︽巻頭言︾ 自律化へ、大衆運動の歴史的転期か? フランスの代表的な新聞の一つ﹁ル・モンド﹂が、﹁自由共産主義思想の新しい青春﹂という大見出しの下で、アナ キズムないし︽脱教条化した︾アナキズムの復活に焦点を当てて、一頁をさいた特集をした。特集は五つの記事から 構成されているが、そのうち重要なもの三つを再録し、あわせてこの特集が意味するものを探ってみることにした。 記事をわざわざ紹介するのは、何よりそれが思いがけないものだし、思いがけないものはそれだけでニュース性が あるからである。しかしわれわれは、単に意外だから紹介するのではなく、﹁ル・モンド﹂の特集が、記事を書いた当 人もおそらくは自覚していないであろう、重大な歴史的転換への含みをともなっている、と感じとっているからであ る。その含みであるものを示し、この冊子刊行の趣旨としたい。 第一に、フランスあるいはヨーロッパでの、ネオ・リベラリズムへの反撃の開始を告げている。 戦後の長期にわたる経済成長のあと、フランスは石油ショック以降、慢性的な経済危機に見舞われる。それへの解 答として八〇年代に入ると、皮肉にも社会党政権の下で、ネオ・リベラリズムの導入がはかられる。市場原理に至上 権を与える、小さな政府にする、赤字の公共事業は廃止する、という路線である。それとともに、どこかの国で近年 しきりと聞かれるようになった、新起業家への期待や冒険精神の必要が声高に叫ばれた。 しかし結果は哀れである。失業者がますます増え、失業率は十%を越え、十二%に達したりする。人件費削減のた め、臨時雇用、パート労働、派遣労働といった、法律の保護を十分に受けない労働分野が拡大する。極貧層も大量に 生まれ、犯罪や街頭での物乞いが目立つようになる。 これに対し、﹁別の経済的・社会的な論理にもとづく社会転換﹂の運動が起きているのであり、それを象徴している のが、一九九五年末の、交通や郵便を止めた大ストライキであり、九九年五月末の、ヨーロッパ・サミットに向けた、 ケルンでの︽失業・臨時雇用・移民追放に反対する︾大デモである。昨年十一月末の米シアトルでの、WTO︵世界 貿易機関︶閣僚会議を包囲した五万の市民の行動も、同じ反撃の意志を示している。 第二に、ボルシェヴィキ路線でも社民路線でもない社会主義の王道、﹁労働者の解放は労働者自身の事業でなくては ならない﹂という基本原則の、再発見・再評価の動きが確認される。 1 ソ連の崩壊以降、階級や搾取のない社会を求める壮大な歴史的実験が失敗した、という陳腐な〝常識〟が氾濫し、資 本主義賛美、市場原理万能の支えとなった。この〝常識〟の前提は、ソ連が階級や搾取のない社会を目指していた、と いう途方もない誤解、ソ連の公式的な対外宣伝を真に受けての誤解である。 実際には、大衆の自発的活動が生みだしたロシア革命がゆきついた先は、特権的な官僚階級が支配と搾取をほしい ままにする、全体主義的な独裁体制であり、社会主義とはおよそ無縁のものだった。それに対し﹁社会主義の王道﹂は、 ロシア革命ののち、一九二〇年代からその実態を批判してきた、少数の人びとの間で辛うじて継承されてきたのである。 それら少数の人びとの思想と実践が、市場原理が何をもたらすかが次第に明らかになる中で、改めて現に見直され つつあるのであり、アナキズムの再評価は、そうした流れの一つである。 さて第三に、もっとも注目すべきものとして、第一の要素と第二の要素の総合といえる、大衆組織と革命組織それ ぞれの自己変革がある。 すなわち、一方での大衆組織の自律化と他方での革命組織の脱前衛化であり、これはロシアに独裁体制をもたらし た一因としての、社会を変革する運動の中での階級化された構造、指導部と大衆の分離にもとづく構造への、強烈な 自省を踏まえている。この自省は、一九五〇年代以降、ごく少数の人びとの間でいくつもの試行錯誤をともないつつ 進められたもので、その模索がやがて六八年五月における学生たちの自律的な運動の型を誕生させることになった。わ れわれは以上二つの自己変革について、長い解説を特に加えることにした。 なお大衆組織の自律化と革命組織の脱教条化にかかわるゲランとパネクークの文章を、参考資料としてあわせて掲 載する。何かしらを読みとっていただければ幸いである。 この冊子は、日本においてネオ・リベラリズムに反撃しつつ別の社会を求めてゆく、自律的な大衆運動の形成にい ささかなりとも寄与をしたい、われわれの切望の表明である。 二〇〇〇年四月一五日 ﹁交流と運動﹂ 編集委員会 2 ﹁ル・モ ン ド ﹂紙 一 九 九 九 年 八 月 七 日 号 よ り 第に存在感を増している、アナキス 各種のデモや 社 会 運 動 の 中 で 次 らしている。 て生命をもた の記憶に改め 自由共産主義思想の新しい青春 トたちは、 今や追い風に乗ってい 最近になって労働者代表の選挙に候補者を立てる決定をし 来、彼らは組合活動の領域に改めて熱意を示し始めており、 ︵2︶ 千の加盟者をえている。 一九九五年十二月のストライキ 以 CNTのアナルコ・サンディカリストたちは、現在では四 ︵1︶ はできない。 たちの間での動員力を軽視すること 共産主義者たちの動員力、特に若者 ︵トロツキスト︶も、もはやこの自由 一デモの際、黒と赤の旗は一団となってそこに見られた。そ つ旗が、今や隊列の中に氾濫している。パリでのメーデー統 二つの色を持 としての赤。 証明するもの であることを の黒、 革命的 由主義のため ないし絶対自 ア ナ キ ズ ム 3 る。社会党も革命的共産主義者同盟 た。一方、AL︵﹁絶対自由主義の選択﹂︶は、数多くの運動 れから間もなく、五月二十九日のケルンでの失業と臨時雇用 ︵3︶ や団体の中で積極的に活動している。 に反対するヨーロッパ行進の際には、黒と赤の旗がこんどは ︵4︶ この絶対自由主義の系譜は、文化面でもまた寄与を増しつ ︵5︶ つある。書物、映画、CDが相次いでだされ、赤と黒とのあ CNT−Fのリヨンでの反ファシスト・デモ の活動にもっと熱心なALの活動家たちは、多くの社会運動 では三千ないし四千の加盟者を迎えているし、一方、現場で 受けている。CNTのアナルコ・サンディカリストたちは今 物なのか。︽反資本主義的な︾絶対自由主義者たちが追い風を 政治的代議制の危機なのか。ベルリンの壁崩壊の異質な産 圧倒的だった。 いているわけではないが、活動家としての経験を伝えている。 たのが、大半の︱四〇歳以上の︱︽年寄りたち︾で、彼らが 年代の初期にその栄光の時期を経験した。このORAからで されていたが、ORAと﹁フロン・リベルテール﹂は、七〇 織﹂︵ORA︶とその機関誌﹁フロン・リベルテール﹂に占拠 務所を使用している。かつてここは、﹁革命的アナキスト組 られるCNTは、パリ市ヴィニョル街三三番地の歴史的な事 赤の地に浮き上がる毛をさかだてた黒い猫のシンボルで知 ︵9︶ ALにおいてもCNTにおいても、公式に責任者の地位につ ︵9︶ やSUD︵﹁連帯・統一・民主﹂、政党支配に反対する組合の ORAの分裂の際、少数派が自由共産主義労働者同盟︵U ︵6︶ 連合︶の中や、さらにはAC︵﹁失業に反対する共同行動﹂︶ ・・・ 、 ︵6︶ ︵6︶ DAL︵﹁居住する権利の会﹂︶、﹁もっと諸権利をの会﹂の中 TCL︶を結成し、この同盟が一九九一年にALになった。多 ︵6︶ 特に街頭でのCNTは、今日﹁急進的な﹂若者たちの間で CNT・FAIに準拠して﹁セネテ﹂と呼んでいるのに、若 もないのである︵CNTについては、厳密な人々がスペイン 義青年運動﹂︶とCNTの間には、実際にはもはや何一つ違い 歳以下の活動家たちの間では、左翼として、MJS︵﹁社会主 ジャン=クリストフ・カンパデリスの語るところでは、三十 に、現在の復活に当たってアナキスト連盟が大した役割を果 みならずマルクス主義をも基本理念として創設された だけ RAがフランスアナキスト連盟に反対して、絶対自由主義の それぞれの組織の共通の母体がORAであっただけに、O CLの多くの旧メンバーがCNTのうちに見出される。 産主義者組織︵OCL︶を結成した。逆説的に今日では、O 労働組合をきわめて敵視する基本理念にもとづいて、自由共 ︵8︶ 4 にも見出される。 者たちは﹁クヌツ﹂といっているのだが︶。カンパデリス氏は 数派は当時、自律性ないしウルトラ左翼性に惹かれており、 ﹁CNTは今や、適切ないい方ではないかもしれないが、若者 たしていないのは驚くべきことではない。長い間、パリとパ 確かな成功を収めている。 社会党の渉外担当の全国書記、 たちを惹きつけることができる唯一の極左組織なのだ。CN リ地区の校正者労働組合 ︵CGT 系︶ の書記をしていた ︵9︶ Tはまた、活動家たちを確実に動員できる主要な急進的な組 ジャッキー・ツーブレもどきの、CNT内の何人かの有力者 (10) ︵7︶ 織の一つなのだ﹂と、断言している。 (11) が、アナキスト連盟員であるとしても、である。 的な﹂CNTの一面は放棄された。﹁カウボーイたちは去って ゆき、代わって娘たちが入ってきている﹂と、全国事務局の P ︶をもうけるという間接的な形においてであり、このSC 人種差別主義者ル・ペンに断固反対する対策部門︵SCAL として、最初の大量の若者の加盟があった際にであり、また によって計画された失業対策CIP に反対するデモを契機 た。それは、一九九四年のエドゥアール・バラデュール内閣 は、九〇年代の初めに熱心に自らの組織のあり方を探ってい た。﹁その中に俺は、CNTの事務所を守っていた人たちを見 員のためにすべてを﹂とあった。沿道の人びとは拍手喝采し り抜けた。そこには﹁われわれのためなら何もいらない、全 町にある︶ロピタル大通りの道幅一杯に張られた横断幕が通 い、その存在を示した。最近のデモに当たっては、︵パリの下 Tははじめて、ほかの組合組織が集まる隊列の中でデモを行 一九九五年はCNTにとって実際に転回点となった。CN メンバー、小柄な三十代の女性、コルトは解説している。 ALPが、国民戦線︵ル・ペンを党首とする極右政党︶の保 つけた。八〇年代の初めは、ヴィニョル街の事務所にみなが 完全に政治組織でもなく、完全に労働組合でもないCNT 安部門と乱闘を演じた。公然と暴力への著しい志向を示して 種差別SOS ﹂との、相次ぐ衝突のあとで話題をにぎわわし て、フランス学生同盟独立民主派の保安部門との、また﹁人 いたCNTは、不法入国者の問題についての対立にもとづい ﹁彼らはうまくやるようになった。それはいい。しかし彼らが に涙をためていた﹂と、ジュリアンは語った。 集まっても六人にしかならなかった人たちだった。彼らは眼 く誇張されている﹂のである。もっとも、その後、問題の保 かの衝突の責任がCNTの保安部門にあるというのは、﹁ひど 事務局の書記、ジュリアンは説明する。彼によれば、いくつ 年からだ﹂と、まさしくSCALPによって結成された全国 ﹁開かれたものへと変わり始めることができたのは、一九九五 た。 CNTとの間にはもっとむつかしいものが残っている﹂と、 われわれは多くの社会運動の中で一緒にやっているのに︱︱、 はため息をつく。﹁ALとの関係は全く正常なのに︱︱実際に 同盟︵LCR ︶のスポークスマン、アラン・クリヴィーヌ もっといいのだが﹂と、CNTについて、革命的共産主義者 もっと開かれており、もっと反トロツキスト的でなければ、 (15) 5 (12) 彼は説明する。一方、ALのメンバーであり、AC︵﹁失業に (14) 安部門は再編成され、﹁アナ﹂にとっても驚くべきほど﹁好戦 (16) (13) ニは、﹁われわれがたくさんの現場でLCRと一緒なのは事実 反対する共同行動﹂︶の責任者の一人であるパトリス・スパド ないために。 ちが、対話を持っていることである。﹁アナ﹂復活を失敗させ 由主義者たち﹂と、CNTのアナルコ・サンディカリストた フランスCNTの模範、スペインCGT ︵カロリーヌ・モノ︶ だ。しかし俺が連中なら、彼らの活動家はなぜ、LO ︵﹁労 働者の闘い﹂、トロツキストの別派︶の人びとよりむしろ、A Lの連中と一緒に活動したがるのか、考えるね﹂と語った。 しかし一九九五年はまた、CNTにとっての真の方向転換 スペイン人たちにとってCGTとは、何よりもまず彼らが 織になりつつある。 フランスのアナルコ・サンディカリストたちにとっては今 ル・ムリナンは断言する。 そこで最初の組合を作ったマドリッドの闘牛場であり、また を示している。というのもCNTは、この機会に、組合組織 ﹁組合運動、それは単にデモやどぎついスローガンだけじゃな アラゴンにあるルエスタ村 であり、ここは、バカンス・セン 日、一つの模範がある。それは当然ながらスペインにあり、C い﹂と、ALの中では強調されている。少しずつCNTはそ ターと民衆教育施設の間にある発電所によって、完全に近代 としての野心を再発見したからである。一九九八年十二月の のことを理解しており、いくつかの譲歩を示している。常任 化されている村である。カタルーニャとマドリッド地域を基 GT⋮⋮と呼ばれている。現在では加盟者が五万を越えるC の問題がまだタブーとされているとしても、今や五十以上の 盤にしているCGTは、私企業の部門では、特に自動車産業、 GT︵労働総同盟︶は、UGT︵社会党系︶、労働者委員会連 組合を擁するCNTは、労働者代表のための選挙に参加する 大会の際、採択されたのは、﹁再組合化﹂の路線だった。﹁C ことを決定している。CNTは相変わらず企業委員会 への代 デザイン産業、銀行、地方テレビ局に根を下ろしている。公 GT︵共産党系労組︶の動向を見れば、確かに歴史的なチャ 表指名については拒みつづけているものの、分野による例外 共部門においてはCGTは、労働者代表選挙に当たって郵便、 合︵元共産党系︶についで、ピレネー以南では第三の組合組 はすでに見られるし、特に清掃部門においてそうである。き 電信電話、特にスペイン国営鉄道︵十七%の得票率︶、イベリ ンスがつかみとれる﹂と、CNTの責任者の一人、ジェラー わめて新しいのは、今日ではALの各社会運動内の﹁絶対自 (19) 6 (17) (18) 対自由主義者たち、特に共産党からの脱走者ないし中央路線 たちによってである。CGTは、その一応の成功を、非・絶 がってまたAIT ︵国際労働者協会︶から除名された活動家 を﹁脱教条化する﹂ことを願ったので、旧CNTから、した 行い、CGTは十年前に創立された。スペイン・アナキズム 三十五時間労働と公共部門擁護のための運動をスペインで ア鉄道会社で、十%を越える得票をえている。 タリアのコーバス ︵下部委員会︶統一労組、モロッコのいく か、フランスのSUD︵﹁連帯・統一・民主﹂︶とCNT、イ 半の組織を、マラガに迎えた。招待されたのは、SACのほ 雇用・移民の追放に反対するヨーロッパ・デモに参加した大 にCGTはまた、五月末にケルンで組織された、失業・臨時 ばならない﹂と、オレゾーラはいっている。今年の七月十日 けている。﹁今やそれについて語ることを止め、それを作らね つかの組合である。 説明する。彼によれば、﹁ベルリンの壁崩壊がアナキズムに新 願っている﹂と、CGTの書記ホセ・マリア・オレゾーラは 系譜﹂に身をおく、映画、ドキュメンタリー、CD、書物は ある。今日、赤と黒の記憶に関心を示すか、﹁絶対自由主義の それはたぶん時代の空気であり、ほとんどファッションで 赤と黒を記念する映画・CD・出版の流行 しい展望を開かせているというのに、スペインの、あるいは もはや数え切れない。CNTは、二〇〇〇年五月一日からパ C・M に反対する労働者委員会の旧メンバーを迎えようとする彼ら の意向に、まさに負うている。 ﹁もちろんわれわれは、アナルコ・サンディカリズムに、赤と 黒に、スペインにおけるこの流れのすべての歴史に、拠って もっと一般的にヨーロッパの、歴史的アナキズムのあるセク リで開く大文化祭週間に向けて準備を進めており、CNTの いる。しかしわれわれは、それらを批判的にとらえることも ト性は、近年のアナキズム復活の大きな障害となっている﹂ に対立している諸組織を集め、ヨーロッパにおける労働組合 ヨーロッパ労働組合同盟︵CES︶の外にいるか、その路線 スウェーデンのSAC とともにスペインの C G T は、 のである。 が合流しているのである。 者であるとしても、今ではそこにミュージシァンや映画作家 プイ 式の﹁アナ﹂の愛好家である推理小説の著者たちが先行 風の﹁絶対自由主義の英雄﹂あるいはジャン=ベルナール・ 下にはまた文化的協力の申込が殺到している。ル・プールプ (23) の一種の軸を実現させる努力を、この何年にもわたってつづ (21) (24) 7 (22) (20) 的左翼︶を経て自由共産主義に合流した、アナキズムについ ス社会党の旧称︶、ピヴェール派︵人民戦線運動の中での革命 FIO︵労働者インターナショナル・フランス支部、フラン ニエル・ゲランについての映画を完成している。ゲランは、S ゴルドブローンである。