Diary. December1. Saturday. 北京のXマス。

Diary.
December1. Saturday.
北京のXマス。
日記。2012 年。12 月 1 日。
もう 12 月。アドヴェント、待降節が始まった。
● 娘達から来信。北京のSt.Regisホテルでクリスマス・パーティーがあったそうだ。
米国大使さん、じきじきご来臨だったとのこと。
クリスマス・キャロル少年合唱団。
共産中国で!!
ぐろりあ・てぃび・どみね。
子供達が眼鏡をかけているのが気にかかる。多すぎる。
この画面の少年数ほぼ11名。眼鏡かけてるのが5名。
要らぬ心配だろうけど。
●六時十分の朝。まだまっくら。今日が師走のついたち。昨日蕾開いた水仙二花が完全満開。
もう二蕾膨らんだ。冥加なこっちや、買ってからたった四日目の朝だ。
Diary.
December2. Sunday.
日記。2012 年。12 月 2 日。
● マイクル神父が下掲サイトのプログラムを送ってくれた。
よく構成されていると思うので、記録する。
作者はよく知られた人らしい。僕は初めて。ただし、全部英語。
http://www.youtube.com/watch_popup?v=gXDMoiEkyuQ&vq=medium
● Lieven, Anatol
The Baltic Revolution. Estonia, Latvia, Lithuania and the path to independence. バル
ト海沿岸三国地区革命。
Yale University Press, c1994.
まるで朝鮮史を読んでるような気持ちで一日を過ごした。
全部で454頁。まだ、86頁。
ペリイが訪日する頃まで、この地帯が農奴社会で、ドイツ貴族が君臨し、外国勢力が鬩ぎあい、同居する
異民族、異言語種族が葛藤する、今までの百年が忌憚なく綴られている。
そして、如何に共産党活動が帝政露西亜を受けついて、圧政的であるかなど。
ノートしながら読むしかない。圧縮した書き方。
このツンドク書籍の一つには触れた事がある。
● 水仙が咲き続ける。
上掲が昨日。下掲が今朝。楽しい。
夕方、応接間の窓の外を眺めたら、向かい隣りの子供達を中心に十人そこらの子供達が向かい隣りの駐
車場で遊んでいた。幼い子供達殆ど全部が自転車、三輪車を乗り回している。そして五、六歳年上の
少年達が輪からはずれ、彼らの年長君臨が目立たない。そんな気持ちで眺めた。
● チャックは今日も十二時間おつとめ労働。
今 4 時 45 分。6 時すぎに戻るって電話があった。
やはり、ハエヌキ・カトリックやな。
Diary.
December3.Monday.
混血。
日記。2012 年。12 月 3 日。月曜日。
高老齢生活はどうしてもパターン化するものだ。
またもや月曜日が巡り来る。
今日も定例の超級市場買出し。ただし、もうジェニュアルディだった名前がジャイアンツに変わった。
★今朝の紐育時報、朝刊。
フランス:
若い。高度教育を受けたが職がない。
http://www.nytimes.com/2012/12/03/world/europe/young-and-educated-in-fran
ce-find-employment-elusive.html?nl=todaysheadlines&emc=edit_ee_20121203
● Throughout the European Union, unemployment among those aged 15 to 24 is
soaring — 22 percent in France, 51 percent in Spain, 36 percent in Italy.
欧州連盟の青少年失業率、15 歳ー24 歳:
フランス、22%;スペイン、51%;イタリア、36%.
だ が 、以 上 は 活 発 に 職 を探 し て る 失 業 者 だ け 。( those who are “ not in employment,
education or training,” or NEETs)
● 他種類の失業者がある。
As the Organization for Economic Cooperation and Development calls them. And
according to a study by the European Union’s research agency, Eurofound, there are
as many as 14 million out-of-work and disengaged young Europeans, costing
member states an estimated 153 billion euros, or about $200 billion, a year in
welfare benefits and production — 1.2 percent of the bloc’s gross domestic product.
OECD(欧州経済協力発展機構}研究によれば、失業後の絶望探職停止の青年人口が千四百
万名だ。OECD加盟国全部に社会補助と救済費用が年額1530億ユーロ、(弗額だとほぼ
2000 億ドル)がかかっているそうだ。これは欧州連合ブロックGDPの1.2に相当する。
★★ イタリアから電話。
大学時代の昔、同僚の考古学教授が突然死んだ。
それで、チャックと二人で父親代わりになって彼の息子を(事実上)育てた。
その子(父親の頻繁な考古学発掘作業で、イタリア生まれ、イタリア育ち、結局僕のような民族狭間そ
だち)の彼は成人して、大学を終え、イタリアの女性医師と結婚してフィレンツェに家庭を持った。
彼らの息子リッカルドは、事実上僕たちの孫だった。
今朝、チャックが電話をKから受け取って話した。
Kが癌なんだそうだ。まだ五十をすぎたばかりなのに。
暗澹とした心持だ。
奥さんも眼病で失明寸前だ。
★ 中国滞在中の娘達はタリム盆地に舞い戻って、もう一度二人で視察したいと言う。
★ 超級市場の横にあった本屋が廃業し、この一年間水曜日行き着けの店が消えて腐っていたら、今朝
新しい古本屋が開店したのを知ったし、みつけた。
店の規模は旧本屋を受継いでいるから、結構馬鹿でかい。
一時間二人で歩き回って過ごしたし、買うだけ買った。笑。
惜しむらくは、喫茶部が(まだない)。
でも、とにかく、嬉しかった。
この店で見つけた書籍。260頁の写真集。
Fulbeck, Kip.
Mixed: Portraits of Multiracial Kids
混血。多数民族背景の子供達。
アメリカでどんどん増えている多数民族混血児の写真集。
気が遠くなるほど、民族と人種がまじっている。
表紙の少年はブラクシカン、黒人の母とメキシコ人の父との混血。
● フィラデルフィア郊外のあちこちに、下掲のようなショッピング’モールが存在する。
12 月の師走の真っ最中にありそうなコーラスの動画を、友人のヨセフ・ヴァティーモ君が送ってくれた。
Chorale spectacular.
http://www.youtube.com/embed/vcmfCXwAFs4
典型的なアメリカだ。これが、僕たちのアメリカ。
みなさん、Happy Holidays.God Bless YOU.
Diary.
December4-5. Tuesday-Wednesday.
日記。2012 年。12 月 4-5 日。火曜日ー水曜日。
今火曜日、午後 10 時。
午前中は午前 6 時半からブリンモア病院へ。
午前 7 時に血糖値血液検査、午前 8 時に主治医のローエンタル博士検診、午前 9 時に心臓担当医
フィッシャー博士の検診を、矢継ぎばやに巡りまわった。病院付属の車庫に駐車するとただ僕の国立保険
証明カードをみせるだけで、駐車料を 2 ドルにまけてくれる。結局 3 箇所の訪問を3時間半ですませた。
昔にくらべて”待たされない”のがありがたい。
半世紀前に、大学の数学講座にOR(オペレーション・リサーチ)というのがあって、確率論を応用した”
病院の待合室にできる行列”問題という課題で勉強させられたのを思い出す。もう昔、昔の話だ。
戻ってから気がついたが、ぐったり疲れていた。
チャックは、僕たち二人が明日週例になっているストラッフォード市場うろつきを予期して、午前中はお御堂
奉仕。正午すぎに戻ってきた。僕たちの隠居生活だ。
水曜日、午前零時。
眼が覚めて、おきた。夜が明けたら、ストラッフォード市場へ。
● あと二十日でクリスマス。12 月 22 日に娘たちが差し向けてくれるリモジンが来る。
Diary.
December5.Wednesday.
西安来電。
洛陽来電。Diary.2012.Dec.05. Wed.
日記。2012 年 12 月 5 日。水曜日。
● この師走待降節は忙しくなる。
今夜は水曜日午前零時半。
あと十日で、15 日土曜日に子供達が北京から戻り、22 日土曜日に僕たちを迎えにリモジンがコネチカッ
トから来る。二人であそこに行き、クリスマスを過ごし、26 日の朝にフィラデルフィアへ戻るわけ。
あそこの親類は全部アイルランド系。
タクラマカン砂漠と天山山脈の土産話に明け暮れることだろう。
●
ひさのさんからの便り。
トーマスさん
Wynnewood のモールに新しい本屋が出来て、良かったですね!
夫も◎◎の病院に勤め始めて、2 ヶ月以上経ちました。
ご存知のとおり、◎◎は、古くからの工場地帯で、低収入の人が多い場所です。
最近、大型のアパートが出来て新しい住民が越してきて、住民の雰囲気はかなり変わりました。しかし中
高年者は変わりません。
13歳の少年が祖父と一緒に来院しました。
その子はぜん息なのですが、きちんと薬を服用していないのです。
そのことを言うと、おじいさんは、
言っても飲まないと孫の前できちんと育児をしていない娘のことを怒り始めました。
孫のほうは、夜中に発作が起きたら、一人で救急車を呼んでいいかと夫に尋ねました。
夫は、未成年者は救急車を呼べないこと、病院が受診拒否をすることを説明しました。
少年は父親がいないこと、母親が夜働いている、祖父とは別居していること等を話しました。
どこの国にでもいる犯罪予備軍みたいな家庭です。この子が悪の道に陥らないように祈ります。
● 昔、工場地域、貧困地帯、被差別民族の多い地帯の集落によくアメリカでもあったし、今になっても
ある話題だ。
貧困が原因で、無知と無理解がもたらす少年達の悲劇。階級と民族の狭間で育った僕には子供の時代
から聴きなれた話題だ。
欧州でもアメリカでも、この話題は続く。例外はない。
● 午前中、チャックとストラッフォード農夫市場に行き、うろついて戻った。
この水曜日は僕たちにとって欠かせない行事になった。お惣菜にチャックが肉なし野菜チリを買った。
肉なし”コン・カルネ”とはね。結構楽しめた。僕は焼き海苔・短冊切りで、ポテートと包んで食べた。
● 図書館がどんどん蔵書を”破棄”とスタンプして、古本屋に放出しだしている。悲しいことだ。
1セントずつで、下記書籍を入手した。
Boswell, John
Christianity, Socail Tolerance and homosexuality.
