Title Author(s) Citation Issue Date 第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人 マイノリティをめぐる政治的・社会的位相( fulltext ) 川手, 圭一 東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. II, 60: 73-83 2009-01-30 URL http://hdl.handle.net/2309/96152 Publisher 東京学芸大学紀要出版委員会 Rights 東京学芸大学紀要 人文社会科学系Ⅱ 60: 73 - 83,2009. 第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人マイノリティを めぐる政治的・社会的位相 川 手 圭 一 人文科学講座歴史学分野* (2008 年 9 月 1 日受理) はじめに ランド間で特異な位置に置かれたために,双方にとって ヴェルサイユ体制に対する不満を体現する存在となった 市場経済のグローバル化が進む現在,それと向き合う ばかりでなく,その民族的構成からヴェルサイユ条約の さいに拠り所となる「地域」の視点,あるいは労働力移 もとで国際問題化したマイノリティ問題の実相を映し出 動などによって生じた他者との「共生」の問題は,歴史 す場ともなった。なお,本稿では同時代ダンツィヒの社 学研究においても近年,重要なテーマとなっている。 会の内実に迫るための十分な史料を用意することができ 第一次世界大戦に敗北したドイツにおいて,ヴェルサ なかったため,先行研究に依拠した形で問題を整理する イユ条約による国境の変更とその公理であった民族の ことにとどめ,本格的な分析作業は他日を期さざるを得 「自決」をめぐって生じた問題は,同時代の条約の修正 ないことをお断りしておく。 要求から第二次世界大戦後の「被追放民」問題に結び つくものまで,国家に回収される多くの議論を生んでき 1 ヴェルサイユ条約と「自由市ダンツィヒ」の成立 た。しかし,近年,そうした従来の議論とは異なり,国 境変更の直接の対象となった地域の側から,そこでの 第一次世界大戦後のダンツィヒをめぐっては,同時代 社会変容,住民のメンタリティ,あるいは民族的マイノ から数多の文献が書かれてきた。たとえば,1920年から リティの問題といった地域社会の問題に取り組む研究が 1939年までに,ドイツの大学ではこれをテーマとした博 散見できるようになってきている 1。筆者自身もこのよう 士論文は,合計で60に及んでいる。しかし,それらの多 な問題意識から,最近若干の考察を進めてきているが 2, くは,単にダンツィヒの政治・社会状況を反映したイデ この問題にさらに分け入るために,かつての西プロイセ オロギー色の濃いものというだけでなく,史料の閲覧や ンからポンメルンにかけての地域を具体的な分析の対象 出版に際して,ダンツィヒ市参事会の圧力を強く受けて にしようと考えている。同地域は,国境の変更による政 いた。こうしたドイツ側の研究動向については,戦後の 治的・社会的変化を直接受けた地域であり,またドイツ 西ドイツにおける初期の研究も含めて, カリシュ(Johannes 人とポーランド人が,さらにユダヤ人,カシューブ人と Kalisch)が批判的に紹介・検討している 3。そこでは, いった民族的少数派も含めて交差して生きる地域であっ ポーランド側の研究も併せて跡づけられているが,残念 た。 ながらそれらは,やや紋切り型の紹介に終わっている。 こうした筆者自身の進める全体のテーマのなかで,本 しかし,このようなかつての研究に対して,ドイツでは 稿では同地域にあり,ヴェルサイユ条約のもとで国際連 最近,青少年の政治的・社会的位置とその社会運動を 盟の保護下におかれた「自由市ダンツィヒ:Danzig(現 切り口として,両大戦間期から第二次世界大戦の終わり グダンスク:Gdańsk) 」の政治構造を,公理となった「自 までのダンツィヒの社会をより掘り下げて分析する研究 決権」との関連の中で整理することを試みたい。言うま が続けて出された。パラスケ(Christoph Pallaske)は, でもなく,ダンツィヒは,戦勝国によってドイツ−ポー ギュンター・グラース(Günther Grass)の『ブリキの太 * 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町 4-1-1) − 73 − 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 60 集(2009) 鼓』でも知られるヒトラー・ユーゲントの運動をダンツィ ならないことは,ここにはポーランド国籍者ないしはポー ヒ社会のなかに位置づけ 4,他方,ギッペルト(Wolfgang ランドを出自とする人々に関しては何一つ述べられてい Gippert)は,ミリュー分析という観点から,ダンツィヒ なかった点にある。この点でダンツィヒ市政府がどのよ の青少年のアイデンティティ形成に迫った 5。とりわけ後 うな政策をとるのかについて,市政府は何ら拘束されて 者は,ダンツィヒのマクロな政治的社会的位相からミク いなかった 7。 ロの生活世界までを複眼的に描こうとした意欲的な研究 ヴェルサイユ条約100 108条は,上記のような具体的 であり,本稿執筆に際しても,教えられる点が多かった。 な問題も含めて,概ね,自由市ダンツィヒの憲法の制定, 「自由市ダンツィヒ」は,1920年11月15日にその正式 国際連盟による保護,ポーランドに対する権利付与を骨 な発足が宣言された。これは,ヴェルサイユ条約と,ダ 子とするものであった。条約は,1920年 1 月10日に発効 ンツィヒ憲法,そしてダンツィヒ・ポーランド条約(パ して,ダンツィヒはドイツから分離することとなったが, リ条約)の三つによって成立したといわれる 6。 「自由市ダンツィヒ」の正式の発足は,憲法制定とダン ツィヒ・ポーランド協定(=パリ協定)の調印を待つこ 1.1 ヴェルサイユ条約 ととなる。 1919年 6 月28日に敗戦国ドイツが連合国側と結んだ ヴェルサイユ条約は,ダンツィヒに関して100 108条で 1.2 憲法調印とダンツィヒ・ポーランド協定の調印 規定していた。そのなかで103条は,ダンツィヒ憲法の 1920年 1 月24日,ドイツの駐屯軍がダンツィヒを離 作成とその国際連盟による保障を,そして104条は,連 れる式典が大掛かりに開催された。それから 1 週間後の 合国がポーランド政府とダンツィヒの間に次のような目 1 月31日には,イギリス占領軍総司令官ハッキング(Sir 的の協定を結ばせるということを明記していた。 Richard Haking)がダンツィヒに着任し,さらに 2 月13 1.自由市ダンツィヒをポーランド関税地域に組み入 日からはイギリス人外交官タワー(Sir Reginald Tower) れ,港の中に自由貿易ゾーンを設定する。 2.水路, が国際連盟暫定高等弁務官としての活動を開始した 8。 ドック,内陸港,陸路,そのほか自由市のなかにあり, 彼は,1920年 3 月 5 日の命令で参事院(Staatsrat)を召 ポーランドの貿易にとって必要な施設の使用を,制限 集したが,これは,1919年 2 月 2 日以来ダンツィヒ市 なしにポーランドに認める。 