A CRADLE FOR CAROLINE by Nancy Warren Copyright © 2003 by Nancy Warren All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.à.r.l. ™ are trademarks owned and used ®by and the trademark owner and/or its licensee. Trademarks marked with are registered in Japan and in other ® countries. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental. Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2012 1 集長からも念を押されていた︒ ニーの父親の会社は大口の広告主なので︑多少の身びいきには目をつぶるようにと編 キャロラインがライターをしている﹃パスクアーリ・スター﹄紙にとって︑ブリト ろんそんなことはおくびにも出さない︒ ストで優勝したのは︑市の有力者の娘だからということはわかりきっていたが︑もち あまり美しいとはいえないブリトニー・スミスに質問した︒ブリトニーがそのコンテ キャロライン・クシュナーは︑いかにも場馴れしたインタビュアーという口調で︑ ら?﹂ ﹁二年連続で︑パスクアーリ市のミスコンに優勝した秘訣を教えてもらえないかし キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 5 ﹃パスクアーリ・スター﹄のライバル新聞﹃パスクアーリ・スタンダード﹄の社主は︑ ジョナサンに対するあてつけでライバル紙で仕事をしているのだとしたら︑少しは ずっと悩まされていた︒ 頭から離れないので︑キャロラインは悪性のウィルスにでもかかったような不快感に サンや彼との五年間の結婚生活について考えるたびに︑胸がつかえる︒それがずっと そう思った瞬間︑吐き気を覚えて︑キャロラインは喉をごくんと鳴らした︒ジョナ が︑その日が来るのも時間の問題だ︒ も︑まだ正式に離婚したわけではないので︑厳密には元新聞社社主夫人とは言えない ランスとはいえ︑いまや〝ゴシップ紙のライター〟という肩書きが加わった︒もっと 元トップモデルで元新聞社社主夫人というセレブなキャロラインの経歴に︑フリー な気持ちになった︒ 別居中の妻の記事を発見するジョナサンの姿を想像するだけで︑キャロラインは愉快 ていたため︑ ﹃スター﹄を三流ゴシップ紙だと見なしていた︒その三流ゴシップ紙に キャロラインの別居中の夫ジョナサン・クシュナーだが︑彼は報道の厳正さを重んじ 6 罪悪感も感じたかもしれない︒だが仕事を始めた本当の目的は︑少しでも気を紛らわ せてくれるものが必要だったからだ︒ ところが︑ブリトニー・スミスにインタビューしているこの瞬間︑キャロラインは してもちろん︑ファニーはパスクアーリ初の八十代バーテンダーだ︒ 特別なことではないかもしれない︒だがファニーの場合は存在自体が特別だった︒そ ー︑ジョナサンの母親だった︒平均寿命が延びた現代で︑八十歳になることは決して 次のインタビューの相手は︑もうすぐ八十歳の誕生日を迎えるファニー・クシュナ とにすると︑キャロラインはダウンタウンに向かった︒ アメリカ北西部︑ワシントン州パスクアーリ郊外の高級住宅街にあるスミス家をあ インタビュー記事は適当に書くしかなさそうだと︑キャロラインは覚悟した︒ があるので形式上は礼儀正しくメモを取りながらも︑どうやらミス・パスクアーリの ら頭のほうもあまりいいとはいえなさそうだった︒﹃スター﹄に入る広告収入のこと ニーはいまだに女子高校生のようなつたないしゃべり方をし︑ルックスもそこそこな 気が紛れるどころかフラストレーションがつのるばかりだった︒二十代半ばのブリト キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 7 半世紀以上も前からバーテンダーをしているファニーは二度結婚したが︑どちらの ファニーとヘクターが結婚してから一年足らずでジョナサンは生まれた︒自然体で をして︑次にそれをつくった彼女に恋をしたのだと︑よく話していたという︒ してから十年ほどたった頃だった︒ヘクターは生前︑まずファニーのマティーニに恋 ファニーが二度目の夫であるヘクター・クシュナーと出会ったのは︑最初の夫を亡く というより孫に近かった︒だから︑ジョナサンは兄たちとも親子ほど年が離れている︒ ジョナサンは︑ファニーがかなり年をとってから産んだ息子なので年齢的には子供 すぐ〝元姑〟になるファニーを心から愛していた︒ ファニーはみんなに愛されていた︒もちろん︑キャロラインもそのひとりだ︒もう ィーニは︑ジェームス・ボンドも涙を流すだろうと言われるほどの評判だ︒ 目をつぶってもあらゆる種類のカクテルをつくることができた︒なかでも彼女のマテ ファニーはバーテンダーとしても優秀で︑ピンクレディからブラックロシアンまで︑ 者の誰よりも︑多くの悩みや愚痴をカウンター越しに聞いてきた︒ 夫にも先立たれた︒働きながら四人の子供を育て上げ︑おそらくパスクアーリの聖職 8 飾りけのない母親と︑資産家で厳格な父親という年老いた両親のもとで︑ひとりっ子 のように育ったとジョナサンは言っていた︒ 年老いてから生まれた息子が︑自分の出身校であるハーバード大学に進み︑同じ法 ロ ー ド ハ ウ ス HOUSE﹀に向かって車を走らせながら︑ ュークボックスからは軽快なカントリーミュージックが流れ︑壁の羽目板に使われて ファニーの店に足を踏み入れた瞬間︑キャロラインの憂鬱な気分は吹き飛んだ︒ジ 違いない︒湿気が多い日は︑ただでさえ気がめいるのだから︒ 自分にあきれた︒なんだか胃のあたりがむかむかする︒きっと天気も関係しているに こうしてまたもやジョナサンについて考えていることに気づくと︑キャロラインは 迎してくれただろうか︒それとも︑ふたりが別れることになって喜んでる? キャロラインは考えを巡らせた︒ヘクターはジョナサンがわたしと結婚したことを歓 ファニーが経営するバー︿ROAD ただろう︒さらに︑その後の息子の人生を知ったら? となく︑パスクアーリに戻って新聞社を買ったことを知ったら︑ヘクターはどう思っ 学部を専攻したことに満足して︑ヘクターは亡くなった︒その息子が法曹界に入るこ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 9 いるヒマラヤ杉と生ビールの香りに加えて︑掃除したばかりの洗剤の匂いが漂ってい に違いないとキャロラインは思った︒さすがにいまはくすんだ印象があるが︑昔は息 ずにいられないだろう︒ファニーのブルーの瞳を見ながら︑若い頃はさぞ美しかった キャロラインは思わず笑い声をあげた︒ファニーの言い回しは︑死人でも笑い出さ しの勘違いなら︑ひっぱたいて歯をへし折ってもいいわよ﹂ かべてキャロラインを迎えた︒ ﹁あんたったら︑会うたびきれいになるのねえ︒あた ファニーはカウンターの中でグラスをキュッキュッと磨きながら︑満面の笑みを浮 言い合う声や︑ビリヤードの球を打つ音が聞こえてくる︒ それでも︑のんびりビールを楽しんでいる客が何人かいた︒奥の部屋からは︑冗談を はすでに終わっていたが︑仕事帰りのビジネスマンで混み合うにはまだ早い時間だ︒ ファニーに指定された約束の時間は二時だった︒目が回るほど忙しいランチタイム ラインは思っていた︒それに︑ここほど楽しい場所もほかにはないだろう︒ 気さくで安価なアメリカのバーで︑こんなにきれいにしているところはないとキャロ る︒店を清潔に保つことにかけて︑ファニーの基準は並の病院よりはるかに厳しい︒ 10 子のジョナサンと同じように深みのあるブルーだったことがうかがえる︒ そして︑八十歳になるというのに︑ファニーの白髪を誰も見たことがなかった︒と ど︑インタビューを始めてもいい?﹂ り年老いた気分だった︒キャロラインはバッグからノートを出した︒﹁さっそくだけ キャロラインはほほえんだが︑彼女自身は三十歳にしてすでに八十歳のファニーよ 美人がそばにいるときはね﹂ ﹁こうでもしないともう誰も注目してくれないからよ︒とくに︑あんたみたいな若い カウンター越しに頬にキスを交わしながら︑ファニーは答えた︒ ﹁すてきな髪ね﹂キャロラインは言った︒ に合わせたのか︑耳にはパレットの形のイヤリングが揺れている︒ じ真っ赤に塗った唇を大きく開けると︑顔中しわだらけにして笑った︒テーマカラー ロベリーブロンドでもなく︑絵の具の色としか言えない赤だ︒ファニーは髪の色と同 のかかったファニーの髪は︑今日は赤く染められている︒赤褐色でも金褐色でもスト いうより︑見たことがない髪の色は白だけと言ったほうが正確かもしれない︒パーマ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 11 ﹁なんでモデルの仕事に戻らないの?﹂キャロラインの質問を無視して︑ファニーは よりを戻すのよ?﹂ ﹁でも︑ジョナサンのほうがもっと惨めな顔をしてたわね︒いったいいつになったら ァニー⁝⁝﹂ キャロラインは苦い薬でものむように︑喉につかえたかたまりをのみ込んだ︒﹁フ あんた︑まるで子犬でも撃ち殺したような顔してるわよ﹂ を寄せてキャロラインの顔をのぞき込んだ︒﹁今日はなんだか表情がさえないわね︒ ﹁八十になるなんて嘘よ﹂ファニーはグラスをカウンターに置くと︑心配そうに眉根 んな気分?﹂ ﹁ところで﹂キャロラインは強引にインタビューを開始した︒﹁八十歳になるってど かって話しかける︒ ﹁赤ちゃんみたいなものよねえ︒いまでもガリガリだし﹂ ファニーは鼻を鳴らした︒ ﹁まだたった三十歳でしょ﹂そして︑わざとグラスに向 ﹁どうしてって︑もう三十だからよ︒栄光の日々はとっくに過ぎ去ったわ﹂ 尋ねた︒ 12 ﹁ファニー﹂彼女はもうすぐ八十歳︒ショックを与えないように気をつけないと︑と 自分に言い聞かせながら︑キャロラインはできるだけ優しい口調で続けた︒ ﹁わたしたち︑離婚することになったの﹂ そう言った瞬間︑キャロラインの脳裏によみがえった記憶があった︒ あの日の朝︑彼女はジョナサンと一緒に不妊治療の専門家を訪ね︑妊娠する可能性 ﹁それより︑八十歳になるって︑どんな気持ちがするもの?﹂キャロラインも負けず ナサンったら︑まだあんたに土下座して許しを求めてないの?﹂ ﹁あの子の車輪はまだ回ってるのに︑ハムスターが死んじゃったようなものね︒ジョ ファニーに話しかけられ︑キャロラインははっと我に返った︒ て友人の家に身を寄せたのは︑同じ日の夜だった︒ にジョナサンが立っているのを目の当たりにしたのだ︒キャロラインが荷物をまとめ 営業部で働いていたローリ・ゲルハルトが裸同然の姿でベッドに横たわり︑かたわら ロラインは︑ただでさえ惨めな気持ちだったのに︑あろうことか﹃スタンダード﹄の はほとんどゼロに近いと宣告された︒その日の夕方︑用事を済ませて家に帰ったキャ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 13 に繰り返した︒ ィのことを彼女が知っていても︑さほど驚かなかった︒そもそも︑どうしてジョナサ ファニーのことはよく知っているので︑サプライズで計画しているバースデーパーテ とうとうキャロラインはインタビューをあきらめ︑ノートをカウンターに置いた︒ ァニーはすました顔で尋ねた︒ ﹁誕生日のサプライズパーティには来るんでしょ?﹂相変わらず質問には答えず︑フ いくつか聞かせてもらえないかしら?﹂ ﹁長いことカウンターに立ってるから︑おもしろい話をたくさん知ってるでしょ? いかにもインタビュー慣れしているといった声で︑次の質問に移った︒ ファニーの口癖をいくつか加えることを忘れてはならない︒キャロラインは辛抱強く︑ かもしれないと︑キャロラインは思った︒その場合︑髪の色と同じくらいカラフルな 思いどおりの方向に話が進まないので︑この質問の答えは適当に考える必要がある ニーの返事はとぼけたものだった︒ ﹁そうね⁝⁝神さまに話しかけるときも︑思わず〝坊や〟って言っちゃいそう﹂ファ 14 ンが母親に隠しておけると思ったのか︑そのほうがずっと不思議だ︒ ﹁招待状は受け取ったわ﹂キャロラインは言葉を選んで答えた︒実は︑まだ出席する かどうか決めていなかった︒ファニーのために出席したい気持ちと︑ジョナサンに会 ノ ツ ブ ャロラインの胸を貫いた︒もし子供ができていたらジョナサンも⁝⁝︒ と一緒に不妊治療を受けたが︑効果はなかった︒ファニーの言葉は銃弾のように︑キ キャロラインには子供ができないことをファニーは知らない︒一年ほどジョナサン さらよ︒ただでさえスノッブな遺伝子が伝わるんだから﹂ なんて︒子供を産むなら︑若いうちがいいわ︒ましてやジョナサンが父親なら︑なお ﹁子供もひとり産んだわ︒きっと卵子が古くなってたのね︑ひとりしかできなかった ﹁その上流階級の男性と結婚したくせに﹂ ストランで何をするわけ?﹂ らに磨き始めた︒ ﹁それで︑このあたしが上流階級の気取り屋たちと︑オシャレなレ ス ﹁あ︑そう﹂すでにピカピカに輝いているグラスをもう一度手にして︑ファニーはさ いたくない気持ちとがせめぎ合っている︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 15 つまらないことを考えるべきではないと︑キャロラインは自分をたしなめた︒本棚 女には完全に拒絶されている︒そして︑それがジョナサンの最大の悩みだった︒ 本来ならこういう問題はキャロラインに頼むのがいちばんなのだが︑頼もうにも彼 十歳のバースデーパーティに来させるかだった︒ まず緊急を要する悩みは︑一日たりとも仕事を休もうとしない母親をどうやって八 ジョナサン・クシュナーは悩みを抱えていた︒しかも︑ひとつではない︒ てしまいたくなった︒ インはもうすぐ〝元姑〟になるファニーの胸で︑思いきり泣きながら本音をぶちまけ だが今日はいくらそんなふうに自分に言い聞かせても︑効果がなかった︒キャロラ 自由で新しい人生が目の前に広がっているのを忘れないで︒ 未来に目を向けよう︒過去を振り返っちゃだめ︒幸せは自分の手でつかまなきゃ︒ 傷的になった場合に備えてだ︒彼女は深く息を吸った︒ に自己啓発の本を何冊も並べて内容を暗記するほど読んでいるのは︑こんなふうに感 16 そう︑キャロラインのことが ―― ︒ ﹁おはようございます︑ミスター・クシュナー﹂ パスクアーリ大学の情報学部から来ているインターンの学生が明るい声で彼に挨拶 の印刷費用が高騰していることや︑広告主が新聞からウェブに媒体を移していること オフィスに向かいながら︑ジョナサンは仕事に意識を集中しようと努力した︒新聞 ョナサンが思っていたほどの女性ではなかったのだ︒ ンは連絡をしてこない︒問題が起こるやすぐに逃げ出したところをみると︑彼女はジ あの日︑彼の話にまったく耳を貸そうともせずに家を出ていってから︑キャロライ ンの胸に怒りがこみ上げた︒ したまま︑夫や結婚生活をないがしろにしている︒そのことを考えるたびにジョナサ た︒そして︑いまでも彼女を愛している︒だが︑キャロラインは彼が浮気したと誤解 結婚してからの五年︑ジョナサンはキャロラインを心から愛し︑彼女につくしてき った︒ し︑ジョナサンは現実に引き戻された︒反射的に笑顔をとりつくろい︑おはようと言 キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 17 など︑考えなければならない問題は山積みだ︒ 秘書のリリアンのデスク前に差しかかったとき︑伝言メモの束を渡された︒メモの ﹁忙しくて︑まだそっちまで手が回らないわ﹂ かった︒ 彼は誕生日くらい母親に仕事を休ませ︑サービスをする側からされる側にしてやりた ーパーティを計画していた︒そこにはパスクアーリの名士たちが顔を揃える予定だ︒ ジョナサンは街でもっとも高級なレストランを予約し︑フォーマルな形式のディナ 見つかった?