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18
ルイーズ・コレの晩年
一フローベール研究覚え書−
平田
靖
I
フローベールの愛情生活最大のヒロイン,ルイーズ・コレの果たした役割はよく知られてい
る。作家自身の呼称, La
Muse
が示すとうり,文学的インスピレーションの源であり,代表
作「ボヴp ァリ一夫人」成立過程の証人として,余りにも有名であろう。
ところがこの女流詩人の晩年については,ほとんど知ることがない。たとえば,筑摩書房版
「フローベール全集」のこの時期にあたる書簡に割かれた第十巻の年譜記述を見てみよう。
1850
年代の決裂以降,たしかに二人の直接的交流はないが,文壇的知名度の高まった小説家
と詩人であってみれば,互いの活躍ぶりは自ずと耳目を賑わすことも多かったはずで、ある。と
ころが,上記の年譜にはわずか二箇所の言及しかない。 95 年,コレの丈壇モデル小説「彼」の
話題( 8 月12 日エルネスト・フェドー宛)と 67 年のコレの死についてである。しかも邦訳版全
集には後者の書簡は訳出されていない。
本小論では,なにゆえか無視されてきたルイーズ・コレの知り得る晩年の姿へ目をむけ,そ
こからフローベールの文学的生涯にいささかでもその文学理解の灯りをかざすことをめざ、して
いる。
II
年 3 月 8 日,ルイーズ・コレは 6 年の生涯を終える。波澗万丈であった彼女の生涯も
1876
「プティ・ロベール 2
固有名調事典」によれば,次のように要約されてしまう。
〈女流作家,処女詩集「ミディの花」 6381
姓女」, 4581
「女中」, 6581
サンドとミュッセの交情を連想させる作0681
なる小説を発表した。 2481
で世評を得たのち,「女の歌」三部作( 3581
「修道女」)を含む数多くの詩作品と 3481
年から 9581
「
百
年「打ちひしがれし心」,
年「彼」など,スキャンダル的名声を得ることと
年にかけて,そのサロンには数多くの文壇人が出入りし
た。クーザン,ヴイルマン, ミュッセ,アルフレ・ド・ヴイニー,フローベールと交情をも
ち,特にフローベールとの聞では,興味深い文通を続けた。〉
この天性の美貌のゆえにスキャンダルを避け得なかったルイーズの死の報に接し,フローベ
ールは次のように反応する。
く私の可哀相なミューズの死が私に引き起こした複雑な exlpmoc
結果について,あなたは
よくおわかりでしょう。こんな風によみがえらされた思い出は,わたしに過ぎこし人生を遡ら
せました。でもあなたの友は,この一年,以前よりストイックになっております。生活のため
多くのことをがむしゃらにやってきました。そこで,過ぎ去りし日々のなかでたっぷり午後を
過ごした後は,もうそのことは考えないことにし日々の仕事にもどりました。また一つ終り
です。〉
二十年の空隙があるとはいえ,かつての情熱の日々を思えばいかにも迷惑気な手紙である。
天理大学学報
28
たしかにフローベールには前年 4 月の姪カロリーヌ一家の破産事件があり,作家自身の経済生
活も逼迫してきている。「生活のため」というのは言い逃れの言質ではない。作家活動の面で
は,これまた難渋する意欲作「フ、、ウ、、アールとペキュシエ」の中断,そして「筆すきび、」のつも
りの短篇集「三つのコント」執筆の渦中にあった時期である。
と自ら形容するルイーズの死に対する反応は,いま少し考察を加える必要
しかしexe!pmoc
がありそうである。他者の死の際にその内奥の感性をよく発顕するのが,フローベールの通弊
だからである。
III
ところで先のルイーズの死を語った書簡の名宛人は,エドマ・ロジェ・デ・ジュネット夫人
である。プレイヤード版「書簡集」によれば,夫人との文通は 6581 年夏に始まったらしい。
その註によれば,二人の出会いはルイーズのサロンであり,〈フローベールとルイーズの仲た
58 年 3 月 6 日〕によって二人の交渉もおわった〉という。が,この書簡の存在はエド
がい〔1
マこそ,相見ることの絶えたフローベールとルイーズをつなぐ細い糸の役割を担っていたこと
を語っているだろう。もちろん女流詩人の方に身を寄せた立場からであっても。そこでエドマ
との文通の消長は,フローベール=ルイーズの関係の空隙をうめる石の役割を果たしうるだろ
う。その点をプレイヤード版で弔在かめてみよう。
,
95 年 1 通
85 年無し,
,
75 年 2 通
,
6581 年 4 通
06 年
,
2通
,
, 26 年 各 1 通
16 年
36 年無しと数少なく,
46 年こそ 6 通と増える
76 86 年 1 通という本当にか細い糸である。
,
6 年 2通
5 年無し,
以後6
多くは,古今の作家の著作についての意見交換であるが,時折宗教や社会主義のテーマでフ
ローベールを貯易させるエドマの背後にルイーズの影を感じるのは,行きすぎであろうか。そ
,
が
の検討は後に回して,文通の数量的問題に戻ろう。
普仏戦争,パリ・コミューンの帝政末期の社会騒擾を境にして,エドマ宛ての書簡の数が増
えている。 178
年
, 27 年
4通
7 通が, 37 年には
51 通と倍増し, 47 年
