日本セトロジー研究 Japan Cetology (24):33-61(2014) ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と 1909‒1910年の日本周辺での行程 宇仁 義和 1) ロバート・ブラウネル 2) 櫻井 敬人 3) Whale research by Roy Chapman Andrews in Japan and Korea, and Retracing his Footsteps around Japan in 1909-1910 Yoshikazu Uni1), Robert L. Brownell, Jr.2), and Hayato Sakurai3) 要 旨 ロイ・チャップマン・アンドリュースが1910年にスミソニアン協会アルバトロス号のフィリピン 調査に参加した後、日本で行った鯨類調査とそれまでの足取り、そして1912年に朝鮮で行った鯨 類調査を復原した。調査はニューヨークのアメリカ自然史博物館(AMNH)に保管されているア ンドリュースが収集した鯨類標本や手紙、報告書、写真、調査日誌を資料とした。アンドリュース は紀伊大島では8頭の鯨を調べ3個体分の全身骨格を確保した。鮎川では62頭以上を調査し、巨大 なオスのマッコウクジラの骨格を収集した。蔚山ではコククジラ23頭を含む32頭の鯨を調べ、全 身骨格も収集した。これらの調査活動が可能になったのは東洋捕鯨(株)の社員や現場従業員、本 社や事業場の全面的な協力によるものであった。東洋捕鯨は別にツチクジラやシャチの骨格も寄 贈している。マッコウクジラ、ツチクジラ、シャチの骨格標本はアメリカ自然史博物館で19331962年の間に展示されていた。コククジラの標本はスミソニアン協会国立自然史博物館で現在に 到るまで展示されている。彼は他にも横浜、日光、神戸、門司、台湾、沖縄、土佐清水、そして瀬戸内 海にも立ち寄り写真を撮った。紀伊大島と鮎川、蔚山の写真は近代捕鯨の初期の姿を写した唯一 のまとまった写真であり、アンドリュースの写真や文書は、生物学的にも文化人類学的にも将来 の貴重な研究資料である。 Abstract We followed the footsteps of Roy Chapman Andrews (RCA) when he studied whales, dolphins and porpoises in Japan in 1910, after being a member of the Smithsonian Institution’s USS Albatross Philippine Expedition, and Korea in 1912. We examined the cetacean specimens that RCA collected and his correspondence, publications, photographs and journals preserved in the American Museum of Natural History (AMNH), New York. At Kii-Oshima, RCA examined eight whales and secured three skeletons and at Ayukawa he examined over 62 whales and collected a large male sperm whale. At Ulsan he studied 32 whales including 23 gray and collected several skeletons. His research activities were whole-heartedly supported by Toyo Hogei K.K. (Oriental Whaling Company) officers and workers at both the head office and the land stations. The company also presented the AMNH with two skeletons of Baird's beaked whale and killer whale. The skeletons of the sperm whale, Baird’s beaked whale and killer whale were exhibited in the AMNH between 1933 and 1962, and the gray whale skeleton has been on exhibit in the National Museum of Natural History, Smithsonian Institution, Washington, D.C. RCA also visited and took photographs in Yokohama, Nikko, Kobe, Kyoto, Moji, Taiwan, Okinawa, Tosa-Shimizu and the Seto Inland Sea. RCA photographs at Kii-Oshima, Ayukawa and Ulsan are the only images of early modern whaling. All these photographs and his archives are an important resource for future scientific and anthropological studies. はじめに Introduction た。その風貌と活躍から映画の主人公インディ・ジョーンズ ロイ・チャップマン・アンドリュース Roy Chapman Andrews Indiana Jones のモデルといわれる。 日本では彼の知名度は 1884‒1960(図1) は、1920年代にモンゴルを調査した中央ア さほど高くないが、 アメリカでは自国が生んだ20世紀の探検家 ジア探検 the Central Asiatic Expeditions を率い、 ゴビ砂 として名高く、1999年にふるさとのベロイト Beloit では彼の功 漠で恐竜の卵を発見した野外研究者である。高校卒業後、 績をたたえる 「ロイ・チャップマン・アンドリュース協会」Roy 出身地のウィスコンシン州 Wisconsin を離れ、憧れであった Chapman Andrews Society が設立されている。 ニューヨークにあるアメリカ自然 史 博 物 館 A m e r i c a n 恐竜のイメージが強いアンドリュースだが、研究者としての Museum of Natural History(AMNH)に職を得た。最初 経歴は鯨類に始まる。博物館で最初に得た大きな仕事が は技術補佐員であったが学芸員となり、最後は館長を務め ニューヨーク郊外のロングアイランドに漂着したセミクジラの回 1)東京農業大学生物産業学部 〒099-2493 北海道網走市八坂196 1) Faculty of Bioindustry, Tokyo University of Agriculture, 196 Yasaka, Abashiri, Hokkaido 099-2493, Japan. 2)アメリカ国立海洋漁業局 2) NOAA Fisheries, 1352 Lighthouse Ave., Pacific Grove, California 93950, USA. 3)太地町歴史資料室 〒649-5171 和歌山県東牟婁郡太地町太地3077 3) Taiji Historical Archives 3077 Taiji, Wakayama 649-5171, Japan. 33 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 れ、彼の日本での足取りは定かではない。 本稿は、 アメリカ自然史博物館に所蔵されているアンド リュースの手紙や写真、調査日誌、鯨類標本を用いて、 これら 資料の日本関連部分の内容、 および彼が日本と朝鮮で収集 した鯨類標本を明らかにし、1)1909‒1910年の日本やその周 辺での足跡の復元、2) 日本での鯨類調査の実際、3)東洋捕 鯨の協力、4)収集標本の利用、 について考察したものであ る。 資料と方法 Materials and methods おもな調査は、 ニューヨークのアメリカ自然史博物館が所蔵 するアンドリュースの手紙や写真、調査日誌、そしてアンド リュースが収集に関わった鯨類標本を観察し、撮影すること であった。調査期間は1回目が2011年10月11‒14日、2回目は 2013年2月4‒8日、3回目は2014年1月21‒24日であった。1‒2回 目は著者3名によって、3回目は宇仁だけで行なった。補足調 査として、2014年1月27‒29日にスミソニアン機構アーカイブ 図1 中央アジア探検の途中、モンゴルのゴビ砂漠でポーズをとるロイ・ チャップマン・アンドリュース(1928年) Fig. 1 Roy Chapman Andrews, Central Asiatic Expedition, Gobi Desert, Mongolia, photographed in 1928. Image #338695 American Museum of Natural History Library Smithsonian Institution Archives で、 アンドリュースが乗 船したアルバトロス号 Albatross I の調査日誌 Logbook や 地 図を閲 覧したほか 、国 立自然 史 博 物 館 N a t i o n a l Museum of Natural History(NMNH)の常設展示室にあ 収と、 それをもとにした実物大のセミクジラの模型製作であっ るコククジラ骨格標本を観察した。 また、手紙や著作に登場す た (Andrews 1943)。本格的な野外調査もカナダ太平洋岸 る人物を特定するため、2013年2月21‒22日および5月10‒13日 でのヒゲクジラ調査、 セントローレンス川でのシロイルカ (ベルー に北九州市戸畑にあるニッスイパイオニア館を訪問し、同館 ガ)調査であった。 日本には1910年に滞在し、東洋捕鯨の紀 が保管する東洋捕鯨時代からの社内文書「事業場長必携」 伊大島(和歌山県)や鮎川(宮城県)の事業場で調査を実 を閲覧した。アンドリュースの著作や伝記(Gallenkamp 施、鮎川の調査をもとにリクゼンイルカを新種として記載したほ 2001、 ガレンカンプ 2006) も必要に応じて利用した。 か(Andrews 1911)、 イワシクジラのモノグラフを出版した 対象にした資料は次のとおりである。 (Andrews 1916a)。帰国後の1912年には朝鮮半島に渡り、 34 南東部にある蔚山でコククジラの調査を行なった (Andrews 手紙 Correspondence 1914)。 しかし、アメリカでは鯨類研究者としての期間は、 調査対象としたのは、 アメリカ自然史博物館の哺乳類研 華々しい成 果を上げた中央アジア探 検の前 史あるいは 究部図書文書室(以下、哺乳類アーカイブ)the Mammal- 助 走 期 間として認 識されているようである。たとえば 、一 ogy Departmental Library & Archives(DLA)および 般 的な認 識を示す資 料としてウィキペディアが考えられ 同館の研究図書館貴重資料室(以下、貴重資料室)the るが、英 語 版ウィキペディアには日本での鯨 類 研 究に関 Special Collections of the Research Library に保存され してはまったく記 述 がない(http://en.wikipedia.org/ ている手紙である (図2)。 アンドリュース宛およびアンドリュース wiki/Roy Chapman Andrews 2014年4月29日閲覧)。 ま 発の手紙は、彼が終身雇用 tenure の職を確保した1920年 た、近年翻訳が出版された伝記『ドラゴンハンター』 (ガレンカ 頃を境に別れて保管されており、1908‒21年のものは哺乳類 ンプ 2006) でも6ページほどの記述に留まっている。加えて同 アーカイブに、 それ以降の終身雇用者となった時期のものは 書の原著(Gallenkamp 2001) のうち日本に関する記述には 貴重資料室に保存されている。 誤りが目立ち、訳書も誤りをそのまま伝えている。具体的には、 哺乳類アーカイブでは、手紙は引き出し式キャビネットで名 アンドリュースが滞在した宮城県牡鹿町(現・石巻市)鮎川を 字順に整理されている。手紙は、 アンドリュース宛のものと彼 佐渡島の相川、高知県土佐清水は静岡県の清水、紀伊大 が博物館に宛てたものの両方が保管され、 さらにアンドリュー 島にいたっては伊豆大島(ガレンカンプ 2006:58‒59) といっ ス自身が博物館から発信した手紙もそのカーボンコピーが保 た具合である。誤記はアンドリュース自身の著作にも散見さ 存されている。手紙は基本的に原本だけが保管されている ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 が、 とくに破れやすい紙や裏写りする紙に書かれた手紙は封 び MATSUZAKI, M. Tokyo 1912‒'13 の2フォルダがあ 筒に入れコピーとともに保管している場合がある。各人の手紙 る。 なお、Mammalogy Archives Index に記されていた日 はフォルダで項目別に整理されており、 アンドリュースの場合、 本人の名前と思われるフォルダ Ogiwara, D.、Shibuya, T.、 哺乳類アーカイブの Patricia Brunauer 氏によって、 およそ Uchida, T. は見つからなかった。 これらが差出人または宛名 45フォルダに整理され、関連するフォルダを簡略記載した1枚 となった手紙は TOYO HOGEI K.K.(Oriental Whaling の索引 Mammalogy Archives Index が作成されている。 Company)1910‒17 のなかに見つかったので、 このフォルダ 調査したフォルダは次のとおりである。 アンドリュース AN- に編入されたのかも知れない。 また、FOLDER I I‒5A, DREWS, ROY CHAPMAN を表題にしたフォルダのうち、 1910‒'18 OSBORN, H. F. Miscel. Corres. と FOLDER 内包する手紙のすべてを複写したフォルダは、 以下の9フォルダで III-1, 1908‒15 Expeditions には結果で述べるとおり調査報 ある。FOLDER II‒1, 1908‒'20 Intra Mus.‒Misc.、 告書と考えられるレポートが含まれていた。 FOLDER IV-5, 1912-13 Lecture. Misk. Corr.、FOLDER 一方、貴重資料室では複写したフォルダは Andrews, V-3, Equipment and film, 1909‒'21、FOLDER VI-1 Sci. Roy Chapman Letters from Japan 1912 and 1918, Rsch. Miske1、FOLDER VI-2 Sc1. Misc. Corrs.、 Added from misc. filing cabinet collection October 13, FOLDER VI-3 Sc1. Misc. Corres、FOLDER VII‒1, 1944 のみで、含まれていたすべての手紙を複写した。 1908‒'12 Whale Collecting、FOLDER VII‒2, 1913‒'20 手紙の日付は、 アンドリュースが日本から発信した手紙や直 Whale Collecting、FOLDER VII‒3 Whales-Use as 接引用する場合は原文どおりの米式とし、 その他はおおむね Food。 英式を用いた。 一部の手紙のみ複写したフォルダは、FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.、FOLDER II‒3, 1908‒'20 調査日誌 Journals Bumpus, H. C. Corres.、FOLDER II‒4, 1908‒'20 Lucas, 調査期間中に記載したと思われる調査日誌 journals が F. A. Corres.、FOLDER II‒5A, 1910‒'18 OSBORN, H. 研究図書館に保管されており、 日本と朝鮮での鯨類調査でも F. Miscel. Corres.、FOLDER III-1, 1908‒15 Expeditions それぞれ1冊が残されている。 日本分は Andrews Journals の5フォルダである。 またアンドリュースの名前を含まないフォル 1908‒1912, vol. 3 Whale Notes Measurements Japan, ダのうち、すべての手 紙を複 写したフォルダに、T O Y O 1910、 朝鮮分は vol.4 Whale Notes, Measurement Korea HOGEI K.K.(Oriental Whaling Company)1910‒17 およ Jan.‒Feb. 1912 と題されており、全ページを複写した。Vol. 1‒2 は1908年のバンクーバー島での鯨類調査の記録であ る。Vol. 3 の大きさは外寸で縦264×横196×厚さ20mm、 ペー ジ数は1‒202ページが与えられており、 その前後の数枚にも記 載事項があった。解読の参考資料として、著者の依頼により マサチューセッツ在住の Jonathan Olly 博士が複写写真を もとに作成した抄録翻刻を利用した。 なお、現場でメモをした 野帳 field note や個人的な日記は見つかっていない。 写真 Photographs アンドリュースが撮影した写真は貴重資料室に保存されて いる。内容は、4×5判と5×7判のガラスネガ(ガラス乾板)、動 画を撮影したロールフィルム、閲覧用プリント、 そして映写会用 着色スライド lantern slides である。 ネガの撮影情報は、4×5 判と5×7判とに分かれて作成されたネガ台帳に記載されてお り、4×5判ネガ台帳では NEGATIVES TAKEN BY R.C.ANDREWS ON PACIFIC EXPEDITION 1909‒10 および R.C.ANDREWS ON PACIFIC EXPEDITION 図2 日本郵船株式会社の蒸気船「安芸丸」船内で記されたアンドリュー スの手紙(アメリカ自然史博物館哺乳類アーカイブ蔵) Fig. 2 Letter written by RCA onboard Aki-Maru. Mammalogy Archive, AMNH 1909‒10 という表題が付けられた2つの部分にまとめられてい る。所属するネガ番号は26570‒26841と26844‒27390である。 なお2つの表題の間には SOUTH PACIFIC EXPEDI- 35 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 TION という表題があるが小見出しは S.S.Albatross の1つ ンマネジャーによると、収蔵庫の正式名称は建物名、階数、部 のみ、 ネガ枚数も3枚 26841‒3 のみであった。5×7判ネガ台帳 屋番号の組み合わせで示されるだけで部屋の固有名称はな (5 x 7 Negs. 14023‒19916) では大枠の表題は与えられず いという。本稿では便宜的な名称を与え、正式名称をその後 1枚づつ撮影場所が記載されていた。 日本関係分のネガ番 に付記している。 号は14660‒14733および14809‒14841である。 国立自然史博物館の標本は、 インターネットで公開され 閲覧用プリントはおおむね4‒6枚が1枚の台紙に貼り付けさ ている標本データベース Search NMNH Collections れた状態で、貴重資料室にあるバーチカルファイル vertical (http://collections.nmnh.si.edu/search/mammals/ files に整理されており、調査フォームを送って予約すれば閲 2014年5月9日閲覧) を Whale Collection Search で検索し 覧可能である。閲覧用プリントの台紙には、撮影データとして、 た。 コククジラの展示標本については、状態を観察したほか、 ファイル番号 Filing No.、 ネガ番号 Neg. No.、 被写体 Subject、 解説内容や来歴について検討した。 撮影地 Locality、 探検名 Expedition、撮影者 Taken by、 日 付 date、 原番号 Original No.、 台帳番号 Cat. No.、 スライド番 アルバトロス号関係資料 号 Slide No.、 出版 Published、 備考 Remarks などの項目が Documents on S.S. Albatross 設けられている。 アルバトロス号(I)はアメリカ漁業委員会により建造され 調査では、4×5判と5×7判のネガ台帳、 そして閲覧用プリン 1882年に竣工した世界初の大型海洋調査船で(Allard トをデジタルカメラまたは非接触式スキャナで複写したほか、 1999: 5)、同名船のうちアンドリュースが乗船し、本稿が調 52枚の着色スライドからなる講演会用のスライドセット1本分と 査対象としたのは最初の船で帆を備えた蒸気船である。 アル 台本 "EXPLORATION TALES For SOLDIERS AND バトロス号の調査日誌 Logbook and Journal はスミソニア SAILORS, Camera Hunting for Whales by Roy Chap- ンアーカイブと国立公文書館 the National Archives に分 man Andrews, Prepared for the Y. M. C. A. by The かれて保管されており、本調査で閲覧した資料はスミソニ American Museum of Natural History, New York アンアーカイブ保管の資料である。資料の閲覧はあらかじめ City" を複写した。複写した写真はコンピュータで画質調整を データベース (Search ¦ Smithsonian Institution Archives 行い、撮影場所の比定には主としてインターネットで閲覧可能 http://siarchives.si.edu/search/sia_search タグを な写真を用いて比較したほか、一部は現地調査を行った。加 FINDING AIDS にする) で検索しておき、事前の請求が必 えて専門の博物館などに問い合わせた。 要である。 なお、動画については撮影したロールフィルムは発火予防 を目的に冷蔵庫に保管されており閲覧困難なため、実見しな ニッスイパイオニア館所蔵「事業場長必携」 かった。 Handbook for station masters of Toyo Hogei アンドリュースが調査のために滞在した捕鯨事業場(いわ 36 標本 Specimens ゆる捕鯨基地) は、東洋捕鯨株式会社の事業場であった。東 アメリカ自然史博物館が所蔵する鯨類標本のなかから、 洋捕鯨は当時の有力捕鯨会社が合併して1909年(明治42) 1910‒1912年に日本と朝鮮で収集された標本について調べ に設立された捕鯨会社である (明石 1910:276‒277)。当時 た。標本の抽出はインターネットで公開されているデータベー 世界最大の規模を誇ったが、1930年代に共同漁業に合併し ス AMNH Vertebrate Zoology Database た。共同漁業は日本産業の傘下に入った後、 日本水産に改 (http://sci-web-001.amnh.org/db/emuwebamnh/index. 称(宇田川・上原監修 2011:116‒121)、戦時下の統制経済 php 2011年10月閲覧) を用いた。抽出した標本の種別は、乾 で企業の統合や改称を経て、戦後に日本水産株式会社が 燥標本(頭骨、骨格)skull and skeleton および液浸標本 再出発する。 そのため東洋捕鯨の後継会社は日本水産とな fluid からなる。 