﹂ ﹁それで? 誕生日のディナーをゆっくり楽しむために︑バーをまかせられる人間は 帯なら自宅にいることはわかっている︒電話に出た母親にさっそく切り出した︒ 自分のデスクに着くと彼は受話器を上げ︑母親の家の番号を押した︒朝のこの時間 母親のファニーからの伝言もあった︒ジョナサンは真っ先に電話をすることにした︒ して対応させるものを機械的に振り分ける︒ 束にすばやく目を通しながら︑自分で電話をかける必要があるものと︑スタッフに回 18 母親ののんきな口調を聞いて︑ジョナサンは奥歯を噛みしめた︒誕生日までもう一 週間ほどしかない︒たった一日母親に仕事を休ませるのが︑どうしてこんなにも難し いのか︒ すると決めていたからだった︒本来なら︑母親はもうのんびりした生活を楽しんでい ジョナサンがその質問をあえてしていないのは︑すでにクルーズ旅行をプレゼント ﹁誕生日のプレゼントは何がいいか︑まだ訊かれてないんだけど﹂ は思った︒だが︑母親の返事はまったく関係ないものだった︒ すぐに返事がないので︑母親は息子の提案について検討しているのだとジョナサン でる姿を見たいんだよ﹂ ﹁じゃあ︑五十人でも雇えばいいだろう︒一度でいいから︑母さんがゆっくり楽しん しかも︑男なんかに﹂ ファニーは鼻で笑った︒ ﹁あたしの代理がたったひとりにつとまるわけないでしょ︒ 何千回も繰り返した言葉を口にした︒ ﹁母さん︑僕が代理のバーテンダーを雇うよ﹂苛立ちを抑えて︑ジョナサンはすでに キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 19 そのとき話すわ︒適当にランチを食べて てもいい年齢だ︒しかし︑彼はあわてることなく尋ねた︒﹁何が欲しい?﹂ は速くなった︒ クールで美しい妻の写真を見るだけで︑思い出があざやかによみがえり︑彼の鼓動 らしげに飾ってあったのに︑いまはこうしてこっそり見ることしかできないとは︒ ルをわきによけ︑隠してあるキャロラインの写真を見下ろす︒以前はデスクの上に誇 いことを確かめてからデスクに座り︑引き出しを開けた︒〝書簡〟と書かれたファイ オフィスの開いたままのドアからちらっと外に目をやったジョナサンは︑誰もいな 親に逆らうことはできなかった︒ ﹁わかったよ︒じゃあ二時に﹂ 歳の母親に主導権を握られているのは情けないものがある︒しかし︑この愛すべき母 ジョナサンはため息をついた︒新聞社を経営する忙しい彼が︑引退していてもいい ﹁二時にして﹂ スケジュールをチェックしてからジョナサンは言った︒﹁二時半は?﹂ から︑店が忙しくない時間帯に来て﹂ ﹁今日の午後︑店に顔を出してくれない? 20 ジョナサンは目をすがめた︒こういうばかげた状況がいつまでも続くと思っている なら︑キャロラインは間違っている︒たしかに︑僕はとんでもない場面を見られた︒ しかも︑誰かがその話を街中に言いふらしたことで︑ますます僕の立場は悪くなった︒ っていた︒キャロラインが育児雑誌から切り抜いたゆりかごの写真が冷蔵庫に貼られ キャロラインのいない家は︑ジョナサンにとってすでに心が安まる場所ではなくな 過ごさずにすむ︒ でも計画を練ることにしよう︒そうすれば︑少なくともからっぽの家でむなしく夜を かなかった︒そろそろ行動を起こすときだと︑ジョナサンは思った︒さっそく今夜に とにかく︑妻が理性を取り戻すのをこのまま手をこまねいて待っているわけにはい とは言えなかった︒だからといって破綻しかけていたというほどではない︒ たしかにそれまでの数カ月︑不妊治療の疲れからか︑結婚生活がうまくいっていた まさか家を出ていくとは思わなかった︒ あんなものを見たら︑泣き叫びながらフライパンで殴られたとしてもしかたないが︑ キャロラインがかたくなな態度をとり続けているのも無理はない︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 21 たままだが︑捨てる気にはなれなかった︒ いまでもジョナサンはキャロラインを強く愛していた︒妻を取り戻すために行動を しなかったが︑ジョナサンが入ってきたことに気づいたのは間違いなかった︒その証 昔からふたりはお互いのことになると妙に勘が働いた︒キャロラインは振り向きは が︑少しやせたように見えた︒ つややかに輝いているブロンドの髪︒彼女は当時と変わらず美しくスタイリッシュだ 見た優雅な後ろ姿に︑ジョナサンの目は釘づけになった︒上品に組んでいる長い脚︑ いた頃︑日焼け止めローションからデザイナーズブランドの服まで︑あらゆる広告で なんとカウンターのスツールに︑キャロラインが座っている︒彼女がモデルをして るでバットでみぞおちを殴られたように息ができなくなった︒ ドアを押し開けて薄暗い店に足を踏み入れた瞬間︑ジョナサンは立ちすくんだ︒ま 見はからって社屋を出た︒ 食事もせずに仕事を続けてから︑二時十分には母親の店に到着できるよう︑時間を 起こそうと決めると︑ようやく仕事に気持ちを切り替えることができた︒ 22 拠に︑肩がわずかにこわばっている︒ どうやら︑キャロラインも彼が来ることを知らなかったようだ︒ き始めた︒ 苛立ちをあらわにして母親に文句を言うと︑ジョナサンはカウンターに向かって歩 ﹁母さん︑余計なおせっかいはやめてくれないか﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 23 2 ているマグマを連想せずにはいられない︒ かすかにかすれたそのセクシーな声を聞くたびに︑ジョナサンは氷原の下で沸騰し キャロラインが振り向いた︒ ﹁久しぶりね︑ジョナサン﹂ っとキッチンに行ってくるわ﹂そう言って︑そそくさと姿を消した︒ ファニーはキャロラインをちらりと見てから︑ふたたび息子に目をやった︒﹁ちょ に近づいた︒ 年齢にそぐわない真っ赤な髪の母親をにらみつけながら︑ジョナサンはカウンター ました顔で息子に尋ねた︒ ﹁どうしたの? まるで苦虫を噛みつぶしたような顔してるじゃない﹂ファニーはす 24 妻の秘密なら知っている︒クールでしとやかな外見の下に︑情熱的な女が隠れてい るのだ︒一見すると︑別居中の夫に鉢合わせしてもキャロラインが動揺した様子はな かったが︑唇の端がわずかにひきつっているのをジョナサンは見逃さなかった︒ とジョナサンはもう少しで訊いてしまいそうに いくら平静を装っていても︑予想外の展開に彼女が動揺しているのは明らかだ︒ 僕が来ることを知っていたのか? ぶってやりたい︒しかし︑そんなことをすれば母親がキッチンから飛び出してきて︑ サンは情けなかった︒できることなら︑彼女のほっそりした肩をつかんで激しく揺さ ようとしても耳を貸そうとはしなかった︒これほど愛しているのにと思うと︑ジョナ だが︑キャロラインは間違いなく夫は浮気をしたと思い込んでいた︒いくら説明し ているかもしれないが︑本当のところはわからない︒ 中の人間が︑そうは思っていないようだ︒もしかすると︑ファニーだけは息子を信じ ジョナサンは妻を裏切ってなどいなかった︒しかし︑彼自身をのぞくパスクアーリ 訊かなくても答えはわかる︒ なった︒だが︑キャロラインが家を出てからずっと拒否されていることを考えれば︑ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 25 容赦なく息子をひっぱたくだろう︒ジョナサンは落ち着くように自分に言い聞かせな 話をしてくれないか?﹂ ︒﹁待ってくれ﹂ ―― なんだ︒だからこそ︑こんなおせっかいをしたんだろう︒せめて五分だけでも︑僕と ﹁僕の母は真っ赤なペンキに頭を突っ込むほどの変人だが︑きみのことが本当に好き ﹁無理よ﹂キャロラインはそっけなく応じた︒ 関心ではないということでいまは満足するしかない︒ て動揺しているのだ︒それで未来に希望の光が差したとは言えないが︑彼女が夫に無 思ったとおり︑いくら冷静さを装っていても︑キャロラインは別居中の夫と出会っ キャロラインの手が震えている︒ 指輪が消えている︒妻の手じゃないみたいだ 考えるより先に︑ジョナサンは彼女の左手をつかんでいた︒薬指から見慣れた結婚 そろ失礼するわね﹂ するとキャロラインはあわてて腰を浮かした︒﹁わたしの用事はすんだから︑そろ がら︑妻の隣のスツールに腰かけた︒ 26 ﹁どうしてそんなことする必要があるのよ?﹂キャロラインは冷ややかな目で彼を見 据えた︒ モデル時代︑そういう目で彼女に見られると︑ダイヤモンドの刃で心臓を切り裂か ジョナサンの言葉に︑キャロラインは何も言わずに立ち上がった︒ とがないわけじゃない﹂ ﹁僕にはたくさんあるよ︒きみだってあえてそうしようとしないだけだ︒話し合うこ ﹁話し合うことなんて何もない﹂キャロラインはそっけない声で言い返した︒ ったんだろう﹂ ﹁僕たちは結婚して五年になる︒きっと話し合いたいことがあるだろうと母さんは思 もう心が麻痺していた︒ だが︑ジョナサンは何も感じなかった︒キャロラインが家を出ていったときから︑ 彼女からそんな冷ややかな目で見られたことは一度もなかった︒これまでは︒ 多かったキャロラインは︑自然にそんなしぐさを身につけたのだろう︒ジョナサンは れたような気持ちになると男たちは口を揃えて言っていた︒男に言い寄られることが キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 27 ﹁実は母さんのバースデーパーティのことで︑きみの意見を聞きたいんだ﹂キャロラ それとも︑いまは僕の母親のためには何もし そう思うだろ?﹂キッチンへと続くドアに目をやりながら︑ジョナサンは言った︒ ﹁つまり⁝⁝誕生日くらい母さんにこの店を離れてゆっくりしてほしいんだ︒きみも に帰ってほしいと口走ってしまいそうになった︒ ジョナサンは目の前にあるふっくらした唇を見つめているうちに︑どうか一緒に家 ールに腰を戻した︒ ﹁それで︑わたしは何について意見を言えばいいの?﹂とうとうキャロラインはスツ の電源を切っておいたことが幸いして︑妻とも落ち着いて話ができそうだ︒ 姿を見守った︒誰にも邪魔されずに母親と話をしたかったので︑あらかじめ携帯電話 おくびにも出さず︑別居中の夫の頼みを聞くべきかどうか迷っているキャロラインの ジョナサン自身︑早くオフィスに帰って仕事に戻る必要があったが︑そんなことは たくない? 母がきみを娘同然に思ってたとしても?﹂ ど︑少し時間をさいてくれないかな? インを行かせたくないという思いが︑ジョナサンにそう言わせた︒﹁忙しいだろうけ 28 ﹁店を離れる?﹂キャロラインが眉をひそめた︒ 母親と同じように︑キャロラインも頭がどうかしているのではないかと思いながら︑ ル ・ ボ マ リ Beaumar is ﹀を借りきる予定だ︒フォーマルな形式で︑コースのデ ﹁わたしならどうかしら︒信頼してお店をまかせてもらえると思う?﹂ ﹁この店をまかせられる人間がいないからだって言ってるよ﹂ ﹁どうしてファニーは仕事を休もうとしないの?﹂ の冗談で︑別居後初めてキャロラインをほほえませることができた︒ もちろん︑ジョナサンはそんなことを本気で言っているわけではなかった︒だがそ な﹂ さんのことだ︑仕事を休むよりストリップをするほうがましだと言いかねないから ませることだ︒何も公衆の面前でストリップをさせようというわけじゃないのに︑母 な招待した︒でもいちばん大切なのは︑八十歳の誕生日を迎える当の本人に仕事を休 ィナーとシャンパンを楽しもうと思う︒メディア関係者やパスクアーリの名士もみん ︿Le ジ ョ ナ サ ン は う な ず い た︒ ﹁ そ う︑ 母 さ ん を こ の 店 か ら 離 し た い︒ 当 日 は キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 29 ジョナサンは思わず奥歯を噛みしめた︒﹁きみはパーティに来るだろう﹂ ラムを手伝う仕事からは手を引いているし ︒ ―― うなことだ︒しかし家を出ていってから︑彼女は﹃スタンダード﹄のファッションコ インを食い入るように見た︒彼女は新聞社で働いているのだろうか︒たしかにありそ そのとき︑ふとジョナサンは思い当たった︒彼は勢いよく顔を上げると︑キャロラ 指示を受けて動くような人間ではない︒ 彼の母親は自分の仕事を人にまかせるような人間ではないし︑キャロラインも人から 何か指示を受けているのだろうか︒ありえない︑とジョナサンはすぐさま否定した︒ 首をかしげた︒ペンとノートだなんて︑彼女はいったい何に使うのだろう︒母親から 彼女が落ち着きなくペンでノートをたたき始めたのを見て︑ジョナサンは心の中で キャロラインは彼をにらみつけた︒﹁わかったわ﹂ もちろん来てくれるだろ?﹂ ﹁それは ―― ﹂ ﹁僕のためじゃない︒母さんのためだ︒まだ返事をもらってないことはわかってる︒ 30 ようやく心を決めたというように彼に向き直ったキャロラインが︑深呼吸をしてか ら口を開いた︒ ﹁ジョン︑ファニーはそういうフォーマルなパーティは望んでないはずよ﹂ ジョナサンはショックを受けた︒その意見に対してもだが︑久しぶりにジョンと呼 皿に盛ったりしながら過ごしたがってると思うのか?﹂ 食べながら祝うより︑煙草の煙が充満したこのバーで︑ビールを注いだりナチョスを ﹁じゃあきみは︑母さんが八十歳の誕生日をエレガントなレストランでフォアグラを の話を聞いてさらにその確信は強まった︒ はず ―― ﹂ 結婚生活を放り出した時点でキャロラインはどうかしていると思っていたが︑いま ﹁ファニーはこの店が大好きなのよ︒誕生日も︑きっとここで過ごしたいと思ってる う意味だ?﹂ いた意見のほうを先に片づけなければならない︒﹁母さんが望んでないって︑どうい ばれたことに︒彼を呼ぶその声がどれだけ恋しかったことか︒だがいまは︑あとに続 キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 31 ひどく声が大きくなってしまったことに気づいて︑ジョナサンはあわてて口を閉じ ﹁でも︑あなたはふつうの三十代男性じゃないでしょ﹂キャロラインは形のいい眉を も︑お気に入りのウイスキーを用意させることにしていた︒ ってシャンパンは好きではない︒当然のことながら︿Le でビールと一緒にチーズバーガーを頬張るほうが好きだろうけど ―― ﹂ジョナサンだ Beaumar is ﹀に ﹁ふつうの三十代の男なら︑タキシードを着てシャンパンを飲むより︑こういうバー そのそっけない態度に腹が立ち︑ジョナサンは癇癪を起こしたくなった︒ ﹁そうよ﹂キャロラインはうなずいた︒ というのに︑侮辱されているとしか思えない︒ サンは憤慨した︒母親にとって特別な夜にしたいと忙しい合間を縫って準備している ﹁つまり︑僕が自分のために今回のパーティを企画したって言いたいのか?