University of Chicago Press, 1980
Palmer, Alan
The Baltic. A new history of the region and its people.
The Overlook Press, 2005.
Boswell はイエール大学教授だった。呆れるぐらい欧州古典と古典語の造詣が深かったが、若くて死んだ
友人。
Palmer書は、今読んでるアナトール・リーヴェンのバルト諸国革命史と平行して読む。
バルト三国の”被併合”史は、朝鮮よりもずっと永かった。そして、日本の圧政が 1945 年に 35 年で終了
したのに比べて三国はもっと遅れたし二倍ぐらい永かった。
この二書がまるで無料で入手できたことを感謝している。リーヴェン書はまだ読み続けている。
● この調子だと、いくら老いても、死ぬまで好きな書物が無料で読めるらしい。ただし、英語だけだが。僕
は果報者だ。
● 今、眼が覚めた。時計を見たらすでに木曜日 12 月 6 日零時十五分。
中国西安から入電、娘達が視察している。始皇帝の墓を見てきたそうだ。
僕の子供時代に張学良が蒋介石を逮捕監禁して、対日抗戦を説いたのもこの町。
張学良は爾後、蒋介石に軟禁されて、台湾で死んだ。
80 歳を過ぎたら、娘達がこれほど僕たちの先祖の遺跡を歩き回るとは思わなかった。
あと 16 日、コネチカットから差し向けられたリモジンンで彼らに会う。
チャックがクリスマス・プレゼントをしこたま買い込んだ。
65 年前だったかに、少年のまま思い切って、アメリカへの漂流旅を始めてよかった。
乞食同様、無一文、無国籍、無未来確認のあてもない亡国少年だったから。
ただ希望と主への信頼だけはあった。
そうだ、僕はもう 83 歳の老人だ。
Gloria tibi Domine.
http://www.youtube.com/watch?v=ACL16rftMUc
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=Y-xz0UJ2BUQ&feature=endscreen
Diary.
December6.Thursday.
日記。2012年 12 月 6 日。
★ 進也が逝って、数ヶ月経った。未だにその打撃から僕は快復していない。
津田佑子の本を本棚で再び見つけて読んだ。
毎日新聞社が出版したあと、どうなったかアメリカの僕にはよくわからない。
参照: 僕のアメブロ記事:2011 年 4 月 11 日。津田佑子。葦舟飛んだ。
Mon, April 11, 2011 00:05:18 Theme:
http://ameblo.jp/thomas-penfield/entry-10857467810.html
● 外国居住の僕がこんなことを書くのは、余計なお世話だと言われるかもしれないが、
捕虜としてシベリアに連行され、奴隷労働を強いられたあと、日本に帰還した人たちが
どうなったか。この数十年間どう日本で扱われたかはとても心配になる。
栗原俊雄さんの「シベリア抑留ー未完の悲劇」を数年前に読んだが。現状を知らない。
白系露西亜人が旧ソ連でハルビニエツと蔑称されて、迫害されていたことは読んだ。
● 12 月 6 日。木曜日。
チャックをランケナウ病院に同伴。彼が心臓の検査をうけた。
僕は病院のカフェテリアで 3 時間ばかり、待って過ごした。
病院付属のありふれた食堂だ。あじもそっけもない。
ここで、3 時間過ごした。
Diary.
December7. Friday.
日記。2012 年 12 月 7 日。金曜日。
真珠湾記念日。
こちらでは忘れられない記念日。
委細には,はいらない。
平常、平安な記念日だった。
● シリア問題は複雑だと思う。
ことに諸少数民族を”保護”してくれていた独裁グループを滅ぼし、
ひっくりかえると、今度は多数派スンニの事実上独裁になる。
くわえて、イスラエルの今のパレスチナ制圧と暴走。
近東キリスト教徒の流出がまたはじまるだろう。逃げて来る場所はアメリカしかのこらないし。
アメリカさんもタイヘンだ。
どこでも、帝国経営は人命と金がかかる。
● 一方、僕たちの水仙がまる満開。
一週間前に買った水仙がもう満開。楽しい。
● 明日から土曜日、日曜日のチャックの教会奉仕。
便所掃除からお茶くみまでやるサクリスタンなんだからね。
Diary.
December8.Saturday.
栗原俊雄、シベリア抑留。
日記。2012 年。12 月 10 日。土曜日。
あと 5 日で娘たちがコネチカットに北京から戻り、二週間後 22 日に僕たちがコネチカットに訪ねる。
午前 11 時に’JCCに”歩き”に行った。
チャックは一日中お御堂おつとめ。
一日中読書でくらした。
● 今日読んだ本。
栗原俊雄
シベリア抑留、未完の悲劇。
岩波新書。2009.
著者は僕の息子世代、1967 年生まれ。勿論日本人。
僕の娘よりも 7 歳若い。
この書の”包み帯”の”広告”に載せられた著者の結論が語る:
”国策によって多くの人々が満州で戦争にまきこまれた。その延長がシベリア抑留だ。
一義的な責任はソ連にあるが、日本政府も責任をまぬかれない。(巻き込まれて、悲惨に堕ちこんだ
人々に)日本政府は謝罪も補償もしない。
それゆえに、80 歳を過ぎた人たちが法廷に立ち、或るいは国会議事堂前に座り込む。
戦争が終わってから 64 年が過ぎた今もなお、彼らは人間としての尊厳を取り戻すために戦わなければな
らない。それが 21 世紀の日本人の祖国、日本だ。”
僕は 83 歳、満州育ち、英語があのころ以前から流暢に話せたし、戦争中当時米国対日放送を密聴取
しても育った、旧制高校の一年生の亡国朝鮮少年だった。そして、在米 65 年のアメリカ市民でもある。
シベリアに僕も数名の友人たちを失った。
べつに、アメリカにドイツ社会からあてもなく流入したドイツ籍友人も一人居た。
彼はドイツにロシアから攻め入り、ドイツ社会の女性を強姦したソ連軍兵士の落とし子だった。
それだけに、栗原俊雄さんのような後世代の著者が纏めてくれた報告書はとてもありがたい。
このブログで常に触れるが、16 歳のあの時、大連の街頭で日本人少年兄妹二人が競売された冷酷残
酷を僕自身この眼でみた。
あの衝撃から僕は 60 年以上を経て、アメリカに住む今でも醒めきれていない。
老齢化しても、僕がこのブログを続けるのも、それが理由の一つだ。
★★★
Comments
1 ■No Title
Thomas さんがブログで語り続けられていらっしゃるように、時代の生き証人に当時の現状を語り続けてもらうのは大事なこ
とと思います。語り人には辛い事と思いますが。
個々の人々が見たもの、経験したことを語られることから本や TV では見えない現実がズンと響いてきます。
そんな機会は昨今、更になくなりつつあるのでなおさらです。
PhillyCat 2012-12-10 05:33:31
2 ■Re:無題
>PhillyCat さん
このコメントありがとう。
thomas-penfield 2012-12-10 08:07:17
Diary.
December9.Sunday.
西安通信。
日記。2012 年。12 月 9 日。日曜日。
● 暫く日曜日礼拝を怠ったので、今朝は独りで近所の聖デニス教会のミサに出た。
聖体拝領もできた。午前 9 時に帰宅。チャックは勿論聖ヨセフ教会で多忙。
● 市川市のマサトとの電話連絡が中断。心配してたら、息子さんの真生君が急病だったとのこと。
今朝、連絡がついた。以下:
トーマスさん
電話ありがとうございました、なんだかトーマスさんの声を聞けて安心しました。
真生のビールス性の胃腸炎はどうにか快方にむかい、今日は学校には行けるでしょう。
生前に進也さんが言っていた言葉を思い返しています、「読み込む」僕等には読み込む行為が欠如してる
と、なんだか痛感する今日この頃です。
Bachのバイオリン・ソナタを聴きながらこのメール書いてます。
真人 12 月 10 日(月)0 時 45 分
● 電話でまさとと、いつもの国際電話。彼は弘法大師の伝記を読んでるとのこと。
ときあたかも、娘達が西安(長安)の始皇帝墓を訪れている最中。
昔、僕がイエール大学図書館の”貨幣図書室”への階段の暗がりで、突然”大秦景教流行碑”の複製を
見つけたときの驚愕を話した。
米国のお金持ち仏教信徒が拵えて、その模型一つは今でも高野山のとこかに寄進されてある。
そのときの、複製らしかった。イエール大学って奇妙な、ありがたい図書館だった。
(片山潜の書信、カール・マルクス手筆原稿、ビザンチン銅貨、大連ソ連占領期の新聞=大連日々新
聞、戦後大連の中国語新聞等)集めてないものがない。要するに記録蒐集という基本態度が卒業生
にたたきこまれてるからだろう。日本の昔の旧制高校教育が教養育成だったようにね。
進也訪問五回の一回中、僕は高野山を訪ねて真言宗の実物を見た。
そのとき、高野山大学図書館を訪ねて、あそこの図書館規模の貧弱なのにげっそりしたことも話した。
弘法さんが泣いてると思った。
娘達が西安を視察していることが嬉しい。あと二週間で彼らにコネチカットで会う。
でもさ、弘法大師についての馬鹿話が国際電話でできるのだからね。
これも、71 年保った進也との友情のおかげだ。
真人と話した後、インタネットで弘法大師についての出版書籍を検索した。
日本語入門書がだいぶ出ている。真言宗と景教との関係を探るのもおもしろいだろうね。
東部中東に伝播した初期キリスト教は確か 5 世紀以前に西安に到達し、唐代政府の庇護を受けている。
この景教碑はその一例。
● 西安の娘達から:
Hello!
