3 第一章 「イエ」と日本人 本章では、まず、日本の伝統社会における「イエ

第一章 「イエ」と日本人
本章では、まず、日本の伝統社会における「イエ」の概要を見た上で、大日本帝国崩壊
を受けて日本国として国家を再編する中で、
「イエ」の何を変えようとしたのか、何が変わ
らず残存してきたのかを明らかにする。そして、全体を通して日本人の対人姿勢の特質の
形成要因を考察する。
1、伝統社会における「イエ」
本節では、まず「イエ」とはなにか、基本的な定義を把握する。次に、「イエ」の構成、
家屋構造を通して、家族関係を見ていく。最後に「イエ」の相続を把握し、
「イエ」の概要
を押さえる。
1)
「イエ」の定義
私たちの「イエ」の拠点は住まいである。そして、その住いを共同する集団は「イエ」
であり、
「イエ」の秩序は日本社会全体を特徴づけるものといえる。そのため、「イエ」に
ついて理解することで、日本社会における対人姿勢の形成要因を知ることができると考え
る。
「イエ」と一言にいっても、社会集団としての「イエ」であったり、系譜として続いて
いる観念としての「イエ」であったり、建物としての「イエ」であったりとその定義は様々
である。そのため、ここでは「イエ」の厳密な定義から議論するのではなく、
「イエ」が成
り立っているその本質と「イエ」の原理を把握する。
日本民俗学では、昭和期に「イエ」について取り上げ始めたが、当初は「イエ」の定義
を問題とするよりも、
「イエ」の暮らしを問題としていた。その時に取り上げていた問題は
「イエの暮らし」であった。すなわち、昭和期の民俗研究者の関心は、戸主や主婦たちに
とって何が一番の関心事かということに研究の対象を定めていた。
そして、
研究者たちは、
戸主や主婦たちの一番の関心事が、どうしたら「イエ」を盛んにすることができるかであ
り、彼らの一番の恐怖は「イエ」を衰えさせることであると理解していた。ここで言う「イ
エを盛んにする」ということは、
「暮らしを良くする」ことであり、「ヨ」をよくすること
であった。この「ヨ」と言う言葉は、長野県の方言で「戸主権」
「資産」を指したり、沖縄
県の方言で「米」や「農穀」を指していた。更に、
「世継」(家名や田畑・屋敷などの財産
を相続する者ではなく、家の暮らしを受け継ぐ者)という言葉からも「ヨ」に共通する考
えは「暮らしの場」であったと言える。そして、
「イエ」を盛んにすることや「ヨ」を良く
することが人々の願いであった。つまり、
「イエ」の本質とはそこが「暮らしの場」だとい
うことがわかる。
民俗学者鳥越皓之は、
「
『イエ』は暮らしを具体的にする場であり、
「ヨ」をよくするため
の、現実的な枠組みである」と述べている。この現実的な枠組みとしての「イエ」は具体
的に①一定のひろがりをもった屋敷とそこに建てられた家屋を物質的基盤とし、②そこに
近親者を中心として日常生活をともにしている社会集団という二つから成り立っている。
この枠組みは地域によって様々だが、「イエ」である限り一貫して言える原理は、
「イエ」
は成員の世代を越えて永世に存続すべきという永続性・超世代性の考えを含むということ
である1。
3
以上、日本民俗学が昭和期に「イエ」について初めて取り上げたとき、戸主や主婦たち
の一番の関心事が「イエを盛んにすること」
、つまり「暮らしを良くすること」であったこ
とから、
「イエ」の本質はそこが「暮らしの場」であるということがわかった。また、
「イ
エ」は、成員の世代を超えて存続すべきという永続性・超越性の原理を持つことがわかっ
た。
2)
「イエ」の構成―「直系」家族を軸に―
本節では、伝統社会における「イエ」の構成形態がどのようなものであったかを見てい
く。
「イエ」の構成形態
家族を家族構成を基準に分類すると、大きく三つの形態に分けられる。①一組の夫婦と
その子供からなる夫婦家族(ないし核家族)、②家長夫婦と直系夫婦またその子供からなる
直系家族、③家長夫婦、直系の夫婦とその子供、および傍系の夫婦とその子供からなる傍
系家族という区分である。直系家族は、日本の伝統的な家族の典型であり、子供のうち一
人だけが跡取りとして結婚後も親のもとに留まり、家族生活を世代的に維持していく家族
形態である。このような直系家族形態は、世代を越えて永続性が望まれている「イエ」の