﹂ジョナ ァニーはシャンパンとかフォアグラってタイプじゃないもの︒あなたと違って﹂ するとキャロラインが︑ものわかりの悪い子供を見るような目を彼に向けた︒﹁フ た︒キッチンの母親に聞かせるわけにはいかない︒ 32 上げた︒ 痛いところをつかれ︑ジョナサンは低くうめいた︒﹁たしかに︒うちの母さんのほ ﹁わかってる︒きっとできるわよ﹂ ﹁母さんのために︑何か特別なことをしたいんだよ﹂ 濃いブルーの瞳でキャロラインをまっすぐ見つめた︒ 彼と視線を合わせるだけで︑冷静でいるのが難しくなる︒ジョナサンは顔を上げ︑ の脚にすがりつき︑捨てないでと懇願したくなってしまう︒ ジョナサンのそばにいると︑プライドを忘れそうになってしまう︒ひざまずいて彼 して⁝⁝︒ を裏切った最低な男のはずなのに︑こんなふうに突然︑気弱なところを見せつけたり キャロラインはうなずいた︒急にしおらしくなったりして︑ジョンはずるいわ︒妻 ﹁そうね﹂ 思わず頭を抱え︑カウンターに突っ伏す︒﹁ああ︑しくじった﹂ うが三十代の男みたいだよな﹂こんなあたりまえのことが︑なぜわからなかったのか︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 33 キャロラインは手伝うことに決めた︒ジョナサンのためではなく︑ファニーのため 落ち着きなく動かし始めたのを見て︑ジョナサンは小声でぶつぶつ言いながらスツー つけられているカメラをにらんで︑しばらく待った︒客がワークブーツを履いた足を ジョナサンも母親が何をしているかは承知していたので︑カウンターの天井に取り に夢中で︑カウンターに戻る暇がないのだろう︒ 見ているのをキャロラインは知っていた︒おそらく︑息子夫婦のメロドラマを見るの ファニーはキッチンから出てこなかった︒しかし︑義母が防犯カメラのモニターを て︑眉をひそめてきょろきょろしている︒ 背中を伸ばしながらカウンターに近づいてきた︒カウンターの中に誰もいないのを見 店に入ってきた︒ひとりはテーブル席の椅子に座ったが︑もうひとりは筋肉痛なのか そのとき︑入口のドアが開いてタクシーの早番を終えた運転手らしい男性がふたり︑ と約束し︑ずっと守ってくれていた︒今日までは︒ に暮らした家を出たと報告したときも︑ファニーは彼女らしい言い方で口を出さない に︒ふたりが別居したとき︑ファニーは何も言わなかった︒五年間ジョナサンと一緒 34 ルから腰を上げ︑カウンターの中に入った︒ ﹁ご注文は?﹂ジョナサンはその客に声をかけた︒﹁飲み物は何にします?﹂ ﹁ファニーは?﹂ジョナサンが着ている高級スーツを見て口もとをゆがめながら︑客 の靴はスイスの靴職人の手によるオーダーメイドだと客に教えたくなったが︑もちろ 出し︑ジョナサンが履いている靴まで確かめたいのを我慢しているように見えた︒彼 キャロラインの目には︑その客は磨き抜かれたマホガニーのカウンターに身を乗り ッシュな髪と高級スーツをじろじろ見た︒ ﹁OK︒ミラーの生をふたつだ﹂客は目をすがめると︑改めてジョナサンのスタイリ 単純に事実を告げた︒ ﹁息子です﹂ らえているのがわかる︒自分でもおかしいような︑腹立たしいような気持ちで︑彼は どう答えるべきか︑ジョナサンは迷った︒キャロラインを横目で見ると︑笑いをこ ﹁それで︑あんたは?﹂ ﹁キッチンにいますよ︒もうすぐ出てくると思いますが﹂ は訊き返した︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 35 ん何も言わなかった︒ジョナサンは身につけるものにとてもこだわる︒ お酒が飲みたいわけでもなく︑ジョナサンが悪戦苦闘する姿を見ようと思ったのに︑ 複雑なカクテルを注文すると︑スツールの上に座り直した︒喉が渇いているわけでも ﹁そうね︒じゃあ︑シンガポールスリングにするわ﹂思いつく中でいちばん作り方が 別に何も飲みたくなかったが︑キャロラインは少々意地悪な気持ちで思い直した︒ ﹁せっかくだから︑きみにも何かつくろうか?﹂ジョナサンが訊いた︒ 取ると︑慣れたしぐさでチップ入れのグラスに放り込んだ︒ を傾けた︒客からしわだらけの紙幣を受け取り︑おつりを返す︒そしてチップも受け 好をつけるためか少し大げさな身ぶりでビールサーバーのハンドルを握り︑ジョッキ ロラインも認めざるをえなかった︒ジョナサンは︑不信感をあらわにする客の前で格 彼はバーテンダーにはとても見えないが︑カクテルもおいしくつくれることはキャ を卒業するまで︑毎年夏休みにはここでアルバイトをしていたのだ︒ ﹁もちろん﹂ジョナサンは請け合った︒アルコールを飲める年齢になった歳から大学 ﹁ちゃんとビールを注げるのか?﹂客は疑わしそうな口ぶりできいた︒ 36 そのもくろみは見事にはずれた︒ 何をやらせてもそつなくこなすジョナサンは︑腹立たしいほど慣れた手つきであっ キャロラインはカクテルをひと口飲んだ︒シンガポールスリングがどんな味かはよ っているように横目で彼女を見た︒ ﹁どう?﹂ジョナサンはカウンターから出てきてスツールに腰を下ろし︑おもしろが 白ワインが好きだということも︒ キャロラインがあまりお酒を飲まないことを彼は知っていた︒飲むときは︑辛口の っと置くと︑ジョナサンは自分用の瓶ビールを出した︒ シンガポールの夕陽をイメージしたと言われる美しいカクテルを彼女の目の前にそ す︒真っ赤なチェリーは彼女の心臓で︑彼はそれを突き刺した⁝⁝︒ いるが︑彼には関係ない︒ジョナサンがマラスキーノチェリーにスティックを突き刺 キャロラインは地団駄を踏みたかった︒たしかにラベンダー色の麻のドレスを着て の中から紫色を選んで言った︒ ﹁きみのドレスの色に合わせて﹂ という間にシンガポールスリングをつくると︑何色かあるプラスチックのスティック キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 37 く覚えていないが︑ジョナサンがつくってくれたこのカクテルは︑お金を払って飲む 店を離れたくないって言うなら︑ここで開けばいいじゃない﹂ ﹁八十歳という大切な日だからこそよ︒ファニー自身がバースデーパーティのために 母さんが毎日働いている場所で開くのはどうかな﹂ たかせた︒ ﹁八十歳のバースデーパーティだよ︒きみの提案はもっともだと思うけど︑ ジョナサンはまばたきをすると︑ビールをひと口飲んでから︑ふたたび目をしばた ここで開くことをちゃんと考えてみて﹂ キャロラインは首を振った︒ ﹁ううん︑ファニーのパーティのこと︒ねえジョン︑ ﹁もっとおいしいシンガポールスリングの作り方でも知ってるのか?﹂ ﹁やっぱり︑そうしたほうがいいと思う﹂キャロラインは唐突に口を開いた︒ 過ごしたいはずだと確信した︒ ーティについて考えを巡らせていた︒考えれば考えるほど︑義母は誕生日をこの店で 彼にカクテルをつくってもらっている間︑キャロラインはファニーのバースデーパ 価値が充分あるようだった︒ ﹁とってもおいしい﹂ 38 ﹁だが︑バーに来てくれなんて︑ローズとウォルトのエリオット夫妻や市長︑市議会 議員たちには頼めないぞ﹂ ﹁ここに来るのをいやがるような人は︑ファニーの友達じゃないってことよ﹂キャロ その言葉に︑ジョナサンは奥歯を噛みしめて彼女をにらみつけた︒﹁僕はスノッブ は気取り屋だけど︑ファニーは違うもの﹂ ス ノ ツ ブ そんな自分が腹立たしく︑キャロラインはぶっきらぼうな口調で言った︒﹁あなた 初めて出会ったときと同じ香りだった︒思いがけず︑めまいがした︒ ーションの香りに鼻孔をくすぐられ︑過ちをおかしたことに気づいた︒それは︑彼と りだ︒言い返そうと思わず身を乗り出した瞬間︑キャロラインはアフターシェーブロ ろう︒それなのにジョナサンのまなざしは︑きみは頭がどうかしてるよと言わんばか まったく信じられない︒どうしてこんなあたりまえのことが彼にはわからないのだ ないわ﹂ ず︒ここよりボマリのほうがいいなんていう人は︑ファニーの友達だと名乗る資格は ラインは辛辣な口調で言った︒ ﹁ フ ァ ニ ー の 友 達 な ら︑ 喜 ん で こ の 店 に 来 て く れ る は キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 39 なんかじゃない﹂ ﹁じゃあ ―― ﹂ ﹁ねえ︑ジョン﹂さらに言いつのろうとする彼をキャロラインは遮った︒﹁もう一度 言って辞めさせたいと思うわけ?﹂ ーテンダーであることを誇りに思ってる︒それなのにどうして〝こんな仕事〟なんて それがスノッブだって言ってるのよ︒ファニーはこの店を心から愛してる︒そしてバ キャロラインは声をあげて笑った︒ジョナサンの前で笑うのは久しぶりだ︒﹁ほら︑ はしないはずだ!﹂ ﹁僕が本当にスノッブなら︑生活に余裕があるのに母親にこんな仕事を続けさせたり いているのはわかっていた︒時として︑真実は人を傷つけるものだ︒ ﹁いいえ︑あなたはスノッブよ﹂キャロラインは譲らなかった︒彼が妻の言葉に傷つ は声を荒らげた︒ ﹁僕がスノッブなら︑そんなまねするはずがないだろ?﹂ ﹁僕がカウンターに入ってカクテルをつくるところを見なかったのか?﹂ジョナサン ﹁ううん︑もっと悪いわ︒自分がそうだって気づいてないんだから﹂ 40 言うわ︒この店でバースデーパーティを開くべきよ﹂ ﹁そして︑街中の人間のために高齢の母親に立ちっぱなしで酒を注がせるのか? りゃあ最高のプレゼントだな﹂ そ パスクアーリの名士たちのためにマティーニをつくることがファニーにとってどれ きの記憶があざやかによみがえった︒ 手をつないで映画を観たり︑散歩をしたりしたときだけでなく︑優しく愛撫されたと 越しに彼のぬくもりが伝わってくる︒キャロラインは指の長い彼の手に目をやった︒ 彼のこの腕に︑キャロラインは数えきれないほど抱き締められた︒ジャケットの袖 ンの腕に手をかけてしまってから︑キャロラインは自分の軽率なふるまいを後悔した︒ 思ってるはず︒ファニーのためにこの店でパーティを開いてあげて﹂思わずジョナサ とにかく︑ここはファニーの大切な店なんだから︑誕生日だってここで過ごしたいと ﹁お酒を全部つくってもらう必要はないでしょう︒お手伝いの人を雇えばいいのよ︒ インは思った︒ ほど誇らしいかがわからないとしたら︑ジョナサンは救いようのない男だとキャロラ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 41 キャロラインははっとして袖から手を離すと︑冷たいグラスをつかんでカクテルを ジョナサンは手を振った︒ ﹁おごるよ﹂ さした︒ ﹁いくらかしら﹂ に間に合わないわ﹂彼女はバッグをつかむと︑ふた口しか飲んでいないカクテルを指 ﹁もう行かないと﹂キャロラインはスツールから勢いよく立ち上がった︒﹁次の約束 る︒こんな時間になっていたとは思わなかった︒ な自分の愚かな反応に気づき︑思わずため息をついた︒わざとらしく腕時計に目をや 困り果てたようなジョナサンの顔を見て︑キャロラインは胸が温かくなった︒そん ﹁わたしは自分の意見を言っただけよ︒どうするかはあなたが決めればいいわ﹂ も発送し終わってるし︑変更するのは簡単な話じゃない﹂ ジョナサンは深く息を吐き出した︒﹁とにかく︑手配はもう済んでるんだ︒招待状 ﹁いいえ︒これでいいわ﹂ ﹁ワインのほうがよかったんじゃないか?﹂ジョナサンが優しく尋ねた︒ もうひと口飲んだ︒しかし気管に入ってしまい︑思わずむせた︒ 42 飲みたくて頼んだわけではないが︑たとえカクテル一杯でも彼に借りをつくりたく ない︒とはいえジョナサンの母親の店で意地を張るのもみっともない︒キャロライン は︑肩の力を抜いてほほえんだ︒ ﹁じゃあ︑お言葉に甘えるわ﹂ 彼女の気持ちを見抜いたように︑ジョナサンの目は笑っていた︒﹁母さんのバース ジョナサンは勢いよく顔を上げると︑驚きをあらわにして目を見開いた︒﹁新聞? 応︑新聞よ﹂ る︒おかげで︑自分の口からジョナサンに事実を伝えることができるのだから︒﹁一 に黙っていてくれたのだ︒そんな友人たちのひとりひとりにひそかに感謝のキスを送 ﹁違うわ﹂彼の言葉に︑キャロラインは喜んだ︒夫婦の共通の友人たちは︑みんな彼 いる彼女を見ながら︑ジョナサンは尋ねた︒ ﹁きみの仕事は? 雑誌のライターか何かやってるのか?﹂持ち物をバッグに入れて キャロラインはうなずくと︑カウンターに手を伸ばし︑ペンとノートをつかんだ︒ ってくれ﹂ デーパーティの件で有益な意見を聞かせてくれたんだ︒僕からの感謝の気持ちだと思 キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 43 ﹃スタンダード﹄できみの記事を見た覚えはないけどな﹂ この瞬間を︑キャロラインは大いに楽しんでいた︒夫婦のベッドで夫が裸同然の女 実際︑ぐずぐずしていたら次の約束に遅れてしまいそうだった︒ 向かった︒ 彼の怒声を無視して︑キャロラインは勝利の笑みを見られないように急いでドアに ﹁なんだって?﹂ ﹁じゃあ ―― ﹂ ﹁ ﹃スター﹄に書いてるの﹂ ものだ︒ ﹁だって﹃スタンダード﹄には書いてないもの﹂喜びをかみしめながら言う︒ 性と一緒にいたところを目撃した仕返しには足りないが︑多少は溜飲が下がるという 44 ジョナサンは怒りに駆られ︑妻のあとを追いかけようとした︒ 3 れた︒少なくとも︑彼に無関心ではないということだ︒ た激しい感情を抱いているのだとしたら︑まんざら悪くないと思えるゆとりさえ生ま 冷静さを取り戻し︑ジョナサンは妻の戦術に感心した︒妻が彼に対して憎しみに似 か考えられない︒夫へのあてつけだ︒ 彼が所有する﹃スタンダード﹄のライバル紙でキャロラインが働く理由はひとつし に考えれば︑キャロラインのあとを追いかけて怒りをぶつけてもしかたないだろう︒ ファニーの声が後ろで響き︑ジョナサンは足を止めた︒母親の言うとおりだ︒冷静 ﹁あの子を引きとめることはできないわ︒おまえが恥をかくだけよ﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 45 きびす ジョナサンは 踵 を返してドアに背を向けた︒そのとき︑先ほどビールを頼んでき ジョナサンはカウンターに身を乗り出し︑母親の髪をくしゃくしゃにした︒赤ん坊 テルを検分しながら︑ファニーは言った︒﹁シロップの量がいいかげんだわ﹂ ﹁たしかに︑まだまだ未熟ね﹂宝石商がダイヤモンドを鑑定するような目つきでカク 思って︑わざと注文したんだろう﹂ ていなかったが︑ジョナサンは思わずにやりと笑った︒﹁きっと僕にはつくれないと ﹁キャロラインだよ﹂妻がライバル紙で働いていることに対する怒りはまだおさまっ ニーが尋ねた︒ ﹁シンガポールスリングは誰が飲んだの?﹂お金はいらないと手を振りながら︑ファ 払うよ﹂ ジョナサンは財布をポケットから出した︒﹁ビールとシンガポールスリングの金を だと思いながら︑彼は無視してカウンターに戻った︒ インに危険が迫っているとでも思ったのか︒男なら誰だって彼女が気になるのは当然 だふたりの客が︑半ば腰を浮かして彼をにらみつけていたことに気づいた︒キャロラ 46 のように柔らかくてケチャップのように真っ赤な髪に触れながら︑どうして僕はふつ うの女性を愛せないのだろうと︑苦笑した︒﹁母さん︑この店で誕生日を祝うのはど うかな?