2001 年3月卒 谷口ゼミ 目 卒業論文集 次 はしがき 谷口 昭 第一部 日本型社会の黎明 杉山 文仁 律令法の成立 横山 智 古代の身分・戸籍法 ・・・・・・・・・・・・・・ 13 纐纈 三奈子 古代における婚姻形態─平安期貴族社会を中心に─・・・ 25 第二部 武家法への展開 松田 祐里 中世国家における封建的主従制の動向 ・・・・・・・・ 35 久野 聡実 蒙古襲来 57 沢井 孝之 甲州法度の時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 67 糸原 健太 織田信長の経済法 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 81 第三部 完成した武家社会 羽根 大介 江戸初期における朝幕関係について ・・・・・・・・・ 91 難波 愛資 江戸の刑事裁判 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 112 吉田 淳也 『葉隠』に見る武士道─山本常朝の精神世界──・・・・ 127 曲尾 和典 真田家・松代藩の研究 ・・・・・・・・・・・・・・ 141 吉原 健悟 唐津藩の歴史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 152 第四部 迷える近現代 内田 誠一 秋田の戊辰戦争 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 166 時田 正樹 壮大なる幻影─榎本武楊と蝦夷共和国─・・・・・・・・ 183 小野 靖代 明治憲法の制定過程 ・・・・・・・・・・・・・・・ 205 久保 純一 日の丸と君が代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 216 林 史郎 従軍慰安婦問題の歴史的研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・ 1頁 228 はしがき センチュリーのみならず、ミレニアムの変り目をも経験した私たち──20世紀がバイ オとITとナノテクノロジーの入り口で幕を閉じたとするならば、技術的達成度とはべつ に、人と社会と地球に、本当の意味で有効な実用化を進めることが、21世紀初頭の課題 となるのであろう。21世紀最初の卒業生は、これからの数十年、充実した人生で何を見 るだろうか──新技術応用のプロセスに身をさらすことになるのは、間違いない。その成 果を、次の世紀末を見る彼らの二世たち!に、実り多くつないでほしいものである。 さて、私とゼミ生にとっては例年の卒論集。これまでITの第一ステップとでもいうべ き、人ナミの情報化は達成していた。ワープロソフトによるフロッピー提出と、全体を編 集して、オンデマンドでいつでも一冊の卒論集が提供できる態勢は確立していたからであ る。しかし、今年度は少し違った展開をすることになる。 例年の作業に取りかかりながら「しばし待て」と考えたのが、21世紀まであと数週に 迫った頃であった。ゼミ生の提出もギリギリ、大慌てで編集・制作、卒業式までに手渡せ なくて、卒論集の残部が出る年もある。世はまさにペーパー資源保護の時代。ならば、い っそのこと印刷・製本を廃止してしまえ・・・というゼミ時間での討議を経て「新世紀、 まずはWEBによる提供にしようじゃないか」ということになった次第。 とすれば、不特定多数の心ある閲覧者と、その厳しい目にさらされることになる。いい 加減なものは書けないという自覚のもと、ゼミ生諸君は、年末・年始にも相当のエネルギ ーを注ぎこんで、それぞれの卒論に一段と磨きをかけ、従来にない成果をあげたと思う。 あとは、彼らの努力に報いるべく、IT環境を整えるだけとなったのが、大学への提出締 切り数日前。かくして2001年版ゼミ論集が日の目をみることとなったが、その形は従 来とかなり変わるので案内しておこう。 まず、卒論ファイルは、ネット上で提供することを前提としたため、すべてPDF形式 で統一されている。その不便を解消するため、ゼミ生にはオリジナル・ファイルとWEB 構成のHTML・ファイルを収録したCD−ROMが配付されることになる。CDに付さ れる楽しい?ラベルは、ゼミ生の手作りとなるはずである。ネット上の閲覧ということか ら、個人情報はカットせざるを得なくなったが、 「01年卒ゼミ生」のフォーラムは継続す るので、折りにふれて書きこんでほしい。HPのアドレスは以下のとおりである。 http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei/semi/taniguchisemi index1.htm 校正と編集には多くのゼミ生が参加したが、その主体となって一冊の論集にまとめてく れたのは、纐纈三奈子・杉山文仁・横山智の三君とTA小寺武義君(修士課程)である。 加えて、PDF変換とWEBページの作成には、やはりTA古瀬和彦君(博士課程)の多 大な助力を得た。彼らの労を多としたい。このような作業の結果、ゼミ生の四年時点にお ける知的作業の結晶が、インターネット上で、CD−ROMで配信できることになった。 ささやかながら、これがわがゼミのミレニアムに実現したIT革命である。 2001年1月 名城大学研究室で 谷口 昭 第一部 日本型社会の黎明 律令法の成立 杉山 文仁 はじめに 日本における律令制の導入は、七世紀中頃以降の東アジアの動乱、これと連動する国内 の権力闘争と深く関係している。とくに天智二年(六六三)白村江の戦いの大敗が契機と なり、律令体制を急スピードで再編強化するために行われた。このなかで、律令国家の体 系的な基本法典としての律令を編纂する必要が生じてきた。こうした律令編纂は、大宝律 令で完成されたと考えられる。この点で大宝律令の持つ意味は大きく、日本での律令の出 発点と考えられる。しかし、それ以前にはどういった律令があったのだろうか。 また、律令はもともと中国で発達してきたものであり、日本はそれを取り入れた。この とき、重点のおき方が日本と中国では反対になってしまった。中国では律が重視され、日 本では令が重視された。中国の社会を規定していた規範は「礼」であり、中国の「律」は この「礼」の一部分を文章にまとめたものである。これに対し、 「令」は「律」を補うもの として生まれ、一般的な行政法へと発展した。そのため、中国では律の方がより基本的な 法であった。しかし、日本は律令を取り入れるときに、「令」の方を国家の基本法としてと りいれたのであった。当然、日本にも独自の社会的な規律や習慣法はあった。律令国家は その上に律令をかぶせて、これによってできるかぎり社会全体を規制しようとし、そのた めに莫大な情熱を投入した。しかし、法律で社会の隅々までを規制しきることは、たいへ ん困難なことである。官人、貴族の世界はかなり規制できるだろうが、一般民衆となると むずかしかった。そのため、律と令を比べると、令の方が社会をおおう度合いが広かった と考えられる。これらのことをふまえながら、どういった経過で日本の律令制度が成立し ていったかを考えてみたい。 第一章 近江令 1 近江令 近江令は天智一〇年 (六七一)正月に施行された新官制や、天智九年から天智一〇年に かけて作成された庚午年籍から考えると、壬申の乱勃発直前までの一年半余の時期は、律 令体制成立過程の中でも注目すべき時期であり、この短い時期こそが近江令の施行時期で あった。そして、その編纂は近江大津宮遷都後の天智天皇即位ごろ以降三年ほどであった と考えられる。中臣鎌足は天智天皇から律令の選定を依頼され、彼は大友皇子を編纂事業 の最高責任者としてたててはじめられた。このことは、「家伝」、「弘仁格式」にかかれてお り、鎌足は天智七年(六六八)に令二二巻を制定した1と伝えられている。しかし、「日本 書紀」には令制定の記載がなく、「家伝」や「弘仁格式」は八世紀以降の資料である。そのため に、令編纂は天智朝に開始された2ものの、体系的法典は完成しなかったと考える。しか し、天智朝において律令制的支配の構想が具体化したということは十分に考えられる。体 系的法典は完成しなかったが、成文法による全面的な支配体制が日本で初めて行われよう としたからである。 この令の内容は天智一〇年(六七一)正月の新官制などから考えると、大宝令の原型と なるものであった。これは、天智天皇、中臣鎌足が理想としてきた政治設計を実現したも 律令法の成立(杉山) 1 第一部 日本型社会の黎明 のであり、御史台設置ということからも令をかなり強制的に上から施行していくことにあ ったということを示していた。御史大夫は法の番人であるとともに、その実施を推進させ る目付的存在であり、天皇に直結する側近官僚として大きな権力をもっていたと考えられ る。これは中大兄皇子として摂政を行い、白村江の戦いの敗戦による軍事政権的性格の強 い時期とはうってかわり、天皇として即位後は著しく唐制的な行政改革の推進に積極的だ ったといえる。これが、近江令の編纂と施行に集約された。しかし、この積極的な行政改 革は天智天皇の死と壬申の乱によってわずか一年半しか維持されず。壬申の乱の勝者、大 海人皇子の浄御原朝廷が天智一〇年の新官制を壬申の乱終結後に即座に廃止したことから も近江令そのものも廃止されたと考えられる。 そして、 近江令施行以前の状態にもどった。 どうしてこうなったのかということは、近江令の施行が短期間で、その組織化が十分に 地方まで浸透していなかったことや、その急激な唐制化、極端な官僚機構化、御史台とい った監察機関の強権に対する、中央豪族層、地方豪族層が不満、反発をしたということも考 えられる。しかし、壬申の乱の勝者側が近江令といった律令体制に真っ向から反対してい たのではなく、勝者側の求めるものも基本的には近江朝廷側の求めるものと同じであった が、急進的で強引な施行を快く思っていなかったのではないだろうか。だから、浄御原朝 廷の律令編纂事業は、近江朝廷における事業施行の反省の上にたち、中央、地方豪族の意 向をとりえながら慎重にすすめられ、浄御原令として完成されるのである。 2 天智一〇年の官制 天智十一〇年正月に天智天皇によって施行された新官制は、大友皇子を太政大臣、蘇我 赤兄を左大臣、中臣金を右大臣に命じた。そして、蘇我果安、巨勢人、紀大人を御史大夫 とした。太政大臣という官は、日本で初めて独自に設置された官であり、厩戸皇子や、中 大兄皇子の皇太子摂政の地位を受け継いだものであった。大宝令の太政大臣は、天王の師 範としてふるまう官であり、適する人物がいなければ任じられない地位であるので、違う ものである。左右大臣は、孝徳朝のものを継承したものだが、御史大夫は新たにつくられ た官であった。中国の古い制度を参照にして、従来の大夫を発展させた官職であり、近江令 を官僚が敏速かつ、的確に実施しているかどうか、守られているかどうかを監察するもの であった。そしてこれは、天武朝で納言と改められた。 この大友皇子の太政大臣就任の目的は、天智天皇の実弟、大海人皇子の政治力を封じ込 めることであり、大友皇子の政治力を強めるために、蘇我氏、中臣氏、巨勢氏、紀氏らの 力のある豪族が配置された。そして、こうした太政官のもとに法官、理官、大蔵、兵政官、 刑官、民官の六官が設置された。これらは、大宝令制でいうと式部省、治部省、大蔵省、 兵部省、刑部省、民部省にあたるものである。また、太政官に統轄されない神官、宮内官 (宮中の庶務を担当)が別であった。 3 不改常典 天智天皇は律令法による支配構想のほかに「続日本紀」の元明天皇の即位宣命に現れる 不改常典というものを定めた。不改常典は言葉の意味からすると、改めてはいけない不変 の法典のことであるが、内容的には皇位継承法3であり、その一部には父系による嫡系継 承を含んでいる。これが、即位宣命のなかで天智朝に定まったと伝承されているというこ 律令法の成立(杉山) 2 第一部 日本型社会の黎明 とは、天智の律令構想と合わさって天智天皇の考えた皇位継承法の重大さを物語っている。 というのも、律は一般的に言えば刑法にあたり、令はそれ以外の国家的支配の基本法であ る。また、さらに突っ込んでいうと、令は専制国家の機構や民政的秩序、官人が守らなけ ればならない諸規範である。そしてそのどちらにも、天皇の諸権能を拘束する法や皇位継 承の規定は存在しておらず、天皇は律令法を超えた存在なのである。そのために、律令法 以外のもので皇位継承法を定めるものとしての不改常典なのであった。 ただ、不改常典については近江令のことをさすとする説4や、嫡系継承の皇位継承法は 近江令の規定によるものという説5もある。 4 近江令の官制と唐からの継授 『日本書紀』天智一〇年(六七一)に、 「是日、以大友皇子、拝太政大臣。以蘇我赤兄臣、為左大臣。以中臣金連、為右大臣。 以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣、為御史大夫。 」 とある。この官職の中で左大臣・右大臣はすでに大化元年(六四五)にあるが、太政大臣、 御史大夫は初めてでてくる。御史大夫は『続日本紀』慶雲二年七月丙申条で、近江朝廷の 重臣紀大人の官職と官位を「近江朝御史大夫小三位」と記しており、その存在は確かであ る。そしてこの官名の由来と職務内容は『日本書紀』天智一〇年正月癸卯条の分注に「今 の大納言か」と記してあること、『日本書紀』天武天皇即位前紀に以蘇我果安の官名を「大 納言」と記してあることなどから、通説は大化前後の大夫制を継承し、大宝令制大納言の 前身的官職としている6。これに対し、近江朝の御史大夫は宰相であり、天武朝の納言は 侍奉官であり、両者が連続しないことを指摘する説もある7。 ここで、唐の官制と比較してみようと思う。太政大臣・左大臣・右大臣は太政官の最高 幹部を構成するものであり、近江令で初めて太政官が成立したと考えられ、大宝令の太政 官の原型ができたのである。これは、唐の尚書省をモデルとしたもので、太政大臣は尚書 省の長官である尚書令を参考にしたもので、左大臣・右大臣は唐で尚書省が廃止され左右 僕射となるのだが、その左僕射・右僕射を参考にしたものと考えられる。天智天皇がその 子、大友皇子を太政大臣として政務担当の最高責任者の地位につかせたのは、唐で高祖が その子、太宗を尚書令につかせた先例に倣ったものであると考えられる。 御史大夫については、唐の門下省の長官をモデルとして、清御原令以後の日本の大納言・ 中納言の前身的官職と考えられている。唐では詔勅の起草などを主な職務とする中書省、 詔勅案を審査し、異議があれば修正をする門下省、詔勅の施行をはじめ政務執行を担当す る尚書省の三省のうちで、政務の中核に位置する尚書省が重視され権力を掌握していた。 それに対し、並んで権威をもっていたのが官僚の非違を監察する御史台であった。日本で 御史大夫が三名となっているのは、唐の御史台に三院あったことからでないだろうか。そ して、天智一〇年正月に太政官と並んで御史台が新設され、その長官として蘇我果安・巨 勢人・紀大人の三名が大夫に任命され、彼らは唐の宰相と同格の議政官として、太政官の 三官とともに、国の政策を審議する会議の構成員となって参加した。 しかし、近江令による近江朝の太政官制は唐の尚書省の機構を基本的に導入して創設さ れたもので、政務執行の中枢機関である。御史大夫は太政官の機関に含まれる官職ではな く、宰相の地位にあるとはいうものの、それは兼務に過ぎないのであって、本来の職務は 律令法の成立(杉山) 3 第一部 日本型社会の黎明 御史台の長官と考えるべきで、やはり唐の監察機関を直接に導入したのである。 唐制では尚書省の他に、詔勅の草案を作成する中書省、それを審査・覆奏する門下省が あるが、唐の初頭はこれらは門閥貴族の基盤となる官庁であり、皇帝の独裁にならないよ うに歯止めをかける役割を果たしていたといわれている。とすると、近江朝廷がこの中書 省、門下省の機能を全面的に直輸入しなかったのは、日本で唐制の簡易化をはかったとい うこともあるが、その根底には旧門閥氏族の合議政治体制を打破せんとの考えがあったわ けで、言い換えると、天皇の専制権力を阻もうとする機関は排除したことを示していると 考えられる。そして、御史台を直輸入した目的は、唐の法令・儀礼を整備し近江令として 施行したが、それが実行されるよう監視することによって、法令そのものの体現者である 天皇の専制権力のもとにおける目付の役割を果たすためであったと考えられる。 第二章 飛鳥浄御原令 1 天武の皇親政治 大海人皇子は天智一〇年の官制を廃止し、太政大臣や左右大臣を任命せず、草壁などの 皇子、天智の子である川島皇子、施其皇子を登用した。そして、即位後は皇親政治をとり ながらも、官僚制の合理化をめざし、改革を次々と行なっていった。天武二年(六七三) には畿内豪族の出身法を定め、官人はまず大舎人として見習の勤務をさせ、その才能をみ て官職につかせるようにした。この方法は奈良時代にも受け継がれ、五位以上の子孫らは 舎人から出仕する制度となった。天武七年(六七八)になると、官人の考課、選叙法も定 められた。これは、勤務評定であり、官人の勤務の成績をみて、相応の官位を与えるとい うものであり、家柄ではなく才能と成績を重視しながら、官僚機構を動かそうとしたもの であった。毎年の評価で位を昇進させようというものであったが、官職が足りず、位と官 職の不均衡が生じるおそれがあった。しかし、毎年の評価で昇進させる方法は、持統三年 (六八九)の清御原令に取り入れられ、翌年改定され、有位者は六年間の勤務評定をもと に、昇進をさせることになった。このようにして、天武朝では律令官人制の骨格となる、 基本政策が出された。また、これと同時に畿内官人を中心として、兵器や馬を装備させる 政策を打ち立てていった。これは、白村江の国外戦争、壬申の乱の国内戦争の教訓からで あった。 2 草壁皇子の立太子と編纂の開始 天武朝における律令編纂事業は、天武一〇年(六八一)二月に草壁皇子が皇太子となっ た日から開始された。 『日本書紀』天武一〇年二月甲子条に、 天皇皇后、共居二 于大極殿一 、以喚二 親王諸王及諸臣一 。詔之曰。 朕今更欲下 定二 律令一 改中 法式上 。故倶修二 是事一 。然頓就二 是務一 、公事レ 有闕、 分レ 人応レ 行。是日、立二 草壁皇子尊一 、為二 皇太子一 。因以令レ 摂二 万機一 。 と記載されている。本来、皇后が天皇と一緒に詔を公布する事はめずらしく、この事業に 対する皇后持統の積極的な姿勢と、息子草壁皇子への想いがうかがい取れる。この時に草 壁皇子が皇太子になったことは、近江令の大友皇子と同じように、事実上この大事業の最 律令法の成立(杉山) 4 第一部 日本型社会の黎明 高責任者に就任したと考えられる。しかし、この事業に参加した官人については明らかに なっていない。 」と「然頓就二 是務一 、公 この詔で注目したいのは「朕今更欲下 定二 律令一 改中 法式上 。 事レ 有闕、 」という一節である。「今更」というのは律令編纂事業が初めてでないことをあ らわしており、「定二 律令一 改中 法式上」とは律令=法式であり、これを改定すること、つ まりすでに存在している法の誤りを改正し新しく制定することを命じた。そして、 「頓就二 是務一 、公事レ 有闕」は、この事業を急ぎすぎたことが政務にとってマイナス要因であっ たとしており、過去の反省にたち時間をかけ、慎重に運営するという姿勢をあらわしてい る。これらのことをあわせると、すでに存在している法とは近江令のことであり、その編纂 事業を急ぎすぎたために、政務に過失を招くこととなった事を反省しているとみられる。 そして、この詔は近江令の編纂と施行について批判をするとともに、その反省の上にたっ て編纂をしていこうとしていると考えられる。 その後、天武天皇は草壁皇子の立太子からちょうど二年後の天武一二年(六八三)二月、 二一歳となった大津皇子(母は持統の姉大田皇女)を、すでに廃止されていた太政大臣的 な地位、職権を持ったものとして国政の場に参加させた。これは他の皇子にはみられない 特別なものであり、天武帝の強い意志がはたらいたためだろう。ただ、それが草壁皇子の 身体の丈夫さや才能、人望からの不満かどうかはわからない。しかし『日本書紀』や『懐 風藻』によると、大津皇子は身体容貌がよく、たくましく、度胸もよく、無頼派な面もあ り、付き従う人も多かったと伝えられており、草壁皇子とは対照的な人物であった。そし て、形としては現れなかったものの、『天武、大津皇子』対『持統、草壁皇子』というもの ができあがってきたのではないだろうか。 天武一五年(六八六)五月、天武天皇は発病し、占いによると草薙剣の祟りとでたため、 宮中に保管されていた草薙剣が、熱田神宮に送り返された。しかし、病気は回復せず九月 九日に没した。その後、持統皇后は立后以来政務をたすけてきたことから、主導権を発揮 し全権を掌握して政務をとった。 3 大津皇子と草壁皇子の死 朱鳥元年(六八六)大津皇子の謀反が発覚し、三〇人余りが捕らえられ翌日、大津皇子は 死を賜り自害した。持統皇后にとって大津皇子は目障りであり、機会があれば何とかした いという願望があっただろうから、陰謀ということも考えられなくもない。 しかし、大津皇子が没し、天武天皇の殯宮儀礼が終わりしだい天皇に即位するだけであ った草壁皇子を死が襲った。これは持統皇后に大衝撃をあたえた。しかしこの死が、持統 皇后に重大な決心をさせることになった。 4 持統皇后の即位と浄御原令施行 持統天皇即位の半年前、持統三年(六八九)六月ついに浄御原令が公布された。九月に は庚寅年籍作成の詔が出され、一年後には「戸籍は戸令に依れ」という命令がだされた。 これは、浄御原令の戸令にもとづく戸籍であると考えられる。また、撰善言司という官司 がつくられた。これは道徳的いましめの善言を撰ぶための官司であり、皇族らの子弟の修 養のためのものであった。この官司が設置されたことは、草壁皇子亡き後、その子軽皇子 律令法の成立(杉山) 5 第一部 日本型社会の黎明 に皇位を継がせようとする考えの現れであり、持統天皇は草壁皇子の思いを遂げるため、 供養のためにも、それまでの中継ぎとして即位する決心をした。翌持統四年(六九〇)正 月に即位儀が行われ、持統天皇となった。 5 浄御原令 浄御原令は持統三年(六八九)に二二巻で中央官庁に公布された。前述のように戸令(民 政に関する法と考えられる)、考仕令(官人の勤務評定に関する法と考えられる)があり、 日本で最初に体系的に編成された令であると考えられる。しかし、その公布には様々なこ とがあった。編纂内容の路線を巡って対立抗争があり、複雑な軌跡をたどっており不明な 部分も多いが、事業の最高責任者草壁皇子と関連付けて考えてみようと思う。 天武朝の律令編纂事業は天武一〇年(六八一)二月に開始され、天武一二年(六八三) 初頭には案は出来ていたとされている。同年二月に大津皇子が朝政を担当するようになる と、この案に修正が加えられ天武一五年(六八六)中頃に草壁皇子案に対し大津皇子案と も言うべきものが出来上がっていたと考えられる。しかし、天武天皇の崩御後、大津皇子 謀反事件が起こり自害してしまい、再び草壁皇子主導体制にもどった。そのため、大津皇 子案にさらに手を加え新草壁皇子案が作られていったのではないだろうか。 そして、草壁皇子死去の後、編纂事業の最高責任者を失ったことで、事業そのものがス トップしてしまったのである。しかしその三ヶ月後、持統皇后と朝政を担当することとな った高市皇子との共同意志によって、その公布に踏み切ったと考えられる。 そしてその施行は、持統天皇即位直後にされたが、太政大臣に就任した高市皇子によっ て令の考撰制や、太政官制などが部分的に改正され飛鳥清御原令として完成する。 6 浄御原令の官制 近江令は天智七年(六六八)に成立し、その官制は天智一〇年(六七一)正月にいたっ て施行されたが、壬申の乱経過後の天武朝においても基本的に変革はなく持統四年七月ま で継続した。すなわち太政官制は近江令において成立し、そのもとに大弁官があって法官・ 理官・民官・兵政官・刑官・大蔵の六官を統括するとともに、宮廷諸官司は宮内官に統合 されていた。そして、壬申の乱後は天皇権力の強化を反映して太政官・左大臣・右大臣は 置かれず、御史大夫も改称され納言となった。その後、持統四年の浄御原令官制の施行に よって、太政官統属下に宮内省・中務省が加えられて八省となり、納言も分化して大納言・ 中納言・小納言となって大宝令に見られる官制がほぼ確立したという説がある8。 これに対し、法官・理官など六官の創設は天武朝になってからであり、その後浄御原令 制にいたって太政官のもとに八官(宮内省・中務省が加わる)が整い、従来の納言が大・ 中・小に、大弁官が左右にそれぞれ分化して、大宝令制とほぼ同じ構成および規模をもつ 官僚組織が成立したとされる説もある9。また浄御原令制においては中官・宮内官は太政 官に属しつつも、なお内廷的性格を濃く残し、大弁官も太政官と一本化していないという 説もある10。 そしてこれらをまとめたともいうべき説が出てきた。それは、天智一〇年の太政官制は 壬申の乱の終結後、天武朝の成立と同時に消滅した。そして天武朝の太政官は侍奉官であ る新設の納言のみによって構成されるとともに、六官(法官・理官・民官・兵政官・刑官・ 律令法の成立(杉山) 6 第一部 日本型社会の黎明 大蔵)の行政事務受理伝達機関である大弁官が新設された。おそらく太政官・大弁官・宮 内官は並列的に天皇に直属する組織であったと考えられる。やがて浄御原令制にいたりこ の太政官と大弁官の上部に太政大臣・左大臣・右大臣が新設され、旧六官と並列する官庁 として宮内官と中務官が加えられて八官となり、律令官制は完成したとみられた。 しかし、 納言は大・中・小に分化しながらも、侍奉官の域にとどまっており太政官と大弁官は並列 のまま結合したに過ぎないので、大宝令制とはかなりの違いがあったという説11である。 また、大宝元年(七〇一)以前の木簡を手がかりに浄御原令官制について、中央官制の 官司の呼称は法官・理官・民官・兵政官・刑官・宮内官など「官」を称するものと、京職・ 膳職・寒職・下物職・兵庫職など「職」を称するものとの二種類を主要のものとした。そ して、地方官制でも「国司」の呼称は存在しておらず、 「国宰」 「宰」と称されており、諸 官庁において、長官は「頭」、次官は「助」、三等官は「政人」、四等官は「史」と称されて いた12と考えられている。 第三章 1 大宝律令 文武天皇の即位 持統一一年(六九七)八月、軽皇子が即位し文武天皇となった、草壁皇子の息子である。 しかしその即位は大変なものであった。持統天皇が皇位後継者を決めようとしたとき、群 臣たちはそれぞれ自分たちの意見を言い、まったく決まらなかった。当時、天武天皇の息 子たちは弓削皇子、舎人皇子、長皇子、穂積皇子、新田部皇子、刑部皇子の六人が生き残 っており、だれもが次の皇位は自分たちであるとの思惑があったからと考えられる。 このときに、壬申の乱で死亡した大友皇子の息子葛野王が、わが国では子々孫々相承け て天位をついできており、兄弟に皇位を譲ろうとすると乱がおこるので、そうならないた めにも軽皇子が皇位を継ぐべきであると、他の兄弟たちを叱責したため、文武天皇の即位 が決定した。 2 太上天皇制度 太上天皇とは退位した天皇に与えられる地位で、天皇と同等の地位であると大宝律令で 規定されている。この、新設の太上天皇に初めてなったのは持統天皇である。 持統天皇は生前に自らの意志で退位した初めての天皇であった。そして、文武天皇に譲 位した後も一五歳という若い天皇をささえるために、持統はなおも実権を握りつづける必 要があった。そのために、退位した天皇が実権を持つという初めての事態が起こった。こ れは持統の政治的実力で行われていたが、大宝律令の「太上天皇」という日本独自の制度 は、このような特別の事態を法のうえで明確に規定したものである。 3 干支から年号へ 大宝令では、公式文章には年号を使用せよ、という規定がある。そのため、対馬から金 が献上されたことをきっかけに、「大宝」という年号をさだめた。それ以前は、普通は干支 で年をあらわしていた。大化、白雉、朱鳥などが用いられることもあったが、限られた範 囲でしか使われなかった。年号の変遷についてのことをよく示しているのが、藤原宮跡か ら出土する木簡である。 丙申年七月旦波国加佐評□□ 六九六年 律令法の成立(杉山) 7 第一部 庚子年四月若佐国小丹生評 七〇〇年 尾治国知多郡□ (表) 七〇二年 大宝二年 (裏) 大宝三年一一月一二日御野国楡皮十斤 日本型社会の黎明 七〇三年 このように、干支から年号へと変化している。これは藤原京は、六九四年(持統八年)か ら七一〇年(和銅三年)までの都であり、そのあいだに大宝律令が施行されたことがわか る。 そもそも日本が年号を使用したことは、日本の国際的地位と関係が深い。もともと年号 は皇帝の統治の象徴という意味を持っており、中国皇帝の臣下となった周辺諸国の王は、 中国の年号を使用しなければならなかった。しかし、日本は、唐に朝貢はするが、臣下に はならないという方針をとっており、唐もこれを認めていた。それを表すためにも、日本 は唐とは別の年号を使用していた。 4 大宝律令の施行 令十一巻は代表責任者を刑部親王として、舵は藤原不比等がとりながら編纂は行われた。 これは文武四年(七〇〇)三月より前に完成しており、その時期は文武三年末から文武四 年始めであると考えられる。そして文武四年三月一五日に諸王臣に令の読習を命じられた。 翌大宝元年(七〇一)三月二一日に大宝元年と年号を建て、令のうち官位令・官員令・衣 服令が施行された。そして、四月七日に下毛野古麻呂らが中央官人を対象に講習し、六月 一日には道首名が僧尼を対象に僧尼令を講習した。その後、六月八日の勅によって令一一 巻が施行された。それから、八月八日に明法博士たちによって地方官人を対象に講習が行 なわれた。律は文武四年三月十五日の段階で大綱を定めはしていたが、その後も最終的整 備が続けられて、大宝元年八月三日に律六巻として完成された。このときに日本として初 めて律令が完成したのである。その後大宝二年(七〇二)二月一日に律が公布され、同年 七月一〇日・三〇日に律の講習を行い、大宝二年一月一四日に律、令をそろえて全国に公 布した。 ここで令は、文武四年三月に講習が始まってから、 大宝元年八月に地方官人の講習まで、 約一年半近くもの時間をかけているのに対し、律は後大宝二年七月に講習が行われている だけで、短期間ですまされている。このことは浄御原令から大宝令への改正点はとても広 範囲にわたっていたということが考えられる。 また、大宝令は文武四年初めには完成していたが、その講習が実施される以前に官位令・ 官員令・衣服令が他令に先立って施行されたのだろうか。これは官位令が令の基本部分で あるために編纂が終了するとともに、ただちに単独で施行されたのだという説13。また、 官位令・官員令は律令支配機構の主要部分であるというために、令の冒頭および次に配列 され、大宝元年三月の時点で改訂が終わったために即座に施行されたという説もある14。 ただ、つけ加えるならば遣唐使を派遣するということにその理由があったのではないだろ うか。遣唐使は天智朝に派遣されて以来、天武・持統朝には派遣されておらず、三〇年以 上経過した文武朝にいたってようやく再開された。執節使粟田真人ら使節一行の任命は大 宝元年正月で、四月上旬に拝朝、五月上旬に執節使が節刀を賜り、難波を出発して筑紫へ と向かった。しかし、 『続日本紀』大宝二年六月乙丑条に 律令法の成立(杉山) 8 第一部 日本型社会の黎明 「遣唐使等去年従筑紫而入海、風浪暴険不得渡海、至是乃発。」 と記してあるように、大宝元年六月ころに筑紫より出帆して東シナ海にはいったが、暴風 にあって引き返した。そこで一年待ち、翌年六月に出帆して渡海に成功したということで ある。このときに日本の唐制化した官位・官職・服制を唐に伝えるために官位令・官員令・ 衣服令が大宝令に先駆けて施行されたのではないか。また、三月に建元して大宝元年とし たことは、遣唐使の派遣と関係が深く、唐に習って年号を用い、年号を冠した律令、 「大宝 律令」を持参することに目的があったと考えられている15。 5 大宝令の官制 大宝令の官制は官員令に規定されている。中央官庁に神祗官・太政官があり、太政官の もとに中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省があり、この 八省のもとに二職・一六寮・三〇司がある。そして地方官庁には、特別行政区として大宰 府・左右京職・摂津職があり、国には国司、郡には郡司、里には里長が置かれ、国ごとに 軍団が設けられた。これら諸官庁の官人には管理職の四等官(長官・次官・半官・主典) と品官(判事・博士・才伎長上)、雑任(史生・伴部・使部) 、徭役労働者(衛士・仕丁・ 品部・雑戸)に分類される。そして、これら諸官庁の中核を占めるものが太政官で、その 本庁の官人構成は太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・少納言・大外記・少外記によって 構成される本局と、左右大弁・左右中弁・左右少弁・左右大史・左右少史によって構成さ れる弁官局があり、八省はこの左右弁官局に四省ずつ管轄されている。 大宝令の官制は唐の官制の影響を受けている。唐の初期、重要な国務は皇帝に直属する 前述の三省が担当した。その中の尚書省のもとに、吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部 の六部があり、各部の中にそれぞれ四司があった。そこで、太政官と唐の三省の関係だが、 太政官のうち左大臣・右大臣は尚書省の左僕射・右僕射撃(後の丞相である)、弁官局の左 大弁・右大弁・中弁・少弁が尚書省の左右丞・左右司郎中・左右司員外郎に相当すると考 えられ、大納言・中納言は門下省の侍中・給事中に相当するとみられるので、日本の太政 官は唐の尚書省と門下省を合わせたものと考えられる。そして太政大臣は、その職権を唐 のものと比較してみると三師(太師・太傅・太保)と三公(太尉・司徒・司空)をあわせ た地位とみられる。それは、天子の訓導・論道の官であり、職権がなく地位のみの官と見 られていたために適任者がいなければ空席とするものであった。 大宝令の官制を浄御原令の官制と比較してみると、官制の中核をなす機関は太政官であ るが、浄御原令の太政官には太政大臣・左大臣・右大臣の三大臣は存在していない。これ は、天皇ないし天皇から朝政担当を命じられた皇族(大津皇子、高市皇子)に直属するも ので、天皇の専制支配に適合した機関であり、議政の府としてはとても弱い存在であった と考えられる。持統四年(六九〇)新設の太政大臣・左大臣・右大臣は大友皇子の時の先 例を踏襲したもので、左大臣・右大臣は太政大臣高市皇子の補佐官的役割を果たす職種に 過ぎなかったと考えられる。また、六官および国宰を統轄していた大弁官は行政事務の集 約や、受理伝達機関といった性格を持っていたが、太政官内に組み込まれることなく独立 性を保持したまま、天皇や皇親朝政担当者に直属していたと考えられる。それが大宝律令 制太政官となると、大きく分けて四つの変化をした。 一つ目は、太政官の内に大弁官が完全に組み込まれ、その判官として位置づけられると 律令法の成立(杉山) 9 第一部 日本型社会の黎明 ともに、大弁官の管轄していた六官を改称して「省」として、中務省・宮内省を加えて八 省として、左右に分割した弁官局に四省ずつを管轄させた。 二つ目は、宮内官が宮内省と改称されるとともに新たに中務省が設けられ、内廷におい て天皇家の家政機関あるいは近侍機関であった陶官・薗官・舎人官・膳職・下物職などの 中小諸官司が職・寮・司に改称されるとともに宮内省、中務省に分割され管轄されること となった。これらの統合現象は浄御原令制下において独立していた内廷諸官司を太政官が その管理下に吸収したことを示している。 三つ目は太政大臣の性格が変化したことである。近江令制下における太政官の長官太政 大臣は、尚書省の長官尚書令をモデルとして新設されたもので、行政府の長官の地位を表 している。そしてその職権は、皇親政治の要の役割を果たしたのである。しかし、大宝令 では天子の訓導・論道の官となり、職権のない名誉地位へと格上げされて、実質上行政府 の長官は左大臣・右大臣となった。これ以後、政策決定をなす合議に参加する議政官は左 大臣・右大臣・大納言四人の計六人の定員で構成されるようになる。そして、太政官は皇 親の手から貴族層へと実権が移り変わってきた。 四つ目は官人の考撰基準であるが、浄御原考仕令によると、官人の勤務評定の基準は、 上日(年間勤務日数) ・善(勤務態度) ・最(勤務適否) ・氏姓の大小などから総合判断され た。それが大宝考仕令になると、上日は考の対象とする条件に切り替えるとともに、氏姓 の大小を考慮しないことにしている。これは、大宝令の位階制における皇親に対する改正 方針、大宝令の浄御原令官制の改正方針などを考えると、皇親体制の修正や形骸化、皇親 を政治権力の核から浮き上がらせることにあったということが、大宝令の官人考撰におい ては考慮しないこととなったと考えられる。 おわりに 1 養老律令 大宝律令に続いて、藤原不比等を中心にしてつくられたのが養老律令であった。大宝律 令を比較してみると、ほとんどが字句の修正くらいしか違っていない。また、編纂開始以 前にすでにおこなわれていた重要な格(律令の追加修正法令) 、参議の地位の設定、中納言 の設置などは養老律令には取り入れられていない。これは、すでに格として実施されてい るものは、それにあわせて律令の本文は改めなかった。しかし、格として施行していない が改正の必要がある場合と、字句の修正が必要である場合に限って、律令の本文を改訂し た。 養老律令の編纂過程は、 あまり明らかでない。『続日本紀』にほとんど記録されておらず、 編纂の理由もはっきりしていないからである。しかし、藤原不比等が自分の娘婿である聖 武天皇の即位とともに公布することで、自己の地位を確立するためにも、大宝律令の改訂 を行ったのではないかと考える。しかし、不比等が養老四年(七二〇)八月に死亡してし まうと、作業は停滞し、養老六年二月ころには未完のまま作業は中断されてしまった。そ して、聖武天皇即位にあたっても公布されず、政府の文書蔵に眠ったままになってしまっ た。 この養老律令を公布に持ち込んだのは、不比等の孫の藤原仲麻呂であった。橘奈良麻呂 の変直後の天平勝宝九年(七五七)五月ころであった。仲麻呂はこのころから、藤原氏を 律令法の成立(杉山) 10 第一部 日本型社会の黎明 皇族と同等に位置づけ、その基礎を築いた不比等らを顕彰するとともに、自己の地位を強 化しようとしていたが、その一環として不比等の手がけた養老律令を施行したのである。 2 あとがき このように日本の律令成立期についてやってきて強く感じたものは、今の日本人の根底 にあるものの考え方、行動などの形成がなされたのではないだろうかということである。 つい先日まで、アメリカでは次期大統領選挙が行われたが、その票決、投票数などにつ いての裁決を連邦裁判所へまでもつれ込んで、選挙後およそ一ヶ月以上も次期大統領が決 まらなかった。これは、アメリカでは政治よりも法律のほうが高い地位をもっており、そ のため投票に不満をもった、負けていた候補者が、裁判所に選挙やり直しの上告をしたの である。しかし、日本では古代より法律は権力者の都合のよいように手を加えてこられた ため、法律よりも政治のほうが上に立ってしまっている。 また、海外から輸入したものを権力者の都合のよいように改革、改良などをくわえ、自 分たちにとって、利用しやすいようにしようとするという考え方が、それが法律だけでな く今の日本がある技術革新にも行なわれてきた。しかし、その考え方は今の日本国憲法で は全く軽視されている。明治に日本が参考としたドイツでは何度も改定されているのにも かかわらず、日本国憲法は全く改定されていない。 日本国憲法も古代の法のように、もっと自由な考えで改定されていってもいいのではな いだろうかと思う。 注釈 1.滝川政次郎「律令の研究」 2.近藤芳樹「標註令義解校本」 3.岩橋小弥太「天智天皇の立て給ひし常の典」 4.三浦周行「続法制史の研究」 5.井上光貞「古代の女帝」 6.井上光貞「律令体制の成立」 7.早川庄八「律令太政官の成立」 8.石母田正「日本の古代国家」 9.青木和夫「浄御原令と古代官僚制」 10.八木充「太政官制の成立」 11.早川庄八「律令太政官の成立」 12.直木孝次郎「大宝律令前官制についての考察」 13.石尾芳久「日本古代法史」 14.野村忠夫「律令政治の諸様相」 15.前川明久「日本古代年号使用の史的意義」 参考文献 『律令政治の諸様相』 野村忠夫 『浄御原令と古代官僚制』 青木和夫 塙選書 吉川弘文館 律令法の成立(杉山) 11 第一部 『日本古代官僚制の研究』 早川庄八 岩波書店 『古代大和朝廷』 宮崎市定 筑摩書房 『律令制と貴族政権』 竹内理三 御茶ノ水書房 『律令封禄制度史の研究』 時野谷滋 塙書房 『日本古代律令史の研究』 森田悌 文献出版 『律令制成立過程の研究』 武光誠 雄山閣 『萬葉律令考』 滝川政次郎 東京堂出版 日本型社会の黎明 『律令を中心とした 日中関係史の研究』 曽我部静雄 吉川弘文館 『律令の研究』 滝川政次郎 東京堂出版 『律令体制の成立』 井上光貞 吉川弘文館 『律令太政官の成立』 早川庄八 岩波書店 『日本の古代国家』 石母田正 岩波書店 『太政官制の成立』 八木充 塙書房 『日本古代法史』 石尾義久 雄山閣 『大宝律令前官制 についての考察』 直木孝次郎 塙書房 律令法の成立(杉山) 12 第一部 日本型社会の黎明 古代の身分・戸籍法 横 山 智 はじめに 身分というものが生じたのは一般的には弥生時代以後とされている。弥生時代の大きな 特徴がイネと金属器(最近の研究によりこの定説はくつがえり、縄文後期にはすでに耕作 等は行われていたようであるが、そのことによる影響が出始めるのには多少の時間を要す ることから考えてみても、おそらくは弥生時代、しかも中期から後期にかけてであると推 測できる)であり、その中でも鉄器が身分の形成に一番大きな影響を与えた。鉄器により 生産力の増大、それに伴い生産の差が生じたと考えられる。ここで文献をだしてみると、 「後漢書」の東夷伝倭の条(後漢書東夷伝)に建武中元年二年(五七年)に「倭の奴国、 奉貢朝賀す、使人みずから大夫と称す、倭の極南界なり、公武賜うに印綬を以てす」を記 述されている。また、「後漢書」にも安帝の永初元年(一〇七年) 「倭国王帥升ら、生口百 六十人を献じ、請見を願う」とある。上二文献には王、大夫、生口(おそらくは王>大夫> 生口という関係において)といった身分が見られる。生口の身分についても各種あるのだ が、 「後漢書」には生口・牛羊・財物、「魏志」には生口・牛馬などと同等な扱いであり、 何らかの奴隷的身分であると考えることが妥当であるように思える。 また、その生口を使う、支配する立場のものについてはどうなのだろうか。至極当然の ように中国という名の大帝国の後ろ盾を得、王の立場を守る。または、立場を確定付ける ことに気付く。倭奴国王の金印然り、あるとされている卑弥呼の親魏倭王の金印然りであ る。このことからも身分による統治の形ができつつあることは疑いようのない史実のよう である。 第一章 身分法、戸籍 以上のように生産手段を持つ者持たざる者の関係を主にしてきた身分関係をさらに確たる ものにするために制度の具体化が不可欠になってくる。言わば、身分を法に定め、確固と した政治体系がつくられてきた。以下に簡単に時代ごとに身分に関する重要な法、制度、特 に戸籍について述べてみることにする。 1 身分、戸籍創世記 身分法の出来上がりつつある、言わば,創世記ともいえる時期につくられた。法、及び 制度について極簡単ではあるが,述べてみようと思う。 <男女の法> 男女の法、大化元年(六四五年)とは「良男・良女共に生めらむる所の子は、その父に配 せよ。もし、良男、婢を娶りて生めらむところの子は、その母に配せよ。もし、良女、奴 に嫁ぎて生めらむ所の子は、その父に配せよ。もし、両つの家の奴・婢の生めらむ所の子 は、その母に配せよ。もし、寺家の仕丁の子ならば、良人の法の如くにせよ。もし別に奴 婢に入れらば奴婢の法の如くにせよ」という定めである。 要約すると 古代の身分・戸籍法(横山) 13 第一部 日本型社会の黎明 ① 良民間の子の帰属は父方に。 ② 良民と奴婢の間の子は母が婢ならば母方に、父が奴なら父方に。 ③ それぞれの主人を異にする奴婢間の子の帰属はすべて母方にする。 ④ 寺に所属する仕丁のこの場合は良人の法に従い、もし別の奴婢に入れらば奴婢の法 に従え。 ここには中国古代法の思想影響が見え隠れしている。①においては同身分においては家父 長的男系思想があるといえる。②においては良民と奴婢と完全な差別の意識が見える。③の 規定も見逃せないものである。この時代中国古代法の影響で男系社会がつくられていたの にも関わらず、低身分の場合には子が母に帰するとは一体どういうことなのか。ここにも 身分に対する時代の考え方が見える。女性を組織からは外して考えられているのではない か。そう私には思えてならない。 <初の全国戸籍> 差別と国家体制の成熟がほぼ比例することは前に述べた通りであるが、身分制度を述べ る上で一番重要になってくる制度に戸籍制度がある。律令制度下において戸籍と計帳によ って身分の掌握が行われたことは周知の事であろう。戸籍ができるようになり、より身分 が確定し、制度として確固たるものとなってきたのではないか。 日本初の戸籍とされている庚午年籍が天智九年(六七〇年)に定められた。庚午年籍はそ れぞれの人、属する氏族の社会的・政治的地位を決めることを目的としている。つまり人々 はすべて氏族に属したわけである。 ということで一般的には持統四年(六九〇年)に作成された庚寅年籍において身分が固 定され良賤制度が成立されたとされている。具体的には持統三年十月に下毛野朝臣子麿は 奴婢六〇〇口を解放し、良民にしたい旨上奏して許可された。持統五年三月、人身売買に際 して身分の帰属が決定された。例えば、兄に売られた弟は良、父母のために売られた子は 賤、借財により賤となったものは良とする等とされた(3章参照)。 ちなみに康寅年籍が庚午年籍以上に重要性を持つのは戸籍の6年の周期が確定されたこと にある(六年一造制) 。康寅年籍(六九〇年) 、持統十年籍(六九六年) 、大宝二年籍(七〇 二年) 〈現存〉 、和銅元年籍(七〇八年) 〈実在〉とつくられている(持統十年籍については、 諸説あり、いまいち信憑性にかけるといわざるを得ないが、定説とされているものをあげ ておく。続紀宝亀十年六月辛亥条にみえる神奴百継の主張。百継の祖父忌部支波美が「自庚 午年至大宝二年四比之籍」と述べたとされている。ちなみにこの持統十年籍の根拠となるの は、他に養老戸令造戸籍条に「凡戸籍六年一造。起十一月上旬依式勘造。里別為巻。惣写 三通。其縫皆注其国其郡其里年籍。五月卅日内訖」などがある。 2 古代戸籍の特徴、実態 現存する古代戸籍はかなり少数である。だが、幸いなことに全国各地に戸籍が残存して いるため、地域ごとの相違点をうかがい知る事ができる。筑前などの北九州戸籍、機内の 山背国出雲郷戸籍、中部の御野国戸籍、南関東の下総国戸籍など全国各地の戸籍が正倉院 文書として残っている。しかも、各地域ごとの特徴が見られ、それに対する研究も多い。 その地域差に注目して研究をした研究者に藤間、石母田氏の理論を紹介しておく。この説 の基礎となるのが、郷戸が農業経営の基本単位となっており、戸内の人々は戸主の統制の 古代の身分・戸籍法(横山) 14 第一部 日本型社会の黎明 もと共同農耕に従事する緊密な集団であり、郷戸は何らかの実態があり定められたもので あると言う説(郷戸実態説)を発表した。 山背国出雲郷計帳ではほとんどが「出雲臣」という姓を有し、「同族部落」であり、戸主の みが妻を同籍しており、他の大勢の男性は別籍している、これが当時の生活を正確に伝え ているものとするのならば、戸主以外の男性は別居、もしくはそれに近い形を有していた ことになる。一方、越前国山背郷計帳においては戸主はもとより、ほぼすべての男子が妻 と同籍しており、妻と同居していた可能性も出てくる。また、戸籍においても下総国と筑 前国でも同様の夫婦同籍、別籍の例があることから見てもこの時代には多くの制度、形式 を持つ国が点在しており、国ごとの特徴が見られたと考えられる。 3 戸籍の衰退 一番の要因が律令制の崩壊と言えるであろう。律令の崩壊により戸籍、計帳の存在にか かわる班田収授の不規則化、農民の逃亡、籍帳の虚偽等がおこったことは周知のことであ ろう。 班田収授の発展に伴い、どうしても口分田が足りない状況がうまれてきた。そのため、政 府は養老七年(七二三年)に墾田三世一身法を定めた。しかし、この制度はあまりうまく いかなかった、いったん開墾しても所詮は三代、もしくは一代限りのもので苦労以上に報 われないからか、次第に開墾された田も荒廃の一途をたどることになる。それに対して政 府は天平十五年(七四三年)に墾田の自由に私財化できる墾田永年私財法を定めた。わず か二十年足らずで墾田三世一身法は破綻することとなる。これを機に墾田の荘園化が進み、 中世のきらびやかな時代の基礎をつくることとなる。班田収授の後期、いかに口分田が不 足していたかは延暦十一年(七九二年)の班田では女子の口分田の制限が行われた。これ 以後も口分田の制限が行われたことからも七五〇年前後と言うのが班田収授の一時代の終 焉を迎えた時期といえる。 班田の不足がもたらしたものは何も荘園化だけではなかった。班田制の衰退により、民 の税負担は著しく不公平になりつつあった。富めるものはますます富み、貧しいものはま すます貧しくなっていった。その結果、貧しいものは本来、厳しく禁じられていたはずの 口分田を投げ出し、他国、荘園に流浪する、逃亡するしかなかった。その逃亡した人々を 使い、ますます荘園を富ます結果となった。このように厳しい課税から逃れるすべとして 採られたことに籍帳の偽籍であった。口分田は課役(男子一七∼六五才)の有る無しに関 わらず、六歳以上の者すべてに与えられた。つまり、課役がなく、口分田を持つものがい たわけである。そのためできるだけ課役が少なく、いかに口分田を多くもらえるように考 えるのは至極当然のことである。年齢や性別(男性を女性として)偽る偽籍が増えてきた わけである。具体的には阿波国戸籍物部広成の戸籍(図二参照)を見ていると男性六人、 女性二五人。課役を負うのは三一人中わずか二人と遠慮も何もない状況とも言える。この ような状況においてもはや班田収授の制度は機能しているとは言えず、衰退の一途をたど ることとなる。 (形式的には平安以後戸籍は六年一造の原則のもとに十一世紀初頭まで続 けられた。 ) 第二章 戸籍と女性 古代の身分・戸籍法(横山) 15 第一部 日本型社会の黎明 前に述べたように戸籍は庚午年籍、庚寅年籍と成立してきたとされているが、庚午年籍 において掌握された女子が庚寅年籍においては除外されているなど女子の立場による差が かなり初期段階から戸籍にあったことが伺える。戸籍の性質が違うことがその理由である が、庚午年籍はすべての人の地位を決めることが目的であった。一方、庚寅年籍は租税の ためであったと言われている。つまり、計帳的な役割になっていたとも言えなくはない。 そのためなのか、庚午年籍には記載のあった女性が庚寅年籍には女性は省かれていた。こ のように戸籍ができた当初より女性は女性、男性は男性という観念があったことは間違い ない(それについて差別の考えがあったか、どうかは別としても)。 前に少し述べたが、男女の法において一応の父系社会が形付けられたのだが、一応の身 分、女子関連においての始まりと位置付けることができる。ということで本章では大化以 後の身分、主に女性関連について述べていくことにする。 1 婚姻制度 女性と戸籍を述べるにあたり、どうしても書くことのできない問題、婚姻について述べて みようと思う。①前述した男女法によって古代日本においてはほとんどに子女は父方の姓 を名乗ることが形作られた。また、②婚姻によっても姓を変更せず、婚姻後も元の姓、つ まり実家の姓を称した(*注釈1参照)。この二つが女性の姓を述べるについて基礎になっ てくると考えられる。 そこで問題となってくるのが、いわゆる同姓婚に対してである。現代の韓国には同姓不婚 といわれている習慣がある。これは同姓同血間の婚姻を禁じたものである。しかし、日本 においてはこのような習慣はなく,同姓間においての婚姻も多く行われていた。隋書にお いては同姓不婚について書かれたものもあるのだが、多数の戸籍を見ていくとこれは誤り であったというのが通説になっている。①②両制度と絡めて考えていくことにより、里、 郷単位での内婚率が見えてくる。地元の例を出すと同じ御野国でも加毛郡半布里と本箕郡 栗栖太戸籍ではまったく異なり、また面白いものがある。加毛郡においては同姓はおよそ 57.8パーセントを占めるのだが、本箕郡においては30パーセントになってしまう。 このおよそ2倍の格差はただの偶然と片付けることはできない。一応、地域ごと違いを見 出すことはできても結果的には国ごとに区別がある以上に里郡ごとの差異のほうが多いよ うに思われる。ただし、一定の禁婚親は定められていた。その範囲は非常に狭く、実母、 実子、妻の母、同母兄弟姉妹等が禁止の対象であった。 少し、余談とも言えるであろうが、古代日本においては一夫多妻であったようである。魏 志の中に以下のような記述がある。 「国の大夫は皆四、五婦、下戸も或は二、三婦」とある。 妻の中にも「こなみ」 「うわなり」の2種があり、前者がやや優越した立場にあったようで あるが、第一夫人が絶対的権威を有したわけでもなく、また、第二、三夫人が妾であり、 蔑まれたわけでもなく、かなりゆるいものであったと考えられる。というのも日本の婚姻 形式が妻問婚を原則にしていたことがある。だから、夫人同士会う機会もほとんどないう えに、もしもその女性に他の通ってくる夫が出来たとしても不思議ではないわけである。 日本古代一夫多妻制は差別的であるというよりも平等的であったといえる。 当時の婚姻の成立は律令において詳細に決められている(*注釈2参照)が、大化以前の 古い婚姻が根強く残っており、実際はまだまだ、律令による婚姻はとられていなかった。 古代の身分・戸籍法(横山) 16 第一部 日本型社会の黎明 大化以前の婚姻は、男が女に対して「つまどい」を行い、女が承知することで初めて成立 した、これを「まぐわい」といった。この制度自体、大変簡単でまったくといってよいほ ど儀式めいたものはなかった。 なにしろ、 親の了解すら必要としなかったぐらいであった。 なぜならば、離婚も簡単なため、言葉は悪いがあんまり時間をかける必要がないうえに、 する意味ももたなかったと推測できる。 離婚は「ことどわたす」と言い、男だけでなく、女もまた行われたようである。男の場合 は妻のところに訪れなければ成立し、女もまた、婿を家に入れなければ、成立したのであ る。その際には特に離婚の成立要件などはもちろんなく、これまた婚姻と同様非常に簡単 なものであった。 このようにいかに婚姻し、いかに離婚を行ったかを簡単ではあるが述べてきた。ここから わかることは表面的制度においては男女差は確かにあるように思えるのではあるが、制度 の根本的部分、どうやって暮らすか、もしくはいかに別れるか、においても男女ともにほ ぼ同じ権利を有し、今思うほど差別的要素はなかったといってもおかしくはないであろう。 ちなみのこの時代、奈良平安期において婚姻関連についても律令の細かく規定されていた が、実際はほとんど機能していないと思われる。まだまだ、上に述べたような大化以前の 慣習が根強く残っていたようである。 2 女性の社会的身分 女性の身分は男と同等のものを有すると言う点とまた、女性特有の身分について考える ことが必要である。 この時代、女性は今ほどさげすまれてはいなかったようで、かなり地位のある身分に就 くことも多々あったようである。その際たるものが推古、斉明、持統ら女帝である。岸俊 男氏によると「六世紀の敏達朝のころから后妃の地位が経済的に安定し、同時に后妃の中 からひときわ力を持つ大后(皇后)をたてる制度が整ったことがそれ以後の皇后執政や女 帝の出現の基礎となった」としている。また、このような女性の強力化と社会進出は皇室 と言う極めて閉鎖的で限られたところのみで行われたことではなく、民間においてもこれ と似たことがおこっていたと主張するのが、井上光貞氏である。 民間では女帝に相当するのが、女性戸主と呼ばれているものである。戸令戸主条集解や 古記によると戸主の死後、嫡子が幼少の場合は母を戸主とするとある。つまり、この規定 が当時の社会的慣行を成文化したものであれば、当時、女性の力の証明になるのではない か。 当時の地位の継承はどのように行われていたかを見ていく上では義解戸令戸主条による ところの「凡戸主皆以家長為之」に対する注記に「謂、嫡子也。凡継嗣之道、正嫡相承。 雖有伯父、是為傍親。故以嫡子為戸主也」「釈云、若父死、母子見存者、以男為之。又有伯 叔兄数人、猶以嫡子為戸主也…」とされており、これが継承の原則であった。戸主の地位 は戸主の兄弟=傍系親族に移ることを良しとせずにあくまで直系親族のことを述べている。 しかし、もしもその次の戸主たるべき嫡子が幼少であった場合について現戸主の妻、つま り幼少戸主の母が戸主となる可能性が出てくるのである。 集解戸令戸主条に「釈伝、父死、母子見存者、為是也、以男為者、為是也。問、定嫡子 不見年限。若嫡妻長子、幼少不任仕、処分何。釈答、下条云、非成中男及寡妻妾、不可折 古代の身分・戸籍法(横山) 17 第一部 日本型社会の黎明 者。若不堪者、宜量以堪事人為戸主耳。母男二人、男不任者、亦母任耳。今説、尚立嫡子 為戸主、但有相代行事人耳。少不安、可求。…。朱云、戸主皆以家長為之。謂、於立戸主 不限年多少。或説、年少不堪戸政之間、権立別人者、不也。古記云、問、父不定嫡子死、 母見在。以誰為戸主。答、以母為戸主。一伝、依法定嫡子、合為戸主也。問、有嫡子幼若、 若為処分。答、嫡子幼弱者、猶為以母耳」 。以下に説明すると 父の死後、嫡子が幼少であった場合 ① 嫡子を戸主とする。 ② 仮の戸主を立てる。 ③ 母を戸主とする。 父が嫡子を定めずに死亡、母は健在の場合 ① 母を戸主とする。 ② 法により嫡子を定め、これを戸主とする。 しかし、実際女性戸主の数はどの程度いたのであろうか。八世紀前半の戸籍を見てみると 以外と女性戸主の存在しうる状態があったことが伺える。嫡子が成人する前に戸主が死亡 するという状況が現れやすい状態であった。以下にあげておくと、大宝二年戸籍、御野国 においては戸主と嫡子の年齢差一九才以下はわずかに三件、一方、三〇∼三四才の場合に は二三件もあるのである。その当時の平均寿命から考えるにかなりの数の幼年戸主は誕生 し得たことになるのではないか。だが、意外と女性戸主というのが確認できない。出雲国 大税賑給歴名帳(少なくとも二八五件)にただ一件あるなど極限られたものである。 ではなぜ、ここまで考えうる仮説と実際の戸籍に残された記録はここまで食い違っている のであろうか。ここからはあくまで自分の仮説でしかないのであるが、もしも、幼年戸主 や女性戸主が戸主として存在したらどうなるのであろうか。やはり、それ相当の反発がお こることは想像に難くない。であるから、そのような混乱を避ける方法のひとつとして戸 籍上は戸主を偽ったり、別の戸主を立てたりしたのではないか。この制度自体を見てみる 限り、女性の地位の高さを証明するには至らないが、女帝時代という時代背景、それに伴 い、女性戸主という制度の成文化、これらと総合して考えると、女性の統制能力、次の後 継者が現れるまでの中継ぎ的な役割を担っていたことはまず間違いないことである。 第三章 賤民制度について ここでは身分制度の中で最も視覚的にわかりやすい、賤民制度について述べるものとす る。一般に賤民というと,良民賤民間の格差、もしくは賤民間の格差、いわゆる五色の賤 について述べられることが多い。 1 五色の賤 賤民の一般的な認識は以下のようなものではないだろうか。法律上ではほとんど人格を認 められず、所有者の意のままに使い、自由に処分できる存在であった。そのことを端に示 しているのが「婢の子を生むは、馬の駒を生むたぐい」という律での説明である。また、 主人が家人、奴婢を過って殺したとしても罪に問われず、家人、奴婢が過って主人を殺し た場合は絞首刑などが科されるなど厳しく処分された。このように見てみると、さもひど 古代の身分・戸籍法(横山) 18 第一部 日本型社会の黎明 い仕打ちを受けていたかのような錯覚さえうける。 賤民は一律な身分としてとらえられていた訳ではなく、一般的には五色の賤といわれる、 陵戸、官戸、官奴婢は政府所有。家人、私奴婢は民間所有の奴隷階級ともいうべきもので あった。詳しく説明すると陵戸は天皇、皇族などの陵墓を守るもの、官戸、官奴婢の格差 が奴隷身分であったかという点で、もしも、身分に順位付けするならば,陵戸−官戸−官 奴婢の順位となると思われる。一方、民間所有の家人、私奴婢との差というのが律令制に おいてはほぼ、同身分といってもよいが、家人は家族をなし売却されず私生活を営めた。 このことから考えると私奴婢よりもひとつ上の身分として人格を認められていた感がある。 ちなみに家人=家来、こう考えてよいようである。五色の賤の順位付けであるが、陵戸− 官戸−家人−官奴婢−私奴婢の順となる。官のものが民間よりもひとつ上のものとして捉 えるのは今も昔も変わりないことのようである。 賤民制度は律令制においては厳格に維持させるべきものとして規定されている。そのた め当色婚が定められていた、特に良民間との婚姻については厳に禁止されていた。令の規 定では「凡そ家人の生むところの子孫は、相承けて家人とせよ」となっており、代々身分 の継承を規定していた。もし、この例外が出た場合、異色間の婚姻の場合には異種の賤民 同士、もしくは良民賤民間の場合には、身分のことを知っていたか、いなかったかによっ て、生まれた子の身分が決められた。すなわち、知っていた場合には身分の低いほうにつ けられ、知らなかった場合には身分の高いほうにつけられた。だからといって賤民に生ま れたからといって死ぬまで賤民であるというわけではなかった。もちろん、大部分は生ま れた身分のままで死んでいったのではあろうが、一部例外と言える人の中には賤民から良 民になったり、上の身分の賤民になったりした。前述した下毛野子麻呂の例(1章参照) のように賤民の所有者が開放の意思さえ示せばいつでも良民になることができた。このよ うな例は少なくなかったようである。 2 古代中国賤民制度との比較から 良賤民間の観念的基準というか、賤民を賤民として扱う根拠は何だったのだろうか。ま さに賤民=賤しい民ということで古代中国における賤民と同意、 「礼」 とは無縁であるもの を指すものであったようだ。古代中国においてもっとも重視するもののひとつである礼を 守らないものについては賤民として扱われてしかるべきという考え方があった。律令とと もに賤民制度も継承した日本であるから、賤民の定義は古代中国と同じであると考えても おかしくはないだろう。その賤民制度を日本にすんなりと受け入れさせるために、道教の 思想に取り入れることにより、広い受け入れを目指した。 ①初期道教の最重要経典「太平経」に神人から奴婢までの平等な信仰をといている。 ②初期道教においては奴婢とケガレを結びつけない。ケガレを忌む道教において信者であ る奴婢にケガレを結びつけることはしたがらないはずである。しかし、経典によっては奴 婢を罪穢とのみ結びつけて日本における賤民についての観念を植え付けようとしていた ③道教上の鬼門(東北)の方角に賤民(官奴婢など)の家を建てることが多かった。 このようにすることにより、宗教的、精神的に民間に受け入れられていったのではない か。 具体的な中国との比較であるが、一概には厳しかった、ゆるかったと評価はしがたい。 古代の身分・戸籍法(横山) 19 第一部 日本型社会の黎明 両面あったわけである。たとえば、ゆるいものは官奴婢に対する衣服の支給、休暇の支給。 身喪絶戸の奴婢は良民にするなどがある。一方、厳しいものは年齢による従良規定で中国 の六十歳で一つ、身分が上がり、七十歳で良民とされたのに対し、六六歳、七六歳とそれ ぞれ六年遅れている。刑罰についても同様のことが言える賤民が主人を殺した場合、天皇 に覆奏する必要はなく、処分つまり、死刑を執行してもよいとされているが、中国におい ては覆奏を一回した上で処分することとなっている。 確かに中国賤民制度とは違う点も少なくなく、存在している。あくまで自分の感じた点 では日常生活においては日本のほうがやや、ゆるい規定になっており、もっと形式ばった ことについてはやや厳しくなっているような感じを受ける。 3 賤民の捉え方について 基本的に律令規定だけを見れば、賤民制度は紛れもなく奴隷制度である、しかし、そのこ とについて異を唱える学者も少なくない。 その際たるものが関口裕子氏の説である。氏は大化以前の奴(ヤッコ)との関連である。 大化以前の奴はまさに奴隷民という側面以外にももっと広い緩やかな隷属関連をもつもの も含まれており、ほぼ一般農民と変わりないものをいる。そこで奴は共同体成員権をなく したものというわけではなかった。また、衣服令規定に奴婢も含まれている点もあげられ ている。これも2に述べた中国との相違ではあるが、衣服の色を規定していることが、奴 婢を奴隷として扱っていないことの根拠の一つであるそうだ。自分としては奴婢は奴隷民 ではないと思っているのだが、このことについては多少違和感を覚える。律令自体、程度 はあるにしろ、刑罰然り、口分田の配給然り、賤民と良民間においては確かな差別規定は あった。にもかかわらず、こと衣服になると令をもってくること自体ナンセンスな気がす るのであるが。関口氏の説から離れるのだが、賤民の最たる特徴である、人身の売買のこ とである。律令では賤民以外の売買は禁じられていたのだが、実際には良民の売買も行わ れていたようであった。連帯責任の名のもとに妻子を売買したという文書が残っているこ と、今昔物語にあるように子どもの売買も行われたようである。これらのことから推測す るに古代日本にあった人身売買の慣習(特に子どもに対するもの)は律令の継承後も払拭 されることなく続けられたと見るのが普通であろう。だから、賤民だから売買されるので はなく、ただ単に合法的に売買されるといった方が実情にあっていると思うのだが。 また、賤民の身分の高さを表すことに吉田晶氏や磯村幸男氏の述べた「家人的形態」論が あげられる。奴婢が家族と家業と保有地を有するということであるが、言うならば、程度 による良民との制限を設けているに過ぎないという論である。 このように人身売買の話にしても奴婢の身分にせよ、律令にはない現実が多々あることが わかる。そのため、律令の規定をそのまま受け止めることはできないであろう。賤民がど れ移民であったか、否かの判断はつけられないのだが、とにかく律令にあるような状況で はなかったことはまず間違いあるまい。おそらく、大化以前の慣習が根強く残り、法とし て運用されていたのであろう。 4 賤民制度の崩壊 平安中期以後の戸籍の崩壊により、そのあおりを受けて賤民制度も崩壊することになる。 古代の身分・戸籍法(横山) 20 第一部 日本型社会の黎明 良賤制の根本たる当色婚原則が崩れ、延喜八年(九〇八年)に政府が良賤通婚による子ど もをすべて良民とする方針を打ち出した。しかし、実際はそれ以前平安前期から中期にか けて奴婢身分はほぼ消滅、奴婢という言葉は法律家のみに使われる死語と化していた。 実際、資料でみえる官奴婢は大同四年(八〇九年)の御讀官大風麻呂であり、ほとんどの 官奴婢は八世紀後半には解放された。一方、私奴婢の場合は延喜の「奴婢解放令」がはず せない。 『政事要略』の中の丹野国朝来郡郡司全見挙章と惟宗允亮の問答の中に全見の婢其 女が「延喜格停止奴婢了。格後不可有奴婢」と主張したことに根拠を持つ。このことにつ いては文字通り奴婢制度の廃止と見る見方、延喜格の存在そのものを疑い、延喜格はなく、 後年の格のことを言っているという説。延喜格はあったが、部分開放に過ぎなかったとす る説など様々であるが、とにかくこの時期、延喜期には何かしらの動きはあったと思われ る。この時期に完全解放は無理だったかもしれないが、近い時期に解放はされたことは間 違いなく、官私ともに平安前中期に何らかの動きがあり、その結果、崩壊に向かったこと は想像に難くないことである。 おわりに このテーマを選んだきっかけというのが、何気なく見ていた人権運動のページからであ って、人権や差別を戸籍と絡めて調べてみると面白いんじゃないか、という単純なもので あった。そうこう調べているうちに差別ってあったんだろうか。女性や賤民のような身分 差別(*注釈3)にしてもあったのか、そもそも律令ってのは本当に機能していたのかと いうこのテーマを根本から揺るがす問題にぶち当たった。 その律令、戸籍、及び成文化された法律自体の実効性がかなり疑われるというのが一番 の感想はとんだ副産物ではあったが、平安中期まで続いていたと思われる大化以前の慣習 法の力と中国から継受された律令は法の成文化という点では評価できることなのであろう が、それを鵜呑みにしては実情とまったく異なることになりかねない。こんなことがわか ったこともまたよかったとも思う。 注釈1 女性の姓 現代において女性と戸籍を取り上げるとまず第一に出てくる問題、夫婦の姓について述 べておきたいと思う。 基本的にはこの時代は夫婦別姓であった、というよりも同姓という考えがなかったの思 って間違いないであろう。というのも豊前国仲津郡丁里戸籍などによる、戸主秦部長日、 妻家部須加代売などと書かれていることから見てとれる。 では、いつ頃まで夫婦別姓は続いたのであろうか。資料によると延喜二年(九〇二年) には十一夫婦中、四夫婦は同姓であった。延喜八年(九〇八年)でも十一夫婦中四夫婦が 同姓であった。しかし、そのわずか数年後の寛弘元年(一〇〇三年)には十九夫婦すべて が同姓になっている例がある。これだけのものでは一概に延喜年間に何らかの理由により、 夫婦別姓から同姓に移行したと考えるのは短絡過ぎる。しかし、一つの転機であったとい う程度の認識を持つことはできよう。 注釈2 律令における婚姻、離婚 古代の身分・戸籍法(横山) 21 第一部 日本型社会の黎明 <成立要件> 祖父母、父母、叔伯父姑、兄弟、外祖父母等の同意のあること。重婚でないこと(妾は除 く) 。良賤間の婚姻でないこと。相姦者でないこと。自己の直系尊属の妻妾でないこと。男 十五歳以上、女十三歳以上であること、などがあった。 <形式要件> 儒教の礼制に則った定婚、成婚の二段の式を行った。定婚とは今で言う婚約のようなもの で、女性の家において婚姻の責任者、主婚を選定し、聘財を妻家に送るものである。これ をもって男女は夫婦に準ぜられ、これ以後の妻側からの婚姻の解消は認められなかった。 この定婚を経ない婚姻は姦であり、私通罪に該当し、この男女は永遠に夫婦になることは 禁じられた。 <離婚> いくつかの原因はあるが、まず、夫からの一方的な追い出し離婚があった。 「棄妻」 「放妻」 などと呼ばれていたものである。その成立要件は1、七出(無子、婬泆、舅姑につかえな い、口舌、盗窃、妬忌、悪疾、七つの妻の落ち度)のいずれかに該当すること。2、尊属 (=祖父母、父母)の同意。3、夫、近親の署名がある離縁状を作成すること。により成 立した。 その他に当事者の合意、国家の強制力によるもの、男性の事故(たとえば、夫が失踪し、 何年か経った場合)によるものなどがあった。以上のような理由で離婚した場合には妻の 持ってきた財産は現存財物が返還されることが認められた。 注釈3 女性親族について 今までの少し、趣が変わるが、興味深かったであった、寄口と女性親族について少し、 紹介しておきたい。 寄口と女系親族に留意したのは和歌森太郎氏である。氏は昭和二十二年『国史における 共同体の研究』の中で「寄口は配偶関係、婚姻関係に導かれて或る村内に寄留してゐたも のが極めて多くあつたのではないかと考へさせられる。 」 そしてこの見解の最も有力なもの として引用されるのは門脇禎二氏の『上代の地方政治』である。 「寄口は、矢張り、郷戸主 と何等かの血縁関係を有ちつつも、それが男系で以て表現し得ず斯かる名称を附与された という、律令法的家族擬制の原理乃至方針の依つて生じたものであると思う。」と述べた。 このような説はもちろんいくつかの戸籍を調べ、統計的処置を行って述べられたものであ る。確かに御野国戸籍などではこのように見える場合もある。ただし、もちろんこれとは 異なる場合も有り。 ちなみに現在の定説と言うのが寄人と同じで隷属するものとして捉えられている。しかし、 その性格規定をめぐり、現在も議論が行われている。異性寄口を中心として家内奴隷制へ の傾向を求めようとし、一方、その隷属的性格を認めず、ただ単に遠縁者などをあらわす、 表示上の問題に過ぎないとする説がある。特に女系親族という観念はあまりないようであ る。 思うに戸籍上において戸主との関係がたまたま女系親族になる場合もあるだろう。また、 その逆も然りである。ただ、その可能性があるに過ぎない、もしかしたら、女系親族のこ とを述べているかもしれない。その程度のことであるような気がしてならない。 古代の身分・戸籍法(横山) 22 第一部 図1、 戸籍に関する年表(平安初期まで) 年号 西暦 文献、戸籍 日本型社会の黎明 事項、特徴等 欽明元年 540年 日本書紀(戸籍)秦人、漢人等、諸藩の投化ける者を召し 集へて国郡に安置めて戸籍に編貫く 敏達三年 574年 日本書紀(名籍)即ち田部の名籍を以て、白猪史膽に授く。 大化元年 645年 大化改新詔 白雉三年 652年 戸籍 天智九年 670年 庚午年籍 天 武 1 3 684年 八色の姓 年 持統4年 690年 庚寅年籍 白猪田部の丁者を検へ閲て、詔の依に 籍を定む 初めて戸籍計帳、班田収授の法を造る 戸籍を作り里及び五保の制を定める 初の全国的戸籍。永久保存とされている が、現存せず。 真人・朝臣など8種の姓を定める 口分田を班給するための基本台帳。 姓の男系継承原則により同姓であること が、自明ならば省略。外部入籍者は記載。 大宝二年 702年 大宝二年戸籍 一人ずつ省略せずに記載。 養老二年 721年 養老律令 凡そ戸籍は式に依り勘造す。 戸籍制度の充実により国民すべてが氏を 持つようになる。 この後、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、班田収授の不規則化によっ て農民の逃亡、籍帳の虚偽が盛んになった。 農民の大半は律令制度の衰退とともに氏を戸籍の上に登録されなくなった。 戸籍のおける一時代が終わったと言えるのではないか? 図2 阿波国戸籍、物部広成の戸籍 戸主 物部広成 年七六歳 耆老 妻 家部野売 年七六歳 耆妻 妾 家部稲薗売 年六五歳 耆妻 女 物部乙売 年五四歳 丁女 女 物部広成売 年四九歳 丁女 女 物部吉刀自売 年五〇歳 丁女 女 物部成刀自売 年四九歳 丁女 女 物部乙吉売 年三八歳 丁女 女 物部刀自売 年三八歳 丁女 …中略 男 男 弟 弟 女 女 妹 妹 妹 妹 物部広吉 年五四歳 物部広麿 年一〇歳 物部広継 年四七歳 物部子益 年四一歳 葛木古刀自売 年七九歳 凡直玉門売 年九〇歳 物部広直売 年五〇歳 物部直刀自売 年五〇歳 物部万売 年四八歳 物部秋売 年三二歳 (三一人中二五人女性) 正丁 小子 正丁 宇志祝部 耆女 耆女 丁女 丁女 丁女 丁女 参考文献 久武綾子 「氏と戸籍の女性史 わが国における変遷と諸外国との比較」 南部曻 「日本古代戸籍の研究」 古代の身分・戸籍法(横山) 23 第一部 部落解放研究所編 利光三津夫 日本型社会の黎明 「部落解放史 熱と光を」 「日本古代法制史」 部落問題研究所編 「部落の歴史と解放運動」 菅孝行 「賤民文化と天皇制」 磯貝正義 「郡司及び采女制度の研究」 関晃、石母田正 「古代史講座7 古代社会における身分と階級」 神野清一 「律令国家と賤民」 牧英正 「日本法史における人身売買の研究」 虎尾俊哉 「班田収授法の研究」 古代の身分・戸籍法(横山) 24 第一部 古代における婚姻形態 日本型社会の黎明 −平安期貴族社会を中心に− 纐纈 三奈子 はじめに 婚姻制度のはじまりとして律令の規定と現実の慣行という問題がでてくる。従来の学説 には三つの見方がある。一つ目は中国律令を継受しただけのわが律令の規定を解釈するの みので慣行を無視するもの、二つ目は律令の規定を問題とせず、もっぱら当時の一般資料 に見える慣行を素材として研究をすすめるやり方、三つ目はいわば折衷的方法で、律令の 規定に従いつつも一部において相反する慣行の存在を承認し、両者を並べ置くものである。 家族法は保守的である事や、律令が唐からの継受してきたものであることを考えると、そ こには当然律令と慣行の矛盾がでてくるように思える。律令制度が整えられてきた時代背 景をみてみると、位階や官制の制度などの、政治色の濃いものが詳細であり、私法に値す る当時の婚姻制度が律令の規定に沿って行われていたとは言い難い。故に私は、婚姻制度 を律令におけるものだけに頼らず、慣習の面からも探って行く事によって当時の婚姻形態 を論じていきたい。 第一章 律令における婚姻制度 1 律令規定の婚姻要件 婚姻は戸令および戸婚律に規定されている。しかしその大半は唐律令を直写したもので あり、日本独自と考えられる条項は家を代表する婚姻の責任者、主婚の就任に際して、外 祖父母の地位が高いことである程度に過ぎない。 婚姻の実質的要件は男子一五歳女子一三歳であることである。これは唐律と同じで適齢 とする訓示規定であるので、これに違反しても、婚姻の効力には関係がない。また、万葉 集には良賤間の婚姻でない事、妾が存在しても差し支えないが重婚でない事が記されてい る。他にも禁婚親間でないこと、父母の喪中禁婚でないことや令集解には祖父母、父母、 伯叔父姑、兄弟の同意があることなどが定められている。婚姻の形式的要件としては純婿 取婚を例とする場合儒教の礼制にそった婚約にあたる定婚、結婚式にあたる成婚の二儀式 をあげることを必要とされた。唐では納采、間名、納吉、納徴、請期、親迎などの手続き を経ていた。定婚の儀は男家より女家に聘財を差し出し、女家の受領でもって成立、定婚 の効力は夫婦に準ぜられるものである。「集解」の一説によると男家もこれにこれに準ずる。 成婚は結婚式の挙行にあたるが、官司への届出が要件であったわけではなかった。しかし 成婚以降その男女間は夫婦に準ぜられ、女家側から婚姻を取り消す事は禁じられた。男子 が成婚前に死亡すれば妻に準じて喪に服し遺産配分にあずかったのである。(この相続に関 しては第五章で、詳しく述べる事にする。) また定婚の儀以後に男の失踪逃亡などの不履 行事由あり、女家より取り消しをなした場合は笞五十の罰条が適用され、定婚を経ない婚 姻は姦として私通罪が双方に科され、その男女は永遠に夫婦になることが禁じられた。成 婚は定婚の儀より三ヶ月以内に行わなければならない定めであった。 2 結婚の効果 婚姻の効果としては前述の婚姻により、妻は婚姻後も実家の姓を称したが、以後男女及 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 25 第一部 日本型社会の黎明 びその親族の間に一定の親族関係が発生する。また、妻の持参した財産は夫婦同財の原則 により以後、夫の管理下におかれる。女子が夫権に服すべきことはいうまでもない。ただ し、律令制において、夫権は親権のごとく強大ではなく、妻を殺傷することは犯罪となり、 また、妻はその身を侵損された場合は夫を官に告訴することもできる。また規定上は婚姻 により夫婦同居の義務が発生した事は、名例律及び獄令に、流罪の夫が妻妾を置いて配所 に赴く事を禁ずる条文があることから認められる。 3 養老律令における妻妾規定 現存される養老律には妻妾の厳然たる差別がある。妻は正式の家族員として認められて いるが妾は認められず、妻よりも劣った存在として位置付けられている。戸婚律妻為妾条 には妻と妾の地位は法によりお互いに変更する事を禁じられていた。たとえば、養老律に おいて父母の喪中に嫁娶した場合、「不孝」とされたが、妾を娶った場合は「不孝」されない で、免所居官にされたに過ぎず(名例律不孝条、免所居官条) 刑罰も父母・夫の喪中に嫁 娶した場合二年だが、妾の場合は二等を減じられた。(戸婚律居父母夫喪嫁娶条) このよ うに妾は正式の家族として迎え入れられてはいなかった。妻も夫に比べ権利は強くなかっ たが、妾に関しては妻よりも劣悪であった。妻は後の離婚のところで述べる七去といわれ る以外に離婚をすると罰せられるが、妾については何の規定もなく、いつでも夫の事由に 追い出す事が出来る一方で妾からは勝手に夫の許を去ることは妻と同様に禁止されていた。 また夫が妻を殺すと八虐のうちの「不道」とされたが妾についての規定はなかった。夫が妻 を殴殺した場合は普通の人を殴殺した場合より罪は二等軽く、妾を殴殺した場合はそれよ りさらに二等軽く、そして妻が妾を殴殺した場合も普通の人間に対してより罪が二等軽か った。(闘訟律殴傷妻条) 他にも養老令において離婚の手続きについて妻についてはまず 祖父母父母の意を経なければならないが、妾については条文規定がなく、全く夫の懇意に ゆだねられている。 養老令には妻妾制など、唐の令や礼をそのまま継受したものと考えられるが、一方で妻 妾同一の規定ないし思想も存在している。令の規定で儀制令五等親条では妻と妾を二等親 として並べている。この条文相当の唐令条文は存在していない。唐令においては妾は正式 の家族として迎えられていないので、この規定は我令固有のものだと考えられる。また唐 令に存在し、日本令に存在していないものもある。「娶妾仍婚契」というのは妾を売買する 意味合いがあり、日本では結婚に際し妻と妾の区別はほとんど存在しなかったため、購入 するという存在の妾がいなかったのである。日本の実情とかけ離れていたため、この条文 は日本令に採用されなった。唐令とは異なる妻妾同一視の思想は、令集解における明法家 の説にもみることができる。戸令殴妻祖父母条集解古記所引には「妾与妻同体」とあり、妻 と妾の区別のなさを示している。他に、戸令嫁女条集解朱説にも「妻妾並同者」とある。こ れらのことから、当時の養老律令の嫡妻・妾制は実態を反映しているわけではないことが わかってくるのである。 儀式と婚姻居住 律での婚姻形態は第一章で述べてきたが、唐制の影響下が非常に強いものであったこと 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 26 第一部 日本型社会の黎明 がわかる。形の上では律令の規定があったわけだが、では実際平安期ではどのような婚姻 形態が行われてきたのかを婚姻の際の儀式、居住状態を中心とする慣行面を通して探って いくことにする。 1 純婿取婚 摂関期から白川院政のころまでの貴族層については、その主な婚姻形態は純婿取婚とさ れている。この研究としては高群逸枝氏のものがあり、これを手掛かりにして話をすすめ ていきたい。純婿取婚とは男を妻方の生活体にくみ入れようとするものである。東南アジ ア等において、みられる母性制末期の婿取婚は妻家側から婿への労働力の需要によるとさ れる。日本も荘園社会では生産力の増大とともに男の労働力が要求されたので、長者層で はその地域の各戸の小世帯を崩壊させて自家の下人化したり、それと従来の妻問婚を利用 して、自家の娘や下人らの娘に通ってくる婿を住みつかせて婿取婚を発生させたりしたこ とが考えられる。 貴族社会においては純婿取婚の特徴をいえば、 1、娘の父が表面にたち積極的に父による儀式婚が行われる。 2、嫡妻的妻との生涯的同居婚傾向 3、妻家の後見ではじまる新所帯はやがて夫婦相互の別産共同世帯として独立 4、新世帯はカマド禁忌(母系同火の原理)の故に息子は成年に達すれば他家に婿取られて 去り、娘のみ家にとどまって婿取りをし、孫を産み育てる。絶対婿の実家に帰らない 5、家族は婿と外孫を包容し、息子とはたとえ嗣子であったとしても別居する 等の特徴をもつ。この1についての結婚決定権については後に詳しく述べることとする が、婿取婚の特徴をみると、婿は妻の家に居住することによって婚姻が成立されるものと 考えられる。当時の居住状態を調べてみると男は結婚とともに自分の生まれ育った家を離 れ、妻方の住居に移るという形が多くみられる。これを妻方同居という。女は生涯の住居 を夫からでなく自己の父や母から与えられそこに夫を迎えていた。これは一女(主に長女) のみによって行われ、それ以外の娘たちは初めから別に新居が用意されたといわれている。 例えば、藤原道長は源倫子と源明子という主として二人の妻がいたが、倫子とは同居、明 子とは別居をしていた。「栄華物語」「御堂関白記」によると倫子は宇多源氏雅信と藤原穆子 との間に生まれ、そこの住居は土御門殿と呼ばれていた。道長はそこで、終生をすごしこ こを整備・拡張した。土御門殿を倫子夫婦に譲った雅信は鷹司殿に移住している。つまり、 倫子は生涯自家居住をしておりそこに道長が同居するという形をとっていたことになる。 そして後に倫子は父母から鷹司殿も譲られている。このように、男は妻の家に婿取りされ ていっていき、その家で生涯を過ごす事は少なくなかったのである。 2 一夫一正妻・多副妻制 純婿取期は自然的一夫一妻制の成立(対偶婚)の段階である事を高群逸枝氏は指摘してい る。貴族層において十世紀前後に成立した儀式婚が正妻制の成立を証明している。高群逸 枝は純婿取婚に対し、前代からの多妻平等が持ち越されているものの、夫婦平等の俗がう まれたとしている。これは多妻の中で、正妻の成立を論じている。この正妻制の成立の裏 づけとして、梅村恵子氏の研究がある。 『大鏡』に「北の方二所おはします」と記される道 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 27 第一部 日本型社会の黎明 長妻の倫子と明子のうち正妻は倫子である点、『栄華物語』に「あまたの北の方」がいたとさ れる師輔の正妻は盛子である点、後世「三妻」と称せられた兼家の正妻は時姫である点を論 証する事によって、正妻制を証明している。これらのことから、多妻の中でも一正妻の存 在をうかがうことができる。しかし正妻の地位は他の妻に対して格段の差があったかとい うとそうではない。というのは、十世紀以降の物語文学の中では二人の妻を持つ話が何例 かみられたり、 『栄華物語』に「あまたの方」などにみられるように正妻と認識されていたと しても、だからといって、優越的地位を確立していたわけではないと考えられる。 そして、このような儀式婚が行われている一方で、儀式婚の形をとらず恋愛婚ともいえ る婚姻やさらには複数の女性との儀式婚をおこなう例もあった。またこの儀式婚を文学作 品の『源氏物語』を素材としておしすすめたのは木下ユキエ氏である。正妻の条件として、 親の介入するけしきばみの存在、三日餅の儀など結婚に付随してみられる儀式の挙行、同 一居住空間における共住の事実、「北の方」の呼称の存在にあるとした。 3 儀式婚の詳細 純婿取婚での儀式婚とはけしきばみ、文使い、婿行列、火合わせ、沓、衾覆、後朝使、 露顕、婿行使等の一連の複雑な儀式からなるものである。儀式婚の成立は正妻制の出現で あると考えられるというのは二で述べた。ここでは儀式の詳細を書く。 けしきばみとは求婚で、妻方の父によってなされる。高群逸枝氏はけしきばみの求婚方 法は露骨ではなく、知人や召使等を間にたてて、それとなくほめやかすやり方で求婚者は 当事者から妻方の父に移っているものの、当事者の自由結合を第一義とする観念が失われ ていないとしている。つまり、結婚決定権を当事者にあるものとしている。 文使はけしきばみの話がまとまると婿から擬制の求婚がなされる。起源はある男が女に 懸想してその旨を直接女に告げて承諾を求めるという自由恋愛の一種に過ぎなかったが、 このころから形式的な形をとりはじめたものと考えられる。 婿行列は文の往返がおわり夜になると婿が出立してくることである。これも時代が下る につれて、忍び通いの簡素さはなくなり、華美なものとなっていった。 火合わせとは婿行列が女の家に到着すると女の家から近親の若者が脂燭を持って出迎え、 その脂燭に行列の前駆が婿家から携えてきた松明の火をうつし、先頭にたって婿を張台の 間に導きいれる。その脂燭は廊、張側などの灯炉に点ぜられ三日間消さずにおき、その後 カマドの火に混ずる。 沓取りとは婿がぬいだ靴を新婦の父母によってその夜から三日夜臥床内に入れられる。 この様に新婦方で抱いて寝る婿の沓は毎朝婿が帰るとき持ち出される。そして三日後また は露顕日に婿はもう永久に新婦方の族員と観念されるので、沓は婿に返すなり、または新 婦方に納めるなりする。 衾覆とは婿が沓をぬいで、新婦方の中廊づたいに寝殿へといき、簾をくぐって張台の前 へでる。張中には新婦が入っているのでそこへ婿が入って着物を脱ぐ。そこに衾覆人が衾 をかける。 後朝使は男が泊まった次の日の朝帰って、別れた直後男から女に使いをやって余情を述 べ、さらにその夜の再会を約束する、それに対して女からも応えをすることをいう。 このような儀式を経て正式に婚姻関係は結ばれた。 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 28 第一部 4 日本型社会の黎明 結婚決定権 『今昔物語』をみると、その中の婚姻二八七例中、婚姻開始の記載があるのは六一例で あり、そのうち正式に親によって親の家で開始されたものが三十例ある。これはすべて妻 方の親によるもので、夫方の親によるものは一例もない。これは、地方や庶民のあいだに も婿取婚であったことがわかる。また高群氏は娘の父たる家父長による婿取りを婿の妻族 化ととっている。しかし、これ対し関口裕子氏は婿取りは対偶婚から単婚への移行の一環 であり、娘の父による婿取りはその本質は家父長婚であると主張している。 八世紀の通い婚においては男から女の許へ通うのが一般的であったが、女から男の許へ 通うこともあった。それは女からの求婚権であるとみられている。しかし、儀式婚のよる 婚姻が形作られてくると、女からの通いは認められず夫の通ってくるのをひたすら待つよ うになる。これは『蜻蛉日記』の著者をみれば明らかである。平安以前は、女側の母によ って、婚姻は監視、黙認、承認され男を婿として通わせ、または住まわせる権利を持つよ うになっていた。そして、その後母だけではなく父もその権利を持つようになってくる。 こうなると、求婚者は娘を超えて両親に直接求婚したりするようにもなった。 貴族社会においては娘の父が婿選び、つまり結婚決定権を持つ事によって、これは「けし きばみ」の儀式として確立していくにしたがって、女性の求婚権の喪失へとつながっていく のであった。父が婿取りを決定するということはまず娘を引き取ることからはじまってい る。父は別居の妻から娘だけを自己で引き取るという形をとっている。これは父の自己の 子孫を掌握しようとするものである。また父は娘の婿とも深い結びつきにあった。婿たち にとって妻の父は最大の後見者であった。 『栄華物語』のなかで道長は息子頼道に対し、「男 は妻から」という言葉をもって教えたとあるが純婿取り婚下で、結婚決定権が父にあるとい うことは婚姻の果たす役割は政治的な役割を含んでいることになる。そしてこれは「家父長 制」のはじまりなのである。 5 入墓規定 純婿取り婚による夫婦の共住はあったが、では入墓する際には夫婦で同墓地であったの だろうか。藤原北家を中心として入墓規定を見てみる。原則的入墓規定は「死者は父系氏族 の共同墓地へ入る」ということであった。したがって夫婦であっても別の墓地になることを 意味する。これは夫婦が異なる氏の場合である。たとえば、藤原道長と源倫子はそれぞれ の墓地が確認でき、別墓地であった事がわかっている。藤原氏を中心として入墓をみてみ ると、原則的傾向として既婚婦人であっても自族の墓地へ入っている。藤原兼家の娘超子 と詮子はそれぞれ天皇の妻であったが自族の木幡墓地へ入っている。藤原道隆は高階成忠 の娘貴子と結婚し、伊周、定子等が生まれている。貴子は高階氏出身であったため、藤原 氏の木幡墓地には埋葬されていない。『栄華物語』には伊周は母方と父方の別の墓地に詣で ていることが書かれている。これで、原則として「子は父系氏族の墓に入る」という規定で あることがわかる。これは妻が夫と氏族を別にする場合妻は父方の氏族につくということ である。夫婦別墓地とは妻が夫方の墓地に入らず、父方の墓地に入るためおこる現象であ るため、父と娘は同墓地であることが多い。歴代の天皇の妻となった摂関家の娘たちはほ とんどが父と墓地を同じくしている。では正妻的地位にあった妻の子供と妾的地位にあっ 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 29 第一部 日本型社会の黎明 た子供では入墓規定に差があったかというと、栗原弘氏によると藤原北家流の墓制を見る 限り、原則として妻の立場に関係なくすべての腹々の子供は父系氏族の共同墓地に葬られ ている。ただし、 『蜻蛉日記』の作者である道綱母は兼家の妾的存在であったが、この親子 の墓地や道長の妾的存在である明子とその子供の墓地は不明であるとしている。