第 30 講

第 30 講
お わ り に
1
過去二世紀の間に哲学史は実存主義哲学の勃興とその全盛の時代を通り過ぎてきましたが、実存主
義(Existenzialismus)とは一体何だったのでしょうか。実存主義の哲学が主観性の哲学であること
は論を俟ちませんが、とりわけそれは個々の主観性が自覚的となり、自らを取り戻そうとした思想上
の運動であったと言うことができるでありましょう。
「主体性が真理である」
(キルケゴール『非学問
的あとがき』
)
というキルケゴールのテーゼに実存主義哲学が自覚的となった個々の主観性の自己主張
の哲学であったことが端的に表現されています。ところで、自覚的となった主観性がまず果たさねば
ならないことは自己の取り戻しでした。したがって実存主義哲学はまずキリスト教とのせめぎ合いの
中で自らを確認しなければなりませんでした。このことは実存主義哲学の創始者キルケゴールにおい
て顕著であるし、またキリスト教との対決を自らの運命として引き受けたニーチェにおいて顕著であ
ります。ヘブライズムの神は、第20講でも指摘しましたが、巨大な主観性であり、この主観性は己
が原理を先鋭化せずにいないと共に己以外のすべての主観性を奪い去らずにいない性格を有している
のであります。主観性は自らを直ちに認可することができない原理であるだけに、個々の主観性はま
ずは神という名の巨大な主観性に自らを委ねざるをえなかったのでありましょう。主観性は何よりも
自己的原理であるにもかかわらず、その自己をまずは他の主観性(他の自己)に委ねざるをえないと
いう逆説がキリスト教の真髄であり、キリスト教に命を吹き込みつづけている原理なのであります。
キルケゴールが「逆説」
(パラドックス)こそキリスト教であることを見て取ったゆえんであります。
彼のテーゼは「逆説と跳躍」であります。そしてイエスこそが、キルケゴールにとっては、まさにこ
の「逆説」の具体でした。
「逆説」は、それが逆説でありつづける限り、巨大なエネルギーを発生させ
つづけます。ここに中世キリスト教の哲学が1000年以上の歴史を刻みえた秘密があるのでありま
しょう。またキリスト教世界をあのように肥大化させたゆえんがあるのでありましょう。直ちに自己
を認可できない主観性の本性がキリスト教の神を巨大化させ、キリスト教を肥大化させつづけたので
あります。
神の前で自己を否定するキリスト教徒のあの否定性のパトスこそがキリスト教の魂であり、
生命源なのであります。このようにヘブライズムの神は他の主観性からその否定性のエネルギーを吸
い取ることによって巨大化したのであって、この巨大化した主観性が支配した時代が中世でした。中
世諸都市に出現したあれらの壮大な教会建造物を見るとき、主観性の超越的志向性に吸引されつづけ
る心的エネルギーの凄まじさが実感されます。ヨーロッパ中世は主観性の超越的志向性がまさに猛威
を振るった1000年でした。近代の自己意識(自覚)にいたった主観性は何よりもまずこの巨大な
主観性から自己を取り戻さねばならなかったのであります。大変なことであります。神という名の巨
大な主観性から自己を取り戻す戦いこそ実存主義哲学者が自らに引き受けねばならなかったところの
ものであって、どの実存思想家も何らかの形でキリスト教に態度を取らねばならなかったゆえんであ
ります。この戦いがいかに過酷であったか、そのことはいずれの実存思想家の経歴からしても知られ
るところですが、それも当然であって、そこで生起していた事態は主観性と主観性の相克、主観性と
主観性のせめぎ合いであり、そこに妥協の余地はないからであります。主観性はそのベースにおいて
は決して他の主観性を許さない原理なのであります。しかもヘブライズムの神のごとき巨大な主観性
1
を前にしては、それとの戦いは過酷であらずにいませんでした。キルケゴールもニーチェも共に最終
的には精神崩壊にいたっています。主観性は兇的な原理であり、主観性と主観性の戦いは仮借のない
ものにならずにいないのであります。しかし実存主義哲学者のキリスト教との戦いがいかに過酷であ
り、仮借ないものであったにせよ、それでもそれは同一原理内の戦いであり、異なる原理間の戦いで
なかったこともまた事実であって、それは全体として主観性原理の枠内での相克と葛藤でしかなかっ
たと言って過言でないでありましょう。実存主義思想も主観性の哲学であるという点ではキリスト教
と同じ原理の内にあり、その延長線上にあるのであります。したがってキリスト教との対決において
己を主張するだけでは、実存主義哲学が自らの原理の真の本性を知ることはないでありましょう。そ
こでは未だ自らの原理の真の本性と対面することはないでありましょう。自分が何者であるか、真の
自覚にいたることはないでありましょう。根本的な対立、原理的な戦いは主観性以外の原理との間に
こそあるのであり、したがって存在と主観性の対立と葛藤の中で初めて主観性は自らの真の姿に対面
するのであります。サルトルの主体性の哲学がレヴィ・ストロースなどの構造主義哲学の批判によっ
てその本性を炙り出されたのは理由のないことでなかったのであります。主観性の枠内にあって主観
性が自らを真に対象化することはありません。それは未だ同一原理内の葛藤にとどまるからでありま
す。他の原理との対決において初めて主観性は自らをトータルに対象化し、自分が何者であるか、自
己認識にいたるのであります。
それにしても、対決の相手としながらも実存主義の哲学者がおしなべてキリスト教にこだわりつづ
けたのはなぜでありましょうか。それはキリスト教もまた、前述のように、主観性の哲学だからであ
ります。キリスト教は、ニーチェに言わせれば、世俗的プラトニズムであります。プラトニズムは主
観性の哲学の形而上学的表現であります。主観性は主観性にしか関心を示さないことがこの点にも現
れています。敵対し、責め合いながらも、主観性は主観性にこだわりつづけます。実存主義哲学のキ
リスト教との対決は、苛烈であったにしろ、原理間のそれではなかったのであり、その戦いはある意
味で近親の争いであり、愛憎半ばといった性格のものであったと想像されます。結局近代には原理と
原理の戦いはなかったのであります。ハイデガーの哲学を除けば、またヘーゲル哲学の若干の側面を
除けば、近代に存在が原理とされた哲学はなかったからであります。
主観性がまさに他の原理との対立の中でその姿を現したところ、したがって原理的な対決を行った
ところ、それが、意外に思われるかも知れませんが、ギリシアなのであります。ギリシア、それはま
さに、これまで述べたところからも知られるように、存在と主観性の相克と葛藤の修羅場でした。構
造的な自然概念(ピュシス)という存在の上にピュタゴラスと共に主観性原理(アートマン)が到来
したことによって、否応なく両原理の戦いの修羅場になった世界、それがギリシア哲学の世界なので
あります。特に初期ギリシア哲学の世界はそれが最も鮮明な形で現れた世界でした。そこでは主観性
は未だ新奇な原理であり、その登場は鮮烈であらずにいませんでした。確かにこの存在(構造的自然
概念)と主観性(アートマン)の相克は主観性と主観性のそれのような強烈な印象は与えないかも知
れません。と言うのも、存在(構造)は沈黙の原理であり、そのリアクションは虚的だからでありま