﹂ ファニーは息子に目をやると︑満面の笑みを浮かべた︒﹁まったく⁝⁝キャロライ に来た客に邪魔された︒そのたびにファニーは客と冗談を言い合って︑けらけらと笑 することにした︒途中で何度か︑ビリヤードに使うコインの両替や︑ビールを注文し 度スツールに腰を下ろすと︑ビールとサンドイッチの昼食を食べながら︑母親と話を ファニーは息子が昼食抜きで来ることがわかっていたようだ︒ジョナサンはもう一 イッチをつくってくれていた︒ なければならなかったが︑母親はキッチンのモニターでふたりを観察しながらサンド もちろんジョナサンが目指したいのはふたつ目の選択肢だ︒すぐにオフィスに戻ら なんとかやっていくしかない︒あるいは︑彼女を取り戻すしか︒ 実のところ︑ジョナサン自身も彼女なしで暮らしていけるとは思えなかった︒だが︑ ンなしじゃ︑おまえはまともに暮らしていけそうにないわね﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 47 った︒たしかにふつうとはかなり違っているが︑それでもファニーは間違いなく彼の イバル同士だったマイクとテスは︑その事件のあと恋に落ち︑婚約した︒ の妻キャロラインの親友がテスだった︒小さな街ではそんなこともある︒そして︑ラ マイクはライバル紙﹃スタンダード﹄の社主ジョナサンの幼なじみで︑ジョナサン ではなかったが︒ ダード﹄の記者︑テス・エリオットとともに取材をした経緯があり︑彼ひとりの手柄 んだ事件を暴露して︑開発業者を街から追い出した︒もっともそのときは︑﹃スタン 手腕にかけて彼の右に出る者はないという評判だ︒以前にもこの地域の土地開発に絡 マイクは﹃スター﹄で報道デスクとして活躍している︒スクープ記事をものにする かけた︒ オフィスに戻るやいなやジョナサンは受話器を取り︑マイク・グランデルに電話を ター﹄で働いていることに対するわだかまりはなかなか消えなかった︒ 母親と話をしているうちにだいぶ落ち着くことができたが︑よりによって妻が﹃ス 愛する母親だった︒ 48 キャロラインが﹃スター﹄で働いていることを黙っていた幼なじみに対する怒りを 抑えて︑ジョナサンは切り出した︒﹁明日の朝︑スカッシュする時間はあるか?﹂ ﹁もちろん﹂ 本音を言えば︑ジョナサンは今夜にでもマイクから詳しく話を聞きたかった︒だが ちょっと考えてから︑マイクは尋ねた︒﹁つまり︑俺に会うのに何か特別な理由で ﹁じゃあ六時半にコートを予約しておく︒こてんぱんにしてやるから覚悟しとけよ﹂ ジョナサンの提案を︑マイクは快諾した︒﹁いいね﹂ ﹁スカッシュのあとで︑一緒に朝飯もどうかな﹂ ので︑明日も話をする余裕などはないかもしれなかった︒ いたが︑スカッシュだろうとスパーリングだろうと︑いつも真剣勝負になってしまう クが通いつめているボクシングジムで拳を合わせるかするのがふたりの習慣になって 早朝︑ジョナサンが会員になっているテニスクラブでスカッシュを楽しむか︑マイ 粋だと我慢することにしたのだ︒ マイクはほとんど毎晩テスと過ごしていることを知っていたので︑邪魔をするのも無 キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 49 もあるってことか?﹂ 子高生が言いそうなことを考えてただけよ﹂自分が書いた文章を読んで眉をひそめる︒ キャロラインはマイクをにらみつけた︒﹁冗談はやめて︒頭からっぽの十八歳の女 イク・グランデルがからかった︒ ﹁おめでとう︒きみがそのコンテストに出てたとは知らなかったよ﹂通りすがりにマ パソコンのキーボードを打っていた︒ の編集部で︑キャロラインはブリトニー・スミスの鼻にかかった声を真似しながら︑ ﹁ 〝ミス・パスクアーリにまた選ばれちゃって︑超〜シアワセ〟﹂騒々しい﹃スター﹄ のめすほうが気分がいい︒ きたが︑愚痴になるだけだと思ってやめた︒それより︑スカッシュでマイクをたたき ﹁ああ﹂ジョナサンは短く答えた︒どうして黙ってたんだとマイクを責めることもで ﹁なるほど︒どんな仕事をしてるか聞いたんだな︒それはよかった﹂ ﹁今日︑偶然キャロラインに会った︒〝仕事中だ〟と言ってたよ﹂ 50 三十分もかかって︑まだ一段落しか書いていない︒ジョナサンと再会してから︑まっ たく仕事に集中できなかった︒ ﹁まさかインタビュー記事を適当にでっち上げてるんじゃないだろうな?﹂ マイクは怖い顔をしてみせた︒﹃スター﹄はお堅い報道記事がほとんどないことで マイクはキャロラインの机のそばに立ったままだ︒机からボールペンを取り上げ︑ が︑本人たちは楽しんでやっているのだろうと思っていた︒ い争っている︒あまりにもその回数が多いので︑スタッフはみんな口にこそ出さない 編集長のメルと報道デスクのマイクは︑彼が昇進して以来︑一日に何度も大声で言 ﹁お説教はメルにしてよね︒彼女の指示でやってることなんだから﹂ キャロラインは片手を上げて彼を制した︒長々と説教を聞かされるつもりはない︒ ると︑マイクは真摯に取り組んでいた︒ 真実を追究するためには手段を選ばないこともあるが︑いったん記事を書く段にな ビュー相手の談話や証言を粉飾することは︑銀行強盗にも値する大罪なのだ︒ 有名だが︑彼は違う︒真実を追究することに命をかけている︒マイクにとってインタ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 51 芯を出したり引っ込めたりしてからもう一度机に戻すのを見て︑何か言いたいことが 男対女で﹂ マイクが乱闘をしている姿は想像できる︒だがほかの三人が乱闘している姿を想像 ことをしたら大乱闘になるだろ? ﹁きみらのもめごとに首を突っ込むのはやめようってテスと約束したんだよ︒そんな ができたから﹂ よ︒でも︑言わないでくれたことには感謝してる︒おかげで自分の口から伝えること を抱いているのがキャロラインにもわかった︒﹁言わないでとは一度も頼んでないわ 会えばいつもふざけて罵倒し合っているのに︑マイクがジョナサンに対して罪悪感 うと思ってるようだよ﹂ ﹁きみがうちで働いてることを黙ってたから︑あいつは俺をこてんぱんにやっつけよ まりうれしそうじゃないのね﹂ キャロラインはキーボードに置かれた指先に視線を落とした︒﹁あなたは⁝⁝あん ﹁明日の朝︑ジョンとスカッシュをすることになった﹂ あるのだとキャロラインは察した︒ 52 するとおかしくて︑キャロラインは思わずくすくすと笑った︒﹁わたしたちのせいで テスともめるようなことだけは避けてね︒もうすぐ結婚式なんだから﹂ ﹁俺たちのことは問題ない︒ただ︑ジョンに黙っていたことは悪かったと思ってる﹂ い﹂ ﹁ああ︑たしかにうんざりしてる︒いや︑誤解しないでくれよ︒わかるだろ? てね︒あんなにすばらしい女性を︑あなたは手放さないで﹂ を保った︒ ﹁大丈夫︑あなたの気持ちはわかってるから︒それより︑テスと仲よくし その言葉に現実を思い出して涙が出そうになったが︑キャロラインはなんとか笑み とが心配なだけだ﹂ ただ⁝⁝﹂苦痛に襲われたかのようにマイクはぎゅっと目をつぶった︒﹁きみらのこ 俺は キャロラインはまた笑った︒ ﹁あなたをわたしたちの問題に巻き込んでごめんなさ ないね﹂ マイクは鼻を鳴らした︒ ﹁ 悪 か っ た と は 思 っ て る が︑ 負 け て や ろ う と 思 う ほ ど じ ゃ ﹁それなら︑せいぜい明日はスカッシュで勝たせてあげて﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 53 翌朝︑ジョナサンは全身汗まみれになっても気が晴れないまま︑シャワーの下に立 ーン・テニスクラブ﹀のスタッフもそんなマイクには慣れていて︑いまでは驚きもし 示すためだとジョナサンにはわかっていた︒つき合いが長いので︑彼だけでなく︿ロ エットの上下を着ているのは︑このテニスクラブのセレブな雰囲気に対する反抗心を べているところへマイクが現れた︒肩まである長い髪はまだ湿っている︒さえないス ウエイトレスがジョナサンのカップにコーヒーを注ぎ︑テーブルにカトラリーを並 先にテニスクラブのレストランに向かった︒ そんな鬱屈した気持ちを忘れようと努力しながら︑ジョナサンはマイクよりひと足 幼なじみに対する友情はどうしたと︑マイクを恨めしく思わずにいられなかった︒ 夫に︑キャロラインの行動を報告する義務はマイクにはない︒それはわかっていても︑ は自分に言い聞かせた︒だいたい︑もうすぐ別れることになるかもしれない別居中の キャロラインが﹃スター﹄で働いているのはマイクのせいではないと︑ジョナサン った︒疲れてこわばった筋肉を癒す湯が心地よい︒ 54 なかった︒しかし︑マイクが態度を改めないのは単なる習慣なのかもしれないとジョ ナサンは思い始めていた︒あるいは︑街でもっとも裕福で由緒ある名家の娘であるテ スと結婚しても︑自分は変わらないという意思表示なのかもしれない︒ マイクは向かいの席にどさっと腰を下ろすと︑ジョナサンをにらみつけた︒﹁次は ﹁せめてもう少し清潔なジムを探さないか?﹂ しだろう﹂ イクは楽しそうに言った︒ ﹁ ヘ ッ ド ギ ア と マ ウ ス ピ ー ス が あ る だ け︑ ジ ム の ほ う が ま ﹁まあ︑どこだろうとおまえが俺にたたきのめされることには変わりないからな﹂マ ばいいじゃないか﹂ ゥーだらけの男たちを見たいなら︑ハーレーを乗り回す連中が集まるバーにでも行け いが︑マイクのような男はここより落ち着くのかもしれない︒﹁それとも︑全身タト シングジムの更衣室をジョナサンは思い出した︒とても居心地がいい場所とは言えな ﹁男の汗くさい靴下の匂いを胸いっぱいに嗅げるからな﹂独特の匂いがこもったボク ボクシングにしようぜ﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 55 あきれたようにマイクは首を振った︒﹁まったく︑おまえは大したスノッブだな﹂ つまりおまえのところで働いてるなんていう爆弾 ―― ﹁だが︑一緒に暮らせるほどじゃない﹂ ぞ︒俺たちはいまでも友達だろ?﹂ もあるが︑本気で憤っているようにも見える︒﹁おい︑そこは俺の職場でもあるんだ その言葉に︑マイクはふたたびジョナサンをにらんだ︒おもしろがっているようで じられないよ﹂ ﹁キャロラインがあんな⁝⁝くだらないタブロイド紙で働いてるなんて︑まったく信 ﹁俺が彼女を雇ったわけじゃない︒雇ったのはメルだぜ﹂マイクは言った︒ いだろうが︑少しはすっきりするはずだ︒ やりたい衝動に駆られた︒マイクの頑丈そうな頭蓋骨はそれくらいではびくともしな マイクがメニューを開いた︒ジョナサンはそのメニューをひったくって頭を殴って 宣言をされる前にね﹂ きつけた︒ ﹁うちのライバル紙 ﹁キャロラインにも言われたよ﹂にらみつけてくる幼なじみに︑ジョナサンは指を突 56 ﹁傷口に塩を塗るようなことは言いたくないが︑いまはキャロラインとも住んでない じゃないか﹂ ジョナサンは熱くて苦いブラックコーヒーを飲んだ︒﹁あんなに頑固だとは思わな っているのは︑マイクのせいではない︒﹁いまから警告しておくが︑万一テスともめ ジョナサンは肩の力を抜こうと努力した︒キャロラインとぎくしゃくした関係にな 隠しでわざと攻撃的な態度をとっていることもわかっていた︒ ジョナサンは思い出さずにいられなかった︒だがつき合いが長いので︑マイクが照れ 幼なじみの攻撃的な態度を見て︑マイクがボクシングジムに通いつめていることを ョナサンを見据えた︒ 俺たちはいまでも友達だ︒そうだろ?﹂マイクは顎を引いて眉を上げ︑上目遣いにジ ても︑おまえに話さずにいるのは苦痛だった︒これでもう隠しごとはいっさいないし︑ ンが自分で話してくれてホッとしてるよ︒俺が話すようなことじゃないと思ってはい ﹁俺たちみんなにとって残念な状況だ︒ともかく︑うちで働いてることをキャロライ かったよ︒彼女を裏切るくらいなら腕を切り落としたほうがましだっていうのに﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 57 ても︑僕の助けは期待するなよ﹂ するとマイクは大声で笑った︒ ﹁俺が助けを求めるはずがないだろ?﹂ たしかにそのとおりだ︒ジョナサンも笑った︒ ふたりはひとしきり笑うと︑メニュー選びに戻った︒どちらもありきたりな朝食を ャロラインを正式に雇うつもりでいる﹂ ﹁この話はしないほうがいいかもしれないが︑正社員の席に空きが出たら︑メルはキ いかと︑ジョナサンは思った︒ カトラリーをもてあそんでいるマイクを見て︑何か言いにくいことがあるのではな 書いてる原稿も悪くないよ︒いまの仕事が合ってるんだと思う﹂ ﹁テスに訊いてくれ︒彼女のほうがよくわかってる︒キャロラインは元気そうだし︑ 女の様子は?﹂ ウエイターが立ち去ると︑ジョナサンはテーブルに身を乗り出した︒﹁それで︑彼 だ︒ 注文した︒卵が三つの目玉焼きにベーコンとソーセージ︑ハッシュポテトとトースト 58 ﹁どうしておまえがそれを知ってるんだ?﹂ ﹁俺が推薦したからだ﹂ ジョナサンは打ちのめされた︒ここがボクシングジムなら︑幼なじみの顔を思いき をしている︒ ﹁彼女は掘り出し物だよ︒おまえの損失は大きい︒というより︑おまえ ﹁いい仕事をしてるからに決まってるだろ?﹂マイクはおもしろがっているような目 裏切られるとは︒ジョナサンはひどく傷ついた︒ ﹁どうして彼女を推薦したんだ?﹂よりによって︑いちばん信頼している幼なじみに おさらスノッブだとなじられるだけだろう︒ てやりたかった︒ ﹃スタンダード﹄を読むタイプだと︒だがそんなことを言えば︑な キャロラインだってタブロイド紙を読むような人間じゃないと︑ジョナサンは言っ ってくれてる﹂ ゃない︒おまえのような気取ったスノッブは読まないだろうが︑多くの市民は気に入 り殴りつけてやるのだが︒ ﹁おまえが僕の妻をあんな ―― ﹂ ﹁たしかにうちの新聞はタブロイド紙だ︒だが︑別に呪われた悪魔新聞というわけじ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 59 の新聞社の損失︑と言うべきだろうな﹂ とテスがつき合い始めたときは︑四人の関係もうまくいっていた︒だがふたりが別居 キャロラインとテスも親友同士だった︒ジョナサンがキャロラインと結婚し︑マイク ることに気づいていた︒幼なじみのマイクは︑妻と知り合う前からの親友だ︒一方︑ ジョナサンは︑マイクとはキャロラインの話をしないという暗黙の了解を破ってい タイプやあまり社交的でないのもいたが︑キャロラインには苦にならないようだった︒ たちとも上手につき合ってくれていた︒ハーバード時代の同級生の中には︑高飛車な インは夫婦で催すカクテルパーティの女主人役としてはすばらしかったし︑彼の友人 どうやらそのようだと︑ジョナサンは認めざるをえなかった︒たしかに︑キャロラ はそういう才能があるんだ︒知らなかったのか?﹂ ロラインは人と話すのが好きだし︑彼女が相手だと誰でも心を開く︒キャロラインに ﹁うちの新聞を読めば︑彼女が人物欄の特集記事を担当してることがわかるよ︒キャ ﹃スター﹄にファッション欄はなかったはずだろ﹂ ﹁キャロラインは﹃スタンダード﹄でファッション・トレンドのコラムを担当してた︒ 60 したあとはその関係も面倒なものになり︑ジョナサンとマイクのあいだでさえ︑時お り気まずい空気が流れるようになった︒ ジョナサンは︑できることなら本音をすべて吐き出してしまいたかった︒どれほど とりあえずのところは満足して︑ジョナサンは話題を変えることにした︒﹁ここの るのにぴったりな記者を知っていた︒よし︑計画は決まった︒ ジェクトに﹃スター﹄は興味を持つかもしれない︒しかも︑彼はこのテーマを取材す ふと︑ジョナサンの頭にひとつのアイデアがひらめいた︒いま彼が進めているプロ それが難しいのだ︒ き詰まっていた︒まず彼女とふたりきりになって話をしなければいけないが︑何より 昨夜︑ジョナサンは妻を取り戻す計画を練ろうとしたのだが︑既に最初の段階で行 情報も消化しようとした︒彼女がゴシップ紙の人物欄の記者とは⁝⁝︒ 卵とベーコンをがつがつと胃袋に収めながら︑ジョナサンは頭の中で妻に関する新 に泣き言を言うなんてできるわけがない︒彼は食欲を満たすことに専念しようとした︒ 妻が恋しいか︑どれほど妻に戻ってほしいかを誰かに聞いてほしかった︒だがマイク キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 61 ベーコンエッグはパスクアーリ一だと︑おまえも認めるだろ?