る。 「ニッスイパイオニア館」 ( 北九州市戸畑) は同社が創業 鯨類標本の収蔵場所は、頭骨や骨格標本は地下の哺乳 100年を記念に設立した資料館で、 ここに明治大正期に る 類収蔵庫 17-ll-ML4、液浸標本は液浸標本庫 20-5-113 に 東洋捕鯨時代以来の内部資料である 「事業場長必携」 が保 置かれ、新種記載に用いられた標本はタイプ標本庫 1-5-45 存されている。 これは沿岸捕鯨の事業場長が代々引き継い に、頭骨や下顎骨など巨大な骨格は博物館とは別のブルック できた操業記録と地域関係の手引きというもので、現在の国 リンにあるブルックリン収蔵庫 Brooklyn storage ware- 土に加え、樺太や千島列島、朝鮮や台湾などの海外領有地 house(Brooklyn Army Terminal, 140 58th Street, を含む33個所の事業場分が確認されている。内容は、事業 Brooklyn, NY 11220)に保管されている。同館のコレクショ 場の沿革や操業期間、捕獲統計、税務や地域対策などが記 ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 された累年的な冊子である。本調査では、 アンドリュースの手 Ryukyu、Mibu(1点)7 Jun 1913 Shimonoseki, Nichi-Yei 紙や著作に現れる人物の特定に用いた。 Boyeki Shokai(Anglo-Japan Trading Co.)、Nagasawa (1点)23 Jun 1915 Tokyo, Zool. Inst., Sci. Coll., I,p. 著書、公刊論文、その他 Univ., Tokyo、Ogiwara(15点)6 Feb 1913 Shimonoseki, Books, papers and other materials 10 Nov 1911 Grimesby, 10 Oct 1911 Grimesby, 14 Nov アンドリュースの日本での鯨類標本の収集、朝鮮や揚子江 1912 Shimonoseki, 16 Apr 1911 London, 19 Aug 1912 ? への探検の報告は、1910年代の American Museum none, 15 Sep 1911 Grimesby, 20 Nov 1912 Shimono- Journal に掲載されており、1900‒1917年分はオンラインで入 seki, 23 Aug 1911 Grimesby, 23 Jan 1911 Shimonoseki, 手可能である (http://digitallibrary.amnh.org/dspace/ 24 Oct 1911 Grimesby, 25 Oct 1911 Grimesby, 26 Aug handle/2246/6145 から検索可能。2014年5月9日閲覧)。 た 1912 Shimonoseki, 27 July 1911 Grimesby, 27 Oct 1912 だし、一部のpdfはOCRが不完全のようで、 テキストデータに Shimonoseki、Olsen(2点)1 Oct 1911 Oshima, No.1 は誤字が目立つ。必要に応じて用いた刊行論文や書籍につ Hogei, 10 Aug 1911? Korea、Shibuya(2点)13 Jul 1912 いては、結果を述べる際に出典を明記する。 Osaka, 29 Jan1915 Shimonoseki、Uchida( 7点)4 Nov なお、著作や手紙、調査日誌などの引用の際、誤字や補足 1910 Oshima, 6 Feb 1911 Oshima, 7 Mar 1913 Tokyo, を目的とした本稿著者による挿入は [ ] で示した。 9 Jan 1911 Oshima, 20 Mar 1911 Oshima, 25 May 1911 Aikawa, Mexico? 27 Dec 1912。 結果 Results また、O g i w a r aの手 紙にはアンドリュース宛 以 外に 手紙 Correspondence National Ammonia Company に宛てた手紙のカーボンコ アンドリュースが日本や当時の領有地から出した手紙は、 ピー Ogiwara to National Ammonia Company 6 Feb 1913 哺乳類アーカイブの FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. from Shimonoseki(copy)が見つかった。MATSUZAKI, Corres. から1909‒1910年に差し出されたもの9点、貴重資料 M. Tokyo 1912‒'13 のフォルダには Matsuzaki がアンド 室の Andrews, Roy Chapman Letters from Japan リュースに宛てた手紙9点が見つかった。Matsuzaki(9点)13 1912 and 1918, Added from misc. filing cabinet collec- Feb 1911 Tokyo, 20 Jun 1911 Tokyo, 22 Dec 1911 tion October 13, 1944 から1912年と1918年のものそれぞれ Tokyo, 12 Jan 1912 Tokyo, 11 Feb 1912 Mexico, 22 1点計2点が見つかった。手紙の冒頭に記された地名や日付 Sep 1912 Mexico, 26 Dec 1912 Mexico, 6 Jan 1913 を発信地や作成日と判断した。哺乳類アーカイブの手紙の受 Mexico, 9 Feb 1913 Mexico。 取人はすべてアレン学芸員で、発信地と作成日は安芸丸(横 それ以外のフォルダでは ANDREWS,ROY_CHAPMAN_ 浜神戸間)en route to Kobe from Yokohama, S.S. Aki- FOLDER_V-3 に Takagi からの手紙2点 Takagi to maru Sep. 21, 1909(図2)、基隆 Keelung Feb 1, 1910、紀 RCA in Seoul 2 and 16 Jul 1912 Kobe, Tamamura 伊大島 Ôshima Mar. 9, 1910、鮎川(5点)Jun 5, Jun 29, Photographic Studio and Art Gallery[玉村写真館] が、 July 14, July 25, Aug. 19, 1910、蔚山 Urusan(ママ as ANDREWS_WhaleCollecting_1908‒12 FOLDER VII‒1 written)Jan. 16, 1912 の9点であった。貴重資料室の手紙 には C. NICKEL & CO., LTD からソウルのアメリカ領事館 は、George(Borup)14 May 1912 from Shimonoseki, 気付の手紙1点とニューヨーク宛の2点、計3点が保管されて SANYO HOTEL、 およびAllen 29 Sep 1918 from Kyoto いた C. NICKEL & CO., LTD.to RCA 26 Apr 1912 with the notepad of Second Asiatic Zoological Expedi- from Shimonoseki to Seoul, American Consul tion の2点であった。 General、C. NICKEL & CO., LTD. 13 and 22 Jul 1912 TOYO HOGEI K.K.(Oriental Whaling Company) from Shimonoseki to New York。 1910-17 のフォルダにはアンドリュース宛の手紙のうち、差出 一方、 アンドリュースが東洋捕鯨関係者や日本企業に差し 人の名前や差し出し地から日本人あるいは日本所在の企業 出した 手 紙 の 宛 名 には H a n a f u s a 、M a s u n a g a 、 と判断した発信者には、Masunaga、Matsumoto、Mibu、 Matsumoto、Matsuzaki、Ogiwara、Olsen、Shibuya、 Nagasawa、Ogiwara、Shibuya、Uchidaが見つかった。東 Uchida が見つかった。 ほとんどはニューヨーク発のものであ 洋捕鯨のノルウェー人砲手と判断した差出人は、Olsen が る。 このうち TOYO HOGEI K.K.(Oriental Whaling あった。手紙に記載された差出人と日付、発信地、東洋捕鯨 Company)1910‒17 には次のものが含まれていた。宛名、 日 以外の所属を列記すると次のようになる。Masunaga(1点)18 付、宛先の順で記す。注記のないものはニューヨークから差し Nov 1912 Seoul、Matsumoto( 1点)RCA 17 Feb 1914 出されたと考えられるタイプライターのカーボンコピーである。 37 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 Hanafusa(1点)25 Sep 1912 Shimonoseki、Masunaga(2 Korean Expedition, 1911‒12 September 5, 1911 to 点)9 Sep 1912, 25 Sep 1912 Seoul, Headquarters of Allen があった。 こちらは以下、 アレンへの報告書 Trip Gendarmes、Matsumoto/Matsumato(2点)9 Sep 1912 Report to Allen とする。 この報告書の章立ては Study Shimonoseki, 17 Mar 1913 Shimonoseki、Nagasawa(1 and Collection of Whales, Collection of Fish, Explora- 点)12 Nov 1915 Tokyo、Ogiwara( 17点)1 Mar 1911 tion of North Korea, Obligations of the Museum, Pub- Shimonoseki, 2 Nov 1911 Grimsby, 2 Oct 1911 lication of Results という構成であった。 このうち Study and Grimsby, 7 Sep 1911 Grimsby, 11 Aug 1911 Grimesby, Collection of Whales に 「日本ではスナメリの台付きの皮、全 12 Mar 1913 Shimonoseki, 13 Jul 1911 London, 14 May 身骨格、 そして頭骨を2つ買うことができた。 これは博物館の 1914 Shimonoseki, 14 Oct 1912 Shimonoseki, 15 会員であるチャールズ・バーンハイマー氏の資金のおかげで Dec1910 Shimonoseki, 16 Nov 1911 Grimsby, 16 Oct ある」 という記述があった In Japan I was able to buy the 1912 Shimonoseki, 19 Dec 1912 Shimonoseki, 23 Oct mounted skin, complete skeleton and two skulls of the 1911 Grimsby, 25 Sep 1912 Shimonoseki, 27 Apr 1911 finless porpoise Neomeris phocaenoides through the London, 29 Nov 1910 Shimonoseki、Olsen(2点)8 Dec generosity of Mr. Charles Bernheimer, one of the 1910 Shimonoseki, 24 Apr 1911 no description(Toyo member of the Museum, who had placed a fund at Hogei)、Shibuya( 5点)14 May 1914 Shimonoseki, 15 my disposal for such purposes。 Dec 1914 Shimonoseki, 15 Sep 1915 Shimonoseki, 22 貴重資料室の手紙は George(Borup)14 May 1912 Nov 1912 Osaka, 20 Sep 1912 Osaka、Uchida( 8点)1 from Shimonoseki, SANYO HOTEL、Allen 29 Sep Dec 1910 Shimonoseki, 4 Jan 1911 Shimonoseki, 7 Jul 1918 from Kyoto はアレン学芸員の80歳の誕生祝いと仕 1911 Shimonoseki, 11 Dec 1912 uk, 16 Mar 1911 Shi- 事での謝意を表した内容であった。 monoseki, 17 Feb 1911 Shimonoseki, 24 Apr 1911 Shi- 個々の手紙の内容や文面については、必要に応じて考察 monoseki, 31 Mar 1913 Tokyo。 また、Ogiwara に関連す のなかで述べる。 ると思われる National Ammonia Company に宛てた手紙 38 も見つかった from RCA to National Ammonia Com- 調査日誌 Journals pany 11 Dec 1912 New York。Matsuzaki のフォルダには 日本での調査日誌 vol. 3 の記載事項は、調査個体の一 M a t s u z a k i に 宛 て た 手 紙 9 点 が 見 つ か った 。 覧表と個体ごとの調査記録が中心となり、複数の個体をまと Matsuzaki/Matsuzake(6点)3 Dec 1910 Tokyo, 12 Sep めた色彩や模様、外部寄生虫に関する考察が加えられてい 1912 Mexico, 29 Jan 1913 Mexico, 11 Dec 1912 た (図3)。他方、鯨体調査以外のできごとや調査地への移動 Mexico, 25 Apr 1911 Tokyo, 29 Jul 1911 Tokyo。 それ 経路の記述は見られなかった。 ページ番号は数字スタンプに 以外のフォルダでは ANDREWS,ROY_CHAPMAN_Sc1. より1‒202ページが与えられていたが、3‒4ページと151‒152 Misc.Corrs.FOLDER_VI-2 に Kosuga 宛の手紙 RCA to ページは失われていた。 Kosuga 10 Jan 1913 Seoul forward form the New 調査個体の一覧表は、調査日誌の1ページにあり、個体ご York Zoological Scoiety があった。 との調査記録の掲載ページが記され、1番に始まり73番で終 調査報告書については、FOLDER II‒5A, 1910‒'18 わっていた。1‒8は紀伊大島の、9以降が鮎川の個体である。 OSBORN, H. F. Miscel. Corres. のなかに、 アンドリュース 番号は一部不連続で順番の入れ替わりもあり、途中16、18、 の1909‒10年の調査旅行を説明する内容が記されたタイプ 33‒39、41‒45、51が欠ける一方、14a と 60a が胎児の標本 打ちの8ページのレポートが見つかった。 日付やタイトル、作成 の番号に与えられていた。 者は記されていないが、 アーカイブで用意したと見られるレ 個体ごとの調査記録は75番まで記されていたが、33‒39、 ポートを入れた封筒に次の注記があった ANDREWS, R. C. 41‒45、51番の記載はなかった。調査日誌を解読したところ、 日 12/19/10? 8-PAGE UNDATED REPORT ON RCA'S 付と種、記述がそろって記録された鯨が63個体(胎児2を含 TRIP TO FAR EAST. 1910‒11。 このレポートは以下、 オズ む)、番号のみで内容不明な番号が12個体分あった。記載内 ボーンへの報告書 Trip Report to Osborn と呼ぶ。 レポート 容は外部計測や色彩の記載、個体によっては眼球や外部寄 の内容は考察で紹介する。 生虫に関して詳しく記している。計測値はセンチメートルとイン 一方、ANDREWS, ROY_CHAPMAN_Expeditions_ チフィートとの両方が用いられ、胎児などではミリメートルを用 FOLDER_III-1_1908‒15 には、1912年の朝鮮でのコククジ いており一定していない。調査記録がある63個体のうち、紀 ラ調査と白頭山鴨緑江探検に関する報告書 Report of 伊大島での調査個体の記載内容は2科2属4種8個体で、 シ ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 ロナガスクジラ3(♂2・♀1)、 ナガスクジラ1(♂)、 イワシクジラ3 日付については調査記録に記載があった。 日付が何を意 (♂1・♀2)、 シャチ1(♀) であった。鮎川は4科7属9種55個体 味するかは記されていないが、内容から調査年月日と判断し で、 シロナガスクジラ3(♀2、胎児 fetus ♀1)、 ナガスクジラ14 た。 ほとんどは捕獲や陸揚げの日付と同一と思われる。調査 (♂7・♀7)、 イワシクジラ16(♂9・♀7)、ザトウクジラ2(♂2)、 記録から調査個体の一覧表を再構成したところ、調査日誌に マッコウクジラ11(♂5・♀5、胎児 fetus ♂1)、 コビレゴンドウ1 記された最初の個体は紀伊大島に陸揚げされた妊娠したシ (♂)、 カマイルカ4(♂2・♀2)、 セミイルカ3(♂2・♀1)、 リクゼン ロナガスクジラで1910年4月4日の日付、紀伊大島最後の個体 イルカ1(♂) である。 なお、 リクゼンイルカに関するアンドリュース は4月15日のシロナガスクジラであった。鮎川は、5月20日の日付 の記述は次の文章で始まる Phocena n. sp? [as written] のあるナガスクジラから8月23日のイワシクジラまでが記載され June 18/10 Aikawa. This porpoise was not seen by ていた。8月23日の個体は調査日誌全体でも最終個体となっ me until the 22nd having been killed four days. The ていた。記録された鯨種を見ると、5月20‒29日は10個体中9個 station master had the entrails removed, by cutting 体がナガスクジラで、残り1頭はシロナガスクジラ、6月も11日ま down the meridian line of the belly. The rest of the では記録された大型鯨類6個体中半数の3個体がナガスクジ specimen remained intact until my return, when I ラであり、5月下旬から6月上旬の鮎川ではナガスクジラが主な photographed, measured, and described it(調査日誌 捕獲対象であった。 イワシクジラは6月8日、 マッコウクジラは6月 117p)。 14日に初めて記録に現れ、両種とも以降最終日の8月23日まで 以上、調査日誌に記録された鯨類は4科7属10種63頭で 捕獲されている。7月12日以降に記録された大型鯨類はほと あった。鮎川で調査した鯨で記載を欠く個体のうち、7個体は んどがこの両種で、例外は7月24・25日と8月5日のナガスクジラ モノグラフ (Andrews 1916a) から種(イワシクジラ) と性、 およ 各1頭、 そして7月26日のシロナガスクジラ1頭である。 ザトウクジ び全長を補充することができたので、鮎川での調査個体の記 ラは6月9日と12日にそれぞれ1頭計2頭が捕獲されただけで 述は62個体分存在する。調査日誌とイワシクジラのモノグラフ あった。鮎川の調査種は、6月上旬まではシロナガスクジラやナ を合わせると、 アンドリュースが日本で調査した鯨類は4科7属 ガスクジラが主で、6月中旬にイワシクジラが始まり、下旬はイル 10種70頭ということになる。 カが主体となり、7月後半はマッコウクジラが大半で、8月のほと んどはイワシクジラということになる。 調査記録は、紀伊大島での個体は詳細である一方、調査 数が膨大であった鮎川では全体的に簡略であった。紀伊大 島の捕獲個体8頭に37ページを使用、個体番号1のシロナガ スと2のイワシクジラに対してはそれぞれ5ページにわたる記述 があり、3のシャチは8ページを費やし、色彩や吻部の毛の有 無、 胃から見つかったイルカの背びれなどを記載しスケッチを 残している。 それに対して鮎川での捕獲個体では大半が2‒3 ページの記載であった。例外は18番のカマイルカに7ページ、 19番のイワシクジラに12ページ、32番のリクゼンイルカに8ペー ジ、40番のコビレゴンドウに8ページを費やしていることであっ た。標本採取の記載は、骨格の採取が紀伊大島では1910年 4月4日のシロナガスクジラ♀、4月8日のシャチ♀、4月13日のイ ワシクジラ♀、鮎川では7月23日のマッコウクジラ♂について記 録されていた。 さらに、調査日誌192‒194ページには鮎川での解剖夫によ る性と全長の記録が47個体分(シロナガス1、 ナガス29、 イワシ 12、 マッコウ5) メモされていた。 いずれも個体記録がなく個体 番号が与えられていない鯨である。 図3 アンドリュースの調査日誌、1910年4月6日に紀伊大島で捕獲され た番号2のオスの「イワシクジラ」 (アメリカ自然史博物館研究図 書館貴重資料室蔵) Fig. 3 Andrews journals 1908-1912, Volume 3: "Whale Notes & Measurements, Japan 1910", #2 male "sei whale" examined on March 6, 1910. American Museum of Natural History Library なお、個体番号49は魚類のカジキ swordfish であり、 ほか に無番号のカジキ5頭分の計測値が記録されていた。 一方、朝鮮での日誌 vol. 4 のページ番号は1‒201である が、42・166・181・187ページは記載がなく、43‒129ページと 39 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 133‒165ページ、182‒186ページは失われていた。鯨体調査 26657‒69 の13点である。続いて SOUTH PACIFIC EX- の記載は41ページまでで、130‒131ページは蔚山周辺の鳥 PEDITION という表題で写真が3点のみの部分があり、 そ 類の観察記録 birds observed at Urusan [as written] , の次が再び日本関連で R.C. ANDREWS PACIFIC EX- Korea、後半の167ページ以降は日本での捕獲や伝聞を含め PEDITION 1909‒10 の表題のもと 26844‒27390 までの た極東海域の鯨類の考察となっていた。 約540点が小見出しで整理されていた。実見した小見出しの 調査個体の一覧表は、ページ番号のない1枚目に記載さ 内容は Blue Whales 26844‒83, sei Whales 26884- れ、個体番号1‒23番が体長とともに記されていた。 日付や種 27041, Killer Whales 27042‒53, Orca orca #3 27054, についての記載はなく、性別は#1, 6, 9についてメス記号が付 Finback Whale ‒ Capture and butchering 27055- けられているのみで、残りの個体については記載がなかった 27155, " " " " " [Finback Whale ‒ Capture and butcher- が、3ページ以降の調査記録から1‒23番の鯨はコククジラの ing] 27156‒75, Humpbacks and Lagenorynchus oliq- 記載と判明した。 