3.ヴィスワ川,並び 長に選ばれていたサーム(Heinrich Sahm)を議長とし に自由市の境界のなかにあるすべての鉄道網(路面 て,7 人のダンツィヒ上級官吏と 6 人の政党代表者から 電車やその他のまずは自由市に役立つ鉄道を除く)の 構成されることとなった。兼職の副議長に選ばれたの 監督・管理,さらにポーランドとダンツィヒ港の間の は,ドイツ国家国民党の側から推薦されたチーム(Ernst 郵便・電信・電話網の監督・管理をポーランドに認め Ziehm)であった。ちなみに彼は,1930年にサームがダ る。 4.水路,ドック,内陸港,貨物路,鉄道,そ ンツィヒを去って,ベルリン市長に就任したとき,後任 してその他の既に述べた施設,交通手段を拡張・改善 の議長となる 9。 する権利をポーランドに認め,その為に必要な土地と こうしたなかで,最大の焦点となったのが,ダンツィ 財産を適当な条件で借用ないしは購入する権利を認め ヒ憲法の制定とダンツィヒ−ポーランド協定(=パリ協 る。 5.自由市ダンツィヒでは,ポーランド国籍者な 定)の調印であった。1920年 5 月16日,22万人の選挙 らびにポーランド出身やポーランド語を使用する人々 資格者による憲法制定議会選挙が告示された。しかし, が不利となるような扱いを受けないように十分な配慮 6 月 6 日の選挙で投票したのは,わずかに69%にすぎな をする。 6.自由市ダンツィヒの外交上の指導とそ かった。各党の得票率と獲得議席は次の通りである 10。 の国籍者の外国における保護をポーランド政府に委ね ドイツ国家国民党28%(34議席) ,独立社会民主党18% (21議席) ,社会民主党16%(19議席) ,中央党14%(17 る。 次に105条と106条では,ダンツィヒのドイツ国籍者は, 議席) ,自由経済連合10%(12議席) ,ドイツ民主党 8 法律上,これを失い,自由市ダンツィヒ国籍者となるこ %(10議席) ,ポーランド党 6 %(7 議席)である。憲法 と。条約の発効後 2 年間,当該地域の18歳以上のドイツ 制定議会は,その第 1 回会合が 6 月14日に召集された 国籍者は,ドイツ国籍を選択する資格があること。この が,その仕事は,タワーの命令によって,憲法の作成と, 選択権を行使した者は,12 ヶ月以内にドイツに移住する ヴェルサイユ条約104条によって結ばなくてはならない こと。そのさい,ダンツィヒのなかの不動産の保持はそ ポーランドとの条約の準備に限定された。 の裁量に任され,すべての動産を持参することは許され 憲法草案は,17人の委員による委員会によって作成 ることなどが明記されていた。しかし,注意しなければ され,本会議における 3 回の読会を経て,1920年 8 月 − 74 − 川手 : 第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人マイノリティをめぐる政治的・社会的位相 11日の本会議で可決された 11。憲法は,最終的には1922 者保護の費用はポーランドによって担われるべきである 月11日,国際連盟による若干の修正を経て 12,高等 (5 条) 。ダンツィヒが利害をもつ国際条約は,ポーラン 年5 弁務官の宣言で発効した。この憲法は,全体で117条か ドが自由市との事前協議なしに締結することはできない。 ら成り,1 部(国家構造) (Ⅰ.全体 Ⅱ.国民議会 自由市に関わるすべての国際条約に拒否権をもつ(6 条) 。 Ⅲ.参事会 Ⅳ.立法 Ⅴ.行政 Ⅵ.司法 Ⅶ.地方 第 2 章は,ダンツィヒとポーランドの関税同盟に関す 行政)と 2 部(基本的権利と基本的義務) (Ⅰ.個人 るものである。ダンツィヒがポーランドの関税領域に入 Ⅱ.公務員 Ⅲ.宗教と宗教共同体 Ⅳ.教育と学校 り,両者が共通の関税地域を形成する(13条) 。関税業 Ⅴ.経済生活)に分かれ,最後に,116条と117条におい 務は,ダンツィヒの官吏に委託されるが,これはポーラ て,ドイツ国憲法とその法律からの新憲法下での法制度 ンドの監督下におかれ,その業務の確実な遂行のために への移行と,憲法制定国民議会と参事院から国民議会と ポーランド語を理解する十分な人員が配置される (14条) 。 参事会へのそれぞれの移行を述べて結んでいた 13。 第 3 章は,港湾の利用と鉄道に関するものであり,ま まず注目すべきは,第 1 条において, 「ダンツィヒ市 ず19条において,ポーランド,ダンツィヒ双方の代表か とこれに結びつく地域は, 『自由市ダンツィヒ』の名称 ら構成される「ダンツィヒ港湾・水路委員会」の設置が の下でひとつの自由国家を形成する」としたこと,そし 述べられている。この委員会は,自由市の内部で港,水 て 4 条では,公式言語はドイツ語であると明記し,併せ 路,とくに港の目的に役立つすべての鉄道の管理・監 て「ポーランド語を話す民族は,立法と行政において, 督・利用を行い,現在従事している官吏,職員,労働者 その自由な民族的発展,とりわけ学校の授業,行政,司 は,可能な限り引き続き雇用され,新規の雇用に際して 法において母語の使用が保障される」と規定していた はポーランド国籍者が不利にならないようにしなければ 点であった。第 2 部における基本的権利と基本的義務 ならない(20条) 。鉄道は,路面電車と専ら自由市の必 をみれば,この憲法が同時代に「民主的精神」の実現 要に寄与する鉄道を除いて,ポーランドが管理・監督す である 14 と評価されたこともある程度理解できるが,し る(21条) 。ダンツィヒとポーランド政府は,委員会に, かしそうした基本的権利を享受する主語は,大体におい かつてのドイツ帝国ないしはいずれかの領邦国家のすべ てダンツィヒ国籍者であり,同国籍をもたずダンツィヒ ての財産の所有を委ねる(25条) 。委員会は,ポーラン に生きるポーランド人に関する記述は,第 4 条以外には ドに,港と20条に示された交通手段の自由な利用と使用 なかったことは,やはり見過ごすことのできない問題で を保障する(26条) 。ポーランドは,ダンツィヒを経由し あった 15。 てあらゆる物資を輸送する権利をもつ(28条) 。 他方,ダンツィヒ・ポーランド協定に関しては,ダン 第 4 章は,郵便,電信,電話に関する。ポーランドは, ツィヒもポーランドもそれぞれ独自の案を作成してい ダンツィヒ港において,ポーランドと直接結ぶことができ たが,1920年 9 月末に始まった連合国大使会議は,下 るように,郵便,電信,電話の施設を設置する権利をも 部委員会における審議の後,双方の間の調停案を示し つ(29条) 。ダンツィヒは,そのための土地,建物をポーラ た。9 月末以来パリに来ていたサームを中心としたダ ンドに,適した条件の下で売却ないしは貸与する(30条) 。 ンツィヒ代表団は,11月 9 日にこれに調印した。一方, 最後の 5 章は,その他の問題が取り上げられている。 ポーランド側はこれに遅れて11月18日にパデレヴスキ ダンツィヒは,人種的・宗教的・言語的なマイノリティ (Paderewski)が調印した 16。この条約は,ヴェルサイユ に対して,ポーランドが1919年 6 月28日に連合国と結ん 条約104条に基づくものとして,5 章40条から構成され だ条約の 1 章と同じ規定を適用する。すなわち,立法と ていた。