第三十九章 叶わぬ恋 美姫の妹・太田由姫が、信太郎の会社の派遣社員として勤め始めて早くも 3 ヶ月の月日が過ぎようとしていた。 「太田さん。今月の運転日誌、集計お願いね」 「はい。」 由姫は素直な性格で、仕事ぶりも至って真面目である。今の仕事は、総務課庶務係で庶務全般の仕事の手伝いを しているのだが、信太郎はじめ多くの社員達に一つずついろいろな事を教わりながらも仕事を着実に身につけてい き、今では毎日の仕事が軌道になるようになってきた。今やっているのは、会社の外勤担当が 1 ヶ月あたりに使用 した社用車の運転状況を集計する仕事である。前月分の車の使用日数と運転回数、走行距離、給油回数と給油量を 翌月の始めに集計するのは、由姫の仕事の 1 つである。 「お義兄さんったら、こんなに社用車運転したのね。」 由姫はクスリと笑いながら日誌の整理をしていた。信太郎達システムエンジニアは、自社システムを導入してい る事業所などを訪問するために会社の車を利用している。システムのメンテナンスやトラブル処理に向かう時など、 車は欠かせないアイテムだ。たまに地下鉄やバスを利用する事もあるが、大抵は車で向かう事が多い。交通機関で 通えない事業所が沢山あるためである。何人もいるシステムエンジニアの中に信太郎の名前が書かれているものも たまに何件か見かけるが、この月はとりわけ多いようであった。信太郎が担当していた事業所のシステムにいろい ろ問題が発生していたのであろう。 「太田さん。ちょっといい?」 話しかけてきたのは、システムの保守契約担当の部署に勤務する中庭という社員である。そう。以前由姫の前に 勤めていた派遣社員・武田舞を合コンに誘って大失敗を犯した男だ。由姫に確認したい事があって質問をしてきた のだが、中庭が由姫に話かける時の態度はどことなく不自然であった。ぎこちないのである。 「太田さん。気づいてる?」庶務係に勤める女性社員の一人が由姫に話しかけてきた。 「何ですか?」「太田さん。あの中庭さんって人、どう思う?」「どうって…すごく優しくて感じのいい人だと思っ ていますけど…。」 「太田さん。見ていて分からないかなあ?中庭さん、太田さんの事好きなんだよ」 「ええ?そんな事ないんじゃない ですか?あの人みんなに優しいし、私だけ特別ってことないと思いますよ。」 由姫は軽くそう答えたが、実はこの女性社員のカンは当たっているのである。中庭は密かに由姫の事を思ってい るのだ。 「中庭さんっていくつだと思う?」 「さあ…20 代後半ぐらいかなあ…」 「ああ見えてね。彼ってもうすぐ 30 なんだ よ。でも、まだ結婚してないし彼女もいないみたいなの。太田さん、好きな人いる?もし良かったら、たまには中 庭さんお食事に誘ってみたらどう?もちろん無理にとは言わないけど、中庭さんすごくいい人だし。むしろいい人 過ぎて彼女がなかなか作れないタイプかも知れないかな?だから、同じ保守の人達から『遅咲きじじい』って言わ れてるの。可哀想でしょ。でもね、あの人すごくいい人なんだよ。私は別に彼氏がいるからあれなんだけど、もし 私がフリーだったらお付き合いしてもいいかな…って思ってるんだ。 」 女性社員の言葉に由姫笑いながら返事をしたが、由姫には心に決めている男性がいるのだ。それは、信太郎の兄 の大輔なのだが、到底叶わぬ恋だと諦めているので、今では派遣会社の営業担当の高橋に夢中になっている。高橋 は大輔の生き写しといってもおかしくないぐらいに酷似しているが、性格は、ぶっきらぼうな大輔とは対照的に、 明るくて人当たりが良くていつも優しい。今の会社に派遣されてまだこれといったトラブルもなく過ごしているが、 半月に 1 度会社に出向いてくれる時には、いつも由姫に「どう?頑張ってる?」と愛想よく話しかけてくれる。そ の瞬間が待ち遠しくて仕方がないのである。 だが、由姫には気になる事があった。それは、高橋が独身なのかどうか分からない事である。左手には特に指輪 をはめている様子はないのだが、だからといって独身と決め付けるのは早合点であろう。妻帯者でも指輪をしない 男性は最近増えてきているからである。しかし、高橋本人に面と向かって聞くのはもちろん、女性コーディネータ の荒川に確認する勇気もない。荒川とは普段あまり砕けた会話をしないのである。 一通り仕事を終えると、由姫はふうっとため息をつきながらお茶を飲んで寛いだ。その時、彼女の近くの席から たわいない会話が飛び込んできた。 「えええっ!?それってもしかして買春?ヤバイじゃん。相手女子高生なの?」 何の話だろう?由姫が耳を傾けてみると、どうも女性社員のうちの一人の恋人が、女子高生と思しき少女と手を 繋いで街を歩いていたという話らしかった。 「太田さんも真面目そうな男性には気をつけなさいよ」「え…?」「男ってみんなヘンタイだからねえ。たとえ自分 で『いいな』って思ってても、実は心の底は超エロかったりするじゃん。真面目そうに見えてもキャバクラとかフ ーゾクとか行ってるかも知れないし。オトコ見る目養っといた方がいいよ~。」 はあ…。由姫は何とも相槌が打てないまま席に戻った。あまり考えない事にしよう。その時だった。 「太田さん。ウェルワークの高橋さんから外線 3 番でお電話入ってます。」 やった高橋さんだ!由姫は笑顔で電話に出た。近々業務に関する面談をしますから、会社にいらして下さい。そ ういう内容の電話だったが、由姫にとってはほんの少しでも高橋と話が出来るのが嬉しかった。それが、21 歳にな った由姫の密やかなる恋の喜びなのであった。 その日は、中庭の所属するメンテナンス課の業務会議の日であった。 由姫は、メンテナンス課の課長に依頼されて、課の人数分のお茶とコーヒーの準備と資料の作成の仕事を担当し ていた。本来なら由姫は総務課の人間なのでよその課の仕事を引き受ける事はないのだが、メンテナンス課の女性 社員も全員会議に出席するという都合上、お茶と資料の準備を総務課庶務係の由姫が手伝う事になったのである。 ちなみに、義兄の信太郎がいる所はシステム構築課というセクションであるが、ここは総務課とは全く違う部に当 たるため、日頃はなかなか信太郎と顔を合わせる機会がない。 中庭は嬉しくてたまらなく思っていた。配属されてきた当初からずっと可愛いと思っていた由姫が、総務課の立 場でありながら自分の課の会議の準備に当たってくれているからである。彼女が入れてくれたお茶はとりわけ美味 しく感じる。由姫が中庭の近くを通るたびに、中庭はいつも由姫の方をチラリと見て頬を真っ赤にしている。もっ とも、中庭とて一度も女性と付き合った事がなかったわけではない。学生時代にも恋人の一人か二人ぐらいはいた し、女性と一緒に酒を飲みに行ったり食事に行ったりした事もある。以前派遣社員として勤めていた武田舞を合同 コンパに誘うなど、積極的な所もあった。だが、彼のこうした行動は全てレクリェーションの一環であり、女性と 食事に行ったりしたのは、全て他の仲間と同行するという中でのものであった。それに、武田舞は誰とでも仲良く なれるタイプの女性であり、彼女自身、常日頃から複数の男性社員に「私を飲み会に連れてって」などと声をかけ たりしていた事もあって、中庭の方もあまり意識せずに舞を合同コンパに誘ったりしていたに過ぎなかった。 だが、太田由姫は違っていた。中庭にとっては、久しぶりに恋愛を意識させる女性に巡り会えたような気分にな っていた。間もなく 30 歳になる自分と比べ、由姫は短大を卒業したばかりの若い女性。自分のようなオジンを相手 にしてくれるのだろうかという消極的な気分に陥る事もある。だが、やはり由姫は魅力的に映る。素直で優しくて 真面目で、何といっても可愛い。後輩の小林信太郎と結婚した彼女のお姉さんもとびきり可愛らしい女性だと聞い ている。一度だけでもいい。太田由姫と一緒に街を歩きたい。食事に行きたい。デートしてみたい。30 近くなった 男の胸に、久しぶりに学生の時のようなときめきが復活するのを感じているのである。 業務会議も無事に終了し、由姫は会議室のコーヒーカップを一つずつ片付けていた。 「太田さん、お疲れ様です。俺も手伝うよ。」 中庭は優しい笑顔で由姫の洗い物の手伝いをしようとしていた。 「あ…そ…そんな…。いいんです。これは私の仕 事ですから…」由姫は大慌てで中庭の手を止めるが、中庭は構わず会議室のカップを給湯室のカートに積んでくれ ている。 「いやあ…。太田さん一人だけでこれ全部片付けるの大変だろ。俺も手伝うから、何か出来る事あったら言ってく れる?」 すると、メンテナンス課の男性社員達が一斉に会議室に飛び込んできた。 「中庭ずりいぞ!俺らも混ぜろよ」 「太田さん。僕も手伝いま~す!」 他の男性社員達も、まるで冷やかすかのように二人の周りに寄ってきた。由姫は真っ赤な顔で俯き、中庭は内心 つまらなさそうな顔つきでコーヒーカップを運んでいった。だが、彼らのお陰で片付けは早く終わり、由姫はメン テナンス課の社員達に「どうも本当にありがとうございました。助かりました」と頭を下げて、総務課の部屋へと 戻っていった。中庭は、そんな由姫を改めて可愛いと思った。他の男性社員達は何事もなかったかのように通常業 務に戻っている。 由姫が庶務係の席に戻ると、彼女の目の前でちょっとした騒ぎが起こっていた。 「おおい!スキップカード 1 枚足りないんじゃないのか?」「最後に使った人誰でしたっけ?」「太田さんの机に使 用簿があったはずだけど…。」 持ち出したまま 2 週間以上返却されていないバスの乗車カードがなくなっているらしかった。通常は由姫が利用 状況のチェックをしているのだが、ここ 1 週間近く忙しく、利用状況のチェックがずっと出来ない状態が続いてい た。 「おかしいですね。10 月 16 日に天野さんが使って以来カードの返却の様子がない」 「天野君。まだカード持ってい るのか?」 天野と名指しされた社員が大慌てで言った。「じょ…冗談じゃない!俺はちゃんと返したぞ」「そういえば俺、先 月下旬に天野からカード借りて出先に向かったんだっけな」 「だったら二人ともちゃんと日付記入しとけよ。返した 日と再び借りた日を書かないとどうなってるか分からないだろ?」「で、竹内さんの後は誰が使ったんだ?」「俺も 確かに返却したんだけど…」「竹内が返した後行方不明って事は…。」 天野の視線がゆっくりと由姫の方に向かった。 「え…?私は知りません。それどころか、私一度天野さんにカード のありかを確認したはず…。」 由姫は確かに天野にカードを持っているかどうかを確認した覚えがあった。だが、天野は自分の不始末を棚に上 げて由姫を犯人扱いし始めたのである。 「ここに記録してないって事は、太田さんが使い込んでるって見なされてもしょうがないんじゃないのかな~?」 竹内も相槌を打った。「俺らがカードを返したのを見てたらちゃんと書いといてもらわないと困るじゃないかよ。 太田さん、もしかして君が持ってるの?庶務の女の子が会社の金を横領したみたいになっちゃうよ。」 あまりの言い草に総務の女子社員達が猛反発した。 「何よその言い方!元はと言えばアンタ達が使用簿に返却日と 払出日を書かなかったのがいけなかったんでしょう!太田さんを責める前に自分達のやった事を考えたらどうな の!?」「そうよ!八木沼さんの言う通りよ!」 ここで話が終われば良かったのだが、あろう事か、庶務係の係長・田村までもが由姫を疑うような発言をしたも のだから大変であった。 「太田さん。正直に言ってくれないかな?いつもだったらカードの払出と返却はちゃんとチェックするはずだった のに、今回に限って漏れていたよね。もしかしたら君がカードを…。 」 さっきまで我慢して聞いていた由姫だったが、係長にまで疑われた事にさすがに腹を立てたのか「もういい加減 にして下さい!」と大声で怒鳴ってしまった。 「太田…さん?」田村係長も他の男性社員も呆気に取られていた。いつも大人しい太田さんが怒鳴った…。ちょっ と軽い気持ちでバスカードの事を確認しただけだったのに…。由姫は「はっ」と口を押さえたが、その瞬間、大声 を張り上げてしまった恥ずかしさと疑われた悔しさが込み上げてきたのか、彼女の目から涙が頬を伝って流れ落ち てきた。そして次の瞬間、由姫のプライドをますます傷つける場面が繰り広げられた。 「ああっ」「どうしましたか?係長」「ごめ~ん。カード、俺の定期入れに入ってたよ~。でもまあ、これで一件落 着って訳だな。何はともあれ、いざと言う時に疑われるような事をしてはいけないって事だな。」 男性社員はアハハハハと大笑いしたが、 「疑われるような事をした」人が由姫であると言わんばかりの田村の一言 に心を痛めつけられた由姫は、 「嫌ああああっ!」と大声を上げて泣きながら総務課の部屋を飛び出してしまったの である。 「太田さん!」庶務係の女性社員達が由姫の後を追ったが、由姫は更衣室に飛び込み、バッグを持って職場を出て 行った。(何よ!何で私が泥棒扱いされなきゃいけないの!?) 「天野さん…アンタのせいよ」 「田村係長。今の言い方は太田さんに失礼なんじゃないんですか?一言彼女に謝るべ きです!」「竹内さんも竹内さんよ。アンタまで一緒になって太田さん疑ったりして…。」 責められた男性社員達は「ほんの軽い冗談だよ」と濁していたが、彼らの言葉はどう考えても無神経であるとし か言いようがない。これでは由姫が契約途中で会社を辞めると言い出しかねないだろう。 (何よ…何よ……。あんな事目の前で言われたの初めてよ…。係長まで私を疑うなんて…。 ) 由姫は会社を辞めたい気分に苛まれたが、自分は派遣スタッフの身分である。感情に走る前に、まずは派遣会社 にトラブルの一件を報告する事から始めよう。由姫は携帯電話を取り出し、会社の電話をプッシュする。電話口に は偶然にもコーディネータの荒川が出て来た。 「もしもし?あ…お疲れ様です荒川です。太田さん、近々高橋と一緒に面談を…」荒川が言いかけた瞬間、由姫は 電話口で「わああああっ!」と大声で号泣してしまった。 「お…太田さん?何があったの?」いつもは冷静な荒川も、今回ばかりは少し驚いている。 「聞いて下さい、荒川さ ん…。私…私……。」 由姫はしゃくりあげながらも、この日会社で起こった事を少しずつ丁寧に報告した。荒川は「ええ!?」と驚い ていたが、やっとの思いで由姫が喋り終わるのを聴き終えると、感情を抑えながらも会社に対する憤りを口にし、 由姫に同情した。 「太田さん。よく話してくれましたね。あまりに信じがたいお話で私もビックリしているんですけど、もしこの話 が事実であるとするなら、早急に高橋を日本電気通信さんに向かわせて、田村係長さんに抗議しないといけないと 思います。近々面談を予定してはいるんですけど、どうしますか?今すぐにでも高橋に連絡を取ってみますか?」 由姫は「お願いします」と言ってどうにか涙を拭いた。荒川に宥められ、由姫は電話を切って街を歩いた。明日 は会社を休もうかな。でも、それじゃあ大好きな高橋さんが迷惑するかな? そのうち高橋から電話がかかってくるだろう。由姫は待った。業務時間の途中で会社を抜け出してしまったので、 まだ外が明るい。でも、今日はもう会社に戻ろうとは思わない。由姫は街の喫茶店で時間を潰しながら、高橋から の電話を待つ。 (高橋さん……。私、今日は甘えていいですか?私、あまりにも辛い一言を浴びせかけられたんです。 ) 携帯電話の鳴る音が聞こえたが、着信履歴を見てみると派遣先からだった。戻って来いという連絡だろう。だが、 由姫は電話に出ようとはしなかった。高橋さんじゃなかったら電話に出ないもん。 由姫はずっとずっと繁華街を歩き続け、ついには 6 時半になってしまった。高橋からの電話はまだかかって来な い。高橋さん忙しいのかな?もう少し待っていようかな?そう思いかけてアーケード街を通りかかった時だった。 (あ…あの人は……。) 由姫の目の前で目を疑う光景が飛び込んできた。何と、スーツ姿の高橋がセーラー服姿の女子高生風の少女と一 緒に手を繋ぎながら、アーケード街のレストランを出る所を見てしまったのである。あの子、一体誰なの?もしか して、高橋さんの恋人?まさか…あんな子供が…? (えええっ!?それってもしかして買春?ヤバイじゃん。相手女子高生なの?) (太田さんも真面目そうな男性には気をつけなさいよ) (男ってみんなヘンタイだからねえ。たとえ自分で『いいな』 って思ってても、実は心の底は超エロかったりするじゃん。真面目そうに見えてもキャバクラとかフーゾクとか行 ってるかも知れないし。オトコ見る目養っといた方がいいよ~。) 職場の同僚達が喋っていた言葉が、由姫の頭の中を駆け巡った。まさか、高橋さんがフーゾクで遊んでるってい うの?荒川さんからの電話を聞いていないの?私は、私はこんなに苦しんでいるのに。 「嫌ああああああああああああああっ!」 由姫はまたしても堪らなくなって泣き出してしまった。もう嫌よ。もう誰も好きになんかなりたくない!会社の 人なんて大嫌い。高橋さんも大嫌い!私なんてもういなくなってしまえばいいんだわ。会社も派遣会社も辞めてや る!荒川さんに謝って登録を抹消してもらう!由姫は両手で顔を覆いながら泣き続け、大急ぎで駅に向かうのであ った。 「お兄ちゃんごめんね。お仕事の途中で付き合わせたりして」 「しょうがないなあ。こういう時でもないと、なかな か真央に会えないからな。真央。もうお友達の誕生日プレゼントはいいのか?」 「うん。もう大丈夫だよ」 「そうか。 じゃあ、勉強頑張れよ。お兄ちゃん仕事あるから、また会社に戻るからな。」 高橋が一緒に歩いていたのは、田舎の実家から仙台の看護学校で寮生活をしながら通っている妹であった。普段 は滅多に高橋と顔を合わせないのだが、同級生の男の子の誕生日プレゼントを選んでいる最中に高橋に会い、いろ いろ相談に乗ってもらっていた所だったのである。妹の真央と別れると、高橋は自社ビルの前で携帯電話をチェッ クした。すると、2 時間近くも前から何度も何度も荒川から着信があった事に気づいたのである。 「やべえ!荒川さん怒ってるかな?」 高橋が電話を入れると、更に大変な事実が待っていた。太田由姫が派遣先でトラブルに巻き込まれたという話を 荒川から聞かされたのである。高橋は心から申し訳なく思っていた。由姫に電話をしなくてはいけない。 (太田さん。今頃どうしているかな…。) 由姫は、自宅に着くなり二階の部屋に直行し、ベッドに潜り込んでしまった。 「由姫ちゃん?お夕飯の支度出来てるわよ。食べないの?」 母親が階段から由姫を呼んだが、由姫は返事をしなかった。 「由姫ちゃんったら、もう…」母親が由姫の部屋をノ ックする。「由姫ちゃん。具合悪いの?」 「……ごめん…お母さん…。頭が痛いの…。電話がかかって来ても取り次がなくていいから…。」 由姫は泣き出しそうな状態を何とか堪えて言った。本当に誰にも会いたくないと思った。携帯電話の電源も切っ てしまった。お義兄さんの会社……今まで私、一生懸命頑張ってきたつもりだったのに…。ほんの些細な事かも知 れないけど、泥棒扱いされてしまって本当に悔しい。その思いを派遣会社にぶつけただけだったのに、高橋さんか ら何の連絡も来なかった。荒川さんも正直、私の事をわがままで扱いにくいスタッフだと思っているかも知れない。 もう、私なんかいなくていいんだ。明日からもう会社にも派遣会社にも行かない。絶対に行くもんか! 「……はあ…参ったなあ…。太田さんと連絡がつかないや…。」 高橋は何度も由姫の携帯電話に電話を入れたが、全く繋がらなかった。こうなったら仕方がない。自宅に電話し よう。今度は自宅に電話を入れてみる。応対したのは由姫の母親だった。体調を崩して寝ているとだけ伝えて電話 を切ったが、母親には何となく由姫の心情が読めていた。きっと会社で何かがあったのだ。母親は由姫の部屋にも う一度向かった。 「由姫ちゃん…ちょっと……。」 母親が部屋を何度もノックすると、由姫はぶすっとした顔でドアを開けた。 「何よお母さん……。電話が来ても取り次がなくていいって…」 「由姫ちゃん。ウェルワークの高橋さんって人から 電話があったわよ。何度携帯に電話入れても繋がらないからご自宅に電話しましたって。帰って来るなり部屋に飛 び込んで食事もしないし、電話も繋がなくていいって言うから何があったのかと思ったら…。」 由姫は観念したように母親の前でボロボロと涙をこぼした。 「お母さん…あのね……」由姫は、派遣先で起こった 出来事とその後の高橋の態度について全て話した。母親は由姫の話が終わるまでじっくりと聞いていた。 「確かに、何の証拠もなく由姫ちゃんの事を泥棒扱いした会社の人達は悪いわね。でもね由姫ちゃん。高橋さんは 由姫ちゃんにすぐに電話できない用事があったとは思わなかったの?」 「思った……そう思って二時間以上ずっと待 ってたの…」「派遣会社にもう一度電話入れてみたの?」「入れなかった。何度も電話してしつこいスタッフだと思 われるのは嫌だったから」 「そういう場合は電話しても良かったと思うわよ。もしかしたらその後すぐに連絡入れて くれてたかも知れないし、高橋さんも営業であっちこっちいろいろ出回ってて、すぐには由姫ちゃんの所に電話で きる状態じゃなかったかも知れなかったでしょ?由姫ちゃん。このまま黙ったままでいて物事が解決できると思う の?お母さんはやはり、由姫ちゃんの方から高橋さんに電話を入れてみるのがいいと思うわよ。派遣先に直接文句 を言える立場にないから高橋さんにお願いするんでしょ?そういう時は遠慮なく派遣会社に相談してもいいって、 お母さんはそう思うんだけど…。あなたは何も悪い事をしていないのに派遣先の人達に泥棒扱いされたんですもの。 黙ったままでいていいわけがないじゃない。あなたがいつまでも意地を張っていると、会社にいる信太郎お義兄ち ゃんもお姉ちゃんも心配するわよ。そう思わない?」 案の定、信太郎の家では由姫の事で話題になっていた。 「由姫が…そんな事になってたの…?」 「うん。俺も最初は何がどうなってるか分からなかったんだけど、庶務の女 の子達からいろいろ話を聞いてるうちに何だか腹が立ってきてね。庶務の田村係長って悪い人じゃないんだけど、 時々遠慮のない事喋ったりするんだよ。天野さんも竹内さんもひどい事言ってくれたよなあ…。俺、由姫ちゃんに 電話入れてみようかな…」 「信ちゃんやめて。由姫は今誰とも話したくない状況だと思うから、しばらくそっとして おいた方がいいと思う…。きっとそのうちあの子の方から元気出して何とかしようって思ってくると思うから…」 「俺…由姫ちゃんが会社に来てくれて良かったと思ってるんだよ……。あの子、会社のみんなにすごく好かれてて 人気があったからなあ。庶務の女の子達も『太田ちゃん』って言って可愛がってくれてたんだよ…。何たって美姫 ちゃんの妹だからなあ。俺、何かほっとけなくて…」 「信ちゃんの気持ちはすごくよく分かるけど、私はずっと由姫 の事を見てきたから、あの子の性格はちゃんと分かってるの。そのうち信ちゃんの方からそっと励まして力づけて あげるのが一番いいと思う。だから…今はそっとしておいてあげて…。」 信太郎は美姫を優しく抱きしめた。やはり美姫の姉妹は信頼関係で結ばれているんだ。俺はすばらしい女性を妻 に持った。信太郎は心からそう思うのであった。 「太田さん……。」 誰もいなくなった総務課のオフィスで、保守契約担当の中庭がポツンと立っていた。由姫を食事に誘おうと思っ てオフィスに来たのだが、総務課の女の子の話で由姫が早退したのだと言う事が分かった。もちろん、何があった のかは彼は何も知らない。 「電話してみようかな……。」 由姫はやはり気になっていた。もう一度、携帯電話の電源を入れてみる。感情的になっているとはいえ、やはり 高橋は自分にとって憧れの男性なのだ。しかし、どうしても引っかかっている点がある。母親には話せなかったが、 高橋が街中で女子高生風の女の子と一緒に歩いていた事である。あの子は高橋の何だと言うのだろう。恋人なのか? それとも遊び相手なのだろうか?いずれにしても高橋の品性を疑いかねないような事実を見てしまった事は確かで ある。このままでは高橋とまともな話が成立しないような気がする。知りたい。でも知るのが怖い。高橋を見る目 が変わってしまいそうだ。あの人の事を本当に好きになってしまっていいのだろうか?何だか、自分がとても危な っかしい恋に陥ってしまっているような気がしてならない。そう思っていたその時だった。 「あああっ!」 携帯電話から可愛らしいメロディが流れ、サブディスプレイに「ウェルワーク」という文字が映し出されていた。 間違いない。高橋からの電話だ。胸がドキドキする。由姫は通話ボタンを押した。 「……………」由姫の口からはどうしても第一声が出て来ない。だが、高橋は構わず話しかけてきた。 「もしもし?太田由姫さんの携帯電話でしたでしょうか?私、ウェルワークの高橋と申します。お休みの所申し訳 ありません、遅くなりまして……。 」 由姫は携帯電話を切ってしまった。駄目……こんな気持ちじゃ高橋さんと会話が出来ない…。 「高橋君。太田さん、どうなったの?」まだ事務所に残っていた荒川が、高橋に声をかけた。 「電話…切れてしまって……」 「太田さん、怒ってるんじゃないの?高橋君、たとえ忙しくとも 1 回は電話入れるべ きだったわね。太田さん、派遣先ですごいショック受けちゃったみたいよ」 「荒川さんの話で、かなり酷い事を言わ れてたんだと言う事は分かりました。でも、まだ事実関係が……」 「それを確認するために太田さんに電話するんで しょ?場合によっては、あなたが明日日本電気通信さんに出向いてもらわないといけないわけだし、モタモタして る場合じゃないわよ。連絡が取れるまで太田さんに電話入れてみなさいよ」「はい……。」 荒川は帰り支度を済ませて事務所を後にした。時刻はもう既に 9 時を回ろうとしている。 由姫はまだ引っかかっていた。高橋さん。もう二度と電話してくれないんだろうか?でも、お母さんの言う通り、 このまま黙ったままでいて物事が解決するとは思えない。あの女の子の事はもう忘れてしまおう。今度は、私の方 から電話してみよう。そう思って携帯電話に手を伸ばし、自分からウェルワークの電話番号に電話を入れた。今度 は誰も出て来ない。高橋さん、帰っちゃったのかな?事務所にはもう誰もいないのかな?高橋さんの携帯電話に電 話してみようかな?迷惑しないかな?由姫は意を決して高橋の携帯電話に電話を入れた。 「はい……」電話の向こうで、ちょっと迷惑そうな感じの男の声が聞こえた。怒ってるのかな? 「あの……申し訳ありません…突然電話して…あの…スタッフの太田…ですが…」 「ああっ!太田さん。どうも本当 にお待たせして申し訳ありません。あの、こっちからかけ直しますので、ちょっと電話切っていただけますか?」 高橋は由姫に気配りをした。本来なら高橋から電話を入れるのがマナーであるし、女性の由姫に通話料を負担さ せないようにするという男性ならではの常識だろう。十数秒ほどして、由姫の携帯電話が再び鳴った。 「もしもし?ウェルワークの高橋です」「どうも申し訳ありません。せっかくお電話頂いたのに…」「いいえ、とん でもありません。こちらの方が太田さんにもっと早くご連絡を差し上げるべきでしたのに…。で、荒川の方から大 体お話は伺っていたんですが、太田さん、もう一度詳しい状況をお話して頂けますか?」 ここまではごく普通に話していたのだが、由姫が高橋に会社であった出来事を話そうとした瞬間、訳もなく涙が 急に溢れてきてしまった。何とか平常心を保って事実を話そうと思っていたのに、泣くまいと思えば思うほど、由 姫の涙はどうする事も出来ず止まらなくなってしまい、ついにはヒクッヒクッとしゃくりあげて言葉にならなくな ってしまっていた。 「わ…わた…し…。会社…で……管理し…てる…バス…カード……。庶務の…田村…係長に…… 着服してる…みたいに…ヒクッ……言われてしまって…本当に…悔しくて…ゴホッ…。」 「酷いなあ……。太田さん、今夜は本当に辛かっただろうと思います。太田さんの気持ちをもっと早く汲んであげ られなくて、本当に責任を感じています。申し訳ありませんでした」高橋に慰められると、由姫はとうとう声を上 げてわああああっと泣き出してしまった。 「高橋さん……あの…」 「どうしましたか?」 「あの…面談は……いつ…予定してますか?」 「太田さんのご都合に合 わせたいと思いますが…」 「あの……こんな事言ってしまっては何ですが……私……明日は…会社に…行く元気が… なくて…」 「そうでしょうね。とても仕事どころじゃないと思います。分かりました。有給休暇は適用されないので 欠勤扱いになりますが、明日一日ちょっと体を休めた方が良さそうですね。明日、荒川と二人で日本電気通信さん にお邪魔して、田村係長さんから詳しい話を伺いたいと思います。太田さんとの面談はその後になりますね」 「私… もう我慢出来ないんです……。高橋さんや荒川さんには申し訳ないんですけど、あの会社、出来ればもう辞めてし まいたくて…」 「その話は、また後ほどじっくり話し合って考えてみましょう。今は気持ちが落ち着いていない頃だ と思うので、一日ゆっくり休んで冷静に考え直して、それでもなお会社に行きたくないという結論に達した時は、 再度面談して契約の解除と退職手続きを取るという事にしたいと思います。とりあえず太田さん、今夜と明日はゆ っくり休んで下さいね。明後日以降にもう一度お電話しますから、その時にまた、荒川と三人で面談するという事 に…。」 「嫌っ!!私もう嫌なんです!!信頼していた会社の人達に泥棒扱いされて!!私、もう死んでしまいたいんで す!!」 由姫はとうとう思いを爆発させてしまった。由姫が悩んでいる間に街中で女の子と遊んでいた高橋に対する不満 も含まれていたのかも知れない。 「………分かりました…。じゃあ太田さん。明日は日本電気通信さんの仕事をお休みして、一度会社の方に来てい ただけますか?明日は太田さんの話を優先して聞きたいと思います。時間の方は、荒川と相談して明日またご連絡 致します。とにかく今日はもう遅いから、ゆっくり休んで明日の連絡をお待ち下さい。太田さんをそこまで追い詰 めてしまったのは私の責任ですし、私に出来る事は何でもやりたいと思っています。とにかくヤケを起こさないで、 今日はもう早く寝て下さい。ごめんなさいね、お休みの所だったのに……。」 「い…いえ…私こそ、感情的になったりしてすみませんでした…」 「じゃあ、明日なるべく早くご連絡を差し上げま す。それでは、お疲れ様でした、おやすみなさい」「ありがとうございました。」 高橋は電話を切ってため息をついた。(ああ……。まるで俺の妹みたいだな…。) 高橋の妹・真央は、田舎の実家から親元を離れて仙台の学校に通っているという事もあり、たまに高橋に会うと 子供のように甘えるのである。幼い頃に父親を亡くし、高橋が真央の父親代わりとなって勉強の面倒などを見てあ げていた。実家で暮らしている間はごく普通の兄妹だったのに、互いに実家を離れる立場となった今、真央は高橋 にすっかり甘え切ってしまっていた。今日の夕方に偶然高橋に会った時も、まるで小さい子供が玩具やお菓子をね だるように高橋に買い物の付き合いをせがんだのである。可愛い妹としてしばし買い物の付き合いを引き受けてい た高橋であったが、まさかそれを由姫に見られていたとは知る由もないであろう。 「ん?」高橋の携帯電話が再び鳴った。荒川からの電話だった。 「もしもし?」「高橋君?あれから太田さんとは話がついたの?」「実は……太田さんの精神的ショックがあまりに 大き過ぎて……明日一度彼女から話を伺おうと思っていたんです。派遣先には行く元気がないらしくて…」 「だと思 ったわ。じゃあ、なるべく早く面談をしましょう。高橋君、明日の予定は?」 高橋がシステム手帳をめくった瞬間「あああっ!」と声を上げた、「どうしたの?高橋君。」 「明日……スムサン電機と糸並薬品の派遣先責任者との面談が入ってたんだ。すっかり忘れてたよ」高橋は自分の スケジュールをもう一度整理しなおしていた。 同時に、由姫の方も一晩中ずっとベッドの中で泣き続けてしまったせいか、翌朝はひどい頭痛と気分の悪さに悩 まされていた。本当に体調を崩してしまったのである。高橋達の面談は夕方 5 時という事となった。由姫はわがま まを言って泣き崩れてしまった事を少し後悔したが、昨日はそうでもしないと、自分の気が済まなかったのであっ た。 「由姫ちゃん。あれから高橋さんとはお話出来たの?」 「うん……出来た。ちゃんと話し合ってきたよ。でも、今日 はとてもじゃないけど仕事に行く気が起こらなくて…」 「あなたはもう子供じゃないんだから自分の好きなように決 めていいのよ。仕事に行きたくない時はゆっくり休みなさい。ただ、どんな場合でも絶対に感情的になってしまっ ては駄目よ。感情が頭の中を支配すると正しい考え方が出来なくなるから、一度時間を設けてゆっくり考えてみな さい。」 由姫の母親はあくまで干渉しなかった。しかし、母親の言っている言葉は昨日の高橋と似たような事である。本 当にそうだ。昨日の私は、確かに感情的になりすぎていたかも知れない。ただ…やはりどうしても気になる。昨日 の夕方に高橋さんと一緒に歩いていた女の子は誰なの?私に優しくしてくれるのは、派遣会社の営業マンの仕事と して仕方なくサービスしている事なの?昨日一緒に歩いていた女の子には普段どんな優しさを与えているの?私、 仕方なくサービスなんてしてもらいたくない。本当に心の底から悩みを聞いてもらいたい。うちのお母さんみたい に…。嫌なわがままに支配されているうちに、由姫の頭がまた重くなってきた。煩悩が彼女の心身を病ませている のだろう。 その頃、由姫の会社の庶務係には、心配して様子を見に来てくれた信太郎の姿があった。 「八木沼さん。由姫ちゃん、今日休みなの?」 「そうなの。あんなにボロ泣きして事務所飛び出しちゃったからねえ。 派遣会社の人にも訴えてるとは思うんだけど、太田ちゃん、今日はさすがに出勤する気起こらなかったんだと思う。 可哀想だったなあ…。」 その時、庶務係から切手をもらいに来ていた中庭も、偶然話を立ち聞きしていた。 (太田さん。昨日職場で辛い事があったのかな?)そう思って、中庭は庶務係の八木沼という女子社員にそっと昨 日の出来事を聞き出そうとした。「何があったんですか?」 「あ…ううん。何でもないの。太田さん、ちょっと今日体調崩しちゃったみたいで…。」 八木沼はあまり多くを語ろうとしなかった。信太郎は由姫の親戚なのでいろいろ話を伝えているが、関係のない 人に無闇やたらと個人的な話をするのは好ましくないと考えての事である。 (やっぱり俺が聞こうとしても教えてもらえないだろうなあ。所詮、俺と彼女は全然繋がりのないよその部署の人 間だからなあ…。) 夕方 5 時過ぎになり、由姫はウェルワーク仙台支社に足を運んだ。受付で高橋と荒川を指名すると、窓口に荒川 がすぐに来てくれた。 「荒川さん。昨日はすみませんでした、急にお電話して」 「ううん、いいんですよ。それよりも太田さん、今日は何 とか元気そうで良かったです。辛いとは思いますけど、これからのためにも今後の事は慎重に話し合って考えてい きましょうね。間もなく高橋来ますので、ちょっとこちらでかけて待ってていただけますか?」 由姫は受付前の小さなイスにかけて待っていた。4~5分ほどしてようやく高橋が姿を現した。今日はあちこち 外回りしていて忙しかったようである。 「高橋さん…昨日は本当に……」 「いえいえ。本当に昨日は辛い思いさせて、改めて申し訳ありませんでした。どう ですか。今日一日休んでみて、少し疲れは取れましたか?」「はい…何とか…。」 奥の応接ルームに入り、由姫の面談は始まった。まずはコーディネータの荒川から、由姫が派遣先でとてもいい 評判を受けているという褒め言葉が伝えられる。とにかく由姫を落ち込ませない。そうした気配りがよく伝わる話 しぶりだった。とにかく自信を持って欲しい。そうした趣旨の話が伝えられた後で、改めて昨日の出来事の話に移 っていく。 「じゃあ……ここからは高橋の方からお願いしましょうか?」 「はい…」高橋が一つ咳払いすると、由姫に対して、昨日派遣先で起こった「バスカード紛失事件」の詳細につい て、少しずつ冷静に事実関係を聞き出していった。由姫は平静を装って、その時に起こった出来事をゆっくりと言 葉を選ぶように話していく。 (感情が頭の中を支配すると正しい考え方が出来なくなる…)母親の言葉を頭の中で反 芻し、由姫は田村係長らの言葉と女子社員達の慰めの言葉などを詳細に高橋に伝えた。荒川も高橋も、由姫の言葉 を一つずつ丹念にメモを取っていく。 「ありがとうございます。よく分かりました。そうですね。昨日の太田さんのお話は、やはりどうしても耐え難い 出来事に遭遇してしまった直後という事で感情に走ってしまった所も見受けられたと思いますが、今伺ったお話は 本当に理路整然としていて、事実関係がはっきり分かる内容に整理されていたと思います。これはもう、明日早速 田村係長に報告すべきですね。先方はどういう言い分があるか知りませんが、我々はもちろん太田さんの味方です。 太田さんのお話は確実にお伝えしておきますから、どうか安心して下さいね。」 高橋が由姫を慰めた後で、荒川の携帯電話にコールが入った。彼女が担当する別の派遣先でスタッフによるトラ ブルが起こったようである。 「はい……ええ……。…申し訳ございません…。ええ…かしこまりました。夕方遅くになりますけど、今からそち らにお伺いいたしますので…はい…。」 「荒川さん、何か…」 「ごめんね高橋君。私、急に室伏産業に出向く事になっちゃった。この後何か予定ある?」 「い いえ。今日は予定が入っていないので…。」 派遣会社にはとかく様々なトラブルが持ち込まれるものであるが、由姫のようなトラブルは派遣スタッフと派遣 先との間のトラブルとしてはごく一般的なものであろう。面談はこれでひとまず終わりかと思われたが、高橋は一 つ大切な事を思い出していた。 「太田さん。明日以降は職場に出られますか?」 「ええ。荒川さんのお話を聞いて、大分励みになりました。明日は 何とか…」「何とか続けられそうですか?」 「は…い…」そう言いかけて、由姫は再び涙ぐんでしまった。やはりまだ辛い気持ちが蘇ってしまったのだろう。 高橋が昨日一緒に歩いていた女の子は…くどい!もういい加減にしないと。 「高橋君。用事がないんだったら、今日この後太田さんを駅の改札まで見送ってあげなさい。昨日散々に辛い思い させて待たせた罰よ。彼女の心の傷はまだまだ深いと思うから」荒川は出かける支度をしながら、高橋の肩をポン と叩いた。 「そうですね。太田さん、私でご不満でなければ、近くまで一緒に帰りませんか?」 思いがけない展開だった。由姫は「はい」と返事をしたが、心の中はかなり動揺している。 「じゃあ、荒川さん。お疲れ様です」 「お疲れ様です。高橋君。明日は朝イチから日本電気通信さんに行くから、車 出しといてね」「分かりました。じゃ、失礼します。」 高橋さんと二人きり…。由姫はドキドキしていた。どうしよう。高橋さんに聞こうか。昨日の女の子について。 「あ…あの…高橋…さん…」「ん?」「あの…実は私……昨日…。」 由姫はまた涙が溢れそうになっていた。駄目。やはり聞けない。でも、どうしたらいいの?どうしたら…。 「太田さん。少し感情を思い切り吐き出してみようか。」 高橋は由姫をそっと抱き寄せた。由姫は高橋の胸に飛び込み、声を上げて大声で泣き始めた。もういい。もうど うなっちゃってもいい。あの子が高橋さんの何であろうと関係ない。思い切り泣きたい。泣いてしまいたい…。 「あれ…?」 偶然にも、中庭がそこを通りかかっていた。 (あれは太田さん?今日確か体調を崩したとか言ってたような気がし たけど、やはり何かあったのかな…?) 由姫が抱きついている男の姿を見て、中庭は愕然としていた。 (あれは……太田さんの恋人?嘘だろ?そんな……。 悪い夢でも見てるんだろ?でも…あれは確かに…確かに…。) 「畜生!」 中庭は近くのビアレストランに駆け込み、いきなりビール大ジョッキとカクテル 2 種を頼みだした。 「お客様。何か召し上がるものは…」 「いや…。とりあえずお酒でいいです」従業員の問いかけに構わず、中庭はグ イグイと酒を煽っていた。 (これが…飲まずにいられるかよ!) 翌朝、由姫は母親に励まされて何とか出勤の決意をした。 「大丈夫よ由姫ちゃん。派遣会社の人がちゃんと話をつけてくれるし、信太郎お兄ちゃんもお母さんも由姫の味方 なんだから、頑張ってお仕事に行って来なさい。」 由姫は笑顔で頷いた。総務課庶務係の部屋に入ると、女子社員達が一斉にかけつけてきた。 「太田ちゃんおはよう!昨日すごい心配したよ~」「すみませんでした、皆さん。今日からまた頑張りますので。」 田村係長に挨拶する気が起こらなかったが、一応表面だけでも「おはようございます」とだけは言っておいた。 田村係長は「おはよう」と返したが、やはり由姫に話しかける事は出来ない様子だ。一昨日から昨日にかけて女子 社員達に散々叩かれたのだ。天野と竹内は営業の人間だが、今日はまだ庶務係に姿を現さない。 朝 9 時の朝礼を終えていつもの仕事に入る。9 時 35 分ぐらいになって、ウェルワークの高橋から田村係長宛てに 電話が入って来た。もう間もなく会社に来る頃であろう。今頃高橋は車で会社に向かっている頃に違いない。由姫 は訳もなくドキドキしていた。 「失礼します。ウェルワークと申します。」 来た!高橋さんと荒川さんだ。美男美女で二人ともスーツ姿が映える人達だ。由姫の会社にも若い社員が大勢い るが、彼らがこの会社に入るたび、男子社員は荒川に、女子は高橋に一斉に注目する。庶務係はビルの4F に位置 している。信太郎のいる部署は 5F、昨日の夜に由姫と高橋との抱擁シーンを目にしてしまった中庭は 7F の部署に 位置していて、普段高橋を見かける事はない。 応接室に座った高橋達に、庶務係の女子社員の一人がお茶を出しに行っていた。 「いいなあ、太田ちゃん。あんなイケメンが担当の派遣会社にいるなんて」 「ええ…そんな事ありませんよ。ああ見 えても結構厳しい人で、私いつも叱られてるんです」「イケメンに叱られるんだったらいいじゃん!」 今頃高橋と荒川は、田村係長に対して昨日の面談であった話をじっくり話して聞かせているに違いない。少しガ ツンと言って欲しいな。応接室に入って既に 30 分以上経っているが、高橋と荒川が出て来る様子がない。きっとか なり強い口調で話を進めているのだろう。 11 時近くになって、高橋達がようやく応接室から出て来た。真っ先に田村係長が由姫の席に駆け込んで来る。 「太田さん。一昨日は本当に悪かったね。俺の口の利き方は本当に無神経だったと思う。これから気をつけるから、 どうか辞めないで頑張ってもらえると嬉しいな」 「いえ…私こそすみませんでした。私、来年 3 月まで頑張りますの で。」 高橋達は由姫の所に来なかったが、田村係長の態度からして、きっと今後の契約に及ぶ所まで話をしてくれたの だろう。荒川の方はともかく、高橋は派遣元の苦情担当者としてここの仕事に就いているのだ。顔は一見優しそう だが、言う時は毅然とした態度で人に当たるのが仕事なのだ。 「由姫ちゃん」信太郎が社用車の運転日誌を持って由姫の所に来た。今日も外回りに出ていたのだろう。 「お義兄さん!」 「昨日は心配したよ。でも、ちゃんと出て来てくれて良かったよ。今度、また近いうちにお姉ちゃ ん達と一緒に食事しよう。大輔お兄ちゃんも仙台に来る予定らしいから、もしかしたら 4 人になるかな?」 信太郎は由姫にそっとスナップ写真を見せてくれた。由姫が大輔の顔を忘れているのだと思ったのだろう。大輔 お兄さんも来る!由姫は写真を見てまたもドキドキしていた。大輔は確かに高橋に似た顔つきだが、高橋がポッテ リとした厚い唇で優しそうな顔をしているのに対し、大輔は唇が薄くて少々薄情そうに見える感じだ。二人に共通 しているキリリとした目の感じも、よく見ていると違っている。大輔の方は高橋よりも目つきが鋭くて、見る人が 違えば暴力団員に見えそうだ。 中庭は諦めていなかった。昨日の夜に由姫が高橋と抱き合っているのを目撃してしまったが、 「あんな事で引き下 がって堪るか!」とばかりに再び立ち上がり、由姫を食事に誘うチャンスを窺っている。由姫は近々、来年予定し ている国家公務員試験のための模擬試験を受ける事にしている。本来なら恋愛どころではないはずなのだが、由姫 の心は淡い恋に満たされていくのであった。 第四十章 辛すぎる再会 「ふぇっ…ふぇっ……あああああああああん…。」 ヨンアがまたしてもぐずりだした。生後 6 ヶ月はまだまだ手のかかる赤ん坊である。 今日はヤンジャの勤務先の施設が休みの日であったが、外は朝から大雨で外出には不向きな状態だ。いつもなら、 天気のいい休日にはヨンホとヨンアを教会の近くの原っぱに連れ出し、そこで思う存分外の空気を吸わせる習慣に している。原っぱとは、譲太郎やサランとよく出かける、あの例の場所の事だ。今日は休日だというのに外に出ら れなくて、ヨンホは何だか機嫌が悪かった。ヨンアに至ってはご覧の通りである。 「ヨンホもヨンアもごめんね。今日はこんなお天気だし、お外に遊びに連れて行けないわ。 」 そんな矢先、サランから電話がかかってきた。昨日の夜は遅番だったため、彼女も今日が休日だったのだ。こん なせっかくの機会に天気に恵まれないなんてタイミングが悪いわ。 「ヤンジャ。今何やってたの?」 「子供達のお守りをしながら部屋の掃除をしていたわ。天気が良かったら、またい つもの原っぱに遊びに連れて行けるのに…。」 電話の主がサランだと分かり、ヨンホが大喜びで飛びついてきた。 「サランおねえちゃんだ!わあい!ママ、遊び に行くの?」 「こら!ヨンホ静かにしなさい!今日はお遊びに行けないってさっきも言ったでしょ?お姉ちゃんとは大事なお話 があるのよ!」 「えええっ!?僕、つまんな~い。ねえママぁ?原っぱじゃなくてもいいからどっかに行こうよ~。 」 ヨンホは何とかして外出を促そうとするが、ヤンジャは「静かにしなさい!駄目って言ってるでしょ?」と言っ てサランと話し続けていた。しまいにヨンホはギャアギャア騒ぎ出し、ヨンアはまたしても「ふぁああああ」と泣 き出してしまった。 「ヤンジャ。坊や達が外に出たがってるわよ?どうするの?」 「そんな事言ったってこんな大雨の中じゃ無理よ。たまには子供達に駄目なものは駄目と教えなくちゃ」「じゃあ、 今度の日曜日にもし天気が良かったら、あたしと譲太郎とでまた例の教会前の原っぱに行かない?その時に子供達 を連れて行けばいいわ。日曜日は確か天気が…」「良かったと聞いたわね。私、神様にお祈りしておくわ。」 3 日後の日曜日。ソウルとその近郊は朝から雲ひとつない快晴だった。 「やったあ!おでかけおでかけ!」ヨンホは大喜びでヤンジャにまとわりついた。 「駄目よヨンホ。今からママ、お 弁当のサンドウィッチを作るの。離れていないと包丁が危ないわよ。 」 一方のサランも、譲太郎と久しぶりに外でレジャーに行ける楽しみに浮かれていた。 「行く所はいつもの原っぱだろ?」 「だって、すごく久しぶりなんだもん。譲太郎、ここしばらくずっと仕事で夜遅 かったし、ところで譲太郎。大輔お兄さんの病気はどうなったの?」 「今はもう普通に働いてるぜ。だけど、何だか 職場に困った女上司が入って来たみたいでさ…。」 大輔から詳しい話は聞いていないが、譲太郎は村主恵美子の存在について知っている事を話した。サランは「よ くそんなの使ってるわね」と呆れていたが、譲太郎ではなく大輔の職場での話であるし、譲太郎は何とも言いよう がない。 例の原っぱには朝の 10 時頃に着いた。ヤンジャはヨンホとヨンアを車に乗せ、サランは譲太郎の運転で教会前に 着く。ちなみにヨンミョンは再開した歌手活動が軌道に乗り、今日はソウルのテレビ番組の収録に出たり、酔水と メールで次回作の打ち合わせをしたりして過ごしている。 「わあい!ママぁ!!僕また四葉のクローバー探そうかな?」「ヨンホ。今はもう秋よ。四葉の季節はまた来年ね」 「じゃあ、原っぱの脇にムグンファ咲いてるかな?」「そうね。今の季節ならまだ大丈夫だと思うわ」「じゃあ、僕 ちょっと行ってきていい?」「一人で遠くに行っちゃだめよヨンホ。」 「あたしがついて行くわ」 「俺も一緒に行きます」サランと譲太郎が、ヨンホをムクゲの木の近くまで連れて行って くれた。ヤンジャはヨンアを抱き、教会の中にそっと入っていく。 「ほうら、ヨンア。今日も神様が見ていて下さってるでしょ?ここの教会でね、よくみんなが集まってお祈りして いるの。ヨンアの体が弱いのが早く治るようにって、ママもお祈りしておかないとね…。」 「……ぁ…」ヨンアはヤンジャの胸に吸い付くようにして、そっと静かに甘えている。その時だった。 「あら……。 」 最近教会で見かけなかった姿が目に入った。ナンビルが祈りを捧げていたのである。教会に来る事自体久しぶり だったが、ここ最近教会に行ってもナンビルに会う事はずっとなかったのである。髪型が少々変わっているように 見えたが、ナンビルの姿かたちはすぐに分かる。 「ナンビル。久しぶりね」「やあヤンジャ。今日は、その子と二人だけで来たのかい?」「いいえ。息子も一緒よ。 でも、サランと小林さんが見てくれているわ」 「小林君……ずっと迷惑かけっぱなしだな。僕も早く…元気に……。」 え?ヤンジャは一瞬耳を疑った。今何て言ったの?今……何て…。 「ナンビル……どこか悪いの?ずっと迷惑って…ナンビル…何か…。 」 ナンビルはゆっくりと立ち上がった。 「ヤンジャ。今の僕の本当の姿を見せるよ」そう言って彼は自分の頭髪にそ っと手を伸ばし、帽子でも取るかのようにスルッとそれを脱ぎ捨てた。 「ナン……!」ヤンジャは言葉に詰まっていた。 「分かるだろ?ヤンジャ。僕、癌なんだよ。急性骨髄性白血病なん だ。抗癌剤の副作用でここまでになってしまったけど、ごく初期の段階で治療を始めているし、僕はこの姿で生か されてるよ。 」 「ナンビル…あなた……」 「ヤンジャ。また、悲しい目をしているね。僕は至って元気なんだよ。僕の娘かも知れな いその子の姿も見る事が出来たし、治療計画も順調だ。今は自宅療養中で時々病院に行っているけど、再来週から 仕事に復帰できる事になったんだ。いやあ。僕も最初はビックリしたんだけどね…。」 「ナンビル!いつからそんな病気になったの?何で…何でもっと早く私に伝えてくれなかったの?」 ヤンジャは両手で顔を覆った。 「ごめんね、ヤンジャ。君が僕の病気の事を知ったら、君の事だ。きっと心から僕 の事で心を痛め、毎日心配かけてしまうんじゃないかと思っていたんだ。