国連東ティモール暫定統治機構から学ぶ教訓 ―今後の

国連東ティモール暫定統治機構から学ぶ教訓
―今後の国連平和維持活動に活かすために―
学 籍 番 号 : 12152024
氏名:坂下
東士
指 導 教 員 : エ ド ワ ー ド ・ マ ー ゲ ル Jr.
目次
第 1 章 は じ め に ........................................................................ 3
第 2 章 平 和 構 築 と は .................................................................. 5
1.
平 和 構 築 の 定 義 ............................................................... 5
第 3 章 国 連 平 和 維 持 活 動 の 歴 史 と そ の 変 遷 .................................... 7
1.
国 際 連 合 と は .................................................................. 7
2.
国 連 平 和 維 持 活 動 と は ...................................................... 9
3.
成 長 を 続 け る 国 連 平 和 維 持 活 動 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11
i.
国 連 平 和 維 持 活 動 の 回 数 と PK O 要 員 数 の 変 化 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 12
ii.
国 連 平 和 維 持 活 動 形 態 の 変 化 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 14
iii. 公 平 性 と 不 偏 性 ( Impartiality) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 17
第 4 章 東 テ ィ モ ー ル 民 主 共 和 国 の 独 立 ま で の 歩 み . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 20
1.
東 テ ィ モ ー ル 民 主 共 和 国 概 要 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 20
2.
独 立 投 票 ま で の 苦 難 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 22
i.
ポ ル ト ガ ル の 支 配 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 22
ii.
ポ ル ト ガ ル か ら イ ン ド ネ シ ア へ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 25
iii. イ ン ド ネ シ ア に よ る 抑 圧 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 26
iv.
国 際 社 会 の 対 応 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 29
3.
独 立 投 票 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 32
4.
国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 ( UN TAET ) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 33
1
第 5 章 国 連 平 和 維 持 活 動 が 東 テ ィ モ ー ル 社 会 に 与 え た 影 響 . . . . . . . . . . . . 38
1.
国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 の 成 果 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 38
2.
西 テ ィ モ ー ル 難 民 問 題 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 41
3.
国 防 軍 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 44
4.
公 用 語 問 題 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 46
第 6 章 結 び . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 49
1.
結 論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 49
付 録 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 54
参 考 文 献 表 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 57
2
第1章 はじめに
研究の動機
「平和構築」と聞くと、一体何をするものなのか具体的なイメージは出てこ
な い 。 他 方 、「 戦 争 」 や 「 紛 争 」 と 聞 く と 、 具 体 的 な イ メ ー ジ の み な ら ず 、 関
連 す る 言 葉 や 事 実 、 歴 史 的 事 件 が 思 い 浮 か ぶ 。 近 年 で は 2011 年 の ア ラ ブ の 春
以 降 、北 ア フ リ カ 地 域 や 中 東 地 域 の 政 情 不 安 が 高 ま り 、武 力 紛 争 に 陥 っ て い る 。
そ も そ も 、「 平 和 」 と は 何 な の か 。 そ の 逆 の 「 戦 争 」 や 「 紛 争 」 の 定 義 と は
何だろうか。そのような根本的なことから考える必要がある。他人事のように
聞こえるかもしれないが、日本もまた紛争の当事者である。いまだに解決しな
いロシアとの北方領土問題や韓国との竹島(韓国名:独島)問題、中国との尖
閣諸島問題など、私たちは現在紛争中なのである。
しかし、残念なことに、今日世界には武力を用いて互いの主張をおしつけ合
っている国家や宗教 集団およびその武装集団がいる。そして、多くの 罪の無い
市民、特に子どもや女性が脅威に曝されている。例えば、現在シリアでは政府
軍 と 反 政 府 軍 、 イ ス ラ ム 国 ( Islamic State ) に よ る 侵 略 、 反 政 府 軍 を 支 援 す
る ア メ リ カ 軍 や フ ラ ン ス 軍 、ア サ ド 政 権 を 支 援 す る ロ シ ア 軍 に よ る 空 爆 に よ っ
て、シリア国内とその地域は非常に危険で不安定な状態である。さらに、それ
に 拍 車 を か け る の が 、イ ス ラ ム 国 に よ る 市 民 を 狙 う 自 爆 行 為 な ど の テ ロ リ ズ ム
である。
そ の よ う な 恐 ろ し い 武 力 紛 争 が 世 界 中 で 起 き て い る 今 日 、2 1 世 紀 に 初 め て 独
3
立した国家東ティモール民主共和国(以下東ティモール)で、国連平和維持活
動 史 上 初 の 「 統 治 型 PKO(Peacekeeping Operations) 」 に よ る 平 和 構 築 ミ ッ シ ョ
ンが行われた。冷戦後、日々国際情勢が目まぐるしく変化する中で、国連平和
維持活動も変わらざるをえなくなってきた。国家、そして平和を構築し 維持す
るために、国連平和維持活動は大きな権限を持つこともある。そのおかげで東
ティモールは国家として 独立し発展してきた。しかし、東ティモールにおける
国連平和維持活動の中で、国連は様々な問題に直面した。
そ こ で 本 論 文 で は 、初 の 統 治 型 PKO で あ る 国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 か
ら教訓を学び、何を今後 の平和維持活動に活かせるのかを 考察する。まず次章
からは、国連平和維持活動における平和構築を定義する。第 3 章では、日々進
化を続ける国連平和維持活動の歴史とその母体である国際連合のそれを考察
する。第 4 章で東ティモールの独立までの歴史をポルトガルとインドネシア、
さ ら に 国 際 社 会 に 分 け て 整 理 す る こ と で 、ど の よ う に 東 テ ィ モ ー ル 独 立 に 影 響
を与えてきたのかを検証する。そして第 5 章では、国連東ティモール暫定統治
機 構 が 報 告 し た 成 果 25 項 目 の 中 か ら 3 つ を 選 び 、 そ れ ら 3 つ の 背 景 を 考 察 す
ることで問題点を明らかにする。そして、それらから得た教訓を、米欧とロシ
ア の 介 入 、イ ス ラ ム 国 の 侵 入 と テ ロ 行 為 に よ り ま す ま す 状 況 が 悪 化 す る シ リ ア
の た め に 、国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 か ら 学 ん だ 教 訓 を 今 後 の モ デ ル と し
て 、シ リ ア の 未 来 の 国 連 平 和 維 持 活 動 の た め に 活 か す こ と を 本 論 文 の 目 的 と す
る。
4
第2章 平和構築とは
1.
平和構築の定義
平 和 構 築 の 定 義 は 、 国 際 連 合 ( 以 下 国 連 ) や 国 際 機 関 、 NGO に お い て 狭 義 ま
たは広義の意味で定義が異なり利用されるが、本論文では一般的に使われる
「 平 和 構 築 ( P o s t - C o n f l i c t P e a c e - B u i l d i n g )」 を 定 義 す る 。「 平 和 構 築 」( 以
下 平 和 構 築 )は 、和 平 合 意 に よ り 武 力 紛 争 が 終 わ り 、当 事 者 間 の 和 解 を 達 成 し 、
経済的・社会的または民主的政治を再構築し、さらに紛争の再発を防ぎ、平和
を 定 着 さ せ る こ と を 意 味 す る 。 こ れ は 、 1992 年 に ブ ト ロ ス ・ ブ ト ロ ス ・ ガ リ
( Boutros Boutros -Ghali ) 国 連 事 務 総 長 が 、 国 連 平 和 維 持 活 動 に 関 す る 報 告
書の「平和への課題」において定義した。
また、この「平和への課題」の中で他の国連平和維持活動との違いについて
も 定 義 さ れ た 。 そ れ ま で は 一 般 的 に 国 連 平 和 維 持 活 動 を PKO ( Peacekeeping
Operations) と 呼 ん で い た が 、 冷 戦 が 終 結 し 国 連 平 和 維 持 活 動 が 増 加 し 多 様 化
していく中で、呼び方も 細分化された。その国連平和 維持活動は大きく三つに
分 け ら れ る 。 一 つ 目 は 、 和 平 調 停 活 動 ( Peacemaking Operations ) で あ る 。 こ
れは、武力紛争の当事者間に紛争を止めさせ、和平条約を促し、国連がそ の国
の平和構築と国家再建のために交渉や調停を担うことである。但し 、武力紛争
を強制的に止めさせるために、国連によって承認された多国籍軍が介入し、武
力 で 紛 争 を 強 制 的 に 終 結 さ せ る こ と が あ る 。 こ れ は 平 和 執 行 ( Peace
Enforcement) と 呼 ぶ 。
5
二 つ 目 は 、 平 和 維 持 活 動 ( Peacekeeping Operations ) で あ る 。 平 和 維 持 活
動は、和平条約が調印され国連安全保障理事会の承認の下、停戦監視やその国
の治安維持のために派遣される国連平和維持部隊の活動のことである。
そして三つ目は、上記で述べた平和構築活動である。三つの中で、これは最
も重要であると考える。なぜなら、武力紛争は宗教や民族間の「考えや意見」
の 対 立 か ら 始 ま る か ら で あ る 。武 力 紛 争 が 終 わ り 、高 位 の 人 間 た ち が 結 ん だ「 形
式的な」和解が済めば平和なのだろうか。同じ国に住み、異なる宗教や民族を
受 け 入 れ る こ と な し に 、互 い に 殺 し 合 っ た 同 じ 国 の 人 間 と こ れ か ら も 平 和 に 暮
ら せ る だ ろ う か 。 世 界 銀 行 の リ ポ ー ト に よ る と 、 1996 年 か ら 1999 年 の 世 界 の
紛 争 の お よ そ 5 0 % が 、紛 争 終 結 か ら 5 年 以 内 に 再 び 武 力 紛 争 に 逆 戻 り し て い る
( 東 大 作 、 2 0 0 9: 2 9 - 3 0 ペ ー ジ )。 つ ま り 、 国 連 が 介 入 し て 武 力 紛 争 を 止 め た だ
けでは、根本的な解決にはならず、平和は長く続かない。その事実を国連は、
多 く の 平 和 維 持 活 動 か ら 学 ぶ こ と で 、役 割 を 変 え ざ る を え な か っ た の か も し れ
ない。
では、国連はそのような武力紛争に対して、これまでどのような対処をして
きたのだろうか。めまぐるしく変わる国際 情勢に対して、国連は一貫した対処
を行ってきたのだろうか。そもそも国連はどのような背景で、平和維持活動を
行なってきたのだろうか。次章ではまず、その背景である国連の歴史から振り
返っていく。
6
第3章 国連平和維持活動の歴史とその変遷
1.
国際連合とは
2 0 1 5 年 現 在 、国 際 連 合( U n i t e d N a t i o n s )は 、第 8 代 国 連 事 務 総 長 潘 基 文( パ
ン・ギムン)を筆頭に、6 つの国連主要機関(総会、安全保障理事会、経済社
会 理 事 会 、 信 託 統 治 理 事 会 、 国 際 司 法 裁 判 所 、 事 務 局 ) と 24 の 専 門 機 関 お よ
び 関 連 機 関 か ら 成 る 。2 0 1 1 年 に 独 立 を 果 た し た 南 ス ー ダ ン が 国 連 の 仲 間 入 り を
果 た し 、 現 在 193 ヶ 国 が 国 連 に 加 盟 し て い る 。
また、組織の巨大さだけでなく、世界に貢献したその功績も輝かしい。世界
で 最 も 偉 大 な 賞 で あ る ノ ー ベ ル 平 和 賞 を 過 去 15 回 、 国 連 と そ の 専 門 機 関 は 受
賞 し て き た 。2 0 0 1 年 に は 、国 連 と 第 7 代 国 連 事 務 総 長 コ フ ィ ー ・ ア ナ ン に 対 し
て、平和への功績が認められノーベル平和賞が授与された。他にも、国連平和
維 持 軍 ( 1 9 8 8 年 受 賞 ) や 国 際 原 子 力 機 関 ( 2 0 0 5 年 受 賞 )、 さ ら に 国 連 難 民 高 等
弁務官事務所は 2 度も受賞している。
そ の よ う な 世 界 一 巨 大 な 国 際 組 織 の 設 立 は 、 今 か ら 70 年 前 、 人 類 史 上 最 も
大 き く 甚 大 な 被 害 を 出 し た 戦 争 で あ る 第 二 次 世 界 大 戦 ま で 遡 る 。 1945 年 10 月
24 日 、 第 二 次 世 界 大 戦 と そ れ を 防 ぐ こ と が で き な か っ た 前 身 の 国 際 連 盟 ( The
League of Nations) の 反 省 か ら 、 51 ヵ 国 の 加 盟 国 に よ り 国 際 連 合 ( The United
Nations ) が 正 式 に 発 足 さ れ た 。 ま た 、 国 連 設 立 の 根 本 的 な 理 念 は 、 第 二 次 世
界大戦中において枢軸国(ドイツ、イタリア、日本)と戦うということに基づ
い て い る 。 第 二 次 世 界 大 戦 で は 、 戦 死 者 は 2200 万 人 と 負 傷 者 3500 万 人 、 民 間
7
人 の 犠 牲 者 は 2000 万 か ら 3000 万 人 と も い わ れ て い る 。 こ の よ う に 甚 大 な 被 害
と 犠 牲 者 を 出 し た こ と か ら 、 国 連 創 設 の 目 的 は 国 連 憲 章 ( The Charter of the
United Nations) の 中 で 、 国 際 社 会 の 平 和 と 安 全 を 明 確 に 謳 っ て い る 1。
その国連憲章は、国連の目的を以下の四つに定めている。⑴国際の平和と安
全 を 維 持 す る こ と 、⑵ 人 民 の 同 権 お よ び 自 決 の 原 則 の 尊 重 に 基 礎 を お い て 諸 国
間の友好関係を発展させること、⑶経済的、社会的、文化的または人道的性質
を 有 す る 国 際 問 題 を 解 決 し 、か つ 人 権 お よ び 基 本 的 自 由 の 尊 重 を 促 進 す る こ と
に つ い て 協 力 す る こ と 、⑷ こ れ ら の 共 通 の 目 的 を 達 成 す る に あ た っ て 諸 国 の 行
動 を 調 和 す る た め の 中 心 に な る こ と ( 国 際 連 合 広 報 セ ン タ ー H P 参 照 )。
一 方 、国 連 憲 章 は 平 和 維 持 の た め に「 武 力 行 使 」2を 認 め て い る 。こ の「 武 力
行使」は国連による政治的、経済的制裁が紛争当事者間に対して適当でなかっ
た場合に、安全保障理事会(以下安保理)がそれを提案し、決定する。但し、
実質的に判断するのは拒否権を持つ 5 大国(米・英・中・仏・露)だけと言え
る。拒否権とは、決議において拒否権を持つ 5 大国がそれを行使すれば、いか
なる決議も否決されてしまう権利である。つまり、5 大国の国益によって左右
されることがある。
そのような条件の下、国連は創設から今日まで、国際の平和と安全のために
安 保 理 の 利 害 が 対 立 す る こ と な く 、協 調 し て 武 力 紛 争 を 解 決 し て き た の だ ろ う
か。実際、安保理の対立で介入を断念することは度々あった。しかし、なぜ国
際 の 平 和 と 安 全 の た め に 協 調 す る こ と が で き な か っ た の か 。そ し て そ れ を 乗 り
1
2
The Charter of the United Nations, Chapter Ⅰ , Article 1.
