『ことばが見つからないときに』

『ことばが見つからないときに』
箴言に 「愚か者でも、 黙っていれば、 知恵のある者と思
われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」
(17:28) とあります。 つまり、 「口を開いて無知を万人にさら
すより、 むしろ無言でいるほうがまし」 ということです。
しかし、 自分の評判を守るより、 人のことが大事なときがあ
ります。 傷ついた友人をなんとかして慰めたい、 どうにか励
ましたいと思うことがあります。
著者ロイ ・ クラーク氏は、 ひとりの人間として、 また牧師と
して、 このような場面に幾度となく遭遇してきました。 その経
験から導き出された示唆は、 きっと私たちに役立つことでしょ
う ――ことばが見つからないときに。
RBC ミニストリーズ社長
マート ・ デ ・ ハーン
この冊子は、正統なキリスト教の教義に基づいて書かれたものです。 エホバの証人、
末日聖徒イエス ・ キリスト教会 (モルモン教)、 統一協会とは関係ありません。
ことばが見つからないときに
2013 年 3 月 11 日
PDF 版発行
翻訳 :
有澤優子 前島常郎
表紙写真 :
Terry Bidgood
発行所 :
日本アールビーシーミニストリーズ
発行人 :
田井淳子
住所 :
〒 630-0291 奈良県生駒郵便局私書箱 46 号
TEL : 0743-75-8230
FAX : 0743-75-8299
EMAIL : [email protected]
WEBSITE : http://japanese-odb.org/
聖書個所は新改訳聖書より引用
10-11 ページ歌詞は以下を翻訳
"Blessed Be Your Name" (あなたの御名はほむべきかな)
Matt and Beth Redman ⓒ 2002 Thankyou Music. All rights reserved.
原作 “WHEN YOU DON'T KNOW WHAT TO SAY” by Roy Clark
©2007 RBC Ministries, Grand Rapids, Michigan
Printed in Indonesia
転載 ・ 転記には、 許可が必要です。
乱丁 ・ 落丁はお取替えいたしますので、 ご連絡ください。
この冊子は非売品です。 RBC ミニストリーズは、 特定の教会や教団にではなく読
者のみなさまの献金によって支えられ、 人生を変える聖書の英知を伝えています。
目次
とまどう瞬間......................................................................................... 4
父親の鏡............................................................................................... 5
サタンの攻撃....................................................................................... 5
ヨブの試練............................................................................................ 7
苦しむ人を慰める............................................................................15
何を言うべきか.................................................................................20
理解できない苦難もある..............................................................30
苦しむ人に仕えるのはキリストに仕えること........................31
とまどう瞬間
甘党だった父は 1940 年代のある日、 幼かった私を連れて行
きつけのドーナツ店に行きました。 ドーナツを買って車に戻ると、
父は私に 「もう一つ寄るところがあるんだ」 と言いました。 勤務
先の同僚が亡くなったので、 遺族にお悔やみを言いに行きたい
と言うのです。
そこに着いて車を停め、 エンジンをストップさせても、 父はなか
なか動こうとしませんでした。実際には数分だったかもしれません。
ついに私は 「父さん、 中に入らないの」 と尋ねました。 すると父
はハンドルに突っ伏して肩を震わせながら、 「何と声をかければ
いいのか、 わからないんだよ」 と声を詰まらせたのです。
父は葬儀が苦手でした。 幼い時に母親を亡くした父にとって、
人の死は、 母の愛を失ったつらい記憶をよみがえらせるものだっ
たのかもしれません。 ついに中に入ったものの、 弔問を終えて車
を走らせてから家まで、 父は黙りこくっていました。
同じく私たちにも、 戸惑ったり、 古い心の傷がうずいたりして、
ことばがみつからないときが少なからずあります。 たとえば、
・ 末 期 ガ ン を 宣 告 さ れ た 友 人 を 見 舞 い た い が、 こ と ば が 見
つからない。
・ あ る 教 会 員 の 息 子 さ ん が、 自 ら の 命 を 絶 っ た。 礼 拝
に出てきた夫妻にどう話しかけて良いかわからず、 つい避
けてしまう。
・ 離婚後、 初めて教会に来た男性が、 ホールの隅でポツン
と 立 っ て い る。 か け る こ と ば が な い の で、 誰 も が 無 言 で 通
り過ぎる。
こういうケースを聞くと、 私はヨブの話を思い出します。 ヨブの
3 人の友人は彼の苦しみを聞き、 彼と悲しみをともにし、 慰めよう
とやってきました。 彼らは7日間黙っていましたが、 ついに沈黙を
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破りました。 しかし、 慰めとなるようなことばをかけることはでき
ませんでした。
苦しむ人に寄り添い、 傷口に塩をぬるようなことをせずにそっ
と手を差し伸べるために、 ヨブ記 1 ~ 6 章から学ぶことができ
ます。 そこには、 慰めのことばが切に必要な人に対して、 何
を言い、 また何を言うべきでないか、 たくさんの知恵が詰まっ
ています。
父親の鏡
古代のウツの地で、 最高の父親は誰だったかと聞かれたら、
それは文句なくヨブでしょう。 彼は潔白で正しい生活を送って
いたと、 ヨブ記の冒頭はこれ以上ないことばで称賛しています。
財産も豊かで、 信仰面でも神とともに歩み、 10 人の子どもた
ちのためにいつも祈りをささげていました。
それだけで終わっていたなら、 友人の慰めなどいらなかった
でしょう。 しかし、 この物語にはまだ続きがあります。 ある日、
天で神とサタンのあいだに会話が交わされます。 その後、 ヨブ
の生涯は一変するのです。
サタンの攻撃
ヨブ記 1 章には、 何千年も前に神とサタンとの間で交わされ
た会話が記録されています。 この記録から、 サタンについて
多くのことを知ることができます。 黙示録 12 章 10 節で、 サタ
ンは 「兄弟たちの告発者」 と呼ばれますが、 サタンがヨブ記 1
章でしたのは、 まさしく告発です。 彼は地を行き巡って、 堕落