す。それでもその否定の威力は巨大なのであり、時にそれは圧倒的な否定性として現れます。そのこ
とはわたしたちがこれまで何度も目撃したところであります。それゆえ、もし実存主義哲学が己が原
理をトータルに対象化し、その本性の真の姿を知りたいと思うなら、二千数百年歴史を遡らねばなり
ません。ソクラテス以前の初期ギリシア哲学の世界にまで戻らねばなりません。初期ギリシアにおい
てこそ実存主義哲学は登場したばかりの己が原理に対面するでありましょう。原理(主観性)と原理
(存在)の戦いを目にするでありましょう。それと言うのも、そこはまだ主観性原理が完全な政治的
2
勝利を収める以前の世界だからであり、そういった段階にあっては主観性はそのあからさまな姿にお
いて立ち現れざるをえないからであります。実存主義哲学がキリスト教との対決内において己が原理
を真に対象化することはありません。そこでは主観性はすでに認可されてしまっています。主観性ど
うしのイニシアティヴを争う抗争がそこでの戦いであり、主観性原理(アートマン)そのものが問題
とされることはありません。主観性そのものが否定される局面において初めて主観性は己が原理の問
題性を理解するのであり、己の赤裸々な姿を見るのであります。到来したばかりの主観性を、虚的で
はあれ、圧倒的な威力でもって否定した世界、それがギリシアなのであります。より厳密に言うなら、
ソクラテス以前の初期ギリシア哲学の世界なのであります。ヘラクレイトスを見ていただきたい。彼
が戦っていた相手は主観性であります。アナクサゴラスもまた主観性原理の台頭の中で排除され、打
ちひしがれて行きました。エンペドクレスは主観性に汚染されることによって自らの人格を分裂させ
てしまいました。ソクラテスは死刑という最も極端な形で排除されねばなりませんでした。彼は主観
性の過激な哲学者だったからであります。プラトンは心底からデモクリトスを憎まざるをえませんで
した。プラトンのデモクリトス憎悪は近親憎悪のそれであります。アリストテレスはプラトンの理念
的哲学を執拗に批判しつづけねばなりませんでした。したがって、繰り返しますが、実存主義哲学が
己自身を知るためには自己の原理が政治的な勝利を収める以前の段階、初期ギリシア哲学の世界を一
度は訪ねねばなりません。そこでこそ主観性は己の真の本性に対面するのであります。そうしてこそ
主観性原理(アートマン)が圧倒的に世界を蔽い尽くしつつある今日、世界に現出しつつある諸問題
の本性もまた認識されるでありましょう。近代世界の自己認識はギリシアと対面することによって初
めて可能になるというのが本講義の基本テーゼであります。
2
本講義によって論者の意図したことは、第1講でも述べましたが、ハイデガーによって存在の故郷
として望郷されたソクラテス以前のギリシア自然哲学の世界をできるだけその本来の姿において蘇え
らせ、ソクラテス、プラトン以降、哲学を広く蔽い、また近代世界を決定的に規定するにいたった主
観性原理(Subjektivität)によって隠蔽された存在の真理を多少なりとも露ならしめることでした。
そして、そのことによって、主観性と存在の抗争がいかなるものであるかを初期ギリシア哲学という
フィールドにおいて見ることでした。そのことは同時に西洋形而上学において戦われてきた問題が何
であるかをあらためて認識することでもあります。本講義を終えるに当たり、初期ギリシアの思索が
ギリシア哲学全体において、さらには哲学の歴史一般において、どのような意味を持っていたか、論
者の考えるところを再度要約的に述べておきたいと思います。
本講義を進める中で、初期ギリシアの思索は単にギリシア哲学史の中の一時代の思索といったもの
に尽きるものではなく、むしろ西洋哲学史の全体を貫通する問題と深く係わるものであること、さら
には今日の後期近代世界においてまさに進行している現象の問題性を鮮明に浮かび上がらせるもので
あることが論者にますます鮮明になってきたのであります。ハイデガーは、プラトンと共に「主観性
の形而上学」
(die Metaphysik der Subjektivität)が立ち現れ、存在を隠蔽してしまったと断じまし
た。そしてキリスト教とラテン人の文化によってこのことは決定的となり、それ以降哲学は故郷を喪
失した状態にあり、西洋形而上学は存在に対して身を閉ざしてきたと言います。そうであるなら、あ
の二千数百年に及ぶ西洋形而上学の歴史はひたすら存在を覆い隠してきた歴史でしかなかったことに
なるではありませんか。言い換えれば、ひたすら存在の真理を隠蔽してきた歴史でしかなかったこと
3
になります。そして、存在の真理がかろうじて露になっていたのはソクラテス、プラトン以前の初期
ギリシアにおいてでしかなかったとするなら、
初期ギリシアの自然哲学者たちの思索は、
ソクラテス、
プラトン以降2000年以上にわたって推進されてきた西洋形而上学に相対峙し、その隠蔽性とイデ
オロギー性を問う性格を持った思索であったことになります。否、むしろ存在の露呈という観点から
見れば、2000年の西洋形而上学を凌駕するような思索であったことになります。この哲学史理解
から見れば、初期ギリシアの存在の思索の立場に立ち戻って初めてわたしたちは、近代世界の原理が
何であるか、またそれはいかなる本性のものであるか、鮮明に認識するのであります。そして初期ギ
リシアにおいてはまだ立ち現れていた「存在」
(Seyn)がなぜ近代世界から立ち去ってしまったのか、
なぜ世界は「存在」
(Seyn)に見捨てられねばならなかったのか、その理由もまた朧げなりとも感得
されるのではないでしょうか。ハイデガーは後期近代世界を「存在」
(Seyn)に見捨てられた闇の世
界と見立てています(ハイデガー『哲学への寄与』参照)
。
近代世界はまさに主観性原理(Subjektivität)によって決定的に規定された世界であります。主観
性(アートマン)に完全に蔽い尽された世界であります。その結果現出した世界がゲステル(Gestell)
であり、この世界においては一切が用立ての機構の中に投げ入れられます。ここでは、人間も含めて、
すべてが Bestand(用材、在庫)であります。この機構においては、機構内における意味、すなわち
用立ての相互関係、効用、有用性が唯一の意味なのであります。ここではユーティリィティ(有用性)
が全能の神であります。そして「効率」がその婢であります。アメリカのプラグマティズムないしネオ・
プラグマティズムが彼らの「哲学」なのであります。ところで、この世界の問題性は、それが存在か
ら遊離し、存在から切れたところに構築された世界とならざるをえないということであり、故郷喪失
の世界とならずにいないという点にあります。主観性は存在に対して身を閉ざす原理であり、それが
現出させる世界は必然的に存在から切れたものにならざるをえないのであります。否、主観性は単に
存在に対して身を閉ざすだけではありません。むしろそれを積極的に隠蔽します。それが、ハイデガ
ーの理解によれば、西洋形而上学であり、プラトン以来2000年以上にわたって西洋形而上学が推
進してきたことなのであります。結果は荒廃の広汎な進行であり、ニヒリズムの世界的規模での浸透
であります。存在から切れたところ、そこは荒廃の支配するところとならざるをえないからであり、
