日本の財政金融政策 11月10日 スタグフレーション・貿易摩擦・「機関車論」の帰結(1974−78年) 石油危機前からの二桁インフレと石油危機後の一層のインフレ激化(「狂乱物価」)に対 して1973年末から財政金融の厳しい引き締めが行われたため、経済は急速に減速した。 しかもこのときは、1974年の春闘相場が30%を超え、石油価格が4倍にもなるなど、 日本経済にとって大幅なコスト上昇を伴っていたことから、インフレ率が高止まりする一 方、経済の低迷が長期にわたって持続した。いわゆる「スタグフレーション」である。 実質 GDP 成長率(%)CPI 上昇率(%)経常収支(億ドル) [季調済前期比] [前年比] 1974年1−3月 −3.4 23.2 −32.9 4−6月 0.7 22.5 −24.0 7−9月 1.3 23.5 −1.3 10−12月 −0.5 23.4 11.3 1975年1−3月 0.1 15.2 −9.3 4−6月 2.2 13.3 −3.0 7−9月 1.1 10.3 −0.2 10−12月 1.1 8.7 5.7 1976年1−3月 0.8 9.0 −1.1 4−6月 0.6 9.4 9.4 7−9月 1.4 9.7 9.8 10−12月 0.1 9.4 18.7 その結果、日本経済は投資率が低下し、次第に貯蓄過剰体質(経常余剰体質)が定着し ていった。そうした中で、日本の経常黒字に対して米国等から批判があり、国内からは景 気対策を求める声が高まったため、政府は1975年来次々に経済対策を打っていったが、 金融政策の面では公定歩合が1975年から77年まで6%に据え置かれ、財政赤字のみ が大幅に拡大していった。 資金過不足(GDP 比、%)個人部門 法人企業部門 政府部門 海外部門 1974年度 9.9 −6.7 −6.0 0.5 1975年度 11.3 −4.1 −7.9 −0.0 1976年度 10.6 −3.6 −7.0 −0.8 1977年度 11.1 −2.3 −7.5 −1.9 1978年度 10.2 −1.0 −8.6 −1.2 1 特に、1975年度の補正予算では大幅な歳入欠陥に応じて赤字国債(特例国債)の発 行が行われ、以後これが恒常化することになる。(赤字国債から脱却するのはバブル期の1 980年代末であり、その後バブル崩壊とともに赤字国債がふたたび発行されるようにな り、現在に至っている。 )また、1976年秋頃からいわゆる「機関車論」が米国を中心に 唱えられ、経済が停滞する中で経常黒字を出し続ける日独に対して内需拡大が強く求めら れるようになり、1977年5月のロンドンサミットで日本は7%成長にコミットしてし まう。そのため、すでに景気刺激的な1977年度予算を二度にわたって追加補正したう え、一般会計歳出を20.3%伸ばす1978年度予算を77年末に決定するのである。 しかしながら、7%成長は結局達成できなかった(1977年度の成長率は、旧統計で 5.8%、新統計では4.5%)。その一方で、日本の経常黒字は拡大を続けており、米国 から貿易摩擦と円安批判が1976年から77年にかけて噴出していた。290円台から 徐々に上げ足を強めていった円レートは、1977年秋から急速に240円に向け上昇す るようになったが、これはもはや全面的なドル安であり、米国が意図していた円の選択的 切り上げではなかった。 (最近の円高ドル安もユーロ高ドル安を伴っていることに留意。) 2 この背景には、石油危機後の世界経済を牽引していた米国経済がマクロ経済政策の失敗 によって1977年にはふたたびインフレに陥り、1978年後半から二桁インフレに向 けて急速に加速したことがあろう。しかし、米国当局が円高をあおったこともその一因で あり、1978年1月4日の米国による「ドル防衛」措置の発表後もドルの不安定は続き、 3月13日の米独共同声明の後は円とスイスフランに対して集中的に下落していった。そ の後ドルは10月には175円まで下落し、ついに米国は日独スイスと協議のうえ10月 30日に「ドル防衛」を発表するにいたる。