だけど、いつかは話さなくてはいけない 事だからね。今日ここで会った事を機会に、僕は病気の事をやっと君に…。」 「もうすぐ死ぬかも知れないって言う時に、よくそんなに笑顔でいられるわね!!」ヤンジャは涙交じりの大声で 叫んでいた。 「あなたは死ぬのが怖くないの?いつかは自殺しようとした事があったし、今だって、まるで他人事の ように自分の白血病を淡々と笑顔で語って…。私がどういう思いであなたを見つめているか分かっているの!?」 「ヤンジャ…」ナンビルはそっと彼女の肩に手をかけた。 「もちろん、死ぬのは怖いさ。でも、どんな人間でもいつ かは死ぬんだ。どんなものにも、いつかは寿命が来る。僕が死ぬのを恐れているのは、自分が苦しんで死ぬ事自体 ではなく、残された人達にどれだけの悲しみを残すだろうという事なんだ。」 「あなたには…この子がいるのよ……。あなたの血が入っているのかどうかはまだ分からないけど、あなたはヨン アの成長を楽しみに生きていくはずなのよ。小林さんもいるわ。あなたがいなくなったら、彼はどんなに…どんな に…。」 「分かっているさヤンジャ。だから、僕は笑顔でいるんだ。僕が悲しい顔や苦しい顔をしているのを見て、君と小 林君は嬉しいと思うのかい?それに、僕にはまだ仕事があるんだ。その子が立派に成長するのを見届ける事もそう だし、仕事上で残された小林君に今後の仕事の進め方を教え、僕がいなくなっても決して困る事のないようにする。 死ぬという事はどんな人間にも必ず訪れる。僕の場合はその時期が少し早くなるかも知れないけど、僕はこの現実 から逃げるつもりはない。真っ向からこの事実と向き合って受け入れ、生きているうちに出来る事を全てやり遂げ るつもりなんだ。病気と闘うというのは寿命を延ばす事じゃない。残される人の事を思い遣り、彼らの人生に迷い を起こさせないようにする事なんだ。それを、笑顔で全うするんだよ……。」 そう言うと、ナンビルはそっと教会の椅子に座り込んだ。少し息切れしているようである。 「ナンビル!無理しちゃ駄目!!」 「無理…じゃないよ……。赤血球が少ないから、ちょっと疲れが…」 「ナンビル! 鼻血が出ているわ!あなた、病気が酷くなったんじゃないの?すぐに病院を呼ぶわ!ここで待ってて頂戴!!」 あまりにも痛々しい現実を目の当たりにしたヤンジャ。するとすぐそばに、いつの間にか譲太郎とサランとヨン ホの姿まで現れたのであった。 「ファンさん!」「ナンビル!」「おじちゃん!」 救急車で、ナンビルはいきつけの病院まで大急ぎで運ばれた。日曜日だったが、ナンビルの主治医はちょうど医 局で研究中であった。 「……芽球すなわち異常な白血球数が少し増えていますね。この白血球は、おおよそ3~4日周期で増えたり減っ たりを繰り返し、増えた時に様々な異常が現れやすいものです。鼻血が出たのは、異常な白血球が増えた事で血小 板の数が減少したのが原因です。お薬は、毎回ちゃんと飲んでいますね。薬を変えて治療を継続してみましょう。 それから……小林さん。ちょっとお話がありますので、私の所へ来ていただけますか?」 主治医は譲太郎を呼んで別室に通した。ナンビル、まだしばらく安静が必要なのね。小林さん、一体何の用事で 呼ばれたのかしら。ヤンジャは不安で胸が高鳴った。 「骨髄移植!……そうですか…」譲太郎は肩を落とした。 「あなたの上司の方は幸いにもごく早期の段階で治療を継続されていますし、後はご本人の気持ち次第で、病気を 乗り越えていけるものと信じております。私もそのお手伝いを致します。今はまだ抗癌剤による治療を始められた ばかりですから、症状が治まらない事もあれば副作用が出る事もあります。白血病は、今は昔と違って完治する事 も可能な病気になりました。しかし、万が一の事も考え、ぜひこの機会に、骨髄移植の可能性も検討していただけ れば…と思います。通常の輸血で調べられる血液型と違い、骨髄移植で調べられる白血球の型は一致する可能性が 極めて低く、兄弟姉妹で4人に1人。それ以外では数百人から数万人に一人という極めて稀な確率であるため、骨 髄移植を受けられない患者さんが少なくありません。その事をぜひ、あなた自身やお友達に一人でも多くの方に知 っていただければと思います。」 譲太郎は悩んでしまった。やはり、これは骨髄バンクに登録する必要があるだろう。 「もちろん、喜んで協力するわ。小林さん。私に出来る事があったら何でも言って!」ヤンジャは譲太郎の手を取 って言った。 骨髄バンクにドナー登録をするには条件があり、登録時の年齢が 18 歳~54 歳(提供時は 20 歳~55 歳)、体重が 男性で 45kg 以上、女性が 40kg 以上で極度の肥満でない事。最高血圧 90~150・最低血圧 100 以下、輸血経験・貧 血・血液疾患経験・感染症はない、投薬していない、などがある。すなわちヤンジャの身内で言えば、ヤンジャ自 身とミンスとヨンスクが対象という事になる。ジェオクとユミンは登録時点で既に 54 歳を過ぎているので対象から 外れる事になる。オッキはまだ小学生なので当然ドナーになる事は出来ず、ヨンミョンはマラリア罹患歴があり、 治療のための輸血経験もあるのでドナー登録は不可だ。ドナーになるのにもこんなに条件があるなんて…。 サランと譲太郎には全く問題がなかった。しかし、譲太郎には考えている事があった。 (兄貴…。こんな事知ったら喜んで協力してくれるかな?ファンさんが倒れた時、兄貴は『俺に出来ることなら何 でも言ってくれ』と言ってくれた。だけど、これが現実味を帯びてしまうと兄貴も少し考えてしまうよな。何たっ て自分自身の病気があるし。信兄ぃにも声かけてみようかな。日本の骨髄バンクは海外とどのように繋がっている んだろ?) 「小林さん。私、会社に行く事出来るかしら?」「何をなさるんですか?」「私、みんなに直接骨髄バンク登録への 協力を呼びかけたいの」 「お気持ちはとても有り難いんですが、それはまず私の方から会社の人達に今のファンさん の状況を伝える事から先に始めた方がいいと思うんです。私、まず自分の課長に話してみます。ファンさんは人望 のある方です。みんな、ファンさんが今どういう状況にあるのかをとても気にかけています。まずは私が話してみ ましょう。きっと誰か協力者が出てくれるはずです。もっと協力を仰ぎたい時に、チョンさんにお声がけします。 」 「ありがとう、小林さん。そうね、その方がいいと思うわね。まずは私自身が登録する事から考えないといけない わ。」 案の定、譲太郎の会社では、課長はじめ社員全員が骨髄バンク登録に賛成してくれた。 「ファンさんには早く元気になっていただかないと、俺達の仕事に影響しちゃうよ」 「ファンさんがいない職場なん て嫌!寂しいわ」「あなた、チョンさんが会社にいた時からそんな事言ってたじゃないの!」「ファン君の、一日も 早い職場復帰を願って、みんなで骨髄バンクに登録しようじゃないか?どうだね。この中で、骨髄移植の条件を全 部満たしてる人、自分達の仕事の都合と照らし合わせながら、登録を考えてくれよ。」 協力者は沢山集まった。まだ、ナンビルが骨髄移植をするという話に決まったわけではないし、仮にもし骨髄移 植をする事が決まったとしても、登録してくれた人達の中から簡単にドナーが決まるとは限らない。白血球の型が 一致する可能性が極めて低いからである。だが、何もしないよりは何かした方がいいに決まっている。 譲太郎は会社の同僚や上司達に「ありがとうございます!」と何度も頭を下げた。嬉しさで涙が込み上げそうに なっていた矢先に、携帯電話の着信が入った。信太郎からであった。 「よう!譲太郎。兄貴から聞いたぜ。上司の人が白血病なんだって?俺、骨髄バンクの事、いろいろ調べてみたん だけどさ、日本の骨髄バンク、韓国の骨髄バンクとネットワークが繋がってるんだってな。兄貴、ドナーになろう かどうか真剣に考えてるらしいぜ。 」 譲太郎は驚いていた。兄貴……俺には何も言わなかったのに、信兄ぃにだけ先にそんな話しちゃってたのかよ。 「なあ、譲太郎。俺、兄貴からちょっと聞いただけだから詳しい事知らないんだけどさ、もし俺で何か出来る事あ ったら言ってくれよ。兄貴は、お前の上司が倒れるの、目の前で見ちゃったんだよな。お前には照れ臭くて話せな かったと思うんだけど、骨髄バンクの登録の事、考えてくれてるみたいだし、俺も何とか考えてみるよ。」 「信兄ぃ。兄貴、電話で何て言って来た?」 「兄貴が電話したんじゃねえよ。俺が兄貴にちょっと用事があって電話 してみたんだ。そしたら、お前の上司の話教えてくれてな。」 そんな事だろうと思ったよ。兄貴って、よっぽど重大な用事がない限り、俺らの所に電話寄越さないからな…譲 太郎は思った。 「ところでさ、譲太郎。お前、今度の年末年始に日本に帰る予定、ねえ?」 「今のところは無理っぽいな。ファンさ ん…いや、上司が入院中で仕事の担当が俺しかいないからな」 「今度年末近く、俺と美姫ちゃんと美姫ちゃんの妹で、 食事に行こうと思ってたんだよ。その時に兄貴も帰省する予定になってるらしいから、もしお前も何か用事があっ たら…って思ったんだけど…」 「俺は兄貴と違って外国にいるからなあ。時々帰らねえとな…とは思うんだけど、な かなかそういう訳にはなあ…。ところで信兄ぃ、兄貴、何で仙台に帰る予定になってるんだ?」 その時、電話の向こうで「フフフ…」と意味深長な笑いが聞こえてきた。「何だよ信兄ぃ。気味悪りぃな。」 「実はさ。兄貴のヤツ、入籍済ませたらしいんだよ。今年中には入籍するつもりでいたらしいんだ。いやあ。俺も ビックリしたよ。近いうちに田舎に帰るとは聞いていたんだけど、まさか入籍考えてたとは思わなかったな。ホン ト、兄貴っていつも何も話さねえでいきなり行動起こすからビックリしちゃうぜ。でも、兄貴が胃潰瘍で入院して いる間に、静香さんにいろいろ支えてもらったみたいだな。挙式の予定は今の所ねえみたいだけど、落ち着いた頃 にハネムーンに行こうと思ってるみたいなんだ。まあ、まさか俺と同じ韓国じゃねえと思うけどさ。」 信太郎は相変わらずお喋りだった。ナンビルの病気の事であれこれ思い悩んでいたが、とりあえず自分の周りに はこれだけの人間達がナンビルを支えてくれるんだ。譲太郎は改めて周囲の者達に感謝するとともに、気分が塞ぎ がちな譲太郎を明るい話題で元気付けてくれる信太郎の心遣いにも嬉しいと思うのであった。 一方、ナンビルの病状を気遣うヤンジャは、ヨンホと共に教会で祈りを捧げていた。 (ナンビル。いつもあなたが私達の幸せを祈ってくれているように、今日は私に、あなたのお祈りをさせてちょう だい。あなたはきっと元気になるわ。あなたは心が清らかで、いつも周りの人達を温かく包んでくれる人なんです もの。あなたにはぜひ、前のように元気になってもらいたいわ。) 「おじちゃん。早く治ってね」ヨンホも小さな手を合わせて、声を出してお祈りしていた。 「……ぁぃ…」ヤンジャの背中で眠っていたヨンアが、静かに声をあげた。 「ヨンア。あなたもお祈りしてくれるわよね。あなたの健やかな成長をそっと見守ってくれるおじちゃんが、今と っても大変な病気と闘っているのよ。元気になれるようにって、ママと一緒にお祈りしてくれるわよね…。」 ヤンジャは家路に向かい、骨髄バンクの登録について一生懸命調べていた。あんなに辛い形でナンビルと再び出 会うとは思わなかったが、いずれは知らねばならない、今現在の真実なのだ。今はとにかく、出来る事を一生懸命 考えよう。そう心に誓うヤンジャであった。 「何ですって?大輔さんが入籍済ませたって!?」 サランは案の定驚いた声を上げた。信太郎も大輔も入籍したとなると、小林家の兄弟でまだ独身なのは譲太郎一 人だけとなる。だが、譲太郎の場合はそんなに簡単に事が進む訳には行かないであろう。彼は韓国に住んでいるし、 恋人のサランも韓国人だ。日本の結婚事情よりも更に複雑である。何よりも双方の両親の理解が必要になる。サラ ンの両親は日本人の譲太郎にとりわけ悪い感情を抱いている訳ではないが、譲太郎の父親が未だにサランを理解し きれていない現状を慮り、譲太郎との結婚に難色を示しているのである。出来れば韓国の男の方が望ましいのでは ないか、というのが本音らしい。本当に、双方の親だけの問題なのだ。特に譲太郎の父親の石頭を何とかしない事 には、二人の結婚話が行き詰って破談になる危険性も避けられない。譲太郎の目下最大の悩みは、ナンビルの病気 とサランとの結婚の事だ。あれこれ思い悩んでいても仕方のない事なのだが、時々何もかも放り出して外に逃げた くなる事もある。 「田舎…帰りてえなあ。ファンさんの病気の事がなかったら、サランを実家に連れてもう一回親父を説得出来るの に…。信兄ぃ達にも会えるのに…。 」 「譲太郎。あたしの事は心配しないで。でも、本当はあたしもすごく辛いなあ…。だって、もしかしたら譲太郎と さようならしなきゃいけなくなるかも知れないって考えると、それだけが本当に辛いんだ…。」 譲太郎は頭を掻き毟った。あああ!畜生!!いっその事俺が韓国人であれば良かったのに!! 「譲太郎。あたし、譲太郎以外の男は、もう考えられない。譲太郎と別れても、あたしはずっと独身で通すよ…」 「馬 鹿な事言ってんじゃねえよ…。俺だって…俺だって」そう言って譲太郎はベッドにうっ伏してしまった。俺も兄貴 みたいに胃潰瘍になりそうだ。 そうこうしているうちに、早くも年の瀬が近づいてきた。大輔は静香を愛車に乗せて、実家に向かう高速道路を 走っている。 「大輔。あなたの実家に行くのは久しぶりね。今回は弟さんの奥さんの妹さんもいるんですって?」 そうなのだ。今回は美姫の妹の由姫も、譲太郎の実家に両親と一緒に泊まりに来ているのである。実家には既に 信太郎夫婦が泊まっていて、由姫は久しぶりに姉の美姫と再会を果たした。自分の就職祝いで信太郎と三人で食事 をして以来の事である。 「由姫ちゃん。あれから会社の方はどう?」「はい。とても楽しく働かせて頂いてます」「アハハハ…。義理の兄な んだからそんなに固くなる事ないよ。今日はね、俺の兄貴の大ちゃんも来る事になってるんだ。結婚式の時以来だ から由姫ちゃん顔覚えてないかも知れないけど、仲良くなってくれたら嬉しいな。」 信太郎は、由姫と一緒に実家の台所でケーキを食べながら話をしている。由姫は先日まで、国家公務員試験の模 擬試験に追われて猛勉強中であったが、やっと試験が終わってホッとしている所である。結果は来月発表されるが、 今回はいつになく良い出来で、結果が来るのを楽しみにしている。仕事が忙しくてなかなか勉強の時間が取れなか ったが、いずれ大輔と同じ職場に入れれば…という淡い期待がいつまでも残っており、それが勉強に打ち込める原 動力になっているのである。 信太郎は、由姫が大輔の顔を忘れているものだと思い込んでいるが、由姫にとって大輔の顔は忘れられるもので はない。派遣会社で自分を担当している高橋が大輔によく似た男であるため、余計に大輔の面影が頭に残っている のである。目の感じは、大輔の方にちょっと猛禽類のような鋭さを感じるが、二人の全体的な顔の感じは双子のよ うによく似ている。 ガラガラガラガラ…。実家の格子戸を開ける音が聞こえてきた。来た!信太郎が真っ先に反応する。 「おお!兄貴ぃ~!結婚おめでとさ~~~~ん!!」 え!?由姫は一瞬、心臓にダーツの矢が刺さったような衝撃を覚えた。大輔が部屋に入って来たのを見て、その 衝撃はますます頂点に達した。大輔が女性を連れてきていたのである。しかも…大輔が高橋に良く似ているばかり か、連れの女性は、派遣会社のコーディネーターの荒川章枝に良く似た女性ではないか。荒川は髪を肩までのセミ ロングにしているが、大輔が連れている女性は背中の真ん中辺りまで髪が伸びていて、肩までの長さにカットすれ ば荒川と双子になりそうである。高橋と荒川を日常的に見かけているせいか、大輔と連れの女性もお似合いのカッ プルに見えてしまい、自分なんかが入る隙間などないように感じられて、ますますショックを掻き立てられてしま う。 「由姫ちゃん。久しぶりに会ったからビックリしてると思うんだけど、俺の兄貴だよ。先月結婚したばかりなんだ。」 信太郎は軽い気持ちで由姫に挨拶しているが、由姫の方は心の中に衝撃が走っていて、笑顔が凍りついている。 大輔お兄さん。本当に高橋さんに似ている…いや……改めて見ていると本当に凛々しくて魅力的な男性である。高 橋さんはいつも明るい笑顔で疲れた心を癒してくれる、いわば信太郎お義兄さんみたいな存在だ。しかし、大輔お 兄さんには高橋さんにないシャープさがある。眼差しが鋭くて、額をキリリと出した顔が知性的に見える。きっと 職場でもすごく仕事の出来る男性であるに違いない。高橋さんはすごくいい人だと思うんだけど、女子高生のよう な女の子と街を歩いていた姿が気になるし、いろんな人達に対していい人過ぎて、かえって私の事を見てくれてい ないんじゃないかしら。それに比べて、この大輔さんは実直で硬派で男らしく、頭も良さそうに見える。 「由姫ちゃん。何考えてるの?」信太郎が由姫の肩を軽く叩いた。 「あ……ご…ごめんなさい…。ちょっと…この間 の試験の事考えてて…」由姫はとっさに自分の心情を誤魔化した。 「試験?」大輔が銜えタバコに火をつけながら信太郎に聞き返した。 「ああ。由姫ちゃん、国家公務員目指して勉強 中なんだよ。この間模擬試験受けたばかりでね。でも、由姫ちゃんいつも頑張ってるから大丈夫だよね。」 「ええ?あなたも国家公務員を目指しているのね。受かるといいわね」大輔の隣に立っていた静香が由姫を優しく 励ました。悪い感じの女性ではない。だが、由姫の心の中は複雑だった。大輔さんは完全にこの女性のものになっ てしまっているんだ。高橋さんは嫌いじゃないんだけど、あの人の事は何だかよく分からないし、深く知ろうとす ると余計に心がズタズタになりそうな気がする。 「大輔!胃潰瘍で煙草控えろって言われてるでしょ?もう忘れたの?」煙草をふかす大輔を静香がたしなめた。 「る せえなあ!ちょっとぐらい吸ったっていいじゃねえかよ!」大輔は顔をしかめながら、携帯灰皿に吸殻を押し込ん だ。二人の会話を聞き、由姫はますます静香が羨ましくなっていた。きっと普段からすごく仲が良くて…いけない! これじゃあ嫉妬になってしまうわ。 「兄貴。この間禁煙するって言ってたと思ったけどなあ…」信太郎は肩をすぼめた。信太郎にも、由姫が大輔の事 を意識しているという事はうすうす勘付いてはいるのだが、ここでそれを口にしてしまうと由姫を辱める事になる ので、敢えて言わないようにしている。 「あら。お兄さんこんにちは。あ…どうも初めまして。義理の妹の美姫です。」 美姫が、二階の信太郎の部屋から階段を下りてやって来た。静香にもちゃんと挨拶を交わしている。 「初めまして。静香です」静香は美姫と握手を交わした。大輔は相変わらず無口で、静かに咳払いをしながら再び 煙草に火をつけている。 「兄貴…。間が持たなくなるとすぐ煙草に手ぇつけるんだな…」信太郎は大輔の癖をよく知り尽くしている。 「胃潰瘍で禁煙しなきゃいけねえって分かってるんだけどさ、何か落ち着かねえんだよ。今でも喫茶店入るとどう しても喫煙席に座っちゃうしな。煙の匂い嗅いでると落ち着くんだよ。やっぱ 17 ん時からずっと煙草やってたから なあ…。」 17 歳の時から?由姫は大輔の高校時代を勝手に想像していた。この人、もしかしてちょっとワルっぽい人だった の? 「由姫ちゃん。あまりよく知らないと思うんだけどさ。うちの兄貴って元ヤンだったんだよ。いつもでっけえバイ ク乗り回してて煙草スパスパ吸いまくってて、地べたに座る時はいっつもウンコ座りしててさあ…。」 「馬鹿野郎!誤解招くような事喋るんじゃねえよ!!」大輔は信太郎に肘鉄を食らわした。信太郎お義兄さんは私 に気を遣ってくれているんだ。私が大輔さんに直接話しかけづらく思っている事を知っていて、こんな話題で私を 和ませ、大輔さんと親しみやすくしてくれてるんだ。由姫は信太郎の心遣いに感謝した。でも、出来れば私からも 大輔さんに何か話題を振ってみたい。たとえば…公務員試験の事とか…。 だが、由姫のそんな思いを遮るかのように、信太郎が母親の澄代に今夜の食事会の話を切り出した。 「母さん。みんな揃った所だし、夕方になったらそれぞれの車に乗って、ここの近くのステーキハウスに行く事に しよう!俺が先頭で運転するから、母さん達は俺の車に、美姫ちゃんと由姫ちゃんはご両親の車に、兄貴は静香さ んを乗っけて…♪パパパパパパパパパパパパ~」信太郎は一番最後の所で「ゴッドファザー」のテーマ曲を口ずさ みながら冗談を言っている。 「バイクで来てんじゃねえよ!」大輔が少し笑った顔を見せた。笑うと優しい顔になる。高橋の笑顔とは少し違う けど、やはり大輔が笑うといい顔になるし、見ていてホッとする。由姫はまたしても高橋と比較していた。 「んだねえ。みんなで食事さいぐの久しぶりだかんねえ。信太郎。あんだ、譲太郎とサランさんの事ば何か聞いで ねえの?」澄代は譲太郎の結婚を気にかけていた。 「それを俺が親父によく話しておくんだよ。親父が会社から帰ってきたら、すぐ飯に行く支度して車の中で話し合 うよ。サランさんのお父さんもお母さんも、譲太郎の事気に入ってくれてるみたいだぜ。譲太郎、韓国語ペラペラ だし仕事出来るし礼儀正しいし…って。だけどうちの親父がサランさんと溶け込んでねえもんなあ。言葉の壁だか 文化の違いとかあるかも知れねえけど、まずは受け入れる事から始めないと駄目だろうがよ…。譲太郎は上司の事 もあって今回帰省出来ねえからさ、俺が話してみるんだよ。」 「大輔。弟さんってスムサン電機の…あの…」 「ああ。上司が重い病気で休職しててさ。仕事空けられねえから、下 の弟だけ今回韓国にいるんだよ。いろいろあるみてえだし、落ち着いた頃にまた電話してみるよ。」 大輔さんと静香さんってどうやって知り合ったんだろう。由姫の頭の中は二人の馴れ初めに関する想像でいっぱ いだった。お姉ちゃんと信太郎義兄さんは仕事で知り合ったんだけど、大輔さんと静香さんって、何だかもうずっ と前から仲が良かったように思えるわ。高橋さんと荒川さんに似た美男美女だし、私なんかが入り込む隙間なんて 最初からなかったような気がする。由姫はもう、大輔達の姿を見るのが辛くなりそうだった。 「おう!ただいま。大輔帰ってたか?おっ!おめえもべっぴんな嫁さん連れてきだってか?」 父親の純二が上機嫌で家に戻ってきた。静香は純二に「こんにちは」と頭を下げる。以前にも一度実家に来た事 があるのか、改めて自己紹介はしない。由姫はますます、静香がここの実家で既に顔なじみであるという現実を知 り、大輔との距離を感じてしまうのであった。 信太郎の音頭で、家族達はそれぞれの車に分乗した。信太郎の車には純二と澄代。太田家の車には、運転席に美 姫と由姫の父親、助手席に母親、後部座席に美姫と由姫が座る。大輔の車は、大輔と静香二人きりの空間だ。それ がますます由姫を羨望の眼差しに変えてしまう。もう諦めようと思えば思うほど、静香と大輔の親密さを目の当た りにする事になる。こんな事になるぐらいだったら、お姉ちゃん達と食事に行く約束なんてしなきゃ良かった。 ハンドルを握りながら、信太郎は「親父…あのさ」と切り出す。そう。譲太郎の事だ。 「サランさんの事は、今更別に何も悪いとは思ってねえよ」 「だったら何で譲太郎の結婚に前向きになれねえのさ?」 「いや……。サランさんが悪いっちゅうか…その…なんだ?俺、韓国語だか朝鮮語だか何だかはっぱもわがんねっ からやあ」 「そんな事サランさんの性格と関係ねえだろうがよ!向こうはさあ、サランさんのご両親は、譲太郎の事 気に入ってくれてるらしいんだよ。んだけど親父がそんな態度でいっから、向こうの両親はサランさんと譲太郎の 結婚に賛成してくれてねえんだよ。先方のお父さんがあまり乗り気じゃねえんだったら、結婚はしねえ方がいいん でねえかってよぉ!親父、これは譲太郎の将来の事なんだぜ!譲太郎もサランさんもお互いの事をすっげえ気に入 ってるんだよ。日本だったら双方の意志で簡単に結婚できっけどさあ、韓国の方は双方の両親の意向が尊重される んだよ。せっかく向こうが譲太郎の事気に入ってくれてんのに、うちの親父だけがいつまでも国籍に拘ってたんじ ゃ、譲太郎とサランさんが可哀想だって思わねえのかよ!」 「んな事言ったっておめ…」純二が言葉を返そうとした所を、澄代もすばやく牽制した。 「あんださ!譲太郎が見合 いした相手の事ば未だに引っかかってるなんて言わねっちゃねわ!」 「あんな子の事はいいんだぁ。んだけどよぉ…あの……見合い相手の子以外に、地元でもっといい子いるんでねえ かって思って…」 「譲太郎は韓国にいるんだよ!韓国にずっと住んでて今更地元の女の子と知り合いになれっとでも 思ってるってか?んな事かだってると譲太郎の幸せば潰す事になっからね!ほんど、あんだももうちょっと広い視 野で物事考えられっと思ってたんだけどねえ…。」 澄代の一言で、信太郎の車の中は静まり返ってしまった。純二も本当はサランの事を受け入れてあげようと思っ ているのである。だが、自分は韓国語はおろか英語もろくに解さない人間であるため、外国の女性を息子の嫁に迎 える自信がないと思っているのだ。それは澄代もそうなのだが、澄代はサランの事を気に入っているため、ラジオ のハングル講座などを活用して少しずつ韓国語の勉強をしているのである。こういう時は女性の方が柔軟性が優れ ている。純二にはそういう柔軟性が欠けている。それがますます信太郎や大輔を苛立たせる事になるのだ。 一方、ここは太田家の車の中。 由姫が美姫と共に同じ車に乗ったのは久しぶりである。車の中では、美姫の新婚生活の話で賑わっている。由姫 は美姫を羨ましく思った。信太郎のように優しく包容力のある男性と結婚できた上、大輔と近しい親戚関係になっ た事を。義理の兄弟とはいえ、自分にとって大輔は赤の他人だ。関わる事なんてほとんどない。口を利く事も許さ れないような気がしてくる。 「由姫ちゃん。元気ないね…」美姫は由姫がどことなくしょんぼりしているのを気にかけた。 「あ…ううん。何でも ないの…。」由姫は大慌てで笑顔を装った。 「由姫ちゃん、仕事と公務員試験の勉強で少し疲れてるんじゃないの?今日は親戚一同で楽しむ日なんだから、た まにはいつもの生活の事は忘れなさい」母親は由姫の日頃の苦労を労ったが、由姫は決して疲れてはいなかった。 大輔の事が気になっているのである。同時に、自分が誰を好きになっていいのか分からなくなっている所もある。 大輔は確かに外見が魅力的な男性だが、性格の全てを知っているわけではない。むしろ今日の言動を見る感じでは、 ちょっと不良っぽくてつっぱった感じの男に見える。顔も少し怖いように思える。派遣会社の営業担当高橋崇彦は、 外見は大輔によく似ているが、大輔よりも優しい感じがして話しやすい。でも、あの人に関しても全てを知ってい るという訳ではない。第一、街で見かけたあの女子高生みたいな女の子が高橋の何なのかが気にかかる。まさか買 春じゃないわよね。あらぬ妄想にかられてしまう。それに、高橋さんって独身なの?結婚して子供が一人ぐらいい たって可笑しくないような感じがする。更に由姫を悩ませているのが、会社にいる中庭の存在だ。あの人は私の事 が好きなんだわ。この間食事に誘われた。その時は残業で断ったけど、その後もまた誘ってきて、その時は OK し た。悪い人じゃないんだけど、一緒にいて何だか肩の凝る人だった。あまり面白い人じゃないし…。 変に大輔に会ってしまったがために、頭の中がグチャグチャになりそうである。会わなきゃ良かった。人を好き になる事ってこんなに苦しい事だったの?今頃後を走っている車の中では、大輔と静香が仲睦まじく会話を交し合 っているに違いない。想像しただけでも胸騒ぎがしてくる。 第四十一章 思い過ごし 信太郎の車がステーキハウスの駐車場に入ると、太田家の車も大輔の車もその後を追っていく。車を降り、一向 はそれぞれの家族の下に散っていく。信太郎は美姫と 2 人で並んでステーキハウスに入り、そのすぐ後を純二と澄 代がついていく。由姫は両親と共に彼らの後をつけていく。大輔はどうしても静香と一緒になる。 ステーキハウスのテーブルでも、大輔と静香は 2 人で並んで座っている。夫婦なのだから当然だといえば当然だ。 静香の家族は大輔しかいないのだから、2 人がバラバラでいる訳にはいかない。分かっていはいるのだけれど、心 の中で言い聞かせれば言い聞かせるほど空しさが募るばかりで、由姫はつくづく、両親と共にテーブルについてい る自分が惨めに思えてくる。 「由姫ちゃん、何にする?」信太郎が由姫を気遣い、メニューを差し出してくれた。信太郎と美姫はいつも仲良し で、端から見ても羨ましく思われるほどいい雰囲気で会話を交わしている。大輔と静香は極めてクールで、会話も 信太郎達ほど多くない。だが由姫から見ると、信太郎と美姫より、大輔と静香の方がイチャついているように見え る。大輔と静香とのさりげない触れ合いが殊更嫌味に映り、映画に出てくるような大人の恋愛模様を、これでもか これでもかとでも言うかのように見せつけられているように思えてくる。 (太田さん。少し感情を思い切り吐き出してみようか。) 高橋の優しい声が過ぎった気がした。あの時、高橋さんはどんな気持ちで私を抱いたのだろう。まるで恋人を抱 くかのように、高橋さんは私を抱き寄せてくれた。胸に飛び込ませてくれた。そして、そっと涙を拭ってくれた。 派遣会社の営業マンの行為を超えているのではないだろうか。もしあれが営業マンとしての仕事の一環でやってい る事だとしたら、高橋さんは普通のサラリーマンよりホストの方が向いているのかも知れない。でも、もしかした らあれは、あの人の本当の優しさなの?あの人は私の事をどう思っているのだろう。高橋さんって、結構女泣かせ な人なのかも知れない。 食事をしている間も、由姫の心の中は高橋と大輔がぶつかり合って複雑に絡み合っている。見ないようにしよう と思いつつも、由姫の視線はどうしても大輔と静香の方に向いていく。美味しそうにビーフステーキをつつく静香 の顔が忌々しくも見えてくる。そして、またしても思い出した。街中で見かけたあの日の光景。高橋と女子高生風 の少女が歩いていた、由姫にとって到底受け入れがたい高橋の姿である。 私は誰が好きで誰を憎んでいるのだろう…。高橋さんも大輔さんも、まるで私の心を弄んでいるかのように思え る。あの静香さんとかいう人…。高橋さんの隣で歩いていたあの女の子…。私は一体何なんだろう。思い焦がれれ ば思い焦がれるほど、私はみっともないピエロにされている気がする。もう分からなくなりそう!私の好きな人は 2 人いる。同じ顔の人が 2 人。でも、私のそんな思いとは裏腹に、彼らの心の中で他の女性達が戯れている。一人は 子供のような子。もう一人は大人の色気をぷんぷん漂わせている女性。2 人とも私とは違うタイプの女性だけに、 私の心はいつも置いてけぼり……由姫の心は苛立ちに満ちていく。 食事会も終わり、一向はそれぞれの車に分乗してステーキハウスを後にした。信太郎夫婦と由姫一家は小林家で 一晩を過ごすが、大輔と静香は翌日に静香の実家に行く予定になっているため、ステーキハウスから仙台のホテル に向かう事になっている。それに、信太郎の実家に 9 人も泊めるほどの部屋数も布団の数もない。 大輔さんが行っちゃう。由姫はまたしても寂しい気持ちに囚われた。仙台のホテルに泊まったら、大輔さんと静 香さんはきっと 2 人きりの部屋で甘い一時を過ごすんだわ。誰にも邪魔されない 2 人だけの空間を過ごす。2 人と も洗練された美男美女だし、仙台のシティホテルで綺麗な夜景でも眺めながらキスしあってる方がずっとお似合い に決まっているわ。由姫の心の中でどんどんと妄想が加速する。 「じゃあな、兄貴。また今度な」信太郎は大輔に手を振った。 「譲太郎も入籍したら、また俺達でお祝いしようぜ。俺と静香、お前と美姫、譲太郎とサランさん。6 人で楽しめ る所、どっか探しとくからさ」大輔にしては珍しく遊びの計画を提案している。その話を聞いて、由姫はまたして も蚊帳の外において行かれた気分になった。私はやはり誘ってもらえないわよね。バカな私。何を期待しているの? 最初から分かっていた事じゃない。 「じゃあね、由姫さん。試験、頑張ってね」静香が由姫に、またしてもさりげなく挨拶した。 「あ…はい。ありがと うございます…」由姫は静香に笑顔で挨拶した。この人は感じのいい人なのね。この人だったら、大輔さんの恋人 であっても不満は言ってはいけない…。言うも何も、私は元々大輔さんとは縁のない人だったのよ。だったら私に はもっと相応しい人がいるって事じゃない。高橋さん?嫌いじゃないけど、あの人と女子高生みたいな女の子との 関係が分からないわ。もしかしたら、街で見かけたあの子以外にも、あっちこっちの女の子を引っ掛けて毎晩のよ うに豪遊しているとかって…。そんな人だったら軽蔑する!高橋さんって不潔だわ。じゃあ、会社の中庭さん?あ の人も確かに優しくて真面目で感じのいい人なんだけど、時々会話が弾まない事があるし、高橋さんとかと比べる と、一緒にいてドキドキしない人だわ。いい人なんだけど、何か違うような気がする。 「じゃあ、お義父さんお義母さん、お邪魔致しました」静香は純二達に頭を下げた。美姫も一緒に頭を下げている。 静香は大輔の車の助手席に乗り込んだ。大輔も「じゃあな」と言って運転席に座ると、エンジンをかけてそのまま ステーキハウスの前から姿を消して行った。由姫は複雑な気持ちに駆られている。大輔がいなくなって寂しいとい う気持ちと、もうこれ以上 2 人の仲睦まじさを見なくても済むというホッとした気持ち。しかし、たとえ目の前で 見る事がなくても、大輔と静香は仙台のホテルで 2 人だけの時間を過ごすのだ。何をバカな事を考えているの?あ の 2 人はとっくに入籍しているのよ。東京で既に一緒に暮らしてるはずなのに、何をまた今更。 「信ちゃん。大輔お兄さん達、式挙げる予定なの?」 「今はまだ分かんないけど、落ち着いた頃に挙式すると思うよ。 でも、兄貴の事だから、多分俺達と静香さんの親族だけを呼ぶジミ婚にするんだと思うけどな。そうそう。新婚旅 行は中南米に行くつもりらしいぜ」「中南米?どうしてまた…」「前から気になってた所らしいんだよ。二週間近く 休みを取って、カリブ海のリゾート地とかコロンビアのサンタマルタとか、ベネズエラのアンヘル滝とか行きたい って言ってたぜ。兄貴の好みはちょっとぶっ飛んでるからな。」 挙式と新婚旅行の話を聞かされ、由姫は改めて大輔の一面を知らされた思いになった。今時の若い人が行くよう なバリ島とかアジア諸国とかと違い、大輔さんは随分豪勢なハネムーンを楽しもうとしているのね。その旅行に静 香さんも一緒なんだわ。きっと贅沢志向の 2 人なのね。だったら農家の仕事なんて地味臭いもの継がなきゃいいの に。一生公務員で遊んで暮らしているがいいわ。私は公務員になってもそんなに派手な遊びはしない。真面目に働 くわ。由姫はいつの間にか大輔に対して憎しみの感情をぶつけるようになっていた。嫉妬と煩悩に狂うと妄想も果 てしなくなるものである。 夜遅くなり、それぞれの寝室が割り当てられる事となった。由姫が寝る部屋は、かつて大輔が使っていた二階の 一室に決まった。信太郎と美姫は、隣にある信太郎の部屋でシングルベッドの布団と毛布を敷き、クッションを 2 人分並べて寝る事にした。中二階にある部屋はかつて譲太郎が使っていた部屋であったが、そこには美姫と由姫の 両親が来客用の布団を敷いて寝ることとなり、純二と澄代は、いつものように 1 階の寝室で寝る。それが、今夜の 過ごし方だ。 自分が寝ることになった部屋が大輔の部屋であると知り、由姫は嬉しく思っていた。大輔さんの全てが詰まった 部屋なんだわ。見渡してみると、やはりさすがは大輔らしく、男臭さが滲み出るインテリアである。電池が消耗し て止まってしまった黒の目覚まし時計。部屋の隅に残された小さな本棚に、高校時代に使ったと思われる学習参考 書が並んでいる。中には東京の一流大学の赤本が色褪せた状態で混じっていた。そこが大輔の母校なのだろう。壁 にはブルース・リーのポスターが貼られ、部屋のクローゼットには、煙草の匂いの混じった黒のレザージャケット やパンツ、さそりを象ったシルバーのバックルのついたベルトなどが残されている。東京に引っ越したために家財 道具のほとんどが持ち去られたものと見られるが、アパートの一室に置くにはやや大きめのベッドと、趣味が変わ って着なくなった服など不要なものだけがこの部屋に残されているのだろう。ベッドに顔をうずめると、何となく 大輔の匂いがしてくるような気がする。由姫は初めて、大輔と一緒になれたような不思議な感覚に囚われていた。 たまたま決まった部屋割りではあるが、由姫は少なからず、今夜の心のもやもやをここで解消する事が出来そうな 気がしていた。 「…ん……?」 気がつくと、由姫はどこか知らない所に寝ていたようである。ここはどこ?私の部屋じゃない。一体どこにいる の?私…私……。 「気がついたかい?太田さん。」 目の前にいたのはスーツ姿の高橋だった。「ここ…高橋さんの……家?」 「どっかの田舎の畑で寝転がっていたのを俺が助けてやったんだよ!」高橋はいつになく荒っぽい口調で話しなが らスーツを脱ぎ始めている。ちょっと…一体どういう事なの? 「太田さん。たまには本気でコミュニケーション取らないか? 俺、基本的に女子高生タイプの子しか相手にしない んだけど、君だけは特別だよ。」 な…何を言ってるの?高橋さん!!由姫が抵抗する間もなく、高橋は上半身裸になり、ついにはスラックスまで 脱ぎ始めた。 「止めてえっ!何するのよ!?」 「へへへへへへ…。太田さん、もしかしてバージン? 少しは社会経験しないと、これからの仕事についていけない ぜ。俺が手ほどき教えてやるから大人しくしてろや。俺はな……街で引っ掛けた女の子に、毎日こうやって社会勉 強の基本を教えてやってるんだよ。それが、派遣会社の仕事にも生かされてるって訳さ…。 」 いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!! 「太田さん!」悲鳴を聞いて中庭が駆けつけてきた。中庭は由姫の手を取り、必死で高橋から引き剥がそうとする。 「太田さん!早く逃げよう!!早く…早く……」「いやあああああああああああああ」…… 「由姫ちゃん!由姫ちゃんってば!!」悲鳴を聞いて駆けつけてきた美姫が、由姫の体を何度も揺さぶっていた。 「あ …ああ…夢?」由姫はシングルベッドの上で汗びっしょりになっている。 「由姫ちゃんどうしたの?何かあったの?」美姫は部屋の明かりをつけ、由姫のそばに座りながら話す。 「お…お姉ちゃんごめんね。怖い夢見ちゃったの…」由姫は声を潜めて謝った。 「もう…何があったのかと思ってビックリしちゃったじゃない…」 「ごめんねお姉ちゃん。お義兄さんも起きちゃっ た?」 「信ちゃんは大丈夫よ。私、下のトイレから戻ろうと思って階段上がってたら、この部屋から由姫ちゃんの声 が聞こえてきたからビックリしてドア開けたの…」 「そうだったんだ…ごめんねお姉ちゃん。もう大丈夫だから…。 」 時刻はまだ午前 2 時半である。美姫は部屋の明かりを消し、隣の部屋に戻っていった。信太郎は騒ぎに気づかな かったのか、布団を被ったままピクリとも動かない。 由姫はもちろん眠れなくなっていた。何であんな夢見ちゃったんだろう。やはりあれは現実の世界が出て来てし まったのかしら? それにしてもこの部屋。本当に大輔さんが昔過ごしていた部屋なの?私はやはり、大輔さんが今 過ごしている所に行きたいわ。たとえそこに静香さんがいようとも、私は一度でいいから、大輔さんの体に触れて 見たい。吐息の匂いを味わいたい…。 そう思った由姫であったが、夢の中の高橋の姿が再び頭に浮かぶと「いやあっ!」と首を横に振った。 (高橋さん。本当に女子高生相手に買春している人なの? まさか…そんなんじゃないわよね。でも、もしそれが事 実だとしたら。) 由姫の頭の中に馬鹿げた妄想が過ぎっていた。新聞の社会面に高橋の顔写真が載り、「大手人材派遣会社の社員 買春で逮捕」という見出しが出ている様子。何馬鹿な事考えてるのかしら?でも、このままでは高橋さんに対して ずっと変な思い込みを抱く事になっちゃうわ。大輔さんとお近づきになる事は出来なくとも、私には高橋さんがい る。一度はそう思ったはずじゃない…。 由姫はその後朝まで一睡も出来なかった。朝食の時間になった時、由姫は頭がボーッとしていて気分も不良だっ た。 「由姫ちゃん。あれからちゃんと寝られたの?」美姫が由姫を心配する。やはり一睡も出来なかった事は誰の目 から見ても明らかだろう。 「由姫ちゃんどうかしたの?」朝まで熟睡していた信太郎が呑気な顔で美姫に聞いた。美姫は、今朝2時半頃に起 きた出来事を信太郎に話そうとした。由姫は「止めてよ!恥ずかしいから!!」と止めたが、もうほとんど喋って しまったようで、信太郎はニヤニヤ笑いながら「由姫ちゃん。どんな夢見たの?お化けの夢?それとも、変なおじ さん…かなぁ~?」 もう!信太郎お義兄さんったら!由姫は不機嫌になってしまった。だが、信太郎はその後由姫を気遣ってか、 「由 姫ちゃんちょっと…」と声をかけてきた。 「昨日は、一日中一人ぼっちにさせちゃってごめんね。もし良かったら、後でお姉ちゃんと 3 人でドライブに行か ない?今日は由姫ちゃんの行きたい所、いろいろ連れてってあげるからさ。」 こういう所が信太郎の最大の長所である。由姫が太田家に帰るのは今日の夕方の予定なのだが、信太郎は美姫と 由姫を車に乗せ、ちょっと遠出してみようという計画を立ててくれていたのだ。由姫が普段仕事や公務員試験の勉 強などに打ち込んでいてなかなか遊ぶ時間もなく、せっかくみんなと一緒に食事会に来ても楽しむ事が出来ないの ではないかと思っていたのである。大輔にはこういう気遣いの心はない。由姫は信太郎のそういう所が好きだと思 った。高橋さんは、大輔さんの顔と信太郎さんの性格を足したような人のはずだわ。そうだと思うんだけど、やは り私はあの高橋さんをどこかで信用していないと思う。 朝食と後片付けを済ませると、信太郎達 3 人は車に乗り込んだ。今日は 12 月 30 日。明日が一年最後の日となる。 信太郎達の車は、高速道路の逆ラッシュに乗って福島方面に向かっている。途中から一般道に下り、山道を通って どこか景色のいい所に向かおうか…そんな当てのないドライブを気ままに楽しもうというのが、今回の企画である。 「どこも混んでるねえ信ちゃん」 「仕方ないさ、年末だしな。でも、ここは逆ラッシュだからまだいい方だよ。兄貴 は昨日朝うんと早くに出発して実家に向かったって言うから、ラッシュに引っかかる前に家についたんだよな」 「よ く眠くならなかったわよね」 「だから、昨日の夜はホテルについたらバタンと倒れ込んだはずだぜ。もっとも、今日 は静香さんの家に行く予定だから、そんなにのんびりもしていられないと思うんだけどな。 」 また大輔さんと静香さんの話?由姫は耳を塞ぎたい気分になった。そんな悶々とした気分に陥りそうになった時、 カーナビのテレビからニュースが飛び込んできた。 「今日午前 9 時頃、福島県××郡の林道脇の土砂が突然崩れ落ち、林道を走っていた車数台が巻き込まれた模様で す。警察と消防が救助にあたり、ドライバー達の救出に当たっていますが、救出された 2 人のドライバーのうち 1 人は意識がない模様で…」 「信ちゃん…ここって……」 「兄貴が通ってる道だぜ。高速道路を下りて林道を通って静香さんの家に向かうって聞 いたけど、ここの道が確かその中のうちに入ってるはずだ。ホテルからの出発時間を考えたら…もしかして…。」 え!?由姫は胸騒ぎがした。事故当時、大輔さんがここを通っていたかも知れないっていうの? 「ドライブは違う所を選んだ方がいいな…」「大輔お兄さん、今頃どこ走ってるかしら?」「確かに気になるけど、 現場まで見に行くわけにいかないからな。関係ない事を祈りたいよ。 」 信太郎の車は進路を変え、福島の市街地方面に向かっていく。どこか適当な場所で車を止め、そこで何か買って 食べよう。あまり遠出しない方がいいかも知れない。 「どうかな?仙台からあまり遠くない所かも知れないけど、どっかその辺のファミレスか何かに入るか、それとも コンビニで何か買って外の空気吸いながら食べるかどっちがいい?」 「外の空気がいいなあ」 「由姫ちゃんは?」 「私…どちらでもいいです…」 「そうか。じゃあ、せっかくだから向こうのマクドテリアで何か買ってきて、どこか のドライブインで車止めて食べるか。」 信太郎達はファーストフードショップでハンバーガーとポテト、ジュースなどを買い込んで車に戻り、そこから 適当なドライブインを探す事にした。信太郎の車の中は美味しそうなハンバーガーとフライドポテトの匂いが充満 し、食欲をそそられる。20 分近く走った所で、さっきのニュースの速報が入って来た。 「信ちゃん!ニュースニュース!!」 車はちょうど、止められるスペースの所に来ていた。コンビニの駐車場である。信太郎はそこで車を止め、カー ナビのテレビの画像を映した。 「今日午前 9 時頃、福島県××郡の林道脇の土砂が突然崩れ落ち、林道を走っていた車数台が巻き込まれました。 警察と消防がドライバー達の救助に当たってこれまで 3 人を救出しましたが、救出されたドライバーのうち、仙台 市宮城野区東仙台の会社員○○△△さんが、搬送先の病院で死亡が確認されました。あとの 2 人は、足や頭の骨を 折り重軽傷を負った模様ですが、意識ははっきりしているという事です。警察では引き続き、土砂に埋まれた車と ドライバー達の救出に当たっていますが、土砂の載積量が多く、救助活動は難航している模様です。」 信太郎はふうっとため息をついた。大輔の車はあるのかないのか…まだ何とも言えない。最初に「意識がない」 と報じられたドライバーは亡くなったようだ。大輔でなくて良かったとは言えない。家族の者はひどく悲しんでい る事だろう。これが大輔だったらと思うと、信太郎は胸が張り裂けそうになる。 その頃事故現場では、大輔の運転する車が、土砂が載積した場所の最後部の所で立ち往生していた。今のところ 大輔達に怪我はないが、埋もれた土砂があまりに重く、ドアも窓も開けられない。おまけに真っ暗で身動きも取れ にくく、密閉された車内の中で息が詰まりそうである。 「大輔……苦しい…怖いわ…」「大丈夫だ…きっと助かる。 」 だが、救出活動が難航しているのか、まだ大輔達のいる所にまで手が届かないようである。このままでは事故の 犠牲者が更に増える事になる。大輔はジャケットから携帯電話を取り出し、その光で静香の顔を照らした。 「静香。分かるか?俺はここにいるぜ。しっかりしろ!」 「大輔…私……。」 大輔は静香の手を取った。携帯電話は照明の役割こそ果たしてくれるものの、こんなに土砂で埋まれてしまって は通話も通信も出来ない。せめて信太郎の携帯電話に無事を知らせる事が出来れば…。 そして再び、ここは信太郎の車の中。 「ええ!新しい情報が入りました!!救出されたドライバーは 5 人に増えました!1 人は意識不明の重体です。後 のドライバーの状況は不明です。」 そんな話はいいんだよ!信太郎は珍しく苛立っていた。まさかと思って大輔の携帯電話に電話を入れてみたが通 じなかった。もし通じれば「縁起でもねえ事言ってんじゃねえよ!」と大輔に怒鳴られそうだが、今回はそういう 訳にいかないようである。ますます胸騒ぎがしてきた。 正午をとっくに過ぎているが、3 人に空腹感はない。取り越し苦労に思われそうだが、時間帯と場所から考えて、 事故現場に大輔がいる可能性はかなり高いと思われるからである。不謹慎だが、由姫の心にほんの少しばかりの残 酷な快感が走っていた。大輔さんと静香さん。2 人車の中で土砂に埋まれて死ねれば寂しくないんじゃないかしら。 きっと今頃、2 人は車の中で手を取り合って「愛してるわ」 「俺もだ」そんな会話を交し合って涙を流しているんだ わ……私ったら何てこと考えるの? きっと、大輔さんの車はそこにはないのよ。きっと予定が変わってどこか別の 所を走って、そこがたまたまケータイの電波が通じない所で…そうよ。そうに決まっているわ。 信太郎の携帯電話が鳴った。大輔からか?サブディスプレイを見たら実家からだった。いささか拍子抜けしたが、 もしかしたら親達もテレビのニュースを見ていたのかも知れない。 「もしもし…」 「ああ…信太郎!すぐに帰ってけろ?お父ちゃん、急に倒れちまったんだよ。さっきからやってるん だってば、テレビのニュースで!福島の林道で土砂崩れがあっだってさ。時間と場所考えたら、どう考えても大輔 の走ってる時間だべって…お父ちゃんさっきからそんな事ばりかだってるんだってば!」 信太郎は大急ぎで車を動かした。ドライブは中止だ。急いで家に戻ろう。 「信ちゃん。お父さん、心配で寝込んでしまったみたいね」 「そうだな…。親父、結構小心者だからなあ。でも、や っぱり親父達もテレビ見てたんだな。兄貴、事故現場にいなきゃいいんだけどなあ。」 純二は血圧を上げて倒れてしまい救急車で病院に搬送されたが、幸い大した事はなく、すぐに自宅に戻って寝室 で寝ている。だが、自宅に戻っても「大輔~大輔~」と取り乱したように泣き喚き、澄代にもどうする事も出来な かった。 「信太郎ってば、こんな時にドライブさ出るなんて!ほんど、早く帰ってきてくれねえのかねえ!!」 「ただいま!!」午後 2 時過ぎになり、信太郎はやっと実家に戻ってきた。 「ああ信太郎。もうお母ちゃん心細くて 心配で心配で。お父ちゃんはいきなり倒れて泣き出すし、美姫ちゃんのご両親は戸惑うばりだし。ほんどにまあど うすればいいんだべか…。」 「母さんこそ落ち着いてくれよ。まだ何もハッキリしてねえんだからさあ。俺だってドライブの途中でカーナビの テレビ見てたっけ、いきなりこんなニュース入っててビックリして戻って来たんだからさ!」 信太郎はもう一度大輔の携帯電話に電話を入れるが、やはり通じない。安否の確認も取れず、ドライブを切り上 げて大急ぎで戻ってきた所で何をどうしていいのか分からない状態である。 居間にはテレビがけたたましく騒いでいる。カーナビのテレビで見た映像と同じチャンネルだ。信太郎はリモコ ンを取って他のチャンネルに変えたが、どこもみな同じニュースをやっている。かなり大規模な土砂崩れだったよ うである。公共放送にチャンネルを変えると、事故の状況がかなり詳細にわたって伝えられ、死者と怪我人の名前 が公表されていた。だが、その中に「小林大輔」 「小林静香」という名前は見当たらない。