した人類の失敗をつぶさに見たのです。
これに対して神はどう対応したのでしょう。 神は敵サタンに対し
て、 ヨブの生活を見て、 その人となりに目を留めるように促され
ました。
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「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のよう
に潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は
ひとりも地上にいないのだが。」(1:8)
追い込まれたサタンは、 神はえこひいきをしていると責めま
す。 ヨブの誠実さは本物ではない、 彼とその家族の回りに神
が祝福の垣を巡らした結果だというのです。 ヨブは子だくさん
で家畜も多く、 裕福でした。 望みうる限りのものをくれた神を拝
まない者がいるのかと反論したのです。 サタンは言いました。
「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってくださ
い。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありま
せん。」(11 節)
サタンがヨブから祝福を奪うことを神が許すとは、 なんという
ことでしょうか。 そんなふうに驚くのは、 当然のことです。 しか
し、 数千年の時間を隔てて読んでいる私たちは、 何度も読ん
でいるためにこの物語にショックを感じなくなっているのかもし
れません。確かに、ヨブの命にはふれるなという線は引きました。
しかし神は、 それ以外は、 サタンが思うようにすることを許され
ました。
サタンはこうして、 ヨブの人生に苦難の嵐を巻き起こすので
す。 神とサタンとの戦いが原因で、 ヨブは祝福の垣が壊される
という経験を余儀なくされました。 この物語を読み進めるにあ
たって、 ある重要なポイントがあります。 それは、 ヨブが 1 章
のいきさつをまったく知らなかったということです。 ヨブは、 天
での会話について知る由もありませんでした。 フィリップ ・ ヤン
シーは 『神に失望したとき』 で、 こう言います。
「ヨブ記を推理劇、 『誰がやったか』 式の探偵小説と考える
とわかりやすいだろう。 劇が始まる前、 それを鑑賞する私たち
は、 こっそり内容を教えてもらうのである。 監督が自分の作品
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を説明する記者会見に、 私たちが早めに姿を見せたかのよう
に(1-2 章)。 監督は筋書きを話し、中心人物の説明をし、前もっ
て、 この劇では誰が何をするのか、 それはなぜなのかを教え
る。 実際、 監督は劇中の謎をことごとく解き明かすが、 例外が
一つある。 主人公はどういう反応を示すのか。 ヨブは神を信頼
するのか、 それとも否定するのか。 その説明はない。
幕が上がると、 舞台の上には役者だけがいる。 役者たちは
劇に閉じ込められていて、 監督があらかじめ告げたことは一つ
も知らない。 私たちは 『誰がやったか』 という疑問の答えを知っ
ているが、 探偵を演じるスターのヨブは知らない。 ヨブは舞台
の上での時間をかけて、 私たちがすでに知っていることを発見
しようとする。 ……ヨブはどんな間違いを犯したのか。 何も悪
いことはしていない。 ヨブは人類の最上の者を代表している。
神ご自身がヨブのことを 『潔白で正しく、 神を恐れ、 悪から遠
ざかっている』 と言われなかっただろうか。 ではなぜ、 ヨブは
苦しみを受けているのか。 懲罰のためではない。 天上の戦い
における、 代表戦士として選ばれたのである。」
(山下章子訳 いのちのことば社 157-158 ページ)
人間はなぜ苦しむのか。 しばしば私たちは、 この問題への
明快な答えを求めてヨブ記に向かいますが、 そこには答えが
ありません。 あるのは、 大災害のただ中で神に対するゆるぎな
い信仰を貫いた人の姿です。
ヨブの試練
ある朝、 10 時に電話が鳴りました。 それは、 インディアナに
いる長男のジムからでした。 悲痛な声で、「デーブが撃たれた」
と言うのです。 泣きじゃくりながら話すジムのことばをつなぎ合
わせ、 やっと少し状況がわかりました。 強盗が押し入ったばか
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りの店に私の末の息子のデーブがたまたま立ち寄り、 両手を
一発ずつ銃で撃たれ、 病院に担ぎ込まれたというのです。
私たちはすぐさま、 インディアナに駆け付けました。 病院に
着くと、 息子の病室の前には警護の警官が付くという物々しさ
でした。 入室を許されると、 デーブが自ら事の次第を話してく
れました。 彼の不安な心を慰め励まそうと、 詩篇の 91 篇を読
みました。 すると、 10-11 節に目が留りました。
「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなた
の天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、
御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るよう
にされる。」
デーブが自分の傷口を指差して言いました。 「でも、 ボクの
これはどうなの?」
あなたを守ると約束された神への信仰が、 試された瞬間でし
た。 信じられない悲劇に矢継ぎ早に襲われ、 人生最大の危機
の中で、 ヨブの信仰も私たちと同じように試されたのです。
1. 所有物を失う
ヨブは、 「東の人々の中で一番の富豪」 と言われています
(1:3)。 ヨブ記の著者は、 ヨブがそう呼ばれるにふさわしい人
物であったことを説明します。 古代社会では、 人の富は羊や
牛の数で測られました。 そして、 ヨブほど富んだ人はいません
でした。 羊が 7 千頭、 らくだが 3 千頭、 牛が千頭、 雌ろばが
5 百頭です。 1 万 1,500 頭の家畜を飼うのに、 ヨブは広大な
牧草地を所有していたでしょう。 ところが、 読み進むと、 一日
でそのすべてを失ったことが分かります。 使いがヨブのところに
来て言いました。
「シェバ人が襲いかかり、これを奪い、……神の火が天
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から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。……カ
ルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い
……。」(1:15-17)
ヨブの災難は、 20 世紀のある出来事を彷彿とさせます。
1929 年 10 月、 株価が大暴落し、 ウォール ・ ストリート最大の
市場投資家たちが数時間のうちに破産したのです。
オフィスの窓から飛び降りた人もいました。 ついこの間まで
億万長者だった人々が、 食事配給の列に並びました。 何もか
もが、 一変してしまったのです。
M&A だ、 アウトソーシングだ、 ダウンサイジングだなどという
言葉が飛び交うこの時代、 多くの人が職を失っています。 この
ような危機に直面したクリスチャンはみな、 それでも自分は神を
信じるのかどうかを厳しく試されています。
