1/4 ディスカバージャパンキャンペーンにおける観光の視点と対象に関する研究 A study on the points of view and objects of tourism in Discover Japan Campaign 03M43228 林 真希 Maki Hayashi 指導教官 十代田 朗 Adviser Akira Soshiroda SYNOPSIS It is generally said that the Discover Japan Campaign changed the style of the travel of Japan. This study aims to clarify the campaign design and process, and find out the points of view and objects of tourism, and the impact of the campaign to the destinations. The findings are as follows; 1) At the initial stage, the projects that aim to announce and heat up the campaign got executed. In the next stage, more concrete approaches were indicated. 2) The motif of the campaign was "discover myself". In the campaign, the various interpretation of the motif was presented by cultural figures. 3) The objects of the tourism which were also showed in campaign have variety. And all of the regions of Japan were the destination of the campaign. 4) Tsumago became well-known tourist destination by the press and broadcasting. The campaign became a part of the mass media. Because of accepting a number of tourists, inhabitants of Tsumago changed their mind to understand the value of keeping townscape. 1.はじめに 1-1.研究の背景と目的 1970 年、大阪で万博が開催された後、国鉄によって旅客誘 致策ディスカバージャパンキャンペーン(以後、DJC)が実施 された。万博によって個人旅行が一般的になり、高度経済成 長という時代背景もあり、このキャンペーンは国民の旅行ス タイルに大きな影響を与えたと言われている。また萩・津和 野等現在の有名観光地にはこのキャンペーンをきっかけに観 光地化したとされるところも少なくない。しかし 30 数年を経 た現在、抽象的に語り継がれているにすぎず、キャンペーン 自体の内容について系統的に明らかにされてはいない。そこ で本研究では、観光のために訪れる候補としての地域とその 資源を観光の「対象」、対象を訪ねようとする観光の動機付 けを観光の「視点」と定義した上で、①DJC ではどのような 企画が行われ、どのように展開したのか、②DJC の企画では、 どのような視点と対象が提示されたのか、を明らかにした上 で、③DJC による対象地側への影響と取組み(ケーススタデ ィ)を明らかにすることで、DJC の観光的意義を考察するも のとする。