また記載された鯨の数や性はモノグラフとも uidens 27176‒27231, Sperm Whales 27232‒27301, 一致した (Andrews 1914: 242‒246)。 Tursis borealis 27302‒12, Phocena n. sp? 27313‒22, 調査記録は3‒41ページに記され、30番のナガスクジラで終 わっていた。 うち 9a はザトウクジラの胎児1頭であった。胎児 を除いた蔚山での調査個体は3科4属5種30頭、内訳はコクク ジラ23頭(♂20・♀3)、 シャチ2頭(♂1・♀1)、 シロナガスクジ ラ1( ♂)、 ナガスクジラ1( ♂)、ザトウクジラ3頭(♂1・♀2)で あった。胎児は1月8日のコククジラ (無番、詳しい記述なし) と2 月13日のザトウクジラに見られ、胎児を含めた調査頭数は32 頭である。捕獲期間はコククジラでは1月7‒24日でメスは3頭、 残り20頭はオスの個体で性比は大きくオスに傾いていた。2月 以降は調査対象にコククジラは見られず、他の種であった。個 体の記載は日本、 とくに紀伊大島に比較して簡便な傾向にあ るが、骨格を採取した1月19日のコククジラ#20は、 スケッチを 加えた4ページにわたる詳細な記述であった。標本採取の記 載は、骨格の採取が1月12日と19日のコククジラ (♂)、2月1日 のシャチ (♂)、2月13日のザトウクジラ (♂) で記録されていた。 以上、調査日誌の記載などから調査個体については、表1 (Tabel 1) および表2(Table 2) に整理した。 写真 Photographs 調査した写真は、 日本の本土と沖縄、 そして台湾に関連し たものであり、朝鮮については対象としなかった。複写したの は閲覧用プリントで (図4)、2011年は特別にガラスネガの一部 も複写することができた。 ガラスネガのネガ袋や閲覧プリントの 撮影データを見たところ、 ネガ番号はおおよそ日付順に与えら 図4 貴重資料室に保存されているアンドリュース撮影の閲覧用プリント Fig. 4 Sample prints of RCA photos for guests at the Special Collections reading room. American Museum of Natural History Library れており、撮影場所と撮影年月が記されていた (図5)。 アンドリュースが日本を訪れた1909‒1910年の写真につい て、 ネガ台帳の記載では次のように記載されていた。4×5判で は2つの部分に分かれており、番号が若い部分は表題を NEGATIVES TAKEN BY R.C. ANDREWS ON PACIFIC EXPEDITION 1909‒10 とし、 その下に小見出しを 与えて整理され、 日本関係分はJapan 26570‒77, Loo Choo Island 26670‒80, Formosa 26681‒91, Japan 2677226841 の100点があった。対象外としたのは S. S. Albatross 40 図5 閲覧用プリントの裏面には撮影データが記載されている Fig. 5 Photo dates are written on the back of the pages of print. American Museum of Natural History Library ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 表1. 調査日誌から復元したアンドリュースの紀伊大島と鮎川での調査個体(1910年) Table 1. Whales examined by RCA at Kii-Oshima and Ayukawa Stations from RCA Journals, in 1910 番号 No. 日付 Date 種 Species (紀伊)大島事業場 At Kii-Oshima Station 1 4-Apr Blue whale 2 6-Apr Sei whale 3 8-Apr Killer whale 4 13-Apr Sei whale 5 13-Apr Sei whale 6 14-Apr Finback whale 7 14-Apr Blue whale 8 15-Apr Blue whale 性 Sex f m f f f m m m 全長 TL no data 1007 cm 670 cm 1350 cm 1460 cm 1865 cm 2275 cm 2205 cm 調査日誌のページ pages of Journal 5–9 10–14 15–22 23–27 28–31 32–34 35–38 39–41 備考 Notes Male foetus 18 inch, AMNH-34869 AMNH-34844 Bryde's whale AMNH-34871 鮎川事業場 At Ayukawa (Aikawa) Station 9 20-May Finback whale m 1845 cm 42–44 10 20-May Finback whale f 1980 cm 45–46 Contained fetus 11 22-May Finback whale m 1805 cm 47–50 12 22-May Finback whale m 1860 cm 51–53 13 22-May Finback whale m 1860 cm 54–55 14 24-May Blue whale f 2380 cm 56–58 14a 24-May Blue whale foetus f 1660 mm 59–60 15 25-May Finback whale f 1735 cm 61–62 16 28-May Finback whale m 1910 cm 63–65 17 29-May Finback whale m 60 ft 66–67 18 1-Jun Pacific whtie-sided dolphin m 1710 mm 125–131 AMNH M-31418 19 8-Jun Sei whale m 1350 cm 68–78 20 9-Jun Finback whale f 66 ft 79–82 21 9-Jun Humpback whale m 880 cm 83–85 22 10-Jun Finback whale f 1830 cm 86–88 23 11-Jun Finback whale f 1465 cm 89–91 24 11-Jun Sei whale m 1455 cm 92–95 25 12-Jun Humpback whale m 46´7´´ 96–98, 190–192 Skeleton observed 26 12-Jun Sei whale m 1380 cm 99–100 27 14-Jun Northern right whale dolphin m 2115 mm 101–116 Cought on 12 June 28 14-Jun Northern right whale dolphin m 1975 mm 101–116 29 14-Jun Northern right whale dolphin f 2110 mm 101–116 30 14-Jun Pacific whtie-sided dolphin m 1755 mm 101–116 Cought on 12 June 31 14-Jun Pacific whtie-sided dolphin f 1760 mm 101–116 Cought on 12 June 32 18-Jun Phocena n. sp? m 1915 mm 117–124 AMNH M-31425 33 No description 34 No description Sei whale male male 14001400 cm cm (Andrews Sei whale (Andrews1916a) 1916a) 35 No description Sei whaleSeifemale 1405 1405 cm (Andrews whale female cm (Andrews1916a) 1916a) 36 No description Sei whaleSeifemale 1465 1465 cm (Andrews whale female cm (Andrews1916a) 1916a) 37 No description 38 No description Sei whaleSeifemale 1400 1400 cm (Andrews whale female cm (Andrews1916a) 1916a) 39 No description 40 26-Jun Short-finned pilot whale m 4940 cm 132–139 AMNH M-31722 41 No description Sei whale male male 13601360 cm cm (Andrews Sei whale (Andrews1916a) 1916a) 42 No description 43 No description Sei whale male male 14701470 cm cm (Andrews Sei whale (Andrews1916a) 1916a) 44 No description 45 No description 46 14-Jul Sperm whale m 45´ 147–148 47 14-Jul Sperm whale m 1455 cm 149 48 14-Jul Sperm whale m 1395 cm 150 49 19-Jul Swordfish 2950 mm 140–141 表1. 調査日誌から復元したアンドリュースの紀伊大島と鮎川での調査個体(1910年) 50 19-Jul Pacific white-sided dolphin f 2090 mm 142–146 Table51 1. No Whales examined by RCA at Kii-Oshima and Ayukawa Stations from RCA Journals, in Sei 1910 description Sei whale female 1465 1465 cm (Andrews whale female cm (Andrews1916a) 1916a) 番号52 日付 性 全長 59´1´´ 調査日誌のページ 備考 23-Jul Sperm whale 種 m 153–156 AMNH-34872 No.53 Date Species Sex TL 51´6´´ pages of Journal Notes 24-Jul Finback whale f 157 54 25-Jul Finback whale f 64´4´´ 157–159 55 26-Jul Blue whale f 76´10´´ 160–161 56 28-Jul Sperm whale f 37´2´´ 162–163 57 28-Jul Sperm whale f 33´11´´ 163–166 58 29-Jul Sperm whale f 41´2´´ 167–170 Contained fetus 59 29-Jul Sperm whale f 30´ 170–171 60 29-Jul Sperm whale f 31´ 171–172 60a 29-Jul Sperm whale fetus m 3950 mm 173–177 61 30-Jul Sei whale f 1524 = 50´ 178–179 62 31-Jul Sei whale f 1285 = 42´2´´ 179–181 41 No. Date Species 54 25-Jul Finback whale 55 26-Jul Blue whale敬人 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 56 28-Jul Sperm whale 57 28-Jul Sperm whale 58 29-Jul Sperm whale 59 29-Jul Sperm whale 60 29-Jul Sperm whale 60a 29-Jul Sperm whale fetus 61 30-Jul Sei whale 62 31-Jul Sei whale 63 1-Aug Sei whale 64 5-Aug Finback whale 65 2-Aug Sei whale 66 2-Aug Sei whale 67 3-Aug Sei whale 68 3-Aug Sei whale 69 5-Aug Sei whale 70 18-Aug Sei whale 71 20-Aug Sperm whale 72 20-Aug Sei whale 73 20-Aug Sei whale 74 22-Aug Sei whale 75 23-Aug Sei whale Sex f f f f f f f m f f m m m f m f m m m f f m f TL 64´4´´ 76´10´´ 37´2´´ 33´11´´ 41´2´´ 30´ 31´ 3950 mm 1524 = 50´ 1285 = 42´2´´ 1280 = 42´ 61´9´´ 40 ft 41 ft 45 ft 48 ft 48´4´´ = 1473 41´6´´ 1265 39´6´´ 30´10´´ 940 43´2´´ 1315 39´ 46´6´´ = 1417 pages of Journal 157–159 160–161 162–163 163–166 167–170 170–171 171–172 173–177 178–179 179–181 182–183 184 185 185 185–186 185–186 187–188 188 193 189 193 194 2, 194 Notes Contained fetus 1280 cm (Andrews 1916a) 1220 cm (Andrews 1916a) 1250 cm (Andrews 1916a) 1371 cm (Andrews 1916a) 1463 cm (Andrews 1916a) 1413 cm (Andrews 1916a) 1265 cm (Andrews 1916a) 940 cm (Andrews 1916a) 1315 cm (Andrews 1916a) 1417 cm (Andrews 1916a) 表2. 調査日誌から復元したアンドリュースの蔚山の調査個体(1912年) Table 2. Whales examined by RCA at Ulsan Station from RCA Journals, in January and February 1912 番号 No. 1 1a 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 29a 30 42 日付 Date 8-Jan 8-Jan 8-Jan 8-Jan 8-Jan 9-Jan 9-Jan 9-Jan 10-Jan 10-Jan 10-Jan 10-Jan 11-Jan 12-Jan 13-Jan 14-Jan 16-Jan 16-Jan 17-Jan 17-Jan 19-Jan 20-Jan 21-Jan 24-Jan 1-Feb 1-Feb 2-Feb 12-Feb 13-Feb 13-Feb 13-Feb 24-Feb 種 Species gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale gray whale Orca orca Orca orca blue whale humpback whale humpback whale humpback whale humpback whale finback whale 性 Sex f m m m m m f m m f m m m m m m m m m m m m m m f m m f m f f m RCA 1914 全長 調査日誌のページ 備考 TL pages of Journal Notes Table IV 1300 cm 3–4 Contained a fetus (1a Andrews 1914) 1300 cm 5–9 Male fetus 435 cm 1140 cm 10–11 1160 cm 1240 cm 11–12 1240 cm 1170 cm 12–13 1170 cm 1143 cm 13–14 1143 cm 1317 cm 15–16 1317 cm 1202 cm 16 1202 cm 1240 cm 17–18 1240 cm 38´ ? 19 1160 cm 1050 cm 19–20 1050 cm 1075 cm ? 20–21 1075 cm 39´ 21 1190 cm 1250 cm 21–22 USNM 199527, Jan.13 (Andrews 1914) 1250 cm 38´ 22–23 1160 cm 1085 cm 24 1085 cm 1180 cm 25 1180 cm 980 cm 26 980 cm 39´ 27 1190 cm 1180 cm 28 1180 cm 1215 cm 28–31 AMNH M-34260 1215 cm 1225 cm 31–33 1225 cm 1240 cm 33 1240 cm 1235 cm 34 1235 cm 665 cm 34–35 835 cm 35 AMNH M-34276 2280 cm 36–37 1130 cm 37 1475 cm 38 Skeleton collected and fired (Andrews 1914) 1426 cm 39 Contained fetus 495 cm 40 Fetus of No. 29 1870 cm 41 Globiocephalus acammoni [as written] 27323‒43, あった。小見出しでは、学名でもイタリックではなく正体で記さ Secnes in and around whaling stations 27344‒70, れていた The scientific names were typed in regular Swordfish 27371, Phocoenoides trins ? 27372, Phoco- letters in those indices. 調査で実見していなものは、Her- moides truii 27387‒89, Phocoena phocoena 27390 で pestes rubrifrons(マングース)27373‒81, Arctitis whitii ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 (イソシギの仲間?)27382‒86 で、 これは日本以外の写真と思 われる。 捕獲したウミガメ、村や家並み、 中国人少女など10点、計15 点、1910年1月撮影。 5×7判ネガ台帳(5 x 7 Negs. 14023‒19916) は、項目をま ・沖縄 すべて那覇または首里での撮影。那覇では、女性 とめた表題がないため撮影地 Locality あるいは主題 Sub- がおおぜい集まった海岸の市場、大通りの景観や商店、行 ject の地名の出現順で記述すると S.S.Okimaru 14660‒65, 商人や荷馬、 アルバトロス号のマコーミック McCormick 船 Nikko 14666‒81, Yokohama 14682‒83, Kobe 14684‒91, 長と少女たちなど、首里では首里城のほか祟元寺、波之 Kyoto 14692‒14700, Japan 14701‒10, Loo Choo Isds 上宮、墓など計30点、1910年2月撮影。 14711‒29, Formosa 14730‒14733, Shimidzu 14809‒18, 長崎上陸以降の撮影 1910年2‒8月 Aikawa 14819 and 14834‒41, Oshima 14820‒33 の106 ・土佐清水 東洋捕鯨の事業場や事業場での相撲のほ 点であった。 か、 カツオ漁船、埋立前の加久美川河口付近の海岸、清 本調査で把握した日本関係の写真は以上の約730点であ 水小学校、段々畑や田園風景、街並み、貝拾い、少女た る。 なお、5×7判の写真のうち、鮎川 Aikawa と紀伊大島 ち、事業場長の内田氏、女性、 カモメなど36点、1910年2‒3 Oshima はネガやプリントを実見しなかったが、 ネガ台帳の記 月撮影。 述によると捕鯨事業場での調査用写真で、紀伊大島はシャ ・瀬戸内海 来島水道にある中渡島潮流信号所、神戸沖 チ、鮎川はシロナガスクジラ1点 14819 と残りはナガスクジラの のスクーナーなど5点、1910年3月撮影。土佐清水から紀伊 写真となっている。 ガラスネガは2011年の調査で一部を複写 大島へ向かう途中での撮影となる。 したが、 その過程で番号すべてのネガが現存するのではな ・紀伊大島 停泊する捕鯨船、帆船や漁船、事業場長の池 く、破損や何らかの理由で滅失したものもあることがわかった。 田夫妻、 キヌ、母親と幼児、 など27点、1910年3‒4月撮影。 アンドリュースが撮影した写真のうち、捕鯨事業場での調 査写真以外の、風景や人物などを撮影した写真、すなわち ・塩 玄関上に 「東洋捕鯨御宿」 の看板が掲げられた塩 ホテル、海岸の漁船など4点、1910年4月撮影。 4×5判では小見出しに鯨などの生物名を用いていないネガ番 ・鮎川 最も多数の写真が撮影されている。高台からの前 号 26670‒26841 および 27344‒27370、5×7判は紀伊大島と 浜前景や捕鯨船、調査個体の写真でも背景に集落の景 鮎川 (14819‒41) を除いた写真の撮影地と被写体は次のよう 観が写っているものなど36点。1910年5‒8月撮影。 に判断した。撮影時期は撮影データによる。 以上を簡略化し、 ネガ番号を加えて表に整理した (表3、 シアトルから香港への航路での撮影 1909年8‒9月 Table 3)。 ・安芸丸 シアトル港での姿、 デッキや船内風景など6点、 これらの写真のうち、紀伊大島で撮影されたキヌ Kinu 1909年8月撮影。 ・日光 東照宮の境内やその周辺で16点、1909年9月撮 影。 (silk)という女性の写真(Neg. 26811) が、 アメリカ自然史博 物館の日本展示コーナーで常設展示されている (図6)。 キヌ について書籍では鮎川の女性と記されているが(Andrews ・横浜 イギリスの軍艦、 ミシシッピベイ (根岸湾)、運河など5 1929: 105、 ガレンカンプ 2006: 61)、撮影データに従えば誤り 点、1909年9月撮影。 ・神戸 外国人に Moon Temple として知られた摩耶山天 上寺、布引の滝、能福寺の兵庫大仏、農村風景、葬送など 14点、1909年9月撮影。 ・京都 方広寺の鐘、東本願寺、動物園、街路、清水寺、大 谷本 、豊国 など9点、1909年9月撮影。 ・瀬戸内海 備讃海峡にある鍋島燈台の1点、1909年9月 撮影。 ・門司港 帆船や軍艦、船が集う港の景観のほか、石炭運 搬船から自身が乗った貨客船への石炭の積み込みなど6 点、1909年9月撮影。 