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ハイネ「ドイツ冬物語」における詩の役割について
藤沢, 正明
1979-03-30T00:00:00Z
http://hdl.handle.net/10228/3417
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Kyushu Institute of Technology Academic Repository
99
ハイネ「ドイツ冬物語」における詩の役割について
語学教室(ドイツ語)
藤 沢 正 明
1843年10月21日「今日ドイツへ旅立ちます,6週間後にはまた会えるでしよう」とプリ
ードリヒ・ヘッベルに手紙を書いて1),ハイネはパリから12年振りで祖国ドイツへと向か
った。目的地ハンブルクへ到着したのは10月29日であり,道中は退屈で疲れるものであっ
た2)。しかしながら,母,妹,伯父等に会い,またカンペとの間に著作に関する金銭上の契
約を成立させたこの旅行は有意義であった。そして,何よりもこの旅行によって27章から
成る長編叙事詩「ドイツ冬物語」が生み出されるのである。
愛する妻マチルデをパリに残してなされた今回の旅行からハイネがパリに戻ったのは2
か月後の12月16日である3)。「私の人生の唯一の喜び」と表現されたマチルデと離れている
ことは,短期間ではあるが流諦生活のようであった4)。しかしながら,ハンブルクからい
よいよパリに戻らなければならないハイネの心中には,ドイッに対する激しい愛着が存在
していた5)。ドイッに対するこの愛着がハイネに「ドイツ冬物語」を書かせるのである。
パリに戻って間もない12月29日,ハイネはドイツの空気を吸い込んだことによって詩が生
み出された旨をカンペに伝えている6)。以後「ドイツ冬物語」が出版される1844年9月7)
までの様子は次の通りである。
「序」によれば,これは1844年の1月にパリで執筆され,3月にはハソブルクのカンペの
へ
所に原稿が送られている8)。だが,実際には原稿が送られたのは4月17日である9)。2月20
日の手紙には,「とても滑稽な旅行叙事詩」が出来上がったと記されている。そして,それ
は「全く新しいジャンル」,即ち「韻文化された旅の絵」であり,在来の政治詩よりも高度
な政治性を帯びている,と説明されている10)。4月12日付の手紙には,「私は突然評判の
悪い変節者から再び祖国の救済者になった」ll)という自分自身についての説明が見られる。
原稿を送付する4月17日には,作品の性格が「政治的・ロマン主義的」であると,また「散
文的で大言壮語の傾向詩」に「とどめ」を刺すものであり,更には「古典的作品として永
続的価値」を持つ,と述ぺられている12)。この手紙の中で作品のタイトルが「ドイッ冬物
語」とされている。その後再度原稿に手を加え13),やがてハイネは再びドイッへの旅に出
る。そして,今回のハンブルク滞在中に「ドイツ冬物語」が出版されるのである。9月に
は「新詩集」の一部分として,翌10月には独自の1冊として。ハンブルク滞在中にはハイ
ネはこの作品を「ラディカルで革命的のみならず反国粋主義的」14)であると規定している。
このようにハイネ自らこの作品について幾つかの説明をしているが,これ以前に書かれ
た40年代の代表作品の一つであるrアッタ・トロル」と比較することによって,この作品
がハイネ文学全体に占める位置が決定されてくる。即ち,「アッタ・トロル」においてハイ
ネは芸術性を軽視した傾向詩に批判を加え,芸術性を擁護したが,「ドイッ冬物語」におい
ては芸術性を備えた政治詩め在り方を示し,「アッタ・トロル」によって行なった批判の正
100 藤 沢 正 明
しさを実際の作品によって証明しようとしたのである。
1. 「私」という人物について
「ドイツ冬物語」は「アッタ・トロル」と同じく27章から成る長編叙事詩であるが,「ア
ッタ・トロル」が熊狩りをテーマにしているのに対し,「ドイツ冬物語」は「私」が行なう
国境からハンブルクまでの旅を題材にしている。
このドイッへの旅行が行なわれたのは,風が木々の葉を吹き落とす11月である。国境へ
着いたとき,「私」の胸は激しく高鳴り,涙が溢れてくる。また,ドイッ語を耳にすると,
奇妙な感情にとらわれ,心臓から心地好く血が流れるかのようであった。そしてドイッの
大地を踏みしめたときには,感激のあまり体の中を新たな力が駆け巡るのを感じる。この