存在が失われたところ、そこにあるのはニヒル以外のものでないからであります。近代世界のこの実
相をハイデガーは Seinsverlassenheit(
「存在の立ち去り」
、
「存在の見捨て」
、
「存在に見捨てられた有
様(渡邊二郎氏訳)
」
)と名指していますが、ゲステルとして現出した近代世界はまさに存在に見捨て
られた世界であり、ニーチェが語った「ヨーロッパのニヒリズム」
(
『権力への意志』第 1 書)の最終
形態なのであります。故郷喪失が世界の運命となったのであります(ハイデガー『ヒューマニズムに
ついて』全集、第 9 巻、339 頁)
。西洋は今や「夕べの国」
(Abendland)であるどころか、存在の立
ち去った「闇の世界」となってしまいました。しかしこのことは特殊ヨーロッパの問題ではなく、今
日では地球規模での実相であります。世界は今日「ハイデガー対世界」
(Heideggeus contra Mundum)
の様相をますます強めています。アメリカ発のグローバリズムの進行の過程で世界のいたるところで
露 呈 し て い る 崩 壊 的 な 諸 現 象 は ま さ に こ の 「 故 郷 喪 失 」( Heimatlosigkeit )、「 存 在 棄 却 」
(Seinsverlassenheit)の現象諸形態以外の何ものでもありません。グローバリゼイションは市場主
義の徹底化の推進という形で現れていますが(TPP もそのひとつです)
、市場主義は主観性の論理の
ラディカルな一表現であり、グローバル・スタンダードとは主観性の基準原理を地球的規模で語った
ものに他なりません。そしてその政治的、社会的論理がデモクラシーであります。したがってグロー
バリゼイションはデモクラシーの地球的規模での押しつけとしても作動します。この作動が今日世界
4
のいたるところを戦場と化しました。また市場主義は一切の価値を等価交換の交換価値に集約せずに
いませんが、交換価値は価値の数学化であり、このような等価交換の価値体系は、数学が存在から遊
離した抽象的学知であらざるをえないように、存在に基づく諸価値から遊離した故郷喪失的価値体系
とならずにいません(貨幣を媒介にした等価交換の近代的価値体系の問題についてはバタイユないし
はボードリヤールの議論を思い出していただきたいと思います)
。
また主観性は本来類的存在である人
間を個に解体し、個として立ち上がらせ、そのことによって人間をバラバラにします。むしろ類に反
抗させます。それを彼らは「人権」と称します。主観性という推進原理によって駆動されたグローバ
リゼイションはまさにこのような交換的、数学的価値体系の世界浸透、人間の徹底的個別化の推進に
他ならず、その浸透の途次、それは存在に根づくエートスのことごとくを破壊し、駆逐せずにいませ
んでした。主観性原理(Subjektivität)とそれを駆動力とするグローバリゼイションはまさに存在を
破壊する原理であり、破壊の推進なのであります。これが類的人間の個別化(これは人間本質からの
人間の切り離しを意味します)
、その結果としての人間相互の不信、人心の荒廃、家制度の破壊、核家
族化、ケアの社会学、すなわち高齢者介護の外部化、通り魔殺人を含むほとんど理由のない殺人の日
常化、地域社会の崩壊、農村社会の限界集落への凋落など、今日のわたしたちがまさに目にしている
世界の諸相であります。さらに巨視的に見るなら、情報工学に基づく金融市場の過度の肥大化による
国家財政の事実上の破綻、産業エネルギーの肥大化した需要による原子力行政とその破綻、過度の工
業化による環境破壊とその結果としての森の破壊、それによる自然災害の悪魔的巨大化など、すべて
は肥大化し先鋭化した主観性が生じさせたものであり、主観性原理の必然的結果であります。わたし
たちは主観性原理(Subjektivität)の深刻さを認識しなければなりません。ひたすら存在を駆逐する
このような主観性の世界になおどのような救いがあると言うのでしょうか。人間が狂いだすのは当然
であります。人間は、いかにその主観性を原理として誇ろうとも、ファンダメンタルにおいては依然
として自然存在であり、自然をカットした数学的空間の中で正常に生きつづけられるわけがありませ
ん。存在が脱去した空間の中で変調をきたさずに生きられるわけがありません。世界はますます危険
化していると言わねばなりません。
「危険のあるところ救いもまたいや増す」
(パトモス)というヘル
ダーリンの予感に満ちた詩句がその通り近代世界に対する救済の予言であることが今日ほど期待され
る時代はかつてなかったと言って過言でありません。救済の原理が今ほど期待される時代はかつてな
かったと言って過言でないのであります。哲学はまさにこの課題に答えねばならず、存在の回復によ
る救済の原理なり論理を見出すことが哲学に課されています。敢えて言いますが、哲学は人類を見捨
ててはなりません。哲学が見捨てれば、人類はおしまいです。
そしてまさに主観性の形而上学が現出させたこのような故郷喪失の近代世界に唯一対峙する世界
が初期ギリシアの自然哲学の世界だったのであります。ハイデガーが初期ギリシア哲学の世界を「存
在の故郷」
(Hemat des Seins)として望郷したゆえんであります。論者の哲学史理解もハイデガーの
それと基本的に同じですが、ただ初期ギリシアの自然哲学の世界をハイデガーのように「存在の故郷」
としてイデュリシュ(牧歌的)に眺めるだけでは、初期ギリシアの自然哲学の世界を正しく提示した
ことにも、正当に扱ったことにもならないという点は特に指摘しておかねばなりません。論者の見る
ところ、初期ギリシアの自然哲学の世界もまた戦いの世界、修羅の現場なのであります。初期ギリシ
アの哲学を多少でも展望した人には、初期ギリシアの自然哲学者もまた戦っていたということ、彼ら
もまた相克と葛藤の修羅の世界にあったということが容易に見て取れるでありましょう。彼らもまた
激しく戦っていました。しかもその戦いはしばしば生死を賭すようなものですらありました。しから
ば彼らは一体何と戦っていたのか。彼らの戦いは何だったのか。論者の見方によれば、初期ギリシア
5
の哲学者たちが戦っていたストライト、彼らが巻き込まれていた戦いは構造的な自然概念(ピュシス)
と出現したばかりの主観性原理(アートマン)との間のストライトであり、初期ギリシア哲学の世界
はまさに存在と主観性の相克と葛藤の修羅場なのであります。実は、既述のように、ピュタゴラスと
共に主観性(アートマン)はギリシアに出現したのであって、ギリシア哲学は直ちにそれとの激しい
戦いに巻き込まれています。むしろ主観性原理との厳しい相克と葛藤の関係こそピュタゴラス以降の
ギリシア哲学の全体的性格を決定した決定的ファクターであったと言って過言でないのであります。
初期ギリシア哲学の世界もまた戦いの修羅場なのであります。生死を賭した戦いの現場であったとす
ら言えます。営々として築いた自らの文化やポリスを犠牲にしてでもピュタゴラス主義を排除しなけ
ればならなかったイタリアにおけるギリシア人の想いといったものを思い浮かべていただきたいと思
います。ヘラクレイトスの怒りと壮絶な最期を見ていただきたい。ヘロドトスの嫌悪を感じ取ってい