フィリピンから長崎への航路での撮影 1910年1‒2月 ・台湾 Kwaliang [南湾 Southern Bay] で竹製のいかだ やそれに乗った日本の役人、先住民の住居、椰子の木など 5点、Loo Wau [蘇澳港 Suao Bay]では海岸に置かれた 図6 アンドリュースが撮影したアメリカ自然史博物館の日本コーナー に現在展示中の「キヌ」の写真 Fig. 6 Photograph of Kinu, a Japanese girl, on display in the Japanese gallery at AMNH, photographed by RCA in Apr. 1910. Image #26811 American Museum of Natural History Library 43 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 表3 1909–1910年にアンドリュースが撮影した日本の本土と沖縄、台湾の写真 Table 3. Photographs taken by RCA in Mainland Japan, Okinawa and Taiwan in 1909–1910 撮影場所 枚数 日付 Locality Q'ty Date 安芸丸 S.S. Aki Maru 6 Aug. 1909 14660–14665 日光 Nikko 16 Sep. 1909 14666–14681 横浜 Yokohama 5 神戸 Kobe 14 Sep. 1909 14684–14690 14703–14709 京都 Kyoto 9 Sep. 1909 14691–14699 門司港 Moji Harbor 6 Sep. 1909 26571–26572 26574–26577 台湾 Taiwan 15 Jan. 1910 26681–26691 14730–14733 沖縄 Okinawa 30 Feb. 1910 26670–26680 14711–14729 海岸の市場、街路、首里城、祟元寺、波之上宮、製糖 Market near shore, street scene, Shuri Castle, Sogen-ji Temple, Naminoue-gu Shrine, sugar crushing 土佐清水 Tosa-Shimizu 36 Mar. 1910 26772–26797 14809–14818 捕鯨事業場、相撲、イワシ漁、清水小学校、街路、段々畑 Whaling station, Sumo wrestling, sardine fishing, Shimizu Elementally School, street scene, terraced fields 瀬戸内海 Setonaikai Inland Sea 5 紀伊大島 Kii-Oshima 27 Apr. 1910 塩 Shiogama 4 Apr. 1910 鮎川 Ayukawa 36 May–Aug. 26825–26840 1910 27353–27372 不明 unknown 2 計 Sum ネガ番号4 5判 ネガ番号5 7判 4!5 Neg. No. 本研究で結論した被写体 5!7 Neg. No. Subjects came from the results of this study シアトル港、屋上甲板、一等船室区域、ウィスコンシン州立大 Sep. 1909 26570 14682–14683 14700–14701 学野球チーム Seattle wharf, promenade deck, first cabin section, Wisc.Univ. B. B. Team 日光東照宮 Nikko Toshogu Shrine イギリス軍艦、根岸湾(ミシシッピベイ)、運河、街路 British war ship, Mississippi Bay(Negishi Bay), canal, street scene 摩耶山天上寺、布引の滝、能福寺兵庫大仏、六甲山麓、葬送 Tenjo-ji Temple, Nunobiki Fall, Great Buddha at Hyogo, foot of Rokkosan, funeral march 方広寺、東本願寺、動物園、街路、清水寺、大谷本 門司港、帆船、日本の巡洋艦、石炭運搬船と石炭の積み込み Moji Harbor, junks, Japanese cruiser, coal tranporter ship and coal loading 蘇澳港:先住民の小屋や村、捕獲ウミガメ、南湾:筏に乗る日 211 鍋島灯台 (1909.9)、中渡島潮流信号所、帆掛漁船、神戸のス Sep. 1909 26573 Mar. 1910 26798–26802 クーナー Nabeshima light house (Sep. 1909); Nakatoshima tide signal station, Fishing Junk, schooner off Kobe 海岸、子どもと母親、キヌ Kinuという女性、調査写真 Sea 26803–26820 27344–27352 coast, baby and mother, whale catcher, whaling station, a girl "Kinu" 塩 26821–26824 Sep. 1909 ホテル、海岸の漁船 Shiogama Hotel, fishing boat on shore 高台からの前浜前景、民家、捕鯨船、捕鯨事業場 View of village and beach from hill, farm house, whaling boat, whaling station 14702, 14710 127 本の役人 Suao Bay: Naitive hut and villege, hunted sea turtles; Southern Bay: Japanese officer on raft 墓地のなかの寺院、我慢が淵?の阿弥陀像(石仏群)Temple in a Japanese cemetary, row images of Amida at Gaman-ga fuchi 84 日付は閲覧用プリントの撮影データによる Date from the back side of print mount. 44 、豊国 Hokoji, Higashi Honganji, Zoo, street scene, Kiyomizudera Temple, Otani Mausoleum, Toyokuni Mausoleum ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 であろう。 また、神戸の天上寺は1976年に火災があり、 アンド シマリス、 ヒョウなどの陸生哺乳類を含む164点があり、 このう リュースが撮影した多宝塔などは現存しない。 アンドリュース ち鯨類標本はコククジラ1点(skull & skeleton) とシャチ1点 が撮影した写真のうち、沖縄で撮影された写真は別に報告し (skull & skeleton)の乾燥標本2点であった。同じデータ た (宇仁・当山・岸本 2014)。 ベースを用い、分類:鯨目、収集国:Korea で検索したところ、 アンドリュースが撮影した写真のプリントは、哺乳類アーカイ 上記2点に加えて性別不明で収集者が東洋捕鯨と記された ブに保管されている手紙のなかからも見つかった。 これはアン シャチの頭骨および骨格1点が見つかった。 よって1910‒12年 ドリュースが鮎川からアレン学芸員に宛てた手紙で、鯨類調 に朝鮮で採集された鯨類標本は3点(すべて乾燥標本) とい 査の様 子のプリントが同 封されていた( J u n . 2 9 , 1 9 1 0 うことになる。 Aikawa, FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.)。 後述のとおり、 アメリカ自然史博物館が所蔵する1910- 少なくともアンドリュースが撮影した写真の一部は日本で現像 1912年に日本と朝鮮で収集された鯨類標本は、 すべてがア プリントされていたことが判明した。 ンドリュースによって直接または間接に収集されたと考えられ る。 よって同館が所蔵するアンドリュース収集の日本または朝 標本 Specimens 鮮産の鯨類標本は、 日本産31点と朝鮮産3点の計34点(乾 アメリカ自然史博物館が所蔵する日本と朝鮮で1910‒1912 燥標本23点、液浸標本9点、 その他2点) であった。 この34点 年に収集された鯨類標本は次の手順で確認した。 まず、哺乳 の鯨類標本について、 その所在を資料ごとに収蔵庫で所蔵 類標本データベースを用い、収集者 collector:Andrews(ア の確認作業を行った。結果は、乾燥標本23点のうち20点(日 ンドリュース)、収集国 country:Japan (日本) で検索し、 38件 本産17点、朝鮮産3点)、液浸標本1点(日本産)が確認され を得た。 このなかにはニホンノウサギやイタチ、 アカネズミなど陸 た。収蔵場所は、 リクゼンイルカのタイプ標本として記載された 生哺乳類が含まれており、鯨類はオキゴンドウ1点(skull)、 カ Phocoena sp. はタイプ標本庫に、頭骨を除く骨格やツチクジ マイルカ4点(skull & skeleton)、 セミイルカ3点(skull & ラやコククジラまでの大きさ頭骨は哺乳類標本室、 シロナガス skeleton)、 リクゼンイルカ1点(skull & skeleton)、 コビレ クジラ、 ナガスクジラ、 イワシクジラ、 マッコウクジラの頭骨と下顎 ゴンドウ1点(skull & skeleton) 、 シャチ2点 (skull & skeleton, 骨はブルックリン収蔵庫に保存されていた。乾燥標本のうち所 Fluid) 、 ツチクジラ1点(skull & skeleton)、 マッコウクジラ2点 在が確認できなかったのは、M-31419 カマイルカと M-31423 (skull & skeleton, Fluid)、 ザトウクジラ1点(Fluid)、 イワシ セミイルカ、 そしてM-34279 スナメリの計3点だった。一方、液 クジラ4点 (skull & skeleton, Fluid, Misc, no description) 、 浸標本のうち所在が確認できたのは液浸標本庫にあった カツオクジラ1点(Fluid)、 ナガスクジラ2点(skull & skeleton, シャチの両眼 M-31829 の1点に限られ、残り8点の液浸標本 Fluid)、 シロナガスクジラ4点(skull & skeleton, 3 Fluid) か と形状がその他とされた2点の計10点は確認できなかった。 らなる27点、形態別で見ると頭骨や骨格など乾燥標本16点、 さらに哺乳類収蔵庫には、標本ラベルや直接の記載情報 液浸標本9点、 その他2点であった。 同じデータベースを用い、 がなく、標本台帳やデータベースへの掲載もない数種類のも 収集者を特定せず、分類:Cetacea(鯨目)、収集国:Japan のが混じったヒゲ板数百枚が骨格標本とは別の部屋から見 (日本) で検索しても同じ27点が抽出された。 つかった。 また骨格標本とおなじ部屋には、 ラベルや記載のな ところが、上記以外に日本で1910‒1912年に収集された鯨 い黒色の中型のヒゲ板1枚が保存されていた。 類標本4点がデータベースで確認された。内訳はセミイルカ 以上、本調査によって、 アンドリュースが日本と朝鮮で収集 1点(skull & skeleton) とスナメリ3点(skull, skull and skel- した鯨類標本のうち確認できたのは、 コククジラ、 シロナガスク eton, skin)である。上述の検索で抽出されなかったのは、 ジラ、 ナガスクジラ、 ニタリクジラ (「イワシクジラ」 と報告)、 マッコ データベースの記載事項の誤りによる。収集国は空値で、 ウクジラ、 ツチクジラ、 シャチ、 オキゴンドウ、 コビレゴンドウ、 セミイ Japan の名前は収集地方 county に記されていた。収集者 ルカ、 カマイルカ、 リクゼンイルカ、 スナメリの6科11属13種であっ は、所在調査で確認できた3点はいずれも購入 purchased た (表4, Table 4)。 と記されていた。 よって、 アメリカ自然史博物館が収蔵する なお 、標 本 番 号 によれ ばイワシクジラの モノグラフ 1910‒1912年に日本で収集された鯨類標本は、 データベース (Andrews 1916a) に使用された骨格標本の写真は、紀伊 上では31点(乾燥標本20点、液浸標本9点、 その他2点) であ 大島の捕獲個体で1910年4月13日に調査された M-34871 る。 のものである。 この標本については頭骨の観察からニタリクジ 朝鮮の標本については、同様に収集者:Andrews、採集 ラまたはカツオクジラと判断できるという (山田格私信)。 また、 国:Korea(朝鮮) で検索した。結果はハクビシンやノロシカ、 アンドリュースは調査日誌に標本の採集を一部記載している。 45 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 表4.アンドリュースが1910–1912年に日本と朝鮮で収集した鯨類標本と本研究が結論したデータ Table 4. Whale Specimens collected by RCA in Japan and Korea in 1910–1912 with revised data by authers 標本番号 和名 Number Japanese Name 学名 標本種別 性 場所 調査日 備考 Scientific Name Specimens Sex Locality Date of exam. Note アメリカ自然史博物館で確認された標本 Specimens identified by authors in American Museum of Natural History 日本で収集 Collected in Japan M-30575 オキゴンドウ Pseudorca crassidens Skull UK 長崎 Nagasaki M-31418 カマイルカ Lagenorhynchus obliquidens Skeleton, Skull M 鮎川 Ayukawa Jun. 1, 1910 M-31420 カマイルカ Lagenorhynchus obliquidens Skull, Skeleton F 鮎川 Ayukawa Jun. 14 or Jul. 19, 1910 M-31421 カマイルカ Lagenorhynchus obliquidens Skeleton, Skull F 鮎川 Ayukawa Jun. 14 or Jul. 19, 1910 M-31422 セミイルカ Lissodelphis borealis Skull, Skeleton M 鮎川 Ayukawa Jun. 14, 1910 M-31424 セミイルカ Lissodelphis borealis Skeleton, Skull F 鮎川 Ayukawa Jun. 14, 1910 M-31425 リクゼンイルカ Phocoenoides dalli Skull, Skeleton M 鮎川 Ayukawa Jun. 18, 1910 M-31722 コビレゴンドウ Globicephala macrorhynchus Skeleton, Skull M 鮎川 Ayukawa Jun. 26, 1910 M-31829 シャチ Orcinus orca Fluid (eyes only) F M-33197 ツチクジラ Berardius bairdii Skeleton, Skull UK 東京湾 Tokyo Bay M-34278 セミイルカ Lissodelphis borealis Skeleton, Skull M M-34280 スナメリ Neophocaena phocaenoides Skull, Skeleton UK 下総 Shimosa M-34281 スナメリ Neophocaena phocaenoides Skull M-34844 シャチ Orcinus orca *1 紀伊大島 Kii-Oshima Apr. 8, 1910 *4 相模 Sagami UK 相模 Sagami Skull, Skeleton F 紀伊大島 Kii-Oshima Apr. 8, 1910 M-34869 シロナガスクジラ Balaenoptera musculus Skeleton, Skull F 紀伊大島 Kii-Oshima Apr. 4, 1910 M-34870 ナガスクジラ Balaenoptera physalus Skull, Skeleton F 鮎川 Ayukawa M-34871 ニタリクジラ Balaenoptera edeni or brydei Skeleton, Skull F 紀伊大島 Kii-Oshima Apr. 13, 1910 *2 Skull, Skeleton M 鮎川 Ayukawa *3, *4 M-34872 マッコウックジラ Physeter catodon None 数種類が混じる Baleens Few species mixed baleen plates Jul. 23, 1910 UK 紀伊大島及び蔚山 Kii-Oshima and Ulsan 朝鮮で収集 Collected in Korea M-34260 コククジラ Eschrichtius robustus Skeleton, Skull M M-34261 シャチ Orcinus orca Skull, Skeleton UK 蔚山 Ulsan 蔚山 Ulsan M-34276 シャチ Orcinus orca Skull, Skeleton M 蔚山 Ulsan Jan. 19, 1912 Aug., 1910 Feb. 1, 1912 *4 アメリカ自然史博物館のデータベースにあるが未発見の標本 Specimens listed in the database of AMNH, but undiscovered M-31419 カマイルカ Lagenorhynchus obliquidens Skull, Skeleton M 鮎川 Ayukawa M-31423 セミイルカ Lissodelphis borealis Skeleton, Skull M 鮎川 Ayukawa M-31730 マッコウクジラ Physeter catodon Fluid UK 鮎川 Ayukawa M-31731 ナガスクジラ Balaenoptera physalus Fluid UK 鮎川 Ayukawa M-31732 イワシクジラ Balaenoptera borealis Fluid UK 鮎川 Ayukawa M-31733 シロナガスクジラ Balaenoptera musculus Fluid UK 鮎川 Ayukawa M-31734 ザトウクジラ Fluid UK 鮎川 Ayukawa M-31822 シロナガスクジラ Balaenoptera musculus Fluid UK 紀伊大島 Kii-Oshima M-31823 シロナガスクジラ Balaenoptera musculus Fluid UK 紀伊大島 Kii-Oshima M-31824 カツオクジラ Balaenoptera edeni Fluid UK 紀伊大島 Kii-Oshima M-34279 スナメリ Neophocaena phocaenoides Skin UK 下総 Shimosa M-42683 イワシクジラ Balaenoptera borealis Misc UK 鮎川 Ayukawa M-42684 イワシクジラ Balaenoptera borealis Misc UK 鮎川 Ayukawa Megaptera novaeangliae 国立自然史博物館に収蔵されている標本 Specimen donated to National Museum of Natural History, Smithsonian Institution USNM 199527 コククジラ Eschrichtius robustus Skeleton, Skull M 蔚山 Ulsan Jan. 13, 1912 *1 Phocoenoides truei のタイプ標本Type specimen for Phocoenoides truei (Andrews 1911b) *2 骨格は Andrews 1916a でイワシクジラとして用いられた Skeleton was reported as a sei whale in Andrews 1916a *3 データベースでは紀伊大島とされているが誤り Locality mistakenly noted as Oshima in the data base *4 Exhibited in the Hall of Ocean Life in AMNH between 1933–1962 *5 On display in the Hall of Osteology National Museum of Natural History, Smithsonian Institution 46 *5 ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 しかし、調査日誌に骨格を採取したと記述があるのにデータ されたシャチ M-34261 もデータベースで採集者が T. Hagei ベースには見当たらない標本があった。 ひとつはアンドリュー Kaisha と記載されており、 アンドリュースの求めに従い東洋 スが蔚山で採集したザトウクジラの骨格標本で、 これは1912 捕鯨が骨格を採集送付したことがアンドリュースの大島での 年2月13日に捕獲されたオスの鯨であるが(調査日誌38ペー 手紙に記されている (Mar. 9, 1910 Ôshima, FOLDER ジ)、 この標本はニューヨーク到着後に火災で失われていた II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.)。 (Andrews 1914: 292‒293)。 また、鮎川でも番号25のザトウ クジラの骨格標本を作製し写真も撮影しているが、 これは自 アルバトロス号関係資料 分自身の研究用でニューヨークに送る予定はないと記してい Documents on S.S. Albatross る (調査日誌190‒192p)。 今回閲覧したアルバトロス号資料からは、台湾から沖縄を なお、 アメリカ自然史博物館のデータベースでは地名の標 経て長崎に到る航路を推定する記録は見つけられなかった。 記はアンドリュースが用いたスペリングに従ったためか現在の 閲覧した資料については、著者宇仁まで照会されたい。 表記とは異なる記載が見られる。鮎川をAikawaやAnkawa、 紀伊大島を Oshima、下総を Shimosaと記載している。 また 事業場長必携 日付についてもアンドリュースの滞在時期から外れた記録が the Handbook for station masters of Toyo Hogei 見られた。 ニッスイパイオニア館に保管されている事業場長必携を閲 アンドリュース収集標本の展示への利用について、 まとまっ 覧したところ、 アンドリュースとの手紙の差出人や宛名となった た文書は見つからなかったが、 ツチクジラ M-33197、 マッコウ 人名に相当するものがいくつか見つかった。 また、事業長必 クジラ M-34872、雄のシャチ M-34276 の3点は交差連結用 携を除く著書や刊行論文からは、Shibuya, T. に相当する人 の鉄筋があり展示解説板が添えられていた (図6)。一方、 スミ 物の著作が得られた (渋谷1967)。同書には 「米国天然歴史 ソニアン機構国立自然史博物館では、骨格展示室 the Hall 博物館のアンドリュース氏の来日調査と鯨骨骼の寄贈」 という of Osteology に蔚山で採集されたコククジラの全身骨格標 一節がある (渋谷1967:108‒111)。 これらに記載された人名 本 USNM 199527 が常設展示されている。現在のような形 は下のとおりである。 [ ] は 「事業場長必携」 の記載事項を で設営されたのは1961 または 1962 年で展示室の一般公 著者が挿入したものである。 開は1965年という (Yochelson 1985: 90‒91)。現在の国立自 Ikeda 池田英太郎 大島事業場四十二年度場長 然史博物館のデータベース Search NMNH Collections [M42.9.29‒43.6.4]*明治42年=1909年 (http://collections.nmnh.si.edu/search/mammals/ T. Uchida 内田耕 鮎川事業場第二次[M43.4.28‒ 2014年5月9日閲覧) には、 この標本の採集年月日や全長の記 43.8.25] ( 明治四十三年)場長、大島事業場四十三年度 載はされていないが、調査日誌によれば1912年1月12日に調 査した体長1250cmのオスである。