ように,作品の冒頭にはドイッに到着したときの「私」の感動と感激が描かれている。そ
れでは,なぜ「私」はドイツへやって来たときこのように感激したのであろうか,この点
を明らかにするために,まずなぜ「私」がドイツへの旅を試みたのかに目を向けてみよう。
その理由は24章に記されている。季節はもう冬であり,なぜよりによってこんな時節に
ドイッへやって来たのかというハソブルクの女神ハンモニアの問いに対して「私」は,人
間の心の奥底には思いがけないときに覚醒する思いが眠っているのだ,と答えている。パ
リでの生活は外面的にはかなり良かったが,内面的には重苦しいものであり,圧迫感は日
日募っていった。r私」は「郷愁」に取り付かれていたのである,そこで,このような状態
から抜け出すために,ドイツの空気が必要だったのである15)。「私」は「郷愁」をドイツ旅
行の理由としている。
ドイツに対する郷愁が「私」をドイツへ行かせたのであるが,当時のハイネの気持は
「夜の思い」と題する詩の中にも鮮明に現われている。夜ドイッのことを思うと眠られな
くなる。熱い涙が流れ,目を閉じることができない。歳月が経過し,もう12年間母親の顔
を見ていない。樫の木や菩提樹のある祖国は滅びることはないだろうが,年老いた母親は
死んでしまうかもしれない。ドイツを離れてから多くの愛する人々が墓の中へ入ってしま
った。彼らの数を数えると,心の中で血が流れる16)。
1843年9月ハイネは母親のべティ・ハイネにドイッへ行く可能性について知らせてい
る。それによれば,その年のうちに行くことはほとんど不可能であるが,翌年には必ず行
くという心積もりであった17>。だが,翌月の手紙では翌年の春まで待たなくてもその年の
うちに会える旨を伝えている18)。計画が具体的になり,ブジ・ユッセル,アムステルダム,
ブレーメソ,ハンブルクと道順を伝える手紙の中では,自分の見掛けが変化していても驚
かないようにとの願いと共に,間もなく会える喜びが記されている19)。そして,ハソブル
クからパジにいる妻のマチルデに宛てられた手紙には,実際に会ったときの母親妹,伯
父の喜びが報告されている。母親は嬉しそうであり,妹は狂喜し,伯父はハイネのありと
あらゆる長所を誉め称えたのである2旬。ハソブルクを離れ再びパジに戻るときの去り難い
気持をハイネはカンペに次のように伝えている。
今回私がいかにハンブルクから去り難かったか,あなたには想像もつかないことでし
ょう。ドイッに対する大きな愛情が私の心の中に広がっています。それは消すことが
できません21)。
ハイネ「ドイツ冬物語」における詩の役割について 101
ドイッに対するこのような強い愛情が「ドイツ冬物語」の冒頭における「私」の感激,
感動となって現われているのである。
ドイツの大地を踏みしめたときの感動の他に,1章には更にもう一つ「私」の人物的特
徴が明示されている。国境付近で歌う少女の歌に「私」は心をゆさぶられる。声は良くは
なかったけれども,心の底から出た歌声である。だが,その内容は地上の悲惨な現実と来
世における救済を表わしていた。地上は「涙の谷」であり,喜びはすぐに消えてなくなる。
来世においてのみあらゆる苦しみから解放されて魂は「永遠の喜び」に酔うことができる。
彼女は「諦めの歌」を歌っていたのである。これに対して「私」は,「新しい歌」,「もっと
良い歌」を作る意志を表明する。地上に「楽園」を建てること,欠乏に苦しまず地上で幸
福になることが必要なのである。勤勉な人々の作り出したものを怠け者が浪費すべきでは
ない。この世には,万人に必要なパンが,「パラやミルテ」,「美や喜び⊥「甘味エンドウ」
が充分にある。天国は天使や雀に任せておけばよい。「私」の歌は地上の幸福と緊密に結び
付いていたのである。
このように,「私」は「諦めの歌」ではなく,地上の幸福を内容とする「新しい歌」,「も
っと良い歌」を作ろうとする詩人である。
その「私」はプロイセソにとって好ましい存在ではなかった。作品執筆以前の1842年に
ハイネはプロイセンとの「生死を賭けた公然たる戦い」22)を主張している。また,その10
年前1832年10月18日付の「フランスの状態」に付けられた「序文」の中では,オーストリ
ア以上にプロイセンが厳しく批判されている。「二つの専制国家」オーストリアとプロイセ
ソのうち前者は,自由主義に対する闘争を否定したり,一時的に中止したりすることの決
してない「公然たる正直な敵」であった。メッテルニヒは決して「自由の女神」に色目を
使ったりしなかったのである23)。ところが,プロイセンは「不自然で偽善的で信心ぶっ