しかし、 富や持ち物を失うことは、 ヨブにとってまだ最悪の事
態ではありませんでした。
2. 子どもたちを失う
膨大な数の家畜を所有していたヨブは、 10 人の子持ちでも
ありました。7 人の息子と 3 人の娘です。仲の良い兄弟たちだっ
たようで、 定期的に祝宴を開き、 互いの家に招きあっていまし
た。 7 人の息子たちは曜日ごとに、 それぞれの家で毎日宴会
を開いていたと考える人もいます (1:4)。
ヨブは、 子どもたちが祝宴のさなかに神に罪を犯すかもしれ
ないと考え、 朝早く起きて子どもたちのために祈り、 彼らのた
めに全焼のいけにえをささげました。 家族の祭司の役を果たし
ていたのです。
その祝宴のさなかに悲劇が起き、 10 人の子どもすべてが失
われました。 使いがその知らせをこのように伝えています。
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「荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、そ
れがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれま
した。」(1:19)
ヨブは打ちのめされました。 この世の終わりのように感じたこ
とでしょう。 まず財産が消滅し、 いまやすべての子どもも取られ
ました。
数年前のこと、 私が牧師をしていた教会の役員から電話が
かかってきました。 彼の妹とその家族が、 大事故に遭ったので
す。 水曜日の夜で、 雨が降っていました。 彼女は娘 3 人を連
れて車で教会に行くところでした。 教会の駐車場に入ろうとハ
ンドルをきったところに、 他の車が後ろから突っ込んできたので
す。 3 人の娘全員が死亡し、 母親だけが助かりました。 その
役員は、 3 人の姪たちのために弔辞を読むように頼まれました
が、 ことばが見つからないと言って困り果てていました。
私は妻と葬儀に参列しました。 この夫婦は、 ヨブのように子
どもをすべて失ったのです。 数百人の列席者は皆、 泣いてい
ました。 その日の午後、私は初めて、ヨブの苦悩がどれほどだっ
たかを垣間見たように思いました。
そして最近、 私は再びヨブが子どもたちを失ったことについ
て思い起こす機会がありました。 日曜の夕礼拝で、 ベス ・ レッ
ドマンとマット ・ レッドマン作の 「あなたの御名はほむべきかな」
という賛美を全員で歌っていたときのことです。 その歌詞には、
喪失体験の理由や目的がわからなくても神を信頼し続けるの
だ、 という信仰の姿勢が現されていました。
あなたの御名はほむべきかな
日が射しているときに 世が平穏無事なときに
あなたの御名はほむべきかな
あなたの御名はほむべきかな
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苦しみの道を行くときも ささげものに痛みが伴うときも あなたの御名はほむべきかな
作詞者は、 繰り返しの部分を書く前に、 ヨブの物語を読ん
だにちがいありません。
あなたは与え あなたは取られる
あなたは与え あなたは取られる
でも私の心は言う
主よ あなたの御名はほむべきかな
これが、 10 人の子どもを失ってなお、 主をほめる驚くべきヨ
ブの応答でした。 ヨブ記 1 章 20 ~ 21 節にはこうあります。
「ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地
にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎か
ら出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、
主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」
状況に左右されない、 この深い信頼のことばを読むとき、 私
は 「ヨブよ。 君には負けた」 と言わざるを得ません。 1963 年
から 1979 年までの間に、 私の最初の妻の家族は、 次々とガ
ンに侵されました。 まず義母を、 そして義理の姉を失い、 次に
義父、 そして 1979 年にはついに、 妻までもガンで世を去りま
した。 ひと家族全部を失ったのです。 みなクリスチャンで、 そ
れも教会の指導者たちでした。
イエスが苦しみの中でゲツセマネの園に行かれたように、 家
族の苦しみの杯を取り去ってくださるように、 私も神に願いまし
た。 にもかかわらず、 それはかないませんでした。 正直に言
うと、 私はヨブのように神への信頼を告白することはできません
でした。 「どうして」 とただ、 泣き続けるのみでした。 苦しんで
いる人とその家族は、 そのような問いを口にするものです。
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とにかくヨブは、 神への信頼を試される第一の関門を突破しま
した。 そこで敵であるサタンは、 さらなる災難をもって攻撃の手を
強めることにしたのです。
3. 健康を失う
全財産と子どもたちを失った後、 ヨブはさらなる災難に見舞わ
れます。 それは、 彼自身の健康へのサタンの攻撃です。 ある日
サタンは再び主と対話をし、 そこでさらに主に詰め寄ります。
「サタンは主に答えて言った。『皮の代わりには皮をもって
します。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物
を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨
と肉を打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違
いありません。』」(2:4-5)
主は、 いのちには触れないことを条件に、 サタンがヨブのから
だに危害を加えることを許されました。
「サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂ま
で、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取っ
て自分の身をかき、また灰の中にすわった。」(2:7-8)
サタンの二番目の攻撃について、 デービッド ・ アトキンソン氏
は言います。
「ヨブが直面しなければならないすべての試練に、 病が加わっ
た。 神の許しにより、 ヨブは悪魔からこの堪え難い忌むべき症状
に悩まされている。 足の裏から頭の頂までの痛みを伴う腫物(2:7)
については、 ハンセン氏病から象皮病にまで至るさまざまな病名
が取りざたされている。 彼は、 重い皮膚病患者が行くところ、 す
なわち町の外の灰の中に行き、 土器のかけらで自分の腫物をか
いた。 富んでいた者が、 貧しい者となった。」
(The Message Of Job IVP 出版 ,1991 年)
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あなたには苦しんでいる家族がいるでしょうか。 財産や子ど
もを失うという試練には遭っていなくても、 健康を失っているか
もしれません。もしそうなら、不安な気持ちで検査を受けるでしょ
う。 医師から病気が見つかったという知らせを受けるなら、 そ
の人は恐らくこのようなことを考えるのではないでしょうか。
・ なぜ自分が?
・ なぜこんなことが?
・ なぜ今?