We had one amazing weekend. At 8:30am Saturday our tour guide "Penny Wong"
picked us up and we drove an hour east to visit the Terra Cotta Warriors of Chin Shih
Huang Di (250 B.C. - 210 B.C.) [Wade Giles spelling, Pinyin is Qin Shi Huang] In
addition to unifying China, Emperor Chin Shih Huang also standardized currency &
weights and measures, began the Great Wall, and built this incredible monument to
his own afterlife. There are 3 excavated pits (all active archeological sites) open to
the public, in total containing over 8,000 terra cotta figures. There are several other
pits and areas that covered, and are being kept under cover until technology permits
a way to open them and not degrade the original paint which has now long faded on
existing open pits figures.
六枚写真がとどいた。手紙は英語のまま日記にのこす。
① The first pictures below are Pit #1, the largest and first one opened in 1979.
②Pit # 3 is believed to house Chin's "Honor Guard" - it lies closer to his actual burial
place, and the terra cotta figures bear the trappings of higher ranking officers.
③This is the excavated horse drawn carriage designed to carry Chin's soul into the
afterlife. In front of this carriage was found a "Security" chariot with a horseman and
three horses leading the way.
④After visiting the Warriors, we drove back into Xian and had lunch at a very local
spot with Penny. The restaurant was freezing (heating does not seem to be a big
priority in many local establishments) but the food was excellent (we had each had
a pork sandwich with a bowl of interesting dumpling soup, and a bottle of local beer).
Lunch for the 3 of us cost 30 Yuan (US $6.00).
⑤ Then swung by a local artisan's gallery.
⑥ This morning (Sunday) we took a walk around the Old Town section, including a
walk along the top of the old city wall (9 mile perimeter, 36 feet high, ~ 25 feed
width) truly awesome. We also visited the Moslem section of town. I took some
photos which i haven't yet retrieved off my camera, if they came out well i will send
along later this week.
Susie and I just arrived back in our apartment in Beijing. It is now 7:45pm Sunday
evening.
xoxo。
Diary.
December10. Monday.
日記。2012 年 12 月 10 日。月曜日。
本日から日記の公表封切時間を日本時間午前 2 時にする。その日の米国時間正午まで書き入れる時
間二時間余分持つことができるから。
● 予期した以上に、水仙が開いた。
22 日まであと二週間は楽しめる。
● チャックが現在の教会堂内部保持に関して、話してくれた。
近頃、教会内部に放尿する不心得者が現出している。
絨毯が汚れ、尿臭があたりを満たす。
教会近辺からは、公衆便所が消え去った。結果として、ホームレスの人々を含む公衆にとって教会便所し
か行き場がない。考えさせられる。
ただし、さすがはアメリカ。このような尿臭消し専用の商用クロロクス・スプレイを何処かでチャックの友人が
見つけて買ってきたそうな。それが、効き目があるとチャックが喜んでた。
Diary. December11. Tuesday. ペンフィールド。
日記。2012 年。12 月 11 日。火曜日。
● ペンフィールド近辺の電車路ヴィデオを見つけた。
僕たちの家の傍を通る郊外急行線#100の運行ヴィデオだ。
(所要時間が 10 分半のヴィデオ。)
乗り換え発着の 69 番街駅から僕たちの停車場(駅とは言えない)ペンフィールドにまで 3 分 11 秒でつ
く。
https://www.youtube.com/watch?v=FwZUPDqQ570
69 番街で地下鉄・高架終点から郊外急行線#100に乗り換えて、発車すると 1 分位でこの郊外線
は両側ににほとんど緑の林につつまれてしまって走るようになる。途中眼下にゴルフ場や住宅が広がるのが
すこしばかり見える。
僕たちのペンフィールドは三番目の駅、急行は停車する最初の駅。
ヴィデオ画面左下の時計で 3 分 11 秒目。
この 3 分 11 秒は、画面表示されている。
下掲がペンフィリールド停車場付近を描くヴィデオ。
この階段を下に降りて、右に曲がれば八軒目が僕たちの家だ。
歩行所要時間 40 秒。
https://www.youtube.com/watch?v=v4FACMQRBag
この辺の住宅は、おおむね、食いはぐれない僕たちの程度、中の下階級住宅が続く。
ありふれた集落だ。それでも、住めばみやこ。
ここに僕たちが住み着いてから、もう三十年ぐらいになる。
問題:小さな商店やお茶屋や本屋がないこと、蕎麦や饂飩一つ食べられない。
お菓子も煙草もおいそれとは買えない。誰も小売商やってては、食っていけないから。
タクシイもない。自動車を使わなければ、食料品買出しもだめ。
いずれ、日本もそうなるのだろう。
● 朝だ。火曜日。
エジプトの国内政情は、おざなりの文治派と軍治派の葛藤。
政情が安定するや、今度は権力争い。
そして、2.26 事件めいたのが発生する。
今朝の紐育時報記事。
Morsi's Opponents Describe Abuse by President's Allies
By DAVID D. KIRKPATRICK
Revelations that Islamist supporters of Mohamed Morsi detained dozens of his
political opponents last week threaten to undermine the Egyptian president's
credibility.
● 火曜日。夜。
今日の午後、JCC で歩行運動後、上ダービイに寄ろうと思い、単独運転したのが失策だった。
老齢の単独運転は禁物。追突されて、交通事故になってしまった。
幸いに怪我はなかった。
上ダービイの警察官の丁重さ、親切さに感銘を受けた。
木曜日にチャックとナーベスの修理店に行く予約をとった。
今後、単独運転は避ける。
★★★
Comments
1 ■単独運転
絶対無理しないでください!!
minjo 2012-12-13 13:55:11
2 ■No Title
驚きました。
車で事故されたとは。お怪我はなかったようでホッとしましたが。
気をつけてくださいね。フィラのドライバーはちょいと気の短い人も多いし。歩いていても肝が冷える思いをすることがあります。
とにかく、車だけの被害でよかったです。
PhillyCat 2012-12-13 16:12:48
3 ■Re:無題
>PhillyCat さん
ありがとう。
警察官がとても、丁寧に、丁重にやさしく扱ってくれたのに感銘を受けました。
でも、今後はなるだけ、運転しません。
としはとしね。
T.
thomas-penfield 2012-12-13 18:30:25
4 ■Re:単独運転
>minjo さん
どうもありがとう。
体操だけに、JCC体育館だけにとは思ってたけど、日本蕎麦と蕎麦つゆを求めようとしたのが、失策でした。笑。以後、単
独運転はできるだけ、慎みます。
でも、老後に、傍にチャックがついてくれるのが有難いです。保険会社との交渉も、全部彼がやってくれました。83 歳の失郷
民であるべき、の僕は幸運です。
アメリカに 65 年住みつけれたから。
T.
thomas-penfield 2012-12-13 18:36:23
Diary.
December12.Wednesday.
日記。2012 年。12 月 11 日。火曜日。
★ 母校ダートマス大学から、賀状と一緒にあそこの町ハノーヴァー雪風景のヴィデオが届いた。
”今更お国自慢”でもあるまいが、1946 年の秋、34 ヶ月の漂流後ボストンで 12 ヶ月過ごして、アノーヴ
ァーに辿りついた冬がこの風景だった。
もう七十年近くの昔だ。
http://www.youtube.com/watch?v=eP9_GgtEDb4&feature=youtu.be
1946 年、17 歳で漂流が始まったから、着米当時僕はまだほんの少年に過ぎなかった。
ただ、東洋で苛められ続けたことだけは事実。
こちらに来てほっとした。あの解放感は未だにわすれられない。
ただ、戦争中必死になって聞きほれたハワイの KRHO 放送だけは、今でも覚えている。
あの放送だけが、精神的な頼りだった。神頼みに近かったが。
★ 12 月 12 日早暁。
● チャックと二人で、いつもお世話になる女性友人ジェフィーを、メインラインの古風食堂に招いて昼餐の
予定。僕の心臓発作後、病院体操で知り合った、むかしむかしからの友。
年に数回、僕を”通訳”がてらに、招待してくれる。三十年前に夫と死別、けなげなに国務省(=外務省)
に協力して外国からのお客さんたちの世話をしている。
数度、この日記に書いたことがある。
メイフラワー時期からの家柄だ。この最近僕の老衰でお会いしてない。彼女の一月一日パーティーは有名。
ロシアから来て世話になった友人たちがごまんと居て、招待されては、彼女はロシアやシベリアに年に一度
は遊びに飛ぶ。彼女のお陰で、タタールスタンー共和国やヴォルガ流域に数名の友人を僕は持つ。加えて、
日本からの客も。
● 昨日の事故で、自動車前部がちょっとへこんでるけど、問題ない。
寝床に入ってから、考えたのだけど交通信号は緑だったし、僕の自動車破損は左側前部。
NoーFault 事件だよとチャックが言うのが理解できた。
★ 昨日、火曜日午後、ひさのさんが日本から美しい紅白のクリスマス花鉢二つを届けてくれた。
彼女が日本から、娘達が北京から、同時に、きたる土曜日に帰省する。
Diary.