一体どうなっているのだ ろう。 事故から既に 6 時間が経過。救出活動は着々と進み、ついには大輔の車の方にも捜索の手が入ったようである。 「静香!おい静香!!しっかりしろ!」大輔は静香の頬を叩いた。「大輔……。」 大輔は車のクラクションをフィンと鳴らした。中の人間が生存している事を救助隊に知らせるためである。 「隊長!生存者がまだ……」「よし!急いでショベルカーを動かせ!一刻の猶予も許さないぞ!」 運転席の窓が明るくなってきた。土砂が掻き分けられてきたようである。だが、次の瞬間、静香の座っていた助 手席部分の屋根に別の場所から大量の土砂が被さり、天井を圧迫し始めたのである。大輔は静香の座っている助手 席の方に向かっていった。 「静香。お前が先に出ろ!」身動きが取れにくい中、大輔は助手席に移り、静香を運転席に座らせた。 「大輔。あな た……」 「いいから出ろ!俺は大丈夫だ。まずはお前から先に出るんだ!!」 「でも……」 「ぐちゃぐちゃ言ってねえ で早く運転席に座れ!!」 まもなく運転席のドアが開けられ、静香が先に救出された。助手席の方は更に土砂が被さって重みで潰れ、大輔 は中に取り残される形となった。このまま救出活動が遅れると、大輔が車もろとも土砂の下敷きになる危険性があ る。 「この車のドライバーは、あなたですか?」 「違います!彼です!!運転席の彼が助手席に移って…私を先に出させ てくれたんです!!」 救助隊は大急ぎで大輔の救出に当たったが、一歩間違えると土砂が車内に入り込んでしまい、大輔が生き埋めに なる。そして次の瞬間だった。 「おおい!危ないぞおおっ!」 崩落して出来た土砂の山から、突然大きな岩が転がり込んで大輔の車の運転席を直撃し、ぺちゃんこに潰してし まったのである。運転席には誰もいないはずだが、これでますます大輔の救出が難しくなってしまった。岩を取り 除く作業と土砂を掻き分ける作業の両方に着手しないといけないが、大輔が無事に救出される可能性がだんだんと 低くなってしまうようだ。 「いやあああああっ!」いつもは冷静な静香が大声で泣き喚いてしまった。救助隊は静香を抱き、近くの病院に搬 送した。 「お願いです!彼を助けて下さい!! 本当なら、彼が先に助け出されるはずだったのに、彼が私を先に助け出させ ようとして……。」 「落ち着いて下さい!我々救助隊は、かならずお連れの方をお助けします。ここにずっと残っていては危険です。 すぐに病院に行きましょう!」 「嫌ああぁぁっ!彼と一緒じゃなかったら、私、助かっても嬉しくないわ!お願い! 彼が助け出されるまでここにいさせて下さい!お願いです!お願いします……ああ…あああああああ…。」 「あ!」「どうしたの?美姫ちゃん」 「今の人、静香さんに似てたわ!」 「ええっ!マジかよ!?」 現場の様子は中継で映された。救助隊員に抱かれ、取り乱して号泣する女性の顔は、紛れもなく静香の顔であっ た。信太郎の悪い予感は的中した。やはり大輔は事故現場にいたのだ。しかも泣いているという事は、大輔がまだ 車の中に取り残されているという事だろう。 「兄貴いいぃぃぃっ!」信太郎までが顔をぐしゃぐしゃに歪め、大声で泣き出してしまった。 「信ちゃん……」美姫 も涙を流し、声を出して泣き始めた。澄代は気丈を装っているが、やはり息子の安否がどうしても気にかかり、テ レビから目が離せなくなっている。 由姫もさすがに胸が張り裂けそうになっていた。やはり私は大輔さんが好き。でも、今はそれ以上に、一緒にい た静香さんが可哀想になってきた。きっと助け出される事を信じたい。どっちかが死ねばいいなんて思えない。や はり助け出されるなら 2 人一緒に助け出されないといけないわ。そう考えると、由姫も一緒になって涙が出てくる のであった。信太郎はいつまでもオイオイ泣き続け、美姫はくすんくすんと鼻をすすり上げ、ハンカチで目を押さ えている。そして、事故から 6 時間半以上経った午後 3 時半、載積した土砂から最後の 1 台の車が発見されたとい う情報が入って来た。 「兄貴の車か?」信太郎は涙を拭いてテレビに見入った。ナンバープレートの部分はモザイクがかかっていたが、 車体と色の様子からして大輔の車である事は間違いがなかった。すっかり変わり果てた姿で、運転席の天井は完全 にペチャンコ。助手席の方の天井も土砂でへこんだ状態になっており、ドアの部分が変形して手では開けられない 状態である。レスキュー隊が電動工具でドアの部分を切ってこじ開ける事数十分、ついに、助手席で倒れていた大 輔が救出された。窒息して死んでいないかどうか心配である。レスキュー隊が大輔の呼吸と脈を確認した。 「どうだ!?」「脈あります!」「よし!酸素吸入だ。」 レスキュー隊の懸命の救出活動の結果、大輔もやっと一命を取り留めた。岩石が車体を潰した衝撃で右足を圧迫 したが、幸い大怪我に至らなかった。 「ええ!最後の生存者が救出された模様です。救出された方のお名前は、東京都港区に住む小林大輔さんである事 が、ご本人から確認されました。」 「兄貴いいぃぃっ!」信太郎は今度は嬉し泣きだった。 「信太郎!大輔、助かったんだね?」さっきまで一生懸命涙 を堪えていた澄代も、溜め込んでいたものを吐き出すかのようにオイオイ泣き出した。「信ちゃん…良かったね…」 美姫は信太郎に抱きついた。 本当に良かった。由姫も今回ばかりは心からそう思った。翌日、この事故は当然、新聞で大きく取り上げられた。 死亡者のニュースに並んで大きく書かれたのが、最後の生存者小林大輔の、パートナーを守る男気だった。 「兄貴……自分の命を犠牲にしてでも、静香さんを守ろうとしたんだな…」信太郎は大輔の男らしさに改めて涙を 流した。 羨ましい。本当に羨ましい。由姫は静香を心から羨んだ。もちろん、今までとは違う意味である。単なる嫉妬で はない。本当に男らしい、いざという時は女性を守れる頼りがいのある大輔を、静香が見つけ出した事。その事が 羨ましいと思った。やはり大輔さんは静香さんを愛しているのね。私なんかが間に入り込めるような絆じゃない。 私、やっぱりもう一度、自分の好きな人を探し直してみる。本当に私の事を大切にしてくれそうな人。高橋さんな のか、それとも他の人なのか…。由姫は思った。姉の結婚式で手にした幸せの花束。あれはきっと、大輔さん以外 の誰かに出会うためのお告げだったのね…と。 第四十二章 ナンビルの子供 新しい年の始まりだった。ヤンジャ一家とサラン、譲太郎は、新正月をヤンジャの家で過ごしていた。ヤンジャ の家族も 4 人となり、ヤンジャ達はこの 12 月から、ヨンミョンの両親が住んでいたソウルの一軒家に引っ越したの である。サラン達のアパートはソウルの中心街近くにあるため、前よりもサランの家に近づいた。韓国では、一家 の長男が父親の家を受け継ぐという家訓が昔から根付いており、ミンスは仁川の実家を受け継ぎ、ヨンミョンはジ ェオクの残した家を受け継ぐ形となった。ジェオクとユミンの 2 人は今、ソウルのアパートで余生を過ごしている。 旧正月には再び一族が集結し、墓参りに行く事となるであろう。 「小林さん。ナンビルが年明けから復帰するって聞いたんだけど…」紅茶を入れながら、ヤンジャが譲太郎に話し かけた。 「はい。本当に嬉しく思ってますよ。いくら早期発見だったとはいえ、ファンさんのいない会社ではみんな不安に 思っていましたし、私も本当に寂しくて心細かった。今後は通院治療と定期的な入院生活で投薬治療を続け、経過 を見ていくそうです。症状が落ち着いた時、今度は維持療法に入ると聞きました。どういう事か具体的な事は分か りませんけど、維持療法で症状が悪化せず 5 年間持たせられれば、完治に近い状態と言って間違いないと思ってま す。」 「みじゅく……」少しずつ言葉を話せるようになったヨンアが、テーブルの真ん中の水キムチを指差しながら言っ た。 「ヤンジャ。この子何て言ったの?」人形を抱くように、サランがヨンアをひょいと抱き上げた。「うふふ。『みじ ゅく』ってね、この子の言葉でキムチの事なの。小さい子供は言葉が分かりにくくて大変ね。」 「主任。この子はその後アレルギーの様子はどうなんですか?」譲太郎がすかさず質問した。 「そうねえ。あれから 卵には極力気をつけるようにしているわ。この間卵の黄身だけを試しに与えてみたら、何ともなかったの。白身は アレルゲンが入っててまだ不安だけど、子供のアレルギーはどういう風に変化するか分からないわね。でも、とり あえずは今のところ大きな病気がなくてホッとしているわ。」 ヨンアの話をしながら、ヤンジャは再び例の不安に襲われていた。それは、ヨンアの実の父親の事である。この 子は本当にヨンミョンの子供なのだろうか。通常子供の顔というものは、女の子は男親に、男の子が母親に似ると いうパターンが多いものだが、ヤンジャの子供は珍しいケースである。ヨンホはヨンミョンに似ていて、ヨンアは ヤンジャに似た顔立ちなのだ。ヨンホを見ていると、本当にヨンミョンの子供なんだわ、という気持ちになる。ヨ ンアはというと…ヨンミョンにもナンビルにも似ておらず、ヤンジャの顔立ちに似ているように見える。色が白く て目が奥二重で、耳の下まで伸びた髪にほのかな癖がある。姪のオッキも、セミロングヘアの毛先にふんわりとパ ーマをかけたような癖があり、ヨンアはオッキの髪型に共通している。ヨンアは、性格もヨンミョンに全く似てい ない。ヨンホは歌に反応し、 「僕らの Star」の歌真似までしたりするほどなのだが、ヨンアは歌を聞いてもポカンと している事が多い。ただ数字に強くて、1 から 10 までの数字に関しては、ヤンジャに教えられなくとも絵本を読む だけで覚えてしまうという覚えの良さがある。これは、子供の頃のヤンジャによく似ている。だが、数字に強いと いう点はナンビルにも共通している。もしかしたらこの子は…。そういう不安に襲われる事もしばしばである。だ が、ヨンアの血液型がハッキリと判別できるまで、あとまだ 3 ヶ月は待たないといけない。本当にこの子はヨンミ ョンの子供なのだろうか。 「おかえりなさい!ファンさん」「黄南弼さんの復帰を祝い、皆様で拍手でお迎えしましょう!」 白血病の発症から 3 ヶ月近く経ち、ナンビルは何とか職場に復帰を果たすまでとなった。譲太郎も心から嬉しく 思っていた。 「ファンさん……」 「小林君。今まで苦労かけたね。これからも、僕の事で何かと不安を与えてしまう事だろうと思 うけど、何とかよろしくお願いするよ。ところで小林君。ヤンジャが引越ししたって本当かい?」 「はい。今、ソウ ルの龍山区に……」 「ちょっと彼女に話があるんだ。退院の報告を兼ねて、ちょっと知らせたい事があってね。今日、 時間空いてるかい?」 ナンビルは、譲太郎の運転でヤンジャの新居に向かっていた。 「ナンビル!まあ……すっかり元気そうになって…」ヤンジャは笑顔でナンビルの退院を喜んだ。だが、ナンビル の口からは意外な一言が飛び出したのである。 「実は…ヤンジャ。僕にはどうも……実の息子がいることがハッキリしたんだ。入院中、スイスで結婚した前妻が 僕の居所を突き止めていきなり押しかけてきてね。離婚して半年後に身ごもった子供の父親をずっとずっと探して いたんだと言っていた。子供はブライアンと言って、今年で 6 歳になるらしい。突然の事で、僕も本当に戸惑って いる。」 ナンビルは、前妻から渡されたという一枚の写真をヤンジャに差し出した。写真に写った子供の顔はヨーロッパ 人の顔立ちであり、ナンビルとは少し違った雰囲気だが顔立ちのいい美少年である。この子、もしかしてヨンアの 兄だって言うの?ヤンジャはどう考えていいのか分からずに戸惑っていた。それにしても、何でまたナンビルの前 の奥さんが今頃になって……。 「僕と妻は、結婚して 4 年目で離婚してしまったんだ。クリスチャンにとって離婚は犯罪に等しい。僕はすごく悩 んだ。しかし、今思うとこれは、ヤンジャを振り切ってしまった僕に対する、天からの裁きだったんだね。僕と妻 との間に、子供はいないと思っていた。結婚 3 年目ぐらいから、僕には既にソウルに帰る話が持ち上がっていたん だけど、いずれ韓国に帰ることになる僕の運命を、スイス人の妻は受け入れてくれなかった、だから、別れる事に したんだ。よく話し合ったよ。そこまでして家庭生活を白紙に戻した時、僕はソウル本社に赴任した。皮肉なもん だな。これがもう少し早ければ、君にもう一度会えたものを…。いや…そんな事はいい。僕にとっての一番の驚き は、妻との間に子供がいたという事実なんだ。僕と離婚して 3 ヶ月して、妻は自分の妊娠に気がついたらしい。当 然、僕の行方を追ったらしい。でも、なかなか行方を探し当てられなかった上に、息子がまだ幼いという事で、に わかには現実を受け入れられないだろうという理由で、息子には父親の存在を詳しく教えなかったらしいんだ。し かし…まさかこんな時に、その現実を突きつけられるとは思わなかった。妻は……僕が白血病で闘病中の身の上を 知り、涙を流して悲しんだ。だけど、こうも言った。『死ぬ前に、息子の顔を見てあげて。息子に会ってあげて…』 と。僕はまだ死ぬわけじゃないのに、随分虫のいいことを言う女性だと思った。 」 「でもナンビル…。なぜ奥さんが、長い時間をかけてまであなたを探し出して、わざわざ韓国まで来てくれたのか しら?一緒にここで暮らすつもりなのかしら…」 「何の事はない。子供を口実に、彼女は僕から金を渡してもらおう と思っているんだよ。そうでもなければ、わざわざこんな所まで追いかけたりはしないはずだ…。しかも、僕が闘 病中である事を知りつつも、自分の息子の話を持ち出して言いたい事を並べて帰る。何て無神経な女性だと思った よ…。」 「畜生!」譲太郎が久しぶりに怒りを露にした。 「小林さん!」 「ファンさん。前の奥さんだからって、どうしてそんな女性の言う事に何の反発もせずおめおめと帰 って来られたんですか?いくらなんでも勝手過ぎる言い分ですよ!自分からファンさんの許を離れておいて、いざ という時には『子供の顔を見てあげて』だなんて…。ファンさんは病気なんですよ。本当に思いやりのある女性だ ったら、子供の話よりもまず夫の病気の事を先に気遣うのが常識じゃないですか?おかしいですよ!その女性、今 どこにいるんですか!?」 「小林君!」ナンビルが珍しく恫喝した。「小林君。落ち着くんだ。僕の病気の事はどうだっていい。肝心なのは、 いないと思っていた自分の子供が遠くの国に住んでいたという事なんだよ。前妻は多分一旦スイスに帰ったんだと 思う。後日また息子を連れてくるだろう。その時に僕は、自分の息子に人目会い、抱きしめてあげるつもりだ。前 妻は、会社の人や知人の伝をあれこれ頼り、ようやく僕にたどり着いたんだ。妻の言う事は僕だって受け入れられ ない事もあるけれども、生まれた子供に何の罪もない。きっと、息子も自分の父親の存在を知って、人目顔が見た いと思っているはずだ。妻との話はその後の話だ。まずは、自分の息子に会う!ただそれだけだよ。分かってくれ るかい?小林君…。」 後日、ナンビルの前妻は案の定、スイスから息子のブライアンを連れて韓国にやって来た。 ヤンジャはまた、ナンビルに呼ばれて彼の自宅アパートを訪ねていた。ヨンホは幼稚園に行っているが、ヨンア だけは一日休みを取り、ナンビルのアパートに連れていた。もしかしたら、今日ここで会うブライアン少年が、ヨ ンアの兄である可能性が高いからである。 「ブライアン。お父さんだよ。いろいろ心配をかけたね。今は遠く離れているけれども、お母さんからお前の話を 聞き、今日はこうやってお前が来るのを待っていたんだよ。」 ナンビルは流暢なフランス語で自分の息子に語りかけた。ブライアン少年は何も言わずに、ナンビルの顔を大き な瞳でじっと見つめている。 ヤンジャは胸が張り裂けそうになっていた。もしかしたらヨンアは、将来この子のように、自分のお父さんの本 当の存在を知らないまま大きくなる可能性があるのかも知れない。ああ…ヨンアのお父さんは一体どっちなのかし ら?この子はヨンミョンの子なんでしょう?お願い…誰か教えて! 「お父さん?あなたは、僕のお父さんなんですか?」ブライアン少年は、賢そうな眼差しでナンビルに問いかけて いた。 「ああ。そうだよブライアン。今までよく、お父さんがいない状態を受け入れてくれたね。僕は本当に冷たい お父さんだった。お母さんとさようならした後、韓国に帰って何事もないように普通に生活してきて、お前がいた 事をすっかり知らないままでいた。ブライアン。お父さんを許してくれるかい?」 ナンビルは涙を浮かべてブライアンを抱きしめたが、ブライアンはポカンとしたまま何も言葉を発せず、どうし ていいのか分からない状態だった。 「カロリーヌ。君もブライアンに何か言ってあげてくれ…」ナンビルは、前妻の 方を見て言った。だが、前妻の口からは意外な一言が漏れた。 「ナンビル。一緒にスイスに帰りましょう。この子は、韓国人の血が入っているとはいえ、ずっとスイスで育って きたのよ。言葉もフランス語と英語しか話せないの。こんな非文明的な国で暮らしていく事は到底出来ないわ。ね え、お願い。すぐにスイスに来てちょうだい。そうすれば、あなたの病気もきっと早く良くなるわ。バルトラガー ツにとてもいい温泉があるのを知っているでしょう?そこで長期療養すれば体にいいはずよ。ねえあなた。会社な んてすぐに辞めて、私とこの子と一緒にスイスに帰りましょう。」 ヤンジャはカロリーヌの言葉が理解できなかったが、彼女の口調と目線の感じから、彼女がナンビルに向かって スイスに来るように促している事が雰囲気で感じ取れた。 「ナンビル。この人、あなたにスイスに来るように言って いるのよね?」 「そうだよ。よく分かったねヤンジャ。だけど、僕は元々ここの国の人間だ。ここからは僕がちゃんと言葉を返す …」ナンビルはすくっと立ち上がり、カロリーヌに向かってきっぱりと言い放った。 「カロリーヌ。お言葉だけど、僕はここの国を出るつもりはないよ。君が僕の国に来る事を拒んだように、今度は 僕が、君のいる国に行く事を拒否させてもらう。僕は韓国人なんだ。ブライアンには何の罪もないが、僕はここの 国と仕事を捨ててスイスに向かうつもりは全くないんだ。僕は自分の国を『非人間的』などと思った事は一度もな い。君はここの国の事をよく知らないみたいだね。僕は、一緒に暮らす女性選びを間違えてしまったようだ。君の ように、自分の住んできた国しか受け入れられないような女性と一緒になった事に、僕は激しく後悔している。悪 いけど、もう僕を説得するのは止めた方がいい。ブライアンの事はもちろん心配だが、その事とスイスに帰る事と は全く別物の話だ。お別れの言葉として、一言僕の願いを聞いて欲しい。一生のお願いだ。ブライアンを、誤った 考えを持った人間に育てないで欲しい。何かあった時は助けになるが、僕は決して、スイスに戻ってそこで療養生 活に入るつもりはない。今ももちろん、これからもずっとそうだ。」 「ふああああぁぁぁぁ…」ヨンアが急に泣き出したのを、ヤンジャが静かにあやしていた。ナンビルは咄嗟にヤン ジャに耳打ちし、ヨンアをひょいと抱き上げた。 「おおよしよし。ちょっとうるさかったみたいだね。ごめんねヨンア。静かに話すからね…。」 ナンビルがヨンアをあやすと、ヨンアはぴたっと泣き止んだ。その様子を見て、カロリーヌはますます調子に乗 ってきた。 「その子、あなたの子供なの?だったらブライアンと兄弟関係のはずだわ。そうなったら話は早い!今すぐその子 と一緒にスイスに来てもらいたいわ!」 ナンビルはため息をついた。「カロリーヌ!やっぱり君は相変わらず性格が変わっていないようだね。この子は、 この女性の子供なんだよ。僕の娘じゃない。君の自己中心的な考えはいつまで経っても変わらないみたいだね。だ ったら僕はますますスイスに行く気はなくなった。言葉を返すようだが、ブライアンは僕が引き取る事にするよ。 君と一緒に過ごさせていては、ブライアンは君によく似たわがままな子供に育ってしまう。 」 カロリーヌは負けていなかった。 「まあ!あなたも随分な事を言ってのけるのね。ブライアンは赤ちゃんの頃から 今までずっとスイスに住んできたのよ!今更韓国なんかで暮らして、ここの生活に順応できると思っているの?」 「だったら僕に対してスイスに来て欲しいなどとは言わないでくれ!人にはそれぞれ事情と言うものがあるんだ! さあヤンジャ。君には随分面倒をかけたね。もう、家に帰っていいよ。僕ももう帰る事にする。カロリーヌ。この 話はもう終わりだ。くれぐれも、ブライアンをいい子に育ててくれよ。」 カロリーヌはがっくりと肩を落とし、ブライアンと共にソウルの街を去って行った。ブライアンは一旦スイスに 引き下がったが、自分の父親が韓国にいる事を知ったこの時から、彼は韓国という国に甚く興味を持ち、後年、韓 国を拠点としたビジネスでヤンジャ達の住む街に暮らす事になるのであった。 ここは、ナンビルの前妻カロリーヌと、息子ブライアンが過ごす高級シティホテルの 1 室。 「ブライアン。ここの街はゴミゴミしてて嫌な所ね。とても人の住むところじゃないわ。ローザンヌやジュネーブ みたいに落ち着いた所とは全然違う。パパも言う事聞いてくれなかったし。ブライアンごめんね。ママ、無理やり ここに連れてきちゃって悪かったわね。」 カロリーヌはブライアンの髪を優しくブラシで梳かしながら話しかけたが、ブライアンの返事は予想外のもので あった。 「僕、初めてパパに会えて嬉しかったよ。それに僕、何だかここの街が気に入っちゃったよ。言葉は全然分からな いんだけど、パパの住む街を人目見られただけで良かったよ。パパもすごく優しそうな人だったし。パパの病気、 早く治るといいね。」 カロリーヌはたまげた様子であった。「何を言ってるのブライアン!こんな街が気に入っただなんて冗談じゃな い!スイスみたいに綺麗な自然が少ないし、住んでる人の心も荒んだ感じで、ママはとてもこんな所に過ごせない わ。本当ならパパをスイスに連れて帰ってバルトラガーツの温泉に連れて行こうと思ってたのよ。それなのに、パ パったら全然私の話聞いてくれなくて…。」 「僕がパパの立場だったら、きっとパパと同じ事を言ってたと思うよ。パパにとって、韓国は一番落ち着く自分の 国なんだよ。僕はもちろんスイスが好きだけど、いきなり他の国で暮らしましょうなんて言われても困っちゃうし。 パパはその気持ちをハッキリ言っただけじゃないの?とにかく僕、パパの言った事が間違ってるなんて思ってない よ。パパと一緒に話してた人も、感じが良くて綺麗だったよね。赤ちゃんも可愛かったし。僕、大きくなったら絶 対にここの街にまた来るんだ。」 ブライアンは本当にソウルが気に入ったようであった。ヤンジャ達の前ではほとんど何も話さなかったが、彼は 6 歳にして既に自分の意見をしっかり持っている聡明な子供であり、たとえ母親に強い調子で意見を押し付けられた としても、決して流されず、それでいて強く反発するでもなく、落ち着いた口調で淡々と自分の考えを口にする事 が出来る子供であった。これは一体誰に似た性格なのか。ナンビルはカロリーヌに「ブライアンをいい子に育てて くれ」と念押ししたが、ブライアンのこの性格がずっと変わらなければ、彼はナンビルが望んだ以上の賢い大人に 育つ可能性が高そうである。 ナンビルの車に乗せられて自宅に向かうヤンジャは、ずっと頭の中でブライアン少年の事を考えていた。 (まさかとは思うんだけど、あの子はもしかしたら、この子と異母兄妹なのかも知れないんだわ。もしそうだった としたら、私はこれからどうすればいいのかしら?もちろん、あの子をここに連れてくる事も、この子をスイスに 連れて行く事も出来ないわ。でも、ほんのわずかでも血の繋がりがあるとするなら…。) ヤンジャはヨンアの頭をそっと撫でながら物思いにふけっていた。ナンビルも同じ事を考えていたのか、 「ヤンジ ャ。もしその子が、僕の息子と母親違いの兄妹だったとしたら、どうなんだろうね?」と話しかけてきた。ヤンジ ャはビクッとしていた。 「もちろん、どんな運命であったにしても、君は君の生活を大事にしなくてはだめだよ。全ては僕が撒いた種なん だ。僕は一生涯かけても、ヨンアちゃんの幸せをずっと見守り続け、出来る限りの事をするつもりでいる。」 だめよ!この子はヨンミョンの子よ!ヤンジャは叫びたい気持ちでいっぱいだった。だが、ヨンアの血液型検査 はまだもう少し先の話になる。一年後の検査でも O 型のままであるとするなら…。そんな時、ナンビルの口から信 じられない言葉が飛び出してきた。 「ヤンジャ。骨髄移植の事を知ってるかい?僕は今、抗癌剤の治療だけで何とか自分の健康を保っているけど、も し万が一僕の病気が酷くなって骨髄移植を受ける事になり、運よくドナーも見つかって実際に移植を受けたとした ら、レシピエントの血液型によって、僕の血液型が変わる事もあるんだよ。骨髄移植で調べられる血液型は、輸血 で調べられる赤血球の血液型とは違って白血球の型なんだけど、もし B 型や O 型の血液型の人がレシピエントだっ たら、僕の血液型は A 型から B や O に変わる。そう考えると、人間の体って不思議だと思わないかい?」 ヤンジャは、たまらなくなってナンビルの体を抱きしめた。私の心の動揺を鎮めるために、自分の病気をネタに したジョークを聞かせてくる。嬉しくない。笑えない。あまりに痛々しすぎる。 「ヤンジャ……笑ってくれ…。どんなに君の心が壊れそうになっても、僕はいつでも君の心の中にいる。今の幸せ を犠牲にせず、常に笑顔を絶やさずにいてくれ…。」 ナンビルは、ヤンジャの頬に口づけをした。ヨンアを抱いてナンビルの車を降り、ヤンジャはナンビルに手を振 った。涙で壊れそうな笑顔で。どうしていいのか分からなくなりそうだ。でも、ヤンジャは心を立て直して自宅に 向かう。 「お帰り!ヤンジャ。やっと家に帰って来れたよ!ああ…寂しかったなあ。でも、俺の仕事もやっと全盛期の頃に 戻れたんだ。しばらく休んだら、また酔水と一緒に日本に行くぞ!」 ヤンジャはやっと心からの笑顔を取り戻した。ヨンホも無邪気に家の中を走り回り、ヨンアはヨンミョンに甘え ている。これが今の私の生活なんだ。ありがとう、ナンビル。ヤンジャは心の中で手を合わせ、自分に与えられた 幸せをかみ締めるように祈りを捧げるのであった。 第四十三章 死なないで高橋さん 「大輔……ごめんなさい…。あなたが死んだら、私…どうしていいか分からなかった…。」「バカだな…俺が死ぬわ けねえだろ…。」 福島の林道で車ごと土砂崩れに巻き込まれた大輔達であったが、静香は怪我もなく無事で、大輔も右足を負傷し た他は大した事もなく、一週間の入院で職場復帰を果たした。大輔の車はもちろん廃車になってしまった。大輔は 予てから外車を購入したくてウズウズしていたのだが、いつどこで今度のような事故に巻き込まれるか分からない、 静香との新婚旅行に金を使うという事も考え、中古の国産車を現金で買う事に決めた。新婚旅行はしばらくお預け だが、まずは何より車が欲しかった。 今度の事故で、由姫は大輔に対する一方的な片思いに一区切りをつけた。彼はずっと、静香さんを大切にしてき ているんだ。自分の命を犠牲にしてでも、愛する静香さんを守ろうと考えた。この愛情は、ちょっとやそっとの付 き合いだけでは生まれないものであろう。静香さんはとても優しくて感じの良い女性だ。男気溢れる大輔さんに相 応しい人だと思う。そう考え、由姫は大輔に対する思いを断ち切った。由姫の最大の関心は、大輔から派遣会社の 高橋に向いていた。性格は大輔と違うけど、顔つきだけは大輔によく似た高橋。女子高生と一緒に街を歩いていた 姿が気になるけど、それだけに、良くも悪くももっともっと高橋を知りたいと思うようになってきた。 1 月も半ばを過ぎたある土曜日の朝、由姫は街中の書店に足を運んでいた。公務員試験対策の問題集を新しく買 って勉強しようと思っていたのである。実用書を扱うコーナーをいろいろ見て回っていた時、由姫は目の前にいた 男性に驚き、一瞬全身から冷や汗が吹き出した。そこに普段着姿の高橋がいたのである。いつもは紺色やダークグ レーのスーツでビシッと決めている高橋が、今日は全身よれよれのジャージ姿で、髪の毛も前髪がベターッとして いる。だが、一目見て高橋である事はすぐに分かった。彼の顔立ちはよく目立つのである。 (いやだ……こんな所で高橋さんに会うなんて。今日はちょっと恥ずかしくて声をかけられないわ。) 由姫も今日は、ジャケットにジーンズ姿というラフな格好で買い物に来ていた。化粧もロクにしていない。こう いう時に限って知っている人を見かけるものである。しかもまずい事に、モジモジしていた由姫の姿に高橋の方が 気がついて「あっ!」と声をかけて目線が合ってしまったものだから、由姫はますます恥ずかしさが倍加してしま った。 「太田さん!いやあ、偶然ですね!」「あ…高橋……さん…。アハハ…おはよう…ございます…」「いやあ。いつも と雰囲気が違うからビックリしましたよ。でも、今日は休日ですからね。何か、探してる本でもあるの?」 「ええ…。 あの…いい問題集がないかな…と思って…。」 由姫は汗びっしょりだった。高橋と会えて嬉しいはずなのに、何だか今日は本当に恥ずかしくて…。 「ああ。例の試験ですね。頑張ってますね。いやあ…。ここで太田さんに会うって分かってたら、もうちょっとち ゃんとした服着て来るんだったなあ、恥ずかしいなあ。」 恥ずかしいのはこっちよ!頭を掻く高橋に対し、由姫は心の中で突っ込みを入れていた。ところで、どうして高 橋さんが実用書のコーナーにいるのかしら?由姫は高橋に聞いてみた。 「ああ。いやあ、僕も仙台に来てもう 5 年になるんですけどね、今年度から派遣元責任者の業務につくようになり ましたから、今度プロジェクトマネージャーの試験を受ける事にしたんですよ。 」 チャンス!由姫は高橋にいろいろ知りたい事を聞こうと思っていた。 「高橋さん、元々仙台の人じゃないんですか?」 「いや。生まれは気仙沼の方なんですよ。だけど、大学出て最初の 3 年間は東京本社に赴任して、その後仙台支社に来て今年で 5 年目になるんです。 」 大学を出て入社八年目という事は、高橋さんって中庭さんと同じ 30 歳なの?確かに大人っぽいけど、でも全然 30 歳に見えない。中庭さんよりずっと魅力的に見えるわ。でも、30 歳って事はまさか…由姫はついに、禁断の扉を 開ける事にした。「あの……ご結婚…されてるんですか…?」 高橋は一瞬え?という顔をした。やばい!聞いちゃった!ごめんなさい!由姫はぎゅっと目を瞑ったが、高橋は すぐに笑顔になり「アハハハハ。ストレートな質問でビックリだなあ。いやあ、ご覧の通り僕ってモテなくてね。 この年齢になってもまだ独身なんですよ。独り身です。」 付き合ってる人はいるんですか?と聞こうとして、由姫は言葉を飲み込んだ。そこまでズカズカと上がりこむ図 太さはなかった。だが、この後どうやって話題を切り出そう。またしてもモジモジしていた所に、高橋の携帯電話 が鳴った。「はい…。ああ、真央?お前が言ってた本、これでいいのか?」 高橋が手にしていた本を見て、由姫は一瞬ドキッとした。 「新人看護師の心得」一体誰に買ってあげてるのかしら? 付き合ってる人がいるって事?大体、真央って誰なの?ああ…私って何て恋愛運が悪いんだろ…。 「じゃあ太田さん。僕、ちょっと用事があるので、また後日、ゆっくりお話しましょう。」 高橋はそう言って、由姫の前から立ち去ろうとした。自分のために購入するプロジェクトマネージャーの試験対 策問題集と、 「新人看護師の心得」というタイトルの実用書を持って会計に向かう高橋。由姫はそっと、彼の後を追 おうとした。 (高橋さん。これからどこに行くのかしら?) 高橋に気づかれないようにそっと店を出て高橋の後につく由姫であったが、高橋は書店近くの無料駐車場の方に 向かい、そのまま奥へと入っていった。店には車で来たのであろう。間違いない。これから恋人の所に行くのだ。 真央……一体どういう人なの?やっと大輔に対する思いを乗り越えた由姫だったのに、またしても自分の恋愛が成 就できなかった空しさに囚われ、ショックが隠せない。自分のための問題集を買う事も忘れ、由姫はそのまま電車 の駅へと歩いて行った。 由姫に後をつけられたことなど知る由もない高橋は、自分の車に乗り込むと、そのままある所に向かって走って 行く。そこは、看護学生の寮の近くにある喫茶店だった。電話の相手は妹の真央であった。宮城の県北にある町の 実家を離れて仙台の看護学校に進学し、来月看護師の国家試験を受ける予定である。今は試験前の追い込みに入っ ている時期であるが、看護師になったらなかなか自分の時間が取れなくなるため、高橋と 2 人でかけがえのない一 時を過ごす約束をしていたのである。 以前にも触れたが、真央は幼い頃、父親を亡くしている。高橋家の実家は、長男の高橋崇彦と長女の真央の 2 人 兄妹で、実家の父親は沿岸漁業の漁師だった。高橋が中学2年の頃、漁に出ていた父親の船が時化にあおられて転 覆。一週間後に父親は遺体となって発見され、実家には病弱の母親と高橋、当時 2 歳だった真央の 3 人が残された。 高橋の母親は、42 歳で真央を産んだ直後に急激に体が弱り、膠原病と診断されて今でも通院中である。それでも母 親は、病気で倒れるまで女手一つで 2 人の子供を育てながら働き続け、将来は 2 人に自立してもらう事を夢見てい た。自分が病気だからと言って子供に頼ろうとは決してしなかったのである。高橋は、そんな母親を一生懸命助け、 真央の父親代わりとして何かと面倒を見たり、勉強を教えてあげたりしていた。親孝行な息子として近所でも評判 であったが、大人になってからは、皮肉にも病弱の母親と 12 歳年下の妹の存在がとんだ足かせとなり、これまで多 くの女性と出会う機会を持ちながら、高橋の実家の事情を知って次から次へと女性に逃げられる運命を辿る事とな った。高橋が 30 過ぎても未だに独身であるのは、こういう事情が絡んでいるのである。 だが、高橋は決して自分の運命を恨んだりせず、高齢の母親を看病するために看護師の道を志す真央を一生懸命 サポートし、時には一緒に過ごす時間を設けるなどして今まで過ごしてきた。だが、そんな生活もそろそろ区切り をつける時なのかも知れない。真央はもうすぐ看護師として独り立ちし、自分自身もそろそろ、自分の将来の事を 真剣に考えないといけない時期に来ているのかも知れない。そう考えるようになった。だが、今の自分に結婚は無 理なのではないかと思う。どうしても実家の事情がついて回るし、自分自身も派遣会社の営業マンという仕事柄、 帰りが深夜近くになる事も多く女性とゆっくり付き合う時間がなかなかない。由姫は高橋の事を「女子高生と買春 しているのでは?」と誤解した事もあったが、高橋のこの実情を知ったら、恐らく逆の意味で大変なショックを受 ける事であろう。 「お兄ちゃん!」待ち合わせ場所の喫茶店では、セーターにジーンズ姿の真央が元気に声をかけてきた。 「真央。どうだ?ちゃんと勉強してるか?試験まで残り 1 ヶ月もないんだからな。自信がないと思った所は何度も 復習しておけよ」 「お兄ちゃん。数学のこの問題どうしても分かんないの。解き方教えてくれる?」 「どこだ?よし! じゃあ、お兄ちゃんが見てあげるか。」 こんな調子で、高橋崇彦と真央の兄妹は仲良く交流を深めていたのである。そんな事実を知る由もなく、家に帰 った由姫はずっとずっと高橋の事を考え続けていた。 (はい…。ああ、真央?お前が言ってた本、これでいいのか?) (じゃあ太田さん。僕、ちょっと用事があるので、また後日、ゆっくりお話しましょう。) 高橋さん、確かに女の名前を呼んでいたわ。真央…どんな人なの?看護師さんを目指す彼女がいるっていうの? そりゃあ、高橋さんはもう立派な大人だし、あんなにカッコよくて優しい人なんだし。彼女の1人か 2 人ぐらいい てもおかしくないわ。でも……何となくあの人には彼女がいないような感じがしていた。あの人が彼女とデートす るという風景がどうしても想像できないような気がしていた…。でも、それはあくまで由姫の勝手な思い込みであ る。由姫が知らないだけで、本当は高橋には結婚を真剣に考える女性がいるのかも知れない。そうだとしても何の 不思議もない。自分が好意を寄せているからといって、高橋に恋人がいないと決めつけるのは自分の勝手というも のであろう。結婚して子供がいたとしても不思議ではない男なのだ。だが、その一方で由姫には少し引っかかって いる所もあった。 「恋人と待ち合わせにしては、随分ノンビリした感じがしていたわ。それにあの服装……本当に彼女と会うためだ ったのかしら?」 由姫が見た高橋の格好は、どう考えても恋人とデートするような服装とはとても言いがたいものである。全身が よれよれで少しシミがついていそうな着古しのジャージ。どちらかというと薄汚い格好である。相手も同じくらい にラフな格好をした女性というなら話は別だが、少なくともこれから恋人に会うというのなら、もう少し綺麗に洗 濯された服を着て行ってもいいような気がしていた。だけど、これもあくまで自分の価値観だけの問題である。高 橋と恋人がそういう考えの持ち主でないというなら、そういう思い込みも当てはまらない事になる。 「ああっ!もういや!もう何も考えたくない!」 由姫は全て忘れようとするかのように試験勉強に精を出した。今日買おうと思っていた新しい問題集は買わなか ったが、その代わり今まで学習した参考書をもう一度復習し、模擬試験の問題も再度挑戦したりして、気がついた ころには夜もすっかり更けていたのであった。 「お疲れ様でした!」 由姫は、庶務係の社員達と挨拶を交わしながら最後の仕上げに入っていた。その時、保守契約担当の中庭が「失 礼します」と言って総務課の部屋にそっと入って来た。 「お疲れ様です」 「お疲れ様です。あの…太田さん……。何度もしつこいと思われるかも知れませんが、今週金曜日、 帰りにお茶でも一緒にどうですか?今度、駅前のこのビルに新しい店が出来たみたいで…。 」 中庭が手渡したチラシは、見た事も聞いた事もない店のチラシだった。高橋についても気持ちが整理できない状 況の由姫。もう何だっていい。中庭の誘いを受ける事にした。 「ありがとうございます」 「じゃあ、金曜日の午後 6 時、ステンドグラスの前で待ち合わせしましょう。なるべく早 く仕事切り上げるようにしますので…。」 中庭はいつものように静かに大人しい話し方でその場を去った。大輔みたいに男らしい訳でも高橋みたいに明る い訳でもない、どちらかというとシャイで大人しいだけの男なのだが、優しいし、由姫の話は何でも聞いてくれる。 まあ、いいんじゃないのか。由姫はあまり深く考えない事にした。 そして、約束の金曜日がやって来た。 その日はなぜか朝から落ち着かなかった。中庭の事は好きでも嫌いでもどちらでもない。大人しくていい人ぐら いの感情しか持っていないのだが、高橋に対する思いにも少しずつ諦めの感が強まっていく中、由姫の心の中は知 らない間に中庭が大きなウェイトを占めつつある状況になってきつつある。 「由姫ちゃん。どうしたの?何だか今日は元気がないみたいだけど…」なかなか朝食が進まない由姫を見て、母親 が気になって話しかける。「ううん。何でもないの。じゃあ、行ってきますお母さん。」 仕事中も、由姫は何だか妙にそわそわしていた。落ち着かなくて胸の中がいっぱいになってくる。楽しみという 訳じゃないのだが、何となく気が重いのである。中庭の事はやはり本当は好きじゃないのかもしれない。今日のデ ート、さっさと早く終わってくれるといいんだけどなあ…。 (本当に…お茶だけ…だよね?中庭さん、そんなに積極的にあっちこっち遊びに連れ回すような人じゃないし、お 茶飲んで適当にお食事して、後はそれだけ…だよね?普通はそれだけのお付き合いだとちょっと寂しいんだけど、 あの人と一緒だと、カラオケとかゲーセンとか行ってもあまり楽しくないような気がする…。) とうとう定時が来てしまった。こういう時に限って仕事が早く片付くのである。会社に残っていても仕方がない ので、由姫は諦めて外をブラつく事にした。待ち合わせは 6 時…。1 時間ある。母親には少し帰りが遅くなると言 ってある。少しだけね…そう心で念押しし、由姫は待ち合わせ場所のステンドグラス前に向かう。時間までまだま だタップリあるので、ちょっとその辺の雑貨店やブティックなどを見て回る事にした。 「おい、どうするんだよ。この顧客、今回でもうシステムトラブル 10 回目だぜ。システム構築担当でも埒が明かな いらしいし、もう契約解除で他のシステムに乗り換えるかも知れないぜ!」 中庭のいる保守契約担当の部署では、1 件の顧客を巡って部署全体が大騒ぎになっている所である。時刻は今午 後 5 時 45 分。残業は必至である。中庭は焦った。こういう時に限って仕事が遅くなるんだ。中庭はそっと事務所を 離れ、更衣室に駆け込んで自分の携帯電話から由姫にメールを送った。やっとの思いで彼女からアドレスを聞き出 したのである。交際の第一歩だと思ったのだが、初めて送るメールがデートの遅れの知らせだとは何ともついてい ない。 (お疲れ様です。ごめんなさい太田さん。少し遅くなります。7 時過ぎるかも知れません。もしお急ぎなら、また 次回にしませんか?) 中庭からのメールを見て、由姫は少しホッとした。まあいいか。遅くなったらその分一緒にいる時間も短くなる。 由姫は少し落ち着いた気持ちでメールを返した。 (お疲れ様です。私は大丈夫ですから、心配しないでお仕事頑張って下さいね。 ) 由姫はふうっとため息をついて、ショッピングモールの書店にブラッと立ち寄り、そこで新しい問題集を買う事 にした。何が一番いいのかよく分からないので、いろいろな問題集を見て買う事にする。どれも似たり寄ったりだ。 この書店のあるショッピングモールビルの 20F に、自分の派遣会社がある。高橋さんも荒川さんも事務所にいるの かな? あれこれ問題集を見て回ったが、どれもこれだと思えるものがなかった。仕方なく由姫は店を出る。時刻は 6 時 20 分。歩道橋の手前で信号を渡ろうと思った時、彼女の目の前に柄の悪い男達がいきなり立ちはだかってきた。由 姫は慌てて彼らの前を避けようとしたが、彼らの中の一人が由姫の姿を見て「カノジョ~!一緒に遊ばねえ?」と 声をかけてきた。ナンパだ!冗談じゃない。由姫は無視してその場から逃げようとしたが、何分相手は集団である。 声をかけた男とは別の位置に立っていた仲間が由姫の腕を掴み、彼女の行く手を阻もうとした。 「キャッ!何するんですか!?」 「なあカ~ノジョ~!せっかく俺らが誘ってやってんのに随分つれないんじゃねえ の~?なあ、ちょっとだけだからさあ~。この辺の店で楽しい事して遊ぼうよぉ~。どうせ何もする事ないんでし ょ?」 「やめてったら!放して下さい!!」由姫は大声で男の手を振り払おうとした。怖い!中庭さんでもいいから誰か 来て!だが、肝心の中庭は待ち合わせに遅れている。通行人は関わりを持ちたくないとばかりに、誰一人由姫を助 けようとする人がいなかった。冷たい!何て人達なの?由姫は恐ろしさと腹立たしさでいっぱいになっていた。 「何だよ冷てえなあ~」男の一人がこう言い放った次の瞬間だった。 「てめえ!大人しくしてると思っていい気にな ってんじゃねえぞコラァ!!」 キャアアアアッ!由姫は悲鳴をあげたが、やはり誰一人由姫を助けようとする気配がなかった。通行人はみな冷 たいものである。みんな自分の命だけが大事なのだ。由姫は必死で逃げる事だけを考えた。 「おっとぉ~!逃げようったってそうはいかねえよ!」今度は複数の男達が絡んでくる。由姫はますます危なくな ってきた。中庭さん!早く来て!!男達の手を振り払い、由姫は後も振り返らずに奥の路地に入って逃げようとし た。だが、男達はすばしこく、既に由姫の行く方向を先回りして人気のないはずの路地まで由姫を待っていたから 大変だった。 「いやあああああっ!」由姫は路地を抜けようとしたが、またしても男達が由姫の走る方向を遮り、由姫の体を羽 交い絞めにして執拗に弄ぼうとしていた。男の一人が由姫の口を塞いだ。これでは悲鳴をあげる事も出来ない。そ の時、たまたま路地に中年男性が入って来たため、男達はその視線に気づき、由姫から一瞬視線をそらした。今だ! 由姫は隙を見てその場を走り去った。「おい待てよコラ!」 やめて!来ないで!!由姫は必死の思いで路地を抜け、今度は人気の多い商店街に入ろうとしたが、男達は構わ ずどこまでも追いかけてくる。もうどうしようもない。由姫は走りに走り続ける。 「あれ?」 外回りの営業を終えた高橋が、商店街の近くで見慣れた女性が走っているのを見つけた。「太田さん!?」 だが、様子がおかしい。どうも誰かに追い回されているようであった。 「おいコラテメエ!俺らと付き合うまでず っとずっとおっかけるから覚悟しとくんだな!」 太田さんが危ない!高橋はそっと由姫の後を追った。しつこいチンピラ達は由姫を執拗に追い回す。由姫は電話 ボックスの中に逃げ込んだが、男達がその場を取り囲み、ボックスに石を投げて由姫をますます追い詰めた。 「キャ アアアッ!やめてええ!!」 「お前ら何してるんだ!!」高橋がチンピラに立ち向かった。 「何だよアンタ!テメエも一緒にやられてえのか?あ あ?」 高橋さん!由姫は驚いたが、まさかこんな所に来てくれるとは思わなかった。由姫はボックスから外に出た。 「高橋さん!危ないから逃げて下さい!」由姫は高橋に向かって叫んだ。 「ほ~う!アンタのカレシって訳か。こうなりゃますますおもしれえや。2 人一緒に片付けちまうまでよ。」 「逃げろ太田さん!」高橋が由姫を反対方向に逃がそうとした。目の前には工事現場があった。高橋さんが危ない! 由姫は逃げる事も出来ず立ち往生していたが、由姫の逃げようとする方向にも男達が取り囲み、ますます絶体絶命 となった。由姫は工事現場の方に向かった。作業員がまだいるかも知れない! 「こら!こっちに入って来るな!」作業員が呼び止めるのも構わず、由姫は現場に飛び込んできた。男達も現場に 立ち入り、由姫のいる方向を探した。由姫は、木材が並べられている場所の隙間にそっと体を隠していた。高橋さ ん、今どこにいるのかしら?不安に思った由姫がそっと周囲に目をやった時、隠れ場所から由姫の靴がチラリと見 え、男達に居場所を特定されてしまった。 「おっ!いたぞいたぞ!」「おいテメエ!ちょっと顔貸せや!!」 ここに隠れているのが思う壺と言わんばかりに、男達は木材の列を蹴飛ばして由姫を下敷きにしようとした。だ が、次の瞬間だった。 「太田さん!危ない!!」 高橋が由姫の背中に覆いかぶさり、崩れ落ちる木材の山に彼女が潰されそうになるのを必死で守ろうとしていた。 ガラガラガラガラガラ…由姫の悲鳴と共に木材がどんどんと崩れ落ち、高橋が由姫を庇うように彼女を背中から抱 く。だが、木材の一つが高橋の頭を直撃すると、高橋は由姫の体の上にドサッと倒れ込み、そのまま動かなくなっ てしまった。木材の崩れ落ちるのが止んだ時、由姫はハッと気がついて高橋を揺り起こそうとした。 「高橋さん!高橋さん!!高橋さん!!!」 だが、高橋は全く返事をしなかった。工事現場の作業員達が次々と駆け込んできた。 「お姉ちゃん!病院呼んでやってくれ!このお兄ちゃんはまず俺達で手当てすっからさ!」 由姫は取り乱していた。高橋さん!死んじゃいや!私を一人にしないで! 「監督!俺が病院呼びます。彼女、取り乱してるよ!」「それから警察も呼べ!あの悪がきども、今どうしてる?」 「監督!こいつなら俺が押さえつけてやってます」作業員の一人がチンピラの一人を取り押さえていた。現場には 間もなくパトカーと救急車が駆けつけてきた。高橋が危ない。もう、一刻の猶予も許さない状態であった。 高橋は直ちに救急車に搬送された。由姫も、男達に乱暴された事によって多少怪我を負っているため、高橋と共 に救急車に乗せられる。 「あ……。」 高橋さん!由姫はホッとして高橋の手を握り締めた。良かった!意識が回復した。死んでない!由姫は大喜びだ ったが、高橋は「あうっ」と頭を押さえて再び動かなくなった。 (高橋さん……。一体どうなってしまったの?お願い!死なないで……。死んじゃ嫌よ!死んだら私、どうしてい いか分からない!!) 「はあ……はあ…遅くなっちゃった!太田さん。待っててくれてるかな?」 中庭は大急ぎで待ち合わせ場所に向かっていた。だが、途中の交差点でパトカー数台が止まっているのが見つか り、大勢の人垣が出来ていた。何か事故でもあったのかな? 「女性はどちらの方向に向かわれましたか?」 「一旦路地の方に逃げ込み、その後商店街に出て向こうの方へ走りま した」「その時の様子を見ていた方は…?」「はい。電話ボックスに逃げ込んだ所を男達に追い詰められ、その後別 の男性が助けに入られました。若い方でしたよ。」 中庭は何がどうなっているのか全く分からなかった。人垣をかき分けて待ち合わせ場所に向かったが、そこに由 姫の姿はなかった。 (ああ……やっぱり帰っちゃったかな?) 中庭は由姫の携帯番号に電話を入れてみた。繋がらなかった。無理もない。由姫は今救急車の中なのである。救 急車に備え付けの機械への影響を避け、携帯電話の電源は自らの意思で切ったのだ。だが、事情を知らない中庭は、 てっきり由姫が怒ってしまったのだと思い、激しく後悔した。 (ああ……。悪い事してしまった…。もう太田さんを食事に誘えないな…。) 救急車は街中の病院に到着し、高橋は直ちに脳外科手術室に搬送された。頭部を強く打った事と意識障害が見ら れる事から、直ちに手術が必要である事が判断されたためである。脳外科担当の医師が当直室にいた事が幸いだっ た。 「先生。患者の様子は……」 「硬膜外血腫だ。頭蓋骨にひびが入り、骨と硬膜の間に出血が見られる。小さかったの が幸いだが、脳圧が亢進して脳浮腫が発生すると生命の危険に晒される!」「全身も打撲傷が…」「皮下出血も起こ ってます!」 高橋の処置が手早く行われる中、由姫は手術室の外でボロボロと涙をこぼしていた。高橋さん……ごめんなさい …。私が、あんな危ない所を一人で歩いていたばかりに…。 「太田さん!」 病院関係者からの通報を聞き、荒川が大急ぎで駆けつけて来てくれた。由姫はその姿を見て耐え切れなくなった のか、荒川の胸に飛び込み、大声で泣き出してしまった。 「太田さん……あなたは大丈夫なの?怪我はしなかった?」 「私は……。ちょっとかすり傷を負っただけでした。で も、高橋さんが…高橋さんが……ううう…ああああああああああ…」 「太田さん……。辛いでしょうけど、警察の方 がいらしたら、話せるだけの事をちゃんと話してあげて下さいね。