USNM 199527: Jan. 12, [M43.12.5‒44.8.4] 場長 T. Matsumoto 松本為蔵 蔚山事業場明治四十四年度 1912、total length 1250 cm. ただし論文では日付を Jan. [M44.10.1‒T1.4.30]場員 13, 1912 としている (Andrews 1914: Table IV)。 なお、 アレ Shibuya, T. 渋谷辰三郎 ンへの報告書には、蔚山では28フィート (840cm) の雌のシャ チ骨 格を収 集したと記しているが 、8 3 5cmの雄 である 著書、公刊論文、その他 M-34276の間違いと思われる。 Books, papers and other materials データベースでは東京湾で収集されたツチクジラは収集者 アンドリュースが日本と朝鮮での鯨類調査をもとに発表した がアンドリュースとなっているが、実際の収集過程は東洋捕鯨 科学論文で重要なものは3本である。鮎川で捕獲されたリクゼ の Matsuzaki が標本を確保してニューヨークに送ったという ンイルカを新種として記載したもの (Andrews 1911b)、蔚山 アンドリュースによる記事がある (Andrews 1912)。 このことは の調査をもとにしたコククジラのモノグラフ (Andrews 1914)、 Matsuzaki が東京からアンドリュースに宛てた手紙でも確か そして紀伊大島と鮎川の成果を用いたイワシクジラのモノグラ められ、1911年6月の文面では千葉県館山の友人に捕獲が フ (Andrews 1916a) である。 このほか、 ツチクジラの資料収 あったら知らせてくれるよう頼んだこと (Jun 20, 1911_Tokyo, 集に関する短報が1本ある (Andrews 1912)。一般向けの FOLDER MATSUZAKI, M. Tokyo 1912‒'13)、同年12 雑誌記事では、 日本と北米での調査経験を豊富な写真ととも 月には標本を受け取ったかどうかを尋ねて代金を東洋捕鯨 に紹介したナショナルジオグラフィックの記事がまとまっている の東京事務所に支払うよう促していることが確かめられた (Andrews 1911c)。 この記事に加筆してできたものがアンド (Dec. 22, 1911_Tokyo、同フォルダ)。1910年に朝鮮で捕獲 リュースの最初の単行本 Whale Hunting with Gun and 47 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 Camera(Andrews 1916b)である。 これとは別に Nature に掲 With the help of Mr. H. C. Fassett, Inspector 載された What Shore-Whaling Is Doing for Science という of Fisheries, who was then located at Manila, I got 記事で、 日本での調査体験を鮎川事業場の写真とともに記し together a collecting outfit and left Manila on the ている (Andrews 1911a)。Andrews(1912) には1910年に steamship "Lal Loc," arriving at Mindoro, I was most 帝室博物館でツチクジラの骨格を見たという記述がなされて hospitably received by Messrs. Asbury and Franks, いる。 two government teachers, who did everything in their power to assist me in my work. 考察 Discussion 以上の結果を用いて、1) アンドリュースの1909‒1910年の miles from Calapan, and made arrangement for their 足取り、2) 日本での鯨類調査の実際、3)東洋捕鯨の協力、 transportation the next day in the native canoe. That 4)収集標本の利用、 について考察した。 evening, however, telegram were received from 1) アンドリュースの1909‒1910年の足取り Manila stating that typhoon was on the way and Foot prints of RCA in 1910‒1910 would probably strike Calapan about two o'clock in アンドリュースの1909‒1910年の足取りを述べた一次資料 the morning. All of the white people in the little のうちもっともまとまった資料は、 オズボーンへの報告書 Trip village and many of the natives hurried to the old Report to Osborn である。 これを基本資料して足取りを復 Spanish fort and prepared to spend the night. It was 元する。以下はタイプ打ちの報告書原文である。 well that this was done, for the typhoon struck the Trip report to Osborn(no date) north end of the island with tremendous violence, and Through the courtesy of the Bureau of Fish- for two days we were practically kept prisoners in eries at Washington, I received a temporary appoint- the old fortress. It was a most interesting experience, ment on the United States Ship "Albatross," to do land and the disagreeable features were very shortly collecting, principally mammals and birds, on an expe- forgotten after the typhoon had ceased. All attempts dition to Borneo and islands of the Dutch East Indies. to reach the place where the Cetaceans were buried, Leaving New York on the twenty-fifth of however, were useless, because of the heavy sea August, 1909, I sailed from Seattle on the "Nippon which was running, and the tremendous surf pound- Yusen Kaisha" ship "Okimaru," arriving at Yokohama ing the shore all along the north coast. on the seventeenth of September, after a rough but uneventful voyage. I returned to Manila, finding the "Albatross" already there, and while waiting for a doctor to be From Yokohama the ship proceeded to Hong detailed for the crusie, Captain McCormick, the Com- Kong, touching at various points en route, and, after mander of the "Albatross," very kindly consented to waiting four days in the latter city for a typhoon to take the ship to Calapan and see if it was possible to subside, the ship "Taming," on which I had booked my obtain the Cetaceans. Our trip resulted in a disap- passage, left just in time to meet a second storm pointment, however, because the bones had became about half way across the China Sea. We arrived in so softened by being buried with the flesh in damp Manila two days late, and everyone was delighted to sand that only two skulls and a few other parts of the be on shore again. skeleton were available. [ Globicephala macrorhyn- I knew that the "Albatross" was en route to 48 I knew that the Cetaceans were some twenty chus AMNH 30576, 30578] Manila from Zamboanga, and it would be almost ten The "Albatross" finally left Manila on October days before she would be ready to leave for the 29, and after a three days' trip reached Sibattick southern trip; secondly, it seemed opportune to make Island, British North Borneo. Here I had my first a short expedition to the Island of Mindoro for the experience of collecting in a tropical forest, and it was purpose of ascertaining the whereabouts of a great one which I shall not soon forget. The forest itself number of Cetaceans which had been reported as was most wonderful: great white camphor-wood trees coming shore near Calapan, and the bodies of which stretching up at times over two hundred feet, and the had been buried in the sand. Kayu Rajah, or king-tree, equally as high, were hung ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 with vines and creepers forming a tangled network tion which the British Museum are sending into the which stretched from one to another. Beautiful palms white mountain region of that country. were interspersed here and there throughout the Our next stop was at Bouro, a large moun- forest, and banana trees were growing in every little tainous inland which has been but very indefinitely clearing. Bird notes could be heard now and then, explored. We touched this coast at three places and subdued by the great height of the trees, and some- then steamed westward across the Molucca Sea to times drowned in the shrilling of myriads of locusts the island lying off the southeast coast of Celebes. and beetles which made one's ears ache. Many dredge hauls and much reef work was done While the "Albatross" was taking coal here, I here and opportunity given for some land collecting. had two days of fairly good collecting for birds, get- Buton Strait, through which we passed, led us ting a number of birds and a few mammals. We then to the entrance of the Gulf of Boni, the southern of left and streamed straight across for Menado in the the two large gulf of the Celebes. After working here, North Celebes. Menado is a typical little Dutch Indian we got to Makassar for Christmas and were most town, all of which are among the most beautiful hospitably received by the Governor and the Euro- villages that I have ever seen. The houses are set pean residents of the town. It was here that I met His back in the midst of palm groves, with flowers grow- Excellency Baron Quarles de Quarles, Governor of the ing in every available place. Celebes, who has a splendid museum of his own, illus- We only remained at Menado four hours, then trating the anthropology and ethnology of the Celebes going around the north end of the island and anchor- native tribes. He became interested in our work and ing in the Limbe Strait. Some repairs to the boilers very generously presented to the American Museum necessitated remaining here for three days, and the the collection of ethnological material which it would time was very profitably spent in collecting. A otherwise have been impossible to obtain. number of monkeys, a pig, and one of the rare Ursine When we left Makassar, heavy weather made phalanger [bear cuscus] were secured, together with a it impossible to do any dreading or much reef work, good series of birds, among which were four splendid and we steamed up the western coast of Celebes for hornbills. British Borneo to again take coal. After leaving Limbe Strait we went into the The "Albatross" arrived at Cavite on January Gulf of Gorontalo, taking a number of dredge hauls 11, and spent some ten days in repair work and and touching at several small islands in the southern exchanging the Filipino members of the crew for side of the Gulf. blue-jackets. As soon as we left Manila, we put north- From here the "Albatross" took almost a ward in heavy weather for Formosa, and on the straight course across to Ternate, a great volcano, at twenty-third of January anchored in a little cove at the base of which is situated a little village of the the southern end of this island. Here we spent three same name. At Ternate many of the Paradise birds days in a very poor harbor while one of the engines from New Guinea are marketed and sent to Paris and was being repaired, and I had an opportunity to do London. We were here for Thanksgiving and left the some shore collecting. next day, going southward dredging and doing reef The next stop was at Soo Wan, a picturesque work as well as shore collecting among many small little bay only forty miles south of Keeling, one of the islands at the south. largest towns on the island, and which we visited on We at last touched the southern end of the January. large islands of the Gillolo, where a great number of Three days were spent a Keeling, during different species of parrots were collected, and on which time it rained continuously. We then left for December 4 arrived at the town of Ambon. Here we the Loochoo Islands, landing at Naha. This is one of met a band of Dyak from Dutch Borneo, who were on the most interesting spots I have ever seen in the their way to New Guinea to accompany the expedi- world, being but seldom visited by European. An 49 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 American missionary, Mr. Schwartz by name, the During the time that I had spent at this sta- only white man in the islands, is living at Naha, and is tion, a finback whale 70 feet in length and ten por- apparently doing good work among the natives. We poises of four different species were secured, one of did no collecting or scientific work here and eventu- which is apparently new to science. After consider- ally steamed straight for Nagasaki, Japan, reaching able difficulty, the enormous crates containing the there February 11. Here we were most cordially heads and bones of the whales were transported to a received by the Governor and the American Consul, village some twelve miles away and loaded on the and information was given me leading to a trip to Shi- Nippon Yusen liner and sent to Yokohama, thence monoseki in order to interview officials of the Oriental being shipped direct to New York by the steamship Whaling Company. I found the President and other "Welsh Prince." members of the Company most likely disposed At this point it is well to speak of the great toward my work, and permission was given me at courtesy shown me by the President