, 57 年 01 通
9通
と続き,本論で取り上げている書簡の年, 6781 年も 1 通を数えることができる。サンド,シャ
ントピー嬢とならんで,フローベール晩年の消息書簡を織り成す地位を得ているが,彼女の場
合は「生きることへの興味と仕事への欲求」の証人であると同時に,ルイーズの影を意識した
消息書簡だったのではなかろうか。
たとえば,コミューンの終息を伝える手紙の末尾に思わずこんな一行を書き足してしまうフ
ローベールであったのだから。
〈ミューズはサント・ブーヴの酒倉で三日も過ごしたんだって!この一行は貴女にいろんな
ことを想像させるでしょう。〉かつての愛人の消息にかこつけて,嫌味を伝えさせようとして
いるようである。同郷人という立場をこえて, etrop
elorap
の役割がおのずと付与されてし
まったのだろう。
j レイーズ二エドマのベアがフローベールをめぐって明からさまになった例をみてみよう。
2681
年,フローベールの出版第二作「サランボー」に対して,ルイーズは女友だちに次のよう
に書き送っている。
くとても美しく,とても大きし 非のっちどころの無い確かな文 章です。アフリカの地平
線,傭兵の駐屯地,アミルカル,幼いアンニパルは完壁なページです。これが作品というもの
です。凡人はあの人のあのパルザックの不出来な模作のボヴァリーのほうを好むでしょう。私
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の見るところ,この作家はサランボーにおいて,はじめて大作家であり,思想家なのです。〉
ボウ守アリーの制作過程に伴走した人物の作品評として興味をひかれる書簡であるが,ここで
はこの手紙の続きの部分に注目しよう。
く私はその才能をとても偉大で、,本物だと認めますし,この本のことを誇らしく思います。
あなたもそうお考えだと思いますので,あの人にこのことをおっしゃってくださって結構で、
す。でもそれは,ちっとも気掛かりじゃないあの人のためを思ってなんかじゃなくて,決して
間違いなんかを犯したくないと努めている私自身のためですよ。〉
ここには,エドマをフローベールへの窓口と認めているルイーズがいる。くちっとも気掛か
りではない〉という心理的反発を表明しながらも,かつての恋人に早くから文才を見抜いてい
た先輩としての自負さえ感じられる。そしてecitsuj
という視点でフローベールを断罪する恋
人として。
N
エドマを介してフローベールとのかすかな関わりを保持していたルイーズ自身は,その後半
生をどのように過ごしていたのだろう。先に百|いたプティ・ロベールも0681
年の小説「彼」以
降の生涯に触れていない。
パリ国立図書館所蔵のルイーズの著作が,その一端を明らかにしてくれている。 06 年前後に
ド艮つてのぞ、いてみよう。
9581
2681
681
861
年
Promenades
年 eilatl'L
年
年
Les
Les
sreinreD
sreinreD
ne ednaloH
sed ,sneilatI
Marquis
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4 slov
,siraP(
mceurs
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deila’
tl
,siraP(
.E )utneD
コンスタントに出版された作品は,国外に取材したドキュメンタリーばかりである。オラン
ダ,ベルギーではナポレオン三世の帝政フランスから亡命した人々を取材し,イタリアでは,
時あたかも進行中のイタリア統一運動を目撃している。ルイーズはジャーナリスムに身を投じ
ていたのである。
すでに,く月々数百フランを稼ぐため,偽名で関わらざるをえない,つつましやかにして馬
鹿げた,はっきりしない上につまらない商工業文学〉と彼女自身が呼ぶモード記事を通じ
て,ジャーナリストの道は聞かれていたが,ルイーズの外国旅行の動機の因はフローベールに
あったことをま旨摘しておこう。
く明日外国旅行へ出発します。おそらく永いおいとまになりましょう。是が非でも,出発前
にお目にかり,お話合いしなければなりません。
どなたかにご相談なさるのは大人気ごき?いませんし,わたしの提案をお拒みになるのは礼儀
を欠くというものです。
それでは,今夜八時から十二時まで私の家で必ずお待ちします。〉
581
年 3 月 3 日の日付をもっ葉書は,二人の破局の様相をよく表しているが,この悲↑倉な気
持ちの高ぶりが同時に一人の女性政治ジャーナリスト誕生の瞬間に繋がっていくのである。実
際ルイーズがベルギーへ旅立つのは7581
年になるが,現地取材を試みるという,当時にあって
は破天荒の行動に踏み切っている。「貴女の時間を一人の男を恨むことで費やしてはなりませ
ん。傷を忘れなさい,大きな傷口だけを見ていなさい。高しもっと高〈昇りなさい。朔ぴな
天理大学学報
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きい,それが鷲たる貴女の義務なのです。」神と敬愛するユゴーの声援を心に,傷心と病身を
奮いたたせながら。
V