たとえば、 もしガンで闘病中の友人がいたら、 化学療法や
放射線治療を受ける度に、 詩篇 77 篇の問いがその人の頭を
よぎっているかもしれません。
「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛し
てくださらないのだろうか。主の恵みは、永久に絶たれ
たのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされない
のだろうか。
」
(詩篇 77:7-8)
疑問がわくのは信仰を試されているからです。 試練の中に
ある本人はもちろん、 その人を大切に思っている家族なら、 当
然そのように反応するでしょう。 次に挙げるヨブの苦難は、 さら
なる心的打撃を与える試練です。
4. 妻の理解を失う
ヨブの妻は、 自分たち家族に次々と降りかかった災難に圧
倒され、 ひどく混乱したことでしょう。 夫は、 申し分ないほど立
派な人で、 よく祈り、 家族を養い、 守る人でした。 ヨブのような
人に、 どうしてこのような悲劇が訪れなければならないのでしょ
うか。
マイケル ・ ホートン氏は 「Too Good To Be True (信じられ
ないほどに素晴らしい)」 という著書で、 信仰深い両親が見舞
われた幾多の苦難に、 ひどく混乱したと証しています。
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「78 歳の父ジェームス ・ ホートンは、 良性の脳腫瘍と診断さ
れ、 緊急手術を受けた。 ……それが失敗に終わり、 まもなく
父には回復の望みがないことが知らされた。 ……家族の大黒
柱になった母は、 父のベッドの脇で 15 分おきに神経質に枕を
直しながら、 愚痴をこぼしていた。 ……そして、 父の亡くなる
2ヶ月前、 母は自分の姉の葬儀で心のこもった弔辞を述べた。
その帰途、 私の運転する車の中で、 母は突然、 脳卒中の発
作に襲われた。 気丈で心の優しい母は、 恵まれない子どもや、
身寄りのない老人の世話に生涯をささげていたのだが、 今や
自分自身が人の手に頼る生活になった。 ……気弱になった私
は、 神は人生の最後の舞台でどうして最悪の場面を経験させ
るのか、 といぶかった。 ……人のため、 特に老人のために尽
くしてきた人がこの世を去る時くらい、 少し楽をさせてもらっても
良いのではないだろうか。」 (Zondervan, 2006 年)
町の外の灰の山に座っている腫物だらけのヨブを見た妻に
は、 これと同じような疑問がつきまとったのではないでしょうか。
もうたくさん……。 それで彼女は言ったのです 「神をのろって
死になさい。」 (2:9)
著名なイギリスの牧師 G ・ キャンベル ・ モルガンは、 家族が
苦しむ姿を間近で見たことのある者だけが、 ヨブの妻の心を理
解できるだろうと言いました。 病床にいる家族を愛すればこそ
の叫びです。 「あなたがこれ以上苦しむ姿を、 私は見ていられ
ない」 という叫びです。
これはヨブにとって最大の試練だったでしょう。 愛する妻の
口からこんなことばを聞いたのですから。 サタンはなんと悪賢
いことでしょう。 自分自身が言いたい言葉を、 ヨブの妻に言わ
せたのです。 あのヨブもとうとう降参かと、 天使たちは天の欄
干から身を乗り出して見物したことでしょう。
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しかし、 ヨブは悩む妻にこう答えました。
「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私た
ちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けな
ければならないではないか。」(2:10)
ヨブの妻は神に対して腹を立てていましたが、 神は私たちの
怒りを受けとめられる方です。 ヨブと妻とのこのような正直なや
り取りは、 むしろこの物語の信憑性を裏付けます。 聖書の登
場人物でさえ、 神にもお互いにも怒りを抱くことがありました。
自分の財産や家族や健康を失ったことは、 ことばにできない
ほどつらかったはずです。 最初は信仰によって応答できてい
たヨブも、 徐々に絶望の淵へと落ちていきました。
苦しみ、 絶望している友を前に、 私たちには何ができるの
でしょう。 どう声をかけるべきでしょうか。
苦しむ人を慰める
ヨブの 3 人の友人たち、エリファズ、ビルダデ、そしてツォファ
ルは、 ヨブの苦しみを聞き、 見舞いに行こうと決めました。 彼
らは、 恐ろしいほどの孤独に苛まれ、 灰の中にすわっているヨ
ブを見つけました。 この 3 人も初めは、 少しは良いことをした
のです (2:12-13)。 ところが、 後になってヨブは彼らを 「煩わ
しい慰め手だ」 と呼びました (16:2)。 それはそうとして、 まず
は苦しんでいる人を慰めるために、 この 3 人がした良いことを
検証しましょう。
1. 共にいる
「ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわ
ざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来
た。……彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに
打ち合わせて来た。」(2:11)
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苦しむヨブの所に来るには、 3 人の友人はそれぞれ、 犠牲
を払わなければなりませんでした。 旅費、 自分の予定の変更、
そしてどこかの村で落ち合うための時間です。 それでも犠牲を
惜しまず、 ヨブに会いに来ました。
マルコの福音書 2 章にある物語が思い浮かびます。 体の不
自由な友人を助けた、 4 人の男たちです。 マックス ・ ルケード
氏は、 著書 「He Still Moves Stones (神はいまも石を動かさ
れる)」 の中で、 この物語をこう描きます。
「彼の両足は、 付属品のように垂れていた。 ……自分の手
足を見ることはできても、 その感覚はなかった。 ……顔も体も、
だれかに洗ってもらわねばならず、 一人では鼻をかむことも、
歩くこともできなかった。……『からだ一式そっくり取り替えねば』
と言われるような状態だった。」 (Thomas Nelson, 1999 年)
イエスがカペナウムに 2 度目の訪問をした時、 この 4 人の
男たちは障害のある友人に、 「君をイエスの所へ連れて行こう」
と言いました。 何ものも彼らを止めることはできません。
「人が大勢集まっていて入れないなら、 屋根をはがしてでも
イエスの所に連れて行くさ。」
寝床に寝かされたまま、 4 人の友人によってイエスのところ
へ運ばれた男は、 帰りには新しい足を与えられ、 歩いて帰りま
した。 罪をも赦されて。
苦しんでいる友の所へ行くことは、やさしいことではないでしょ
う。 しかし、 苦しむ人には、 思いやってくれる人が必要です。
ですから、 もし御霊の促しがあるなら、 少々の不都合はあって
も行くべきです。 ヨブの 3 人の友人は、 友のそばに行こうとい
う御霊の促しを感じ、 それに応答したのです。
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2. 黙って座す
「彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであ
ることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて
泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かっ
て投げ、自分の頭の上にまき散らした。こうして、彼ら
は彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一
言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひど
いのを見たからである。」(2:12-13)
ヨブの友人たちは、 泣き、 服を引き裂き、 頭の上にちりをま
くという典型的な中東のやりかたで悲しみを表しました。 それか
ら、 なんと7日7夜、 黙って彼のそばにいたのです。
音楽や会話、 テレビやラジオなど、 さまざまな音があふれる
21 世紀に生きる私たちにとって、 ヨブと友人たちが過ごした沈
黙の 1 週間は想像しがたいものです。 しかし、 沈黙を恐れる
必要はありません。 苦しみに向き合うとき、 沈黙はけっして悪
いものではないのです。 あなたが苦しむ友のそばにいるのは、
説教したり、 問題を解決してあげたりするためではありません。
ひとりの人間として寄り添うためです。
沈黙は、 苦しんでいる人
苦しみに向き合うとき、 沈黙は との心のきずなを強めること
けっして悪いものではないので ができます。 痛みを味わっ
す。 ……沈黙は、 苦しんでい た多くの人が、 抱きしめて
る人との心のきずなを強めるこ ものを言わずに腰を降ろし、
とができます。
「あなたは大切な人よ」 とだ
け言って立ち去った人に一
番慰められたと言います。
神学者スタンリー ・ ハワーワスが、 「苦しむ存在」 という著書
で、 沈黙の意義についてみごとに説明しています。 友人のボ
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ブが、 母親の自死による悲しみから立ち上がろうとしていました
が、 ハワーワス氏にとって、 そんなボブのそばにいるのは居心
地の良いことではありませんでした。 誰でもそうでしょうが、 何
と声をかければ良いかわからなかったからです。 ただ、 ボブの
そばに座っていることしかできませんでした。
しかし後になって、 自分がただそばにいることこそ、 友人が
最も望んだ、 また必要としていたことだと思うようになりました。
自死という悲劇を心理学的に説明しようとしたり、 神学的な見
解を述べたりは一切せず、 友人としてただ共にいることを選び
ました。 その無言で注がれた愛と思いやりの香油は、 友人の
傷ついた心に深く染み入ったことでしょう。 それこそ、 ヨブの友
人たちがした良いことのひとつです。 そして私たちも、 そうする
ことができます。
3. 耳を傾ける
ヨブの友人たちは、 中東のマナーに従って苦しむ友が口を
開くまで黙っていました。 1 週間の沈黙を破って、 ヨブはつい
に自分の心のうちを話し始めました (3:1)。 そして彼らは耳を
傾けたのです。
3 章では、 悲しい現実が記録されています。 ヨブは、 死ん
だほうがましだと言ったのです。 ヨブ記がここで終わらないの
は幸いです。 「主は与え、 主は取られる。 主の御名はほむべ
きかな」 (ヨブ 1:21) というのが信仰の英雄の姿とするなら、 ヨ
ブ記 3 章は、 ヨブの人間性を明らかにする正直な絶望の叫び
です。 本章で、 ヨブは7度 「なぜ」 と問いかけます (11、 12、
20、 22、 23 節)。 このことばには共感を覚えます。 なぜなら、
苦しみに遭う人は誰もが 「なぜ」 とつぶやきたくなるからです。
ヨブの絶望はどれほどだったでしょう。 自分の生まれた日を
のろい (1 節)、生まれた日に死んでいたらよかったと願い (11
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節)、 いまも死を望むほどでした (21 節)。 死を強く願うことば
が次々とつづられ、 3 章の結びで 「絶望と怒り」 という二つの
感情を明らかにします。ヨブは、神への怒りを隠しませんでした。
「神の与えるものが無益と失意の人生だけだとしたら、な
ぜ、人を生まれさせるのだろう。」
(23 節 リビングバイブル訳) ヨブの友人たちは、 ヨブの不平や疑問、 そして絶望の叫び
をしばらく聞いていました。 しかし、 残念ながら、 この 3 人は彼
の心の苦しみを理解しようと耳を傾けるのではなく、 その問題に
対する神学的な答えを見つけようと忙しく頭を動かしていたよう
です。
男性は、 一般的に問題を
友人たちは彼の心の苦しみを 解決するまとめ役になろうと
理解しようと耳を傾けるのでは します。ヨブの 3 人の友人も、
なく、 その問題に対する神学的 何とかして自分たちで彼を
な答えを見つけようと忙しく頭を 窮地から救おうと思っていま
動かしていたようです。
した。 しかし、 心の問題を
見逃していました。 これは
私にとっても、 人ごとではありません。
結婚当初、 妻が何かで困っていると、 私たちは夜中まで話
し合いました。 私はヨブの友人たちのように、 聞くのはそこそこ
にして、 問題を解決するであろう聖句をあれこれと頭の中で考
えたものです。 私が彼女の心に耳を傾けるようになったのは、
何年も後のことです。
もしあなたがそこにいて、 ヨブのことばを聞いていたとしたらど
うでしょう。 その絶望、 混乱、 怒り、 恐れを耳にしたら、 何を言
えるでしょう。 分析したり、 吟味したりするでしょうか。 それとも、
あふれ出る感情をしっかり聞いて受け止め、 こう言うでしょうか。
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「私には答えがありません。 でもあなたの心を聞かせてください。
苦しむあなたのことを心にかけています。 私はあなたの味方で
す」 と。
友人のことばに耳を傾け、 慎重に選んだことばを口にするほ
うが、 4 章にあるヨブを責める辛辣なことばより、 はるかに役立
ちます。
何を言うべきか
友人たちは 1 週間、 ヨブとともにいました。 彼らは涙を流し、
耳を傾けました。 しかし、 彼らは灰の中に座っていたこの苦し
む友人の心を捉えられませんでした。 ヨブは、 心も体もぼろぼ
ろでした。 3 人の友人は良いことをしよう、 慰めようと思ってい
たのに、 まさに、 言ってはいけないことを言い、 してはいけな
いことをしてしまったのです。
1. 神の役を演じてはいけない
エリファズが最初に口を開きました。 まず、 ヨブが良い助言
をして多くの人を助けたことを認めます。 ところが彼は、 そのす
ぐあとにヨブの頑固さを責めます。
「だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これ
に耐えられない。これがあなたを打つと、あなたはおび
えている。」(4:5)
こう責めた後、 エリファズはもうひとつ大きな間違いを犯しま
す。 そして、 これ以降同じ過ちを犯す、 数知れない人々の先
達となりました。 ヨブの人生で神の役を演じたのです。
「さあ思い出せ。だれが罪がないのに滅びた者があるか。
どこに正しい人で絶たれた者があるか。
私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、そ
れを刈り取るのだ。」(4:7-8)
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エリファズは人間の苦難という非常に深く困難な問題をとっ
て、 手っ取り早く単純な回答を提示したのです。 「お前が苦し
んでいるのは、 罪を犯したせいなのだ」 と。
ある意味で、 これは正解です。 私たちは道徳の支配する世