December12-13.Wed-Thu.
日記。2012年。12 月 12-13 日。水曜日-木曜日。
水曜日。
ジェフィーを招待し、ラドナー町の333ベルローズで正午に落合い、食事した。
僕がどんどん老けて、一年間もご無沙汰してしまったお詫びでもあった。
http://www.yelp.com/biz/333-belrose-bar-and-grill-radnor
メインラインの僕たち仲間では、行き着けの食堂兼酒場。
周知のごとくアメリカ食はもともと不味いし、イロケがない、メニューが陳腐。
この食堂はお勧めできる。仲間行き着けだから。だが、昼食でも混むから、電話予約は必須。
ジェフィーは韓国ソウルから戻ったばかりだった。世話した留学生が結婚するので、その結婚式に出席した
そうだ。そのついでに、民族村を訪れて、僕の母が育ったというヤンソングアン(陽松館?)を観て回ったと
語った。二十年前に母がこちらの水原育ちの友人に仔細を漏らすまで、僕は陽松館のことを全然知らな
かった。僕の生立ちはそれほど朝鮮本土から隔離遮断されていたのだ。
妙な人生だ。83 歳になり、娘たちが北京とタクラマカン砂漠と大連を訪れ、クリスマスが近づいた待降節に
今度は母が育った場所の話をしてくれるのだから。(勿論僕はみたこともない。)
甲申事変後、朴泳孝一家は根絶やしになり、陽松館は荒廃したのが韓国政府により再建された。
● コソヴォ解放中に活躍した、ウエスリイ・クラーク(Westley Clark)大将が現在コソ
ヴォで活躍していることを今日知った。彼は僕が青年時代に徴兵れて駐在させられたアーケンーソー州出
身で、オクスフォード大学を出た知識人。稀な知識軍人の一人。僕より 15 歳若い。NATOの最高指
揮官を 1997 年から 2000 年までやった。隠居してから、コソヴォに戻ったようだ。
● 昨日、ペンフィールド集落の停車場付近のヴィデオを紹介した。これは、そのような紹介その2.
下掲はその続き。
https://www.youtube.com/watch?NR=1&v=ndt7hUvJQxM&feature=endscreen。
僕が育った大連の、南満州鉄道会社(SMR)鉄道線路には、満鉄付属区域)というのがくっついて
いた。鉄道線路がはっきりと民間住宅区域から隔離されているし、線路両側が緑で覆われている。
土地価格が高騰している東洋では考えられないだろう。
これだから、チャックみたいな人は、老齢化しても郊外に住み、電車で都心に通勤できるわけ。それに、老
人乗車料はすべて無料。
木曜日。
午前 9 時半にナーベス町の自動車修理店に行き、修理見積もりを貰い、修繕日を決定した。
事故に関する殆どの費用は保険会社が払ってくれ、僕の負担は 250 ドルだけ。
制度の完備さに感心した。1 月初旬に全てが解決する。
帰り道にナーベスの町のマイド日本食料品店に二人で寄って、蕎麦と蕎麦ゆをしこたま買い込んだ。
Diary.
December14.Friday.
日記。2012 年。12 月 16 日。金曜日。
午前中、少年時代にともに泣いたモルドヴァ出身の親友たちを思い出した。
彼らも亡国民族だった。
彼らがどうなったか、ほぼ七十年後の僕にはわかるすべもない。
欧州では最貧国だったと言ってもよいだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=P2oQqmV9ZMQ
モルドヴァに関してはなにも書くまい。
Moldovaと打ち込めば情報はすぐに手に入る。
ただし、英語で。
在日朝鮮族の若い人たちはもっと目を広げて、欧州の最貧地域に目を向けて、彼らが直面する事情を
知るべきだろう。
ことに、ローマニアとベッサラビア、ブコヴィーナと呼ばれた地方。
そして、分裂しているウクライナについても。
● 夕方チャックが戻って、未知のよしこさんが教会に訪れてこられた由話した。
お蕎麦と蕎麦つゆを届けてくださった。ありがたいことだ。また、ブログを通じて友人がふえた。
待降節終期に毎年おったてるクリスマス・ツリイ。
小さなツリイだが、窓に豆電燈が反映する。
屋外庭の豆電燈も一緒になって、なかなかはなやかだと思う。
チャックが今日の午後、結婚式で使ったバトニエールを持ち帰ったのを活けた。
小屋模型はリトワニア製。第二次大戦中、ナチス監視を忍んでこうゆう民家の窓に蝋燭をともし、森に隠
れているユダヤ族に食料をあたえる目印にした。
● 今度クリスマスで戻るコネチカットのレディング村の東北に、Newtownという町に
サンディー・フック学校という名が知れた私立小学校がある。そこで、銃撃殺人事件が起こり、20 名の児
童、7 名の大人が殺された。
http://www.nytimes.com/slideshow/2012/12/14/nyregion/20121215_SHOOTING
_GOBIG.html?ref=global-europe&nl=todaysheadlines&emc=edit_ee_20121215#1
Diary.
December15.Saturday.
母の大学写卒業写真。
日記。2012 年。12 月 14 日。金曜日。
● ひさのさんが、東邦大学(旧帝国女子医学専門学校)を訪問して、母の卒業写真集から卒業当
時の写真を送ってくださった。(写真、左下端)。
彼女は水原で日露戦争当時に生まれ、水原の町の女子児童たち中、僅か五、六名でが初等教育を受
けた一人だった。その学校の名前が三一学校。未だに、残って居るらしい。
そして、1919 年に朝鮮独立運動が引き起こされたとき、彼女は 14 歳、ソウルの梨花学堂在学中だった。
日本と朝鮮の狭間にうまれて育った僕は、理由があって、委細を全然知らない。
この写真が撮影された時期、彼女は 24 歳前後だったと思う。(彼女はこの頁上の左下)
● 土曜日の朝、pcをつけたら、下掲情報が入っていた。
「16 日に投開票を迎える衆議院議員選挙に、参戦経験のある 94 歳の男性が自身の葬儀費用をつぎ
込み、無所属で立候補した。AFP 通信が 14 日報じた。今回の立候補者のうち最高齢で、戦争を禁じ
る平和憲法を守るために出馬したという。
立候補したのは埼玉県在住の川島良吉氏。葬儀費用に充てようと長い間ためていた年金 300 万円
を切り崩して立候補の届け出を行った。川島氏が立候補を決意したのは、自民党の安倍晋三総裁や、
日本維新の会の石原慎太郎代表ら極右政治家たちが、戦争を禁じる平和憲法の改正を主張し、軍
隊保有や再武装の動きを見せているからだ。」
こんな方がいられるからこそ、日本民衆の底力は強い。
川島さんは特攻であえて死んだタロウの歳。
★★★
Comments
1 ■川島候補の得票数は---Dear Thomas,
トーマス様
埼玉県小選挙区・第 12 区にて立候補した川島良吉氏に関心をお持ちの様子なので、以下の結果表示ページを案内
します。川島候補の他に、他の全ての立候補者の得票数が明記してあります。
この小選挙区は、埼玉県では北部農村地帯にあり、関東平野のほぼ中心部に位置しています。利根川の南岸に面し
平坦な地形で農業が盛んであり、政治的には保守的な土地柄です。
ご関心あれば、貴方の自己責任にて以下のリンクを打鍵してみて下さい。
[小選挙区開票速報:埼玉県第 12 区]
http://www.asahi.com/senkyo/sousenkyo46/kaihyo/A11.html
川島候補は、最下段に顔写真付きにて得票数が掲示されています。お元気で。
Yozakura 2012-12-18 23:21:49
2 ■Re:川島候補の得票数は--->Yozakura さん
こめんとありがとう。
調べました。
この方の意気に感心しました。
thomas-penfield 2012-12-21 01:03:33
3 ■無事に到着しており、一安心
トーマス様
返信を拝見しました。投稿が暫し、表示されなかったので、「また、太平洋の何処かで蒸発したのか?」と懸念して居りま
した。無事に到着しており、一安心です。
お元気で。
Yozakura 2012-12-21 12:43:40 Reply to this comment
4 ■No Title
僕の老齢反応が緩慢になってます。
ごめんなさい。
毎度のコメントありがとう。
T.
thomas-penfield 2012-12-21 15:44:52
Diary.
December16.Sunday.
日記:2012 年。12月16日(日曜日)
● ニュ-ワークNJにある紐育国際空港から。
娘達が昨日早暁に着陸、帰国したと知らせくれた。
来週土曜日に会う。
● 新潟の襄から。
とむさん
また起きてしまいました。銃の乱射。
犠牲が小学校、子供達というのが、やりきれません。
犯人は、おそらく人格障害でしょうが、こんな事件、これからもどんどん発生するに違いありません。
銃とイスラエルは、アメリカに突き刺さって抜くことのできない、大きな大きな棘。
この棘の痛みは、これからもアメリカを永久に悩まし続けるに違いありません。
日本の犯罪も、似たようなものです。
多くは、野に放たれた人格障害者達が起こしているのではないか。
そういった障害者は、教室の中にも一人や二人は必ずいますから。
● 自殺した二十歳の子について。
子供の時から嫌になるほど聴きなれた日本語の句、「無理が通れば道理引っ込む。」
襄が書いてるとおり。二つとも僕たちのアメリカの「暗く、暗く突き刺さった棘」。
新聞記事で読んだ:
Why did his mother, a well-to-do suburban divorcee, keep a cache of high-power
weapons in the house? What experience did Lanza have with those guns? And,
above all, what set him on a path to shoot and kill 20 children, along with the adults
who tried to stop him?
