆境で
あろうが順境であろうが大手を振って活躍できるというものであります。
また技芸道において、例えば剣道、弓道、茶道、書道、画道、陶道において名人の域に
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達するのは当然のことであります。
まさにこの五蘊を空ずる一つ一つの行が正に本当の三昧行であります。この五蘊を空ず
ることができる三昧をしっかり手に入れると、その人の人間力を最高に発揮できるという
ものであります。
そのためには数息観の中期の実践が必要になります。すなわち見性悟道の修行の目標と
すべき三昧のレベルがこれであります。これは『数息観のすすめ』にありますように“(目
の前を)蚊が過ぎるのはおろか、よしんば雷が眼前に落ちたとしても、更に二念を継がず”
でありますから、相当徹底した深い三昧に到らないとこうはいきません。数息観の中期を
徹底して錬磨し長く続けていると、こういう雷が落ちてもびくりっともしない三昧力を得
ることが出来るのです。
色蘊を空ずるということは、理の上においては釈迦牟尼が悟りを開いた原点の境地に到
るということでありますが、この色蘊を日常において本当に空ずるということは容易なこ
とではありません。日常において三昧が実践される、すなわち正念が相続されていなけれ
ば、この色蘊を日常において空ずることが出来ません。
まさに今日こそ、教団内においても、日本の社会においても、地球上においても、この
色蘊を空ずるということが本当に必要な時と認識します。この色蘊を日常で空ずるという
ことは、人間社会においては「本当に仲よく」する基盤であり、地球上の全ての生き物、
資源、環境の共生理念の基盤であります。
受蘊を空ずるということも、本当の三昧が日常において実践されなければ出来ません。
そして現代の情報社会においては特にこの受蘊を空ずるということができなければ、人間
の精神的健康を維持できないと云っても過言ではない時代であります。この受蘊を日常に
おいて空ずると云うことは、
「正受にして不受」が日常の喧噪の中で実践できるということ
であり、本当の三昧力があって初めて可能になるというものであります。
想蘊、行蘊はいわゆる雑念ですが、敢えてそれを二つに分けた理由は、その空じ方が異
なるからであります。明確にこれを区別できないと、日常でこの雑念を空ずることができ
ないのであります。そして勿論スパット空ずることができるかどうかは、三昧力に比例す
るというものでありましょう。
一番大切でありそして一番の難関は、識蘊であります。先ず識蘊というものを明確に他
の想蘊、行蘊と区別できなければなりません。識蘊が明確につかまえられるとそれは正に
大悟であります。最後の大きな見性となります。第一の見性は、
「本来の面目」を徹見する
ことであり、第二の見性は、
「即今汝性」によって心をはっきりつかむことであり、そして
最後の見性が、この「識蘊のあることを識る」ことになります。此処にいたって初めて「識
羞」の境涯に到るということであります。
しかし識蘊を識り、識羞の何たるかが判ったとしても、識蘊を空じたということにはな
りません。すなわち日常においてこの識蘊を如何に覚知できるかということが大問題であ
ります。この覚知が出来なければ識蘊を空ずることができないのであります。室内が透り
書き分けが許されても、日常において本当に識蘊を覚知し、空じないとそれは禅学の域内
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であり、五蘊皆空を真に透過したと云うことにはなりません。これにはやはり、日常にお
ける三昧すなわち正念の不断相続が人知れず行取されなければならないのであります。名
誉総裁磨甎庵老師は、この則を末期の最後の則にしている室内もあると、この一則の重さ
と深さを示されています。まことに三昧の真贋が問われるところであり、此処まで来れば、
見性悟道から見性了了底に入っております。
4. 見性了了底の三昧
中期から末期になると人間力という言葉では表現できない人間形成の究極の段階に入る
ことになります。