原理にもっとも適したものであり、更に明治民法にも保障されたことから、
「イエ」制度の
もとで支配的で主流な形態となっていった。
傍系型大家族
明治期の「イエ」制度のもとで直系家族形態が支配的であったが、傍系型拡大家族の家
族形態も見られた。なぜ、直系家族制に強く規制されながらも、傍系型拡大家族の家族形
態が見られたのだろうか。
「イエ」の構成形態は、直系近親者のみからなる小さい規模であったり、傍系親族のみ
ならず、非血縁(非親族者)をも含む複合的なものであったりと様々である。第二次世界
大戦前の日本では、直系家族制に強く規制されながらも、傍系家族の形態を保ち、家族規
模の拡大を意図した家族がみられた。
図 1 は、家長夫婦、長男夫婦、その他それぞれの夫婦と子供から成る 20 人の大家族の系
譜を表している。ここでは一つの棟で寝起きし、
「カマド」を一つにして暮らしていた。図
1のような複数の息子を残留する形式は、もっとも一般的な大家族と考えられる。
図 1:一般的な大家族の一例(岩手県遠野市、1940 年)
4
図 2:家の構成
図 2 は、15 人の家成員から成り立っている家族形態を表している。A の範域は直系近親
者であり、▲戸主と妻、その子供、戸主の親を含む。B の範域は傍系親族であり、▲戸主
の妹と弟夫婦、その子供を指している。C の範域は非血縁者であり、夫婦者の住込み使用
人と単身の住込み使用人を指している。この場合、直系近親者以外も「イエ」の構成員と
して含まれている。このような大家族の集団は東北地方に偏って分布していた。東北地方
は一般的に大規模な水田単作農業が営まれてきた地域であって、常に多量の家内労働力を
必要としていた。このことから「イエ」は経営体として機能しており、構成員はその労働
力として用いられていたことがわかる2。
以上のことからわかるように、
大家族形態は農業経営の必要から発生しているが、
「イエ」
を世代を超えて存在させるという永続性、超世代性の原理は支配的な形態である直系家族
と変わらなかった。ここから、永続性、超世代性という共通項が「イエ」の本質だとわか
る。
本項では、
「イエ」の構成員と構成形態について見てきた。「イエ」の家族形態は明治民
法で、直系家族形態が保障されており、
「イエ」制度のもとで支配的で主流であった。しか
し、大家族形態も少なからず発生していた。これらの家族形態の共通項は、家族生活を世
代的に維持していく「イエ」の永続性・超世代にある。これが「イエ」の本質であるとい
える。
3)
「イエ」の家屋構造に見る家族関係
本項では、
「イエ」の成り立ちの一つである物質的基盤である住居についてみていく。日
本の伝統的な家屋を取り上げ、その間取りや構成員の座席の配置から「イエ」の中での家
族関係を把握する。
囲炉裏端と家族関係
家族生活の主要な場である食事の場について、囲炉裏端の座席を例に挙げ、そこから家
族関係を見ていく。
「イエ」の中の家族関係は家族生活の主要な場である「囲炉裏端」の座席に示される。
家長の座席はヨコザ、ダンナザと呼ばれ、最上位の座席を占め、主婦の座席はカカザ、コ
シモトと呼ばれ台所に近い座席を占める。また客人の座席は、キャクザと呼ばれる座席を
5
占め、嫁、奉公人の座席はキジリ、キノシリザと呼ばれる最下位の座席を占める。このよ
うな囲炉裏端の座席は一定しており、家長が不在のときも座席の秩序は守られる(図 3)3。
このように、囲炉裏端の座席から、家族間に序列があること、日常生活の中に構成員にそ
れぞれの立場を意識させる仕掛けがあることがわかる。
図 3:イロリ端の座席(長野県上伊那郡辰野町平出)
部屋割り、間取りと家族関係
ここでは、部屋割り、間取りを通して「イエ」の中の家族関係を見るために、部屋割り
がどのように行われていたのかを把握する。
寝室の部屋割りは家族の相続における地位により差が生じていた。基本的に寝室は、
「イ
エ」を継いだ家長夫婦の居室であり、家長夫婦には、ナンド、ネマなどの特定の一室が割
り当てられた。
これに対して、
その他の家族は特定の一室を割り当てられることは少なく、
座敷や台所などの部屋を寝室として使用していた(図 4)
。
図 4:いろり端のある家の例 (岩手県斉藤家、1934 年)