もちろん、ショックが大きいでしょうから無理 な質問はされないと思いますけど、あなたは事件当時の事を知っている当事者なんですもの。どんな被害に遭った のか、ちゃんとお知らせしてあげるのが務めよ。でも、まずはここで少し落ち着きましょう」荒川はそう言って由 姫を慰め、ハンカチで涙を拭ってくれた。大輔の恋人を思い出した。あの人もこんな感じの優しい人だったわ。そ して、自ら危険な場所に飛び込んで私を庇ってくれた高橋さん。まるで土砂崩れから静香さんを守った大輔さんみ たいだった。由姫が高橋と荒川の温もりに浸っていた時、更に衝撃が飛び込んで来た。 「お兄ちゃん!」 声のする方を見て、由姫は思わず「ああっ!」と声を上げた。目の前にいるセーラー服の少女は、いつかこの街 のどこかで高橋と一緒に歩いていた…あの子…?間もなく手術室のドアが開き、主治医がゆっくりと由姫達の前に 現れた。 「先生。高橋の様子は…」荒川は落ち着いていた。 「頭蓋骨の下に血腫が出来ていましたが、幸い手術は成功し、血 腫も除去されました。しかし、まだ予断を許さない状態です。今後は合併症の発生や意識状態の推移を冷静に観察 していく必要があります。全身に打撲を負い、所々で皮下出血や内出血も見られます。ショックが起こらないよう な治療も続けなくてはなりません。 」 高橋はストレッチャーに乗せられ、そのまま集中治療室に運ばれる所だった。 「お兄ちゃん!」少女はストレッチ ャーの上の高橋に向かって涙声で呼びかけた。 「お兄ちゃん!死んじゃやだあ!!真央を一人ぼっちにしないでえ!お兄ちゃん!お兄ちゃ~ん!死なないでえ! 死んじゃやだああ!やだああああああ……。あああ…あああああああああん…。 」 ストレッチャーは真央に構わず集中治療室に向かって行った。真央は人目も憚らず大声で泣き続ける。ストレッ チャーを見送るその姿。セーラー服のスカートから覗くカモシカのような細くて長い脚。間違いない。あの時街中 で見かけた少女だ。この子、高橋さんの妹だったの?真央って…妹さんの事だったの? 由姫は荒川と 2 人で立ち尽くし、泣いている真央をじっと見つめていた。やがて真央は泣き止み、2 人の方を振 り返った。真央は一瞬戸惑ったような顔を見せたが、由姫と荒川が高橋の仕事関係の人である事を察したのか、軽 くお辞儀をしてハンカチで目を拭っている。森の中に住む動物のように、警戒心のない可愛らしい顔をした妹であ る。 「高橋崇彦様のご家族の方はいらっしゃいますか?」主治医の呼びかけに、真央一人だけが「はい」と答えた。 「お一人だけですか?」「父は亡くなりました。母は実家で病気療養中です。兄の容態の事なら私にお願いします。 私、看護学生ですから、医学的な説明でも何でも分かります。」 さっきまで子供のように泣きじゃくっていた顔とは一転し、真央は大人びた顔つきで答えていた。由姫は改めて 驚いた。 (そうだったのね!この子、やはり看護師さんを目指している子だったんだ!だから高橋さん、あの時看護師さん の本なんか…。あの日は妹さんと会う約束をしていたのね。それにしても…実家のお父さんを亡くしてお母さんも 病気だなんて……。この子、なんて可哀想な子なの。高橋さんはずっと、この妹さんの面倒を見てあげていたのね。 この妹さんも偉いわ。さっきまであんなに取り乱して泣いていたのに、お医者さんを目の前にすると急に顔が引き 締まって、看護師さんになるんだって顔をしていた。) 由姫は今、高橋が女子高生と買春しているという自分勝手な想像を巡らせてしまった事を深く反省した。買春し ているなんていうどころか、高橋は真面目で優しくて正義感の強い男性なんだ。そんな高橋さんなのに、どうして 今まで恋人がいなかったんだろう。高橋さん、遊んでいるどころか本当にいい人だわ。中庭さんなんかよりずっと 素敵な人…。それなのに…どうして…。 主治医と真央が戻ってきた。高橋の容態について詳しく話を聞いてきたのであろう。真央の顔は少し沈んでいる ようだ。あまりいい話を聞かされなかったのだろうか。由姫は胸が張り裂けそうだった。 「先生。高橋はもう…」 「ええ。後は妹さんがついていてくれるそうです。もっとも、妹さんも学生ですからずっと 病院にいるという訳にも行きませんけどね。とりあえず、皆様はもうご心配なく、お帰りいただいて大丈夫です。 」 「失礼致します。仙台中央警察署の者です。今回の事件の被害者の方とお話を伺いたくてお邪魔致しました。」 来た!警察手帳を提示して、刑事が由姫の所にやって来たのである。 「太田さん。喋れる?」「はい…。もう大丈夫です。私、しっかり話せますので…」「そう…。じゃあ、もし何か困 った事があったら、いつでもご連絡して下さいね。明日の出勤はどうします?」 「ちょっと怖くて…。明日一日欠勤 しても…いいですか?あと、高橋さんのお見舞いにも来たいと思います…。ご迷惑おかけしましたので…」 「それは 太田さん一人の判断で決めていいんですよ。じゃあ、明日はとりあえずお休みという事で、こちらも処理しておき ます。今日は多分遅くまで事情を聞かれると思うから、明日はゆっくり休んで、気持ちを落ち着かせて下さいね。 私も明日、時間が空いたら高橋の見舞いに来たいと思いますので…。 」 由姫は、落ち着いて警察の事情聴取に答えていた。事件当時、会社の同僚と待ち合わせて食事に行く予定になっ ていたのだが、予定の時間が延びてしまったため近くの店で時間つぶしして戻ろうとした所に男達に襲われた事。 逃げている途中で高橋さんに助けられた事など…。途中までは落ち着いて話していたのだが、工事現場の瓦礫で高 橋が由姫を庇って大怪我を負った所に話が及ぶと、由姫は涙で声を詰まらせてしまった。 「大丈夫ですか?」「は…はい……すみません…。」 事情聴取は明日もまた行われるという。今日のこの段階では精神的なショックも大きい。しかし幸いな事に、高 橋が負傷する瞬間を目撃していた工事現場の作業員達が、警察の事情聴取に快く応じていろいろ当時の様子を教え てくれたため、由姫が翌日話す事は、その証言の裏づけ程度で済みそうであった。 「由姫ちゃん!」由姫の母親と美姫も病院に駆けつけてきた。時刻はもう夜の 9 時前になっていた。 「お母さん!お姉ちゃん!」 「由姫ちゃん…。もうお母さんどれだけ心配した事か…。お父さんも心配して泣いてい たわよ。警察の方から電話がかかってきて、由姫ちゃんがこんな事件に巻き込まれたなんて聞いて…」由姫の母親 は一通り話し終えると、目の前にいた荒川に向かって頭を下げた。 「由姫ちゃん…。信ちゃんもビックリしてたよ…。もう、怪我はないの?大丈夫なの?」美姫は目に涙をいっぱい 浮かべていた。 「ごめんね、お母さん。お姉ちゃん。私、もう大丈夫だから。明日もちゃんと聞かれた事に答えるよ …。今日はもう事情聴取が終わった所だから、今日はもう帰れるの…。」 由姫は、荒川に別れの挨拶をして病院を後にした。荒川は真央と話をしている所であった。 「そうだったんですか…。うちの高橋…いえ、お兄さん、あなたのお父さん代わりで、ずっと今まで頑張って来た んですね…」 「はい。だからもう、兄が事件に巻き込まれたって聞いた時は、本当にもうショックでどうしていいか 分からなかったんです…」 「でも、あなたはとてもしっかりしているわ。あなただったらきっと、お兄さんをずっと 見守ってあげられるわね。看護師さんを目指していらっしゃるようだし。きっと立派な看護師さんになるわね」 「国 家試験…来月なんです……。ショックが大きくて受験どころじゃないかも知れないけど、私、兄と約束したんです。 国家試験、絶対に合格するって。だから私、どんなに辛くても頑張ります。その方が、兄も喜ぶと思いますので…。」 真央は、荒川や由姫が思っていた以上にしっかりとした女子高生だった。きっと実家の母親にきちんと躾けられ、 高橋からも礼儀を教わってきたのだろう。 翌日、由姫は案の定会社を欠勤した。出かけようと思えば出かけられない事はないのだが、やはり昨日のショッ クで心身が疲れきっていて、今日はとてもじゃないけど仕事に行く気分になれない。しかし、高橋の容態も大変に 気になる。何といっても彼は由姫の体を庇って大怪我を負ってしまったのだ。真央や荒川がいると分かってはいて も、だからといって自分だけが知らぬ存ぜぬで通すわけには行かなかった。おまけに、警察からの事情聴取もある。 いつまでもじっとしている訳にもいかなかった。 午前 9 時過ぎまでゆっくり休んだ後、由姫は地下鉄で高橋の入院先の病院に向かった。まだ集中治療室にいるの で直接会う事はもちろん出来ないが、どういう状況になっているのか知りたくて、そして何より、高橋の前で心か ら詫びながら手を合わせたくて…由姫は集中治療室の前に来た。その時であった。 「どうも失礼致しました。」 病院の医事課の前で、スーツ姿の見慣れた男性が若い男性職員の前で頭を下げている光景が目に入った。間違い ない!信太郎の姿だった。ここの病院の院内システムも担当しているのである。 「由姫ちゃん!」 「お…お義兄さん……。ご…ごめんなさい…あたし……今日はどうしても出勤する気になれなくて …。」 涙声で俯く由姫。信太郎はそっと優しく彼女の肩に手をかけた。 「美姫ちゃんから全部聞いたよ。怖かっただろうね。そういう時は少し気持ちを落ち着かせた方がいいよ。警察の 事情聴取にも答えないといけないし、会社の人も怪我をしたんでしょ?で、今その人はどうしているの?」 由姫は信太郎を集中治療室の前まで案内した。ガラス越しの部屋の中、ベッドの上で横たわっている高橋の姿を 見て、信太郎は「おおっ!」と驚いた声を出した。無理もない。大輔と瓜二つだからである。 「あの人が……由姫ちゃんの派遣会社の人なんだ…」 「はい…。私が怖い人達に襲われていた時、自分から危ない所 に飛び込んで来てくれて…そして……。」 信太郎は思った。土砂崩れから静香を守った大輔といい、この高橋といい、よく似た顔の男性が自分の命をかけ て大切な女性を守ったという偶然に驚かされるばかりであると。由姫と信太郎が 2 人で歩いていた所に、ちょうど 荒川もやって来た。 「太田さん。もう大丈夫なのね」「あ…はい。おはようございます。もう大丈夫です」「今日の事情聴取は何時から なんですか?」 「お昼過ぎからと聞きました。でも、私もう大丈夫です。いつまでも怖がってばかりいても仕方がな いですから…」 「その一言を聞いて安心したわ。それでね太田さん。さっき、病院から会社の方にも電話があったん ですよ。高橋の容態が落ち着いて、何とか峠を超えたようだって。だから太田さん。もう後はご自分の事だけを考 えていいですよ。高橋の意識が完全に回復した時、またこちらからご連絡を差し上げます。高橋はきっと、あなた が無事に助かった事を心から喜んでくれると思いますよ。 」 由姫は再び泣き出してしまった。信太郎がそっとハンカチを差し出し、由姫の頭を優しく撫でた。 「あなたは……」「はい。太田由姫の義理の兄です。同じ会社でエンジニアをしてまして……」「ああ…。太田が話 していた方ですね。何と申し上げていいのか…本当にお世話になっております…」 「いえいえ…。私の方が逆に、義 理の妹をとても大切に扱っていただいてとても感謝しております。」 信太郎は汗びっしょりだった。荒川の顔が大輔の恋人の静香によく似ている。こんな偶然があるのだろうか。信 太郎は荒川に挨拶すると、社用車で次の出張先に向かって行った。偶然が偶然を呼ぶ出来事であるが、大輔と高橋、 静香と荒川。この 2 人の顔が似ている事が縁を呼び、由姫の恋愛に大きな影響を及ぼす事になるのであった。 その頃、由姫と信太郎の会社では、昨夜の事件のことで社員全員が大騒ぎしていた。 「庶務の派遣さん、駅前の AIR でチンピラに襲われたんだって?」「危ない所をウェルワークの担当営業さんが偶 然見つけて助けてくれたらしいよ」「でも、その人意識不明なんだよね」「いやだあ!死んだら絶対ヤだよね。ウェ ルワークのあの営業の人むちゃくちゃカッコイイ人だし」 「そんな事言ったって、あの人は太田さんの担当だよ」 「太 田さん、あの人と付き合ってないかな?」 女性社員達の噂話を、偶然中庭も耳にしていた。そうか。俺を待っている間にそんな事件に巻き込まれてしまっ たんだ。悪い事したなあ。明日会社に来たら何て言ってあげればいいんだろう。それにしても、その担当営業の人 ってどんな人なんだろう。中庭は、ウェルワークの高橋崇彦についてほとんど何も知らなかった。普段顔を合わせ る事がないので当然と言えば当然なのだが、その高橋こそが、自分にとって恋のライバルである存在なのだ。由姫 にとっては今、美男子で優しくて頼り甲斐もあるその高橋こそが本命の男性である。この事を中庭が知ったら、中 庭はきっと向こう見ずな考えを起こし、高橋に対抗意識を燃やすであろう。中庭は一見すると大人しそうな男性に 見えるが、好きな女性や職場の上司からの評価を人一倍気にする性格で、自分の評価を上げるためならどんな事で もやろうとする根性も併せ持っている。それをいい方向に活かせればいいのだが、時にはその思いが暴走しそうに なって友人や知人に咎められる事もたびたびある。彼が高橋の事を知ってしまう事はある意味不幸の始まりなのだ が、中庭は由姫の担当営業である高橋という男性を人目見たくて仕方がない気持ちに駆られていた。太田さんを命 がけで守ったというその担当営業の人ってどんな人なんだろう。俺とどっちがイケてるかな?俺だったら、大好き な太田さんが目の前でチンピラに襲われてる所を見たらどんな行動に出るかな?愛していればちゃんと助けられる のかな?中庭の頭の中はトンチンカンな妄想に溢れていた。 由姫が高橋に好意を寄せているのは、ただ単に外見が「イケている」からだけではないのである。もちろん当初 は外見に惚れ込んでいた部分もあったのだが、それ以上に高橋の心が温かく思い遣りに満ちていて、実家の母親や 仙台で勉強に励む妹を懸命に助け、サポートする姿に惹かれたのである。だが、中庭にはその事は知る由もなかっ た。 翌日、由姫は通常通り出勤し、夕方には警察の事情聴取に引き続き応じていた。ほとんどは工事現場の作業員達 と同じ内容の話であり、事件当日に作業員の一人に取り押さえられて警察に連行された不良少年の供述などから、 由姫を襲ったチンピラ達が全員逮捕された。チンピラ達は少年を含む 16 歳から 21 歳までの若い男のグループであ り、グループの中には過去に一度暴行事件で補導されたという者もいた。かなり手の込んだ悪辣さを持ったグルー プだったが、高橋はこういう凶悪犯達に敢然と立ち向かい、由姫を守ったのである。 「太田ちゃんおはよう!大変だったね」 「太田さん、怪我はない?もう平気なの?」庶務係の社員達が集まり、一人 一人が由姫に声をかけてくれた。 「ええ…もう、大丈夫です。本当に皆さん、いろいろとご迷惑おかけしました…」 「そんな…だって、ビックリする よねえ。駅前歩いていていきなりチンピラに絡まれるなんてねえ。何も悪い事してないってのに…」 「ところで太田 さん、あの時確か誰かと待ち合わせしてたって聞いたんだけど、一体誰と待ち合わせしてたの?」 同僚の質問に由姫はギクッと驚いた。待ち合わせの相手は同じ会社の人間である中庭なのだ。しかもタイミング の悪い事に、ちょうどその時庶務係の部屋に、中庭が前日使用したバスカードを戻しに来ていた所なのである。庶 務の社員達は遠慮なく囃し立てた。 「もしかしてえぇ~。助けてくれた人って、太田ちゃんのカレシなんじゃないのぉ~?」 「ウェルワークの営業さん と付き合ってるの?マジで!?」 「ええええぇぇぇぇっ!どうして私に紹介してくれなかったのよおぉぉ~~っ!太 田ちゃん、大人しい顔して隅に置けないね」「ねえねえ。派遣会社の営業の人ってどうやってクドくの?」 中庭は思わず「いい加減にしてくれ!」と大声で叫んでしまった。 「え?何なの?今の声…」目を丸くする女子社員達に、中庭はハッと気がついた。マズい…恥ずかしい事をしてし まった。庶務での用事が終わると、中庭はそそくさとその場を立ち去って行った。 (中庭さん……。) 由姫は胸が痛かった。元はというと中庭と待ち合わせした事によってのハプニングだったのだが、中庭さんは私 の事が好きなのだ。好きで食事に誘ってくれて、その結果私が事件に巻き込まれて高橋さんが大怪我をして…その 話をみんなが面白おかしく脚色して高橋さんが私の恋人であるかのように囃し立てたものだから、それが中庭さん に聞こえちゃったんだ…。 由姫は中庭に一言挨拶しようと思った。「すみません…。あの、もう大丈夫ですので…。」 由姫は大急ぎで同僚達の前を立ち去り、歩いている中庭の方まで駆け込んだ。 「中庭さん!あの…」 「あ…お……太田さん…。あの…一昨日はすみませんでした。お待たせした挙句怖い目に遭わ せてしまったみたいで…。みんなから話には聞いていたんですけど、あんまり事件の話をみんなが面白おかしく話 すものだから、つい、我慢が出来なくなって…。」 「そんな…い…いいんです…あの…私…」由姫は言葉に詰まっていた。中庭もどうやって言葉をかけていいのか分 からない状態である。何とかして由姫を慰めてあげなくては…。 「太田さん……あの…僕に…出来る事があったら…何でも…言って下さい…。僕、力になります。困った事とか、 怖い事に巻き込まれた時とか…その…。」 何言ってるんだ?俺。中庭は全身冷や汗でビッショリだった。由姫はそんな中庭を見るのが余計に辛かった。好 きなタイプの男性ではないのだが、自分のためにこんなにも気を遣っている男性の姿を見ると、自分の心の中に本 命の男性がいるなんて事をとても伝える事が出来ない。だが、中庭にはいつか教えなければいけない時が来るのだ ろう。いつまでも曖昧な気持ちのまま中庭と食事に行ったりデートの真似事を繰り返したりする事は出来ない。 「あ…ありがとうございます……。私…もう平気です…。 」 由姫は逃げるようにその場を走り去り、更衣室に駆け込んだ。一人にして欲しい。今は誰にも会いたくない!ロ ッカーを開け、ドアの扉にある鏡で自分の顔を覗き込んだ。その時、バッグの中から携帯電話のバイブが振動する のが聞こえた。(何かしら!) バッグの中から携帯電話を取り出すと、荒川からの電話が入っている。まさか!由姫はドキドキしながら電話を 取った。 「もしもし……」「ああ…太田さん?今、お電話大丈夫でしたでしょうか?」 「ええ…ちょっと今、お手洗いに行ってきた後でして…」由姫は適当に嘘をついて誤魔化した。電話の向こうから、 ずっと待ち望んでいた知らせが飛び込んで来た。 「とても嬉しいお話ですよ。つい先ほど病院からご連絡があったんですが、高橋の意識が回復したんだそうです。 まだ起きられる状態ではないんですが、病院の職員さん達とは何とか会話を交わしているそうですよ。 」 やった!由姫は携帯電話を握り締めたまま更衣室の床に座り込んだ。高橋さんが生き返った!まずはその事が嬉 しかった。 「高橋君…?」 その日の夕方、仕事が一段落した所で、荒川章枝は高橋崇彦の入院している病院まで面会に向かった。高橋は既 に、集中治療室から一般病棟に移っている。まだ起き上がる事も歩く事も出来ないが、意識ははっきりしていて会 話も可能だという。 「俺……まだ…死んでなかったんだな…」高橋はうつろな目をしながら呟くように言った。 「当たり前じゃないのよ、バカな事言わないでちょうだい!本当に…本当に……バカな事…言わない…で…。」 言いながら、荒川は堪えきれずに泣き伏してしまった。クールな彼女が人前で涙を見せるのは極めて珍しい事で ある。 「荒川さん…」高橋は荒川の手を取り、思い出したように尋ねた。 「太田さんは…太田さんはどうしてましたか…?」 「ずっと心配してたわよ。あなたが太田さんを守って大怪我を負った事で、彼女はずっとその事ばかりを気にして いたわ…。もうすぐ太田さんがここに来ると思うけど、彼女が…ううっ……。」 由姫が来てからの事を考えると、荒川はますます涙が抑え切れなくなる。由姫はきっと、高橋の姿を見て泣くで あろう。たとえ元気になったとはいえ、由姫にとって、大怪我を負った高橋の姿は心に痛いはずである。 「荒川さん。僕、太田さんとは普通に話しますよ。彼女、きっと僕の姿を見て泣くと思いますけど、僕が明るい笑 顔を見せないと、彼女、もっと悲しみますね…。」 「お兄ちゃん!」妹の真央も、高橋の入院している一般病棟の部屋に入って来た。 「あら真央さん」荒川は真央に挨拶した。「妹を知っているんですか?」 「あなたが入院した日、一度お会いしているのよ。本当にしっかりした妹さんで、高橋君、あなたは幸せ者ね」荒 川は涙を拭いながら冗談を言う。 「真央……学校は…もういいのか?」 「もうすぐ試験だからそろそろ帰らないといけないんだけど、お兄ちゃんの意 識が回復したって聞いて、人目会いたくてここに飛び込んで来ちゃった」 「真央……。国家試験、頑張るんだぜ。お 兄ちゃん、お前の受験の日もまだまだここにいなくちゃいけないんだけど、お前が試験に合格したら、約束してい たゴンゾリーナの服、買ってあげるからな…」 「本当?約束してくれる?じゃあ、真央、試験頑張るね!」 「高橋君!そんな事約束しちゃっていいの?」 「ハハハ…。いつもはこんな事しないんですよ。でも、真央とじっく り向き合える日もそんなに長くないでしょうからね。真央は看護師として独り立ちしないといけないし、僕自身の 転勤もあるかも知れないし…。」 高橋は仙台支社に赴任して 5 年目の社員だ。本来なら、もうそろそろ他の支社か本社に転勤になってもおかしく ない状態なのだが、何とか今まで実家に近い仙台に踏みとどまってこられたのである。しかし、今年の春あたりも うそろそろ危ないかも知れない。高橋は心の中で覚悟を決めていた。真央もいつまでも子供じゃない。これからは 本当に、自分一人だけの生活の事を考えないといけなくなる。そう心に決めていた所である。 一方、由姫の会社も間もなく定時を迎え、由姫は荒川の電話で高橋の入院状況を詳しく教えてもらっていた。早 速だけど、高橋にはまず一言お詫びを言いたい。私のために危ない思いをさせてしまった。高橋さんの姿を見たら 泣いちゃうかも知れない。でも、私はちゃんと高橋さんに謝るわ。そう言い聞かせて事務所を出ようとした時であ る。 「太田さん。今日の夕方、空いてる? この間のお詫びをしたいと思ったんだけど…。」 来た!中庭がまたしても由姫を食事に誘おうとしていたのである。しかも今日は突然の約束だ。いくら何でもそ こまで中庭に付き合いきれない。 「すみません中庭さん。私、今日は用事があって…」 「ごめんね。そうだったね。都合も聞かないで急に誘ったりし て悪かったね。じゃあ、また次の機会に、ぜひまたお食事しましょう。」 そう言って中庭は引き下がったものの、由姫がどこに向かおうとしているのか気になった。また警察かな?それ とも、また別の用事かな? あの日の事件以来、何となく自分と由姫との距離が少し遠ざかってしまったような気が する。元々そんなに仲がいい訳ではないのに何を言っているのだ? だが、中庭は妙に気になった。ストーカーみた いに思われそうだが、中庭はそっと、由姫の後を追うことにした。出来れば全く目立たないように。 由姫が事務所を出るのを見計らい、中庭もそっとビル前の敷地から彼女の後を追う。彼女に気づかれないよう大 体 30m ぐらいの距離を置いて、中庭は尾行する刑事のように由姫を追う。この方向は病院の方向だな。もしかして 彼女、入院している会社の人のお見舞いに行くのかな? 中庭もうすうす勘付いてきた。病院の中に入ったら尾行し ていた事がバレてしまう。でも知りたい。太田さんは誰と会おうとしているのか知りたい。 「お疲れ様です。」 何も知らない由姫は、病院のロビー前でスーツ姿で待っていた荒川と会い、そのまま入院病棟の方に歩こうとす る。中庭はマフラーで顔の半分を覆い、毛糸の帽子を目深に被って泥棒のような出で立ちで引き続き尾行を続ける。 こんな事をしてまで好きな女性の後を追うのは初めての体験だ。それだけ太田由姫という女性の存在は、彼にとっ て心をときめかせる魅力あるものとして映っているのだ。 「高橋さん。どうしていますか?」 「まだ立って歩けない状態なんだけど意識はハッキリしているから、お手洗いと かには車椅子で行ってるんですよ。高橋は落ち着きのない人だから、ずっとベッドに寝てばかりの生活は退屈みた いですね。太田さんに元気で明るい姿を見せるために、今日は車椅子でナースステーションの近くまで来てくれる みたいですよ。高橋の姿を見ても決してビックリしないで下さいね。 」 車椅子?中庭はビクッとした。もしかしたら、太田さんを助けてくれた人の姿を見られるかも知れない。会社の 人達はその人と太田さんが付き合ってるんじゃないかって噂してたけど、おそらく太田さんの好みのタイプじゃな いんだろうな。僕と比べたら僕の方がいいに決まっている。中庭は虫のいいことを考えながらゆっくりと歩みを進 める。しかし…。 「ねえ太田さん。さっきから気にならない?」「何がですか?」「さっきから変な人がこっちを追っているみたいな んだけど…。 」 ヤバッ!中庭は大急ぎで違う通路に回ろうとした。そりゃあバレるよな。だって、病院の中まで追いかけてしま ったんだもん。でも、これじゃあ太田さんの行き先がどこだか分からなくなってしまう。モジモジしながら病棟に 通じる通路を歩こうとするが、由姫達がどこに向かうのか見当もつかない。だが、次の瞬間だった。 「いやだ高橋君!あなた、こんな所まで車椅子で来ちゃったの!?」 荒川の驚く声と由姫の喜びの声がほぼ同時だった。高橋はじっとしているのが耐えられず、荒川と由姫が来る時 間を見計らい、ロビーに通じる通路まで車椅子で迎えに来てくれたのである。 「高橋さん!高橋さん……ああ…ああああああ…ああ…。 」 由姫は高橋の膝に顔を埋め、人目も憚らずに声を上げて泣いた。 「太田さん…。もう…しょうがないわねえ」 「太田さん。ほら、泣かないで。僕は元気だよ。元気だから、こうやっ て太田さんと荒川の所まで来たんだから…。」 まさかお目当ての人をこんな所で見るとは思わなかった。中庭の胸はドキドキしていた。どこかで見た事のある ような顔立ちだけど、どこで会ったのかは覚えていない。いつの日かの合同コンパで高橋によく似た男と同席して いた事があったのだが、その男は高橋によく似た小林大輔。同僚の小林信太郎の兄だ。駅前の改札で由姫を抱いて いたのはこの高橋だ。中庭はそんなに細かい事までいちいち記憶していない。だが、高橋の顔がどこか記憶の片隅 に残っている事だけは確かだ。高橋は大輔によく似た美男子だ。高橋の顔を見るにつけ、中庭は堪らなくなってき た。太田さん、まるで恋人に会うかのような態度で派遣会社の営業の人に抱きついて泣いている。この場面はおそ らくずっと忘れないだろう。太田さんにとってあの男性はただの派遣会社の営業の人だ。恋人であるわけがない! 太田さんが好きなのはこの僕に決まっている!中庭は逃げるようにして病院を後にし、わざとらしい覆面を外して 大急ぎで地下鉄の駅に向かうのであった。 高橋と荒川、由姫の 3 人が話し込んでいた所に、高橋の主治医が現れた。 「いやあ…。この方の回復力には本当に驚きました。まさに驚異的です。普通は頭部に手術を受けた後、しばらく は意識不明で寝たきりの状態が続くものなんですが、幸い脳に損傷がなかったため、手術後は短時間で意識を回復 されました。奇跡が起こったとしか思えません。きっと、この方の日頃の行いがよほど素晴らしかったんでしょう。 神様が助けて下さったとしか思えません。」 主治医は冗談めかして笑っていたが、由姫は思った。高橋さんだから助かったのだと。 「先生。高橋はあとどのくらいで退院できますでしょうか?」 「頭部の傷に関しては問題ないと思われますが、小さ いながらも骨の下の血腫を除去しておりますし、引き続き経過観察が必要になります。全身の打撲傷もありますの で、少なくともあともう 1 ヶ月は入院の必要があるでしょう。ただお若い方ですし、元々の基礎体力も充実してい らっしゃるようですので、経過次第では退院が早まる可能性もございます。まずは、あまり無理をなさらない事で しょう。」 荒川は主治医に深々と頭を下げ礼を言った。 「本当にありがとうございます!先生はじめ病院の皆様の治療のお陰 で、うちの社員はこんなに早く元気を回復する事が出来ました。心から感謝しております!」 由姫も頭を下げた。高橋さんを助けてくれてありがとう!だが、主治医は由姫に対して念を押すように言った。 「あなた様。工事現場の作業員さん達にお礼は言ったのですかな?」 はい?由姫は意外な一言に驚いていた。 「この方が病院に搬送される際、暴行の現場に居合わせた作業員さん達が 応急処置を施して下さったお陰で、この方の怪我がより一層軽傷で済んだのですよ。搬送の手伝いもしていただき ましたし、何よりこの方を大切に扱って下さった。あなたは事件当時の事で動揺が激しかったと思いますけど、工 事現場の作業員さん達がそこまでして下さらなかったら、私達の力だけではこの方の回復が遅れていた可能性があ ったんですよ。」 そうだったんだ!由姫は改めて事件当時の事を思い出していた。あの時病院を呼んでくれたり高橋さんを手当て してくれたりしたのは、確かにあの時の作業員さん達だったんだわ。私は取り乱すばかりで何も出来なかった。お まけに、警察の事情聴取にも快く協力してくれたと聞いたし、何よりあの時のチンピラを取り押さえてくれたのも 作業員さん達だったわ。あの作業員さん達に何かお礼をしないと、このままでは私の気が済まないわ! 由姫は翌日も仕事を早めに切り上げ、足早に職場を去ろうとしていた。だが、総務課の部屋の外でまたしても中 庭と目が合いそうになってしまった。 (まずい!) 悪いけど、今の由姫には中庭と相手をしている余裕がなかった。今夜は何としても当時の作業員さん達に会いに 行かないといけない。今でもまだあの作業場にいるに違いないわ。一人で行くのは心細いけどそんな事言っていら れない。今度ばかりは荒川さんに甘えられない。何もかも自分でやらないといけないわ。 「太田さん。もし良ければ、今夜また…」 中庭が声をかけてきたが、由姫は聞こえないふりをしてその場を走り去った。何だか中庭さんってかなりしつこ い人みたい。もちろん、中庭はこれで引き下がるはずがなかった。 (太田さん。やっぱりまだ俺の事怒ってるんだな。よし!今夜は太田さんに怒られる事覚悟で後をつけてやるぞ!) ここまで来ると中庭はとことんしぶとかった。由姫は後を振り返る事もなく、途中のケーキ屋で 30 個入りのケー キセットを買った後、高橋と自分が暴行にあった当時の工事現場まで足を急がせる。由姫の行き先を見て、中庭は 「え?」と思わず呟いた。 (太田さん。こんな所に何の用事で行くんだろう?) 「こらあ!関係者以外立入禁止だぞ!早く帰れ!」工事現場の作業員が制止するのも構わず、由姫は現場の若い作 業員の一人に話しかけた。 「すみません。お忙しいところ申し訳ないんですが、3 日前の暴行事件、作業員の皆様のお陰で、会社の人の意識 が回復しました。今晩はどうしてもそのお礼を言いたくて、お仕事中であるのにも関わらずここに来ました。お願 いいたします。一言お礼を言わせていただけますか!」 由姫は恥ずかしい気持ちを堪えていた。 「え…?あ……しょ…少々お待ちいただけますか?」由姫に話しかけられ た若い作業員は、この現場の中で一番下っ端の者なのだろう。丁寧な言葉で由姫に応対すると、すぐに現場監督者 の所に駆け込んで行ってくれた。 「お~い健ちゃん。その子ってまさか…」「ええ。3 日前の暴行事件の被害者の方みたいですけど…。」 「健ちゃん」と名指しされた若い作業員が由姫をプレハブ小屋に案内し、現場事務所のパイプ椅子にかけさせてお 茶を一杯出してくれた。由姫はドキドキしているが、このまま何も言わずに帰るのは余計に気が引けた。しばらく して、現場事務所に監督が入ってきてくれた。 「おう!あの時のお嬢さんか。何だ、何の用事でここに来たかと思ってたら…」「ええ。申し訳ありません。ただ、 私はあの時の事件当時何も出来なくて、怪我をした会社の人の応急処置も犯人逮捕も、作業員の皆様が協力してい ただいたお陰だったのだと思って、何としてもお礼がしたいと思っていたんです。で…今夜は…その…これを…。 」 由姫はモジモジしながら近くのケーキ屋で買って来た菓子を取り出した。 「な…何もそこまでしなくて良かったの に…。何だ何だお嬢さん…アハハハ…俺は何もやってないよ!あのお兄ちゃんを手当てしてくれたのは俺以外の仲 間全員で、病院と警察呼んでくれたのはここにいるヨウ君だよ。犯人のあんちゃん捕まえてくれたのは田中君だ。 なあ、お前らそうだろ?」 現場の作業員達はハハハ…と頭を掻きながら顔を見合わせあっていた。由姫も照れくささのあまり笑っていた。 でも良かった。ここにいる人達に少しでもお礼の気持ちを伝える事が出来た。やはりこのままの状態でずっと過ご すのは良くないと思ったのだ。 中庭は何が何だか事情がつかめずにいた。太田さん。何の用事でこのプレハブに入っているんだろう。工事中の 作業音で由姫と若い作業員との会話が聞こえなかったため、由姫がこの工事現場に立ち寄った理由が分からなかっ た。だが、途中で菓子折りを買っている所や「ありがとうございました」という声が聞こえてくる様子から考えて、 由姫がこの作業員達に礼を言っているという事だけは分かった。だが、工事現場の作業員達もまだ仕事が残ってい るのだろう。一通り話が終わると、 「じゃあお嬢ちゃん。これからも仕事頑張れよ!」という声に見送られ、プレハ ブ小屋を後にした。由姫は改めて「ありがとうございました!」と頭を下げる。その時、作業員の一人が由姫に送 ったメッセージが、またしても中庭の心を刺激した。 「あのカッコイイお兄ちゃん大事にしてやれなあ~!お嬢さんみたいな人が側にいてやったら、あのお兄ちゃんも っと早く退院すっからなあ~!」 作業員達はハハハハと大笑いしながら現場の仕事に戻って行った。中庭は作業員のこの冗談を穏やかでない気持 ちで聞いていた。この時を境に、中庭はウェルワークの高橋に対し、密かに恋のライバル心を燃やすようになるの である。 第四十四章 切ないバレンタインデー 「はい譲太郎!これ」サランはハートの形の包みを譲太郎に差し出し、恥ずかしそうに顔を赤らめながら顔を背け ている。 「サラン。お前、本当にいつまで経ってもそっけねえな」譲太郎は毒づきながらも、ハートの包みをそっと開けて 中のチョコレートを一つずつつまんでいる。そう。この日はバレンタインデー。韓国人にとっても大切な恋の告白 の日なのだ。 「ねえ譲太郎、知ってる?日本では、バレンタインのお返しに男から女にお返しの贈り物をするホワイトデーが、 バレンタインの 1 ヶ月後の 3 月 14 日にあるって聞いたけど、韓国ではその更に 1 ヶ月後の 4 月 14 日、バレンタイ ンにチョコをあげる相手のいなかった女が一日黒い服を着て過ごすブラックデーという日があるのよ」サランは韓 国特有の文化を譲太郎に語った。 「お前、ちょっと前まではそのブラックデーの常連だったんだろ?」 「うるさいわね!でも、今となってはもう思い 出よ。ところで譲太郎。信太郎さんは今頃どうしてるのかしらね?」 「信兄ぃの事さ。きっと美姫さんからチョコレ ートもらって鼻の下伸ばしっぱなしにして過ごしてるんだろ?会社からも沢山もらってるだろうに、信兄ぃは本当 に美姫さん一筋だよなあ」「あら?信太郎さんってそんなにモテるの?」「日本では会社の女性社員が男性社員に感 謝の気持ちとしてチョコレートを送る風習があるんだよ。義理チョコとか感謝チョコとか言ってな」 「何だかうっと うしい習慣ね。じゃあ、1 ヶ月後のホワイトデーはそれこそお返しに苦労するじゃない」「『倍返し』が常識だから ホワイトデーは男にとって悪魔の一日さ。ソウルに赴任してきて助かったぜ」 「譲太郎、お返しに困るほどチョコレ ートもらってたの?」 「るせえな!日本にいた頃はそれなりにいっぱいもらってたんだよ!まあ、兄貴ほどはモテて ないけどな。 」 譲太郎とサランは相変わらずこんな調子である。案の定、信太郎は会社の女性社員から沢山のチョコレートをも らい、美姫からも大きなチョコレートケーキを贈られて幸せいっぱいであった。 「美姫ちゅわあああ~~~ん…。ハートのチョコレートケーキ、すっごいカワイイね。」 「ウフフフ…。信ちゃん甘い物大好きだもんね。だから、今日は精一杯の気持ちを込めて準備したのよ。でも信ち ゃん、食べたらちゃんと歯を磨いてね」 「分かりまちたよ~ん。美姫ちゃんは歯医者さんで虫歯治療してるんだもん ね~。」 そしてソウルのヤンジャの家でも、久しぶりに家で過ごす予定のヨンミョンのために、ヤンジャが一生懸命チョ コレート菓子の準備を進めていた。 「ねえママァ。パパは今度のバレンタイン、久しぶりにお家に帰って来るの?」 「そうね。久しぶりのお家なのよね。 でもねヨンホ。パパがお家にいないという事はとても嬉しい事なのよ。だって、パパのお歌を喜んでくれる人が沢 山いるから、パパはお外で沢山歌わないといけないのよ。でも、時にはお家で過ごす日もないと、パパが疲れてバ ターンと倒れちゃうものね。」 ヤンジャは、刻んだチョコレートを生クリームに沢山練りこんでトリュフの器に入れていく。 「ママァ。1 個食べ ていい?」 「あらあらダメよヨンホ。まだ出来上がってないんだから。出来たらパパとヨンホにちゃんとあげるから、 出来るまでちょっと我慢しててちょうだい」「でもママァ。ヨンアがチョコで何かやってるよぉ。」 え?ヤンジャがヨンアの方を見ると、ヨンアは真っ白な手と顔をチョコレートのかけらで汚しながら「キャッキ ャッ」とはしゃいでいた。溶かす前のチョコレートを一かけら持ち去り、クレヨンのようにして画用紙に絵を描い ていたのである。 「まあヨンア、それはクレヨンじゃないのよ。あらあら、こんなに汚しちゃって。ちょっとこっちにいらっしゃい。」 ヤンジャはヨンアを抱いて浴室に向かい、シャワーでヨンアの体を洗っていた。その隙に、ヨンホはボウルに入 った生クリームチョコレートを指先にちょっとつけ、ペロッと舐めてつまみ食いしている。久しぶりに見るほのぼ のとした家族風景であった。 信太郎の会社でバレンタインのイベントが繰り広げられている中、由姫もまた、一人の男性に対してバレンタイ ンの贈り物をしようかどうかで迷っている。それはもちろん、入院中の高橋崇彦の事だ。そんな矢先の事である。 「えええ~?とうとうプロポーズされたってえ?」 「そうなの。先週ついにプロポーズされたのよ。クリスマスに心 を込めてセーター編んであげたのが良かったのかな?」 総務課の女子社員が恋人にプロポーズされたらしいのだ。由姫が羨ましそうにその話に聞き入っていると、庶務 係の八木沼がからかうように由姫に迫ってくる。 「ねえ太田ちゃん。太田ちゃんも好きな人いたらしっかりアプローチしたほうがいいよ~。今は女の方が積極的に 迫る時代なんだし、大人しくしてばっかりじゃあ幸せ逃しちゃうよ。太田ちゃん、誰か好きな人いるの?」 その時、庶務係の女性社員達が一斉にはやし立てた。 「太田ちゃん、この間チンピラから助けてくれた人、あれか らどうなったの?」「それって派遣会社の営業さんの事じゃん!ダメだよあの人は。私がツバつけとくんだから!」 「何よアンタ!あの人の事ちゃんと調べた上でそんな事言ってるの?」 「太田ちゃん、保守の中庭君はどうなの?あ の人太田ちゃんの事気になってるみたいだし、チョコ送ってあげたら喜ぶんじゃないの?」 もううんざりだ。由姫は逃げるようにその場を立ち去った。だが、八木沼の言った一言だけはなぜか妙に心に引 っかかった。 (太田ちゃんも好きな人いたらしっかりアプローチしたほうがいいよ~。今は女の方が積極的に迫る時代なんだし、 大人しくしてばっかりじゃあ幸せ逃しちゃうよ。) 高橋さんに何かプレゼントしようかな?チョコレートなんて考えるだけで恥ずかしくなっちゃうけど、私の事を 悪い人から助けてくれた人なんだし、何かちょっとした贈り物してあげても、別にいいよね…。由姫は考えた。何 がいいんだろう。ただの入院見舞いじゃ味気ない気がするし、チョコレートというのもどうなのかな…。 高橋にバレンタインの贈り物をするべきかどうかはずっと考えていたが、高橋は今入院中の身分である。まして や自分は派遣会社に所属するスタッフで、高橋は派遣会社の担当営業に過ぎない男だ。高橋が担当するスタッフは 大勢いるに違いない。自分だけが特別に贈り物をするのはおかしいのではないか。ずっとそう考えていた。 だが一方で、自分は他のスタッフとはちょっと事情が違う状況にあるのでは…という考えも持っていた。高橋は 私を危ないところから助けてくれた人なんだ。派遣会社の担当営業という以前に、高橋は普通ならなかなか出来な い事をやってくれたのである。バレンタインなどと堅苦しく考えることなく、入院のお見舞いを持っていくという 軽い気持ちで贈り物をすればいいのではないか。そう考えていた。由姫は仕事を終えると、そのまま街の百貨店に 向かい、高橋の入院見舞いに良さそうな物を探そうとした。店内は案の定バレンタインセール一色である。 (入院のお見舞いには何がいいかしら。ずっと入院生活が長引きそうだし、タオルとか下着とかがいいかしら。い やだ私って。男の人の下着をこんな所で物色するなんて…。) 紳士服フロアで男物の肌着を見て回るうちに、由姫はどんどんと恥ずかしくなってきた。だが、入院中はとかく 体が不潔になりがちである。ましてや高橋は体のあちこちに包帯が巻かれている状態で入浴もままならない状況だ。 チョコレートなどをプレゼントするより衛生用品を贈った方が喜ぶのではないか。しかし、ブリーフやトランクス を贈るのはあまりに生々しくて恥ずかしい。由姫は迷いに迷って、とうとう母親に電話してみる事にした。母親は 高橋が入院している事を知っているのである。 「由姫ちゃん。肌着やパジャマは贈らない方がいいのよ。かえって入院が長引く事を意味するから、そういう贈り 物は親しい人でない限りはやめた方がいいのよ。」 そうだったのか。由姫は電話を切って違うフロアに向かった。やはりチョコレートとか果物がいいのかな。そう 考えて、由姫はお菓子のフロアにそっと足を運んだ。すると、高級輸入菓子のコーナーに洒落たパッケージのチョ コレートが置いてある。ギフトに最適な感じだ。 (これにするわ!これならきっと、高橋さんが喜んでくれるかも知れない!) 由姫はためらわずにそのチョコレートのギフトを買い、大急ぎで高橋の入院先に向かった。 その頃、高橋の入院してる病室には、国家試験を直前に控えた妹の真央が果物を持って見舞いに来ていた。国家 試験は、次の週の日曜日の予定だという。 「真央。もう試験の準備はいいのか?バッチリなのか?俺、試験当日になっても何もしてあげられないぞ。分から ない所があったら今のうちに確認しておけよ」 「ううん。もう大丈夫。それよりお兄ちゃん。せっかくのバレンタイ ンなんだから少しゆっくりしててよ。真央、リンゴ剥いてあげる。」 真央は果物ナイフを手にすると、慣れた手つきでフルーツバスケットの中のリンゴをスルスルと剥いていく。そ れをきれいに等分して皿に盛り、フォークを刺して高橋に差し出す。 「ありがとうな真央。何よりも最高なバレンタインだぞ。ホワイトデーは何にしようかな。お前が国家試験に受か ったら服も買ってあげるけど、どこか行きたい所に連れてってあげようか」 「じゃあ、名古屋のモリコロパークに行 きたい!」「おいおい!そんな遠い所にお前を連れていけないよ。もっと近い所ないのか?」 「高橋君!元気?」コーディネーターの荒川も病室に入って来た。「ああ、荒川さん。また、妹が来ましてね。」 高橋が妹や荒川と話し込んでいる事も知らず、由姫は高橋の入院している病室に入ろうとしていた。とにかく、 高橋にお礼の気持ちを伝えたくて。だが、病室に荒川が入っているのを見て、由姫は一瞬足がすくんだ。遊びに来 ていると思われたらどうしよう。でも、私はお見舞いに来たんだ。堂々としていればいい。しかし、高橋は荒川に からかわれながら、妹の真央と楽しそうにはしゃいでいた。何だかとても特別な関係のように見えていた。由姫は ますます病室から足が遠のいた。 「今晩は」なんて言って中に入っても相手にされないかも知れない。ましてや荒川 さんのいる前だし。一言感謝とお見舞いの気持ちを伝えたかっただけなのに、何だかこれじゃあ私が何のために来 たのか分からない。高橋も荒川も由姫が来た事に気づく様子はなかった。病室の中は真央が主役である。もうすぐ 国家試験を受けるという事で彼女は荒川に励まされ、兄の高橋崇彦も真央からのバレンタインの贈り物に喜んでい る。 (高橋さん……。私が来ても…何とも思わないわよね…。ごめんなさい高橋さん…。) もう高橋さんの心の中は妹さんでいっぱいなんだわ。由姫が諦めて病室前を去ろうとした時であった。 「高橋君。離れ離れになっても、妹さんの事は大事にしてあげてね。私とももうすぐお別れになってしまうけど、 あなたと一緒の仕事は本当に楽しかった…。」 え!?由姫は荒川の言葉にドキッとしていた。もうすぐお別れって、高橋さんまさか…。 (僕も仙台に来てもう 5 年になるんですけどね…) (大学出て最初の 3 年間は東京本社に赴任して、その後仙台支社 に来て今年で 5 年目になるんです。 ) そういえば高橋さん、今年で 5 年目になるって言ってたわよね。という事は高橋さん、もうすぐ仙台を離れるっ て事なの?イヤよそんなの!高橋さん行かないで!そう考えると、由姫は今すぐにでも病室に飛び込んでいきたい 気分になっていた。笑われてもいい。プレゼントを突っ返されてもいい。高橋さんにこれを渡さなくては…。だが、 由姫の足はまたしてもすくんでいた。 「本当に高橋君はいい妹さんを持って幸せね。ねえ高橋君。高橋君もそろそろ自分の幸せの事考えないといけない んじゃない?真央さんみたいに素直でしっかりした女の子が見つかるといいんだけどね」 「アハハハ…まだまだそん な事考えていられないですよ」 「何を言っているの高橋君。あなたももういい年なんだし、いつまでも独りでいてい い訳ないじゃないの。何とか探さないとね、真央さんみたいな彼女」 「真央。お兄ちゃん大好き。お兄ちゃん、真央 がお嫁さんになるまで誰とも結婚しないで。真央、看護師になってもずっとお兄ちゃんと一緒にいたい…。」 聞くに堪えない会話だった。由姫は泣き出しそうな気持ちをぐっと堪えた。これでは私が病室に入っても高橋さ んに相手にしてもらえない。私は所詮ただ一人のスタッフに過ぎないのよ。こんなプレゼント買わなきゃ良かった! 望まれもしないお見舞いなんか来なけりゃ良かった!もう私なんてどうなったっていいんだわ!どこに転勤するの か知らないけどもう勝手にすればいいわ!真央さんを連れてどこにでも遠くに行ってちょうだい!由姫の心は完全 に捻くれていた。由姫はプレゼントを抱えたまま病室を去っていく。 「あれ?」 「どうしたの?高橋君」「今、入口付近で太田さんに似た子がいたような気がしたんですけど…」「あら大変!きっ と高橋君が気になってお見舞いに来てくれたんだわ。ずっと気づかなくて可哀想な事したかも知れない。ちょっと 行ってくるわ。」 荒川は由姫の後を追ったが、由姫は既に病院のエレベーターに乗って 1 階ロビーに降り立った所であった。もう 少し病室付近を歩いていれば中に入れたかも知れないのに。荒川はあっちこっちを歩いて回ったが、由姫の姿はど こにも見当たらなかった。 (太田さん。本当に見舞いに来てくれたのかな?俺が真央と話し込んでいたせいで遠慮しちゃったのかな?) 高橋は自分の行動を反省した。まさか由姫がバレンタインの贈り物を持っていたなんて思ってもいないと思うが、 由姫が面会に来てくれた事は何となく分かった。もし来てくれてそのまま立ち去ったのだとしたら悪い事をしたの かも知れない。 由姫は涙をポロポロ流しながら駅の方向に向かっていた。その時であった。 「太田さん!」 目の前にいたのは中庭の姿だった。こんな所で会ってはいけない人物のはずだった。だが、由姫の心はもうズタ ズタだった。高橋に渡すべき見舞いの品を、彼女は何のためらいもなく中庭に渡してしまったのである。 「太田さん…。俺、これもらっていいの?」 「ええ…。中庭さんの事、ずっと探してたんです。いつも優しくしてく れて、本当にありがとうございます…。」 私、何言ってるんだろ?由姫はもう頭の中が泥酔状態の如く、何も判断が出来なくなっていた。由姫と中庭は何 事もなく別れたが、中庭の頭の中はもう興奮でいっぱいだった。 (やった!太田さんに俺の気持ちが伝わった!よ~し!これからは更に攻めて攻めて攻めまくるぞ!) すっかり有頂天になった中庭であったが、これが後々、彼にとって恐るべき災難の基になってしまうとは、この 時は知る由もない事であった。 「ただいま…」由姫は帰ってくるなり食卓に座り、普段はあまり飲むことのないビールに手をつけていた。 「お帰り由姫ちゃん。今日は疲れたの?何だか元気ないみたいだけど…」母親は由姫の様子を気にかけた。 「高橋さ んに、ちゃんと贈り物は出来たの?」出来れば聞かれたくない質問だったが、由姫が母親に電話をかけた以上、こ の質問だけは避けられない事である。 「うん……ちゃんと、渡したよ。高橋さん…寝ていたけど、荒川さんも来てたから、お願いして渡してきた…。」 母親はそれ以上何も聞かなかった。元気のない由姫の表情を見てある程度状況は察しているのであろう。だが、 まさかその贈り物を別の男性に渡したという事までは知らないはずである。由姫ちゃん、高橋さんとお話できなか ったのね。その程度の事しか考えていなかった。この日は金曜日。由姫は出来る事なら、明日もう一度高橋の病室 に足を運びなおし、改めて今日のお詫びをしようかと思った。だが、今の由姫の気持ちは全く整理がつかない状態 だ。高橋は妹の真央とあんなに盛り上がっている。今まで恋人が出来なかったのは妹べったりの性格のせいなんじ ゃないか。そういう意地の悪い考えに苛まれている。 その一方で、由姫には気がかりな事もあった。高橋は本当に転勤してしまうのか。もしするとしたらいつどこに 行ってしまうのだろう。今はまだ入院中だが、もしかしたら怪我が回復次第もう仙台から離れてしまうのではない か。そう考えるとこのまま黙ったままでいていいとも思えない。やはり高橋に一言謝った方がいいのだろう。由姫 は悩みに悩んだが、食事を終えてボーッとした頭のままで自分の部屋に戻ると、携帯電話に着信が入っていた。中 庭からのメールだった。 (太田さん。