Lanza shot his mother, Nancy Lanza, to death at the home they shared ...]
①何故、離婚し裕福な郊外女性の母親、ランザ夫人が自宅中に数多の武器を所有してたのか?
②これらの武器使用経験がランザにあったのか?
③どのような理由、経緯で、この子供(ランザ)が 20 人の子供を 7 人の大人と一緒に殺したのか?
とめようとした大人も含めて。
Read
more:
http://www.seattlepi.com/news/us/article/Agents-visit-Conn-gun-shops-after-sch
ool-massacre-4122058.php#ixzz2FDVGG09l
母親は最初に殺された。自業自得。
★ 日曜日、午前十時半から正午まで、朝鮮戦争歴史映画を視聴した。
http://www.youtube.com/watch?v=lzMGZX9eJ1U
大学第一年生終了の 1950 年に北朝鮮軍による侵略が勃発。
大学での親友ジョンも海兵隊将校になり、ジェットを操縦し、ソウルの母を乙支路の診療所に母を訪ねて
くれている。
僕もあの戦争勃発四年後に徴兵されて、1954 年からアーケンソーの山奥で、アメリカ兵士として、三年
暮した。
少し宣伝映画じみているけど、感慨深く見た。
★★★
Comments
1 ■ロス・アンジェスルも寒くなりました。
Thomas-penfield さん。
初めまして。
『幻の旅路』のブログの大湾節子です。
ブログを読んでくださってありがとうございます。
大変興味深いプロファイルも拝読致しました。
アメリカのニュースを一緒に経験し、考えることが出来る方が読者になってくださって嬉しいです。
今回の小学校の乱射事件を機会に、アメリカ政府や国民が、命の大切さをもっと自覚してくれると良いと願っています。
*映画『野火』は私も夫と観ました。
どんな状況に置いても、人間はいかに生きるかということを考えさせる映画でした。
*私は大変スローで、新しいエッセイが中々書けません。
『アメリカのニュースに思うこと』
『ラフ新報に好きなエッセイが載りました』
『幻の旅路』から、
『私とデイビットの国際結婚』
など、前に載せたブログをお読み下さい。
また、読書好きの方に、ブログをご紹介下さい。
お体にお気をつけて、楽しい年末年始をお迎え下さい。
これからもどうぞよろしくお願い致します。
大湾節子 2012-12-18 07:28:37
2 ■節子さんへ。
書き込みありがとう。
今後ともよろしく。
T.
thomas-penfield 2012-12-18 07:44:20
Diary.
December17.Monday.
銃器所持。
日記。2012 年。12 月 17 日。月曜日。
● サンディー・フック小学校事件の余韻がつづく。巷にあふれる銃器問題が消すすべも,消される筈もな
い。
とにかく武器はなんでも、いくらでも普及しているのだから。
そして、近東占領から戻る、帰還傷病兵士問題はどんどん深刻化している。
あたまをやられた帰還兵士たちに加え、増加する一方の失業宿なし族。
失業はもう慢性だ。
●日曜日の日記記事について大阪の友人から来信、ありがたかった:
"AFPが報じた川島良吉さんの記事…全く同感でしたので、
お披露目するべく 私のHPに トーマス名義で掲載させて頂きました。
先月末、何年も疎遠になっていたワルソーの友人からメールが届き
それが契機で、亡父と同じ諜報将校で、亡父と同い年、軍でも同期
だった 元・ストックホルム駐在武官の娘さん(79)と知り合いました。"
http://homepage3.nifty.com/wedd/hyousi.html
● もう月曜日。土曜日にコネチカットに二人で行く。
今午前 10 時。これらかジャイアントでの週例買出し。
どんよりと曇った初冬の朝だ。
サンディ・フック事件の余韻はずっと、ずっとつづく。
巷には合法、不合法武器があふれている。
始末が悪いのは銃器所持が天賦の権利だと思い込んでるアメリカ市民が多すぎること。
ピストルの話じゃない、機関銃是非が問題。
処置ないと思う。
Diary.
December18.Tuesday.
第二次大戦写真帖。
日記。2012 年。12 月 18 日。火曜日。
★ 日本のひさのさんから。
トーマスさん
いよいよコネチカットですね。中国のお話などいろいろ聞けそうで楽しみですね。
日本でもコネチカットの小学校の事件は大きく取り上げられました。10 年前、大阪の国立大学の附属小
学校で侵入者が子供をナイフで切りつけて何人も殺したり、ひどいけがを負わせた事件がまだ記憶に生々
しいので、このような学校襲撃の事件には、関心が高いのです。
以前、日本語学校のアメリカ人大人向けクラスで銃の話になったとき、ヨーロッパ系の人たちが、
スイスでは、国民皆兆柄だけで、どこの家にも銃があるけれど、アメリカのような事件は起きない、なぜアメリ
カでは起こるのか
という話が出ました。
教育が悪いとか、安易に買えるなど意見が出ました。
このような結論が出ないお話(対話、討論?)の機会があまりにも日本には少ないです。どうしてでしょう
ね。教育かな。
ひさの
● たしかに、スイスは同じ環境にあるわけですね。シニカルな言辞ですが、僕は悲観的です。
口先ばかりで、何にも公にはしないことでしょう。また同じ事件がおきて、また宣伝と広告が出るだけ。
ニュータウンは今度行くレディング村の隣りです。
アイルランド系の親類老夫婦が住んでます。
老夫婦と言っても、僕より年下。(^O^)
★ 月曜日。12 月 7 日。
12 月 17 日は単調な月曜日。午前中ジャイアンツ超級市場買出し。
買出し後、お隣りの古本屋を二人で漁ったら、下記を発見、飛びついて買った。
Men of World War II. Fighting men at ease。
第二次世界大戦中兵士の男たち。写真帖。
Bachner, Evan. c2007.
(Abrams.,115 W.18th St,NY,NY,1011. www.abramsbooks.com)
この写真帖をめくりながら、思い出に耽った。
写真帖に集録されている連中は僕よりほぼ 6 歳ぐらい年上だった。
死んだタロウの世代だが、アメリカに新来だった僕の仲間に酷似している。
殆ど差がない。
ただし、(東洋で自分自身背高いとおもっていた)僕は東洋人だったから、背の高さはくらべものにならな
かった。
24 歳だったにしろ仲間中では子供扱いされるほど年少に見えた。
毎度、昔のことばかり書くが、80 歳を過ぎた僕にとって、もはや過去しかない。
古写真がほぼ散逸してしまった。
今日手元に残るのは、往事米国陸軍兵士時期の(下掲)しかない。
Fifth Armored Division.Camp Chaffee, Arkansas.September 1954.
(米国陸軍第五師団。キャンプ・チャフィイ。アーケンソー州。1954 年 9 月)
陸軍兵士基礎訓練、卒業名簿録1954.
Tayolor Publishing Company, Dallas, Texas. 1954.
1945年から1954年に掛けてのほぼ 10 年間は摩訶不思議な時期だった。
1945 年に朝鮮は日本統治から離れた。そして、僕は東洋の民族狭間から抜け出せた。
僕は早生まれの 16 歳だった、そしてアメリカまでに、36 ヶ月間漂流し、ボストンにたどり着いた。
着米後5年後に今度は朝鮮戦争で徴兵されて米国兵士の軍服を纏った。
1954 年の夏、徴兵され、ミシガンから送り込まれたのが、米国南西部の訓練基地、チャフィーだった。
基地に、木造兵舎がずらりずらりと並んでいた。
これが、典型的な点呼の模様一例。
僕の基礎訓練卒業アルバムに残る訓練生仲間の名簿に見られる写真。
連中の殆どが少し南部めいた中部訛りで話した。
仲間で、大学出身は僕一人だけだった。
六十年前アメリカの話だ。
このキャンプは、爾後越南からの避難民収容施設としても使用され、ずいぶん前に廃棄された。
長い前置きになってしまったが、当時徴兵された青年たちは米国中部のミズーリやカンザスから出身のこの
仲間と三年すごしたわけだ。
信じられないだろうが、アメリカの人種民族差別はあのころでも、少しマガヌケテいた。
差別の壁は東洋での壁よりも、ずっと、ずっと、ずっと低かった。
純朴な、優越感のひとかけらもない、お人好しばかりだった。
上記の写真帖を見ながら、あの仲間と楽しく過ごした 3 年を思い出す。
ぼつぼつ彼らも死んで逝く。
Diary.
December19. Wednesday.