「イエ」の間取りについて、瀬川昌久は『中国社会の人類学』の中で、座席、部屋割り
の相違は家族成員間の社会的関係の相違、家族構造の相違を表すとし、その特徴として
6
(1)日本の家屋の間取りは中国のそれと比べて非対称・不均等
(2)就寝可能な部屋にも大小や形の著しい相違がある
(3)奥座敷、座敷、中の間など部屋にランキングがある
ことをあげている4(図 5)
。
図 5:日本の民家の一例(岩手県、明治後期)
このように、部屋は家長や家督継承者(多くは長男)に優先的に割りあてられており、
家屋の間取りは非対称・不均等で、部屋にはランキングがつけられていた。また、本文で
は触れていないが、家長や家督継承者は他の家族と比べ食事や衣服など良い物を与えられ
ており、このことからも兄弟間に序列があることがわかる5。
本項では、
「イエ」の中の座席の位置や部屋割り、間取りから家族関係を見てきた。「イ
エ」の間取りや囲炉裏端を中心とした座席の位置、部屋割りから、親子関係だけではなく、
兄弟関係にも序列が存在していることがわかった。
4)
「イエ」と相続
日本ではどのような相続形態がとられてきたのか。それを把握するために、本項では「イ
エ」制度廃止後も残存する一子残留と長子相続について詳しく見ていく。
日本では、上世の律令制の下において、
「継嗣」と「承家」という「イエ」の相続人を指
す言葉が存在した。その後、中世には家業の観念が現れ、中世末期には家名相続の観念が
生じた。そして近世になると、家督の相続の観念が生じ、明治には、明治民法により家督
相続という言葉が出現した。家督相続とは、家名相続、家産相続、家業の相続、祖先祭祀
の相続を永続せしめる目的意識を含むものである6。
日本では、一子残留の直系家族形態が志向されてきた。ここで「イエ」の本質について
考えてみる。
「イエ」は一代限りのものではなく、世代を越えた永続性が希求されている。
このことは「イエ」自体に属する家名、家業、家産、祭祀権あるいは家長の地位・身分な
どが受け継がれていくことを意味している。そのため、一子残留の相続形態はこの目的に
7
かなったものであった。例えば、農家が子供の数によって平等に土地を分割した場合、全
員の「イエ」の経営が危うくなる。しかし、一子残留の場合、このような問題は生じない。
「イエ」は経営体として存在しえたのである。このように成人した子供のうち一人を留め
置く一子残留の相続形態は日本の「イエ」の観念に合致しているため、長年、一子残留に
よる相続方法が採用されていると考えられる。
長子相続はどのように普及していったのか。一子残留には四つの形式(長子相続、姉家
督相続、末子相続、選定相続)があるが、もっとも支配的な形式が長子相続である。これ
は長男が「イエ」に残り、
「イエ」の相続人となる相続形式であり、封建社会の武家にとっ
てもっともふさわしい制度として発達してきた。1898 年、明治民法制定により、武家の制
度に範をとり、単独相続の男子優先、嫡子優先、年長優先の原則、つまり「家督相続」を
規定した。
これにより、
日本の相続制度としてあらゆる階層にわたり一層普及していった。
1947 年の昭和民法制定により、家督相続の廃止、財産相続のみ諸子均分相続が規定された
が、実際にはその後も長男優先の日本の「イエ」の観念に適した相続が続いた7。
以上、一子残留の長子相続は「イエ」を存続させるための重要な相続形態である。だか
ら、
「イエ」制度が廃止された後もこの相続形態は存在している。つまり、
「イエ」を存続
させるという観念が人々の中で根強く残っていたことが考えられる。
本節では「イエ」の概要を見てきた。日本の「イエ」は構成員の存続に関係なく存続す
べきという永続性、超世代性を原理として存在してきた。それを裏付ける形として、
「イエ」
は子供のうち一人だけが結婚後も留まり、家族生活を世代的に維持していく直系家族形態
をとった。相続に関しても、
「イエ」制度廃止後も一子残留の長子相続が行われていたこと
から、永続性・超世代性が人々の共通の認識であったと考えられる。
2、
「イエ」と日本の近代化、現代化
近代日本は、1890 年公布の「民法典」
(以後、
「初代民法」)、1896 年/98 年公布の「明治
民法」
、1947 年公布の「昭和民法」と三つの民法典を持った8。本節では、これら三つの民