ルイーズはジャーナリストとしてどんな仕事をしたのか。何を見聞し,何を考えたのか。こ
こではこれを考察してみたい。
彼女のこの分野での最大の仕事は,先のリストで明らかなように,イタリアに関するもので
ある。 26 年の「イタリア人のイタリア」を代表とする,イタリア統一運動(リソルジメント)
の推移を見聞,報告したルポルタージュである。
この分野に踏み入ったフランス文学者の先駆としては,父アレクサンドル・デュマがいる
年秋から 16 年春までの二十カ月にも及ぶイタリア滞在日数が示すように,
i軍身の見聞録を実らせるべく打ち込んでいる。同じ頃,フローベールの友,ジャーナリストと
が,ルイーズは 9581
して天才的勘をみせるマクシム・テ〉・カンもリソルジメントの動きを追っているが,ここで
も彼は現実的態度を露にしている。 06 年 8 月イタリア入りしたテ守ユ・カンは,例によりフラン
ス政府筋からのってで,ガリパルディ軍の司令部に入っている。その報告「両シシリー島遠
征」に対し,サンドは感動を露にしている。
〈筆者は,大義のなかの大義,イタリア救済のために,その意志と生命を投げ出した。方、リ
パルディ軍に加わったのだ。(中略)行為と著作の真撃さに深く心動かされた。〉
ところがフローベールの友の実際は,イタリア到着二カ月後,く死んだのか,生きてるの
か,それとも負傷したのか,君がどうなったのか教えておくれ。〉という便りの返信に見られ
る調子が本当だったようだ。〈当地にピエモンテ軍とヴィクトール=エマニュエルが到着しま
した。〉統一運動の帰趨を決める局面が近いこの時期に,テ、、ュ・カンの心はそこには向いてい
ない。〈事態がどうなるかをみるため数日待った後,軍嘱を辞してパリに冬期宿営地を構え,
ベゼの戯曲に加勢をするつもりです。〉実際21 月にはパリに帰っているが,彼が半島の動乱の
中で見たものは,〈兵士は所詮兵士です。(中略)底のところは虚栄,損得,愚劣そして惜惰ば
かり。〉と,サンドを歓喜させる片らも見当らない。彼自身が所属した軍の司令カ、、リノ勺レディ
についてもくあの馬鹿の yゲリパルデイが本気でローマ攻撃をしかけると思っていたんだ。そう
すりや奴はてひどい一発を食らったろうし,またそれで世界の自由の問題がだいぶ進展したこ
とだろうに。奴はこの計画をやめにしちまった。たいして強くないやつの頭にやおどろいた
ね。〉と,その作戦を冊捻,非難している。
二か月で得た速断は,多少ともフローベールの気性を考慮したものかもしれない。が「丈学
回想」の著者の性癖を熟知した後世の読者には,いつに変わらぬテ守ユ・カンの姿を容易に見て
取れるであろう。
ところで同じ手紙の終りに,テ ュ・カンはルイーズとの出会いを報告している。
くところでミューズがここにおり,ノマーティで詩の朗読をやっています。なかなかの見物で
Q
す。かつて彼女が貴兄をたいそううんざりさせたのなら,仕返しされたのですよ。なぜって,
これ以上愚劣で、あることはむつかしいでしょう。〉
ルイーズの存在も統一運動の愚劣さの中のーエピソードに変えられてしまっているが,実際
の彼女の活動を「イタリア人のイタリア」のページをくりつつ跡づけてみよう。
ルイーズ・コレの晩年
58
I
V
四巻からなるこの著作を特徴づけるのは,なによりもロマン主義詩人たるルイーズの社会正
義への’情熱で、ある。
018 年の生まれで,< 5381 年,若いわたしがパリに着いた時,文学の悲しい状況は始まって
おり,それ以後悪イじするばかりでした。(中略)わたしは, ともかくもその潮の中に身を投じ
ました。若さのもつ熱情と信念をもって。〉と,文学的デビューをきった世代である。パイロ
ンを崇め,ユゴーを師とする世代である。 24 年の詩編「ミラボーの青春」の序文にく大革命と
帝政はわたしたちのホメロス時代です。この二つの豊かな源から,将来,叙事詩と劇がほとば
しり出るでしょう。〉と書き,歴史的大事件のおりに創作意欲が燃え盛るロマン派詩人の一人
である。
年秋ミラノ入りしたルイーズがなによりも最初に行なったのが,「わが入獄の
記」の作者ペリコの墓を詣でることと,いまなおイタリア最大の小説家とされるアレッサンド
そこで, 9581
ロ・マンツォーニを表敬訪問することであったことにも,大きな意味があるだろう。ともにイ
タリア統ーへの最大の輯,オーストリア支配を脱したいという国民的悲願に,各国語訳によっ
て国際的支援を集める役割を果たした作品を残したことでイタリア文学史に燦然と輝く名前で
ある。特に後者からは,対オーストリア条約を結んで支持を表明したナポレオン三世のフラン
スへの失望の言を得たことを書きしるしている。
その後ヴェネチアへミュッセ=サンドの縁りの場所を訪ねるロマン派文学散歩の後,年を越
した 2 月,再びミラノへ戻り,イギリスの支持を取り付け,いまやリソルジメントの一大推進
力になったヴ、ィクトル・エマニュエルとカミロ・カヴールの入市を目撃している。
カヴールの知己を得,その好意で, 4 月 2 日トリノのピエモンテ議会を傍聴したルイーズ
は,王の演説に歓呼をあげる議場を描写したのち,その結語を紹介している。
く今後イタリアはイタリア人のイタリアでなければならぬ。〉