ChapterⅦ , Article 42.
8
越えて、どのように国連平和維持活動は変わったのだろうか。次に、国連平和
維持活動とは何なのか、どのような必要性から始まったのか 、その歴史的背景
を踏まえながら述べていく。
2.
国連平和維持活動とは
そ も そ も 、国 連 憲 章 の 中 で 平 和 維 持 活 動 の 有 無 に つ い て は 明 記 さ れ て い な い 。
な ぜ な ら 、国 連 は 東 西 冷 戦 、そ し て 安 保 理 の 不 均 衡 を 前 提 と し た も の で は な く 、
第二次世界大戦の反省から設立されたからである。それゆえ、国連において拒
否権を持つ 5 大国が、国際の平和と安全を阻害する存在になることは、想定外
であった。安保理、特にアメリカとロシアは利害の対立により、度々拒否権を
行使し国連の紛争への介入を拒んだ。
そこで、国連憲章が謳う「国際の平和と安全」を追求するために、新しい紛
争解決手段が必要になり生まれた。それが、公平性・不偏性を持つ「国連平和
維持活動」である。国連という第三者の中立性を維持するために、国連平和維
持 活 動 は 展 開 す る 際 に 三 つ の 運 用 原 則 ( 通 称 、 平 和 維 持 原 則 )、 ⑴ 紛 争 当 事 者
の 同 意 、 ⑵ 任 務 に お け る 公 平 性 ・ 不 偏 性 ( I m p a r t i a l i t y )、 ⑶ 自 己 防 衛 と 任 務
遂行上における武力行使、を遵守する。また、紛争介入前に当事者間との停戦
交渉と、国連平和維持軍による 紛争介入の際には、受入国の容認と協力を必要
とする。
しかしながら、安保理の対立を最小限に抑え、国際の平和と安全のため に生
ま れ た 平 和 維 持 活 動 の 考 え も 、結 局 は 最 終 的 に 安 保 理 が 平 和 維 持 活 動 を 行 う か
9
どうかを決定する。安保理による平和維持活動の決議では、活動期間や活動範
囲、任務、兵力水準などが決められる。また、国連事務総長からの 平和維持活
動 の 報 告 や 活 動 期 間 の 延 長 な ど を 安 保 理 内 で 議 論 し 合 い 、新 た な 決 議 を 再 び 採
択 す る 。 そ の 議 論 は 、 安 保 理 と い う 15 ヵ 国 だ け が 国 連 平 和 維 持 活 動 に お け る
意 思 決 定 を 行 っ て い る の で あ る 。 そ の 安 保 理 は 全 加 盟 国 中 の 約 8% に 過 ぎ ず な
い 。 さ ら に 、 常 任 理 事 国 は 国 連 平 和 維 持 活 動 へ の 軍 人 要 員 の 派 遣 上 位 20 ヵ 国
にすら入っていないのである。
一 方 、 国 連 平 和 維 持 活 動 の 2013 か ら 2015 年 の 予 算 に お い て 、 拒 否 権 を 持 つ
常 任 理 事 国 だ け で 予 算 の 半 分 以 上 を 占 め る 3。 加 え て 2016 年 1 月 か ら 、 予 算 の
10% を 占 め る 日 本 が 安 保 理 に 加 わ る こ と に な っ た 。 こ の こ と か ら 、 ま す ま す 安
保理の実質的な権限が高まったと言える。つまり、安保理は財政面では大きく
貢献し、最終的な決断は自ら下す一方で、現場には出向かないのである。手段
を 選 ぶ 権 限 を 持 つ の は 安 保 理 だ が 、実 行 す る の は 財 力 も 権 利 も な い 残 り の 9 割
の 加 盟 国 で あ る 。 他 方 、 2015 年 7 月 か ら 2016 年 6 月 ま で の 国 連 平 和 維 持 活 動
の 予 算 は 約 8 2 7 0 億 円 で あ る 。国 連 は 、世 界 の 軍 事 費 約 2 1 4 兆 円 4 に 対 し て 0 . 5 %
と い う 予 算 で 、「 国 際 の 平 和 と 安 全 」 に 貢 献 し な け れ ば な ら な い の で あ る 。
そ の よ う な 「 不 公 平 」 で 「 倹 約 」 な 国 連 平 和 維 持 活 動 が 始 動 し た の は 1948
年まで遡る。第一次中東戦争において、イスラエルとアラブ諸国の間で締結さ
れた休戦協定の監視を目的に設立された国連平和維持活動の国連休戦監視機
3
The United Nations, The General Assembly, Scale of the assessments for the
appointment of the expenses of the Un ited Nations peacekeeping operations, 2012.
4
『 日 本 経 済 新 聞 』 2015 年 4 月 13 日 。
10
構 ( UNTSO ) が 、 最 初 の 国 連 平 和 維 持 活 動 で あ る 。 こ の よ う に 国 連 平 和 維 持 活
動 は 、武 力 紛 争 に よ っ て 不 安 定 に な っ た 国 家 の 再 建 と 持 続 的 な 平 和 を 維 持 す る
こ と を 支 援 す る 活 動 で あ る 。 ま た 、 こ の 最 初 の 国 連 休 戦 監 視 機 構 ( UNTSO ) は
現在も継続中である。
1948 年 の 活 動 か ら 今 日 に 至 る ま で 、 国 連 は 71 の 平 和 維 持 活 動 に 従 事 し 、 国
際 の 平 和 と 安 全 に 寄 与 し て い る 。ま た 、加 盟 国 の 1 2 0 以 上 の 国 か ら 軍 人 と 警 察 、
文民職員、ボランティアが派遣され、多くの国と人々が国連平和維持活動を支
え て き た 。 し か し 、 こ れ ま で の 活 動 の 中 で 、 不 幸 な こ と に 3395 人 の 平 和 維 持
活 動 要 員 ( 以 下 PKO 要 員 ) の 命 が 奪 わ れ て き た 。 こ の 中 に 3 人 の 勇 敢 な 日 本 人
が 含 ま れ て い る こ と を 私 た ち は 忘 れ て は な ら な い 。 そ し て 2015 年 の 現 在 も 、
1 6 の 平 和 維 持 活 動 と 1 つ の 政 治 支 援 活 動( ア フ ガ ニ ス タ ン )に お い て 、軍 人 と
警察、文民職員が日々国際の平和と安全に貢献している。
3.
成長を続ける国連平和維持活動
前述したように、国連平和維持活動は創設当初から始まったものではなく、
戦後の冷戦における東西対立の体制の中でも国連が国際の平和と安全を維持
するためにつくられたシステムである。しかし、国連平和維持活動が 始動して
から、特に冷戦後、めまぐるしく変わる国際情勢や武力紛争が起こる国や地域
に適応するために、活動の形態や平和維持の概念を変えてきた。
では、どのように変わってきたのか。次に、冷戦時と冷戦後の国連平和維持
活動を比較しながら、進化していく過程を考察する。
11
i.
国 連 平 和 維 持 活 動 の 回 数 と PKO 要 員 数 の 変 化
1948 年 の 国 連 休 戦 監 視 機 構 ( UNTSO) か ら 始 ま り 、 2015 年 ま で 国 連 が 行 っ て
き た 平 和 維 持 活 動 は 合 計 71 ミ ッ シ ョ ン で あ る ( 現 在 活 動 中 の ミ ッ シ ョ ン も 含
む )。し か し 、そ の 内 5 6 ミ ッ シ ョ ン は 1 9 8 8 年 以 降 に 始 動 し た も の で あ る 。1 9 8 8
年 に カ ン ボ ジ ア 内 戦 が 終 結 に 向 か い 、 そ し て 1989 年 に は 、 ソ ヴ ィ エ ト 社 会 主
義 共 和 国 連 邦 の ゴ ル バ チ ョ フ 書 記 長 と ア メ リ カ 合 衆 国 の ジ ョ ー ジ ・ H・ W・ ブ ッ
シュ大統領が、地中海のマルタ島で冷戦終結を宣言した。このことにより、安
保理内での東西対立も少なくなり、本来の国連の役割が機能し始めた。結果、
1 9 8 9 年 〜 1 9 9 9 年 の わ ず か 1 0 年 間 だ け で 、2 0 も の 新 し い 国 連 平 和 維 持 活 動 が 始
め ら れ た の で あ る 。加 え て 、そ れ に 伴 い 1 9 9 1 年 で 約 1 万 人 だ っ た P K O 要 員 も 、
1993 年 に は 7 万 8444 人 5ま で 急 上 昇 し て い る 。 但 し 、こ の 当 時 は ル ワ ン ダ と カ
ン ボ ジ ア で の 規 模 の 大 き い 平 和 維 持 活 動 が PKO 要 員 数 に 大 き く 影 響 し て い る 。
特に、ルワンダでの失敗は後の国連平和維持活動にも影響を与えている。
5
United Nations
Present, 2014.
Peacekeeping, Uniformed UN Peacekeeping Personnel from 1991 -
12
図 1
PKO 要 員 死 亡 数 統 計
4000
3000
2008-2015
2000
1999-2008
1000
1989-1998
1979-1988
0
1969-1978
1959-1968
1948-1958
年数(単位:10年)
( 出 典 ) The Department of Peacekeeping Operations Situation Centre, Fatalities
By Year, 2015.よ り 作 成 。
当 然 の こ と な が ら 、 活 動 に 危 険 は 伴 う 。 平 和 維 持 活 動 数 が 増 え 、 PKO 要 員 数
も 増 加 す る に つ れ 、平 和 維 持 活 動 時 に 命 を 落 と し て し ま う P K O 要 員 の 数 6 も 増 え
ている。
上 記 の グ ラ フ ( 図 1) は 、 1948 年 か ら 2015 年 ま で の PKO 要 員 死 者 数 を 、 10
年 毎 に 表 し て い る 。 1948 年 か ら 1988 年 ま で の 40 年 間 で の PKO 要 員 死 者 数 は 、
794 人 で あ る 。 し か し 、 1989 年 か ら 2015 年 現 在 ま で で 2612 人 が 死 亡 し た 。 そ
れ は 、 た っ た 40 年 の 半 分 以 下 で あ る 16 年 の 間 の 出 来 事 で あ る 。
さらに、図 2 が示すように、全体の死亡者数の半分以上を、アフリカや南ア
ジ ア 地 域 の 開 発 途 上 国 が 占 め て い る 。 PKO 要 員 死 者 数 で 加 盟 国 の 貢 献 度 や そ れ
ぞ れ の ミ ッ シ ョ ン の 成 果 が 決 ま る わ け で は な い が 、現 場 に 赴 き 活 動 中 に 命 を 落
と し て い る PKO 要 員 の 大 半 が 、 開 発 途 上 国 や 中 流 国 家 か ら 派 遣 さ れ て い る 。
6
The Department of Peacekeeping Operations Situation Centre, Fatalities By Year,
2015.
13
図 2
地 域 別 PKO 要 員 死 亡 者 数 ( 1948 年 か ら 2015 年 10 月 ま で )
6%(196人)
14%(493人)
38%(1294人)
アフリカ(42ヵ国)
欧州(31ヵ国)
南アジア(5ヵ国)
北米(2ヵ国)
その他(44ヵ国)
15%(499人)
27%(924人)
( 出 典 ) The Department Of Peacekeeping Operations Situation Centre, Fatalities
By Nationality and Mission, 2015. よ り 作 成 。
一 方 近 年 は 、武 装 組 織 に よ る 平 和 維 持 部 隊 に 対 す る 意 図 的 な 攻 撃 が 行 わ れ て
い る 。 2015 年 9 月 1 日 に は 、 ソ マ リ ア に あ る ア フ リ カ 連 合 ( African Union )
の 国 連 平 和 維 持 活 動 部 隊 の 基 地 が 、イ ス ラ ム 教 過 激 派 組 織 ア ル シ ャ バ ー ブ に よ
っ て 襲 わ れ 兵 士 50 人 が 死 亡 し た 7。さ ら に 、2015 年 11 月 28 日 西 ア フ リ カ の マ
リ北部に駐屯している国連平和維持活動部隊の基地に武装集団がロケットを
発 射 し 、 PKO 要 員 2 名 が 死 亡 し た 8。 こ の よ う に 、 ミ ッ シ ョ ン 数 の 増 加 と 武 装 集
団 の 台 頭 に よ り 、 PKO 要 員 の リ ス ク は 格 段 に 高 ま っ て い る と 考 え ら れ る 。
i i.