法典の成立経緯とその内容を把握し、
「イエ」制度がどのように変容していったのかを見て
いく。
1)初代民法
本項では、
日本初の体系的な民法典である初代民法の成立の経緯とその内容を把握する。
成立の経緯
明治初期において、日本では近代国家の確立という政治的目的から、近代的民法典の編
纂は必至であった。このため、1868 年、明治政府は樹立直後から初代民法制定を試みた。
1873 年お雇い外国人のフランスの法学者 G・E・ボワソナードが司法省の顧問として来日し、
初代民法の起草に取り掛かった。人事・財産・財産取得・債権担保・証拠の五編からなる
初代民法のうち、家族法の領域(人事編ならびに財産取得編の一部)は日本の伝統を考慮
する必要があったため日本人が起草し、その他はすべてボワソナードが起草をした9。とは
いえ、実際に起草した日本人はボワソナードの弟子であったため、フランス法の技術が採
用された。1882 年、最初の案(ボワソナード草案)が法律取調委員会で審議され、1890
年に初代民法が公布された。しかし、初代民法は施行されずに終わった。
日本が参照したフランス民法典は、フランス革命の所産であり、近代市民社会の基本法
8
典であった。ローマ法に起源を有する制度とフランス古来の慣習法上の制度を巧みに調和
させた法典で、相続形態に関してはフランス革命精神の一つである平等を国民の間に実現
するため均分相続制度を採用した10。また、フランス革命期の男女平等原則を強力に主張
したものであった。このようなことから、フランス民法典が家族関係の平等性を追求する
ものだったとわかる。
その特徴
フランス民法典を採用した初代民法はどのような内容だったのか。また、なぜ初代民法
は施行されなかったのか。ここでは、
「イエ」制度についてみるため、広義に家族法といわ
れている部分である財産取得編、
人事編に着目し、
初代民法の内容を更に詳しく見ていく。
初代民法では、フランス民法典の考えに基づき身分関係は人事編に、財産関係は財産取
得編に規定が配置された11。まず、人事編の特徴から見ていく。
第一に、人事編の編成は個人から出発し、国に対する帰属、親族に対する帰属の関係を
示した上で、婚姻・親子・親権に関する制度に及ぶ。その後に戸主及び家族が出てくる。
この編成はあまりに個人主義であると保守派から批判された。第二に、婚姻に関しては、
当事者の合意によるものとし、一夫一婦制を採用した。第三に、戸主に関しては、戸主は
家族に対して「養育及ビ普通教育ノ費用ヲ負担スル」
(人事編二四六条一項)義務を負う一
方で、家族の婚姻・養子縁組につき許諾権を持った。つまり、家族は結婚しても、戸主の
家に属するのが原則であった。しかし、
「戸主」の名称と地位は存置しているが、実質的に
は西洋近代法的な夫婦親子中心の家族を志向し、伝統的な「イエ」をほとんど否定するも
のであった。第四に、養子に関しても、養子が認められるのは「イエ」の後継者たる男子
がいない時に限ると養子を限定的にしか認めなかったことからも、伝統的な「イエ」制度
を否定していたことがわかる。
次に、財産取得編の特徴を見ていく。相続に関しては、フランス民法典の内容ではなく、
日本の伝統に考慮したものであった。誰が家督相続人になるかは順位が定められており、
子の中で男子且つ嫡出12のものが優先された。また、
「家督相続人ハ姓氏、系統、貴号及ヒ
一切ノ財産ヲ相続シテ戸主ト成ル」と規定され、
「イエ」
(=戸主の地位)はその血統に従
って承継されていった13。
だが、このような内容の初代民法は、日本の慣習に合わないと保守派から批判され、初
代民法を支持する改革派と対立した(法典論争)
。保守派の立場は、
皇室ノ臣民ニ於ケル、
家父ノ家族ニ於ケル権力ハ皆祖先ヲ尊崇スルノ国教ニ基ケリ。
……是ニ於テカ家長権ハ尊厳ニシテ動カスベカラズ。天皇ノ大権ハ神聖ニシテ侵スベ
カラズ14
皇室の臣民に対する、家長の家族に対する権利は祖先を尊崇する国教に基づく。その
ため家長権は変えてはいけない。天皇の大権は侵してはいけない。
と主張し、祖先教にもとづく「イエ」制度が国体の基礎として民法の基本原理となり、国
民道徳の裏付けになることを要求した15。その後 1892 年に施行延期法律が成立し、初代民
法は修正された。