以下に,重要と思われる内容を簡単に示してお 行政において,ポーランド国籍者ないしはポーランドの こう。 出自あるいはポーランド語を用いる人々は不利な扱いを 第 1 章は,ダンツィヒの外交問題に関するものであっ 受けてはならない(33条) 。ダンツィヒへの帰化の条件 た。大事な点は,次の点である。ダンツィヒにおくポー は,自由市とポーランドが協力して決める(34条) 。両 ランド政府の代表者は,ポーランド政府と自由市の間の 者の貨幣制度を一本化する交渉にできるだけ早く入る 仲介の任にあたる(1 条) 。自由市ダンツィヒの外交問題 (36条) 。ダンツィヒとポーランドの間の意見の相違,あ の指導と外国におけるダンツィヒ国籍者の保護は,ポー らゆる問題は,国連高等弁務官に提出される(39条) 。 ランド政府が行う(2 条) 。ダンツィヒ国籍者は,ダン ダンツィヒ・ポーランド協定は,以上の内容をもって ツィヒが重要な経済的利害をもつ外国の土地にあるポー 締結されたが,実際には両者の間にはまだ多くの問題が ランド領事館の職員に加わるべきである(3 条) 。ダン 残ったままであった。したがって,この後,1921年から ツィヒの外交・領事代表部の費用並びにダンツィヒ国籍 1927年の間だけでも,さらに両者の間には70の個別の − 75 − 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 60 集(2009) 協定が結ばれることとなる 17。 む同化ユダヤ人となるのである。 では,どのような問題が生じたのかを次にみることと このようななかで,すでに指摘されているように,ダ したい。 ンツィヒ市当局とドイツ人側,そしてポーランド人側の 双方が,それぞれダンツィヒのドイツ的性格,ポーラン ド的性格を強く主張をしていたのである 21。 2 ダンツィヒ−ポーランド間の争点 とりわけ,ダンツィヒ市政を委ねられていたサームは, 2.1 ダンツィヒの民族的・宗派的構成 市のドイツ的性格を強調して,その保持を自らの使命と 1923年の住民調査によれば,ダンツィヒには366,730 考えていた。彼は,1919年 6 月24日に市議会で,ヴェ 人の住民がいた。そのうち,ドイツ語を母語とする住民 ルサイユ条約に関連して次のように述べている。 「この は,348,493人(ダンツィヒ国籍者=327,827人,非ダン すばらしい古い町のドイツ性をこれまで同様に保持する ツィヒ国籍者20,666人)を数え,圧倒的多数を占めてい 希望と意志は,我々すべての心の中にとどまっている。 た。だが,ダンツィヒ住民の民族的構成を示すことは簡 我々は,ドイツ人であり,常にドイツ人であり続けたい。 単ではない。特にポーランド系住民の占める割合をめ そしてまさに我々は,ドイツ性への忠誠をあらゆること ぐっては,同時代のドイツ人側からのしばしば宣伝的な に優先させているので,古ダンツィヒ人の勇気と決意, 記述の中での算出は,3 4%とあまりに低すぎるもので そして思慮深さをもって,新しい国家制度の建設に邁進 あった。第一次世界大戦前には,後に自由市ダンツィヒ したいのである」 ,22 と。 となる地域には10,000人以上のポーランド人が居住して その後も彼は,ドイツ性の保持とダンツィヒの「ポー いたが,自由市創設後にはさらに多くのポーランド人が ランド化」の危険を訴え続け,それが彼の最も重要な政 移住してきている。したがって,ここでポーランド系住 治信条であり続けた 23。このことは,ダンツィヒ在住の 民というときには,ポーランド民族のダンツィヒ国籍者 ポーランド人を始めとした民族的マイノリティの置かれ と,外国人として登録されているポーランド国籍のダン た政治的・社会的状況を考えるさいにも重要となるが, ツィヒ住民に分けられた。前者は,ダンツィヒ市当局の この問題を取り上げる前に,次に1920年代のダンツィヒ 表明によれば,1929年:16,095人,1935年:約20,000人, とポーランドの間の政治的・社会的争点について触れて 後 者 は1929年:19,960人,1935年: 約16,000人,1937 おきたい。 年:18,171人であった 18。このようにみたときに,ポーラ ンド系住民は,約 9 %を占めた。しかし,パラスケに拠 2.2 ダンツィヒとポーランドの政治的・社会的争点 れば,この数字もまた十分ではない。これに関して彼は, ダンツィヒ・ポーランド関係のひとつの問題は,共通 二つの点を指摘する。 の関税・経済同盟の設置であった。これは,すでに述べ 第一に,すでに長くダンツィヒに生きているポーランド たように,ヴェルサイユ条約104条を基にダンツィヒ・ 人,あるいはカシューブ人は,しばしばダンツィヒ社会に ポーランド協定によって決められ,さらにその細部は, 統合されており,ただポーランド人,あるいはドイツ人と 1921年10月24日に双方が調印したワルシャワ協定にお して規定することは困難であった 19。これに対して,港 いて詰められた。1922年 1 月 1 日にポーランドの関税に 湾労働者,郵便局や鉄道の職員,あるいは工科大学学生 関する政令がダンツィヒにも適用されたことによって, として新たにダンツィヒにやって来たポーランド系住民 ダンツィヒは,経済的にもドイツから切り離され,ポー は,ダンツィヒ社会のなかで孤立しており,自由市のな ランドとの経済的一体性に向けて歩みだすこととなった。 かの民族主義的な諸団体に組織されることとなった。 ダンツィヒは,西プロイセンの中心都市として,プロ 第二に,ダンツィヒに生きるポーランド国籍のポーラ イセンからさまざまな援助を受けてきており,また大戦 ンド人の半分は,ユダヤ人移民であった。1929年,ダ 中は軍事・軍需関係の雇用が多かったため,ドイツとの ンツィヒには,10,000人以上のユダヤ教徒がおり,これ 関係が断たれることは打撃であったが,ポーランドの海 は全住民の2,5%を占めた。そのうちの四分の一だけが, への出口として,3000万人の住む国の潜在的な積み替え 第一次世界大戦前からここに生きており,彼らはたいて 地になることに,当地の経済界は,経済的発展への大き いドイツ社会に同化したユダヤ人であった。一方,その な期待を寄せていた 24。しかし実際には,以後,ダンツィ 他の7,800人のユダヤ人は,1920年以降にダンツィヒに ヒは,その経済的に厳しい状況の中でポーランドに対す 移民してきた者たちであった 20。そう計算すれば,ダン る不満を募らせていった。不満は,ポーランドの関税シ ツィヒ住民の 7%がポーランド人,2%がポーランドから ステムによって,ダンツィヒ経済が不利に置かれている 移住してきたユダヤ人,そして0.5%が当地に古くから住 とするものであった。 − 76 − 川手 : 第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人マイノリティをめぐる政治的・社会的位相 すなわち,ポーランドの経済政策は,貿易差額の積極 これに対してポーランド政府は,7 月19日に回答し, 的な創出に向けられており,輸出の促進の一方で,輸入 ダンツィヒ市政府の訴えは,内政干渉であるとし,ダン は可能な限り抑えようとしていた。これに対して,ダン ツィヒの経済的困窮は世界恐慌の影響によるものとして, ツィヒは,輸入食料品,繊維,塗料,化学製品,機械と ダンツィヒの主張を切って捨てた 28。 