四ヶ月前、パトリス・スパドニは、ダ ンタリーの対象となっており、これの監督はフレデリック・ エゴ・カマチョにもとづく、﹁ディエゴ﹂という別のドキュメ ルコ・サンディカリストの古い活動家もまた、彼の本名、ディ ある。ドゥルティの歴史的な顧問、アベル・パス、このアナ げた、﹁このわれわれ﹂と題する実録ものを仕上げたところで ズムの象徴的な人物、ブエナベントゥーラ・ドゥルティ に捧 映画監督ジャン=ルイ・コモリは、スペイン戦争のアナキ している。なぜなら﹁自由共産主義はスローガンではなく、手 は、スペイン戦争に先立つ、一九三一︱三六年の時期に着目 自由主義者たちの運命を改めて扱っている。その彼がこんど 別の作品﹁赤い影﹂で、マルセーユに武器を求めにきた絶対 アメリカのアナキスト共同体を扱ったものである。彼はまた いる﹂。彼の第一作﹁ラ・セシリア﹂は、一九世紀末のラテン・ 決して否認されたことのないあのテーゼには、好機が訪れて ﹁絶対自由主義のテーゼの威信の回復があるし、歴史によって 映画監督ジャン=ルイ ・ コモリも確認する。 彼によれば 兆候なのである。 ラール・ゲガンにとっては、近年の動きは明らかに﹁復活﹂の 身も﹁ある絶対自由主義の精神﹂に進んで依拠している、ジェ 九九七年にだしている。 ポケットブック版のバベル/アク しているし、彼はドゥルティに深く関連したCDをすでに一 大隊の﹁手のつけられない奴ら﹂に捧げた三つのCDを準備 が、ここでもまた絶対自由主義者とスペイン革命だが、鉄の 別の領域では、フリージャズの制作者ジャン・ローシャス カトランが、二年前にすでにドキュメンタリーを献じている。 このマフノについては、アルマン・ガティ の夫人、エレーヌ・ ノ に捧げられた大スペクタクル映画の制作が進行中である。 ての歴史家である。最後にウクライナでは、ネストル・マフ の思想が破滅したのか﹂と、ジャン・ローシャスは結論する。 した。パリ・コミューンやスペインのように。しかしそれら かの革命は勝利をえたが裏切られた。いくつかの革命は失敗 闘争の展望はない﹂と考える。﹁どう見たらいいのか。いくつ コモリは想起する。彼は﹁絶対自由主義の立場以外には社会 していた。それらは戦争によって一掃されてしまったが﹂と 真の経験があった。貨幣は廃止され、完全な民主主義を実現 セロナの郊外の田園地帯には、絶対自由主義的コミューンの のとどくところにある社会的現実だった﹂からである。﹁バル C・M 8 (25) ト・シュッド双書の﹁革命﹂シリーズの責任者であり、彼自 (27) (26) の連合体。ACは、失業者自身によって組織され、雇用確保を たない人びと自身による、住居獲得をはかるか、空いている住 目指す運動体。DALと﹁もっと諸権利をの会﹂は、住居を持 訳注 CR︶のトロツキストとともに、AL、CNTのアナキストが 居を占拠する運動体。いずれにも、革命的共産主義者同盟︵L 積極的に参加している。 ︵1︶全 国労働連合の略称。フランスCNTは、スペインCNT︵ア ナキスト系の労組の連合体︶の分身。共和派とファシスト派の られたのがフランスCNT。 えにくい。しかしCNT関係者によれば事実だという。これ ︵革命主義︶との間に、何一つ違いを見出さないというのは、考 を求めるもの︵改良主義︶と、社会を変えることを目指すもの ︵7︶この記述は、一見したところ信じがたい。現行社会内での改善 スペイン内戦︵1936︱1939︶でのファシスト派の勝利 ところで、フランスCNTは三つある。亡命者たちがCN は、若者たちの思想的混沌を示しているのかもしれない。 により、フランスに亡命したスペイン人アナキストによって作 Tの本拠としたのがスペインに比較的近いツールーズで、ここ ペイン内戦の過程で、スペインCNTとFAIは、連絡機関を ︵8︶FAI︵ファイ︶は、イベリア半島アナキスト連盟の略称。ス には依然としてCNTがある。しかし過去をしのぶ老人たちが 持って共同行動をした。したがって、CNT・FAIと表現さ 中心で、もはや大した行動力を持っていない。 パリ九区のラ・ツール・ドーヴェルニュ街には、一九四五 れることが少なくなかった。 よ。 ︵ ︶フランス共産党系の労組連合体。 低賃金による若者の雇用を確保しようとした政策。事実上の臨 ︵ ︶限定された期間︵主として三年︶だけ、何かを習得する名目で、 時労働化だとして、強力な反対デモが繰り返され、撤回され 9 年に設立された別のCNTがある。これはきわめて教条的とい ︵ ︶この記述は、誤りないし不正確である。十八頁以下の解説を見 識の否定を、指すものと思われる。 と加盟員の自律性を、﹁ウルトラ左翼性﹂とは徹底した前衛意 よ 。なお。OCLに関する記述の中での、﹁自律性﹂とは大衆 ︵9︶ORA、UTCL、OCLについては、十八頁以下の解説を見 われ、何十人かの組織でしかない。 以上のほか、パリ二十区のヴィニョル街に事務所をおくCN Tがあり、これがここでとりあげられているCNT。開かれた 姿勢で拡大しつつある。 ︵2︶十三頁以下の解説を見よ。 ︵3︶労働条件の決定にかかわるなどの、各種社会機構において従業 員側を代表する委員の選挙。 ︵4︶アルテルナティヴ・リベルテールの略称。同名の月刊機関誌を 持つ。詳しくは二十三頁以下の解説を見よ。 ︵5︶十四頁の解説を見よ。 ︵6︶SUDは、政党支配下にある大労組から離れた、自律的な労組 10 12 11 た。 織した。以後、自律的な運動として定着した 。十五頁以下を ︵ ︶フランス社会党系と見られている。 ︵ ︶推理小説の作 家 。 ︵ ︶反ファシスト的推理小説の登場人物 。 見よ。 ︵ ︶第四インターフランク派の系譜を継ぐトロツキスト組織 。 ︵ ︶ドゥルティ︵一八九六︱一九三六︶。 CNTの中心的活動家 。ス ︵ ︶﹁断固ル・ペンに反対する部門﹂の略称 。 ︵ ︶フランスで著名なトロツキスト。大統領選に出馬したこともあ る。現在、欧州議会議員。LCRからは、もう一人︵女性︶、欧 州議会議員がいる。 ︵ ︶第四インターと対立する、一九三八年設立のV・O︵﹁労働者 の声﹂︶グループにつながるトロツキスト組織。主として企業 ︵ ︶マフノ︵一八八九︱一九三五︶。ロシア革命に際し、ウクライナ 民主的な民兵隊の指導者として著名。 ペイン内戦の際、ドゥルティ部隊と呼ばれる、﹁将軍のいない﹂ 25 24 23 ︵ ︶絶対自由主義者として知られる劇作家 。 ナキスト。農民ゲリラとして、反革命軍とも赤軍とも戦った。 で農民大衆を社会的にも軍事的にも自治的な形で組織した、ア 26 27 内で活動しているが、活動はきわめて閉鎖的といわれる。しか しこの組織も欧州議会議員二人︵ともに女性︶をだしている。 ︵ ︶経営者代表と従業員代表との委員会 。 設は、自治体がアナキストたちに貸しているもの 。 ︵ ︶誰でもいける、キャンピング主体のバカンス村がある。この施 ︵ ︶一八六四年に設立された国際労働者協会、いわゆる第一イン ターナショナルは、一八七二年のハーグ大会でマルクス派とバ クーニン派とに分裂し、以後、二つのインターナショナルが併 存した。マルクス派のものは一八七六年に解散するが、バクー ニン派インターナショナルをどうにか継承しているのがAI T。事実上スペインCNT が主 力。 ︵ ︶スウェーデンのアナルコ・サンディカリストの組織 。 のイタリアで、各労組と政府との間で結ばれた社会協定に反対 ︵ ︶COBAS、イタリア語で﹁下部委員会﹂の略称。一九八七年 し、労働組合の外で、職場に立脚して誕生したのが下部委員 会。教員、交通部門などを中心にして大デモ、ストライキを組 10 16 15 14 13 17 19 18 20 22 21 説明し、﹁ル・モンド﹂の記事への理解を深めてもらうつもり 月のゼネスト、昨九九年五月のヨーロッパ行進などについて 状況、経済的な現実、労働者や市民の生活、一九九五年十一 本の読者にはふつう知られていない事実、フランスの社会的 ここでは当初、フランス人にはわかりきったことだが、日 一方での自律化の傾向、他方での自律化を手助けするとい つとめる、という方向に姿勢を転換してきている。 大衆の一員として、大衆の中で、大衆運動の自律化の促進に といった、かつての特権意識はかなりぬぐいさられており、 ルのと呼ぶべき組織では、指導すべきものとして大衆を見る な匂いのするアナキストという言い方ではなく、リベルテー ﹁ル・モンド﹂特集の社会的背景 ︵解説︶ でいた。 う姿勢、この両者の相互作用の一つの結果が、フランスCN ものはむしろ、一九六〇年代から準備され、八〇年代から顕著 しかし、あれこれと調べてみると、フランスCNTが勢力 になってきたといえる、大衆運動と革命組織、これら双方の Tの勢力拡大といった現象である。したがって、着目すべき もっと肝心なもの、底流となっているもっと本質的な社会的 を増大していることに力点をおいた﹁ル・モンド﹂の記事は、 転換を見のがしていることに気づいた。見のがされているの 自己変革であり、以下、その実情を見てゆくことにする。 討論し、 行動するという傾向、 つまり自律化する傾向が高 ない、というのが現実であり、そこから、自分たちで組織し、 いうものの実は、われわれが一九九六年五月にだしたパンフ おける経済的な現実の概観を避けるわけにはいかない。とは を明らかにしてみたい。しかしそれに先立って、フランスに ここではまず、大衆運動の自律化の流れとその基本的性格 1.社会闘争の激化とその自律的性格 は、大衆運動、それといわゆる革命組織、この双方における 大きな質的変貌である。 大衆運動の側では、一口でいうなら政党離れ、組合離れが まってきている。 ある。政党や組合によっては自分たちの利益をもはや守りえ また、いわゆる革命組織についていえば、特に、セクト的 11 いわゆる﹁先進﹂諸国同様にフランスも、第二次大戦後の 移も加えつつ、ごく基本的な事情を紹介するにとどめたい。 ずしも古くなってはいない。したがってここでは、新たな推 る社会的・経済的な状況にふれているし、それは今日でも必 年 十一月 ︱ 十二月﹄において、かなり詳しくフランスにおけ レット、﹃ストライキの季節 夢見る日々、フランス一九九五 推移するし、しばしばそれを越えて十二%に達したりする。 業者の増大が何よりも顕著になる。失業率はほぼ十%前後で 廃止する、という路線である。そうして一九八〇年以降、失 則に至上権を与える、小さな政府にする、赤字の公共事業は はじまったのがリベラリズムへの回帰だった。市場の諸法 である。 かまわず人件費を削減して社会体制を維持しようとする試み に十分保護されていない労働分野が増大している。一例をあ およそ三十年、栄光の三十年と呼ばれる経済的繁栄を経験し げれば、イル・ド・フランス︵パリ周辺の地方︶の十五歳か 労働人口およそ二千六百万人のうち、四百万人近くが失業し 期的な賃上げが行われるようになった。そうして資本主義は、 ら二十五歳の若者たちのパート労働についていえば、一九九 た。大戦による徹底的な破壊が生みだした膨大な需要と、一 大衆需要の力を﹁発見﹂したし、大衆消費の増大と生産の増 六年には就業者の四分の一だったのに、一九九八年には三分 ているし、この巨大な失業者数は、労働市場での労働者たち 大がかみあい、大量生産・大量消費の体制が確立される。 の一に達している。 九二九年以後の世界的大不況からの脱出を目指した、資本主 しかしこの繁栄も、一九七三年の石油ショックまでである。 最近になって週三十五時間労働が法制化され、仕事を分け の雇用条件をおびやかすものになる。賃金は切り下げられて アメリカ、日本との競争にさらされたのみならず、新たに工 合うことで失業の削減をはかっているが、これは実際には必 いるし、正規の雇用以外の労働、臨時雇用、パート労働、派 業化をとげた国々が国際市場に参入してくるという事情の中 義の大転換の成果である。国家が経済に介入して調整をはか で、対外的には防戦を強いられる。生産性を上げるための新 ずしも労働者にとって歓迎すべきものではないとも指摘され るようになるとともに、社会保障にもつとめるし、労働組合 しい設備投資や、第三世界の安い労働力を活用するための生 ている。前の法定労働時間、三十九時間でやっていたことを 遣労働、裁量労働、さらに不法入国者の闇労働、つまり法的 産設備の海外移転などにつとめるけれども、必ずしも望まし 三十五時間でやらされるという労働強化、各種手当廃止など も公認され、労使間の協調をはかるものとなる代わりに、定 い成果がえられない。そこで最後にとられたのが、なりふり 12 をきわめてみじめなものにしている。四百万人もの人びとが 失業率十%、あるいはそれ以上という現実は、国民の生活 る。 の拡大などによる実際上の失業者増大 、等々の理由からであ ませるという労働時間の経営側の恣意的な運用、パート労働 による実質的賃下げ、繁忙期に労働を集中させ、閑散期に休 確になった。組合幹部が国有企業の役員になるとか、社会保 統領に就任して以後、左翼による政権掌握の下でいっそう明 そんな事情がフランスでは、一九八一年にミッテランが大 合の存在理由が問われている、という事態が現に起きている。 労働者たちを管理しきれなくなり、そのことによって労働組 件になっている。ところが、その信頼が失われ、労働組合が ちから多少とも信頼されていることが、組合を存在させる条 おける公共事業を中心にした大ストライキである。 月六万円以下で暮らしていると推定されているし、事実パリ 直接にはこれは、国の財政再建のための公務員給与の凍結、 障の年金運用に加わるといった形で、労働組合の体制化が強 返されているし、数百人ものホームレスの一群が空きビルを 社会保障の改訂︵改悪︶、増税のプランに対する反発として起 でも地方でも物乞いの姿は珍しいものではない。水面下の経 占拠して共同生活をはじめる、あるいは遺伝子組み換え食品 きたもので、国鉄十九万二千人、パリ交通公社二万二千人、郵 まったからであり、また現場の労働者の声に応えにくくなっ の輸入反対を叫んで、 農民組織が幹線道路を封鎖する、 と 便三十万人、テレコム十五万四千人、電力・ガス十四万五千 済、物々交換的な経済が拡まっているともいわれる。フラン いった直接行動も見られるし、もちろん労働紛争もある。こ 人、教員百五十万人、医療関係者百万人といった公共部門の たからである。したがって労働者たちの闘争は、労働組合の れらの推移の中で目立っているのが、労働組合からの労働者 従業員が参加し、十一月下旬から十二月中旬にかけてのスト 意向にかかわりなく、しばしば労働組合に敵対して実施され の離反であり、労働組合の無力化である。 スには﹁第四世界﹂があるという表現さえ聞かれる。 現在の資本主義体制の中で、労働組合は体制を支えるもの ライキで、鉄道、郵便などが止まり、フランス全土が麻痺す こうした状況の中で、さまざまな社会闘争が起きている。 になっている。一方では、ある程度の労働者たちの要求を経 ることになった。 ることになった。その一例が、一九九五年十一月︱ 十二月に 営側に受け入れさせる。しかしその代わりに、安定した労働 この巨大な運動の特徴は、交通や郵便の無期限ストライキ 極端な例では、大都市周辺の移民のゲットーでは暴動も繰り の供給を経営側に保証する。この場合、労働組合が労働者た 13 移民追放に反対するヨーロッパ行進︾の場合も同じである。 たという意味では、一九九九年五月末の︽失業・臨時雇用・ 大労組や大政党とは無関係に、別の人びとが主導権をとっ のは下部の労働者たちであり、彼らの横の連携だった。 だった。下部から自発的にはじまったのであって、推進した が、各組合中央が予定したことでも望んだことでもないこと う主体が労働組合や大政党といった主流には属さない人びと めたことは、やはり大いに注目すべき事実である。しかし闘 びとが、ヨーロッパの各地から三万もの参加者をケルンに集 これらの、社会的にはアウトサイダーと見なされている人 だった。 自治労組の人びと、 さらには一部のトロツキストたちなど ス統一労組やフランスの十グループ組合連合など、いわゆる フランスのロレーヌ地方に、製鉄業の町として知られるロ 六月三日と四日、ドイツのケルンでは欧州連合の首脳会議 ンウイがある。ここの製鉄労働者の有志が集まって八四年に へと移っていること、これはかなり以前から、少なくとも一 旗よりも、スペインのアナキストたちが使いはじめた赤と黒 結成したのが、︽七九︱八四グループ︾である。後であげる例 開催が予定されており、そこでは域内における雇用問題も議 の旗が目立った、と書いたのはこの日のデモについてである。 と違って、彼らはデモに当たって五百人ほどしか動員できな 九八〇年代にははっきりと現われている傾向である。この傾 この大デモは、 二年にわたる国際的な準備ののち、 ヨー い少数派だが、労働者たちの自律化傾向をはっきり示してい 題としてとりあげられることになっていた。 このヨーロッ ロッパ各地の連帯によって実現された。五月二十五日、参加 るので、ふれておくことにしたい。 