以上のように、日本では、家族は親子関係が基軸となるものであり、君主が国家の家長
であるという家長的国家思想の根本的基盤であった。そのため、保守派は、家族関係の自
由・平等に基づいた初代民法の内容がフランス民法典の精神と同じく個人主義的であり、
9
大日本国帝国憲法と相容れないと主張し、特に家族に関する規定において著しいと攻撃し
た。その結果、日本初の体系的な民法である初代民法は日本の家族国家観の思想を絶つと
して施行されずに終わった16。
2)明治民法
本項では、初代民法の後に制定された明治民法成立の経緯と、その内容を把握し、
「イエ」
制度がどのように変容していったのかを見る。
成立の経緯
明治民法は武士階級の家族をモデルとした「イエ」制度を、異なった家族制度をもつ非
武士階級にも適用することを規定した17。明治民法は、当時最新でフランス民法典より理
論的な色彩の濃いドイツ式の編成を採用し、総則編・物権編・債権編・親族編・相続編の
五編から成った。そして、1896 年に前三編(総則編物権編債権編=財産法部分)が公布さ
れ、1898 年に後二編(親族編相続編=身分法部分)が公布された。二つはどちらとも 1898
年に一括して施行され、この二つを「明治民法」と呼んだ。その後、戦後になって二つの
部分に再分割された。1947 年、大改正によって後二編が全面的に改正され、
「新民法」
「昭
和民法」とよばれ、改正前の後二編は「明治民法」と呼ばれるようになった。前三編は全
体的な見直しがなされることなく今日に至っているため、内容的には 1898 年の民法が「現
行民法」となる。以上、明治民法は初代民法を叩き台としてドイツ民法典を参照しながら
起草された18。
明治民法はドイツ民法典第1・第2草案を参照して起草された19。なぜドイツ民法典を
採用したのか。初代民法が採用したフランス民法典は家族関係の平等性を追求するもので
あったが、ドイツ民法典は夫婦の共同生活に関する事項について夫の決定権を認め、妻は
家事に従事する義務を負うなど封建的な色彩が強く、全体主義を特徴とするものであった。
つまり、家族関係に序列があるとされるものであった。そのため、
「イエ」制度を国体の基
礎とし、天皇を中心とする日本社会に合致すると考え採用したと考えられる20。
その特徴
明治民法の具体的な規定を把握し、それが「イエ」制度、そして家族関係にどのような
影響をもたらしているのかを明らかにする。
明治民法は、親族編・相続編に家族に関する基本的な法制度が定められていた。これら
家族法の分野は、封建的家父長的家族制度すなわち、「イエ」制度を基本理念としていた。
この制度は、祖先から子孫につながる抽象的・超世代的な「イエ」の存続を最も重視した
ものであった21。
まず、親族編の規定を見ると、第一に、戸主権を規定した。家族の入籍・去家同意権や
婚姻・養子縁組同意権・居住指定権などその他家族に対する統制権が明記されたことによ
り、戸主は家族に対する支配的な権限が認められた。第二に、婚姻に関して法律婚主義を
採用した。男性は 30 歳、女性は 25 歳未満は親の同意を要し、妻は夫権に服し、取引では
無能力者とされた。また、最も大きな変革として妻が夫氏に統一されたことにより、千年
以上の伝統的別氏制が終わった。これにより、家族を権利と義務の関係によって規定し、
妻や母、女子の権利は差別された。第三に、親子関係に関して、実子を嫡子22・庶子23・新
生児の 3 種とし、父母が任意認知に応じない場合は裁判による強制認知を認めた。初代民
法では、認知をするのは父のみであり、母子関係を成立させる内容の規定は無かった。こ
10
のことから、親子関係の成立について自由化の方向性が示されていることがわかる。しか
し、子どもは成年に達しても部屋住みである限りは親権に服すことが規定されるなど父権
は強大であった24。
次に、相続編の家督相続25について見ていく。明治民法では、相続は初代民法と同じく、
「家督相続」と「遺産相続」の二本立てで成り立っていた。家督相続の重要性が高かった
ことも初代民法と同様である。しかし、明治民法では長子による、また庶男子が嫡女子に
優先する家督相続を規定した。つまり、法律上婚姻関係にある妻から生まれた娘より、婚
外子の息子に相続権があった。これは男子直系相続を理想とするものである26。