チョコレートありがとう。明日、もし良かったら一緒に食事に行きませんか?突然でごめんなさい。 都合が良かったら連絡下さい。いつでも待ってます。) ああ…。由姫はここでもう一つの現実を認識する事となった。弾みとはいえ、彼女は中庭にチョコレートを渡し てしまったのである。高橋に渡すためのチョコレートを中庭に渡してしまった。今回ばかりは、中庭には何の罪も ない。彼はチョコレートをもらって素直に喜んでくれただけの事なのだ。彼の由姫に対する気持ちは前々から分か っていたはずだったのに、由姫は高橋に相手にしてもらえなかった悔しさの腹いせに、自分では何とも思っていな い中庭にチョコレートを渡してしまった。自分が悪いのだ。由姫はどうしようと思った。明日一日中庭とのデート に付き合うか。でも、ここで彼との食事に付き合うと、彼はますます由姫に対するアプローチを強めてくるであろ う。由姫は今、公務員試験を数ヵ月後に控えた大切な状況にあるのだ。本来なら中庭だけでなく、高橋に対する恋 心も適当な所でブレーキをかけておかないと勉強が疎かになってしまうので、恋愛はほどほどの所で止めておかな いといけない。ぐずぐず考えている所に、今度は携帯電話の通常着信が入った。中庭からか?サブディスプレイを 見るとウェルワークの名前があった。荒川さんだ。高橋さんに何かあったのだろうか? 「もしもし…」 「ウェルワークの荒川です。お疲れ様です。太田さん、今お話よろしいでしょうか?」 「はい…」 「今 日、病院で高橋の面会に顔を出してたんですが、その時、太田さんも病室に来られましたか?」 荒川さん知ってたんだ。由姫は荒川に対して憎しみを覚えていた。私がいる事を知っていて無視するような態度 を取っていたなんて!由姫は少し捻くれた態度で返事をした。 「来ましたけど、中に入る気がしなかったのでそのま ま帰って来ましたけど…。」 「高橋が心配してまして…。あの…太田さん…最近業務の面談とかも全く出来ていない状態ですから、近いうちに またお時間をちょうだいして、もう一度今後についてお話をする時間を作ろうかと思っていたんですよ。太田さん、 今の派遣先の契約も残り 1 ヶ月半になりましたので、公務員試験の間近だとは思うんですが、今後単発のお仕事な どご希望でしたら、うちの仙台支社の担当と一緒に今後の予定など話し合っていこうかと思っていたんですよ。」 由姫は今いろんな事で頭がいっぱいの状態である。だが、確かにそれも大事な話かも知れない。由姫は一言「そ うですね…」とだけ返事をしたが、荒川の用件はもう一つあったようだ。 「太田さん。高橋も一度、太田さんとお話 しする時間を作りたいと申しておりましたが、もしお時間ありましたら、来週もう一度病室に来ていただく事は出 来ますか?今日は、太田さんに対して不手際があったようでしたので、もしお気持ちを害されたような事がありま したらお詫びをしたいと思っていたんですが…。」 「そんな事はどうだっていい事です。高橋さんがどう思おうと私には一切関係のない話ですし、業務の事でしたら いつでも荒川さんにお電話すればいいだけの事ですから、別に面談なんてする必要ありません」「太田さん?」「高 橋さんの代わりなんていくらでもいるわけですから、今後の事は高橋さんの後任の方がいらした時にでもお話しま す。今私時間がありませんので、すみませんが失礼します。高橋さんによろしくお伝え下さい」由姫は話したいだ け話して一方的に電話を切ってしまった。電話を切ると、由姫は堪らなくなって涙が溢れてきた。もういや…。明 日、中庭さんとお食事に行っちゃおうかな。中庭さんと過ごして心の隙間を埋めようかな…。 電話を切られた荒川は、由姫のあまりの態度に戸惑っていた。一体どうしたと言うのだろう。面会で高橋の姿を 見た時はあんなに涙をこぼして高橋に縋り付いていたのに、やはり今日の事ですごく怒っているのだろうか。そし て、やはり私達の会話をちゃんと聞いていたのだろうか。だが、太田由姫は何か違う事を考えているようであった。 「太田さん、何か勘違いしているみたいだわ。これでは良くない。このままだと、彼女に挨拶できないままでお別 れすることになってしまう…。」 由姫はもうやけっぱちだった。こんな事で中庭と付き合う自分がすごく嫌だと思うのだが、高橋の事を考えると、 切なさで胸が張り裂けそうになる。何だか、追いかけても追いかけても遠くに行ってしまうような気がして…。大 輔に対する思いよりもはるかにもどかしく思えた。大輔は元々が自分の手に届くような存在ではなかった。彼は高 嶺の花だったのだ。だからといって高橋の方がランクが落ちるという訳ではないのだが、大輔よりも話しやすくて 優しくて…だが、その考えも自分の一方的な思い込みだったのだ。高橋さんには可愛い妹さんがいる。シスコンよ、 あの人は!本当に私に優しくしてくれる中庭さんの方がずっといいわ!由姫は命を助けてもらった恩をすっかり忘 れ、高橋を記憶の中から消去しようとしていた。由姫の目からは、訳もなく涙が溢れてきた。冷蔵庫に入っている ワインの残りを飲み干し、由姫は泣きつかれてベッドに入る。 「太田さん…お別れですね…。ずっと…太田さんの事が気になっていたんですが、じっくりお話しする機会もなく て…本当に残念です。これからも元気で頑張って下さい…」 「いやよ高橋さん!せっかく命を助けていただいた恩返 しをしようと思っていたのに…」 「いいんです…もう…。太田さんの元気な姿を見られた事が、僕にとって何よりの 恩返しです…。じゃあ…元気で……」「いやあああああああっ!行かないでえええええ高橋さあああああん!」 ……。 悪い夢を見てしまった。時刻はまだ 11 時である。酒が回って少し寝てしまったら目が冴えてしまった。どうしよ う。明日の中庭さんとの約束、お断りしようかな。だって、突然のお誘いだったんだもの。断ったって中庭さんは 何も言ってこないはずだわ。そう思って由姫が携帯電話に手を伸ばした時、メールの着信が入っていた。中庭から だった。 (太田さんへ 自分から誘っておいて申し訳ないんですが、明日、僕の方で用事が出来てしまいました。また機会 があったら、一緒にお食事しましょう。こんな時間にごめんなさい。じゃあ、よい週末を。 ) 由姫はホッとした。 「お誘いありがとうございます」という返事を送って、由姫はもう一度ベッドに入った。やは りこのままの気持ちで中庭と一緒に過ごすのはまずい。やはり高橋さんに対する未練が残っているんだわ。こんな 調子だと中庭さんにも申し訳ない。でも、高橋さんに対する気持ちはどう整理したらいいのかしら?荒川さんにも あんな言葉を返してしまったし。これで高橋さんが本当に転勤してしまったら、もう高橋さんとは心が離れたまま でさようならしてしまうんだわ。このままただ一人の派遣スタッフだけで終わりなくないのに、今の私は、高橋さ んに対して何の働きかけも出来ないまま、気持ちだけが堂々巡りしている。お見舞いのついでに感謝の気持ちを伝 えたかったのに、高橋さんの心の中には妹さんがいる。妹さんがいたって関係ない話なのに…。でも、やはり私は 高橋さんには近づいていけないような気がする。でも、高橋さんはいつまでも仙台にいてくれる訳じゃない。 (太田ちゃんも好きな人いたらしっかりアプローチしたほうがいいよ~。今は女の方が積極的に迫る時代なんだし、 大人しくしてばっかりじゃあ幸せ逃しちゃうよ。) そんな事言われたって!由姫は毛布を頭に被り、耳をふさいだ。アプローチなんてどうやってやればいいのよ! 人の気も知らないで!考えれば考えるほど、切なさとやるせなさが募るバレンタインデーの夜であった。 第四十五章 旅立ちの春 キャッキャッ…。 ヨンアはヨンミョンの膝に抱かれ、無邪気にはしゃいでいる。来月末には早くも 1 歳になる。気になる血液型は …おそらく O 型である可能性が高いだろうとは思うが、ヨンアが目を見開いて静かに何かをやっている時の顔はヨ ンミョンの面影を感じさせる。やはりこの子も私とヨンミョンの子なんだわ。ヤンジャはそう感じるようになった。 「可愛いなあ。やっぱり女の子は可愛いよ。ヤンジャの子供の頃も、おそらくこんな感じだったんだろうなあ」 「あ らヨンミョン。子供は 2 人とも可愛いものよ。ヨンホはヨンミョンによく似て歌も大好きだし素直だし、この子達 を見ていると本当に心が癒されるわ。」 家族 4 人揃っての久しぶりの一家団欒である。新しい家に引っ越してきてからは初めての事であろう。ヨンミョ ンはバレンタイン直前まで日本で酔水と歌手活動をしていたが、現在はソウルに戻ってテレビ番組の仕事をこなし、 4 月以降は再び日本公演に入る。今度はかつての活動拠点だった仙台でライブを開く予定だ。 「ヨンミョン。仙台は久しぶりね。しばらく仙台に行っていないけど、今どうなっているかしら?」 「去年行った時 は相変わらずだったよ。あの時の 2 人、今どうしているかな?」「ああ。小林さんのお兄さん夫婦ね」「俺が『キム チのおおさま』の人形をプレゼントした時、男の方がすごく感激して泣いたよな。ソウル旅行でいきなりゲリララ イブもやったっけかな?そうそう!今年春のライブ、久しぶりに暁君とオッキを招待しようかと思ってるんだ。2 人で会うのも久しぶりだからね」 「本当?あの子達、きっと喜ぶわ。オッキも大分日本語を覚えるようになったみた いだし、今度暁君と会ったら、きっとかなり上手に会話が出来ると思うわ。」 ヨンミョンが話題にしていた信太郎夫婦は、春を目前にして一つの節目を迎えようとしていた。 「うっ…うぐっ……」「美姫ちゃん!どうしたの?どっか具合悪いの?」「うん…ちょっと気持ち悪くて…。」 病院で診断した結果、驚きの診断が下される。 「おめでとうございます。妊娠 4 ヶ月目ですよ。」 「ええっ!?私達…もう赤ちゃんが出来たの?」 「うわあ!俺もパパになっちゃうのかぁ~。赤ちゃんはきっと、美 姫ちゃんによく似たか~~~わい~~~い子なんだろうなあ~」 「そうねえ…。でも、赤ちゃんが出来てしばらくし たら、私、仕事を辞めないといけないわ。これからはお母さんになるための準備に入らないといけないし…。」 歯科衛生士の仕事は朝早く夜遅いハードな業務であり、家庭を持つ女性が継続的に常勤で働く事は身体的に負担 を覚えやすい。もう少ししたら今勤めている歯科医院を退職し、子育てが一段落した所で、時間的に余裕のある時 間帯での再就職を考えよう。美姫はそう思った。しかし、信太郎夫婦にとって何よりも嬉しい春の訪れだ。大輔夫 婦はまだ挙式の目処が立たず、譲太郎とサランは婚約にも至らない状況が続いているが、いつか彼らにも幸せの時 が訪れる事だろう。 「何だって!?信兄ぃ、もう父親になるのかよ!?」 電話口で譲太郎は案の定驚いていた。信太郎がもうそこまで家庭生活を順調に築き上げている中、自分はまだサ ランと結婚の目処が立っていない。少しずつ実家の父親を説得してはいるのだが、やはり国際結婚なので日本人同 士の結婚のように何もかもとんとん拍子で上手く進むという訳にはいかないだろう。だが、譲太郎は時間をかけて でもじっくりと親を説得し、サランとの絆も深めていこうと思っている。自分は信太郎や大輔と比べるとまだまだ 若い。焦る事はない。 「信兄ぃ。チョン主任の家にいつか連絡入れておこうか?きっと喜ぶと思うぜ。何たってイ・ヨンミョンは、信兄 ぃにとって忘れられない人だしな。ヨンミョンだって、信兄ぃ達の事は今でもちゃんと覚えてると思うぜ」 「いやあ。 俺らは別に有名人って訳じゃないし、そこまでする必要はないよ。ただ、イ・ヨンミョンが来月仙台に来る時は、 絶対にライブ見に行くぜ。美姫ちゃんもまだしばらくは仕事続ける予定だし、いい胎教だと思ってライブ見に行く よ」「あまりムリさせちゃダメだぜ」「分かってるって。ところで譲太郎。お前、また仙台に出張に来るって聞いた んだけど…」 「ああ。イ・ヨンミョンライブと同じ時期に仙台に行く予定なんだよ」 「マジかよ!?」 「仕事だからサ ランは連れて行けねえし実家にも帰れねんだけど、機会があったら信兄ぃに会いたいな…って思ってるんだ」 「どっ かで会えるといいな!じゃあ譲太郎、また電話するからな!」 同じ頃、大輔にも美姫の妊娠の話が伝えられた。 「……ほう!」「ほう…って何だよ兄貴!?相変わらず冷てえ反応だなあ」「いや…。ビックリしてちょっと言葉が 出なかったんだよ。いやあ、お前ら早えなあ…。美姫はまだ仕事続けるつもりなのか?」 「美姫じゃなくて美姫ちゃ ん!!」 「そう怒るなよ。ハハハ…信太郎は相変わらず美姫にメロメロなんだな。でも、そのお陰で早く父親になれ るのかも知れないな…」 「ああ!俺と美姫ちゃんは毎晩同じベッドの中で互いを温めあい…って何言わせるんだよ兄 貴!?」 「お前が勝手に喋って勝手に突っ込み入れてんじゃねえよ!」 「兄貴…。結婚式の予定は…?」 「…多分…今 年中には何とかすると思うんだけど、その前に俺、今年の秋以降に新婚旅行に行こうと思ってるんだ」 「へえ!?ど こにどこに?」 「まだ決めてねえけど、まずはその前に仙台に出張があるし、それが片付いたらゆっくりプランを立 てようと思ってるんだ」 「南米?」「だからまだ決めてねえんだって!」 「兄貴っていつ仙台に来るんだ?」 「4 月の 15 日から 2 日間の予定だけど…」「え!?じゃあ、イ・ヨンミョンライブと同じ…じゃなくて譲太郎と同じって事 かよ!?」「何だ。譲太郎も仙台出張の予定が入ってるのか?」「そうなんだよ。いやあ、すっげえ偶然だなあ。ど っかで会えるといいんだけどなあ」 「ハハハ…。まあ、遊びに行くわけじゃねえからなかなかそういう訳にもいかね えけどさ」「どっかで会えることを願ってるぜ!じゃあな、兄貴!」 信太郎は兄と弟に美姫の妊娠の話を伝えて電話を切った。同じ時期に大輔と譲太郎の仙台出張の予定があり、そ の時期にはイ・ヨンミョンのライブも予定されているのだが、これがまた彼らにとって忘れられない事件に繋がる 事になるとは、この時は全く予想していなかった。そしてその事件が元で、美姫の妹の由姫においても今後の人生 を大きく左右する運命に発展していくのである。 太田由姫が信太郎の会社に派遣スタッフとして就職し、早くも半年以上が過ぎようとしている。この会社に入っ たのは、期間も中途半端だった 8 月半ば頃の事だった。前に勤めていた女性スタッフが問題を起こして辞めたとい う事もあり、由姫の派遣は急遽決まった話だった。実務経験の乏しい由姫がこんな大会社の派遣スタッフとして採 用された事は正に幸運であったし、由姫にとっても、この会社の仕事に就けた事を心から感謝している。その仕事 も、もう間もなく契約満了を迎えようとしていた。 由姫の後任には専門学校を卒業予定の新卒を採用する事になっており、由姫は新しい社員が入るまでの繋ぎに過 ぎない存在だった。それは分かってはいた事であったが、由姫は今、その事とは別に寂しさを感じていた。それは、 高橋崇彦との事である。バレンタインデーの後であのような電話対応をしてしまって以来、荒川からも高橋からも 全く連絡がなくなってしまった。もう期間満了だから何もしてくれないんだろうか?それとも、私のあの時の対応 が酷くて、もう面倒見る気になれなくなったんだろうか?それに、高橋は退院したら本当に仙台から離れてしまう のか?何も情報を聞き出せないだけに切なさと不安だけが募っていく。どうしよう。私から電話した方がいいんだ ろうか? 由姫が悩んでいた最中、派遣会社から電話がかかってきた。だが、電話の主は高橋でも荒川でもない全く違う人 間からだった。え?まさか、全く違う人が担当になったっていうの? 「お疲れ様です太田さん。ええ…今月で今の派遣先の契約が満了になるかと思いますが、それに先立ち、今後の予 定について確認したい点がございますので、お仕事が終わったら会社の方まで来ていただけますか?」 今回電話をかけてくれたのは、鈴木ナナという初めて会う女性コーディネーターだった。今の派遣先の新しい担 当という訳ではなく、近々契約が満了予定のスタッフに対し、退職に当たっての手続きと今後の業務希望の確認、 更にはスタッフの要請に応じ、スキルアップスクールの案内も同時に担当する事務所のマネージャーという存在で ある。由姫はとりあえず、公務員試験の結果が完全に分かる 8 月末までは単発業務のみの紹介にとどめ、試験の結 果次第で今後の紹介を依頼するか登録を解除するかのいずれかを決める予定にしている。鈴木というコーディネー ターは由姫の公務員試験の事を知り「頑張って下さいね」と激励してくれた。 「あと、何か質問はございませんか?」鈴木に聞かれ、由姫は一瞬躊躇した。 (どうしよう…。この人に…高橋さんの近況について聞いてもいいのかしら?) 「あの…その……」「どうかなさいました?」「あ…あの……。私…今……日本電気通信の派遣スタッフなんですが …荒川さんから…高橋さんの事について…何か聞いてない…でしょうか?」 どう言っていいのか分からなかった。だが、鈴木の口からは意外な答えが返ってきた。 「荒川はここしばらく東京本社に出ておりまして、私は詳しい事は聞いていないんですね。ただ、高橋の事でござ いましたら……ちょっとお待ちいただけますか?」 え?荒川さん、ずっと不在なの?由姫は驚いていた。もうすぐ私が契約切れという時にずっと出張に出ているな んて。高橋さんの退院予定については誰が知っているっていうの? 5 分ほどして、鈴木は由姫の所に戻ってきた。 「お待たせいたしました。今、うちのアシスタントに確認した所、 高橋は来週早々に退院予定で、荒川も今週中には仙台に戻るという事でした。おそらくその頃には、太田さんとま た改めて最後の面談とご挨拶があるかと思います。何だか年度末の慌しい時期でスタッフさんに配慮が足りなくて 申し訳ありませんでした。荒川が戻り次第お伝えしておきますね。」 良かった。もう一度高橋さんに会えるんだ。でも、もうこれでおしまいなのかと思うと、何だか胸が張り裂けそ うになってくる。どうか今後も高橋さんに会える機会が作れれば…。由姫の心の中に空しい希望が顔をのぞかせる。 鈴木ナナに別れを告げ、由姫は派遣会社を後にした。高橋さん、まだ病院にいるんだわ。どうしよう。今更お見舞 いなんかに行ってみた所で高橋さんがどんな顔するのか分からない。あの時のバレンタイン以来、由姫は高橋の病 室に一度も姿を見せなかったのだ。高橋さん、荒川さんから私の電話応対の話を聞いて、きっとショックに思って いるに違いないわ。 由姫は落ち着かない毎日を過ごしていた。そんな由姫の心の隙間にズカズカと土足で上がり込んで来るように、 中庭がまたしても由姫を食事に誘ってきた。 「太田さん。今日、一緒に飯どう?」中庭は一時期よりも言葉遣いがラフになっている。バレンタインでチョコレ ートをもらって以来、彼はすっかり由姫の恋人気取りなのだ。 「ごめんなさい…。今、次の仕事の契約の事でいろいろ忙しくて…。 」 由姫は中庭に軽く頭を下げて断る。バレンタイン直後は、高橋に対する思いを断ち切ろうという思いで、一度だ け中庭とのデートに付き合った事がある。由姫としては本当はそんな事をするつもりはなかったのだが、由姫の気 持ちの中で、高橋に恋する事の空しさと切なさが込み上げてくるのを抑える事が出来なかったのだ。 「次の仕事って、どっか決まりそうなトコあるの?」中庭はいつになくしつこかった。完全に彼女扱いだ。 「ごめんなさい。今お話できる状況じゃないの」由姫は少しウンザリしていた。だが、中庭はしつこく追ってくる。 「ねえ。今度希望してる所もここの近く?事務系?どのくらい勤められるの?」 いいかげんにしてよ!舌打ちしたい気持ちになっていた所に、タイミングよく庶務の田村係長から「太田さん! ちょっと来て!」と呼び出しがかかった。助かった!中庭は逃げるようにその場を去り、由姫は田村係長の所へス キップするような足取りで走り出す。仕事上の呼び出しとはいえ、係長に感謝したい気持ちだった。 そんな由姫のもとに、翌日、意外な電話が入って来た。高橋崇彦からの携帯電話だった。 (高橋さんから着信?どうしたのかしら?)由姫はドキドキする気持ちを抑えきれず、高橋の電話にコールバック した。高橋はすぐに出てくれた。 「太田さん、お疲れ様です。高橋です。あの…こちらからお電話しますので、ちょっと切って頂けますか?」 高橋のいつもの気配りだった。しばらくして高橋からの着信が入る。 「もしもし?」 「たびたび申し訳ありません、高橋です。昨日の午後に退院して職場復帰しました。太田さん、突然 で申し訳ないんですが、今日夕方、お時間空いてますか?」「はい…。今日は…特に…予定は…」「そうですか。あ の…もう時間がないので今お話してしまいますが…。」 そうなんだ!高橋さん、やっぱり仙台から離れてしまうんだ!由姫は堪らず大声で叫んでしまった。 「高橋さん! 本当にごめんなさい!!」 「え?」高橋はビックリして聞き返した。 「私……今まで本当にわがままばかり言って、高橋さんや荒川さんを困ら せてしまいました。お見舞いにも行かない事があったり…高橋さんには危ない所を助けていただいたのに本当に恩 知らずな事をしてしまいました!」 「ああ…そんな事はもう……」 「高橋さん!私…毎日寂しくて仕方がないんです! お願いです!高橋さん!転勤なんてしないで!最後のわがままで申し訳ないんですけど、私、高橋さんがいないと 寂しいんです!お別れする前に、一度最後の恩返しがしたくて……。 」 高橋は笑いながら言った。「転勤って…僕が?何か…勘違いしてるんじゃないかな?」 え?勘違い?由姫は驚いて聞き返した。 「転勤って荒川の方なんですけど…ああ…そうか、あまりお話してなかったんですね。実は…4 月 1 日付けの予定 だったんですが急遽日程が早まってしまいまして、3 月 10 日付けで荒川は本社人事部のスタッフ教育センターに転 勤する事になって、もう既に本社に着任しているんですよ。僕の退院より荒川の転勤の方が先になってしまったの で太田さんにはご報告出来ずじまいでしたけど、今日改めて、太田さんと最後の挨拶のために時間を設けようかと 思ってお電話したんです。今後は日本電気通信さんへのスタッフ派遣の予定がないので、残り期間は僕一人だけが 太田さんの担当という事になってしまうんですが、せめて最後に一言だけでも、荒川の方から太田さんにご挨拶し たくて先月から何度もお電話入れてきたんですけど太田さんお忙しそうでしたし、そうこうしているうちに荒川の 方が転勤準備に入って何度か本社に行ってしまっていたので、最後のご挨拶も出来ないまま今日になってしまいま して…。」 そんな…。転勤って荒川さんの方だったの?高橋さんにはまだ会えるにしても、私、バレンタインの日以来、一 人で感情的になって荒川さんからのせっかくの電話を無碍に断ったりして、荒川さんからの最後の挨拶の時間を自 分から捨てていたんだわ!何てバカなの?私って…。 その後、由姫は約束通り高橋と 1 対 1 で面談をした。だが、高橋に再会できて嬉しいというより、自分の馬鹿さ 加減に呆れ返るばかりで高橋に顔向け出来ない状態だった。高橋さん、私が荒川さんからの電話に対してどんな言 葉で返したのかきっと知っているんだわ。私の事、子供みたいな困ったスタッフだと思っているに違いない。恥ず かしい。もう自分で自分がイヤになる! 「太田さん。今後の事で、何か気になる事はありませんか?」 「高橋さん…。荒川さん…私の事で、何か怒っていな かったですか?」「え?何がですか?」「あ…あの…私……その…。」 高橋は何が何だか分からない状態だった。「太田さん。何かあったんですか?」 「私……荒川さんに一言…今までお世話になったお礼が言いたかったんです…。それを…まさか自分からその機会 を捨てていたなんて…それを思うと…本当に残念で悲しくて…。」 由姫はどう言い表していいのか分からない状態だったが、せめて自分の気持ちを何とか簡潔にまとめようと頭の 中で必死で言葉を組み立てていた。バレンタインの日に高橋さんの病室にお見舞いに行った日、高橋さんは妹さん とお話に夢中で、私に気づいてくれなかった。荒川さんも、私が来ている事を知っていて何も声をかけてくれなか った。本当はその事についても触れたかったけど、あまりに子供じみていてとてもこんな所で言えるセリフじゃな い。でも、私が荒川さんからの電話をふてくされた態度で突っぱねた理由はそこにあるのだ。でも、今はとてもそ んな事言える状況じゃない。自分が恥ずかしいのだ。 「太田さん…。過ぎた事はもう仕方がありませんよ。派遣会社の社員というのは、本当に転勤が頻繁なんです。い つどんな時にどんな辞令が下されるのか分からない。荒川もそのぐらいの覚悟は十分に出来ていたと思っています よ。ただ、太田さんの事を最後まで心配していた事だけはお伝えしておきます。危ない事件に巻き込まれて以来、 精神的に不安定になっていないか。ずっと面談が出来ない状態で何か悩み事とかなかったか。ずっとそういう事ば かりを考えてきて、出発の直前、僕の病室で最後にこう言ってきたんです。 『高橋君。太田さんの話、聞いてあげて ね』って…。 」 由姫は堪らなくなってボロボロ泣き出してしまった。いい年していつまで経っても泣き虫なんだ。由姫は声を上 げて泣いた。目の前にいる高橋の顔は、まるで由姫に「泣け」と言わんばかりの面持ちに見えた。 (どんな場合でも絶対に感情的になってしまっては駄目よ。感情が頭の中を支配すると正しい考え方が出来なくな るから、一度時間を設けてゆっくり考えてみなさい。) いつの日か、母親が由姫に教えてくれた言葉を思い出した。何て感情的だったんだろう!荒川にいろいろ世話に なった時の事をいろいろ思い浮かべると、由姫の涙はますます止まらなくなる。 「太田さん…。少し、落ち着いてからお話しましょうか…。」 高橋は由姫にコーヒーを勧めてくれた。由姫が家路に向かったのは、夜 8 時を過ぎた頃であった。帰りの電車の 中でも、由姫はまだ荒川に対する罪悪感が渦巻いていた。もし荒川と普通に最後の挨拶が出来ていれば、今夜は高 橋に対して自分の気持ちを伝える日のはずだったのだが、とてもそんな話など出来る状態ではなかった。由姫は自 宅に着いてからも、ベッドの上でずっとずっと泣き続けるのであった。 その頃、信太郎の会社でも春の人事異動の内示が発表されていた。信太郎は今回異動がなく、また引き続きエン ジニアとしての仕事を続行する事となったが、保守担当の中庭が総務課に配属される事となり、異動を前に頻繁に 総務課の部屋を訪れるようになっていた。中庭はウキウキしていた。無理もない。太田由姫の顔を毎日拝む事が出 来るからだ。もうすぐ由姫も派遣契約期間満了でこの会社を去るというのに…。 「太田さん。分からない事がある時いろいろ聞くと思うけど、よろしくね」「太田さん。いろいろ教えてね。」 すっかり調子に乗る中庭だったが、由姫は「どうせ今のうちだけだから」とあまり気にせず淡々と接する事にし ていた。気にしないように…。そう思いつつも、中庭が視界に飛び込んでくると意識せざるを得なくなってしまう。 無理もない。由姫もこれまで何度も中庭とのデートに付き合ってきたのだ。次第に中庭と由姫との間の噂が会社中 に囁かれるようになり、中庭はますます調子に乗るようになってきた。 「由姫ちゃん!次の仕事、もう決まったの?」 いつの間にか呼び方も「太田さん」から「由姫ちゃん」に変わり、ますます周囲の人の疑惑を植え付けることに なってしまった。庶務の田村係長も「知らなかったなあ。太田さんが中庭君と付き合ってたなんて」とからかうよ うになってきた。冗談じゃない!私には高橋さんがいるっていうのに!…でも、付き合っている訳じゃないのよね。 給湯室でふうっとため息をつく由姫に、庶務の女子社員の八木沼が声をかけてきた。 「太田ちゃん…。あの…ちょっとお節介しちゃっても…いい?」 何かしら?由姫が八木沼に尋ねると、勘のいい八木沼は由姫にこう囁いてきた。 「太田ちゃん…。正直に言っていいよ。あの中庭君、太田ちゃんはどう思ってるの?」 ビクッとした。だが、この八木沼はこれまでも由姫だけでなくいろんな人の考えを見抜き、悩み相談を請け負う 事も多かった人だ。どうせもう最後だし、本当の事話してしまおうかな。そう思って、由姫は口を開いた。 「実は…あまり私に何度も声をかけてくるから、今までお茶とかお食事とか何回か付き合ってきたんですけど、私、 他に好きな人がいるんです…。」 「やっぱりねえ…」八木沼は何もかもお見通しのようだった。 「太田ちゃん。ちょっとぐらいはお茶とか付き合うの も悪くないと思うけど、好きでもないのにあまり何度もデートしない方がいいと思うよ。あの中庭君、太田ちゃん との付き合いの事、いろんな人に話してるみたいだけど、結構えげつない事話してるみたいなの。 『太田さんと寝ち ゃった』とかね。私、悪い人じゃないんじゃないかと思って一時太田ちゃんに中庭君勧めちゃった事あったけど、 まさかあんな変な事喋る人だと思わなくて…。 」 何よそれ!?由姫は呆気に取られていた。確かに、そんな中庭に付け入る隙を与えてしまった自分にも落ち度は あったとは思うが、ほんの1~2回食事に付き合ったぐらいでそういう話を吹聴して回るのってどういう人なの? しかし、由姫は中庭に対して面と向かって怒れない部分があるのだ。物の弾みとはいえ、彼女は中庭にバレンタイ ンのチョコレートを渡してしまったのである。これはもちろん八木沼には話せないが。 「ねえ…太田ちゃんの好きな人、どこにいる人なの?ここの会社の人?」 由姫は答えられなかった。それはいくら何でもハッキリ言えなかった。 「会社の人…じゃないですけど…」こう答 えるのがやっとだった。 「まあいいや。でもさ太田ちゃん。好きな人がいるなら、中庭君にハッキリ断った方がいいと思うよ。それとさ、 太田ちゃんも、その…好きな人に告白とか…したの?」「い…いえ…まだ…」「じゃあ早いトコ告白した方がいいと 思うよ。どこにいる人なんだか知らないけど、もし脈があると思ったら、相手の気持ちがよそに行ってしまわない うちに太田ちゃんの方からアプローチかけないとダメだと思う…。ごめんね。何かお節介したみたいで。ただ…あ の中庭君は気をつけた方がいいと思うよ。隙を見せるとどんな態度に出るか分からない感じだし…。」 由姫は手がブルブル震えていた。中庭さん…優しい人だと思ったのに…。つくづく自分って馬鹿な女だと思った。 中庭は確かに人当たりが良くて大人しい男性のイメージがあったと思ったけど、30 近くまで恋人の一人も出来なか ったのは、やはりどこか性格的に問題があるからだったんだ、と。なぜもう少し冷静に観察できなかったんだろう と後悔した。これからなるべく逃げるように…いや、以前から逃げるようにしてきたんだけど、もっと毅然として いないといけない。ああ…早くこの会社の契約期間が終わってくれないかな。でも、そうなってしまうと高橋さん との繋がりもなくなってしまう。 (早いトコ告白した方がいいと思うよ。どこにいる人なんだか知らないけど、もし脈があると思ったら、相手の気 持ちがよそに行ってしまわないうちに太田ちゃんの方からアプローチかけないとダメだと思う…。) 由姫は頭を激しく横に振った。あれこれ悩んでいた彼女に、別の社員が「太田さん、回覧!」と言って、カラー 印刷された文書が挟まったクリップボードを手渡してきた。会社全体の送別会の案内だった。 「送別会…か。場所は…ええ?『割烹 艶』?あんな高そうなお座敷のお店でやるの?おじさんが喜びそうなお店 だわ。でも、私ももうすぐ契約期間満了なのよね。どうしたらいいのかしら…。 」 「太田さん、もちろん出てくれるんだよね?」庶務係の若い男性社員が由姫に声をかけてきた。 「え…ええ…その…。」 「太田さん、もう最後なんだしさ。最後は今までの辛い事、パーッと忘れて飲んじゃおうよ。今まで話したくても 話せなかった事、聞いてあげるからさ」男性社員は由姫を気遣った。送別会は、由姫の派遣契約が終わる直前の金 曜日を予定している。その日しか都合がつかなかったのであろう。 「お!何だ~梅谷。お前、俺の由姫ちゃんにナンパしちゃってるのか~?」話を盗み聞きしていた中庭が 2 人の間 に割って入って来た。「何だよ中庭。彼女を品物みたいに扱うなよ。そういう言い方ってセクハラだぜ。 」 この梅谷という社員は口数こそあまり多くないが、理知的で物静かで言葉遣いもきちんとした社員だった。既に 結婚しているが、由姫は彼に対して悪い感情を持っていなかった。むしろ、今の中庭に対してキチンと注意をして くれた事に感謝したい気持ちである。中庭さん、本当に図々しくなってきたわ。こんな人に今まで付き合ってきた 自分が本当に馬鹿だった。もう本当に相手にしたくない。契約が切れたらさっさとサヨナラするわ。そうしたって 私は全然悪くない。だって、別にまだ恋人同士って訳じゃないんだし。 「由姫ちゃん。」 また中庭さん?イラついて無視しようと思っていたら、あれ?声が違う。 「お…お義兄さん…」 「ごめんね、忙しいところ。何か…あっという間だね。もう契約おしまいで。送別会、出てく れるんでしょ?」「はい…。庶務の人達にも『出て』って声をかけられましたので…」「無理にとは言わないけど、 もうこの会社では会う事がないんだし、ぜひ最後は楽しくやろうね…」「はい…ありがとうございます…。」 やはり信太郎は話し方が違う。出よう。せめて一次会だけでも…そう心に決め、由姫は回覧板の案内チラシに「出 席」の印をつけて隣席に回覧を回す。 信太郎は今回の送別会に直接関係はないが、妻の美姫の妊娠が分かったため、当日はささやかながら彼の祝い事 も込めての飲み会という事になっているらしい。信太郎はいつもの笑顔をますますほころばせている。いいなあ。 お義兄さん嬉しそう。お姉ちゃんが羨ましい。信太郎お義兄さんは優しいし面白いし、私はどうして自分の恋愛が 上手く行かないんだろう。自分が不器用なんだと思えば思うほどもどかしくなってくる。 由姫はその後も、毎日毎日を大切に過ごすように仕事をこなした。中庭は時折自分の周りをうろついてくるけど、 自分は自分の仕事があるんだ。暇そうにしていると何を言ってくるか分からない。何日かそういう態度を繰り返し ていくうち、中庭は由姫に馴れ馴れしく話しかけなくなってきた。良かった。いくら中庭さんでもそこまで馬鹿じ ゃないわよね。由姫はホッとした。そしていよいよ 3 月 28 日。由姫の業務最終日直前の金曜日がやって来た。送別 会の日である。 仕事が終わると、由姫は庶務の八木沼達と数人で会場の店へと向かっていた。何だかドキドキする。職場の飲み 会に出る事って滅多にない事だった。夏の暑気払いは、まだ自分がこの会社に派遣される前に終わってしまったの で出る事はなかったが、12 月の忘年会に出席した以外は会社の飲み会に参加していない。忘年会の時は総務の人達 としか飲んでいないので気楽であったが、会社全体の飲み会は今回が初めてだ。送別会なのだ。仕方のない事だろ う。 「さあ~皆さんお揃いの所で、日本電気通信東北支社の大送別会を開催致しま~す!」 幹事の司会と支社長の乾杯の音頭と共に、送別会は始まった。由姫の右隣には庶務の梅谷、左隣には経理係の男 性社員が座っている。良かった。同じ部署の人達で。由姫はホッとして、両隣の男性達にビールをお酌した。 「太田さん。今までお疲れ様でした。月曜日もう一日ありますけど、どうか最後まで頑張って下さいね。」 庶務の梅谷が礼儀正しく由姫に挨拶した。「はい。最後までお世話になります!」 「太田さん。庶務はいろいろ大変でしたよね。いろんな人達の面倒見ないといけませんでしたし…」経理係の社員 は、無良という若い男性である。由姫の周りには、庶務係の社員をはじめほとんど全員が総務課の社員で固まって いた。よその部署はそれぞれの席に分けられており、由姫達の所に来る様子がない。良かった。忘年会の時と同じ だ。そう安心していた矢先の事であった。 「おお~~~っ!中庭君のお嫁さん No.1 候補、見つけましたああああぁぁぁっ!」 声のする方を見ると、以前由姫にバスカード紛失の嫌疑をかけた営業部の竹内が立っていた。横には同じ営業部 の天野の姿もあり、中庭と同じ保守担当の男性社員も立っていた。 嫌だわ…。何しに来たのかしら?由姫は何だか胸焼けがしてきそうだった。ヒューという掛け声と共に、保守担 当の男性社員が由姫の周りに群がってきた。梅谷と無良の 2 人は他の社員の所で談笑しながら飲んでいる。 「中庭あぁ!彼女にチュウしちゃえよ!こういう所でないと思い切ってキスも出来ねえだろ!」 イエーイ!男性社員達はますます悪乗りしてきた。中庭は照れ笑いしながらも由姫の方をチラチラ見ている。 「ほ~ら!ジロジロ見てないで、こうやってドーンと抱きついちゃえよ!」 竹内は中庭の体を由姫の方に目掛けて押し倒した。弾みで中庭の唇が由姫の首筋にくっついてしまった。もちろ ん事故だったが、中庭は嬉しそうにニヤニヤ笑っている。 「あ…ごめんね由姫ちゃん。」 由姫は少し腹が立ったが、ここで怒るのも大人気ないと思い、 「いいえ」と言って知らん顔していた。私も他の人 の所に行こう。彼女も八木沼達の座っているグループの所に行こうとしたが、またしても竹内と天野に阻まれてし まい、保守担当の男性社員に囲まれてしまう。行く所行く所後を付けてくる感じだ。何これ?冗談にしても酷すぎ ないかしら? 「中庭あぁ~!お前もしかしてまだ童貞って事ないよなあ」 「もしマジでそうだったらここで破っちまえよ!目の前 に本命がいるんだしさあ~!」「太田さんも、お酒の勢いで思いっ切り燃えたいと思ったでしょ?」 今の一言で女子社員達が反応した。 「ちょっと竹内君!今何て言ったの?」 「いやあ。中庭と太田さんの愛のキューピッドをやってるだけだよ~!」 ヒューヒュー!騒ぎを聞いた年配の男性社員達も図に乗り始め、「いいぞいいぞ!」「ヤレ!ヤレ!」と大声で囃 し立てた。由姫はいよいよ恥ずかしくなってきた。庶務の田村係長も「太田さん!最後なんだから彼とキスしてあ げたら」と言い出したから大変だった。 「よーし!ここで誓いのキッス!はじめ~!」 「結婚式の予行演習だあ!!」 嫌!冗談止めてよ!!由姫は怒鳴りつけたい気持ちでいっぱいだった。怒鳴りたくなる気持ちは、あのバスカー ド事件以来の事だった。どうしよう。言葉が声にならない。ここでムキになって怒ってみた所でどうせこの人達は 聞く耳も持たないわ。みんな一斉にこっち見て笑ってるし。由姫は耐えられなくなって目に涙をいっぱい浮かべて いた。 「おや?彼女嬉し泣きしてるのぉ~?」「バカ!あんまりいろいろ言うから泣いたんだよ!」 男性社員達は由姫の泣き顔に驚いた様子であったが、男というものは女性のこういう感情には恐ろしく鈍感なも ので、由姫が泣いていると分かってはいても面と向かって謝罪したり慰めたりはしないのである。年配の社員達は 何事もなかったかのように飲み続けている。まるで由姫の事を「何で泣いてるの?」とでも言うかのように。 営業の竹内達はよほどデリカシーに欠けているのか、由姫が泣いているのも構わずに中庭をけしかけ、 「ほらほら、 抱いてやれよ」 「チュウして慰めてやれよ」などとからかい続けている。あまりの無神経さに、一部始終を見ていた 八木沼が「ちょっと!今どういう事になってるか分かってるの!?」と大声で注意した。竹内は中庭にお絞りを持 たせ、中庭の腕を掴んで操らせながら、ますます調子に乗った行動に出させようとしていた。 「いやあ。今中庭君が 彼女の涙を拭いてあげてるんだよ。あ?もしかして拭いて欲しいのは、顔じゃなくて胸の方だったかな~?」そう 言って、中庭の腕を掴んだままの竹内が由姫のスーツの胸に手を伸ばした瞬間、カッとなった由姫はその腕をピシ ャンと叩いた。弾みでその手が中庭の手にも及んでしまった。 (しまった!)だが、由姫は中庭に謝罪する気も起こ らなかった。恥ずかしさと怒りで涙も出ない状態である。 「私、もう帰ります!」 由姫はコートを羽織ってバッグを持ったまま店の外に出ようとした。さすがの男性社員達もまずいと思ったのか、 「太田さん」と追いかけようとしたが、もう由姫は後を振り返ろうとしなかった。何よ!こんな会社!あと 1 日だ って出勤するものか!今回は涙を通り越して怒りが爆発しそうだった。中庭さんも酔った勢いで随分いやらしくな ったわ! 由姫はどんどんと店の前を離れて行き、タクシー乗り場付近まで歩いていた。その時だった。 「由姫ちゃん!」 もう!!いい加減にしてよ中庭さん!だが、由姫の肩を叩いた男性は中庭ではなく信太郎だった。 「お義兄さん!」 「由姫ちゃん…。見てたよ。営業と保守の人のやってた事。見ていながら助けてあげられなくてご めんね。あの…もし良かったら、途中まで一緒に帰らない?由姫ちゃん、こんな気分じゃ家に帰れないでしょう。 来週、俺の方から田村係長にも話しておくからさ。今夜はほら、少し気分転換しよう。ね。 」 由姫は堪らなくなり、信太郎に抱きついて泣いた。「由姫ちゃん…。」 信太郎は由姫の肩を優しく叩いた。「どこか、その辺の喫茶店でお茶でも飲もうか?」 信太郎が由姫の手を引いて横断歩道を渡り始めた時だった。「あっ!」 目の前に高橋崇彦の姿があった。由姫は「こんばんは…」という言葉が声にならない。信太郎は「兄貴…に似て いる…」と呆然としたが、 「お義兄さん。派遣会社の人です。いつもお世話になっている高橋さんです」と挨拶した ために思い出した。(そうか。由姫ちゃんを助けてくれた人だったんだ!) 「お世話になっております。太田由姫の義理の兄です」「由姫さんを担当しております高橋です…。」 ピーポーピーポー…信号が点滅する事を告げる音が流れると、高橋はその場で「失礼します」と会釈して立ち去 って行った。だが、高橋は何となく気になっていたようであった。 (太田さん。目が赤かったな。泣いてたのかな?) 信太郎と由姫は、横断歩道を渡ってすぐそばにある喫茶店に入ろうとしていた。だがその時、 「ああ!いたいた」と 聞き覚えのある声が飛び込んできた。「無良さん!」 「太田さん!ああ…良かった見つかって。俺、途中でちょっとトイレに行ってたんですけど、戻ってきてみたら何 だか騒ぎになってて、八木沼さんに聞いたら『太田さんが苛められて帰ってしまった』なんて言うものだから、大 急ぎで後追って来たんですよ!」 追いかけてきてくれたのは無良だけではなかった。「太田ちゃん!」「太田さん。本当にごめんなさい。気が利か なくて…」何と、八木沼と梅谷の 2 人も後に続いて喫茶店の入口に立っていたのである。 「み…皆さん…わざわざ私のために…」 「当たり前じゃん!今日は太田ちゃんも飲み会の主役だったんだよ。それな のに竹内君達ったら、変な悪乗りしちゃっていろいろセクハラしまくったりしたもんだから、あたしもう許せなく てついカッとなっちゃった!でも、梅谷君が竹内君達にガツンと注意してくれたから、もう後は大丈夫よ。」 え?由姫は驚いていた。 「あ…いやあ……。ちょっと遠くで聞いてたら、何だか竹内達が随分品のない事やってた し、太田さんが泣きそうになっていたから、少し話を聞こうと思っていただけの事だから…」梅谷は頭を掻きなが ら恥ずかしそうに弁解した。気がつくと、由姫達はそれぞれコーヒーやカフェオレなどを注文し、喫茶店のテーブ ルを囲んでいる。 「小林君頼りないわねえ。竹内君達がひやかしてるの見たらちゃんと注意してやらなきゃダメじゃん!」八木沼は 信太郎を責めた。 「ああ…俺……竹内さんはどうも苦手で…」 「小林さんにも苦手な人っているんだ」 「あ…そ…その 話はやめにして…さ…その…。」 お義兄さん、あの竹内さんと過去に何かあったのかしら?由姫は信太郎の方をチラリと見た。 「ところで…さ。あの…話したくない事だったら話さなくていいんだけど…、太田さん…誰か好きな人って、いる の?もちろん、あの中庭じゃない事は俺らも分かってるんだけど…さ…」梅谷は恐る恐る由姫に尋ねた。 「無良はタイプじゃないよね?由姫ちゃん」信太郎がいつものお調子者に戻っていた。 「小林君やめなよ。無良君に は広報の水津さんがいるんだからさ」八木沼が無良の恋人の存在を暴露すると、無良は「ああっ…だ…ちょっ…」 と顔を赤らめて大慌てだった。由姫は思わずクスッと笑った。ようやく笑顔が戻ってきた。他の者達ももちろん大 爆笑である。さっきまでの怒りが嘘だったかのように、由姫は時間を忘れて信太郎達と談笑した。良かった。最後 の最後でこんなに親切にして頂けて。お義兄さんだけじゃなく、八木沼さん達まで私を気遣ってくれて。何だか、 これでおしまいになってしまうのが惜しくなってきたわ。もう少し会社にいられないかしら?契約の終わり近くに なった時に限って、由姫は派遣先の会社に未練を感じるようになってきた。 「あ…」梅谷のバッグから携帯電話の着信メロディが流れてきた。 「おっ!梅谷。もしかしたら可愛いベイビーちゃ んがぐずってるかな?」信太郎がすかさず冷やかすと、八木沼も負けずに「小林君ももうすぐお父さんなんでしょ? 早く帰ってあげないと奥さんが怒るわよ」とやり返した。 「あ…じゃあ、俺もそろそろ帰るかな?」無良も帰り支度を始めた。 「皆さん、本当にいろいろありがとうございま した」由姫は八木沼達に頭を下げた。 「由姫ちゃん。帰り、送っていこうか?」信太郎が気遣ったが、由姫はもう大 丈夫だった。トイレで化粧を直してから帰りたいと思ったため、由姫はそのままトイレに向かっていった。八木沼 もそっとトイレまで後を追う。 「八木沼さん…あの……」由姫が恐る恐る聞こうとしたが、八木沼にはもう既にお見通しだった。彼女は会社の生 き字引みたいな存在であり、既に 30 歳近い年齢に達していながら上司や同僚、部下達にも慕われていて、「辞めな いで」と言われながらずっと同じ会社で頑張り続けているスーパー女子社員である。仕事はもちろん、会社の人間 関係の事も全てよく知っている人物なのだ。 「小林君と竹内君の事でしょ?小林君ね、うちに入ったばかりの頃、営業に配属されてたの。小林君、すごい優秀 で仕事覚えるの早いんだけど、彼の希望ってエンジニアだったんだよね。営業でなかなか成績のあげられない竹内 君とは何かとそりが合わなくて、顔合わせるたびにケンカばかりしていたの。竹内君、小林君の事苛めてばかりだ った。何で営業が希望じゃないお前が成績が良くて俺がいつもダメなんだ…って。でも、小林君は希望のエンジニ アの部署に配属が決まって…。やはりうちの会社、エンジニアの部署が一番の花形なんだよね。それで、竹内君の 苛めが前より陰湿になってしまって。だから小林君、太田ちゃんが竹内君にからかわれているのを見ても、面と向 かって注意できなかったんだよね…。さっきはちょっと小林君の事『頼りない』ってからかってみたけど、一応竹 内君、ああ見えても小林君の先輩だしね…。」 会社の人間関係って随分煩わしいんだな。お義兄さん、いつもニコニコして人当たりが良くて誰とでも上手くや っていると思っていたのに…。由姫は新たな発見をした思いであった。八木沼は電車の時間があるため、由姫に別 れを告げると急いでトイレを出て駅に向かっていった。由姫は一人になったが、もうすっかり元気になっていた。 晴れやかな気分でトイレを出ようとした時だった。 「あっ!」由姫と同時にトイレを出た男性に思わず目が留まった。 高橋崇彦だったのである。 「お…太田さん…」「高橋…さん…。あれ?さっき、逆方向に帰って行かれましたよね…」「あ…ええ。ちょっと書 店での用事を思い出して、あの後横断歩道を引き返して書店に寄った後、ここでちょっと気分転換してたんですよ。」 何という偶然なんだろう。高橋は由姫に何かしら聞きたい様子であった。由姫の顔をじっと見つめている。 (早いトコ告白した方がいいと思うよ。どこにいる人なんだか知らないけど、もし脈があると思ったら、相手の気 持ちがよそに行ってしまわないうちに太田ちゃんの方からアプローチかけないとダメだと思う…。) 来週にはもう、今の会社での契約が終わってしまう。高橋さんに気持ちを伝えた方がいいのかしら。由姫の胸は 訳もなくドキドキしていた。どうしよう。何だか言いづらい。 「どうかしましたか?」 「あ…あの……その…」 「今日、何があったんですか?」 「あ…ええ。会社の送別会があって、 義理の兄と一緒に店を出て帰ろうとした所だったんですけど、さっきまで他の同僚達も一緒だったものですから… その…。」 由姫は思い切って、高橋に伝えようとしていた。 「あ…あの……高橋さん…」 「ん?」 「あの…来週月曜日の夕方… お時間…よろしい…でしょうか…。いろいろ…お話したい事がありまして…」 「来週…ですか?ええ…大丈夫だった かと思いますよ。僕の方も、太田さんの今後の事について、いろいろお話しておきたいと思っておりましたので…。」 え?高橋さんも何か話が?由姫は驚いたが、何はともあれ、来週もう一度高橋さんに会えるんだ。自分の気持ち をどうやって伝えようか。由姫はその事を考え始めていた。高橋とは、ひとまずここで別れた。今日はとりあえず 休もう。明日、一度頭の中を整理しなくちゃ。由姫は来週月曜日の面談に思いを込めようとしていたのであった。 翌日、由姫が最後の業務に集中していた所に、高橋が会社を訪ねてきた。(高橋さん!) 応対に出たのは別の女子社員だったが、由姫は駆け出して行きたい気分だった。用件は田村係長の方だったらし い。だが、由姫も今日の夕方、高橋に最後の挨拶に行く予定にしているのだ。もう会えないかも知れない。そう思 うと胸が張り裂けそうだ。高橋の応対をした女子社員は舞い上がった様子で「超カッコイイ~」を連発していた。 高橋はそれだけ女性の目を釘付けにする。だが、由姫は高橋の外見的な部分だけでなく、全ての長所を知っている。 (悪いけど、高橋さんは私のものよ!!) 由姫がそう強く心で叫ぶと、再び八木沼の言葉が飛び込んで来る。 (早いトコ告白した方がいいと思うよ。どこにいる人なんだか知らないけど、もし脈があると思ったら、相手の気 持ちがよそに行ってしまわないうちに太田ちゃんの方からアプローチかけないとダメだと思う…。) 由姫のその気持ちを見透かしたかのように、八木沼が「太田ちゃん!」と話しかけてきた。由姫はもちろんビク ッと驚いている。 「太田ちゃん…。分かるよ…。太田ちゃん、本当はあの営業さんが好きなんでしょ?」 ダメだ…。八木沼さんにはもう全く嘘がつけない。この人は周りの人をよく観察している人なんだ。私みたいに 社会経験が少なくて単純な性格をした人間の事なんて簡単に見抜いてしまうんだろう。由姫は八木沼に脱帽した。 「八木沼さん…私……もうどうしていいのか…」 「太田ちゃん。悩んでばかりいちゃ損だよ。