界に生きています。蒔いたものを刈り取るという一般的な教えは、
確かに詩篇 1 篇やガラテヤ人への手紙 6 章 7 節に教えられて
います。
しかし、 別の意味でエリファズは間違っています。 彼は、 人
生におけるすべての苦しみは罪の結果だと主張しました。 ヨブ
が密かに罪を犯したのだと責めることで、 ヨブの苦しみを自分
の小賢しい理論に押し込めようとしたのです。
アーサー ・ T. ピアソン博士は、 『The Bible And Spiritual
Life (聖書とクリスチャン生活)』 の中で苦しみの問題にふれ、
安易な回答はないと言っています。
・ 私たちが堕落した世に住んでいるために起きる苦難がある。
・ 神が私たちを訓練しようとして下す苦難がある。
・ クリスチャンであるがゆえに襲われる苦難がある。
・ パウロの肉体のとげのように、 神の力により頼むことを教え る苦難がある。
親しい人が苦しみ、 混乱し、 神の愛についてこれまでに教
えられたことと自分の人生の苦難との矛盾に悩んでいる時、 私
たちは、 何かを言わねば、 その苦しみをやわらげるために何
らかの説明をせねば、 と感じます。 しかし、 説明できないこと
を説明しようとするのは、 やめたほうが良いのです。
神だけが与えることのできる答えを神に代わって出そうとする
時、 私たちは自分を神の立場に置いています。
古い聖歌で、 「神が見ているように、 明日を見ることができた
なら」 と始まるものがありますが、 それは無理なことです。 です
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から、 苦難を受け止めきれず混乱している人の心を手早く静
めようと、 その場で思いついた安易な言葉をかけることは、 傷
口に塩を塗るようなものです。 一線を越えて神の役を演じない
ように、 私たちは心すべき
説明できないことを説明しようと です。 主権者であり、 愛で
することは、 やめたほうが良い ある主だけが人の苦しみの
のです。 神だけが与えることの 理由をご存じです。 神の目
できる答えを神に代わって出そ 的と計画を知っているのは、
うとする時、 私たちは自分を神 神のみだからです。
21 世 紀 の 教 会 に も エ リ
の立場に置いてしまいます。
ファズの追従者たちがいま
す。 悪気はないのですが、
事故で入院している患者に向かって、 惨事が起きたのはなぜ
なのかを説明しようとします。 苦しみの床に伏す患者に聖書を
引用して、 神秘を解き明かそうとします。 神のことは神に任せ
ておくべきではないでしょうか。 他人の苦しみの理由について、
神の心を知っているかのように振る舞うことはやめましょう。 神
になり代わってはいけません。
2. ありきたりの気休めを口にしない
エリファズはヨブに向けて、 無実な者が苦しむことがないの
は事実だと言い続けます。彼は、自分が見た夜の幻を語ります。
それがヨブの苦しんでいる理由を証明している、 ヨブには罪が
ある、 と言うのです。
「一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を
捕らえた。夜の幻で思い乱れ、 深い眠りが人々を襲うと
き、恐れとおののきが私にふりかかり、 私の骨々は、わ
なないた。そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、
私の身の毛がよだった。…… そして私は一つの声を聞
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いた。人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主
の前にきよくありえようか。」(4:12-17)
とてつもない喪失感を味わったヨブに、 夢や幻に基づく助言な
どいりませんでした。 彼が必要としていたのは、 表面的なありきた
りの気休めではなく、 心からの慰めです。
2007 年 4 月 16 日、 アメリカで史上最悪の銃乱射事件が起き
ました。 バージニア州郊外の町ブラックスバーグに位置するバー
ジニア工科大学は、 実に平穏な環境にあります。 その日も、 の
どかなキャンパスにいつもと変わらぬ朝が訪れ、 午前の授業が始
まったばかりでした。 平和な風景が、一瞬にして惨状と化しました。
情緒不安定で精神の問題を抱
私たちの身近で苦しんでいる えた学生が、 学内の 2 つの建
人たちも、 気休めは必要とし 物に侵入し、 いきなり銃を乱射
ていません。 そのようなこと し始めたのです。 その学生は、
ばは、 動機は良くても、 悲し およそ 170 発もの銃弾で 32 人
んでいる人々には何の役にも の学生と教授を殺害し、 その後
立ちません。
自分に銃を向けました。 この事
件は月曜日の朝の平穏を破り、
人々は想像を越えた悲しみと衝撃に包まれました。
まもなく、 キャンパスのスタッフや地域の人々の心のケアをする
ために、 カウンセラーが要請されました。 人々の心の傷は深く、
慰めが必要でした。 痛みや苦しみ、 この世にはびこる悪について、
誰もが考えさせられる状況でした。 ありきたりの気休めを口にすると
きではありませんでした。
私たちの身近で苦しんでいる人たちも、 気休めは必要として
いません。 動機は良くても、 「神は最善をご存じだ」 「彼女は今、
幸せだ」 「神は天使が必要だから、 お子さんを取られたんだ」 と
か 「ローマ 8 章 28 節は、すべてのことを働かせて益として下さるっ
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て書いてあるよ」 などという決まり文句は、 悲しんでいる人々に
は何の役にも立ちません。
嵐の中を通っている人に何を言うべきか本当に知りたいな
ら、 見舞いにきた友人たちに向かってヨブ自身が語った、 知
恵あることばに目を留めてください。
3. 希望を示す
ヨブは希望を失いました。 再び希望を抱くには、 それなりの
理由が必要でした。 彼は友人たちに尋ねます。
「私にどんな力があるからといって、私は待たなければな
らないのか。」(6:11)
人生のどん底に落ちたヨブは、 自分の心の状態をあたかも
絵に描くように、 真に迫って描写します。
「私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の
流れのように。氷で黒ずみ、雪がその上を隠している。
炎天のころになると、それはなくなり、暑くなると、そ
の所から消える。隊商はその道を変え、荒地に行って、
滅びる。
テマの隊商はこれを目当てとし、シェバの旅人はこれに
期待をかける。彼らはこれにたよったために恥を見、そ
こまで来て、はずかしめを受ける。」(6:15-20)
ヨブは、 3 人の友人には干上がった川のように失望したと言
います。 私は中東に住んだ経験があるので、 この意味がよく
わかります。 当時、 早朝のまだ暑くならないうちに、 妻とともに
散歩するのが日課でした。 いつもの散歩コースに、 ヨブが言っ
ているような干上がった川がありました。 ヨブは生き返るような
希望のことばが欲しかったのに、 聞こえたのは砂漠のように無
味乾燥なことばでした。 渇きを癒やしてくれる水を期待したの
に、 その期待は裏切られたのです。
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ビル ・ ハイベルズ牧師は、 「Just Walk Across the Room」 と
いう著書で、 失望した人に希望のことばを語る必要性を強調し
ています (Zondervan, 2006 年 162-163 ページ)。 たとえば、
