2 古代の体験教育 - 独立行政法人 国立青少年教育振興機構

12 Ⅰ 特集 青少年教育と体験活動/2 古代の体験教育
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古代の体験教育
青柳 正規(独立行政法人国立美術館理事長)
古代ギリシアから継承しているもの
ギリシア・ローマの文明論の中で、体験学習、体験教育というものを考えていきたいと思います。
我々の現代社会は、古代のギリシアからいろいろなことを継承しています。例えばソクラテス、
プラトン、アリストテレスの思想、あるいはデモクラシーという政治体制もそうです。民主制
度は、人類が考えだした政治制度の中で最も優れたものだと考えられますが、それは既にギリ
シアで実施されていました。現在の我々の政治、組織制度、文化などについても、ギリシアか
らいろいろな言葉が伝わっていますし、概念が定着しています。
また、スポーツの概念は、ギリシアのアントロポモルフィズムに端を発していると思われます。
神様と人間とが同じ形をしている「神人同形」という概念で、現代社会に対して重要な影響を
与えていると思います。ゼウスを祀るオリンピック競技というものが、19世紀にクーベルタン
によって近代オリンピックとして復興されています。最近のオリンピックは商業主義化しては
いますが、平和のシンボルという理念を考える時、古代ギリシアの重要性を忘れることはでき
ません。
ポリス(都市国家)とアゴラ(広場)
ギリシア本土の面積は決して広くないにもかかわらず、いくつもの都市国家に分裂していて、
都市国家どうし、つまりギリシア人どうしが常に戦争をしている状態でした。その一方でアテ
ナイ(注)を代表とする民主制度が確立していきます。また、法律による法治国家を確立したとい
う点では、のちの近代社会に大きな影響を与えてい
ます。我々は常にその原点として、ギリシアのポリ
ス
(都市国家)
というものを考えざるを得ないのです。
都市国家は、アテナイがいちばん栄えたときでも
人口が20万前後、普通はひとつが10万以内くらいの
非常に小さなものでした。アテナイのアクロポリス
を典型とするような神殿が町の中心に設けられ、自
分たちの守護神を祀る神殿を中心に都市を発達させ
ていきます。アクロというのはアクロバットのアクロ
で、先端という意味です。ですから、アクロポリス
という名前は、都市の先端、いちばん高いところと
いう意味で、
どこの都市国家にも必ず存在しています。
アクロポリスがポリスの精神的な中心だとする
と、市民の社会生活・政治生活は、アゴラと呼ばれ
る広場にあります。この広場の中に市場があったり、
政治的な議論をするストアがあったりし、古代ロー
マになると、フォルム、英語のフォーラムに相当す
青柳正規氏
るものになっていきます。
(注)アテナイはギリシア共和国の首都アテネの古名。
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アテナイの民会
アテナイの民会は、18歳以上の市民権を有する男子で構成されていました。ただし、18歳か
ら20歳までの間は一種の見習いのようなもので、20歳になって初めて民会で発言権を獲得する
ことができました。アテナイの民会にはいろいろな歴史がありますが、民会は市民たちが貴族
からようやく獲得した権利を行使する場でした。
民会の審議事項で一番重要なのは、戦争関連のものでした。当時は常に都市国家間での戦争
がありましたから、宣戦布告があるのと同時に同盟講和条約の締結をどうするかということ、
また、手柄を挙げた人をどう顕彰するか、ということも考えておく必要がありました。この顕
彰制度は、健全な社会を維持するために非常に重要です。
この民会に対するものとして、貴族の存在がありました。貴族は選ばれた人として早くから
社会的訓練を受けており、古代社会ではある一定の機能性を持っていました。家庭の中で、そ
の息子はこうあるべきであるということを、生まれたときから教育されるわけです。王家や帝
王教育に相当するものがずっと行なわれていたので、民会やデモクラシーが定着したアテナイ
においても、この貴族の存在を忘れることはできません。紀元前4、5世紀になっても、貴族
たちは一定の社会的存在感を持っていましたが、徐々に彼らの力が弱くなっていきます。将軍