and officials of once to visit their stations for the purpose of studying the Orient Whaling Company, the various station and collecting Cetacean material. masters, and the captains of their ships. Not only did Returning to Nagasaki, I definitely arranged the whaling company present all of the skeletons to to leave the ship and eventually forwarded much of the American Museum, but also gave me every facil- my equipment to Shimonoseki, where I remained until ity for prosecuting my scientific work and helped me February 27. Exceedingly bad weather kept me at in various other ways. the village for some time, but I at last went to the After seeing the skeletons safely on board the Company station at Shimidzu on the Island of Skoku. "Welsh Prince," I left Japan on the North German So few whales were taken at this station that I trans- Steamship "Bülow" and went direct to Egypt, touching ferred to Ôshima, where a splendid blue whale, 79 en route at various oriental ports of call for the Asi- feet in length, a sei- or sardine whale, 46 feet long, atic liners. A week was spent in Egypt, where I had and a killer of 26 feet were taken. These were put on the pleasure of seeing the Zoological Gardens at Giza, board a schooner after being carefully crated, and which are among the finest in the world, and I then sent to Shimonoseki, where they were transferred to sailed from Alexandria for Marseilles. From Mar- the Hamburg liner "Aragonia" for New York. seilles I visited Italy, Austria, Germany, Belgium, I was very desirous of securing a large sperm whale for the Museum, and went to the Company sta- zoological gardens at the various cities. tion at Aikawahama, Province of Rikuzen, some three I left Southampton on November 16, by the hundred miles north, studying the different whales as Kron Prinz Wilhelm of the North German Lloyd Line they were brought in at the station and going out on and arrived in New York on the twenty-second of the the whaling ship. Four species of large whales were same month, having been gone from the Museum taken at this place, and I had most exceptional oppor- about fifteen months. tunities to obtain valuable scientific data, both from 以上がオズボーンへの報告書である。 これに加え、 アンド the dead and the living animals. Although some リュースが日本で記した手紙、調査日誌、撮影データなどから twelve sperm whales were taken, one were over 47 推定したアンドリュースの1909年夏のシアトル出発から翌 feet in length, and I had almost despaired of getting a 1910年秋のニューヨーク帰着の間で、 日本に関係した行程に satisfactory specimen when Captain Fred Olsen of ついては次のように推定した (図7)。 the whaleship Rekkus Maru finally brought in an indi- 50 France, and England, inspecting the museums and (1) アルバトロス号のフィリピン調査に合流する途中、横浜と神 vidual 60 feet long, which he had killed as a special 戸での一時滞在 favor for the Museum. None of the bones were To board the Albatross in Philippine, shot stays at broken by the four harpoons which had been fired Yokohama and Kobe into the animal, and the skeleton was in splendid アンドリュースが初めて日本の土を踏んだのは、 アメリカ漁 shape. 業局 U.S. Bureau of Fisheries の調査船アルバトロス号 64 5-Aug Finback whale m 61´9´´ 184 65 2-Aug Sei whale m 40 ft 185 1220 cm (Andrews 1916a) 66 2-Aug Sei whale f 41 ft 185 1250 cm (Andrews 1916a) ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 67 3-Aug Sei whale m 45 ft 185–186 1371 cm (Andrews 1916a) 68 3-Aug Sei whale f 48 ft 185–186 1463 cm (Andrews 1916a) 69 5-Aug Sei whale m 48´4´´ = 1473 187–188 1413 cm (Andrews 1916a) Albatross I によるフィリピン調査に参加するための往路で かう安芸丸のなかで書かれた手紙 (Sep. 21, 1909 en route 70 18-Aug Sei whale m 41´6´´ 1265 188 1265 cm (Andrews 1916a) 71アルバ 20-Aug Sperm whale m 39´6´´ 193 あった。 トロス号のフ ィリピン調査は1907年10月にサン フ to Kobe from Yokohama, S.S. Akimaru) と写真によって 72 20-Aug Sei whale f 30´10´´ 940 189 940 cm (Andrews 1916a) ランシスコを出航、以降1910年1月まで続けられ、 フィリピンの 推定した。 オズボーンへの報告書によるとアンドリュースは、 73 20-Aug Sei whale f 43´2´´ 1315 193 1315 cm (Andrews 1916a) ほか現在のイ ンドネシアや香港、 台湾周辺におよぶ大掛かり 1909年9月17日に横浜に到着 (手紙では16日)、人力車で市 74 22-Aug Sei whale m 39´ 194 75 23-Aug Sei whale f 46´6´´ = 1417 2, 194 ル離れた宿で過ごし、 1417 cm 木と紙と竹ででき (Andrews 1916a) な調査航海で、 多数の魚類標本が収集された (Smith and 内見物、夜は10マイ Williams 1999)。 また、収集資料の図版作成係として伊藤 た家を堪能する。翌日は鎌倉に行き大仏を見学、水田の風景 熊太郎が乗り込んでいた (Springer 1999)。 や村の景観も興味深く見る。市街地や田園風景を撮影。18日 アンドリュースは1909年8月25日にニューヨークを発ち、8月 土曜日は日光に出掛け、東照宮でたくさんの写真を撮った。大 下旬または9月上旬にシアトルから日本郵船株式会社の蒸気 雨のため東京帰着は日曜日の午後3時になった。雨が続く20 船安芸丸に乗った。横浜到着が9月17日なので、旅行日数か 日月曜日に再乗船、 そして手紙を書いている9月21日は素晴ら らすれば9月上旬の出港とするのが自然である。 しかし船内で しい天気のなか岸から1マイル沖を航行。 日本の人たちはたい の撮影データは8月と明記されている。船内では故郷に近い へん礼儀正しい、 と記している。 ウィスコンシン大学の野球チームと一緒になり記念撮影をした 手紙の冒頭に横浜で3日過ごして昨日 (=20日)出港したと (Neg. #14662)。 あるので、 これによれば入港は Trip Report to Osborn で 横浜での滞在の様子は、1909年9月21日付けで神戸に向 の17日が正しいことになる。16日というのは日付変更線をまた Sea of Japan Korea Feb. mid‒ 27, 1910 下関 Shimonoseki Sep. mid20, 1909 長崎 Nagasaki Arr. Feb. 11, 1910 East China Sea Jan. 23‒ Feb. 1?, 1910 Keelung Suao Bay 鮎川 Ayukawa Kyoto 神戸 Kobe Inland Sea Sagami Eraly‒mid Mar.,1910 Dep. Jan. Taiwan マニラから 21, 1910 Shimofusa Nabeshima Nakatoshima to Cairo Early Feb., 1910 横浜 Yokohama Late Mar.‒ Apr.,1910 土佐清水 Tosa-Shimizu 下関からカイロへ to Cairo via Shimonoseki Naha Sep. 17‒ 20,1909 Tokyo Kamakura 紀伊大島 Kii-Oshima Moji 香港へ To Honk Kong May.‒late Aug.,1910 Nikko Jan. 8‒Feb. 蔚山 Ulsan 24, 1912 China Japan Dep. late Aug.,1910 シアトルから from Seattle Dep. Aug. or Sep., 1909 to Japan 沖縄 Okinawa Pacific Ocean From Manila Kwaliang Bay 図7 アンドリュースの手紙や報告書、調査日誌、写真などから復元した1909‒1910年の日本での行程 Fig. 7 RCA s footprints in Japan between 1909-1910, reconstructed with his correspondence, reports, field notes, photos and other records. 51 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 図8 アンドリュースが撮影した瀬戸内海備讃海峡の与島と鍋島灯台 Fig. 8 Yoshima Island, and Nabeshima Island lighthouse in the Bisan Strait in the Setonaikai Inland Sea, photographed by RCA on Sep. 1909. Image #26573 American Museum of Natural History Library 図9 アンドリュースが撮影した門司港での石炭の積み込み Fig. 9 Loading coal at Moji Harbor photographed by RCA on Sep. 1909. Image #26576 American Museum of Natural History Library いだことを考慮しないで書いた間違いかも知れない。 浜には九番楼があると記されている (Andrews 1943: 52)。 日本郵船株式会社が運航する北米航路に関連した資料 しかしアンドリュースの文章は段落を変え In Yokohama については、1916年のガイドブック 『日本郵船株式会社渡航 there was the Grand Hotel and "Number Nine." という 案内』 が現存する (日本郵船株式会社1916)。 これによれば、 始まりで、前段の安芸丸で訪問した時とは言っておらず、 むし 日本とアメリカとを結ぶ 「米国航路」 は香港シアトル線と神戸シ ろ別の話題としての書き出しである。1909年9月の滞在時の アトル線の2つがあり、香港線は4隻、神戸線は3隻の船で日米 行動や人的つながりなどを考えると、九番楼の話は後年の経 間毎月3回の定期航海となっていた (同:25)。 ただし1916年 験と考える。 の案内では安芸丸の名前は米国航路ではなく濠州航路に 52 (2) フィリピン調査の帰路に立ち寄った台湾と沖縄 掲載されている (同:35)。香港航路の場合、途中の寄港地は Return voyage from Philippine, calls at Taiwan 上海、門司、神戸、四日市、横浜、 カナダのビクトリアである。 and Okinawa 「渡航案内」 は日本起点の記述をしているため、 シアトル発の アルバトロス号の航路を知る資料となる水温観測などの調 米国航路の日本での行程が記されていない。 そこで、欧州航 査日誌のうち、今回の調査で得られた最後の日付が1909年 路の記述を見ると、神戸には土曜日午後に入港し月曜日午前 12月15日であったので、 スミソニアンアーカイブで調べたアル 出港、門司では短時間の寄港とある (同:13)。 バトロス号資料からフィリピンから日本への航路や日程につい シアトルから香港行きの米国航路も同様とすれば、 アンド ては知ることができなかった。 オズボーンへの報告書に登場す リュースは横浜で安芸丸に再乗船して神戸に移動、 ここでも2 る経由地は、南端の小さな入り江、Soo Wan、Keelung( 基 泊3日の停泊となる。 アンドリュースの写真からは、京都まで足 隆)で、1910年2月1日付け基隆での手紙(Feb 1, 1910 を伸ばし方広寺の巨大な梵鐘、東本願寺、動物園のクマ檻、 Keelung) には南端の Kwaliang と北端の Soo Wan Bay 清水寺、大谷本 が見える。Soo Wan Bay は、 おそらくは基隆の東南にある 、豊国 などを訪問し、神戸では当時外国 人に "Moon Temple" として知られていた摩耶山天上寺、 Suao Bay 蘇澳港であり、Kwaliang Bayは少なくとも1900年 六甲山の布引の滝、神戸の大仏として親しまれた能福寺を訪 代初めは台湾南端西側の湾、現在の Southern Bay 南湾 れたことがわかる。六甲山麓の家並みや街を行く葬送の行列 の呼称として用いられていた (The Takao Club: The Loss も撮影した。神戸からは瀬戸内海を西進し備讃海峡の鍋島 of the Ship "Benjamin Sewall" http://takaoclub.com/ 灯台を通過(図8)、 日本最後の寄港地、門司港では安芸丸 sewall/BenjaminSewall.htm 2014年4月29日閲覧)。報告 に横付けされた石炭運搬船の写真を撮った (図9)。 日本を離 書と手紙に現れる地名は同一と考えられる。一方、撮影デー れ上海を経由して香港に到着。香港からはタミン Taming と タでは4×5判ネガでは Loo Wau Bay、5×7判には Kwa-liag いう船でマニラに到着した (Trip Report to Osborn)。 が記されている。Loo Wau Bay は撮影データにのみ現れ、 『ドラゴンハンター』 では、 この最初の日本訪問時に吉原の Google の検索では確からしい抽出はできなかった。撮影 「九番楼」 ( Number Nine) に出掛けたとある (ガレンカンプ データは後年に整理転記されたもので、誤記の可能性も考え 2006: 51‒53)。 アンドリュースの著作でもアルバトロス号調査 られる。本稿では、Loo Wau Bay は Soo Wan Bay と判断 に合流するため安芸丸で横浜に到着した話のすぐ後で、横 した。 フィリピンから沖縄への経路はこれらの資料を用いて復 ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 元した。 滞在した、 となっている (Trip Report to Osborn)。 オズボー フィリピンでの調査を終えたアルバトロス号は、1月21日にマ ンへの報告書によれば、 アンドリュースは下関で東洋捕鯨の ニラを出発した。 しかし、悪天のうえ強い向かい風に阻まれ、 社長と面会している。当時の東洋捕鯨の本社は大阪であっ それが災いしてエンジンの故障もあって台湾に避難する。1月 たが、創業地であり朝鮮での捕鯨事業をにらんで下関支店 23日、 まず台湾南端西側にある Kwaliang Bay、現在では の役割も大きかったと想像される。 アンドリュースはこの後も下 Southern Bay 南湾とも呼ばれる台湾南端部に到着で3日を 関の東洋捕鯨をたびたび訪れている。 過ごし (Trip Report to Osborn、基隆での手紙では2日 著作では、長崎市内を散歩中に鯨肉が販売されているの 間)、再出発して基隆の南40マイルの Soo Wan Bay、 すなわ を見て日本での鯨類調査を思いつき、急遽アルバトロスを下 ち基隆の東南にある Suao Bay 蘇澳港に投錨、そして 船したことになっているが (Andrews 1916b: 77‒78、 ガレンカ Keelung 基隆でも3日間滞在した。台湾では避難中に野鳥 ンプ 2006: 58)、実際には鯨類調査の実施にあたり、知事や の収集を少ししただけであったが、Loo Wau Bay では先住 アメリカ領事などトップクラスの行政官が仲立ちあるいは準備 民の村を訪ね、断崖に張り付く家並みや捕獲したウミガメを海 をしていたことがわかる。東洋捕鯨へは、 アンドリュースの到着 岸に陸 揚 げしているところに立ち会 い 写 真を撮った。 以前に領事か知事が、 あらかじめ調査の打診をしておいたの Kwaliang Bay では、 日本の役人が竹製のいかだに乗って かも知れない。 ただし、 アンドリュースは基隆からアレンに宛て 査察に来た様子も撮影した (Neg No. 26681)。 また、台湾南 た手紙でも長崎や鯨類調査の話はしておらず、2月最終週に 端でアルバトロス号のフィリピン調査で初めてとなる鯨、ザトウ 横浜到着の予定だと書いており、 オズボーンへの報告書でも クジラを2 頭 見たというのは( A n d r e w s 1 9 1 6 b : 7 7 )、 下関での東洋捕鯨への聞き取りのあと長崎に戻ってから調 Kwaliang Bay でのことかも知れない。基隆では少なくとも2 査器具を船から降ろす準備を始めたとあるので、 日本での鯨 月1日まで過ごし、沖縄に向けて出港した。 類調査を決心したのは長崎到着後というのは確からしい。 し 沖縄では那覇に上陸した。 ここでは生物学的な調査は何 かしながら、鯨類調査の発端が何であり誰の発想であったの 一つしなかったが、 ここは自分が知る限り世界で最も興味深 かは不明のまま残された。 い場所のひとつと感じられた (Trip Report to Osborn)。那 アンドリュースが最初に訪れた捕鯨事業場は、高知県の土 覇の市街地や人びとの姿、村の景観は興味深く、那覇と首里 佐清水の事業場だった (図10)。 アンドリュースは下関から紀 で撮影した写真は少なくとも30枚になった (宇仁・当山・岸本 伊 大 島に向かったと書いているが( A n d r e w s 1 9 1 6 b : 2014)。 また、ペリー提督と琉球政府が条約を調印した首里 78‒79)、事実と異なる。土佐清水ではほとんど鯨が捕れな 城は感慨を持って訪問した (Andrews 1943: 78、Neg. No. かったため、和歌山県南端の串本の対岸、紀伊大島の事業 26680)。 場に移ることにした (Trip Report to Osborn)。土佐清水か なお、 アンドリュース撮影写真の4×5判のネガ番号は、沖縄 ら串本への移動経路を記した資料は見つかっていないが、 が26670‒26680、台湾は26681‒26691と沖縄が先になってい 1910年3月撮影とする写真には撮影地が瀬戸内海 Inland る。現在アメリカ自然史博物館で使用されている5桁のネガ番 Sea と記したものがあり、 このなかで撮影場所が特定できたも 号がいつ与えられたのかは不明だが、 アンドリュースの著作 のに、国内屈指の潮の流れで知られる愛媛県沖の来島海峡 でもフィリピンのマニラから沖縄に向かい、 その後、北に向かっ て台湾を訪問したような記述が見られることから (Andrews 1929: 108)、 ネガ番号の順序の入れ違いは1929年までに生 じた可能性があり、誤りのままアンドリュースは講演や執筆を 行っていたのかも知れない。 (3)長崎から土佐清水、 そして紀伊大島へ From Nagasaki to Tosa-Shimizu and Kii-Oshima 沖縄から土佐清水までの経過については、行程を記した 手紙が見つかっていない。 オズボーンへの報告書では、沖縄 を発ち、1910年2月11日に長崎に到着し、知事とアメリカ領事 に歓待され、下関に行って東洋捕鯨を訪問した、同社では社 長も社員もアンドリュースが調査のために事業場を訪問し、資 料を収集することを許してくれた。長崎に戻り船を離れる準備 をして、調査器具の多くを下関に発送、下関には2月27日まで 図10 アンドリュースが撮影した東洋捕鯨清水事業場 Fig. 10 Shimizu Whaling Station of Toyo Hogei photographed by RCA in Mar. 1910. Image #26786 American Museum of Natural History Library 53 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 図11 アンドリュースが撮影した瀬戸内海の帆船。