なお、DJC に関する研究は、広告分野からのアプ ローチ 1)はあるものの、観光キャンペーンとしての具体的内容 や地域側に関して言及したものは見られない。 2.ディスカバージャパンキャンペーンの概要と展開 2-1.ディスカバージャパンキャンペーンの目的、コンセプト 大阪万博には 6,400 万人もの人が全国各地から押し寄せ、旅 行総量の増加、団体旅行から個人旅行へ、鉄道から自動車へ シフトした時期であることから、1970 年は「わが国観光旅行 のターニングポイントともいえる年 2)」とされている。 国鉄では万博終了後、増強した輸送力をいかに販売し、増 収に結びつけるかが大きな課題となっていた。そこで、万博 後の旅客誘致策として DISCOVER JAPAN の名のもとに「日本 の豊かな自然、美しい歴史や伝統、こまやかな人情を、旅に よって発見し、自分自身のものにしよう 3)」という旅のキャン ペーンを同年 10 月から開始した。テレビの普及に代表される ように、生活スタイルや余暇の過ごし方の変化によって旅行 の価値が低下しているとの問題意識から、「日本を発見し、 自分自身を再発見する」とのコンセプトが提示された。 従来の観光キャンペーンはある特定の観光地を対象とし、 旅行者を一点に向かわせるものだったが、DJC ではキャンペ ーン対象地を特定せず、いわば全国津々浦々を対象地とする ことで、国民の総旅行需要を喚起しようとした。さらに国鉄 単独ではなく協賛企業を募ってキャンペーンを展開した。 2-2.キャンペーンの流れ(図1) 開始直後は、スタンプ設置、ポスター掲出、DJ タワー建設、 機関紙「でぃすかばあ・じゃぱん」発行、特別列車 DJ 号運行、 新聞に特集記事の連載など、キャンペーン周知と機運盛上げ をねらう多様な企画が行われた。ポスターのモデルは若い女 性が多く、女性客を意識していたと考えられる。 また国鉄は、従来の均一周遊券より周遊範囲が狭く低価格 のミニ周遊券を発売した。70 年 10 月に東北地方を中心に9種 類が設定され、以後徐々に設定エリアを拡大していった。当 初、DJC の一環としての旅行商品であったが、「DJ よりもミ ニ周遊券のほうが知れ渡っていますからね 4)」と言われるほど 単独商品としての認知も強かった。 さらにテレビでは、旅番組「遠くへ行きたい」の放映が始 まった。71 年 3 月までは、永六輔が番組進行を担当し、その 後は放送毎に進行役が交代するスタイルになっている。 71 年7月以降には、著名人 71 人による 300 字程度のエッセ ーをまとめた「美しい日本と私’71」が発売され、取り上げら れた 71 箇所の最寄駅の駅長が読者をモニターとして旅行に招 待する「駅長招待旅行」が実施された。また、全国 250 箇所 の寺院と契約し女性グループに宿を提供する「心のふるさと お寺券」の発売や、「郷土の誇りへの紹介状」と題し、従来 非公開であった伝統的な技術・工芸を公開する企画が実施さ れた。72 年は駅掲出ポスターのサブテーマに「遠い土の匂い」 が設定されたほかは新たな企画は実施されていない。 「遠くへ行きたい」は、73 年 4 月以降は月毎に放送対象エ リアを設定し、4 回シリーズでの放送となっており、番組独自 の路線に変更したと取れる。キャンペーン製作者側からも「テ レビ番組はキャンペーンのご同行にならないという格好の例 2/4 用者以外への訴求効果を持ち、文 字と視覚情報で構成されている ことからより具体的な【イメー ジ・内容】を伝えたと考えられ る。DJC ではテレビ番組や新聞と のタイアップにより、お茶の間に もキャンペーンが知れ渡るよう になったと言える。 3.観光の視点とその具現化の 提示 図1 DJC の企画内容の展開 になった。映像というものは、コンセプトやテーマに殉ずる ことが得意ではない 5)」と言われており「遠くへ行きたい」は DJC のコンセプトから徐々に乖離していった。73 年 11 月には 石油危機の影響を受け、DJ タワーの点灯中止が新聞で報道さ れた。