ただきたい。エンペドクレスの葛藤と人格分裂を見ていただきたい。アナクサゴラスに対するソクラ
テスの呪詛を見ていただきたい。ソピストたちに対するソクラテス、プラトンの口汚い罵りを見られ
たい。またデモクリトスに対するプラトンの憎しみを見ていただきたい。プラトンのイデア論思想に
対するアリストテレスの執拗な攻撃を見ていただきたい。彼らは皆それぞれ戦っていました。しかも
激しく戦っていました。彼らの戦いは抜き差しならないものでした。なぜか。彼らの戦いの根底にあ
ったものは存在(構造的自然概念)と主観性原理の調停不能な差異意識だったからであり、歴史の根
底にそれら両原理の対立意識を置いて初めてあれらの現象を真に理解することも可能となるのであり
ます。そして、彼らが戦っていたストライトは初期ギリシアにのみ特有のものではなく、その同じス
トライトが現在もなお戦われていることが鮮明となるでありましょう。わたしたちは相変わらずヘラ
クレイトスが戦ったのと同じストライトに巻き込まれ、戦っています。ヘラクレイトスと同じ怒りを
共有しています。またヘロドトスと同じ嫌悪を心中に抱いています。エンペドクレスと同じ人格分裂
の危機に瀕しています。アナクサゴラスと同じように打ちひしがれています。これらの事実を露なら
しめることこそ、本講義において論者が密かに意図していたことであります。
それにしても、なぜ初期ギリシア哲学の世界は失われてしまったのでしょうか。散逸する断片をす
べて拾い集めて再構成しても、復元できる初期ギリシア哲学の世界はせいぜいディールスによって収
拾された3巻の『断片集』
(H.Diels/W.Kranz; Die Fragmente der Vorsokratiker,3vol.)によって示
唆されている程度か、それをわずかに上回る程度のことでしかないでありましょう。初期ギリシアの
自然哲学の世界はいわば「失われた世界」なのであります。しかしこの喪失は決して偶然の結果では
なく、その下には密かな意志の作動があったと言えば邪推と言われるでしょうか。しかしその後の哲
学の歴史が「主観性の哲学」のそれであることを想うとき、またその隠蔽がどこまでも一貫している
ことを想うとき、この推測はほとんど確信に変わります。初期ギリシアの自然哲学の世界は隠蔽され
たのであります。ある密かな意志が作動し、封印され、捨てられたのであります。論者がこの世界を
何としても復元したいと思うのはこのゆえであります。存在の真理が多少なりとも露になっていた世
界がかつてあったとするなら、そのような世界を埋もれたままにしておいてよいはずがないではあり
ませんか。
その世界の発掘はそのままそれを隠蔽した原理の性格を露ならしめずにいないはずであり、
またそういった原理のもとに出現した近代世界のイデオロギー性を露ならしめずにいないでありまし
ょう。そのためのささやかな努力、それが本講義であります。そういった意味では本講義もまたイデ
オロギーの告知であります。このことは率直に認めねばなりません。しかし本講義のイデオロギーは
ヘラクレイトスやアナクサゴラスなどといった初期ギリシアの自然哲学者のそれであり、わたしは彼
らの無念の想いといったものを歴史の下に埋もれたままにしておくことがどうしてもできませんでし
6
た。彼らの哲学と言うよりは、彼らの想いを白日のもとにもたらすこと、それが本講義が密かに意図
していたことであります。彼らの想いを発掘することによって彼らの声が多少なりとも近代世界に届
くようなことがあるなら、本講義の意図は実現されたことになり、論者の苛立ちもまた鎮まります。
真理は天上からくるのではありません。真理は地の下から露になってくるのであります。この真理の
立ち現れに助力するささやかな努力、それが本講義であります。
3
最後にギリシア哲学を再度要約的に回顧し、本講義の「結び」としたいと思います。
わたしたちがまず問わねばならなかったことはギリシアの基層文化は何かということであります。
構造的な自然概念(ピュシス)にこそギリシア人の深層意識はあり、それがいわばギリシアの基層文
化とでも言うべきものを形成していたとわたしは考えます。それがギリシア人にとっての本来の存在
でした。その基層文化、存在の上に前6世紀の初め頃、ミレトスの哲学者タレスによって幾何学、代
数、天文学といった先進知識がエジプト、フェニキア、カルダイア(バビロニア)などといった東方
オリエントの諸地域からギリシアに移植され、それらの知をベースに「哲学」が形成されたのであり
ます。タレスによってギリシアに移植された諸知識はいわばギリシアの基層文化という「地」の上に
描かれた「図」のごときものでした。哲学はギリシアにおいても本来は外国産の知識に基づく知であ
り(ギリシア哲学外国起源説)
、この新しい「知」は当然ギリシアの基層文化、ギリシア本来の伝統意
識との間に何がしか軋轢を生じずにいなかったことでありましょう。しかしその軋轢は、少なくとも
タレスの時代には、決定的なものとはならず、この外国産の知は比較的スムーズにギリシアの伝統意
識と融合し合ったと考えられます。わたしたちが現存する断片資料から確認する限り、幾何学、天文
学、代数などといった先進的知識をギリシア人たちは周辺のオリエント諸世界から素直に学び取った
ようであります。そのあたりの状況をオックスフォードのギリシア古典学者、E.ハッセイは「この
時期はバルバロイが先生で、ギリシア人は一般に覚えの早い生徒であった」と表現しています(
『プレ
ソクラティクス』法政大学出版局、2010 年、3 頁)
。そしてそれらの知識をベースにして生み出され
た知がイオニアの自然哲学であり、わたしたちはアナクシマンドロス、アナクシメネスの哲学にタレ
スによって移植された新興の知とギリシア伝来の自然概念の見事な融合を見出すのであります。断片
資料からわたしたちの知る限り、イオニアの自然哲学は初期ギリシア世界においてほぼ完全にギリシ
ア人のものとなり、ギリシア文化のひとつになっています。前5世紀の前半にクラゾメナイの自然哲
学者アナクサゴラスがアテナイに現れたとき、彼はギリシアの伝統を体現する哲学者として立ち現れ
ました。少なくとも哲学者アナクサゴラスは当時のアテナイ人にそのような存在として受け止められ
ています。時のアテナイの指導者ペリクレスによる重用、悲劇作家エウリピデスのアナクサゴラスへ
の尋常ならざる傾倒などがそのことを雄弁に証言しています。しかし基層文化と新興の知(哲学)と
の間に葛藤がまったくなかったわけではなく、例えばヘロドトスによる「タレス、フェニキア人説」
(タレス、非ギリシア人説)の主張の執拗さなどにその片鱗を見ることができます。ヘロドトスはギ
リシアの伝統に深く帰依した歴史家であり、新興の知に対するその根深い反撥意識によって彼は、歴
史的事実の証言者である以上に、歴史の深層事実の証言者となっています。当時の世界のほぼすべて
を遍歴・見聞したギリシア一級の国際人とも言うべきヘロドトスは意外にもその心底においては偏狭
とも言うべきナショナリストなのであります。
ギリシアに真の葛藤をもたらしたのはピュタゴラスによる主観性原理のギリシア世界への導入でし
7
た。東西のいずれからであるかは必ずしも定かでありませんが、
「魂転生説」