﹂ ングするようにしていた︒ が︑気の毒だと思われたくなかったので︑たいてい仕事がらみのディナーをセッティ 気にもなれなかった︒たまにはひとりでほかのレストランで食事をするのも悪くない しに来ていた︒家でひとりで食事をするのは味けないし︑母親の店で毎日食事をする るという言い訳ができる︒だが︑本当は逆だった︒ここで食事をするために︑運動を 食事をしているのを人に見られても︑運動をしたあとだからここで空腹を満たしてい 最近︑ジョナサンはこのレストランで食事をすることが多くなっていた︒ひとりで らここで食べる朝食にかなうものはないよ﹂ ﹁三ドル以下の朝食部門ではエドの店が一番だと言えるかもな︒だけど︑運動してか 誰が安さを比較してるんだとあきれながら︑ジョナサンは大げさに肩をすくめた︒ 二ドル九十五セントだぞ﹂ ﹁ビッグ・エドの店には負けるよ︒卵三つとベーコン六切れ︑トーストとコーヒーで ﹁おまえは本当に物知らずだな﹂ほっとしたように︑マイクが明るい声で言い返した︒ 62 ﹁実はおまえに頼みがあるんだ﹂マイクが卵を頬張りながらもごもごと言った︒ ﹁なんだ?﹂ジョナサンは顔を上げた︒ マイクはジョナサンをにらみつけてから︑低い声で言った︒﹁結婚式に着るタキシ ナサンは口には出さなかった︒ ベ ス ト マ ン 内心︑テスに言われればマイクはどんな格好でもするに違いないと思ったが︑ジョ いもしなかったよ﹂ から﹂ため息をついて続ける︒ ﹁ ペ ン ギ ン み た い な 格 好 を す る こ と に な る な ん て︑ 思 マイクは鼻を鳴らした︒ ﹁俺が着るものをおまえも着るんだぞ︒花婿付添人なんだ みせた︒ ン・トラボルタなんかどうだ?﹂人差し指で天井を指し︑例の有名なポーズをとって ﹁ も ち ろ ん ﹂ ジ ョ ナ サ ン は う な ず い た︒﹁﹃ サ タ デ ー・ ナ イ ト・ フ ィ ー バ ー﹄ の ジ ョ とにしたのだとすれば︑思っていた以上にマイクは彼女に惚れているらしい︒ そのとたん︑ジョナサンはコーヒーにむせた︒テスに言われてタキシードを着るこ ードを探すのを手伝ってほしい﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 63 ブ ラ イ ズ メ イ ド ﹁早く注文しろとテスがうるさくて︒彼女はもうウエディングドレスと︑キャロライ ジョナサンはこのチャンスをふいにするつもりはまったくなかった︒ に参加し︑当日はキャロラインをエスコートすることにもなるだろう︒ を取る願ってもないチャンスじゃないか︒結婚式にまつわるさまざまな行事にも一緒 なかった︒だが︑キャロラインと一緒に付添人をつとめるということは︑彼女と連絡 スとマイクの結婚式については︑ずっとそれどころではなかったのであまり考えてい 言いながらも︑内心︑キャロラインのそばにいられることをジョナサンは喜んだ︒テ ﹁お互い親友の結婚を祝うためだ︒私情は抑えられることを願ってるよ﹂口ではそう 添人をつとめられるのか?﹂ ﹁どうでもいいだろ︑そんなこと﹂マイクは眉をひそめた︒﹁おまえたちは仲よく付 ラインは処女じゃない︒結婚してるんだから﹂ジョナサンは反射的に言った︒ メイド ﹁正確に言えばブライズ〝メイド〟じゃなくてブライズ〝マトロン〟だよな︒キャロ ンの花嫁付添人のドレスを注文したそうだ﹂ 64 キャロラインは濡れたままバスルームを飛び出し︑色あせたペルシャ絨毯に水滴が 4 何しろ生活がかかっている︒気分で相手を選んではいられない︒ おいたのだが︑仕事を始めたいまはまるで奴隷のように携帯電話にかしずいていた︒ ジョナサンと暮らしていたときは︑電話が鳴っても出たくなければそのまま放って バスタオルを体に巻きつけただけの格好で︑キャロラインは携帯をつかんだ︒ 飛び出してから︑これからの生活にめどがつくまで滞在させてもらっていた︒ 植物の世話をしてほしいと頼まれて通っていたのだが︑ジョナサンに裏切られて家を 友人のメラニーに借りているタウンハウスは︑もともと彼女が長期出張で留守の間 したたるのもかまわず鳴り続けている携帯電話を捜した︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 65 ﹁もしもし?﹂キャロラインは携帯を耳にあててキッチンに行くと︑ラックからタオ ロラインは気づいた︒一緒に暮らしていたときは︑よくこんなふうにからかわれたも からかうような口調だったが︑先ほどより彼の声が少しかすれていることに︑キャ ﹁シャワーを浴びてたんだろ?﹂ジョナサンはしつこかった︒ のほかにいない︒ 声を聞いただけで状況を察するほどキャロラインのことを知っている人なんて︑彼 けの姿でいることが恥ずかしく︑この格好が頼りなく感じられた︒ ﹁ジョナサン ―― ﹂ 彼に自分の姿が見えないことはわかっていても︑キャロラインはタオルを巻いただ 始めた︒あわててタオルをきつく体に巻き直し︑カウンターのスツールに腰を下ろす︒ からかうような男の声を聞いたとたん︑キャロラインの心臓が飛び跳ね︑脚が震え ﹁シャワーを浴びてたのか?﹂ まりをつくった︒ ルを取って濡れた顔を拭いた︒それでも濡れた体から滴がしたたり︑床に小さな水た 66 のだ︒ ﹁そんなことより︑どうしたの?﹂キャロラインは尋ねた︒自分でも︑口調が和らい でいることに気づいていた︒幸せだった日々を思い出したせいだろう︒もしふたりが 違う︑とキャロラインは心の中で訂正した︒ローリは全裸だったわけじゃない︒か に入ろうとしていた記憶が︑まるで昨日のことのように鮮明によみがえった︒ ローリが全裸でベッドに横たわり︑そのかたわらに立つジョナサンがいまにもベッド そのとき︑ローリ・ゲルハルトの顔が脳裏に浮かび︑彼女の気持ちは一瞬で冷めた︒ うだった︒キャロラインはイエスと答えたかった︒ からかうような調子は消え︑ジョナサンは息をこらして彼女の返事を待っているよ ってもいいかな?﹂ ﹁少しこみ入った話だから︑できれば会って話したい︒よければいまからそっちに行 ウンターの縁を握り締めてこらえた︒ 落ちていたはずだ︒できることなら時間を巻き戻したい衝動に駆られたが︑彼女はカ 別居中でなく︑目の前にジョナサンがいたら︑いまごろ体に巻いているタオルは床に キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 67 ろうじてTバックのパンティだけはつけてたけど︑だからなんだっていうの? ﹁何が言いたいの?﹂体が冷えてきて︑肩から腕に鳥肌が立つ︒キャロラインはタオ いいと思ったんだ﹂ 彼らの特別な日を台なしにしないために︑まずは僕たちの問題をなんとかしたほうが ﹁ああ︒電話したのはほかでもない︑僕たちがマイクとテスの付添人をつとめる件だ︒ 腹を 立 て た と き に いつもそうするように︑ジョナサ ン は 大 き く 息 を 吐 き 出 し た︒ ﹁昔話をするために︑わざわざ電話をしてきたわけ?﹂キャロラインは皮肉を言った︒ しまいたい︒ジョナサンに投げつけてやれたら︑なおいい︒ も血が上った︒なんでもいいから手近にあるものを床にたたきつけて︑粉々に壊して 先ほどのからかうような口調とはうって変わった怒声を聞き︑キャロラインの頭に だ︒彼女とは何もなかった!﹂ジョナサンは声を荒らげた︒ ﹁彼女がヒューストンに引っ越したのは知ってるだろ︒それにもう何度も言ったはず は冷ややかに告げた︒ ﹁もし寂しいなら︑ローリ・ゲルハルトに慰めてもらえばいいでしょ﹂キャロライン 68 ルに半分だけ包まれた体をぎゅっと抱き締めた︒ ﹁結婚式の前にふたりで会う時間をつくるべきだと思う︒話し合って誤解をとけば︑ お互いの態度で恥をかいたり︑結婚式を台なしにしたりしないですむはずだから﹂ キャロラインは笑いそうになった︒ジョナサンはいつだって︑突拍子もないことを んとそばで見届けたいの︒だって彼女も⁝⁝﹂ ﹁簡単に言わないでよ﹂キャロラインはすかさず言い返した︒﹁テスの結婚式はちゃ ﹁それなら︑ブライズメイドは引き受けられないとテスに断るべきだ﹂ たびに怒りがこみ上げてくるのだ︒ 未来に向かって歩き出したいと努力しても︑つい彼のことを思い出してしまい︑その ャロラインは正直に言った︒ジョナサンとの結婚生活に終止符を打って︑静かな心で ﹁何をしたとしても︑わたしはあなたが期待するようにふるまえる自信はないわ﹂キ ﹁結婚式でお互い常識的にふるまうために必要なら︑答えはイエスだ﹂ ってこと?﹂ 思いつく︒ ﹁つまり︑怒鳴り合ったり︑ものを投げつけ合ったりするデートをしよう キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 69 ジョナサンが続けた︒ ﹁僕たちの結婚式で同じことをしてくれたからね﹂ キャロラインはまばたきで涙をこらえた︒自分たちのすばらしい結婚式や︑ジョナ テスにブライズメイドになってほしいと言われ︑キャロラインはうれしかった︒た ジョナサンは氷の女王をエスコートすることになるだろう︒ ンと一緒に過ごさなければならないなら︑醜態だけは見せたくない︒ ちょっとした仕返しにはなるだろう︒テスとマイクの結婚式の日︑昼も夜もジョナサ とにかく︑ジョナサンのせいで味わわされた苦痛とはまったく比べ物にならないが︑ っている女の隣に立つ彼の姿が脳裏に浮かび︑キャロラインは思わずほくそえんだ︒ は女性に無視されるのに慣れていない︒できるなら世界の端と端に離れていたいと願 そのとき彼はどんな気持ちになるだろうと︑キャロラインは想像した︒ジョナサン ら︒ただ︑無視するだけよ﹂ ﹁心配しないで︑ジョナサン︒野蛮人のような態度であなたに接するつもりはないか れからの人生をどう生きていくかなのだから︒ サンと分かち合っていた幸せな時間を思い出すなんて愚かだ︒考えるべきことは︑こ 70 だひとつ残念なのは︑花婿であるマイクがジョナサンの親友だということだ︒ふたり が幼なじみで︑リトルリーグの同じチームで野球をしていたことは知っていても︑や んちゃな貧しい少年と上流階級の裕福な少年が親友だったというのが︑キャロライン 社会で厳しい現実を ―― そんな心配はないとわかっていても︑キャロラインは結婚式が済むまで離婚の件で弁 ンと離婚するという事実が︑テスたちの将来に影を落とさないようにと願っていた︒ テスとマイクの結婚式は︑あと三週間ほどに迫っている︒キャロラインはジョナサ たのだった︒ てから一度は断ったのだ︒しかし︑テスにどうしてもと言われて引き受けることにし ブライズメイドをやめることはできない︒実は︑キャロラインもジョナサンと別居し マイクが自分を裏切った夫との縁を切らないからといって︑その花嫁であるテスの がハーバードで法律を学び︑マイクが ―― 本 人 に 言 わ せ れば 学んでいた時期も途切れることなく続いていた︒ 成長してからも︑ふたりの友情は変わらなかった︒しかもその友情は︑ジョナサン にはいつも不思議だった︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 71 護士を訪ねるのは控えることに決めていた︒ そのとき︑喉を鳴らす声が聞こえ︑キャロラインは足もとに目を落とした︒片目が 女は足を引っ込めようとはしなかった︒ジョナサンと暮らしていた家の広い裏庭で︑ やすりのようにざらざらした舌でなめられ︑くすぐったさに身をよじりながらも︑彼 サイクロプスが床をなめるのをやめて︑キャロラインの足の爪先をなめ始めた︒紙 ﹁母さんのバースデーパーティの件だ﹂ と思い︑キャロラインは奥歯を噛み締めた︒だが彼女の予想ははずれた︒ 彼にぴしゃりと言われ︑きっと﹃スター﹄で働いていることに文句をつけたいのだ そろそろ ―― ﹂ ﹁まだ話は終わってない﹂ ﹁ジョナサン︑そろそろ仕事に行く支度をする時間だから︒もしほかに話がないなら︑ 滴をなめ始めた︒ プスが主人を見上げている︒やがて猫はかわいらしいピンク色の舌で︑濡れた床の水 つぶれているので︑ギリシャ神話に出てくる巨人にちなんで名づけた愛猫のサイクロ 72 悲しげな声で鳴いていたみすぼらしい片目の子猫を︑キャロラインは家に入れて家族 にした︒メラニーのタウンハウスに移ってきたときも一緒に連れてきた︒つらかった 日々︑サイクロプスにどんなに慰められたことか︒ 自分の不幸ではなくファニーのことを考えようと努力しながら︑キャロラインは尋 もないんだ﹂ 手伝ってもらえないか︒もう一度最初からやり直さなきゃいけないのに︑もう一週間 ﹁こんなことをきみに頼める筋合いじゃないのはわかってるけど︑パーティの準備を の息子にひどく傷つけられたとしても︒ に特別なパーティにしてあげたかった︒何しろ︑ファニーは特別な女性だ︒たとえそ ﹁よかった!﹂キャロラインは思わず優しい声で言った︒彼女自身︑ファニーのため ティはバーで開くことにしたよ﹂ ﹁きみの言葉は正しかった︒だからボマリの予約をキャンセルして︑バースデーパー ﹁まず最初に礼を言わせてほしい﹂ジョナサンはしぶしぶといった様子で認めた︒ ねた︒ ﹁何?﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 73 キャロラインはすぐに返事をしなかった︒一度は手伝おうと決めたが︑いざとなる サイクロプスは喉を鳴らしながら︑キャロラインのうなじに頭をこすりつけた︒ま のに︒ ﹁わたしたちは似た者同士よね?﹂ つけたときよりずいぶん重くなった︒あのときは︑おびえたやせっぽちの子猫だった 電話を切ると︑キャロラインはサイクロプスを抱き上げた︒裏庭にいるところを見 ジョナサンの冷静で事務的な口調が気に障った︒ ﹁ああ︑そうだね︒もう少し詳細をつめてから︑また連絡するよ﹂ た︒ ﹁それに︑店内の飾りつけやケーキもね︒生バンドも入れたほうがいいわ﹂ 電話なのでジョナサンに見えないことはわかっていたが︑キャロラインはうなずい せないと︒ケータリングサービスも予約する必要があるし﹂ ﹁ありがとう︒感謝するよ︒さっそくゲストに電話して︑計画が変わったことを知ら わ﹂結局︑そう答えるしかなかった︒﹁でも︑あくまでファニーのためよ﹂ の意見に従って計画を変更したのだ︒﹁わたしにできることがあれば︑喜んで手伝う と心が揺らいだ︒でも︑これはファニーのためだ︒それにジョナサンはキャロライン 74 めに毛づくろいしているサイクロプスの柔らかい毛の感触が︑素肌に心地よかった︒ ﹁どうすればいいと思う?﹂ キャロラインはテスに尋ねた︒ふたりだけで話をしたいときによく行く︑繁華街か は食べ物を見ると吐き気がする日があるかと思うと︑食欲旺盛でいくらでも食べられ とに引き寄せた︒驚きに目をみはるテスをよそにさっそくポリポリ食べ始める︒最近 タイザーで出てきたトルティーヤチップスとサルサソースの入ったバスケットを手も ﹁自分の世界を広げようと思って︒まずは胃袋からよ﹂そう言うと︑サービスのアペ を頼むのを初めて見たわ﹂ そんな彼女を見て︑テスは目をぱちくりさせた︒﹁あなたがタコサラダ以外の料理 ず︑ランチの盛り合わせのフェスタ・プレートを注文した︒ がぺこぺこなことに気づいた︒そうなるとメニューを見てもひとつの料理に決めきれ 布張りのソファが置かれたテーブル席に落ち着くやいなや︑キャロラインはおなか ら少し離れたところにあるメキシカンレストランにテスを呼び出していた︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 75 る日もある︒きっとストレスのせいね︒キャロラインはチップスを次々と口に入れな ﹁わたしもびっくりしたわ﹂ マイクじゃあるまいし?