向を確認する意味でここでは、いくつかの例として、ロンウイ 者たちの一隊はベルギーのブリュッセルをたってケルンに向 ︽七九︱八四︾という奇妙なグループ名は、われわれは七九 の︽七九︱八四グループ︾、イタリアのコーバス、フランスにお けて出発した。これらの示威活動の中には、大労組や大政党 パ・サミットに向けて五月二十九日、およそ三万の人びとが の代表の姿は見られなかった。参加したのは、ACやDAL 年以来の闘争を八四年においても継承している、という意味 ﹁雇用を﹂、﹁資本のヨーロッパ反対﹂を叫んで古都ケルンの など、フランスの失業者やホームレスの人びとをはじめ、フ である。しかし実際には彼らは、七九年のみならず、一九七 ける調整委員会や自治労組の動きを見てみることにしたい。 ランスCNT、スペインCGT、スウェーデンSACといっ 〇年代初めからの闘争のあり方を発展させている。製鉄業で 街々を埋めた。﹁ル・モンド﹂の記事が、その隊列の中では赤 たアナルコ・サンディカリストとともに、イタリアのコーバ 14 位、組合員・非組合員とを問わないストライキ委員会の設置 、 七二︱七四年の闘争において実現したのが、下部の総会の優 令という闘争方法に、一部の労働者が反発した。彼らが一九 合によって組織された。しかし、その生ぬるさ、上からの指 に対して労働者たちの反対運動が起きていた。運動は労働組 は、六〇年代の終わり以後ずっと再編計画が進められ、これ 員会の運動は、きわめて広範なものだった。コーバス、つま コーバス︵コミタティ・ディ・バスの略称︶、すなわち下部委 少数者のものだったロンウイの場合と違って、イタリアの にした。 想的にだったわけではないけれども、業務の分担を廻り持ち たことである。彼らは、共同責任を原則として、必ずしも理 帯の輪を広げようとしたこと、﹁指導者のいない﹂組織を作っ もってほとんど知らされていなかったし、大いに不満を招く 技術的には必要ない日曜日の溶鉱炉の火を止めるためのスト ものだった。それに反発して組織されたのが、下部委員会の り労働組合の枠の外で、組合員・非組合員の別なく職場に立 ガンもかかげられ、組合員・非組合員の別のない下部委員会の 運動だった。これはまず教員︵特に中等教員︶の間ではじま ライキだった。 構想も登場した。そうした傾向は一九八一年、八二年の闘争 り、五月末のローマでのデモに当たっては、五万人以上もの 脚した組織は、すでに一九七〇年代に現われていたといわれ でもつづき、政党や組合の指導部から独立した労働者の運動、 教員を動員するほどの力を発揮した。賃上げや教育内容の改 このような労働組合の枠を越える運動は、一九七九年の再 闘争を労働者自身で引き受けようとする意志が、再燃する。 善が主な要求だった。基礎となったのは、学校ごとの関係者 るが、大きな発展を見せたのは一九八七年においてである。 それらの過去の伝統をさらに発展させたのが、八四年にお の誰でもが参加できる総会であり、そこからの代表によって、 この年に政府と主要労組との間で、労働条件などについて ける︽七九︱八四グループ︾の運動だった。それは以前より 編反対の闘争に受けつがれる。下部の総会を基本とすること、 はるかに激しいものになり、街頭で重装備をして警官隊と対 市ごとの、県ごとの、さらには全国的な調整機関、すなわち 政党や組合への批判の高まり、労働者による闘争や交渉の監 決したし、テレビ中継局を占拠して海賊放送をしたり、郡役 県レベルと全国レベルの総会と執行委員会が作られ、運動展 の社会協定の調印が行われた。その内容は、労働者たちに前 所を包囲したりした。このグループの特徴としては、工場内 開の調整に当たった。 視が見られたし、︽直接行動による民主主義︾といったスロー にとどまらず、職場を越えて地域一帯の市民や労働者との連 15 組織形態として存続するか、長らく論議を呼んでいたが、こ 力が加えられたものの、その後も消滅することなく、どんな 府や経営者にも脅威を感じさせ、解体を強いるさまざまな圧 運動は、既存の労働組合のみならず、その戦闘性によって政 交通部門、医療、郵便、港湾などの分野にも拡大した。この この教員の間での下部委員会の運動は、鉄道やバスなどの が決定の主人公であるという立場を守っているし、調整委員 織のそれぞれは、闘争に関するすべてについて自分たち自身 強く反発していることである。調整委員会に参加している組 ピラミッド型の組織、上から下へという階級化された構造に これら調整委員会型の運動の特徴は、従来の組合や政党の 不法滞在者たちが全国規模で設立している例、などがある。 闘した例、あるいは企業を越えた労働者たちが連携した例、 組織ないし全国組織を作ろうとする試みがないわけではない んどの﹁ル・モンド﹂の記事によれば、コーバス統一労組と が、ピラミッド型の古い組織を再現させるものとして、忌避 会の仕事は、分散している組織間の活動を中央からうまく調 である。労働組合の下部を形成しているか、それとも別に新 されているのが実情である。 いう形に落ちついたらしい。 たに組織されたものか、いずれの場合もあるけれども、下部 しかし、ピラミッド型ではない、もっと民主的な新しい形 整することではなく、それぞれの自律性に執着する組織間の、 の労働者たちの意向にしたがった組織が、労働組合などの上 の全国組織を作ろうとする動きがフランスにないわけではな イタリアにおける下部委員会に類似しているのが、フラン からの指令にかかわりなく、自分たちと同様の意向を持つ組 い。それが、一九九八年一月に創立された十グループ組合連 平等な立場での横の連携を実現することにある。 織と横に連携し、共同行動のために設立するのが調整委員会 合の場合である。 その性格のために、調整委員会の活動はいずれも一時的で である。 スにおける調整委員会という形での活動である。これは、八 特定の業種の労働者たち、たとえば看護婦たちが、労働組 フランスでは、CFDT︵社会党系︶、CGT︵共産党系︶ 〇年代半ばから目立ってきたものだが、労働組合や政党が下 合のピラミッド型の組織とは別に、下部の組織同士で調整委 など政党に支配されている労組の全国組織が、労働運動を牛 ある。特定の闘争が終わると解消される。調整委員会の中央 員会を作って行動した例もあるし、八六年末における鉄道労 耳ってきた。しかし、それらの大労組に属さず、独立を守っ 部労働者の要望に応えられないという現実が誕生させたもの 働者・学生調整委員会の登場のように、全く別種の組織が共 16 律労組とするのが適切かもしれないが、その自治労組ないし 衆運動の自律化を語っているこの文章の文脈では、むしろ自 る形の労働組合は自治労組と呼ばれるようになっている。大 たので、近ごろではその名称は好まれず、政党支配を排除す ていたものである。しかし、その多くが企業の御用組合だっ てきた労働組合もあった。それが、かつて独立労組と呼ばれ 用を目指すことにおかれ、そのため政府の計画をはるかに越 あり、当面の運動の主眼は、失業と臨時雇用に反対し完全雇 別の経済的・社会的な論理にもとずく社会転換を行うことに この組合連合の基本綱領は、リベラリズムに終止符を打ち、 バーを送った。 つ の 全 国 組 織 と 二 十 三 の 地 方 な い し 企 業 の 組 織 がオブザー UD鉄道、SUD教育などSUD八組織︶が参加したほか、八 こうして大衆運動の自律化の動きを振り返ってみると、直 自律労組が集まって結成したのが、十グループ組合連合であ 接民主主義的な志向が強いことが確認される。まず上からの えた、急速で徹底した労働時間の短縮と富の再配分を求めて 年に連絡機関を作ったのがはじまりである。以来、いろいろ 指導と下部の要求抑えこみが排除されている。これは既存の る。 と出入りがあり、 一九九五年のゼネストのあと、 新規に加 労働組合の低落をもたらしているものだが、それとともに、 いる。同時にこの組織は、労働運動をもっと民主的なものに わったのがSUDである。 労働組合の裏切りを批判し、ベルリンの壁崩壊以後はおよそ このグループ化は一九八一年にさかのぼる。一九四九年の このSUDは、CFDTの中にあって、CFDTがもはや 時代遅れになった、 革命的言辞を繰り返している革命的グ しようとしており、したがって各参加全国組織には要求と行 名のみの組合でしかないこと、官僚的運営に終始しているこ ループの低落をもともなっている。 動についての完全な決定権が認められており、その上での合 とから反発を強めていた人びとが、CFDTから分かれて結 CGTとFO︵労働者の力︶の分裂の際に、自治労組として 成した自治労組であり、﹁連帯、統一、民主﹂の頭文字をとっ ついで指摘されるのが、総会第一主義と呼ばれるべきもの 大組織から離れた、フランス銀行、商工会議所、ジャーナリ て、SUDと名乗っているのである。 である。何を要求し、いかに闘うかを決定するのは下部の総 意をえて組織運営をはかることにしている。 九八年一月の十グループ組合連合の創立大会には、先にあ 会である、という意識が一般化してきており、職種を越えた、 スト、税関、税務、エール・フランスなど十の組合が、八一 げた公共部門を中心にした九組織とSUD︵SUD郵便、S 17 組合員・非組合員の別なく、職場ごとに持たれる総会が、行 2.選良意識、セクト性を捨てた? リベルテール組織 ﹁ル・モンド﹂の記事は、一九七一年に誕生したORA︵ロー 動の基礎となっている。しかも注目されるのは、総会が外部 に公開されている場合が少なくないことである。これは組合 ラ、革命的アナキスト組織︶が、﹁絶対自由主義のみならずマ これは誤りである。ORAのある文書は、彼らが﹁第一イン や党派の策謀をむつかしくさせるとともに、他の職場、産業 ターナショナルの反権威主義的な労働者の流れ、ないし自由 ルクス主義をも基本理念として創立された﹂と書いているが、 もちろん、 これまでのべてきた自律化の動きが、 すべて理 の人びととの横の連携を確立させるのに役立っている。 想的に実現されているわけではない。下部の総会についても、 合をはかろうとしたダニエル・ゲランが加わっていたことは 共産主義の名で知られる流れの、思想を継承している﹂と、明 事実だが、それはORAが両者の総合を目指したことを意味 依然として操作が残っているし、発言するのはいつも同じ人 ことが示しているように、内部対立がないわけではなく、組 するものではない。ただ、ORA︵の一部︶が、マルクス主 記しているし、第一インターナショナルの反権威主義的な流 合連合の結成も、結婚ではなく契約同棲の段階だ、という評 義からも学ぶべきものがあれば学ぶ姿勢を持っていたこと、 間だ、という指摘もある。イタリアのコーバスについても、県 もある。 マルクス主義一般の、というより、マルクス主義を批判的に れとは、マルクス派と対立したバクーニン派を指すことはい しかし、これまで紹介してきたすべては、もっと徹底した 検証していたマルクス主義者たちの、思想的・実践的な成果 うまでもない。 自律化への第一歩である。第一歩なしには先に進めない。大 をかなりな面で吸収していたこと、これは確認しておかなく レベル、全国レベルへの代表選出をどんな基準で行うか、な 衆自身の、自分で理解し、考え、討論し、決定し、行動し、管 かなか決着のつかない論議の的となっている。十グループ組 理してゆく能力は、それらを実践してゆく過程でしか養われ てはならないし、その間の事情を知るには、一九五〇年代、一 確かに、ORAの活動に、アナキズムとマルクス主義の総 ない。大事なことは、ヨーロッパにおいては、そうした過程 九六〇年代にさかのぼらなくてはならない。 合連合についても、十七年にわたって一体化ができなかった での経験が、すでに二十年に及んでいるという事実である。 ほかの左翼の運動とともに、フランスでは一九四四年八月 18 ていくかという展望も、その意志も、持てずにいた。 中で、大きな挫折感を抱いていて、現実の社会をいかに変え やスペイン革命での敗北、ナチスの興隆という歴史の流れの 世紀初頭における革命的サンジカリズムの敗北、ロシア革命 しも積極的なものではなかった。アナキストの多くは、二十 のパリ解放以降、アナキズムの運動も復活する。しかし必ず 持っていた事実に注目したい。 主義を批判的に検証していたマルクス主義者たちと、交流を その結果、一部のマルクス主義者、もっと正確にはマルクス 派性にとらわれることなく、開かれた姿勢をとっていたこと、 らがあげた成果そのものよりも、彼らが既成の固定観念や党 など広範な対象を作業のテーマとした。しかしここでは、彼 り、そのため現代社会のみならず過去の革命思想や革命経験 ような﹁労働者の祖国﹂ではないことを明らかにしたし、一 フランスアナキスト連盟が結成されたものの、それも実際 方ハンガリーでは、結局はソ連の戦車によって踏みにじられ ﹁黒と赤﹂が発足した一九五六年は、歴史の上で重要な年で するに連盟がしていたことは、現行社会の中での﹁もう一つ てしまうものの、労働者評議会に組織された労働者たちが社 の社会闘争の場に加わるものではなかった。活動といえば、 のヒューマニズム﹂の社会的認知をはかること、そのための 会の実権をにぎり、ソ連における一党独裁・生産手段の国有 ある。この年の二月、ソ連共産党第二十回大会において、フ 過去の思想の普及にすぎなかったのである。 化・計画経済という、官僚独裁体制を生み出したものとは別 講演、出版といったものに限られ、しかも語られたのは、あ しかし、そんな微温的な姿勢に飽きたらず、もっと社会の の、社会主義社会のあり方を具体的に提示した。 ルシチョフ第一書記がスターリン批判を行う。十月にはハン 現実の中での運動に移るべきではないかと考えるアナキスト これらの大変動が、西欧の左翼知識人をも刺激する。たと ガリー革命が起きる。フルシチョフの報告は、スターリン治 たちがでてくるのも、アナキズムがもともと社会革命の思想 る回想者によれば﹁戦前の、さらには十九世紀末の言語﹂で である限り当然である。そうしたフランスアナキスト連盟の えばフランスでは、エドガール・モランら、フランス共産党 しかなかったし、別の人物は、工業化された国の中にあって 内外の人びとが集まって、一九五六年に﹁黒と赤﹂グループ 系の一部の知識人によって、﹃アルギュマン﹄という雑誌が一 下での大粛清を暴露するなど、ソ連が決して宣伝されている が形成され、同年から一九七〇年まで同名の雑誌を発行する。 九五六年から刊行され、﹁われわれの信条のうちの聖なるもの ﹁あまりに〝 農村自治的な 〟﹂主張だった、と評している。要 彼らは現実を研究し、とるべき行動をさぐろうとしたのであ 19 ていたのが、﹁社会主義か野蛮か﹂グループで、そこから一九 しかしそうした検証作業を一九四〇年代の終わりから進め として登場する。 ルクス主義がなぜそんな社会を生みだしたのか、が問題意識 がはじめられた。ソ連は階級社会、搾取社会ではないのか、マ の中の聖なるものにいたるまで﹂疑問視し、再検討すること 変革することもできない、という結論に達し、新しい思想と 日の現実を、マルクス主義によってはもはや理解することも ら、ロシア革命の変質と現代資本主義の飛躍的発展という今 分かれてできた小組織で、マルクス主義者として出発しなが ﹁社会主義か野蛮か﹂は、一九四八年にトロツキスト党から る。 されなかった優れた思想的営為が、そこに見られたからであ 義によってはとらえられなかった現代資本主義の理論的解明、 五八年に分かれたのが﹁労働者情報通信﹂グループだった。こ 決定論であり人間の創造性を無視しているものとしての唯物 実践のあり方を提示するにいたったグループである。 ナキスト連盟員でもあるルノーの労働者だった。両グループ 弁証法の根本的批判、等々の精力的な作業の結果を、次々と れら二つの、マルクス主義者、あるいはマルクス主義者を主 は、共同編集のパンフレットも出している。 彼らの雑誌に発表していたのである。 特にその中心的な理論家だったカストリアディスは、ソ連 しかし﹁黒と赤﹂、少なくともその一部、特に﹁黒と赤﹂に そうした思想的な成果のうち、ナンテールの学生たちを特 体にしたグループと、﹁黒と赤﹂グループは特に交流を持ち、 加わっていたパリ大学ナンテール分 校 の 学 生 た ち に 対 し 、 にとらえたのは、のちの六八年五月における実践を見る限り、 社会がいかに階級社会であり、どうしてそうなったかの分析、 もっとも思想的な影響を与えたのは、学生の一人、コーンベ 社会主義革命の目標と革命組織のあり方、 その双方の転換 自己管理型の新しい社会主義社会像の提出、ソ連での官僚独 ンディットがのちに書いているように、﹁社会主義か野蛮か﹂ 少なからぬものを吸収する。﹁黒と赤﹂ともっとも近かったの グループが達成した成果だった。このグループの雑誌﹃社会 だったように思われる。 