以上、初代民法は家族関係の水平性を特徴とするフランス民法典を参照したが、明治民
法は家族関係の垂直性を特徴とするドイツ民法典を参照した。そして、明治民法では「イ
エ」の継承、存続が追求され、戸主権の規定、長子単独相続、家督相続、など「イエ」制
度が規定された。このように法制化されたことにより、
「イエ」制度が人々にとって支配的
なものとなっていったことがわかる。また、
「イエ」の存続のための家族関係が築かれてい
たことが考えられる。
3)昭和民法
本節では、昭和民法が「イエ」制度と家族関係にどのような変化をもたらしたのかを把
握するために、始めに、戦後どのような背景のもと明治民法が改正され、昭和民法が制定
されていったのかを論じ、次に昭和民法制定前にいち早く制定された応急措置法から GHQ
(連合国軍最高司令官総司令部)と日本政府が「イエ」制度と家族関係をどのように変え
ようとしたのかを知る。
成立の経緯
日本は第二次世界大戦に敗北し、GHQ の占領下で新たな国家体制に移行した。GHQ はマッ
カーサー指導のもと、日本の民主化政策に乗り出した。
1945 年、ポツダム宣言の「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル
一切ノ障礙ヲ除去スベシ」という要請を実現するため日本国憲法 24 条が新設され(家庭生
活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定めた条文が記載)、民法の家族法(親族相続
編)が根本的に改正された。そして、1946 年 11 月に日本国憲法が制定された。憲法制定
により、
米国をモデルに男女平等と本人による配偶者選択や財産・相続の権利を保障した。
その後、1947 年 12 月には新たに制定された日本国憲法との調和をはかるため昭和民法が
制定され、1948 年 1 月 1 日、昭和民法は明治民法起草から 50 年目に施行された27。
その特徴
ここでは、昭和民法公布の前に、1947 年 5 月 3 日から同年 12 月 31 日まで施行された応
急措置法から GHQ と日本政府がどのように変えようとしたのかを知る。昭和民法の特徴は
その先に一時的に施行された応急措置法を見るとよくわかる。応急措置法は、その名の通
り応急措置を定めるものであったが、そうであるが故にそこには、最も必要とされた改正
が何であったかが端的に示されている。全文を載せると
第一条 この法律は日本国憲法の施行に伴い、民法について、個人の尊厳と両性の
本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。
第二条 妻又は母であることに基いて法律上の能力その他を制限する規定は、これ
を適用しない。
11
第三条 戸主、家族、その他家に関する規定は、これを適用しない。
第四条 成年者の婚姻、離婚、養子縁組及び離縁については、父母の同意を要しな
い。
第五条 ①夫婦は、その協議で定める場所に同居するものとする。
②夫婦の財産関係に関する規定で両性の本質的平等に反するものはこれを
適用しない。
③配偶者の一方に著しい不貞の行為があつたときは、他の一方は、これを
原因として離婚の訴を提起することができる。
第六条 ①親権は、父母が共同してこれを行う。
②父母が離婚するとき、又は父が子を認知するときは、親権を行う者は、
父母の協議でこれを定めなければならない。協議が調わないとき、又は
協議をすることができないときは、裁判所が、これを定める。
③裁判所は、子の利益のために、親権者を変更することができる。
第七条 ①家督相続に関する規定は、これを適用しない。
②相続については、第八条及び第九条の規定による外、遺産相続に関する
規定に従う。
第八条 ①直系卑属、直系尊属及び兄弟姉妹は、その順序により相続人となる。
②配偶者は、常に相続人となるものとし、その相続分は、左の規定に従う。
一 直系卑属とともに相続人であるときは、三分の一とする。
二 直系尊属とともに相続人であるときは、二分の一とする。
三 兄弟姉妹とともに相続人であるときは、三分の二とする。
第九条 兄弟姉妹以外の相続人の遺留分の額は、左の規定に従う。
一 直系卑属のみが相続人であるとき、又は直系卑属及び配偶者が相続人