国連平和維持活動形態の変化
1948 年 か ら 現 在 ま で 続 く 、 国 連 休 戦 監 視 機 構 ( UNTSO) か ら 始 ま っ た 国 連 平
和維持活動は、その時の国際情勢やミッション内容に合わせて 、その形態を進
化させてきた。冷戦期は、平和維持三原則に基づくように、武力紛争後におけ
7
8
『 日 本 経 済 新 聞 』 2015 年 9 月 2 日 。
『 日 本 経 済 新 聞 』 2015 年 11 月 28 日 。
14
る「第三者」としての意味合いが強かった。そのような意味合いが強い国連休
戦 監 視 機 構 ( UNTSO ) の よ う に 、 中 立 的 で 監 視 を 目 的 と す る 国 連 平 和 維 持 活 動
を 「 第 一 世 代 P K O 」( 伝 統 的 P K O ) と 呼 ぶ 。
冷戦後は、武力紛争後の和平の監視だけでなく、武力紛争後における選挙監
視や支援、法整備、人権保護、武装解除など、武力紛争によって疲弊した国家
を 包 括 的 に 援 助 し 、平 和 維 持 と 紛 争 予 防 な ど の 平 和 構 築 に 取 り 組 む よ う に な っ
た。平和維持活動が多機能型になることで、軍人だけでなく、様々な分野にお
ける文民の必要性が増えてきた。この多機能型の国連平和維持活動を「第二世
代 P K O 」( 多 機 能 型 P K O ) と 呼 ぶ 。 例 え ば 、 日 本 が 1 9 9 2 年 に 「 国 際 平 和 協 力 法
( 通 称 、P K O 法 )」を 制 定 し て 参 加 し た 国 連 カ ン ボ ジ ア 暫 定 統 治 機 構 ( U N T A C ) も 、
「 第 二 世 代 PKO」 で あ る 。 こ の ミ ッ シ ョ ン で は 、 1 万 5547 人 の 軍 人 と 893 人 の
軍 事 監 視 員 、3 5 0 0 人 の 文 民 警 官 、1 1 4 9 人 の 国 際 文 民 ス タ ッ フ 、4 6 5 人 の 国 連 ボ
ラ ン テ ィ ア そ し て 4830 人 の 地 元 ス タ ッ フ に よ っ て 行 わ れ た 9。 こ の よ う な 「 第
二 世 代 PKO」 で は 、 従 来 の 監 視 活 動 と 文 民 要 員 に よ る 平 和 構 築 活 動 が 、 同 じ 国
連平和維持活動の枠組みの中で行われるようになっていった。
一方で、平和維持原則の一つである「紛争当事者の同意」なしに、国連平和
維 持 軍 が 強 制 的 に 介 入 す る こ と を「 第 三 世 代 P K O 」と 呼 ぶ 。こ れ は「 平 和 強 制 」、
「平和執行」とも呼ばれる。この「平和強制」は、冷戦期の朝鮮戦争の際にも
行われた。しかし当時、安保理決議にソヴィエト社会主義共和国連邦は参加し
て い な か っ た こ と か ら 、 決 議 が 可 決 さ れ た 。ま た 、 1 9 9 3 年 に は 第 二 次 国 連 ソ マ
9
United Nations Peacekeeping ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
15
リ ア 活 動 ( UNOSOMⅡ ) が 設 立 さ れ た が 、 そ の ミ ッ シ ョ ン は 成 功 し な い ま ま 撤 退
する羽目になった。このように、他のタイプ の平和維持活動と比べるとうまく
い っ て い る と は 言 え な い の が 「 第 三 世 代 PKO」 で あ る 。
そして、近年の国連平和維持活動の介入方法の傾向として、国連平和維持軍
が 武 力 紛 争 に 最 初 に 介 入 す る の で は な く 、先 に 多 国 籍 軍 が 介 入 す る こ と が 多 い 。
例 え ば 、第 4 章 で 取 り 上 げ る 国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 も そ の 典 型 的 な 例
の 一 つ で あ る 。東 テ ィ モ ー ル の イ ン ド ネ シ ア か ら の 独 立 を 決 め る 投 票 結 果 が 暴
動 を 引 き 起 こ し 、そ の 事 態 を 収 拾 し た の が オ ー ス ト ラ リ ア 軍 主 体 の 多 国 籍 軍 で
あった。国連東ティモール暫定統治機構が介入したのは、その事態が収拾され
た後である。そしてそのまま、その多国籍軍が国連平和維持軍として任務を続
けていく。このように、ある程度多国籍軍によって事態が安定してから、国連
が介入し平和維持活動の主体になるパターンが近年の傾向である。
し か し 、な ぜ こ の パ タ ー ン が 好 ま れ や す い の か 。こ の 点 に つ い て 上 杉 勇 司 1 0 は 、
国連平和維持軍の前に多国籍軍が介入するパターンの利点を二つ上げている
( 山 田 編 著 、 2 0 0 5: 9 9 ペ ー ジ ) 。 一 つ は 、 多 国 籍 軍 の 機 動 力 と 即 応 展 開 能 力 で
あ る 。民 族 間 の 大 量 虐 殺 や 武 装 集 団 に よ る 市 民 へ の 危 害 な ど の 切 迫 す る 状 況 下
において、緊急事態に対する即応性が必要になってくる。例えば、国連の安保
理 で 決 議 を 採 択 し 、部 隊 を 編 成 し て い る 間 に 多 く の 命 が 奪 わ れ て し ま う 可 能 性
がある。それを避けるためには、地理的な利点を持つ近隣諸国や地域機構主体
の多国籍軍が有効になってくる。東ティモール を例にとれば、オーストラリア
10
山 田 満 ・ 小 川 秀 樹 ・ 野 本 啓 介 ・ 上 杉 勇 司 〔 編 著 〕『 新 し い 平 和 構 築 論 − 紛 争 予 防 か ら
復 興 支 援 ま で 』 明 石 書 店 、 2005。
16
は 地 理 的 優 位 性 を 持 っ て お り 、さ ら に 地 域 の 中 で も 軍 事 力 も 高 く 規 模 の 大 き い
軍隊を持っており、その地域における影響力は大きいと言える。
二 つ 目 は 、多 国 籍 軍 は 国 連 平 和 維 持 活 動 の よ う に 平 和 維 持 原 則 を 遵 守 す る 必
要がないということである。また、多国籍軍を主導する国の軍事力の高さも特
徴の一つである。国連平和維持活動の大半は、開発途上国や軍事的技術や規模
も 小 さ い 加 盟 国 が 参 加 す る こ と が 多 く 、多 国 籍 軍 と 比 べ る と 実 力 で 劣 る こ と が
ある。しかし、武力紛争に軍事的圧力の大きい多国籍軍が介入することで、武
力紛争を強制的に終わらせることができる。
一 方 国 連 は 、近 年 武 力 行 使 を 厭 わ な く な っ て い る 。 2 0 1 5 年 現 在 、コ ン ゴ 民 主
共和国で行われている「コンゴ民主共和国安定化ミッション」において、安保
理 は「 介 入 旅 団 」を 設 置 し た 。介 入 旅 団 の 任 務 は 、「 武 装 勢 力 の 無 害 化 」と「 攻
撃 作 戦 」で あ る 。こ れ は「 平 和 維 持 」で は な く 、「 平 和 執 行 」で あ る 。つ ま り 、
国連は単体で武装勢力を武力で制圧し平和をつくろうとしている。今日、国連
平和維持活動がより「強力な」ものにならなければならない状況にある。その
よ う な 厳 し い 国 際 情 勢 に 対 応 す る た め に 、国 連 平 和 維 持 活 動 は 日 々 進 化 し て い
る ( 上 杉 、 2004: 32 ペ ー ジ ) 。
i ii .
公 平 性 と 不 偏 性 (Impartiality)
第 3 章の二項で述べた平和維持原則の一つである「公平性・不偏性
(Impartiality)」 が 、 冷 戦 期 と そ の 後 で は 大 き く そ の 解 釈 が 変 わ っ て き た 、 と
いうより、むしろ変えざるをえなくなった。これまで国際秩序を維持するため
17
に 、内 政 干 渉 や 国 家 へ の 武 力 介 入 を 避 け て き た 国 連 が 、な ぜ「 公 平 性・不 偏 性 」
の解釈を変えたのか。そのきっかけは、冷戦後の大きな失敗である。
1991 年 の 旧 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア 紛 争 と 1994 年 の ル ワ ン ダ の 内 戦 に お い て 、 甚 大
な 被 害 と 大 量 虐 殺 が 起 き た 。 ル ワ ン ダ の 内 戦 で は 、 100 日 間 で 80〜 100 万 人 が
虐殺されたと言われている。当時国連が、中立性や政治的・武力による不介入
を意識しすぎたことにより、悲惨な結果を招いた。そして国連は、中立性や公
平性を重んじてばかりでは、虐殺は防ぐことができないことを学んだ。
ここで生まれた、新しい国連平和維持活動の任務の一つが「文民の保護」で
あ る 。 文 民 と は 、「 紛 争 当 事 者 た る 国 の 軍 隊 ま た は 組 織 さ れ た 武 装 集 団 の 構 成
員 で な い す べ て の 者 は 文 民 で あ り 、し た が っ て 敵 対 行 為 に 直 接 参 加 し て い な い
限り、直接の攻撃からの保護を受けることができる」人々のことを指す。この
「 文 民 の 保 護 」と い う 概 念 は 、1 9 9 9 年 の 安 保 理 で 正 式 に 決 議 さ れ 、採 択 さ れ た 。
こ れ 以 降 の 国 連 平 和 維 持 活 動 に お い て 、「 文 民 の 保 護 」 は 重 要 な 任 務 の 一 つ と
なっている。紛争当事者間の不偏性を無視しようとも、文民を脅威から守らな
ければ、再びルワンダ内戦の時のような二の舞になってしまうからである。こ
の 文 民 の 保 護 が ミ ッ シ ョ ン の 中 に 加 え ら れ た の は 、1 9 9 9 年 の シ エ ラ レ オ ネ で 行
わ れ た 平 和 維 持 活 動 ( UNAMSIL) が 初 め て で あ る 。
こ の 文 民 の 保 護 の 考 え は 、2 0 0 1 年 に カ ナ ダ 政 府 が 中 心 と な っ て 設 立 し た「 干
渉 と 国 家 主 権 に 関 す る 国 際 委 員 会( I n t e r n a t i o n a l C o m m i s s i o n o n I n t e r v e n t i o n
and State Sovereignty ) で 提 唱 さ れ た 新 た な 概 念 で あ る 「 保 護 す る 責 任 」 に
つ な が っ て い る 。「 保 護 す る 責 任 」 と は 、 国 家 が 大 量 虐 殺 や 民 族 浄 化 な ど の 脅
18
威から、国民を守る責任である。仮に、その国家が国民を脅威から国民を保護
す る こ と が で き な い 場 合 、国 際 社 会 が そ の 役 割 を 担 い 、国 連 が 国 連 憲 章 の も と 、
脅 威 か ら 国 民 を 保 護 す る た め に 武 力 行 使 を 含 め た 対 応 を す る 。こ の よ う に 国 連
平和維持活動が、以前にも増して強力なものになっていると言える。
また、国連平和維持活動の原則や任務、国際の平和と安全への概念が進化し
ていく背景に、かつての「国家の安全保障」という概念では、文民を守ること
ができない国際情勢に変わってきたとも言える。例えば、武装集団などのテロ
リ ス ト は 、政 府 軍 に 攻 撃 す る だ け で な く 、国 内 の 文 民 に 対 し て も 虐 殺 や レ イ プ 、
強 奪 を 働 く 。こ れ に 対 し て 生 ま れ た 概 念 が「 人 間 の 安 全 保 障 」で あ る 。2003 年
の 国 連 の 人 間 の 安 全 保 障 委 員 会 の 中 で 、 以 下 の 様 に 定 義 さ れ た 。「 人 間 の 安 全
保障は、人間の生にとってかけがえのない中枢部分 を守り、すべての人の自由
と 可 能 性 を 実 現 す る こ と 」。 こ れ ま で は 国 家 と い う 大 き な 概 念 に 焦 点 を 当 て て
いたが、それでは人々を脅威や恐怖から保護できない。一人一人の人間に焦点
を 当 て る こ と で 様 々 な 脅 威 か ら 守 り 、そ れ ら に 対 し て 国 家 や 国 際 社 会 が 人 々 に
差し迫る危険性を予防することに焦点を当てている。このように、国連および
国 連 平 和 維 持 活 動 は 国 家 と 国 家 の 「 公 平 性 ・ 不 偏 性 (Impartiality) 」 よ り も 、
人間と人間のそれを重視するようになっていったのである。
以 上 、進 化 を 続 け る 国 連 平 和 維 持 活 動 に つ い て 述 べ て き た 。表 2( 付 録 参 照 )
が 示 す よ う に 、国 連 平 和 維 持 活 動 は 時 代 と い う 大 き な 変 化 に 合 わ せ て 進 化 を し
てきたことが分かる。次章からは焦点を絞り、進化を続ける国連平和維持活動
の「 統 治 型 」が 初 め て 行 わ れ た 東 テ ィ モ ー ル 民 主 共 和 国 の 歴 史 に つ い て 述 べ る 。
19
初 め て の 統 治 機 能 を 持 っ た 国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 と 21 世 紀 に 初 め て
独立を果たした東ティモールの歴史について考察することで、5 章における国
連平和維持活動の問題点につなげていく。
第4章 東ティモール民主共和国の独立までの歩み
1.
東ティモール民主共和国概要
今 か ら た っ た 1 3 年 前 、2 0 0 2 年 5 月 2 0 日 に 独 立 を 果 た し た 東 テ ィ モ ー ル 民 主
共和国(以下東ティモール)は、インドネシア諸島の一つであるティモール島
の東側半分であり、南にはオースト ラリアが位置する(東ティモールの地図は
付 録 参 照 )。 気 候 は 熱 帯 モ ン ス ー ン 気 候 で 、 雨 季 と 乾 季 が あ る 。 人 口 は 約 1 2 1
万 人 ( T h e W o r l d B a n k G r o u p , 2 0 1 4 )、 さ ら に 出 生 率 は 5 . 7 % ( U n i t e d N a t i o n s
Development Programme,2011 ) で あ り 、 今 後 も 人 口 が さ ら に 増 加 し て い く こ と
が見込める。民族はメラニシア系のテトゥン族などが人口の大半を占める 。し
か し 、長 い 植 民 地 の 歴 史 と イ ン ド ネ シ ア の 抑 圧 も あ り 、宗 教 は 9 9 % が カ ト リ ッ
ク系キリスト教徒で、国語はテトゥン語とポルトガル語、実用語にはインドネ
シア語と英語が含まれるなど、外的要因が大きく影響していると考えられる。
東ティモール・オーストラリア間の海には、石油と天然ガスが埋蔵されてお
り、豊富な天然資源に恵まれている。但し、その天然資源に東ティモール経済
が 依 存 し て い る こ と か ら 、天 然 資 源 依 存 か ら の 脱 却 が 今 後 の 課 題 の 一 つ で あ る 。
と は 言 え 、 2 0 1 4 年 の G D P( 国 内 総 生 産 ) は 、 1 5 億 5 2 0 0 万 米 ド ル で 2 0 0 9 年 の
20
8 億 2700 万 米 ド ル ( 外 務 省 ホ ー ム ペ ー ジ ) か ら 大 き く 飛 躍 し て い る こ と か ら 、
これからも高い経済成長 を期待できる。加えて、国連開発計画が定める人間開
発 指 数 ( Human Development Index ) 11で は 、 2005 年 に 177 ヵ 国 中 140 位 と ア ジ
ア 最 低 で あ っ た が 、 2013 年 に は 187 ヵ 国 中 128 位 12と 大 き く 順 位 を 上 げ た 。 他
方 、保 健 衛 生 や 社 会 状 況 に 関 し て 言 え ば 、人 口 の 4 9 . 9 % は 貧 困 ラ イ ン( 東 テ ィ
モ ー ル の 生 活 最 低 水 準 ) 以 下 で 生 活 し て い る 。 乳 児 死 亡 率 は 4.8% (1000 人 あ
た り )、 5 歳 以 下 の 死 亡 率 は 5.7% ( 1000 人 あ た り ) と 十 分 な 医 療 体 制 が 整 っ
ているとは言えない。このように、人口や経済など高い成長を維持していると
はいえ、数字から見ると、東ティモールはまだまだ開発途上国で、今後の発展
が重要な国である。
但 し 、 独 立 か ら た っ た 13 年 と い う 短 い 年 月 を 考 慮 す る と 、 こ の 短 期 間 で こ
れだけの成長は高く評価できることではないだろうか。例えばアフリカの年
( 1 9 6 0 年 代 )で 独 立 し た 国 で も ま だ 、政 治 体 制 が 安 定 せ ず に 国 内 紛 争 を し て い
る 国 も あ る ( 例 : コ ン ゴ 民 主 共 和 国 、 中 央 ア フ リ カ 共 和 国 、 マ リ な ど )。
し か し 、な ぜ 東 テ ィ モ ー ル は 2 1 世 紀 に 初 め て 独 立 し た 国 家 と 言 わ れ る ほ ど 、
アフリカの国々の独立より遅くなってしまったのか。植民地からの独立、隣国
からの抑圧、これらの理不尽な支配から 、どのように東ティモールは乗り越え
てきたのか。次節からは、東ティモールのその苦難の歴史について述べ、国 際
社会の東ティモールへの対応から当時の国際関係についても考察する。
11
国 家 の 発 展 を 評 価 す る た め に 人 間 と そ の 能 力 を 判 断 基 準 に し た も の 。国 連 開 発 計 画
(UNDP)が 各 国 の HDI ラ ン キ ン グ の レ ポ ー ト を 刊 行 し て い る 。
12
United Nations Development Programme, Human Development Report 2014, p.162.
21
2.
独立投票までの苦難
東 テ ィ モ ー ル は 独 立 ま で に 、ポ ル ト ガ ル の 植 民 地 支 配 と イ ン ド ネ シ ア に よ る
抑圧、そして国際社会の利害関係に付き合わされ、それらを乗り越えてきた。
本節では、苦難の始まり であるポルトガルの支配の歴史、インドネシア軍によ
る東ティモール人への横暴が与えた影響、冷戦期と冷戦後の国際関係 など、独
立までの複雑な背景を整理していく。
i.