この言葉に感動したルイーズは「いま生まれつつある国家の将来にとって,なんという力強
い保証であろう」と考えて,自らのルポルタージュのタイトルに王の表現を採用したほどであ
った。
特に宰相カヴールとの親密度はかなりのものだったらしい。ニース,サヴ、ォワのフランスへ
の割譲という苦渋の外交策についても,その肉声を引き出している。
くわたしに何ができたろっ?あなたの娘が死にかかっている時,その子を救うためなら,指
の一本切られることをためらいますか。わが国は,いまフランス皇帝以外に盟友をヨーロツノ f
にもっていないのです。(中略)おかげで,七月革命をやったおなじ連中から,わたしたちは
革命主義者だ,冒 j費者だと扱われています。〉
このカヴールから,ルポルタージュのヒントも得iている。
くカ、、リノ勺レテ守イを歌ってやりなさい,そしていま愛していらっしゃるように,いつまでもイ
タリアを愛してください。> 06 年 8 月のこの言葉は,ニースの割譲に反対する yゲリノ勺レディが
メッシーナ海峡を i度り,ナポリ王国へ進攻した時期にあたる。宰相自身の政策を水泡に帰しか
ねない実力行動の張本人を理解する心の広きに感じ入るルイーズであった。
ルイーズの著作の第三巻は,かくしてカ、、リパルディとその配下「赤シャ、ソ党」の行動につい
ての見聞に多くのページが割かれる事になる。
一例をあげよう。カヴールの援助で,方、リパルディの二日後にナポリに到着した彼女は,次
68
天理大学学報
のように書く。
くわたしは急いでボートに降りたった。やがて独裁官カ、、リパルディの乗ったボートと擦れ違
う。眠想し,気取らず,いつものように赤シャツ姿で,首にはスカーフをなびかせ,彼は艦長
の横に立っていた。わたしはボートを近寄らせ,バレルモ入城を材の自作の詩を彼へ差し出さ
せた。彼はわたしの手を握った。わたしは彼に「また折があれば,お会いしましょう,将軍閣
下」と言った。と,その時サルディニア全艦船から大砲の祝砲が一斉に上がり,わたしの言葉
をとぎらせた。わたしのボートは,たくさんのボートのなかにまぎれこんでしまい,ボートか
らは,カ、、リノ〈/レディ万歳の叫ぴ声がキアハ海岸せましと何度も繰り返された。〉
民衆の絶対的支持を受けていた絶頂時のカ、、リノ勺レディが活写されている。これはルイーズの
イタリア行の所期の目的が実現された瞬間の一つでもある。彼女は仏伊国境を越えた時,次の
ように感じていたのだから。
〈背後で税関の門が閉じられた時,わたしは大きな喜び,子どものような喜び、を感じた。つ
いにイタリアの地を踏むのだ。あんなにも永い間わたしの夢の地であり,ポエジーの,芸術の
地であり,そして今日は自由の大地であるイタリアの。〉
先に指摘したように,あくまでロマン派詩人の目をもち続けている。たしかにこの目には見
えないものもあったろう。たとえば,「現実主義者で,国論を統一し,(中略)草芥の志士の力
など当てにせず,共和派の組織を切り崩し,外交にも敏腕を発揮して王国の国際的な地位を高
め」ることを第一に考え,その結果方、リパルディの人気と行動を削ごうとするカヴールの姿
は見えてこない。方、リパルデイの妥協の後は,革命にポエジーの無くなることを惜しむ詩人が
いるだけである。
四
0681
年1 月 7 日,ヴィクトル・エマニュエルはガリパルディ将軍と肩をならべてナポリに入
城し,翌年春 3 月71 日の統一イタリア王国宣言までのリソルジメントの勝利の日々がはじま
る。一方それは共和民主によるイタリア統一の夢が消えていく日々でもあった。
ルイーズにとっても転機の時である。ナポリに再開されたサロンの花形の地位を捨てて,
2
月,美術探訪のためローマに出発する決心をする。が,ここに思いもよらぬ障害があらわれ,
/レイーズの新しい一面を露にする。戦う女の姿である。
「芸術の大地」探訪は,もともとルイーズの旅の目的の一つであった。モンテーニュの「イ
タリア旅日記」を旅行方、イド代りにした旅でもあった。イタリア語の上達とともに各地の美術
館を訪れ,ヴエロネーゼやジヨットら当時まだ声価を得ていない画家たちの評価に紙幅をきい
ている。美術史家としての当否は別の機会に検討しよう。ここでは美術ジャーナリストとして
仕事を遂行しようとする時,彼女が遭遇した障害と,それに対する彼女の反応から,この時期
の詩人の内奥の有り様を見てみる作業に限りたい。
ナポリでの蜜月的逗留の後,めざすローマはヴァチカンに代表される旧勢力の残存する地域
である。リソルジメントの政治的妥協から,旧主オーストリアの隠然たる存在も許されてい
る。サルディニア王国の内懐からやってきた不坪なジャーナリストは,直ちに,秘密警察の監
視下に入れられてしまう。ところが,そうした干渉にめげないのがルイーズの真骨頂である。
彼女がまず出掛けたのが,敵勢力の主,ピウス 9 世のミサである。ヴァチカンのシスチナ礼
拝堂のその姿は魅力に乏しいと描写し,サン・ピエトロ聖堂に至っては「宗教性,神秘性に欠
け,見る者の心を寒くし,精神を放心させる」と,断じ切る。ミケランジエロのピエタをただ
/レイーズ・コレの晩年
78
一つの例外として,「パリの成り上がり者や銀行屋にふさわしい教会」と,片付けている。