母方の墓 地にはいらず、父方の墓地にはいる原因として、子供の出自をあげる事が出来る。子供は 母系を称することはなく、父系出族として政治や社会に参加していた。しかし、住居規定 としては子供は母方で成長していった。これは一で述べた通りである。このことは婚姻住 居や相続で父系原理が貫徹していないことを示している。 第三章 離婚 1 律令における婚姻解消 律令における婚姻解消には、1、夫意によるもの 2、当事者の合意によるもの 3、 国家により強制させられるもの 4、男性側が、失踪その他の物理的に婚姻継続をさまた げる事故を発生せしめた場合のもの、以上四種に分別される。 最後のものはさらに定婚後、 成婚前と成婚後との二種に細別される。1は「棄妻」や「放妻」ともいわれる夫側からの一方 的な離婚で追い出し離婚である。夫の尊属親の同意と離縁状を必要とした。離婚の法定原 因に、無子(妻五十歳以上で男子ない場合) 淫泆 舅姑につかえず 口舌 窃盗 嫉妬 悪疾 がありこれを七去といった。しかし、「経持舅姑之喪」すでに妻が舅、姑の三ヶ月の 喪に服し終えている、 「娶時賤後貴」婚姻後妻の内助あり立身出世している、「有所受無所帰」 離婚した妻に帰るべき家身寄りがない時には三不去といって例外的に認められなかった。 (七去三不去) 2は「若夫妻不相安諧。而和離者不坐」(戸婚律)とある場合円満離婚し得た。 3は「義絶」と呼ばれるもので夫が妻の祖父母や父母を殴打した場合や妻の尊属を殺した場 合、または妻が相手方にそうした行為を行った場合、罪自体、恩赦で許されたとしても双 方の意思とは関係なく国家が離婚を強制した。妻は一方的に婚姻を解消する事は出来なか ったが、4の場合の定婚後三ヶ月たっても夫が正当な事由なく成婚を挙げない場合や外国 で行方不明になって一ヵ年経過した場合、徒罪以上の罪を犯した場合などのときは官司へ の届け出、許可をまって別人への婚姻・再婚が認められた。律令制における離婚の法的効 果としては妻の実家より持参した財産中果実を含む現存財物が返還されること、双方の再 婚が認められることであった。 2 離婚の実態 律令では追い出し婚などの夫から一方的な離婚を宣言すると言うものがあったが、当時 の住居は主に妻の家であり、でていくのは夫であった。物語などではこれを、「夜離れ」「床 去り」といって、文字通り女の寝床を去るという意味であるので、制度的なものではなかっ た。したがって、離婚かどうかは時がたってから事後的に知るだけである。そのため、一 度離れても復縁する場合もある。その間他の男女と結ばれていればそれは多夫多妻もしく は重婚ということになる。律令では前に述べたように重婚を禁止している。初期のころに はこれに忠実であろうとしたようであったが、このころになると、そうではなくなってき ている。高群逸枝氏は愛情がなくなれば離婚するという当時の離婚の仕方、戸令七出条の 空文性、当時の離婚の具体的方法としての、夫が通わなくなるか出て行く場合と、妻が閉 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 30 第一部 日本型社会の黎明 め出す場合の併存、離婚の具体的方法としての 1取り交わした文殻の返却 2調度類、 装束等の返却 3「夜離」「閉め出し」等直接的行為の三類型の存在を指摘している。 離婚における女の立場は安易に「夜離れ」される非常に不安定なものであった。そこで、 女はより自己の生計は生家に頼ることになるのである。しかし、婿取りされた男は妻の家 に居住している場合、妻の家を出ることになると一度生家に戻る事になる。しかし生家は 娘が継いでいるため、もう一度再嫁する必要があった。このように男は生涯を通じて同一 の家屋に住み通すことはほとんどなかった。それに対し、女は前述したように原則として 住居を父母から与えられ自家を離れる事はほとんどなかった。では離婚した夫婦の子供は どうなっていたのかというと、 子供は妻家に置き去りにされるのが原則であった。 しかし、 両親の離婚によって親族関係を抹殺されることはなく、父母の存在は変わらないのである。 これは家父長制下の「家」制度がまだ完全に成立していないことを示している。ただ、第一 章 結婚決定権のところで述べたように純婿取り婚は父のよる決定によって、行われる「家 父長制度」のはじまりでもある。つまり、この期は「家父長制度」への過渡期だと考えられる のである。 婚姻に際しては儀式をふまえたはっきりとしたものに対し、離婚ははっきりとした離婚 の宣告などは行われず、曖昧な形であった。むしろ、たとえあきたのでのであってもそう とは言わず、名残をおしみつつ、情趣深く別れようという当時の形が物語などからうかん でくる。これは離婚によって、女が経済的に貧窮することや世継ぎを産むための期待を後 世ほど負っていなかったからであろう。室町以降江戸期に入ると律令にある「棄妻」のよう に離婚は露骨なものとなってくる。婚姻では締結、子の誕生によって、政治的社会的影響 は大きいが、離婚に関してはそれほど重視するわけではなく、 曖昧で趣深く行われていた。 3 女性の離婚権の有無 律令では夫権が強く、離婚権は夫にあった。しかし、この期の離婚は女性に離婚権があ るように解釈されているものも多い。高群逸枝氏は妻の夫の追い出しや離婚と再婚の容易 を指摘し妻方の離婚の主導権を認めている。また、田端泰子氏は『伊勢物語』などから離 婚における男性と女性の立場は対等であったとしている。服籐早苗氏も浮気ばかりする男 性に対し、女性は我慢する事なく堂々と自己主張できたとしている。このころの離婚権は 女性にもあったのだろうか。しかし、高群逸枝氏が主張している夫への閉め出しは稀であ り、氏があげている『伊勢物語』の中では一例にすぎない。また、 『蜻蛉日記』をみてみる と、筆者は夫兼家をひたすら待ちつづける。その間に他の男性と関係をもつことはなかっ た。和歌のやり取りはあったが兼家が通わなくなってからも、再婚した形跡はない。 『今昔 物語』のなかでも、夫を待ちつづける妻がいる。夫は妻の家に通わなくなることで、婚姻 関係を終了した。これは男性が自分から結婚生活を動かすことができると解釈できる。物 語で平安期に離婚された女性は夫の愛の復活を待ちつづけ、時にはそれが叶うがそうでな いときは落胆のあまり死んでしまうこともあった。また、夫への恨みが募り、生霊・死霊 となる話は多い。それに対し、自分から夫を替えて自由奔放な恋愛をした女性はほとんど 出てこない。もちろん夫と死別した後、再婚した女性はいる。 また、夫のもとから逃げ出し、再婚した女性もいる。この場合は妻の離婚の意思表示と 考えらていた。しかし、こういった例外的なものを除き、離婚権はほとんどが男性方にあ 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 31 第一部 日本型社会の黎明 ったといえる。栗原弘氏はこのような曖昧な離婚状態は一夫多妻制のもと「夫には性の自 由」が「妻には性の忍耐」が与えられたとして、女性の離婚権の劣位性・従属性・受動性をあ げており、それに対し男性優位性・主体性・主導性を指摘している。 第四章 相続 1 相続規定 相続は唐制をそのまま継受されたに等しい婚姻・離婚法にくらべいくつかの相違がみら れる。相続は継嗣令に規定されている継嗣法と戸令に規定されている財産相続法の二つに 区分している。家督相続を継嗣といい、嫡子相続をもって原則とされる。これは位階相続 といえるほどの階級性を帯び法定順序があった。嫡妻長子・嫡出長孫・嫡妻長子同母弟・ 庶子等という順序である。すなわち大宝令による継嗣は八位以上の有位者の家長、位階の 相続規定といえるもので、三位以上は子・孫に及ぶ蔭位の特権、早世、罪疾、任に堪えら れない場合の立替嫡子相続などが詳細に保証され、四位以上八位以上は嫡長子を定めるも ので、五位以上の嫡子選定は治部省への届出を要し、特に嫡子を入れかえる場合には、治 部省が申請の実情を調査した上で決定を下した。大宝継嗣令では孫の蔭で矛盾が生じたの で養老令では改訂されている。 財産相続は大宝戸令応分条でみるごとく唐律の諸子均分主義を大きく改正している。以 下は示しておく。 1財産相続は家、家人、奴婢、財物であり、この中より妻がもたらした奴婢は除く。 2相続財産物中、嫡子に財産の半分とその他の資産すべてを相続させ、残りの半分を 庶子 が均分して相続される。この場合の庶子は嫡子を除いた嫡出男、及び庶出の 男子の総称である。これは極端な嫡庶異分主義である。 3この相続規定は内八位以上の有位者にのみ規定されると考えらる。 4被相続人の遺言(存日処分)は家人、奴婢についてのみ認められる。 この他には代位相続についてなどの規定が記されている。 これに対し以下に書く養老戸令応令条における改訂では大宝戸令応分条の嫡庶異分主義 を大幅にゆるめられている。また女性の相続範囲を大幅に広げたものであった。顕著にあ らわれているのは相続財産のであった。 1相続財産に田地がくわえられ、氏賤は氏宗が相続し、功田功封は被相続人の男女が均分 することになった。大宝戸令応分条では除かれた妻の奴婢もそこに加えられた。 2相続財産の文法は嫡母、継母、嫡子二分、庶子一分、女子、妾半分と改められている。 しかしこれに関して中田薫氏によると、嫡母、継母相続分二に対し妾は半分でその差が激 しいようであるが、嫡母、継母とは嫡子にとって実母でない場合であり、「正妻」の実子が 嫡子となった場合「正妻」の相続分はなく、母子同財の原則からいって嫡子が養うべきもの であり、一方妾は自分自身が分財にあづかりその子も一分を与えられるので実質的には妻 と妾の相続分はそれほど変わらないのであった。 3規定は有位者、庶民を問わず適用されることになったと考えられる。 4共同相続人が遺産の分割を欲せず、同居共財を望む場合、及び被相続人が生存中に行っ た存日処分の場合、その証拠がはっきりしていれば本相続法に拘束されない。 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 32 第一部 日本型社会の黎明 代位相続に関しても女子、妾に対しての規定が広がっている。このように養老戸令応令 条は、庶民にまで適用範囲を広げ、現状と合うように改正しようとした。また被相続人の 意向が大きく反映される存日処分の権を戸令でも確認した。この改訂は有位者の遺産相続 法である嫡庶異分主義と庶民の均分主義とを折衷したとされるが、これらの規定はどちら の慣習とも合致しなかったようである。 2 相続の慣習 律令が夫婦の財産を同財としていたのに対し、慣習では夫婦別財産であったとされてい る。また、夫婦間だけでなく、親子・兄弟・姉妹間も別財産であった。これは結婚後も妻 の財産は夫とは独立して所有され、離婚が発生しても妻は自分財産を失う事はなかったこ とを示している。女性は財産を獲得する機会はそれほど多くなかったが、これに対して、 保障的意味合いから男子より女子のほうが多くの財産が与えられている場合が多い。親か らの財産相続は当時の貴族女性にとって、経済上必要なものであった。それには氏族的な ものが強く現れていて、 『栄華物語』によると一条太政大臣為光には息子が何人かいたが、 娘の三の君に本第の一条殿および全財産をゆずったとしている。 『小右記』の筆者右大臣藤 原実資も息子ではなく、女子千古に譲っている。高群逸枝氏は、妻は夫とは別に荘園の本 所や政所、家司を持ったとしており、品格のある氏族の女性なら自己と所生とを保証する にたりる家と財産は持つべきだったとして、女性の経済的独立、女系の相続を強く主張し ている。また、服籐早苗氏の『平安遺文』所収文書の分析結果によると、荘園領主層での 荘の財産被処分者の男女比は四七%対五三%と財産処分者の男女比は五七%対四三%と算 出されていて、ほぼ男女対等に行われていたと考えられる。また、氏の所収の売券の親族 連署率を調査したものによると、配偶者の連署は平安時代の売券の二%しか見られないこ とを実証したところから、平安時代において妻の財産に対し夫が合意しなければ処分が認 められなかったというような慣習は成立していたとは考えられず、財産所有・処分権の法 的主体性は妻自身にあったことを述べている。 ただ、平安時代の財産の相続に関しての具体的資料は少なく、例えば夫婦の婚姻後にで きた財産は離婚後どう処分されたかなどははっきりとしたことがわかっていないのが実情 である。女性に相続の権利があったこと、夫婦が別財産制度をとっていたことは事実であ る。しかし、江上守氏の『宇津保物語』の研究では「女性の経済的自立性の欠如」が指摘さ れており、女性が親より多くの財産を相続しても夫などが後見していなければ、周囲から ないがしろにされ、他人に土地を奪われてしまう実例もあげられている。女性が財産を長 期にわたって、安全に所有しつづけるためには、父や夫の後見が必要であっただろう。こ の理由に関して栗原弘氏は兄弟・姉妹の分割相続と別財産制をあげており、この制度は支 配と被支配の関係ではなく、平等な関係であったため、連帯性が弱く、兄弟・姉妹であっ てもお互いの財産に交渉することはないため、保護することもなかったと考えられる。 おわりに 平安期の婚姻形態は律令とはかけ離れた慣行で行われていたように感じられる。ただ、 唐から継受した律令を日本の慣行と近づけようと改訂をしようと試みはあった。慣行面か ら探って、平安期での女性の権利の強さを主張する文章は多い。これは女性が恋愛の自由 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 33 第一部 日本型社会の黎明 をこの頃手に入れていたことや財産を父母から主に受け継いでいたように感じられる事が 理由としてあげられるのであろう。ただ、実際は恋愛には制約が多く、財産も父親や夫の 保護下にあったのが事実である。婚姻において高群逸枝氏の功績は大きい。ただ、女性の 権利の強さを主張しすぎている面も多いように思われる。私としても平安期、女性には婚 姻権や相続権があったと考えたいところがある。しかし、本当にそうなのかは資料を正し く解釈し多方面から婚姻をみることによってわかることである。平安期では婿取りが主な 婚姻とされていた。これによって、女性は自家を失うことなく生活の不安は以後の時代よ り少なかった。しかし、自由がきくといっても結婚決定権が当人だけにあったわけではな い。また政治を行うのは主として男性であった。男性の権利は強く、主張されているほど には女性に権利があったようには感じられない。しかし、この後の時代、女性が律令の離 婚規定にみられる「棄妻」などによって、もっと過酷な婚姻関係を強いられる事を思えば平 安期の婿取り婚は女性に夢を持たせてくれていると言えるのではないだろうか。 参考文献 日本婚姻史 高群逸枝 理論社 1963年 招婿婚の研究 高群逸枝 理論社 1953年 婚姻の民族 東アジアの視点から 江守五夫 吉川弘文館1998年 婚姻と女性 総合女性史研究会 吉川弘文館1997年 日本女性生活史 女性史総合研究会 東京大学出版1990年 古代の家族と女性 義江明子 岩波書店 1995年 平安朝の家と女性 服籐早苗 平凡社 日本中世の女性 田端泰子 吉川弘文館1987年 日本律の基礎的研究 高塩博 日本古代法制史 利光三津夫 慶応通信株式会社 1997年 汲古書院 1987年 1986年 日本女性史の研究 脇田晴子東京大学出版1992年 律令国家における嫡妻・妾制について 関口裕子 1993年 平安朝の女と男 服籐早苗 中央公論 1995年 平安時代の離婚の研究 栗原弘 弘文堂 1998年 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 34 第二部 武家法への展開 中世国家における封建的主従制の動向 松田 祐里 はじめに 私はこれから日本の「中世社会と国家」というテーマについて考えていこうと思う。多 くの方々は「中世国家」という言葉自体に曖昧なイメージしかわかないのではないだろう か。高等学校の日本史の教科書をみても、「古代国家」「近代国家」という概念は広く用い られており、誰でもそこからすぐその時代の国家像を思い浮かべることができる。ところ が中世については「中世社会」という言葉は広く用いられているが、 「中世社会」という概 念は全くといってよいほど使われていないのである。それは中世には国家が存在しなかっ たか、あるいは中世国家という概念が設定しにくいかのどちらかの理由によるという他は ないだろう。 私は「中世国家」が存在しないというより、 「中世国家」という概念が通常の国家概念を 尺度としては設定しにくいためだと考える。我々が通常、国家と考えているものは、行政・ 立法・司法などの諸機能を遂行するための諸機関や、支配が客観的に行われるための根拠 としての法や、法にもとづいて諸機関を運転していくための官僚制などを欠かすことので きないものとしてもっており、それによって権力を公的な形で独占している存在である。 日本の「古代国家」や「近代国家」はごく大まかに見れば、いずれもこの条件をほぼ満た している為、我々はこれを常識的な国家概念でとらえることができるのである。それはご く一般的な表現としては中央集権的な官僚制国家ということができるだろう。「古代国家」 の社会基盤には共同体や氏族が存在しており、自立的な個人を社会基盤とする「近代国家」 の場合と根本的に異なる条件を持っているが、外形的には両者は共通する形態を示すので ある。 これに対して中世では国家概念の基準となる国家諸機関・国家の実定法・官僚制などの 存在はきわめて限られた形でしか存在しないし、その性格も曖昧である。常識に従って鎌 倉時代から戦国時代までを中世という時代区分とすると、この「中世」を通じて京都には 「古代国家」からの連続性をもつ朝廷が存在し、国家諸機関と官僚制が変質しつつも枠組 としてはなお維持されており、中央権力の編成原理はやはり官職制の枠を捨ててはいない。 他方、中世には鎌倉幕府・室町幕府のような武家政権が存在する。それがたんなる軍事権 力にとどまらず、一定の統治権を行使した現実的な政治権力であったことは明白であるが、 幕府だけで中世国家体制のすべてが完全な形で成り立っていたかといえばそうではない。 朝廷と幕府とは単純に分離・対抗しているわけでもなく、相互に異質の性格を持ち、かつ 対抗しつつも、反面では両者相よって、 「中世国家」を作っているとみなければならない。 おおまかにいえば公家の官職制と武家の封建制とが構造的関連を持って、国家権力や統治 体制を構築しているのである。 日本の「中世国家」はこのような封建制の一般的特質と日本の歴史における「古代国家」 と中世への移行に規定されつつ自らの歴史を展開させる他はなかった。従って日本の「中 世国家」の問題はたんに封建的権力の実力的強化の問題にとどまらず、古代以来の国制を どのように封建的領主階級が自己の統治体制に組替え、取込んでゆくかという問題であり、 そこに私は官職制と封建制の複合的構造という特徴を持つ日本の「中世国家」の在り方を 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 35 第二部 武家法への展開 めぐる問題の核心がある。このような問題点はこれまでに多くの人々から論じられてきた ことであり私などが論じるのはおこがましいかぎりであるが、以下で自分なりに論じてい きたい。 第一章 1 中世国家の成立と構造 中世国家をどうとらえるか 日本における「中世国家」とは何であろうか。常識的に考えると鎌倉幕府がそれなので あろう。幕府は確かに封建的主従制を権力編成の原理とした政権であるから、地方的政権 とはいえ中世的な性格を持っているといってよいだろう。それは中央集権的官職制を権力 編成の原理としていた律令制古代国家とは明らかに異質である。 そうした点に着目して鎌倉幕府を「中世国家」 、京都の朝廷を中心とした国家体制を「古 代国家」とし、鎌倉幕府は「古代国家」と「中世国家」の対抗的並存の時期であるとする 見方もあったが、これにはいくつかの難点がある。 第一に、京都の公家政権と鎌倉幕府とは確かに現実的には多くの点で実力的要素を含ん でおり、 幕府は公家政権の統治権能の一部を実力でさきとったことも事実であるが、「寿永 二年十月宣旨」や「守護地頭制」の勅許、或いは征夷大将軍補任の諸事実が示すように、 武家政権は上位政権としての朝廷から、国家の統治機能の一部を委譲・付与されているの であって、武家政権の在り方は公家政権の国家体制の一環として制度的に位置づけられて いるのである。その意味で両者を実力的対抗面においてとらえるのだけではなく、両者の 関係を一体的・相互補完的な関係の存在だとする見る考え方が出されている。それによれ ば京都の貴族が本来政務=公事を担当する権門貴族であったのに対し、鎌倉殿は軍事を担 当する権門貴族=武家に他ならず、両者は天皇のもとで統治機能を職能として分担しつつ 統一的な国家権力を構成しているというのである。すなわちここでは、公武両政権の対抗 面は基本的なものとはみなされず、公家・武家は相よって統一的な国家体制=「中世国家」 を形成していると見られているのである。しかし、この考え方には両者を支配機能の分担 関係から捉えており、両者間の対抗面を軽視しているという弱点もある。 では、私達は日本の「中世国家」をどのように捉えたらよいだろうか。私は「中世国家」 の出発点はやはり幕府にあると考える。幕府に結集した階級は地方の「開発領主」・「兵」 たちであり、かれらは郡司・郷司・ 「職」などを挺子に、律令国家体制を変質させ、私的武 力と主従結合によって領主制を発展させてきた主体であるから、かれらは基本的には、律 令制の官職制的編成原理と根本的に異質の存在・権力であり、かれらが階級的結集をとげ てつくりあげた独自の政権としての幕府こそ「中世国家」の原基と見るべきものである。 一方、中央=公家政権も、すでに荘園公領制的「職」の重層関係の展開によって「職制 国家」とも言うべきものに変容していたが、鎌倉幕府の成立によってさらに決定的な変質 を迫られた。幕府=主従制的政治権力の成立によって、国衛の権能は守護により、荘園・ 公領の現地支配の機能は地頭によって規制されるようになり、中央政治も幕府によってそ の自律性を大きく抑えられるようになった。 こうして公武両政権は、形式的には上位・下位の国家権力として統合された形式をとり ながらも、幕府の成立・ 「守護地頭制」によって、実質的には、封建的主従制にもとづく権 力編成原理が急速に力を増すことになり、全体として「中世国家」としての性格を持つよ 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 36 第二部 武家法への展開 うになった。「職」制国家においてはすでに「職」が官職制と主従制の統合によって中世的 色彩を強めながらも、主従制権力編成の原理はまだ国家体制全体を基本的に規定するもの ではなかった。その意味で、「職」制国家は「古代国家の最後の段階」もしくは「古代から の中世への移行期の過度的国家」と見るべきであろうが、中世国家の原基たる鎌倉幕府の 出現によって、それを融合し、それによって強く規律されるようになった鎌倉期の国家こ そは、十二世紀の「職」制国家から一歩進んだ日本「中世国家」の最初の段階と見るべき であろう。 2 守護地頭設置 一一八五年十月のいわゆる文治の「守護地頭設置」勅許問題は、現在でも中世史研究の なかで多くの論争が展開されているる問題で今もそれをめぐる結論的定説が確定されたと は言い難いが次のように承認されつつある。 第一は、この勅許によって、頼朝が「日本惣地頭」に補任されたこと、別に言えば頼朝 がその惣地頭職を御家人に分与、補任しうる権限を掌握したことである。 第二に、 『玉葉』によれば、その設置範は五畿・山陽・山陰・南海・西海諸国にわたり、 総じて「田地知行」という下地管理権を含んでいたらしいことである。東海・東参道およ び寿永二年当時はよしなかの勢力下にあった北陸道はすでに頼朝の勢力下に置かれていた から、この五畿内以下西国方面を対象とする地頭の設置は、幕府が東国政権から全国政権 に飛躍する決定的画期であったと見られるのである。 第三に惣追随使がのちに守護と言われるものの前身であり、国地頭の一定権限を吸収し たこともほぼ確認されている。しかしその際、国別におかれた惣追随使と「国地頭」との 関係がどのようなものであったか、また「国地頭」と同時に「荘郷地頭」もおかれたのか、 「国地頭」が廃止された後に「荘郷地頭」がおかれたのか、といった点については現在の ところ確定的な通説とよぶべき共通理解は成立していない。 以上のように「守護地頭設置」の経緯については今日なお未確定の部分も多いのである が、ごくおおまかにいえば、頼朝が勅許によって日本国惣地頭職を賜り、やがて「荘郷地 頭」に御家人が補任あれる方向が強まっていったのは確かである。そのことは、次のよう な重大な意味をもつ。 一、地頭は「国地頭」にせよ、形式的には国家の統治機構の一環として天皇が新たに設 置認めた「職」である。したがってその「職」は究極的には天皇がその改廃・補任権を保 持するものである。 二、他の「職」と違って、天皇が武家の棟梁たる将軍に対して一括してその補任権を付 与したところに、郡司職・郷司職や荘園所職と異なる性質がある。 三この所職の宛行・補任は、郡司職・郷司職と違って、将軍が従者たる御家人に宛行う、 という点でも極めて特徴的である。地頭職は地方武士が鎌倉殿の御家人になったという主 従制を前提としてのみ宛行われるものなのである。その意味で地頭職は他の荘園公領制的 『職』のように消滅させるわけにはいかない性質を持っている。このようなわけで地頭職 は、荘園所職の宛行が主従制を前提とせず、荘園所職を宛行われた地方豪族が、その「職」 の宛行主とは関係なく、別人たる鎌倉殿と主従制的結合をとり結びえた場合とは全く異な っている。すなわち荘園制の「職」の体系は封建的主従制と別個に成立していたのに対し、 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 37 第二部 武家法への展開 地頭職はそれと不可分離に結合しそれを前提としているのである。その意味で、十世紀以 降徐々に進展し、十二世紀の荘園公領制の中で全国的に進展していった「職」の秩序体系 は、地頭職の設置によって根本的に変わっていったのである。 3 守護と国衙 文治の勅許は頼朝に「日本国惣地頭職」とともに「日本国惣追随使職」をも与えたとす るのが旧来の理解でそれによると「国地頭」とともに「惣追随使」がおかれたことになる。 今日のところ定説というべきものはまだ確定していないが、文治の勅許は「国地頭」の 設置を認めたもので「守護」の設置を含まないと解し、その後「国地頭」の廃止にともな い、その権限の一定部分が守護に移ったと見る説も提起され次第に有力となりつつある。 しかし、通常理解されているような守護が国毎に設置されていたのは疑いない事実であ り、その主たる職権が大犯三箇条であった事も確かである。大犯三箇条は、謀反人・殺害 人の検断と大番催促であるから、守護が国守に代わって国内の重罪人の検断権を掌握する とともに、国内の「侍」ないし御家人に対する軍事指揮権の起点ともいうべき大番催促権 を掌握したわけであり、これによって国家の支配体制上、軍事・警察に関する権限の根幹 部分は公家政権の側から幕府に移ったといわなければならない。 しかもこれに加えて、守護は国内の在庁官人・荘園の下司・惣横領使等に対して「進退」 権を保持していたらしい。この問題を考える手掛かりとなる一一八七年(文治三)年九月十 三日付の頼朝の御教書には、 『摂津国は平家追討跡として、安堵之輩無しと云々、惣じて諸国在庁荘園下司惣横領使 御進退たるべきの由、宣旨を下され葦はんぬ、者へれば縦ひ領主権門たりといへども、荘 公下職等国在庁に於ては、一向御進退たるべき也、速やかに在庁官人に就き国中荘公下司 横領使之注文を召され、内裏守護以下関東御役を宛催さるべし、但し在庁舎公家奉公隙無 しと云々、文書調進の外の役を止められるべく候、』 と、ある。直接の対象は摂津国に向けられているが、他国にも通ずるものである。これに よれば、鎌倉殿は国在庁・荘園の下司・惣横領使に対して広く「進退権」を認められてお り、国毎に在庁官人に命じてそれらの人々の名簿を提出させることができたのである。こ の権限が、国別に誰によって行使されたか、ここでは明記されていないが、国別にそれを 行使できたのはもとより「国地頭」ないし「守護」をおいて他にはない。しかもこの時点 では「国地頭」は既に停止され、その権限は「守護」に継承されていったと見られるから、 これが守護の職権に属するものであることはまず誤りないだろうと思われる。 そうしてみると、ここで特に注目すべき点は、守護が国の在庁官人に対して「文書調進 の役」を課す権限を行使できたことである。一般の荘公下司・横領使に対しては内裏守護 以下関東御役をかけるのであるが、在庁官人は「公家奉公隙なき」ため、その種の役は免 ぜられる。しかし守護はこれに「文書調進の役」だけは課してよい、というのである。で は「文書調進の役」とは何か。管内の下司・惣横領使などの名簿の提出はその一つである。 さらに国内の荘園・公領の面積や荘官・地頭などの名を記した大田文の提出がこれに含ま れていたに違いない。大田文は管内土地支配=下地進止のための基本台帳であるが、この 提出を守護が在庁官人に命じるということは、結局、守護が大犯三箇条にとどまらず、事 実上国の行政にも一定の権能を行使しえたことを意味している。西国方面の国々において 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 38 第二部 武家法への展開 も管内の武士の御家人化を推進する上で守護が積極的役割を果たし得たのは、守護のこう した職権によるところが大きいのである。 こうして守護は検断・軍事指揮にとどまらず、事実上一国支配のための重要な権限をも 獲得し、国衙の権能をとりこんでいったと見られるが、その傾向は鎌倉後半期以降になる と、特に守護所の構成の面からもうかがうことができる。すなわち一例をあげるなら、一 二四三(寛元元)年の大隈国守御所が、管内の台朋寺の寺領に御家人を免除した文書を見る と、書生・惣官・横領使・守護代が著判しており(『薩藩日記』四一七号) 、また一二五七 (正嘉元)年十一月三日付の大隈国守護書下案(同上五六六号)には『守御所調所職』と ある。すなわちこの二通の守護関係文書によって守御所の職員構成としては、守護代の他 横領使・惣官・調所・書生などが認められる。税所・横領使・調所などはいうまでもなく 国衙系統の官職である。さらに、一二六七(建治ニ)年の蒙古防塁=石築地役配符案(同 上七七三号)では、守護代とともに大介兼税所・惣官・書生・調所が連署している。して みると、鎌倉中期の頃までに、大隈においては、国衙の機能・職員が大幅に守御所の機構 にとりこまれていることは否定できない。 一般に公家政権の地方支配の拠点である国衛が鎌倉時代を通じてどのような推移をたど ったかは、まだ全面的に明らかにされているとはいえない。しかしこの大隈の場合では、 既に国衙の機能は大幅に守御所とりこまれてしまっているといいうるのである。この段階 で、 鎌倉時代既に地方支配の機構が守御所に一元化されるという方向が推進されていった。 4 公武両政権の経済基盤 京都と鎌倉との二つの政権を対比すると、前者は本来家産制をふまえた貴族による官職 制を権力編成原理としているのに対し、後者は封建的主従制を権力編成原理としている点 でその性格に決定的な相違があった。しかし反面、鎌倉将軍も大規模な荘園領主・知行国 主である点では、京都の公家貴族と少しも異ならない経済基盤の上に立っており、地頭職 も荘園・公領を単位として設置されていた。その面では、公武両政権とも荘園公領制を共 通の秩序としていたことは明らかである。 したがって、幕府といえども、御家人たる地頭がその職権の範囲をこえて荘園の下地を 横領したり、年貢を差し押さえるなどのことは、 「新儀非法」として許容しなかった。地頭 の設置自体は、公家・社寺側の権力と荘園の支配の仕組みにふかくクサビをうちこんだも のであるが、それはあくまでも「勅許」によって制度的に承認されると同時に、職権の範 囲も定められることによって、新たな秩序として確定したものであるが故に、その職権を こえるものはすべて不法であるとするのが幕府の論理であった。ここで地頭は、本補の場 合は「先下司」の職権を継承するのが規定であり、新補地頭は十一町ごとに一町の給田と 段別五升の加微米といういわゆる新補率法に従うというのが規定であったが、現実にはこ のような一般規定によって地頭の職権そのものが必ずしも明確にされたというわけではな い。個々の荘園の具体的な場面においては、検断権にせよ、土地管理・年貢率の決定権に せよ、また農民に対する各種の身分制支配にしても、じつは必ずしも明確な基準があった とはいえなかった。そのため地頭と領家の間ではしばしば支配権限の範囲をめぐって争い が起き、特に新補地頭の入部に際しては本所側の対立が不可避であった。 幕府はそうした紛議についてはほとんど例外なく、地頭に対して抑制的であった。すな 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 39 第二部 武家法への展開 わち鎌倉幕府と公家政権の間には、共通の基盤たる荘園公領制に就いて不明確ではあるが 立法と慣行にもとづく勢力分野が協定され、それを幕府側も維持する方針をとっているの である。荘園公領制に共通する「職」秩序は幕府成立以前にも存在した。しかし幕府の成 立により在地領主層は、既述のように地頭職という強力で新しい「職」を与えられるとと もに、将軍との主従制結合によって支えられた形で、国家の権力基盤を実質的に大きく規 制した。その点で十一世紀後半から十二世紀の荘園公領制を基盤とする段階と鎌倉幕府の 成立以降は、ひとしく「職」秩序が中世国家体制全体を保護する共通の秩序原理となって いたことは明らかな事実である。その意味で、鎌倉幕府と公家政権とは荘園公領制を共通 基盤としつつ、 「職」 と主従制によって中世国家の共同の法秩序を形成していたということ ができるのである。 5 鎌倉幕府法 鎌倉幕府は中世国家の一環であるとはいえ、公家政権から半ば独立した公権力であると いう関係を明確にするためには、一方では律令格式も否定しないが、他方では独自の法典 を持つことが必要であった。御成敗式目(貞永式目)制定にあたって、北条泰時が六波羅探 題北条重時に送った貞永元(一二三二)年八月八日の消息はこの間の意図を端的に物語って いる。すなわちその冒頭部分に、 『雑務せいはいのあいだ、おなじていなること事ども、つよきは申とをし、よはきはう づもるるやうに候を、ずいぶんにせいこうせられ候へども、おのずから人にしたがうて軽 重などのいてき候はざらんために、かねてしきでうをつくられ候、 』 とあるように、人により軽重などを生じない、武家世界の万人共通に従うべきものとして 法を定めるという基本主旨が述べられているのである。要するに御成敗式目は、御家人が 公家との関係で不利とならず、また偏頗の生じない公正な裁定が行われるための基準であ り、文字を知らない田舎武士にも役立つものとして定められたのである。幕府はこれを「関 東御家人守護所地頭にあまねくひろう」して、周知させることによって、武家側の公的な 法秩序を確立しようとしたのである。 御家人の統合が人間的結合によって果たされる状況であれば、このような法典は必要あ るまい。しかし、承久の乱以後、幕府は全国的権力として西国を含む全国の在地領主層を ひろく御家人として組織していったから、幕府権力はもはや主従制を法によって公平に規 律する方向を追求しなければならなかったのである。幕府が独自の法典を持ったことは、 その意味で画期的なことであり、これによって御家人からは相対的に独自な権力・権威と しての幕府の公的立場が確立されていくのである。そうした意味で、 幕府と公家政権と は、おのずからにそれぞれ別個の法典を持つ政治的・法的領域を形成しつつあった。しか し、この二つの政治的・法的世界は明確に区分された二つの地域空間に分割されるもので はない。同一の荘園・公領に公家・寺社側の支配権能と武家側の支配権能とが重層的に作 動しているのであるから、二つの政治・法領域の関わりと紛議とは不断に発生するのであ る。 そこで両政権の間では、そうした紛争の処理のために、一定の約束事を設定する必要性 が出てきた。それはごく大まかに言えば、頼朝段階では本所と地頭の間の争いは朝廷で裁 判する、 という考え方であったようであるが、泰時以降は本所相互間の紛争は朝廷の裁判、 一方の当事者が御家人であれば幕府の裁判、というのがおおむねの原則とされるようにな 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 40 第二部 武家法への展開 った。式目第六条には、『国司領家成敗関東御口入に及ばざる事』とあるが、これは紛争が 国司・領家の管轄に属し、武家が事件に関わっていない場合のことで、その場合には幕府 が一切介入しないということである。これに対して地頭が荘園領主側と争った場合は、鎌 倉幕府または六波羅探題にもちこまれ、その武家法廷で裁判が行われたのである。 その際、 武士の不法を武家法廷で裁く事は、荘園領主側に不利になりやすいと思われがちであるが、 実際は先述のように、幕府が御家人の独自的成長を抑止するという姿勢を一貫してとって いたため、御家人側の不法は多くの場合敗北に終わった。 このような公武間の裁判管轄区分にも全く問題がないわけではないが、農民支配をめぐ る分野については、本所と地頭両者の職権も、従ってまた裁判管轄もとくに明らかでなか った。御成敗式目は本来、主として御家人社会の法規範や裁判手続きを定めたものである から、農民支配そのものを積極的に規定した箇条はほとんど存在しない。ただ式目第四二 条に「住民逃脱」の場合、地頭による「妻子抑留・資財奪取」を禁じ、年貢未納分は支払 わせるが、農民の去留は民意に任すべし、と規定している程度である。これももとより農 民支配一般を規定したものでなく、そうした場合における地頭の対応行為を規定したもの であって、式目及び追加法は全体として農民統治の法というわけではない。 一方、 荘園領主側の現地支配も主として慣習によるもので独自の法を持つものではなかっ た。そのため両者間の農民支配をめぐる争いは、実際には法廷で争われず、現地で解決さ れていく事が圧倒的に多かった。その意味でもっとも基礎的な領主的権利としての農民に 対する身分的支配権は、地頭側に吸収されていったのであろう。その点では、公武両者間 の権力行使と紛議処理が完全に法的に解決されたということはできない。しかし局面的に みれば、鎌倉時代においては、両政権の間にともかく一定の裁判管轄区分が行われつつ、 共通の荘園公領に対して、同じような「職」秩序の維持がはかられたといえるであろう。 6 在地領主 日本中世史の研究上で広く用いられる「在地領主」とは、鎌倉後期から室町以降の発達 した段階においては、主従制にもとづく土地・人民支配をかなりの独自性をもったものと して、実現している階層といえるが、その初期段階である平安後期から鎌倉前期において はまだ十分に自立的な領主制支配の諸条件を満たしておらず、「私領主」に近い性質をもっ ていた。 ひとくちに鎌倉時代の在地領主層といっても階層差があるが、ほぼ標準的なスケールの ものとしては、一つの荘園または公領中の要地に惣領が権力の拠点としての屋敷を持ち、 一族たちを周辺の村などに配置させ、同族結合を軸とした実力によって、 「職」秩序の枠内 で、土地・人民支配を程度の差はあれ実現しているような形が認められるだろう。その際、 惣領はその荘園の地頭職・下司職あるいは公領の郷司職などを保有し、一族たちは村地頭 職を分けて所有する。またその同族的武士団は、郎従・下人など直属の家人的な人々をい れて数十人から百人程度が普通であり、大きくても二百人をこえるようなものはほとんど 見られなかった。 このような在地領主層の武士的同族団は、その内部で土地財産を分配しつつも、全体と して惣領の強大な家夫長権の支配下に置かれた一つの自律的な「家」世界であった。その 所領は空間的には屋敷地=館・ 「私領」 ・ 「職」の対象としての荘・郷全体、という三重の構 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 41 第二部 武家法への展開 造を持っており、屋敷地が完全に他の者をよせつけない領域として「家」権力の象徴的意 味をもっていた。そこは国衙権力も荘園領主権力も立ち入ることができない空間であり、 法と支配の面においても自立的な世界であった。そうした屋敷地を核とする財地領主の支 配地が開発私領をふまえていわゆる「本領」「根本所領」とされる場合、そこには将軍権力 さえも立ち入ることができなかった。御成敗式目二六条は、 『一、所領を子息に譲り、安堵の御下文をたまはりて後、その領を悔還し他の子息に譲 り与ふる事、右父母の意に任すべきの由、具に以て先条に載せいはんぬ、 』 と規定している。つまり、惣領が子に所領を譲り、将軍から安堵の下文を受けた後でも、 惣領はその所領を取り戻して別の子に譲ることが認められるというわけである。このこと は、将軍の所領安堵よりも惣領の意思が優位に置かれていることを示す。御家人の「家」 内部の問題については、将軍も家夫長権を承認する他はないのである。この点は、すべて の所領が将軍から恩給されたものとして位置づけられ、 「本領」における「家」権力の優位 が完全に否定されてしまう江戸時代の頃とは全く違う点である。 7 「家」権力と中世国家 在地領主層がこのような形で、本領について将軍の権力も及ぶことのできない強力な 「家」権力を確保し、空間的にはいかなる上級支配権をも排除した屋敷地を核として、そ の排他的な支配領域を確保しようとしていたことは、国家体制と関連させてみると、中世 国家においては国家の中に国家権力さえ介入できない「家」世界が広い範囲で存在してい たことであり、近代国家的理解からはおよそ考えられない事である。 後深草院女房の日記『とはずがたり』には、その女房が一三〇二(乾元元)年厳島詣の帰 路、海が荒れたため、先の船中で知り合った備後国和知氏の家に泊めてもらったが、主人 が毎日男女の人々に苛責を加えるのに驚き、程近い江田にすむ和知氏の兄の家に移ったと ころ、和知氏は『年来の下人に逃げられ、兄がこれを取った』と怒り、兄弟喧嘩にまでな ったところ、たまたま下ってきた地頭広沢与三入道に救われたという事実がしるされてい る。かりそめに宿泊した貴族の女房を「下人」というのはまことに乱暴な話としかみえな いが、いったんその家に泊まった者はその家の内部のある限り主人の「家」権力に服属す る、というのが当時の考え方であった。 在地領主層の「家」世界はこのように、屋敷地・ 「住郷」といった空間とともに、その「家」 的人間関係のすべてを包み込んでいる自律的世界なのである。いうまでもなく、在地領主 層自体は中世国家の権力基盤を構成する地方支配層であるが、それ自身の直接的に成り立 っている基盤は中世国家の公権が立ち入ることのできない世界となっている。こうした 「家」世界の原理は、在地領主層における「領主制」の発展とともに、独自の支配領域と して拡大されていくが、 「家」はあくまでその原点であり、中世国家の構造的特質を規定す る要因であった。 第二章 1 中世国家の法 中世法の存在形態 法は国家の指向する統治理念・支配秩序をまとめたものとして示されるものである。古 代国家の律令法はまさしくそのようなものであった。では中世国家の法はどうかというと 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 42 第二部 武家法への展開 既に見てきたように中世国家は複合的構造を持ち、基盤には在地領主層の自律的「家」を 持っている。そのため、中世法の存在形態も単純なものではない。 日本の中世国家の法は大きく分けると、公家政権の法と武家政権の法、さらにその基盤 における在地諸法に区分されるが、具体的には武家の法にも幕府法とともに在地領主法と 呼ぶべきものがあり、公家の方の中にも律令格式を継承しつつ朝廷でせいていされる「新 制」及び国々の国衛法のたぐいとともに個々の荘園領主が決めた「本所法」や諸寺社の定 める「寺社法」もあるといわねばならず、さらに「村法」のようなものも独自の自律的規 範として存在している。これらのことは武家政権の内部においても、幕府が法を独占する のではなく、侍=在地領主層の「家」権力 もとづく自律的な法世界を承認していたこと を意味するし、公家政権においても、荘園領主や寺社などがそれぞれに独自の法的世界を もち、さらに公家も武家も規律することができない村法が存在していたことを意味してい る。 そうした構造を武家法の場合について考えてみよう。鎌倉幕府の追加法二六五条には、 『主従対論の事、右、去年冬の比御沙汰ある歟、自今以後は、是非を論せず、御沙汰あ るべからず歟、 』という規定がある。この意味は、幕府は、御家人=在地領主とその従者と の争いについての訴訟を今後一切受け付けないということであるが、その立法主旨は、そ の種のことは在地領主の「家」内部のことであるから、幕府はそれに介入しない、という ところにある。おそらく、従者が君主を訴えるのは、その訴えは受け付けない、というの ではなく、前述のような「家」権力をふまえた秩序観にもとづくと解するのが妥当であろ う。ここで、在地領主層の法的世界は幕府法と「家」で成り立っている法との二重の規範 構造に規定されているのである。 しかし、在地領主の「家」的世界は、自律的な一個の法的世界であったが、その初期段 階から独自に成文化された法典を持つという事はなかった。それは元来「家」が家父長権 を軸とした世界であるから、それでさしつかえないのである。ところがその「家」的世界 が領主制的支配としての性格を次第に現すようになってくると、主人の家父長権や、伝統 といった要素だけでは支配を実現しにくくなり、やがて在地領主制支配のための成文化し た家法・領主法が制定されるようになる。在地領主法として今日知られているものは数多 くないが、一二八三(弘安六)年の『宇都宮家式条』(七〇ヵ条)や、一三一三(正和二)年の『宗 像氏事書』(一三ヶ条)は、在地領主が独自に制定した法典として、整った法典をもってい る。例えば『宇都宮式条』は、そのはじめに「私に定め置く条例」としているが、それは 狭い意味での家訓的なものではなく、領内名主百姓の田や畠・家の売買、利銭・質入等の 規定から、雑人沙汰、検断など、民事・刑事にわたる広い分野の領内法秩序を成文化した ものである。 このような在地領主法は、その領域内の民事・刑事にわたる法規範をほとんど完結的な 形で規定しているから、そこには幕府法は介入する余地がないといえよう。それとの関連 で言えば、幕府法は御家人=在地領主の領内法を前提としつつ、上位の法として、在地領 主層の相互間関係の中で生ずる紛議の調停法的要素が大きな比重を占めているのである。 幕府法は土地・人民支配のための法を直接制定したものというより、御家人の訴訟手続き などを規定した手続法のような性格が強いのも、そうした両者の関わりの特徴にもとづく ものである。 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 43 第二部 2 武家法への展開 法における当事者主義 在地領主が中世国家体制のもとで、 「家」権力を原点とした独自の法的世界をもつとい う関係は、上位の幕府法としては、在地領主間に紛議・不法関係が存在していても、当事 者の側から提訴がなければ、幕府が進んで行動をおこすことはない、という法における当 事者主義的傾向を生み出した。いうまでもなく、近代国家においては、警察・検察行為は 当事者の提訴がなくても発動される。江戸時代においても、幕藩領主の警察・検察行為は 当事者の意思に関わらず独自に発動されるようになっていた。ところが中世においては 『獄 前の死人、訴えなくんば検断なし』(東寺百合文書)という 法諺さえあるように、獄前で発 生した殺人事件でも、訴えがなければ幕府の検察権は発動しないという傾向が強かった。 そうした当事者主義は裁判手続きの面にもあらわれている。原告の訴えが出されると裁判 所は被告に対して問状を出すが、それを被告に届けるのは原告の仕事であった。また裁判 法廷で当事者が自己の正当性を主張するための証拠や法令も自らが集めて提出する必要性 があった。裁判所は独自に証拠集めを行わないばかりか、判決の根拠となるべき法や判例 すら当事者に提出させるのである。当事者にとって「法」は自ら発見すべきものであった とさえいうことができるのである。 このような内容を持つ当事者主義は、法的世界における自力救済主義とも通ずるものが ある。当事者主義は、当事者の訴え・立証・法の提出などを欠かせないが、ともかくも法 廷を争いの場とするものであった。それに対して自力救済は敵討ちに典型的見られるよう な実力行為の承認である。鎌倉時代の敵討ちとしてよく知られているのは曽我兄弟の場合 であるが、これについて『吾妻鏡』はその状況を詳しく記すとともに、兄弟の武勇を賞讃 し、敵討ち行動そのものに対して肯定的な考え方を示している(曽我五郎が斬られたのは 頼朝の寝所を騒がせた罪によるのである) 。武士=在地領主たちがそれぞれ「家」的な自律 的世界をもち、しかも国家が訴えのないかぎり検察行為を発動しないという関係が一般で ある場合、自力救済の思想にもとづく敵討ちや各種の私闘が社会的に容認され展開するの は当然であろう。 3 法の複合構造 こうして武家法の内部でも、幕府法が、武家法のすべてではなく、幕府法と在地領主法 とが、相互に緊張・対抗関係をもちつつも、それぞれの法圏、法の適用範囲を画定して、 相互補完の関係を形成していたのであるが、そのような諸法の複合構造関係は、公家法の 内部でも存在したし、公家法と武家法とのかかわりにおいても存在していた。 鎌倉幕府追加法には公領や荘園の境界争いで、武家側に関係ない場合は、国司・領家の 判断と聖断に従うべきだとし、幕府の法および裁判管轄以外にあることを明確にしている。 例えば鎌倉追加法六三条には、 『京中強盗殺害人の事、右此条使庁の沙汰たるべき由、去年仰せ下され候ひ畢はんぬ、 而るに猶武士相共に沙汰致すべき由、殿下おり仰せ下され候、何様候ふべきや、 押紙に云う、武家相交わらざれば事行き難きか、仰せらるるに従って沙汰あるべし。 』 とある。京都市中の警察権は検非違使庁の手にあり、公家政権の重要な権能の一つである が、武家側にもこれに加わる要望が公家側から出され、それに従うことになったわけであ 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 44 第二部 武家法への展開 る。ここでも公家政権と幕府とで統治権能を分割・画定してゆく考えが基本とされている ことは明瞭である。鎌倉時代に発せられた公家政権の側の「新制」を見ると、その主たる 内容は神仏祭祀、朝廷の公事・儀礼、服装・風俗および京都市中の警察問題などであり、 全国の統治に関する現実的な法規はほとんどふくまれていないのが特徴であるが、これも そうした統治権能の分割の進行結果を示すものである。 中世諸法はこのような形で統治権の分有者集団が、その権能の範囲内における法規範を 制定し、相互に犯し合わない関係をつくりだしていた。 「村法」や「座法」のようなものも 本質的には同様の性格をもっており、それは一個の生活集団・同業者集団が、集団として 他社に対しては自力救済、内部的には平和を維持してゆくためにつくりだしたものに他な らない。中世社会における人間関係の集団性・自治性はまさしくここに起源するものであ り、かれらがそれぞれに法をもつことによって、中央国家の法はそれら相互の関係を調停 するに必要最小限の調停法・手続法的な性格を濃くしていったのである。 4 地頭層の領主制支配の拡大 在地領主層の中心をなす地頭は、本補地頭においては先下司の例に従い、新補地頭にお いては新補率法に従う、という形で、その「職」に応ずる権限の範囲が規定されていたが、 かれらは鎌倉時代を通じてこれをのりこえ、 「家」 的世界の論理にもとづく自律的支配領域 の拡大を指向した。それは大別して、土地支配の拡大と人間=百姓支配の拡大という二つ の側面をもって展開していった。 このうち、土地支配のもっとも素朴で直接的な形態は山野未墾地の開発に他ならなかっ た。地頭級在地領主は、一族を荘内の村々に分住させ、「屋敷」=居館を拠点として山野未 墾地の開発を進めた。開発は平安時代以来、私的土地所有創出の基本的形態でかり、この 時代にも引きつづき推進された。在地領主層に広くみられる多数の下人所有も多くの場合、 このような開発労働と結びついていた。地頭級領主の開発地はほとんどの場合「屋敷地」 の延長線上に位置づけられ、本所・国司側の権力の及ばない土地となった。 地頭はまた「百姓名」を「地頭名」にひき入れるという形で荘園領主権の下にある既存 の「公田」のとりこみにも向かった。さまざまの理由を設けて「平民百姓」に圧力を加え、 かれらを追放したり罪科に処したりしてその「百姓名」を「地頭名」にくりこんでしまう のである。 「地頭名」はほとんどの場合「雑免地」であって、本所に対して年貢は納めるが、 「百姓名」のように雑公事・夫役までを負担する義務を免ぜられている。したがって地頭 は「百姓名」を「地頭名」にとりこめば、その耕地に賦課される雑公事・夫役を自らの手 に入れることができた。これは荘園・公領の基本耕地=「公田」に地頭の支配力を浸透さ せるためにはもっとも直接的でかつ粗野な形態であったが、新補地頭のように率法によっ てその権限がきびしく制約されている場合、この方式は実力的に広く推進された。 さらに、地頭の領主制的土地支配が全荘荘に向けて拡大される手段としては、かれらが 「内検」を行い、新田・隠田等を追求し、新規の年貢を賦課することもあった。もともと 荘園の本所側が掌握していたのは、実在しているすべての耕地とはいえず、実在耕地の相 当の部分が荘園・公領の公式と土地台帳には登録されていないという事情があった。中央 都市居住の荘園領主層には、荘園耕地を徹底的に掌握する意欲が弱く、在地領主や百姓と の力関係の中で、掌握できるかぎりのものをおさえればよい、という傾向が強かった。地 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 45 第二部 武家法への展開 頭はそうした状況のもとで非公式の検注=「内検」を強行することによってすることによ って、そうした未登録地=「非公田」を掌握し、本所側が実施権をもつ正規の検注を拒否 するのである。これによって、本所が掌握登録している耕地=「公田」よりむしろ広大な 耕地を地頭が掌握支配することにさえなるのであり、地頭の領主制的土地支配は屋敷地・ 雑免地ばかりでなく、一般農民の保有地にまで拡大されていったのである。 他方、 「平民百姓」に対する地頭の人格的・身分的支配は、かれらの人身を「召置」いた り、 「免家之下人」や「所従」にしたりするという形で推進された。鎌倉幕府追加法 一一九条には『地頭に違背する咎に依り、庄官百姓等を召置く』ことを禁ずる規定があり、 もし事実罪科があれば、その人を荘外に追放すべきであって、 「召置」 くことは許されない、 としている。また同一八二条には、前にもふれた式目四二条を確認する形の『百姓逃散の 時、或は資材を抑留、或は其身を召取るの条頗る謂われ無きか、去留に至っては都民の意 に任すべし』という規定がある(一二四二年) 。これによれば地頭は農民を土地に緊縛した り、その身を召取って隷属させようとする動きが広く行われたと見られる。 百姓の身を「召置」く、 「召取」る、というのが奴隷化を意味するか、土地に緊縛して強 烈な農奴制的人格支配を強行するものか、にわかに断定はしにくいが、いずれにせよ、従 来の「平民百姓」を地頭の直接的な人格支配の対象として把握しようとするものであるこ とは明らかである。この時期の在地領主層の人間支配を奴隷的人格所有か、農奴的隷属か という二者択一の形で単純に理解しようとすることは事実と合わないのであって、現実に はかれらは奴隷的「下人」と「免家之下人」のようにいちおう独立した農民を強く人格的 に隷属させるというどちらかといえば「農奴」的な下人かという二形態を併行的におしす すめていたと見られるのである。両社のあいだには人格的隷属の度合や形態上の大きな相 違があるが、「平民百姓」という身分の基本農民を本所・国司の支配から切り離し、地頭の 私的隷属民化するという点では共通の性質をもっていた。 5 守護の国支配 一方、守護も国支配の諸側面において、領主制の展開とかかわりの深い動きをとってい た。守護の任務権限は本来大犯三箇条であったが、追加法三一条によると、現実にはそれ 以外の「細々雑事」の「管領」を行っており、それが幕府から禁制されている。つまり本 来本所あるいは地頭の職権に属するものにまで守護が介入することによって、守護自体も 土地・人民に対する支配に乗りだしているのである。また同六八条によると、とくに西国 の守護は非御家人に対しても「大番催促」を行い、その動員を通じてかれらを守護の指揮 下にひき入れようとしている。幕府は本所側の反発をおそれてこれを禁制しているのであ るが、これは大番催促という職権を梃子として国内の非御家人侍身分の人々とのあいだに 主従制を形成してゆく動きの一歩と見ることができる。 追加法二五八条によれば、守護はまた、地頭同様、独自の「内検」を実施し、 「過分の所 当」を責取る、という形で土地支配を強める動きもとっていたようである。そうした守護 の動向は、いずれも、一国全体にわたる一定の公権を梃子としつつ、土地・人民支配を強 めようとするものであり、広い目で見れば、一四世紀以降次第に本格的な展開を見せる守 護領国制の前提的動きである。それは、地頭級在地領主が、屋敷地・家と、そこにおける 私的・排他的家父長権の原理を起点として領主権を外延的に拡大するという形を基本にお 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 46 第二部 武家法への展開 きつつ、自律的な領主制支配体制を形成していった場合とは異なっている。守護の場合に は、在地領主というより、公権を梃子にして一国規模の領主制的支配体制を上から創出す る方向をめざしているのである。その点で両者のあいだには明白かつ重要な差異があった が、守護のそうした動きがまた地頭級在地領主の形成の動きに刺激を与えるという関係も あり、二つの動きは相互に絡みあいながら鎌倉後期以降活発となっていった。 6 「職」の秩序と領主制 「職」秩序に規定された中世国家(第一段階)の基盤は、在地領主制の親展、守護の在 地領主層把握などの動きによって変質を迫られるようになる。すなわち、鎌倉時代の中世 国家は公家政権と武家政権が相よって「職」秩序を擁護していたのであるが、その「職」 の現地における担い手が、急速に変貌し、 「職」秩序を乗りこえる動きを示すようになった のである。地頭の荘園侵略、それにともなう下地中分・地頭請・和与などは、新たに進展 してきた地頭の領主制を「職」秩序の枠内で何とかして解決し、おしとどめてゆこうとす るための試みであった。 かつて十∼十一世紀の頃に「職」が出現したことは、官職制的地位の世襲財産化であり、 知行化への第一歩とも見られたが、それが「職」としてとどまるかぎり、 「職」の公的・国 家的性格はなお存続しえた。ところが、「職」的支配から「領主制」支配への転換によって、 既存の国家体制の中に国家権力の及びえない私的世界が急速に拡大されていったのである。 「領主制」を「私」的なものということは、もとより先行の「職」制秩序に規定された国 家体制との対応関係においてである。領主制支配も江戸時代のように発達した封建国家に 至れば唯一の権力編成原理にまで展開し、それ自体が「公」的性質を備えるのであるが、 鎌倉期においてはそれはまだ「私」的であり、国家体制に中では、”非法”的側面が強かっ たのである。ここでは領主制は在地領主制の私的な「家」権力の延長線上にあり、この段 階では「公」的な形にまで編成されていない。しかし中世国家はそのような性質の領主制 を基盤において承認し、これを譲歩することなしには次第に力を強めてきた民衆の動向に 対応しつつ支配を維持してゆくことが困難であるという状況も、鎌倉後期以降しだいに明 確となり、それが「職」制国家の転換を促進してゆくことになるのである。 第三章 1 中世国家の展開 田文の作成 日本の中世国家は、荘園公領制にもとづく貴族の家産制の進展にも関わらず、なお官職 制的枠組みを維持しようとする公家政権と、封建的主従制を権力編成原理とする武家政権 との均衡関係の上に成立していたといえるのであるが、この均衡関係は蒙古襲来にともな う諸変動を契機として急速な転回を遂げた。 一二七四年の第一回襲来に先んじて、蒙古はすでに一二六七年、世祖の書を高麗に命じ て日本に届けさせ、それ以後、日本側に対する圧力を日毎に強めていた。これに対して、 幕府は軍事体制の強化を進めていったが、国制との関わりでまず注目されるのは、一二七 二年幕府が公事支配のために、国々の田文を微収した事実である。 このとき相模守=時宗は執権であったが、同時に駿河・伊豆・武蔵・若狭・美作の守護 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 47 第二部 武家法への展開 でもあった。そこでこの文章では北条左京権大夫=政村が「連署」という職務上の立場で 将軍の意を受け、五カ国の守護時宗に命ずる形がとられているのである。この文書によれ ば、幕府は公事の支配=賦課のために諸国の「田文」を提出させており、欠失の場合はす みやかにこれを調進するよう守護に命じているのである。ここからわれわれはいくつかの 重要な問題をよみとることができる。 第一は、本来国衙の掌握する「田文」を、幕府が「公事」の賦課などの必要のために在 庁に命じて守護側に提出させることは、幕府の成立期からあったのであるが、蒙古との関 係が緊迫したこの時期に、幕府が改めて諸国の田文を掌握しなおそうとしていることであ る。 第二は、その際幕府が、田文の作成を守護に命じ、これを受けた守護は守護代を通じ、 国内の郡郷荘保の政所に宛てて田文の注進命令を出していることが、右の五国のひとつで ある若狭の場合について別の関連資料から知られることである。すなわち、この場合は、 国衙の側に文書を提出させるのではなく、守護が直接「田文」作成の任に当たり、地頭の 有無を問わず国内の郷郡荘保の政所にひろくその基礎資料を提出させているのである。 したがってこの場合には、御家人でない郡郷荘保の政所も守護の命に従わさせられるので ある。 第三は「田文」には神社仏寺荘公領等の田畠員数、領主の交名を逐一記載すべしと命ぜ られていることである。武家側に進止権のない寺社本所一円地についても、 「公事」賦課の 目的から面積及び領主の名前の注進が命ぜられていることは、幕府がこの非常事態のもと で、これまで進止権の及ばなかった寺社本所一円地、あるいは御家人となっていなかった 「領主」にも命令権を行使するための準備を整えようとしているのである。 2 本所一円地住人の動員 一二七四年、いよいよ蒙古軍が襲来し、壱岐・対馬を侵すと、幕府は大動員令を発した。 追加法四六三号によると、幕府は同年十一月一日、安芸国守護武田五郎次郎信時に対し、 『早く任国に下り、万が一、敵軍が攻め入って来た時は、国中地頭御家人扞びに本所領 家一円地之住人を相催し、防戦につとめよ』 と、命じている。また同日付けの四六四号によると、豊後国守護大友頼泰に対し、 『九国の 住人等、その身たとえ御家人にあらずといえども、軍功を致すの輩有らば、抽賞せられる べきの由、普く告知せしむべし』と命じている。すなわち、九州の住人で、御家人でない ものでも軍功を上げれば恩賞を与えるというわけである。 この二つの令の内後者は、非御家人の自発的参戦を促しているものと見られるが、前者 はいわば強制的な動員令である。その点で両者には相違があるが、幕府がこの危機のあた って非御家人、寺社本所一円地の「住人」=「領主」をも守護の指揮下に入れて、その軍 事力に組織しようとしていたことは明らかである。そのこと自体はもとより危機における 緊急措置に他ならない。しかし従来、御家人と非御家人、地頭の設置された所領=非一円 地と設置されていない所領=寺社本所一円地との区分が明確に行われており、武家側は一 円地に対しては一切介入しなかったことを思えば、今回の措置はまことに大胆な転換とい うべきである。しかもそれが長期にわたる防衛体制の中で定着すれば、非御家人の「領主」 と守護との間に結ばれる主従関係は国ごとに進行するのも必至であろう。 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 48 第二部 武家法への展開 このことは、幕府が、公家・社寺勢力の経済基盤の中で最も重要な寺社本所一円地に対 して封建的主従性のクサビを打ち込んだことを意味する。これによって従来、「侍」 「領主」 であっても非御家人で、寺社本所の「職」秩序の中だけ位置づけられていた荘官級の人々 が、守護の被官=従者に転化されるのであるから、中世国家において主従性の持つ比重は 急激に高められることになるのである。 3 諸国社寺造営・修理権の掌握 蒙古襲来を契機として、幕府が諸国一・二宮、国分寺以下の社寺造営・修理権を積極的 に掌握していったことも見逃せない。 従来幕府は、東国を中心とした「関東御分」と呼ばれる国々については、重要社寺の造 営・修理・祭祀権を掌握していた。一・二宮、国分寺以下主要社寺の祭祀・造営等は、本 来国毎に国司が行うものであり、それは公権力の象徴的権能に属するものであった。従っ て幕府がまず「御分の国々」において、これを国司の手から奪い自ら掌握したことは、そ の国々においては幕府が国家権力を掌握したことを意味するものである。ところが、幕府 は蒙古襲来の危機に際して、全国の寺社に対し「異国降伏」の祈祷を命ずるとともに所領・ 宝物等の寄進を行い、同時にそれら寺社祭祀の・修造権を掌握していったのである。この 過程で「造伊勢神宮役夫工米、大嘗会米」など「一国平均役」として従来朝廷が諸国に賦 課収取してきた課役の徴収権も次第に幕府に手に移されていった。 国司が公権力の象徴として行使してきたこれらの所権能を、幕府が接収することは、具 体的には国々において国司の権能が守護の手に移ることを意味した。守護はこの権能にも とづき、祭祀・修造等の役を管国内の武士に割賦した。管国内武士にとってその役の負担 は国の「住人」=「領主」としての地位の承認とともに守護との主従制的結合を意味し、 一種の栄誉とともされた。この面からも中世国家権力の編成における主従制的原理は浸透 拡大してゆくのである。 なお、ここで付言すれば、以上のような過程は、御家人・非御家人を問わず、荘官・地 頭級在地領主層における領主制が各地で発展してゆく動向と重なり合っており、公家・社 寺勢力、ひいては公家政権はそうした面からもその権力基盤を掘り崩されつつあった。各 地の荘園公領において地頭と本政権はそうした面からも権力基盤を掘り崩されつつあった。 各地の荘園公領において地頭と本所側掌などとの荘園支配を巡る対立が厳しさを増し、そ の結果、和与・下地中分・請所などの形で、本所側が後退を余儀なくされる動きが広まっ てくるのもこの頃からである。また御家人の一部や荘官級の非御家人層が本所に対して離 反する動きを強め、本所側からしばしば「悪党」と規定されるようになるのもこの頃から である。これに対して守護はその取り締まりの職責を負わされるが、なかなか徹底せず、 むしろ守護と「悪党」との間には慣れ合いとみられることが多かった。もとより「悪党」 化した非御家人がすべて直ちに守護の主従制に組織されたわけではないが、しばしば結び あっていたことは事実である。それは基本的には地域的な領主制形成に連なる動きであり、 幕府体制や荘園領主権の動揺をうながす性質のものであった。 4 建武政権の国家構想 蒙古襲来を契機とする武家側、とくに守護の地方支配の権限拡大は、公家・社寺側の反 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 49 第二部 武家法への展開 発を引き起こした。また他方、荘官・地頭層の「職」秩序をのりこえる領主制の形成、「悪 党」的非御家人武士の活動などは、幕府体制を根底から動揺させるものであった。 そうした状況の中で、後醍醐天皇が討幕挙兵に踏み切ると、公家・社寺勢力の少なから ざる部分が陰に陽にこれを支持し、非御家人や北条氏の専制に不満を持つ有力御家人の中 にもこれらにつくものが現れた。その結果、鎌倉幕府は以外にもろく崩壊し、建武政権が 成立したが、それは国政史的視点からすると、日本歴史上でもユニークな性格をもつもの であった。その第一は征夷大将軍不設置である。北条滅亡によって幕府が倒れると、倒幕 にもっとも大きな役割を演じ、かつ源氏の血統をひくものとして、足利尊氏は征夷大将軍 の地位を望んだ。しかし後醍醐天皇はこれを認めず、尊氏を鎮守府将軍に任じただけだっ た。 一方、倒幕に軍功のあった護良親王も征夷大将軍を望んだ。親王は尊氏と対立し、尊氏 に野望ありとして、父天皇に征夷大将軍への補任をせまった。天皇は、その国家構想にお いて、第二の幕府の出現につらなる征夷大将軍の設置に反対であった。しかし親王は強く 要求して、認められなければ帰郷しないとまでいいはったため、天皇は本意ならず親王を 征夷大将軍に補任した。しかしその後、天皇と親王はことごとくに対立し、結局天皇が親 王をとらえ、足利尊氏の手で鎌倉に流させた。 こうして建武政権は事実上征夷大将軍を設置しなかったわけであるが、尊氏はこれを不 満とし、彼自身は新政権の中枢機関である記録所や恩賞方などのメンバーにも加わらず、 人々から「尊氏なし」とささやかれるような微妙な立場に身を置いた。そして、一三三五 年七月、北条高時の子時行が鎌倉に攻め込むと、その追討のために東下するに際して征夷 大将軍を要求した。しかし天皇は尊氏を征東将軍にしか任じなかったため、尊氏は結局こ の東下の契機として新政権に叛逆した。この間の経緯も後醍醐天皇の征夷大将軍不設置の 方針を良く示している。 ところで、この征夷大将軍不設置と不可分の関係にあったもう一つの重要な事実は、建 武政権の御家人制否定である。御家人制は発生史的に尊氏と東国武士伝統的な政治形態に とらわれず、日本歴史上では例をみないほどの天皇専制の政治形態を大胆につくりだそう としていたことを物語っている。天皇のいったこととして『朕の新儀は未来の先例』とい う言葉が伝えられているが、以上の事実からすれば、それも信じられることである。そし て、その大胆さにおいて天皇はまことに革新的であったかのようにも見られるが、歴史的 に形成されてきた公武の機能や両者間の秩序、さらには公家政治の伝統にあまりにも無配 慮であった点で、たちまち孤立し、破綻することを免かれえなかったのである。 5 室町幕府と中世国家の再編 日本史上前例のない天皇専制政治の実現を目指した建武政権は、足利尊氏の叛乱によっ て、わずか二年余りで倒壊した。尊氏の目標は、 「公家一統」の天皇専制体制を否定し、自 ら征夷大将軍となり武家の棟梁として諸国の武士を主従制結合にもとづいた体制であり、 その形式は鎌倉幕府と似ている。 両幕府間の差異を生み出す条件の変化は多面的に認められるが、まず挙げければならな いならない基礎的条件は、地頭の「国人領主」化である。すでに見てきたように地頭は一 つの「職」として荘園・公領に共通する国家規模での支配体系の中に位置づけられたもの 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 50 第二部 武家法への展開 であり、その「職」の保有者たる御家人の側から見れば、一人で複数の地頭職をもつこと が可能であった。いわゆる散在所職という形である。ところが、地頭が職の枠を破って自 立的な在地領主として成長するようになると、各地に散在する所職を維持してゆくという 形ははななだ不都合なものとなった。 一つの例を示せば、後に有力な戦国大名に成長する毛利氏は鎌倉時代には本領である相 模国毛利荘のほか、安芸国吉田荘の地頭職、越後国佐橋荘南条地頭職、河内国加賀田荘地 地頭職を保持していたが、南北朝内乱期には、一族をあげて安芸国吉田荘に移住し、ここ に集中して領域支配体制を整えるようになる。そして内乱期から室町期にかけて毛利氏は 越後・河内の所領を放棄し吉田荘周辺の入江保・内部荘・有富保など高田郡内の諸所を請 所その他の形で事実上支配領域にとりこんで、一円的な領域的所領の形成に向かうのであ る。こうして散在所職型の所領を一円領型の所領に切り替えつつ、領主制の形成に向かう 階層こそが「国人領主」である。「国人」は当時の史料上の用語であるが、いま自立的一円 領の形成にふみだした在地領主層を研究上の範疇として国人領主と呼ぶことにする。 国人領主のもう一つの特徴は、鎌倉時代までの在地領主の武力が、もっぱら「家」権力 を基盤とする同族団的軍事力にとまどっていたのに対して、領域内の非血縁農民の上層や、 土豪的階層に対し、一定の年貢を給恩として免除する措置を通じて広く被官化し、その軍 事力の基盤を広め、かつ急速に強化したことである。 しかしこうした国人領主の領主的成長は、必ずしも平坦な道をたどれたわけではない。 かれらは軍事力を強化するために、従来行ってきた庶子の間での所領の分割相続をやめ、 惣領単独相続制に移行した。その場合には、惣領以外の者は男子でも所領を配分されず、 その家臣化することを強いられるわけである。そのため惣領の地位をめぐって庶子たちが 激しく争う事態がいたるところで発生し、国人領主級の家々では、惣領が北朝=武家方に つけば、庶子は南朝方に味方するといった形で、両朝分裂、公武対立を増幅させるような 事態が広まっていった。 6 守護の権限拡大 室町幕府は発足の当初、守護を鎌倉幕府と同様大犯三箇条に限り、またいつでも改替さ れるべき地位と規定した。しかし各地で国人領主が力を伸ばしてゆく現実に直面して、幕 府も守護の職権を拡大し、またその任国を固定し、それによって国任領主らを統轄させる 道をえらばざるをえなくなった。武士のあいだでの土地紛争の解決、謀反人の所領の没収 とその再配分などの権力が次々に守護に認められるようになる。軍事指揮および重罪人の 検断などとは異なるこの種の民事紛争の裁決権や土地支配に関する権限が守護に認められ ることは、守護が領国大名化する第一歩である。守護はこうして権限拡大を踏み台として 国人領主層を次々に守護被官化していった。 これと並行して、守護は国衙の機構・権能の取り込みを推進した。それはすでに鎌倉時 代を通じて徐々に進行していたが、内乱期に入って公武両政権間の均衡がくずれるとその 動きは早まった。平安時代以来臨時国役として諸国の荘園にも賦課された国家行事のため の臨時税収取も国司の手から守護の手に移った。また土地問題・商業活動などをめぐる武 家側には直接関係のない紛争の調停・裁判など、従来国衙が果たしてきた統治機能も次第 に守護が吸収するようになった。 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 51 第二部 武家法への展開 国衙の権能ばかりでなく、守護は国衙の機構そのものをも吸収していった。そうした動 きは国によっては鎌倉時代のうちから進み出していたが、南北朝∼室町初期にかけて、国 衙の在庁官人系の人々が守護の被官となったばかりでなく、目代―小目代という国衙権力 の中枢メンバーが守護代―小守護代などに編成替されていったことが播磨国の場合などで 明らかである。またそれとともに、国衙領そのものが守護領に切り替えられてゆく動きも 広範に進んだ。国内でもいわゆる寺社本所一円地は、本所側もその確保にもっとも力を入 れていたから、その部分への浸透は守護にとっても困難が大きかったが、国衙領の方は国 衙機構そのものを接取する過程と表裏の関係でおさえやすかった。 こうしたことから、守護がたとえば伊豆国守護上杉の場合のように、自分の所領譲状の 中に「国衙職」などと記す場合すら見られ、一五世紀初葉ころまでには、国衙系の権能・ 機構・所領等が相次いで守護側に吸収されていったと見られるのである。 7 将軍の性格転化 地頭や守護の性格が変化するのに平行して、将軍の性格も変化した。地頭や守護が鎌倉 時代以来の職権をこえて、領域支配者としての性格を強めたのに照応し、その統括者たる 将軍も武家の棟梁にとどまらず、事実上の全国統治権者としての政治的性格を強めたので ある。もとより鎌倉将軍にあっても、そうした側面がなかったわけではないが、公家政権 の諸権能が幕府に吸収され、公家政権が形骸化するにつれて、たとえば鎌倉幕府では朝廷 の裁判にゆだねられていた本所間の争い裁判権も幕府に肩替りされるようになり、公家や 社寺も各種紛争の解決を幕府に頼るようになった。そのため、室町幕府では、当初から対 武士の主従制的統轄は尊氏、対公家寺社関係の政務は弟の直義という分担による二頭政治 が行われるようになった。しかしこの二頭政治が「観応の擾乱」の基礎的要因であった。 8 封建王権の成立 国人領主や守護の力の拡大は、幕府=将軍にとって、脅威であった。国人・守護の領域 支配者化は、もし将軍がかれらを封建的主従制の中に確実に編成できれば、それは領主制 を基礎とする幕府体制の安定のために有力な条件となろう。けれども半面、国人領主の自 立化の動きや、守護の強大化は、将軍にとっても手のつけられない性的分裂状況を生み出 すおそれもあるのである。 将軍はそのため、守護にはなるべく多く足利同族を登用し、非一族の外様守護をことあ るごとに改替して、同族守護に切り替えた。畿内周辺の国々の守護は、斯波・細川・畠山・ 今川など、そうした同族で占められるようになり、かつその任国も固定され世襲化される ようになった。それとともに、幕府はいわゆる「観応の擾乱」を契機として半済方を施行 し、守護に半済の実施権を認め、これを梃子として国人領主の守護による統制を進めよう とした。 しかし、結果的に見るとこれは守護が国人領主との間に封建的主従制を形成しつつ、独 立性を強めることになった。国人のすべてではないが、その多くは守護被官となり、半済 や闕所地処分などを通じて守護の給恩を受けるようになった。鎌倉時代の主従制は将軍と 諸国の武士との間に直接結ばれ、守護が国内武士を主従制に編成することは堅く禁じられ ていた。ところが蒙古襲来のころからその原則はくずれだし、いまや多くの地方武士は、 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 52 第二部 武家法への展開 守護の家臣化し、将軍もそれを抑制することができなくなったのである。 他方、将軍も直属の従者=御家人をもたなかったわけではなく、とくに山城やその周辺 の国々では多くの土地つきの武士を直属御家人に組織した。しかし諸国の国人領主を将軍 の直属御家人とする方式は鎌倉時代のように唯一の形としては展開しなかった。 従って大体の傾向としてみると、南北朝内乱期を通じて、封建的主従制が形成され、と りわけ傾向的には、将軍―守護―国人という関係の方が主軸をなすようになっていったの である。室町幕府の下では、将軍の膝元となった京都に多くの軍隊が常にいたが、それは 番役をつとめる将軍の直属家臣をのぞけば、他は守護がその被官を率いて駐留しているも のであった。極端にいえば、将軍は一部の直属御家人を除けば、直接には守護だけしかと らえていない形となったのである。 こうした形は、いわゆる守護領国制の原型であり、将軍と守護との関係でいえば守護が 将軍権力を制約する要因であった。しかしこれを中世国家の権力編成原理からいえば、在 地領主制を基礎とする封建的主従制が、国家権力の編成に、一元的に貫徹していったとい うことである。ここでは律令以来の官職制的組織と機構は、もはや現実的な力を独自に持 つ存在ではなくなっている。現実に生きて機能している権力の編成原理はもっぱら封建的 主従制に他ならなくなったのである。 南北朝内乱は六十年にわたって続き、南北朝合体が行われたのは、一三九二年。その間 には諸将の反発による細川頼之の失脚という幕府内部の危機もあったが、これを切り抜け た義満は、一三九〇年美濃国守護士岐氏の乱、一三九一年山陰諸国の守元を行わせること のよって、将軍の国王的立場を鮮明にしようとしたのである。 第四章 1 日本中世国家の特徴 日本中世国家の諸段階 古代律令国家を歴史的前提として展開した日本の中世国家では、封建的主従制が国家権 力の唯一の編成原理として自己貫徹するのはきわめて困難なことであった。律令国家は官 職制権力編成の原理とするとはいえ、半面では、共同体的社会基盤と、その上に立つ地方 官僚層の私的豪族性に依存するところが大きかったために、律令国家の動揺変質とよばれ るような変化(豪族層の非官僚性の伸長)は、すでに十世紀初めから明瞭に現れていた。 しかしそれにもかかわらず、国家体制の官職制的枠組みのもとでは、かれらが自由に自律 的な展開をとげて領主化する道を困難にし、そこに「職」とよぶ公権・官職の半私物化、 「私領」の「寄進」=荘園化、あるいは官職制と領主制の相互規制関係をもった権力形態 が成立することになった。 「職」制国家ともよぶべきものに国家権力と社会体制の構成原理 が変化してゆくのは、そうした過程のなかであった。それは中央官僚、地方官僚が一面で はそれぞれ独自の家産制を発達させながら、半面では官職制的権力体系に癒着している姿 である。ここでは厳密な意味での「官僚制」はありえず、敢えて言えば家産制的官職制と いうべきものに変化しているのである。 こうして展開した「職」制国家の秩序は、大きく見れば十一世紀後半から鎌倉時代を通 じて存続したが、一二世紀の末に封建的主従制を権力編成原理とする鎌倉幕府が成立する とともに、主従制に結合された地頭職を梃子として、はじめて本格的な中世国家とよびう るものに移行した。しかしこの官職制と主従制の結合の上に成立した第一段階の中世国家 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 53 第二部 武家法への展開 では、官職制の上に立つ公家貴族は、主従制の上に立つ武家より位階・官職制秩序におい て上位の存在であるとともに、国家権力をなお現実の一定範囲で掌握しており、国家権力 において両者はするどい対抗関係を内包するという特異な存在であった。 これに対して南北朝内乱をのりこえた足利義満は、主従制を権力編成のほぼ一元的な原 理として全国を統合することに成功し、本格的な封建国家を成立させた。ここで天皇=公 家政権は現実的な政権をしての生命を終え、たとえてみれば封建王権としての将軍の王冠 的地位に転化した。この時期に日本の中世国家は守護領国制と国人領主制の進展をふまえ て、その第二段階に入ったといえる。 しかし封建的主従制に立つこの義満の王権は、封建的従者群の存在形態である在地領主 制あるいはその中核的拠点たる 「家」 権力の規制にはほとんど手をつけていなかったから、 守護領国制・国人領主制の進展にともなって、急速な動揺をさけることができなかった。 他方、この時期には村落小領主的階層が主導する惣・一揆の類も、上部支配からの自律を 指向して地域一揆体制をつくりだそうとする動きを強め、一五世紀後半から、一六世紀前 半にかけて統一的国家体制の解体的状況が進展した。 戦国大名は、中世国家のこうした危機的状況の中で、それ自体が自立的な国家としての 性格をほぼ備えた大名領国制を展開させた。戦国大名が惣・一揆の解体を推進し、家臣団 の「家」権力に一定の規制を加え、法典を制定して、自らの立場を「公儀」としたことな どはそれを示す。ここで大名領国は、在地領主制を基礎とする中世国家のゆきついた形態 といえる。その段階で日本国は「大名領国」的国家のゆるやかな複合体として存在しては いても、統一的国家体制は有名無実化し、天皇・将軍は、公立する大名領国の再統合の可 能性契機としてのみ政治的意味をもつものにとどまったと見るべきだろう。 その意味で、 「中世国家」から「近代国家」はの旋回・移行は、大名領国権力の規制と、 そのための基礎条件としての家臣団における在地領主制の否定、 「家」権力の解体を不可欠 のものとした。秀吉・家康が兵農分離・石高制の全国的推進を通じて、封建的土地所有お よび軍役体系を統一的に再編する事によって、家臣たちの自律性を奪い、権力の集中をは かったのはそれを示すものである。その結果、軍事力の発動権はすべて秀吉・家康の統一 的「公儀」権力に独占され、中世国家特有の自力救済型の法原理も否定された。民衆は惣 を解体され、小領主化の道をとざされ、身分的に固定されるという代償によって中世的実 力行使の世界から解放された。そこに幕藩制=近世国家の、世界史上でもきわめてユニー クな「統合された封建国家」とよぶべき特質が現れるが、半面なお、藩を「国家」とし、 全国を「天下」とすることからも明らかなように、 「近世国家」も一種の大名領国制を基礎 とする複合国家であるという基本性格を失わなかった。 2 主従制と官職制 日本の中世国家の展開は、封建的主従制を権力編成の推進軸としながらも、官職制との 関わりをつねに捨て去るわけにはゆかなっかたのである。封建的主従制は、その基礎とし ての「家」権力を原点とする在地領主制をふくめて、私法的な性格のものであったから、 それを公法的な性質に転化させるためには、自らが「公」権力ないし「国家」権力にふさ わしい支配機能を発揮し、それに応ずる組織・機構を創出するとともに、形式としては先 行国家の枠組みたる官職制に連結させる必要があったのである。 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 54 第二部 武家法への展開 中世を通ずる天皇と公家集団の存続の理由は、この点から理解することができる。天皇 を頂点とする公家貴族は、荘園所有をその経済的基礎としつつ、官職制にもとづく中央権 力機構と国衙をを中心とする地方支配機構を、ほぼ一四世紀末ころまではともかくも維持 した。しかし一五∼一六世紀には独自の政権としての生命を失っている。そのために、な ぜそれにもかかわらず天皇は存続したのか、という問題がしばしば提起される。それは封 建的主従制にもとづく武家政権が自らを「国家」権力たらしめるためには、 「公」的支配の 正統性の源泉を天皇に求めることが、もっとも認められやすい形であるという日本国家の 歴史的条件に因ったのである。天皇を存続させるとすれば、そのもとでの国家的官職制の 担い手である公家集団も一括して存続させる他はない。 そうした意味で、中世後期において、実力を失いながらも、天皇がなお存続したこと自 体はかならずしも不思議なことではない。ひとくちにいって、現実の権力が自己の政治的 要求に従って天皇を維持・再生させている、ということができるのであるが、在地領主制 という個々領主の根強い自律性を前提とする中世では、封建王権自体にとって、とくに王 権の正統制を欠かすことができないのである。 とはいえ、天皇の地位が同一家系で継続したことは、やはり日本歴史の一つの重要な特 殊性というべきであろう。朝鮮ではちょうど南北朝合体の年に高麗から李氏朝鮮に移って いるが、これは武人出身の李成桂が自ら王位につく形をとっているのであり、日本でいえ ば武士出身の権力掌握者が自ら天皇となる形といってよい。中国における明王朝の成立に してもほぼこれに似たものである。日本の場合、なぜ権力者自身が天皇にならないかとい う問題は、おそらく、天皇・公家・武家さらには寺社など各種の支配階級が、すべて家筋 に即して専門機能を世襲するという職能観念が、日本の前近代社会を貫通して存在してい たことと不可分であろう。この関係が承認されている社会では、天皇もまた国家の最高の 職能として一つの家筋に世襲されなければならないし、いかに実力をもっても武士的職能 者がこれにとって代わることは許されないわけである。この点に立ち入る余裕はないが、 中世における天皇制の存続の問題は、おそらくこのような職能世襲型の社会構造という視 点からさらに深めてゆくことが可能であろう。 中世期における身分制や民衆支配も、実質的には封建的主従制を編成原理とする現実の 権力によって再編され維持されたものに他ならないという点であり、天皇を頂点とする官 職制が現実的に機能し、それによってそのような諸関係がつくりだされているのではない ということである。その意味で中世国家の在り方を公武両支配階級の相互補完的結合にも とづく支配体制として固定的にとらえたり、天皇を頂点とする官職制的枠組みを中世後期 においてもそのまま実体視することは正しくないという点である。官職的枠組みは現実的 支配権力の要求によりたえず改編されつつ、形として存在してきたのである。 おわりに 私が中世にどうして興味を持ったかは、偶然にも当時読んでいた本が『北条政子』であ り、これとの関連で鎌倉幕府が知りたくなった。ところが、これを調べていくうちに鎌倉 時代とは私が想像していたよりもはるかにスケールが大きく、鎌倉時代のあらゆる問題の すべてをふれていこうなど、とても無理だと悟った。どのような時代でも不変・不滅のも 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 55 第二部 武家法への展開 のはありえずこれらが相互に必然性を持ちつつ変わっていくとすれば、歴史の一部分を捉 えて学ぶよりも、全体を捉えた方が理解の深まる事は分かっている。しかしながら私のよ うな未熟な者がこの短期間に全体をとらえようなんて、それこそおこがましい限りであり、 そのためここではあえてテーマをしぼって封建制について調べていこうと思った。そうす るとやはり鎌倉時代の前後の時代や、封建制になる以前の過程の官職制時代も学びたくな り、封建制が主流となる中世国家を舞台に論じたわけである。 このテーマを調べていくうちに、日本史のどの時代においても、武家政権樹立とはいえ、 公家政権の官職制を消滅させたのではない。これは共存関係を保ち、時代によってどちら がより強い力があるか、という綱引きに過ぎないという事が理解できる。 最後に私が中世史を学んで強く感じたことは、この中世という激変の時代もいろんな原 因が重なった結果としての必然性ということである。また、こうしてみると日本史の一部 分を調べただけではあるが、とはいえ学校ではすでに一通り学んでいるはずなのだが、改 めて歴史を学ぶことによって、よくいわれる現代の大きな指針がえられたということが実 感として得られた。 参考文献 『鎌倉幕府』大山喬平著(『日本の歴史 』九) 一九七四年 小学館 『中世封建制制成立史論』 河音能平著 一九七一年 東京大学出版会 『日本の中世国家』永原慶二著 一九六八年 岩波書店 『日本中世国家史の研究』石井進著 一九七〇年 岩波書店 『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』義江彰夫著 一九七八年 東京大学出版会 『日本中世法史論』笠松宏至著 一九七九年 東京大学出版会 『日本中世社会構造の研究』永原慶二著 一九七三年 岩波書店 『日本中世農村史の研究』大山喬平著 一九七八年 岩波書店 中世国家における封建的主従制の動向(松田) 56 第二部 武家法への展開 久野 聡実 蒙古襲来 はじめに 文永・弘安の役を退けた北条時宗の父時頼は「平生の間、武略を以て君を輔け、仁義を 施して民を撫す。然る間、天意に達し、人望に協う。」と『吾妻鏡』に絶賛されたほどの人 であった。一般御家人の支持を得るために、京都大番役の勤仕器官を6ヶ月から3ヶ月に 短縮したり、御家人の将軍に対する恒例の贈物行為を禁止したり、博打・鷹狩りの禁止、 さらには過差(華美・贅沢)の禁止を命じて倹約励行を奨励するなどして、御家人の負担 軽減につとめた。建長元年(1249)には引付け方を設置し、公正で迅速な裁判が行わ れるようにした。このほか庶民にも保護政策を行った人物である。 康元元年(1256)11月時頼は三十歳で突然執権職を一門の北条長時に譲り出家し てしまう。重病でも死亡したのでもないのに執権職の委譲が行われたのは初めてのことで あった。 北条得宗家と一門の関係は得宗家から執権を、一門のうちで経験のある長老が連署を務 めることで安定していた。北条泰時は評定衆を設置し、合議的執権政治を行ったが、時頼 は公的な評定とは別に自宅で秘密の寄合(深秘御沙汰)を開いて幕政を行ったといわれる。 時頼は執権職を辞したあとでも今までどおり政治の実権をはなさなかった。執権がやがて 形式的存在となって、実質的意味を失う端緒となったという点で重視しなければならない。 時頼は死ぬまでの七年間政治から離れなかった。 弘長三年(1263)時頼が死ぬ。翌年には執権であった長時も後を追うように死んで いる。時宗は14歳であった。まだ執権職に就くには若すぎた。そこで中継ぎとして当時 60歳で連署を務めていた北条政村が執権に就き、時宗は連署となった。さてこれまでは 執権の話ばかりであったが、公的な幕府のトップ将軍だ。このときの将軍宗尊親王は22 歳。在位15年である。時宗の地位を脅かす存在になりえた。時宗は父のように自宅に政 村・実時・安達泰盛を招き深秘御沙汰を開いた。