ポルトガルの支配
ポ ル ト ガ ル に よ る 支 配 の 歴 史 は 、今 か ら 4 0 0 年 以 上 前 の 大 航 海 時 代 ま で 遡 る 。
1 6 世 紀 に ポ ル ト ガ ル は 、マ カ オ 占 領 後 に マ ル ク 諸 島 の 香 辛 料 を 求 め て テ ィ モ ー
ル島に進出する。ティモール島進出を果たしたポルトガルは、オイクシで白檀
貿易を始め莫大な富を独占し、さらにカトリックの布教にも 力を入れた。一方
で、その利益の独占を見逃さなかったヨーロッパの一国が動いた。それがオラ
ン ダ で あ る 。1 6 1 3 年 、オ ラ ン ダ は 貿 易 の 拠 点 で あ っ た ソ ロ ー ル 島 の ポ ル ト ガ ル
の 要 塞 に 攻 め 込 み 、1 6 4 2 年 に は マ ラ ッ カ を ポ ル ト ガ ル か ら 奪 っ た 。そ し て 1 6 8 8
年、ついにティモール島の西側半分のクパンを占領した。最終的にティモール
島 が 国 境 に よ っ て 分 断 さ れ た の は 、1 9 0 4 年 に ポ ル ト ガ ル = オ ラ ン ダ 条 約 が 結 ば
れ 、 国 境 が 確 定 し た の は 1916 年 に な る 。
か つ て の 白 檀 貿 易 の 勢 い を 失 い 、イ ギ リ ス や オ ラ ン ダ が 海 外 進 出 で 覇 権 を 強
め て い く な か で 、ポ ル ト ガ ル は コ ー ヒ ー や サ ト ウ キ ビ の プ ラ ン テ ー シ ョ ン で 強
22
制 労 働 を 強 め て 行 き 、 1880 年 代 に は 人 頭 税 13と 厳 し い 労 働 法 を 導 入 し た 。 そ れ
に 対 し て 、 1911 年 か ら 12 年 の マ ヌ フ ァ ヒ の リ ウ ラ イ ( 王 ) の ド ン ・ ボ ア ベ ン
ト ゥ ラ に よ る 反 乱 は 、 死 者 3424 人 と 負 傷 者 1 万 2567 人 を 出 し た ポ ル ト ガ ル 領
東ティモールの最大の反乱となった。
ポ ル ト ガ ル 領 東 テ ィ モ ー ル に お け る も う 一 つ の 大 き な 反 乱 は 、「 ビ ケ ケ の 反
乱 」で あ る 。 1 9 5 9 年 に 亡 命 イ ン ド ネ シ ア 人 が 、反 乱 を 起 こ さ せ る た め に 東 テ ィ
モール人を煽動した。これを事前に知っていたポルトガル側は、亡命インドネ
シ ア 人 を 捕 ら え よ う と し た が 、そ れ を 察 知 し ビ ケ ケ の 県 知 事 邸 を 襲 撃 し 道 路 の
封 鎖 な ど を 行 っ た 。こ の 反 乱 に 対 し て 、ポ ル ト ガ ル は 部 隊 を 投 入 し て 鎮 圧 し た 。
死 者 は 160 人 以 上 、 約 60 人 が モ ザ ン ビ ー ク に 流 さ れ た 。
そ の よ う な 宗 主 国 ポ ル ト ガ ル も 、戦 う 相 手 は 何 も 東 テ ィ モ ー ル 人 だ け で は な
か っ た 。1 9 3 9 年 か ら 始 ま っ た 第 二 次 世 界 大 戦 に お い て 、ポ ル ト ガ ル は 中 立 宣 言
をしていた。その大戦が始まる前に、日本は東ティモールの 首都ディリに総領
事館、ディリとパラオを結ぶ国策航空路線を開設した 。これに警戒感をあらわ
にしたオーストラリアとイギリス、オランダ軍はディリに進駐した。中立の立
場であるポルトガルが、これらの国を受け入れたことに旧日本軍は反発した。
1 9 4 2 年 に 旧 日 本 軍 は 東 テ ィ モ ー ル に 進 駐 し 、連 合 国 と 戦 闘 を 始 め る 。こ の 戦 闘
に よ り 東 テ ィ モ ー ル は 荒 廃 、さ ら に 旧 日 本 軍 は 東 テ ィ モ ー ル 人 女 性 を 性 奴 隷 と
して搾取した。
第 二 次 世 界 大 戦 後 、イ ン ド ネ シ ア お よ び 隣 国 で あ る 西 テ ィ モ ー ル が オ ラ ン ダ
13
人 頭 税 と は 、所 得 の 貧 富 や 担 税 能 力 に 関 わ ら ず 、各 個 人 に 対 し て 一 律 に 同 額 を 課 し 、
課 徴 す る 租 税 の こ と ( 高 橋 、 1 9 9 9 : 9 ペ ー ジ )。
23
から独立した一方で、多大な被害を受けたにも関わらず、再びポルトガル領東
ティモールとして統治させられてしまった。しかし、東ティモールはビケケの
反 乱 以 降 、 ポ ル ト ガ ル に よ る 開 発 が 進 め ら れ て い た 。 松 野 明 久 14は 、 そ の 背 景
に は 二 つ の 理 由 が あ る と 指 摘 し て い る ( 松 野 、 2 0 0 2 : 2 2 ペ ー ジ )。 一 つ は 、 マ
ーシャル・プランによって発展を遂げていく西ヨーロッパから 、ポルトガルは
取り残されてしまっていた。そこで、当時のサラザールとカエザール政権は経
済政策を次々に実行し、ポルトガル経済史上の「黄金時代」とも言える発展を
遂 げ た( 1 9 5 8 年 か ら 1 9 7 3 年 )。そ の よ う な 中 、東 テ ィ モ ー ル は 外 貨 獲 得 の た め
に、コーヒーの輸出拡大を迫られた。そのために農業技術だけでなく、東ティ
モールのインフラは開発が進められた。二つ目は、国際社会における批判であ
る 。1 9 6 0 年 代 に は 、ア フ リ カ の 年 と 言 わ れ る ほ ど ア フ リ カ 地 域 の 国 々 が 独 立 を
果たし、国際社会において植民地支配の正当性は認められなくなっていた 。そ
れを避けるために、ポルトガル政府は不公平な法規制などを改善し、さらに社
会政策、特に教育政策を重視した。
一 方 、そ の よ う な 教 育 政 策 の 中 、ポ ル ト ガ ル の 首 都 リ ス ボ ン へ の 留 学 な ど で 、
徐々に東ティモールの不条理に気づき始める者たちが現れてきた。それが、後
の 大 統 領 に な る シ ャ ナ ナ ・ グ ス マ オ (Xanana Gusm ao)、 ノ ー ベ ル 平 和 賞 を 受 賞
す る カ ル ロ ス ・ ベ ロ (Carlos Belo) 司 教 と ジ ョ ゼ ・ ラ モ ス = ホ ル タ (Jose
Ramos-Horta)ら で あ る 。 彼 ら は 、 そ の 後 の 独 立 運 動 と 東 テ ィ モ ー ル 民 主 共 和 国
の建国初期に大きな役割を果たしていくことになる。
14
松 野 明 久 『 東 テ ィ モ ー ル 独 立 史 』 早 稲 田 大 学 出 版 部 、 2002 年 。
24
i i.
ポルトガルからインドネシアへ
1 9 6 8 年 に サ ラ ザ ー ル 政 権 か ら カ エ タ ー ノ 政 権 に 移 行 し て い く 一 方 で 、ア フ リ
カ の 被 植 民 地 は 独 立 運 動 を 活 発 化 さ せ て 行 っ た 。宗 主 国 ポ ル ト ガ ル は 独 立 運 動
の鎮圧に苦戦しただけでなく、その巨額な費用によっても苦しめられた。さら
に 追 い 打 ち を か け る よ う に 、ポ ル ト ガ ル 国 内 で は 植 民 地 政 策 に 反 対 す る ス ピ ノ
ラ将軍を中心に、のちの革命の母体となる「国軍運動」が始まった。
1 9 7 4 年 、つ い に 国 軍 運 動 は ク ー デ タ ー を 起 こ し 、政 権 を 奪 っ た( カ ー ネ ー シ
ョ ン 革 命 )。彼 ら は 民 主 化 を 謳 う が 、植 民 地 政 策 に 対 し て は 曖 昧 な 姿 勢 だ っ た 。
なぜなら、スピノラ派は カエターノ政権の植民地政策に反対した が、将来的に
植民地の連邦構想を考えていた からである。それに対して、アフリカの被植民
地側は拒否した。結局、バスコ・ゴンサルベス首相に変わって、スピノラの 連
邦 構 想 は 終 わ っ た 。 ゴ ン サ ル ベ ス 首 相 は 植 民 地 政 策 を 改 め 、 1974 年 7 月 26 日
法令を発布し、被植民地の独立を承認した。
しかしながら、東ティモールに関しては、ポルトガル政権は別問題と考えて
いた。ポルトガル政権の閣僚の一人は、新聞の取材に対して以下の様 に回答し
た 。「 テ ィ モ ー ル に つ い て は 、 住 民 投 票 を 論 じ る の は 少 し ば か ば か し い 。 な ぜ
なら選択肢は多くないからだ。財政的な理由からやっていけない。インドネシ
アとの統合についても、インドネシアが関心を もっていないためできない。結
局、ポルトガルとの統合が最終的な選択なのだ。この統合を決めるような住民
投 票 に つ い て 語 る こ と が 、 私 に と っ て は 現 実 的 に 思 わ れ る 」( 松 野 、 2 0 0 2 : 5 3
ペ ー ジ )。
25
さらに、隣国のオーストラリアとインドネシアも両国の首脳会談の中で、東
テ ィ モ ー ル の 独 立 は 認 め ず イ ン ド ネ シ ア へ の 統 合 に つ い て 考 え て い た 。こ の 背
景には、冷戦時代における共産主義に対する対抗心があったと考えられる。ス
ハルト大統領は、もし東ティモールが独立したら、ソ連や中国が介入し、オー
ストラリアとインドネシアに影響を与えるだろうと考えていた。そして、ここ
か ら 徐 々 に 、イ ン ド ネ シ ア に よ る 東 テ ィ モ ー ル へ の 抑 圧 が 始 ま っ て 行 っ た の で
ある。
i ii .
インドネシアによる抑圧
ポルトガルでの革命後、東ティモールには三 つの政党が誕生した。独立に向
けて、三つの政党はそれぞれ動き始めた。
ま ず 、 テ ィ モ ー ル 民 主 同 盟 ( UDT: Uniao Democratica Timorense、 以 下 UDT)
と 東 テ ィ モ ー ル 独 立 革 命 戦 線 ( FRETELIN:
Frente
Revolucionaria
do
Timor-Leste Independent、 以 下 フ レ テ リ ン ) は 、 連 合 を 組 ん だ 。 こ れ は 、 1975
年に新しく赴任した東ティモール総督レモス・ピレス大佐の仲介により、独立
に向け強い結束力を作るためであった。
し か し な が ら 、 連 合 は 、 UDT の 一 方 的 な 破 棄 に よ っ て す ぐ に 終 わ っ た 。 そ の
理 由 は 、 UDT と フ レ テ リ ン の 下 部 組 織 が 衝 突 し て お り 、 そ の 組 織 内 部 に 不 満 が
溜 ま っ て い た 。さ ら に 、フ レ テ リ ン は 共 産 主 義 で あ り 、そ の 脅 威 は 恐 ろ し い と 、
UDT は イ ン ド ネ シ ア に 煽 ら れ た 。
煽 ら れ た UDT は ク ー デ タ ー を 企 て 、 ポ ル ト ガ ル 政 庁 を 襲 っ た 。 一 時 は フ レ テ
26
リ ン も 圧 さ れ て い た が 、 東 テ ィ モ ー ル 人 兵 士 の 協 力 も あ り 、 フ レ テ リ ン は UDT
の反乱の鎮圧に成功した。
この時に創設されたフレテリンの軍組織が、東ティモール民族解放軍
(FALINTIL: Forcas Armadas de Libertacao Nacional de Timor -Leste 、 以 下
フ ァ リ ン テ ル )で あ る 。 フ ァ リ ン テ ル は 徐 々 に 自 立 し て い き 、 1988 年 以 降 に は
フレテリンとは別組織として活動して行った。
フレテリンはその後、変遷を遂げて行った。内戦でティモール島を離れたポ
ルトガル政庁の協力がなかったことから、フレテリンは自ら行政を行った。
しかし、これに対して、インドネシアはついに軍事介入を始めた。インドネ
シ ア は 自 ら 育 て た 東 テ ィ モ ー ル 人 民 兵 と 共 に 、バ リ ボ に あ る フ レ テ リ ン の 要 塞
を 攻 撃 し た 。そ の 時 に 取 材 に 来 て い た オ ー ス ト ラ リ ア の テ レ ビ ス タ ッ フ 5 人 は 、
攻撃に巻き込まれて死亡した。
ま す ま す イ ン ド ネ シ ア の 攻 撃 が 激 し さ を 増 し て 行 き 、フ レ テ リ ン は 追 い つ め
られて行く。追いつめられたフレテリンは 、世界にこの現状を広めるために独
立 を 宣 言 し た ( 1 9 7 5 年 )。 そ れ に 対 し て イ ン ド ネ シ ア は 、 親 イ ン ド ネ シ ア 派 を
主 導 し て 、イ ン ド ネ シ ア へ の 統 合 を 容 認 す る「 バ リ ボ 宣 言 」を 出 し た 。つ ま り 、
フ レ テ リ ン を 反 体 制 派 と 見 な し 、イ ン ド ネ シ ア は 義 勇 兵 派 遣 を 東 テ ィ モ ー ル 侵
攻の理由とした。
1975 年 12 月 7 日 、 つ い に イ ン ド ネ シ ア 軍 の デ ィ リ 全 面 侵 攻 が 始 ま っ た 。 こ
の 時 に 投 入 さ れ た 兵 力 は 1 万 か ら 1 万 5000 人 、 そ し て 陸 海 空 か ら の 攻 撃 、 さ
らに虐殺の対象は住民にまで及んだ。
27
イ ン ド ネ シ ア は デ ィ リ 侵 攻 後 、U D P な ど の 親 イ ン ド ネ シ ア 派 の 4 党 に よ る「 東
ティモール暫定政府」を設立した。そして、その住民会議でインドネシアとの
合併を請願した。それを受けたインドネシア議会は承認し 、スハルト大統領が
署 名 し 、 1976 年 東 テ ィ モ ー ル は イ ン ド ネ シ ア の 27 番 目 の 州 と し て 事 実 上 併 合
された。以後、インドネシア軍による虐殺やレイプ、拷問などに加えて、イン
ドネシアによる開発も行われた。しかし、開発によるインフラ整備などは、東
テ ィ モ ー ル 人 の た め で は な く 、イ ン ド ネ シ ア 軍 に と っ て 必 要 だ っ た か ら 行 わ れ
た 。教 育 で は イ ン ド ネ シ ア 式 教 育 を 導 入 し 、イ ン ド ネ シ ア 語 や パ ン チ ャ シ ラ 1 5 な
どの民族主義教育などが取り入られた。インドネシアは、東ティモールの「イ
ンドネシア化」を目論んでいた。
他方、インドネシアは国際社会において、ポルトガルや国連と対立をした。
そ う し た 批 判 を か わ し な が ら 、イ ン ド ネ シ ア 軍 に よ る 東 テ ィ モ ー ル 社 会 へ の 抑
圧、そして虐殺は続いた。
数々の虐殺の中で記録に残り、国際社会に 認知されたのが「サンタクルス虐
殺 」 で あ る 。 1991 年 11 月 12 日 、 東 テ ィ モ ー ル 人 の 青 年 、 セ バ ス チ ャ ン ・ ゴ メ
ス追悼のために、彼が眠るサンタクルス墓地まで行進が行われ、その規模は数
千人にもなった。そして墓地の周りで横断幕などを使い、独立を叫んでいたと
ころに、インドネシア軍兵士が現れ、群衆に向かって突然発砲を始めた。東テ
ィ モ ー ル 人 側 の 主 張 に よ る と 死 亡 数 273 人 、 一 方 イ ン ド ネ シ ア 軍 側 は 19 人 と
発表した。
15
ス カ ル ノ 大 統 領 が 打 ち 出 し た イ ン ド ネ シ ア 共 和 国 の 建 国 5 原 則 。⑴ 唯 一 神 へ の 信 仰 、
⑵ 民 主 主 義 、 ⑶ 国 家 の 統 一 、 ⑷ 社 会 主 義 、 ⑸ 人 道 主 義 。( 高 橋 、 1 9 9 9 : 2 8 ペ ー ジ )
28
この虐殺後、国際社会は「遺憾の意」を発表したが、それが東ティモール独
立につながることはなかった。このような非人道的な行為は、記録に残る「数
ある内の一つ」にすぎなかった。
そして東ティモールは、最終的には独立へと導かれた。それは、東ティモー
ル 国 内 の 独 立 運 動 の 努 力 だ け で な く 、国 連 お よ び 国 際 社 会 に よ る イ ン ド ネ シ ア
との継続的な交渉、つまりインドネシアのスハルト政権の崩壊などの「外的要
因」であった。
i v.