であるときは、被相続人の財産の二分の一とする。
二 その他の場合は、被相続人の財産の三分の一とする。
第十条 この法律の規定に反する他の法律の規定は、これを適用しない28。
昭和民法はこの応急措置法の考え方がより具体的で詳しい規定となって盛り込まれた。
昭和民法の特色として、
「個人の尊厳と両性の本質的平等」
(第一条)を基本原理とし、
「イ
エ」制度を廃止(戸主権第三条、家督相続第七条)
、夫婦の平等(夫婦別産制第五条)
、父
母の平等(共同親権第六条)を実現することが目指された29。こうして、日本の家族は直
系家族制から夫婦家族制へと転換し、家族・親族関係が単系的・父系的なものから双系的
なものへと変容しつつある30。
本節では、初代民法、昭和民法、明治民法の三つの民法典の成立過程とその内容につい
て見てきた。日本初の体系的な民法典は家族関係の水平性を特徴とするフランス民法典に
基づいて草案され、内容は伝統的な「イエ」制度を否定するものであった。その後成立し
た明治民法は全体主義を特徴とするドイツ民法典を参照して作成された。これは、ドイツ
民法典が封建的な色彩が強く、
「イエ」制度を国体の基礎とする日本社会と共通する部分が
あったからだとわかった。その結果、
「イエ」制度が法制化され、人々にとって支配的なも
のとなっていった。敗戦後 GHQ の指導の下で民法改正に着手した。戸主権や家督相続が廃
12
止され、夫婦の平等が記された。これにより、法的には「イエ」制度は廃止された。この
ことから、日本の家族は家族・親族関係が単系的・父系的なものから双系的なものへと変
容しつつあることがわかった。
3.
「イエ」がもたらす日本的対人姿勢の特徴
本節では、ここまで見た「イエ」についての概要と民法典の変遷が日本人の対人姿勢に
どのような特徴をもたらしているのかを考察する。
1)残存する「イエ」制度
民法が改正され、
「イエ」制度が廃止された後も、残存してきたものがある。はじめにそ
れは何か把握する。
1946 年に行われた民法改正要綱の審議の際、最も強く主張された反対意見は、「イエ」
制度すなわち「イエ」
・戸主権・家督相続を廃止してはならないという意見であった。しか
し、改正要綱の起草者である民法学者我妻栄は、明治民法における「イエ」制度について、
「イエ」という枠組みは最早戸籍上の存在に過ぎず、戸主権の濫用が多発し、家督相続制
度は都会生活者にとって甚だしく公平に反すると考えた。また、改正要綱の起草者たちは
明治民法の「イエ」に関する規定をすべて削除することのみを目指し、それに代わる新た
な「イエ」制度を明示することも断固として拒否した31。その結果、昭和民法では戸主権・
家督相続は廃止されたが、新たな「イエ」制度を明示する規定も記されなかった。
以上、戸主権や家督相続の廃止などにより「イエ」制度は法的には廃止された。しかし、
日本社会では依然として一子残留の長子相続の形態が主流であることから、これが「イエ」
制度が廃止された後も残存してきたものということができる。
2)日本的特徴の形成要因
最後に、第一章を通してわかった日本人の対人姿勢の特徴の形成要因について考察する。
前近代の「イエ」の中の家族関係について、座席の位置や部屋割り、間取りから、兄弟
間に序列があることがわかった。しかし、日本は敗戦後、GHQ の影響化のもと民主化政策
が行われ、民法改正に着手した。1947 年昭和民法の制定により、
「イエ」制度は法的には
廃止されたように見えた。しかし、実際には「イエ」制度の残滓ともいえる一子残留の長
子相続が現在も主流となっている。この相続形態は、兄弟間に序列があることを意味して
いる。このような兄弟間の序列が、日本人の対人姿勢の一定の距離を好む特質に影響を与
えていることが考えられる。
家族は、人間社会の基礎集団である。そのため、これら「イエ」の家族関係が「イエ」
の外での対人姿勢の特質となり、日本人の対人姿勢を形成していると考える。
以上、本章では、日本人の対人姿勢の特質を知るために、1節では「イエ」の概要を押
さえた。また2節では三つの民法の成立過程と内容から「イエ」制度と家族関係の変容を
見てきた。そして、3節では、法的には「イエ」制度が廃止されたが、その残滓とよばれ