こうした反カトリック的文章を本国へ書き送っただけではない。ジャーナリストの本分を離
れて,実行動にまで踏みだしている。
おなじローマでの出来事の報告の中に,次のような事件がある。
やはりサン・ピエトロ聖堂のスウェーデン王女クリスチーヌの墓の前で「クリスチーヌの聖
性に異議を申し立てます。(中略)聖人として,義人として,彼女よりカ、、リノてルディのほうが
好ましいわ。」と,叫んで物議をおこしている。革命派に身を寄せて,敵の総本山で抗議の声
をあげるetnatilim
に変じている。
この行動は,ついには教皇への謁見を申し出るところまで推し進められる。当然のことなが
ら実現しない計画であったが,その交渉の際,立ち合ったヴp ァチカン市国宰相アントネリ枢機
弗|!との対話が,ルイーズのロマン派的宗教観と正統的宗教観の衝突をよく表しており,歴史が
新しい時代へ突入する際の身震いにも似た様相をみせている。
く今日,魂はカトリシスムの中で窒息しています。建築家が空気と光を
ルイーズは言う。
遮断した反人間的な建物の中で。(中間各)そして今, 自由と正義が教会に対して声を上げてい
るのです。祖国イタリアのあらゆる声が教会への緊急の声で。なぜ我らの解放を否認するの
, と〉。幼時から養った自らのウ、オルテール的宗教観に基づきつつ,つい先ごろまでその陣
か
営にいた解放統一派の代弁者になっている。
これに対し枢機卿は冷静にこう答えたという。
く教会は民衆の解放という新たな権利を認めることはできません。それは明らかに略奪と殺
裁の権利にすぎません。(中略)民衆はいつも,暴力とか,彼らにとって意味不明の,祖国愛
と自由のような大言にひきづられるものです。〉
この旧守派の壁の厚きはルイーズをさらなる反ヴ、ァチカン主義にのめり込ませることになる
が,ここでは彼女がリソルジメントの徹底したレポータ一役を果たした報告へのフランスの反
応を見るに止めよう。
反響はさっぱりだ、ったらしい。第四巻の終りに著者自身がこう書いている。
く無関心で、ぽんやりした連中すべての途方もない重きの下でつぶされ,泣いています。生き
るための仕事のことだけが気掛かりなやつ,金儲けだけに熱心なやつ,自分を見せびらかすこ
とだけにかまけているやつばかり。〉
パリに自分の居場所を持てぬ悲哀が彼女を襲ってくる。先に引用した「サランボー」へのコ
メン卜が将にこの時期の精神の有り様を表しているが,エド、マ宛ての同じ書簡に次のようなこ
とを書き連ねている。
〈政治の畑では,イタリア戦争を始め,何かしら輝かしく,偉大なことをやった男が一人い
ます(ナポレオン三世)。そのことを,わたしは賞賛しています。その男は,呪われた人生に
一筋の圧倒的な輝きを投げ掛けたのです。でもそうだからといって,その男が誠実であり,真
に偉大で、あることになるでしょうか。公正な手が,その男の手を押していたといえるでしょう
。
か
万民を愛し確信の上犯した罪を,下劣を,裏切りを許すこと,そこにキリスト教のいう慈
悲があるのでしょうが,わたしは拒否します。わたしは,悪にたいする憎悪と,立派な人格に
たいする驚喜をもって,妥協なく死にたいのです。付け加えれば,隠れた情熱の炎の輝きであ
る外的美にたいする驚喜をもって〉
この一種の遺書めいた文章こそ,イタリアや宗教への言及を持つ迄もなく,報いられること
8
天理大学学報
の少なかったルイーズのルポルタージュ行の結論であった。彼女がフローベールに同時代より
古代に材を得るべき作家だと予測したように,「サランボー」の作者もその愛人にたいして
「辛棟な社会風刺の才」を予見したが,五十路に至りルイーズは一つの到達点に達していたの
で、ある。
V
I
I
I
フランスに居心地の悪きを感ずるルイーズの晩年は,家庭的問題,経済的困窮も加わって暗
雲絶えざる日々であったらしい。しかし彼女の軌道は修正不可能になっている。詩人としては
誕生しようとする若い詩の動き,ノ勺レナシアンたちとの交流が注目されるが, 4681 年 4 月「イ
タリア人のイタリア」の最終巻が出版されると,またイタリアに出発する彼女の姿を見ること
になるからである。ヴ、ェネチア,ナポリ,ローマと偏愛する土地への長期滞在が特徴の今回の
イタリアは, 76 年まで続く。その成果は,ナポリで脱稿し, 861
年に出版される「最後の神父
たち イタリア宗教事情」の題名が示すように,前回の滞在で得た反カトリックの立場から辛
練に描かれた滞在記録である。たとえば,ローマでは,いまは世俗を脱し修道院に入ったフラ
ンツ・リストとの避追を記している。サンドやユーゴーら昔なじみの消息を訊ねる音楽家に,
「わたしたちは同じ陣営ではありませんのよ。」と切り捨てるルイーズ,「それがなんだ。わた
しはキリシタンだ。」と応酬するリストのエピソードに,この本の特色は見て取れよう。「イ
タリア人のイタリア」の延長上にありながら,詩人の身辺に起こる事件に自分一人で対処せざ
るをえない状況で突然噴出するルイーズの内面の記録に成っていることである。
そしてその面での最大のエピソードは,イスキア島でのコレラ禍事件であろう。
年春マルセーユに上陸したこの疫病は,たちまち西ヨーロッパに蔓延し,ルイーズの滞
5681
在の思わぬ長期化につながるのであるが, 1 月にはナポリまで押し寄せる。島はナポリに全て