は﹁労働者情報通信﹂で、このグループにはかなりのアナキ 主義か野蛮か﹄は、一九六五年にすでに刊行を止めていたが、 新たに革命の目標とされたのは、労働者評議会などの歴史 裁を導いた前衛意識を捨てた革命組織のあり方、マルクス主 学生たちはバックナンバーを集めて熱心に読んだ。というの 的経験を踏まえた、﹁生産と社会全体の中での管理するものと ストたちも参加しており、機関誌の発行責任者はフランスア もアナキストを含めて、ほかのグループによっては決してな 20 これは、目指すべきものが、特定の誰かがあらかじめ理想 の実現である。 れらの決定に関係する当事者たち自身によって行われる社会﹂ レベルでの自己管理、自己統治、つまり﹁すべての決定が、そ 彼らの社会的活動のあらゆる面での組織化﹂、社会のあらゆる 管理されるものの区別の廃止﹂であり、﹁人びと自身による、 した、社会的騒乱だった。そこでは、かつてないことがいく 万もの人びとによる大ストライキの波が全フランスをゆるが 学生を集めた、三月二十二日運動の形成を発端にして、一千 参加していた学生を含む、パリ大学ナンテール分校の少数派 六八年五月に実践することになる。この五月は、﹁黒と赤﹂に のの転換、それをナンテールの学生たちは、間もなく訪れた ある、という理念である。この革命の目標と革命運動そのも の中で、既成の大組織、労働組合や政党のピラミッド的な機 的と考えた特定のシステムの樹立にあるとする、従来の革命 構はむしろ抑え役であり、代わって推進役を果たしたのが、 つも起きた。その一つが、来るべき社会は民衆自身が自己統 人びとが大衆を指導するという、これまでの革命運動のあり 新しく自発的に結成された組織、五月中に四百六十にも達し 観とは全く違っている。どういう新しい社会を作るか、その 方の否定をともなっている。 たといわれる、各種の行動委員会だったことである。 治する社会でなくてはならない、という思想の登場であり、 そこで﹁社会主義か野蛮か﹂グループが提示した転換の方 この行動委員会は、学校、職場、地域などで、運動に参加 あり方を決めるのは、その社会を構成する人びと自身なので 向は、変革を進める運動の中での、あるべき社会においてと し運動を推進しようとした人びとが結成したもので、管理す それを表明するものとして、自己管理、労働者評議会といっ 同様の、﹁管理するものと管理されるものとの区別の廃止﹂、 るものと管理されるものとの分離をともなわなかった三月二 た言葉が、一挙に流行語となったのだった。 ﹁自分に関係する決定への関係当事者の参加﹂という原則であ ある。したがって新しい社会の創出は、自ら考え、自ら判断 り、新しい社会の実現は、それを実現しようとする人びとの 十二日運動型組織の、いわば自己増殖と見られるものである。 し、自ら統治する人びとの出現を前提とする。このことは、特 自律的な行動、自律的な能力にかかっているので、意識的な 比較的小さな、参加者がお互いに討論し、決定し、仕事を分 もうひとつ注目されたのは、六八年五月のあの巨大な運動 分子のすることは、無知な大衆を指導することではなく、人 担して行動できる規模のものだったといわれ、そうした自律 定の人びとが考えた特定のシステムの実現をはかり、特定の びと誰もが潜在的に持っている自律的な能力を高めることに 21 テール組織のあり方にも大きく影響する。参加者の少なから これらの六八年五月の経験が、一九七〇年代以降のリベル 行動委員会と似た働きをした。 委員会、ストライキ委員会といった組合の枠を越えた組織が、 の運動を拡大させ、支えたのである。労働者の間では、下部 的な組織の横の連携という開かれた姿勢が、あの六八年五月 ビューロクラートとは、自分には知識や能力があり、人びと 語を持ち出しても何の役にも立たない。注釈するとすれば、 者と、ふつう訳される。しかしここでは、そんな型通りの訳 ビューロクラートは官僚と、リベルテールは絶対自由主義 ついていると思われる。 という興味深い話がある。この指摘はなかなか本質的な点を ビューロクラートかリベルテールかだ、と誰かがいっていた それと闘う人たち、といっていいのではないかと思う。 ずが六八年五月の活動家だったのだから、それも当然のこと 六〇年代に交流していた一部のアナキストと一部のマルク を指導し管理して当然なのだ、むしろ指導し管理するのが任 いうのとは全く違っている。関係が深かったのは、従来のア ス主義者は、今あげた意味でともにリベルテールだったので だったといえる。 ナキズムを批判的に検討していたアナキストと、従来のマル あり、ともに自己管理、労働者評議会という理念を大事にし 務だ、と自負している人たちであり、リベルテールとは、何 クス主 義 を 批 判 的 に 検 討 し て い たマ ル ク ス主義者との間で ていたのであって、そこに多くの相違点を越えた、共通の一 ところで、以上の経過からも明らかなように、六〇年代に あって、タブーなく新たなものを探していた、異端同士の接 致点があったのだった︵以上の六〇年代までの経過について らの特権意識を持たず、当事者たちが自分たちで考え、決定 触だったのである。 は、江口幹﹃パリ 年5月﹄論創社、に詳しいし、カストリ することを尊重し、そうしたあり方を推進しようとする人た そこで、﹁黒と赤﹂の人びとは、アナキスト連盟の人びとか おける一部のアナキストと一部のマルクス主義者の間の、間 らアナルコ・マルクシストとののしられ、﹁社会主義か野蛮 アディス﹃社会主義か野蛮か﹄法政大学出版局、も大いに参 接的・直接的な交流はかなりのものだった。しかしそれは、あ か﹂の人びとは、共産党系の人びとから、同じアナルコ・マ 考になる︶。 ち、当事者たちの自律的な行動をさまたげるものがあれば、 ルクシストという悪口を浴びたのだが、当時、アナキストか さて、一九六九年にフランスアナキスト連盟が分裂する。 るアナキストたちが﹁マルクス主義をも基本理念とした﹂と マルクス主義者か、 それが問題なのではない、 問題なのは 68 22 会運動に参加したいという強い意志を持った人びとが、フラ たのである。このような連盟の姿勢に不満を持ち、実際の社 論議にとじこもっていて、闘争の現場に立とうとはしなかっ 動に対して、運動を離れた傍観者的な立場にいた。思想的な る大半のアナキストを組織していた。しかし六八年五月の激 この連盟︵FA、ラ・エッファと略称︶は、フランスにおけ であり、一方、ORAの理論的・戦術的な統一にもとづく組 強固な組織作りを目指した人びとが、UTCLに集まったの を重視し、労働運動に主要な活躍の場を見出し、その中での 九八六年︶によれば、広範な大衆活動よりも自分たちの組織 この七六年の分裂は、OCLの綱領的文書︵﹃現状明細﹄一 九一年にAL︵アルテルナティヴ・リベルテール︶となる。 自由共産主義労働者同盟︵UTCL︶を結成し、後者が一九 OCLの基本的姿勢は、﹁︽純粋な真実︾の番人であること ンスアナキスト連盟を去った。彼らの多くが、六八年五月の を唯一の役割とする︽急進的な︾セクト﹂であることではな 織の型を批判し、自分たちは単に社会運動の一つにすぎない からである。一方ではORAは、階級のない自己管理社会を く、﹁運動しつつある人びととともに行動すること﹂であり、 渦中にいた活動家だった。その後、いくつかの曲折をへて、革 目指していた。他方では、その目標を達成するため、理論的・ ﹁人びとの間で、共同して交流し、討論し、行動し、情報交換 という立場に立ち、大衆運動のどれか一つの領域を特別視せ 戦術的な統一と共同責任に立脚して、有効な組織であろうと し、事態をよりよく理解し﹂合い、それによって﹁より明確 命的アナキスト組織︵ORA︶が一九七一年に結成された。 した。この後者は、ORAを社会運動の中心と見なす、とい に行動﹂しようとすることにあった。 ず、一次的戦線と二次的戦線とを分けることに反対し、社会 う含みを帯びており、そのことは、自己組織化や自己管理を OCLは、﹁運動しつつある人びとの社会の中での存在の方 運動の中で社会運動とともに活動しようとした人びとが、O 大衆運動の中で促進しようとする意図と矛盾する性格を持っ このORAは、要するに革命組織が脱皮してゆく上での過 ていた。 が、リベルテール運動の存在よりもずっと重要である﹂とい 渡的な組織だったといえる。先に指摘した意味での、ビュー この矛盾が、一九七六年にORAを二つに分裂させる。一 いきっており、﹁すべての社会的文脈から切り離された﹂イデ CLを発足させた。 つは、 大衆運動の自律性をより尊重する自由共産主義組織 オロギー談議には関心を示さない。この態度は、彼らの月刊 ロクラート的要素とリベルテール的要素とを混在させていた ︵OCL︶となり、一つは、自分たちの組織的活動を重視する 23 は、﹁黒と赤﹂の一員であり、三月二十二日運動の中心的メン 日運動の視点から見れば、きわめて正統的である︵OCLに このOCLのあり方は、六〇年代の運動、特に三月二十二 き、自由に発言できるのである。 会には、前もって申しこみさえすれば、外部の誰でも出席で 集委員会は月ごとに各地方の廻り持ちであり、この編集委員 機関誌﹃もう一つの流れ﹄の編集の仕方にも現れており、編 びと自身の民主主義と自己組織化の活力を尊重しながら﹂そ される問題だ、とする。確かに活動家は﹁前衛であるが、人 関係は実際にあるのであり、それは具体的な実践の場で解決 いけない、といっている。いずれにせよ活動家・大衆という 導者であるかないか、という絶対的な二者択一でとらえては の矛盾にふれている。しかしそれを、前衛であるかないか、指 自己管理を主張しながら人びとの間で積極的にふるまうこと、 義者でもマルクス主義者でもない、いわばポスト・マルクス うなのだ、とのべている。しかしここには、大衆より活動家 主義者であり、ある意味ではポスト・アナキストである、と バーだった、デュトゥーユがいる︶。それに対し、UTCLを ない﹂とつけ加えている。彼らは﹁自己管理的な社会の建設﹂ いっている。彼のいおうとしているところは必ずしも明確で に優位をおく姿勢、大衆自身のではなく、自分たちの判断を を目指しており、そのため﹁新しいリベルテールの流れの組 はないけれども、なかなか示唆的である。大衆の自発的な行 受けついだALの立場は微妙だといわざるをえない。 織化と発展﹂と、﹁そこに新しいリベルテールの流れが消滅す 動によってはじまったロシア革命が、なぜあのみじめな結果 優先させる姿勢が見られないか。スパドニのこの辨明は、危 ることなく加わっている、反資本主義的・自己管理的な広範 に終わったのか、という反省を起点として、すでに半世紀以 うい綱渡りをしているものと映る。 な運動の出現﹂とを、基本戦略としている。問題は、この﹁消 上にわたって再構築されつつある社会主義の思想と実践は、 ALの基本文書は、彼らが﹁リベルテール的な国際労働運 滅することなく﹂にある。 動を継承し、そこから基本思想をえていること﹂を明記する その点の危うさをAL自身が気づいていないわけではなく、 過去のいくつかの思想と実践のあり方を解体しつつ、今まさ ところで彼は、同じ文章の中で、われわれは反マルクス主 彼らの論客の一人パトリス・スパドニは、一九八四年に書い に改めて再構築されつつある、といえるのではないか。 とともに、﹁他の諸流派の肯定できる成果を排除するものでは た文章の中で、自己組織化をうながしながら組織者であるこ ︵R︶ と、自発性を求めながら発議者であること、直接民主主義や 24 アナキズムとマルクス主義 ダニエル・ゲラン ︵一九七三年十一月六日、ニューヨークでの講演︶ いくつかの例をあげてみましょう。 このようなテーマを扱えば、たくさんの障害に直面します。 ガンをかかげました。マルクスとエンゲルスは、彼らに依拠 頃、社会民主主義者たちは、いわゆる人民国家というスロー ヽヽヽヽ ドイツにおける社会民主党の初期、マルクスが生きていた 最初の障害からはじめましょう。﹁マルクス主義﹂という言葉 する大衆的な政党をドイツに持てたことを、おそらくまこと 1 でわれわれは、実際に何を理解したらいいのか。どんな﹁マ に喜んでいたし誇りに思っていたことでしょう。彼らはその れわれは、カール・マルクスとフレードリヒ・エンゲルス自 私はただちに答えることが必要だと考えます。 ここではわ あの種のスローガンと行動を非難しなければならないと感じ 猛烈に告発します。そこでやっとマルクスとエンゲルスは、 時に社会民主党の急進ブルジョア諸党との同盟を、繰り返し 党に奇妙な寛大さを示します。バクーニンは、人民国家と、同 ヽヽヽヽ ルクス主義﹂が問題なのか。 身によって書かれた著作の全体を、﹁マルクス主義﹂と呼びま ます。 は、マルクスの﹃フランスにおける階級闘争﹄への有名な序 す。﹁マルクス主義﹂というレッテルを不当に用いた、多かれ 文を書いた時、改良主義的な方向へマルクス主義の完全な修 少なかれ不忠実な、彼らの後継者たちの著作をではなく、で そんな後者の第一は、 ドイツ社会民主主義者たちの、歪曲 正を行ないます。つまり、権力奪取のための、唯一ではない それからかなりたって、一八九五年に、老いたエンゲルス された、裏切られたとさえいいうる、マルクス主義の場合で す。 す。 25 棄し、選挙第一主義、議会主義、社会改良を擁護します。 に拠って、彼によれば時代遅れになった階級闘争を公然と放 ばいます。同じ頃、やはり マ「ルクス主義者﹂と自称していた エドワード・ベルンシュタインは、もっと率直にカウツキー 次第に日和見主義的・改良主義的になる、彼の党の実践をか 的階級闘争の場にとどまるふりをします。しかし実際には、 昧な後継者になります。一方では、理論の面では、彼は革命 ついでカール・カウツキーは、マルクスとエンゲルスの曖 クス主義者ではありませんでした。 エンゲルスはしたがって、私が理解する意味ではもはやマル にしても理想的な手段として、投票用紙の利用を強調します。 は、信条によってとともに、今では知られていることなので キストたちへの見せかけの悪罵にすがります。そうして彼女 密な血縁関係を、包み隠そうと努力しました。彼女は、アナ 衆の革命的自発性についての自分の考えとアナキズムとの緊 りませんし、彼女のかつての後援者が、政治的大衆ストライ キーと公然と衝突するのは、一九一〇年以後のことでしかあ カウツキーを公然と批判はしなかったのです。彼女がカウツ な妥協をしなければなりませんでした。彼女は、ベーベルや た。しかしながら彼女は、自分の党の指導部と多くの戦術的 ありつづけた唯一の理論家は、ローザ・ルクセンブルクでし ドイツ社会民主主義の中で、原初のマルクス主義に忠実で ブルジョア知識人だとされます。彼らによってこそ科学的社 から生じます。科学の担い手はプロレタリアートではなく、 は別々の前提に由来するとされます。社会主義的意識は科学 と階級闘争は一方が他方を発生させたものではなく、それら の階級闘争の必然的で直接的な結果であるというのは、 全「く 誤り﹂であると主張しました。彼によるとすれば、社会主義 初は一九〇四年におけるレーニンとの、最後は一九一八年春 なローザ・ルクセンブルクが 大「衆ストライキ﹂と命名するこ とを選んだものとの間に、真の相違はありません。同様に、最 ナルコ・サンジカリストたちのゼネラルストライキと、慎重 しかしながら、表現のさまざまな変化にもかかわらず、ア た党を、たじろがせまいとしたのです。 キという思想を見捨てた時に、です。しかし彼女は特に、大 カウツキーはまた、社会主義的意識は、プロレタリアート 会主義は、プロレタリアたちに︽伝えられる︾、というのです。 からそれほど離れているものではありません。一九一八年末 いわねばなりませんが、物質的利害によっても結びついてい 結論として 社「会主義的意識はプロレタリアートの階級闘争の 中に外部から導入される要素であり、そこで自発的に出現す の、スパルタクス運動の中での、労働者評議会によって下か のボルシェヴィキ党との、彼女の激しい論争は、アナキズム るものではない﹂とされます。 26 著しく強化しました。彼はそこで、ウルトラ中央集権主義、 われている、ジャコバン的・権威主義的な特徴のいくつかを ルクスやエンゲルスの著作の中につねではなく時にすでに現 たって、レーニンによっても変質させられました。彼は、マ によって歪曲されただけではありませんでした。広範囲にわ しかし正統的なマルクス主義は、単にドイツ社会民主主義 アナキズムと正統的なマルクス主義の間の結び目の一つです。 ついても、同じことがいえます。ローザ・ルクセンブルクは、 ら上へと推進する社会主義についての、彼女の最後の思想に ついで多少とも厳格な科学的決定論に閉じこもる成年期のマ ニストであった若きマルクスは、フォイエルバッハと決別し、 哲学者ルードウィヒ・フォイエルバッハの弟子でありユマ いくつかの例をあげましょう。 ません。 ゆる試みにもかかわらず、マルクス主義は教条主義ではあり しかし教会の一神父を含む、現代の注釈者たち何人かのあら の生きた現実を反映するようつねに努力されているからです。 