来島海峡にある中 渡島潮流信号所と灯台 Fig. 11 Sailboats on the Setonakia Inland Sea. The Tide Signal Station and the lighthouse on Nakatoshima Island in the Kurushima Channel, photographed by RCA on Mar. 10. Image #26802 American Museum of Natural History Library 図12 アンドリュースが撮影した「東洋捕鯨株式会社御定宿」の札を掲 げた塩 ホテル Fig. 12 Sign Lodging for Toyo Hogei shown at the Shiogama Hotel, photographed by RCA in Apr. 1910. Image #26823 American Museum of Natural History Library の中渡島(なかとしま)潮流信号所の写真があった (図11)。 ols 1913(=E. akaara Trmminck & Schlegel, 1842)と 中渡島にはアンドリュースが通過する前年の1909年から日本 Sciaena ogiwara Nichols 1913 =Larimichthys polyactis 初の潮流信号所が稼働しており (海上保安庁燈台部編 (Bleeker, 1877)の2つが新種記載されており (Nichols 1969: 204‒209)、 アンドリュースの写真にも灯台とともにはっき 1913)、後者は魚類収集に協力した東洋捕鯨の Ogiwara り写っている。 よってアンドリュースは瀬戸内海を通り串本に向 への献名である。 しかし、下関での魚類調査の記載は1910 かったことが明かである。 ただし、土佐清水から串本へまっす 年の日本での鯨類調査を記したオズボーンへの報告書では ぐ向かったのか、途中で神戸や東洋捕鯨の本社がある大阪 なく、1912年の朝鮮での調査を記したアレンへの報告書にあ に寄港したのかはわからない。 り、 また、 アメリカ自然史博物館のデータベースでは、 これらの 紀伊大島で彼を待っていたのは対岸の串本に住む Ikeda 収集年月は1912年となっている (AMNH Vertebrate Zoology (Andrews 1916b: 79) で、彼は明治42年(1909)9月29日か Database-http://sci-web-001.amnh.org/db/emuwebamnh/ ら翌43年6月4日まで大島事業場長を務めた池田英太郎で index.php) 。 よって、下関での魚類収集は1912年に蔚山での あった (大島事業場長必携)。 コククジラ調査や白頭山鴨緑江への探検の後に行われたと (4)紀伊大島から鮎川へ 考えられる。 なお、 これら2つの記載は上記のとおり現在ではシ From Kii-Oshima to Ayukawa 紀伊大島から鮎川への行程を記した手紙や報告書も見 logue http://www.fishwise.co.za/Default.aspx?TabID= つかっていない。写真では、塩 ホテルの写真の注記に 「鮎 110&SpecieConfigId=230400&GenusSpecies=Epinephe 川 へ は( 宮 城 県 )塩 lus_lobotoides および http://www.fishwise.co.za/default. で船に乗る」 とあるので( N e g . #26823)、塩 まで大型船で行き、 そこから小型の船に乗り aspx?TabID=110&SpecieConfigId=242931 2014年5月9 換えたのかも知れない。塩 ホテルの玄関上には 「東洋捕鯨 日閲覧)。 株式会社御定宿」 の札が写っている (図12)。 離日に関して、現時点で資料的な裏付けのある記述は、前 (5)鮎川から離れて帰国まで 54 ノニムとされ無効な学名となっている (Universal Fish Cata- 述のオズボーンへの報告書がすべてである。標本をすべて Departure from Ayukawa and leaving for home ニューヨークに送り出した後、北ドイツの蒸気船 the North アンドリュースが鮎川を離れたのは、調査日誌の最後の鯨 German Steamship "Bülow" で日本を発ち、 カイロに向か 調査が1910年8月23日であるので、 それ以降である。 この年、 い、 ヨーロッパ経由で帰国した、 ということ以上の資料は得ら 鮎川事業場は8月25日に事業を終えているので (鮎川事業場 れていない。 日本を離れてからの写真は、香港で数枚が撮影 長必携)、 その前後に離れたと考える。書籍では、鮎川での調 されているが、 その次はカイロやエジプトであり、 ガレンカンプ 査終了後にトロール基地でもあった下関で魚類収集を行った (2006: 64‒66) の記述にあるような北京に向かったという証拠 と記されているが(Andrews 1929: 113‒115、 ガレンカンプ は得られなかった。 2006: 63)、 これは事実と異なるようである。 アンドリュースが下 (6) その他の訪問地 関で収集した個体をもとに Epinephelus lobotoides Nich- Other visits ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 著作では東洋捕鯨の東京支社を訪問しヒゲ板の工芸品 ナガスクジラ、 「イワシクジラ」、 シャチ、 を得ている。 を見たことや (Andrews 1916b: 91)、Imperial Museum 帝 大島での手紙(Mar. 9, 1910 Ôshima, FOLDER II‒2, 室博物館(東京帝室博物館、東京国立博物館の前身) を訪 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.) には、調査日誌では見られな 問したことが記されている。帝室博物館の訪問については、 い資料収集の方法が記されている。 たとえば、4月8日のシャチ 次の内容の記事が雑誌「Science」 に掲載されている。帝室 について、 <このシャチはここで唯一の個体で、対岸の Kis- 博物館ではアラスカが基産地となっているツチクジラの全身 sian Company(串本の紀伊水産株式会社か)が捕獲し 骨格標本が展示されているのを見て驚き、 この鯨の骨格標 た。骨格が欲しいという名古屋からの2人組と競り合いになり、 本収集を東洋捕鯨の松崎氏に依頼、 その結果1911年に完 62ドルを用意したが実際には10ドルで購入できた。我々にとっ 全な骨格標本がニューヨークに到着したという。During 1910 ては62ドルでも安い、全身骨格は400‒500ドル以下では買え while in Japan studying and collecting whales for the ないから。骨はアメリカに送るために下関に持っていき、蔚山 American Museum of Natural History, I saw in the 事業場で東洋捕鯨が確保してくれたシャチの骨格と一緒に Imperial Museum at Tokyo the skeleton of a Ziphiioid 送るつもりだ>と、競り勝って購入した標本ということがわか whale belonging to the genus Berardius.(Andrews る。手紙ではシャチの学名が複数登場し、 アンドリュースが予 1912: 902‒903) 想したのは Orca ater か O. rectiprima だったが実際には 以上が、手紙や報告書、調査日誌、写真、公刊論文等を用 True (1904) "Delphinidae" の図とほとんどおなじ O. orca が いて復原された、1909‒1910年のアンドリュースの日本滞在の 現れて驚いたとも記している。紀伊大島で収集されたシャチ 行程である。 は東洋捕鯨ではなく、対岸、 つまり串本の捕鯨業者、 おそらく 前述のとおり、 ガレンカンプ (2006: 58‒59) では、 アンドリュー は紀州水産の事業場に陸揚げされたものであることがわかっ スは静岡県清水を訪問、伊豆大島や佐渡島の相川で鯨類 たが、紀伊大島での写真のうち、 このシャチのみ背景の小屋 調査を行ったと記しているが、誤りである。 この誤りの原因とし などの様子が異なっているのは、他の捕鯨業者の事業場で ては、 アンドリュースは土佐清水を Shimidzu、紀伊大島を 撮影されたためと思われる。 Oshima と記載しており、現在用いられている同名地名を区 イワシクジラについては、 <今、 自分はイワシクジラの骨格を 別する旧国名などを記していないこと、 また鮎川については相 待っているところだ。 ここではたくさん獲れている。昨夜も小型 川とおなじ発音表記の Aikawa と記していることなどが考え のものが獲れたが33フィートだったので[骨格は]保存しな られる。 アメリカ自然史博物館のデータベースはインターネット かった>、 と本州南端の潮岬周辺海域で普通に獲れている で閲覧可能なことから、 このままでは誤りが拡散再生産される と記している。1910年当時の知識ではニタリクジラやカツオク 可能性があるので、訂正を望みたい。 ジラ、 さらにツノシマクジラが知られていなかったため、 アンド リュースが観 察した「イワシクジラ」が本当にイワシクジラ 2) 日本での鯨類調査 Whale research in Japan Balaenoptera borealis であったかどうかには以前から疑問 が持たれていた (大村 1986: 94‒95)。 イワシクジラのモノグラ アンドリュースの鯨類調査の様子は、 ナショナルジオグラ フに収録された紀伊大島産の標本 M-34781 であるが、 この フィックの記事(Andrews 1912b) や Whale Hunting with 標本についてはDNA分析が現在進められている。残念なこ Gun and Camera(Andrews 1916b) に描かれているが、写 とに今回の調査では発見できなかった液浸標本 M-31824 真の間違いや読み物としての脚色などがある一方、事業場 は、 カツオクジラ Balaenoptera edeni と記されている。誰が での詳しい話は記されていない。手紙や報告書、写真や撮影 いつどのように判断をしたのか注目されるが、 いまのところ資料 データから、公刊論文や著作では知り得ない調査や標本収 そのものも付帯情報も見つかっていない。 集の実際、 またアンドリュースの心理状態について考察を行っ 大島での手紙にはヒゲ板についての記述もあり、 <シロナ た。 ガスクジラのヒゲ板全体を得た、 イワシクジラのもそうするつもり (1)紀伊大島での調査 Examining at Kii-Oshima だ>と記されている。 アメリカ自然史博物館の収蔵庫に保管さ れている無番号のヒゲ板のうち、 シロナガスクジラとニタリクジ 調査日誌によると串本での調査は非常に恵まれていたこと ラあるいはカツオクジラのものは紀伊大島で収集されたのかも がわかる。調査した鯨は、4月4日シロナガスクジラ1頭、6日イワ 知れない。 シクジラ1頭、8日シャチ1頭、13日イワシクジラ2頭、14日ナガスク 調査日誌の記述によれば、紀伊大島では捕獲された鯨が ジラ1頭とシロナガス1頭、15日シロナガスクジラ1頭と、12日間 事業場に来るのは夜のことが多い。解剖の様子を捉えた写 で8頭に上っている。期間中、13日までに骨格標本を3つ、 シロ 真が見られないのはそのためかも知れない。 日誌に記録され 55 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 た調査時刻では、1番のシロナガスクジラは午後7時30分、2 米と魚と鯨肉で気が滅入る、 いまは何も食べたくない。1週 番のイワシクジラは午前1時、4番目のイワシクジラも午後8時、5 間したら横浜に行き、食糧をかばん一杯にして帰ってくるん 番目のイワシクジラは午後10時であった。3番目のシャチは午 だ。 もちろん物質的な不自由は滞在するかどうかの問題では 前10時に調査されたが東洋捕鯨ではなく別会社の陸揚げで ない。仕事をちゃんと完遂したい。捕鯨会社にはナガスクジラ あった。 これは解剖前の外部形態を撮影されているほか、 ネ の骨格をもらってよいか手紙を書いた。 もちろん大丈夫だろう。 ガ台帳(5×7 Negs. 14023‒19916) によれば、背びれや胸び 大きなのをマッコウと一緒に持って帰るから。すでに我々はこ れ、 アイパッチの写真を撮影している。6番目となる4月14日のナ の海域のナガスクジラの骨格を入手している。 これは科学的 ガスクジラは午後2時頃に運ばれてきたので、 アンドリュースは な価値を与えてくれるだろうし、慎重な調査を行ったのち、交 「写真を撮ることができた」 と記している (調査日誌32p)。 換に使える。確保に関する唯一の支出は梱包とニューヨーク 大島では昼間に時間の余裕があったためか、景勝地や人 への発送だ。 物の写真が比較的多く見られる。池田場長夫妻や母子の写 博物館がマッコウクジラを待たず戻れというなら、返事は電 真などを撮ったのもそのためかも知れない。 アメリカ自然史博 報で送られるべきだ。 もう2か月も返事をもらっていない。電報の 物館の日本コーナーで常設展示されているキヌの写真(写真 宛先は 「Andrews San Maru Shimonoseki」、郵便の宛先 6) も、閲覧プリントに記載されたデータによればここでの撮影 は 「c/o Am. Counsel Nagasaki, Japan」 だ。 である。紀伊大島での調査は実質2週間に満たないものだっ バンプス博士には 「Aragonia」 に乗せた骨格には保険を たが、博物館に送られた骨格標本の数や帰国後のスライド講 掛けたと手紙に書いたが、運送会社に条件を示すように指示 演会に使用される写真を撮影するなど、成果は十分に大きい したところ、下関唯一の会社は相当の料金を知らなかった。 そ ものであった。 れで実際には掛けずに送った。標本はしっかり箱詰めして梱 紀伊大島からシロナガスクジラなど3体分の骨格の運搬に 包してあるので、壊れる危険はほとんどない。 ついては、書籍では下関に一緒に行った (Andrews 1916b: 送ったイワシクジラ [紀伊大島での採集個体 M-34781] は 91)、 あるいは、空荷のスクーナーが台風の嵐を避けるために 興味深いことを証明してくれるだろう。 これは Balaenoptera 入港し、それに積み込み神戸に送った(Andrews 1929: borealis と考えるが、 ノルウェーにいる種類が日本で見つかる 121) としているが、 アンドリュースは5月には紀伊大島を離れて なんて知らなかった。Sherwood 氏がくれた True のモノグラ おり、少なくとも台風が原因の嵐とは考えにくい。報告書 Trip フを捕鯨会社に贈ったが、 その前にしっかり読んでおいた。 Report to Osborn では慎重に箱詰めしてスクーナーで下関 (中略)True が言うには所見は権威者からのもので自分の に送ったと記しているので、紀伊大島で確保した標本はまず オリジナルではない。 ノルウェー人砲手はここのイワシクジラは 東洋捕鯨の本社がある下関に運搬し、 そこからアメリカに送 ノルウェーのものと同じといっている。Möbius が日本の捕鯨を られたと考える。 スクーナーの船主や調達方法に関する記述 書いた論文でこのクジラに言及するまでもなく、 自分がこのクジ は見つかっていない。 ラの分布を初めて記録することになるだろう。 (後略) (2)鮎川での調査 Research at Ayukawa 56 鮎川1910年6月29日の手紙(Jun. 29, 1910 Aiukawa, 鮎川での調査は結果で述べたとおりであるので、 ここでは FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.) アレン学芸員にあてた手紙を一部抜粋し、鮎川でのアンド 数日前、第二太平丸がゴンドウクジラ Globiocephalus リュースの様子を見てみたい。 Scammoni を持ってきた。 スカモンの図では全体が黒だけれ 鮎川1 9 1 0 年 6月5日の手 紙( J u n . 5 , 1 9 1 0 A i u k a w a , ど、 そうではない。 この標本の腹部は灰色だ。各部の写真を FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.) 撮影して、骨も注意して記録した。 ほかにも69フィートのメスの マッコウクジラの標本を確保すべく待っている。間違いなく ナガスクジラの骨格を得た。 [プリント写真が2枚同封されてい 得られるはず。 すでにいくつかのよい骨格は得た、 自分が銛で た。 ゴンドウクジラともう1枚は不明] 突いたカマイルカ。 トゥルー True のイルカの本 Delphinidae 鮎川1910年7月14日の手紙(Jul. 14, 1910 Aiukawa, では外部形態の図も詳しくなく、外部形態の計測もない。 自分 FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.) は各部の写真も撮ったし、生きたまま2時間かけて色彩を記載 昨夜、第五捕鯨丸が44フィートと2頭の45フィートのマッコウ したし、胸びれや尾びれをトレースした。 これらから模型の作成 クジラを持ってきたが、小さいので保存しなかった。35頭の群 も可能だ。問題は、 マッコウクジラの標本を確保するためにさら れが居て、 うち1頭は大きな雄だという。今晩、 レックス丸で出 に2か月滞在することを博物館が望むかどうかだ。砲手が言う 掛ける。群れが見つかるといいのだが。曙丸も一緒だ には7月下旬までで良い標本を確保するのはあり得ないと。 鮎川1910年7月25日の手紙(Jul. 25, 1910 Aiukawa, ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.) 砲手や解剖夫をはじめとする現場の従業員の協力が欠かせ 3日前に待ち続けていたマッコウクジラがきた。 これは完璧な ない。事業場での調査や標本の採集に関して、現在のところ 標本だ、雄で高齢、大きくて良い標本を得たのだ。上あごの歯 東洋捕鯨とアメリカ自然史博物館との間で金銭の授受に関 を調べたが (中略) ヒゲクジラとちがってマッコウ鯨の文献はよ する文書は発見できていない。 アレンへの報告書で捕鯨会社 く知らないが、 まだ誰も記録していないのではないか。 すぐにこ はすべての骨格をプレゼントした the whaling company こから出て行きたいが、10日のうちでできるとは思わない。 たくさ present all of the skeletons と書いているので、東洋捕鯨 ん鯨が揚がってくるので解剖夫は骨を片付けることができず、 は無償で調査に協力したと思われる。 また、 アンドリュース個 悪天で解剖夫が自分の標本にかかってくれることを待ってい 人と東洋捕鯨の社員、捕鯨事業場の従業員とは良好な関係 る。横浜か神戸で船積みするのに2週間以上かかるだろう。 自 だったと想像される (図13) 分が日本を離れるのは8月20日頃だろう。 それからカマイルカ アドリュースと東洋捕鯨の社員との手紙は、顔つなぎ的な と、前の手紙のとおりゴンドウクジラの標本を得た。追伸:マッ 内容の儀礼的なものも見られるが、 なかには個人的な関係が コウ鯨にはたくさんシラミがついていた。 築かれていたことを覗わせるものもあった。深い関係を示す資 料は、論文の謝辞と手紙、加えて新種記載された魚類の学 鮎川1910年8月19日の手紙(Aug. 19, 1910 Aiukawa, 名での献名がある。 アンドリュースと数多くの手紙をやりとりし FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.) た東洋捕鯨の社員は、Matsuzaki、Ogiwara、Uchidaであ 自分がまだ日本にいると知って驚きだろう。 マッコウを得てか り、 それぞれ往復分あわせ Dec. 1910‒Feb. 1912の15通、 ら仕事は遅れ続けている。台風がいくつも来て梱包材が得ら Nov. 1910‒May 1914の32通、Nov. 1910‒Mar. 1913 の15 れない、13日間も南部から切り離されている。外での作業は不 通が TOYO HOGEI K.K.(Oriental Whaling Company) 可能、鉄道は横浜との間は破壊され、 たくさんの人が風と洪 1910-17 のフォルダに残されている。最も数が多く文通期間も 水で死んだ。昨日は晴れて、今日は良い天気だ。箱づくりは 長かった Ogiwara の手紙を見ると、彼自身は東洋捕鯨を 遅々としか進まない。 ヨーロッパ人とは違うのだ。 「時は金なり」 近々退社し工場設立のほか船舶用品の代理店を開業予定 を理解させるのは不可能だ。 これまでに約100個体の鯨を計 と書き、 アンドリュースには製氷工場のアンモニアの独占販売 測した、 マッコウ、 ザトウ、 シロナガス、 ナガス、 イワシ、 セミ、 コク、 をする工 場の紹 介を頼んでいる( A u g . 1 9 , 1 9 1 2 n o そしてシャチ。8個体のマッコウを見たが、個体間の違いは大 description)。Ogiwara が起こした会社は下関の Nichiyei きくてヒゲクジラとおなじくらいだ。写真を2枚同封する。 [この手 Boyeki Shokai(日英貿易商会と思われる)で英名は 紙のセミクジラの記述は誤りである。 アンドリュースは雑誌記事 Anglo-Japan Trading Co. だった。 アンドリュースはこれに応 でもザトウクジラのキャプションにセミクジラと記していることが え、Ogiwara 宛てに複数の企業からの手紙を転送している ある (Andrews 1911a: 281)] (Ogiwara to RCA Nov. 14 and 20, 1912)。 そして Ogi- 手紙からはアンドリュースが鮎川で待ち望んでいたのはイ wara はナショナルアンモニア会社 The National Ammo- ワシクジラではなく、 マッコウクジラの骨格標本だったことが読 nia Company と取り引き始めることができた (National Am- み取れる。加えて日本の地方での生活に心身ともに疲れた様 子が記されており、好奇心に満たされて日本人を観察してい た紀伊大島や串本(Andrews 1916b) とは一転して、食生 活や商慣行の未発達さへの不満が綴られている。書籍では 読み物として事実の取捨選択や脚色が為されていると思わ れ、伝 記でもそれをなぞっているが(ガレンカンプ 2 0 0 6 : 59‒60)、 その実際は上司への手紙に泣き言を綴ったようにア メリカ人にとって厳しい経験もあったと想像される。 3)東洋捕鯨の協力 Cooperation with Toyo Hogei アンドリュースが日本と朝鮮で行った鯨類調査は、東洋捕 鯨の事業場で実施された。陸揚げされた鯨を解剖前に計測 し、解剖時にも胎児や必要な部位を採取、解剖後は一部の 骨格を採集している。 これらが可能となったのは、社長や役 員、事業場長などの幹部職員からの許可はもちろんのこと、 図13 アンドリュースが撮影した鮎川事業場に陸揚げされた巨大な マッコウクジラ前での記念撮影。東洋捕鯨の社員や事業場の従 業員と思われる Fig. 13 Large sperm whale M-34872 and probable employees of Toyo Hogei at Ayukawa Station, photographed by RCA in July 1910. Image #27275 American Museum of Natural History Library 57 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 いた (図15、16、MILSTEIN HALL OF OCEAN LIFE 1910‒1960 http://www-v1.amnh.org/exhibitions/ permanent/ocean/04_history/ 2013年5月22日閲覧)。 ニューヨーク市民をはじめとしてアメリカ自然史博物館の来館 者は、 日本の捕鯨産業から鯨の科学的知識を得ていたので ある。 