(σῶμα-σῆμα-theory)の
ギリシア世界への導入と共に主観性(アートマン)が前6世紀の後半にギリシアに出現したのであっ
て、そのことによってギリシア哲学は構造的な自然概念(ピュシス)と主観性原理(アートマン)の
相克と葛藤の修羅場と化しました。主観性(アートマン)と存在(ブラフマン)のギリシアにおける
対立と葛藤の最初の顕在化をわたしたちはピュタゴラス以降の初期ギリシア哲学において見るのであ
ります。その相克と葛藤がどのようなものであったか、またその深度はどうであったか、このことを
問うことが本講義の最も主要な課題でありました。主観性と存在の対立・葛藤こそギリシア哲学全体
の基本的性格ですが、この葛藤がやがて西洋2500年の形而上学の基本的対立となったことを考え
るとき、ピュタゴラスによる主観性原理のギリシア世界への導入がいかに決定的な「事件」であった
かが知られます。
「存在と主観性の抗争」
、
「ピュシスとイデアの戦い」をプラトンは「存在をめぐる巨
人闘争」
(γιγαντομαχία περὶ τῆς οὐσίας)と呼んでいますが(
『ソピステス』246 A)
、この抗争が根源的
であることをプラトンは見抜いていたのでありましょう。
主観性原理はその当時のギリシア世界に衝撃的な原理として受け止められたようであり、多くの知
識人がそれに魅入られ、その影響を受けましたが、他面それに対する反撥もまた激しいものがありま
した。イアンブリコスは218名(女性を含めれば、235名)のピュタゴラス学徒の名前を挙げて
いますが(イアンブリコス『ピュタゴラス伝』267)
、これは当時の哲学人口としては驚くべき数であ
ります。主観性原理が当時のギリシアの知識人層をいかに魅了したか、この数字が雄弁に物語ってい
ます。それほどにも主観性原理のギリシア世界への登場は鮮烈だったのであります。それだけにそれ
に対する反撥もまた激しいものがありました。クセノパネスのピュタゴラス蔑視、魂転生説へのヘロ
ドトスの根深い嫌悪感、ヘラクレイトスの猛烈なピュタゴラス攻撃などに反撥意識の強さを見ること
ができます。
「ピュタゴラス、嘘つきの元祖」
(ヘラクレイトス断片B81)
。ヘラクレイトスにとって
ピュタゴラスは「嘘つき」以外の何ものでもありませんでした。ヘラクレイトスはピュタゴラスの「知
恵」
(哲学)を「博識、まやかしに過ぎぬ」と一刀のもとに切り捨てています。
ディオゲネス・ラエルティオス(
『ギリシア哲学者列伝』VIII 6)
ところでピュタゴラスは一冊も著作を残さなかったと言っている人たちもいるが、それは
冗談である。少なくとも自然学者のヘラクレイトスはほとんど叫ばんばかりに次のように言
っている。「ムネサルコスの子ピュタゴラスは誰よりも研究に励んだ。そしてこれらの著書
を選び出して自分の知恵としたが、博識、まやかしに過ぎぬ。」
当然それはまたギリシア世界一般の伝統的意識からも猛烈な反撃を受けずにいませんでした。事実
初期ギリシアの世界はこの新参の原理を徹底的に弾圧、否定しました。その決定的な現れがイタリア
におけるピュタゴラス派大迫害であります。ピュタゴラス派に対する迫害はギリシア伝統社会の反動
と言うことができると思いますが、そういった反動がむしろギリシアの新興の地、南部イタリアのマ
グナ・グライキアにおいて生起したことが注目されます。新興の地の方がしばしば伝統に対する想い
は深く、反動もまた苛烈にならずにいないのであります。それによってイタリアにおけるピュタゴラ
ス派はほぼ壊滅しましたが、しかしピュタゴラスによってギリシアに植え付けられた主観性因子がギ
リシアから完全に駆逐されるということはなく、それはやがてギリシア中央部に移植され、ソクラテ
ス・プラトン哲学によって継承されるところとなりました。ソクラテス・プラトン哲学によって主観
性(アートマン)がギリシア中央部に鎮座することとなったのであります。そして、こともあろうに、
8
存在(ピュシス)を封じ込める壮麗な形而上学として立ち上がることとなったのであります。これが
ソクラテス・プラトン哲学の歴史的意味であります。これはまさに戦慄すべき出来事であって、主観
性(アートマン)は一旦植え付けられるや、それを根絶することはもはや不可能なのであります。そ
れは人間が一旦自我意識に目覚めるや、もはや無垢な少年時代に戻れないのと同様であります。ここ
に西洋哲学の運命(ゲシック)のいわば発端がありました。さらに言えば、西洋世界、ひいては人類
の運命(ゲシック)の発端がここにあったことがこの後の歴史の展開から知られます。近代世界をあ
まねく支配している原理は主観性(アートマン)であり、それを支える哲学は主観性の志向性の形而
上学的表現である「プラトニズム」なのであります。ソクラテス、プラトンのピュタゴラス主義継承
と共にハイデガーの言う「主観性の形而上学」
(die Metaphysik der Subjektivität)が立ち上がった
のであります。この「主観性の形而上学」こそハイデガーがそれとの対決を生涯の課題とした「西洋
形而上学」そのものであります。主観性原理(Subjektivität)の西洋世界への登場こそ西洋の運命(ゲ
シック)とも言うべき決定的生起であったと言わねばなりません。
もしピュタゴラス主義がヨセフスの言うようにユダヤ起源であったとするなら(
『アピオン論駁』I
163)
、ピュタゴラスによってヘブライ的因子がヘレニズム(ギリシア哲学)の中に植えつけられたこ
とになります。そしてそれが前5世紀の後半にギリシア中央部に到着してソクラテス・プラトンの理
念的哲学として立ち上がり(ハイデガーの言う「主観性の形而上学」の立ち上がり)
、そしてやがてキ
リスト教という姿を取って西洋精神史に遅れて登場してきたヘブライズムの本体とそれが再合流し、
そのようにして成立した「西洋形而上学」
(die abendländische Metaphysik)が西洋世界全体を席巻
するにいたったとするなら、ここにわたしたちはヘブライズムを基幹とするヨーロッパ精神史の大き
な構図を描くことが可能となるでありましょう。まさにニーチェが戦い、かつハイデガーが対決した
のはこのヘブライズムの血脈に対してでした。
プラトニズムは主観性原理の最も華麗な形而上学的表現と言うことができると思いますが、プラト
ンによって生み出された形而上学的、理念的世界が新プラトン哲学という触媒を経てキリスト教イデ
オロギーと合体することによって、あの西洋2000年の形而上学の伝統を作り出すこととなったの
であります。その宗教的表現がキリスト教であります。キリスト教は宗教的形態を取った主観性の形
而上学そのものであり、
「神のキリスト教化」
(ハイデガー)を策動した原理こそ主観性であります。
超越は主観性の志向性に基づいて初めて開かれる霊的領野であり、超越的一神教の背後にある原理も
また主観性なのであります。そしてその帰結が中世世界であり、あるいは近世、近代世界なのであり
ます。そしてその現象形態がゲステル(Gestell)であります。今日の後期近代世界が巨大なゲステル
の機構として立ち上がっているのは何ら怪しむに当たらないのであります。世界の現出の根底には必
ずそれをそのようなものとして現出させている原理の存在があります。原理こそ一切の現象の根拠で