の過程でかなり変化していますし、その作業は、彼らの時代 〇年の彼、共産主義者でありブランキストですらあり、永久 ルクスとは、大いに違っています。 革命の、独立した共産主義的政治行動の、プロレタリアート 民主主義だけを訴え、ドイツの急進的なブルジョアジーと し、それらの萌芽的・潜在的なものでしかありません。 独裁の、聖歌隊員であったマルクスとは、似ておりません。 ︵大文字で書く︶党についての偏狭でセクト的な考え、特に大 しかしながらレーニンは、アナキストたちを非難したと、 衆の指導者としての職業革命家たちの実践を、導入しました。 社会民主主義者たちを非難しますし、小著﹃国家と革命﹄の それに引きつづいた時期の、国際革命をずっと先に延期し、 の同盟を求めていた﹃新ライン新聞﹄のマルクスは、一八五 中では、一章丸ごとを、革命に忠実であるとしてアナキスト 平和な広大な科学的研究に専念するため大英博物館に閉じこ これらの観念の多くはマルクスの著作の中に見出されません たちを讃えることに当てています。 もった彼は、即時の全面的反乱を信じていた、一八五〇年の 一八六四︱六九年のマルクスは、第一インターナショナル 蜂起主義者マルクスとは、全く違います。 われわれのテーマに近づいてゆくと、第二の障害が現われ における労働者たちの、無私で控え目な助言者の役割を舞台 2 ます。マルクスとエンゲルスの思想は、それ自体かなり理解 裏でまず演じてから、一八七〇年以後はきわめて権威主義的 しがたいものです。というのもそれは、半世紀にわたる作業 27 コミューン権力によって国家に代わった功績を持つ、と保証 最後に、前述の著作の中でコミューンは国家機構を打倒し、 りません。 ついでその特色のいくつかを理想化した彼とは、同じではあ 書かれた有名な報告書の中で、パリ・コミューンを賞賛し、 マルクスは、そのしばらくあと、﹃フランスの内乱﹄の表題で 一八七一年の初め、パリの蜂起に手きびしく反対していた 会を牛耳りました。 なマルクスになり、ロンドンでインターナショナル総務委員 コ・サンジカリストたち、その他の数多くのアナキズムの変 主義的アナキストたち、社会成員的アナキストたち、アナル 存在します。私が執着している自由共産主義以外にも、個人 解しにくいものです。アナキズムの中にはさまざまな流派が 社会主義者たちの見方よりも、多様であり、流動的であり、理 がって絶対自由主義者たちの見方は、権威主義的といわれる クスあての手紙でいったように、 反「教条主義を公然と主張す るよう﹂絶対自由主義者たちを殊にうながしています。した 威の拒否、個人的判断の優先性の強調が、プルードンがマル 点で理解し合えるのか︱︱あるいは理解し合えないのか︱︱ 種、非暴力的アナキストたち、平和主義的アナキストたち、菜 を検討するため、われわれはどんなアナキズムの変種を原初 食主義アナキストたち、等々があげられます。 したがって、原初のマルクス主義、マルクスとエンゲルス のマルクス主義と対照させるべきなのか、それを知ることに したマルクスは、﹃ゴータ綱領批判﹄の中で、プロレタリア革 のマルクス主義を、均質なまとまりと見なすことは問題にな 命のあとも国家はかなり長期にわたって生き残るであろう、 りません。われわれは、それに精密な批判的検討を加え、ア あります。 問題はしたがって、革命思想の二つの主要な流派がどんな ナキズムと血縁関係があるであろう諸要素のみに、留意しな 私には、マルクス主義からもっとも離れていないアナキズ と納得させようとした人物とは、同じではありません。 ければなりません。 われわれは今や第三の障害に出会います。アナキズムはマ の、その変種のみの、諸特徴を明白にしようとしたことは、決 われます。私が小著﹃現代のアナキズム﹄の中で、その変種 いし共産主義的なアナキズムであること、それは明白だと思 ムの変種は、建設的・社会成員的アナキズム、共有主義的な ルクス主義よりもさらに、均質的な教義の体系をなしてはお して偶然ではありません。 3 りません。私が小著﹃現代のアナキズム﹄で示したように、権 28 もう少し近づいてみるなら、過去において、アナキズムと れについては﹃バクーニン文書﹄の編さん者アーサー・レー ての報告書 ﹃[フランスの内乱﹄ は ] 、あとで示すいくつかの 理由によって、バクーニンの着想に多くを負っています。そ ︱︱マルクスによって起草されたパリ・コミューンについ マルクス主義が相互に影響し合ったことを見つけるのは、そ ニングが強調しているとおりです。 4 れほどむつかしいことではありません。 ︱︱すでにのべたように、バクーニンのおかげでマルクス エンリコ・マラテスタ、このイタリアの偉大なアナキスト スローガンを非難せざるをえませんでした。 は、彼の協力者である社会民主主義者たちの人民国家という ヽヽヽヽ は、 十「九世紀のほとんどすべてのアナキズム文献は、マルク ス主義の影響を受けている﹂と、どこかで書いています。 マルクス主義とアナキズムは、相互に影響し合っただけで ご存じのようにバクーニンは、マルクスの科学的能力に敬 意を示していましたし、﹃資本論﹄第一巻をロシア語に翻訳し 5 はじめたほどです。バクーニンを別にしても、彼の友人カル はありません。両者は共通の起源を持っています。両者は同 じ家系に属しています。唯物論者としてわれわれは、二思想 ロ・カフィエロ、このイタリアのアナキストは、同じ本の要 約を出版しています。 がもっぱら人類の脳髄の中で生まれたとは考えておりません。 す。 師に背いて毒を含んだ﹃哲学の貧困﹄を書いたにしても、で 一(八四六年︶は、若いマルクスに著しい影響を与えました。 しばらくして、恩知らずなこの経済学者が彼の師を嘲笑し、 て企てられた努力から、ともに自分たちの着想を汲みとって して資本主義的搾取と闘うため、フランス労働者たちによっ フランス大革命から、ついで一八四〇年以後の、自己組織化 ナキストであれマルクス主義者であれ、第一に十八世紀末の 二思想は、階級闘争を通じて大衆の運動が獲得した経験を、 両者の論争にもかかわらず、マルクスはバクーニンによっ います。 反映しているだけです。初期の社会主義の著作者たちは、ア て表明された見方に多くを負っていました。繰り返しになり 一八四〇年にパリでゼネラルストライキがあったことを知 逆にプルードンの初期の書物、﹃財産とは何か﹄ 一(八四〇 年 、)特に彼の偉大な著作﹃経済的諸矛盾の体系、貧困の哲学﹄ かねませんが、ここでは二つの例だけを想起してみましょう。 29 です。そうしたものこそ、その後、一八七〇年の普仏戦争直 と、社会的な富と生産手段を労働者たち自身に委ねること、 じ最終目標を定めます。つまり、資本主義国家を打倒するこ ます。生まれたばかりの労働者階級の圧力の下で、両者は同 に当たっては、同じプロレタリア的源泉によって養われてい そのようにしてアナキズムとマルクス主義は、両者の初期 るためフランス巡回を企てたのでした。 タンが、労働者同盟を奨励し、大都市の労働者たちと接触す に先立つ年、一八四三年には、異色の女性フローラ・トリス 労働者たちから受けた強い印象を、書きとめています。それ ﹃手稿﹄の中に、パリの労働者たちを訪れたこと、そこで肉体 四年には若きマルクスが、 長い間発表されなかった有名な ンが﹃財産とは何か﹄を出版していますし、四年後の一八四 エ﹄のような、労働者新聞の開花が見られます。同じ年 一(八 四〇年︶ に︱︱時間的符合には驚かされますが ︱︱プルード る人は、ごくまれです。それに引きつづく時期には、﹃アトリ 内で連携していた、 パリ 旧[ 市] の四十八の区会 セ[ クション ] と、地方諸都市の民衆協会によって、構成されていました。あ 会と呼ばれるであろうもの、すなわちパリ・コミューンの枠 者は民主的であり、連合主義的であり、今日では労働者評議 的であり、特権を持たない人びとに対して抑圧的でした。後 労働者 に)よって形成されたものです。 前者は権威主義的であり、しかも独裁的であり、中央集権 て形成されたもの、他方には、プロレタリアート 小(職人、賃 変種が、ありました。一方には、ブルジョアジー左翼によっ 命が、あるいはお望みなら権力についての相容れない二つの 実際、フランス革命の中には、きわめて違った二種類の革 う。 た。この点について、もっと詳細に見てみることにしましょ りの面で、フランス大革命から着想をえていた、と申しまし 先ほど私は、フランス労働運動の初期の代弁者たちがかな たのでした。 ヽヽヽヽヽヽ 6 前の、第一インターナショナル一八六九年大会において、マ えていうことにしますが、後者の権力は絶対自由主義的な本 ヽヽヽヽヽ ルクス派とバクーニン派との間で結ばれた、共有主義的な協 ンと、 一九一七年のロシアのソビエト 労( 働者評議会 の) 、 先 駆者でした。それに対して前者は、直後だけではなく十九世 質を帯びていましたし、いわば一八七一年のパリ・コミュー ヽヽヽヽヽヽヽヽ 定の基礎でした。そこで注目すべきことは、問題の協定が、 一( 八六五年に死んだ プ) ルードンの、 反動化した、 最後の弟 子たちに敵対したものであったことでした。そうした弟子た ちの一人であったトランは、生産手段の私有制に執着してい 30 紀を通じて、ジャコバンと呼ばれていました。しかしこの言 られた、あのジャコバン神話からあまりのがれることができ ヽヽヽヽヽ 葉は、不適切、曖昧、不自然なものでした。それは、パリの ませんでした。その英雄たちの中には、 事(実は腐敗した政治 屋であり、 二重スパイであった ダ) ントンや 独( 裁者の見習い て、貫かれていたのでした。もっと具体的にはそこでの集会 争の境界線が、このジャコバン協会の中で、この協会を介し 命家たちと、他方での特権を持たない人びととの間の階級闘 僧院の名に由来しています。事実は、一方でのブルジョア革 バン主義 と」、言葉の便利さから私がコミューン主義と呼ぶも のとの、内乱になったことを、実に明確にとらえていたので の内乱ではなかったこと、それはまた、しばらくして ジ「ャコ は、フランス革命が単に絶対王政とブルジョア革命家たちと ジャコバン主義にだまされることがなかったのでした。彼ら で終わった ロ)ベスピエールが、含まれています。絶対自由主 義者たちは、彼らの反権威主義的な洞察力の鋭どさによって、 民衆クラブ、ジャコバン協会の名から借りたものでしたし、 においてであり、二つの革命のいずれかを賞賛する協会員た した。この内乱は、一七九四年三月、パリ・コミューンの敗 それ自身、当のクラブがおかれていた建物の中の、修道会の ちが、相争っていたのです。 右翼のこの指導者は、ジャコバンでありロベスピエール主義 シャルル・ドレクリューズ、パリ・コミューン議会の多数派 者によっても、その意味で活用されてきました。たとえば、 いますし、問題の言葉はアナキストによってもマルクス主義 指導する、ブルジョア的革命伝統を指すため一般に使われて を賞賛しました。しかしずっとのち、はるかのち、一八八五 義の間を絶えずゆれ動いていました。最初に彼らは、 一「七九 三年のフランスによって規範を提供された厳格な中央集権化﹂ マルクスとエンゲルスは、ジャコバン主義とコミューン主 全く同様に、です。 ロシアにおける十月革命が工場評議会の清算に帰着したのと 斬首に、すなわち下からの権力の打倒に、帰着します。︱︱ ヽヽヽヽヽ しかしながら、後日の政治的文献の中では、ジャコバンと 北に、ショーメットとエベールという二人の自治体行政官の 者だと、自ら名乗っていました。 ヽヽヽヽヽヽヽ いう言葉は、国家と革命を権威主義的な手段によって上から プルードンとバクーニンは、彼らの著作の中で、ブルジョ 年にエンゲルスは、自分たちが誤っていたこと、前述の中央 ヽヽヽヽヽ ア革 命 家 た ち の 政 治 的 遺 産 と 当 然 な が ら 彼 ら が 見 な し た 、 気づきます。マルクスは一度、過激派たち、場末町の勤労民 集権化がナポレオン一世による独裁への道を開いたことに、 ジ「ャコバン精神 を」告発しました。反対にマルクスとエンゲ ルスは、ブルジョア革命の︽英雄たち︾によって栄光を与え 31 の闘いの中で到達した頂点の一つ﹂なのでした。しかも彼は、 ば﹁ジャコバン主義は、被抑圧階級が自分たちの解放のため よりもはるかにジャコバンであることを示します。彼によれ レーニンはのちに、彼の師匠たち、マルクスやエンゲルス られていたはずだ﹂と、主張しています。 のプロレタリアートには﹁いずれにせよ上からの援助が与え にいたります。しかし逆にエンゲルスはよそで、一七九三年 持者たちは、︽革命運動の主要な代表者たち︾だったと、書く 衆の代弁者、元僧侶の左翼急進主義者、ジャック・ルーの支 ゲルスの聖典を調べてみるなら、十分な理由があることがわ です。この疑いが生まれてくるについては、マルクスとエン 義的少数者に与えている使命について、いくらか疑い深いの 第二にアナキストは、マルクス主義者が民衆の中の共産主 反論します。 くその官僚階級は﹁死滅する﹂ことを拒否するであろう、と 家よりずっと全能であり抑圧的であろう、つねに拡大してゆ は、経済全体の国有化によって、新しい国家はブルジョア国 局は死滅してゆくことを約束します。全く反対にアナキスト 彼らは、時に﹁半・国家﹂と名づけられたそうした国家が、結 ぶものを創設する必要がある、と信じています。そのあとで はプロレタリアート全体のものから引き離された利害を持っ 自らジャコバンだと名乗ることを好みました。ただし﹁労働 ていないので﹂、﹁彼らは全体の運動の利害を絶えず代表して 者階級に結びついたジャコバン﹂とつけ加えながらでしたが。 が、ジャコバン主義のあらゆる無意識的な影響から本当に脱 いる﹂と書かれています。﹃宣言﹄の著書たちによれば、共産 かります。確かに﹃共産党宣言﹄の中には、﹁共産主義者たち 却しない限り、アナキストたちが彼らと意見の一致を見るこ この点についてのわれわれの結論は、マルクス主義者たち とはできないであろう、ということです。 第一に、国家の最終的な廃止に同意するにしてもマルクス 点を要約してみることにしよう。 さていよいよ、アナキズムとマルクス主義の間の主な相違 ことです。結構、いかにもここでは、アナキストたちも賛成 具体的な諸条件の全般的な表現以外のものではない﹂という 階級闘争の、彼らの眼前で行なわれている歴史的な運動の、 いささかももとづいてはいない。その概念は、現に存在する 改革者によって発明されるか発見された、諸思想や諸原理に 主義者たちの﹁理論的概念は﹂、﹁世界についてのあれこれの 主義者は、勝利したプロレタリア革命のあとに、確定されな だというでしょう。しかしこれから引用する以下の文章は、 7 い期間にわたって、新しい国家、彼らが﹁労働者国家﹂と呼 32 うるということに異議を申し立てますし、彼らは、プロレタ しょう。彼らは、プロレタリアート自身の外部に前衛があり う。 そうであれば、 アナキストたちはもはや同意しないで 持つといいはることを、明らかに意味することになりましょ 義者が、プロレタリアートの指導を僭取する歴史的な権利を この断定的な主張は、そのような︽優位︾によって共産主 る上で優位に立っている﹂、というのです。 レタリア運動の諸条件、進行、最終的な全体的結果を理解す 産主義者たちは、彼ら以外のプロレタリア大衆よりも、プロ 曖昧であり不安を与えるものです。すなわち﹁理論的には共 な警戒感を抱いていると、疑いたくなります。 ての活動に十分な場を残していない、社会学的現象にひそか われは、マルクス主義者たちが、彼らのいわゆる指導者とし 衆運動の中での自発性の重要な役割を強調しています。われ 主義者でした。彼女はそれをアナキストたちから借用し、大 語で自発的なという語を著作の中で用いた、最初のマルクス と主張できるからです。ローザ・ルクセンブルクは、ドイツ 大衆の︽自己・活動︾のある分量を、厚かましくも容認する なぜなら革命党は、自らの優位に立った活動のかたわらで、 性よりもずっと限定された概念をしか、問題にしていません。 実際にはマルクスとエンゲルスは、大衆の自己・活動、自発 少なくとも彼らのドイツ語による最初の執筆の際には、それ かなり奇妙なのは、マルクスとエンゲルスの著作の中には、 に、︽自発的な︾、︽自発性︾という言葉を見出します。しかし は、まことにしばしば、プルードンやバクーニンの文章の中 て絶対自由主義的な観念に、たどりつきます。事実われわれ こうしてわれわれは、大衆の革命的自発性の問題、きわめ ならないと、考えているのです。 の努力を援けるよう、無私の助言者、︽触媒︾にとどまらねば ているように、投票箱に心理的な嫌悪を抱いているわけでは 確かにアナキストたちも、人があまりにもしばしばそう信じ もしい選挙協定を結ぶことさえ、進んでするにいたります。 時には、ブルジョア・リベラル派ないし急進派の諸党とのさ ならず、議会で多数を制するのに同盟しか道がないと考えた し、それを権力奪取の最良の手段の一つと見なしているのみ られません。