10.MODERNISM 2012.11.16 近代建築理論研究会 川添研 M1(37-126130)李 鹿璐 1889 - 1914 H.F.Mallgrave, MODERN ARCHITECTURAL THEORY, A Historical Survey, 1673-1968, Cambridge University Press, 2005 10.MODERNISM 1889 - 1914 1.Otto Wagner 2.Realism and Sachlichkeit 3.Endell and van de Velde 4.Olbrich,Hoffman,and Loos 10-1. Otto Wagner 19 世紀の大半を費やし、理論面から探られて来た歴史的形態1は、1889-1912 の間に崩壊する。(Mallgrave) ✛ 近代性の広まり(p204) ヨーロッパで新しい展望を示す論文が発表されたのは 1896-1901 の間。 近代建築思想が唐突に変容、と同時に2大陸2にまたがって広がる。 ex.)パリ万博(1889)のエッフェル塔などは新しい近代性の象徴 ←建築家達は、既に出来上がっていた理論的基礎の上に新しいスタートを切ろうとしていた。 Antonio Gaudi(1852-1926)—1889 年にバルセロナのグエル邸完成。 Louis Sullivan(1856-1924)—1890 年、シカゴのライトの事務所にウェインライト・ビルの設計案を引っ提げ、摩天楼問 題3の解決を高らかに宣言した。 Victor Horta(1861-1947)—1892 年、タッセル邸(アール・ヌーヴォー建築の始まりとされる)設計。 Otto Wagner(1841-1918) 1890 年代、ヴァ―グナーは既に 50 代で、ある程度成功を収めていたが、それまでの歴史主義的傾向からの転身を試みる。 シンケルの死の 3 ヶ月前、H.H.リチャードソンの生まれる 3 年前に、ウィーンに生まれる。 ウィーン工科学院→ベルリン建築アカデミー→ウィーン美術学校と進学。 卒業してすぐは、投機的なプロジェクトに集中。 1870-80 年代は、経済的成功を収めていた。古典主義の贅沢な別邸4。 しかし、長年多くの国際コンペに参加していたものの、入賞したことは一度も無かった。 1889 年、当時 48 歳になったヴァーグナーは、自身の設計の研究論文を発表しはじめる。 ✛ ヴァーグナーの論考 序 文 で 自 ら の ス タ イ ル を 、 敷 地 の 状 況 や 近 代 的 な 材 料 に 合 わ せ た ル ネ サ ン ス 様 式 ”a certain free Renaissance”と表現。 →これからの様式として必要様式”Nutz-stil”を提示。 →フランス写実主義画家たちの”breakthrough”を挙げる。 「エッフェル塔やオステンドのクルサールなどの感動的な例が示すように、リアリズムは建築に置いても特別な成果を収めるだろ う。」 1 2 3 4 historical forms おそらくヨーロッパと北米 “skyscraper” problem Huttelbergstrasse 26 番地のヴァーグナー別邸 1/13 から、彼の経済状況が垣間見える。 10.MODERNISM 1889 - 1914 ✛ ウィーン美術学校 教授就任演説 1894 年 2 月、ウィーンの都市計画マスタープランのコンペで優勝。 →4 月、Stadbahn 市営鉄道の設計者に任命。19 世紀の間に多くの鉄道関係の作品を残す。 →7 月、ウィーン美術学校の教授に就任。就任してすぐにルネサンスのカリキュラムを廃止する5。 →10 月、就任演説。Josef Hoffman, Leopold Bauer, Josef Ludwig,そしてヴァーグナーのスタッ フの中でもっとも才能のある二人 Joseph Maria Olbrich と Max Fabiani らが聴講。 歴史主義的様式に対する激しい非難 「建築家は時代の鏡でなければならない。…よって建築家は、現在広まっているリアリズムを 受け入れなければならない」 リアリズムによって、形態 forms に新しい生命が吹き込まれ、工学のように、現時点ではま だ芸術性を欠いている分野をも支配するようになる。 このようにして、われわれの時代特有の様式に到達することができる。 →建築ジャーナル Der Architekt の創刊号に掲載。Max Fabiani は、リアリズムをヴァーグナー派のス ローガンとして喧伝6。 ✛ 「近代建築」Moderne Architektur(p205) 教授職就任 2 年後の 1896 年、「近代建築 : 学生に与える建築手引き」を刊行7。 →前 書 き ― 建 築 家 ̶ 様 式 ̶ 構 成 ̶ 構 造 ̶ 芸 術 の 実 際 8̶ 結 語 の章立てで構成。 →「前書き」は、その後頻発するテーマから始まる。 