ヘンリー8 世 中世からの脱却 常葉学園大学 生涯学習学科 杉山 ヘンリー8 世(Henry VIII, 1491 年 6 月 28 日 - 1547 年 1 月 28 日) イギリス絶対王政を確立した。 中世を終わらせて絶対王政にした。 6 人の妃がいた。 1528 年ヘンリー8 世 17 歳で即位。 欲望の為には手段を選ばない。 若いころは 190 ㎝・容姿端麗・文武両道・スター ダンススポーツ音楽 ・神学・イタリアスペインフランス語を理解。 ←端正な顔立ちと生き方に国民に評判が良かった。 ヘンリー7 世である父の側近 2 人(リチャード・エムソンとエドマンド・ダドリー)処刑 ←国民に示すための生贄。 エリザベス 1 世(Elizabeth I, ユリウス暦 1533 年 9 月 7 日 - グレゴリオ暦 1603 年 3 月 24 日) 2 番目の妃の娘。 別名は処女王(the Virgin Queen) 、 グロリアーナ(Gloriana、 「栄光あるもの」の意) 、 よき女王エリザベス(Good Queen Bess) 。 王妃の模範 王子を産んでいないこと以外は。 メアリー1 世(Mary I, Mary Tudor,1516 年 2 月 18 日 - 1558 年 11 月 17 日) イングランドとアイルランドの女王。 ヘンリー8 世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘として グリニッジ宮殿で生まれた。 イギリス国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた。 キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon, 1485 年 12 月 16 日 - 1536 年 1 月 7 日) イングランド王ヘンリー8 世の 1 人目の王妃。 メアリー1 世の生母。 スペイン出身。 ヘンリー8 世と 20 年連れ添った 子供(男)が生まれない=世継ぎがいない。 ヘンリー8 世とキャサリンとは最初は仲睦まじかった。 しかし、キャサリンは度重なる流産と死産に見舞われ、 ようやく無事出産したのは女児メアリーであったため、 ヘンリーの愛情は冷えてしまう。 ヘンリーは後継ぎが欲しいという気持ちが高まり、 年をとって次第に出産が難しくなるキャサリンとは離婚した。 アン・ブーリン(Anne Boleyn,1507 年頃 - 1536 年 5 月 19 日) イングランド王ヘンリー8 世の 2 番目の王妃。 エリザベス 1 世の生母。 ヘンリー37 歳のとき、王妃を狙った。 前王妃の産んだメアリー王女のかわりに エリザベスに王位継承権を与えるよう 国王に求め、成功した。 しかしその一方で、ヘンリー8 世は次の王妃ジェーン・シーモアへと 心移りをしたこともあり、次第にアンへの愛情は薄れていった。 結婚から 2 年後、アンは国王暗殺の容疑、 および不義密通を行ったとして、反逆罪に問われ、 反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、 ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。 ~流れ~ 当時イングランド人口 200 万人 半数以上は 18 歳以下 今は 6500 万人 日本 1 億 2300 万人 フランス神聖ローマ帝国=強い この時代で france holy roman empire 仲間に入りたいという名誉欲で背伸びしていると笑い者にしている君主もいた。 2 ヶ月後 スペインの妃(フェルナンド 2 世とイサベル 1 世の娘)との結婚。 ヘンリー7 世戦争に勝ってチューダーtudor 王朝をひらいた。 1501 年 ヘンリー8 世の兄アーサーとキャサリン 15 歳を結婚させようとする。 数ヵ月後兄病で死ぬ。 ヘンリー8 世と結婚させようとするが、ローマ法王の許しが必要=兄と離婚できない。 しかし、結婚できるようになる。 父死 財産を継承。 最初の 10 年感は素晴らしい政治を行なった。 10 年後 王子がいない。 キャサリンが邪魔になった。 王はスポーツばかりで政治はまかせっぱなし。 トマス・ウルジーが 20 年王に代わってうまく政治した。 トマスの目的はイングランドを統治することで 2 番目の王になろうとしていた。 7 年後 1519 年 女の子出産メアリー ブラッディメアリー。 10 年後 王妃が男子を産むことはないと見切りをつけたヘンリー8 世は愛人のアン・ブーリンと結婚するため、 王妃との離婚を教皇に要請した。 しかし教皇はキャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール 5 世との国際関係を考慮し、許可が下りなかった。 己の希望を通すため教皇と断絶、新たにイングランド国教会を樹立した。 そして国王至上法によって、イングランド国内においては、 国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。
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