あります。原理は必ず作動します。言い換えれば、歴史を作ります。そういった原理の動向の探究こ
そ哲学であります。わたしはローティに抗してあくまでもこう主張します(ローティ『哲学と自然の
鏡』参照)
。プラトンから近代までの世界を支配した原理は主観性(アートマン)であり、中世世界と
近代世界の間には、大方の歴史家の予想には反するかも知れませんが、原理的な違いはないのであり
ます。近代世界は中世世界と同じ原理の上に立っています。わたしたちが生きる近代世界は偶然の産
物ではなく、ある原理の歴史的結果なのであります。そうでなければ、近代世界を貫く方向性がこれ
ほど一貫した現れ方をすることはなかったでありましょう。近代の原理、それは、何度も申し上げま
すが、主観性(アートマン)であり、近代世界は主観性原理(Subjektivität)が作り出した世界なの
であります。別言すれば、アートマンが作り出した世界なのであります。西洋精神史において主観性
9
の哲学の血脈が脈々として維持されつづけてきたのであり、これを肯定的に評価するにせよ、否定的
に対処するにせよ、わたしたちはその動向をしっかりと見定めねばなりません。わたしたちが今現在
生きるこの世界を理解するためにこそ見定めねばならないのであります。古代ギリシアで起った出来
事は今日のわたしたちにとっても無関係でないのであります。
他方イオニアの自然哲学の精神はアリストテレスとペリパトス派に継承されました。アリストテレ
ス自身はプラトンの学園で学んだプラトン学徒でもあり、アンビバレンツな両面を見せていますが、
しかしその精神はほぼ完全にギリシア自然哲学のそれであり、そのことはプラトン哲学に対する彼の
根深い反撥意識から窺われます。彼のプラトン哲学に対する反感はギリシアの伝統的な深層意識に基
づくものであって、恐らくアリストテレス自身にもその理由がよく分らないものであったろうと想像
されますが、いずれにしてもアリストテレスはプラトニズムに対する根深い否定のパトスによって突
き動かされた哲学者でした。彼は『形而上学』において23ヶ条にわたってイデア論批判を執拗に展
開していますが、彼のイデア論批判の根源的動因は彼が多用した「論理」
(例えば「第三人間論」
)か
ら出たようなものでは決してありません。それは集合的無意識とも言うべき自然概念(ピュシス)に
発する否定性に依っていたのであって、アリストテレスとプラトンの確執は「存在と主観性」という
西洋二大原理の確執の一表現とも言うべきものだったのであります。この点を見落としたのではプラ
トンとアリストテレスの真の関係性は理解されないでありましょう。アリストテレス哲学をプラトン
哲学の後継に位置づけ、そこにプラトン哲学の発展ないし変容形しか見ないこれまでの哲学史観はあ
らためられねばなりません。この両哲学者の対立の根はもっと深いところにあるのであって、
「主観性
と存在」という西洋形而上学に通底する深層原理の対立の一現象形態なのであります。わたしたちは
それら両原理の根源層における動向を読み解かねばなりません。そうでなければ、2500年の西洋
形而上学の真の意味は理解されないでありましょう。
アリストテレス以降のヘレニズムの時代になると、ギリシア世界そのものの東方オリエント地域へ
の拡大とそれに伴って起こったオリエントの諸思想との混淆・融合によって状況はさらに一層複雑な
ものになりますが、
「存在と主観性」という上述の二大原理の葛藤がギリシア・ローマの精神世界を根
底において規定しつづけていたという事実に変わりはありません。ただローマ人たちは、軍事、政治、
法律、建設などの面におけるその歴史的大事業にもかかわらず、精神面において深さを欠く民族であ
ったために、この二大原理の葛藤がローマにおいて明確な哲学の形を取って表面に浮かび出るという
ことはほとんどありませんでした。国家的規模において遂行されたキリスト教徒に対する弾圧にこの
両原理の葛藤のひとつの現象形態を見ることも可能ですが、しかしそれが具体的な「哲学」を形成す
るということはありませんでした。真の哲学と言えるものがローマにおいて生まれなかったゆえんで
あります。キケロは博学な学者ではありましたが、彼を「哲学者」と呼ぶかどうかは常に哲学史家た
ちの悩みでありつづけました。ローマ時代にいたっても哲学は依然としてギリシア人の営みでありつ
づけていたのであります(第24講、第25講、第26講参照)
。ローマ期から哲学が長期の休眠状態
に入ったという認識でヘーゲルとハイデガーの認識は共通しています。
かくしてギリシア哲学はイタリアのピュタゴラス主義の系譜とイオニアの自然哲学の系譜という二
大系譜の対立と葛藤の中で展開されてきたと言って過言でないでありましょう。これを地理的に言う
なら、イオニアと南部イタリアという東西のギリシア周辺地域から発した二大潮流がギリシア中央部
アテナイにおいて邂逅し、あざなえる縄のごとく絡まり合ったということであります。ギリシア哲学
を「イタリアの系譜」と「イオニアの系譜」に分けたディオゲネス・ラエルティオスの哲学史観は間
違っていなかったのであります(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』I 13 参照)
。
10
むしろギリシア精神史の本質を正確に捉えた見方であったと言うことができます。わたしたち近代人
とは異なり、ディオゲネス・ラエルティオスの時代(恐らく 3 世紀)にはまだ両系譜が血筋の違いと
して鮮明に感じ取られていたのでありましょう。前者は主観性の哲学の系譜であり、ピュタゴラス、
ピュタゴラス学徒たち、ピロラオス、アルキュタス、ソクラテス、プラトン、それに新プラトン哲学
がこの系譜に属します。後者は構造的な自然概念(ピュシス)の系譜であり、タレスに始まり、前掲
のアナクシマンドロス、アナクシメネスに受け継がれ、クセノパネス、ヘラクレイトス、パルメニデ
ス、ゼノン、エンペドクレス、アナクサゴラス、レウキッポス、デモクリトスなどに基本的に継承さ
れてきた系譜であります。前述のごとく、アリストテレスならびにペリパトス学徒も基本的にこの後
者の系譜に属します。しかしイオニアの自然哲学の系譜上に立つ哲学者たちもその多くがピュタゴラ
ス主義の影響を免れてはおらず、その分彼らの哲学はアンビバレンツな側面を見せています。特にエ
ンペドクレスとデモクリトスをどちらの系譜に位置づけるかは難しい問題であります。彼らの哲学を
ピュタゴラス主義を抜きにして語ることは恐らく不可能でありましょう(第9講、第18講参照)
。
クセノパネスはピュタゴラスとほぼ同時代の哲学者ですが、ピュタゴラス哲学の影響を受けること
はまったくなく、むしろピュタゴラスをバカにしています。クセノパネスの啓蒙的合理主義はピュタ
ゴラス主義に基づくものではなく、彼の「故郷喪失性」
(Heimatlosigkeit)に由来しています。彼は
故郷を喪失した最初の哲学者でした。故郷喪失ということが何を意味するのか、その意味のするとこ
ろのすべての要素が彼の哲学の中には見られます。今日の近代人がほぼすべて故郷喪失者であること
を想うとき(アメリカは故郷喪失者の国です)
、わたしたちがクセノパネスの哲学から学ぶところは多