宗尊親王の近臣のものが時宗謀殺を企て ているのが発覚したというのが寄合の内容であったらしい。宗尊親王はその後ひっそりと 鎌倉を出、幕府は親王の3歳の息子惟康を将軍に迎えた。 文永五年(1268)に18歳となった時宗は執権職に就任し、入れかわりに政村は連 署に就任した。文永九年には庶兄時輔を担いで起こされた二月騒動などもあった。 文永五年に蒙古国書が大宰府に到着し、それに返書を送らなかったからには幕府は元の 襲来に備えたはずである。神仏に祈ってばかりいたわけではないだろうから、人を集め、 物を集め、防御態勢を整え、元軍が現れ、その後の処理をしたはずだ。まさに未曾有の事 態に日本はあった。その時代を調べてみたくなった。 第一章 文永・弘安の役 1 モンゴル帝国 上天から定命によって、生まれた蒼い狼があった。 その妻は、白い牝鹿であった。大湖をわたってきた。 オナン河の源のブルカン岳に住居して生まれたバタチカン(という子)があった。 蒙古襲来(久野) 57 第二部 武家法への展開 『モンゴルの秘められたる史』(『元朝秘話』)はモンゴル族の始祖伝説をそう始めてい る。モンゴル族の英雄といえば、いわずと知れたチンギス=ハンである。この英雄がハン を名乗ったのは1206年オノン河畔で開かれたクリルタイでのことであった。日本では 鎌倉幕府の三代将軍源実朝の時代である。 チンギスはこれまでの遊牧民の氏族的、血縁的な組織を解体し、千戸・百戸・十戸とい う軍事的、行政的な集団に人民を編成し、親衛隊を強化した。こうしてチンギスは領土拡 大のための征戦を始める。その残虐さは、彼らの通過したあとは、犬の吠える声も聞こえ ず、鳥の鳴き声もなく、子供の泣く声も聞こえないといわれたほどである。ホラズム、西 夏を征服したところで1227年英雄は死んだ。 彼の跡継ぎの三男オゴデイも征服を続ける。チンギス=ハンの四男の息子フビライがハ ンの座に着いたのは1260年。チンギスから数えて5人目であった。「東方見聞録」の中 でジパングを黄金の国としてヨーロッパに紹介したマルコ=ポーロが仕えることになるフ ビライは1264年現在の北京に都を移し、その7年後には国号を「元」とした。 彼が日本征服を意図したきっかけは、当時フビライが苦心していた南宋の征服に、高麗 人がした献策であった。そこで、南宋と交易関係を密にしている日本を招諭して味方につ け南宋を孤立させるというものであった。これは直接のきっかけだが、もちろんフビライ は日本に絶対的な服従を求めた。 2 蒙古国書に対する朝廷と幕府 初めての蒙古国書が大宰府に到着したのは文永五年(1268)正月のことであった。 高麗使潘阜は蒙古国書と高麗国王国書を直接日本国王に手渡したいと希望していたが、大 宰少弐武藤資能は潘阜を大宰府に留めたまま国書を鎌倉へ送った。 中央の出先機関である大宰府は長官が帥、次官が大弐であるがどちらも現地赴任せず、 事実上の最高責任者は少弐であった。少弐は現地の豪族が任命されることが習慣だった。 幕府は平氏被官であった原田氏に変え、天野遠景を任じてから、大宰府は鎌倉幕府の権力 の下にあった。 鎌倉へ送られた国書はその後朝廷へ送られ、連日に及ぶ院の評定でこれに対しての返書 を送らないことを決定した。内容が無礼であるという理由であった。 2度目の国書は翌文永六年(1269)にまた大宰府にもたらされた。これに対し朝廷 は今回は返書を送ることを決定し、菅原長成に文書を起草させた。その内容は、朝貢は論 外であること。また武力使用の不義を説いたものであった。これに対し幕府は、前回返書 を送らなかったのだから、今回も送るに及ばず、とこれを抑えた。このことから実質的外 交権は幕府にあったものと思われる。 返書を送らないことを決定した幕府態度は断固たる拒否の姿勢を表しているように見え て、実は文永の役までの間、無益に時間を過ごした。という説もあれば、返書を送らなか ったといって、元がすぐに攻めてくるという訳もないので、文永八年から幕府は襲撃に対 する防衛を始めており、その態度は正しいという説がある。 3 非器の輩の所領の制限 文永四年(1267)に最初の徳政令(御家人の所領回復令)といわれる法令が出され 蒙古襲来(久野) 58 第二部 武家法への展開 た。三条からなる法令で、第一に御家人の土地の質入れ売買を全て禁じ、すでに質入れ売 買した土地でも買い主に原価格の銭やものを返却すれれば、売り主は取り戻すことができ るとしている。これは御家人同士の事で、非御家人・凡下が買い主の場合は没収となって いる。これは延応二年(1240)の法に規定されていて再確認をしている。第二は和与 (無償の譲与)という名目で他人に土地を譲ることを禁じ、その土地の返却をすることを 命じている。和与の名目で実際は売買をしているということがあったためである。 第三に、 離別された妻が前夫から譲られた土地を再婚後の夫に渡すこと、非御家人の女子、 傀儡子、 白拍子などの女性が夫の土地を知行することも禁じた。これは蒙古国書が大宰府にもたら される前年のことであるが、とにかく御家人の土地が非御家人や凡下の手に渡るのを必死 に押さえようとしている。 乾元元年(1302)豊後国下毛郡一帯(現在の大分県中津市)で領主達の所領調査を 行うことになった。薩摩沖の甑島列島が一時元に占領されたため、幕府は博多に武士を集 めて臨戦態勢を布いた。兵士と兵糧徴収のための調査であった。黒水・吉武名の領主は宇 佐慈恩という豊前国宇佐八幡神宮の衣服管理担当の女官であった。宇佐は考えた末に代官 である久保種栄に久保の所領として調査をしている人に対応してくれ、と頼んだ。宇佐は 代官の名義にして、この危機を逃れようとした。ところが、忠実な代官だったはずの久保 は名義と供にこの土地を奪ってしまった。 こうした例は成功、失敗を問わず多くあったのだろう。幕府は女性・老人・子供を「非 器の輩」とした。戦えないからである。武門のものたちのみが「器量人」 (知行地をもてる 適格者)とされた。女子や武門以外のものへの譲与が禁止され、虚偽の和与や養子縁組が 厳しくチェックされた。女子に譲るくらいなら、男の親戚を養子にとれ、という規定も現 れた。それまでは女子にも土地が相続されていたのだが、この時代あたりから女子の領主 は減っていった。 4 非御家人の動員 蒙古人対馬・壱岐に襲来し、合戦を致すの間、軍兵を差し遣はさるる所なり。且は九 国の住人等、其の身縦へ御家人ならずと雖も、軍功を致すの輩有らば、賞を抽ぜらる べきの由、普く告げ知らせしむべきの状、仰せによって執達件の如し。 文永十一年十一月一日 武蔵守(北条義政)判 相模守(北条時宗)判 大友兵庫頭入道(大友頼泰) (大友文書) 史料は文永一一年(1274)11月1日に執権北条時宗から豊後国守護の大友氏にあ てたものだ。非御家人でも手柄があれば、恩賞を与えることを約束している。非御家人や 無足の御家人の中には勢力拡大を目論んで、異国征伐に参加した人も多かったろう。『蒙古 襲来絵巻』で有名な竹崎季長のような少数の例外を除いて、成功した人は少なかった。 幕府のこうした権力の広がりは武士達の間だけではなかった。建治元年(1275)9 月幕府は異国降伏祈禱を諸国一宮・国分寺以下諸大寺社に命令している。これまでは朝廷 が王城鎮守22社など、南都北嶺、京都周辺の寺社にだけ命令をしていた。幕府もこれま では鎌倉周辺、東国の寺社にのみ命令を出していた。今回幕府はこの命令を全国の寺社に 蒙古襲来(久野) 59 第二部 武家法への展開 出している。幕府の権限は寺社の間にまで広がったといえるだろう。 幕府の権力の及ぶ範囲は広がった。朝廷はこうした動きを危ぶんでいたようではない。 自分達の権限が減るのを何か思っていたよりは、蒙古襲来という面倒ごとを幕府に押しつ けていたと見る見方が多い。 幕府は権限を手に入れたが、責任も多く負った。異国から国土を防御するのには成功し たが、各方面への恩賞を約束はしたものの、奪った土地が少しでもあるわけではない。幕 府は多くの不満を抱えた。 第二章 蒙古襲来 1 文永の役 1274年10月3日、元と高麗の連合軍が900艘の軍艦に分乗して元軍が合浦から 出航した。 『高麗史』によると蒙・漢軍2万5千人、高麗軍8千人、舵手・水先案内人等6 千7百人、合計3万9千人であった。この軍が対馬へ姿を現したのは2日後の文永5年十 月五日のことであった。翌朝午前六時頃から戦闘が始まった。対馬守護代の軍勢を壊滅さ せたあと、約10日間近く対馬にとどまった。その後向かった壱岐でも守護代は壊滅的な 打撃を受けた。 「二島の百姓等あるいは殺され、あるいは手に穴をあけて舷に付け、虜者は 一人として害されざるものなし」と対馬・壱岐の2島の惨状を『日蓮註画讃』巻第五『蒙 古来』はこう記している。 十月二十日、蒙古軍はとうとう博多湾岸に上陸した。日本軍は元軍の集団戦法と新兵 器(てつはう)になすべもなく撤退した。 上陸した元軍に対する鎮西軍の数は不明である。陸上自衛隊福岡修親会が将は三十八年 に編纂発行した『本土防衛戦史・元寇』によると約1万6百人と試算されている。元軍の 実戦兵力は約2万人と推定される。 日本軍は少弐・大友・島津氏は奮戦したが、蒙古軍に押され、水城まで退却を余儀なく された。蒙古軍はわずか一日の戦闘で博多湾から退去している。その理由は矢がつきたこ とと元軍の左副元帥劉復亨が流れ矢にあたって重傷を負ったからである。左復元帥は軍の ナンバー2にあたる。このひとが怪我をしたために将兵たちの士気が削がれたのだろう。 撤退をはじめて、博多湾を出たところで暴風雨にあったのではないだろうか。この暴風雨 で元軍では死者がおおよそ1万3千五百余人といわれ、残りのものは11月20日に高麗 の合浦へ帰港することができた。 2 弘安の役 文永の役の報復に幕府は建治二年(1276)に高麗へ出撃計画を立てたが、軍船がそ ろわず断念した。そして、次回に備え、博多沿岸と長門西岸に防塁を造らせた。 弘安四年(1284)、フビライは日本征服に前回以上の大軍を送り込んできた。東路軍・ 蒙漢軍1万5千人、高麗軍1万人、舵手・水先案内人等1万7千人、合計4万2千人。江 南軍10万人。計14万2千人をつぎ込んできた。5月3日に合浦を出た東路軍は対馬・ 壱岐を占領した。6月6日博多に到着8日間にわたって、日本と東路軍は戦った。日本軍 の善戦により、東路軍はいったん壱岐まで引き返している。 江南軍は予定より遅れ、6月18日に慶元(現在の寧波)を出発した。6月末に平戸島 蒙古襲来(久野) 60 第二部 武家法への展開 沖で、東路軍と合流し、7月26日に伊万里湾の鷹島を占領した。鎮西司令部は、鷹島近 海に元軍が集結したという知らせを受けて、日本軍船に出撃を命じた。27日の夜、この 日本軍船が、夜襲を行った。日本軍は翌日退却したが、30日の夜半、元の船は暴風雨に 襲われた。多くの元軍将兵が、鷹島へ避難してきた。鎮西軍はすぐさま掃討戦を始めた。 『東国通鑑』には「蒙古軍の還らざる者、無慮十万ばかり、高麗軍還らざる者また七千余 人」とある。 元軍壊滅の報告が大宰府から京都へ届けられたのは弘安四年閏7月9日で、鎌倉へは閏 7月13日のことだった。 フビライはその後も日本征服計画を捨てずにいたが、元の内部で王族による内乱が再燃 の兆しをみせたため、1286年正月に礼部尚書の進言を入れ、日本征服を断念した。 3 日蓮 「すべての人間が法華経だけを信じれば正しい世の中に戻る。」日蓮はそのようなことを 説いた。法華経以前の釈迦の説法にはほとんど真実が含まれていない。すべての人間が法 華経だけを信じていれば、この世は仏の原理によって動く真正の仏国土になる。 法華経の行者の最高の使命は国主諫暁というもので、法華経以外の宗教を信じるのは罪 (誹謗の罪)であるから、法華経を信じそれを民にも奨励しなさいと国主に向かっていう ことである。と日蓮は考えていた。文応元年日蓮は『立正安国論』を北条時頼に呈して法 華経を広めてゆく先頭に立たねばならぬと建言した。そのなかに他国からの侵略が書かれ ていた。が、予言とはあまりいえない。侵略してくる国を元と特定をしていないし、防衛 策を練れといったわけでもない。ただ法華経に帰依しないとこういうことが起こるかもし れないと言っただけだ。時頼は禅の信奉者であったため、これを聞き流した。ほかの念仏 者は日蓮の草庵に火をつけた。日蓮は辛くも逃げ延びたが、その後伊豆へ流された。2年 足らずで、許された。 『立正安国論』に書いたとおり外国からの侵略が現実となり、日蓮は かなりの期待をしただろうが、それは裏切られた。幕府は律宗や禅宗の寺院に異国降伏祈 禱を命じただけだった。 日蓮はその後、今度は佐渡へ流された。2年半で許されたが、厳しい流罪生活の中で一 層行者としての使命を果たそうと覚悟した。許されてまもなく日蓮は最後の諫暁を平頼綱 にした。他宗の僧のように異国降伏の祈祷を行えば援助をするという申し出を平頼綱はし たが、日蓮はこれを蹴った。そして、甲斐の身延に隠退していった。日蓮は弘安の役で日 本が元軍によって征服されることを信じていただろう。 第三章 弘安の改革 1 新式目 文永・弘安の役の後、まもなくして北条時宗は急死する。弘安七年(1284)四月四 日のことであった。同年7月7日に時宗の嫡子である北条貞時が若干14歳にして執権職 に就任するが、それに先だって幕府政治の改革が行われる。弘安7年5月20日付けで『新 御式目』が制定される。38条からなるこの条文は御成敗式目に代わる新しい幕府の規範 であった。 将軍に必要な要件を列挙するという形で書かれた条文で、18条と19条の間に「条々 蒙古襲来(久野) 61 第二部 武家法への展開 公方」と書かれていて、前半が軍事権門としての幕府の法、後半が国家権力としての幕府 の法である。将軍に必要な要件が列挙される形で書かれているとはいえ、将軍が中心とな って今後の政治を行うというわけではない。これまで通り得宗を中心とする幕府政治の改 革である。将軍はその表面に押し出されただけである。 御成敗式目では京都の法には関わらぬ、とあらかじめ宣言されているが、蒙古襲来時に 多くの国家権力を持つことになった幕府は新たな基本法を必要とした。『条々公方』以後の 条文がこれにあたる。その内容の主なものは、 1 九州寺社を非器の手から取り戻して復活させる。 2 新造寺社を禁じて諸国国分寺・一宮を復活させる。 3 倹約を奨励する。 4 越訴を奨励する。 5 九州名主に下文を出す。 (御家人に取り立てる。 ) 6 公的職務にある四方派遣使節の所領の年貢は免除する。 7 年貢納入は期日を厳守とし、未納の所領を没収する。 8 御家人は戦争で大変なので臨時公事は免除してほしい。 9 御所・評定・鎌倉の町などの規定 ざっと見るといずれも今までは朝廷の管轄内のことである。6,7,8は年貢などの課 役徴収の規定であるが、蒙古襲来の時に幕府に委託され、そのまま定着したものだ。 2 具体化させる法令 新御式目を具体的にするために幕府はいくつかの法令を出した。 ① 一宮・国分寺興行令。これ以後は寺社の新造はやめて、諸国の一宮・国分寺を興行さ せることとした。5月3日に諸国の守護たちに一宮・国分寺の過去・現在の事情、領主 として管領している土地、免田の実状などをこのために注進させていた。 ② 関東御領の興行。非御家人・凡下の領作する御領をを禁止するために式目制定。当日 に知行者の名前、田畑の数などの注進を諸国の守護に命じている。また同年十一月には 関東御領を知行する後家・女子の在京を禁止し、違反すれば没収するという方針を出し ている。これらは将軍の経済的基礎を固めるためのものであったと思われる。また弘安 の役の恩賞として与えられた土地の多くが関東御領だったという説もあるので、恩賞を どこから出すかという調査を含めたものであったのかも知れない。 ③ 悪党禁圧令。8ヶ条を5月27日に発令した。証拠がなくても噂を地頭、御家人が聞 きつけたら、御家人であれば六波羅に拘引する。他国に逃げたものはその国と連絡しあっ て捕らえる。本所一円治の場合は……など細かく、厳格な内容を持っていた。この法の徹 底のために諸国に使いを出したほどである。第三章1弘安新式の6にある四方派遣使節と はこのように弘安の改革においてその実施を徹底させる使命を負わされ、全国に派遣され た人々である。 ④ 河手・津料・沽酒・押買禁止令。河手については以前認められていたものでも禁止さ れている。律僧が御内人と結んでしきりにこうした交通税を徴収しているのを抑えている。 が、これは律僧や御内人を抑えるというよりは、幕府による交通路の一元的掌握という意 味も考えられる。 蒙古襲来(久野) 62 第二部 ⑤ 武家法への展開 鎮西神領興行回復令。売却された鎮西の神領をすべて無償で神社が取り戻すことを認 めた。蒙古合戦の恩賞の意味であろう。また神領を幕府の統治下に置こうとしたものであ る。 ⑥ 鎮西名主職安堵令。西国には守護が一括に幕府に対してその姓名を注進するだけで御 家人になった人が多かった。これらの人は幕府からの個別の安堵の下文をもらっていなか った。この法令でこの人たちの売却・質入された土地の無償回復を認めた。④と同じく弘 安の役の恩賞の意味があったのだろう。また、九州の御家人の所領を掌握しようとしたと 考えられる。 ⑦ 引きつけ興行令。弘安七年八月三日幕府は引付衆の清潔・奉行人の廉直を厳しく命じ た。17日には引付衆達の不正や権門の介入などを排する11ヶ条におよぶ細則を決定し た。これまで、引付は引付勘禄(判決原案)を2、3種類つくって、決定を評定にゆだね ていたが、 今回の法では引付勘禄を一種のみと決め、 評定はその可否を決するだけとした。 引付は裁判の判決に責任を負うこととなった。新式目では裁判を重視していた。特に貧し い御家人に対して温情が見られる。禁止されていた所領の売却や質入下所領の回復を認め ることもあった。 ⑧ 倹約令。新式目でも何条か倹約令はあるが、10月22日に「政所張文」の形で、服 装・物具・什器等、すべてに渡って質素が強調された。 ⑨ 田文調進令。弘安八年(1285)に神社・仏寺・国衙領・荘園・関東御領などの田 数・領主などの注進を命じた。弘安の改革の基礎となる台帳として作成された。このとき 作られた大田文は現在豊後と但馬のものが残っている。 ⑩ 所領無償回復令。弘安八年一一月以前に売却した土地が無償で回復できるという法が あったといわれているが、現在その法令は残っていない。 このようなしっかりとした改革を行おうとしたのは幕府がまだ元が攻めてくると思っ ていたからではないだろうか。それを機に幕府は権力を強化し、政治の主導権を握ろうと していたのだろう。 3 改革の挫折 霜月騒動 弘安の改革の担い手の中でも中心人物であったのが安達泰盛であった。彼は執権北条貞 時の外祖父に当たる。 彼は御内人平頼綱と仲が悪かった。 平頼綱は貞時の乳母の夫である。 霜月騒動は、御家人と御内人との対立というだけではない。平頼綱の側についた御家人 も数多くいたからである。安達派についたのは第一に源氏の武士勢力。その次は評定衆・ 引付衆の者で泰盛と親戚関係にある家柄が多い。その次に将軍の近臣たちであった。 ことの始まりは御内人が得宗の権威を借りて権勢を振るうようになったことであった。 御家人はこれに対し反感を持つようになる。彼らは自分たちの代弁者として、安達泰盛を 選んだ。 時宗の信任を得ている間はそうした不満を持つ御家人達を抱え自分の勢力として、 御内人と対立する立場でいることができた。 時宗が亡くなった後、安達泰盛は政治の主導権を握り、改革を押し進めていく。しかし 執権貞時はわずか14歳。内管領の平頼綱は側近中の側近である。まだ自分なりの政治見 識を持っていなければ平頼綱の意見に耳を傾けることが多いだろう。安達泰盛と平頼綱と の対立を調整するようなことを求めるのも無理である。 蒙古襲来(久野) 63 第二部 武家法への展開 平頼綱への不満がつのった結果、安達派の人々は実質的には何の権力も持たなかった将 軍こそが幕府の最高権力を持ち、幕政を動かしていくべきだと考えるようになった。平頼 綱への不満が反得宗へと変わったのである。しかし、安達泰盛の改革はあくまで、将軍の 権利を借りて、実質的には得宗が動かしていくものであった。 安達泰盛は弘安八年一一月一七日不意の奇襲にあい、滅びてしまった。 その後幕府の実権を握った平頼綱は神領興行の回復、名主職の安堵の白紙撤回など泰盛 の政策を否定することに始まる。弘安の改革から引き継がれた者も政策本来の意味は変わ っていった。 第四章 永仁の徳政 1 永仁の徳政令の発見 永仁の徳政令が現在ほぼ完全な状態で残されているのは京都の下久世という庄園の百姓 達のおかげである。 康永四年(1345)というと永仁の徳政令が出された永仁五年(1297)から50 年近くたって、足利尊氏が将軍になってから7年ほどたっている。 徳政令が出されたとき、この庄内の売却地は本来の持ち主のもとへ取り戻され、その後 何事もなく40余年がたった。ところが今頃になってもとの買い主某の子孫が徳政令で反 故になったはずの証文を持って旧領を返却しろと現れたのである。 永仁五年に出された「関東御徳政」で取り戻した土地である。それに御成敗式目第七条 の取得時効である二十年もとっくに過ぎている。今になってとやかく言われる筋合いはな い。不当な訴状を棄却してくれと東寺に出された陳情と供に提出されたのが法令全文の写 しであった。 関東御事書の法 一、質券売買地の事 永仁五年三月六日 右、地頭御家人買得の地においては本条を守り、廿箇年を過ぐるは、本主と取り返 す及ばず。非御家人ならびに凡下の輩買得地に至っては、年紀の遠近をいわず、本主 取り返すべし。 (東寺百合文書) 関東より六波羅に送らるる御事書き法 一、越訴を停止すべき事 ① 右、越訴の道、年をおって加増す。棄て置くの輩多く濫訴に疲れ、得利の仁なお安 堵しがたし。諸人の侘傺、もととしてこれによる。自今以後、これを停止すべし。た だし評議に逢いて未断のことは、本奉行人これを執り申すべし。 次に本所領家の訴訟は、御家人に准じがたし。よって以後棄て置くの越訴といい、向 後成敗の条々の事といい、一箇度においては、その沙汰あるべし。 一、質券売買地の事 ② 右、所領をもって或いは質券に入れ渡し、或いは売買せしむるの条、御家人らの侘 傺の基なり。向後においては、停止に従うべし。以前沽却の分に至っては、本主領掌せし むべし。ただし、或いは御下文・下知状を成し給い、或いは知行廿箇年を過ぐるは、公私 の領を論ぜず、いまさら相違あるべからず。もし制符に背き、濫妨を致すの輩あらば、罪 蒙古襲来(久野) 64 第二部 武家法への展開 科に処せらるべし。 次に非御家人・凡下の輩の質券買得地の事、年紀を過ぐるといえども、売り主知 行せ しむべし。 一、利銭出挙の事 ③ 右、甲乙の輩要用の時、煩費を顧みず負累せしむるにより、富有の仁その利潤を専らにし、 窮困の族いよいよ侘傺に及ぶか。自今以後成敗に及ばず。たとえ下知状を帯し、弁償せざ るの由、訴え申す事ありといえども、沙汰の限りにあらず。 次に質物を庫倉に入るる事、禁制に能わず。 越訴ならびに質券売買地、利銭出挙の事、事書一通これを遣わす。この旨を守り、沙汰を 致さるるべきの状、仰せによって執達件のごとし。 永仁五年七月廿二日 陸奥守(北条宣時)判 相模守(北条貞時)判 上野前司(北条宗宣)殿 相模右近大夫将監(北条宗方)殿 (東寺百合文書) 2 内容 地頭・御家人が買い主で、20年以上にわたって知行している土地は、売り主は取り戻 すことができない。売ってから20年未満の土地は買い主が地頭・御家人であっても取り 戻せる。20年というのは御成敗式目第8条に、たとえ将軍の安堵状があっても20年以 上実際に知行していなければ、その土地に関する権利を失うという規定があったことを基 準にしている。しかし、非御家人・凡下が買い主である場合は20年以上経過していても 売り主が御家人であれば取り戻せるとした。 幕府はこの施行細則3ヶ条を六波羅に送っている。 ①は再審請求の禁止。②は土地の質入れ売買の禁止、御家人売却地の無償回復令。③は 金銭貸借に関する訴訟の不受理である。 3 質券買得地の事 徳政令と聞いて思い浮かべるほどこれが一番有名である。露骨に御家人を保護した法が 出されたということはそうでもしなければならないほど御家人の所領の移動、喪失が進み 「無足の御家人」が激増した深刻さの現れであろう。この法令は施行されてからさまざま な不備や疑義が出さた。例えば、買地の農作物は誰のものになるのか。それを売った代金 は誰のものかというもの。また人を質に入れた場合はどうなるのか。妻が懐妊してその3 ヵ月後夫が売られ、その後で産まれた子供は誰に帰属するかというややこしいものまであ った。 幕府がこの徳政令を出したねらいは御家人たちの救済であったが、幕府は失敗した。背 に腹を返られない貧乏御家人達が金を借りられなくなってしまったのである。徳政令がま たいつ出るか分からないのに、 御家人の土地を買うものはいない。金も貸してもらえない。 またこれ以降の売買や賃貸しなどの文章に「たとえ徳政ありと雖も、この田においては 違乱煩いあるべからず」というような「徳政文言」を書き加えるケースが増えた。 蒙古襲来(久野) 65 第二部 4 武家法への展開 越訴の禁止 第三章の弘安の改革1.新式目の4で、越訴の奨励を上げているが一変して永仁の徳政 令では禁止されている。越訴を奨励し、御家人の保護を考えたのが安達泰盛であったから だ。それに対し越訴を制約し用としてきたのは平頼綱であった。ちなみに平頼綱は永仁元 年(1293)平禅門の乱で貞時に自害させられている。貞時が越訴を禁じたのは永仁元 年十月、執奏の制を定めて以来貞時が自ら出した裁決に越訴を認めなかったためである。 この執奏の制が出されたときも越訴の禁止を出したが、御家人達の不満に押されこれを解 除したばかりであった。そして今回も越訴の禁止を解除せざるをえなかった。永仁六年(1 298)徳政令はこれで打ちきりになったと今までいわれてきたが、そうではない。部分 的に解除されただけである。越訴の禁止。所領の売買質入れ自体の禁止。利銭出挙に関す る法のみである。売買質入れ地の無償取り戻しは鎌倉末期まで、この徳政令による売買地 の返却が続いていた。 おわりに 卒論のテーマを蒙古襲来にしたのは1冊の本をふと思い出したからである。「男の肖像」 著者は塩野七生。イタリアの中世を舞台とした小説を書いている人の本である。14人の 有名な人物のなかに北条時宗の名前があった。ほかにはアレクサンダー大王や、ナポレオ ンの名前が並んでいる。日本人では時宗のほかに織田信長、千利休、西郷隆盛の名前があ る。 「モンゴルに攻められながら、これを撃退した国は日本人だけである」という文章を見 た。確かにいわれてみればそうかもしれない。その割に時宗はマイナーだなぁ、と思った。 地理的条件もあるだろうが、防いだことは防いだのだからこれはすごいことかもしれない。 日本人で英雄といわれる人は誰だろう。織田信長だろうか。北条時宗はもう少しメジャー になってもいい人物ではないだろうかという思いから卒論を書いた。が、平成13年のN HK大河ドラマは北条時宗だそうだ。なんだか少し悔しい。 参考資料 「日本の歴史 第10巻 蒙古襲来」 網野善彦 小学館 1974 「蒙古襲来と鎌倉幕府」 南基鶴 臨川書店 1996 「蒙古襲来 対外戦争の社会史」 海津一朗 吉川弘文館 1998 「蒙古襲来」 龍粛 至文堂 1966 「日本の歴史8 蒙古襲来」 黒田俊夫 中央公論社 1965 「蒙古襲来 その軍事史的研究」 太田弘毅 錦正社 1997 「教育社歴史新書〈日本史〉56 鎌倉執権政治」 安田元久 教育社 1979 「徳政令」 笠松宏至 岩波書店 1983 『別冊日本の歴史 北条時宗』 新人物往来社 2000 蒙古襲来(久野) 66 第二部 武家法への展開 甲州法度の時代 沢井 孝之 はじめに 戦国の世においては、力を持つ強い者が常に勝者となってきた。勝者となるために権力 者達はまず自らが支配する領国を統一し、領内の人的、財政的安定を図りながら国を豊か にし、それを背景に強力な軍団を編成し他国との争いを勝ち抜こうとした。戦国時代をシ ミュレートしたゲームがある。統治に関するあらゆる項目が数値で示されるが、その数値 からでは判断できないものが実際の統治の方法である。その統治の方法を文章化、法典と して世に示されたものとして存在するのが戦国家法や分国法と呼ばれるものであり、「甲 州法度之次第」はその中心的な存在であり、屈指の内容を持つものとして知られている。 この「甲州法度之次第」を中心とする戦国大名が制定した戦国家法とはどのような意図を もったうえで作成され、どのような性格を持つものであったのか、また「甲州法度之次第」 は屈指の内容を持つものであったのかどうか、いくつかの例をあげることで、数字では分 からない戦国大名達の目指したものと、法の中に見える戦国時代について考えてみたいと 思う。 第一章 戦国家法 1 戦国家法の作成 戦国大名は、軍を統率して勇猛果敢に戦う軍指揮官であると同時に、自国領土を統治する 政治家でなくてはならなかった。 軍事力を支える基盤は内政にあり、その充実と安定を推進することが、直接自国の版図拡 大につながってゆく。戦国という外だけではなく内にも敵が存在しえた弱肉強食の時代、 下剋上の時代に有力者として台頭するには、強力な軍勢を持つことも必要不可欠な条件で あったが、それよりもむしろ、大名の優れた領国経営能力こそが必要不可欠の条件だった のである。したがって、戦国大名たちは内政の充実と安定を図り、富国強兵策を推し進め ていった。その中で大名による領国の支配の論理、政策の基本方針とそれを支える支配理 念を成文化し、家臣、領民に示した。それが戦国家法や領国法、分国法と呼ばれるもので ある。これを示すことにより領国の法秩序を確立し、安定を目指したのである。 戦国大名による領国支配体制の形成は、それまで行われてきた荘園制支配とはその性格は 本質的に異なるものであった。荘園制の下では荘園領主間の争いや荘園領主側と地頭側と の争いは、朝廷または幕府という中央によって判定され、国衙や守護の権力がその決定を 強制する仕組みとなっていた。これは荘園領主権が自己完結的な公権力でなかったことを 意味する。一方で、荘園制における農民支配は、基本的には地頭の家父長的支配にゆだね られる傾向が強かった。このことは、荘園制権力が法的側面では民衆支配を極めて不十分 にしか行えていなかったことを意味する。このように荘園制は、中央権力に依存、一方で 慣習法的な先例を用いるにとどまったため、独自の法、法体系を作成、発展させることが なかった。 これに対して従来の荘園制支配、国人領主による支配を解体し、中央からは独立した勢力 として自らの権威を領国全体に浸透させようとした戦国大名の中には、領国支配体制確立 甲州法度の時代(沢井) 67 第二部 武家法への展開 の中で、独自の公権力であることの証明として法の制定、法体系の形成を目指す者があっ た。これらには明確な法典の制定に達したもの(表1)と、個別法規ながら「国法」とし て示されたものとに分けられる。法典の無い領国においても「国法」といわれるものは多 く存在するため、実際には同様の性格を持っていると考えられる。似たようなものに「家 訓」とよばれるものがある。これは家庭や家中に対する教訓のことで、その対象は家族や 家中に限られた訓戒であるが、これは法というよりも道徳の分野に属するものである。代 表的なものに「朝倉孝景条々」や「早雲寺殿二一ヶ条」iがある。 戦国大名の中でも法典を制定した者としなかった者があったが、それにはどのような事情 の違いがあったのだろうか。制定した者のうち、大内・今川・武田・六角氏は代々守護職 を保持してきた者である。また、伊達氏は国人出身だが「塵芥集」制定者の伊達稙宗が陸 奥国守護に補任されている。領国支配を目指す中で、公権としての性格を備えた守護職を 保持することは、守護大名や国人が戦国大名として中央に対して自立的な権力へ変化した 中において、公的支配者として法典制定に当たる場合に少なからず有利であったものと考 えられる。 一方では、相良氏や結城氏のようにその領国規模が一国に到達せず公権力を持たなかっ た小規模な大名でも法典を制定していることを注意しておかなくてはならない。このこと は、法典制定が公権力の存在を必要不可欠な条件としていなかったことを意味している。 しかし公権力を持たずとも、彼ら小規模大名も自らを頂点とする領国支配体制を形成しう る権力を持つ存在であったと考えられる。実際に注目すべきは、法典を制定した大名は規 模の大小こそあれ、家臣の謀反という点からみると謀反の成功例は、大内氏における陶晴 賢の例があるのみで、他の大名に滅ぼされることはあっても領国が家臣の手に渡ることは なかったことである。これは大名が自らを頂点とする支配体制を確立し、下剋上を許す余 地を残さないだけの勢力、権力を持ち合わせていたことに他ならないであろう。 それとは逆に毛利氏や後北条氏のような大規模に成長した大名が、なぜ法典を制定しなか ったのかという疑問もある。毛利氏について毛利元就が子隆元にあてた書状には、法典制 定への意欲が見えるものがあるが、周囲の動向がつかめず、軍事行動が続いているため制 定のための余裕を持ち得なかった。 しかし、 家臣との間に取り交わした起請文の内容には、 喧嘩の停止や軍事奉仕義務などの法に近い性格を持つものがあった。後北条氏は検地増分 の規定や逃亡農民の人返しの規定など統治に関する事項をそれぞれ国法として定めており、 法典の制定には至らずとも、個々の法の積み重ねによって支配体制を確立しようと意図し たものと考えられる。 このように、前代のあらゆる公権力を断ち切って、荘園制支配や国人領主支配を解体し 自己を最高とする大名の一元化支配体制を確立することが、戦国大名が戦国大名であるた めに最も必要なことであった。そして、戦国家法もこのような戦国大名による支配体制確 立の志向性のもとで制定されたと結論づけるべきであろう。 2 戦国家法の性格 <家中法と領国法> 戦国家法については、法の規制対象から(一)大名や家臣を規制対象とする「家」の支 配の法である「家中法」、 (二)領国の被支配者を規制対象とする「領国」の支配の法であ 甲州法度の時代(沢井) 68 第二部 武家法への展開 る「領国法」とに分けられると考えられているii。 (1)家中法 下剋上の風潮の中で戦国大名の権力は、現実的には極めて弱い基盤の上にたつ不安定な 権力体であった。戦国の動乱の中を勝ち抜くことが絶対の目的であった戦国大名にとって 必要なことは、できうる限り多くの家臣を集め、これを自分の軍事組織として一元化し、 軍事力を拡大、組織化することであった。そのため旧来からの家臣である譜代と呼ばれた 家臣の他に、新たに多数の武士達との間に主従関係を結ばなくてはならなかったが、当然 この新しい主従関係は不安定である上に、仕える主に対する反逆行為は日常的なものであ ったため、当時の風潮はそれを非難の対象とはしなかった。このような状況の中で戦国大 名は自分への忠誠心を持つ家臣団を組織しなくてはならない課題を背負っていた。この課 題を解決するため、家臣を規制対象とする家の支配の法である家中法を制定した。この家 中法の出発点は、「家」を規範とする「置文」とされ、この置文とは譲状に含まれる規範部 分が法規範として分化したものであり、家長を中心として一族、家臣たちを構成員として 「家中」を成立させるものであるとしているiii。当時の武士達が最も重要視していたもの は自分の所属する集団に対する忠誠であった。大名はその集団に対する忠誠を超える自分 に対する忠誠を具体的なものとするためこのような法を制定したと考えることができる。 大名への忠誠を強制することを目的とするための家臣団統制の論理について勝俣鎮夫氏は 次のようにまとめているiv。 (一)戦国大名は、家臣団内部の諸々の私的集団を統制・解体・再編することを通して、自 分を頂点とする一体的家臣団を形成することを意図し、 (二)高度の政治的緊張状況の中で、大名の家というその家臣集団の存立を国家の維持と 不可分の関係にあると位置づけ、 (三)家臣の集団に対する伝統的帰属意識を利用し、家臣の集団に対する忠誠義務を国家 の忠誠義務に置換し、 (四)その国家への忠誠義務を媒介とすることにより大名への絶対的忠誠の形成、集権的 権力体制の確立を意図した 具体的には喧嘩における規定に現れている。大名にとって家中の争いが起こることは最 も警戒しなくてはならないことであった。今川仮名目録第八条や甲州法度之次第十七条に 見られる喧嘩両成敗のような規定は、大名がいかに家中の争いを恐れていたかを示すもの である。家臣達はもともと割拠性の強い在地の領主であり、その背後にはそれぞれの同族 や被官がいる。そのため争いが起こると、それは個人の争いにはならず、全体を巻き込ん だ大きな争いになり、その結果家中の分裂を引き起こし勢力の弱体化を招くことになる。 このような可能性は常にあったために大名は喧嘩を禁じ家臣による争いを抑えたのである。 そうすることにより大名は家臣同士の争いを未然に防ぎ、あるいは争いが起こった際にも それについて調停者もしくは裁定者の役割をすることによって、その立場を強化、確立し ようとしたものと考えられる。 (2)領国法 領国支配に関する国法についてはどうであろうか。家中法について触れた際、国家の保 持という目的が大きな影響を与える存在であることを述べた。ではこの国家とはどのよう 甲州法度の時代(沢井) 69 第二部 武家法への展開 な性格をもつものであろうか。国家とは、大名の政治的支配領域の意味を持つ国と、大名 の家(ここでは支配下の家臣団全体も含む)という異なる二つの概念を合わせて表現した ものである。この国家の特徴について前述勝俣氏は次のようにまとめている。v 一.大名の政治的支配領域としての独自性と完結性もつ 二.大名と直接主従関係を持つ家臣だけでなく、領国内の人民のすべてが、国家の構成員 としての地位を持つものと明確に大名によって把握された存在である 三.二の特徴を前提にして、大名権力の領国支配を正当化する目的で大名権力によって創 出された支配理念としての国家の性格である このような戦国大名の創出した国家の意思として、国家の存立・平和・秩序の維持を目 的として制定されたものが領国の被支配者を規制対象とする領国支配のための領国法であ った。戦国の動乱の中で国家の安全が危機にさらされるという認識のもと、国家の存立が 一番の目的とされ、国家は何者にも制約されないという意思を示した領国法は、当時の社 会体制や慣習等に対して、主観的に君臨し、それらについて干渉や破壊が可能な存在とさ れた。年貢収納に代表される農民土地問題に関する規定のほか、債権債務問題に関する規 定や刑事に関する規定など、社会生活に欠かすことのできないあらゆる分野にわたる戦国 大名の基本政策を定めた法において国家が前面に押し出され、その国家の法であることが 大名によって強調されている。分国法と呼ばれるのは法がその国家すなわち分国でのみ適 用されたからである。 また戦国大名は、当時の人々が生活の中で正しいと考えた道理よりも、法の定めが優越す るという観念や、法に対する尊重の姿勢について主張した。大名がこのような法の位置づ けをするとき、家臣など法の規制対象となる側は、大名もまた法に規制されるという主張 を行った。この典型的な例は大名の恣意の施政を制限する目的で制定された六角氏式目で あろう。制定という点では、塵芥集の制定の際も評定衆一二名連署の起請文を取った上で 発布した。大名の規制という点では、武田信玄は甲州法度之次第において自らを縛る条文 を記した。したがって、このような法を定める際には大名という規制する側の一方的な判 断だけでは制定することができず、規制される側の同意が無くては制定しえなかったし、 このような形式により制定された法には、法そのものにも大名を規制する効力があったと 考えることができる。 こうして見てみると、この領国法の性格は決して領国統治という内容に限定されるもの ではなく、家中統制法の性格を含むものであったといえるであろう。現実には極めて不安 定な関係であった大名と家臣との間の主従関係を統制し、現実には領国内で独立的性格を なお強く残している個別領主の支配下にある人民を自分の支配の対象とする意思を打ち出 しているこの法は、戦国大名が新たに創り出した支配の理念の表れである国家と、この国 家に対する支配の正当性を確立するためのものという意味づけができるであろう。 <戦国家法と御成敗式目> 鎌倉幕府によって制定された御成敗式目は、戦国大名が独自の法を制定する時代におい ても基本法としての命脈を保っていたとされるvi。室町幕府も基本法典として式目を用い、 写本や解説書も世間に流布した。したがって式目の一般への親近性は大きいものであり、 一種の神がかり的な対象とされ、法としての有効性に関わらず、独自の強力な実効性を持 つ存在であった。実際、甲州法度之次第十五条に「式目に任せ」という部分があることか 甲州法度の時代(沢井) 70 第二部 武家法への展開 らも推測できる。戦国法の中に式目の法がどのような形であれ用いられていることは明ら かであり、その制定に際し、式目の存在を強く念頭におき、その強い影響下に成立したと 考えてよいだろう。この式目の影響が最も強いとされるのが伊達氏の塵芥集である。これ は式目の条文を和文調にしてそのまま利用したり、逆に関係のない条文にも式目の章句を 条文の中に取り入れたりすることで、式目の形式にできる限りならい、条文をできる限り 利用し自らが作成する法に生かそうとした姿勢がうかがわれる。しかし、式目の立法趣旨 の実効性を有効と判断し採用されたものは塵芥集全一七一条のうち五ヶ条に過ぎず、章句 を利用したものも三ヶ条にとどまっている。このことは式目制定当時とは社会情勢が変化 していたため、式目の条文をできうる限り生かそうとしたにもかかわらずそれは現実的に 不可能であったことを意味している。このように最も影響が強いとされた塵芥集がこのよ うな内容であることから、実際には式目は基本法としてではなく、法の制定の主体である 権力者の意思と選択によって、その一部が生かされたのであり、その部分のみが実効性を 与えられ、利用されたに過ぎなかったと考えるべきだろう。 3 戦国家法の例 戦国家法が大名の一方的な意思では成立し得なかったことはすでに述べた。ここでは大 名の意思により制定された法と家臣により制定された法の両者を見ることで制定の目的や 性格の違いについて判断したい。 <今川仮名目録> 今川仮名目録は、大永六年(一五二六)四月今川氏親により制定された。仮名目録と呼 ばれるのは、追加第五条に「かな目録に有うヘハ」と記されていることから確認できるが、 それが原題であるかどうかは明らかではない。氏親は制定の二ヶ月後に亡くなっており、 当時も病床にあった。実際の政務は氏親の夫人寿桂尼とその側近が代行しており制定にも 関与していたと考えられる。条文が仮名混じりの文体であるのはそのためであろう。氏親 は死期が迫り、自身が当主となるまでに苦労したことをふまえ、国主交代の際に領国支配 を円滑に推し進めるための基本法規を整備しておく必要があると考えたこと、後継の子氏 輝が当時一四歳であったことが要因としてあげられる。現実として単なる慣習ではあらゆ る事態を乗り切ることができなくなっていたと考えられる。 氏親は最後に制定の目的を記している。 「右條々、連々思當るにしたかひて、分國のため、ひそかにしるしをく所也、當時人々 こさかしくなり、はからさる儀共相論之間、此條目をかまへ、兼てよりおとしつくる もの也、しかれはひひきのそしり有へからさる歟、如此之儀出來之時も、箱の中を取 出、見合裁許あるへし、此外天下の法度、又私にも自先規の制止は、不及載之也、 」 全体の内容としては、地頭の従属化や農民に関する規定に多くが割かれており、これら にこそ領国支配の論理確立の必要性があったことを氏親自身意識していたと考えられる。 この後天文二二年(一五五三)に今川義元が仮名目録追加全二一条を制定している。この 追加の第二〇条において義元はこう記している。 「自旧規守護使不入と云事ハ、将軍家天下一同下知を以、諸国守護職被仰付時之事也、 守護使不入とありとて、可背御下知哉、只今をしなへて自分の以力量、国の法度を申 付、静謐する事なれば、しゆこの手入間敷事、かつてあるへからす」 甲州法度の時代(沢井) 71 第二部 武家法への展開 父氏親が天下の法度(御成敗式目であろう)を前提に「ひそかにしるしをく所」であった 法が義元の代の条文にはこのように強い姿勢になっているところから、すでに国内におい て強力な地位を築きあげた存在に成長していたと考えてよいであろう。 <六角氏式目と相良氏法度> この両者は、一般には大名の側にあると考えられる法制定の主導が家臣の側にある他と は性格の異なるものである。 (1)六角氏式目 六角氏式目は法制定の主導が大名ではなく、家臣団の発議、上申、諮問によるものであ り主君を規制する法の典型的なものであった。 永禄六年(一五六三)六角氏による重臣謀殺に端を発し主君と家臣が対立、隣国浅井氏 をも巻き込んだ観音寺騒動の四年後、永禄一〇年(一五六七)制定された。制定の手続き は重臣達による式目制定の主唱、式目の制定、 「上覧に備え、許容せられ」たうえで重臣二 〇名の連署ののち六角義賢、義治父子の起請文署名により法の遵守を誓い完結するという 方式がとられた。六角氏の誓約の内容は、式目の規定の遵守、連署した重臣に相談した上 での追加法の制定、裁判で贔屓をしないこと、戦功の賞賜について贔屓しないことなどで あり、家中騒動後の危機に際し主君の恣意の施政を制限することに最大の目的があった。 (2)相良氏法度 六角氏式目と同様の性格を持つものとして相良氏法度があげられる。こちらは家中の危 機に際したわけではないが、重臣たちの審議により法が作成され、それを主君が承認して 発布する形式がとられていた。このことは、本文中に大名自身が「爰元」として法制定の 主体として表れる部分と、大名を「上様」として家臣の側が法制定の主体となっていたと 思われる部分があることから推測できる。 相良家の家臣は、 「衆儀」と呼ばれる集団合議の成員と「老者」と呼ばれる上部機関から 成っており、「衆儀」の発議、「老者」への上申、または「老者」への起案、「衆儀」への諮 問によって起草される。それが相良氏の承認を得て発布されるが、さらに「衆儀」の承認 を得て神前で起請することによって発効した。 このような形式がとられた理由として、相良氏の領土は国人の割拠性が強かったことが あげられる。国人たちは郡ごとに郡中惣や国人一揆を形成し、大名相良氏に対し相対的に 自立性の強い存在であったため、このような形式がとられたものと考えられる。 第二章 甲州法度之次第 1 甲州法度之次第とは 甲州法度之次第は、甲斐の国の武田信玄(制定当時は晴信と名乗っていたが、一般には 信玄の方が馴染み深いため、ここでは信玄で統一する)により制定された。江戸時代に信 玄家法と題して版行され世に知られる存在となった。他にも甲州法度や甲州式目、甲州新 式目、信玄法度などと呼ばれているが正確には甲州法度之次第である。この甲州法度之次 第には二六ヶ条本と五五ヶ条本がある。先の甲州新式目の「新」については、前者が後者 の原型であると考えられるため、前者に対する後者の呼び名がこのようになったと考えら れる。しかし、制定に関わったとされる家臣駒井高白斎の記した「高白斎記」の天文一六 年(一五四七)五月晦日の記事に、 「甲州新法度之次第書納進上仕候」とある。二六ヶ条本 甲州法度の時代(沢井) 72 第二部 武家法への展開 は翌日天文一六年六月朔日の日付と晴信の花押が記されており、これが新法度であると考 えることができるため、先の新式目もこの新法度之次第と同じく、これより以前に発布さ れ基本法となっていた御成敗式目に対する呼び名であるとも考えられる。この二六ヶ条本 の日付から成立は天文一六年六月一日であることがわかる。一方の五五ヶ条本は大別する と二種類ある。一つは二六ヶ条に二九ヶ条を加えた後、追加の二ヶ条を加えて五七ヶ条と したもので、もう一方は二六ヶ条から一ヶ条を除き、三〇ヶ条と追加の二ヶ条を加えて五 七ヶ条としたものである。このどちらにも第五五条の次に「右五五箇條者、天文一六年丁 未六月定置之畢、追加二箇條者、天文廿三年甲寅五月定之」と記されている。そのため二 六ヶ条を定めた後徐々に項目が増やされ、追加二ヶ条が定められた天文二三年五月にこの ような完成形となったと考えられる。 (表2) また永禄元年(一五五八)四月に九九ヶ条の家法が信玄の弟武田信繁の手により制定さ れた。 「甲陽軍鑑」には、 「信玄公舎弟典厩子息へ異見九九ヶ条の事」と題され、信繁が子 の信豊に与えた教訓という形で収録されている。これは法というより倫理規定が主となる 家訓的色彩の強いものである。倫理、道徳、宗教を根底に、武道、兵法、礼儀作法につい てうたっている。本文中には孫子、論語、史記といった中国の古典が引用されているのに 特徴があり、それらが当時の教養として知っておくべき存在であったことがうかがえる。 先の五五ヶ条を上巻、この九九ヶ条は下巻とする呼び方もあるvii。 甲州法度之次第は隣国駿河の今川氏親の制定した今川仮名目録の影響を強く受け、これを 参考にして制定したものと考えられているviii。最初に制定された二六ヶ条のうち今川仮名 目録の影響を受けて定められた条文は半数近い一二ヶ条に及ぶ(表3)ことからそう判断 して間違いないであろう。 2 甲州法度之次第の内容 甲州法度之次第は大きく八つの内容に分類することができる。(表2)ここでは分類ごとに 特徴のある条文に他国の法とも合わせて触れ、信玄はどのような意図をもってそれぞれ定 めたのか考えてみたい。 <領主とその支配下にある武士、農民に関する行政面での規定> 中小領主である地頭と、その支配下にある郷村の武士、百姓に関する規定を行い公事沙 汰などの行政面について規定している。 第一条は地頭の恣意を抑制する条項で、領主である地頭の支配下にある者達の権益を保護 するための規定である。地頭の支配権にどの程度まで信玄が介入できるか明示している。 この条項を最初に持ってきたのは信玄によるの領国の直接支配について強調しようという 意図の表れであろう。第三条と第四条では他国への音信や縁組、所領や被官の契約を禁止 することで他国への内通を防止しようとしている。物資の移動は許されても人の移動は許 さなかったこのような項目は、戦国家法が排他的性格を持っていたことを意味するもので あろう。訴訟についての規定は第二条と第二四条にある。特に第二四条では審理中に暴力 沙汰を起こした場合、いかなる理由があろうとも敗訴となることを規定している。今川仮 名目録第四条では、同様のことが起こった場合でも道理をもちながら暴力沙汰により敗訴 となるのは不当であるとして、再び審理を行ったうえで判断を下すとしている。これは理 由の究明を秩序の安定よりも重視していることを示すものである。しかし信玄は秩序を重 甲州法度の時代(沢井) 73 第二部 武家法への展開 んじる姿勢を示すことで、厳しさを前面に押し出そうとしていたと考えられる。 <領民に対する納税、借金に関する規定> 年貢や夫役、棟別銭徴収といった税に関係するものや借金、隠田等、主に農民に対する 取り締まりについて規定し、納税義務の遂行についてうたっている。 第六条は年貢についての規定で、年貢の滞納は許さず、その場合には地頭に取り立てさせ るとしている。また家屋税として貨幣で徴収する棟別銭についての規定は第三二条から第 三五条までにあり、逃亡しても追ってまで徴収する、あるいは連帯責任制により同じ郷中 に支払わせるよう規定している。隠田についても忘れてはならない。第五七条には隠田が あった場合には何年経っていても調査により取り立てると規定している。このように年貢 の規定、棟別銭の規定、隠田の規定いずれも厳しいものであり、信玄の税収に対する厳格 な姿勢が見られる項目であると考えることができる。 <主従関係、雇用関係についての規定> 恩地に対する替地を望むことを禁止する規定や家臣が抱える被官、奴婢について等主に 主従関係や雇用関係について規定している。 まず、軍役に対する知行である恩地について第一〇条から一二条、第四三条の四条にわた り規定している。信玄からさずかった知行である恩地について替地を禁じた他、恩地に応 じた働きをせよ、といった土地を媒介とした主従関係について厳しくうたっている。第一 四条は被官についての規定で、信玄の承諾なく盟約を結ぶことを禁じた条項である。これ は徒党の禁止についてであり、当時は武士同士の私的結合が盛んであったことが分かる。 これを防ぐため信玄は家臣に忠誠を誓わせる起請文を提出させた。実際に信玄は子の武田 義信に謀反の疑いがかかった際、家臣達から信玄に対し逆心を抱かぬこと、家臣間で結党 せず、信玄に忠を尽くし奉公することを誓約させた起請文を提出させた。これは家臣たち が義信の謀反に加担しないよう、義信の妻の出身今川氏に寝返ることのないよう、また家 臣たちが連合して家中の混乱に乗じることのないよう配慮したものであろう。これら恩地 や徒党の禁止についての規定は、すでに触れた家中法制定における家臣団統制の意図と合 致する内容であるといえる。第一五条は譜代の被官逃亡後の帰属問題についての規定であ る。彼らは逃亡しても見つかればもとの主人に返されるとしている。被官や奴婢の問題は 他の戦国家法にも多く見られるし、後北条氏も国法により人返しについて規定している。 <刑事問題に関する規定> 喧嘩両成敗や子供の口論、殺人の刑罰について規定している。 第一七条に喧嘩両成敗について定められている。喧嘩の本人は是非を問わず両成敗、し かけられても堪忍したものは処罰されないが、共犯者は本人と同様に処罰するとしている。 この喧嘩両成敗は、今川仮名目録の第八条にも「喧嘩に及ぶ輩、理非を論ぜず、両方共に 死罪に行うべきなり」とあり、これを踏襲したものであると考えられる。この条項は家中 法のところでも述べたように、家中の争いを防ぎ勢力の維持を図るとともに、裁定者とな ることで自身の立場を強化することをねらったものであり、またこのような規定をできる だけの権力を持つまでに成長していたことの表れであろう。 <寄親・寄子に関する規定> 軍事組織、軍制の根幹となる寄親・寄子制を中心に、相続の問題と絡めて縦の関係の強 化を図ろうとしている。 甲州法度の時代(沢井) 74 第二部 武家法への展開 寄親・寄子制とは戦国大名の軍事組織の根幹をなした制度である。それまでは一族とい う組織を惣領が統率する方式がとられていたが、この方式に代わるものとして現れたもの が有力家臣を寄親とし、これに被官を寄子として組織に組み入れた寄親・寄子制である。 寄子となったのは主に地侍であり、身分上大名の直属という形をとりながら軍事の編成に おいては寄親につけられ、その指示に従った。また寄子に対して寄親が恩給を与え、両者 の間で主従関係をもつものがあった。当然主従関係をもたないものもあり、両者の間のト ラブルも少なくなかった。甲斐国では郷村に寄親、寄子の下にもう一つ又被官を組み入れ 上からそれぞれ軍役のみに従う御恩給、軍役を中心に年貢も一部納める軍役衆、年貢を負 担する惣百姓に分けられた。寄親の治める郷村には、その寄子だけではなく、他の寄親の 寄子も住まわせその郷村全体が一つになって反乱することを防止した。この寄親・寄子制 についての規定は、第十九条、第二七条、第二八条にある。寄子が勝手に寄親に背いては ならないこと、寄子の訴訟の際には寄親を通じて行うことなど縦の関係について厳しく規 定している。こうすることでトラブルを防ぎ、上下間の伝達をスムーズにするとともに、 被官や地侍達を多く動員し軍事力を増強しようとしたねらいがあったと思われる。 <甲斐国の独自の方針と規定> 第二〇条は遊興を禁じ武芸に励むよう規定した戦国の世であることを強調する内容であ る。第二一条は水害時の流木の利用について規定し、山国であり水害等頻繁に天災に見舞 われることの多かった甲斐国の特徴を表す内容である。 <宗教に関する規定> 神官や山伏の雇用、当時死者を出すほど盛んであったとされる浄土宗と日蓮宗との間の 論争を禁じた項目など宗教の問題について触れている。 <信玄自らに関する規定> 二六ヶ条本の第二六条、五五ヶ条本の第五五条と法典の最後を締めるものが、甲州法度之 次第において最もよく知られているであろうこの 「晴信行儀其の外の法度以下に於いて、旨趣相違の事あらば、貴賤を撰ばず、目安を 以って申すべし。時宜に依って、其の覚悟すべきものなり」 という信玄自身を縛る条文である。すでに領国法の所で、支配される側の主張により制定 者である大名にも法の効果が及ぶことについて述べたが、一般的にはこの条文は制定当時 二七歳の若き指導者であった信玄自身が法の遵守についてうたっている点から施政者とし てのすばらしさを表すものとしてよく引用される。しかし甲斐国はもともと国人領主の勢 力の強い地域であり、実際に国人小山田氏と穴山氏は二重支配という方法で領土を統治さ せていた。ixそのためあらゆる条項を規定した法も彼ら国人領主の同意がなくては発布で きなかったのであろう。しかしこの条文の存在により、国人領主の側にも優位性を持たせ たことですんなりと受け入れられ、自身の権力や国家の安定につながったものと考えられ る。 3 甲州法度之次第の性格 甲州法度之次第は隣国駿河の今川氏親の制定した今川仮名目録の影響を強く受けておりこ れを参考にして制定したものと考えられていることについてはすでに述べた。最初に制定 された二六ヶ条のうち今川仮名目録の影響を受けて定められた条文は半数近い一二ヶ条に 甲州法度の時代(沢井) 75 第二部 武家法への展開 及ぶが、残りの一四ヶ条にも甲斐国固有の問題を背景とした条文はそれほど多く見られな い。唯一信玄自身に課した条文のみが独特なものであろう。したがって甲州法度之次第は 当初、戦国大名武田氏がその領国支配を推進する上で表面化した様々な課題を克服し、公 的権力としての地位を確立するために制定したのではなく、甲斐国の統一を成し遂げた父 である武田信虎を追放した信玄が、当主としての地位や領国の安定を図るため今川仮名目 録を参考にして制定したものと考えられる。したがって甲州法度之次第は「ひそかにしる しをいた」今川氏の今川仮名目録のように、領国支配を推進する中で制定され戦国大名へ の変化の指標とされる性格を持つものではなく、当主の座に収まって以来信玄が推進して きた領国支配体制整備の総決算としての性格を持つものであると考えることができる。こ のように考えると、二六ヶ条を定めた後五七ヶ条に至るまでに定められてきた条項にこそ 信玄が領国支配を行う過程で起こった課題が反映され、これこそが甲斐国固有の問題を示 すものとして考えることができるであろう。その新たに定められた条項には棟別銭の徴収 や郷村の統制と経営、恩地の問題、質入地、借財、悪銭の取り締まり規定等が定められて いる。特に棟別銭徴収に見られるような税収に関する項目の多さが一番の特徴であろう。 これは甲斐国の経済力の弱さを自らさらけ出していると考えてよいだろう。取り立てにつ いて未払いの農民を逃亡させないように脅しをかけるような規定などを細かく定めること により、税制を中心とする財政基盤を確立し、財源を少しでも多く確保しようとした意図 の表れであろう。 甲州法度之次第について、笹本正治氏は著書において「今川仮名目録よりも後退してい る」との考えを述べているx。確かに文体が仮名混じり文であるのが漢文になり無骨な感じ を受けるし、最初に制定された二六ヶ条は仮名目録を模倣している。また、内容では先に 述べた理由よりも秩序を重視した訴訟の規定にみられることからそのように判断するのが 妥当であるかもしれない。しかし私はそうは思わない。甲斐国は駿河国と比べ山国であり 耕地の少ない貧しい国土であるうえ、人の出入りも多くなく経済、文化両面において後進 国であった。このような事情を考慮し、二六ヶ条制定以後徐々に多くの条項を規定してゆ くことで特に経済の課題を解消しようとした。そのため五七ヶ条全体を通して見ると、財 源の確保を狙うという意図があったにせよ、この項目に関して細かく厳しく定められてい る点や内容を見てゆくと、決して後退しているとは言い切れないと思う。後退させた要因 は、駿河国より遅れていた国情に合わせた法を作らねばならなかったからだと考えるべき であろう。 おわりに 戦国大名が領国を治めるにあたり、まず把握しなくてはならなかったのは在地の武士達 であった。彼らを支配下におくことはその支配下にある農民達を支配することにつながっ たのである。農民たちの支配という点では、特に甲州法度之次第で税収について少なくな い項目を割いており経済政策に神経を注いでいることがうかがわれたが、それは支配を確 立した上で戦乱の世を勝ち抜くため軍勢を維持するための財源の確保を最優先課題として 認識し、それを実行に移したことの表れであろう。したがって戦国家法は家中法の分野に より支配を確立し、それをもとにして領国法の分野で国内を治めたと考えることができる。 このように考えると、戦国という混乱の世の中で、自身の領土という全国規模ではない決 甲州法度の時代(沢井) 76 第二部 武家法への展開 して大きくない範囲であったにせよ、支配の確立と経済の安定という一言でいえば統治と いうものに対して権力者達が最も神経を使い、最も心血を注いだ時代であったと結論づけ るべきであろう。 このように「甲州法度之次第」を中心に戦国大名の定めた法について見てきたのである が、私が一番驚かされたのは、大名の強制により制定されたものと思い込んでいた戦国家 法が、そのような制定過程をとらず発布された六角氏式目や相良氏法度のような家臣が主 体となって制定されたものが存在したことであった。また、甲州法度之次第第五五条の「晴 信行儀その外の法度以下に於いて…」という信玄自らの刑事責任についての規定が単に信 玄の誠実さを表し理想を実現させるために盛り込まれたわけではなく、法を制定させるこ とが大名の一方的な意思ではできなかったという点から、家臣に対しても優位性を持たせ 相互契約のような形をとったことについて知ったことであった。戦国時代という力がすべ てであった時代でさえ周囲の同調がなくては何事も進められないということついてあらた めて知らされた。 二一世紀は「地方の時代」といわれる。財政に対する権限を地方に移すための制度改革 が進む一方で、中央に対し実行力のある首長のいる自治体が「外形標準課税方式」などの 中央に反発するかのような条例の制定、あるいは公共事業中止等による独自の行政改革の 断行など独自性を打ち出そうとしている自治体の存在が増えていることから、現在地方行 政に対する関心が高まっている。現在の信頼のない中央と、それ対して独自の方針を打ち 出そうとする自治体との関係は、戦国時代における室町幕府と戦国大名との関係と一致す るところがあると考える。四〇〇年以上昔の歴史の世界ではあるが、中央からの独立した 権力を目指した戦国大名の姿勢や彼らが行ってきた統治に対するエネルギーは、戦乱と平 穏との事情の違いはあるが、現在あるいは今後の地方自治行政のありかたに十分参考にな るであろう。リーダーとなる人にはぜひ参考にしてもらえることを願いたいと思う。 i この両者を戦国家法とするものもあるが、「中世法制史料集第三巻」解題では家訓に属す るものとしているため、このように判断した。 ii 「戦国法成立史論」243 項 iii 「同」243 項 iv 「戦国大名の研究」457 項 v 「同」458 項 vi 「戦国法成立史論」257 項 vii 「武田信玄のすべて」37 項 viii 笹本正治「武田信玄」164 項、奥野高広「武田信玄」244 項ほか多数に見られる ix 「武田信玄のすべて」30 項 x 「武田信玄 伝説的英雄像からの脱却」164 項 表1 「主な戦国家法一覧表」 法典名 領国 制定者 制定年 条文数 甲州法度の時代(沢井) 77 第二部 大内氏掟書 周防 相良氏法度 肥後 今川仮名目録 駿河 追加 塵芥集 陸奥 甲州法度之次第 甲斐 結城氏新法度 下総 六角氏式目 近江 新加制式 阿波 長宗我部氏掟書 土佐 (参考) 「中世法制史料集 大内持世∼義隆 相良為続 長毎 晴広 今川氏親 義元 伊達稙宗 武田晴信 結城政勝 六角義賢・義治 三好長治 長宗我部元親・盛親 第三巻」解題 永享11~享禄2 (1439~1529) 明応2(1493) 永正15(1518)以前 天文24(1555) 大永6(1526) 天文22(1553) 天文5(1536) 天文16(1547) 弘治2(1556) 永禄10(1567) 永禄年間(1558~69) 文禄5(1596) 武家法への展開 計181 計41 33 21 171 26のち57 104 67 22 100 その他にも「中世法制史料集第三巻」では、「小野寺家家法」、 「最上家家法」 、 「吉良宣經 式目」 、 「里見家法度」が同様の性格を持つものとしてあげられている。なお、「宇都宮家式 條」 、 「宗像氏事書」、 「吉川氏法度」もについて、先の二者は応仁の乱以前に制定され、後 者は制定が近世に分類される時代(元和2年)であるためここでは除外した。 表2 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ 「甲州法度之次第内容一覧表」 内 容 記載条 地頭の権限 1,5,7 訴訟 2,24 他国との通信、縁組、契約 3,4 年貢、田畑 6,9,44,45 夫役 13 棟別銭 32∼37 借金、質地 38∼41,46∼50,56 撰銭 42 百姓の隠田 57 恩地 10,11,12,43 被官 14,15,18,23、53 奴婢 16 役人、近習者の心得 29,30 喧嘩 17 子供の喧嘩、殺人 25,26 寄親・寄子制 19,27,28 相続 31 山野の境界 8 遊興の禁止、武芸の奨励 20 水害時の流木 21 浄土宗と日蓮宗との論争 22 神官、山伏との関係 52 信玄自身への規定 55 甲州法度の時代(沢井) 78 第二部 武家法への展開 (参考) 「武田信玄のすべて」「歴史群像⑤ 武田信玄」 表3 「今川仮名目録、甲州法度之次第対照表」 今川仮名目録 甲州法度之次第 26ヶ条 第4条 6 7 9 11 12 13 17 18 20 21 22 (参考) 「中世法制史料集 内 容 57ヶ条 第4条 7 8 12 15 17 18 21 22 23 24 25 26 43 50 第三巻」解題 第30条 1 2,3 13 5,6 8 10 27 28 32 4 11 12 (21) (20) 他国との通婚 地頭の没収権 山野の境界 恩地の売却 譜代の被官の逃亡 喧嘩 被官の喧嘩、犯罪 水害時の流木 仏教論争 被官の出仕座順 審理中の心得 子供の喧嘩 子供の殺人 恩地の借状記載 米銭の借用 ( )内は内容上関係があると思われるもの。 参考文献 「武田信玄 伝説的英雄像からの脱却」 笹本正治著 「戦国大名武田氏の研究」 笹本正治著 「人物叢書 武田信玄」 奥野高弘著 「武田信玄のすべて」 磯貝正義編 「歴史群像シリーズ⑤ 武田信玄」 「原本原題訳4 甲陽軍鑑(上)・(中)・(下)」 「信長と信玄」 津本陽著 「戦国大名論集1 戦国大名の研究」 長原慶二編 「戦国大名論集10 武田氏の研究」 柴辻俊六編 「戦国大名論集11 今川氏の研究」 有光友学編 「戦国法成立史論」 勝俣鎮夫著 「戦国社会史論」 藤木久志著 「戦国期の権力と社会」 永原慶二著 「戦国大名の権力構造」 藤木久志著 「体系日本の歴史⑦ 戦国大名」 脇田晴子著 「中世法制史料集 第三巻 武家家法1」 中公新書 1997 年 思文閣出版 1993 年 吉川弘文館 1985 年 新人物往来社 1978 年 学習研究社 1988 年 ニュートンプレス 1979 年 東洋経済新報社 1999 年 吉川弘文館 1983 年 吉川弘文館 1984 年 吉川弘文館 1984 年 東京大学出版会 1979 年 東京大学出版会 1974 年 東京大学出版会 1976 年 吉川弘文館 1987 年 小学館 1993 年 甲州法度の時代(沢井) 79 第二部 1965 年 佐藤進一、池内義資、百瀬今朝雄編 岩波書店 「山梨県の歴史」 武家法への展開 磯貝正義、飯田文弥著 山川出版社 1973 年 甲州法度の時代(沢井) 80 第二部 武家法への展開 織田信長の経済法 糸原健太 はじめに 織田信長。日本史を深く学んでいない人でも知っているほどの人物である。彼は下克上 という戦国時代の世に生き、天下統一を目前にしながら本能寺で明智光秀の謀反に遭い、 49年の生涯を終えた。しかし、うつけと評され、尾張という小国、しかも守護代の被官 という身分であったにもかかわらず天下を目指すことができたのは一体なぜであろうか。 私は、信長が行っていた経済政策に注目していきたい。信長がどのような政策を行ったか を検証し、その政策を当時の戦国大名の政策と比較して、信長の強さの理由を探し出して いきたいと思う。 信長の行った経済政策は、 他の戦国大名ではできないことであったのか。 また、当時の世において革新的なことであったのかということを中心として、織田信長と いう男を再考していきたいと思う。そして、信長の経済政策にある根底のねらいを導き出 すことができれば幸いである。 信長をこうした観点から考えることは、すでに多くの研究論者によってされてきている ことであるが、自分なりに論ずることによって、多くの人に郷土の戦国大名がどういった 人物であったのかということに関心をもっていただけるきっかけとなれば幸いである。 第一章 織田信長の経済政策 1 楽市楽座 信長が行った経済政策でまっ先にあげられるのが、この楽市楽座である。この政策は、 城下町や自治都市の建設にあたり新しく認めたものと既存の自治都市の既得権を安堵した ものと大きく二つに分類される。楽市楽座といっても、楽市令と楽座令を総称したもので あり、元来一つのものであった訳ではない。楽市令とは市場における課税を免除し、自由 通商の場とするものである。一方、楽座令は独占的な特権を与えられていた商工業団体で ある座から、特権を奪い統合を否定するものである。永禄一〇年(一五六七)一〇月に美 濃で加納市場を楽市とする旨の楽市令を発し、翌年の永禄一一年(一五六八)九月には、 当市場に移住する者は、信長の領内を自由に往来してもよいという旨の制礼が加納に宛て て発せられ、楽市楽座令に改められた。この時のものが、楽市楽座をはっきりと認めた最 初のものである。天正五年(一五七七)には、城下町安土の建設にあたり楽市楽座令が発 せられている。 信長が楽市楽座を行ったねらいは何だったのだろうか。そもそも楽市楽座を行ったのは、 信長が最初というのではない。戦国末期の畿内近国における自治都市は、楽市楽座の地と して自由な商業を行っていたのである。信長は城下町を繁栄させ、自治都市と経済的に対 抗するには、楽市楽座のような恩典をあたえなければならないと考えたのである。当時の 城下町は戦乱にまきこまれる可能性があり、商工業者にとっては必ずしも安住の地ではな かった。こういった理由が主として考えられる。また、既存の自治都市の既得権を安堵し たのも、自治都市の経済力を信長自身が利用しやすくするためであろう。 しかし、信長は徹底的に座を否定した訳ではない。楽座令は安土や特定の自治都市に対 して認めたにすぎないもので、逆に京都や奈良など座が活躍していた地域においては、座 織田信長の経済法(糸原) 81 第二部 武家法への展開 の安堵が行われていた。座を安堵する史料として、近江・堅田浦の琵琶湖上支配権、建部・ 油座、越前・軽物座、堺・馬座がある。また、天正一一年(一五八三)と天正一二年(一 五八四)の京都所司代前田玄以下知状に、一九種の座を安堵している文書がある。この文 書は豊臣政権初期のものだが、この頃は信長の政策を受け継いでいると考えられ、信長が これらの座を安堵していたと考えられるのである。逆に座を否定する史料は、山埼大山埼 の離宮八幡宮文書に、油座が破棄されたとある一例のみである。しかも、この文書は当時 のものではなく、信頼性を欠くものである。また、座の安堵は信長の家臣によっても行わ れている。若狭・金屋職(丹羽長秀),越前・大滝神郷紙座(前田利家ら) ,大野鍛座(金 森長近ら) 、若狭・敦賀川船座(武藤舜秀)などの座の安堵状も各地でみられるのである。 こういったことから考えると、信長は従来からの楽市楽座であった自治都市と安土などの 城下町を除けば、座を安堵する政策をとっていたと考えるのが妥当である。 しかし、なぜ信長は座を徹底的に廃除することをしなかったのであろうか。信長にとっ て座は物価を上昇させるだけでなく、座の利益を得ることもできない目の上のタンコブの ような存在であっただろう。その座を信長が安堵する理由は、当時の勢力図が関係あった と考えられる。脇田修氏の説によれば、畿内は天正八年(一五八〇)まで石山本願寺が存 在して安定せず、交易の中心である瀬戸内海も毛利氏がおさえており、日本海も出雲・石 見以西または越後以北は敵国であったため、座を残して物資を動かしたほうが効果的であ るという。この脇田氏の説はおもしろいところをついていると思う。確かに、座を廃して 信長のご用商人に物資を調達させるほうが安くて早い方法だろう。しかし、そうした場合 には敵が黙っているはずがなく、結局は大きな損失を被ることになる。だから、信長は座 を安堵したのである。座を安堵するということは、信長としては、しぶしぶ仕方なしにや ったことといえるであろう。 2 関所の撤廃 次に信長の経済政策では、関所の撤廃があげられる。関所は関銭徴収のためのものであ ったが、公家・寺社・武士の領主だけではなく、村落の規模においても存在してしたので ある。関所は物資の流通を阻害し、物価に大きく影響したのである。特に畿内では深刻な 問題で、淀川沿岸に六〇〇以上、伊勢の桑名・日永間四キロに四〇余りはあったとされて いる。また、関所で徴収される関銭を座商人は免除されていたが、一般の民衆では免除さ れるはずもなく、山城国一揆の要求に新関の停止があげられるなど、関所の撤廃は民衆の 要望でもあった。 このことは信長にとっても例外ではなかった。信長は、上洛して京都をおさえ、軍勢を 動かし、物資を補給するのに流通の自由は必要だと考えていた。また、関所を設けていた のは公家・寺社・土豪などで、織田政権ではなかった。そういった理由から、信長は関所 の撤廃を行ったのである。 この信長の関所の撤廃は、 自身が行った道路の整備と相まって、 交通・運行がさらに便利になり、庶民の生活が安定するといった効果があった。しかし、 徹底的に関所が撤廃され、近世的な状況となるまではいかなかった。 信長が行った関所の撤廃は、信長の分国(尾張・美濃・南近江)においてのみであった。 五畿内は将軍がおさえ、義昭の力のかかった守護が統治しており、これらの地域にまで関 所の撤廃ができたのかはよくわかっていない。また、京都七口の関所は、残って活動して 織田信長の経済法(糸原) 82 第二部 武家法への展開 いた。この関所は京都の入口におかれた皇室領の関所で、天皇家の財政をつかさどる内蔵 寮の頭である山科家が管理していた。山科家では、三条・五条・白川・長坂の各口におい て天正一〇年(一五八二)まで管理が続いた。この天正一〇年というのは、信長の死んだ 年である。 信長が行った関所の撤廃は、かなりの効果を得ることができたのだが、当時の情勢では 徹底して行うことができなかった。関所の撤廃は、信長の意志を継いだ秀吉により完成す るのである。 3 撰銭令 信長が行った経済政策で、ここにあげる最後のものが撰銭令である。この撰銭令とは、 簡単に述べると通貨の価値を決めてしまうことである。なぜこのようなことが必要であっ たのかというと、戦国時代の日本には、中央政府の発行する銭貨はなかったのである。中 央政府が統一銭貨を発行するのは、徳川幕府三代将軍家光のときの寛永通宝である。当時 に流通していた銭貨は、中国の宋や明の銭やその輸入銭をまねた私鋳銭である。この輸入 銭と私鋳銭がまざって流通していたので銭が一定の価値とならず、善銭と悪銭というもの が存在することになってしまったのである。善銭とは一文なら一文というように、銭の価 値のまま通用するもので、悪銭は善銭の二分の一や三分の一の価値でしか通用しない私鋳 銭や、すり減ったり割れたりした輸入銭のことである。善銭と悪銭とを一枚ずつ調べてい ては円滑に取り引きが進まないため、撰銭令が行われたのである。 しかし、撰銭令を行ったのは信長が最初なのではなく、幕府も試みていたのである。幕 府の撰銭令は、善銭とともに特定の悪銭は一文として流通させ、他の悪銭についても比率 を決めて通用させるというように、多くの種の銭を整理し、いくつかの等級に分けて流通 させるというものであった。しかし、流通における実勢にそぐわず成功しなかった。 信長の行った撰銭令はというと、結果的には成功しなかった。信長の撰銭令は、永禄一 二年(一五六九)二月,三月に通貨政策として法令を定めている。天王寺に出された「定 精選条々」によると、善銭の二分の一にあたるものが「ころ・せんとく・やけ銭・下々の 古銭」 、五分の一を「えみやう・おおかけ・われ・すり」 、一〇分の一を「うちひらめ・な んきん」として、それぞれの交換比率を決め、これ以外のものを禁止したのである。その 半月後には、「追加条々」が出され、その第一条には「八木をもって売買停止のこと」とあ る。八木とは米のことで、米を銭貨のかわりに支払うことを禁止したのである。これは幕 府にはなかったことで、信長が改善されない貨幣流通に業を煮やして行ったのであろう。 撰銭令による貨幣流通の整備は、それ自体が複雑で多様な銭貨の形態をそのままにして 手直しをするものであり、根本的な解決方法とはならなかった。それゆえに信長をもって しても成果をあげることができなかったのである。 第二章 諸戦国大名の財政収入 1 武田氏における財政策 武田氏における財政収入は、大きく二つに分類することができる。一つは領国内におけ る税による収入である。その中でも御料所からの年貢,棟別銭,田地銭が武田氏にとって の最大の収入であったといえるだろう。これらの税収は一体どのようなものであったのか。 織田信長の経済法(糸原) 83 第二部 武家法への展開 御料所とは、直轄地(武田氏が領主として引き継いでいた地域)と敵対した領主を攻め 滅ぼして没収した領地などから成り、ここからの年貢が武田氏の直接的な収入の一つにな っていた。甲斐における御料所は、山梨郡の石森・窪八幡・上万力・大工村・和戸・萩原・ 塩後,八代郡の高萩,巨摩郡の甘利上条・河原部などがあげられる。これらの御料所のあ った地域は、生産力,政治経済的にも重要な場所であった。また、御料所は年貢という財 政面においてのみではなく、城の近辺や交通の要所などにも設けられていたことから、戦 いにおいて兵糧を有利にするという軍事的な意味もあったと考えられる。 一方、棟別銭・田地銭は領国全体に賦課された臨時税である。棟別銭とは、家ごとに賦 課する税のことで本来は臨時税であったのだが、信玄の頃になると恒常的に徴収されてい たようである。 「甲州法度之次第」の第三二条には、 「棟別法度のこと、既に日記を以て、 その郷中へ相渡すの上は、あるいは逐電、あるいは死去たるといえども、その郷中におい て速やかに弁償いたすべし。そのため新屋は改めずなり」とあり、棟別帳(棟別銭徴収の 台帳)の作成や徴収に注意が払われていたことを知ることができる。信玄の頃に徴収され ていた棟別銭は一軒につき二〇〇文で、同時期の北条氏の五〇文と比べるとかなり大きな 税収であったのだろう。田地銭とは、田地役・田役ともいわれているが、当時の段銭のこ とであると思われる。この税は、田の面積に応じて賦課された臨時税だが、棟別銭と同様 に信玄の頃には恒常的な税となっていたのである。 また、臨時税には徳役銭,過料銭,妻帯役などがあり、これらの税は特定の者にだけ賦 課された。徳役銭とは裕福な者に課された税で、過料銭とは寺や禰宜,地下衆といった者 に課された税である。この二つの税は、財産を持つ者に対する臨時税である。妻帯役とは、 妻帯した僧侶に課す臨時税である。これらの臨時税は主に軍資金となったと考えられる。 もう一つの大きな収入源は金である。軍資金で武田氏といえば、最初に金をイメージす る人もいるだろう。確かに川中島の戦いや京都への上洛といった軍事行動を支えるために は、税収だけでは軍事費をまかなうことができなかったであろう。当時の金は、持ち運び が便利で信用におけるものであったので、軍備の増強や軍事的な恩賞に適していたのであ る。こういったことから、甲斐の金山を武田氏は直轄地として採掘し、軍備の拡張や軍事 行動をとったと考えられていた。しかし、武田氏が金を採掘する金山衆にあてた現存する 最古の文書には、 一、御分国諸商い一月に馬一疋の分、役等免許の事 一、本棟別壱間の分、御赦免の事 一、向後抱え来たり候田地、軍役衆の如く検使を停めらるべきの事 一、郷次の人足普請、禁ぜらるるの事 以上 この度深沢の城において、別して奉公候間、褒美を加えられるものなり、よって件 の如し 元亀二年辛未 二月十三日(竜朱印)山県三郎兵衛尉これをうけたまわる 田辺四郎左衛門尉 とある。この文書の内容は、武士以外の者に賦課される役の免除が記されており、金山衆 は武士であったとは考えにくいのである。もし、武田氏にとって金が最大の収入源であっ 織田信長の経済法(糸原) 84 第二部 武家法への展開 たのであれば、直轄地としたうえで武士に採掘させるのではないだろうか。こういったこ とから考えると、武田氏の財政収入で金だけを大きく評価するのは妥当ではなく、税収と 金の二つが合わさった結果、武田氏の財政は潤わされたのであろう。 2 上杉氏の財政策 上杉氏における財政収入で大きな役割を果たしていたのが、料所における課役である。 料所は、政治・経済・軍事上の重要地域や拠点で占められ、天文一九年(一五五〇)頃ま でに支配下にすることのできた料所の数は約三〇ヵ所であった。料所は、府内町,古志郡 の寺泊,出雲崎,荒川津,蒲原郡の蒲原津,刈羽郡の柏崎など越後の日本海沿岸の主要港 に多くみられる。特に謙信の頃に、戦いの費用を捻出するための絶好の財源確保の場とな ったのが府内町と柏崎町である。 府内町は、かつては国府の地で守護所がおかれ、謙信の城下町となり、北陸づたいに若 狭・越前から畿内に通じる都市であった。一方、柏崎町は、宿・問・伝馬と港などの機能 を備えた都市であった。戦いにあけくれる謙信は、これらの料所に容赦のない課役徴収を したために町が荒廃化していった。これは、謙信が家督を相続した天文一年(一五四八) から永禄三年(一五六〇)までの一二年間に、上田の長尾政景や北条高広らの討伐,再三 にわたる川中島出陣,二度におよぶ上洛などのための費用を捻出するためで、府内町や柏 崎町の町人たちが逃散するほど荒廃化が進んでいた。また、永禄三年の三月には越中への 出陣があり、八月には北条氏討伐のための関東出陣をひかえていた。 このような状況下で、永禄三年の五月、府内町に町の復興・救済を目的とした長尾氏老 臣連署条目写一一ヵ条の課役免除令が発布された。この長尾氏老臣連署条目写一一ヵ条に は、 一条、府内にある寺社領の地子貢納の免除 二条、府内にある長尾氏家臣たちの所領の地子貢納の免除 三条、他国船だけでなく、役所関係の船にかけていた入港税を取ることの禁止 また、港での鉄取引にかけていた課税も免除 四条、清酒あるいは濁酒について、酒税徴収を免除 五条、麹の製造・販売に対してかけていた麹役徴収の免除 六条、吹雪などによる雪害を防ぐための垣根づくりなどに徴収されていた府内町住人 の夫役の免除 七条、他国から来る商人たちの荷駄の駄賃が高く商人が苦しんでいるため、馬方たち が直接商人たちから駄賃を取ることを禁止 八条、薬之座から座役徴収権をもっていた若林に納めてきた座役の納入の免除 九条、りうひん執(販売取引されている各種商品の売上に関して徴収されていた課 役)の免除 十条、府内町での茶取引に対する課税の免除 十一条、府内は今後長尾氏の料所にくみ入れ、守護上杉氏の代官である郡司の入部を 停止 とある。これは、一部の課役・夫役を除いて五年間、府内町人に課していた諸役・地子・ 夫役・営業税・入港料などの免除により、町の復興を意図した法であった。 織田信長の経済法(糸原) 85 第二部 武家法への展開 では、なぜ上杉氏は町が荒廃するほどの課税をしなければならなかったのだろうか。お そらく、この課税は府内町に限ったことではなく、柏崎町を中心として他の都市でも行わ れていたであろう。これは、領国内の情勢や甲斐の武田氏との関係上、府内町や柏崎町と いった料所支配を強化し、財源確保を行って、周囲の勢力などと対抗しなければならなか ったためである。その結果、町が荒廃して復興政策を余儀なくされたのである。 3 北条氏の財政策 北条氏における財政収入は、家臣に対する出銭と庶民に対する段銭・懸銭・棟別銭が大 きなものであった。家臣に課税されているのは、主君に対する反対給付として負担したも のであった。では、家臣に課されていた出銭とはどういったものであったのだろうか。 出銭とは、城普請のための費用や信長への使者派遣の費用、上洛の費用といった臨時的 経費を知行貫高を基準として賦課された銭貨・黄金であった。 「武州文書」の天正一六年 (一 五八八)六月七日付の秩父孫二郎殿・同心衆中あての北条氏邦印判状によると、上に述べ た理由で出銭が賦課されていたことをみることができる。また、出銭とは知行貫高が少な いために出陣を赦免され、かわりに参陣衆の兵糧費用を割り当てたときのことも指してい る。 「小曾戸文書」によると、天正一六年の西口参陣で小曾戸摂津守に割り当てられた兵糧 費用は三〇〇文であったとされる。小曾戸摂津守の知行貫高は二九貫七〇〇文であったの で、一〇貫文に対して一〇〇文の割合で課されていたと推測することができる。 一方、庶民に課されていた懸銭・段銭といったものはどういったものであったのか。懸 銭とは、畠に対して賦課されていた諸点役・諸公事といわれていた雑多な課役を整理し、 統一した税目といえる。この税率は、畠の貫高に対し六パーセントであったが、散田や川 成りなどの場合には、その額が三分の一に、守護不入の場合には三分の二あるいは二分の 一に減額されていたようである。次に、段銭とは田作りの役銭とみられ、田を賦課対象と している課役である。段銭は天文一九年(一五五〇)の懸銭創設以前から存在が確認でき るが、その後に本段銭といわれるものが設定されたと思われている。この本段銭の税率は 八パーセントで、天文二一年(一五五二)八月一〇日付の虎の印判状によると、相模と伊 豆で賦課されたとある。北条氏の本段銭は、懸銭とは異なり目銭が付加されており、この 目銭を給分として家臣に与えている場合があった。本段銭の他に目銭が付加されているの は、棟別銭と正木棟別銭(棟別銭の増額)である。このように、北条氏は庶民に対して税 制改革を行い、領国支配を強化していったのである。 4 毛利氏の財政策 毛利氏の収入は、公領年貢,段銭,恒常的な借米・借銭によるものであった。この収入 の中で注目すべきは借米・借銭である。借米・借銭は年貢や段銭を担保としており、その 年に収納される年貢,段銭によって返済されていた。では、なぜ毛利氏は財政の破綻をも たらす可能性をもつ借米・借銭を恒常的に行ったのであろうか。 それは、毛利氏と貸付側との関係にあった。貸付側が毛利氏に自分にとって有利な利益 を求めているのであるが、その利益は大きく三つに分類される。一つめは、武士的な性格 の強い高利貸しの場合、貸付によって所領の拡大を指向する傾向があり、担保とされた公 領をそのまま給地とすることで債務が解消されるというものである。二つめは、経済的利 織田信長の経済法(糸原) 86 第二部 武家法への展開 潤を追求する高利貸しの場合、公領年貢,段銭以外の流通支配にともなう財政収入による 債務の解消というものである。三つめは、先に述べた以外の高利貸しの場合、領主米の運 用にともなう利潤および債権の保護を中心とする営業上の特権の保証というものである。 このような貸付側の要求を毛利氏が受け入れることにより、安定した借米・借銭を行うこ とができたのである。 また、毛利氏の収入で大きく貢献したのが石見大森銀山である。当時、石見大森銀山は 生産量が急増しており、中国制覇をめざす毛利氏にとって大きな財源となりえたのである。 この石見大森銀山をめぐり、毛利氏は尼子氏とたびたび衝突した。毛利氏による石見大森 銀山の支配は、永禄元年(一五五八)九月に尼子氏に奪回されるまでの二年半ほどであっ たのだが、この銀の採掘による成果は非常に大きかった。毛利氏は、採掘した銀で銀貨を 鋳造し、その銀貨を朝廷に献上したのである。永禄二年春、この朝廷への献金で正親町天 皇の即位式が行われることになり、即位大礼が翌年の一月二七日にとり行われた。この功 績が朝廷に賞され、毛利氏と朝廷との関係が親密になったのである。 第三章 織田信長の経済政策の考察 1 豊臣秀吉への継受 信長が行ってきた経済政策は、既に第一章で述べた通りである。信長は、当時としては 革新的な改革を行ったのだが、周辺の諸大名の勢力や公家勢力の板挟みのため中世権力を 否定していたものの、それを破壊することはできなかったのである。信長にも成し得なか った中世権力の破壊を完成させたのは、信長の意志を引き継いだ豊臣秀吉であった。では、 信長にもできなかったことを秀吉ができたのは一体どのような理由からであったのか。秀 吉が完成させた関所の撤廃と楽市楽座令からその理由を考察してみたいと思う。 まず、関所の撤廃をみてみたいと思う。信長による関所の撤廃は、彼の分国においての みであり、京都の七口関といった関所は存続させたのである。京都の七口関は皇室領であ り、信長は皇室・公家に対して正規の権限はないため、政治的配慮から皇室領には手出し できなかったのである。ところが、秀吉は皇室領に対しても関所を撤廃するという行動を とった。天正一〇年(一五八二)六月に秀吉は山崎の合戦に勝利し、天下人としての道を 歩み出し、一〇月九日に関所の撤廃を行ったのである。これは、公家との関係があっても 京都への流通を円滑にしたいとの考えからだと思われる。信長が公家勢力へ介入すること による争いを嫌ったのに対し、天下人への道を歩み出していたとはいえ、この秀吉の行動 は信長よりも一歩踏み出したことだといえるだろう。 次に、楽市楽座令をみてみたい。信長が行った楽市楽座令は、城下町に商工業者を誘致 するために行ったもので、具体的には商工業者が自由に商売することができるように保護 するという内容であった。しかし、当時においての座の中心であった京都や奈良などの座 は安堵したため、中世権力の破壊はできなかった。信長が座を安堵した理由は、座の形態 と当時の勢力図が関係する。座は、将軍・公家・寺社などの領主権力を本所として独占権 を得ており、座を廃止するとなればこれらの勢力との間に衝突が起きたであろう。周囲の 勢力と公家勢力を敵に回すことは信長にとっても得策ではなく、無用の衝突は避けなけれ ばならないという考えからくるものであろう。そして、当時の勢力図から考えると、座を 廃止して物資を調達するために信長が自分の御用商人をつかったとすると、当然ながら信 織田信長の経済法(糸原) 87 第二部 武家法への展開 長と敵対する周囲の戦国大名が黙っているはずがなく、妨害工作を行ってくると考えられ る。このようなことから、信長は楽市楽座を徹底することができなかったのである。しか し、 ここで注目しなければならないことがある。 関所を撤廃しても座がなくならない限り、 流通の自由は確保されていないということである。たとえ関所が撤廃され、物資に関銭が 加算されなかったとしても、座が存在していれば、座から課税されてしまい物資の値があ がってしまうのである。だから、関所の撤廃と楽市楽座令は供に行わなければならなかっ たのである。秀吉が楽座令を出したのは、天正一三年(一五八五)九月のことであった。 信長が成し得なかった楽市楽座令を秀吉が完成させることができたのはどのような理由か らであったのか。秀吉が楽座令を出したこの時期には、秀吉は関白になっており、座の本 所である公家・寺社などにも命令をできたのである。支配圏は、関東と九州の島津氏を除 けば本州の中央部にまで及んでおり、毛利氏との関係も良好で瀬戸内海水運も確保されて いたのである。こういった状況下であれば、座を廃止して新しい流通組織の編成を行って も支障がなかったためであると思われる。では、秀吉が行った楽座令はどのような内容で あったのだろうか。この楽座令では、公家・武家・一般の商人であっても、他の商人から 役を取ることを禁止している。そのことがわかる資料として、天正一三年一〇月の秀吉事 記があげられる。この秀吉事記には、「公家・武家・地下商人に至るまで諸役をとどめ座を 破らる。これによって悦者多く、悲者少し、珍重平均の時、何れの年かこれに比せん」と ある。この楽座令により、流通の円滑と費用の軽減に大きな効果がみられた。しかし、座 という旧来の特権を手放すということは、既得権を犯されるのであり、当然なんとかして 役銭を取ろうとする人物が出てくるのである。公家の薄家などがそれにあげられる。こう いった事態に対して、秀吉は役銭を取る者がいたら、公家であっても捕らえよという命令 を下している。毛利家文書には、「諸国の牛に役銭を相懸け候て、薄と云ふ公家これを執る 由候、秀吉いささかも知らざる事の候、定めて謀判たるべく候、言語道断曲事に候」とあ ることからも、その徹底ぶりがうかがえる。つまり、商工業者に対する旧勢力による旧来 の支配を否定したのである。秀吉による楽座令は、商工業者を自由にしただけでなく、統 一権力として必要な商工業者を把握することもできたのである。