﹂ ﹁あなたたちは一度も感情をぶつけ合ったことがないんでしょ? したくないもの﹂ キャロラインは唇をとがらせた︒﹁怒鳴り合いなんて︑そんなみっともないこと︑ カを一度もしたことないカップルなんて︑きっとあなたたちだけよ﹂ 怒鳴り合いのケン ときにずけずけ言うタイプだ︒メルと激しくやり合っている姿を見ていればわかる︒ たしかにそのとおりだとキャロラインは思った︒マイクは言いたいことを言いたい をぶちまけ合うデートをしようなんて言ったの? テスはテーブルに身を乗り出してささやいた︒﹁あのジョナサンが︑言いたいこと マイクとの恋でそんなふうに変わったテスが︑キャロラインは好きだった︒ った︒美人にありがちな近寄りがたさが消え︑優しい雰囲気が加わったのがわかる︒ もともとテスは正統派の美人だったが︑愛する人に巡り合ってますますきれいにな がら︑ジョナサンとの会話をテスに伝えた︒ 76 テスは何か言いたそうな顔をしたが︑思い直したように首を振った︒﹁だけどジョ ナサンは︑どうしていまになってそんなことしたいわけ?﹂ ﹁結婚式で︑お互い常識的に礼儀正しくふるまうためだ︑って﹂ のを邪魔される相手もいないのだ︒何げなくテスに言われた言葉が︑キャロラインの 一瞬︑キャロラインは完璧な自分の装いにうんざりした︒何しろ︑朝ベッドを出る えず家を飛び出してきたようだ︒ ラウスにもしわが寄っている︒まるで仕事に遅刻しそうになって︑とるものもとりあ 品きわまりないテスだが︑今日はショートカットのブロンドの髪は乱れているし︑ブ キャロラインは唖然として友人を見つめた︒いつもなら一分のすきもない格好で上 ﹁じゃあ︑あなたはほかの人と結婚式に来れば?﹂ ﹁同伴者のわたしに恥をかかされることじゃないかしら﹂ なたたちの問題だと思うけど︒彼は具体的に何を恐れてるの?﹂ つつあるチップスのバスケットに手を伸ばした︒﹁言わせてもらえば︑それこそがあ ﹁あなたたちはいつだって常識的にふるまってるじゃない!﹂テスもすでになくなり キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 77 頭に響いた︒ ﹁ほかの人と?﹂ テスはいたずらっ子のように目を輝かせた︒﹁かまわないんじゃない? 結婚式は ションがらみでジョン・キューザックにインタビューしたの︒マネージャーの電話番 けど﹂傷だらけの木のテーブルを指先でコツコツとたたく︒﹁去年︑映画のプロモー テスは首を振った︒ ﹁そんなふつうの人じゃだめ︒映画スターとかなら最高なんだ りだもの﹂ ﹁でも誰と行けばいいの? いま思い浮かぶのは︑みんなジョンも知ってる人ばっか ﹁まだ遅くないわ︒考えてみて﹂ どうして思いつかなかったのかしら﹂ するか︑キャロラインはしばらく楽しい空想にふけった︒﹁いいアイデアだと思う︒ ほかの男性と腕を組んで結婚式の会場に現れた妻を見て︑ジョナサンがどんな顔を だから﹂ 頼んだけど︑だからといってふたり一緒に会場に来て一緒に帰っていく必要はないん エスコートつきで出席するのがあたりまえなんだし︑付添人はあなたとジョナサンに 78 号を知ってるけど﹂ キャロラインは唖然として友人を見つめた︒ いの?﹂ ﹁ルーパート・エバレットとか? を思い出して︑キャロラインは言った︒ 彼︑すごく楽しい人だったな﹂モデル時代の仲間 ﹁モデル時代︑いつもイケメンたちにとり巻かれてたじゃない︒誰かしら心あたりな 見つからないわ︒もし理由その一とその二がなければ︑彼は完璧な相手ね﹂ クアーリから遠すぎる︒理由その三⁝⁝﹂彼女は必死に考えを巡らせた︒﹁その三は きた︒ ﹁だめな理由その一︑彼は結婚している︒理由その二︑オーストラリアはパス キャロラインは笑いたいのをこらえて首を振った︒少なくとも︑気分はよくなって とがなかった? 彼なんかどう?﹂ たたしか︑ヒュー・ジャックマンとチャリティがらみのファッションショーをしたこ 候補にしましょ︒そうだ!﹂テスは大きな目を輝かせ︑興奮した声で言った︒﹁あな ﹁あら︑これは作戦会議なのよ︒どうせなら地球上にいるゴージャスな男性をみんな キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 79 ﹁今回の目的は︑ジョナサンにやきもちを焼かせることよ︒背が高くていいオシリを ﹁ううん︒結婚してる﹂ ﹁ゲイでしょ﹂テスが遮った︒ ハンサムで楽しくて︑チャーミングで ﹂ ―― ﹁顔を見ればわかるはず︒よく雑誌に出てるから︒ものすごくゴージャスな人なの︒ いるらしい︒ 気乗りしない様子で︑テスは言った︒どうやら︑映画スターのほうがいいと思って ﹁聞いたことないわね︒有名?﹂ がいたわ!﹂ 勢いよく顔を上げて︑キャロラインは指を鳴らした︒﹁アンドレ・ジャルディーノ べるような人はひとりしか⁝⁝︒ ートしたことはない︒ハンサムなメンズモデルならたくさん知っているが︑友達と呼 キャロラインは頬杖をついて考えた︒ジョナサンと出会ってから︑ほかの男性とデ したメンズモデルはいないの?﹂ 80 ﹁ジョナサンは彼のこと知ってるの?﹂ キャロラインはにっこりと笑った︒ほかの男性を同伴するというアイデアに︑わく ﹁動物保護のためのチャリティイベントだから︑引き受けることにしたの︒パスクア ﹁だって︑あなたはもう引退したでしょ﹂ ﹁そうよ﹂キャロラインはうなずいた︒ テスは眉を上げた︒ ﹁仕事って︑モデル?﹂ 開くんだけど︑アンドレと一緒に仕事をする予定になってて︑それで思い出したわ﹂ ﹁オレゴン州のどこか︒近いうちに動物愛護団体がシアトルでファッションショーを ﹁どこに住んでるの?﹂ 結婚して︑いまでは男の子がふたりもいるの﹂ は︑ニューヨークにいた頃だから︒こっちに来て結婚してからは会ってないし︒彼も ﹁ううん︒ジョンはアンドレのことは知らないわ︒アンドレと一緒に仕事をしてたの 話をすればよりを戻せると思っている︒甘いったらないわ︒彼にはお仕置きが必要よ︒ わくしてきた︒ジョナサンは彼女の心を踏みにじった︒それなのに︑会ってちゃんと キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 81 ーリにも保護施設をつくって運営を開始する予定だったのに︑ジョンとの別居で中断 ロラインは笑いながら言った︒ ﹁なんだか楽しくなってきちゃった﹂ それに︑彼に奥さんを紹介したのはわたしなの︒借りを返してもらわないとね﹂キャ ったし︑浮気した夫に教訓を与えるためだと知ったら快く引き受けてくれると思う︒ キャロラインは肩をすくめた︒﹁わたしたち︑昔から罪のないいたずらが大好きだ ﹁どうやらアンドレで決まりね︒でも︑彼は引き受けてくれる?﹂ ケメンモデルにエスコートをお願いする交渉くらいしてもいいわ﹂ 言ってから︑気分を変えるようにほほえむ︒﹁でも︑あなたの結婚式のためなら︑イ くりと首を振った︒ ﹁ そ れ に︑ わ た し 自 身 も い ま は な ん だ か 気 力 が わ か な く て ﹂ そ う 新聞社の土地だから︒ジョン抜きで最初からやり直すのは⁝⁝﹂キャロラインはゆっ ﹁保護施設の建設自体は市議会で認可されたけれど︑建設予定地が﹃スタンダード﹄ にがんばってたものね︒いまからでも進められないの?﹂ テスはうなずいた︒ ﹁たしかにすばらしいプロジェクトだし︑あなたたち︑あんな せざるをえなかったのが心残りだわ﹂ 82 テスもつられて笑ったが︑どこか心配そうだった︒﹁本当にやるつもり?﹂ ﹁何言ってるの︑言い出したのはあなたじゃない﹂ ﹁それはそうだけど︑わたしはただあなたとジョナサンを⁝⁝﹂ がった︒ ﹁ジョンにわたしのことを訊かれたりする?﹂ ﹁顔を合わせるたびにね﹂ ﹁そう︒それで︑なんて答えるの?﹂ テスはくるりと目を回した︒ ﹁ 聞 か な く て も わ か る で し ょ? そこへ料理が運ばれてきた︒ 並べてるわ﹂ そうに見えたことはないとかなんとか適当に︒あなたが聞いたらあきれるような嘘を 達なんだから︒キャルはとっても元気よーって︑そんなようなことよ︒いまほど幸せ わたしはあなたの友 自分でもなんとも言いようのない︑希望と怒りの間にあるような感情が胸にわき上 ﹁でも︑ふたりとも⁝⁝なんていうか︑まだ未練がありそうだし﹂ ﹁もう終わったことよ﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 83 キャロラインは未練を断ち切るように背筋を伸ばして胸を張る︒﹁事実︑わたしは やかによみがえってしまう︒ えないようにしようと思えば思うほど︑夫とローリが一緒にいた情景が細部まであざ あのときのことを考えるのは︑キャロラインにとって本当につらかった︒だが︑考 しょ?﹂ ﹁でも︑ローリが裸同然の格好をしてたとき︑ジョナサンはちゃんと服を着てたんで てあった︒ローリは共犯者にすぎなくて︑浮気をしたのはあくまでもジョンなのよ﹂ たくさん読んでるんだけど︑責めるなら原因をつくった人間を責めるべきだって書い ため息をつき︑キャロラインは頭を振った︒﹁最近︑自己啓発本にはまっちゃって︑ きにしてやりたいわ!﹂テスはうめいた︒ ﹁自分が残酷な人間だと思ったことはないけど︑いまでもあのローリって女を八つ裂 ﹁ありがとう︑テス﹂キャロラインは手を裏返して友人の手を握った︒ テスはテーブルに置かれたキャロラインの手に手を重ねた︒﹁わかってるわよ﹂ 幸せだもの︒未来に目を向けて︑過去を振り返らないようにしてるの﹂ 84 ただクビにすればいいだ ﹁ジョンが彼女に仕事を見つけてヒューストンに追い払ったことは知ってるわよね? 彼女と何もなかったんなら︑どうしてそんなことするの? けじゃない︒はい︑この話はもうおしまい︒食べましょう﹂ キャロラインはエンチラーダを食べ始めた︒ しばらく考えてから︑テスが口を開いた︒﹁新しい仕事を始めたのも︑未来に目を はおまけにすぎないわ︒あくまでも未来に目を向ける第一歩よ﹂ ﹁もちろんよ︒たしかにジョナサンをびっくりさせたのは気分がよかったけど︑それ ー﹄で働いてるわけじゃないわよね?﹂ ﹁喜んでもらえてわたしもうれしいけど⁝⁝でもジョナサンを怒らせるために﹃スタ 店で会ったとき︑ ﹃スター﹄で働いてるって言ったらすごく驚いてたわ﹂ しくてしかたないってかんじ︒ありがと︑ジョナサンに黙っててくれて︒ファニーの テスが話題を変えてくれたことに感謝しながら︑キャロラインは答えた︒﹁もう楽 向けてるってことね︒調子はどう?﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 85 5 礼儀正しい口調で返事をすると︑キャロラインはオフィスに足を踏み入れた︒どう ﹁はい︑なんでしょう?﹂ いつも少し緊張した︒じきにそれは自分だけではないとわかったのだが︒ いたが︑たまにメルから直接言い渡される場合もあった︒年長の編集長の前に出ると︑ キャロラインはたいてい︑特集記事を担当する編集者からライターの仕事を受けて 間にも慣れていたが︑メルは両者の特徴を兼ね備えていたので︑最初は戸惑った︒ モデルや社主夫人としての経験から︑無礼な口をきく人間にも高飛車な口をきく人 編集長のオフィスの前を通りかかったとき︑キャロラインは中から呼びとめられた︒ ﹁キャロライン︑ちょっといい?﹂ 86 してメルに対してこれほど気を遣ってしまうのか︑自分でも理解できない︒丁寧に話 してもメルは気づきもしないだろうし︑気づいたとしても向こうもキャロラインに対 してそうしてくれるとはとうてい思えない︒ 足で向かうことが︑彼女にとって唯一のエクササイズだった︒ だけを残して口紅ははげ落ちている︒オフィスからいちばん近い喫煙コーナーまで早 アはくしゃくしゃに乱れているし︑ヘビースモーカーのため︑唇の輪郭を縁どった線 変わらない︒考えごとをするときに髪をかきむしるせいで︑ブリーチしたショートヘ メルは尋ねた︒彼女自身はいつも似たようなパンツスーツを着ているので︑印象は ﹁あなた︑また新しい服買ったの?﹂ い払うためによく使った方法だ︒ をかすかに上げてみせた︒モデル時代︑彼女のドレスを脱がせようとする男たちを追 そういう失礼なふるまいには慣れていたので︑キャロラインは身じろぎもせずに眉 ﹁ちょっとあなたに話が ―― ﹂目を上げた瞬間︑メルはあからさまに口をつぐみ︑キ ャロラインの頭のてっぺんから足の爪先まで眺めた︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 87 ﹁いいえ︒もう二年も着ていますよ﹂キャロラインは答えた︒髪をかき上げるメルを た彼女の人生が崩壊し︑ジョナサンが裏切り者だと判明したときの記憶が︑またも脳 〝Tバック〟という言葉を聞いた瞬間︑キャロラインの体がこわばった︒完璧に見え ょうだい﹂ 男どもが仕事をしないでしょうからね︒少なくとも︑せめてTバックはつけといてち ら︑メルは顔をしかめた︒ ﹁待って︑いまの言葉は取り消すわ︒そんなことされちゃ 稿を書いてくれさえすれば︑裸で出勤してこようがかまわないのよ﹂豪快に笑ってか ﹁いえいえ︒あいにくこっちは人の服装にかまってるほど暇じゃないわ︒まともな原 ケット以外で出勤してはいけないとでも? れながら言った︒いったいどうしろというのだろう︒まさか︑ジーンズとレザージャ ﹁それを言うために︑わざわざわたしを呼びとめたんですか?﹂キャロラインはあき 上流階級の人間にうちの編集部をうろつかれたらたまんないわ﹂ ﹁ただでさえ最近はテスが頻繁に姿を見せてマイクといちゃついてるのに︒これ以上︑ 見ながら︑顔をしかめないように努力する︒ 88 裏によみがえる︒ そのときメルが咳払いをしたので︑キャロラインはいっそう気まずくなった︒ジョ つもりはないようだ︒ て口にくわえた︒だが︑火はつけなかった︒さすがのメルも︑市の禁煙条例に逆らう ふたたび髪をかき上げたメルは︑半ばうわの空でつぶれた箱からたばこを引き抜い ﹁まあ︑とりあえずそこに座って﹂ ﹁どんな仕事ですか?﹂ で︑ジョナサンとのことを考えずにいられる時間があるのをありがたく思った︒ キャロラインは意識を切り替え︑目の前の現実に集中しようとした︒仕事のおかげ で切り出した︒ ﹁あなたに頼みたい仕事があるのよ﹂手にした資料を見ながら︑メルは事務的な口調 できなかった︒ らしているというのに︑こうしてパスクアーリに留まっている理由が︑自分でも理解 ナサンと別居した事情が知れ渡っていることを改めて思い知らされる︒街中に恥をさ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 89 ﹁あなたが興味を持つかもしれない仕事があってね﹂たばこを口にくわえたまま︑メ 市の財政による補助を期待しないと保証しないかぎり︑認可は無理だった︒そこでジ 厳守している︒そのせいもあって︑野生動物の保護施設の資金は自分たちでまかない︑ を暴露したのがきっかけだった︒以来︑市長と市議会はあらゆる法律や法令︑条例を マイク・グランデルとテス・エリオットが恋に落ちたのは︑ふたりで市の汚職事件 目標を分かち合っているのが本当にうれしかった︒ ナサンは〝ああ︑そうだよ〟と胸を張って答えたものだ︒そのときは︑彼とひとつの 〝いい宣伝になると思ってるんでしょう〟とキャロラインが冗談で言ったとき︑ジョ は慈善活動のために︑その一部の土地を喜んで寄付してくれた︒ たのだ︒新聞の印刷工場を購入したとき︑彼は広大な敷地も手に入れた︒ジョナサン ナサンを口説き落として︑ ﹃スタンダード﹄が所有する土地の一部を提供してもらっ ているなんて︒そもそも︑彼女のアイデアだったはずだ︒彼女が基金を設立し︑ジョ ルは続けた︒ ﹁実はパスクアーリに野生動物の保護施設ができることになって ―― ﹂ ﹁えっ?