いったものを外国から調達しなければならなかったが, ダンツィヒ市政府の提案は,高等弁務官マンフレッ ポーランドの高関税制度は,ダンツィヒ経済にとって大 ド・グラビーナ(Graf Manfredo Gravina)によって国際 きな負担となった。こうしたなかで,ポーランドは,ダ 連盟に届けられ,専門委員会に付託されることとなった。 ンツィヒの経済利害を考慮するというワルシャワ条約の 二年の審議を経て,1932年専門委員会の出した結論は, 保障を実行しないどころか,逆にポーランドの経済政策 「同じ後背地をもつ隣接した二つの港の際限のない争い が,ダンツィヒを,自国貿易から通過貿易地へとその構 は破壊的である」とした上で,いくつかの具体的な提案 造を変えさせることになったと理解されたのである 25。 を行うものであった。そこには,ポーランド国営企業に さらに,困窮の大きな原因としてダンツィヒが強く非 よる輸出入は,ダンツィヒ港で積み替えが行われること, 難したのは,わずか12 kmしか離れていない漁村グディ すべての移住者は,ダンツィヒを経由することなどが盛 ンゲン(Gdingen) 〔ポーランド名:グディニア(Gdynia) 〕 り込まれたが,抜本的な対立の解消には至らなかった 29。 をポーランドがダンツィヒに代わる大規模な港湾都市と 1933年 5 月27日にナチスがダンツィヒ議会選挙で50,3% して建設したことであった。最初の計画は,すでに1920 を獲得すると,参事会議長となったヘルマン・ラウシュ 年に持ち上がっていたが,この年の 8 月,ダンツィヒ港 ニング(Hermann Rauschning)は,7 月 5 日にワルシャワ 湾労働者が,ソ連と戦うポーランド軍の弾薬の陸揚げ を訪問し,ピウスツキとの間で港湾条約を結んだ。そこ を拒否してストライキを行ったことは,ポーランド側に では,すべてのポーランドの貨物の積み替え量は,将来, とってグディンゲン建設の大きな口実となった。建設は, ダンツィヒ経由を45%,グディンゲンを55%とし,それ 1921年に始まり,新しいポーランドの通貨制度が安定し は,同じ価値のものであるとしていた 30。 た1924年以降に本格化した。グディンゲンにおける貿易 他方,ポーランドによるダンツィヒ港の軍事的利用も 29年以降に飛躍的に増大したが 26,これ また,大きな問題となった。ポーランド側は,ヴェルサ は,ダンツィヒ市政府によってダンツィヒ港における海 イユ条約104条並びにダンツィヒ・ポーランド協定 28条 額は,1928 / 運業,積み替え量の停滞,市の経済的困窮の大きな原因 の「ポーランドは,ダンツィヒを経由してあらゆる物資 とされた。 を輸送する権利をもつ」という規定を根拠に,そこには 1930年 5 月 9 日には,市政府は,サームの署名で,こ 軍事目的の物資も含まれるとしたが,ポーランドの軍事 の問題をダンツィヒ・ポーランド協定 39条に基づいて国 物資を取り扱うことにダンツィヒ市政府は激しく反対し 連高等弁務官に訴えている。そのなかでは,すでに1921 た。この問題は,国際連盟においても問題となったが, 年 8 月15日の国連高等弁務官の決定によって「ポーラン 最終的に1924年 3 月14日,ポーランドの戦争物資輸送 ド政府は,将来において他の港を建設しても,ダンツィ のために,ヴェスタープラッテ(Westerplatte)の使用を ヒ港を完全に利用しつくことを義務付けられており,他 認めた 31。これは,ダンツィヒ港の入り口に位置する60 方,ダンツィヒ市政府は,常に海への自由な通行権とい ha の半島であった。1925年,ここが正式にポーランド政 う点でポーランドの利益を守ることが義務付けられてい 府に委譲されると,88人の守備隊が駐留することになり, る」として,改めてポーランド政府にその具体的な義務 さらに1926年にはここは高い壁で囲まれることとなっ の実行を求めていた 27。その抗議の理由として,ダンツィ た。ヴェスタープラッテをめぐる対立は,1920年代末か ヒ市政府は,ポーランド政府が単にグディンゲン港の建 ら,ダンツィヒにおけるナチスの躍進とも絡まって激しさ 設・拡張を進めるだけでなく,グディンゲンにおける貿 を増した。1933年 3 月半ば,ポーランド軍がここから退 易量,積み替え量が増大するように,さまざまな貿易政 去したことで,差し迫った問題は回避されたが,その後 策や規制を行うなどの梃入れをしており,ダンツィヒと も戦争勃発までポーランドによる軍事施設の拡張は続い グディンゲンの間には「公平な競争」が存在していない たのである。 ことを挙げていた。また,グディンゲンの成長とダンツィ ヒの海運業・商品流通の停滞は,他の分野にも影響を及 3 ダンツィヒにおけるポーランド人マイノリティの 社会的状況 ぼしているとし,港湾労働者の失業率の増大はもとより, 会社の閉鎖・撤退,ホテル・飲食業の損害も,これに関 連付けられた。 第一次世界大戦後のヨーロッパ国際社会において公 − 77 − 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 60 集(2009) 理となったマイノリティ保護問題は,ドイツ・ポーラン 3.ポーランド人学校,特にポーランド人学校の成績証 ド関係においては特にドイツ外交の修正主義的要求と絡 明書の承認が問題として挙げられている。また,後者の まって展開する面をもった。一方,ダンツィヒでは,市 文書では,1.ポーランド人児童の公的学校制度,2.自 政府は,住民構成の90%以上がドイツ人であるとして, 由市によるポーランド人学校の成績証明書,学位の承認, 同市のドイツ的性格を強調しながらも,すでに指摘した 3.ポーランド語の使用,4.国籍問題,5.収入の可能 ように,サームらは,ダンツィヒが「ポーランド化」の 性,6.不動産取得,7.住居の割り当て,8.居住届け, 脅威に晒されているということを常に訴えた。ダンツィ 滞在,定住といったポーランド人の全生活領域に関する ヒの政治家にとって, 「民族性」の問題は最優先課題で 要求が示されて,問題となった 35。 あったが,そのことは,ダンツィヒ市政府の政策にも当 具体的な問題のいくつかを紹介してみたい。まずひと 然のことながら反映された 32。筆者は,残念ながら,ポー つは,市民権取得問題である 36。ポーランド人にとって ランド人を始めとしたダンツィヒの民族的マイノリティ 市民権をもたないことは,ダンツィヒ市民にのみ認めら の置かれた状況について十分に跡付けるだけの史料を れる権利(職場,住居,ポーランド人学校への通学,不 持っていないが,ここでは先行研究に依拠していくつか 動産取得の容易化,医療料金割引など)を拒否されるこ の問題を指摘しておきたい。 とを意味した。参事会は,長い間ダンツィヒに暮らし, 2 章で述べたとおり,ダンツィヒ・ポーランド協定 33 働いてきた,あるいはダンツィヒ出身のポーランド人国 条は,ポーランドが連合国側と結んだ「マイノリティ保 籍者の市民権申請を,さしたる理由もなく拒否した。時 護条約」に従い,ダンツィヒにそのマイノリティに対す として拒否の理由は,申請者が税金をほとんど支払って る同じような規定を義務付けた。またダンツィヒ憲法は, おらず,仕事が順調になるまで待たなくてはならないこ 4 条で民族的マイノリティの母語の保障をしていた。