このようなことです。
・ 自分はだめな人間だと恥じている人には、 神の恵みと赦し について
・ いけないとわかっていてもやめられない悪癖に悩む人に は、 御子キリストによる解放と自由について
・ 弱っている人には、 求める者に与えてくださる神の力につ いて
・ 疲れた人には、 イエスが約束されたたましいの安らぎにつ いて
・ 貧しい人には、 たましいの豊かさについて
・ 欠乏している人には、 おりにかなった備えについて
・ 悲しむ人には、 慰めと安らぎについて
・ 病の床で死を待つ人には、 永遠のいのちと後の世での新 しいからだについて
これらはすべて真理であり、 当座の痛みを紛らわす気休めの
ことばではありません。 ふさわしい時に親身になって語るなら、
希望を失いかけた人の心に、 一筋の光をもたらすかもしれない
のです。
気の滅入るような暗い会話の最中に、 ヨブは自分自身が語
る明るい希望のことばによって、 暗闇を突破します。 苦しんで
いる人たちに愛をもって接するとき、 私たちもこのようなことば
を語ることができるのです。 ヨブの宣言は、 究極の希望です。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、
ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎ
とられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は
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自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目で
はない。」(19:25-27)
このみことばを記憶にとどめておくことは、 苦しむ人に接す
る上できっと役に立つでしょう。 そしてマタイの福音書 11 章 28
節もまた、 苦難の中で神への信頼が揺らいでいる人の助けに
なるみことばです。 死や喪失という体験を通して、 天の父の知
恵や愛を疑いたくなるときがあります。 しかし、 イエスはこのよう
に招いてくださいます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのと
ころに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげま
す。」
苦しんでいる人がイエスの力強い胸に飛び込むとき、 神が
十字架を通して与えてくださった安らぎを見いだします。 やが
て天国に行くことが約束され、 地上では神とともに歩むことがで
きます。 苦しみの中にいる人に与えられる最大の助けは、 知
恵と愛に満ちた神の御手に任せることです。 そこに希望がある
からです。
4. 思いやりをもって話す
ヨブは、 説教ばかりする 3 人の友人にこうも言いました。
「気落ちした友には、親切にすべきじゃないか。」
(6:14 リビングバイブル訳) ヨブ記 6 章には、 ヨブの心情が正直に書かれています。 「東
の人々の中で一番の富豪」 (1:3) と言われた人が、 その地
での最大の苦難を背負う人になってしまいました。 友人たちの
容赦ない非難に苦しんだヨブは、 真実で正直であると同時に、
愛に富んだ思いやりの感じられることばを聞きたいと願ったの
です。 ヨブの 3 人の友人は多くを語りましたが、 そこに親切な
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ことばはほとんど見当たりません。 かろうじて親切と言えるもの
は、 かつてヨブがつまずく者を起こし、 くずおれるひざを立た
せたことがあると彼らが認めた部分だけです (4:3-4)。
しかし、 それは十分ではありませんでした。 すさまじい苦し
みの中、 孤独が深い霧のようにヨブを包んでいたからです。
「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私
から離れて行った。…… 私の家に寄宿している者も、
…… 私を他国人のようにみなし」(19:13、15)
ヨブが友情を望んだのも無理はありません。つまり、ヨブは「議
論ではなく、 優しさがほしい」 と言っていたのです。
私は、 最初の妻を 1979 年に亡くしました。 末期ガンを患っ
ていたため、 最期の日々はインディアナの自宅に病院用ベッ
ドを置いて過ごしました。 毎日のようにホスピスのスタッフの世
話になりました。 加えて、 私たち家族は友人からもたくさんの
愛を受けました。 食事を運んでもらい、 電話をもらい、 カード
を受け取りました。 カードに記されたことばの多くに力づけられ
ました。 妻が元気だったころに相談に乗ったり、 手助けしたり
した人たちが、 わざわざ感謝を表してくれました。 親切で希望
に満ちたことばばかりでした。 ヨブが友人たちから聞きたいと願
いつつ、 得られなかったことばです。
では、 親切なことばを必要としている人にそのようなことばを
届けたいと思うなら、 何と言えば良いのでしょう。 心からのこと
ばが最善です。 たとえば、 その人があなたにとって大切な友
であることを伝えてはどうでしょう。 思い出話をするのも良いで
しょう。 「必要なことがあったら何でも言ってほしい」 「あなたは
大事な人だよ」 「いつでも電話をしてね」。
また、 信仰の歩みにおいて助けてもらったと伝えるのもいい
でしょう。 あなたがその人を心から心配していることを、 相手に
伝えるのです。
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楽しい思い出を語り合い、 未来への希望を語るのがふさわ
しい時もあるでしょう。 一方、苦しんでいる人に対して勇気をもっ
て、 正直になるべき時もあります。
5. 正直に
6 章 25 節で、 ヨブは自分を責める者たちに向かって 「まっ
すぐなことば」 を要求します。
「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何
を責めたてているのか。」
ヨブは、 このひどい苦しみの原因を知りたいと思いました。
友人たちが自分の人生にどんな悪を見つけたのか、 いったい
どこで間違ってしまったのだろうかと。
身近な人が苦しんでいる時、 その人は、 自分はどうなって
しまうのだろうという不安に襲われているかもしれません。 悲劇
に見舞われると心が傷つきやすくなるので、 その気持ちを思い
やり、 耳を傾けて聞き手になることが重要です。 チャンスを見
計らいつつ、 また勇気をもって、 どんな疑問や恐れを感じてい
るのかを尋ねることも、 その人の助けになるでしょう。 未知の事
がらについて、 不安や恐れがあるのかもしれません。
不治の病に侵された患者は、 告知を受けた後しばらくする
と、 自分の状況や気持ちを話したいと思うようになると言われ
ています。 自分の恐れについて、 そして、 死についても聞い
てくれる友がほしいのです。どこまで率直な会話ができるかは、
その時々に応じて、 神が示してくださるよう祈り求めましょう。
あなたの友人が離婚を経験して傷ついているとしましょう。
あなたは理解しようという心で耳を傾けることができます。 しか
し、 会話をもう一段深めることもできます。 ヨブは、 正直なこと
ばは痛い、 と言いました (6:25)。 ソロモンは 「愛するものが
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傷つけるほうが真実である」 と言いました (箴言 27:6)。 それ
では、 離婚からまだ日が浅く、 立ち直ろうとする過程にある人