るものについて把握し、日本人の対人姿勢の特質の形成要因を考察した。
前近代の「イエ」では日常生活の場において家族間に序列が存在していた。具体的に言
えば、家長を中心とした家族関係が形成されており、長男が食事や衣服に関して優遇され
るなど兄弟間に序列があったということがわかった。その後、昭和民法制定により、戸主
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権や家督相続が廃止され、権利・義務における平等が明文化され、
「イエ」制度が法的に廃
止された。しかし、
「イエ」制度の残滓と言われる一子残留の長子相続が現在も主流となっ
ていることから、兄弟間の序列も依然とし存在していることがわかった。
以上のように、兄弟間の序列は兄弟間に距離を生じていると捉えることができる。家族
は人間社会の基礎集団であるため、このような兄弟関係が日本人の対人姿勢の特質である
一定の距離を伴うことの形成要因になっていると思われる。
資料出典:
図 1 福田アジオ・宮田登編『日本民俗学概論』吉川弘文館、1997 年、13 頁
図 2 同上、5 頁
図 3 同上、19 頁
図 4 有賀喜左衛門『家』至文堂、1972 年、巻頭頁
図 5 瀬川昌久『中国社会の人類学』世界思想社、2004 年、107 頁
1
「イエ」の定義については、福田アジオ・宮田登編『日本民俗学概論』吉川弘文館、1997
年、1 頁~5 頁を参照
2
「イエ」の構成については、同上、4 頁、12 頁~14 頁を参照
3
同上、18 頁を参照
4
瀬川昌久『中国社会の人類学』世界思想社、2004 年、105 頁より要約
5
福田、前掲書、19 頁を参照
6
尾藤正英編『日本文化と中国』中国文化叢書、大修館書店、1968 年、27 頁~30 頁を参
照
7
一子残留、長子相続については、福田、前掲書、16 頁~17 頁を参照
8
大村敦志『民法改正を考える』岩波新書、2011 年、30 を参照
9
大村、前掲書、2011 年、31 頁~32 頁を参照
10
五十嵐清、「比較の中の日本民法『札幌法学』14 巻 2 号、2003 年、60 頁~61 頁を参照
11
大村敦志『文学から見た家族法』ミネルヴァ書房、2012 年、29 頁を参照
12
嫡出子;民法には嫡出子の定義規定はなく、広義には法律上の婚姻関係にある男女(夫
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婦)間の子をいう。
(比較家族史学会編『事典家族』弘文堂、1996 年)
民法典の特徴については、大村、前掲書、2012 年、30 頁~36 頁より要約
中川淳編『家族論を学ぶ人のために』世界思想社、1991 年、74 頁
比較家族史学会編『事典家族』弘文堂、1996 年を参照
中川、前掲書、74 頁~75 頁を参照
施利平『戦後日本の親族関係』勁草書房、2012 年、5 頁を参照
大村、前掲書、2012 年、57 頁~58 頁より要約
五十嵐、前掲書、61 頁~64 頁を参照
我妻栄『家の制度―その倫理と法理』酣燈社、1948 年、171 頁、177 頁を参照
中川淳編『家族論を学ぶ人のために』世界思想社、1991 年、73 頁~76 頁を参照
家督を相続する者。
(比較家族史学会編『事典家族』弘文堂、1996 年)
嫡子以外の者をいう。(同上)
比較家族史学会編『事典家族』弘文堂、1996 年を参照
一門や家の長などの地位の相続。家長の地位のみならずその権利・義務の一切を承継す
ること。明治民法においては戸主の地位の交代によって開始される戸主権の相続を意味
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した。
(比較家族史学会編『事典家族』弘文堂、1996 年)
大村、前掲書、2012 年、66 頁を参照
比較家族史学会編、同上、1996 年を参照
大村、前掲書、2011 年、38 頁
大村、前掲書、2011 年、38 頁~40 頁を参照
施、前掲書、74 頁を参照
山本起世子「民法改正にみる家族制度の変化」
『園田学園女子大学論文集』 47 号、2013
年、127 頁を参照
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