た」24)国家であった。
「私」とプロイセンの対抗関係は作品中の幾つかの個所にも現われている。国境ではプ
ロイセンの税関吏が旅行者の荷物を調べている。彼らは「私」のトランクを調べドシャツ
やズボンやハンカチをいじり回し,レースや宝石や発禁本を捜し出そうとする。これに対
して「私」は一彼らの捜している「密輸品」は「私」の頭の中に隠されているので発見
されはしない。「私」の頭は「発禁本がさえずる鳥の巣」である。それらは「悪魔の図書館」
にある本よりも恐ろしく,ホフマン・フォン・ファラースレーベンの本よりも危険である
一とプロイセンに対する挑戦的な考えを表明している25)。また,アーヘンの郵便局の看
板から憎々しげに見下ろしているプロイセンの鷲を見て「私」は,いつかそれが「私」の
手の中に落ちたならば羽をむしり,爪を切り取り,その後で空高く棒の上に乗せ,ライン
地方の狩人を呼び集めて射撃させるだろう26),とプロイセンに対する憎しみと敵憶心を表
明している。更に,ミソデンでは経帷子を着た憲兵に取り囲まれ,険しい岩壁に縛り付け
られる夢を見るが,その後「私」は逆にプロイセソの鷲の攻撃に会い,肝臓をつつかれ坤
き声を上げている27)。
このように,「私」はプロイセンに激しく敵対する人物でもある。従って,以上のところ
から「私」の人物的特徴を次の3点にまとめることができよう。(1)祖国ドイツに対して並
並ならぬ愛情を持っている。②地上の幸福に結び付いた「新しい歌」,「もっと良い歌」を
102 藤 沢 正 明
作ろうとする詩人である。③プロイセソと敵対関係にある。
2.「私」の見たドイツ
それでは,次に「私」がドイツをどう見たかを検討するのであるが,その前にまず,ハ
ンブルクの月の夜女性の姿をして「私」の前に現われるハンブルクの守護神ハンモニアの
ドイツ観を整理してみよう。
彼女によれば,パリは「不道徳な」都会であり,フランス人は「浮薄な」性格である。
パリには誘惑が多く,人はあまりにも容易に「心の平和」を失なってしまう。一方,ドイ
ツには「紀律と道徳」が支配しており,幾つかの「静かな満足」が花開いている。検閲も
以前のように厳しくはない。これがドイツの現状に対するハソモニアの考えである。また,
以前のドイツの状態を悪く言うのは「誇張」であると,彼女は次のような理由付けをし
て,過去を弁護している。{1)「自殺」することによって隷属状態から逃れることができた,
{2)国民は「思想の自由」を享受していた,それを制限されたのは印刷物を出そうとした少
数の者だけである,㈲「法律に基づかない専横」は存在しなかった,最悪の扇動家といえ
ども判決なしで市民権を剥奪されることはなかった,④「時代の困窮」にもかかわらず,
ドイツの牢獄で餓死した者は一人もいない。このように,ハンモニアは以前のドイツに対
してかなり肯定的な態度を取っているが,更に,現在に比べて過去の方が良いとさえ主張
している。なぜなら,現在には「疑い」や「拒絶」が支配しているが,過去には「信仰」
や「安らぎ」が花開いていたからである。こういう考え方からは,「実際的表面的自由」に
よって「理想」はやがて抹殺され,ポエジーも消滅するだろう,と未来に対する否定的な
態度が生じる28)。それ故,ハンモニアが「私」に見せてくれるドイツの未来は悪臭に満ちて
いたのである29)。
だが,「私」が見たドイツの現実はハンモニアのそれとは同じでない。「私」の旅は,国
境からアーヘン,ケルン,ミュールハイム憤バーゲン,ウナ,トイトブルガー・ヴァルト,
パーダーボルソ,ミンデン,ビュッケブルク,ハノーファー,ハンブルクと続くが,この
旅行によって,「私」がドイツをどう見たか,その様子が明らかになる。以下,幾つかの特
徴的な個所を取り出して,「私」の旅を追ってみることにする。
まず,国境近くで「私」が見たものは,「諦めの歌」を歌う少女である。前節で触れた
ように,彼女は地上の悲惨な現実を歌っていた。喜びはすぐに消え,救いは天国にのみ求
められた。地上は「涙の谷」だったのである30)。
また,税関ではプロイセンの役人が旅行者の荷物を調ぺ,レースや宝石や発禁本を捜し
出そうとしている31)。傍の旅行者に言わせれば,関税同盟が多くの国に分裂した祖国に
「外面的統一」,即ち物質的統一を与え,検閲が「内面的統一」,即ち「精神的統一」を与え
るのである32)。
アーヘンでは路上で犬が退屈している。この町を小1時間散歩した「私」が見たものは
プロイセンの軍隊である。彼らは,フラソス人の血を吸ったような赤い高襟の付いた灰色