もっ と,あるいはポーランド人官吏の帰化は望まれていない とも,もともとのダンツィヒ参事会の憲法案では, 「公用 ことなどであった。また,ダンツィヒ市民権の許諾料は, 語はドイツ語である」とのみ書かれており,後半の部分 4800グルデンと,これだけで多くのポーランド人には不 については,国連理事会の命令で「住民のポーランド語 可能な金額であった。このようにして,サームのもとの を話す部分は,立法と行政によって,妨げられることの 参事会は,ポーランド人のダンツィヒへの流入を阻止し ない民族的発展が保障されなければならない」という文 たのである。同時に,参事会が,グディンゲンとの競争 言が加えられることとなった 33。さらに,1921年10月24 によって惹き起こされたとみなす増大し続ける失業に際 日のワルシャワ条約は,12条において,ポーランド人の して, 「労働市場の問題を解決しなければならな」かっ 帰化申請は,それが法的規定に一致する限り,自由市を たことも,阻止の理由であった。その一方で,参事会は, 経済的・民族的・社会的・宗教的観点において損害を与 1923 1930年の間に合計で1133人のポーランド国籍者を えその繁栄を脅かす場合を別にすれば,ダンツィヒ市が 追放したが,その中には自由市の創設以前からダンツィ 拒否できないことを規定していた 34。このように法的枠 ヒに生きてきた人々もいたのである 37。 組みをみれば,ポーランド人住民のダンツィヒにおける 一方,このような状況に対して,ダンツィヒに居住 権利は,一定程度保障されていた。だが,ポトツキ(St. するポーランド系住民は,自らの権利と利益を守るた Potocki)は,ダンツィヒのポーランド人が多くの差別に めに,さまざまな組織と運動を展開した。ダンツィヒの 直面していたことを指摘している。 ポーランド人の組織と運動については,E.チェシュラッ この問題についてポトツキが依拠した文書は,ひとつ ク(Edmund Cieślak)と C.ビェルナット(Czesław Biernat) にはヴェルサイユ条約10 周年に合わせて市議会のポー の著した『グダンスクの歴史』 (1988年)が比較的詳し ランド人議員たちによってまとめられた覚書『ダンツィ く述べているので,ここでは,それに依拠してその概要 ヒ・ポーランド人の悲劇的将来』であり,他にも,1930 を紹介しておこう 38。 年 9 月30日にポーランド政府がポーランド国籍者とポー 第一次世界大戦後のダンツィヒでは,ポーランドの最 ランド出身者ないしはポーランド語使用者の扱いの悪化 高人民評議会(Naczelna Rada Ludowa)のイニシアティ に対して,ダンツィヒ・ポーランド協定に基づく決定を ブのもとで,自由市のすべてのポーランド人のための組 求めた文書と,さらにこれにダンツィヒ参事会が行った 織として1921年11月26日にポーランド人共同体(Gmina 反論に対して,再度ポーランド側が反論を展開した文書 Polska)が設立された。正規のメンバーには,キリスト を用いている。前者の覚書では,未だに解決されないダ 教徒であり,ダンツィヒ国籍者がなるとされ,ポーラン ンツィヒ・ポーランド人の三つの原則的問題として,1. ド国籍のポーランド人は,助言の権限だけをもつ特別会 妨げられない不動産取得,2.ダンツィヒ市民権の取得, 員とされた。ポーランド人共同体は,元々,選挙にさい − 78 − 川手 : 第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人マイノリティをめぐる政治的・社会的位相 してポーランド人を支援するための活動を行ったが,そ には,学校監督局が,申告したポーランド人児童に対し の影響が他の諸組織にも拡がるなかで,これら組織が て授業の対象としてポーランド語を導入し,ポーランド 1926年には,ポーランド人共同体とともに,新たにポー 語による宗教授業を命じることができた 39。最初の学校 ランド人社会連合(Zwia˛ zek Towarzystw Polskich)を立 は,ポーランド人児童の授業のために,すでに1920年 5 ち上げている。 月に開設され,1925年には合計で20の民衆学校の教室 だが,そのような発 展の一方で,1927年にはポー で751人がポーランド語の授業を受けた。 ランド人共同体の中に生じた分裂によって,1927年 しかし,全体的にみれば,ポーランド人児童の学校制 の議会選挙ではポーランド人党は,わずかに 3 議席 度は, 「嘆かわしい状態」にあり,ポーランド人児童は し か 取 れ ず,1920年 の 7 議 席,1923年 の 5 議 席 か 「二級市民」として扱われた 40。そもそもポーランド人と らさらにその数を減らすこととなった。その後の選 いっても,ダンツィヒ市民権をもつポーランド人だけが, 挙では,全体の議席数の減少も相俟って,議席数は 子どものためにポーランド語の授業を申告できた。ポー さらに 2 議席へと減少した。ポーランド人共同体の ランド国籍のポーランド人児童は,公立のポーランド人 なかの分裂は,古くからダンツィヒに住むダンツィ 学校への受け入れを拒否されており,ただドイツ人学校 ヒ国籍のポーランド系住民と,新たに自由市にやっ への通学のみが許可されたのである。 てきたポーランド国籍の住民との軋轢の反映でもあった。 また,たいていの場合,ポーランド人学校といっても, ポーランド人共同体の分裂は30年代に入っても続いた それは独自なものではなく,単にドイツ人学校の一部門 が,同組織は,最終的には1937年に新たに創設された に過ぎなかった。公職につくポーランド人は,子どもを ポーランド人連合(Zwia˛ zek Polaków)の一部になるまで ポーランド人学校に通学させると,1914年以前と同様に, 続くことになる。 解雇されるか,より条件の悪いポストへの移動を命じら ポーランド人共同体が組織したポーランド人のため れた。しかもダンツィヒ市政府は,その学校において, の社会・文化活動は,多岐にわたる。それらは,子ども ポーランド語の教材,教科書を認めておらず,ポーラン のためのクリスマス会,集い,ダンス会,工科大学にお ド人学校は,独自の教育プログラムをもたなかったため, けるポーランド人学生のためのポーランド文学の講義, 学校長は,ドイツの教育プログラムに従わなければなら ポーランド文学の公開講座,演劇活動,子どものための なかった。教師たちには,ドイツ語が公用語であるとい ポーランドにおける夏季休業,ポーランドとその歴史・ う理由から,定められた授業以外ではポーランド語を話 自然・芸術・宗教・ドイツ人との戦いなどに関する講義 すことも禁じられていたのである。 などであった。中央駅には,ポーランドからの観光客と, 他にも,中等教育においては,唯一のポーランド人ギ ダンツィヒを経由していくポーランド人移民のための事 ムナジウムの卒業証明書が,ダンツィヒの他の学校の修 務所が設置された。また,就職の斡旋も行っている。そ 了と同等の扱いを受けないことや,ダンツィヒ工科大学 の財政は,会費とポーランド政府・外国のポーランド人 ではポーランド人学生の受ける差別が問題となった 41。 を援助する諸組織からの援助に拠っていたが,援助が必 ダンツィヒに生きるポーランド人の受ける不利な扱い ずしも定期的なものでなかったことは問題であった。 