日記。2012 年。12 月。19 日。水曜日。
★ アルヘンチナ・ブエノスアイレスからの義兄が逝った。
金曜日にてテキサスで葬式がある。
トルコの希臘系で生まれた彼は、幼時あそこで起きたアルメニア・キリスト教徒虐殺事件を逃れて、イタリア
で経由で南米に逃れた。そのために、ブエノスアイレスに希臘人は多い。(オナシスもその一例だ。)
ご承知だと思うが、当時オデッサ港で、虐殺を逃れて海に飛び込み沖に停泊していて逃れてきた男たちが
救いを求めるのを諸船舶は無視した。
そのとき、積荷を全て海にすてて、避難してきた人たちを救い、イタリアに連行してくれたのは、ある日本商
船だけだった。太平洋戦争直後は、それからまだ25年位しか経っていなかった。
その話を僕はどれだけアルメニア系の男たちから聞いたか、数え切れない。船長さんの名前も、船の名前も
僕は知らない。
義兄一家はその経験はなかったが、同じくイタリア経由で、ブエノスアイレスに住み着き、そこで育った。爾
後、甥たちはフィラデルフィアのヴィラノーヴァ大学に留学、卒業している。
★ Newsweek, p.16, December 24 issue.
https://www.google.com/search?num=10&hl=en&site=imghp&tbm=isch&source
=hp&biw=909&bih=427&q=adrees+latif&oq=adrees+latif&gs_l=img.3..0j0i24l6.1
2341.22583.0.23898.16.12.2.2.2.0.135.835.11j1.12.0...0.0...1ac.1.CgmeSoQL55
4#hl=en&tbo=d&site=imghp&tbm=isch&sa=1&q=adrees+latif+newtown&oq=adr
ees+latif+newtown&gs_l=img.3...16914.18344.0.19214.8.8.0.0.0.0.62.364.8.8.0
...0.0...1c.1.COqEbZFudWY&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.r_qf.&bvm=bv.1355534169,
d.dmQ&fp=ceedfdeed42a9037&bpcl=40096503&biw=909&bih=427
ニュータウン小学校虐殺事件で子供を亡くし、泣き崩れる母親と、天をうつろに仰ぐ父親。
(上掲アドレスでの最初の写真。)
68年前に、大連でよく見た顔だ。
皇軍に遺棄された大連日本人市民は同様な酷い目にあった。
この天を見つめる父親の表情は 68 年間僕が悪夢に観てきた表情。
★ 木曜日。明後日に娘達に会いに行く。
今朝早暁の朝焼け。
僕たちのXmasツリイ。大連時代を思い出す。
二次大戦写真帖を買った日の古本屋。写っているのがチャック。
★★★
Comments
1 ■古本屋
トーマスさん、こんばんは!
古本屋さんの写真を見ての質問ですが、これは普通の本屋さんのディスカント本ですよね? フィラデルフィアには古本屋
(second hand books stores)は無いのですか?何かの雑誌で読んだのですがアメリカでは、トーマス・ハーディの初版本
が数万ドルで取引されているとありました。昔の初版本は日本でも重宝されますが、アメリカでも同じですか?
s-Ojaga 2012-12-21 00:52:51
2 ■Re:古本屋
>s-Ojaga さん
フィラデルフィアは昔古本屋で有名でしたが、この半世紀中に全滅しました。
このフルホンヤは投売り専門企業です。
原価の10%以下で買えます。
T.
thomas-penfield 2012-12-21 01:07:59
Diary.
December20. Thursday.
日記。2012年。12月20日。木曜日。
何の変哲もないクリスマス前の木曜日。
明後日、午前11時に迎えの車が来る。
少しばかりのXマス贈り物を包んだ。
包みながら思った。
しばしばモルドヴァに触れながら、なまの住民がもつ感情について、纏めたことがない。
下掲のヴィデオは、地球上何処にでも残る、”弱小国民感情表現”の一例:
http://www.youtube.com/watch?v=P2oQqmV9ZMQ
少年時期に交わった友人たちの”亡国描写”。
● チャックが使っているVerizonのE-mailが不調。
僕はグーグルを使ってるから大丈夫。
● もう金曜日、午前二時。
夜が明けたらチャックはクリスマス直前のお御堂奉仕、正午から午後8時まで。
僕はJCC体育館で40分の歩行器使用。
明日午前11時に出発だ。
Diary.
December21.Friday.
大家族、総数24名。
日記。2012年。12月21日。金曜日。
記たる火曜日がクリスマス。待降節もおわりに近づいた。
明日、迎えのリモジンが来て、僕たち二人はコネチカットにでかける。
行き先の西レディンングは、 (Topstone Park. Reddng, CT.)でいろんな写真が検索できる。
Topstone Park, West Redding, CT
https://www.google.com/search?rlz=1G1TSNA_ENUS369&q=west+redding+ct+t
rain+station&um=1&ie=UTF-8&hl=en&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&ei=q
VnUULW5JrKo0AH60IDQAg&biw=909&bih=427&sei=rVnUUJ3QDcuF0QGOv4HAD
w#um=1&hl=en&tbo=d&rlz=1G1TSNA_ENUS369&tbm=isch&sa=1&q=+topstone
+park%2C+west+redding+ct&oq=+topstone+park%2C+west+redding+ct&gs_l=
img.3...8292.10274.6.14468.5.5.0.0.0.0.45.170.5.5.0...0.0...1c.1.GrMYmOYpZOE
&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.r_qf.&bvm=bv.1355534169,d.dmQ&fp=ceedfdeed42a90
37&bpcl=40096503&biw=909&bih=427
● 正午からチャックは8時間御御堂奉仕。午後8時半に戻る。
僕はJCCで歩行器を使うつもり。
牛肉コンソメの缶を開けて、水で薄め、白味噌を一寸溶かし、加熱すると、味噌汁になることを覚えた。
沢庵と胡瓜の薄切りを露西亜バン薄切りに載せて、添え皿にする。
アメリカの老後生活はシンドイね。
● 米国中部地帯の猛吹雪:
NE,IA,WI.ネブラスカ、アイオワ、ウイスコンシン。 見下:
● アメリカらしい大家族。子供が22名。総計24名。
http://www.youtube.com/watch?v=xMcjahnm3-8
父親のビアズリイ君が亡くなった。享年92歳。
靴など、卸しどうようの買い物だったらしい。
22人の子育てなんて、今じゃ受勲もの。
あの戦争で、青年たち300万殺した。
● ひろあき君から来信。
有朋友、自遠方来。亦楽哉。
ポーランドの情報が再生。
Diary.
December22.Saturday.
出発。途中渋滞。到着。
日記。2012年。12月22日。土曜日。
午前11時に出発。 行き先が下掲。
https://www.youtube.com/watch?v=IgJOPB9Gbw4
● 四泊だが、チャックがすっかり喜んでる。
楽しい休暇になることだろう。
今、土曜日、午前6時。荷造り終了にてんてこまい。
● コネチカット、レディング町までの、クリスマス待降節中、高速道路超渋滞の旅。
土曜日 10 時 40 分に出迎えのリモが 20 分ほど早めに来てくれた。
最混雑の南北国道95と NJ 高速道路を北上した。リモのドライヴァーは毎年来てくれるのでお馴染みの
コロンビア青年。すっかり顔馴染みだ。
僕が運転すると普通 5 時間はたっぷりかかる道程だ。彼の運転では、渋滞しないと 3 時間でつけるが、今
日は 4 時間半かかった。
コネチカットに入ったら高速道路は最高度の渋滞、それで運転手さんは高速道路を離れて町から町へと
辿ってくれたので、この近所の町風景がぞんぶんに楽しめる旅だった。午後 3 時に到着。
コネチカットから差し向けてくれた。リモ。
コロンビア系の運転手さん。毎年来てくれるから、顔なじみ。
国道第一号を辿ると、この式の庶民住宅がえんえんと続く。
ほぼ半世紀前から見慣れた、NYC 郊外国道沿線のアパート。ぽつんと広い野原に孤立している。
NYC あたりには、このような高層住宅が林立している。
すこしばかりにしろ隙間をおいては、高層住宅建築が続く。
★
やっとついた。
レディング宅のうしろ庭。
明日もっとましな写真を撮ろう。
大広間の暖炉まえに、へばりこんだチャック。
そして、本棚がある中二階。
★★★
Comments
1 ■No Title
日本は今、12 月 24 日の朝です。今夜はイブのミサで聖歌隊で歌ってきます。どうぞ良いクリスマスをお過ごしください。
minjo 2012-12-24 09:45:46
2 ■Merry Christmas.
ありがとう。
来年もどうぞよろしく。
T.
thomas-penfield 2012-12-24 11:33:48
Diary.
December23.Sunday.
待降節の 23 日。
日記。2012 年。12 月 23 日。日曜日。
●(コネチカット州)ベツレヘム村に未だに残る尼僧院を皆で訪れた。
すこしばかり期待して訪問したのだが、往事栄えたこの尼僧院はすっかり寂れてしまっていた。
まわりに住む今までの信徒がどんどん消え、お金持ち隠居村に変わったからでもあろうが。
ベツレヘム村の隣町Woodburyで昼食をとり、戻った。
娘達は近所での夜会に出席。僕たち老人は、加わらず自宅で夕方を過ごした。
● 日本ではもうクリスマス・夕べ’デイ。地球の反対側なんだもの、しかたがない。
この日記はどうしても一日遅れになってしまう。
● 僕たち老人が三人でひっそりとクリスマス・イーヴを過ごすレディングのこの家。来年、チャックも、もう卒
寿だ。
僕たち老人三人がクリスマスを過ごすレディング宅の大広間。
手前の赤い二つのシロモノは中国から娘達が持ち帰った赤提燈二個。
この大広間の暖房は天井までそびえ、中二階に僕がおもに使う書斎がある。
大広間入り口からの廊下。
暖炉正面。中国提灯をぶらさげた。
食堂兼”酒場”。バー上に僕のコンピュータが見える。
最近、新装した台所。
僕の娘だけあって、アナスタシアは書画が好き。
北京の書画店で”紫気東来”とあるこれを買って、こちらで額に入れさせた。
中国の何処かで買ってきた鼎複製。
これが、酒場バーに鎮座しているのにたまげた。
● フィラデルフィアからの通報。
フィラデルフィアで生まれた女性双生児が、腹部で繋がったままだったのが、40 名の医師が協力して切離
手術を行い、成功したとのこと。明治時代に日本からの医学留学生がここで教育されたことを思い出した。
野口英世だってここで教育されたし、高峰譲吉もそうだった。
http://natmonitor.com/2012/12/23/previously-conjoined-twins-debut-just-in-time
-for-the-holidays/
Diary.