派遣会社の担当の人な んていっぱいいる訳だから、次の派遣先の担当もあの営業さんがついてくれるとは限らないし、あの営業さんだっ て他のスタッフ見なきゃいけないし、気持ちだけでも伝えなくちゃ。その方がずっといいよ。上手くいくかどうか は保証できないけど、黙ったままで終わってしまうより、少しでも気持ち伝えた方がずっといい。」 そうか…。八木沼に背中を押されたような気分だった。由姫は決心した。伝えよう!私の気持ちを。それに、私 はまだ、高橋さんに対してお礼が言い足りない部分が沢山ある。危ない所を助けてくれた事もあったし、派遣先で 人間関係のトラブルに見舞われた時も、私の話をじっくりと聞いてくれていた。たとえ仕事上の事であったとして も、それが本当に嬉しかったという事を伝える事は悪くない。高橋さんだって喜んでくれると思う…。 そして夕方 5 時半になり、社内全体で終礼が行われた。年度末という事で、異動したり退職したりする社員の挨 拶がある。由姫も当然、その中の一人に入るのだ。まずは、定年退職を迎えて会社を去る役職づけの社員達が順番 に挨拶をする。一人一人の挨拶の後で拍手と花束が贈られ、続いて異動する社員達の挨拶に移った。異動する社員 の中には、保守担当から総務課に配属される中庭も混じっている。由姫は中庭を見ないようにした。最近の馴れ馴 れしい態度にも頭に来ていたが、先週の送別会の時の酔っ払った振る舞いにも頭に来ている。でも、もう会う事は ない。何も気にする事はない。由姫は淡々と挨拶を聞き、淡々と拍手を送った。もちろん、中庭にも他の社員達に も同様に…。 「では最後になりましたが、昨年 8 月から、総務課庶務係で業務補佐を担当していただきました、派遣社員の太田 由姫さん。太田さんも、今日が最後になりますので、簡単にご挨拶をお願いします。」 来た!由姫は胸を張って、しかし淡々と最後の挨拶をした。 「あっという間の 8 ヶ月間でした。皆様には本当にいろいろと親切にしていただき、とても楽しく働かせていただ きました。本当にどうも、ありがとうございました!」 「お疲れ様でした!」社員全員の挨拶の後に拍手が送られ、庶務係の梅谷から花束が、八木沼からは「庶務係一同 から」という事で寄せ書きが手渡された。由姫は少しホロリと来そうになった。 「太田ちゃん!どうもお疲れ様でした~」「太田さん。これからも元気で頑張って下さい。」 由姫は挨拶をしてくれた一人一人に頭を下げると、更衣室でそっと寄せ書きを開いた。梅谷からは「公務員試験、 頑張って下さいね」という嬉しいメッセージがあり、他の社員達からは「これからも、みんなに愛される太田さん でいて下さい」 「どこかで会ったら声をかけてね♪」と、よくありがちなメッセージが…。もっとも印象的だったの は、田村係長と八木沼からのメッセージだった。田村係長からは「無神経な言葉で傷つけてしまった事もあったけ ど、今まで辞めないでくれて有難うございました」というメッセージだった。また、高橋さんに何か言われたのか しら?そして、八木沼からのメッセージは最も心にズシンと残るものだった。 「太田ちゃん!プッシュプッシュ!!今はオンナも押せ押せの時代だからね!!」 いやあ…。由姫は深呼吸した。今から由姫は、ウェルワークで運命の時間を過ごす事となる。どうしよう。まず は高橋に何か心ばかりの品物を贈ろうかな…。いや、そこまでしなくてもいいかな。今日はまず、自分の言葉で気 持ちを伝えよう。胸がドキドキしていた。 「高橋でございますね。少々お待ちいただけますか?」 由姫は、ウェルワークの受付の前でもう一度深呼吸した。高橋さんの顔を見たら何て言えばいいのか。言葉は大 体整理できているが、口をついて上手く言えるのかどうか不安だった。アガってしまって声が震えそうだ。高橋と は、午後 6 時に会う約束になっている。 「申し訳ありません。高橋なんですが、今ちょっと取り込み中でして…。しばらくお待ち頂けますか?」 応対してくれた女性コーディネータが由姫に伝えた。20 分前じゃ早かったかしら?でも、外出じゃないのよね。 由姫は少しホッとしていた。今ここで高橋に会ったら、きっと心臓バクバクで言いたい事が言葉にならない。でも、 いずれにせよ今日はちゃんと自分の気持ちを伝えなくちゃいけないわ。いつまでも逃げてばかりいられない。女性 コーディネータが出してくれたコーヒーを飲みながら、由姫は頭の中で言いたい言葉を何度も何度も復唱した。お そらく高橋は、事務所内で上司と打ち合わせをしている所なのだろう。ああ…どうしよう。脚がガクガクしてきた。 「あ…どうもお疲れ様でした。高橋です。」 来た!由姫は椅子から立ち上がって高橋に深く頭を下げた。 「あ…いいですよ座ったままで。じゃあ…まずは改めて僕の方から…。太田さん。今日まで、本当にお疲れ様でし た。よく頑張っていただいて、僕の方としてもとても感謝しています。」 いいえ…由姫はそう言ってまた頭を下げる。「で…早速本題なんですが……太田さん、ズバリ申し上げて、あの、 日本電気通信さん、どういう印象持たれましたか?」 え?由姫は意外な質問にビックリしていた。 「そう…ですね……。庶務係の若い社員さん達からは本当に親切にし て頂きました。先日の送別会の時は、私のために二次会まで開いて頂きましたし、仕事でもいろいろ教えていただ いて、それ以外でもとても楽しく…」 「そうでしたか?……う~ん…。あの…その送別会…なんですけど、太田さん、 あの席で何かセクハラみたいな事、されませんでしたか?」 え?何で高橋さんがそんな事知っているの?「その送別会、おそらく一番町のお店で開かれたものだったかと思 うんですが、あの日の夜ですね、ちょうど太田さんとお兄様にお会いした直後の頃、その送別会の会場と思われる お店の前を偶然通りかかりましたら、日本電気通信さんの社員の方同士で何だか口論になっていたんですよ。おそ らく庶務の男性の方だったかと思うんですが、 『太田さんに謝れ』という声が聞こえまして…。何があったのかと思 っていたらちょうど人事課長さんにお会いしまして、送別会の席で太田さんが複数の男性社員にセクハラまがいの 事をされてお店を飛び出したというお話を聞いたんです。事実関係を確認しようと思って太田さんを探そうと思っ て引き返したんですが、どこに行かれたのか分かりませんで…。」 書店に寄ったと言うのは嘘だったんだ。で、口論していたのは梅谷さんと竹内さんだったのね。由姫は初めて真 実を知った。 「太田さん、お会いした時に泣いていたようでしたし、こちらとしても本当に気になっていたんです。月曜日にこ ちらからお電話しようと思って、たまたま入った喫茶店でちょっと休憩してお手洗いに入った後で偶然太田さんに お会いしてしまって…。あの時は太田さんも驚かれたかと思ったんですけど、僕の方も驚いてしまいました。あの 時にでもお話しすべきかと思っていましたが、夜遅かったですし、太田さんもお急ぎのようでしたし、やはり話題 が話題ですしね。来週月曜日に会社でお会いするという事であの時はそう決めてしまいました。何か…申し訳あり ません。いつも気が利かない事ばかりで…。」 由姫はさっきまでとは違う意味でドキドキしていた。高橋さん、何だかいつも私を見守ってくれているような気 がする。 「で、今日田村係長さんの方から私の方にお電話がありまして、最後の最後ですけど、やはり田村係長さんもセク ハラに関わった人物という事で複数の社員の方からかなり非難されていたようでしたので、不始末を謝罪するとい う意味で、今日あの会社にお呼び出しを頂きました。太田さんのお兄様の方からも抗議があったようでしたね。明 日から正社員として女性の事務員さんを採用する予定になってはいるようなんですが、あの会社、過去にも上司の セクハラが原因で何人かの女性の方に辞められているという事があったようで、そんな会社だとも知らずに太田さ んにご紹介してしまった事で、今となっては本当に申し訳なく思っていますし、これまであの会社で頑張っていた だいた太田さんには、本当に心から感謝しております。で、人事課長さんの方からも、太田由姫さんは大変勤務態 度も真面目で優秀な派遣さんでしたので、もし今後、あの会社の方で欠員が発生するような事があったら、ぜひと もまたうちのスタッフをご紹介できないかという事で、再度ご依頼を頂きました。問題のある会社だとは思います けど、やはり途中でいきなり戦力が欠けてしまうと、どうしても欠員を補充するのが難しくなりますしね。今後は 先方さんもいろいろ尽力されると思いますし、何より太田さんが、ウェルワークの名前に恥じない仕事ぶりを見せ て下さったという事で、僕としては本当に、心からのお礼をしたいと思っていました…。」 由姫はまたしても涙がボロボロ溢れ出てしまった。駄目…。高橋さんを目の前にすると、何だか訳もなく涙が出 てしまう。 「太田さん。辛かったと思います。でも、庶務の方も他の部署の方も、太田さんの事はきっと忘れないと思います よ。明日から公務員試験の勉強に入られると思いますけど、どうされますか?この会社の登録、試験の合格通知が 出るまで残しておいてもいいですか?以前、太田さんと面談した担当の者からは残すというお話で伺ってましたが …。」 「私……高橋さんの事が忘れられません!!」由姫の口から、ついに思いのたけが飛び出した。 「太田…さん…?」「高橋さん……。ご迷惑かと思いますが…私……高橋さんの事…本当に心から尊敬しています。 私のように至らない人間をいつもフォローして下さったり、危ない所を助けて下さったり、どんな話もじっくりと 耳を傾けて下さったり…。全てお仕事上の事だと分かってはいるんですけど、私…高橋さんから学んだ事が沢山あ りすぎて…今はもう……尊敬というか…その…憧れ以上のものを感じて…ます……。何て言っていいのか分かりま せんけど…。 」 高橋は何も言わずに由姫の話を真剣に聞き入っていた。しばらく沈黙が流れる。 「太田さん…。言いにくい事なんですけど…太田さん…もしかして…その…」高橋も口ごもっていた。大体話した い事の趣旨は伝わっているのであろう。 (早いトコ告白した方がいいと思うよ。どこにいる人なんだか知らないけど、もし脈があると思ったら、相手の気 持ちがよそに行ってしまわないうちに太田ちゃんの方からアプローチかけないとダメだと思う…。) 「好きです!高橋さんの事が…本当に好きなんです!!」 言ってしまった!高橋は尚も黙っていた。どうしよう。笑われるかも知れない…。 「ありがとう…太田さん…」高橋は微笑んだ。だが、すぐにその顔は悲しい眼差しに変わった。 「太田さん…気持ちは嬉しいですが、太田さんは今の自分が何をすべきなのか分かっていますか?」 「……………………」由姫は黙っていた。もちろん分かっているのだ。今自分が優先すべき事は、公務員試験の勉 強だ。今年の夏には、念願の国家公務員Ⅱ種試験が行われるのだ。それまでは恋愛どころじゃないはずなのだ。 「僕はこれからも、太田さんを志の強い一人の人間として、ずっと応援していきたいと思っています。だけど、も し太田さんにとって今の僕が勉強の妨げになるような存在になってしまったら、僕としてはそれより辛い事はあり ません…。僕も太田さんを尊敬し、今よりももっと素晴らしい人になっていく事を心から願っているからこそ、そ んな太田さんの気持ちを掻き乱すような事をしたくないと思っていますし、重荷になるような事をしたくないと思 っています。太田さんの今一番の目標は、公務員試験に受かる事ではないでしょうか?その夢を叶えて笑顔で働く 太田さんの姿を楽しみにしているからこそ、僕は太田さんの気持ちに応えられないと思っています。僕を好きにな る事で太田さんの志に迷いが出る事になってしまえば、太田さんにとっても辛い事ですし、僕としても心の痛む事 になる…。分かっていただけますか…?」 由姫は堪らなくなって号泣してしまった。悲しいけど、高橋の言う事はごもっともな事だ。高橋は決して女性と 遊び半分で交際するような男ではない。好きな女性だからこそ、その女性には自分の好きな道を歩み、好きな人生 を歩んで欲しいと思う、誠実で心優しい男性なのだ。由姫の一番の夢を理解しているからこそこういう言葉が出る のだろう。だが、由姫はこのまま高橋と別れるのが忍びなかった。 「太田さん。ここでは何ですから、少し外に出ましょう。僕がご馳走しますから、近くの店に入りませんか?」 デートになってしまった。だが、高橋の顔には笑顔がなかった。高橋は由姫の気持ちを傷つけないように、精一 杯の気遣いをしてくれているのだろう。2 人は、駅の改札から程近いレストランで 2 人がけのテーブルにつく。 「もう一度言います。太田さん。僕の事を慕っていただけるのは嬉しいですが、太田さんには僕ではなく、別の男 性の方がいいのではないかと思っています。出来れば、太田さんの夢を理解し、太田さんと共に夢に向かって歩く 事を喜んでくれるような人を。もちろん僕も太田さんの夢を理解していますが、僕は派遣会社の営業という事で自 分中心な日常を送る事が多く、太田さんにはいろいろ侘しい思いだけを味わわせるような男だと思います。僕の存 在は太田さんにとって幸せな事ではないと思っています。それが、僕の考えです…。」 「いいえ…」由姫はもう泣いていなかった。 「私、確かに泣き虫ですし、まだまだ世間知らずな所もあります。いろ いろご迷惑おかけした事もあると思いますので、突然の申し出に戸惑っていらっしゃるのも分かります。でも、私 はこの 8 ヶ月間、あの会社で働いた事で沢山の勉強をさせていただきました。日頃の公務員試験では決して学ぶ事 の出来ない人と人との繋がりの大切さ、机に向かって勉強する苦労以外にも乗り越えていかなくてはいけない苦労 の数々を克服する力、そして何より、高橋さんのように思いやりのある強くて優しい心を持った人との出会い。私 は、素晴らしい事の全てを高橋さんのお陰で学ぶ事が出来ました。もし、ウェルワークという会社に出会わなかっ たら、あの会社への仕事がなかったら、私は公務員試験の勉強しか出来ない人になっていたと思います。そして、 高橋さんがいつか、危ない所を命がけで助けて下さったあの時、私は強く思いました。私もいつか、誰かのために 働ける人になりたい。困った人を助けてあげられるような人になりたい。そんな素晴らしい事を身をもって教えて 下さった高橋さんの事、私は忘れる事が出来ません。今日はその気持ちだけを伝えたくて…お忙しい時間を使わせ てしまいました。本当に、申し訳ありませんでした。」 高橋は、真剣な顔で由姫の顔をじっと見つめていた。長い間ずっとずっと見つめ、考え続けた挙句、高橋はそっ と由姫のそばに近づき、こう言った。 「……分かりました、太田さん…。それなら太田さんの気持ちを、そっと受け止める事にしましょう。僕はこれか らも、太田さんの事をずっとずっと応援しています。もし、何か辛い事とか耐えられないような事があった時は、 遠慮しないで僕の所に連絡して下さい。お付き合いという事じゃなく相談相手として、僕は太田さんの事を見守っ ていきたいと思います。ただ、先ほどもお話しましたが、くれぐれもご自分のお勉強の事を第一に考えて下さい。 そして、晴れて試験に合格した時は、すぐに報告して下さい。その時はおそらく、ウェルワークという会社との決 別の時になるかと思いますが、太田さんにとっては一番の願いなのですから、その結果を祝福し、ずっと応援して いく事としましょう。太田さん、これでよろしいですか?」 由姫は「はい」と頷いた。高橋は由姫の手にそっと自分の手を乗せた。暖かくて優しい心が通うような感じだっ た。 「高橋さん…一つ……聞いていいですか?」「何ですか?」「私……涙もろい性格で……。どうしたら涙を堪える事 が出来ますか?」 「太田さん。人の心の弱さを知って下さい。太田さんに限らず、人は誰でも泣きたい気持ちを胸に秘めながら、辛 い世の中を渡り歩いているんです。人の心の弱さ、脆さに気づいた時、絶えず自分の気持ちに置き換えて考えて下 さい。そうすれば、太田さんの心はきっと癒されます。それでもどうしても泣きたい事があった時は…空を見て下 さい。空を見て、上を見て、溢れる涙を頬に溢さないように…。そっと心に言い聞かせて下さい。」 高橋と由姫は、恋人同士のようにそっと抱き合った。その光景を、見てはいけない人物が見ていたのである。 (あの男!前も改札で太田さんを抱いていたヤツじゃないか!太田さんが最近冷たくなったのはアイツのせいなん だな!よし!いつか覚えてろ!!) レストランで一人で食事をしていた中庭が、由姫達の様子をじっと見ていたのであった。一体何を考えているの か。絵に描いたような真面目社員で通っていた中庭は、思い詰めると何をしでかすか分からない。そういう男なの であった。 第四十六章 暁のお手柄 ♪ルン…ルルルルルン…… 美姫は幸せそうに、フェルトに針と糸を通していた。フェルトで人形を作っているのである。最初は生まれてく る子供のために作ろうとしたのだが、次第にのめりこむようになり、今は自分と信太郎、大輔や譲太郎に似た形の 人形を遊び半分で作っている。美姫は元々手芸が大好きで、こういう物も簡単に作ってしまうのだ。 「美姫ちゃん。もう悪阻は大丈夫…うわあ~。随分作ったねえ~。」 出来上がった信太郎人形は、信太郎がキリッとしたスーツ姿で出勤している人形と、トレーナーとジーンズ姿で 愛嬌たっぷりの笑顔を振りまいている人形の 2 種類ある。どちらも信太郎の特徴をよく捉えている。美姫の人形も 2 種類ある。歯科衛生士の制服姿の人形と、ピンクのサマーセーターにイチゴのエプロン姿でリンゴを持っている 人形。イチゴのエプロンは美姫の手作りで、人形が身につけているエプロンも余った端切れで作ったものである。 細部にまで行き渡っていて実に芸が細かい。 「美姫ちゃんの人形カワイイ~。思わずこんな事したくなっちゃうよ~」信太郎は美姫人形の二の腕を指でつまん だ。「もう…信ちゃんいつも私が半袖着るたびに二の腕揉むから、人形の服も 2 つとも夏服にしちゃったのよ」「イ チゴのエプロンと美姫ちゃんの笑顔が可愛い~。ふにゃあ~」信太郎は幸せそうな笑顔で人形に頬擦りした。 「大輔さんと譲太郎さん。近々またこっちに来るんでしょ?」「来る予定だけど、実家に泊まりに来る事はないよ。 だって出張だからな」「これ、大輔さん達に送ってあげようかしら?」「ハハハハ。兄貴達人形見てどんな反応する かな?もうすぐうちの農家でハウスイチゴが採れるし、俺、近々また実家に帰る予定でいるから、イチゴと一緒に この人形添えて送っておくよ」「喜んでくれるといいんだけどなあ」「譲太郎はサランさんがいるからともかく、兄 貴は硬派だし、人形見てもそんなに感激しないかも知れないかな…」「そんな……」「アハハハハ、冗談だって。す っげえ特徴つかんでるし、兄貴は兄貴でそれなりに大事にしてくれると思うよ。 」 譲太郎の人形は、ハングル文字の書かれた T シャツにジーンズ姿で、左手に野球帽を持ったものだった。大輔の 人形は全身黒ずくめの服装で、大輔のキリッとした眉毛と鋭い眼差しが美姫のオリジナルで可愛らしくデフォルメ されていた。2 人とも実にポイントをよく捉えて作られている。 実家に帰省した信太郎は、美姫の作ったフェルトの人形をそれぞれのパッケージに入れて荷札をつけた。譲太郎 宛の荷物は、日本の調味料と梅干、取れたてのイチゴで作ったジャムを真空の瓶詰めにしたものを入れて、その中 に譲太郎人形を入れる。大輔の方には、イチゴのパック詰めとイチゴジャムの瓶詰めに人形を入れて送った。 (兄貴達に最近会ってないよなあ。譲太郎は韓国にいるから仕方ないにしても、兄貴にも会えなくなってきたなあ。 今度の仙台出張、どこのホテルに泊まるのかなあ。) 譲太郎宛に送られた荷物は、航空便を経て 2 日後に届けられた。 「譲太郎。久しぶりに日本の醤油が来たわよ」 「おう!来た来た」 「あら?何か面白いのが入ってるわね」 「うわあ! これ、もしかして俺?ハハハハハ…。これ、美姫さんが作ったんだな。あ…手紙が入ってる。へえ…美姫さんやっ ぱり作ったんだなあ。すっげえ気に入った!」 「……本当ね。 『美姫』っていう字が読めるわ」 「ここの部分は漢字だ からな」 「他も分かるわよ。今月半ばのヨンミョンのコンサートが仙台であるんだけど、同じ時期に大輔さんも仙台 に来るって…」「へえ!サラン大分日本語分かるようになったんだ!」「ヤンジャのお陰で、辛うじて簡単な文章を 読む事は出来るようになったわ。あとは書く事ね。会話は片言程度だし、テレビやラジオは聞いてもさっぱり分か らないわ」 「テレビやラジオが分かるようになったら相当なものだよ。俺もそこまで出来るようになるまで随分時間 がかかったからな」譲太郎はそう言って、美姫が作ったフェルトの人形をライティングデスクのパソコンのそばに 置いた。 一方、ここは大輔の住む元赤坂のマンション。 「大輔。イチゴと一緒にこんなの入ってたわよ」 「何だこれ?何か俺に似てねえか?あ…手紙…ハハハ。美姫が作っ たのか。随分ヒマなんだな」 「そういう風にいうものじゃないわよ。彼女、こういうの作るの得意なんでしょ?」 「う ん…そうみたいだな。うん……結構可愛いじゃん。俺気に入ったよ。 」 大輔は意外と美姫が作った人形を気に入ったようで、それを愛用のジャケットの内ポケットに忍ばせた。 「人形か ……」大輔は、もう一度それを見つめ直す。 「わあい!お父さん、オッキちゃんが久しぶりに来てくれるんだね!」 暁は大喜びだった。早いもので、暁も中学 1 年生である。オッキは 2 月生まれであるため暁より年齢は下だが、 今年 12 歳で中学 1 年生になった。まだあどけなさの残る小さな子供だった頃と違い、今ではすっかり大きくなった。 身長も 158cm まで伸びているという。手紙やメールで何度も写真をやり取りしてはいたのだが、直接会うのは本当 に何年ぶりかの話である。 「暁。お父さんとヨンミョンのコンサート、今月半ばに仙台でやるんだよ。オッキちゃんは学校がお休みの日に仙 台に来てくれるらしいから、暁もその時期には仙台に行けるように支度しておくんだよ。」 暁はもう部屋の中でスキップしていた。暁にとってオッキは初恋の女の子であり、国境を越えた大切な友達でも ある。コンサートは 4 月 15 日と 16 日。オッキは 1 日しか仙台に滞在できないらしいが、学校があるので致し方な い事だろう。 ヨンアも間もなく 1 歳の誕生日を迎えようとしていた。まだ言葉は完全に話せないが、片言の言葉を少しずつお ぼつかない口調で話せるようになり、ヨチヨチ歩きが出来るようにまでなった。しっかりと女の子らしい顔つきに なり、面影はヤンジャの少女時代を感じさせる。 「サグ…」ヨンアは大好きなリンゴを指差した。「サグ」というのは、韓国語のリンゴ「沙果(サグァ)」が不完全 に発音されたものである。「ヨンア、リンゴが大好きなのね。ちょっと待ってね。すぐに剥いてあげるわ。」 ヤンジャはリンゴの皮を剥き、ヨンアの小さな口に入れても大丈夫なように細かく刻んだ。ヨンアは声が小さく て可愛らしい。気がかりなのは、赤ん坊の頃に患ったアレルギー疾患が基で肝臓にダメージを受け、免疫力が他の 子供より劣っていて風邪を引きやすい事である。そのため、ヨンアはまだ体つきがとても小さい。今のヤンジャは、 ヨンアの健康問題がもっとも気になるのである。 「ヤンジャ。もうすぐ俺、また仙台に行く事になるけど、ヨンホとヨンアの幼稚園の送り迎えと自分の仕事、何と か頑張ってくれよ」「ウフフ。もう大丈夫よ。ヨンミョンが日本で歌を歌う機会が増えたのはとても嬉しい事だし、 この子達も喜んでくれているわ。ねえヨンミョン。小林さんのお兄さん夫婦、仙台のライブに来てくれるかしら?」 「ファンクラブの公式サイトにコンサート情報を出したら、彼らから写真つきのメールが届いたよ。今でも彼らは、 俺にとってはただのファンじゃなくて友達みたいに思っているからな。俺の歌手生活復帰を後押ししてくれた人達 だと思っているから、今後も大事にしたいと思っているよ」 「小林さんの話だと、お兄さん夫婦に子供が生まれるみ たいなの」「へえ?それはいつの事なんだい?」 「今年の 11 月って聞いたわよ」「そうか!じゃあ、『僕らの Star』 の特別バージョンを聞かせてあげないとな。」 ヤンジャ達が平和な会話を交わしている一方で、一人の男が何やら良からぬ事を企んでいた。 「畜生!畜生おおおぉぉぉっ!!」中庭は居酒屋で何倍も自棄酒を煽っていた。 「おい!お前飲みすぎだぞ!いくら 好きな女に振られたからって、もうほどほどに…」 「うるせえっ!振られたなんてもんじゃねえ!あの女は俺の事を 裏切ったんだ。バレンタインにチョコ贈って散々俺をその気にさせておきながら、俺が何度かデートに誘うと迷惑 そうな顔して、『私好きな人がいるんです』って来たもんだぜ!」「そりゃ酷いな。思わせぶりな態度取っておいて そういう仕打ちってねえよな!」「何とかしてその女に詫び入れさせてやらないといけねえよなあ」「いや…。確か に彼女も許せないんだけど、俺がもっと許せないのは男の方なんだよ!何度も彼女をそそのかして俺から彼女を奪 った奴なんだ。そいつ、彼女の所属する派遣会社の営業やってる奴なんだよ。駅前で抱き合ってるトコ、俺何度も 見てしまった…」 「その男、どこのどういう奴なんだ?俺のダチに探偵事務所とかテレビ局に勤めてる奴いるの、知 ってるだろ?」「何だ、何かしてくれるのか?」「ああ。名前と顔が分かったら教えて欲しいんだけど。当たりつけ て何かしてやるよ」「ウェルワークの高橋って奴なんだよ。ただ、俺はそいつの顔写真を…」「え?ウェルワークの 高橋?だったら俺の妹がずっと前関わってた奴だったかも!」「何だ村上。知ってるのか?」 「ああ。今からもう 5 年ぐらい前の事だったかと思うんだけど、俺の妹がウェルワークの紹介でスムサンの派遣やってた事あってさ。そ の時の担当営業が確か高橋って言ってたっけかな?妹はそいつと気が合わなかったらしいんだけど、顔だけは超カ ッコ良かったとか言ってて写真つきの名刺持ってたと思うぜ」「へえ。お前よく覚えてるな」「とにかく俺、一度妹 に確認してみるよ。で、顔写真つきの名刺が手に入ったらお前らに見せるよ。まあ、あればいいんだけどさ」 「妹っ て、あの美代ちゃんの事だろ?どうやって理由つけるんだ?」 「適当に理由つけるよ。俺の知り合いで派遣会社に登 録考えてる奴がいるってさ。そう言えば別につっこまねえだろ。」 後日、村上という男は、自分の妹から借りてきた高橋の顔写真つきの名刺をカラーコピーした紙を持ってきた。 「あああっ!こいつだよこいつ。仙台駅の改札とレストランで彼女に何度も抱きついてチュウまでしてた奴!」 「中 庭。もう間違いねえな」「顔、ほとんど変ってねえよ。この写真見て当たりつければ大丈夫だ」「よし!じゃあ、後 は俺の友達の探偵事務所の奴とテレビ局の取材部の奴の協力を得て、こいつの行動パターンを綿密に観察する!」 「痛めつけるか?」 「何とかバレねえように頼んだぜ」 「拉致してどっかに閉じ込めておくのもいいな」 「中庭。後は 俺らに任せてくれよ。何日かかるか分かんねえけど、上手く行ったら報告するからよ!」 中庭は自分が手を下さない形で、自分の親友達に高橋に対する復讐を依頼していたのであった。卑怯なやり方だ が、こうでもしないと中庭の気は治まりそうにない状態であった。 「譲太郎。もうすぐ仙台に行くんでしょ?久しぶりの仙台だけど、今度は実家に帰る予定はないの?」 サランは譲太郎を促すように尋ねる。なかなか結婚に向けての話が進まなくてヤキモキしているのだが、譲太郎 が帰国する理由は実家に帰るためではなく出張のためなのだ。結婚話はまだもう少し先の話である。 「今度は出張だからなあ。でもまあ、兄貴も仙台に行く予定だし信兄ぃもイ・ヨンミョンのライブに行くっていう し、会いたい気持ちはあるんだよなあ。機会がないと実家に帰る事も出来ないし…」譲太郎はため息をつく。 「じょ……じょ…」ヨンアがおぼつかない足取りで譲太郎の所に歩いてきた。まだ言葉もハッキリ話す事が出来ず、 譲太郎の名前を呼ぶ時はいつも「じょ」になってしまう。しかし、声が小さくて円やかなため、普段は小さな子供 にそんなに関心を持たない譲太郎でも、その可愛らしさに思わず笑顔がこぼれてしまう。やはりヨンアが女の子で あるためか、ヨンホに接する時よりも笑顔が自然に出るような気がする。 「おうヨンアちゃん。お兄ちゃんもうすぐ日本に行くから、何か土産買ってきてあげるからな。」 「小林さんいいわよ、この子にそんな気遣いしなくても」ヤンジャは笑いながらヨンアを抱き上げた。 「ヤンジャ。今度のヨンミョンの仙台ライブ、あなたはついて行かないんでしょう?」さっきまでヨンホと遊んで いたサランが聞いた。 「ついて行かないというよりもついて行けないわ。だって、この子達の幼稚園があるんですもの。ところで小林さ ん、今度の仙台出張は…」 「俺一人で行きます。ファンさんは病気療養しながら仕事していますから、海外出張は控 えてるんです。ファンさん残念がっていました。一度旅行で仙台に行って以来すっかり気に入ったみたいでしたし …」譲太郎は笑いながら言った。 「ナンビルの具合はどうなの?」 「何とか落ち着いてるみたいですよ。もう少ししたら維持療法に入れるんじゃない かと思います。」 ナンビルの病気は何とか落ち着いているようだが、今の彼にはいろいろ気がかりな事があるはずだ。一つはヨン アの実の父親の正体。もう一つは、スイスに住む実の息子の事だ。ヨンアの父親に関しては心配ないであろう。血 液型はともかく、ヨンアは少しずつヨンミョンの顔つきに似つつある状態であるため、ナンビルの娘なのではない かという心配は必要なさそうだ。だがスイスのブライアンの事は、消息を知らされない限りどういう状況なのか分 からない状態だ。前妻のカロリーヌとそこまで仲が修復しているとは思えない。大きくなったブライアンと再び会 える時までは死ぬ事は出来ない。きっとナンビルはそういう思いで過ごしているに違いない。 「じょ…?」ヨンアはクレヨンとスケッチブックを持って譲太郎の前に立つ。ヨンホは歌が大好きだが、ヨンアは 絵描きが好きなのだ。クレヨンと紙さえあれば何でも描いてしまう。 「ハハハハ…。絵を描くのか。じゃあ、お兄ちゃんのオートバイの絵を描いてあげるか。お兄ちゃん、こう見えて も絵が得意なんだぜ。お嬢ちゃんの絵も見せてくれるかな?」譲太郎はすっかりお兄さんである。信太郎の家に子 供が生まれても、きっと譲太郎ならよい叔父さんぶりを見せてくれそうである。 暁の学校では、新学期の始業式も終わって全員新しいクラスに馴染み始めた頃になっていた。 暁は学校ですっかり人気者だった。父親がシンガーソングライターの「すいすい」こと井上酔水。知人がイ・ヨ ンミョン。4 月の仙台ライブに行く予定である事もみんな既にご存知で、クラスの友達から「サイン頼んだぜ」と 言われるまでになった。一時は酔水の息子というと「変なキューピーの息子」と苛められる事もあったが、酔水は 人気も実力もあるシンガーである上、人柄も最高と業界で評判の人物だ。今では暁は、自分が井上酔水の息子であ る事を誇りに思っている。彼自身も音楽と国語が得意であるため、将来は自分も作詞と作曲の道に入りたいという 気持ちが強まってきている。 そして、瞬く間にヨンミョンの仙台ライブの日がやって来た。 暁は久しぶりの仙台に大喜びしている。そして、彼にとって最も喜ばしい瞬間が、今ここで訪れた。手紙やメー ルでしか会う事のなかったオッキと、何年かぶりの再会を果たしたのである。 「暁君!」「オッキちゃん!」 オッキはすっかり背が高くなり、スタイルもヤンジャのようにスラリとしていた。体つきは大人っぽくなっては いたが、色白の愛くるしい小顔に、小さいながらもクルクルとした黒目がちの瞳は相変わらずだった。いつまでも 人形のようで、それがまた暁の心をくすぐる。 「酔水さん。本当にご無沙汰して申し訳ありません」ミンスは、勉強で大分覚えた日本語で酔水に挨拶した。酔水 は韓国語と日本語を織り交ぜながら「オッキちゃんにはいつもお手紙で仲良くしていただき、暁も大変喜んでおり ます」と挨拶した。 「お父さん。ヨンミョンおじさんはいつ仙台に来るの?」 「もう間もなくここに来るよ。今空港からちょっと別ルー トを通っててね。そうそう!仙台空港に、ヨンミョンおじさんの新しい友達が来てくれているらしいんだ。元々は ファンだったんだけど、何だか不思議な縁で結ばれている人達らしくてね。」 「新しい友達」とは信太郎夫婦の事だった。彼らとヨンミョンとは、ヨンミョンがソウルで歌手生活復帰に向けて のゲリラライブを開いた時以来の付き合いである。信太郎夫婦に赤ん坊が生まれる事をヤンジャに教えられたヨン ミョンは、信太郎にメールで連絡を取り、仙台空港でもう一度会おうという約束をしたのである。信太郎達がヨン ミョンの歌手生活復帰に大きな後押しをしてくれた恩をヨンミョンは深く感謝しているし、ヤンジャの元同僚であ る譲太郎の兄達であるという事も、ヨンミョンとの絆を深めることとなった。信太郎達はただのヨンミョンファン ではなく、まさにヨンミョンの新しい友達なのである。 「こんにちは暁君!」ヨンミョンが信太郎夫婦を連れて暁達の泊まるホテルに来てくれたのは、それから 20 分後の 事だった。 「おじさん!」 「おじさんこんにちは!」暁もオッキも、久しぶりのヨンミョンとの再会に大喜びしているようであ る。「暁君大きくなったなあ。オッキと同じ学年だったよね?確か…」 「はい。4 月で中学 2 年になりました。」 「初めまして。私、美姫です」色白の小顔をほころばせながら可愛らしい声で挨拶する美姫の顔は、まるでオッキ の 10 年後を見ているようである。暁はその姿にポーッとなってしまい「あ…こんにちは…」と満足な挨拶が出来な い状態だった。 「こら暁!お姉ちゃんにちゃんと挨拶しろ!」酔水が暁を叱ったが、美姫は逆に信太郎から「ダメだってば美姫ち ゃん!美姫ちゃんが男の子に挨拶するとこんなにメロメロなんだからっ!」と怒られている。 「信ちゃんも暁君達に挨拶しなさいよ」美姫は弟を叱るように信太郎に注意する。 「暁君だったっけか?ヨンミョン の仙台ライブ、一緒に楽しもうな」信太郎はお兄さんらしく笑顔で挨拶した。「アンニョンハセヨ、オッキちゃん」 もちろん、オッキにもちゃんと挨拶をする。 「あっ!これ…」暁は、信太郎達が持っているフェルトの人形に目が留まった。 「アハハハ…これはね、このお姉ちゃんが作ってくれたんだよ。ほら!これがお兄ちゃん。面白いでしょ?美姫ち ゃんもほら、可愛いお人形見せてあげて!」信太郎は笑顔で得意げに美姫に呼びかけた。 「わあ!これもすごく可愛い!」美姫の人形は、イチゴのエプロンを身につけてリンゴを持っている姿だった。暁 はこの 2 つの人形をじっとじっと見つめていた。食い入るように、じっとじっと見つめている…。 「久しぶりの仙台だ。」 成田空港で東京入りし、法人本部に寄ってから新幹線で仙台にやって来た譲太郎は、久しぶりに訪れる故郷の空 気を思い切り吸い込んだ。別の新幹線では、上司と共に仙台入りした大輔の姿もある。 「大輔。お前、何持ってるんだ?」 「ア…アハハハ…。義理の妹が作ってくれたんですよ。何か、これすっげえ気に 入っちゃって…」「お前、人形持って喜ぶようなヤツだっけか?」「いや。本当は興味ないんですけど、何かこれだ けは気に入っちゃったんですよ。木戸さん、俺の事何か誤解してないですか?」 ハハハハ…と笑い合いながら、大輔と上司の木戸は新幹線ホームを歩く。木戸という男は、かつて大輔と同じ部 署で共に働いていた仲の良い上司である。大輔は今年の春、木戸の部署に異動してきたのである。3 月まで勤めて きた所には村主恵美子というお荷物のような女上司がいたため、大輔はストレスで胃潰瘍になった事もあった。恵 美子の問題行動は今でも職場の悩みの種であるが、彼女は口で注意しても直らないタイプであるためか、今や職場 の者達全員が諦めている状態である。大輔は木戸のいる部署に異動して来られたのが本当に嬉しかった。静香の部 署からは離れてしまったが、自宅に帰ればいつも一緒なのだ。 「ほら大輔!いつまでも眺めてないで人形しまえよ!」「そうですね。じゃあ、内ポッケに入れとくか…。」 大輔は肌身離さず人形を持ち歩いていた。この人形がまさか、大輔にとって大きな役割をもたらす事になろうと は、この時は知る由もない事であった。 仙台駅を出て、大輔と木戸の二人は宿泊先のホテルに向かった。 ホテルは繁華街の一等地にあるビジネスホテルだが、決して安くて粗末な所ではない。実はすぐ近くにヨンミョ ン達のホテルもあるのだ。譲太郎は、スムサン仙台事業所に向かうシャトルバス乗り場の近くにホテルを予約して いる。 信太郎達はヨンミョンを仙台空港まで迎えに行ってホテルまで同行。酔水達にも挨拶をした後で仙台市内の自宅 に戻る予定だが、酔水達と初めて会ったという事で、その日は豪華に全員で食事をする事となった。信太郎達にと っては思いがけない幸運である。その時、信太郎の携帯電話に譲太郎と大輔からのメールが届いていた。 「ひやあ! すっげえ偶然。兄貴も譲太郎もここの近くのホテルだぜ!」 「わあ。もしかしたら会えるかも知れないね。でも、出張先で泊まるホテルっていったら、大体この辺なんだよね」 美姫は信太郎の言葉に笑って答えていた。 譲太郎はホテルに着くや否やベッドにゴロンと寝転がった。ナンビルが一緒の時は結構気を遣う事が多いが、今 回は一人だけでここに来たのだ。書類の整理よりも先に長旅の疲れを癒したかった。 一方の大輔は、ホテルに着いても休む暇はなく、午後 4 時には農協会館で東北農政局の職員らと共に翌日以降の 打ち合わせを済ませ、夕方には会食の予定が入っている。明日は朝から農政局の職員達と同行し、会議に出席した り農場の視察に出かけたりする事になっている。束の間の自由時間、大輔は駅前周辺で職場の土産物を買って帰る 事にした。 その時、ウェルワークの高橋も東京方面に出張し、夕方には仙台に戻る予定になっていた。彼の携帯電話には由 姫からのメールが入っている。由姫が派遣先企業を辞める直前、彼女はメールアドレスを変えた。中庭からのメー ルがしつこかったからである。もちろん高橋には新しい方のアドレスを教えてある。 (元気ですか?太田さん。僕は今日、東京出張から帰って来ました。もし単発の仕事のご相談などありましたら、 遠慮なくお電話を下さい。) (メールありがとうございます。私は今、公務員試験に向けて追い込みの学習に入っています。5 月の連休明けに は模擬試験もあります。頑張らなくっちゃ☆)二人は恋人未満だが、いい関係を保っているようである。 だが、そんな最中に不穏な動きは始まっていた。中庭の悪友達が仙台駅前をうろついていたのである。その中の 一人、村上という男の知人に探偵事務所やら興信所の関係の者がいて、高橋崇彦の行動計画を隈なくチェックして いた。いよいよこの日は、高橋に対する攻撃が始まろうとしているのであった。 間もなく高橋は駅から自社ビルに向かう所である。だが、高橋は自社ビルに向かう途中で駅ビルのトイレに入っ た。その時、大輔が駅ビルの土産物屋周辺を歩いていたのだ。東京の同僚達が喜びそうな物と言ったら、やはり「萩 の月」かな? (来たぞ!) 中庭の悪友達が大輔の姿を捉えた。丸っきり人違いである事を知る由もないまま、彼らは大輔の前に立ちはだか り、後ろから脚を蹴飛ばして羽交い絞めにする。 「うわっ!」 大輔はあえなく連れ去られてしまった。目撃者は誰もいないかのように見えた。 「何するんだよテメエ!」「うるせえ!大人しくしてろ!!」 その時、暁は酔水と共に駅ビルで買い物に出ていた。事件の幕開けであった。 「ねえお父さん。俺、学校の友達に何かお土産買ってっていい?」 「じゃあお父さんと一緒に見て行こう。あっちに 土産物屋があるだろ。」 酔水と暁は、今自分達の歩いている付近でついさっきあった出来事など全く知らない様子であちこち歩き回って いた。いろいろ土産物を物色しているうちに、暁はトイレに行きたくなってきた。 「お父さん。ちょっとトイレ行ってくる」 「どこにあるか分かるか?」 「あの店の中のトイレに入るよ」 「そうか。じ ゃあ、お父さんこの辺でお土産見てるから、ちょっと行ってきなさい。」 酔水と一旦別れてファッションモールの男子トイレに入り、用を済ませて土産物屋に戻ろうとした時であった。 人気の少ない階段付近で何やら物騒な言葉が飛び込んできたのである。そこには数人の若い男達が屯していた。 「中庭?ああ…俺。例の男、俺らが偵察した通り、いつも午後 2 時から 3 時くらいまでの間によく駅ビル歩いてる みたいだな。今日はちょっと違う所歩いてたけどな。今日やっと捕まえたよ。拉致して車のトランクに押し込んで ある。俺んちの物置にぶち込んでおくよ。どうするかは知らねえけど、気の済むまで痛めつけてやるから…。」 え!?暁は耳を疑った。もちろん会話の全部を聞いた訳ではないが、 「拉致」という言葉と「痛めつける」という 言葉だけはハッキリと聞こえた。まさか、これ…事件?暁は足が竦んでいた。 「大丈夫だって!絶対バレねえからさ。もしバレそうになったらちゃんと始末するから…」 「おい!あそこに人いる ぜ!」 マズイ!暁は一目散にその場を立ち去った。冗談じゃない!僕は何もしちゃいない!!だけど、今自分が聞いた 話はどう考えたって何かの事件の話だ!こうしちゃいられない!お父さんに言わなくちゃ!!」 「お父さんお父さん!!」「何だ暁。真っ青な顔して…」「大変だってばお父さん!今、この店のトイレから出て戻 ろうとしたら、階段の所で『拉致』とか『始末する』とか怖い話が聞こえてきたんだってば!」 はぁ?酔水は呆気に取られていた。「何バカなこと言ってるんだ。『梨香ママ』の見すぎだぞ。そんな話がある訳 ないじゃないか」 「本当なんだってお父さん!誰か誘拐されてるんだよ!どこかに閉じ込められてボコボコにされて、 下手したら死んじゃうかも知れないんだって…」「暁!少し静かに話しなさい!!」 暁の大声に、付近を歩いている者達はみんなクスクス笑っていた。近くで事件が発生しようとしている事など全 く頭に思い描いていないのである。 「ねえお父さん!警察に言った方がいいよ!!絶対何かあるんだってば!このま まだと誰か殺されちゃうよ!もう怖くて怖くて急いで戻ってきたんだから…」 「その人達の顔とか覚えているのか? 拉致した人をどこに隠したとか…」 「車の中とか言ってた」 「それだけじゃ分からないだろ」 「駅ビルのどこかで捕ま えたみたいだよ」 「そんな曖昧な話じゃ何とも判断出来ないなあ…」 「でも、僕確かに聞いたんだもん!」 「そんなに 言うなら近くの駐在所に届けるけど、お前の話し方だと警察だって調べようがないかも知れないぞ。」 酔水の予想通り、案の定駐在所の警官達は暁の話に首をかしげるばかりであった。男達がどこでどんな人物を拉 致したのか。男達はどこに向かって逃走したのか。拉致した場所を知っているのか。何か一つでも手がかりのある 情報を持って来ない事には何とも動きようがないというのである。もっとも暁の方としても、犯人の男達や拉致さ れた人物の事を詳しく知っている訳では決してなかったので、その辺は自信が持てなかった。ただ、もしどこかで 誰かが行方不明になったり連絡が取れなくなったりしている情報があった時は、暁の話を参考にして捜査する事も 考えるという。駐在所での話はとりあえずここで終わってしまった。 「やっぱりダメかあ…」 「しょうがないじゃないか。警察だって忙しいんだ。ハッキリした情報がなければどうにも 出来ない事だってあるんだ。でも、お前の話は何らかの手がかりにはなるはずだ。まあ、聞き違いだったらいいと 思うんだけどな…。」 聞き違いなんかじゃないんだってば!暁は心の中で反論したが、今更もうどうしようもなかった。ようやく土産 物を買い揃え、ホテルに戻った頃にはすっかり夜になっていた。ヨンミョン達はそろそろ夕飯に向かう準備をして いる。 「ここのホテルのレストランがとても評判が良くて、以前会社の同僚達と飲み会開いた事があるんですよ。もしよ ろしければ、ヨンミョンさんとミンスさん、酔水さん達もいかがですか?」信太郎はいつになく大人っぽいスーツ 姿でヨンミョン達を案内した。暁は相変わらず落ち着かない面持ちだった。 「暁君、どうしたんだい?」「あ…いえ……」「ヨンミョン。こいつ何だか推理サスペンスにハマっててね。時々変 な事喋るかも知れないから、あまり気にしないでくれよ。 」 心配するヨンミョンに酔水が軽く冗談を返したが、暁はすっかり不機嫌になってしまった。オッキはその様子を 見てそっと声をかけた。 「暁君。何があったの?」 「実はね…。お土産買っている途中で近くのお店のトイレに入ったら、すぐ近くで怖い話 が聞こえてきたんだ。『拉致した』とか『始末する』とか『痛めつける』とか言ってさ」「ええ!?暁君何かの聞き 間違いじゃないの?そんな話、普通は人気のいる所じゃやらないわよ」 「でも、シーンとした階段で喋っている所を たまたま聞いちゃったんだよ」「そんなの嘘よ。暁君、絶対何かの空耳なんだってば。」 オッキちゃんにも信じてもらえない。暁はもう何も喋りたくなくなってしまった。だが、暁の話は決して聞き間 違いではなかったのである。すぐ近くのビジネスホテルで、既に事件の騒ぎは起こり始めていた。 「大輔どこ行ったんだよ!!もう打ち合わせの時間とっくに過ぎてるぜ!!」 農協会館から何度も携帯電話を鳴らしている木戸であったが、大輔の携帯電話は電源が切られていた。ホテルを 出る直前からもう既に 20 数回も電話を鳴らしているが、大輔とは一向に連絡が取れない。温厚な木戸はいよいよ腹 が立ってきた。 「木戸さん。小林さんはいつからいなくなったんですか?」「ホテルをチェックインして、『土産物を買う』と言っ て駅ビル方面に向かったのが午後 2 時過ぎでした。3 時までには戻る予定だったんですけど、3 時半過ぎても一向に 戻ってくる様子がないので電話を鳴らしてみたら電波が通じなかったんです。仕方がないので、小林君にメールを 送って打ち合わせに一人で向かいましたけど、この時間になっても全く連絡寄越さないなんて彼らしくありません ね!後で課長に報告して処分を検討してもらわなくては…。」 結局会食は取りやめとなり、木戸は大輔が向かったと思われた駅ビルの土産物屋付近を見回った。あの野郎!出 張抜け出してどこに行ったんだ!会ったら一発張り倒してやる! 「どうも今日はありがとうございました!」 「いえいえこちらこそ。素敵なホテルのレストランをご案内していただ いてとても嬉しかったです。じゃあ、信太郎さんに美姫さん。明日のライブ、ぜひ楽しみにして下さい!」 信太郎夫婦とヨンミョン達が駅ビルの改札付近で別れを告げていたその時だった。「あああっ!!」 暁は、新幹線の改札から下の階に向かう階段の途中で小さな人形が落ちているのを見つけた。これまで誰も気づ かなかったのが幸いだった。これ、もしかして…まさか…。 「どうしたの暁君」 「これ…まさかとは思うけど、美姫お姉ちゃんの作ったものですか?何か、感じが似てるんです けど…。」 今度は美姫と信太郎が驚く番であった。「信ちゃん!!これ!!」「兄貴の人形だ!!兄貴、今頃探してるだろう なあ…」しかし、ここで驚くのはまだ早かった。彼らの会話を偶然耳にしていた木戸が、信太郎達が手にしている ものを見つけて無我夢中で話しかけてきたのである。 「大輔!何でこんな所に大輔の人形があるんだ!あいつ、まさかこれを落っことしたまま、どこか遠くへ…。」 え!?もう何が何だか訳が分からなくなってきていた。「あの…あなたは…どなた…。」 「申し訳ありません、いきなり話しかけて。私、農林水産省の木戸と申します。東京から出張に来ていたんですが、 一緒に出張に来ていた者が、今日の午後 3 時過ぎにこの辺で買い物に行くと言ったまま戻ってこなくて連絡が取れ なくなっているんです。これ、彼が持っている人形なんですが、何でまたあなた達が…。」 落ち着け!もう一度最初から話を整理して考えよう!信太郎は一生懸命考えを巡らせているが、何が何だか混乱 してどうしても真相にたどり着けない状態になっている。だが、いち早く酔水がピンと気づいた。 「暁!もしかしたらお前の話、すごく役に立つかも知れないぞ。 『拉致された』という人は、ひょっとしたらこの人 形の持ち主かも知れない。とにかく、俺達全員でもう一度警察に行ってみよう!」 もちろん、これはまだほんの取っ掛かりに過ぎない話であった。だが、大輔が何者かに連れさらわれた話はどう も間違いがなさそうである。信太郎達と酔水達、農水省の木戸は、そのフェルト人形を持って駅ビル構内の駐在所 に立ち寄った。美姫の作った人形が、思わぬ形で「お守り」になったのである。 大輔の行方不明事件は非公開で捜査される事となった。もちろん、早期解決が何よりの望みであるから、公開捜 査に切り替えられる事のないように願いたいものである。大輔と連絡が取れなくなり、土産物を買うために立ち寄 ったと思われる場所で人形が見つかった事。複数の男達が何者かを拉致したと思われる話を暁が聞いたという事。 これら 2 つを総合して考えれば、大輔の誘拐拉致の可能性は極めて濃厚であると考えられよう。問題は大輔が誰に よって拉致され、どこに監禁されているのかだ。まずは大輔の交友関係を調べる必要があるが、上司の木戸からに しても信太郎からにしても、大輔が対人関係などでトラブルに巻き込まれているといった話は全く聞かれない。第 一暁が聞いた拉致の話が本当に大輔の行方不明事件にリンクしているのかどうかもよく分からない。全くもって手 がかりの少ない事件である。 この事件は、韓国から出張に訪れていた譲太郎のもとにももちろん伝えられた。譲太郎はなかなか信太郎達の所 に現れなかったが、仕事に一応の区切りがついた午後 10 時過ぎになり、譲太郎はようやく信太郎の泊まるホテルに やって来た。当然ひどく取り乱している。仙台への滞在期間は 5 日間の予定だが、大輔の安否によってはその期間 が長引く可能性もある。出張の全日程が終わっても大輔の行方がハッキリしない場合、あるいは大輔の身にもしも の事があったような場合は、譲太郎はソウルのナンビルの所に連絡をし、帰国が遅れる事を知らせなければいけな くなる。 「あなたが、小林譲太郎さんですね」「はい」「出張のお忙しい中に突然のお話で驚かれている事かと思いますが、 お兄様の安全のためです。これからお聞きする事に、分かる範囲で構いませんのでお答え下さい。お兄様の大輔さ んは、以前から何か人間関係などでトラブルを抱えているといったような事をお話されませんでしたか?」 木戸や信太郎に聞いたような事と同じ質問を繰り返す刑事。