のマントを着,堅苦しく杓子定木な態度で,動作はぎごちなく,氷のようなうぬぼれを持
っている33)。郵便局の看板からはプロイセンの鷲が憎らしげに見下ろしている34)。
夜遅く到着したケルソでは,月あかりの中にドームが黒々と聾えている。ケルンのドー
ハイネ「ドイツ冬物語」における詩の役割について 103
ムの建設は1248年に始まったのだが,その後長い間中断し1842年に再開された35)。「私」の
考えによれば,これは「榊の・・ステ・一ユ」となる性格の建物であり・°一噺皇崇拝
者たちは「ドイッの理性」がその中で衰弱することを期待した。だが,そのときルターが
登場しドームの完成を妨げた。それ以来ドームは未完成のままであり,この事実にょって
「ドイッの力」と「プロテスタソトの使命」が記念されている。ところが,今またドーム完
成のための事業が始められたのである。そのためにフランツ・リストが音楽会を開いた
り,プロイセン王が聴衆に向かって演説したりするが・「私」はドームの建設再開の運動に
批判を加えている36)。
ドームの建設再開が与えた影響の大きさは,当時の幾つかの詩に現われている。例えば,
プルッツは1842年9月4日の建設再開に因んで「プロイセン王に」と題する詩を書き,そ
の中でケルンのドームを「自由のドーム」と呼び,その建設再開の場に現われた王に「憲
法」を要望している。「自由」こそが「最良のもの」と考えるプルッツの頭の中でドーム建
設の再開が肯定され,それに参加するフリードリヒ・ヴィルヘルム4世への期待が「憲法」
の要求となって表現されているのである37)。ルートヴィヒ・ウーラントもケルソのドーム
を「自由なライン」の記念と特徴付けて,その建設に称賛の態度を取っている。彼の考え
では,ケルンのドームは「平和な時代」,「ドイツの団結」,「キリスト教信仰」を象徴して
いるのである38)。これに対して,ヴィルヘルム・ヨルダンはrREプルッツに」の中でプ
ルッツに批判を加えている。「権利」は懇願して得るものではなく,戦い取るものだからで
ある。ところが,プルッツはあまりにも低姿勢であった。「精神の王国の君主」である詩人
が「自由」のため「下僕」のように語ってもよいだろうか。沈黙するか,そうでなければ
大胆に語らねばならなかった。もう哀願の時代ではない,とヨルダンは「人類の花嫁」,
即ち「自由」に忠誠を誓う詩人たちに奮起を呼びかけている39)。
午前7時45分にケルンを出発した「私」は途中奇麗な町ミュールハイムを通り,そこで
1831年頃のドイツ,即ち7月革命の影響下にあった頃のドイツを思い出している。その頃
のドイッは現在のドイッとは違っていた。その頃はあらゆるものが花で飾られ,太陽は笑
い,鳥がさえずり,人々は期待し知恵を巡らしていたのである。彼らは,やせ衰えた騎士
階級が間もなくいなくなり,「自由」が喜ばしげに白青赤の三色旗と共にやって来ると考え
たのである。そのときには墓の中からナポレオンも甦るかもしれなかった。だが,騎士た
ちは今なお存在する。「自由」は足を脱臼し,もはや飛び上がることも突進することもでき
ない。パリの三色旗は悲しげに塔の上から見下ろしている40)。これが7月革命の影響が消
え去った後のドイッやフランスの状態であった。
ミュールハイムを通り,3時近くにバーゲンに到着した「私」は,そこで昼食を食ぺ,そ
の後ウナへ向かう41)。
トイトブルクの森の中では馬車が故障し,真夜中「私」は狼の群に取り囲まれる。狼た
ちに向かって「私」は感謝と弁明の演説をする。「試練の時」に彼らが示してくれた信頼の
情に感謝した後で,「私」は次のように釈明する。「私」は羊でも犬でもなく,狼であった。
「私」の心と歯は狼である。時々羊の毛皮を羽織ったが,それは体を暖めるためであって,
羊の幸福に熱中したからではない42)。
パーダーボルンを通り,やがてミンデンに到着。ミソデンでは,1節で触れたように夜
104 藤 沢 正 明
夢の中でうなされる。「お前は今要塞の中にいる。もう逃げることはできない」と威嚇さ
れ,幽霊の一団によって岩壁に縛り付けられ,最後にはプロイセンの鷲に襲われ肝臓をつ
つかれるのである。
祖父の故郷ビュッケブルクを通って,昼頃ハノーファーへ到着。ハノーファーは清潔で
華麗な建物の多い町で,美しい外観の宮殿には王が住んでいる、車寄せの両側には哨舎が
あり,イギリス兵が銃を持って見張っている。ガイドの説明によれば,ハノーファー王エ
ルンスト・アウグストは年のわりにはとても元気で,平和に暮らしている。だが,大ブリ
テンの生活に慣れている彼にはハノーファー王としての職務は退屈で仕方がなかったので