DJC 自体は 76 年 12 月まで継続しその後は同じく増収 を狙った「一枚のキップから」キャンペーンへ移行した。 これら一連の企画は、旅行需要の喚起と新しい旅行スタイ ルの提案が主なねらいであったが、毎日新聞の特集記事「ア ングル’70」では、ガイドブック的に地域を紹介する一方で、 過疎化・公害といった地域の抱える問題を併せて取り上げた ほか、観光客の増加や観光ブームに期待する地元の人々の様 子に加えて観光地のあり方に疑問を投げかける記事も掲載さ れた。DJC 企画の一環ではあるが、従来の観光的ガイドとは 異なる切り口で観光地を記述しており、結果的には旅行の質 の転換にも繋がったとも推察される。 2-3.キャンペーンの効果 国鉄の旅客営業については「DJC を強力に実施した結果、 憂慮されていた万博後の落込みを最小限にとどめることがで きた 6)」とされている。また DJC と同時期にファッション誌 「an・an」(70 年3月)と「non-no」(71 年5月)が創刊され、 これらの読者である若い女性が「同じようなファッションで 身を包み、『an・an』『non-no』を手にして全国の観光地に出 現したため「アンノン族」と呼ばれ 7)」、社会現象を引き起こ したことや「(DJC が)ブームの様相を見せてきたのは、『ア ンアン』や『ノンノ』のパワーとタイミングよく結びついた から 8)」と述べられていることから、DJC がこれらの読者層で ある若い女性の旅行と関連が深かったと言える。 2-4.各企画の役割 以上の企画は、旅の動機付けとなる提案をする企画と、ミ ニ周遊券などの旅行商品の企画に分けられる。前者は<DJC 自体の PR>を担うスタンプやタワーと、<コンセプト等内容 の PR>を担う文字や写真情報に分けられる。媒体別では、ポ スターは駅構内や車内に掲出され地名等が入れられなかった ことから、主に国鉄利用者に対して【旅のイメージ】を、エ ッセーは駅構内で発売され 71 人の旅の体験が書かれているこ とからより具体的な【旅の内容】を、新聞やテレビは国鉄利 自己再発見 アイデンティティ 自己的・内省的 生い立ち/思い出 趣味・嗜好 他者との区別 旅の形態 場所・旅先 季節・時間帯 行動・行為 前述の通り DJC では「日本を発 見し、自分自身を再発見する」を コンセプトとし、まず“自己再発 見”が全体的な旅の「視点」とし て提示されている。そこで本章で は DJC の企画のうち、文章記述で構成され旅を通じた“自己 再発見”を具現化する方法が提示されていると思われる「美 しい日本と私’71」の記述内容を分析しその方法について考察 する。 エッセー中から、旅のスタイルや読者を実際に旅に誘うよ うな記述内容、つまり筆者が実践的に示す「自己再発見の具 現化の素材」と考えられる部分を抽出し、整理したところ、 図2の通り分類することができた。まず“自己再発見”の素 材には、自己を内省的に捉えその深層に焦点を当てたもの と、他者と区別することにより自己の深層を捉えようとする ものに二分できる。前者はふるさとの旅を文中で描きながら 自らの生い立ちや思い出、趣味等を通じて、自分とは何かを 問う旅であり、後者は自分以外の他人が選択しない旅の形態 や旅先、季節、行動を選び、自分らしさを重視した旅を描く 記述があてはまる。A.H.マズローの欲求段階説に当てはめて 考えれば、こうした“自己再発見の旅”は基本的欲求(欠乏 欲求)を超えた、成長欲求に属するものであり、この点にお いて、DJC が「国民の旅行スタイルに大きな影響を与えた」 とされるのではないかと推察される。 4.観光の対象の提示 4-1.観光の対象と着目点 本章では、DJC の企画の中で示された「観光の対象」を明 らかにするために、3章と同様に「美しい日本と私’71」のエ ッセー中で、筆者がある場所を何に着目して記述しているか を分析する。まず記述された場所を抽出し整理すると、大き く、「海」「山」「その他の自然」「城下町」「港」「その 他の町の要素」の6つに分類できた。