これによってドルはようやく反転するが、米 国のインフレはもはや二桁になっていた。(現在のドル安はインフレをもたらすか。) 一方、日本経済は、1973年秋の石油危機以降の大幅な賃金・石油コストの上昇をよう やくこなし、1978年秋頃から内需中心の安定成長軌道に乗り始めていた。 実質 GDP 成長率(%)CPI 上昇率(%)経常収支(億ドル) [季調済前期比] [前年比] 1977年1−3月 2.2 9.4 8.9 4−6月 0.7 8.9 21.8 7−9月 0.7 8.0 32.6 10−12月 1.4 6.6 45.8 1978年1−3月 1.9 4.6 40.1 4−6月 1.0 4.0 45.8 7−9月 1.3 4.4 51.5 10−12月 1.4 3.7 28.4 1979年1−3月 1.5 3.0 −7.1 4−6月 1.8 3.3 −11.3 7−9月 0.8 3.5 −32.3 3 「一般消費税(仮称)」導入失敗の原因と影響(1978−79年) 石油危機克服の過程で財政状況は極端に悪化したが、その根源は1970年代の公共事 業の増加と社会保障の拡充にあり、石油危機後の成長率低下による税収の伸び悩みが収支 ギャップを拡大したのである。 したがって、このような財政状況への対応策としては歳出の削減か増税(または両者の 組み合わせ)がありえたが、1979年度予算の公債依存度が39.6%にも達する異常 な財政状況を考慮して、政府は増税、それも一般消費税という新税の導入によって一挙に 財政再建をなしとげる途を選択した。税制調査会における審議を経て、1979年1月に 「一般消費税(仮称)については、昭和55年度(1980年度)中に実現できるよう諸 般の準備を進める」ことが決定された。しかし、結局、一般消費税は導入されなかった。 一般消費税導入失敗の原因としては、まず、第一に、国民が増税、まして新税には強い 反対を表明したことが挙げられる。1979年秋の総選挙で与党は大幅に議席を減らし、 一般消費税導入は放棄されたのである。(ただし、国民があらゆる増税を拒否し、歳出削減 を選択したかどうかは明らかでなかった。現に、1980年度予算で公共事業抑制により 1兆円の公債減額を行った後、1981年度予算では法人税、酒税等の既存税目の2兆円 に及ぶ増税が行われている。)いずれにせよ、その後当分新税がタブー視され、一般消費税 という優れた税手段を失ったことは、日本の税体系にゆがみをもたらしたといえよう。 第二に、1979年央から始まった石油再値上げが12月にはついにサウジ等による大 幅価格引き上げにつながり、第二次石油危機が起こったことが挙げられる。今回の石油危 機も前回に勝るとも劣らない影響を世界経済に及ぼすことになるが、日本経済は比較的ス 4 ムーズにこれを克服することになる。しかし、人々は第一次石油危機の記憶から深刻なス タグフレーションを懸念し、一般消費税には拒否反応を示したのである。(スタグフレーシ ョン時に一般消費税のような間接税による増税が特に好ましくない理由は何か。 ) 第三に、「一般消費税(仮称)」が5%の税率で約3兆円のネット増収をめざし、非課税 品目が少なかったこと、インボイス方式を採らなかったこと等、新税そのものの問題も挙 げられよう。 (ただ、1987年に税率3%で「レベニュー・ニュートラル」の売上税が提 案されたときは、非課税品目が多すぎること、インボイス方式をとったことが批判され、 結局撤回されているので、いずれにせよ「新税は悪税」ということかもしれない。) このような「一般消費税(仮称) 」の導入失敗により、財政再建はやや遠のいたことは否 めない。しかし、その付けが回ってくるのは1980年代になってからだった。当面はむ しろ歳出の見直しや行政改革を進めるきっかけになったと評価されていたのである。 5
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