の生活手段を負っていたので,たちまち孤立してしまう。恐慌を来した島民に,島の司祭は,
「異教徒」の所為と扇動し,群衆がルイーズの屋敷に押し掛けるという騒ぎとなる。この事件
は「ル・タン」紙11 月91 日号が伝えるように,フランス総領事の干渉の下,五十名の兵の出動
で治まっている。
が,ルイーズの心は直ちに収まるものではない。嵐の深夜,彼女は死さえ覚悟し,我が身の
運命を古代ギリシャの女流学者 H
ypatie
になぞらえている。この新プラトン学派の哲学者は
数学,天文学に寄与した最初の女流学者であったが,科学的知識を異教的とみなす当時のキリ
スト教聖職者たちによって虐殺され,切断された四肢は,アレキサンドリアの街路を引き回さ
れたという。「これほどまでにイタリア解放のために力を尽くした後で,この下層民の手で同
じ死を経験」しかかった自分を心に深く刻み付けている。教会の指導下にある限り,いつまで
も啓蒙されることの無い民衆の有り様を今更ながら体感する。
21 月,島にコレラ患者が発見されると,居をカプリ島に移し「最後の神父たち」を完成,イ
タリア生活を材にした小説のプランを練るなどして一年を過ごしている。
681 年末,再び、ローマに戻り,「幾世紀もイタリアを抑圧してきた教権政治のほど近い終需
を予見させる大きな身震い」を目撃し,翌76 年春パリに帰っている。同じ年,ローマ進軍を目
指すか、リパルディ軍はフランス軍に敗けるなどして,ローマがイタリア王国の首都となるの
は,普仏戦争敗北によって教皇領からフランス軍の撤退したあとになるが,イタリアへの寄与
と教会への嫌悪を胸に母国へ帰ったルイーズの目に映るフランスの姿が,後年の作「上流社会
の信心家たち」に残きれている。
ルイーズ・コレの晩年
98
くわたしがイタリアを離れたとき,彼の地では修道院は閉鎖きれていました。フランスへ着
いてみますと,半島の修道院が全部奇跡によってこの地へ移築されたのかとおもうほどでし
た。ニース,マルセーユ, リヨンで建てられたばかりの僧院を見かけました。パリでは,僧侶
が以前より権力をもって,数も殖えてひしめいているのをみました。宮延に保護されて,丈
明,科学,真理,モラル,祖国愛,家族愛に不遜な挑発を投げ掛け,芸術と自然においては美
に君臨している。連中は市内あらゆるところに王侯きながらの屋敷を所有している。〉
教会が権勢をほしいままにする社会こそ,反啓蒙的で自由を敵視すると結論付けているジャ
ーナリストにとって第二帝政下のパリはますます居心地の悪い社会となったのである。
X
I
そんなルイーズにまたすぐ国外へ飛ぴ出す機会が訪れる。
9681 年01 月,スエズ運河開通式典に「ル・シエクル」紙の公式特派員として参列することに
なったからである。レセップス積年の大事業の完成は第二帝政下の最後の栄光の火花の観があ
住ーの女性として
I
り,フランスは国をあげての大外交代表団を派遣したのであるが,その中のI
ルイーズは選ばれたのである。しかし公式下という制限の聴が彼女のジャーナリスト魂を歪め
ることはなかった。新聞編集者の期待をみごとに裏切り,たった二つ報告を送っただけで任務
を終えている。しかもモハメド‘エルアクマールという現地記者になりすますという手のこん
だ方法で,痛烈にフランスの植民地主義を批判するという面目躍如の文章で。
くこの記事を書いている今,カイロはパリの街角にすぎません。アムルーのモスクはヴァリ
エテ座ではなく,シェパード・ホテルはグラン・オテル・ド・ラ・ぺとなにも似たところはな
いと納得するためには,わたしは何度も自分の眼を擦らねばなりません。(中略)文明は満々
と水をたたえて流れております。編集者諸氏,申し上げますが,文明は, 51 分間だけわたしど
もの関心事です。わたしどもすべてのアフリカ人民はなによりも丈明化されることを望んでお
ります。わたしどもも,元気滋 刺と文明を享受し,これ以上な にも欲しなくなりたいので
〉
。
す
このオリエント旅行は,筋金入りの反帝政主義者に格好のアピールの機会を与えたのであ
る。もう一つの報告は,一転レセップスのパトロン,イスマイル・パシャへの公開状の形をと
り,エジプトの現状を告発している。答刑や人身売買を目撃した後,次のようにパシャに迫
る。く殿下の文明への愛が正真正銘のものでありますなら,その愛の否定でしかない残虐行為
に終止符をお打ちください。奴隷ではなく,人民を統治する誇りをお持ちください。殿下によ
り解放された人民は,殿下の高遁な事業に力を惜しまぬでありましょう。〉
フランスの帝国主義を噛う剣の返す刃で,エジプトの前近代性を斬るルイーズの批判精神は
ここに極みに達しているといえるだろう。
一方未完の遺著になったが,題名に「光り輝く国々」と冠することになるこの旅の記録は,
彼女にとって目新しい風景,習俗との興味深い出会いの日々の個人的な報告になっている。晩
年に入ってしまった女流詩人の哀歓の影が蔽いがたく濃く表れている。
特にナイル川遡行の船旅では, 02 年余の時聞をこえて,かつてそこを旅した愛人フローベー
ルの足跡をたどろうとさえする。例えば,フローベールの繰り返して倦むことのなかったエジ
プトの思い出,舞姫クシュク・ハーネムの思い出を呼び起こしさえする。