これらには、その場所 を説明する着目点とその感想・評価が併せて記述されること が多い(図3,図4)。例えば自然資源である「海」におけ る着目点は、波や浜といった海の一部、また雪や夕日といっ た気象・天文、そして山や野猿のような自然要素が挙げられ ている。また「民宿の老婆が暑いからといって上半身裸のま ま給仕してくれた」「ここではワラジが立派に生きているの である」のように、そこで生活する人や民具といった情景に も着目し、そこに表れる人々の素朴さ・風土等を海の風景を 説明するのに用いている。「城下町」におけ 僕はふるさと(中略)を美しい場所と推す る着目点を見ると、通行人や気風、民芸館や ヨット気狂いのボクは… 観光名所を用いて、町全体の雰囲気を「格調 その足であてもなく(中略)山深く旅をした あえて、そこを目的地として出かけない限り、 高い」「文明を感じさせる」と記述している。 気軽に立ち寄れない町というものがある 他の場所も含め、着目点はいずれも多岐に渡 私はどうしても自分を冬の日本海、 っており、観光名所のようなガイドブック的 それも東北の海岸に置きたかった な情報だけでなく、人や歴史、印象、気象条 旅に出ると、私は急に早起きになる 件など、作者によって多様な着目点が示され 図2-「美しい日本と私」で示された 「観光の視点=自己再発見」を具現化するための素材 3/4 暗澹たる光景 太平洋 日本海 海 古きよき日本らしさを今に伝える 白く濁る どす黒い 凪いで 岩を砕かんばかり 波 安らかな 紺碧の 浜 島 油絵そのままの 思わず感嘆の声が洩れる 水仙 高山植物 色とりどり 野原 山 せせこましい都会生活がアホらしくなる 雪 立っていることも難い 空 なんともいえず微笑ましい あくまでも重く 澄んだ 雲 山いっぱいに照り映える 親友 吹雪 ショッキングな美しさというより、自然な開放感 野猿 椰子の実 蜜柑畑 ヨット 風 めっぽう美味しく こどものくに 渡辺崋山 悲劇 エキゾチックに感ずる 大時化 山道 広々と広がって 突堤 漁村 素朴さがあった 白砂青松の 見捨てられたにぎわいがあり 防砂林 魚と果物 ひなびた 箱庭ムードの 港 漁師小屋 刈干切唄 ガイド嬢 せつせつたる哀調 ワラジ 音 赤ん坊から年寄りまで かわいい 夕日(陽) 美しい 民宿の老婆 ボクを魅了する ほのかな風雅を感じる 太陽 空気 厚い鉛色 気持ちいい 魚売りの老婆 図3 海・海岸を記述するのに着目したもの 静寂で古雅な町 町筋 町並 古い 複雑な 清潔な町 気軽に立ち寄れない町 小京都 白い壁 城跡 郷愁を感じる 土塀 桃 城 家並み 美しい 名をはせた 自然の中の 人情を秘めた 詩情ある けばけばしくない 天赦園 無理をしないで贅沢をしている 神話 墓所 文明というものを感じさせる 後楽園 松下村塾 マリア聖堂 赤穂浪士 生家・旧宅 森鴎外 質素な 民芸館 格調高い 天正以来の城下町 風景の美にも恵まれた土地 二十世紀梨 川 民家 美味 清浄 松葉蟹 水蜜桃 鵜飼い 焼物 渋い 三次人形 風雅 眺望がすばらしい 日光 食べ物 うまい 鷲羽山 池 霧 砂丘 広大な 通行人 鯉 夏蜜柑の花 親切 芳香 気風 塩田 のんびりした 人情 厚い 品格 図4 城下町を記述するのに着目したもの ており、各作者がエッセーの記述を通して“自己再発見の旅” における観光の「対象」の様々な独自の味わい方を提示して いると言える。これらは昨今流行しているオルタナティヴ・ ツーリズムと同様の思想が窺える。 4-2.対象地の特徴 次に、DJC の企画である「美しい日本と私’71」「アング ル’70」「遠くへ行きたい」では、具体的な対象地としてどこ が取り上げられたのかをみる(図5)。全てを重ねると地方 の歴史性や大自然が重視されかつ全国満遍なく取り上げられ ていることがわかる。また 70 年前後は観光現象としては「秘 境ブーム」「半島ブーム」、まちづくりとしては「町並み保 存」の気運が高まりつつある時期である。