マルクス主義者たちは、投票用紙を熱心に利用 拒否していない事実を、時々見て、大いにためらわずにはい ア民主主義の手段や手管を自分たちのために活用することを ヽヽヽヽ リアートのかたわらで、あるいはその中においてすら、意識 第二にアナキストたちは、マルクス主義者たちがブルジョ らが決してないことです。翻訳の中では、問題の二語は時々 ありません。プルードンは一度、一八四八年の国民議会に選 ヽヽヽ のより高い度合いに到達することを目指す、労働者たち自身 現われますが、それらは原意を正確に伝えてはおりません。 33 すなわち直接行動、組合活動、労働者自治、ゼネラルストラ 的な敵に打ち勝つために、全く別の路線を奨励してきました。 かしこうした例外をのぞくと、アナキストたちは、資本主義 加について、厳格な反対の立場をとることを避けました。し アナキストたちは、一九三六年二月の人民戦線の選挙への参 忠誠の表明を非難していたのでした。別の機会にスペインの 一時的な状況の問題でした。つまり彼は、帝政へのあらゆる に思いとどまらせました。しかしこれは、彼にとって、単に に、第二帝政の下では、選挙に立候補することを労働者たち 共和国大統領への立候補を支持しました。とはいえ彼はのち 出されていますし、別の際には、進歩的な医者ラスパーユの、 でした。彼は、一八四八年の革命の過程で生まれた︽労働者 じめたプルードンは、自分が語っていることを知っていたの て詳細に検討してはいないことです。労働者として生涯をは どんな道を通れば自己管理が機能するのか、マルクスが決し 感じていたのでしょう。しかし強調しなければならないのは、 乱﹄ を ] 参照させているのですが。 たぶん彼らは、 第一イン ターナショナルのアナキスト派に、そうして譲歩する必要を ミューンについての、 一八七一年の報告書 ﹃[ フランスの内 今や問題は﹁生産者たちの自己統治である﹂としたパリ・コ らは、一八四八年の自分たちのお手軽な国家主義を見直し、 宣言﹄再版に序文をつけ加えたのでしょうか。その序文で彼 ヽヽヽヽ イキです。 協同組織 ア[ ソシアシォン ︾] を並はずれた注意で観察してお りました。マルクスの態度の理由は、たぶん軽蔑に由来して をしています。フランスの国家社会主義者ルイ・ブランから な課題にした、最初の人びとです。自己管理は当節では、人 いたのでしょうし、問題を ユ「ートピア的 と」見なしていたの でしょう。今日アナキストたちは、自己管理をふたたび身近 ここで、 生産手段の国有化か自己管理かというジレンマに の直接の着想の下に書かれた、一八四八年の﹃共産党宣言﹄の それぞれによって、独り占めにされ、組みこまれ、変質させ ゆきつきます。この点でマルクスとエンゲルスはいいのがれ 中では、彼らは﹁あらゆる生産手段を国家の手中に集中化す られるほど、流行になってしまいましたが。 ヽヽ 8 さていよいよ、 アナキストとマルクス主義者が、 彼らの政 る﹂意向を告知しています。しかし彼らは、国家という言葉 によって、﹁指導階級として組織されたプロレタリアート﹂を 理解していました。とすれば一体なぜ、そうしたプロレタリ ア組織を国家と命名したのでしょうか。それになぜまた彼ら 治的誕生以来、いかに相互に衝突してきたか、思い起こして ヽヽ は、はるかのちになって後悔し、一八七二年六月の﹃共産党 34 の権利にもとづいた新しい型の社会を、説いています。 ︱︱ 他者との自発的な提携、すなわち自由な連合的な選択と離脱 た個人への、彼の熱狂を越えて、実際には、この︽唯一者︾と 十分に明確にではありませんが、エゴ、︽唯一者︾と見なされ いは、双方の誤解にもとづいていました。シュティルナーは、 のある書物﹃ドイツ・イデオロギー﹄においてです。この争 ス・シュティルナーに対してはじめられました。彼らの悪意 最初の小競合いは、 マルクスとエンゲルスによってマック プルードンは、その生涯の終わりに、﹃労働者階級の政治的能 うな、大労働手段の管理の役割を、果たすはずのものでした。 意見では、鉄道・工場・採掘・製鉄・海運等々の大生産のよ て共有主義者でした。彼が労働者会社と呼んだものは、彼の なかったでしょうか。近代大産業については、彼は断固とし ていなかったのです。プルードンは彼の﹃手帳﹄の中に 小「産 業は小文化と同様にバカげたことではないか﹂と、書いてい プルードンが全く共同所有の擁護者であったことを、把握し 産業については、いいかえれば資本主義的な分野については、 小さな私的所有を賞賛したからです。しかしマルクスは、大 ドンは、それが個人的な独立の保証になると理解した限りで、 この考えは、のちにバクーニンによって、さらにはレーニン みましょう。 自身によって、彼が民族問題をとりあげた時に、採用された つまり階級闘争を、選択していました。にもかかわらずマル 力﹄の中で、ブルジョア社会からの労働者階級の完全な分離、 クスは、プルードン主義をプチブル社会主義呼ばわりする、 ものです。一方、マルクスとエンゲルスは、シュティルナー の共産主義への酷評を間違った形で解釈し、シュティルナー 悪意を持ちつづけました 。 今やわれわれは、 第一インターナショナルの中での、 マル が実際には、共産主義のきわめて特殊な変種、ドイツのワイ 者たちの︽粗雑な︾国家的共産主義をののしったのに、それ クスとバクーニンの、激しい、あまり感心できない論争にた トリングやフランスのカベのような、当時の空想的共産主義 を反動的な思いこみだと信じたのでした。シュティルナーは どりつきました。ここでもまた、かなりな範囲で誤解があり 配への渇きを、マルクスのものだとしました。その特徴をバ ます。バクーニンは、恐しい権威主義的な意図、労働運動支 さて、 ついで、 すでにのべたことですが、プルードンに対 クーニンはいくらかたぶん誇張していたのですが、 しかし 問題の共産主義を個人的な自由を危険にさらすものと、正当 するマルクスの猛烈な攻撃が起こります。部分的にはこれも、 もっとも驚くべきことは、誇張することで彼が、それにもか にも考えただけなのですが。 シュティルナーの場合と同じ理由からです。つまり、プルー 35 の絶対的な支配を、予感したのでした。マルクスは、この上 ルの指導者たちが世界労働運動に対していずれ行使するはず の登場を予見していましたし、同時に第三インターナショナ きわめて明晰な展望を持っていました。彼は︽赤い官僚階級︾ かわず自らを予言者にしたことです。彼ははるかな未来への 何人かのアナキストたちを、追いだしました。確かに、一八 かの労働組合代表として大会会場にもぐりこむことのできた 人と、フランス社会党の指導者ジャン・ジョレスは、いくつ ロンドンで、一八九六年に、マルクスの娘、エーヴリング夫 る言葉で、ドイツ社会民主主義を非難し、野次を浴びました。 ダのドメラ・ノーフェンハイスは、激烈でもあり輝しくもあ い対立が起こります。チューリヒで、一八九三年に、オラン ストのテロリズムが、以後︽悪漢︾扱いされたアナキストた ない卑劣なやり方でバクーニンを中傷することで反撃し、一 ちへのヒステリックな拒否に、力を与えなかっわけではあり 八七二年九月のハーグ大会で、バクーニン派追放を決議させ 以後、 アナキズムとマルクス主義をつなぐ橋は切断されま ません。しかしあの臆病で合法主義の改良主義者たちは、ア 九〇年から一八九五年にかけてフランスで吹き荒れたアナキ した。労働者階級にとっては悲劇的な出来事でした。という たのでした。 のも、二つの運動のそれぞれは、他方からの理論的・実践的 ナキストたちの革命的な動機、嫌悪すべき社会への反響の大 一八六〇年から一九一四年にかけて、 ドイツの社会民主主 した。 きな抗議としての暴力行使を、理解することができないので な貢献を必要としたであろうからです。 一八八〇年代に、 貧相なアナキスト ・インターナショナル を創設する企てが失敗します。熱意が欠けていたわけではあ 義と、より以上にドイツの労働組合の鈍重な機構は、アナキ りません。しかしその熱意は、ほぼ完全に労働運動から孤立 していたのでした。同じ時期にマルクス主義は、ドイツ社会 ではないかと疑われたのでした。フランスでは逆のことが起 ズムを嫌悪しました。カウツキーすら、彼が大衆ストライキ やがて社会民主主義のさまざまな党が、 第二イ ン タ ー ナ きました。ジョレスの選挙第一主義的、議会主義的改良主義 民主主義の成長とともに、フランスではジュール・ゲードの ショナル創設のため団結します。その相次ぐ大会において、 は、きわめて活動的な革命的サンジカリスト組織、一九一四 に好意的な意見をのべた時、労働官僚たちから︽アナキスト︾ ﹃現代のアナキズム﹄ですでに詳しくのべているように、会合 年以前のCGT創設に参加するほど前進した労働者たちを、 労働者党の創設とともに、急速に発展していました。 に参加することのできた絶対自由主義者たちとの間で、激し 36 嫌悪しました。CGTの創始者たち、フェルナン・ペルーティ ません。六八年五月は、もっとも自然発生的な、もっとも予 ないほど、破壊的で、同時に創造的な、強い自由の風が、わ 期されない、もっとも準備されていない反乱でした。何もの れわれの国を吹き抜けたのでした。生活が変わりました。あ ももはやかつて存在していたものと似たものでは全くありえ ロシア革命と、 ついでスペイン革命が、 アナキズムとマル るいはお望みなら、われわれが生活を変えました。しかもこ エ、エミール・プージェ、ピエール・モナットは、アナキズ クス主義との間の溝を完成させました。それはもはや単にイ うした再生は、革命運動の再生という総枠の中でも、特に若 ム運動出身者でした。 デオロギー的なものではなく、特に血ぬられたものとなった い学生たちの間でも、行われたのでした。この事実によって、 溝でした。 アナキズムとマルクス主義の関係の過去への考察を終える 1.フランスではマクシミリアン ・リュベルのような、 何 ありません。それらさまざまな運動の間での、セクト的では 義︾に拠っていた運動との間に、防水隔壁はもはやほとんど 絶対自由主義的な運動と、いわゆる︽マルクス・レーニン主 人かのマルクス研究者たちが、マルクスを一︽絶対自由主義 ない、一種の浸透性すらあります。フランスでは若い同志た に当たって、次の二点をつけ加えておきます。 者︾と見なさせようとする時、彼らはある範囲で偏向してい 2.フランスにおけるガストン ・ルヴァルのような、 セク きています。毛沢東主義の諸グループ全体は、絶対自由主義 自由主義的な諸グループに移っています。その逆も同様に起 ちが、︽権威主義的な︾マルクス主義の諸グループから、絶対 ト的で偏狭な何人かのアナキストたちは、マルクスを悪魔で の影響の下でくだけちるか、絶対自由主義の感染に引き寄せ ます。 もあるかのように憎む時、情念によって眼がくらんでいます。 疑いなく今日においてわれわれは、自由社会主義の再生を さて、現在では事情はどうでしょうか。 今では彼らの月刊誌でアナキスト的な見方を発表しています ン=ポール・サルトルや彼らの友人たちのような人びとも、 論の影響の下に、彼らの偏見の多くを放棄しています。ジャ 見方のいくつかを変えていますし、絶対自由主義の著作と理 られています。トロツキストの諸小グループですら、彼らの 目撃しております。この再生が、一九六八年五月にフランス し、彼らの記事の一つは、 さ「ようならレーニン と」いう表題で 9 でいかに起きたか、それを想起してみる必要はほとんどあり 37 かし同盟はまた、プロレタリアートの階級闘争や、資本主義 の血縁で、古典的なアナキストたちと共通点があります。し 第一インターナショナルにさかのぼる反権威主義的な流れと ナキズムとマルクス主義の周辺に位置しています。同盟は、 フランスでは、自由共産主義労働者同盟︵UTCL︶が、ア ループもまだ見られます。 様に、反マルクス主義を激しく守っている、アナキスト諸グ つかのマルクス主義グループはつねに存在していますし、同 した。確かに、とりわけ反アナキスト的な権威主義的ないく ありつづける、有名な史的唯物弁証法の方法があります。し 過去と現在の数々の出来事の理解のため、導きの糸の一つで けている、資本についての啓示的な理論があります。最後に、 なお資本主義的機構の働きを理解させる鍵の一つでありつづ の諸決議にも見出される考えです。さらにはまた、今日でも 宣言﹄にも後日の諸注釈にも、第一インターナショナル大会 なくてはならない、という主張があります。これは、﹃共産党 解放は、代行者のではなく、プロレタリアート自身の事業で の配慮と強く符合するものです。また、プロレタリアートの 一九四五年、一九六八年の三度にわたって主張したように、 かしながらこれには、ただし書きが必要です。つまり、この 革命のための物質的基盤が欠けているという間違った口実の 方法を厳格に、機械的に適用してはなりません。あるいはま キストたちの寄与の中で建設的であったすべてをよみがえら 下に、闘わないための弁解として用いてはなりません。それ 的なブルジョア権力を打倒するための闘争の場に、断固とし せるため、努力しております︵ついでにいえば、そうした目 て立っているという事実によって、マルクス主義者たちと共 的こそ、私が﹃現代のアナキズム﹄を書き、アナキズムのア に史的唯物論を単なる決定論に還元してはならないでしょう。 た、フランスにおいてスターリン主義者たちが、一九三六年、 ンソロジー﹃神もなく主人もなく﹄という表題の四冊のポケッ 個人的な意志や大衆の革命的な自発性に、扉は広く開かれて 通点があります。一方、自由共産主義者たちは、過去のアナ トブックを出版した、狙いでした︶。他方、自由共産主義者た いなければなりません。 絶対自由主義の歴史家、 A・E ・カミンスキーが、バクー ちは、マルクスやエンゲルスの遺産の中の、有効かつ豊かで あると思われるもの、特に現代の要求に応えると思われるも ナキズムとマルクス主義の総合は必要なだけではなく、不可 ニンについての彼の名著のなかでそう書いていたように、ア そのようなものとして、 若きマルクスの一八四四年の ﹃手 避です。彼は、﹁歴史がそれ自身、両者の和解を生みだす﹂と のを、はねつけておりません。 稿﹄があります。これは、アナキストたちの個人的な自由へ 38 つけ加えています。 最後にいいそえておきたいことがあります。 これは私自身 の結論でもありますが、そのような統合の果実、自由共産主 義は、進歩的な労働者たち、今日︽労働者左翼︾と呼ばれて 冊があげられる。 したがって、彼を著作家として紹介するのはごく自然のことで ある。しかしそうするには少なからず抵抗がある。著作の大半が、 何らかの社会的活動への彼の参加と関連して、書かれているから である。 彼は大ブルジョアの息子としてパリで生まれ、十八歳で詩集を だし、バレス、モーリャック、コレットらに賞賛され、文学界の 若い新人として注目される。二十二、三歳までの彼は、詩人であ いる人びとの 時(にはまだ完全に意識的にではないにしても︶、 強い希求を疑いなく表明しております。堕落した権威主義的 なマルクス主義や、時代遅れで化石化した古びたアナキズム の前で、多数の参列者を集めて盛大にとり行なわれた。 ズ墓地の東南の角、パリ・コミューンの戦士たちが銃殺された壁 彼の葬儀は、フランス左翼の伝統にしたがい、ペール・ラシェー の街頭を行進するデモの隊列に加わっていた。 一員として活動した。八十二歳、八十三歳になってもなお、パリ 七〇年代以降は、新しいリベルテール組織、ORAやUTCLの 関心を深め、アナキズムとマルクス主義の総合を説くようになり、 政治的には社会党左派から出発したが、やがてアナキズムへの も社会革命を目指した活動家として紹介すべきかもしれない。 ての著作群が生みだされる。この経過を振り返れば、彼は何より キズム、ファシズム、植民地解放、人種差別、同性愛などについ それらの過程で彼をとらえたテーマから、フランス革命、アナ を越えて彼は、政治的・社会的な活動から離れることがなかった。 面し、植民地解放、社会主義の運動へと歩みだす。以来、半世紀 の、二十代半ばの旅が彼を一変させる。フランス社会の現実に直 り小説家だった。しかしフランス領である中近東やインドシナへ よりも、ずっと見事に表明しています。 編者注。 この ア 「 ナキズムとマルクス主義﹂は、ゲランのベスト セラー本﹃アナキズム﹄ガ ( リマール社イデー双書、邦訳名﹃現代 のアナキズム﹄ ︶ の一九八一年・改訂増補版の末尾に、活「動家とし てのマルクスとエンゲルス 、」シ「ュティルナー補考 と」ともに収め られている。 ダニエル・ゲラン︵一九〇四︱一九八八︶ 著作活動は十八歳から八十三歳までにも及んでいる。目録を見 ると、刊行した本はおよそ六十にも達している。やたらに乱造さ れる日本と違って、異例の数字である。 