これは数息観を20年30年やったと云っても、誰でも到達しうる境涯ではありません。
いくら熱心に長年やっても数息観だけでは、ほとんど不可能といってもいいと考えます。
やはり正師の炉鞴に身を投じて、熱喝瞋拳を受けるということが不可欠であります。
耕雲庵老大師も『数息観のすすめ』の中で、ここまで来れば細く長くではなく、短くと
も太くといわれており、命がけの骨折りによってのみ到達することが出来る“真の三昧”
の領域であり境涯であります。そして、
“ここに到って初めて、よくぞ人間に生まれたもの
であると心から自分をうけがうことができ、大安心を得ることが出来るのである”と述懐
されておられます。
かすかに残る吾我の念慮をぶち切って終まう(周羅髪の一結を削ぎ落とす)と悟了同未
悟の境涯に達したということになり、法の淵源を極めたということになります。
ここら辺になると親知らず子知らずのところで、如何に明眼有力の大宗匠といえども学
人を教え導くことは出来ません。手を拱いて見ているしかありません。自分自身で深い三
昧を一人追求するしかないのであり、その深さが相対的には判らないものであります。た
だ、学人が最後の一結をぶち切ったかどうかの判定は、明眼の師家にとっては、紛れるこ
となくハッキリと出来るものであります。
この一結をぶち切るのは、末期向上の一著子を含めて本当の禅定三昧と共に、数息観第
二期の終わりから第三期のところで真の三昧に打入しなければ、ぶち切ることはできませ
ん。本当の三昧に打入することによって、いわゆる桶底を抜いてしまわなければならない
のであります。そうするとスパッと最後の一結が脱落するというものであります。 この
真の三昧に打入し、通底を抜いて終うことによって、悟了同未悟の境涯にいたるのであり
ます。
ただこの悟了同未悟という表現は、誤解されやすいので注釈しておきますが、ただ元の
木阿弥ではなく、外には見えませんが肚の中では、火裏の蓮が真っ赤に燃えているのです。
一見した外見では判りませんが、
“宛然自ずから沖天の気有り”で、途方もないと思われ
る世界楽土建設の成就を、居ながらにして見定めているのであります。そして、オーラー
の立ち上るが如き火裏の蓮の上昇流に引き寄せられるように、また隠しても漏れる徳の香
りに引かれるようにして、道を求めている人が集まってくるものです。まさに“徳は孤な
らず”になってくるのであり、衆生縁が構築されるのであります。
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真の三昧の境涯をしっかりと手に入れると、それはもう人間形成が完成したというもの
であり、師家分上の境涯であります。逆に200則の公案を何度繰り返し見たといっても、
“真の三昧”に徹底し桶底を抜いた境涯に到らなければ、絶対に法の淵源を極め、正脈の
法を嗣ぐと云うことは出来ないのであります。
そして法の淵源を極め正脈の法を嗣ぐということと、師家の任に就くということの間に
は紙一重の隔たりがあります。師家になるには法の淵源を極めることに更に+αが必要に
なります。それは人間形成の熟成とも云うべき聖胎長養が必要であり、その人の香りに因
るところの衆生縁が必要になります。
そして歴史を振り返って見て判ることですが、師家の任命は極めて難しく容易ではない
のであります。一口に法の淵源を極め正脈の法を嗣いだと云ってもピンからキリまで有る
のです。それは何もしなければ、動かなければ判らないのでありますが、師家として働き
出すとその程度・レベルが顕在化してくるのであります。
師家というものは、どんな心の病の人が来ても、百人百様に本当の救済ができなければ
ならないのであり、その救済に身・命・財を擲つというということが、無縁の慈悲として
自然に出てくるのであります。それは末期集羅の一結を削ぎ落としているのですから、当
然のことであります。
師家となると徳が高くなければ衆生縁は薄くなるし、その人の香りが芳しくならなけれ
ば人は寄ってこないのであります。そして無縁の慈悲の菩提心が熱くなければ、縁無き衆
生を揺さぶってでも救済する働きは出てこないのであります。担当師家として3年、遅く