﹂キャロラインは目を見開いた︒知らないうちに︑プロジェクトが進められ 90 ョナサンが企業チャリティの一環として﹃スタンダード﹄が後援すると市に約束して くれた︒ キャロラインとジョナサンが最後に愛し合ったのは︑市議会の認可が下りたことを BIBの会長︑ジェレミー・デニスだろうか︒ ―― キャロラインとジョナサンは︑学校の教師にもプロジェクトに協力してもらってい 白 頭 鷲 の 生 息 地 を 保 護 し て い る 環 境 保 護 団 体〝 ボ ー ル ド・ イ ズ・ ビ ュ ー テ ィ フ ル 〟 トの評議会に参加していた︑テスの母親のローズ・エリオットだろうか︒あるいは︑ ていたのだろうか︒キャロラインは考えを巡らせた︒ボランティアとしてプロジェク もしかしてふたりの代わりに︑誰か別の人が保護施設のプロジェクトを進めてくれ ったし︑ジョナサンも同じはずだった︒ それは怒濤の二日間だった︒それ以来︑彼女は保護施設のことなど考える余裕はなか リのかたわらにジョナサンが立っているのを見た︒夜にはキャロラインは家を出た︒ して同じ日の夕方︑夫婦のベッドの高価なエジプト綿のシーツに寝そべっているロー 知った日だった︒だが翌朝︑彼女は不妊治療の医者からショックな宣告を受けた︒そ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 91 た︒保護施設ができれば︑この地域の子供たちが野生動物について学ぶことができる メルは自分がしゃべっている最中に相手に言葉を差しはさまれるのを嫌うたちなの たび元気になって自然に帰っていった︒ 鳥などを保護して治療した︒助からないものも多いが︑かなりの数の動物たちがふた 協力して︑傷ついた白頭鷲や親を失った子熊︑車にはねられた鹿やリス︑ウサギや小 ら相談するべき人物として︑パスクアーリでは知られた存在だった︒ふたりは獣医と キャロラインとジョナサンは︑傷ついたり親とはぐれたりした野生動物を見つけた しれない︒大切なのは︑保護施設ができることだ︒ 会のメンバーとはまったく違う人々が保護施設を建設しようとがんばっているのかも インのほうだ︒連絡をもらえなかったと憤慨するなんて間違っている︒それに︑評議 だが︑すぐにそんな自分を恥じた︒プロジェクトのことを忘れていたのはキャロラ ロラインは少し恨めしかった︒ クトを引き継いでいても不思議はないが︑せめて連絡くらいしてほしかったと︑キャ と考えたのだ︒評議会には市議会議員や住民もたくさん参加していた︒誰がプロジェ 92 で︑キャロラインは〝すてき!〟と歓声をあげたい気持ちを抑えて黙ってうなずいた︒ ﹁すみません︑続けてください﹂ キャロラインの頭では︑さまざまな質問が渦巻いていた︒保護施設のプロジェクト ドをたたく音や電話で誰かがまくし立てる声が聞こえる︒誰かがオフィスのドアの外 一瞬︑ふたりの間に沈黙が流れた︒まるでBGMのように︑編集部からはキーボー っては︑それこそ大人げないと思われるような真似をしてしまいそうだ︒ ﹁ジョナサン?﹂キャロラインは食い入るようにメルを見つめた︒話が進む方向によ ﹁それも癪だから﹂ と思わ れ る で し ょ﹂ 火のついていないたば こを口に く わ え た ま ま︑ メ ル は 言 っ た︒ あまり記事にしたくないんだけどね︒でも記事にしなかったらしないで︑大人げない ﹁これ以上︑話すことはないわ︒ジョナサン・クシュナーがからんでるから︑本当は 能だろうか︒ 記者という中立的な立場を保ちながら︑同時にボランティアとして協力することは可 を推進している人は誰だろう︒ ﹃ ス タ ン ダ ー ド ﹄ の 土 地 を 利 用 す る の だ ろ う か︒ 取 材 キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 93 を走っていく足音がした︒アポイントに遅れそうなのかしらとキャロラインは思った︒ つの店でコンビーフを買ってるわよ︒なぜなら︑あいつの店のコンビーフはこの街で ﹁でも︑わたしはジョナサンとは別居中で ―― ﹂ ﹁だから? わたしだって肉屋のマルコ・デスドリオと離婚したけど︑いまでもあい ード程度の記事にまとめてくれればいいわ﹂ 保護施設の記事にすぎないんだから︒ジョナサン・クシュナーに話を聞いて︑五百ワ ﹁どんな視点? 中東和平問題について書いてほしいわけじゃないのよ︒野生動物の ﹁どんな視点から記事を書けと?﹂ キャロラインは冷静さを失うまいとしながら椅子に深く座り直すと︑脚を組んだ︒ ﹁そのとおり!﹂メルは節をつけて答えた︒ ﹁それで︑わたしに担当しろと?﹂キャロラインは確認した︒ ラインを見つめた︒ ﹁だから︑うちでも記事にすることにしたわけ﹂期待のこもった目で︑メルがキャロ どこでもいいから︑わたしもついていきたい︒ 94 いちばんおいしいからよ﹂ ﹁ジョナサンとわたしは⁝⁝そんなつながりもないし﹂ メルは机に身を乗り出すと︑くわえていたたばこを口から出した︒﹁あなたのため を引き結んだ︒ ﹁そんなの知らないわ︒わたしはプレスリリースを読んで思いついたのよ﹂メルは唇 すでに︑キャロラインの人生は惨めになっているというのに︒ 組んだ目的は︑彼女の人生を惨めにすることだという気がする︒ らんだことではないかと︑キャロラインはふと思った︒野生動物の保護施設の話を仕 ﹁ひょっとして︑これはジョナサンの差し金なんでしょうか?﹂彼が手を回してたく 決めていないだけだ︒何より︑誰かの思いどおりになるのはいやだった︒ そんなことはキャロラインもわかっていた︒ただ︑これからどうするつもりかまだ 生きていくつもりならなおさらよ︒それがいやならこの街から出てくしかないわね﹂ 顔を合わさず生きていけると思ったら大間違い︒ましてや︑ジャーナリズムの世界で に忠告しとくわ︒パスクアーリはニューヨークじゃないんだから︑一生︑別れた夫と キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 95 唇の輪郭に沿ってかろうじて残っているメルの口紅の細い線が︑いっそう強調され メルの思考回路はわかりやすい︒きっと︑ジョナサンはそこにつけ込んだのだ︒﹁も その言葉につい笑ってしまいそうになったが︑キャロラインはなんとかこらえた︒ インタビューすれば︑ ﹃スター﹄のフェアな態度が誰の目にも明らかじゃない﹂ もあるんだから彼に訊くのがいちばんいいでしょ︒それに︑ライバル新聞社の社主に ﹁ジョナサンはこのプロジェクトの責任者だし︑保護施設を建設する土地の提供者で ﹁でも︑保護施設に関して話を聞ける相手は︑彼のほかにもいそうですけど﹂ たしかにそのとおりだったが︑キャロラインはそれを認めることに抵抗があった︒ んよく把握してるのは⁝⁝﹂メルは指を立てた︒﹁あなたでしょうが﹂ ﹁この記事をほかの人にお願いすることは ―― ﹂ ﹁もちろんできるわよ︒だけど︑うちのスタッフでこのプロジェクトについていちば から出てくる言葉のほうだ︒ が︑口に出す勇気はなかった︒それにいま興味があるのは︑メルの唇ではなく︑そこ た︒そんなメルに︑キャロラインはいつものようにメイクのしかたを教えたくなった 96 しわたしが彼以外の人間にインタビューすれば︑﹃スター﹄のフェアな態度に水を差 すことになるというわけですね﹂ ﹁ブランドものの服を着てても︑あなたが頭からっぽの美人じゃないのはわかってた のはわたしの好みじゃないけどさ﹂ 事を書くことね︒読者の同情心を刺激して︑協力する気にさせるのよ︒ま︑そういう ﹁いいかげんにして! 野生動物のためを思うなら︑まずうちの新聞のためにいい記 ﹁いいわ︒じゃあ︑インタビューは電話ですませることにします﹂ フィスでよ﹂ ものを用意してもらって︒カメラマンを手配するから︒でも︑インタビューは彼のオ ﹁建設予定地に見るべきものは何もないわ︒ジョナサンに言って︑写真になるような スには別居以来行っていない︒ ﹁建設予定地じゃないんですか?﹂キャロラインはうろたえた︒ジョナサンのオフィ ントメントを入れておいたから︒場所はジョナサンのオフィスよ﹂ わ﹂メルはプレスリリースの資料をキャロラインに手渡した︒﹁今日の三時にアポイ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 97 自分が罠にはめられたことを︑キャロラインは悟った︒ ジョナサンのオフィスでインターホンが鳴った︒彼はボタンを押した︒ これほどゴージャスな女性は︑映像や雑誌でも見たことがない︒﹁きみは⁝⁝見るた オフィスに入ってきたキャロラインを見て︑ジョナサンは思わずまばたきをした︒ 志の強い女性だ︒その気持ちを変えさせるのは不可能に近い︒ 物の力を借りても︑キャロラインを動かすことが難しいのはわかっていた︒彼女は意 キャロラインが来てくれるという確信はなかった︒メルや世界中の傷ついた野生動 と思った︒ ﹁通してくれ﹂ジョナサンは答えながら︑喜んでいることを気づかれなければいいが ﹁その︑ミズ・キャロラインがいらっしゃいました﹂ 書の声が聞こえた︒ ﹁ミスター・クシュナー︑ミセス・クシュナーが ―― ﹂ 秘書の言葉が途中で途切れ︑誰かと話す低い声が聞こえたかと思うと︑ふたたび秘 98 びにきれいになるな﹂別居中であることも忘れ︑彼女が自分の妻であることをジョナ サンは誇らしく思った︒ だが︑キャロラインはいやなものでも見るような冷たい視線を彼に向けてから︑ノ ナサンのことを別居中の夫ではなく赤の他人として扱い︑あくまで取材相手として冷 べてから取捨選択し︑改めてリストをつくり直したことは一目瞭然だ︒明らかにジョ 癖のある彼女の文字で丁寧に書かれたリストを見れば︑思いつくままに質問を書き並 っこう長く新聞業界に身を置いているので︑記者の思考というものは熟知している︒ リストに目を通しているキャロラインを見ながら︑ジョナサンは苦笑した︒彼もけ された質問が並んでいる︒ とも︑彼女は何をしても優雅だった︒キャロラインが開いたノートには︑事前に用意 ーブルと椅子を指さした︒彼の目の前で︑キャロラインは優雅に腰を下ろした︒もっ そのほうがメモを取りやすいだろうと思い︑ジョナサンは部屋の隅に置かれた円テ ジョナサンはため息をついた︒ ﹁あっちに座ろうか﹂ ートを出した︒ ﹁さっそく話をうかがえる?﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 99 淡な態度をとるつもりでいるのだろう︒ ジョナサンは椅子に深く座り直すと︑キャロラインが質問するのを待った︒インタ ノートから目を上げたキャロラインを見て︑ジョナサンは胸を突かれた︒彼女の美 ﹁野生動物のために保護施設を立ち上げようと思った理由を聞かせてください﹂ こは彼のオフィスだ︒この状況を︑ジョナサンは慎重に練り上げたのだった︒ 時間はたっぷりあると︑ジョナサンは思った︒邪魔が入る心配はない︒しかも︑こ を邪魔しようとする人間が現れたら︑なんとしても防いでくれるだろう︒ ないように念を押してある︒リリアンは親しい友人でもあるので︑このインタビュー 秘書のリリアンには︑キャロラインと話している間は電話を取り次がず︑誰も通さ この行き詰まった状況がばかばかしくさえ思えてくる︒ 策を弄しなければ自分の妻と話もできないことが︑ジョナサンには腹立たしかった︒ しれない︒ が終わるころには彼女もリラックスして︑もっと個人的な話ができるようになるかも ビューの間は︑久しぶりに別居中の妻をゆっくり眺めることができる︒インタビュー 100 しさではなく︑その瞳の奥に見えたものに︑彼は息をのんだ︒一見クールで冷ややか な目の奥に︑怒りと苦しみの色がたたえられている︒ 返事を聞かなくても︑キャロラインは質問の答えを知っているはずだった︒彼女こ ジョナサンは頭を振り︑わき道にそれかかった思考を戻そうとした︒﹁何かしたか のだ︒ いくら愛し合ったうえでの行為でも︑目的を遂げるためでは歓びも半減するというも そして︑ふたりの愛の営みも妊娠しやすい時期や状態に左右されるようになった︒ らくすると︑そんな冗談は口にできなくなった︒ ジョナサンはキャロラインをからかったものだった︒しかし︑不妊治療を始めてしば 最初の頃は︑親を失った野生動物を自分の子供の代わりにしているのではないかと︑ ったのだ︒ を見る余裕がない現状を知って︑キャロラインは専用の保護施設をつくろうと思い立 ぱいで︑スペース的にも資金的にも︑怪我をしたり親を失ったりした野生動物の面倒 そがそれを望んだからだ︒この地域の動物の保護施設は捨て猫や捨て犬ですでにいっ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 101 ったんだ︒何か⁝⁝﹂ 彼は言葉に詰まった︒キャロラインにいまでも愛していることを伝えたかったし︑ それで できないだろうと︑言ってやりたくなった︒ ﹁あなたは何かをしたかったんですね? 質問はコミュニティの参加に関するものだと思っていた︒〝どうしていま?〟という さっきノートに書かれた質問のリストを見ていたので︑ジョナサンはてっきり次の ジョナサンに向けられている︒ ﹁どうしていま?﹂キャロラインは尋ねた︒彼女の視線は質問のリストにではなく︑ ンは続けた︒ ﹁運営をすることにした﹂ ﹁ああ︒それで評議会と協力してプロジェクトを進め︑PWR ―― パスクアーリ野生 動物保護施設を設立して⁝⁝﹂何も知らない人間に説明するような口調で︑ジョナサ ﹂キャロラインは促した︒ ―― インが促すような目で彼を見つめている︒そんな目で見つめられたらまともに返事が になろうと努力した︒あせらないでじっくり進めようと︑心を決めていた︒キャロラ 彼女の誤解をといてふたりの未来に目を向けさせたかった︒だが︑ジョナサンは冷静 102 質問はリストにはなかった︒つまり︑キャロラインはのけ者にされたと感じているの だろうか︒しかし評議会が再開した頃は︑ジョナサンもまだキャロラインとの関係を 修復することで頭がいっぱいで︑彼女に知らせるべきだとすぐには考えつかなかった︒ キャロラインがあらかじめ用意してきた取材の〝台本〟から離れたので︑ジョナサ った⁝⁝︒ にふたりはベッドに倒れ込んだ︒そして久しぶりに︑セックスそのものの歓びを味わ あのときはキャロラインが思わせぶりな目で彼を見たことが合図になり︑ごく自然 だ本能のまま︑夜通し愛し合ったのだった︒ ど早かった︒だがあまりにも気持ちが高ぶっていたので︑余計なことなど考えず︑た そのニュースを知ったとき︑ふたりがどれほど喜んだか ―― ︒ジョナサンははっき りと覚えていた︒その夜︑ふたりは激しく愛し合った︒妊娠しやすい状態には二日ほ ﹁きみも知ってるだろう? しばらく前に︑市から認可が下りていたからだ﹂ えた︒ ンも自分の〝台本〟から離れることにした︒彼女から目を離さずに︑ジョナサンは答 キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 103 キャロラインはジョナサンを食い入るように見つめた︒彼の目を見れば︑最後に愛 ﹁さてと﹂ジョナサンは沈黙を破ると︑からかうような口調で続けた︒﹁ほかに質問 なんて⁝⁝︒ るジョナサンは︑許されないほどハンサムでセクシーに見える︒この人が元夫になる 決して口に出せないそれらの疑問が︑頭の中をぐるぐると巡った︒いま目の前にい 女性を求めたの? い? それとも︑わたしにはもう子供はできないと見かぎって︑ほかに子供を産める どうして ジョナサ ンはあんなことをしたの︒子供をつくることに かまけすぎ たせ ロラインの脳裏に浮かんだ︒ しかし次の瞬間︑ふたりの愛の情景に上書きするように︑苦痛に満ちた光景がキャ が生まれたのを感じて︑思わずため息が出る︒ て︑わずかに身を乗り出した︒ジョナサンの目が欲望の色を帯び︑ふたりの間に緊張 し合ったときのことを思い出しているのがわかる︒彼女もあのときのことを思い出し 104 は?