邦訳書としても、﹃現代のアナキズム﹄、﹃現代アナキズムの論 理﹄︵以上、三一新書︶、﹃人民戦線﹄︵現代思潮社︶、﹃エロスの革 命﹄︵太平出版社︶、﹃神もなく主人もなく、Ⅰ、Ⅱ﹄、﹃褐色のペス ト﹄︵以上、河出書房新社︶、﹃革命的自然発生﹄︵風媒社︶と、八 39 思想と行動 アントン・パネクーク 退なのか。 期が、なぜあるのだろうか。なぜ、こんどは、この急速な衰 彼らが実際にある以上に弱く見える、あるいは強く見える時 彼らの力が絶えず増大してゆくのが、なぜ見られないのか。 りに弱かったから、と答えられるに違いない。しかし、では、 んな展開を経験したのか。もちろん、労働者たちがまだあま 真剣に提起することである。すなわち、われわれはなぜ、こ しかしここでむしろ必要なのは、自分に対して別の問いを だろうか。 隷制以外の何ものでもないものをしか、もたらさなかったの あの犠牲は、いっそう悪質な、打倒することのできない、奴 の息子たちのあの犠牲は、ただ無駄に終わったのだろうか。 問いを自分に投げかけずにはいられない。労働者階級の最良 訪れている。そこで、ある労働者たちは、落胆から生まれる 時期には衰退の時期がつづき、熱狂と力のあとには無気力が 労働運動は、果てしない変化のイメージを与える。上昇の に社会においても、危機的な時期にあっては、人は十分に緊 せるよう、彼を準備させる、そのたびごとに見られる。同様 ともなって彼を刺激し、そうして当面なすべきことを果たさ おりである。このことは、是非とも必要な力が十分な緊迫を ずっと自分の力を活かすことができるのは、知られていると 危機的な状況の中での人間が、ふつうの条件の下でよりも に変わるようになるまで、である。 動と力が、灰の下でくすぶっていた火が次第に輝しい熱い炎 のとして、現実の行動する力を誕生させるまで、あれらの行 としてまだ眠っていたものが、思想によって燃えさかったも のことによって精神的な力となるまで、力の潜在的な可能性 の行動と力が、自覚され啓示されたものとして意識され、そ とどまっている。そんなふうにとどまっているのは、あれら 力は意識の水準に達していない。それらは潜在意識の水準に れる。しかし、上からの拘束がある時には、それらの行動と によって、大衆が耐え経験しているものによって、作りださ く行動と力が生まれるのが見られる。この行動と力は、社会 ︵ ﹃労働者評議会﹄フランス語版﹁付録﹂の最終章︶ 社会的な諸階級全体を形成する人間大衆の間に、果てしな 40 まり、その諸思想がイデオロギーと化し、このイデオロギー が絶対的な永遠の︵と称する︶真実として教義化される。つ その時から、諸思想は基本的な真実として定着する。それら 諸思想がその力を高め、それらが不可欠だと各自が納得した、 か、直面する巨大な抵抗に打ち勝つことができない。しかし 迫し、熱狂的な諸思想がすべてをとらえた、その時以後にし このことが意味するのは、物事の相対性を理解し認めねば 切な場所で実行されたものである。 は、別の状況においては善になりうるであろうものが、不適 えた、限られた真実なのである。悪は、善の反対ではない。悪 てあまりにも大きな重要性とあまりにも普遍的な有効性を与 誤りは真実の反対ではない。誤りは、実際には、人が間違っ めるし、のちに現実は、その誤りを厳しく罰することになる。 ある。しかしながら読者はやがて、この一時的な任務の達成 が、人びとを新しい状況の中にいることを理解させないよう が、未来を決定することを理解されることであろう。 ならないこと、絶対的ではないと知っている真実のために闘 的なものとして一度経験したものを、普遍的な真実として認 以上のことは、来るべき闘争についても正しい 。諸階級は、 にするし、彼らに新しい任務を果たさせないようにする。こ めること、特殊な状況の下で善となり有益であると経験した 当面の必要によって行動することを強いられているし、彼ら うことを学ばねばならないこと、一時的な必要のために全力 ものを、全く普遍的な善であり有益であると認めること、が は、自分たちの生活の上での経験からすでにえている知識を こでこそ、いかに衰退がはじまるかが見られる。 ある。 活用する。原則的に、また事実においても、労働者階級の任 を投じなければならないこと、幻想の中に盲目的におちいる 人は個別の観察に、普遍的な、絶対的な、いつでもどこで 務は、単純かつ実際的な課題である。すなわち、社会生産を ことなく学ばねばならないこと、一時的な任務を果たすため も根拠のある、有効性を与える。精神は、普遍的なものの媒 われわれが提起したすべての問いへの答えは、人間精神の 介物である。すなわち精神は、たくさんの現象から、それら 手中に収め、労働を組織化すること、である。ここで、疑問 活動の中に、人間を動物よりも上におくこの最高の能力の中 の複雑さから、規則性、普遍的な性質、精神自身の諸活動を やためらいがなぜ高まりかねないのだろうか。疑問やためら にこの上ない熱狂をもって献身しなければならないこと、で 決定するすべてを、引きだそうとする。しかし精神が、自分 いは、あの単純な任務が、世界全体や新しい世界の建設に結 に、見出される。人間精神の自然な働きとして、真実の部分 の実際の経験の諸限界を忘れるや否や、精神はさまよいはじ 41 古いイデオロギーは人びとの頭脳に重くのしかかっている の絶大な権力にも打ち勝たなくてはならない。 ばならないし、精神的な力とも結合している物質的な力、敵 在していなければならない。内的な絶大な抵抗に打ち勝たね 創造的な行為が可能となる以前に、思想と意志の形でまず存 びついていることに由来する。この新しい世界は、あらゆる ば、知識がなければ、この多数派は、よく組織された有能な、 大衆は、彼らが多数派だから勝つのではない。組織がなけれ やすくだまされるし、たやすく自分自身に向けさせられる。 大きな拳は、悪賢い頭脳によって、ペテン師たちによって、た 労働者たちが勝つのは、彼らの大きな拳のおかげではない。 が、しかしこの力はまた精神的な力でもある。 勝利である。この勝利は、労働者大衆の力の発揮に由来する 生まれた時にのみ、勝利をえた。粗暴な、愚かな力は、破壊 し、それはつねに人びとの思想に影響を与えている。人びと することしかできない。逆に革命は、組織と思想の新しい型 自分たちの目的を意識している少数派の前で、無力である。 由来していた。たやすい勝利や敵の弱さについての幻想、一 に由来する、新しい建設である。革命は、人類の歩みの中で が新しい思想によって行動している時ですら、そうである。 時的な手段についての幻想、平和や統一という美辞の真価に 建設的な時期である。かつてのあらゆる革命以上に、労働者 大衆は、自分たちで形成する多数派が、敵よりも高い水準に ついての幻想、である。本能的でもっともな不信の現われが たちを社会の主人とする転換、全世界における労働の組織化 そこでは目標が、限られ制約された形で理解されている。新 見られる時、 ある人びとは︱︱当然ながら空しく ︱︱、 内的 のしかるべき配置は、彼らの精神を、彼らの道徳的な力を、途 精神的・知的な力を発展させない限り勝つことができないで な力と自信の欠如を、外的な方法によって、激しい過酷な拘 方もなく要求するであろう。 あろう。 束によって補おうと試みる。 しいスローガンは宗教として受け入れられているし、幻想が ここに、知識や理解が労働者たちにとっていかに大切か、 このこと、それを、支配階級はわれわれ同様に知っている。 有効な行動を抑制している。 の理由がある。精神的な発展が、プロレタリアートによる権 彼らはもっと本能的に、それを知っている。彼らは、大衆が 史上の大革命のいずれも、大衆の間に新しい精神的な力が 力奪取にとって、もっとも重要な要素である。プロレタリア あの理解に到達しないよう最善をつくすし、そうして彼らは、 過去における労働者階級の敗北は、ほとんどつねに幻想に 革命は、粗暴な、物理的な力の産物ではない。それは精神の 42 はじめに行動があった、と人はいう。しかしこのことは、行 り大衆の革命的自己・教育が開く、可能性のなかでである。 解決策が見出されるのは、行動と思想の間の相互交流、つま たされていなければ、決して勝利することはないであろう。 起される。すなわち、革命は、必要な諸条件があらかじめ満 大衆自身の無気力に援けをえている。ここでこそ、問題が提 行動が実現すれば人は、それに駆り立てた動機を理解しよ する。 を、これまでできると決して考えもしなかったことを、意識 ち、彼自身に自分を示す。そうして人は、自分にできること め、みんなを驚かしながら噴出する。行動の中で人はたちま れて、自発的に噴出する。行動は、その主体である当人を含 や意志を支配する無意識の中に深く閉じこめられた力に押さ がって、行動が先にあるが、それは行動が無意識の力に由来 動に先立つものが何一つない、を意味してはいない。人はつ しているからである。 うとする。そこで、原因と結果についての意識的な考察が姿 れらが働きを持つ可能性はないし、したがってそれらが人の このことは、個人についても、階級についても同じである。 ねに、自分の当面の行動とは無関係に、自分の以前の生活、自 意志に影響することはありえないからである。しかし諸印象 それは単に、すべての労働者たちが、今のべた過程を、多か を現わす。というのも、行動自身が新しい理解を生みだすし、 は、慣習によって・無気力という本能的な感情によって・時 れ少なかれ同じやり方で、個人的にたどっているからだけで 分の周囲の作用、そうしたものとして社会的な力である作用 には人が自らに強いる拘束すらによってしばしば抑圧されて はない。われわれが前述したことは、たぶんまた、個人より 行動が、以前はまだ人が認めることができずにいた、原因と いる、さまざまな緊張の原因になる。この状態は、諸印象の も階級にとっていっそう有効である。というのも、各個人の 結果を明らかにするからである。今や人は、結果を恐れてあ 圧力があまりに強くなり、好適な諸条件の下で緊張が放電を、 に由来する、諸印象にさらされている。 つまり行動を惹き起こすほど十分に高まるまで、つづく。 中で多かれ少なかれ漠然と、増大している階級の力、共同体 それらは、人の潜在意識に蓄積され保存されている。とい この行動は、内的な葛藤に先立たたれているにもかかわら の力が、個人によって感じとられているからである。 えてしなかったことを、あえて考えなくてはならない。した ず、熟慮されたものではない。自分が知り理解しているもの しかしそれは、同じ力が他者の中でも働いていると理解す うのも、この諸印象を実際に利用することはできないし、そ にもとづいて意識的に決定されたものではない。行動は、今 43 な大衆の間へと拡大されてゆく。 も強力であった小さなグループの中で行なわれ、ついで広範 るほど圧倒的になるまでつづくし、爆発はまず緊張がもっと 事実である。そしてこの状況は、抵抗する必要が爆発を強い 力の感情であり、自己保存本能が連帯の感情を抑圧している ることなしに、である。このことに由来しているのが、無気 いし、このスローガンは、生活の共通の経験と、それにもと かかわる、共同のスローガンの中に表明されなくてはならな が必要であり、それらすべては、きわめて具体的な諸目標に る共通性を、各自が分かち持ち、類似の欲求を共有すること そのためには、ものの感じ方の中である均一性、思想のあ 基盤だからである。 成功の第一条件であり、彼らの思想、彼らの感情が依拠する 意志を分かち持つていたのである。同様に一九一八年にドイ 問題は、ブルジョア著作家たちが彼らのいわゆる大衆心理 ツでは、労働者たち共通の意識によって彼らは、社会主義、つ づく諸思想の宣伝とに由来する。 衆の力なのだという自覚であり、それらの力が、相互の協力 まり労働の組織化が搾取を終わらせなくてはならないと、考 学において楽しんで描いているように、思考を欠いた、従順 に、連帯にもとづいているし、共同体の感情に支えられてい えさせられるにいたったのである。その結果として革命的な 一八七一年には、たとえばパリの職人、労働者、プチ・ブ る、という自覚である。ブルジョア諸革命においても、事情 行動が惹き起こされ、歴史的事実として実現された。 な、猿真似をする、追従者の調教ではない。問題なのは全く は同じだった。それは、市民たちが、最初の偉大な数々の革 しかしその意識は限られたものであり、その限界が、行動 ルジョアが、搾取するブルジョアジーを前にして、彼ら自身 命運動の爆発に当たって、反抗した時に、彼らが実際に、類 の限界の中に、最終的には結果的に生じ・敗北を導いた反響 の政治的運命を自分たちの手で握らなければならない、自分 似の諸思想と同じ意志を持つ大衆を形成した時に、見られた 逆であって、各自による力の発見であり、その発見によって、 ことであり、その同じ意志が、各自に他者を当てにさせ、し の中に、決定的に現われた。一八七一年には、革命について 人それぞれが自分の中に持っている力が、他者の中にも見出 たがって諸要求を大胆に力強く前進させたものである。この の政治的な性格の意識のみが存在し、強力な経済的組織化の たちの︽コミューン︾をつくらねばならない、という共通の ことは、労働者たちにとっても同じであり、もっと強い度合 必要性についての意識が欠けていたので、パリ市の限られた されることになる。つまりそれは、問題は確かに階級の力、大 でそうである。なぜなら彼らの間では、連帯、階級の統一が 44 だが、すべてを自分自身でしなければならない、労働の組織 しかし労働者階級の間で、初めはまだ漠然としていたもの ない、という信仰が支配していた。 争の力すら、党から、その指導者たちから、来なければなら 生みだしたのである。一九一八年には、社会主義、組織化、闘 産業的発展に結びついた、あのプチ・ブルジョア的な状況を り越えなければならない、一連の絶大な諸問題の前に立たさ というのも労働者たちは、自分たちが取り組み、解決し、乗 今や大衆は脱して、徹底した精神的活動の時期が開始される。 かった諸要求への、抵抗の一つの形であった古い無気力から、 る、 全力を要求する。 自分たちがまだわがものにしていな 組織化と建設は今や、行動に入った大衆がそそぐことのでき 除去された。しかし革命という創造的な作業、新しい社会の とること、新しいイデオロギーから具体的な核、階級の利害 化は、諸企業の基礎にまで及ぶ、労働者たち自身の事業でな という核を救いだすこと、である。 れているからである。 むつかしいものであったとしても、宣伝は、それが労働者た 敵の本質、目標、力についてのあらゆる無自覚、あらゆる くてはならない、という意志が生まれて以後は、それに由来 ちの経験に呼応する時、やがて豊かな果実をもたらすであろ 幻想は、災厄、敗北をもたらすし、新しい奴隷制を樹立させ 課題は単に自分たち自身の組織の問題ではなく、特に権力 う。その時、あの思想が、炎のように大衆をしっかりととら る。過去の闘争や展開から引きだされるあらゆる経験、理論 する行動が、新しい確実な発展の始まりを告げるであろう。 えるであろうし、彼らの行動がとるべき方向を示すであろう。 や歴史の中に集中的に見られるような経験が、今や不可欠で の座になおとどまっている支配階級との闘争の問題である。 政治的・経済的な遅れがあの意志を欠如させる所では、発展 ある。しかし、それ以上になされねばならないのが、よみが この特殊な目標を達成するのに彼らに必要なのは、古いイデ は、浮き沈みをともなう、ずっと大きな困難を止むなく経験 その意識を目覚めさせること、そうしたものこそ宣伝の基 するであろう。 えり行動に移される、思想についての全力をあげての自由な 本的な任務である。宣伝は、他者よりも先に理解に達した個 このように、はじめに行動があった。しかし行動は、始ま 探求である。創造的な思想が、今や闘争に全面的に献身する。 オロギーにうち勝つこと、新しいイデオロギーの仮面をはぎ り以外の何ものでもない。真の作業が、これから果たすべき 労働者たちが闘争の中や新社会建設の中で必要とする理解 人たち、小諸グループから分泌される。それが当初はいかに ものとして残されている。道は開かれた。いくつかの障害が 45 もし、真理を所有していると主張している人びとから与え いという自覚によってのみ、である。 み、持たねばならない知識をいたるところで探さねばならな 自己教育によってのみ、 各頭脳の徹底した活動によっての ても、えられるものではない。あの理解が獲得されるのは、 身にとどまっている人びとへの意識の外部からの注入によっ は、知識のある人びとから与えられる教育によっても、受け 圧力を用いて、自分たちの理論を大衆に強要し、他のあらゆ きた。彼らは、精神的な圧力や、可能なところでは物質的な プや党があり、宣伝によって労働者たちを獲得しようとして 真理を独占的に所有していると称する、いくつものグルー 彼らの精神の中で炎となる火花でありうるよう、願っている。 