そして、旧来の座とは異 なる同業組合としての座は残して、そこから秀吉は役銭を取っていたのである。千利休の 遺言状には、和泉の国の問や泉佐野の塩魚座からの収入が記されていることから、それを 知ることができる。 以上に述べてみたが、信長が成し得なかった経済政策をなぜ秀吉が完成できたかが理解 していただけたと思う。つまり、信長の時代に問題として残っていた公家勢力や周辺勢力 が、秀吉の時代になると解消されていったために経済政策を完成させることができたので ある。もし、信長がもっと早い時期に死んでしまい、秀吉に引き継がれていたとしたらも っと違う結果になっていたのかもしれないだろう。 2 信長と諸大名との比較とその先見性 信長が行ってきた経済政策は、徹底したものではなかったが、当時の時代背景を考慮す ると革新的なことであった。しかし、信長が行ったこの政策は他の戦国大名ではできない ことであったのだろうか。ここでは、中世権力に対する考え方が信長と諸戦国大名とでは どのように違っていたのかを考えていきたいと思う。 織田信長の経済法(糸原) 88 第二部 武家法への展開 戦国時代には、天皇を中心とする公家勢力,足利幕府,寺社勢力といったものが存在し ていた。当時の大名は、天下統一するためには上洛して天皇をおさえてしまわなければと 考えていた。そのために、上洛前から朝廷に金や銀などを献上して関係を親密にしようと したのである。この行動は信長にもみられるのだが、中世権力を否定していた信長がこう した献金を行ったのは一体なぜだろうか。その理由は、信長の父である信秀に由来するの である。信秀は、天文一一年(一五四二)に朝廷に献金を行っている。これにより、京都 に織田の名が知られるのである。こういった父の姿をみてきた信長は、朝廷の重要性を認 識していたのであろう。また、幕府への対応だが、足利義昭が将軍となれるよう尽力した 信長は、幕府を実質操っていたのではないだろうか。他の戦国大名が幕府からの大義名分 を得るために画策しなければならなかったということを考えると、信長が経済政策を行う ことのできる土台はできあがっていたのである。 しかし、最も注目すべきことは、信長の先見性である。信長は、中世権力を天下統一の 妨げになるものとして廃除すべきだと考えていたのに対して、他の戦国大名はその権力を そのままにして天下統一を目指したということが大きな違いである。経済政策においても、 目先の利益を求めなかった信長に対して、他の戦国大名は年貢を中心とした直接的な利益 を求めたのである。信長の行った楽市楽座も、当時の常識からすれば、領国内に他国の人 間を簡単に入れてしまうとは信長はうつけであるというようにしか写らなかったであろう。 しかし、信長は人が集まり、物資が安く大量に仕入れられることや他国の情報が集まり戦 いが有利になるといったことまで考えていたのである。こうした信長の先見性は、他にも いろいろとみられる。当時ではまだ普及していなかった鉄砲を重要視したことやフロイス らと接見してヨーロッパの政治経済,戦術に関心をもつなどからもみられるのである。い ずれにせよ、信長の中世権力に対する考え方や先見性により、楽市楽座令をはじめとした 経済政策が行われたといえるのである。 おわりに 私は、この論文を進めていく過程において、織田信長という人物が自分が考えていたも のと大きく異なることに気付かされた。これまで私は、信長は中世権力を否定し、革新的 な経済改革を完成させたと思っていた。しかし、信長も中世権力や他の戦国大名との関係 のため、ジレンマに悩まされていたのであった。そのため、いくつかの政策は不徹底とも いえる結果が残ったのである。しかし、信長の先見性や中世権力に対する考えがしっかり とあったからこそ秀吉に引き継がれていったといえるだろう。そういったことからみると、 信長という人物は偉大であったといえるだろう。信長という人物が存在しなければ秀吉や 家康における経済政策は、なかったものだとさえいえるだろう。 今回、この論文で再認識することができたことが多くあり、こういった郷土の大名のい る愛知という土地に住んでいる以上は、もっといろいろな観点から信長・秀吉・家康を調 べていきたいと感じたのである。 参考文献 『信長公記(上・下) 』 一九九二年 中川太古 新人物往来者 『織田信長中世最後の覇者』 一九八七年 脇田修 中央公論社 織田信長の経済法(糸原) 89 第二部 『戦国武将なるほど事典』 武家法への展開 一九九四年 実業之日本社 『なぜ?なに?日本史雑学織田信長事典』 一九九一年 成美堂出版 『下天は夢か 信長私記』 『日本中世の都市と法』 一九九四年 津本陽 新潮社 一九九四年 佐々木銀弥 吉川弘文館 『欣求楽市戦国戦後半世紀』 一九九八年 堺屋太一 毎日新聞社 『武田信玄伝説的英雄像からの脱却』 一九九七年 笹本正治 中央公論社 『信玄と信長』 一九九九年 『後北条氏と領国経営』 津本陽 東洋経済新報社 一九九七年 佐脇栄智 吉川弘文館 『天下統一の先駆者毛利元就』 一九九六年 緒方隆司 光風社出版 『戦国大名毛利氏の研究』 一九九八年 秋山伸隆 吉川弘文館 『毛利元就』 森本繁 新人物往来社 一九九六年 『秀吉の経済感覚』 一九九一年 脇田修 中央公論社 織田信長の経済法(糸原) 90 第三部 完成した武家社会 江戸初期における朝幕関係について 羽根 大介 はじめに 天皇制が日本史にとって最大のテーマであることについては、おそらく誰も異論のない ことだと思う。それは、天皇制肯定論者にとっても、否定論者にとっても同じことだ。 我々は天皇制が千年以上の時代を超えて存続していることを、知識として知っている。 天皇制が現在の形になるまで、紆余曲折を重ねたことについても、同じことが言える。 しかし、我々は、何故天皇制が千年を超すという長きにわたり存続しているかという問 いについて、明確なる答えを未だに出すことができない。出せるとしても、実に曖昧なも のか、抽象的なものになってしまうことが多い。 現在、私は天皇制が何故長きにわたって存続なしえているかという、日本史最大のテー マに挑もうと思う。天皇制が今日まで続いているのは何故か、天皇の権威とは何か。おそ らく私が書いても、曖昧なものか、抽象的になってしまうかは目に見えたことであると思 う。そのためこれから書く文章は、決してこれまでの天皇制論議の総括ではなく、私なり の一考を提供したものである。なお天皇制と言っても、そのあけぼのの時代から始めるわ けではなく、江戸時代初期における後水尾天皇の時代を中心に採り上げようと思う。敢え てこの時代を採り上げた理由は、文章の後半で答えることとなろう。 もう一度書く。この文章は、天皇制が今日まで続いている理由についての一考を投げか けたものにすぎない。そのため最後の判断は、読み手の皆様に任せようと思う。この文章 を読むことによって、天皇制についての関心を抱いていただけるならば、幸いである。 第一章 1 後陽成天皇の時代 関ヶ原までの騒乱 慶長三年(一五九八)八月一八日、太閤豊臣秀吉死去。 一三年に及ぶ豊臣秀吉の天下は、ここに潰えた。 新しい天下人を決める騒乱がこれから起ころうとしていることは、誰の目にも明らかで あった。 時の天皇は、後陽成天皇である。天皇は書物にいちいち、 『従神武天皇百余代之孫周仁(前名和仁も)』 (神武天皇より百余代の末孫周仁)と署名す るような天皇である。古の朝廷儀式の復興、古代学問の研究、学問の興隆などにも熱心で あった。そこにこそ天皇の気持ちのありようが、如実に示されていると思う。 かつて後醍醐天皇は、鎌倉幕府に始まる武家政治の中で、短期的とはいえ、天皇親政の 政権樹立に成功した。中宮禧子の懐妊を理由に、安産の修法を行うと称して、実は幕府調 伏の祈祷が行われたという話は有名だが、その期間はなんと四年間にわたる。この話は、 後醍醐天皇の幕府打倒に対する執念の激しさ、異様さが一種鬼気をもって迫るものがあっ たことは示しているような気がしてならない。だが正にそこにこそ、天皇が鎌倉幕府を倒 すことができた理由があろう。後醍醐天皇に対する評価は、史家によってまちまちである が、異様なまでの活力の強さを否定する史家は一人もいない。 その活力の強さという点が、後陽成天皇には欠けていたようだ。このことについては、 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 91 第三部 完成した武家社会 後々触れることとなろう。 2 勅使 関ヶ原の合戦といえば、我々は慶長五年(一六〇〇)九月一五日の、あの美濃国関ヶ原 における東西両軍の激闘の場面を思い浮かべることが多い。 確かにそれは間違いではないのだが、通常言われている関ヶ原の合戦には、伏見城の戦 い、安濃津城の戦い、九州における黒田如水の戦いや、東北における直江兼続と最上義光 との戦いなども含まれ、それら個々の戦いの最大の戦いが、あの関ヶ原における激闘とい う理解の仕方もできそうである⑴。 それら個々の戦いの中で、天皇が介入してくるいわば異色の戦いがあった。田辺城の合 戦がそれである。 田辺城は丹後国に存在する所謂東軍側の小城である。この城も伏見城等と同様に、家康 の会津征伐の隙を狙った西軍の攻撃にあっていた。 問題は城よりも、この城を籠城する人物にあった。城の守将は細川幽斎であった。 幽斎は剃髪後の号で、正確には幽斎玄旨。世に在るころは細川藤孝と言った。天文三年 (一五三四)の生まれのため、この時六七歳となる。父は幕府奉公衆三淵晴員とされるが 、実は足利一二代将軍義晴の落胤ともいう。 幽斎は、六歳の時、将軍義晴の命により、名門細川元常の養子となった。父の晴員が和 泉守護細川元有の子で三淵家の養子に入ったことを考えると、藤孝は父の実家の養子とな ったわけである。 一三代将軍義輝が松永久秀に殺された後、その弟である奈良興福寺一乗院門跡覚慶を脱 出させ、甲賀まで逃げのびさせ、以後、義秋、次いで義昭と名を変えた覚慶を助けて、朝 倉、次いで織田信長を頼り、足利一五代将軍に仕立てることに成功したが、義昭の陰謀家 ぶりに愛想を尽かしたのか致仕し、信長に鞍替えした。信長が本能寺に死ぬと剃髪して、 息子の忠興に家督を譲り、自らは田辺城に移った。 忠興はこの時会津征伐軍に属し、大半の部下をつれて会津へ。幽斎は隠居の身ながらも 流石に歴戦の武将。石田三成の決起を知ると、僅か五〇〇の兵をもって田辺城に立て籠も った。攻めるは小野木公郷等の大軍一万五千である。 だが、後陽成天皇がこの事態を憂慮したのは『武人』細川幽斎とは関係がなかった。問 題は『歌人』細川幽斎にあった。幽斎は三条西実澄から、いわゆる『古今伝授』を受けた 歌人であった。 『古今伝授』は『古今集』の秘儀の伝授の意である。細川幽斎は、 『古今伝授』を皇弟八 条宮智仁親王に伝授することになっていたらしい。それがこの合戦で無に帰そうとしたの である。 小野木公郷らの軍勢が田辺城を包囲したのが、七月二〇日。 七月二七日には、八条宮の使者が和睦を調停。大坂にも勅使を送り、五奉行前田玄以に 、田辺城の包囲を解き、幽斎を城から出すようにとの詔を下した。うわべでは朝廷尊崇の 厚さを装っていた豊臣家はやむなくこれを承知し、玄以の猶子前田茂勝を田辺に遣わして 、和議を申し込む。 しかし、幽斎が承知しなかったため、九月に入るとついに天皇は田辺に勅使を遣わし、 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 92 第三部 完成した武家社会 和睦を勧告するという正に前代未聞の出来事となった。 こうまでされては、幽斎も叶わない。正式の勅使相手に拒否しては、勅命に背くことと なる。幽斎は城を敵にではなく、前田茂勝に渡し、部下の将兵と共に茂勝の居城亀岡城に 入った。 この戦いの後、『古今伝授』の名は急激に高くなる。ただの『みやび』にすぎなかった『 歌』というものが、城兵五〇〇人の生命を救った。 『歌』がそれほどの力を持っていた。こ れは武士にとっても庶民にとっても、価値観の転換を迫られる新しい認識であった。戦国 の世を生きた人々の常識を覆す事件であった。それほどこの田辺城開城事件は衝撃的であ り、異常な事件だったのである。 3 官女密通 関ヶ原合戦は、周知の通り東軍の勝利に終わり、天下は徳川家康によって平定されてゆ くこととなる。 そして、時は流れて慶長一四年(一六〇九) 。 それはろくでもない事件であった。馬鹿馬鹿しいと言えば、実に馬鹿馬鹿しい事件なの だ。その事件は、後の世に『官女密通一件』と呼ばれた。 事件そのものは、先に書いた通り馬鹿馬鹿しい事件であった。御所に仕える何人かの官 女が、何人かの公家と密通していたことが露顕したというだけのことだ。だがその官女た ちが、後陽成天皇の寵愛を受けていたことと、その公家たちの素行、そして天皇の凄まじ いまでの怒りが何よりもこの事件を重大なものとした。 戦国時代は、 『かぶき者』と呼ばれる奇妙な姿形や言動を好む人間を生み出した。だが慶 長期、つまり戦国終焉後の『かぶき者』は、戦国のそれとは似て非なる生き物であったと 言うべきであろう。 彼らは、えてして戦国の動乱、そしてその華やかさを知らない「遅れてきた者たち」で ある。その無念と憧れが、益々彼らを危険な行動に導いてゆく。それはもはや武士のみで なく、公家の世界にも蔓延していった傾向であった。 この一件にも、その『かぶき者』が関わっていた。中でも高名だった猪熊教利という若 い公家であった。在原業平にたとえられたほどの美男で、その姿は「うつし絵」(今日でい うブロマイド)にされ、髪形や帯の結び方まで『猪熊様』といわれ、都で流行したという から、その人気のほどが知れよう。 この手の男が好色であるのは、いつの時代も同じである。二年前の慶長一二年(一六〇 七)にも、禁裏に仕える女性と問題を起こし、勅勘をこうむって京都追放を命ぜられた経 験の持ち主であった。それがいつの間にか舞い戻って来て、新たな事件を起こしたのであ る。 ことの発端は、花山院忠長というやはり『かぶき者』の若公家が、天皇の寵愛深い広橋 大納言の娘新大佐という美貌のほまれ高い官女に懸想したことであった。新大佐の美貌の 虜となった忠長は、天皇に仕える女官たちの住居である奥への出入りを許されている牙医 (今日でいう歯科医)兼安備後にとりもちを頼んだ。兼安の妹讃岐(一八歳)が文を取り 次ぎ、忠長と新大佐は兼安の宿所で逢瀬を重ねるようになった。 この艶聞が、猪熊教利らの耳に入った。天下一の美男として、 『かぶき者』公家衆の筆頭 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 93 第三部 完成した武家社会 として、このままでは猪熊の立場はない。そこで猪熊はとんでもない事を思いついた。新 大佐以外にも天皇の寵愛を受けた官女がいる。そこで、その女性たちを誘い出して、一夜 の歓を尽くそうとしたのである。不敬極まれりと言えるが、そこを敢えて行うところが『 かぶき者』の『かぶき者』たる所以であろう。 この誘惑に屈した官女たちは、猪熊の手引きで秘かに禁裏をぬけ出し、さまざまな場所 で密会を重ねた。現代でいうところの乱交パーティである。 公家側の中に飛鳥井雅賢という二六歳になる男がいた。飛鳥井家は代々蹴鞠の家として 続いていたが、この頃は賀茂の松下家の方が実力では上位に立ち、蹴鞠の許状などを発行 するようにもなっていた。雅賢は幕府に訴えて松下家の権利を奪いにかかり、慶長十三年 (一六〇八)七月の裁可により勝訴し、松下家の権利を全て奪った。 その松下家の娘が禁裏に出仕していて、この醜聞の情報を知ってしまったのである。こ うして事件は明るみに出た。 事を知った後陽成天皇は激怒した。歓修寺晴豊の幕府要人宛て書状には『御逆鱗』と記 されているほどだ。天皇は関係者全員を死罪にと主張した。しかしこの当時、検断権を持 っていたのは朝廷ではなく、徳川幕府である。京都所司代板倉勝重が、天皇の意向を受け て駿府の大御所家康のもとへ下ったのは七月一四日のことであった。 報告を聞いた家康は、勝重の三男重昌を京に派遣して真相を調査させる一方、勝重と審 議を重ねた。五人の官女と八人の公家、それに禁裏出入りの牙医(兼安備後)、しめて一四 名の死罪となると、当然公に出る。しかも事件が事件なだけに、公にするには薄みっとも ないのではないか。この頃、天皇の生母新上東門院からも、板倉勝重宛てに寛大な処置を 望む要望があった。おそらく同じ理由からであろう。 家康は八月四日に板倉重昌と大沢基宿を京に派遣し、 『今度の女中の乱体、逆鱗尤もにて 候まま、如何様にも仰次第たるべし。去り乍ら、後難もなき様に、御糾明肝要』と述べさ せている。明らかに引き延ばし作戦であり、また家康が寛大な処置を望んでいることが見 受けられる。 九月一六日、猪熊教利が九州で捕らえられた。 同じ九月の二三日、板倉勝重は駿府から戻り、猪熊と兼安備後は斬首、他は罪一等を減 じて流罪にという家康の意向を伝えた。否、強制したというべきか。 後陽成天皇はこの処置に不満であったといわれる。しかし、禁裏に仕える者の大方が、 家康論に賛成であり(罰せられる公家は彼らの親戚・仲間であった) 、母新上東門院まで家 康の意見をよしとしているため、全員死罪とは言いにくかったのであろう。罪はそれで確 定し、一件は落着した。 『徳川実記』によれば、確定した罪は、官女五人は伊豆の新島、後に御蔵島に流罪。猪 熊教利・兼安備後は死罪。大炊御門頼国・中御門(松木)宗信は硫黄島に遠流。花山院忠 長は松前へ遠流。飛鳥井雅賢は隠岐へ遠流。難波宗勝は伊豆に遠流。烏丸光広・徳大寺実 久はその罪軽しと見て恩免とある。 しかし、事件はこれで終わったわけではなかった。天皇は、あくまでもこの刑を軽いと 見て不満であった。しかも母や公家衆の大半が家康の意見に与したことも不快である。遂 には誰にも会おうとせず、孤独の殻に閉じこもってしまった。 天皇が譲位の意思を言いだしたのは、この年の暮のことである。 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 94 第三部 第二章 1 完成した武家社会 後水尾帝即位 後陽成帝譲位 慶長一四年(一六〇九)師走、後陽成天皇の譲位の意思が家康に伝えられた。一端は、 幕府も譲位を認めた。しかし、この譲位は思いがけない事件で中断されることとなる。 慶長一五年(一六一〇)閏二月一二日、家康の五女市姫が、たった四歳で急死したので ある。市姫は、家康が最も愛したといわれる側室お勝の方(お梶の方ともいう)が産んだ 娘である。家康は本来、子供に対して酷薄とも思えるほどの父親だったが、関ヶ原以降は 人が変わったかのように溺愛している。おそらく方便ではなく、本心からであろう。家康 は譲位の延期を申し出ている。 しかし将軍職を息子に譲り、隠居した形にある家康の娘が死んだからといって、天皇の 譲位を延期するいわれはない。延期の申し出は所司代を通じて行われるのだが、理由がこ れでは、さすがの名所司代板倉勝重も困惑したことだろう。 困惑どころではすまないのが、後陽成天皇である。この頃、天皇は病を患っていた。後 陽成天皇はもともと病気がちであったらしく、目まいがしたり、胸が苦しくなったり、も のを食べると吐いたり、胃の具合が悪かったり、下痢をしたり、誰もいない部屋にいると 急に神経が昂ってきたりしたという。 この時の病は天皇の持病であったとされる癰、つまり腫れ物だったらしい。この治療に は鍼灸が良いとされてきたが、古来天皇は玉体を傷つけることは許されぬという理由で、 鍼灸を据えることが出来なかった。どうしても治療しなければならない場合には、天皇の 位から退くしかなかった。この時代、腫れ物は、命を失うほどの病気であった。天皇が譲 位を考えた理由は時勢への不満からだけでなく、病のことにもあったと思う。 それが、家康の突然の申し出で白紙に戻った。それも子供の病死が原因でだ。 『逆鱗あり 』とある公家が書いているが、当然であろう。 しかし天皇としては如何ともしがたい。譲位とそれに続く新帝の即位、譲位後に上皇が 住む仙洞御所の建設等については、幕府の援助なしにできることではない。 慶長一五年(一六一〇)三月、天皇は武家伝奏広橋兼勝と勧修寺光豊を勅使として駿府 に送った。しかし一ヵ月後、彼らが持ち帰った家康の返事は、天皇にとって思いもよらぬ ものであった。 『御譲位諸事、御構ひなく、是非当年成さるべきと思召さく候わば、その通りに申し付 くべく候』 つまり、 「譲位等の諸事について幕府の手助けが必要でなく、是非今年中にやりたいとお 思いならば、その通りにおやりなさい」ということだ。いや、むしろ「やれるものならや ってみろ」といった方が正しいと言えよう。 さらに、御譲位をなさるなら先ずもって三宮政仁親王の元服の儀を行うべき、という意 見も述べられていた。三宮はまだ元服の式をすませていない。本来ならば、元服の次に即 位というのが通常である。天皇が元服と譲位を同時に行おうとしたのは、延喜の例、つま り醍醐天皇の即位に倣いたいと望んだからだ。⑵ 醍醐天皇は、天皇親政の手本とされる『延喜の治』を行った天皇である。醍醐天皇は寛 平九年(八九七) 、元服と同時に宇多天皇より帝位を譲られた。元服と譲位が同時だったわ 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 95 第三部 完成した武家社会 けだ。後陽成天皇が延喜の例に倣おうとしたことには、天皇の権威再興という本心があっ たものと思われる。 家康はそれを見抜いて、譲位の前に元服を、と言いだしたのだろう。家康の内意を知っ た関白近衛信尹は、まず親王元服を行おうとした。また、八条宮、所司代と相談の上、一 一月二二日、天皇に書状を奏請している。一種の諫言状であった。その内容は、せめて今 年中に三宮の元服を実現して戴きたい。さもないと禁裏と幕府の関係は悪化するに違いな い、というものであった。 この諫言状が献じられたのは一一月二二日付である。今年中といってもあと一月少々し かない。正に切羽つまった事態だったのである。 後陽成天皇の返事はこうであった。 『何事も悪しく候て苦しからず候』 なにもかも悪い、八方ふさがりだからどうなっても良い、答えたのである。 皇族・摂家衆も、これには色を失ったという。どうなっても良い、とはどういうことで あるか。天皇は明らかに破れかぶれになっている。そして、明らかに疲れていた。 結局、臣下らは、禁裏がどうなるか判らぬがお好きなようになされませ、と奏上した。 もし事破れたら、禁裏はなくなるかもしれぬ。それは全て天皇の御意向のためである。臣 下たちもそこまで決意したのだ。全ては天皇のお心のままに、と伝えたのである。 『只だ泣きに泣き候。何と成ともにて候』 これは、どうにでもせよ、ということである。後陽成天皇は、ついに折れた。結局家康の 要求を承諾したのである。投げやりな言葉とも思える⑶が、この言葉には天皇の強い無念 と絶望、そして怨念が込められている。こうして見るとやはり、後陽成天皇は不憫な天皇 である。 慶長一五年(一六一〇)年一二月二三日、三宮政仁親王の元服の儀は、無事とり行われ た。しかし、後陽成天皇は翌慶長一六年(一六一一)正月元日の四方拝・小朝拝にも、正 月節会にも姿を現さなかった。譲位の日時は三月二十七日と決まったが、二月二一日の立 太子の儀式は天皇の逆鱗が伝えられ、式途中で中止とされた。天皇は病んでいたとしか思 えない。それも身体ではなく、心をである。この欠席は、おそらく天皇の一種の『抵抗の 形』であろうが、はっきり言って、この『抵抗の形』は理不尽であり、これでは三宮が不 幸である。この点が後醍醐天皇との決定的な違いである。後陽成天皇には、後醍醐天皇が 鎌倉幕府を打倒したほどの強い活力というものが欠けていたことが、この態度でわかる。 慶長一六年(一六一一)三月二七日、後陽成天皇の譲位の儀は、大御所家康立ち会いの 上で、無事とり行われた。三宮政仁親王の受禅は、里内裏で行われた。 四月一二日、即位の儀がとり行われ、ここに後水尾天皇が誕生した。この時、天皇一六 歳、後陽成上皇四三歳であった。 2 僣上 徳川家康が、泰平の世をつくることを望んだ武将であるという話はよく聞かれる。家康 が武家の棟梁である征夷大将軍を望んだのも、徳川家による千年の平和を考えたためであ ろう。しかし、泰平を乱す者は武士だけとは限らない。徳川家による千年の平和を考えた 時、家康の思考が、孫娘(父は秀忠)和子を後水尾天皇の中宮にのぼらせようというとこ 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 96 第三部 完成した武家社会 ろに行き着いたことは、容易に首肯できよう。 徳川家の娘が皇后になり、その皇子が天皇になれば、家康は天皇の外祖父という地位に 立つこととなる。それが家康の願望であったのである。家康が、足利義満のように天皇の 地位まで望んだとは思えない。 (義満は、上皇を狙ったのだが)しかし、どちらにせよ武士 の僣上ということには違いがない。 後水尾天皇が即位した慶長一六年(一六一一)では、和子はまだ五歳である。だが、政 略結婚に年齢は関係ない。政略結婚に必要なものは、男と女の形をした人形のみである。 人形に年齢が必要であろうか。 更には、慶長一八年(一六一三)六月一六日、朝廷にとって思いもよらぬ法律が制定さ れた。 『公家衆法度』がそれである。内容は、第一条に公家が家々の学問に励むのを勤みと することを定め、第二条に法令に背く者は流罪となることを示し、第三条に禁裏での勤務 励行を、第四条、第五条はかぶき者的な行為の禁止を求めたものであった。 武家政治がいまだ嘗て禁裏に対して法令を発布した例は無い。幕府は本来政権の一部で ある兵馬の権のみを委任されたものであり、立法権は持たない筈であった。 『貞永式目』に せよ『建武式目』にせよ、武家社会の中での規約であり、国家の法律ではない。国家の法 律は朝廷だけが作れるものであったからだ。武士が勝手に立法権を行使し、しかもその法 によって禁裏を規制しようとするなど、僣上至極の振る舞いなのだが、家康は敢えてそれ を行った。 しかし、家康はこの『公家衆法度』に抜け道を作っておいた。それは、五摂家並びに武 家伝奏より幕府に対して申し出があった場合に限り、幕府の沙汰として実施に及ぶという 点である。つまり五摂家と武家伝奏が幕府に申請しない場合には、この法は死法となるわ けだ。家康が法の発効の最終力を公家側に残したことは、世間を憚った証拠であろう。 この『公家衆法度』には、『勅許紫衣法度』というおまけが付いていた。紫衣とは鎌倉期 以降、天皇の手によって高位の僧侶に与えられた特別の袈裟のことを言い、これまで大徳 寺・妙心寺・知恩寺・知恩院など七つの寺院では、自由に住職を定め、天皇の勅許を請う て紫衣を着けることを許されて来た。それをこの法度は覆し、勅許の前に先ず幕府に申請 して許可を取ることを強制したのである。明らかに天皇の権限の制約であった。 この二つの規定が、朝廷に大きな衝撃を与えたのは言うまでもない。朝廷としては、絶 対に受け入れることができない法律であった。だが、無理を承知でこの二つの法を送りつ けて来た徳川家康を罰する法があるわけではない。兵馬の権を持たぬ朝廷に、そんな力が あるはずがなかった。しかも、兵馬の権を持っていたとしても、後醍醐天皇の場合を除い て、禁裏が幕府に合戦で勝った例は一度もないのである。 幕府に抗うとすれば、天皇は武力以外のもので戦うしかない。武力以外のもので幕府を 打ち負かし、禁裏に対して跪かせなければならなかったのである。 3 大坂の陣 大坂の陣は、史上余りにも有名な京都方広寺の鐘銘事件を端緒とする。 それにしても、この鐘銘事件ほど史上悪名高いものも珍しい。余りに無茶で強引で、正 にいいがかりとしか言いようがないものなのだ。 先ず、大仏殿のために新しく鋳造された梵鐘の銘に不穏当な部分があるから、予定され た堂供養と大仏の開眼供養を延期して、鐘銘及び棟札(大工頭中井正清の名がないと文句 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 97 第三部 完成した武家社会 をつけられていた)の写しを提出せよという。重箱の隅をつつくような、しかも言いがか りとしか思えないやり口である。 また、梵鐘の銘の不穏当な部分とは第一に、 『右僕射源朝臣』 右僕射とは右大臣の唐名、源朝臣とは家康のことだ。つまり、『右大臣徳川家康』の意味 である。それを何と『右僕』の部分を無視して、 『源朝臣ヲ射ル』と読んだのである。 二番目は、 『君臣豊楽、子孫殷昌』 君臣ともに豊かを楽しみ、子孫は栄えるという意味なのだが、これを、 『豊臣ヲ君トシテ子孫ノ殷昌ヲ楽シム』 と読んだのだから呆れる。 第三は、有名なあの、 『国家安康』 意味は明瞭であろう。これを『家康』という文字を分解して呪詛したものだと言う。 このような不可思議な読み方をしたのは、金地院崇伝と儒者の林羅山である。崇伝は後 の紫衣事件にも登場するが、このひどいこじつけぶりは、その時にも表れる。また、この 鐘の銘の作者は南禅寺の長老清韓文英で、崇伝の先輩に当たるのだが、それでも崇伝は容 赦しなかった。 これに対して、大坂方は、釈明の使者として駿府に片桐且元を派遣した。しかし家康と は会えず、本多正純と金地院崇伝と交渉し、 一、秀頼が大坂城を出て他の国(大和か伊勢といわれる)に移る 一、秀頼が諸大名と同様に駿府、江戸へ参勤する 一、淀殿を人質として江戸へ送る という三つの条件を呈示され、悲愴な決意を抱いて大坂に帰った。 勿論、こんな意見を淀殿が耳をかすわけがなかった。且元の少し後に淀殿が派遣し、家 康と会見できた大蔵卿局たちの甘い意見の後では尚更であろう。 (大蔵卿局は、且元と同じ 九月一二日に駿府を発ち、一八日に大坂に着いている) 遂に且元は裏切り者と決めつけられてしまった。もっとも、且元が徳川方に買収された 男だという観方は以前からあった。しかし『徳川実記』などを見ている限りだと、且元は 実に粘り強く、徳川方と交渉している。一時は正純・崇伝の二人を圧倒したかのように書 かれているくらいだ。且元が、従来から徳川方に買われていたとは考えにくい。 慶長十九年(一六一四)一〇月一日卯の刻(午前六時)、片桐且元は弟貞隆や一族郎党と その家族を引き連れて大坂城を去り、貞隆が預かっている摂津茨木城へ向かった。 家康はこの日をもって大坂との合戦に踏み切った。即日諸国に陣触れを下し、一〇月四 日には、江戸城石垣修理に当っていた西国の大名たちに帰国と速やかな大坂出陣を命じ、 藤堂高虎に先陣を命じ即時出発、豊臣恩顧の大名福島正則・黒田長政・加藤嘉明に江戸留 守を命じ、その嫡子全てに証人(人質)として出陣を命じた。『海道一の弓取り』の鮮やか さが歴然として現れている。一方、将軍徳川秀忠は、九月八日になって土井利勝を駿府に 派遣し、関東仕置の指揮を請うている。何とも愚図愚図した印象を与える。武将の資格を 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 98 第三部 完成した武家社会 欠いていることは明瞭であろう。 さて、この時期家康は朝廷に豊臣秀頼追討の綸旨を賜りたい、と申し出たという説があ る。 (渋川春海『新芦面命』 ) ごり押しともいえるやり方で、徳川家が遮二無二開戦に持ち込んだことに、家康は後味 の悪さを感じていたのであろう。天皇の綸旨さえあれば、多少は開戦の大義名分が立つ。 しかし、追討の綸旨を出すということは、徳川方の汚いやり方を認めることとなる。そ れも積極的に参加することである。あるいは天皇の綸旨が出たために、徳川家は仕方なく 開戦に踏み切った、と後世に伝えられる可能性もあった。 さらに言えば、ここでもし綸旨が出されたら、以後徳川幕府は都合の良い時にはいつで も、天皇の綸旨を求めることができると判断する恐れがあった。仮に徳川幕府が滅びた場 合でも、それに代わる為政者はやはり同じ事を考える筈である。 そのため、後水尾天皇は断固として綸旨を出すことを拒否したという。 この話が事実かどうかは判らない⑷。しかし、面白い話ではある。さて、一二月一七日 、武家伝奏広橋兼勝と三条西実条が家康の本陣を訪れ、ひとまず家康に帰京を勧め、勅命 をもって講和を締結させよう、という後水尾天皇の内意を伝えたが、断られている。先の 渋川春海の説が事実ならば、家康は都合の良い時には天皇の綸旨を求めるが、天皇が自ら 進んで出てきて講和を締結させようとする時には断る、ということになる。講和の調停を 受け入れることとなると、今後の朝幕関係の逆転もあり得る。そう考えてみると家康の天 皇操縦術の巧みさ、あるいは狡猾さが垣間見えるかのようだ。 慶長二〇年(一六一五)五月七日申の刻(午後四時頃)、大坂城は落ちた。三〇年に及ぶ 豊臣家の天下はこうして幕を閉じた。 城を焼く火は夜を徹して続き、京・奈良からも見ることが出来たという。土御門泰重と いう公家は、清涼殿の屋根に登りこの光景を見た、と日記に残しているが、後水尾天皇も 太閤城を焼くこの炎を眺めたのであろうか。 第三章 1 和子入内 禁中並公家諸法度 大坂の陣により、三〇年に及ぶ豊臣家の勢力は殲滅された。しかし、徳川家にとって、 豊臣家以上に手ごわく、厄介な相手がまだ残存していた。むろん朝廷のことである。 朝廷に対する政策としては、慶長一八年に『公家衆法度』が発布されていたが、この時 は天皇は含まれていない。今度は天皇まで規制しようというのが徳川家の考えである。 天皇は武力こそないが、精神的な意味で庶人の心の奥にまでしみ込んだある種の力があ る。それが、徳川家にとっては恐ろしい。そのため、何とか天皇を幕府の法の下に置かね ばならぬ。それが家康・秀忠の考えではなかったか。それが七月一七日の『禁中並公家諸 法度』となって現れることとなる。 しかし、この『禁中並公家諸法度』の出現まで、古来いかなる法も天皇を取り締まる条 文を含んでいたことはなかった。いわば天皇は法と同格であり、法の埒外にあった。法が 天皇を律することは、天皇が法の下位に立つことであり、そういう意味においては、この 『禁中並公家諸法度』は前古未曾有の法令であり、下剋上ここに極まれりという重大事件 であった。 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 99 第三部 完成した武家社会 この法度は一七条からなり、第一に天皇の任務を規制している。 『一、天子諸芸能之事、第一御学問也』 芸能とは現代の『芸能界』とか『芸能人』などに使われる意味ではなく、教養としての 智識の総体をさす言葉である。 それにしても文章の意図は明白であろう。天皇は現実の政治に顔を向けず、学問にだけ 関心を向けよと言っているのである。更に言えば、学問は中国唐代の帝王学である『群書 治要』且つ歌学と有識学であり、その前に、『経史すなわち政治学や史学を窮めずと言えど も』という部分に、幕府の意図が露骨に出ている。現実の政治は幕府がやるから、天皇は 大昔の帝王学や、和歌・有識学にでも目を向けていろ、と言っているのに等しい。 そして最後に、『相背くに於ては、流罪に為す』という幕府の手による罰則規定まで示さ れていた。朝廷にとっては正に茫然自失せざるを得ない驚くべき法度と言えよう。 2 家康の死 『禁中並公家諸法度』の発布によって、朝廷をがんじがらめに縛ることができた徳川家 には、更にもう一つの野心があった。先に書いた徳川秀忠の娘和子を後水尾天皇の中宮に のぼらせ、和子の産んだ皇子が立太子し、新しい天皇に即位し、新天皇の外祖父として名 実ともに禁裏の政治を掌握することであった。 和子入内については、慶長一九年(一六一四)、翌元和元年(一六一五)の大坂の陣で延 期になっていたが、豊臣家という憂いがなくなった今こそまさに、入内を進める時期であ った。 しかし、この時に和子入内についても、再び延期されることとなった。元和二年(一六 一六)四月一七日巳の刻(午前十時)、大御所徳川家康が死んだためである。享年七五歳。 一般には、家康はこの年の一月二一日、京から来た茶屋四郎次郎が、上方では鯛の天麩 羅を食するのが流行っていると言うのを聞いて、早速鯛を取り寄せて大量に食し、そこか ら腹痛に苦しみ死んだという有名な説が信じられている。しかし、その程度のことで三ヶ 月近く患った挙げ句死ぬものであろうか。実際は、消化器系の器官における癌だったので はないか。 とにかく家康の死は、朝廷と徳川幕府における関係、あるいは対立に変化をもたらすこ ととなる。家康の後継者徳川秀忠が、家康以上に朝廷に対して高圧的な人物であったから だ。更に言えば家康という重しがなくなったため、秀忠はより専制的な態度をとることが できると言えよう。 一般に秀忠の評価は、父家康に対して絶対服従の親孝行息子といったところである⑸。 しかし、秀忠がそんなやわな息子ではなく、したたかで、むしろ冷徹な政治家であったこ とは、これからの多くの事例が物語るところである。 その中でも、秀忠がその冷徹性を発揮したのが後水尾天皇と朝廷に対する政治工作であ った。 3 皇子誕生 和子入内に幕府が奔走していた元和四年(一六一八)、後水尾天皇に既に皇子が生まれて いたという事実を幕府は知った。 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 100 第三部 完成した武家社会 皇子の名は賀茂宮。母は公家四辻公遠の娘で、その姓をとって『およつ御寮人』と呼ば れていた。 しかし、賀茂宮についての詳細は何一つとして判っていない。幼くして亡くなったこと 以外は。 (『資勝卿記』元和八年一〇月三日条) 朝廷は、この賀茂宮誕生のことについては隠し通そうとした。その理由は、この時期が 一番具合の悪い時期だったからだ。その時期は、おそらく元和四年(一六一八)六月下旬 から九月初旬であろう。 京都所司代板倉勝重が武家伝奏広橋兼勝を訪れたのが、この年の六月二十一日。勿論、 和子入内の相談のためだ。入内は明年ということで話はまとまった。 これに基づき、幕府は翌年入内を前提として、和子の入る女御御殿の建築を企画し、九 月には小堀遠州政一を造営奉行に任命している。 ところが『時慶卿記』という公家の日記によると、九月九日の条に、 『女御入内事、来年無之由風説』 が流れたと記されている。 おそらく、この六月二一日から九月九日の間に賀茂宮は生ま れたのであろう。そしてその事が幕府の知る事となったのである。 幕府、と言うより秀忠からすれば、これから娘を嫁がせようという矢先に、側室に子供 が生まれたのである。 秀忠以上に和子の母お江与の方が怒った。 お江与の方は、織田信長の妹お市の方と浅井長政の間に生まれた三女である。名門の誇 り高く、秀忠に一夫一妻制を強要した厳格な妻であった。 秀忠は慶長六年(一六〇一)一二月三日に、長丸という男子を別の女に産ませている。 当時お江与の方がこれまでに産んだ子は、いずれも女子であった。 このままではお江与の方の子ではなく、下賤の女の子供が将軍になる恐れがある(長丸 の母の名は伝わっていない。その女の身分が低かった証拠であろう) 。翌慶長七年(一六〇 二)九月二五日、長丸は二歳で死んだ。死因は灸に当ったためとある。しかし、満一歳に もならぬ赤子に、誰が灸を据えるものだろうか。これは、おそらく秀忠の浮気に激怒した お江与の方が殺したのではないかと思われても、仕方がなかろう。 慶長一六年五月七日にも、秀忠は別の女に男子を産ませている。相手は、北条家の遺臣 神尾伊予栄加の娘お静の方である。産まれた男子の方は、幼名を幸松と名付けられた。 さすがに秀忠も、長丸の件で懲りていたためか、慎重にも幸松を自分の子と認めず、三 歳の時に、土井利勝、本多正信を使って、武田見性院の田安比丘尼屋敷に母子ともに預け た。 見性院は武田信玄の二女であり、武田家親族の穴山梅雪(信君)に嫁いだ女性である。 梅雪の母は、信玄の姉、つまりいとこ同士の結婚である。梅雪は武田家滅亡の寸前に、徳 川家に従い、本能寺の変で帰国途中、土民の一揆により横死。天正一五年(一五八七)に は、息子の勝千代にも先立たれ、見性院は仏門に入った。 果して幸松の件で、お江与の方から干渉が来た。勿論、お静母子を放逐せよということ である。だが、放逐すれば、母子が生きていないことは明白である。 この時、見性院はまず、この子は預かったのではなく、自分の息子として貰い受けたの であると言い、成人後は武田の姓を名乗らせ、自分の知行を譲り、自分の後生を弔っても 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 101 第三部 完成した武家社会 らうつもりだと言い切った。さすがにお江与の方も、以後干渉をやめた。だが、見性院は 油断せず、家康が死ぬと、土井利勝、井上正就に相談をかけ、秀忠の内命を得て、旧武田 家家臣である信州高遠城城主保科正光にお静母子を預けさせた。このあたりは、さすがは 武田信玄の娘と思わせるところである。 幸松は正光の養子となり、寛永八年(一六三一)に正光が死ぬと、家督を継ぎ、高遠三 万石の藩主となり、後年、異母兄に当たる将軍家光を助け、幕閣を支えた名宰相保科正之 となったのである。 そんなお江与の方が、娘を嫁がせる相手の不品行を許すはずがなかった。ある意味で禁 裏の長い習慣のようなものであるのだが、お江与の方が知っているはずもない。 しかし、後水尾天皇からすれば、もともと気の進まぬ婚儀である。これで取り消しにな るなら、その方が余程有り難かったであろう。そして翌元和五年(一六一九)六月、およ つ御寮人が今度は女子を出産した。この皇女は梅宮と呼ばれ、後に文智女王と称されるこ ととなる。 このまま秀忠が黙っているはずはない。この年、関白二条昭実が中風で死ぬと、秀忠は 板倉勝重を使って禁裏に圧力をかけ、後任の関白として九条忠栄を就任させた。忠栄は慶 長一三年(一六〇八)から足掛け五年間関白の地位にあり、家康の言うがままに動いた幕 府にとって『都合の良い男』である。後水尾天皇が即位すると同時に、解任された人物で あった。事実上、幕府は勝手に関白を任免したのである。不敬という以外無い。 しかし、秀忠の方にも弱みがあった。怒りにまかせて禁裏に圧力をかけたものの、肝心 の和子入内の儀が成されることとは別問題である。 ここに一通の書状がある。藤堂藩の歴史を記した『宗国史』におさめられている後水尾 天皇の書簡だ。日付は元和五年九月五日。 『定めて我等行跡、秀忠公心に会い候わぬ故と推量申し候。左様に候えば、入内、遅 々の事、公家武家、共に以て面目然るべからず候条、我等に弟数多これある事に候え ば、何にても即位させられ、我等は落髪をもして、逼塞申し候えばあい済む事に候間 、必定入内当年中は延引せらるるにおいては、右の通りあい調い候様に、藤堂和泉守 肝煎り候わば、さても悦び浅かるべからず候なり』 これは一種の譲位宣言である。自分には弟が多いから、そのうちの誰かを即位させて、 自分は隠居しようというのだ。これが秀忠の最も恐れていた事態である。後水尾天皇に退 位されては、和子入内の儀は水の泡となる。なお、この書簡は、皇弟近衛信尋宛てにされ ているが、実は信尋から藤堂高虎に渡されることを期待して書かれたものである。高虎は この時期、幕府の命令により朝廷への周旋を勤めていた。 徳川秀忠が、平安朝以来禁裏では当然のことになっていた些細な出来事について咎め立 てしたことは、妻の言に乗ってやりすぎたと言わざるをえない。 その事に対して後水尾天皇に譲位を決意させ、肝心の和子入内が危うくなってしまった からである。 だが、今更引っ込みがつくわけがない。そのかわり秀忠は報復として、武家伝奏広橋兼 勝を通して、六人の公家衆を放埒のかどで処罰を下した。万里小路充房を丹波篠山へ、四 辻季継、藪嗣良を豊後へ流刑とし、中御門宣衡、堀河康胤、土御門久脩を禁中出仕停止と した。元和五年(一六一九)九月一八日のことである。 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 102 第三部 完成した武家社会 処罰の理由は、禁裏に傾城、白拍子、女申楽を引き入れ、乱行もってのほか、と言うの だが、傾城以下の禁裏徘徊は室町以降の慣例であり、公家衆を流罪にするほどの罪とは言 えまい。結局は天皇に対する恫喝であろう。この六人はいずれも天皇の側近であり、日々 天皇の御意を受けてあらゆる雑事を引き受けている面々であったこと、そして共に豊後に 流された四辻季継、藪嗣良は、およつ御寮人の実家の人間であることが、それを明かして いる。 当然この恫喝は、天皇はじめ多くの公家たちを怒らせる結果となった。 父の久脩を処罰された土御門泰重の日記によると、九月一八日、夜遅くに京都所司代か ら使者があり、知行、出仕停止と決まり、流刑でなくて安堵したものの、一応の理非の審 査もなく、いきなり処分されるとは無道であると怒り、この処分に参画している広橋兼勝 は『三〇〇年以来の奸佞の残賊臣なり』、 『イルカ(蘇我入鹿) 、守屋(物部守屋)の臣に倍 せる者なり』と罵っている。 さらに、新上東門院(天皇の祖母)、近衛信尋等の禁裏側の人々だけでなく、細川忠利の ような人々までもが泰重を見舞っている事実は、武家の側にも幕府の今回のやりかたに疑 問を抱いていた者がいたことを物語っている。 〈入内決定〉 およつ御寮人の皇子出産発覚の時、妻の言に乗って禁裏に圧力をかけ、後水尾天皇に譲 位を決意させ、和子の入内を危うくしかけた秀忠は愚かにも、その腹いせに天皇の側近で ある六人の公家衆を処罰し、益々天皇の怒りに油を注ぎ、かえって入内を危うくしてしま った。 だからと言って、今更処分を撤回するわけにもいかない。それでは幕府の面目は丸潰れ になる。解決策として秀忠は、慶長八年(一六〇三)以来一八年間京都所司代を勤めた板 倉勝重を解任し、後任に勝重の嫡男重宗を任じた。これで幕府側も責任をとったことにな り、形の上では一応の平衡がとれたことになる。 だが、所司代更迭も天皇の怒りを和らげることは出来なかった。この年の一〇月、天皇 は再び近衛信尋に宸翰を寄せた。内容は藤堂家についての歴史書『宗国史』におさめられ ている先の九月五日付のものとあまり変わりはないが、 『古き道も絶え候て、禁中も廃れ候 儀』と書かれている部分と、譲位の気持ちが固まったことが明瞭に窺える点が異なってい る。 なお『古き道が絶え候て』の部分は、公家の家職を指しており、大方の公家が古くから その家だけに伝えられて来た家職というものを持っていた。それが家職に対する一片の配 慮もなしに、こう簡単に流刑に処せられたりしては、家職は一つ一つと消滅し、古来の伝 承が絶えてしまうという意味である。 今度こそ秀忠は自分の失敗を悟ったらしく、元和六年(一六二〇)二月、伊勢国津城主 藤堂高虎を上洛させ、高虎に幕府の意向通りに朝廷に事を運ばせようとしたのである。高 虎は、武家の指図に背いた天子が流罪にされた先例がある、と公家衆に伝え、今回の入内 が不首尾に終わった場合は天皇に隠岐島へ移っていただくことに、と恫喝した。 勿論、一大名の身で天皇を島流しにするなど言える筈がない。言葉の裏に秀忠の意思が あることは明白であろう。 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 103 第三部 完成した武家社会 藤堂高虎は半生を戦場で生きてきた『もののふ』であり、その恫喝ゆえに公家衆が蒼然 となったことは、想像に難くない。 後水尾天皇は、右大臣近衛信尋、中納言阿野実顕、中院通村、土御門泰重らを召集し、 入内の件について評議し、その結果、一同は譲位の撤回と入内を勧めることとなり、天皇 も幕府の意に従うことに同意したのである。 元和六年(一六二〇)六月一八日、徳川和子入内の行列は諸大名、公家衆を従えて、上 洛後滞在していた二条城から御所に向かった。行列は壮麗を極め、関白までも行列に加え させたという点で、幕府の権力誇示への野心が見受けられる。御所へ運び込んだ入内道具 の費用は七十万石にあたるという。 しかし、この入内が大層なものだと誰もが考えていたわけではない。土御門泰重は日記 に、幕府から天皇への献上が少ないと非難している。泰重は後水尾天皇の側近である。早 い話がこの入内が気に入らなかったので、このような文章を書いたのであろう。しかし、 考えてみれば、当然の反応と言えなくもない。 形からすれば、徳川秀忠は天皇の舅であり、義父であり、外戚となった。これで和子が 皇子を産み、その皇子が立太子し、新しい天皇となれば、秀忠は新天皇の祖父となる。秀 忠の絶頂や、思うべしといったところか。 しかし、現実は秀忠の思い通りにはならなかった。この入内は朝廷との融和、あるいは 征服にはならず、さらに今後朝幕関係を震撼させる事件が起きることとなる。しかも、そ の事件に火をつけたのは秀忠であるから、自らの足を喰っているようなものであった。 第四章 1 紫衣事件 偃武の正体 『元和偃武』という言葉がある。 『偃』とは『伏す』の意をさし、つまり武器を伏す、武器を用いない平和の時代といっ たところか。 確かに、和子入内の元和六年(一六二〇)からしばらくの間は、表立った朝幕間の争い のない『偃武』の時代であったといえよう。しかし、既に見た通り、元和年間(一六一五 ∼一六二〇)における朝廷と徳川幕府における関係は決して平和といえるものではなく、 実に多くの危機と緊張をはらんだものであった。それ故に、この言葉は『太平記』と同様 に、むしろ反語としてとった方が良いとも言えよう。 かなり後の時代となるが、その傍証と言えなくもない書状が残されている。京にいた細 川三斎(忠興。前出の幽斎の子)が、息子の忠利に書き送ったものだ。(『細川家史料』寛 永六年一二月二七日付書状) 『又隠し題には、御局衆の腹に、宮様達いか程にも出来申し候を、押し殺し、又は流し申 し候事、ことの外酷く御無念に思し召さるゝ由に候。幾人出来申し候とも、武家(秀忠) の御孫より外は、御位に付け申されまじきに、余りにあらけなき儀と深く思し召さるゝ由 に候』 この書状は、秀忠の命令を受けた所司代が、和子以外の官女に生まれた皇子を殺し、堕 胎させたりしたという事件の指摘である。また、殺され、流された皇子は決して一人や二 人でないことを物語っている気がしてならない⑹。 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 104 第三部 完成した武家社会 元和九年(一六二三)六月、将軍徳川秀忠は息子家光とともに入洛し(家光の到着は七 月) 、七月二七日、禁中において将軍宣下の陣儀が行われ、その後、伏見城へ三条西実条、 正親町季俊らが勅使として向かい、大広間で将軍宣下伝達の式が行われた。これで源氏の 長者、征夷大将軍は家光に譲られたが、秀忠は父家康に倣い自らを大御所と称し、江戸城 西丸で一切の政治をとりしきった。 翌々月の閏八月一一日、秀忠は禁裏御領として、新たに一万石を寄進した。これは将軍 宣下のお礼であるが、既に懐妊していた和子と天皇へのプレゼントと思えなくもない。こ の時は余程上機嫌であったのであろう。 秀忠からすれば、あとは男子を出産してくれればもう何も言うことはなかった。男の皇 子さえ生まれれば、それで徳川の血が皇室に入ったこととなる。これはいかに優れた戦国 武将どころか、歴代の征夷大将軍でもなしえなかったことである。 この閏八月に、秀忠・家光父子は相次いで江戸に帰還。そして一一月一九日には、和子 が秀忠待望の出産をする。しかし、生まれたのは姫であった。秀忠の落胆は、さぞかし大 きかったことであろう。姫は女一宮と称された。 和子が最初に産んだ皇子が姫であったため、たとえ女一宮が天皇になっても女帝は一代 限りなので、徳川家の血が皇室に入ることはない。これでは秀忠の、と言うより、徳川家 康が計画した朝廷掌握政策は頓挫してしまう。そうなると朝廷にあたると言うのが、秀忠 のパターンである。それは、天皇からすれば意表をついた攻撃であった。その攻撃こそが 有名な『紫衣事件』となる。 2 紫衣事件 金地院崇伝という僧がいる。 崇伝は足利義輝の臣一色義定の次男として、永禄一二年(一五六九)に生まれた。天正 元年(一五七三)に南禅寺に入って僧となり、文禄三年(一五九四)二六歳の時、住職に なる資格を認められ(出世という)、福巌寺・禅興寺などの住職を経て、慶長十年(一六〇 五)二月、鎌倉五山の一つである建長寺の住職となり、翌三月には南禅寺の住職となった 。三七歳の若さで五山随一の寺である南禅寺の住職になったのであるから、尋常の才能の 持ち主ではないと言える。 室町時代以降、外国に送る文書の作成には禅宗五山の僧が用いられて来た。足利義政の 頃は相国寺の瑞渓周鳳。織田信長の時代にはいないが、豊臣秀吉の時には相国寺の西笑承 兌、家康の時にも承兌が用いられたが、慶長一二年(一六〇七)一二月二十七日に死んだ ので、翌年からこの崇伝が用いられることとなった。 はじめは本多正純の指示に従って書記をつとめたが、次第に重用され、慶長十八年(一 六二三)一二月二二日には、家康の命により、伴天連追放の文をで書き上げ、この頃から 外交面ばかりでなく、内政面でも実力を認められ、重要な存在となっていった。 この元和年間には対朝廷工作、対寺院工作に当たっていた。崇伝は同じく家康に用いら れていた天台宗の僧南光坊天海の『柔』に較べると『厳』であり、大坂の陣の発端となっ た『鐘銘事件』の中心人物であったことから、汚い策士であったことが判る⑺。 『大慾山気根院僣上寺悪国師』 これが当時世上で称されていたあだ名であったことから考えると、その人気の無さが判 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 105 第三部 完成した武家社会 る。その崇伝が寛永四年(一六二七)七月一九日に江戸城に招かれ、『上方諸宗出世法度覚 書』を受け取った。この『覚書』こそが、史上有名な『紫衣事件』の発端となったのであ る。 紫衣とは、鎌倉以後、天皇の勅許によって高位の僧侶に与えられた特別の袈裟のことを いう。特に大徳寺、妙心寺等の寺院では自由に住職を定め、この紫衣を頂戴するならわし があった。そこには、天皇と諸寺院の深い関係が窺える。 この天皇の権限に、最初に制限を加えたのは徳川家康である。それは、慶長一八年(一 六一三)六月一八日に発布された『公家衆法度』に付随した『勅許紫衣法度』と、元和元 年七月十七日の『禁中並公家諸法度』に現れている。従来天皇ひとりの権限であったもの を制限し、寺院を幕府の監督下に置こうとしたのである。今回の『覚書』は、この『禁中 並公家諸法度』を意識したものであった。 この秀忠と崇伝の所業を見て、後水尾天皇は激怒したであろうが、譲位をすることはで きなかった。前年の寛永三年(一六二六)一一月に、中宮和子が皇子を産んでいたためで ある。その皇子は高仁親王と名付けられた。秀忠からすれば、徳川の血が入った皇子がい る以上、何かと反抗的な後水尾天皇が退位するなら、その方が有難いのである。高仁親王 はまだ二歳、実質九か月であったが、徳川家が実権を握るつもりであるから、年齢の事な ど構わない。その考えの現れが、 『上方諸宗出世法度覚書』であったように思える。 寛永四年(一六二七)一一月、伏見奉行小堀遠州政一が、仙洞御所造営の責任者に命じ られた。仙洞御所とは、譲位後の天皇が住む御所のことである。幕府の見え見えな魂胆で ある。強引にでも、後水尾天皇を譲位させ、高仁親王を天皇にしようというのだ。 しかしここで、秀忠にとって痛恨事が起こる。寛永五年(一六二八)六月、高仁親王が 病でこの世を去ったためである。親王、僅か三歳であった。 丁度この頃、大徳寺北派を率いる沢庵宗彭、玉室宗伯、江月宗玩の三人の高僧が、幕府 の『法度』の矛盾を挙げた抗弁書を提出していた。 3 沢庵配流 確かに、幕府の紫衣に関する『法度』は矛盾だらけのものであった。例えば禅門の出世 について、 『参禅の修行は、善知識に就き、三〇年、綿密の工夫に費やし、千七〇〇則の話頭(公案 )を了畢の上、諸老門を遍歴し』 とした上、衆望によって出世が求められ、一山の連署があった後、始めて出世入院が認 められるという項目がある。『禅機』 『開眼』 『悟達』といった不明確なものをしりぞけて、 専ら『三〇年の工夫』とか、『千七〇〇則の話頭』といった数字に頼った文章である。この 草稿を書いたのは崇伝であるから、崇伝の仏教観が甚だしく歪んだものであったことがわ かる。 更に言えば、そもそもこの数字自体が、禅家からすれば噴飯物以外の何物でもないので ある。沢庵の抗弁書によると千七〇〇という数字は、インド、中国の禅宗の諸師を記録し た『伝灯録』に載っている祖師の数が千七〇〇一人であり、一人一則として千七〇〇と言 ったに過ぎず、更に実際に言句を遺しているのは九百六十三人に過ぎない。 更に、禅の修行は公案を幾つ透過するかでその浅深が分別されるものではない。大徳寺 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 106 第三部 完成した武家社会 開山大灯は百八〇則で開悟し、二代の徹翁義享は八十則で開悟している。 『三〇年の工夫』についても同じだ。一五、六歳で修行をはじめて師家に三〇年つけば 四五、六歳。出世までに更に五、六年かかるとすると、五〇歳を超える。それから三〇年 かけて弟子を育てることが出来るであろうか。大灯国師は五六歳で没している。 これでは一人の弟子も育てることは出来ず、仏法相続は絶え、禅家は滅びるほかはない であろう、と沢庵は言う。 このように、沢庵の抗弁はいずれもまっとうなものであり、崇伝の仏法理解の底の浅さ をしたたかにえぐるものであった。 しかし、秀忠にそんなことが判るはずもない。判っていても許すことはなかったであろ う。秀忠からすれば仏法より幕府の法度、権威の方が大切だからだ。そもそも、抗弁を許 さないのが法度である。一旦幕府が定めた法度に対して抗弁書を出すとは何事か、という わけだ。 明けて寛永六年(一六二九)二月、沢庵ら大徳寺の僧三人の江戸への召喚が決定した。 何らかの厳罰を処せられることは目に見えている。この事件を機に、後水尾天皇は譲位を 武器として使った。 当時、幕府には弱みがあった。前年高仁親王が逝去した時、中宮和子は懐妊中で、三か 月後の寛永五年(一六二八)九月二八日にまたも皇子が誕生した。だが、その皇子は一〇 日も経たぬ一〇月六日に急逝した。この頃、和子はまたしても懐妊中であったが、今度も また皇子が産まれるとは限らない。そのため、今現在和子の腹から産まれたのは依然とし て姫宮二人だけであったのである。 皇位を継ぐ皇子がいない以上、女一宮が天皇となることになる。奈良時代の称徳天皇以 来、約八六〇年ぶりの女帝復活ということになる。しかも女帝は一代でその血統が絶える ため、女一宮が和子の娘であっても、徳川の血が血統に入ることはない。 寛永六年(一六二八)五月、後水尾天皇は武家伝奏三条西実条と中院通村を江戸に下向 させ、女一宮への譲位を願い出た。秀忠からの返事は、 「女帝はめでたき例多けれど、時期 尚早」とあった。時期尚早とは、懐妊中の和子に皇子が産まれた場合、その皇子が天皇に つかなければ、幕府の計画は破綻するという意味においての時期尚早である。明らかな引 き延ばし作戦であった。 同年七月二五日、沢庵たちに対する判決を出し、沢庵は出羽上山、玉室は陸奥棚倉に配 流。何故か江月ひとりが処罰されず許された。更に妙心寺の強硬派の僧東源は陸奥弘前に 、単伝も出羽由利に流された。 4 後水尾天皇譲位 沢庵らの配流は、確かに後水尾天皇にとって大きな衝撃を与えたであろう。しかし衝撃 は朝廷だけではなく、すぐに幕府も受けることとなった。寛永六年(一六二九)八月二七 日に待望の中宮和子の出産があったのだが、生まれたのは皇女だったのである。 そうなると、ここで天皇に譲位されては、徳川の血を皇室に残すことは不可能となる。 しかしこの時、後水尾天皇は腫物に悩んでいた。この病には灸による治療が必要なため、 やむなく譲位するというのだ。灸と天皇の譲位に何の関係があるのか、と思われるかもし れぬが、古来天皇は、玉体を傷つける灸をすえることが許されなかった。その治療を受け 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 107 第三部 完成した武家社会 るには、譲位して上皇になった上で受けることができたのである。 また、たかが腫物ぐらいで、と思う人もいるかもしれないが、天皇には父にあたる後陽 成天皇も、叔父に当たる八条宮智仁親王も、この病で逝去したのである。天皇が懸念する のも、当然の理であった。 しかし、この時期に天皇が譲位を主張したのは病の事もあったろうが、やはり紫衣事件 のおける幕府の対応への怒りであったであろう。 当然、幕府は引き延ばし作戦に取りかかった。今ここで女帝が立てられては、徳川の血 が皇室に入ることは無くなってしまう。皇子が生まれるまでは、譲位は決してさせてはな らぬ、というのが幕府の本心であった。 しかし、この年の一〇月、幕府は致命的な作戦ミスを犯し、天皇の譲位へのスピードを 早めてしまう。それが、将軍家光の乳母であり、保護者でもあったお福を京に遣り、天皇 に拝謁させた事件であった。その実は、天皇の病が事実か否かを調べさせるための使者で あったことは、言うまでもない。天皇の玉体には、たとえ京都所司代板倉重宗といえども 拝見することは許されなかったため、幕府方が思いついた奇策であったのである。 お福は確かに将軍家光の乳母であり、幕府における功績は大きかったであろうが、所詮 無位無官の武家の娘にすぎない。その無位無官の武家の娘が、参内して天皇に拝謁を乞う など、朝廷のしきたりから見れば、許されることではなかった。 『勿体なき事に候。帝道、民の塗炭に落ち候事に候』 これは、土御門泰重が日記に記した嘆きと怒りである。その怒りは、天皇も同じであっ たであろう。なお、お福は参内に当たって武家伝奏三条西実条の妹分になっている。 寛永六年(一六二九)一〇月一〇日、お福は天皇に拝謁して天盃を受け、春日局の号を 与えられた。更に一〇月二四日、お福の願いによって宮中で神楽が催されている。思い上 がりも極まったものである。もっとも天皇は、お福の傲慢に腹を立てたのか、出座するこ とはなかった。 お福は、一見幕府においては多いに面目をほどこしたように見えたが、この事件がかえ って後水尾天皇を更に激昂させ、譲位を決断させたことを考えると、お福を京に遣ったこ とは、何の益も幕府にもたらさなかったのである。 そして、寛永六年(一六二九)一一月八日朝八時頃。公家衆は束帯を着けて直ちに参内 せよという命令が出された。側近以外の全ての公家衆は理由も判らぬまま参内した。 その参内は、女一宮興子内親王に位を譲るという後水尾天皇の突然の発表であった。あ まりに意外な出来事に、公家衆は驚くほかはなかった。更に驚いたのが、徳川幕府であろ う。幕府側はこの譲位劇を、中宮和子に知らされるまで、全く感づかなかった。 幕府側で最初に譲位の報を受けたのは、京都所司代板倉重宗である。その重宗から報を 受けた大御所秀忠は、当然激怒したであろう。 渋川春海の『新芦面命』によれば、このとき秀忠は、旧例にならい、後水尾天皇を隠岐 島に流そうとしたという。将軍家光の諫言により幸い取り止めになったとあるが、当時の 家光にそれほど皇室崇敬の念があったとはとても思えないし、何より秀忠に意見するほど の力があったとは思われない。恐らく、天海僧正あたりが天皇流罪に反対したのを家光が 口添えをした程度、といったところが真相に近いような気がする。家光の天海への傾斜は 甚だしいものがあったことは周知の事実である。 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 108 第三部 完成した武家社会 結局、秀忠はこの年の暮れに、あっさり譲位を承認してしまった。その態度は、朝廷な どそこになくなってしまったような、徹底した無視の形であった。 譲位から十か月余を経た寛永七年(一六三〇)九月一二日、紫宸殿において、女一宮興 子内親王の即位の式が行われた。称徳天皇以来、じつに八五九年ぶりの女帝(明正天皇) の誕生であった。明正天皇、この年七歳。 その翌々日の九月一四日、幕府方は朝廷に、武家伝奏中院通村の罷免を要求した。通村 は、この時代における武家伝奏としては珍しく天皇側の立場にあったことが幕府から睨ま れたのである。幕府が欲したものは、武家の意思を伝達する者であり、公家の意思を幕府 に表明する通村のような武家伝奏は、好ましくなかったのである⑻。なお幕府は、幕府と 結縁の深い大納言日野資勝を新たに武家伝奏とするべき旨を伝えた。 徳川幕府は、この突然の譲位劇の後、摂家・武家伝奏に対して、改めて朝廷統制の要と して機能させるべく、厳しく梃入れを行うこととなる。しかし、中宮門院和子の産んだ皇 子が天皇の位につくことはなかったため、『徳川家の血統を代々皇室に残す』という幕府の 本来の至上目的は、もろくも崩れさったのである。 その後、波瀾万丈の生を歩んだ後水尾上皇は明正、後光明、後西、霊元の四代、五一年 にわたる院政をとり続け、延宝八年(一六八〇)、四年にわたる生涯を閉じた。 後水尾天皇はしばしば後醍醐天皇以来の最も苛烈な天皇と言われるが、それゆえに強大 になりつつある徳川幕府に抵抗し、徳川家の至上目的を破ることができたと言えそうであ る。 その後、朝廷は政治の面から離れ、学問・芸能の道、すなわち文化における道を歩むこ ととなる。天皇の存在が政治上再びクローズアップされたのは、百八〇年後の幕末の動乱 期であった。 おわりに 朝廷と武家の関係を、男と女の関係に例えたのは司馬遼太郎である。 これは、幕末期を主題とした小説に出てくる例えであるが⑼、司馬遼太郎に言わせると 、古来よりこのような関係が続いていたという。言いえて妙な例えである。 朝廷と武家の関係は、鎌倉幕府成立以降、朝廷の力は徐々に失われて行き、その政治的 影響力は、歴史の主役の座から転落してしまう。戦国時代には、皇居は応仁の乱の被害に よって荒らされてしまっただけでなく、長い間即位式を行うことができない天皇が現れる ほどになってしまったありさまであった。 そして、江戸時代。 信長、秀吉、家康により天下統一の事業を果たした武家階級は、武家による天下の支配 を実現するため、天皇と朝廷の力を押さえて行くこととなる。時には男女の痴話喧嘩程度 では済まない状況にもなった。 しかし、幾ら武家が強引な手段を用いて天皇や朝廷を押さえて行こうとしても、武力そ のものを用いて一気に潰しにかかろうとした例はない。それだけの力が天皇にあるという ことだ。では、その力とは何か。 それは、断じて武力ではない。天皇による王道が、後醍醐天皇の時代を除けば、無意味 に庶人を殺したことがなかったからだと私は考える。それゆえに、庶人は、身分にかかわ 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 109 第三部 完成した武家社会 らず、天皇と禁裏に熱い想いを寄せる。 朝廷ではなく、天皇に力があったのは平安時代の初期が最後である。それ以降は、天皇 は文化や学問・芸能の道をとり、政治的権力から離れて行く。 政治的権力とは、別に独裁政治のことではない。天皇が絶対的君主であったと思われが ちな古代でさえ、推古天皇が聖徳太子を摂政に任命したように、他の優秀な人材に政治を 任せていた。それは、決して専制、あるいは絶対政治ではなく、官僚型政治のはしりであ ったと思われる。天皇親政と呼ばれる醍醐天皇の時代も、決して独裁ではなく、菅原道真 のような人材を用いたりしている。専制的なイメージを持たれがちな、奈良時代の孝謙天 皇(称徳天皇)の場合も、その政治において名前が喧伝されるのは天皇ではなく、やはり 藤原仲麻呂(恵美押勝)や道鏡のような人物である。そこには、どこか象徴天皇的な印象 を感じる。 そういう形の政治からでも天皇が身を引くということは、精神的・文化的権威への転換 であると言えよう。 ここで私は、天皇制が現在も続いている理由があると考える。天皇は政治的権力から離 れ、日本文化の精神や伝統を象徴する存在となった。文化的共同体の象徴として、すなわ ち精神的権威となり、その点が庶人の支持を受けたのである。これは、現在の象徴天皇制 にも通じるものと言えよう。 そういう意味においては、昔の左翼主義者が、どんなに天皇制を批判しても庶人の支持 を得られなかったことがわかる。大抵の左翼は武力に訴えるからである。 近年の皇太子殿下の『ご成婚の儀』に対しても、 「ファシズムの復活だ」と言って反対す る人々もいたが、そもそも『ご成婚』と政治の一面であるファシズムがどうして結び付く のかが判らないし、芸能人の結婚式とどう違いがあるのかというのが、庶人の本音であろ う。 日本国憲法の第一条は、 『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、こ の地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』とある。 日本国憲法を作った人間は、日本人の心情をよく理解しており、けだし名文であると言 えよう。 参考文献 『江戸時代』 大石慎三郎著 一九七七年 中央公論社 『関ヶ原合戦』 二木謙一著 一九八二年 中央公論社 『日本文化史』 辻善之助著 一九五〇年 春秋社 『日本仏教史 近世篇』二∼四 辻善之助著 一九五三∼五五年 岩波書店 『江戸開府』 辻達也著( 「日本の歴史」13) 一九六六年 中央公論社 『別冊歴史読本日本秘史シリ−ズ2 秘史!天皇家の系譜』 一九九八年 新人物往来社 『日本の歴史がわかる本 室町・戦国∼江戸時代篇』 小和田哲男著 一九九三年 三笠 書房 『細川幽斎伝』 平湯晃著 一九九九年 河出書房新社 『和歌大辞典』 一九八六年 明治書院 『後陽成天皇の譲位をめぐって』 (「後陽成天皇とその時代」) 一九九五年 霞会館『 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 110 第三部 武家と天皇』 今谷明著 『徳川実記』 ( 「新訂増補国史大系」 ) 一九六四年 吉川弘文館 『後水尾院』 熊倉功夫著 「江戸時代の朝廷支配」 完成した武家社会 一九九三年 岩波書店 一九八二年 朝日新聞社 高埜利彦著(『日本史研究』三一九号) 一九八九年 注釈 ⑴『日本の歴史がわかる本 室町・戦国∼江戸時代篇』 一三八頁 小和田哲男著 一九九一年 三笠書房 ⑵⑶⑷⑹『武家と天皇』 一四一頁⑵⑶、一四八頁⑷、二二九頁⑹ 今谷明著 一九九八年 岩波書房 ⑸⑺⑻『江戸開府』 一四二頁⑸、二九〇頁⑺、三八五頁⑻ 辻達也著( 「日本の歴史」13) 一九九五年 中公文庫 ⑼『竜馬がゆく』 (五) 一四八頁 司馬遼太郎著 一九九二年 文春文庫 江戸初期における朝幕関係について(羽根) 111 第三部 完成した武家社会 江戸の刑事裁判 難波 愛資 はじめに 「これにて一件落着」時代劇の奉行が言う決めゼリフである。時代劇等から、知られて いるようで案外知られていないのが江戸時代の裁判制度である。犯人捜査はどのように行 われ、どういう過程を経て刑罰が決まったのか、また刑はどのようなものがあったのか。 この論文を通して江戸の刑事裁判を探っていきたいと思う。 第一章 捜査 1 捜査機関 寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行(幕府が公式に三奉行と称するようになったのは享 保六年〔1721〕以後) 、火附盗賊改、道中奉行、京都町奉行等の遠国奉行、郡代、代官が 刑事事件について有する権限は手限吟味権と手限仕置権に分けられる。手限吟味権とは他 の捜査、裁判機関に関与を受けることなく、独自で犯罪を捜査・裁判し得る権限を意味し、 手限仕置権とは幕府(老中)に仕置伺をなすことを要せずに、独自で刑罰を専決し、かつ 刑の執行をなし得る権限をいった。手限吟味権を有していても、手限仕置権についてはそ の範囲が限定されていった。つまり手限仕置権は裁判機関によって異なっていた。 <町奉行> 町奉行は慶長九年〔1604〕、土屋権右衛門重成が八重洲河岸の南組奉行に、米津勘兵衛由 政が道三川岸の北組奉行に任ぜられたのが南北両町奉行の始まりだとされている。寛永八 年〔1631〕 、加賀爪忠澄を北町奉行、堀直之を南町奉行とし、この時から役宅を作って、 隔月交替(月番)で勤務した。江戸の特殊性から、町奉行は遠国奉行ではないので、地名 を冠せずにただ単に奉行と呼んだ。町奉行は、旗本から任命され三千石高が多かった。定 員は寛永十二年〔1635〕に二名であったが、元禄十五年〔1702〕中町奉行が設置され、長 崎奉行丹羽遠江守長守が町奉行に進み、これより町奉行は三名となったが、享保四年 〔1719〕一名を減じ再び二名となった。当初北町奉行所は常盤橋門内に、南町奉行所は呉 服橋門内に設置された。宝永四年〔1707〕に北町奉行所は数寄屋橋門内に移転したが、そ の間元禄十五年〔1702〕中町奉行所が鍛冶橋門内に設けられ、享保二年〔1717〕常盤橋門 内に移った。その後享保四年〔1719〕呉服橋門内の南町奉行所を廃止し、中町奉行所は北 町奉行所に、従前の北町奉行所を南町奉行所と改称し、文化三年〔1806〕には北町奉行所 が再び呉服橋門内に移転し幕末に及んだ。南・北の名称は特別の意義をもたず、場所的な 相対関係に過ぎなかった。 捜査・裁判に関しては、吟味方、例繰方が重要であった。吟味方は、与力十騎・同心二十 人で構成され、民・刑事の捜査・審理を行い、かつ刑執行事務に従事した。例繰方は、与 力二騎・同心四人で構成され、罪囚の犯罪に関する情状、断罪の擬律を行うと共に町奉行 所の先例集である御仕置裁許帳を整備し、必要があればこの御仕置裁許帳に照合して書類 を作成し奉行に提出した。その他、赦帳撰要方人別調掛というものがあり、与力四騎・同 心八人をもって構成され、刑の宣告を受けた囚人のうち、死罪以下の罪人の名簿と罪状書 を作成し、御赦(恩赦)が出た際の御赦該当者の名簿を作成して奉行に提出し、また撰要 江戸の刑事裁判(難波) 112 第三部 完成した武家社会 類集(判決集の編集)をまとめ、江戸市中の名主から提出のあった人別改帳を取り扱った。 いずれの分課も同心が与力を補佐した。 <勘定奉行> 勘定奉行は初め勘定頭と称し慶長八年〔1603〕大久保石見守長安が最初であった。元禄八 年〔1695〕勘定奉行と称した。旗本から任命され三千石高であった。享保七年〔1722〕公 事方、勝手方を定め各二名を置いた。勝手方は財政担当者であり、公事方は諸国代官所の 訴訟を掌り、月番であった。当初勝手方、公事方は一年交替であったが、後には任命制に なったようである。捜査は主として評定所留役がこれにあたった。 <寺社奉行> 寺社奉行は慶長十二年〔1612〕板倉勝重、金地院崇伝に寺社に関する事務を掌握させたの が始まりとされる。寛永十二年〔1635〕奉行職を置き、安藤右京進重長・松平出雲守勝隆、 堀市正利重を補した。譜代大名から任命され、万治元年〔1658〕に奏者番からの出役(兼 帯)が恒例となった。 寺社奉行は大名であるから、町奉行や勘定奉行のように直参の与力や同心を配下に持つこ とはなく、捜査・裁判に従事する者は陪臣から寺社役、大検使、小検使、寺社役付同心等 を任命した。しかし他の二奉行と異なり、捜査・裁判に不慣れなため、後に評定所配下の 評定所留役を配属した。この評定所留役は吟味物調役と改称し、捜査・裁判などの調査に あたった。捜査・裁判に従事する主な者は、吟味物調役の外、寺社役と寺社役付同心であ った。寺社役は家臣から四、五名選ばれ神官・僧侶の犯罪を捜査・審理し、大検使は寺社 役から、小検使は中級武士のうちから選ばれ、いずれも管轄の寺社を巡検し寺社に関する ものの殺傷事件には必ず臨検した。寺社役付同心は寺社領などの犯罪捜査に従事し、罪人 の取り調べ、処刑などを行った。しかし捜査力が弱体であったことから、往々にして犯人 逮捕の際、町奉行所同心の協力を求めた。 <道中奉行> 道中奉行は街道の宿場に関する訴訟・道路・橋梁の普請修復などを管轄した。道中奉行に は大目付・勘定奉行から一人ずつ兼帯することになり、勘定奉行からは公事方勘定奉行が 多くこれを兼帯した。 五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥羽街道)及びその宿場は御料所(直轄 地)と私領に跨って貫通点在しているが、五街道に限り道路・旅人・旅籠屋・飯盛女・人 足等交通往来に関する事件は道中奉行が専管し裁判した。その実務にあたったのは勘定奉 行に所属する役人であって、道中方と称する分課があった。したがって道中奉行の実権は 兼帯勘定奉行の掌握するところであり裁判については特に勘定奉行が主となって行ったの で大目付の関与は形式的なものであった。 <火附盗賊改> 火附盗賊改は、先手弓頭・先手鉄砲頭から加役として兼補され、旗本で千五百石高。寛文 五年〔1665〕先手頭水野小左衛門守正が盗賊改を兼帯したのが始まりとされている。天和 三年〔1638〕火附改を設けた。その後元禄十二年〔1699〕一旦両職を廃止したが、元禄十 五年〔1702〕には復活させ、享保三年〔1718〕盗賊改・火附改に博奕改をも兼帯させ、火 附盗賊改と称した。秋から春にかけて犯罪が増加するので十月から翌年三月までは一名増 員した。これを当分加役といった。また天明一揆等の特殊犯罪が発生したときには先手組 江戸の刑事裁判(難波) 113 第三部 完成した武家社会 から増員された。これを増役といった。 火附盗賊改は市中を巡察し、火附・盗賊・博奕(享保十年に町奉行所管になる)の犯人を 検挙することが主たる任務であり、大名・旗本・御家人等の将軍直属の武士を除く陪臣(宝 暦十年〔1760〕以降は御三家方・諸大名・旗本の家来であっても挙動不審者については召 し捕り吟味できるようになった) ・町人・百姓・神官・僧侶など区別なく検挙する権限を有 していたが主たる対象者は無宿者であった。 火附盗賊改は町奉行などと異なり、役方(文官)ではなく番方(武官)であったから、捜 査方法が強引で荒かったことでも有名であった。また、火附盗賊改自身が江戸の市中を巡 回したとき犯人を逮捕することがあり、これを「御馬先召捕」と称し名誉としたが、後に 弊風を生じ、予め逮捕した犯人を自身番に留置しておき、たまたま火附盗賊改が巡廻に来 た時に逮捕したように装うに至った、という。 <目明し> 捜査機関の私的補助として目明しがあった。目明しは一般に岡引・手先・御用聞・小者等 といわれた。江戸の目明しは、平安時代の検非違使庁の放免の系統に属するといわれる。 放免は平安から鎌倉時代にかけ、刑期を終えて出獄した前科者が検非違使庁の下部として 使役され犯人探索のために利用された。下部はもともと盗賊を逮捕し囚人を拷問し流人を 配所へ押送することなどを職としていたもので軽罪の者は放免して用いたので、一に放免 ともいい、また追い使われて駆け走ることから「走下部」とも言われた。 目明しは犯罪捜査面においてそれなりの功績を挙げていた。しかし偽目明しや目明し自身 が特殊な地位を利用して脅迫行為等を行い、その弊害も著しかった。そのため正徳二年 〔1712〕に「評定の面々へ被候御書付」のなかで目明し使用禁止について触れている。ま た享保二年、八代吉宗の時にも同様の触れを出し、 「三奉行所には目明しなるものは一人も いない」といい、目明しは幕府非公認の存在になっていった。 それでも目明しが絶滅できない理由として、江戸の公的捜査機関の捜査能力が不十分であ ったことと、的確な情報を把握していた目明しを適宜利用することでそれなりの効果をあ げていたことがあるからである。天保の改革時に町奉行所の役人から小遣銭をもらって情 報を提供する目明しが百五十人程いたといわれ、慶応三年〔1867〕には南北両奉行所あわ せて三百八十一人の目明しが存在したといわれている。 2 捜査方法 <捜査の端緒> 捜査機関の犯罪認知は捜査能力が不十分であったことから、捜査の端緒は被害者等一般私 人による訴えによらざるを得なかった。訴えは管轄奉行所に対して一定の手続きを履行し てなすべきものとされた。この手続きを経ない筋違いの訴えは禁止され処罰された。筋違 いの方法として、直接将軍や老中に対し訴状を提出する「直訴」 、老中等重要官職にある者 の通行の途次に直接に乗物に近づき訴状を提出する「駕籠訴」、評定所・三奉行所・重臣の 邸宅等に訴状を出す 「駈込訴」、 奉行所等の役所に密かに目に付くように訴状を捨て置く 「捨 訴」 、老中等のまたは役所の門前等に密かに訴状を貼付しておく「張訴」があった。特に重 く罰せられたのは、百姓一揆に見られるような徒党を組んで強引に訴える「強訴」であっ た。 江戸の刑事裁判(難波) 114 第三部 完成した武家社会 訴状の提出は吟味筋(刑事裁判) ・出入筋(民事・刑事裁判)共に、訴状を提出しようとす る申告者が支配を受ける名主宅で所定の書面に名主・月行事・五人組・家主等の町役人に よる加判の上、町役人と共に奉行所に出頭し「恐れ乍ら御訴申し上げます」と物書同心に 対し口上し訴状を提出した。これを当番与力に渡し、当番与力は例規に従って指図を与え た。重要事件の時は言上帳に記した。被害の届出も重要な端緒であって被害届は有力な証 拠であったから提出を怠ったものは処罰された。 <捜査の方法> 捜査の目的は犯人の容疑事実の有無を一応取り調べ(一通の糺)、容疑十分と思料される者 のみ身柄を奉行所に送致する事であった(奉行所送り)。この段階における捜査の主体は同 心・目明しであった。 三廻り同心と呼ばれる隠密廻り(町奉行に直属し秘密探索に従事した) ・定町廻り(市中を 巡廻し犯罪捜査に専従した)・臨時廻り(定町廻りと同じ任務で増員の時に勤務した)は、 一般的に犯人ないし事件関係者を自身番に呼び出して取り調べ、犯人逮捕する必要があれ ば逮捕の理由を告げることなく単に「御用に付」と称して身柄を拘束した。目明しが単独 で逮捕し取り調べの上同心の巡廻を待つ事もあった。また自身番に詰めている町役人が犯 人を逮捕し巡廻の同心に身柄を引き渡すこともあった。これを「自身捕」と称した。同心 は自身番において一応の取調べをし、犯罪の嫌疑がない時は身柄を釈放し、容疑ありと判 断すれば縄をかけ大番(調番屋)に送致した。もっとも夜間であれば自身番に詰めている 家主から身柄預状を受け取って同所に留置し、翌日身柄を送致した。犯人のみならず挙動 不審者に対する身体捜索・所持品の押収・家宅捜索等の強制処分につき、奉行の令状は必 要としなかったが、公正を期する意味で町役人の立会いを求め、また押収品目録の請書を 徴した。ただ逮捕については場所的制限があり、寛永寺・増上寺など格式の高い寺院、御 三家(水戸・尾張・紀伊)等の門前においては犯人をその地域外に出して捕縄をかけた。 死刑や遠島にあたる重大犯人を三廻り同心が逮捕した時、あるいは目付けその他の役所か ら犯人の身柄を受け取った時、または犯人が奉行所に自首した時等は大番屋に留置せず直 接奉行所内に付置された仮牢に留置することもあった。大番屋においては犯人の取調べの 外、被害者・八品商人(質屋・古着屋・古着買・古鉄屋・古鉄買・古道具屋・小道具屋・ 唐物屋など幕府が贓品などの取締りのため特別の規定を設けた八種の商人)等の事件関係 者を呼び出し、また押収した証拠物件の取調べをした。 容疑者の白状を得て「捕物書上」を作成することが究極の目的であった。これは、吟味に おける「吟味詰り之口書」に対し準備的・暫定的調書であるから「仮口書」とも呼ばれた。 「捕物書上」作成のために同心・目明しによる拷問類似の行為が行われることもあった。 この拷問も吟味での拷問と違い、法規制が無かった為とても残虐なものであった。捜査に 必要ならば数日間大番屋に身柄を留置した。取調べの結果容疑がない時は釈放し、容疑の ある者については「捕物書上」を作成し同心がこれを身柄及び証拠物件と共に奉行所に送 致した。 三廻り同心による逮捕の外、居住者・被害者等の訴出により検使を遣わした上、一件の者 共を召し出し、入牢・預・手鎖等の身柄措置をなし吟味に及ぶこともあった。 特別な捕物として、江戸市中で乱暴狼藉行為がある時、あるいは犯人が家屋の中に取籠も った時などは町名主から町奉行所へ訴え出ると町奉行は直ちに当番与力一騎、平同心三人 江戸の刑事裁判(難波) 115 第三部 完成した武家社会 に出役を命じた。これを「捕物出役」といった。また旗本・御家人等が罪を犯し、町地に 逃げ込んだ時、その者の頭支配が町方に探索方を依頼すると共に幕府に上申し老中から町 奉行に対し逮捕方を指図した。老中の下知による逮捕であった。そのためこれを「御下知」 といった。犯人が旗本・御家人の他、浪人・盗賊であっても重大事件のときは御下知物と なった。他には「御名指物」があった。これは公事方勘定奉行が代官を介して逮捕すべき 人物を「関東取締出役」に指名することである。関東取締出役は文化二年〔1805〕設置さ れ、代官所の手付・手代から選抜された。関八州のうち水戸領を除く大名領・旗本知行所・ 寺社領の区別なく犯人を捜索・逮捕する権限が与えられ、そのため勘定奉行発行の証文を 所持していた。 捕物の目的は犯人を殺傷することなく逮捕することにあり、それによって犯人の自白を得 て余罪・共犯者の有無・事件の真相等の追及を可能にすることにあった。しかし場合によ っては切捨が認められた。犯人逮捕に際し役人に抵抗し公務執行妨害をなした者は死罪に 処し、役人を殺傷した時は獄門となった。 第二章 裁判 1 裁判機関 江戸の裁判機関は捜査機関と同じく、寺社・町・勘定・道中の各奉行と火附盗賊改があっ た。あともう一つ、評定所があった。評定所とは奉行が重要な裁判をなし評議するために 設けられたものであり、三奉行に支配下の事件で特に重大なもの、二奉行に関連する事件 及び武士に関連する事件を扱った。寺社奉行四名、町奉行二名、公事方勘定奉行二名が評 定所一座を構成し訴訟事件を合議裁判し評議決定するところであった。評定所で行われる 訴訟上の事務のうち最も重要とされるのが評定所一座による行為であった。この評定所一 座の機能は二種あり、一つは老中の諮問機関としての機能、他は裁判機関としての機能で ある。 老中の諮問機関としては、老中の諮問に対して評議し答申することが最も重要なことであ った。もっとも老中が特に参加を命じない場合を除き、三奉行のうちから御仕置伺を提出 した奉行は評議に参加しないのが原則であった。老中はこの答申を採用する時は、死刑・ 遠島については将軍の決裁を得て伺いをした向に御差図を発し、それに基づき御仕置が宣 告された。もし老中において一座の答申を不可とする時はさらに再評議を命じたが、前の 掛奉行(主任奉行)は再評議には参加しなかった。 裁判機能としては、他領支配に関する出入物を裁判した。いわゆる「評定公事」がこれで あった。吟味物としては「一座掛詮議物」があり、寺社奉行全員、南北両町奉行、公事方 勘定奉行二名、大目付・目付各一名によって構成されたが、これは例外的なものであり天 明八年〔1788〕の伏見奉行小堀和泉守事件、天保九年〔1838〕の大塩平八郎の乱等があっ たに過ぎない。特別裁判所ともいうべきものであった。 2 裁判 <裁判の開始> 奉行が親しく法廷に臨んで吟味にあたることを「直糺」という。事件関係者が奉行に集 められると直糺によって吟味が始まるのである。 奉行が法廷に臨席して発言するのは、冒頭手続・吟味詰のための口書の確認・判決申渡 江戸の刑事裁判(難波) 116 第三部 完成した武家社会 しの時だけであった。これは奉行の管轄、責任を明らかにし、あわせて裁判を権威あるも のにするために奉行の親臨を不可決の形式としていたからであった。 冒頭手続で奉行がすることは、人定尋問・罪状の概略の取調べ(一通の糺) ・未決勾留の 処置であった。未決勾留の方法としては入牢があったが、幕府はこれを制限する方針を立 てており、牢屋以外での未決勾留を希望していた。無宿は別として、有宿者は軽い罪、す なわち手鎖・過料・叱等にあたる場合は入牢させず、私人ないし団体に責付、監禁させる 預にし、江戸町方では「宿預」 、在方では「村預」といった。もし未決勾留中の者が脱走を した場合、その者は吟味中の犯罪に科せられる罪より一等重く罰せられ、預り人は捜索の 義務を負い、探し出せないと過料に処せられた。 <下役糺> 下役糺とは、評定所留役・吟味物調役・吟味方与力など各奉行所における奉行配下の吏 員、すなわち実質的裁判担当者による糺問の事を言った。奉行による冒頭手続の後、下役 が奉行を代行して本格的吟味を続けた。犯罪事実を実質的に認定するのは下役糺において である。 町奉行所では奉行が冒頭手続ののち、一件を吟味方与力に下して詳細を追々に吟味させ た。奉行はこの時、当該一件に関する見込み、意見を書き一件書類に添えて渡すこともあ った。直糺は形式的であったにせよ奉行がある程度の心証を持つのは当然であり、これを 奉行の意見として下役に伝達したのであった。 下役糺にあたる掛り吟味方与力はくじ引きで決められたり、奉行の指名によって決めら れたりした。一件に縁故のある者は掛りから外れる事もできた。 被疑者の自白を得るため、まず吟味方与力は口頭尋問を行った。口頭尋問では投獄・責問 を予告する威嚇が盛んに行われ、それでも否認する場合は拷問が行われた。 <拷問> 下役糺では「吟味詰り之口書」を作成することが目的であった。 「吟味詰り之口書」とは書 面に転換された被疑者の自白であった。 「吟味詰り之口書」が有罪判決には必要であったこ とから、拷問による自白強制が不可避であったことがわかる。 まず、掛与力が問書を読み聞かせ、利害を説き有体のまま白状せよ、と再三にわたり説諭 し、それでも否認する場合は牢問をした。最初に笞打をし、自白をしない時は石抱と称し 三角形の木台に座らせ、次第に伊豆石を何枚も重ね、自白するまで笞打と石抱を交互に反 復継続した。ここで普通の罪囚は自白をした。この石抱によっても自白をしない時は数日 の間隔を置いて身体の回復を待って、海老責や釣責を行った。海老責とは胡座すわりにし 両手を後ろに回して体を屈曲させ、両足首を青細引で一つに結び右足首から首へ縄をかけ た上、徐々に絞め寄せ両足と項とが密着するように緊縛した。釣責は最も過酷な拷問とい われ、両腕の下膊部に下布を巻きつけ両腕を背中に回して堅く青細引で縛った上、拷問蔵 の柱の上下に鐶をつけそれに右の青細引縄を通して蔵の梁に引き上げ両足を地上二・三寸 位の所まで垂らし、そのまま放置しておくと徐々に縄が体に食い込みその苦痛は甚だしく 二・三時間もすると足の爪先から血が滴ることがある。 そして期待した白状が得られると、その場で口書を作り押印させた。これを「白状書」と いった。そして与力は「白状書」と「牢問御届」に問書を添えて掛奉行に提出した。 <吟味詰> 江戸の刑事裁判(難波) 117 第三部 完成した武家社会 吟味詰とは吟味終了ということで、つまり「吟味詰り之口書」の完成を意味した。幕府法 上、有罪判決をなすには原則として「吟味詰り之口書」が必要であった。 「口書」とは一般 に被糺問者の供述録取書の事をいい、武士及びこれに準ずる特別身分の者の場合は「口上 書」とよんだ。この二つは書式にやや違いがあった。下役糺にあたり吟味役人は日々の吟 味において「有躰可申上書」を命じて尋問し、事件関係者より供述を録取し、これを基に 有罪と思われる者について「吟味詰り之口書」を作成した。犯罪事実は「吟味詰り之口書」 によって認定された。 「吟味詰り之口書」の特色は「詰文言」で末尾を結ぶことである。詰文言は、例えば「不 埒之旨御吟味受可申立様無御座候」 「不届之旨御吟味受無申奉誤入候」等と書いたが、叱・ 急度叱・手鎖・過料など軽い刑(「御咎」 )にあたる場合は「不埒」「不念」 「不束」といい ( 「不埒詰」 ) 、追放以上の刑(「御仕置」)は「不届」と書き( 「不届詰」 ) 、数罪ある時、軽 い場合は「旁不埒」と書き、重い場合は「重々不届」と詰めた。これは「吟味詰り之口書」 が科せられる刑を予想しつつ書かれていた事を意味する。「吟味詰り之口書」は供述者の肩 書前名年齢に始まり、罪状を物語体、時に問答体を織り交ぜつつ、被疑者の「申口」つま り供述の形式で略記したものであったが、公事方御定書・判例法など実定法上の犯罪構成 要件に該当する事実だけが叙述されるのであって、犯罪とその相当刑は常に吟味役人の頭 にあったと考えられる。 「吟味詰り之口書」は奉行がこれを確認することによって犯罪事実認定書としての効力を 発生する。 「吟味詰り之口書」の確認は奉行が出席し奉行の面前で行われる。また事件関係 者をすべて出頭させる。一同を法廷に集め、各自の供述を「突合せ吟味」して「申口符合」 するかどうか確認し、これにより事業の全貌を確定すると共にいかなる刑にも服する、と いう覚悟を一同に決めさせるのである。 奉行の口書確認の方法には二種類ある。一つは「口書申付」といい、奉行の面前で下役が 口書を読み上げた後、供述者に押印をさせた。奉行の面前で口書の作成とその確認を同時 に行ったのである。他の一つは「口書口合」で、すでに吏員によって作成され押印もされ た口書を、奉行が供述者に尋問して確認するものであって、奉行の面前では読み上げなか った。 読み聞かされた口書に対し異議を唱える事もできた。異議を容れ口書申付・口書口合の場 で口書の内容を加除する事もできた。しかし犯罪事実に影響を及ぼしたり、他の関係者の 供述と相反する事実を申し立てたりした時は採用しなかった。すでに下役糺の段階におい て実質的に犯罪事実の取調べは終了しており、奉行面前での確認は形式的なものに過ぎな かったからである。 「吟味詰り之口書」を奉行が確認し終えることによって直接、口頭の取調べは終わり、書 面による刑罰決定手続へと移っていく。 <刑罰の決定> 刑罰決定の手続きは奉行所の手限仕置権の範囲に従い、手限仕置権内の事件は同一裁判機 関内で行われ、これを超えるものは他の役所が関与した。 刑罰決定手続きにおいて法的規制は最も厳重であった。事実審が簡易だったのに対し、法 律審は慎重を極めた。 <手限仕置権> 江戸の刑事裁判(難波) 118 第三部 完成した武家社会 町奉行所において実際擬律にあたるのは、御用部屋手附の同心であった。