このことを鑑みて 改めて対象地を見ると半島や古い町並みが残っている地域が 多く見られる。このことは徐々に観光客が増えつつある地域 も多く対象とされたことを示唆している。なおその中でも3 つ全てで登場するのは、オホーツク、木曽(南木曽)、熊野、 倉敷、津和野、阿蘇の6箇所である。 4-3.ケーススタディ対象地の選定 「美しい日本と私’71」「アングル’70」「遠くへ行きたい」 の全てに取り上げられる地域に加え、旅行者側の若い女性に 大きな影響を与えたとされる、「an・an」「non-no」で取り上 げられたという条件を加えてみると、5つ全てに取り上げら れるのは、木曽(南木曽)、倉敷であり、これらの地域は、 キャンペーン制作者側から捉えても、旅行者側からも DJC の コンセプトによく合致する地域といえる。次章ではこうした “DJC らしい”地域について、DJC と地域の観光化の関連を 考察する。特に新聞、「an・an」「non-no」で取り上げられて いる南木曽町妻籠宿をケーススタディとして分析を行う。 5.対象地側からみたディスカバージャパンキャンペーン 5-1.DJC で示された妻籠の「観光の視点」 まず3章と同様に妻籠における“自己再発見”の具現化の 素材を見る。妻籠を対象地とした「美しい日本と私'71」は、 イラストレータの大橋歩氏が執筆しているが、その中で妻籠 の魅力を「記憶のふるさとにつながるすばらしさ」と記述し ている。図2と併せてみると、自分の「生い立ち」を素材と して“自己再発見”する旅のスタイルを提示していると言え る。 5-2.DJC で示された妻籠の「観光の対象」と着目点(図6) 「美しい日本と私'71」「アングル'70」「non-no」における、 妻籠における「観光の対象と着目点」をみる。宿場、奥谷郷 土館、特産品・土産品、旅行者は3メディアに共通して取り 図5-各企画の対象地 上げられ、妻籠を訪れる観光客に提示された代表的な対象と いえる。特に「non-no」では特産品や土産品を多く取り上げる 傾向がみられ、若い女性に対しては旅行の定番的目的である ショッピングも想定していると考えられる。 宿場については、町並みや格子、のれんを着目点とし「江 戸時代の面影を残す」と記述されている。一方「映画のセッ トのよう」「少女が写されることに慣れているとすれば寂し い気もする」というように、生活感との乖離、俗化の気配を 伝えるような記述もされている。また「non-no」では囲炉裏に 着目し「幼い頃、おばあちゃんの家へ行ったことを思い出し た」と記し「生い立ち」を素材とする“自分再発見の旅”の 具現化の様子を提示している記述もみられる。旅行者につい ては、「ミニやパンタロン」「カラフルな服装」や「すれ違 う人の半分以上は女性」など、特に旅行者の服装と女性が多 い点に着目している。さらに「古いものに新しいものがすっ かり溶け込んで、いかにもファッショナブルなムードをかも し出す」と、その場に自己が存在している状況を想像できる よう提示している。 5-3.妻籠の観光地化と地域側の取組み DJC 前後の妻籠の観光地化の動きについて、南木曽町誌 9)、 統計資料 10)、関係者へのヒアリング(1)から明らかにする。 妻籠宿への観光客が目に見えて増え始めたのは、奥谷郷土 館が開館した 68 年以降である。観光入込み客数と乗降客数の 花器(ノ) ろくろ細工(ノ) せんべい(ノ) 灯(ノ) ちょうちん(ノ) 幻想的ムードさえ感じる こんぺいとう(ア/ノ) ワラビ(ア) ミソ(ア) フキノトウ(ア) 菅笠(ア/ノ) サトイモ(ア) 山菜(ノ) 御幣餅(ノ) シソの実(ア) 鯉(ノ) 鮎(ノ) 素朴な味を感じた おみやげ店(ノ) 作業場(ノ) 奥谷郷土館(美/ア/ノ) 少女(ア) 写されることに慣れているとすれば寂しい気もする 宿場(美/ア/ノ) のれん(ア) 格子(ア) 民家(美) 土蔵(ノ) 街道(ノ) 江戸末期の面影を残している 大名行列にでも出くわしそうな… 古い郷愁があふれている 映画のセットのような錯覚に襲われる 失われたものを求めて歩く 宿場保存(ア/ノ) 藤村記念堂(美) 夜明け前(ア) 藤村の初恋の人(ノ) いろり(ア/ノ) 老婆(ア/ノ) おじいさん(ノ) 馬籠峠の碑(ノ) 菅笠をおみやげにひとつくださった 山(美) 川(美/ア) 新緑(ノ) 旅行者の女の子(美) 木(美/ア) 口ではわかってもらえない カラフルな服の女性(ノ) 「泣き叫びたい気持ちにかられました。 