「 本書全体に生命を与えている一つの考えがある。すなわち、建築についての今日支配的な見解の根拠は変 わらなければならず、そして、われわれの芸術創造の唯一の出発点はまさに近代生活である、という考えで ある。」9 建築家が理想と現実をみごとに調和させ、 「近代人の冠位にある者と讃えられてきた 10 」と感 じていても、建築家は大衆には「全く理解できない」大量の形態を提示するために、彼の造 り出したものが必ずしも同様に賛美を得られるわけではない。 「様式」の章でも近代的である必要性を述べる。 「 5 近代の創り出すあらゆるものが、近代の人間に適合すべきであるなら、新しい材料と現在 ヨーロッパの教授のそのような教育上の改革を行ったのはヴァーグナーが初めて。 ヴァーグナー派は、 「近代生活の必要性、われわれの世紀に拡張された建設の知識、全く新しい素材の技術へ関心を向ける」建築の一 派である、と書かれている。 7 ヨーロッパで広く読まれているのはオリジナル(1896)で、装丁も簡素だが、3 版目(1902)には美しく装丁され、目立ったテーマは 大文字で強調されるなど、素晴らしくデザインされた宣言書となった。 8 the architect, style, composition, construction, the practice of art 9 「近代建築 : 学生に与える建築手引き 」オットー・ヴァーグナー; 樋口清, 佐久間博訳;中央公論美術出版;1985 の日本語訳に 基づく。以下、本書の引用は全て同様に従う。 10 同上。 6 2/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 の要求に対応しなければならず、われわれ自身のよりよい、民主的な、自覚した、理想的な あり方を具現し、巨大な技術的、学問的な成果と人間のあらゆる実際的な動向を考え入れな ければならない̶̶̶これは自明なことである!」11 新しい様式は、さらに感情と知性の変化すら表現しなければならない。 「ロマンチックなもののほぼ完全な衰退と、そしてほとんどすべてのものを支配する理性の 出現を、われわれのあらゆる作品にはっきり表現しなければならないであろう。」12 それはつまり、「近代とルネッサンスの間には、今日すでに、ルネッサンスと古代ギリシア の間にあるものより大きな違いがある」13から。 →ヴァーグナーの理論の核は、「構造」(construction)の章。物質主義的仮定から始まる。 →ゼンパーの「建築の四要素」(『様式(Der Stil)』が刊行されたのは 1860)を参照。これらの要素を、概 念や技術として見るのではなく、それ自体が形をつくる(form-shaping)要素として解釈。 「どの建築形態も構造から生まれ、次第に芸術形態になった」14 →続くゼンパー批判。 「ゼンパーが、その著『様式』によって、確かに少し外国風なやり方ではあるが、われわれの注意をこの公 準に向けさせたことは、異論なく彼の功績である。しかし、彼はダーウィンのように自分の理論を徹底的に 一貫させる勇気をもたず、構造そのものを建築芸術の原細胞と見ないで、それを象徴的に扱うことで済ませ ていた。」15 ゼンパーの四要素は象徴的、観念的(形而上)だが、ヴァーグナー自身は、それを純粋に建設 construction の問題と考えた(形而下)。 →ゼンパーは物質主義的に建築を construction や力学の延長として捉えることはしないと言っているので ヴ ァ ー グ ナ ー の 理 論 の 基 礎 は そ も そ も 反 ゼ ン パ ー 的 だ っ た 。 ヴ ァ ー グ ナ ー の 理 論 は 、 Rudolph Redtenbacher (1840-85)(第 9 章参照)と通じるところがある。 →ヴァーグナーは、建設上の形態(constructional forms)から芸術的形態(art forms)がいかにして生 まれるかという問題を扱った最初の建築家だった。 「ルネッサンスの建築方法」(巨大な石塊を積み上げる。時間と金がかかる)と「近代の建築方法」(外装用に薄い板石(平滑面)を 使い、ブロンズの鋲(バラ型鋲)で裏地に留める)という二種類の建設方法を提示。後者は時間や経済面で優れているだけでなく、最 大の利点として「そのような方法がいくつかの新しい芸術的なモチーフを生み出す」16 ことが挙げられている。そして、この方法はま さに 1902 年に設計されるウィーン郵便貯金局で採用されている。 ✛ ヴァーグナーの実作の変遷(p206) 11 12 13 14 15 16 同上。 同上。 同上。 同上。 同上。 同上。 3/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 ヴァーグナーの建築が全く新しく発展していくのは Universitatsstrasse のアパートメント(1889)か ら。外見はサリバンのウェインライト・ビルでの摩天楼問題の解決方法に驚くほど酷似している。