手附の同心は法 規先例を按じて刑罰を決し、かつ必要書類を作成した。 町奉行所の手限仕置権である中追放以下にあたる場合、手附同心は奉行の確認を得て吟味 方与力より回付された口書を基にして、公事方御定書あるいは先例によって刑罰を擬し、 奉行に報告し、奉行の意見(「存寄」 )を聞き、奉行において異議がなければ判決書を作成 した。たとえ手限仕置権内の場合でも準拠すべき先例は、なるべく伺を経たものをとるべ きであった。手限仕置権内の判例が役所によって特異な方向の独走しないように、幕府法 体系との全体的調和を保つように配慮されたのであった。 先にも述べたように「吟味詰之口書」は犯罪構成要件とそれに科せられる刑罰を指導形象 として作成されている。このような口書は絶対なものあり、奉行がこれを尊重しなければ ならない以上、手附同心の擬律・刑罰決定は与力の予想的判断によって大きく規定されて いたことがわかる。そして下役糺に先立ち下吟味が行われている場合は、下吟味の結果が 刑罰決定に大きな影響を及ぼしている事が充分にあった。 <仕置伺> 手限仕置権を超える事件及び手限内でも疑義のある事件は、支配の上司の伺うことになっ ていた。 町奉行の上司は老中である。つまり町奉行は老中へ仕置伺をする。老中への仕置伺には、 「吟味書」と称する書面を主とした書類を提出する。町奉行所吟味書の形式は「吟味詰り 之口書」により被糺問者の犯罪事実を記述し、文中朱書註書を加え、伺の文言で結んだ。 そして公事方御定書、判例を引用して擬律をなしてそれが妥当かどうかを伺った。 <裁判の終了> 刑罰が決定すると判決が告知された。判決の告知があれば直ちに刑の執行に移った。上訴 の制度はなく、初審が終審であったから判決申渡しは裁判の完全な終了を意味した。吟味 筋において判決告知することを「落着」といった(出入筋では「裁許」といった) 。 判決の告知は刑罰執行ないし執行の命令を下すことに直結するのが原則であった。 判決の告知は死者に対してもなされた。 「吟味詰り之口書」が出来上がれば本人の生死に関 わらずこれを基に刑罰を決定してしまうから、吟味を続行し判決を下すのであった。 判決の申渡しは奉行所内の白洲において行われ、奉行が出座し、奉行自ら「申渡」という 書面を朗読して口頭で判決を告知するのが原則であった。しかし死刑に処せられる者だけ は小伝馬町牢屋内の牢庭改番所(俗に「閻魔堂」と呼ばれた)で奉行所の吏員が申渡しな した。奉行は判決申渡しに続いて事件関係者一同に「落着請証文」を申し付けた。 第三章 刑罰の執行 1 刑罰体系 <刑罰の種類> 幕府は、御定書 103 条「御仕置の仕形の事」において刑罰とその執行方法について規定し た。それらを分類すると以下のようになる。 生命刑 生命刑とは死刑のことをいう。死刑として、鋸挽・磔・獄門・火罪・死罪 及び下手人の六刑があった。この外、武士に対しては斬罪と切腹があった が斬罪の御仕置に関する方法は御定書に規定されているが、切腹に関する 江戸の刑事裁判(難波) 119 第三部 完成した武家社会 規定はなかった。 身体刑 身体刑として、敲と入墨があった。なお特殊なものとして剃髪があった。 自由刑 自由刑には遠島・追放(門前払・所払・江戸払・江戸拾里四方追放・軽追 放・中追放・重追放) ・閉門・逼塞・遠慮・戸〆・手鎖・押込・御預があ り、僧侶の閏刑(武士・僧侶・庶民等のうち特定の身分階級にある者の特 別の犯罪に科する刑の事。身分階級を問わず一般的に関する刑を正刑とい った)として追院・退院・晒等があった。 財産刑 財産刑としては闕所・過料があった。武士に対する闕所を改易といった。 身分刑 身分刑とは犯人の社会的身分に影響を与える刑をいった。階級制度の厳格 な封建制度にあっては一種の階級刑ともいえる刑であった。奴・非人手下・ 改易・一宗構・一派構等があった。 名誉刑 名誉刑とは犯人の名誉を剥奪することを内容とする刑であった。役儀取上 叱・急度叱・隠居がこれに属した。 本刑に附加される刑を附加刑といった。附加刑には晒・引廻・闕所・非人手下等があった。 「晒の上磔」「引廻の上獄門」の晒・引廻が附加刑、磔・獄門が本刑であった。晒は磔以上、 引廻は死罪以上の各刑に科せられる附加刑であり、闕所は軽追放以上の刑に処せられた犯 人の財産に科する刑であった。附加刑としての非人手下は犯人の身分変動を及ぼす身分的 附加刑であった。刑執行の順序としては、まず附加刑を執行し、引き続き本刑を執行した。 <本刑の軽重順序> 幕府法には二種類の「御仕置軽重順序(御仕置段取)」が存在し、一つは盗賊本犯以外の犯 罪に対する「一般的御仕置軽重順序」があり、他は盗賊本犯にのみ対する「盗賊御仕置軽 重順序」があった。盗賊に対する御仕置は死刑以上・入墨・敲等であって、原則として遠 島刑や追放刑の定めがなかったことから「一般的御仕置軽重順序」を適用することは不適 当であったため、盗賊にのみ対して特別の「御仕置段取」を設ける必要があった。 「一般的御仕置軽重順序」 死刑(鋸引−磔−獄門−火罪−死罪・下手人)−遠島−重追放−中追放−軽追放−江戸 拾里四方追放(大阪は摂津河内両国払、京都は山城国中払、長崎は長崎市中郷中払)−江戸 払(大阪は大阪三郷払、京都は洛中洛外払、長崎は長崎払。重敲)−所払(京都は洛中払、 大阪・長崎も所払。敲、百日手鎖、過料拾貫文)−五拾日手鎖(過料五貫文)−三拾日手鎖 −急度叱−叱剃髪・監禁刑(戸〆・押込・預など)・晒・奴・非人手下・役儀取上等の刑が、 上における刑の軽重順序のどの位置に置かれるかは定かではない。 「盗賊御仕置軽重順序」 死刑−入墨重敲−入墨敲−入墨−重敲−敲 上の順序の差等は「段」と称し、段を上下すること、つまり形の軽重順序にあたっては、一 等、二等というように「等」を単位とした。 2 刑の執行 <生命刑> 死罪及び下手人の刑の執行方法は、死罪は夜間、下手人は昼間である点を除けば両者は全 く同じであった。検使による判決の宣告が終わると、控えの縄取非人三人が取り囲み牢屋 江戸の刑事裁判(難波) 120 第三部 完成した武家社会 敷内の刑場である死刑場(斬首場)に連行し検使与力が検使場へまわって本刑を執行した。 引廻の附加刑がある時は寺社・勘定奉行所、火附盗賊改方にあっては当該検使による宣告 の後、その身柄を町奉行所牢屋見廻方与力を介し町奉行所与力の引廻検使に引き渡した。 そしてまず附加刑を執行し、本刑を執行した。 火罪の刑の執行方法は、罪囚の引廻行列が浅草・品川の両御仕置場に到着すると罪囚を罪 木といわれる柱に縛りつけた。そして周囲を薪で囲い火をつけた。死体は三日二晩晒され た。 獄門は牢屋敷内の斬首場での死罪の執行と同じ方法で斬首され死体の胴体は取り捨てら れ、首すなわち刑首は御仕置場において三日二晩晒され、その後捨てられた。 磔は罪囚を罪木へ仰向けに寝かせて手足を横木に縛りつけ、罪木を起こし下働非人のうち 二人が槍をもち左右に分かれ罪囚の眼前で槍を交わす「見せ槍」をした。その後下働非人 六人で槍を罪囚に突いた。死体は三日二晩晒された。これを捨磔といった。 鋸引は申渡しのあった日に一日引廻の上、晒場で二日間晒された。晒されている時は罪囚 の傍に竹鋸と普通の鋸が置かれ、往来の者に首を挽かせる真似事をさせた。しかし実際に 罪囚の首を挽いてしまった事があったので、その真似事はやめになった。鋸引といっても 江戸時代では形式的なものであって、実際は槍で右脇腹から右肩先まで突き抜き、左も同 じようにし、最後に咽喉仏に槍を突いて殺した。 斬首は犯罪の主体が武士であるため死罪の執行とは異なった方法で行われた。武士の名誉 を保つためであった。罪囚は首斬穴の前に連行され非人二人が左右の腕を捕らえ、一人が 背後から後ろ髪を撫で上げ、縄斬刀で喉輪を切断する瞬間に罪囚の左側にいた同心により 斬首された。死罪とは異なり罪囚に目隠しはしなかった。 切腹の執行方法は前述のように御定書には規定されていない。切腹は武士の特権であって 一般庶民には許されなかった。 <身体刑> 敲の執行方法は伝馬町牢屋敷の表門前に筵を敷き刑場とした。そして罪囚を裸にし、筵の 上に腹ばいにさせ下男四人が手と足を押さえ、笞杖で背骨を除いた肩骨・尻を打った。重 敲(百敲)の場合は五十打で一旦中止し立会いの医師が気付薬を与え、残数を打ちつづけ た。打ち終わると他の罪囚に移り、多い時には一日数十回打つこともあった。刑の執行が 終わると直ちに引受人に引き渡された。 入墨刑の執行方法は、牢屋敷内の牢屋見廻詰所前の砂利の上に筵を引いて刑場とし、そこ で入墨を入れた。刑が終わって三日間その箇所を紙で巻き、乾いたら検分の上釈放した。 この入墨刑は各地で入墨の入れ方が違った。幕府は左腕に入墨をしたが、阿波・肥前・筑 前・安芸等の諸藩では額に入墨を入れた。入墨刑の受刑者が釈放後入墨を消した場合は再 びやり直しただけでなく罰せられた。 剃髪刑は御定書に何も規定されていなかった。ただし『記事条例一』二十五番安永三年 〔1774〕八月二十四日の条に、評定所において勘定奉行の命により町の髪結が女囚の剃髪 を剃り、女を親元へ引き渡した、とある。これから他の刑が皆刑場で行われているのに対 し剃髪刑は裁判所内で行われていた事がわかる。 <自由刑> 遠島刑での流配地は江戸からの流罪者は大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・ 江戸の刑事裁判(難波) 121 第三部 完成した武家社会 利島の伊豆七島へ流された。対して京・大坂・西国・中国から流罪の者は薩摩・五島の島々・ 隠岐国・天草島へ流された。美濃以東の遠国奉行・代官は遠島者を全て江戸の町奉行に送 致し出帆まで小伝馬町牢屋に在牢させ近江以西は大坂に集めた。長崎奉行所だけは直接長 崎から配流した。伊豆七島への出帆は春秋の二回であった。流配地の島における生活は流 人にとって非常に厳しく、度々島抜けが計画されたが未遂に終わる場合が多かった。遠島 刑は刑期の定めのない絶対不定期刑であった。 追放刑のうち重追放は武蔵・相模・上野・下野・安房・上総・下総・常陸・山城・摂津・ 和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・甲斐・駿河の十五カ国、二道筋と現在の居住国 に居住する事を禁じた。即ち御構場所とした住居を離れて他国で悪事を働いた者はさらに 犯罪国が加わった。京都で重追放の判決を申渡された者は上の外に河内・近江・丹波の三 国が加わった。中追放は武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下 野・日光道中・甲斐・駿河の九カ国、三道筋と居住国及び犯罪国が御構場所であった。軽 追放は江戸拾里四方追放・京都・大坂・東海道筋・日光・日光道中と居住国及び犯罪国が 御構場所となった。江戸拾里四方追放は日本橋を中心とし、半径五里以内の地域内が御構 場所であった。在方の者はその居村も居住禁止となった。江戸払は品川・板橋・千住・本 所・深川・四谷大木戸より内が御構場所であって町奉行支配地内に立ち入ることを禁じた。 所払は在方の者ならば居村、江戸・大坂の町人は居町が御構場所であった。門前払は奉行 所の門前から追放するもので、主として無宿者が対象であり御構場所はなかった。 閉門は、門扉を鎖し、竹柵を張り、窓を閉じて、昼夜共に当人・使用人その他一切の出入 りを禁じた。期間は三十日、または五十日と規定されていた。 逼塞は武士・僧侶に対する閏刑であって、門扉を鎖し謹慎するが、夜は目立たぬように潜 り門から出入りすることは許された。期間は閉門と同じ三十日と五十日であった。 遠慮も武士・僧侶に対する閏刑であって、門を閉じるが、潜り戸は引き寄せるだけで鎖さ なくてよく、夜中に目立たぬよう出入りすることも許された。 戸〆は庶民を対象とした閏刑であった。これは門の戸を貫にかけて釘〆にし営業を停止さ せ謹慎の意を表させる軽い監禁刑であった。期間は二十日・三十日・百日であった。 押込は門を鎖し自宅の一室に引き篭らせておき夜間の出入りも許されなかった。期間は二 十日・三十日・五十日ないし百日程であった。 御預の執行方法についての規定はない。御預には大名預・町預・村預・親類預・主人預・ 宿預があり、犯罪処分を待たせるためのものと刑の執行のためのものがあった。大名預で 有名なのが、赤穂義士の場合であった。 晒刑は僧侶に対する閏刑であった。晒とは間口五尺の奥行三尺の小屋掛をなし、三方を筵 で囲い、その小屋の中に罪囚を入れた。小屋の前に竹で二重の柵を設け見物人の近寄るの を防止した。晒の時間は午前八時から午後四時までであった。 手鎖は鉄製の瓢形をして左右に開くようにし継錠をした刑具であって、両手を懐中で組ま せその上に嵌め端に錠を下ろした。受刑者は三十日・五十日及びその他の手鎖の時は五日 毎に、百日手鎖は一日おきに奉行所へ出頭し、手鎖の中央部分に張られた奉行押印の封印 を確認され、その都度封印を取り替えられた。 <財産刑> 過料は現在の罰金にあたる。過料には単純過料・軽過料・重過料・応分過料・小間過料・ 江戸の刑事裁判(難波) 122 第三部 完成した武家社会 村高過料があった。過料刑の上限は三十両、下限は三貫文で納付期間は三日で申渡し裁判 所に納付した。応分過料はその者の財産に応じ徴収し、村高過料は村高つまり地味の良否 によって過料した。三貫文または五貫文が軽過料、拾貫文が重過料であった。 闕所とは没収のことである。武士に対する領地の没収は、闕所と呼ばず改易と称した。土 地・屋敷を始め家財道具や持金も没収された。 <身分刑> 奴は庶民たる婦女に対する閏刑であった。奴刑は女性の罪囚に対し、人別改帳から除籍し 望む者に下付し奴婢として使った。つまり奴隷化する刑罰であった。 非人手下は罪囚の庶民たる身分を剥奪し、庶民の人別改帳より除籍した上、えた頭弾左衛 門の立合いのもとに非人頭に身柄を引き渡し非人別改帳に登載した。 改易は前述したように武士に対する閏刑であった。大名・旗本の場合は、その領分・地行 所の没収、役儀取上・御家断絶を意味した。 <名誉刑> 御定書で規定している役儀取上は武士に対するものではなく、庶民に対してのものであっ た。つまり罪囚が名主や百姓代の村役人や、家主や五人組などの町役人という庶民が帯び ている役儀を取上げることをいった。 叱と急度叱は御仕置の中で最も軽い刑であった。町奉行が罪囚を御白洲に呼び出し、その 罪につき叱責し、宣告後吟味方与力が与力吟味席で請書を徴し、差添人がこれに連署拇印 して放免した。これが叱であり、そのやや重いのが急度叱であった。 第四章 公事方御定書 1 御定書の制定 徳川家康が天正十八年〔1590〕関東に入部してから、裁判に関しては専ら旧来の慣習に準 拠し、先例のないものについては先例の精神を汲み取り裁判する者の裁量によった。つま り祖法墨守・新儀停止が厳守された。二代将軍秀忠の時に、裁判に練達であった町奉行島 田弾正忠が刑事の断案たる裁判例を編集し、これを後世に残さんとの配慮からこの事を秀 忠に懇請したところ、「人事は変じ易い。一々情実を尽くすに非らざれば、訟を段ずべきで はない。 いやしくも刑律を定めるような事があれば、 却って後人をしてこれに拘泥せしめ、 情実を詳にするに疎くなり、或いは法網をくぐって悪事を行う者が出るであろう。」と言っ て刑事判例集の編纂を許さなかったという。 三代将軍家光の時、寛永八年〔1631〕に評定所を設置し、評定衆に訴訟を聴断させた。そ の後裁判例を記録にとどめる必要が生じ、四代将軍家綱の寛文四年〔1664〕頃から評定所 留役を置いて訴訟の判決案を記録させるようにした。 しかし元禄時代を経て天下泰平が続くに従い、商品流通経済が進展したことによって社会 生活が複雑化したことで、刑事事件の裁判例も膨大になり先例の検索に多大の不便を来た すようになった。歳晩に関する与力等のうちから、個人的に裁判例を編集するものも現れ 宝永期にはすでに町奉行の牢帳から抽出した九百七十四例を分類整理して作成された『御 仕置裁許帳』が存在し、さらにそれを百九十八条の箇条書にした編者不明の『元禄御法式』 があった。また寛保元年〔1741〕には私撰の『律令要略』という法律書も編集された。こ れらは御定書の先駆的な役割をなした。 江戸の刑事裁判(難波) 123 第三部 完成した武家社会 八代将軍吉宗は享保の改革の一環として法制の整備を必要と感じていたので、享保五年 〔1720〕三奉行に命じ、あらかじめ大概の罰則を定めて犯情をこれに照らし、参酌考定し て処罰させることにした『享保度法律類寄』を作成した。これは全文十四条からなる刑罰 法規集であった。ついで荻生徂徠・高瀬忠敦等に命じ唐律・明律を解釈させた。ここにお いて元文五年〔1740〕評定所に御定書編集を命じ老中松平乗邑を主任とし、寺社奉行牧野 越中守・町奉行大岡越前守・勘定奉行水野対馬守ら三奉行を中心に法典の編集作業が行わ れた。以前の判決例、将軍就任以来の新判例を参酌し、法文を起案させ、一条なるごとに 吉宗が親しく検討し、その意にあわないものがあると朱書の付箋を貼付して下付しさらに 評議させた。その結果寛保二年〔1742〕三月にようやく完成したのが『公事方御定書』で あった。上下二巻からなり、上巻は令八十一条、下巻は律百三条から成り、この公事方御 定書下巻百三条を俗に「御定書百箇条」 「御仕置百箇条」等といわれた。 上巻は評定所の執務細則、行政取締法規及び訴訟手続に関する書付、触書、覚書等を類集 したものであり、下巻は各種犯罪と刑罰規定からなっているが、一部民事規定が混在して いた。 2 御定書の特色 <道徳主義> 御定書は犯罪の構成と適用とを道徳主義をもってこれを律していた。ここにいう道徳とは 儒教に依拠するものであった。道徳を御定書に導入することで、一般庶民を教化しようと し、君民・主従・親子・夫婦等の関係を道徳的に規制しようとするものであったので教化 主義ともいえる。御定書の中で道徳主義がわかりやすく成文化されている所は「人殺并疵 付等御仕置の事」の条項であった。 一、主殺し 二日晒、一日引廻、鋸引の上 一、古主殺し候もの 一、親殺し 磔 晒の上 磔 引廻の上 磔 一、師匠殺し候もの 磔 となっていた。刑の軽重は主殺しが最も重刑で、古主殺し、親殺し、師匠殺しの順となる。 道徳的に主殺しを重罪と考えることは、主人のために相手を殺害しても不問に付せられる、 という結果をもたらした。封建社会は主従関係の保持を基本としていたから当然ではあっ た。また夫婦間において妻が夫の悪口を言ったという理由で妻を殺害しても罪に問われな かった。それに対し道徳的に対等ないしはそれ以下の関係の者を殺害した場合の刑は、死 刑のうち最も軽い下手人であった。ただし武士が百姓・町人を殺害しても罪にはならなか った。それは属する身分によって犯罪の構成や刑の適用が違ったのである。以上のことか ら御定書は道徳主義に徹していたといえる。 <連帯主義> 自己の行為のみに刑事責任を負うのが原則ではあったが、犯罪そのものに共謀の事実がな くても、ただ犯人と一定の血縁的地縁的または職務的関連の地位にあるというだけで、犯 人と共に責任を追求するのが連帯主義であった。 御定書では、特に町村民の犯罪について村役人・総百姓・家主・地主・名主・五人組等が 連帯して責任を負った。たとえば 江戸の刑事裁判(難波) 124 第三部 一、車を引掛、人を殺し候とき、殺し候方を引き候もの 但し、人に当らざる方を引き候ものは 完成した武家社会 死罪 遠島 車の荷主 重キ過料 車引の家主は 過料 という規定があった。車の荷主や家主は犯罪には直接関係がないにも関わらず過料に処せ られた。 この連帯主義は、警戒を厳にして犯罪を未然に防ぐためには止むを得ない制度であって当 時は一般に是正されていた。この種の規定は御定書に多く見られた。 <秘密主義> 御定書は一般に公布されたものではなく、三奉行に対し裁判基準を示したものにすぎなか った。巻末には「三奉行の外、他見ある可からず」とあって三奉行の外は秘密文書であっ た。しかし三奉行に順ずる者として京都所司代・大阪城代には参考資料として下付してあ った。 幕府は一定の犯行に対する刑の軽重を一般民衆に周知させては、刑罰をもって威嚇の目的 を達することができないと考えたからであった。罪の内容は御触書をもって周知させたが、 刑の内容は周知させなかった。罪と罰の結合だけが秘密とされた。しかし実際は各藩の役 人や庶民までもが御定書の内容を知っていて、天保の頃になると御定書の内容を記したも のが民間の蔵にあるということもあった。しかし御定書の内容を公然と刊行させる者に対 しては厳罰に処した。 御定書は苛酷を極めしばしば残虐であった。しかし法は法としたままでそれを緩和する 実務も次第に発達した。法と実際、形式と実質のギャップは深くなるが、幕府の威信を保 ちつつ社会の実情を考慮された法こそが御定書であった。 おわりに このテーマを選んだのには二つの理由があった。 一つは時代劇等の大衆芸能による江戸時代の裁判には本来といろいろ異なる点が数多く存 在するのでそれを見つけることである。多くの人は江戸時代の裁判を時代劇等の大衆芸能 から知るのではないだろうか。 「大岡裁き」の大岡越前守忠相や桜吹雪の遠山左衛門尉景元 などは特に有名だが、共に実在した人物ではありながらあのような裁きはなく、吟味にお ける奉行は形式的なものに過ぎなかった。それらの思い違いともいうべき点を、論文を進 めるに従い、見つけることができた。 もう一つは江戸時代の裁判を知ることによって今の裁判制度を知ってみようと思ったから である。江戸時代は封建社会であり、捜査や裁判、法規におけるまでありとあらゆるとこ ろまで封建制が染み込んでいる。しかし同じ日本人による司法である。今こうして江戸の 時代の裁判制度を詳細に知ることができた。今後は現在の裁判制度を詳細に研究していき たいと思う。 この論文によって江戸時代の裁判制度に興味を持っていただけたら幸いである。 参考文献 江戸の刑事裁判(難波) 125 第三部 「近世刑事訴訟法の研究」 平松義郎 創文社 「江戸の罪と罰」 平松義郎 平凡社 「日本法制史」 滝川政次郎 講談社 「江戸の刑罰」 石井良助 中央公論 「法制史の研究」 三浦周行 岩波書店 「御定書百箇条と刑罰手続」 藤井嘉雄 高文堂 「近世法制史叢書・御仕置裁許帳」法制史学会編 完成した武家社会 創文社 石井良助編纂 「大岡越前守忠相」 大石慎三郎 岩波書店 江戸の刑事裁判(難波) 126 第三部 完成した武家社会 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界− 吉田 淳也 はじめに 「武士道と云うは死ぬことと見付けたり」この言葉は、近世の武士道関連書の中でも有 名な『葉隠』の開巻書き出しに出てくる言葉であり、日本文化史上においても特に有名な 標語の一つである。 『葉隠』は享保元年(1716)に山本常朝がそれまで七年間に渡る語りを中 心に田代陣基が編纂したものとされている。その時期に編纂された武士道をテーマとに持 つ書物は大久保彦左衛門の『三河物語』や、剣聖宮本武蔵の『五輪書』など(1)いくつ かあるわけであるが、その中でもこの『葉隠』が武士道の聖典として多くの人に知られて いるのは、文頭に挙げた言葉に対して、皆の心に大きく響くところがあるからであろう。 「武士道と云うは…」確かにこの言葉死に対する覚悟の大きさ、勇ましさといったものを 感じることができるし、 『葉隠』本文中にもこれに関して、勇ましく元気のよい言説を見る ことができる。 (2)確かにこの勇ましい言説はこの『葉隠』を構成するにあたって重要な 支柱となっていることには違いはないが、しかし、それが思想的中核のすべてであるかと 言えば、そうであるとは断言できないと私は判断する。 『葉隠』が出された時代は、私たちが侍や武士という言葉を耳にした時、咄嗟に頭に思 い浮かべる鎧で身を包み、城を落としに行くという姿ではもはやなく、年号も「享保」に 変わっており、武士の存在形態も兵士から役人、官僚へと変化していた。時代がそのよう な状態にある中、生死を賭けた武士道を説く書物が出されたところで、世間はただの時代 錯誤としてしか認識されなかったかもしれない。しかし、 『葉隠』はそのような環境の中に あっても武士道の聖典にまでなり、且つ現代の私たちがその名を知るに至っている。そこ には前述したように、ただ元気のよく、勇ましさだけを訴える書物ではなく、もっと深い ところにその思想的中核の構成があったからであろう。本論文においては自分の微力さを 認識しつつも、 「武士道と云うは…」という言葉が表す『葉隠』の思想の核心に迫ってみた いと思う。 又、 この論文によって皆さんが当時の武士の思想に興味を持ってくださるなら、 幸いである。 第一章 『葉隠』の成立した時代背景 1 『葉隠』の構成 『葉隠』は享保元年(1716)に佐賀藩鍋島家藩士である山本神衛門常朝と田代又左衛門陣 基の二名の共同作業によって編纂された。その中身は主に、佐賀藩鍋島家に伝わる歴代事 績や、武士が武士らしく生きるための心構え、武家社会の風俗について常朝が語り、それ を陣基が書き留めるという形式を採ったため、『葉隠』各巻は「聞書」と題され、全十一巻 によって構成されている。 (3)この内、聞書一、聞書二の二つに関しては、 「教訓」と題 され、常朝の直談を二人で共同編纂した事が、巻末の両人の発句において明らかになって いるが、後の諸巻は、陣基が他書や他者から情報を経て、単独に編纂したものであるとす る声が多い。しかし、陣基直筆のものは現在においても発見されておらず、全巻が揃って いる写本が十種、 一部欠けているものが約四十種程確認されている。 これらは江戸時代中、 後期において、佐賀藩内において広く武士達に読まれていたと思われる。 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 127 第三部 完成した武家社会 内容としては、「夜陰の閑談」という序文から始まり、 (4)前述したように、「聞書」と 題された全十一巻の項目によって構成される。これら全体に渡って武士にあるべき生活習 慣や風俗、意識を佐賀藩内で起こった事件や事例を踏まえて説いている。又、題名である 「葉隠」という言葉の由来は常朝の陰の奉公精神を表す(5)ものとする説や西行法師の 残した古歌(6)からくるものであるという説など諸説あるようである。 2 当時の武家社会 編纂者の常朝、 陣基両名の生きた時代は戦国の乱世もやがて終わり、世は安定期に入り、 泰平に移り変わった時代であった。この変動によって、戦国時代において立身出世を刀や 槍で、即ち戦で勝つ事で実現してきた武士達はそれも叶わなくなり、やがて虚無感に包ま れて怠惰な生活をする者が多くなっていた。『葉隠』冒頭文では「ここ三十年においては 人々の気風もすっかり変わり、侍共が集まれば、常に金銀の噂や損得勘定の話、家計への 愚痴や色話といった具合でこういった話でなければ場がもたないといった状態である。 」と 常朝が嘆く一文が載っている。 (7)これより五十年ほど前に、山鹿素行は『山鹿語録』に おいて(8) 、治世における武士の職分とは農工商の民に対して倫理的模範を示すことであ ると書いている。しかし、立身出世のために戦国を駆け抜けた者が、時代共に即座に自分 の意識を改革し、転換できるかといえば、おそらく困難であり、代わりに今の自己が心地 よければそれで良しとする戦国とは違ったネガティヴな利己主義が武家社会全体を包んで いた事が想像できる。 3 山本常朝 さて、語り手である山本常朝とはどのような人物であったのであろうか。常朝は万冶二 年(1659)に佐賀城下において父重澄の次男として生まれた。重澄は寛永十四年(1637)の島 原の乱に奮戦した武将であった。その父は万治元年に隠居し、家督は兄武弘が継いだ。常 朝は幼少の頃は松亀と命名され、九歳より不携という名前で二代目佐賀藩主鍋島光茂の御 側小僧となった。それから常朝が享保四年(1719)に死去するまでに九つの年号が変わり、 常朝自身の名前も幾度となく変わっている。常朝は父重澄が七十才の時の子供という事も あり病弱であった。そのおかげで幼年期は割と暗く地味な生活を送ったようである。青年 期、藩主光茂の小小姓を勤めた時代には自らの身分の低さと、そこから来る出世願望への 苦悩によってノイローゼを患ったこともあった。又、常朝は元服して間もなく、当時の師 である湛然和尚に法脈を授かるなど、これから出家願望も見られる。詳しくは後の年譜を 参照されたい。 『葉隠』が自己の賃金や家職という一切の私欲を捨てた奉公強く唱えるのはこうした常 朝自身の過去の反省から来る部分も多々あるからであろう。又、彼が二十九歳の時には、 親戚の出した火事の連帯責任を負い、書写物奉行の役を解任され、その親類の切腹を介錯 している。 常朝、陣基の両名は非常に古歌や詩歌を愛していたようである。常朝は『葉隠』序文冒 頭においても和歌から書き出しているし、巻の区切りにもいくつかの和歌が見られる。彼 は四十二歳にして出家するが、その折にも和歌を詠んでいるし、もちろんこの世を去ると きも歌を残している。この事から、彼は歌を詠む事で人生の節目をしっかりと意識する一 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 128 第三部 完成した武家社会 面(9)を持っていたといえよう。だが、本文中には武士道への専念、つまり他の道や芸 への志向を戒める姿勢を押し出しているため、 (10)雅を感じさせる歌は少ない。 まとめるに、常朝の生涯を見てみると、それは決して平坦なものではなく、幾度となく 人生二転三転する出来事が起きている。それでいて彼が出家する直前の四十一歳時の給与 は知行百二十五石と特別高いものではなかった。このことからも、山本常朝という人間は 上から高々と説法する人間というわけではなく、下級や末端の武士の心を十分に察知し、 それを汲むことのできる人間であったといえよう。以上の事からも、彼の人間性は『葉隠』 の信憑性を裏打ちするに充分たる物であるといえる。 4 佐賀藩 確かに『葉隠』の編纂者は常朝と陣基の二人ではるが、二人が生まれ育ったのはもちろ ん佐賀藩であるし佐賀藩独特の雰囲気や特性がなければ『葉隠』は存在しなかったであろ う。そのうえでも、佐賀藩に目を向けておきたい。 さて、それでは実際に佐賀藩はどんな藩だったのか。藩内の逸話は聞書七、八,九に主 におさめられているが他にも聞書一の「教訓」の中や、聞書三,四,五では鍋島家の逸話 の中にも佐賀藩士の人間模様を見ることができる。これらの中には様々な性質がうかがえ る。まずは聞書三を見てみたい。この話は初代藩主勝茂公の父、直茂公に仕え、数々の戦 を共にした斎藤用之助という藩士(11)が生活に困り、城内に持ち込まれるはずの米を、 いずれ自分のところにも給与として入ってくる分もあるからということで、運んでいた百 姓にいくらかの米を置いていかせた。間もなくこれを知った勝茂公は大変立腹し、用之助 を切腹に処そうとしたが、直茂公が目に涙を浮かべながら、用之助のような勇士にそのよ うな暮らしをさせている自分や勝茂公こそに責任があるのであるから、処罰をなくしてほ しいと勝茂公に懇願し、これにより用之助は切腹を免れたという話である。この話から佐 賀藩の主人と藩士の結び付きの深さが感じられるわけであるが、中でも注意したいのは主 人からも藩士に対して配慮が大きくされているという事である。このことは他の藩にはな かなか見ることのできない、佐賀藩独自の性質であるといえよう。しかしそうであるから といって法に甘い藩というわけでは決してなく、むしろ非常に厳しい藩であった。喧嘩を すればもちろん双方切腹しなければならなかったし、妻以外の女性との密通や博打をうっ たことがばれても切腹以外の処罰はなかった。このような藩であるから、切腹にまつわる 話も多々あるわけである。聞書八では他国で博打を打ったことが藩にばれて、切腹となっ た野村源左衛門という藩士(12)が腹を斬る際に己の腹を十字に斬り裁いてから、紙と 筆を近くにいた者に持ってこさせ、ゆっくりと歌を書き残してからやっと介錯人に首の介 錯を許可したというなんとも剛健ぶりを見せ付ける話がでてくる。先にも用之助の話があ ったが、佐賀藩には二人のような豪快、剛健な武士があふれていたようである。このよう に勢い余って藩法を犯してしまう藩士や浪人は多かったらしく、そのような者たちがどの ように法の目をくぐり抜けて処罰を免れたかという話も頻繁に出てくる。博打の途中に苛 立ってそこの宿の幼い息子を撲殺してしまった某藩士がそこの夫婦を説得し、博打で勝っ た金と引き換えに半強制的に医者まで呼んで病死に見せかけたという話(13)や、自分 の家来と密通している妻を発見した某藩士が、家来はあえて殺さず、体裁のために妻のみ を斬殺し下女や医者と口を合わせ、これもまた病死を装ったという話(14)もこの例に 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 129 第三部 完成した武家社会 当てはまる。 以上のような例を挙げ始めるとあまりに多くなってしまうが、佐賀藩士の人間模様がど れからもうかがえる。このような逸話から私が感じた事は、 『葉隠』を生んだ土地、佐賀に は上のような荒くれ者が多く、その性格上、故意にしろ、そうでないにしろ、法を破るも のが後を断たなかった。しかし、只無法者の悪人というわけではなく、『葉隠』のような武 士道関連書が出されればあっという間に普及したし、又、藩主の死に対して多くの者が殉 死を望むなど、末端の藩士の中にも藩主の存在は大きく、忠誠心は他藩と比べて非常に強 いものであった。このような佐賀藩であったからこそ、常朝や陣基という人間が育まれ、 名著『葉隠』が生まれたのであろう。 第二章 奉公の精神 1 奉公人道 『葉隠』の本質は、武士道であることに違いはないのであるが、性質的には「奉公人」 としての武士道という色が濃い。そしてこう捕らえるほうが常朝の精神世界は広がると思 われる。奉公人の生活はどちらかと言えば地味で、武士というよりも商人などの精神につ ながるものなのかもしれない。そうすると聞書一の「武士道とは…」という威勢のよい一 文とは一見すると相反するように見えるが十一巻のうち、常朝が確実に直筆したと思われ る聞書一,二にはこのような深刻で威勢のよい武士道的言説をはるかに凌ぐ分量の地味で 生活感漂う奉公人的言説が随所に見られること(15)は事実である。そこには酒の飲み 方や刀の差し方、馬の乗り方や帯のしめ方等非常に事細かに記されており、これらからは 常朝がそこで生まれ育ち、生涯をすごした奉公の現場での奉公人たちの息遣いを感じるこ とができる。 侍たるもの者は先礼儀正しくしてこそうつくしけれ (聞書一ノ五七) という言葉があるが、この美意識には、どんな小さな事でも疎かにすれば、それは切腹に つながるという奉公人の倫理的緊張があると思われる。 そもそも聞書一,二には「教訓」という副題があり、奉公のあり方を標語としてあらわし ているものが多い。 伊達する心にてなければ、時宜はならず也 (聞書一ノ三二) という教訓がある。意気がって格好よくみせようというくらいの心構えでなければ時、 処、 位にかなった振る舞いはできないという意味であるが、この趣旨は聞書二ノ四四において、 奉公人は身なりや口に聞き方、筆跡などで他人を凌ぐことができる。それができればたい したものであると日常生活という場での教訓としてとらえられている。ここで時宜と伊達 との関係について考えてみる。時宜にかなうとは、上にもあるように時、処、位にあった 行動をとるということである。常朝自身の時代認識では、当時は泰平の世であったから、 その限りでは利己的な功名心に走る戦国の思想は通用せず、御家安泰が何においても尊重 される組織の時代であった。次に処についてであるが、奉公の場所は戦場ではなく、畳の 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 130 第三部 完成した武家社会 上であったし、位については主君および組織へ尽くす奉公人ということになる。しかし、 ここでの「奉公人」とはもちろん武士、侍のことである。武士、侍は本質的に時として自 己の意地や主君のためには命を捧げる存在であるし、場合によっては闘わなければならな いこともその位の中には必然的に要請されているのである。そのような武士としての宿命 に晒された時にこそ、恐れることなく、まさに「伊達」に振舞えというのがこの教訓の真 意であろう。まさに「武士道と云うは…。胸座って進む也」の心意気である。そして、こ の一文が聞書一ノ二の「毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由 を得、一生落度なく家職を仕課すべき也」と結ばれているのを見れば、常に自己に死の覚 悟を持たせて、家職の完遂を目指す事が奉公人としての「伊達」といえるのである。 以上をまとめるに、勇ましい武士道的世界と生活じみた奉公の日常的世界は相反するもの ではなく、治世の世にあっては相互に結びつくものであって、共に武士の奉公人道には不 可欠とされているのである。 2 「畳の上」 武士道的世界と奉公の日常的世界は治世の奉公人道において共に必要であることは前項 で述べたとおりであるが、治世において奉公の場となるのは言うまでもなく御家内の「畳 の上」である。 「畳の上」という言葉はもちろん読んで字の如く畳の上という意味もあるの だが、 「平時」ということの慣用句として当時は知られていた。それまでの戦国武士たちに は戦場というその存在理由を正当化し、自らの刀を振るうことで実現できる能動性を持っ た奉公の場が存在した。考えてみれば、戦場ほどわかり易い奉公の場は他にないかもしれ ない。己が奮起し、活躍すればするほど間違いなくそれは奉公につながるからである。こ の事によって「畳の上」での受動的奉公の実現が困難であった武士も戦場での能動的奉公 によってこの困難を解消できた。それに対して泰平となり、 「畳の上」が檜舞台となってか らはどうであったのだろうか。戦場に立つ経験のなかった典型的な近世武士である常朝は どうこの事をとらえていたのであろうか。下の教訓に注目したい。 公界と寝間の内、虎口前と畳の上、二つに成り俄かに作り立る故に、間に不合也。 只常々に有事也。畳の上にて武勇の顕るる者ならでは、虎口へも撰び出されず候。 (聞書二ノ七五) これは見てのとおり、公の場所と寝所、戦場と畳の上などとまったく二つのものに分けて 考えるといざという時に慌ててしまい間に合わなくなってしまう。いつ何時どんな事があ るかわからないのであるから、畳の上においても武勇が顕れる者でなければ、戦の場に撰 ぶ事はできないのであるという意味合いのものであるが、ここに常朝のひとつの価値観を 見ることができる。ここでは虎口(16) 、つまり戦場に立てる者は畳の上においてもまた 勇士である事の必要性を唱えている。つまりそれは常朝にとって「畳の上」の奉公は斬る、 斬られるという生死を賭けた戦の場と同等であったという事であり、つまり平時における 決死の生、 「死狂い」の精神へ発展していくのである。 3 「奉公名利」 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 131 第三部 完成した武家社会 常朝は戦国武士と奉公人としての武士を意識的に区別していたようである。武士として の意地や「私の名利」に賭ける前者は時として、国家、藩を逸脱した行動をとることもあ るが、後者は組織への従属を旨とし、その維持及び発展のために一切の我を捨て、「陰の奉 公」に身を投じる存在とした。つまり、奉公人の本質は組織人である事としたのである。 聞書二ノ一四一においては(17)常朝は己の身分の低さを世間から見下されるのはなん とも無念であり、どのような意識の持ち方によって奉公が気持ちよくできるかについて考 えており、それによると、 「奉公名利」という結論がでてくる。この聞書二ノ一四一では「家 老になることこそ最大の奉公である」という一文(18)がある。一見すると自己の立身 出世の考えは「私の名利」として常朝は厳しく戒めているはずでは、と矛盾を感じてしま うのであるが、ここにおいての家老になることは「私の名利」とは違うようである。この 前後の部分を読んでみると、「奉公人の最高の忠節は、主君に諫言して藩を見事に治めるこ とである。このことができるようになるには家老になるより他はないのであるから、自己 の立身出世欲からではなく、公にために家老になる事の覚悟を決めた。」とある。つまり、 快く奉公をしたいが故に行った色々な模索の結果としての出世欲なのである。こう考える 事で「奉公名利」の趣旨が理解できるし、又、合理化できるのである。 ここで注意しておきたいのは、常朝は武士と奉公人を区別し、聞書一,二において、奉 公人道を趣旨としておおいに語っているが、決して兵法(武道)(19)を軽視していたわ けではないということである。 『葉隠』冒頭の「夜陰の閑談」には「四誓願」 (20)とい う四箇条の誓願がある。この第一条には「於武道おくれ取申間敷事」とあることからもそ の事がうかがえよう。同時期に出された『武道初心集』には平時の武士道とは「兵法」と 「士法」に分けられるとされているように、常朝においても戦国以来の武士道が「武道」 と「奉公人道」とに分けられ、この二つにより構成されていると考えるべきであろう。そ して、奉公人道が武道より優先する事は治世の要請であり、自然の成り行きであった。 第三章 我没的忠誠の精神 1 主従関係と「衆道」 『葉隠』全体を見てみると、異性間にまつわる逸話よりも男性間の関係にまつわる逸話 の方が数多い。しかもどちらがよりキメ細かくリアリティに長けているかというと後者で ある。そしてその記述のほとんどは「衆道」 、男色に関する話なのである。この「衆道」の 語からはいわゆるホモ・セクシュアリティー的なものを連想しがちである。たしかに当時 の流行としてそのような意味でも「衆道」はおおいに隆盛していたが、常朝が『葉隠』に 記述する「衆道」はその性質を異にする。 …情は一生一人のもの也。さなければ、野郎かげまに同じく、へらはる女にひとし。 (21)是は武士の恥也。 (聞書一ノ一八〇) このように常朝は記している。これからも理解できるように、「衆道」とは一人に対して全 てを尽くすことであり、武士の道徳生活の一環にとされるものである。この点において売 色とは厳重に区別し、純粋性、精神性が重要になってくるのであって、「敬愛」という言葉 がこれに通じるように思う。この「衆道」関係が主従関係に持ち込まれた時、奉公の我没 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 132 第三部 完成した武家社会 性、滅私性はより強くなっていくのはいうまでもない事である。常朝はこのような主従関 係と「衆道」の重なった奉公の理想をひとつの歌に例えて表現している。それが「忍恋」 である。 2 「忍恋」の思想 鍋島家二代藩主光茂と常朝は言うまでもなく深い主従関係にあったが、この二人は境遇 や性格においても共通する点がいくつかあったようである。まず、両者共に生粋の戦国武 士の教育を受けて育ったという事がある。幼くして父忠直に先立たれた光茂は五十二歳年 長の祖父である初代藩主勝茂に育てられた。これに対して、常朝は父重澄が七十歳の時に できた子であった。二つめは両者共に歌道に打ち込む姿勢を持っていたということである。 光茂は十九歳の時あまりに歌に熱中するあまり、他の事が手付かずになってしまい、これ が勝茂に知れて、それまでの歌書の焼却と二度と歌をしないという神文の提出を命じられ るという経験があった。このことは常朝にも大きな関心事であったらしく、聞書二ノ六十 八(22)にも内容が出ている。生粋の戦国武将からすれば歌道は公家の行うことであり、 武士たるものは常に木刀を持つものであるという考えを勝茂も常朝の祖父、神右衛門も持 っていたようである。三つめは人生においての価値観や姿勢においても二人は共通するも のがあったという事である。光茂はその言葉の中に「一生の思ひ出」という語を多用して いる。 (23)この「一生の思ひ出」という語の語感は常朝の「家老になるが奉公の至極」 や「至極の忠節」にある「至極」という語に通じるといえる。確かに光茂も戦場での経験 はなく、二代目であったことからも、温室育ちであったかもしれないが、 「一生の思ひ出に すべし」という真摯な生の充実への希求を確かに持っていたし、常朝も「至極の忠節」を 理想とし、一生を見事に暮す事を決意して生きたのであるから、二人の価値観は似通う点 があったといえよう。 新居白石は主君の甲府宰相綱豊との出会いを「君臣之際会」と誇称している。おそらく 常朝は光茂に対してそれと同じ所感を抱いていたと考えるのは容易であるが、逆に光茂は 常朝に対しそのような感情があったかといえば疑問である。 「君臣之際会」は君臣が互いに その力量や才能を認め合うという意味で使われている。綱豊は後の六代将軍であるし、白 石はその政治顧問である。それに比較すれば、光茂と常朝の関係は藩主と家臣、しかも常 朝は「御側」 (24)という君主の側近といはいえ、当時わずか二十石の「小心者」である から光茂が常朝にこれと同等の信頼をよせていたかは疑問が残る。よって常朝自身が光茂 との関係を「君臣之際会」のような光輝なものにするには、自分の家臣という下の側から ひたすらに我没的は奉公を行うことでこの主従間の関係と縮めていく事、つまり「陰の奉 公」による自己の奉公人としての練磨しかなかったのである。これは自己の存在をアピー ルするものではない。それは常朝の倫理規範においては主君の歓心をかう卑しいものにあ たるからである。常朝は本来相互的契機を旨とする「君臣之際会」を家臣側の一方的忠誠 により実現しようとしたのである。このような君臣関係の理想を次のように表している。 恋の部の至極は忍恋也。 恋しなん のちの煙にそれとしれ つゐにもらさぬ なかのおもひを如斯也。 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 133 第三部 完成した武家社会 命のうちそれとしらざるは、深恋にあらずや。 思ひ死の長け高きこと限なし。 (聞書二ノ三四) つまり最上の恋とは、その相手に対してこちらの思いをさとらせず、ひたすら片思いに徹 する「忍恋」であり、それは主君にこちらの奉公をさとられぬようにする、 「忍恋」も「陰 の奉公」も一切の「私」を捨てるという点で構造的に一致するものとしている。 3「角蔵流」 常朝は都会と地方、つまり「上方」と「御国」に関する考えも『葉隠』に記述している。 しかもこの記述に関しては私たちがよく知っている赤穂四十七士を次のように取り上げて いるのである。 浅野殿浪人夜討ちも泉岳寺にて腹切らぬが落度也。又、主を討たせて敵を討こと延々也。 若其中に吉良殿病死の時は残念千万也。上方衆は智恵かしこき故、褒めらるゝ仕様は上手 なれ共、長崎喧嘩のやうに無分別にする事はなられぬ也。(聞書一ノ五五) 赤穂四十七士を取り上げる場合、福沢諭吉などを見ても解るように、多くの人間は彼らの 生き方や取った行動に対して肯定的である。しかし、上の文を見ると、驚くべきことに常 朝は彼らに対して痛烈な批判をしているのである。しかも「上方衆は智恵かしこき故、褒 めらるゝ仕様は上手なれ」などという皮肉すらも出てくる始末である。ではどのような点 で常朝は彼らを批判するのであろうか。 まず常朝は非常に動機の純粋性を重んじる倫理を持っていたから、 「討ち入り」という行 動の結果を配慮し、倫理を高々と掲げるやり方を嫌った。ここに「智恵かしこき故」の皮 肉がかかるのである。そして、主君との情誼のために討ち入った勇ましさの裏にある、そ の後の「御家」の命運への軽視が常朝の持つ「奉公人道」にひっかかることが想像できる。 しかし、ここでとりあげるべき事は四十七士の欠点などではなく、常朝の「上方」と「御 国」に対する考え方である。「智恵かしこき故、褒めらるゝ仕様は上手なれ」に見られるよ うに都会における智恵を重んじ、それを求めていこうとする風潮を常朝は「上方風」とし て批判し、志を重んじ、素朴に生きる「御国風」を重視したのである。 「上方風」だけに限らず、「打上たる」や「立上たる」など『葉隠』にはこういった「上」 という字を用いた語がよく見られる。それは「上」のものを最下層から見つめ、その質を 問う「下」からの視線の存在の裏返しであるといえ、それが「角蔵流」である。 組打・やわらなどと申打上たる流にて無之候。我等が流儀も其ごとく、上びたる事はしら ず候。下手流にて、草履取角蔵の様に、端的の当用に立申候。 (聞書二ノ二) 「角蔵流」の「角蔵」とは鍋島元茂に仕えた家臣鍋島喜雲の草履取の名で、彼は力わざに 優れ、これを喜雲が剣術として体系化し、「角蔵流」と称した。この精神に共感し、常朝は この名を借用したとされている。注目すべきは「下手流」という言葉であり、これは先ほ どの「下」からの視線を表すものである。この「下」からの視線も若き日に上方留守居役 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 134 第三部 完成した武家社会 に就き、 「上方風」を体験し、また己の「御側」という地位についての懊悩した経験を持つ 常朝であるからこそ養われたといえるであろう。 4「御側」の職業性 常朝の精神世界を探る上で常朝の就いていた「御側」という役職に目を向ける事も重要 であろう。常朝はこの「御側」という地位について次のように述べている。 御側・外様・大身・小身・古家・御取立などに付て、夫々に少宛の心入は変わるべし、 御前近き奉公などは、差出たる事、第一わろき也。大人の御嫌候もの也。 (聞書二ノ三一) これを見ても解るように、一般職である「外様」に対して、「御側」という職は常に主君の 近くに待機し、身辺雑用をこなさなければならない職務を持っていた。佐賀藩においては、 主君はこの者達を「尻拭役」とか「慰方」と呼んでいたし、 「外様」側からもそのような職 は侍の業ではないと見られる事が多かった。しかし実際は「差出たる事、第一わろき也。 」 の部分からも解るように非常に細かな気づかいを必要とする職であった。それ故に、前述 したような生活臭漂う教訓も多いのである。いずれにせよ「御側」という職は主君や他の 家臣からも軽く見られがちなもので、且つなんとも気苦労の絶えない過酷な役職であった。 又、出世に関しても、 「外様」は大きく外れないように心掛け、上方の目に付くことでそれ は可能であったが、 「御側」は「差出たる事」のないように、且つ落度のない仕事をしなけ ればならなかった。このような状況での出世は難しい。つまり、仕事量と周囲の評価がな かなか一致しなかたのである。 常朝はこのような藩の中でも特異な地位に就いていた事で、奉公人としての視点を熟成 し、且つどのように見られようとも主君のため、自らの家職を全うしようというより強い 情念に身を燃やしたのである。よって「衆道」や「君臣之際会」という思想を彼に育ませ たのも、 「御側」という職業性によるところが多いといえる。又、常朝の見事なところはこ の冷たい視線を浴びる役にありながらも、決して皮相な精神に走らず、むしろそれを「奉 公名利」という生きることへの充実の思想に逆転させた事にあろう。 第四章 「死」について 1 理想の「死」 常朝のような「御側」という奉公人にとっての理想の「死」とはいったいどのようなも のであったのであろうか。それに対するひとつの答えが聞書十ノ八七に見ることができる。 (25)それによると、常朝は源義経の家臣、佐藤継信を奉公人として理想の死の具現者 として挙げている。継信は屋島において、絶体絶命の危機に瀕した義経の身代わりとなり、 平家の能登守教経の弓に倒れた「御側」の武将である。常朝はこの継信の「身代わり死」 に非常な羨望があったようであり、 「継信は浦山敷事也」と賛美している。しかし、継信の このような死の完遂は、源平の戦があったからこそ可能であったわけで、戦のない治世の 世を生きる常朝がこのような「身代わり死」を遂げる事は不可能である。しかし治世の世 においてもこの「身代わり死」に相当する「死」はいくつか存在する。それが「先腹」と 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 135 第三部 完成した武家社会 「追腹」である。 2 「先腹」と「追腹」 まず「先腹」から見ていきたい。「先腹」とは字の表すとおり主君より先に腹を切ること であり、上にある佐藤継信の死、まさに平時のそれである。この例となる逸話が聞書四ノ 七六にある。(26)それによると、初代藩主勝茂が病に倒れ、その生死が危うくなった際 に当時御印役であった志波喜左衛門が、自分が先に腹を切ればもしかすると公の回復が見 られるかもしれないという事で、記述にあるように「御命替り」としての切腹を申し出た のである。しかし当時二十六歳の光茂はこのような「死」に疑問を抱いており、この願い を棄却した。家臣の死によって君主の命が救われるということに、何の確証もないことは いうまでもないが、喜左衛門のような、 「御供の御約束」を「先腹」という形をもって実行 しようとする家臣、又は実行し命を絶った家臣もいたようである。 次に「追腹」であるが、これも字が表すように主君の死を見届けた後、それに一刻も早 く追いつき、冥土においても御供として仕えるために自己の腹を切るというものである。 「追腹」の例に関しては聞書四ノ七九がそれに当たる。 (27)ここでも初代藩主勝茂公の 死後、先の喜左衛門と御薬役であった鍋島采女が、勝茂公の遺体を水で清めた後に、別の 部屋で待機していた他の家臣達の前で両手をつき、これまでの恩に対して深く礼をし、そ れから勝茂公の後を追って自らの命を断つことを丁重に述べ、その部屋を出た。間もなく して二人は見事に切腹したということであるが、他にもこの勝茂公の死に関して、彼が酒 好きであったことから上戸である二十八人の家臣が「追腹」 を切ったという話も出てくる。 又、 『葉隠』全体を見てみると、 「先腹」よりも「追腹」を切る逸話の方が多く、当時の風 潮であったと思われる。 3 「殉死」の禁止 上に述べた「先腹」と「追腹」は君主、公のために死ぬことであり、これらは勝茂公の 死去までは「殉死」と称された。ここでの正式な「殉死」とは君主の情誼に深く感激した 家臣が自主的に決断し、且つ君主にそれを許可されたものである。よって家臣にとって「殉 死」 とはこの上ない名誉であった。しかしそのような話も勝茂公の統治までのことであり、 文治主義者で、兼ねてより「殉死」に疑問を抱いた光茂公は全国に先駆けて「追腹禁止令」 を出し、それまでの「殉死」に該当するものを厳格に禁止したのである。又、それ以降、 「殉死」という言葉を佐賀藩においては使わなくなった。『葉隠』内において、勝茂公以前 の「殉死」にまつわる話に関しても、「殉死」ではなく「先腹」 、 「追腹」という言葉に変え られているのも常朝の気づかいであると予想される。 これによって「殉死」を甘美なものとしてとらえていた常朝が受けた驚嘆は非常に大き かったことが想像できる。君主の許可があれば身分の高低に関わらず名誉たる「殉死」が できるのであるから、常朝は以前よりそれを希望していたはずである。しかしそれも叶わ なくなってしまい、彼に残されたのは死に身になって奉公することと、君主のことを思い ながら死んでいく「思ひ死」しかなかった。そのような事情から晩年の常朝は出家を決意 し、死までを草庵で暮すことを選択したのである。 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 136 第三部 完成した武家社会 おわりに 私が「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という言葉をいつ、何の書物で知ったのか は覚えていないが、最初この一文を目にした時は勇ましく、侍らしい言葉であると好印象 をもって受け止めていた。その時私のイメージにあったのは死を恐れることなく相手方の 軍に馬で駈けていく鎧武者であり、剣聖と謳われた宮本武蔵のようにどこまでも強さを求 めていく侍であった。しかし今回の卒業論文の課題ということで『葉隠』をはじめ、これ に関する本を読み進めていくうちに、この言葉を記した『葉隠』の編纂者である山本常朝 と田代陣基の両名が治世の侍であり、戦の経験がない事、『葉隠』の中にある逸話のほとん どが生活じみたものであり、首の切落とし方やそれを腰に下げる方法といった血生臭い戦 国遺風を記述する部分も確かにあるのであるが、 「剣術」や「兵法」といったものとは遠く かけはなれているものであるということが解ってきた。これによって最初にあった関心は 一旦、半減しそうになったが、しかし『葉隠』にはそれと同等、もしくはそれ以上の武士 の精神世界や哲学といったものが存在することに注目してみると、また違った意味で「武 士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という言葉を見る事ができた。 個人の自由を何よりも重んじる現代を生きる私たちが『葉隠』にある「奉公人道」を真 髄まで理解できるかといえば困難であるかもしれないが、それでも奉公に懸ける常朝の情 熱を読み取ることは可能であろう。私は『葉隠』全体に目を通し、常朝の説く奉公哲学に 触れた時、まずこの書物が戦時中の教育書として使われていたということに納得した。お そらく「公」や「御国」に対して、ここまで忠誠を誓い、その尊さを説く書物というのは 他になかったであろうし、あったとしても稀であろう。 『葉隠』は当時の国民の精神的補強 という点で当時の日本政府に大きく貢献したといえるし、そこから他にいろいろな思想が 生まれて発展したことも事実である。 確かに「死ぬ事と見つけたり」とあれば、一見した限り、 「死」への積極的姿勢を表す語 であるととらえてしまいがちである。実際私もそうであった。 しかしこの言葉の真髄は「死」 を賭けて挑む「生」の充実なのである。常朝は奉公人としての最高の「死」である「殉死」 を遂げることができずに出家し、その余生を送ったが、奉公人としての命を燃やして辿り 着く到達点に「殉死」があったのであり、やはり『葉隠』は奉公人としての武士の「生」 を描いた書物であろう。又、そのような視点で多くの逸話を読んでいくとより『葉隠』の 世界は広がるように思うし、常朝や陣基をはじめ、逸話に出てくる多くの家臣が奉公を通 して、どのように自己実現をしていったかという点においても現代の私達が学ぶべきもの は非常に多くあると感じた。最後になってしまったが、法学部でありながら武士道につい て論文を書く機会を与えてくださった谷口先生をはじめ、日本法世史ゼミの皆さんに感謝 して終わりたい。 注釈 (1)近世前半に出された武士道の関連書は次のようなものがある。 大久保彦左衛門 『三河物語』(1662) 宮本武蔵 『五輪書』(1645) 鈴木正三 『驢鞍橋』(1660) 山鹿素行 『山鹿語録』 大道寺友山 『武道初心集』(1716∼36) (2) 「武士道と云は、死ぬ事と見付たり。二つ二つの場にて早く死方に片附ばかり也。別 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 137 第三部 完成した武家社会 に子細なし。胸座って進む也。図に当らず、犬死などといふ事は、上方風の打上がりたる 武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにする事は不及事也。…図に迦れて死た らば、気違にて恥には不成。是が武道の丈夫也。…武道に自由を得、一生落度なく家職を 仕課すべき也」 聞書一ノ二 (3) 『葉隠』構成 「夜陰の閑談」 「聞書一 教訓」 「聞書二 教訓」 「聞書三 此一巻は、直茂公御咄。 『茂宅聞書』『柴田聞書』 『御代々御咄聞書』に無之事を 書付申候也」 「聞書四 此一巻、勝茂様御咄し。 『御年譜』に無之事を書記す。忠直様御咄書加之」 「聞書五 此巻、光茂公・綱茂公・了閑様・御姫様方の御事共、取交之」 「聞書六 此一巻御国古来の事取交書記之」 「聞書七 此一巻、武勇・奉公方、御国之諸士褒貶記之」 「聞書八 此一巻第七に同。御国諸士の褒貶也」 「聞書九 此一巻は第七・八に同じ。御国諸侍の褒貶なり」 「聞書十 此一巻は他家の噂ならびに由緒等、記之」 「聞書十一 此一巻、前の十冊に不載事、其外取集記之」 (4) 「夜陰の閑談」は開巻冒頭にあり、唯一常朝の自筆とされる。 (5) 「すべてのの人の為になるは、我が社事と知られざるやうに、主君へは陰の奉公が真 なり」という語に由来するという説 (6) 「はがくれにちり止まれる花のみぞしのびし人にあふここちする」という西行法師の 歌に由来するという説 (7) 「又三十年以来、風儀打替り、…」 聞書一ノ六十三 (8) 『山鹿語類』で、武士の職分とは「三民の教科者」 、つまり農工商への倫理的模範と なることであると説いている。 (9)常朝が遺した歌にはつぎのようなものがある。 浮世から何里あらふぞ山桜 ( 「夜陰の閑談」より) 尋入る法の道芝露ちりてころも手すずし峰の秋風 (出家時の歌) 重く煩ひて今は思ふところ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵 虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼ねてはよそに聞にしものを (辞世の句) (10) 「物が二つになるが悪しき也。武士道一つにて他に求る事有るべからず。道の次は …」 聞書一ノ一三九 (11)聞書三内 「斎藤用之助」 (12)聞書八内 「野村源左衛門切腹のこと」 (13)聞書九内 「佐賀藩士某の妻 なにがし、密夫を斬ったこと」 (14)聞書九内 「同じく佐賀藩士某の妻 なにがし、女房を斬り殺したこと」 (15) 「酒盛りのやうすはいかふ可有事也…」聞書一ノ二三は酒の飲み方を記述。 「旅宿にては、先裏道、詰り…」聞書十一ノ一五一は旅先での注意を記す。 上の逸話の他にも奉公人の生活の仕方について細部にまで記している。 (16) 「虎口」は「小口」とも書き、城郭や陣営の危険な出入り口のことで、主に危険な 場所を意味する。 『葉隠』においては「畳の上」との対比で使われる。 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 138 第三部 完成した武家社会 (17) 「…小心者とて人より押下げるるは無念に候。何としたら…」 聞書二ノ一四一 (18) 「然れば家老に成るが奉公の至極也」 聞書二ノ一四一 (19) 『葉隠』内においては剣術、兵法などを総称して「武道」としている。 (20) 「夜陰の閑談」内に「四誓願」はある。 「 我等が一流の請願は、 一. 於武道おくれ取申間敷事 一. 主君の御用に可立事 一. 親に孝行可立事 一. 大慈悲をおこし、人の為に可成候事 此四誓願を、毎朝仏神に念じ候へば、二人力に成りて、跡にはしらざらるもの也。 」 (21) 「野郎かげま」とは男娼であり「へらはる女」とは娼婦を指す。 (22) 「歌は公家の所作也。面々家職を捨て、何として国家を相続可成哉。 」聞書二ノ六 八 (23)光茂の「一生の思ひ出」とは常朝の「一生を見事に暮す」と意識のうえで類似す るものであり、文治主義であり温室育ちの性質が表れている表現であるが、治世の二代目 藩主にしては生への真摯な姿勢がみられる点では出色である。 (24) 「御側」とはおもに君主の雑用係的な地位であり、佐賀藩有数の名門中野一門は聞 書八ノ一五」にもあるようにこの地位を侍の業として認めていなかった。 (25) 「主君御大事のとき、御家来として御命代りに不立者は一人も有べからず。…兼ね ての覚悟仕たる継信に先を越したる者一人もなし。…継信は浦山敷事也」 聞書十ノ一八七 (26) 「私義は兼て御供の御約束申上候。…」 聞書四ノ七六 (27) 「御薬役采女相勤、御臨終の時御薬打砕、御印役喜左衛門光茂公御前にて御印を打 割申候…」 聞書四ノ七九 山本常朝の生涯、おもな経歴 万治二年 佐賀城下片田横江小路に父重澄の次男として産まれる。多久図茂富が名付け 親、松亀と命名される。 寛文元年 白石邑主鍋島直弘の死去に際し、 光茂がその家臣の追腹を禁止する。 二年後、 藩内に追腹法度の禁止令を出す。次の年、幕府も殉死を禁止する。 七年 佐賀藩二代目藩主鍋島光茂の御側小僧となる。このとき不携と名付けられる。こ の時参勤交代に同行する。 一二年 延宝六年 光茂の小少性となる。名を市十郎と改める。 この年、元服する。名を権之条と改名。御書物役手伝として出仕、御歌書方 書写に従事する。 七年 華蔵庵にて湛然法師より法脈を授かる。同年十二月に生きながらの葬式 である 下炬念誦を受ける。 天和二年 御側御小姓役となる。山村六太夫成次の娘と結婚。 貞享三年 江戸苗木山で書写物奉行を命じられる。ついで京都御用を命じられる。翌年、 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 139 第三部 完成した武家社会 御役御免となる。原因は親類宅の出火の連帯責任、その責任を取り、切腹した親類山本常 冶の介錯人を務める。 元禄四年 一三年 再び御書物役を命じられる。主命により父神衛門の名を襲名する。 五月一六日、光茂が向陽軒にて死去。これに伴い、了意和尚より受戒し、草 庵朝陽軒に隠棲する。 宝永五年 養子吉三郎(翌年に権之条襲名)に『愚見集』を授ける。 七年 朝陽庵に田代陣基が訪れる。これより『葉隠』の語り、筆記が始まる。 正徳三年 草寿庵(朝陽庵を改名)を去り、大小隈に移る。翌年、祖父中野清明の年譜 を書き上げる。藩主の心得を説いた『乍恐書置之覚』を五代藩主宗茂のために書き上げる。 権之条が江戸にて死去。 享保元年 九月十日、田代陣基が『葉隠』全十一巻の編集を完了する。徳川吉宗が八代 将軍となり、享保の改革が始まる。 四年 十月十日、大小隈にて死去、法名旭山常朝。墓所は八戸龍雲寺。 以上常朝自筆『年譜』及び小池喜明『葉隠』参照 参考文献 『葉隠』上・中・下 (岩波書店) 栗原荒野 『校註葉隠』 (青潮社) 『葉隠の神髄』 (人物往来社) 『葉隠のこころ』 (人物往来社) 日本思想体系『三河物語 葉隠』 (葉隠=相良亨 岩波書店) 城島正洋 『葉隠』 (人物往来社) 大隈三好 『現代訳葉隠』 (新人物往来社) 小池喜明 『葉隠』 (講談社) 滝口康彦 『葉隠』 (創元社) 『佐賀歴史散歩』 (創元社) 奈良本辰也 『葉隠』 (日本の名著17・中央公論社) 『葉隠』に見る武士道−山本常朝の精神世界−(吉田) 140 第三部 完成した武家社会 真田家・松代藩の研究 曲尾 和典 はじめに 戦国時代、群雄割拠する中で、何故、小豪族にすぎない真田家が今日においても有名な のだろうかという疑問は、真田家の名前を聞いたことがある人であったら、一度は思うこ とであろう。そして、戦国の世も終結し、徳川幕府という約二五〇年間続く時代に入って も、真田家は信州松代の地を絶えず治め、幕末まで至った。私は、これらのことに関心を 抱き真田家・松代藩というテ−マを私なりに追究していき、そして、読み手の皆様に真田 家・松代藩への関心を少しでも持ってもらい、このような考えもあると思っていただけた ら幸いである。 第一章 1 真田氏の登場 真田氏の起こりと台頭 東信濃では、平安時代末期から滋野三家と呼ばれる海野・根津・望月の三氏の活躍があ った。真田は滋野系海野氏の一族である。戦国時代以前に真田の名が起こったのは、鎌倉 時代が最初である。これは、「浅羽本信州滋野三家系図」によると、海野幸氏の第四子幸春 を祖とし、また、「群書類従」は、海野長氏の第七子七郎幸春が祖と二通りあるが、どちら も鎌倉時代のことである。室町時代では、応永七年(一四〇〇)新任の信濃守護小笠原長 秀に対し国人武士が反抗した大塔合戦の時、反乱軍の将、根津遠光の部隊の中に「桜井・ 別府・小田中・実田・曲尾」などの名があり、曲尾は真田に近い郷で、この「実田」は「 真田」のことである。反乱軍の配下の一武士にすぎなかった。 だが、実際、今日において、真田氏として脚光を浴びていて、始祖とされているのは、 戦国時代に武田信玄の謀将として仕えた真田幸隆であろう。幸隆は、信玄が大軍で攻めて も落とせなかった、村上義清の居城である戸石城を事前調略による内応で、少数の兵で落 とし、また、西上野攻略でも活躍している。しかし、真田家が有名なのは幸隆だけの功績 だけではないだろう。二代目として真田を継いだ昌幸は、小豪族にすぎない真田家の存続 を目指し、数々の謀略と四年ほどの間に北条・織田・徳川・豊臣・上杉など各大名を翻弄 する外交手段を持っていた。そして、二度に渡って徳川の大軍を撃破した上田合戦も真田 家を生き残らせた要因の一つだろう。この他にも真田家が有名になった要因として、昌幸 の子である信幸(信之)や信繁(幸村)などがあるが、このことについてはこれから少し づつ触れていく。 2 真田信繁(幸村) もし真田家の中で最初に頭に浮かぶのは誰かと聞かれたら、間違いなく真田信繁の名前 を挙げるだろう。多分これはほとんどの人も同じような答えを返すのではないだろうか。 このように思った理由は、長野市松代町に長国寺はあるのだが、元は、上田市真田町に長 谷寺としてあるのだが、上田藩主だった真田信之が松代へ移封と同時に長谷寺も移され、 長国寺となった。長国寺は信之や信繁の祖父である幸隆公からの菩提寺である。しかし、 このお寺を訪れる人達はなぜか真田信繁のお寺であると、勘違いして来る人が多いという 真田家・松代藩の研究(曲尾) 141 第三部 完成した武家社会 話を長国寺を管理している人から聞いたからである。 では、何故、真田信繁なのか。思うに、それは信繁の強さではないだろうか。 劣勢にもかかわらず、父・昌幸と共に二度も上田の地で、徳川の大軍と戦い、打ち破った ことや冬・夏の大坂の陣での活躍などがあろう。これは、敵方の将である島津家の『薩摩 旧記』の中に「真田、日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなき由(略)」と書き、同 じく敵方の細川忠興も「真田左衛門佐、合戦場に於いて討死、古今これなき大手柄」と書 いて、信繁の最後を褒め讃えていることからも言える。これらは、肉体的な面での強さで あるが、その他にも精神的な面での強さというのもあるだろう。天下分け目の合戦の時に 、豊臣方に参戦した。結果は敗れてしまい、紀州の高野山へ流されてしまったが、一五年 後に豊臣家の存亡のために、関ヶ原合戦後は徳川の世として軍政権は磐石であったにも関 わらず、再び参戦する。合戦中も徳川側から、一〇万石、次には信州一国を与えると言う 条件の誘いにも耳を傾けることもせず、屈しなかった精神的な面での強さも見られる。ま た、このような強さの面の他に優しさという部分も見られる。真田家の家紋は独特なもの であり、六連銭または六文銭と言われるものである。話は少し離れてしまうが、この紋の 意義は仏教説話の「六道銭」によるもので、六道とは地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・ 人間道・天上道を言い、六道能化のため六地蔵に捧げる報賽銭が六道銭である。これを家 紋としたのは、柩に六道銭を収める風習にのっとり、戦にのぞむ武士の決死の覚悟を表し たものである。また、銭は無文とし、三個ずつ上下二列に連なるのが正しかった。戦国時 代に限らず、家紋は自分の家を表す大事な象徴である。その象徴とも言える家紋を大坂の 陣の時に徳川方の兄を気づかったのか、家紋をわざわざ縦にして戦ったのである。私的で はあるが、このような信繁の強さと優しさが魅力として、末長く好まれる要因なのではな いだろうか。 3 名前の謎 真田家・松代藩の研究を始めるまでは、幸村と言う名前が虚名ということは知らなかっ た。もちろん、真田家に関する良質の資料には幸村という名前は出てこない。江戸時代以 降の資料には、幸村と書かれていて、信繁という名が別名扱いされていた。通称幸村と呼 ばれている真田昌幸の次男は、幼名をお弁丸または源次郎といい、元服して信繁と名乗る ようになった。では何故、信繁という名がありながら幸村という虚名で呼ばれるようにな ったのだろうか。幸村という名を作り出したのは、今でもそうであるが、家族や一族の者 には共通の一字を付けるという慣習があり、そういったことに関係しているのではないだ ろうか。真田の始祖とされる幸隆と二代目を継いだ昌幸である。両名にある「幸という字 である。実際は「信」という字の方が多く使われているが、読んだ時の響きなど考慮され たのではないだろうか。そして「村」という字だが、信繁の上には兄・信之の他に、姉の 村松殿という人がいた。信繁はとても敬愛していて、たわいもないことで書状を送ったり 大坂夏の陣の前にも、姉に宛てた手紙が残っていることから姉思いであったのであろう。 しかしこれは、あくまでも私的な考えである。 真田信繁については、様々な小説や講談が広がっている。その中の一つに、大坂夏の陣 後、信繁父子は戦死しておらず、秀頼と薩摩を経由して逃れたという生存説などがある。 これらは、源義経の生存説と似ている。真実味が薄いが、このような話があるということ 真田家・松代藩の研究(曲尾) 142 第三部 完成した武家社会 は人々の心の中に少なからず、真田の名が残っている証拠なのではないだろうか。 4 真田十勇士 真田十勇士は、猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好為三入道・由利鎌之助・海野 六郎・望月六郎・根津甚八・穴山小助・筧十蔵の十人から構成された。「真田十勇士」とい う呼び方は、立川文庫が始めて使ったというのが有力であり、この「真田十勇士」は、大 正初期から約一〇年にわたって大阪の立川文明堂から出版されたものである。 真田十勇士の戸籍調べなどは、もともと架空の人物が大部分だから不可能に近いが、海 野・根津・望月はいわゆる滋野三家といわれた名族の姓である。真田の家臣と言えば、先 ず、思い出される苗字であり、十勇士の中にこれらの名を入れるのは当然であろう。いわ ば、譜代の家臣である。穴山小助は武田の一族穴山氏ゆかりの者だろう。小助は、幸村の 影武者として「真田三代記」などより一時代早い頃から資料に出てくるもので、その誕生 から言えば十勇士の古参というわけである。由利鎌之助・三好兄弟はおそらく「真田三代 記」が初出であろう。これによると、由利鎌之助は野田城主菅沼氏の家臣であったが、幸 村が野田城を攻めた時、勇を誇って城外へ討って出て、穴山小助に計られ落し穴に落ち、 その後幸村の家臣になった。三好兄弟は出羽亀田の領主とあるのみで、なぜ幸村の家臣に なったかは「真田三代記」には書いていない。 十勇士の中で、他の八人を圧倒して人気があったのは、猿飛佐助・霧隠才蔵の両人であ る。彼らの存在もはっきりとしない。大坂冬の陣の時家康が淀城から奈良へ移るというこ とを幸村は「忍びの者、霧隠鹿右衛門」という者を使って探り出すが、この男はおそらく 霧隠才蔵の原型だろう。猿飛佐助は立川文庫の作り出した者ではなく、文政八年書写の大 夏の陣図に名がある。茶臼山の前、天王寺の東に真田太郎・根津・由利らと並んで、猿飛 佐助という名がある。ただし、 「真田三代記」にはその名が出てこないので、おそらく文化 年間前後に作り出された人物であろう。仮に彼ら二人がいたとしても、伊賀忍者である才 蔵と甲賀忍者である佐助が互いに力を合わせただろうかと少し疑問が残る。また、筧十蔵 という人物は「三代記」では、筧金六という名があるので、この者が原型ではないだろう か。真田十勇士は、幸村の生き方にひかれ、偲ぶ思いが作り上げられた勇士である。彼ら も真田家の名を残してきた要因の一つであろう。 真田家略系譜 真田幸隆(松尾城主) 信綱 昌輝 昌幸(上田城主) 信之(初代松代藩主) 信繁(幸村) 大助 信弘(四) 信安(五) 信吉(沼田城主) 信政(二代目藩主) 信就 幸道(三) 真田家・松代藩の研究(曲尾) 143 第三部 幸弘(六) 幸専(七) (井伊氏から養子) 幸民(一〇) 第二章 1 (略) 幸貫(八) 完成した武家社会 幸教(九) (松平氏) 幸俊(一四) 松代藩の礎 犬伏の別れ 数多くの苦境を乗り越えてきた真田家であるが、慶長五年(一六〇〇)存続の最大の危 機が訪れる。時の権力者であった豊臣秀吉の死によって、秀吉の遺児である秀頼をかかげ た石田三成の西軍と徳川家康の東軍との関ヶ原の合戦が起きたのである。この以前から真 田家は、豊臣の家臣であったが、実際は家康の下に仕えるというような形であった。天下 の実権を握るために、家康は様々な大名に言い掛りをつけ、屈伏させようとしていた。そ の一つに会津の上杉征伐がある。犬伏の別れとは、この時に起きたことである。 真田父子は、家康に従い、上杉征伐のために下野国犬伏に陣をとっていた。そこに、西 軍大将である石田三成からの書状が届けられた。書状の内容を簡単に言ってしまうと、家 康の横暴が、秀頼公の地位を軽んじて、太閤の遺言に背いているため、挙兵する。そのた めの力を貸してほしいという内容である。三成からの書状を受けた昌幸は、信幸(信之) 信繁(幸村)と三人で去就について話し合っている。 「滋野世記」によると、信幸は父から石田方の書状を見せられて、「父の命ではあるしこ とに家康から特別な恩を受けているわけでもないが、ここまでお供をして来たのですから 、ここで背いては不義ではありませんか」と諫めた。そう言った理由として、信幸は一時 的ではあるが、徳川に出仕していた時期があるということや、そして、信幸は徳川四天王 の一人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を嫁にしていたことなどがあったので、はじめ から徳川につくことを決めていただろう。 昌幸は「それも一理ある。しかし、武士たる者は、さようなことではいけない。家康、 秀頼の御恩を受けた当家ではないが、かようの時節に臨み、家をも興し大望を遂げようと 思うのだ」と説いたという。そう言った理由として、大きく二つあるだろう。一つは西軍 についた方が勝った時の恩賞が良かったということである。昌幸にとっては関ヶ原の合戦 は真田家を大きくするための絶好の機会であった。この合戦は家が滅びるか繁栄するかと いう大きな賭けであった。そのリスクが大きい西軍についたというのが、戦国の一匹狼と 言われた所以であろう。二つめの理由は昌幸と家康の相性が悪かったということである。 昌幸は秀吉に表裏比興の者と称されるほどであったが、それは小国ゆえの表裏であり、大 大名でありながら表裏のある家康は気に入らなかった。そして、以前の上田合戦の怨念も わずかながらではあるがあっただろう。 信繁が父と西軍へついたのは、上記の他に、自分の妻が大谷吉継の娘を嫁にしていたこ と、また、三成とも親戚関係になっていたことも理由であろう。話し合いの結果は、昌幸 ・信繁は西軍に、信幸は東軍につくことになった。しかし、喧嘩別れではなく、お互いの 考えを理解した上での別れであった。親子・兄弟をして敵と味方に別れることになったも 真田家・松代藩の研究(曲尾) 144 第三部 完成した武家社会 のの、結果として真田家はその後も続くことになった。犬伏の別れは、真田家にとって、 最大の決断ではあったが、意味のあるものではなかっただろうか。 2 真田家以外の東西・関ヶ原 関ヶ原の合戦で、東西に別れて戦ったのは、真田家だけではなかった。織田・豊臣の水 軍の将であった九鬼家や豊臣家の中老となり、丸亀城六万石を領した生駒家などもそうで あった。一族が二つに別れ、家名の存続を図る。また勝った方は敗けた側についた者を救 う。これは、失敗の少ない賭けだから、勝敗の行方のはっきりしない大合戦では、そうし たいと考える者が多かっただろう。しかし、実際には、そう上手くいくものではない。真 田・九鬼・生駒の三家では、いずれも父が西軍に、子が東軍に属した。父は家康をかつて の同輩とあなどり、子は家康の才能と時勢の赴くところを、自分なりに感じとっていたの だろう。合戦当時、真田昌幸は五六歳・九鬼嘉隆は五九歳・生駒親正は七七歳であった。 それに対し、信幸は三五歳・守隆は二八歳・一正は四六歳であった。しかし、徳川の陣中 で、その父が西軍に属していることは、やはり後ろめたいことだったろう。次項でも、少 し触れるが、彼らに残された唯一の道は、人並み以上の奮闘をして身をもって家康や東軍 諸将の疑惑を解くことであった。 3 真田信幸(信之) 信州真田一族が、松代十万石の大名として維新を迎え、現代に至るまで家名を守ってこ たのは、 「表裏比興の者」と呼ばれた戦国の一匹狼・真田昌幸や大坂城の軍師として「真田 日本一の兵」と言わしめた真田信繁と袂を分かって、最後まで徳川への忠節を貫き通した 藩祖信幸(信之)の処世の強かさと誠実さに負うところが大きいであろう。 真田信幸は、上記でも少し触れたが、妻は徳川四天王の一人である本多忠勝の娘であっ た。犬伏の別れで、父(昌幸)と弟(信繁)と別れて徳川方につき、上田藩主を経て、松 代藩主となるまでには、並々ならぬ苦労があった。 その最大の要因の一つは、やはり別れた父と弟であったであろう。豊臣方についた父と 弟は、上田城にたてこもり、家康の息子である秀忠軍を散々に打ち破ってしまったのであ る。関ヶ原の合戦は徳川方の東軍の勝利に終ったが、信幸は褒美の代わりに父と弟の命を 助けてもらうために嘆願している。そのため、後々、秀忠の恨みをかうことになる。関ヶ 原後は、上田藩九万五千石の禄を得て、徳川家に誠心誠意をもって仕えた。 また、この時に真田家を憚るためかどうかは分からないが、「幸」という字から「之」へ と変えている。しかし、今までの努力を無駄にするような問題が起きた。それは、大坂の 陣である。関ヶ原後に、必死に嘆願して、命を救った弟が、また豊臣家の将として仕え兄 の気持ちを知ってか知らずか、 「日本一の兵」と賞讃されるほど、華々しい活躍をするので ある。これには、さすがの信之もどうすることもできず、頭を抱えるしかできなかったで あろう。弟の死によって、真田家は肉親からの悪縁から解放されたように見えたが明暦四 年(一六五八)真田騒動が起きる。 これは、信之が隠居し、後継者として信政が二代目藩主になったのだが、着任六ヵ月後 他界することによる。三代目藩主の座を巡って、信政の子・右衛門(幸道)と沼田城主二 代目藩主の信吉の次男・信利との間に確執が生じてしまったのである。信之の働き掛けに 真田家・松代藩の研究(曲尾) 145 第三部 完成した武家社会 よって、大きな騒ぎにもならず決まりはついた。信之は九三歳という年齢で他界した。彼 の生涯は、弟・信繁とは対照的に地味に生きた武将であり、肉親関係においては、真田の 血を残すために大変な苦労をしたと言える。しかし、この苦労があったからこそ、松代藩 の基盤として幕末まで存続させることができたのではないだろうか。 第三章 1 松代藩の政治 藩財政の貧窮 松代藩祖の信之が他界した頃は、まだ財政が豊かであり、三六万両も残っていたが、善 光寺修復や松本城の管理、幕府への御手伝普請などにより、またたくまに無くなってしま った。その後は、河川の氾濫や城下町の焼失などがあり、幕府から借入をするようになっ ていった。天災や御手伝普請の出費は仕方がないが、家臣への支給や税の取り立てに関し ては、おさえることが出来なかったのだろうか。 寛文六年(一六六六)頃、松代藩の家臣団の総数は約一九〇〇人前後であり、知行地を 与えられた上級家臣はその一三パ−セントから一五パ−セントの二五〇人から二七〇人で あった。米または籾で支給される蔵米取の下級家臣は一六五〇人前後で、そのうち足軽は 約一〇〇〇人ほどであった。松代藩は一〇万石で、実際は新田開発などが行なわれていた ので、一二万四〇〇〇石位の藩地であったが、この家臣団の数は、藩の歳入と武士への給 与の支出とのバランスがとれていなかった。松代藩の歳入は、検地にあたり、六尺五寸( 一・九七メ−トル)の検地間竿を使用した。太閤検地では、六尺三寸(一・九一メ−トル ) 、徳川幕府が六尺一分(一・八二メ−トル)と規定されていたのと比べると、松代藩は農 民側に有利であり、その理由を「殿様のお情けとしての措置」としている。 また、税としての取り立ては四公六民であった。そのため、藩の歳入は、大体五万石で あった。ところが、藩の経済が苦しくなると、藩士に対する支給高が減額されると共に、 満足に支給されなくなった。また、物価の高騰が甚しいうえに給与の遅配が続いたために 寛延三年(一七五〇)には下級家臣である足軽階級によって、元旦からストライキが発生 し、誰も出勤しなくなるという事態となった。これは全国で初の異例の事態でもあった。 後でも少し触れるが、松代藩の財政は豊かではなく、また安定していなかった。これは、 松代藩に限ったことではなく、全国各藩でも同じことが言えただろう。 2 恩田杢∼日暮硯 松代藩の財政立て直し政策で特に有名な人物は、恩田杢であろう。彼の政策方針や治績 について触れていく。杢は、六代藩主真田右京大夫幸弘の時に登用された。松代藩藩政改 革の担当者恩田杢民親の事業を書いた『日暮硯』は、名声が高い。だが、経営学として読 まれるのはともかく、成功したの典型とするのには問題がある。江戸中期には、他のどの 藩も財政難に陥り改革を試みたが打開の妙手はなかった。松代藩の場合も容易ではなかっ たはずだ。 『日暮硯』の話の概略はこうなる。藩主真田幸弘は杢の起用を決意、一族親類の同意を 得、国元から江戸藩邸へ藩役人一同を召し寄せ、杢を「国中政道心のままに取り計らう」 勝手方家老に登用することを宣言する。杢は拝辞したものの、諸役人と誓詞血判をかわす ことを条件に引き受ける。杢の在任は宝暦七年(一七五七)八月から同十二年正月の病死 真田家・松代藩の研究(曲尾) 146 第三部 完成した武家社会 までである。 杢は帰国するやいなや親類に義絶を、妻子・奉公人に離別を申し渡す。驚く一同に問い 詰められ、 「以後一言半句も嘘言をいわず。また御勝手向再建といっても倹約のみ率先して 飯と汁、木綿衣類以外は断つ。これに付き合わせるわけにはいかない」と述懐、結局、堅 い協力をとりつける。 登城して列座の諸役人を前に杢は「いかに倹約とて御用向御用筋は十万石相応に」とし た。これまで家臣知行の借り上げ政策がとられてきたが「手前役儀相勤め候間は本高の通 り相渡し申す」と約束、武術・学問はもちろん、楽しみも必要だと説いた。従来の悪事・ 怠職は問わず以後は信賞必罰という方針を徹底し、実行する。 主君の帰国を待ち、いよいよ領内全町村役人を御用金や先納年貢の上納者、年貢未進者 も連れてこさせ、残らず白洲に集めた杢は「今日はとくと相談いたしたき儀これあり」と 話を始めた。いちいち反応を問いながら進めた話の要旨は以下であった。 (一)向後けっしてうそをつかぬ。 (二)音物賄賂を断ち切る。 (三)年貢督促に足軽九〇〇人を村々へ派遣してきたが、以後一人もださぬ。 (四)諸役を免除する。 (五)先納・先々納は今後やめる。既納分は殿様へ進上してくれ。 (六)御用金も一切 命じない。これまでの分は返上できないが、子孫困窮の時は必ず返 すから無利子で預けたと思ってくれ。 (七)未進年貢は長煩いや貧窮ゆえと存じ免除するが、今後は厳罰。 (八)上を合計するとだいぶ負担軽減になる。ついては当月より年貢を月割りで返上して くれ。ここが総百姓へのよんどころない無心である。 (九)願い訴訟のことがあれば封書封印して差し出せ。 帰村した村役人の話に総百姓も「ありがたき御政道かな」と喜び、請書を出した。杢は 重ねて、このうえは家業出精のうえ、碁・将棋・双六・三味線、慰みなら博打も楽しみ、 仏神信仰、親孝行や兄弟夫婦和合を説いた。 3 つくられた治績 『日暮硯』は、この結果、家中は文武・職務に精励し、諸人安楽、藩財政も五年とたたぬ うちにすっかり好転したと述べ、杢の「仁政」を称揚し「希代の不思議の賢人なり」と手 ばなしで人格識見を讃えている。 しかし、これまでの実証研究の示すところは、 『日暮硯』と相違している点がある。 まず、家中の半知借り上げ中止の約束である。松代藩の半知借り上げ政策は、享保一四年 (一七二九)に始まり、寛保元年(一七四一)以降常態化していた。これは恩田杢在任中 にも変わりがなく、幕末まで一貫しているのである。下級藩士への蔵米支給も滞ったまま であった。杢は「嘘言」を犯したことになる。 次に、 『日暮硯』は年貢月割上納制の採用を杢が創始し、全領総百姓の納得をかちえて実 施したと描く。月割上納は秋収穫後上納すべき年貢金を一二等分し、三月か四月から上納 を始め、八月以降二ヵ月分ずつ納め、十月に公定値段で清算するもので、つまり年貢先納 金の分割上納仕法である。利子分として三月から七月上納分は公定値段より三俵安、八・ 真田家・松代藩の研究(曲尾) 147 第三部 完成した武家社会 九月分は一俵安で清算された。この月割上納仕法は、実は寛保元年、前藩主信安の登用した 原八郎五郎が創始している。恩田杢はこれを受け継ぎ、多少の手直しを施して再実施した のであった。杢以後、幕末まで存続した。 三つ目に、恩田杢の生前、藩財政はついに好転せず、参勤交代の費用にもこと欠く窮状 を脱していない。杢の死後、勝手方家老に任命された望月治部左衛門が一年後、御勝手難 渋の打開策なしと辞職し、藩主の不興を買ったほどである。その望月が再任され藩財政収 支にややゆとりができたのは明和三年(一七六六)のことであった。 4 貨幣経済の激浪 こうみてくると、 『日暮硯』の描写する恩田杢の治績には、原八郎五郎や望月の仕事もと りこまれているかにみえる。杢が率先垂範して、文武鍛練・綱紀粛正につとめ、倹約施策 や民政の公正・合理化に尽力したことは、実証の裏付けもあり、彼の廉直識見は疑えない だろう。そして、総百姓の納得なしでは村役人といえども動きようがなく、不信をよべば 激しい抵抗をまき起こす当時の民情も、よくつかんでいる。 しかし、藩財政窮迫の根底に抗しようのない貨幣経済進展の激浪がある状況では、杢の 見識才腕をもってしても即効薬はなかった。杢の政策は、この時こそ、あまり芽が出たと は言えないが、現在においても、高く評価されているので、成功したと言っても間違いで はないであろう。 5 松代藩の司法 江戸時代においても、幕府によって、様々な制度が発令された。幕府の制度は標準とさ れた。しかし、実際には、数百年来慣習とする家法があったので、多少の相違は免れなか ったようである。松代藩の藩政時代の司法を見ていく。 藩政時代には評定所において訴訟を聴き罪人の罪を問い糾していた。評定所は海津城内 御藏屋敷の東隣にあって、毎月二日・六日・十一日・十九日・二十五日を寄合日と定めて いた。けれども、寺社に関係した事件は寺社奉行、市井で起きた事件は町奉行、その他の 一般公事訴訟は職奉公の管する処にして何れもその権限によって処断していた。刑罰には 鞭・追放・所払・遠島・死罪の五種類があり、鞭には軽鞭(五十回)と重鞭(百回)の二 等があった。また、死罪には、斬・火・獄門・磔・鋸挽などの他に、その属罪に晒・入墨 ・非人手下などがあった。また、武士の閏刑には、逼塞・遠慮・慎・閉門・蟄居・隠居・ 永隠居・改易・切腹があった。僧徒には、晒・追院・構があり、婦女には、剃髪・奴があ った。庶人には、叱・過料・戸閉・手錠の種類があった。また死刑の中に火刑の名前はあ ったが、行われたことはなく、遠島も永牢(終身禁固)を追放として、執行された。また 残虐であるとして、やめられた刑もある。 それは、鋸挽の刑である。寛永三年、善光寺阿弥陀町茂左衛門という極悪人がいた。二 十四歳の時、主人を殺して捕らえられた。その頃、主人殺しは最も重い罪科とされていた ので藩の役人は幕府へ伺った上、茂左衛門を縛って三日間往来にさらして生恥をかかせて 置き、そして、竹の鋸にて首を挽き切ってさらに、梟首にした。この時の奉行は矢島源五 左衛門であったが、竹の鋸で首を挽くのは、あまりにも残酷であるというので、これ限り 鋸挽の刑罰は廃止され再び行うことがなかった。 真田家・松代藩の研究(曲尾) 148 第三部 完成した武家社会 また、武士の者を譴責するに親不孝の罪名をつけることがなかった。父母に従わない者 がいたとしても、親不孝の名を避け必ず他の罪名をつけ、執行された。これは、松代藩が 常に名分を重んじ士気を養うことを目的としたからである。 明治二年には、朝廷の主旨を奉じて藩政を改革した際に刑法もまた改正させられて、鞭 ・杖・徒・流・死の五目を立て、なおかつ、賠償金の法を設けた。また、閏刑には、謹慎 ・閉門・禁固・辺戊・自裁の五つを定め官吏の公罪・私罪を別にし、僧徒、婦女、老少、 廃疾などには別に制度を定めた。そして、刑罰は軽重に関係なく、そ 他、邦に関係ない もの、仮に令を犯す邦人がいたとしても、法律に照らして処刑した。また、どのような場 合といえども、幕府の判断に頼るということはなかった。しかし、明治維新の制度は、斬 以上の重罪は詳しく説明をして、お上の命令広く世間にしらしめた後に許可を得て、罪に 処した。このようにして、松代藩は、法律を定め、江戸時代、また廃藩以後の明治時代と 秩序を正してきた。特徴としては、ただ罪を科すのではなく、罪人ではあるが、人として の名分を重んじていたところではないだろうか。 第四章 1 幕藩体制の松代藩 藩政改革∼真田幸貫 真田松代藩は幕末まで十代に及ぶ藩主が登場した。生きた時代が違うので、各藩主の藩 政は様々であった。ここでは、八代藩主・幸貫の藩政改革について見ていく。 幸貫は、寛政の改革で知られた松平定信の次男として生まれ、文化一二年(一八一五) 松代真田家に養子入りし、三十年間藩政に携わった。また、天保一二年(一八四一)から 一五年(一八四四)まで、幕府の老中に就任し、水野忠邦が行なった天保の改革を手助け したりした。