とも5年の経過における行履が、その徳の高さ、その人の香りの芳しさ、菩提心の熱さを
証明するのであります。
真の聖胎長養には、深い三昧がその芯になければなりません。徳が高くなり、人の香り
が芳しくなり、菩提心が熱くなるのも全て深い三昧があって初めて醸し出されるのであり
ます。この“真の三昧”の境地から、世界楽土に向けての尽きることのない勇気と慈悲と
徳の香りが湧き昇ってくるのであります。
5. 結語
「禅の修行の道程と三昧の深まり」ということでの提唱はこれで終わりますが、人間は
「自分の自然の息を専一に数える」ことが、如何に難しいかということを臍に徹して識っ
て、初めて人間足り得るのであります。
人間とは実に面白いものであり、人間が生きているということは汲めども尽きぬ味わい
があります。何処まで行っても更に高さも深さも尽きぬものであります。
一人でも多くの方が、この面白さをとことん追求し、しっかりつかんでいただきたいと
衷心より祈念するものであります。
合掌
第 239 回鎮西支部摂心会提唱
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於ける鎮西道場 H20.6.07
補遺
Ⅰ.道元禅師の修証一如の三昧
我々の禅宗の系譜は臨済禅であり、正脈の師家から公案を頂いて、公案三昧になって参
禅弁道するのが修行の基本となっています。同じ禅宗の曹洞禅は、公案を用いないで只管
打坐であり、そして道元禅師は修証一如を標榜されておられます。
浅学を顧みず申し上げますと、道元禅師は、先程申し上げた“究極の真の三昧”の境地・
境涯を“修証一如”と申されていると確信しております。公案禅と修証一如は、一見矛盾
するように見えますが、公案禅を本当に透過し、悟了同未悟の境涯まで到ると、まさに修
証一如になり、それ以上何も要らないし何もないのであります。そしてその場が“真の三
昧”なのであります。逆に見ますと“真の三昧”に達し、
“修証一如“に本当に徹底すれば、
200則の公案は自ずと全て掌を見るように見通せるはずであり、公案を用いた参禅など
不要であるということになります。
臨済宗、曹洞宗の根源は同じであり、老子も孔子もソクラテスもキリストもムハンマド
も全て同じ“真の三昧”にその宗教的根源を同じくしていると確信しております。
Ⅱ.『数息観のすすめ』(立田英山著)に見られる数息観の奥義
1. 「この小冊子を江湖有縁の諸大徳に頒布し、両忘庵宗活老師に回向し奉ります。 先
師百ケ日忌にあたって 嗣法居士英山 合掌」開きの添え書き
これは耕雲庵老大師の全てを吐露していると云うことを物語っており、決して新
到者の入門の書くらいに軽く考えるととんでも無いと云うことであります。まさに、
『数息観のすすめ』は伝法の書であるという由縁であります。
2. 「数息観は坐禅の最も初歩であるが、また最も終極である」楞伽窟宗演老師
「坐禅の終極である」ということはどういうことであるのか?喧しいところであ
ります。すなわち、「終極の数息観とは?末期の句の更に奥である!」
3. 「後期の数息観を経験して初めて数息観が判るというものである。」
初期の数息観として「1から100まで呼吸を数える」という段階が設けられて
いますが、本当に三昧力を付けるためには、中期といわれている「1から10まで
の呼吸を厳密に数える」という数息観をしっかり修し骨折る必要があります。新到、
旧参を問わず、中期以降の数息観で骨折るべしであります。
本文中にも、後
期の数息観「短くとも太く。」
「熱心の度に関係する。」とあります。これを正直に実
践することが肝要であります。
4. 「よくぞ人間に生まれたものである。」「人生の本当の意義を味わいうる。」「念々正
念・歩々如是」と本文にあります。耕雲庵老大師が、われ汝に隠すこと無しと白状
されているのであります。
初稿
改訂
平成19年度冬期学生修禅会法話 於四国道場 H19.2.24
第76回東海摂心会法話
於洞戸坐禅道場 H20.3.20
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