だが、大輔を狙うような人物の存在を確かめる事は、 これからの捜査において非常に重要な事なのだ。だが、譲太郎の口からも大輔の事件の予兆を窺わせるような証言 は得られなかった。一体大輔の身に何があったというのか。この後は土産物屋付近を中心に、通行人らからの聞き 込み捜査に全力を挙げる事となる。 一方、こちらは小林大輔を拉致監禁グループの面々達。犯行を指示した中庭と事件の首謀者である村上らは、今 後の計画について綿密な計画を練っていた所である。大輔は今、村上の家の物置に監禁されている。村上というの は、以前ウェルワークからの紹介でヤンジャや譲太郎の勤めていたスムサン仙台事業所の派遣スタッフとして働い ていた村上美代子の兄の事である。美代子は現在実家を離れて一人暮らしをしているが、兄の行宏からウェルワー クの高橋の事について聞かれた際、「あの人感じ悪くて嫌あ~い」と言いつつも、「でも顔はチョ~カッコよかった の」と言いながら当時の写真つき名刺を出してくれたのである。まさかその名刺の顔写真データが拉致監禁事件に 使われるとは夢にも思っていないであろう。スムサン派遣当時は非常識な仕事ぶりでヤンジャ達に迷惑をかけた美 代子であったが、拉致監禁事件の材料として名刺の写真を利用されていたと知らされれば当然驚くに違いない。 「なあ。監禁した高橋とかいう野郎。これからどうするよ?」 「まずはお前らに任せた。俺、今会社の仕事忙しくて さ」 「健助は新しい部署に異動してきたばかりで余裕ねえ時だもんな。だから、高橋をフクロにすんのは俺らに全部 任せろ。落ち着いたらお前にも仕返しさせてやるよ。」 悪党達は、物置に監禁した大輔を人違いだとも知らないで延々と暴行し続けていた。大輔は何が何だかさっぱり 分からなかった。俺が何したって言うんだ?だが、両手両足を縛られて口にも猿轡を噛まされている状態では、逃 げる事も叫ぶ事も出来ない。食事は、村上がたまに物置に入って両手と口を一時自由にさせて少量のパンなどを与 えている。 「大丈夫だ。大人しくしてりゃ殺しゃしねえよ」村上はそう言って大輔を安心させようとするが、大輔に はこんな酷い仕打ちを受けるいわれがさっぱり分からないため、 「どういうつもりなんだよ?」と、村上に何度も理 由を聞くばかりだ。だが、村上の口からは全く理由が語られる事はなかった。 「理由は…落ち着いた頃に教えてやる よ。お前の事を一番恨みに思ってる奴からな。そうなった時、お前はやっと分かるはずだ…。」 ますます分かんねえ!大輔はさすがに怒り狂いそうになったが、ここで暴れたり抵抗したりなどしようものなら 命を取られかねない。大輔だって自分の命が守れないほど無鉄砲な男ではないのだ。ここはひとまず大人しく言う 事に従い、頃を見計らって逃走を図る事としよう。今はそう考える事だけが精一杯だった。 大輔の拉致監禁から一夜明けた翌日。イ・ヨンミョンと酔水のライブは予定通りに実施された。大輔の拉致監禁 事件は非公開で捜査されているため、彼らの間で事件の事について触れるのはタブーであった。ヨンミョンも酔水 も非常に胸が痛んだ。だが、今は警察を信じて事件解決を願うしかない。 ライブの中で、ヨンミョンは信太郎夫婦に捧げる特別の歌「僕らの Star」の新バージョンを披露した。信太郎夫 婦に今年の秋赤ん坊が生まれる予定であるという事を知り、これまでの歌詞に新しいフレーズを一部追加したもの である。 未来の Star ♪これから生まれる 幾千万の銀河の中に 新しい仲間が 加わるのさ 信太郎と美姫は、ヨンミョンの粋な計らいに感動し、アリーナの最前列でそっと涙した。ライブコンサートは本 当に素晴らしかった。暁もオッキも、久しぶりのヨンミョンの生歌を大喜びしていた。ライブは翌日も行われる予 定であるが、信太郎と美姫は翌日の予定をキャンセルし、大輔の行方不明事件の情報を待つ事とした。オッキは学 校があるため、翌日の昼の便で韓国に帰る事にしている。暁は日曜日の昼公演が終わり次第、母親と共に東京に帰 る予定である。 ヨンミョン達のライブを楽しみながらも、信太郎達の内心は大輔の安否が気になって仕方がなかった。譲太郎は 出張期間中であるため、この日は土曜日でありながらも一日中事業所の視察とホテル内での書類整理に追われてい た。明日の日曜日は自由行動だ。その日は信太郎に付き合い、大輔の拉致監禁事件について出来る限りの事をした いと思っている。出張の期間中に大輔の無事が確認できればいいのだが…。 ライブコンサートが終わった夜。信太郎夫婦と譲太郎の 3 人は、仙台市内のレストランに集まった。 「なあ信兄ぃ。兄貴が失踪したと思われる時間帯に、信兄ぃはどこで何やってたんだ?」 「俺らはヨンミョン達を空 港に出迎えてホテルに案内し、そこで自己紹介していろいろ話し込んでた時だったよ」 「その時確か、酔水の息子が 駅構内うろついてたって話だよな」 「ああ。M-PAL のトイレで用済ませて土産物屋の方に戻ろうとしたら、階段の 所で誰かケータイで話してる会話が聞こえてきたらしいんだよ。それが何だかすっげえ物騒な内容だったみたいで …」 「物騒な内容ってどんなだよ?」 「『拉致した』とか『痛めつける』とか言ってたらしい」 「すぐ警察届けたのか?」 「手がかりが少ないと動けないって相手にしなかったらしいぜ」 「でも、駅構内の土産物屋の近くに兄貴の人形が落 ちてたのを見たわけだな」 「あれがなかったら、兄貴の失踪自体なかった事になってたんだ。その点は警察が早く動 いてくれるきっかけになったと思うんだけど…」「手がかりが少ないんじゃどうしようもねえなあ…。」 「う…。」 監禁された物置小屋の中で携帯電話のアラーム音が鳴った。大輔はいつも、自分の携帯電話を午前 6 時に目覚ま し設定しているのである。失踪直後に犯行グループが事件発覚を恐れて携帯電話をオフにしていたのだが、物置小 屋にその携帯電話を残したままにしていたのは失策だった。大輔は自由の利かない手でアラームを解除した。その 直後、携帯電話がメールを 2 件着信した。サブディスプレイを見ると、いずれも上司の木戸からのメールであった。 木戸さん…。大輔は不覚にもそこで涙を流してしまった。くそう!こんな所で泣いて堪るか!何としてもここから 脱出する術を見つけない事にはどうしようもない。それにしても、あいつら何の目的で俺を拉致してボコボコにし てるんだ?俺はずっと東京に住んでいるし、あんな奴らの事なんて見た事も聞いた事もねえ!東京でだって俺は人 に恨まれるような事は何もしちゃいねえ!頭イカれてるんじゃねえのか!?大輔は怒りで爆発しそうになっていた。 「とにかく、ケータイの電源を一旦切らなきゃいけねえな。で、このケータイは自分の尻のポケットにでも入れて …。」 自由の利かない両手でなかなか思ったように携帯電話の操作が出来ない大輔だったが、何とか電源を OFF にする 事だけは出来た。だが、その携帯電話を自分のズボンのポケットに入れる事だけはどうしても出来ない。くそう! これじゃああいつらにケータイぶんどられて好き放題されちまうじゃねえか! ぐずぐずしているうちに村上が物置小屋に入って来た。 「ほら!飯だ」今日もパン 1 個だけであるが、今の大輔に空腹感とか食欲というものは全くなかった。とにかく今 本当に腹立たしいのである。恐怖感より何より、自分がどうしてこういう所に放り込まれないといけないのが分か らなくて腹立たしいのだ。 「ケータイ預かってくぜ!こんなのこの辺に置いといちゃ、いつどんな時何されるか分かねえからな!」 こんなぐるぐる巻きにしておいて何されるもクソもひったくれもねえ!!大輔は縛られたままの足で物置小屋の 壁をドンと蹴飛ばした。村上はその物音に構う様子もなく、またいつものように監禁仲間達の集まる所に出かけて いった。中庭はこの日、会社の接待ゴルフで早朝から出かけている。 「よう!あれからあの高橋の野郎はどうしてる?」「とりあえず逃げられねえようにはしてあるよ」「どうするよ? 中庭に仕返しさせるまでは、とりあえず無事にさせておくんだろ?」 「まあ、中庭の希望はあの野郎を滅多打ちにす る事だろうからな。あいつを殺そうがどこかに捨てようかは全て中庭の好きなようにさせてやるよ」「とりあえず、 偽装メールでも送っておくか?ケータイの電源、切りっぱなしだけどな」 「ずっと連絡取れねえとさすがにサツが動 くだろうからな。」 悪党達は大輔から奪った携帯電話の電源を入れた。すると、メインディスプレイに「新着メールあり 2 件」とい う表示が出ていた。大輔がさっき見ようとして見られなかった木戸からのメールが未開封の状態になっているので ある。 (大輔。土産選びにいつまでかかってるんだ?もう 3 時半だぜ。早く戻って打ち合わせの支度しろよ!) (大輔!メール読んだのか?俺先に行くぞ!農協会館の 3 階会議室まで直接来いよ。) 「おい。ウェルワークの担当営業の名前、何つうたっけ?」「高橋崇彦」「メールに大輔って書いてあるけど、もし かして間違いメールか?」「マジかよ?」「他のメール見れるか?」「ああ。ちょっと待ってろな。」 悪党達はようやく何かがおかしいと気づき始めた。携帯電話の中には、上司の木戸の他に妻の静香、弟の信太郎 と譲太郎、部下の町田からのメールなども入っていた。町田からのメールには「小林さん」という記載まで入って いた。 「おい…やべえよ。これ、完璧に赤の他人だぜ…」「顔そっくりじゃねえかよ!」「やべえ。中庭にどう説明つける んだ?」「それよりあの男どうするんだ?」「本物の高橋を捕まえるまではあのままにしておくしかねえ。ここでヘ タに放しちまうとサツにパクられるし、中庭にも説明がつかねえよ…。」 翌日の月曜日、上司の木戸は仙台出張最後の日を東北農政局の会議室で過ごしていた。本来なら今日の午後 3 時 の新幹線で大輔と共に東京に帰る予定なのだが、その時間を過ぎても捜査に何の進展もなければ、木戸は所属長に 出張先での経緯を報告し、その指示を仰ぐことになるであろう。長い間農水省に勤め続けてきてこんな事件に巻き 込まれるなんて前代未聞だ。一体小林大輔は誰と何のトラブルを起こしていたというんだ。心当たりがないのが何 とももどかしい。 「木戸さん。あれから、大輔の情報は何か入ってきていますか?」尋ねてきたのは、東北農政局の柴田という職員 だった。大輔の元同僚で、今年の春から東北に出向してきている。 「いやあ…。捜査に何の進展もないみたいだ。そりゃそうだろうな。だって、あいつが事件に巻き込まれるような トラブルなんてあると思えないからなあ…。」 大輔の行方不明事件は非公開で捜査されてはいるが、実家の両親や妻の静香には当然、大輔の失踪の話は伝わっ ている。母親の純代はショックで倒れてしまい、純二は取り乱すばかりで信太郎と譲太郎を呆れさせている。静香 は仕事のために東京の家を空けるわけにも行かず、仙台からいい知らせが来るのを信じて待つばかりの生活だとい う。 一方、信太郎は重苦しい気分を抱えたまま業務に就いていた。事件に関与しているはずの中庭は何事もなかった かのように振舞っている。 (くそう!誰か教えてくれるヤツはいないのか!?一体兄貴はどこに行ったんだ?) 「あれ?中庭さん。今日は帰り早いんですね?」「ああ。ちょっと寄る所があってね。」 中庭の向かう所は、高橋と間違って大輔を監禁している村上の家だった。約束だと今日が高橋に復讐をしてやれ る日のはず。弾む心を抑えきれずに、中庭は携帯電話で村上を呼び出そうとした。ところがだ。 (悪い!中庭。ちょっと事情があって!高橋の復讐、ちょっと今日は見合わせ!) え?何でだよ?彼にはもちろん知らされていなかった。今物置にいる男が「似せ高橋」だという事を。腑に落ち ない中庭は、村上の携帯電話に電話を入れた。村上はなかなか出て来ない。 (何でなんだよ…。俺、あいつボコボコに出来るの楽しみにしてたのに…。そのために、物置小屋の合鍵も貸して もらったっていうのに…。) 中庭はタクシーに乗り込み、途中の交差点で降りてそこから歩いて村上の自宅前までやって来た。家の中は真っ 暗である。おそらく家人も誰もいないのだろう。もう待てない!中庭は家の門をこじ開け、こっそりと裏口に侵入 した。バレたら不法侵入だ。だけど、今日は約束の日だったはずだ。約束通りなら、今日は村上の家に午後 6 時半 に着き、村上の家で夕飯をご馳走になった後で物置小屋に案内してもらい、そこで高橋を痛めつけるという段取り になっているはずだ。村上自身も、過去に理不尽な理由で女性にふられた経験があるため、今回の中庭の境遇は非 常に理解していた。だから、本来なら他人に貸さないはずの物置小屋の合鍵を中庭に貸したのだ。村上の家は両親 が離婚していて、家に残っている母親は水商売をしている。いつも家の中には、ほとんど外に出て来ない祖母だけ がいるという状態だ。だが、今夜はどうもその祖母の姿もないようである。 「あった!物置小屋だ!」 中庭は乏しい明かりの中をこっそりと前に進み、物置小屋の入口にたどり着いた。合鍵を使ってドアをこじ開け ると、中にはグッタリしたまま動かない大輔の姿があった。 (おおっ!) 携帯電話の照明で照らしてみると、確かにそこには自分が思い描いていた男の姿がある。何だ、高橋ちゃんとい るじゃんか。一体何があったっていうんだよ。ん? 「おかしいな。あの男、顎鬚なんか生やしてたっけ?」 中庭は不審に思った。自分の記憶の中では、高橋崇彦は髭を生やしていなかったと思うからである。実際、高橋 の顔には髭は全くなかった。だが、小林大輔は顎の下にうっすらと髭を蓄えている。記憶違いかな?この野郎!! 中庭は脚で大輔の体を思い切り蹴飛ばした。大輔は「ううっ」と呻き声を出したが、ずっと縛られたままで力尽き たのか、全く抵抗する術も見せなかった。 (ツバひっかけてやれ!)そう思って中腰になった時、中庭は大輔の左手に目が留まった。 「指輪?こいつ、既婚者だったのか?既婚の分際で俺から由姫ちゃん取り上げやがったのか!ますます許さね え!!」 中庭は、大輔の体をサッカーボールのように執拗に蹴り続けていた。見れば見るほど腹が立って仕方がなかった。 強く蹴り、馬乗りになり、握りこぶしで頬を殴りつけ、大輔の体は傷だらけ痣だらけになっていた。中庭はハアハ ア息を切らしたが、まだ何か物足りないような気がしてならなかった。 (殺してやりたい!) 中庭の脳裏に殺意が過ぎった瞬間、物置小屋からの物音に気づいた村上の祖母が「泥棒おおぉぉ~~~っ!」と 大声を出したから大変だった。さっきまで、部屋の奥で静かにお経を上げていたのである。 「やべえ!」 中庭は一目散に物置小屋を後にした。奥の部屋から外に駆け出した村上の祖母は中庭に突き飛ばされた。間一髪 であった。 「おい!マジでやべえよ。明日ぜってえウェルワークの高橋連れて…」「おい村上、婆さん倒れてねえか?」 村上が駆けつけると、祖母は孫の姿を見て言った。 「行宏かい?ああ…今さ…、物置小屋に泥棒が入ったんだってば…。捕まえようと思ったんだけど婆ちゃん脚が悪 いんでね、走る事も出来なくて泥棒に突き飛ばされてね…。」 まさか!村上が物置小屋に駆けつけると、物置小屋のドアが開け放たれ、中で傷だらけになって横たわっている 大輔の姿があった。 「中庭だ!あいつに合鍵貸してやったために…」「婆さん、この中の様子見てねえよな…。」 村上達は物置小屋のドアを急いで閉めた。「何か変わった事はなかったかい?」祖母は何も知らない様子である。 「大丈夫だって婆ちゃん!何でもなかったよ!!」 危なかった。だけどえらい事になった。中庭はまたここに来る可能性がある。今日は真っ暗だったから気づきに くかったが、そのうち本物の高橋を連れてこない事には…。村上の胸はドキドキしていた。 公務員試験の勉強も一段落し、由姫は久しぶりに仙台駅周辺の街中まで買い物に出ていた。春もたけなわだし、 そろそろ新しい夏物を買おうかな?そう思って仙台駅前のブティックに立ち寄った時の事だった。 「中庭さん!」 由姫は顔を引きつらせた。何でこんな所で中庭さんに会わないといけないの?由姫は逃げようと思ったが、思い 切り目と目が合ってしまったからどうしようもなかった。中庭は以前のような笑顔で話しかけてきた。 「太田さん、久しぶりだね。最近、全然連絡して来ないんじゃない?」 当たり前じゃないの。あなたなんて嫌いだからよ!そう言いたい所を堪えていた時、中庭が得意満面の笑みで由 姫に言葉を投げつけた。 「君の好きな人って、派遣会社の営業のあの人でしょ?でも、あの人はやめた方がいいよ。結婚してるし。俺ハッ キリ見ちゃったもん。指輪してる所!」 何ですって!?由姫はぎょっとして中庭の顔を見た。 「驚いてるの?太田さん。今まで気づかなかったなんて目出度いもんだなあ。」 中庭は勝ち誇ったような顔でその場を立ち去ったが、由姫の頭の中では全く違う考えが渦巻いていた。 (高橋さんは指輪をしていないはずよ。まさか…信太郎お兄さんが言っていた事件って、まさか中庭さんが犯人っ て訳じゃ…。 ) 中庭にしてみたらしてやったりといった所かも知れないが、彼は意外な形で墓穴を掘っていたのである。大輔の 拉致監禁事件は、こうやって少しずつ綻びを見せ始めるのである。 「美姫ちゃん。ヨンミョンからメールが来たよ。あれから、お兄さんの拉致監禁事件、どうなってるかって…。」 信太郎はいつもの明るさがなかった。事件から 3 日経っても何の手がかりもないからである。今日一日会社で過 ごしている間も、出先に出ている間も、信太郎は気持ちが休まる事がなかった。譲太郎も明後日には韓国に帰る事 になる。あいつに心配をかけさせないためにも、あと 2 日のうちに大輔に関する安否情報、しかも無事であるとい う情報が届いてくれないと困る。 由姫は頭の中が混乱しそうであった。中庭さんのあの言葉…どう考えても大輔さんの事を言っているとしか思え ないわ。高橋さんと大輔さんがあまりに酷似しているという所も確かに不思議だけど、大輔さんの失踪事件が非公 開で捜査されている最中に、大輔さんに会った事もないはずの中庭さんの口から大輔さんの特徴と思しき言葉が出 て来た。でも、中庭さんは大輔さんの事じゃなくて高橋さんの事として私に喋りかけて来たのよね、指輪をしてい るって…。一体どういう事なのかしら? 由姫は考えれば考えるほど頭が混乱しそうであった。中庭さん、どう考えても大輔さんの事を間近で見ていると しか思えない。しかもあの人、大輔さんと面識がないはずなんでしょう?少しでも知っているならともかく、全然 名前も顔も知らないはずの大輔さんの事を…それとも誰か別の人と勘違いしているとか…。そうよね。きっと、誰 か他に似ている人がいるんだわ。大輔さんや高橋さんに似た人がこの辺にいて、その人の事を見て高橋さんと間違 えて私を挑発するような事を言っていた。そうよ、そうに決まっているわ。でも、大輔さんや高橋さんに似た人が そんなに沢山いるものかしら?由姫はあれこれ考えたが、まさか中庭が高橋を激しく憎悪し、高橋と間違えて大輔 を捕らえて暴行しているなんていう事はさすがに考えられなかった。 中庭達に人違いで拉致されたとはいえ、大輔は悪運の強い男であった。もし中庭が大輔を捕らえて早々から他の チンピラ達に混じって暴行に関わっていたとしたら、あの中庭の事だ。憎しみと集団心理が手伝い、高橋と間違え られた大輔は身に覚えのないまま執拗なリンチを受け、下手をすれば絶命していた可能性だってあったであろう。 中庭も中庭なら、拉致事件を計画して主導的に犯行に及んでいたリーダー格の村上、そしてその他の悪党達も間抜 けな連中である。人違いで大輔を拉致してくる犯行の杜撰さ、いつ発覚してもおかしくないような、拉致した者の 身柄の隠し方、暴行の手口。何もかもが稚拙でまるで小学生並みである。わずかな手がかりで警察の捜査こそ難航 してはいるものの、やはり杜撰な犯行には必ずボロが出てくるもので、中庭の図に乗った一言と共に、この拉致監 禁事件はついに解決へと向かい始めていくのである。 大輔の拉致監禁から一週間。警察の捜査は依然難航したままで、公開捜査に踏み切るかどうかの段階にまで達し ようとしていた。譲太郎の仙台滞在は予定以上に長引き、彼はソウルのナンビルに「兄が事故に遭った」という理 由で 3 日間出張延長の連絡を入れた。このまま手がかりがつかめなければ大輔は殺されるに違いない。そう思うと いても立ってもいられない状態だ。 その頃、仙台でのライブ活動を終えて東京で創作活動をしていた酔水が、また用事で仙台に向かう事となった。 「お父さん。僕もついてっていい?」暁が真剣な顔で酔水に聞いた。「何だ暁。お父さん遊びに行くんじゃないぞ。 それに、今行ってもオッキちゃんには…」 「そんな事分かってるよ!でも、僕気になるんだよ。あれからあのお兄ち ゃん達の事件がどうなったかって…。」 お兄ちゃん達とは、もちろん信太郎の事である。暁が行った所で解決の手がかりになるというものではないが、 酔水は少し考え、「じゃあ好きにしなさい」と言って暁を仙台に連れていく事を許可してくれた。 大輔の元同僚の柴田がいる東北農政局では、大輔の失踪事件について情報を呼びかけるビラが配られていた。非 公開捜査なので、もちろん第三者に見せる事は許されていない。だが、農政局の職員の間では既に、大輔の失踪は 有名になっていた。本省から仙台に出張に来た職員が急に姿を晦ましたという事で、職員や関係者の間で情報交換 が密かに進められているのだが、どれ一つ解決に結びつかず、大輔の手がかりはつかめずじまいの状況だ。 東北農政局の職員の一人である南里は、このビラを持ったまま同僚の柴田と大輔の上司である木戸との会話を思 い出していた。 (土産物を買うといって駅 2 階の売店コーナーに向かったっきり連絡が取れないんだよ) (大輔、何か悩んでる様子 はなかったですか?)(それがないから困ってるんだよ。行っても無駄だと思いつつ売店コーナーに行ってみたら、 大輔の弟らしき人達が話してて、売店近くの階段にこれが落ちてるなんて言って…。) 「これ」というのが、暁が拾い上げた美姫のお手製の大輔人形である。ビラにも人形の写真が刷り込まれ、 「失踪当 時、近辺に残されていた遺留品です」というコメントが吹き出しつきで載っている。 (こんなの見せられてもなあ…。) だが、信太郎の会社ではある騒ぎが起こり始めていた。 「何だよ無良。お前、真面目に仕事しすぎてエロサイトにでも走り出したか?」 「佐々木!馬鹿な事言ってるんじゃ ねえよ、大変なんだよ。お前これ知ってるか?」 「ん?『暴走ババネロのホームページ』?ああ…時々エッチな小説 書き込まれてるサイトだろ?これがどうかしたのか?」「このスレッドの 50 番目から 62 番目にかけての書き込み、 ちょっと見てみろよ。」 佐々木と名指しされた社員が書き込みを見ると、驚くべき事が書かれていた。それはこの会社に関係する人物が、 今回の大輔拉致監禁事件のカギを握る人物である可能性を示唆した書き込みであった。 (大手通信会社 ND 通信東北支社の社員、同僚社員の兄を拉致監禁か?数日前から挙動不審な言動。) (事件の背景 にオンナの問題か?) (拉致した男と元カノ 更には第三の事件の可能性を匂わせる『指輪物語』?謎の電話の中身 を一挙公開) 「何だか意味が分かんないなあ」佐々木は頭を掻きながら、画面を下にスクロールする。 「この『指輪物語』云々の記事、かなり具体的な事書いてあるぜ」無良が指し示した書き込みの内容はこうなって いた。 (ND の某男性社員、昼休み時間に廊下の脇の自販機近くで暗号のような会話。 「M(電話の相手)。悪いけどこの間 家の物置見させてもらったよ。あいつちゃんといるじゃんか。指輪してるとこまで見ちゃったよ。あいつ既婚なん だよな。既婚の分際で俺の Y ちゃん取るんじゃねえって思って、俺、ボコボコにしてやったよ。え?何そんなにビ ビってるんだよ。大丈夫だって!ちゃんとバレないようにするからさ」会話の中身はこんな感じである。この男は 果たして何の話をしていたのか?もしかしたら、例の事件の重要参考人なのか?) 「これ書き込んだ奴、多分裏切り者だよな。だって、この会話だけじゃ何の事言ってるのか全然分かんないはずな のに、何だかもう全て知ってるかのような書き込みしてるもんな」無良は名探偵のような顔つきで呟いた。大輔の 拉致監禁事件の話題は報道されていないため、信太郎の会社の中でもこの事件について知っているのは一部の部署 の人間だけである。 「この書き込み、何とか保存しておけないかな?何か、いい証拠になりそうな気がするんだ…。」 だが、会社のハードディスクやフラッシュメモリなどを使うわけにはいかない。無良は画面の内容をハードコピ ーし、それを手元に保存しておくことにした。そして、事件の解決について何かを掴もうとしている暁も、間もな く仙台に向かおうとしているのであった。 「やべえよ村上。中庭にバレねえうちに、本物の高橋さっさと拉致してやろうぜ」 「今捕まえてるヤツはどうするん だよ?」「本物の高橋が見つかったら解放してやるしかねえだろうな」「あいつ確か小林とかいう奴なんだよな?あ んなに高橋にクリソツな奴が仙台にいるなんて反則だよな」 「ところでさ、俺らが小林とかいう奴捕まえてる事、警 察はもう知ってるのかな?」 「知るわけねえだろ?まあ行方不明だから捜してるだろうとは思うけどさ、拉致してる なんて事は知らねえ…」「おい!あまりデケエ声出すな!誰かに聞かれるって!」「ところでさ、あの高橋とかいう 奴、いつも本当に仙台駅周辺歩いてるのか?」 「知らねえよ。でも、あいつの会社は確かに仙台駅周辺にあるんだろ?」 「それはもう調べがついている」 「だったらその会社の周辺を張り込んであいつに似た奴捕まえるしかねえだろうが よ!」「とにかく、あんま時間ねえ!!中庭にバレねえうちに…」「おい!誰か来るぜ!」 村上が話し込んでいた所に、酔水の息子の暁が通りかかった。暁はそこでふと立ち止まった。 (あの人達…なんかどこかで見た事ある気がするな…。) 「誰もいねえか?」 「気のせいだろ?誰もいねえよ」村上達は辺りを見回したが、人影はどこにもなかった。暁は電 柱の陰に隠れて息を潜めている。 「とにかくさ、あの小林とかいう奴を早く何とかしねえとまずい事になるぜ!中庭があいつ見たら多分別人だって 気づくだろ?」 「ああ。まずは本物の高橋をどっかで拉致して捕まえて、今いる小林と入れ替えて物置にぶち込んで おく!」「バレねえように上手くやってくれよ。どっちかに見つかったら俺達一巻の終わりだからな。」 暁は震え上がっていた。やっぱり間違いない!あの時仙台駅前の店のトイレ前で話し合っていた人達だ。あの人 達が犯人なんだ!でも、どうやって追いかけよう。早く何とかしないと、信太郎さん達のお兄さんが殺されるかも 知れない。 仙台滞在が長引いた譲太郎は、信太郎達と共に大輔の行方を捜す作戦に出ていた。出張の全日程はとっくに終わ っているのだが、大輔の行方について何の手がかりも得られなくて心配ばかりが募る。早く警察の捜査に進展が見 られることを祈りたいのだが。だが、そんな矢先の事だった。 「ああっ!ないっ!」「どうしたの?信ちゃん」「スーツの内ポケットに入れていた兄貴の人形がないんだよ!どっ かで落としたかも知れない!どうしよう!!」 「えええっ!?あの人形、せっかく時間かけて大輔さんに似せて作っ たのに!!」 信太郎と美姫は呑気な会話を交わしているが、まさかその人形が思わぬ人間に拾われていたとは思ってもいなか った。そして、それが事件解決の重要な手がかりへと繋がるのである。 「あれ?」 信太郎が先ほど歩いていた道を、偶然高橋崇彦が通りかかった。道路の上には、自分と姿かたちのよく似たフェ ルトの人形が落ちている。 「これ、俺によく似てるなあ。誰が作ったんだろ?着ている服は俺のものと感じが違うけど、何だか見てたら妙に 愛着わいてきたなあ。他人のものだと思うから警察に届けた方が良さそうだけど、一応とりあえず俺が持っている かな?」 高橋は美姫の作った大輔人形を拾い上げ、自分のスーツの内ポケットに忍ばせた。ちょうどその時だった。 「いたぞ!高橋崇彦!!ついにここで発見だ!!」 「おおっ!あいつに間違いねえ!あの小林と瓜二つだけど、こっ ちの男は絶対に高橋だな」 「ウェルワークのすぐ近くだ!よ~し!間違いない。こいつをとっ捕まえて拉致してしま え!」 村上達はいっせいに高橋を取り囲み、高橋の脚に蹴りを入れて転倒させると、そのまま大勢で押さえつけて縛り つけ、そのまま車に連れ込んでいった。 「何するんだ君達!」 「うるせえ!おとなしくしてろ!!とうとう捕まえたぜにっくき野郎め!お前こそ中庭が探し ていた標的だ。今いる奴と引き換えに、今度はお前が物置に入ってもらうぜ!」 ついに事件は最悪の展開を迎える事となってしまった。本物の高橋がついに捕まってしまったのである。 だが、信太郎の会社では既に事件について急展開が起こっていた。無良と佐々木が見た掲示板の書き込みの記事 を巡り、会社中で様々な憶測が飛び始めていたのである。 「この書き込み書いた奴、誰だ?」 「どう考えたって小林さんの兄貴の事だろ?事件の事詳しく知ってる奴の書き込 みだよ」「うちの会社に真犯人がいるみてえな書き方じゃねえかよ!書いた奴特定して一度話聞きてえなあ!」 あまりの騒ぎに、中庭の体がブルブル震えていた。もちろん、書き込みの犯人は中庭ではない。誰が書いたのか は知らないが、恐らく普段から中庭の態度を不審に思い、彼の言動をこっそりと尾行して電話を盗み聞きし、電話 で話した内容を面白おかしく脚色して事件に関連があるかのようにデタラメな書き込みをした者であろう。だが、 皮肉にもそれは大輔拉致監禁事件の真相をほぼ正確に見抜いた内容となってしまっていた。それが、中庭を窮地に 追い詰める事となったのである。大勢の人間達には真実を知らなくとも、天地は全て悪事を見通し、天罰を下そう としている。悪い事は出来ないものなのだ。 大輔の親友の柴田と南里のいる東北農政局でも騒ぎが起きていた。奇しくも、同じホームページ内の掲示板の書 き込みを、農政局の職員達もみんな見ていたのである。 「これ…何だか犯人と関係ある奴の書き込みみたいだけどなあ…」 「だとしたら何でまたこんな…」 「決まってるさ。 どうせ仲間割れだろ?」「だけどこれ、本当に木戸さんが探している人の事件のやつかなあ…」「そうとしか考えら れないだろ?」 そして、この掲示板の書き込みについては、由姫の目にも触れられることとなった。由姫の携帯電話に、八木沼 からメールが届いていた。 (太田ちゃん。今話題の「暴走ババネロのホームページ」知ってる?そこに大変な書き込みが載ってるよ!うちの 会社の人が、小林さんのお兄さんを拉致監禁した事件に関わってるって書いてあるの!あたし怖いよ!何かの間違 いだといいんだけど!) だが、由姫にはもうこれで全てが分かった。間違いない!大輔さんの事件の犯人は中庭さんだわ!だから中庭さ ん、大輔さんの指輪を間近で見たのよ。でも、中庭さんは大輔さんの事を高橋さんと間違えているのよね?だとし たら、彼の本当の狙いって、大輔さんじゃなくて…高橋さんって事? 由姫は何だか胸騒ぎがし、高橋の携帯電話を何気なくコールした。出てくれればいい!だが、高橋の携帯電話は 電源が切られていた。何度電話を入れても同じである。由姫はいても立ってもいれらなくなった。何となく虫が知 らせてくれているような気がしていた。高橋さんが危ない!何か起こっているような気がする! 高橋とは連絡が取れなかったが、由姫はもう悩んでいる余裕はなかった。番号の前に「184」をプッシュし、今度 は中庭の携帯電話に電話を入れた。自分の番号を中庭に教えないようにするためである。 「……はい…」中庭は怯えたような声で電話に出て来た。大人しい由姫の心の中に悪魔のような感情が生まれてい る。 「卑怯者!アンタは誘拐犯人だろ!」由姫は鼻をつまんで声色を変え、中庭に向かって思いのたけをぶつけてやっ た。そして、すばやく電話を切った。ささやかな悪戯だったが、意外にもこれが中庭にとって大変なダメージとな った。 (もう駄目だ!俺のやってる事、誰かに見つかってるんだ!由姫ちゃんに振り向いてもらえないばかりに、俺は高 橋を誘拐するように仲間に頼み込み、誘拐して村上の家の物置に監禁させて暴行までさせてしまった!) 中庭はとうとう観念し、農政局の親友・南里に自分の犯行を打ち明ける事にした。だが、中庭のそんな反省の気 持ちなど知る由もないかのように、中庭の悪友達は更なる悪行を繰り返していた。今物置にいるのは小林大輔。そ して、彼らが今まさに物置にぶち込もうとしているのが、中庭が今から助け出そうと思っている本物の高橋崇彦な のである。事件は混乱に混乱を呼び、更なるトラブルに発展しかねない状況だった。 「何だって中庭!お前、マジで言ってるのか?」「ああ…。俺…取り返しつかない事してしまったよ…」「お前、今 どこからかけてるんだ?」 「会社だよ。会社には適当に嘘ついて、今から拉致した奴を助けようと思ってるんだ」 「お 前、大輔に何の恨みがあるんだよ!?大輔の居場所教えろ!俺、今からお前の会社に車で向かう!一緒に助け出し に行ってやるから、着いたら居場所教えろ!」 大輔?中庭はますます訳が分からなかった。拉致した奴は高橋崇彦じゃない?事件はまだ非公開捜査なので、拉 致された人間の名前は一般にはまだ公表されていない。だが、南里の話を聞いていると、仲間達が拉致監禁した人 間はどうも高橋とは別人のようである。中庭は事実を把握するのに時間がかかっているが、もう間もなくしたら南 里が日本電気通信の駐車場に来る。その時に彼を村上の家まで案内し、そこの物置で全てを知る事になるであろう。 南里と中庭とは、職場は違うが同じ大学の友人同士であった。かつては中庭が企画した合同コンパに、南里と農 水省の仲間、自分の会社の女性達を交えて招待した事もあったのだが、その農水省の仲間の中に小林大輔も混じっ ていた。自分の会社の女性の中には、元派遣社員の武田舞もいた。あの時もちょっとした騒ぎとなったが、中庭に とって小林大輔は一度面識のある男性のはずだったのだ。たった一度だけの出会いだったので顔を覚えているはず もなく、高橋崇彦と瓜二つだといわれてもにわかには現実を把握できないであろう。 「中庭!」険しい顔つきの南里が運転席から顔を出した。中庭は助手席に乗り込み、村上の家の前まで南里を案内 した。南里は村上の家の前でそっと車を止め、中庭に案内されるままに村上家の物置に向かっていく。合鍵は中庭 が持っている。 「大輔!」南里の声で、大輔は「あっ」と声をあげた。大輔は傷だらけになっていたが、明るい日の中で改めて顔 を見ていると、確かに高橋崇彦とは少し顔つきが違っていた。大輔は目つきが鋭く、柔和な顔つきの高橋とはやは り違っていたのである。 「ごめん!大輔!! 悪いのはみんな俺の友達だったんだ!俺がもう少し早く気づいてやれば…こんなに傷だらけ にならないで済んだのを…。大輔!!本当に…ごめんよ!!」 大輔は何が何だか分からなかった。そもそもどうして自分が拉致監禁されなくてはいけなかったのかが分からな かったので、南里にどんなに頭を下げられようとも、中庭に「申し訳ありませんでした」と謝罪されようとも何と も答えようがないというのが本当の所であった。 「信兄ぃ!大変だ!!兄貴の事件、何か動きがあったらしいぜ!」 譲太郎が大慌てで信太郎の所に駆け込んできた。中庭の供述で、犯行グループの一部が警察に任意同行を求めら れ、慎重に話を聞いている所だという。 「信ちゃん。大輔さん、もしかしたら…」「殺されてなきゃいいんだけど、あああ…何だか俺も怖くなって…」「待 って!信ちゃん。あそこに暁君がいるわよ!」 「何だって?あの井上酔水の息子の…。」 暁の目の前では、更に信じがたい出来事が展開していた。犯行グループの一人の事情聴取が目の前で行われてい る所だったのである。しかもその男は、信太郎の会社の関連会社に勤めている社員で、中庭の親友の一人だった。 信太郎も何度か顔を見た事のある男である。信太郎は「ううっ」と息を呑んだ。 「あなたは、小林大輔さんという男性について、何か心当たりはございませんか?」 「さあ。友達の一人が彼を家に 誘って食事をご馳走したいという話を聞いてはいましたけど、僕は名前も聞いた事もなければ顔も見た事も…。」 だが、暁はすかさず犯行グループの男を指差して言った。「嘘だ!僕、全部聞いてたんだもん!このお兄ちゃん、 M-PAL のトイレの前で誰かを拉致監禁するとか何とか言ってたし、さっきもこの辺の電柱近くで同じような事話し てたんだよ!」 何だって!?信太郎は耳を疑いたい気分だった。まさか、自分の会社の関連会社の人が、大輔の拉致監禁事件に 関わっていたというのか? 「じゃあ何だよ…。兄貴の拉致監禁も、兄貴の行方の事も…信兄ぃの会社の関連の奴らが全部知ってるっていうの かよ?もしかしたら、信兄ぃの会社の関連の奴だけでなく、信兄ぃの会社の社員も事件に関わってるっていう訳じ ゃ…」譲太郎のあまりの言い草に、信太郎は思わず彼の胸倉を掴んだ。 「譲太郎!いくらお前でも言っていい事と悪い事がある!」 あまりに過激な言い草だったが、事件を企画したのは他ならぬ中庭だったのだ。残念だが、信太郎は間もなく衝 撃の真実を受け入れないといけなくなるであろう。美姫は信太郎を止めた。 「信ちゃん…。気持ちはよく分かるけど、譲太郎さんの言っている事、多分間違ってないよ…。」 その頃、事件の主犯格である村上達は、本物の高橋崇彦をぐるぐる巻きにして猿轡をかませ、大急ぎで村上家の 方に向かっていた。一刻も早く小林大輔と入れ替えないと中庭に怒られる。彼らは既に事件が急展開を迎えている 事など全く知らない様子だった。だが、村上家のすぐそばまで来て、彼らはほどなく現実を突きつけられる事とな った。家の前に小林大輔が立っていたのである。 「お…おい……」「やべえ!もうバレてるぜ!最初から高橋を拉致しておけば、俺らはこんな事に…」「中庭と一緒 にいる奴は誰だ?」「知らねえ奴だな。多分中庭の奴が裏切ったんだ。あいつに小林の居所を教えて…」「どうする よ、本物の高橋崇彦…」 「こうなりゃヤケだな。場所を変えてズッタズタに殺してやるしかねえだろ!」 彼らは本物の悪党に成り代わった。村上の車は U ターンして別の場所に向かおうとしていた。それを見ていた南 里達がすかさず車でその後を追いかけた。村上家から車で 20 分ほどの空き地まで来て、彼らは高橋崇彦を引きずり 出し、雑木林に連れ込んで殴る蹴るの暴行を加え始めた。一歩間違えたら高橋は絶命しかねない状況である。 その頃、信太郎達は警察の車で村上家に向かっていた。事情聴取を受けた男の案内で大輔の拉致現場に向かって いた所だったのだ。だが、時既に遅し。大輔達の姿はそこの物置にはなかったのだ。刑事は事情聴取を受けた男を 厳しく問い詰めた。 「知らない!!今度ばかりは俺は何も知らないんだ!!嘘じゃない!!嘘じゃないよ!!」 「だったら彼らの行きそ うな場所を教えろ!今頃その辺まで逃げている所なんだろ?」「そ…それは……。 」 刑事達は手分けして大輔達の行方を捜し出した。そしてついに、刑事の一人が一台の車を発見した。そこに大輔 と思しき人物が乗っていたのである。 「兄貴!」 信太郎と譲太郎は無我夢中で刑事の後を追った。ついに見つけた!村上達の後を追った南里の車が、とうとう新 たな事件現場にたどり着いたのである。車の中には南里と大輔、そして、しょんぼりとうなだれた中庭の姿まであ った。信太郎は事件の真相を知った。犯行グループの中に中庭がいるという事を。 「あれ?」 暁は再び人形を拾った。信太郎が一生懸命捜していた大輔人形である。さっき落としたはずの人形が、どうして またこんな所に。 「美姫ちゃん、これ!」 「信ちゃん。これ、何かのお告げだわ。きっとこの近くで何かがあるのよ!」 信太郎達と刑事達が雑木林の中を捜し当て、ついに発見した。村上達にボコボコにされて動けなくなっている高 橋崇彦の姿を。 「ああああっ!」信太郎は声をあげた。大輔とよく似たこの男は、以前由姫の派遣会社の担当営業を勤めていた男 だ。中庭もやっと高橋崇彦の行方を突き止めたが、今となってはもう何かしようという気力も失せていた。自分の やった事は取り返しのつかない悪事だったのだ。これで、もう自分は会社をクビになる。由姫を自分の元に取り戻 す事も不可能となった。中庭はガックリとうな垂れ、警察の前で跪いて号泣した。 「村上行宏。ならびに一連の拉致監禁事件の関係者を緊急逮捕する。中庭健助さん、あなたにも一緒に同行しても らいますよ。 」 こうして小林大輔拉致監禁事件は、発生から 6 日後の 4 月 20 日。被害者が無事保護される形で全面解決を迎えた。 大輔と引き換えに拉致されて雑木林で暴行を受けた高橋崇彦は、全身を殴られて怪我を負い、病院で手当を受けて いる。一度大事故で負傷した頭を再び殴られなかったのが幸いだった。事件の真相が新聞とテレビで報道され、由 姫は大きなショックを受けて寝込んでしまった。拉致監禁事件の被害者が大輔であっただけでなく、事件の標的が 高橋崇彦であった事や犯行グループの中に中庭が混じっていた事など、次から次へと信じがたい事実が襲い掛かっ た。中庭はきっと高橋に対して、私との交際を巡っての敵討ちをしようとしていたのであろう。そう思うと、事件 の原因は私にあるのだ。そう考えると、由姫の心の中はどうする事も出来ず、現実の恐ろしさに胸が潰されそうに なってしまうのであった。 小林大輔拉致監禁事件は、とあるホームページへの書き込み記事が発端となって少しずつ事件の全貌が明るみに 出され、騒ぎが大きくなるに連れて中庭が犯行の一部を警察に通報したことで捜査の急展開を迎え、結果的には大 捜査網が敷かれる形で多くの警察関係者が動き出して幕を閉じた。警察は村上を中心とした総勢八名の若者達を厳 しく追及したが、捜査の急展開のきっかけとなった要因の一つが中庭の電話であったことから、中庭に関しては他 の若者よりも幾分刑が軽くなるであろうと考えられる。拉致監禁と暴行は非常に罪が重い。中庭を除く他の連中に 関してはそれ相応の罰を受けるべきであろう。また中庭においても、多少罪を軽減されるとはいえ、自らのわがま まがこうした拉致監禁事件を招いたという事態を重く見る必要がある。会社は当然解雇される。今後は自分の人生 を一からやり直す覚悟で過ごさなくてはならないであろう。 今回の事件では、暁のとっさの判断力と観察力が捜査の大きな手助けとなった。暁が仙台駅前のファッションブ ティックで犯行グループの電話のやり取りを偶然聞いていたお陰で、拉致監禁事件の捜査が極めて早い段階から始 まった事。その後もまた犯行グループの電話のやり取りをしっかり聞き取っていて警察にその証言をした事。まさ に暁はお手柄だったのだ。暁は宮城県警から感謝状の表彰を受けた。井上酔水の長男が警察表彰を受けたという事 で、この事は日本のマスコミ界を大きく賑わせた。 「酔水。暁君、本当に素晴らしい息子さんだな。お前も鼻が高いだろう」ヨンミョンは酔水の息子の大手柄を心か ら喜んだ。 「お父さん!やっぱり僕の言う事、間違ってなかったでしょ?僕がトイレの前で聞いたあの電話、やっぱり事件に 関係する話だったって事、よく分かったでしょ?」暁は得意げだった。 「分かったよ暁。お父さんが悪かった。今度 の夏休み、またお父さんと一緒にソウルへ旅行に行こう。オッキちゃんにもこの事を話しておこう。きっと喜ぶと 思うからな。 」 暁の手紙を読んで、オッキも心から喜んでくれた。 「暁くんすごい。暁くん、警察に表彰されたのね」オッキは覚 えたての日本語で暁に手紙の返事を書いて送った。暁はもう毎日が上機嫌だった。信太郎と美姫の二人にも大いに 感謝され、暁は学校に行くのもますます楽しくなってきた。いい事をするとこんなに後々が気持ちいいなんて思っ てもいなかった。今後はこういう事はもう二度とない事だと思うが、これからも自分は、人が喜ぶような事、人が 後で「ありがとう」と言ってくれるような事を進んでやれるような大人になりたいと思った。大輔の拉致監禁事件 は、当事者にとっては大変な事件だったかも知れないが、暁にとっては忘れられない思い出となった。 犯行グループから暴行を受けて負傷していた高橋崇彦は、1 週間ほど入院してようやく退院した。病院には、ウ ェルワークの関係者と妹の真央が毎日のように見舞いに来てくれた。犯行グループの供述で、高橋は一連の拉致監 禁暴行事件の正体を初めて知った。犯行グループの中に属していた日本電気通信の中庭という男が、一人の女性と の交際を巡り、高橋に恨みを抱いていた事。高橋を拉致監禁する代わりに、高橋によく似た小林大輔という男が間 違って拉致されていた事。少しずつ真相を聞かされていくうちに、高橋の心の中に心配事が募り始めていた。由姫 の事である。 (彼女、今頃どうしているんだろう。事件の事を気に病んで、公務員試験の勉強に実が入らなくなっているんじゃ ないだろうか…。) その頃、由姫は毎日途方に暮れながら街をとぼとぼと歩いていた。自分は高橋さんに申し訳ない事をしてしまっ た。中庭さんに対して煮え切らない態度で接してしまったばかりに、私は中庭さんの心をズタズタに傷つけたまま 高橋さんを選んでしまった。その事が中庭さんに知られてしまって、中庭さんは高橋さんに対して一方的な恨みを 抱いてしまったんだわ。高橋さんが拉致監禁事件の標的にされたのは私のせい。大輔さんまで事件のとばっちりを 受ける羽目になって、私は高橋さんと大輔さん、信太郎お兄さん達にまで迷惑をかけてしまったんだわ…。由姫は 毎日毎日自分を責め続けていた。夏には公務員試験を控えるという大事な時に、由姫は少しずつ自分の目標を失い かけてきている。この危機的状況を誰が救えるというのか。 暁は酔水と共に東京に帰る準備をしていた。暁が荷物を持って駅に向かって歩こうとしていた所を、偶然由姫が 目の前を通りかかった。まるで魂の抜け殻のような様子である。 (あの人…何か様子が変だ!) 「暁!どこに行くんだ!?」酔水が止めるのも聞かず、暁は由姫の後をそっと追った。あの人何かやりそうな気が する。由姫はオフィスビルの非常階段に向かってフラリフラリと歩いていた。その様子を、偶然高橋も見ていたの だ。 (太田さん!?) 由姫が向かったオフィスビルは、ウェルワークのある高層ビルだった。1 階から 3 階まではショッピングモール になっていて、4 階以上はオフィスがテナントとして入っている。酔水は「暁~!」と叫びながらオフィスビルの 中まで入り込んだが、暁は由姫を追うのに必死だった。だが、由姫の様子に不審を抱いた高橋が、偶然にも暁とぶ つかってしまったのだ。 「うわっ!」高橋は暁に突き飛ばされる形でフロアに倒れ込んだ。 「す…すみません!おじさん。僕…ちょっと気になる人を見かけたもんですから…その…。 」 高橋は暁の話に耳を傾けた。もしかしてこの子も、太田さんの様子に不審を抱いて…?暁が指を指す方向を見て、 高橋も直感が働いた。間違いない!ビルの屋上に由姫が上っていったのだ。 もう一刻の猶予も許されなかった。高橋はまだ痛む体を抑えながらも、エレベーターと非常階段を上り継いで、 ついにビルの屋上にたどり着いた。由姫だ!あんなフェンスの所に由姫がいた! 「太田さん!!」 高橋は大声で叫んだが、由姫は振り向く様子がなかった。由姫は涙で頬を濡らしていた。私は…私は悪い女よ。 高橋さんを結果的に傷つけるような事をしてしまった。私が高橋さんを好きになってしまったばかりに、高橋さん は自分の命を危険に晒すことになってしまった。やはり高橋さんは私なんて好きになってしまったら駄目なのよ! 妹の真央さんをいつまでも大事にし、真央さんのような恋人を見つけて、どうか幸せになってちょうだい。私はこ こで死ぬわ!もう…国家公務員になりたいなんて思わない…。今まで、本当にありがとうございました…。 「やめろおおおぉぉぉぉぉ~~~~~~っ!」 高橋は必死でフェンスを乗り越え、よろよろと立ち尽くしていた由姫を必死で抱き締めた。その瞬間、由姫の顔 に驚きの表情が走った。まさか、こんな所に高橋さんが来るなんて…。 「馬鹿……。こんな馬鹿な事を考えて…。」 由姫は、高橋の胸の中で力尽きたように崩れ落ちた。一瞬の静寂が辺りを包み、由姫は表情を伴わない顔から少 しずつ涙をこぼしていた。高橋はゆっくりと由姫の頬を拭い、何も言わずにもう一度由姫を抱き寄せた。そして、 高橋の頬からも熱いものが流れ始めていた。高橋の、由姫に向けた無言の叫びであった。 「お父さん!ここだよ!きっとここに、あのフラフラ歩いたお姉ちゃんが上っていったんだ!」 暁の声と共に、酔水もビル管理者も屋上に駆け上がってきた。だが、そこには既に高橋と由姫の姿があった。ビ ル管理者が大急ぎで高橋達の所に駆けつけた。 「お客さん!ここは立ち入り禁止ですよ!」ビル管理者が高橋に向か って大声で話しかけたが、高橋は目を伏せて涙を流したまま、由姫の体をいつまでも抱き続けていた。 「お父さん。この人、あの女の人を助けようとしてここに上って来たんだよ。おじさんも、この男の人の事を責め ないであげて下さい!僕がこの人に女の人の事を教えてあげたばかりに…」暁は、ビル管理者を必死に説得した。 ビル管理者はフェンスの出入り口のカギを開け、高橋と由姫を保護して屋上から連れ戻した。高橋は由姫を抱いた まま無言でその場を離れ、暁は再び人助けに貢献する形となった。由姫は近くの病院に収容された。怪我はなかっ たが、精神的なショックが重なってしばらく入院が必要と判断されたためであった。 「由姫ちゃん!」 入院を知って、由姫の両親と信太郎夫婦が病院まで大急ぎで駆けつけてくれた。母親はウェルワークの高橋に何 度も頭を下げてお礼を言い、信太郎達は事情をよく知っていたために、 「可哀想な由姫ちゃん…」と言って何度も何 度も由姫を抱き締めながら涙をこぼしていた。 小林大輔拉致監禁事件は無事に解決したものの、事件の当事者やその関係者にとっては心の傷を残す結果となっ てしまった。大輔は解放された当初、またいつもの通り「俺が死ぬわけねえだろ」と強がっていたが、内心はかな り恐怖に襲われていたのだ。今度ばかりは本当に殺されるかも知れない。自分がなぜ知らない人間に拉致され、監 禁されないといけないのか分からなかったが、それだけに今回の拉致監禁メンバーには、何だか計り知れない迫力 と計画性のなさが生み出す恐ろしさを感じたのである。土砂崩れで静香を守った時より、今回の監禁の方が自分に とって恐怖に思えたのである。 「小林さん、お帰りなさい!」「小林大輔君の無事帰還を祝って、皆さんで万歳三唱をしましょう!」 東京の農林水産省で、大輔は二週間ぶりにみんなの前に元気な姿を現した。