職ストラテゴイは、紀元前5世紀の初め頃から一般市民にも開放されていきますが、戦術や戦
略は父親から語り継がれるので、名家の出身者がストラテゴイに就く場合が多く、一方で、専
門的な知識を要さない陪審員や行政官、あるいはその補佐は、クレロテリアというシステムを
使ったくじ引きで選出される場合が多かったのです。
スパルタの社会制度
今の話はアテナイを中心にしたものですが、一方、スパルタはまったく違う社会制度を持っ
ていました。紀元前8世紀頃、スパルタはペルポネソス半島の真ん中にある小さな国でした。
約15万人とか25万人とも言われる先住民族ヘイロタイのような人たちを、1万人前後のスパル
タ生粋の男たちが支配しなければならなかったため、徹底的な訓練が行われました。
このスパルタでは、生まれてから男子も女子も、だいたい3、4歳から共同生活に入り、18
歳くらいまではずっと徹底的な集団教育をポリスによって受けていきます。スパルタでもアテ
ナイでも、教育は公的な部分が支えていましたが、スパルタの集団教育は徹底していたので、
例えばペルシア戦役のときにも、数百人のスパルタの兵士が何万というペルシアの軍勢を相手
に闘って、対等に戦を持ちこたえることができたといった話があるほどです。つまり、たいへ
ん優秀な兵士を育てることができる制度だったようです。
ギリシアの教育(ギムナシオン)
ギリシアの教育について考えていきたいと思います。アテナイなどでは7歳から12、13歳、
あるいは14歳くらいまで初等教育を受けます。この初等教育では道徳、読み書き、計算、音楽、
そして体を鍛えることを教えます。アレキサンダー大王の頃から、図画工作が加わります。小
学校の先生に相当する人から、これらの基本的なことを習得していきます。この段階でももう
すでに、費用等はポリスが負担しています。
それが終わった段階で、ギムナシオン(直訳すると裸で鍛えるところという意味)でさらに
優れたレトリック、雄弁術、もう少し高度な算数、体を鍛えるということを徹底的にやってい
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きます。アテナイの場合には、アカデメイア、リュウケイオン、キノサゲスという3つの有名
校があり、ギリシアの若者たちにとっては、そこに入ることが社会的に活躍していく基盤にな
りました。ここでも体を鍛える体育というものを、知育と同じように非常に重視していました。
都市国家間の抗争と同時に、「神人同形主義」が背景にありました。「神様と人間というのは同
じ形をしている。そして、美しい人間の肉体というのは、アポロンのような、あるいはゼウス
のような神様と同じような形なのである。だから、体を鍛えて美しい肉体を作ることが、神様
に近づく一つの方法である。
」ということをギリシア人たちは信じていたわけです。その一方で、
今で言うディベートですが、対話の訓練をします。中等教育では、これが非常に重要視されて
いきます。そして、この中での優れた生徒たちが、高等教育の段階、セコンダリースクールに
進んでいって、雄弁術というものに磨きをかけていくわけです。
スポーツを伴う祭典による民族意識の維持
そのような教育制度と都市国家間の抗争の中で、ギリシア人として同じ民族意識をどう維持
していくのかということが、最大の課題でした。そこで、スポーツを中心とした祭典をやるこ
とによって、全ギリシア的なものを定着していこうとしていきます。スポーツを伴う祭典は、
ギリシアの様々な古い都市国家には必ずといっていいほどありました。いちばん有名なのは、
もちろんオリンピック競技ですけれども、デルフォイではピュティア祭と呼ばれるようなもの、
ネメアではネメア祭というもの、コリントスでは海峡のことに絡めてイストゥミア祭というも
のが行なわれていました。
オリンピックと休戦協定
オリンピアの発祥の理由は、ぺプロスとオイルマオスの戦車競技であると言われています。
オリンピック競技が開かれるとき、エケケイリアという休戦協定を結ぶのです。最初の頃は1
週間くらいで、ギリシア世界全体にこのエケケイリア、つまりオリンピック休戦というものが
布告されて、その間は戦争をやっていてもやめなければいけないのです。また、オリンピック