国際社会の対応
その「外的要因」とは何なのか。それはどのように東ティモールの独立を妨
害し、そして成功へと導いたのか。カーネーション革命後の東ティモールに対
する国際社会、ポルトガルとオーストラリア、国連の対応について 比較しなが
ら述べて行きたい。
まずは、ポルトガルの一転した被植民地化政策があった。ポルトガルはスピ
ノ ラ 大 統 領 の 旧 植 民 地 の 連 邦 プ ラ ン が 拒 絶 さ れ 、そ の 他 の 植 民 地 の 独 立 を 認 め
た が 、東 テ ィ モ ー ル は 別 問 題 と 考 え て い た 。 1 9 7 5 年 に は 、イ ン ド ネ シ ア が デ ィ
リに侵攻する前に、インドネシア側とローマで外相会談を開いた。その時は ま
だ 、イ ン ド ネ シ ア が 徐 々 に 東 テ ィ モ ー ル に 侵 入 し て い た 事 実 に は ポ ル ト ガ ル 側
は 触 れ ず 、西 テ ィ モ ー ル に 拘 束 さ れ て い た ポ ル ト ガ ル 人 捕 虜 の 心 配 し か 示 さ な
かったことに見られるように、消極的であった。しかし、インドネシアのディ
リ 侵 攻 後 に 国 連 総 会 で 採 択 さ れ た 決 議 全 8 回 す べ て で 、ポ ル ト ガ ル は 賛 成 側 に
29
まわるなど、積極的な姿勢を見せ始めた。また、国連を仲介してインドネシア
と 東 テ ィ モ ー ル の 独 立 に つ い て ポ ル ト ガ ル は 話 し 合 う な ど 、国 連 で 東 テ ィ モ ー
ルの代弁者として声を積極的に上げていた。そして最終的には、インドネシア
とポルトガル、国連の三者の合意によって 、東ティモールの独立投票が決定し
た。
一方、東ティモールの隣国オーストラリアは、カーネーション革命後、基本
的 に は イ ン ド ネ シ ア 寄 り の 政 策 で あ っ た 。オ ー ス ト ラ リ ア は 政 治 的 に も 経 済 的
に も 、 イ ン ド ネ シ ア を 支 持 し て い た 。 革 命 後 の 1974 年 、 オ ー ス ト ラ リ ア の ウ
ィ ッ ト ラ ム 首 相 と イ ン ド ネ シ ア の ス ハ ル ト 大 統 領 は 会 談 を 開 き 、そ こ で ウ ィ ッ
トラム首相は東ティモールの併合案に理解を示していた。さらに、スハルト大
統 領 が 1976 年 に は 東 テ ィ モ ー ル 併 合 を 承 認 し た 後 、 1979 年 に オ ー ス ト ラ リ ア
は 併 合 を 正 式 に 承 認 し て い る 。国 連 総 会 で 非 難 決 議 が 採 択 さ れ る な ど 国 際 社 会
は反対したにもかかわらず、オーストラリアは なぜ承認したのか。その理由の
一 つ は 、東 テ ィ モ ー ル と オ ー ス ト ラ リ ア の 間 に 眠 っ て い た 海 底 油 田 の 存 在 が あ
る と 言 わ れ て い る 。実 際 、1 9 8 8 年 に オ ー ス ト ラ リ ア は 、イ ン ド ネ シ ア と 共 同 開
発条約を結んでいる。それは国境線を定めないで、両国で 油田を開発 するとい
う条約であった。
それに反発したのが、旧宗主国のポルトガルであった 。ポルトガルはハーグ
国際司法裁判所に提訴した。しかし、インドネシアが条約に加盟していないこ
と か ら 、国 際 司 法 裁 判 所 は 判 決 で き な い と 下 し た 。結 局 、東 テ ィ モ ー ル 独 立 後 、
オーストラリアは油田の利権を獲得し、利益を享受している。
30
そのようなインドネシア寄りのオーストラリアに対して、国連は一貫して、
インドネシアを非難する決議を国連総会と安保理で採択してきた。その数は、
カ ー ネ ー シ ョ ン 革 命 後 か ら 国 連 暫 定 統 治 機 構 設 立 ま で 、 計 1 5 回 に 及 ん だ 1 6 。と
は言え、冷戦期の国連総会の決議は、たいした影響力は持っていなかったと言
え る 。徐 々 に イ ン ド ネ シ ア を 非 難 す る 決 議 に 反 対 票 が 増 え 始 め 、1 9 8 2 年 に 行 わ
れた決議を最後に、国連総会では、決議を採択しなくなった。次に決議を採択
し た の は 、 1999 年 の 独 立 投 票 を 認 め る 合 意 の 時 で あ っ た 。
結局、東ティモールを独立まで導いたのは、国連ではなく、冷戦後の「国際
社会」であった。それらは例えば、東ティモール併合を認めなかったローマ法
王 や 、オ ラ ン ダ と カ ナ ダ 、デ ン マ ー ク の 対 イ ン ド ネ シ ア へ の 援 助 停 止 で あ っ た 。
加 え て 、東 テ ィ モ ー ル 独 立 の た め に 市 民 を 支 え 続 け た ベ ロ 司 教 と 独 立 の 最 前 線
で戦ったラモス・ホルタのノーベル平和賞の受賞 したことは、国際社会の関心
を集めた。また、世界最大の覇権国家アメリカが東ティモール擁護へ 政策転換
したことも、その理由の一つであった。
そ し て 、最 終 的 に 独 立 へ と 導 い た 最 大 の「 外 的 要 因 」は 、ア ジ ア 通 貨 危 機( 1 9 9 7
年)であった。通貨危機をきっかけに、インドネシアのスハルト大統領の抑圧
体制は崩壊し、国民と政府、さらに軍にまで見捨てられ、スハルトは退任を余
儀なくされた。
インドネシアの後任のハビビ政権は東ティモール特別自治州の提案をした。
も し そ れ が 投 票 で 東 テ ィ モ ー ル に 拒 否 さ れ た ら 、「 東 テ ィ モ ー ル 独 立 」 と い う
16
松 野 明 久 『 東 テ ィ モ ー ル 独 立 史 』 早 稲 田 大 学 出 版 部 、 2002 年 、 283−291 ペ ー ジ 。
31
合意を、国連とインドネシア、ポルトガルの間で結んだ。ついに三者間で合意
が結ばれ、投票そして独立まであと少しであった。
し か し 、簡 単 に は 独 立 を「 他 国( イ ン ド ネ シ ア )」に よ っ て 許 さ れ な か っ た 。
そ し て 「 他 国 ( 国 際 社 会 お よ び 国 連 )」 に よ っ て 、 東 テ ィ モ ー ル は 独 立 の 手 助
けを余儀なくされた。
3.
独立投票
国 際 社 会 は 東 テ ィ モ ー ル 独 立 の た め に 、次 の 一 歩 を 踏 み 出 し た 。1 9 9 9 年 5 月
5 日ニューヨークで、インドネシアとポルトガル、国連の三者間で、東ティモ
ー ル の 独 立 投 票 を 実 施 す る と の 合 意 が な さ れ た 。国 連 が 独 立 投 票 を 主 導 す る こ
と に な り 、 6 月 11 日 に 安 保 理 は 国 連 東 テ ィ モ ー ル 派 遣 団 ( United Nations
Assistance Mission in East Timor :UNAMET、 以 下 UNAMET) を 設 立 し た 。 こ の
ミ ッ シ ョ ン で は 、投 票 管 理 官 や 文 民 警 察 な ど の 職 員 が 計 1 0 0 0 人 以 上 参 加 し た 。
さらに、世界中の選挙監視団も独立投票を支援した。しかしながら、一番の懸
念 で あ っ た 独 立 投 票 期 間 中 の 治 安 維 持 は 、 東 テ ィ モ ー ル を 暴 力 に よ っ て 24 年
間抑圧してきたインドネシアが、それを担当することになった。
にもかかわらず、不安定な治安と独立派への脅迫や暴力により、投票に必要
な登録も遅れ、投票日は 2 週間も延期されることになった。その脅迫や暴力は
東ティモール人だけでなく、選挙支援スタッフにまで及んだ。
そ う し た 厳 し い 状 況 の な か 、人 口 8 0 万 人 以 上 の 内 4 5 万 1 7 9 2 人 が 投 票 登 録 1 7
17
The United Nations and East Timor-A Chronology, UNTAET ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
32
を し た 。そ し て 、独 立 投 票 は 実 施 さ れ た 。1 9 9 9 年 8 月 3 0 日 、そ の 登 録 者 の 9 8 %
が 投 票 し 、 併 合 に 賛 成 9 万 4 3 8 8 人 ( 2 1 . 5 % )、 3 4 万 4 5 8 0 人 ( 7 8 . 5 % ) が 併 合
に 反 対 し 、 独 立 の 道 を 選 ん だ 18。
ついに長い支配と抑圧の歴史を乗り越えて、東ティモール人の自立を自ら決
断し独立することになった。しかし、その希望 はすぐに、暴力によって打ち砕
かれた。
4.
国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 (UNTAET)
2000 年 3 月 、 国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 (UNTAET: United Nations
Transitional Administration in East Timor 、 以 下 UNTAET)に 派 遣 さ れ 、 東 テ
ィモールのコバリマ県知事として赴任した伊勢崎氏がディリ市内を散策した
時 、以 下 の 様 に 感 想 を 述 べ て い る 。
「 破 壊 が も の す ご い 。す べ て の 木 部 は 焼 失 。
内壁もほとんど抉り取られている。どうみても、非常に組織化された破 壊であ
る 。 素 人 の 放 火 と は 、 と て も 思 え な い 。」( 伊 勢 崎 、 2 0 0 1 : 2 9 ペ ー ジ )。 こ の よ
うな壊滅的な被害をもたらした暴力の始まりは、投票日からたった 2 日後の 9
月 1 日 デ ィ リ 市 内 に あ っ た UNAMET の 施 設 の 外 で 、 民 兵 に よ る 独 立 派 へ の 暴 動
か ら で あ っ た 。そ の 暴 動 は 、略 奪 や 放 火 へ と ま す ま す 悪 化 し て 行 っ た 。1 9 9 9 年
の「5 月 5 日合意」で、インドネシア側が投票期間中の安全を保障すると約束
したにもかかわらず、暴動に対しては適切な対応を行わなかった。
結 果 、 秩 序 は 崩 壊 し 、 東 テ ィ モ ー ル 人 は 殺 さ れ 、 約 50 万 人 が 家 を 追 い 出 さ
18
同上。
33
れ難民となった。また、その約半数は東ティモールを離れ、西ティモールへと
逃れた。さらに、強制的に西ティモールに連れて行かれる人々もいた。当事者
の国連は、インドネシアに対して対応を求めたが、状況が改善されることはな
かった。
そ し て つ い に 、9 月 1 0 日 コ フ ィ ー ・ ア ナ ン 国 連 事 務 総 長 は イ ン ド ネ シ ア に 対
し て オ ー ス ト ラ リ ア 軍 主 体 の 多 国 籍 軍 ( I N T E R F E T 、以 下 I N T E R F E T ) の 受 入 を 要 求
し た 。 イ ン ド ネ シ ア は そ れ を 承 認 し 、 9 月 12 日 に 安 保 理 に よ っ て 、 INTERFET
に東ティモールにおける平和と安全を取り戻すための権限が与えられた。
翌 月 、安 保 理 は 国 連 暫 定 統 治 機 構 設 立 を 承 認 す る 決 議 1 2 7 2( 1 9 9 9 )を 採 択 し 、
国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治 機 構 ( U N T A E T ) が 正 式 に 設 立 さ れ た 。U N T A E T は 、以 下
の 三 つ か ら 構 成 さ れ た 19。 ⑴ ガ バ ナ ン ス と 行 政 、 ⑵ 人 道 支 援 と 緊 急 復 興 、 ⑶ 軍
事 部 門 、で あ っ た 。ま た 、U N T A E T の マ ン デ ー ト( 任 務 )は 以 下 の 四 つ で あ っ た 。
⑴東ティモールにおける法と秩序の安定と維持、⑵政権の樹立、⑶行政サービ
スの支援、⑷人道支援と復興、開発援助の調整および実施の確保、であった。
つ ま り 、U N T A E T に 求 め ら れ て い る こ と は 単 純 明 快 で あ っ た 。す な わ ち 、東 テ ィ
モ ー ル を 「 ゼ ロ 」 か ら 作 り 直 す こ と と 言 え た 。 な ぜ な ら 、 400 年 以 上 の ポ ル ト
ガ ル に よ る 植 民 地 の 歴 史 と イ ン ド ネ シ ア に よ る 抑 圧 の 24 年 間 、 こ の 長 い 支 配
の 歴 史 は 、東 テ ィ モ ー ル が 国 家 と し て 独 立 す る た め の 基 盤 お よ び 能 力 を 抑 圧 し
破 壊 し た か ら で あ る 。 そ の 東 テ ィ モ ー ル を 支 え 、 独 立 ま で 導 く た め に UNTAET
は強大な権限を有することになった。
19
The United Nations, The Security Council,“ Resolution 1272(1999)” .