ある夜,船中の夢で,かつての恋人らしい亡霊の姿をみた詩人は次のように書く。
くでもあの忘れた人の突然の出現はどうしたわけで、しょう。あー,簡単なことね,あの忘れ
天理大学学報
09
たはずの亡霊の出現にはなにも超自然なことは無いわ。わたしを高地エジプトの遠出に駆り立
てた動機のなかに,きの 7 ,わたしは急にこんなことを考えた。あの人の旅の話のなかで,わ
たしの心をヲ|き裂き,憤慨させた魅力的な舞姫の一人をミイラの状態で見つけるのはおもしろ
かろうと。こんなことを考えたので,混乱も感動も起こさぬ夕べの悪夢,消えた感情も追憶も
目覚めさせぬ悪夢が現れたのだ。(中略)名も知らぬ寺院に守られたまばゆい台座を,あの恋
に選ばれし者が,自らの野卑な手で壊し,汚してから 02 年だ。〉
「光り輝く国々」の風景のなかに憧慢の念だけを見いだそうとするロマン派詩人ではないル
イーズがいる。「男が秘かに殺人を犯せば,野の草それを語る。」というアラプ世界の格言を引
用しつつ,「卑怯にも秘かに切り殺された小羊が,傷を癒し,蘇生し,獅子の子となり,罰せ
られざる殺害者を今度は噛み殺す。永遠の正義の道具となるのだ。」という神話的物語の作者
となり,「愛によって常に苦しめられる小羊たる女性」の弱い立場のための戦いに立つルイー
ズカf いる。
このジャーナリストとしての最後の旅は,ひとりの女権論者の誕生に必要な僻卵期であった
のだ。
X
以上その成果からルイーズ・コレの晩年をジャーナリストのキャリアとして跡付けてきた。
「ジャーナリストはジャーナリスムの才能しかもたない人間で、ぁ宮」という,ゴンクールの評
価を待つまでもなく,当時のジャーナリスト達の地位は積極的に評価されない。ましてルイー
ズは女性である。その仕事の遂行の困難きは想像に難くない。しかし彼女は,「若きのもつ熱
情と信念をもって」という初志どおりに,その道を突き進んだ。
そしてその発端と終着点には,上に見てきたように,ギュスタヴ・フローベールの姿が立ち
現れている。
ジャーナリスムについて,フローベール自身の評価も低い。「紋切型辞典」のく新聞〉の項
に「なくては困るが,つねにその非を鳴らすべし。」と,冊撤している。そんな分野に突き進
んだかつての愛人を高〈買えるはずがない。小説家の側からルイーズの消息に関して,ほとん
ど証言が得られず,たまにあっても冊撤の色合が濃いのは無理のないことである。
しかし完膚無きまでの等閑視かというと,疑問が残る。本論の冒頭にヲ|いた書簡の続〈部分
に,フローベールは次のよ 7 に書いているからである。
く彼女の家族はカトリックだ、ったので,無宗教の埋葬を嫌がり,遺体をウ、、エルヌーユに運び
ましたが,騒ぎはなかったようです。新聞もそのことについてほとんどなにも書いていませ
ん
。
〉
「かわいそうなわたしたち」という嘆きで終わるパラグラフの調子には,事B
I
捻の刺は感じら
れない。反カトリックの立場を全フできなかったルイーズ、への思いが読み取れよう。
この手紙から 3 か月後,同じエドマにサンドの葬儀の様子を知らせている。
くサンド夫人はひとりの司祭も迎えず,臨終の秘蹟をきっぱり断って息をひきとりました。
ところが,クレザンジェ夫人(サンドの娘,筆者注)が体面をつくろって(中略)カトリック
式の葬儀を頼んだのです。〉
大女流作家サンドにして自らの人生の締めくくりを意のままにできぬ社会には,フローベー
ル自身も反感を感じている。おりから,理念的には到達し得た小説美学に則って,サンドを意
識した作品執筆に余念の無い時期である。自らの人生の締めくくりに入っていた時期である。
19
/レイーズ・コレの晩年
題して Un
,材は懐かしき少年期,いくつかの死のほろ苦き哀愁の色合いをぬ
simple
Coeur
りこめた作品に全身を没頭きせていた。
の
そこへの突然のルイーズの悲報には,全うできなかった人生への哀悼とともに, elpmis
置の焦点をづらせるものがあっ
美学実現には不向きな青年期の思い出へフローベールの追憶装
たのだろう。老いたフローベールにとって con
ψexel
とは,ルイーズに象徴される青年期の -ipe
の反意語であったのだo elpmis
ht 色et であり,まさに elpmis
の美学獲得には,ルイーズの激
しく燃えさかる人生の光でがその背後にあったことを忘れることはできない。
この時期のフローベールを綾どった二人の女流丈学者をめぐって考察を続けてきたが,この
二人の出会いの初期に位置するサンドの手紙の中に,ルイーズの未来を予言する箇所を引用し
て小論の筆を置こう。
くわたしはあなたを,どこへ行くかまだ判っておらず,だが自分にふさわしい道に出会う
や,羽根を拡げ,光りめざして朔んでいく天使のようだとみています。その道は,この世紀の
倣慢や陥穿をくぐりぬける絶対的不覇の道です。(中略)あなたの未来は,あなたがいま試み
たものとは正反対の方向にあるのです。〉
ルイーズの大革命に取材した詩作にたいする先輩の評は,この不遇の女流詩人の生涯につい
て正鵠の助言をなしていたのであるが,ルイーズ自身の丈学的成果はさておいて,フローベー
ルの文学的生涯には,大きなモーメントであったのである。
玉
}