にとって、 どのようなことばが正直だと言えるのでしょう。 これ
はほんの一例です。
・ 「 今 あ な た は、 肉 体 的 に も 精 神 的 に も す ご く 傷 つ き や す
いのよ。 心も身体も大事にしてね。」
・ 「 お 金 や 家 の こ と に つ い て、 性 急 な 決 断 は し な い ほ う が
いいかもしれないね。」
・ 「いつか子どもたちは、 離れて暮らす親と会うことに戸惑うよ
うになるかもしれないから、 気をつけてあげてね。」
苦難の中にいる人たちは、 正直で現実的に役立つ、 真の
友からのことばを必要としています。 腫れ物に触るような言
い方は、 往々にして不必要
苦難の中にいる人たちは、 正 な緊張を生んでしまいます。
直で現実的に役立つ、 真の友
私の子どもたちがまだ幼
からのことばを必要としていま かった頃のことです。 ガン
す。 腫れ物に触るような言い方 で闘病中の義母を訪ねるた
は、 往々にして不必要な緊張 め、 子 ど も た ち を 連 れ て、
を生んでしまいます。
遠方までつらい旅をしまし
た。 つらかったことのひとつ
は、 おばあちゃんの病気と避けようのない死について、 だれ
もオープンに語ろうとしなかったことです。 ベッド脇での会話
は、 肝心なことは避け、 どうでもいいことに終始しました。 み
なが分かっていることを、 だれも口にしようとしなかったのです。
しかし、 階下の台所では、 死についてありのままの会話が
抑えた調子でささやかれていました。 7歳の息子が 「おばあ
ちゃんは死ぬんだ」 という言葉を耳にしました。 彼は、 二階
の寝室に上がって行って言いました。 「おじいちゃんがね、 お
ばあちゃんは、 もうすぐ死ぬって。」
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神が、 この小さな子によって真実を伝えてくれたのです。
最善の方法ではありませんが、 沈黙の掟は破られました。 涙
を流して抱きしめ合い、 ようやくみなが思うままを話せるように
なりました。 現実を認めて、 率直に愛をもって相手を気遣い
つつ、 目の前の問題に取り組めたのです。 子どもの無邪気な
発言は許されますが、しかし、私たち大人はそうはいきません。
困難な日々の中で苦しむ友人に、 役立つ正直なことばを伝え
る術を、 主の助けを得て学ぶ必要があります。
理解できない苦難もある
人生には、 大なり小なり苦難がつきものです。 大地震や津
波のように、 地域全体に喪失、 悲嘆を与える自然災害もあれ
ば、 ホロコーストのように、 世界中に広範な影響を与えた人
間の罪の産物もあります。また、ある人や家族だけに影響する、
極めて個人的な苦難もあります。
いずれにしても、 それらすべてに共通するものがあります。
苦難があること、 そして、 なぜそれが起きたかを理解しようと
す る 葛 藤 で す。 ヨ ブ 記 の
神がこれほどまでに素晴らしく
結論にその答えがあれば
宇宙を動かしておられるのな
良いのにと、 誰もが思うで
ら、 私たちの人生に起こる理解
しょう。 38 章で神がついに
できない事柄についても、 神の
語られる時、 人間の苦しみ
愛と知恵を信頼できる。
について何らかの明確な
答えが出されることを期待
します。 ところが、 物語は急展開します。 神は答えを出すの
ではなく、 逆に問いを投げかけます。 動物学、 天文学、 気
象学、 その他の科学分野についての問いです。
ヨブは、 全能の神の前に言葉を失って立ち尽くします。 彼
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は 「なぜ?」 という質問への解答を求めますが、 神は 「誰が」
で答えられます。 ヨブへの (そして私たちへの) 教訓は、 「神
がこれほどまでに素晴らしく宇宙を動かしておられるのなら、 私
たちの人生に起こる理解できない事柄についても、 神の愛と知
恵を信頼できる」 ということです。
苦難の意味について思い悩むときは、 ヨブ記の 38、 39 章を
お読みください。 そして、 困難なところを通っている人の話に耳
を傾けている時は、神が究極の慰め主であられることを信じましょ
う。
苦しむ人に仕えるのはキリストに仕えること
ヨブの物語は、 3 人の友人たちが主から叱責され、 ヨブ自身
は驚くべき回復をして終わります。 ヨブは、 自分を大きく失望さ
せた、お粗末な慰め手たちのために祈りました。 すると主は、「ヨ
ブの所有物も二倍に」 増され (42:10)、彼の状況が一変します。
さらに 10 人の子どもも生まれて、 その歓声がヨブの農園に満ち
ました。 痛みに満ちた 41 章の後に、なんと素晴らしい結末でしょ
う。
ところで、 ヨブの物語の最終章は、 深い喪失を経験した人に
手を差し伸べようとするとき、 どのような助けになるでしょうか。 ヨ
ブは家畜を取り戻し、 新しい子どもたちをも得ました。 ということ
は、 私たちも ハッピーエンドを約束できるということでしょうか。
ヘブル人への手紙 11 章にある、 偉大な信仰の章が参考にな
ります。 「剣の刃を逃れた」 人もいれば (34 節)、 「剣で斬り殺
された」 人もいました (37 節)。 苦難が神による謎であるように、
回復も神による謎なのです。
今、 苦しみの中にいる家族、 また友人に、 神が将来何を
なさるのか、 私たちが知ることはできません。 しかし、 その人
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たちの話に耳を傾け、 希望を与えるように、 優しく正直に語る
励まし手になることはできます。
ですから、 困っている人がいたら、 逃げずに向き合いましょう。
理解しようという心を持って、 耳を傾けましょう。 イエスの約束の
ことばが、 あなたの励ましとなります。
「『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食
べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、
わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが
裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたと
き、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをた
ずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べ
る物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげ
ましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊ま
らせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢にお
られるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これ
らのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり
にしたのは、わたしにしたのです。』」
(マタイ 25:35-40) キリストの愛をもって傷ついた人に手を差し伸べるとき、 あなた
はキリストご自身の愛を届けているのです。 そして、 苦しんでい
る人に仕える時、 あなたはキリストに仕えているのです。
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