ある43)。
ハノーファーでは,1837年6月イギジスのカンバランド公エルンスト・アウグストが王
位に就くと,同年議会が解散させられ,1833年9月の憲法も失効を宣せられた。これに対
して,ゲッティンゲン大学の瓦Cダールマソ,(L&ゲルヴィーヌス,W.ヴェーバー,
W.Eアルプレヒト, H.エーヴァルト,グリム兄弟の7人が抗議の声明を出し,以後ド
ィッ全土に彼らを支援する運動が組織された44)。エルンスト・アウグストとはこのような
事件を引き起こした人物である。その彼が今でもなお宮殿の中で,職務に退屈する程に悠
悠と暮らしていたのである。
目的地ハンブルクで「私」は母親に大喜びで迎えられる⑮。だが,ハンブルクの町その
ものは1842年5月5日から10日まで続いた大火によって以前とは様相が一変していた46)。
ドロステ・ヒュルスホフの詩「都市とドーム」47)にも見られるように,ハンブルクの大火
とケルンのドームの建設再開はこの年の大きな事件だったのである。
以上,旅行を通して「私」が見たドイツの状態,及び旅行中に「私」が考えたこと,感
じたことの中から幾つかの特徴的な個所を選んでみたが,ドイツの状態についてまとめれ
ば,次のようになる。(1)地上を「涙の谷」と考え,「諦めの歌」を歌わなければならないよ
うな状態であった。②プロイセンの支配が強固に貫かれていた。(3)無気力,退屈が支配し
ていた。(4)自由が奪われていた。これらの諸点は,現状に安住するハンモニアの描くドイ
ツ像とは著しく異なっている。
確かに,当時のドイツは7月革命の頃とは全く異なっていた◇ハイネの説明によれば7
月革命の時期にはドイツも「政治的覚醒」を経験するのだが,やがて再び眠り込んでしま
い,「全般的無気力」,「沈滞」が支配していたのである48)。このようなドイツの状態が「冬
物語」の中には描かれている。
しかしながら,そのような状態から抜け出すことが待望されていたのであり,それが中
世ドイツの代表的人物であるバルバロッサ(赤髪王),即ちフリードリヒ1世への期待と
結び付いていたのである。Rゴットシャルの「バルバロッサ」という詩にも深く長い眠
りについているドイツに対する覚醒への期待が,バルバロッサに結び付けて表現されてい
る49)◎
だが,ハイネはキュフホイザーで椅子に腰掛けたまま眠りこんでいるバルバロッサに対
する期待には批判的な態度を取っている。ドイツを解放するのは,民衆が信じているよう
な赤髭王ではないからである。しかし,ドイツ国民は彼らの救世主を長い眠りの中にある
バルバロッサのような人物の形でしか考えることができなかったのである錨。
ハイネ「ドイツ冬物語」における詩の役割について 105
さて,子供の頃乳母が「私」にしてくれた話によれば,赤髭王は死んだのではなく,キ
ュフホイザーという山の中に隠れている。山の中には洞窟があり,第1の広間は馬屋にな
っていて,そこには何千頭もの馬がいる。第2の広間の藁の上にはこれまた何千もの兵士
たちが横になっている。第3の広間には剣,戦斧,槍,鎧兜,火器等がうずたかく積み
上げられている。バルバロッサ自身は何百年も前から第4の広間の石造りの椅子に腰掛
け,机に向かって頭を腕で支えている。彼の赤い髭は地面にまで届いている。時々まばた
きをしたり眉をひそめたりするが,眠っているのか考え事をしているのか定かでない。だが,
時が来れば彼は起き上がり,兵士たちと共に戦場へ赴く51)。これが,乳母が「私」に語っ
てくれたバルバロッサの物語である。
これに対して,「私」は夢の中でバルバロッサに批判を加えている。彼は「架空の存
在」52)であり,彼にドイッの解放を期待するのが無理な話であり,彼なしで自らを解放す
ることが必要だからである。バルバロッサがドイツやドイツ国民を現在の状態から解放す
るものでないことは,彼の悠長な態度によって示されている。夢の中でバルパロヅサは
「私」を三つの広間に案内し,武器や兵士や馬を見せてくれる。ところが,武器や兵士は
充分であるにもかかわらず,馬がまだ不足していることを理由に,戦を急いではいけない,
ローマは1日にして成らず,今日来ない者も明日にはきっとやって来る,樫は徐々に成長
する等と言って,いっこうに出陣する意志がない53)。加えて,時代錯誤的であり,時勢に
疎く,また身分上の特権意識を持っている。従って,よくよく考えれば皇帝など必要ない,
と「私」は宣言せざるをえないのである54)。
このように,「私」は架空の人物に対する期待を批判し,そのようなものに頼らずに自ら