34
一方、インドネシアとの統合を目指していた 併合派民兵たちは、まだ諦めて
いなかった。彼らは独立への国家樹立プロセスを妨害し始めた 。特にその妨害
は、西ティモールと東ティモールの国境付近で行われた。民兵の目的はインド
ネ シ ア へ の 再 統 合 で あ り 、 そ し て 西 テ ィ モ ー ル に 避 難 し た 20 万 人 以 上 い る 難
民の東ティモールへの帰還の妨害し、彼らを利用することであった。
その膨大な数の難民を対処していたのは、国連難民高等弁務官事務所
(UNHCR: United Nations High Commissioner for Refugees 、 以 下 UNHCR)と NGO
で あ っ た 。 UNHCR は 、 西 テ ィ モ ー ル に 避 難 し た 難 民 を 支 援 す る た め に 、 西 テ ィ
モールで活動していた。
し か し 、 そ れ を よ く 思 わ な い 民 兵 は 、 UNHCR が 活 動 す る 西 テ ィ モ ー ル の ア タ
ン ブ ア( A t a m b u a )に あ る 難 民 キ ャ ン プ で 、援 助 活 動 を 妨 害 し て い た 。や が て 、
妨害にとどまらなくなった。
そ う し た 民 兵 は 、 つ い に 越 境 し て き て UNHCR だ け で な く 、 国 連 軍 や 東 テ ィ モ
ー ル 人 に 対 し て も 容 赦 な く 攻 撃 を 加 え 始 め た 。結 果 、U N T A E T は 、国 境 付 近 を「 危
険地帯」として指定しなければならなくなった。そのような状況下、危険地帯
で 国 境 警 備 を 担 当 し て い た PKO 部 隊 の ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド 兵 一 名 が 、 民 兵 と 交 戦
し 、 行 方 不 明 に な り 耳 を 削 が れ 首 を 切 ら れ た 状 態 で 発 見 さ れ た 20。 こ れ だ け に
と ど ま ら ず 、 度 々 民 兵 と PKO 部 隊 の 間 で 交 戦 が 行 わ れ た 。
その状況に対して、セルジオ・デメロ国連事務総長特別代表は、インドネシ
ア防衛省に対して、民兵の抑制を求めた。しかし、インドネシア側は民兵との
20
伊 勢 崎 賢 治 『 武 装 解 除 −紛 争 屋 が 見 た 世 界 』 講 談 社 現 代 新 書 、 2004 年 、 53 ペ ー ジ 。
35
一切の関与を否定した。
他方、国境付近を危険地帯に指定したが、両軍の接触や誤解から起こる衝突
を 防 ぐ た め に 、 戦 略 円 卓 会 議 21や イ ン ド ネ シ ア 軍 と 国 境 に お け る 安 全 の 確 保 、
難民の移送および支援に関する覚書を交わした。こうして、最悪の事態を回避
するための努力は続けられた。
そ れ に も か か わ ら ず 、2 0 0 0 年 9 月 6 日 、民 兵 に よ っ て 西 テ ィ モ ー ル U N H C R 事
務 所 が 襲 撃 さ れ 、 3 人 の UNHCR 職 員 が 虐 殺 さ れ た 。 こ の 野 蛮 行 為 に 対 し て 、 国
連 事 務 総 長 を は じ め 米 大 統 領 や 、 当 時 の UNHCR の 長 で あ る 緒 方 貞 子 も 強 く 非 難
し た 22。
事件から翌 2 日後、安保理は、インドネシアに対して国境付近の法と秩序の
回 復 と 民 兵 の 武 装 解 除 を 求 め る 決 議 1 3 1 9( 2 0 0 0 ) を 採 択 し た 。 し か し 、 国 境 付
近の現場では、インドネシア軍の統制が効かなかった、もしくはインドネシア
軍にその意志がなかった ことから、決議が採択された後も、度々西ティモール
から民兵による東ティモールへの越境行為は行われた。
こ う し て 国 境 付 近 で 問 題 が 起 き て い た 一 方 で 、U N T A E T に よ る 東 テ ィ モ ー ル 独
立 プ ロ ジ ェ ク ト は 着 々 と 進 め ら れ つ つ あ っ た 。暫 定 統 治 下 で 設 立 さ れ た 最 初 の
組 織 は 、国 民 諮 問 評 議 会 で あ っ た 。こ の 評 議 会 に は 、国 連 側 の 代 表 だ け で な く 、
東 テ ィ モ ー ル 人 も 含 ま れ て い た の で 、 暫 定 統 治 期 間 の UNTAET の 意 志 決 定 に 、
東ティモール人自ら参加することができる組織であった 。次に、東ティモール
21
国 連 軍 と イ ン ド ネ シ ア 軍 と の 間 の 信 頼 醸 成 の た め の 会 議 。( 伊 勢 崎 、 2 0 0 1 : 2 6 ペ ー
ジ )。
22
UNTAET news archives, UNTAET ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
36
の 法 と 秩 序 に 貢 献 す る 暫 定 司 法 サ ー ビ ス 委 員 会 が 設 立 さ れ た 。 さ ら に 、 UNTAET
設 立 か ら 約 一 年 後 に 、国 民 諮 問 評 議 会 が 活 動 と 権 限 を 広 げ る た め に 国 民 評 議 会
へと組織改革された。この評議会のメンバーは全員東ティモール人であり、政
財 界 だ け で な く 地 元 NGO や 13 県 の 代 表 者 な ど か ら 構 成 さ れ 、 様 々 な 意 見 を 尊
重しようとする姿勢が見えた。
2000 年 7 月 12 日 、 同 評 議 会 は 東 テ ィ モ ー ル 人 4 人 、 UNTAET 代 表 者 4 人 か ら
成る暫定内閣発足を承認し、暫定内閣は活動を始めた 。その暫定内閣は、発足
か ら 2 ヶ 月 後 、東 テ ィ モ ー ル 国 防 軍 創 設 を 認 め た 。創 設 の 理 由 は 、外 的 脅 威( イ
ンドネシア)と独立のために戦い、町にあふれるファリンテルを 静めるためで
あった。また、東ティモール暫定内閣は、内閣として初めて、オーストラリア
とティモール海における石油利権の協定を結んだ。
2001 年 8 月 30 日 、 つ い に 国 家 の 根 幹 で あ る 憲 法 を つ く る 憲 法 制 定 議 会 メ ン
バーを決める選挙が実施された。この選挙では、東ティモール独立のために最
前 線 で 戦 っ て き た フ レ テ リ ン が 票 の 57.3% 23を 獲 得 し 、 国 民 か ら 広 く 信 頼 さ れ
ていることが証明された。但し、この結果は良くも悪くも、フレテリンの「主
張」が憲法に大きく反映されたと考えられる。
そ し て 、9 月 2 0 日 に は 暫 定 内 閣 と 新 し い 議 会 が 取 っ て 変 わ り 、主 権 が 東 テ ィ
モール人へと徐々に移っていった。一方国連は、西ティモールからの 統合派民
兵 の 脅 威 を 鑑 み て 、東 テ ィ モ ー ル か ら 国 連 を 独 立 後 す ぐ に 撤 退 さ せ る こ と は 時
期 尚 早 と 判 断 し た 。そ し て コ フ ィ ー・ア ナ ン 国 連 事 務 総 長 は 、1 0 月 3 1 日 U N T A E T
23
The United Nations and East Timor - A Chronology, UNTAET ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
37
の形態を改め東ティモールで引き続き支援していくことを表明した。
2 0 0 2 年 に 入 り 、新 国 家 樹 立 は 順 調 に 進 ん だ 。憲 法 制 定 議 会 は 、憲 法 施 行 日 を
5 月 22 日 と 定 め た 。 4 月 14 日 、 念 願 の 東 テ ィ モ ー ル 独 立 を 最 初 に 率 い て い く
リ ー ダ ー を 決 め る 大 統 領 選 挙 が 実 施 さ れ た 。東 テ ィ モ ー ル 史 上 初 の 大 統 領 選 挙
で は 候 補 が 二 人 だ け で あ っ た が 、「 東 テ ィ モ ー ル の マ ン デ ラ 」 と 名 高 い シ ャ ナ
ナ ・ グ ス マ オ 氏 が 82.7% 24と い う 圧 倒 的 な 国 民 の 支 持 の 下 、 東 テ ィ モ ー ル 民 主
共 和 国 初 代 大 統 領 に 当 選 し た 。そ し て 、4 0 0 年 以 上 の 支 配 と 2 4 年 間 の 暴 力 に よ
る 抑 圧 か ら つ い に 解 放 さ れ 、国 連 お よ び 国 際 社 会 の 多 大 な 支 援 の も と 、2 0 0 2 年
5 月 20 日 、 21 世 紀 最 初 の 独 立 国 家 「 東 テ ィ モ ー ル 民 主 共 和 国 」 が 誕 生 し た 。
第5章 国連平和維持活動が東ティモール社会に与えた影響
1.
国連東ティモール暫定統治機構の成果
本 章 で は 、 UNTAET が 東 テ ィ モ ー ル 独 立 の た め 、 2 年 半 の 間 に 成 し 遂 げ た 25
の 成 果 25の 中 か ら 三 つ 選 ぶ 。 そ し て 、 そ れ ら 三 つ の 成 果 の 事 実 を 整 理 し 、 問 題
点 を 考 察 す る 。ま ず 、U N T A E T 報 道 局 が 発 行 し た フ ァ ク ト シ ー ト で 報 告 さ れ て い
る 25 の 成 果 を 、 以 下 列 挙 す る 。
1)
東ティモールにおける平和と安全の確立。
2)
U N H C R 、 I O M ( 国 際 移 住 機 関 )、 W F P ( 世 界 食 糧 計 画 )、 U N I C E F ( 国 連 児 童 基
24
同上。
United Nations Transitional Administration in East Timor, Office of
Communication and Public Information, Fact Sheet 1, 2002.( 筆 者 訳 )
25
38
金 ) と UNTAET の 協 力 に よ り 、 独 立 投 票 後 の 暴 動 に 対 し て 即 座 に 人 道 支 援
に 対 応 。 20 万 人 以 上 の 難 民 を 東 テ ィ モ ー ル に 帰 還 。
3)
東ティモール憲法の草案を作成する憲法制定議会議員を選ぶ公平で自由
な選挙を実施。
4)
第二次暫定内閣の設立と全東ティモール閣僚の指名。第二次暫定内閣から
東ティモール議会へと権限委譲。
5)
東ティモール初代大統領を決める選挙を自由、公平かつ平和的に実施。
6)
東 テ ィ モ ー ル 政 府 主 催 の 市 民 教 育 プ ロ グ ラ ム の 創 設 と 5500 人 以 上 の 地 域
指導者の育成。
7)
憲 法 公 聴 会 を 200 回 開 催 、 3 万 8000 人 が 参 加 し 意 見 を 交 わ す 。
8)
7 4 万 2 4 6 1 人 の 住 民 登 録 ( 西 テ ィ モ ー ル 難 民 を 除 く )。
9)
イ ンドネ シア との国 交正 常化に より 、ハイ レヴ ェル二 国間 協議と オー スト
ラ リアを 含む 三ヶ国 協議 の実施 。さ らにイ ンド ネシア との 実務者 レヴ ェル
での連続協議の実施。
10) 東 テ ィ モ ー ル 国 防 軍 の 創 設 。
11) 東 テ ィ モ ー ル 警 察 の 創 設 。
12) 行 政 部 門 の 創 設 と 約 1 万 1000 人 の 公 務 員 雇 用 。
13) 司 法 と 法 制 度 の 確 立 と 4 つ の 地 方 裁 判 所 の 創 設 。
14) イ ン ド ネ シ ア 支 配 下 に お け る 、 政 治 的 紛 争 を 解 決 す る た め の 「 受 容 真 実 和
解委員会」の創設。
15) 平 和 維 持 活 動 に お け る ジ ェ ン ダ ー 問 題 部 門 の 創 設 。 平 和 維 持 部 隊 と 文 民 警
39
察、東ティモール警察への指導を行う。ジェンダー平等を推進することに
より、東ティモール議会の24%を女性議員が占める。
16) 40 の 幼 稚 園 と 700 の 小 学 校 、 100 の 中 学 校 、 10 の 技 術 大 学 の 設 立 。
17) 32 の 公 共 施 設 の 再 建 。
18) テ ィ モ ー ル 海 に お け る 石 油 と ガ ス の 利 権 を 決 め る 「 テ ィ モ ー ル 海 協 定 」 を
結ぶ。
19) UNTAET ラ ジ オ 局 の 創 設 。
20) イ ン フ ラ や 保 健 医 療 、 教 育 な ど の 基 礎 的 な 行 政 サ ー ビ ス の 実 施 。
21) 道 路 復 興 計 画 の 開 始 。
22) 東 テ ィ モ ー ル の 限 ら れ た 資 源 を 有 効 活 用 す る た め に 、 中 央 財 政 局 の 早 期 創
設。
23) 銀 行 お よ び 支 出 局 の 創 設 。
2 4 ) 民 間 レ ヴ ェ ル の 経 済 を 活 発 化 さ せ る た め の「 起 業 家 プ ロ ジ ェ ク ト 」の 創 設 。
25) 耕 地 三 分 の 二 と 家 畜 産 業 の 復 興 。
上 記 の よ う に 、 東 テ ィ モ ー ル に お い て UNTAET は 法 整 備 か ら 行 政 、 国 家 安 全
保障、教育、さらに憲法草案まで着手してきた。第 4 章でも述べたが、これだ
け UNTAET が ゼ ロ か ら 国 創 り を し な け れ ば な ら な い ほ ど 、 東 テ ィ モ ー ル は ポ ル
トガルおよびインドネシアに支配されていた。
そ の 国 創 り の 中 で 、 筆 者 は 上 記 の 2 番 と 10 番 、 西 テ ィ モ ー ル 難 民 問 題 と 国
防軍創設について問題点を見つけた。第一に、なぜ難民と彼らを援助する側が
危険に曝されなければならなかったのか。第二に、なぜ「内的脅威」がはびこ
40
る 中 で 、「 外 的 脅 威 」 の た め に 、 国 防 軍 創 設 を 急 い だ の か 。 筆 者 は そ れ ら に つ
い て 疑 問 を 感 じ る 。 さ ら に 16 番 の 教 育 の 中 で は 、 東 テ ィ モ ー ル の 公 用 語 と し
て、旧宗主国のポルトガル語が公用語の一つとして定められた。ポルトガル語
を使用する多くの人間は、独立へと導いたフレテリンなどの上流階級である。
多 く の 市 民 は ポ ル ト ガ ル 語 を あ ま り 使 用 し な い 、も し く は イ ン ド ネ シ ア 語 の ほ
うが使用されているなど世代間によって異なる。にもかかわらず、第三に、な
ぜポルトガル語を公用語に定めたのか。以上三つの問題点について、次項から
それらの背景を整理し、何が問題点かを検討していく。
2.