空(美) ミニやパンタロン(ア) なぜだかわかりません」 陽の光(美) 顔も手も青白く見えるほどの新緑 セーターにスラックス(ア) 図6 妻籠の着目点 4/4 変遷を見ると(図7)、70 年頃から入込み客数は急増してい る。当時の状況について南木曽町誌では「妻籠宿は新聞・テ レビ・週刊誌等による宣伝や、DJ の PR が効果を表わし、観 光客はうなぎ昇りに増えた」と述べている。新聞や「non-no」 でも、妻籠宿が既に観光地として賑わう様子を伝えており、 このことが更なる旅行者の呼び水になったと推察される。同 じく「女性が多い」「ファッショナブルなムード」という記 述が 75 年頃からのアンノン族の増加を引き起こしたと考えら れる。 妻籠宿では 64 年の宿場関係民族資料収集から宿場保存運動 が始まった。妻籠には公民館活動を通しての地域活動の実績 があり、保存運動の中心となった人々の間には宿場保存の理 念が確立されていた。当初は宿場保存の意義や活動に対して 理解を示す住民はあまりいなかったが、メディアに取り上げ られたことで保存活動への理解を深め、また報道を見て来訪 した観光客が宿場町の佇まいや古い町並みのよさなどを褒め ることで、住民自らが宿場保存の価値に気づいていったとい う。つまり、地域側に保存運動に関する確固たる理念を持つ 人物が存在し、かつ観光地化により外から評価されることで 他の住民へその理念が浸透していったといえる。この意識が 「観光利権屋が群がり始め(中略)外部からの資本攻勢に対 する危機感が関係者の間に高まってきた」時期に「売らない・ 貸さない・壊さない」を三原則とする「妻籠宿を守る住民憲 章」を制定・宣言することにつながっていった。 一方、南木曽町では国鉄長野鉄道管理局に対して田立の滝 等自然資源を中心とした観光開発の支援を要請し、国鉄側も 管内の未開発の観光地域をもつ市町村を支援する意向を持っ ていたことから、67 年から 69 年にかけて、周遊地の指定、駅 周辺の整備、パンフレット・ポスター配布や、臨時観光列車 「木曽路号」運行等が実施された。また 70 年に策定された長 野県「信濃路自然探勝歩道五ヵ年計画」に沿い馬籠峠から南 木曽駅までの事業補助を町が獲得している。国鉄側にとって も、周辺の「寝覚の床」など自然観光資源が中心であったエ リアに、町並み型観光地である妻籠宿が加わることは観光エ リアとしてのバラエティを増やし、ポテンシャルを上げるこ ととなり、好都合であった。その両者の思惑が一致し、妻籠 宿の観光地化は進んだと推察される。しかしながら、妻籠宿 が他の観光地と異なり、急激な観光客増加による外部資本の 流入や観光公害を最小限に止められたのは、宿場保存を中心 とした確固たるまちづくりの理念を住民が共有していたから であることもいえよう。DJC との関係で言えば、妻籠宿は、 DJC の描く観光地イメージと地域側の描くまちづくりの理念 とがうまくマッチングした好例であると言える。 6.結論 本研究の結論は以下のようにまとめられる。 ①DJC は、新たな旅行スタイルの提案に重点をおいたイメー ジキャンペーンであった。展開過程をみると、初期にはキャ ンペーンの周知と機運盛り上げを狙う企画が実施され、次第 に具体的な旅の内容を提案する企画へと移行していった。実 施された企画は、協賛企業を募ってのキャンペーンだったこ とから、様々な関係主体によって咀嚼、独自に解釈され、多 様な「旅」が提示され国鉄の日常的利用者以外にも訴求効果 を持っていた点が特徴である。 ②DJC では“自己再発見”との視点が提示され、旅を通じて その視点を具現化する方法が提示された。「自己を内省的に 捉えるもの」、「他者と区別することにより自己を捉えるも の」に大別できる。 ③観光の「対象」は、対象地をみると全国に拡がっているが 必ずしも全く新しい観光地というわけではなく、半島や町並 妻籠宿場資料収集開始 奥谷郷土館開館事業 1965 妻籠を愛する会 要請 南木曽町 要請 国鉄長野局 長野県 奥谷郷土館開館 妻籠宿保存事業 1970 妻籠を守る住民憲章 国鉄快速木曽路号 ・夏山急行運行 周遊指定地の指定 宿場保存事業 信濃路自然歩道 妻籠宿保存条例制定 観光入込客数 町並み保存連盟発足 1975 0 乗降客数(南木曽) 100,000 200,000 400,000 600,000(人) 図7 妻籠の観光地化の過程 みが残る地域など時代のブームや機運の盛り上がりを捉えて 地域選定がなされたと推測される。より詳しく対象の着目点 を見ると、単なるガイドブック的な情報だけでなく人や歴 史、印象、気象条件など様々な独自の味わい方(着目点)を 提示している。 ④妻籠宿では急激に観光客が増加しており DJC による影響が 確認された。DJC を機会に、国鉄、町、保存活動の3者の思 惑がまとまり、自然資源が中心であったエリアに町並みを有 する妻籠宿が加わることで複合的なポテンシャルの高い観光 エリアが生まれた。また観光客の評価が妻籠宿住民の保存理 念の確立に貢献し、逆に確固たるまちづくりの理念が観光地 化による弊害を最小限に止めたという相乗効果もみられた。 時代性との関係は、今後の精査すべき課題でもあるが、高 度経済成長期という時代を考慮すれば、都市住民にとっては “自己再発見”という旅の「視点」は「前を向いて突っ走る 時代は終わりかけている」といった時代の雰囲気を捉えたも ので、時代をわかりやすく表現したキャンペーンであり、一 方、地方にとっては、それまで注目されることがなかった「対 象」にまで日本中の人々の目を向け足を運び、地方の抱える 過疎、開発、自然破壊といった問題へとまなざしを向けるき っかけとなったキャンペーンだったともいえるであろう。 実際に提示された旅行スタイルに関しては、現在のオルタ ナティヴ・ツーリズムに通じるものであり、むしろ、地域側 にホスト役を強いない点などより先進的な印象さえ受ける。 しかし DJC で観光地化した地域がその後マス・ツーリズムの 引き起こす様々な問題に悩まされていることを考えると、現 在、主流となりつつある「まち歩き観光」「グリーンツーリ ズム」「エコツーリズム」等の今後に有用な示唆を与える史 実であるといえよう。 参考文献 1) デ ィ ス カ バ ー ・ キ ャ ン ペ ー ン の 研 究 , 宣 伝 会 議 , 第 19 巻 1 号,1972,pp.14-41 2)(財)日本交通公社調査部編(1994),「観光読本」,東洋経済新報社,p.9 3)日本国有鉄道(1974), 「日本国有鉄道百年史第 13 巻」,成山堂書店,p.148 4)前掲 1),p.37 5)藤岡和賀夫(2000), 「あっプロデューサー 風の仕事 30 年」,求龍堂,p.86 6)前掲 3)p.136 7)白幡洋三郎(1996),「旅行ノススメ」,中公新書,p.82 8)藤岡和賀夫(1987),「藤岡和賀夫全仕事〔1〕ディスカバー・ジャパ ン」,PHP 研究所,p.109 9)南木曽町誌編さん委員会編,「南木曽町誌通史編」, 南木曽町誌編さ ん委員会編,pp.930-952 10)日本国有鉄道,「鉄道統計年報」,昭和 43 年度-昭和 50 年度 補注 (1)ヒアリング先:財団法人妻籠を愛する会理事長 小笠原宏氏,南木曽 町教育委員会教育長 遠山高志氏
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