この頃は、アメリカなど日本と通商がない国は開国を求めて来航していた。 幸貫は従来あった外国船打払令の方針を撤回して、防衛力の整備を発議したりと幕府の中 心的な役割も担っていた。これらは外様大名であった真田家にとって、譜代大名に準じた 地位を付与する効用をもたらしたと言っていいだろう。 そして、幸貫の藩政改革は多岐に渡るが、大まかには、法律の整備・藩の機構整備・藩 の歴史書の編纂・兵備の強化・産業の振興・仏教の奨励があげられる。幸貫によって登用 された人物として、幕末に影響を与えた佐久間象山や鎌原桐山などが有名である。また、 藩士のために文武学校を創設したのも政策の一環である。この名残が、今の長野県の、教 育水準の高さの元となったのではないだろうか。そして、産業では養蚕を奨励し足かがり とした。これは幕末から昭和の戦前まで、松代の特産品の一つとして、全国でもトップレ ベルの生糸の生産を誇っていた。こうした幸貫の改革は松代藩を新しい局面へと向け、重 大な布石を残したばかりでなく、近世松代の文化を考えるうえでも欠くことのできない人 物であったと言えよう。 2 幕府内の真田・松代藩 大坂の陣後は、徳川の世として治まっていた。真田家は関ヶ原の褒賞として、上田藩九 万五千石をもらい治めていた。ここでは、松代藩は幕府内で、どのような存在だったかを 見ていく。 父と弟のことがあったのも、要因の一つかもしれないが、信之は家康に誠心誠意をもっ 真田家・松代藩の研究(曲尾) 149 第三部 完成した武家社会 て仕えた。その甲斐あってか、大坂の陣後も特に処罰されるようなことはなかった。さき ほども上記で少し述べたが、これには信之の妻である小松姫との婚姻関係も深く関わって いると言えるだろう。 二代目将軍・秀忠の時になると、上田藩から松代へ増封という形で認められている。し かし、これには、今から見ると松代の地で成功したから良かったと言えるが、当時、信之 にとっては、苦痛であったと言えよう。なぜなら、生まれた頃から慣れ親しんだ上田の地 から移されてしまったからだ。松代の地も戦国時代に武田信玄などが治めていた土地では あるが、与えられた藩地は河川に近く、氾濫があれば、収穫もままならないところであっ た。高台の良い土地は、徳川の天領として治められた。信之にとっては、増封という形で あったので、文句は言えなかったであろう。この背景には、真田に苦しめられた上田合戦 の仕返しという意味合いも少なからずあったのではないだろうか。 しかし、その後は、全国各藩で減封・転封・改易といった制裁が行なわれたが、松代藩 は幕末に至るまでこの地を治めた。また、外様大名であったにも関わらず、江戸城の控え の間では、帝鑑間に詰めており、譜代に準じる扱いを受けていた。後期になると、真田家 は徳川筆頭の井伊家の幸専・松平定信の次男である幸貫・伊予国宇和島藩の伊達家からは 幸民などを養子に迎え、家督を譲った。このような関係から老中・若年寄など幕府の要職 も務めるようになった。この結果、幕府領とあいまって、松代藩は関東・東海に次ぐ徳川 政権を支える基盤となり、幕府の外壁を形作ったと言ってもいいだろう。このようなこと ら松代藩は幕末まで、徳川政権にはなくてはならない存在だったのではないだろうか。 おわりに 私がこのテ−マを選んだ理由は、講義内での地元の話題からである。このゼミで最初に 扱ったものが「日暮硯」であった。私は聞いたことはあったが、内容などまったく知らな くて、本を読んだ時、初めて地元のことであると知った。それでも、あまり興味は湧かな かった。しかし、今年は教育実習で、日本史を教えることになっており、仮にも「先生」 と呼ばれるものが、地元のことを知らなくていいのかという疑問が生じてきた。それがこ のテーマを選んだきっかけとなった。卒業論文参考資料として、地元の歴史に今の高校生 はどれくらい興味、関心があるのか、アンケ−トをとり、結果をとった。見て頂くと分か ると思うが、半分位(一四〇人)の生徒が地元のことに関して、あまり興味を持っていな いようである。また、正確な漢字を書けないというのもかなり目立った。 話が少しずれてしまったが、松代町では、二一世紀に向けて、地元の歴史を伝えようと 松代城の再建や博物館を盛り上げようとする運動が行なわれている。しかし、このような 運動も年配の方々が目立ち、若い年代の人達の参加があまりないというのが現状である。 私もこの研究をはじめる前までは、関心はなかった。しかし、本を調べたり、実際に足を 運んで、見たり聞いたりするうちに様々なことが分かり、楽しいという気持ちになってき た。他の若い人達も、このように気付いてほしいのだが、実際には難しいのかもしれな。 私はこの研究で様々なことを学んだ。そして、現実に直面している問題なども知った。 中でも、一番に感じたことは、今回だけではなく、これからも松代のことについて勉強し ていき、また、なんらかの形で関われたということである。 真田家・松代藩の研究(曲尾) 150 第三部 完成した武家社会 参考文献 ・ 「 『日暮硯』と改革の時代 笠谷和比古著 PHP新書 ・ 「名君と賢臣」 (江戸の政治改革) 百瀬明治著 講談社 ・ 「日暮硯」∼リ−ダ−の心構え 藤田公道著 山下書店 ・ 「恩田木工」 川村真二著 PHP研究所 ・ 「真田三代軍記」 小林計一郎著 新人物往来社 ・ 「真田一族と家臣団」 田中誠三郎著 信濃路 ・ 「戦国・江戸 真田一族」 新人物往来社 ・ 「長野の歴史」 ・ 「長野県の歴史」 古川貞雄著等 山川出版所 ・ 「松代町史」 (上巻) 松代町史復刻続町史刊行会著 長野市松代町 ・ 「図説・北信濃の歴史」 (上巻) 小林計一郎著 郷土出版社 ・ 「長野県」 小林計一郎著 昌平社出版株式会社 真田家・松代藩の研究(曲尾) 151 第三部 完成した武家社会 唐津藩の歴史 吉原 健悟 はじめに 日本において信長、秀吉による統一の事業が進められさらに家康によりその機構が整備 され世界に比類のない強大な封建的支配機構である幕藩体制が完成した。この時代、政策 の一つの特徴は画一性であり独善的な性格であった。このためもちろん同一の政策でも異 なった地域に同一に運用されるとは限らないが、多くの政治機構をはじめとして、画一性 のあるものが多い。特に譜代大名による転封が続いた唐津藩では、幕府の政治機構を圧縮 したかのような感じがある。この唐津について簡単な地理的説明をすると、現在佐賀県の 北部に位置し玄海灘に面している。現在は、唐津城や虹ノ松原、唐津くんちなど観光スポ ットになっている。 戦国時代は、どのようであったかというと、唐津藩領域には、岸岳城に拠る松浦党の領袖・ 波多氏が権勢を揮っていた。豪族とも称される波多氏は、豊臣秀吉の忌諱にふれ、文禄の 初めごろ滅び,秀吉の側近で征韓の役に軍功のあった寺沢志摩広高が、波多氏の所領をそっ くりそのまま継承し、文禄四年初代唐津藩城主におさまった。この寺沢氏より次々に変わ り幕末に及ぶまでの城主について詳しく調べていくことにする。 第一章 唐津藩の成立 1 初代城主寺沢氏 寺沢 広高(志摩守)――堅高(兵庫頭) 文禄四年(1595)∼正保四年(1647) 二代 五十三年間 寺沢氏は尾張出身である。広高の父広正は織田氏の家臣で、本能寺の変の 後秀吉に仕え,大和国に六万石を領した寺沢越中守広正である。広高は秀吉 の九州征伐にも小田原攻めにも参加しており,天正十七年には従五位下に叙せられて志摩 守と称した。文禄・慶長の役では朝鮮へ二度とも出ているが主として、総軍監兼船奉行(輸 送関係・武器・食料)を受け持ったようである。なお慶長の役においては加藤清正,鍋島直茂 などと意見が食い違い、日本一の臆病者として弾劾されているが、このことが結局は家康 と志摩守との結びつきを作り、慶長四年九月には家康の代わりに島津氏の内乱鎮定を助け ている。また、翌五年(1600)の関が原の戦いには東軍として戦い,その功によって天草四 万石を加えられ、さらに慶長十九年(1614)替地によって怡土郡二万石を得,松浦,怡土,天 草の十二万三千石を領有することになった。これは大名中二十六位の知行高である。 2 寺沢氏と唐津藩の始まり 波多氏没落後、唐津藩を領有した寺沢広高は、唐津城の築城と併行して新しい改革を遂 行するため最も意を用いたのが、各地に郷士的勢力を保っていた波多氏の家臣団を初めと する旧武士団の処置である。広高が理想としていたものは他の大名たちが求めていたのと 同じく領主による領民の直接支配である。広高は、波多氏などの旧家臣の一部を取り立て て知行地を与え、また・庄屋・郷足軽として起用し、旧武士系の庄屋制度と言う巧妙な融 唐津藩の歴史(吉原) 152 第三部 完成した武家社会 和政策をとった事により領民支配の体勢作りに成功した。庄屋については下の身分制度の ところで詳しく述べたい。元和二年(1616)には、庄屋を確認しさらにその庄屋を利用し 「村々裏々法乃事」を定め,郷村支配の基本を示した。又近世を通じてさらには明治の初期ま でも,土地所有権の基礎資料なった「元和の検地」を完成して,知行制度および身分制度を確 立した。唐津藩の近世的な土地支配の基礎ができたのは元和の検地の行われた時期であり, 大阪夏の陣前後と考えられる。元和三年(1617)には、「藩士戒士」三か条を定めて家臣の 心得も完了した。 藩中戒示三条 一、家中之侍共家居飾又ハ武具の外私のしよう道具を持はやし等、堅令禁制候 類熨物にも 衣 おごりたる儀仕私用を本とする者あらば曲事可申付候 一、用をかさらす、身上相応程人馬をも所持候者あらば 其為養置侍二而格別之儀にて無 之候得共聞届仕候はば吟味候而褒美可申付事。 一、侍之義理をしらす奉仕かけひなたを仕、偽かさりを似、主を期き身を立んと覚悟 し、万意ややむさき者あらば問立候へと内々目付共申渡置侍条得其意常々相嗜可申事 唐津城を築きながら幕藩体制の整備を進めていった広高の政治手腕はやがて来る幕藩体制 を予見した先見の明を語るものだった。 3 身分制度の確立過程 広高の藩政の中心は唐津城の工事を慶長七年に起こして同十三年(1608)に完成すると、 すべての武士を城下に移住させた。寺沢の家臣には,①尾張国以来の家臣も多いが②諸国で 浪人をしていたものたち③さらには波多家を浪人していた人々もおり武士階級の構成は複 雑であった。又唐津城の完成と同時に城下町の町割りも、刀・米屋・呉服・八百屋・魚屋・本・ 大石・紺屋・中・木綿・材木・京町・新・塩屋・東裏・江川町の十七町が設けられ各地から商人が 集まった。そして,士農工商という典型的な身分制度の確立を図った上で特に庄屋階級の存 在に意を用いた。庄屋とは、村全体の貢租(物成・小物成・賦役)の賦課と納入を代表した り訴訟、契約,貸借などを代表したり、村民の強い権限をもっていた。庄屋の選挙は有力な 地主,土地を持った農民(本百姓)の入札(選挙)で選ばせたとあるが、輪番制とったりし 多くは代代その村を世襲するのが常だった。前にも書いたが旧武士が庄屋に多くなってお り、取立慶長年間に庄屋給を渡して庄屋の家格を認めた。この旧武士によって構成された 庄屋層は藩から様々な特権を与えられた。庄屋は一般農民と明確に区別され、むしろ武士に 近かった。これは唐津藩の庄屋制の大きな特異点といえる。これは庄屋は農民と武士の間 に一つのグループを形成していたといえる。 4 寺沢氏二代堅高の苦労 唐津藩祖をして非常に優れた治績を残した志摩守は寛永二年(1625)十二月に隠居し次 男の堅高(十七歳)に家督をゆずった。寺沢二代城主は兵庫頭と称した。権衡が唐津を領 したときは政治的にも一番困難な時代であった。キリスト教徒の弾圧が行われて特にキリ スト教徒の多かった天草では弾圧がよく行われた。キリスト教については志摩守も一時は 洗礼を受けたほどであった。これはキリスト教を理解したからではなく政治的に、又貿易上 の利益を追ったものであった。寛永元年には参勤交代が始まり諸大名が経済的に苦しくな 唐津藩の歴史(吉原) 153 第三部 完成した武家社会 ってきた。さらには寺社奉行をおいて宗教政策を確立しようとした。これらによりキリス ト教の弾圧の強化に伴ってついに、天草と島原の教徒たちが小西家の浪人を交えて天草四 郎を中心にして反乱を起こした。 寛永十四年(1637)十月島原、天草の百姓が動き始め、富岡番台、三宅藤兵衛は本土に出て弾 圧しようとした。十一月には唐津から千五百人の与力が家老の岡島次郎左衛門に率いられ て天草に派遣された。さらに参勤交代中の兵庫頭も帰国した。天草四郎が唐津勢を本土で 激化し番代の三宅藤兵衛が戦死した。さらに富岡城を攻めたが、ついに攻めきれずに十二月 には天草四郎は原城に入場し、三万七千人が原城を籠城した。兵庫頭も天草まで兵を率い た。その後、板倉重昌の戦死、和蘭船の城内砲撃などあり原城側も非常によく戦って幕府を 驚かせたがついに翌十五年二月二十八日に落城した。幕府は乱後の処理として島原領主松 倉長門守を所領没収の上斬罪に処し、寺沢兵庫頭の知行を召し上げたが、後富岡城を守っ た功績によって新しく知行をして天草を除く旧知行地八万三千石を領有した。 その後兵庫頭は天保四年江戸で自殺したとも、狂死したとも言われている。兵庫頭が没す ると嗣子がなく当時は大名の嗣子がないと領地は没収され事となり寺沢氏はこれで弾圧さ れた。 5 公領の期間 寺沢氏断絶後公領となり、上使として兵庫頭の姉聟の水谷伊勢守を初め鈴木三郎九朗、 中川主膳、高田摂津守斎藤佐源太、津田平蔵が城を受け取りにきてその中で、水谷伊勢守、 鈴木三朗九朗の二人が慶安元年の一ヵ年間城に残って勤めた。 第二章 藩政の仕組み 1 二代目藩主大久保氏 大久保 忠職(加賀守)――忠朝(加賀守) 延宝六年(1649)∼元禄四年(1678) 二代 三十年 <譜代大名大久保氏> 慶安二年(1649)になると譜代大名の大久保忠職が播州明石より転封でやっ てきた。 忠職は加賀守と称し、最初二万国から寛永九年美濃国加納で五万国を領しさらに同 十六年播州明石で七万国次いで唐津の八万国となった。 忠職の在任中は、慶安二年、慶安のお触書が出されて農民の日常生活への干渉が厳しく なり、同四年由井正雪の変があり浪人問題が検討されて大名の末期養子が許可制となり、 養子がなくとも取り潰されることはなくなった。忠職の時代に行われた政治で特記すべき ものをあげると、播州明石から国替えの際に、舟手の者と町人をともなってきていることが 目立っているし、転封できた際に 一、 大小庄屋引見の事 並びに各村各組より、鳥目一貫情文づつ献上のこと。 一、 焼物師は御茶碗献上のこと。 一、 鎚柄は御鎚の柄献上すべきこと。 以上の事を命じ、これが後世まで前例になった。さらに彼の村役人の一つである名頭とは、 唐津藩の歴史(吉原) 154 第三部 完成した武家社会 村三役の庄屋、組頭、百姓代の中の組頭に相当するもので、農民の中から選ばれて庄屋の仕 事を助ける事になった。しかし庄屋と名頭の間には厳重な階級的差別があり名頭が庄屋に 昇格する事は皆無であった。彼は寛文十年(1670)六十七歳で没した。その間二十一年であ る。 <大久保氏二代目忠朝の庄屋制度> 忠職には子がなかったが末期養子の禁もゆるめられていたので、右京亮教澄の二男を寛 文十年春に養子とした。出羽守を称していたが、延宝五年加賀守忠朝と称した。忠朝は延 宝六年下総佐倉城に天封になったので、八年間唐津藩主の任にあたったわけである。この 間に彼の行った政治の中で一番大きなものは延宝二年にはじめられた庄屋の転村制度であ る。忠朝は「勤情ヲ正シ候為ニ」ということで庄屋の職務の能率化を図るという事で十ヵ年 の期限を定めてもとの村に帰するという事で庄屋を転勤させ始めた。しかし彼のはじめた 十ヵ年の期限は有名無実のものとなった。 延宝二年(1674)大久保出羽守所領ノ時始テ十年転務割ヲ設ケラレ引継ギ領主変換シ 土井家トナリ水野家トナルニ従ヒ十年の期限モ廃せられ専ラ勤情ヲ以テ大小村ニ黜陟スル コトトナリ・・・・ 『浜崎庄屋中村氏蔵』 というように十年の期限も全くなくなり藩の意向のままに転勤させられる事となった。こ のことは「大久保加州様(忠職)御代、庄屋之内ニ重罪之者御座候而御追放被仰付」という ような庄屋の不正行為、違法行為というものが直接の口実になったにしても、この天村庄屋 の制度は支配大名が物成などの徴収の徹底を期するために庄屋を藩の官僚機構の中に繰り 入れ勤務成績によってあるいは小庄屋から大庄屋へ、大庄屋から小庄屋へ、さらには庄屋役 地の小さな村から大きな村へと栄転または左遷する事によって、庄屋を農民から切り離し て完全に藩の出先機関化すること、すなはち物成などの取立役人化することに大きな目標 があったと思われる。唐津藩ではこの後も転封が続き、ますますますます藩財政が窮乏す るにつれて庄屋の転村頻度も多くなり、庄屋のほうも小役人かして有利な村への転勤運動 も行われるようになり、庄屋と農民との間には冷たい人間関係しかないようになった。この 基礎をなす転村庄屋の制度は大久保氏のときに始まったが、このことのみならず大久保の 時代に作られた制度は後の代々の領主にも大きな影響を与えた。 2 三代藩主松平氏 松平 乗久(和泉守)――乗春(和泉守)――乗邑(和泉守) 延宝六年(1678)∼元禄(1691) 三代 十四年間 延宝六年正月、大久保忠朝が下総佐倉城に転封されると入れ替わって、佐倉 城主松平乗久が唐津城主に任ぜられて七月十日に城を受け取った。このと きは松平の家中は大手門から入り、大久保の家臣は西の門から去ったといわれている。代々 転封の際にこのように新しい領主が大手門より入り古いものが西の門より去ったものであ ろう。松平家は松平二十八家を言うほど非常に多いが、この松平は通称荻生の松平と呼ばれ、 将軍家とも遠い血のつながりを持つ譜代大名である。松平乗久は承応三年(1654)正月父 乗寿のあとをうけて上野館林で六万石を領し和泉守と称したが、五千石を弟乗政に分封し て五万五千石を領した。寛文元年(1661)八月、史下総佐倉に転封となり六万石を領有し、 唐津藩の歴史(吉原) 155 第三部 完成した武家社会 さらに延宝六年(1678)に唐津に移された。このとき怡土郡のうち一万石は上知されて幕 領となり、残りの七万三千石のうち三千石を次男の源蔵好乗に分知して七万石を領した。 和泉守は十月十九日大庄屋、小庄屋を城内に呼んで庄屋職を認可した。このとき庄屋など から差し出したものは、 一、御希代参拾参貫文 御領分惣百姓 一、御鑓柄弐本 平山鑓柄師一人 一、御茶碗 椎峯焼物師七人 であった。これは大久保氏の代からの慣例である。なお家臣の知行については、大久保氏 の代より蔵米知行となり地方知行は廃された。 この乗久は貞享三年(1686)に江戸で没した。七月十七日に死去して唐津の領民が領主の 死を知り龍源寺で焼香が行われたのは八月十七日であった。乗久が領していた九年間には、 天和三年に八百屋お七の死刑がおこなわれ、又貞享元年には若年寄の稲葉正林が大老の堀 田正俊を殿中で刺殺した事件があり、旧唐津藩士大久保忠朝と戸田忠昌が正林を斬った。ま た、貞享二年七月には幕府は犬をつなぐ事を禁じて生類憐れみの令の先駆けをなした。貞 享暦が幕府に採用されたのもこのときである。二、三の事件はあったが、全体的には平穏な 時代であり、好色一代男なども刊行された。 乗久がなくなってから嫡子の乗春が封を継ぎ、これも同じく和泉守と称した。貞享四年 五月下関より船で浜崎に上陸、庄屋を引見して入城し、六月十九日、庄屋職を認可した。そ の後元禄三年九月九日江戸で没した。その間、わずか四年である。この乗春は兄弟に二千万 石を分封して六万八千石を領した。この時代も引き続き新田の開発が続き、延宝六年から元 禄三年までに参百七拾石余の新田開発がおこなわれ、とくに山本村の新田開発が目立って いる。 乗春の後を継いだ乗邑は江戸にいたために唐津には一度もこないまま元禄四年志摩国鳥 羽へ転封となった。乗邑は弟へ八千石を分地したので、自身の知行国は六万石であった。 のちに亀山、淀、佐倉と転封し老中職を勤めたが、のち山形六万石を領した。一代のうちに 五ヵ所の領主を勤めたのは転封の多かった時代とはいえ珍しいことである。この乗春、乗 邑の時代に中央では生類憐れみの令によって人々が苦しめられ始め、芭蕉は奥の細道への 旅に出た。幕府および諸藩の経済的逼迫が目立ってきたのもこのころからである。なお、 元禄三年の唐津藩の城下および郷中の人数は、 一、松平氏源治郎様御引渡町郷中家人高 一、家数壱万弐千弐百参軒半 一、人高五万九千九百壱人 『佐志村庄屋旧記調』 となっていた。 3 四代藩主土井氏 土井 利益(周防守)―利実(出雲守)―利延―利里 元禄四年(1691)∼宝暦十二年(1762) 四代 七十二年 松平氏が鳥羽に転封されると、入れ替わって土井利益が元禄四年二月唐 唐津藩の歴史(吉原) 156 第三部 完成した武家社会 津藩転封を命ぜられた。利益は周防守を称し、延宝二年下総国古河七万石を領し、天和元年 鳥羽に転じ、ついで唐津藩で七万石を領した。入国は八月八日鏡に一泊後翌日入城した。こ の利益の代には幕府の生類憐れみの令はますます厳しくなり、小鳥を飼うことも禁ぜられ、 生類検屍令まで出された。幕府財政も苦しくなり、金貨の改鋳が行われたが経済を混乱させ、 古金銀貨の売買さえ行われるようになった。赤穂浪士の仇討ちもこの時代である。宝永六 年綱吉が没して生類憐れみの令は廃止され、新井白石が登用された。利益は正徳三年(1713) 五月に五日没した。この間二十三年間である。 利益の後を受けたのは嫡子の利実である。大炊頭と称して、正徳三年七月十二日父の遺領 を知行し、翌四年四月二十七日唐津へ入部した。利実は幕府の長崎貿易管理を厳重にし、俵 物を持って支払う事を決めたので、前海鼠、干鮑などが貿易品をして重要なものとなり、又 唐津藩も専売品をして統制した。又密貿易取り締まりも厳しくなり唐津の船頭の中で長崎 奉行の手によって処罰されるものも出てきた。∼(犯科帳) なお吉宗の代になり幕府は上米の制度を採用したので、唐津藩は七万石に対し七百石ず つを幕府に直接納めた。その代わりに参勤交代のための在府期間を半年に短縮した。又こ の頃から商品作物の栽培が奨励され、唐津藩では楮、はぜが作られた。 又享保年間は蝗の害のために不作が続き、特に享保十七年(1732)西日本はもっとひどく 種籾もないほどになり、土井利実も幕府に拝借金を願い出たが、餓死者が多かった。ともか くこのときの餓死者は全国で九十六万九千九百人に達したと幕府に報告された。これは全 国人口の約三%に当たる数である。この頃以後虫除けに鯨油を使うようになった。翌享保 十八年は全国的な豊作で米価も下がり始めた。利実は正徳三年より元文元年(1736)まで二 十四年間治めて元文元年十一月二十四日江戸で没した。 利延は利実の実子が早く世を去ったので一族から養子として迎えられたもので、元文元 年十二月十七日江戸で家督を相続し、彼も大炊頭を称した。三年四月十八日唐津に入部した。 利延十四歳のときであり実際の政治は家老の土井蔵ノ丞がとった。その蔵ノ丞が延享元年 江戸からの帰途急死し、利延もまもなく病を得て七月十六日に死去した。この利延の代も 幕府は次々と禁奢令をだし女の櫛、笄にまで干渉した。青木昆陽が活躍したころである。 利延のあとは利延の弟利里が九月二十三日にその後を継ぎ、大炊頭と称した。この利里が 翌二年四月唐津に入部するとき紛争が起きた。利里が入部の際に庄屋および百姓が小倉ま でわざわざ迎えに出たが、このとき町人も代表して兵庫屋と網屋迎えに出た。この際に町 人には乗り物と大小の刀をさすことが許されたのに対し、惣百姓代、庄屋には一刀しか許さ れずしかも歩行を命じた。このことは農工商の身分制度を否定し町人の経済的実力の向上 を意味するものだった。これに対し農民側は不服をとなえたが聞き入れられなかった。 入部後も、もし町人が先に謁見されたら洗礼をまったく無視される事になるとしてその ような事が行われたら町人からは全然品物を買わないという非買同盟を作り、又百姓を洗 礼どおりに取り扱わない場合は、すべての百姓が他国へ逃散するという決議まで行った。こ のため佐賀藩でも一揆でも起こるのではないかと役人が毎日様子を見にきたり、または侍 一組を厳木村の長厳寺や中島の鉄砲町付近に配置して問題が解決するまでは帰らないと声 明したりした。このことが厳木村大小屋から報告され領主もほっとけず先例どおりに行う という事になり五月六日庄屋の引見があり、庄や側からは先例どおり組ごとに鳥目一貫文 を差し出した。宝暦十一年(1761)六月十二日将軍家重が没し、その連絡が二十六日についた。 唐津藩の歴史(吉原) 157 第三部 完成した武家社会 江戸から唐津迄の連絡に二週間を要した。鳴物、慰の殺生はもちろん漁猟、綿打、鍛冶細 工、油締などまで少しの物音も立てるなと命じられている。宝暦十二年九月利里は下総国 古河へ所替の命令が出た。岡崎城主の水野和泉守が唐津へきて古河の松平周防守岡崎へ移 るという三藩のたらいまわしが行われた。この事が十月十五日に郡奉行の小杉弥右衛門か ら郷中の庄屋に達され、年貢の納入期限は通例は十二月二十日までに皆済すればよかった が、特別に早く納入するように命じた。庄屋は集まって相談のうえ、十一月十日までに納入 する事を受けあった。同年十二月二十八日利里が唐津を出発したので、領内から大庄屋二 人と人足三十二人が小倉まで見送った。 第三章 財政の窮乏と改革 1 五代藩主水野氏 水野 忠任(和泉守)―忠鼎―忠光(和泉守)―忠邦(和泉守) 宝暦十二年(1762)∼文化十四年(1817) 四代 五十六年 土井氏が古河へ転風になり幕府は上使として安部平吉、松平藤十郎を送り さらに日田代官楫斐十太夫を派遣して領内を巡視させた。宝暦十三年五鼎 月十五日、水野忠任が入部したが、その前の二月五日に浜崎で大火があり横 町の千吉の家が火元で百六十五件が焼失してしまった。 五月十五日には岡崎から家老の拝郷源左衛門、松本仲、水野伊左衛門、高宮伊左兵衛、水 野藤吉、郡奉行の剣持嘉兵衛、代官の小滝六郎が入城し、上使、日田代官立会いのうえに城 の引渡しを行った。また、同日、中町の高徳時に藩中の庄屋を呼び集め、日田代官ら今ま で唐津藩に属していた怡土郡の福井村、吉田村、鹿家村、松浦郡から渕上村、谷口村、関口 村、五反田村、南山村、宇木村の黒須田、栗木、合計壱万石が上知となった旨を達した。 これによって水野家の知行六万石となったわけである。同日にさらに安楽寺に庄屋を集め て水野藩郡奉行の剣持嘉兵衛から耕作に精を出すように達した上に、大庄屋の帯刀は禁止 した。又水野忠任の入部の際には満島で庄屋を引見し、この際も鳥目壱貫文宛組中より古 銭ばかりを集めて祝儀として差し出した。水野忠任は織部正とも称し、のちの和泉守と改 称した。 <水野氏と百姓一揆> 水野氏が入部するころになると幕府の財政および藩財政は極度に苦しくなってきた。特に 水野氏も出費が続いて経済が逼迫していた。そのために積極敵に財源の拡張に乗り出して 財源の立て直しを図った。このためには志摩守時代からの先例さえ無視して農民に大きな 負担を与えたので、農民たちの中から不満の声が漏れ始めた。水野氏の改革は地方奉行の小 川茂手木、代官の松野尾嘉藤治が中心となって行ったが、まず租税知を増加させるために竿 入れを行った。測量しなおすのである。大名の知行高と実際とは一致しないのが普通で、 唐津でも実際の検地高を草高と呼んでいるが、この草高の増加を図ったわけである。楮を強 制的に植えさせて専売品として藩が安く買い入れたりして経済統制も行っていた。それに 加えて、明和元年早害、明和三年洪水、明和四年蝗害、明和七年洪水と続いたため、幕府が 明和六年と七年に続けて農民の一揆を禁じたにもかかわらずついに明和八年(1771)に農民 一揆が起こった。 唐津藩の歴史(吉原) 158 第三部 完成した武家社会 <虹ノ松原一揆> 明和八年に起こった虹ノ松原一揆の前年にはすでに一揆の組織はできており、七月十二 日の夜に各村村に檄が配られていた。それには、 一、 永側のこと これは川べりの遊水地など生産量の低いところを指定して課税の対象としなかった。 水野氏はこれにも課税しようとした。 二、 御蔵米桝のこと 現在使っている桝は京桝であるが各藩では納桝といって大きな枡を年貢の取り立てるとき に用いた。しかも雪降りといって水平にではなく山盛りにした。ここではその雪降りの廃 止を要請したのである。 三、お指米おとりなされぬこと 指米は米の質を検査するために穀取人が竹のそいだのを俵に差し込むのをいい、こ れを水野の時代には俵に戻さず百姓がその分だけ余分に入れるべきだとした。このために もし一俵でも規定の量に達していない場合はその不足分にその村の収めた俵数をかけた分 をとりたてられた。もし百俵納める村がその中の俵で不足分が一合あった場合は一石∼三 俵だけ余分に納めさせられた。(納桝は三十杯で三斗四升∼一俵であった。) 四、御用捨お取上げのこと 御用捨というのは水洗、砂押など水害のために耕作できないところは課税されない 事 になっていたが、水野氏はこれを廃止し課税地とした。 五、楮御買上げのこと 紙の原料である楮を専売品として従来の自由な売買を禁止して藩は非常に安い値 段で 買い占めた。商人相場が七十二銭で五拾匁の時拾六匁で買い上げており三拾四匁も値段が 違った。 六、諸運上のこと 一種の事業税であるが、たとえば川魚の鮎や鯉を取るのにも運上をかけられ、山を持って いる村には竹木運上までが課せられた。 以上の六項目をかかげ 其外何品に不寄、御先代御仕事之通り願立候間、当月廿日明六ッ時より虹ノ浜御料境 へ御出張可被成候、但村役人には堅く御沙汰御無用に候 以上 七月十二日 人々御中 とあり、参加しないものには赤牛をかけるといった。(赤牛とは放火のこと) ただ、和田組、唐津組、神田組、佐志組、には計画の漏れるのを恐れて二十日の夕方に連絡し た。幕府側はそれまで全然この計画を知らなかったわけである。七月十九日の正午頃名護 屋の城番足軽から昨日の夕方から今日の明け方までに烽火があがったと連絡があり、家老、 郡奉行、地方奉行、代官などが登場して対策を協議したが、なかなかまとまらなかった。とり あえず代官は村々の庄屋に対して松原まで行って百姓をつれて帰るように命じたので、庄 屋達は新堀から川船で渡ったがとうてい百姓に近づく事もできなかった。しかも一揆側の 統制がよく取れており結束も容易に崩れなかった。 幕領との境には幕領の庄屋が詰め所を使って警戒していたが、夜になると提燈を連らね気 勢をあげた。七月二十一日朝、穀取役人と庄屋が松原に来て説得にかかったが、一揆側は全 唐津藩の歴史(吉原) 159 第三部 完成した武家社会 員幕僚に移動した。穀取役人十五人も幕僚に入って説得にかかったが、一揆側は誰一人とし て返事もしない。そのうち遅れた村の百姓たちも集まってきたのでますます気勢があがり、 その数は二万三千名を越えた。この数は郷村人口の三分の一以上にあたる。 二十二日午後、郡奉行古子四郎右衛門、同剣持嘉兵衛は、代官、穀取、横目、大小庄屋を 引きつれて一揆側の要求の仲で許可する文を読み上げて早く村へ帰るように伝えた。しか し内容は第一項目の永川の事だけで、しかも三ヵ年だけは無税その後は高の五厘だけを納 めるというないようであり、その他の事はあとで達示をしようということであったので、一 揆側はただ無言の作戦で動けなかった。夜になって呼子、名護屋、浦島、新堀、水主町その 他の浦、島から漁民たちが集合して新しい要求をした。それは 一、五歩一鮪網魚取立直段之事 鮪がとれた場合その売上高の五分の一を藩に納める事になっており、これは土井氏の 時代から定められていた。これの廃止を要求した。 二、諸浦鮪網二歩五厘之事 鮪網の魚を売るときに口銭として二歩五厘を納めなければならなかった。鮪網に つい ては網運上銀六拾匁と五分一、さらにはこの二歩五厘と三重に取られていた。 三、干鰯運上之事 干鰯は唐津藩では重要な商品の一つであるが、楮同様藩が強制的に安く買い上げ てお り、領外に輸出するときは一石について銀三分の運上を課した。 四、問屋之事 とれた魚をすべて領内の問屋に売らせ自由販売を禁止したため、値段が安くて漁民は 苦しんだ。 五、長崎梅野新左衛門二歩五厘懸り之事 長崎の魚問屋梅野新左衛門の問屋口銭が二歩五厘で非常に高かったのでこれの廃止を 要求した。 漁民たちが参加したために総勢二万五千六百四十九人となり、ますます気勢があがった。 一方城のほうではいつ一揆が乱入してくるかと武備を固め、家中の武士に対し号砲五発 を合図にまた足軽は三発を合図に大手口に勢ぞろいをするように達した。二十三日になっ て一揆のほうは意気盛んであり、それに日田代官所から兵の派遣のうわさが流れてきたの で、藩側も幕僚の庄屋を商人に立てて、大庄屋に解決をゆだねた。そこで幕僚の庄屋横田太 左衛門を証人として二十四日の午後一時、各村から代表者三名づつを出して、百姓の要求 はかならず唐津領の庄屋と幕僚の庄屋とが貫徹するのを条件に解散する。もし要求が入れ られない場合は庄屋を先頭に強訴するか、または庄屋の家を焼いたり、踏み潰したりしても 勝手次第という事で代表者も了解した。二十四日一時過ぎ二万五千あまりの群衆は動き出 しそれぞれの村に帰っていった。 二十九日になって庄屋側から一揆側との折衝について説明して一揆側の要求についての 返答を求めた。これに対して藩側の回答は 一 永川については前に回答した通り 二 指米は俵毎にまた俵に戻す 三 家居根山の運上は免除する(山は無税地であったのに課税したのである) 四 楮は藩の買上げ値段を高くする。 唐津藩の歴史(吉原) 160 第三部 完成した武家社会 ということであり 一揆の要求とは程遠いものであった。そこで庄屋から百姓に達示した けれども再び集合の空気が見えたので、再び庄屋連中は八月五日城下に集合して二度目の 願書を出した。これに対する藩の返答は最初強硬であったが、庄屋側は八月九日に再び願書 を提出し同九日の正午に庄屋の代表者として大庄屋六人を呼び出して次のような申し渡し があった。 一 桝で計るときは今年から雪降りを薄くする。 二 納俵の不足米があった場合は イ 拾参貫 拾参貫八百目迄 ロ 拾参貫九百目 ハ 拾四百目以上 拾四貫参百目 三 干鰯は藩で買い上げる事はやめる。領外の船にも勝手に売ってよい。 四 長崎の問屋口銭は止めさせる というものであった。これで一揆側の要求はほとんどが入れられたことになり、農民たちが 生活権を確保したが、反面この改革を企てた地方奉行小川茂手木と代官の松野尾嘉藤治は 役目を奪われて閉門という事になり、水野藩はこれ以後いつまでも財政赤字が続いた。この 一揆の性格を考えてみると、まず原因としては水野藩の経済改革に対する反対運動であり、 いかに農民が「しきたり」を重んじていたかがわかる。このことは土井氏の時代に行われ ていた事は一揆側の要求の中には鰯網の五歩一魚取立値段の事以外はなく、専ら水野氏の 改革面にのみ鉾先が向けられていた事によっても理解される。 その後首謀者の追放が行われ、平原村大庄屋冨田才治、半田村常楽寺智月和尚、同村名頭 麻生又兵衛・市丸藤兵衛・中村伝右衛門が自首し年少の伝右衛門を除く四名が西の浜の処 刑場で斬首され、伝右衛門は松島に流罪となった。この一揆の際に多くの庄屋が日和見か 藩の代表者であった中で富田才治が一揆を指導したことは、平原村は一度も転村したこと のない永続庄屋で農民と六代にわたる深い結びつきがあった事や吉武法命に学び浅見絅斎 の著書に親しんだ学問的背景があったと考えられる。 <一揆後の水野氏> この一揆によって水野氏の財政上の建て直しは絶望となり、政治に活気がなくなった。水 野忠任の後を安永四年(1775)に忠鼎が襲封し、一揆後の財政難の中で二本松大炊を登用 して財政建て直しを図り、特別の災害がない限りは検見を行わないが検見制度を採用して 検見の手数と費用を除き藩財政を安定させようと図ったが、結局は潰れ庄屋、弱り庄屋の増 加で農村は疲弊し、浦河内村の庄屋秀島与一兵衛をして「朝四暮三」の改革と言わしめた。 文化二年(1805)適子忠光が襲封して二本松大炊を退けたので、大炊によって強行されて いた財政改革は中止され、農民はほっと一息ついた。前記の秀島与一兵衛は、「庄屋を初め 御領内小前匹夫まで大いに和睦し、人気となり人々歓喜限りなし」と述べている。文化九年 忠光は封を忠邦に譲った。忠邦は十八歳で藩主となり和泉守と称していた後の天保改革の 立役者水野越前守である。忠邦は再び二本松大炊を登用し財政改革をすすめるとともに風 俗取り締まりに着手し髪形・衣服についても、「流行の時風を宣ト必得、卑劣の風俗ニ移り心 得違の事に候」と戒めている。財政については出費を極端に押え、家屋の修理や畳替えの延 期、中間三十名の人員整理、忠邦自身の食事の簡素化を行ったが、財政の赤字は膨大なもの で、文化十年から十四年までの五ヵ年を平均して、 唐津藩の歴史(吉原) 161 第三部 完成した武家社会 収入の部(草高六万四千八百四十四石) 一 物成米 二万五千九百七十一石余 二 金方収納高(小物成・運上) 二千二百六十一両余 支出の部 一 家臣俸禄 一万七千四百四十四石余 二 金方支出 一万八千三十両余 結局、当時の米価一両=一石二斗余換算して精算すると、金八千六百六拾両が毎年の平均赤 字であった。支出の主なものは江戸屋敷費用五千八百両、唐津屋敷費用四千百五十両、参勤 交代費用(年平均)三千五百両余、城郭修理費千五百両などであった。 文化十二年十月、忠邦は奏者番に任ぜられ幕閣への第一歩を踏み出し、同十四年九月、寺 社奉行加役となり、同時に遠州浜松へ転封となった。この連絡の早飛脚が唐津神祭の当日 に到着してにぎわっていた祭りも、水をぶっ掛けられたみたいに静かになったといわれる。 なお二本松大炊はこの点転封に反対して忠邦に諫言したが用いられず自殺した。大炊とし ては赤字財政の上に転風に要する多額の費用が耐えられなかったのであろう。転封の費用 は領民にも不安を与えたが、忠邦は同年十二月、所替(転封)には膨大な費用が必要だが、 今までの削減(借地)によって藩士の生活は苦しいので当分は大幅な削減は行わないとい う諭達を出して動揺を押えている。なお、浜松転封に際して唐津領大川野・厳木など知行 高一万石(草高は四十四か村で一万六千石)が上知された. 2 六代目藩主小笠原氏 小笠原 長昌(主殿守)―長泰(壱岐守)―長会(能登守) ―長和(佐渡守)―長国(佐渡守)∼長行(図書頭) ∼長生 文化十四年(1817)∼明治二年(1869) 五代 五十三年 水野忠邦の跡に奥州棚倉から小笠原長昌が入城してきた。小笠原氏は棚 倉以来、借財(二十三満両余)に苦しみ、それに、転封に膨大な費用を要して財政難で、そ れは結局領民の負担となり入部早々問題になった。文政元年(1818)庄屋代表三名が上知 された四十四か村を元どおりに唐津藩領として欲しいと江戸へ越訴したり、西国郡代に嘆 願したりした。 <小笠原氏の政治> 「日銭」 長昌は献金を命じたり御国益方役所を設けて楮を植付けさせるなど収入の増加を図っ た。文禄六年、長泰が襲封すると、長泰は唐津で始めて人頭税(日銭)の賦課に踏みきっ た。赤字財政改善のために代々の藩主が行った事は、新田開発・再検地による草高の増加、 年貢率の引き上げ、運上金の増徴などの収入増加策で、年貢率だけを例にとってみても、厳 木組浦川内村では、元和二年(1616)四ツ六分、―宝暦十三年七ツ六分七厘―文化元年七 ツ九部八厘というように増加している。一方、支出を押えるために倹約令が出され、家臣の 俸禄の大幅な切り捨てや借地が行われたが解決できず、七二銭などの藩札を大量に発行し た。 文政九年、江戸・大阪・唐津などでの負債総額は三十三万三千九百六十八両二朱に及び、 唐津藩の歴史(吉原) 162 第三部 完成した武家社会 藩の年間財政収入が金に換算して二万六千四百両余、しかし赤字続きではこの借財の返済 は絶望的であった。そこで藩では江戸と唐津の役人が大阪の唐津藩蔵屋敷で会合を開き、 銀朱の近江屋九兵衛・平野屋仁兵衛などに財政建て直しを依頼し、その発案によって領民の 十∼六十歳の男女に対して一日あたり二文ずつの寸志という事で月ごとに村役人が徴収す るという日銭の制度が文政十年正月から実施された。この人頭税は十年間実施される事に なっていたが、文政十一年の台風や天保年間(1830∼43)の凶作で天保四年に打ち切られ たようである。 <赤子養育制度> 唐津藩の人口の特徴は、人口増加の停滞と女性の数の少ない事が顕著である。これは全 国的な傾向でもあるが、乳幼児の死亡率の高さや飢饉の際の餓死や疫病死、さらにもっとも 大きな原因をしては生活苦によるオロシ(堕胎)とマビキ(生死圧殺)が無数に行われた 結果であり、女子の数が少ないのもマビキの盛行の結果である。もちろん藩でも、オロシや マビキを公認したわけではなく、元禄五年(1692)にも藩の儒医であった奥東江は、「郷 中ニテ生子殺シ候由、不届千万ニ候」として間引きを禁止し懐胎届を出させる事にした。し かし生活苦が解決されぬ限り、この風習は改まらず、特に天保初年は文政十一年の大風と天 保初年の凶作で人口が激減した。 唐津藩ではこの傾向を防止するために、天保四年赤子方という役所を設けた。これは小笠 原氏の前任地奥州棚倉塙代官寺西封元の指導で行っていた赤子養育制度にならったもので、 第一に「赤子教育の歌」を作り、間引きの罪悪感を強調し村役人を通じて間引き防止に努め た。 第二に「赤子養育取締仕法」を制定して懐胎届、出産時の村役人立会い、流産防止、死産の 検屍などを細かく規定し、子添婆(助産婦)の心得を説いている。第三に貧困者に対する教 育米の支給で、願書を赤子で審査の上出産の際に米一票、百日目に金一歩(分)、二年目三 年目に米一票ずつを支給する事とした。形式上は一応整備されているが財源として藩が準 備したのは微々たる物であった。赤子養育制度は厚生制度というよりも強化や取り締まり の側面が強かった。なお、後家や娘の私生児は教育米給付の対象とはならなかった。 第四章 維新への動き 維新への動き 1 潰れ百姓と農兵制度 藩財政の窮迫は農民に対しては年貢の増収、藩士に対しては俸禄の削減となった。農民 における商品経済の浸透と重い貢租による階層分化によって貧農層が増加した。弱り百姓・ 潰れ百姓が続出し、村役人を中心とする富農と貧農との対立がうじた。藩が農民の没落を 防ぐために、衣、食、住にわたる細かい生活干渉、たとえば絹の衣類はおろか日傘の使用禁止 や元結は藁でくくれといった倹約令、唐津神祭や村祭りでの接客禁止などを達示したにも かかわらず、生活苦から欠落(無断で土地を離れる事)するものが増加した。水呑百姓は小 作米を地主に支払わねばならず、特に凶作になると、家や家族まで売り払わねばならなくな った。文化七年(1810)厳木組浦河内村では潰れ百姓が二十件もあり、このための耕作者 不在の土地が四十六石七斗五升八合もあった。家数五十数件、村高三百四十五石余の村と しては驚くべき数字である。 武士の生活については俸禄の削減は常態化し、小笠原氏の代に知行百国の家臣が実際支 給されたものは、年間、玄米十三石三斗三升三合、糯米三斗、大豆六斗だけで、さらに安政 唐津藩の歴史(吉原) 163 第三部 完成した武家社会 二年の大地震で江戸屋敷が焼失し再建のために実支給高の中から一律二割の借上が行われ たので、特に家禄の少ない家臣たちは生活が苦しく、内職を行い覆面または編笠をかぶっ て山畑へ農作業に出かけるものもいた。貧困の中で武士の節度も失われてきた。下級藩士 の二、三男は希望もなく百姓の養子になるものも現れ、万延二年には赤木村の荒れた土地を 下級武士の二、三男に与えて開墾させ農兵をする制度が計画され、その募集が行われた。 2 トンコロリンと異国船 天保十一年、長和の後を引き継いだ養子の長国唐津藩最後の藩主として明治二年(1869) の版籍奉還にいたるまで藩政を統べたが、安政五年から文久元年までは長昌の子長行が長 国の養子として藩政改革を試みた。この長国と長行の存在は大殿派と若殿派との家臣間の 対立を生み後々まで尾を引いた。 天保十四年、海防の重要性のとかれる中で長国は西の浜で地雷火の公開実験を行い、そ の後、同じく大砲の試射も行った。江戸では長行が、攘夷国防論を唱えて、側近の村瀬文輔・ 長谷川立身を蝦夷・樺太巡見使の平山謙次郎に随行させた。安政二年七月十八日から二十 一日の間に異国船(ロシア船)が唐津領域を三、四隻往来し、藩内を緊張させた。安政五 年、 長国の名代として藩政改革に着手した長行は六月五日、目見格以上の家臣を城内にあつ めて施政方針を示し、俸禄の二割引きの廃止、役米・役金・勤金などの支払いを確約して上 下一致して政治にあたるべきことを述べ、さらに目安箱を設置して広く藩士(特に下級藩 士)からの政策上の意見を求めた。この長行の積極的な藩政改革は保守的な上級藩士の反 感をかい長行の廃嫡論さえ起こったが、万延元年六月反対派(大殿派)の前場景福を家老 職から退ける事に成功した。長行も、大砲の改鋳や試射を行って海防への関心を示してい るが、安政五年六月に通商条約が結ばれて世情が騒然としている中で長崎に始まったトン コロリン(コレラ)は同八月、呼子に入港した阿波の船によって唐津領にも及び、特に海 岸地方は多くの死者を出した。村境には疫病封じの大般若経典読の鏡木を立て交通遮断も 行われた。 翌安政六年もコレラ流行のうわさで町に買い物に出る人がいなくなり庄屋は寂れた。万 延元年十月二十九日、フランス船が呼子に入港し、水平四十人ほどが上陸している。翌文久 元年にはイギリス船が加部島付近を測量した。通商条約締結後は唐津の石炭が大量に長崎 に送られて活況を見せたが、反面、国内及び領内の物価沸騰もすさまじく米一升の値段が唐 津城下で、万延元年百七十五文――文久元年二百八文――慶応元年三百文と、うなぎのぼ りであった。 2 閣老小笠原長行と藩の解体 文久二年、小笠原長行は江戸に上り、土佐の山内容堂などの推挙によって同七月奏者番、 八月若年寄、九月老中格となり、十月外国船御用船取扱を命じられた。スピード出世であ り、 長行は生麦事件の処理にあたって償金十万ポンドの支払いを行ったが、これは朝廷を中 心とする攘夷論者の攻撃の的となり、長行が上京していた将軍に自分の立場を釈明し合わ せて京都の攘夷派に圧力をかける目的で、兵千七十五人を率いて上京しようとした経緯も あって蟄居謹慎を命じられた。謹慎中、文久三年八月十八日の政変によって朝廷内部の尊 攘が失脚し翌元治元年(1864)禁門の変となり、七月には第一回の長州征伐となり、唐津 唐津藩の歴史(吉原) 164 第三部 完成した武家社会 藩主小笠原長国は二千四十三人の兵を率い船舶三十隻を持って小倉に出兵し、長州藩に対 する徹底的な懲罰を主張した。唐津で出兵の準備に追われているときに江戸では長行が謹 慎をとかれ、九月老中格、十月老中と幕格に返り咲いた。謝罪文を出した長州はその後高 杉新作等の急進派が再び政権を握り、長州征伐が決定されたが、その間に薩長同盟も結ばれ た。 この情勢野中で慶応二年二月、長行は家茂より全権を与えられ長州に赴いたが、結局、 同年六月第二回長州征伐となり、幕府軍は敗れ将軍家茂の死を機会に征長軍は解散し長行 は江戸に帰った。この間唐津藩兵は大里(門司港)方面を守ったが破れて撤退した。これ で長行の立場も唐津藩の立場も苦しくなった。長行は優れた政治手腕を買われていたので 翌年五月に外国事務総栽兼御勝手入用係に任命された。 明治二年、版籍奉還によって唐津藩知事小笠原長国中務大輔 (佐渡守改め)、 石高六万石、 士族千九十四人となった。当時の藩の負債は借金二十一万千百六十七両、藩札で二十両、 借金は二十年賦、藩礼整理は五十年賦という夢のような計画が立てられ、藩士の俸禄も知行 五百石の家老が二十四国、というような減俸が行われた。 明治四年七月、廃藩置県となって長国は東京へ去り、唐津藩は名実ともに解体した。 おわりに 今回始めて唐津の歴史を調べてみたが、かなり興味深い内容であった。私の地元佐賀県 だが、家は唐津とは結構はなれていて鍋島である。そういうこともあって中学校の自由研 究では佐賀藩のことについて調べ、父と色々写真などをとって市内を探索した記憶がある。 しかし唐津へは福岡へ行く途中立ち寄ったり、海水浴に行くなどで行く他あまり馴染みが なく、佐賀県に佐賀藩以外に藩があったこともたいして知らなかった。しかし今回唐津藩 について詳しく調べてみるとたくさんの大名が唐津に転封してきて活躍していたのには驚 いた。唐津城に入ったことがあるが、あそこに松平氏や水野氏も暮らしていたのかと思う と想像がつかない。各大名に付いて詳しく調べているうちに、その大名と百姓や町民との 生活関係が見えてきてとても興味がもてた。今回の研究は唐津藩から見た世界だったので 今度は他の藩にはどのように移っていたのか、他の藩から見た唐津藩について調べたい。 今回の研究で唐津藩について、又この時代について関心を持つことが出来た。この研究を 生かし今後も興味のもてそうなものを探してそこから詳しく調べていけるといいと思った。 最後に九州に行く事があったら、何かあると思うので是非佐賀県にもよって頂きたい。 参考文献 唐津市史 新編物語藩史 児玉幸多 北島正元 郷士史事典佐賀県 三好不二雄 角川日本地名大事典佐賀県 佐賀県の歴史散歩 佐賀県高等学校教育研究会社会科部会 参考URL http://www.saga-ed.go.jp/materials/edq01441/edo.htm http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kyushu/karatu.html 唐津藩の歴史(吉原) 165 第四部 迷える近現代 秋田の戊辰戦争 内田 誠一 はじめに 私は小学校高学年の頃から歴史の漫画や大河ドラマに興味を持ち暇さえあればこれらに 興じていた記憶がある。歴史といっても人によりさまざまなジャンルや時代によって興味 の範囲、内容は異なる訳で、私の場合は幕末の時代に関して多大な関心を寄せている。そ の幕末の歴史といってもさまざまである訳だが、生まれ故郷が秋田であるせいか東北を舞 台に繰り広げられた戊辰戦争が私にとって一番興味深いものである。この戦争は歴史に興 味を示している人であれば大抵記憶にあると思うが、おおまかにいうと、明治維新軍(官 軍)対鳥羽伏見の戦い(*1)に敗れた会津藩(*2)を救済する為に構成された奥羽越 列藩同盟軍(*3)との戦いである。この戦争の内容は過去に幾度かテレビで放送されて きたが、率直な私の感想として維新軍側の行動などを主とした作品が多いという事や、会 津藩の編制部隊である白虎隊(*4)の悲劇を綴った作品や、函館戦争(*5)などが主 流であるといったことから、その戦いの本質を私を含めあまり世間一般の人は詳しく理解 していないのではないかと考える。つまり、一言でいうならばかなり複雑な戦争であった といえよう。 人間誰しも正義の側の視点から物事を考え、そこから導き出した答えを肯定することのほ うが利に適い、自らをも納得させ得ると考える。しかし、この戊辰戦争に関しては敗者の 側や脱退藩からの考察こそ極めて重要であると考える。それはなぜなのか。つまり、この 戦争は、ひとえに会津救済といった理念をもって一枚岩となって結成されたかにみえる同 盟軍ではあるが、戦局が新政府軍優位となるや内部から脆くも崩れていったと言う事実が ある。三一藩からなる同盟軍が、一藩や二藩の少数藩の脱退により、崩れていくという事 はまず考えられない。すなわち、かなりの藩の脱退があったのだ。(*6)この事実を冷静 に分析すると、三一藩のうちの大半は積極的な意思によって同盟に参加したのではなく、 特に小藩においては、仙台、米沢などの大藩の意向に逆らえず、また、戦局が混沌として いたのも後押ししてやむを得ず同盟に参加したのではないかという考えも生じる訳である。 このような状況を踏まえるとやはり東北諸藩の内情は複雑かつ、戦争中の向背は大きく違 うので、敗者の側からの考察は大変重要であると考えるわけである。特に私が研究しよう とする秋田の戊辰戦争は秋田久保田藩を筆頭として一八六八年七月、奥羽越列藩同盟が結 成されてから二ヶ月後には秋田の諸藩は全て脱退しているのでこの考察は不可欠なのであ る。それでは、「なぜ脱退したのか」という事が私の研究する最大の論点であり、そこから どういった道を秋田は進み現代に繋がっていったのかというのが一番の焦点であると考え ている。私は自らの県に対し深い愛着の念があり、プラスの思考であるかもしれないが、 戊辰戦争に関しては無益で、かつ、筋が通ってないと思われる戦争に終止符を打った最大 の功労藩である考えている。しかしながら、東北内では当たり前と言っていいのかもしれ ないが裏切り者のレッテルを貼られ、その内容を示す逸話(*7)も残っている。この脱 退の問題に関してはやはり当時の秋田久保田藩主である佐竹氏について徹底的に調べる必 要があると考える。もともと秋田の人間ではない佐竹氏が何を考え、 どうしたかったのか。 或いは、秋田をどういう方向へと導きたかったのか私の中ではこのことが重要なポイント 秋田の戊辰戦争(内田) 166 第四部 迷える近現代 であると考えている。私は秋田の人間としてこの問題をそのままにしておくのは将来必ず 後悔すると考え、この研究を通してしっかりとした結論を自ら見つける必要があるのでは ないかと感じ、先程も述べたが、最大の論点である「なぜ、秋田久保田藩は奥羽越列藩同 盟を脱退したのか」というものを佐竹氏の歴史や動向、更に他藩の動きなども踏まえなが ら検証していきたいと考えている。 第一章 秋田の歴史回顧 1 秋田のあゆみ 秋田の地は藩政以前は、化外の民の住むおくれた文化と経済しかもたない狂暴な地とし て、他の国の支配者から絶えず侵略され、差別を受けた長い歴史を持っている。明治維新 の時は先程も述べたように奥羽越列藩同盟を脱退し、薩長と与して戊辰戦争を戦い抜きな がら、戦後処理では全く評価されず、「白河以北一山百文」の扱いを受けてきた。大正、昭 和の不況時代は娘を売ってまで飢餓の中を生き続け、太平洋戦争中は農山村の次三男の大 半が戦場にひっぱり出され、その多くは戦死した。やがて、高度経済成長が始まるにつれ て今度は人的資源の供給地となり、新制中学校卒業者が都市部に狩り出され、それでも人 的資源が不足すると、出稼ぎという形で引き出されるという歴史を辿っている。このよう な事実からも解るように、めまぐるしく時代を歩んできた国であり、その時代毎にさまざ まな困難な状況を乗り越えて現代まで生き抜いてきた先人の努力は我々に対して大いなる 未来を残したといえるのではないか。 2 佐竹氏移封までの歴史 秋田という国は日本書紀によって初めて歴史上に登場する訳だが、それまでこの国は現在 の青森県、岩手県と共に蝦夷の地と呼ばれ、未開発の地域であるという説があり、アイヌ 人が住む地域であると思われていた。しかし、最近では、大和朝廷に臣隷しない方臣であ ったとされる説が有力になっている。秋田地方が中央政府の管轄下に置かれるようになっ たのは、大和時代の六六〇(斉明六)年とされていて、これを成し遂げた人物は阿倍比羅 夫(*8)であった。 その後奈良時代に入り、七一二(和銅五)年になると、秋田と山形は出羽国という一つの 国となり、その中心は出羽柵と呼ばれ、山形の最上川河口にあったそうだが、七三三(天 平五)年になると現在の秋田市付近に移され、秋田城と呼ばれるようになった。内陸部で も雄勝柵などが設けられさまざまな開発と同化策がとられたが、平安時代までかなりの反 乱が起こった。鎮圧に来た出羽権守藤原保則は苛酷な悪政により、反乱が起こる(*9) のだと指摘するほど、きびしいものであった。この頃からやはり苦しい生活を先人は強い られていたという事が解る。朝廷の支配は度重なる鎮圧にもかかわらず強力なものにはな らなかった。一一世紀に入ると清原氏が秋田の県南地方を中心に勢力を広げ、一〇六二(康 平五)年前九年の役(*10)が幕を閉じ、その戦いの功績を朝廷から認められた清原氏は 出羽国と陸奥国の二つを支配する事となった。一〇八三(永保三)年になると、今度は清 原氏が身内で相続を争う戦い(後三年の役(*11))が起き、清原清衡(*12)側に源 義家が介入し、争いを平定する。この後清衡は藤原と姓を変え、現在の岩手県平泉に移り、 約一〇〇年の間奥州の支配者として君臨した。この支配の間の秋田は四人の藤原氏郎従が 秋田の戊辰戦争(内田) 167 第四部 迷える近現代 分割統治していた(*13) 。 その後鎌倉時代に入ると、奥州藤原氏を征した源頼朝が出羽国を全面的に支配下に入れ、 秋田の各地域に豪族を配置した(*14) 。やがて、北条氏の執権政治に世の中は移行する と、秋田の勢力分布も多少変わってきて、秋田の地から去る豪族も現れた。そのような時 期に津軽の安倍安東氏が秋田に進出し、秋田市付近を治めた。この後安東氏は内乱や他の 豪族などと争いを重ね、内部分裂も起こったが、その支配は揺るがなかった。 戦国時代に入ると、秋田は県南の小野寺氏、県北、中央は安東氏の力が絶大であった。 特に安東氏は織田信長や豊臣秀吉に対し忠誠を誓うなど、対外交渉にも長けていた。一五 九一(天正一九)年安倍安東氏は秋田城介となのるようになった。一五九〇(天正一八) 年に秀吉は小田原の北条氏を攻める際、東北の豪族にも参陣するように命じ、その命にふ れ、当時の秋田の豪族である秋田・小野寺・戸沢・由利衆が小田原に参陣し朱印状をもら って所領を安堵された。 近世に入り、一六〇〇(慶長五)年の関ヶ原の戦いで、秋田の大名たちに大きな変化が 訪れた。秋田の大名のほとんどが豊臣方であった為、家康により全ての大名が国替えを命 じられたのである。 旧領主 移封・改易 新領主 秋田氏 常陸国宍戸へ1602(慶長七) 小野寺氏 領地没収 戸沢氏 常陸国松岡へ1602(慶長七) 佐竹氏 1601(慶長六) 六郷氏 府中へ 〃 本堂氏 志筑へ 〃 仁賀保氏 武田へ 1603(慶長八) 打越氏 不明 不明 赤尾津氏 最上氏 滝沢氏 最上氏の家臣となる 岩谷氏 雄勝地方 最上氏の所領となる 鹿角地方 南部氏の所領となる (山川出版社 秋田県の歴史散歩より) このように、旧領主は移封・改易され、見知らぬ土地へと流された。新たな土地で成功 した大名は少なく、非業の最期を遂げるものが多かった。この後、秋田地方を治めるのが、 常陸国の領主であった佐竹氏である。次の章からは佐竹氏に関して調べを進めていきたい と考える。 第二章 佐竹氏の歴史 1 常陸国の起こり 佐竹氏の発祥の地常陸国は、現在の茨城県で、「常陸国風土記」(*15)よると縄文、弥 生時代には文化の発達はあまり顕著ではなかったが、古墳時代になると、里川、山田川、 秋田の戊辰戦争(内田) 168 第四部 迷える近現代 久慈川流域の開発が進み、梵天山古墳、幡山古墳などに代表されるように、急速に文化が 開けていった地域である。 その地の由来は「日本書紀」によると、日本武尊が蝦夷(*16)征討の時、゛日高道から 転じたもの゛や、 日本武尊が国造に命じて井戸を掘った時、湧き出た清澄な水で手を洗い、 衣服の袖を濡らした事から、゛袖をひたした゛にかけて名づけられたといわれる。今日の 茨城という名は、黒坂命がその地の賊を滅ぼし、茨で城を築いた事により付されたといわ れ、古くは高・久自・仲・新治・筑波・茨城の六国に分かれ、大化の改新(645)によって統 合されて常陸国となった。 崇神天皇の頃の常陸国は、 「常陸国風土記」によると山々の麓の村落には、神々が降臨する 聖地とされ、里川に沿った幡町の山麓一帯には桑を植え、蚕を養って、神々の祭祀に用う る氈・白羽などの機織りをなす氏族が住んでいたとされる。このような事からも解るよう にこの地域は古代の山岳信仰によって開かれ、発展していったとされる。また、この地域 の久慈川は防人達から愛され、母なる川として親しまれていた。 「万葉集」にはこの川に関 して十首歌が載せられている。 久慈川は幸くあり待て潮船に真楫繁貫き吾は帰り来む (万葉集二十巻 丸子部 佐壯) などという歌があり、天平勝宝七年の頃、 防人は筑紫に向かう時に歌を多くよんでいた。 更に、「旧事本紀」には「狭竹・物部の種族がこの地に住み、狭竹をもって郷名となした」 とあり、 「新編常陸国風土記」には、東の佐都川から西の山田川、 南の久慈川に至る一帯 を総称して「佐竹郷」と呼んでいた。この佐竹郷は現在の常陸太田市を中心とした。佐竹 氏は約四七〇年、二十一代にわたって、この地域を支配したのである。 2 佐竹氏の祖 佐竹氏は清和源氏(*17)義光流の氏族である。我が国の人皇五六代天皇の六男・貞 純親王(母、平 寛子)の子・経基王が「源姓」を賜り臣籍となったのが、始まりである。 彼はその後鎮守府将軍となり平将門・純友の乱を平定した。この経基から数えて四代目の 源頼義が義光の父であり、 長男は前九年の役、後三年の役で活躍した八幡太郎義家である。 義光は出羽国で起こった後三年の役の際、兄義家を援護するために出羽の地を訪れている 事から、佐竹氏と出羽国は何らかの縁があるのではないかと感じた次第である。後に義光 は鎌倉の名越の地を根城とし、東国の常陸平氏とくみしてこの地を治め、佐竹氏が東国に 定着するきっかけをなしたので、義光をして佐竹氏の祖としているのである。 佐竹宗家略系図(清和源氏義光流) *(∼代) 「新編佐竹氏系図」より 清和天皇(56代) ↓ 貞純親王 ↓ 経基王:源氏 ↓ 義忠 ↑ 朋子 ↑ 義栄(35 代)=徳川義 親女 秋田の戊辰戦争(内田) 169 第四部 満仲 迷える近現代 義家・・・・頼朝 ↑ ↓ 義春(34 代)=九条道 実女 頼信 ↓ 義生(33 代)=徳大寺実則女 頼義 : ↓ : 義光(佐竹氏の祖) ↓ : 多喜姫=義尭(12 代) 義業(2 代) (土佐藩) ↑ :相馬義胤三男 義睦(11 代)=山内豊資 女 ↓ 昌義(3 代) ↓ 隆義(4 代) ↓ 秀義(5 代) 義純 ↑ ↑ :佐竹義本長男 義厚(10 代) 昆姫=義道 ↑ 直姫=義明(7 代)→義敦(8代)→義和(9 代) ↑ 義峰(5 代) ↓ 義重(6 代) 義長(壱岐守家) 義處(3代)→義格(4 代) ↓ 長義(7 代) ↓ 義胤(8 代) ↓ 行義(9 代) ↓ 貞義(10 代) ↓ 義篤(11 代) ↓ 義宣(12 代) ↓ 義盛(13代) ↓ :上杉憲定二男 源姫=義人(14 代) 3 義隆(2代)→義寘(式部少輔家)→義都 ↑ 貞隆 ↓ 義真(6 代) ↑ 義重(20 代)→義宣(秋田初代) ↑ 義昭(19 代) ↑ 義篤(18 代) ↑ 義舜(17 代) ↑ 義治(16 代) ↑ 義俊(15 代) 佐竹氏の足跡 佐竹氏は先程述べたように、清和源氏の流れで、源義光が祖であるので、普通であれば、 源氏として世を生き抜いてきたと考えるのが妥当である。しかしながら佐竹家は義光の代 より続けて三代常陸平氏より正室を迎えていて、常陸平氏との親交のもと勢力を伸ばし発 秋田の戊辰戦争(内田) 170 第四部 迷える近現代 展した家柄なのである。 四代隆義の代になると佐竹家は平氏と関係が深いことが仇となる事態が発生している。 一一八〇年平治の乱(*18)で敗北し、伊豆へ配流の身となっていた源頼朝の平氏打倒 のための挙兵である。頼朝と佐竹氏は同じ清和源氏の同族であったが、平清盛への恩顧や 常陸平氏への義理があり、必然的に頼朝に敵対する立場となったのである。これにより佐 竹氏は頼朝により常陸の領地を攻められ、最終的には没収された。ここで佐竹氏は同じ源 氏一族であることから、奇跡的に許され、五代秀義は頼朝に帰順し、鎌倉御家人となった のである。このような過去の歴史からも世間との複雑な兼ね合いに、巻き込まれる運命に あった家であったのではないかと考えられ、哀れに感ずる次第である。また、内部の混乱 もいつの時代も激しく、秋田に国替えになってからも争いは続いていたのである。その争 いの原因の一つにあるのが仏教の宗派問題であった。曹洞宗(*19)と臨済宗(*20) との争いである。互いに人々を救いへと導くものであるが、佐竹家内部ではこの宗派問題 により、かなり深刻な状況が続き、熾烈な争いを何年間も続けたのである。 佐竹氏を語る上で曹洞宗の存在は極めて重要であり、秋田の戊辰戦争を考える点におい て大切なポイントである。佐竹氏と曹洞宗との出合いは、七代長義が、道元の高弟・詮慧 帰依し、文永四年耕山寺を常陸国檜沢村に開創したのにはじまる。当時は全般的に臨済宗 が隆盛を極めていて、八代義胤、九代行義、一〇代貞義は臨済宗の寺を開創している。 常陸地方における曹洞宗の本格的な伝播は、南北朝の争乱後であり、一四代義人の頃か らであった。鎌倉執事上杉憲定の次男義人は一三代義盛の娘源姫と養子縁組をなし、佐竹 一四代を継ぐ事となった。なぜ、養子である義人が継ぐのか。それは、一三代義盛に男の 子がいない時点で本来佐竹家一門の分家の中から宋家を継ぐのが妥当であるが、一門は内 乱によって混乱を極めていたので義人が継ぐ事となったのである。義人は幼い頃より曹洞 宗派であり、代を継承すると常陸国に曹洞宗の寺院を続けざまに建立したである。義人が 曹洞禅を導入したことにより佐竹宗家はもとより、支族一門は全て曹洞宗を信奉するよう になり、この宗門をもって菩提所と定め今日に至っている。義人以降も曹洞宗の寺院開創 は続き、戦国時代に入っても、秋田に移ってからも寺は建立されていった。秋田の中でも佐 竹家ゆかりの寺はほとんどが曹洞宗のものであり、その勢いを証明している。このような 事実から佐竹氏は神仏によりどころを見出していたということが理解できる。 戦国時代二〇代義重は信長と親交があり、一五七六年、信長の奏請により五位下常陸介 に叙せられた。信長と義重の親交は秀吉と二一代義宣との親交に受け継がれることとなり、 結果的に江戸時代における佐竹氏の外様大名としての位置を決める事となるわけで、やは り悲運の家系であることが理解できる。 義宣は戦乱の世に生き小田原の北条や伊達正宗などと戦いを繰り広げていた人物である。 義宣は天正一八年秀吉の小田原攻めに参陣し、その功により常陸国二一万貫文余の朱印状 を交付され、領土を安堵されている。また、翌年には秀吉の奏請により従四位下侍従に補 任され、右京大夫となり、秀吉から「羽柴姓」を与えられるなど極めて順調に佐竹家を発展 させ、領地も管理していた。しかしながら、秀吉が没し、一六〇〇年に起きた天下を分け た関ヶ原の合戦では、西軍、東軍のいずれにも加担せず、勝利を得た家康の不興をかうこ ととなった。全国四百名近い大名は明日の政局を案じ、伏見城の家康へと上洛したが、義 宣は父義重や家臣を代行させ、自らは家康の諸大名に対する論功行賞・廃絶転封国替えが 秋田の戊辰戦争(内田) 171 第四部 迷える近現代 ほとんど終わった慶長七年(一六〇二)家臣一五〇騎・総勢五〇〇名をもって上洛したが、 時すでに遅く、常陸国五四万五千石は没収され、石高の明示のないまま出羽国秋田へ転封 となったという歴史を辿ったのである。 このように家康によって転封を余儀なくされた義宣はさぞかし辛く、悔しかったのでは ないかと推測される。直接的な要因ではないかもしれないが戊辰戦争の際の列藩同盟脱退 はこの徳川氏に対する恨みが少し込められていたのではないだろうか。 4 秋田の国づくり 佐竹義宣は慶長七年家康から国替えの朱印状を与えられ秋田に入った。石高は六二年も 過ぎた一六六四(寛文四)年に旧領常陸の半分より下の二〇万五千八〇〇石と決まった。 これはかなりの左遷であったと考えて間違いないであろう。辛い状況であったが義宣はこ の辛い気持ちを国づくりに充てたのである。 国づくりのはじめは自らの居城を築城することであった。秋田に入った当初秋田実季の 居城であった土崎湊に本拠を置いたが、手狭な事から久保田神明山(現在の秋田市千秋公 園)に僅か一年の突貫工事をもって、慶長九年に完成した。また、城づくりと平行し、幕 府の命による全国共通の道路網の整備と、一里塚の設営が実施された。その後着々と久保 田の町づくりが行われ、神社仏閣の建立なども行った。義宣は神仏への信仰が厚く、秋田 県内にかなりの寺院を建立している。自らの居城である久保田城にも源氏の守り神である 八幡社や多くの寺社を常陸国から移している。 佐竹氏の時代の秋田久保田藩は藩財政が極めて苦しい状態で初代義宣やそれ以降の藩主 は揃って頭を悩めた。義宣はまず新田開発を奨励し米の収量を増大させることに徹した。 更に、木材と鉱山開発に力を入れ、藩財政を支えていった。木材の分野は県北の米代川流 域の天然秋田杉が広く知られることとなり、大量の杉材が京都、大阪、江戸などに移出さ れた。鉱山開発は家臣の梅津政影を領内の鉱山資源の探索に派遣し、数多くの鉱山を開発 した。特に大きい鉱山として院内銀山や阿仁銅山などがあった。院内銀山の最盛期は一日 約一万人が働き、銀千枚ができたと「梅津政影日誌」は伝えている。阿仁銅山も一七三〇 (享保一五)年の大阪廻銅は一四〇万斤といわれ、全国第一位の産銅であり、人口は二万 人いたと伝えられている。このように義宣は農林鉱一帯の施策を施し秋田の国づくりを進 めていった。これらの施策はおおいに藩財政を支えたわけだが、秋田の民衆の生活は潤う 事はなかったと、「秋田県史」は伝えている。この点から、民衆の為の国づくりではなく、 あくまでも藩財政を立て直す事に執着していたのではないかという推測がたち、相当藩財 政は切迫していたと考えられる。このため領内では百姓一揆などが多発している。しかし ながら、 県南部では支配者が良政を行なったせいか百姓一揆の記録は無いという説もある。 (*21)また、天明と天保には大規模な飢饉が起こっており、天保の大飢饉の際は餓死 者が数十万人に上ったと伝えられているが、正確な記録は残っていない。けれども、私の 参考にした文献全てが秋田藩時代の民衆の貧困を伝えていて、藩の搾取が厳しかったのが 主な原因であるとしている。藩財政悪化は幕末になると尚いっそう厳しいものとなり、民 衆はその都度苦しい生活を強いられていたのである。 天保四年の飢饉に関するある庶民の日記「凶作万日記控」 「天保四年二月は平年並みの天気であったが、三月から五月十日迄上々の天気が続き 秋田の戊辰戦争(内田) 172 第四部 迷える近現代 雨が降らず、田畑を耕すことがでなくなった。諸所方々で雨乞いが行なわれた。する と、十一日から雨が降り出し、七月まで雨ばかりで、晴れの日はまれとなった。この ため、夏だというのに昼は袷を着て、夜は綿入れ布団を着て寝た。(・・・途中省略) こうして、米は六月はじめから二貫三百文になり、七月はじめには三貫三百文になっ た。そこで町中の米屋が役所に呼ばれて調べられたりして大騒ぎとなった。しかし、 米はどこからも出てこなくなり、在の方からも米は出なかった。八月には三貫五百文 になり米は買えなくなった。 」と記されている。 (東洋書院「横手の歴史」伊沢慶治著より) こうした状況に置かれた民衆の目からは佐竹氏の国づくりは悪政にみえたのではなかろ うか。私が民衆の一員であったのならば即刻一揆のリーダーとなって藩に対し反旗を翻し ただろうと考える。このような厳しい状況の中、 秋田久保田藩は慶応四年十二代義尭の時、 戊辰戦争へ突入していったのである。次の章からはその中身を探っていきたいと考える。 第三章 戊辰戦争突入 1 最後の藩主義尭 最後の秋田久保田藩主義尭は、内政面では養蚕業を奨励し、秋田黄八丈の生産に努め、 外政面では武芸に力を入れ、西洋砲術所の雷風塾を設け、藩士に稽古を命じるなど活発な 藩主であった。秋田と江戸、京都を往復し、幕末に対処する久保田藩の方策にあたったが、 あいつぐ火災や不作により、慶応三年王政復古令が下された時、久保田藩の財政赤字は二 〇万両に達し、この厳しい状況のなか、来るべき年の戊辰戦争を迎えなければならなかっ たのである。 2 戊辰戦争開戦 慶応三年一〇月一四日、一五代将軍徳川慶喜の大政奉還によって、家康以来二六五年に 渡って続いた徳川政権はここに崩壊し、建久三年源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、六七 五年に及ぶ武家政治に終止符が打たれた。 同年一二月九日には、王政復古の令が発令され、 明治の新政府が樹立されたのである。 これにより、本当であれば、徳川氏、薩長、そして、全国の諸藩は団結して日本の新た な国家を造らなければならないのであるが、明けて慶応四年一月三日には新政府軍と旧幕 府軍の血で血を洗う戦いが鳥羽伏見ではじまってしまったのである。新政府軍は「五箇条 の御誓文」 (*22)を発布し、旧幕府軍を賊軍としているが、御誓文の趣旨を考え、検討 してみるとこれに離反しているのは薩長の新政府軍であり、戊辰戦争はいわば朝命に名を 借りて、旧幕府軍に仕返ししているようなものなのではないかと考えてならない。その要 因として、その一、具体的な大義名分が無いという事、その二、新政府側世良修三の密書 に「奥羽皆敵」とあり、話し合いを設ける気など毛頭うかがえないという事などが挙げら れる。この密書により、私怨のみで突き進む新政府軍の状態がわかるため、私はこの戦争 に対し納得できないものがある。 3 秋田久保田藩の動向 和暦 主な出来事 (歴史群像シリーズ「会津戦争」より) 秋田の戊辰戦争(内田) 173 第四部 慶応四 迷える近現代 四月六日 奥羽鎮撫総督、庄内藩討伐を命ず。 五月二日 白石会議で白石盟約書に調印する。 五月九日 鎮撫副総督沢為量、久保田に来る。 七月一日 鎮撫総督九条道孝、盛岡を経て秋田に入る。 七月三日 藩の去就を決すべく会議を開くが、勤王派と旧守派が対 立して結論出ず。 七月四日 義尭、藩論の対立を退け、自ら勤王の決意を固める。 奥羽越列藩同盟を脱退する。 同日夕 秋田藩壮士、久保田に在宿していた仙台藩士を襲い、六 人を斬殺、五人を捕らえた後、斬に処す。 奥羽戦争に突入 八月六日 明治元 本荘城陥落、焼失する。 八月一一日 横手城陥落。 八月二二日 大館城陥落。 九月一〇日 南部軍が降伏する。 九月二二日 会津藩降伏。 九月二七日 庄内藩降伏。 秋田久保田藩の戊辰戦争は、庄内藩討伐を命じられたことから始まっている訳であるが、 久保田藩は庄内藩の罪状を把握していなかった。久保田藩家臣川井小六忠諒は庄内藩の罪 状を確認するため維新軍に対し質問状を出している。すると、総督府参謀大山格之助綱良 は「故ナキ嫌疑ヲ以テ諸藩邸ヘ砲撃致シ焼掃イ候二由ル者ナリ」 (*23)と答えている。 諸藩邸への砲撃とは、三田薩摩邸の焼き討ち事件を表しているのだが、この事件は、関東 でのゲリラ運動の犯人相良総三や益満休之助らを薩摩藩がかくまっていたので、仕方なく 砲撃した次第であり、庄内藩に罪はないのである。ここでも明らかなのが維新軍の会津、 庄内藩に対する恨みであり、それに秋田久保田藩は巻き込まれているように見えてならな い。(この時秋田久保田藩は結局庄内藩を攻撃していない。 ) 奥羽越列藩同盟のいきさつは会津藩救済が大目標であった。仙台藩と米沢藩が中心とな り、会津の維新軍に対しての謝罪を助けることが当初の狙い(*23)であったが、維新軍 は私怨にかられ、「会津二於イテは実二死ヲ以テ謝スルノ外コレナク」と断固として会津の 謝罪を受けようとせず、奥羽の国々は「薩長私怨の横暴」を許さず、といった考え方に変化 し、更に世良修三下参謀の「奥羽皆敵」の密書を得て、ついに奥羽二五藩と越後六藩によ り同盟が成立した訳である。この時の会議に久保田藩代表として参加していたのは戸村十 太夫義效であった。義效は同盟を結ぶと即刻藩主に飛脚を飛ばし、薩長軍の入国は拒否す るように伝えていた。奥羽諸藩は鎮撫使に対し反感を抱いていたので、自藩へ入れると同 盟諸藩と対立する事になるからである。 しかし、佐竹氏は既に沢副総督や九条総督を自藩へと入国させていたのである。これに より、他藩からは不信の目でみられるようになり、仙台藩は白石同盟の即時実行と、薩長 兵の藩外追放、総督の引渡しを要求する為使者を秋田に派遣した。このことから解る事は、 藩主義尭と代表義效の意思疎通がなっていなかったということである。義尭はなぜ、どち 秋田の戊辰戦争(内田) 174 第四部 迷える近現代 らにつくかはっきりしていなかったのに白石会議に代表を立てたのか私には理解し難いし、 代表が勝手に一国の条約締結を行なっていいものなのだろうかという疑問も沸き起こって くる。普通に考えても代表に一任する場合は藩主がかなり幼いという理由や藩主の信頼を 相当得ているかという事、藩主が病であるなどが考えられるが、今回のケースはどれも当 てはまらない。つまりは藩主義尭の優柔不断さが主原因ではないかと推測する。後に義尭 は維新軍側についた際に同盟調印は自らの意思ではなく、義效の意思であったと説明して いて、義效を生涯蟄居の命に処している。しかし、昭和三三年二千数点にのぼる戸村文書 が公開され、同盟加入は義尭の意思であったという記述が発見され、義效の名誉は回復した と「横手の歴史」 (東洋書院)に記されている。横手とは現在の秋田県横手市で戸村氏の居 城横手城があった町であり、私の出身地でもある。この地は奥羽戦争の際激戦地となり、 横手城の付近には戊辰戦争の戦死者の墓が数多くある。 結局義尭は仙台藩の使者を斬首し、維新軍側についたわけだが私は義尭のこの行動に怒 りを感じてならない。「秋田の維新史」を執筆した吉田昭治氏も仙台藩使殺戮は秋田の維新 史最大の汚点であると述べている。なぜ、このような行動をとってまで列藩同盟を脱退し 維新軍側についたのか。秋田市佐竹史料館協議会委員の伊藤武美氏は自らの著書「天徳寺 の歴史と佐竹氏」に中で、平田国学(*24)の影響と佐竹義睦夫人・悦子の叔父土佐藩 主山内容堂(*25)との関連などが作用していると述べているが、はっきりとした理由 が残っていないのが、現状である。私はやはり大左遷した徳川氏に対する感情も少しは含 まれていたという事、また、仏教を厚く信仰する家系であるが故に「朝敵」という汚名を きて戦う事が出来なかった事が関係しているのではないかと推測する。 奥羽戦争に突入するや否や仙台藩使殺戮に激怒した仙台、盛岡、庄内藩は怒涛の如く秋田 領内になだれ込み次々と秋田久保田軍を撃退していった。戦争が始まって一ヶ月後には藩 地の三分の二が戦場と化し、形勢は極めて不利な状況となっていた。(年表参照) 横手城陥落の様子 「列藩軍三面ヨリ一時二打込ミ・・・・庄内陣中ヨリ発シタル破裂丸城楼 二的中シテ火起リ、黒烟渦キ・・・」(仙台戊辰史) 大館城陥落の様子 「・・・・・・・敵穴門ヨリ逃去候ニ付、大館城乗取候事」 (南部利恭家記) 秋田久保田藩は南と北の要所を同盟軍に落とされ、かなり不利な状態であったが、京都 から海路送られた八千の援軍と、最新式洋銃により、戦局は一変し、同盟軍を領外へと追 い出す事に成功した。そして、九月二二日会津藩が降伏、二七日には、庄内藩が降伏し、 東北の戊辰戦争は幕を閉じたのである。 秋田の損害 戊辰火焼失届・・雄勝郡 三百八十五軒、平鹿郡 八百十八軒、 仙北郡 千百四十六軒、山本郡・河辺郡 二百六十九軒 秋田郡 二千六十六軒 計四千六百八十四軒 これに土蔵、木屋、寺院、駅場、役所、宮社などを加えると五千を越す家屋が焼失る。 出兵人員及死傷者調・・出兵総数 八千六百九十八人 秋田の戊辰戦争(内田) 175 第四部 迷える近現代 戦死者 三百二十九人 傷者 三百十六人 この中には非戦闘員は含まれておらず、もし含まれていたのであれば、この数字の倍に なるだろうと考えられている。 「秋田県史」史料明治編 これほどの大きな犠牲を払っているので、秋田久保田藩は新政府の論功行賞を期待した が、義尭に章典禄二万石を与えられただけで、惨めな結果に終わった訳である。この戦い を通して一体秋田は何を得たのだろうか。私には何も得るものの無い戦いとしか映らなか った。序文の段階での無益な戦争を終わらせた功労藩であるといった自らの秋田久保田藩 に対する考えは脆くも崩れ去ったのである。また、この戦いで佐竹氏は守らなければなら ないはずの民衆を多く巻き込んでいる。ぬめひろし氏の「秋田農民夜話」(*26)にはそ の悲劇が多く綴られていて、この戦いの激しさ、空しさを物語っている。 4 その他の藩の動向 亀田藩 藩主 岩城隆邦 岩城氏は当初より、勤王の意思を明確にし行動していて、大山格之助の命に従い庄内藩 領内に出陣している。その後奥羽越列藩同盟に参加するも、久保田藩の同盟離脱に従い、 本荘藩と同一行動をとる。 しかし、庄内藩の攻撃を受け、一八六八年九月二一日降伏。藩主岩城氏は庄内に送られ、 再度同盟軍側についた。これにより、戦争終了後二千石が減封された。 本荘藩 藩主 六郷政鑑 文久元年一四歳で藩主になった政鑑は、久保田藩と共に行動した。はじめは庄内討征に 加わり、後に列藩同盟に加わるが、久保田藩が脱退すると、同じく脱退している。そして、 庄内藩に攻撃され、八月六日藩主はしろに火を放ち、久保田に向かった。その後久保田領 内を転戦し、九月二十九日本荘を奪回。戦後一万石を加増された。 この史実から理解できる事として、小さな藩はやはり大藩の意向を伺いながら行動しな ければならない辛さがあるという事であり、藩主は常にその動向に目を配り藩を導いてい かなければならない困難な役職であったように思う。東北にはこの時代数多くの小さな藩 があったわけだが、同様に厳しい藩運営を強いられていたのではないかと感ずる。 あとがき 1 西暦 戊辰戦争後のあゆみ 年号 事項 1869 明治二 義尭、版籍を奉還し、藩制となる。 1870 明治三 義尭、知藩事に任ぜられる。 秋田藩、藩政を改革する。 1871 明治四 義尭、郡県制施行への意思を表示する。 秋田県となり、旧佐賀藩士島義勇、初代県令とな る。 1872 明治五 旧久保田城に秋田県庁開庁。 秋田の戊辰戦争(内田) 176 第四部 1873 明治六 迷える近現代 伝習学校(師範学校の前進)を設立する。 戊辰戦争が佐竹氏に残したのは多大な犠牲者と、莫大な借財であった。藩主一人の意見 で官軍の名のもと戦った秋田へのメリットは皆無に等しく、また、東北の諸藩からも裏切 り者のレッテルを張られ、後進の道を歩む事になったわけであるが、島義勇が県令となる や表面的な面を考えるとすこしずつ着実に発展してきたと考える。農業や木材業、鉱業の発 展に尽くし、また、石油の開発に努めるなど大いに活躍した。石油の開発では、一九三五年 に成功した八橋油田が最も際立ち、最盛期は全国の産出量の六六%を占めるまでに至った。 (現在は大規模に減少) 一九〇五年に奥羽線、一九二四年羽越線全通し、東京、大阪との交流もさかんとなった。 木材の分野に関しても一九〇七年井坂直幹が能代に秋田木材株式会社を創立し、東洋一の 木の都と呼ばれる時代もあった。このように発展の歴史は輝かしく映るのであるが、問題 もかなり起きている。特に農民の小作争議は県内各地で起き、複雑な展開になっていった のである。この問題に関しては佐竹氏の代からの問題を引きずっているために起こってし まうわけである。 先述したように、佐竹氏の国づくりは民衆を考えてのものとはいい難く、 宗教や藩の財政中心の改革や、制度をつくっていった為後々に至っても争いの火種は消え る事が無かったのである。やがて、農民は労働者と組んで争うようになり、昭和に入ると そのひずみは深刻なものとなった。一九三〇(昭和五)年一年間で一万五千人に上る移住、 出稼ぎ者を出してしまったのである。一九三四年はわずか二〇∼三〇円で娘を売る農家が 一万人に上り、当時の新聞には「農村にすでに娘なし」とまで書かれた。この時代の農家 の方はかなり苦しい状況を強いられていたのである。佐竹氏からの影響がこの時代まで続 くといった事態に私は大変驚き、今の政治なども、一〇年後、二〇年後、一〇〇年後に繋 がるかもしれないという事を知り、佐竹氏の秋田に残したツケはきわめて大きいものであ るという事を改めて理解した。 太平洋戦争が終わると秋田では農地改革が行なわれ日本で二番目に大きかった 八郎潟が干拓され大潟村が誕生した。大潟村では広大な土地を利用してのさまざまな作 物の栽培が行なわれている。また、工場誘致も盛んに行なわれ、勢いさかんとなったよう に見えたが、農業基本法が実施されると出稼ぎ者が数多く増え、高度成長期には年間に一 〇万人を超える出稼ぎ者が都市部に流出した。若者がふるさとを離れ、人口減少、高齢化 問題は秋田にとって頭の痛い問題である。平成九年秋田新幹線が開通し発展の兆しを見せ つつあるがやはりどこかで勢いに乗り切れない面があり、それを今後我々の世代がいかに して活気のある秋田にしていくべきかを考える時期にきていると感じる。少々強引ではあ るが佐竹氏の残した傷跡は我々の世代にまで影響を及ぼしている。ほんの一瞬の判断によ り官軍となった事、そして、偏った秋田の国づくりをしたことがここまで影響を及ぼして いる事を佐竹氏当人はどう思っているのか問いてみたい気持ちになる。 私はこの研究を進めて佐竹氏の家系の複雑さ、宗教に対する思い、義尭の優柔不断な態 度、民衆の生活を省みない国づくりなどこれまで一度も戊辰戦争を考察するうえで、他の 人間がファクターとしていなかった内容に関する史実に触れ検証したわけだが、そのどれ かが決定的脱退の要因になったのではなく、この全てが微妙に重なり、脱退に発展したの ではないかという結論に至った。 秋田の戊辰戦争(内田) 177 第四部 迷える近現代 私は序文の段階では佐竹氏を戊辰戦争を終わらせた陰の英雄であると考えていたが、考 察をするに従いなんだか納得のいかない人物であるという風にその見方は変わったのであ る。特に仙台藩士殺戮は人間としても、武士としても恥ずべきことであると考える。また、 直接研究の対象となっていなかったのであまり深く検証しなかったのだが、維新軍の「会 津謝罪拒否」の問題は非常に許しがたく、国家権力や天皇を私怨の達成に使用するなんと も許しがたい行為であると考える。 私は戊辰戦争という戦争ほど日本の歴史上価値の無い戦いは無いと考える。本当は行な わなくてもいい戦争であったからである。しかし、人間関係というものが複雑であるが故 に戦争というものが勃発し、過ちは繰り返されるのである。その過ちの犠牲になるのはい つの時代も一般の民衆であるという事を忘れてはならないと考える。私はこの研究を通し 当たり前の事実を重く受け止められた事がなによりの収穫であったと考えている。 注釈 (1) 慶応三年(一八六七)一〇月一四日、一五代将軍徳川慶喜が大政奉還し、家康以 来二六五年に及ぶ徳川政権はここに崩壊し、建久三年(一一九二) 、源頼朋が鎌倉に幕府を 開いて以来、六七五年にわたる武家政治に終止符が打たれた。そして、同年一二月九日に は薩長の武力討幕派が計画した王政復古(天皇中心の新政府樹立)が発令され、薩長閥の 新政府が樹立されたわけである。この後、慶喜の処分が京都御所内の小御所で三職を交え て話し合われ(小御所会議)、慶喜の内大臣辞退と領地の一部返納(辞官納地)が決定され た。この処置に憤慨した大坂に滞在中の幕兵が明けて慶応四年(一八六八)一月三日早朝 に大挙入京、京都近郊の鳥羽・伏見で薩長の兵と交戦し幕府方敗北。戊辰戦争の発端とな る。 三職=維新政府最初の官職。王政復古の大号令により、総裁・議定・参与の三職が創設さ れた。 総裁:三職の最高官職で、政務総括。有栖川宮熾仁親王が就任。 議定:皇族・公卿・諸侯約十名が任命された。一八六九年太政官制の再興により廃官。 参与:主に雄藩(勢力のある大きな藩)の代表が任命され各局の事務を分担。一八六九年 の官制改革で参議に転化。 山川出版社「日本史用語集」 (2) 現在の福島県会津若松市に位置した親藩であった。代々の藩主は藩祖の遺訓を守 り、将軍家に忠誠を尽くしてきた。当時の藩主松平容保は十代目で、京都守護職を務めて いる。文久三年八月一八日の政変を指揮し、長州藩を主体とする急進的な尊攘派を京都か ら追放している。その後戊辰戦争に突入するが、一八六八年九月二十二日戦いに敗れ、一 〇月一七日滅藩となる。 {会津藩歴代藩主一覧} 代数 諱 父 初代 保科 正之 徳川 秀忠(二代将軍) 二代 保科 正経 保科 正之 三代 松平 正容 保科 正之 秋田の戊辰戦争(内田) 178 第四部 四代 松平 容貞 松平 正容 五代 松平 容頌 松平 容貞 六代 松平 容住 松平 容頌 七代 松平 容衆 松平 容住 八代 松平 容敬 松平 容住 九代 松平 容保 松平 義建(養子)美濃高須の領主 一〇代 松平 喜徳 徳川 迷える近現代 斉昭(養子)水戸藩主 学研「歴史群像シリーズ会津戦争」 (3) 戊辰戦争の際の奥羽諸藩の反政府同盟。 慶応四年(一八六八)仙台・米沢の両藩の主唱により東北二五藩が盟約、越後六 藩が参加。詳細は(6)の解説で。 山川出版社「日本史用語集」 (4) 会津藩の編制部隊の一隊。 上級藩士の子弟で編制 士中白虎隊 中級藩士の子弟で編制 寄合白虎隊 下級藩士の子弟で編制 足軽白虎隊 これらの各隊は、更に一番隊、二番隊の二中隊に分けられ、一中隊の人員は七二 名が原則とされていた。また中隊は二小隊から成り、一小隊は二分隊で編成されていた。 つまり一小隊は三六名、一分隊は一八名となる。しかし、現実は寄合白虎隊の一四九名、 足軽白虎隊の六五名という変則さであった。もともとは予備隊であったが急な戦況の変化 で最前線へと送られた。 学研「歴史群像シリーズ会津戦争」六四頁 (5) 一八六八年榎本武揚らが旧幕府の軍艦を率いて箱館に至り、五稜郭で官軍に抗戦、 翌年陥落し、戊辰戦争が幕を閉じる。 山川出版社「日本史用語集」 (6) 三一藩の奥羽越列藩同盟。 一八六八年 五月一〇日の段階 九月一〇日段階脱退藩 青森県・・・八戸藩、弘前藩 二藩脱退 岩手県・・・盛岡藩、一関藩 脱退藩なし 秋田県・・・久保田藩、亀田藩、本荘藩 全ての藩脱退 矢島藩、 山形県・・・新庄藩、天童藩、山形藩 新庄藩、米沢藩脱退 上ノ山藩、米沢藩 宮城県・・・仙台藩 脱退なし 福島県・・・福島藩、中村藩、下手渡藩 中村藩、磐城平藩、三春藩 二本松藩、三春藩、守山藩 湯長谷藩、守山藩、泉藩 磐城平藩、湯長谷藩、泉藩 三春藩、棚倉藩 棚倉藩 二本松藩は新政府軍より 占領 新潟県・・・村上藩、黒川藩、新発田藩 長岡藩は新政府軍により占 秋田の戊辰戦争(内田) 179 第四部 三日市藩、村松藩、三根山藩 迷える近現代 他は脱退 長岡藩 学研「歴史群像シリーズ会津戦争」 (7) 秋田県雄勝郡院内出身の老医師の話 「あれは明治三四、五年の頃、仙台の第二高等学校に居た頃の事です。舎監をし ていたのが旧仙台藩士でしてね、なかなか厳格な反面、優しいところのある爺さんで、生 徒達にも人気がありました。私なども入った当座は随分可愛がられ、世話になったもんで す。ところが、私が秋田の出と判ると、その途端態度ががらりと変わってしまいました。 それからというものは、寮の中であろうが、学校の中であろうが、町の中であろうが、顔 を会わせる度毎に、一日一回なら一回、三回なら三回、十回なら十回と、とにかく会う度 毎に凄い目で睨みつけて、割れ鐘のような声で、“秋田の変心”と頭ごなしに怒鳴りつける んです。私は山奥の百姓の倅で、仙台藩士の暗殺とは全く何の 関係もないのに、いやあ、あれには参ったもんでした。 」 秋田文化出版社 吉田昭治「秋田の維新史」 (8) 阿倍比羅夫・・・生没年不詳。 六五八∼六六〇年の間、大船団を組織し、齶田(秋田) ・ 代(能代)から津軽方面の蝦夷を討ち、越(北陸地方)の国守 として粛慎(みしはせ)を征したという。白村江の戦いにも従軍。 山川出版社「日本史用語集」 (9) 鎮圧の為朝廷から訪れていた出羽権守藤原保則の指摘 「私に租税を増し、恣に徭賦を加える」ため反乱は起こると言っている。 山川出版社「秋田県の歴史散歩」 (10) 前九年の役・・・一〇五一∼六二 陸奥の土豪安倍頼時が国司に反抗、朝廷の命で源頼義、義家が 清原氏の援を得て平定。源氏の東国における勢力確立の緒となる。 山川出版社「日本史用語集」 (11) 後三年の役・・・一〇八三∼八七 清原氏の相続争いに陸奥守として赴任した源義家が介入、藤 原清衡を助けて清原氏を金沢柵に滅ぼす。源氏の信望が東国に高まり武家の棟梁の地位を 確立。 山川出版社「日本史用語集」 (12) 清原清衡・・・一〇五六∼二八 後、藤原と姓を変える。後三年の役で勝利し、支配地を継承。 平泉を根拠に子基衡、孫秀衡と奥州藤原氏三代の栄華を開く。中尊寺金色堂を建立。 山川出版社「日本史用語集」 (13) 四人の藤原氏郎従・・・河田次郎・・贄柵(県北部)、秋田三郎致文・・秋田郡、 由利中八維平・・由利地方、大河兼任・・南秋田、山本 山川出版社「秋田県の歴史散歩」 (14) 雄勝郡・・・小野寺氏 鹿角・・・安保、秋元、奈良氏 比内・・・浅利氏 男鹿・秋田・・・橘 公業 秋田の戊辰戦争(内田) 180 第四部 迷える近現代 山川出版社「秋田県の歴史散歩」 (15) 常陸風土記・・・七一三諸国に撰進が命じられる。その国の地名の由来・産物・ 伝承などを記載。現存は常陸・出雲・播磨・豊後・備前の5つの風土記。出雲のみ完本。 山川出版社「日本史用語集」 (16) 蝦夷・・・大和朝廷に臣隷しない方臣をさす。アイヌ人ではない。 山川出版社「秋田県の歴史散歩」 (17) 清和源氏・・・清和天皇の孫、経基が臣籍降下、源の姓を賜う。武士団の棟梁 となり、平忠常の乱を平定し力を強め関東に地盤。後に新田、足利らに分かれた。 山川出版社「日本史用語集」 (18) 平治の乱・・・一一五九年(平治元年)保元の乱後、源義朝は平清盛と勢力を 争い、藤原信頼と結ぶ。平清盛が熊野詣の留守中、京都に挙兵。三条殿を襲って後白河法 皇を内裏へ移した。しかし、清盛の反撃を受け、上皇と二条天皇は脱出し、義朝、信頼は 敗死。この後政権は平氏へと移行。 山川出版社「日本史用語集」 (19) 曹洞宗・・・一二二七年、道元が南宋から伝えた禅宗の一派。坐禅そのものが 仏法であるとして只管打坐を説き、臨済宗と異なり公案を用いず。やがて、地方の土豪・ 農民に普及した。 山川出版社「日本史用語集」 (20) 臨済宗・・・一二世紀末、栄西が南宋から伝えた禅宗の一派。当初は比叡山の 圧迫を受けたが、やがて鎌倉、室町幕府の保護を受けて、京、鎌倉も五山を中心に発展し た。