についてのポーランド政府とダンツィヒ参事会の争いは, 一方,この時期のダンツィヒには,伝統的にポーラン 最終的にハーグの国際司法裁判所に持ち込まれた。その ド人民族意識を擁護してきた「グダンスク新聞(Gazeta 1932年 2 月 4 日の判決は,ポーランド国籍者がダンツィ Gdan΄ ska)を始め,多くのポーランド人組織の機関紙が ヒ市民と同じ取り扱いを受ける権利を否定し,彼らに 長期・短期に発行されていた。 はただマイノリティとしての権利を認めるというもので このようなポーランド系住民の置かれた状況と,それ あった 42。 に向き合う運動の形成のなかで,もうひとつの大きな問 確かに,このような差別的な状況にもかかわらず, 題は,ポーランド人児童の学校制度をめぐる問題であっ 1933年までは,ドイツ系住民とポーランド系住民の共生 た。これは,1921年10月24日のワルシャワ条約をめぐる は,平和的で穏やかなものだったのであり,それが1933 交渉の対象のひとつともなったが,同年12月にダンツィ 年を機に180度変わったという証言もある 43。また,戦 ヒ参事会が「ポーランド人マイノリティの授業に関する 争が始まる前までは,高まりつつある差別にもかかわら 法」を発して,細部が決められた。それに拠れば,ポー ず,ポーランド系住民の状況は,ユダヤ系住民のそれに ランド人は,少なくとも40人のポーランド人児童が居住 比べれば,まだ耐えられるものであったともいわれる。 している地区では,ポーランド語の授業のある学校ない しかし,ここにみてきたように,ナチスの台頭の前に, しは教室を設置する権利をもった。その数を下回る場合 ダンツィヒの社会の内部では,この都市の置かれた国際 − 79 − 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 60 集(2009) 1926 1939 (New York, München, Berlin, 1999). 的な状況とも相俟って,民族的な対立の緊張は蓄積され 5 Gippert, Wolfgang, Kindheit und Jugend in Danzig 1920 bis 1945: ていたのである 44。 Identitätsbildung im sozialistischen und im konservativen Milieu (Bamberg, 2005). 結びに代えて 6 Böttcher, Hans Viktor, Die Freie Stadt Danzig: Wege und Umwege ドイツでヒトラーが政権を掌握した年である1933年の in die europäische Zukunft: Historischer Rückblick, staats- und 5月28日,ダンツィヒ市議会選挙において,ナチスが, völkerrechtliche Fragen (Bonn, 1995), 82ff. 7 Potocki, St., „Die Lage der polnischen Bevölkerung in der Freien 前回1930年11月16日の選挙から大幅に躍進し,得票率 においてぎりぎり過半数を越える50,1%を獲得した 45。 Stadt Danzig – Ein Überblick über die Jahre 1920 1939“, in: その後,ナチスによる強制的同質化がダンツィヒにおい Deutsch – Polnisches Jahrbuch. Bd.3. (Bremen, 1985), 81. てどのように進められたのか,またそこにどのような抵 8 Böttcher, 83. 抗の可能性があったのかについては,残念ながらここで 9 Ziehm, Ernst, Aus meiner politischen Arbeit in Danzig: 1914 1939 (Marburg/ Lahn, 1957), 47f. 論じる準備はない。 他方,第二次世界大戦後,ダンツィヒがポーランド領 10 Thimm, Werner, „Parteienentwicklung in Pommerellen und Danzig となったことや,戦後の「被追放民」問題は,ドイツ連 nach dem Ersten Weltkrieg“, in: Arnold, Udo (Hg.), Politik im 邦共和国において, 「自由市」として国際的に特異な位 Zeichen von Parteien, Wirtschaft und Verwaltung im Preussenland 置にあった第一次世界大戦後のダンツィヒの可能性と正 der Jahre 1918 1939 (Lüneburg, 1986), 76. 当性を,こうした戦後の問題との対比のなかで積極的に 11 Ziehm, Ernst, „Die Verwaltung Danzigs durch die interalliierten 論じさせることにもなった 46。だが,曲がりなりにもマイ Hauptmächte und die Konstituierung der Freien Stadt Danzig“, ノリティ保護が法的に示されていたとはいえ,自由市ダ in : Die Entstehung der Freien Stadt Danzig, H.4 (1930), 37f. ンツィヒの両大戦間期における政治的・社会的位相は, 12 変更点は,憲法改正には国際連盟の同意が必要である,参事 そこに生きた諸民族の現実の関係性のなかから読み解か 会は国際連盟に自由市ダンツィヒの公的問題を伝える義務が れなければならない問題なのである。両大戦間期におけ ある,参事会議長の任期は12年から4年に引き下げるなどの るダンツィヒを含めたこの地域の社会的現実に分け入る 諸点であった。Böttcher, 87. 13 Cf. Loening, Otto, Danzig: Sein Verhältnis zu Polen und seine なかで,さらに考察することとしたい。 Verfassung (Berlin, 1921). 1 Cf. Tooley, T. Hunt, National identity and Weimar Germany: 14 Thimm, 78. Upper Silesia and the eastern border, 1918-1922 (Lincoln/ 15 Gippert, 74f. London, 1997); Niendorf, Mathias, Minderheiten an der 16 Sahm, Erinnerungen aus meinen Danziger Jahren 1919 1930 (Marburg / Lahn, 1958), 29-33. Grenze: Deutsche und Polen in den Kreisen Flatow (Złoto΄ w) und Zempelburg (Se˛ po΄ lno Krajen΄ skie) 1900-1939 (Wiesbaden, 17 そのなかでも特に重要であったのは,1921年10月24日のワ 1997); Weber, Matthias (Hg.), Deutschlands Osten- Polens ルシャワ協定であった。