しばらく入院していたためにすっか り体重が減ったが、外傷も精神的ショックもすっかり回復し、また新たな気持ちで仕事に打ち込もうと張り切って いた。大輔はやはり強い男である。 上司の木戸と共に職員食堂に向かおうとしていた大輔の前に、一人の女性が偉そうな風貌で立ちはだかってきた。 「あら!小林君じゃないの?しばらく見かけないと思っていたけど、噂によると何だかずっと欠勤されていたよう ね?何があったのか知らないけど、私の地位に恐れをなしたのかしら?私はキャリア候補の優秀官僚だし、この農 水省のエースなんだから、出世がお望みならこれからがむしゃらに働かないといけないわね…。」 何言ってるんだ?この女。大輔は目の前の女を睨みつけるような目つきで見つめていた。この女が誰であるかは ご記憶の読者も多いだろう。村主恵美子である。大輔の拉致監禁事件の事を知らないはずはないのだが、この女は 相当に自分中心で毎日を過ごしているのか、大輔の不在をずっと無断欠勤だと思い込んで勝手な言い草を並べ立て ているのである。 「大輔、相手にするな!また夢見てるんだろ?いちいち気にしてたら神経持たないぜ。」 木戸は大輔の手を引き、そのまま職員食堂に入っていった。この時はまだこの程度の事で済んでいたのだが、村 主恵美子は今後、今まで以上に暴走ぶりを発揮して、農林水産省発足以来の問題キャリアとして、多くの職員達の 伝説として語り継がれる存在となっていくのであった。 第四十七章 ヨンアの誕生日 早いもので、ヨンアを産んで最初の誕生日が訪れようとしていた。 この日、ヤンジャとヨンミョンは仕事の休みを取り、朝から病院でヨンアの 1 年目健診に向かっていた。ヨンホ はもちろん、いつも通り幼稚園に行っている。 「早いもんだな。ヨンアももう 1 歳になるのか。ヨンホと比べると体がちっちゃくて、声もどこか弱々しい感じが して、本当に大きく育ってくれるのかどうか心配になる事もあるな…」 「あらヨンミョン。私も赤ん坊の頃はこうだ ったみたいなのよ。でも、今はこんなに大きくなったの。きっとこの子は私に似ているんだと思うわ」 「君に似て美 人で優しい女の子になってくれるといいなあ…。」 そして、主治医の口からヨンアの血液型について最終的な診断結果が下された。 「この子は…O 型です。 」 やっぱり…。ヤンジャはもう何とも思わなかった。ナンビルの子なのかヨンミョンの子なのか考えてみても仕方 がない事だ。でも、この子のパッチリとした目はヨンミョンに似ているわ。ナンビルの目ではない。それに、何よ りもこの子はヨンミョンにとてもなついている。それで十分じゃない。きっと…ヨンアは私とヨンミョンの子供よ。 ヤンジャは頭の中で一生懸命結論を導き出そうとしていた。ヨンアはヨンミョンの娘。もう間違いない話なのだと、 強く心の中で言い聞かせ続ける。 「マ…」ヨンアはいつまでもヤンジャの乳首に吸い付こうとして離れない。「まだまだ赤ちゃんなのね。 」 「仕方がないさ。2 歳から幼稚園に行き始めたヨンホと違って、この子は赤ん坊の頃から幼稚園に出されていたか らな。」 ヨンアの誕生会は、ヤンジャの家でささやかに開かれた。子供の誕生日には欠かせないワカメスープを作り、ヨ ンアのために小さなケーキを小麦粉と豆乳と砂糖だけで作り、ヤンジャとヨンミョンは、小さなヨンアを抱いてテ ーブルについた。 「ケーキ、ヨンホの分も取っておくか?」 「あの子、ヨンアのために作ったケーキはおいしくないって言って食べな いのよ。あの子にはまた別にケーキを買っておいたわ」 「あまり甘やかさない方がいいぞ。子供のうちから贅沢に慣 れてしまうとそれが当たり前になってしまう。ヨンアはアレルギーを持っていてヨンホが健康だからそうなるのか も知れないけど、それならそれなりにヨンアの状況を受け入れ、あの子にもヨンアの苦しみを共有させないといけ ない。俺はそう思う。君も、脱北者の子供の施設で働いていろいろ学んだ事があるだろ?」 そうだった!ヤンジャは大切な事をすっかり忘れていた。ケーキは確かに滅多に買ったりはしないのだが、それ だからこそヨンアが、いつもヨンホが当たり前のように口にしている食べ物を自由に楽しめる体ではないという事 を教えないといけない。ヨンミョンに大切な事を教えられた。同時に、やはりヨンミョンは本当に 2 人の子供の父 親になったのだと痛感した。基本的な事ではあるが、ヤンジャはここしばらく自分の事だけに精一杯になりすぎて いて、子育てのうちで最も大切な事を忘れかけていた事に気づいていたのである。 ヨンアは、ヤンジャの焼いた手づくりケーキを指でチョンチョン押さえ、その手触りを楽しんでいる。 「まあヨン ア…。それはおもちゃじゃないのよ。あなたが食べるものなの」ヤンジャは笑いながらヨンアの頭を優しく撫でた。 「じょう…」ヨンアはスケッチブックにクレヨンで人の顔を描き始めた。ヨンアお得意のお絵かきである。 「ママ…じょう…」ヨンアは少しずつ話せるようになった言葉で、自分の描いた絵をヤンジャに少しずつ説明した。 「じょう…ああ、譲太郎お兄ちゃんの事ね。フフ…。今度またサランお姉ちゃんとお出かけする時に会いましょう ね。」 ヨンアは譲太郎に大変なついている。サランがヨンホのお気に入りである事を考えたら、やはり男の子は優しい 女性に、女の子が頼もしい男性になつくのであろうか。 「ほう。これ、ヤンジャの部下だった人の顔か。なかなか特徴掴んでるな」ヨンミョンがヨンアの描いた譲太郎の 「似顔絵」に感動している。まだまだ 1 歳の子供の描いた顔であるが、譲太郎は信太郎や大輔ともちょっと違った 顔つきである。大輔は相手を威嚇するようなシャープな眼差しが特徴の挑戦的な美男子であり、信太郎はキツネの ようにつりあがった目がすばしこそうに見えるが、笑った顔が愛嬌に満ちていて人柄の良さを思わせる。譲太郎も キリッとした目をしているが、大輔のような鋭さではなく、賢い性格を思わせるような凛々しさがある。韓国での 仕事に慣れ、サランと知り合ってからは笑った顔に優しさが感じられるようになってきた。 5 月の連休の時期になり、ヤンジャはヨンホとヨンアを連れてサランといつもの原っぱに来ていた。ヨンミョン は酔水のいる仙台に向かい、次の新曲発表と暁とオッキとの旅行について打ち合わせの最中である。 「ねえ。今日小林さんはどうしたの?」「お昼まで会社で仕事して、その後ナンビルを連れてここに来る予定なの」 「まあ。連休だというのに会社で仕事?」 「ええ。譲太郎、近々自分の所属グループのリーダーを任される事になっ ていて、今一生懸命張り切っている頃なのよ。ナンビルは通院治療を続けながら仕事をしているけど、今日はヨン アちゃんが 1 歳になったという事で、外の空気を吸いながらリフレッシュを兼ねて譲太郎とここに来る事にしたそ うよ。」 そうなんだ。ヤンジャは嬉しかった。ヨンアはナンビルの娘ではないと思われるが、ナンビルはやはりヨンアを 自分の娘のように可愛がってくれているのだ。それに、何よりもナンビルの体調が落ち着いているようで安心して いる。それに、小林さんはソウルに来て随分といろいろ成長しているのね。若くしてグループのリーダーを任され るなんて、何だか若い頃のナンビルみたいだわ。 原っぱは気持ちの良い陽だまりに包まれていた。元々外で遊ぶことが大好きなヨンホは、原っぱに咲くシロツメ クサを見つけては大喜びし、四葉のクローバー探しに一生懸命だ。その姿を見るたび、サランはまるで幼稚園の先 生にでもなったかのような優しい眼差しになる。 「サランお姉ちゃん!僕、また四葉見つけたよ!」「うわあ!ヨンホちゃん凄いわね」「お姉ちゃんがもっともっと 幸せになるように、僕が四葉いっぱい見つけてあげる!」 「アハハハ。いい子ねえ。じゃあ、あたしもヨンホちゃん がもっと幸せになれるようにって、お祈りしながら探そうか。」 ヨンホはサランにすっかりなついているようだ。ヤンジャがヨンアのおむつを替え、古いおむつをビニール袋に 入れてサンドイッチの準備を始めた所に、原っぱの向こうから車が走ってくるのが見えた。恐らく譲太郎とナンビ ルが乗っているのだろう。車は教会の前に止まり、運転席から譲太郎、助手席からナンビルが降りてきた。 「ようサラン!待たせて悪かったな」「お疲れさま譲太郎。ナンビル、病気の具合はどう?」「ああ。もう随分落ち 着いてきたよ。今日は本当にいい天気で、こういう所で寛ぐにはもってこいの日だね。」 「じょ…じょ…」ヨンアはいつものように譲太郎に擦り寄って甘えてきた。 「ハハハハハ…この子本当に可愛いなあ」 そんな姿を、潤んだ瞳で見つめているナンビル。まるで遠くに住んでいる父親が実の娘の成長を見守っているかの ような光景に見えた。ヤンジャはそんなナンビルの姿に心を痛めた。ヨンアがナンビルの実の娘じゃない可能性が 高いとはいえ、ナンビルはヨンアに対して他人の子供とは思えない感情を抱いている。私のせいだわ。でも、そん な事を彼に伝えて慰めようとした所で何になるというのだろう。 ヨンホはサランと一緒に原っぱを駆け出し、追いかけっこをしたり花摘みをしたりして遊んでいる。ヨンアは譲 太郎の腕に抱かれ、時折仔猫のように無垢な目をして譲太郎を見つめては、彼の胸に顔を埋めて小さな頭を動かし ている。譲太郎はヨンアの頭を優しく撫で、日本の子守唄を優しく歌って聞かせている。将来信太郎に子供が出来 た時も、譲太郎はきっと優しい叔父となって自分の甥っ子姪っ子を可愛がるのであろう。 「ヤンジャ…」ナンビルとヤンジャは、久しぶりに二人きりとなった。ナンビルはヤンジャを見つめ、恋人同士に 戻った時のような笑顔で話しかけた。 「ナンビル…」「話そうか。最近の僕の心境。そして、まだ君に話していなかった、いろんな思い出話を…。」 え?ヤンジャはどういう事なのか分かっていなかった。ナンビルはそっと続けた。 「僕は……白血病になった事で、今までの自分から本当の意味でさようなら出来たと思っている。もちろん、君に 対する思いは今でも変わらない。別れて何年も経った今でさえ、君はいつまでも僕の心の思い出の人だ。だけど、 僕は考えた。君や小林君やサラン、そして会社の人達や病院で知り合った他のがん患者達、教会の子供達や神父さ んなどといろいろ接しているうちに、僕は本当に多くの人達に支えられ、大切に見守られて生きているんだという 事を改めて知った。今まで僕は、君さえ幸せになってくれればいい、君の笑顔を見られる事だけが僕の何よりの喜 びなんだと、随分偉そうな事を言ってきたね。でも、そうではない。幸せは自分の力で呼び込むものなんだと気づ かされた。僕自身の意識が変わり、全てに対して感謝の気持ちを示して決して不満を言わないことが、自分自身を 幸せにする事なんだと気づいた、いや気づかされた。そして、僕自身が笑顔になる事が周囲の人の笑顔を呼ぶ。当 たり前の事だけど、僕は病気という体験を経て、一番大切な事に気づかされたよ。」 ナンビル…。ヤンジャはバッグから四葉のクローバーの栞を取り出した。 「ナンビル。あなたの笑顔、前よりもず っと明るくなったわ。」 「遠い昔、僕は自分の一方的な感情で、君に別れの言葉を切り出したね。その時の罪滅ぼしのつもりで、僕は自分 の命を犠牲にしてでも君が幸せになってくれれば…なんて思った時期があった。でも、全ては君が教えてくれたよ。 僕が死んで喜ぶ人はいないって…。そうした事も含め、全ての事を多くの人に教えてもらった。ヤンジャ。僕、ま た近い将来に一人旅に出ようと思うんだ」「どこに行くの?」「ウラジオストクだよ。君と別れた後、僕は君との思 い出を断ち切るために、一度そこに一人旅に出たんだ」「そう言っていたわね。どういう所だったの?」「僕が行っ た時はすごく寒い時だったからね。雪は降らなかったけど、風がすごく冷たくて強くて、海の上に氷が張っていた。 僕は当てもなく歩いた。寒い寒い大地の上をただ果てしなく、このままずっと誰も知らない遠くに行ってしまいた いという気持ちで…。でも、どんなに寒い街をずっとずっと歩き続けても、僕の気持ちは晴れることがなかった。 思い出す事はずっと君の事ばかりで、ホテルの部屋では一人でずっと泣いていた。極東の街の冬の趣を楽しむ余裕 もなく、僕の心はずっと冬の嵐が吹き荒れていた。現地の雰囲気にずっと同化したままだった。でも、これからは いい季節になるみたいだ。6 月から 7 月にかけてはここのような長雨の季節になるみたいだけど、夏になったらこ れまでとは違った気持ちで、あの街の空気をもう一度噛み締めていきたい。そして、今度の旅では君へのお土産も ちゃんと買って帰りたい…」そう言って、ナンビルは少しコホッと咳き込んだ。 「ナンビル!」ヤンジャはナンビルの体を気遣った。「ああ…大丈夫だよ。少し興奮してしまったみたいで…」「ナ ンビル。旅行に出たりして本当にいいの?体は大丈夫なの?」 「大丈夫さ。医者からの許しはちゃんともらっている。 もちろん、もっと時間に余裕が出来たら、今度はスイスにも行ってみようかと思っているよ。ブライアンのいるロ ーザンヌに、今度は僕が訪れてみたいと思っている。カロリーヌとは今でもあまり仲良くは出来ないけど、息子は 時々僕に手紙をくれる。いつかきっとスイスに来てねって、そう言ってくれているんだ。」 「主任…」ヨンアを抱いた譲太郎が、ヤンジャの隣に座ってきた。 「小林さんごめんなさい。ヨンア、ぐずったりし なかったかしら?」 「いいえ。この子はとてもいい子ですよ。何かその…ファンさんとお話がしたいみたいなので…ちょっと…。」 え?ヤンジャがヨンアの方を見ると、ヨンアはよろよろとした足取りで、ナンビルの右隣に立ってきた。 「ちゅき…。じょもちゅき…。おいたんもちゅき……。」 「ヤンジャ…この子……」ナンビルがヨンアを抱き上げると、ヤンジャはクスッと笑って言った。 「小林さんもあなたも大好きって言ったの。ねえナンビル。この子、あなたの事が好きなのよ。だから、あなたに こうやって甘えて…。」 「主任…」譲太郎が急に真剣な顔でヤンジャに耳打ちした。何か話があるようである。譲太郎は、ナンビル達から 少し離れた所にヤンジャを連れ出し、聞こえないように小声で耳打ちした。 「ファンさん……。近々会社辞める事になるかと思います…。また、入院治療する事になるかと思います。今年の 夏には旅行を企画しているようですが、きっとファンさん、自分の命が残り少ないと思って、気持ちの整理に入ろ うとしているのかも知れない。俺が会社で新リーダーに抜擢されたのも、ファンさんが退職した後の事を見据えて の人選だと思っています。だけど俺、決して諦めません!白血病は確かに難しい病気だと思うけど、俺、ファンさ んが完全に病気を乗り越えてくれる事を信じています。ヨンアちゃんは多分、神様の申し子なんでしょう。だから こうやってファンさんの事を…。」 そう言うと譲太郎はウッと声を詰まらせ、堪えきれずに涙ぐんだ。 「小林さん…。分かるわ。一生懸命笑顔で接し てくれているけど、本当はあなたが一番辛い事はよく分かっている。私も信じているわ。ナンビル、きっと乗り越 えてくれるわよ。あの人にはあなたがいる。ヨンアもヨンホもサランも…そして、全ての人があの人を支えている わ。私も、ナンビルが元気になる事を信じている。だから、今日は笑顔で過ごしましょう。笑顔さえ忘れなければ、 幸せの神様はきっと、あなたとナンビルを見捨てたりしないわ…。」 ヤンジャは気丈に笑顔を見せた。譲太郎は涙を拭いてサランの所に戻り、ヨンアとヨンホと共に原っぱに腰掛け て昼食をとった。きっと幸せは来る。それが、ヤンジャの何よりの願望なのであった。 第四十八章 裸の女王 由姫は、小林大輔失踪事件以降すっかり精神的なダメージを受け、心療内科に通院しながら公務員試験の勉強を 続けていた。自分は高橋さんに申し訳ない事をしてしまった。自分は中庭の心を弄び、その結果高橋崇彦を選んだ。 中庭はその事を知り、高橋に対して一方的な恨みを抱いてしまったが、中庭が仲間に依頼して暴行目的で拉致した のは義兄の小林大輔だった。早めに事件が解決すれば良かったものの、事件は解決が長引き、大輔だけでなく高橋 本人も被害を被ることとなった。一連の事件は全て自分のせい。そういう罪悪感に苛まれて自殺を図ろうとした所 を高橋に助けられ、由姫は入院した。退院後は精神的ショックで体調を崩し、心療内科に通院した。公務員試験の 勉強に大きく影響を残すこととなったが、高橋に幾度となく慰められ、支えられ、何とか夏の受験が可能なぐらい なまでに体調は良くなった。今日は高橋と初めてのデートだ。 由姫は久しぶりにおしゃれをし、ウェルワークのある高層ビルの前で胸を弾ませながら待っていた。こんな気持 ちは久しぶりだ。夜 7 時を少し回った所で、高橋がスーツ姿で現れた。 「お疲れ様です、太田さん」「高橋さん……。」 高橋崇彦の紳士的な振る舞いは相変わらずだった。高橋は「僕の行きつけのお店」と言って、由姫を路地裏の中 華料理店に案内してくれた。そこは建物が古ぼけていて、一人で入るには少し勇気の要りそうな所である。 「いらっしゃああ~い!」 だが、入ってみると、中は思った以上に清潔で衛生が行き届いている。仕事帰りのサラリーマンや若い女性の団 体、子供連れも大勢いて、どうもちょっとした穴場のような店のようである。 「ここに、こんなお店があったんですね」 「そうですね。あまり派手に宣伝している店じゃないんですけど、知って る人は知っているといった感じですかね。あ…ここ、酸辣湯麺がおいしんですよ。」 由姫は、高橋に勧められるまま酸辣湯麺をオーダーした。数分後、二人の前に酸辣湯麺が運ばれてきた。野菜が たっぷりでいかにも旨そうである。辛くないかしら?由姫が恐る恐るスープをすくって飲んでみると、思った以上 に辛味が少なく、酸味も程よくて爽やかな味わいだった。値段もそんなに高くない。 「おいしい!高橋さんって、すごくいいお店知ってるんですね!」 「いやあ…ここは元はというと、会社の人間に教 えられた所なんですよ。勧められるまま昼食で入ったら結構イケる所だな…って思って、それからはちょくちょく ここを利用してるんです。ビックリしたかも知れませんけど、もしよろしかったら、この後お茶もどうですか?も う一つ、僕の行きつけがあるんですけど…。」 高橋が由姫の分まで会計を出してくれて、二人は中華料理店を後にした。 「高橋さんすみません。ご馳走様です…」 「いいんですよ。それより、太田さんが元気になって本当に嬉しいと思っています。ええと…今度は駅に近い所で すけど、ここのお店知ってますか?クラシックを聴かせてくれる所で有名なんですが…。」 高橋が次に案内してくれた店は、先ほどの中華料理店とは打って変わって、とても静かで落ち着いた雰囲気の喫 茶店だった。ピアノの名曲がかすかに流れ、店内も美しい花が生けられて正にデートにピッタリである。 「ご注文は?」「あ…じゃあ、ローズヒップティーをお願いします…」 「じゃあ、私はレモンティーで…。 」 注文の品は間もなく運ばれてきた。由姫が高橋の注文したローズヒップティーを高橋の目の前にそっと置くと、 高橋は「すみません…」と静かに声を潜め、温かい紅茶をそっと口に運ぶ。由姫もレモンをそっと紅茶に沈め、店 内にそっと流れるオーケストラのメロディに聞き入るように、レモンティーをそっと一口味わった。先ほどのラー メン屋は楽しい雰囲気に溢れていたが、今度の店は一転して大人の気品を漂わせる。高橋さんって本当にいろんな 所を知っているのね。真央さんも時々こういう所に来るのかしら? その時だった。「ねえ!ここのお店、客のリクエストに答えてくれるサービスはないの?」 店の雰囲気をぶち壊すかのような女性の大声が聞こえてきた。 「お客様、当店の BGM は毎日日替わりになってご ざいまして…」 「私はクラシックに造詣の深い人なんだから、そういう客のテイストを大事にするのがサービスとい うものでしょ!せっかく東京から出張に来て、気分転換にいいお店だと思ってここに来たっていうのに!これだか ら田舎の喫茶店は困るのよ!」 嫌な人だわ…。由姫が呆れて見つめていたこの女性こそが、東京の農水省で大輔と共に働いているお荷物女性キ ャリアの村主恵美子であった。この時は正体を知らなかった由姫であるが、いずれ由姫は国家公務員試験の 2 次試 験まで合格し、官庁訪問でこの女性の凄まじさを目の当たりにする事になるのである。 「うぉ~~~~っ!」 大輔は豪快な雄叫びを上げてデスクの前で伸びをしていた。無理もない。ここ半月近く毎日夜 9 時過ぎまで残業 しているのだ。だが、大輔のようなエリート幹部候補生ともなると、連日の残業は致し方ない話だ。夜 6 時半か 7 時ぐらいに上がれたらラッキーな方である。 「大輔頑張ってるな。あまり根つめてやるとまた潰瘍が再発するぜ」係長席に座っている木戸が大輔の健康を気遣 った。 「しょうがないですよ。何たって以前……」言いかけて大輔はムスッと黙りこくってしまった。大輔の残業の 原因は、決してここしばらくの忙しさから来るものだけではないのだ。以前所属していた課にいた頃、村主恵美子 に仕事の中身を何もかもグチャグチャにされ、後任の町田がそのフォローに悪戦苦闘している所を大輔が時々助け てあげたりしているのだ。結構余計な仕事もやっているのである。もちろん町田一人だけが悪い訳ではない。村主 が余計な事をしたのが問題なのだ。事情を察しているためか、木戸もそれ以上何も話さなかった。 「大輔さん!大輔さん!」 しんと静まり返った廊下を、町田が大声で叫びながら走ってきた。大変な事が起きたようである。以前にも少し 触れたが、大輔の職場には小林という姓が 2 人いる。そのため大輔は同僚や部下などから下の名前で呼ばれている 事が多い。町田も普段は大輔を下の名前で呼んでいる。同じ課に所属していた頃は小林さんと呼んでも差し支えな かったが、大輔が違う課に異動してからは、複数いる職場の人達の間で区別がつきやすいよう、大輔を下の名前で 呼ぶようになった。 「町田!俺と木戸さん以外誰もいねえんだからでっけえ声出すんじゃねえよ。みっともねえなあ!」大輔はうっと うしそうに顔をしかめたが、町田はそれどころではないようだ。 「見て下さいよ!このデータテーブル、多分地権者が亡くなって相続人が不明の人達の分だと思うんですけど、所々 欠番になってるの分かりますか?このデータテーブル使った仕事は臨職さんにお願いしてないですから、やったの は村主さんですよね?村主さん、以前からデータテーブルの整理しろってうるさく言ってましたけど…ああ…これ どうしてくれるんですかねえ。オートナンバーですよ!データテーブルから行削除しちゃったら取り返しつかない じゃないですかあ…。今からどうやって復元すれば…」町田は大輔のパソコンでネットワーク上にあるデータテー ブルを開きながら泣き言をこぼしていた。 「データのバックアップ取ってなかったのかよ町田…」大輔はチッと舌打ちし、額に頭を抱えながらため息をつい ていた。「ここしばらく取ってなくて、取ってあったとしてももう 1 ヶ月以上前のデータなんですよ」「ったく!そ ういうものは週に一度こまめにバックアップ取っておけって何度も言ってんだろが!同じ事何度も何度も言わせん じゃねえよ!!」「すみません!」 「おいおい大輔。町田君困ってるんだから、そんなに怒ったりしないで何とか対策考えてあげろよ」木戸が見るに 見かねて注意した。 「作り直しするしかねえよな。じゃあ町田、そのデータシート、いっぺん表計算ソフトにエクス ポートして、足りねえデータもう一度付け足してもう一回データテーブルにインポートするしかねえな。だからそ のデータシート、エクスポート終わったら一旦俺のマイドキュメントに落としといてくれよ…。」 大輔の指示通り、データの復旧作業は進められた。エクスポートは大輔の操作で無事に完了したが、問題は恵美 子に削除されたデータの再入力だった。何しろ削除された件数が膨大なのである。 「うわっ!あのオバハン、勝手にこれだけのデータ削除してったのかよ!」大輔は呆れて物が言えない状態である。 「大輔さん、俺も手伝い…」「バカ!俺がこのワークシート開いてたら排他制御かかって開けねえだろ!」「そうで すね…」 「お前もういいから自分の仕事してろ!これは俺が全部やるから!」大輔は完全に怒りモードだったが、町 田に対してではなく恵美子に対してである。 「大輔。確かに町田君にも落ち度があるかも知れないけど、彼がここしばらく出張や他の仕事続きでデータシート にかかれなかったのは仕方ない話だと思う。これは一度村主さんに…」木戸が大輔を宥めようとしたが、大輔の恵 美子に対する恨みは晴れなかった。 「あんな女に注意してみた所でどうにもしようがないじゃないですか!所詮は元 事務次官の娘、周りの職員はもう何も言えないような人なんでしょ?黙って俺らがフォローするしかないんです よ!ああいうお荷物女に関しては!」大輔はすっかり諦めているようである。木戸も「まあそうだろうね…」と肩 をすぼめた。大輔が着々とデータテーブルの復旧を進めている最中、彼の携帯電話が鳴った。妻の静香からである。 「もしもし…。ああ…。悪りぃ…しばらく帰れそうにないわ。なかなか終わんなくてさ。午前様すっかも知んねえ から先に寝ててくれや…。悪りぃな…じゃ、おやすみ!」 「大輔…データの追加、途中から俺やるから、お前自分の仕事戻れよ」木戸が大輔を気遣った。 「担当じゃない木戸 さんにお願いする訳にいきませんよ」 「そう言ったってお前、今やってる仕事、明日の正午までに取りまとめて集計 する案件だろ。どれ、俺に貸せよ。 」 大輔と木戸のお陰で、恵美子に削除されたデータは全て入力が完了した。あとはまたデータベースソフトに移せ ば完璧だが、この作業がなかなか上手くいかない。悪戦苦闘した挙句、何とか元通りに復旧した。大輔のドキュメ ントフォルダに一旦格納された元ファイルは完全に削除された。 「木戸さん、大輔さん。本当にすみませんでした!」町田は深く頭を下げた。 「今度からデータはこまめにバックア ップ取っておけよ。ついでだから、今復旧させたデータ、俺のフラッシュメモリに取っておいたから、これであと 自分のバックアップデータに入れとけ!」「本当に申し訳ありませんでした!」 大輔は自分の仕事も全て終えてやっと帰宅した。時刻は既に午前零時を回ろうとしていた。 「何よこれ!せっかく私がいらないデータ削除してあげたっていうのに、すっかり元通りになってるじゃない!」 村主恵美子は、パソコンの共有フォルダにある地権者データベースを見てビックリしていた。それを聞いた町田 が素早く反論した。 「村主さん。オートナンバーで作成されたエクセスのデータベースは行削除したらダメなんですよ。村主さんが余 計な事したせいで他のテーブルと結合したクエリが開かなくなったから、昨日大輔さんにお願いして手伝って頂き、 元通りに戻したんです」「何よ!そうやって私のやる事ことごとく否定するって訳?」「否定とか何とかいうのでは なく、やっていい事と悪い事があるという話をしているだけで…」町田が一生懸命に反論したが、別の職員に「町 田君、もうやめろって」と制止され、議論は中断してしまった。 「大上さん…」 「町田君。気持ちは分かるけどもうしょうがないよ。あの人は常に自分だけが正しいって思い込んで る人なんだから、そんな人に何を話してみても無駄無駄」 「でも…昨日はそのせいでクエリが開かなくて仕事に支障 が生じたんだし、大輔さんもすごく怒って…」 「あの人のお父さんの事は分かってるだろ?今でもこの農水省を陰で 操ってる元事務次官。天下り先でも好き放題振舞ってる。村主さんはそのお父さんの収入に助けられて毎日贅沢三 昧で、都内の私立大学を金で卒業してコネで農水省に入省し、大輔とかお前とは違う能力にして国家公務員Ⅰ種。 常識で考えたら許せない事だけど、そういう世の中になっているんだから反論してみても仕方がない。大丈夫。お 前がそうやってムキにならなくても、ここのみんなはあの人がおかしい人なんだって事、ちゃんと分かってるから。 迷惑するかも知れないけど、所詮知らぬが仏って事だよ。村主さん、自分がこの農水省の中でどういう風に思われ てるのか全く分かってないみたいでお幸せな人だよね。」 そうか…。町田はそれで何とか納得した。この大上という職員の言う事は実に的を得ていた。恵美子の今の状況 は正に「知らぬが仏」というべきものなのだ。事業部長の話では、村主恵美子は入省当時からかなり非常識な仕事 ぶりだったようで、今から考えても信じがたいようなミスをやらかしたというのも聞いている。そのミスについて は後述するが、事業部長から詳しい話など聞かなくとも、町田にはこの恵美子のおかしさが何となく分かっている。 問い合わせしなくても分かる事をわざわざ電話したり人に質問したりして顰蹙を買う事はよくある話であるし、逆 に人から質問を受けた時に全然関係のない回答を返す事もある。入省してまだ年月の経っていない町田でさえ、恵 美子に対して「この人はどこかおかしいのではないか?」と疑いを持ってしまう事もよくある事なのだ。 そんなある日の事であった。職員のうちの一人が実の父親を病気で亡くし、その日から一週間忌引という事で休 みを取る事になったのだが、その職員は大輔とも、町田や恵美子の部署ともそれぞれ関係のある職員であり、大輔 達が葬儀に出る事が決まった。大輔は仕事が一段落した所で葬儀に出かける準備に入る。 「大輔。喪服持ってきたか?」「はい。一番下の弟が着ていたものですけど、何とか俺に合うと思います。」 大輔が着ている喪服は元々譲太郎が着ていたものである。譲太郎は三兄弟のうちで最も背が高く、身長は 175cm ある。大輔は譲太郎より 2cm 低いが、パンツの丈などはそんなに大きな開きがない。信太郎は身長 166cm と、三 兄弟の中では一番背が低い。 「農村振興課からは誰が出るんだ?」 「町田が出る予定になってますが…」木戸と大輔は町田のいる席の方をチラリ と見たが、農村振興課の職員の話で、町田は仕事の手が放せず葬儀に出られないという事が分かった。 「うちの課からは村主さんが出ますので、小林さん、葬儀会場まで村主さんを乗せてってあげてください。」 何!?大輔は途端に腹痛に襲われた。冗談じゃねえ!何であんな女を車に乗せて運転しなきゃいけないんだ? 「大輔、嫌かも知れないけど一時だけの辛抱だ。葬儀会場では何も起こらないはずだし、ちょっとだけでも我慢し てくれよ」木戸が大輔を宥めた。車という動く密室の中で 1 時間近くストレスの素と一緒に過ごさないといけない 苦痛は気が重くなる。しかも往復だ。なるべくなら全く会話を交わさないで淡々と過ごしたいものだ。大輔は深呼 吸をし、黒い喪服姿に数珠を持った状態ですっかり葬儀に出かける準備を済ませた。 「村主さん。小林君が待ってるよ。 」 農村振興課長の呼びかけで恵美子は大急ぎで支度を進めた。そして待つ事数分、大輔や職員達の前で驚きの風景 が繰り広げられたのである。「お待たせ、小林君。」 何と、恵美子の格好は黒いタイツに膝上 10cm 程度の黒いミニワンピースという遊びに行くような出で立ちだっ たのだ。履いている黒い靴もエナメルで光っており、どう考えても葬儀に出るような服装ではなかった。 「村主さん、何ですか?その酷い格好」大輔は表情を伴わない顔でズバッと言い捨てたが、恵美子は意に介する様 子もなく「あら?この格好おかしい?」と涼しい顔で返すだけである。 「おかしいも何も、その格好は葬儀に出る服 装じゃないですよね!」 「おおい!町田君、やはり君出てくれないか?村主さんじゃ駄目だ!」杉田事業部長が大声で町田を呼んだが、町 田は別の仕事でドツボにハマってしまい、ますます手が放せない状態である。葬儀開始まで時間が迫ってきた。 「村主さん。他に服がないならこれを巻いて下さい」女性職員の一人が、恵美子に紺色の膝掛けを貸してくれた。 止むを得ずその状態で葬儀に出る事となったが、葬儀会場に着いてから恥ずかしい思いをするのは大輔の方である。 冗談じゃねえ!こんなパアな女連れて歩いてるなんて、たとえ仕事上の関係であってもみっともねえや!大輔はな るべく恵美子から離れて歩くことにした。靴はさすがに他の女性職員の物を借りたものの、服は着替える時間がな く、膝掛けを巻いたままという恥ずかしい出で立ちで葬儀会場に行く事になった村主恵美子。農水省始まって以来 の伝説女性職員である。 (ったく!空気読めってんだよ、クソババアめ!) 大輔は忌々しそうな顔で助手席の恵美子を睨みつけながらハンドルを握っていたが、恵美子は携帯電話でメール を打ったりゲームをやったりなどして遊んでおり、とても葬儀に出る前の顔ではない。こういう女っていてもいい ものなのだろうか。しかもアルバイトの若い女ではない。自分と同じキャリア候補生という待遇で入省したはずの 国家公務員Ⅰ種の職員だ。こんな女が自分と同類だなんて思えないし思いたくない。仕事ぶりもメチャクチャなら 普段の言動も非常識でぶっ飛んでいる。何でこんな女と仕事中でも一緒に過ごさなくてはいけないのか、大輔は次 第に恥ずかしくなってきた。 葬儀会場に着いて、大輔の恥ずかしさが頂点を極める事態となった。何と、恵美子が大勢の参列者の前で紺色の 膝掛けを外し、黒タイツに包まれた「きれいなおみ足」を披露してハリウッド女優のようなスタイルで歩き始めた のである。葬儀会場であるにも関わらず、参列者の間からはクスクスと笑いがこぼれていた。 「だっ!!」 大輔は思わず大声を張り上げた。ここまで堂々と恥ずかしい事をされたら、さすがの大輔でも他人のフリは出来 ない。 「村主さん!うちは農水省の代表ですよ!少し自覚持って下さい!!」 大輔は大声で注意したが、恵美子の耳には届く事がなく、彼女は何食わぬ顔をして参列者の間に入った。これじ ゃあ町田がストレス溜める訳だな。大輔は部下に同情した。参列者からの笑いの対象は、恵美子だけでなく同行者 の大輔の方にまで向けられた。 (あの人ってあの女の人の部下?それとも同期の人?)(葬儀の席で大声上げなきゃいけないなんて哀れねえ)(顔 は悪くないんだけど、あの女の人連れてるせいでこの人まで安っぽく見えるわねえ) (結構楽しんでるんじゃないの ~?)(農水省って言ってたかしら?国の官僚ってこういう人が雇われてるのね?)(税金でレクリェーションやら ないで欲しいよな。) さっさと帰りてえ!!大輔は情けなくなり、怒る事も笑う事も出来ない状態である。村主恵美子。仕事の事だけ でなく普段の言動そのものもまるで周囲から浮いていて、自分自身には間違っているとか恥ずかしいという感覚が 全くない。こういう人間を幸せと言っていいのだろうか?もし自分の妻がこんな女だったら即刻離婚であろう。い や、その前にこういう女を相手に選んでいないが。 そして、喪主の挨拶の時についにクライマックスが起こってしまった。挨拶の最中に恵美子の携帯電話が軽快な 着信メロディを奏でたのである。ああっ!もう大輔は注意する事も出来なかった。恵美子は悪びれる様子もなく、 大勢の参列者の前で携帯電話での通話を始めた。その時、恵美子の後ろで誰かが彼女をドンと蹴飛ばす様子が映っ た。 (事業部長!) 大輔は、後ろに立っていた参列者に黙礼で挨拶し、逃げるようにして事業部長の横に立った。 「小林君、申し訳なかったね。あまり気になったから、私もこっそり後を追ったんだよ。」 この杉田事業部長は、事務次官の娘である村主恵美子に対してハッキリと言いにくいことを言う数少ない人物の 一人だ。大輔のように仕事ぶりが優秀で努力する職員を予てから高く評価し、農水省の間では「お奉行様」と慕わ れている人物である。 「部長~。お疲れ様ですぅ~」恵美子の上機嫌な声がまたしても参列者の間に大きく響き、大勢の笑いを買う。だ が、部長も大輔も完全に恵美子を無視していた。1 時間近く経って葬儀はようやく終わり、出棺の時間となって参 列者達はみな帰り支度に入っていく。 「部長は何で来られたんですか?」 「タクシーで小林君の後を追ったよ」 「では、帰りは乗って帰られますか?」 「そ うだね。あの人と二人きりでは小林君さぞかし苦痛だろう。」 大輔は恵美子をチラッと一瞥したが、特に合図を送る事もなく、そのまま車を止めた場所までゆっくりと歩いて いった。恵美子は膝掛けを手に持ったまま、短い丈のワンピース姿で大輔と事業部長の後を追う。大輔は事業部長 を後部座席に乗せ、恵美子が乗ろうとするのも構わずバタンとドアを閉めた。後ろの席は上座なので恵美子の座る 場所ではない。恵美子はブスッとしたまま、行きに乗った時と同じ状態で助手席に座った。霞ヶ関の農水省に着い たのは午後 4 時を過ぎた頃で、大輔は事業部長の分の荷物を持って車を庁舎駐車場に入れた。大輔と部長は二人で 職場に戻ったが、恵美子だけは一足お先に事務所に駆け込み、自席に戻ってコーヒーで寛いでいた。 「あれ?大輔、部長と一緒に出かけてたのか?」木戸が驚いたような顔で訪ねた。 「いいえ、葬儀会場で偶然お会いしたんですよ」「どうだった?村主さんは…」「もう一緒にいて恥かしい事ばかり でしたよ!他人のフリしたくてもあまりに非常識だからスルーしきれなくて困っていた時に部長にお会いして…。 」 村主恵美子の恥ずかしい言動はまだまだある。だが、仕事の事に限らず全てにおいてこのように非常識で自分の 事しか頭にない女である事だけは間違いないと言えるであろう。 とにかく農水省では、その非常識ぶりが職場全体の迷惑となっているお荷物キャリア。だが、元事務次官の父親 の影響力で大半の職員達がその言動に目を瞑っている。それが、村主恵美子の実情なのだ。そんな村主による最大 の被害者はこの間までは大輔であったが、今では大輔の後輩の町田達樹と、町田の後輩に当たる新入り職員の日野 龍也の二人である。 町田は大輔よりも 3 年後輩で入省 3 年目の主事であるが、大輔と同じ国家公務員Ⅰ種として採用された数少ない エリートであり、新人の頃から責任の重い仕事をメインで担当する事が多かった。大輔は時々町田に厳しい事を言 うが、普段は町田を非常に可愛がっており、真面目な仕事ぶりを真剣に評価している。町田にとって大輔は憧れの 先輩であり、自分の理想の職員である。日野は都内の名門私立高校を卒業後、国家公務員Ⅲ種として農水省に入省。 仕事はまだ補助的な業務が多いが、町田のサポート役として少しずつ難しい仕事も覚えていき、周囲の職員達から の評判もいい。彼ももちろん、大輔の事を「雲の上の存在」として非常に尊敬している。 自分の部下に当たる若い男性職員達がこういう調子なので、仕事は出来ないくせにプライドだけは高い村主恵美 子にとっては面白く思えるはずがない。だが、新人の日野はともかく町田の方は村主の無能ぶりをとっくに見透か していて、彼女の言動を見るたびに「痛々しい人」と軽蔑の思いを抱いている。日野の方も、まだ恵美子の実像を 詳しく知らないまでも、常に町田に迷惑をかけ続け、自分自身の仕事にも悪影響を及ぼしている恵美子の態度を快 く思っておらず、出来ることなら関わりたくないという気持ちを持っていた。 そんなある日の事であった。過去に着手した農地転用関係の書類を全て電子データに保存するため、町田と日野 の二人で、過去 10 年から 5 年前までの農地転用関係の書類を保存したチューブファイルの束を自分の部署に運ぶ作 業を午前中から何度も繰り返して行っていた時の事である。重たいファイルを何冊も両手に抱えて二人がかりで事 務所内を行ったり来たりしていた所に事件は起きた。町田も日野も両手が塞がるため、作業中はずっと事務所のド アを開放していた。まだ夏の空調が入っていないため開放したままの状態でも何の問題もないはずであるが、日野 がファイルを抱えて事務所に入ろうとした所、周囲の状況を察しない恵美子が、日野の目の前で事務所のドアをバ タンと閉めたのである。 「うわあ…」日野はずっしりとした分厚いファイルを何冊も抱えたまま顔をしかめる。 「ったくしょうがねえなあ!」 町田は自分が持っていたファイルを一旦入口脇の床の上に置き、日野のためにもう一度ドアを開けてあげた。 「すみ ません町田さん」日野がファイルを抱えて事務所に入り、町田も自分が持っていたファイル数冊を持ち上げて事務 所に入ろうとした瞬間、またしても恵美子が駆けつけてきて「事務所のドアは毎回必ず閉めて下さああ~い!」と 大声を上げ、ファイルを抱えた町田を締め出そうとした。その瞬間の事である。 「うわあああっ!」 ちょうど町田がファイルを抱えて事務所の入口に立ったところでドアを無理やり押して閉めようとしたため、町 田はその勢いに押されてドアに激突して腕を強打。しかも分厚くて重いファイルを数冊抱えていた事もあって腕と 胸部に打撲傷を負い、更にはドアにぶつかった弾みで悪い転び方をしてしまったために足首も捻挫してしまったの である。 「町田さん!」 痛みにうずくまってなかなか起きようとしない町田を日野が庇った。だが、事件はここでお終いではなかったの である。 ちょっとした怪我を負いながらも何とか気持ちを立て直して仕事に戻った町田と日野であるが、文書の電子化の 作業を黙々と進めていた所、5 年前の過去文書の一部がいつの間にか消えている事に気づき、町田が日野に尋ねた。 「日野君。ここにおいてあった 2007 年度の転用綴どこにやった?」「え?どこにもやってないはずですけど。」 「ああ。キャビネットの上にあるものだったら、私がさっきシュレッダーかけておいてあげたわよ。いらない書類 は逐一片付けていかないと、事務所の中がスッキリしないでしょ?美しい環境で効率のよい仕事を続けていくため にも、オフィスの美化は随時リーダーが率先して…」恵美子がここまで言い切らないうちに、普段温厚な町田がい きなり大声でブチキレてしまった。 「村主さん!!我々は過去 10 年前の文書から順番に電子化を進めてきた所だったんですよ!さっき我々が倉庫か ら古いファイルを運んできた訳が何だったのか分かってたんですか?こうした公文書は永久保存ですけど、書庫の 中にファイルが入り切らないし今後の書類検索がスムーズに進むようにという事で今一生懸命過去文書の電子化の 作業を進めてたんですよ!2007 年といったら一番新しいものじゃないですか!電子化が終わっても、中身が完全に 保存された事が確認できるまでは、一番古いものでもシュレッダーをかけちゃいけないって課長に言われてたって いうのに…」町田は途中から涙ぐみ始めた。恵美子のせいで 5 年前の重要書類が完全紛失という事態に陥ってしま ったからである。 事務所内はシーンと静まり返っていた。またしても村主恵美子がロクでもない事をやらかしてくれた。自分の係 に所属する職員の仕事状況すら把握できず、 「オフィス環境改善」を旗印に自分のやりたい事をお構いなしに進めて 取り返しのつかない事態を招いた恵美子の行動に、農村計画部長の杉田が大激怒した。 「村主君!君という人は入省当初から人の足を引っ張る事しか出来ないのか!?これは一大事だぞ!うちが責任を 持って保存すべきだった重要書類が完全紛失。これでは 5 年前にうちの事業に関わってきた証拠が完全にパアだ。 当時の担当者達やお客さん達にどうやって謝罪していいのか分からないじゃないか…。」 5 年前といえば、大輔が農水省に入ったばかりの頃に該当する。当然この事実は大輔の耳にも伝えられた。大輔 ももちろん怒り心頭であった。またしてもあのババアかよ!?大輔は町田達のために当時思いつくままの状況で失 った文書の修復を手伝わされる羽目になってしまった。またしても余計な仕事である。 「大輔……」木戸が大輔の肩をポンと叩いた。 「木戸さん…。あの女、何でここにいるんでしょうかね…。町田のト ラブルは俺自身のトラブルですよ。いや、農地転用係全員にとっての頭痛の種です。もし、5 年前の農地転用に関 する案件で何か照会とか問い合わせとかあった時どうやって回答すればいいんですか?農業従事者にとっても一大 事な話ですよ。農水省幹部が証拠書類を全て紛失したなんて事が発覚したらどうやって謝罪していいのやら…」 「分 かるよ大輔。お前の言う事はもっともな事だ。普通はそういう意識でもって仕事に当たらないといけない訳だから、 たとえ電子化の作業を進めていた所であっても、全ての文書が電子化された事が確認できるまでは処分してはいけ ない。処分には最新の注意を払って作業に当たらないといけないし、たとえ古い書類であっても、中身によっては 原本を永久保存しないといけないようなものまであるはずだ。しかし、一度シュレッダーをかけてしまったものは もう修復が利かない。悪いけど大輔、出来る限り町田達の手伝いに当たってあげてくれ。もちろん全部修復は不可 能だと思うが、同じ年度の文書が保存されたチューブファイルが何冊かあっちこっちに点在している可能性もある し、全部が全部完全に消えてしまった訳でもないだろう…」 「8cm のファイル 3 冊分ぐらいやらかしたって聞きまし たよ…」 「3 冊分!?それじゃあかなり膨大な文書量じゃないか!…ったく…本当に困ったキャリアが来たもんだな。 大輔もよく今まで耐えてきたもんだ…」「俺はあの女が来て 1 年でここに異動になりましたから良かった方ですよ。 問題なのは残された町田の方です。今年から配属された日野君は、多分これから先、しばらくの間あの女と関わら ないといけなくなるでしょう。他人事だと思えませんよ…。」 一頻り愚痴った後、大輔はリフレッシュルームで煙草をふかしていた。はあ…。何だかまた胃潰瘍になりそうだ な…。その後、恵美子によって消失された過去文書修復の作業は、町田や他の職員達、大輔の手伝いなどによって 少しずつ進められたが、何分失った書類の数が膨大である上、何を記載した書類がシュレッダーにかけられてしま ったのか思い出す術が見当たらないため、修復作業ははかどらなかった。その間にも過去文書電子化の作業は随時 進めていかないといけないし、その他の仕事も沢山ある。結局村主恵美子は、自分と同じフロアに所属する全ての 職員達の仕事の足手まといになるためだけに来たようなものなのだろう。だが、周りにこれだけの迷惑をかけてお きながらも、当の恵美子には何の反省も謝罪の気持ちもなく、今日も何かやってるわね、ぐらいの気持ちでしか町 田達を見ていない状況だ。たとえ他の職員達がバタバタ忙しくしていても、朝は自分の席でゆっくりとコーヒーで 寛ぎ、午前 10 時になれば朝のティータイムとしてお菓子とコーヒー。お昼は他の職員より 10 分も早く事務所を出 て高級レストランで外食し、午後の就業時間の 5 分過ぎに事務所に戻る。3 時になれば当然おやつとコーヒー。そ して定時になればさっさと帰る。これが彼女の日常なのだ。国家公務員Ⅰ種なら、大輔や木戸、町田達のように毎 日夜 8 時から 10 時過ぎぐらいまで残業するのが日常的と言われるのだが、恵美子が残業するのはよほど周囲から強 く命令された時ぐらいしかない。しかも残業時間は 7 時前ぐらいに終了。まだまだ他の職員の仕事が終わらない中 でも平気で家に帰るのである。一般企業なら彼女のような社員はとっくに解雇であろう。 大輔がいつものようにリフレッシュルームで休憩していた時、男子トイレの方から騒ぎが起こっていた。町田が トイレの洗面所で吐血していたのである。まるで去年の自分と同じだ。大輔は町田に深く同情した。あんな女と毎 日事務所で顔を合わせ、そいつに仕事の邪魔ばかりされていたのでは潰瘍が出来てもしょうがないだろ。診断の結 果、町田は胃潰瘍と分かった。しかも町田は大輔と違い、元々胃腸があまり丈夫でなくて学生時代からよくストレ スによる胃炎を繰り返してきたため、胃潰瘍がすっかり慢性化していたようである。町田は 2 週間ほど入院治療を 受ける事となってしまった。 そんな矢先、農村振興課と大輔の所属する課で、宮城の農村部への出張依頼があった。そこは大輔の実家から程 近い小さな町だ。当然大輔の課からは大輔が行く事になった。問題は農村振興課から誰が行くかという事だが、大 輔の後任に当たる町田は入院治療としばらくの間の安静が必要となったため、出張は別の職員が行く事となってい る。だが、一応町田の「上司」という事になっている村主恵美子ではロクな仕事は出来ないし、大輔の迷惑になる であろう。そうなると他に大輔や町田と同じ仕事をしている人間といえば日野しかいない。日野は本来まだ研修中 の身分であるが、将来の仕事に役立つ知識を身につけさせる目的で、今回は大輔の出張に同行するという事となっ た。異例の人選である。恵美子は当然農村振興課長に「何で役職クラスの待遇が保証されている私を行かせないん ですか!?」と涙交じりの大声で抗議したが、 「ちょっといろいろあってね…」と課長に軽く流され、結局恵美子は 職場内の笑いものとなってしまったのだ。だが、こんな事でいつまでも凹むような彼女ではない。 恵美子は翌日突然の有給休暇を取り、大輔が行く予定にしている仙台市に一人旅に出た。いいもん!私は自分で 自分の仕事を切り開ける女。仙台や宮城の農村に出張に出られなくても、一人でこうやって出張に出られるわ。恵 美子はどこまでも自己中心的な女であった。彼女が向かった先、それは、以前出張で訪れた例のクラシック喫茶だ った。由姫と高橋崇彦がデートに訪れた店でもある。そこの従業員はもう彼女の顔を覚えていないようだ。彼女は 昼間からクラシック喫茶で呑気に寛いでいる。派手なブランド物の服を着て澄ましかえっている彼女を、とある若 い男が見つめていた。その男とは、以前信太郎の会社に在籍していた男で、由姫との交際を巡って高橋崇彦拉致監 禁事件を計画し、結果的にはミスの連続で周囲に迷惑をかけて会社を解雇された中庭である。彼は事件を計画した 男であったが、誘拐事件そのものの関与が薄かったとして結果的に不起訴処分となった。だが、不起訴処分になっ た所で既に仕事を失って社会的制裁を受けてしまったため、その後はアルバイトで生計を立てるしかなかったのだ。 そこで彼が応募したのが、この喫茶店のアルバイト従業員だった。由姫と高橋が来店していた時にはまだ就職して いなかったが、恵美子が来たこの頃には新人店員として頑張っていた。そんな彼が恵美子の姿を見て、思わず「綺 麗な人だ」と惚れ込んでいたのである。この時はただの通りすがりであったが、これが後に運命の出会いとして発 展していくのである。 一方、新人の日野と共に自分の実家近くの農地を視察する事となった大輔。同じ頃、譲太郎はサランとの結婚を 巡って二人でいろいろ話し合いを進めていた時であったが、大輔の出張が元で、譲太郎の結婚に大きな弾みがつく 事になろうとは、この時は誰も予測できていない事であった。
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