西ティモール難民問題
2 0 1 4 年 1 2 月 時 点 で 、東 テ ィ モ ー ル 難 民 は 2 3 人( 亡 命 希 望 者 を 含 む )と U N H C R
で 報 告 さ れ て い る 26。 ま だ 難 民 が 残 っ て い る こ と か ら 、 楽 観 的 に 難 民 問 題 が 解
決したとは言えない。
し か し 、1 9 9 9 年 暴 動 後 の 当 時 2 0 万 人 以 上 が 難 民 で あ っ た こ と と 比 較 す る と 、
今 は ほ と ん ど 難 民 問 題 が 解 決 し た と 言 っ て も 過 言 で は な い 。そ の 膨 大 な 難 民 の
帰 還 支 援 に 貢 献 し た UNHCR と 、 多 く の NGO な ど の 国 際 機 関 が 果 た し た 役 割 は 大
きい。本来中立であるはずの難民支援者たちは、親インドネシア派民兵による
暴力および脅迫など、多くの脅威に耐えた。そして国連は、難民支援活動を行
わなければならなかった。
しかし、なぜ親インドネシア派民兵は難民の帰還を妨害したのか。それは、
26
Timor-Leste, UNHCR ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
41
ま だ イ ン ド ネ シ ア へ の 統 合 を 諦 め て い な か っ た か ら で あ る 。第 4 章 で も 述 べ た
が 、 1999 年 の 独 立 投 票 の 際 に イ ン ド ネ シ ア と の 統 合 を 望 ん だ 人 々 は 9 万 4388
人 ( 4 4 万 6 9 5 3 人 の 内 )、 登 録 者 数 の 2 1 . 5 % を 占 め て い た 。 2 0 0 1 年 当 時 、 選 挙
の た め に 行 っ た 住 民 登 録 で は 人 口 が 7 4 万 2 4 6 1 人 2 7 だ っ た こ と か ら 考 え て も 、9
万 4388 人 と い う 人 数 は 決 し て 小 さ い と は 言 え な い 。 こ れ を 考 慮 す る と 、 1999
年 暴 動 後 の 20 万 人 以 上 の 難 民 す べ て が 暴 動 か ら 逃 れ て 来 た 者 ば か り で は な い
と 考 え ら れ る 28。 実 際 UNTAET の 中 間 報 告 書 29の 中 で 、 難 民 キ ャ ン プ の 中 の い く
つ か の グ ル ー プ が 1999 年 の 独 立 投 票 を 非 難 し 、 イ ン ド ネ シ ア に 統 合 さ れ な い
限り、東ティモールに戻らないと主張していた ことが報告されている。結果と
し て 、西 テ ィ モ ー ル と の 国 境 沿 い に あ る 200 近 く の 難 民 キ ャ ン プ と オ イ ク シ に
あ る 難 民 キ ャ ン プ で 、国 境 警 備 を す る 多 国 籍 軍 と 国 連 軍 、難 民 支 援 を 行 う U N H C R
な ど の ス タ ッ フ に 対 し て 、度 々 親 イ ン ド ネ シ ア 派 民 兵 に よ る 妨 害 行 為 が 必 然 的
に起こったと考えることができる。
そ れ ら の 難 民 キ ャ ン プ 内 で 、行 わ れ た 妨 害 行 為 は 二 つ に 分 け ら れ る 。一 つ は 、
誤 っ た 情 報 を 意 図 的 に 流 し 、東 テ ィ モ ー ル へ の 帰 還 を 止 め さ せ る こ と で あ っ た 。
例を挙げれば、東ティモールに戻ったとしても、難民キャンプの現状より劣悪
であるから戻るべきではない、また、国連が新しい形で植民地支配をしている
などと根も葉もない情報を流した。二つ目は、単純な武器による脅迫行為であ
27
The United Nations and East Timor - A Chronology, UNTAET ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
山 田 満( 編 著 )
『 東 テ ィ モ ー ル を 知 る た め の 5 0 章 』明 石 書 店 、2 0 0 6 年 、9 1 ペ ー ジ 。
29
The Secretary-General, Interim report of the Secretary - General on the United
Nations Transitional Administration in East Timor, 2001、 3 ペ ー ジ 。
28
42
っ た 。1 9 9 9 年 1 1 月 4 日 に は 、民 兵 に よ る 妨 害 行 為 が 2 件 発 生 し た 3 0 。そ こ で は
銃の発砲があったが、幸いにも負傷者は出ていない。他にも暴力行為は多数 報
告 さ れ た 。そ し て 最 も 国 際 社 会 に 衝 撃 を 与 え た 事 件 が 、2 0 0 0 年 9 月 に 起 こ っ た
UNHCR ス タ ッ フ 殺 害 事 件 で あ る 。 民 兵 た ち は 鉈 を 使 い 、 暴 動 を 始 め 、 西 テ ィ モ
ー ル の UNHCR 事 務 所 を 襲 い 、 ス タ ッ フ 3 人 を 虐 殺 し た 。 事 件 後 は 、 難 民 支 援 活
動が一時中止に追い込まれた。
し か し 難 民 問 題 を 複 雑 に し て い た の は そ れ だ け で は な か っ た 。そ れ は 難 民 全
員 が 、東 テ ィ モ ー ル に 戻 り た い と い う 意 志 が あ っ た わ け で は な か っ た か ら で あ
る。例えば、上記で述べたインドネシア統合派の難民である。独立を受け入れ
られない人たちは留まることを望んだ。さらに、かつてインドネシアへの統合
を 望 み 悪 事 に 加 担 し た 人 々 は 、東 テ ィ モ ー ル に 戻 っ た ら 復 讐 を さ れ る こ と を 恐
れていた。また、東ティモールには文化的に古くから、子どもをインドネシア
に い る 里 親 に 預 け る 慣 習 が あ っ た 。親 は 子 ど も と 一 緒 に 生 活 し て も 養 う こ と が
できないことから、仕方なくインドネシアの里親などに預け、安定し た生活や
教育を求めていた。子どものためを考えて 手放した親にとって、子どもが戻っ
て 来 る こ と は 望 ま し い こ と で は な か っ た 。 こ の よ う に 、「 難 民 」 だ か ら と い っ
て 、 誰 も が 東 テ ィ モ ー ル に 戻 る こ と を 求 め て は い な か っ た 。「 難 民 」 と い う カ
テ ゴ リ ー に 彼 ら を 一 括 り に す る こ と は 、彼 ら の 尊 厳 を 軽 視 す る こ と に つ な が っ
てしまう。彼らは必ずしも、母国に帰還することが目的ではなければ、それが
30
Militias harass UN s taff helping refugees return to East Timor, UNTAET news
archives, UNTAET ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
43
「 最 大 の 利 益 」 で は な い 3 1 。「 難 民 」 と 一 つ に 分 類 で き る ほ ど 、 彼 ら の 背 景 と 歴
史のそれは単純ではないのである。それゆえ 支援する側も、被支援者の文化的
歴史的背景やそれぞれの「難民になる」という理由を理解しようと 努めなけれ
ばならない。
こ の よ う な 複 雑 な 状 況 下 で 、親 イ ン ド ネ シ ア 派 民 兵 に よ る 脅 迫 や 宣 伝 に よ っ
て 難 民 支 援 へ の 妨 害 行 為 が 行 わ れ 、さ ら に 野 蛮 な 行 為 で U N H C R ス タ ッ フ 3 人 の
命までが奪われた。しかしながら、野蛮な民兵が妨害行為を行い、命を奪った
のは援助機関のスタッフだけではなかった。
そ も そ も イ ン ド ネ シ ア の 支 配 が 始 ま っ た こ ろ か ら 、親 イ ン ド ネ シ ア 派 民 兵 は 、
インドネシア軍に育てられ、東ティモールに送り込まれて来てい た。その民兵
た ち は 、 INTERFET と UNTAET が 介 入 し て か ら も 、 西 テ ィ モ ー ル か ら 越 境 し て 、
住民や国連軍の兵士にも攻撃をした。親インドネシア派民兵の脅威、加えて 統
合派の難民が東ティモールに帰還することで国内に潜む「内的脅威」の方が 高
ま っ て い た と 考 え ら れ る 。に も か か わ ら ず 、 UNTAET は「 外 的 脅 威 」を 理 由 に 東
ティモール国防軍を創設したのである。
3.
国防軍
ま ず 、東 テ ィ モ ー ル 国 防 軍( 以 下 、国 防 軍 )設 立 の 過 程 を 述 べ て い く 。U N T A E T
が 設 立 さ れ て か ら 約 1 年 後 、 2000 年 9 月 12 日 に 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 内 閣 が 国 防
31
United Nations High Commissioner for Refugees Evaluation and Policy Analysis
Unit, Evaluation of UNHCR’ s repatriation and reintegration programme in East
Timor, 1999-2003,2004、 65 ペ ー ジ 。
44
軍 設 立 を 承 認 し た 。 そ の 暫 定 内 閣 は 4 人 の 東 テ ィ モ ー ル 人 と UNTAET 代 表 4 人
か ら 成 り 、 国 防 軍 を 承 認 す る 2 ヶ 月 前 に 発 足 し た ば か り だ っ た 。 そ し て 2001
年 10 月 26 日 、 正 式 に 国 防 軍 が 設 立 さ れ た 。 国 防 軍 が 設 立 さ れ る ま で の 1 年 間
は、ポルトガルが訓練を支援、オーストラリアは装備の提供と訓練施設を建設
した。
次に、この国防軍創設の問題点は 2 つあると考えられる。第一は、これが憲
法 草 案 前 に 暫 定 内 閣 に よ っ て 決 定 さ れ た こ と で あ る 32。 東 テ ィ モ ー ル 憲 法 草 案
に 国 民 の 意 見 を 反 映 さ せ る た め に 行 わ れ た 200 回 以 上 に お よ ぶ 公 聴 会 の 結 果 が 、
2001 年 7 月 13 日 に 報 告 さ れ た 。 さ ら に 、 憲 法 制 定 議 会 選 挙 が 実 施 さ れ た の が
2001 年 8 月 20 日 で あ っ た 。 し か し そ の 一 年 前 に は 、 国 防 軍 設 立 は 承 認 さ れ て
い た 。 一 体 誰 が 国 防 軍 を 望 ん だ の か 。 200 回 以 上 、 3 万 人 の 東 テ ィ モ ー ル 人 へ
の ヒ ア リ ン グ 調 査 で 得 た 意 見 に よ っ て 反 映 さ れ た も の で は な い こ と は 、明 明 白
白である。
第 二 は 、東 テ ィ モ ー ル 独 立 の た め に 最 前 線 で 戦 い 、独 立 へ と 導 い た フ レ テ リ
ン の 軍 事 組 織 フ ァ リ ン テ ル の 兵 士 た ち を 静 め る た め の 手 段 だ っ た こ と で あ る 33。
そ も そ も UNTAET は フ ァ リ ン テ ル を 正 式 な 軍 事 組 織 と は 認 め て い な か っ た 。 そ
の理由は、ファリンテルが「紛争」の当事者だったからである。それゆえ、フ
ァリンテルは武装解除の対象であった。とは言え、ファリンテルは侵略してく
る イ ン ド ネ シ ア 軍 と 戦 っ て き た の で あ り 、組 織 解 体 は 不 当 で あ る と い う こ と が
彼らの主張であった。
32
33
The United Nations and East Timor - A Chronology, UNTAET ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
伊 勢 崎 賢 治 『 東 チ モ ー ル 県 知 事 日 記 』 藤 原 書 店 、 2001 年 、 274 ペ ー ジ 。
45
結 局 、U N T A E T に よ っ て 武 装 解 除 は さ れ な か っ た が 、軍 事 組 織 と し て の 役 割 を
ほとんど果たすことができず、国連軍に相手にされなかった。次第に不満を抱
き始めファリンテルのメンバーは、度々暴動を起こし、国連軍が鎮圧すること
があった。それを抑えるために取られた策が、ファリンテル主体の東ティモー
ル国防軍であった。
東 テ ィ モ ー ル 憲 法 第 5 章 1 4 6 条 に 、国 防 軍 に つ い て 以 下 の 様 に 書 か れ て い る 。
「 東 テ ィ モ ー ル 国 防 軍 ( お よ び FALINTIL-ETDF) は 、 い か な る 攻 撃 お よ び 外 的
脅威に対して、憲法の秩序に従い、国民の安全と自由、領土保全、国家の独立
を 保 障 す る 」 3 4 ( 筆 者 訳 ) と 明 記 さ れ て い る 。 し か し 、「 い か な る 攻 撃 お よ び 外 的
脅威」とは一体何であるのか。むしろ、西ティモールから越境してくる民兵に
対応するために、国境警備を強化すべきだったのでないのか。また、国内にい
る元統合派も潜在的な内なる脅威ではなかったのか。しかも、それらを対処す
るのは国境警察であり、国内の安全を保障するのは警察の役割である。
国 家 の 根 幹 で あ る 憲 法 を 蔑 ろ に し 、国 民 の 声 を 組 む こ と な く 独 立 の 最 前 線 で
戦った「過去の英雄」のために国防軍を創設してしまった。しかしながら、こ
の よ う に 独 立 闘 争 で 戦 っ た 指 導 者 の 思 惑 が 反 映 さ れ て い る の は 、国 防 軍 に 限 っ
たことではない。
4.
公用語問題
東 テ ィ モ ー ル 憲 法 第 1 章 13 条 は 、
「 テ ト ゥ ン 語 と ポ ル ト ガ ル 語 は 、東 テ ィ モ
34
Government of Timor -Leste, Constitution of the Democratic Republic of
Timor-Leste, 2002.