聡明な労働者もいる。それらの人びとがここで読んだことが、 て、ずっと具体的な諸思想を持つことのできる、何千人もの 和雷同する信奉者たちを作ろうとつとめること以外のもので る考え方を一掃しようとして、別のそれらの考え方に︵たと はなく、そうすることで新しい奴隷制を用意しかしない、と られる真理を、労働者たちがポカンと口を開けて受け入れる ところで、この著書の中でいっているすべては、吸収すべ いうことである。 えば、反動的、アナキスト的、資本主義的、ブルジョア的、 き普遍的な真理であるという意向を、いささかも帯びてはい 労働者大衆の自己解放は、彼ら自身による思想、彼ら自身 だけで足りるなら、事はまことにたやすかろう。しかし、彼 ない。それは、ある経験と、社会と労働者の闘争についての によって獲得された知識、真であり善であるものを見分ける ファッシスト的、等々の︶増悪をこめた名をつけて、大衆の 注意深い研究とに由来する、ある全体の形をとった一つの意 方法の自分自身による習得が、彼らの中で結合することを要 間に感情的な反感を挑発しようとしてきた。明白なのは、唯 見であり、他の人びとを考えさせ、労働と世界の問題につい 求する。自分の頭脳を働かせることは、自分の筋肉を働かせ らが必要としているまさしくこの真理こそ、彼らの外には存 て彼らを熟考させるために、ここで紙上におかれた、一つの 在しないのである。彼らはそれを、自分たちの中で、自分た 意見である。 ることよりもむつかしい。しかし、それを果たさなくてはな 一の流派によるそのような一方的な抱き込みは、実際には付 新しい見方を提示することのできる何百人もの思想家がい らない。なぜなら、筋肉を支配しているのは頭脳だからであ ち自身によって作りあげなくてはならない。 る。自分たちの実際の知識にもとづき、自分たち自身の能力 る。そうしないとすれば、彼の筋肉を支配するのは他人の頭 ヽヽヽヽ を理解するや否や、 自分たちの闘争や労働の組織化につい 46 である。古今の各専制政治、各独裁制は、あの自由を制限す 要なあの意識を、労働者たちに獲得させないようにするもの 物を検閲すること、それらすべては、解放を達成するのに必 とって死活的な条件である。その自由を制限すること、出版 無制限の討論の自由、 そ れ こ そ 労 働 者 た ち の 闘 争 発 展 に 脳となろう。 うる。 見なされたものが、明日は進歩の基礎とされることも起こり 非難し、悪いものと見なすことも起こりうるし、その悪いと で、意識と誠実さに満ちた労働者たちが、いくつかの意見を ちの路線なのか、彼ら自身で発見しなければならない。そこ すなわち彼らは、可能な道すべての中から、どれが自分た なく、労働者たち自身である。 練をすることによってのみ、それらの中から自分自身で選択 るか、廃止さえすることによってはじまった。あの自由の制 することによってのみ、である。 しかしながらそれにしてもやはり、資本主義に打ち勝つた で、悪影響をひたすら恐れる保護によって、精神的な後見役 大衆は、新しい諸思想によって開明され、均一的な思想に 限それぞれは、事実、労働者たちを束縛に導く第一歩である。 に頼る事によって、力が増大でき、したがって打ち勝つ能力 とらえられ、統一された・不一致のない・同じ意識に導かれ めに必要な、精神的優位を労働者階級に獲得させる基盤が築 が見出されるかのように。 て、奴隷制から受けついだあの失明状態からひとたび脱した しかしながら、虚偽から、毒物から、敵による宣伝の試み まさしく反対なのである! 敵のものを含む別の意見につ なら、たやすく自分たちの道を見つけられるであろう、と考 かれるのは、思想として存在しうるものすべてが世界の中に いての知識は、直接の源泉にもとづいて、解明の役割を果た えられがちである。しかし事態がそんなふうにきっと進まな 入れるよう、 大きな扉や窓を開いたままにしておくことに すのである。というのもその知識が頭脳を刺激し、その思考 から、労働者たちを保護しなければならない、あるいは、労 力を発展させるよう強いるからである。それにまた、敵が友 いであろうことは、すべての偉大な革命の歴史がわれわれに 働者たちは伝染病に身をさらさないよう自分たち自身で気を 人のふりをしているとすれば、さまざまな党派が労働者階級 教えるところである。 よってのみ、自分の頭脳を他のさまざまな頭脳と比較する訓 にとって危険なものとして、それぞれを告発し合っていると 革命的なそれぞれの時代は、熱狂的な精神活動の時期だっ つけなくてはならないとさえ、いわれることであろう。まる すれば、誰が偽から真を分離させねばならないのか。疑いも 47 なかれ純理論的な、新しい意見から生じるものである。なぜ ぞれが自分の新しい必要を自分の仕方で表明する、多かれ少 が見られよう。それらは、さまざまな人びとに由来し、それ 命の過程では、この上なく数多くの新しい考えが出現するの 教育の手段が刊行された。労働者階級を世界の主人とする革 た。夥しい政治的著作、新聞、パンフレット、大衆の自己・ それはつまり、初期の偉大な勝利の時期は、同時に各種︽党 古い支配を打倒し、未来の思想と行動の発展に道を開く。 標になっているものに支えられながらなしたこと、それが、 したこと、彼らの間ですでに共通の・しかしまだ曖昧な・目 な効果を持つ。重要な統一された行動の中で労働者階級がな 激烈な闘争によって苦労してえられたことのみが、持続的 能でもいいことでもない。 れを流布するためでもある。 ならそこで人類は、新しい方向を求めて模索しながら前進し、 しかしながらそれらの党派は︱︱あるいは討論グループ、 派︾間の激しい争いに満たされるであろう、ということであ すことができる。あの対抗によってのみ、数々の意見が形成 宣伝連盟、 それらに与えられる名前はどうでもいいけれど 新しい道をさぐり、各自の精神の中で闘い・相互に対立して され、発展されうるのであって、そうした意見が、明るく輝 ︱︱、われわれが過去に知っている政治的党派という組織と る。なぜなら自動的に諸党派それぞれは、同じ意見を分かち く光のように、次第に大衆の間に浸透し、彼らを刺激するこ は、全く違った性格のものである。なぜならかつてにおいて いる、さまざまな意見の競り合いに身をゆだねているからで とになる。あれら各種の思想それぞれの中に、実際には多か は、ブルジョア議会の中で諸政党は、対抗している各階級の 合う人びとを結集させるであろうし、それは、当の意見を明 れ少なかれ大きな、真実の断片が潜んでいるのである。 利害の担い手であったし、生まれたばかりの労働運動の中で 確化させるためでもあり、それを発展させるためでもあり、 一見したところ人は、労働者階級全体が、真理を知ってい ある。 る︵あるいは、知っていると思っている︶人びとからもたら は、それらは階級の指導部であろうとするグループだった。 精神活動のこの自然発生的な開花によってのみ、新しい時 された真理を、吸収するであろう、ついでその真理が、一致 今や、ここで問題にしている諸グループは、意見の組織、共 彼らの真理を引きだし、そのために闘い、それを擁護し、そ して全員によって、現実に恒久的に適用されるであろう、と 通の見方を弁護する連盟以外のなにものでもない。 彼らに 代の真理を表明する、有効な偉大な諸思想が結晶し、形をな いう魅惑的な幻想を共有しうるであろう。しかしそれは、可 48 労働者階級は、自分たちが行動するための彼ら自身の機関、 力のためではなく、意識の発展のための闘いである。 ることも、もはやできない。諸︽党派︾の闘いは、もはや権 領であると自らを考えることも、労働者階級をわがものにす ない。諸︽党派︾が、以前のように労働者階級の代弁者、首 とって階級の代わりになろうとすることは、もはや問題では 古い世界から受けついださまざまな意見の間の各種のへだた ずる、と思ってもならない。確かに最初の諸段階においては、 は勝利のあとには消滅し、次第に拡大する画一化に場所をゆ 時的な思想の錯綜である、と思ってはならないし、その時期 ここで問題なのが、誤りと錯乱の時期に呼応する、全く一 永続的な相互作用の形をとることになる。 タリア革命は、思想と行動の両者がそれぞれに刺激し合う、 の発展とともに、それらの困難は次第に乗り越えられること 労働者評議会という組織を発見した。彼らは彼ら自身でそう になろう。そしてやがては、生活様式と労働環境が、この上 りや、労働環境の︱︱たとえば小企業と大企業の労働者の間 組織の中で、評議会の中で、相互につき合わされ、最終的に ない多様さを持つことになろう。すなわち、精神生活の豊か した評議会を形成する。それらの機関こそが、行動を引き受 は決議、決定、共通の行動として、一つにならなければなら でさまざまな源泉と基礎が作りだされるであろう。古い資本 の、都市住民と田舎の住民の間の、農民と技師の間の︱︱違 ない。 主義社会の中で、諸グループや諸階級の精神生活の致命的な け、各瞬間になすべきことを決定しなければならないのであ 諸思想が曖昧で明晰でない限り、諸決定は優柔不断なもの 画一性をもたらしていたものすべて︱︱教育と知識の中の制 いが、対立、痛ましい不和、さらには何度にもわたってさえ、 になるし、行動は力のないものになる。意見の諸組織が果た 約、労働の中での制約、つねに同じ部品の同じ操作をさせる、 重大な紛争を生じさせることであろう。 さなくてはならない重要な任務、それはまさしく、明確な形 る。あらゆる意見は、それが共通のものであれ対立するもの で各種の見方を表現すること、整理すること、労働者階級が あまりにも長くあまりにもうんざりさせられる労働時間をと であれ、矛盾していようといまいと、あれこれの階層ないし 用いることのできる道具となるよう精神的な力を組織するこ もなう、同じ型通りの仕事の中で一生を過ごさせるにいたる しかし革命の進展とともに、統一の増大とともに、組織化 と、である。そうして意見の諸組織は、新しい諸行動の発展 制約︱︱は、消滅するであろう。この消滅とともに、人間精 党派によって流布され擁護されている意見も含めて、工場の の中で、実り多い役割を果たすことになる。そうしてプロレ 49 る。なぜなら、そうしなければ、支配の唯一の中心にもとづ よって、どこでも同じ方法によって社会を機能させようとす 一的な規制である。 すなわち、 全員に対して有効な法令に 第一の型の中では、問題は、あらゆる面でのできるだけ画 の協働にもとづく組織の、対照性がある。 よって強制される組織と、下からの組織、自由な生産者たち そこに、上からの組織、中央権力によって命令され、力に 神が花開きはじめるであろう。 それぞれは限りなく違っていよう。世界は限りなく豊かであ 人びとの才能は限りなく豊かさを持つであろうし、人びと がら輝しい多様性をもたらさなくてはならない。 は労働のように発展されなければならないし、当然のことな 一化を導く。自由な労働者たちの世界においては、精神生活 精神生活を規制する指導もまた必要だし、それは貧困化と画 活気づける。上から統治する権力が存在しているところでは、 精神生活が今や労働の諸条件に反映しているし、それらを 労働の新しい組織化に由来しているものである。 れる精神生活は、さらに大きな複雑さ、多様性を示す。 いて、社会を管理し、社会の歩みを規制することができなく 精神生活と労働過程の間の相互影響は、ずっと緊密な重要 り、誰も自分の労働の中では理解できないほどの、誰も同じ の中で自分たち自身の仕事を彼ら自身で管理し、絶間ない討 なものになる。すなわちそれは、同一の関係、人間と世界の やり方でも、すべての細部にわたっても、わがものにできな 論を介して互いに順応し合い、相互に諸思想を供給し合い、 関係の、二つの側面を発展させる。爆発を惹き起こすまで人 なるからである。 この相互交換によって、もっとも有効な組織を共同して形成 びとを締めつけてきたかつての抑圧も、さまざまな緊張も消 第二の型においては逆に、基本となるのは何千もの人びと するのである。 滅している。それらに代わって今や、思想と行動の統一をも いほどの、多面的な外観を示す。才能と社会的実践から生ま 彼らの労働は何千もの違いを示すし、全員が、実際的な理 たらす相互作用が発展する。 の発意である。彼らが、自分たち自身で考え、何千もの職場 由から、科学的な反省から、芸術的な想像力から、自分たち 編者注。パネクーク著﹃労働者評議会﹄の出版は、三つの国語 の労働を完成させ、もっと有効な・もっと満足のゆく・もっ と美しいものにするよう、試みるのである。全員に共通して いるのは、社会についての、生産の統一についての、全体的 な見方、広い見方を改めて持つ可能性であり、それは彼らの 50 る。しかしこの版では、英語版で削除されたものを﹁付録﹂とし フランス語版は、第一部から第五部まで英語版を踏襲してい た。 部﹁敵﹂の中に組み入れ、﹁思想と行動﹂を含めて残りを削除し パネクークは、オランダ語版第三部﹁思想﹂の一部を英語版第三 された第五部﹁平和﹂の五部構成である。この版編集に当たって ﹁闘争﹂、第三部﹁敵﹂、第四部﹁戦争﹂、そして一九四七年に執筆 パネクーク自身が英訳した英語版は、第一部﹁任務﹂、第二部 版の第三部に収められた。 かれた第五部﹁戦争﹂からなっている。﹁思想と行動﹂は、この 二部﹁闘争﹂、第三部﹁思想﹂、第四部﹁敵﹂と、一九四四年に書 は、一九四一年から四二年にかけて書かれた第一部﹁任務﹂、第 三つの国語の版は、いずれも構成が違っている。オランダ語版 と一九八二年にフランスで、刊行されている。 メリカで、一九八八年にイギリスで、フランス語版は一九七四年 で、英語版は、一九五〇年にオーストラリアで、一九七〇年にア で六回にわたっている。オランダ語版は一九四六年にオランダ 社会主義運動左派の特異な論客だった彼を、社会主義思想史上 議会共産主義の大成者となる。 る、労働者評議会についての思想の体系化をはかり、いわゆる評 変革を進めるものでもあり、革命後に社会を管理するものでもあ ロシア革命への批判を深めつつ、彼は一九二〇年代以降、社会 である。 結集した労働者階級のみが、真の解放を行ないうると説いたから 前衛党を本質的に反革命的なものとして非難し、労働者評議会に する。彼が、ロシア革命をブルジョア革命の一つの型ととらえ、 しかしレーニンは、﹃左翼小児病﹄の中では一転して彼を罵倒 てレーニンは、﹃国家と革命﹄の中で彼を賞賛する。 てその立場を貫く。カウツキーとの論争は有名で、これに関連し まではドイツにあって、ドイツ社会民主党の中などで、左派とし ランダの社会民主労働者党の中で、ついで一九〇六年から一四年 他方で彼は、十代の終わりから社会主義運動に加わり、まずオ を受ける栄誉に輝く。 める。その間、天文学上の多くの業績によって数々の国際的な賞 一九二五年にアムステルダム大学教授となり、一九四三年まで勤 学を学び、一九〇二年に博士号を取得する。一九〇六年まではラ 天文学者である。オランダの農村に生まれ、ライデン大学で天文 彼には二つの顔がある。一方で彼は、世界的に知られた著名な ではオランダの原音に近いパネクークを採用することにする。 日本ではパンネクックと表記されることが多いけれども、ここ アントン・パネクーク︵一八七三︱一九六〇︶ りつづけている。 た。しかし一九六〇年代以降、この著書への評価は国際的に高ま れたものの、ごく少数の人びとの間で注目されたにすぎなかっ この画期的な書物は、彼の生前、オランダ語版と英語版がださ 働者評議会﹄である。 いで一九四四年と一九四七年とに、断続的に執筆した、大著﹃労 ランダで書きはじめ、まず一九四一年から翌四二年にかけて、つ の一段階を代表する思想家としたのは、彼がドイツ軍占領下のオ て復活させ、そこに﹁思想と行動﹂が収められた 。 イデン天文台で働き、それから政治活動による長い空白ののち、 51 *﹁交流と運動﹂は、 パリを主な連絡拠点とする、 労働運動と左翼 急進派の活動についての、情報と討論の交換のための国際ネット ワーク。フランスの﹁労働者情報通信﹂︵二十頁参照︶やオランダ の評議会共産主義グループの出身者など、ドイツ、フランス、イ ギリス、オランダ、イタリア、ノルウェーの人びとを中心にして、 一九七五年に設立され、季刊﹃交流と運動﹄などを刊行している。 詳しくはわれわれのパンフレット ﹃ストライキの季節 夢見る 日々、フランス一九九五年十一月︱十二月﹄を参照のこと。なお 次のWEB頁にPDF形式のファイルにして収録してある。 http://www.bekkoame.ne.jp/~rruaitjtko/french.html 自由共産主義思想の新しい青春 2000 年4月 15 日 発行 発 行 「交流と運動」編集委員会 〒 101-0051 東京都千代田区神田神保町2 -48 協栄ビル2階 関一般RRU内 定 価 600円 52
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