志田淳二郎 CSCEパリサミットの開催と冷戦終結 ―「欧州共通の家」をめぐる大国の行動を手がかりに― 1.本修士論文の目的 本修士論文の目的は、CSCEパリサミット(以下、「パリサミット」)開催の背景を検証す ることである 1。(パリサミットは、冷戦終結期の1990年11月19日から21日に開催された。) ブッシュ、ゴルバチョフを始めとする34ヵ国の首脳・外相とEC、国連関係者が出席したパ リサミットでは、ヨーロッパにおける通常兵器の軍縮を謳うCFE条約、NATO・ワルシャワ 条約機構の敵対関係の終結を誓う「22ヵ国共同宣言」、統一ドイツの兵力を37万人規模に 制限する「ドイツ国防軍兵員に関するドイツ政府宣言」などの条約・宣言が採択された。サ ミット閉幕時には、「新しいヨーロッパのためのパリ憲章」が採択され、パリサミットは、 「冷戦終結」の象徴としての印象を人々に植え付けた。本修士論文は、冷戦終結過程の米ソ の行動だけではなく、複数の分析視角を提示し、「なぜパリサミットは1990年11月に開催 されたのか」という問いを設定し、これを検証した。 2.本修士論文の分析視角 問いの検証にあたって、本修士論文は次の4つの分析視角を設定した(第1章)。 第一の分析視角は、(ⅰ)「歴史としての冷戦」である。Halle(1967)、Gaddis(1997)の冷戦 史の叙述を参照すると、「歴史としての冷戦」に必要な視角は、①冷戦の実態を単純な二元 論に還元することの回避、②国家行動や政策決定者の動機を歴史的見地から分析すること、 ③新しく公開された一次資(史)料を参照することであることが指摘できる。 第二、第三の分析視角は、「米ソ中心史観」の修正に依拠した(ⅱ)ヨーロッパ統合と (ⅲ)CSCEプロセスである。1980年代後半は、冷戦終結過程であると同時にヨーロッパの 「統合水位」の高まりやCSCEプロセスの進展が見られた。東欧革命、ベルリンの壁崩壊、 ドイツ統一やそれらと関係するNATO・ワルシャワ条約機構の敵対関係の解消、通常兵器の 軍縮などの問題は、「統合水位」の高まりを目指すECやCSCEにとっても深く関係するも のであった。 第四の分析視角は、(ⅳ)「ゴルバチョフ・ファクター」―「欧州共通の家」構想―である。 「欧州共通の家」構想とは、ソ連・新思考外交のヨーロッパ政策の標語である。ゴルバチョ フは、東西の軍事的緊張が解消され、戦後秩序の現状が克服された後の単一のヨーロッパの 安全保障の整備にソ連が深く関与することを目標とする「欧州共通の家」構想を、ソ連共産 党書記長に就任する前後から積極的に唱えていた。パリサミット開催(1990年11月)の大きな 原因の一つは、ゴルバチョフ個人の存在であった2。(CSCEの枠組み/「欧州共通の家」構想(「大 西洋からウラルまで」)に含まれる国家は、アルバニア、アンドラを除く全ヨーロッパ諸国とアメリカ、カ ナダ、ソ連の35カ国であった。1990年10月3日のドイツ統一後は東ドイツが消滅したため、CSCE加盟国は34 カ国となった。) 3.本修士論文のまとめ 「冷戦の起源」以来、ヨーロッパは米ソの政治力学に左右される客体であった(第2章)。 1970年代に、ヨーロッパ国際政治は大きく変容した。中でも、東西の緊張緩和と戦後秩序 の現状維持を承認する一方で将来の現状の克服の可能性を目指すヨーロッパ・デタントの動 きは、米ソの政治力学に影響を与え始めていた。1981年のレーガン政権発足後の米ソの軍 事的緊張の再燃期にあっても、ヨーロッパ統合やCSCEプロセスを進展させるなど、ヨーロ ッパ国際政治は米ソの政治力学から自律的な動きを見せた(第3章)。 1985年3月、ゴルバチョフはソ連共産党書記長に就任し、新思考外交を開始した。ゴルバ チョフは、ストラスブール演説(1989年7月)で、以前から提唱していた「欧州共通の家」構 想の実態を、①ヨーロッパの兵器体系の軍縮、②東西の経済協力、③地球環境問題、④人権 などの諸問題を東西の対話と協力を通し解決する包括的な安全保障体制であると詳細に示し た。西側の大国はこの構想に理解を示した(第4章)。1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、 ドイツ統一問題が先鋭化すると、西側の大国は「欧州共通の家」構想の枠内でソ連と協調的 な行動をとることとなる。アメリカを始めとする西側の大国とソ連の協調行動を可能にした 要因は、多国間の安全保障体制を構築するという、西側の大国の意図と「欧州共通の家」構 想が一致していたためであった。ゴルバチョフが提案した第二回CSCEサミット開催につい ては、1990年6月のECサミットで取り上げられ、ここでECは1990年11月19日にCSCEサミ ットを開催することを調整した。このように、パリサミット開催の背景は、米ソ関係のみか ら説明することはできない。米ソ関係に加えて、ヨーロッパ統合、CSCEプロセス、ゴルバ チョフ・ファクターの視角から検証することで、パリサミットが「1990年11月」に開催さ れた背景が明らかになるのである(第5章)。
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