「君死にたまふことなかれ」 与謝野晶子 旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて ああをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、 末に生まれし君なれば親のなさけはまさりしも、 親は刃をにぎらせて人を殺せとをしえしや、 人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや 、 堺の街のあきびとの旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、 旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、 君は知らじな、あきびとの家のおきてになかりけり。 君死にたまふことなかれ、すめらみことは 、戦ひに おほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、 獣の道に死ねよとは 、死ぬるを人のほまれとは 、 大みこころの深ければもとよりいかで思されむ。 ああをとうとよ、戦いに君死にたまふことなかれ、 すぎにし秋を父ぎみにおくれたまえる母ぎみは、 なげきに中に、いたましくわが子を召され、家を守り、 安しと聞ける大御代も母のしら髪はまさりぬる。 暖簾のかげに伏して泣くあえかにわかき新妻を、 君わするるや、思へるや、十月も添はでわかれたる 少女ごころを思ひみよ、この世ひとりの君ならで ああまた誰をたのむべき、君死にたまふことなかれ。 国粋主義者・大町桂月は、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣な り賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非 難したが、晶子は、「ひらきぶみ」にて、国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うも の」と桂月の批判を一蹴した。 (当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧は厳しく無かったようです) い ほか 「私はまことの 心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」
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