﹂ ﹁まだ質問の答えを聞いてないわ﹂丁寧に書かれたリストの項目をひとつ消しながら︑ キャロラインは言った︒ ﹁ねえ︑どうしていまこの時期に︑プロジェクトを再開する れからは個人的な話をしたい﹂ ﹁このプロジェクトについてはきみのほうが僕より詳しい︒仕事はもう終わりだ︒こ インタビュアーとしてよ﹂ ﹁わたしがここに来たのは分別のある大人としてでも︑あなたの妻としてでもないわ︒ ジ ョ ナ サ ン の 返 事 を 聞 き︑ キ ャ ロ ラ イ ン は 怖 く な っ た︒ こ の 場 を 逃 げ 出 し た い︒ ある大人として話し合えると思ったからだ﹂ ﹁プロジェクトを再開すれば︑きみと一時間は過ごすことができるだろうし︑分別の わずうなずいてしまい︑彼女は後悔した︒ わたしは本当の理由を知りたいのかしら︑とキャロラインは自問した︒﹁ええ﹂思 ﹁本当の理由を知りたいのか?﹂ジョナサンは訊き返した︒ ことにしたのか︑ちゃんと答えて︒ごまかさないで﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 105 ﹁わたしが興味あるのは︑保護施設に関する話だけよ﹂ だから︑傷ついた野生動物に安全な居 質問してはだめだと︑キャロラインは自分に言い聞かせた︒わたしには関係ないこ た︒ まるで動物を愛していることが照れくさいかのように︑ジョナサンの顔が赤くなっ 場所を一時的に与えるために︑急いで保護施設をつくることにしたんだよ﹂ 性は少ないことはきみもわかってるだろう? 僕が言うまでもなく︑傷が癒えないまま野生動物を自然に帰しても︑生きのびる可能 ﹁獣医に治療をしてもらったけど︑これからどうするべきか判断できる人がいない︒ まだ充分ではない︒だからこそ︑傷ついた白頭鷲を救うことには大きな意義がある︒ の生息地は減少している︒自然保護などの運動によって少しずつ数は増えているが︑ ッドライトに目がくらんだのだろう︒農薬散布と生息地域の都市化によって︑白頭鷲 キャロラインはうなずいた︒その鷲はきっと高速道路の近くで狩りをしていて︑ヘ りで︑翼の折れた白頭鷲を見つけたと言うんだ︒どうやら車に衝突したらしい﹂ ﹁先日︑電話がかかってきたんだ︒電話してきたのは森の伐採をしていた業者のひと 106 とよ︒しかし︑気づいたときには言葉が勝手に口をついていた︒ ﹁それで︑いまはど こにいるの?﹂ ﹁何が? 白頭鷲が?﹂ 保護施設のことを考えるのも︑キャロラインにはつらかった︒ジョナサンと一緒に み入れたら︑悲しみに押しつぶされてしまいそうで怖い︒ ィスにいる間はなんとか気持ちを強く持ち続けられても︑彼と暮らした場所に足を踏 キャロラインはすぐにでも白頭鷲に会いたかった︒だがこうしてジョナサンのオフ もうないんじゃないかな︒保護施設の永住者第一号になると思う﹂ ジョナサンは首を振りながら悲しそうな顔をした︒﹁あの白頭鷲が空を飛ぶことは ﹁でも︑人間に慣れさせちゃだめなのよ︒それだけは絶対に避けなきゃ﹂ ﹁どうすればいいかわからなかったから﹂ ﹁庭に?﹂ ﹁うちの裏庭だ﹂ ﹁ええ﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 107 野生動物の保護活動に尽力していたのに︑いまは部外者になってしまった︒ 彼女の気持ちを察したように︑ジョナサンが言った︒﹁あとで白頭鷲に会いに来な いのはずなのに︑久しぶりだからか︑少し新鮮に感じられた︒ ジョナサンがキャロラインを胸に抱き寄せた︒彼の匂いがする︒よく知っている匂 こうして肩を抱かれ︑優しく気遣われると︑昔に戻ったような気がしてしまう⁝⁝︒ 立ちくらみね﹂ キャロラインは震える手を額にあてた︒なんだかまだふらふらしている︒﹁やだ︑ ﹁おっと︑大丈夫か?﹂ とっさにジョナサンのたくましい両手に肩をつかまれた︒ つき︑部屋がぐるぐる回り出す︒ キャロラインは勢いよく立ち上がったが︑ふいにめまいに襲われた︒足もとがふら めたのだから︒ ﹁悪いけど︑わたしはそろそろ戻らないと﹂ だめ! だめよ︒キャロラインは心の中で拒否した︒もう過去は振り返らないと決 いか? 食欲はあるけど︑環境を改善するためのアイデアがあれば聞かせてほしい﹂ 108 やがてジョナサンの両手が動き︑キャロラインの背中を抱いたまま︑手を髪に差し 入れた︒あまりに自然な動きで顔をのぞき込まれ︑抗う隙もなかった︒ ﹁本当に大丈夫? なんだか顔色が悪い﹂ジョナサンが心配そうに尋ねた︒ めまいがおさまるまで︑キャロラインは彼の腕の中で休むことにした︒ほんのちょ 自然に彼女の目は閉じた︒ プライドのかけらにしがみついてこらえたが︑ジョナサンの唇が近づいてきたとき︑ ま︑互いの顔を見つめていた︒キャロラインは彼の胸に頬を寄せてしまいたいのを︑ 口を開いたらこの瞬間が壊れてしまいそうな気がして︑どちらもしばらく黙ったま に見えることは︑彼女もよく知っていた︒ にしては背が高いほうだが︑ジョナサンにはかなわない︒ふたりが似合いのカップル に少しだけ白いものが交じっているのも︑とても魅力的だった︒キャロラインは女性 ジョナサンの顔をそっと見上げる︒目尻に小さなしわが寄っているのも︑短い黒髪 がくがくして立っていられそうにないから︒ っとだけ︑と自分に言い訳する︒いまはまだジョナサンに支えられていないと︑膝が キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 109 ジョナサンのキスは優しかった︒彼がわずかに唇を離すと︑キャロラインはがっか ﹂ ―― ジョナサンの無神経さが信じられない︒思わずあとずさりをして︑脚にあたったテー ﹁え⁝⁝﹂キャロラインは耳を疑った︒いまこの状況でその女の名前を出すなんて︑ ﹁ローリじゃない﹂ 望ではなく苛立ちだった︒ ﹁でも キャロラインはぱっと目を開いた︒ジョナサンの瞳に浮かんでいるのは︑いまや欲 ﹁じゃあ︑別居を解消すればいい﹂ ﹁だめ︒わたしたちは別居してるのよ﹂ わたしだってほんとはそうしたい︒どれだけあなたと帰りたいと思ってるか ―― ︒ ﹁一緒に家に帰ろう﹂ スの位置に留まったままだ︒ ﹁ええ﹂キャロラインは目を閉じたまま答えた︒もう一度キスしてほしくて︑唇はキ ﹁きみに会いたかった﹂ジョナサンはささやいた︒ りせずにいられなかった︒ 110 ブルで体を支える︒ ﹁きみが逃げ出した本当の理由だよ﹂苛立ちをあらわにして︑ジョナサンは声を荒ら げた︒ ﹁きみが出ていってから︑ずっと考えてたよ︒どうしてきみがわけも聞かずに ﹁僕は入れてないと言ったはずだ﹂ 気で信じろっていうの?﹂ らジョナサンを殴ってしまいたい︒﹁あなたがあの女を家に入れたんじゃないと︑本 てのひらに爪が食いこむほど強く︑キャロラインは拳を握り締めた︒できることな リが帰るところを見たはずだからね﹂ ﹁ああ︒ぜひともあと五分遅く帰宅してもらいたかったよ︒そうすれば︑きみはロー 愛し続ける ―― たぶんね︒ぼくはローリとは寝てない﹂ ﹁あらそう︒でも︑わたしの帰りがあと五分遅かったらどうなってたかしらね﹂ ﹁僕はただきみを愛してるだけだ︒これまでもずっと愛してたし︑これからもずっと ﹁あきれた! 自分の浮気を棚に上げて︑わたしの心理分析をするつもり?﹂ 逃げ出して︑僕の話に耳を貸そうともしないのか︒ローリが原因じゃない﹂ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 111 ﹁じゃあ︑彼女はどうやって家に入ったの? 窓をよじ上って? ﹁ああ︑きみとは違ってね﹂ジョナサンは皮肉を言った︒ それともセキュリ ﹁ローリはそこまでして⁝⁝︒あなたの魅力に勝てなかった︑ってこと?﹂ 実際に起こったことじゃない﹂ 勝手に僕たちのベッドに入り込んだということだけだよ︒きみが見たと思ったものは ﹁もしかするとローリはそこから思いついたのかもな︒僕にわかってるのは︑彼女が ﹁B級サスペンスの筋書きみたいに聞こえるけど?﹂ 女がさよならと言った声を聞いただけだ﹂ って家に入りこんだ︒そして︑家政婦さんはローリが家を出ていく姿を見てない︒彼 ﹁僕に言われて忘れ物を取りに来たとローリは家政婦さんに嘘をついたんだ︒そうや ってしまっていた︒そんな自分が惨めでしかたない︒ とでもいうように︒困ったことに︑キャロラインはジョナサンの言葉を信じたいと思 ジョナサンは首を振りながらキャロラインをにらみつけた︒まるで悪いのは彼女だ ティシステムを解除せずにドアの下をすり抜けたとでも?﹂ 112 キャロラインはため息をついた︒ほんとかしら︒ジョンを信じていいの? は判断がつかなかった︒ ﹁わたしが言ってるのは信頼の問題よ﹂ 彼女に ﹁たしかに︑そのとおりだ﹂ジョナサンは悲しんでいると同時に腹を立てているよう 彼の話を聞いていた︒ でも︑妊娠のこと ―― こればかりは思いどおりにいかなかった﹂ キャロラインは視線を落とし︑きれいに塗られた指先をもてあそびながら︑黙って まではふたりとも割と思いどおりの人生を送ってきたと思う︒ラッキーでもあったし︒ ら口を開く︒ ﹁子供ができなかったことは︑僕たちにとってつらい経験だった︒それ ジョナサンは黙っている︒両手をポケットに突っ込み︑後ろの壁に寄りかかりなが せいだとでも言いたいの?﹂ キャロラインは︑開いた口がふさがらなかった︒﹁あなた︑別居したのはわたしの け加える︒ ﹁それなのに︑きみは勝手に決めつけてさっさと逃げ出した﹂ ことがあったとしても︑離れずに寄りそっていることが大切なんだ﹂苛立たしげにつ な顔をして︑大きくうなずいた︒﹁結婚生活で大切なのは信頼だろ︒うまくいかない キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 113 ﹁時間はかかったけどようやく気がついた︒僕はずっと︑きみはなんて頑固でわから ﹁それは僕もこの一年苦しんでたからだ︒自分のことでせいいっぱいだったんだ!﹂ たことも知らないくせに﹂ ﹁なんてご立派な言い訳 ﹂キャロラインは皮肉な口調で言い返そうとしたが︑自 ―― 分 で も 泣 き そ う な 声 に な っ て い る の は わ か っ て い た︒ ﹁この一年︑わたしが苦しんで わせて問題を解決しようとしなかった︒ のかもしれない︒夫婦関係がぎくしゃくしている事実に向き合うことをせず︑力を合 からふたりとも︑野生動物の保護施設をつくることや︑仕事に没頭することに逃げた 突然壁にぶちあたったとき︑互いに助け合って乗り越えるすべがわからなかった︒だ たしかに︑それまでふたりの人生は完璧だった︒むしろ完璧すぎたのかもしれない︒ その現実について︑ふたりの間でちゃんと言葉にしたのはこれが初めてだった︒ 子供が欲しくて︑ふたりで一生懸命努力した︒それなのに妊娠できなかった︒ ジョナサンの口調は優しく︑キャロラインはあわててまばたきをして涙をこらえた︒ ず屋なんだと思ってたけど︑そうじゃない︒きみはただ︑怖かったんだ﹂ 114 ﹁あなたが苦しんでた?﹂キャロラインは耳を疑った︒﹁五分ごとに基礎体温を測っ たり︑生理周期のスケジュールを組んだりしてたのは︑あなたじゃなくてわたしよ﹂ ﹁そりゃそうだ﹂ジョナサンは苦笑した︒﹁だけど︑僕だってきみの生理周期に振り ﹁いまからでも遅くないよ﹂ キャロラインは顔を上げた︒ ﹁そう? いと思うけど﹂ ﹁一緒に帰ろう﹂ キャロラインはため息をついただけだった︒ ﹁僕はいやだね︒きみと一緒にいたいんだ﹂ わたしはこのまま少し距離を置くほうがい けてしまっていた︒ ﹁一緒にカウンセリングを受けるべきだったのかも﹂ っていることに気づかなかった︒というより︑うすうす気づいていながら︑目をそむ ﹁そうね︒話もしなくなってた⁝⁝﹂キャロラインは認めた︒結婚生活が崩壊しかか だろ?﹂ 回されてたんだ︒セックスだって︑ふたりのためというよりは義務みたいになってた キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 115 ﹁だめよ﹂キャロラインは首を振った︒﹁わたしたちの問題はそんなに簡単に解決し いるようだ︒長いこと食べたいものも食べず苦しい減量を続けたかのように︑彼はキ 久しぶりの感触に︑ジョナサンの体に震えが走った︒まるで体中の血が沸き立って 温かい吐息とともにキャロラインが体をすり寄せてきて︑両腕を彼の首に回した︒ き︑キャロラインの氷の唇が甘く溶けた︒ で︑唇が凍傷になりそうだ︒乱暴につき飛ばされてひっぱたかれるだろうと思ったと 瞬間︑彼女が体をこわばらせたのをジョナサンは感じた︒あまりにも反応が冷たいの 抵抗する隙も与えず︑ジョナサンはキャロラインを抱き寄せて唇をふさいだ︒その ジョナサンは鼻で笑った︒ ﹁じゃあ︑これについて書けよ﹂ ﹁そうよ︒ ﹃スター﹄のね﹂ ﹁適当に考える?﹂ジョナサンは耳を疑った︒﹁きみはジャーナリストだろう?﹂ ﹁適当に考えるわよ﹂ ﹁インタビューはどうするんだ?﹂ ないし︑むしろ簡単に解決させたらいけないと思う︒わたし︑もう戻らないと﹂ 116 ャロラインの唇をむさぼった︒ キスはますます熱を帯び︑気が遠くなりそうだった︒腕に抱いているキャロライン 冷たく言い捨てると︑キャロラインはオフィスを飛び出していった︒ ﹁その言葉は︑あなたを信じてくれる女に言ってあげて﹂ とバッグをつかんだからだ︒ とたんにジョナサンは後悔した︒なぜならキャロラインがぱっと体を離し︑ノート ﹁愛してる﹂ ややかな唇に唇を触れさせ︑ささやいた︒ キャロラインの大きな瞳がうっとりと潤んでいるのを見つめながら︑柔らかくてつ 息が苦しくなったとき︑ジョナサンはわずかに唇を離して息を吸った︒ の体から力が抜けていく︒ キャロラインはその朝、ドレスのファスナーが上がらなかった 117 本書は、2010 年 3 月に小社より刊行された『優しい嘘つき』を 改題・再編集し、文庫化したものです。 キャロラ イ ン は そ の 朝 、 ドレ ス の ファス ナ ー が 上 が らな か った 2012 年 2 月 20 日発行 者/ナンシー・ウォレン 著 者/雨宮幸子(あめみや 訳 発 発 第 1 刷 行 行 さちこ) 人/立山昭彦 所/株式会社 ハーレクイン 東京都千代田区外神田 3-16-8 03-5295-8091(営業) 03-5309-8260(読者サービス係) 印刷・製本/大日本印刷株式会社 装 幀 者/宮越甲輔(Beeworks) 定価はカバーに表示してあります。 造本には十分注意しておりますが、乱丁(ページ順序の間違い) ・落丁(本文の一部抜 け落ち)がありました場合は、お取り替えいたします。ご面倒ですが、購入された書店 名を明記の上、小社読者サービス係宛ご送付ください。送料小社負担にてお取り替えい たします。ただし、古書店で購入されたものについてはお取り替えできません。文章ば かりでなくデザインなども含めた本書のすべてにおいて、一部あるいは全部を無断で複 写、複製することを禁じます。 と がついているものはハーレクイン社の登録商標です。 ® ™ Printed in Japan © Harlequin K.K. 2012 ISBN978-4-596-42203-3
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