の力で自らを解放する立場を打ち出しているが,このことによって,旅行を通して観察し
たドイッの状態を変化させるための基本的な姿勢が明確にされているのである。
3. 詩人の力,詩人の在り方について
ハイネは「ドイツ冬物語」を高度の政治性を帯びており,在来の政治詩にとどめを刺す
ものであると考えたが,なる程作品中にもH・フォン・ファラースレーベソやニコラウ
ス・ベッカー,フライリヒラ」ト等の名前が登場する。
H.フォン・ファラースレーベンの詩をハイネは,劣悪であり「美的見地」からすればプ
ロイセンの措置は正しい,俗物を楽しませる「下手な冗談」である55),と酷評している。
これは1842年の2月,即ちドイッ旅行を行なう以前にカソペに宛てて出された手紙の中の
一節であるが,これ以外にもハイネは彼について意見を書き記している。「民主主義」が支
配の座に着くと,あらゆる「ポエジー」が死滅する。この死滅への「過渡期」に生じるの
が「傾向詩」であり,それ故「傾向詩」は「民主主義」に引き立てられる。H.フォソ・
ファラースレーベンのかけで,あるいは彼と共に「ポエジー」は死滅する56),というのが
ハイネの考えであった。
1840年にフランスがライン河を独仏の国境にしようとライン左岸地帯を要求すると,ナ
ショナリズムが高揚し57),多くの詩が書かれた。その代表的なものの一つがベッカーの作
品「ドイツのライン」である。その中でベッカーは「彼らは所有すべきでない/自由なる
ドイツのラインを」とフランスに抗議している58)。彼以外にもEM・アルント・M・シュ
106 藤 沢 正 明
ネッケソブルガー,プルッツ等が詩を書いている59)。当時の状況をハイネは後年(1855
年),「7月革命が彼らをいくらか政治生活の後景に押しやった。だが,1840年のフランス
の新聞の好戦的なファンファーレがフラソス嫌いのあの党派に,再び勢力を得させる絶好
の機会を提供した。彼らは『自由なライソ』の歌を歌った」60)と説明している。また,
1841年1月11日の論説においてはドイツとフランスの関係について次のように述べてい
る。それによれば,戦争は両国にとって危険なことであり,また不必要なことである。フ
ランスはライン国境地帯を所有したがっているが,それはさもないと万がL一侵略された場
合に充分防禦できないからであって,自ら平和を破らない限リドイッ人は国境地帯を失な
う心配をする必要はない。両国の国民は戦争を欲してはいない,と両国の農民と市民の動
向を説明し,エルザスとロートジンゲンを欲しがっている国枠主義者たちの「大言壮語」
はドイッの農民と市民の声ではない,と言っている鋤。このような見地からハイネは「ド
イッ冬物語」の中で「父なるライン」を擬人化して,彼にナショナリズムを煽るベッカー
の詩を「愚かな歌」62)と言わせているのである。
なお,ハイネはフライジヒラートについては「アッタ・トロル」の「序文」の中で彼を
高く評価し,「7月革命後ドイツに登場した最も重要な詩人たちの1人に数える」63)と述べ
ている。また,他の所では「第1級の才能」,すぐれた色彩効果,独創性を称えている64)。
主人公の「私」は,「父なるライソ」に向かってベッカーの「下手な歌」の代わりに「も
っと良い歌」が聞けるでしょう§5),と言っているが,H.フォン・ファラースレーベンとの
比較では,1節で見たように自分の方が彼よりも危険で恐ろしい,と語っている。その内
容は作品の中では詩人の力の問題として次のように具体化されている。
詩人である「私」は影のような同行者を連れている。これは,夜「私」が机に向かって
いるとき時々背後に現われる無気味な存在であり,マントの下には首切り斧を隠している。
だが,それは後に立ってはいても「私」の仕事の邪魔をするようなことは決してなく,離
れてじっとしている。このような「奇妙な連れ」がケルンの月の夜再び姿を現わしたので
ある。通りを歩く「私」の後をそれは「影」のようについて来る。ドーム広場での「私」
の質問に答えてそれは自分自身の説明をするが,それによるとその「奇妙な連れ」は「過
去の亡霊」でもなく,「墓から出て来た藁ぼうき」でもなく,「レトリックの友」でもなけ
れば「哲学的」存在でもない。実践的な性格を有し,「私」が考えたことを実行する。何年
かかろうとも「私」が考えたことはその「奇妙な連れ」が休まず実行するのである66)。こ
のように「私」は考えたことの実行者を連れている。
詩人の力について,「私」は更に最後の章で次のように語っている。これはプロイセンの