ただし、 耐力壁にバロック的モチーフが。Rennweg Strasse(1889)のアパートメントの装飾にもバロック要素が見 られる。 →これらはナポレオンⅠ世にちなんでヴァーグナーの”Empire”時代といわれる。 Esseg の教会の案(1892)ではオルタがタッセル邸で流行らせたような装飾で遊んでいた感 がある。 Stadtbahn の駅舎群(1894-)も、ヴァーグナーの新たな展開を示しているものの、彼のリ アリズム指向の論述とピッタリ合っている、というわけではない。大体は古典的にまとめあ げられているものの、矛盾点も多い。 1890 年半ばの他の作品も、Empire 的であり、彼の生徒たちもこのことには気付いていた。 Fabiani は、ヴァーグナーの就任演説の記事で、「歴史主義的様式をベースにしている」と して見過ごしている。 Empire からの脱却が行われたのは 1898 年。Wienzeile40 番地アパートメント17の一枚のドローイングに 端を発する。Empire 的装飾が消され、分離派の抽象的な花模様のマヨリカタイルに書き換えられている。 →さらに微妙だが、根本的な飛躍が見られるのはウィーンの Capuchin 教会の霊廟のプロポーザル案(1898)。 著書で語っているように、建物を御影石の薄板で覆う。さらに、明るい色の御影石に暗いブロンズと銅の笠木でオフセットする。友人 の Gustav Klimt の色彩感覚に明らかに影響を受けている。 →ヴァーグナーが初めてこの「御影石工法」で「近代生活」を実行できたのは郵便貯金局だった(設計 1903)18。 1 ブロック先のリングシュトラーセからよく見えるようにするために、鋲の先端を全て金メッキしている。処理された鋲の先端は、裏 地にパネルが貼付けられていることを示している。 「新しい芸術的なモチーフ」の内の一つ。この装飾的な鋲の先端は、建物の内側にも 多用されている。 10-2.Realism and Sachlichkeit Semper,Lipsius,Pecht,Heuser,Gurlitt,Albert,Hoffmann,Wagner,Streiter,Lichtwark,Schumacher,Lessing ら、建築リアリズムとザッハリヒカ イトの信奉者たちは、1890 年代ドイツ建築理論の支配的な派閥を形成する。(Mallgrave) ✛ Realism(p207) ヴァーグナーが 1890 年代に繰り返し述べていたリアリズムは、実はドイツの建築理論では真新しいことで はなかった。 →「リアリズム」はこの段階でドイツモダニズムの枠組みとなっていた。 リアリズムの起源は、もちろん 1850-1860 年代のフランス絵画のムーブメントに遡る。ヴ ィオ-レル-デュクの作品に用いられた。 17 18 通称「マジョリカハウス」 1900 年に市役所のコンペ案でも採用していたが、実現せず。 4/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 フランスの建築集団の中では 1870-1880 年代に Paul Sedille19(1836-1900)の著作な どに見られる。 ドイツでは、文学 20 や絵画21のムーブメントにおいて、1880-1890 年代に使われるようにな った。 ←建築の分野では、 「リアリズム」が最初に現れるのは 1860 年代のドイツ。ゼンパーの著作に見られる。 『様 式(Der Stil)』の第 2 巻に頻出。ここでは”素材に対する誠実さ、構造上の見た目、建築主題の率直な表 現22”と同義。 →ゼンパーの早年の伝記を書いたザクセン人建築家 Constantine Lipsus(1832-94)は、「象徴性 the symbolic と現実的感覚 realist sence を強調し、それらを用いて建設上、素材上の問題に取り組んだ」 と述べている(1880)。 →Friedrich Pecht は 1884 年に自著23でリアリズムについて取り上げる。 Pecht は、ドイツリアリズムを、(宗教と引き換えにした)科学の支配と、ドイツの統一から自然に発展し、これにより、ドイツの芸 術がフランスの影響から脱した、としている。 ← 新しい潮流を定義するにあたり、ゼンパーに従っている。 「ゼンパーが様式 style を「芸術作品がその発生から、あらゆる生成の前提条件と調和していること」と見事に定義したとするならば、 現代の芸術のリアリズムの時代は、かつてないほどに様式の感覚が発達している。」 1880 年代中頃には、 「リアリズム」はドイツの芸術文学ではおなじみとなる。 (同じ頃、フランスでは消えつ つあったが) Conrad Fiedler は早期からこの概念をとりいれているが、naturalism を realism と互換的に用いている。 Gurlitt(第 9 章参照)は 1888 年の Goller の書評の最後に realism を用いる。