坐禅のとき公案を解決して悟りに達する自力の仏教。 :公案・・・座禅者に示し、考える手がかりとする問題。先人の言行を題材に普 遍的な真理を体得できるよう設定した課題。総数一七〇〇に及ぶ。 山川出版社「日本史用語集」 (21) 山川出版社の「秋田県の歴史散歩」には百姓一揆があったと記されているが、東 洋書院の「横手の歴史」には一揆の記録は無いと記されている。 (22) 五箇条の御誓文・・・一八六八年三月発布の明治政府の基本方針。由利公正が 原案を起草し、福岡孝弟が修正し、木戸孝允が加筆修正した。(福岡の修正案に「列侯会議 ヲ興シ」とあったのを木戸が「広く会議ヲ興シ」と改めたのは有名)列侯会盟を改め、明 治天皇が神に誓う形式で発布。重点は公議世論の尊重と開国和親。 山川出版社「日本史用語集」 (23) 一八六八(明治元年)四月九日、仙台・米沢の両家老が奥羽諸藩に送った書。 「伊達陸奥守、並に上杉弾正大弼は、会津容保を追討するように朝廷から命を 受け、出陣したところ、陸奥守の陣へ会津の家来が来て、降伏し、謝罪したいと言うので、 皆で相談して朝廷に会津の赦免を願ってやりたいから、御重役を白石陣所まで主張させて 貰いたい」 東洋書院「横手の歴史」 秋田の戊辰戦争(内田) 181 第四部 迷える近現代 (24) 国学・・・ 日本の古典を研究し、民族精神の究明に努めた学問。復古思想の 大成から尊皇攘夷に発展する方向と文献考証の方向にすすむものとある。 平田篤胤・・・一七七六∼一八四三 秋田出身。 本居宣長死後の問人。復古主義、国粋主義の立場を強め、復古神道を大成。平田派国学は 農村有力者に広く信奉され、草莽の国学として尊皇攘夷運動を支えた。 山川出版社「日本史用語集」 (25) 山内豊信(容堂) ・・・一八二七∼七二 土佐藩主。 容堂は号。 安政の大獄で蟄居を命じられたが、後に幕政に参与。 一八六七年後藤象二郎の意見で将軍慶喜に大政奉還を建議。 山川出版社「日本史用語集」 (26) 「秋田農民夜話」の一部 由利郡大内村では、多くの農民が秋田軍の人夫に徴発された。兵糧運搬の苦 労は大変で、知らぬ野山を兵糧を背負って歩いた。風は冷たく雪が鳴り、所々に首や胴、 手足が転がっていて敵か味方の区別もつかない。戦場につくと人馬が倒れ臥し、まるで阿 修羅が荒らしまわった後のようである。 兵士たちは野も山もひた押しに押し合い、遠ければ鉄砲を撃ち、近ければ組 み打ちして切りあい、隠れた者は探し出して斬りつける。百姓どもは敵に遭うと、私ども は百姓だから命だけは助けてくれと泣き騒いだ。 これが戦いの真実の姿であった。 「秋田農民夜話」 参考・参照文献 「奥羽越列藩同盟」 星 亮一著 中央公論社 「横手の歴史」 伊沢 慶治著 東洋書院 「秋田県の歴史散歩」 編者 秋田県歴史散歩編集委員会 「秋田県史」史料明治編 編者 秋田県 「日本史用語集」 編者 全国歴史教育研究協議会 「会津戦争」歴史群像シリーズ 雑誌 学習研究社 「天徳寺の歴史と佐竹氏」 伊藤武美著 秋田市立佐竹資料館 1995 1979 1989 1915 1988 1994 1999 秋田の戊辰戦争(内田) 182 第四部 壮大なる幻影 迷える近現代 −榎本武揚と蝦夷共和国− 時田 正樹 はじめに 徳川二六〇年の幕藩体制を壊滅させた維新の戦いは、戊辰戦争で終結したのではない。 蝦夷地に諸外国も認めた一つの政権が誕生し、それを制圧して維新の大業が完成するのは、 翌年明治 2 年の夏である。これが蝦夷共和国と箱館戦争である。榎本武揚は、同じ幕臣の 勝海舟や小栗忠順などと比べても、あまり知られていない。それは、彼が自分について黙 して多くを語らなかったこと*E1 が大きな理由である。一般的な榎本武揚のイメージは、戊 辰戦争最後の英雄というところではないだろうか。明治以降の経歴については、ほとんど知 られていない。逆に、明治以降の彼の経歴*E2 を知るものの一般的な評価は二君に使えた転 向者というところだろう。これは、実際に旧幕臣の中で新政府で最も出世したという事実 と、福沢諭吉の『痩我慢の説』で勝海舟ともに並んで名前を挙げられて批判されたこと、 あるいは阿部公房の戯曲*E3 によるところが大きい。箱館戦争が終結して一三〇年、榎本 武揚が没して九〇年が経過した今、改めて評価するべきであろう。 それでは、まず蝦夷共和国、箱館戦争に触れる前に、戊辰戦争勃発前の蝦夷地とそれま での榎本武揚について触れる事にする。 1 蝦夷地前史 <松前藩以前> まずは、蝦夷共和国成立以前の蝦夷地について、述べていくことにする。蝦夷について、 正確な文献にあらわれるのは、『宋書倭国伝』の倭王武の上表の「毛人」が最初である。しか し、蝦夷地(北海道)南部へ日本人が入ってくるのは、鎌倉幕府成立以後の事である。鎌倉 幕府が奥州藤原氏を征服した後、葛西清重を奥州総奉行、伊沢宗景を陸奥国留守職、安東五 郎を蝦夷管領とし、さらに奥州藤原氏の旧領を功臣に分給する。この幕府により移された 武士が、地元の小豪族を圧迫して、彼らを蝦夷地南部に移動させることになる。 この蝦夷管領安東氏による蝦夷地支配の内容は全く不明である。一四世紀ごろの記録や 十三湊への築城などから考えると、蝦夷地支配というよりは、港にくる蝦夷との交易管理と その収税を主な内容としていたようだ。 『吾妻鏡』に罪人を送った記録もあるが本格的に日 本人が蝦夷地に入って来るのは一四世紀以後である。そして、一四世紀半ばには、和人の 村落が出来あがっていた様である。 <松前藩(福山藩)> 一五世紀半ばには、蝦夷地南西端部に蝦夷管領津軽安藤氏配下の一五諸豪族が館を築き 群雄割拠していた。和人の蝦夷地への進出は、アイヌ民族との対立を深め、長禄元年(1457) アイヌ民族の中世における最大の大蜂起であるコシャマインの大蜂起が起こる。この蜂起 鎮圧で大きな役割を果たした館主の一人蠣崎氏が、これを契機にして他の館主を臣従させ、 永正一一年(1514)本拠を大館(松前)に移し、檜山安東氏の代官としての地位を得て、蝦 夷地における唯一の現地支配者となった。その後、第五世蠣崎慶広の時、文禄二年(1593) 秀吉より船役徴収権を公認され、ついで慶長九年(1604)家康よりアイヌ交易独占権を公認 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 183 第四部 迷える近現代 されて一藩を形成した。この間慶長四年(1599)に氏を蠣崎から松前と改め、翌慶長五年福 山館築城に着手し、同一一年落成する。この館は、松前氏は城主ではなかったため、正式には 福山館または福山陣屋と称した。なお、一般には「松前之城」(『松前蝦夷記』) 、 (「福山 城」 「福山秘府」 「松前志」 )と称した。ここに、アイヌ交易独占権を軸*E4 とした、安政元 年(1854)まで近世唯一の無高の藩*E5 が誕生する。松前藩の特性は、以下の三点である。 1、家臣に対する知行が、商場知行一定地域内でのアイヌ交易権の分与*E6 2、渡島半島南部が和人専用の「和人地」(村落・藩権力の所在地)、(「松前地」「日 本人地」 「人間地」とも)とそれ以外の地を「蝦夷地」(アイヌ居住地・交易地を含む)とし、 番所を置き往来を禁止 3、交易船の出入りを松前一港に制限(発展にともない江差・箱館を含む三港) <アイヌ蜂起と外国船の来航> 藩体制の成立と展開は、アイヌ民族との矛盾・対立を深めることになる。当然の結果とし て、寛永二〇年(1643)のヘナウケの蜂起、寛文九年(1669)近世最大のアイヌ民族の蜂起であ るシャクシャインの蜂起が起きる。一八世紀後半になっても、アイヌ民族の対立は解消さ れず、寛政元年(1789)のクナシリ・メシリのアイヌ蜂起が起き、寛政四年(1792)ロシア使節 ラクスマンの来航、同八年(1796)英国船プロビデンスの来船といった外国船の来航を契機 に和人地の一部を幕府に引き渡すことになる。代わりに、代替地として、武蔵野国埼玉郡に 五〇〇〇石を与えられる。 (その後、何度かの減加封*E7 を経て、嘉永二年(1849)館 から城への築城を命じられ、安政元年落成し、初めて城持ち大名となる) 2 外国船の来航と幕府の崩壊 ペリーの来航により、箱館を安政六年に正式に開港することになり、箱館奉行に堀利熙、 竹内保徳が任じられる。二人は幕府切っての外国通で、安政元年に箱館に赴任する。この時 、堀の小姓とし、一九歳の榎本釜次郎(武揚)も随行している。 <幕府の蝦夷地経営> 箱館奉行堀の任務は、開港時までに外国船の砲撃に耐える要塞の築城、函館洋学の振興、 蝦夷地の開発であった。この時、蘭学者武田斐三郎が築城した五角形の星型をしたオラン ダ式の要塞が、後に蝦夷共和国の本拠地となる五稜郭である。弁天台場の砲台も建設して いる。榎本武揚は、安政三年に長崎の海軍伝習所に入るまで、堀や武田に従い、松前から樺 太まで旅をしている。この時の旅が、後年の蝦夷地への移住、蝦夷地の開拓に大きな影響を 与えたことは間違いない。堀は、五稜郭・弁天台場完成前に死亡し、代わって村上範正が 箱館奉行に任ぜられる。弁天台場は文久三年(1863)、五稜郭は元治元年(1864)に完成する。 五稜郭の完成とともに、函館奉行竹内保徳は外国奉行に任ぜられ、代わって小出秀実が函 館奉行として蝦夷地開発の指揮、日露国境交渉に当たることになる。日露国境が成立する のは、榎本武揚が特命全権公使として千島・樺太交換条約が成立する明治八年(1875)のこ とである。 幕府の蝦夷地開拓のためとして設けられた制度として挙げられるのは、在住制度である。 この在住制度とは、屯田兵農制度により、旗本御家人の次男、三男その他陪臣、浪人など を蝦夷地に移住させ、平素は開拓に従い、非常の場合は警備の任に当たるというものであ る。箱館奉行堀により在住手当の扶持米が裁可され、箱館奉行により支給され、文久二年 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 184 第四部 迷える近現代 (1862)より在住の募集が開始された。一一六人の応募があり、在住は交通の要所や良港で ある室蘭地米別(石川町) 、石狩発寒、箱館七重村で開拓を行うことになる。それに先立ち 安政二年(1855)には、在住が妻子を連れて移住するため、それまでの女人の渡航禁止が廃 止されている。幕府の大政奉還とともに、在住はその資格を失い、江戸へ引き上げるか、 旧幕軍に荷担することになる。この在住制度が旧幕臣による蝦夷地の開拓を目的とした蝦 夷共和国の成立に与えた影響は計り知れない。 また、蝦夷地の北方警備は、外国船の来航以前は松前藩一藩であったのに対して、ロシ アの南下・函館の開港によって安政以降には蝦夷地警備は津軽・南部・秋田・庄内・仙台・会津 の東北六藩にも拡大されている。 <オランダ留学> 榎本武揚は、海軍伝習所を経て、オランダに文久二年(1862)から留学する。総勢一六名 9*E8 の留学生の中には、後に榎本武揚の妻となるタツの兄である林研海、蝦夷共和国で 開拓奉行となる沢太郎左衛門らがいた。オランダ渡航は、長崎を出て一ヶ月で暴風により 船が難破*E9 するなど順調といえるものではなく、六ヵ月半かかり、その後の彼らの運命を あらわしているかのようである。オランダ渡航の模様は『西周伝』や『赤松則良半生談』 、榎本武揚『渡蘭日記』などで見ることができる。榎本武揚は、このオランダ留学で船具・ 砲術・運用の諸学科、蒸気学、化学、国際法を学んでいる。ことにフランスの国際法学者オ ルトランの『海の国際法と外交』のオランダ語役をテキスト(『万国海律全書』)として海 に関する戦時・平時の国際法規を学んでいる。また、デンマークとプロシア・オーストリア 間の戦争には、国際観戦武官として従軍している。また、留学中にフランスとイギリスに も出かけており、近代ヨーロッパ先進文明の光と影の部分を目にすることになる。交際上 の正しいマナー、国際感覚、オランダ語やドイツ語・英語といった外国語を習得したことが 、後に、蝦夷共和国総裁としての諸外国との交渉、新政府内での駐在大使・公使として役立 ったか計り知れない。幕府がオランダに注文し、榎本らが建造の監督にあたった軍艦開陽 丸が完成し、留学生を乗せて横浜に到着するのは、慶応三年(1867)三月二六日のことであ る。しかしこの時すでに幕府の命脈は尽きていた。第二次長州征伐は失敗、将軍も家茂が 死去し、一橋慶喜が新将軍となっていた。留学で得た知識を使うことなく、帰国から半年 後の一〇月一四日には大政奉還の上意が朝廷へ提出され、一二月九日には王政復古の宣言 がなされる。 これが、戊辰戦争が始まる慶応四年(1868)一月直前の状況である。 第一章 1 定義 共和国・共和制 蝦夷共和国について述べる前に、そもそも共和国・共和制とは何であろうか。一言でい うならば、君主を有しない国家あるいはその政治体制ということになる。概念としては、 君主国・君主制と対比して用いられるものであり、歴史的・伝統的な用語としては、国民 が主権を有する国家・政治体制を意味することになる。つまり、君主国・君主制に対する アンチテーゼということになる。 2 蝦夷共和国 蝦夷共和国というのは、明治元年一二月一五日(新暦:西暦一八六九年一月二七日)の 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 185 第四部 迷える近現代 蝦夷地領有宣言に伴い、士官以上の入札による総裁選挙によって誕生した政権を当時の英 国公使の書記官アダムスがその著書『日本史』において名付けたのが、最初である。箱館戦 争が、戊辰戦争の最後の舞台になるわけだが、戊辰は一八六八年であり、蝦夷共和国が成立 して、五稜郭明渡しによって戦争終結し、この政権が消滅するのは、翌年明治二年五月一八 日(一八六九年六月二七日)の己巳なので、戊辰戦争というよりは己巳戦争ないし己巳の役 と呼ぶべきであろう。地域性ということではなく、時期という点から、戊辰戦争である東 北・北越戦争と己巳の役の箱館戦争を分けて考えるべきである。その一方で、首脳部の人事 決定を公選*E10 で行ったという形式と過程に目を奪われているからに過ぎず、決して天皇 政府と対立したままの独自な国家・政権を恒久的に維持しようとするものではないので、 共和国とは呼べないとの批判もある。*E11 しかし、天皇制の新政府・新国家に対するアン チテーゼとしての政府・国家として考えるのならば、共和国と呼んで問題ないであろう。 3 箱館戦争 戊辰戦争は、ふつう大きく三期に分けられてみられる場合が多い。慶応四年一月三日の 鳥羽・伏見の戦いから四月の江戸無血開城までを第一期とし、江戸開城から九月の会津落 城までを第二期とし、以降箱館戦争終結までを第三期とする見方である。だがそれを、第 三期は第一・第二期の残り?とみてはいけないのであって、箱館戦争は緻密にいうならば、 独立した一つの意義をもっているのである。事実、地元の函館*E12 では、この戦いの明治 元年の部分を「戊辰の役」と呼び、翌2年の部分を「己巳の役」と呼んでいる。*E13 戊辰 戦争の第三期あるいは蝦夷地領有宣言以降の戦闘が箱館戦争である。 第二章 第二章 1 蝦夷共和国の成立 成立の過程 蝦夷共和国成立までの流れを追う事にする。榎本武揚は、翌明治元年一月海軍副総裁に 就任。一月元旦から阿波沖海戦(兵庫沖海戦)で勝利(薩摩側の記録では引き分け)する も、三日からの鳥羽伏見の戦いでは、六日大阪城へ陸軍救援のため上陸中*E14 の海軍副総 裁榎本、軍艦奉行並矢田掘景蔵、開陽丸艦長荒井郁之助らを残したまま、将軍慶喜が大阪 城を旗艦開陽丸で脱出し、幕府は敗退する。慶喜脱出後の大阪城の書類、武器弾薬、刀剣 などを整理、金蔵の古金一八万両を運び出すとともに敗残兵を収容している。この一八万 両は、 海外へ留学中の幕府留学生を呼び戻すのや、蝦夷共和国の資金として使われている。 江戸城無血開城後、全軍艦*E15 の引渡しを拒んで品川沖から館山沖へ脱走。勝の説得を 受け、品川沖へ戻り、旧式の四隻*E16 を引き渡している。徳川宗家の処遇が決定する*E17 と蝦夷地開拓の歎願書が提出された。徳川家が駿府に移るのを見届けると、八月一九日八 隻の幕府艦隊を率いて品川沖を脱走。この間、勝と蝦夷行きについて相談している。自ら 全艦を統帥し脱走の目的を天下に公表するため檄文を作り、 『徳川家臣大挙告文』*E18 を 添えた書を勝を通して新政府に送っている。奥羽越列藩同盟支援のために八月末には、仙 台領に到着、寒風沢・東名浜にて陸軍を収容。列藩同盟の壊滅を受けて、一〇月九日蝦夷 地行きの目的を『徳川脱藩海陸軍一同の提言』で奥羽鎮将四条隆謌に書面で通達するとと もに、蝦夷地へ向けて北上開始。一九日には、鷲の木に上陸、函館府知事に歎願書を提出 するも、一〇月二二日函館府からの夜襲を受けて応戦。 (箱館戦争開始)箱館府・五稜郭を 占拠の後、松前藩に使者を送るが斬られ、戦闘に。一一月一五日には館城を制圧。こうし 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 186 第四部 迷える近現代 て、蝦夷地は平定される。蝦夷地領有宣言が行われ、ここに蝦夷共和国が成立することに なる。 2 総裁選挙 蝦夷島が平定されると、蝦夷地領有宣言式が行われ、行政と部隊組織の再編成がなされ た。それは、脱走軍が旧幕府海軍、旧幕府陸軍、伝習隊や各藩の脱藩者、それぞれの隊が 雇い入れた傭兵などの混成部隊であり、部隊を率いる者達も多士済済である。 そのために、 入札(選挙)での組閣人事が決定したといえる。明治元年12月15日の士官以上の入札に よる首脳人事*E19 の結果は以下のとおり。 総裁 榎本釜次郎 副総裁 松平太郎 陸軍奉行 大鳥圭介 同奉行並 土方歳三 函館奉行 永井尚志 同奉行並 中島三郎助 会計奉行 同奉行並 榎本対馬 松前奉行 川村禄四郎 人見勝太郎 江差奉行 松岡四郎次郎 同奉行並 小杉雅之進 開拓奉行 沢太郎左衛門 海軍奉行 荒井郁之助 入札票数についての記録は異説*E20 もあり、また予備選と本選など具体的な入札方法9 *E21 も詳しくは、わかっていない。旧桑名藩主松平定敬、同備中松山藩主板倉勝静、同 小倉藩主小笠原長行らのような榎本より身分の高いものがこの政権の首長とならなかった のは、彼らが最高指導者としての能力を認められなかったであると同時に、いずれ徳川血 縁者の者が蝦夷地の領主として迎えられる予定*E22 であったからである。榎本が圧倒的多 数の支持をえて*E23 総裁に就任したのは、それだけ衆望があったからといえるが、それを 裏付けているのは、彼の実務家としての能力と決断力、箱館という開港場のもつ特殊性*E 24 が大きな要因である。極寒の冬の蝦夷地、そして成立したばかりの軍事政権の中で、開 拓奉行を設け、配下の役人を配した*E25 のは蝦夷地開拓の熱意のあらわれ*E26 である。室 蘭に二〇〇余名を移住さているが、これは屯田兵の役割を期待したものかもしれない。 第三章 1 蝦夷共和国の施政 蝦夷共和国の施政 <蝦夷共和国の施政> 蝦夷地領有宣言及び総裁選挙が行われる以前の、箱館、箱館港、五稜郭の占領時点で、 以下の触書が出されている。 まず、町会所を通して市中には 徳川海陸ノモノ衆議ノ上、永井玄蕃(尚志)ハ当所奉行所ニ選候間、此段相手心得、 市中村々へ相触可申事 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 187 第四部 辰十月 迷える近現代 徳川海陸軍士 我等儀、兼テ歎願致置候儀有之、当湊へ罷越候処、当所詰役人不残引払、右ニ付市 中 同様致趣ニ付、為鎮撫上陸、決テ手アラノ儀無之候間、他所へ立退候モノモ安堵 ニ商売 可致事 十月二十五日 回天鑑船将 名主中 ( 「南部藩島忠之丞探索書」『復古記』 ) また、運上所詰の役人に対しては 当所詰役ノ多分ハ脱走致渡海遁レ候得共、尚市在ニ居候者モ有之、右ハ取調ノ上帰役 モ可申付候間、当人ハ勿論所々ノモノ共運上所へ可訴出候、尤、諸家兵隊ノ向ニテ潜 候モノハ篤ト穿鑿イタシ、是又早々可訴候、若隠居顕ニオイテハ厳重可申付候事 右ノ趣市中、村々へ不洩様早々可相聞触候 辰十月二十七日 以上 運上所 (同前) 元若年寄で外交交渉にも経験を有し、大政奉還の上奏文を書いた永井が箱館奉行に就任、 (総選挙後もそのまま留任)施政に当たることになった。彼は小林重吉宅に止宿していた という。 (南部藩山本寛次郎「探索報告」『復古記』 )さらに、一一月一日には旗艦開陽丸が 箱館港に入港、祝砲二一発を轟かせ、翌日から対外的な税関業務が再開された。 <蝦夷共和国の財政事情> 明治元年一一月に蝦夷地を平定した時点で、新政府軍の反撃を必死と判断していた。その 為、防御のため、五稜郭本陣の補強・各台場・陣屋などの整備、さらに燃料・食料・弾薬を備蓄 するため、外国から多くの資材を買い付けるなど、その費用などで極めて苦しい財政事情に 合った。大阪城の金蔵からの一八万両はこの一年程で底を尽きかけていた。また、開拓事 業にしても、その事業が軌道に乗るまでには、数年の歳月を必要としていた。実際の蝦夷共 和国は、わずか七ヶ月でつかの間の夢として消滅し、開拓事業の完成は、屯田兵や北海道開 拓使として受け継がれていくのだが。それゆえに、財源捻出のために、以下の施策が実行さ れた。 市中に対して、数度にわたる用金の申し付け 各神社に対して毎月祭礼を行わせ、売店・見世物などの出店を奨励して、その売上の一 割五分を税とした 公設のばくち場を開設して利潤を図るとともに、後家宿・居酒屋・屋台場などの女性か ら一人につき一ヶ月一両二朱の運上金の徴収 大森浜から木柵を建て、一本気に関門を設けて、箱館へ出入りする者からは一回二四文 旅人からは一人一六〇文の通行銭の徴収 新しい通貨(金・銀の比率を少なくした)の鋳造 これらの施策による厳しい取立ては、当初、蝦夷共和国に好意的であった市民感情を害 することになった。この市民の中から、箱館戦争後半、蝦夷共和国の敗色が色濃くなる中、 新政府軍に協力・内通して、砲台の破壊・軍艦への焼き討ちを行う者たちが現れてくること になる。 <蝦夷共和国の外交> 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 188 第四部 迷える近現代 蝦夷地上陸時、各国領事が在留する箱館を避けて、鷲ノ木に到着するとすぐに、箱館在 留の各国領事に隠密裏に声明書(一〇月二〇日付)を届けている。小芝長之助らによって 届けられた(荒井左馬介「蝦夷錦」)声明書はフランス語で書かれ「徳川脱藩家臣」(Les Kerais exiles de Toukugawa)と署名された声明文は、まず、自分達が蝦夷地に来た 目的を述べ、次に外国人居住地に兵士をみだりに入れないこと、外国人の蝦夷地旅行を認 めることなど外国人に対する配慮が表明され、さらに、局外中立の継続と交戦団体として 待遇されることが要望され(「イギリス外務省文書“日本通信”」 ) 、対外戦略を重視した蝦 夷共和国の姿が如実に示されている。この声明書は、英語に翻訳されないままで、イギリ ス領事ユースデンから彼の状況報告書と共に、横浜のイギリス公使パークスの元に送られ た。一一月九日のイギリス公使ユースデン、フランス代弁領事デュースとの会談時には、 ユースデンから武器及び軍艦一切を新政府に渡さなければ蝦夷地開拓を許される見込みは 薄いと勧告されている。この勧告を受けて、両国公使を通して、新政府宛ての歎願書*E27 の取次ぎを依頼している。 また、箱館奉行杉浦兵庫頭の時、プロシアの商人R・ガルトネル(プロシア代弁領事C・ ガルトネルの兄)の働きかけでその端緒が開かれ、箱館府も大きな期待を寄せていた西洋 農法の導入について関心を示し、ガルトネフの働きかけもあって、七重薬園を中心に三〇 〇万坪の地を九九年間貸与える契約*E28(明治二年二月一九日締結)を結んでいる。榎本 等にとっては、蝦夷地の開拓が大きな目的であり、この契約は外国資本を使っての開拓の 試みの一つであったのかもしれない。 <蝦夷共和国の軍制> 総選挙の後、各隊の軍制*E29 を、フランス式に統一再編している。これは、旧幕府海陸 軍が共和国の中核であったこととブリュネ大尉をはじめとしたフランス人一〇名が参加し ていたことによる。陸軍は四つの連隊(レジマン)に編成され、各隊は二つの大隊、その 大隊は複数の小隊で構成されるという体制に整備された。連隊には小隊長が置かれた。一 方の海軍は、回天が旗艦となり、蟠竜・千代田形・高尾の四軍艦体制に再編された。 また、万国法の戦時捕虜の処遇照らし*E30、政府軍が蝦夷地への上陸を開始した時、捕 虜を送り帰している。*E31 2 蝦夷共和国の将来への展望 先に挙げたように、館山脱走の際の『徳川家臣団大挙告文』、宮古湾から蝦夷地に向かう 際の『徳川脱藩海陸軍一同の建言』、蝦夷地上陸後に箱館府知事清水谷公考にあてた『嘆願 書』、蝦夷地制圧後に新政府にあてた『嘆願書』の四つの文書*E32 は、時代の流れの勢い のせいか、徐々に新政府に対しての姿勢が後退しているものの榎本を総裁とする蝦夷共和 国の基本姿勢、将来の展望を示すものである。第一の文書は、新政府を激しく弾劾・非難す るとともに蝦夷地への移住を一方的に告げるものである。第二の文書は徳川家臣のため蝦 夷地を徳川家の領地とし、開拓と北方警備にあたるならば日本国のためになるという意見 の申立である。第三の文書は第二の文書とほぼ同時期である。「蝦夷地ノ儀ハ、徳川家ヨリ 兼ネテ朝廷ヘ願出之趣モ有之候付、暫ク同家ヘ御預被下置度、自然御許容無之候、不得止官 軍ヘ抗敵可仕」という嘆願とも強訴とも採れるものである。第四の文書でも、姿勢の後退 はあるものの幕臣の生活のために蝦夷地の開拓と北方警備を目的としていた。新政府が蝦 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 189 第四部 迷える近現代 夷共和国を認めるまでは、新政府軍を上陸させずに水際で叩き、諸外国に「事実上の政権 」=(Government de facto)と認めさせる、少なくとも局外中立を認めさせることにあ った。実際この時までは、当時最新鋭の旗艦開陽丸も健在であり、海軍力では、新政府を上回 っていた。プロシア・アメリカ・ロシアの三国は榎本軍に好意的な立場で、中立であり、 新政府側の英・仏両国も明治元年一二月九日の英・仏両国箱館知事との会見*E33 で、榎本 ら*E34 の国際法の知識の前に「事実上の権力」=(Authorities de facto)*E35 と呼ばざ る得なくなり、諸外国は、局外中立を約束していた。 第四章 1 蝦夷共和国の崩壊 箱館戦争 <榎本の誤算> 最大の誤算は、榎本が頼りとしていた最新鋭の旗艦開陽丸が江差沖で座礁、開陽丸を救 援した神速の二重遭難によって、新政府に対して唯一優位であった海軍力は半減。 さらに、 明治元年一二月二八日には、イギリス公使パークスの主導で局外中立が撤廃される。これ により、蝦夷共和国は日本国における叛乱勢力と対外的にも位置付けられ、諸外国との正 規の貿易が出来なくなった。また、新政府に対してアメリカ合衆国から最新鋭艦ストーン ウォール・ジャクソン号(甲鉄)が引き渡される*E36。こうして海軍力は完全に逆転する。 海軍力の低下を挽回する為に、アボルダージュ作戦(接舷=abordage、軍艦奪取作戦)が 決行される。これが、宮古湾海戦と呼ばれる日本における最初の近代的な海戦*E37 である が、ここでは深く触れないでおく。 <箱館戦争の展開> アボルダージュ作戦の失敗を受けて、蝦夷共和国軍は陸軍二七〇〇名余を蝦夷地各所に 配置した。江差に松岡四郎次郎ら二五〇名、松前に伊庭八郎ら四〇〇名、木古内に星恂太 郎ら額兵隊一〇〇名、矢不来に大鳥圭介ら伝習隊一〇〇名、鷲ノ木に一〇〇名、室蘭に沢 太郎左衛門ら二五〇名、千代ヶ丘台場に中島三郎助ら三〇〇名、弁天台場に永井尚志ら三 〇〇名、本営五稜郭に八〇〇名を配置している。新政府軍は、箱館府知事清水谷公考を知 事のまま軍務官の青森口総督に任じ、長州藩士の山田市之充を海陸軍参謀、薩摩藩士の黒 田清隆を陸軍参謀とし、四月六日江差の乙部に上陸して、攻撃を開始する江差・松前地方 を制圧し、五月一一日の戦闘で、箱館も制圧。翌日から降伏交渉が開始されることになる。 一三日には、箱館病院院長の高松凌雲*E38 に降伏勧告書を託し、五稜郭に赴くも榎本らは、 旧幕臣による蝦夷地の開拓が認められない限り降伏できないと返書した。この時、榎本は オランダ留学中のテキスト『万国海律全書』が「皇国無二ノ書ニ候へバ兵火ニ付シ烏有ト相 成」ことを惜しんで、新政府軍参謀黒田清隆に贈っている。翌日、黒田の意を受けた薩摩の 軍艦田島景蔵が榎本と会見するも、 降伏勧告交渉は不成功に終わった。弁天台場は降伏し、 一六日には、中島三郎助をはじめとして千代ヶ丘台場は、ほとんど全員が玉砕する。千代 ヶ丘台場の戦闘終了後、新政府軍参謀は、『万国海律全書』の贈答の答礼として酒五樽を五 稜郭へ送っている。榎本は、戦争の責任を一身に背負い切腹を図るが制止され、衆議の結 果、遂に降伏することになる。一七日朝には出頭、五稜郭を明渡すことになる。室蘭の開 拓方へも恭順説得に向かい、開拓奉行沢太郎左衛門以下も降伏する。こうして、蝦夷共和 国はわずか七ヶ月のつかの間の幻と消えた。 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 190 第四部 迷える近現代 第五章 箱館戦争の動員数と戦死者数 1 動員数 箱館戦争における蝦夷共和国と新政府の将兵の動員数は次の通りである。 <蝦夷共和国> 箱館・江差・福山をはじめとして蝦夷地を平定し、五稜郭において総裁選挙が行われた時 点での兵員数は、三千五百余名である。ただし、新政府に降伏後の賊徒人数調では、四千 七百四人となっている。この人数の違いは、後者が蝦夷地を平定するまでの戦死者及び、蝦 夷共和国に協力した非戦闘員(町人)、総裁選後の参加者を加味したためである。 <新政府> その一方で、新政府側の正確な動員数は不明である。まず、箱館府の人数(榎本らが蝦夷 地を平定する際、最初の戦闘を除いて、戦闘らしい戦闘をせずに負傷者を除いて津軽に撤 退している)が不明である。また、松前藩も明治二年の蝦夷地上陸時の人員ははっきりし ているのだが、榎本軍が蝦夷地を平定する戦闘の際の人数が不明である。明治二年以降に 限っても、軍艦の水夫などの関係上、薩摩藩の動員人数が不明である。人数がはっきりして いるだけで次の通りである。 松前藩 六〇〇人 津軽藩 八〇〇人 大野藩 三七〇人 水戸藩 七〇人 津 藩 一五〇人 岡山藩 八〇〇人 福山藩 六〇〇人 長州藩 一八〇〇人 久留米藩 八〇〇人 徳山藩 二〇〇人 熊本藩 八〇人 この合計が六二七〇人。薩摩藩を長州藩と同数、函館府を松前藩と同数として考えれば、 八七〇〇人ぐらいと考えればよいのではないだろうか。代表的通史ともいうべき『新北海 道史』 (第三巻・昭四三)によれば、 「箱館征討人員などは、出兵府藩一六、軍艦一〇隻、兵八 〇四一名」となっている。 2 戦死者数 次に戦死者数だが、これも正確な数字は不明である。 <蝦夷共和国> 降伏した者を先の動員数から差し引けば戦死者数がでそうなものだが、正確な数字がで ない。それは、戊辰戦争全般にいえることだが、反新政府側の戦死者とされるものが、行方 不明者を含めたものであるためである。会津・東北・北越戦争での戦死者とされた人物が、 箱館戦争に参加した例もあるし、五稜郭首脳部が降伏決定後に降伏するを潔しとせず、脱走 した者も多数いた。 (五稜郭明け渡し後も、ゲリラ的に抵抗したものがいたため残兵狩りが 行われた。 )なお、五稜郭明渡し時までに、新政府に降伏したものの人数は、二二二七名で ある。一応、賊徒人数調から計算すれば二四七七名となるが、上記の通り、この全てが戦 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 191 第四部 迷える近現代 死者ではない。 <新政府> 新政府側の戦死者に対する国の庇護は長機にわたって丹念なため、完璧な記録が残って いそうだが、各論各説様々である。通史というべき『復古外記』の「蝦夷戦記」では、28 6人であるが、親兵が未詳であるし、全て即死・即日死者のみである。他の史料*E39 でも、 同一人物を二人の氏名に誤記したりしている。戦死者の藩名・年齢・出身地・家族・戦死年月 日・戦死場所・戦歴などを詳記している『函館松山桧山招魂社明細帳・附戦死人墳墓明細帳 履歴書』(明治一五年一〇月函館県戸籍掛編)では、戦死者総数三〇七人となっている。 第六章 1 受け継がれたれ理想 戦後の始末 蝦夷共和国閣僚のうち、中島、土方歳三は、箱館戦争中に戦死している。五月二一日、 総裁榎本武揚以下、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介、函館奉行永井尚志、海軍奉行荒 井郁之助、蟠龍艦艦長松岡盤吉の六名は、船で青森へ護送された。青森からは陸路を駕籠 で東京へ向かった。また、茂呂蘭(後に室蘭に改字)にいた開拓奉行沢太郎左衛門は、別 の船で海路、品川へ護送されている。護送された榎本らが東京に着いたのは、六月三〇日 。辰の口の牢獄に入ることになる。品川に着いた沢太郎左衛門も榎本らと一緒に、辰の口 の牢に入ることになる。一番牢には、荒井、松岡。二番牢には、松平。三番牢には、大鳥。 四番牢には、永井。五番牢に榎本、沢であった。この丸の内の辰の口にあった牢は、兵部省 糾問所付属の仮監獄であった。中外新聞(七月二六日付、二五号)には榎本ら七名が永禁 固との記事が掲載されているが、この時点では刑が確定していない。ただし、江戸期以来 の流れで榎本らのような軍事裁判の被疑者以外の一般囚人も、この辰の口牢に留置されて いた。また、箱館病院院長の高松凌雲は、徳島藩へのお預けになった。 戦死者の慰霊祭は、箱館、福山、江差の三箇所において行われ、降伏人の使役、請負人 等の献金を始め、寺社並市在民の奉仕によって招魂場も設立された。ただし、これは新政 府軍戦死者のためのものであって、蝦夷共和国(旧幕軍)将兵の遺体は、みせしめのため に市中に捨て置かれた。柳川熊吉らが、衛生上の問題や、遺体を見るに忍びず近くの寺に 収容したが、新政府の禁令に背いたとして、糾問されている。 処罰の方面は開拓史に入ってから共和国側についた諸役人については、常時の行動を制 限して、それぞれ謹慎または適宜処罰の上、新しく役目を與えることで行った。また町人 に対しては、例えば共和国の請負をしたものは、新政府の請負から免ずるといった制裁で あった。 東京へ護送された幹部以外の一般の将兵(奉行や奉行並でも先の七名以外、会計奉行の 榎本対馬、川村禄四郎、松前奉行の人見勝太郎など)に対しては、明治三年三月二〇日附を 以って兵部省より静岡藩知事徳川家達に宛てて下のように達しが出ている。 元徳川慶喜家來兼テ於箱館謹慎申付置候處今般被差免候條箱館出張所可請取候事 同様同文が伊達宗基にも通達されている。 2 蝦夷共和国首脳部のその後 高松凌雲は箱館病院で敵味方の区別なく治療にあたっていたが、蝦夷共和国降伏後は徳 島藩にお預けとなり二年後の明治四年に許されて、上京して開業する。やがて、同志とはか 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 192 第四部 迷える近現代 り同愛社を設立。貧民救療事業に尽力して社会福祉事業の先鞭をつける。 榎本以下辰の口の牢に入牢していた六人は明治五年正月六日に赦免される。兵部省糾問 所の白洲の申し渡しは以下の通りであった。 榎本釜次郎 其方儀悔悟状罪付揚入付揚屋入被仰付置候処特命以親類御預被仰付候事 糾問正 黒川通軌奉行 松平太郎 荒井郁之助 永井尚志 大鳥圭介 沢太郎左衛門 其方儀悔悟状罪付揚屋入被仰付置候処特命以赦免被仰付候事 壬申正月六日 松岡の名前が無いのは、明治四年に獄中で死亡したためである。榎本ら蝦夷共和国首脳 の釈放が実現したのは、黒田清隆の除名嘆願運動の成果と反対派の大村益次郎らが死亡し た為である。榎本以下六名は即日出牢している。箱館戦争以後の不平士族の叛乱は、規模 において箱館戦争よりも小規模であるが、萩の乱を始めとしてその首謀者が死罪になって いる。そのため、榎本らの刑が死罪でないのは密約が有った為であるとの説*E40 もある。 榎本武揚については、後ほど述べることにしてそれ以外の蝦夷共和国首脳部のその後を 述べることにする。榎本以外の五名は出牢の後、開拓使東京出張所に出頭を命ぜられ、十二 日付で「奉任御用掛」を申し付けられる。北海道の開拓に当たらせようと、榎本を含め計画 人材の中にその名前が挙げられている。 しかし、永井尚志は、左院小議官となり、最後は元老院悟権大書記官となっている。ま た、沢太郎左衛門も開拓使ではなく、兵部省六等出仕に任命される。沢は、火薬製造の専門 家であったので、政府が輸入した火薬製造機械を操作するのに軍部が必要としたためであ る。後に、海軍兵学校教務副総理となる。 荒井郁之助は開拓使五等出仕に任命され、四月一五日には東京に開拓使仮学校を開く。 初代日本中央気象台所長になり、標準時の制定をする。日本初の気象台の設置は箱館であ り、これは館山沖の脱走から蝦夷地上陸までの台風による艦隊の離散、艦隊旗艦開陽丸の 江差沖での座礁、宮古湾海戦の悪天候による艦隊離散といった反省からである。また、当初 は榎本武揚が日本中央気象台所長の予定であったが、政府内の仕事が忙しく荒井になった 。退任後は浦賀ドッグの設立に尽力している。 松平太郎は開拓使五等出仕に任ぜられ、箱館付近の開拓事業を起こす。ケプロンの専門農 業開発の特殊工作を担当した。函館市長副官になるが、後に下野し、静岡に隠棲する。 大鳥圭介は開拓使五等出仕に任ぜられたが、外国語に精通していたため、外債発行のため に欧米に出張。明治六年帰国後三角測量班に配属。後に工部省に入り、幌内炭鉱開発を成功 させる。後に、榎本武揚の北海道開拓事業に前後一〇年間協力する。学習院院長、特命全権 清国公使となる。 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 193 第四部 迷える近現代 また、蝦夷共和国で会計奉行であった榎本対馬や、額兵隊の星恂太郎なども開拓使とし て、出仕している。戊辰戦争が起きた時、留学先より帰国し箱館戦争に参加し、英語翻訳方 であった林董三郎は後に外務大臣になり、林と同じく留学先より帰国し英語翻訳方であっ た山田六三郎は鹿児島県知事を経て、八幡製鉄所初代所長となる。また、開陽丸機関方下士 官であった上田寅吉は、横須賀造船所技師となる。工場長を勤めた後も、顧問役として造 船事業に係ることになる。開陽丸機関方の杉原文三は蒸気機関車の火夫になっている。 おわりに 1 榎本武揚の評価 すでに、明治期の経歴については既に触れているので、ここでは敢えて深く触れずにお く。榎本武揚をして、己の生涯を語らしめなかったものは、果たして何だったのであろう か。明治の政治家のほとんどが、その生涯を、親族、朋輩、配下、同郷の士の誰かの手に よって伝記化させている。こうした中にあって、武揚は頑ななまでに己の生涯を語らず、 また語らしめなかった。特に、序文でも触れた通り後半生は、その功績にくらべ、あまり にも語られていない。いや、後半生に限らず、長崎海軍伝習生までの青少年期さえもつま びらかではない。 こうしたことから伺うに、ただ単に、幕臣から新政府高官、といういわゆる出世をおも んぱかって伝えなかったというだけでなく、むしろ、榎本武揚という一個人の性格による ところが大きい。当然、この己を語らなかったというのは、長くマイナスの作用をもたら したといえる。これは、福沢諭吉の『痩せ我慢の説』によるところが大きい。 転向とは、権力によって強制されてその思想変えることであるから、その意味では、榎 本の、いや蝦夷共和国が蝦夷地の開拓と北辺の防備を目的としたものであるのならば、榎 本武揚は転向者ではない。そうである以上、今日においてこそ、榎本武揚はもっと評価さ れるべき、あるいは脚光を浴びて、再評価されることを望んでやまない次第である。 2 蝦夷共和国・箱館戦争の意義 それは古い時代から、新しい時代への人材淘汰のための戦争だったのかもしれない。あ るいは、古い時代から新しい時代への通過儀礼なのかもしれない。榎本をはじめとした蝦 夷共和国首脳部に対しての明治新政府の処罰が、その後の不平士族の叛乱の首謀者に対し ての処罰と比べて軽すぎるのは、事前に密約ができており負けるための戦争だったとの説 まである。しかし、箱館戦争が、それまでの戊辰の役(北越・会津・東北戦争) 、その後の 不平士族の叛乱と一線を画するとしたら、それは常に諸外国を意識した点であろう。蝦夷 共和国首脳部が留学経験などがあり外国通であったが、常に対外的戦略を考慮していたの は彼等の国際的見識のたかさ故だろうか。 蝦夷共和国は、一つの分岐点だったといえる。内国植民地からの脱却、あるいは中央に 対しての地方ということで、戦後の一時期、北海道独立論が提唱され、また木村毅著『文 明開化』のなかで“共和国”が強調された。 “蝦夷共和国”はアダムスの『日本史』をもと に敷えんされたものであるが、その意義は、維新動乱期におけるたてまえ、あるいは事実 というよりは、むしろ、太平洋戦争敗戦後の民主化過程のなかで意味をとらわれはじめた 、というべきであろう。 しかし、今日においても北海道や沖縄は、内国植民地的なままなのではないだろうか。 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 194 第四部 迷える近現代 また、地方分権が叫ばれるが、相変わらず、中央指導のままなのではないだろうか。権威 に対しての正面からの反抗といううことからも、改めて意味を考えなければなるまい。 最後に参考資料として、「檄文」明治元年八月一九日(一八六八年一〇月四日) 、「榎本武 揚等歎願書」明治元年一二月二日(一八六九年一月一四日)を載せておく。 <檄文> 王政日新ハ皇国ノ幸福、我輩モ亦希望スル所ナリ。然ルニ当今ノ政体、其名ハ公明正 大ト雖モ、其実ハ然ラス。王兵ノ東下スルヤ、我老寡君ヲ誣フルニ朝敵ノ汚名ヲ以テス。 其処置既ニ甚シキニ、既ニ其ノ城地ヲ没収シ、其ノ倉庫ヲ領収シ、祖先ノ墳墓ヲ捨テ丶祭 ラシメズ、旧臣ノ采邑ハ頓ノ官有ト為シ、遂ニ我藩主ヲシテ居宅ヲサヘ保ツ事態ハサラシ ム。亦甚シカラスヤ。此一ニ強藩ノ私意ニ出テ、真正ノ王政ニ非ス。我輩泣イテ之ヲ帝平 ニ訴エントスレハ、言語梗塞シテ事情通シス。故ニ此地ヲ去リ長ク皇国ノタメニ一和ノ基 業ヲ開カントス。其闔国士民ノ鋼常ヲ維持シ、数百年怠惰ノ弊風ヲ一洗シ、其意気ヲ鼓舞 シ、皇国ヲシテ四海万国ト比肩抗行セシメン事、唯此一挙ニ在リ。之我輩敢テ自ラ任スル 所ナリ。廟堂在位ノ君子モ、水辺林下ノ隠士モ、苟モ世道人心ニ志有ル者ハ、此言ヲ聞ケ。 (加茂儀一「榎本武揚小伝」 『資料榎本武揚伝』 ) <榎本武揚等歎願書> 徳川脱籍ノ臣、不雇恐懼、懊悩非歎ノ余リ、昧死奉奏聞候、抑、私共一同、此地ニ罷越 候趣旨ハ、当夏、主家徳川ノ御処置ニ付、家臣末々迄、凍餒無之様可被遊 拝承、皇帝陛下無量之 叡旨之趣奉 御仁慈、凡有生ノ類感戴不在者無之候得共、如何セン、徳川家 ニテハ二百余年養来リ候者共、三十万ニ余リ候間、賜封ノ七十万石ニテハ難養、去リト テ聊カ士道心得居候者ハ、商賈ト伍ヲ為ス罷ハズ、仮令窮餓抵死候共、三河已来ノ死風 ヲ汚ス間敷トノ決心ニテ険難ヲ経、険急ヲ冒シ、東西ニ遁逃致シ候者、又ハ江戸付近ノ 地ヘ潜居致シ居候者、枚挙スベカラザル程ノ儀ニ付、右ノ者共ヲ鎮撫仕、終古不開ノ蝦 夷地ニ移住為仕、蓁奔ヲ開拓シテ、永ク 皇国ノ為、無益ノ人ヲ以テ、有益ノ業ヲ為シ メントノ微旨ニテ、其旨旧亀之助ヨリ奉歎願候処、乍チ 允准ヲ蒙ル能ハザルノ 詔ヲ 奉ゼリ、然ルニ、右ハ素ヨリ野心等有之候て奉歎願候儀ニテハ無之耳ナラズ、前文幾千 万ノ人数捌方無之ニ付、右ノ者共ノ中ニ就キ、十ノ一二ヲ船隻ニ乗セ、妄動ヲ禁ジ、品 川沖ニ謹ミ置セ、夫ヨリ仙台表迄著仕候処、折節奥羽御平定相成候ニ付、春已来同藩脱 走ノ者共、今ハ天地間ニ身ヲ容ルルノ地ナキニ付、同船為仕、夫ヨリ私共行先ノ情実、 逐一四条殿へ奉建言候通、蝦夷地へ渉リ、冱寒風雪ヲ不厭、眼前一身ノ凍餒ヲ凌キ、後 来北門ノ警護ヲ勤メン為、同志ノ者トモ、去ル十月中、鷲木ヘ着船仕候条、天神地〓毫 モ偽無之、其段清水谷侍従ヘ申立、於当地御沙汰相待候心得ノ処、着早々、賊徒ノ悪名 ヲ蒙リ、不意ニ夜襲被致候ニテ、戦争ト相成候ニテ、私共、此迄奉対朝廷、恐多クモ寸 兵ヲ動候事無之候、然ルニ、右夜襲ヲ蒙リ候後、清水谷侍従初メ、函館詰役々ニ至ル迄、 不残引払ニ相成、市民ノ動揺不一方、殊ニ外国互市場ニモ有之候故、私共申合、取締相 立、松前モ随テ動揺仕候間、私共来意之趣、再三以使者申遺候処、却テ使者ヲ殺害致候 事数人ニ及ヒ、其上彼ヨリ発砲攻撃ニ逢、遂ニ松前志摩脱走仕候間、是又土地支配仕、 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 195 第四部 迷える近現代 当節ハ函館、松前トモ一円平定、農商安業、人心帰依仕候ニ付、己ニ山野開拓ノ仕方取 調、北門警護差配罷在候間、何卒旧主家ヘ永久下賜候義、御無沙汰相成候様、幾重ニモ 奉仰叡裁候、右ニ付猶奉申上候、私共所請三千一心、矢テ靡他候得共、首長無之候テハ、 手足ノ頭目ナキカ如ク、開拓警護トモ十分難行届候間、徳川血統ノ者一人御選任、諸務 致差配候様仕度、左候へバ、一層感激奮発仕、不毛ノ僻地、富饒ノ郷トナリ、北門ノ警 護、金湯ノ固ヲナシ、内地ノ利益可興、外寇ノ防禦可厳実ニ目今一大事急務ト奉存候、 当春已来、不幸ニシテ 皇国内、戦争相続、万民ノ塗炭不忍見聞而已ナラズ、勝敗の際、 一喜一憂有之候トモ、所謂兄弟鬩墻、畢竟 皇国内ノ衰弊、他人ノ笑ヲ不免段ハ、一同 心得罷在候間、元ヨリ戦争は不相好候ヘドモ、著岸以来度々奮戦仕候儀、事実已ヲ得ザ ルノ事情、奉冀 天鑑候、此程、英、仏両国軍艦、箱館へ入港、船将へ会話仕候処、御 国地ノ戦争ヲ相歎キ、調停ノ方便モ可有之哉ニ申聞候間、微臣等抑塞窮?ノ誠情、可達 天聴ノ時至リ候哉ト、不堪歓喜ノ至、船将ヘ相託シ、両国公使ヘモ申入、前条奏聞仕候、 是即チ、一ニハ 皇国ノ為メ、二ニハ徳川ノ為メ、所同尽ノ丹心石腸、天日ヲモ可貫候 間、覆載皇慈、偏ニ 御垂憐、願意御聞届被成下候様、誠恐誠惶泣血歎願仕候、昧死百 拝 (前同) 参考・参照文献 『榎本武揚子』一戸隆次郎著 嵩山房蔵版 (1909) 『榎本武揚』加茂儀一著 中央公論社 (1960) 『榎本武揚伝』井黒弥太郎著 みやま書房 (1970) 『資料榎本武揚伝』 加茂儀一著 新人物往来社 (1974) 『榎本武揚』赤木俊介著 成美堂出版 (1980) 『榎本武揚』阿部公房著 中央公論社 (1973) 『榎本武揚』山本厚子著 信山社 (1997) 『榎本武揚』満坂太郎著 PHP 文庫 (1997) 『榎本武揚』旺文社編 旺文社 (1983) 『明治功臣録』 (前・後)朝比奈和泉著 文武書院 (1926) 『メキシコ榎本殖民』上野久著 中央公論社 (1994) 『明治維新の敗者と勝者』田中彰著 日本放送協会 (1980) 『明治維新と領土問題』安岡昭男著 教育社 (1980) 『明治維新の裏舞台』石井孝著 岩波書店 (1960) 『函館の幕末・維新』松浦玲著 中央公論社 (1988) 『埋もれていた函館戦争』脇哲著 みやま書房 (1981) 『五稜郭物語』北海道新聞社 (1971) 『函館五稜郭』星亮一著 成美堂出版 (1992) 『箱館海戦史話』竹内運平著 みやま書房 (1943) 『北海道史概略』奥山亮著 みやま書房 (1953) 『アイヌ衰亡史』奥山亮著 みやま書房 (1976) 『幕政史料と蝦夷地』海保嶺夫編 みやま書房 (1980) 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 196 第四部 迷える近現代 『箱館戦争』旺文社 (1983) 『箱館戦争』武田八洲満著 (1988) 毎日新聞社 五稜郭タワー社 (1983) 『改定決定版箱館戦争』武内収太著 『箱館戦争史料集』須藤降仙編 『戊辰戦争』佐々木克著 (1996) 新人物往来社 (1977) 中公新書 『目で見る函館のうつりかわり』函館市 (1972) 『徳川艦隊北走記』石井勉著 (1977) 学芸書林 第九集』角川書店 (1973) 『日本史探訪 『藩史研究会編 『藩史大辞典 (1976) 藩史辞典』秋田書店 第一巻 北海道・東北編』雄山閣 『函館市史 史料集第二巻』函館市 (1977) 『函館市史 通説編第二巻』函館市 (1990) 『松前町史 史料編』松前町 (1974) 『根室市史 上』根室市 (1986) 『新室蘭市史 第一巻』室蘭市 (1981) 『新室蘭市史 第五巻』室蘭市 (1989) 『維新史』第五巻 (1988) 文部省 (1941) 東京大學出版会 (1975) 『復古記』 (復刻版) 『勝海舟全集』勁草書房 (1973) 『黒田清隆』井黒弥太郎著 吉川弘文館 (1977) 雑誌「季刊北海道史研究」1∼8、10∼14 みやま書房 *E1 (1968∼ 73) 例えば、彼の『シベリア日記』(榎本武揚)は死後一六年後の大正一二年の関東大震 災時に家族が発見して世に発表した。榎本のシベリア横断は明治一一年なので四五年後と いうことになる。これは、福島安正より一四年前であり、福島の横断自体、榎本の影響を 受けてのものである。後に、『シベリア日記』は、昭和一四年『シベリア日記活字本』 (南 満州鉄道株式会社総裁室広報課)として公刊されている。幕臣のオランダ留学時代の『渡 蘭日記』 、隕石を研究した『流星刀記事』も同様である。 *E2 明治五年 北海道開拓使奏仕出仕。 海軍中将。駐露全権大使。 一二年 条約改正取調御用掛。外務大輔、議定官兼任。 一三年 海軍卿兼任。 一五年 皇居造営事務副総裁。駐清特命全権大使。 一八年 第一次伊藤内閣の逓信大臣。 二〇年 子爵に列す。 二一年 臨時に農商務大臣兼任。 二二年 黒田内閣の文部大臣。 二三年 枢密顧問官。 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 197 第四部 二四年 第一次松方内閣の外務大臣。 二五年 日本殖民協会会長。 二七年 *E3 農商務大臣。第四回内国勧業博覧会副総裁就任。 原作『榎本武揚』安部公房著 『戯曲 迷える近現代 友達 中央公論社 (1965) 榎本武揚』河出書房 (1967) *E4 対馬藩の朝鮮交易、薩摩藩の琉球交易 *E5 元和九年(1623)の将軍秀忠、寛永一一年(1634)の家光上洛時に「一万石の人積り」 「福山秘府」)をもって上洛奉供。享保四年(1719)正式に一万石格に列せらる。 *E6 文政六年(1823)から蝦夷地全域藩主直轄、藩士蔵米知行制。 *E7 享和二年(1802)武蔵野国埼玉郡五〇〇〇石の取上げ、年々三五〇〇両の下付。文化四 年(1807)松前蝦夷地全域を幕府領、同年七月陸奥国伊達郡梁川九〇〇〇石(他に上野国甘 楽郡・群馬郡、常陸国信太郡・鹿島郡・河内郡の内九六〇〇石余、実込高一八六二六石余 、居所梁川)に移封。文政四年(1821)一二月旧領復帰を許され、翌五年松前へ。 *1 沢鑑之丞『海軍七十年史談』による修業科目と人名は次の通り。 船具・運用・砲術 (取締) 内田恒次郎 同及び機関学 榎本釜次郎(後の武揚) 同及び銃砲・火薬製造法 沢太郎左衛門 同及び造船学 赤松大三郎 同及び測量学 田口俊平 法律(国際法・財政学・統計学)津田真一郎(後の真道) 同 西 周助(後の周) 医学 伊東玄白 同 林研海 軍艦建造実地諸術研究 古川庄八 山下岩吉 中島兼吉 大野弥三郎 上田寅吉 久保田伊三郎 大川喜太郎 *E8 オランダ商船カリプス号に乗船するも、久保田が病気で下船。ジャワ海で難破、船員 に逃げられたり、無人島に置き去りにされたりしながらパタビア(現ジャカルタ)にたど り着き、オランダ客船テルナーテ号に便を変更。喜望峰、セントヘレナ島などを経由して、 オランダ着。 *E9 明治新政府は、明治元年閏四月の政体書で官吏公選制を発表しているが、実施は二 年五月一回きりで、蝦夷共和国の総裁総選挙のほうが、先に実施されている。 *E10 佐々木克『戊辰戦争』中公新書 満坂太郎『榎本武揚』PHP 文庫 201∼204 頁 135∼137 頁ほか *E11 明治二年九月、箱を函と改字 *E12 朝廷においても、論功行賞は、箱館戦争以前のものには「戊辰戦功賞典」とし、箱 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 198 第四部 迷える近現代 館戦争のそれは「己巳箱館戦功賞典」として、両者別々に下賜している。 *E13 天保山沖に開陽・富士山・蟠竜・翔鶴が停泊 *E14 開陽・富士山・蟠竜・感臨・観光・回天・朝陽・翔鶴 *E15 観光・朝陽・富士山・翔鶴 *E16 1、田安亀之助(当時六歳)を徳川宗家の後継者とし、美作津山藩主松平斉民(一 一代将軍家斉の第十六子)を後見人 2、徳川亀之助を駿府城主とすること 3、石高は七十万石とし、所領地は駿河国(約四〇万石)、遠江国の一部(約一八万石 )陸奥国(九月四日に三河国に変更)の一部(約一二万石)とすること( 「鎮将府日誌」『 復古記』 ) なお、同時に旧幕臣の官位は差し止められること(「江城日記」『復古記』) 旗本など万石以下の領地については最寄の府県支配とする(「毛利元徳家記」『復古記』 ) *E17 徳川家臣団大挙告文 「檄文」 明治元年八月一九日(1868 年 10 月 4 日) 加茂儀一「榎本武揚小伝」 『資料榎本武揚伝』 *E18 元新撰組隊士島田魁の遺品『蝦夷共和国閣僚・諸隊名簿』(実際の原文は無題)には 以下の通り。 総裁 榎本釜太郎 副総裁 松平 太郎 陸軍奉行 大鳥 圭介 同 土方 歳三 箱館奉行 永井 尚志 海軍奉行 荒井郁之介 松前奉行 人見勝太郎 会計奉行 榎本対馬 奉行添役 頭並格 渋沢誠一郎 信郎 沢 弥三郎 忠内次郎三 佐久間悌次 岡田斧之吉 牧野 主斗 宮地仙之介 大島 虎雄 大野 右仲 相馬 主殿 沢田 主斗 同 今井 頭並 堀 覚之介 裁判局 伝習士官隊 頭取 菰田 元次 町田 肇 瀧川充太郎 改役 宮氏岩太郎 頭取 鈴木蕃之介 一周間 改役 鈴木始三郎 頭取 内田量太郎 開拓奉行 沢太郎左衛門 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 199 第四部 江差奉行 松岡四郎次郎 会計奉行 川村禄三郎 歩兵頭 本多幸四郎 同 畠山五郎七郎 並介 遊撃隊 頭 伊庭 迷える近現代 八郎 頭取 柴田真一郎 伝習歩兵隊 大岡孝次郎 頭並 大川正治郎 改役 頭取 岩藤音次郎 山口 鈴木金二郎 大岡利三郎 手代塚靱負 横尾 片山源五右衛門 見国隊 浅田麟之介 ?郎 中根量蔵 頭取 二関 間 源三 工兵方 活兵 喜太夫 頭 吉沢勇四郎 同 小管辰之介 改役 松村 筒井於老吉 高塚成之蒸 小宮山金蔵 石川勝之介 関 同 五郎 頭取 敬吉 小彰義隊 改役 小林清五郎 同 頭取 大館昇一郎 彰義隊 改役 菅沼三五郎 一周間 池田 大隈 改役 大塚寉之介 丸茂牛之介 頭取 寺沢新之介 木ノ下福次郎 荒井鐐太郎 秋元虎之介 神楽隊 同 取締格 取締 石井八弥 布目又兵衛 神楽隊 頭取格取締 陸軍隊 頭並 春日左衛門 同 井上紋治 酒井良祐 和田伝兵衛 頭取 今井 八郎 千葉 常吉 柴 糺 石井 豊吉 守三 柏崎 才一 会遊撃隊 諏訪 会斗方 組頭 佐藤政之介 横地秀治郎 内田 庄司 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 200 第四部 高橋 弥吉 勤務方 箱館方 迷える近現代 伊藤鉞五郎 組頭 矢口 鎌斎 大若祐之介 衝鋒隊 頭 同 頭並 万蔵 松浦 〓介 佐藤直司 古屋作左衛門 永井蠖伸斎 同 飯嶋 天野新太郎 改役 浅井 陽 梶原雄之介 友野栄之介 塩崎松太郎 河合 幸郎 秋山 茂松 友部縫二郎 牛田勝鹿蔵 元井善二郎 高木東吉郎 小和野昌太郎 酒井兼三郎 同 頭取 砲兵隊 頭 関広右衛門 同 頭取 細谷安太郎 同 頭並 海軍方 回天艦 岡田 二郎 中島三郎助 甲賀 源吾 新宮 勇 古川 克巳 根沢 勢吉 同 山内 次郎 高島 軒平 軍艦役 矢作 沖丸 高橋 栄治 浅羽幸次郎 渡辺 金蔵 同 同並 浅島 大蔵 同 蒸気役一等 近藤 主馬 松岡 磐吉 繙龍艦 同 軍艦 松平時之介 同 蒸気役 芦田 千代田 同 市川直太郎 退三 神速 西川 直三 二番回天 小笠原賢三 二番回天 軍艦役 古川 長鯨 同並 喰代和三郎 器械掛 頭 宮重一之介 同 頭取 友成郷右衛門 森本 箱館病院 貝塚満次郎 良三 奥田長蔵 弘策 頭取 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 201 第四部 高松 凌雲 小野権之蒸 一聯隊 頭並格 三木 同 改役 横田量次郎 同 頭取 軍治 為貝金八郎 松山敬次郎 松山周之介 高木鐘治郎 榎本勇之介 奥山八十八郎 額兵隊 頭 同 改役 星恂太郎 菅原 同 迷える近現代 隼太 荒井左馬之介 頭取 三橋喜代太郎 堀口 秋治 彰田 武藤 勝作 泰三 木村 文蔵 社陵隊 改役 伊藤 善司 同 頭取 池田 伝 開拓方 同 上田 七郎 開拓方 頭取 朝比奈健二郎 同 組頭 雑賀孫六郎 探索方 樋口恵太郎 木村宗三 頭取 小柴長之介 新撰組 加藤昇太郎 頭 島田 函館奉行 改役 同 頭取 大野 森 右仲 角谷 魁 常吉 糺 仏人 教師取締役 フリーネ 砲兵教師 ホルタン 騎兵教師 カツヌーブ 海軍教師 ニコ−ル 同 コルラーシ 銃隊教師 マルラン 同 ブヘーエ 同 パラージィ 同 ドリイブ 海軍教師外壱人 〆十人 *E19 内藤清孝『蝦夷事情乗風日誌』、『新開(聞)調記』 、須藤隆仙編『箱館戦争史料集』、 竹内遥平『箱館海戦史話』など資料により異なる。 *E20 『新開調記』によれば、予備選として一三名を選び、役職ごとに投票したようであ る。 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 202 第四部 *E21 迷える近現代 『復古記』によれば、新政府に対しての歎願書において(箱館府知事清水谷公考に あてたものとは異なる)、 「(前略) 眼前一身ノ凍餒ヲ凌キ、後来北門ノ警護ヲ勤メン為、同 志ノ者トモ、去ル十月中、鷲木ヘ着船仕候条、天神地〓毫モ偽無之、其段清水谷侍従ヘ申 立、於当地御沙汰相待候心得ノ処、着早々、賊徒ノ悪名ヲ蒙リ、不意ニ夜襲被致候ニテ、 戦争ト相成候ニテ、私共、此迄奉対朝廷、恐多クモ寸兵ヲ動候事無之候、然ルニ、右夜襲 ヲ蒙リ候後、清水谷侍従初メ、函館詰役々ニ至ル迄、不残引払ニ相成、市民ノ動揺不一方 、殊ニ外国互い市場ニモ有之候故、私共申合、取締相立、松前モ随テ動揺仕候間、私共来 意之趣、再三以使者申遺候処、却テ使者ヲ殺害致候事数人ニ及ヒ、其上彼ヨリ発砲攻撃ニ 逢、遂ニ松前志摩脱走仕候間、是又土地支配仕、当節ハ函館、松前トモ一円平定、農商安 業、人心帰依仕候ニ付、己ニ山野開拓ノ仕方取調、北門警護差配罷在候間、何卒旧主家ヘ 永久下賜候義、御無沙汰相成候様、幾重ニモ奉仰叡裁候、右ニ付猶奉申上候、私共所請三 千一心、矢テ靡他候得共、首長無之候テハ、手足ノ頭目ナキカ如ク、開拓警護トモ十分難 行届候間、徳川血統ノ者一人御選任、諸務致差配候様仕度、(以下略)」以下のように述べ ている。このことが、蝦夷共和国が新政府に対して対立するものではないとの根拠にもな っている。 *E22 内藤清孝『蝦夷事情乗風日誌』によれば、総裁の入札票数は、榎本釜次郎一一五、 松平太郎一四、永井尚志四、大鳥圭介一である。 *E23 在日諸外国領事との折衝・接渉において榎本の豊富な国際知識と語学力を必要とし ていた。 *E24 『復古記』第一四冊: 開拓奉行の役人が二五名で、これは会計局の一五名、裁判 局の一一名ではるかに多人数である。 *E25 大鳥圭介『幕末実戦史』で「茂呂蘭(室蘭)ニ行キテ砲台築造、山野開拓ノ基本ヲ建 ツ事ニ心力尽クセリ」述べている。 *E26 「榎本武揚等歎願書」明治元年一二月二日(一八六九年一月一四日) 加茂儀一「榎本武揚小伝」 『資料榎本武揚伝』 *E27 箱館戦争終結後、この問題を引き継いだ箱館府(責任者は外務省派遣職員南貞助) が、期限明示のない「地所開拓ノ偽蝦夷政府、アル・ガルトネルス氏との約定」を締結(六 月一六日締結)するというまずい対応もあって問題をこじらせたが、明治三年一二月一〇 日、箱館府の業務を引き継いだ開拓使が多額の賠償金(六万二五〇〇ドル)をもって貸与 地を回収している。 *E28 「各隊ノ兵制或ハ蘭式ヲ用イ、或ハ英或ハ仏等区々タリ」(「感旧私史」 ) *E29 箱館病院の高松凌雲らが敵味方の区別無く治療に当たったのも、このためである。 *E30 箱館港で拿捕され捕虜になった薩摩藩士田島圭蔵は、送り返された後官軍参謀黒田 清隆の副官として五稜郭攻めに加わることになる。 *E31 徳川家の意思として、朝廷に対して蝦夷地の下賜を願い出たのは、徳川亀之助、松 平斉民の連著による歎願書( 「徳川家達家記」 『復古記』)が最初である。 *E32 この会見は英艦サテライト、仏艦ウェニュスの両艦長が榎本軍の礼砲を無視したこ とに抗議してのものであった。 *E33 榎本自身の他に艦隊司令の荒井、元外国奉行の永井、ペリー提督と渡り合った中島、 榎本と同時期に渡蘭していた沢といった外国通で語学達者な蝦夷共和国の首脳陣であった。 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 203 第四部 迷える近現代 仏国側は、仏艦ウェニュス艦長ロワ、仏領事ウトレー、仏代弁領事デュース英国側は、英 艦サテライト艦長ホワイト、英領事ユースデン、英国公使パークスとともに、書記官アダム スも出席している。 *E34 両国艦長が礼砲を無視したのは、両国公使から『榎本脱走軍を交戦団体とは認めぬ』 との訓令を受けていたが、訓令の内容を正式な文書としてから会談を進めたいとの榎本側 の意向で、英文と仏文の訓令趣旨文書で『わが国は、非干渉の原則を遵守するため、脱藩家 来を時事地上の権力を認める』と書いている。 *E35 徳川幕府が代金四〇万両の内前金三〇万両を支払ってアメリカから購入した軍艦で あったが、明治元年四月横浜に来ていたが、局外中立ということで幕府・新政府どちらに も引き渡されずにいた。 *E36 季節はずれの台風により、蝦夷共和国側の艦隊が離散。戦闘時間約三〇分、蝦夷共 和国死傷者五〇人余、新政府軍三〇人余という大激戦。東郷平八郎も新政府の海軍三等下 士官として従軍している。 *E37 「東走始末」『高松凌雲翁経談』 *E38 『埋もれていた箱館戦争』脇哲著 282∼329 頁 *E39 有川密約(現上磯町の有川に官軍参謀が集まり、戦後処理を相談したもの) 壮大なる幻影−榎本武揚と蝦夷共和国−(時田) 204 第四部 迷える近現代 明治憲法の制定過程 小野 靖代 はじめに 最近、憲法改正論というものが盛んである。そのなかに、あれは GHQ による押し付け 憲法だから改正すべきだということを言う人がいる。私は決して日本人の意思が反映され ていないとは思わないし、仮にそうだとしても内容さえよければそれでいいと思っている。 そして、それでは完全に日本人の意思で作られた明治憲法はどのようにしてできたのかを 考えたとき、多くを知らない事に気づき卒論のテーマに選んだ。 第一章 1 幕末期 西洋の知識の輸入 江戸時代、幕府の鎖国政策により日本国民の西洋に関する知識はほとんど遮断されていた。 その中にあって、 オランダだけが交易を許された結果、長い年月を経てオランダ語を解し、 実用的な科学技術に関する知識を導入するものが現れてきた。いわゆる「蘭学」である。 1700 年代の後半からロシア、アメリカ、イギリスの艦船がしきりに来航し始め、これら西 洋諸国の知識の吸収が不可欠になると蘭学者による海外の地理と文化に関する著述がにわ かにあらわれはじめる。それらの内容は日本国民にとっては驚嘆に価するものであったが 当時の世界情勢においてすでに大きく後退を強いられていたオランダの著書による蘭学者 の机上の見聞にすぎなかった。 その後、これに代わってあらわれたのが国際競争において優勢となっていた英・米人の、 漢文による海外事情の紹介であった。長期にわたって中国に在住した英・米人が漢語を修 得し、欧米事情を紹介したもので、原著の出版後ただちに日本でも翻訳出版された。これ らは安政(1854∼1859 年)を境に相次いでおり、1840∼1842 年の中国におけるアヘン戦 争や 1854(安政元)年の日米和親条約がいかに欧米に関する多くの知識を切実に要求した かをあらわしている。 2 憲法知識の輸入 このように西洋事情に関する知識が輸入され始めたが、憲法に関する知識が始めて伝えら れたのはアメリカ人裨治文(ブリッジマン)著の漢書『聯邦志略』上下巻が箕作阮甫の訓 点により出版されてからであった。この中では、アメリカがイギリスに対する独立戦争と 民主革命の結果として憲法を制定し、それによって国政が民主化されるにいたった経緯と 憲法そのものの具体的な内容が記述されている。もっとも、当時すでに追加もしくは修正 されていた部分に触れていないなど、アメリカ合衆国憲法をありのままに伝えたものでは なかったが、これが幕末の日本にもたらされた初めての、世界最初の憲法=アメリカ合衆 国憲法であり、その知識だったのである。 日本人の手で憲法が紹介されたのは福沢諭吉の『西洋事情』が最初だろう。福沢は九州豊 前、中津藩の下級武士の次男に生まれ、漢学から蘭学を経て独学で英語を学び、1860 年の 幕府遣米使節団に、また 1861 年には遣欧使節団に随行して、アメリカ・フランス・プロシ ア・ロシア・ポルトガル等を歴訪し、広く欧米の新文明に接した。帰国後その見聞と現地で 明治憲法の制定過程(小野) 205 第四部 迷える近現代 買い求めた政治・経済等の原書により得た知識で 1866(慶応 2)年 7 月『西洋事情』初編 3 巻を出版。江戸における発売部数は 15 万、大阪方面であらわれた海賊版 10 万を足すと 25 万部になり、当時の支配階級である武家の数がおよそ 30 万 8 千とされているのに対し て驚くべき数である。内容は、第 1 巻で欧米先進諸国の政治のあり方をはじめとする諸般 の社会事実に関する説明。第 2 巻でアメリカ憲法とオランダの国情について。特にアメリ カ合衆国憲法の前文及び条章を訳したものは、憲法が日本人の手で紹介された初めてのも のであり、 『聯邦志略』よりも詳しく、より原典に近いものとなっている。ただ、部分的に 要訳のところがあり、誤訳もあった。 第 3 巻ではイギリスの政治が詳しく紹介されている。 3 憲法学の輸入 憲法学ないし法律学の最初の輸入であり、欧米における憲法の概念と本質を体系的に説明 した最初の著述は津田真道の『泰西国法論』だろう。津田は津山松平藩士で、1850 年に江 戸に出て箕作阮甫・伊藤玄朴から蘭学を学び幕府の蕃書調所にいたが、1862 年初のオラン ダ留学生となり西周ら数名とともに 2 年 2 ヶ月の間国法学その他を学んだ。1865 年末に 帰国すると、幕命により持ち帰った国法学の講義筆記の翻訳にあたり、1866 年 9 月将軍 に上呈したものをその後 1868(慶応4)年出版したのが『泰西国法論』である。 4 幕府の憲法草案 そしてこの頃すでに日本人の手による憲法草案が試作されていた。この最初の憲法草案の 起草者は前述の西周と津田真道の2人であった。西の草案は「議題草案」と題し慶応 3 年 11 月付けの前文があり、大政奉還後の危機に際して徳川慶喜に上呈されたものである。三 権分立制をとり、政府の中心は徳川家で公方様政府と呼び、大君(将軍)が全国の行政権 を握ることにしている。天皇は象徴的地位に置かれている。司法権は便宜上各藩に委任、 立法府の議政院は上下2院制で、上院は万石以上の大名を議員とし、大君が議長で下院の 解散権を持つとする。下院は各藩の藩士 1 名からなり、かつ藩の代表者となる。このよう に大君は政治的元首地位にあり、その権限の大きいことから大政奉還後における幕府の政 権掌握のプランとして立案されたものであるといわれている。オランダ留学から帰国した 西が慶喜の政務顧問に登用されていた関係からこのような憲法案が作られたと思われる。 津田の草案は「日本国総制度」と題し慶応 3 年 9 月付の前文が付いており、こちらは試作 の段階を出ていないようである。特色は一種の連邦制をとっている点にある。これは幕藩 封建体制が西洋の連邦制に類似していたので、西洋の場合に準じて憲法を立案したためで ある。総政府を江戸に置き、その主権者を大統領とした。この大統領には勿論大君がなる。 西の草案に比べると徳川を中心という点では変わらないものの、連邦制をとっている点、 また下院は「日本全国民の総代にして国民 10 万につき1人づつ推挙すべき事」と民選議 院としている点でやや急進的であった。 第二章 明治維新 1 大政奉還 1867 年(慶応3)年 10 月 14 日、徳川慶喜は朝廷にいったん政権を返上して討幕派の攻 勢をそらした後、朝廷のもとに徳川主導の合議による連合政権を作る目的で大政奉還の上 明治憲法の制定過程(小野) 206 第四部 迷える近現代 表文を奉った。これは同年 10 月 3 日、土佐藩主山内豊信により慶喜に出された建白書及 び意見書に大きく動かされたものであり、もともとは同年6月、坂本竜馬と後藤象二郎が 土佐より上京する船中で協議し起草した「船中八策」とよばれるものである。この中には、 「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」と いう後の民撰議員構想につながる展望があり、他にも新しい憲法と国際条約、外国諸国と の並立が主張されている。 2 王政復古の大号令 ところが幕府のこのような思惑に反し、討幕派は同年 12 月 9 日、大政復古の大号令を発 して天皇を中心とする新政府の樹立を宣言。同日夜の小御所会議で徳川慶喜の内大臣辞退 と領地一部返上を求めあくまで徳川排除の姿勢をとったのである。その結果旧幕府軍と友 新政府派の東北諸藩が新政府軍と戦う、一連の戊辰戦争へと突入する。戦いは 1868(慶応 4)年1月の鳥羽・伏見の戦いから翌 1869(明治2)年5月の五稜郭の戦いで終了するが、 その間にも新政府は着々と体制を整えていくのであった。 王政復古の大号令により天皇のもとに仮に総裁・議定・参与の三職が新たに置かれ、古来の・ 関白・幕府等が廃絶された。注目すべきなのは、この時点では新政府が「五藩の連合政府」 であるという点である。総裁は皇族と公卿から出されたが議定の大名と参与の武士は5藩 の中から出されており、また新政府成立早々12 月 18 日の三職会議において議題となった 「王政復古を外国公使に告くる文案」に「朕は大日本天皇にして同盟列藩の主たり」「大日 本の総政治は内外の事共に皆同盟列藩の会議を経て後有司の奏する所を以て朕之を決すへ し」とあるのがその証拠といえる。 3 政体 更に 1868(慶応4)年 3 月 14 日、施政の基本方針を神に誓約するという形で五箇条の御 誓文を公布すると共に同年 4 月 21 日「政体」を公布して施政の具体方針を明示した。政 体は参与の福岡孝悌と副島種臣により起草され、内容は国家権力の最高機関としての太政 官への権力集中、アメリカ合衆国憲法を模倣した三権分立制、高級官吏の公選(互選)制 である。 しかし 「政体」 のなかで謳われた公議与論ということも列藩会議を興す程度のものであり、 決して国民主権や代議制を志向しているものではなかったが当時の現実と比べ進みすぎて いたため、まもなく空文化することになる。それは為政者の意識が旧時代から脱しきれて いないためでもあり、彼らが憲法への本格的な認識に到達するにはまだもう少し年月を必 要としたのである。 4 constitution=憲法 ここで少し話がそれるが、今日ではアメリカ合衆国の constitution にあたる語は「憲法」で 統一されているが、当時は決まった訳語など当然ない為それぞれ違う語が使われていた。 「政体」(アメリカ人ブリッジマン・裨治文著『聯邦志略』1861 年) 、「定律」「律例」ある いは「国律」(福沢諭吉著『西洋事情』1866 年) 、「国憲」(加藤弘之著『立憲政体略』1868 年) 、「根本律法」「国綱」 「国制」 「制度」あるいは「朝憲」(津田真道著『泰西国法論』1868 明治憲法の制定過程(小野) 207 第四部 迷える近現代 年) 、「政規」あるいは「典則」(木戸孝允意見書、1871 年) 、「根源律法」(大久保利通意見書、 1871 年) 、「建国法」(井上毅著「王国建国法」1875 年)等である。同じ著作物の中でも統 一されていないといった混乱もあった。やがて 1873(明治 6)年に箕作麟祥が「フランス 六法」の翻訳の際にこれを「憲法」と訳し、1882(明治 15)年 3 月 3 日の伊藤博文の渡 欧に際しての調査・研究の問題点を列記した「訓条」の詔勅において、その第一項目に「憲 法」の名があげられたことからこの名称に落ち着いたようである。 このことからすると「政体」の起草者はこれを憲法のつもりで起草したという推論も成り 立つ。実際「政体」の起草において constitution を“政体”と訳した「聯邦志略」を参考 にしたようであるし、「政体」公布当時日本に滞在していたイギリスの外交官アーネスト・ サトーは自著『日本における一外交官』の中で「政体」を constitution と訳している。内 容からしても少なくとも起草者に憲法に近いもの・憲法のようなもの、という気持ちはあっ たのではないだろうか。 第三章 明治憲法の起草に向けて 1 憲法起草への動き 1869(明治 2)年 5 月、戊辰戦争がようやく終結すると、政府は同年 4 月の薩摩・長州・ 土佐・肥前 4 版の版籍奉還を受けて 6 月、各藩に版籍奉還を命じ 1871(明治 4)年 7 月に は廃藩置県を断行した。また、同じ頃進められた中央官制改革により近代的中央集権の地 盤が生まれたのである。 こうして一応の政局の安定を見ると、右大臣岩倉具視を特命全権大使に、参議(1869 年の 官制改革で参与から転化)の木戸孝允・大久保利通、工部大輔の伊藤博文、外務少輔の山 口尚芳を全権副使とし、多数の随員を引き連れ、欧米諸国の元首に挨拶し、不平等条約に 関する予備折衝と、合わせて制度・文物の視察が行われた。これが 1871(明治 4)年 11 月から 1873(明治 6)年 9 月にわたる、政府首脳のまさに半数による遣外使節団である。 1 年 10 ヶ月にもわたったこの視察の結果、一行は憲法を持つことの必要性を痛感すること になる。特に木戸孝允は外遊中から各国の憲法について調べ、ドイツ駐在の青木周蔵公使 に憲法案を起草させるほどであった。1873(明治 6)年 7 月、一行より一足先に帰国する とただちに長文の憲法制定意見書を提出した。その中で憲法の有無とその運用の適不適が 国の興亡の原因にあるとして必要性を強く説きつつ、実施についてはその国の文化・民度 に応じるべきという斬新主義を唱え、「君民同治の憲法」ではなく、官僚の専制を抑えつつ も国政を立憲的な軌道に乗せ、まずは「独裁の憲法」を制定すべきだとした。 同じく参議の大久保も帰国後、憲法についての意見書をまとめたが、留守政府では、新た な問題が持ち上がっており、憲法制定論は一時棚上げされることになる。使節団の外遊中 留守をあずかった太政大臣三条実美・西郷隆盛・板垣退助・大隈重信・後藤象二郎・大木 喬任・江藤新平・副島種臣ら7人の参議を中心とする留守政府で征韓論が起こっていたの である。ところが帰国した岩倉・大久保・木戸らは当面の急務は内政の整備であるとして 征韓論に断固反対し、征韓派は敗退した。その結果西郷をはじめ板垣・後藤・江藤・副島 ら 5 人がそろって辞職するという、明治政府におけるはじめての内部分裂が起こるのであ る。 征韓論で下野した諸参議は 3 つの進路を取った。西郷は故郷の鹿児島で私学校を開き、 明治憲法の制定過程(小野) 208 第四部 迷える近現代 1877(明治 10)年西南戦争で自刃。板垣・後藤・江藤・副島らはイギリス留学より帰国 したばかりの小室信夫・古沢迂郎らの新知識の補給によって 1874(明治 7)年 1 月「愛国 公党」を組織し、同時に「民撰議院設立白書」を左院(立法機関)に提出した。このうち 江藤は同年2月、佐賀の乱をおこして刑死し、また板垣は愛国公党の解散をうけて出身地 土佐で立志社を設立した。 民撰議院設立白書は有司専制を批判し国会開設を要求したものであるが、新聞に掲載され たことから民間において憲法論が白熱的な論議の対象になるもとになった。 また、征韓論に敗れて下野した板垣らについで、1874(明治 7)年 5 月木戸孝允もまた台 湾出兵に反対して政府を去った。 政府の内部分裂は政府を弱体化させただけでなく、反政府の動きを活発化させることにな った。そこで 1875(明治 8)年 1 月から大阪で大久保・木戸・板垣の会談がもたれ、その 中で木戸は、板垣のイギリス立憲制を範とする立憲君主主義と政党政治の構想を、その漸 進論でおさえ、 (1)立法機関として元老院を設立し、かつ国会開設の準備をする、(2) 司法機関として大審院を設立する、 (3)地方官会議を起こす、(4)内閣と行政部を分離 させる、といった改革を条件に参議へ復帰することになった。そして同年 4 月 14 日には 「立憲政体樹立の詔勅」が発せられ「漸次に立憲の政体を立」てる旨が宣言され、改革へ 着手されたのである。 2 元老院による憲法案起草 大阪会議以来、消極的な態度を取り続けていた岩倉は大久保・木戸と協議して国憲草定に ついて上奏し、天皇は 1876(明治 9)年 9 月、元老院議長有栖川宮熾仁親王に対し国憲案 の起草を命じる詔勅を下した。これまでにも個人、あるいは左院による起草の動きはあっ たものの、政府の確定した方針のもとに開始された初の本格的な起草作業であった。その 作業は(1)我が国の国体を尊重し、(2)広く諸国の憲法を参酌し、 (3)速やかに起草 を終えるように、との勅命であった。元老院は国憲取調局を設け、国憲案の起草をはじめ、 アメリカ人フルベッキ・フランス人ジブスケなどお雇い外国人とともに早くも同年10月 には「日本国憲按」と題された第一次草案を完成させた。 「国憲」の語は前述のとおり憲法 の意味で、おそらく加藤弘之著『立憲政体略』によったものと思われる。あまりにも速す ぎるこの作業は、元老院の前身である左院の準備を引き継いだためであろう。 ところがこの頃、熊本に神風連の乱、福岡に秋月の乱、山口に萩の乱が相次いで起こり、 翌 1877(明治 10)年二月には西郷を擁した西南戦争がおこった。 その最中の5月には木戸が病死し、9月に入りようやく西南戦争がおさまったが翌 1878 (明治 11)年5月に大久保が暗殺されるという、政府にとって騒乱を鎮めるのに精一杯な 状況が続いた。 同年7月に第二次草案が、1880(明治 13)年 12 月には 9 編 91 か条から成る最終案が完 成。西欧各国の憲法の影響、特に 1831 年のベルギー憲法と 1850 年のプロイセン憲法の影 響(当時は“イギリス流”と解された)が強く、欽定憲法でありながら皇帝(天皇)は即 位にあたって両院で国憲遵守の誓約をするという、国会の権限が強く、民主的要素の強い 憲法案であった。 この「国憲按」に対し、参議伊藤博文は「欧米諸国の憲法の焼直し、自国の前途を考えな 明治憲法の制定過程(小野) 209 第四部 迷える近現代 い憂ふべきもの」と痛烈に批判し、岩倉の「形式的には上奏させるが不採用」という廃棄 の方針に賛成している。もともと岩倉は大阪会議にも反対をしており、憲法制定に強い関 心を示す当時の政治的風潮に対処する意味で天皇に上奏したが、元老院での国憲按起草に 何の期待もしていなかった。期待どころか元老院の権限を「草案」の作成に限定し、完成 した「国憲按」を「我が国の国体に合わない」との理由で廃棄し、国憲取調局自体が 1881 (明治 14)年廃止されてしまうのであった。 3 政府の方針の決定 元老院の「国憲案」が廃棄された 1879(明治 12)年末から 1881(明治 14)年にかけて、 国会開設・憲法制定問題の対応策に苦慮し、岩倉らは各参議に意見書の提出を求めた。こ こで問題となったのが大隈重信の意見書であった。大隈はそれまで、伊藤ら他の参議の時 期尚早論・慎重論・漸進論に特に反対する姿勢を見せていなかった。ところが意見書は、 (1)1881(明治 14)年中に憲法を制定し 82 年初めにこれを公布し、82 年末には議員 を招集し、83 年初めには国会を開設すべきであるとし、 (2)イギリス立憲政治そのまま の輸入を主張しており、急進的であり、また政府に対して批判的でさえあった。 この内容は伊藤博文を激怒させ、一時は参議を辞する勢いであった。しかも事態はこれで 終わらなかった。続いて起きたのが北海道官有物払下事件である。これは政府が官有施設 を不当な安価で薩摩・長州出身実業家に払下げる案を大隈らの反対を押し切って許可した ことが問題とされた事件である。払下げをめぐる不明瞭な背景や強引な決定が世間に漏れ ると新聞や演説会において大々的に取り上げられ、政府への批判がなされた。政府のこの ような専横は国会がないからである、として国会の開設をとき、憲法の制定が論じられた。 それは大隈の主張との共通点が多く、また、大隈と政府外の勢力のつながりが問題となっ ていたため大隈による陰謀と曲解され、参議を罷免させらるとともに大隈の派閥と見られ た者達が政府を追われた。そして事態を収拾する為、1881(明治 14)年 10 月、9 年後の 1890(明治 23)年をもって国会を開設する詔勅が発せられたのであった。 さて、各参議に憲法に関する意見書を提出させた岩倉であったがその岩倉の意見書(実際 に起草したのは井上毅)はどのような内容だったのだろうか。岩倉は明治維新の公卿側の 中心人物であり、大久保ら維新の元勲亡き今、政府の実質的な最高実力者といって良かっ た。岩倉の意見書は八通の太政大臣と右大臣に当てた書簡として書かれており、その中で もっとも強調されたのが(1)欽定憲法であること、(2)国会の構成と運営はイギリスを 範とするを排し、プロイセンのそれによること、 (3)国務大臣は天皇の親任によってその 他位を安定せしめること、 (4)国務大臣は各々天皇に対し責任を負い、連帯責任としない こと、 (5)予算が国会で成立しないときは、前年度の予算を施行しうるようにすること、 であった。諸参議の意見書に比べ、分量が多いだけでなく細部まで神経の行き届いたもの であった。諸参議の意見において取るべきものは取り上げ、重要な問題については先進諸 国の実例や海外の権威ある学者の見解を引用して自身の判断を裏付けるなど、周到な注意 を払っていた。また、そこには政府が直ちに憲法の制定に着手しうるように、手引書のよ うな内容も付け加えてあり、ここに記されている考え方や方法以外に、この問題を処理す る方法はない、といった断定的なものであった。岩倉は明治維新の中心人物であり、大久 保ら維新の元勲亡き今、政府の実質的な最高実力者といって良く、この後の憲法制定作業 明治憲法の制定過程(小野) 210 第四部 迷える近現代 はこの岩倉の筋書きどおり運んでいくのであった。 4 日本とドイツ・プロイセン ここで、憲法の起草において見習うべきはプロイセンだと決定したわけであるが、岩倉の プロイセンへの親近感は 1871(明治 4)年 11 月から 1873(明治 6)年 9 月の欧米使節団 に遡る。イギリス・フランスの大都会を訪れ、その「文明」度の日本とのあまりの格差に、 ショックは大きかった。ところがプロイセンを訪れてみて、それまでになく親近感を覚え たという。当時のプロイセンはフランスとの戦争に勝ってドイツ統一を実現したばかり。 とはいえイギリス・フランスに比べれば国家としては後進国であった。英仏を追いかけ追 いつこうとしているその姿が、西洋に比べてずっと後進的な日本の上に重ね合わされた。 使節団の外遊報告書『米欧回覧実記』はこのことを「我日本に酷だ類する所あり。此国の 政治・風俗を講究するは、英仏の事情より、益多かるべし」と書いている。ここにあるのは 日本のモデルにふさわしい「西洋」を発見した喜びだろう。 元々、日本が西洋化・近代化を求めたのは西洋諸国に負けない強国になる、という目的があ った為だ。まだ国を作る段階にある日本が、すでに出来上がっている西洋と同じように自 由・人権の保障を叫んでいては西洋に追いつくことはできない。国家として力のない自由よ りまず強国化を。西洋の政治制度はその歴史的背景の違いもあって日本が見習うことはで きず、西洋の中でも(1)明治の日本に類似点をもち、(2)強国への可能性を持ち、(3) 日本が侵略される恐れのないドイツ・プロイセンが最適だと思われたのだった。 そのひとつのあらわれがドイツ公法学専門家の招聘の決定であった。政府のこの決定がベ ルリン駐在の日本公使青木周蔵に連絡されたのは元老院による「日本国憲按」(第一次草 案)が出来上がって間もない 1876(明治 9)年末。人選が進められ、後に明治憲法制定に 多大なる貢献を果たすヘルマン・ロエスラーの来日が正式に決まったのは 1878(明治 11) 年 10 月のことであった。 岩倉らはプロイセン−ドイツについて深い関心を示したものの、 日本国内のドイツ憲法学についての研究は英・米に関する研究に比べ、その量・質共に程遠 いものがあった。それが、憲法制定にあたってプロイセンを範とする事が決定され、実際に 講義を行う学者としてグナイストとシュタインが決定されるに至るには、このロエスラー と青木周蔵の労によるものが大きかった。 5 プロイセン憲法 1848 年、フランスの 2 月革命の影響により国内に不穏な動きが見えるとプロイセン国王 は 3 月 18 日付でプロイセン国王の指導のもとでドイツ連邦とプロイセン憲法を制定する ため連合会議の召集を約束した。しかし革命に参加した市民階級・自由主義者・プロレタリ アートは組織的闘争を展開して政権を再建するほど成熟しておらず、ブルジョアジーも旧 制度の徹底的な克服を意図せず、微温的な立憲主義を要求したにすぎなかった。これは産 業資本の発達の遅れとブルジョアジーの弱体によるものだった。旧制度勢力である貴族・ 官僚は再結集の機会を得、半年後の 11 月にはそれまでに奪われた勢力を回復し、軍隊を 利用して議会の弾圧をはかっていく。そして国王を擁した旧制度勢力のリードのもとで憲 法制定の作業がなされるのである。このような状況で制定されたプロイセン憲法が、すで に市民革命によって確立しているイギリス憲法及び 2 月革命によって確立した 1848 年の 明治憲法の制定過程(小野) 211 第四部 迷える近現代 フランス革命はもとより、1791 年のフランス憲法と比べてみても全く異質な、かつ保守的 なものになることは当然であるといえる。 特色の第一は国王の権力の強大性である。その権力は国民によって委託されたものではな く「神の恩寵による」ものであり、1791 年のフランス憲法及び 1831 年のベルギー憲法の ように国民主権に基づく国王の存在ではない。 第二は議会の権限の抑制である。近代憲法における議会の無力化は、封建的・絶対主義的な 関係の残在を意味している。このことは、議会の不信任案の決議によって左右されない内 閣の存在・議会における予算審議についての無視・更には選挙における財産別の三級制度の 採用等にあらわれている。 第三は国民の権利について、条件付き保証規定はあるが現実にはほとんど制限されていた 点である。言論・集会・結社の自由を保証しながら、同じ規定内に「別に法律の定める範囲 内において」と規定する。これを受けて、新聞条例(1851 年) 、集会結社に関する法律(1850 年) 、団体禁止令(1854 年)などが制定された。 こうした特色をもつプロイセン憲法は立憲制が保障されたといってもそれは「外見的」で あり、運用如何によって絶対主義憲法と称されるのであった。 第四章 明治憲法の成立 1 伊藤博文の渡欧 1882(明治 15)年 3 月 3 日、伊藤博文は憲法起草のためにヨーロッパ立憲諸国において 調査をおこない、各国の政府及び学者について研究するよう、との勅命を受ける。この時、 調査と研究の問題点を指摘した「訓条」も渡された。詔勅の「欧州立憲の各国に至り、其 政府又は碩学の士と相接し」とあるのは、どの国の政府あるいは学者を指していたのか、 ここでは不明であるばかりか「訓条」は憲法の制定にあたり当然問題になる点を 31 項目 にわたって羅列してあるだけで、調査研究の方針や目標については全く触れていない。し かし事実においては、この時すでにつくべき政府をドイツ帝国(プロイセン)に、その学 者をドイツのベルリン大学教授ルドルフ・グナイストとオーストリアのウィーン大学教授 ロレンツ・フォン・シュタインに内定していた。 しかし何故伊藤だったのだろうか。 1882(明治 15)年当時、伊藤は最古参の参議として、その実力も政府内でトップクラス であった。政府重鎮として、すべき事は山のようにあったはずで、その伊藤が法律学を専 門に学んだわけでもないのに、1 年以上も日本を留守にして調査に赴くというのである。 理由として、憲法を制定するためには各国の憲法を知り、理論だけを取り入れようとする のでは不十分で、各国の歴史と現実に触れ、実際に体験することが理論に力を与えると考 えられていたことが挙げられる。そしてそれに伊藤が選ばれたのには、岩倉の伊藤への信 頼があった。憲法問題に関して岩倉と同じ認識を持っている伊藤に対する信頼もあっただ ろうし、岩倉の法律に関する事柄の強力なブレーンであった井上毅の推薦も大きな要因で あろう。 このようにして 1882(明治 15)年 3 月 14 日、伊藤は 9 名の随員と共に東京を出発。翌 1882(明治 16)年 8 月 3 日に帰国するまでの 1 年 5 ヶ月にもわたるヨーロッパにおける 憲法調査の途についた。もっとも、1 年 5 ヶ月といっても何しろ当時は飛行機が発明され 明治憲法の制定過程(小野) 212 第四部 迷える近現代 る以前で、船と汽車を乗り継いで、最初の目的地ベルリンに到着したのは 2 ヵ月後の 5 月 16 日であった。 2 グナイストとシュタイン ベルリンにおける講義その1、 (5月 19 日∼7月下旬) ベルリンに着いた伊藤は 1 日おきにグナイストの弟子モッセによる憲法講義を受け、時折 グナイストと質疑応答を行った。これはグナイストがこの年に代表作『英国憲法史』を著 し、大学教授であり政府顧問でもあるといった多忙ぶりから来ており、また伊藤が法律に 関して初心者であることも関係しているであろう。しかし伊藤に同行した伊東巳代治は後 年グナイストにいて「其頭脳の中には、黄色人には憲法は不適当なり、寧ろ生意気なる所 業なりとの観念を有したる如し」と、同じく吉田正春は、グナイストは「憲法は法文では ない、精神である」として、日本の歴史・国柄を知らないので参考になるかどうか自信がな いと述べたという談話を残しており、確かに正論ではあるが伊藤の失望は大きかった。ま た、伊藤は英語は堪能なもののドイツ語はさっぱりで、青木周蔵の通訳を介しての講義は もどかしい限りであった様である。暑期休暇に入る前に日本の官僚にあてた書簡では、こ の分だとあと半年か 1 年は滞在を延ばさざるを得ないなどという弱音を吐いている。 ウィーンにおける講義(8 月 8 日∼11 月初旬の内 9 月 18 日∼10 月 31 日までの 17 日間) シュタインが英語で会話をしてくれたことがまず伊藤を喜ばせた。また、伊藤の訪問の目 的に焦点を合わせて意見を述べ、暑期休暇中も講義を行う事を約束し、随員たちの傍聴も 認めるといった具合であった。 シュタインは、終始伊藤に対し完璧な立憲君主国の憲法を創設し、日本の健全なる成長を 助けたいという熱意を持って講義をし、伊藤への忠告や教訓にもそれが溢れていた。伊藤 は深く感銘しシュタインを政府顧問として招聘し、憲法制定事業だけでなく、日本の教育 分野にもその見識を活かそうとし、政府の許可も得たが老齢を理由に丁重に辞退されてし まう。しかし招聘こそ叶わなかったものの、伊藤の帰国の後、山県有明・黒田清隆・海江 田信義・谷干城・藤波言忠ら政府要人が相次いで渡欧し、シュタインを訪ねて教えを乞い、 伊藤と同様にシュタイン信者となっているのは伊藤の政府内における憲法思想の統一をシ ュタインによって実現しようとした結果であろう。このことはシュタインの人物及び憲法 思想に対する伊藤の絶大な信頼と評価を物語ると同時に、明治憲法制定事業に及ぼした影 響の大きさをあらわしている。藤波は明治天皇の侍従、黒田は明示憲法制定時の内閣総理 大臣、山県は同じく内務大臣、海江田は元老院議官、谷は農商務大臣である。 ベルリンでの講義その2(11 月 14 日より翌年 2 月 19 日) 前半の暗い心境とはうって変わり別人のように明るく自身に満ちたものになっている。勿 論ウィーンのシュタインの講義により自信がついた為である。 その後ロンドンへの滞在、モスクワでのロシア皇帝の即位式出席を経て 1883(明治 16) 年 8 月 3 日に帰国。その 14 日前に岩倉が逝去していた。 3 起草の開始 伊藤が帰国後、自ら筆を執り「大日本国憲法」(以下「明治憲法」 )の原案を起草するに至 ったのは 1887(明治 20)年 6 月頃とされている。それは帰国から 3 年 10 ヶ月後の事で 明治憲法の制定過程(小野) 213 第四部 迷える近現代 あり、この期間中、憲法の起草に没頭するのを阻むかのように様々な政治的事件が後をた たず、伊藤はこれらの対処に追われる事になる。 