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に向けられた言葉である。死んだ詩人は尊敬され,生き
ている詩人は大事にされなければならない。生きている詩人を侮辱してはいけない。なぜ
なら,彼らにはジュピターの稲妻よりも恐ろしい「炎と武器」があるからである。従って,
神々を侮辱しても詩人だけは侮辱してはいけない。神々ももちろん「人間の悪行」を厳し
く罰する。地獄の業火は熱く燃えている。だが,そこからは逃げることができる。罪人を
救い出す聖者が存在するからである。ところが,詩人の作り出す地獄からは祈っても救世
主が赦してくれても逃れることはできない。「ダソテの地獄」を例に出して,「私」は神の
力をも上回る「歌の炎」の凄まじさについて語っている67)。
ハイネ「ドイツ冬物語」における詩の役割について 107
そこで「私」はダンテに言及しているが,「地獄と亡命の詩人」68)ダンテにハイネは親
近感を抱いていた。「ベルネ論」の中ではベルネやダンテを例に出して,「亡命生活を経験
した者だけが祖国愛の何たるかも知っている」69)と記している。これにとどまらず,ハイ
ネのダンテ観は芸術と時代との関係に関する重要な文学上の主張とも結び付いていた。
フランス移住直後に書かれた「フランスの画家たち」の中でハイネは,「時代の動き」そ
れ自体は芸術にとって有害ではない,むしろそれはアテネやフローレンスの例に見られる
ように有益であるにちがいない,と述べている。ハイネの考えによれば,アテネやフロー
レンスでは激しい戦争や党派間の嵐の中で芸術がその最も素晴らしい花を咲かせたのであ
る。ギリシアやフローレンスの芸術家たちは「時代の大きな苦しみや喜び」から離れて,
「自己中心的で孤立した芸術生活」を送っていたのではない。反対に彼らの作品は時代の映
像,しかも「夢見る映像」であり,彼ら自身「申し分のない男たち」であって,その人と
なりは彼らの芸術力と同様に強大であったのである。その例として,まずギリシアの彫刻
家フェイディアスとイタリアのミケランジェロの名が挙げられている。彼らは彼らの芸術
を「日々の政治」から切り離さなかったのである。また,アイスキュロスはマラトンでペ
ルシア人相手に戦い,その彼が「ペルシアの人々」を書いたのである。そして,ダンテは
逃亡の最中に彼の作品を書き,「追放」と「戦争の惨禍」の中にあっても才能の滅亡を嘆い
たりせず,「自由の滅亡」を嘆いたのである70)。このようにハイネはフェイディアス,ミヶ
ランジェロ,アイスキュロス等と並べて,時代との緊密な結合という点からダンテを高く
評価している。
さて,「冬物語」の中で示された以上のような「歌の炎」の凄まじさ,詩人の力について
の見解は,「新詩集」収録の「傾向」と題する詩に見られるハイネの文学的立場と密接な関
係を有している。そこでハイネは詩人の在り方について次のように述べている。即ち,ド
イツの詩人に求められているのは「ドイツの自由」を歌い称えることであり,マルセイエ
ーズのように聞く者を行為へと奮い立たせなければならない。ロッテ1人に夢中になった
ヴェルテルのように嘆いてはならず,何のために鐘が鳴るかを民衆に告げなければなら
ない。刀を語り,剣を語らなければならない。祖国のトロンボーン,大砲とならなければ
ならない。最後の圧制者が逃げ失せるまで,吹き,響かせ,とどろかせなければならない
のである71)。これがハイネによって当時考えられていた詩人の在り方であり,従ってまた
詩の役割でもある。
以上,「私」とはどういう人物であり,祖国ドイツの状態をどう見たか,またハイネはこ
の作品によって何を示そうとしたかを考察してきたが,最後に全体を整理してみよう。
「私」は祖国ドイツに対して並々ならぬ愛情を持ち,来世にのみ救済を求める「諦めの
歌」ではなく,地上の幸福と結び付いた「新しい歌」,「もっと良い歌」を作ろうとする詩
人であり,プロイセンに激しく敵対している。その「私」が国境からハンブルクまでの旅
行によって見た祖国は,プロイセンの支配が強固であり,この世を「涙の谷」と考え「諦
めの歌」を歌わざるをえないような悲惨な状態にあり,無気力,退屈が支配し,自由が奪
われている。そこで「私」は従来の傾向詩に代わる「新しい歌」を作ろうとする。それは
ベッカーの詩のように「愚かな歌」でも「下手な歌」でもなく,またファラースレーベン
108 藤 沢 正 明
のものよりも恐ろしく危険である。「私」の考えには実行者が存在し,その「歌の炎」は凄
まじく,誰もそこから逃れること.はできない。このような主張によってハイネは詩人の力.