Pecht や Fiedler と似たような意味。 ベルリンの建築家 Albert Hofmann は 1889 年、パリ万博の建物に対し好意的な評論を寄せ、その中でフランスリアリズムの 遺産と同方向に進むドイツの文学、芸術運動について述べる。 「リアリズムは徹底して近代的であり、今世紀の精神を最も表している。」 1890 年、Deutsche Bauzeitung の編集者である K.E.O.Fitsch は、ただ”idealism”を”realism”に置き換えることで、 19 世紀のドイツ建築の発展の概要を書いている。ゼンパーをリアリズム運動のリーダーとする。 同年の Georg Heuser の返答で、ゼンパーではなく 1846 年の Botticher の演説に端を発すると訂正。 →ヴァーグナーの著作も、このような確立されたリアリズム運動をコンテクストに捉えるべき。このことを指 摘したのは Richard Streiter(1864-1912) ✛ Richard Streiter(1864-1912) (p208) フランク人建築理論家。ミュンヘン工科大学で建築を学ぶ。Paul Wallot のベルリンの事務所で働いた後、 19 20 21 22 23 パリのプランタンデパート(1881-5)などで知られる建築家。 Adalbert Stifner や Gottfried Keller の小説は、テーマの選び方などからリアリズムに特徴づけられる。 Adolf Menzel,Wilhelm Leibl,Max Liebermann ら。 Material honesty, structural display, and the straightforward expression of constructional motives German Art Since the Appearance of the Realist Movement 5/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 1894 年にミュンヘン大学で博士号を取得。 →”Empathy-theory”24による美学に興味を持つ。 →1896 年、Botticher に関する学位論文を仕上げる。彼の tectonic の概念は今や心理学的美学に取って 代わられたと述べる。 Streiter は、ヴァーグナーを過去のドイツ建築理論に照らし合わせ、真摯に再評価している。 →彼はヴァーグナーの強調した「近代様式」に共感し、ヴァーグナーが様式 style を暗に形式的な用語とし て用いていると指摘。 リアリズムの根源を 18 世紀の Jean-Louis de Cordemoy に求め、最近のリアリズム運動を「幻想的な理 想主義」に堕ちたとしている。これはドイツユーゲントシュティール運動についての批判。 →アール・ヌーヴォーを、リアリズムの潮流から生まれた付帯現象と分析。 ヴァーグナーを”tectonic” realism の一建築派閥の主導者とする。 「われわれの時代は、心理的美学が「構造的、技術的 Sachlichkeit(即物性)」のもとに発展している。」 一方で、ヴァーグナーの tectonic realism を拒絶。「構造 construction」の章において「芸術的形態 は構造 construction から生じる」という主題を吟味し、ヴァーグナーがゼンパーの理論を故意に歪め、 「構 造の象徴性 symbolism of construction」に反感を持っていると分析。しかし、Streiter は、構造的 形態はそれ自体が成り立たない、と考えた。 →ヴァーグナーの理論と実作の乖離を指摘。「ヴァーグナーよりもこの主題をうまく説明している建築家は数多くいる。」 →ヴァーグナーが「ルネッサンスの建築方法」と「近代の建築方法」を並列したことも気に入らなかった。 Streiter の建築リアリズムの定義(1896) →「建物を建てるときの実際の状況をできるだけ広範に捉え、機能性、快適性、健康(Sachlichkeit)の 要請を可能な限り完璧な形で達成すること」 ✛ Sachlichkeit(p209) Streiter のリアリズムの定義は Sachlichkeit に集約される。Sachlichkeit =objectivity としば しば翻訳されるが、彼にとって「最も簡単で実際的な解決方法で、最も完璧に目的を達成する」ということ だった。 ←ヴァーグナーの”tectonic”の理論だけでは、本質的に表現力に乏しい。環境や周囲の建物の素材、景観や 地域の歴史も考慮に入れなければならない。 24 ”Empathy-theory”は,心理学者の Theodor Lipps が提唱したもの。 