,71 頁及び472 頁,筑摩書房, 0791
(1 )『フローベール全集』第01 巻
.p .534
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( )2 titeP
宛書簡, 6781 年 3 月 6 日付
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Roger
Edma
(3) Madame
.p .2131
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Bruneau
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は,現在第 3 巻までしか出版されておらず,従って9681
校訂の Corespndac
( )5 Bruneau
版全集に拠った。
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de noH'!
以降の書簡については bulC
(6 )筑摩書房版『全集』第01 巻,人名一覧の注による。 204 頁
宛書簡, 1781 年 6 月71 日付
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書簡, 581 年 3 月 3 日
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書簡, 7581 年 3 月71 日付
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宛書簡
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書簡, 0681 年01 月81 日
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宛の Maxime
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I, .p .021
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I, .p .831
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29
天理大学学報
)02( .dibI .lov ,II .p .014
)12( .dibI .lov ,III .p .7
)22( .dibI .lov
I, .p .53
32( )藤沢道郎「物語イタリアの歴史解体から統ーまで」中公新書 ,1991
.p .813
N, .p .83
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)52( .dibI .lov
N, .p .44
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034 .834
)62( .dibI .lov
N, .p .574
)72( .dibI .lov
)82(
(8 )に同じ。
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teloC
宛書簡, 2581 年 3 月72 日付。この書簡には,「ロジェ夫人の朗読にきみが泣く
のを見た時」という箇所もあり,三人の親密さが確認される。
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)23(
)33(
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)63(
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574
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.p .53
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de Suez
,,とタイトルを付してある。
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.p .p 21
Voyage
.411
)73( .dibI .p .502
)83( .dibI .p .012
) .p 72 目〈情報・報道〉の項参
93( )渡部昇一編「ことばコンセプト事典」(第一法規,平成 4 年
照
。
04( )筑摩書房版『全集』第 5 巻
,423 頁
)14(
(3 )に同じ。
)24(
Madame
Edma
Roger
sed setenG
)34(
Georg
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.lov
宛書簡, 6781
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年 6 月91 日付
3481
年 2 月51 日付