詩人の在り方を明確にし,従来の傾向詩に代わる新しい政治詩の取るべき姿を示したので
ある。
注
、)H・i・・i・hH・i・・. W・・k・u・dB・i・f・i・・eh・Ba・d…h・・a・・g・g・b・・v・・H…K・ufm・…A・伽u・
Verlag, B鋤d 9, S.124ハイネからの引用は特別の場合を除いてこの全集による。
2) £benda, S.125
3)H・i・・i・hH・i・・. S蓉k・1・・a・・g・励・・a・・9・g・b・・v・・d・・N・ti…1・・F・・sch・・g・・und G・d・・k・t註tt・n
der kla$sischen deutschen LiteratUr in Weimar und dem Centre National de la Recherche Sclenti一
爲que桓Paτis, Ba蕊d 22, S.89
4) Ba蕊《19, Sユ27f.
5) Ebenda, S・140
6) ]Ebenda, S・138
7)F・it・M餌d・・H・頑・h H・i・阜Ch伽ik・ei…L・b・・…dW・・k…B・品197◎・S218
8) Ban《i 1, SL 431
9) Ebenda}S・562
10) 正ハand 9, S・141
11) Ebenda, S・142
12) £benda, S・144
13) Ebenda, Sユ53£
14) Ebenda, S・166
15) Band 1, S・495 「
16) £benda, S・339f・
17) Ba負d 9, S・121
18) Ebenda, S・122
19) Ebenda, S・124
20) Ebenda, S・127
21) ]Eもe猟la, Sぼ4◎
22) Ebe簸da, S.85
23) Band 4, S・371
24) Ebenda, S・373
25) Band 1, S.438
26) Ebenda, S.441f.
27) Ebenda, S・480
28) Ebenda, S・497ff・
29) Ebenda, S・502f・
30) Ebe猟至a, S・435£
31) Ebenda, S.437f・
32) Ebenda, S・438f・
33) Ebenda, S・439f・
34) Ebenda, S・441
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37) Um Einheit und Freihe三t.1815−1848, bearbeitet von Ernst Volkmann・Darmstadt 1973・S・173丘
38) Ebenda, S・186f・
39) Ebenda, S戊75£
40) Band 1, S.456f・
41) Ebenda, S・458ff・
ハイネ「ドイツ冬物語」における詩の役割について 109
42) Ebend《ちS436£
43) Ebend隅S481£
44) Karl Obermann:Deutschlalld von 1815 bis 184玩Berlin 196ちS101丘
45) Band 1, S 482f£
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47)DrosteH61sho臨Werke in einem Ban也herausgegeben von den Nationalen Forschung&皿d Ge−
denkst註tten der klassischen deutschen Literatur in WeimaらAufbau−Verla&S151任
48) Band 1, S 565£
49) Um Einheit und Freiheiちa・a・α, S 183
50) Band 6,.S203
51) Band 1, S・468f£
52) Ebenda, S 476
53) Eb㎝d{ちS471f£
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54) EbendεちS473f£
55) Band乳 S・86
56) Band 7, S 424
57) Band(㍉S692
58) Um Einheit und Freiheiちa乱σ, S 141£
59) Ebend隅S142f£
60) Band 6, S 249
61) Ebelld馬S361
62) Band 1, S 446
63) Ebenda, S 346
64) Band 7, S 323
65) Band 1, S 448
66) Ebenda, S 449f£
67) Ebend隅S506£
68) Band 2㌧ S 218
69) Band 6, S 197
・ 70) Band 4 S.343£
71) Band 1, S 330
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