6/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 留意したいのは、ドイツ建築理論ではこの後の数年間、Sachlichkeit は Realismus(realism)の代替と して、非常に似通った意味で用いられる。 新しい「リアリズム様式 style」について、Streiter は心理的審美眼を持ち出し、ヴェルフリンの formalism、シュマルゾーの空間論を説明する。 →結果的には前者を擁護。1893 年のシカゴ・コロンブス万博の例を反例として引用(「古くさい建築形態が無尽蔵 の生命力で生き残っている」)、単なる構築的形態 tectonic and constructional form から進歩するために は一貫した美的感覚が必要であることを強調。 Streiter の 1890 年代リアリズムの解釈に賛同する者もいた。 Alfred Lichtwerk(1852-1914) Hambrg Kunsthalle の支配人。Pan25 の活動。 ド イ ツ 工 作 連 盟 Werkbund の 先 駆 け と し て 重 要 な Durerband( 芸 術 顧 問 集 団 と し て 1902 年 に 設 立 ) 、 Bund Heimatschultz(ドイツ文化振興のために 1904 年に設立) のナショナリズム運動にも参加。 自著ではリアリズムを「伝統主義(歴史様式)とロマン主義(アールヌーヴォー、ユーゲントシュティール)の災厄に対する近 代的解決方法」とした。 Fritz Schumacher(1869-1947) リアリズムを、建築を根本から変えるもとのして捉えていた。 ニューヨークのコロンビアで育ち、1890 年代前半にミュンヘン、ベルリンで学ぶ。1896 年、ライプツィヒの市役所に務め始 め、1906 年にはムテジウムらの助力でドレスデン応用芸術の展覧会を行い、1907 年には、ミュンヘンのドイツ工作連盟結成 記念に講演を行っている。 1898 年に『様式と流行26 』を著す。近年の潮流を振り返った。 Julius Lessing 長らくゼンパーを支持。ヴァーグナーがリアリズムを標榜したときも真っ先に声を上げた。 1895 年の著作『新しい道27』はヴァーグナーの著作より先で、ヴァーグナーに影響を与えたと思われる。 →歴史主義から脱却する方法として自然主義を標榜。さらに、その際にはゼンパーの言う所の「目的、材料、技術」の三つ組が 重要であるとする。 Dohme の建築と、船舶や近代的な乗り物とのアナロジーに言及し、クリスタルパレスからシカゴの摩天楼、1889 年のパリ万 博へと結びつけた。”somewhat austere beauty of the late nineteenth century” 10-3. Endell and van de Velde ✛ ユーゲントシュティール/分離派/アール・ヌーヴォー (p211) 25 26 27 同名の雑誌を刊行していた。 Style and Fashion New Paths 7/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 リアリズム運動からでなければ、1890 年代のユーゲントシュティール、分離派、アール・ヌーヴォー運動の 複雑さは理解できない。 フランスのアール・ヌーヴォーは、Henry van de velde の 1895 年以降の成功からは、新たな局 面を見せ始める。 1898 年ウィーン分離派の二人のブレーンは Joseph Olbrich と Joseph Hoffmann だった。共に ヴァーグナーの事務所で働いていた。 ベルリンでは、1895 年から活動するジャーナル”Pan”を中心にユーゲントシュティールがわき起こ っていた。28ユーゲントシュティールの始まりは、通常 1896 年の Hermann Obris(1863-1927) のテキスタイル展覧会とされる。 →多くのユーゲントシュティールの芸術家の中でも、August Endell が、ユーゲントシュティール の原理を建築言語に最も上手く翻訳した。 ✛ August Endell Endell は、芸術、建築全体に渡ったときに、ユーゲントシュティールという言葉がいかに誤解を招きやす いかを指摘している。 ←ベルリン建築の申し子であり、テュービンゲン大学で学んだ後、1892 年にミュンヘン大学へ。その後、 Theodor Lipps のもとで Richard Streiter とともに博士過程。 →1896 年、Obrist の影響で装飾芸術に興味を持つ。芸術の探求にあたって、知性よりも感性を重視。 →1898 年、二つの論文を提出。 当時の構造的 tectonic リアリズム的傾向に真っ向から対立。 心理的共感 psychological empathy の重要性。 建築家は形と色に、さらに一般的に取り組むべき。なぜなら、「洗練された形態感覚 sense-of-form は建築創造における前提条件であり、これは知性だけでは吸収できない。」 