いのではないでしょうか。いずれにせよ彼は生涯ギリシア各地を遍歴した故郷喪失の漂泊の哲学者で
した。
彼の弟子とも言われるパルメニデスは、生き方においてピュタゴラス主義に強く影響された哲学者
でしたが、その学説が主観性原理に汚染されるということはありませんでした。彼の「一なる存在」
の教説は「非存在」
(τὸ μὴ ἐόν)という概念の自己矛盾性の洞察に依るものであって、主観性原理とは
関係ありません。彼の「存在のテーゼ」は存在を初めて存在論的次元で捉えた洞察であり、彼のテー
ゼは今日の哲学においても一歩も越えられていません。パルメニデスの断片の解釈と翻訳をめぐって
今日世界的規模で議論が戦わされていますが、あの半ば異常とも思える現象はパルメニデスの「存在
のテーゼ」が人類にとって永遠のアポリアであることを今日に証しています。
ピュタゴラス主義の影響が深刻なのはエンペドクレスであって、彼はピュタゴラスの主観性の哲学
に触れた結果、自らの人格を分裂させてしまっています。エンペドクレスは構造的な自然概念(ピュ
シス)と主観性原理(アートマン)に引き裂かれた哲学者でした。彼は「存在と主観性」という西洋
形而上学の二大原理の対立が一個体内において生起した具体的事例なのであります。これほど大きな
戦いの現場になった個人というのは稀有な事例であり、わたしたちは彼の苦闘と破滅の根拠に哲学的
な省察を加えねばなりません。その根拠を彼の性格なり実存的傾向なりに帰してしまうような心理学
的、実存的説明で事足れりとするのは厳に慎まねばなりません。彼の苦闘に比すれば今日いたるとこ
ろで大袈裟に語られている実存的苦悩など何ほどのものでもないのであります。
それと逆のケースはアルキュタスであって、彼はピュタゴラス学徒でありながら、したがって目覚
めた主観性であったはずですが、精神的にはギリシアの伝統社会と完全に一致して生きえた人物でし
た。彼は主人としての確信的ギリシア人であり、彼の家父長的性格が見誤られることはないでありま
しょう。彼は躊躇なく人に命令をくだせるような人物でした。阿諛的態度に終始する今日の政治家諸
氏と比較するとき、彼の高圧性がむしろすがすがしく感じられます。彼は南部イタリア地方一帯では
11
あまねく知られた指導者であり、公私両面にわたって立派な人物でした。否、むしろいささか立派過
ぎた人物であり、恐らくピュタゴラス主義によってその立派さが過激化した哲学者であったと言うこ
とができるのではないでしょうか。この確信的哲学者についても第18講でエンペドクレスと共に論
じました。
またデモクリトスの原子論哲学も、ピュタゴラス哲学の影響がなければ、あのような形を取ること
はなかったでありましょう。原子は、アリストテレスの洞察によれば、
「数」以外の何ものでもないの
であります。
「数」は主観性の超越的志向性の先端に開かれる理念的対象であり、数学もまた主観性の
哲学の一形態なのであります。デモクリトスの「原子」もプラトンの「イデア」も実はピュタゴラス
の主観性の哲学に発する理念的志向性から出てきた兄弟学説のようなものだったのであります。そこ
にプラトンのデモクリトスに対するあの尋常ならざる憎しみの理由を見ることができるでありましょ
う。プラトンのデモクリトス憎悪は恐らく近親憎悪のそれだったのではないかと想像されます。した
がってレウキッポスとデモクリトスを「原子論者」という名のもとに一体のものとして論じるこれま
での哲学史の取り扱いには疑義を持たざるをえません。大方の哲学史の取り扱いに抗して、わたしは
両哲学者間にいわば血筋の違いといったものを認めるものであります(第9講参照)
。
アナクサゴラスにピュタゴラス哲学の影響はまったく見られず、むしろ彼はイオニアの自然哲学の
伝統を最もよく体現した自然哲学者としてアテナイに現れています。
「最も自然哲学者らしい自然哲学
者」
(
『諸学者論駁』Ⅶ 90)とセクストゥス・エンペイリコスも形容するアナクサゴラスこそ真に偉
大な「ギリシアの哲学者」と呼ばれて然るべき存在なのであります。少なくとも彼は当時のアテナイ
人にそのような存在として受け止められています。時のアテナイの指導者ペリクレスをあれほどの存
在に高めたものがアナクサゴラスないしはアナクサゴラス哲学であることは当時のアテナイ人の一致
して認めるところでありました。後にソクラテスがアテナイの哲学の代表者となり、
「ギリシアの哲学
者」そのものとして遇されることになりますが、それは後代から加えられた解釈であり、ここに歴史
の偽造のひとつの典型を見ることができます。ソクラテスは近代の哲学から過大に評価されています
が、
ソクラテスはギリシアにおいては極刑をもって否定されねばならなかった哲学者なのであります。
そのような哲学者をギリシア哲学の代表者に仕立て上げるということの異様さがもし感じ取られない
とするなら、わたしはその人の歴史的感性の健全性に疑いを持たざるをえません。なぜアテナイはソ
クラテスを殺さねばならなかったのか、わたしたちはその理由をもう一度考えてみなければならない
のではないでしょうか。その真の理由はプラトンが挙げているようなものではないのであります。こ
れまでのソクラテス解釈はすべてプラトンによって仕立てられた「戯曲」に基づいており、皮相であ
ります。プラトンはソクラテスを経由してピュタゴラス哲学の遺産を余すことなく受け継いだ哲学者
でした。彼らはほとんど一心同体なのであります。プラトンがソクラテスの死を「脚色」しないわけ
がありません。
このようにギリシア哲学は「存在と主観性」という両原理の対立と競合によって織りなされてきた
のであって、この二大潮流はギリシアにおいては拮抗相半ばしていました。しかしやがてシナイ半島
の砂漠の中からヘブライズムの神という名の巨大な主観性が立ち上がり、キリスト教という姿を取っ
て主観性原理の本体として西洋精神史の舞台に登場してきました。そしてそれがギリシア哲学の一方
の系譜である主観性の哲学(プラトニズム)と結びつくにいたり、主観性の哲学の勝利が決定的とな
ったのであります。その結果が西洋2000年の形而上学であります。そしてその現実的表現が中世
世界であり、あるいは近・現代世界であります。繰り返しますが、中世世界と近代世界の間に原理的
な違いはないのであります。ただ原理の現れ方が異なります。中世世界は、既述のように、神という
12
名の巨大な主観性によって存在から実在性が極端に奪い取られた世界であったのに対し、
近代世界は、
実存主義哲学において顕著であるように、個々の主観性が自己意識(自覚)にいたった結果、神とい
う名の巨大な主観性から自らを取り戻そうと立ち上がり、その中で自らの原理を徹底して行った世界
なのであります。近代は中世と戦うことによって、主観性原理を否定するどころか、逆にそれを先鋭
化し、過激化したのであります。主観性は基本的に自我個体(エゴ)と一体のものとして機能するこ
とが恐らくこの逆説的事態を説明するでありましょう。かくして近代世界は個的主観性の世界として
出現しました。言い換えれば、
「主体性」の世界として立ち現れることとなりました。
「主体性が真理
である」
(
『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』
)というキルケゴールのテーゼはその宣言