Gippert, 78. Westen: Vergleichende Studien zur geschichtlichen Landeskunde 18 Pallaske, 32. (Frankfurt/M.,u.a, 2001). 19 カシューブ人は,ポーランド語の一方言を話すが,多くはド 2 拙稿「第一次世界大戦後ドイツの東部国境と『マイノリティ イツ語も理解していた。彼らは,何世紀にもわたり,ドイツ 問題』 」 『歴史評論』 ,665(2005年9月号) ,17 29頁;拙稿 系住民と家族的・社会的に密接な関係にあった。彼らは,こ 「フォルク(Volk)と青年−マイノリティ問題とドイツ青年運 の時代にはポーランド人マイノリティに数えられたが,中に は自らをドイツ人と告白する者もいた。Ibid., 33. 動」田村栄子/星乃治彦編『ヴァイマル共和国の光芒』 (昭 和堂,2007年)117 161頁; 拙稿「マイノリティ問題とフォ 20 Ibid., 33f. ルクの思想:国境地域・外国在住ドイツ人保護運動の思想と 21 Hackmann, Jörg, „Zwischen Versailles und Zweitem Weltkrieg: die その政治的・社会的位相」伊藤定良/平田雅博『近代ヨー Freie Stadt Danzig“, in: Akademie für Lehrerfortbildung Dillingen ロッパを読み解く』 (ミネルヴァ書房,2008年) ,289 325頁。 (Hg.), Danzig Gdan΄ sk: Deutsch – Polnische Geschichte, Politik 3 Kalisch, Johannes, „Die Freie Stadt Danzig (Gdan΄ sk) 1919/20 1939 und Literatur (Dilingen, 1996), 84f. im Spiegel wissenschaftlicher Literatur und politischer Publizistik“, 22 Sahm, 5. in: Zeitschrift für Geschichtswissenschaft, 25 (1), 1977, 57-74. 23 Ibid., 58, 107f. 4 Pallaske, Christoph, Die Hitlerjugend der Freien Stadt Danzig: 24 Gippert, 83. − 80 − 川手 : 第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人マイノリティをめぐる政治的・社会的位相 25 Ibid., 86. 39 Ibid., 105. 26 Sahm, 164. 40 Potocki, 77. 27 Ibid., 166. 41 ポトツキ以外にも,cf. Cies΄lak, Edmund / Biernat, Czesław, 455. 28 Gippert, 92. 42 Ibid., 86. 29 Ibid., 93. 43 Schenk, Dieter, Die Post von Danzig: Geschichte eines deutschen 30 Ibid., 93. Justizmords (Reinbek bei Hamburg, 1995), 256; Pallaske, 35. 31 Ibid., 95f. 44 Ibid., 35, 157 167; Levine, 13, 44. 32 Andrzejewski, Marek, „Die Politik des Desinteresses der 45 1930年11月16日の選挙では,ナチスは16,4%,32.457票で Völkerbundstaaten und die Faschisierung der Freien Stadt Danzig あった。自由市ダンツィヒの選挙結果とその分析について “, Arnold, Udo (Hg.), Danzig – sein Platz in Vergangenheit und は,Thimm, Parteienentwicklung in Pommerellen und Danzig Gegenwart (Warschau / Lüneburg, 1998), 148. Levine, Herbert S., nach dem Ersten Weltkriegが詳しい。さらにcf. Andrzejewski, Hitler’s Free City: A History of the Nazi Party in Danzig, 1925 39 Marek, Opposition und Widerstand in Danzig 1933 bis 1939 (Bonn, (Chicago / London, 1973), 38. 1994), 50f. 46 たとえば,Böttcher, Die Freie Stadt Danzig. 33 Potocki, 73; Hackmann, 80f. 34 Potocki, 73. 35 Ibid., 75. [付記] 本稿は, 「第一次世界大戦後「自由市ダンツィ 36 以下の問題については,cf. Ibid., 81f. ヒ」の政治的・社会的状況をめぐって」 『三宅立先生退 37 Ibid., 85; Gippert, 104. 職記念文集』 (明治大学西洋史研究室,2008年) ,67 ∼ 38 Cies΄lak, Edmund / Biernat, Czesław, History of Gdan΄ sk (Gdan΄ sk, 78頁に加筆・修正を加えたものである 1988), 443 449. − 81 − Bulletin of Tokyo Gakugei University, Humanities and Social SciencesⅡ, Vol. 60 (2009) The political and social aspects of the Polish minority in the Free City of Danzig after the First World War Keiichi KAWATE Human Science Abstract The new boarder between Germany and Poland defined by the Treaty of Versailles and the problem of the national selfdetermination caused many discussions in Germany after the First World War, which were at that time exploited in the theory of nation state. One can point out many aspects within this complex of problems, which were noticeable not only short after The First World War but lasted through many decades. They varied from the demand for the revision of the agreement relating to the boarder