46
ール民主共和国における公用語である」と規定している。東ティモールはもと
も と 多 言 語 国 家 で あ り 、1 6 の 言 語 が 使 用 さ れ て い る と 言 わ れ て い る 。そ の 中 で
も 、 テ ト ゥ ン 語 は リ ン ガ フ ラ ン カ 35と し て 東 テ ィ モ ー ル で 広 く 使 わ れ て い る の
である。但し、公用語としてテトゥン語と並ぶポルトガル語を話すのは、人口
の 5% と 言 わ れ て い る 。
しかし、なぜポルトガル語を話す人間が少ないにもかかわらず、憲法に明記
さ れ 、 公 用 語 に な っ た の か 。 山 田 満 36は そ の 要 因 に つ い て 三 つ あ る と 主 張 し て
い る ( 山 田 、 2 0 0 6: 1 1 1 ペ ー ジ )。 一 つ は 、 独 立 後 や 現 在 に 至 る ま で の 東 テ ィ モ
ー ル 政 府 の 指 導 者 た ち は 、イ ン ド ネ シ ア 支 配 下 の 時 に ポ ル ト ガ ル や 旧 ポ ル ト ガ
ル 植 民 地 の ア フ リ カ 諸 国 に 亡 命 し て お り 、そ こ で 日 常 的 に ポ ル ト ガ ル 語 を 使 用
していた。二つ目は、国内でゲリラ活動を行っていたシャナナ・グスマオやフ
ァ リ ン テ ル 兵 士 た ち は 、ポ ル ト ガ ル 語 の 無 線 放 送 を 使 用 し て 世 界 に 現 状 を 発 信
し て い た 。そ し て 三 つ 目 が 、2 4 年 間 イ ン ド ネ シ ア に よ る 同 化 政 策 で 、イ ン ド ネ
シア語が普及したので、それを否定する意味で他の言語を選んだ。つまり、こ
こでもかつての英雄たちの「主張」が、憲法と東ティモールのアイデンティテ
ィに反映されたのである。第 4 章でも述べたように、独立闘争を導いてきたフ
レ テ リ ン が 、憲 法 制 定 議 会 選 挙 に お い て 5 7 . 3 % と い う 過 半 数 を 超 え た 議 席 を 獲
得 し て い る 。加 え て 、フ レ テ リ ン の 指 導 者 で あ る シ ャ ナ ナ ・ グ ス マ ン は 8 2 . 7 %
という圧倒的な支持を国民から得ている。この事実は確かに、民主主義選挙の
35
言語の異なる多民族が交流する域内で意思疎通の必要上から歴史的に発達した共
通 語 ( 山 田 編 著 、 2 0 0 5 : 1 9 7 ペ ー ジ )。
36
山 田 満 ( 編 著 )『 東 テ ィ モ ー ル を 知 る た め の 5 0 章 』 明 石 書 店 、 2 0 0 6 年 。
47
結 果 で あ り 、国 民 の 意 志 で あ る と 考 え ら れ る 。と は 言 え 、実 際 に 教 育 現 場 で は 、
イ ン ド ネ シ ア 語 で 教 え ら れ て い る こ と が 多 く 、教 師 も ポ ル ト ガ ル 語 で 授 業 す る
能力も十分ではない。
一 方 で 、 そ の 事 実 に 配 慮 し た の だ ろ う か 、 東 テ ィ モ ー ル 憲 法 第 7 章 159 条 で
以 下 の 様 に 明 記 さ れ て い る 。「 イ ン ド ネ シ ア 語 と 英 語 は 、 そ れ ら が 必 要 と 見 な
さ れ る 限 り 、 公 用 語 と 同 様 に 政 府 官 庁 内 で は 実 用 語 と し て 使 用 さ れ る 」( 筆 者
訳 )。 こ こ で 、 イ ン ド ネ シ ア 語 と 並 ん で 英 語 が 出 て き た 理 由 は 、 U N T A E T お よ び
国 際 援 助 機 関 が 影 響 し て い る こ と が 考 え ら れ る 。国 連 平 和 維 持 活 動 が 行 わ れ る
際に、現地で需要があるのが「英語を話せる」人材である。それらの人材は、
通訳や現地国連事務所の職員として雇われる。結果、国連平和維持活動は現地
の人々に「国際社会で必要なのは、英語である」ということを植え付けてしま
う ( 山 田 、 2 0 0 5 : 2 1 4 ペ ー ジ )。
つ ま り 、U N T A E T と い う 統 治 型 P K O は 、あ る 意 味 で ポ ル ト ガ ル や イ ン ド ネ シ ア
と同様に、
「 同 化 政 策 」を 東 テ ィ モ ー ル 国 民 に 行 っ た と も 考 え ら れ る 。さ ら に 、
結 果 的 に 同 化 政 策 に な っ た が 、 米 ド ル の 導 入 37で あ る ( 当 時 の 広 告 ポ ス タ ー は
付 録 参 照 )。 通 貨 は そ の 国 家 の シ ン ボ ル を 象 徴 す る 。 一 例 を 挙 げ れ ば 、 日 本 円
に は 、日 本 の 発 展 に 貢 献 し た 様 々 な 著 名 人 や 日 本 を 象 徴 す る 建 築 物 や 自 然 な ど
が描かれている。にもかかわらず、テトゥン語とポルトガル語が公用語と言わ
れ て い る の に 紙 幣 や 通 貨 に 英 語 が 書 か れ て い れ ば 、な お さ ら 英 語 の 優 位 性 を 国
民は理解する。一体、東ティモールのアイデンティティはどこにあるのか。国
37
UN establishes US dollar as currency for Ea st Timor, UNTAET news archives,
UNTAET ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 。
48
民は、自らのアイデンティティをこれから、他に見出すしかない。
第6章
1.
結び
結論
1 9 4 5 年 、第 二 次 世 界 大 戦 の 教 訓 か ら 生 ま れ た 国 際 連 合 は 、国 際 の 平 和 と 安 全
に貢献するために平和維持活動を始めた。また、国連創設の主体であった米・
英・露・中・仏には、国連を主導するために拒否権という特別な権限が与えら
れた。にもかかわらず、二大大国であるアメリカとソ連が対立し、各国は資本
主義陣営か共産主義陣営のどちらかにまわった。結果として、国連は機能せず
に、国連憲章で掲げた「国際の平和と安全」に貢献することはできなかった。
しかし、冷戦が終結し東西対立構造がなくなったことで、国連は「中立性お
よび公平性」を活かして、国連平和維持活動を拡大させていった。実際、活動
数 と PKO 要 員 数 は 劇 的 に 増 加 し た 。 但 し 、 国 連 は 、 PKO 要 員 死 亡 者 の 数 が 増 え
るというリスクを、背負わなければならなかった。
他方、国連平和維持活動が機能し、国際社会に貢献する中で、国連は中立性
に固執し続けた。しかし、ルワンダやユーゴスラビア紛争では、それを重んじ
るばかりに、民族浄化を招いてしまった。それゆえ、国連は国際の平和と安全
を追求するために、中立性の解釈を変えざるをえなかった。そして国連は、国
家 と い う 単 位 で は な く 、保 護 す る 対 象 を 人 間 一 人 一 人 に 焦 点 を 当 て る よ う に な
った。
49
そ の 教 訓 の 上 に 生 ま れ た の が 、 初 の 統 治 型 PKO、 国 連 東 テ ィ モ ー ル 暫 定 統 治
機 構 ( UNTAET) だ っ た 。 東 テ ィ モ ー ル の 紛 争 は 、 通 常 の 紛 争 、 い わ ゆ る 民 族 間
や 政 府 と 反 政 府 勢 力 の 武 力 紛 争 と は 異 な っ て い た 。ま ず そ の 違 い の 一 つ に 、4 0 0
年というポルトガルの植民地支配がある。東ティモールは、長い植民地支配の
中、国家の中枢機能をポルトガルに 握られたことにより、独立するための能力
は備わっていなかった。それに追い打ちをかけるように、ポルトガルの支配の
後には、インドネシアが東ティモールを抑圧し始めた。
国連はインドネシアの一方的な行為は認めなかった。しかし、冷戦下では、
国 連 の 主 張 は 効 力 を 持 た な か っ た 。結 局 、東 テ ィ モ ー ル は 、 2 4 年 間 イ ン ド ネ シ
アに支配され続けた。
その東ティモール苦難の歴史が、終わりを迎えることができた要因は、冷戦
の 終 結 に よ る 国 際 情 勢 の 変 化 と ア ジ ア 通 貨 危 機 で あ っ た 。国 際 情 勢 の 変 化 に よ
って、国連および東ティモール支持の輪が広がった。さらに、インドネシアの
スハルト政権が崩壊したことで、東ティモール独立の機運が一気に高まった。
しかしながら、一筋縄には行かなかった。親インドネシア派民兵が、国連に
よる独立投票を妨害し、東ティモールは一時、紛争に陥ってしまった。
そこに、東ティモールの秩序の安定を求めて、安保理が設立させた部隊が、
オーストラリア軍主体の多国籍軍であった。その多国籍軍によって、東ティモ
ールの治安が回復し、国連平和維持活動が介入する余地が生まれた。
そして国連が、初の統治型平和維持活動を展開したのである。長年、国家の
中 枢 を 支 配 さ れ て い た 東 テ ィ モ ー ル に と っ て 、国 連 と 共 に ゼ ロ か ら 国 家 を 短 期
50
間 で 作 り 上 げ る こ と は 、効 率 的 だ っ た と 考 え る 。な ぜ な ら 4 0 0 年 以 上 の 支 配 は 、
東 テ ィ モ ー ル に 国 家 と し て 自 立 す る 能 力 を 奪 っ て い た か ら で あ る 。そ し て そ の
能力を補うのが、国連および国際社会であった。2 年という短期間で、法と秩
序の回復と国家樹立は拙速だったのだろうか。筆者は、その結果が、前章で述
べた三つの問題点だと考える。但し、それらが本論文の目的を達成させること
はできなかった。
本 稿 の 目 的 は 、 東 テ ィ モ ー ル に お け る 統 治 型 PKO の 教 訓 を 、 将 来 の シ リ ア の
国連平和維持活動に活かすことであった。東ティモールを選んだ理由は、そこ
に オ ー ス ト ラ リ ア と い う 西 洋 文 化 を 持 っ た ア ジ ア に 位 置 す る 国 家 が 、大 き く 東
ティモールの独立に影響したからである。一方シリアの周辺にも、イスラム文
化 を 持 ち な が ら も 西 洋 文 化 と 欧 州 と の 結 び つ き が 強 い 国 家 が 存 在 す る 。そ れ が
トルコ共和国(以下トルコ)である。オーストラリアがそうであったように、
トルコもシリア問題において地政学的優位性を備えている。
し か し な が ら 、 筆 者 が 述 べ た 三 点 の UNTAET の 教 訓 は 、 シ リ ア 問 題 に す べ て
適 用 で き な い と 考 え る 。第 一 に 、難 民 問 題 で あ る 。東 テ ィ モ ー ル 難 民 の 場 合 は 、
西ティモールに逃れ、援助機関に頼って帰還することが主 であった。他方、シ
リア難民は、隣国トルコに逃れるか、欧州に移住することができる。また、東
ティモールの場合、オーストラリアと陸続きではない。さらに、オーストラリ
アの主要都市は東ティモールからはかなり距離が 離れている。つまり、東ティ
モール難民にとって、オーストラリアに避難するという選択肢はなかった。そ
し て 、 東 テ ィ モ ー ル 難 民 が 20 万 人 以 上 、 ト ル コ に 逃 れ た シ リ ア 難 民 は 200 万
51
人以上であり、シリア難民の規模と支援する側 の負担に関して、東ティモール
との違いは明白である。
第 二 に 、国 防 軍 で あ る 。UNTAET 政 府 は 、外 的 脅 威 を 考 慮 し て 、 国 防 軍 を 創 設
した。とは言え、そもそも東ティモールの紛争レヴェルとシリア紛争のそれが
大きく異なる。まず違いの一つに、戦闘能力がある。東ティモールでは、親イ
ン ド ネ シ ア 派 民 兵 は 主 に 、鉈 や ナ イ フ 、時 に 武 装 し て い る こ と が あ っ た 。他 方 、
シリアでは、基本的に重武装である。加えて、アサド政権は化学兵器や樽爆弾
を使用するなど非人道的で、紛争レヴェルが東ティモールとは桁が違う。この
ことから、仮にトルコが多国籍軍として、シリア内戦に介入する場合のリ スク
は 、オ ー ス ト ラ リ ア 軍 主 体 の 多 国 籍 軍 が 東 テ ィ モ ー ル 紛 争 で 背 負 っ た リ ス ク と 、
比較できないほど大きい。
外的脅威という点においても、シリアのみならず、イスラム国は世界中にと
って脅威である。また、イスラエルとパレスチナ、イラク国内など、中東地域
の秩序は、依然不安定である。従って、この状況下で、シリア政府軍の是非を
問われることはないと考える。
そして第三に、公用語問題である。これはシリアおよび中東地域および国際
社 会 に お け る ア ラ ビ ア 語 の 優 位 性 は 、そ れ を 母 語 と す る 国 の 数 と 人 口 か ら 証 明
することができる。また、西欧による植民地支配の影響はないことから、西欧
言語に対する愛着はないと考える。
以 上 3 点 か ら 、東 テ ィ モ ー ル の 独 立 紛 争 と シ リ ア 内 戦 の 質 と 規 模 の 違 い が 明
らかになった。筆者が考えていたオーストラリアと、トルコの地政学的優位性
52
の 類 似 点 も 懐 疑 的 な 面 も あ る 。ト ル コ 国 内 に お け る イ ス ラ ム 国 に よ る 自 爆 テ ロ 、
クルド人との対立、トルコが同胞と見なす シリア領内のトルクメン人など、ト
ルコがシリアに抱える問題はその立場を一層複雑にする。
と は 言 え 、 UNTAET の 教 訓 か ら 学 ぶ こ と は あ る 。 難 民 問 題 で は 、 UNHCR を 中 心
に 国 際 援 助 機 関 や 国 際 NGO な ど の 努 力 に よ っ て 、 2 年 と い う 短 期 間 で ほ と ん ど
の 難 民 を 帰 還 さ せ た 。 こ れ は 、 国 連 機 関 と NGO の ス ム ー ズ な 連 携 体 制 が な け れ
ば 、成 し 得 え る こ と が で き な か っ た 。さ ら に 、難 民 す べ て が 帰 還 を 望 む「 意 志 」
を持っているという固定観念から、脱却することもできた。
上 記 の 教 訓 は 、 シ リ ア の み な ら ず 、 他 の 国 連 PKO に 活 か す こ と も で き る と 筆
者は考える。加えて、第 3 章で述べたように、国連の承認を得た多国籍軍が紛
争 の 初 期 段 階 で 展 開 し 、治 安 と 秩 序 を 安 定 さ せ て か ら 国 連 PKO を 展 開 さ せ る こ
と の 即 効 性 と 機 動 力 は 、 他 の 国 連 PKO に お い て も 有 効 で あ る 。
こ の モ デ ル は 、「 国 連 承 認 」 の 多 国 籍 軍 と い う 点 が 、 鍵 で あ る 。 国 連 承 認 の
多 国 籍 軍 で あ れ ば 、多 く の 国 か ら 支 持 を 得 ら れ や す い 。そ の 後 の 国 連 P K O で も 、
そのまま紛争国の秩序の安定と平和に貢献することができる。但し、多国籍軍
ではない場合、マリ国内におけるフランス軍の軍事活動のように、単独での活
動は正当性や効率性は疑わしい。多国籍軍かつ国連承認ということが、活動の
正当性と公平性を生むと考える。
以 上 、U N T A E T の 教 訓 を シ リ ア 問 題 に 活 か す こ と を 論 じ て き た が 、紛 争 レ ヴ ェ
ルやトルコの立場から、多くは困難であることが明らかになった。しかし、東
テ ィ モ ー ル に お け る 多 国 籍 軍 と 国 連 PKO の 連 携 は 、今 後 の 国 連 PKO に も 応 用 す
53
ることができると考える。言い換えれば、国際の平和と安全のためにも、東テ
ィ モ ー ル の 事 例 研 究 に 限 ら ず 、他 の 国 連 PKO か ら 学 ぶ 教 訓 を 研 究 し 続 け る こ と
が重要である。
付録
図 3
東ティモール民主共和国
( 出 典 ) United Nations Transitional Administration in East Timor ,2007.
54
表 1
UNT AET か ら の 通 貨 に 関 す る ポ ス タ ー
( 出 典 ) United Nations Transitional Administration in East Timor ,2000.
55
表 2
東ティモール独立までの歴史と国連の変遷
フェーズ
年
15 世 紀 〜
〜 19 45
〜 19 74
〜 19 99
〜 20 02
ポルト
インド
国連/
ガル②
ネシア
UNTAET
日 本( ポ
ポルト
宗主国
ルトガ
ガル①
ル)
第二次
大航海
背景
冷戦/
アフリ
世界
時代
テロリズム
冷戦崩
カの年
大戦
の台頭
壊
安全
人間の
国家の安全保障/
保障の
安全保障/
中立性・公平性
概念
文民の保護
「 第 一 世 代 」 (1948〜 )
「第二世代」
国連
(1989〜 )
PK O
「第三世代」
(1994〜 )
* 筆者作成。
56
参考文献表
単行本
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