しかしながら、1960年代になり新たな展示手法としてシ ロナガスクジラの実物大模型が導入されると、 アンドリュースが 収集した骨格標本は撤去された (MILSTEIN HALL OF OCEAN LIFE 1960‒1990 http://www-v1.amnh.org/ exhibitions/permanent/ocean/04_history/a2_1960.php 2013年5月22日閲覧) 。 図14 アンドリュースが撮影した鮎川事業場のノルウェー人砲手 Fig. 14 Norwegian gunners of Ayukawa Station, photographed by RCA in July 1910. Image #27370 American Museum of Natural History Library 一方、国立自然史博物館では蔚山のコククジラの全身骨 格標本 USNM 199527 が、少なくとも1960年代以降常設展 示されており (図17)、東洋捕鯨の鯨類学への協力は現在も monia Company to RCA Dc. 20, 1912)。 アンドリュースと Ogiwara は研究者と調査受入先という関係を越えた交友関 係であったといえよう。 また、Ogiwara には、朝鮮調査の帰路 下関で採集した魚類が新種記載された際、Sciaena ogiwara(Nichols 1913) と献名がされており、 アンドリュースが 科学者としての最大の謝意を示したものと考える。 ノルウェー人砲手との間にも特別な関係があったことが伺 える (図14)。鮎川で採取された巨大なオスのマッコウクジラに ついて、 オズボーンへの報告書のなかで、 オルセン砲手 Captain Fred Olsen が博物館のための特別な計らいでとったも のだと記している。 アンドリュースと砲手との間の手紙で見つ かっているのはオルセンとの間2往復分のみで、砲手のなかで もオルセンがとりわけ重要な役割を果たしていたと考えられる。 アンドリュースがノルウェー人砲手から得ていた知識は、 たと えば「ノルウェー人砲手はここのイワシクジラはノルウェーのも のと同じといっている」 (Jun. 5, 1910 Aiukawa, FOLDER II‒2, 1909‒'20 Allen, J. A. Corres.) といったような、鮎川で 図15 交 差 連 結 用 の 鉄 筋 が 見 ら れ る ツ チ ク ジ ラ の 全 身 骨 格 標 本 M-33197。挿入写真は左下に見える説明板(アメリカ自然史博物 館哺乳類研究部蔵) Fig 15. Baird s beaked whale skeleton M-33197, installed with mounting steel rods, and the label. Department of Mammalogy, AMNH 捕獲される北太平洋産とノルウェーの北大西洋産の鯨の外 部形態や、分布に関する知識であった。 アンドリュースやノルウェー人砲手の日本人従業員との意 思疎通、英語の使用状況は興味深いところだが、今後の課 題としたい。 4)収集標本の利用 アンドリュースが収集した標本の一部はアメリカ自然史博 物館と国立自然史博物館で常設展示されていた。 アメリカ自 然史博物館では海洋生物展示室 Hall of Ocean Life の 展示改訂が終わった1933年から次の改訂工事が始まる 1962年まで、東洋捕鯨の協力を得て収集した鮎川のマッコク クジラ M-34872、東京湾のツチクジラ M-33197、蔚山のオス のシャチ M-34276 の3標本が19世紀的な海洋資源の実物 展示というコンセプトでアメリカ捕鯨の壁絵とともに展示されて 58 図16 アメリカ自然史博物館の海洋展示室で1933‒1962年に展示され ていたマッコウクジラの全身骨格標本 Fig. 16 Skelton of sperm whale M-34872 mounted in the Hall of Oceans in AMNH between 1933 and 1962. Image #314191 American Museum of Natural History Library ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 ゴリー・ラムル研究司書 Gregory Raml, Special Collections and Librarian、 スミソニアン機構アーカイブの方々 Staff of the Smithsonian Institution Archives、 ニッスイ パイオニア館の藤平聡副館長および玉井信介前副館長。調 査日誌の抄録翻刻を手がけたジョナサン・オリー博士 Dr. Jonathan Olly、手紙の複写ファイルの名称を整理した東京 図17 スミソニアン協会国立自然史博物館に常設展示されているコク クジラの全身骨格標本 Fig. 17 Skeleton of gray whale USNM 199527 on display at National Museum of Natural History Smithsonian Institution 農業大学生物産業学部の菅野貴久君、 ネガの複写データを レタッチした同学部の井内衛君。 そしてアンドリュースがイワシ クジラと記録した標本について Bryde s whale と教えてくだ さった山田格国立科学博物館動物研究部脊椎動物研究グ 一般に向けて生かされていると評価できる。 ループ長。記してお礼申し上げます。 また、本研究はJSPS 科学研究費補助金23501209「もうひとつの近代鯨類学「第 おわりに Conclusions 一鯨学」 の形成と展開」 (基盤研究C: 2011‒2013) を得て行 以上、 これまで詳細が不明であったロイ・チャップマン・アン いました。 ドリュースの日本での足取りと調査の復元を試みた。本来の目 的である日本の鯨類学の発達史との関係については次の課 Summary 題として残されたが、最後に次の点を指摘しておきたい。 アメ We followed the footsteps of Roy Chapman リカ自然史博物館に保管されているアンドリュースの手紙や Andrews(RCA)when he studied whales, dolphins 調査日誌は、鯨類の生物学的調査の記録や科学史の資料 and porpoises in Japan in 1910 and Korea in 1912. We として重要なだけでなく、 日本の近代捕鯨初期の様子を伝え examined the cetacean specimens that RCA collected る記録としても評価できる。 さらに当時の同時代の一次資料 and his correspondence, publications, photographs and である 「事業場長必携」 や書籍『本邦乃諾威式捕鯨志』 との journals preserved in the American Museum of Natu- 間で記述内容の相互確認が可能である。 これまで裏付け資 ral History(AMNH). RCA departed from New York 料が不足していた明治大正期の捕鯨研究に関して、 アンド City and then started his journey across the North リュースの資料が活用されることが期待される。 Pacific from Seattle, Washington, on board the S.S. また、 同博物館の研究図書館貴重資料室に保管されてい Aki-Maru operated by Nippon Yusen Kaisha. He るアンドリュースが撮影した写真は、紀伊大島や鮎川、 そして arrived in Yokohama on 17 September 1909 and 蔚山では近代捕鯨初期の姿を捉え、 また明治末の近代化の visited Kamakura and Nikko for a few days. He then 途上にあった日本や沖縄、台湾、朝鮮の姿を記録している。 boarded the ship again, which stopped next at Kobe. 明治末期の日本では写真の普及が進んでいたが、被写体の From there, he visited the base of Rokko-san(Mount 多くは神社仏閣などの名所旧跡、名士や学校、軍隊などの集 Rokko)and Kyoto. Next the Aki-Maru sailed through 合写真や記念写真が多く、仕事や日常の暮らしを写し取った Stonaikai Inland Sea and called at Moji-Harbor 記録写真は多くはない。 とくに地方でその傾向が顕著である。 (Kitakyushu)to load coal and departed for Hong アンドリュースの遺産は人文学研究にとっても貴重な資料とな Kong. In Hong Kong, RCA boarded the Taming, り得るものである。 which was bound for Manila, where he joined the Smithsonian Institution s USS Albatross Philippine 謝辞 Acknowledgements Expedition and spent several months exploring parts 本研究は次の方々の協力があってはじめて可能となったも of the Dutch East Indies. After the expedition was のである。 アメリカ自然史博物館哺乳類研究部のパトリシア・ completed, the Albatross came to Japan, departing ブルナウア役員秘書 Patricia Brunauer, Administrative from Manila, in late January 1910. On the way to Secretary、 アイリーン・ウェストウィグ科学助手 Eileen West- Japan, the ship met bad weather and her engine wig, Scientific Assistant、 ニール・ダンカン標本管理責任者 needed to be repaired so they stopped for a few days Neil Duncan, Collections Manager、同館研究図書館の in Taiwan. It also visited Okinawa and finally reached バーバラ・マーサ貴重資料室長 Barbara Mathé, Museum Nagasaki on 11 February 1910. Archivist and Head of Library Special Collections、 グレ RCA was invited to conduct whale research 59 宇仁 義和・ロバート・ブラウネル・櫻井 敬人 by the local governor and the American consul in AMNH, together with wall paintings of American Nagasaki. He visited Toyo Hogei(Oriental Whaling sperm whaling, between 1933 and 1962. The other Company)in Shimonoseki and decided to start whale gray whale skeleton was donated to the Smithsonian research in Japan. He unloaded his research equip- Institution where it has been on exhibit in the Hall of ment from the Albatross and headed to the landing Osteology in the National Museum of Natural History station at Tosa-shimizu(Kochi Prefecture). As very since the early 1960s. few whales were taken there, he moved to Kii- RCA s correspondence, publications and jour- Oshima(a small island off Shiono Point, Wakayama nals are an important biological record of Japanese Prefecture). cetaceans and early modern whaling in Japan. It is RCA examined eight whales from 4 to15 possible to compare and to verify these documents April at Kii-Oshima and secured three skeletons: a with other old documents and books dating back his blue whale, a Bryde s whale and a killer whale. He days, such as the handbook for the station managers then returned to Shimonoseki and shipped the speci- of Toyo Hogei and Akashi s 1910 monograph the First mens back to AMNH. RCA then left for the next sta- Book of the Norwegian Whaling in Japan. The photo- tion, which was Ayukawa(Miyagi Prefecture). graphs taken by RCA are also extremely significant There, between 20 May and 23 August 1910, he because they are the only images of early modern examined over 62 whales(blue, sei, fin, sperm and whaling in Japan and Korea. They include rare photo- four small cetaceans(short-finned pilot whale graphs of people s daily lives in Okinawa and Taiwan [northern form], Pacific white-sided dolphin, northern in the early 20th century. RCA s archives and speci- right-whale dolphin and True s porpoise). He also mens are important resources for future studies. secured the skeleton of a large male sperm whale 59 ft(18 m)in total length. His research activities were 引用文献 Literature Cited whole-heartedly supported by Toyo Hogei officers and 明石喜一(1910)本邦乃諾威式捕鯨志.東洋捕鯨.大阪. workers at both the head office and the two landing (復刻版(1989) 「明治期日本捕鯨誌」 マツノ書店.徳山) stations. Toyo Hogei gave him a skeleton of Baird s Allard, D. C.(1999)The Origins and Early History of beaked whale that was taken by another whaling the Steamer Albatross, 1880‒1887. Marine fisheries company. After he completed his research work in Review, 61(4):1‒21. Japan, RCA left for Cairo, Egypt. After that, he traveled Europe to visit natural history museums, arriving for Science. Nature, 30: 280‒283. back in New York in November 1910. The skeletons Andrews, R. C.(1911b)A new porpoise from Japan. he collected in Japan reached New York in December Bulletin American Museum of Natural History, 30: 31‒52. 1910. Andrews, R. C.(1911c)Shore Whaling: A World He returned to Japan in December 1911 enroute to Toyo Hogei s land station in Ulsan, Korea. His research there was carried out between 8 January and 24 February, 1912. RCA examined 23 gray Industry. The National Geographic Magazine, 22(5): 411‒442. Andrews, R. C.(1912)Berardius Bairdii in Japan. Science, 939: 902‒903. whales as well as other species such as blue, fin, Andrews, R. C.(1914)Monographs of the Pacific humpback and killer whales. He collected skeletons of Cetacea. I. The California gray whale two gray, one humpback and one killer whale and (Rhachianectes glaucus Cope). Its history, external shipped them to AMNH. On his return to Japan, he anatomy, osteology and relationships. Memoirs of the purchased a skeleton and skin, and two skulls of American Museum of Natural History, 1: 227-287. finless porpoise. He also collected fish in Shimonoseki. 60 Andrews, R. C.(1911a)What Shore-Whaling is Doing Andrews, R. C.(1916a)Monographs of the Pacific The skeletons of the sperm whale, Baird s Cetacea. II. The sei whale(Balaenoptera borealis beaked whale and killer whale that RCA collected in Lesson). Memoirs of the American Museum of Natural Korea were exhibited in the Hall of Ocean Life in History, New series, 1(6):289-502. ロイ・チャップマン・アンドリュースの日本と朝鮮での鯨類調査と1909‒1910年の日本周辺での行程 Andrews, R. C.(1916b)Whale Hunting with Gun and Camera. D. Appleton, New York, 322pp. Andrews, R. C.(1929)Ends of the Earth. G. P. Putnam's Sons, New York, 355pp. Andrews, R. C.(1943)Under A Lucky Star. A Lifetime of Adventure. Blue Ribbon Books, New York, 355 pp. Gallenkamp, C. foreword by Novacek, M. J.(2001) Dragon Hunter. Roy Chapman Andrews and the central Asiatic expeditions. Viking, New York, 344pp. ガレンカンプ, C., ノヴァチェック, M. J. (2006) ドラゴンハンター ロイ・チャップマン・アンドリューズの恐竜発掘記.技術評 論社, 東京.413pp. 海上保安庁燈台部編(1969) 日本燈台史.燈光会, 東京. 674pp. Nichols, J. T.(1913)Note on Teleosts collected by Mr. Roy C. Andrews in Japan, with Descriptions of Two New Species. Bulletin American of the Museum of Natural History, 32: 179‒183. 日本郵船株式会社(1916) 日本郵船株式会社渡航案内.東 京.112pp. 大村秀雄(1986)第二鯨学事始.講談社出版サービスセン ター.東京.381pp. 渋谷辰三郎(1967)捕鯨回顧.私家版.長崎.139pp. Smith, D. G. and Williams, J. T.(1999)The Great Albatross Philippine Expedition and Its Fishes. Marine Fisheries Review, 61(4):31‒41. Springer, V. 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L.(1985)The National Museum of Natural red light district of Yokohama」http://yokohama- History : 75 years in the Natural History Building. postcardclub.blogspot.jp/2012/12/red-light-district- Smithsonian Institution Press, Washington D.C., of-yokohama.html?q=神風楼)、Yahooネットオークション 216pp. では宣伝カードが掲載されている (「宣伝カード 横浜遊 郭 神風楼 大正期 ‒ ヤフオク」http://page18.auctions. yahoo.co.jp/jp/auction/w105968555#enlargeimg)。個 人のブログでも写真入りの記事が見られる (「Hi Hi:横浜 遊郭(高島町遊郭 1872年11月∼1881年3月)」http:// blog.livedoor.jp/tomtoms2004/archives/51180615. html。 ウェブページはいずれも2014年9月15日閲覧である。 61
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