up to the “refugee problem” after the Second World War. But the latest research developed a new approach including analysis of social changes, mentality of the inhabitants, and national minority shown from the regional perspective. My research approach is also based on the analysis of the situation in former “Westpreußen” and “Pommern” from such a perspective. In the present article I intend to show the political and social structure of the Free City of Danzig (Gdańsk) which was at that time under the protection of the League of Nations. I explain the social situation of the Polish minority in this city as well. In the first chapter I would like to prove the establishing of the Free City of Danzig in connection with the Treaty of Versailles. The Free City of Danzig was formally established on the 15th November 1920 based on the Treaty of Versailles, the constitution of Danzig and the convention between the Free City of Danzig and Poland. In the second chapter I intend to describe the features of the national and religious structures in Danzig, and in addition, to take up the political and social issues. I would like to concentrate on the problem of economic relations between Danzig and Poland, establishing of the sea port Gdingen (Gdynia) that was built in the neighborhood of Danzig, and the problem of “Westerplatte”, that played an important role for the Polish transport of the military materials. Finally, in the third chapter I will analyze the discrimination of Poles as a national minority, the Polish organizations for the more effective defense of their rights and interests and the issues of the Polish schools. In this article I am going to reveal social tensions and antagonisms among the nations which lived in Danzig before the Nazi Takeover. I hope that it will be helpful lead in understanding the social reality in this region. Key words: Danzig, Germany, Poland, minority − 82 − 川手 : 第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人マイノリティをめぐる政治的・社会的位相 第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人マイノリティを めぐる政治的・社会的位相 川 手 圭 一 人文科学講座歴史学分野* 要 旨 第一次世界大戦に敗北したドイツにおいて,ヴェルサイユ条約による国境の修正と大戦後の公理となった民族の 「自決」をめぐって生じた問題は,同時代の条約の修正要求から,第二次世界大戦後の「被追放民」問題に結びつく ものまで,多くの国家に回収される議論を生んできた。しかし近年では,新たに,国境変更の対象となった地域の側 からのコンテクストに立ち,そこでの社会変容,住民のメンタリティ,あるいは民族的マイノリティの問題を捉え返 す研究が進められてきている。筆者も,このような観点から,かつての西プロイセンからポンメルンにかけての地域 を対象とした研究を進めているが,そのような筆者の全体テーマのなかで,本稿は,同地域にあり,ヴェルサイユ条 約のもとで国際連盟の保護下に置かれた「自由市ダンツィヒ(現グダンスク) 」の政治・社会構造を,公理となった 「自決権」との関連のなかで整理し,同市のポーランド人マイノリティの置かれた社会的状況を明らかにすることを 目的とする。 本稿では,まず 1 章において,ヴェルサイユ条約を端緒とした「自由市ダンツィヒ」の成立を跡付ける。 「自由市 ダンツィヒ」は,1920 年 11 月 15 日に正式に発足したが,これは,ヴェルサイユ条約と,ダンツィヒ憲法,そしてダ ンツィヒ・ポーランド協定に拠るものであった。その法的関係を整理することは,民族的マイノリティの問題を考 察するさいの前提となる。2 章では,ダンツィヒの民族的・宗教的構成を整理し,その特徴を示した上で,1920 年代 に問題となったダンツィヒとポーランドの政治的・社会的争点を取り上げた。具体的には,ダンツィヒの経済構造, ポーランドがダンツィヒに隣接した港湾都市として建設したグディンゲン(グディニア)をめぐる問題,またポーラ ンドの戦争物資輸送とも関わったヴェスタープラッテ(Westerplatte)の使用問題である。その上で,3 章では,ダン ツィヒにおけるポーランド人マイノリティの置かれた差別的状況と,そのなかでポーランド人組織の形成,またポー ランド人児童の学校制度をめぐる問題などを考察した。 1933 年以降のダンツィヒにおけるナチスの躍進を前に,どのような民族間の緊張関係と矛盾の集積があったかを 確認することによって,両大戦間期のダンツィヒを含むこの地域の社会的現実に分け入る手がかりとした。 キーワード : ダンツィヒ,ドイツ,ポーランド,マイノリティ * Department of Human Science − 83 −
© Copyright 2024 Paperzz