であります。しかし、いずれにせよ、主観性原理が両世界の原理であり、両世界を根底から規定して
いたという事実に変わりはありません。そしてその現象形態が今日の世界の実相であるゲステル
(Gestell)であります。ゲステルはある哲学的原理の結果であって、単なる近代のテクノロジーの産
物ではないのであります。むしろヘブライズムの第一命題である Machenschaft(工作性)こそ近代
のテクノロジーの依って立つ根拠であり、
「技術」は Machenschaft の近代的表現なのであります。ヘ
ブライズムの第一命題「世界の無からの創造」
(Creatio ex Nihilo)にハイデガーは Machenschaft
の地球支配の発端を見ています。そしてその Machenschaft の背後にある原理もまた主観性
(Subjektivität)なのであります。したがって「テクノロジー」は、ハイデガーも指摘するように、
単なる文化的、科学的、社会的概念ではありません。すぐれて形而上学的概念なのであります。
大方の見方には反するかも知れませんが、中世世界もまたゲステルの世界なのであります。中世世
界がゲステルであったことは、
例えば論理学への狂奔といった現象にその現れを見ることができます。
その典型がアベラールであります。そもそもスコラ哲学そのものが精神的ゲステルの場面に移された
アリストテレスなのであります。スコラ哲学はアリストテレスの学問体系は継承したかも知れません
が、その精神は完全に抜き取ってしまっているのであり、アリストテレス哲学を採用しつつもその魂
を抜き取った人物こそアルベルトス・マグヌスであり、あるいはトマス・アクィナスなのであります。
トマスは「魂単一説」と「世界の永世の観念」を封印することによってアリストテレス哲学をキリス
ト教の信仰箇条に矛盾しないものにしましたが、それこそまさにアリストテレスの哲学からその魂を
抜き取る作業に他なりません。この両観念においてこそアリストテレス哲学において自然概念(ピュ
シス)がその効果を最もよく発揮していたのであって、それらを抜き取るということはまさにアリス
トテレス哲学から魂を抜き取る作業に他ならないからであります。その魂とも言うべき自然概念(ピ
ュシス)を抜き取られたアリストテレスの哲学が中世のスコラ哲学ですが、スコラ哲学がやがて生気
を失い、干乾びて行ったのは当然のなり行きと言わねばなりません。魂を抜き取られたものは当然生
気を失います。スコラ哲学は「形骸化したアリストテレス」と形容することができると思いますが、
しかしその形骸の奥には実はヘブライズムの強烈な精神(主観性原理)があったのであり、そうであ
るからこそ中世というあの異常な社会が1000年を越えて生きつづきえたのであります。形骸化し
た形式主義の哲学(キリスト教的スコラ哲学)を馬鹿にしてはならないゆえんであります。中世はヘ
ブライズムの強力な原理によって支えられた世界なのであります。あのような逆立ちした異常な世界
が1000年以上も生きながらえたというのはまったくもって驚きであります。その原理の強力さが
伺われます。
近代世界はゲステルの機構として立ち上がりました。したがって近代世界は中世世界の延長線上に
あるのであり、その間に原理的な違いはないのであります。ただ原理の現れ方が異なります。特に後
期近代世界において世界は巨大なゲステルと化しましたが、そのことによって存在はほぼ完全に隠蔽
13
され、封印されました。ゲステルが地球的規模で世界を蔽い尽くしつつあるというのが後期近代世界
の世界状況であります。現代は個的主観性がその原理を極限にまで押し進めた世界であり、その政治
的論理がデモクラシーであります。そしてその推進がグローバリゼイションの意味であります。グロ
ーバリゼイションとは主観性原理の地球規模での浸透に他なりません。世界の一方の原理であるアー
トマンの地球支配が完成しつつある世界、それが後期近代世界であります。「存在の立ち去り」
(Seinsverlassenheit)
、
「故郷喪失」
(Heimatlosigkeit)が世界の運命(ゲシック)となったのであ
ります(ハイデガー『ヒューマニズムについて』参照)
。
しかし主観性原理とその帰結であるゲステルによって存在が完全に鎮圧され、抹殺されたわけでは
ありません。そもそも存在は鎮圧されることの不可能な原理なのであります。存在はただ隠蔽され、
潜在化しただけであります。主観性原理の勝利という状況においても構造的自然概念(ピュシス)の
系譜が完全に消滅してしまったわけではなく、それは意識の底に沈殿し、そこから西洋形而上学を絶
えず脅かしつづけました。たとえ隠蔽され、封印されたとしても、存在は、存在である以上、必ず立
ち現れてきます。事実わたしたちは、西洋形而上学の全歴史において、存在の湧出、根源層からの存
在のリアクションを何度も目にするのであります。中世キリスト教世界をその全期間にわたって脅か
しつづけた異端論争も存在と主観性原理の抗争の一形態ですし、ルネッサンス期における魔術や錬金
術の再勃興もその現れのひとつと言うことができるでありましょう。いずれにせよ、ユングは潜在的
意識のそういった側面に深く通暁する心理学者でした。否、むしろ深層の哲学者でした。そしてこの
両潮流の相克と葛藤は今日もなおつづいており、さまざまな装いを取って近代世界に深い亀裂をもた
らしつづけているのであります。そして近代世界を、地獄とまでは言わないにしても、煉獄たらしめ
ているのであります。わたしたちは相変わらずヘラクレイトスが戦ったのと同じ戦いに巻き込まれ、
戦っています。エンペドクレスにおいて見られたのと同様な人格の分裂に瀕しています。アナクサゴ
ラスと同様、打ちひしがれています。アリストテレスと同様、超越的な数学的世界にある種の不信感
を共有しています。ヒュパティアと同じ迫害の危機に脅かされています。西洋2500年の形而上学
の歴史は主観性と存在の戦いの歴史でしたが、それがまた近代世界を基本的に規定している対立と抗
争でもあるのです。わたしたちはギリシア世界を思索することによって初めて近代世界の根底に動向
する原理の存在に気づくのであります。近代世界が何ものであるか知るのであります。
初期ギリシア哲学の舞台となったギリシアの大地の上に立つとき、不思議な解放感を感じるのはな
ぜでしょうか。恐らくこの解放感はブラジルのボロロ族の中にあってレヴィ・ストロースが味わった
のと同じ性格のものでしょうが、それは地中海気候の陽光のためばかりではないでありましょう。わ
たしたちはそこに立つとき、主観性の眼差しと告発的意識から解放されている自分を見出すのであり
ます。存在は告発しません。むしろすべてを受け容れます。このことを真に実感することができる世
界、主観性から脱して大きく深呼吸することができる世界、それがギリシア本来の思索世界でありま
す。ソクラテス、プラトンによって被せられた主観性のヴェールを剥ぎ取って、本来のギリシアの大
地を露ならしめねばなりません。哲学の原初の姿が立ち現れねばなりません。主観性に代って存在が
立ち現れねばならないのであります。それに向けてのささやかな努力、それが本講義であったとご理
解ください。
同志社大学大学院文学研究科「古代哲学史特講」
(Ⅰ・Ⅱ)講義録
14