ヴェルフリン、ゲラー、グルリットらの formalism に言及。 二本目の論文では、一枚の図版29をもとに論を展開。 開口とマリオンの形を変えるだけで、いかに感じ方の振れ幅が大きいかを示している。 Figure2 は「緊張と激しいテンポ」を、Figure3 は「緊張はゆるく、ゆったりとしたテン ポ」を表すという具合。 エンデルの分析的努力が垣間見える。ユーゲントシュティールの大多数の自然主義的捉え方 と違い、形を抽象的に捉え、分析している。 形態 form の心理学を「形状、色、プロポーション、空間の関係性」のみに注目して発展さ せようとしている。 エンデルの理論は説得力に欠けている。(Mallgrave) 28 29 Pan は、リアリストである Streiter や Lichtwark の記事も扱っていた。 この図版について ペヴスナーは、「1920 年代のドイツの住宅のデザインと見紛うほど酷似している」と述べている。 8/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 ✛ Henry van de Velde(1863-1957) 19-20 世紀の変わり目には、エンデルの功績はベルギーのヴァン・デ・ヴェルデに追い抜かれることになる。 ←ベルギーは長らく、新しい芸術の生まれる重要な地域だった。ジャーナル L’Art Moderne は 1881 年の 創刊から 3 年後には、しきりに「アール・ヌーヴォー」を取り上げるようになる。 →1883 年に、20 人のアヴァンギャルド画家らによって形成された集団 Les Vingt はこの種の最初の分離団 体だった。Georges Seurat や Paul Gauguin、Walter Crane らの展示。思想が過激化したために 1893 年に解散。 アントワープ生まれのヴァン・デ・ヴェルデは、パリから帰国後 1888 年に Les Vingt に参加。のちに絵 画から装飾芸術に移行。 →モリスとイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に感銘を受ける。 →1893 年、アントワープアカデミーで教職につくと、イギリス式の教育を実践。 →1895 年、家具デザインと建築に転向。ブリュッセル近くに”cottage”を作り始める。石、レンガ、木材、 漆喰でつくられたある種粗野な住宅で、建築と自然、装飾芸術の統合を試みた。 →Siegfried(Samuel) Bing と Julius Meier-Graefe が訪れる。Bing はただちにヴァン・デ・ヴェル デをパリに呼び、店(Maison de L’Art Nouveau。1895 年にオープン)の内装をデザインさせた。 →Dresden Exhibition(1897)で内装をデザイン。二年後にベルリンに移り意欲的に活動。 ドイツに移ってすぐにデザイン理論を出版。『近代応用芸術のルネサンス』30 (1901) 新しいムーブメントの由来をビングのパリの店と記述。 ラスキン、モリス、クレーンとともに、ヴィオ=レル=デュクも新しいムーブメントの基礎 とする。 さらに面白いことに、リアリズムと自然主義の延長として新しいムーブメントを捉えている。 リアリズムも自然主義も、歴史的経緯を断ち切り、色、線、形態といったものに目を向けさせてくれたから。 「リアリズムもナチュラリズムも、芸術家にとって生命の再発見と、生命への回帰を示して いる。」 「新しい装飾」の概念。そのものに固有の線や色の調和やバランスの追求。エンジニアと比 較。 すぐ後の別の著作では新しい様式 style の二つの原理を提示。「理性と(その結果である)論理」 ここでも、エンジニアの生み出したもの(機関車、橋、ガラスのホール)を挙げ、これらの 新しい近代性の手本としての重要性に言及。 建築の美しさを「手段と目的の完全な一致」と定義。 Chevreul と Helmholtz の知覚的な理論を引用。 「線は能動的な力である。複数の線が共存すれば、初歩的な力と同様に、互いに反応する。 この事実は極めて重要である。」線は、知覚する段階で目から出る一種のエネルギーのよう 30 The renaissance in the modern applied arts 9/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 なものによる、感情の移動に影響される。 論を展開させて行くうちに、自身の作品のきらびやかさと、合理的かつ感情的な理論との間の整合性が取り 難らくなった。 →同時代の人々からは、一貫性の無さを非難される。1898 年代にはヴァン・デ・ヴェルデを熱く支持してい た Julius Meier-Graefe も、1901 年のミュンヘンのアパートメントの書評において、彼の問題点を指摘 した。「アパートメントの内装は”Belgian line”が無いために魅力的に見える。」 →ヴァン・デ・ヴェルデはアール・ヌーヴォーで名声を得るが、1901 年以降、その建築的立脚点を変えたた めに、既に得ていた評判の通りに作品を作るのが難しくなってしまった。 10-4. Olbrich,Hoffman,and Loos 世紀末ウィーンでも、ヴァン・デ・ヴェルデの合理主義的理論と実作との乖離は顕著だった。ヴァーグナーのテクトニックリアリズム が、建築が過去と決別するための一つの理論大系を提示したならば、同様の主題に対して、他にもいくつかのヴァリエーションがあっ た。(Mallgrave) ✛ ヴァーグナーとウィーン分離派(p.213) 1896 年あたりのヴァーグナーの作品に見られる理論との乖離は、リアリズムと芸術の間に適切に橋渡しをす るのことがいかに難しいかを示している。 ←実は、このあたりの時期はウィーン分離派の活動時期(と、ヴァーグナー自身の分離派時代)と重なる。 ←結果的には、ヴァーグナーと分離派との接触は、彼の思考を前進させるのではなく妨害することになった。 ウィーン分離派は、運営をめぐる個人的な諍いに端を発しているため、他の類似する運動とは異質。 ←1861 年以来、行政が資金提供するウィーンの展示会は一切をウィーン芸術協会31 が取り仕切っていた。保守的になりがちな協会に対 し、より急進的な変化を求める Hermann Bahr や Gustav Klimt らが若い世代の芸術家らとともに反発。1897 年 4 月、クリムトは オーストリア芸術家協会32を結成するも認められず、5 月には芸術協会を正式に脱退した。 ヴァーグナーは、芸術協会から数々の受賞歴があり、当時委員会の一員だったが、個人的な芸術的志向はク リムトらと一致していたため 1899 年に分離派に加入。 →市立美術館の設計案をめぐる論争に油を注ぐ結果となった。 →1897 年の美術アカデミーのプロポーザルは分離派建築としても素晴らしいものであったが、これらの込み 入った事情で、ヴァーグナーと分離派様式を語るのはむずかしい。 →ヴァーグナーが Wienzeile のアパート群に採用した分離派的装飾も、実質的には弟子たちの手による。 →ヴァーグナーがより合理的な形態 forms を手にするのは、(ロースによれば)芸術の「タトゥー」をはが したときだった。 31 32 Genossenschaft bildender Kunstler Wiens Veneinigung bildender Kunstler Osterreichs 10/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 ✛ 二人の弟子(p.214) 同様の矛盾は、ヴァーグナーの若い二人の弟子たちの作品にも見て取れる。 Joseph Maria Olbrich(1867-1907) ウィーン美術アカデミーで学ぶが、ヴァーグナーの前任だった Carl Hasenauer のもと学んでいた。 Camillo Sitte が学長を務めたウィーンの応用芸術学校時代の装飾芸術トレーニングも同様に重要。 1894 年、南方への旅から戻るとヴァーグナーの事務所に 4 年間在籍。主に Stadbahn のプロジェク トに関わっていた。 →大成功した分離派会館(1898)も、その外見から、当然ながら Wagnerian ヴァーグナー風と言われ た。 ←オルブリヒ自身はその少々使い古された感のあるキューブを、近代様式ではなく、原始的な不朽の、 芸術のための教会と見ていた。 →彼の神秘的とも言える誇大表現では、理論的根拠は置き去りにされており、それからしばらくは内 装デザインのみだった。 →1900 年のパリ万博での彼の部屋は、おそらく最も飾り立てられていた。 →1899 年、エルンスト・ルードヴィッヒ大公の誘いを受け、Darmstadt の芸術コロニーに加入し、 残りの生涯でカルト的な幻想を追い求めた。 →1901 年の時点で、彼の設計は建築理論と関連性がなかった。 Joseph Hoffman(1870-1956) 1895 年に美術アカデミーで金メダルを取り、南方への旅に出かける。帰宅と同時にヴァーグナーの 事務所に入る。 →1900 年のパリ万博での展示は、オルブリヒに匹敵するほどの絢爛さだったが、その後作風は簡素に なっていく。 →1903 年、Kolomon Moser, Fritz Warndorfer とともにウィーン・ワークショップを結成。イ ギリスのようなアーツ・アンド・クラフツのギルドを作るという目的があったが、近代の新しい美学 (平滑面と明瞭なライン)を固く誓ったという点で新しかった。 →同年、彼の建築の到達点であろうところのプーカースドルフ・サナトリウムの依頼が来る。 ✛ プーカースドルフ・サナトリウム 精神疾患の先駆的治療法を開発していた、名高い精神科医の Richard von Krafft-Ebing と Anton Low の発案による。 →ホフマンは Wagnerian で応える。郵便貯金局の直後だが、いくつかの点では師のヴァーグナーを上回って いる。 →設計の主題はヴァーグナーの『近代建築』でも示されていた「衛生」。田園地帯の中の治療施設で、日光、 新鮮な空気や水治療法も治療の内容に含まれる。 →ファサードの窓の配置は、数年前にエンデルが記した図版に奇妙なほど似ているが、おそらく間違いなく偶 11/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 然の一致だろう。 →”Sachliche matter-of-factness”即物性の達成。 →以降、ホフマンの作風が変化。重苦しくなっていった。1903 年前後のホフマンの作風の変化には、のちの 宿敵であり、モラビア人の同胞でもあった Adolf Loos(1870-1933)との喫茶店での激論が関係あるかも しれない。 ✛ アドルフ・ロース(p.215) 1900 年前後のロースは、建築家としては希薄と言ってよかった。そのかわり、論客としての彼の重要性は疑 い用も無い。 ←現在のチェコの Brno に生まれる。Bohemia の州立カレッジに通い、その後ドレスデンの工科学校で学ぶ。 →ドレスデンで学んだために、ゼンパーの影から逃れられなかった。 →ウィーン美術学校を出ていないため、ハプスブルグ帝国下の役所では高位の職に就けなかった。ウィーンに おいて、アウトサイダーであり続けるしかなかった。 →アメリカに3年間滞在し、1893 年のコロンブス万博を見聞。 →アメリカの民主主義運動などにも影響されたのか 1896 年に帰国したときには、同世代のなかでも論点が鋭 かった。 1898 年には、分離派に惹かれ、Ver Sacrum に二つの記事を載せた。 “ポチョムキン村”の話 冷笑的で辛辣なユーモアは、Karl Kraus33にも好まれた。 分離派(主にホフマン)との諍いもこのあたり。 1898 年の終わりには、ホフマンの論評を書く。はげしい反対。「私にとっては、伝統がす べてであり、想像の自由は二の次だ。」 1898 年の論評「建築の古く、新しい方向性について」では、未来の建築家は古典主義者で あり、近代的な人間であり、紳士であると述べる。 1898 年の春から夏にかけては、ウィーンの主要な新聞である Neue Freie Presse にお いて、皇帝即位 50 周年記念展覧会の論評を連載。ユーモラスに分離派やアール・ヌーヴ ォー、オーストリアの文化を軽蔑した。内容は、服装から家具から乗り物から下着まで、 多岐にわたる。 1900 年の”The poor little rich man”では、ヴァン・デ・ヴェルデのアール・ヌーヴォーにまで攻撃 対象を拡大。 ”art”以外のすべてを手にしている男が、芸術家を雇ったことで、完璧であるが帰って不幸な生活を送るという寓話。 ロースの最高傑作は 1903 年に設立した Das Andere(The other: A paper for the introduction of 33 1899 年 4 月、風刺的なジャーナル Die Fackel を創刊。 12/13 10.MODERNISM 1889 - 1914 Western culture into Austria)という機関誌。 ロースがこれほど批評を書けたのは、一方で実作をあまり残していないため。 →最初の仕事は 1898 年の服屋の内装。Café Museum(1899)の内装も成功作のひとつ。分離派会館の側。 あまりに装飾がなかったため”Café Nihilismus”と揶揄された。 →最もすばらしいのはカルマ邸(1904-06)。外見は殺風景だが、内装は多彩色。 →最も有名なのはロースハウス(1909-1910)。建設の足場と覆いが外された途端、周辺住民や市議会で物議 を醸し、反対運動もあった。最終的には既成事実として受け入れられたが、ロースは神経衰弱にまで陥った。 ロースは「誰もこれを田舎臭いとはいわない。」「メトロポリスにしか建つことの無い建物」を作ったと後 に語っている。 1908 年によく知られた著作「装飾と犯罪」を執筆。 →特に日常生活品の装飾を否定。装飾がないことは「知性の現れ」である。 →装飾にこだわることは経済的不況にも関係する。 建築家の美的感覚を否定している訳ではなく、1898 年には既にゼンパーの dressing の原理を再定義して いる。 →1910 年のベルリンでの講義では、構造 tectonic のデザイン以上に、感情の「効果」が卓越すると述べる。 感情を呼び起こすのが建築家の目的である。 →ロースにとっては principle of dressing が彼の建築理論の基礎になっているだけでなく、反装飾の 改革運動の理論的基礎にもなっている。 13/13
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