に行くために、敵国の人間も自分の領地の中を安全に通過させなければいけないので、様々な
国際協定・エケケイリアが結ばれ、それをほとんどの都市国家が遵守しました。このことが、
オリンピック競技というものを全ギリシアの中で確立させていくわけです。それが徐々に浸透
し、ヘリニズム時代くらいになると、3カ月というたいへん長い期間、休戦協定が守られるよ
うになっていきます。オリンピックには、紀元前5世紀以降は、シチリアのアクラガスから、
あるいは北アフリカのキュレナイカ(今のリビア)という地から、フランスのマルシーリア(今
のマルセイユ)などからも選手が派遣されるようになったため、休戦期間が長期になっていく
のは当然のことでした。
オリンピックの種目
戦車競技はハイライトで、一度に40台の戦車、それぞれが4頭立ての戦車ですが、これが出
発すると、接触したりして、ゴールまでたどり着くのは2、3台くらいしかないという場合もあっ
た、悲惨な競技でした。
オリンピック競技には、チャリオットレース、戦車競技、ボクシング、レスリング、徒競走、
剣を持っての闘い、ショットプッティング(砲丸投げ)、アーチェリー、弓、ジャグリング、や
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り投げというようなものがありました。活躍した有名な選手は、例えばチャリオットレースでは、
アンピオコスあるいはエペイオスなどの名前が記録されています。金メダルをもらった人たち
を輩出した都市が、名選手たちの彫刻や碑文をオリンピアのゼウス神域の中に捧げたため、彼
らの名前を今でも知ることができるのです。
中でも重要な種目と見なされたのは、五種競技のペンタスロンです。投てき、跳躍、走るこ
となどを総合した強さを持っている人が、いちばん優れているとみなされたのです。近代でも
東京オリンピックの頃までは、十種競技が人気でしたが、今は以前ほど注目されていないよう
です。これは社会全体が専門家、先端化、細分化されているのとちょうど似たような現象で、
それが近代オリンピックにも現れてきていると思われます。古代では、総合的な肉体の優秀さ
を端的に現すのが五種競技でいちばん重要な種目と考えられていたようです。そういう意味で
は、スポーツの趨勢にもその時代の考え方が色濃く反映されていたように思います。
走ることもたいへん重要な種目でした。スタディオンと呼ばれる運動場の真ん中に、オリン
ピアでは直線で192mの走る場所がありました。短距離走は、こちらからスタートして向こう側
まで一回だけ。往復するのが中距離走で、長距離走は、その中をぐるぐる回って走るというも
のでした。短距離走が一番人気だったようです。選手たちはすべて裸です。神に捧げるために
男子がすべて裸で行ないますから、女子の観覧は禁止されていて、一部の巫女だけが観客席の
いちばん上のところで立ち見していたようです。そして優勝者には、このオリンピック競技の
場合ですけれども、コキロスと呼ばれる月桂樹の葉冠が捧げられました。そして普通は、二度
くらい続けて優勝すると、ゼウス神殿の中に銅像を造ってもらうことができました。
ローマの青少年教育
次に、ローマの青少年教育というものを少し考えていこうと思います。ローマの場合はギリ
シアと違って、公的負担ではなく、すべて教育は家族が負担をするという意味での私塾でした。
頑強な人間を育てていたローマ社会の中に、ギリシアの教育制度を持ってくると、ギリシア人
のように軟弱になるという偏見があったというのがその理由の一つです。ところが内実は、小
学校の先生のマギステル、中等教育のグランマティクス、高等教育のセコンダリースクールの
レットールやオラトールというのは、ほとんどギリシア人です。ですから制度は取り入れませ
んでしたが、実際の教育を担った教師たちはギリシア人でした。
初等教育では、読み書き、そろばんが中心でした。例えば読むことの遊び、ルドゥス・リテ
ラリウスは、普通の子どもにとってはルドゥス(遊び)というようなものではなくて、たいへ
ん厳しい辛い教育だったようです。しかも、広場の端のところに座らせたり、八百屋の店先を
教師が借り受けて、そこの中にぎゅうぎゅう詰めにしたりという、劣悪な環境だったようです。
一般の子どもたちは初等教育のみで、だいたい7歳から14歳くらいで終わっていきました。