December24.Monday.
Xmas 前夜日。
2012 年。12 月 24 日。月曜日。
午前 6 時起床。
大広間に下りたら、昨日チャックとアナスタシアが共同で天井から吊るした中華赤提燈が目に付いた。
チャック曰く、”赤提燈ね、妙なものだなと思ってたら、吊るした後雰囲気を西洋から東洋に突然変化して
しまったみたいだね。” 僕もそう思う。
● 追伸:昨日のベツレヘム尼僧院訪問:
昼食をとった食堂:goodnews cafe, Woodbury, CT
http://www.youtube.com/watch?v=3GYF-qnYckM
● 朝地下室の歩行器を使って 40 分歩いた。
地下室の大きな出口兼用窓越しに、眼下の林背後に遠く隣家が一軒見える。
そして、林を遮るように支流が合流して形成する淀みが池のようにひろがる。
チャックと二人で、近くの湿地地帯まで散歩することにした。
一年ばかり離れていたこの家が後ろに見える。
この玄関は二年前に増築したもの。
門を出て、Topstone(頭岩)路を歩く。これは、歩く僕たちの背後の写真。
西に向かって歩く前途に、頭岩路右脇に頭岩山から流れ落ちてくる流れがせき止められたまま、沢池を形
成している。
これが、その沢池。滝を降りてその川は娘達の後ろ庭の”沢池”に流れ込んでいるわけ。
頭岩路から左折して、湿地地帯に入る。
娘達の後庭から流れてくる支流がこの湿地原を支えているのだ。
ここまで、チャックと二人で歩いた。時折近所の人たちの自動車が走り来て、去る。
引き返して歩くことに決めた僕たちの背後に残る娘宅沢池からの流れ。
僕たちが滞在する娘達宅は林の背後に隠れている。
一時間近く散歩したことになる。だいぶ疲れた。
戻ってから、娘達が訪ねた故郷大連についての報告に傾聴した。
夕方娘達は夜会へ。僕たち老人三人は家に留まって夕食。
静かな、平和なクリスマス前夜だった。
1944 年の厳冬に過ごしたハルピンのクリスマスを思い出していた。
日本降伏 9 ヶ月前のクリスマスだった。
すでに、もう 68 年前の、過ぎ去った昔、昔だった。
だが、あの悲惨だった戦争の悪夢は未だに消えない。
でも、僕はなんとかアメリカに平和な人生を築けた。
日本読者から数通の電信があった。
ありがとう。
Diary.
December25.
Tuesday. クリスマス。
日記。クリスマス。早暁。
クリスマス。
昨夜雪が降って積もった。窓外はまだ漆黒の闇だが、少し白んで居る。
夜が明けたら写真を撮ろう。
ハルピンの金ダイフアン君から賀状来信!!70 年来竹馬の友だ。
そして、日本のヒロアキ君からも。
● 東京に僕のブログ読者の朋友が居る。素晴しい風景写真を送ってくれる。彼は蕎麦通だ。
彼曰く:
”私は殆ど毎日、同じ店の蕎麦を食べています。
お店にとっては優良なリピーター、
が、上には上がいます。
どういうことがと言うと、1日に2回も3回もいらっしゃる方がいます。
もうこうなると、お店にとってはVIP以上の存在、
その人の健康は、お店の出す料理によって左右されることにもなりますから、
出す料理から飲料水まで、より安全で衛生を徹底させたものにしなければいけません。
手抜きは一切できないし、誠実に鮮度の高いものをださなければいけません。
安い店とはいえ、責任重大です。
この業界に半ば足を突っ込んだのが今年の初め、まだまだ素人ですが、
本格的なライフワークにしようと考え始めています。
そして、リピーター、毎日来てくださる方を増やすことが大切であるということを
改めて痛切に感じています。”
● これだから、僕は日本が忘れられないのだ。
昨夜、娘達が言ってた。日本は忘れられないよ、そのうちに再度戻りたい。
”パパがどんなに、日本的なのかを思い知った"って。
昨夜、日本訪問写真を含む写真帖を編集したのを渡して呉れた。
ゴーラカダン滞在中のも含めて.
ゴーラカダンの懐石料理にはびっくりしたらしい。笑。まだ、外は漆黒の雪闇。白んだら写真をとろう。
● 午前 8 時半記す。
窓外一面の雪。
眼下の小川は、右(西)側から頭岩山から流れてきた小川と合流し、昨日チャックと歩いて訪ねた湿地
地区に注ぐ。
台所から眺めた向こうの丘の雪景色。
そして、頭岩路に沿った表庭雪景色。
アナスタシアが中国、東南アジア、日本の旅行写真を三冊か四冊の写真帖に編集して、コンピュータで印
刷してくれた。これは、成都、大連、西安の部。
あの 15 年戦争以前、父は満鉄に特別編成された当時の特急列車、アジア号建設チームの一員だった。
この機関車の設計図の部分を父は製図した。
黙って働き、黙って習い、黙って同胞を教え、黙って老い、黙って彼は死んだ。
栄華を彼は求めなかったし、朝鮮独立の日を祈りながら彼は死んだ。
そして、彼の孫娘はアメリカ市民としてアメリカで活躍している。
僕の育った界隈を彼女たちは歩いてアメリカに戻った。
ほとんど何も残らないそうだ。
だが、僕たち一族はアメリカに故郷を見つけたし、建設した。
Diary.
December26.
Wednesday.
帰宅、クリスマス。
日記。2012年。12月26日。木曜日.
午前6時半起床。午前8時にリモ到着。
クリスマス翌日の高速道路を CT から NYC 経由でフィラデルフィアまでたった3時間で 11 時に到着した。
たった四泊の旅だったが、さすがに老衰期に入ったものだ。疲れた。
すぐに、ジャイアント超級市場で食料買出ししたが、降雪の予報がでていて、泣き出しそうな空模様だった。
夜桜さんから親切な便りがあった。
● 帰宅前に、レディングで、暫くの間の見納めというつもりで、大広間と玄関の写真を撮った。
老人三人のこととて、四泊中のあいだ、この部屋でともに生活したことになる。見晴らしがよい、大広間だ。
しかも、冬中だが庭の沢のような池に鴨の群れが泳ぐ。
そして、連接しているTV室。
西向きに撮影した大広間。僕たちが腰掛けるソーファ。
玄関からはいると、二階への階段があり、入口広間があり、大広間につながる。
大広間の天井。
そして、下掲が玄関。おそらく、来年のクリスマスまで戻らないだろう。
楽しい四泊だった。
昨夜は親類 15 名が集まった夕食だった。
★★★
Comments
1 ■到着を確認。楽しめた模様ですね。
トーマス様
2012 年 12 月 26 日付けブログを拝見。手紙2通の到着を確認。
例の掲示分の直ぐ傍には、後半の部分も別人の名義にて上梓されていますから、探索の手間も不要でしょう。
推測した通り、貴方の嗜好に合致していた模様で何よりです。お楽しみ下さい。
Yozakura 2012-12-30 15:24:43
2 ■Re:到着を確認。楽しめた模様ですね。
>Yozakura さん
おたよりありがとうございます。
ただ、老齢化しましたね。たった四日だったのに、相当に疲れました。
そして、戻り早々に希臘側の姉夫婦が亡くなりました。
まずはお礼まで。
T.
thomas-penfield 2012-12-31 17:07:11
Diary.
December27.
Thursday.
日記。2012 年 12 月 27 日。木曜日。
● 昨年 11 月にシンヤを亡くしたと思ったら、今朝伊賀上野から電信。
電信で、マサオが脳溢血で倒れたことを知った。
失語症状でもあるそうだ。
人生の運命だ。
僕もあとの始末をできるだけ今しておいて、迷惑をかけないようにしたいと思う。
母親二人の世話をあしかけ 25 年一緒にやったから、歩くべき道の諸問題はよく知っている。
● 午前 6 時半だが、外はまだ漆黒の闇。
チャックは今日、御御堂奉仕出勤するそうだ。
彼の出現を、教会がまちあぐねてるのだろう。
● 新潟の襄から。ひさしぶり。 12月27日(木曜日)
とむさん
今日から冬休みです。
それで手始めに病院へ。
眼科で診察を受けました。
現状維持。悪くなっていないので良しとするということのようです。
待ち時間にガラス窓から外を眺めながら一句。
「枝先でふくら雀や空気食む」
待合室を眺めて
「受付にマスクの列の並びをり」
「風邪の子や待合室の赤い顔」
明日は母の所に顔を出します。
「吾を待つ母住む里の明けの春」
オソマツ。
襄。
● 午前 9 時 15 分。
日本に電話して、島名マリさんと、マサトと喋った。
シンヤが去年 11 月に逝ったが、今度は政雄が脳溢血で倒れたとのこと。
マサオが亡くなったら、僕たちの仲間は最後だ。しかたがないけど。
雪と雨と晴れが混ざった奇妙な木曜日だ。
● アナスタシアが入手して、額に入れ、大広間に飾った「紫気東来」の四文字の由来を書いて、彼女に
送った。道徳経を読んだとき中学 3 年(12 歳)だった。でも、戦争中、中学で漢文なんて見向きもされ
なかったし、中国文化を系統的に教えるなんて夢だった。
だから、常識的な仔細はアメリカで英語で読むほかなかった。
そして、殆ど全部を英語本で読んだ。
大学で「孝経」と「論語」をテキストにして、漢文を教えながら。厚顔な話だが、当時よくもあんなことを大学
がさせてくれたものだと思う。論語読みの論語知らずって本当だったから。
だけど、必死になって読んだのが事実。
これも、恩師シッファー先生の厳しい躾のおかげだった。
大連育ちの多言語背景で、漢文基礎の文法的把握だけはできた。
Diary.