しかしそれと同時に(1) 、憲法起草のための準備体制の整備、(2) 、貴族院の創設を予想 した華族制度の樹立、(3)、天皇制の近代化の為の皇室制度の整備、(4)、議会政治を予 想した内閣制度の革新、 (5) 、同じ予想の基に官吏制度の革新、を行い明治憲法の実施を 支える政府内の体制作りも着々と進めつつあった。 6 月から本格的に始まった起草作業は、神奈川県の夏島という無人島に建てられた伊藤の 別荘において、伊藤・井上・伊東巳代治・金子堅太郎の 4 人によって行われた。伊東は欧州 における憲法調査において伊藤の秘書的役割を果たしており、金子堅太郎は帰国した伊藤 により新設され、伊藤自らその長官を務めた制度取調局に集められた人材の中におり、こ の時初めて憲法起草に関わる事になった。井上は、1871(明治 4)年の岩倉遣外使節団に 随行して主としてフランス・ドイツ・ベルギー等において欧州諸国の法制及び法学を学び、 その後岩倉のブレーンとして活躍しており、伊藤の渡欧中は国内に残り我が国の「国体」 にあう憲法を作るため、 『古事記』『日本書紀』を始めとした日本の国史・古典中の憲法的事 実の研究を行っていた。また、井上は政府の法律顧問であるロエスラーに師事し、憲法起 草に果たした役割は伊藤より重いといっても過言ではない人物である。 この 4 人で 1886(明治 19)年の夏頃より、週末になると集まって憲法問題の討議を行っ ていたものの、政党運動者の監視が厳しく、伊東の書類鞄が盗難に遭うなど機密保持の問 題が出てきた為、邪魔の入らない無人島を選んだのであった。伊藤以外の3人は起草作業 に集中するため、閑職へと移動していたが伊藤はそういう訳にもいかず、9月下旬、作業 が一段落して夏島を引き上げるまで、2・3日、時には一週間居続けることもあったが政治 的事件の処理の為しばしば東京に戻っていった。 6 月以降に限っても板垣の辞爵問題、谷干城農商務大臣の辞任、黒田清隆の就任・井上外務 大臣の大隈の入閣問題、条約改正問題の後始末、年末には保安条例を発して反政府的政治 集会、結社、運動等を弾圧しこれに違反するものを皇居三里外に放逐する事を決定するな ど政局は難航を極めていた。 この様な政局を背景にいよいよ起草に取り掛かったのであるが、第一に始めたのは、5 月 に井上の提出した『申案試草』 『乙案試草』とロエスラーによる『日本帝国憲法草案』を比 較検討して取捨をはかり、ひとつの憲法草案にまとめる事であった。明治 10 年代に民間で 起草された多くの私議憲法案(1990 年で約 50 の草案が見つかっているとする資料もある) の中には新聞に掲載され、4 人が目にしたものもあるだろうが、その影響は定かではない。 この様にして出来たのが、「第一号憲法草案」であり、 それから更にロエスラーやモッセ、 井上の意見書を参考に推敲を繰り返し、その最終草稿である「第七号憲法草案」が完成し たのが 1888(明治 21)年 4 月に入ってからであった。 4 憲法の成立 「大日本帝国憲法」の原案 7 章 76 条は、同年4月に勅命により設置され、5 月 8 日に伊 藤を議長として開院した枢密院により 6 月 18 日から 1889(明治 22)年1月 31 日までの 14 日間 24回の会議により審議された。条章中の字句を洗練し定義を統一すると共に、修 正を加え、 削除し、 あるいは新たに追加するなどして、無修正で可決されたのは 28 条 (37%) 明治憲法の制定過程(小野) 214 第四部 迷える近現代 にすぎなかった。 こうして完成し、天皇による親裁を経た後、1889(明治 22)年 2 月 1 日、紀元節の日に 発布されたのが「大日本帝国憲法」であった。 おわりに このようにして完成した明治憲法であるが、長い間、誰の手により、どのようにしてで きたという事が秘密とされていた。当時日本に滞在していたドイツ人医師ベルツの日記に こんな記述がある。 「東京全市は 11 日の憲法発布をひかえて、言語に絶した騒ぎを演じて いる。到るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、滑稽なことには、誰も憲法そのも のの内容をご存知ないのだ」 。憲法は国民のためのものではなく内容さえまともに知られて いなかったのだ。天皇が神格化され、欽定憲法である明治憲法も神秘主義のベールに覆わ れたのである。それには、天皇の権威を高めるためという理由のほかに、憲法の起草に外 国人、それも国際的に有名なシュタインやグナイストだけでなく、無名のモッセや、特に ロエスラーによるところが大きい事が口を閉ざさせたのかもしれない。理由はどうあれ伊 藤の出版した解説書『憲法義解』は私説のように装われ、明治憲法に対する公的な解釈が なされなかった。それが後に軍部と一部官僚が絶大な権力を背景にほしいままに憲法を解 釈し、戦争へと突き進んでいくのを食い止める事が出来なかった要因の一つであった。今 回、憲法の制定過程を追ってみて、関係者のそれぞれの思想からの国を思う気持ちに触れ たように思う。そして彼らは決してあのような未来を望んで憲法の作成に関わったのでは ないだろうと、明治憲法の最期を知ったらどんなにか無念だろうかと思うのである。 参考文献 「明治憲法制定史」 (上) (中) (下) 「日本近代法体制の形成」 (下) 「天皇と憲法」 「日本憲法史の周辺」 「自由民権と明治憲法」 「明治憲法成立史」 (上) (下) 「明治憲法成立史の研究」 「明治憲法史論・序説」 「明治憲法の出来るまで」 「日本憲政史」 清水 伸著 福島 正夫編 NHK 取材班編 大石 眞著 江村 栄一編 稲田 正次著 稲田 正次著 小林 昭三著 大久保 利謙著 尾佐竹 猛著 明治憲法の制定過程(小野) 215 第四部 迷える近現代 日の丸と君が代 久保 純一 はじめに 広島県立世羅高等学校の校長が1999年(平成11年)2月28日朝、卒業式におけ る国旗・国歌の実施問題の処理を苦にして自殺した。 このことをきっかけに当時の小渕政権はにわかに「国旗・国歌法制化」に向けて準備を始め、 同年 8 月 13 日に「日の丸」を国旗とし、「君が代」を国歌と定める国旗・国歌法を公布、施行 した。この法制化に関しての小渕政権の考え方としては、「政府としては、これまで、国旗・ 国歌については、長年の慣行により日の丸、君が代が国旗、国歌であるとの認識が確立し、 広く国民の間にも定着していると考えられることから、国旗、国歌を法律によって制度化す る必要はないと考えてきたところ。しかしながら、21世紀を迎えるにあたって、諸外国 では国旗・国歌を法制化している国もあること、また成文法を旨とする我が国にあっては、 国旗・国歌についても成文法としてより明確に位置付ける時期に達したと考えられる。」と いうものであった。 私自身、小学校から、入学式や卒業式には必ず日の丸が掲揚されており、君が代も斉唱 してきた記憶がある。日の丸、君が代が国旗、国歌であることに何の疑問も違和感も覚え ておらず、むしろなぜ今になって法制化なのであろうかという思いにかられた。 日の丸、君が代の歴史を改めてみつめ、国旗、国歌の意義をさぐるとともに、今回の法制化に至るまでの 諸問題、また諸外国の状況をみていく上で、国旗・国歌法が意味することについて考え、論じていきたい。 第一章 日の丸の歴史 1 日本人の太陽観 日本の国旗は、「日の丸」「日章旗」などと呼ばれ、白地に赤い丸を配して太陽をかたどっ たものである。 古くから農耕民族は、その生産に日照が絶対必要であることから太陽を神格化したが、 日本でも例外ではなかった。冬至や日食で弱まった太陽の力を復活する喜びを讃えた神話 は世界各地にあるが、その一つが「古事記」「日本書紀」に出てくる「天の岩戸」の話である。 ところが日本人の太陽信仰は、7 世紀頃、国家主義思想を生み出した。すなわち、聖徳太 子が 607 年の遣隋使に托した国書には、「日出ズル処ノ天子、書ヲ日没スル処ノ天子ニ致 ス」と書き、さらにこの「日出ズル処」は、いわゆる大化の改新頃から「日本」となり日本のこ ととなる。中国では、日本のことを「倭」と呼び、日本人もこれにならったが、この「倭」と いう字には小さいという軽蔑の意味があることを知り、これを嫌い「日本」という年号をつ くりだしたのである。漢民族は、自ら中華と称し、周辺諸族未開の野蛮だとして、東夷、 西戎、南蛮、北狄とよんだ。この思想を中華思想というが、その東夷のなかの倭である日 本も、同じような大国主義的な思想をもったのである。こうした思想は、日本から見て太 陽の昇る東は洋々とした大海だが、太陽の沈む西には海をこえて中華の大国があり、また 西北には日本に文化、技術をもたらす先進国ではあるが、それ故に侵略の対象としてねら う朝鮮があるという地理的、歴史的環境のなかから生み出されたのであろう。日本は中国 日の丸と君が代(久保) 216 第四部 迷える近現代 の顔色をうかがいながらも地理的な遠さを利用して虚勢をはり、朝鮮に対しては、中国と の交渉をバックに威圧しようとした。 国内的には、神話を利用して、天皇は太陽神=天照大御神だという話をつくりあげ、天 皇を「日の御子」とよぶようになった。 2 日の丸の根拠 日本で旗のデザインに太陽をかたどったのは、大宝律令が制定されて古代天皇制が完成 した 701(大宝元)年正月という。錦地に日月を金銀であらわし、長方形のものを棹の先か らさげるようにした日幡、月幡で宮中の大極殿で用いられたが、後々長く宮中の儀式で使 われた。その後、平安時代末には扇に日の丸を描いた「日の丸紋」が用いられた。屋島の合 戦で那須与一が功名をはせた「扇落とし」の扇の的のデザインはこれであった。また、蒙古 襲来(元寇)の時、征夷大将軍として鎌倉にいた惟康親王がモンゴル軍退散を念じて、旭日 旗に「南無妙法蓮華経」の題目を日蓮に書かせたという伝説がある。南北朝の内乱では、建 武の新政に反逆した足利尊氏が、楠木正成を湊川で破って都へ攻め上がった時、光厳院の 院宣を奉ずるというかたちをとり、太陽をあらわした「錦の御旗」をたてていたという。ま た、後醍醐天皇が使ったという日の丸が、大和国吉野の賀名生にながく伝えられていた。 朝鮮の権威が地に落ちた戦国時代には、太陽をあらわしたのぼりが戦国大名によって用 いられるようになる。上杉勢が、日の丸を用いた記録がある。伊達政宗勢は日の丸の指物 を用いた。 『川中島五度合戦次第・史籍集覧』には、「武家義信八百ばかり、悉く甲似て腰差 なども取り隠し、謙信勢の油断の処へ俄に取掛かり候ひて、謙信日の丸の旗を目にかけ急 にかかり入り候」という記述がある。武田信玄、上杉謙信のほかに小西行長らが使ったとい う。このように太陽をあらわした旗は、権力の正当性を誇示するものであると同時に、め でたいものとされていた。 だが、江戸時代へかけて、朝日がめでたいことのシンボルとされるが、とくに権力の正 当性を誇示するために使われなかった。それが復活するのは、幕末である。 3 船印から国旗へ 江戸時代になり、徳川幕府は、1639(寛永 16)年 7 月、ポルトガル船の来航を禁止して鎖 国を完成させた。その頃「日の丸」は、相次ぐ海賊や難破をよそおった海難を防ぐために幕 府によって 1673(寛文 13)年に発令された「城米回漕令条」により、官船である御城米積船の 船印に用いられていた。以下に示せば、次の通りである。 御米城船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け 其脇に面々苗字名これを書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付け らる可く候 ところが、1853(嘉永 6)年のペリー来航を機に「日の丸」は、対外的な日本国の存在証明 となっていくのである。日本は、ペリー来航をはじめとする門戸開放を迫る列強諸国の圧 力に抗しきれなくなり約 218 年間続いた鎖国を終わらすこととなる。 幕府は、対外交渉のため、薩摩藩主島津斉彬の提言で、厳禁していた大船建造を解禁し ただちに大船建造を実行するが、同時に日本国を証明する船印を決めることが急がれた。 従来の国内船航路ならば、持ち主の家紋でよかったのだが、やがて外国に出向くことを考 日の丸と君が代(久保) 217 第四部 迷える近現代 えていて、その必要性を感じていたのであろう。 「日の丸」を日本国総船印に提言したのは島津斉彬である。斉彬は、鹿児島城内から桜島 の左肩に昇る朝日をみて感激し、「日の丸」に決めたといわれる。しかし、この提言に幕府 はなかなか許可をださなかった。これは、「日の丸」が御城米積船の船印に使われていたこ と、幕府としては、徳川の「中黒」の旗印を用いたかったことがあったからである。しかし 斉彬は、「昇平丸」と命名した大型船に「日の丸」を掲げ、品川へ入港し、幕府に献上し、当 時老中首座であった阿部正弘に「日の丸」を認めさせたのである。そして幕府は、「日の丸」 を日本国総船印とすることを決定し、「大船製造に付きては、異国船に紛れざる様、日本の 総船印は、白地日之丸幟相用い候ふ様」と布告において指令し、1858(安政 5)年 7 月、「日 の丸」を船印とする旨を修好条約を結んだ列強各国に通達した。この時、「日の丸」は国際的 に初めて認知されたのである。また、1859(安政 6)年触書書では「御国総標は白地日の丸の 旗」と文言を改めている。幕府の意識が国旗の概念に近づいたのである。 1860(万延元)年 1 月、咸臨丸がアメリカのポーハタン号の護衛艦として品川を出航した。 咸臨丸は、海外に向けて航海した日の丸掲揚船第1号で、最初の太平洋横断日本汽船であ り、行く先々で日の丸を掲げた。一方、国内でも、列強諸国と安政の修好条約が次々に結 ばれた前後から、各国の使節団が日本国内を通行するという事態が生じ始め、やがて領事 館や公使館が建設され、その邸内に各国の国旗があげられた。このことに幕府は、反対し たが、「公使館内は、各国の国権の及ぶところである。」という万国公法(国際法)の規定に 納得させられた。「日の丸」は、船上だけでなく国内の対外的な要所に日本国を強調するた めに掲揚されたのである。徳川幕府が「日の丸」を日本の総船印と決めてからわずか 10 年 たらずで、列強諸国でも、国内でも、日本の国印であることが認められたのである。 4 戦争と日の丸 幕末におこった戊辰戦争は、薩長ら明治新政府軍は、菊花をかたどった「錦の御旗」とと もに「日の丸」を掲げ、また、一方で幕府側の海軍や上野の彰義隊、東北列藩同盟に加わっ た庄内藩や松山藩、京都から転戦してきた新撰組も「日の丸」を掲げて戦うという「日の丸」 対「日の丸」という戦争であった。つまり、両側ともこの「日の丸」を掲げたところに、幕末 日本における正統意識があったのであろう。かつて権力の正当性を誇示するために利用さ れた「日の丸」の性格が大内乱にあたって復活したのである。 戊辰戦争に勝利した明治新政府軍は、1868(明治元)年に今の内閣にあたる太政官を設置 し、1870(明治 3)年 2 月の『太政官布告第五七号』で、「郵船商船規則別冊之通御定ニ相成 候条、此段相達候」と題し、「御国旗に寸法別紙之通に候事」として、別に「御国旗の寸法」 についても公布した。また、同 6 年には『太政官布告第三五五号』により、陸軍で「日の 丸」を使用し、11 月には『太政官布告第六五一号』では、「海軍御旗章国旗章並諸国旗章」 も定め海軍でも使用することになった。ただ、まだここでは、明治政府の役人達は徳川幕 府の閣僚達と同様、日本総船印すなわち国旗と考えていて、武家出身の官僚達のほとんど は、統一的な国家意識がまだ希薄だったのであり、「日の丸」は、決して明治政府のシンボ ルではなかった。明治政府のシンボルすなわち天皇制権力のシンボルとなるのは明治時代 中期からである。 明治政府は、1872(明治 5)年 2 月、一般は祝祭日に、また開港場では常時、国旗を掲げ 日の丸と君が代(久保) 218 第四部 迷える近現代 ることを通達した。その祝祭日とは、太陰暦への改暦に伴って決められた「天長節、紀元節」 など、天皇制と国家神道の祭典であった。「日の丸」は、普段は掲げることは禁止されたが、 天皇巡幸などの時には持ち出された。1876(明治 9)年東北巡幸の時のかぞえ歌には、 四つとせ、世のよい様に開花して 門には日の丸を立て、これ巡幸えー とある。おそらく役人が作りはやらせた歌だろうが、戊辰戦争の際に賊軍の地であっただ けに、とくにこのような歌まで使って天皇のありがたさを強調したかったのであろう。ま さに天皇を讃えるものとなっていくのである。 1889(明治 22)年、大日本帝国憲法発布ごろから、「日の丸」は何につけても持ち出される ようになり、天皇制権力としての役割と機能を発揮し始める。日清、日露戦争の時には戦 意高揚の役割を担い、 軍国主義、 国家主義または侵略主義の象徴としての役割をかわされ、 日中戦争と太平洋戦争になると、ますますそれが大きくなる。こうしたことの背景には、 1908(明治 41)年 10 月、日露戦争後の動揺のなかで、忠君、愛国、政治、教育の体制を構 築する目的で、天皇の名において発令された『戊辰詔書』により、「日の丸」が学校や地域 で国民統合のシンボルとして重要な位置付けをされ、天皇制国家への忠誠と国威の発揚を もとめる役割を果たしたこと。つまり、「日の丸」を掲げる行動が、大日本帝国の臣民とし ての意識づくりをしたことがあるからであろう。 日本侵略軍の進むところには、必ずその先頭には「日の丸」が立っており、その下では多く の血が流れた。そのため、中国をはじめとするアジア各地域では、「日の丸」を悪魔のシン ボルのように恐れ、憎んだのである。 第二章 1 君が代の歴史 古今和歌集にある君が代の元歌 1869(明治 2)年、横浜の外国人居留地の警護にあたっていたイギリスの歩兵隊の軍楽隊 に薩摩藩士達が、日本の軍楽隊をつくるため軍楽を学んでいた。そのうち、イギリス軍楽 隊長フェントンは、日本に国歌がないことを知り、国歌を決めて作曲しようと言い出した。 薩摩藩の練習生達は、このことを砲兵隊長の大山巌につたえ、大山は野津鎮雄、大迫喜右 衛門、河村純義らと相談するうちに、幼少の頃から愛唱していた薩摩琵琶歌「蓬莱山」の文 句の中から、「君が代・・・」の部分を取り出したのだという。 この元歌は、日本最古の勅撰和歌集『古今和歌集』の巻七、賀に歌の「読み人知らず」の わがきみはちよにやちよにさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで とある。この歌は『新撰和歌集』、『和漢朗詠集』などにもおさめられ、宮内庁所蔵の、 1228(安貞 2)年の奥付のある『和漢朗詠集』には、「わがきみは」の部分が「きみがよは」と して登場する。 この歌は、もともと 40 の賀、50 の賀、60 の賀(還暦)、70 の賀(古稀)という長寿を祝い、 長寿を祈る歌であった。だから、「わがきみ」も「きみがよ」の「きみ」も賀をうける人のこと であって、ことさら天皇を指したものではなかった。 長寿を祝う、めでたい歌として「君が代」は、人々に喜ばれ、酒宴の最後、千秋楽の納め の唄ともなっていたようであり、神事や仏事など様々に活用されてきた。平安時代には民 衆の歌として朗詠され、鎌倉、室町時代には白拍子などが歌唱し、室町時代の南都興福寺 日の丸と君が代(久保) 219 第四部 迷える近現代 延年舞や謡曲『老松』にも取り入れられた。江戸時代になると、神楽歌、俚謡、琴歌、地 唄、浄瑠璃、常盤津、長唄、琵琶歌、船歌、盆踊歌、祭礼歌から乞食の門付唄にまで使わ れ、仮名草子、浮世草子、読本にも利用され、俳諧の付け合せにもしばしば用いられたと いう。「君が代」は、祝い歌として広く知られ、長寿を祝うという年の賀の歌から、さらに 広い意味での祝賀の歌のなり、次第に民衆のなかに溶け込んでいったのである。 2 軍楽曲として誕生した君が代 先にも述べたように、「君が代」の誕生は、イギリス軍楽隊長フェントンが、日本に国歌 がないことを知ることに始まる。大山巌らが薩摩琵琶歌「蓬莱山」の文句の中から持ち出し てきた「君が代は・・・」という詩にフェントンは、日本的旋法を考慮しながら作曲したのであ る。 薩摩藩軍楽隊は、1870(明治 3)年に、薩摩、長州、土佐藩の3藩に対する明治天皇によ る天覧調練とよばれた閲兵式が行われた際、このフェントン作曲の「君が代」を「天皇に対し 奉る礼式曲」として演奏した。薩摩藩軍楽隊は、1871(明治4)年に海軍軍楽隊となり、「君 が代」は日本海軍の儀礼曲としての軍楽曲とされたのである。この当時、欧米諸国では、外 国の軍艦が入港してきた時には、国歌を演奏する習わしがあり、日本もこれに習い「君が代」 をつくったのである。つまり、「君が代」は儀式用の奉迎曲として誕生したのである。 フェントンの作曲した「君が代」は、フェントン自身、日本語をほとんど知らず、歌詞の 意味もよく理解しないで作曲したせいか、歌詞とメロディーが合っていない洋風の曲だっ た。このため、当時の日本人には人気がなく、あまり歓迎されないことを理由に、1876(明 治 9)年 11 月 3 日の演奏を最後に廃止された。 1880(明治 13)年、海軍軍楽隊隊長中村祐庸は、廃止されたフェントン作曲の「君が代」に かわる軍楽曲の作曲の宮内省式部寮に依頼した。依頼に応じた式部寮雅楽課は、中村をは じめ、陸軍軍楽隊西元義豊、一等伶人の林広守、海軍軍楽隊の傭い音楽教師のドイツ人エ ッケルトの 4 人を改訂委員に任命したのである。そして、若手伶人である林広守の長男の 林広季と奥好義が作曲し、林広守手を入れ、エッケルトが洋風和声を付して四声体、軍楽 風に編曲したものに、さらに林広守らが多少改めて完成したといわれる。現在、小、中学校 で使われている教科書には、「君が代」の作者として林広守の名が明示されているが、実は 本当の作曲者は、保育唱歌として「君が代」を作曲した奥好義であり、上司である林広守が これを横取りし、自らが作曲したものとして発表したのである。 ともかく、一度廃止の憂き目にあった「君が代」が、明治政府の下の日本海軍の手で改訂 され、演奏されたものが、現在歌われている「君が代」である。 3 国歌扱いとなる君が代 1878(明治 11)年に宮内省が、1882(明治 15)に文部省が国歌の作成、制定に乗り出したが、 国歌を政府がつくり、強引に国民に歌わせる方法に慎重な姿勢を示し、これを中止した。 文部省の国歌制定計画と同じ頃、「君が代」はやや姿をかえて、小学校唱歌として登場し、 明治政府の教育制度の整備により、徐々に「君が代」の扱いは統一されたものになってくる。 教育制度の主だったものは次のようなものである。 1886(明治 19)年 3 月 2 日 小学校令公布 中学校令公布 日の丸と君が代(久保) 220 第四部 1888(明治 21)年 2 月 3 日 迷える近現代 文部省、「紀元節歌」を学校唱歌として選定送付、紀元節、 天長節に祝賀式典を行うよう命令。天皇崇拝を普及。 1889(明治 22)年 12 月 文部省、全国の高等小学校に「御真影」(明治天皇、皇后の写 真)を下付。この保管のため、奉安殿・奉安庫を設置。 登下校の際には必ず最敬礼。 そして、1890(明治 23)年 10 月 30 日の教育勅語発布を機に学校で国歌扱いとなる。 明治政府は、1891(明治 24)年 6 月 17 日、文部省令で「小学校祝日大祭日儀式規定」制定 し、儀式と唱歌を直接に結び付け、同年 12 月 29 日付で文部省の普通学務局長名で「儀式 の際、唱歌用に供して差し支えないもの」として 13 曲を挙げて通牒を発した。そこでは、 「我大君」、「君が代」以下があげられていて、これが文部省が「君が代」に関わった始まりと されている。ただ、これら 13 曲の唱歌はあくまで暫定的なものであり、文部省は、1893 年(明治 26)年 8 月 12 日に、新たに「祝日大祭日唱歌」として、「君が代」、「勅語奉答」、「1 月一日」、「元始祭」、「紀元節」、「神嘗祭」、「天長節」、「新嘗祭」の 8 曲が選定され、公布 された。ここで、「君が代」は「古歌・林広守作曲」としてトップにあげられていた。明治政 府は、これを普及するため、学校特に義務教育の小学校を選び、文部省は「君が代」を、ま ず祝日大祭日唱歌として公式に取り上げ、1900(明治 33)年に小学校令が全面改訂されたの に伴い、制定された「小学校令施行規則」で祝日大祭日に、「君が代」を合唱することを義務 づけたのである。 その後、日清、日露戦争を機に「君が代」は国歌として次第に定着するようになる。それ までは「君が代」をむやみに歌ってはいけなかったが、戦争気分の中で歌うことが流行した らしい。そして満州事変の頃から、学校でも「君が代斉唱」が「国歌斉唱」に変わり、さらに 日中戦争、太平洋戦争が進展していく中で、「国歌斉唱」として「君が代」が盛んに歌われる ようになったのである。 「君が代」は、もともとは「あなた」を意味する「君」が天皇崇拝のおしつけのなかで「天皇」 ということにされ、法律的には何の根拠もなく、軍国的な戦争気分のなかで、次第に国歌 として国民意識のなかに定着し、やがて国民生活において、慣習法化されるようになった のである。 第三章 法制化への道 1 GHQにおける「日の丸」掲揚禁止から復権へ 日本は 1945(昭和 20)年 8 月 15 日、 第2次世界大戦に敗北して連合国軍最高司令部(GHQ) に占領された。そのため、同年 10 月から翌年4月 22 日までの一時、国旗「日の丸」の掲揚 が禁止され、国歌である「君が代」の斉唱も表立ってはできなくなった。それまで日本民族 の政治的シンボルであった国旗、国歌を失ったのである。1946(昭和 21)年 1 月 1 日に、天 皇は「人間宣言」をおこない、同年 11 月 3 日に「日本国憲法」が公布され、翌年 5 月 3 日に 施行された。このことから、現人神であった天皇の権威はなくなり、「日の丸」も「君が代」 も国民のなかで戦争の思い出づよいものとして毛嫌いされていた。しかし、朝鮮戦争が始 まった 1950(昭和 25)年 10 月 17 日に文部省が国旗掲揚と「君が代」斉唱を各学校に通達し たことを機に、「日の丸」、「君が代」は、政治的シンボルとして蘇ってくるのである。なぜ 文部省は、こういう通達をしたのであろうか。それは、アメリカ極東軍事戦略の大転換や、 日の丸と君が代(久保) 221 第四部 迷える近現代 再起をはかろうとする日本独占資本の動きと大きく関わってくる。つまり、アメリカの予 期に反して、中国革命が進展し中華人民共和国が成立すると、自国の防衛を考え、日本列 島が太平洋側における最前線となるとみて、日本の非軍事化を中止して日本を「反共の砦」 の基地として、確保しようとした。このため、日本の旧勢力の復活を謀り、その反面で革 新勢力を弾圧したのである。1949(昭和 24)年 7∼8 月には、下山、三鷹、松川の怪事件が おこり、レッドパージが始まった。そして、1950(昭和 25)年 6 月には、共産党を半ば非合 法状態におしこめて、朝鮮戦争が開始された。8 月になると、警察予備軍の名で軍隊が復 活し、10 月になると、文部省の国旗掲揚と「君が代」斉唱の通達が行われたのである。 1951(昭和 26)年 9 月、サンフランシスコ講和会議が開かれ、日本は中国やソ連を除外し た連合国と片面講和をし、同時に日米安保条約を締結した。日本の領土であった沖縄や小 笠原は、アメリカの直接的な支配化におかれていたが、日本政府は、完全に独立したと大々 的に宣伝した。「日の丸」「君が代」は、そのための小道具となった。祝日には、「日の丸」を 立てることが強制されるところも出てきたし、「君が代」は毎日の NHK の放送終了時に流 され、大相撲の千秋楽の取り組み終了後、優勝力士に天皇賜杯が授与されるとあって、表 彰式に先立って斉唱することになった。多くの観衆は、直立して歌わされることになった のである。 「日の丸」、「君が代」が国旗、国歌として復活してくる要因としては、特に教育現場であ る。学校に対する文部省の強制ということがある。1950(昭和 25)年の文部省による通達以 降、 入学式や卒業式に「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱する学校が次第に増えていった。 その背景には、文部省が全国的な勤務評定実施の 1958(昭和 33)年以降の官報告示による 『学習指導要領』のなかで、「学校行事等」について「国民の祝日などにおいて儀式などを行 う場合には、児童に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、 君が代を斉唱させることがのぞましい」と書いたこと、つまり、学習指導要領に法的拘束力 を持たせることにより、教育内容の国家基準制を強め、戦前を思わせるような教育行政の 復活を成し遂げたことがあったからである。 そして、「日の丸」、「君が代」は、国民体育大会やオリンピックなど、スポーツを通して 普及させられていった。なかでも、1964(昭和 39)年の東京オリンピックにおいて、優勝の 際、「国旗」掲揚とともに演奏される「君が代」に、多くの人々が感激したのである。この時、 市川昆監督が記録映画を製作したが、これに対して、オリンピック担当国務相だった河野 一郎が作品に、天皇の姿や「日の丸」掲揚、「君が代」演奏の場面が少なかったのを理由に、 非難する事件がおこった。オリンピックが「日の丸」「君が代」を国旗国歌として定着させる にはもってこいの場所だと考えていたのであろう。 田中角栄首相が 1974(昭和 49)年 3 月 14 日の参院予算委員会で、「日の丸」、「君が代」を 国旗、国歌として制定する考えを明らかにし、奥野誠売文相も、国旗の掲揚、国歌の斉唱 を学習指導要領で義務づける方針を示唆した。しかし、国民世論がまだ成熟していないこ とを察し、あきらめた。ついで自民党は、昭和天皇在位 60 年を迎えた 1985(昭和 60)年、 「国旗掲揚並びに国歌斉唱の徹底」を都道府県に通達した。そして、1989(平成元)年に、掲 揚、斉唱に反対するものは処分するという義務化を打ち出したのである。 2 強制と抵抗の狭間で起きた事件 日の丸と君が代(久保) 222 第四部 迷える近現代 先にも述べたように、文部省は学習指導要領に法的拘束力をもたせ、そのことを背景に 教育の現場である学校に対し、「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を強制していった。それに対 し、「日の丸」、「君が代」は戦争のシンボルであり、学校教育において、「日の丸」、「君が代」 を強制することは、戦時中と何も変わらないとして反対し、抵抗する学校教師が処分され ていく事件が多々起こった。そこには、国旗・国歌の意義を考えていく上で、多くの重要な 問題がある。その問題について、事件をみていきながら考えていくことにする。 <「まわれ右」事件> 1970(昭和 45)年 3 月 16 日、群馬県前橋市。前橋市内の中学校は 16 日、一斉に卒業式 を行ったが、同市桂萱中(北爪三郎校長)で、式の最初の「君が代」斉唱のとき、卒業生の 3 年 1 組担任の小作貞隆教諭の「3 年 1 組はまわれ右」の号令で、48 人全生徒が後ろを向き、 君が代を歌わないという出来事があった。父兄や来賓はあっけにとられ、式後「造反教師を なぜ放って置いたのか」「ふだんの教育はどうなっていたのか」と騒ぎになった。事件当時、 51 歳で定年まであとわずかだった小作教諭の「君が代」拒否の要因は戦争体験にあった。戦 時中小作教諭は 2 人の兵士の死に際に立ち会った時、瀕死の状態の兵のベットサイドで上 官が「君が代」を歌えと命令しているところを見て、死者に対しても「臣民」たれ、という押 し付けの装置としての「君が代」の象徴的役割を知り、同時に怖さを味わったのだという。 小作教諭はクラスの生徒たちに、詳しくこのことを話し、これの積み重ねが「まわれ右」事 件を起こしたのである。つまり、小作教諭は「君が代」を教師として子供たちに歌わせるこ とが許されるのであろうかということにこだわったのである。この事件より、1 ヵ月後、 小作教諭は依頼退職を強いられ、職を失うことになる。 <ジャズ風「君が代」演奏事件> 1979(昭和 54)年 3 月 1 日、福岡県立若松高校の 78 年度卒業式が始まった。司会の「国歌 斉唱」の声にしたがって、ピアノ伴奏を担当した小弥信一郎教諭が「君が代」を弾いた。小弥 教諭は、左手で「君が代」のメロディーを、右手で修飾音を弾くというアレンジ伴奏を始め た。「君が代」がジャズ風に編曲されていた。しかし、その場では混乱はなかった。なぜ小 弥教諭は「君が代」をアレンジしたのか。同高校では、前年度までは「君が代」はなかったが、 78 年度の卒業式には、職場の合意がないままに校長の判断で実施と決定してしまった。校 長の「国歌斉唱」導入の理由は、①学習指導要領、②世論調査で 77%「君が代」を国歌と認め ている、③「君が代」の「君」は「あなた」の意味、④小中学校でも歌っており、生徒達にも違 和感はない、などであった。このことに異議申し立てをするためにアレンジ伴奏したのだ という。この事件では、国会議員も動き出し、自民党の機関紙『自由新報』は「血迷った音 楽教師」などの見出しをつけて、小弥教諭にような存在を許すなと激しい調子で報じた。こ の後、小弥教諭は、県教育委員会から分限免職処分を下されたのである。 <広島県立世羅高校校長自殺事件> 1999(平成 11)年、卒業式前日の 2 月 28 日の朝、文部省の指導によって、卒業式での「日 の丸」「君が代」の完全実施を求める県教育委員会が、県立の各高校校長に対して異例の職務 命令を出して圧力を加え、それに反対する広島県高教組(高校教師組合)側との「板挟み」状 態の結果、広島県立世羅高校の石川敏浩校長が自殺した。はたして石川校長を自殺に追い つめた「板挟み」状態とは、いかなるものであったのだろうか。広島県では、県教委、管理 者と教師組合との「日の丸」、「君が代」問題混乱回避のため、3 項目の協定による「広島方式」、 日の丸と君が代(久保) 223 第四部 迷える近現代 簡単にいえば、「日の丸」は式場正面に掲揚せず、三脚で設置する、「君が代」は事実上持ち 込まないといった方式を実行していた。ところが、1997(平成 9)年 2 月に、教員の行った「日 の丸」を取り上げた授業が「差別を助長」するという部落解放同盟の批判を機に、たちまち広 島の公教育は歪んでいるとの批判が県全体に拡大し、文部省が「是正指導」に乗り出すこと になる。広島県は部落解放同盟が伝統的に強く、とりわけ人権教育平和教育を重視してき た高教組との関係は親密であり、「日の丸」「君が代」に対して、人権教育の視点から鋭い対 応をするのは当然であった。 文部省は、辰野裕一氏を県教育長として送り込んだ。辰野教育長は、1998(平成 10)年 12 月 17 日に県立学校長に対して、「日の丸」「君が代」の完全実施を求める職務命令を出し、 さらに卒業式を間近にした 1999(平成 11)年 2 月 23 日に口頭ではあったが、2 度目の職務 命令を出した。2 度の突然の職務命令により、各校長の間で動揺が広がった。これまで平 和、人権教育を柱にしてきた広島で、それを否定すると理解されていた「君が代」を斉唱す ることは自己否定にもつながる。真摯な性格であれば、きつい指導である。定年間近の石 川校長はこうして死を選ぶことを決意したのであろう。 3 諸外国における国旗、国歌の状況 <アメリカ> 国旗について、初代大統領ワシントンは、「星は天を、赤は母国イギリスを、しかし、そ こに白い線を横切らすことによって、イギリスからの断絶独立を、この旗は心としている」 と述べた。アメリカ国旗の紅白の13本の横線は、独立戦争で独立軍として戦った13の 州を表し、星の数は、現在の州の数を表している。国歌は、1812 年∼14 年の対英戦争の 時、フランシス=キ−がイギリリスの捕虜になった際、かなたにひらめく一本の星条旗が 翻ったのをみて感激し、愛国の情熱をこめて書いた詩に、当時アメリカで愛唱されていた イギリスの歌「To Anacreon in Heaven」の曲がつけられたものである。 国旗=1942年、国旗に関する規則が下院で採択され、合衆国法典第 4 編第一章「旗」第 1 条「星条旗」と規定。 国歌=1931年、下院で法制化、合衆国法典第 36 編第 10 章「愛国的慣習」第 170 条「国歌」 と規定。 <イギリス> イギリスは,はじめ、イングランド王国とスコットランド王国が合併して大ブリテン王 国となり、さらにアイルランドが合併されてアイルランド連合王国となった。国旗は、イ ングランドの守護神セント・ジョ−ジの十字、スコットランドの守護神セント・アンドリ ュ−のXの十字、アイルランドの守護神セント・パトリックのXの十字を重ねたものであ る。1949 年にアイルランドが独立したが、デザインはそのままである。国歌は、女王を讃 えると同時に、3 番の歌詞に「May she defend our laws(女王よ、我々の法律を守り たまえ)」とうたわれている様に女王の権限を制限している。 国旗、国歌に関する成文法はない。 <フランス> フランスの国旗である自由、平等、博愛をしめす三色旗は、フランス革命初期に、元来 パリ市のシンボル・カラ−だった赤と青に、ルイ 16 世の王家をしめす白を加えたもので 日の丸と君が代(久保) 224 第四部 迷える近現代 ある。つまり、革命と王家の和解のしるしであった。国歌は、革命の時に、クロ−ド・ジ ョセフ・ル・リ−ル大尉が作詞、作曲した「ライン兵団のための軍歌」をマルセ−ユの義勇 兵達が歌いながらパリにはいったことから、「マルセ−ユ進軍歌」と呼ばれ、やがて「ラ・マ ルセイエ−ズ」と呼ばれるようになったものである。 国旗、国歌とも憲法第 2 条に規定。 <イタリア> イタリアの国旗は、フランス革命、ナポレオン時代にフランスの三色旗の影響によって 生まれた。1861 年イタリア王国が樹立されると、三色旗の中央にサルジニア王国サヴォイ ア家の紋章である盾が描かれた。第二次世界大戦中、ファシストに反対するレジスタンス は紋章のない三色旗を掲げ、ファシズムに手をかした王家を拒否し、戦後、この旗が国旗 となった。国歌としては、ファシスト政権下では党歌「ジオヴィネッツア」が国歌の様に歌 われていたが、戦後、「イタリアの兄弟よ」という新しいものにかえられた。 国旗=1947 年制定の憲法第 12 条に規定。 国歌=1946 年内閣通達で定め、翌年、制憲議会で申し合わせ。 <ドイツ> 1830 年代、憲法制定の運動の高まるなかで、人権抑圧に対する憤りを表す黒、自由を求 めてたぎる赤、理想と真理の輝く金色の三色旗が掲げられ、国旗とされていた。しかし、 1933 年にヒトラ−が政権を握ると、三色旗に代わってナチスのハ−ケンクロイツの党旗が、 国旗とされていた。第二次世界大戦後、当然この旗は、廃止され、もとの三色旗を国旗と して復活させたのである。国歌としては、ナチス時代、ハイドンが作曲した「皇帝賛歌」と ナチスの党歌の二重国歌となっていた。戦後、新国歌が制定されたが、国民の人気が得ら れず、かつての国歌であった「皇帝賛歌」の歌詞に問題のある1,2 番を除いて、3 番のみ が、「ドイツの祖国に権利と自由を」として歌われている。 国旗=1949 年制定の基本法(憲法)第 22 条に規定 国歌=西ドイツとして 1952 年、統一ドイツとして 1991 年、大統領・首相交換書籍で歌詞、 曲を規定。 各国における国旗、国歌の教育現場での扱い <アメリカ> 「連邦政府として公立学校での国旗掲揚、国歌斉唱などについていっさい関与していない」 (連邦教育省) <イギリス> 「国旗、国歌に関する法律がないから、政府には学校行事で国歌斉唱、国旗掲揚を指導する 権限はない。一般に入学式や卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱をおこなわないのではないか。 国旗、国歌の由来を多くの学校で教えているが、教員には教える義務はない」(教育・雇用 省) <フランス> 「国旗は学校を含むあらゆる公的施設で通常 1 本だけ揚げるのが慣例。祝日には内務その つど知事を通じて 3 本揚げるよう指導する」(内務省) 「学校行事でも音楽の授業でも国歌を歌うことを強制することはない。音楽教師の自由意志 に任されている。通達もないし義務、罰則もない」(教育省) 日の丸と君が代(久保) 225 第四部 迷える近現代 <イタリア> 1986 年の首相令で学年の初日と最終日に学校の外に揚げることが定められた。罰則規定は ない。入学式、卒業式そのものがないので、式での扱いは問題になりようがない。 <ドイツ> 「学校行事で国旗掲揚、国歌斉唱の義務はない。拒否して罰せられることはない」(連邦内務 省) おわりに 国旗、国歌は、19 世紀以後の近代になって生まれたものである。つまり、近代の国家は 「国民国家(ネイション・ステイト)」と呼ばれ、国境にくぎられた領域をもち、主権を備え た国家で、その中に住む人々が国民的一体性の意義(国民的アイデンティティ−とかナショ ナリズム)を共有している国家だと定義されている。国旗、国歌は、その近代国家の中で、 国民の意識統合、文化統合のシンボルとして、またその反面、他国民に対する対立、差別、 排除のシンボルとしてその役割を果たしてきたのである。 現在、国境を越えた人、モノ、カネ、情報の移動が日常化しているなかで、国旗、国歌の あり方が問われている。ただ、諸外国が国旗、国歌を法制化しているのをみると、国際化の 進む現状において、各国とも自国のアイデンティティ−を維持しようとしていることが考 えられる。日本における法制化も、数々の事件に対する問題処理という意味を除けば、少 なからずとも、 このことを意識してのものであろう。 しかし、 そのために戦前を思わせる「日 の丸」、「君が代」の強制教育を行うことは、時代錯誤であり、誰しもが、国家が再び天皇制 国家を復活させようとしているのではないか、と考えてしまうのが自然であろう。だから こそ、国家は、国旗、国歌による国民統合とその裏にある差別、排除の機能を最小限にし ていく知恵と努力が必要なのではないだろうか。 はじめにでも述べたように、私は国旗は「日の丸」であり、国歌は「君が代」でることに何 の疑問も違和感もなかった。ただ、それは私自身、あまり国旗、国歌に興味がなかったこ とがあったからである。今回の法制化は、私にとって国旗、国歌とは何であるかというこ とを考えさせてくれる良い機会となった。「日の丸」、「君が代」の歴史を改めて振り返るこ とで、今まで学校教育では学ばなかった深い部分を知ることができ、また、今まで私が「日 の丸」を単なるデザイン、「君が代」を単なるメロディ−として考えてなかったことに気付か された。国旗,国歌の意義を知り、その上で「日の丸」、「君が代」を考えてみた時、それに 対する私の扱い方が変わったように思える。 ただ、 それは否定するということではなく、「日 の丸」,「君が代」は私達、戦争を知らない世代にとって二度と同じ過ちを繰り返さないため の反省のシンボルとなるのではないか、というように思えたのである。 しかし、文部省の行ってきた学校教育への強制は、あまりにも理不尽で、日本国憲法が 保障している「思想及び良心の自由」に反していると思えた。強制のなかでは、必ず抵抗が 生まれる。ましてや、今の時代には時代錯誤で当然である。そもそも国旗、国歌とは、国 民の誰しもが快く思わなくてはならないものである。私のように認めている者もあれば、 反対する者もある。そのためにも強制という形をやめ、国旗,国歌の新しい意義を考える 必要性があるのではないだろうか。 日の丸と君が代(久保) 226 第四部 迷える近現代 参考資料 法律第百二十七号 国旗及び国歌に関する法律 (国旗) 第一条 国旗は、日章旗とする。 2 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。 (国歌) 第二条 国歌は、君が代とする。 2 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。 附則 (施行期日) 1 この法律は、公布の日から施行する。 (商船規則の廃止) 2 商船規則(明治三年太政官布告第五十七号)は、廃止する。 (日章旗の制式の特例) 3 日章旗の制式については、当分の間、別記第一の規定にかかわらず、寸法の割合につ いて縦を横の十分の七とし、かつ、日章の中心の位置について旗の中心から旗竿側に 横の長さの百分の一偏した位置とすることができる。 参考文献 『日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』 1985 年 歴史教育者協議会 地歴社 『日の丸・君が代 50 問 50 答』 1999 年 歴史教育者協議会 大月書店 『小中高校の教科書が教えない日の丸・君が代の歴史』 1999 年 板垣英憲 同文書院 『「日の丸」「君が代」「元号」考』 1997 年 佐藤文明 緑風出版 『だれのための「日の丸・君が代」?そのウソと押しつけ』 1999 年 広島県教職員組合協 議会 明石書店 『「日の丸・君が代」の話』 1999 年 松本健一 PHP 新書 『日の丸・君が代の戦後史』 2000 年 田中伸尚 岩波新書 『新聞集成 日の丸・君が代』 1989 年 監修=繁下和雄 大空社 『日本教育小史』 1987 年 山住正己 岩波新書 『世界の国歌』 1986 年 美山書房編 美山書房 『世界の国歌』 1988 年 森重民造 偕成社 日の丸と君が代(久保) 227 第四部 迷える近現代 従軍慰安婦問題の歴史的研究 林 史郎 はじめに 一九九一年一二月、はじめて三人の韓国人元従軍慰安婦が、日本政府の謝罪 と 補 償 を 求 め て 東 京 地 裁 に 提 訴 し 、日 本 人 に 衝 撃 を あ た え た 。「 従 軍 慰 安 婦 」と は日本軍の管理下におかれ、無権利状態のまま一定の期間拘束され、将兵の性 交 の 相 手 を さ せ ら れ た 女 性 た ち の こ と で あ り 、「 軍 用 性 奴 隷 」と で も い う し か な い境遇に追い込まれた人たちである。従軍慰安婦の存在自体は、戦争に行った ことのある元軍人ならだれでも知っていることであり、それまで従軍慰安婦の 問題がまったく意識されていなかったわけではない。しかし、問題の重大性に つ い て の 社 会 的 関 心 は 決 し て 広 く は な か っ た 。「 韓 国 挺 身 隊 問 題 対 策 協 議 会 」な どを中心とする韓国の女性運動によって問題が社会化したのである。これに対 してて日本政府は公式に謝罪(訪韓した宮沢喜一首相は九二年一月一七日、日 韓首脳会談で公式に謝罪)したとはいえ、国と国との間の請求権は決着ずみと し、個人の補償はおこなえないという態度を変更してはいないのである。 従軍慰安婦問題はさまざまな考えるべき問題をふくんでいる。女性に対する 重大な人権侵害であることはまちがいないが、日本軍の体質の問題、植民地政 策の問題、他民族蔑視の問題など、多岐にわたる。それらの問題解決のために も、何より事実究明の努力が必要である。ここでは、軍慰安所はいつどこにつ くられ、日本軍・日本政府はどのように関与したのか、また実態はどうであっ たのか等を分析・検討し、従軍慰安婦問題の全体像を解明していきたいと考え ている。 な お 、「 従 軍 慰 安 婦 」の「 慰 安 」と い う こ と ば の 本 来 の 意 味 と 、実 際 に 強 制 さ れ た 行 為 の あ ま り に 大 き な 落 差 の た め 、「 従 軍 慰 安 婦 」と い う 用 語 が 適 当 と は い えないという声も多い。私もその意見に賛成だが、すでに広く流通しており、 代替すべきことばはまだ成立していない。したがってここでは、従軍慰安婦と いう用語を用い、その実態を分析・検討していくこととする。 第一章 1 設置の経過と実態 第一次上海事変から日中戦争期について 従軍慰安婦や軍慰安所の制度はいつつくられ、どのように広がっていったの だろうか。残された資料が氷山の一角であるだけに、これを正確に把握するの は難しい。現在までのところ、確実な資料によって確認される最初の軍慰安所 は、第一次上海事変(三二年)のときに上海に派遣された日本海軍によって設 置された。その後、陸軍でも、上海派遣軍の岡村寧次参謀副長が海軍の慰安所 を参考にして設置した。岡村参謀副長の回想によれば、上海で日本軍人による 強姦事件が発生したので、これを防ぐため長崎県知事に要請して「慰安婦団」 を 招 い た と い う( 稲 葉 正 夫 編『 岡 村 寧 次 大 将 資 料 』戦 場 回 想 篇 )。シ ベ リ ア ・ ア ジア・太平洋の各地に、売春のために身売りなどででていかされた「からゆき 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 228 第四部 迷える近現代 さん」は、長崎県出身の女性が多かったので、陸軍はまずそれに目をつけたの であろう。ここで強姦防止を理由にあげているのは重要である。岡村と組んだ 岡部直三郎上海派遣軍高級参謀も、日記につぎのように記している。 この頃、兵が女捜しに方々をうろつき、いかがわしき話を聞くこと多し。こ れは、軍が平時状態になるだけ避け難きことであるので、寧ろ積極的に施設を なすを可と認め、兵の性問題解決策に関し種々配慮し、その実現に着手する。 主 と し て 永 見 中 佐 こ れ を 引 き 受 け る 。(『 岡 部 直 三 郎 大 将 の 日 記 』三 二 年 三 月 一 四日付) この記述から、軍慰安所設置を派遣軍参謀副長や派遣軍高級参謀が企図・指 示をし、永見参謀が設置にあたったという指揮系統がわかるが、何より重要な のは、軍慰安所は軍人による強姦事件を防止するためだという論理である。ど うしてこのような発想が生まれるのだろうか。また、なぜ、強姦事件発生を聞 くやいなや、すぐに軍慰安所を設置するというすばやい対応となったのだろう か。おそらく、一八年から二二年まで戦われたシベリア出兵の経験が念頭にあ ったと思われる。岡村も岡部もこの出兵を経験している。 シベリア出兵は、戦争の目的がわからない戦争であり、士気の低下と軍紀の ゆるみがめだち、民家からの家畜・薪の掠奪や強姦事件も少なくなかったとい う。これは作戦に支障をきたす要因として、軍首脳部にとっても頭が痛いこと であった。 さらにシベリア出兵で特徴的だったことは性病感染率の高さである。一八年 八月から二〇年二〇月末までの間に出た性病患者は一一〇九人に及ぶ。かかっ ていても隠す者が多かったから、実数はずっと多かったはずである。憲兵司令 部の分析によれば、その原因のひとつは将兵などの相手をする芸妓・酌婦の性 病感染率が高いことにあった。津野一輔サハリン軍政部長は二〇年九月一日、 「芸妓、酌婦取締規則」をつくり、芸妓・酌婦は憲兵隊の許可制とし、憲兵隊 の指定した健康診断を受けるよう義務づけている。これは憲兵隊管理の公娼制 である。すでにこのような経験を日本軍はもっていたのである。 三七年七月、日本は中国に対する全面的な侵略戦争を開始した。またたく間 に数十万もの兵力が中国大陸に派遣され、三八年以降は中国大陸に常時一〇〇 万以上の軍隊が駐屯するという事態になった。このような大量動員は、日本軍 にとってはじめての経験である。そして三七年末から、日本軍は中国各地に大 量に軍慰安所を設置しはじめるのである。 軍慰安所の設置に関係した将校は、ほとんどが陸軍のエリ−トだったという こ と か ら も 、慰 安 所 設 置 が 組 織 的 な も の で あ っ た こ と は あ き ら か で あ る 。ま た 、 決して現地軍の独断でそれがおこなわれたのではなかった。慰安所設置の具体 的施策は現地軍が策定したにせよ、この方策を積極的に是認し推進したのは、 ほ か な ら ぬ 陸 軍 省 で あ っ た 。陸 軍 省 の 関 与 を 示 す も っ と も 重 要 な 資 料 の 一 つ は 、 三八年三月四日に陸軍省副官通牒として出された「軍慰安所従業員婦等募集に 関 す る 件 」(『 陸 支 密 大 日 記 』防 衛 庁 防 衛 研 究 所 図 書 館 所 蔵 )と い う 文 書 で あ る 。 これによれば、陸軍省は、派遣軍が選定した業者が、日本内地で誘拐まがいの 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 229 第四部 迷える近現代 方法で慰安婦の募集をおこなっていることを知っていた。しかし、このような ことがつづけば、日本軍に対する国民の信頼が崩れる。そこでこのような不祥 事を防ぐために、各派遣軍が徴集業務を統制し、業者の選定をもっとしっかり するようにと指示したのである。また、徴集の際、業者と地元の警察・憲兵と の連携を密接にするように命じている。文書のなかに「依命通牒す」とあるの は重要で、これは陸軍大臣(杉山元)の委任を受けて出されていることを意味 する。すなわち、陸軍省が自ら慰安婦政策に関わることを宣言しているのだ。 他の資料からも、陸軍省は、軍人の志気の振興、軍紀の維持、掠奪・強姦・放 火・捕 虜 虐 殺 な ど の 犯 罪 の 予 防 、性 病 の 予 防 の た め に 軍 慰 安 所 は 必 要 だ と し て 、 そのはたす役割を積極的に認めていたことがわかる。 次に、陸軍中央(陸軍省・参謀本部)と派遣軍との指揮系統から考えてみよ う。各派遣軍は天皇の命令で出動し、参謀総長の助言にもとづく天皇の命令で 作戦に従事した。各派遣軍に対する指揮権は天皇がもっていたが、天皇から権 限の一部を委任されて、参謀総長が軍令(作戦)関係を、陸軍大臣が軍政関係 を担任した。これを区処という。参謀総長や陸軍大臣には指揮権はなく、区処 権しかなかったのである。 朝鮮軍司令官・台湾軍司令官も天皇に直隷し、軍令関係については参謀総長 の、軍政関係については陸軍大臣の区処(指示)をうけていた。憲兵に関して は、陸軍大臣は日本内地の憲兵を指揮し、朝鮮・台湾の憲兵の人事・服務など を管轄した。朝鮮軍司令官は朝鮮憲兵隊司令官を指揮し、台湾軍司令官は台湾 憲兵隊長を指揮した。このため、朝鮮軍・台湾軍や憲兵が関わったことについ て、その責任は陸軍大臣に及ぶことになる。 仮に慰安所設置や慰安婦徴集について陸軍中央の意向を無視してことが運ば れていたとしても、まったく責任がないとはいえない。しかし、慰安婦関係に ついては、各派遣軍の参謀部が担当したとはいえ、必要に応じ、陸軍省自身が 指示を出して統制していたのである。実際、慰安婦を船で戦地に送る際に、日 本陸軍が管理する日本船籍の軍用船を使用したが、これは陸軍中央の了解なし には不可能なことであった。船舶の輸送業務は大本営陸軍部の兵站総監(参謀 次長が併任)が管轄し指揮していたのである。 だが、陸軍だけでは円滑な運営は不可能であった。主に慰安婦の徴集・移送 に関して、内務省・朝鮮総督府・台湾総督府という国家機関が協力していたの である。内務省は慰安婦の渡航は、華北・華中に渡航する場合に限って、これ を 黙 認 す る と の 指 示 を だ し 、慰 安 婦 送 出 に 加 担 し て い る 。つ ぎ に 、朝 鮮 総 督 府 ・ 台 湾 総 督 府 を み て み る と 、朝 鮮・台 湾 か ら 慰 安 婦 が 中 国 に 渡 航 す る 場 合 、「 渡 航 証明書」の発行は、総督府の下にある各警察署がおこなっている。未成年者の 徴集や強制徴集がおこなわれた場合、そうと知りながら渡航証明書を発行した なら国際法違反であり、知らないで発行したなら職務怠慢である。しかも、朝 鮮・台 湾 の 各 警 察 署 は 、渡 航 証 明 書 の 発 行 の 際 に は 、慰 安 婦 な ど 渡 航 者 の 職 業 ・ 素性・経歴・言動・渡航期間・渡航目的を調査し、正当な渡航目的でなければ 許可しないことになっていたので、強制徴集の事実は十分に知りうる立場にあ 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 230 第四部 迷える近現代 った。 次に慰安婦徴集について考えてみる。慰安婦の集め方には、二通りあった。 第一は、派遣軍が、占領地で慰安婦にする女性を自分で集める方法である。第 二 は 、日 本・朝 鮮・台 湾 で の 徴 集 で あ る 。第 一 の 方 法 は 、後 に 説 明 す る と し て 、 ここでは、第二の方法をみてみる。これには、ふたつのやり方があった。ひと つ は 、戦 地 に 派 遣 さ れ た 軍 が 、自 分 で 選 定 し た 担 当 者 ま た は 業 者 を 日 本・朝 鮮 ・ 台湾に送り込み、慰安婦を集めるやり方である。ふたつめは、派遣軍からの要 請を受けて、日本の内地部隊や台湾軍・朝鮮軍が業者を選定し、その業者が慰 安婦を集めるやり方である。 いずれにせよ、憲兵や警察が表にでることはなかった。しかし、憲兵・警察 は業者を支援、もしくは連携して慰安婦を集めたことは間違いない。何より、 ど ち ら の 場 合 も 、慰 安 婦 を 集 め る 場 合 に は 、業 者 は 軍 ま た は 在 外 公 館( 領 事 館 ) が発行する許可証、または警察の正規の証明書を必ずもっていなければならな かったのである。軍慰安所設置および慰安婦徴集には、日本軍はもちろん、国 家ぐるみで関わっていたことは明らかである。 軍慰安所を設置した目的とはいかなるものであったのだろうか。すでに述べ てきたことと重複する点もあるがここでまとめてみようと思う。慰安所設置の 目的とは、一.強姦事件防止、二.性病防止、三.将兵への「慰安」の提供、 四.スパイ防止である。 まず一からみてみよう。設置目的は達せられたのだろうか。実際には、強姦 事件はなくなるどころではなかった。慰安婦制度とは、特定の女性を犠牲にす るという性暴力公認のシステムであり、女性の人権をふみにじるものである。 一方で性暴力を公認しておきながら、他方で強姦を防止するということは不可 能であり、当然ながら、強姦事件を防止する本質的解決に結びつくはずもなか った。本来、強姦事件を防止するには、犯罪を犯した軍人を厳重に処罰するこ とが必要であり、それこそがまずなされなければならないことであった。しか し、陸軍刑法の規定自体が強姦罪に対して甘かった。しかも、取り締まる側の 運用次第でどうにでもなったのである。 次に、二についてはどうであったのだろうか。性病の入院・完治期間は長い ので、軍にとって深刻な問題であった。では、慰安婦導入によって、性病患者 は減ったのだろうか。実際は、あいかわらず患者は多く、性病専門病院が必要 なほど深刻な状況であった。このため、軍当局は、占領地で民間の売春宿の利 用を禁止するとともに、軍医に定期的に慰安婦の性病検査をおこなわせ、兵士 にはコンド−ムの使用などの予防策を講じさせていた。しかし、管理されてい るはずの軍慰安所でも、性病感染は防げなかったのである。四〇年の北支那方 面軍「幹部に対する衛生教育順序」に書かれている性病予防法のいくつかをと りあげてみると、コンド−ムの使用だけでなく、性交前後の予防薬の使用や洗 滌消毒、帰営後に医務室に立寄り処置をうけるなど、たいへんめんどうなもの で あ っ た 。こ の よ う な 予 防 法 を 完 全 に 実 行 す る 者 は ほ と ん ど い な か っ た だ ろ う 。 また、性病患者だと判ると不名誉になるので、多くの将兵はそれを隠そうとし 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 231 第四部 迷える近現代 た た め 、慰 安 婦 だ け で な く 将 兵 が 性 病 の 感 染 源 に な る こ と が 多 か っ た の で あ る 。 性病防止に関して軍慰安所は十分な効果をあげなかったどころか、軍慰安所を 介して新規患者が生まれていった。 また、日本が開始した戦争は、勝利の見通しのない無謀な戦争であった。こ のような戦争に、休暇制度も不十分なまま、長期間戦場に将兵を釘付けしてお く た め に 、性 的 な 慰 安 が 必 要 だ と 日 本 軍 は 考 え た の で あ る 。軍 医 た ち は 、音 楽 ・ 映画・スポ−ツ等の娯楽施設の設置を提案したが、性的慰安施設を除いてほと んど実現しなかった。しかも、兵士の人権はまったく認められず、上官の厳し い監視と私的制裁が日常的におこなわれていた。このような状況で、将兵の戦 闘意欲を維持するために、また、その不満が爆発しないようにするために、日 本軍が軍慰安所を増やしていったことは見逃せない。 最後に、四のスパイ防止という側面について説明しよう。将兵が占領地にあ る民間の売春宿に通うと、地元の売春婦を通じて将兵から軍事上の機密が漏れ る お そ れ が 大 き く な る 。そ こ で 、み ず か ら 慰 安 所 を つ く り 、そ れ を 常 時 、監 督 ・ 統制することが得策だと日本軍は考えたのである。軍慰安所には憲兵や巡察将 校等が定期的に立寄り、将兵と慰安婦との関係や経営内容を点検した。スパイ 防 止 の た め に は 、慰 安 婦 は「 邦 人 」( 日 本 人 ・ 朝 鮮 人 ・ 台 湾 人 )で あ る こ と が 望 ましかった。だが、人数も足りないし、女性たちを輸送してくるには、時間と 手間がかかるので、占領地の女性も徴集した。そこで、軍慰安所の監督・統制 がなおさら不可欠となったと考えられる。 2 アジア太平洋戦争期について 四一年一二月、日本はアメリカ・イギリス・オランダなどに対して戦争をお こ し 、東 南 ア ジ ア・太 平 洋 の 広 大 な 地 域 を 占 領 し た( ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 の 開 始 )。 そして四二年初めから、日本軍が占領したこれらの地域に軍慰安所が次々に設 置されていった。 三八年以降、領事館(外務省)が軍関係の慰安婦についての管轄権を失って いた。アジア太平洋戦争開始以降には、慰安婦や業者が東南アジア・太平洋地 域に渡航する場合の管轄権もまた、軍に帰属することになる。外務省が関わる ことなく、軍の証明書のみで渡航するようになったのである。 こ れ に 対 し 、陸 軍 省 は 、ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 が は じ ま っ て か ら は 、東 南 ア ジ ア ・ 太平洋地域への慰安婦の渡航をすべて中央で統制しようとした。軍の身分証明 書を持たない者は渡航させないというのだから、陸軍省の許可なくしては慰安 婦が東南アジア・太平洋地域に行くのは不可能となったのである。 陸軍省は性病予防の面からも軍慰安所の管理を厳しくしていく。四二年六月 一八日の陸軍省副官通牒「大東亜戦争関係将兵の性病処置に関する件」は、陸 軍省があらためて全部隊に性病の蔓延防止を指示し、関連して全出動部隊に軍 慰安所の衛生管理の徹底を指示する文書である。これは、医務局衛生課が立案 したものだが、性病管理の面での軍慰安所の必要性を積極的に認めている。戦 争の新しい段階で、陸軍中央が性病予防という点から慰安所の必要性を再確認 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 232 第四部 迷える近現代 したのである。実際、当初から陸軍中央を悩ませた性病の広がりは、依然とし て深刻であった。四二年以降、陸軍省は従来派遣軍にまかせていた軍慰安所の 設置をみずから手がけはじめる。しかし、このような方策が決して軍紀風紀ひ きしめに役立つことがないことはあきらかであった。 海軍では、慰安婦のことを「特要員」と呼んでいた。海軍では海軍省が東南 アジア・太平洋方面への慰安婦の配置と運営方針を決定していた。ちなみに、 戦後に首相となった中曾根康弘も、この時期、主計将校(中尉)として軍慰安 所設営に関係していたことを、回想記「二三歳で三〇〇〇人の総指揮官」に記 している。海軍は慰安婦を船で戦地に送る際、軍艦や海軍が管理する軍用船を 使 用 し て い る 。そ の 指 揮・統 制 は 、海 軍 省 ま た は 各 鎮 守 府 や 各 艦 隊 が 担 当 し た 。 ここで、軍慰安所の形態についてまとめてみよう。軍慰安所は、経営形態か らみると、一.軍直営の軍人・軍属専用の慰安所、二.形式上民間業者が経営 するが、軍が管理・統制する軍人・軍属専用の慰安所、三.軍が指定した慰安 所で、一般人も利用するが、軍が特別の便宜を求める慰安所 という三つのタ イプがあった。もちろん、この三つは大まかな分類であり、実際には、直営慰 安所から民間の売春宿に近いものまで、いろいろなかたちがあったことはいう までもない。本来の軍慰安所は一、二であった。三は軍慰安所と民間の売春宿 との中間形態であった。そして、日中戦争期には、軍専属の慰安婦・軍慰安所 は領事館警察もある程度把握していたが、アジア太平洋戦争期には、これは軍 だけが把握するようになり、軍管理の性格がいっそう強くなっていったのであ る。 次に、設置された場所による違いも重要である。ひとつは、大都市などにあ って、駐屯部隊だけでなく、さまざまな通過部隊が利用する軍慰安所である。 約三〇軒が軒を連ねる漢口(積慶里)の軍慰安所はその代表的なものだった。 もうひとつは、特定の部隊に専属する慰安所である。部隊専属慰安所はその部 隊の分屯中隊に派遣されたり、部隊と行動をともにすることもあった。 ま た 、利 用 者 に よ っ て も 性 格 は 違 っ て い た 。将 校 専 用 の 慰 安 所 ま た は 料 亭 は 、 通常、将校クラブとよばれ、そこにいるのはほとんど日本人慰安婦だった。下 士官・兵用の慰安所にも日本人がいないことはなかったが、多くの場合、朝鮮 人・台湾人・中国人や東南アジア・太平洋地域の住民が慰安婦とされていた。 また、東南アジア・太平洋地域では、商社員など軍のために活動する在留日本 人の軍慰安所利用が認められる場合があったし、日本軍のための補助兵力とし て動員された地元出身の兵補用に慰安所がつくられていた場合もあった。 現在、日本・アメリカ・オランダの公文書によって、軍慰安所の存在が確認 さ れ て い る 地 域 は 、中 国 、香 港 、マ カ オ 、フ ラ ン ス 領 イ ン ド シ ナ 、フ ィ リ ピ ン 、 マレ−、シンガポ−ル、英領ボルネオ、オランダ領東インド、ビルマ、タイ、 太平洋地域の東部ニュ−ギニア地区、日本の沖縄諸島、小笠原諸島、北海道、 千島列島、樺太である。 だが、以上にとどまらないことはあきらかである。戦争のために軍隊が派遣 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 233 第四部 迷える近現代 されたところには、最前線をのぞいて、どこでも軍慰安所が設置されたとみる べきであろう。そして、大量の兵員が送られた地域では、多くの軍慰安所がつ くられた。本土決戦にそなえて大量の兵員が配置された九州や千葉県にも設置 されている。 慰 安 婦 の 総 数 は 、八 万( 千 田 夏 光『 従 軍 慰 安 婦 』)と も 、朝 鮮 人 だ け で「 推 定 一 七 万 ∼ 二 〇 万 」( 金 一 勉 『 天 皇 の 軍 隊 と 朝 鮮 人 慰 安 婦 』) と も い わ れ て い る 。 後者の数字はかなり多すぎると思うが、実数となるとはっきりしない。日本軍 は戦争犯罪の追及をおそれて敗戦直後重要な資料を焼却したし、現在残ってい る も の で も 日 本 政 府 は か な り の 資 料 を 公 開 し て い な い か ら で あ る 。私 と し て は 、 五万人∼二〇万人の間と推定している。しかし、占領地では、軍による拉致や 一定期間の監禁輪姦のケ−スや短期間の徴集のケ−スが多かったため、このよ うな被害者を慰安婦数に加算すればもっと多くなるはずである。 公文書によって確認されているかぎりでは、日本人・朝鮮人・台湾人・中国 人・フィリピン人・インドネシア人・ベトナム人・ビルマ人・オランダ人が、 慰安婦として徴集されていた。だが、これ以外にも、日本軍が占領した各地域 で、地元の女性たちが慰安婦にされたと思われる。慰安婦の民族別の比率はど うであったのか。直接、それを示す資料はないが、多少なりとも傾向をうかが うことができるのは性病関係の統計である。中国では、朝鮮人・中国人・日本 人が多い。しかし、東南アジア・太平洋地域では、輸送が困難であったことも あって、地元の慰安婦の割合がよりいっそう高くなったものと思われる。 いままでみてきたことから、慰安所制度の運営の主体は軍であったことはあ きらかである。まさに軍の管理下で設置・運営されていたのであった。 第二章 1 慰安婦の徴集方法と生活の実態 慰安婦の徴集方法 慰安婦徴集の実態は、軍や政府の資料からも推察できるが、現実に何がなさ れたのかを知るには限界がある。ここでは、主として元慰安婦の証言を中心に 考えていく。もちろん、記憶違いがないとはいえない。実際、証言内容が矛盾 し た り 、年 代 な ど が あ い ま い だ っ た り す る 。し か し 、そ の 証 言 は 、記 憶 違 い や 、 事実をかくしている場合をのぞけば、大変重要である。文字の世界に生きてい ないだけに、逆に、強烈な体験はそのときどきの鮮烈な記憶となっており、く りかえし聞くことによって当事者でなくては語りえない事実関係が浮かび上が ってくるからである。ここでは、様々な証言のうち、信頼性が高いと判断され る証言を検討しながら、徴集の実態を再現していく。 まず、日本人慰安婦の場合を考えてみる。日本内地から慰安婦を送ろうとす れば、二一歳以上で、しかも売春婦の中から集めるほかなかった。警察がその ように制限していたからである。これは、婦人・児童の売買を禁止した国際条 約に日本も加盟しており、それを意識しなければならなかったからである。し かし、警察の渡航許可基準は、厳密に守られたわけではなかった。警察の裁量 で、未成年者でも黙認される場合が少なくなかったのである。日本で暮らして 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 234 第四部 迷える近現代 いた朝鮮人の女性たちの場合、とくにこの基準が守られなかった。 朝鮮からの徴集でもっとも多いのは、だまされた連れて行かれたケ−スだっ た。彼女たちのほとんどは、家が貧しいため、苦しくて希望のない生活を強い られていた。また、彼女たちは、日本の植民地支配のもとで、また女性差別の も と で 、十 分 な 学 校 教 育 を う け ら れ な か っ た 。三 〇 年 の 朝 鮮 国 勢 調 査 に よ れ ば 、 朝鮮人男性の識字率は三六%であり、女性はたった八%であった。そのような 状況に追い込まれていた中で、良い仕事がある、工場で働かないかといった周 旋業者のあまい言葉にだまされて、連行されたのである。ほかにも、身売りや 暴力的に連行するケ−スがあった。売られて慰安婦にされた女性も、多くの場 合、前渡金による経済的拘束と詐欺がからみあっていたと考えられる。 日本国内でさえ、慰安婦を集めるときには憲兵・警察と十分連携をとるよう にと陸軍省が指示しているのだから、朝鮮や台湾では、業者と憲兵・警察との 連携はなおさら強かったと思われる。慰安婦の徴集は、行政と警察が前面にで る「官斡旋」に近いものではなかっただろうか。朝鮮に施行された刑法によれ ば、国外に移送する目的をもってする人の略取・誘拐・売買または被誘拐者・ 被買者の移送などは重罪であったから、厳重な取締りがなされなければならな かったはずである。しかし、警察の取締りはまったく不徹底なものであった。 さらに、朝鮮総督府は、送り出しについて戦地の実情に応じて、積極的に進め たり、調整したりしていた。所轄警察署が身分証明書の発給を通じて慰安婦な ど の 渡 航 先 別 の 統 制 を お こ な っ て い た の で あ る 。軍 の 要 請 を 優 先 し て い る 以 上 、 違法行為の防止が徹底しないのは当然であった。日中戦争期には、つぎのよう に統制されていた。まず、中国各地にある日本の領事館が現地の軍の要求を外 務省に報告し、外務省はこれを拓務省に通報する。これを受けて拓務省は朝鮮 総督府に知らせる。総督府はこれを警務局から道知事−警察署長へと降ろすの である。 『台湾報告書』によれば、九二年末までに被害を申告した女性またはその家 族への訪問調査の結果、慰安婦だった可能性があるものは五六名であり、その うち四八名は確実に慰安婦であったとされている。この報告書の個々の証言に 問題がないわけではないが、全体としてみれば、信頼性があると思われる。徴 集時期でみると、アジア太平洋戦争開始直後がもっとも多い。年齢は一六∼二 〇歳が二四名で、二一∼二五歳が一七名、それ以上が六名であった。朝鮮と同 じく台湾でも、未成年者がもっとも多いのである。徴集のされ方をみると、だ ま さ れ た 者 は 二 二 名 で 、半 数 に 達 し て い る 。そ の ほ と ん ど は 、「 軍 関 係 の 食 堂 や 酒 屋 で 仕 事 を す る が 体 は 売 ら な い 」と 周 旋 人 か ら 聞 い て 、応 じ て い る 。看 護 婦 ・ 洗濯・炊事などの仕事だとだまされた人もいた。つぎに多いのは、強制的に集 められたケ−スで、一〇名いる。慰安婦であることを承知で応じた者は三名、 だまされてブロ−カ−によって売られた者が一名であった。残る六名はどのよ うに徴集されたか不明であるという。なお、台湾の場合、前借金を貰ったこと を認めている人が九名いるのは特徴的である。しかし、彼女たちは慰安婦にさ れることを知らされていなかった。 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 235 第四部 迷える近現代 中国・東南アジア・太平洋の占領地での慰安婦徴集は、植民地とは違い、軍 が前面に出ているのが特徴である。また、海軍もみずから徴集にかかわってい た。フィリピンの元慰安婦の証言によれば、軍による暴力的な連行が非常に多 かったことが分かる。インドネシアでも暴力的な連行は少なくなかった。詐欺 による連行も横行している。 2 慰安婦の生活の実態 軍慰安所に対する監督・統制は、現地軍司令部の管理部や後方参謀、兵站の 慰安係、師団・連隊などの副官や主計将校、憲兵隊などが担当した。直営の軍 慰安所は軍が全面的に管理した。民営の形式をとった軍慰安所の経営について も、軍は厳しく監督・統制している。このような監督・統制の指示を出し、責 任を負うべき立場にあったのは、現地軍の指揮官であった。しかし、このよう な制度をつくり運営することが陸軍中央の承認と指示によっておこなわれてい たことは、すでにみたとおりである。 占領地に軍慰安所を設置する決定は部隊長がおこない、副官が主計将校など に指示して設置にあたった。まず最初に軍が用意したのは、慰安所にする建物 である。開設は軍の指定した地域・家屋に限られたが、家屋は多くの場合、ホ テル・食堂・商店や大きな屋敷など、軍が接収した部屋数の多い建物が当てら れた。また、部屋数が多いという条件のため、学校・寺院などが軍慰安所にさ れた場合もある。将兵が通うのに便が良い位置にあることも条件であった。軍 慰安所は、普通、兵舎から離れた場所につくられたが、兵営の中に置かれる場 合もあった。適当な建物が付近にない場合は、新しく建てた。四四年以降の沖 縄では、アメリカ軍の戦闘に備えて多くの兵員が送り込まれたため、軍慰安所 が多数つくられている。 建物を確保すると、軍慰安所として使えるよう に、小さく間仕切をし、便所・洗滌所・受付などをつくり、各部屋にベッド・ 毛布・消毒液を入れるなど、大工・左官などの技能をもつ兵士が改造・設営し た。軍慰安所の部屋の内部はさまざまだった。漢口の積慶里慰安所は、当初は アンペラ(アンペラという草の茎または竹で編んだムジロ)で部屋を仕切り、 布団や食器類は、無人の中国人家屋から設営隊員が徴発(掠奪)してきたもの を配布した。後には、業者が板壁を張り、畳を入れ、格子戸をつけ、漢口に新 し く 進 出 し た 大 丸 や 高 島 屋 か ら 色 鮮 や か な 寝 具 や 調 度 品 を 入 れ た と い う(『 漢 口 慰 安 所 』)。 前 線 に 近 い 軍 慰 安 所 は こ れ と は ま っ た く 異 な っ て い て 、 布 団 ま た は ベッドとわずかな家財道具を入れると、一杯になるような広さのものが多かっ た 。も っ と 前 線 に 近 い と こ ろ で は 、破 壊 さ れ た 民 家 な ら い い 方 で 、「 簡 単 な 板 囲 いに、中はアイペラ敷き、まるで簡易共同便所」のようなところもあったとい う ( 柳 沢 勝 『 オ レ は ま ん ね ん 上 等 兵 』)。 これまで、日本では、連行時の強制が問題とされてきたが、それと同様に、 あるいはそれ以上に重要なのは、慰安所における処遇や強制の問題である。連 行 さ れ た 女 性 た ち を 待 ち 受 け て い た の は 、言 う ま で も な く 性 交 の 強 要 で あ っ た 。 慰安婦が一日に相手にしなければならない軍人の数は、将校用慰安所では多く 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 236 第四部 迷える近現代 なかったが、下士官・兵用の慰安所では、多い場合は二、三〇人にもなった。 ビルマで軍慰安所を経営していた業者香月久治によれば、ある日、慰安婦が一 日に六〇人の相手をしたことがあったが、この女性は三日ぐらい休まなければ ならなかったというから、これは例外としても、女性にとって大変な苦痛であ っ た こ と は 間 違 い な い 。『 証 言 』か ら 分 か る よ う に 、応 じ な い 場 合 、性 交 を 求 め る将兵や高収入を望む業者は、暴力をふるって女性たちを脅迫した。また、酒 を飲んでの暴行や、絶望した軍人が、慰安婦に心中をせまることも少なくなか った。慰安婦にとって、心中を迫る軍人は、剣を抜いて暴行する軍人とともに おそろしい存在だったであろう。 慰安婦には休みはとくにないか、あっても月一、二回程度だった。報酬につ いても、慰安婦に渡るとは限らなかったのである。馬来軍政監が決定した「慰 安 施 設 及 旅 館 営 業 遵 守 規 則 」( 四 三 年 )に よ れ ば 、慰 安 婦 の 取 り 分 は 、前 借 金 が 一五〇〇円以上の場合は四割以上、一五〇〇円未満の場合は五割以上、無借金 の場合は六割以上としていた。この規定は慰安婦保護を目的としたものであっ たから、これでも条件が良いほうだった。また、この規則では、配分金の一〇 〇分の三を強制貯金とし、慰安婦配当金の三分の二以上を前借金返済にあてる こととし、慰安婦の「稼業」上の妊娠・病気などは本人の半額負担、そうでな い場合は本人の全額負担としている。だが、これが慰安婦にとって最良の場合 だった。多くの場合、衣装代・化粧品代など日用品が法外な値段で借金に繰り 入れられ、四割の取り分のほとんどすべては借金返済にあてられた。また、借 金がなくなった場合も、強制貯金・国防献金などの名目で差し引かれ、実際に お金を貰えない場合も少なくなかったのである。 慰安婦が軍慰安所から逃亡することは困難だった。業者や軍が監視していた からである。軍慰安所の外に出ることも簡単ではなかった。また、肉体的な苦 痛や精神的な苦しみから逃れるために、麻薬を常用する慰安婦も少なくなかっ た。病死や自殺も少なくなかった。 以上のような環境のもとで、軍慰安所の 女性たちは、日々、日本軍の将兵から性的奉仕を強要され続けていた。日本軍 は、このような女性を大量に抱え込みながら、彼女たちを保護するための軍法 を何もつくらなかったのである。事実上の性的奴隷制である日本国内の公娼制 でも、一八歳未満の女性の使役の禁止、外出・通信・面接・廃業などの自由を 認めていたが、この程度の保護規定すらなかった。従軍慰安婦とは、軍のため の性的奴隷以外のなにものでもなかったのである。 第三章 慰安婦問題に関する日本の国際法違反 従軍慰安婦を民族別にみると、朝鮮人の比重が高く、これに劣らず台湾人を 含 む 中 国 人 の 数 も 多 か っ た 。そ し て 、イ ン ド ネ シ ア を は じ め と す る 東 南 ア ジ ア ・ 太平洋地域の女性がこれについでいた。日本人も決して少なくなかったとはい え、植民地・占領地の女性の比率が非常に高かった。これは何を意味するのだ ろうか。まず考えてみなければならないのは、植民地の女性の比率の高さであ る。占領地である中国や東南アジアの女性たちが「現地徴集」であったのに対 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 237 第四部 迷える近現代 し、朝鮮・台湾の女性たちは朝鮮・台湾・日本で集められ、わざわざ船などで 戦地に運ばれていったのである。それは政府や軍の政策なしには考えられない ことであった。植民地の女性が慰安婦とされた根底に民俗差別があり、それが 女性を奴隷化することであり、どんなに民族としての屈辱をあたえることにな るのかという考慮がまったくなかったことは確かであろう。そして、今ひとつ 見逃せない理由は、国際法上の問題であった。ここでは、主として慰安婦徴集 に関わる当時の国際法を点検しつつ、その観点から慰安婦問題の本質を考えた い。なお、占領地の女性の徴集の背後にも人種差別・民俗差別があったことは 言うまでもない。 「 支 那 渡 航 婦 女 の 取 扱 に 関 す る 件 」( 三 八 年 二 月 二 三 日 )は 、植 民 地 女 性 を 慰 安婦にする理由を明示するものとして、また、政府が国際法をどの程度意識し ていたのかを示すものとして重要である。ここでは、日本から、売春婦でない 日本人女性が慰安婦として中国に送られれば、国民とくに出征兵士を送り出し ている家族に深刻な影響を与える。また、出征兵士の姉や妹や妻や知りあいの 女性が慰安婦になって戦地に来るような事態が生じたら、国家や軍に対する兵 士の信頼感も崩壊するということを指摘している。慰安婦の徴集がそういう深 刻な問題を含んでいることを、内務省は内務省なりにつかんでいたのである。 こうして、日本からの慰安婦徴集は、きわめて限定されることになった。これ は、逆にいうと、日本人以外であれば、または日本の外からであれば、そのよ うな考慮を払う必要がないと日本政府が考えていた、ということを意味してい る。朝鮮人や台湾人ならかまわないとされたのである。この通牒が朝鮮や台湾 には通達されなかったことに、その本質があらわれている。 婦人・児童の売買禁止に関わる国際条約は、当時、つぎの4つがあった。 一 .「 醜 業 を 行 わ し む る 為 の 婦 女 売 買 取 締 に 関 す る 国 際 協 定 」( 四 年 ) 二 .「 醜 業 を 行 わ し む る 為 の 婦 女 売 買 禁 止 に 関 す る 国 際 条 約 」( 一 〇 年 ) 三 .「 婦 人 及 児 童 の 売 買 禁 止 に 関 す る 国 際 条 約 」( 二 一 年 ) 四 .「 成 年 婦 女 子 の 売 買 の 禁 止 に 関 す る 国 際 条 約 」( 三 三 年 ) 日 本 は 二 五 年 、一 、二 、三 の 3 つ の 条 約 に 加 入 し て い た( 四 は 批 准 せ ず )。ど の ようなことが規定されていたかを、二を例にみてみる。 第一条 て、未成年の 何人たるを問わず他人の情欲を満足せしむる為、醜業を目的とし 婦女を勧誘し、誘引し、又は拐去[誘拐]したる者は、本人 の承諾を得たるときといえ 第二条 て 、詐 欺 に 依 ども‥…罰せらるべし。 何人たるを問わず他人の情欲を満足せしむる為、醜業を目的とし り 、又 は 暴 行 、強 迫 、権 力 濫 用 其 の 他 一 切 の 強 制 手 段 を 以 て 、 成年の婦女を勧誘し、誘 引し、又は拐去したる者は‥…罰せらるべし。 すなわち、未成年の女性の場合は、本人の承諾のあるなしに関わらず、売春 に従事させることを全面的に禁止し、成年であっても、詐欺や強制的手段が介 在していれば刑事罰に問われることを定めているのである。この条約における 未成年の規定は、二では二〇歳未満、三では二一歳未満となっていた。日本政 府は当初、未成年を満一八歳未満とするという留保条件をつけて条約に加入し 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 238 第四部 迷える近現代 ていたが、二七年にはこの留保条件を撤廃している。したがって日本でも、軍 慰安所がつくられはじめたときには、未成年とは二一歳未満ということになっ ていた。しかし、この国際条約には、これを植民地などに適用しなくてもよい との規定があった。植民地などに関して、一〇年条約は、実施するときは文書 を も っ て 通 告 す る と 定 め( 第 一 一 条 )、二 一 年 条 約 は 、適 用 除 外 す る 場 合 は 宣 言 することが出来る(第一四条)としていた。日本政府はこの規定を利用して、 この条約を朝鮮・台湾などには適用しないこととしたのである。戦時国際法な ど国際法の制限はないと判断して、慰安婦を徴集したのは占領地においても同 じであった。 では、日本政府や軍は国際法に違反していないと言えるのだろうか。この問 題を正面から取り扱った国際法律家委員会(ICJ)の従軍慰安婦に関する最 終報告と国際法学者阿部浩己の研究「軍隊「慰安婦」問題の法的責任」等を参 照にして考えてみる。植民地などからの連行は、国際法上まったく自由だった のだろうか。この点につき、ICJの見解はつぎのようである。植民地などへ の適用除外を認めている二一年条約第一四条の規定は、植民地などに残ってい る持参金・花嫁料の支払いなどの慣行を直ちに一掃するわけにはいかないので 挿 入 さ れ た も の で あ る( 朝 鮮 に は そ の よ う な 慣 行 は な か っ た )。条 約 の 意 図 は 売 春 の た め の 女 性 の 連 行 を 促 進 す る こ と で は な か っ た か ら 、「 朝 鮮 女 性 に 加 え ら れた処遇について、その責任を逃れるためにこの条文を適用することは出来な い」とする。また、朝鮮から船で送られるときに、一度日本に上陸したと述べ る元慰安婦が少なからずいることも指摘している。 奴隷条約が締結されたのは二六年である。日本はこの条約を批准しなかった から、その限りではこの条約に拘束されないといえる。しかし、ICJは、二 〇 世 紀 初 頭 に は 、「 慣 習 国 際 法 が 奴 隷 慣 行 を 禁 止 し て い た こ と 、お よ び す べ て の 国が奴隷取引を禁止する義務を負っていたことは一般的に受け入れられてい た」と述べている。また、国際連盟規約が奴隷の積極的解放をおこない、奴隷 取引を禁止し、強制労働を禁止するよう各国に義務づけていること(第二二条 第 五 項 )な ど か ら 、こ の 条 約 は 慣 習 国 際 法 の 宣 言 で あ る と み る の が 一 般 で あ る 。 とするなら、阿部もいうように、条約の基本的な部分は「慣習国際法を表現し たものとして、当時すでに、この条約の非締約国である日本を含むすべての国 を拘束していたと考えられる」のである。すなわち、所有物同然の状態におく 意思をもって、個人を捕捉・取得または処分し、奴隷を取り引きし、または輸 送することは、禁止されていたことになる。 陸戦の法規慣例に関する条約(ハ−グ条約)は七年に締結され、日本は一一 年一一月に批准している。その付属書である「陸戦の法規慣例に関する規則」 第四六条は、占領地で「家の名誉及権利、個人の生命、私有財産」などの尊重 を求めている。ICJは、この条約には全交戦国が加入しなければ適用されな いとの総加入条項があるので、直接には適用されないが、第四六条は慣習国際 法 を 反 映 し た も の だ と 述 べ て い る 。そ し て 、「 家 の 名 誉 」と は「 強 姦 に よ る 屈 辱 的な行為にさらされないという家族における女性の権利」を含んでいるとし、 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 239 第四部 迷える近現代 「 個 人 の 生 命 」の 尊 重 と は 生 命 だ け で な く 、「 人 間 と し て の 尊 厳 」を 含 ん で い る と指摘している。阿部も、この規定は慣習国際法を成文化したものとして、総 加入条項にかかわりなく日本を拘束しているとし、女性は戦時において「強姦 や 強 制 的 売 淫 」か ら の 保 護 を 約 束 さ れ て い る と 述 べ て い る 。こ の 慣 習 国 際 法 は 、 占領地の住民を保護するもので、植民地の女性にまでは適用できないが、これ に違反することは文字通り戦争犯罪になる。 それにしても、前述した条約群は、民間の業者が女性に売春をおこなわせる ことを取り締まるために締結されたものであった。国家がこれに違反する主体 となり、しかも女性を軍関係公務員(軍人・軍属)に限って提供するためにそ れをおこなうことは、決してあってはいけないことであった。軍や政府が積極 的に慰安婦を送出しつづけたことそれ自体が恥ずべき行為であったといえる。 終わりに 従軍慰安婦問題の本質とは何か。これまでに検討してきたことをもう一度ま とめてみると、第一に、女性に対する暴力の組織化であり、女性に対する重大 な 人 権 侵 害 で あ っ た 。第 二 に 、人 種 差 別・民 族 差 別 で あ っ た 。こ の 背 景 と し て 、 日本の男性社会にアジア人女性に対する性的蔑視意識が広くあったといえるの ではないか。第三に、経済的階層差別であった。第四に、国際法違反行為であ り、戦争犯罪であった。従軍慰安婦問題は、以上のような複合的な人権侵害事 件であった。そして、これが決して偶発的なものでなく、国家自身が推進した 政策であったところに問題の深刻さがあった。慰安婦にされた女性たちは、戦 後、性病・子宮摘出・不妊などの身体の病気と、トラウマ(精神的外傷)に悩 み、社会的差別に苦しまなければならなかったのである。 問題の解決のためには、政府所管資料の全面公開と、すべての被害国の証人 からのヒアリングによる真相解明、これらの行為・犯罪に対する承認と謝罪、 被害者の名誉回復と個人賠償、過ちをくりかえさないための歴史教育・人権教 育の実施などが少なくとも必要である。 九六年一二月に、藤岡信勝・西尾幹二・小林よしのりなど自由主義史観研究 会 と 右 派 知 識 人 が 中 心 と な っ て 、「 新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会 」 が 発 足 し た 。 彼らは、中学歴史教科書に「慰安婦」記述が載ったことに反発して、削除を要 求したり、南京大虐殺・三光作戦は虚偽と言うなど、かっての日本軍の犯した 誤りを、資料を歪曲して次々と弁護・美化し、日中戦争・アジア太平洋戦争さ え賛美する動きを展開している。このように、過去を偽るものに今日と未来を 方向づける教育を語る資格がないことはあきらかである。 事実としての歴史を自分の都合のいいようにねじ曲げていくのでは、言い訳 をする子供と同じである。人間の記憶はしだいに風化していくものである。忘 却 す る こ と も 自 然 で 、し か も 必 要 な 行 為 で あ る 。し か し 、忘 れ て い く か ら こ そ 、 歴史の真実と問題の本質を次の世代に語り継ぐことが、より重要なのである。 「従軍慰安婦」という哀れな人生をいきた女性たちがこの世からいなくなった 時、戦争を実際に体験した「証人」の生命が燃え尽きた時、どれだけの人が、 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 240 第四部 迷える近現代 日本が過去に犯した目を背けたくなるような過ちを認識し、真っ向から考えて いけるかが重要である。 参考文献 『従軍慰安婦』 1995 『教科書から消せない歴史 −「慰安婦」削除は真実の隠蔽』 1997 『皇軍慰安所とおんなたち』 2000 『初年兵と従軍慰安婦』 1997 『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』 吉見義明著 岩波新書 久保井規夫著 明石書店 峯岸賢太郎著 吉川弘文館 菅原幸助著 三一書房 国際法律家委員会著 明石書店 日本の戦争責任資料センタ−編 青木書店 1995 『ナショナリズムと「慰安婦」問題』 1998 『 日 本 軍「 慰 安 婦 」を 追 っ て 』 ー 西野留美子著 マスコミ情 報 センタ 1995 従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 241
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