のちに政治家として成功していくような人物たちは、文法教師や弁論教師のような、優れた私
塾にかなりの月謝を払って自分の技を磨いていかざるを得なかったのです。一部の人間が高等
教育に行き、18歳ぐらいでだいたいの教育を終えたときに、いわゆる青年団のような、ユヴェ
ントスに入って、全人教育を受けていくというレベルに進んでいったわけです。
ローマの中でも、ポンペイのような南の都市には、ギリシアの影響が非常に強くあります。
ポンペイの遺跡の中のいちばん東南隅のところに、かなり広い列柱をめぐらせた大パラエスト
ラというところがあります。ここはおそらく、ローマ時代になってもギムナシオン的な教育を
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受ける場所であっただろうと推測されます。真ん中のところがプールで、東の端に向かって斜
度があって、だんだん歩いていくと深くなり、いちばん深いところでは3mくらいです。そこ
に水を張って水泳を教えました。周りではレスリングや徒競走をやったり、列柱の木陰の中で
はいわゆる知識教育や雄弁術の授業をやったりしたようです。
しかし、こういう施設は都のローマにはありません。ポンペイにはもう一カ所、小パラエス
トラというところがあります。後には剣闘士たちが、夜は牢獄のような小部屋で、昼間は仲間
を相手に訓練をして、円形競技場で殺しあいをするような場所でしたが、ここも剣闘士競技が
流行る前は、教育の場として使われていたようです。2000年以上前、たった人口1万2,000人く
らいのポンペイで、すでにこれだけの施設を持っていた。そういう意味では、やはり教育を非
常に重要視していたギリシアの伝統を、南イタリアでは見ることができます。
貧乏人でも初等教育は受けます。普通は初等教育を受けた後の14歳くらいから職業教育に入っ
ていきます。親方のところに丁稚奉公をするわけですが、おもしろいことに、どれだけの職業
教育をするのか、賃金はいくら払い、一日の徒弟の時間はどれくらいなのか、などの細かなこ
とを父親と親方の間できちんと決めていたのです。契約社会というものが、古代からあったわ
けです。しかも、訓練中の徒弟と訓練が終了した徒弟とでは、はっきりと扱いが違い、修了証
書も親方が出していました。職業訓練によって一人前になっていく、この職業教育は、古代社
会の中でのいわゆる体験教育、あるいは体験学習として、重要なものでした。
まとめ
以上で、だいたい締めくくりたいと思います。我々は制度としての教育の限界を認識してい
ますから、カリキュラムの外にある学習、偶然性を伴う体験学習、体験教育というものに、あ
る一定の価値を置いています。
教育学習というものも、カリキュラムを定めて、これからこれだけのことは学ぶべきだよと
言ってはいるが、それ以上に教育させるべきことがあるのではないかという根底の認識があり、
それが、体験学習、体験教育に期待感を持たせているのではないでしょうか。
体験学習に我々が期待していることの一つは、サバイバル能力を個々にどう身につけていく
かということで、それが体験教育の究極の目的ではないでしょうか。そのためには、いろいろ
な教育制度や学習体験を個人の中でいかに総合化していくかということが重要です。学習を自
分の経験として蓄積し、知識と知識を結びつけることによって自分なりの知恵を作り上げてい
く。あるいは社会の中でこう生きるべきであるという、きちっとした倫理観に見合う知識の総
合化、つまり見識というものをどう持っていくか。そして予期しない状況になった場合でも、
人間としての尊厳を維持しつつ生存し続けていく能力を持っていくということです。そういう
意味では、やはりこの体験学習というものをやっていくことによって、真の人格形成ができて
いくのではないかと考えます。
ギリシア・ローマ、それから現代の日本を考えたときの体験学習、教育というものは、自分
たちの社会、文明をどうしようとしているのか、どういう在り方が、我々人間にとっての価値
あるものなのかという、文明の認識に至るのではないか。そしてその意味での体験学習という
ものを考えることが、さらなる新しい社会にとって非常に重要なことなのではないか、という
気がいたします。
(平成24年5月8日、国立オリンピック記念青少年総合センターにてご講演)