December28. Friday.
室謙二。非アメリカを生きる。
日記。2012 年 12 月 28 日。金曜日。
金曜日が巡ってきた。クリスマスが過ぎ、新年が近づく。
チャック同伴で午前 9 時にブリンモア病院に行き、血糖値検査の通例採血を受けた。
爾後、ストラッフォード市場に行き、歩き回って戻った。
● 昨日午後、ひさのさんが送ってくれた下掲書籍が届いた。
室謙二。
非アメリカを生きる。(複数)文化の国で。
ナショナリイズムを離れた”アメリカ人”とは?オバマ時代を生きながら描く、これまでにないアメリカ論。
岩波新書。2012.
日本語新刊書については、いつもひさのさんにお世話になり、啓蒙される。
今回も例外でない。
● 1946 年はこの書の著者室謙二氏が生まれた年。
僕はその年に”故郷”大連を脱出し、朝鮮半島で 20 ヶ月を漂流したあと、ボストンに 1948 年 8 月に、
単身たどり着いた。1945 年から 1948 年にかけて、奇妙な 3 ヵ年だった。
この書は冒頭にスペイン戦争を語る。
僕が生まれた 7 年後に、スペイン内乱戦争は1936年に始まり、滅茶苦茶有耶無耶のまま西欧諸
国はナチス・ドイツが始めた世界第二次大戦に引き摺り込まれた。世紀の左右妖怪二人ヒトラーとスター
リンが活躍した。
僕がアメリカ学生時代を経験した 1948-1953 年時期は時間的にスペイン内乱からそんなに離れてい
ない。
日本敗戦が 1945 年、僕はたった 16 歳だった。その理由もあって、漂流時期にも、ボストンの高校時期
にも、さらにダートマス大学の四年間ベーカー図書館にとぢこもり、猛烈に手当たり次第、読めるだけ読ん
だ。ただし、全部英語で。
その英語濫読時代が、筆者室謙二氏が描く戦後世代と完全に符合している。
ただし、あの戦争中、日本の無謀な中国侵略と対米挑戦から敗北に至るまでの過程を僕はハワイ
KRHO 密聴取でずっと辿れた。
子供ながら。
● 室謙二氏はこの書の始めに、スペイン内乱中のアブラハム・リンカーン国際旅団について書く。
この国際旅団の戦闘歌は有名だ。
英語版が下掲:
http://www.youtube.com/watch?v=GTDzjYNJZ0Q
http://www.youtube.com/watch?v=b6hBe-s40q4
ロシア語版:
http://www.youtube.com/watch?v=IvJ6KX4EPXc
室さんによると、現在でも中国では歌われているらしい。
歌詞の題は Battle of Jarama.(Jurama かもしれない。)
余談にすぎないが、歌詞の作者がマダード、MaDade (86 頁)と誤植されているが、これは McDade マ
クデイトの間違いだ。Mc は父系を示すケルト接頭語だから、cが抜けてしまったわけ。(フィラデルフィアには、
下町付近にマクデイド大路がある。)
この書のおかげで、上記の旅団賛歌を再び聴いた。下掲ハラマ戦闘とは別の賛歌。
http://www.youtube.com/watch?v=ht8qmL2oB1M
朝鮮の知識人にこのような歌があるていど膾炙したのは想像できる。
想像にすぎないが。反ファシスト抵抗歌でもある。
日本の学校での卒業式のたびに歌う「蛍の光}も、僕たちは朝鮮語国歌に換えて歌ったのだから。
大韓民国亡命政府は上海フランス疎開にほそぼそと存在していた。
ダートマス大学在学時代、ユダヤ系の親友が居た。
彼の父母は二人とも著名な弁護士だったが、彼の姉はスペイン人民政府要人の息子と恋仲になり結婚
していた。
人民政府滅亡時期にアメリカに来ていたらしい。僕より二歳ぐらい上の青年だった。
あのころ、戦争から帰ってきた連中はまだ生きていた。
旅団の30%がユダヤ系だったということも納得はできる。内乱はホロコストに連続した。
旅団には日本人が一人だったが混じっていたことも、この書に書いてある。
もう、皆さん死んでしまった。
Diary.
December29.Saturday.
青城山、奉天:紫気東来。
日記。12 月 29 日。
アナスタシアが中国で買った書:”紫気東来”はレディング宅大広間に掲げてある
その背景について彼女が僕に質問してきたので、調べた
一方、ひさのさんが満州瀋陽の北リョウに掲げてあることを知らせてくれた。(リヨウの漢字が日本語から消
えた!ご先祖のリョウをどうなさるのやろ。)。
上掲が奉天北リョウにある紫気東来の額。
下掲が、アナスタシアが中国で買った紫気東来書。
アナスタシアとの文通中、僕はこの書の揮毫者名◎◎◎が読めない。
◎◎◎書、於青城山。印。とあるが。
この日記読者のご教示を乞う。
揮毫場所は、青城山、彼女はこれを四川省青城山で買ったそうだ。
またもや、脱線話になるが、小学校 5 年生だったか(1939 年だったと思う)の或る日、僕たちはこの北リ
ョウに汽車で行って参観した。そこの規模に圧倒されたのを思い出す。そこにこの紫気東来は掲げてあった
のは勿論だが、幼い少年だった僕は全然覚えても居ない。ここに英仏軍侵略のアヘン戦争と当時、疎開
してあった四庫全書は野蛮人による焼却を免れた。
2012 年になって、中国青城山で娘がこの書を買ってアメリカに戻ってくるとは奇妙な因縁だ。
青城山は四川省にあるが、彼女の三代前大伯父の一人が亡命政府の内閣員で重慶で死んだ筈。
★★★
Comments
1 ■No Title
こちらは今大晦日の午後です。後数時間で来年ですトーマスさんもどうぞ良いお年をお迎えください。
minjo 2012-12-31 14:48:27
2 ■Re:無題
>minjo さん
謹賀新春。
毎度のぺた読了印ありがとうございます。
今年もよろしく。
T.
thomas-penfield 2012-12-31 17:13:02
Diary.
December30.Sunday.
ひさのさん。ミサ。
日記。2012 年。12 月 30 日。日曜日。
午前 6 時 45 分に帰国してきたひさのさんがミサのために、自動車で出迎えてくれた。
数週間ミサに出席しなかったので、とてもありがたかった。
教会の主任司祭のダニエル・ラフ(Ruff)神父とも,礼拝前にお話しすることもできた。
できるのなら、毎朝ミサにでたいけど、老齢の身では、もうできない。
上掲が、教会御御堂の後部に設けられてあった、クレーシ。
ジョウ・ケイシイ君が設置した。
彼はフィラデルフィアきっての百貨店で働く有能な装飾本職さん。
ポインセッチアの洪水上に、浮かんでるようなクレーシ。
この本職さんは、やってきて、だまって働き、だまって去る。
死んだ僕の親父にそっくりな人。
● ミサのあと、近所でもっともてごろなワシントン路の越南饂飩屋にはいって、ひさのさんとくつろいで饂飩
をすすった。
彼女が帰国したあと、一ヶ月間まるで火が消えたような生活だった。でも、彼女は故国にする必要が一杯
残る年齢だ。しかたがない。
ひさしぶりに、彼女と遠慮なく話ができて楽しかった。
珍しく彼女は脱欧帰亞型だから。
越南饂飩を一人分余計に、包んでもらって持ち帰った。
● 今朝、マリカから電話。12 月初旬にアルヘンチナ出身の義兄が逝ったが、続いて昨日彼の妻、義姉
が亡くなった。これで、身近な希臘親類二人とも消えた、彼らの息子、つまり僕の甥は一昨年事故で死ん
だ。
あとには、ただ一人だけ、南部出身のアングロ系に嫁いだ姪だけが残る。中国生まれの女子を養子にした
姪だ。
● 静かな、2012年師走最後の日曜日だ。明日が大晦日。
夕方、教会に隣接したカーティス音楽大学の学生発表大会の実況放送があった。
南京出身の中国人学生が素晴しいソプラノで歌ったのを聴いた。
しかも、一時間中全部綺麗なドイツ語で。
嬉しいことだ。東洋系学生たちがどんどんアメリカ社会芸能界に進出しだしている。
駐中国、アメリカ大使は中華系二世だ。三世かもしれない。
Diary.
December31.Monday.
日記。2012年。12月31日;・
幼年期から待降節が始まると、よく聴いた歌だ。
76回転版のレコードに録音されていた。このレコードは大連を脱出するうとき、勿論遺棄した。
表がエスペーロ。裏がタギージョだったのを覚えている。
La himno esperantista: Espero.
http://www.youtube.com/watch?v=mk-0D3D75Ao
昨夜、インタネットで再生した(上掲)を聴いてすごした。
● 日本からのも含めて、大分クリスマスカードやら賀状を頂いた。
● 今元旦の午前五時半。チャックは元旦のミサでまもなく出勤する。まだ外は漆黒の闇。